Krung Thonburi history of Thailand .

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Column スペシャルコラム
Special

トンブリー時代の歴史

ヤ陥落は、社会的衰退によるものというより、戦略的且つ軍事的戦術の欠如による惨敗であったと提唱する 研究者もいる。

力を集中してきたアユタヤ王朝を徹底的に壊滅し、滅亡させることを意図した。侵攻したビルマ軍は、長年に渡って綿密に計画を練り、準備を行ってきた大軍であった。一方、タイ側は十分な防御体制が欠如していた。研究者の中には、第

によりタイは独立を失った。ビルマ

年に渡って政治統治的権

2

11 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 Special Column 1 7 6 7 年、第
4 1 7
2 次アユタヤ陥落 次アユタ タクシン大王の王室記念碑

トンブリー宮殿(旧宮殿)

このアユタヤ王朝崩壊によりトン ブリーに新たな権力の中心を築くことになった。トンブリーは、タイ湾に通じる河口に位置し、外国との海上交易に便利であり、将来的に南方の海岸沿いの都市を統治することも可能であった。また、当時のタイの兵力規模にとって軍事防衛上、有意な立地でもあった。 第

がその原因研究に関心を持つ歴史的事象であるが、タイ人に信じ、認められ続けてきた重要な考え方は、 バーンプルールアン王家、特にエーカタット王が国家の衰退を導き、アユタヤ朝を失わざるを得なくなった原因の統治者であるというもの である。

次アユタヤ陥落は、タイ人

2

13 12 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 Special Column トンブリー時代の歴史

トンブリー宮殿(旧宮殿)

トンブリー時代の歴史

サーワダーン(王朝年代記)」各版によると、トンブリー王の歴史は、 中国人の子としてボロマコート王の治世に生まれ、元来はシンという 名前であった。 マハートレックの官位に任命され、軍事的知識と能力に長けていたため、タークの領主プラヤータークに昇格し、続いてカムペーンペットの領主プラヤーワチラプラーカーンの官位を与えられたと記述されている。「アピニハーンバンパブルット」の中で、即位前のタークシン王の歴史につ いて、 1734年

寅年、ボロマコート王の治世に生まれ、元来の名はシン、父の名はハイホーンという賭博場 する役人であったと記されている。 プラヤーチャックリーという官吏の養子になり育てられた。成長し、 ワットゴーサーワートという寺院で学業に励み、マハートレックという官吏として仕官し、タークの領主プラヤータークに昇格し、エーカタット王の治世にタークを統治 した。

クシン王、ラーマ

タイの歴史書「アピニハーンバ ンパブルット」

世までの伝記本

および「ポン

世からラーマ

15 14 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 Special Column
(
Great Wonders of Ancestors 、ター
1
)
英語名:
3

ウォンウィアン・ヤイ語

のため、プラヤータークはグロムガーンムアンを鎮圧し、約7

ラヨーンに入る前、ワットル ム(マハーチャイチュムポン) で休憩し、国家復活のためラヨーンのグロムガーンムアンを誘ったが、クンラームムーンソーン、 ナーイトーンユー、ノックレック、クンジャームアン等を有するグロムガーンムアンはプラヤータークの襲撃を企てた。そ

地の住民集団の首長であるグラムは忠誠を尽くし、プラヤータークを支援しパタヤーまで進行し、ナージョムティアン、トゥンガイティア、サッ タヒープに 1 泊ずつ停泊した。

N

アユタヤ

チ ャ オプ ヤラ ー 川

トンブリー市

パークナーム市

フォー・サム・トン・キャンプ

タイ湾

チョンブリー市

ダン・コブ・チェー プラチン市

バーンクーラムパン

パク・ナム・チャオ・ロー

バーンナークルア ナージョムティアン

サッタヒープ

ナコーンナヨック市 ラヨーン市

クレン市

アユタヤ朝を守る中、プラヤータークは、指揮統括官の虚弱さに落胆し、ワットピチャイ駐屯地からタイ人や中国人の兵力を率いて、アユタヤ朝で戦火が上がる中、真夜中にアユタヤを包囲したビルマ軍を撃ち破り、東方に向かった。 プラヤータークは、バーンハント ラー方面に進み、ビルマ軍と衝突した。ビルマ軍はタイ軍との戦いに敵わず、撤退した。プラヤータークは続いて兵力を率いて、バーンカーオマオ、バーンサームバンディットへ進み、明け方にはバーンポーサーオハーンに到着し、後を追って来たビルマ軍と戦い、ビルマ軍を撃破した。プラヤータークは、更にバーンプラーンノックまで軍を進行し、休憩した。ナコンナーヨックに進行する前にバーンバーンドン、ノーンマイスン、バーンナールーンを通過し、プラーチーンブリーに到着し、 バーンクーラムパン、チャーイトゥンシーマハーポーでビルマ軍と衝突し、ビルマ軍を撃退した。その後、 プラヤータークはバーンパコン川を渡って、ペートリウを通ってチョンブリーに入り、バーンナークルア(バーンラムン)まで進行した。当 -8日間ラヨーンで兵を停泊させた。その間、プラヤータークは人員を送り、チャンタブリーの領主であるプラヤーチャンタブーンを説得しようとしたが、 プラヤーチャンタブーンは、ラヨーンから逃げてきたクンラームムーンソーンの挑発によりプラヤータークを捕らえることを企てた。しかしながら、プラヤータークは予めその企てを察知し、 その晩プラヤータークは兵を率いてチャンタブリーを襲撃、占領し、遂に自らの勢力の陣地とした。トンブリー朝王朝年代記

チャンタブリー市

プラヤータークはアユタヤ朝での戦争に応援部隊として参戦し、ビルマからアユタヤ朝を守った。その功績によりカムペーンペットの領主プラヤーワチラプラカーンに任命 された。

6 年、ビルマとの戦争から

トラート市

17 16 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 Special Column トンブリー時代の歴史 1 7 6
5 年、強力な軍事力を持つ 1 7 6
陸路 水路

ワットラカンコーシターラーム

(プララーチャ・ポンサワダーン) パンジャンタヌマート版には、 この歴史的事象について、「兵に対して、炊き出しをして食事を終えたら、残飯は全て捨て、米を炊く鍋も汁物を作る鍋も全て叩き壊し、今晩中にチャンタブリーを制覇する。そしてチャンタブリー街内で朝飯を探して食べる。それができなければ、共に死のうと命じた。」という記述 がある。 チャンタブリーに陣地を築く

であるアユタヤの荒廃状況を考慮し、更に中部河川流域は混乱状態にあり、強盗集団の拠点も

今回の戦いはアユタヤ回復の 成功に相当し、スリヤートアマリン王(エーカタット王)の御遺体を搬送し、伝統的王室の慣 習により火葬を執り行った。プラヤータークは復興が困難

スキー・プラナーイコーンに勝 利した。

と、プラヤータークは各独立集団勢力の鎮圧によるアユタヤ王朝回復に向けた取り組みを開始した。まず、朱印船商人コミュニティの拠点であるトラートの侵攻に始まり、朱印船商人のリーダーであるチーンチアムは服従した。その後、チャンタブリーで戦艦を建造し、兵力の準備を行った。全てが整った後、海兵を率いてチャンタブリーからサムットプラカーンのパークナームに進軍し、トンブリーのウィチャイプラシット要塞周辺をいとも簡単に占拠した。プラヤータークは兵力を率いて、ビルマの指令本陣である

ポーサームトンを襲撃し、

7 年にビルマ軍指揮官である

7

19 18 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 Special Column トンブリー時代の歴史
( アユタヤの ) 1
6

ワット・インタラーム・ウォラウィハン

いたトンブリーは、中部下部の平野部、チャオプラヤー川の三角州湿地帯に位置し、上流から運ばれた土砂が河口に堆積して形成される豊穣な土地であった。 蛇行するチャオプラヤー川両岸は高地が形成されており、家屋を建設し、居住するのに適していた。居住者の増加に伴いコミュニティが形成され、その後バーンコーク地域と呼ばれるように なった。

即位式が執り行われ、トンブリーは王の権力の中心となる王都となった。即位式の開催日について、ジョットマーイヘート(古 文書)には陰暦

夜火曜日と記録されている。

多く、短期間での統制が難しいと判断した。そのため、プラヤータークは生き残った兵と王族を率いて、トンブリーに居住させ た。その後、

昔はバーンコークと呼ばれて

コーク要塞またはウィチャーイェン要塞と呼ばれていた。この両岸の要塞の間には川を遮るように、海から侵入しようとする敵からの防衛のため、大きな鎖が設置されていた。現在は、 西岸の要塞、すなわちトンブリ朝時代に新たに名付けられた の要塞は、

バーンコークは外部からアユ 衛する砦としての前衛検問都市に設定された。その名はトンブリーシーマハーサムットと呼ばれ、海から侵入する敵の進入を防ぐ役割や通過する物品の税金 徴収検収の役割を担っていた。 前衛検問都市としてのトンブ リーの重要性は、ナーラーイ王の時代に顕著に現れた。ナーラーイ王は、フランス軍に対してチャオプラヤー川両岸にヨーロッパ式の要塞を建設するよう要請した。そして、東側の要塞は西側の要塞より何十倍も規模の大きいものであった。両岸の 要塞は、 2 つ合わせてバーン

年にフラン

1 6 8 8

21 20 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 Special Column トンブリー時代の歴史
1 7 6 8
年に王の
1 月のえい月4

ワットアルンラーチャワラーラーム

トンブリー朝は、都の中心を チャオプラヤー川が流れ、左右に分離された都市であった。王都の壁内は住民の居住地となっていた。川の西岸には王宮、寺院、 官公庁、貴族や一般市民の家屋があった。川の東岸の壁内には、 西岸と比べると脆弱な住民のコミュニティーが存在し、大半は移住したり、連行されてきた中国人やベトナム人が住んでいた。 トンブリー朝の壁外地域両岸は果樹園や三角州の湿地帯になっており、住民の食糧となる米等の栽培に使用していた。 トンブリー朝の王は、トンブ リー朝及び主要都市の重要仏教寺院を修復した。例えば、ナコ ンシータラマラート県のワットマハータート、ワットラーチャクルット、ワットインタラーラーム、ワットラカンコーシターラーム、そしてワットモーリーローカヤーラームと共に王宮寺院に任命された、重要なワットアルンラーチャワラーラームがある。

参考書籍 トンブリーの歴史 作者 スダーラー・スッチャーヤー 学術編集 ティダー・サーラヤー 日本語訳 早瀬裕

22 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025

チャランサニットウォン通り

トンブリー時代の歴史

ボロンマラッチョナニ通り

クルントン橋

チャランサニットウォン通り

シリラート病院

チャオプラヤ ー 川

ラマ8世橋

サムセン通り

ラチャウィティ通り

ピンクラオ橋

バンコク国立博物館

タンマサート大学

ワットラカンコーシターラーム

ラックムアン

ワット・プラシーラッタナサーサダーラーム

ワットアルンラーチャワラーラーム

カサット通りウィスット・クルン・カセム通り

ワット・ボウォニウェット・ ヴィハーラ

ラチャダムヌーン ノック通り

ノンタブリ

トンブリー

バンコク

サムットプラカーン

ธนบุรี

Thonburi

トンブリー

1971年以降、トンブリー県はプラナコーン県に合併されました。 バンコクの首都、トンブリーです。 そしてその後はバンコク トン ブリー県の状況は、バンコクのチャオプラヤー川の西側の地域であ るトンブリーサイド、または略してトンブリーサイドと呼ばれる地 域になりました。

洪水民主記念塔

セントラル ダムヌーン通りラチャ

サナム・ルアン サランロム

タナオ通り

バンコク市庁舎

ワット・スタットテー 大王宮プワラーラーム

ワット・ポー

タクシン大王の王室記念碑 トンブリー宮殿(旧宮殿)

パク・クローン・タラート

プラジャディポク通り

ペッカセム通り

ウォンウィアン・ヤイ語

ワット・インタラーム・ウォラウィハン

ソムデット ・ プラチャオ ・ タクシン通り

プッタ・ヨード・ファ橋

スリ ー ペッチ通り

プラポッククラオ橋

ナコン・サワン通り

ラーン・ルアン通り

マハカン・フォート

プーカオ・ソング

ザ・ジャイアント・スイング (サオ・チンチャ)

ロマネナート

ルアン通り バン モ通り

ジャルンクルン通り

テーウェット市場 アイコン

ジャルンクルン通り

25 24 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 THAILAND JAPANESE GUIDE 2024-2025 Special Column
ラット・ヤ通り
チャルンラート通り ソムデット・チャオプラヤー通り
N
ー 川
チャオプラ ヤ
サイアム
・ ア マリン通り ア ル ン ・
ル ン
アマリン通り
ヤワラー通り ク ル ン カ セム通り テルドタイ通り チ ャ ル ン ナ コ ン 通 り
イサラパプ通り

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