パタゴニア Fall 2023 Journal

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ありがとう。

草の根団体、先住民部族の指導者たち、生活の糧 やスポーツとして釣りをする人びとの努力により、 バイデン政権はアラスカのトンガス国有林の

37,636平方キロメートルに「ロードレス規定」に よる保護を復活させました。これにより、地球上 最大の温帯雨林の老齢樹の原生林が伐採から守られ、 アメリカ合衆国の年間排出量の約10パーセントに 相当する温室効果ガスが隔離され、トリンギット族 とハイダ族とチムシアン族が1万年以上にわたって 故郷と呼んできた土地が保護されます。

そして重大な勝利はトンガスだけでは ありません……

この1年、私たちは手をつなぎ、 資金を集め、声を大きくすることで、 長期にわたるいくつかの環境を 守るための闘いにおいて、大きな 進展を遂げることができました。
アラスカ州トンガス国有林、バラノフ・レイク Brendan Jones

アメリカ初の気候難民 のための正義

ニュートック評議会が何年もかけて彼らの地域 社会を存続させるための行動を求めてきた結 果、2022年11月30日ついにバイデン政権 は、永久凍土の融解、川の侵食、インフラの崩 壊など、気候変動の深刻な影響を受けてきたユ ピック族の住民200人の移住を完了させるた めに2,500万ドルを拠出することを確約しまし た。この資金の決定が発表され、ニュートック 評議会メンバーのデラ・カールは、公共ラジオ 放送局KYUKに次のように語りました。「私は これからも地域の役に立ちつづけたい。そして この村をもう一度ひとつにしたい。そのすべて が、私の家族だからです」 詳細は、パタゴニア が2022年(日本では2023年)に公開した映 画『Newtok(ニュートック)』をご覧ください。

アラスカ州ニュートック Andrew Burton & Michael Kirby Smith

ペブル・マインの阻止

連邦政府公認の先住民部族、商用漁業者、 活動家、そして〈ユナイテッド・トライブズ・オ ブ・ブリストル・ベイ〉などの団体を含む400 万人近くの人びとが、アラスカのペブル・マイ ン建設を阻止するため、10年にわたる闘いを つづけてきました。そしていま彼らは勝利を収 め、15,000人以上の雇用機会、約105,200 平方キロメートルにもおよぶ水域、年間22億 ドルのサーモン漁業を支えながら、手つかず の、北米最大の野生のサーモンの生息地を守 りました。

アラスカ州ブリストル湾 Ben Knight

ヨーロッパ初の 原生河川国立公園

アルバニアの全長190キロメートルのヴョサ川 が、アルバニア政府と〈エコアルバニア〉〈リバー ウォッチ〉〈ユーロナトゥア〉などの団体の活動 により、永久保護に近づく大きな進歩を遂げ ました。約10年にわたる組織づくり、署名集 め、抗議デモの結果、ヨーロッパ大陸最大の原 生河川のひとつであるヴョサと、そこに生息す る1,100種の動物、そして何世紀にもわたって その川と結びついてきた10万人の人びとの生 活や文化や土地の安全が誓われたのです。「母 親になったことで、川とのつながりがより強くな りました」と言うのは、〈エコアルバニア〉の共 同創設者であるアルバニア人のベシャナ・グリ。 「すべての物の見方が変わり、ヴョサを守ること が私の人生の使命であり、私はその実現のため にすべてを捧げるであろうことを、さらに確信し ました」

アルバニア、ツェサラット Nick St. Oegger

泥炭地は果てしなく

チリとアルゼンチンの地域住民、科学者、地元や 全国の擁護団体など、多くの(本当に多くの)人び とが33年の歳月をかけ、手を取り合いました。そ

のおかげで、アルゼンチン最南端のミトレ半島の 総面積4,856平方キロメートルの泥炭地が、自然 保護区として守られています。この保護区は巨大 なカーボンシンク(炭素吸収源)を維持し、絶滅 危惧種を支え、重要な文化遺産を保存しています。

「これがまさに、重要な生息地の保護はこうあるべ き、という姿です」と言うのは、パタゴニアの初代 CEOであり、現在は〈トンプキンス・コンサベー ション〉の代表を務めるクリス・トンプキンス。「こ

れは、世界の自然保護と気候変動の闘いにとって、 新たな高い水準となるものです」

アルゼンチン、ティエラ・デル・フエゴ Rodrigo Manns

目次

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親愛なる地球へ 私たちは頑張っています。

積み重ねた成長を集める 世界最古の木々の記録。

プレッシャーなしで ペルーのモノリスで得た成長の機会。

アルパイン・スーツ

マウンテニアリング用ワンピースの製造。

46 56 60 68

息をすることを忘れずに トレイルの建設は再建そのもの。

生き残りをかけた訴訟 サーモンに法的権利はあるのか。

未来と連帯して

ドイツのリュッツェラートは死すとも、気候変動活動は死せず。

より良いビジネスのあり方

パタゴニアのヴィンセント・スタンリーとの対話。

76 86 96 100

108 トレイルを拓く きれいな空気のための闘いはつづく。

1,300マイル

3人の子どもを連れて歩きつづけたPCTでの5か月。

大海原での悪天候対応型キット 新しい悪天候用ギアを試す。

ゆったりした心で生きる ジェリー・ロペスを過去へと連れ戻した日本の島。

海を守れば、海が私たちを守ってくれる 私たちの支援を必要とする海洋保護区。

アラスカ州シトカ、トンガス国有林 Lee House

親愛なる 地球へ

私たちの関係を新たな段階へと引き上げてから、

まだそれほど時間は経っていません。

あなたが私たちの唯一の株主になったのは1年前です。地質学的、宇宙的な時間軸からす ると、それほど長い時間ではありません。私たちが存在する遥か前からあなたがしてきた ことを思うと、私たちの存在意義について考えずにはいられません。でも、ここでは現在 に目を向けましょう。私たちは、いまが反省のときであり、あなたに代わって人類がより大 きな動きを結集するときだと、考えています。

あなたに会社を寄付した数日後から、私たちはアメリカの中間選 挙に全力で取り組みました。以前はできなかった方法で資金を提供 できるのは、私たちにとって大きな喜びです。私たちは、ネバダ州、 ペンシルベニア州、ジョージア州でのキャンペーンを支援し、土地 と水域の保護に前進をもたらすとともに、あなたが育むすべての生 命を守るうえで必要な民主主義を守ることを目指しました。ネバダ 州の重要かつ厳しい選挙戦を制したキャサリン・コルテス・マストは 「私たちの民主主義は尊く、それを強くするためにできることはすべ て行う必要がある」と述べており、その姿勢は、環境保護と同様に、 投票にも当てはまるものです。この取り組みには多くの賛同者がい ます。そしていま、私たちは会社の新しい所有権のもとで、より良 い活動をすることができます。コルテス・マストのようなリーダーを さらに支援することができるのです。

対処すべきは、気候危機の最も明白な脅威だけではありません。 イースタン・シエラの雪解け水で繁殖するヒキガエルの保護、ニュー イングランドの森林の炭素貯留の可能性、そして人間による影響を 受けた環境下での種の安全な移動も重要です。このような理由から、 私たちはニューヨーク州北部に約5.7平方キロメートルにわたる野 生生物のための回廊を作った〈ノースイースト・ウィルダネス・トラス ト〉に助力できたことを誇りに思います。

小さな勝利を積み重ねて大きな勝利を手に入れることの価値は、 南米の友人たちも何年も前から知っています。2023年、チリとアル ゼンチンで地元と国の支持団体の粘り強さがついに実を結びました。 彼らは南米大陸の南端に位置するミトレ半島を守るための、33年に わたる闘いに勝利したのです。

アラスカでは、デナイナ族がブリストル湾の保全地役権を購入す る取り組みで成功を収めました。これはサーモンが産卵する重要な 川を守るだけでなく、最近計画が中止されたペブル・マインへの道 路建設も禁止します。この朗報にはあなたも喜んでくれるはずです。 私たちが西半球と呼ぶ地域に残された最も重要なサーモンの生息地 を守ることができたのですから。

これからやるべきことのリストを見ると、私たちがなぜここで毎日 仕事をしているのかを思い出させてくれます。私たちがこの仕事を つづけているのは、あなたがダムのない川の冷たく澄んだ水を肌で 感じ、周囲を移動する何百万羽もの鳥の鳴き声に耳を傾けることが できるようにするためです。そして、急激な変化がもたらす混乱では なく、周期的なリズムで季節が移り変わるのを見守り、舞い降りる 雪の結晶を舌の上で味わい、太陽のぬくもりを髪に感じることがで きるようにするためです。そうすれば、たとえあなたが大きな圧力を 受けていても、私たちはあなたが創りだしつづけるものに畏敬の念 を抱きつづけることができるのです。

2024年には、アメリカの政治の動向を大きく左右する、ひいて は私たちが制定できる気候政策に大きな影響を与える選挙がありま す。世界的な生物多様性の危機に対処するため、私たちは海洋保 護区や公有地を擁護し、トンガス、ベアーズ・イヤーズ、ヴョサ川、 オーストラリアの広大な原生林など、私たちが長年携わってきた多く の問題や闘いに取り組みつづけています。

私たちの故郷である地球を救うことが、私たちが最も力を入れて いること、に変わりはありません。しかし、私たちがいなくても、あ なたの森林やサンゴ礁、野生生物は、大丈夫だということも認識し ています。そして、それは最終的にはあなたを救うためではなく、私 たち自身を救うことなのだとも認識しています。私たちにはあなたが 必要なのです。あなたに元気でいてほしいのです。そして、私たちは そのための努力を止めません。

私たちは、創業以来、あなたを守るための草の根的な活動を支 援してきました。しかし、私たちの新しいやり方は、よりパートナー シップに近いものであり、他の人たちを鼓舞するものでありたいと 願っています。私たちには、誰もがそれぞれに果たすべき役割があ ります。だから、一緒に力を合わせましょう。

「デル・ノルテ・タイタン」と呼ばれるこのレッドウッド(学名Sequoia sempervirens)が、 3000歳、あるいはそれ以上の誕生日を迎えられますように。カリフォルニア州 Brian Kelley

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積み重ねた 成長を集める

歴史的な大雪に見舞われた 冬の、カリフォルニアの 偉大な木々の記録。

文 フォレスト・シアラー

写真 コール・バラッシュ

マウント・ベーデン=パウエルの頂上、ロサンゼルスのぎらつくスモッグ

から約2,700メートル上空のその尾根に、とげだらけの枝葉の束を東の 方に向けて弧を描く一本の松の木がある。「ウォーリー・ウォルドロン」

と名づけられた、この樹齢1500年のカリフォルニアで最古のリンバー・ パイン(フレキシマツ)は、ロサンゼルスの歴史よりも1000年以上古い。

これまで幾度となく写真に収められてきたこの木だが、このような状況 で撮影されるのは稀だ。

2023年1月の終わり、次々と訪れた低気圧は州全体に 雪をもたらし、サンガブリエル山脈を真っ白に覆った。雪 は今後数か月降りつづくと予想され、カリフォルニア州 では数十年ぶりに大雪を記録した。しかし今日にかぎっ ては、マウント・ベーデン=パウエルの斜面は氷の壁だ。 ヴィンセント・ギャップのトレイルヘッドまでスノーボード で戻るにも、雪が硬すぎてエッジが立たない。なぜアイス アックスを持ってこなかったのか。この瞬間までの自分の すべての判断に疑問を抱きながら、1センチ1センチに集 中し、できるだけゆっくりと下山する。

午前中は、写真家のブライアン・ケリーが朝日に照らさ れるウォーリー・ウォルドロンを撮影するための準備を手 伝った。〈ギャザリング・グロース・ファウンデーション〉の 創設者として、ブライアンはアメリカ全土でこのような木々 を何百本も記録し、ますます希少となり、絶滅の危機に瀕 している老齢樹に対する認識を高めている。ウォーリー・ ウォルドロンは、今回の僕らの2週間にわたるスノーボー ド&スノーシューの旅で、カリフォルニア最高のパウダーの なかで撮影されるカリフォルニア最古の壮大な木々の、最 初の被写体となった。こうした木々の多くが土のなかから 姿を現したのは、旧約聖書が書かれる前、ブッダや孔子が 生まれる前、アテネやローマが築かれる前、つまりマイドゥ 族の先祖以外がカリフォルニアのこの地域に住む前だ。

〔左〕「サーフィンでもスノーボードでも、いいターンを決めようと本気 で考えているときは、すべてがスローモーションになる気がする」と 言うのは、写真家のコール・バラッシュ。「フォレスト・シアラーを 撮ったこのショットで伝えたかったのは、まさにそれ、高速のパウダー ターンと遅いシャッタースピードだ」

そのなかには、高さ84メートルのシュガー・パイン(サ トウマツ)がある。シエラ・ネバダ山脈の麓にひっそりと 佇む、アメリカ国内で最も背の高い松だ。そしてラッセン 国有林には、幹の直径が8メートルという別のシュガー・ パインがある。さらにカリフォルニアとネバダの州境にある ブリストルコーン・パイン(イガゴヨウマツ)の歴史は、エ ジプトの大ピラミッドよりも古い。それぞれの木は何百年、 何千年という長い年月をかけて大地に根を広げ、共存して きた生物たちと知識を共有し、地球の変化をその年輪に 記録してきた。

けれどもいまこの瞬間、パウダーや木のことは頭にない。 それはあとだ。いまはただ、数百メートルの岩と氷の上を 転げ落ち、墓場へ急ぐことになるのを避けたい。日帰りハ イカーの駐車場にいる人たちや夕方のニュースを見ている 人たちにとって、問題のある決断の一例とならないように。

プロスノーボーダーのフォレスト・シアラーは、自身の才能をより

有意義なものへ導く道として活用し、その経験を分かち合うこと で境界を打ち破り、私たちが故郷と呼ぶこの野生の世界を支える 環境解決策を提唱している。

〔前の見開き〕2023年、容赦ない吹雪がカリフォルニアを襲ったあと、 ブライアン・ケリー、ニック・ラッセル、フォレスト・シアラーは、スノー シューとスプリットボードで2週間を過ごし、同州を象徴しながらも あまり知られていない老齢樹を写真に収めた。レイク・タホでの撮影は、 失敗でもあり、成功でもあった。積雪が多すぎて目的の木々を見つける ことはできなかったが、その冬最高のパウダーに恵まれた日々となった。

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写真家のブライアン・ケリーは、アメリカ国内の最も貴重な老齢樹を記録するため、〈ギャザリング・グロース・ファウンデーション〉 を創立した。こうした木々の物語を伝えることで彼らが直面する危機に対する意識を高め、保護活動につなげたいと考えている。 カリフォルニア州ホワイト山脈に自生するブリストルコーン・パインは国内最古の松で、なかでも「メスーゼラ(旧約聖書に最長寿の 人物として記されたメトシェラに由来)」と呼ばれるその木は、5000年近く生きつづけている。

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樹齢およそ1500年のウォーリー・ウォルドロンは、カリフォルニア最古のリンバー・パインとして知られている。 この木が立つマウント・ベーデン=パウエルの山頂にたどり着くには、通常850メートル近くを登る。それはただで さえ肺を灼くほど労力を要するが、冬には、もしアイスアックスを忘れると、さらに恐ろしいことに。 Brian Kelly

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「キャビンに着いた初日、大きな嵐が到来した」と語るのはコール。「道路が閉鎖され、実質的に2日間 足止めを食らうことになった。フォレストとニックと僕は孤立状態を楽しみ、嵐のまっただなかの閉鎖された 道路をシールで登って、冬を味わった」

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「森や山に入るのは、外にいるという特有の精神とつながるためだ。いつ、どこで、それが起こるかはわからないが、ある瞬間にその瞬間が 訪れると、僕は覚醒する。この朝は、夜明けとともにシールで登りはじめた。森を抜けたとき、振りかえるとアルペングローが輝いていた。 その瞬間は、僕にとって本当に貴重なものだった」

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「友だちがいなくたってパウダーは楽しい」 という昔の名言を真に受ける人もいるが、 ニックとフォレストは友だちと一緒の パーティーランが好き。

携帯電話がつながらない 吹雪のなかでは、時間は ゆっくりと過ぎていく。

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〔上〕雪の朝、キャビンで燃料補給するフォレスト。 〔左〕この旅の目的は老齢樹の森での森林浴だったかもしれない。 しかし、2日間雨が降りつづいてようやく太陽が顔を出そうもの なら……ニックのようなスノーボーダーは、高山の斜面を目指して すかさず森から抜け出す。

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それぞれの木は何百年、何千年 という長い年月をかけて大地に 根を広げ、共存してきた生物たち と知識を共有し、地球の変化を その年輪に記録してきた。

〔上〕「夜明け前に登りはじめ、大自然にどっぷりと浸かる。 ヘッドランプを消すと、木々への鋭い意識、氷に覆われた 川の下から遠く聞こえる水の音、スプリットボードの下で きしむ新鮮なパウダーのなじみ深い音、それらすべてが 研ぎ澄まされた」とコールは語る。

〔右〕「シールを付けてゆっくりと、一定のペースで山を登る という行為は、ときに瞑想的ともいえる。あるときには 仲間と会話を交わし、またあるときには心を通わせることの できる空間がある」とコールは回想する。「山頂前の最後の ピッチはいつも興奮する。喉が渇き、空腹を感じながらも、 山頂に立ち、これから滑走するラインを眺めるのが楽しみだ。 ニックとフォレストと一緒にいたこの瞬間、風は止んでいたが、 雪はまだ舞っていて、森ならではの静寂を作りだしていた」

〔前の見開き〕「僕はパウダーターンにかなりうるさい方で、 いいターンをする人はそれほど多くはいないと思っている。

だけどフォレストは、まるで海の波を描くように美しい パウダーターンを決める。レールからレールへ、流れる ようにトランジションを読むんだ」とコールは言う。

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嵐が去り、その最後の雪がひとひらずつ落ちていく。

青空と虹の亡霊がレイク・タホにかかる。

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シールを剥がし、パウダーを滑り、シールを貼る、を繰りかえす。 パウダー日和の森のリズムに没頭するのはたやすい。

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プレッシャー

なしで

頂へのこだわりを 解放することで、そこに 到達できることもある。

〔左〕「ラ・エスフィンヘ」のベースキャンプ の片隅で、朝食を食べながら太陽と風を 浴びるリアノン・ウィリアムズ。ペルー、 コルディエラ・ブランカ。

〔下〕クエブラダ・パロン(パロン・バレー) での険しいアプローチ。これが平らになる と、ラ・エスフィンヘがはじめて姿を現す。

〔前の見開き〕ラ・エスフィンヘの登攀を 控え、遠方のワンドイ山を照らす光が 薄れていくころ、ディハイドレートフード を調理するリアノン。

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文と写真 アレクサ・フラワー

私たちは風と暗闇のなかを下り、そして登った。頭上には天の川がリボ

ンのように曲線を描いていた。急斜面に散らばった浮石に足を取られ、 私は疲労でよろめいた。気温は氷点下だったが、汗はびっしょりかいて いた。歩きはじめる前にクライミングロープをバックパックのように体に 巻いたのだが、いまは着膨れしたジャケットのなかに閉じ込められたよう な感覚で、一歩歩くたびに息を切らしていた。さらに数歩歩き、リアノ ン・ウィリアムズと私は平らな岩に腰を下ろして、息を整えた。

「こんなに疲れたのは生まれてはじめて」と私は嘆いた。 そんなはずはない、と私は思った。でも、過去に何度も 経験したクライミングの過酷な日々、夜通し寒さで震えて いたビバーク、そして何日にもわたる登攀で味わった疲労 も、ペルーのコルディエラ・ブランカの氷河に覆われた山々 でのいまの私の状態とは比べものにならないように感じた。 これまでの山行で耐え忍んだ苦しみが、まるで夢のように 記憶から消えていったことに感謝して、私は少し笑った。 私たちは食料と水と寝具をデポした岩陰を探していた。

標高4,700メートル地点は、夜明けまで待つには寒すぎた。 何としてもそのデポ地を見つけなければ。

不安定なガレ場を滑り降り、そしてまた登りかえした。 夜明け前にフル充電したヘッドランプは、いまはかろうじて 足元を照らしている。

「デポ地は下にあるような気がする」と、リアノン。

「上にあるんじゃない?」と答える私。

私たちを取り囲む暗い岩のひとつひとつをのぞき込んだ。 どれも私たちのデポ地のように見えたが、どれもそうでは なかった。

「ルートの取り付きまで戻って、そこからトレイルをたど り直さない?」と私は言い、自分の考えを声に出して聞いて から、気分が悪くなった。泣きたくなったが、会話がなん とか私を保ってくれた。私たちはどれくらい寝ていないか の冗談を言い合い、1メートル先も見えないのに、デポ地

が3メートル先にあるかもと言って笑った。もし山で遭難 しても平気なクライミング・パートナーがいるとしたら、そ れはリアノンだ。

***

ヨセミテのビッグウォールで何年も過ごしてきた私は、 ハード、そしてファストにプッシュすることを信条としてい た。初の女性だけのチームで「ゾディアック」ワンデイ登攀 を達成し、かつて自分には不可能だと思っていた他のライ ンも登った。でも私はクライミングのパフォーマンスに、自 尊心が絡め取られていることに気づいた。大きなルートを 登らなければならないというプレッシャーと、〈ヨセミテ・ サーチ・アンド・レスキュー〉の仕事の激しさ(それはときに、 人生最悪の日に訪れる人たちを助けること)に圧倒されは じめていた。私は自分の快適な領域を超えたいと思ったが、 もっと重要なのは、登頂を断念して下山することが正しい 決断なのかどうか、自分の声に耳を傾けられるようになる ことだった。

ヨセミテ・バレーはリアノンと出会った場所でもある。休 息日、私たちはエルキャプ・メドウで寝転んだり、仲間た ちとの夕食で話を共有したりした。水彩画家でもあるリア ノンは、結果よりも過程を評価することを学んだ。

「全体として楽しめばいいのよ」と彼女は言った。「一筆 一筆は大きな絵の一部なの。たとえ、版を完全に塗りつぶ したとしても、それは最終的にたどり着く場所の一部なの」

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〔左〕ラ・エスフィンヘの上部ピッチを 縫うように進むリアノン。

〔右〕水彩画家でもあるリアノンは、 自分が登る風景からひらめきを得る。 「ラ・エスフィンヘを登る前日にこれを 描きました。トポを水彩で描くという 行為の何かが、心を落ち着かせ、 そのルートの理解を深めてくれます」

と彼女は語る。 Rhiannon Williams

私たちはクライミングも似たようなものだと話した。登頂以 上の価値を見出すということは、その経験全体に感謝するとい うことだ。達成するために自分を追い込むのではなく、成長す るために自分を追い込むということなのだ。

リアノンが今度のペルーへのトリップでクライミング・パート ナーを探していると言ったとき、私は夏の予定を変更し、数週 間後に飛行機を予約した。

リアノンは「ラ・エスフィンヘ(ザ・スフィンクス)(5.10d R)」 のオリジナル・ルートに狙いを定めていた。600メートルの威 圧的なバットレスの左側を22ピッチで登る。私たちは2人とも 経験豊富なビッグウォール・クライマーだったが、パートナーを 組んだのはボルダリングとショートルートにかぎられていた。エ ル・キャピタンで一緒にマルチピッチのルートに挑戦したのは 1度だけで、挑戦は吹雪に阻まれた。コルディエラ・ブランカ への旅も今回がはじめてだった。標高4,000メートル以上での ロッククライミングはまだしたことがなかった。私たちはものご とが有機的に展開するように、「登頂へのプレッシャーはなし」 という精神で臨んだ。

初日に1、2ピッチ目にロープをフィックスし、それから下降 して岩陰で一夜を過ごし、翌日山頂を目指す予定だった。最 初の10ピッチは技術的に難しい登攀だったが、クラックやチ ムニー、そして時おりボルトがあり、迷うことなく進んでいけた。 ルートの後半はプロテクションのないスラブにところどころ走る シームをたどるが、そのシームも浅すぎてギアを受けつけない。

「ルートファインディングが肝心だ」と、町の仲間たちが注意 してくれた。「直感にしたがって、いちばん登りやすい場所を見 つけるんだ」

ベースキャンプへのアプローチで、数チームに出遭った。彼 らは私たちが真剣にルートを考えているかどうかを尋ね、不吉 なまでに詳細な情報をくれた。やがて私はトレイルを行く人を 避けるようになった。彼らはきっと立ち止まり、太陽にきらめく カールを険しい表情で眺め、ラ・エスフィンヘについて警告して くるだろうから。

ラ・エスフィンヘに挑む前に高所順応が必要で、ヤナパッチャ(5,460メートル) は雪を登るトレーニングにもなりそうだった。リアノンと友人のジェーン・ホース、 ヤナパッチャへの2度のトライのうちの1度目の準備中。

その夜、私たちはビバークの岩陰に入り、外で風が吹きすさぶなか、水で戻 したペストソースのリゾットを口に入れた。外をのぞくと、日が暮れきった壁の上 部にヘッドランプの灯りが見えた。私は寒さと不安のせいもあって震え、寝袋に もぐりこんだ。道中での他のクライマーたちとの会話が脳裏にこだました。私た ちが女性だけのチームだから警告されたのか、それともこのルートは本当に危険 なのか。私たちは寝る前に、リスクが高すぎると感じたら撤退する計画を練った。 そして、私はいくらかのプレッシャーを風に吹き飛ばした。

日の出までに、前日に固定したロープを登った。リアノンのビレイでまずは私 が出陣。岩は安定していて、長いワイドクラックの隙間には手触りのよい小さな ホールドが点在している。ルートはときどき、花崗岩にへばりつく急峻な土やそ こに生えている草木の上をたどった。私は自分の体重ですべてが壁から剥がれ落 ちるのではないかと、ためらいがちに土の「ステップ」に足を置いた。標高が高 いため、小さく計算しつくされたムーブが要求される。チムニーをすばやく登り すぎると、頭に星がちらつくほど目がくらむからだ。正午には、11ピッチ目のビ バークできる平らなレッジで休んだ。そこは小さな花の茂みで埋め尽くされ、「レ

ピサ・デ・ラス・フロレス(花壇)」と名づけられている。ここが簡単に撤退でき る最後のチャンスだった。

次のピッチを見上げながら、私たちは選択肢を吟味した。プロテクションの ないスラブの海へとつづく、美しく長いコーナーだった。ここはリアノンのリード だった。他人の意見に振りまわされることなく、この瞬間は自由に感じられた。 私たちには登頂する必要があったわけではない。けれども私たちは自分自身を プッシュすることに興奮し、ルートの残りが何を要求してくるのか知りたくなった。

リアノンは露出感のあるトラバースに残された唯一のピトンにクリップし、上へ 上へと登っていった。

予想通り、のっぺりとしたプロテクションのほとんどない壁で、まだ決められ たルートをたどっているという目印なるものを探しながら登る私たちのペースは 落ちた。昼過ぎには太陽が稜線の陰に隠れ、気温は急降下した。迫りくる暗闇 と競争しながら、私たちは夕暮れどきに最終ピッチをトップアウトした。寒さが 体を貫き、私たちはお祝いと暖をとるために踊った。月明かりに照らされ、雪の

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険しい氷の急斜面の迷宮が、ヤナパッチャの手つかずの ヘッドウォールへとつづく。そこを登るリアノンとジェーン。

峰々が周囲に浮かび上がった。私たちは抱き合って喜びと安堵で顔をほころばせ、 ラペルステーションへと急いだ。

ヘッドランプの光が弱くなるなか、下山を開始した。 ***

ルートの取り付きまで戻ることを考えると涙が出そうになったが、この決断は 結果的に正解だった。デポ地の岩陰を見つけたのは、さっきまで私たちが見逃 していたかすかなクライマーのトレイルを見つけた直後のことだった。一日中蓄 積していた重圧に、寝袋にもぐりこみながらため息をついた。リアノンがジェット ボイルに火をつけ、お茶を入れる音がした。あまりの疲労と痛みに食事もままな らず、私は朦朧とした意識のなかで、疲労のどん底に落ちていった。

翌朝早く、オートミールを食べ、ゆっくりと荷物をまとめた。そして歩きながら その登攀について話をした。皮肉なことに、登頂へのプレッシャーがなかったこ とが、私たちの登頂を助けてくれた。率直なコミュニケーションをし、期待はし

ないことで、その過程と互いを信頼し、楽に行動することができた。撤退とい う選択肢を受け入れたことで、私は自分の声に耳を傾け、完璧主義を手放すこ とが容易になった。それは山との付き合い方、そして私が理想とするクライミン グ・パートナー像への一歩だと感じた。

私たちの登攀は、おなじみの頂への強引なこだわりに陥ることはなかった。そ うではなく、どうしなければならないかというプレッシャーを感じることなく、一 日を展開させた。私たちの意欲が正しい位置にあることで、より楽しく、素直な 登攀ができた。もしどちらかが下山したかったら、笑顔でそうしただろう。

私たちの背後には、朝の光を浴びて輝くラ・エスフィンヘがあった。私たちは 帰路についた。

アレクサ・フラワーは「好きな花(フラワー)は何?」と聞かれることを避けながら、 シエラ・ネバダの東側と西側を行き来している。

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ラ・エスフィンヘに向けて高所順応を しながらのヤナパッチャの最初の挑戦で、 リアノンとジェーンと私は山頂まであと 150メートル足らずのところで撤退を決意。 安全に登りつづけるには、私たちのペース は遅すぎ、雪がやわらかくなりすぎていた からだ。それでも私たちは、この挑戦で 学んだことに満足していた。その1週間後、 リアノンと私は再挑戦した。新たに得た スキルと速めのペースで、澄んだ穏やかな 朝、山頂に到達した。

アルパイン・スーツ

山で着られるワンピース作り。 文 マイリー・フン

2023年2月の季節外れの暖かい日、フランスのシャモ ニで、パタゴニアのクライミング・アンバサダーのマット・ヘ リカーとアドバンストR&D・デザイナーのエリック・ノール が再会しました。3年にわたる対話と実験の末、ついに実 現した構想をクライミングで試すことになったのです。「25 年にわたってスコットランド、アルプス、そしてさらに大き な山々でクライミングをしてきたなかで、ずっと作りたかっ たものがあるんだ」とマットは言います。「それは、ワンピー スだ。冬季登攀では、いつもジャケットの裾をつかんでハー ネスの下にたくし込む。そのとき、冷気や雪がウェアのな かに入ってくるんだ」とつづけます。「アンダーレイヤーと一 体となるワンピースのハードシェルがあれば、動きがスムー

ズになる」

コル・デュ・ジュアンのコンディションは悪く、理想のア ルパインクライミングには暖かすぎました。しかし、それ はエリックとマットを止める理由にはならず、それよりも スーツを試すために一緒に時間を過ごすことが重要でした。 「未知のクーロアールをいくつか登攀し、数ピッチの岩では ミックスクライミングを、ヴァレ・ブランシュではスキーをし ましたが、どこにも登頂しませんでした。完璧でした」と言 うのはエリックです。想定したほど過酷な天候には遭わな かったものの、スーツは2人の期待以上の機能を発揮しま した。まるでイージス艦のように全身を守るプロテクション を提供しながら、それを感じさせませんでした。

マットがはじめてワンピースの構想をエリックと共有した のは、2020年1月、スコットランドのベン・ネヴィスで

〔左〕アルパイン・スーツがシャモニの 地吹雪に対応する能力をテストする マット・ヘリカー。その結果は? 優秀そのもの。フレンチ・アルプス

フィールドテストをしているときでした。IFMGA(国際山 岳ガイド連盟)認定のガイド資格をもつマットは、アルプス やその他の大山脈で数多くの初登を達成し、高所における 救助でも受賞。25年にわたりフィールドテスターとして信 頼されてきました。そのベン・ネヴィスの旅で、エリックは スコットランドの海洋性気候をみずから体験することになり ました。エリックとマットは、時代遅れのアルパイン・スー ツ(つまりトップとボトムをつなぎ合わせただけの、無駄が 多く動きにくいもの)について語り合いました。マットはそ の代わりに、「遭遇する最も過酷なコンディションに対応す る最高の一着」、つまり最大限のプロテクションと最大限の 自由な動きを実現するスーツを思い描きました。エリックは 興味はそそられたものの、そのような特殊なウェアを開発 する時間を見つけることは想像できませんでした。その後、 新型コロナウイルスの世界的大流行が起こり、エリックは 時間を見つけてあれこれと研究をしていきました。

「マットも僕も、既知のものに戻ることは可能だとわかっ ていたけど、何が存在しうるかという可能性を押し広げる ための時間と場所、そしてお互いの存在がありました」と エリックは言います。「何か新しいことをやってみようという 感じでした。あらゆることに」

マットとエリックがWhatsAppでアイデアや動画をやり とりしているうちに、思わぬ発見により彼らの情熱的なプ ロジェクトはあつらえの実験から、テストケースへと押し上 げられました。ゴア社はパタゴニアが長年テストしてきた PFCフリーの防水性/透湿性メンブレンをついに完成さ せ、それを披露するときでした。「この素材はこのウェアに もってこいでした」とエリックは言います。「僕らがやってき たことを披露するには、本当に格好の方法でした」 この幸 せな偶然により、一度かぎりのデザインであったはずのも のが、このような独自の機能で運用されることはめったに ない製造工程に組み込まれました。

気温 -30°C

風速 25 m/s

標高 4,000 m

個性的なデザイナーによって生み出された実験的なデザインを製造可能 なウェアに変換することは、つねに新たな困難をともなうもので、さらな る難題が待ち受けていました。クライミングの動きに合わせて素材を調整 するため、エリックは二次元的スケッチではなく、代わりに手で裁断した モスリン生地を、マネキンのハーネスの下に直接かぶせました。そして、サ イズ&フィット・パターンのシニア・エンジニアであるリリアン・クロウがパ ターンをデジタル化しました。「スーツの型には多くの立体形状が組み込ま れていました。ダーツはなく、すべて曲線でした……直線ならパターン全 体を変えることなく縫い目を数センチ動かすことができます。曲線は直線 のように簡単ではありません」

もちろん、チームとしては誰もが着られるようにしなければなりませんで した。製品ディベロッパーのクリスティン・トランはウェットスーツのサイズ を応用し、スーツの各寸法を調整することで、さまざまな体格にフィットす るようにしました。彼女はまた、ヒップ部分のジッパーが快適で機能的で あり、パタゴニアの製品保証を満たすことも実現させました。「私たちは通 常、社内でパターンを作ることはありません。それがどのように工場に伝 えられるかを見るのは、いつも興味深いことです」とクリスティンは言いま す。「工場は、機械も違えば、プログラムも違う。専門も異なります。アイ デアを製造レベルで実現するのは、いつも楽しい挑戦です」

多くのチームが、スーツのあらゆる側面が機能的であることを確認しま したが、最も重要な利点のひとつは無形のもの、自信です。「本当に厳し

い状況にあるとき、山でとても無防備だと感じているときに、安心感を与 えてくれるものを着ていれば、生き残る助けになるだろう?」とマット。「こ のスーツがあれば自分は不滅だと、感じられると思うんだ」

マイリー・フンはパタゴニアのアルパイン&クライム部門のマネージング・エディター。

〔上〕アルパイン・スーツはテクニカルウェアとしてはそれほど特徴が 多くはないが、それこそが要点。絶対不可欠なものだけに絞り、 詳細のひとつひとつに機能性を追求した。「マットとの仕事が本当に よかったのは、彼が『何か新しいことをやってみよう』と言ったこと。 それでやる気になったんだ」とは、アドバンストR&D・デザイナーの エリック・ノールの談話。 Tim Davis

〔下〕「この再会は、クライミング自体ではなく、この数年間にスーツ を介して築いた関係を確かめることにありました」と語るエリックは、 「山での日々、スーツが期待以上の機能を発揮してくれたという体験を 共有したことで、プロジェクトに区切りがついたような気がしました」 と締めくくる。この写真はフランスのヴァレ・ブランシュでフィールド テストを行うマットとエリックが、スキーからクライミングに移る際に ブーツを替えてアルパイン・スーツの裾のジッパーを閉めている様子。

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スパイラル・ジッパーを施したフード 変換可能なフードに施した、 かさばらないスパイラル・ジッパー。ジッパーを開けばフードは クライミング用ヘルメットの上にもフィットし、ジッパーを 閉じればビーニーの上にぴったりとフィットして余分な生地は じゃまになりません。このようなエリックの構想はこれまで 作られたことはなく、「フードのパターンを作るのに25時間 はかかったと思います」とリリアンは報告します。

チェストポケット まち付きのチェストポケットは、外側に 拡張するよう位置をずらし、かさばりを最小限に抑えます。 十分な大きさを備えているので、クライマーが携帯品の整理 に悩むことはありません。「山ではあらゆるエネルギーを 節約したいから」とエリックは語ります。

ウエストバンドのないデザイン かさばりを最小限に抑えて ルート上での動きを促進するすべての機能を確保するために、

エリックはモスリン生地の試作品をマネキンの上にかぶせて クライミング用ハーネスを付け、食い込みや摩擦の要因と なる継ぎ目や折り目をずらしました。「すべてのラインは形を 整えるために使われ、無駄は一切ない」と彼は言います。 スーツはマウンテン用サスペンダーとの併用でフィットを 微調整したり、アプローチ中に不要な上半身部分を留めて おくことができます。

4つの支点を備えたまち 4つの支点を備えたまちは、 360度の可動域を確保するためにデザインされました (このアイデアは、アルピニストのコリン・ヘイリーとともに 取り組んでいた「ニンジャ・パンツ」に由来するそうです)。 これにより、クライマーは動きを妨げられることなくハイ ステップやサイドステップを行うことができます。

2つのまち付きジッパー 「トイレ休憩のために開口部を どれだけ大きくする必要があるかを検討するのはとても 面白かったです」と言うのはクリスティン。位置をずらしたまち 付きのジッパーは、ハーネスを付けたままでも下のレイヤー にアクセスできるため、すばやいトイレ休憩を可能にします。

スパイラル・ジッパーを施した裾

今日ではより多くの

アルピニストが、僻地のクライミングのアプローチやクレバス だらけの氷河の横断にスキーを使います。スパイラル・ジッパー を施した裾は広げてスキー用ブーツの上にフィットさせ、しっかり と絞ることができるので、「クランポンの爪を引っかける心配なし」 とマットは説明します。

このQRコードを読み取り、2023年10月発売予定の アルパイン・スーツをご覧ください。

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情熱的プロジェクトから 製造テストケースへ。

息をすることを

〈シエラ・ビューツ・トレイル・スチュワードシップ(SBTS)〉は、長年の計画を経て、2013年にマウント・ヒューのトレイル網 建設に着手した。この野心的なプロジェクトは、最終的に125キロメートルにおよぶシングルトラックの整備を含むことになる。 既存の98キロメートルのトレイルには、インディアン・フォールズ・リッジのようなトレイルもあり、メイソン・ワーナーは ホワイトアルダーやヒロハカエデのほか、さまざまな針葉樹のなかを駆け抜ける。カルフォルニア州クインシー

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忘れずに

壊滅的な森林火災を経験した カリフォルニア州のロスト・ シエラ地域のコミュニティは、 トレイルに希望、癒し、そして 土の魔法をかけた。

ディキシー・ファイアによってほとんどの木が 黒焦げになったが、SBTSは時間をおかず、 トレイルが安全とみなされて封鎖が解除される とすぐに作業を開始。2025年までに残りの 27キロメートルも完成させる予定。

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文 グレッグ・ウィリアムズ

写真 ケン・エッツェル

カリフォルニア州クインシーの ダウンタウンには煙が充満していて、 ほんの30メートル先を徐行する

消防車の赤と黄のライトが自宅の 窓から見えないほどだった。外気温 は40度を超えていたが、エアコン のない家のなかはもっと暑い。

数週間前から煙を防ぐため、窓は 閉めきっていた。酸素を使いきって しまったかのように空気が重い。

それは2021年8月17日のことで、人里はなれたフェザー・リバー・キャニオ ンの電線に木が倒れ、小さな炎が燃え上がってから35日が経っていた。その7 月13日の発生から7月19日までに急拡大した大火災「ディキシー・ファイア」は、 上空12,000メートルに達する灰を吐き出しながら、何万ヘクタールもの森林を 呑み込んだ。8月の第3週の時点で、この火は20万ヘクタールを優に超える土 地を焼き尽くし、衰える様子はまったく見せなかった。

パンデミックに突入してから1年半近く、私はすでに孤立感を覚えていたが、 さらに閉じこもることで、刻一刻と閉所恐怖症に陥っていった。唯一できること は、家のなかにとどまり、落ち着いて、そして息をすることを忘れないようにする だけだった。

その年の夏は、〈シエラ・ビューツ・トレイル・スチュワードシップ(SBTS)〉の 同僚や多くのボランティアたちと一緒に、山で過ごすつもりだった。SBTSは 2003年に私が設立した団体で、かつて林業や鉱業などの採取産業に依存して いたこの地方に安定した雇用を創出するため、過去20年間取り組んできた。ト レイルをツールに地元の政府や自治体や森林局と連携し、州や国からの何百万ド ルもの助成金でこの恵まれない山間の町村を活性化し、またその過程で2,575 キロメートルにもおよぶシングルトラックを建設し、管理を行ってきたのだ。

それがいま、すべて燃えている。

7月16日に森林局がプラマス国有林を閉鎖すると、SBTSのすべてのプロ ジェクトもすぐに停止となり、運営に必要だった何十万ドルもの助成金も打ち切ら れてしまった。スタッフは一晩で72人から13人に減り、トレイル班に関しては 全作業員を解雇せざるを得なくなり、そこには私たちの「青少年クルー」というプ

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ログラムに参加していた30人の高校生も含まれていた。 320キロメートル以上のトレイルが煙と化し、私たちに はどうすることもできなかった。

10月26日に公式に沈静化したとされたディキ シー・ファイアは、総計389,837ヘクタールを焼き払 い、カリフォルニア史上2番目に大きな山火事となっ た。1,300軒以上の家屋が破壊され、12,000人以 上の住民が避難を余儀なくされた。グリーンヴィルや キャニオンダムやインディアン・フォールズの住民たち

は、黒焦げになった廃墟と灰の元へ帰るしかなかった。

だが、そのような喪失感のなかでも、トレイルは存在 しつづけ、今後も恩恵を与えつづけてくれる。森林火 災時、トレイルは消防士の入山経路となり、ときには 迎え火の着火地点にもなった。そして鎮火後は、次の 火災に備えてより強い地域となるために、恒久的で持 続的な火防線として再構築されることが想像できる。

最も重要なのは、トレイルを再建することは、身体的、 精神的、経済的な癒しとなるということだ。すべてを 失ったとき、皆で集まり、エネルギーを注ぎ、自分たち が故郷と呼ぶ山の未来に希望をもたらし、誇りの源と なることができるのだ。

夏が終わるころには、クインシー周辺は十分落ち着 き、私たちは安全対策計画を立てて、町の北部にある マウント・ヒュー・トレイル網での作業の初日を迎える ことができた。総人口4,000人弱の地域に何百人もの ボランティアが集まり、2021年10月下旬、マウント・ ヒューは一般公開を再開した。

私たちはお祭り気分で、マウンテンバイクに乗った。 その瞬間、息をすることだけで、十分な祝杯だった。

〔左〕2018年10月の暖かい日に、SBTS トレイル班のベン・クルーズ、キャムロン・ ウィリアムズ、タイラー・マーシャルが、 マウント・ヒュー・トレイル網拡大計画の 一部として完璧なバームを造る。 カルフォルニア州クインシー

〔上〕2022年にメイソン・ワーナーと マット・マイヤルはそのバームがまだ健在 であることを確信するが、マンザニータや ブラックオークは他の植物とともに灰と 化した。このような猛火は予期せぬ形で ライディングに変化を与える。周囲から 聞こえる音も漂う匂いもまったく異なり、 ライダーの歓声は響いても、火災による 荒廃が景色を支配する。

グレッグ・ウィリアムズ は〈シエラ・ビューツ・トレイル・ スチュワードシップ〉の創立者兼事務局長であり、ノーザン・ シエラ・ミウォック系ディアー・クリーク部族の子孫。現在は ネバダ州リノに在住。

ケン・エッツェル は写真家であり、物語性のあるストーリーに 焦点を当てる映像監督。シエラ・ネバダで10年以上過ごした のち、現在はワシントン州のみずみずしいスカジット・バレー を故郷と呼ぶ。

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〔左〕マンディ・ビーティとSBTSトレイル班の 仲間たちは、トールゲイト・トレイルのこの セクションに目印をつけ、手作業でカーブを造り あげた。背中に道具を背負い、愛犬のスカウト を連れて、マウンテンバイクで現場に向かうこと もしばしば。カリフォルニア州クインシー

〔上〕トールゲイト・トレイルの建設は、完了前に ディキシー・ファイアによって工事が中断された が、翌年の春には、すでに灰の下からオークの 若木が顔を出しはじめており(火災には環境を 回復させる役割もある)、トレイル班は焼け残った

危険な木を取り除くことができた。ロームは 灰のような「月面の塵」に変わってしまったが、 こうした丘陵もこれから数年で徐々に緑を取り 戻していくことだろう。

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〔下〕2020年にメイソン・ワーナーと ジョーダン・カーがインディアン・フォールズ・ リッジを走ったときは、トレイルはときどき のぞく岩と、マンザニータやオークやマツが 入り混じった風景のなかを蛇行しながら 楽しくつづき、遠方には緑の針葉樹に 覆われた稜線が走っていた。

〔右〕この火災をきっかけに、ロスト・ シエラでは新たな時代がはじまった。

風景の質感や色彩は変わっても、壮大な 景色は変わらない。そしてメイソン・ ワーナーとマット・マイヤルが証明する

ように、ここでは依然として世界トップ クラスのライディングを体験できる。

〔次の見開き〕ディキシー・ファイアは ロスト・シエラのトレイルの可能性を さまざまな角度へと押し広げた。

火災時には消火活動の助けとなり、 将来的には火災に対する防御の役割を 果たす。野生動物にとっては分断された 生息地間の往来と、危険回避のための 移動の手段ともなる。木がすっかり 焼き尽くされて荒野と化してしまった 場所でさえ、トレイルはそこを故郷と 呼ぶマンディ・ビーティのような人たち (とスカウトのような犬たち)に恩恵を 与えつづける大切な資源だ。

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生き残り

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文 ヤン・エバーハーター

をかけた訴訟

スカジット・リバーのサーモンに 法的権利はあるのか。

法廷で魚が証言台に立ったとしたら、どうなる のでしょうか。魚にとって証人席はおそらく 居心地が悪いはずで、陪審員の姿を見ることも できないかもしれませんが。

しかし最近ワシントン州で起こされた訴訟では、サーモンには彼らの同盟であるア メリカ先住民族のサークスアトルの助けがありました。同部族は「Sahkuméhu(サー クスアトル族の人びと)は、Tsuladx w(サーモン)とStulekw(川)、そして私たちが 生きていくうえで欠かせないすべての生き物たちと、聖なる誓約を結んでいます」と論 じ、近年台頭しつつある「自然の権利」を法的戦略として行使しました。それは〈シア トル・シティ・ライト〉がスカジット・リバーに所有する3つのダムが、魚たちの『存在 し、繁栄し、再生するために備えている権利、また彼らの先祖代々の水域に行き来す る権利』を侵害している、という訴えでした。

ワシントン州のスカジット・リバーは、この地方のすべての生き物とのつながりを長 いあいだ保ってきました。カナダのブリティッシュ・コロンビア州に源流をもち、険し いカスケード山脈の心部を240キロメートルにわたって走るこの川は、ピュージェッ ト湾へと流れる淡水の30パーセントを供給し、同地方の原生のサケ・マス類(絶滅 危惧種のピュージェットサウンド・チヌーク、ブルトラウト、スティールヘッドを含む) 全種が生息する唯一の川です。そして、前述の訴訟の中心となっている3つの水力発 電用ダムのおかげで、シアトルの電力の20パーセントが生み出されています。しかし ダムは発電を担うだけでなく、サーモンがかけがえのない産卵地へたどり着くことを妨 害しています。

サーモンの遡上は太平洋沿岸部のいたるところで100年以上にわたり減少をつ づけ、数十年におよぶ復元の取り組みの多くもむなしく、これらの魚の未来はいま だ、彼らが産む卵のひと粒ひと粒にかかっています。セイリッシュ海のキーストーン種

ピンクサーモン(カラフトマス)は、タイヘイヨウサケ属の5種の中で最小ながら最も豊富な魚。 オスは産卵のために母川を遡る過程で背中に大きなこぶを発達させるため、あまり聞こえのよくない 「ハンピー」というあだ名がつけられた。

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であるサーモンは、この地方の生態系に欠かせない存在です。そしてチ ヌークは、この地方で愛されるもうひとつの絶滅危惧種サザンレジデン ト・オルカが好む主食です。サーモンは、クマやワシの餌ともなり、死 んだあともその残骸が川や森に栄養分を与えます。その過程は、複雑で、 精巧で、美しく、母なる自然が何千年もかけて創りだしたとしか思え ません。

シアトルは持続可能な未来の構築を謳い、積極的な政策を実行して きた長い歴史を誇りにしています。だからこそ、市の公共電力会社であ るシアトル・シティ・ライトの「クリーンな」電力がその土地の最も象徴 的存在である魚と伝統的なコースト・セイリッシュ族の文化を犠牲にし ているというのは、憂慮すべき、そして腹立たしい矛盾として残ります。 「ものごとの大枠で見れば、私たちが危機に瀕していると考えているの は、私たちの生活様式であり、生き様なのです」と言ったのは、サーク スアトルの部族議会長を務めるニーノ・マルトス二世です。「もしサーモ ンが絶滅してしまったら、これから何世代にも受け継がれるべき教えが 崩壊することになります。すべてが変わってしまうのです」

魚が証言台に立つべきときが来たのは、2022年の初頭。アメリカ先 住民族のサークスアトルはシアトル市を相手に訴訟を起こしました。そ

の部族裁判所での起訴内容はTsuladx w(ルシュツィード語でサーモ ンの意)の声を代弁したもので、そこには「部族民はTsuladx w を守り、 彼らの存在する権利を妨げる障害物なしにTsuladx w を支える水域を 守るための、権利と公益信託を所有する」と宣言されていました。シア トル・シティ・ライトのスカジット・リバー水力発電計画による3つの ダムは、地元の先住民族共同体と同意を得ずに建設されたものであり、 サーモンの遡上を完全に塞いでいるとも述べられていました。「この川は シアトル市を養いつづけてきました」とマルトスが言ったのは、2023年 1月。「だから今度は彼らが川を養うべきだと思うのです」

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サークスアトルの訴訟のように、自然の権利を法的戦術とすること は、川や生物や生態系のような自然界を構成する要素にも法的地位が 認められる、という概念に基づいています。2008年に、エクアドルは 自然の権利を守ることを憲法の条項として追加しました。2017年には、 ニュージーランドがワンガヌイ・リバーの「物理的および形而上学的な 要素」の法的権利を公式に認めました。それ以来、この運動は大きく前 進しています。2022年後期には、ワシントン州のポート・タウンゼンド とギグ・ハーバーが、主食源としてサーモンに依存するサザンレジデン ト・オルカの権利を認める声明を掲げました。そして〈センター・フォー・ デモクラティック・アンド・エンバイロメンタル・ライツ〉によると、現在 アメリカ国内では30以上の先住民部族政府や地方政府が、自然の権 利を守る法律を制定しています。

スカジット・リバーとその源流は、有史以前からコースト・セイリッシュ 族とサーモンの故郷でした。その共存は数えきれないほどの世代にわ たって繁栄をつづけた末に、植民地主義による壊滅的な変化を受けま した。1800年代半ばには当時のワシントン州知事アイザック・スティー ブンスが、土地と引き替えに先住民族の自治権や保護、そして先祖代々

の土地での狩猟や漁の権利を継続的に与えるという約束のもと、この 地域の部族と多数の条約を結びました。しかし皮肉にも同州はこの同意 を見過ごしてきました。100年以上つづいた征服と虐待、そして条約に よって保証されているべき漁権のための闘いが頂点に達した1960年代 後期から1970年代初期にかけては、それは無数の抗議という形で現 れました。

そこで連邦政府はこの問題に対してワシントン州を訴え、「ボルト判 決」として知られる1974年の判決により、全漁獲量の半分を先住民 部族に分配する条約が支持され、部族は州の衰退する漁場の共同管理 者となることが定められました。サークスアトル族だけでなく、スウィノ ミッシュ族とアッパー・スカジット族も、スカジット・リバー流域を故郷 と呼んでいます。連邦政府公認のこれら3つの部族はそれぞれ独自の 管理方法をとっており、地元の関連団体と連携することで、議論の余地 のある政策決定を引き起こす可能性があります。

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サークスアトルの訴訟は、市がダムを操業するための連邦許可(2025 年に期限切れ)を更新しようとしているときに起こされました。新たなラ イセンス契約は典型的に保証されているも同然で、その契約期間は30 年から50年有効となります。しかしこの機会によって、公衆からの関 心が寄せられることになりました。そして訴訟の「自然の権利」戦術と 同地方のサーモンとの深い結びつきのおかげで、この過程はシアトル・ シティ・ライトの環境政策に対して新たな監査をもたらしました。「こ

れは法的な根拠に基づいた行動であると同時に、公的な手続きであり、 市民への周知を通じて変革を起こし、企業に責任をもたせる目的もあり ます」と語るのは、部族の弁護士を務めるジャック・フィアンダーです。 それは、試す価値がありました。

ライセンス更新の締め切りだった4月28日の9日前、シアトル・シ ティ・ライトは最終許可申請書に魚道プログラムを含めたことを発表し、 それが訴訟の和解を導きました。そこで提案された「トラップ&ホール」 というプログラムは、サーモンを捕獲してトラックで運搬することで3つ のダムすべてを迂回させるものですが、その完全な実施までには最長 20年もかかる可能性があります。これはスカジットでサーモンが直面 する現在進行形の危機を解決するわけではありませんが、ダムの周囲 に魚道を設けるということがサークスアトル族の最大の関心だったから です。

シアトル・シティ・ライトの自然資源/水力許可部長を務めるクリス・ タウンゼンドによれば、この魚道プログラムの包括の理由の一端は「気 候変動にまつわる状況と下流に残されている生息地を考慮したうえで、 魚の回復に貢献するため、未来の生息数の維持の重要な一部となり得 るため。また、下流の部族のために漁獲できる魚をもたらすため」だと いうことです。

「たとえ和解や同意という形であっても、部族がサーモンを守るために このような方法で訴訟を解決できたことにより、自然の権利を真に擁護 する事例が将来的にも提示しやすくなります」とフィアンダーは言います。

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これらの魚の未来はいまだ、彼らが産む卵の ひと粒ひと粒にかかっています。

これがアメリカ合衆国において、自然の権利にまつわる訴訟としては2例 目でしかないということを考えると、このムーブメントはまだ初期段階で、法 的な判例を確立させようとしている最中です。そしてたとえ判決が出なかった としても、この思想は地域レベルの草の根のイニシアチブや部族共同体から、

州や国のレベルへと動きつづけます。このたびの和解がスカジット・リバー とサーモンにとって有益である一方で、人間が建設した頑固な3つのセメン ト問題は存在しつづけます。ライセンス更新の過程では、少なくとも下流の ダムを撤去すべきであるという要望にはほとんど反響がありませんでした。ス カジット・リバー水力発電計画のダムが近いうちに撤去されることはなくとも、 サークスアトルの訴訟はその体系を崩すべく入った小さなひびであり、やがて は川を再生する全水域にまで広がるものであることを願います。

「サークスアトル族はこの訴訟から非常に実用的な結果を得ただけでなく、 何が可能でそれをどのように実現するかを示しました」と述べるのは、セン ター・フォー・デモクラティック・アンド・エンバイロメンタル・ライツの事務

局長マリー・マーギル。「そのすべては、自然の権利にまつわる法律の発展に はもちろんのこと、他の部族だけでなく、先住民族ではない共同体にとっても、 かなり重要です。『これで自分たちにもたどるべき道が見えてきた』という希望 を与えてくれるからです」

ヤン・エバーハーターは、ジャーナリストであり、環境保護活動家であり、アウトドア 愛好家。『Freehub Magazine』のマネージング・エディターだった彼は、最近取得 した環境政策学修士号を武器として、現状維持にとどまらない挑戦をつづけている。

〔上〕スカジット・リバーはタイヘイヨウサケ属の5種すべて(チヌークサーモン、コーホー サーモン、チャムサーモン、ピンクサーモン、ソックアイサーモン)だけでなく、スティール ヘッドとコースタルカットスロートの故郷でもある。天候が涼しくなってサーモンが産卵を はじめると、川は腹を空かせた500羽ものワシ(アメリカ本土48州における最大の越冬 個体群のひとつ)を迎え入れる。 Edmund Lowe

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未来と 連帯して

たとえ抗議の要求が 満たされなくても、 それは永続的で 計り知れない結果を もたらす。

2023年1月半ばには、木の上で座り込みを行う気候変動活動家たち には、たくさんの仲間がいた。炭鉱の拡張に反対するため、採掘坑の 縁に推定3万人の抗議者が列をなした。その背後には、よりクリーン なエネルギー源が象徴的に佇んでいる。

〔前の見開き〕高所に組んだ「モノポッド(一本脚の物見台)」に陣取り、ドイツの村 リュッツェラートの破壊を阻止する気候変動活動家たち。このようないくつかの足場と ツリーハウスをロープでつなげたこの構造は、採鉱重機の行く手を塞ぐとともに、 活動家が逮捕を免れるのに役立った。

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文 レベッカ・ソルニット

写真 ニーナ・リジオ

リュッツェラートという村の住民が最近、強制退去させられました。同様 の町村はこれまで他にも十数件あり、農地も野原も樹木も道路も家屋も 納屋も、何世紀にもわたる農村生活が跡形もなく消えてしまいました。採 掘坑を拡大させつづけるため、道路は敷き直され、墓地は掘り起こされ、 死者は他の場所に埋葬されました。2018年には、住民が千年にわたって 崇拝してきた場所や聖ランベルトゥスに捧げられた教会が、貪欲な土地の 強奪のために粉々にされました。

今年1月リュッツェラートで約3万人の気候変動活動 家が、直径数キロメートルの採掘坑を削る重機の行く手 を、命がけで阻むという最近のビデオがあります。長期 におよぶ占拠者の多くは、匿名であることを希望して独 創的な仮名を使っていますが、なかにはグレタ・トゥーン ベリさんのような著名人に加え、クライマーやクラシック 音楽家の姿も見られます。ここ数年間で約千人におよぶ 献身的な人びとが村に移住し、みずから造った建物で生 活しながら、採鉱を阻止してきました。また何百人もの科 学者も遠くから声を上げ、この採掘計画は「エネルギー 安全保障」にはまったく無用なものであると訴えました。

気候変動活動を語るとき、「ネットワーク」について語 ることが多くありますが、ここでのネットワークはまさに 文字通りのものでした。木の上での座り込みやその他の 抗議行動に使われる三本脚の物見台やケーブルが、複雑 なクモの巣のように張りめぐらされ、活動家たちはその土 地を立体的に移動したり、非常に独創的な封鎖戦術とし たり、警察の手が届かない場所へ移動したり住んだりす ることができます。これは、ミシェル・オバマが「相手が 下へ行く(低俗になる)のなら、私たちは上へ行き(気高 く生き)ましょう」という有名な発言をしたときに考えてい たことではありませんが、クライマーたちはこの抗議の重 要な役割を担い、物見台に上がり、ワイヤーを渡り、ポー ルを登り、ロープで吊るされた足場やツリーハウスを往来 して、封鎖にあたりました。

撮影された多くの写真のなかに、いずれは水がたまっ て不自然な人造湖になるであろう巨大な坑の縁に立つ抗 議者たちの姿が写っているものがあります。彼らの前には、 地面を引き裂いて、地球に穴を掘る、チェーンソーのよう な歯車のついた巨大な掘削機があります。もしあなたが 未来を信じているのなら、遠い未来の誰かがこの人造湖 を見て、ここまで地面をえぐり出して短期的な利益を得た のかと、疑問に思うだろうことは、想像に難くありません。 これは、ドイツのデュッセルドルフのすぐ西にある巨大 な炭鉱が、40年ものあいだ農地と集落を滅ぼしながら拡 張をつづけてきた様子の一例です。炭鉱は現在、約20 平方キロメートルもの土地を占める、というよりは、剥 き出しにしています。抗議行動は土地と地域社会の破壊、 そして石炭採掘に反対しています。石炭の燃焼は気候変 動の原因となり、化石燃料から脱却してパリ協定の目標 を達成するというドイツの誓約を台無しにするものでもあ ります。

ここで採掘されるのは褐炭です。これは最も汚い化石 燃料のなかで、さらに最も汚く、最も低品質のものです。 誰も、とくに再生可能エネルギーへの移行を加速させる ための資産をもつドイツのような豊かな国が、使うべき燃 料ではありません。ある科学論文によれば、この炭鉱は 1ギガトン以上の潜在的な炭素排出量をもつ世界425の 化石燃料事業の1つに数えられていて、別名「世界の炭 素爆弾」とも呼ばれています。地面に掘られた坑は1つの 問題ですが、そこから採掘され、燃焼されるものは、さ らに大きな別の問題であり、爆弾そのものです。

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おーい、ライトはあるか? 活動家たちは通常、12時間のシフトをこなした。

こっそりおむつを替えることからも、その献身ぶりがわかる。

この炭鉱の名はガルツヴァイラー。破壊された町の1つに由来します。 気候変動活動家たちは、2020年以来リュッツェラート周辺の木の上や野 原、空き家や自分たちで造った建物に陣取り、すでにGoogleマップで簡 単に確認できるほど巨大化した炭鉱のさらなる拡張を阻止しようとして います。

近年の記憶にある他の多くの抗議行動と同様、リュッツェラートでの激し いデモも、すぐに目標を達成することはできませんでした。であれば、失 敗に終わった、何も成し遂げられなかった、と言うのは簡単で明白なことで しょう。しかし、そのような略式な判断は、直接的で即時的な結果に対す る期待、要求、願望からくるものであり、その前提にこそ、さまざまな問 題があり、ビジョンの失敗があり、問題の根源がある、と私は主張します。

多くの抗議行動は、非常に具体的な要求からはじまります。そのため、 多くの場合、その要求がすぐに応じられることはなく、まったく応じられな いことも多々あります。しかし、こうした抗議行動には、異なる種類の重大

な影響力があります。そのうちのいくつかは、間接的で遅発的な影響を探 して評価できることもありますが、根本的に評価できないこともあります。

かなり前のことですが、ベトナム戦争に抗議する初期の団体の1つ 〈ウィメン・ストライク・フォー・ピース〉という小人数のグループが、ホワ イトハウスで節度をもって抗議しました。そのときの1人は、次のように回 想しています。数年後、著名な小児科医で育児提唱者のベンジャミン・ス ポック博士が声高に反戦を訴えるまでは、自分たちの行動は徒労に終わっ たと感じていた、と。ところがそのスポック博士を反戦運動へと駆り立て たのは、何年か前に雨のペンシルベニア・アベニューに立つ小人数の女性 グループを目にしたことだったそうです。自分の行動が与える影響をすべ て知ることはできず、またわからないなかでも行動しなければなりません。 しかし感情は人から人へと伝わり、自分の理念や信念を貫くことで、他者 に希望と勇気を与えることができるのです。

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警察による指紋押捺を避けるため、リュッツェラートの活動家たちは指先を針で突き、その傷口を瞬間 接着剤で塞いで、グリッターを付けた。逮捕から48時間以内に告訴手続きを済ませなければならない カリフォルニアの検察側とは異なり、ドイツの関連当局は告訴の前に活動家を1週間拘置することができ、 「ギザの7日間」とも呼ばれている。だから、グリッターはしばらく剥がれ落ちないようにする必要がある。

原則に基づいて行動することは、種を蒔くようなものです。1本の木の 種を蒔いたとして、その木が実をつけるまでには何十年もかかります。セコ イアのような巨木となれば、実をつけるまで数百年もかかるかもしれませ ん。いま私たちが受けている恩恵は、多くの種まき人がもたらした直接的 な影響と間接的な影響からのものです。市民的不服従と奴隷制度廃止を 訴えたヘンリー・デイヴィッド・ソローから、ケニアのグリーンベルト運動 を率先してノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイまで、すでにこの 世を去った多くの先導者たちからです。彼らが蒔いた種から、私たちは彼 らの展望と決意の実を収穫しているのです。

もちろん、アクティビズムは、それが必ずしも目指すものでないにせよ、 より直接的な勝利を収めることもあります。近年私が目にした最も力強い 例は、2016年のサウスダコタ州スタンディング・ロックでの抗議行動でし た。数人のラコタ族の女性たちが集まり、そしてさらに多くのラコタ族の人 びと、ついには数千人の先住民と先住民以外の人たちが、原油の輸送を促

し気候変動の一因となるパイプラインの建設を阻止するために結集したの です。パイプラインは川の上流を貫通して川の環境を脅かし、スタンディン グ・ロック・インディアン居留地の住民の権利を侵害するものでした。

パイプラインは建設されてしまいました。直接的な結果だけを評価する ならば、この運動は失敗しました。しかしこの運動は、スタンディング・ ロック・スー族の若者や、その他多くの先住民族の若者たちに、希望と、 主体性と、力を呼び起こしました。そして多くの先住民以外の人たちに、 先住民族の歴史、権利、侵害行為について、さらには化石燃料産業にお けるパイプラインとその機能について教えました。それはまた、多くの異 文化間の同盟と友情を生み出しました。当時はニューヨーク・シティから友 人たちと車でスタンディング・ロックを訪れた無名の若い女性でしかなかっ たアレクサンドリア・オカシオ=コルテスが、アメリカ連邦議会議員に立候 補し、当選し、気候変動問題を訴える力強い代弁者となるきっかけとなり ました。

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アクティビズムに関して直接的な結果のみを評価することに、私は しばしば疑問を抱いてきました。前記した話は、重要なことの多くは 即時的なものでも直接的なものでもないことを人びとに認識してもら うための話として、私が以前に話したものです。しかしリュッツェラー トでの最近の衝突を熟考するうちに、私は抗議行動を直接的な観点 からのみ評価してはいけないことを思い知らされました。私たちは彼 らが抗議しているものに対して同じことをすべきです。間接的な結果 を考慮するならば、自然界の搾取の多くが非常識で採算が取れない ことが認識できます。パイプラインも炭鉱もそうであり、私たちが気 候への悪影響を知りながらも無謀に燃やしつづけてきた炭素にも当て はまります。

企業が得ているもの、というよりもむしろ法律や規制を設け、施行 する側が企業に与えているものを表す言葉があります。「外部化され たコスト」です。言い換えれば、私たちはその企業と株主に利益を与 え、コストを分散させることで、採算が取れるようにしているのです。

たいてい、それは地元地域、環境、気候、そして地球に対するコス ト、つまり代償です。化石燃料の採掘や燃焼、乱獲漁業、労働者搾 取、工業型農業の追求による土壌破壊や水質汚染などです。

多くの場合、利益は短期的なものであり、喪失は長期的なもので あるため、価値をどのように見積もるかは、時間の尺度も重要な要因 となります。外部化されたコストの別の言葉は、利己主義です。これ は私にとっては好都合だけど、他人や未来の人にとってはお気の毒さ ま、という態度です。『ザ・ガーディアン』は10年以上前にこう報じま した。「世界の大企業が引き起こした自然環境への汚染やその他の損 害の代償は、もし彼らが金銭的責任を負った場合、その利益の3分 の1以上を帳消しにするだろう」

低品質の石炭を燃やすことで気候におよぼす悲惨な影響を査定す るならば、地面からえぐり出されるのは利益でも保障でもなく、損失 と破滅です。何世紀にもわたって耕されてきた農地が失われるのです。 この場所の歴史と同じ長さの未来を思えば、何千年にもわたって耕 作できる土地を失う代わりに、汚い燃料で短期的に利益を得ること は、経済学的に間違っていることがわかります。

つまり、一切の採炭の中止を求める抗議者たちは、一切の採炭の 中止という、非常に具体的で明確なことを要求しているのです。そし て彼らは原則に基づく行動をとっており、その原則とは、間接的な影 響と外部化されたコスト、つまり長期的な健康を考慮し、目先だけで なく全体像を把握するということです。それは、連結性、不可分性、 連帯の原則、すべての生命との連帯、遠い未来との連帯、また北半 球で引き起こされた気候変動の影響によって南半球に住む人びとが 苦しむことのない権利を守る連帯、という原則です。

現場で命がけで闘う人びとも、ドイツをはじめ世界各地から支援す る人びとも、そうしたすべての活動家たちは世界的な運動の一部です。 それは民営化された私益よりも地球と生命に価値を見出し、四半期 ごとの利益よりも長い時間を念頭に置いた運動です。それは、力強さ、 多様性、精巧さ、影響力を増しつづけています。そうした彼らの姿は、 私自身の決意を強め、理解を明確にしてくれます。そう感じているの は、私だけではないはずです。今年はじめにリュッツェラートで起こっ たことは、数々の種を蒔きました。その種を探し、水を与え、さらな る種を蒔きましょう。気候変動活動の勇気ある行動から、可能性の 庭が生まれるかもしれません。

作家、歴史家、活動家である レベッカ・ソルニット は『Orwell's Roses』

『Recollections of My Nonexistence』『Men Explain Things to Me』

『Hope in the Dark』など、20冊以上の著書がある。最近、「Not Too Late」

と題する気候変動プロジェクトを立ち上げた。

オーストリアのウィーンを拠点とするアメリカ人ビジュアル・ジャーナリストの ニーナ・リジオ は、人間と自然界のつながりについて語ることを生きがいとし、 長期的なフォトエッセイや語りを重視したジャーナリズムのプロジェクトで、

コミュニティやサブカルチャー、環境問題や社会変革における回復力を模索する。

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自分の行動が与える影響をすべて知ることはできず、また わからないなかでも行動しなければなりません。しかし 感情は人から人へと伝わり、自分の理念や信念を貫く ことで、他者に希望と勇気を与えることができるのです。

〔左〕抗議活動の窮地を切りぬけるため、 活動家がロープのなかほどに移動すると、 クレーン車を待てずにしびれを切らした 警備員は彼をつかまえようと何度も ジャンプ。思わぬドタバタ劇が繰り広げ られた。

〔下〕逮捕時に警察から不当な扱いを 受けた場合、報道陣のカメラを直視して 声を上げるよう訓練された気候変動 活動家たち。

より良い

ビジネスのあり方

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パタゴニアの企業理念ディレクターであり『The Future of the Responsible Company: What We've Learned from Patagonia's First 50 Years(レスポンシブル・カンパニーの未来: パタゴニアがこの50年で学んだこと)』の共著者、ヴィンセント・スタンリーとの対話

2012年、私たちはイヴォン・シュイナードとヴィンセント・スタンリーによる、パ タゴニアの回顧録であり、自然界に対してより良い行動をとるための企業向けガ イドブック『レスポンシブル・カンパニー』を出版しました。そして、パタゴニアが 他とは異なるビジネスを展開して50年を迎えたいま、同書の第2版を出版します。 ヴィンセントが語るように、パタゴニアは多くのことを学んだからです。気候危機 が加速するなか、環境と社会への影響を必須とする基盤の必要性は、かつてな いほど重要です。

さい。

私は20歳で、請求書のタイピスト、簿記係、梱包係として働き はじめました。サーファーではなかったので、波がいいときは、私 だけがオフィスに残って電話に出たり、取扱店からの注文を受け たりしていました。入社して2か月ほど経ったころ、イヴォンが私 の肩をたたいて、「今日から営業部長だ」と言いました。「それって どういう仕事?」と尋ねると、イヴォンは肩をすくめて、「やってる うちにわかるさ」と言いました。その年、パタゴニアはシュイナー ド・イクイップメントの兄弟分としてスタートしました。

それから約20年間、卸売り担当を2回ほどやりました。でも天 職はライターなので、40歳を過ぎたあたりから、そろそろ本腰を入 れなければと思い、役を退きました。そのほか、初代の環境担当 者の採用活動を指揮し、長年製品コピーを書き、編集部をまとめ、 マーケティングに携わったこともありました。この9年間は、企業 理念ディレクターを務めています。社員を少人数のグループに分け て、会社の歴史や価値観、そしてそれが日々の業務のなかでどの ように活かされているのかについて話します。理念というのは面 白い言葉ですよね。本物の神学者である友人に、「『企業理念ディ レクター』という肩書なんだけど、自分がその役職を名乗る資格が あるかどうか疑わしいんだ」と尋ねたことがあります。彼には「い

や、大丈夫。僕だってイェール大学の経営・環境センターのレジデ ントフェローで、その他の学校では客員教授として大学院生にデザ インと環境科学とビジネスを教えているからね。それにBコープ運 動を支援し、自分の価値観に沿ったビジネスを展開したいと考える 人たちと話をしたりもしているんだから」と言われてしまいました。

現在の役割は、『レスポンシブル・カンパニー』 の第2版の共著者ですね。なぜ第2版を書こう と思ったのですか。

『レスポンシブル・カンパニー』が世に出てからの10年間、私 たちは環境的および社会的慣行を改善する方法について、より多 くを学びました。地球の健康を回復させるために何が必要なのか、 というより明確な展望があります。そしていまこそ、それについて パタゴニアの顧客である方々や同じ価値観をもつ他企業と対話す るときだと思ったのです。

パタゴニアは、活動家を支援する企業から、活動家の企業へと 進化しました。そして、たんに環境への悪影響を削減するだけで なく、パタゴニア プロビジョンズやリジェネラティブ・オーガニッ ク農業を通じて、自然から得たものと同じだけ自然に還元できる ことを私たちは発見しました。パタゴニアの新しい存在意義と所有 形態はそれを反映したもので、この50年にわたる予想外の発見と 目的意識をもった行動の集大成だと言えます。

1974年頃にパタゴニアの初の店舗「グレート・パシフィック・アイアン・ワークス」 で撮影された、パタゴニア創業者のイヴォン・シュイナードと当時の営業部長 ヴィンセント・スタンリー。カリフォルニア州ベンチュラ Gary Regester

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パタゴニアではさまざまな仕事をされてきました が、どのような役割を担ってきたのか教えてくだ
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〔上〕ウェアの前に、クライミング用ギア があった。1965年にシュイナード・

イクイップメントが創業してまもなく、 ピトンは同社のベストセラー製品となった。

しかしそのピトンが取りかえしのつかない ほど岩を変貌させているとわかった イヴォンとビジネスパートナーのトム・ フロストは、岩を傷つけることなく容易に 回収可能なアルミニウム製チョックへの 切り替えに踏み切った。 Gary Regester

〔下〕パタゴニアの研究開発施設 「ザ・フォージ」での、あるスキー用 ジャケットの製作のはじまり。 カリフォルニア州ベンチュラ

Tim Davis

本書のなかで、「パタゴニアの歴史に おいて、自分たちが知らず知らずのう ちに可能性の概念を変えてしまったい くつかの決定的な瞬間」について語ら れていますが、具体的にはどのような

ことがあったのか、いくつか例を挙げ ていただけますか。

シュイナード・イクイップメントが、みずから発明 したピトンが岩を傷つけているとわかり、ピトンの 代わりにチョックを導入したとき、彼らはこれほど早 く、しかもこれほど多くのクライマーが、この変化 を受け入れるとは思ってもみませんでした。

ベンチュラ・リバーを死んだものとしてコンクリー ト詰めにするべきだと役人が主張する市議会の集会 に出席したとき、それに反して川をなんとか生きか えらせるべきだと主張した生物学専攻の若い学生の 姿に、私たちは心を動かされました。

私たちはこの青年に電話とデスクと郵便受けを与 えました。それがきっかけで、パタゴニアは草の根 環境保護団体に毎年売上の1パーセントを寄付する ことになりました。

従来のコットン栽培がいかに有害であるかに気 づいたとき、オーガニックコットンに切り替えました。 それがサプライチェーンを再開発し、再構築するこ とになるとは思いませんでした。

ブラックフライデーに「このジャケットを買わない で」という新聞広告を掲載したとき、私たちは一年 で最大の書き入れ時を台無しにするのではないかと 懸念もしました。しかしこの広告は「組織的運動」と して捉えられ、より責任あるデザイン、製造、消費 を呼びかける広告が、これほど強く響くとは思いま せんでした。

パタゴニアは2012年にフェアトレー ドUSAとの協働をはじめました。パ タゴニア社内や他のアパレル企業で、 それ以来、どのような成長が見られま したか。

まずは10製品をフェアトレード・サーティファイ ドの工場で製造しました。いまではほぼすべての製 品がこれらの工場で作られています。フェアトレー ド・サーティファイドの工場で働く従業員には、ブ ランドから第三者預託を通じて賞与が支払われま す。お金の配分方法は選任された委員会が決定しま す。たとえば、現金で支払うことも、従業員の通勤 が楽になるよう自転車で渡すこともあるといった具 合にです。この成功を見て、他企業もあとにつづい てくれています。

2007年は、フットプリントの立ち上 げに携わりましたね。パタゴニアが使 用する素材やパタゴニア製品を製造す る労働者を含む、サプライチェーンの 調査について報告したものです。これ はパタゴニアが恐れていたことを発見 することにもなりましたが、そのよう な事実を公表するのは困難でしたか。 サプライヤーを遠ざけてしまうことを懸念しました。 それで、たとえばビジネスパートナーの廃水処理の 問題や、過熱した工場の床の問題などについて書く と疎まれる心配があるため、掲載前に直接話をしま した。話し合いは決して容易ではありませんでした。 でもその結果、本格的な問題の緩和や改善につな がることもありました。私がとくに驚いたのは、パタ ゴニア社内の反響でした。私たちが学んだことを全 社員と共有することで、パタゴニアの衣類がどのよ うに作られ、どのような課題があるのか、組織全体 の洞察力が高まりました。

仕事をより面白くするためにしてきた 挑戦は何ですか。

私が興味を惹かれるのは、パタゴニアがどのよう にしてより大きな課題に取り組み、それに対処する 能力を高めてきたかということです。これはデザイ ンや製造だけでなく、パタゴニアのすべての業務に 当てはまります。たとえばネバダ州リノの配送サー ビスセンターが手狭になったとき、業務と財務の同 僚たちがテネシー州からペンシルベニア州まで車を 走らせながら、第二の配送センターの建設場所を 探しました。同乗した不動産業者は、27,870平方 メートルの倉庫を設置するには未開の農地や林地が 最適だと言いました。しかし「それはできない」と断 りつづけた我が社員たちは、最終的にはペンシルベ ニア州ウィルクス・バリの非営利団体とパートナーを 組み、かつての炭鉱の埋立地に東海岸配送センター を建てることになりました。

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炭素排出に着目することは重要 ですが、そのために目をそらさな ければならない問題が多すぎな いでしょうか。脱炭素化は、実 際のところ企業の行いを一掃す

るための良策なのでしょうか、そ れとも注意をそらす煙幕なので しょうか。

煙幕ではありませんが、脱炭素化は解決策 のほんの一部で、オフセットはさらに些細な ものでしかありません。たとえ経済が脱炭素 化されても、私たちが水不足や生息地の喪失、 種の絶滅に取り組まなければ、私たちは地球 を失うことになります。私たちは、より効率 的に資源を利用し、ある企業の無駄が別の 企業の原料になるような、地域循環型の経済

を構築する必要があります。どんなに豊かな 世界でも、十分ということは決してありませ ん。私たちは、より健全な方法でニーズを満 たす必要があります。電気自動車は素晴らし いものですが、地元を自転車や徒歩で移動で きるようになれば、もっと理想的です。

私たちは自然の一部であり、一市民であ り、アルド・レオポルドの言葉を借りれば「生 物共同体の一員」です。私たちは「環境」と いうもののなかで生きているのではありませ ん。私たちは故郷である地球に住んでいるの です。もっと細かく言えば、頭上10キロメー トル、海面下10キロメートル足らずしかない 生命圏で、他の種とともに生存しているので す。限界があるからこそ、その美しさが際立 つのです。

〔右〕製造段階で回収された端切れから、 パタゴニア製品に使用するリサイクル・ コットンの糸を製造する、私たちの サプライチェーンのパートナー。 メキシコ、メリダ Keri Oberly 〔下〕少なくとも3人の持ち主にこよなく 愛されて、アルゼンチンでは複数の伝説 的なクライミングにも耐えたナノ・パフ・ プルオーバーが、その功績に値するパッチ の勲章を受けたビフォーアフターの姿。  Tim Davis

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パタゴニアの社内託児所「グレート・パシフィック・ チャイルド・ディベロップメント・センター」に通う 息子のフィンとともに出勤する、マーケティング・ オペレーション・マネージャーのカイル・オルソン。 カリフォルニア州ベンチュラ Tim Davis

最近の環境に関する勝利は、パタ ゴニア製品がおよぼす環境負荷の 低減に役立っていますか。

私たちが長いあいだ取り組んできた2つの 重要な領域で、大きな進展がありました。1つ は、「永遠の化学物質」を耐久性撥水加工から、 ウェアの機能性をほぼ失うことなく取り除いた ことです。ゴアテックス ブランドが10年をか けて研究とテストを行い、PFCに依存せずに、 アウターウェア用として効力を発する初の防水 性/透湿性メンブレンが実現しました。これは 重要なことです。もう1つは、私たちが長年に わたり取り組んできた、化繊のマイクロファイ バーの問題です。マイクロファイバーは洗濯中 に抜け落ちて、自治体の汚水処理施設のフィル ターをすり抜けて海に流出し、鳥や海洋生物 に摂取されてしまうのです。サムスン社は、抜 け落ちた繊維を逃さず捕らえて処理する洗濯機 の開発に挑戦し、急速に向上するその技術に は競合他社も追随しています。同時に、私たち はマイクロファイバーの影響を削減するための、 より良い素材の技術と構造の探究をつづけます。

パンデミック後、ビジネスの役割 はどのように変化したのでしょうか。

つねに革新を追求する性質であるパタゴニア は、効率や利益に焦点を絞った企業よりも、よ り柔軟な回復力を備えています。しかし、革新 を生み出す企業文化は、心地よいコミュニケー ションや仲間意識が頼りです。昼休みに一緒に バイクライディングに行ったり、終業後に託児 所へ子どもを迎えに行ったり、水曜の夜にパイ ン・マウンテンでキャンプをしたり。パンデミッ クのあいだ、私たちはそうした私たちの文化に 非常に大切な部分を控えていたので、いまはそ の回復に取り組んでいるところです。

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「その主体性の感覚は、楽観主義よりも ずっと大切なものです。簡単だと思うから、 あるいは可能だと思うからではなく、 やらなければならないことだから 変化を起こすのです。」
ヴィンセント・スタンリー

パンデミック以降、企業の責任は変わっ

責任は変わっていませんが、より明確に認識できるよ うになりました。企業も、行政や市民社会と同じように、 慢性的かつ加速度的に進行する環境危機や社会危機 に対応する、あるいは最低でもみずからの行いを一掃 する義務があります。いまこそ、ミルトン・フリードマ ンの思想をくつがえし、その代わりに、ビジネスの唯一 の目的は人間の衣食住のニーズを満たすことであると言 うべきでしょう。そして同時に、人間が奪った分だけ地 域社会や自然界に還元することでもある、と。

10年前と比べて、より責任ある企業の

はい、確実に増えました。Bコープ運動は非常に盛 んです。旧態依然とした企業は、地球を破壊している という悪評や、それにつづく訴訟を心配しています。若 い人たちは、かつてある大学の学部長が憤慨して私に 言ったように、悪い企業では働きたくないと主張して います。

私の望みは、民主主義が台頭し、不平等は減少して いること、人類を含む自然界が事態を回復し、繁栄で きるような生計の立て方を学んでいる、と言えることで す。私たちはパタゴニアで、健全な生き方や働き方につ いてさらに多くを学び、発見したことを分かち合いたい と願っています。

ときどき、楽観主義者なのか悲観主義者なのかと聞 かれることがあります。私はその中間だと思います。私 が知るかぎり最も悲観的なのはイヴォンで、彼は自分を 「ドゥームバット」と呼んでいます。しかし、それでも彼 は自然界を守り、自然界を元の姿に戻すために正しい と思うことをするのを止めませんでした。その主体性の 感覚は、楽観主義よりもずっと大切なものです。簡単だ と思うから、あるいは可能だと思うからではなく、やら なければならないことだから変化を起こすのです。

〔左〕漁網のリサイクル企業〈ブレオ〉 のために網を分類する、「カコ」こと クリストファー・クレモとジャクリーン・ サングエサ。廃棄されて海を汚しかねな かったこのような網はネットプラス素材 にリサイクルされ、ウェアなどの製品に 使用される。チリ、サン・ヴィセンテ  Jürgen Westermeyer

〔右〕ネットプラス・リサイクル・ ナイロンから作られたブレオ製の スケートボードを持ち上げる ヴィンセント・スタンリー。  Tee Smith

『The Future of the Responsible Company』

の日本語版は2023年12月 ダイヤモンド社より刊行予定。

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たのでしょうか。
数は増えましたか。
将来『レスポンシブル・カンパニー』の 第3版では、何が伝えられることになる でしょうか。

トレイルを

拓く

新鮮な空気を 吸うための苦労。

文 アリエラ・カーペンター

写真 フォレスト・ウッドワード

イヴ・デイヴィスは泣きそうだった。雪と汗で湿ったランニング用ベスト

の背中のメッシュポケットから誇らしげに取り出された、つぶれたクロ ワッサンを差し出されたとき、彼女がユタのグランデュアー・ピークの 山頂に着いてから24時間が経っていた。

ワサッチ山脈の上空が青く輝く2月の午後2時半を 回るころ、デイヴィスは白とオレンジ色のドーム型テント

のすぐ外に立ち、息を切らせたランナーたちとハグやハイ タッチを交わしながら、給水のサポートをしていた。誰も が風にさらされて疲れきり、そして幸せそうだ。トレイル ヘッドから5キロメートルの距離(標高差800メートル 以上)にあるこの丸みを帯びた小さな山頂は、ソルトレイ

ク・シティから近く地元では人気のスポットだが、標高の 高さと開放感のため、都会の喧騒からは遠く感じられる。

北と東には雪をかぶった峰々が連なり、西にはソルトレイ ク・シティの街がスモッグの下に沈んでいる。

デイヴィスと彼女のチームは、昨日の午後4時に到着 した。20キログラム以上ある荷物を担ぎ、1メートル以 上積もった雪のなかをえっちらおっちらと登ってきたのだ。

それからテントを設営し、発電機を稼働させ、先頭ラン ナーのヘッドランプの微かな光が下の方のスイッチバック に見えはじめるころに準備が整うよう、時間調整をする。 スタッフ歴7年というベテランのデイヴィスは、このグラ ンデュアー・ピークの「ランニング・アップ・フォー・エア (RUFA)」の山頂エイドステーションの運営を完璧にこな している。

このイベントの趣旨はシンプルだ。参加者は6時間、 12時間、または24時間かけて山を登ったり下りたりし て、大気汚染と闘うための資金を集める。そしてこのラ ンニングレースは、たいていスモッグが最もひどくなる真

冬に開催される。2012年、地元のランナーであるジャ レッド・キャンベルが個人的なプロジェクトとしてはじめ たこのイベントは、いまでは雪だるま式に増え、4つの州 で毎年6回のイベントが開催されるまでになった。とは いえ、RUFAはレースというよりも、仲間や家族との再 会を楽しむような控えめな雰囲気を保っていることに変 わりはない。

事実前述のクロワッサンは、男子の先頭を走っていた ケヴィン・キャントウェルが、地元のお気に入りのパン 屋さんからデイヴィスに差し入れたものだ。この時点で、 キャントウェルもデイヴィスもそれぞれのゴールを目前にし ていた。キャントウェルは10往復と半分の、約105キ ロメートルを走っている。何枚も重ね着したデイヴィスは、 派手なナイロンのインサレーションと髪に埋もれたわずか な隙間から笑顔をのぞかせていた。真冬の標高2,400 メートル以上の吹きさらしの山頂に夜通し立っているのは、 それ自体が別の類の耐久レースだ。「座ると眠たくなっ ちゃうから、成功の秘訣はただ座らないことね」と彼女は 言う。そして言うまでもなく、そんなときにありがたいの はクロワッサン。デイヴィスはそのクロワッサンをさらに5 つにちぎり、1つは自分への、残りはエイドステーション のボランティア全員へのご褒美として分けあった。

アリエラ・カーペンター はパタゴニアのトレイルランニング& ハイク部門のマネージング・エディター。

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山頂に近づくランナーたちは、テイラー・スウィフトやシャキーラから ロバート・アール・キーンまで、さまざまな音楽で迎えられる。オレンジ 色のジャケットを着たスタッフの一員であるイヴ・デイヴィスは、山頂 エイドステーションでかけるプレイリストを10代の娘からもらった。 ユタ州グランデュアー・ピーク

〔前の見開き〕真冬のユタのワサッチ山脈でレースを開催するため には、たくさんの挑戦をともなう。まだ誰も足を踏み入れていない、 雪に埋もれたコースをたどるのもそのひとつ。

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標高2,400メートル以上の清浄な冷たい空気。冬の山を走るのは、 ソルトレイク・シティのスモッグから脱出するための一手段である。

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ソルトレイク・シティの大気汚染はひんぱんに「逆転層」という形で発生する。上層の温かい空気が冷たい (しばしば汚染濃度の高い)空気を下層の盆地に閉じ込めてしまう現象で、そのスモッグは数週間にわたって 蓄積されることもある。ユタ大学教授のジョン・リンは、観測と大気モデルを利用して汚染物質を追跡し、 世界中の都市汚染物質に関する研究に貢献している。

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〔上〕やわらかくもパンチの効いた雪の なかを、山頂に向かって走るクレア・ ギャラガー。ユタ州グランデュアー・ ピーク・イースト・トレイル

〔右〕レースの合間に休憩モードの ルーク・ネルソン(左)と、レースの 最中に責任者モードのジャレッド・ キャンベル。

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〔上〕2023年にグランデュアー・ピークで 開催された「ランニング・アップ・フォー・エア」 の男子12時間部門で、8往復を達成して優勝 したブレイン・ベニテス。総計すると、走行 距離は約74キロメートル、登高差は約6,585 メートル。

〔右〕デイヴィスがグランデュアーの山頂に いるあいだ、ウルトラランナーでありエイド ステーションのベテランであるロック・ホートン は麓にとどまり、アツアツのピエロギとスポーツ 飲料の用意を絶やさない。

〔次の見開き〕地元の大気汚染がいかに悪化 していることか。ユタ州ソルトレイク・シティ

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1,300

語り手と写真 マルケータ・デイリー

聞き手と文 モーリー・ベイカー

マイル

どちらがより大切なのでしょうか。パンデミック時代の一時休業 を利用して、マルケータ&デイヴィッド・デイリー夫妻は、人生

デイリー夫妻は5歳に満たない3人の子どもを連 れて、2022年3月にカリフォルニアからパシフィッ ク・クレスト・トレイル(PCT)を歩きはじめ、1,300 マイル(約2,000キロメートル)を踏破しました。楽 しみを見いだすことができたか、という問いに対す

る彼らの答えは「イエス」。旅を楽しめただけではな く、子どもたちはクマを追い払えるくらい声が大きい こと(少なくとも彼らの持論では)、子どもたちのエ ネルギーに限界はないことなど、いろいろな発見が ありました。5か月にわたるPCTの旅で、デイリー 家はおそらく何百人ものハイカーを目にしましたが、 最初の1週間が過ぎたころには、ついに自分たちだ

〔左〕デイリー家がパシフィック・クレスト・トレイルを歩き はじめたのは、2022年3月16日のこと。5歳に満たない 3人の子ども、セコイア、ジョシュア、スタンダを連れて、 1日約13キロ(最長27キロ)メートルを歩きつづけた彼らは、 5か月後には総距離2,092キロメートルを踏破した。

けの空間を(普段、マルケータの両親と一緒に暮らし ている家以外で)もつことができたと感じました。デ イヴィッドがガーデニングをしながら家族と定住でき る土地を手に入れることを夢見る一方で、マルケータ はハイキングの旅をつづけたいと思っています。けれ ども、トレイルで子育てをしたいという強い願望を除 けば、デイリー家はどちらを選ぶことも可能です。ハ イキングをするお子様をおもちの方は、ぜひページを めくって、彼らのさらなる洞察に触れてください。同 じことに挑戦すると決めたあなたには、「ハッピー・ トレイル!」の声援を送ります。まだ幼い子どもたち も、いつか感謝する日が来るでしょう。

〔上〕旅の出発点。この先カナダとの国境まで約4,265キロメートル のこの場所に、3人の子どもと立っていることを想像してほしい。 マルケータ・デイリーは、家族とともに、ここで両親に別れを告げた。 車から降りる前、「念のためここで1日だけ待っていようか」と父親に 聞かれたとき、彼女はきっぱりと断った。彼女たち一家には少なくとも 挑戦する意義があると信じていたから。カリフォルニア州カンポ

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我が家をもつことと、我が家の定義を自由に決められること。
におけるこの問いをじっくりと時間をかけて探ってみました。

最悪の日でもあきらめない

家族で日帰りハイキングに行くのは面倒なもの。子どもたちは一 斉に泣き出すことが多いし、お母さんだって泣きたくなるから。で はそれが本当なら、セコイア(4歳)とジョシュア(3歳)とスタン ダ(1歳8か月)を連れて2,000キロメートルも歩きとおすことな ど、果たして可能なのでしょうか。マルケータもPCTでの最初の 1週間は無理だろうと思っていましたが、7日目に魔法が訪れまし た。家族全員が新たなリズムに慣れてきて、子どもの世話が家に いるときよりも楽になってきたのです。「スルーハイクでは、余計 なことがどんどん取り払われていきます」とマルケータ。「デイハイ クは慌ただしくて、子どもたちも慣れるのに苦労するけど、そうい う煩わしさがないの」 PCTには幼児に悪影響をおよぼすものが なく、子どもたちはまわりにあるものの使い道をいくつも発見しま した。岩はお皿にもジャンプ台にもなり、木は休憩所や登る遊具

として、そして小枝はすべてに利用されました。想像力をかき立て られ、その一方で、つねに実用性と集中力も求められました。子

どもたちは日陰や夜の寝床になりそうな場所を探すために力を合 わせ、家族がひとつとなって動くために手伝うようになりました。

そして変化は親にも訪れました。デイヴィッドによると、トレイル で過ごす時間は大人にとって癒しであり、つきまとう不安を頭か ら追い出して他のことを考える余裕ができ、自分の子育てに対し て自信がつく場だそうです。マルケータが発見したのは、頭に浮 かんださまざまなリスクに対処する方法でした。そして、それなら いっそのことできるかぎり遠くまで歩いてみるのには価値があると 考えました。そしてそのとおりに、彼らは5か月のあいだ、多いと きは1日に27キロメートル(!)も歩いたのです。

〔上〕はい、チーズ。えっ、チーズ持ってきたの? ゴーダチーズは入りきらなかったんじゃないの?

〔下〕PCTでは自分のことよりも、お互いの面倒をみる ことが大切。意外にもおとなしくしているジョシュアの 髪の毛から、食べかすや松葉を落としてあげるスタンダ。

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5歳にもならない子どもにとってはどんな小川も大河のように見えるけれど、靴下を濡らさずに渡るには ジャンプが必要。ハイ・シエラのある場所で、デイヴィッドの手を借りて着地を狙うセコイアとジョシュア。

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お菓子にやきもきしない

食料の調達には手間がかかり、加工食品を選 びがちでした。食料の補給は4~5日おきに、デ イヴィッドがトレイルを離れてカロリー豊富な加工 食品の買い出しに行きました(デイヴィッドは食 料係で、マルケータは精神的な障壁を乗り越えて 家族全員を助ける戦士でした)。真ん中の子ジョ シュアの大好物は、キットカットとペロペロキャン ディー。スペース節約のため、かさばる普通のパ ンは持って行かれず、みんな否応なしにトルティー ヤを食べつづけました。トレイルの南寄りの区間 に舗装道路と交差する地点があり、そこでピザの 配達を注文することもできましたが(マルケータが 11年前にはじめて歩いたときとは異なり、PCT

の現在の電波状況はわりと良好)、その誘惑は克 服。全体的にお菓子や保存料入りの食品を口に することが多く、果物や野菜を食べることは稀で した。つまり、多くの子どもにとっては夢のような

食生活です。飲料水については、平均約30キロ メートルごとに水を汲み、次の水場までは数日か かることもしばしばでした。

木があれば遊具なんていらない。 マルケータの日記には、次のように 書かれている。「これはシンプルな 暮らし。高級なものは何も必要ない。 寝る場所さえあれば、あとはすべて しかるべき場所に落ち着く。制御 すべきことも判定すべきこともなく、 正直言って、私たちが真に自分自身 でいられると感じる場所はここだけ。 ちょっとクレイジーで、リアルで、 ただ人間らしく。子どもたちに見せる べき何かがあるとしたら、それはこの 場所だ。たとえ束の間の訪問であった としても。自然は私たちの故郷だから。 それは私たちがやって来た、そして 必ず帰る場所だから」

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〔上〕満員のテント。泥だらけの顔に笑みを 絶やさない、仲良し3人組のジョシュア、 スタンダ、セコイア(左から右へ)。

〔右〕旅の84日目に2歳の誕生日を迎えた

スタンダ。スタンダが砂漠のどこかでなくした 小さな馬のおもちゃを、デイリー家がトレイル

上で偶然出会ったハイカーがバックパックから 取り出してくれたこともあった。顔に日焼け

止めを塗り、シエラ・ネバダのマザー・パス

からの景色を眺めながら誕生日を楽しむ スタンダの姿。そしてこの写真の反対側には、

じつは手に汗握るガレ場下りと雪に覆われた トレイルが。

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トレイルを歩きはじめて101日目は、執拗な蚊に はじまり、今回の旅で唯一の雨に見舞われて終わった。 小雨ながらもしっかりと降りつづいたおかげで虫は 寄りつかず、早めにキャンプを設営するあいだ、 子どもたちは2時間も遊ぶことができた。

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歌い、 飛行機のように飛び、 また歌う

彼らはどうやって子どもたちを歩かせつづけたので しょうか。そして当の本人たちはどうだったのでしょ う。彼らは飛行機や馬、そしてレーシングカーになっ たつもりでトレイルを駆けめぐりました。とくに辛い ときは、マルケータとデイヴィッドが野獣のふりをし て、トレイルの先へとセコイアとジョシュアを追いか けました。マルケータのバックパックに担がれている ことの多かった末っ子のスタンダには、丸一日「ジン グルベル」を(すべての歌詞を知っているわけではな かったので即興で)歌いつづけたこともあるそうです。 次の休憩地点にたどり着くのに、ごほうびとしてとっ ておきのお菓子が使われたこともあります。5か月間、 食料が尽きないようにペースを維持する必要もありま した。昼寝をしたり、雲を眺めて立ち止まる時間はな かったそうです。

〔上〕夕方、標高約4,020メートルのフォレスター・ パスを下っている途中、サンカップ(太陽によって 解けた雪の表面がカップ状の凸凹になる現象)と ペニテンテ(サンカップがさらに解けて剣状になる現象) の合間を果敢に突き進むセコイア。たいていのハイカー は、解けた雪に足をとられながら歩く労力を避けて 朝のうちに横断する。デイリー家の子どもたちに とっては凍結したトレイルの方が危ないため、雪が やわらかくなるのを待ってから出発した。

〔下〕マルケータが思い出すのは、毎日欠かさず ジョシュアと手をつないで800キロメートル以上 歩いたこと。暑さで汗ばんだ手が滑ったり、藪に 覆われたトレイルを一緒に横歩きして、手や指が しびれたりしたこともある。ある日、ジョシュアが ついに自分から手を放した。2,000キロメートル もの道のりのなかで、小さな勇気(とこのギョロ目顔) が芽生えたのだ。

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紫色の怪物に食べられちゃった。カーン・リバー上流の どこかで、魔法のようなキャンプ地を満喫する子どもたち。

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残してもいいのは足跡だけ

デイリー家は想像以上の距離を歩きましたが、 ジョシュアのぜんそくのため、オレゴン州でスルー ハイクを中止しました。PCTの旅をサポートしてく れた小児科の医師とはひんぱんに連絡を取りあっ ていましたが、最終的には山火事が原因で、トレ イルから離れることを勧められたのです。トレイル を去って普通の生活に戻るのは、どんな心境だっ たのでしょうか。大人たちは1か月ほど違和感が つづいたそうです。マルケータは落ち込んですぐに トレイルが恋しくなり、デイヴィッドは社会の居心 地の悪さを感じました。そこには、自分たちが経 験したばかりのことをうまく言い表せないもどかし

さがありました。その一方で、子どもたちの切り替 えは自然でした。トレイルで過ごした日々も、戻っ てからの日常も、子どもたちにとっては等しく現実 なのです。マルケータとデイヴィッドは、最年長の セコイアはPCT以前の生活のことを覚えているも のの、年下の2人の頭にある記憶はPCTからは じまっているらしいことに気づきました。真ん中の 子ジョシュアはまだ4歳ですが、「PCTで……」と 話しはじめることが多いそうです。

モーリー・ベイカーは、パタゴニアのスポーツ ウェア&キッズ部門のマネージング・エディター。

〔上〕PCTで家族が直面した課題は、ハイキング ではなく休憩だった。子どもたちが我を忘れて しまうことがあったからだ。マルケータと デイヴィッドは、目の届く範囲内であれば、 子どもたちを好きな場所で遊ばせるようにした。 けれども、たまに姿が見えなくなるので、当然、 親は不安に駆られる。子育てという終わりのない 物語のなかで、つねに子どもたちを自由にさせ ながら、いつでもすぐに駆けつけられるように しておくことは訓練である。世の親御さま、 お疲れさまです。PCTであろうとなかろうと、 子育ては旅なのである。

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大海原での 悪天候対応型キット

悪天候用ギアを着てストームケーション。

横殴りの雨が降り出し、その粒は弾けて無数の ビーズ状になり、海面に生き物のごとく飛び散った。 スウェル号と私は、あと1マイルほどで安全な停泊 地に着くところだった。いま、南太平洋はサイクロ ンの季節。つまり、嵐がどの方向から来るかに応じ て、予報からわずか数日のうちに、近くの湾のどこ かにスウェル号を避難させる場所を見つける準備を しなければならない。

ヘッドセールを取り込み、選んだ湾を囲む山の陰 に滑り込んだ。風の唸りは哀れな嘆きとなって私の 耳をかすめた。砂地にアンカーを落としたあと、向 こう1週間の強風と雨の予報を計算に入れて、たっ ぷりと余地を取った。デッキ上にあるすべてのもの を固定すると、お気に入りの新しい悪天候用ギアを 脱いで、キャビンに下りた。

慣れ親しんだスウェル号のキャビンが私を迎えて くれる。手を合わせて祈る人魚の天使、ボロボロ になった食料用ハンモック、愛する聖人や達人のコ ラージュ、バリーからもらった灯油ランプ、ジミー・ バフェットと撮った家族の写真、そして錆びたター コイズ色のやかん。お茶、そうだ、お茶。私はやか んに水を入れ、コンロに火を点けた。

陸上での生活が忙しくなっている。私が運営す る非営利団体のプロジェクトはいっぺんに実を結び、 それは素晴らしいことだけど、いつもより任務や打 ち合わせが増え、メールも多い。家族や友人へも果 たすべき義務があった。私の夫タフイは、私たちが 暮らす小さな家を建てていて、もうすぐ引っ越しの 時期。私たちの新しい子猫は、先週病気になった。 そして、このところ北風が立てつづけに吹いている。 毎朝5時の波チェックと局からの電話。でもこの嵐 は、私のやることリストや責任やサーフィンのことな どお構いなし。だから、何もかも、誰もかも、待た せなければならない。

インターネットに接続されていないと、別の次元 に出航したような気分になる。それからの6日間、 スコールが頭上で吹き荒れるなか、私は体を洗う雨 水を溜めるため、ビミニトップからこぼれる雨水が バケツに流れ込むよう調整した。冷蔵庫がないから 食事はシンプルだけど、オリーブオイルと塩だけの パスタも極上に感じられる。ほつれたロープの端を かがり、ちょっとした修理をする。昼寝をして、日 誌を書く。瞑想する。踊る。嵐が途切れると湾内を 泳ぎ、マダラトビエイやウミガメやメアジの群れに挨 拶する。ホクレア号の誕生とポリネシアの伝統的な 航法の復活を綴った『Hawaiki Rising』の1ペー

風が強まり、雨をともなうスコールが 迫ると、良い思考もやって来る。

太平洋の某所。 Christa Funk

ジ1ページを大切に読む。そしてまたスコールが襲 来したら、悪天候用ギアを着て、アンカーをチェッ クするためにフォアデッキに向かう。この夢のような

0 m 風速 20 m/s 気温 26°C

海抜
文 リズ・クラーク船長

新しい悪天候用キットを研究開発したホクレア号の クルーと、今日もつながりを感じて、幸せに思う。

アンカーは持ちこたえている。私は腰を下ろし、 雨粒が海を叩くのを眺めながら、この新しいギアで どこを航海しようかと楽しく想像する。土砂降りの なかにいるにもかかわらずドライで温かく、鮮やか な黄色の裾からは足が出ている。これは裸足でも 着用できるようにデザインされているのだ! リグを 震わせて吹き抜ける風に感謝せずにはいられない。 ゆっくりと、基本に立ちかえるための、この甘美で シンプルな瞬間に。ここにいると、ものごとをより はっきりと考えることができる。

今回は幸運にも、嵐がサイクロンに発達すること はなかった。最大で20メートルの突風が吹いても、 アンカーは持ちこたえ、食料も持ちこたえた。タフ イと動物たちは家で元気に暮らしているけれど、世 界中の多くの人たちはさほど幸運に恵まれてはいな い。気候変動は、アメリカ東海岸では猛吹雪、ヨー ロッパでは記録的な猛暑、カリフォルニアでは深刻

な干ばつの末の「大気の川」による洪水や下水流出 や土砂崩れなど、その牙を剝き出しにしている。

最近、日々の生活に追われているように感じるこ とが多い。でも、こうした荒れ模様の日は、自然や シンプルさがいつも私を自分の中心に引き戻してく れることを、気づかせてくれる。ほんのひととき自 然のなかに身をおくだけで、なぜ生命はこんなにも 美しいのか、なぜ私たちはこの驚くべき地球のため に闘いつづけるのかを、思い出させてくれる。

そして、休憩を取ることが、行動を起こすことと 同じぐらい大切だということも。

リズ・クラーク船長 は、セーラー、サーファー、 ライター、環境保護活動家であり、パタゴニアの グローバル・スポーツ・アンバサダー。著書に 『Swell: A Sailing Surfer's Voyage of Awakening』がある。現在は夫のタフイと たくさんの動物たちとともにタヒチで暮らし、 愛船スウェル号はそのラグーンに浮かんでいる。 彼女たちが運営する非営利団体〈ア・ティア・ マタイレア・アイランド・プロテクターズ〉は、 フランス領ポリネシアの環境保護と動物福祉に 焦点を置いて運営されている。

〔上〕リズ・クラークのビッグウォーター・ファウル ウェザー・キットは、裸足で着るようデザインされた ものであるが、そうでなくても、彼女はきっとデッキ の上で足を解放していただろう。 Christa Funk

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情熱的プロジェクトから 製造テストケースへ。

補強済みのパネル ビッグウォーター・ファウル ウェザー・キットは、〈ポリネシア航海協会〉の ホクレア号の乗組員のためにデザインされました。

彼らは、粗い砂とエポキシで覆われたデッキをもつ

双胴型カヌーで航海しています。市販のセーリング用 ギアをすべて擦り切らせてきた彼らは、外洋での航海 に耐えうる悪天候用ギアのデザインをパタゴニアに 依頼しました。彼らの要望に応えるため、H 2 No

パフォーマンス・スタンダード採用の丈夫な4層構造 のシェルを採用し、摩耗しやすい箇所は補強して、

長年の酷使に耐えるようにしました。

深めのシート・サスペンダー 深めのシート・ サスペンダーとビブのデザインは、頑丈で多用途に 使えるフライフィッシング用ウェーダーの製造で培った 経験を活かしています。サスペンダーは好みのフィット に合わせて調節可能で、ビブの上部はしっかりと 締めれば、ドライな着心地を保つことができます。

立体形状で内側にガスケットを備えた袖口と裾 袖口と裾はいずれも固定することで水の浸入を防ぐことが 可能ですが、ビッグウォーター・ファウルウェザー・キット の機能はそれだけではありません。どうしても入り込んで しまう水を逃がす必要があります。そこで、すべての 袖口と裾とその内側には、必要に応じて水を抜くことが できるガスケットを備えています。

安心のチェストポケットとハンドウォーマーポケット 屋根のないデッキでは、すべてのものに安全な収納場所が 必要です。そこで、キットのすべてのポケットの内側に、 クリップでギアを取り付けることができるコードをつけ ました。ハンドウォーマーポケットも装備しています。

フロント中央のフラップ フロント中央に施した長めの ジッパーにより、重ね着した上からでもビブの脱ぎ着が 容易です。

反射性に優れたテープ 反射性に優れたテープを戦略的 に配置することで、嵐のなかでもあらゆる角度から視認性 を確保します。

裸足で着用できるデザイン ホクレア号の乗組員は 裸足で航海するため、裾は裸足で着用することを念頭に デザインされていますが、もちろんブーツにも対応します。 耐久性を備えた裾は擦れを防ぐ形状で、テープ留めで 固定することができます。

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日本未発売。

ゆったりした

ジェリー・ロペスを 遠く離れた島の懐かしい
感情へと連れ戻した、 奄美大島への旅。

心で生きる

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文 ジェリー・ロペス

僕がホノルルで生まれたのは1940年代後期、ハワイが州になる前のことで す。あのころの暮らしはゆったりしていました。それは「アイランド・スタイル」

と呼ばれ、皆……少なくとも僕らが知っていた人たちは皆、そんな島流の 生活を送っていました。動物園の向かいにあるビーチは、僕らが放課後や 週末を過ごす場所でした。ホテル周辺やクイーンズ・サーフで日曜に開かれ

るルアウでは観光客を見かけたものの、ワイキキ・ビーチやカピオラニ公

園などはほぼ地元の人しかいませんでした。そんなある日、母が僕と弟をベ ビー・クイーンズにサーフィンに連れて行ってくれました。まさかそれがその 後の人生を大きく変えることになるとは、母も含めて誰も想像していませんで した。あの日僕ら兄弟はサーフィンの虜になりましたが、先にのめり込んだ

ビクターの学校の友だちだったスタンフォード・チョンと彼 の家族は皆サーファーだったため、いつしかビクターは自分 のサーフボードを手に入れ、いつも一緒にサーフィンをしてい ました。チョン一家はオアフ島イーストサイドのクラウチング・ ライオンとチャイナマンズ・ハット(モコリイ)の中間あたりに ビーチハウスをもっていて、スタンフォードの姉マーリーンと僕 が同級生だったこともあり、僕も週末をよくそこで過ごすこと になりました。

彼らの大きな家には広い庭があり、屋外バーベキューと焚 火台を囲むようにハウ(オオハマボウ)の木が生い茂っていま した。ホノルルの町からパリを越え、カネオヘの町を通りすぎ、 右手に海、左手に雄大なコオラウ山脈が見えるウィンドワード 側をドライブします。イーストサイドは毎日のように雨が降るの で、あらゆるものが緑に覆われていました。朝、よくビーチを 歩きながら、日本の漁船から漂着したかもしれないガラスの 浮き玉を探したものです。早起きで、探すべき場所を知ってい

た大人たちにいつも先を越されていましたが。朝食後、チョン さんは子どもたちをボートに乗せて釣りに連れていってくれた り、チャイナマンズ・ハットを探索させてくれたり、家の前の リーフでスピアフィッシングを教えてくれることもありました。

いつの間にか、そして自分でもわからないうちに、僕はこ の島のイーストサイドが好きな少年になっていました。そこに

〔左〕ジェリー・ロペスとパイプラインは、ピーナッツバターと チョコレートのようなもの。それぞれ単独でも素晴らしいが、 組み合わせるとさらに良い。オアフ島ノースショア Jeff Divine

はまるで魔法にかかったような、特別な感覚、雰囲気、匂い、 独自性がありました。貿易風が吹いたら、カツオノエボシに気 をつけて、刺されないようにすることを学び、暗い夜には、町 の明かりに邪魔されることなく、星がどれだけ明るくはっきり と輝くのかを知りました。

当時はまったくわからなかったのですが、のちに年を重ねて から振りかえってみると、いかにあのころの生活がのどかなも のだったかに気づきました。若いころの人生は、その若さゆえ の疑問や不安で揺れ動いていました。しかしイーストサイドで 過ごした時間には、日焼けした肌にアロエジェルを塗るときの ような独特な癒しがあり、僕は毎回行くのが楽しみでなりませ んでした。

ある意味、人生は父親の車に似ています。旅に連れていっ てはくれますが、進みつづけるにはどこかで止まって給油する 必要があります。チョン家のビーチハウスで過ごす週末は、そ のガソリンスタンドでの休憩時間のようなものでした。けれ ども万事が変化していくように、いつしか僕も異なる種類の 燃料で走るようになりました。サーフィンが頭をもたげ、それ が僕の燃料タンクを満たすようになったのです。僕はサーフィ ンが燃料に取って代わったことに気づいておらず、取って代わ るということがどういうことなのかもわかっていなかったと思 います。サーフィンはひたむきな努力を要するため、必然的に

〔前の見開き〕半年ぶりのサーフィンでジェリーが乗った最初の波。 当然ながら、彼は自分の居場所であるポケットにばっちり戻った。

奄美大島 Hideaki Satou

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のはビクターでした。

「ミスター・パイプライン」がサンダルに履き替えるやいなや、 故郷にいる感覚にさせた風景。奄美大島 Hideaki Satou

時間の一部だけではなく、すべてを使うことになります。深い情熱が芽生え、 サーフィンはやりたいことのすべてであると同時に、心のなかに大きな炎を燃や し、さらにそれを求めて……そう、人を突き動かすのです。

チョン家での早い段階での調和が関係しているのかもしれませんが、気がつ くと、僕はイーストサイドの外れにあるカハルウに住んでいました。サーフショッ プを経営するために町へ出て、夏はアラモアナでサーフィンをし、冬は波を追っ てノースショアまで遠出したりと、車に乗る時間が多くなりました。助手席に乗っ ていれば、通りすぎるチョン家に目をやることもありましたが、誰も見かけませ んでした。車を停めて見に行ったことも何度かありましたが、がらんとしていて、 少年時代に抱いたあの甘ずっぱい思い出はもうありませんでした。でもサーフィ ンが僕の燃料タンクを満タンにしていたので、寂しくはありませんでした。

それからの人生は歳月とともに矢のごとく過ぎていきました。2017年、パタ ゴニアの映画制作班からドキュメンタリー映画のプロジェクトの提案がありまし た。それはきっと起こるべくして起きたのでしょう。強風に煽られたスピンネー カーのように、一気に展開していきました。もちろん帆に寄ったシワのような問 題もなかったわけではありませんが、昨年の春にはプレミア上映の準備が整って いました。

上映ツアーは全米、ヨーロッパ、オーストラリア、日本とつづきました。監督 のステイシー・ペラルタもほとんどの場所を一緒にまわりましたが、多忙により

日本へは僕だけで行きました。このプロジェクトを進めるにあたっては、新型コ ロナウイルスのようなものが、あのような影響をおよぼすとは思ってもみませんで した。しかし、世界中が驚愕したため、僕らの上映ツアーの壁も高くなりました。 僕が日本を訪れたときは、日本がちょうど入国制限を緩和したところでした。上 映地は鎌倉、仙台、東京、大阪、福岡と、いずれも僕がかつて訪れたことのあ る都市で、そのすべての場所に古くからの友人がいて、上映会はスケジュール通 りに滞りなく開催されていきました。

ツアーの最終上映地は、沖縄の近くにある小さな群島のひとつ、奄美大島で した。聞いたことはありましたが、それまで実際に訪れたことはありませんでし た。しかし厄介なことに、台風が僕らと同じ目的地を目指して、予測不可能な進 路をたどりながら接近中でした。たいていの人であれば、台風の予報が出たら旅 の予定を変更するのが普通です。しかし、サーファーにとっては、台風の接近 は波が来ることを示す確実なサインであり、障害ではなくむしろ魅力となります。 そして我がパタゴニア・ジャパンのチームは皆サーファーでした。僕らは奄美大 島に向かいました。

空港への着陸体勢に入ると、上空から見下ろす海は素晴らしいものでした。 紺碧の海には強い貿易風によって白波が散りばめられ、スウェルが島に向かって 押し寄せていました。窓の外を見つめながら、僕はすでに頭のなかで、ダウン ウィンドSUPやウィングフォイルで波乗りを楽しんでいました。

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ジェリーはいつも立ち止まって、バラ(奄美大島ではプルメリア)の香りを嗅ぐことを忘れない。 Hideaki Satou

ジェリーのキャリアを築いた夢のようなトロピカル・レフトハンダーは、 決して古びることはない。 Hisayuki Tsuchiya

着陸した僕らは、長ズボンに靴という都会の格好のままでした。でも、ター ミナルにいた友人たちは皆、短パンとサンダル姿で僕らの到着を待っていました。 そう、一目見ただけで、彼らが皆、ゆったりした心で生きていることがわかりまし た。僕も早く着替えて、彼らの仲間に加わりたい、と待ちきれない思いでした。 そして飛行機のドアから出るとすぐに、何かが起こりました……漂う感覚、匂い、 緑の茂る丘。それが何かはわからなかったのですが、以前行ったことのある場所 に戻ってきたような気がしました。僕は注意深く見渡してみました。草木には見 覚えがあり、海は風をはらんでいて、サンゴ礁や砂浜の上で水晶のように澄んだ 波が崩れていました……知らないのに、知っているはずのような気がしました。

古くからの友人たち、そしてたくさんの新しい友人たちが、レイをもって僕らを 出迎えてくれました。ゆったりと親しみにあふれ、家族といるような雰囲気に包 まれました。迎え入れてくれる家やサーフショップへ車で向かう道のりも、まった く不思議なほどデジャヴのようでした。車が停まるとすぐに、この環境に溶け込 んでよりくつろぐために、僕は短パンとサンダルに着替えました。

砂と水に触れて海とつながりを感じようとすぐそばのビーチへ歩いていき、吹 きさらしの海岸に立つ家屋に特有の風化した外壁を見ていると、僕が抱いていた 強い感覚の驚くべき事実が明らかになりました。僕は65年前のオアフ島イースト サイドのチョン家に戻ってきていました。あの愛に満ちた感情は、決して消え去っ たわけではなく、それをかつてのままに一気に呼び戻す、しかるべききっかけが 必要だっただけなのでした。良い感情というのは、不思議なもので、力強いもの です。僕らは普段、それを当たり前のように享受し、それがどれほど深いものな

のか、どれほど長くつづくものなのかを考えることはありません。残りのツアー は、家族や友人と過ごすのと同じように、まったくスムーズでよどみないものでし た。島の反対側まで車を走らせたときも、その道中のすべてがハワイに見え、ハ ワイにいるように感じられました。僕らはかけがえのない友人たちと素晴らしい波 に乗り、美味しいものを食べ、語り合いました。本当に良い時間でした。

翌日、僕らは地元のサーフ・コミュニティにこの映画を披露しました。彼らは 素晴らしい観客でした。その日の夕方、台風が水平線のすぐそばまで迫ってい るなか、僕らは飛行機で飛び立ち、夜遅くに東京に戻りました。その台風は沖 縄を直撃しましたが、あまりに良い雰囲気に包まれていたからか、台風は奄美大 島からは逸れていきました。

この旅は、始めから終わりまでずっと「アイランド・スタイル」がつづく素晴ら しい旅で、久しく忘れることはないでしょう。あの小さな島と、そして緊密な サーフ・コミュニティをあとにした僕は、ハイオクの燃料で満タンになっていまし た。あの場にいた他の皆も、そうであることを確信しています。

完璧な8フィートの「パイプライン」のチューブで穏やかに佇むジェリー・ロペスの姿ほど 象徴的なイメージはないだろう。オアフ島ノースショアのチューブライディングの美学を 再定義したのち、彼の関心はインドネシアに移り、ウルワツやGランドといった伝説的な スポットを開拓した。現在はオレゴンを拠点に、サーフィン、執筆、シェイピング、そして ベンドの自宅周辺のパウダーでスノーボードをして暮らす。

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良い感情というのは、不思議なもので、

「あともう1本だけ」を言い訳に、 もう1回パドルアウトするジェリーと、 沖縄に住むパタゴニア・サーフィン・ アンバサダーの眞木勇人。これさえも 最後にはならないことは承知のうえ。  Hisayuki Tsuchiya

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力強いものです。僕らは普段、それを 当たり前のように享受し、それがどれほど 深いものなのか、どれほど長くつづくもの なのかを考えることはありません。

を守れば、 海が 私たちを守ってくれる

パタゴニアは世界各地で私たちの 海を守るイニシアチブを支援して います。そして、そのいくつかを 取り上げた映画も提供しています。

私たちの未来は、海と結びついています。皆が共 有するその海と私たちは、食物、文化、スポーツな どでつながっています。驚くべき豊かな生命を育む 海は、気候変動に対する有力な解決策でもあります。 けれども、人為的な被害から完全に守られている海 は、(少なくとも書類上では)3パーセント未満です。 私たちには、それを増やすことができます。

汚染、過剰漁獲、底引き網漁、囲い網式のサー モン養殖に終止符を打ちましょう。そして、生態系 に活力を取り戻すために、海洋を保護する区域を増 やしましょう。この海が私たちと未来の世代を育ん でくれることができるように。

私たちの海を守るために、私たちと一緒に行動し ませんか。 Patagonia.jp/oceans で、海を守る グローバルコミュニティの一員になってください。

1. 韓国のトンヨンでの海中林の再生 韓国のトンヨン周辺では、産業化、都市開発、漁 業界の成長により、生態系の多様性に重要な 150種以上の魚類を育む藻場が破壊されてきま した。パタゴニアの短編映画『Jalpi』の主人公で あるジ氏は、政府からの基金を地元の漁師や海女 に投入し、海岸線を清掃して原生種の海草「チャ ルピ」を植えることに対する報酬として支給してい ます。この海草は魚の生息数と藻場と水質を回復 させ、気候危機に立ち向かいます(日本未公開)。

4. オーストラリアのコーラル・シー の完全保護の復元

2. 韓国のチェジュ島での イルカの保護

韓国のチェジュ島周辺の海に原生するミナミハ ンドウイルカは、商業観光の増加により、現 在120頭ほどの個体数しか残存しない水生哺 乳類です。私たちはこの地方に海洋保護区を 作るために取り組む活動家団体〈ホット・ピン ク・ドルフィンズ〉を支援しています。提案さ れている海洋保護区(MPA)は、イルカウォッ チングツアーや乱開発によって影響を受けて いる、イルカをはじめとするすべての海洋生物 に安全な生息地を提供します。パタゴニアの短 編映画『Hot Pink Dolphins(ホット・ピン ク・ドルフィンズ)』で、チェジュ島の海獣を守 る彼らの取り組みをご覧ください。

3. 日本の奄美大島での海域保全 奄美大島の目が覚めるほど青いそのスウェル と、森と海の一体となる風景が、同域の繊細 な海洋生態系を破壊しかねない開発の圧力に さらされています。この生物多様性豊かな地 方では、最近この地方にのみ生息する生物や サンゴなどが多数発見されています。日本の沿 岸域のほとんどは政府の定義により海洋保護 区とされているものの、現実的にはこうした場 所は生物多様性保全に必ずしもつながっては いません。私たちは地元の団体、住民、漁師、 ダイバー、行政、そしてパタゴニアのサーフィ ン・アンバサダーであり奄美出身の碇山勇生を 含む島民を支援し、島の文化を大切にしなが ら、奄美群島の重要な海域の生物多様性の回 復を目指します。

オーストラリアの領海は、総計するとその大陸の 1.3倍の広さがあります。2018年、オーストラ リア政府は、すでに保護されていた海域の100 万平方キロメートル、つまりオーストラリアの海洋 保護区の30パーセントにあたる保護区域を格下 げし、さらに「グレートバリアリーフのゆりかご」 と評されている、重要な海洋生物の生育場である コーラル・シー海洋公園の保護の75パーセント を格下げしました。これは世界中の海洋および陸 上の保護区のなかで、最大の格下げ例となり、同 海域が商用漁業や他の採取活動に開放されたこ とを意味します。私たちは、ファースト・ネーショ ンズの共同体や〈オーストラリアン・マリン・コン サベーション・ソサエティ〉などの地元団体の活 動を支援し、コーラル・シー海洋公園の保護を完 全に復元するよう政府に働きかけるキャンペーン を行っています。

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5. パシフィック・リモート・アイランズの 保護の拡張

これら7つの無人島と環礁は、歴史的に太平洋諸島の先 住民族の航海に欠かせない経路となってきましたが、そ の生物多様性のホットスポットは危機にさらされています。 7つの領域のうち、商用採取を禁じる200海里の完全 保護が適用されているのは3つだけで、サンゴ礁、ウミ ガメ、クジラ、そして残存する世界最大の熱帯鳥類のコ ロニーのいくつかも脅かされています。アメリカ合衆国 政府は、パシフィック・リモート・アイランズ・マリン(太 平洋離島海洋)国定記念物を拡張し、残る未保護の海 域を新たな海洋生物保護区(禁漁区)に指定するか否か を検討しています。私たちは、〈パシフィック・リモート・ アイランズ・コーリション〉と協働して、残る4つの海域 への保護を拡大し、パシフィック・リモート・アイランズ を国立海洋生物保護区として確立させることを目指して います。

6. チリのパタゴニアでの

囲い網サーモン養殖場の禁止

チリの繊細な生態系と生物多様性の豊かな水域であるカ ウェスカル・マリン・リザーブが危機にさらされています。 私たちはこの7年間、ラテンアメリカのいたるところで サーモン養殖産業との闘いに取り組んできました。しか し、チリ領パタゴニア南部では、サーモン養殖営業権の 拡大が著しく、カウェスカル・マリン・リザーブはその影 響を受けています。私たちは先住民族カウェスカルの共 同体と力を合わせ、カウェスカル・マリン・リザーブを国 立公園と海洋保護区にすることを目指しています。この 法的保護が実現すれば、サーモン養殖は禁止され、同域 にもたらされている有害な人為的影響を緩和させること ができます。この詳細は、パタゴニアのグローバル・ス ポーツ・アクティビストであるラモン・ナバロがカウェス カルの共同体とともに、チリ領パタゴニアで先祖から受 け継ぐ土地と水域をサーモン養殖産業から守るための闘 いを追う映画『Corazón Salado(コラソン・サラド)』 でご覧ください。

7. ヨーロッパとイギリスでの 底引き網漁の禁止

ポルトガル、スコットランド、ウェールズをはじめとする ヨーロッパ各地の海で、過剰漁獲や底引き網による漁業 が、大気から炭素を除去する重要な海中林や藻場や生物 を破壊しています。何十年にもわたり、底引き網を使う 漁業界は、その権利を守るために懸命にロビー活動をつ づけてきました。私たちは、ヨーロッパとイギリスの地元 の非営利団体や政治家と協力して、底引き網漁の全面的 な禁止を目指しています。ヨーロッパとイギリスで地元の 水域の再生に取り組む活動家に関する3本の新映画を作 りました:『 The Custodians』は、スコットランドのア イル・オブ・スカイの地元で、彼らの自然の海岸線を取り 戻そうとしている4人の住民の取り組みを追いかけます。 『Madre Mar』は、ポルトガルで底引き網漁に終止符を 打つための闘いを先導し、海の草原を回復させる女性た ちの物語です(いずれも日本未公開)。そして『For the Love of the Sea(海を愛するがゆえに)』では、ウェー ルズの海岸線を再生する運動を導く一家にご参加ください。

このQRコードを読み取り、 見開きでご紹介しているうちの 3本の映画をご覧ください。

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イラスト:Barry Thompson & Eric Bucy

韓国のマラド(馬羅島)周辺の海底でサザエを探す キム・ジェヨン。チェジュ島で素潜り漁を行う女性 たち「ヘニョ(海女)」の6代目であるジェヨンは、 海洋保護を強く唱道。彼女はまた、パタゴニアの 映画『Daughter of the Sea』にも出演する (日本未公開)。 Nicole Gormley

私たちは忘れません。ここにいた最初の人びと、そしていまもここにいる彼らの子孫のことを。パタゴニアの本社とサービスセンターは、チュマッシュ族、ワショー族、 パイユート族、ショショーニ族の人びとの故郷である未譲渡の土地(現在ではカリフォルニア州ベンチュラ、ネバダ州リノとして知られている地域)にあります。先住民族の 人びととの相互協力は、私たちの故郷である地球を救うための取り組みに不可欠です。

〔表紙〕木の写真を撮るのは簡単なことのように思えるかもしれないが、それが真冬のカリフォルニア州シエラ・ネバダ山脈の、グレートベイスン・ブリストルコーン・パイン (学名Pinus longaeva)である場合、話はかなり複雑になる。写真家のブライアン・ケリーは日の出のショットを収めるため、吹雪のなかを夜通し、20キログラムの ギアを背負い、13キロメートルをスノーシューで歩き、1,200メートルの標高差を登った。「マイナス21度という外気温のなか、午前5時に起きるのは、とても気が重い。 それでも僕らは実行し、10分間だけ嵐が止んだ瞬間にこのショットを収めた」

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FSC®〈森林管理協議会〉森林認証紙 本ジャーナルはFSC® 森林認証紙に印刷しています。パタゴニアは25 年以上もカタログおよびジャーナルの印刷に再生紙を採用してきましたが、消費者から回収/リサイクルされた古 紙100%に切り替えたのは2014年のことです。(本誌の日本語版は日本国内で調達したFSC® 森林認証紙に日 本で印刷しています。)

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火星ではない

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