TAKASHI SUZUKI red and blue

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TAKASHI SUZUKI Gallery Yamaguchi kunst-bau



Red and Blue 2007 -


"Recent work" Gallery Yamaguchi kunst-bau Osaka/ Japan 2007

絵画が本来持っている豊穣な表現要素を切り捨てて、尚も残る静謐な強度の為に。 色彩は支持体であるものに浸透し色面としての光彩を放つ、その自明性に再度集中する眼差し によって導かれるもののあり方に関心を持ち続けています。


For the serene strength, which remains after omitting fertile expressive elements that paintings originally have. Color infiltrates support medium and they become a color-surface and shed luster. I have been interested in issues that arise by focusing on the obvious things once again.







Text No.600

acrylic, ink on cotton 182 x 182 x 40 mm 2006



Text No.653 oil on paper

760 x 570 mm 2007



Text No.648 acrylic, ink on plywood 100 x 150 x 9 mm 2007



Text No.597 acrylic, ink on cotton 221 x 277 x 32 mm 2006



Text No.651 oil on paper

570 x 760 mm 2007


"daylight" Gallery Yamaguchi kunst-bau Osaka/ Japan 2011

自作の足跡: 初期の空間を分節する鉄彫刻の制作、のちの場所性を取り込んだ鍛鉄の散在いたるまでの二十 数年。そこからより視覚的な明示を求めて 180度転換し色彩の世界へと移行しました。制作の 総タイトルを” Texts” とする赤一色のモノクローム連作へ、その綴りの制作を継続して十年 を超える月日です。 そしてここ数年の制作にいたっては青い色彩が組み合わされるようになりました。それは赤に 対する極めて恒常的な併置、そのまず最初にあるべきものと思ったからです。また典型的な対 比への選択はいくつかの個人的追憶とともに、ある希薄な印象をも呼び込む試みです。 そうして向え入れた青との鮮明な対比をまえにして・・・二分されたあやうさと同時に規律を 伴った質が共鳴するあらたな覚醒へ展開できたらと思っています。


Footprint of My Work: It has been more than twenty years since the time I was making space-dividing iron sculpture, in my early years. To the time I made site-specific scattering wrought iron work, later on. After that, I turned my practice 180 degrees and shifted to the world of color in search of further visual clarification. It is more than ten years that I have been making the series of red monochromatic work, all titled Text. In the recent years, I introduced blue into my work because I felt that blue is an obvious juxtaposition to red and I should introduce it first, before any other colors. My choice of working with the typical contrast comes from some of my personal memories and an attempt to create a certain superficial impression. Having the vivid contrast of red and blue in front of me, I hope to develop a new sense of awakening in my work, in which fragility of the dual colors and orderliness resonate each other.







Text No.888

oil, wax on linen

910 x 1242 x 40 mm(overall) 2011


Text


No.803

acrylic, ink on canvas on mdf

227 x 295 x 20 mm each

2011



Text No.791

oil, wax on linen

910 x 1242 x 40 mm

2011



Light acrylic, ink on cotton

606 x 1852 x 30 mm overall

2010



Text No.883

Text No.884

acrylic, ink on cotton

Text No.885

Text No.886

2011

548 x 375 mm



Text No.826

Text No.906

oil on paper

acrylic, ink on cardboard

2011

2011

157 x 227 mm

Text No.898

272 x 351 mm

Light

oil on paper

acrylic, ink on paper

2011

2010

207 x 297 mm

230 x 175 mm


"Blue Red and Light" Gallery Yamaguchi kunst-bau Osaka/ Japan 2014

赤一色のモノクローム表現から青が加わりここ数年は単純で明快な対比としての "赤と青 "2 色の関係において制作しています。 その状況はきわめて典型的な並置であることから意味なき装飾性とともにある種の稀薄さも呼 び込みます。 しかしこのうえなき明晰さからくる対等かつ最大の視覚的分離への印象はそうした空疎と同時 に清新な覚醒空間へ、もしくはそのような振幅へと誘い込みます。 限定された赤と青、この2色の関連がはらむ可能性と展開にいまだ興味は尽きません・・・。


Starting from red monochromatic expression, I added blue, and I have been working with the clear and simple contrast of red and blue in my work. As the ways I juxtapose the two colors are extremely typical, they create an empty decorativeness and a certain superficiality. Meanwhile the impression of equivalence and the greatest visual separation, created by the clearest contrast, invites viewers to a new awakening as well as to the emptiness, or to an amplitude between the two. I am still very much interested in the potential the red and blue colors have and what this combination creates...







Text No.1013

oil on hemp canvas

385 x 385 x 20 mm

2014




Te


Text No.1003

acrylic on cotton canvas

180 x 140 x 35 mm each

2014


T


Text No.1027

oil acrylic, ink cotton canvas

385 x 385 x 20 mm

2014





Text No.991

acrylic, ink on cotton canvas 182 x 182 x 21 mm 2014


Text No.969


9 (Light)

acrylic, ink on cotton canvas

230 x 195 x 20 mm each

2014





Text No.1010

acrylic, ink on canvas

160 x 232 x 23 mm each

2014





Text No.1021

oil on paper

530 x 380 mm each

2014



Text No.1025 oil on paper

530 x 380 mm 2014



Text No.1033

oil, acrylic on canvas 653 x 653 x 30 mm 2015


"red and blue and" Gallery Yamaguchi kunst-bau Osaka/ Japan 2017

制作に向わせるもの: 初期の赤一色モノクロームの展開から作品の総タイトルを Textsとして制作しています。 それは広義の意味における主題や表現であるとともに、言葉で語り尽くせないことと言 葉尽きたところからの迷走の綴りと言えるかもしれません。 ここ数年の赤青による作品群は色が支持体との密接な関係を結び、その典型的な対比に よる様々な解釈とともに、見なれた並置の稀薄な装飾性も取り込みます。 そうした赤と青の規律ある空間に視たいものは、きわめて周知の色彩対比にも関わらず 或る静謐さと稚拙さとが振幅する芸術的な経験の場です。 赤と青、その鮮明な色彩分離からなる覚醒への興味は尽きません。


The inspiration for my painting: Ever since my earlier works of monochrome in red, I have been creating a series of paintings titled collectivity "Texts". These works erpresent(represent??) a theme and expressions in the broadest sense, while they may also be the makes of my wonder awakened by something indescribable, somewhere where works fall silent. In my red & blue works of recent years, the colors develop a close relationship with the canvas, and the typical colors, contrast allows a variety of interpretations. Their hanging side-by-side, as exhibit paintings commonly do, adds something decorative to their essence. Tension and order, brought about by red& blue, belong to those dimidiated spaces which lead the viewers into artistically experiencing fusion of the native, although the color contrast is extremely well-known. The vivid color separation, red & blue, awaken interests I am strongly attracted to. (translated: Asami Fujimoto)






Text No.1126

acrylic on canvas

151 x 211 x 23 mm

2017


Text No.1128

acrylic on canvas

807 x 1167 x 29 mm

2017


Text No.977


7

oil, acrylic on canvas

1410 x 1410 x 270 mm each (set of 2)

2013



Text No.1093

oil, acrylic on canvas

2046 x 1570 x 30 mm over all (set of 3) 2016





Text No.1122

Text No.1118

Text No.1117

acrylic on cotton 280 x 229 x 50 mm each (set of 2) 2017


Text


No.1003

acrylic on cotton

180 x 140 x 35 mm each (set of 2)

2014



Text No.608 (light)

ink, acrylic medium on canvas 232 x 160 x 28 mm 2006



Text No.479

Text No.480

oil, pigment on cotton 278 x 220 x 33 mm 2004



Text No.897 (void)

acrylic, ink on paper 240 x 300mm 2015



Text No.1056 oil on paper

200 x 286 mm 2011



Text No.920

oil, color pencil on paper 250 x 200 mm 2012


静謐な赤、覚醒する赤 — 鈴木隆の芸術について

2007

梅津 元(芸術学)

「赤は、放出される量と、そこにとどまる量が、ちょうど半分ずつなのではないかと思う。それが、 自分が、赤、スカーレットにこだわる理由だと思う。」*1 この言葉は、鈴木隆の芸術を理解する上で、非常に示唆に富んでいるように感じられた。この言 葉では、色彩の「放出」と「滞留」によって示されている「均衡」あるいは「拮抗」という事態が、 色彩という局面のみならず、鈴木隆の芸術の本質的な特徴として指摘できるのではないか、そう 直感されたからである。 この直感に従い、鈴木隆の芸術の過去と現在を知る人の多くが持つであろう、 「鈴木隆は彫刻か ら絵画に転向したのか?」という素朴な疑問を出発点に、 「 彫刻」と「絵画」の「均衡/拮抗」とい う鈴木隆の芸術における最もスリリングな局面への接近を試みてみたい。 本展に出品されている作品は、一見したところ絵画に見える。より正確に言えば、私たちが絵画と 呼んでいる対象と、限りなく近い姿をともなって立ち現れているため、それらが絵画と呼ばれる ことは否定できない。しかし、鈴木は、彫刻から絵画へと転向したのではなく、現在でもなお、彫刻 制作のスタンスを持ち続けている。 かつて金属を素材とした彫刻を手がけていた鈴木は、素材に対しての働きかけをそぎ落として いくことにより、より純粋な表現をめざしていた。しかし、その結果、ほとんど手を加えられてい ない物理的なものへの過度の依存という難題に直面してしまう。 一方、発表することを前提とせず、自らの欲求に従って、手近な廃材や材料 に色を塗る作業を始め、現在へと続く赤/スカーレットの作風を展開させてきたという。こうし て制作される作品には、 「木(パネル)/布(カンヴァス)/紙」など、異なる素材が併用され、その 「大きさ/プロポーション/厚み」は様々である。それらは絵画的な性質を備えてはいるが、絵画 と言い切るには抵抗を感じる。彫刻とは言い難い形状を伴っているが、作品経験においては、彫刻 的な資質を十分に備えていると言える。つまりは、 「絵画」的特性と「彫刻」的特性が、 「均衡/拮抗」 しているのである。もう少し具体的に言えば、鈴木の手がける赤のシリーズは、単体としての完成 度を十分に備えているとはいえ、その潜在的な魅力が遺憾なく発揮されるのは、複数のピースが 選ばれ、空間全体に配置された時なのである。その時、個々のピースの大きさ、プロポーション、厚 み、材質といった形態的特徴/物質的特徴が、色彩の経験とともに、極めて重要な位置を占めてい ることにこそ、注目すべきなのである。そこでは、 「 色彩の経験」と「存在の知覚」が不可分に結び ついている。このような特徴は、次のような鈴木の言葉からも明らかである。

「私が他の色を差し置いて「赤」に特別な興味を抱いているのは、この矩形の色彩に神秘性といっ

た類のものとは異なる普遍的な精神の定数を託することができると感じているからです。 (中略) そしてなによりも簡素なコンポジションと設置位置に呼応する静謐な精神内容に、或る中断の印 象をともなった覚醒とその後のゆるやかな思惟の場を創造するものです。」*2


同様に、ドナルド・ジャッドは、赤という色が形態の明瞭化に適していることを、あるインタ ビューの中で次のように述べている。 「私は赤という色が好きで、カドミウム・レッドがはらむ特 質が気に入っている。色彩についていえば、私はそれが三次元的な作品に対して正当な価値を有 していると思う。もしあなたが何かを黒、あるいは何か暗い色で塗ったとしたら、その輪郭は判然 としなくなる。白を用いたならば、それは小さく、純粋主義的に見えてしまう。暗いバルールを伴 わない赤というのは対象を明確に見せ、輪郭や角度を明瞭に限定する唯一の色であるように思え るのだ。」*3 鈴木隆が支持体として選んだのは、様々な「大きさ/プロポーション/厚み」を備え た、 「木(パネル)/布(カンヴァス)/紙」である。そこに、 「油彩/アクリル/インク」による「赤 /緋色/深紅色/スカーレット」が与えられる。 「側面まで塗られた/側面のある部分まで塗られ た/表面だけ塗られた/表面の一部を残すように塗られた」、その矩形の赤は、支持体の物質的な 特徴を完全に覆い隠してはいない。最後に、比喩的な言い方が許されるならば、むしろ、色彩その ものが成分となり、支持体として選ばれている物質が形成されているかのようにも感じられはし ないだろうか。 「木(パネル)になる赤/布(カンヴァス)になる赤/紙になる赤」、というように。 静かに、そこに、とどまっている赤。その画面に滞留している赤は、視覚を通して見る者の意識を 研ぎ澄まし、精神を静謐に保つことだろう。強烈に、そこから、解き放たれる赤。その画面から放出 される赤は、視覚を通して見る者の知覚を活性化し、感覚の覚醒を促すことだろう。

*1 2007 年5 月、アトリエにおける鈴木隆の発言より。 *2 鈴木隆「綴りの色彩/制作メモより」 (『Hand in Hand Contrast』2004) *3 ジョン・コプラン(訳:尾崎信一郎) 「 ドナルド・ジャッドへのインタビュー」1971(『Donald Judd selected works 19601991』1999) このテキストは2007 年6 月ギャラリーヤマグチ・クンストバウでの個展開催に対して発表されたものです。


Serene Red and Awakening Red Text on Takashi Suzuki’s Artistic Production

2009

Gen Umezu (Art Theorist)

“I think that the amount of energy red emits and the amount of energy it withholds are exactly half and half. That is the reason why I am fixated with red and scarlet.” (*1) I feel that those words offer valuable insights for understanding Takashi Suzuki’s artistic production. I intuitively feel that balance or contention created by emission and retention of the red, do not only describe the color, but also fundamental characteristics of Suzuki’s artistic production. Following my intuition, I will pose a simple question as a starting point; has Suzuki shifted his artistic expression from sculpture to painting? A question which many people who know Suzuki’s past and present works would pose. Through which, I would like to approach the most exciting aspect of Suzuki’s artistic production; the balance and contention between sculpture and painting. Works in this exhibition appear, at first glance, to be paintings. Speaking more precisely, they appear extremely similar to what we call paintings, thus it is undeniable that they are referred to as paintings. However, Suzuki has not shifted from making sculpture to painting, he upholds his stance of being a sculptor. When Suzuki was making sculpture with metals, he was trying to obtain purer expression by minimizing the material manipulation. However, he ended up facing a problem of overly relying on the physicality of unprocessed materials. Without any intention of showing them, Suzuki followed his desire and started painting scrap and other materials available to him and developed the series of red and scarlet works, which he continues to work on till today. Different materials, such as wood, canvas and paper, are used in this series, their sizes, proportions and thicknesses vary. The works have qualities of painting, yet it doesn’t feel right to declare that they are paintings. Although it is also hard to formally call them sculpture, they have plenty of sculptural qualities when viewers experience


them. In other words, painterly and sculptural qualities of the works are in balance and in contention. Speaking more specifically about Suzuki’s red series, each work has enough quality to stand as a solo work, however, when some of them are installed together in space, their full-potential attraction appears. In the situation of the works being presented together, it is striking that formal and physical characteristics of the works, such as size, proportion, thickness and material, become as important as the color. The viewer's’ experience of the color and the awareness of existence are inseparably connected. These characteristics can be read clearly from Suzuki’s words, too. “The reason why I have such a special interest in ‘red’, more than any other colors, is because I feel that those red rectangles have universal mental constant, rather than something mystique. (…) And more than anything, serene mental contents, prompted by the simple composition and installation, create a sense of awakening in the viewers' mind, which seems to stop in midstream, and takes them to a contemplative place afterwards.” (*2) Just like Suzuki, Donald Judd stated in an interview that red is a suitable color for making forms clear. “I like the color and I like the quality of cadmium red light. And then, also, I thought for a color it had the right value for a three-dimensional object. If you paint something black or any dark color, you can’t tell what its edges are like. If you paint it white, it seems small and purist. And the red, other than a gray of that value, seems to be the only color that really makes an object sharp and defines its contours and angles.” (*3) What Suzuki choses, as support medium for his works, is wooden panels, canvas and paper in various sizes, proportions, and thicknesses. He applies red, scarlet and crimson colors to them with oil paints, acrylics and inks. These red rectangles; some are painted all the way over the edges, some are painted partially on the sides, some are painted only on the surfaces, or some with parts of the surfaces left un-painted, they all do not completely conceal the physical characteristics of support medium. If I can use a metaphor to end this text, the color


becomes an ingredient, constituting the chosen support medium, like the red becomes the wooden panel, the red becomes the canvas, or the red becomes the paper. The quietly staying red: the red retaining on the surface would visually sharpen viewers’ consciousness and keep their minds serene. The strongly emitting red: the red emitted from the surface would visually activate viewers’ perception, awakening their senses. (*1) Taken from the comment Suzuki made at his studio in May 2007. (*2) Takashi Suzuki, “Hand in Hand Contrast”, 2004 (*3) John Coplans (translated by Shinichiro Osaki), “Donald Judd selected works 1960-1991”, 1999 This text was written in the occasion of Takashi Suzuki’s solo exhibition at Gallery Yamaguchi Kunstbau, held in May 2007.


壮麗な赤 三田晴夫

2007

(毎日新聞東京本社学芸部記者)

赤色一色の画面。それは、鈴木隆(年生まれ)のトレードマークになった感がある。赤といえば、 とにかく攻撃的とか情熱的とか、調和を破って前方に飛び出す性格の強い色だが、それが鈴木の 手にかかると、聖なる厳かさともいうべき端正なニュアンスを帯び始めるから不思議というほか ない。 個々の画面には用いる材料からサイズまで、それぞれ微妙な差異が付けてある。赤という色な ら緋色もあれば深紅もあるし、絵の具も水彩、アクリル絵の具、油彩とさまざま。画面も、紙、パネ ル、カンバスがあり、カンバスは麻布と綿布を使い分けたり、混用したりしている。もちろん側面 まで塗りつぶしたり、側面だけを塗り残すという違いも同様である。 そうした差異の妙は、今回の展示にも存分に伺えよう。例えば壁には、サイズの異なる異種の矩 形に、異種の赤を異種の均質さで塗った画面が、メロデイを告げる音階のように並ぶ。また別の一 角では、壁の赤とテーブルに寝かせた赤が向き合わされ、注がれる光の角度も差異の味付けに加 えられる。研ぎ澄まされた赤が織り成す壮麗無比の視覚劇は、必見の一語に尽きよう。 このテキストは毎日新聞2007 年12 月11 日夕刊、ギャラリーテラシタでの個展に対し掲載された ものです。


赤と青——鈴木隆の近作

2009

松本透

表面的には平静な、どこかで日々の修行を想わせる息の長い沈潜のあとで、時が熟してはじ けるように、新しい局面が少なくとも他人の目には忽然と開ける。——なだらかな飛躍といお うか、いくたびもの開花といおうか、鈴木隆のいとなみには固有の波のかたちがあるようだ。 1981年にジャパンエンバ美術展に応募した鉄の彫刻が大賞を受賞したとき、いちばん驚い たのはまだ東京芸大の大学院に入ったばかりの鈴木本人だったのではないだろうか。以降、 1980年代のかれの彫刻はいずれも角柱・円柱・矩形の鋼板などのプライマリーな立体を組 み合わせたり、積み上げてできた構造体であった。野外彫刻展への出品や個展の機会にめぐま れ、また、よき理解者にもめぐまれた。 転機は1990年代初め頃にやってきた。材料探しに東京湾岸の工場地帯に足を運ぶことの 多かったかれは、とある工場を通りすぎようとしたとき、「私の求めていたモノが無造作に置 いてある光景」に出くわしたのである。 鈴木の頼んで連れていってもらった大田区昭和島の光景は、筆者にとっても忘れがたい。 天井の高い薄暗くて殺風景な構内の土間、赤々と燃える炉、鉄ならずも悲鳴をあげそうな断 頭台じみたプレス機。オレンジ色の炎のかたまりと化するまで焼かれて、巨大なプレス機で繰 りかえし叩かれた鉄材は、冷たい鉄のかたまりへと戻ったとき、黒く燻んだ皮膚の下に、存在 することの別名ともいうべき無数の傷を蔵している。作為をこえた反りや、歪みや、翳りや、 あばたの一つ一つが、鉄塊の内部に堆積する歴史の爪跡を、ことばにならない運命の翻弄の跡 を示していた。鈴木の求めるモノ―—いわば物体化した沈黙が、なるほど工場内のあちこち、 構外の廃材置き場にいくらでも転がっていたが、それらに芸術家の手の介入余地がいくらも 残っていないことは一目瞭然だった。かれは、工場のかたすみに打ち棄てられ野晒しになった 廃材に、切る、焼く、叩くといった最小限の手を加えて、あるいは最小限の手さえ加えずに、 作品として発表しはじめた。かれの90年代の活動は、制作というよりは、廃材、つまり一人 前のモノにすらなれなかった文明の死児たちに生を授ける態のものになった。 どこかしら魔術的なこの救済のいとなみが、使い古されて摩滅したもう一つのもの、既成品 のなかの既成品たることばの介添えをえて執り行われたことも重要だ。タイトルにいわく「迂 回の記憶」。「ここではないどこか」。「メランコリア」。あるいは「見守られた時間」。それぞれ の内部に固有の時間、固有の記憶の降り積もる鉄のかたまりが、じわじわと日常空間を、無色 透明な展示空間を編成しはじめ、作者の現在の気分、過去の記憶に働きかけて、それらのこと ばにならないことばの破片が結晶化したものであろう。


第二の転機は真紅の色彩の出現とともにはじまる。 かれが画面の全部または一部をスカーレットで塗った絵をほとんど日誌をつけるように描き はじめたのは、1990年代の終わり頃かららしい。しかし早い時期に発表された作品の多くは、 木切れや立体物の表面を赤く塗って由佳に置いたり、壁に架けるかたちの準立体であったから、 よもやスカーレットのモノクローム絵画が数百点もの長大なシリーズとなって、鍛鉄の彫刻に 取って替わろうとは思いもよらなかった。 紙や綿布を赤一色に塗る作業が、普通の意味での「絵画」、つまり約束された全体性へと予定 調和的に再帰してゆく「コンポジション」をめざすものでないことは強調しておかなければな らない。それらは、打ち棄てられた鉄塊にことばの火花とともに生を授ける営みの延長線上に 生まれたはずであり、断片としての絵画(はなはだむじゅんしたいい方だが)に生命の灯をと もそうという、もともと無茶なこころみの一環であると考えたいのである。 画面の大きさや、縦・横・厚みの比率をどのように設定するのか。油絵具か、アクリルか、 水彩か、インクか。ツヤの出る溶剤か、出ない溶剤か。紙か、綿布か、木の板。地塗りをほど こすか、ほどこさないか。そして、絵具をどのくらい塗り重ねるか。——普通の意味での絵画 と比較すれば、鈴木のスカーレット・ペインティングにおける選択肢はひじょうに限られてい る。しかし、それらはふつうの絵画とは別なモノであり、その赤いモノの在り方の選択可能性 はじつは無限に大きいものともいえよう。青や、黄ではなく、なぜ赤なのかと、スカーレット の構図上の意味や理由を詮索してみても始まらないように、ここでは、紙であれ、キャンヴァ スであれ、所定の(つまり理由のない)形と大きさをもったそのモノを、同じく所定のスカー レットの調整のみによっていかに生かすかが問題なのである。シリーズの総タイトル「text」 もはなはだ謎めいている。そもそも断片としての絵画にはコードが存在しないし、したがって テキストへの道も閉ざされているはずだからだ。それら真紅のテキストは、いつの日か絵画が、 あるいは彫刻が、いま一度全体的なる世界について語りうるようになるときのために営々と描 き継がれていく、辞書か、文法書の断簡のようなものと見てもいいかもしれない。 鈴木はプレス機のハンマーに代わって絵筆を執ったのだ、と比喩的にいうこともできよう。 画面型を決定し、スカーレットの調整が済めば、あとは絵具の出来事の堆積、時の経過だけが、 眼にみえる絵の表情を、いや、眼にみえる表面を介して感得される、そのモノの存在のあり方 を決定するからだ。だが、鉄の彫刻とスカーレットの仕事のあいだには大きな違いがある。鉄 塊の運命のまなざしは、作者の内部、わたしたち自身の内部に埋もれた記憶の破片を手操りよ せる磁石のような働きを惹き起こしたが、スカーレットの絵画は記憶への回路、過去への退路 を断ち切ってしまうのである。それらは第二の生を享けた死児としてではなく、ことばの灯り すら要しない孤児として空間中に立つ。 鈴木隆のスカーレットの仕事は、ひとこえでいえば、モノを絵画的に救済するいとなみとい


えよう。形式的には「モノクローム絵画」の一種とみなされるだろうが、とはいえ、絵画的思 考を突き詰めることによってこの形式にたどり着いたわけではないかれにとって、それらは絵 画の究極形というよりも、モノのあり方をめぐる新しい探求の始まりとなった。かれにはモノ クロームに義理立てするいわれなどなく、当初から、画面の一部に赤い矩形を置いて、他の領 域を生地のまま残した作品なども作られていたし、近年の発表では、それぞれ赤一色、黒一色 に塗った 2枚のキャンヴァスを隣り合わせに連接した作品なども登場していたのである。 さて、「day light」と題された今回の個展に出展されるのは、下地なしの綿布をそれぞれ濃 い赤、薄い赤、青に塗った三つの画面を少しずつ感覚を空けて縦・横に並べた《day light》や、 下地をほどこした綿布や麻布をそれぞれ赤と青のアクリルと油彩で塗り、二つの画面を水平に ぴったりと連結した《Text No.710》 や《Text No.708》などである。複数のモノクローム絵画を並置したり連結した仕事は珍しくな いとはいえ、かれが赤と青の色彩を並存させる方向をこれほど鮮明に打ち出したのはこれが初 めてであろう。 「day light」という展覧会タイトルを聞いて、忘れていたものを思い出したような、心地よ い驚きをおぼえた人も少なくないのではないだろうか。筆者の場合がそうであった。というの も―— 鈴木の絵画は、いわばモノとしての精度がきわめて高く、当然ながらそれは、外に向かって もきわめて高い空間的精度を要求する。この場合の空間的精度とは、おもに一つの空間中にお けるモノの分量、位置、相互の距離などに関わることがらだ。そういった精確さ、厳密さ、あ るいは精妙さに比べれば、かれの絵にとって恒常的ならざる光の条件など二の次、三の次であ ると、筆者はいつの頃からか呪文にかかったように思いこんでいた。だが、赤の精度と青の精 度のさらに微妙な調整が主題にのぼってきたとき、絶対空間の亡霊など箸の役にも立たないで あろう。赤いモノと、青いモノをあらためて「陽の光」の中に置くことによって測られている のは、依然として恒常的ならざるものの中の恒常的なるものなのではないだろうか。 (東京国立近代美術館 副館長)


Red and Blue: the recent work of Takashi Suzuki

2009

Tohru Matsumoto Tranquil on the surface, prolonged periods of contemplation followed by discipline and training day after day, as if time is crumbling away, a new aspect unexpectedly bursts open suddenly in the eyes of other people. Gently sloping, or moving along, or like a series of sudden blossoms, Takashi Suzuki’s work and occupation is like the shape of a wave. At the 1981 Japan Emba Art Exhibition, when his submitted sculpture was awarded the grand prize, Takashi Suzuki, who had justbecome a graduate student at Tokyo University of the Arts (then known as Tokyo National University of Fine Arts and Music) was probably the most surprised. Afterwards, his sculpture throughout the 1980s consisted of polygons, cylinders and rectangles of steel plate composed in primarily three dimensionally and joined together or piled upon one another. Solo exhibitions and opportunities to include work in outdoor sculpture shows were awarded, and his work was publicly praised. A turning point came at the beginning of the 1990s. during one of many visits to the industrial district surrounding Tokyo bay looking for materials, he chanced across “the one thing (mono) he was really seeking” while passing through a particular factory. The image of the forging factory at Showa-jima in Ota ward, which I visited with Suzuki, is unforgettable. A dimly lit and desolate premises with a high ceiling and a dirt floor and a burning forge with steel shrieking in a hydraulic press; a mass of orange flames blasting, a giant hammer repeatedly striking the metal, and beneath the blackened fire scale on the steel after it has cooled, the existence of a countless number of wounds. The willful action, distortion, darkening, and the scars on the surface, built up a history inside a lump of malleable steel, showing traces of being at the mercy of unspeakable fate. That the one things Suzuki was looking for, a “body of transformed silence”, was here and there inside the factory, and also in the piles of scrap laying around outside; these past the range of intervention by the artist’s hands, was plain to see. In the exposed and discarded scrap in the corners of the factory, cut up, burned, and beaten in a minimal hand, was sum of the pronouncement of a work. His activity in the 1990s, more than simply production, in essence became mono for one person,


transcending the stillborn beginnings of unrealized civilization. Wherever the magical workings of salvation are, inside a ready -made product that has been defaced and abraded by wear, celebration of the language attending the object is also important. Regarding titles such as “Memory of Detour”, “somewhere not Here” or “Melancholia”, and possibly “Gazed at the Presence”, each have integral inherencies. These inherencies of memory piled up in a mass of iron; the activity space, gradually changing from what began as a colorless and transparent exhibition space and morphing together with the artist’s feeling at the time, pressing memories of bygone times; these fragments of things you cannot put into words are crystallizations. The second turning point in Suzuki’s work occurred with the appearance of the scarlet red color. According to the records, surfaces painted entirely or partially red began from around the end of 1990s. But since in many works shown earlier on, the surfaced a piece of wood or a three dimensional form was painted red and placed on the floor or suspended from the wall and projecting into space, the entire series of scarlet red monochrome paintings extends into the hundreds. As this came to pass, it unexpectedly took the place of forged steel sculpture. The process of applying red paint to a piece of paper or canvas is generally considered painting; to be mindful of that which is highlighted or stressed with regards to the promised nature of the whole comprises an established, reflexive harmony, or simply put, a composition. But Suzuki’s work is not composition in this sense. These paintings began as an extension of the words and sparks imparted by the discarded masses of steel, surely imparting a fresh spark of language. One likes to think that in the burning flame of life, a picture fragment is a natural attempt in the chain of events (to those who enjoy paradox, at least). Is the size of the image, the length and width, height and proportional thickness predetermined? Oil colors, acrylic, watercolors, or ink? Gloss medium or matte medium? Paper or canvas or board? Is there a base coat, foundation or underpainting? And how many layers of paint? If you compare Suzuki’s “scarlet paintings” to the usual idea of painting, in terms of decisions the options appear wholly limited. However, they are apart fro m normal painting, and the potential alternatives that exist for these red objects are unlimited. Without trying to


begin an investigation into the meaning and reason of the scarlet composition: why not blue or yellow, and why red; here is the paper, the canvas, the prescribed (or unreasoned) shape and size, and by how and by what means is simply the predetermined scarlet enlivened is the issue. The title of the entire series, “text” is enigmatic. In the first place, there is no code to order sequence the fragmentary pictures; consequently the path or road to text appears closed. Perhaps it would be fair to look at these scarlet red texts of someday, these paintings or sculpture, as if they were the unremittingly fragmentary progress of a world narrative as a lexicon or book of grammar. The metaphor can be made that in lieu of the hydraulic hammer, Suzuki took up a brush. After the size and shape of the picture plane are decided, and the scarlet is prepared, in what way and how many layers of paint are applied? Very thin layers are worked and foded together over the passage of time, and rather than a visible picture, the surface that the eye can see is perceived as intermediary, as mono; the way the work should be is established. However, there is a significant distinction between steel sculpture and the scarlet work. The providence of a mass of steel, inside the artist, or ourselves, is of fragments of buried memories magnetically drawn together, but the scarlet pictures are circuitous; the past is irrevocable and retreat has been cut off. This second existence is not a stillborn beginning, so much as it is an orphan serving as meditation. In the word, the scarlet works of Takashi Suzuki can be summed up as a pictorial deliverance of thing (mono). Formally, although all monochrome paintings could be considered one species, be that as it may, and following pictorial thinking through to its conclusion, it is not necessary that the finished form and appearance of these painting is the final visage any more so than it is the beginning of a new search into their real nature. To him, monochrome it self is not a duty; from the beginning he made works with a red rectangle placed in one portion of the picture plane and other areas left as raw canvas. And work shown in recent years has included adjoining and connected canvasses painted in monochrome red and black, respectively. So, the current show, titled “Daylight”, includes a work on ungrounded canvas with three panels, each slightly spaced apart, respectively painted in red and blue acrylic and oil,


organized neatly horizontally (Text No.710 and Text No.708). Although the juxtaposition and linking of two monochrome paintings may not be unusual in his recent shows, the distinct bearing set forth with the coexisting red and blue hues seems as though it is the first time. Hearing the exhibition title, “Daylight”, is like recalling something long forgotten, a pleasant surprise for probably a few people. In my case it was. For…… Takashi Suzuki’s painting, so to speak mono, are in terms of meticulous ness extremely high, naturally in addition to claiming exceedingly high spatial exactitude. Spatial exactitude in this case chiefly depends on the size and amount, and the relationship between aspects such as the specitics of placement and location. To the author, comparing this type of precision, rigor or finesse, regarding the unfixed or remitting condition of light, etc. in his pictures for a second or third instance has been enchanting. But when the precision of the red and that of the blue, and moreover the subtle modulation motif is considered, the specter of absolute space is probably not very consequential. So perhaps the true measure is via the juxtaposition of red mono and blue mono inside the “daylight” ;as yet the unremitting within the remitting. (Deputy Director, The National Museum of Modern Art, Tokyo)


「無関心に熟視できる」——鈴木隆にかんする覚書

2009

本江邦夫 「作品」つまり美の凝縮あるいは美の仮構から―一握りの煌く、あるいは詩的な言葉を引きだ すことができれば、それだけで立派に批評というべきなのかもしれない。もともと丸々太った 羊をあらわす「美」という言い方をここで用いるのに、違和感がないわけではないが、18世 紀半ばにドイツで登場した「美学」(Ästhetik)という哲学の一分野の由来に立ち戻れば、ここ で言う「美」とは要するに「純粋に感覚的なものの充実もしくは横溢」—そして「純粋」とはそ れ以上でも以下でもない、ということである。 鈴木隆の、 「Text」と総称された一連の、主として正方形の幾何学的な「緋色の絵画」(scarlet paintings)を前にして私がしきりになにか宝石、つまり純粋な結晶のようなもの、たとえば ルビーのそれを思い浮かべるのは、こう考えれば理由のないことではない。しかし、話がここ で、つまり語られ尽くしたミニマリズムで終わらないのは、この色が見る者におのずと鮮血の それを、しかもほとんど無意識に開示するにほかならない。「赤」、血の色は人間にとって生 死にかかわる、もっとも切実な色だったはずだ。実際、赤はフランス南西部からスペインにか けて散在する数万年前の、ショーヴェ、ラスコー等のいわゆる洞窟壁画においてもっとも支配 的な色だった。原理的にまったく造形的な、つまり含意とは無縁のように見える、その意味で まさに純粋な要素に秘められた人間的な要素—私がこれを、鈴木の作品にたいするとくに見当 ちがいの反応だと思わないのは、「Text」という総称、つまり人間なくして textはありえない、 との思い込みも関係しているかもしれない。実際の作品には、たとえば、「Text No.483」とい うふうに通し番号がついている。壁に貼りつけられたそれらに見入っていると、その「テキス ト」が「人間」のように思えてくるのは私の気のせいなのだろうか?鮮烈な赤の「人間 483号」— けっこう不気味な連想ではある。 色彩としての赤、それとも幾何学な形態の赤にこだわった画家は、鈴木隆のほかにもたくさ ん居る。すぐ思いつくのはマレーヴィチの(白い地の上の)「赤い正方形」(彼自身の理論に照 らすと、本当は厳密には正方形ではありえないのでは、という最近の研究はあるが)、黒色絵 画で名高いアド・ラインハートの赤色ヴァージョン、さらにともに顔料を混ぜているという点 ではイヴ・クラインの真紅の作例は特筆すべきものだ。あるいは、赤の色面ということで言え ば、20世紀のもっとも精神的な画家の一人、バーネット・ニューマンの作例、その現前のみで 「ドームのように降り注ぐ空間」(space-dome)を誘発する一様で広大な画面、とりわけわが 国が世界に誇るべきニューマン晩年の、ほとんど赤一色の傑作《アンナの光》を前にした印象 と、それと比べればはるかに小さい鈴木の「赤」のそれとは、少なくとも私において不思議に 似通っているのだ。鈴木隆が「赤」を特別視するのは(作家によれば)この色に、いたずらに神 秘的とは異なる「普遍的な精神の定数を託することができると感じている」からであることの 意味深い反映がこの一致にはあるような気がする。 鈴木隆の美的充実を支える「赤」について縷々述べてきたが、こうした場合にいつも登場す る、その「赤」は普通の赤とそんなにも違う特別な色なのか、という陳腐であると同時に深


遠な問題のことを忘れるわけにはいあかない。かつて分析哲学の大御所で高名な美術批評家 でもあったアーサー・ダントは「芸術作品とただの現実の物」(Works of Art and Mere Real Things)と題されたエッセーにおいて、すでに作品として認定されているただの「赤い正方形」 にたいして、同じような正方形に塗り上げ、これもまた作品ではないかと迫る無名の画家を想 定し、その芸術性を巡って、ああでもない、こうでもないと、博覧強記をひけらかしつつも、 紆余曲折して出口のない、それはもう壮絶な、しかし部分的にはすこぶる読みごたえのある議 論を展開したことがある。私が思うに、この意欲的なエッセーの最大の問題点は、まったく同 じ「赤い正方形」が 2つ以上ありうるという、現実的な根拠の無い前提にある。人間の双子と 同様、一見同じように見える二者ではあっても、感覚ないし直感の精度を上げれば、差異が生 じる―これが美術であり、ここにこそ目利きの存在理由もあるのではないか。したがって、鈴 木隆の「赤」にしても、彼独自の繊細かつ強靭な手法で美的であるとしか言えないのである。 鈴木隆の紙や綿布を支持体とする平面作品の魅力あるいは官能性を、その独特の、他者には 真似ようのない「赤」に見ることはむしろたやすい。しかし、そこにはまた単純に視覚には還 元できない何かがあると、私の本能は私に語りかける。それが何なのか?ひょっとしたら、こ こにこそ、この非凡な(sigular)芸術家の最大の魅力、つまりほとんど物質的ないし感覚的と もいうべき美的充実ないし凝集力の秘密があるのかもしれないだ。ここですこぶる象徴的、い やむしろ理論的に思えるのは、彼はもともと彫刻家だという断然たる事実である。とりわけ鍛 鉄を用いたさりげなく幾何学的な塊、たとえば「朗読」、「祈り」とつねに詩的に名づけられた そのいかにも膨らみをはらんだ形状(shape)のどこか人間臭い気配(だから私はここでミニマ ルとは言わない)ないし 3次元性の、作者自身の身体性を経由した2次元への圧縮にこそ、鈴 木隆の平面作品の真の意味があるように私は思えるのだ。 いま「膨らみ」と言ったのは、より具体的にはあるボリューム(量塊)の内と外との、凸凹の ある自然な、いわば身体的な境界として物体の表面があり、そこに視覚的に上下左右前後の全 方位的な振動が生じる事態のことである。このとき、対象として物体と私たちとのあいだの、 客観的かかつ無機的な隔たりは消え失せ、「有機的距離感」ともいうべきものが現出してくる。 この特異な、しかし本質的な言い方は、作者自身の言説から借りたものだが、鈴木隆の造形に 固有の空間性をこれ以上に適切に表す言葉はないように思う。これを鈴木自身の文脈に戻すと、 「常に精神的なものへの畏怖を伴い、或る中心に等しく接近するような有機的距離感」という ことになり、私の反応はまるで我田引水のようにも見えるのだが、実はそうではないことは、 両者のあいだに人間的なものへの切実対峙が共通していることに気づけば、容易に理解される ことだ。このように語られる物体の「膨らみ」凝縮であり、圧縮であるもの、それこそが鈴木 隆の、不思議に物質的な、赤い平面であり、私たちがそこにミニマリズムの超越性よりも、ど こか温帯モンスーン的な湿り気をおびたある種の気配を感じとるのはむしろ自然の成り行きと も言えるだろう。


鈴木隆の作品は、平面も立体もあまりにさりげなく自然であるので、むしろ私たちはそのこ とに気づかず、その傍らにあって魅入られつつ言葉を失いがちだ。知の勝った現代人にとって、 これはある意味で不都合な事態、つまり感性と知性の決定的な分離である。だが自由であるこ とを知らない自由、これこそが真の自由とも言えるのではないか?まことに驚くべきは、こう した究極の事態を作者自身はすでに予告していたように思えることである。彼は言う、作品制 作の歴史的かつ伝統的な「存在基盤を求める一方で、現代に生きる私たちは、可能な限り無関 心に熟視できるときのみ、自由なのかもしれない」と。ここにカントの「無関心の快、すなわ ち美」の反響を聞くのは私の気まぐれとしても、「無関心に熟視できる」—鈴木隆の力づよく 優美な作品、とりわけ緋色の平面を前にした私の、どこか熱っぽい状況を伝えるのにこれ以上 に見事な形容はないように思う。そして私は思い至るのである、そういえば「無関心に熟視で きる」、これこそは真の芸術作品に必要不可欠の条件であったと。 (多摩美術大学教授)


Disinterested Contemplation – To Takashi Suzuki

2009

Kunio Motoe A work of art cloud be described as beauty condensed and made solid, or perhaps in terms of the veneer of a collection of baubles, and if it is described in flowing poetry, that would perhaps make for a splendid review. It is not that writing about beauty in this way (as if one were describing a plump sheep, as beauty can be described in a Chinese traditional way) is a poor fit here. However, in terms of aesthetics, a branch of philosophy that entered the world stage in Germany in the mid 18th century, ‘beauty’, can be summed up as an ‘inundation of the truly perceived’ – in short nothing more and nothing less than purity. Standing in front of Takashi Suzuki’s series entitled Text, which consists primarily of geometrically square, scarlet red paintings, I am frequently reminded of a gem, a ruby for example: a pure, crystalline object that is not something that is not something that one thinks of as having an open-ended existence. However, this talk does not end entirely minimalist. In this red the viewer naturally sees fresh blood, although this is essentially an unconscious reaction. Red, the color of blood, is to people the color of life and death; an extremely compelling and urgent color. It is the dominant color in paintings from tens of thousands of years ago found in caves scattered over the southwestern portion of France and Northern Spain in places such as Chauvet and Lascaux. Fundamentally and formally, the visibly implied relation and connections surely imply certain quintessentially guarded or secretive human aspects-and especially in regards to Suzuki’s work, I don’t think this is an errant reaction. With regards to the series title, the impression is that without humanity, “text” itself is unimaginable. And the works themselves are titled with serial number, such as “Text No. 483”. To fix one’s eyes upon these hung on the wall, I can almost imagine these ‘text’ to be human. A vivid red “person No.283” is a fairly unsetting suggestion. Aside from Suzuki, numerous other artists who also employ a particular hue and geometric shape of red spring to mind. In particular, “Red Square” (on a white ground) by Kasmir Malevich (although to illuminate this own thinking, according to recent study, strictly and truly square might be impossible); the blend of pigment, Eve Klein’s deep crimson example is deserving of special mention. However, if talking about the red surface per se, one of the 20th


century’s most spiritual painters would be Barnett Newman, to whom space was as a kind of dome (space-dome), and who induced space via a vast, holistic or homogenous surface. It is wonderful that Japan is home to one of the masterpieces from Newman’s last years, the almost entirely red “Anna’s Light”. It is very strange that the impression while standing before this work is almost the same with that of the impression one has while standing before a very small Suzuki red painting, at least to me. Suzuki thinks of “red” as special: according to the artist, it is very different from other colors, and also because he feels that it is possible for him to entrust a constant of the universal sprit to red.” From this it follows that there would be a deeply meaningful coincidence in my responses to two types of red. As part of a discussion such as this one regarding Suzuki’s seemingly monotonous red there should be the clichéd question: “Is this red so exceptionally different from normal red or not?” in spite of being a cliché, it is a profound problem which we cannot forget. Arthur C. Danto, the art critic and a renowned figure in analytic philosophy posed the supposition together with a hypothetical artist in his essay, “works of Art and Mere Real Things” that in regards to recognized works of art (simple red squares in this case), squares painted in precisely the same way, might not be in fact works of art. This concern with artistic value is not specifically this or that, but instead in encyclopedic and broad based (though a blind meandering in a sense); however it is also sublime, and a well developed argument worth the reading. In my opinion, the most important point at issue in this ambitious essay is that to say that it is possible that there are more than two absolutely identical red squares, is not a realistic presupposition. At first glimpse, it is true that two identical twins might look the same, but you take a closer look, discrepancies arise, and I think that discerning(between the good and the bad) is the raison d'être of fine art. Accordingly, it should be said that Suzuki’s characteristic strong yet subtle use of red is truly his own aesthetic. The particular attraction or sensuality of Suzuki’s flat works on paper and canvas might appear to be not easily replicated by other people. At the same time, my instinct tells me that there is also a simplicity of vision that somehow cannot be reduced or returned to. What is


that exactly? Possibly the greatest appeal with this singular artist consists in being almost entirely material or sensorial; and perhaps within the aesthetic whole there is discrete or secret cohesion. This thought follows logically and symbolically given that Suzuki’s origins as a sculptor are established fact, and it is especially true considering poetically titled, forged steel geometric works such as “Reading Aloud” or “Prayer” whose shapes bulge and swell pregnantly; these works in some ways have human qualities (and this is not the reason why I am not using the word ‘minimal’ here). This means that the condensation of the artist’s own physical sense by way of three dimensions appear to me as being the true significance of Suzuki’s flat work. Inside and outside the aforementioned ‘swelling’, or more concretely put ‘volume’, there is an uneven spontaneity, as it were a physical boundary in the capacity of the surface of the body or object. At that point, visually and in all directions (up and down, left and right, back and forth) something is being produced, and between ourselves and the physical object the metered and inorganic interval disappears and “an organic feeling and sense of distance” emerges. This peculiar but essential commentary is taken from the artist’s own comments, as perhaps Suzuki’s inherent modeling extensity has hereinbefore not been aptly described. To bring this back to the artist’s personal context, where there is “an organic feeling and sense of distance toward a certain center, accompanied by a constant reverence for the spiritual,” my response may appear somewhat self serving, but it could not be, as we share a sincere attitude toward the human. The condensation or compression of both the physical object and its ‘swelling’ could not be other than Suzuki’s mysteriously physical (in a sense) plain, red surfaces, which transcend minimalism and in which we are likely to detect something with the air of a temperate monsoon. Suzuki’s work, two- or three-dimensional alike, looks so quietly natural that it that we are not becoming its artistic presence but leaving oneself both enchanted and speechless in its neighborhood. To modern, learned viewers the significance of this inconvenient state of affairs is that sensibility and intelligence are decisively detached. But couldn’t it be said that freeness does not know freedom, and that this is true liberty? Indeed, it should astonish that in such an extreme circumstance even the artist himself seems to have had notice. He says


that in search of the historical and traditional “foundations of being”, we (meaning people nowadays) have the greatest potential to be free when we have the ability to contemplate as much as possible without being conscious of it. And when he does, I hear echoes of Kant’s ‘beauty as disinterested pleasure’. It seems to me that “disinterested contemplation” is the best expression while being in front of Takashi Suzuki’s forceful, elegant work, and above all the two- dimensional paintings. And I have come to realize that “disinterested contemplation” must be the compelling condition in order for a work of art to be both true and genuine. (Professor, Tama Art University)


鈴木隆の絵画について

2010

嶋崎吉信 赤い色彩を用いた鈴木隆の作品を私が初めて目にしたのは 2000年のことで、それは高さが 10 センチほどで厚みも数センチはある木片の全面を赤く塗ったものだった。 それまでの鈴木は、直方体や管状や棒状などほぼ幾何学的な形態の鉄のパーツで構成するイン スタレーションによってすぐれた仕事をしてきており、鈴木のそのような鉄を見慣れてきた私 は、白い壁に掛けられたその赤い物体の姿にたいへん新鮮な感興を覚えたのであった。その後 の鈴木は、木片の作品とキャンヴァスや紙の作品とを並行して制作する時期を経て、現在は後 者の、絵画による表現を専一にしている。その変遷は、物質的な空間の構成への関心から、色 彩が主役の視覚的な体験に対する関心への移行だと言えるだろう。 鈴木の絵画はまず赤い色面を基本としているが、2007年からは青い色面も取り入れられるよう になった。キャンヴァスや紙の上に施される鈴木の筆致は周到であり、一見すると色面からは 筆の跡などペインタリーな要素を確認しにくいため、作品は無機的でクールな幾何学的抽象絵 画のように見えるかもしれない。けれども、キャンヴァスの目の粗密や紙の色や肌合いなどの 要素と絵具との組み合わせがもたらす効果を慎重に考慮して生み出される画面は、画家の息遣 いを正しく伝えていて、手業の表現としての他のすぐれた絵画と異なるところはない。淡いピ ンクから深い赤までの色の幅と、薄い水色から青までの色の幅—これらの色彩は文学的な含意 や象徴性、主従の役割を与えられておらず、すべては中立的で抽象的だ。けれども慎重に塗り 重ねられた色面自体と、複数の色面どうしの協調や干渉は豊かな表情に富み、静謐でありなが ら感情的であり、そして清艶でさえある。 鈴木の絵画においては、1画面が 1色のみで成立していることもあれば、キャンヴァス(または 紙)を塗り分け、あるいは部分的に塗り残したりして、ひとつの画面がふたつの色面によって 成り立っていることもある。さらには、複数のキャンヴァスを接するように並べたり、または わずかに距離を空けて並べたり、あるいは大きく離して壁面を取り込んだ構成となっているも のもある。そうして、色面を併置するためのこうしたさまざまな試みはすべてが等価である。 等価であるというのは、制作における作者の緊張と悦びを十分に伝えつつ、その前に立つ者を もてなして楽しませる機能をすべての試みが同等に備えているという意味である。もちろん、 等価でありつつ、その構成や配置に応じて楽しみが多彩であることは言うまでもない。 複数の色面による構成の中でも、ときおり鈴木が試みる奇数の画面による組み合わせ(たとえ ば《text No.753-No.757》)は、視覚的な構成においては対称であることを避け、要素の数にお いては 3,5,7……など奇数を好む私たち日本人の感覚には自然なものである。あるいは、偶数 の配置による安定を避ける構成は、すべてを言い切らない俳句のような余韻を持っていると 言ってもいいかもしれない。 鈴木隆の絵画の前に立つとき、私は目で深ぶかと呼吸をしている。同時に私は、彼の制作の移


行期に見たあの赤い木片—物質として目の前にたしかに存在していながら抽象的な示唆に満ち たあの物体の不思議を、鈴木がふたたび探求して私たちに提示してくれることもひそかに願っ ている。


On the Painting by Takashi Suzuki

2010

Yoshinobu Shimasaki

It was in 2000 when I first laid eyes on Takashi Suzuki’s work to which the red color was applied. The work was a block of wood, about the size of approx. 10 centimeters high by a few centimeters thick, with all surfaces painted in red. Before then, he had done excellent works through installations composed of forged iron parts mostly in the geometric forms such as rectangular cuboid, tube or bar. As I had been familiar with those forged iron works, I was immensely attracted with a fresh feeling to the red objects hung on a white wall. Thereafter, he passed through a period during which he worked on wood blocks and canvases / papers in parallel. Currently, he specializes in the latter style of works, the pictorial expression. This course of change can be said a transition of interests, from an interest in a spatial composition of materials to an interest in visual experiences mainly in colors. The red color-field is, foremost, basic to Suzuki's paintings, and since 2007 the blue color-field has also been introduced. His brush strokes on canvases and papers are meticulous, and, at a glance, the painterly elements such as brush traces are difficult to recognize. Accordingly, his works might appear to be lifeless, non-emotional geometric abstract paintings, yet any picture he creates conveys precisely the painter's breathing, and does not differ, as to expression of manual skill, from other exquisite paintings; for he gives prudent considerations to the effects brought about by combining elements, such as the weave (coarse or fine) of canvas with pigments, or the color / texture of paper with pigments. The color tones — a range of red colors, from pale pink to deep red, a range of blue colors, from pale sky blue to blue — do not have any literary connotation, symbolic nature nor superior-subordinate roles. They are all neutral and abstract. Thoroughly painted in layers, a color-field itself is, and color-fields harmonizing or interfering each other are, very expressive, serene and tranquil yet emotional, and furthermore clean yet sensual. As to Suzuki's paintings, some are single pictures each consists of single color-field, and some are single pictures each consists of two color-fields by using two colors to separate a canvas


(or a paper) or by leaving a canvas (or a paper) partially unpainted. Some are composed of several canvases hung together leaving no space or some space in between. There are also paintings whose composition involves the wall surface on which canvases are hung wide apart. Such various attempts to put the color-fields side-by-side are all equivalent; being equivalent means that all of these attempts have functions to convey tension and joy of the artist at work completely, and give viewers welcome and entertain them. Needless to say, although the attempts are equivalent, pleasures vary, depending on the composition or arrangement. Suzuki sometimes attempts combinations of the color-fields in odd numbers (for example, Text No. 753 - No. 757). Among the compositions of several color-fields, those compositions in odd numbers are for us very natural in terms of Japanese sense. Since, with regard to visual composition, we tend to avoid symmetry, and as to number of elements, we prefer odd numbers such as 3, 5, 7.... Or, it can be said, that the composition which avoids the steadiness by the even-number-arrangement has a kind of suggestiveness just like haiku*. As I stand across Suzuki's painting, I realize myself breathing, deeply, with my eyes. At the same time, I am wishing secretly that he will pursue and show us again that red wood block I saw during his creative transitional period; the mysteriousness of that red object — although it existed right in front of me as a material, yet it was filled with abstractive suggestions. * Haiku is a traditional form of Japanese poetry, consisting of 17 moras. (From a catalog of exhibition “Takashi Suzuki – red, blue and light” 2010 / Translated by Asami Fujimoto)


Takashi Suzuki 1957

Born in Tokyo, Japan Lives and works in Tokyo

1976

Graduated from Tokyo Metro politan Senior High School for Music and Fine Arts

1981

Graduated from Tokyo University of the Arts

1983

Completed the Master Program, Tokyo University of the Arts

1984

Completed Institute Cours e, Tokyo University of the Arts

Solo Exhibition 2017

[ART FORMASA] Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka/ Japan

[Red and Blue and] Gallery Shilla, Daegu/ Korea

[Red and Blue and] Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka/ Japan

2016

[in light] gallery 21-yo, Tokyo/ Japan

2015

[Rot, Blau und Licht] Galerie Christoph Abb端hl, Solothurn/Switzerland

2014

[Red, Blue and Light] Gallery Yamaguchi Kunst -Bau, Osaka

[Farbe Raum Licht] Kunstraum Oktogon, Bern, Switzerland

[recent works] Gallery nine, Amsterdam, Netherlands

[red, blue and light] Gallery GEN, Tokyo

2012

[Red, Blue and Light] Gallery Shilla, Daegu, Korea

[light] Gallery GEN, Tokyo

2011

[daylight] Gallery Yamaguchi Kunst -Bau, Osaka

[daylight] Galerie Christoph Abb端hl, Solothurn, Switzerland

2010

[red, bule and light] Gallery GEN, Tokyo

[red, blue and light] House of Art - Budweis, Czech Republic

2009

[Die Sprache der Farbe] Galerie Christoph Abb端 hl, Solothurn, Switzerland

[art amsterdam`09 SOLO] Amsterdam RAI Parkhal, Amsterdam, Netherlands

[daylight] GALLERY TERASHITA, Tokyo

2008

[works on paper] Gallery GEN, Tokyo

2007

[Red Studies] GALLERY TERASHITA, Tokyo

[Recent Works] Gallery Yamaguchi Kunst -Bau, Osaka

[Albeiten auf Papier] Galerie Carmen Weber, Zug, Switzerland

[with red] Kunstraum Hebel_121, Basel, Switzerland

2006

[Monochromes] GALLERY TERASHITA, Tokyo

[Text] CONCEPT SPACE, Bordeaux, France

[Red-interval] Gallery GEN, Tokyo

2005

[Takashi Suzuki-Gouachen] Galerie Carmen Weber, Zug, Switzerland

Institut f端r bildenerisches Denken, Grenzach -Wyhlen, Germany


2004

[ONE] GALLERY TERASHITA, Tokyo

[Scarlet Paintings -Text] Das Gästezimmer, Wolhusen, Switzerland

[Scarlet Monochrome -Light] Gallery GE N, Tokyo

2003 [Scarlet Paintings -NOTE] GALLERY TERASHITA, Tokyo

[Scarlet Paintings] GALERIE ANDO, Tokyo

2002

[Works of Scarlet] Gallery GEN, Tokyo

2001 [Text of Memory] CONCEPT SPACE, Shibukawa

Museum St.Wendel, Mia -Münster-Haus, St.Wendel, Germany

[Takashi Suzuki Exhibition] Gallery AD&A, Osaka

2000

[TUES-2000] The Utukushi -ga-hara Open-Air Museum, Nagano

[Depth of Memory -Precision of Site] Gallery Alpha M, Tokyo

[Somewhere, not Here] Gallery GEN, Tokyo

1998

Kunstraum Hebel_121, Basel, Switzerland

1997

[Recent Works] Gallery GEN, Tokyo

1996

GALLERY 360 Degrees, Tokyo

Gallery GEN, Tokyo

1995

GALLERY 360 Degrees, Tokyo

1994

[Drawings] Gallery GEN, Tokyo

[SCULPTURES and DRAWINGS] GALLERY 360 Degrees, Tokyo

1993

[Steel Sculptures] Gallery GHIBLI, Tokyo

1991

[Recent Sculptures and Drawings] GALLERY MANIN, Tokyo

1988

[New Works] Gallery GEN, Tokyo ( -’89,’90,’91,’92,’93)

1987

[RECENT SCULPTURES] GALLERY MANIN, Tokyo

1984

ANDO GALLERY, Tokyo

1983

Kamakura Gallery, Tokyo

Selected Group Exhibition 2017

[WHITE]Galerie Christoph Abbühl, Solothurn, Switzerland

[Interaction of Color] Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka/ Japan

2016

[ART The Hague] Fokker Terminal, Den Haag/Netherlands

[Japan im Palazzo] Kunsthalle Palazzo Liestal/ Switzerland

[NEW SPACE with THE ARTISTS and ART] Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka/ Japan

[Incidents-Zwischenfälle] KulturAmbulanz Galerie im Park, Bremen/ Germany

[Accrochage] Kunstraum Hebel_121, Basel/ Switzerland

2015

[CORRESPONDENCE LANDSCAPE 015] Gallery KOBO SHIN, Tokyo/ Japan

[ Characteristic Sense of the Rectangle] Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka/ Japan

[Art Breda]Chasseveld Breda, Breda/ Netherlans

2014

[Dialog Konkret] Galerie Christoph Abbühl, Solothurn, Switzerland


[KUNST RAI] Amsterdam RAI Parkhal, Amsterdam, Netherlands

[spektrum schwarz] Galerie Christoph Abb ühl, Solothurn, Switzerland

2013

[KIND OF BLUE] Galerie Katharina Krohn, Basel, Switzerland

[Made in Japan] Kunstraum Hebel_121, Ba sel, Switzerland

[Summer Exhibition] Gallery nine, Amsterdam, Netherlands

[ART OSAKA 2013] Contemporary Art Fair, Hotel Granvia Osaka, Osaka

[KUNST RAI] Amsterdam RAI Parkhal, Amsterdam, Netherlands

[ANDO SESSION -4, sensiblity to colors exhibition] Galerie Ando, Tokyo

[31st Korea Galleries Art Fair] Seoul COEX Hall, Seoul, Korea

[RAW Art Fair 2013] Pakhuis Santos Rotterdam, Netherlands

2012

[Collections] Gallery Shilla, Daegu, Korea

[Accrochage] Galerie Christoph Abb ühl, Solothurn, Switzerland

[Summer Exhibition ] Gallery nine, Amsterdam, Netherlands

2011

[Collections] Gallery Shilla, Daegu, Korea

[Autumn Exhibition] Gallery Yamaguchi Kunst -Bau, Osaka

[präsent] Galerie Christoph Abbühl and Kunstforum Solothurn, Solothurn, Switzerland

[ART OSAKA 2011] Contemporary Art Fair, Hotel Granvia Osaka, Osaka

2010

[a quiet moment] Gallery Yamaguchi Kunst -Bau, Osaka

[works on paper] Gallery Terashita, Tokyo

[Small Size Works -Statements from Galleries -] Gallery Natsuka b.p, Tokyo

2009

[Black & White] GALLERY TERASHITA, Tokyo

[Kunst 09 Zürich] 15th International Contemporary Art Fair, Zürich -Oerlikon, Switzerland

2008

[Small Format] GALLERY TERASHITA, Tokyo

[Asia Top Gallery Hotel Art Fair 2008] Hotel New Otani Tokyo, Tokyo

2007

[Kunst im Dialog] Institut für bildenerisches Denken, Grenzach -Wyhlen, Germany

2006

[transit-abstract] project space -Henzelmann Tower, Berlin , Germany

[TAKE OFF] Kunstraum Hebel_121, Basel, Switzerland

2005

[Kunst 05 Zürich] 11th International Contemporary Art Fair, Zürich -Oerlikon, Switzerland

[ART in CASO 2005] Contemporary Art space Osaka, Osaka

[Rot-Positionen zeitgenössischer Kunst] Galer ie Carmen Weber, Zug, Switzerland

[Suki-Mono-Tachi No.6 Ways Since Rin-pa 2005 Chapter 3] Gallery Yamaguchi kunst-Bau, Osaka

[Personal Structures] Ludwig Museum, Koblenz, Germany

[SUKI-MONO-TACHI WAYS SINCE RIN -PA] Museum of Modern Art,Gunma, Takasaki

2004

[Hand in Hand -Contrasts] Hannover Städtische Galerie KUBUS, Hannover, Germany

[Personal Structures] Galerie de Rijk, Den Haag, Netherlands

[SUKI-MONO-TACHI Ways Since Rin -Pa No.6 -Chapter 1] CONCEPT SPACE, Shibukawa

[SUKI-MONO-TACHI Ways Since Rin -Pa No.6 -Chapter 1- Part 2] DESIGNPLANETS, Maebashi

[ART Frankfurt] Fair Collection, Frankfurt Main, Germany


2003

[SUKI-MONO-TACHI Ways Since Rin -Pa No.6 -Prologue] Gallery Surge, Tokyo

[Farbmalerei] Galerie am See, Zug, Switzerland

[Recommendation of Coll ecting a work of Art] Museum Haus Kasuya, Yokosuka

2002

[Links] (with Daniel Göttin) Museum Haus Kasuya, Yokosuka

[Correspondence] (with Daniel Göttin) Gallery Gen, Tokyo

[Sculptures and Drawing of Sculptors] Ausstellungsraum Harry Zellweger, Basel, Switzerland

2001

[Recommendation of Collecting a work of Art] Museum Haus Kasuya, Yokosuka

[SUKI-MONO-TACHI Ways Since Rin-Pa No.5] RINKKOHKAKU Basis Building and Tea Room, Maebashi

[SUKI-MONO-TACHI Ways Since Rin -Pa No.5] CONCEPT SPACE, Shibukawa

[PITON & 7 ARTEST] Gallery CHIKA, Tokyo

[KUNST IM PARK 4] (with Daniel Göttin) Hotel SARATZ, Pontresina, Switzerland

[Ngoya Contemporary Art Fair] Nagoya Citizen's Gallery, Ngoya

[Boxes, Spaces, Places] Galerie Monika Beck, Homburg, Saarland, Germany

2000

[SUKI-MONO-TACHI Ways Since Rin-Pa No.4] CONCEPT SPACE, Shibukawa

[Japanischer Blick auf Europa] Saar -Pfalz-Park-Halle 21, Bexbach, Germany

[Nagoya Contemporary Art Fair] Nagoya Citizen's Gallery, Nagoya

[CHIKA 2000 VIS ION] (wiith Satoko Shiba) Gallery CHIKA, Toky o

1999

[Tokyo Tatami Space Exhibition] Orimoto house, Kwasaki

1998

[KOMMUNIKATION] (with Frank Fuhrmann) Sagacho Exhibit Space, Tokyo

[Possession of Art works is to Share the Future with Artist] Museum Haus Kasuya, Yokosuka (-’99,’00)

1997

[KUNST=KAPITAL] Gallery 360 Degrees, Tokyo

1995

[5' Contemporary Art -Common Perspectives] BAN Gallery, Osaka

1994

[ART SITE Collection 4] Gallery ART SITE, Fukui

[ART SITE C ollection-Wakasa] Library -Wakasa, Fukui

[Art Works -on the Desk Space 3] Gallery Ar t and Craft,department store - SEIBU, Tokyo

1990

[Two-Dimensional Surface of Sculptors Exhibit] Gallery MANIN, Tokyo

[GOTOH COLLECTI ON 1] Gotoh Museum of Art, Chiba

1988

[Exhibition NEW WORKS] Kamakura Gallery, Tokyo

1987

[The 10th Sculptures by Metal Mold in Japan] Wako Hall, Tokyo

1986

[3-D GAME] (with Interior Designer and Architect) AXIS GALLERY, Tokyo

[Art-A Dialogue on P eace] Ohkurayama Memorial Hall, Yokohama

[A Scene of Contemporary Japanese Art -3] Miyagi Museum of Art, Sendai

1985

[The 8th Sculptures by Met al Mold in Japan] Wako Hall, Tokyo

[Three Artists Exhibition - SECTION] Ga llery Natuka, Tokyo

1983

[The 3rd Henry Moore Grand Prize Exhibition ] The Utukushi-ga-hara Open-Air Museum, Nagano

[Three Artists Exhibition - SECTION] Gallery Atelier -Z, Tokyo

1982

[Three Artists Exhibition - SECTION] Kmakura Gallery, Tokyo

[The 5th Japan Enba Contemporary Art Compe tition] Emba Museum of Modern Art, Kobe


1981

[Exhibition 28 Works] Modern Art Gallery, Tokyo

[Six Selected] Hall at Tokyo National University of Ar t and Music,Tokyo

[The 4th Ja pan Enba Contemporary Art Compe tition] Emba Museum of Modern Art, Kobe

Awards 2004

Awarded International Exchange -Program: Pola Art Foundation

2000

Awarded the TUES Prize : The Utukusi-ga-hara Open Air Museum

1983

Awarded the Prize for Excellence a t the 3th Henry Moore Grand Prize Exhibition:

The Utukusi-ga-hara Open Air Museum

1981

Awarded the Grand Prize at the 4th Japan Emba Art Competition: Japan Emba Museum

Awarded the Ohhasi Prize: Tokyo National University of Fine Art and Music



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