Isa MITAKE

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Isa Mitake





Isa Mitake


2018/12/15 - 2019/02/16 シロイ 夜 White Nights

Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka







White Nights2018_01 ed.1/5 DVD 15min variable 2018


White Nights2018_02 ed.1/5 DVD 15min variable 2018


トオイ イロ 色、 アクリル、 木 / color, acrylic, wood 170 x 1200 x 170 mm 2018

170 x 170 x 65 mm

トオイ イロ アクリル、 木/ color, acrylic, wood 色、 170 x 170 x 65 mm

2018

トオイ イロ 色、アクリル、木 /

2018

color, acrylic, wood



2016/04/12 - 05/14 縄文と現代シリーズ最終章 京都造形芸術大学芸術館 「白い、白い 望遠」

雪 の 日 表 に で る。 ガ ッ ガ ッ と い う 自 分 の 靴 音 だ け が、 ま る で 耳 鳴 り の よ う に 響く。 シロイ。真白で何も見えない。 この冬、雪が降ると思えば、カメラを持ち出かけた。 「雪の日」を集め、何時ものようにパソコンのうえで重ねる。 其処に現れるのは、やはり白く何もみえない光景だった。

縄 文 シ リ ー ズ は、 京 都 造 形 芸 術 大 学 が 所 有 す る 縄 文 土 器 を 美 術 家 が み つ め、 捉 え、 展 示 す る 展 覧 会 で あ る。 4 年 つ づ け ら れ、 三 嶽 は 4 回 目、 最後を製作する。

土 器 を 描 く た め、 何 度 も 通 い、 そ れ に 触 れ、 そ れをみる。 奇 妙 だ が、 何 千 年 前 に つ く ら れ た も の だ と い う のに、すぐ横に、縄文はあった。






2016/04/12 - 05/14 縄文と現代シリーズ最終章 京都造形芸術大学芸術館 「白い、白い 望遠」

雪 の 日 表 に で る。 ガ ッ ガ ッ と い う 自 分 の 靴 音 だ け が、 ま る で 耳 鳴 り の よ う に 響く。 シロイ。真白で何も見えない。 この冬、雪が降ると思えば、カメラを持ち出かけた。 「雪の日」を集め、何時ものようにパソコンのうえで重ねる。 其処に現れるのは、やはり白く何もみえない光景だった。






2015/12 散歩の条件 ぎゃらりーすずき(京都) 今村源、井上明彦、日下部一司、三嶽伊紗、四人での展覧会

一 年 を か け、 会 い、 話 し、 ま た ウ ェ ブ 上 で、 情 報 や 思 考 の 交 換を重ね進める。 この展覧会を最後にぎゃらりーすずきは閉廊。



2015/05 「光は曲がらない」 ヴォイスギャラリー / 京都 井上明彦 佐藤博一 山口良臣と インクジェットプリント



Isa Miatake works beyond sight

The Tokushima Modem Art Museum, Tokushima, Japan

2014.4.26 - 6.15







鏡 / 微分する眼 mirror/ eyes differentiating 鏡面アクリル、アクリル樹脂、蛍光塗料、カラーシート 2010 年 鏡の上に指を置く。自分の指が映る。当然のことだが、鏡の上にガラ スがある限り、鏡に映る指先に触れることは叶わない。 アチラとコチラ。 境界に位置するモノ。

2014/04/26 - 06/15 三嶽伊紗のしごと みているもののむこう 徳島県立近代美術館

Isa Mitake works beyond sight The Tokushima Modern Art Museum


昆 虫 学、 地 質 学 に 携 わ っ て お ら れ る 方 三 人 に お 願 い し、 そ れ ぞ れ が 見 つ め て お ら れ る も の を 展 示 し て 頂 き、 ま た、 そ れ ら に 対 し て の 言 葉 を 頂 戴 し た。 三 嶽 は、 日 々 の 暮 ら し の 中 で み つ め た も の を 言 葉 と と も に 展 示 す る。「 み る 」 こ と。 自 身 の む か う こ と へ の 問 い 直しができればと願う。

私 の 出 身 地、 高 知 に は 牧 野 富 太 郎 博 士 の 植 物 園 が あ る。 今 で こ そ 立 派 な 美 術 館 が 建 っ た が、 子 ど も の 頃 に は 美 術 館 な ど な く、 あ る の は 城 の 近 く に あ る 資 料 館 の よ う な も の と、 街 か ら か な り 離 れ た 山 の 上 に 建 つ 植 物 園 ぐ ら い だ っ た。 其 処 で み た「 絵 」 が 綺 麗 だ と 感 じ た こ と を 今 も 憶 え て い る。 博 物 館、 植 物 園 な ど で み る「 絵 」 が 好 き だ。 例 え ば 花 弁 の つ き 方、 葉 の つ き 方、 そ れ は 写 真 で 撮 っ た モ ノ で は な く、 ま た 実 際 に ス ケ ッ チ し た だ け の モ ノ で も、 決 し て な い。 ま る で、 あ る 種 の「 キ ュ ビ ズ ム 」 の 絵 画 の よ う に 奥 行 き は な く、不自然だが、奇妙に表れる。学者の目が対象を追う−そんな光景が見えるようである。 彼 ら は 決 し て 表 現 し て い る の で は な い。 対 象 と 真 っ 直 ぐ に 向 き 合 い、 率 直 に そ れ を 描 き 取 ろ う と す る。 そ ん な ふ う に 私 に は 映 る。 科 学 を 美 術 と 同 一 線 上 に 考 え る こ と は で き な い。しかし、対象をみつめることに違いはないし、また、そうありたいと願う。それは「表 現 」 な ど と い う 言 葉 で 言 い 尽 く さ れ な い、 我 々 の「 欲 求 」 と で も 言 え る も の が あ る よ う に思えるのは、私だけだろうか。


■キリ ノ ハナ ヲ ミル sketching –paulonia blossoms プリント、ドローイング 年 2011-14 中 学 生 の 頃 だ っ た と 思 う が、 桜 の 花 を 観 察して描くという宿題がでたことを憶え ている。 美 術 で は な い、 理 科 の 時 間 だ。 ヨ ク 観 察 し て 描 く。 理 科 の 時 間 を 思 い だ し、 キ リ のハナを描いた。

■温度計 an entropy thermometer 温度計、ガラス、シリコン樹脂 年 2002 度 の 熱 湯 と 零 度 の 水 を 混 ぜ、 50 度の 100 湯にする。高校の頃に習ったエントロピー の 法 則。 不 可 逆。 逆 に す る こ と は で き な い と い う。 難 し い 説 明 は 憶 え て な い と い う の に、「 不 可 逆 」、 そ れ だ け は 妙 に 記 憶 している。

■ ハ イ ヲ ミ ル drawing on the white ash 灰、ガラス 年 2011-14 線香に火をつけ、白い灰の上に置く。 細 い 枝 に 似 た そ れ は、 緩 や か な 速 度 で 灰 色 に か わ る と と も に、 黒 い 影 を 落 と す。 カ タ チ が「 カ ゲ 」 に か わ る と き、 突 然 線 香 花 火 に 似 た 赤 い 光 は 現 れ、 消 え た。 ど れ ほ ど の 時 間 だ っ た の だ ろ う か。 優 し い 映像。 灰のうえの美しい「絵」。

■アオイ本 blue book 感圧複写紙、青いインク、アクリル樹脂 年 2014 伝 票 な ど に 使 わ れ て い る 複 写 紙。 そ の 端 か ら 滲 む よ う な 青 い 色 は、 掠 れ た よ う に 奇 妙 に ぼ や け、 美 し い。 ノ ー カ ー ボ ン 紙、 感 圧 紙 と い い「 筆 圧 を 感 知 し、 文 字 な ど を複数枚に渡り写すことが出来る」とい う。「 感 圧 紙 」 と い う 聞 き 慣 れ な い 言 葉。 その紙が「感知し複写する」という。ペー ジ を 捲 る た び、 あ の 薄 い 紙 は 応 え、 ア オ イ色をみせてくれるのだろうか。

■イロ color アクリル樹脂、蛍光塗料 年 2010 高校の物理の時間だったと思うが、「物体 色 」 を 習 う。 ア カ イ モ ノ は、 ア カ イ 色 以 外 を 吸 収 し、 ア カ イ 色 を 反 射 す る。 ま る で 禅 問 答 の よ う だ と 思 う。 ア ク リ ル の 箱 に 入 れ た「 色 」 は 発 光 す る よ う に イ ロ を みせた。













White Nights

Gallery Yamaguchi - 鈴木たかし Line 三獄伊紗

kunst-bau, Osaka

Yamaguchi kunst-bau, Osaka Gallery 2018.12.15 - 2019.02.16 2013







短い線香に火をつけ、 白い灰のうえに置く。 たゆたう煙と香り。 緩やかな速度で線香は灰色にかわり、同時 に黒い影を落とした。 全部がカゲにかわるとき、 突然、 線香花火に似た赤い光は現れ、消えた。その間、三〇 分ほどであろうか。 優しい映像であった。

ハイ ヲ ミル ピンホール写真 / pinhole photo 125 x 125 x 25 mm

ハイ ヲ ミル 灰、木など / ash, wood etc.

125 x 125 x 22 mm (frame size) 2011

104 x 104 mm (image size) 2011

アオイ / blue 感圧紙、アクリルなど

Pressure sensitive paper , acrylic etc.

120 x 178 x 40 mm

107 x 150 x 12 mm (book size)

2013

伝票などに使われている複写紙。その端から滲むような青い 色は、掠れたように奇妙にぼやけ美しい。ウィキペディアに よれば、 ノーカーボン紙、感圧紙というそうだ。「筆圧を感知 し、肉厚と同様の文字などを複数枚に渡り複写を行うことが 出来る」 と書かれてあった。感[圧紙 と]いう聞き慣れない言 葉。その紙が [感知し複写する と]いう。ページを捲るたび、あ の薄い紙は応え、 アオイ色をみせてくれるのだろうか。



「方丈記」 に何が書かれているかなど、 私の拙い知識で解るはずな いが、 モノとして在るもの、 みな移ろう。 小さな線香に火をつける。 時を加速させ、 枝に似た小さなモノは灰と化し、 余韻だけを香りと して残す。 我々はこの中に何をみているのだろうか。

125 x 125 x 25 mm

ハイ ヲ ミル 灰、木など / ash, wood etc.

125 x 125 x 25 mm

2011

ハイ ヲ ミル 灰、木など / ash, wood etc. 2011

ハイ ヲ ミル 灰、木 / ash, wood

1100 x 150 x 87 mm 2013



201 2/04

NON OBJECTIVE ART - EIZO ノンオブジェクティブアート

映 -像

■ユキ / 2012 二 年 前 よ り、 十 二 月 に は い り、 雪 が 降 り だ せ ば、 車 を 走 ら せ 家 を で る。 琵 琶 湖 沿 い に 北 へ 向 か い、 余 呉 か ら 日 本 海 ま で 行 く こ と も あ れ ば、 高 島 の 山 の 方 へ 入 る こ と も あ る。 地 図 も 見 ず、 た だ 雪 を 追 っ て い く だ け だ。 気 が 向 け ば 一 泊 す る こ と も あ る が、 殆 ど は 陽 が 沈むと家へ帰る、そんな少し遠出の散歩。 また、もちろん一冬に二、三度、我家でもカナリの雪が降ることがあり、 その時は、長靴を履き、ポットに珈琲を入れ、近所を歩く。夜中の散歩である。 ここと思えば、三脚を立てカメラを三分ほど開く、それを何度も繰り返す。六十二分のテー プが終わる頃、身体は芯から冷え、帰りたくなる。 今年で五度目の冬の散歩。私は妙に気に入っている。 家 に 帰 り、 マ ッ ク の う え で「 雪 の 風 景 」 を 重 ね る。 幾 重 に も 重 ね た「 風 景 」 は、 ま る で 眠りの中のようだ。時間軸の中でみているのではなく、ただ降る「雪」があるだけだ。



リスンの庭 / ハイ ヲ ミル

「方丈記」に何が書かれているいるかなど、私の拙い知識で解るはずもないが、モノとして在るもの、みな移ろ う。[インセンス]に火をつける。時を加速させ、枝に似た小さなモノは灰と化し、余韻だけを香りとして残す。

一五年ほど前より「実が落ちた蓮」や「蝉の抜殻」などを原型にし、真鍮や銀 を流し込み、鋳造物をつくっている。モノの影が鉱物にかわったように思 え、まるで化石のようだと思う。今回、庭に落ちた「コエダ」と比良でみつけ た「キリ」、その二つを二〇一〇年冬の影とし、真鍮で鋳造した。


ハイ ヲ ミル / 30分のカゲ 灰、木、ガラス

インセンスに、火をつけ、白い灰のうえに置く。たゆたう煙と香り。緩やかな速度で灰色にかわるとともに、 黒い影を落とした。「カゲ」に全部がかわるとき、突然、線香花火に似た赤い光は現れ、消える。優しい映像。 灰の上、インセンスが描いた美しい「絵」。

■ハイ ヲ ミル

ハイ ヲ ミル / 30分のカゲ ピンホール写真 「カゲ」にかわる間、30分ほど。箱を構え、 シャッターを開く。優しい物語は、 その箱の中、像をむすび現れた。

ハイ ヲ ミル 灰、ガラス 焚きあげたインセンスの灰。鮮やかな色も、愛ら しい色もすべて「イロ」を無くし「灰」色となった。 買ってきたばかりの「白い」灰と、その「灰」色 を器にいれる。トントンと叩く。 また叩く。何 度も繰り返すうち、山水画は、目の前に現れた。

ハイ ヲ ミル / カゲを描く 灰、木、ガラス


■ニワ ヲ ミル looking at the garden

裏山にエゴの木がある。 3年ほど前、陽が沈み、木々の影だけが浮かぶ時間。 仕事場の前何もすることもなく、ただ椅子に腰掛け眺めれ ば、小さなシロイ花が眼にはいる。無数の花をつけていた から、そう随分前から、この季節、此処で咲いていたはずだ が、不思議なことにその日まで私は気付かなかった。観察 する眼ではない、前に在ったモノのカタチがみえただけの こと。シロイ花は、まるで擬態するよう陽の光に溶け、日が 落ちるにつれ現れた。

ーーーーーーーーーーーーーーー 机それぞれが、本の見開きのよう、言葉とモノを並べる。 デパートの一部、ショウケースとして考えた。ショウケースの中に「歳時記」。


イロ color アクリル樹脂、蛍光塗料 年 2010

犬の眼で探す what the dog pick out 蝉の抜殻真鍮鋳造、木、葉 2011 犬と暮らしはじめて5年。最近、日課となった散歩は私を楽しませてくれ る。時に車に乗せ、気に入った所で停め、その近辺を歩くが、結局は近所のこ と、あまり変わることもなく似たような道を歩く。遠くに琵琶湖がみえる場 所なら、指差し、抱え、「みて」と促すが、チラっと顔を向けるだけ、気になる モノがあるのだろうか、自分のすぐ側に眼を移す。 そんな彼女がここ何ヶ月か、ほぼ毎日、散歩の途中で葉を1枚探しだす。枇 杷の大きな葉のときもあれば、小さな葉のときもある。1枚だけ口にくわ え、他のどんな葉をみても見向きもせず、大事に家へ持ち帰る。 彼女が何をみて、1枚の葉を選ぶのか解らない。ただ、遠くはない、すぐ横に 私には、そう思えしかたない。 在るモノ、その中に彼女の探すものが在る ----

高校の物理の時間だったと思うが、「物体色」を習う。アカイモノは、ア カイ色以外を吸収し、アカイ色を反射する。まるで禅問答のようだと 思う。アクリルの箱に入れた「色」は発光するようにイロをみせる。

キリ ノ ハナ ヲ ミル プリント、ガラス 2011

sketching –paulonia blossoms

私の出身地、高知には牧野富太郎博士の植物園がある。今でこそ立派な美術館 が建ったが、子どもの頃には美術館などなく、あるのは城の近くにある資料館 のようなものと、街からかなり離れた山の上に建つ植物園ぐらいだった。其処 でみた「絵」が綺麗だと感じたことを今も憶えている。博物館、植物園などでみ る「絵」が好きだ。例えば花弁のつき方、葉のつき方、それは写真で撮ったモノ ではなく、また実際にスケッチしただけのモノでも、決してない。まるで、ある 種の「キュビズム」の絵画のように奥行きはなく、不自然だが、奇妙に表れる。 学者の目が対象を追う−そんな光景が見えるようである。彼らは決して表現 しているのではない。対象と真っ直ぐに向き合い、率直にそれを描き取ろうと する。そんなふうに私には映る。科学を美術と同一線上に考えることはできな い。しかし、対象をみつめることに違いはないし、また、そうありたいと願う。 それは「表現」などという言葉で言い尽くされない、我々の「欲求」とでも言え るものがあるように思えるのは、私だけだろうか。

中学生の頃だったと思うが、桜の花を観察して描くという宿題がでたことを 憶えている。美術ではない、理科の時間だ。ヨク観察して描く。理科の時間を思 いだし、キリのハナを描いた。

ゆれる水 flickering 凸レンズ、牛乳瓶、糸 年 2011

庭に瓶を並べ、メダカを育てる。はじめは水草をみたいと思い、ボウフラ防除の為、飼いだ 動くものはツヨイ。結局瓶はメダカのモノとなり、瓶の数は増し、水草は したのだが -----彼らの日陰となった。水面に顔を近づけ、中を覗く。屈折された光に、眼の前が少し揺れた。


二〇一一年三月二十六日 朝 かなりの雪。 明倫茶会 微 – 分する眼 煎茶小川流 野口久楽先生の指導 社中の方々の協力 文人手前 四席

誰もいない放課後の教室、夏休みの校内。奇妙に湿気を含んだ、少し 怖いような学校、よく憶えている。 ひとりで「茶会」ができればいい。そんな想いより、はじめた。 「茶会」である。茶を介し何かに会うのであろう。「人」に会うのでは なく、「モノ」に会う「会」にしたいと考えた。 各席の横には、明倫小学校の資料室よりでてきたもの、三嶽の作品を それぞれ並べ。モノに会う「会」とする。また、小学校での「茶会」であ る。それぞれの席には文具に関するものを並べた。





トリカゴ ヲ ウツス

常懐荘に置かれていた鳥籠の「カゲ」を作る。

ベランダの大きな窓は旧いガラス故、奇妙に屈折された光は床の上に波紋をつくった。ガラス窓 を開き表にでれば、朽ちかけた大きな鳥籠。理由などなく、ただ、この鳥籠を「ウツス」ときめた。 「ウツス」 -----音だけが先走り、文字が追いかける。映す、写す、移す ----辞書をみれば、「映す」 「写す」は「移す」と同語源だとあり、納得する。鳥籠の「影」をつくることにした。 長い話しのあと、友人 氏 昨夜の電話。ウツスは「空」ス ---------N が言う。 今の私には、そう思えしかたない。 エイゾウは「空」にスル --------

2011/05 トリカゴ ヲ ウツス 「久保一色 KYOHOISSHIKI」 常懐荘 / 愛知県小牧市久保一色似ある昭和8年に建てられた建 物 木など





solo exhibition

Gallery Yamaguchi kunst-bau Osaka, Japan 2010













solo exhibition

Gallery Yamaguchi kunst-bau Osaka, Japan 2009

















日頃から交流のある4人が、互いに何かを触発されるようなことをしたい、ということからこの企画は始まりました。すなわち、一定の ルールのもとに作品制作の課題を出す、それに応えるということをリレー形式で行い、その成果を展覧会というかたちに構成すること。 まず課題をつくることそのものが自分と他者への問いかけになります。また各課題への対応は、将棋で相手を読みながら次の手を考え るように、微妙に呼応しながら進行していきます。他のメンバーが課題にどのように反応して制作に結びつけたかはほとんど知らされ ませんので、全体像がどのようなものになるかはフタを開けてみないとわからず、最後の段階で出そろった作品=成果群を検討しなが ら、第三者のディレクター的視線で会場を構成して行くこともひとつの醍醐味と考えています。 ルール: 1) 課題の出題はリレー形式に行う。最初の出題者は自分を含めて全員に向けて課題を出し、それを受けて次の出題者が二番目の 課題を提出、三番、四番と回っていく。 2) 課題は官製ハガキを用いて文章で伝える。ある「課題ハガキ」が届いたら、質問や感想その他を自由に書き込み、切手を貼って他 のメンバーに郵送する。これを順々に行っていく。ハガキは展覧会が近づくまで自由に回していく。 3) 課題は各自2点、計8課題が巡回する。



















右 / ガラス、水、木 (トリチェリの実験) 左 / 温度計、木











ISA MITAKE

text


beyond sight (summary)

Mieko Yoshihara

In her childhood, Isa Mitake used to wait trains at the railroad crossing. On the side of the rail line, she remembers well that there were some flowers of Canna. When the train passes, the

sound of the train has changed to the bass from treble. She absorbed in the strange phenomenon.

When she has grown up and learned the Doppler effect, she was resolved the question.

And she felt great interest in the scientific basis. She became

absorbed in learning of analysis and physics in her school days. The law of entropy, the irreversible reaction, objects color, differentiation were the friends of her.

They were intellectual games in nature for her. But she did not want to go for learning science, and decided to study art.

Because she would like to describe the science, the theory in her art works.

In her hometown in Kochi Prefecture, there was a botanical garden of the great botanist Tomitaro Makino. To have seen

his illustrations also directed the way for her to the art. They

are Botanical illustration by the observations thorough. They’re somewhat contrived but full of desire to try to know the nature deeply. She can be said she learned the attitude to nature a lot there.

We can appreciate the results in the first section in this exhibition.

Through the dialogue with three scientists, she could show her objects more intellectual and clear.

And we could recognize her respect for the scientific eyes, and

importance, fun, severity of them. Of course, she has tried to


get such eyes of science.

The display cases of the museum were arranged orderly, and in cases, we could find out our curiosity, desire, joy for knowledge.

In the second section, we see the combination of objects and images.

In the group show held in 2007, Mitake showed her video installation became an important way of expression for her.

As the artist’s studio is located west of Lake Biwa, the foot of

Mt. Hiei, she could find out many natural stories and materials for her works from the neighborhood.

She recorded actual views at various places and time and after coming back to her studio she edited the records. She layered the real view over and over and created her dream scene.

When we stand in front of her video installation work, we feel to lose a ordinary sense of time and space. We see only the real elements but they seemed not to belong the real world of our

side. Or some people felt that the sight in her video installation appeared with interlocking time.

In the last section, we only see the images, pictures of light, expressions without specific mass.

So we realized to see again, inside of us and tried to know the sight beyond sight..

The world beyond the world of human Knowledge may touch the real world of us. (curator)


Differentiated eyes/ Isa MITAKE 2010 Gallery Yamaguchi PRESS RELEASE PRESS RELEASE Differentiated eyes/ Isa MITAKE March 6 - 27 2010

The artist Isa Mitake makes work in the main key word of "Distance", "Position", "Time", "Existence", "Dream", "Reality",

"Memory". The work appears the gap between the human’s

recognition and the thing. In this exhibition she install nine

three dimensional works, two DVD works and a large pinting. As for DVD work it layered several images she takes on different locations and it makes you feel slightly sense of incompatibil-

ity. Mitaka is enchanted beautifully of nature, and likes to read

book on mathematics and physics and it is an attempt to try to interpret the world by the art.

Some day I heard that the atom row of the glass is irregular and the glass is melting with extraordinary long time. It reflected in my mind the situation that ice is melting in the glass and the glass itself slightly swinging. I like the strange sense that the

time flows gradually and it seems to see the changing vanity ahead in a moment. Isa MITAKE


三嶽伊紗のしごと―みているもののむこう カタログ 2014

目に見えるものはすべて、見えないものに、 聞こえるものはすべて、聞こえないものに、 知覚されるものはすべて、知覚されないものに触れている。 もしかしたら、考えられるものは、考えられないものに 触れているのかもしれない。 ノヴァーリス(1772-1801)

Alles sichtbare haften am Unsichtbarendas Hörbare am Unhörbarendas Fühlbare am Unfühlbarendas-. Viellecht das Denkbare am Undenkbaren-. Novalis(1772-1801)


科学の眼、美術の眼 三嶽伊紗には、ふとした出会いの瞬間に生まれた不思議の種が大切に育てら れたような作品があります。 初めてみたものへの驚きや戸惑いは、対象を見つめることを通じて、作品の 中に豊かな実を結んでいます。 それは、透徹下目で対象を見つめ続けることで自然の摂理を明らかにしてき た先人たちの来し方を認識することにも繋がるでしょう。 ここでは、自然科学の研究者の協力を得て、世界を見つめる科学者の眼と アーティストの眼を通じて生み出されたものを対にして展示しています。 対象へのアプローチの方法はさまざまですが、それらを追う眼はいずれも真 摯で、対象への畏敬と愛情に満ちています。 ものをみるという行為の厳しさや重さ、楽しさや喜びが伝わってくるようで す。 Scientific eyes, artistic eyes Mitake’s objects are full of scientific quest. She walks and looks around familiar nature with deeply modest, clever eyes. Then she tries to show the providence and the law of nature in her art. In this exhibition, she tried to interact with three scientists to show our various perspectives.


三獄伊紗

私の出身地、高知には牧野富太郎博士の植物園がある。 今でこそ立派な美術館が建ったが、子どもの頃には美術館などなく、あるの は城の近くにある資料館のようなものと、街からかなり離れた山の上に建つ 植物園ぐらいだった。 其処でみた「絵」が綺麗だと感じたことを今も憶えている。 博物館、植物園などでみる「絵」が好きだ。 例えば花弁のつき方、葉のつき方、それは写真で撮ったモノではなく、また実 際にスケッチしただけのモノでも、決してない。 まるで、ある種の「キュビズム」の絵画のように奥行きはなく、不自然だが、奇 妙に表れる。 学者の目が対象を追う−そんな光景が見えるようである。 彼らは決して表現しているのではない。 対象と真っ直ぐに向き合い、率直にそれを描き取ろうとする。 そんなふうに私には映る。科学を美術と同一線上に考えることはできない。 しかし、対象をみつめることに違いはないし、また、そうありたいと願う。 それは「表現」などという言葉で言い尽くされない、我々の「欲求」とでも言え るものがあるように思えるのは、私だけだろうか


景と気配 唐の詩人、李白の最も知られた五言絶句の一つで、 「 牀前看月光」に始まる『静 夜思』は、ふと差し込む月の光に誘われて、心は遠い故郷を思う、とうたい、静 かでありながら、万人の心の奥深くに迫る力が備わっています。 三嶽伊紗の新作〈月の机〉では、思わぬところに現れた月影が、観る人の想い を受け止めて、卓上に映し出しているように思われます。 〈カーテンの向こう〉では、カーテン越しに向こう側の気配を、 〈 雪〉では、窓か ら洩れる光から、向こう側にある暮らしを想像させられます。 三好達治の叙情詩『雪』の「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を 眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」が心に浮かぶかもしれません。 近年の映像作品のロマンティックな気風が感じられる作品群です。 Sight and sign When we see things, we use not only our physical eyes but our sense of mind and the whole body. And we conscious the experiences and knowledges in our own. The works create the complex, poetic space, and make visitors to feel facing the stage of contemporary theater. Can expect what will happen in you.


創られた景 滋賀大津市坂本は比叡山の麓の旧い門前町で、三嶽がアトリエを構える山裾 の高台からは、琵琶湖を眺めることができます。海を眺めるのと異なるのは、 むこう岸がみえることです。そのため、作家は彼岸の遠景に強く心を惹かれ るのかもしれません。 湖をめぐる景は、季節、天候、時間により、さまざまな表情をみせ、近景から遠 景へのうつろいの中にも、深い味わいがあります。 この作家を駆り立てて止まないもう一つの景は、降る雪です。雪が降ると、作 家は居ても立ってもいられずに、カメラを携えて出かけます。 雪もまた、空のむこうから、こちらの世界に届けられる便りです。それゆえ、 作家はその便りに突き動かされるように飛び出してゆくのでしょう。 映像作品はすべて、数多の現実の景や時間を重ね合わせた、三嶽の夢の景で す。 Layer of realities Objects disappear and we only see the images in the space. The layered images suggest the long lapse of time and invite visitors into the dream or Hades in the other side of realities. The space is so romantic and someone said those works are just like moving Japanese ink paintings.


吉原美恵子

三嶽伊紗のしごと 近年、魅力を増す三嶽伊紗の充実した作品群を展覧する運びとなった。冬 の森のからりとした明るさを語り、地味ながらつよく美しく咲く野草を愛 で、静まりかえった比叡の山奥から聞こえてくる鹿の啼き声に語りかけるこ の作家の美術家としての大切なしごとの一つは、見ているものの向こうにあ る世界を示唆することであろう。それは、自然に向かう極めて素朴な、探究心 に基づきながら、現代のロマンティシズムの気風も具えてもいる。また、その 作品世界は、数多の数学者や物理学者の偉業にもしなやかに通じてゆく。こ の度の展覧会では、これまでにも手がけたことがある、博物資料や科学研究 者との対話というしごとも並び、 「 科学を美術で解き明かしたい」という三嶽 の積年の思いが、現在どこに到達しているのかをご覧いただけるはずだ。準 備期間を通じて、三嶽の職人気質と求道者のようにストイックでありながら 熱い美術への思いに打たれながらここまできたような気がしてならない。 不思議の種 三嶽伊紗は、1956年高知に生まれた。高校時代までを過ごした高知では、故 郷の先人である牧野富太郎(1862-1957)が遺した植物の標本や植物画に目を 奪われ、徳島県南から高知にかけての海沿いの地層にみられる漣痕(れんこ ん)に積もる時間を見た。そんな記憶が、現在の創作活動の底に確かに息づい ている。 高知市相模原町に住んでいた頃、近くを通る土讃線の踏切近くで、汽車が通 過するのを待っている子どもであった。線路脇には、強い陽射しの下で色褪 せまいと逞しく咲く一群のカンナ。じりじりと照りつける太陽をものともせ ず、待ちわびていたのは、汽車が通過するときの音の聞こえだった。高く唸り ながら近づいてきた汽車は、目の前を通過して過ぎゆくと、低く唸る。汽車が 通過し、遮断機がはね上がっても、しばらくはじっと耳を澄ましていたとい


う。長じて「ドップラー効果」を、学んだときに、その不思議が腑に落ちた。そ れから、科学的根拠にますます興味を抱くようになったのだが、三嶽の探す 探究心の原点は、あの幼い日の線路の脇に今も確かにある。 高知で過ごした高校時代には、物理や数学の時間が愉しくてたまらなかっ たと語る。 「 モノの理(ことわり)」の学びの入り口で、良き師に巡り会ったに違 いない。未だに捨てられない数学の教科書を読み返し、関数や漸近線の魅力 を伝えてくれた教師の授業は今もよく覚えている。 しかし、三嶽は理数研究の道を目指すのではなく、美術家としての道を歩 むことを選び、1980年京都工芸繊維大学意匠工芸学科を経て、京都市立芸術 大学大学院美術研究科に駒を進めた。科学的なアプローチではなく、美術表 現を以て、たとえば解析学や物理学の面白さを伝えることが三嶽の目指すと ころとなり、開催された個展、個々の作品のタイトルにも自然科学の言葉が 好んで使われることとなる。 「測距離—遠景の座標」(2002年)、 「 蛹—冬の座」(2003年)、 「 真昼の位相」(2005 年)、 「 微分する眼」(2010年)など、自然とそれに対峙する人の感覚や科学的根 拠などを主題に、制作を続けてきている。 三嶽の作品は「難しい」と言われることもしばしばだが、 たとえば、 取材を終 えて、暮れなずむ琵琶湖の湖面に浮かぶ水鳥が、 遠近感を失って、 息を呑むほど に美しいシルエットで立ち現れてきたときの感動も、 昆虫 「蛹」 は 「真空の時間」 を生きているのだと聞いた話も、 思い立ってラップランドに出向き、 昼と夜の区 別が付かない世界を体験してきたことも、 漸近線に向かう曲線の微視的であり ながら躍動的な数量の変化や望遠鏡、 顕微鏡をのぞき込んだときに現れるもの の姿の変容への驚きも、すべて作品の中に込められている。 次に、私が三嶽の展覧会開催を強く意識するようになった作品について述べ てみたい。


雪降る景 散り急ぐ桜花を見送り、日射しと新緑がまぶしさを増す2012年の晩春、大 阪で3人の作家の映像によるグループ展を観た。私の目を惹いたのは、三嶽伊 紗の作品だった。 画面のほぼ半分を占めるのは湖面。その向こうに見えるのは樹々や森、山 で、細かな雪が舞っている。湖の畔で厳かな儀式に立ち会い、戸外の冷気に触 れているという錯覚をするほど、初夏の訪れ間近な展示空間をひんやりとし た空気で満たしていた。 正面の大きな画面の手前には、同じ映像が、壁に取り付けられた小さなモ ニター上でも観られた。そこにふと、作家の気配を感じた。作家の眼が捉まえ た風景を追体験していると了解し、その存在を親しく感じたからだろう。 しかし、そうして佇んでいた次の瞬間、水面にうっすらと水鳥の影が現れ、 思わず声が出そうだった。景色が作家の手により精巧に創り出され、制御さ れているという仕掛けを理解したからだ。 作品のタイトルは〈ユキ〉(2012年)。本展にも出品されている。 雪が降りだすと、作家はカメラと三脚を持って家を出る。車で少し遠くに 出かけることもあれば、住まい近くに降る時には、夜中の散歩に出かけると いう。降る雪が、この作家をじっとさせてはくれない。以下のように、ポート フォリオに記されていた。 「ここと思えば、三脚を立てカメラを三分ほど開く、それを何度も繰り返 す。六二分のテープが終わる頃、身体は芯から冷え、帰りたくなる。(略)家に帰 り、マックの上に『雪の風景』を重ねる。幾重にも重ねた『風景』は、まるで眠り の中のようだ。時間軸の中みているのでなく、ただ降る『雪』があるだけだ。」


今、ここにいること その風景は単純なものではなかった。作家の手によって幾重にも重ね合わ され、創り出された景色の重層は、風景に堆積された時間について改めて意 識させた。樹木は成長し、自然の雨や風、生き物たちのしわざにもより、風景 はゆっくりと姿を変えてきた。連綿とした時の流れの中で、樹木も湖水も水 鳥もすべて自らが存在する時空を与えられている。かすかな漣は立っている ものの、平らかで静かな湖面には、本来水鳥の姿はあり得ない。そこに突然、 水鳥が波を立てて画面の奥へと遠ざかってゆく。頭に浮かんできたのは、詩 人のまど・みちお(1909-)の大らかな詩「僕が ここに」であった。 「ぼくが ここに いるとき/ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここ に いることは できない」に始まり、 「 もしも ゾウが ここに いるならば/その ゾウだけ」、 「 マメが いるならば/その一つぶの マメだけ」しかここにいるこ とはできないと謳う。 「ああ このちきゅうの うえでは/こんなに だいじに/まもられているのだ/ どんなものが どんなところに/いるときにも」では、現前するものの物理的な 存在を認め、 「 その『いること』こそが/なににも まして/すばらしいこと とし て」礼賛される。 誰かが存在する時空には、他の何人も存在することはできない。時を違え、 空間を違えなければならない。映像の重層は、そんな当たり前の日常を事も なげに飛び越えていた。 はらはらと天空から降り注ぐ雪片は、遥か彼方から私たちの許に忘れるこ となく届けられる便り。うつろうものと変わらずにあるものを、この作品は 教えてくれる。 展示会場を出ると日暮れどきで、街路樹の下を歩けば、初夏の匂いが足下 から立ち上ってきた。ふと、遠い昔にこの樹の下に佇んだ人の姿が在ったこ とを想った。


見えないものを捉まえる こんな話がある。きれいな海の色をコレクションしたいと思った子どもが いた。朝まだきの薄明に輝く海、快晴の蒼空を映し出す海、沈む夕日に赤く染 められた海、曇天の日の灰色の海や嵐の日の怖ろしげな海、月明かりに満天 の星が輝く夜の海、それぞれに美しい海の色を自分のものにしたいと思い、 それぞれの海に出向き、きれいな透明の瓶に閉じこめてみる。もちろんお判 りだろうと思うが、目の前に立ち現れた、あれらの美しい海の色は決して自 分の手では捉まえることができない。その子は、どうしたら海の色を自分の ものにできるのだろうと思案を続ける。そんなある日、母親が桜の枝を拾っ てきて、白い布を染め出しているのを見る。大きな鍋で桜の枝をぐつぐつ煮 立てた染液からは想像もできない、美しい桜色が取り出される。見えている ものが捉まえられないのに、見えないものを捉まえることができることの不 思議は、身近なところにたくさん見いだせる。 そのような不思議を、見ているものにぴったりとくっつくように寄り添っ ている見えないものを、表現して人に示すことはできないだろうかと取り組 んでいるのが三嶽伊紗なのかもしれない。先の子どもは、美しい海の色を自 分の目でよく見て、自分の心の中にコレクションすればいいのだということ を学ぶ。 この話に関連して、本展の入り口に展覧されている〈鏡/微分する眼〉(2010 年)という作品が興味深い。鏡面アクリルの上に透明アクリルを貼って厚み を持たせ、その上にピンクの蛍光シートを貼り付ける。色づいて透けた鏡の 上に指を置いても、その指は鏡の向こうに見える指には決して触れることは ない。その鏡の裏側には、薄い緑色を塗り、小さな穴を貫通させ、そこに半透 明のシリコンを充填させている。裏側の色は見えないはずなのに、光が壁を ほんのり薄緑に染める。シリコンは表と裏を、つまり背中合わせになってい るこちらの世界とあちらの世界を繋ぐものだろうか。鏡の表面を覆う蛍光色


のピンクは、シートであるという物質性を曖昧にされて、色というつかみど ころのないものとして表面にとけ込まされる。文字通り手の届かない向こ う側、実際には目に見えないはずの裏側、物質性を喪失してしまったような 「色」など、さまざまな要素が認められる。そして、この作品の素材や成り立ち がそうであるように、ぴったりとくっつき合って、一体になったような不思 議な作品である。 この後、三嶽はこの作品から色の表現を発展させて、 〈 イロ〉(2010年)を発 表している。半透明のアクリル樹脂の立方体の内側底面に蛍光色のピンクを 丁寧に塗り重ねる。立方体の中は、底からわき上がってくるような鮮やかな 「色」で満たされる。虫籠に似て、 「 色」を捉まえて、封じ込めているように見え る。 「 物体色」を理路整然と語っても理解しにくい現象を、上質なユーモアさ え感じさせながら、三嶽は軽やかに作品として提示する。 映像表現へ踏みだす 1983年の個展を皮切りに、三嶽は多数のグループ展にも積極的に参加し、 現在に至っている。大津市に仕事場を構え、ここを拠点に緻密な仕事を着実 に積み上げてきているわけだが、幸運なことに、この作家の住まう湖西地方 の豊かな自然は、この作家の尽きぬ好奇心を受け容れてきた。作家はあちこ ちを逍遙し、拾い集めた枝や小石を鋳造してみたり、草花や昆虫の抜け殻を 蝋や石膏に活けたりしながら、緻密で理性的で美しい作品を数多く生みだし てきた。 そのような中で、2007年に開催されたグループ展「八つの課題」(ギャラ リーヤマグチクンストバウ)では、作家仲間と課題を出し合い、自らの課題と なった映像表現を手がけることになった。本人曰く「一度手がけてしまえば、 もう怖いものなし」だったのは確かなようだ。以後、身近な自然の景に着目、 取材し、映像作品を発表している。


にじむ情感 雪が舞う日には、思い立ったときにカメラをかついで取材に出かける。と いうより、三嶽はじっとしていられなくなる。湖西のアトリエから琵琶湖は 近い。いつもの散歩のコースの一つである。しかし、雪が降り始めると、三嶽 には出かけたくなる場所がいくつかある。ある時は、余呉湖や奥琵琶湖を、ま たある時には高島の山やマキノの在原の里を目指す。自然の中に分け入り、 三脚を立て、カメラを構え、心が震えた景色を記録するところから雪の映像 作品の制作は始まる。数分の映像を場所を変えながら撮る。 光が弱くなり、撮影を終える頃、三嶽はときどき息を呑むほどの素晴らし い光景に出くわすことがあり、しばし佇んで眺め入る自然の中に浸りきり、 溶け込んでゆく作家の姿を想像し、人知の及ばない、神秘的で、遠くの悠かな 存在に触れた瞬間ではなかったか、と思うことがある。 冷えきった身体で撮り溜めた景の記録を携えてアトリエに戻ると、作家は その記録をコンピューターの上で重ね合わせる。映像は、時間は、幾重にも作 家の手により重ねられてゆく。きわめてクールに映像を、時間の堆積した景 を創り出すのだけれど、その作品からは、なんとも叙情的な雰囲気が発せら れる。先に述べた〈ユキ〉も然り。 個展「微分する眼」で発表された〈雪1〉(2010年)は、とりわけ美しい作品だ。 (本展では、 〈 雪2010-01/微分する眼〉)降りしきる雪に窓からの光が重なって いる。降りしきる雪に窓からこぼれる灯りであるという。ふと、一篇の詩が心 の中でこの作品に寄り添う。それは、 「 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつ む。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。 よく知られた三好達治(1900-64)の処女詩集『測量船』に編まれた名詩「雪」 である。人はこんなにも静かに、雪を受け容れ、穏やかに生きてきたのだ。雪 深い山里に住まう人々の日常を、三好達治は平明な言葉でありながら、情感 豊かに美しく描きだしている。


三嶽のこの雪の日の映像作品も然り。実際には複雑に要素が詰め込まれな がらも、簡素で、引き締まった美しさと情感をにじませている。三好は、実際 には見ていない、太郎や次郎が深い眠りの中にある姿を描き出し、三嶽は、窓 からの灯りに、そこに住まう人のいのちの温かさを想像させつつ、澄みきっ た作品世界を生み出した。かつて、音楽評論家の吉田秀和(1913-2012)が「芸 術は手仕事」と語るのを聴いたことがあるが、改めて三嶽の知性と「手仕事」 のすばらしさを想う。 みているもののむこう 本展は、三つの大きな空間で構成されている。最初の「科学の眼、美術の眼」 では、展示ケースが整然と並び、さながら知の分類を目の当たりにしている ような印象を受ける。 始まりの桐の花のドローイング。中学校の頃、美術の時間ではなく、理科の 時間に桜の花を写生した。そのことをずっと憶えている。果たして、美術と理 科の授業における写生に向かう、構えの違いはどこにあるのだろうか。私達 に投げかけられた問いでもあろう。 進んでゆくと、昆虫分類学、昆虫生態学、古生態学の研究者の協力を得て、 科学研究に必要な「観る眼」を探りながら、美術の眼と対話するような展示が みられる。分類学者の「違いを見極める」ために大量の情報を分析しつつ磨き 上げられた、精緻な眼、生態学者の、現前するいのちと真摯に向き合う、慈愛 や共感を湛える眼、正確な情報分析と大胆で個性的な想像力を求められる古 の生態を探る闊達な眼などがテキストや資料とともに提示され、三嶽はそれ ぞれに呼応するように展示ケースの中にオブジェ作品を展覧している。科学 の研究分野に依って、少しずつそれぞれの眼の「めあて」の差異にきづくとと もに、 「 どの眼も自分たちには必要な眼だ」と語る。それは、美術家にとって だけではなく、我々すべてに備わっているべき眼だということでもあるだろ


う。 「景と気配」には、三組の「物体」と映像の組み合わせが設けられている。 太陽と月の机、カーテンと降りしきる雪の映像、湖水を近景に据えた映像と 小さなモニターという組み合わせだ。それぞれ、反射や透過、拡大など、スト レートに観ることと比べると、 「 応用」のような趣である。カーテンの向こう にかすかに見えるモニターの光は、詳細な情報を与えてはくれず、私たちが 人家の窓越しに想う、向こう側の世界をほのめかすだけである。私たちは戸 外の人となって、冷たい気の中、明かりを恋しがる。その隣には、降りしきる 雪の中、人家の明かりが見え、ますます家の中の暖を想う。振り返って、展覧 会場に出現した太陽を観ると、普段とは違って私たちの視線がその上にとど まることを拒まない。この太陽を、正面にしっかり据えて観るだけでなく、 カーテンの手前にある展示ケースのガラスに映り込む太陽を観ていると、先 ほどまで、外の人としてカーテンの向こうを観ていたはずの私たちが、いつ のまにか、カーテンの内側の人になっているという複雑な空間のつくりにも 気づかされる。そのとき、もう一つ展示室に出現した太陽の光を受けて、月影 をテーブルに映じた〈月の机〉は、私たちを惹きつけ、私たちを室内の人にす る。古の天文学研究を連想させる、この美しい作品は、期せずして、最初の部 屋の物理学、化学、生物学、地学などであつかわれなかった「自然科学」の残り の分野である学問の薫りを、漂わせ、もうひと筋の意味の流れをつくりだし、 空間を豊かで味わい深いものにする。 「創られた景」には、もう「物体」の影や形はどこにも見あたらない。大きな 空間にはただ、映像が投影されているだけで、光だけの表現世界である。物体 から映像へ、具体物から抽象的な表現へと、本展の大きな流れが理解される とともに、 「 観ること」の深まりを身を以て感じていただけるだろう。雪が舞 う映像も湖が大きく映し出された映像も、最終的にはすべて、現実の光景が 重層し、この世の景でない景色が示されている。三嶽は、 「 映像は夢の世界」と


いうが、観ている現実の向こう側は、ときに理想の世界であり、夢の世界であ り、黄泉の世界でもある。 見えている世界の向こうに続く、見えないものの世界を、これまで三嶽の 眼は見ようとしてきた。それを探る視線は、たとえば空の青さの向こうにあ る宇宙の漆黒の闇にたどり着き、ときどき見えないものにそっと触れている ようでもある。沈黙の闇を切り裂いて、冴えわたる時間を旅する夜間飛行の ように、三嶽の表現世界はいよいよ澄み渡り、透き通るように美しく表れて いる。 (徳島県立近代美術館上席学芸員)


三獄伊紗のしごと みているもののむこう 徳島県立近代美術館ニュース 89

上席学芸員 吉原美恵子

特別展 三嶽伊紗のしごと―みているもののむこう 2014年4月26日 〔土〕 〜6月15日 〔日〕

目に見えるものはすべて、 見えないものに、 聞こえるものはすべて、 聞こえないも のに、 知覚されないものに触れている。 もしかしたら、 考えられるものは。 考えられ ないのに、 触れているのかもしれない。 —ノヴァーリス(1772-1801) 不思議の種を育てる 三嶽伊紗は、 1956年高知市に生まれました。 幼い頃、 救急車のサイレンの音の聞こ えが、 近づいたり遠ざかったりするたびに、 高くなったり低くなったりすることが 不思議で、 じっと耳を澄ます子どもでした。 長じて 「ドップラー効果」 を学んだとき に腑に落ちたといいますが、 それまでは、 サイレンの音が聞こえてくると真剣に耳 を傾けていたといいます。 高校時代には、 物理や数学の時間が愉しくてたまらず、 関数や漸近線を学んだ日の 授業をはっきりと憶えているといいます。 その後、 三嶽は美術家としての道を歩む ことに決め、 1980年京都工芸繊維大学大学院美術研究科に進みました。 科学的な 探求ではなく、 自分にしかできない美術の表現で、 その面白さを示したいと考えた からでした。 ときに、 「難しい」 と感じられることもある三嶽の表現世界ですが、 私 たちが経験していることの多くに、 科学の裏付けが存在していることを私たちは 知っています。 重力のある世界で、 普段は自分の身体に作用している地球の引力の ことなど気にも留めないで日々を暮らしていますが、 三嶽はそんな私たちの日常 に、 しなやかに切り込んでくるようです。 見えないものをつかまえて ある子どもが、 美しい海の色をコレクションしたいと思いました。 その子は、 朝焼


けに染まる海も、 太陽に照らし出された明るく青い海も、 月や星をきらきらと映 し出す海も、 嵐の夜の暗く濁った海も、 大好きだったからです。 そこで、 それぞれの 海に出かけて、 目の前の海から透明な瓶に水をひとすくいしました。 ところが、 瓶 の中の水は自分が見ていた色とはまったく違う色をしていました。 茜色でも金色 でも灰色でもありません。 あんなにはっきりとみえていたのに、 ...と子どもは不思 議の種を抱えます。 数日後、 母親が大きな鍋でぐつぐつ桜の枝を煮ているのを見か け、 何をしているのか尋ねます。 母親は、 桜の色をつかまえているのですよと応じ、 茶色く濁った鍋から美しい桜色に染まった布を取り出して子どもに見せたので す。 子どもの不思議の種はまた一つ、 増えました。 自分は目に見えている色をつか まえることができないのに、 母親は目に見えない桜の色をつかまえることができ た。 色はほんとうに不思議なものなんだなあ、 と。 翻って、 三嶽の 〈イロ〉 という作品を観てみましょう。 サンドペーパーで磨かれた半 透明のアクリルの立方体は、 内側の底面に鮮やかな色が丁寧に塗られています。 立 方体は、 底からわき上がるようなその 「色」 で満たされ、 まるで色がその箱に閉じこ められたかのようにも見えるのです。 映像表現へ踏み出だす 1983年の個展を皮切りに、 三嶽は多数のグループ展にも積極的に参加し、 現在に 至っています。 大津市に仕事場を構え、 ここを拠点に緻密な仕事を着実に積み上げ てきました。 その制作は、 身の回りの事物や自然の摂理に興味関心をかきたてられるところか ら始まるのですが、 幸運なことに、 この作家の住まう湖西地方や近県の豊かな自然 は、 この作家の尽きぬ好奇心を受け入れ、 美しい作品を生み出す土壌となりまし た。 そのような中、 2007年に三嶽は初めての映像表現を手がけることになりまし た。 そのような中、 2007年に三嶽は初めての映像表現を手がけることになりまし た。 この職人気質の作家にとって、 初めての映像作品の発表は大きな挑戦でした。


とはいえ本人曰く、 「一度手がけてしまえば、 もう怖いものなし」 だったようで、 以 後、 身近な自然の景に着目、 取材し、 叙情的、 ロマンチックな映像作品を発表してき ました。 雪が舞うと・ ・ ・ 気が向けば、 カメラを携えて取材に出かけますが、 雪が舞う日には、 三嶽はじっと していられなくなります。 出かけたくなる場所がいくつかあるからで、 自然の中に 分け入り、 三脚を立て、 カメラを構え、 心が震えた景色を記録するところから雪の 映像作品の制作は始まります。 数分の映像を場所を変えながら撮影します。 時々、 撮影を終えた後にも息を呑むほどの素晴らしい光景に出くわすことがあります。 そんなとき、 三嶽はただひたすら、 目の前で起こっている 「こと」 を見つめます。 そ して、 冷えきった身体で、 撮り溜めた景の記録を携えてアトリエに戻ると、 作家は その記録をコンピュータの上で重ね合わせてゆくのです。 現実の映像から、 極めて クールな方法で時間の堆積した景を創り出すのですが、 創り上げた作品からは、 え もいわれぬ叙情的な雰囲気や幻想的な気配が発せられます。 作家の手によって精巧に創り上げられた景の前で、 私たちは重層し、 重奏している 時間や空間を味わうことになり、 それはまた、 いつも目の前に現れている日常の光 景が、 そのように見えるまでに長い時間を要したことにも思いを至らせます。 それ は、 見ているものの向こうにある非現実を示してくれているようにも思われます。 見ているものの向こうに 見えている世界の向こうにある見えないものの世界を、 三嶽の眼はいつも見よう としてきたように思います。 それを探る視線は、 空の青さの向こうにある、 たとえ ば、 宇宙の漆黒の闇にたそり着き、 見えないものに触れているのかもしれません。


はる 谷川俊太郎 はなをこえて

しろいくもが

くもをこえて

ふかいそらが はなをこえ

くもをこえ

そらをこえ

わたしはいつまでものぼって

ゆける

はるのひととき

わたしはかみさまと

しずかなはなしをした 『二十億光年の孤独』 ( より) 目に見えない、 聞こえない、 知覚されない、 そしてもしかしたら考えられないけれ ど静かに語り合える神秘的な存在に触れたときのことを、 たとえば谷川俊太郎は 「かみさま」 と静香な話をしたと表現しています。 美学にも、 解析学にも、 宗教にも、 おそらく政治や経済、 哲学などにも、 すべての人知の行き着くところがあるとすれ ば、 見ているものの向こうに接している、 見えないものの世界であるのかもしれま せん。 この見えないものの世界への三嶽のアプローチは、 たとえば空と宇宙の間、 夜と朝の間、 星と私の間の、 厳しく透明な時空に分け入り、 潔く、 凛々しく、 続いて ゆきます。 本展は、 具体的なモノから映像表現へ、 「見ること」 を意識した流れで構 成されます。


三獄伊紗のしごと みているもののむこう 徳島新聞 4/21

平田潤

本質探る美術家の視線 三嶽さんは1956年、 高知市生まれ。 82年京都市立芸術大学大学院美術研究科を 修了した。 滋賀県大津市にアトリエを構え、 個展やグループ展などを積極的に展開 している。 特別展では初出品の作品を含め、 オブジェやスケッチ、 映像など約30点 を集めた。 展示では三つのブロックに分けて紹介する。 最初はスケッチやオブジェなどを 並べ、 美術家ならではの視点について考察する。 幼少期は高地出身の植物学者牧野 富太郎を顕彰する植物園を訪れるのが好きで、 高校では数学や物理などの理系科 目を得意としていた。 科学者も対象を観察するのは同じなのに、 成果として見せる 作品は大きく異なる。 展示では県内外の博物館学芸員と協力し、 それぞれの表現力 法を対比させながら、 美術家の視点を浮き彫りにしていく。 「イロ」 はアクリル樹脂と蛍光塗料を使ったオブジェ。 半透明の立方体の底面に鮮 やかな色が塗られ、 立方体の内部は底面から立ち上る色で満たされている。 あたか も空や海を目にしたときに映る色を捕まえ、 作品として顕在化させたように感じ られる。 大津市を拠点に活動し、 2007年から琵琶湖周辺などの自然を撮りためた映像表 現を発表している。 2番目のブロックはその映像と、 ものを対比して視覚の多面性 に迫る。 「カーテンの向こう」 は展示室の壁際に白いカーテンを隔てて見える映像 に焦点を当てる。 うっすらと透けて見える映像とカーテンを外した映像を並べ、 隔 てるものの有無で得られる感覚の違いが楽しい。 ほかにも、 太陽と太陽に照らし出 される月をモチーフにした作品もある。 最後のブロックでは大広間を活用し、 大きな映像作品を並べて空間を演出する。 「シロイ夜」 はアトリエ周辺や遠方まで足を延ばして撮影した冬の様子が映し出さ れる。 雪が降る光景をいくつも撮影し、 それを何重にも重ね合わせて作品にしてお り、 時間の積み重なりが感じられる。 夢で見た光景のような、 思い出の一こまを目 の当たりにしていりような不思議な感覚に魅了される。


三嶽伊紗(高知県出身・滋賀在住)の作品はすべて大ガラスと二つのショー ケースの中に展示されている。そこには、白い机、小さな白い箱、水槽に閉じ 込められた夕顔の花びら、香灰、鋳造されたセミの抜け殻が、静かに配置さ れている。三嶽は透明感と静謐さをもち、無駄なものを省いたインスタレー ションで、心地よい緊張感を作り上げる、コンセプチュアルな作品を発表し ている作家である。ガラスに覆われているため近づく事すら拒否され、ただ 見る事によってのみのみその感覚を味わう事ができる。配置されているもの たちはほとんど色をもたないため、周りに溶け込みあいながら、ガラスの向 こう側とこちら側をゆらゆらと動いている。その感覚は、曇りの日や湿気等 あいまいなものに興味があるという三嶽らしい、“あいまいな心地よさ”とで もいえるだろうか。


三嶽伊紗のしごと みているもののむこう 徳島新聞 5/8 2014

平田潤

見たいものを作りたい 徳島県立近代美術館で開かれている特別展 「三獄伊紗のしごと みているもののむ こう」 (同美術館、 徳島新聞社など主催)。 出品作家の現代美術家三獄伊紗さん(57)= 大津市=に、 作品に込めた思いや制作の手法などについて聞いた。 展示室は照明が落とされ、 展示ケースから放たれた光がほのかに辺りを照らす。 ケース内に置かれたオブジェは小さく、 目をこらして見つめなければならない。 歩 を進めると物体は姿を消し、 体育館ほどの広さがある空間の壁面に巨大な映像作 品が映し出される。 音のない映像を見つめていると、 安らぎと不安が入り交じった ような奇妙な感覚に襲われる。 タイトル通り視覚に焦点を当てた展示で、 来場者はいや応なく 「見る」 行為の不可 思議さに直面する。 「日常生活で見ることは普通の行為。 『見る』 と一言に言うけれ ど、 その対象は目の前のものばかりでなく、 夢や記憶の光景なんかもある。 今回の 展示では、 『見る』 ことを問い直したい」 と三獄さん。 デザインを学び、 1982年に京都市立芸術大学大学院美術研究科を修了した。 時間 や色彩、 形状など身の回りの事柄を突き詰めて考え、 言葉にできない微妙な感覚 を、 金属やアクリル素材などを使って美術作品という形にしてきた。 「例えば彫刻は存在感を主張する。 しかし、 私自身は常に 『在る』 ことに疑問があ り、 『形を消そう』 という意識で作品にしてきた」 『 。形を消した作品を作る』 という 矛盾。 その回答として選んだのが映像作品だ。 2007年、 美術家同士のグループ展で 出品したのを皮切りに、 精力的に取り組むようになった。 モチーフにしているのは主に 「夢の中の映像」 「 。シロイ夜」 (2013年)は、 並木道に 降り積もる雪の光景が映し出される。 見続けていると場面は変わらないのに、 不意 に中央部分が波打ち、 水鳥が水辺で遊んでいるような様子が浮かび上がってくる。 現実を映しているようで、 時間も空間もゆがんだ不思議な情景であることがわか る。 まるで三獄さんの夢の中をのぞいているようだ。


映像作品は、 さまざまな場所で映像を撮りため、 コンピューターで重ね合わせて 作る。 「映像を重ねる」 というと映像が何層にも積まれた印象を持つが、 実際は 「混 ぜ合わせる」 に近い。 「夢や記憶の中の思い出の映像は本当にあった出来事だけで なく、 違う場面のエピソードが混ざりこんで一つの物語になってしまう経験がな いだろうか。 ちょうどその感覚に近いものを作ることができる。 」 三獄さんは高知生まれ。 家族に連れられて札所巡りなどで徳島に何度も足を運ん だ。 「なじみ深い徳島で展覧会が開けることを嬉しく思う。 これからも自分の見た いものを作っていきたい」 とほほ笑んだ。


NON OBJECTIVE ART - EIZO 2012

三獄伊紗

二年前より、 十二月にはいり、 雪が降りだせば、 車を走らせ家をでる。 琵琶湖沿いに北へ向かい、 余呉から日本海まで行くこともあれば、 高島の山の方へ入ることもある。 地図も見ず、 ただ雪を追っていくだけだ。 気が向けば一泊することもあるが、 殆どは陽が沈むと家へ帰る、 そんな少し遠出の散歩。 また、 もちろん一冬に二、 三度、 我家でもカナリの雪が降ることがあり、 その時は、 長靴を履き、 ポットに珈琲を入れ、 近所を歩く。 夜中の散歩である。 ここと思えば、 三脚を立てカメラを三分ほど開く、 それを何度も繰り返す。 六十二 分のテープが終わる頃、 身体は芯から冷え、 帰りたくなる。 今年で五度目の冬の散歩。 私は妙に気に入っている。 家に帰り、 マックのうえで 「雪の風景」 を重ねる。 幾重にも重ねた 「風景」 は、 まるで眠りの中のようだ。 時間軸の中でみているのではなく、 ただ降る 「雪」 があるだけだ。


MITAKE Isa Exhibition Lisn's Garden 2011 ハイ ヲ ミル

インセンスに、

火をつけ、

白い 灰のうえに置く。 小さな枝は、

少しづつ、

黒い 影を落とし 灰と化した。

「方丈記」 に何が書かれているいるかなど、 私の拙い知識で 解るはずもないが、 モノとして在るもの、 みな移ろう。 [インセンス] に火をつける。 時を加速させ、 枝に似た 小さなモノは灰と化し、 余韻だけを香りとして残す。 我々はこの中に何をみているのだろうか。 ゆく川の流れは絶えずして、 しかも、 もとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、 かつ消えかつ結びて、 久しくとどまりたる例なし。 ー方丈記から抜粋 of the flowing river the flood ever changeth, on hte still pool the foam gathering, vanishing, stayeth not -from HOJOKI

三獄伊紗


明倫茶会 2011

三獄伊紗

二〇一一年三月二十六日 朝 かなりの雪。 明倫茶会 – 微分する眼 煎茶小川流 野口久楽先生の指導 社中の方々の協力 文人手前 四席 誰もいない放課後の教室、 夏休みの校内。 奇妙に湿気を含んだ、 少し怖いような学 校、 よく憶えている。 ひとりで 「茶会」 ができればいい。 そんな想いより、 はじめた。 「茶会」 である。 茶を介し何かに会うのであろう。 「人」 に会うのではなく、 「モノ」 に 会う 「会」 にしたいと考えた。 各席の横には、 明倫小学校の資料室よりでてきたもの、 三嶽の作品をそれぞれ並 べ。 モノに会う 「会」 とする。 また、 小学校での 「茶会」 である。 それぞれの席には文具 に関するものを並べた。


トリカゴ ヲ ウツス 2011

三獄伊紗

トリカゴ ヲ ウツス ベランダの大きな窓は旧いガラス故、 奇妙に屈折された光は床の上に波紋をつ くった。 ガラス窓を開き表にでれば、 朽ちかけた大きな鳥籠。 理由などなく、 ただ、 この鳥籠を 「ウツス」 ときめた。 「ウツス」 ------音だけが先走り、 文字が追いかける。 映す、 写す、 移す-----辞書をみ れば、 「映す」 「写す」 は 「移す」 と同語源だとあり、 納得する。 鳥籠の 「影」 をつくるこ とにした。 昨夜の電話。 ウツスは 「空」 ス----------長い話しのあと、 友人N氏が言う。 エイゾウは 「空」 にスル--------今の私には、 そう思えしかたない。


微分する眼 2010

三獄伊紗

微分する眼 よく憶えてないが、 随分前、 ガラスは原子の並びが不規則で、 途方もなく長い時間 をかけ溶けていくのだと聞いたことがある。 氷の溶けるさまが浮かび、 前にあるガラスのコップが少し揺れた。 緩やかに流れる もの移ろいゆくものの遥か先、 一瞬、 垣間みるような奇妙な感覚。 微分する眼/カーテンの向こうーシロイカーテン 目が覚める。 カーテンの向こうはシロク、 陽がのぼったことを知る。 向こう側で 起ったことは、 影となり表れた。 微分する眼/雪 雪の日表に出る。 ガッガッという自分の靴音だけが、 まるで耳鳴りのように響く。 シロイ。 真白で何もみえない。 この冬、 雪が降ると思えば、 カメラを持ち出掛けた。 「雪の日」 を集め、 何時ものよう にパソコンのうえ重ねる。 其処に現れるのは、 やはり白く何もみえない光景だっ た。 微分する眼/アカイ 1977年描いたアカイ絵。 表面を紙ヤスリで削り、 同じ場所に立て掛け、 同じ光の 下、 アカイ絵を描く。 当然のこと、 アカイ絵は13年前の絵とは違っていた。 微分する眼/ イケル − カタツムリ•ツユクサ イケル − カタツムリ 庭でシロイ殻をみつける。 宿主は居らず、 ヤドカリではない はずだし、 多分亡骸。 かつてイキモノだったモノが薄い雲母にみえた。 イケル − ツユクサ 随分前庭に咲く花をとにかく 「押花」 にしていたが、 どうした 訳か、 ツユクサだけが上手くできない。 花を挟んだ紙に青い色だけ鮮やかに残っ


た。 カタツムリを石膏に、 ツユクサを木蝋にイケル。 イケル/生ける。 活ける。 埋ける①花を花器にさす。 ②火を灰の中に埋める。 ③植物 を土の中に植えたてる。 ④ものを土の中に埋める。 微分する眼/臨界線 友人に作品の写真を撮るのが難しいといわれた。 ミヅライモノ。 当然、 撮るのは更 にムヅカシイ。 微分する眼/鏡 鏡のうえに指を置く。 自分の指が映る。 当然のこと、 鏡面のうえガラスが在る限り、 鏡に映る指先に触れることは叶わない。 アチラとコチラ。 境界に位置するモノ。 微分する眼/イロ 高校の物理の時間だったと思うが、 「物体色」 を習う。 アカイモノは、 アカイ色以外を吸収し、 アカイ色を反射する。 まるで禅問答のようだと思う。 アクリルの箱に入れた 「色」 は発光するようにイロをみせた。


遠景の座標 2009

三獄伊紗

琵琶湖を廻り、異なる場所、異なる日にカメラをまわした。家に帰り撮った画 像をマックの上に重ねる。水面だけを合わせた風景の[映像]は水だけが揺ら いだ。仮に夢の中でみる夢を[映像]と言うならば、その[映像]は動いているの だろうか。最近妙に気にかかる。例えば琵琶湖に立つ。水面が波打つ―[ものご と]が流れる、そんな時間軸で観ているだろうか。ただ波打つ「水面」を観てい るだけだと思えてしかたない。上手くは言えないが、其処に時間が存在する ことはなく、ウゴク「もの」だけがある。 [もの]ではない[映像]を手法としてつくりたいと思いだしたのは、いつ頃か らだったのだろう。知人に教えてもらい小さなビデオカメラだけは購入した ものの、学校をでて[もの]を触り制作しつづけてきた自分には、なかなか思い きりがつかないままだった。そんな私が、一昨秋、日頃から交流のある四人で 「八つの課題」というグループ展をした折「映像作品をつくる」と課題をだし、 はじめて[映像作品]をつくった。自分が想う[映像]を並べ、瞼を閉じることな く[夢]の中を覗いてみたいと願う。


微分する眼/Differentiated eyes三嶽伊紗/Isa MITAKE2010 ギャラリーヤマグチPRESS RELEASE PRESS RELEASE微分する眼/Differentiated eyes三嶽伊紗/Isa MITAKE2010年3月6日(土)ー3月27日(土)/March 6 - 27 2010 三嶽伊紗は「距離」 「 位置」 「 時間」 「 存在」 「 夢」 「 現実」 「 記憶」 「 見え方」などを キーワードに、世界と人間の認識とのずれを意識させる作品 を制作してい ます。今回の展覧会では、立体作品と映像作品を発表致します。特に近年取り 組んでいる映像作品では、自ら撮影した風景の映像を 幾層にも重なるよう編 集し、現実にはあり得ない自然風景が延々と繰り返し、見る者に微小な違和 感を感じさせます。 展覧会名の「微分する眼」とは、ある流れの中から1点を 抜き出し、抜き出された断片を検証することでその流れを理解したいという 想いから付けられました。恐らく作家は日頃からそのような視点で世界を観 察し、捉えようとしているのでしょう。自然の美しさに魅了され、数学や物理 学の本を愛読している作家の、美術によって世界を解釈しようとする試みで す。

よく憶えてないが随分前、ガラスは原子の並びが不規則で、途方もなく長い 時間をかけ溶けていくのだと聞いたことがある。氷の溶けるさまが浮び、前 にあるガラスのコップが少し揺れた。緩やかに流れ、移ろいゆくものの遥か 先、一瞬垣間みたような奇妙な感覚。 (作家コメント)


真昼の位相 2008

三獄伊紗

今年、6月、ラップランドに行く。別に観たいものがあるわけでなく、只、昼と 夜の境界のない時間を過ごしたかっただけで、北極圏なら何処でもよかっ た。車を借り、半月程回ったが、まるで巡礼のようだと思う。延々とつづく昼 の時間は、夜を教えてくれず、それは単に、明るい太陽が、一日現れているだ けだ。廻りつつ思う、地球が公転することを忘れたなら、此所に月のひかる夜 はなく、 「 夜」という「言葉」は忘れ去られ、 「 昼」という「言葉」さえ意味をかえ るのではないか。 2005年「真昼の位相」より プラトンのイデア論ではないが、自分がみているもの、まわりの風景に、現実 感を感じず、 「 影」に思える時がある。実体は我々の知らないトコロにあり、そ の「影」だけみている。そんなコトを考え始めて十年程。今回は影を映し出す 「映像」を用いて、そんな思いを制作した。 その一方、 「 映像」作品とともに、影と実体の曖昧な関係を「もの」を用い探る。 鏡の中の「影」、水槽の中の水とシリコンオイル、方位磁石の北と南、そんなも のを制作しているうち、 「 反物質」などという言葉が浮かび、自分へのアタラ シイ「問題」となる。


八つの課題 2007

日頃から交流のある4人が、互いに何かを触発されるようなことをしたい、と いうことからこの企画は始まりました。すなわち、一定のルールのもとに作 品制作の課題を出す、それに応えるということをリレー形式で行い、その成 果を展覧会というかたちに構成すること。まず課題をつくることそのものが 自分と他者への問いかけになります。また各課題への対応は、将棋で相手を 読みながら次の手を考えるように、微妙に呼応しながら進行していきます。 他のメンバーが課題にどのように反応して制作に結びつけたかはほとんど知 らされませんので、全体像がどのようなものになるかはフタを開けてみない とわからず、最後の段階で出そろった作品=成果群を検討しながら、第三者の ディレクター的視線で会場を構成して行くこともひとつの醍醐味と考えてい ます。 ルール: 1)

課題の出題はリレー形式に行う。最初の出題者は自分を含めて全員に

向けて課題を出し、それを受けて次の出題者が二番目の課題を提出、三番、四 番と回っていく。 2)

課題は官製ハガキを用いて文章で伝える。ある「課題ハガキ」が届いた

ら、質問や感想その他を自由に書き込み、切手を貼って他のメンバーに郵送 する。これを順々に行っていく。ハガキは展覧会が近づくまで自由に回して いく。 3)

課題は各自2点、計8課題が巡回する。


あしたの記憶 2006 ギャラリーヤマグチPRESS RELEASE

金属に置き換えられた冬枯れ草。写真による境界線のぼやけた風景。レンズ により光を屈折させた展示。個々の「モノ」がひとつの言葉となり、言葉が響 き合い、重なり合い、散文的な全体の展示空間が作家の「刹那」の芸術的表現 として立ち現れる。


あしたの記憶 2006

三獄伊紗

タカサゴユリというのだろうか------外来種の百合、白い大きな花を夏につ ける。 やっと暖かくなり、表で過ごす時間が多くなった。 そんな折、裏山で土から覗いたこのハナの芽をみつける。 昨年のハナなど忘れた頃、同じ場所につけた標。このユリに冬の記憶はある のだろうか。 土の中、夏の記憶だけが埋もれ、白いハナの中に其れを語る。


個展「遠景の座標」 2003年

三獄伊紗

6月末、遅い夕方、仕事場で只居る為だけの椅子に座り庭をみる。何か薄く紫 色に光ったように思う。その色を忘れかけた時、また微かにひかる。雷と気 づいた頃、音にならない低い揺れが身体に響く。そのうち振動は音にかわり、 外は雨となる。同じ場所よりいでた「振動」と「光」は、此所で重なり「コト」と なった。


「蛹ー冬の座」2003年

三獄伊紗

子供の頃、 「 みにくいアヒルの子」を読み、ひな鳥が白鳥になるなんて、何でも ないことのように思えたし、小学校で観察した「おたまじゃくしが蛙になる」 のさえ、観ていれば目の前でおきた。彼らは水から陸にあがりたかったんだ。 ただ、そんな観察の中で「蝶の変態」だけは奇妙に感じられた。あの蛹の内で 何がおこっているのか、遠い場所での出来事のように不思議だった。 学校をでて間もない頃だったが、とにかく随分前のこと。友人と話をしてい る折、蛹の話になり、その時、彼から教えてもらった本の一節「サナギ」は真空 の形態 がいまだ頭から離れない。高橋秀元氏と松岡正剛氏の「ハレとケの超 民俗学」だ。 例えば「眠り」を蛹とするならば、真空の中に夢は存在するのだろうか。今日 の朝、寝床の中で考えた。


測距儀ー遠景の座標 2002年

京都芸術センター アートコーディネーター 山本麻友美

今回2回目となるギャラリーを用いた「公募京都芸術センター2002」は、単に そこに展示する作品を募集するのではなく、2つのギャラリーの位置関係や 空間を生かした展示プランを募集するというかたちで審査が行われた。 「測 距儀—遠景の座標」展はそのなかから選ばれた入選プランである。 ここを訪れたことのある人は、センターの2つのギャラリーが、それぞれかな り離れてた場所にあることをご存知だろう。京都の建物の多くが今でも「鰻 の寝床」と呼ばれるように、芸術センターも間口が狭く奥に長く広がる形に なっている。グランドを挟んで、その一番奥に2つのギャラリーは位置してい る。 今回の展示では、北と南のギャラリーに同じモノを別の視点でとらえたも のが展示されている。一方のギャラリーで見たものを記憶して、もう一方の ギャラリーへ向かうと、つながりや関係性が見えてくる。展示プランの企画 書には「位置関係や距離を手がかりに、それぞれに生じるズレや違和感を探 る」とあった。同じモノでも、見る位置や見る人、見る時間によって、そのとら えられ方は様々である。モノの存在自体が不確かであることをあらためて感 じ、更に長くこの展示空間にいると距離や時間までも実は不確かなものはも う、自分の中にしかないのかもしれないと、思わせる。 プランの企画者であり、実際の制作者でもある三嶽氏は、 「 測距儀は、見る人 自身かもしれない」と述べていた。2つのギャラリーへの距離をつかむ支点と して、グランドにも作品が埋め込まれている。3Dメガネをかけるように、グラ ンドの支点から2つのギャラリーを思うと、そのズレから作品が厚みを帯び て感じられる。 形にとらわれず、形から離れようとして、形から逃げられないというジレン マ。逆にそのジレンマを感じさせないシンプルな空間が出来上がったのが興 味深かった。ここでは、存在や現実、人間の孤独観さえも、夢か現か、その境界 で彷徨っているのかもしれない。


測距儀ー遠景の座標 2002年

三獄伊紗

眠りの中で夢をみる。例えば、延々とつづく道を歩いていたとする。その間自 分が考えていたことも見たものも聞いた音さえこまかく記憶しているし、な がい時間過ごしていたという確かな感触も残っているのに、目が醒めてみれ ば5分も経っていなかったりする。実際時などというものは意識の中だけに あるものかもしれない。時の感覚の不思議。 多分それは秋のはじめ、かなり湿度の高い日だったと思うが、琵琶湖の対岸 に渡り比良山系をみる。昼から夜に移行するとき、保湿のためか息を吸うこ とさえ難しく感じられた。空は朱く染まりもせず范洋とひろがり、周りのも のすべてから色は消える。さっきまで確かに存在したはずのかたちや色は意 味をなさなくなり、まるで大観の「朦朧体」のように奇妙な奥行きだけが増 す。距離の感覚がつかめない。奇妙な距離感。ほんとうのところ、隔たり、など というものはないのかもしれないなどと思いつつ、寝床の横にある雑誌のア インシュタインを思い出す。 「遠景の座標」より


測距儀ー遠景の座標 2002年

三獄伊紗

例えばモノモライなど患い、眼帯を着け、一方の眼だけで過ごすとき、それま での「風景」が奇妙にかわることがわかる。モノの存在は、まるで映像のよう に薄れ、距離感が掴めない。人は、両眼視差、すなわち両眼の網膜上に写る像 のほんの少しのズレから、空間の奥行きを認識できるという。今回、同じ視点 より2つのモノを幾組かつくり、各々、 「 ギャラリー北」 「 ギャラリー南」の中で 同一の座標上に設置する。 「 北」と「南」、すなわち、2つの点「A」と「B」にはズレ が生じるはずだ。その2つの点が示す網膜上のズレより、 『 彼ら』との距離をは かるとともに、 『 彼ら』の座標を探る。


測距離ー遠景の座標 2002年3月28日(木)4月20日(土)

この展示会は2月27日まで京都芸術センターにて開催された展示会の延長 線上の同じタイトルを持つ展示会です。期しくも、海岸通ギャラリーCASO での展示会がきまったほぼ同時期に京都の展覧会も決まり、連続した2つの 会場での大きな展覧会になりました。今回の展示は何かを測るための物(作 品)を主に展示していますが、観る人には同じような物(作品)の展示ではある ものの位置関係や距離による微妙なズレや差異を感じさせます。しかしなが ら、作家の意図は観る人にそれらのことを感じさせるというより、自身の感 じている表現の問題を自らの問題として呈示している。強いて言うならば作 家の根源である芸術に拘わる基準の呈示でもあり、問いかけでもあります。 芸術としての「見かけ」、 「 見え方」の問題というより、自身の芸術を思考する 基盤の、芸術を感知、認識する「測り」の終わりのない基準探しの問題である。 三獄伊紗という作家がどのように考え何を呈示しようとしているのか考え る機会はみる人にひょっとして新たな芸術の存在を認識させるかもしれませ ん。


「紙ー生まれ変わる造形」SHIGA ANNUAL '97

桑山俊道

三嶽伊紗は、どちらかというと現代美術の中でもコンセプチュアルな構成 で作品発表している作家といえる。だから、紙という素材に執着しているわ けではなく、普段は作品の一部分に用いることが多い。ただ今回は、作品の中 での紙の占める割合が、特に大きいといえる。和紙の繊維質をシリコンと融 合させたシート状の大きなもので部屋を二つに仕切り、これを境にして、手 前と向こう側にそれぞれ台に乗せた別の作品を対峙させるという構成であ る。少し、トリックめいた仕掛けであるが、半透明なシートの向こうに置かれ た輪郭のボヤけた物体の存在と、こちら側に設置された作品とが実像と虚像 のように見えて興味をひかれる。 彼女の制作へのイメージと取り組みは、社会、自然を併せた生活環境の中 で実在する物の他に、視覚で捉えることのできない何者かを自分で感じ取 り、それを具体化することにあるように思う。それらは、言葉や形、色、音など 様々に変化しながら作品に取り込まれ、美術的に再現されるのはその一部だ けのとうに思えてならない。会場で、それら、不思議な空間との出会いを楽し みたい。


「紙ー生まれ変わる造形」SHIGA ANNUAL '97

三獄伊紗

雑然とした仕事場に椅子がある。なにをする訳でもなくただそこにいるだ けの場所だ。そこに座り庭の夏椿をみる。毎年夏のはじめに白い花をつける が、昼の長い時かだから多分それは夏の遅い夕方、私は白い花をみる。去年も ここでこうしてみていたと思ったとき、確かに一年前のわたしが私の直ぐ横 に居た。 (あしたの記憶より)


biography Isa MITAKE 1956

Born in Kochi City, Kochi Prefecture Japan

1982

Completed the postgraduate course at Kyoto City University of Fine Arts

1980

Graduated from Kyoto Institute of Technology

< solo > 2018

White Night, organized by Gallery Yamaguchi Kunst-Bau, Osaka, Japan

2014

Isa Miatake works beyond sight, The Tokushima Modem Art Museum, Tokushima, Japan

2016 2013 2010

2009 2008 2005 2003 2002

1997 1996 1995 1988

1988 1986 1983

Kyoto university of Art & Design, Kyoto, Japan

White Night, ART OSAKA2013, organized by Gallery Yamaguchi Kunst-Bau, Osaka, Japan Gallery Yamaguchi Kunst-Bau, Osaka, Japan Gallery Yamaguchi Kunst-Bau, Osaka, Japan Gallery Suzuki, Kyoto, Japan

Gallery Yamaguchi Kunst-Bau, Osaka, Japan Gallery Gion Konishi, Kyoto, Japan Kyoto Art Center, Kyoto, Japan

Contemporary Art Space CASO, Osaka, Japan CUBIC GALLERY, Osaka, Japan

Lisn Gallery, Kyoto, Japan Gallery Suzuki, Kyoto, Japan

The Museum of Modern Art Gallery, Shiga, Japan Gallery Maronie, Kyoto, Japan Gallery Yamaguchi, Tokyo, Japan ('91) Gallery La Pola, Osaka, Japan NORTH FORT, Osaka, Japan

Gallery Maronie, Kyoto, Japan '84, '85, '87, '89, '90, '91, '92, '93

< group > 2014

BOOK ART 2013-14 Japan-Korea (Jinsun Gallery, Seoul/ de sign de, Osaka)

2013

Kan-ou Festival (Kyoto prefectural office old wing, Kyoto)

2012

NON OBJECTIVE ART-EIZO (Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka)

2011

2007

2006 2003

Line - Takashi Suzuki Isa Mitake (Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka) KYUHOISSHIKI (Jokaiso, Aichi)

Autumn Exhibition-new works by 14 artists (Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka) eight themes (Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka) piano.piano-hiding signs (Renga-Soko, Osaka)

Nijo castle 400th anniversary year『Art Villa』(KYOTO ART CENTER, Nijo Castle, Kyoto)

2002

Selected Art ‘02 (Kyoto Municipal Museum of Art, Kyoto)

1998

Selected Art ‘98 (Kyoto Municipal Museum of Art, Kyoto)

1999 1997

1995

1994

TOSA-TOSA ’99 paper (THE MUSEUM OF ART, KOCHI, Kochi) Shiga Annual Paper-Form reborn (THE MUSEUM OF MODERN ART, SHIGA, Shiga)

memories of the light (galerie 16, Kyoto/ Gallery FENICE, Osaka) ’96 ‘98

Essences-A Contemporary View of the New Year (Honolulu Academy of Arts, Honolulu)


略歴 三嶽 伊紗 ・ みたけ いさ 1956 高知市生まれ 1980 京都工芸繊維大学 工芸学部 意匠工芸学科 卒業 1982 京都市立芸術大学 大学院 美術研究科 修了 <個展> 2018

個展 [ シロイ夜 ] ギャラリー ヤマグチ クンストバウ(大阪)

2016

縄文と現代シリーズ [ 白い、白い 遠望 ] 京都造形芸術大学 芸術館

2014

個展 [ 三嶽伊紗のしごと _ みているもののむこう ] 徳島県立近代美術館

2011

個展 [ ハイ ヲ ミル ]

2011

ART OSAKA 2011 PR ART EXHIBITION / Oneday Art Exhibition JR 大阪三越伊勢丹6階 「学美庵」

リスン 青山 ( 東京)

2011 明倫茶会「微分する眼」席主 京都芸術センター 2010 個展 [ 微分する眼 ]

ギャラリー ヤマグチ クンストバウ(大阪)

2010

個展 [ リスンの庭 ] リスン京都 ( 京都 )

2009

個展 [ 遠景の座標 ]

2008

個展 [ 真昼の位相 2008] ギャラリー すずき ( 京都 )

2006

個展 [ あしたの記憶 2006]

2005

個展 [ 真昼の位相 ]

2003

個展 [ 蛹—冬の座 ] 楽空間 小西(京都)

2002

個展 [ 測距儀ー遠景の座標 ] 海岸通りギャラリー CASO(大阪)

2002

個展 [ 測距儀ー遠景の座標 ] 公募 京都芸術 センター 2002 ( 京都 )

1997

個展 [ 庭—あしたの記憶 ] キュービック ギャラリー ( 大阪 )

1996

個展 [ 庭—あしたの記憶 ] ギャラリー すずき ( 京都 )

1996

個展 [ 庭—水の稜線 ] リスン ギャラリー ( 京都 )

1995

個展 [ 検索ー portfolio] 滋賀県立近代美術館ギャラリー

ギャラリー ヤマグチ クンストバウ(大阪) ギャラリー ヤマグチ クンストバウ(大阪) ギャラリー ヤマグチ クンストバウ(大阪)

<グループ展> 2017 2016

遊びをせんとや生まれけむー今村源+日下部一司+三嶽伊紗+アート・メッセンジャー in 徳島 (徳島近代美術館ギャラリー) この惑星に生まれてー今村源+三嶽伊紗+アート・メッセンジャー in シーズ (徳島近代美術館ギャラリー)

2016

俳句×美術 in 篠山(篠山市 旧後川小学校、兵庫)

2015

散歩の条件(ギャラリー すずき、京都)

2015

光は曲がらない(MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w、京都)

2013

LINE ー 鈴木たかし|三嶽伊紗(ギャラリー ヤマグチ クンストバウ、大阪)

2013

観桜祭ー Musée Acta(京都府庁旧館)

2012

NON OBJECTIVE ART - EIZO(ギャラリー ヤマグチ クンストバウ、大阪)

2011

Autumn Exhibiiton - new works by 14 artists(ギャラリー ヤマグチ クンストバウ、大阪)

2011

久保一色 KYUHOISSHIKI(常懐荘、愛知県小牧)

2007

八つの課題 (ギャラリー ヤマグチ クンストバウ、大阪)

2006 「piano. piano 気配をけして」(煉瓦倉庫・大阪築港) 2003

(京都芸術センター・二条城) 二条城築城 400 年記念「美術離宮」


2002

02 新鋭美術選抜展 (京都市美術館)

1999

TOSA-TOSA '99 紙 (高知県立美術館)

1998 '98 新鋭美術選抜展 (京都市美術館) 1998, '96,'95 光の記憶展 ( ギャラリー 16,京都 ・ ギャラリー フェニーチェ , 大阪) 1997 シガアニュアル “ 紙—生まれ変わる造形 ”(滋賀県立近代美術館) 1994 Essences — A Contemporary View of the New Year (Honolulu Academy of Arts)



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