パタゴニア Spring 2022 Journal

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目次

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クリーンクライミングを復活させる

それがなぜこれまで以上に必要とされているか。

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マントック 0 における不完全なる登攀

地球温暖化時代のアルピニズム。

34

しんぴんよりもずっといい:リサイクルのおはなし

パタゴニア初の児童書。

40

黙殺、海水、希望

海の番人となる漁師たち。

48

すべてを養う小さな魚

世界をつなげるニシン。

62

鷹匠

世話という任務。

68

森とともに

木々にお返しをするスノーボーダー。

76

酒に唄う

24代つづく愛の労働。

82

放すことについての技

魚との自分本位の自撮り写真はいらない。

88

活動家である私 〔左〕ナッツを使って、岩を幸せにすべし! ストッパーのデザインは、シュイナード・ イクイップメントが 1970 年代に製造したもの からあまり変わっておらず、変える必要もない。

Gary Regester 〔前の見開き〕「サッカラー・クラッカー」 での清き良きお楽しみに耽るヒョルディス・ リッケルト。カリフォルニア州ヨセミテ国立公園

Bernd Zeugswetter

さまざまな形で。

102

気候正義とは?

人びとが求めるもの。

108

子どもたちを連れてポイント・ネモへ

野生地での子育て。


「リーニング・タワー」西壁の 初期の登攀中に撮影された ゲーリー・コリバー。 カリフォルニア州ヨセミテ 国立公園(1965 年)

Glen Denny



マイリー・フン

クリーンクライミング を復活させる いまから50 年前、イヴォン・シュイナードとトム・フロストとダグ・ロビンソン は自立、抑制、岩への敬意を強調するクライミングの倫理を提唱しました。 2022 年、それはこれまで以上に必要とされています。

「完

全な失敗だった」 1970年代初期、シュイナード・ イクイップメントはそのカタログ

上で、岩を守るために抑制を呼びかけるクラ イミングの新たな形を提唱しました。イヴォ ン・シュイナードと仲間たちは、必要とあら ばルートを登るために力ずくで押し切るので はなく、優れたスタイルで登ることが重要で あると論じました。彼らはそれを「クリーンク ライミング」と名づけました。実質的に言え ば、ピトンのように岩を強打するギアを、岩 への損傷が少なく容易に回収できるチョッ クやヘックスなど新種のプロテクションに置 き換えるというものでした。しかしクリーン クライミングが求めたさらに野心的な目的は、 クライマーがギアではなく、自分の判断力と 技 量を頼りとし、岩に登 攀の痕跡を残さな いという倫理を奨励することでした。アメリ カとヨーロッパで同時期に出現したクリーン クライミングは、間もなくクライマーがルー トを守る方法を変えました。しかしその運動 がどのような効果をもたらしたかを尋ねる と、今日のシュイナードはきっぱりと答えます。

「唯一のふさわしい答えはゼロ、だ 」 〔右〕花崗岩の荒海へと 乗り出すスコット・ベネット。 カリフォルニア州ヨセミテ 国立公園 Eliza Earle

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がハンマーやノミを手にしているのが見つか れば、もちろんソーシャルメディアやアウトド ア関連のメディアで激しく叱責されるでしょ う。しかし人気の岩場やボルダリングエリア に行くと、クライマーがローインパクトである とは、とても言えません。人気の高いルート にはチョークの染みが散在しています(シュ イナードはこれを「お手本どおりに塗られた ペンキ」と呼びます) 。岩の上にぶら下がって いる邪魔な木の枝は後日にはなくなっており、 木そのものが姿を消すことさえあります。無 知なクライマーは、先住民にとって神聖なペ トログリフや奇岩の上にボルトを設置したり、 彼らの祖先が使っていた岩の穴を踏みつけた り、繊細な砂漠の植物の上でクラッシュパッ ドを引きずったりします。クリーンクライミン グが本当に今日のクライミングの主流である とすれば、いかなるアウトドアのイベントでも 岩場の清掃日を設ける必要はないはずで、ヨ セミテの清掃イベント「ヨセミテ・フェイスリ フト」で総重量数百キロものゴミや放棄され たクライミング用ギアを回収する必要もない でしょう。 その一方で、クリーンクライミングによる

シュイナードの言わんとすることは明らか

良い影響も明らかに見られます。クライマー

です。登攀の痕跡を残さないのがクリーンク

はつねに理想にしたがって行動しているとは

ライミングの目的だとすれば、現代の岩場は

言いきれないものの、ボルトの使用の有無や、

その理想からかけ離れています。クライマー

浮石や安定していない岩の処理、どれほどの




「庭掃除」を容認するかなどの論議がつづいているにもかかわら ず、 「リーブノートレイス」の原則をおおむね身につけています。

らのピトンはのちのクライマーにルートの難度を維持するため回 収されます。数十年間つづいたこの方法は全米、とくにヨセミ

昨今ではギアをわざと残置するクライマーはおらず、またクライ

テ・バレーのいたるところで、岩のクラックに無数のピンスカー

マーの圧倒的多数はピトンを使ったこともなければ、今後使うこ

(ピトンの打ち跡)を残しました。おそらく最も悪名高いピンス

ともないでしょう。かつての主要なプロテクションの流儀はアル

カーはセレニティ・クラックの最初のピッチで、ピッチ全体に開

ピニズムの端に、当時のボルトは博物館の展示ケースに追いや

けられた不規則な一連の穴が、いまでもはっきりと目に見えま

られました。ピトンを暗い過去の遺品であるとみなす大半のクラ

す。このルートの写真は 1970 年代初期に流布され、カメラが

イマーは、回収可能なプロテクションのおかげで明白なアドバ

捉えたひどい自動車事故の余波のように、クライミングのコミュ

ンテージを得ます。

ニティに広まりました。何かをしなければなりませんでした。

ではなぜシュイナードは、クリーンクライミングは完全な失敗 だったと断言するのでしょうか。 クリーンクライミングの影響――あるいは失敗――の意義をよ り深く探るために、アメリカのロッククライミングの黄金時代で ある1950 年代と1960 年代を振りかえってみましょう。当時有 能で大胆だったクライマーは、戦後の大量消費主義の激しい競 争社会から抜け出し、森や岩の聖堂のなかで生活費を切り詰め て質素に、そして準合法的に暮らしはじめました。こうした先駆 者たちはより傾斜のきつい、より切り立った岩壁を登るようにな りました。しかし急斜面に挑む技術が進化する一方、登攀用具 はほぼ変わらず、当時のクライマーのラックには墜落に備えて岩

シュイナードは1957 年以来独自のピトンを鍛造していました。 1970 年頃には彼の会社「シュイナード・イクイップメント」はア メリカでもトップのクライミング用具メーカーとなり、なかでも ピトンは群を抜いたベストセラー製品でした。しかし1972 年、 シュイナードとビジネスパートナーのトム・フロストはシュイナー ド・イクイップメントのカタログの冒頭に、ピトンの使用中止を 呼びかけるエッセイを掲載しました。 「山には限界がある」とシュ イナードとフロストは書きました。 「一見壮大なその容貌にかか わらず、山は傷つきやすい」と。そしてそのあとにつづくダグ・ロ ビンソンの14 ページにわたる記事には、クリーンクライミング の手ほどきと声明が綴られていました。

に打ち込む金属製ピトンが何キロも装備されていました。ヨセミ

クライミングの核を成すポイントは、自分自身と自然とのより

テ・バレーをはじめとするさまざまな岩場の倫理において、これ

深い交わりであり、また未来のクライマーのために岩の環境と

〔左〕「パッセージ・トゥ・フリーダム」の 23 ピッチ目の 「簡単な」箇所を片づけるトミー・コールドウェル。 カリフォルニア州ヨセミテ国立公園

Austin Siadak

〔上〕ヨセミテ国立公園で見られるピンスカー(ピトンの打ち跡)。 次のクライマーにルートの難度を維持するためピトンは回収されたが、 それは取りかえしのつかないダメージを残した。 Dean Fidelman

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挑戦を守ることだと論じ、 「我々自身と未来のクライ

ないスポーツ上の利点につながりました。クライマーは

マーがクライミング体験を確保する唯一の方法は、第

プロテクションを打ち込むことを考える代わりに、ムー

一に垂直の野生地を、第二に体験に内在する冒険を守

ブを優先することができます。そしてプロテクションを

ることである、と我々は信じている」と説明しました。

まったく使わなくて良いのなら、スポーツクライミング

自分の力だけで、そして岩を傷つけることなくルート

のように、ムーブをさらに分離させることができます。

を登ることができないのなら、それに見合った技量を 身につけるまで登るべきではない、また山と岩壁は 征服するための場所ではなく、敬意をもって臨むべき 場所であると、クリーンクライミングは強く唱えまし た。新たなプロテクションへの移行はこの見解を支え、 「ナッツを1つ設置するために、まずはクラックの形に ついて考えることからはじめなければならない。クリー ンクライミングは何よりもまず、岩の環境に対する深 い認識を要する」と、ロビンソンは書きました。

1924 年から1936 年のあいだに開催されたオリン ピックではアルピニズムにも金メダルが(数名には死 後に)授与されたものの、国際オリンピック委員会は 1946 年にそのようなマウンテニアリングにおける功績 の認定を止める決定を下しました。この無定見なレガ シーとはまったく対照的に、2020年のオリンピックで 遂げられたスポーツクライミングのデビューは、スポー ツクライミングはたんに「スポーツ」でしかないという シュイナードの見解を裏づけるものでした。より運動競 技らしいかもしれませんが、変化する自然環境と組み

ナッツやチョックの人気が高まる前は、クライマー がギアがルートを登るのを助けると期待するのは当然

合うことは要求されず、クリーンクライミングをクリー ンクライミングたらしめる、真のリスクに欠けています。

のことでした。クリーンクライミングでは、ギアは墜

もちろん相対的な安全性とコントロールは、ハード

落を止めるためのプロテクションとしてのみ使われる

なクライミングの肉体的な限界を押し広げるうえで不

回収可能なプロテクションへの移行は多くの人にとって、より技巧的 で、より動的で、おそらくはより面白いクライミングという、あまり に明確で否定しようのないスポーツ上の利点につながりました。 べきで、クライマーの技術と強さと意識が彼らを成長

可欠です。大胆で勇敢なオンサイトのフリー登攀はク

させると強調しました。これが「フリー」クライミング

ライミングの功績の頂点にありつづけるものの、その

であり、その概念はクリーンクライミング運動の前に

成功はクライマー自身がもつ能力の頂点で達成される

存在したものの、それをクライミングの一種のスタイ

わけではありません。最高グレードに達するために要

ルからスタイルそのものに押し上げたのはクリーンクラ

求されるのは、正確さ、厳しいトレーニング、非常に

イミングでした。

細かく調整された食生活などで、ルートのシークエン

シュイナードと彼の仲間たちは、クリーンクライミン グは、倫理的にも実際的にも媒介された体験の可能性 を取り除くことにより、自然界に臨む自立や大胆なビ ジョン、そして謙虚さがふたたび中心に置かれること を当然期待しました。しかし結果は異なりました。ク リーンクライミングは、公平な登攀を構成する新たな 領域を描くことには成功しましたが、破壊的なギアを 消滅させることには成功しませんでした。ある点で、ク リーンクライミングはそれ自体の成功の犠牲となりま した。 回収可能なプロテクションへの移 行は多くの人に とって、より技巧的で、より動的で、おそらくはより面 白いクライミングという、あまりに明確で否定しようの タダ乗り不可能な「フリーライダー」の途中で、次のセクションに とりかかる前にひと息入れるケイト・ラザフォードとマデリーン・ ソーキン。カリフォルニア州ヨセミテ国立公園

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Mikey Schaefer

スを自分で見つける無駄な時間やエネルギーは、イン ターネットの映像が節約してくれます。ホールドはき れいに磨かれ、ムーブはトップロープで予行演習され ます。グレードを追い求めるクライマーは誰もが分析 家であり、完登の可能性を高めるためにできるかぎり の不確定要素を取り除きます。最も称賛されるフリー ソロでさえ、執拗な調査やトレーニング、ギアを使っ た予行演習のあとに実践されます。一部のクライマー にとって、 「クリーン」とは、クライマーと岩のコンテス トでクライミングの本質を抜き出すことです。これは、 未知のものを受け入れるのではなく取り除くことによっ て解決される最大の挑戦です。クライミングの冒険的 要素やそれを定義する環境の重要性は脇に追いやられ ます。真の冒険は効率的ではないからです。


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すべての運動と同様に、 「クリーンクライミング」は動作を表す言葉であり、 実行し、改善し、ふたたび全力を傾ける必要がある実践です。 十分に予行演習され、厳しく管理されたスポーツクライミング

ベトナム戦争、ストーンウォールの反乱、マーティン・ルーサー・

が、クリーンクライミング運動のおもな成果であることは理にか

キング・ジュニアの暗殺、第二波フェミニズム、リチャード・ニク

なっています。ロビンソンによると、クリーンクライミングを受

ソン大統領の(つかの間の)再選など、1972 年はさまざまな政治

け入れたクライマーのうち、それが正しい行動であるからと考え

的、文化的激変がありました。そしてシュイナードやロビンソン

た人は少なかったそうです。 「道徳的な要請はある程度の動機に

ら自称「ダートバッグ」たちは、そうした社会から身を引くことを

はなる」と、ロビンソンは言います。 「しかし何よりもやる気を起

選びました。 「何かに抵抗していたわけではなく、ただ自分の人

こさせるのは興奮だ。クリーンクライミングは絶好の挑戦だった。

生を生きていただけ」とシュイナードは言います。しかし他の人に

リードで脚を震わせているときにナッツが足元で抜け落ちるかも

とっては、たんに自分の人生を生きることは当時もいまも抵抗の

しれないというスリル。俺たちにできるか? 達成は可能か? 最初

ひとつの形であり、そこから身を引くことは選択肢ではありませ

は誰にもわからなかった 」

ん。社会への順応を拒否した結果は、地域や個人によって根本的

しかし現在のクリーンクライミングの本質が、50 年前のクリー ンクライミングの理想に合っているか試すと、論点がずれます。人 間のあらゆる過ちを考慮に入れたとしても、現代のクライミングの 精神は開放的で、クライミングを愛する人なら誰でもクライマーで

に異なります。シュイナードが言うとおり、拒否と抵抗は異なりま す。しかし拒否する自由をもつ私たちにとって、クリーンクライミ ングを選択することは、シュイナードや彼の仲間の立場で考える 機会であり、それをより広い世界に向ける機会です。

あるとすばやく認めて、受け入れる傾向にあります。クライミング

クリーンクライミングは私たちが環境を傷つけたり、他のクラ

のコミュニティのこの温かい雰囲気を称賛するならば、本質を求

イマーの体験を損ねたりする行為を止めることができます。しか

めて命を懸けることが唯一価値あるクライミングの形式であると

も止めることにより、皆にとってさらに良い方法を見つけること

は主張できません。今日のクリーンクライミングの本当の意味は

ができると教えてくれます。クリーンクライミングは他者への思

私たちがクライミングから何を得たいのか、何を得るべきかを分

いやりと他者に与える自分たちの影響を考慮するという、昔なが

析する挑戦です。それはクライマーに、ときに利己的で孤独な傾 向をもつこのスポーツが他者にも影響を与えるということを、そし て成功への欲望だけに焦点をおくのではなく、挑戦に直面するこ とでさらに意義深い体験が見つかることを思い出させます。

らの知恵の新たな形です。ロビンソンがエッセイに書いたように、 「クリーンクライミングを実践する最善の方法は、クライミングそ のものをゼロから学び直すこと」です。 クリーンクライミングは悪影響を減らすことです。悪影響を減

クリーンクライミングはたんに抽象的な議論ではなく、その倫

らすことは人目を引く魅力的なことではなく、現実を受け入れる

理と指針は一直線上にあります。1998 年に『アメリカン・アルパ

ことです。そして現実を受け入れることは、それ自体が失敗を認

イン・ジャーナル』誌は、ヨセミテのロッククライミングの未来に

めることであるとみなす人もいます。しかし私たちが触れるものす

関するクリス・マクナマラのエッセイを掲載しました。マクナマラ

べてに私たちの痕跡が残るのは、根本的な事実です。クリーンク

は「1972 年にダグ・ロビンソンがシュイナードのカタログで紹介

ライミングはこの現実を受け入れ、自分たちが背後に残す跡を意

して以降、クリーンクライミングは正しい選択となり、それはいま

識するよう訴えます。先住民族の人たちがつねに理解していたよ

も変わらない。むしろ、クライミングを持続させたければ、それ

うに、そして遅ればせながら私たちも学んだように、すべての生

はますます必要不可欠な選択となっている」と述べました。マク

命と場所は、神聖でも不敬でも、都会でも野生でも、つながって

ナマラのこの主張は、現在とくに真実味を帯びています。2021

います。一方に背を向けるということは、もう一方に背を向ける

年 5 月、国立公園局はヨセミテでの泊まりがけのクライミングに

ことを意味します。

バックカントリー許可書取得の義務化を開始しました。これはク ライミングエリアを管理するレンジャーたちが何年も毎日のように 直面してきた、ゴミや放棄されたギアへの直接的な対応です。岩 場の利用方法や環境への配慮は直結するものであり、それは自 然のなかでクライミングをするためだけでなく、より広範に適用 されるべきなのです。

すべての運動と同様に、 「クリーンクライミング」は動作を表す 言葉であり、実行し、改善し、ふたたび全力を傾ける必要があ る実践です。クリーンクライミングは自我に直面してそれを抑制 し、自然に直面してそれに謙虚になり、世界を征服するのではな く、自己を克服するために努力することを意味しています。こうし た考えは私たちをかき立て、地球を救うという大きな挑戦に直面 する私たちに必要な興奮です。失敗できない場所がひとつあると すれば、それはここにあります。私たちにそれができるでしょう

次のホールドはどこにあるのか? チョークの跡でいっぱいのこのような人気のルートでは、 想像力がかき立てられることはあまりない。だからこそ他のクライマーに自分で試行錯誤

か? 達成は可能でしょうか? いまのところ、誰にもわかりません。 それを見つける方法はひとつしかありません。

する挑戦を与えるため、いたずら好きの輩は間違ったホールドにチョークをつけるのだ。 オレゴン州スミス・ロック州立公園 Austin Siadak

マイリー・フンはパタゴニアのアルパイン&クライム部門のマネージング・エディター。

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〔上〕クリーンクライミングで汚れる場面。「ブラック・クラック」でハンドスタックをがっちりキメるバーチ・マロッキー。 ニューハンプシャー州ノース・コンウェイ

Brent Doscher

〔左〕エル・キャピタンの「ザ・ノーズ」を照らす、この日最初の光。カリフォルニア州ヨセミテ国立公園

Drew Smith

〔次の見開き〕「アローヘッド・アレート」の最後の垂直のピッチに臨むノエル・コックニーとブレット・キャロル。マーク・パウエルと ビル・フューラーはこれを1956 年にオールフリーで初登し、クライミングの未来の可能性をほのめかした。ヨセミテ国立公園 Eric Bissell

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ジャック・クレイマー

写真

ドリュー・スミス

マントック0 における 不完全なる登攀 アラスカで危機一髪の経験から得た教訓。

初に落ちてきた石は教科書ほどの大きさだった。白っぽい花崗 岩の塊は見とれてしまうような速度で宙を舞い降り、岩に当たって 跳ねかえった。2 つ目の岩が落ち、俺の左足首を強打した。その

衝撃で無様な旋回をさせられた俺の体はアンカーにだらりとぶら下がった。

こりゃあフェアじゃないぜ、と思った。ここにいるはずじゃなかったんだ。 2021年 4 月のアラスカで、俺たちは無名峰の雪に覆われた東面の中間あ たりにいた。少なくとも東面だと思っていた。だが腕時計を見ると、とっく に正午を過ぎているにもかかわらず、まだうだるような日差しのなかにいた。 上の方の斜面も同じ太陽光をガンガン浴びている。この最初の落石が最後 であるという保証はまったくなかった。 ここに来た目的はマウント・ラッセルに新ルートを開拓することだった。 この三角形の大山塊はアラスカ山脈中部の南端にそびえ立っていて、古い写 真と衛生画像と地元のうわさ話から、その未登の北西面を登るお手頃なラ インがあることを確信した。

最小限の努力で最大限の栄光をつかむことを見込んだ。あとはそこに行く だけだ。 数か月間のトレーニングと準備を終えて目的地に向かう小型飛行機の機内 で、俺たちの士気はどんどん高まった。だが岩壁の下にあるチェドトロット ナ氷河の積雪が不十分で、パイロットは着陸を取りやめて俺たちを約 15 キ ロ離れた場所に大きく広がるイェントナ氷河に降ろした。距離は克服できた かもしれないが、いくつかの氷河に妨害されたせいでマウント・ラッセルで の登攀は現実的な選択肢から外さざるを得なかった。しばし己をあわれん だが、すぐに無数の可能性に囲まれていることに気づいた。それでラッセル にこだわるのは止め、イェントナ氷河の周りにある無名峰のひとつに登る計 画を立てることにした。 予定外のベースキャンプでの初日、俺たちはこの地方への過去の遠征記 録に目を通した。情報は少なく、クライマーが数年に一度くらいのペースで

〔右〕「ボーリング場」に出向くグラント・クリーヴス。アラスカ州イェントナ氷河 〔前の見開き〕飛行機内から見たアラスカ山脈第 2 の高峰、マウント・フォレイカー(別名スルタナ)。

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マントック 0 への早朝スタートの前に光のショーを鑑賞。

イェントナ氷河のメジャーな場所を訪れる程度だった。2000 年

マントックⅠを過ぎた稜線上にある。だから「マントック 0」と

代後半にフレディ・ウィルキンソンと並みいるパートナーたちが最

呼ぶことにした。東面の一連の雪斜面と狭いクーロワールをリン

も良さげなルートを何本か登頂していたが、スキーで軽く偵察す

クしながら登って薄氷に覆われた尾根に到達したら、そこから頂

るとまだまだ数多くの未登ルートが残っていることがわかった。

上を目指すという構想だった。

ドリュー・スミスとグラント・クリーヴスと俺は、新雪の海に浮

夜、不気味に輝く弱いオーロラの下を出発した。不安が俺たち

かぶ岩の島に座って計画を練った。アメリカ西部の田舎の労働者

を無口にさせ、たまに吹き降りる突風の音以外に聞こえるのは

階級家庭で育った 2 人は物腰がやわらかく心底親切で、それは日

一定のリズムで自分たちのスキーを滑らせる音だけだった。強い

常的に不機嫌な俺の性格をいい具合に中和してくれた。

疑念と楽観が交互に俺の頭をよぎった。北極近くでわずかにのぞ

ともにクライミングをしてきたこの10 年間、ドリューは一貫し てこぎれいで冷静で前向きで、雪洞を共用するには理想的な相手

につづくかのようだった。

だった。対照的にグラントは平地では歩く災いのようなところが

岩壁の基部に着き、慣れた作業に思考がめぐると正常が戻っ

ある。だが急峻な氷壁でグラントほどすばやく優雅に動く人間に

た。アプローチに予想の倍の時間がかかったことを冗談のネタに

は、これまで出会ったことがない。

しながらハーネスを締め、クランポンを付け、ロープを積み重ね

バターとココナツで強化したコーヒーを飲みながら無名の尖 峰にタグを付ける構想を練った。お目当ての峰はマントックⅡと

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く太陽は上には昇らず、地平線を横に滑っていく。夜明けが永遠

た。ギアラックを装備するグラントの横で、ドリューが聞いてきた。 「アラスカにしては、ちょっと暖かくないか?」


「上を向くと、電子レンジほどの大きさの凶器が宙を落ちてくるのが見えた。それは一度跳ねかえって複数の小さな塊を飛び散らせ、 グラントがアイスアックスにしがみついている場所の数メートル上の雪面に衝突した」

俺の野心が現実を否定するための口実を探しているあいだ、ド

そのうち傾斜がきつくなり、頭上にあるやや手強そうな箇所に

リューの疑問は宙を漂った。沈黙が俺にその現実を受け入れさ

備えて小さなスラブの基部でピッチを切った。グラントとドリュー

せる前に、ドリューはルート確認の質問を口にして沈黙を破った。

が近づいてきた。そのとき最初の落石が起こり、俺の足首に当

話題が変わって俺はほっとした。数分後、グラントが最初のリー

たった。痛みのあとに安堵を感じたものの、山はフェアじゃない

ドに着手した。

という理不尽な不満が湧き上がった。立ち上がって足首を動かし

山の下部を登っていると、周りの印象的な景色が見えてきた。 氷と岩が四方八方に広がり、未登の尖峰が次から次へと姿を現 した。人間の存在を示すものは俺たちが残したスキーの跡だけ だった。

てみた。当然ながら痛みはあったが、まだ機能する感じがした。 「このスラブの下なら大丈夫だと思ったんだけどな」と俺は謝っ た。 「全然、安全じゃないな」 12 メートルほど左にある急 峻な岩 壁に走るクラックを、ド

ふくらはぎまで埋まる雪を突き進みながらグラントとドリューが

リューが指差した。グラントはすでにそこに向かうべく、トラバー

それぞれ長いリードを終え、俺の番になった。ほんの数分で汗が

スしはじめていた。しなやかな筋肉質の体がロボットのように規

出はじめる。ウェアを脱いでベースレイヤー1枚になったが、それ

則正しく、効率よく動いた。左手のアイスアックスを打ち込んで、

でも汗は止まらない。暑さは否定できなかった。俺は上へと進み

左足を移動する。右手のアイスアックスを打ち込んで、右足を移

つづけた。

動する。繰りかえし、繰りかえし。

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マントック 0 での危機一髪の数日後、3 人は別の未登峰に挑んだが、 ルート上で一昼夜を過ごしたのち、ふたたび撤退を余儀なくされた。

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半分ほど進んだところで、グラントはチリ雪崩に足止めを 食らった。サポート精神旺盛なチームメイトのドリューと俺は、 細かい雪がグラントの襟や袖に入りこんでいくのを見て声を立 てて笑った。ようやくチリ雪崩が止むと、グラントは猛進した。 だが別の岩が落ちるズシンという音で、ふたたび止まった。 上を向くと、電子レンジほどの大きさの凶器が宙を落ちてく るのが見えた。それは一度跳ねかえって複数の小さな塊を飛 び散らせ、グラントがアイスアックスにしがみついている場所 の数メートル上の雪面に衝突した。雪煙が舞い上がり、ぞっと するようなうめき声が聞こえた。 ドリューはだらりとした体が落ちてくるのに備え、衝撃を弱 めるためにロープをしっかりと握った。だが雪煙がおさまると、 グラントはまったく同じ場所にいた。 「グラント! 大丈夫か?」と俺は叫んだ。 沈黙。 「グラント! 返事してくれ!」とドリューが訴えた。 さらなる沈黙。 「うーん……オ、オレ」とグラントが口ごもった。 「大丈夫だ と思う」 グラントはゆっくりと頭を左右に動かした。 「よかった!」と俺は叫んだ。 「じゃあ、そのまま登るんだ!」 「どこへ?」とグラントが聞いた。 ドリューと俺は不安げに視線を交わした。 「そのまま左に」とドリューが落ち着いて言った。 「クラック の方へそのままトラバースして」 「ああ、そうだった」とグラントは思い出した。 「ちょっと 待ってくれ」 グラントは長く深く息を吸い込んだ。そしてトラバースを再 開した。それまでのロボットのような正確さが不規則な動きに 変わったように見えた。 ドリューと俺はグラントの進み方に愕然とした。グラントが クラックの基部で雪を蹴りはじめると、俺たちはまたしても不 安な視線を交わした。明らかなクラックにアンカーを設置する のに四苦八苦しているのが一目でわかった。待つのは苦痛だっ た。ますますどうしようもない遅れから気を紛らそうと、ド リューはロープの結び目を何度も結びなおし、俺はハーネスを いじくった。グラントが「ビレイ解除」と叫ぶやいなや、俺たち は大急ぎで向かった。 グラントのところに着くと、砕けたヘルメットと大きく裂け たバックパックが目に入ったが、グラントはいつもと同じ優し い微笑みを見せた。そしてさらなる落石から俺たちを守るオー バーハングの岩の下に、なんとかビレイアンカーを設置してい た。ドリューがグラントの頭と肩をじっくり調べたが、小さな

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すり傷がひとつあっただけだった。俺がいまどこにいて

るべきではないとわかっていながら、その日に決行す

何が起きたかを聞くと、グラントはすべて正確に答えた。

る機会を得た。この誤りがどのように危うい惨事につな

妙な静けさに包まれた。ほんの少し前、俺たちは未登 の岩壁を 600 メートル登ったところで落石に遭った。い まは安全だ。 俺たちは日が陰って近くの斜面がふたたび 凍るのを 待つことにした。そのおぞましい場所に身を置きなが ら、暑さにもかかわらず登攀を決めた選択に、俺は愕然 とした。皆、感情的になっていた。雰囲気はよくなった が、アドレナリンの効果が消えると会話は途切れた。そ れにつづく沈黙のなかで、俺は自分の誤りをじっと考え た。なぜ、あれほど明白な前兆を無視したのだろうか。 認めにくいが、山の極端な暑さを無視したのはじつは これがはじめてではなかった。3 年前、よどんだ大気と 直射日光が巨大な落石を引き起こし、パートナーの脚を 打ち砕いた。近くにいた数人のクライマーの助けとアル ゼンチン陸軍のヘリコプター、そして辛く長時間にわた る救出により、彼女は辛うじて生き延びた。自分がその 苦い経験から学ぶことができなかったという思いは、直 視できないほど腹立たしかった。俺のリスクに対する許

容度は、なぜこんなにも狂っているのだろうか。 一部のギャンブル中毒者のあいだでは、カジノにはじ めて行ったとき最もラッキーな人間が得ることができる のは有り金すべてを失うことだ、という信念がある。最 初の損失のあまりの痛手に、その後一生涯カジノテーブ ルやスロットマシーンには近づかなくなるからだ。 その論理からすると、俺が山で過ごした最初の10 年 は極めてアンラッキーだったと言える。年々ますます低 くなる勝算に対して、俺は着実な成功を享受した。そして その感覚がさらなる成功への飽くなき意欲を助長した。 目標にともなって技量が上達するうちはそれが可能 だった。だが最終的に技量は追いつかなくなった。俺は その不足をリスクを負うことに置き換えた。それでもう 少しのあいだ成功を味わうことができていた。 その置き換えは簡単だ。セーフティギアの数を減らし たり、ロープなしで登ったりするのは、スピードを大幅 に速める解放感に満ちた選択であり、そうした選択が成 果を上げると、たいていは称賛される。 あの朝、俺たちは快晴の天気予報と異常に暖かい気温 を無視するという選択をした。無視したことにより、登

がったかに焦点を当てるのは簡単だが、それ以上に恐 ろしいと思うのは、この同じ誤りがどのように成功に終 わったかという点だ。落石が起きたとき俺たちがほんの 数十メートル上にいたら、俺たちと頂上のあいだに障害 物はほとんど存在しなかった。俺はもうひとつのギャン ブル、もうひとつの大当たりに近づいていた。 俺がこのことに気づいたとき、周囲の影は濃くなって いた。それ以上の落石はなく数時間が過ぎ、俺たちは ためらいがちに下降を決めた。まずは俺がアンカーと足 首への負荷を最小限に抑えながら慎重に懸垂下降をした。 グラントとドリューもそれぞれの物思いに耽りながら無 言でつづいた。懸垂下降とクライムダウンを繰りかえし、 氷河の安全な場所に戻った。 翌日はゆっくり寝ていようと思ったがテント内の気温 はあっという間に熱帯レベルに達した。目が眩むような 日光の下で、助かったことを祝してシャンパンで乾杯し た。手にした金属製のカップにはコーヒーの染みがあり、 コーヒーの酸味が甘い泡を台無しにした。俺たちの高揚 感も、消し去ることのできない敗北感という酸味に台無 しにされた。 俺はいまもあの奇妙なカクテルについて考えている。 それは喜びと悲しみが配合されていた。落石を逃れて登 頂に成功していたら、あの雰囲気はどう違っていたのだ ろうか。成功のオーラは意思決定に関する懸念など覆い 隠していただろう。 逆に、危険な暑さを認めてベースキャンプで引きかえし ていたら、祝杯をあげることはなかっただろう。正しい 選択だったのだろうが、それを裏づける反応は得られな かっただろう。 登頂という点ではこの旅は失敗だった。だがその事実 にともなう失望に対して、俺はますます感謝の念を深め ている。それはもちろん不快な感情だが、リスクに対す る俺の心構えを矯正する貴重な反応だ。山頂を目指すこ とを止めるつもりはない。だがもう少しの運ともう少し の失敗で、山でより賢明に賭けをすることを学ぶかもし れない。 ジャック・クレイマーはカリフォルニア州マンモス・レイクスを拠点と する語り手。速いスキーと確かなビレイと長い昼寝を好む。

日差しがそれほど強くない日のアラスカ山脈での登攀。

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〔左〕ベースキャンプで日光浴をする著者。 〔上〕濡れた足を乾かす。 〔前の見開き〕この旅 2 つ目の未登峰のまだ見ぬ世界に 足を踏み入れるグラント・クリーヴス。

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Temprano por la mañana, en un pequeño pueblo de pescadores en Chile ...

チリの あるちいさな ぎょそんのあさ、

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L

as redes fantasma que asechan en aguas chilenas y dañan la vida marina angustian a Isidora y Julián, los jóvenes héroes de Mejor Que Nuevo: Un Cuento de Reciclaje. “A lo largo del libro hago un reconocimiento a la mejor maestra de diseño circular: la naturaleza”, explica la ilustradora Lake Buckley. “El reciclaje y la circularidad pueden ayudar a salvar el planeta y a nosotros mismos de los efectos del cambio climático. El principio de circularidad inspiró tanto la curvatura como la suavidad de mis ilustraciones, así como la estructura visual y el estilo del libro, por lo que en todo el flujo de la historia comienzos y finales se reflejan, con sutiles transformaciones”. Lake enfatiza que, “Las ilustraciones muestran a Isidora y Julián fuertes, valientes y capaces de cualquier cosa, como creo que son todos los niños”. El primer libro para niños de Patagonia, Mejor Que Nuevo, de Robert Broder y la ilustradora Lake Buckley, estará disponible en librerías y tiendas Patagonia a fines de mayo 2022.

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〔上〕

“¡Por supuesto!”, exclaman Isidora y Julián mientras se apresuran a sacar la red del agua. Quieren a todas las criaturas del mar felices y a salvo. 「もちろん!」 イシドラとフリアンは さっそく

あみを

うみから

ひきあげました。 ふたりは うみのいきものたちみんなが しあわせに

あんぜんに

くらせたらなあと

おもいました。


リの海域に潜み、海洋生物を脅かすゴーストネットに立ち向かうイシドラとフリアン。

『しんぴんよりもずっといい:リサイクルのおはなし』は、そんな幼い英雄たちの物語です。 「この本を通して、私は循環型デザインの究極の先生である自然に敬意を払いました」と

イラストレーターのレイク・バックリーは説明します。 「リサイクルと循環は、私たち自身、そして地球 を気候変動の影響から救うのに役立つ方法です。私はイラストの丸みとやわらかさ、そしてこの本の 視覚的な構成とスタイルの両方に、循環の原則からひらめきを得ました。そのためストーリーの流れ 全体では始まりと終わりに微妙な変化をもたせました」 レイクは強調します。 「私はイシドラとフリア ンを強く、勇敢に、何でもできるように描きました。すべての子どもたちがそうである、と信じてい るからです」

〔上〕

Saben que si no hacen algo, las redes abandonadas y otros desechos seguirán dañando la vida marina. じぶんたちが どうにかしなければ、 すてられたあみや

ごみが

うみのいきものたちを くるしめつづけるのです。

パタゴニア初の児童書『しんぴんよりもずっといい』 (作:ロバート・ブローダー/絵:レイク・バック リー)は、2022 年 5 月にパタゴニア直営店や書店で販売される予定です。

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語り

アントニオ・バストス

写真

ユルゲン・ウェスターマイヤー

黙殺、 海水、 希望 海を守ることは友情の証。

年時代の私は漁師などにはなりたくなかった。 これは私の人生における最大の皮肉のひとつ だ。私が生まれ育ったチリのトメでは、誰も が漁師か漁業に携わる仕事をしていた。私の父や他の 漁師たちは毎朝霧のなかでコンセプシオン湾に向かっ て船を出し、シロガネダラを獲るために一日中せっせと 働く。そしてそれだけに生涯を捧げることに、私はまっ たく魅力を感じなかった。 誤解しないでほしい。海――その美しさや力、水平線 の向こうに広がる冒険――は大好きだった。しかし漁に は興味がなく、船乗りになって世界中を旅するのが夢 だった。だが人生はときとして思うようにはいかないも のだ。6 年生のとき父は私に学校を中退させ、私を漁 に連れていって働かせようとした。アウグスト・ピノチェ トの独裁政治がはじまってから最初の数年のことで、チ リはとても貧しく、父は家族を養うために手伝いが必要 だった。 最初は、本当にその生活が好きになれなかった。友 達とは会えず、長時間の労働を強いられ、学校にも行け ない。けれども徐々に、漁が秘める特別さや海から学 ぶことのできる教訓に気づきはじめた。父は海のさまざ まな秘密と、海で遭遇する不可知や未知に対する恐怖 を乗り越える術を教えてくれた。海に出れば自然とのつ ながりを感じることができる。静かに航行するなかで聞 こえるのは風の音やカモメの声だけ。夜空の星と月は鮮

〔左と上〕「私は漁に出たくなかった少年から、人生のほぼ 55 年をそのためだけに費やして きた」干潮時に磯へ足を運ぶ漁師アントニオ・バストス。チリ、コチョルグエ海岸

明に輝き、朝日と夕日を眺めれば言葉も出ない。海と 空は永遠につづくかのようだ。お金では買えない美しさ である。そしていま、私は漁に出たくなかった少年から、 人生のほぼ 55 年をそのためだけに費やしてきた。

〔前の見開き〕父の足跡をたどりながら網の状態を調べるアントニオ。漁網のリサイクル 企業であるブレオ社は、漁網が海洋環境に廃棄されないよう使い古された網を回収し、 それを生地に織り上げることのできるやわらかく丈夫な糸に再生させている。 チリ、サン・ヴィセンテ

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何世代にもわたって漁師の故郷となってきたチリの中央沿岸部にあるコチョルグエ地方は、豊富な自然資源に恵まれている。 「私たちは最善を尽くして、海を守る番人としての役割を果たさねばならない」とアントニオは語る。 「自分たちと仕事のためだけでなく、私たちの仕事を頼りにしているすべての人、さらには未来の世代のために」

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漁船を操縦して海へ出るアントニオ・バストス。

私が海に対して感じる驚異と感嘆はあのころから変わっ

海にも行くことのできる大規模な漁業船を所有する企業

ていないが、チリの他のすべては変わってしまったように

には問題ないかもしれないが、小規模で持続可能な漁業

見える。いまでは独裁政治は歴史の教科書のなかの出来

を営む私のような漁師への影響は非常に大きい。

事となり、民主主義が 30 年以上つづいている。子どもた ちは生活のために学校を中退させられて漁に出る必要は なくなったが、勉強に励んで大学へ行き、医者やエンジニ アになることを期待される。こうした変化は良いことでは あるが、なかには必ずしも有益とはいえないものもある。 チリの漁業は産業化し、4 大企業が市場の大部分を占 めている。これらの大企業だけでなく、違法操業を行う 中国などからの漁船によっても、昔ながらの漁業を営んで きた漁師たちの生活は苦しめられている。また乱獲の悪 化により私たちの漁業資源の70 パーセントはすでに崩壊 しているか、過剰搾取されている。私たちがおもに獲るイ ワシとタイはあまりにも乱獲が進みすぎ、政府が漁獲制限 を設けたり一時的に禁漁を発令することもある。どこの

それに加えて、汚染の問題もある。 漁網が魚や海に与える悪影響を知る前は、私も網やゴ ミを船から海へ捨てていた。しかしそんなゴミと魚や動物 の死骸を目にして、この問題が漁業だけでなく地球全体に 影響を及ぼすことを学んだ私は衝撃を受けた。組合や大 手水産企業との対話を通じて、私たちができることについ ての意識を高めようと試みたことはある。だが正直、漁網 のリサイクル企業であるブレオ社が現れるまでは、網をリ サイクルすることなど思いつかなかった。 網を毎日使い、汚染がいかに私たちの海に害を及ぼし ているかを目にしながら、それをリサイクルするなど考 えもしなかった。使い古した漁網をリサイクルすることで、 世界の気候危機との闘いに加わる一歩を踏み出すことに

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なる。それで問題が解決するわけではないのはわかっているが、私たちが行う小さな行動のひ とつひとつは積み重なっていく。 誰かがこの話から何かを学んでくれるなら、それは仲間の漁師たちであってほしい。ここチ リだけでなく、世界中の漁師たちに学んでほしい。海は私たちに仕事と生活の糧を授け、そし て地球上の何百万もの人が私たちが海で行う仕事に頼っている。私たちは最善を尽くして、海 を守る番人としての役割を果たさねばならない。自分たちと仕事のためだけでなく、私たちの 仕事を頼りにしているすべての人、さらには未来の世代のために。これらは確かに素晴らしい ことではあるものの、私たちの海と私のような人間の将来がどうなるかはまだ心配だ。私の 父がしたように、漁や海に関する知識を伝える息子は私にはいない。これを私はもどかしく思 う。誰かに私の仕事をつづけてもらいたいし、最善を尽くして海の番人になる必要があるとい うメッセージを伝えたい。海を守らなければ汚染は進み、さらに多くの魚が姿を消していくだ ろう。海は私たちの暮らしそのものであると同時に傷つきやすい存在だ。漁師であろうがなか ろうが、皆がその保護に取り組まなければならない。

アントニオ・バストスの語りをここに綴った アンドリュー・オライリーは、ロサンゼルスを拠点とするジャーナリスト であり、ライターであり、スキーヤーであり、マウンテンバイカーでもある。 『The New York Times』、 『Outside』、 『ESPN The Magazine』、 『Rock and Ice』などに執筆歴をもつ。

〔上〕夏の日の海に出る前に釣り針に餌を仕掛けるアントニオ・バストス、ネストル・ヴァレンズエラ、デニーロ・レイエス。 〔右〕海洋環境におけるプラスチック汚染問題の解決策の一部となるために、力を合わせて何ができるかを漁師仲間たちと 前向きに話し合うアントニオ。

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スティーブ・デューダ

写真とキャプション イアン・マカリスター

すべてを養う 小さな魚 海で最も重要な魚かもしれない、 小さくとも偉大なニシンは。

い茂る藻場の端にアンカーロープ を結びつけると、 あとはニシンを

球形は始終旋回しながら形を変えるが、サー

待つだけだった。 「ニシンが来たら

ルを再攻撃する。そのときはじめて、フライ

わかる」と船長が言った。 「絶対に、見逃すこ

ロッドをつかんでこの争乱の渦中に疑似餌を

とはない」

キャストしなければならないことを思い出す。

アラスカとブリティッシュ・コロンビアの境 界からほんの数キロ南のナールド諸島に囲ま

サーモンがかかることを祈ると同時に、その 後何が起きるかを恐れながら。

れた小さな入江で、私たちの船はぷかぷかと

腹を空かせているのはサーモンだけではな

揺れていた。通称「ザ・ナーリーズ」として知

い。ここではニシンはあらゆる生き物の餌と

られるこの場所は歴史上重要なチムシアン族

なる。カモメの群れは島々のあいだを巡回し

の領 土にある。英語名はなく、地図上では

ながら魚の群れを爆撃するように攻め、ワシ

小さないくつかの点でしかない。しかし船上

は断崖に陣取って引き潮とニシンの残骸を待

からは、あまりの豊かさにまるで島々と海と

つ。ザトウクジラの一群はニシンを小さな入

月と潮が一緒に息を吸ったり吐いたりしてい

江に追い込み、泡を吐き出しながら円を描く

るように見える。この地方はサーモン、ワシ、

ように泳いで獲物を取り囲む「バブルネット・

オルカ、クジラ、そして泳ぎの達人と言われ

フィーディング」をはじめる。クジラが水面か

来る年も同じ産卵場所へと回帰する。

るオオカミの群れなど、非常に多くの生き物

ら出て息を吐き出すと海とニシンの臭いがす

ニシンがサーモンと異なる点は、何世代も

を養っている。船の下では海藻が虹色のニシ

る。消化されかけた魚のゲップだ。それにし

ンの卵にびっしりと覆われて光っている。

てもアザラシとアシカはどこにいるのだろう

〔右〕ニシンはサーモンと同様に、来る年も

一緒に産卵することだ。年長の魚はどこで どのように産卵するかといった代々受け 継がれるべき不可欠な習性を把握しており、 それを若い魚へと伝達する。産業的漁業で は大きめのニシン、つまり最年長の魚体を

船から10 メートル 弱のあたりに、ニシン の成魚が日光を浴びてきらめく球形の群れを

捕獲するためにそのような重要な知識が

つくりはじめる。 「ベイトボール」と呼ばれる

群れから失われてしまう。ニシンがかつての

この魚の球形群は水中を旋回する以外はほ

産卵場所の多くへと戻らなくなった理由は それであると説明する専門家もいる。彼ら はどこへ行くべきかを忘れてしまったのだ。

〔前の見開き〕カナダのグレート・ベア・ レインフォレストでのニシンの産卵は、 無数の雌が暗い海中で海藻に極小の卵を

とんど移動することなく、ただ大きくなって いく。船は暗い海を埋めるニシンにあっとい

には海岸でまどろむアザラシに忍び寄る技を 習得した泳ぎ達者なオオカミがいるというこ とを教えてもらった。 数百万匹ものニシンが数千匹のサーモンと

推測することさえ不可能だ。

を目の当たりにすると、ナールド諸島の豊か

突然サーモンが、怒りに駆られたかのよ うに現れる。どこからともなく8 匹、10 匹、 12 匹の編隊が水中を飛ぶように突進し、ベ

決める要因である。

あちこちにいるはずだ。そのときこのあたり

無数の鳥と数十頭のクジラに食べられる様子

精子を放出して海を白く濁らせる。月の 水温などはすベてニシンの産卵開始を

と不思議に思う。これほど豊富に餌があれば

う間に囲まれる。いったい何匹いるのだろう。

産みつけることからはじまる。同時に雄は 満ち欠け、海の塩分濃度、潮、流れ、

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モンは予想外の速さと精密さでベイトボー

イトボールを打ち砕く。水面 付近のニシン が水から跳ね上がり、雨のように落ちてくる。

さに圧倒され、太平洋北部のニシンが乱獲の せいで100 年以上にわたり減少しているとい う事実は理解しがたい。これは海における皆 伐に相当する。



ニシンは海の「生態系への奉仕」に不可欠だ。 水生生物に餌を提供し、水質と生態系全体の 健全性の指標となり、人間に栄養と社会的 文化的利益をもたらす。

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直径 2ミリメートルに満たない卵のなかで 成長しはじめる新しい世代のニシン。 1 匹の雌が産む卵は 2 万個以上になる こともあり、1平方メートル弱の面積に 600 万個以上の卵があるという計算だが、 そのうち成魚になるのは 1万個にたった 1 匹かもしれない。


一世紀にわたって行われてきた産業規模の 漁業により、カリフォルニアからアラスカ にわたるニシンの個体群は深刻な減少に 苦しんできた。かつてニシンの豊かな産地 であったブリティッシュ・コロンビア沿岸 では、現在 5 つの主要なニシン漁場の うち 4 つが乱獲のせいで閉鎖されており、 これらの個体群がいつか回復するかどうか も不明のままとなっている。今日ニシンの 卵はアジアの寿司市場で売られているが、 それ以外の部分は魚粉に加工されて魚の 養殖場の餌やペットフードや園芸用肥料 として使われる。沿海部の共同体や生態系 を支えるこの被食魚の小ささに対する役割 の大きさを無視し、政府の漁場管理者たち は人間が毎年大部分のニシンを捕獲する ことを許可しつづけている。

考古学的記録によると、パシフィックヘリング(ニシ

た。1920 年代には動力引網船、新たな加工工場、魚

ン/学名 Clupea pallasii)は1万年以上にわたり太平

餌や肥料や飼料としての新市場が台頭し、ニシンの数

洋北西部で捕獲されてきた。ロシアでは「神聖なるパ

は急降下した。1937 年には 125,000トンのニシンが

ン」として知られ、日本のアイヌ民族は「神の魚」と呼ん

アラスカの精製工場で加工され、1939 年にはニシン

だ。北米大陸の北西沿岸では「万物の餌」だった。ニシ

の個体群は崩壊し、アラスカは魚餌以外のすべてのニ

ンは海洋食物網全体の食源、そして基盤の種として海

シン漁を禁止した。しかし、休止期間は長くはつづか

の「生態系への奉仕」に不可欠だ。水生生物に餌を提

なかった。

供し、水質と生態系全体の健全性の指標となり、人間 に栄養と社会的文化的利益をもたらす。銀色に輝くこの 小魚は、多くの生物にとって海で最も重要な魚だ。

カナダとアメリカの漁業規制は明確なデータに基づ いておらず、地元や昔ながらの知識は無視してサーモン でもクジラでも何でも捕獲できるものはすべて、躍起

歴史上、北米の先住民族は産卵の 2 か月前までニシ

になって捕獲した。世界中で何十年も乱獲がつづけら

ンを捕獲した。彼らは魚を新鮮なまま、あるいは燻製や

れたのち、ニシンの個体群は1960 年代にふたたび崩

干物にして食べたり魚油にしたりした。海藻やアマモに

壊を迎えた。

産みつけられたニシンの卵は伝統的な珍味で、先住民 族は採集しやすいように産卵床としてアメリカツガの枝 を慎重に配置するなどして、いまも収穫をつづけている。 ニシンの数に変曲点が見られるようになったのは商 業的関心が高まってニシン漁が奪取され、アラスカ南 東部に加工工場が建設された1870 年代にまで遡る。 数千年にわたって持続的に利用されてきた生態系と文 化の基盤だったニシンは破滅の危機に直面し、1878 年にはアラスカの食用ニシンの漁獲高は15トンに上っ

それから数十年間におよぶ悲しい悪循環が繰りかえ された。数年ごとにいくつかの漁場でニシンの数は激減 し、ときにはその回復が不可能となる瀬戸際にまで追 いやられた。 さらにニシンにとって不幸なのは、1970 年代に日本 でその卵巣(数の子)の市場が生まれたことだ。乱獲に より日本の漁場が崩壊したため、捕獲は北米に移動し た。日本とロシアのトロール漁船が乱獲を行い、ふた たびニシンは深刻な問題を抱えた。加工業者は貴重な

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卵巣を魚からはぎ取り、残りは擦りつぶして餌、とく

解だろう。いずれにしろ、ニシンの問題の本質が乱獲

に養殖場のサーモンに与えるペレットに加工した。

であることは疑う余地がない。搾取されたニシンの個

アラスカ州は 2018 年と 2019 年にニシンの魚卵捕 獲を禁止したにもかかわらず、2021年にニシンの魚卵

体群は 20 世紀に崩壊し、乱獲がその主因であること は科学が明らかにしている。

の捕獲レベルを 33,000トンに設定した。現在カナダ

作家、写真家、そして映像作家のイアン・マカリス

ではニシンの商業漁場 5 か所のうち 4 か所が閉鎖され

ターは 20 年以上にわたってブリティッシュ・コロンビ

ている。環境保護団体〈Pacific Wild〉は最近の報告

アの北西岸に暮らし、この人里離れた温帯雨林の動植

書でブリティッシュ・コロンビアでのニシン漁の閉鎖を

物を記録してきた。マカリスターが撮影したこれらの

次のように呼びかけた。 「ニシン漁の完全な一時停止を

写真は著しく繊細で共生的な生態系を映し出している。

含む緊急かつ劇的な保護対策が実施されないかぎり、

「この海岸線が傷つけられていないのは奇跡的だ」と彼

少なくとも個体群が回復して科学的見解が明らかにな

は言う。 「でも、ここにあるのは博物館の展示物じゃな

るまで、ニシンおよびニシンにその存続を依存する海

い。本当の生き様だ。失われてしまうかもしれないの

洋食物連鎖内のあらゆる種は危機的状況に置かれたま

は、それだ。先住民族の文化の存続はまさにこの場所

まとなる」 太平洋沿岸の数多くの先住民族はこれと同

にかかっている。これは人間からかけ離れたものでは

ニシンの問題の本質が乱獲であることは疑う余地がない。 搾取されたニシンの個体群は 20 世紀に崩壊し、乱獲が その主因であることは科学が明らかにしている。 じ要請を何年も行ってきた。ブリティッシュ・コロンビ

なく、むしろその一部。僕たちはここで持続可能な暮

アでは法的救済を求める部族もあったが多くの場合に

らしをしている共同体があることを尊重し、この場所

おいて彼らが返答を得ることはなかった。ニシンは個

を守らなければならない」

体群の回復に10 年を要するため、ブリティッシュ・コ ロンビアとアラスカでの断続的な禁漁ではその安定に はつながらなかった。

「ここには四季というものはない。無数の季節があ り、ほんの1週間や 10 日しかつづかない季節もある」 とマカリスターは説明する。 「その存在はじつに儚く、

サーモンがニシンを食べ、100 メートル先でクジラ

相互につながりあっている。ほんの小さな変化であち

がジャンプするのを見ながらベイトボールにフライを投

こちがあっという間に崩れてしまう。僕の写真は豊か

げているとき、その豊かさの喜びに浸るのはたやすい。

さが永遠であるかのような印象を与えるかもしれない。

しかし豊かさとは微妙な概念でニシンの豊かさを測る

しかしすべては危機一髪の状態にある。すべては蜘蛛

のは難しい。ブリティッシュ・コロンビアでのあの日の

の巣のようにつながっている。1本の細い糸を解けば、

午後の釣りは幻だったのか。過去を垣間見る一瞬だっ

すべてが瞬く間にバラバラになってしまう」

たのか。ニシンがいかにすべてをつないでいるかを思 い出させる啓示だったのか。おそらくそのどれもが正

スティーブ・デューダはパタゴニアのフィッシュ・テールスの代表。

オルカから逃げて海藻の林に隠れるゼニガタアザラシ。太平洋沿岸部では最小から最大まで無数の動物種が豊富なニシンの おかげで存在しているため、人間がニシンを管理する方法を根本的に変えることが必要である。生態系を基にした取り組み方、 つまりニシンに直に依存する人間以外の多種多様な生物を認識し、それらにもニシンを割り当てることが太平洋のニシンの 持続可能な漁場を築き、回復させるための第一歩となる。

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〔左〕新しい世代をはじめるために故郷の川へと遡る

〔上〕グレート・ベア・レインフォレストにて、地球上で

〔次の見開き〕干潮時に打ち上げられたニシンの卵に

ピンクサーモン。自分が生まれた川をまだ若いうちに

最も驚異的な集団捕食方法のひとつを使ってニシンに

ありつき、満腹で帰路につく1 匹のオオカミ。太平洋岸

離れたときからサーモンはその生存を豊富なニシンに

ありつくザトウクジラの群れ。クジラはまず水面から

北部の多くの場所では、沿岸部に生息するオオカミは、

依存する。10,700 年前まで遡る考古学的記録によると、

深い場所で魚群の位置を確かめる。次に獲物となる魚群

ニシンの卵自体やニシンの成魚に頼る他の多くの生物を

ニシンは今日よりも豊富で広範囲に生息したことが

の下に潜っていって泡を吐き出しながら、そのまわりに

食べることを含め、餌の大部分を海から得る。

示されている。ピュージェット湾からアラスカ南東部

完璧な円を描く。「バブルネット」と呼ばれるこの罠が

におよぶ 171か所の遺跡では、それらの場所の

仕掛けられると、クジラは水上からもはっきりと聞こえる

99 パーセントで発見された魚の骨のほぼ半数が概して

ほどの高音で鳴き声を発しはじめる。一説にはバブル

ニシンの骨であった。ブリティッシュ・コロンビア沿岸

ネットの外側で発せられたこの鳴き声の強烈さにより、

では地域によってはニシンがパシフィックサーモン

獲物はこの防音の泡のなかへと追い込まれるのだという。

よりも重要な食料源であったらしい。

そして最後に食べる合図が出されるとクジラは口を 大きく開け、この入念な戦略の報酬を期待しながら水面 へと浮上する。12 頭ほどから成るこの群れは約 5 分 ごとにバブルネット・フィーディングを行う。

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〔上〕早朝にサーモンを獲る沿岸部に生息するオオカミ。

〔次の見開き〕ニシンは沿岸部の最も小さい動物から最も

もそれに頼っている。何百万という海鳥が産卵する成魚と

大きい動物にまで恩恵を与える、真に偉大な小魚である。

その卵を餌とし、クマとオオカミはニシンの産卵中と産卵後

これらの移動性のオルカはブリティッシュ・コロンビア沿岸

ような大型動物にプランクトンからのエネルギーを受け

に波打ち際へ移動して卵を食べる。ニシンの産卵場所の

でアザラシやアシカを狙う。ニシンの数が減少しつづける

渡すという、その地域の生態系に欠かせない役割を担う。

近くの浜では植物さえ魚からの栄養を得て育つ。長い時間

と、チヌークサーモンから定住性のオルカまでますます

ニシンはチヌークサーモン(キングサーモン)、コーホー

をかけてニシンが小さく少なくなるにつれて、こうしたすべて

多くの生物が絶滅危惧種のリストに加えられていく。

サーモン(ギンザケ)、キンムツ、オヒョウ、シロガネダラ

の生き物の食べ物は減っていく。ニシンの個体群の崩壊は

産業的ニシン漁を数年間止めることは、太平洋東部全体で

などの魚の重要な餌であるだけでなく、ザトウクジラ、

生態系のいたるところに変化をおよぼす。

ニシンの個体群を回復させるための最初の一歩でしかない。

〔右〕ニシンはこの沿岸部に生息するグリズリーベアの

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イルカ、ネズミイルカ、アシカ、アザラシなどの海洋哺乳類





写真

ケン・エッツェル

鷹匠

猛禽類保護の最前線へと導かれた ショーン・ヘイズの旅路。 「ファルコナー(鷹匠)としての僕の役目は、鳥に僕を信頼しても らうことです」と、ショーン・ヘイズは説明します。 「僕は当初から、 安全だとハヤブサが自覚するためにできるかぎりのことをしていま す。ハヤブサが僕を受け入れている兆候を見ることができると、僕 もその鳥を信頼できることがわかります」 パタゴニアの新しい映画 『 Game Hawker(鷹匠)』は、ハヤブサとともに狩りをするヘイズ を追いながら、カリフォルニア州リバーサイドからオーウェンズ・バ レーの吹きさらしの平原へ、やがては猛禽類保護の最前線へと導 かれた彼の旅路をたどります。ヘイズは鳥たちへの献身と彼らを絶 滅から守ることへの決意を振りかえります。そして、彼にとって、そ れは最終的に彼のハヤブサが飛ぶのを見るということです。 「ファ ルコンリー(鷹狩り)はスポーツでもアートでもありません」と、彼 はつづけます。 「それは、訓練です。僕は鳥を飛ばすたびに、何か 新しいことを学びます。すべてを知り尽くしているファルコナーなど、 世界中にひとりとして存在しません」 40 年近くその訓練に励んで きたヘイズは、こう加えます。 「毎日欠かさず鳥たちを世話し、扱い、 狩りをさせ、飛ばすことが、彼らに良いハンターであるという自信を 与えていることを学びました。僕は自分の鳥を、ソウゲンライチョ ウやさまざまな種の水鳥といった、最も難しい獲物で狩りができる よう育てます。僕たちはともに狩りを学ぶのです」 それでも、ヘイ ズが猛鳥と過ごした時間は、外界からの誤った意見から免れること はできません。 「何年にもわたって、僕にはアウトドアでの居場所は ないと言う人たちに遭ってきました。黒人として、僕はそれに挑戦 し、世間に周知される責任を感じます。それがファルコンリーであれ、 フライフィッシングであれ、ハイキングであれ、僕たちの誰もがい るべき場所にいるのです」と彼は言います。

ショーン・ヘイズとハナー。カリフォルニア州ビショップ

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鳥の世話はファルコンリーの中心だ。鳥を扱う際に欠かせないのが、頭の大きさと形に適切に フィットし、飛んでいないときに落ちつかせるための頭巾。ヘイズは鳥の体調維持のため、 1 日 2 回体重を測定し、健康についての記録をつける。

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「野生のハヤブサの 80〜90 パーセントは、狩りの技術を得ることができずに死んでしまいます。どうにか生き残ることができた鳥も、 気候変動や生息地の喪失に苦しんでいます。訓練したハヤブサを野生に放つと、その生存の可能性が高くなることを僕は知っています。 ファルコナーとしてそして自然保護論者として、自分がその役割を果たしたことを知ると良い気分になります」とヘイズは語る。

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奥谷 陽子

写真

遠藤 励

森とともに 自伐型林業で森の再生を追求する 元オリンピック選手。

「森」

という漢字は、大きさの異

〔右〕美しい清澄な空気と透明な自然美 が、針葉樹と広葉樹の両方から溢れる 軽井沢の森。

〔前の見開き〕「すごくきれいな年輪です よね。この切り株で、時計を作ろうかなぁ、 なんて思っています」と、自身の製作所で 穏やかに話す湯澤丈人は軽井沢生まれの アーティスト。「たいてい 1 日中ここに います。木を眺めながら、どのように 新鮮な命を吹き込もうかと考える時間が いちばん幸せです」

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橋本通代さんがスノーボードハーフパイプ

なる 3 つ の「木」から成る。

でファイナリストとなったのは 2002 年のソ

それは、森は 本 来、広 葉

ルトレイク冬季五輪のこと。現役引退後は、

樹と針葉樹とが混生する混合林であるとい

福島県を拠点に KIRARA KAMP(キララ

うことを表す。この均衡は国土の 7 割近くが

キャンプ)を主宰する充足した日々を送って

森林で覆われている日本にとって、文字通り、

いた。 「オリンピックが終わってからは燃え

重要だ。気象災害が頻発するいま、日本の

尽き症候群になり、脊椎を損傷する大けが

森が全体論的にどのように機能してきたか

もしました。でも子どもが大好きで、子ども

は、これまで以上に意味をもつ。大型化す

たちとかかわることがしたくて」と言う通代

る台風や大規模な皆伐で不安定になった土

さんは、子どもスノーボード教 室を 2003

地が発生源となり、破壊的な土石流や土砂

年に発足させ、キッズスノーボーダ―育成に

崩れがますます増加するなかで、林業にお

全力で取り組 んでいた。しかし 2011年に

ける木は無視できない。それにもかかわらず、

東日本大震災が発生し、一家は移住の必要

2000 年には最後の林 業 高 等 学 校 が 閉 校

に迫られる。移り住んだのは、自然との高

し、大学の教科課程も林業から移行してい

潔な精神的つながりと、自然と町とが融合

る。このことは、豊かな知識を有する林業

する共生空間の繁栄に根ざした信念をもつ、

家の未来世代はいつの日か存在しなくなっ

雄大な浅間山の麓にひろがる美しい高原の

てしまうかもしれない、ことを意味する。そ

町、軽井沢だった。そして通代さんにとって、

のひとつの希望は、志を同じくする人たちが

それはまた予期せぬもうひとつの道への再

地域を自発的に創生することとなる、いま日

生でもあった。

本各地で広がりを見せている持続的森林経 営、自伐型林業にあるのかもしれない。

通代さんはこう話す。 「軽井沢に引っ越し てきたとき、スキー場の町の夏はたいてい閑

私たちが無意識に壊してしまった森を私

散としているのに、軽井沢にはこんなに人

たちが回復させることは、可能なのではない

がいて活気があるんだと驚きました。そして

だろうか。

思ったんです。ここでなら雪のないグリーン

***

シーズンも何かできるかもしれない……と」



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日本の森林が気候変動を完治させることはできなくとも、健全な森林は土地に とっての強力な療法となる。そして森を救おうとする地域を元気づけることで、 結果的に人間の生き方も健全になる。自伐型林業の取り組みはその両方に対処する。 そしてその 3 年後、友人でカヌーのインストラクターの宮崎聖さ

型林業の講習を受けた林業従事者は、山林所有者から山を借り

んを通して、自伐型林業と出会うことになる。繁忙期が 8 月しか

て、木材の伐採や搬出をする。都市から地方への移住という動き

ない四万十市で、宮崎さんは副業でコテージを経営しながら自伐

が広がりつつあるなか、地方の山村地域では、誰もが林業に参入

型林業に従事していた。そこにある自然を、外から来る人のため

しやすくするための入り口を作りたいと考えている。自伐型林業

の観光だけではなく、そこに住む者の資産、つまり生きていく資

は、山村地域を復活させ、森を復活させることとなる。

本や基盤として考えているという宮崎さんの言葉に、通代さんは ハッとさせられた。 *** 「令和 2 年 7月豪雨」による熊本県の球磨川の氾濫は、破壊的 な土砂災害を誘発した。これは森林の大規模な皆伐により、森 が保水力を失って表土がむき出しになったことに起因すると、多 くの専門家が指摘している。大規模な皆伐はそれ自体が生態系 にとって破壊的というだけでなく、近年は気候変動の影響で台風 の規模も大きいため、土砂災害の脅威がさらに強まっており、こ うした災害による未来は私たちの手には負えない状況となって いくだろう。 そして多くの意味で、その未来はすでに来ている。 「問題の多くは山を一気に伐採する皆伐にあることが多いです」 と指摘するのは、林業のプロフェッショナルであり長年山に生き てきた、自伐型林業のパイオニア的存在の熊崎一也氏だ。林業

「それは、いわば日本でかつて営まれていた、混みすぎた林の 間伐や択伐を主とした家族経営の、小さな林業を再生するという ことです」と熊崎氏は言う。 「あまり余計な経費がかからないため 採算が合うばかりか、近年頻発している土石流等の災害誘発のリ スクを防ぐこともできます」 *** 「多くのアスリートにとって、セカンドキャリア構築は大きな課 題です。また同時に滑り手にとっては、雪のないグリーンシーズ ンの活かし方も課題です」と通代さんは言う。 「私にとっては、自 伐型林業がその答えでした」 通代さんは軽井沢をモデルとすべく、 2018 年夏に友人とスノーボード関係者とともに、自伐型林業に 興味をもつ多くの人たちのためのフォーラムを実施すると、自伐 型林業をスノースポーツにどのように取り入れるかについて、多 彩なパネリストをはじめ、6 都道府県からの約 60 名の参加者と 意見交換を行った。

就業支援事業の長野県地域アドバイザーでもある熊崎氏は、こう

2021年には、自分たちが滑る山を守りたいと、キララビレッ

つづける。 「ですが皆伐がすべて悪いのではなく、そのために伐

ヂプロジェクトに着手。スノーボーダーという森の恩恵を受けた

採業者が大型の重機を使い、知識や技術の不足により、道を開

スポーツに携わるアスリートとして、持続可能なその森の管理を

けてはいけないところに作業道を作ってしまう点に問題があるの

地元地域にもたらすこと、そしてスキー場のグリーンシーズンの

です。再造林をしないことも問題のひとつです」

活用を構築することがその目的だった。熊崎氏らの手を借りて

日本の森林が気候変動を完治させることはできなくとも、健全 な森林は土地にとっての強力な療法となる。そして森を救おうと する地域を元気づけることで、結果的に人間の生き方も健全にな る。自伐型林業の取り組みはその両方に対処する。 自伐型林業というのは、個人または少人数のグループで行う自 営型の林業のことであり、その基盤となるのは、地域の人が地域 の森林に必要な手を入れて豊かな森を育てるという考えだ。自伐

〔左上〕仲間のひとりである湯澤丈人とともに、「キララビレッヂプロジェクト」 で創ろうとしている未来について話す元プロスノーボーダーの橋本通代。 「地球や自然にとってのいちばんの害は人かもしれませんが、人ができる ことをあきらめたくはないのです」

プロジェクトのひとつ、キララの森の整備にいま取り組んでいる。 誰も手を入れなかったために鬱蒼と暗かった南軽井沢エリアの森 に必要な間伐を行い、トレイルを整え、森のオブジェで飾る。そ れは歩行者や訪問者が楽しむことのできる、季節の葉越しに光 が漏れさす美しく温かい森へと姿を変えるだろう。さらに、サス テナブルなスキー場となるべく遊休地を間伐し、夏季に活用する ことを発表した軽井沢プリンスホテルスキー場のプログラムにも、 今後関わることになっている。

〔左下〕湯澤丈人によって描かれた、2023 年完成予定のキララの森の イラスト。森の向こう側の公園までトレイルを整備し、遊具やベンチを できるだけこの森で出た素材で作ることで、地域を活性化させ、 森を循環させる。

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〔上〕森という教室に入る林業希望就職者 たち。自身もチェンソー、伐倒・造材・ 作業道開設を習得した橋本通代は、 新規林業就業者を増やすことを目的に、 軽井沢町で林業研修を開催しつづけている。

〔下〕軽井沢の代表的な樹木であるカラマツ は日本特産の落葉針葉樹であり、春の芽吹き や秋の黄葉など四季を通じた趣がある。 日本各地で植林がされているが、その苗木 の多くは浅間山の天然カラマツの種から 作られている。

〔右ページ〕観光としての森、林業としての 森、住居としての森、生態系としての森が 共存し、バランスを取っている軽井沢の森。 浅間山噴火後の植林や植生遷移により、 いまでは町の面積の 60%ほどが森で 覆われている。

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通代さんの行動はしずくとなり、その波紋は軽井沢町に住む志

く整然と置かれ、楽しげにその出番を待っている。木という素材

を同じくする人たちへと静かに広がっている。そのひとりが軽井

をとりわけ大切にする湯澤さんは、刈払で出た小径木や枝や蔓な

沢生まれのリユースアーティスト、湯澤丈人さんだ。 「幼いころ目

どを使ってキララの森の空間を演出している。 「キララビレッヂの

にしていた生き物はいなくなり、風景は変わりました。でも人の

シンボルとなる昆虫などの生き物のオブジェを作り、森を飾って

手で壊した自然だから、人の手でなおすこともできるんじゃない

います。ペンキなどは塗りません。その森のものだけで何ができ

かと思うんです」と、ゆっくりと言葉を選びながら話す湯澤さんは、

るか、どう演出するか……。それらはみな最終的には朽ちて、土

国内の著名な大規模プロジェクトにも多く携わる空間プロデュー

に還ります」

サーの肩書きをもつ。釘やビスといった小さな材料までも捨てな い湯澤さんの、町の西にある自然光の温かな光に包まれた製作所 には、さまざまな建築廃材や資材などが所狭しと、けれども美し

奥谷 陽子 はパタゴニア日本支社のブランド&ライフアウトドア担当マーケター。

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語り

寺田 優

写真提供

寺田本家

酒に唄う 昔ながらの醸造の伝統を 生かしつづける。

17 世紀から千葉県で日本酒を醸造してき た寺田本家は、パタゴニア プロビジョン ズの自然派ワインのプログラムの一環とし て、酒を造っています。24 代目当主兼杜 氏である寺田優が、目に見えない微生物 と調和することについて、そしてそれがな ぜ彼の人生を定義づけるのかについて語 ります。

生酛造りは農薬や化学肥料を一切使用せ ずに地元の田んぼで育てられた、光と土壌 のエネルギーに満ちた米からはじまります。 すでに精米されて半透明になった米をてい ねいに洗い、表面の糠をきれいに取り去り、 米が白くなるまで水を吸わせます。水は樹齢 数百年の森に囲まれた神崎神社の麓にある、 寺田本家の井戸から汲み上げます。古代の 木の根や菌類のネットワークを通って井戸へ と沸き、醸造工程に不可欠な微生物やミネ

田本家で生まれ育った妻の聡美 を介して、2003 年に私はこの醸 造所に入りました。義父の啓佐は

諸手を挙げて私を歓迎してくれ、よく夕食後 には発酵についてだけでなく、善良な心を 養うこと、会社経営、そして目には見えない 世界を感じとることの重要性などを、1 時間 ほどもかけて教えてくれました。

ラルを運ぶ水です。 私たちは蔵での機械の使用を制限してい ます。自分たちの手で触れて造ることで、発 酵過程での日々の微妙な違いを、五感をフ ルに活用してよりよく理解することができる からです。ずっとそうやってきたわけではあ りません。第二次世界大戦では米不足から 醸 造アルコールを加えることが常 態 化し、

この家族の一員になろうと、私は寺田の

それは原料費の削減にもなるため、戦後も

姓を継ぎました。寺田本家では婿が仕事を

つづきました。1985 年ごろ、自身の病気を

ばかりの米を広げる蔵人。寺田本家の

受け継ぐ伝統があり、私の義父もその先代

きっかけに腐敗と発酵の過程について考え

醸造所における仕事の多くは、蔵人が

もそうしてきました。醸造所をつづけてこら

た義父は、それらは似ているようでありなが

進められるよう、手作業で行われる。

れた理由はいくつもありますが、婿が入って

らいかに正反対のことであるか、という考

きて新しいことをはじめたり、目に見えない

えにいたりました。そして微生物と自然の力

〔前の見開き〕酒母を作るために蒸米、

微生物との対話を可能にする精神を培って

によって生命と活力に満ちた酒を造りたいと、

きたことが、その要因のひとつだと思います。

伝統的な製法に戻ることに決めました。

〔左〕粗熱を取るために蒸しあがった

五感をフルに活用して酒造の各工程を

麹米、井戸水を摺り合わせる寺田本家 当主の寺田優(中央)と蔵人たち。 木製の桶と櫂と蔵の壁は酒母を増やし、

私たちは米の収穫後の冬、伝統的な手法、

私たちは朝早くに米を蒸します。蒸気が立

麹米の糖分を食べてアルコールと乳酸

つまりみずからの手で酒を造ります。私たち

ち上る大きな蒸し器に米を載せ、わずかなコ

に変え、発酵を促進する微生物を養う。

の方法のひとつである生酛造りは、蔵に住ん

シを残しながらも全体がふっくらとやわらか

でいる微生物を酒母として利用します。この

くなるまで蒸しあげます。米が蒸しあがると、

伝統は 300 年前に遡ると伝えられています。

その甘い香りとしっかりと火が入った証で

蔵人は摺り合わせのリズムをとるため に唄を唄い、微生物が元気よく発酵 するよう促す。

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〔上〕閉めきられた特別な部屋で、冷めた米の上に麹菌が まぶされる。菌は米の澱粉を糖分に変え、甘い麹米を作る。

〔上〕大きな木製の蒸し器から蒸気が立ち上り、米はそのなかで ふっくらとコシのあるやわらかさに蒸しあげられる。この蒸し器 では毎日 1トン近くの米が蒸されるという。

〔下〕酒造に使用される水はすべて、老齢樹の森に囲まれて 何百年も前から在る神社の麓の醸造所の井戸からのもの。 樹根と菌類のネットワークが、醸造工程に不可欠な微生物や ミネラルでその水を涵養する。

あるほのかな香ばしさが蔵中に漂います。その蒸米をスコッ プで掘り出し、麻布の上に広げて何度も手で揉みながら、朝 の冷気に当てて冷まします。 粗熱をとったあと、蒸米の一部を糀(米こうじ)を作る部 屋へと引き込みます。そこで広げた米の上に麹菌をまぶすと、 繊細な黄緑色の靄が漂います。3 日かけて、その酵素は米の 澱粉を糖分に分解します。完成した麹米はとても甘く、栗の ような香りが広がります。 次は発酵を促すスターターである酒母を作ります。小さめ の木の桶に蒸米、麹米、井戸水を入れ、柄の長い櫂で摺り 合わせます。摺る時間は15 分を 3 回ほど。1 つの桶を蔵人 2 人が担当し、何百年も昔から櫂入れで唄われてきた「もと 摺り唄」を唄いながら、そのリズムに乗って摺り合わせます。 唄うことによって蔵人の心がひとつになり、チームワークが 良くなります。微生物も唄を聞いてより元気に発酵してくれ ると、私は思っています。 摺り合わされて液状化した酒母は大きめの樽に移され、そ こで約40〜50日かけて空気中から乳酸菌と酵母菌を呼び込 みます。これらの微生物は糖分を食べながら少しずつ温度を 上げ、酵母菌はアルコールを、乳酸菌は乳酸を生成し、腐敗 の原因となる微生物にとっては生きにくい環境を作り、その 結果酒が悪くなるのを防ぎます。発酵が進むと樽の表面全体 が泡立ち、耳を澄ますと、その泡が弾けたりガスが出たりす

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〔上〕蒸しあがった米は薄く広げられ、蔵人たちが木板で返して冷ます。 米が熱すぎると、何よりも重要な麹菌にとって好ましくない環境になる。

る微かな音が聞こえてきます。完成した酒母はとても甘酸っぱく、

日本酒の世界では品評会で賞を取ることが成功だと、安易に理

1ミリグラムに 2 億以上の酵母菌を含むほど生き生きとしています。

解されてしまいます。しかし寺田本家では微生物の世界は品評会

最終工程ではそれをさらに大きなタンクに移し、そこにふたた

ではなく共生の原理に基づいており、私たちはそのような品評会

び蒸米と麹米と水を足します。酒母がスターターとなり、加えら れる餌を食べながら活発に増殖してさらにアルコールを生成しま す。アルコール分が17〜 20%ほどになって発酵が終わると、手 動の圧搾機で完成した醪を搾ります。 搾った酒はすぐ味見をします。上手くいくと、その酒の味わい につながる種まきから田植えや稲刈り、そして蔵の中での醸造工 程までが、一連の景色のように立ち現れます。伝統的な手法で造 られたこのような酒には、体の中から活力が生まれる酸味と旨味 があります。

には出品しないという立場を取ってきました。その一方で、世界 最高のレストランのひとつと称されるコペンハーゲンの「ノーマ」 で、寺田本家の酒が思いもよらず採用されました。私たちの努力 が最高を目指して励む他の人びとに認められたことを、とても嬉 しく思いました。 酒を造るには、とくに菌の力を借りて造るなかでは、つねに失 敗もあります。酸味が急に高まったり酵母が思いどおりに発酵し てくれずアルコールを生成しなかったりなど、ときとして販売を 断念しなければならないこともあります。これはビジネスの観点

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からは痛手ですが、そのような失 敗を見る と、欲を出したり売り上げを伸ばそうとする ときにそうしたことが起こりやすい気がしま す。微生物の声に耳を傾ければ、適切な生

寺田 優(48 歳)は何百年もの歴史を誇る寺田本家 の当主兼杜氏で、2018 年から醸造所を切り盛りして いる。「2 人の子どもがあとを継ぐかどうかは本人 たちの意思次第」と彼は言う。

産量は見つかるのです。 杜氏としての私のおもな責任は、微生物と 蔵人たちのために環境を整え、すべてが心地 よく、そして幸せに発酵できる環境を作るこ とです。自然の発酵はいつも計画どおりにい

〔上〕新たに搾った黄金の酒を味見する。一般的に酒は、 瓶詰めの前に色と「余計な」味を除去するため活性炭で 濾過されるが、寺田本家は天然の味を保つため濾過 工程を省く。この段階で酒は新鮮で生き生きとした 発泡感と麹米独特の風味を備えている。

くわけではありませんが、その経験は次の挑 戦への独創性を培います。そして期待や想像 を上回るような味わいになったとき、それは 大きな喜びです。

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〔右〕この朝できたての蒸米を見る当主兼杜氏の寺田優。 麹菌の繁殖を促すためには、米が適切な水分と やわらかさを備えていることが重要。




スティーブ・シュミット

放すこと についての技 キャッチ&リリースの改訂。

人になってからの人生の主軸にフライフィッシング を据えた古参のアングラーとして、私はこのスポー ツの装備やその素材、そして技法における大きな変

遷を目にしてきた。何よりも長年を経て、釣ること自体が容 易になった。かつてはフライロッドでのキャスティングから学 ばねばならなかったが、いまではその必要性の範囲を狭めた 製品や技法が出まわっている――実際のキャスティングこそが、 このスポーツの美とそれを定義する技なのだが。だから最近 の傾向は、そもそもフライで釣ることが私たちを惹きつけた こと、つまり「挑戦」から、ドリフトしていくように思われる。 私たちはフライロッドでキャスティングする必要性を犠牲に し、省略した方法で魚を釣るようになっている。フライフィッ シングの目的が、後にも先にも魚を捕らえることにあるのは確 かだ。だが今日の私たちは、公正な分け前以上に魚を釣り上 げている。技術と技法、そしてこのスポーツにより多くの人間 を誘いこもうとする業界が、どのような結果を招くかを深く考 えずに、てっとり早い方法を受け入れてしまったのだ。 これは厄介な難題である。釣りの技は失われていくのに、 私たちはより多くの魚を捕らえ、見せびらかす。同時に、成功 率を最大限に高めることの影響を認識したり、魚を守るため に適切にリリースする技(あるいはそれを実践することの大切 ささえ)を教えたりすることには、何の努力もしていない。釣 り場の現状と新たなアングラー数の増加を考えれば、それら を優先事項とすべきだ。この点について私はもう何十年も心 配してきたが、年々記録を更新する最高気温と最低水位、河 川を閉鎖しても減少しつづける魚を鑑みて、いまの私の懸念は さらに募っていく。 早朝の靄に包まれ、遠くへと華麗なキャスティングを決める ニック・ブリクスト。カリフォルニア州クラマス・リバー

Jeremiah Watt

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とっておきの水域で魚を釣るうえで、私が何よりもすぐに貢献

使わなかった。しかしながら、私はそれがあれば釣れた場合によ

できることは単純に釣った魚の数を制限することだと判断した。

り多くの魚をより早くランディングできると気づいた。正直なとこ

マス釣りに確固たるルーツを根差す私は、1日にキャッチ&リリー

ろ、その自己本位な考えで私はとうとうネットを購入した。ネッ

スする魚の数を 8 匹に定めた。なぜ 8 匹かというと、私がはじめ

トは掛かった魚を扱うための効果的な道具であると理解したのは、

てユタに移り住んだころ、一般的なマス釣りの規定では1 日に 8

それから何年も経ち、魚と資源の健全性にまつわる懸念が募って

匹の魚を取っておくことは許可されていたからだ。それと同時に、

からだった。ランディングネットは魚にストレスを与えず、最小限

魚を捕らえることに躍起になっていた私にとって、それは妥当な

の操作でリリースを容易にする。

がら挑戦しがいがあると思えたからだ。

限に抑えるために必要な道具を使い、技法や実践を開発しつづ

の1日、あるいはその1時間に経験する唯一のものではないかも

けている。マスを釣る際にはバーブレスフックや「ケッチャム・リ

しれない。私は天候を考慮し、しばしばフライをキャストするよ

リース」といったツールを使い、魚は濡らしたままネットで取り込

りも見通しを探ることに時間を費やし、そのタイミングを慎重に

む。そしてすでに述べたように、単純に扱う魚の数を減らす。現

選ぶ。そしてほとんどの場合、狙うべき1匹の魚を慎重に選ぶ。

代のアングラーはどんな魚を追い求めようとも、その扱いを制限

釣り上げる魚の数を制限することに加えて、私は自分の釣りを

するために適切な装備を持参し、効率的なリリースの技を開発す

1 つの手法だけに限定した。いつもハッチ(虫の羽化)と、それ によく似せたフライにマスが食いつく事実に興味をそそられてい たので、大部分のマスは水面下の昆虫や消化しやすい他の水生 生物を食べるということはよく知っていた。だがドライフライだ けで釣ることに決めた。それは良好な日でもチャンスは限られて いることを意味する。そして私も次にここに来る人と同じくらい魚 を釣り上げたいからこそ、選んだ挑戦に焦点が絞り込まれる。成 功するためには技に磨きをかけ、求める魚を、そして魚と私の両 方が依存する環境を、よりよく理解することが必要だった。 ときには魚をまったく捕らえずに帰ることもあるが、かまわな い。私はそのような結果にも慣れるようになった。さらには一度 もキャストしない日もあるが、それらは成果のない無駄な時間で はない。学習の機会や観察と追求の時間を与えてくれる。そし てやがて成功を収めると、私にとって嬉しくて忘れられないのは、 そういった瞬間のほうだ。 魚との出会いにこうした制限を設けることで、釣りに対する情 熱、技の上達、以前は失いかけていた喜びを一新させる、という 恩恵を授かった。いまでは、魚やその動きと習性を調べることに より多くの時間を費やしている。そのことは、私をより優れたよ り意識あるアングラーにしてくれた。この意図的な取り組みのお かげで、フライに食いつくわずかな魚に多大な感謝と敬意を抱く。 この過程は私が水辺で 1 日を過ごすたびに進化と成長をしつづ ける。

ることに重点をおくべきだ。とくに釣りをする人間の大幅な増加 と、地球温暖化が私たちの水域に与える影響を考えるのなら。 昨今の渇水や混雑の状況になる前から、保護活動は私の釣り 人生に欠かせない役割を担ってきた。それが重要なのは、私が歩 きながらフライをキャストする数々の川は魔法のような瞬間を生 み出し、そのすべては必ずしも魚を捕らえることに関係してはい ないからだ。釣りは私をそれに惹きつけるおとりでしかない。世 界中の水域で釣りをする、あるいはたんに驚嘆する人は、私と同 じ気持ちであることを願う。 私たちは文化として、意義ある生活の質の糧や支えとなる資源 を執拗に乱用し、しばしば破壊してきた。魚と釣りもその例外で はない。私たちが採用する技法や実践が、いかに資源に影響を 与えるかを認識する新しい規範が必要だ。常識となるべきその一 案が、すべての魚を釣ることではなく、選ばれし魚を釣ることに 意義があるという考えである。そしてそれを実行することで、私 たちはその影響とそれを最小限に抑える重要性を理解することに、 できるかぎりの時間と精力を投資するのだ。成功するために必要 な技の開発もしながら。ともに、次の機会にも釣るための魚が確 実にいるようにしようではないか。 増えつづけるこうした懸念から、良識あるアングラーとフィッシ ング業界団体は、 「たんに魚を濡らしておく」という、理にかなっ た実践を奨励している。魚の致死率に関する R.A. ファーガソン と B.L. タフツの研究は、マスが釣られたあとに水の外に上げら

私は 1970 年代にアイダホのヘンリーズ・フォークで経験を積

れた時間を考察し、そのような実践を支持している。彼らの調査

んだ。春の釣りで名高い渓流で、そこに棲む魚は最も熟練のアン

結果によると、水中に保たれたままでリリースされた魚の致死率

グラーにも課題を与える。はじめは針に魚が掛かっただけでもお

は 12 パーセント、水からわずか 30 秒上げられた魚の致死率は

祝いさわぎをしていたので、釣り上げるということは貴重なご褒

38 パーセントで、水から1分間上げられた魚の 72 パーセントが

美だった。当時、とくにこの川では、常連はランディングネットを

死んだことが明らかにされている。魚を死に至らせるその他の要

ノルウェーのスルダルスラーゲン川で「もうひと口だけ」と、 カゲロウの一品料理に目をつける肥えたブラウントラウト。

Øystein Rossebø

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その認識がはじまりだった。それ以来、私は自分の影響を最小

私がよく行く水域では多くの場合、1匹の魚とのふれあいはそ


釣りの技は失われていくのに、私たちはより多くの魚を捕らえ、見せびらかす。 同時に、成功率を最大限に高めることの影響を認識したり、魚を守るために 適切にリリースする技(あるいはそれを実践することの大切ささえ)を教えたり することには、何の努力もしていない。


昨今の渇水や混雑の状況になる前から、保護活動は私の釣り人生に欠かせない 役割を担ってきた。それが重要なのは、私が歩きながらフライをキャストする 数々の川は魔法のような瞬間を生み出し、そのすべては必ずしも魚を捕らえる ことに関係してはいないからだ。 因には、魚がどれだけ長く格闘させられたかや、釣られた

キャッチ&リリース 2022

方法や水温もある。いかなる研究もそうであるように、こ の調査にも不十分な点はあるはずだが、魚を水から上げる ことは、死に至らせないにしても危害を与えるかもしれな いことが示されている。というより、危害を与えないわけ がない。だから私たちは皆、その自分本位の自撮り写真に 価値があるかどうかを考え直すべきだ。釣った魚の大部分 をリリースしたからといって、それが魚の生存を保証するわ けではない。考慮すべき要因は他にもある。釣ったあとの 魚をどのように扱うかは、そのほんの1つに過ぎない。 魚との接触を制限するための興味深い、そしてある意味 過激な方法の1つは、ノース・アンプカ・リバーの保護活 動家として著名なリー・スペンサーによる実践だ。彼はス

1930 年代後半、リー・ウルフは「釣りの対象とな る魚は一度だけ釣り上げるには貴重すぎる」と書き、 アングラーであるとは何を意味するか、という概念 を劇的に変えました。この衝撃的な思想ののち、遊 漁における「キャッチ&リリース」という考えが浮か びました。この概念は野生魚の数の減少に直面して 広まり、以来標準的な手法となってきました。しか しながら、それから約100 年が経とうとするいま、 その改訂が求められています。今日のアングラーが キャスティングと同じくらい熱心に励み、実践すべ き配慮と技を、ここにご紹介します。

チールヘッドを釣るとき、針を切り落としたドライフライだ けを使った。魚をあまりにも思いやる彼は、魚がフライを くわえ、それを吐き出す前に走り、飛ぶ姿を見るだけで満 足だった。私はこれを実践してみたことがあり、将来的に はもっと実践してみたいと思っている。フライに食いつくた めに魚が浮上するのを眺め、最初の引きを感じ、そしても ちろん達成感を得ることで、釣りという行為を楽しみつづ けることができる。それだけで十分だ、という日が私にも ある。 これは結末ではない。これは釣りの旅路のつづきであり、 私たちが楽しんでいる経験が未来の世代のためにも確実に 存在するように、いま適応して変化する必要がある。せめ て、それこそ自分本位に、私たちは方法を再考すべきであ る。たとえそれが釣り上げる魚の数を減らし、やり方を変 えることになるとしても。この分岐点においては、それが 良識的な判断のように思える。

スティーブ・シュミットは作家であり、写真家であり、フライフィッシング ガイドであり、ユタ州ソルトレイク・シティにある〈Western Rivers Flyfisher〉の所有者。釣りに生涯を捧げる彼は著書に『Fly Fishing Utah』 ほか、雑誌『Gray’ s Sporting Journal』や『Fly Fisherman』にも 執筆歴がある。

ゴールデンタイムにお宝を狙ってキャストするケアニ・タケタとジャック・ポーター。 アイダホ州ヘンリーズ・フォーク Rich Crowder

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水位(流水量)が低すぎるときや、水温が高すぎるとき は、魚を釣らないようにしましょう。マスにとって摂氏 18 度以上は危険性が高く、19 度以上の場合、釣り 上げた魚が生き延びる可能性は非常に低くなります。 接触を制限するため、ボートからではなくウェーディン グしながら釣りましょう。また魚に安全な捕食と休息 の場を与えましょう。サーモンやスチールヘッドはフラ イで釣りましょう。 バーブレスフックのみを使いましょう。 「ケッチャム・ リリース」などのリリース用ツールの使い方を習得しま しょう。魚を扱うときは空気にさらされる時間を最小 限に抑え、魚を濡らしておき、自撮りは控えましょう。 魚を取り込むときはできるだけ迅速に行いましょう。 ネットを適切に使えば魚との格闘を短縮し、暴れる魚 をリリース前に安全に捕らえることができます。魚の体 表粘液を損なわず、エラやヒレに引っかからないラバー 加工済みのメッシュを使用したネットを選びましょう。 釣りをする川の魚の健全性に注意を払いましょう。も しその流域の生息数が危ぶまれたら、釣らないか、針 の付いていないフライを使いましょう。 魚に触れる前に両手を濡らしましょう。岩や岸やドリ フトボートなど、乾いた表面から魚を遠ざけましょう。 アゴやエラから吊り下げるのは絶対にやめましょう。



活動家 である私 デモ行進やストライキ、あるいは 市民と議会の対話集会などは前進 に欠かせない行動ではありますが、 活動家になるための唯一の手段と 呼ぶには、どれも程遠いものです。 私たちが知っている多くの効果的な 活動家たちは、自分を「活動家」と呼ぶ ことすらしません。彼らは自分の能力や 情熱を傾倒して、愛することにさらに打ち込み ます――彼らが愛する人たちや場所を守るために。 ここでご紹介するのは、そんな人たちの横顔です。

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アレックス・ ファルコナー 本業のレポーターを務めているときはあまり温厚とは いえないアレックス・ファルコナー(41 歳)ですが、非 営利団体〈Save the Boundary Waters〉の政府渉外 ディレクターとしては好感がもてます。地元ミネソタ出 身の彼はこの役割を通じて、バウンダリー・ウォーター ズ・カヌーエリア・ウィルダネスの近くで 2 つの硫化銅 鉱石の鉱山を掘ろうとするチリ企業を阻止するための長 年の取り組みに貢献しています。これらの鉱山が非常に 悪い案であることは複数の環境調査によって明らかにさ れていますが、その脅威のなかでも恐ろしいのは、酸が ボエジャーズ国立公園とカナダのケティコ州立公園を経 てバウンダリー・ウォーターズの中心部に浸出する可能 性です。 2019 年、アレックスはトレイルランニングへの情熱 とバウンダリー・ウォーターズ保護の取り組みを合わせ た計画を発案しました。それはこの原生地域を177キ ロメートルにわたって縦走し、FKT を打ちたてるとい うものでした。ほとんどのトレイルは、その名が示す通 り、サポーターたちがカヌーでしか行くことのできない 遠隔地にあります。彼はパンデミックによる延期を経て 2021年 5 月に森へと走り出しました。そしてパタゴニ アのトレイルランニング・アンバサダーであるペイトン・ トーマス(前の見開き写真左上)とクレア・ギャラガー、 写真家のブレンダン・デイヴィスの助けを得て、摂氏 4 度の寒さと雷をともなう嵐から気温が 27 度に上がる蒸 し暑さまで激しく変化する天候に耐えながら、なんとか 1 日で縦走を完了。14 時間15 分 3 秒という記録を達成 した彼はその過程で自己嫌悪に陥ったことを認めます。 「ときどき頭に浮かぶのは、そもそもこんな計画を夢見 た 2019 年のアレックスを殺してやりたいということだ け」と言うのは 2021年のアレックス。しかしながら完 走したら感謝の気持ちでいっぱいになったと言います。 「これは個人で成し遂げるには大きな計画だとわかって いた。でも達成はさらに大きな何かに捧げるためだった。 それが僕にとってはアクティビズムなんだ 」

〔前の見開きとこの両ページ〕ミネソタ州バウンダリー・ウォーターズ・ カヌーエリア・ウィルダネス

Brendan Davis


「 僕は時間があると、といっても仕事と3人の 子どもがいるからそんなにたくさんはないけど、 バウンダリー・ウォーターズのバックカントリーに あるおもだったハイキング用トレイルすべてを 走る。それが僕らの闘いに関する認識を高める ための、自分なりの方法だから」

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「 この10 年間で学んだのは、僕らは無地のカンバス を探りに行くのではない、ということです。僕らは すでに物語を秘めた場所にいるのです」

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タモ・カンポス タモ・カンポス(31歳)は改造したスクールバスで暮 らし、そのバスでアメリカ太平洋岸北西部の全域を旅し ながら、スノーボードとドキュメンタリー映画の制作に 勤しんでいます。映画のテーマは複数の世代をひとつに することで、彼がその方法を年長者たちから学んできた 事実は驚くことではありません。 「僕が10 年前にはじめ てアクティビズムを記録する旅に出たとき、祖父がくれ た最大の忠告は『黙って耳を傾けろ、とくに先住民族の 社会では』でした」と、タモは思いかえします。 「祖父は 『彼らには彼ら以外の語り手はいらない』と言いました。 だから僕は自分の声を加えすぎることなく、彼らの声を 高めるように努めています」 彼の仕事の多くはブリティッシュ・コロンビア北部で 行われていますが、次のドキュメンタリー『 Klabona Keepers 』に関しては、タモは自分の祖国である日本 を訪れ、滞在中は CBC(カナダ放送協会)のドキュメン タリー『Ru-Tsu』の制作にも携わりました。その 2020 年の短編映画で、タモは尊敬すべき環境保護活動家で ある祖父デヴィッド・スズキとの関係を探ります。同作 品は cbc.ca でご覧いただけます。

〔上〕北海道

Colin Arisman

〔左〕ブリティッシュ・コロンビア州ペンバートン

Erin Hogue


アレクサンデラ・ フーチン

ミネソタ州ダルース、 アキーン・アニシナアベ・トレイル

Hansi Johnson

スペリオル湖チペワ(オジブウェ)族に属 するフォンデュラク部族の一員であるアレク サンデラ・フーチン(32 歳)は、組合を通し て同族の企画部門で働いています。 「私が自 分の部族の共同体に関わるようになったの は大人になってから、20 代のことです」と 彼女は語ります。 「スウェットロッジや他の 儀式に参加するようになったとき、私はバ イクレースで経験するような感覚を抱かずに はいられませんでした。同じような精神的境 地に向かい、これが自分の場所を維持する 現代的な方法なのだ、と悟るようになりまし た。バイクレースは私にとって儀式なんです」 ウルトラ・エンデュランス・マウンテンバイ カーである彼 女は 2,745 マイル(4,418 キ ロメートル)のツアー・ディバイド・レースで 2 度、そして525マイル(845キロメートル) のコロラド・トレイル・レースと 280 マイル (450 キロメートル)のアリゾナ・トレイル・ 300 レースのすべてをハードテイルでシング ルスピードのバイクで優勝しました。現在の

彼女はフォンデュラク部族で「食の主権」を 促進するために働きながらレースもつづける 活動家です。 「誰もがそれぞれに自分の体のイメージに 悩みをもっていると思いますが、私はこうし た長距離のバイクライディングをはじめるま では自分の体が大嫌いでした」と、アレク サンデラは振りかえります。 「でも気づいた んです。骨格に余分なクッションが備わっ ているこの体こそがウルトラ・エンデュラン ス・レースに向いているのだと。私の体は丈 夫で、レースで体重が10 キロ落ちてもへっ ちゃらで続行できます。でも痩せている競 争相手たちはレースが終わらないうちに消耗 しきっています。私の体は過酷なことをする ために生まれたのに、私たちのこの世での 暮らしは生ぬるく、だから私の体はいつもあ るべき場所にないと感じていたんだと思い ます。バイクは私にとって、自分の体に何が できるかを示してくれる完璧な手段です」


「 あまりにも長いあいだ、私の 先代のとても多くの人たちは

先住民族であることを恥ずかしく 思っていました。とてもたくさん の人がそのことを隠したり、 いろいろな方法で耐えたり

しなければなりませんでした。 それでも今日、私は存在して います。食料計画やバイク

ショップ、その他あらゆる場所 で異なる役目を担いながら、

私はいつもオジブウェであると いうことを忘れません」

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「 僕はいろいろな人に蜂の話をする。 人気があるのはミツバチの交尾の儀式 について。でも蜂が生態系にとって いかに重要かも話す。ほとんどの人は それを学ぶことに興味をもち、蜂を 守ろうとしてくれるよ」

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ハンク・ ガスケル

〔上〕太平洋、ハワイ諸島周辺

Christa Funk 〔左〕ハワイ州マウイ島、ハナ

Kaua Woessner

パタゴニアのサーフ・アンバサダーである ハンク・ガスケルが養蜂をはじめたのは 10 年以上前、カリフォルニア州ハーフムーン・ ベイでのことです。けれども当初趣味だった それが仕事になったのは、彼とパートナーの マリア・ラウアーがマウイ島のハナに引っ越 してからでした。いまではハナ地域で蜂が 面倒な場所に巣を作ったとき、お呼びがか かるのは彼らです。 「電話が鳴りっぱなしだ よ」とハンクは言います。 ハンクとマリアにとって人道的に蜂を移 動させることは、自然を守ることに関してよ り広く一 般の人たちと関わりをもつ方法で す。ハンクは蜂についての知識を提供し、ま すます傷つきやすくなっている私たちの生態 系を授粉によって持続させることの重要性を 力説します。そしてもし、蜂の保護に関する 彼の経験が他の人たちの考え方に違いをも たらしたり、環境問題の活動家になるきっか けになれば、それは彼の目には良い結果と 映ります。彼が顧客に無料でハチミツを 1 瓶

あげると自分で養蜂を手がけるようになる人 もいるそうです。 ハンクが共有するミツバチに関する事実 で人気があるのは交尾の儀式の話だそうで す。 「春、新しい女王 蜂が処女飛 行で 何十 メートルも上空へ飛び立つと」と、ハンクは 説明します。 「そのあいだにまわりにいる最 も強い雄蜂が女王蜂に追いつき、そこで交 尾を行う。それができるのはたいてい10 匹 から15 匹ぐらいだけ。雄蜂が極小の生殖器 を女王蜂に挿入すると、それはちぎれて彼ら は死に、地面に落ちる。それから女王蜂は 雄の生殖器を体内に埋め込んだまま巣に戻 り、次の 2 年から 4 年のあいだ卵を産みつ づけるんだ 」


サーシャ・クラーク・ ダニルチャック 「今日では『魚をリリースする』だけでは十分ではあり ません」と言うのはサーシャ・クラーク・ダニルチャック。 「私たちの最も貴重な野生魚の数々が脅威にさらされて いて、たくさんの、そしてさまざまな影響に直面してい ます。それらはとても複雑で解決には時間がかかり、な かには非常に微妙で大勢の異なった利害関係者を巻き 込むものもあります。しかしリリースしたあとの魚の運 命はさほど複雑ではなく、おもにアングラーの行動にか かっています」 マサチューセッツ州アマーストで〈Keep Fish Wet〉 の事務局長を務める 43 歳のサーシャは、魚の未来を改 善するための事実に基づく戦略を提供しています。その 方法は水産学者としてキャッチ&リリースの技法の効果 を調べてきた長年の彼女の研究の成果ですが、仕事へ の意欲はアングラーとしての経験からきています。それ は彼女がパートナーでありパタゴニアのフライフィッシン グ・アンバサダーであるアンディ・J・ダニルチャックと 共有する情熱です。 野生魚が存続に関わる脅威に直面していることはア ングラーには言うまでもない、とサーシャは述べるもの の、 「魚を釣るたびに、それは活動家になる機会であり、 科学に基づく最善のキャッチ&リリースの仕方を練習し て保護を実践する機会なのです」と、すばやくつけ加え ます。彼女が言わんとしていることの詳細は、86 ペー ジでご覧ください。

メイン州沿岸部 James Joiner


「 答えが、文字 どおり私たちの 手中にあるという 環境問題は、 数えるほどしか ありません」

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「 私のように、あなたが ゲイの闘いにおける 難民であるかどうかは、 環境に関係ありません。 社会を結集させる、 声高な活動家が必要 なのです」

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NOAA 提供(許可番号18786)

デニス・ チュジノヴィック

ワシントン州シアトル Andrew Burton

2020 年 11月、自分のパタゴニア製ダウ ン・セーターの袖が破けていたことに気づい たデニス・チュジノヴィックにある考えが浮 かびました。これをゲイ・プライドのシンボ ルカラーで繕ったら? これに対して地元の 修理店は「もちろんです」と答えました。そ こで修理に出す前に、ダウン・セーターの バッフル にマスキングテープでひとつずつ レインボーカラーを割り当てました。その美 しい成果はその後 9 回にわたって他の人の 修理にも施され、さらに依頼は増えつづけ ています。 「 LGBTQ+ コミュニティはアウト ドア業界では過小評価されています」とは デニス。 「このジャケットが会話をはじめる きっかけになればと思ったんです。それは包 括、平等、受容、誇りを象徴し、アクティ ビズムはさまざまな形でもたらされる可能性 があることの証明です」 それと同じことがデニスのアクティビズム にもいえます。36 歳のデニスはパタゴニア の Worn Wear「プライド修理」の先駆者と

なり、さらにシアトルを拠点に海洋生物の救 助とリハビリと調査に取り組む団体〈SR3 〉 でボランティアとして、負傷したアザラシ や アシ カの 世 話 をして いま す。 私 たちが デニスを知るようになったのはパタゴニア のシアトル・ストアで店員兼環境コーディ ネイターを務めていたときです。デニスは 〈Hanford Challenge〉や〈Urban Raptor Conservancy〉など、社 会正 義 や 環 境 正 義のために活動する地 元の 複 数の非営利 団体で 働いた 経 験もあります。 「自分の場 所を見つけるまでに時間はかかりましたが」 と、回想します。 「その道のりで環境保護に 対する深い情熱を育みました。そして、ジャ ケットの袖のレインボーカラーは自分の物 語を伝えるだけでなく、こうした自己 表現 の機会のために闘ってきた人たちの物語も 語っています。それはどれだけの道のりを旅 してきたかということ、そしてまだまだ先も 長いということを思い出させてくれます」


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エセニア・フネス

イラスト ファビアナ・ロドリゲス

気候正義とは? 相互確証「破壊」ならぬ「存続」の展望。

北戦争後、全米各地に数百もの新たな共同体が出現

マターやスタンディング・ロックなど、ピアソンのバイハリア・コ

しました。それまで奴隷にされていた人びとが、安全

ネクション・パイプライン反対運動の動機づけとなった運動に注

に暮らせる黒人だけの町を築いたのです。テネシー州

目してください。

サウス・メンフィスのボックスタウンもこうした「自由民の町」の ひとつです。ゆるやかな丘陵地帯に位置し、4 平方キロメートル 以上の森林地に隣接するこの町は、現在も約 2,000 人の住民の 大多数が黒人ですが、廃墟となった連邦政府所有の石炭火力発 電所やバレロ社の石油精製所など、近隣の産業施設の公害に苦 しんできました。かつて何百万もの人びとを奴隷にした恐るべき 制度を推し進めたのと同じ勢力――白人至上主義、搾取、強欲 ――がさまざまな偽装の下に依然として根強く残っているからです。 けれども住民たちは、みずからの安全と未来の権利を取り戻そう としています。 2021年 7月、2 社の石油企業がサウス・メンフィスを通過する 約 80 キロメートルの石油パイプライン建設計画を中止しました。 「バイハリア・コネクション」と呼ばれるこの計画が実現していれ ば、20 〜 42 万バレルの石油がボックスタウンの共同体と町の 主要飲料水源である帯水層を介して運ばれていました。それはま た国内の化石燃料基盤を拡張し、汚いエネルギー源への依存を 継続させることでもありました。計画の開発者であるバレロ・エ ナジー社は、この中止をパンデミックのせいにしました。しかし、 サウス・メンフィス在住のジャスティン・J・ピアソンはそうでは ないと信じています。 「誰も引き下がる気はありませんでした」と、パイプライン反対

「スタンディング・ロックで起きていたことは、気候や環境に 関する運動だとは考えませんでした」と、ピアソン。 「あれは彼ら の命を守るための運動でした。気候正義のための闘いの中核は、 人間として存在するための闘いです。きれいな空気、きれいな水、 きれいな土は、ありとあらゆる人びとのためになくてはならない ものだからです」 ピアソンが言うとおり、それらはすべての人間(とくに気候変 動にほとんど加担していない人たち)に保証されるべきものです。 世界は地球温暖化がはじまる前からすでに不公平でしたが、気候 危機はその脅威をさらに倍増させています。それゆえ気候危機へ の国際社会の対応は、公平性と自己決定と愛に根差していなけれ ばなりません。そうでなければ一部の人間だけが生き残り、残り は苦しむ運命をたどることになります。 化石となった植物や動物の死骸がエネルギー源となる可能性を 発見した何世紀も前に、人間は、厳密には白人の入植者たちは、 すでに土地や資源を搾取していました。ヨーロッパ人は 15 世紀 末にアフリカ大陸、そして16 世紀半ばにアメリカ大陸にたどり着 きました。彼らがそこではじめた侵略は100 年にもわたり、占領 下の国々の血管を引きちぎり、望むものは何でも手に入れながら、 先住民の暮らしを壊しました。彼らは大陸全体を植民地化して

運 動を率先した 地 元の団体〈Memphis Community Against Pollution〉の共同創立者であるピアソンは言います。 「だから私 たちが、彼らを引き下がらせたのです」 自分たちの生活と土地を守るために団結すること――それが気 候正義です。聞き慣れない言葉かもしれませんが、これは数十 年にわたって体系化されてきた運動で、現在では地域の水資源と いった最も重要な資源の保護と地球温暖化の阻止が焦点となっ ています。気候正義を理解するため、1960 〜70 年代の公民権 運動やアメリカインディアン運動、あるいはブラック・ライヴズ・

「私の作品のすべては有色人種の女性、移民の娘の視点で創られて います。 『 Earth Power II 』 (左)と『 Earth Power III 』 (105ページ) は、先住民族の人びととグローバル・サウスの人びとがいかに世界 の生物多様性を守っているかについてであり、有色人種の人びとに よって導かれた抵抗を褒め称えたいと思います。私の作品を見る人 には、その色や質感から、私たちの皆が属して自然とともに繁栄す ることのできる未来を想像してほしいです」 ――ファビアナ・ロドリゲズ

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「 私たちはいままさに前進し、ともに抱く思いを 実施させようとしています。それは現実に 起きています」 エリザベス・ヤンピエール 苦難の種を撒き、いまではその根が多くの国々の発展を阻止して

試しました。人びとは真の意味で快適帯から抜け出して、互いに

います。

助けあうために新たな世界に踏み込んだのです」と彼女はつづけ

この支配と抹消の方式は入植者に巨万の富をもたらし、同時 に自然の生態系を破壊することも証明しました。それは世界中で 今日も目にする社会的、経済的、環境的問題の根幹です。事実、 現在最も気候変動の被害を受けやすい地域はかつてのヨーロッ

ます。 「それがまさに、気候危機の災禍に直面したときに私たちが とるべき行動です。来てくれないかもしれない騎兵を待っている 時間はないからです」 未来について語るとき、可能性は無限です。やるべきことは、

パの植民地で、たとえば英国に支配されていたナイジェリアは昨

じつにたくさんあります。ニューヨーク市では、賛同者たちが世

今では旱魃と豪雨の悪循環に襲われ、中米では気温の上昇にと

界最大級の刑務所である悪名高いライカーズ島を太陽光発電の

もないすでに人びとが北方に移動しはじめています。

拠点に変えるという未来を夢見ています。それが気候正義の魅力

こうした共同体の多くは気候危機にはほとんど、あるいはまっ たく、加担していません。世界の累積炭素排出量の 60 パーセン

です。世界を急進的に再考し、醜く暴力的なものを輝かしく寛大 なものに変えるのです。

トが中国、米国、欧州連合、そして(他地域よりは比較的少ない

もちろん気候正義にはキーストーン XL やバイハリア・コネク

ながら)インドで発生しています。しかしこれらの国々が炭素汚

ションといったパイプラインの廃止や、アメリカ南西部のナバホ

染を止めなければ、自分たちの世界が崩壊するのをいち早く目

族とホピ族の土地で進行中の石炭から太陽光エネルギーへの移

にするのは小さな島国の漁師や、サハラ以南のアフリカの農家や、

行のような、さらなる勝利が必要です。米国では石炭の時代がよ

氷が融解しつづける北極圏の村のカリブー猟師たちです。このよ

うやく終息しはじめましたが、ガーナの沿岸地域では石炭の使用

うに、問題に最も責任のない人たちが最悪の影響を受ける不公

はありませんでした。2016 年に民間人が団結し、ガーナ初の石

平な状況を正そう、という考えが気候正義です。

炭火力発電所を阻止したからです。現在、同国政府は石炭火力

最も被害を受けやすい共同体は、これまでにない予測不可能

発電に代わる再生可能エネルギーの計画を推し進めています。

な気象傾向と闘うために論議の場に加わる必要があります。気候

気候正義が実現する世界は、未来への大望だけではありませ

正義は、私たちをこの危機に巻き込んだ国々に責任を取るよう訴

ん。 「私たちはいままさに前進し、ともに抱く思いを実施させよう

えています。だから開発途上国が目標を達成できるよう、パリ協

としています。それは現実に起きています」と、ヤンピエールは語

定で制定された「緑の気候基金」に資金を供与するのです。気候

ります。

正義を実現させるためには、世界の指導者たちは世界の炭素収 支を再構築し、歴史的な環境汚染国によるこれ以上の汚染を阻 止しなければなりません。

また技術だけが解決策のすべてではありません。むしろ解決策 の大部分は人びとに、そして自分がどんな世界で生きるかを決定 する個々の力に、委ねられています。テネシー州メンフィスのボッ

気候正義は「植民地主義と搾取と奴隷化の歴史に対する最前

クスタウンは住民の意思が可能にした現実を見せてくれます。こ

線での反応」であると、ブルックリンに本拠を置く環境正義団体

のサウス・メンフィスの歴史的な一角は未来を築きはじめたばか

〈UPROSE〉の最高責任者エリザベス・ヤンピエールは語ります。

りです。住民は石油パイプラインを食い止めましたが、彼らは帯

政策決定者たちは、歴史上すでに大禍を生き延びたあとも自 分たちの土地を守りつづけている先住民族にも、資金を注ぎ込 むべきです。気候正義のために私たちは世界観を変え、自然をた

水層と土地に対するすべての脅威がなくなるまで闘いつづけます。 それが気候正義の素晴らしさです。地球が勝利すると、同時に人 びとも勝利するのです。

だの資源としてではなく家族とみなさなければなりません。また 互いに築き、分かちあうことを学ぶ必要もあると、ヤンピエール は言います――新型コロナウイルス感染症の世界的大流行に応じ るため、さまざまな共同体が協力しあったように。 「新型コロナウイルスは、歴史的な危機に直面した際に一丸と なって支えあい助けあうという、私たちの共同体の能力を実際に

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エセニア・フネスは気候と文化を扱う専門誌『Atmos』のクライメート・ディレクター。 拠点とするニューヨーク在住で e- バイクに乗ったり、ピザを食べたり、バッド・バニー を聴いたりするのが趣味。

ファビアナ・ロドリゲスはカリフォルニア州オークランドを拠点にアーティスト、 文化ストラテジスト、社会正義活動家として、多岐にわたり活躍。


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文と写真

ソミラ・サオ

子どもたちを連れて ポイント・ネモへ 野生地で子どもを育てることを 目指すなら、柔軟性が役に立つ。

私と夫のジェームズが子どもをもつと決め るやいなや、誰もが私たちに忠告した。そ れは生き方――少なくとも私たち流の生き 方――に終止符を打つことだと。私が妊娠 するとジェームズはピリピリと手に負えな くなったが、その理由は親になろうとして いるからではなかった。彼は大きく開いた 目で私を見つめ、旅することをやめないと 誓わせた。私は同意した。探検をつづける ことは、私のしたいことでもあったからだ。 〔右上〕「南極海の波は、私たちの背後で 山のようにせり上がる荘厳な紺碧の壁 でした」とソミラ・サオは回想する。 「波は頂点に達すると太陽の光を透して 青水晶のように輝き、また崩れては白い 泡の下の暗い深みへと消えていきました。 自然がこれほどまでに美しく、危うく、 力強く、私の目に映ったことはありません」

〔右下〕巨大波に襲われた直後に被害を

やや超えるものだった。ほとんどの 家族にとって、旅とは年に一度 2 〜

3 週間程度のものだろう。しかし私たちは長 女のトーメンティナが生後 1 か月を迎えると、 バイクパッキングの旅に出て、彼女の人生の 最初の1 年をテントで寝起きしながら、チリ

調べ、ロープ、リギング、セール、部品、

とアルゼンチンの未舗装路をティエラ・デル・

破片などを回収するソミラの夫ジェームズ・

フエゴからアタカマ砂漠まで自転車で巡って

バーウィック。

〔前の見開き〕高速で進む「自宅」の コンパニオンウェイに腰掛けて、南極海 を眺めるソミラと娘のパール。

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れからの展開は、 「旅すること」を

過ごした。その 2 年後に長男のライヴォが生 まれるころには、トーメンティナを連れてす でに世界を一周しており、南米でのバン生活 に移行していた。

バンにはカヌーとスポーツクライミング用 のギアを積み、アルゼンチンの小さな山間の 町エル・チャルテンとチリのプエルト・ナタ レスのあいだを旅しながらクライミングと川 下りに耽るという生活を送った。そのなかで も私たちの最高の川下りとなったのは、家族 4 人でアルゼンチンのサンタ・クルス川の約 380 キロメートルを、サポートなしでおおむ ね南パタゴニア氷原から大西洋までパドリン グした経験だった。 家族をもつ前、ジェームズは南極海の航海 のために造られた全長12 メートルのカーボン ファイバー製セールボートで単独周航を達成 していた。2011年 4月、パタゴニアでの3 回 目の夏が終わると、私たちはその船を復帰さ せ、メイン州ポートランドからフランスのシェ ルブールまで北大西洋を一緒に横断するこ とに決めた。出港当時、トーメンティナとラ イヴォにセーリングの経験は1 日もなかった。 もし皆が悲惨な状態に陥ったら、長いカナダ 沿岸のどこかに寄港し、そこからはジェーム ズがソロで航海をつづけられると思った。 私 たちは 2011 年 6 月に出 航し、 高気 圧 の中心へと完璧な船旅を遂げた。航海中に


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ウミガメが近くを浮遊するのを眺めたり、イルカやゴンドウクジ

税関審査や海軍と港長への報告などの手続きが、慌ただしく行

ラの訪問を受けたりしたのは、なんとも忘れられない思い出であ

われていった。ジェームズはブームを応急リグとしてマストに仕立

る。ライヴォは 9 か月でトーメンティナは 3 歳になろうとしていた。

ててすぐにでも出発し、ビーグル水道の対岸にあるもっと大きな

21日後に到着した私たちは、船内のギャレーを地元の市場で仕

ウシュアイアの商業港に行きたいと思っていた。けれどもチリ海

入れたフランスパンやワインなどの品でいっぱいにした。そして

軍は、新しいリグが設置できるまでは出港を許可してくれなかった。

セーリングとそれにまつわるライフスタイルが私たち家族にはと

ここで立ち往生して旅の勢いを失うのは壊滅的なことだった。

ても向いていると実感し、それ以来船旅をつづけることになった。

再出発することがどれだけ困難か、南米最南端のこの港町には簡

2012 年 12 月にニュージーランドで 3 人目の子、パールが生ま

単に修理してくれる事業者がないこともわかっていた。しかし振

れるころには、すでに北大西洋、赤道、南大西洋、南インド洋、

りかえってみれば、海軍の判断は賢明だった。修理が完了してい

グレートオーストラリア湾、タスマン海を横断していた。そのすべ

ないのに家族を乗せて安全な港を離れる理由など、どこにもない。

ては平均 10 〜 32 日を費やしてノンストップで成功した航海だっ

ここに滞在するという現実をしぶしぶ受け入れると、時間は

た。私たちの次の計画は、ニュージーランドのオークランドから フランスのロリアンへと 60 日間ノンストップで渡るという大航海 であり、その時点で 5 人となった私たち家族にとって、単独航海 のためにデザインされたこの船での旅はおそらく最後となるはず だった。 14 日目に、到達不能極であるポイント・ネモを横断した。ネモ は世界の海洋における最遠隔地点で、どの方角の陸地からも最 も離れた場所にある、真の原生海域だ。単独航海でここに来た ことのあるジェームズは、その聖地を家族と共有したかった。

本当にゆっくりと流れはじめた。私たちはホーン岬と南極を行き 来する観測船の大きなゴムボートの横につながれて、プエルト・ ウィリアムズのビーグル水道沿いの入江にある、海軍のミカル ヴィ・ヨットクラブに停泊した。 このように辺鄙で物流がややこしい場所で、とくに限られた予 算で、ハイテクのマストに交換しようとするのは大変なことだっ た。この島には船舶修理事業者はなく、船具を販売する業者も、 部品も、機械工場も、金物店らしきものすらなかった。取り付け の交換用ネジを見つけるのさえ困難なことがわかった。チリとア

それから1週間しないうちに、私たちは迫りくる 982 ヘクトパ

ルゼンチン、果ては南米中で、私たちの船の設計条件を満たすマ

スカルの低気圧によって荒れる海をダウンウインドで 72 時間帆

ストを探したが無駄だった。すべての部品を南米以外から取りよ

走することになった。荒れた海で速く滑らかなターンを刻みなが

せなければならないことを理解した。

らの帆走は驚くべきもので、それまで経験したなかでも最高の高 緯度セーリングだった。21日目に低気圧は加速し、私たちの頭 上を通過した。そのあとの穏やかな状態とともに訪れた安堵に は、期待も混ざっていた。自己最高の東航時間を記録したばかり か、ポイント・ネモの次の指標となるホーン岬にさしかかっていた からだ。しかしそれを祝う前に、私たちの船は巨大波になぎ倒さ れ、その結果マストが壊れてしまった。チリ海軍の救助によって 無事港にたどり着けたものの、最終的にはチリのナバリノ島で想 定外の足止めを食らうことになってしまった。 *** 少女のころの私には、ホーン岬とその周辺諸島に対して思い

私たちには自家保険の積み立てしかなく、この壮大な航海の準 備に精神的にも経済的にも注力しすぎていた。新品のカーボン製 ウィングマストは私たちの予算を完全にオーバーしていた。 私たちを助けるため、船舶業に関わる世界中の友人たちが時 間と知識をくれた。もともとあったリギングとヘッドセールを使 い、残されたマストの根元にアルミニウム製の筒を据えて代用す る。そうすることで、当初のカーボンファイバー製の部品交換の 3 分の1の予算で修理できることが判明した。私たちに必要なの は、資金を工面することだけだった。 自営業であるため、仕事がないときのストレスレベルは相当な ものだった。ときには負債を抱え、ふたたびセーリングができる

描いていたイメージがあった。それは大型帆船に乗ったフィッツ

のかと不安になることもあった。それでもコツコツと働きつづけ、

ロイやダーウィンやマゼランなどの探検家たちによる歴史的な大

やがて徐々に仕事も入るようになった。

航海であり、厳しい生の自然にさらされた荒凉とした風景だった。 まさかその場所で救助されるとは、思ってもみなかった。

〔上〕南極海のどこかで船の形をした自分の基地を守るライヴォ(3 歳) 。 〔下〕ニュージーランド沖で最後に味わうことのできる、南太平洋の太陽と暖かい天候と穏やかなセーリングを 満喫するジェームズ、ライヴォ(3 歳)、トーメンティナ(5 歳)、パール(1歳)。

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船内の居住空間は窮屈だった。そのため再出港という目標にた どり着くまでの約 3 年間、森、川辺、湿原、泥炭沼、ビーグル水 道の険しい海岸線などが、お気に入りの居住空間となっていった。 最初の 2 年は車がなく、どんな状況でも徒歩で探索に出た。強風、 雨、泥、雪、氷でも、未舗装路や馬道や散策道を縦横につない で歩きまわった。 この島は小さく、子どもたちはすぐに自分たちでいろいろな場 所へ行く道を開拓し、好きな遊び場に「ウィスキーボトルの森」や 「ゴイサギの通り道」といった愛称をつけていった。私は子ども たちを自由にし、子どもたちのやり方で島を探索させた。一緒に 遠出するときは自分たちで荷造りをさせ、持っていく食べ物や服、

ナバリノ島での 3 年間の滞在中、子どもたちはさまざまなお気に入りの場所を見つけた。 パール(4 歳)とライヴォ(6 歳)がルピナスの花畑でベリーを集めるこの場所もそのひとつ。

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行き方や行き先さえも決めさせた。私が口を出したのは時間の計 算や、帰宅するまでの体力の温存が必要な場合だけだった。 天候の変化が激しい土地で、子どもたちは身軽に旅することと 状況に備えることを(ときには痛い思いをして)すぐに学んだ。長 靴が水でいっぱいになったり、服が泥だらけになったり、お弁当 を食べたあとのデイパックの空間に道中で見つけた宝物を詰めた り。誰かが遊びに夢中になりすぎて怪我をするまで、1日が終わ ることはなかった。 自然のなかで、子どもたちは「自然主義者」へと成長した。鳥 や木々や植物の名前を知りたがり、幾度となく地元の小さな図書 館や博物館に足を運んでは図鑑や本で調べた。


ビーグル水道の岸で見つけた宝物を整理するパール(2 歳)。

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すぐに子どもたちは、レンガブナとナンキョクブナとカ

期でもあった。子どもたちは冷たい水にもひるまず、とき

バノハミナミブナの違いが簡単にわかるようになった。散

どきウキカ川やビーグル水道に飛び込んだ。私たちは島で

歩中にはマゼランガン、マゼランキツツキ、カワセミ、ゴ

育った新鮮な野菜や地元の温室のイチゴ、放し飼いの鶏

イサギ、カオグロトキ、コイミドリインコなどを目ざとく見

の卵などを堪能した。

つけては指差した。

ミナミタラバガニの季節は 7月にはじまり、その年に

あるとき、マーティンと名づけられたコイミドリインコを

よって異なるが、11月までつづくこともある。最盛期に地

預かったことがあった。飼い主が南極にいるほんの少し

元の漁師が大漁のミナミタラバガニを測っては運び出す様

のあいだのことだった。子どもたちはマーティンをとても

子を子どもたちに見せ、商用漁業がその地域と海に与える

可愛がっていたが、自由に林間を飛び交う野生のコイミド

影響を学ばせた。また博物館では真っ白に乾いた巨大な

リインコたちがいかに生き生きとして健康であるかを見て、

クジラの背骨のまわりで子どもたちを遊ばせ、この世界に

籠に閉じ込められているマーティンを気の毒に思うように

存在する自分たちの小ささについて考えさせた。

なった。マーティンは一度船から逃げ出し、ジェームズが すんでのところで捕まえた。飼い主の元へ帰った最初の週、 マーティンは籠から逃げ出し、そして戻って来なかった。 到着したのは初秋で、それまで紅葉を見たことがなかっ た私たちは、ブナの木々が色を変えていく様子を観察した。 そして秋が深まってくると、キノコや熟れたカラファテと チャウラの実を探した。 冬になると、私たちの船は雪と氷に囲まれて入江のなか で凍りつくこともあった。子どもたちはソリ遊びをしたり、 雪像を作ったり、氷柱を食べたり、ミカルヴィのヨットク ラブの薪ストーブで火を焚いたりした。冬には水面がまる で鏡のように静寂に包まれる日もあった。それは、保護さ れた水路を冬の短い日照時間を利用してカヤックやカヌー でパドルするのに良い日だった。 春は魔法のようだった。森の木々が芽吹き、子どもたち は大喜びで泥だらけの道を駆けまわり、ガンの雛たちが水 路のあちこちに顔を出すのを見てはしゃいだ。

*** 最終的に船が直り、2017年の 5 月に世界周航の旅を終 えた。ナバリノ島での滞在が子どもたちに与えた影響を実 感するのには、さらに数年かかった。何千海里もの航海 を重ね、いくつもの港を通り過ぎ、あの難破を経験した子 どもたちは13 歳、11歳、9 歳になったが、いまでもあの 「魔法」の森を懐かしんでいる。現在は 6 人になった子ど もたちをもっと大きな船に乗せて私たち家族は航海をつづ けているが、子どもたちはあのときのような自然に富んだ 停泊地を積極的に探す。汚染され、死んだような海に囲ま れた港に停泊したこともある彼らは、澄んだ水、きれいな 空気、清浄な土、そして広々とした空間と自然を利用する ことを大切にしている。 私たちをあのような特別な島へと導くことになったマス トを失ったときの一連の出来事を、私自身もよく思い出す。 陸地を確認できたとき、あれほど感情的になったことはな い。大自然のなかに隔離されて海を渡りつづける生活か

夏は冒険旅行のピークとなる季節で、ミカルヴィにはプ

ら、壊れた船とともに人びとやさまざまな音と匂いに囲ま

エルト・ウィリアムズを経由する船乗りたちが世界中から

れた世界へと上陸したあの日。そのすべてはあまりにも非

やって来て、さまざまな外国語が飛び交った。植物プラン

現実的で、目眩がするほど恐ろしい経験だった。ジェーム

クトンを研究する科学者が私たちの船を教室がわりに、子

ズと私は精神的にも困憊したが、家族皆が安全に上陸で

どもたちに海洋生物学を教えたこともあった。

きたことに心から安堵していた。そして私たちの船と仕事

夏はイヌランの群生を見つけたり、コイミドリインコがノ トロの枝に幸せそうに集ってその花を食べる姿を眺める時

にまつわるそんな騒動の渦中でも、子どもたちは力強く成 長した。

ソミラ・サオは、カンボジア難民という逆境を乗り越えたプロの写真家 であり、作家であり、妻であり、6 人の子どもたちの母である。セール 自然のなかで過ごす時間は、精神的なバランス(部屋が 1つしかない

ボートで世界を周航してきた彼女は 4 か国で出産し、家族とともにバイク

船上で得るのはときに不可能に思えるもの)を与えてくれた。

パッキングやホースパッキングや川下りを経験。過去16 年間の旅生活では

カバノハミナミブナの木に登るライヴォ(4 歳)とパール(2 歳)。

テントやバンやセールボートを拠点とし、現在はサンダーバード号と名づけた

チリ、ナバリノ島、プエルト・ウィリアムズ

全長15メートルのボスグラーフ製トリマランで航海をつづけている。

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〔上〕マゼラン亜極樹林の秋の林床は、クローバーとキノコとブナの落ち葉で覆われている。 〔下〕ビーグル水道から分岐する 2 本指の形をした入江、ラウタ湾での引き潮。 〔右〕古いカバノハミナミブナの枝にとまったカオグロトキ。

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氷の宝石を掲げる トーメンティナ(6 歳)。 チリ、ナバリノ島



パタゴニアの本社とサービスセンターは、チュマッシュ族、ワショー族、パイユート族、ショショーニ族の人びとの故郷である未譲渡の土地(現在ではカリフォルニア州 ベンチュラ、ネバダ州リノとして知られている地域)にあります。私たちの今日の暮らしと憩いの場となっているこうした地域から、先住民族の人びとを追い出し、虐殺し、 抹消しようと試みた歴史の不正を、私たちは認識します。彼らの過去と現在と未来を築く、土地の祖先や共同体の長老および他の部族民たちに敬意を捧げ、私たちは ファースト・ネーションズがみずからを定義するための権利を支援します。故郷である地球を救うための取り組みは、先住民族の人びととの相互協力を誓ってこそ成功 するものと、私たちは信じます。

〔表紙〕トゥトカヌラ(エル・キャピタン)にかかる雲。私たちは、カリフォルニア州でヨセミテ国立公園とも呼ばれているこの土地を、過去と現在と未来を通して永遠に 守りつづける始祖に感謝を捧げます。クライマーとして私たちは謙虚と尊敬の念をもってルートのひとつひとつに臨みます。これにはこうした土地が多くの先住民族に とって祖先の未譲渡の故郷や交易路や戦場であったことの認識を含みます。モノ・レイク・クゼディカ族、ビショップ・パイユート族、サザン・シエラ・ミウォック・ ネーション、チャックチャンシー・インディアン系ピカユン・ランチェリア、ブリッジポート・インディアン・コロニー、カリフォルニア・モノ・インディアン系ノース フォーク・ランチェリア、ミウォック・インディアン系トゥオルミ・バンドなどは、私たちがいまもその物語について理解を深めようとしている人びとです。 Austin Siadak カタログの不要な郵送 お引越しされた場合は、旧住所と新住所をお知らせください。万一このカタログが誤配 されたり、複数お受け取りになった場合、あるいはカタログ郵送の停止をご希望の方も、フリーコール 08008887-447、ウェブサイト pat.ag/cs までご連絡ください。 100%再生紙 本カタログは消費者から回収/リサイクルされた古紙 100%使用の FSC®〈森林管理協議会〉認 証紙に印刷しています。このカタログの製造には 1 本たりとも新しい木を切り倒していません。パタゴニアは 25 年以上もカタログの印刷に再生紙を採用してきましたが、消費者から回収/リサイクルされた古紙 100%に切り 替えたのは 2014 年のことです。

100% PCW

This catalog refers to the following trademarks as used, applied for or registered in Japan: 1% for the Planet ®, a registered trademark of 1% for the Planet, Inc.; and FSC® and the FSC® logo, registered trademarks of the Forest Stewardship Council, A.C. Patagonia® and the Fitz Roy Skyline® are registered trademarks of Patagonia, Inc. © 2022 Patagonia, Inc.


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