鼎談 山内慶太 慶應義塾常任理事 土屋大洋 慶應義塾常任理事、 慶應義塾ニューヨーク学院理事長 巽 孝之 慶應義塾ニューヨーク学院学院長
2022 年 3 月 慶應義塾大学三田キャンパス
【学院生との日々】 山内
まず巽さん、1 月に着任されて、実際にニューヨーク学院にいらしてからの最初の
印象はどうでしたか。 巽
私が最初にニューヨーク学院に行ったのは、もう四半世紀以上も前の 1996 年の 3 月の
ことでした。ニューヨークの日本協会(ジャパン・ソサエティ)で映画を巡る講演のため出 張することになったので、当時の文学部長の関場武先生から文学部の宣伝をしてきてくれと 依頼されたのがきっかけです。そのときに比べたら少し変わったなという感じがしましたね。 建物も増えましたし、これから咲き誇るといわれている桜並木は 96 年の段階ではあまり目立 つ感じではなかったような気がします。 でも、今回 2 月 19 日から 3 月 10 日までの約三週間滞在したのですが、生徒たちも個人的 に読書について助言を得たいとアポを取ってきたり、英米文学の勉強会をやりたいと言って きたり、非常に積極的な感じだったので、私としては遠巻きにされるよりもそういうふうに どんどんアプローチしてきてくれるのは大歓迎でした。外を歩いていても、みんな明るく挨 拶してくれますし、何よりスタッフが全員協力的で、自然に囲まれた環境を含め、ニューヨ ーク学院はとてもいいところだなと、改めて実感した次第です。 何といっても北寮の広い寮長室に住むことにしたので、ダイニングホールまで徒歩 2 分、 学院長室まで徒歩 5 分という便利さ。 山内 巽
寮長室にお住みになると、24 時間、生徒の気配が感じられるということですよね。 そうです。生徒は夜 9 時とか 10 時ぐらいまで、ときどき「キャハハハ」と言ったりす
ることはあるけど、さすがに 12 時を過ぎると、翌日授業があるからシーンとします。 山内 巽
生徒たちとは食堂でも一緒になりますね。 話しかけてきますよ。数人そろって挨拶に来たりします。私は幼児洗礼を受けたカト
リックなんですが、先日滞在した期間というのがたまたま四旬節で、灰の水曜日( Ash Wednesday)が入るため、やはり肉はいけないということで、施設担当の大谷さんが、わざ わざダイニングホールに特注してくださったんです。その日、ダイニングホールのランチ定 食はチキンだったのですが、私だけサーモンを食べていたら、それにめざとく気づいた女生 徒が 2 人ぐらい来て、 「学院長だけ何でサーモンを食べているんですか」と聞いてくるので、
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「現在は四旬節といって、一応キリスト教徒だと本来だったら断食をしなければいけない期 間だから、魚に代えてもらったんだよ」と説明しました。 山内
ちなみに、勉強会をやりたいと言ってきた学院生たちは、どんなアイデアを持って
来ましたか。 巽
ニューヨーク学院に入学する前から英語圏生活の長い生徒たちが、ちょっとやそっと
の英語の教科書では歯ごたえがない、しっかりした文学作品を、それも分厚い長編小説をき ちんと読みたいという要望を出してきました。 ご存知のように私は文学部に移籍する前の 1980 年代中葉には法学部で教えていたんです が、特に大学1,2 年生の帰国子女のクラスを持っていて感じたのは、ネイティヴ並の発音 でペラペラしゃべる子はいくらでもいるのですけれども、読んで訳せるかというと、なかな か日本語がおぼつかないとか、理解も表面的なものにとどまっているとかいったケースが、 あまりにも多かった。英語力と日本語力のバランスが取れてないんですね。ですから、アメ リカ文学の古典的な長編小説を一冊、4 月末から 5 週間ぐらいかけて読むという企画を立て ました。その子たちはみんな 12 年生で、今年の 9 月から大学生になってしまうので、私は最 初、9 月から授業を持つつもりだったから残念だと言ったんですが、「いいえ、正式な授業で はなくてもいいからやっていただけませんか」ということで引き受けました。カリキュラム には入らないし成績の対象にもならないけれど、生徒たちはそれでいいというんです。まさ に知的好奇心のために努力を惜しまないという、やる気十分の子たちで、頼もしい限りです。 山内 巽
ちなみに何を読もうとお考えですか。 私の専門は 19 世紀アメリカ文学で、特にエドガー・アラン・ポーやハーマン・メルヴ
ィルが好きですけれども、ポーは過激にすぎるかもしれないしメルヴィルは文法破格が多い ので、きちんとしたヴィクトリア朝アメリカの英語というとナサニエル・ホーソーンが一番 いいんじゃないかと思い、第一長編『The Scarlet Letter』(緋文字、 1850 年)を選びまし た。内容も、標準的なヴィクトリアン・アメリカの英語、ある程度は歴史的かつ文化的な背 景を知らないと読み進められない英語のため、アメリカ文学のみならずアメリカ文化に親し むには適切ではないかと考えたのです。
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【バイカルチャーからトライカルチャーへ】 山内
ニューヨーク学院に土屋さんが理事長就任するにあたって、三つのカルチャーとい
うことを強調されました。もともとは石川忠雄先生が学院をおつくりになったときには「バ イカルチャー」を打ち出していました。それを「三つの」ということを強調されたお考えを 土屋さんにお話しいただけますでしょうか。 土屋
ラルフ・タウンゼント学院長の退任の後、巽学院長は未だビザの手続きがありました
ので、9 月 1 日から私が代行という形で引き継いだわけですけども、教職員会議で「これか らどうするか」ということを少しお話ししました。 石川先生の言葉を引用しながら、 「この学校はバイカルチャー・バイリンガルでやるという ことを 31 年前に言ってできたところです。私たちはそれを変更するつもりは全然ありません。 ただ、コロナのせいもあって慶應との関係が薄くなりつつあったので、もう 1 回そこをつな ぎ直すという意味で、三つのカルチャーを大事にしたい」ということを言ったということで す。 慶應の一貫校だからといって選んでくれている人たちもいるし、いや、そうではなくてバ イリンガルでやってくれている面白い学校だからといって選んでくれている人もいて、ニュ ーヨーク学院を選ぶ理由はいろいろだと思います。ニューヨーク学院を出て慶應義塾大学に 来ない生徒がいたとしても、それはいいと思うんです。 でも、やはりせっかくなので、そのときにニューヨーク学院にいる間に「慶應ってこうい うこと考えている」 「福澤諭吉ってこういうことを考えていた」というものに接してもらうこ とが、広くグローバル・シチズンをつくりたいという伊藤公平塾長のアイデアにもつながる ことだと思ったので、そういうことを申し上げたということです。 山内
私もあの「三つのカルチャー」は非常にいいと思って伺いました。巽さんはその三
つの文化について、どんなふうに意味付けをされますか。 巽
私が最初に伊藤新塾長からニューヨーク学院長就任の話を頂いた時、塾長は「慶應ス
ピリット」という表現を使っていましたね。「今のニューヨーク学院生は慶應スピリットが薄 くなっているので、それを何とかしてほしい」ということでした。土屋さんから「トライカ ルチャー」というスローガンを聞いた時に思い出されたのも、まさにこの概念でした。
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真面目に考えれば、これが例えば「日英米」とか「日独伊」とか、そういうものなら「トラ イカルチャー」と呼んで何の問題もない。国家というカテゴリーで三つのものが並んでいる ので、一種の同盟関係として何の違和感もありません。ところが今回の「トライカルチャー」 の場合、 「国と国と国」ではなく「国と国と大学」 、それも「慶應」が入ってくるわけです。 これは普通なら一種の違和感を醸し出しますが、全く同時に高度に独創的で、そこが面白い。 というのも、常識的には福澤諭吉先生が近代国家、近代日本をつくったと考えられていま すが、そこで言う近代日本というのは、そもそもトランス・パシフィックつまり環太平洋的 な緊張関係、転じては相互交渉から創造されており、そこから旧来の米国にも旧来の日本に もあり得なかったような「何か新しいもの」が生まれ落ちた。従って、トランス・パシフィ ックというキーコンセプトに日米慶應の「慶應」の部分の思いを込めた「トライカルチャー」 というのは、 21 世紀現在だからこそ大いに意義のあるスローガンではないでしょうか。 土屋
お二人の意見を伺いたいのですが、巽学院長は文化ということに関しては専門家で
いらっしゃるし、山内さんは福澤諭吉研究の専門家でいらっしゃるし、福澤諭吉はやはり文 明というものを論じたわけではないですか。 私が理解している文化と文明の違いというときに、文明というのは、文化を超えて、国境 を超えて適応しうるものという理解をしているわけです。西洋文明という言い方をするけれ ども、例えば自動車は文明だと思うんです。これはどこの国に行っても使えるもので、多く の人がそのメリットを享受できるものを文明と言っている。福澤先生が紹介したような蒸気 とか、電信とか、そういったものは文明で、それをアダプトしなければいけないとあの時代 に言ったと思います。 でも、「三つのカルチャー」と言ったときの文化というのは、ある種ローカルに根付いたも ので、そこにいないとわからないものだと思うのです。それはアメリカにいて、アメリカの 空気を吸って、アメリカの食べ物を食べていて、こういうことかとわるアメリカがあり、日 本もやはり日本に来て、住んでみるとわかる日本というものがあって。それは国家というシ ステムに縛られたものというよりも、もっと地に付いたもののように思っています。 そうしたときに、慶應の文化と言われるものは何なのか。それは三田キャンパスにいない と駄目なのか、あるいは SFC に行ったら分からないのかといったときに、そうではなくて、
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このニューヨーク学院で過ごす中で、吸っている空気の中で得られるのではないかと思うわ けです。 ニューヨーク学院に行くと石川先生の写真も置いてあるし、「独立自尊」の掛軸もあるし、 残ってはいると思うんです。しかし大事なことは、その文化をもっと吸うことによって、何 かが変わるのではないかということを期待しているのですが、その辺はお二人はどうですか。 巽
それは当然だと思います。やはり文明の産物である戦争というものがありますけれど
も、戊辰戦争のときのウェーランド経済書講述記念日の元になったエピソードは、たとえ戦 時中であっても断じて左右されることなく守り抜くべき文化というものがあるという真理を 教えてくれる。 ただ、福澤先生は一貫してサムライ魂を失わなかった人でした。だから二重だと思います。 和魂洋才の典型と言ってもいい。晩年の『瘠我慢の説』は、はっきり言って読みようによれ ば、何で勝海舟は最後まで戦わなかったかという個人攻撃めいた批判ですから、非常にラデ ィカルな、むしろ戊辰戦争のときとは真逆の好戦的な印象すら醸し出す。南北戦争に置き換 えると少し分かりやすいんじゃないかと思っています。 『瘠我慢の説』は負けると分かってい ても最後まで抵抗する精神という点で、南北戦争の後の南部の「Lost Cause」、つまり「失 われた大義」に非常に近い。実際、これは文脈によって「負け戦」と訳されることがあるの で、まさに福澤先生の同時代にアメリカ南部でも培われてきた抵抗の精神なんですね。 現に福澤先生は、ある意味、お上からいろいろな圧力がかかることに対して断固抵抗した 人だったでしょう。それは私学だから抵抗できたんじゃないかというのが私の考えです。一 番典型的なのは、これも今度お札になる北里柴三郎を助けたことではなかったでしょうか。 北里は華々しい研究成果をあげてドイツから帰国したにもかかわらず、官学は彼を受け入 れようとしなかった。そこを福澤先生が助けて私立伝染病研究所を作り、更にそれが内務省 から文部省に移管され官僚支配が明確になると、北里は辞職して、それまで福澤先生の支援 で作られた養生園(結核の病院)の財産で北里研究所を作り、また慶應義塾の医学部の創立に 尽力することになるわけです。やはりそれは私学だからできたのではないか、私学こそは抵 抗の精神であり、ラルフ・ウォルドー・エマソンの「自己信頼( Self-Reliance)ヘンリー・ デイヴィッド・ソローの「市民的不服従(Civil Disobedience)」とも共振しつつ、福澤先生
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独自の「独立自尊」に結実し、最終的に北里柴三郎の選択にも影響したのではないかと思い ます。
【触媒としての福澤諭吉】 山内
土屋さんの質問に、私もいろいろと思い浮かべながら考えたのですが、やはり福澤
という人は、実は文明だけではなく文化というものも大事だと。それを非常に丁寧に見る感 覚があった人だと思います。 ただ、そのときに、ある意味でいい違和感を持ちながら、でも、それを卑屈にならないで 見られる人であったと思います。例えば幼い時に大坂から中津に戻ってきますが、中津での 生活には違和感があるんですよね。つまり一家はお父さんが亡くなって中津に戻ってきた訳 ですが、大坂が長かったので中津の風習に馴染むことができない。でも、中津の中で卑屈に はならずに生活している。 やはり、それぞれのところに行ったところで、いい意味で違和感を働かせて見られていた。 しかも、そこにいわゆる私(わたくし)の、私立の気概がありながら見ていたというところ が実は面白くて。それがもしかしたら比較文化的な洞察ができる、その後ろにあるのではな いかという感じが実はしているんです。 ニューヨーク学院がすごく面白いと思うのは、やはりアメリカと日本とのはざまのような ところにあって、でもそこにもう一つ福澤諭吉という感覚が入るというのが、実は日本とア メリカの間を少し相対化したり比較したりする目を柔らかくするというのですかね。あるい は、それを刺激するという面白さがあるのではないかと思うわけです。 ときどきそれをふっと思うのは、例えば東大の駒場の比較文化のグループの方々のことで す。みんな福澤諭吉にも熱心でしたね。佐伯彰一さんが、自伝文学の研究をやっているうち に福澤先生の『福翁自伝』に惹かれていった。芳賀徹さんは、やはり福澤先生のヨーロッパ 体験、アメリカ体験にかなり刺激を受けながらご自身の研究が膨らんでいった。平川祐弘さ んもそうですよね。平川さんはフランクリンの自伝と『福翁自伝』との対比しながら読み込 んで、 『進歩がまだ希望であった頃: フランクリンと福澤諭吉』を出された。 巽
あれは名著ですね。慶應義塾の精神とアメリカニズムを語ろうとしたら欠かせない一
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冊です。佐伯先生も『アメリカ文学史』を書かれていることを考えるなら、アメリカを突き 詰めると福澤先生に回帰せざるを得なくなるのではないでしょうか。 山内
そういう意味では、福澤諭吉という人がいることで、何か触媒になるといいますか、
そういう面白さがあります。その意味では、ニューヨーク学院が、アメリカの文化、日本の 文化、そしてそこに福澤先生のようなあの感覚がそこに入るのは、ものすごく意味があるこ とだと思います。 土屋
おっしゃったように、違和感がとても重要で、やはり福澤先生もアメリカに行って、
ヨーロッパに行って、違和感を覚えて、「何だこれ」と思ったところからいろいろな思考が始 まって、われわれの近代化につながるいろいろな業績をつくってくださったわけです。今は グローバル化された世界だからもうどこへ行っても同じだよということでは、まだないと思 います。 グーグルの検索の仕方なんて、世界中どこにいても学べますけれども、グーグルの検索の 窓の中に何のキーワードを組み合わせて入れるかということは、文化だと思うんです。それ はアメリカに行ったからこそ見えてきたこの言葉と、慶應で受けた教育だからこの言葉が浮 かんでくる、 「瘠我慢」という言葉が浮かんでくる、「Civil disobedience」とくっついていく というところが、たぶん重要なことである。だから日本人の子たちがあそこに行って、あそ こで学びながら、でも福澤の思想にも触れるというこの三つの要素というのが、たぶん面白 いところです。
【アメリカの文化に深く触れられる場所】 今までのニューヨーク学院、過去数年間は、コロナのせいもありましたけれど、アメリカ 社会にあまり出て行かなくて、あそこの中で少し閉鎖されてしまって、がつがつと授業ばか りということがあったと聞いています。やはりそこは巽学院長が入っていくことによって、 「アメリカとはこういうものなんだ」ということを引き連れ回しながら、あるいは外部の方 を招きながら、このアメリカ文化というものに触れさせる機会を設けて欲しい。たまたまア メリカにある慶應の学校ということでは駄目だと思うのですよね。そこの文化の違和感をい かに体験させるかが重要だと思います。
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巽
具体的な例を出すなら、ニューヨーク学院が位置しているウェストチェスター群パー
チェスというのはマンハッタンの北東部、ほとんどコネチカット州との州境に位置している んですが、群庁所在地であるホワイト・プレーンズのほうへ行くと、「タリータウン・ロード」 というのに出くわしたので、 「え?
タリータウン?」と思って地図をよくよく見ると、その
道の西の果ては実際に、いわゆる文豪ワシントン・アーヴィングゆかりの地で名作「スリー ピーホローの伝説」の舞台でもある、あのタリータウンにつながっている道なんですね。 さらに言えば、ブロンクスに近いフォーダムにはポーが住んでいたし、パーチェスから決 して遠くないマサチューセッツ州西部のピッツフィールドのほうに行けば、メルヴィルが 『Moby-Dick(白鯨) 』を書いていた家「アローヘッド」があるし、すぐお隣りのコネチカッ ト州のハートフォードでは、国民作家マーク・トウェインやベストセラー作家ハリエット・ ビーチャー・ストウ夫人の家が今も温存されている。あまり意識されていないかもしれませ んが、私が専門とするアメリカ文学への興味に絞っても、パーチェスは素晴らしいロケーシ ョンに位置していると思います。 だからこそ、生徒たちには一体自分がどんな場所にあるどんな伝統を持った学校に通って いるのかということを、もっと意識してほしい。これは大学生でもそうですけど、志望動機 を尋ねれば、だいたい「偏差値が高いから来ました」という答えが返ってくることが多いわ けですが、どの学校にもそれを支えてきた文化があるわけですよ。ですから、入学してから でもいいので、アメリカの文化、日本の文化、慶應の文化に「非常に理解が深まりました」 という反応が返ってくるようになるとしたら、われわれとしてはこんなに嬉しいことはあり ません。 山内
今言われたように、いろいろなアメリカの文学歴史散歩のようなことも、学院生に
とっても非常にいろいろな機会になりますね。 巽
その通りです。だからコネチカット州からさらにその東のお隣であるロード・アイラ
ンド州へ行けば、日本を開国に導いた黒船のマシュー・ペリー提督(Commodore Perry)生 誕地でもあり、現在では毎夏のジャズ・フェスティバルの開催地としても有名なニューポー トがある。そもそも、世紀転換期に勃興した日本的異国情緒への憧れであるジャポニズムが 発祥して膨大な日本の美術品を集積したのはマサチューセッツ州ボストンですし、どちらか
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というと日米文化は東海岸で交わっているのです。そうした日米文化史、転じては環太平洋 的文化史の形成については、今年の秋学期から担当する私の連続講義科目で、生徒たちにも おいおい理解してもらいたいと考えています。
【アメリカのジャパノロジストと日本のアメリカニストの交差点】 巽
ところで、私が最初にニューヨーク学院を訪れた四半世紀前に、当時の学院長に聞い
たのは、「何で慶應ハイスクールではなく慶應アカデミーなんですか」ということでした。す ると、 「ゆくゆくは慶應義塾全体の海外研究拠点にしたいという構想があったからだ」という 回答が返ってきたんですね。しかし、それから四半世紀たってもまだその実現には程遠い感 じがするので、その点でも少し尽力しなければいけないのではないかとも思っています。 先ほどもご紹介したように、たまたま私が最初の一ヶ月に出会った現役生徒に限っても、 現行カリキュラムの必修授業に飽きたらない、非常に向学心と知的好奇心に富んだ子たちが 少なからずいるので、そういう子たちのためだけでも、講義やワークショップや、さらには 外部から著名学者や作家を招聘した上でのシンポジウムに至るまで、さまざまなことができ るでしょう。 山内
そういう意味では、大学の研究拠点ともまた違って、そういうものを、今度はその
空気が高校生たちに伝わるというのがまた面白いですよね。それはやはり向学心のある生徒 もそうだけれども、まだそこまで興味を持てていない生徒にも、その空気がどう伝わるかが 実は非常に教育的にも面白いところだと思います。 巽
そうですね。だから第一歩として、本来ニューヨーク学院にあるべきなのになかった
ものの代表である学園新聞、それも生徒中心の月刊新聞を創刊することにしています。 山内
前にお話ししていたときに、ニューヨーク学院というのは日本人のアメリカ研究と、
アメリカ人の日本研究のちょうど交差するようなところにしたいとおっしゃっていました。 せっかくなので、そこをもう少し説明していただけますか。 巽
なぜそう思ったかというと、私が英米文学専攻にいるときに、しばらく日本に滞在し
たいから慶應義塾に訪問研究員として受け入れてほしいと直接コンタクトを取ってくる学者 研究者の 90%以上がジャパノロジストだったということがあります。
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一方で、われわれがアメリカで研究する場合にコネクションとしているのは、同業者であ るアメリカニスト、つまりアメリカ研究者ですから、そのようにして拡大したネットワーク を前提に日米における国際会議へと発展することも少なくありません。 だから、慶應義塾ではジャパノロジストを受け入れ、われわれが北米へ行って一緒に学会 活動をするときにはアメリカニストを頼るといった環太平洋的活動を続けているうちに、だ んだんその文化的交点が一つの展望を成すのが見えてきたんです。最近では、私自身、そう した交点に位置する存在として、ハーバード大学やイエール大学における講演に招聘される ということも多くなりました。
そうしたネットワークを踏まえるなら、パーチェスという
のは絶好の場所なんですよね。そもそもマンハッタンのコロンビア大学といえば清岡瑛一先 生の翻訳になる『福翁自伝』を刊行したことでも知られていますが、コネチカット州にはイ エール大学、ロード・アイランド州には慶應義塾の提携校でもあるブラウン大学、マサチュ ーセッツ州にはハーバード大学があるので、名だたる学者研究者に声をかけてニューヨーク 学院で講演してもらうのも、決して難しくありませんから。 山内
学院の生徒たちが、日米のアメリカニストの話に触れるだけでなく、アメリカ人の
ジャパノロジストの話に触れるというのは、すごく面白いことだと思います。 巽
はい、間違いなく知的好奇心を刺激するでしょう。
【キーコンセプトとしての「トランス」】 巽
私が学院の福澤スピーチデーのクロージングの締めの言葉で強調したのは、福澤諭吉
は翻訳の天才だったということでした。これは先ほどお二人が言われた異文化間の違和感を 手なずけるために、日本にはそれまでなかった概念をわがものにしようとしたときに、最も 華々しく発揮されています。学院の比較的新しい建物「スピーカーズ・ホール」(Speakers' Hall)はスピーチをする会場という前提だから、ある意味で三田演説館の北米的対応物です けれども、そもそも「speech」を「演説」と訳し「 debate」を「討論」と訳したのは、福澤 先生でした。「locomotive」を「汽車」と訳したのも「copyright」を「版権」と訳したのも 福澤先生です。このように今に至るまで残っていて広く使われている言葉を残したのは、ま さに福澤先生が翻訳の天才であった証拠だということを、生徒たちに強調したんですね。
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言い換えれば、海外文化に触れた違和感をいかに手なずけるか、ないし異文化間の妥協点 を見出すかというときに、環太平洋(トランス・パシフィック)や文化的相互交渉(トラン スカルチャー)、それに翻訳(トランスレーション)において浮上する「トランス」こそが、 「トライカルチャー」を理解するキーコンセプトになるものと確信しています。 土屋
やはりそこの違和感とトランスというのを一つのキーワードとして、巽学院長から
発信していただくことが重要だと思います。 福澤諭吉がこれだけ現代でも評価されるのは、言葉を残したからです。いろいろなものを 書いて、ときに矛盾している内容もあるけれども、そこが面白さとなって研究者を引き付け ている。そういう意味で先生が生徒たちに言葉を出させようと、あるいは先生たちにその成 果を活字で遺せるようにというのは、とてもいいことだと思います。 アウトプットを積み重ねていって、それが学院の知的資産となっていって、残っていくと 思うんですね。 巽
そうですね。だから世界へ発信するニューヨーク学院にしていきたいものですね。
土屋
ドメスティックな自分の文化にどっぷり浸かっていてそこから抜けなくなってしま
うと、それはそれで駄目だと思うんですよね。何かこう、「福澤教」になってしまったら慶應 義塾は終わると思うんです。 巽
その通りです。
土屋
そうすると、福澤諭吉が言っていないことにわれわれは対応できなくなってしまう
から、アメリカの文化、日本の文化に触れ、慶應の文化に触れて、そこでもう一度それを文 明的なところに昇華させるというのを生徒たちが一生懸命にやらないといけない。ここで感 じた違和感を言葉にし、みんなと議論し、それをアメリカの大学に行ってもいいし、慶應の 大学に来てくれてもいいし、そこの可能性を広げていくのが学院長の役割だと思いますね。 巽
はい、今はグローバルな視点から福澤先生を創造的に誤読していくのが、未来への可
能性につながるのではないかと思っています。 山内
以前に学部説明会で学院に行った際に、学院生たちが『学問のすゝめ』の輪読会を
やっているところに加わったことがあります。その時に、日本国内の義塾の中学生、高校生 と話していても出てこない議論になるんです。「独立」を巡って議論しても、アメリカで幼い
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時から生活して来た人、比較的大きくなってアメリカに来た人、ニューヨーク学院ではじめ てアメリカに来た人、それぞれのいろいろな場面での違和感を元にした独立の議論になって いくんです。これは面白いなと思いました。 この感覚は、日本にずっといたら出てきません。アメリカにある他の学校にはない、また 日本国内の義塾の中学・高校にもない独自の価値がニューヨーク学院にはあると、感性の柔 らかな若者がこの学院で学ぶことの意義をその時に強く実感しました。 巽
そうですよね。独立(Independence)の概念も、もともとはトマス・ジェファソン草
稿の「独立宣言」ゆかりの概念ですが、それが批判的に再検討されることで、先ほどのエマ ソンの「Self-Reliance(自己信頼)」やソローの「 Civil Disobedience(市民的不服従)」、さ らに福澤先生の「独立自尊」へと創造的に発展したわけですから。その意味でも、福澤先生 という稀有の日米文化の媒介者、かつ異文化横断的知性をきっかけにすればこれだけいろい ろな未来への可能性が開かれるんだという、それこそ「考えるヒント」を与えるのがニュー ヨーク学院の使命の一つではないかと思っているところです。
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慶應義塾ニューヨーク学院 3 College Road, Purchase, NY 10577 USA www.keio.edu