森野家 継伝

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原に住んでいた方が所有していた車庫を私が借りに行き、少し改装したものだった。

当初私はいすゞを辞めさせてもらえず、開業時は勝さんと山本さんと二人の手伝い人で始めた。 私が大田鈑金に合流したのは昭和四十三年の八月からで、いすゞと大田鈑金を半日ずつ掛け持ちし

ていた。私は技術的な事が分からないので営業と会計事務を担当し、森野さんと山本さんが技術仕

事 を や っ て い た。 二 年 後 の 昭 和 四 十 五 年 四 月 十 五 日 に 私 は 実 家 の あ る 三 瓶 町 池 田 で ガ ソ リ ン ス タ ン ドを開業し、同じ年の五月三十日に大田鈑金を退職した。

当時は儲かりよった。お客さんがどんどん来て忙しいのなんの。あの頃周りに自慢しよったが三 人の 給 料 は 市 長 並 だ っ た 。

そのかわり技術がついていかんかった。日の丸トラックが修理に入った時には、前がべしゃーっ とへこんでいるが鉄板が厚いのでガスで炙って出そうとしてもなかなか思うように出ない。しょう

が な い か ら パ テ を 思 い 切 り 厚 く 塗 っ て「 キ レイになったなあ」と言いながら返した。そうしたら

ひ と 月 せ ん う ち に そ の 車 が ま た 衝 突 し て、 そのパテがぼろっと落ちた。日の丸トラックの支社が 京都にあって、そこからクレームの連絡が来て呼び出され、私が営業だったのでしょうがないけ行

ったら、めそくそ(ものすごく)叱られてもういっぺんやり直しさせられた。あれには参ったなあ。

勝さんは素人なのに塗装をやっていて、仕事については鬼で、真剣に取り組む男だった。ごまか しがない。ほいだけあそこまでできたんだと思う。私らも感心しよった。

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