Special Column スペシャルコラム





ラタナコーシン島

これまでの王都のトンブリ―から直ぐに遷都を命じた。ビルマへの対応で軍事的に脆弱である上に川の水流により土地が浸食される西側沿いに位置しており、 運勢的に良くない都と信じられていたからである。 タークシン大王の治世末期、トンブ リ都の領域は、
ラックムアン
ワット・プラシーラッタナサーサダーラーム
後、ラーマ
クシン大王(在 位仏暦
つでチャオプラヤーより格下でプラ より格上)・チャクリー氏(トーン・ドゥアンことラー マ 1 世)がター
イ伝統のサムット・タイと呼ばれる横長の)記録帳のような形であ





一の証拠であるビルマの密偵が長い紙に記した地図をみれば、縦
に拡大していた。当時を知る唯
フットの広さであり、(注
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ワット・ポー
岸)が王都に制定される前の状況は、 川の東側地域は中国人居住地で埋め尽くされており、中国人の家船が川岸に連なって並んでいた。トンブリ都を取り囲む東側の運河は、「ロット運河」と呼ばれ、敵の侵入を防ぐために多数の砦が築かれていた。王都が東側に遷都されて中国人居住地は全て移転された。王宮の位置が移転になったので、街の中心地の位置も自然に東側に移っていったが、その主要な理由は、王宮と都市を東側に移すことで、チャオプラヤー川をミャンマー軍に備える西側の防御堀



る。トンブリ都に潜んでいたこのビルマの密偵によれば、ラッタナコー シン地域(注 チャオプラヤー川東



ワット・ポー
囲まれて島のようになっている王宮などの中心地)のことであるが、都
在、バンコクの「ラッタナコーシン島」周辺に明確に見出すことができる。「ラッタナコーシン島」とは、
域(注 チャオプラヤー川と運河で
ラッタナコーシン都へ落ちるアユタ ヤ朝の影 アユタヤ朝の思想を
とするという軍事的な必要性があったこと、新時代に合わせて王都を拡大したいという願望からであった。
われた。
の面積の現在のバンコク内部区
3.5 km2
日に都市計画が行
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ラタナコーシン島

マハ・チェツァダボディン・パビリオン コート
プーカオ・ソング
と同様に前宮(ワンナー)が築かれ、大ブランコやテーワサタン・バラモン廟も備えられた。アユタヤでは、これらは現在のタレーンゲーン交差点付近に所在していた。英国人の人類学者ヴァン・ロイ(
マハカン・フォート
)は、ラッタナコーシン
市計画と様々な施設の配置の観点からアユタヤ朝とラッタナコーシンの類似性がみられる。アユタヤ朝のプラシーサンペット仏が安置されたワットプラシーサンペット寺院と同じように、ワット・プラシーラッタナサーサダーラーム寺院(注ワットプラケオ寺院)には王国の重要な仏像としてエメラルド仏が安置されている。アユタヤ朝でのチャン カセム宮殿(注 副王のための王宮)
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ラタナコーシン島
建設当初のラッタナコーシンの都 は、公共空間と道路網に関する都市計画上の考え方が同時代の西欧の大都市とは異なっていた。なぜなら、
ブラフマン寺院
周囲に王族の土地がある。 第
ザ・ジャイアント・スイング(サオ・チンチャ)
貴族の土地 第
3 層:城壁外の平民の土地
朝初期は、以下の
設されたと指摘する。 第
ワット・スタット・テープワラーラーム
1 層:中枢部(
王宮を中心として、その
2 層:都心部 (Bangkokcity)






3 層構造の「曼荼 (Mandala) 思想に基づいて建

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が新たに掘削された。ワット・ワットサケット寺院の北側に大規模な運河が掘削され、「マハナーク運河」 との名称が下賜された。王都の人々は、昔のアユタヤ時代のように船に乗り満水の川を祝う「船漕ぎ」歌を楽しんだのであった。『インドシナへの旅』という著書 の中の第 1 章で、ヘンリー・

に元々の王都の堀であった運河から分岐されて都を取り囲む
羅の印象として、「バンコクは東洋のベニスである。仕事であろうと私 事であろうと、どこにも水路を使用して行かねばならない、馬車と馬の騒音の代わりに聞こえるのは、櫂を漕ぐ音、水夫の歌と暹羅人の漕ぎ手の掛け声だけである」、「川は主要な広路であり大通りである。運河は小路への交差点であり、優雅にカヌーで横たわっている貴方を導いてくれる」と記した。運河の数について調 べると、
その時代の暹羅では、河川、運河を利用しており、それを主要な交通網としていたからである。
ウホット氏は、
の治世期に少なくとも5つの大規模な運河掘削の事業があったことがわかる。それは、パドゥンクルムカセム運河、ロット運河、マハナーク運河、プラカノン運河、センセーブ運 河である。
約締結までのラーマ
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設には古代の技術が用いられた。西洋人は、これを「ニューロード」と呼んだ。河川よりも道路を利用する暹羅での新しい生活様式を生み出した最初の地域となった。全体として、 ラーマ 4 世の時代にバンコクは、東
部と南部方向により拡大する傾向があった。掘削された運河や敷設された道路は、そちらの方向に向かっていた。他方で王都の北部方向は、依然として未開の地であった。トンブ リ(注 西側)方向の都市の拡大は、
や百貨店、大使館、外国人邸宅など並ぶ最も繁栄した道路であった。中でも最も美しい箇所は、サムヨート門であり、タイ様式の建築物で、それぞれに突起がある3つの門が連なっており、頑丈な鉄製であり、それぞれのレーンは車両で通過することが出来た。チャルンクルン通りが 開通したのは
ラーマ 5



設を命じたことでバンコクは変化することになった。その道路は、「チャ ルンクルン」(注 都の繁栄の意味)
道路敷設は、以降、王都地域で河 川に依存しない新たな生活様式を生み出すことになった。
世が最初の近代的な道路敷
と名付けられた。チャルンクルン通りは、ラックムアン(市の柱)から トック通りまでの 10 ㎞に及び、会社
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アルン・ラチャワララムの日
通りが敷設されて、新たに建設されたドゥシット王宮とその周辺の王族達の宮殿建設に伴い王都の北部が開拓されていった。そのため王都の拡大は、北部、東部、南部方面に向かっ ていった。ラーマ 5 世は、王都の行
この時期には、「万人が訪問し、居住できるようにし、さらに商品の輸送に便利である路にすべし、さすれば王国に様々な利益をもたらすであろう」との国王の発案で運河が掘削された。この時代に新たに都市の拡大をもたらしたのは、鉄道と路面列車の敷設による陸上大量輸送機関の発展であった。道路網の拡充に伴って路面列車も継続的に拡大していっ 1 9 0 3 年にはラチャダムヌン
ム・キティカチョン元帥の軍事政権下、トンブリ県とバンコク都が合
都市計画法が制定されるのを待たねばならなかった。(統治構造が変更 立憲革命を意味する)されてか
の運営の下に組み入れられた。 1 9 7 1 1 9 7 2 年のタノ
ら 20 年)その後、バンコクは内務省
言葉は、この時期から人々の口に馴染むようになっていった。近代的な都市を発展させるという考え方は、最初の都市計画法である
政組織構造を「首都省」(クルンテープ州)に変更し、「衛生区」(スカピバーン)を設置して住民に自治運営を試させることにした。タイ語の「ク ルンテープ」(注 天使の都)という
コクはどれだけ発展しただろうか。
選出されることになった(後のクーデターが発生すると任命制知事に置 き換わる)。
(グ)は水辺の村を意味し、コーク はマコークというウルシ科の樹木のことを意味し、かつて当地はマコークが生い茂るチャオプラヤー川沿いの小さな村と呼ばれていた)と呼ばれたチャオプラヤー川東岸と西岸地 域が再び合わさった。その後、
るだろう。
2 0 2 2 年の今年、我々はそれを見
併されたことで、昔に「バンコク」 「バーン(グ)コーク」、バーン
7 5 年にはバンコク都知事が選挙で
2 4 0 年経過してバン
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参考・引用
1. Sarekadee Magazine 2565年4月号
2. Travels in Indo-China Siam, Cambodia, Laos & c.By M.Henri Mouhot


ラタナコーシン島
チャオプラヤー川

เกาะรัตนโกสินทร์ Rattanakosin Island ラタナコーシン島
ラタナコーシン島はラナコン地区の歴史地区です。西側はチャオプ ラヤ川に隣接しており、東側は多くの運河に隣接しています。この 場所はトンブリー時代の中国人の住居でした。この島には王宮と ラックムアン(市の柱)があります。その他の歴史的に重要な場所 があります。

https://official.bangkok.go.th/