龍大はじめの一歩 龍谷大学「建学の精神」

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はじめの一歩 龍大

龍谷大学「建学の精神」

龍谷大学「建学の精神」

龍谷大学の「建学の精神」は「浄土真宗の精神」です。 浄土真宗の精神とは、生きとし生けるもの全てを、 迷いから悟りへと転換させたいという阿弥陀仏の 誓願に他なりません。

迷いとは、自己中心的な見方によって、真実を知ら ずに自ら苦しみをつくり出しているあり方です。悟り とは自己中心性を離れ、ありのままのすがたをありの ままに見ることのできる真実の安らぎのあり方です。

阿弥陀仏の願いに照らされ、自らの自己中心性が顕 わにされることにおいて、初めて自己の思想・観点・ 価値観等を絶対視する硬直した視点から解放され、広 く柔らかな視野を獲得することができるのです。

本学は、阿弥陀仏 の願 いに生かされ、真実 の道 を歩 まれた親鸞聖人 の生き方に学 び、「真実 を求 め、真実 に生 き、真実 を顕 かにする」ことのでき る人間を育成します。このことを実現する心とし て以下5項目にまとめています。これらはみな、 建学の精神あってこその心であり、生き方です。

すべてのいのちを大切にする「平等」の心 真実を求め真実に生きる「自立」の心 常にわが身をかえりみる「内省」の心 生かされていることへの「感謝」の心 人類の対話と共存を願う「平和」の心

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TheFoundingSpiritofRyukokuUniversityisthespiritofthetrue teachingofPureLandBuddhism(JodoShinshu).

ThespiritofthetrueteachingofPureLandBuddhismisnoneother thanthevowofAmidaBuddhaaspiringtoawakealllivingbeings fromignorancetoenlightenment.

Ignorancemeansthestateofself-centeredbeingswhocreatesufferingwithoutawakeningtotruth.Enlightenmentisthestateofbeings whoaretrulyatease,havingeliminatedtheself-centeredmindand awakeningtorealityasitis.

IlluminatedbythelightofAmidaBuddha’saspiration,humans becomeawareoftheself-centeredmindandarefreedfromthe inflexibleviewthatabsolutizestheirownthoughts,opinions,and valuejudgments,andfinallygainabroadandflexiblevisionofwisdom.

RyukokuUniversity,embracingtheteachingsofShinranShonin wholivedinthevowofAmidaBuddhatofollowthepathoftruth, aspirestoeducatestudentstobecomepeoplewho“seektruth,live intruth,andrevealtruth.”Thefollowingfiveprinciplesofmind expresshowthisistobeachieved.Theseprinciplesaretheheartof thefoundingspiritofRyukokuUniversityandthefoundationofhow wearetoliveourlives.

Themindof“equality”thatrespectsalllivingbeings.

Themindof“independence”thatseekstruthandlivesintruth.

Themindof“contemplation”thatalwaysturnstoself-reflection.

Themindof“gratitude”thatisthankfulforone’slife,sustainedby andinterconnectedwithallotherlives.

Themindof“peace”thataspiresfordialogueandcoexistencewithallpeople.

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龍谷大学「建学の精神」

はじめに

……入学式をおえて。父と娘の会話から

(☞p.93)

(☞p.60)

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4 はじめに
(☞p.82)

龍谷大学「建学の精神」

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(☞p.1)
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龍谷大学「建学の精神」 はじめに 入学式をおえて。父と娘の会話から … 3 そのままが愛おしい「いのち」 …………………… 8 … 10 確かな依りどころのなかで生きる ………………… 14 …… 16 立ち止まり、ふり返り、成長する ………………… 20 …… 22 “あたり前”の先にある喜び ………………………… 26 …… 28 平和の心 国境なんてないんだよ …………… 32 …… 34 龍谷大学「建学の精神」解説 ……………………… 38 むすび…そしてはじまり 龍谷大学の願い … 47 親鸞聖人の生涯 …………………………………… 54 龍谷大学のあゆみ ……………………………… 60 建学の精神を実践するために …………… 76 礼拝の場 ……………………………………………… 76 宗教部ガイド 宗教部活動紹介 ……………… 81 仏事の基礎知識 龍谷大学の学生として知っておきたい仏事の常識 … 92 龍大まめ知識 チャイム・仏旗 ……………… 96
目次

龍谷大学「建学の精神」

※文中に出てくる釈迦如来の表記について、本文では「ブッダ(釈尊)」、 解説文などでは原則として「釈尊」に統一しています。

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そのままが愛おしい「いのち」

そのままが愛 いと おしい「いのち」

一般に「平等」というと、かたよりや違いがなく、すべ てのものが等しく一様であることだと考えがちですが、 「建学の精神」でいうところの「平等」は、真理 を悟 られ たブッダ(仏)の眼 ��� から見た平等です。

ブッダ (釈尊)の説 かれた経典に、次のような一段があ ります。

……さとりの国の池にはとても立派な蓮の華が咲いて いる。青色 の蓮 �� 華 � は青い 光、黄色の蓮華は黄色い光、 赤色の蓮華は赤い光、白色の蓮華は白い色の光を放っ ている。一輪一輪ちがっており、それらはどれもその まま香り高く何とも美しく素晴らしい。さとりの国は そのような徳の高い、言葉を超えた素晴らしさで満ち あふれている。

(『阿弥陀経』より意訳)

仏の光に照らされたすべての「いのち」は各 �� 々 �� の特徴を 持ったままに 光り輝 いていると、ブッダ (釈尊)は教 えて くださっています。ブッダ (仏)には、すべての違いを認 め慈 ��� しむ眼 ��� があります。私たちもまた、その眼 ��� をいただい

てみた時、各々の「いのち」がそれぞれの特徴を持ったま まに光り輝いている世界が見えてきます。それこそが、本

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龍谷大学「建学の精神」

当の意味での「平等」なのです。

童謡詩人で大正末期から昭和初期に活躍した金子みすゞ さん(1903~1930)の詩に次のような代表作があります。

私と小鳥と鈴と

私が 両手をひろげても、お空はちつとも飛べないが、 飛べる小鳥は私のやうに、地 � 面 �� を速 �� くは走れない。

私がからだをゆすつても、きれいな 音は出 ないけど、 あの鳴る鈴は私のやうに、たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、 みんなちがって、みんないい。

(『金子みすゞ全集Ⅲ』JULA出版局1984)

誰もが「平等」という言葉を使いますが、しかしいつも 自分だけを特別扱いしていませんか。この詩には、自己中 心的な狭い見方を離れた、すべての「いのち」をありのま まに愛 �� おしむ豊かな心が見られます。違いがないことが平 等なのではなく、それぞれの良さを認め尊重することが大 切なのです。このことを伝えるのが本学の「建学の精神」 です。

龍谷大学に学ぶことをきっかけとして、本当の意味での 「 平等」について考えてみませんか。

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【解説】すべてのいのちを大切にする「平等」の心

「平等」について国語辞典などには、「かたよりや差別が なく、みな等しいこと」と解説されています。しかし、本

学の「建学の精神」にいう「平等」には、もっと深い意味 があります。それは、一人ひとりのいのちを認めて尊重し 合い、「すべてのいのちを大切にする」という点です。

親鸞聖人が大切にされた『阿弥陀経』という経典には、 極楽浄土を描写するなかで次のように記されています。

池のなかの蓮 れん 華 げ は、大きさ車輪のごとし。青 しょう 色 しき には 青 しょう 光 こう 、黄 おう 色 しき には黄 おう 光 こう 、赤 しゃく 色 しき には赤 しゃく 光 こう 、白 びゃく 色 しき には白 びゃく 光 こう ありて、微 み 妙 みょう 香 こう 潔 けつ なり。

(『浄土真宗聖典─註釈版─』p.122)

色や形、大きさの異なるものが、互いに仏の光に照らさ れて“オンリーワン”の輝きを見せる世界 が仏の 世界 (浄 土)です。その 仏の光に照 らされた時、私たちもまた“オ ンリーワン”の輝きを示し始めるのです。

童謡詩人であった金子みすゞさんは、すべてのいのちを つつみ込む世界に気づいていたのでしょう。長らく埋もれ

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ていた512編にのぼる、みすゞさんの 詩を 世間に紹介され た矢 や 崎 ざき 節 せつ 夫 お さん (1947~)は「私と 小鳥 と鈴 と」の詩につ いて次のような解釈を示しています。

自己中心から自 じ 他 た いち 如 にょ にならない限り、「みんなちが って、みんないい」は生まれない。一人ひとりがすば らしいということだけでなく、誰をも丸ごと認めて傷 つけない、というまなざしに立って初めて成り立つ言 葉だ。 (『金子みすゞ』小学館2009p.93)

「自己中心」「自他一如」とは何でしょう。このことにつ いて、慈悲・慈愛を手がかりに考えてみましょう。

日本を代表する仏教学者である中 なか 村 むら 元 はじめ 博士 (1912~ 1999)は、「子に対 する 親の愛 が『慈悲』に近 ﹅ い ﹅ ものであ ると考えられるから、子に対しては『慈愛』という語が何 の矛盾をも意識されることなしに成立する」(『慈悲』講談社 学術文庫p.174)と述 べています。子に対 する 親の愛 ほど深 いものはなく、わが子の一喜一憂がそのまま、親の一喜一 憂となる。それほどに子に対する親の心は深いものではあ りますが、しかし仏の慈悲と同じ心ではありません。

子に対 する 親の心──その 最も 純粋化した状態は、赤ん 坊に対する母親の心であるといえるでしょう。しかし、こ

の純粋 な心 も、「わが子」だからこそ 成り立つ 親心なので す。逆に言 えば、「わが子」でない 子に対 して人は、同じ

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【解説】すべてのいのちを大切にする「平等」の心 ように接することができません。

私に「身近 な人 」と「そうでない人」──。このよう に、私たちは自分と他人との 間に差を設 けて生きていま す。身近に感じる人に対する思いやりと、そうでない人に 対する思いやりとでは、格段に異なります。身近に感じる ほど、思いやりの程度は強まるのです。そして、愛情がも っとも強まるのは私自身 に対 してです。これが「自己中 心」ということです。

「自己中心」とは、「自分が一番可愛い」ということで す。自己中心の思いの時には、他人に喜びごとがあったと しても、その人に寄り添って共に喜ぶことがなかなかでき ません。すぐに「なぜあの人だけ……」「どうして自分で はないの……」という妬 ねた みの思いが起きてしまいます。逆 に、人に悲 しいことが起こった時には、「自分でなくて良 かった」と胸をなで下ろしてしまいます。このようなあり 方を「自己中心」というのです。

これに対して、私に身近であるか否かを問わず、すべて の人に同じ慈悲の思いを持つことが「平等」です。さらに 言えば、私と他との距離をなくし、私と他とがまさに一心 同体のようになることを「自 じ 他 た いち 如 にょ 」といいます。こうな

って初めて、人の喜びを自分の喜びとし、また人の悲しみ を自分の悲しみとすることができるのです。このような慈 悲心を、仏の慈悲といいます。まさに「自己中心」と「自 他一如」とは天と地ほどの違いがありますね。

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龍谷大学「建学の精神」

金子みすゞさん自身、浄土真宗の門徒の家庭に育ってい ますので、詩の背景には親鸞聖人の教えがあったと思われ ます。親鸞聖人は阿弥陀仏の広大な慈悲を和 わ 讃 さん (和語のうた) に示され、 十 じっ 方 ぽう 微 み 塵 じん 世 せ 界 かい の念仏の衆 しゅ 生 じょう をみそなはし 摂 せっ 取 しゅ してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる

(『浄土真宗聖典─註釈版─』p.571) と詠 うた

っておられます。さらに、この「摂取」の語に註釈し て「摂 せつ はもののにぐるを追は わ へ え とるなり」といわれ、阿弥 陀仏の願いに背を向ける者まで救わずにおれない仏の慈悲 の光のあたたかさを喜んでおられます。

親鸞聖人は、「生 しょう 死 じ (の苦悩を)出 い づべき 道」(『恵 え 信 しん 尼 に 消 息』/前掲書p.811)を求 めて、「救わずにおかない」との大 慈悲 の光 (本願)に出 で 遇 あ われ、限りあるいのちが死によっ て空 むな しく終わらずに、「限りないいのち」となって浄土へ と続く 人生 を見 いだし、歩まれました。そして、「救わず にはおかない」との慈悲 の光の前 では、皆が等 しく 尊い 「御 おん 同 どう 朋 ぼう ・御 おん 同 どう 行 ぎょう 」(同じ道を歩む 仲間)であると教えられま した(『御文章』1-1/前掲書p.1084)。

このような、私たちをありのままに愛おしむ豊かな光に 照らされて生きる道こそが、「すべてのいのちを大切にす る『平等』の心」にほかならないのです。

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確かな依りどころのなかで生きる

確かな依

りどころのなかで生きる

宇宙での長い滞在を終えて地球に帰ってきた宇宙飛行士 が、地球 に降り立 って初めて感じることは、「大地があっ てよかった」ことだといいます。

ロシア初の宇宙飛行士の一人ゲオルギ・ショーニンさん (1935~1997)は、その様子を次のように話しています。

ふたたび私は地上に立った。……大地を見て、私はむ しょうにうれしくなった。ふわふわした初雪が、大地 をかすかにおおっていた。思わず私は、大地の上に転 がって、大地を抱きしめ、頬を押しつけたくなった。

(『地球母なる星』小学館1988)

どこにも依りどころのない無重力空間──。一見、自由 に体を動かすことができそうですが、まっすぐに立ってい ることすら容易ではありません。長い旅路を経て地球に帰 ってきた宇宙飛行士にとって、大地の存在は何よりうれし いものであったことでしょう。私たち人間は、しっかりと した支えがあることで、初めて「立ち上がる」ことができ るのです。

のことは、学校や社会においても同様です。私たちは

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普段、どのようなことも自分の思い通りにコントロールで きると思いがちですが、現実にはそうはいきません。思い

もよらない病気にかかったり、ふとしたことで人間関係が 崩れていったりします。自分の存在を根底から揺るがすよ うな大きな挫折を味わうこともあるでしょう。

そうした、もはや自分の力がおよばない大きな苦悩に直 面した時、生きていくことすらつらく感じることがあって も、おかしくありません。そのような時、一体何が「生き る支え」となるのでしょうか。

親鸞聖人は、あらゆるものを救おうとされた仏の願いを 「大地」に喩 �� えられ、その大地 の上で生 きる喜びを「よろ こばしいことである」と述べておられます。

「自立」──それは決して自分一人 の力 だけで生きるこ とではありません。さまざまな問題 に悩 み、孤独 を抱 え、 生と死との間で揺れ動く不安定な心をもった私たち。そん な私 たちであるからこそ、「大きな依りどころ」が必要で あると「建学の精神」は教えてくれています。

確かな大地の存在に気づかされ、その上で安心していき いきと生きる心、それが「真実 を求め 真実 に生 きる『自 立』の心」なのです。

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【解説】真実を求め真実に生きる「自立」の心

「自立」とは、一般的には「他への従属から離れてひと りだちすること」、あるいは「他の力を借 りることなく、

また他に従属することなしに存続すること」を指す言葉と して用いられています (『日本国語大辞典』第2版)。いずれも

「何者にも左右されず、他を依 よ りどころとすることなく生

きる」というイメージです。「親からの自立」、「社会から の自立」など、現代の社会でしばしば用いられる「自立」

はまさにこうした意味であり、人間が子どもから大人へと 成長するなかで必ず獲得すべき姿勢として重視されていま す。したがって、「他の力を借 りる」というと、どこか 「甘え」があるかのように感じられてしまいます。

しかし一方で、私たちが文字通り「他の力を借りること なく生きること」が可能であるかといえば、必ずしも容易 ではないでしょう。学校や社会のなかで求められる「自 立」と現実とのあり方に大きなギャップを感じることも少 なくありません。

2500年前、インドに誕生した仏教──。その教えの根

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本は「縁起」であるといわれています。釈 しゃく 尊 そん は、人が生 きていく上で必ず直面する「生・老・病・死」にともなう

苦悩の原因を探っていき、その原因が人間の根本的な欲望

や愚かさであることを見出しました。苦悩を生み出す原因 を明らかにし、苦悩から解き放たれる道──。釈尊はそう

した原因と結果の関係、すなわち「縁起」を明らかにされ たのです。

後の 時代になると「縁起」の教えはさらに進展し、「あ らゆる存在 は他 のものとの関係性のなかで存在している」

という相互関係を強調するようになっていきます。一見、

独立 し他 とは区別されて存在しているかに見える「私」

は、実際には「他者」と必然的に結びつき、関わり合いな がら存在しているということ──。それこそがこの世界の 真実のあり方であると示されるのです。

このように、仏教における「私」の見方は、現代に用い られる「自立」する「私」という意味と大きく異なってい ることがわかります。

仏典のなかには、ほかにも「自立」に関する釈尊の大切 な言葉が残されています。

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【解説】真実を求め真実に生きる「自立」の心

アーナンダ(阿 あ 難 なん )よ。このようにして、修行僧は自

らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせ ず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものを よりどころとしないでいるのである。

『大 だい 般 はつ 涅 ね 槃 はん 経 ぎょう 』第2章26/ (

中村元訳『ブッダ最後の旅』岩波文庫p.63)

この言葉は一般に「自 じ 帰 き 依 え ・法 ほう 帰 き 依 え 」「自 じ 灯 とう 明 みょう ・法 ほう 灯 とう

みょう 」という言葉 で知 られる一節です。ここで釈 しゃく 尊 そん は、 「島」を喩 たと えにして、「自らをたよりとし、法をたよりとし て、他をたよりとしてはならない」と説かれています。で

すから一見、他の力を借りることを否定しているかのよう に思えますが、そうではありません。

ここで示されている「たよりとすべき自分」とは、釈 しゃく 尊 そん の説かれた「真実の教え」を依りどころとして生きてい る「私」です。縁起という真実を知らなければ、他と隔絶 した閉じられ た世界 に身を置 いてしまうことになります。

また、阿弥陀仏の誓願を知らなければ、迷いの世界という

真っ暗な大海原をあてもなく漂っていく身となってしまい ます。

釈尊は、こうした仏法という確かな依りどころを得た自 分こそ、本当の意味でたよりとすべきであると示されてい るのです。

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親鸞聖人は、欲望から根本的に離れることのできない自 己のあり方を深く見つめられました。そして、その根源的 な無力さのなかで、「そんなお前だからこそ救わずにはお かない」と呼びかけ続けておられる阿弥陀仏の誓願に出 で 遇 あ っていかれました。その喜びの言葉を、『教 きょう 行 ぎょう 信 しん 証 しょう 』後 ご 序 じょ には、次のように示されています。

慶 よろこ ばしいかな、心 こころ を弘 ぐ 誓 ぜい の仏 ぶつ 地 ぢ に樹 た て、念 おもい を難 なん 思 じ の法 ほう

海 かい に流す。 (『浄土真宗聖典─註釈版─』p.473)

親鸞聖人は、「心を 本願という確かな大地 (弘誓の仏地) に打ち樹 た てること」こそが大きな安心と喜びを得て、いき いきと生きることのできる生き方であると受けとめられた のでした。

地球に帰還した宇宙飛行士は、常に自分を支えてくれて いた大地のありがたさに、あらためて気づきました。

「真実を求め真実に生きる『自立』の心」とは、「私」の 存在を根底から支えて くれる真実の教えに気づかされ、そ の教えを依りどころとして生きる、本当の意味での「自立 心」をいうのです。

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立ち止まり、ふり返り、成長する

立ち止まり、ふり返り、成長する

はじめに、歌を一首、紹介しましょう。

人の持てる長さは言はで

短さをただ言ひちらす人のみじかさ

これは京都女子大学の創設者の一人である甲 か 斐 � 和 わ 里 り 子 こ さ ん(1868~1962)の詠 よ まれた歌です。

和里子さんは、龍谷大学の第5代学長を務められた足 あし 利 かが 瑞 ずい 義 ぎ 先生(1871~1944)の姉です。日本における女子教育に

多大な影響をあたえた教育者であると同時に、仏の願いを 聞いて真実の人生を歩まれた方でもありました。その方の 歌に「内省」の心を見ることができます。

この歌にもあるように、私たちは他人の長所を褒 ほ めるよ りも、他人の短所を論 あげつら うことを常としています。他人に良 いことがあると妬 ねた ましく思い、他人に不幸があるとひそか にほくそ笑む──。実はこれが、私たちの最も大きな短所 なのではないでしょうか。

他人の悪いところはよく目につきますが、自分の悪いと ころはなかなか気づかないも のです。他人の悪い噂は、た とえそれが嘘であっても面白いものです。逆に、自分の噂

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龍谷大学「建学の精神」

は、それが本当であっても不愉快な気持ちになります。私 たちは、ずいぶんと自分勝手ですね。

そんな私たちですから、自身の欠点を知るためには、ま

わりの人たちの言葉をよく聞かなければなりません。しか

し、私たちは自分の欠点を指摘されると、瞬時にカッとな ってしまいます。どうしたらよいのでしょう。

ここでもう一つ、和里子さんの歌をご紹介しましょう。

をしえ子をさとすことばにおのれ先 ま づ

さとさるる身のはづかしさかな これは、教育者として 教え子を諭 さと そうとするその言葉 に、まずご自身が諭されることを詠 うた われたものです。ここ

に謙虚な「気づき」が見られます。このようなあり方は、 実は「建学の精神」にふれていくところに、自然と顕 �� われ てくるものなのです。

これまでに出 で 遇 � った人。これから出遇う人……。多くの 人と、多くの言葉を交わしてください。時には立ち止まり、 ふり返りながら、少しずつ前を向けば良いと思います。わ

が身をかえりみる、内省することを通して、初めて人は成 長できるのです。

多くの良い出遇いを念じています。

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【解説】常にわが身をかえりみる「内省」の心

釈 しゃく 尊 そん は釈迦族の王子として何不自由ない環境 に生 まれ 育ち、妻子にも恵まれたと伝えらえています。しかし、王

城から郊外 へ出 かける際、その城門で「老い」「病い」 「死」という人生 の苦を目の当 たりにし、その 苦の 解決を 求められました。親鸞聖人もまた、「生 しょう 死 じ (の苦悩を)出 い づ べき 道」(『恵 え 信 しん 尼 に 消息』/『浄土真宗聖典─註釈版─』p.811)を 求められ、蓮 れん 如 にょ 上人 (1415~1499/本願寺第8代)も「老 ろう 少 しょう 不 ふ 定 じょう 」の自覚のもと、「後 ご 生 しょう の一 いち 大 だい 事 じ 」(『御 ご 文 ぶん 章 しょう 』/前掲書 p.1204)を願われました。

このように、生死の苦悩 (いのちあるものの苦悩)を超え る道を学ぶことが、仏教を学ぶということなのです。

親鸞聖人は、20年間におよぶ比叡山での学問修行 を経 て、29歳の時に 、法然聖人 (1133~1212)との出 で 遇 あ いを通

して、阿弥陀仏の智慧と慈悲のはたらきのなかに自らが生 かされていると、受けとめられました。

人はいかに死ぬべきか、そしていかに生きるべきか ──。この最大の難問について親鸞聖人は、師である法然 聖人から「愚者になって往生する」と教えられ、「愚者と して生きる道」を歩まれたのです。私たちもまた、親鸞聖 人のご生涯を通して、「愚者になって往生する」「愚者とし て生きる」道を学ぶことが大切ではないかと思います。

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龍谷大学「建学の精神」

では、「愚者になる」とはどのようなことなのでしょうか。

これについて、蓮如上人は次のように述べておられます。

人のわろきことはよくよくみゆるなり。わが身のわろ きことはおぼえざるものなり。わが身にしられてわろ きことあらば、よくよくわろければこそ身にしられ候 ふとおもひて、心中をあらたむべし。ただ人のいふこ とをばよく信用すべし。わがわろきことはおぼえざる ものなるよし仰せられ候ふ。

『蓮如上人御一代記聞書』195条/(『浄土真宗聖典―註釈版―』p.1293)

人は、自身の悪業 (悪い行ない)についてはなかなか気づ くことができず、逆に、他人の悪業についてはよく目につ くということです。しかし、他人が私に対して私の悪業を 指摘することは容易なことではありません。仮に指摘され たとしても、その指摘を受け容 い れることは困難です。自身 の悪を指摘されると瞋 しん 恚 に (怒り)の炎が一気に燃え上がり、 大喧嘩になることもよくあります。その結果、他人が私の 悪を指摘することは、しだいに少なくなっていきます。

親鸞聖人が浄土真宗の祖師として仰がれた高僧の一人で ある善 ぜん 導 どう 大師 (613~681)は、「自 じ 身 しん の衆 しゅ 悪 あく (多くの悪)は総 そう じて変 へん じて善 ぜん となし、他 た の上 うえ に非 ひ なきをば見 み て是 ぜ ならずと

なす」(『観経四帖疏』/『浄土真宗聖典─七祖篇(註釈版)─』

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【解説】常にわが身をかえりみる「内省」の心

p.392)といい、自 じ 是 ぜ 他 た 非 ひ (自己は正しく他人が間違っている)に 陥 おちい るのが人であると指摘しておられます。このような「自 分だけが正しい」と思い込む愚かな自己のすがたを、静か に、しかし厳しく問うていく姿勢が、実は愚者として生き る道なのです。これを平易な言葉になおせば、「自己を見つ める」「自己をかえりみる」ということになるでしょうか。

親鸞聖人は「よくみづからおのれが能 のう (自分の能力)を思 し 量 りょう せよ (考えよ)」(『顕浄土真実教行証文類』/『浄土真宗聖典─ 註釈版─』p.256・381)と記しておられます。

たまたま街の掲示板に、次のような言葉を見つけました。

人に会う時は春のように温かい心で 仕事をする時は夏のように情熱的に 物事を考える時は秋のように澄んだ心で 自分をいましめる時は冬のように厳しい心で 自分のすがたを見つめることは厳しいことです。難しい ことです。けれども、「自分 の悪に気 づかされることによ って初めて仏の慈悲がありがたく感じられる」と親鸞聖人 も教えてくださっています。愚者として仏と共に生きるこ とは、肩肘張らずに生きることのできる道にほかならない のです。

さて、皆さんは「道楽」という言葉をご存じでしょう

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龍谷大学「建学の精神」

か。今では「身持ちのよくない者」「なまけ者」という意 味に使 われていますが、本来は「芸能その 他の道に楽し む」という意味の言葉でした。茶道にせよ剣道にせよ、い かなる道も極めた者にとっては、そのままがすべて楽しみ になるのです。親鸞聖人 の歩 まれた「愚者としての仏道」 もまた、楽しき道であったと思われます。

ところで、内省の「省」という字は、「少」と「目」で 成り立 っています。「目を細 める」という動きを表わす字 だそうです。目を細める時は、いつでしょうか。遠くにあ って見えにくい物を見ようとする時に、目を細めると少し 見やすくなることがあります。つまり「内省」とは、自分 自身の心の内を、目を細めて見ようとすることなのです。

しかし、私たちが自分の心の内を見ることは容易ではあり ません。なぜならば、真っ黒な煩 ぼん 悩 のう に覆 おお われ尽くされている からです。自らが為 な した一つひとつの行為について反省する ことも大切なことですが、同時に一つひとつの行為の根本に ある煩悩にも眼 め を向けていかなければなりません。

そのためには、自己の甘えをできるだけ排除し、真理を悟 られた仏の教えに照らして、自身をあるがままに見ることが 大切になります。これが、本当の意味での「内省」です。

このような内省は、私たちをありのままに愛おしむ豊か な光に照らされて初めて、可能となるのです。このことを 「建学の精神」は教えてくれています。

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“あたり前”の先にある喜び

感謝の心を持ちましょうとは、小さな頃からよく言われ ることですが、無理矢理に感謝しようとしても思うように はいきません。では、感謝の心はどうしたら生まれてくる のでしょうか。

感謝の思いを表わす「ありがとう」という言葉は、形容 詞「ありがたい」という言葉が変化したものです。「あり がたい」は「有 あ り難 がた い」、つまり「めったにない」という ことです。ですから、感謝の心とは私を取り巻くさまざま な事柄に対して、あたり前ではないと感じる心が、その本 質であると言ってよいでしょう。

中国の故事成語に「飲 いん 水 すい 思 し 源 げん (水を飲みて源を思う)」とい う言葉があります。一杯の水を飲む時も、この水がどうい う経緯で今ここにあるのかということに思いを致すべきだ と教える言葉です。私たちにとって、水は水道の蛇口をひ ねれば出るもので、そんなことは“あたり前”と思っていま す。しかし、本当にそうかと問われたら、どうでしょう。 私たちの人生から喜びを奪っているもの、それは案外、私 たち自身のこうした感性の鈍さなのかも知れません。

明治から昭和のはじめに、山陰地方 に足 あし 利 かが 源 げん 左 ざ さん (1842~1930)という浄土真宗 の教 えを 深く喜 ばれた方がお られました。この方は、田んぼで農作業をした後に泥だら

26 “あたり前”の先にある喜び

龍谷大学「建学の精神」

けになった手足を洗うと、いつも自分の手を拝んで「なん まんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏をされていたといいま す。一緒にいた孫が「おじいちゃん、なんで 手を拝む の?」と訊 き くと、源左さんは「80過ぎてもなあ、こうして 元気に働かせてもらえる手をもらっての、ありがたいこと だ。それにな、親からもらった手は強いもんだのう。80年 使ってもな、いっかな (少しも)、さいかけせえでもええけ えの」と応えられたそうです。

「さいかけ」とは山陰地方の方言で、摩耗した鋤 すき や鍬 くわ の 刃先 の鉄を付け替 えることで、つまり“手は付け替 えなく ていいからね”と言われているのです。なるほど、農作業 の道具は、使えば折れたり摩 す り減ったりして、使い物にな らなくなります。しかし、親からもらった手は、どんな道 具より丈夫な素晴らしい宝物だ、と喜ばれているのです。

皆さんはこのエピソードを聞いてどう思いますか。変わ った人?……そうですね、自分の手を拝んで喜ぶなんてち ょっと変わって いますね。しかし源左さんのこの喜びは、 今の私たちが見失いがちな喜びなのではないでしょうか。

源左さんの瑞 みず 々 みず しい感性は、本学の「建学の精神」でも ある真実の教え(浄土真宗)によって育まれたものです。私 たちを愛おしむ豊かな光に照らされ、“あたり前”が“あたり 前ではなかった”と知らされていくことで、「生かされてい ることへの『感謝』の心」が育まれていくのです。

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【解説】生かされていることへの「感謝」の心

お念仏をしながら、自分の手を拝んでいたという源左さ んのエピソードを紹介しました。ここでは、その源左さん が喜ばれた教え(浄土真宗)について話をしながら、そこか ら育まれる「感謝」の心とはどういうものであるのかにつ いて、もう少し考えていきたいと思います。

真実の教え(浄土真宗)を顕 あき らかにされた親鸞聖人は、私

たち一人ひとりのすべてに仏(阿弥陀仏)の大いなる願いが かけられていると教えてくださいました。それは「生きと し生 けるもの全てを迷いから悟りへと転換させたい」(「建 学の 精神」)という願いに他なりません。この願いは、「愚 かなお前だからこそ捨ててはおけない。私のすべてをお前 に恵み与えてでも、迷いを離れた安らかな仏にせずにはお かない」という、やむにやまれぬ大慈悲心から起こされた ものです。

そもそも、私たちはどこからやって来て、そしてどこへ 向かっているのでしょうか。この「いのち」が終わったら どうなるのでしょうか──。

このことは、私たちにとってとても重要なことなのです が、しかし同時に自分ではどうにも手出しのできない問題 でもあります。仏典にはこうした私たちの「いのち」のあ りさまについて、「激流に翻弄され、ただ流されていくし

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龍谷大学「建学の精神」

かない筏 いかだ のようである」と記されています。

阿弥陀仏の「迷いから悟りへと転換させたい」という願 いは、このような人間の誰しもが抱えている「いのち」の 問題、人生の根本的な問題 に対 して、「あなたに代わって この大問題を私が引き受け解決しましょう」と誓われた願 いなのです。

こうした仏の願いを支えとする人は、もはやあて処 ど のな い人生を送り、空 むな しい「いのち」を生きることはありませ ん。「安らぎに満ちた浄土へと 続く 人生」という確かな方 向性と、「この上ない悟りを 得た仏 となるいのち」という 尊い価値を恵まれて、心から安心して生き、安心して「い のち」を終えていくことができるのです。

このような 教え (浄土真宗)からすれば、「生かされてい ることへの『感謝』の心」とは、いったい何でしょうか。 そこにはやはり、「阿弥陀仏 の願 いのなかで“生かされて いる”」、あるいは「仏となるいのちとして“生かされてい る”」といった前置きが意図されていると受けとめるべき でしょう。すなわち、私たちを救おうと願われている阿弥 陀仏のご 恩に対 する「感謝」(これを仏 ぶっ 恩 とん 報 ほう 謝 しゃ といいます)こ

そまた、「建学の精神」(浄土真宗) によって知らされる 「感謝」の心に他ならないのです。

親鸞聖人は、このような仏のご 恩に対 する感謝 の心 を、

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【解説】生かされていることへの「感謝」の心

著作のなかでさまざまに述べておられます。その一つに 「恩 おん 徳 どく 讃 さん 」といわれ親しまれている和 わ 讃 さん (和語のうた)があ ります。

如 にょ 来 らい 大 だい 悲 ひ の恩徳は身を粉 こ にしても報ずべし

師 し 主 しゅ 知 ち 識 しき の恩徳もほねをくだきても謝すべし (「正像末和讃」59/『浄土真宗聖典─註釈版─』p.610)

この和讃の意味は、「阿弥陀仏の“必ず救い取 るぞ”の ご恩には、私の身を粉にしても報ずるべきだ。この教えを 顕 あら わし伝えてくださった釈 しゃく 尊 そん や浄土真宗の祖師の方々の ご恩にも、私の骨を砕いても感謝するべきだ」というもの です。

「身を粉にしても」「ほねを砕きても」という、実に厳し い表現が出てきますが、親鸞聖人は決して「このようにせ よ」と他の人に向けて強制しておられるわけではありませ ん。どれだけ尽くしても返しきれない大きなご恩を恵まれ ている、そのことをご自身の上に、深く喜ばれている和讃 なのです。

以上のように、浄土真宗における「感謝」の心とは、そ の中心には私を救いとってくださる阿弥陀仏のご恩に対す る「感謝」があります。ですからそこには、毎日の食事や

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龍谷大学「建学の精神」

自然の恩恵に対する感謝などの、一般的な倫理道徳で語ら れる範 はん 疇 ちゅう (カテゴリー)には収まりきらない、深い内容があ るのです。

しかし一方で、このような宗教的な喜びは、私たちの日 常的な感謝 の心と 無関係ではありません。「建学の精神」 では次のように述べています。

阿弥陀仏の願いに照らされ、自らの自己中心性が顕 あら わ にされることにおいて、初めて自己の思想・観点・価 値観等を絶対視する硬直した視点から解放され、広く 柔らかな視野を獲得することができるのです。

あなたを救いたいという 仏の願 いを知ることは、「放っ てはおけない」と願いをかけられている私自身のすがたを 知ることでもあります。そして、自己中心的な私であると いう気づきは、私を取り巻くあらゆる物事の受けとめ方に も、おのずから変化をもたらすに違いありません。その変 化が「広く柔らかな視点を獲得する」ということです。

もし日々の些細なことにも、瑞 みず 々 みず しい喜び、感謝の心を 感じられるならば、私たちの人生は今よりも、もっと豊か なものになるはずです。

お念仏をしながら自分の手までも拝まれたという源左さ んのエピソードは、そんな豊かな人生の見え方があること を物語っていると言えるでしょう。

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平和の心

平和の心 国境なんてないんだよ

暴漢の凶弾に斃 たお れた元ビートルズのジョン・レノンさん (1940~1980)は、名曲「イマジン (Imagine)」のなかで「想 像してごらん、国境なんてないんだ」と歌っています。

歴史地図を見ると、国境線を引いて国が色分けされてい ますが、しかし、その 形は 時代ごとに変わっています。

1989年11月、第2次世界大戦後の東西ドイツの分断を象徴 するベルリンの壁が崩壊したように、国境こそ人間の欲望 が作り出した虚構だと言えるでしょう。

1992年9月、日本人として初めてスペースシャトルに搭 乗した毛 もう 利 り 衛 まもる さん (1948~)は、宇宙飛行 を終 え、帰還後 の会見で次のように語っていました。

地球には、本当に国境なんかないし、日本だけを見よ うとしてもすぐほかの国が見えてきてしまう。地球を 全体として見ることができるのは、人類の進化といっ ていいのではないか。

地球は国境のない一つの共同体であることを、宇宙空間 から証言した名言です。それでも人類には目に見えない越 えがたい 壁が横 たわっていることは確かです。政治、経 済、宗教などが複雑にからんだ国家間の対立、民族間の紛 争は21世紀に入った今も、昔と変わらず起きています。

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国境なんてないんだよ

龍谷大学「建学の精神」

遠く インドではブッダ (釈尊)の晩年に、釈迦族が滅亡 するという一大事件 が起 こりました。釈迦族 の人 たちか ら、母の生まれを侮辱されたことに怨みを抱いた隣国の王 が、その報復として大虐殺を行なったのです。このような 悲惨な出来事が、現在も跡を絶ちません。平和を願われた ブッダ(釈尊)は次のように語っておられます。

実にこの世においては、怨みに報 むく いるに怨みをもって したならば、ついに怨みの止むことはない。怨みを捨 ててこそ止む。これは永遠の真理である。

(『ダンマパダ(法句経)』第5偈)

怨みの連鎖は苦悩を深めるだけです。決して安らぎをも たらしません。しかし、だからといって怨みを捨てること も容易なことではありません。

この言葉によってブッダ (釈尊)が伝 えようとしたのは 「慈悲」の大切さです。立場 も考え方も違う 者、ましてや 敵対する者が自己主張を繰り返すだけでは、相手に理解さ れることはありません。他者を慈しむ心を自らに育んでい く行為によって怨みを 超えて平和を実現していく道が開か れます。

ブッダの教えを今に伝える「建学の精神」は、そのこと を私たちに語りかけているのです。

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【解説】人類の対話と共存を願う「平和」の心

コーサラ国 (紀元前5~6世紀頃、北インド に栄 えた大国で、 釈迦族を支配下 に置 いていた)の王位 に就 いたパセーナディ (波 は 斯 し 匿 のく )は、ブッタ を世に出 した釈迦族から 妃を迎 えよう と望み、強く迫りました。

釈迦族たちは、パセーナディ王の高慢な態度に腹を立て ますが、拒否すれば軍隊が国境 を越 えて 押し寄 せてきま す。その頃、釈迦族の長老マハーナーマ (摩 ま 訶 か 摩 ま 男 なん )には、

召使いとの 間に生 まれた容姿端麗 な娘 がいました。そこ

で、釈迦族が生き残るためと、その女性の素性を隠して嫁 がせることにしました。マハーナーマはパセーナディ王に 言います──「この者は私の娘です。我らは親族となりま しょう」と。

パセーナディ王はその女性を妃に迎え、生まれた子がヴ ィドゥーダバ (毘 び 琉 る 璃 り )でした。ヴィドゥーダバ王子 が少 年であった頃、父王に勧められて母の故郷であるカピラ城 を訪れました。しかし、母の素性を知っている釈迦族の人 たちから辱めをうけることになります──。

ある時、遊びに夢中になり、釈 しゃく 尊 そん を供養するために用 意してあった座を汚してしまいました。それを見た釈迦族 の人たちは、怒りも露 あら わに「汚らわしい召使いの子!」と 罵 ののし

って、ヴィドゥーダバ王子を棒で打ち、地面に突き倒し

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龍谷大学「建学の精神」

たのです。このような屈辱的な仕打ちに怨みを抱き、ヴィ ドゥーダバ王子は釈迦族への復讐を誓ったのです。

その後、王位を継承したヴィドゥーダバは、影のように 彼に付きそうバラモン階級の侍者の言葉にあおられ、つい に積年の怨みを晴らすため、釈迦族の国に軍隊を派遣しま した。

釈迦族の都であるカピラ城に向かう途中、王は一本の枯 れ樹の下 に、独り釈 しゃく 尊 そん が坐 っておられるのに気づきまし た。釈尊はヴィドゥーダバ 王に語 りかけます。「親族 の蔭 は涼しい。他人にまさる」と。ヴィドゥーダバ王は、釈尊 が親族として自分 の身を案 じてくださっていることを知 り、軍隊を引きあげます。

そして2度目の出兵の時も、釈尊が再び枯れ樹の下に坐 られて、「釈迦族 の人 びとのことを案じている」と話され るのを聞き、思い止まります。しかし、ヴィドゥーダバ王 が3度目の出兵を行なった時、釈尊はついに釈迦族滅亡の 時機が到来し、何人にも止めることができないことを察知 され、もはや樹下に坐られることはありませんでした。

カピラ城を攻撃するヴィドゥーダバ軍に対し、釈迦族の 人たちは 矢を射り 抗戦しますが、「殺生しない」という釈 尊の戒め (戒律)を固く守 っていたので、決して敵兵 を殺 すことはありませんでした。その時です──。

「開門せよ。さもなければ一人残らず殺してしまうぞ」 という王の脅 おど しに対し、勇ましく立ち向かう一人の童子が

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【解説】人類の対話と共存を願う「平和」の心 現われ、ヴィドゥーダバ軍を退ける武勲を立てます。しか し、釈迦族 は彼の 行為 を許 さず、「殺生しない」という掟 を無視して釈迦族の名誉を汚したと批難して、その童子を 追放してしまいました。

門を開くか閉ざすか──、その決断が迫られるなか、釈 迦族はついに降伏して城門を開け放ちました。ヴィドゥー ダバ軍はカピラ城内になだれ込み、悲しいかな、釈迦族の 大虐殺が始まりました。

その時、王の外祖父であった釈迦族の長老マハーナーマ は、孫の ヴィドゥーダバ 王に 懇願しました。「私は今 から 池に入ろう。水中に潜っている間に逃げのびた者だけは許 してくれないか」と。王は承諾し、マハーナーマは水中に 入りました。しかし、いつまで経 た っても池から上がってき ません。水中を探させると、マハーナーマは水中の樹の根 に頭髪を結んで、すでに死んでいたのです。

事情を知った孫のヴィドゥーダバ王に後悔の念が起こり ましたが、虐殺はなおも続きました。こうして釈迦族は滅 びてしまいました。

(『増 ぞう いつ 阿 あ 含 ごん 経 ぎょう 』「等 とう 見 けん 品 ぼん 」第32(2)より取意)

仏教の視点の特徴は、原因と結果 (因果)の関係 を明ら かにしたことです。過去を変更したり、無かったことにす ることはできません。過去の原因から目を背け、現在の結

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龍谷大学「建学の精神」

果だけを見て、虐殺を行なったヴィドゥーダバ王を非難し ても、何も解決しないのです。では、どうすればよいので しょう。

釈 しゃく 尊 そん は「枯れ樹 」の傍らに坐り、怒りに燃えるヴィド ゥーダバ王に対して、同じ釈迦族の人間としてあたたかく 受け容 い

れ、優しく声をかけられました。これを受けて、ヴ ィドゥーダバ王は軍隊を引きあげました。結局、それは一 時的なものに終わりましたが、この釈尊の示された慈悲心 (慈しみと悲しみの心)による優しさにこそ、険しいながらも

人類の共存する道が見出せるのではないでしょうか。

なるほど、私たちの生きざまは自己中心的です。なかな か怨 おん 親 しん (怨みと親しみ)を超 えて平等に、人を慈 しみ悲しむ ことなどできません。それほどに、私たちの 心の奥 には、 差別 や争 いへと通ずるエゴ の心 (我 が 執 しゅう )が潜 んでいるので す。しかし、そんな私たちの愚かなすがたをすでに見抜い ておられた釈 しゃく 尊 そん は、仏の 大慈悲心である阿弥陀仏 の願い (浄土真宗)をお説きくださいました。

この心にふれて自己のあり方を見つめ、感謝の思いをも った時、自己中心的な私たちの愚かな心にも「人を思いや る優しい心」が自然と顕 あら われるようになるのです。

ここに、他者との対話を可能にする「平和」への道が開 かれていくことを、本学の「建学の精神」は教えてくれて います。

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龍谷大学「建学の精神」解説

龍谷大学「建学の精神」解説

最初に掲げられている「建学の精神」について、少し話 をしておきましょう。

まず、「建学の精神」という場合の「建学」とは、学校

を創立・創設することですが、それぞれの学校は創設され るにあたって、固有の理念や目的を持っています。そして

その理念や目的として表現される根本の「精神」が、その 後の学校の歴史のなかに流れ、あるいは展開して、学校の 運営や教育・研究が行なわれているわけです。

つまりこの学校はどういう精神でもって運営され、研 究・教育がなされ、どのような人を育てようとしているの

かという、その根本の「精神」を「建学の精神」というの です。

国公立の学校に較べて、特に私立学校はその多様性に特 徴があり、教育や研究における個性的貢献が学校の存在そ のものの意義を保証しているというところがあります。た

だし私立学校といえども、ことに教育においては公共性を 無視するわけにはいきませんが、私立学校が一定の公共性 を保ちつつも、独自の個性や多様性をもって社会に貢献す ることは、多様な現実の社会を維持する上でも重要な意味 を持っていると考えられ、その意味で私立学校の建学の精

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龍谷大学「建学の精神」

神は大きな意味をもって扱われることになるわけです。

さて、龍谷大学の「建学の精神」は学則などにも示され ているように「浄土真宗の精神」です。この場合の「浄土 真宗」とはいわゆる仏教の「宗派」を表わすものではあり ません。親鸞聖人によれば、それは『無量寿経』の教えで あり、「阿弥陀仏 (如来)の誓願 (本願)の救 い」を意味す る言葉です。

この阿弥陀仏(如来)の誓願(本願)とは、生きとし生け るものすべてを救おうという誓いであり願いのことです が、その救いとは、この「本願 が起 こされた理由」と、

「本願のはたらきのありさま」を 聞き信 じたところに成立 すると、親鸞聖人は示されました。

その「本願が起こされた理由」とは何かと言えば、私た ちが煩 ぼん 悩 のう (むさぼりの心、怒りの心、道理を知らぬ愚かな心、など) によって生きている迷いの存在であったから、如来は本願 を起 こされたのであるということです。言い換 えるなら、 私たち自身のありさま について 聞き 知 ることが、「本願が 起こされた理由」を聞くことにほかなりません。

また、「本願のはたらきのありさま」を聞くとは、その 迷いの私たちをこそ救わねばならないと動いていてくださ る如来について聞き知るということです。すなわち、私た ちを最後にはブッダ (仏)という最高の存在に成長させよ

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龍谷大学「建学の精神」解説

うとはたらき続けている如来について聞かせていただく、 ということになるわけです。

さて、「浄土真宗の精神とは、生きとし生けるもの 全て を、迷いから悟りへ転換させたいという阿弥陀仏の誓願 」 に他ならないと表わされています。

そして、「迷いから悟りへ転換 」と言われる、その「迷 い 」とは何かと言えば、「自己中心的な見方によって、真 実を知らずに自ら苦しみをつくり出しているあり方」と示 されています。

仏教では、迷いの存在(凡 ぼん 夫 ぶ )から悟りの存在(仏)へと 成ることを「転 てん 迷 めい 開 かい 悟 ご 」といいますが、これこそ世界中の あらゆる仏教徒 が求 めているものです。「迷い」が「苦」 という結果 を招 き、「悟り」によって本当の「楽」が 得ら れるのですから、その「苦」の解決こそが仏教の目的であ るということになります。

しかしながら如来 (阿弥陀仏)は、私たちをご覧になっ て、私たち自身にその「苦」を解決する能力はないと見ら れ、如来 自身の本願によってそれを成 な し遂 げさせようと、 はたらいてくださいました。それが如来の本願 (誓願)で す。ですから「真実を求め、真実に生き、真実を顕 あきら かにす る」といわれている「真実」とは、本来、私たちにあるも のではなく、如来(阿弥陀仏)に属することなのです。

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龍谷大学「建学の精神」

私たちの「真実のすがた」についても「私たちの真実の 救い」についても、本当は如来のはたらきによるしかない ということ、逆に言えば「真実の私たちのすがた」を知る ことも、「真実 の救 い」の成立も、如来より与えられて初 めて私たちの上に実現するということです。

「自らの自己中心性が顕 あら わにされる」ことも、「自己中心 性を離れ、ありのままのすがたをありのままに見る」こと ができるようになって、「自己の思想・観点・価値観等を 絶対視する 」ような「硬直した視点から解放され 」て、

「広く柔 らかな視野を獲得することができる 」のも、如来 の本願によって成立するわけですから、それを「阿弥陀仏 の願いに照らされ」と表わされているわけです。

この本願 (誓願)の精神すなわち「浄土真宗の精神 」に よって、さまざまな縁によってしか存在することができな い私たち自身の真実のすがたが知らされ、私たちのあるべ きすがたが顕らかになります。

また、この「阿弥 陀仏の願いに生かされ、真実の道を歩 まれた」具体的な存在の代表が親鸞という人でありました

ので、「親鸞聖人 の生き方に学ぶ 」ということが示されて もいるわけです。

ひるがえって仏教は、人間の苦しみは煩悩によって変わ りゆくものに執われることによって起こっていると教えま

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龍谷大学「建学の精神」解説

す。そして自ら煩 ぼん 悩 のう によって縛りつけられ、執 �� われること

によって「苦」という結果を招いているのであるから、そ の煩悩から心を解放すべきであると教えます。

しかしながら一方で、たとえば「欲」の心は、私たちに とっては行動の原動力にもなっています。その「欲」の現 われ方は多様ですが、私たちのさまざまな行動の多くがこ

の「欲」につながっているとも言えましょう。

それは「名声 を得 たい」「お金持ちになりたい」などと

いう「欲」だけでなく、「研究を成功させたい」「人々を幸 せにしたい」などという「意欲」も含めて、たくさんの 「欲」がうごめき、あるいは 競い合 っているのが現実 の社 会であるとも言えるのです。

人間の社会では必ずしも否定される「欲」ばかりではな いように思われますが、しかしどのような「欲」であって も、それに何の制御も加えられることなく、かえりみられ ることがない状況になるならば、それは「むさぼり」とい う悪 あ しき「欲」になってしまう恐れがあります。

そして、それによって私たちの社会は単なる競争社会に なり、弱肉強食の世界に陥ってしまうと考えられます。そ

うなれば世界は今よりさらに明確に、勝者と敗者を分断す る社会を形成し、いわゆる「格差社会」の状況は、いよい よ顕著になっていくようにも思えます。つまり「欲」の力

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龍谷大学「建学の精神」

は、私たちの行動の原動力になると同時に、私たちの社会 の崩壊のもとにもなり得ると考えられるのです。

そうなると次に、例えばこの「欲」の「力」をどのよう に扱い、どの「方向」に向けるべきか、いかにコントロー ルすべきかということが問題になってきます。その時、い ったい何が本当で、真実であるのかということを問い、私 たちがどのように考え、いかに向かうべき方向を定めるべ きかという指針を持っていることは、大きな意義を発揮し てくるものと思われます。

そしてそこに、「浄土真宗の精神」として龍谷大学の 「建学の精神」が定められていることの意味があります。

さて、「建学の精神」を具現する心として以下の5項目 がまとめられていますので、少し考えておきましょう。

……「平等」とは、英語では“equality”とか“impartiality” などと訳されますが、仏教でいう「平等」とは単なる「同 等」という意味ではありません。

生きとし生けるものは、さまざまな縁によって種々の異 なったすがたをしているけれども、すべての者が等しく仏 になるという意味で、平等であると言えましょう。特に如

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龍谷大学「建学の精神」解説

来(阿弥陀仏)の本願の眼差しにおいて、私たちが皆、その ような尊い「いのち」であると見られている点で平等なの です。そのような「眼 まなこ 」をいただいた時、それぞれの良さ を認め尊重するあり方が顕 あら われます。このことを「建学の 精神」は伝えようとしています。

……一般に「自立心」といえば 他の 援助や支配 を受 けず、 自分だけの力で物事を行なっていこうとする気持ちのこと をいいますが、ここでは「真実を求め真実に生きる」謙虚 な心を「自立」の心としています。

前に見たように「真実」は如来の世界に属することです

から、「真実 を求 める 」とは如来 の救 いを求めること、言 い換えれば如来の眼差しからする人間観・世界観を受け容 � れ、それを確かな依りどころにするということです。そし

て、「真実 に生 きる 」とは、その如来の真実のあり 方を依 りどころとした謙虚なあり方こそが、本当の「自立」の心 であるということを示しています。

……「内省」とは自己をかえりみることを言いますが、本 当の意味で自己をかえりみるということは、実はかえりみ

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龍谷大学「建学の精神」

ようとしている自己そのものを知ることなのです。しか

し、その能力のない私たちに、この私のすべてを映し出し てくださるのが如来(阿弥陀仏)という“鏡”です。

その“鏡”に映し出されて初めて、自己のありのままのす がた、すなわち愚かな私のすがたをかえりみることができ るのです。これこそが本当の意味での「内省」であり、親 鸞聖人の示されるところなのです。

……私たちは普通に生きていると、自分が生きているので あって、なかなか「生かされている」という感覚にはなら ないかも知れません。

しかし、わかりやすいところで言えば、私たちが眠って いる間も、肺は呼吸し心臓は動いてくれているように、さ まざまな条件が関係し合い、たまたま整っているからこそ 生きているのであると、仏教は教えてくれています。

そして、そのような 私を ブッダ(仏)という最高の存在 に成長させてくださるのが如来であると知った時、私たち に「感謝」の心が恵まれます。

この如来(阿弥陀仏)の光に照らされて、“あたり前”のこ

とが“あたり前ではなかった”と知らされた時、またそこに 「生かされている」という「感謝」の心が恵まれるのです。

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龍谷大学「建学の精神」解説

……私たちは対話と共存を願っていると口に言うことはあ るかも知れませんが、煩悩のうずまくこの世界は、その実 現を阻 はば んでいます。

しかし「浄土真宗」の「浄土」は、如来(阿弥陀仏)の教 化の行 きわたる世界であり、怨み・怒り・偏見などのな い、私たちの理想とする平和な世界です。

このような浄土世界が示されているということは、そう

ではない現実を批判して、悔い改めよと教え諭 さと しているこ

とになります。理想がなければ、私たちは行くべき方向を 見失い、悔い改める機会を失います。

ここに、いのちを見つめ、「平和 」を実現しようとする 尊い心が生まれるのです。

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龍谷大学「建学の精神」

むすび……そしてはじまり

龍谷大学の願い

本学は、真実 (浄土真宗)の教 えにふれることによって、 自己を深く見つめ、真 しん 摯 し に生きることのできる人間を育成 しようとして建てられた大学です。

近年、深い悩みを持ち、自らいのちを絶ってしまう人を 見かけます。悲しいことです。

夏目漱石の小説『草枕』には、 智 ち に働 はたら けば角 かど が立 た つ。情 じょう に棹 さお させば流 なが される。

意 い 地 じ を通 とお せば窮 きゅう 屈 くつ だ。兎 と 角 かく に人 ひと の世 よ は住 す みにくい。

(『草枕』岩波文庫1929/現代かな遣いに改める)

という有名な言葉が出てきます。思い通りにならず、人と 角突 き合 わせて暮らすところには、常に 苦悩 が生 まれま す。まわりが見えなくなり、孤独感にさいなまれることも 多々あることでしょう。

しかし、実は皆さんのことを深く思い、心配してくれて いる 人が必 ずいます。そのことにまず、気づいてくださ い。

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むすび……そしてはじまり 龍谷大学の願い

心の病を抱 えて通院していたある学生は、「誰も 親身に 自分のことを考えてくれない」と深く悩み、いのちを絶と うとしました。しかしまさにその時、「よしいいぞ、そん

なに苦しいなら、お父さんも一緒に死んでやる」と、自分 をしっかりと抱きしめ、涙してくれた 父の深い 愛情にふ れ、心の 平穏 を取り戻 すことができたと言います。また、

ある男性は思い詰めて自死を考えたが、ふとした縁で仕事

を手伝った折りに「本当に助かった、ありがとう」と言わ れ、晴々とした表情をして帰っていかれたと言います。

ただの一人も必要のない人など、この世にはいません。

大切に思い、受けとめてくれる人が必ずいるのです。しか

し、視野が狭くなった時には、自身を大切に思い、受けと めてくれる存在が、見えなくなります。その存在が見える 尊い「眼 まなこ 」を与えてくださるのが釈 しゃく 尊 そん (ブッダ)の教 えで あり、本学の「建学の精神」なのです。

皆さんは、釈尊が何を説かれたか、ご存じですか? 実は、「いのちの儚 はかな さ」と「真実 の救 い」を説かれたの

です。今から2500年前にインドの地に現われ出られた釈尊 は、「人生は苦である」と説 せつ 諭 ゆ されました。

人は、生まれ出ずる苦悩に始まり、老いの苦悩、病の苦 悩、死の苦悩、あるいは大切な人を失う愛 あい 別 べつ 離 り の苦悩、軋 あつ 轢 れき のなかで憎しみ合う怨 おん 憎 ぞう 会 え の苦悩、望むものが得られな

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龍谷大学「建学の精神」

い求

ぐ 不 ふ 得 とく の苦悩など、身心のすべてにわたって苦悩し続け

(五

ご 取 しゅ 蘊 うん 苦 く )、何かあると「死ぬのではないか」と恐怖しな がら、儚 はかな い人生を終えていくのです。若い時にはなかなか

気づきませんが、世間にはそれほどに苦悩が満ち満ちてい るのです。

世の中には苦悩のあまり「死にたい」と思う人がいる反

面、「生きたい」と思いながらも死んでいかなければなら

ない人もたくさんいます。癌のために幼い子どもを遺 のこ して 死んでいかなければならなかった人、地震による津波の被 害から大事な家族を守るため自身を犠牲にした人、あるい

は病気や事故などで先立っていかざるをえなかった 幼い 「いのち」……。

生きること自体が難しい──、それが私たちの世の中で す。では、私たちはどのように生きていけばよいのでしょ うか。また、必ずやってくる死を私たちは、どのように迎 えたらよいのでしょうか。

この問いに対する答えを求めて 若き日の釈 しゃく 尊 そん (シッダー ルタ王子)は出家されました。そして、悟りを開かれた後、 「この世のものは悲しいかな、すべて儚 はかな くなりゆく。しか

し死の恐怖を解決し、生きる依りどころとなる尊い教えが あるぞ」とお示しくださったのです。それが阿弥陀仏の誓 願(浄土真宗)でした。

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むすび……そしてはじまり 龍谷大学の願い

親鸞聖人もかつて、20年にわたる学問と修行 の果 てに、 「どう生きるべきか、どう死ぬべきか」と 深く悩 まれまし

た。そして、阿弥陀仏の誓願 を聞 いて、「この教えしかな かった」と感動し、深く喜ばれたのです。

こうして、深い悩みの果てに親鸞聖人もまた、しっかり とした「寄 よ る辺 べ 」を得られました。私たちの「寄る辺」は 普通、仕事であったり、財産であったり、家族であったり

と、さまざまですが、しかし悲しいことに皆、失われてい きます。

親鸞聖人 の得 られたものは、失われることのない真実 (阿弥陀仏の誓願)でした。「必ず救い取 るぞ」の願いをいた

だいて、今日の尊い一日を真摯に生きる暮らしを親鸞聖人 は送られたのです。

わが子を亡くした悲しみのうちにあった方が、浄土真実 の教え(浄土真宗)を聞いて詠 よ まれた詩のなかに、

涙、涙、涙の故に み仏は浄 きよ きみ国を建てたまいけり

という言葉があります。誰もがみな迎える家族の死──。

この詩の言葉には、悲しいなかで家族の死を乗り越えて生 きていく尊い道(生き方)が示されています。

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龍谷大学「建学の精神」

「建学の精神」(浄土真宗)を聞 いてどうなるのかと、皆 さんは思われることでしょう。

「建学の精神」は、私たちを映し出す“鏡”です。この“鏡” の前 では、自分をごまかすことができません。「建学 の精 神」の教えるところを深く受けとめると、人は「いのちの 真実」を見つめ、自他のいのちが平等であることに気づく

ようになります。それまでは「すべて他人 が悪 い」と思

い、人の「良さ」や「痛み」に心を向けることなく、自己 中心的に暮らしてきた見方が、大きく改まるようになるの です。

人と意見が違うのはあたり前です。お互いに自分色に染 めた勝手なすがたを思い描いているにもかかわらず、人も 同じものを見ていると勘違いしているからです。だから 「自分は間違っていない、すべて他人 が悪 い」と 思い込む ──。そして、人と諍 ��� いを起し、時には、それが昂じて尊 いいのちをも殺 �� めてしまうのです。その行き着くところが 戦争です。

しかし、自他のいのちを見つめ始めれば、自己中心的で 傲慢な生き方が、“お蔭さま”のなかで暮らす柔らかな 感謝 の暮らしへと変わります。悪しき心を持ちながらも、常に 心に「なごみ」を持つあたたかく豊かな暮らしが、私たち の上に顕 あら われてくるのです。そして、自己を真摯に見つめ

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むすび……そしてはじまり 龍谷大学の願い

る内省のなかで、いのちの平等や平和への思いが大きく育 まれ、社会人としての自立した生き方が得られるようにな るのです。ここに「人」としての成長があります。

こうした観点から、本学では、「建学の精神」の具体的 な顕 われ方として、「平等・自立・内省・感謝・平和」の

五つの心を皆さんに示しました。この五つの心は、いろい ろな 所で言 われる 同じ 名称の言葉とは意味 が異 なってお

り、あくまでも「建学の精神」にふれたことで顕わになる 心です。

この五つの 心が 制定された時 (1996年)、「五つのみに拘 こだわ らない」ということが、あえて言われました。それは、 「建学の精神」にふれることによって、何気なくしてきた ことのすべてが「真実に生き、真実を顕 あきら かにする」尊い生 き方に変わるからです。

したがって、教えを説き伝えることだけが、真実を顕か にすることではありません。「建学の精神」にふれて育成 された「正直 な心 」も「敬う心 」も「物を 大切にする 心」

も何もかもすべてが、真実を顕らかにしたあり方にほかな らないのです。

そして、そこにまた同時に、本学の優れた教育による高 度な知識が教授されます。教授する教員も、世話をする職 員も 皆、「建学の精神」のかもし 出す 環境のなかで育まれ

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龍谷大学「建学の精神」

てきた「人」たちです。

その一人ひとりの講義や指導 を通 して、皆さんにまた 「建学の精神」が伝えられていく──。そんな教育のあり 方が、本学では伝統的に行なわれてきたのです。

ことに龍谷大学宗教部では「建学の精神」を全学生およ

び全教職員の皆さんに広く深く伝えるため、さまざまな活 動をしています。毎朝の勤行に始まり、毎月の法要、毎年 4月 の花 まつり (灌 かん 仏 ぶつ 会 え )、5月の創立記念・親鸞聖人降誕 会、10月の報恩講、そして12月の成人のつどいのほか、講 演会やイベント を行 なっています (☞p.82)。また、皆さん

の相談の場になるようにと「宗教部オフィスアワー」も設 けました(☞p.91)。

このような全学的な人間育成の取り組みのなかで、自ら を深く見 つめて人生を積極的 に歩み始 められた皆さんが、 やがて社会人となり、心豊かな暮らしを送り、心豊かな社 会を創っていく──。

そのために、本学は寛永16(1639)年の 建学以来、真実 の教え(浄土真宗)を「建学の精神」として大切にしてきた のです。

どうぞ、本学への入学を尊い縁として、一日一日を大切 に過ごすことのできる「心豊かな人」に育っていただきた いと、念願いたします。

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親鸞聖人の生涯

真実を求め真実に生きん

本学は「浄土真宗の精神」を建学の精神とする大学で す。「浄土真宗」とは阿弥陀如来の「本願 を信じ 念仏 を申 さば (阿弥陀仏の本願力によって)仏に成 る」という教えで、 法然聖人のお導きによってこの「南無阿弥陀仏」の教えに 遇い、そしてこの教えこそ真実であることを自身 に証 あか し、 それを我々に顕 あら わし、示して下さったのが親鸞聖人です。

親鸞聖人は平安時代の末、承安3年4月1日 (1173年5月21 日。ただし月日は伝承)、京都の南郊日野郷 (伏見区日野)に、 藤原北家の支流、日野家のさらに庶流の末である有 あり 範 のり 公の 長男として誕生し、松若麿と称しました。母は源氏につな がる吉 きっ 光 こう 女 にょ と伝えられますが、定かではありません。

当時は平安から鎌倉へと時代が移る動乱期でした。その 影響か、以 もち 仁 ひと 王 おう が全国の源氏へ平家追討の令旨を出し、源 頼朝や木曾義仲らが挙兵して源平合戦 の始 まった翌年の 1181(治承5・養和元)年、親鸞聖人9歳の春、伯父範 �� 綱 つな 公に導か れ慈 じ 円 えん (当時は道快法眼、この年に改名、のち天台座主/慈鎮和尚) のもとで出家して「範 はん 宴 ねん 」と称したと伝えられています。

親鸞聖人は出家後20年間を比叡山で学問と修行に過ごさ れました。詳しいことは判りませんが、身分 の高 い「学 がく 生 しょう 」ではなく、比叡山内横 よ 川 かわ の常 じょう 行 ぎょう 三 ざん 昧 まい 堂 どう で不 ふ 断 だん 念仏行を 修する「堂 どう 僧 そう 」であったといいます。これは7日間を期し て昼夜不断に五音の曲調をつけた念仏を称える行の修行者

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親鸞聖人の生涯

のことで「山の念仏」ともいわれます。

こうして法華一乗を宗旨とする大乗仏教の本拠ともいう べき比叡山で学問を積み修行を重ねても、一切衆生が平等 に救われるべき出 しゅっ 離 り 生 しょう 死 じ の要道は見出せず、さらに苦悩が 深まるばかりでした。

そしてとうとう比叡山での仏道修行に絶望された親鸞聖 人は1201(建仁元)年29歳の春、救いを求めて京都六角堂 頂 ちょう 法 ほう 寺 じ に100日間の参籠 を始 められ、それから95日目 の未 明、ついに聖徳太子の夢告を授かると、これに促されてす

ぐに東山にある吉水の草庵に法然聖人を訪ねられました。

法然聖人は長承2年4月7日 (1133年5月20日)美 みま 作 さか 国 のくに (岡山県)に誕生され、15歳にして比叡山で出家・受戒の後、

法然房源空を名乗られ、30年もの間求道し学問に励まれま したが、ついに覚 さと りへの道に絶望し、経蔵に籠って1000余 部5000余巻 に及ぶ 一切経 (大 だい 蔵 ぞう 経)を繰り返し読 まれて、 ようやく唐の善導大師(613~681)の著わされた『観 かん 無 む 量 りょう 寿 じゅ 経 きょう 疏 しょ 』の「一 いっ 心 しん 専 せん 念 ねん 弥陀名 みょう 号 ごう ……順 じゅん 彼 ぴ 仏 ぶつ 願 がん 故 こ 」の教 きょう 言 ごん によ

って選 せん 択 ぢゃく 本 ほん 願 がん 念 ねん 仏 ぶつ の教 えに出遇い、1175(承安5・安元元) 年に 比叡山 を下 りられて「凡 ぼん 夫 ぶ の往生 を示 さんがために」

浄土宗を立てて、本願に順ずる「南無阿弥陀仏」の称名念仏 一行を専 もっぱ ら修 しゅ する専 せん 修 じゅ 念仏による救いを説き続けられ、やが て数多くの門徒が集まり、教化を蒙むるようになりました。

親鸞聖人は、その後さらに100日間法然聖人のもとに通 い詰め、そして貴賤を問わず万人が「生 しょう 死 じ 出づべき道」を 獲得できる念仏の教えに遇い、そこに絶対平等の「大 だい 乗 じょう の

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なかの至 し 極 ごく 」としての仏道と自己の救済とを見出し、法然 聖人の弟子になられ、名を「綽 しゃっ 空 くう 」と改められました。

そして入門から4年後の1205(元久2)年、ついに法然 聖人から主著『選 せん 択 ぢゃく 本 ほん 願 がん 念 ねん 仏 ぶつ 集 しゅう (選択集)』の書写と聖人の 御影 (肖像)の見写 を許 され讃銘をたまわりました。この

『選択集』は誤解されるのを恐れて公開 が憚 はばか られていたも

ので、その書写を許可された弟子は10人ほどしか判りませ ん。親鸞聖人はこれが許されたことの恩徳に無量の感謝と 万感の想いを抱かれたことを『教行信証』の「後序」に述 べられています。そしてこの頃、「親鸞」と改名されます。

しかし一方で浄土宗の盛行に国家存亡の危機を覚えた比 叡山大衆は1204(元久元)年、天台座 ざ 主 す に専修念仏 の停 ちょう 止 じ を訴 え、さらに翌年、奈良の興福寺からも「源空 (法然)、

一門 に偏 へん 執 しゅう し八宗 を都 と 滅 めつ す。天 てん 魔 ま の所 しょ 為 い 、仏神痛むべし」

と称 して、朝廷へ「八宗同心の訴訟」(「興福寺奏状」)に及 ぶなど、既成仏教の権門寺院からの訴えが相次ぎました。

これに対して法然聖人は天台座主へ「起 き 請 しょう 文 もん 」を送って弁 明に努めつつ「七箇条制 せい 誡 かい 」をしたため、門弟の署名を求 めて天台や真言など他宗に対する挑発的な言行を慎むよう 厳しく誡めるなど事態の鎮静化に努められました。

これら権門寺院の訴えについて朝廷は判断に迷い、僉 せん 議 ぎ を重 ねていましたが、年余 を経 た1206(建永元)年暮れ、 後鳥羽院の熊野参詣中に、留守居していた御所の女房が弟 子の 住蓮房、安楽房 を招 いて密通したという「無実 の風 聞」によって事態は急転、翌1207(建永2・承元元)年、朝

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親鸞聖人の生涯

廷から「諸宗衰 すい 微 び 之 の 基 もとい 」として専修念仏停止の宣旨が下さ れ、同年2月9日に善綽房、性願房、住蓮房、安楽房の4 人が 死罪 (斬首)に処 され、同月28日に法然聖人 を初 め、 親鸞聖人ら弟子7人が流罪に処せられるという前代未聞の 大弾圧となりました。これを承 じょう 元 げん (建永)の法難といいます。

親鸞聖人は還俗して越後国 (新潟県)への遠流が沙汰さ れました。専修念仏が既成仏教から「仏法の怨敵」と非難 され、国家から謀反人として弾圧されたことは悲歎すべき 痛恨事でしたが、それはまた末 まっ 法 ぽう 五 ご 濁 じょく 悪 あく 世 せ たる所以 ��� であ

り、浄土宗が真実の教えである証しでもありました。親鸞

聖人は迫害を受けた者の一人として、後に『教行信証』の 「後序」に「……聖 しょう 道 どう の諸教 は行 ぎょう 証 しょう 久しく廃 すた れ、浄土 の真 宗は証 しょう 道 どう 今盛んなり。然 しか るに諸寺 の釈 しゃく 門 もん 、教に昏 くら くして、 真 しん 仮 け の門 もん 戸 こ を知らず、洛 らく 都 と の儒 じゅ 林 りん 、行に迷 まど ひて邪 じゃ 正 しょう の道路 を弁 わきま ふることなし。……主 しゅ 上 じょう 臣下、法に背き義に違し、忿 いか りを成し怨みを結ぶ。これに因 よ りて真宗興隆の大 たい 祖 そ 源空法 師并 なら びに門徒数 す 輩 はい 、罪科を考へず、猥 みだ りがはしく死罪に坐 つみ す。或いは僧儀を改めて姓 しょう 名 みょう を賜 たも ふて遠流に処す、予はそ の一 ひとつ なり。爾 しか れば已 すで に僧に非ず俗に非ず、この故に禿 とく の字 を以て姓とす。空師并 なら びに弟子等、諸方の辺州に坐 つみ して五 年の居 きょ 諸 しょ を経たりき……」と強く非難しておられます。

法然聖人は土佐国(高知県)への遠流と決まりましたが、 讃岐国 (香川県)に改 まり、さらに同年12月 に赦 しゃ 免されて 摂津勝尾寺 へ移 られ、4年後の1211(建暦元)年11月、勅 ちょく 免を蒙 って帰京し、東山大谷の草庵 (現・知恩院勢至堂)へ

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入られました。しかし年が明けると病臥され、ついに建暦 2年1月25日 (1212年3月7日)遷化されました。波瀾 に満 ちた80年のご生涯でした。

親鸞聖人は5年に及ぶ流人生活の後、法然聖人と同じく 1211(建暦元)年11月に赦免されたようですが、帰京する ことなくさらに2年ほど越後に留まり、その後妻子と共に 関東へ向かわれたと思われます。しかしその時期や理由は 詳らかでありません。

常陸国 (茨城県)に移 られた親鸞聖人 は初 めの3年ほど は下妻坂井郷 (下妻市)に、その後稲田 (笠間市)に庵居さ

れ、主に下総国(千葉県)・常陸国・下野国(栃木県)などを 廻って、かつて法然聖人がされていたように、誰に対して も同 どう 朋 ぼう ・同 どう 行 ぎょう として選択本願念仏の教えを説かれました。

この間、京都では専修念仏への迫害がなお凄まじく、

1227(嘉禄3)年6月には延暦寺大衆が法然聖人の墓所を 発 あば こうとして騒動を起こし、そしてさらに朝廷へ訴えると (「延暦寺大衆解」)、改めて専修念仏停止の綸 りん 旨 じ が下されて親 鸞聖人の兄弟子である隆 りゅう 寛 かん 律師、幸 こう 西 さい 上人、空 くう 阿 あ 上人が遠 流に処 され、その門弟など40数名が京都から追放されて、 さらに比叡山で『選択集』とその版木が焼却されるという 大弾圧が行なわれました。これを嘉 か 禄 ろく の法難といいます。

1224(貞応3・元仁元)年52歳 の時、親鸞聖人 は主著『顕 けん 浄 じょう 土 ど 真 しん 実 じつ 教 きょう 行 ぎょう 証 しょう 文 もん 類 るい (教行信証)』(全6巻)の執筆にかから れたといいます。これ は『選択集』および専修念仏への非 難と迫害の続く中、法然聖人の真宗興隆の願いに立って開

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親鸞聖人の生涯

顕され、『選択集』によって表わされた浄土宗が真実の仏道 ──浄土真宗であることを、釈尊およびインド・中国・日 本の祖師の教説に拠って論証する、まさに畢生の大著です。

関東での20年間 に及ぶ 伝道生活の後、親鸞聖人は1232 (貞永元)年から1235(嘉禎元)年頃 の間に 帰京されました。

初めは五条西洞院に、そこで火災に遭った後は、次弟の尋 じん 有 う 僧都が住持する善法院 (里坊)に避難され、そしてここ が終 �� の住居となりました。

この間『教行信証』の改訂が一段落した70歳代後半から の10年ほどは『浄土和 わ 讃 さん 』『高僧和讃』『正 しょう 像 ぞう 末 まつ 和讃』『唯 �� 信 �� 鈔 ��� 文 �� 意 � 』『入出二門偈 � 』『尊号真像銘 �� 文 �� 』『浄土三経往生 文 �� 類 �� 』などの著述、また法然聖人の法話・伝記・書簡を収 めた『西方指南抄』(6巻)や『選択集』の書写など旺盛な 文筆活動 を続 けられる一方で、『歎異抄』に窺えるように 関東の門弟の訪問や手紙の往復も絶えず行なわれました。

しかし親鸞聖人の離れられた関東では1252(建長4)年頃 から、悪を造ることは本願の救いの障碍にはならないとい う「造 ぞう 悪 あく 無 む 碍 げ 」の騒 ぎが起こったため、聖人は手紙で説諭 される一方、息子の善 ぜん 鸞 らん 上人を遣わされましたが、却って 混乱に陥れたため、1256(建長8・康元元)年、ついに義絶状 を認 ��� めて勘 かん 当 どう されました。この頃から鎌倉では(後に京都も) 禅僧や律僧が保護を受け、幕府を初め社会全体が戒律重視 へと変化したことが背景にあると考えられています。

このように、生涯を尽くしてひたすら真実を求め、真実 に生 きられた親鸞聖人は弘長2年11月28日 (1263年1月16 日)に遷化されました。90年の実に真摯なご一生でした。

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龍谷大学のあゆみ

日本近世仏教の教育制度

日本の仏教教団では中国の影響を受け、学問寺として研 究機関が整備されてきました。これを背景に、古くは平安

初期に弘法大師空海(774~835/日本真言宗の祖)が綜 しゅ 芸 げい 種 しゅ 智 ち 院 いん を創設(829年)して庶民を対象とした教育を施したのを 初めとして、中世の諸大寺には勧学院や談義所などの学問 機関が設けられていました。これらが本格的に制度化され るのは江戸時代に入って、幕府による宗教統制および学問 奨励政策を受けてのことです。

これによって、仏教各宗派は檀 だん 林 りん 、談 だん 林 りん 、学 がく 林 りん 、学寮な どと呼ばれる学問機関を相次いで設立し、自宗の教義を中 心とする仏教研究が急速に発展していきました。「檀林」 とは「栴 せん 檀 だん 林 りん 」の略で、紅く美しい花をつけるが強い悪臭 を放つ伊 い 蘭 らん の樹でも、栴檀林の近くに植えればその芳香に 染まる、という喩えから、学僧が正しく訓育される所を指 します。

その主なものを挙げますと 、浄土宗 (鎮 ちん 西 ぜい 派)における

「関東十八檀林」、同派名 な 越 ごえ 流 りゅう 「二檀林」、同 (西 せい 山 ざん 派)「七 檀林」、日蓮宗一 いっ 致 ち 派「十二檀林」、同勝 しょう 劣 れつ 派「七檀林」、

天台宗「関東十檀林」、曹洞宗「(駿河台)栴檀林」などが

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あります。また、新義真言宗豊 ぶ 山 ざん 派の長 は 谷 せ 寺 でら 、同智 ち 山 ざん 派の 智 ち 積 しゃく 院 いん 、浄土宗の増上寺、天台宗の寛永寺などには、各宗 派の 中央における学問機関として学寮や勧学寮 が設 けら れ、真宗においても東西本願寺、専修寺、佛光寺などで学 林や学寮が設立されました。

これらの学問機関では各宗教義の研鑽・教授が組織的に 行なわれ、学則などの制度が次第に整えられていきました。

明治になると、このうちのいくつかは政府の学校制度に 準じて近代化を推し進め、例えば西本願寺学林から龍谷大

学、東本願寺学寮から大谷大学、曹洞宗吉 きち 祥 じょう 寺 じ ・泉 せん 岳 がく 寺 じ ・ 青 せい 松 しょう 寺 じ

の学寮から駒澤大学、日蓮宗一致派諸檀林から立正 大学へという具合に、今日の大学へと発展していきました。

西本願寺学寮(学林)創設の背景

龍谷大学の淵源である西本願寺「学寮 (学林)」は1639 (寛永16)年に創設されました。西本願寺における教学の発 展は、江戸幕府による宗教政策という外的要因だけではな く、教団内の自主的な動向によるところが大きいのです。

南北朝から室町期にかけて、本願寺には当時を代表する 知識人であった山 やま 科 しな 言 とき 経 つね (1543~1611)、冷 れい 泉 ぜい 為 ため 満 みつ (1599~

1619)、四 し 条 じょう 隆 たか 昌 まさ (1556~1613)らの公家が身を寄せて、門主 の家族や家臣、寺内町の人々に対する学芸活動や教育に当

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龍谷大学のあゆみ

たっていました。

東西本願寺分立時の西本願寺門主であった准 じゅん 如 にょ 上人

(1577~1630/西本願寺第12代)は山科言経を「門跡学問所」

(設立年不詳)に招 いて和漢外 げ 典 てん の書写校 きょう 合 ごう を依頼し、1602

(慶長7)年には親鸞聖人の『浄 じょう 土 ど 文 もん 類 るい 聚 じゅ 鈔 しょう 』を刊行して宗

門内の教学振興を図りました。

准如上人のこのような遺志は「就中 なかんづく 行 ぎょう 学 がく 共 とも 油断無く相 あい 嗜 たしな

まれるべし」という譲

ゆずり 状 じょう (遺言状)によって 次の良 りょう 如 にょ 上人

(1612~1662/西本願寺第13代)に託されることになります。

学林前期 能化時代

時代を背景に組織的な学問機関設立の機運 が高 まる中、

1638(寛永15)年、京都三条銀座年寄 の野 の 村 むら 屋 や 宗 そう 句 く が寮舎

の寄進を申し出て、良如上人がこれを承けて、翌年(1639) 春、西本願寺阿弥陀堂の北、茶 ちゃ 所 じょ の西後ろに惣 そう 集 しゅう 会 え 所 しょ (講 堂)と所 しょ 化 け 寮 りょう (寄宿舎)が着工され、同年秋に「学寮 (学 林)」が落成しました。そして翌1640(寛永17)年4月15日、 新築成った講堂において、河内国 (大阪府)出口光善寺の 准 じゅん 玄 げん (1589~1648)を講主として講義が始められました。

以来、明治期の学校制度採用 に至 るまでの230年間は、 一派教学の最高責任者である能 のう 化 け を師範とする能化時代

(江戸前~中期)と、複数 の勧 かん 学 がく を指導者とする年 ねん 預 よ 勧 かん 学 がく 時

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龍谷大学のあゆみ

代(江戸後期)とに分けることができます。

能化職は以下の8人が次第しました。

准 じゅん 玄 げん (1589~1648/河内国出口光善寺) 西 さい 吟 ぎん (1605~1663/豊前国小倉永照寺)

知 ち 空 くう (1634~1718/京都大宮花屋町光隆寺) 若 じゃく 霖 りん (1675~1735/河内国守口浄喜寺) 法 ほう 霖 りん (1693~1741/近江国日野正崇寺) 義 ぎ 教 きょう (1694~1768/越中国氷見円満寺) 功 こう 存 ぞん (1720~1796/越前国太田平乗寺) 智 ち 洞 どう (1736~1805/京都一条浄教寺)

しかし初代の准玄については、1693(元禄6)年に孫の 寂 じゃく 玄 げん が異義を唱え、西本願寺の糾明にも従わず、間もなく

東本願寺 (大谷派)へ転派したことによって、その 罪を祖 父である准玄にまで遡らせて能化職を剥奪したために、今 日に至るまで歴代能化に列 なら べていません。

この時代、所 しょ 化 け (学僧)の増加とともに現在の学年 に当 たる制度や教授する僧侶の職階などの諸制度が次第に整備 されていきました。その一方で学問 が盛 んになった結果、

教義上の論争に発端する「承 じょう 応 おう の鬩 げき 牆 しょう 」「明 めい 和 わ の法 ほう 論 ろん 」「三 さん 業 ごう 惑 わく 乱 らん 」という三大諍 じょう 論 ろん が起こっています。

承応の鬩牆は、1653(承応2)年に 肥後国熊本延寿寺月 げっ

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感 かん (1600~1674)が、能化西吟の所説について「自 じ 性 しょう 唯 �� 心 しん 」

に傾いていると論難したことに始まり、当時西本願寺の脇 わき 門 もん 跡 ぜき であった興正寺も巻き込んだ騒動に発展しました。

事態の収拾 に当 たって幕府は1655(明暦元)年、西本願 寺に対して学寮施設の取り壊しを命じ、その後は幕府を憚 はばか って仮の施設(「かりや(仮屋)の学林」と呼ばれる)で講義を再 開しました。

そして1695(元禄8)年春、ようやく学林再興が公許さ れ、以後「学林」を公称するようになります。

明和の法論は1764(明和4)年、能化法霖の本尊論 に対 して播磨国真浄寺智 ち 暹 せん (1702~1768)が異を唱えて教義論争 に展開していきました。

この承応の鬩牆と明和の法論では学林側の学説が正義と

されたのに対して、1762(宝暦12)年から1806(文化3)年 にかけて西本願寺教団を二分するほどの論争に拡大した三 さん 業 ごう 惑 わく 乱 らん では、安芸国大 だい 瀛 えい (1759~1804)や道 どう 隠 おん (1741~1813)

を初めとする在野学僧の説が幕府寺社奉行の裁定によって

正義とされました。三業惑乱の最中の1801(享和元)年、 西本願寺は智洞を能化職から罷免し、さらに彼は江戸伝馬 町の 牢獄 に送 られ、1805(文化2)年、獄中で病死しまし

た。この後学林における能化職のあり方が問われ、ついに 能化職は廃止されることになります。

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学林後期 年預勧学時代

三業惑乱の結果廃止された単独の能化職制度 に代 わっ て、学林では複数の勧 かん 学 がく 職が1年交代で在寮して講義およ び管理責任に当たる年 ねん 預 よ 勧学制を採用することになりまし た。そして勧学の下には司 し 教 きょう ・主 しゅ 議 ぎ ・助 じょ 教 きょう ・得 とく 業 ごう の学 かっ 階 かい が 置かれ、講義の補助に当たりました。

能化時代は、仏教の教団における夏 げ 安 あん 居 ご の伝統に従って、

夏季の90日間の開講を中心とし、時に春講・秋講・冬講な どが行なわれていましたが、三業惑乱後の制度改革によっ て勧学 を初 めとする教授陣が学林に常駐するようになり、 通年講義が行なわれるようになりました。

また司教・主議・助教・得業からなる学階は定員制とさ れ、その昇階に当たっては試験を課す「登 とう 科 か 」制度が採用 されました。

1836(天保7)年に定 められた規定によると、登科には 「選試」が行なわれ、これは学林で行なわれる「黌 こう 試」と、 西本願寺で行なわれる「殿 でん 試」に分けられ、さらに黌試には、 宗 しゅう 学 がく (真宗の学問)「正学試」と他 (=他宗)学科・国語科・ 儒学科・暦学科・書学科の5科が課せられていました。こ

の規定は厳正ですが難度の高いものであり、後に何度もの 改正を経て学階と登科制度は整備され、今日に至っていま す。

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龍谷大学のあゆみ

学舎の移築と学林の運営

創建当初の学寮は西本願寺阿弥陀堂の北側にありました が、それから8年後の1647(正保4)年には、西本願寺境 内の外の 西侍町へ、さらに1652(承応元)年には西本願寺 の南に隣接する興正寺のさらに南、七条堀川の北西へ移さ れましたが、上述の承応の鬩牆に伴い、幕命によって取り 壊されました。

その後東中筋魚棚下ル (現在の下京区学林町)にあった医 者の 屋敷を仮学舎として使用しつつ、1695(元禄8)年公 許によって同地に再興を果たし、講堂、所化寮、経蔵など が整備されます。1788(天明8)年、京都市中の大火 で類 焼してしまいましたが、その後再建、増設され、宗派の教 学研鑽の中心として、その役割を果たし続けつつ幕末の騒 乱期に至ります。

学林は野村屋宗句の寄進によって創建されましたが、彼 はその後の運営資金も多く拠出しています。宗句亡き後に 資金援助 を行 なったのは、大坂の米問屋で両替商の広岡 九 きゅう 右衛 え 門 もん でした。広岡家は初代正教

まさのり の創業 (1625・寛永2) 以来、代々加 か 島 じま 屋 や 九右衛門を名乗り、後に鴻 こうの 池 いけ 善 ぜん 右衛 え 門 もん と

と並び大坂を代表する豪商として、幕府や諸藩の出納を司 る蔵元、また幕府からは両替商の元締や堂島米会所の責任 者を任されていました。

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龍谷大学のあゆみ

多くの所化が集い、充実した講師陣によって教学の研鑽 に励むことができるのも講堂や寮などの諸設備が整って初 めて可能となります。学林の歴史は一方で、このような篤 信者の多大な寄進によって支えられていたのです。

能化制 に替 えて年預勧学制 を採 るようになってからは、

学林の経常費は所化の納入金によって賄われるようになり ましたが、諸方に借財を抱えて窮乏していたようです。

関係者の支援と学僧の向学心とがあいまって在籍数は年 を追って増加します。寛文・宝暦年間 (1748~1763)には約 490名、明和年間(1764~1771)には約800名となり、天明・ 寛政年間(1781~1800)には約1040名を算えるまでになりま した。

安居の様子

毎年7月17日から30日までの14日間、本願寺派の学階 を持つ 僧侶 が全国から集まり、大宮本館において講義や論議が行なわれる。

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幕末・明治の学林改革 学林から大教校へ

年々増 え続 ける学僧のために、学林では敷地を拡張し、 また所化寮などの施設が整備されていきました。ところが、

1864(元治元)年7月 に起 こった禁 きん 門 もん の変 (蛤 はまぐり 御 ご 門 もん の変)に よって類焼してしまいます。

焼失後直ちに西本願寺の北集 しゅう 会 え 所 しょ を仮講堂として講義が 再開されましたが、当時京都守護職であった会津藩から新 撰組屯所としての借り上げを要請され、翌1865(元治2・慶 応元)年「新撰組本陣」として 明け渡 し、学林は南集会所 (現在の西本願寺書院:大宮学舎の北隣)に仮講堂を移しました。

1869(明治2)年、学林町 の元の 敷地で復興することを 企図して、新撰組に横取りされていた北集会所の建物を講 堂として再利用するために解体しましたが、その用材は西 本願寺の累積する借財返済のために播磨国亀山本徳寺本堂 として下付され、また学林町の敷地も明治政府に召し上げ られてしまいました。

明治維新の騒乱によ って学林も転々として落ち着かない 状態でしたが、一方で学制の近代化を意図した改革を着々 と進 めました。1871(明治4)年、西本願寺第21代法主に 即 つ いたばかりの明 みょう 如 にょ 上人 (大谷光尊/1850~1903)は、島 しま 地 ぢ 黙 もく 雷 らい (1838~1911)、赤松連 れん 城 じょう (1841~1919)らをヨーロッパ の宗教および教育事情視察のために派遣し、その立案に基

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づいて教育制度改革を断行します。

すでに1869(明治2)年には「破 は 邪 じゃ 学」(キリスト教神学) を開講し、1872(明治5)年には洋学「独乙 ドイツ 語」を開講し

ていましたが、島地らの立案によって1875(明治8)年、 これら宗 しゅう 乗 じょう (真宗学)、余 よ 乗 じょう (仏教学)以外の外学、一般教養 科目を「普通学」として教授するようになりました。

この結果、これまで主軸であった安居制度は規模を縮小 して本講のみとなり、その頃相次いで設立されつつあった

一般学校と同じく学級制度が採られるようになりました。

明治政府による「学制」(明治5年太政官布告第214号)に倣 って、1876(明治9)年、西本願寺でも全国各府県に小教 校、7ヶ所に中教校、そして京都に大教校を置く学区制度 を導入し、これに伴って学林は大教校と改称されました。

1877(明治10)年、教団の最高学府として規定された大 教校の新築工事が起こされます。用地は西本願寺坊官(家 老職)であった下 しもづ 間 ま 邸跡地──つまり現在の大宮学舎があ る所で、2年余の工期と当時の金額で4万5千円あまりの

金額 を費 やして竣工 に漕ぎ着 け、1879(明治12)年5月3 日から5日にかけて3日間にわたって落成を祝う落慶法要 が盛大 に営 まれました。法要第1日 は慶 きょう 讃 さん 会 え として、遷 せん 仏 ぶつ 、庭 てい 儀 ぎ 、舞 ぶ 楽 がく 、そして梵 ぼん 唄 ばい ・散 さん 華 げ ・梵 ぼん 音 のん ・仏 ぶつ 名 みょう からなる

四 し 箇 か 法要などが勤められ、特に大教校新築資金の募集で陣

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龍谷大学のあゆみ

頭に立って尽力された明如上人は、古来天台宗で行なわれ ていた法 ほっ 華 け 八 はっ 講 こう や興福寺の維 ゆい 摩 ま 会 え を参考に問答形式の「無 む 量 りょう 寿 じゅ 会 え 作 さ 法 ほう 」を自ら制定し、2日目の開業式は、この無量 寿会に自ら出勤して勤められたと伝えられています。

この時完成した大教校の校舎は、細部に和漢の風を採り 入れた洋風建築で、当時の人々の耳目を集め、落慶法要終 了後の5月6日から3日間にわたって一般の見学に供され ました。なお見学者には大教校の紋所 (六藤紋)を捺 お した 紅白の餅を250俵、5万人分用意したといいます。

大教校慶讃会の図 木版画・明治12年/本学大宮図書館蔵

大教校から仏教大学へ

新しい理想のもとに開校した大教校は翌1880(明治13) 年には真 しん 宗 しゅう 学 がく 庠 しょう と改称され、また1885(明治18)年には普

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龍谷大学のあゆみ

通学(一般教養科目)特に英語の教授を目的とし、学僧以外 の一般人をも受け容れる普 ふ 通 つう 教 きょう 校 こう が新設されました。

このため普通教校には進取の気風が醸成され、1887(明 治20)年5月21日、この普通教校生徒によって初めて親鸞 聖人「降 ごう 誕 たん 会 え 」が開催され、多くの人出 で賑 わいました。

その後この「降誕会」は1922(大正11)年に「創立記念」が 付け加えられ、今日まで毎年、学友会が開催しています。

また、普通教校の生徒有志によって禁酒・禁煙運動を目 的とする「反 はん 省 せい 会 かい 」が創られました。この反省会では運動

の徹底を意図して「反省会雑誌」が創刊され、和英両文で 発行されました。これが1899(明治32)年から「中央公論」

に改題されて総合雑誌に発展し、現在に至っています。

1888 (明治21)年、西本願寺は「大学林例」を発布し、

大教校と普通教校を統合、そして考究院、内学院、文学寮 からなる大 だい 学 がく 林 りん を設置しました。

さらに1900(明治33)年、西本願寺は「学校条例」を改 正して、宗派の学校を仏教中学、仏教高等中学、仏教大学

の3種とし、このうち仏教高等中学を東京市芝区高輪に移 し、ついで高輪に仏教大学分教場が設けられました。

そして2年後の1902(明治35)年、再び学制 を改 めて仏

教高等中学を廃し、京都の仏教大学を仏教専門大学、高輪 の分教場を高輪仏教大学として、修業年限を予科2年、本 科3年、考究院5年と定めました。

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仏教大学から龍谷大学へ

1904(明治37)年、「学校条例」をさらに改正し、京都の 仏教専門大学、高輪仏教大学を廃して、仏教大学として京

都に統合し、この時に講座制を導入しました。これは欧米 の大学を範としたものですが、同じ年に東京帝国大学文科 大学がこの講座制を採用しています。

そして、翌1905(明治38)年、仏教大学は専門学校令(明 治36年勅令第61号)による大学として認可されました。

その後親鸞聖人650回大遠忌 (1911)の記念事業として 『仏教大辞彙』(全3冊/1914~1922)の編纂、施設の増改築

などを行ないました。なお、1906(明治39)年には学帽が 制定され、その帽章として「三 さん 宝 ぼう 章 しょう 」が制定されました。

これ以降、大学徽章として三宝章を用いています。

1920(大正9)年、仏教大学では大学令 (大正7年勅令第 388号)に基づいて仏教学、仏教史、宗教学、宗教史、哲学、 心理学、倫理学、教育学、社会学、印度学、支那学、国史 国文学、英文学の各講座を設けて単科大学としての内容を 整え、さらに専門部を置きました。

1922(大正11)年5月2日、文部省教育評議会において、

仏教大学の大学令による大学昇格の認可が決定されました

が、その際に文部省から「大学名に宗教・宗派の名称を附 してはならない」との指示があり、急に大学名を改める必

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龍谷大学のあゆみ

要が生じました。この時西本願寺の山号「龍谷」を大学名 として申請し、5月20日、龍谷大学財団の設立が認可され て翌21日、降誕会に引き続き龍谷大学昇格祝賀式が催され、 これより本学では5月21日を創立記念日と定めています。

龍谷大学 単科大学時代

龍谷大学は予科、文学部、研究科および専門部で構成さ れ、講座制は概ね仏教大学時代と同様でしたが、その後変 更や改称、新設などが行なわれました。

1936(昭和11)年には明如上人33回忌法要記念として現 在の大宮図書館が竣工します。

図書については、学林時代すでに閲覧規則を定め、所化 のうち最も上首の者が捨 しゃ 頭 とう (知事)職として事務に当たり、

『龍

りゅう 谷 こく 学 がっ 黌 こう 大 だい 蔵 ぞう 目 もく 録 ろく 』(智洞/1783年)が作製されるなどのこ とがありました。大学では学林の蔵書を相続するとともに、 1892(明治25)年と1904(明治37)年には、歴代西本願寺門 主 (法主)の文庫である冩 しゃ 字 じ 臺 だい の蔵書が下付されました。

これは汎 ひろ く仏典、国書、漢籍にわたるもので、今日、本学 所蔵貴重書の骨幹をなしています。一方で哲学、宗教、文 学などを中心とする洋書 の蒐 しゅう 集 しゅう にも積極的でした。なお、

1949 (昭和24)年には、西本願寺第23代勝如上人 (大谷光 照/1911~2002)から大谷探検隊 (第1~第3次/1910~1914)

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将来の仏典、古文書類が寄贈されています。

こうして戦前・戦中の困難な時代においても伝統と特色 のある単科大学として歩んできましたが、やがて終戦を迎 え、新しい日本国憲法のもとに学制の改革が行なわれます。

1949(昭和24)年、学校教育法による新制大学としての文 学部設置が認可され、翌年には短期大学部を新設し、また その翌1951(昭和26)年には従来の龍谷大学財団を改め、私 立学校法による学校法人龍谷大学が設立されました。

龍谷大学 文科系総合大学時代

1960(昭和35)年、親鸞聖人700回大遠忌記念事業の一環

として浄土真宗本願寺派(西本願寺)からの助成 を受 けて、

浄土真宗の精神に立脚する有為の人材を育成し、社会へ輩 出することを目的として、国から京都市伏見区深草の旧陸 軍京都兵器支廠 (戦後は米軍キャンプ)跡地 の払い下 げを受

けて学舎を開き、翌年、経済学部経済学科を新設、さらに

1963(昭和38)年には経営学科を増設し、1966(昭和41)年 には学部に昇格しました。

この 後の 龍谷大学では学部・学科の増設が相次ぎます。

1968(昭和43)年には法学部法律学科を開設するとともに、 文学部哲学科から社会学科を分離しました。

さらに大学院については、1953(昭和28)年に 文学研究

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龍谷大学のあゆみ

科、1972(昭和47)年には法学研究科、さらに1982(昭和57) 年には経済学研究科および経営学研究科を開設しました。

1985(昭和60)年には短期大学部に専攻科を開設、また 留学生別科を新設しました。

龍谷大学 総合大学へ

1989(平成元)年、本願寺派の協力と滋賀県および大津 市の 支援 を得 て、龍谷大学創立350周年記念事業の一環と

して瀬田学舎を開設し、理工学部を新設、さらに社会学部 を文学部から分離新設しました。

1991(平成3)年には大学院社会学研究科を、1993(平成5) 年に 理工学研究科を新設、翌年には国際文化学部、2000

(平成12)年には大学院国際文化学研究科を開設し、2009 (平成21)年に大学院実践真宗学研究科、2011(平成23)年に は政策学部、同大学院政策学研究科を新設、さらに創立 370周年記念事業の一環として、親鸞聖人750回大遠忌を期 し、本願寺派の協力を得て、西本願寺の向かいに仏教総合 博物館「龍谷ミュージアム」を新たに建設しました。

2015(平成27)年には、国際文化学部を国際学部に改組 し、農学部を新設して、9学部・9研究科・短大を擁する 総合大学に発展しています。

そして2019(平成31・令和元)年、龍谷大学は創立380周 年、大宮学舎140周年、瀬田学舎30周年を迎えました。

( 抜粋:『江戸時代の本願寺教育制度』 (

参考:『龍谷大学350年史』,『真宗大辞典』 )

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建学の精神を実践するために

礼 らい 拝 はい

の場

本学では建学の精神 に基 づく教育 を行 なう拠点として、

各学舎にそれぞれ大宮学舎─ 、深草学舎─ 、瀬 田学舎─ が置かれています。講義・講演会などのた めの講堂であると共に各種法要が催される「礼拝堂」でも あります。

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(大宮学舎) ……………………………… 77 (深草学舎) ………………………………… 78 (瀬田学舎) ………………………………… 80

本学が1639(寛永16)年に 西本願寺学林として創設され、

明治初めの学制改革によって「大教校」として再出発する 際、1879(明治12)年に講堂として落成しました。

1964(昭和39)年には明治初期の洋風建築の代表例とし て国の 重要文化財に指定されました。その後、110余年に 及ぶ 風雪による激しい傷みのため、1992(平成4)年に全 面解体修復に取りかかり、まる5年の歳月を費やして1997 (平成9)年5月に改修竣工の運びとなりました。

勤行・法要をはじめ、各種の行事・式典が行なわれます。

77 礼拝の場

建学の精神を実践するために

顕真館 の名は親 しん 鸞 らん 聖 しょう 人 にん の主著『顕 けん ● 浄 じょう 土 ど 真 しん ● 実 じつ 教 きょう 行 ぎょう 証 しょう 文 もん 類 るい 』

(一般に『教行信証』あるいは『教 きょう 行 ぎょう 証 しょう 文 もん 類 るい 』と呼ばれている)から

採られました。本学の建学の精神を具現する教育施設の原 点たる性格を持つ建物で、勤 ごん 行 ぎょう ・法要・式典のほか、さま ざまな行事 が行 なわれる礼拝堂として、1984(昭和59)年 3月13日に落成しました。

入口正面 に掲 げられた陶板画は、平 ひら 山 やま 郁 いく 夫 お 画伯 (1930~

2009/日本画家)の「祇園精舎」と題 される釈 しゃく 尊 そん 説法図を、

平山画伯自身の監修のもと、原画の約3倍(5m×11m)に 拡大して陶板34枚に焼き付けたもので、竣工当時は日本一 の大きさを誇っていました。

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礼拝の場

講堂内正面に安置されているご本尊は、親鸞聖人ご真筆 の六字名 みょう 号 ごう を約5倍に拡大模写して、欅 けやき 板に彫ったもので

す。この六字名号は「南無阿弥陀仏」を中央に、讃銘とし て上部右に『無量寿経』の第十八願 (念仏往生の願)文、左 に第十一願(必至滅度の願)文を、下部には同経の「大 だい 悲 ひ 摂 せつ 化 け の文」八句が認 したた められた小紙を貼付してあります。

聖人84歳時に書かれ、下人の弥太郎(のち随念 ����)に与えら れたものと伝えられています。

不取正覺唯除五逆誹謗正欲生我國乃至十念若不生者設我得佛十方衆生至心信樂大無量壽經言 (=法) 聚必至滅度者不取正覺設我得佛國中人天不住定 愚禿親巒敬信尊號

八十四歳書之

(=無)

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陀 佛
人其國不逆違自无窮極易往而无惡趣自然閉昇道養國横截五惡趣必得超絶去往生安 然之所牽 康元元丙辰十月廾八日
阿 彌

建学の精神を実践するために

樹心館の名称は、親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文 類』第6巻「化身土文類」の跋 ばつ 文 ぶん (通称「後 ご 序 じょ 」と呼ばれる箇 所)にある「樹 ・ 心 ・ 弘誓仏地」(心 を弘 ぐ 誓 ぜい の仏地 に樹 た つ)という 言葉から名づけられました。

1885(明治18)年に 大阪府南警察署として建てられ、そ の改築 に伴 って1908(明治41)年、大阪の門徒竹 たけ 田 だ 由 よし 松 まつ 氏 が買い取 って本願寺大教校 (本学)へ寄贈し、図書館 や学 友会事務所として使用された後、1948(昭和23)年に 本願 寺境内 へ移 され、宗務所として使用されました。そして 1994(平成6)年、瀬田学舎の礼拝堂として移築されました。

朝の勤行や毎月21日の親鸞聖人ご生誕法要のほか、式典 や行事などで使用されます。

なお2015年には

「明治期の警察署の 遺構としても希少 な擬洋風建築」と

して「登録有形文 化財」に登録され ました。

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宗教部ガイド

宗教部活動紹介

宗教部は、龍谷大学の建学の精神を全学生および全教職 員に広く深く知っていただくための活動をしています。

(土日祝日を除く授業期間中の朝8時55分~10分間ほど)

(深草学舎顕真館お斎 とき (軽食)あり)

(大宮学舎本館)

(大宮学舎本館)

(瀬田学舎樹心館お斎(軽食)あり)

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建学の精神を実践するために

龍谷大学では建学の精神にもとづいた法要や行事を行って います。是非、積極的にご参加ください。

詳細な日時や行事内容については宗教部のSNSアカウント などをチェックしてください。(本冊子87頁)

①朝の勤 ごん 行 ぎょう (土日祝日を除く授業期間中の朝8時55分~10分間ほど) 勤行(お勤 �� め)は仏さまの徳を讃 �� え、感謝の気持ちを表 現する作法です。

龍谷大学では、各学舎の礼拝施設において礼 らい 拝 はい と読経を 行っています。

見学だけでも結構です。お経本は貸し出しますので、手 ぶらで気軽におまいりください。

※勤行後、伝道部が法話をすることがあります。

※学長法話などがある場合は朝8時40分から行います。

【大宮学舎】本館

浄土三部経の繰 � り読み(毎日少しずつ読み進めていきます)

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【深草学舎】顕真館

月曜日ちかいのうた

火曜日らいはいのうた

水曜日讃 さん 仏 ぶつ 偈 げ

木曜日重 じゅう 誓 せい 偈 げ

金曜日十 じゅう 二 に 礼 らい

【瀬田学舎】樹心館

勤行の内容は深草学舎顕真館と同じです。

②お逮 たい 夜 や 法要(深草学舎顕真館お斎 とき (軽食)あり)

親鸞聖人の月命日前日をご縁としてお勤めする法要です。

〇毎月15日12時15分~13時15分

(※2講時は15分繰り上げて終了) 〇読経後、法話・講話があります。

83 宗教部ガイド

建学の精神を実践するために

③ご命日法要(大宮学舎本館)

親鸞 ���� 聖 ��� 人 �� の月命日をご縁としてお勤めする法要です。

〇毎月16日12時35分~13時05分

〇読経後、法話・講話があります。

④顕真アワー(大宮学舎本館)

ご命日法要を補うためにお勤めします。

不定期開催につき、詳細はホームページ・立看板・宗教部

のSNSアカウントでご確認ください。(本冊子87頁)

⑤ご生誕法要(瀬田学舎樹心館お斎(軽食)あり)

親鸞聖人のお誕生日をご縁としてお勤めする法要です。

〇毎月21日12時15分~13時15分

(※2講時は15分繰り上げて終了) 〇読経後、法話・講話があります。

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宗教部ガイド

⑥創立記念・親鸞 しんらん 聖 しょう 人 にん 降 ごう 誕 たん 会 え 法要

親鸞聖人のご誕生と本学の創立を祝う法要です。

また、学友会の降誕会実行委員会によって5月中旬からさ まざまなイベントが開催されます。

⑦報 ほう 恩 おん 講 こう ・顕真 けんしん 週間

報恩講は親鸞聖人の命日(旧暦11月28日・新暦1月16 日)をご縁にお勤めされる浄土真宗において最も重要な法 要です。

本学では、龍谷大学の前身である学林を創立された西本 願寺第13世良如上人の命日である10月18日にお勤めしま す。あわせて、大宮学舎においては良如上人・明如上人・ 野村屋宗句などの本学ゆかりの先達の永代経法要を勤修し ます。

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建学の精神を実践するために

〇10月18日

大宮学舎本館・深草学舎顕真館・瀬田学舎樹心館 〇読経後、法話・記念講演が行われます。

〇参拝者にはお斎が用意されます。

顕真週間

10月18日前の1週間を「顕真週間」とし、学友会宗教局 および所属サークルによるさまざまなイベントが開催され ます。

⑧公開講演会

年に数回、学外の講師による講演会を開催します。

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①りゅうこくブックス

講演会や法話・講話を聞き起こした講演録です。

②宗教部報「りゅうこく」

学生や教職員によるエッセイや、パズル、間違 い探 し、 マンガなどが掲載された、龍谷大学の「今」を伝える冊子 です。気軽に読んでみてください。

③掲示法語

心に響く仏教・浄土真宗の言葉を掲示しています。ホーム ページで解説を読むことができます。

④宗教部ホームページ

宗教部が行っているさまざまなな活動の紹介や、法要・ 講演会の案内などを掲載しています。

https://www.ryukoku.ac.jp/shukyo/

87 宗教部ガイド

建学の精神を実践するために ⑤宗教部のSNS/YouTube

宗教部のさまざまな活動をお知らせしています。是非" いいね"や"チャンネル登録"してくださいね。

☞X:https://twitter.com/ryusyukyo

☞ Facebook:https://www.facebook.com/ryukokushukyo

☞ YouTube:https://www.youtube.com/ryukokushukyobu

①宗教部オフィスアワー

みなさんの質問や相談に応じています。秘密厳守でお聞 きしますので、宗教部までご連絡ください。

例)

*何となく誰かに聞いてほしいことがある。

*宗教に関する質問・疑問がある。カルトについての悩 みや不安がある。

*LGBTQに関する活動を紹介してほしい。

などなど。あなたのお話を聞かせてください。宗教部室 で一休みするだけでもOK。

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②顕真館の借用について

講義や研究会、サークルの発表会・公演・練習などで顕 真館を利用することができます。

上記①②の相談・詳細については、宗教部までご連絡下さい。 syukyobu@ad.ryukoku.ac.jp

☎075-645-7880

宗教部では自己応募型の奨励金として仏教活動奨励金を 設けています。

建学の精神を体現するような活動に取り組む学生・院生 を資金的に応援します。

相談・プレゼン、随時受付中。

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宗教部ガイド
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龍谷大学の学生として 知っておきたい仏事の常識 ………………………………… 93 ………………………… 93 …………………… 94 …………………………… 94 ………………… 95 ……………………… 95
仏事の基礎知識

浄土真宗のご本尊は阿 あ 弥 み 陀 だ 如来 にょらい (阿 あ 弥 み 陀 だ 仏 ぶつ ・南 な 無 も 阿 あ 弥 み 陀 だ 仏

ぶつ )です。

大宮学舎本館と瀬田学舎樹心館の本尊は木像(仏像)、

深草学舎顕真館 は名 みょう 号 ごう 本尊 ほんぞん (南無阿弥陀仏)です。また、

ご家庭のお仏壇では、絵に描かれた絵像の場合が多いでし ょう。

木像・名号・絵像とそのお姿は違いますが、それによっ

て表現されているのはいずれも同じ阿弥陀如来です。本尊

を通して阿弥陀如来を礼拝します。

お経 はお釈迦さまの説法を仏弟子がまとめたものです。

よって、読経することはお釈迦さまの説法 を声に出 して、

自分が今ここでお釈迦さまの説法を聞いているということ です。

お経本は大切なものですので、床や畳などの足のつくと

ころに直接置かないように心掛けましょう。

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仏事の基礎知識

建学の精神を実践するために

念珠は礼拝するときに用いる法具です。法要などの時に は貸し出しがあります。

浄土真宗の作法では、普段は左手に持ち、合掌するとき

にはふさを下にたらし、両手の親指以外にかけ、上から軽 く親指で押さえて保持します。

念珠は大切なものですので、床や畳などの足のつくとこ

ろに直接置かないように心掛けましょう。

仏前で読経し礼拝することを勤行(お勤 め)といいま

す。宗派によっては勤行を修行として行う場合があります

が、浄土真宗の場合は阿弥陀仏への感謝(報恩謝 ほうおんしゃ 徳 とく )を表 現する意味でお勤めを行います。

また、読経は僧侶だけではなく参拝者全員が声を出して お勤めします。

読経の前後には経本 を頭の前 まで 持ち上 げて頂戴しま す。

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仏事の基礎知識

礼拝施設は通常の建物とは違い、ご本尊がご安置されて いる特別な場所です。入る時にはご本尊に向かって軽く頭 を下げてご挨拶をしましょう。軽く頭を下げる作法を揖拝 といいます。礼拝施設から退出するときにも揖拝をしてか ら退出します。

合掌は相手を敬うすがたです。仏教国では、仏さまへの 礼拝だけではなく人と人が出会った時にも相手に対して合 掌することがあります。

礼拝は合掌しながら頭を下げる作法です。浄土真宗本願 寺派では、両手を胸の前で合わせて、背筋を伸ばしたまま

腰から45度曲げて 頭を下 げ、「なんまんだぶ」と数回 お念 仏します。

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龍大まめ知識

龍大まめ知識 チャイム

本学はチャイムに仏教讃歌 の一 つである「四 し 弘 ぐ 誓 ぜい 願 がん 」

(小松清作曲)のメロディーを採用しています。

四弘誓願とは、覚りを求めようとする総ての人々(菩 ぼ 薩 さつ )

が発 おこ すべき四つの広大な誓いであり、願いのことを指して いうものです。すなわち、

しゅ 生 じょう 無 む 辺 へん 誓 せい 願 がん 度 ど

──生きとし生けるものすべてを、誓って覚りの岸に渡そう

ぼん 悩 のう 無 む 数 しゅ 誓 せい 願 がん 断 だん (または煩悩無辺 ・ 誓願断) ──数かぎりなき煩悩を、誓って断 た とう

ほう 門 もん 無 む 尽 じん 誓 せい 願 がん 学 がく (または法門無尽誓願知 ・ ) ──尽きることのない仏の教えを、誓って学びとろう

ぶつ 道 どう 無 む 上 じょう 誓 せい 願 がん 成 じょう (または無 ・ 上 ・ 菩 ・ 提 ・ 誓願証 ・ ) ──この上ない覚りを、誓って成 じょう 就 じゅ させよう の四つの願いです。

このチャイムは、本学の講義開始や終了の時を知らせて くれるだけでなく、学内の全ての人に建学の精神の意義と その自覚を促していることを知って欲しいものです。

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龍谷大学「建学の精神」 龍大まめ知識

龍大まめ知識 仏 ぶっ 旗 き

仏教を信奉する意を表わす6色の旗で、六 ろく 色 じき 旗、六 ろっ 金 こん 色 じき 旗とも言います。その謂われについては『涅槃経』による などの諸説があって、はっきりしませんが、仏陀が覚りを 開き、そのすぐれた力をはたらかせる時、その体から青・ 黄・赤・白・樺、及び輝きの6色の光を放つ、と『小部経 典 (クッダカ・ニカーヤ)』などに説かれていることを基に、 「仏教徒共通のシンボル」として、1885年に スリランカで 制定されました。

これを世界中に弘めたのがアメリカ万国神智学協会総長の

ヘンリー・スティール・オルコット退役米陸軍大佐(Henry SteelOlcott/1832~1907)で、日本 へ伝 えられたのは、同協会

と関係の深かった普通教校(本学の前身)海外宣教会の教員 と学生が彼を本学へ招いた1889年のことです。

年次法要や大学行事の際、大学旗と共に掲揚されます。

仏旗と大学旗

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(正面入口)

深草学舎・顕真館1F見取図

龍大はじめの一歩

龍谷大学「建学の精神」 2024年4月1日発行

編集代表 楠淳證

編集委員

井上見淳高田文英玉木興慈能仁正顕

野呂靖深川宣暢道元徹心(50音順)

編輯・発行

龍谷大学宗教部

〒612-8577京都市伏見区深草塚本町67 TEL075-645-7880

https://www.ryukoku.ac.jp/shukyo/

98 建 学 の 精 神 の 普 及 ・ 醸 成 を 目 的 と し て 置 か れ て い る も の で 、 宗 教 教 育 ・ 法 要 ・ 大 学 の 式 典 や 行 事 の 式 務 に 関 す る こ と な ど を 業 務 と す る 事 務 部 署 で す 。 直 接 の 窓 口 は 、 深 草 学 舎 顕
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真 館 北 側 に あ り ま す
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