パタゴニア Fall 2022 Journal

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目次 6 ガソリン0リットル パウダーの飽くなき追求。シエラからマウント・ベイカーまでの 22 山の向こうにある記憶 2021年秋に公開されたスノー映画の内側。 48 歳を重ねてもなお夢中にさせるもの を展開する73歳。ダブルブラックダイアモンドでライディング 56 禅。攻撃的。完璧。 『ジェリー・ロペスの陰と陽』の制作について語るステイシー・ペラルタ。 68 感謝と降下 素晴らしい仲間にまつわるショーツのお話。 118 燃え尽き症候群の現実 監視するためのやる気の見つけ方。投票に参加してそれが公正に行われるよう 26ページでお読みください。 ナンシー・ボッキーノ。彼女の取り組みの詳細はワイオミング州のホワイトバークパイン保護活動家健全なイエローストーン大生態系のための鍵を手にする、 Sofia Jaramillo 26 木立のために選ばれし者 手遅れにならないうちにホワイトバークパインの老齢樹を救う。 34 アライと部屋の中のゾウ クライマー育成をクィア化すること。 74 完全なる静寂を求めて 欠けているものが与えるもの。 80 美しき川 石組工法による砂防ダム改修工事を実現させ、地元の川を自然に戻したアングラー。 90 「川が望む名」 キャメロン・ケラー・スコットによる詩。 104 私たちは入江なのです ために闘う女性たち。サザンレジデント・オルカの今号のジャーナルでは、「Working (生きた知識)」というタイトルのもと集められたKnowledgeこれらの物語で、私たちが破滅的な現状を打破しながらも、古くからの知恵を蘇らせる長老や若者、先輩、教師など、あらゆる年代の人たちの声をお届けします。ブラウザで Patagonia.jp/Stories を開くか、下のQR ましょう。守るのに役立つ知識をもちつづけ、そして共有し声に耳を傾けてください。愛する人たちや場所をコードを読み取り、こうした

文 ストラットン・マットソン 写真 コルトン・ジェイコブス スプリットボードで45日バイクで42日路上で過ごした103日 ガソリン 0リットル

07 〔左〕車は使わず足とペダルのおもむくままに。除雪されたばかりで〔上〕タイオガ・パスでパウダーを共有。カリフォルニア州自動車の通行がまだ再開されていないカスケード・レイクス・ハイウェイを走るストラットン・マットソンとカエル・マーティン。 〔前の見開き〕出発後まもなくの野営地で夜を過ごす著者。カリフォルニア州マウント・ホイットニーからワシントン州マウント・ベイカーまでの「バイク・トゥ・ボード」。その旅の開始地点へは、妹と一緒にヒッチハイクでたどり着いた。

08 2021年春の旅の記録をご紹介します。やり遂げることへのこだわりからのサドルから、そして人力でマウント・ベイカーまで、ホイットニーからワシントン州のカリフォルニア州のマウント・ 「バイク・トゥ・ボード」における重要なマンモス・レイクス周辺のホット・クリーク温泉で、回復プログラムを実施中。 3日目 カリフォルニア州シエラ・ネバダ山脈南部 いる。新鮮なパウダーの下の岩にいつ険なほど薄い積雪という事実が隠れてけた。は、60センチ以上の新雪の恩恵を受この山脈の岩だらけの斜面と不毛の頂はじめる直前、4千万年の歴史を誇るピカになっていた。だが僕らがこの旅をく下まわる積雪は、すでに強風でピカるっきり雪が降っていない。平均を大き3月なのに、シエラでは6週間もましかしその美しい覆いの下には、危 スキーするのか?いたそうだ。シュワルツェネッガーってルド・シュワルツェネッガーが泊まってトを張った場所の近くに、その夜アーノ元の友人から聞いたのだが、僕がテンからの立ち退き通告だった。のちに地が目にしたのは、マンモス・レイクス市さに浮かれた。そしてテントに戻った僕やらぬままバイクに戻り、旅の幸先の良恐怖があった。僕らは無傷で興奮冷めブチ当たるかと、頭のどこかにつねに

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10 38日目 カリフォルニア州マウント・シャスタ から滑る残りの火山が見わたせた。にはマウント・セント・ヘレンズをいちばん奥にして、これには僕がここまで滑ってきたいくつもの火山が連なり、北でも、かなりよいザラメ雪の収穫を得ることができた。南た。シスターズでは、周囲に力強く立ちならぶ火山のなかとなく、予定どおりにトレイルヘッドに到達することができ接されているに違いない。おかげで僕らはリズムを失うこるようになった。たぶんひびが入る前よりもしっかりと溶僕のバイクはコルトンの友人の修理を終え、問題なく走れないか探してくれた。ひびに気がついてから4時間後には、彼のネットワークを駆使し、地元に溶接ができる友人がい幸運にもフレームは鉄でできている。コルトンはすばやくや、驚くことに、フレームの溶接の部分にひびが入っていた。なぐらつきを感じる。スポークが折れたのだろうか?スへと向かった。だがその日の出発後すぐ、バイクに妙だから。すぐ前向きな変化の一部となる挑戦をするかは、自分次第だから僕は自転車で移動する。問題の一因となるか、いま化により、さらに不確かで乏しくなるばかりだということ。は、雪と安定した水資源の未来は気候変動の影響の悪な天候によって、すぐに裏切られたが。思い知らされるの見つかると確信していた。その期待は異様なほど気まぐれそれでも楽観的な僕は、きっとまだフワフワの楽しい雪がにしてきたなかでも最悪のコンディションだと聞いていた。自然食品店や登山店のローカルたちからは、いままで目起床したカエルと僕はスリー・シスターズのミドルとノーい62日目 オレゴン州スリー・シスターズ・ウィルダネス 〔右下〕コール・クリークの山火事の跡で、〔右上〕オレゴン州中部の主要火山5峰の最後、〔上〕自転車の旅に修理はつきもの。ひび割れたフレームにちょっとした修理を施すストラットン。購入して1年のサーリー・オーガは、フレームにひびが入ったものの、パンクはこの旅で一度もしなかったそうだ。確率としてはどちらがよいのだろうか。ミドル・シスターをシール登高するストラットンとカエル、そしてこのセッションにだけ参加した友人。オレゴン州スリー・シスターズ・ウィルダネス臭い足を老犬のように乾かすカエル。この数十年間で起きた山火事の多くは、スリー・シスターズ地域のほとんどの森林をこのように焼き尽くした。

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13 72日目 オレゴン州マウント・フッド 指しているのか興味津々で、話は尽きなかった。くれたり、僕らがどこへ向かっているのか、なぜそこを目が声をかけてくれる。車を道路脇に停めて冷たい飲み物をでいっぱいになった。小屋の屋根を見つけたときは、とてつもない感謝の気持ち削ぐことはなかった。トレイルヘッドに到着して差し掛け相当なものだった。だが土砂降りの雨ですら、彼の精神をく上り坂で、その日が初日だったアレックスの脚の痛みはクスのタイヤは大きな破裂音を立ててぺちゃんこになった。バイクを調整した。しかしバイクを走らせるとすぐ、アレッングしようと、川岸のオークの老齢樹の下でアレックスのワシントン州の最後の5つの火山で一緒にバイクライディの知るかぎり最もカリスマ性のある熱い男)と合流した。川岸まで降りた。ル下り、海抜約60メートルの雄大なコロンビア・リバーのリバー沿いの曲がりくねった道をバイクで約1,500メートこの旅でいちばん低い標高まで降りることにした。フッド・ふたたび山頂に挑戦する気は、一気に失せた。代わりに、だねた。こから下に向かって数千メートルの無上の喜びへと身をゆが、僕らは山からの忠告を受け入れ、登頂はあきらめてそ頂のたった数百メートル下に連なる雲堤の端まで登ったレッシュなパウダーでくすんだ斜面を覆ってくれたのだ。山マウント・フッドに到達するまでだった。嵐が夢のようなフければザラメ三昧となっていた。だがそれも5月21日に旅のほとんどが強い日差しによるシャバ雪状態か、運が良「3月の奇跡」は起こってはいたものの、ひどい日照りで、翌朝、目を覚ました僕は体を起こす間もなく嘔吐した。ここワシントンの州境で、親友のアレックス・コラー(僕「これって幸運の兆しだよな」と僕らは言った。マウント・アダムスへの道のりはこの旅で最も長くつづハイウェイ沿いをバイクで移動していると、たくさんの人「これじゃなかなか進めないな」と僕らは言った。 ピーク・ウィルダネス歩かなければならなかった。ワシントン州グレイシャー・麓にたどり着くまで、いちばん近い道路から24キロもカスケード山脈の最も奥地にある火山。著者はこの火山の春のザラメ雪の成熟とともにキバナカタクリが咲きほこる、

14 〔右下〕疲れているのにカメラを向けられてちょっと不機嫌なストラットン。地元のピザ屋を支援しながら、〔右上〕焼けつくような日差しの春の日、消えつつあるホワイト・チャック氷河からの雪解け水をすくい、〔上〕光を追いかけながら、シエラらしい廊下を落とす。滑った山々に乾きを癒してもらうメンバー。ワシントン州グレイシャー・ピーク・ウィルダネス今後数日間の計画を練る。

15 自身への挑戦にひらめきを見つけた。バイクで移動することを誓う、という僕は自分が滑るすべてのラインまでターンがひとつ減ることを意味する。僕にとっては現実的に、未来の世代のトレイルヘッドまで車で行くたびに、 〔次の見開き〕バイクとスノーボードの旅か、それともヨガをしながらの観光か?内なる女神たちと交信し、旅に備えて体を柔軟に伸ばしながら、その答えを出そうとするカエルとストラットン。カリフォルニア州モノ・レイク

18 87日目 ワシントン州トレド 生きる人と出会うと、大きく開くものなのだ。人も心を開いてくれることが多い。僕らの心は情熱をもってきはじめた。心を開いてみずからの繊細さを見せると、他のの人生に変化をもたらすことができるということに、僕は気づ真の意味でエネルギーを共有し、他の人に刺激を与え、彼らの意義を共有する機会を与えてくれた。人との交流を通じてを言いながら、彼ははしゃいだ。たタイヤが「ぐにゃっとしていて牛のお尻の肉みたい」と冗談彼らの息子にパンクの修理の仕方を教えてあげた。パンクし転を代わると、一発できれいに停めてみせた。翌朝、僕らはバック駐車するのに苦労していた彼らを見て、アレックスは運泊まれるよと声をかけた。暗闇のなかでキャンピングカーを車で入ってきた。すでに数時間そこでくつろいでいた僕らは、夜更けに、空いているテントスペースを探して、ある家族が道中で出会う人たちは、僕らの話に熱心に耳を傾けて、旅 〔右下〕スノーボードを担ぎ、ワシントン州の「ナップ・リッジ(昼寝尾根)」。アラスカと〔右上〕この写真の男によって名づけられた〔上〕標高約2,130メートル地点のキャンプ地まで導いてくれるのは、ほぼ夏至に近づいた夕方の太陽。ワシントン州グレイシャー・ピーク・ウィルダネスハワイを除くアメリカ本土48州で最も人里はなれた火山で、その最後の下りを楽しむ直前、高山性のツガザクラのベッドで休憩中。ワシントン州グレイシャー・ピーク・ウィルダネス温帯雨林にそびえるベイマツの老樹の狭間を歩く一行。無生物には森林浴の効果はないなんて、誰が言った?

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21 2021年7月 ワシントン州マウント・ベイカーに到着してから30日後 僕は決めた。2021年3月にカリフォルルを漕ぎながらスノーボードをしようとるために、太平洋海岸山脈に沿ってペダてから、距離を感じたり他の地形を知燃料を可能なかぎりゼロにしたかった。雪上のライドを追求するため、使う化石身への挑戦にひらめきを見つけた。僕はバイクで移動することを誓う、という自る。僕は自分が滑るすべてのラインまで世代のターンがひとつ減ることを意味すびに、僕にとっては現実的に、未来のきない。トレイルヘッドまで車で行くた自体の消滅の一因になるなんて、もうでまったら、僕に活力を与えてくれるものかっていた。この事実に気がついてし分の認識とは足並みが揃わないのはわを滑り降りる快感を得たりするのは、自ての地形に到達したり、海外に旅して山まで移動したり、スノーモービルで目当できないことに気づいた。動から切りはなして考えることはもはや危機における自分の役割を、日常の行が絶え間なく発生している。この気候過酷な熱波や壊滅的に大規模な山火事も、氷河は小さくなり、貯水池は枯れ、なものだ。僕が暮らすオレゴンの地元で脅威は、不可避な現実であり、具体的ていなかった。こで終わらせたいのか、それしかわかっ出発前は、なぜこの旅をはじめて、ど僕にとって気候変動の深刻な影響と化石燃料を使って車でトレイルヘッド2年間地元の山々にバイクで行き来し 「『バイク・トゥ・ボード』は、冒険的要整理がつかないでいる。が逝ってしまったということに気持ちのとき以上に感謝している。僕はまだ、彼のときに一緒に来てくれたことを、あのクの事故で不幸にも亡くなったいま、あも影響を与えられた。そして彼がカヤッ僕だけではなく、親友アレックスの人生したかったのだ。ノーボードを楽しむことができると証明きた石油を燃やすことなく、スキーやス火山は10峰以上。死んだ恐竜からで1,600キロメートル、そのあいだに並ぶ点のマウント・ベイカーまで移動距離ニア州コンビクト・レイクを出発し、終この経験で大きな変化を遂げたのは彼はあの旅をこう振りかえっている。素と同じくらいその動機にも意義がある。人類が進化しなければ、僕らは母なる地球を居住不可能なゴミ溜めにしてしまうだろう。現代生活の快適さを押しのけ、この惑星で生きることについて考え直さなければならない。僕にとっては、何が可能なのかをあらためて想像することが、この旅の意味そのものだった。ちょっとしたひらめきが生まれただけで、心と精神は変化する。最初は僕には向いていないと思っていた旅が、いまでは人生最高の大冒険のひとつとなった」 オレゴンを拠点とするストラットン・マットソン わずに、彼が滑るすべてのラインへバイクで旅しは、この3年間クリーンに、つまり石油燃料を使ている。 サーフィン。ワシントン州ノース・カスケード山脈キャンプ地に戻るまで、夏至の光のなかを

22 なかったわ」とマリー=フランス・ロイは言う。 包まれてしまう。「この地点までの30分か45分だけ私が先頭でルートを切り開いたのだけど、その後先頭に立つことは一度も感動的なスノーパッチ・スパイア。この写真は縦走の初日、出発の数時間後に撮影されたもので、その数時間後には完全に霧に Madeleine Martin-Preney 山の向こうにある記憶

23 ました。すのと同じくらい山と話すことでもあると思い出しンバーの条件は最高で、雪上の旅とは、友人と話通した「バグス・トゥ・ロジャーズ」の縦走です。メイダーたちに渡しました。これは、彼女たちの目を友人は、防水性の使い捨てカメラ数個を3人のラと判断。ドラッグストアに最後の買い出しに行った真家なしの計6名のチームで行くことが安全であるす。すでに確保していた3名の撮影班とともに、写少人数の方がより速く効率的に旅することができまリネイを追いかけています。このような大冒険ではマリー=フランス・ロイ、マデリン・マーティン・プむカナダのスノーライダーたちル/累積標高差9,144メートルのスキー縦走に挑するロジャーズ・パスまで、総距離137キロメート東部のバガブー山群からレベルストーク北東に位置入したものでした。ブリティッシュ・コロンビア州人のすてきな友人たちの和気あいあいとした旅に潜Over2021年秋にパタゴニアが公開した映画『MindMountain(山の向こうにある記憶)』は、3リア・エヴァンス、 〔上〕愛称「マディ」で知られるガイドのマデリン・マーティン・プリネイ。大したことではないが小さなセルフケアに努める。このような長期の旅では毎朝の歯磨きは儀式のごとく重要。だがそれはいつも慌ただしく行われる。  Leah Evans 〔中央〕カーボネイト山脈の氷原でマリー=フランスを元気づけようと、ペパロニでスマイルを作ってみせるリア・エヴァンス。  Marie-France Roy 〔下〕くつろぎのひととき。いつもの調子で縦走に臨むマリー=フランス。

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24 〔左ページ〕「超人マディ」でも休憩をとることはある。苦痛を感じることはめったにない彼女にも、それは起こるもの。マディのパックのウエストストラップのバックルが壊れ、旅の間中ほぼずっと、自分の体重より重かったであろう荷物を背負っていた。ある種の地獄である。だが、愚痴る彼女を見ることはない。

Marie-France Roy 映画『Mind Over (山の向こうにある記憶)』で、このチームMountainsが「バグス・トゥ・ロジャーズ」の縦走に実際に取り組む様子は MindOverMountainPatagonia.jp/でご覧ください。

Marie-France Roy 〔右下〕3回の懸垂下降を要するデヴィール・チムニーで、最初のセクションを下るリア。チームの6人全員がここを下り終えるまで4時間近くかかったため、テンションをかけつづけたマリー=フランスの脚には数週間も残るアザができた。

Marie-France Roy 〔右上〕「カフェ・マディ」で交替で働くリア。マディは旅のガイドであるだけでなく、毎食の料理長でもあった。

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26 イエローストーン大生態系の多種の生物にとって重要な食源である。この小さくも偉大な松ぼっくりは、ホワイトバークパインとそれを取り巻く生態系の存続に欠かせない。その種子は鳥や熊など、

27 木立 のために選ばれし者 文 コリン・ワン 写真 ソフィア・ハラミジョ ワいまから6年前、ホワイトバークパイン保護プログラムに立っていられたら」いたり、感じたり、見たり、学んだりしながら永遠にそこます。「自分が木立のうちの1本だったらいいのに。聞20年以上が過ぎたいま、ナンシーはこう望むことがありです。ホワイトバークパインとの関係がはじまってから応力という、人生の最も純粋な倫理を教えてくれる先生女の心の友であり、忍耐、つながり、ねばり強さ、適よ、私が木を選んだのではなくて」と語ります。木は彼を知りたいという人に、ナンシーは「木が私を選んだのれから1年も経たないうちにはじまりました。その理由に、自分の居場所を固めました。木に携わる仕事はそティトンにある高山の森とその周辺に住む人たちのなか処として暮らしました。やがてナンシーはワイオミング州一家は森のなかにとめたフォルクスワーゲンのバスを住る好奇心と強い愛が助長されました。毎年夏になると、義者で科学者だった両親の影響で、自然の世界に対すイダホ州北部で育ったナンシー・ボッキーノは、自然主ながらその変化を見るという半生を送ってきました。アトーン大生態系の類い稀な木々の世話をし、森で過ごしみながら高山の森を歩きまわります。彼女はイエロースら愛するひとりの女性が、非常に大切なつながりを育ホワイトバークパインとの友情。イオミング州北西部の寒々とした印象的な景色のなか、森林生態学者でありガイドであり雪崩専門家であり、そして何よりも山を心か私がホワイトバークパインに興味をもちはじめたのはの現場作業員のひとりが退職し、その後任を友人のナンシーから依頼されたときでした。最初のシーズンが終わっても、私はまだホワイトバークパインを見分けることができませんでした。それらは他の樹木にまぎれて隠れていて、誰かに指摘されてようやくそれだとわかる程度で、謙虚にならざるを得ませんでした。しかし翌シーズン仕事に戻ると、ホワイトバークパインが自然と目に入ってくるようになり、まもなくあちらこちらで確認できるようになりました。まるで木がその姿を現す前に、私の決心の固さ、あるいは慎み深さを確認する必要があったかのようでした。私は人間の友に協力する傍ら、これらの木々のなかにも友を見つけました。ナンシーと私は冬でも彼らからはなれることはありません。スキーガイド、そして雪崩専門家として働きながら、定期的にホワイトバークパインを訪れ、顧客や友人にその壮観さを伝えながら、申し分のない樹間を滑ります。これらの太古の巨木に迎えられ、囲まれながら、その立ち姿のあいだに積もった新雪の上を舞うのです。彼らはいつもそこにいて、動じることなく順応し、その優美な存在を介して、訪れる者たちに教訓を与えます。ホワイトバークパインは厳しい環境の舞台でもとてもよく繁茂します。ホワイトバークパインは五針葉マツの一種で、何百年という樹齢に達する木もあります。ブリティッシュ・コロンビア州の太平洋海岸山脈からカリフォルニア州中部、そしてカナダ北部からネバダ州北部のロッキー山脈に分布していて、雪解けを減速させながら流出を調整し、

28 ナンシー・ボッキーノ。ナンシーはかれこれ何十年もこれらの木々の友であり、彼らを保護している。ワイオミング州グランド・ティトン国立公園の気温マイナス28度の朝、ホワイトバークパインを訪ねながら霜を蓄えていく

29鮮やかな鉄の色になることがあり、まるで通り過ぎる人に切迫した状況を警告するため、呼びかけているかのようだ。グランド・ティトン国立公園の空に枝を伸ばしたまま枯死したホワイトバークパイン。これらの木々は朽ちていく過程で

30 〔右〕ジャクソン地元のスキー会社「イグネウス」がすでに死んだホワイトバークパイン〔左〕古いピトンとヘンプ製ロープとツールのコレクションの横に吊り下げられた、ナンシーの木登り用ハーネス。それぞれのアイテムには、ナンシーと著者が山の旅で出会った特別な場所や人びとの思い出が秘められている。から採取して作った、ナンシーのお気に入りの木製スキー。

31 (2000年代初期から2010年のあいだ)に起こったキクらしています。イエローストーン大生態系では最も近年シの増加が、ホワイトバークパインに深刻な脅威をもた頻発し、強烈となる山火事や干ばつ、そしてキクイム減少に直面しています。気候の温暖化によりますます温の上昇と乾燥にともない、恐ろしいほどの個体数の提供する、要となる種です。多様な高山の群落を支え、動物に栄養価の高い食物をしかしこの素朴で力強いホワイトバークパインは、気イムシの大量発生により、ホワイトバークパインの老齢樹の最大80パーセントが死ぬか死にかけていると推定されています。この壊滅的な蔓延の主要因は上昇する気温であると、生態学者は指摘します。私たちは高山環境を訪れる者としてこうした変化を目の当たりにし、それらのひとつひとつが気候変動に起因することを実感します。その一方で、私たちは屋根の下で暖炉に薪をくべ、気軽にエアコンのスイッチを入れるという贅沢な暮らしをつづけています。けれども、想像してみてください。山の上の高所で生き、気候変動をより直接的に体験するということを。自分が高山で同じ場所に立ちつづける樹齢1,000年の木だったらと、想像してみてください。数えきれないほどの季節を重ね、その根を岩のあいだに押し込みながら、ゆっくりとその場所になる自分を。そして残念なことに、その個体数の減少は驚くべき速度でつづいています。2019年以来、わずかに残るホワイトバークパインの原生林の消失は、イエローストーン大生態系で著しく増加しました。この悲劇の原因のひとつは、木を枯死に追いやる病原菌と極小の天敵の存在 高山の世界と親密であるよう手助けしてくれます。私たちの選択をじっと観察しながら、私たちがホワイトバークパインは仲介役であり、目撃者であり、難です。ホワイトバークパインは仲介役であり、目撃者る真実を否定しようとしても、目撃者がいればそれは困深層を実感することへの招待です。私たちに責任があし役、つまり仲介役が必要です。それは深層を見つめ、重要な関係の復元を選択する力があります。たのは私たちの行動です。その一方で、私たちにはこのす。突き詰めていけば、バランスをこれほど急速に乱しこれまでのところその役目を果たしていないのは明確でなバランスを保つ生態系の管理者であるにもかかわらず、せば、人間の関与が明らかになります。私たちは繊細ろんこれだけにとどまらず、その筋書きにざっと目を通それはまるで殉教者のようです。悲劇の登場人物はもちトバークパインは、迫りくる病原菌やキクイムシと闘い、森を破壊しつづけます。そして巨大な餌となったホワイわなければ、極小の天敵は木を1本1本と蝕みながらまいました。寒波による確実な抑制と均衡の状況が整殖の機会となったのです。くなり、寒波に弱かったキクイムシにとっては絶好の繁ました。歴史的に秋と春によく発生した急な寒波が少なである原生種、アメリカマツノキクイムシの数が増加しに過ぎません。また1990年代後半以降、極小の天敵バークパインの個体もありますが、それらはほんの少数詰まらせます。さび菌に抵抗する遺伝子をもつホワイトオレンジ色の子実体を吹き出し、やがてその循環系を問題となっています。この枯病は樹木の内部に侵入して類発疹さび病は、ホワイトバークパインを脅かす深刻なです。外来種で潜行性の菌類が引き起こすゴヨウマツこうして、この荘厳な木々は巨大な餌と成り果ててし好ましくない事態を理解するという選択には、橋渡

32 ます小さなホワイトバークパインはその長い一生をはじめようとしていす。山の上で、自己紹介の機会を待っています。そして深い雪の下で、在への警鐘を静かに鳴らしながら、私たちに招待状を送っていまを帯びます。ホワイトバークパインは、ますます脅かされるその存木々や木立への影響を目の当たりにすると、気候変動はより現実味生態系の関係を構築しなければなりません。親しみのある個々のするものと、それらが一部を担い、そして私たちもその一部を担うに荒々しく、冷淡な環境とつながることができるのです。ンのおかげで、山を訪ねる人は森林限界の上しょう。人間と人間以外のものの橋渡し役であるホワイトバークパイにより、私たちは山の見方や気候変動の見方を変えることになるでと親密であるよう手助けしてくれます。ホワイトバークパインの存在であり、私たちの選択をじっと観察しながら、私たちが高山の世界高山のたしか気候変動問題の解決には心の架け橋が必要です。太古から存在もしも状況が許してくれるなら。 れないでしょう。彼らに会いに行ってください。決してそれまでと同じ見方ではいら 〔上〕ナンシーの仕事道具。手かぎ棒は枝を引き寄せて松ぼっくりを集めるために、手斧はキクイムシにやられた木から樹皮を剥がすために、剪定ばさみは花粉を集めるために、タグは松ぼっくりを入れた袋にラベルを付けるために使われる。野生環境で過ごす時間が生活の中心である コリン・ワン 保護活動家。そして山岳ガイド、写真家、映像作家でもある。ワイオミング州ウィルは、ホワイトバークパインソン在住。 この物語を気に入っていただけましたか? Patagonia.jp/Stories から共有して いただけます。

33 この木は樹齢700年以上(健康なホワイトバークパインの寿命としては半分を過ぎたばかり)とナンシーは推定する。グランド・ティトン国立公園で枯れたホワイトバークパインの木を訪ねるコリン・ワン(左)とナンシー(右)。

部屋の中のゾウ アライと クライマー育成をクィア化すること。 ロー・サボウリンとマデリーン・ソーキンの会話 写真 ブレイク・マッコード

イースタン・シエラマデリーン・ソーキン。カリフォルニア州ラックに掛けるロー・サボウリンとインクレディブル・ハルクで使うギアを

37 インクレディブル・ハルクカリフォルニア州イースタン・シエラ、ブローハードの1ピッチ目に取り組むロー。 親愛なるローへ。私たちの2019年のハルクへのクライミングトリップについて書いてほしいとパタゴニアが言っている、そうあなたから聞いたとき、私は笑って、そして胸と喉が詰まったのに気づいた。覚えていると思うけど、あの旅は苦しかったし、私たちの関係をどうやって表現したらいいのか、そのことについても思いをめぐらせた。私たちの話が、実際にパタゴニアが求めているものになるとは、思わなかった。クライミングパートナーになることには、当然ワクワクした。年の差が11歳もあって、私の方がクライミング歴が長いから、試してみる価値はあった。最初は典型的な師弟関係として。でも同時に、私たちはクィアとジェンダーと体の不協和音という、重なる部分をもちながら異なる世界を歩んでいた。私たちのクライミングのパートナーシップがどのようなものになるのか、前例がなかった。その瞬間瞬間に真実を話して、共感することで、一世代違う年代と心の底から語り合う機会が与えられるということを、私は一緒に過ごした時間から学んだ。ともに行動しながらいまそのとき存在しつづけ、類似点と相違点から生まれる避けられない緊張感を口にすることが、まさにお互いのアライとなるために私たちが必要とする薬なのだから。私の頭が自己改善のスローガンでいっぱいで、体はただ反響定位に反応しているだけだったむずかしい瞬間にあなたに言えたらよかったのに、と思うことがたくさんある。一旦停止して喉が詰まったところからまたはじめたい、と言えばよかった。たぶんそれが、立ち戻ることの価値なのかもしれない。いまはそれができるようになっていると思う。親愛なるマッド(マデリーン)へ。あなたには話したことはなかったけど、14歳のとき、父が部屋にフィンガーボードを掛ける木枠を作るのを手伝ってくれました。そこを埋め尽くしたアイコン的な登攀の写真と、お気に入りの南東部の岩場の野心的な登攀リストの中心にあったのは、クライミング・マガジンから切り抜いた、あなたとケイト・ラザフォードがムーンライト・バットレスをフリー登攀した記事でした。デトロイト育ちの10代だったから、ザイオン国立公園に行ったことなどなく、ムーンライトを登ることがクライミングジムで傾斜の強い5.12を登るのとどう違うのかも知りませんでした。でもどちらも最高にカッコいいことは知っていました。だから懸垂とデッドハングを十分に訓練すれば、あなたと同じように超カッコよくなれるかもしれないと思いました。その10年後にムーンライト・バットレスの核心ピッチであなたと出会ったときは、ミーハーな気分でした。核心部で過度にプロテクションをとったとき、あなたは励ましてくれて、アンカーにクリップしたときは、褒めてくれました。あなたがアンカーまで軽々と登ってくるのを待ちながら、通過するあなたに何を言おうか悩みました。あなたは桁外れの存在でした。あなたは自分の真実をためらいなく貫き、次世代のクィアのクライマーがみずからの愛をみずからの方法で追求するお手本に思えました。いま振りかえると、あなたを崇拝することは、私たちのクライミングのパートナーシップであなたの居場所を作ることができなかった多くの失敗の最初のものでした。あなたという英雄への憧れのなかで、埋めることが不可能だと感じられた距離感を、ときとして私たちのあいだに作ってしまったのです。

38 ビレイで過ごす寒い時間。カリフォルニア州イースタン・シエラ親愛なるローへ。ムーンライトでのあの収束の日、私は未来がやって来るのを目にしたように感じた。あなたの年齢は、私がルートをフリーで登ったときと同じくらいで、違っていたのはその12年後にあなたがそれをガールフレンドと一緒に達成したこと。あなたの悠々とした動きが気に入って、あれほどゆっくりと登っているのだからとても強いに違いない!と思った。あなたとアマンダが私たちに先を譲ってくれたとき、目が合って、微笑んで、そこで出会えたという素晴らしい偶然の瞬間を共有したのを覚えてる。私はもうすぐ妻となるヘナの元へ興奮状態で帰った。ケイトと私が2006年にムーンライトをフリー登攀したとき、それは私たちにとって、そして男の人なしに2人の女性が一緒にこの困難な目標を成し遂げたことを祝う、クライミング文化における躍進だった。クィアであることは、当時は本題ではなく、それはどうでもいいことのように振る舞う必要性を感じた。私はカミングアウトしてはいたけれど、クィアのコミュニティを求めたり、虹色の旗を(たまにポータレッジに掲げる以外には)振ったりはしていなかった。クライミングに夢中だったときは、恋愛関係、ましてやクィアの恋人をもつ余裕なんて想像できなかった。そのときは、私のクィアさは自分の別の一部なんかではない、なんてわからなかった。あなたと私が一緒に登りはじめた当初、クィアの夢を堂々と生きているという雑誌記事のようなイメージを、あなたが私に抱いていたのは知っていた。ビッグウォールや遠征が大好きなのは本当だけど、私の全体的な真実はもっと微妙で、辛いものだった。困難で大きな壁をフリーで登ることへの飽くなき探求は、この世界で自分が大丈夫だと感じていなかったことからのものだった。遠征中は不安と虚しさをしょっちゅう感じていた。もうひとりのクィアの存在が身近にあることは、私には何か違う感覚となり得る。私たちが共鳴することで、私は自分の肉体全体と結びつき、そのままの姿で自分の空間を埋めることを思い出させてくれる。あなたと出会ったときもそうだった。私の意識はすぐその瞬間に引き込まれた。でもあなたには最初から不安という低音も響いていた。一緒に過ごす時間が増えるにつれてそれが取り除かれることを願っていたけれど、現実 「クィア」や基本的なクィア文化について知っているニティと関わらないのか?自己批判に爆撃された。なぜもっとクィアのコミュて自分の開発を区切ったり妨げたことへの、多大なあらゆる意味で、クライミングの一途な追求によっ戻ってくる瞬間があり、また次の瞬間には、それはじていた。私は対抗意識や妬みすらも感じた。には私の一部があなたによって脅かされていると感あなたと登ることで、私が遠ざけた自分の一部が活動家以上に?そもそものか?つねに困難な目標を達成しなければ満足できないのか?私は自分であることが不十分であるように感じて、クィアの人間でありクライミングのメンターとして私に欠けているすべての面のあら探しをすべく、あなたを過度に警戒し、そして追跡した。あなたと一緒に登ることで、無視しようとした自分のアイデンティティーに向き合うことを強いられてしまった。

39 親愛なるマッドへ。あなたが言ったことはまさに的を射ています。クィアであることについての会話を取り巻くビンジパージ症候群のエネルギーについてです。自分のアイデンティティーを理解してくれる誰かと一緒のクライミングトリップでそのすべてをさらけ出す機会に、とてもワクワクしていたのを覚えています。別のパートナーだったら説明するのに1時間必要だったかもしれない話題に、自然に入り込めたと感じた瞬間もありました。そういった瞬間に駆け込み、一体感に喜び、静かに我慢することの教えに潜在する痛みの流れを感じました。私たちは食べ物、業績、家族、期待度などとの折り合いにお互いがもがいているのを見ました。真にお互いを支え合うための手段のないなかで。あなたにすべてを理解してほしいと願い、それが叶わなかったときは、自分は手に負えない人間なのだという、いつもの感覚に陥りました。 「性転換を考えたことはある?あなたはまたその会話をもち出して、聞いてきました。があるとは思ってもみなかったので、がっかりしました。いう意味?」と聞いたときでした。自分を説明する必要は、あなたがそれに賛同するのではなく、「それはどう耳を傾けることが本当に楽しくなってきたんです」部分と女性的な部分に、そしてそれらが語り合うのにき、以前はイライラしたけど、いまは自分の男性的なます。「自分のジェンダーが何かわからないと思ったとを期待していました。こんなふうに言ったのを覚えていち出したとき、あなたがその拙さを補足してくれることジェンダー経験についてよくまとまっていない考えをもを思い出させてくれます。アプローチの最中、自分のの旅、メキシコのエル・ヒガンテへの旅のある瞬間すが、これらすべては私たちの最初のビッグウォールハルクについて話すことが本題なのはわかっていま私たちのあいだで何かが変わったように感じたのでも翌日の夕方、ポータレッジに這い込んだとき、ホルモン療法とか手術を受けるということを?」と。寝袋のなかで身をよじりました。クィアのアイデンティティーについて他の人、ことにクライミングパートナーと話すのには慣れていなかったからです。でもあなたから聞かれたことで侵害を受けたようには感じませんでした。ある独特な意味で理解してもらえたように感じました。険しい壁の細いレッジにぶら下がっているときの露出感のような感覚でした。それを思案しはじめるのに、十分な信頼感があったからです。 と、連れていかれた。切望していた自分の境界へけれど知られることを向き合うことはむずかしいあなたと一緒にいるだけで、 マデリーン・ソーキン

41 ギアを取るマデリーン。ブローハードの2ピッチ目でイースタン・シエラの 「危険!」や「私も!」だったかもしれないし、「あなたの話は私のロー、あのとき私が言いたかったのは「ありがとう」だった。ジェンダーについて友人と話したことはほとんどなかったから。ましてや私のことを理解してくれるような人とは。その瞬間に何か言えていたとしたら、口を衝いて出たのはとは同じようで違う」だったかもしれない。単一のジェンダーとして見られる違和感について表現できたらよかったのに、と思う。ちょっと話すのを止めて会話せずに一緒にいよう、と言えたらよかったのに。私がそんなことを口にしなかったのは知ってる。そうせずに、黙っていたことも。そして恥ずかしく思ったことも。谷間が暗くなるにつれて、私たちのあいだに距離ができるのを感じた。狭いレッジで寝ながらその先の日々を、私たちの登攀目標を考えようとした。まるでチャンネルを変えるのと同じくらい簡単なように。でもこうしたアイデンティティーとの関係は、つねに私たちと一緒の部屋に存在する。好むと好まざるとにかかわらず。ときとしてそれは私たちの傍らに立つゾウのようなものであり、あるときはお互いにぐるぐると追いかけたり、またあるときは背を向けたりする。少なくともあなたといるときは、そこにゾウがいないふりをしない、見て見ぬふりをしないことを学んでいる。あなたと一緒にいるだけで、向き合うことはむずかしいけれど知られることを切望していた自分の境界へと、連れていかれた。ハルクへ旅するころには、クライミングや食べ物や体との関係は無言で語られていて、私たちがしっかり進んでいく緊張感をより意識するようになっていた。その緊張感を指摘することが上手になったとは感じなかったけれど、それを解決する責任は感じた。私はあなたがT(性転換)の最初の数か月をどうしているのかを遠まわしに聞いた。純粋にあなたをサポートしたかったけれど、その部屋には私自身の旅路についての沈黙があった。あなたの転換により、私は自分のノンバイナリーのアイデンティティーとの希薄な関係に気づいて、私自身のジェンダーを「把握する」必要があるという感覚が強まった。崖錐の下でごぼごぼと平和に流れる水は、自分自身とお互いにより繊細に対応し、クライミングをシンプルに保つことを思い出させてくれるように感じられた。でもそれは私にとって、たやすく耳にできるメッセージではなかった。複雑で困難な登攀目標を達成することで集中できる有形の何かが得られると信じたかったけれど、私たちがベンチュリ・エフェクトで過ごした日は、それが甘い考えだったことを証明した。親愛なるマッドへ。あの日ベンチュリ・エフェクトでどれだけ自分がやつれ、混乱していたかを覚えています。自分の思いにとらわれすぎて、あなたも恐怖を感じているとは思いもしませんでした。でもあなたが登りはじめたとき、いつもより緊張しているように見えて、どうしたらいいのかわかりませんでした。あなたは強い人です。あなたが技術や呼吸の指導をしてほしかったなんて想像もつかず、自分の呼吸を落ち着けようとすることしかできませんでした。あなたが必要なことのできる場所を作ってあげたかった。私が気づかないふりをすれば、私たちの両方の目に、あなたのスーパースターとしての地位を保つことができると。あなたがはじめてテンションをかけたとき、私は「その部分は難解だよね」と言い、何でもないことのようなふりをしたのを覚えています。でもあなたは、私があなたの顔の苦悩を見逃すほど遠くにはいませんでした。私たちがそのルートで格闘しながら、「そんなにむずかしいはずはない」シークエンスから撤退し、次のピッチのリードを譲り合ったとき、私たちにはやっていることを楽しむ真のゆとりがないことに気づきました。

42 ブローハードの核心ピッチを登り終えるロー。

43 意味しました。心が痛みながらも、ありのままの自由の感覚もありました。痛みの経歴をどうにかして乗り越えることができるという信念を手放すことを人間として受け止めることは、次のグレードを克服できたときに自分の嘆きやたちは各々のやり方でその苦痛に対処しているのだとわかりました。あなたをるあらゆる苦悩とは無縁だと思っていたのです。でもあのハルクへの旅で、私べきクライミングの強大な力によって、あなたはクィアのコミュニティが直面すそれは過去にも打ちのめされたことでした。天秤にかけ、夢と決意のどちらかを選択しなければならないかもしれないと。一生懸命頑張って自分の価値を証明しなければならない気持ちと闘う決意をクライマーになるという夢と、そして自分が必要としていることに耳を傾けて、あきらめないの」なのですか、と聞いたときの、あなたの答えを覚えています。「あの人たちは、た。あんなクライマーにそんな信じられないようなことを達成させるものは何キャピタンの憧れのラインを登ったプロクライマーの友人の話をしてくれまし考えずにはいられませんでした。ハルクから歩いて帰る途中、あなたはエル・に同意してくれたけど、最も必要とされているときに落胆させてしまった、とために、そこに留まっていたかった。でも疲れ切っていました。あなたは下降は、恥ずかしさと安堵が混ざった気持ちでした。ルートを解決するあなたの親愛なるマッドへ。ロー、いま思えば、ハルクで私たちが取り組んだすべては誇れることだけれど、あの旅ほど自分がメンター失格と感じたことはなかったように思う。ベンチュリ・エフェクトをあきらめたあと、核心部のカーブするひとすじが美しいブローハードは、よりシンプルながらもやりがいのあるルートになるはずだった。でもブローハードで私たちがリズムを得るやいなや、私はまた壁に突き当たった。そのピッチをレッドポイントできるとわかった瞬間、それはもうどうでもいいことになった。私はチャレンジを見つけることに取り憑かれていたけれど、それが現れるとそれを避けた。もっと大きな目標を欲していたと思ったけれど、その欲望はクライミングで感じていた無気力のまわりにある、より大きな恐怖を警戒していた。それは腹立たしい周期だった。感情的に疲れ果てていた私たちにとって、それぞれが核心ピッチを登ったあとにルートの残りをやらないと決めたのは、うなずけることだった。ブローハードの核心を登ったあとに下降を希望したときちょっと吐き気がしました。そのとき気づいたのです。自分がプロのロックあなたはクィアの素晴らしさを象徴する人だと、ずっと思ってきました。驚く

44 ロー、あなたを傷つけてしまってごめんなさい。あなたに、あるいは私自身にあれほど厳しくするのではなく、自分の感情を口にする勇気があったらよかったのに。あなたをサポートしようとしながら、クライマーとして、そしてクィアの人間としての私の旅路についての乱雑な感情を解明しようとして、私はあの旅では往々にして自分の内にこもっていた。成功のために、「本物のクライマー」になるために、私が犠牲にしてきたことのいくつかが、いまでは明らかになった。あなたに同じことをしてほしくない。私の苦悩を目にしたことであなた自身の深い疑問への問いになってくれたらと思う。自分の才能をどう活かしたい?進まざるを得ない場所はどこ?その答えを尊重してほしい。あなたと一緒にいることで、あなたの真実に向き合いながら自分自身の真実の近くにいることへの挑戦となる。その緊張感を受け入れるのはとてもむずかしい。それが他の人との関係をもつことにおける本質的な部分であったとしても。自分自身を楽しむことができれば、ともにそれについて笑うこともできるのだと思う。メンターになるというのは、あなたが目指すクライマーと、クライマーであるいまのあなたのあいだの緊張を乗り越えるのを手助けすることなのかも。自分がなりたいと思っていた存在、あるいはなれたかもしれないと思っていた存在を手放すことには、悲しみがともなう。でもノーと言いながらイエスと言うことを学ぶことには力がある。親愛なるマッドへ。ある境界線が自由をもたらすということこそ、あなたが勇気をもって一緒に探求してくれた最も偉大な教えのひとつでした。関係がないと考えることは恐怖に対処する自然な方法となり得ますが、ジェンダークィアの人間として、分離とはずっと闘ってきました。だからそれをクライミングにもたらすと、不健全な場所へと追いやられてしまう可能性があります。自分を具現化する源として、クライミングが必要なのです。自分自身を突き動かすことを拒否すれば、他の人の内にある自分の潜在的価値を突き動かしつづけることができるということです。ここフラッグスタッフで、ノンバイナリーのパートナーとのクライミングをはじめました。その人たちは思う以上に強く、自身の理解においてはるか先を進む人です。その人たちのクィア理論の会話とレスト日なしのクライミングのスケジュールについていこうとするうちに、あなたがあの雑然とした冒険でくれた贈り物に気づくようになったのです。何を言うべきかわからなかったとき、つまり私の言葉で気まずくなったり、危険な感情をかき立てたときも、あなたは会話をつづけてくれました。憤りや焦りなど、あなたが一掃したいと真に願う感情さえ、見せてくれました。そして私の行動があなたの苦しい過去の記憶を思い出させたとき、あなたはそれらを一緒に探求するために必要なすべてを駆使しました。それが不十分と思われるときでも。マッド、あなたは人間として存在し、私にも人間であっていいと教えてくれたのです。あなたから学びました。とくに基本的権利のために闘わなければならないコミュニティの一員としてのメンターシップとは、熱望する夢を達成するために誰かを突き動かすことではない、と。それはその人たちが成長し、自分が誰であるかを探求するための肯定を、そしてときとして混沌とした場所を与えることを意味するのだと。メンターシップとは答えをもつことではありません。それは、若い友が学んだ教訓に耳を傾け、それをメンターである自分自身の癒しの旅路に取り入れることなのです。意味しました。いう信念を手放すことを乗り越えることができると痛みの経歴をどうにかしてできたときに自分の嘆きやことは、次のグレードを克服あなたを人間として受け止める ロー・サボウリン

ロー、桂冠詩人ジョイ・ハージョのお気に入りの一節を思い出した。「私たちはただ自分になるためにここに現れた。私たちの笑い、傷、幸せ、闘い。」 そしていま、ハルクへの旅での最後の瞬間も思い出している。湖の脇の車のなかでの不愛想で意味深な沈黙のあと、下着姿になって汗びっしょりの体を水に沈めたときのことを。湖に どれだけ美しかったことか。てきたときのことを。それはどれだけ素晴らしく、て、ただ一緒にいることに、全身の感謝が戻っした。私たちの違和感。私たちの一体感。そし瞬間、私たちはお互いを、そして自分自身を一瞥ときのことを。理解し合い、やさしくなったその膝まで浸かって、そしてまたお互いの前に立った

ロー・サボウリン く。早朝と冒険的なアプローチとタイミングのいいダジャレが大好き。ニングコーチとして活躍。健全なコミュニティを築くための土地に根差した教は、アメリカ南西部を拠点にクライマー、メンタルトレー育の重要性に情熱を注ぎ、環境保護とメンタルヘルスの交点に深い関心を抱 マデリーン・ソーキン マーであり、〈Climbingオン近くにあるオフグリッドの家で妻とともに創造的に暮らすロッククライは、コロラド州ガニソン国立公園のブラック・キャニGriefFund〉と〈AMGARockGuide〉の創始者。近ごろは出不精になりつつあるものの、いまもむずかしく高い壁をフリー登攀する旅をつづけながら、他のクライマーを陽気に能力の上限へと導く。 この会話を気に入っていただけましたか? Patagonia.jp/Stories から共有して いただけます。

45 別の角度からローを見ながらビレイするマデリーン。

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49 文 ダーシー・ヘネシー・テュレンヌ 歳を重ねてもなお 夢中 にさせるもの 遊びの場にほかならない。いまも人生はでっかく最高の70代のベティ・ビレルにとって、 ロブというあだ名しか知らない友人が、マウント・フロームを買ったのは1990年代初期、40代半ばのとき。オールド・なって30年近くになる。彼女がはじめてマウンテンバイクれを認めるのが恥ずかしいくらいだ。抜ける。これでも元プロマウンテンバイカーである私は、そ彼女の半分の年齢である私よりもずっと、自信満々に走りる様子は、見ているだけで驚きだ。彼女はこのトレイルを、あたかも穏やかな6月であるかのようにベティがひきいていで川を下るようにバイクを走らせていく。この最悪な状況で巻く根っこや濡れた岩、滑りやすくなった木橋の上を、まる動揺しているとしても、そんな素振りは見せない。彼らは渦と、折れた小さな木が近くのベイマツの根元に落ちる。うに波打つ。雨を切り裂くパキッ!という音がしたかと思う幹のあいだをかけ抜け、タマシダがエメラルド色の海のよるスギの木々が見えないほどだ。風は柱のようにそびえるいで視界は100メートル以下、霧のなかで揺れを見下ろす森の典型的な秋の日。激しい雨のせリティッシュ・コロンビア州ノース・バンクーバーベティ・ビレルと息子のヘイデン・ロビンズがこの天候に73歳になるベティがここをホームトレイルと呼ぶように 「エクセキューショナー(死刑執行人)」。その名のとおり、いってくれたそうだ。そして2回目のライドに選んだのは、にある「セブンス・シークレット」というトレイルに連れて下りも急勾配で木の根っこだらけの、テクニカルなフォールラインである。この2本のトレイルはいずれも上級者コースで、いまどきの高価なフルサスペンションのバイクに乗っていたとしても、大半のライダーは、とくに「エクセキューショナー」に怖気づくだろう。それを思い出す彼女の顔がぱっと明るくなる。「すぐにハマったのよ」ベティがマウンテンバイクの世界に入ったというのは、どう見ても型破りであるのは間違いない。50歳を数年後に控え、国際線の客室乗務員として毎週末海外に飛びながら、6歳の息子を育てるシングルマザー。それに加えて、マウンテンバイクをはじめたのが1990年代のバンクーバーのザ・ノースショアであるとは……次元の異なる強靭さである。ノース・バンクーバーの上にそびえるマウント・フローム、マウント・シーモア、サイプレス・マウンテンの、霧に覆われた斜面に広がる「ザ・ショア」は、マウンテンバイクにとっブ 〔左〕「エンプレス」の下でポーズを取るベティ・ビレル。この非常にテクニカルで険しい急勾配の上級者コース(ダブルブラックダイアモンド)は、ブリティッシュ・コロンビア州ノース・バンクーバーのすぐ外に位置するマウント・シーモアの下部にある。  Jordan Manley 〔前の見開き〕腰を引いて快走。マウント・フロームでウォーミングアップによく使うトレイル「フロッピー・バニー」に全力で臨むベティ。そのかわいい名前とは裏腹に、このブラックダイアモンド級のトレイルは経験豊富なライダーにとっても挑戦的。

Travis Rummel

50 「フロッピー・バニー」のような慣れ親しんだトレイルにちょっぴりスパイスをタイヤの位置がずれれば惨事になりかねない。それもベティにとっては、手こずらせるのは木の根っこである。雨天時は非常に滑りやすく、少しでもザ・ノースショアは木製の建造物や岩場でよく知られているが、多くのバイカーを効かせるものでしかない。  Travis Rummel

51 「マウンテンバイクの発祥はザ・ノースショアだ」けど」と、地元のトレイルビルダーであるトッド・フィアンダーは言う。はない。イプライン」がそうであるように、肝っ玉の小さい人間向けの場所でそれを定義する場所は数少ない。そして「ドーン・ウォール」や「パのオアフと同等の存在である。ここ以上このスポーツに影響を与え、ては、ロッククライミングにとってのヨセミテ、サーフィンにとって「マウンテンバイク発祥の地はカリフォルニアだって言う人もいるザ・ショアの悪名高いトレイルは、BMXのコースとイウォークの村を混ぜ合わせたようなものだ。蜘蛛の巣のように複雑に張りめぐらされた木製梯子の橋、ロックドロップ、バーム、そして「スキニー」と呼ばれる細く盛り上げられた箇所などで構成されている。木材で造られたこのような建造物は木の上まで達していることもあり、ときには林床から6メートルの高さにある15センチ幅のキャットウォークのような板の上を走ることをライダーに強いる。他にも、さまざまな特徴の障害物がほぼ垂直の岩肌に、何段にも施されている場所もある。 の元祖とされている象徴的な建造物のことである(スギを割った薄ガーは言う。「ザ・モンスター」とは、一般的に「ローラーコースター」の姿を見ていたのだ。ただ、それがベティだとは知らなかっただけで。かった。しかしディガーの荒い画質の映像に見入っていた私は、彼女影されたにもかかわらず、前の年までベティの名前を聞いたことがなキュメンタリー映画を制作した。その多くがディガーのトレイルで撮かにベティを見つけた。る。私は驚きの多くを『North30年、ザ・ショアで名高いライダーのほとんどを見てきた彼は、そ製の建造物をトレイルに取り入れた最初の人物とされている。過去界では「ディガー」として知られるトッドは、梯子の橋や立体的な木のライダーたちが数年かけて造ったばかりだった。マウンテンバイク1990年代初期にベティがマウンテンバイクをはじめたころは、地元「ショア・スタイル」のトレイルはいまでは世界中で見受けられるが、ShoreExtreme』という11本の動画に撮っていそして正直に言えば悔しさとともに、そのな数年前、私はフリーライドのマウンテンバイクの歴史をたどるド「彼女が『ザ・モンスター』を走った最初のライダーだよ」とディ 〔左上〕「レディース・オンリー」は、トッド・フィアンダーがこよなく愛している最高傑作のひとつ。1992年に造られたこのトレイルには、初のシーソー橋や、「ザ・モンスター」として知られる象徴的な「ローラーコースター」が設置されている。以来ディガーが個人的に整備を行い、改良を施している。2016年には、全長20メートルにもおよぶザ・ショアで最長の木製ローラーコースターが設置された。〔右上〕「デンジャラス・ダン」ことダン・コーワンがマウント・フロームに造った「フライング・サーカス」は、ザ・ノースショアの非道な歴史のとてつもない頂点を代表するトレイル。ここには当時、最も幅が狭く、高く、危険な構造物のいくつかが設置されていた。トレイルにいまも残るその面影がスギ板の遺産と無謀な創造力、そして限界を押し広げつづける執拗な情熱を物語っている。  Jordan Manley

53 39歳でヘイデンを産む。ビアを行き来しながら1年を送る。そして最終的にはカナダに戻り、インドサーフィンができるようにと、ハワイとブリティッシュ・コロンいう生活を送った。3年後に仲間のカナダ人と結婚したあとも、ウその勤務日程の合間を縫ってはビッグウェーブでサーフィンをすると界一の女性サーファー」しには、さらに簡潔明瞭にこう書かれている。「ベティ・ビレル:世ベルに位置している」 ドイツの雑誌『Surf』1982年6月号の見出最先端のさらに先端を走り、ほとんどの男性トップサーファーと同レている。「ベティ・ビレルはこのスポーツ界のスーパースター的存在。いた。1982年に刊行された雑誌『Sailはじめて30フィート(約9メートル)級の巨大な波に乗って、飛んで初期には女性のトップウインドサーファーにまでのぼり詰め、女性での人に見つけてほしくなかったから」ヘイデン。「でも公表することはなかったんだって。そのエリアを他ルパイン・アドベンチャー〉でオペレーションマネージャーを務めるんだ」と言うのはプロのスキーガイドであり、〈ホワイトキャップ・アなっていて、あのエリアのいろんな初登をいくつもやっていたらしい最高峰の数々に挑むクライマーたちの仲間入りをすることになる。バンクーバー市へと移り住む。そこで彼女は、バンクーバー周辺のティは、ブリティッシュ・コロンビア大学で地理学を勉強するためにり方だ。バンクーバー島のシュメイナスという田舎町で生まれたベみたいに見えたから」いて出かけることはできなかったわ。まるで誰かにバットで殴られた言う。「それでも黒やら青やらのアザだらけだったから、短パンをは存在せず、バイクの信頼性は技量の有無にかかっている時代だった。るライダーは稀で、フルサスペンションや油圧式ディスクブレーキもるかに気づくまでに、数分かかった。1990年代初頭、防護服を着女がこのスポーツの世界に入ったことがいかに常軌を逸したことであころの話だ」車して肩を脱臼したから入れ直してやったよ。たしか彼女が55歳の頼んだ。そこでカメラを取り出して彼女を撮影したんだ。3回目に落る)。「最後の板をはめ終えたところで、試乗してくれないかと彼女に板で造られているだけで、まさにローラーコースターそのものに見えベティはそんな当時のことをあまりにもこともなげに話すので、彼「幸運にも、私は落車への恐怖心はあまりなかったのよ」と彼女はしかし無名であれ有名であれ、パワー全開で挑むのがベティのや「母は70年代にはかなりハードコアなクライマー集団の一員にその数年後にウインドサーフィンをはじめたベティは、1980年代Boarder』にはこう記されベティはハワイを拠点に国際線の客室乗務員として働きながら、 「母親になるってこんなにも素晴らしいものなのかと驚いたし、妊娠「母親業って最高の冒険だと思うのよ、ホントに」と彼女は言う。中もすごく楽しかったわ」ヘイデンが2歳を迎える直前、夫は彼女のもとを去ることになる。別れ際の言い争いは覚えているという。「彼が言ったの、『君は自分の人生はでっかく最高の遊びの場だ、と思っているだけだろ!』って。それで言ってやったのよ。『もちろんよ!』って。褒められてると思ったの」シングルマザーとなったベティは週末に国際線で勤務し、そのあいだヘイデンは父親か祖母と過ごして、日曜のヘイデンが眠りに着くころに帰宅するという生活がはじまった。「やってるうちに慣れるものなのよ」と彼女は言う。「冒険のやり方を変えただけ。山に行くとかそういうことの代わりに、息子と両親と一緒に車でキャンプに行ったり。それも素晴らしい時間だったわ」母親に関する話になるとベティの顔は輝く。私の子どもの写真を見せてほしいと言い、そこに写っている子どもたちを見ると歓声をあげる。ベティの自宅の階段の壁には、彼女とヘイデンの大きな写真が飾ってある。キャットスキーを一緒に満喫した日の、笑顔いっぱいの2人の写真だ。「マウンテンバイクは、シングルマザーにはもってこいのアクティビティだったわ。玄関から一歩出ればすぐにヘイデンと一緒にできたから」と彼女は言う。「学校が終わると迎えに行って、そのままマウント・フロームへ直行したものよ」 〔左〕多くの母親が子どもと一緒にするのは散歩だろうが、ベティが息子のヘイデン・ロビンズとともに過ごすのはダブルブラックダイアモンド級トレイルでのセッション。一緒にライディングをはじめて20年ほども経ついまとなっては、家族の伝統のようなものだという。「エンプレス」の最後の岩場を下る前にその確認を行う母子。  Jordan Manley 〔上〕ザ・ノースショアのような場所で走るには、激突やアザ、ときには骨折などの代償をともなう。この日の午後は、笑顔を保つ顎にできた擦り傷で済んだようだ。  Travis Rummel

54 ティッシュ・コロンビア州レベルストークに住んでいるヘイデンが母トレイルが混雑する週末を避けるからだ。が多い。ベティのバイク仲間のほとんどは平日に仕事があり、彼女はれは手伝っている。最近の彼女は、ひとりでライディングに行くことそれはもはや職業ではないものの、いまでも友人や家族の庭の手入包帯グルグル巻きでさ」と彼は言う。「何にもできなかったよ」母親の姿が目に入った。「ロブスターのハサミみたいに両腕がこんな歳を教えたくなかったの」で、怪我はひどいってわかっていたけど、パトロールの人には自分の両手を骨折したときのように。ンバイク・パークの悪名高いロックドロップ「リッピン・ルタバガ」でノーボードで脚を骨折したときや、2003年にウィスラー・マウンテ女性のためにね」がったような気になるから。年配の人たちのためにもだけど、とくにはそれってちょっといい気分なのよね。だって、女性のために立ち上それで『すみません、そこ通りたいんですけど』って言うのよ。じつるし女だから、そこはよけて行くと思ってか、どかなかったりするの。ルの障害物を確認していたりすると、「彼らは私を見て、歳もいってるだろう。彼女自身もときどき気づくという。ライダーたちがトレイイデンは言う。「母は完璧なマウンテンウーマンだから」を心配する気持ちは、彼女の豊富な経験値で払拭されるんだ」とヘろう。だがベティは私の母ではないし、私はヘイデンでもない。「母を走るとしたら、きっとGPS発信機や非常用ビーコンを持たせるだ手だったりして、おかしな図だったよ」じられないような身軽さですり抜けていくんだよ。僕の友だちより上いた。「テクニカルなトレイルに入るとすごいんだ」とヘイデン。「信は母親が自分の友だちと一緒にマウンテンバイクに乗ることを喜んで少しはなれた場所に車をとめてもらおうとする年ごろでも、ヘイデンる。たいていの子どもが友だちに自分の親を見られたくないからと、ヘイデンは彼女の熱心な指導とトレイルで耐えた辛さを覚えていもし私の母がひとりでダブルブラックダイアモンドの上級者コースしかし人によってはベティの能力より先に、彼女の年齢に注目すけれどもスポーツには怪我はつきものである。ハードブーツのス「地面に倒れていたのを覚えてるわ」と彼女。「そのとき私は54歳当時15歳だったヘイデンが帰宅すると、肩から下を動かせない58歳になったベティは早期退職し、自営で造園業をはじめた。そしてもちろん、ヘイデンが帰ってくれば一緒に走る。現在ブリ ことね」が学んだいちばん大切なことは、そのときのその居場所に感謝する歳に戻りたいわ。おかしな話でしょ?れて、年齢に対する考え方が変わっていくのは面白いわね。また65速で下れるなんて思ってもいなかったわ」とベティ。「歳を重ねるにつ思えるようになった。はない。ベティと1日を過ごして、お楽しみははじまったばかりだと感覚。30代前半なんてまだ現役で、楽しいことができなくなる歳でを理由にあきらめていた、あらゆることへの挑戦を許されたというできないある感覚に包まれてその場を去るれを告げる。降りしきる雨のなかを撤退しながら、私は抗うことのかってるから」がある。それでも限界は承知しているし、自分が何をしたいかわときにはちょっと無理をすることもあって、なんとかやり抜けることくを知っているからだ。れでも彼女は走りつづける。恐れを知らないからではない。より多転倒がより深刻な結果につながりかねないことはわかっている。そニーは避けている)ことはベティ自身も認める。若かったころよりもが経ち、与えてくれる存在なんだ」ど」と彼は言う。「でもいつも僕をいちばんに支えてくれて、刺激を生の道しるべとなってくれたのは母だ。多くの人とは違う道のりだけ親のことを語るたび、彼女を誇りに思っているのがわかる。「僕の人はじめて「エクセキューショナー」を走ってから30年ほどライディングのスタイルがやや保守的になった(とくにスキ「計算してるのよ」と彼女は言う。「自分の限界は知っているけど、話は秋雨のトレイルに戻り、私たちはセッションをお開きにして別それは、自分が年齢「50歳のときは、73にもなってマウンテンバイクでトレイルを高そんなふうに思うなんて。私 「歳を重ねるにつれて、年齢に対する考え方が変わっていくのは面白いわね。また65歳に戻りたいわ。おかしな話でしょ?そんなふうに思うなんて」 ベティ・ビレル ベティに関する映画は Patagonia.jp/NorthShoreBetty でご覧ください。 ダーシー・ヘネシー・テュレンヌ 〔右〕年間降水量が2,500ミリにもなる場所では、雨のなかを走ることに慣れるしかない。シーは、おもにアウトドアスポーツや環境保護に関する作品のために世界中を旅して多くの作品を発表している女性映像作家のひとり。元プロマウンテンバイカーのダーは、アクションスポーツ映画界で最も認められ、きたが、彼女にとって最も熱狂した功績は息子たちを出産したことだという。そして30年も経てば、それは意外と楽しいものだとベティは言う。「ピングー」トレイルの下部を走りながら、ザ・ノースショアでのまたしても素晴らしい1日を過ごすベティとヘイデン。

Travis Rummel

ジェリー・ロペスのドキュメンタリー映画制作において監督のステイシー・ペラルタが学んだこと。禅。 攻撃的。 完璧。

「Gランド」のきわどい巨大な壁にさう肩書きからは退き、インドネシアのらも、「ミスター・パイプライン」といイプライン・マスターズで優勝しながるなんて、現実とは思えない。ペラルタをインタビューすることになリー・ロペスの陰と陽)』を監督したYinに関するドキュメンタリー映画『Theだからその40数年後に、ロペス&YangofGerryLopez(ジェロペスは1972年と1973年にパまざまな美しいラインを刻んでいった。それはのちに彼がもうひとつの大きな情熱を注ぐスノーボードへと、整然と転換されていく。1971年にはサーフボードのブランド「ライトニングボルト」を共同で立ち上げ、ボードをシェイピングする(現在もシェイピングは継続)。1992年に家族とともにオレゴン州ベンドに移り住み、今日にいたる彼は、ウォーターマンの神髄であり、ひたむきなヨギでもある。

フィンを主流へと押し上げる。さらにGiants』を発表。ビッグウェーブサーを獲得すると、2004年に『Riding督。サンダンス映画祭の数部門で賞年に『Dogtownめたものだろう。ペラルタは2001ンズに「スケーターの利点」と言わし覚えている。それがスパイク・ジョーいかに感嘆したかを語ってくれたのをきることに、ハリウッドの人間たちがながらトラッキングショットを撮影でがカメラ片手にスケートボードに乗りをインタビューしたことがあるが、彼に専念した。僕は1995年にペラルタタを去ると、テレビ向けの作品の制作じめた。1992年にパウエル・ペラルスケートボード動画の監督と制作もはム「ボーンズ・ブリゲード」を構成し、のスケートボーダーたちを集めたチー共同で創業。1979年には当時最高ルタ」という名のスケートボード会社を去った19歳のとき、「パウエル・ペラペラルタはプロスケーターの世界をandZ-Boys』を監

59 インタビュー ジェイミー・ブリシック 〔左〕ラインセット。レールイン。 オーバーヘッドのチューブ。電光石火の スピード。1970年ごろのジェリー・ロペス。  Steve Wilkings 〔右〕「Z-Boys」のオリジナルメンバーの ひとり、ステイシー・ペラルタ。1970年代の コンクリートサーフィンのマニュアルを共同 執筆した人物でもある。南カリフォルニア  CR Stecyk 〔前の見開き〕穏やかな振る舞いと完璧な ポジショニングを披露するジェリー。 これが「ミスター・パイプライン」という ニックネームの由来である。 Jeff Divine 『SkateBoarder』を愛読していた僕れるように優美だった。当時、雑誌ショニングは華やかで、まさしく流上から飛び出す写真だ。彼のポジアのアラモアナで、崩れるレフトのに貼っていた。オアフ島サウスショリー・ロペスのポスターをベッドの上1976年に10歳だった僕は、ジェの憧れは、「ドッグタウン」のスケートボーダーたちだった。ステイシー・ペラルタがアスファルトの波型バンクをフロントサイドでカービングする姿を、僕ははっきりと覚えている。カリフォルニア州ロサンゼルスのケンター・キャニオン小学校の校庭で、彼は姿勢を低く落とし、腕の位置は完璧で、長いブロンドの髪が尾のように後ろになびいていた。僕はロペスが見下ろすベッドの上で、ペラルタの写真に見入っていた。そのころは気づかなかったが、そうやって自分のスタイルを磨いていたのだと思う。そしてそれは僕だけではなかった。ペラルタとロペスがボード文化に与えた優美さは、この世代全体に影響を与えた。

だ。いまもこれに取り組んでいる」って言ってたよ。いろんなポーズやヴィンヤサを指差しながら「これがまだできないん指している。彼が10代のころに手に入れたという本を見せてくれて、ポーズもすべてマスターしている。なのに、つねに上達することを目んでいる姿を見たことがあるが、俺に言わせれば、じつに複雑なた。そしてヨガは、彼の人生の本当に大きな一部だ。彼がヨガに励最高のスウェルを逃すような状況には、決してならない」って決意し機会をね。それで「二度とこんなことにならないようにする。絶対に。ウェルがやって来てた。彼はその絶好の機会を逃した。またとない昼頃に目覚めてひどい二日酔いで窓の外を見ると、巨大なサウスス得たんだそうだ。夜中の3時まで飲んでいれば大概そうなるように、んだ。他のメンバーと飲んで騒いで楽しかったらしいが、突然啓示を彼は20代後半に『ビッグ・ウェンズデー』の撮影現場で酒をやめた それはすごいですね。

この映画の制作にあたっていちばん驚かされたことは何ですか。 闘う。攻撃的になる。それはとてもむずかしいバランスだ」って。を教える。もうひとつのサーフィンは正反対だ。取る。そのために本当に劇的だよ。そのひとつであるヨガは柔軟に、与え、許すことり、陽である方が陰になる。そんな真逆のふたつの要素を扱うのはだ。彼はこんなことも言っていた。「ときどき、陰である方が陽になうに、サーフィンとヨガは彼の人生において最も極端な陰と陽の体験端な、じつに両極端な面があるということ。彼自身も認めているよジェリーの真相を明らかにするための最も重要な要素は、彼には極 彼のヨガの実践はとても霊感に満ちていますよね。ロペスは優雅な 歳の取り方のお手本だと思います。

ジェイミー・ブリシック:ドキュメンタリーの対象として、何があな たをジェリーに惹きつけたのですか。

なまでにね。への追求なんだと。それについてはとても熱く語ってくれたよ、頑固こは手に入れられないんだよ」って。要するにある意味、それは静止追い求めるとする。ならば不動の状態に向かっていかなければ、そきた。「いいかい、君がアスリートでそのスポーツのいろんな動きをって。彼はそのすべてをやるからね。そしたら興味深い答えが返ってフィン、カイトサーフィン、フォイルサーフィン、リバーサーフィンまで」類のサーフィンであれ……普通のサーフィンからSUP、ウインドサーずっと身体的な追求ですよね。それがヨガであれ、ありとあらゆるそんなにも身体的な挑戦を追い求めるんですか?そう、彼は真に身体的な追求をしている。俺は聞いたんだ、「なぜこれまでの人生、 その答えへの具体的な糸口は見つかりましたか。 カイトを落とす彼を眺めながら、「もうやらないだろうな。もしまたというむずかしい技に挑戦していた。何度も失敗しては水に落ちて風はドライヤーのごとく吹いていて、完璧だった。彼はダウンループていたし、休憩したかったから先に上がった。ジェリーを見ていたら、トボードを習得していた。彼らより早くから水に入っていた俺は疲れがあったんだ。北カリフォルニアのデルタ地帯にいて、皆すでにカイあった。彼と友人のグループと一緒にカイトボードを体験する機会かどうかを模索していたとき、もうひとつとても興味深い出来事がジェリーがどういう人物なのか、そして自分がこの映画を作りたいの

ジェリー・ロペスの陰と陽を探し求める旅となった。少しわかってきた気がする」って思えた。そして実際、この映画はギでもある」 こう言われたとき、「わかった。俺にもなんとかできる。分のものにできなかった。でもそれと同時に、彼は平和を愛するヨれる。そうやって彼は学んできたんだ。そうなることでしか、波を自されるソウルサーファーでもある。水中では恐れられる存在にもなある時点では商業的に最も成功したサーファーだったし、最も崇拝彼をひとつの型にはめようとすることが。彼は多面的な存在なんだ。は、ある日友人に諭されるまでつづいた。「見方が間違ってるんだよ、ファーなのか、商いが上手な商売人のひとりなのか……。この葛藤和な人なのか、それとも水中では恐れられる人なのか。ソウルサーいな人なのか、研ぎ澄まされたサムライみたいな人なのか。本当に平ジェリーの正体を知らないことだった。彼がフォレスト・ガンプみたいんだな」って思える時点にまでたどり着いた。その問題とは、俺がきて、ついには「OK。俺が抱える問題はさておき、もうやるしかなのは本当にむずかしかった。だけど、ことあるごとに機会がめぐってうかもわからなかった。だから、このプロジェクトにイエスと答えるはジェリーを理解していなかったし、彼を理解することができるかどだ。この映画を作るにあたってはあまりにも多くの問題があった。俺映画を作りたくなかったってこと。自分にできるとは思わなかったんうーん、正直言うと真の挑戦は、俺がこの なるほど。 方をしないんだ。けじゃなく、考えをズバっと口にする人じゃないだけ。そういう考えつもとは違う、じつに奇妙な探索となった。彼は非協力的というわ気で?彼は「えっ、本当に?こともわかっている。だが、俺がまとめた内容をジェリーに見せると、作るためには俺が彼の人生を掘り起こして提示することが必要だってろん意義ある過去を生きてきたことは理解しているし、この映画をくれなかった。彼は自身の過去についてあまり考えないんだ。もちもジェリーは……拒んでいるわけじゃないんだが、積極的には話してきて、あれが起きて、こうなったんだな」という具合に理解する。で要な出来事について話してくれる。それで俺は「なるほど、これが起る人物の伝記の場合は普通、対象となる人物がその人生における主だが、そこにも難題があった。そしてこれは本当に挑戦だった。あへえー、君はこれが重要だと思うんだね。本どうして?」ってな調子で、コンセプトも何もない。だからい

ステイシー・ペラルタ:

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2008年には『Crips and Bloods: Made in America』、2012 年には『Bones Brigade: An 深くまで行かなきゃダメだった」なきゃならなかった。もう十分掘り下げただろうと思う。でももっとねてみた。彼は新たな挑戦になったと答えた。「より深く掘りつづけについての多岐にわたる会話を彼と交えながら、このことについて尋焦点を当てることによって、ペラルタの転機を示している。僕は映画のジェリー・ロペスのドキュメンタリーは、グループではなく個人にAutobiography』を監督した。今回

〔右〕1968年にハンティントンビーチで開催された全米サーフィン選手権のファイナルヒート前。埠頭の下で、どうにか静寂を確保するジェリー。カリフォルニア州  Art Brewer 〔下〕パイプラインの波は終盤もパワーが衰えない。ハワイ州オアフ島  Jeff Divine 「いいかい、君がアスリートでそのスポーツのいろんな動きを追い求めるとする。ならば不動の状態に向かっていかなければ、そこは手に入れられないんだよ」 ジェリー・ロペス

62 ラリー・バートルマン、マイケル・ホー、そしてリノ・アベリラ。 このラインアップは、エディ・アイカウ、ローリー・ラッセル、ジェリー、ならず者のギャラリー(存在したら、の話)。1970年代半ばの Dan Merkel

63 インドネシア、バリ島(2019年) 1974年のこと。それから40年以上経っても、彼はレフトで行く。いまでは有名なウルワツの波にジェリーがはじめて乗ったのは Tommy Schultz

要なんてない」ということなんだ。に打ち勝てるかどうか。自分自身を極めることができたら、勝つ必言っている。彼にとってのすべては「重要なのは競争ではない。自身感じるらしいけど、決して習熟できない要素がまだたくさんあるともとなるんだ。サーフィンのある要素に関しては、ほぼ熟達に達したとすると決めたら完全に取り憑かれて、上手くなりたい、熟達したい、イピングでも、オートバイに乗るのでも、サーフィンでも。彼は何か彼を知る人は皆言うよ、ジェリーは完璧主義者だって。ボードのシェ なるほど。ではあなたの成長期にとってロペスはどのような存在で したか。

64 「何てこった。彼は今日のセッションをこのトリックのために使っちまとす。失敗するたび、また立ち上がるのに15分かかるんだ。俺は68歳。そして彼はまた立ち上がり、再挑戦。水に落ち、カイトを落してまたカイトを落とし、さらに15分間水に浸かる。このとき彼はまう」と思っていたら、彼はまた立ち上がってトライするんだよ。そやったら15分以上水に浸かることになるし、それで1日が終わっちうんだ」ってわかった。それを見たときに「これがジェリー・ロペスなんだ」って確信したよ。彼のこういう側面を見たことはなかった。何かに打ち込む執拗な決意と、そのために失い犠牲にするもの。彼はそれをやるだけに1日を費やした。あれは俺にとって目から鱗が落ちる光景だった。「この人は心底一生懸命に取り組むんだ」って。ものごとは簡単には手に入らないって彼は言っていたが、いまでは信じるよ。それは謙遜なんかじゃない。 そういうのは彼の年齢ではめずらしいですよね。だって大概の人間 はあきらめてしまうでしょう。 ようだったよ。ボードから振り落とされて、宙返りするんだ。爆笑も様子を撮らせてくれたんだけど、まさに「おもしろビデオ」を見てるまったくそのとおり。映画のために、彼がフォイルボードに挑戦する だよ。彼のそんな性格はいまだにおさまる気配はない。歳でやってるっていうこと。それを16歳と同じ情熱と決意でやるんく。たとえジェリー・ロペスでもね。だけど違いは、彼がそれを70彼も他の人間と同じように努力しないとできないんだってことに気づレアな映像、誰も撮ったことないぜ!」って思ったよ。それを見たら、のだったよ。俺は「絶滅寸前のユキヒョウの撮影に値する。こんな それはどこから来るのだと思いますか。そのねばり強さはつねに彼 のなかに存在していたのでしょうか。

『ジェリー・ロペスの陰と陽』の撮影現場からの写真。〔左〕現代のショートボード革命におけるジェリーの影響力は計り知れない。1970年代にライトニングボルトで彼がシェイピングしたボードは、今日のボードデザインの可能性の基礎を築いた。ジェリーがいまもシェイピングルームで過ごす時間をもちつづけているのは朗報である。〔中央〕ジェリーの黄色いパイプライン・ボードがサーフィンの歴史における象徴であることは、もはや言うまでもない。〔右〕監督のステイシー・ペラルタ。

Tim Davis

65 おいて注目すべきときだった。あの時代にすべてが起こったんだ。れ、サーフィンが攻撃的になりはじめるという、サーフィンの歴史にフィンの神が5人存在した。現代のチューブライディングが開拓さセル、サンセットでのバリーやジェフやリノ。あの5年間に、サーた主要メンバーだった。パイプラインでのジェリーやローリー・ラッだ。そしてこれらの舞台を飾ったサーファーたちが、その道を先導し映画であっても、その2つがモダンサーフィンのおもな舞台だったんン、ハル・ジェプセン、スコット・ディートリッヒなど、誰が制作したそれは「サンセット」と「パイプライン」。マクギリヴレイ/フリーマ味深いことにそのどれもがほぼ確実に2つの波を取り上げていた。在だった。1970年から1975年のサーフ映画を見返していたら、興も、ジェフ・ハックマンも、バリー・カナイアウプニも、皆すごい存だった。ジェリーも、リノ・アベリラも、テリー・フィッツジェラルドドのライディングにも影響を与えてくれた。間違いなく大きな存在君と同じだよ。壁には彼のポスターが貼ってあったし、スケートボー これまでにドキュメンタリー映画を数本制作していますが、その過 程で最も興奮することは何ですか。 そして、それこそがいつも大変な作業なんだ。を見つけることで、本当にいい映画にしなければならないんだ」って。の人生の劇的な瞬間、物語の主人公として人生を変える決断の瞬間映画そのものを素晴らしいものに仕上げなければならない。あなたらといって、その人生についての映画が素晴らしくなるわけじゃない。この映画のマントラでもあるんだけど、「素晴らしい人生を送ったかともっと努力しなければならない。ジェリーに言ったんだ。これは物語性をもっと強くするために、劇的な緊張感を保つために、もっインパクトゾーンから抜け出たと思うたび、じつは抜け出ていない。いないって気づくんだ。前にもましてむずかしくなるんだよ。だからると思いながらやりはじめると、いまだ何をやってるのかわかっちゃるんじゃないかな。なぜかというと、自分のやってることはわかってうけど、いつも挑戦だよ。実際のところ、どんどんむずかしくなって絶対に簡単にはならないこと(笑)。もっと簡単になってほしいと思 ジェイミー・ブリシック MorningYorkMagazine』のグローバル・エディターを務め、5冊の本の執筆し、『Theでありサーファー。『Surfingはカリフォルニア州ロサンゼルス在住のジャーナリストMagazine』の編集長だった彼は、現在『HuckNewTimes』、『TheNewYorker』、『TheGuardian』、『TheSydneyHerald』などに寄稿。

66 〔下〕後ろ足の膝を入れ、カモメが波の上をグライドするように両腕を広げて、ブロンドの髪をなびかせながらロサンゼルスの校庭でアスファルトのバンクを滑走。これぞ1970年代のスケートボードである。  CR Stecyk 〔右〕サーフィン雑誌が刊行されていた黄金時代は、『SURFER』の綴じ目からこの1枚のショットを抜き取って広げ、自分の壁に貼ることもできた。  Jeff Divine パタゴニア・フィルムズが提供するステイシー・ ペラルタ監督映画『ジェリー・ロペスの陰と陽』の 詳細は、Patagonia.jp/Gerry でご覧ください。

「僕のショーツに皆がサインしてくれた 日は、アイダホ州マッコールの森林降 下消防隊の基地での典型的な夏の日 だった――ツインオッターかDC-3 に給油しているタンクローリーからの ジェット燃料の匂い、13杯目のポッ トの残りがじりじりと煮詰まっている コーヒーメーカー、ロフトでパラシュー トが装備される音、カーゴバッグを縫 い合わせるミシンの音、準備室で飛び 交うジャンパーたちの会話……。ジャ ンパー兄弟姉妹たちとはなれてひと冬 を過ごしても、彼らとは昨日別れたば かりのように再会できた」 ジェイソン・ミラー(50歳) マッコール・スモークジャンパー 1998〜2010年

感謝 と 降下 送りかえしてくれました。のスタンドアップ・ショーツを申請時、大切に使われた1枚セールスの一隊がパタゴニアのプロジャンパー(森林降下消防隊員)22年前、アイダホ州のスモークプログラムの登録 私たちは昨年ようやく、 それを箱の中に見つけました。

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69 「2000年の山火事シーズンは、俺の消 防士としての経歴で最高の夏でありつづ ける。俺たちはショートC-23シェルパ 機の生き残り(ガラクタとして広く知れ わたっていた代物)を、アラスカの土地 管理局から譲り受けていた。地元の通 信センターを除いてほとんど監視なしに、 ティトンからモアブ南部のダークキャニオ ン・ウィルダネス、ユタ州全土、コロラド 州西部のほぼ全域、そしてワイオミング 州の一部の空へ、俺たちはケツを投げ出 した。ジェイソン・ミラーがプロジェクト の支援を得ようと躍起になっていたのを 覚えている。ヤツはいつもあのショーツ をはいて、舞台裏の突拍子もない仕事に 取り組んでいた。いわくありげに囁いて は、俺たちを笑わせながら」 カール・サイルスタッド(54歳) マッコール・スモークジャンパー 1993〜2004年 「スモークジャンパーの物々交換室で、ダ ンは他のジャンパー用ギアと一緒にそれ を公式の「スモークジャンパー・ナットハ ガー・ショーツ」だと言って売ろうとした の。それははき古されていたはずなの に、まったくすり切れたりしていなくて、 ちょっとびっくりしたわ。だから私たちは パタゴニアに、その完璧さに感謝を込め て、送りかえすことにしたの」 キャリン・カーエン(47歳) マッコール・スモークジャンパー 1999〜2007年 「このショーツはこの世で最もカッコイイ 人たちとのフィッシングやハイキングやマ ウンテンバイキングの冒険を思い出させて くれる。僕らがこれにサインした日、『こ んなの誰が見るんだ?』って思ったのを覚 えてる」 ダン・グスタフソン(48歳) マッコール・スモークジャンパー 1998〜2007年

「僕はジャンパーになるまでスパムを食べたこと がなくて、食べたいとも思っていなかった」と 思い起こすのはダン・グスタフソン(左端に 座っている人物)。「でも食べてみたら、うまいじゃん。 ミックスフルーツの缶詰めと一緒に炒めて、チリと ホットソースと野菜ジュースを混ぜて、インスタント ラーメンに入れる。幸運にも標高と季節がぴったり であれば、新鮮なハックルベリーも入れて。食料が 入った箱のパラシュートが木にひっかかって、 それを回収するために何時間もかけて、それと 同時に落雷で起こった小さな火事に対処したあと なんかには、より美味しく感じられたものだよ」

「飛行機から飛び降りるのは、とにかくすばやく 火事に近づくための突飛な方法で、それをお金を もらえるキャンプ旅行みたいに感じたこともよく あったわ」と言うのはキャリン・カーエン。「とくに、 落雷で起こった小さな火事を2人から4人くらいの ジャンパーでやっつけるときなんかはね。さっさと 消火して、夜を過ごし、次の日に歩いて帰ったら また同じことをやる。そんな火事のことは誰も 知らない。起こったときと同じくらいあっという間に 消してしまうから。それが当時の生きがいだったわね」

70 ブ「仲間とともに人里はなれた美しい景色の上をゆっくりと低空飛行し、仲間のひとりであるカール・サイルスタッドは、それに強く同感します。ていたから、できるだけ積極的に火災と闘った」 ダンのジャンパーたパラシュートで飛び、あとにジャンパーがついてくれているとわかっ年近くなんの躊躇もなく飛行機から飛び降りた。僕は仲間が準備しダンは振りかえります。「降下前のギアの点検は彼らにまかせ、10の消防活動の経歴のなかで最高の時期だったと思い出します。マッコール・スモークジャンパーたちの多くは、そのシーズンは彼らの山火事シーズンのとある日にサインしたものだと返事がありました。セージを送りました。その予感は的中し、ダンからそれは2000年防士)のものではないかという予感がしたブライアンは、急いでメッリノ〜タホ・オデッセイ」リレーレースに参加したときに出会った消た。その署名のひとつがダン・グスタフソン(恒例の「178マイル・を箱から引っぱり出してはじめて、油性ペンの寄せ書きに気づきましるのを見てきましたが、このショーツ(前ページに掲載)ニアのWornライアン・ブラウンは、いくつかの興味深いギアがパタゴWearの最終リサイクル部門からやって来「僕は自分の命を預けるほどに仲間の隊員たちを信頼していた」とときにそこに飛び降りるというのは、信じられないほど特別な素晴らしい経験だ」やはり2000年当時隊員だったキャリン・カーエンは、「ダンはいつも笑わせてくれたわ。彼のおきまりの服装は絞り染めのTシャツと迷彩柄のショーツで、ときどきそれにレインボーカラーのニーソックスを組み合わせたりして。消火活動に打ち込んだ1日(か数日)が終わると、キャンプファイヤーや森の焼け跡のまわりに集まって、夕食を作りながらダンや他の語り上手の話に聞き入ったものよ」と回想します。ショーツの持ち主であったジェイソン・ミラーによると、それをパタゴニアに送りかえす目的のひとつは、プロセールスプログラムの登録だったと言います。隊員のほとんどはアメリカ西部で暮らしながら、消火活動のための物資配給、防火教育、火災の元になるものの削減、消防司令長などの職に就き、いまでも消防管理に関わっています。かつてのように彼らが毎夏マッコール基地に集まることはもうありませんが、誰もがあらためてそのショーツを見て良かったと思い、それをダッフルから取り出したミラーには、新たなシーズンをはじめるときの思い出がよみがえりました。彼はそれを身につけ、語ります。「はき古した生地の心地よさ、なじみ深いシミやほつれに触れると、いまだに良き仲間たちとの素晴らしい冒険の情熱がかき立てられるよ」

71 写真提供 Karin Kaaen 空飛ぶ消防士たちの顔とお尻: (後列左から右へ)コーリー・ルメイ、 デーモン・ネルソン、ジェイソン・ミラー。 (前列左から右へ)トッド・フランゼン、 シェリー・デイリー、キャリン・カーエン、 ジェフ・マクフェトリッジ、ジョン・パーカー。 とくにゾッとするような降下を回想するのは カール・サイルスタッド:「ダン・グスタフソンと フォレスト・ベイムが、日が沈んで暗くなる寸前に 深い峡谷に降りたことがあった。風向きが変わって 稲妻がひらめき、パイロットがパニックに陥りそう になりながらも、ダンとフォレストはパラシュートを 操って、峡谷のへりに見事に着地してみせたんだ」

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75 文 モニカ・プレル 写真 スティーヴン・グナム 完全なる静寂 見つける方法を探索するひとりのランナー。世の中に、そして心の中に、静けさをを求めて早朝の森の小道で、霧に包まれた高い木々のあいだから太陽の光が差す。空気はしんとしている。落ち葉が敷かれたトレイルはやわらかく、雨上がりの地面はまだ湿っている。自然の音が奏でるコーラスを聴きながら、一歩ごとにゆっくりと、一日になじんでいく。虫が鳴き、蛙が歌い、鳥がさえずる。葉から落ちる水滴が林床をやさしく叩き、小川はゆるやかに流れて泡を立てる。私の心は鎮まっていく。だがすぐに、朝はその日の忙しさに取って代わり、世の中は目を覚ますにつれて、刻々と騒がしくなる。私たちの生活は雑音に満ちている。窓の外では自動車のアラームが鳴り、エンジンが唸り、救急車が叫ぶ。手元ではeメールの着信音がピーンと響き、携帯電話が鳴る。たとえ気にしていなくても、雑音は積もり積もって大きな負担となる。私たちはノイズキャンセリングのヘッドフォンを付けて音楽を聴き、さらに音で音をかき消す。甲高い騒音がないときも、ブーンという低雑音はつねにある。世の中がうるさすぎると感じる人は少なくない。静寂は減る傾向にあり、新しい世代はその前の世代よりも多くの雑音を耳にする。地球の人口が増えるにつれて人間の移動も増え、街道や高速道路や飛行機の数も増える。街から郊外に広がるスプロール現象は、まさに逃れたいという願いとともにある。世界保健機関によれば、騒音〔前の見開き〕光の筋と音の気配。72〜79ページに掲載のすべての写真はワシントン州オリンピック国立公園のホー・レインフォレストで撮影。

76 あるオリンピック国立公園のホー・レインフォレストには、それが必要だと感じる。いや、それは必要なのだ。がウクライナの人びとを殺している。記事を執筆している2022年前半の時点では、ロシア軍権利は最近の米連邦最高裁の判決によって覆され、このし、住居費は急騰。自分の体について決断を下す女性のを変えつづけ、気候変動は大惨事に次ぐ大惨事を引き起また雑然としている。妨害するのは騒音だけではない。私たちの思考、これもするという調査結果もある。しかし私たちの日常生活を音に長期間さらされると身体的にも精神的にも疲労困憊公害はストレスや不安や鬱の原因となり、また低周波騒ニュースの大半を占めるのは混沌だ。パンデミックは形私には、走ることだけがこうした雑音を静めてくれる。自然の音は神経系の調節に役立つ。ワシントン州に わずかしか残っていない、とヘンプトンは確信する。彼は自然の静寂を20分以上体験できる場所は、世界中にごく本の小川にはサーモンが遡上して産卵する川もある。植物と300種以上の鳥類が生息し、15本の河川と200そして草や低木に覆われている。公園内には1,200種のイトウヒ、ベイマツ、リコリスシダ、ヒカゲノカズラなど、級の原生林が群生し、ヒロハカエデ、ハンノキ、スギ、ベとなっている。ホー・レインフォレストには米国本土最大の面積を有し、その95パーセントが指定原生保護区域きた。ンプトンは、そこでの静寂を守るための活動に取り組んで学者であり自然の静けさの擁護者でもあるゴードン・ヘ北米有数の非常に静かな自然の場所がある。音響生態オリンピック国立公園は3,625平方キロメートル以上飛行機や人間の声や不自然な音に妨害されることなく

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78 る無響室とがない。でごくまれにしか見つけられない広大な空間だ。がら通り抜ける。地球上最も静かな場所とは、世界の遠隔地を取り巻く音を切り裂き、一陣の風が梢の葉をざわつかせなは苔から絶えず水が滴り、ハクトウワシの甲高い鳴き声が森微音を発することで知られている。ホー・レインフォレストでは葉が落ち、雨や風や鳥なども静寂を破る。サハラの砂丘は熱帯雨林、湖沼、渓流もかなりの音を発生し得る。木々から開け閉めする音が響く。ぎれば彼らの声が風に乗って聞こえ、駐車場では車のドアをる原生地域の環境にさえ、雑音はある。誰かが側を通り過により、さらに周辺地域も恩恵を受けることを期待している。ない。ほんの数センチ四方でもこの自然の静けさを守ることかけた。この公園には領域を分断する道はなく、遊覧飛行もホーの静寂を守るため、航空会社に飛行経路の変更を働きしかし私たちが静けさを求める場所や、静かだろうと考えはるか彼方の自然ですら完全な静寂ではない。山岳氷河、だから、私たちのほとんどは完全な無音状態を体験したこワシントン州レッドモンドのマイクロソフト本社にあは、世界で最も静かな場所と言われている。音響機器のテストに使われるこの部屋は背景雑音マイナス20.6デシベルで、音の反響がまったくない。しかし完璧に無音の場所でさえ人間の耳は非常に敏感であるため、聴覚の神経線維の自発活動の増幅が引き起こされる。『TheSoundBook』の著者トレヴァー・コックスによれば、人体は無響室ででさえ抑制できない内部音を立てる。私たちは自分の心臓が鼓動し、血液が循環し、食べ物を消化し、耳鳴りがするのを聞く。これはときに「耳をつんざく」ような体験だとも言われる。 森はしんとしたまま。川と私だけが流れ、走る。も無音である必要はない。たぶん、こんな静寂が必要なだけ。一歩ごとに時のなかを漂う。これが完全なる静寂だ。は脳内の自然なしじまにかき消される。すべてはゆるやかに、その流れとともに心の雑音が薄れていく。目まぐるしい世界状況などを解き放ちはじめる。走っているあいだも川は流れ、パニックやその日のやることリスト、自分自身を孤立させるる。スギやモミやマツの香りが漂う。そして目覚めた瞬間のリと音を立てる。リズムができて調子が整う。数回深呼吸すて、空気はピリッと冷たく新鮮だ。足の下で枯れ葉がパリパ得る。作家の村上春樹はそれを「空白の中を走る」と言う。験するために雑念を払う。私は走っているときにその感覚をている。どのような瞑想でも呼吸に集中し、内なる静寂を体や精神バランス、また健康全般を向上させることが証明されにわたって実践されてきた。瞑想は平穏や身体的リラックスこれはサイレント・リトリートや日々の瞑想という形で数世紀雑念がない状態、つまり心を鎮めることではないだろうかと。るかを考えはじめた。それはおそらく音がない状態ではなく、そうして私は、真の静寂というものをどのように定義でき走りはじめはたいてい気が急いている。土は固く凍ってい私は何も考えない。何も考えないのは快い。たぶん、いつ モニカ・プレル 拠点とするアウトドアライター。(右ページ写真)はカリフォルニア州マンモス・レイクスを この物語から着想を得た短編映画は Patagonia.jp/Stories で ご覧いただけます。 森はしんとしたまま。川と私だけが流れ、走る。たぶん、こんな静寂が必要なだけ。たぶん、いつも無音である必要はない。

80 文 田口康夫(たぐちやすお) 写真 平林岳志(ひらばやしたけし)川 美しき伏寺橋の赤い欄干を背に、牛伏川の流れに沿って川岸を歩く。川の両岸には草木が生い茂り、大小の石はなだらかな流れの中にしっかりと根を下ろし、そして透き通った水にときおり魚の影がちらつく。手つかずの自然の景観そのものだ。かつてここに9基もの砂防ダムがあったとは想像できない。*****私が松本で暮らしていた60数年前、小川や河川はまだコンクリートで固められておらず、自然豊かな景観が残っていた。遊びといえば、郊外の小川でのドジョウすくいで、大きな竹ざるを持ち、片足で魚を追い込んでつかまえた。少し大きくなり、自転車に乗れるようになると、湧水河川、沢、渓流でのヤマメやイワナやニジマス釣りに出かけた。湧水の多い松本にはワサビ田や養鱒場がいくつかあり、そこから清らかな音とともに流れ出る水は澄んで美しく、緑色の水草や藻が揺れるその小川は、畑や平地を縫うように流れていた。夏にそうした小川で釣りをしていると、脇の畑で働くお姉さんがもぎたてのトマトやキュウリなどをくれたことを思い出す。大きめの川では泳ぎ、潜ってヤスで魚を突いたり、にがんだり(手つかみ)もした。水温は夏でも低く、体が冷えてくると太陽光で暖まった大岩に身体をピッタリつけて暖まる。ときには手拭いでメダカに似たハヤやウグイの子魚を2人がかりですくい、熱い石に貼り付けて干物にして食べたりもした。当時、子どもにとって川が格好の遊び場であったことはまちがいない。ある程度大きくなると自転車で谷川にイワナ釣りに行くことも増えていった。谷川は魚釣り以外にも、山菜やキノコの宝庫であり、野宿をしながらの釣行は、他の遊びにはない満足感を味わえた。だが東京で暮らすようになってから20数年後、故郷の松本に戻り、近くの川に釣りに行って唖然とした。小川は護岸がコンクリート化し、渓流は大きな砂防ダムが川を遮っていた。 た。この事業は県の予算で進められ、「水と緑の会」、行政、して渓流環境の復元を試みる、全国的にも先駆的な工事だっ修だ。1996年に実施されたこの改修は、砂防ダムを半壊し要請をする。があれば示す。場合によっては専門家による委員会をつくるう。さらにシンポジウムなどを開いて理解してもらい、代替案れからマスコミに報道を依頼し、多くの地元住民に知ってもらし合いを進め、現場の調査をして、問題を明らかにする。そいった運動の進め方は共通していて、先ずは地元の行政と話実態に危機感が募り、私は精力的に活動をしていった。ダムのない川は、ほとんどないのが現状だった。こういったムの数は含まず)砂防ダムが造られていた。砂防ダムや治山を超える、そして長野県内だけでも6千基を超える(治山ダに対する活動もはじめた。防ダムを考える」(渓流ネット)を立ち上げ、市外の砂防問題ていたこの会から5年ほど遅れて「渓流保護ネットワーク・砂れ30年ほど前のことだ。そして、活動を松本市内にかぎっという団体をつくり、それに賛同し活動をはじめた。かれこを壊すような公共事業に口を出していこうと、「水と緑の会」の講座に参加し、勉強だけでなく、身近で起きている川環境本中で進められていた時代だった。私は自然の好きな人がこ長期で列島改造論が叫ばれ、土木工事などの公共事業が日に関する専門家の講座が開催されていた。まさに高度経済成について、激しく焦燥感を覚えた。い。松本に帰って来た私は、自然環境、とくに川環境の変化都会で生活をしていると、田舎や山中の変化に気がつきにくそのころ、松本市の公民館の活動の一環として、河川環境すでにこの時代、国交省の資料によれば、全国で9万基うまくいったものもあれば、いかなかったものもある。こう*****私にはとくに忘れられない活動がある牛伏川の砂防改 〔右〕秋に誰もが気軽にイワナの産卵を見ることができる川がそばにある。そんな故郷って素敵だと思いませんか。 牛 川の自然は川自身につくらせる。

82 60年ほど前は、松本市内にも澄んだ水が流れる湧水河川がいたるところにあった。ここには60年後のいま訪れてもやはり、あるいは余計に、ホッとする景観がある。

83〔右上〕手製の釣り糸巻き。最近のものはプラスチック製で味気ないので自分でつくっている。〔下〕釣り針を投げ込むときは一瞬、無の境地になる。〔左上〕餌釣りは最近あまりしない。子どものころはいまより上手に餌を針に通していたように思う。老眼の壁は大きい。だが釣りはやめられない。はじめのころは誰でも大物を期待するが、年を重ねてくると、ほとんど何も考えない。

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85 政側としては、砂防ダムを壊すということはダムの効果を否定するこ高さ1~7メートルの落差のある床固工9基と帯工10基だった。行することで決着がついた。ながら話はまとまらず、最終的に県庁に赴き、砂防課長と直接話をた。松本市の建設事務所での交渉は4回にわたって行われ、しかしを8年後に改修するという筋書きは、画期的なことのように思われく反対をしたが、力およばなかったという因縁の場所だ。その場所る砂防ダム改修案だった。そこは、1995年当時「水と緑の会」が強か、という話が持ち上がった。そして浮上したのが、石組工法によたものの、残り半分は手を付けない確約をとることができた。画の見直しを要求し、その結果、全体の半分の工事は進んでしまっにまったく反映されていなかった。「水と緑の会」はかなり強硬に計話し合いや勉強をしてきたにも関わらず、それらは今回の改修計画の中止と見直しを急ぎ、強く県に求めた。それまで、あれほど県とらなかった私たちは地元住民の連絡によってそのことを知り、工事は、そうしたなかでのことだった。当初この工事に関する計画を知メートル区間の大掛かりな河川改修の工事が行われはじめていたのするなど、地道な交渉をつづけていた。牛伏寺砂防ダム直下500リートで固める工法での河川工事の見直しを求める要望書の提出を伏川などの支流を含めた渓流環境の保全活動のため、県にコンク行われた。コンサルティング会社、そして地元の民間工事事業者2社の共同でその数年前から、「水と緑の会」はおもに奈良井川や、薄川や牛このような交渉のなか、工事費の残り半分を使って何かできない改修の対象は、牛伏川牛伏寺橋前後の約250メートル区間で、 際の工事では石の並べ方や組み方によって強度は変わり、景観も大行政や地元土木業者とともに何度も現場に立ち会い、話をする。実た美しい景観のなかで子どもたちが川で遊ぶ姿が見られる。危惧種)、ツチガエル(県絶滅危惧種)などが復活し、何よりも、ましている。生物層もイワナ、ゲンジホタル、ノギカワゲラ(県準絶滅その場所は改修したとは思えないほど手つかずの川に近い姿に復元十分理解を得て、工事は進められた。のおかげで生物の多様性や生息環境がつくられることに関係者一同、理解してもらった。ひんぱんに行った現場検証により、こうした構造なかの石の配置が砂防ダムと同じ効果を生じさせている実態を肌ででの協議だけでなく、自然渓流の現場を実際に見てもらい、渓流のルティング会社、地元の民間工事事業者、「水と緑の会」の4者間すことだった。私たちの考え方を理解してもらうため、行政、コンサノギカワゲラ(長野県準絶滅危惧種)などの水生生物の復活を目指て失われた景観と、ほとんど見られなくなったイワナ、ゲンジボタル、明した。ムに造られた機能していない魚道に比べて100%機能することを説が備わっていること、そして魚類の遡上・降下環境においても、ダいること、また自然の渓流と同じく景観が美しく、生物多様性条件小さな落差(滝)は全体的には大きな砂防ダムと同じ効果を備えてと同じ効果を残す石組工法であること、渓流のなかの自然にできたとになり、到底認められない。私たちは改修案について、砂防ダムこの改修にあたり最も重要視したのは、度重なる河川工事によっ改修後、時間の経過とともに川のなかの環境は変化し、いまでは地元の川を愛さない人はいない。河川改修立案が実行されても、

〔左ページ下〕ノギカワゲラ(県準絶滅危惧種)を探して石に水をかける。ピリッとした〔左ページ上〕自分の写真などほとんど撮る機会もないが、えー、歳をとったものだ。この水の冷たさは、日本の渓流そのものを感じられる。 〔右上〕こうした工法に疑問をもてる技術者が育つことを願いたい。〔左上〕建設を反対しても造られてしまい、無力感をもつときもあった。だが悔しさがばねになってこの場所の改修ができたことは、大きな喜びとなった。

86 た砂防・治山ダムを川環境復元のために改修するとすれば、その公然豊かな川に戻す事業も、公共事業だ。もしこれまで造られてしまっ組み込まれている。だが過去の異物を改修・撤去などして本来の自その資金は行政に出してもらうしかない。るのだろう。川環境復元工事はそれなりにお金がかかる、当然だが普及しない。地元に戻って行政に要望を伝えるところにハードルがあ現場を視察にくる人は多い。希望のもてる話だが、実際はなかなかが高い。長い年月によって川自身がつくり上げてきた姿がよみがえる。きものの移動やこれまで土砂で埋まっていた景観を復活させる効果も同じ公共事業だ。ならば後者を選ぶことが真っ当な選択だろう。たに砂防ダムを造る費用に比べて格段に安く、効果も大きい。どちらなければ、根本的な問題解決にはならない。スリット化改修は、新了後に土砂収支の再検討を行うことも必要だ。既設ダムに手を入れ土砂供給の問題を考えるならば、すべてのダムのオープン化改修終ものダムを造り、さまざまな問題を生じさせてきている。また正常な砂防ダムにスリット型を用いているが、日本はこれまですでに9万基はすでに完成しており、要はやるかやらないかだ。現在は新たに造る既設の砂防ダムに開口部を開けるやり方もある。ダム壁を切る技術という造園土木業者だった。じだ。牛伏川の砂防改修を実施したのは、奇しくも「信州グリーン」きく変わる。日本庭園の庭師が物の配置にかなり神経を使うのと同砂防ダムの改修には、牛伏川のような石組工法による方法の他に、いずれにせよ、この2つの改修方法は川の連続性を確保し、生改修に関わる土木業者をはじめとする関係業者も、経済の歯車に をつなぐ次の段階へ歩みだすことを願う。た長い歴史がある。60年という歳月で宝を失う愚かさに気づき、命も合い、また生きものの多様性や生息環境の維持につながるのだ。せる対策となる。川の自然は川自身につくらせることが、人の美観にかけない無理のない政策につながり、防災においても被害を軽減さる可能性の高い場所での人間活動を制限することが、無駄なお金をことを自明とする考え方が必要だ。よってそのエネルギーが解放されころへと物が移動すること、つまり位置エネルギーが安定に向かういが、重力のある場では、位置エネルギーの高いところから低いと思っている。都市化が進めば当然防災という視点も考えざるを得な向に向かってもらいたい。これでも、異を唱える人はいるだろうか。共事業は100年はつづく。同じ公共事業なら、これからは再生の方川の自然は川自身につくらせるという考え方に帰るべきだ、と私は私たち日本人には、川と接することで生活の潤いを感じ取ってき

〔左上〕牛伏川の砂防改修時の設計図。庭園を造るように石を美しく並べ、組んだことがよくわかる。〔右上〕当時の民間工事事業者のひとつ「信州グリーン」の藤原繁幸氏。20年前の改修工事にも携わった。 〔右ページ〕石の配置や組み方など、現場を見ながら、当時の記憶をたどる。20年という歳月が経ち、あらためてこの石組工法の良さを実感。「こうした工法をもっと広めていきたい」

田口康夫 ち上げ、活動をはじめる。地元では「水と緑の会」の砂防専門部としても活動。両会同じような考えをもつ人たちと「渓流保護ネットワーク・砂防ダムを考える」の会を立砂防ダムを造る専門家はいるが、疑問を呈する専門家が皆無であることがわかり、砂防ダムが異常に増えていることに危機感をもち、その理由を調べるようになる。は仕事からはなれ、松本に戻って好きな渓流釣りを再開したが、渓流内にの代表を務める。長野県松本市在住。 この物語を気に入っていただけましたか? Patagonia.jp/Stories から共有して いただけます。

〔前の見開き〕アラスカ州とブリティッシュ・コロンビア州の境界にあるアリス・アーム・エスチュアリーで、渡り鳥のボナパルトカモメに見守られながら漂流するスギの倒木。  Agathe Bernard 90

Paul Robert Wolf Wilson

91 川が 望む名 文 キャメロン・ケラー・スコット した世界と同等の声と権利がある、という考えにいたった。とつから謙虚になり、擁護し、そして自然界にも人間が構築験を深めた。私たち人間の多くと同じように、敬愛と娯楽のひの危機となってきた。希望を探し求めて、私は自然界への体が危機にさらされ、気候変動のこうした具体的な影響は実存山火事で毎シーズンが過ぎ去り、地元水域の生態系や生物種浸けたまま写真を撮るといったことだけではない。水不足やた。(鉛の代わりに)錫のオモリを使ったり、釣った魚は水に面する私たち人間の文化的失敗に加担している、と感じてきフィッシングガイドである私は、環境崩壊の陰影や変化に直史の外で川に声を与えることを目的とした詩である。フライこれは、本質的に理解される言葉で人間が命名したことや歴6連の詩キャメロン・ケラー・スコット 〔左〕伝統的なレッドウッド製カヌーでカリフォルニア北部のクラマス・リバーを下る〈ユーロック・アンセストリアル・ガード〉のメンバーたち。この川はユーロック族の故郷の生命を支える生命線であり、先住民が構成する同団体は生態系に関する伝統的な知識や科学や価値観を未来に継承する。

Brendan George Ko

〔左〕マウンテンガイドでありトレイルビルダーであったロレンツォ・グラッシにちなんで名づけられたグラッシ・レイクスの滝は、堂々たるハーリン・ピークの下からボウ・バレーを見下ろす。アルバータ州

93 I. 谷をつくる者ある日 目を覚まして悟ったとする川の名を 私たちが与えた名ではなく川が望む名をモミの針葉と苔に覆われ 太平洋へと流れる川ハリブキの茂みから滴る雨 スギのように暗く重い雲滑るように打ち寄せる海 足元で弾けるシダの坂行く手を阻むサラルとハンノキの薮白く色褪せた落枝日が照りつける斜面のユーカリ 泉を詰まらせるブラックベリーその柔らかさは カゲロウを羽化させ体を漂わせながら その羽を乾かすその硬さは 岩を削り 砕いた石々の縁を滑らかにし 谷底に言葉のように散りばめる岩だらけの川には セージブラシビーバーのダム ワイルドミントヤナギの樹液と稲妻空へ向かって上昇する山々草薮と松やに光と空気を抜けて落ち込む峡谷樹皮の薫るほろ苦い新鮮なジュニパーベリーウチワサボテンの実流域の枝々に書かれたこれらの名シャクナゲの葉の川の石床漂うことのない石灰岩 茶のような染み砂州 湧水で育ったクレソン炭層は 低地の沼地や河口やアマモを抜けて月に引かれた汽水の流れをたどっていくこれらの名は 空がくれる川が蒸発して 息を吹き返すたびに私たちは いつも川は下っていると考えるでも川は 自分が下っているとは考えていないとしたら 〔上〕上空から見た、蛇のように曲がりくねるアッパー・クラマス・レイクの支流。絶滅危惧種のクワーム(ロストリバーサッカー)とコプトゥ(ショートノーズサッカー)が毎春産卵する場所であり、クラマス族や他の団体がこれらの在来魚の生息地復元に取り組んでいる。オレゴン州

Paul Robert Wolf Wilson

94 II. 故郷なる水ビッグ・マディ リトル・サンディ カタラクト オックスボー ダグ・バー トゥー・ロックス ディープ・ベンド スライド・プール ログジャム シューツ ザ・ブレイズ ザ・カーブス ザ・フラッツ デッドマンズ デッドフォール ラトルスネーク ハックルベリー ヒドゥン・スプリングス レッド・ロック カウ・クリーク ウエスト・フォーク川が動くように動くには 川が切り開くように切り開きなさいつまりは究極的に つまりは偶発的につまりは貪るように 重力にしたがって しなやかに目隠しをして あなたは故郷の水の名を当てられますか1月の厳しい寒さに 手のひらをさらし6月の雪解け水に逆らって しっかりと立つ石や岩が流れ去ったとしても川があなたを水底に押さえつけた時間によって頭上のコットンウッドの回廊を飛ぶアメリカワシミミズクによってビーバーの尾が水を叩く音カワウソの突然の登場サギのごとく静止するすべての朝正午に急降下するすべてのミサゴあなたは川の名を知っていますか馬の鼻のように腰をやさしく押す川の名をハンバーガー屋 銀行 アパート アスファルトの駐車場それらの脇を通り抜ける川をかつてはギャロップで駆け抜けたのに農地では幽霊のように のろのろと動く川を何千マイルもの畑で 切り分けられた川の断片を飼い慣らされて 少しずつ放たれた川をあなたは川の名を知っていますか私たちの夜の闇を照らしてくれる閉じ込められてしまったその川の名を〔上〕シエネガ・デ・サンタ・クララは、かつて北米最大の河口部であったコロラド・リバー・デルタの最後の名残り。いまは乾ききった砂漠と成り果てている。  Pete McBride

95 III. 有利になる証人や顧問の援助を得てよい六:合法であっても 公正な補償なしに搾取されるべきでない生命 自由 財産を奪われるべきでない五:その中身を不法に押収されるべきでない四:三:灌漑用水として奪われるべきでない侵害されてはならない 干ばつのときでも二:与えられるべきでない一:ネズ・パース族の家族を虐殺した大佐にちなんでいるカナダに逃亡しようとしたギボン・リバーという名はカットーグワ(奔流)をギャラティンという名にしたよジェファーソンの財務長官にちなんでルイスとクラークは 西部への旅でワラ・ワラ アチャファラヤ メリマック君は最初の人びとが使った名で川を呼ぶかいグリーン レッド ブルー ブラック ホワイト君は誰かが付けた名で川を呼ぶかい川が望む名川はいかなる不名誉な名も川のすべての生き物に必要な自由な水の流れは川は不法に動かされるべきでない川は化学物質を投棄されたり川は法の適正な手続きなしに川はその弁護のために 支流も花を咲かせるのに雪解けには木の枝が葉をつけるように息は途中で止められた体はばらばらにされてダムはどうやって川の名を変えるのかい世界で最も長い川のわずか3分の1自然のまま流れる川は血 内臓 骨 筋をもち岩に砕ける白波 岸から飛ぶコットンウッドの綿毛青空 雲 崖縁の岩散っていくのは石が現れ 日陰は減り 新緑に覆われる谷が開けると鳥はさえずり 水はせせらぎ 木々は芽吹く渓谷の壁のあいだで…十:権利を拒否されるべきでない九:30メートル以内での開発は許可されるべきでない八:七:川は陪審員による裁判の権利を有するものとする洪水帯の内側 あるいは流水の川は自然法の基本的な信条によって明らかにされた川はその寿命に値しない名を与えられるべきでない 〔次の見開き〕ディーン・リバーの河口の近くで山積みになった流木は、アングラーたちが「インスタント・バッキング」と呼ぶスチールヘッドの逃げ道を示している。ブリティッシュ・コロンビア州  Jeremy Koreski

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99 IV. 盆地と山脈枯れた枝を午後遅くに切り落とす干上がった灌漑用水路の近くでタンポポをつむ干ばつのように苦々しい芝生は焼けて土と化し スギ林はレンガ色になった幾月にもわたり酷暑の日々がつづきあったはずの川の内部が露になる隠されていたすべての構造がむき出しにされその最も深いところにあった秘密は 空虚だった高速道路の脇を流れる川完全に干上がった砂の川護岸砕石で埋められた不毛の川岸砂漠と化した水路始まることすらなかった川終わりの手前で終わった川畑への側溝 散水機へのポンプトンネルになった川堤防やダムに隠された川から貯水池へ 流し台へ湿った斜面から乾いた斜面へ飽くなき渇きによって根こそぎ吸い上げられた地下をつたう川…煙で濃厚な空気のなかを漕ぎ暖かく涼の取れない水に浸かるカジカたちは岩の上で白く干からびる流木のような色をして動かないマスは腹を上にして淵のあちこちに浮く山頂は毎日ムチのように弾け山脈全体は夏を通して動き 喉の渇きに燃える小川は 泥になり 埃になるつまり シカは言うまでもなく 川床をうろつき白んだ岩骨の鎖に蹄を響かせて 水の残骸を探す微塵の放射熱がマツの落葉と砂の上にこぼれ雲という賠償金を吹き飛ばす 太陽の下で干からびるべく 置き去りにされたままオール ネット 剥がれ落ちたフェルトソール線路の枕木からのクレオソート 触れないほど熱く川の端に陣取っている砕かれて錆びた鋼の船体は泥に変わる虫の殻や昨秋の落葉死んで朽ち戻るものの濃厚な匂い森林が作る川その流域のように 打ちひしがれた永遠の川 後悔の川川を持てる者 川を持たざる者私道の川 町の川そしてターザンロープが作る川散在するデッキ ベランダ 椅子 ブランコ なだらかな平原からつづくかさぶたのような地干上がった渓谷 縁の鋭い丘川がかつて流れた場所は割れ目のよう傷跡のような川 骨つぎのような川 〔上〕ホワイト・リバーで産卵床を守るためにすばやく動くベニザケによって作られた、はかない泥のトレイル。ワシントン州  Garrett Grove 〔左〕冬のあいだは完全に凍結して雪に覆われるワシントン州のバグリー・クリークだが、春の訪れとともに力を取り戻して氷を押しのけ、流れ出す。この写真は川の水面下で水中ケースを使用して撮影された。  Garrett Grove

100 V. 何よりも今日私がおまえの母親の腹に手を置いたときおまえは夏の日照りのなかで蹴って踊った庭をさまようシカのために多かれ少なかれ果樹から花びらが早く落ちたようにカワゲラが水面を横切って飛び交う記憶おまえが成長している世界が私たちを超えているとしたら私たちが世界を超えて成長しているとしたら私は長いあいだ月を眺めおまえの母親の肌のやわらかさを感じたおまえは私の手のひらの熱にその足を蹴り出したおまえを乗せて岩のあいだを旅する夢のラフトここにリーンバー ここにドライボックスここに波のあいだのグリーンルームついこの春 2つ隣の郡の若い警官が岩に挟まって溺死した 彼の妻は悲しみのラフトから流れ落ちて助かった生まれたばかりの彼らの子どもはその帰りを家で待っていた私の手はおまえの支流を押すそこでは雪が解けて渓谷に流れ込むように時間が消えエルクの群れのように下草を突き破る明日は私たちを運ぶ川その循環に謙虚になりなさいそれが織り成す網を それが支える生命を知りなさい明日は今日につづいて訪れる今日は川 昨日も川明日は挙手で意思表示すべきもの賛成ならアイ 反対ならネイ動きは次の動きへと 重力によって導かれる〔上〕トリンギット族とハイダ族の伝統の土地であるアラスカ州エルフィン・コーヴの近くで、雨をたっぷりと浴びるシダ。  Micheli Oliver 「フィア・キャニオン」として知られる、手に汗握るセクション。〔右〕春の雪解け期のエラホ・リバーでカヤッカーたちにブリティッシュ・コロンビア州  Cody Cobb

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103 VI. 群青探していた川は見つけたかい午後の光のなかで君の脚をふんばらせた川をそして君はそれを何と呼ぶのかいそしてその川の本当の名は見つけたのかい君は川のためにどれだけ歌うのかい君の脚を押し流そうとするその川に石が 岩が 流木が 流れを分ける薮が歌うのと同じくらいに薮はどうやって歌うのかい絶え間ない振動のリズムで石はどうやって歌うのかい石を川に投げ入れてごらん川はそれを歌でおおうのさ一:胸に大きな石を抱えて二:川に飛び込む三:めまいではなく 漂流ではなく四:それは放心それから:川が君を解放するまで待つ灼けつくような光と空気のなかの内なる川でついに 内なる川の懐で 〔上〕アサバスカ・リバーに降り注ぐ秋のにわか雨。カナダ、アルバータ州  Agathe Bernard 〔左〕北極圏の気温の上昇にともなって氷河の表面に生える氷雪藻クラミドモナス・ニヴァリスが大量発生するようになり、「ウォーターメロン・スノー」という雪が赤く染まる現象を引き起こす。これにより日光を反射する氷河の能力が低下し、さらに解氷を加速させる。  Agathe Bernard キャメロン・ケラー・スコット (芸術修士号)を取得。人生の大部分を埃っぽいアメリカ西部の砂漠とそれはアリゾナ大学で詩学を専攻し、MFA以外の場所で過ごし、『TheFlyFishJournal』や『TheDrake』他に詩と叙情エッセイを発表してきた。近著である詩集『Watershed』は2019年に出版。 この詩を気に入っていただけましたか? Patagonia.jp/Stories から共有して いただけます。

入江 私たちは 文 ニッキー・サンチェス 写真 ダニエル・カーン・ダ・シルバ なのです

106 〔前の見開き〕スレイワトゥース族にとって、パドリングは生き様であるだけでなく、それを維持する方法でもある。彼女たちはバラード・インレットとの関係のなかに何千年もありつづけてきた。ブリティッシュ・コロンビア州

107 私シャーリーンがつづける。「入江は私たちの祖母(家長)であり、最古の親族なの」物、つまり表面下にあるすべての体系に由来する。「スレイワトゥースの世界観では」とは「入江の人びと」を意味し、その創世譚によると、入江の人びとは入江の底にある堆積で、入植者の地図には「インディアン・アーム」と記されている場所だ。スレイワトゥースものときにカヌーで源流へ向かった旅の思い出話がはじまる。そこは彼らの領土の一部の源流にいる。すべては私たちの下にある。下には完全な体系がある』って」と言ったの」とシャーリーンが語る。「それで『なか?』と聞くと、『そうだ、彼らは水面下耳を傾けながら、私は「女家長制とはこうしたものなのだ」と感じる。と姪のカヤ(どちらも23歳)、そしてカヤの母親デボラと弟ウェトゥア。彼女たちの話には私たちがパドルを漕いだ水域が見える。ダイニングテーブルについているのは娘のサラリーンはバンクーバー北岸沿いのスレイワトゥース居留地に暮らし、彼女の台所の窓からて学ぶためだ。同体とここに棲むすべての生き物が直面している、致命的な脅威を阻止する闘いについなぜ自分がここにいるのかを忘れそうになる。私がここに来ているのは、この入江の共首の女性が歌いはじめると、幸福感がさらに深くしみわたる。まばゆいばかりの一日に、禍を経て授けられたこの日は贈り物であり、私たちの誰もがそう感じている。カヌーの船がったひとつの存在として動く。何か月にもおよぶ過酷な熱波、洪水、ロックダウン、病前向きなエネルギーが伝統的なカヌーの船体に反響し、ときとして私たちは相互につなたちが数千年にわたってそうしてきたように、船首で全員の指揮をとる。喜びにあふれた語ることができますように。スレイワトゥースの女性たちの物語をではなく、私たちを安全な場所に導いた来たるべき世代が、私たちの失敗の物語の心臓が調和するのは、10本のパドルが青緑色の水を打つリズム。ここはいまはブリティッシュ・コロンビア州バラード・インレット(バラード入江)として知られる場所だ。スレイワトゥースの女家長たちの力強いストロークは、彼女翌日の午後、私はシャーリーン・アレック(通称シャーおばさん)の家を訪れる。シャー「昔、長老が私に『問題があるときは、まず水のなかの人びとのところに行きなさい』その意味はわかっているという笑顔がテーブルを挟んで交わされ、カヤとサラが子ど 〔左〕カヌーの船首で、彼女たちが正当な権利を有する場所へと導くシャーリーン・アレック、カヤ・ジョージ、デボラ・パーカー(左から右へ)。スギの樹皮から手で織り上げた伝統的な帽子をかぶり、自分たちの文化的固有性と卓越したパドラーとしての評判に対する誇りを示す。

108 の報告によれば、増加するタンカーの騒音だけでもオルカの群れを体もある。〈レインコースト・コンサベーション・ファウンデーション〉部定住型)のオルカにとっては死刑宣告に匹敵すると論じる保護団住民にとって悲惨なものとなりかねず、さらにサザンレジデント(南ものだ。置くエネルギー大企業キンダー・モルガンから45億ドルで購入した張を先導している。これは2018年に同政府がテキサス州に本拠をなってきた。現在はカナダ政府が数十億ドル規模のパイプライン拡事故が報告され、スレイワトゥースおよび近隣の沿岸地域の脅威とン・パイプラインは1953年の建設以来、現在までに84回の流出ン・パイプラインを介して原油が輸送される。トランス・マウンテアルバータ州北部から全長1,150キロメートルのトランス・マウンテ20年以上闘いつづけてきた。入江の対岸には巨大な製油所があり、と、そして入江に依存するチヌークサーモンとオルカを守るために伯母タアの歩みにならい、シャーリーンは最古の親族とその人びトランス・マウンテン・パイプラインの拡張がもたらす影響は沿岸 (家長)や母オルカたちが、移動や交尾や情報伝達の方法に関する〈セイクリッド・トラスト・イニシアチブ〉は、数十の環境NGOや市の個体群を絶滅させることになる。シャーリーンが率いる保護団体上はじめて、人間の手で、すべての個体が名前で知られている動物絶滅に追いやるという。そしてもしこの個体数が消滅すれば、歴史民連合、他のコースタル・ネーションズとともにパイプライン拡張に反対し、最終的にはその閉鎖を目指している。「これは最初の闘いではないし、最後の闘いでもないわ」とシャーリーンは明言する。オルカがトランジエント(移動型)、オフショア(沖合型)、レジデント(定住型)という3つの異なる種類に分類されることは、コースタル・ファースト・ネーションズでは昔から知られていたものの、西洋科学では近年ようやく理解されるようになったばかりである。サザンレジデント・オルカとして知られる世界最小の群れを成す「定住型」オルカは、ブリティッシュ・コロンビア州からワシントン州とオレゴン州までの沿岸海域に生息する。ここはその故郷であり、祖母特殊な知識を数千年にわたって受け継いできた場所だ。 上空から見た現在のバラード・インレット。

109 よりずっと前からここにいたオルカは、どうやって地球に存在すべき族なのよ」とデボラが説明する。「オルカから多くを学んだわ。人間救ったという伝説があることを私は知る。ワトゥースの人びとが現れたとき、定住型オルカが彼らを飢えからだった。シャーリーンの台所のテーブルで話を聞きながら、スレイ人が捕獲し、世界中の海洋水族館に密売したのもこの海のオルカシャーリーンの家から見えるこの水域で暮らしていた。はじめて白に向かってくるのを見ると安堵する、と語る熟練の漁師も少なくない。もある。海で危うい状況に陥ったとき、オルカの背びれが滑るようは、迷った漁師にオルカが帰路を教えたというような物語がいくつシュ・コロンビア州西海岸沿岸の数々のファースト・ネーションズにじ餌場に戻ってくる。また伝説的な方向探知能力があり、ブリティッ制で、それぞれの群れは独特な鳴き方をし、何世代にもわたって同定住型オルカは年長の雌の支配によって家族単位で存在する母系モービー・ドールやナムなど有名なオルカの多くは、もともと「オルカのことは兄弟、姉妹、いとこと呼んでいるわ。私たちの家 校での215人の子どもたちの遺体を特定することでつづけられた。からほんの数時間のところにあるカムループス・インディアン寄宿学暴いた。この大虐殺の犠牲者数の確認は、スレイワトゥース居留地あると同時に、この国がこの死に対して責任があることを必然的にる現在もまだ生々しく残っている。これはあまりに痛ましい出来事で墓が発見されたときの深い悲しみは、シャーリーンの家で話をしていかった。2021年5月にこれらの学校の敷地内で6,000もの無名のする寄宿学校に連れて行かれた。そして、その多くは故郷に帰らなが家族から強制的に引きはなされ、さまざまなキリスト教会が運営王立カナダ騎馬警察によって15万人以上の先住民族の子どもたち連れ去られたのと同時代に起きた。1867年から1996年のあいだ、ちの面倒を見ることを思い出させてくれるの」教え。いつも必ず故郷に帰ってきて、自分の群れ、自分の子どもた距離を移動するけれど、オルカは必ず故郷に帰ってくるというのが守ってくれる。家族を思い出させてくれるから、敬意を払う。鯨は長かを示してくれたの。オルカの精霊が入ってきて、それが私たちを定住型オルカの密猟は、ファースト・ネーションズの子どもたちが 白色部分に帯びたオレンジ色で識別できる。 カナダのガルフ諸島周辺で、祖母(家長)に導かれるオルカの一族。最も幼いオルカは、 Gary Sutton

ノース・バンクーバーのスレイワトゥース居留地 に面する海岸線は、かつての美しかった姿から 汚染基地へと一変している。「我々の存在を 尊重せよ、さもなくば我々の抵抗を待て」が、 ここで暮らす住民たちの日々のスローガンだ。

112 「捕獲されて世界中の水族館に入れられたのは、サザンレジデントき様は、間違いなくオルカと相乗しているわ」とシャーリーンは言う。「スレイワトゥースやテュラリップという先住民族である私たちの生とJポッドのオルカたちだった。子どもたちを奪われ、歌が中断され、生活を脅かされて……それは私たちの歴史でもあり、私たちの物語でもあるの」先住民族の土地保護と統治権運動の共通のスローガンは「まず、彼らは土地から子どもたちを奪った。そしていま、彼らは子どもたちから土地を奪っている」。オルカを守る闘いの目的が環境保護でしかない、というのはまったくの過小表現である。多くのスレイワトゥースにとって、土地の健康と人びとの幸福を切りはなすこと、定住型オルカの生存と人びとの未来を切りはなすことは、不可能なのだ。入江は彼女たちの祖母(家長)であり、その人びとは入江なしには生きられない。とくにここ数年、ブリティッシュ・コロンビア州は多くの住民にとって気候危機の中心地となっている。だからこそ、パイプラインに反対しなければならない。「600人以上が死亡したヒートドーム現象ではじまり、山火事が森林を焼き尽くし、それにつづく洪水が広大な農地を破壊して、何千という動物が死にました。そして次は厳しい寒波……環境災害に次ぐ環境災害で、終わりがありません」と言うのは、〈カナダ環境医師協会〉の次期会長メリッサ・レム博士。彼女は、政府出資のこのパイプラインは公衆衛生上まったく理不尽だと考える。「既存のパイプラインは地滑りと洪水で損傷し、21日間閉鎖しなければなりませんでした。パイプは破裂寸前でした。そして現時点では、政府はフレーザー川の下に新たに計画したパイプライン拡張の掘削の最初の試みを中断しています。陥没してできた穴があり、設備故障が起きたからです」 拡張はすべての面においてマイナスとなる筋書きだと彼女は言う。「ブリティッシュ・コロンビアが に」と願う。け、多くの困難を乗り越えた勝利の物語を語ることができますようの物語ではなく、ともに生き延びる方法を見つけるための道を見つ行動への呼びかけとなること……来たるべき世代が、私たちの失敗いたように、私はこの本が「追悼になるのではなく、賛美になること、73頭に減り、現在も74頭を数えるにすぎない。同書の前書きに書ジデント・オルカは80頭だった。原稿が完成するころにはその数ははひとつになった。とき、教員、脱植民地化教育者、原生地域ガイドとしての私の世界デント・オルカの選集『Spiritsさせるのを、私は30年間見てきた。そして2020年、サザンレジ本主義が、森や山そしてセイリッシュ海の水域や沿岸の土地を荒廃からの生活のあらゆる部分と重なる。植民地化の影響や収奪的な資差して、彼女は言う。「いまこそ、彼らは耳を傾けるべきよ」はつづいていて、それが止まることはない」 製油所がある対岸を指実際に起きたことは認めないまま。先祖から伝わる深い知恵の崩壊ちの知識は団体や政府から引っ張りだこ。でも暴力や植民地化など、ければ、それは薬と癒しと栄養を与えてくれる。だからいま、私たを目にしてきた、とシャーリーンは言う。「生態系が損なわれていな3倍になることによって気候変動の影響も悪化します」は土壌と水を脅かし、またタールサンド由来の二酸化炭素排出量がも近視眼的で、あってはならないことです。この設備を導入することき、化石燃料の設備を拡大しようとしているのです。それはあまりに気候変動の影響による被害を受けて破壊されつつあるまさにそのと植民地化と産業が周囲に押し寄せ、さまざまなものが絶滅するのここは私の故郷ではないけれど、シャーリーンの話は私の幼少期oftheCoast』の編纂を依頼された『SpiritsoftheCoast』に取りかかった当初、生息するサザンレ 〔右ページ〕水がきれいであれば、あらゆる生命は繁栄する。日暮れに私たちを入江の岸に連れて、スレイワトゥースの人びとを養う水を称えるシャーリーン。〔左上〕スレイワトゥースの土地のいまは放棄された教会。共同体のメンバーたちによって捧げられた花やぬいぐるみなどの供物は、寄宿学校で死んだ何百という先住民族の子どもたちへの追悼。墓標すらない彼らの墓は、近年になってカナダ中で発見された。〔右上〕父親であり良き指導者であった故部族長ダン・ジョージの話に熱心に聞き入る、子どものころのシャーリーン。

114 ことを理解していった。入江を守るためのスレイワトゥースの闘いは、抗議運動や法廷闘争を超えて、愛に根差しているという母と娘のあいだに流れる優美なひととき。この訪問中に写真家のダニエル・カーン・ダ・シルバと著者は

115 いまふたたびこの感情を胸に抱き、『Spirits of the 長たち忘れないことの重要さを引き継いでいくことで、スレイワトゥースの女家て世代間に伝わる教え、歴史の記憶、故郷に帰る道の見つけ方を決して危機にさらされているものの証人となってくれることを、私は願う。そして思いをめぐらせたいま、読者がいま現在ここで起きていること、そしていている:守り手、一族の担い手、ヘイルツク族の母であるヒュースティは、こう書意味深い言葉を、私は他に思いつかない。オルカ一族の女家長、知恵の痛み、そしてすでに失われてしまったものへの嘆きを綴った、これ以上の1人であるジェス・ヒュースティの叙情詩を思う。危機に瀕するもののCoast』の執筆者多くの人がそうだったように、私は2018年にサザンレジデント・Jポッドのオルカ、タレクアが、まるで哀悼の儀式のように、死んだ我が子を頭で押しながら17日間、海面をゆっくり動く様子を見て、胸が痛みました。オルカやその他の鯨類の亡骸に対するこうした追悼行動は、これまでにも観察されています。しかし、この母オルカが死んだ子に付き添った日数と距離は、私たち人間が知るかぎりでははじめてです。その様子は「哀れな光景」として広く報道されましたが、それは私たちが消極的な傍観者にすぎないことを暗示する表現です。でも私は、私たち皆が母オルカに加わり、積極的に悲しみ嘆くべきだと思います。哀悼は公私両方の要素をもつ儀式です。そしてタレクアのようにそれが公に実行されたとき、私たちはたんなる傍観者ではいられません。私たちはその証人になる必要があるのです。ヘイルツク族の文化では、証人には重大な責任が課せられます。証人は、証言の記録が必要なときに記憶を具現化すること、目撃した事件や儀式をいつでも思い起こせることを義務づけられます。これらの言葉を読み、この場所の美しさとここに暮らす人びとについ人間とオルカの両方の母たちを称えることを。 〈Tsleil-Waututh Nation Sacred Trust〉をフォローしてスレイワトゥースの 女家長たちを支援してください。twnsacredtrust.ca(英語) ニッキー・サンチェス IsレビチャンネルVICELANDの『RISE』シリーズ、およびTEDxトーク「Decolonization生地域ガイド、作家、土地保護活動家、脱植民地化教育者。その他の活躍はカナダのテはピピル族とアイルランド/スコットランド人の血を引く教員、原forEveryone(脱植民地化は皆のため)」でご覧いただけます。 この物語に関する短編映画は Patagonia.jp/Stories でご覧いただけます。

神聖な儀式の具現として船首をとるカヤ。 ひとつひとつのストロークが、次世代の前進 を導く。船体の装飾はスレイワトゥースの 神話の中心を成す動物、タカヤ(オオカミ) の頭を描写している。

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119 燃え尽き症候群の現実 でもそれが私の投票を止めることはない。 文 ジェイミー・マーゴリン イラスト ステューディオ・ナンバー・ワン 案)を通過させることも実現可能でした。2022年のインフレ抑制法VotingたちにFreedom対しました。これが承認されていれば、その変更により、リーダー1月、上院は議事妨害(フィリバスター)規則の変更に多数決で反案(たとえば選挙権の保護など)の可決に極めて重要です。2022年がよくあります。下院と上院での投票は、前進のためのいかなる法数字には力があり、それがわずかな投票用紙の数の差で決まること能なかぎり多くの人に必ず投票してもらえるよう全力を尽くすことで。上がって闘いつづける必要があるのです。ときにどの闘いに参戦すべきか選べないことがあります。でも立ちたちの生活に大惨事をもたらしているかを忘れることはできません。るのは、厳しいものです。でも気候危機の現実と、それがいかに私だけ滑り落ちてこようとも、ものごとを改善するために努力しつづける法律を可決させ、選挙権を守るリーダーを選出する必要があります。ちは化石燃料に対する補助金に終止符を打ち、気候に関するさらなには、あまりにもたくさんのことが危機に瀕しているからです。私た加しないわけにはいかないのです。疲労や落胆を感じてあきらめるは、自分自身を大事にする必要があります。けれども中間選挙に参に感じられます。な石を坂の上に向かって押し上げても、結局は転がり落ちていくようのもひどく疲れます。どんな類であれ、変革のための闘いは、大き燃え尽き状態であるうえ、絶えず悪いニュースを見たり聞いたりするまえは役立たずだ」と。大学生になったいま、私は疲れ果てています。んな囁きが聞こえました。「この運動にすべてを捧げないのなら、おが奪い取られるように、自分を追い込みました。私の頭のなかでこた。地球が受けている扱いと同じようにをまとめてきました。私は10代を、気候変動との闘いに費やしまし集会やキャンペーンや投票に参加し、声を上げて組織に関わり、高校に通いながら年がら年中、デモ行進やは完全な燃え尽き状態です。14歳のときから気候運動つまり絶え間なく何か私たちには休憩が、休息が必要です。長い期間を闘いつづけるにやる気が出ないというのも、私にはわかります。大きな石がどれ私はこの闘いに戻ります。中間選挙に投票することで、そして可toVoteAct(投票の自由法案)とJohnLewisRightsAdvancementAct(ジョン・ルイス選挙権前進法 りません。投票所でお会いしましょう。させるためにはやらねばならないことのひとつです。見過ごしてはなめの唯一の要因ではありませんが、意義ある変化を法律として制定出ていくために、お互いを鼓舞して奮起させます。投票は前進のたとも、私たちは闘いつづけます。前進しつづけます。私たちはそこへ危機との闘いをあきらめることはありません。行く末がどんなに暗く出す集団の一部として感じられたからです。圧倒されて途方に暮れている個人ではなく、自分自身が変化を生み地元の選挙事務所を訪ねてボランティアをしているときのものです。たちと集っているときや、選挙に関する活動で旅に出ているときや、のになります。私の最高の思い出のいくつかは、友人や地域の仲間に参加すると、闘いでの孤独感はやわらぎ、仕事はじつに楽しいもは信じています。ボランティアや抗議活動、あるいは仲間との集会せんが、地域社会での活動が失望感を癒す最高の薬であると、私て働いたりするのです。友人たちも燃え尽きを感じているかもしれま彼らが投票所へ行く手助けを申し出たり、投票所でボランティアとしもっとできることがあります。友人や家族を登録するよう促したり、とを阻止する政治家を選出する必要があります。法律を可決させ、大規模な消失を推し進める産業界にお金を注ぐこさらに高いと推定しています。私たちはそのような補助金を廃止する自国を破壊することに資金を供給しています。多くの人はその実額はだに毎年200億ドル以上もの法外な補助金を化石燃料産業に与え、産業への給付を無視することはできません。アメリカ合衆国はいまきによって最前線のコミュニティに影響を及ぼしつづける、化石燃料せん。しかし私たちは、掘削やパイプラインといった危険な駆け引メリカの温室効果ガス排出量の削減だということに間違いはありま切に求められている気候対策を支え得るものであり、その目標がア候政策には重要で、クリーンなエネルギーや交通手段への投資など案については、私は懐疑的です。それは客観的に見ればこの国の気たとえあなたがすでに有権者登録をして投票を済ませていても、一緒にやりましょう。中間選挙に投票してください。私たちが気候私 ジェイミー・マーゴリン して若者による気候/環境正義運動〈ゼロ・アワー〉の共同創設者。(左のイラストに描かれている人物)は映像作家、作家、そ

This catalog refers to the following trademarks as used, applied for or registered in Japan: 1% for the Planet ®, a registered trademark of 1% for the Planet, Inc.; and FSC® and the FSC Logo®, registered trademarks of the Forest Stewardship Council, A.C. Patagonia® and Fitz Roy Skyline® are registered trademarks of Patagonia, Inc. Other Patagonia trademarks include, but are not limited to, the following: Stand Up™. © 2022 Patagonia, Inc.

100%再生紙 本カタログは消費者から回収/リサイクルされた古紙100%使用のFSC®〈森林管理協議会〉認 証紙に印刷しています。このカタログの製造には1本たりとも新しい木を切り倒していません。パタゴニアは25 年以上もカタログの印刷に再生紙を採用してきましたが、消費者から回収/リサイクルされた古紙100%に切り 替えたのは2014年のことです。

パタゴニアの本社とサービスセンターは、チュマッシュ族、ワショー族、パイユート族、ショショーニ族の人びとの故郷である未譲渡の土地(現在ではカリフォルニア州 ベンチュラ、ネバダ州リノとして知られている地域)にあります。本誌では、地球に残された最後のサザンレジデント・オルカを守るために闘うスレイワトゥースの 女家長たちについてご紹介していますのでぜひお読みください。私たちはこの物語が、そしてパタゴニアのジャーナルが、皆様の地域の先住民族の人びとについて より多く学ぶための刺激となり、彼らの自然への畏敬と、そしてその自然を再生させる文化的実践の支援につながることを切に願います。

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〔表紙〕旅の最終日に最長区間であるデヴィール氷河を重い足取りで進むマデリン・マーティン・プリネイ。彼女を含むチームが挑んだ「バグス・トゥ・ロジャーズ」の旅と は、ブリティッシュ・コロンビア州東部のバガブー山群からレベルストーク北東に位置するロジャーズ・パスまで総距離137キロメートルのスキー縦走。 Leah Evans 〔下〕ステューディオ・ナンバー・ワンによるイラスト

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