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森野勝・勝子

継伝

          

Masaru Morino

Katsuko Morino

               

           勝 【 出 生 】 一九三七年(昭和十二年)六月一日            森野   勝子 【 出 生 】 一九四三年(昭和十八年)二月二十六日                【 制 作 】 二〇一三年(平成二十五年)六月 

Relay of history


生い立ち ……

伝  森野勝・勝子 継   目次   ▼

  ■      森野勝子の歩み ……        勝子の生い立ち ……       二人の出会い ……     全盛期の三瓶山 ……         結婚、二人の子供と ……             久美子幼少期 ~(娘・久美子談) ……      

久美子と貴之の名前の由来 ~(娘・久美子談)

      父の変人ぶり ~(娘・久美子談) ……       私と弟の学生時代 ~(娘・久美子談) ……

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……

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      居酒屋〝赤ちょうちん〟開店 ……       赤ちょうちんの思い出 ~(娘・久美子談) ……

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妹・栄子と始めた食堂 喫 ・ 茶店〝テジョン〟 ……

……  

勝の趣味〝何でもござれ〟 ……

 

僕が飛行機にハマッたきっかけ ~(息子・貴之談) …… 自己中心的な父と、支えた母 ~ (娘・久美子談) ……

……

勝子の趣味〝バレーボール〟 ……

文 ・化 ……

   

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      栄子おばちゃんとの思い出 ~(娘・久美子談) …… 三人で稲用での生活 ……

     

          

     

家系図

■ 歴史 伝 ・統

     

    森野家    

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    趣 味

      主人の最後 ……       父の最後 ~(娘・久美子談) ……

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……

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……

……

……

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     三人で創業

    大田鈑金塗装工場㈲の歩み 開業の経緯 ~(兄 前 ・ 坂定美談)

……

……

夫婦二人三脚へ 会社を移転

…… ……

…… ……

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……

……

父からの引継ぎ ~(息子・貴之談)

      息子・貴之へ継承、社長就任           こばと保育園  

……

■ 暮らしの知恵

          勝の開発

    勝子の手料理       炊き込みご飯

      きゅうりのからし漬け       みかん(甘夏)の皮

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■   

教訓 ……

    ノンストレス

……

    昔と今の若者の違い ……

……

……

……

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    商 売

敵を作らず

……

      商売を近くで見ながら育った子供たち 商売で一番大事だと思うこと ……      

……

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女性会

……

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      これまでの商売とこれから     大田商工会議所

……

    〝あゆみ太鼓〟結成

■想い

          

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同級生

……

勝子の同級生

……

……

      主人・勝の同級生           怒りまくった主人の飛行機 ……     主人と前坂家     主人の弟・恒夫さん

……

  …… 104

    勝の味噌汁 …… ……     続いた周りの死 ……     娘・久美子       恐怖のどんちゃん騒ぎ ~(息子・貴之談) ……

    子供、孫の思い出 ……     主 人

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      就職するなら ~(娘・久美子談) …… ……     息子・貴之       貴之誕生の父の喜びよう。私とのギャップ ~(娘・久美子談) ……       小さい頃はかわいかった弟 ~(娘・久美子談) ……

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継 伝

■ 生い立ち

         

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森野勝子の歩み   勝子の生い立ち 私は昭和十八年二月二十六日、島根県大田市   三瓶町池田池ノ原に父・前坂秀五郎、母・秋代 の五人兄弟の次女として誕生しました。    家も学校も国立公園三瓶山の麓にあり、池田 小学校に六年、池田中学校に三年通いました。 小中学校は五十人くらいの一クラスで、当時の 私 は 大 人 し い 性 格 で、 ク ラ ス で も 目 立 た な い  存在でした。卒業して「商売してから性格が変 わった」と同級生からは言われています。「お 前が一番変わった」と(笑) 。

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三瓶町池田の生家(現在は建て替わっている)

父・前坂秀五郎         母・秋代

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中学校を卒業すると大阪の日本化学工   業 で 二 年 勤 め ま し た。 そ の 後 大 田 市 に  帰り、十九歳の時に東和商事(現 東 ・幸

建設㈱ 大: 田市川合町)で働き出しまし た。当時東和商事は喜多八幡宮の入口に 会社があり、写真屋と土建業を営んでい

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ました。 私は冬の間は泊まりにして頂き、

(上は現在。スナックになっている)

夜は編物教室に通っていました。

  ↓当時の東和商事


~ 二人の出会い ~

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主人・森野勝は昭和十二年六月一日、父・森野実、母・シマヨの四人兄弟の長男として、 大田市長久町稲用四一二‐二に生まれました。

長久小学校、大田市立第一中学校、邇摩高校の農業科を卒業し、最初は伊丹の陸上

自衛隊に入隊しました。二年くらいしてから大田市に帰り、運転手として東和商事に 

入ってきたのです。そこで私と知り合い、つき合うようになりました。

 

そ の 後 主 人 は 東 和 商 事 か ら 富 士 第 一 交 通 に 転 職 し て タ ク シ ー の 運 転 手 を し た 後、   

バス部門の石見交通に移りました。私は東和商事を退職した後、三瓶の実家の近くの

三瓶グリーンランド(遊園地)で働くようになりました。主人はタクシーの運転手だっ たのでグリーンランドによくお客さんを乗せてきたりしていました。

当 時 大 田 市 駅 前 の バ ス タ ー ミ ナ ル の 二 階 が レ ス ト ラ ン で し た が、 そ こ も グ リ ー ン ラ

ンドと同じ経営でした。私は冬のオフシーズンにはそのレストランのウェイトレスとし

て働いていました。だから主人とはグリーンランドやバスセンターでもよく会っていた のです。

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父・森野実        母・シマヨ  

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右:東和商事の社長(当時)、左から 2 番目:社長夫人

三瓶グリーンランドの同僚たちと

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上:当時のバスターミナル   (2 階がレストラン) 右下:現在のバスターミナル   

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全盛期の三瓶山

 三瓶グリーンランドにはキリンとか猿とか動物がいました。観覧車があったり遊ぶ  汽車やチェーンタワーがありました。あの頃は人がたくさん来ていたものです。広島に

そういった遊び場が無かったみたいで広島からたくさん人が来ていました。土日などは 狂いまわるほど忙しかったのを覚えています。

忘 れ も し ま せ ん が、 あ の 当 時 店 の 中 で 売 店 を し た り 遊 園 地 の 切 符 を 切 っ た り し て、     一日に三十万円もの売上が上がったことがあります。今から五十年くらい前です。スキ

ー場も原っぱも人がたくさん並んでいました。三瓶山一周遊覧バスというのがあって、 五千円もしていたのにたくさん人が利用していました。

三瓶はみんな農家だから、連休になるとたくさんの貸切バスが上がってきて、田んぼ   に行くのになかなか交差ができないというくらいでした。

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三瓶グリーンランド跡地

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結婚、二人の子供と

昭和三十九年十二月、主人が二十七歳、私が二十一歳の時に結婚しました。その年は

東京オリンピックがあった年でもあり、大田一中が火災に見舞われた年でもあります。

私が自動車免許を取ったのもこの年です。結婚式は長久町稲用の自宅で行い、夕方から

始まり、終わったのは夜中の十二時を回っていたように思います。近所の若い人が地蔵 さんを持ってきたのを覚えています。

 初めて長久町延里の美容室に行った時に、美容師さんに私が稲用に嫁に来たことを  伝えたら、その美容師さんは「稲用というところは月の光で田んぼをするところだ」と

 

言われました。実際私は嫁に来てから休む暇がなく、家の事に少し慣れたら葉タバコ、 

田んぼ、みかん山の手伝いをしました。義父・実さんは田畑・山の開墾とかが大好きな

人で、幸い私が自動車の免許を持っていたので、毎日トラックでみかん山や田んぼへ 一緒に通っていました。

 その当時自動車の免許を持っている事は大変珍しいことでした。私の父が今は花嫁道 具より自動車の免許を取った方がいいと、母の反対を押し切って私に免許を取らせてく れてたんです。

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主人は結婚前から富士第一交通でタクシーの運転手をしていましたので、昭和四十年 に長女・久美子が生まれてからもほとんど朝帰りでした。私は忙しい時には久美子を 

主人に預けて畑仕事を手伝っていましたが、主人は久美子が泣くと、「うるさい」と言 って押入れの中で寝ていたこともありました。

 私も嫁に来るまでは主人は怒ることなど無い様な人だと思っていましたが、すぐ癇癪 が出て大きな声で怒鳴り散らしていましたね。義母も「まさはだらず( ニ愚ュかア者ンとスいう)だけ、 すぐ癇癪が出るだけ」と度々私を慰めてくれていました。

 当時の自動車はすぐにパンクしていて、私は自分の車がパンクした時は主人に電話す る と 怒 ら れ る の で、 兄 に 電 話 を し て い ま し た。「 ボ ロ の 車 に ば か り 乗 せ る け だ わ ね!」 と主人には言いたかったのですが…。

言葉ではいつも主人に負けていました。喧嘩した時は『もう口なんか聞いてやるもの   か!』と思っても、一緒に仕事をしているとそうはいかず、毎回私の方が折れていまし

た。人が居ても平気で怒鳴る人で、居合わせたお客さんが気を使われるので、私は「怒

るなら誰も居ない所で怒ってよ!」とよく言いましたけど、癇癪はなかなか抑えられな

いようでした。でも私に手をあげることは一度もありませんでしたね。今なら言葉の暴

力で訴えることができたかもわかりません(笑)。そんな主人でも年齢と共に私に先導 されていきましたけどね。

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久美子幼少期 ~ (娘・久美子談)  

私が五歳ぐらいの時、母は東和商事に勤めており、バイクで通勤をしていました。

  母 が 言 う に は、 そ の 頃 の 私 は 駅 通 り の ル ーテル幼稚園に預けられていたらしいです。母は私 を  迎えに来て、バイクの後ろに乗せて帰るのですが、私が唯一覚えているのは、バイクの後ろに乗っ

ているうちに眠くなってそのまま寝てしまったことです。後ろにのけぞって、危うく落ちそうにな

って、びっくりして目が覚めた事がありました。子供ながらにかなり怖かったのを覚えています。

 でも、そんな恐ろしい経験をしていた事を母は未だに知りません。幸せな人です。

 私は幼少期、父と一緒にお風呂に入った記憶がありません。毎日祖父と入っていた様に思います。 父は母と入っていた記憶があります。当時の一人娘より母と一緒に入りたかったのか、帰りがいつ も遅かったせいなのかは、母にも聞いた事はありません。

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上・左下:稲用の当時の実家

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久美子が五歳になる頃、会社の従業員を下宿させるため、私たち家族は栄町の高野 シ ズ ヨ 叔 母 さ ん の 家 を 借 り て 移 り 住 む 事 に な り ま し た。 私 は そ こ か ら 東 和 商 事 へ 通 い、   主人は大田鈑金に通っていました。

 久美子は大田小学校へ入学し、学校の帰りは会社の方へ帰らせていました。夏休みに なると私の三瓶の実家へ預けていました。両親と義姉 浪 ・ 子 さ ん が い つ も 快 く 自 分 の  子供二人と一緒に久美子の面倒を見てくれ、私は安心して仕事に打ち込むことができま した。

 久美子が二年生になる前に、会社と同じ道路沿いで五十m離れた場所にある大田市城 山(現在の上垣医院の前)の柳楽アパートの二階に引っ越しました。会社からすぐの場

所なのでとても便利でした。柳楽アパートは三畳と六畳の部屋が一つずつと台所があ

るだけの部屋で、トイレと風呂は共同でした。あの頃は従業員も家族のようなもので、  

日曜日にはみんなでうちに集まってきて畳半分程度の玄関は履物でいっぱいになってい ました。

貴 之 が 誕 生 し ま し た。   久 美 子 が 長 久 小 学 校 に 転 校 し て 四 年 生 の 二 学 期 の 時 に、 長 男 ・ 久 美 子 が で き て か ら な か な か 子 供 が で き ず、 貴 之 は 九 年 ぶ り に で き た 子 だ っ た の で、  主人も大喜びで実家へ報告に行ったものです。

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久美子と貴之の名前の由来 ~(娘・久美子談)

〝久美子〟の名の由来を父に聞けば「わしの初恋の人の名前」と言い、母に聞けば「当時のお昼   のテ レ ビ 小 説 が 久 美 だ っ た か ら 」 と 言 う 。  それぞれに違う思いで付けてくれた、ということでしょう。

 母が言う、テレビ小説の「久美」になぜか子を付けたのはもちろん父です。その時母は、 『子が付いて無い方が良いのに』と思ったらしい・・・・・    どうやら私がこれを書くまで、母は父の思惑を知らなかったようです。  お 父 さ ん バ ラ し て ご め ん ね 。    弟の〝貴之〟の名前が決まった瞬間は覚えています。 大相撲

 祖父が当時貴乃花( の力士)が優勝した年だったので「貴之」と付けました。達筆な祖父が、半紙 に〝貴之〟ときれいな字で書いたのを見ました。

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柳楽アパート(上は現在)

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父の変人ぶり ~(娘・久美子談)  父は、私に一度だけ手を上げました。  小学校二年生ぐらいの頃、まだ柳楽アパートに居た頃です。  

げきりん

 それは、母が夕飯の支度をするのを、父と二人でテレビを見ながら待っている時に起こりました。 父は、ボクシングの試合を夢中で見ていたのですが、私はどうしても裏番組が見たくてチャンネル

を変えてしまいました。それが 逆 鱗に触れたらしく、「何するだか!」 と、 わたしの上に乗っかりほっ

ぺたを一発だけ叩きました。もちろん手加減はしてくれていた、 と思います。痛さは覚えていません。

 母が驚き、「何しとるの!」と大きな声を上げ、父が我に返ってくれて助かりました。

 この時は意外に怖いという感覚は無く、父のボクシング好きは相当なものだと思い、これからは 気が済むまで見せてあげようと思いました。そういえばボクシング番組の件を除けば、私はほとん

ど父に怒られた記憶がありません。癇癪で怒鳴られた事はありますが、これは父の癖みたいなもの であり私には何の否もないので、叱られた記憶はありません。

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じゅう し まつ

 同じ頃、父は十姉妹をすごく可愛がっていました。仕事から帰るとすぐに鳥かごから出し、 手の上や肩に乗せては喜んでいました。そして餌を自分に舌の上に乗せて食べさせるのです。その うちに、その十姉妹の頭の部分を口でほおばり喜んでいました。  今 思 え ば か な り 変 な お っ さ ん で す 。

 窓の外には、黒くて固い物体を吊るし、「身体に良いんだけ~」とか言っていました。

  母 が 言 う に は 熊 の 内 臓 だ っ た ら し い の で すが、飲んだとこを見たことはありません。おそら く  飲んでいないと思います。吊るしているだけで満足するタイプの父でした。

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昭和四十九年の春、稲用の実家を新築しました。当時六十歳の私の父・秀五郎が、 三瓶から五十ccのバイクで毎日片道四十分かけて通って、建ててくれました。今でも

感謝している事は、当時稲用には珍しかった水洗のトイレにしてくれた事です。

 その時の借り入れの返済は、ボーナス時期の年二回四十万円ずつと、毎月一万八千円 でした。当時、一回四十万円の返済が七年続いたのは本当に苦しかったです。

しばら

昭和五十年十二月に会社を長久町川南の新工場(現在の場所)に移しました。   事務所の裏に、四・五畳の台所と八畳の居間とお風呂を造り、そこで家族四人での生活 が始まりました。

三年後に二階を改装し、子供部屋(久美子の部屋)を造りました。そして暫くして、   階段下に四・五畳の居間を父・秀五郎が造ってくれました。それから数年後、二階に六

畳と八畳の部屋とトイレ・洗面所を造りました。十三年間の間に、少しずつ三回の改築 を行ったことになります。  (娘・久美子談) 

 二階にトイレができるまで工場のトイレを使っていましたが、それが本当に嫌でした。

 私が高校に入って、二階にトイレと洗面所ができたのが本当に嬉しかったです。 

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昭和五十六年に長女・久美子が大田高校に入学し、同時に長男・貴之が長久小学校に

   

入学しました。久美子は高校を卒業すると、京都芸術短期大学に進学し、二年で卒業。

さらに一年専攻科で学び、その後㈱ワコールに入社して今に至ります。同じ年に貴之は 大田第一中学校に入学し、三年後の平成二年に邑智高校に入学。

 主人は邑智高校で役員を務めていましたが、貴之が度々停学処分となる為、辞任を  申し出ました。貴之は邑智高校を卒業後、京都自動車専門学校に入学し、この二年間は 京都の久美子の家から通学していました。   私と弟の学生時代 ~(娘・久美子談)     私 が 高 校 生 の 頃、 毎 朝 学 校 に 行 く 頃 に 父 が 朝 刊 を 片 手 に 家 に 帰 っ て 来 る。 私 が 普 通 に「 お 帰 り 」 と 言 う と、 父 は「 帰 っ た け 」 と 言 う。 何 と も 堂 々 とし た 帰 り っ ぷ り で し た 。 そ う い う 事 が 続 き、 夜 に 父 が 不 在 の 時 が あ ま り   に多 く 、 母 に 聞 い た 事 が あ り ま す 。

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「お父さんは、留守中に家族に何かあったらどうする気なんだろうか!」と。すると母は、   「お父さんの一番はお母さんだけ、飛んで帰って来るけ大丈夫」と余裕の笑みで答えました。  

 そういえば、父は社長のくせに突然一週間ぐらい帰って来ない事が何度かありました。でも家族 も周りの人達も特に動揺した様子もなく、ましてや心配もしていない様子。どうやら会社は母が居 れば ま わ る ら し い 。

 今思えば、父は何と自由な人間なのだろうか。それを知らん顔して、許していた母は『ほんとす ごい ! 』 と 思 い ま す 。  

 中学の頃の私は、洋服を作る仕事に就くのが夢だったので、普通高校より服飾の勉強ができる専 門学校に行きたかったんです。でも中卒では入れるところがなくて、一旦高校に行く事にしました。

そうしたら父は、「交通費がかからない大田高校に行ってほしい」と言い、母も同意見だったので、 大田 高 校 に 行 く こ と に し ま し た 。

 自分の中では、高校卒業後は、服飾専門学校に行くと決めていました。そんな時、学校から帰っ たら、母が突然「女子大生のお母さんがいいな~」と言い出して、急遽、服飾が学べる短大を探し

た の で す が、 そ う な る と デ ッ サ ン の 実 技 試 験もあるので、慌てて美術の先生に放課後デッサンを 

教えてもらいました。しかも専門学校と違い入試があるので、必死で受験勉強もしました。

 

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です。当時は女子大生というのが注目されて流行っていたので、 母は何の気無しに口にしたのでしょ

  残念な事に母は「女子大生のお母さんになりたい」と言った事さえも、まったく覚えていない様

う。そんな戯言を真に受けた私ですが、結果的には良かったと感謝しています。高校も短大も自分

の意思ではなく、両親の誘導によるものが大きかったので、今の私があるのも両親のおかげです。 というか、私は、かなり従順な娘であったと思います。

 いつの試験勉強中かは忘れましたが、父と母が我が家で散々大宴会をした後、みんなで夜の街に 繰り出した日の夜中(〇時は超えていたと思う)に、近くの土手から大きな声で歌う声が聞こえて

きました。まさかの父と母とそのお友達。。。。なんとも楽しそうな様子で。 。 。 。 。 まさかこれからまだ飲む気か? ・・・・私は勉強をあきらめて寝ました。

 弟が高校生の頃、父が京都に電話をかけてきました。 「貴が学校を辞めるって言っとるけ、これからの時代、中卒はだめだけ何とかしてごせや」 と、 か な り 悲 壮 感 が 伝 わ っ て き ま し た 。

 私はあらためて電話をかけなおして貴と何時間も話をしました。なのに彼はまったく覚えてい ま せ ん。 し か も、 貴 本 人 は、「 あ の 頃、 辞 め る 気 な ん か 無 か っ た で 」 と 母 に は 言 っ た ら し い。 。 。。    父と私は必死だったのに何とも虚しい事です。

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居酒屋〝赤ちょうちん〟開店

 平成元年に会社の土地続きという事で、当時の大田赤ちょうちんの持ち主だった岸さ んから、そのまま店を譲り受けました。

お店も継続する事にし、同級生の松前誠さんに広島アルミを退職して頂き、一緒に     開業する事になりました。二人とも全くの素人であり、色々な方に試食して頂いた上で  メニューを作り、午後六時から午前二時まで営業する事にしました。  当時は近くにカラオケボックスがあり、夜遅くまで賑やかでした。

  広島アルミ、農協、会社の取引関係の方や、主人と私の趣味仲間達が使ってくれてい   ました。私もまだ四十五歳で働き盛り、返済額の二十七万円も返せていました。連休、

お盆、お正月などは、帰省した若者達で明け方まで本当に忙しかったのを覚えています。 開業当時は、貴之も焼き鳥を担当してくれていました。  

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赤 ち ょ う ち ん の 思 い 出

~(娘・久美子談)

 実家に帰ってゆっくりできるどころか、散々こき使われました。

 私が京都で客商売をやっていた事もあり、母は使いやすかった様です。私自身、嫌いではない為、 帰省 す る 度 に よ く 手 伝 っ た も の で す 。

 毎日満席で本当に忙しく、弟の嫁・あやちゃんと走りまわっていた事を思い出します。 子供がまだ小さかった弟の嫁のあやちゃんも、 『とんだ家に嫁に来たものだ』と思ったに違いあり

ません。よく文句も言わず手伝うなあ~と感心していました。あの頃は、子守の父、手伝いに借り

出されるあやちゃん、そして昼も夜も働く母、たまに帰って手伝う私、みんな本当に大変だったと 思います。あれ? 弟・貴之は? JCでお出かけ????    

 その頃隣の家では、父がたった一人で小さい孫達の世話をし、それが意外と楽しそうなのに驚き ました。本当に孫が可愛かったのだと思います。保育園に迎えに行くのも父の担当で、

「わしの顔が見えるとほんと、嬉しそうに来るんだけ~」と、ニヤニヤして私に自慢していました。

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松前さんの糖尿病をきっかけにやむなく赤ちょうちんを閉めました。  平成十三年二月、

  平 成 十 四 年 に 店 を 少 し リ フ ォ ー ム し、 店 名 を 細 や ん( ㈱ 日 商 の 細 田 社 長 ) 命 名 の   〝のもや〟として再開しましたが、二年ほど経った頃、店を譲ってほしいという人が主

人のところに相談に来て、 その場で了承してしまった為、テナントに出す事にしました。

今思うとあの時主人が決断してくれて良かったと感謝しています。平成二十三年九月か

らは、現在の〝光〟として清水さんに借りて頂き、仕出しと弁当で商売をされています。 とても良い方なので、長く続けて頂きたいと思っています。  

 借入残高も減って残り二年となり、兄の定実から「お前よう返したな、褒めちゃる」 と言われた事が、私にとっては最高の褒め言葉であり、本当に嬉しかったです。

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・ 茶店〝テジョン〟  妹・栄子と始めた食堂 喫

 平成十一年四月一日に大田市役所内にある食堂・喫茶を妹・栄子と開店する事になり ました。店名は〝テジョン(大田) 〟 。

栄子はとても明るい性格で、私をその気にさせるのが本当に上手だったんです。     主人も兄・定実も賛成してくれて、その兄が五十万円の資本金を出してくれました。

栄子は、夜はスナック〝聖〟を営業し、昼はテジョンを掛け持ちし、忙しい日々を送っ

ていました。  私も同じように、夜は赤ちょうちん、昼の忙しい時はテジョン、それ以外の時間は会   社に顔を出していました。 その頃私が五十六歳、栄子が五十五歳。良く頑張ったものです。

テジョンはアルコールを出さない為、売り上げはそんなに高くありません。お昼のラ   ンチだけの勝負であり、家賃はいりませんが、軌道に乗せるのは簡単ではありませんで

した。最初の頃は市役所の方達に気を使いました。ある日、ご飯のスイッチを入れ忘れ

てご飯が用意できなかった事もありました。皆さん良い方ばかりだったので、その時は 麺類で許して頂きました。

栄子は、すごく気さくで陽気な性格なのですぐに誰とでも友達になり、夜、スナック   聖に顔を出してくれる心安いお客さんも増やしていました。栄子は煮物が得意で、特に

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煮しめの味付けは最高でした。息子の貴之は栄子のうどんを気に入ってよく食べに来て   いました。何をするにも手が早く、器用に何でもすぐに作ってくれました。    私は、栄子が居るテジョンに行くのが、毎日楽しみでした。

 

 

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そんな頃、急に栄子が「背中が痛い」と言い出し、「おへその周りが痛い」とも言い、 私は、 「痛いならガンじゃないわね」と何気なく言いました。それからほんの三ヶ月後、 栄子と永遠の別れとなってしまいました。

 栄子の死去のすぐ後、私は急に耳が聞こえなくなり、地元の病院に行くと島根県立中

央病院を紹介されました。すぐに診察してもらったところ、そのまま入院する事になっ

てしまいました。私はこれまでお産以外で入院などした事がありませんでした。病名

は、突発性難聴炎と言って、ストレスから起こる病気との事でした。栄子の死がよほど、  精神的に堪えた様です。

 着替えなどは、義姉・浪子さんに持ってきてもらい、本当に助かりました。

『 栄 子 が 生 き て い た ら な あ 』 と し み じ み 思 い ま し た。 そ の 頃 は、 主 人 も    入 院 中 は、 まだ元気で、 「コーヒー飲みに来た」と言いながら見舞ってくれました。そして十日間 の入院の後、無事退院しました。

 

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栄子おばちゃんとの思い出 ~(娘・久美子談)

 栄子おばちゃんはお酒が飲めないのに、酔っ払いの相手がとっても上手で、私も実家に帰ると母 とよく遊びに行っていました。いつも笑っていて、お客さんもほんとに楽しそうに飲んでいました。

 父とも何度か二人で行きましたが、おばちゃんが急に痩せていた時があり、びっくりして、 「ダ イ エ ッ ト で も し た ん ? 」 と 聞 く と 、 「何にもしとらんけど、体重が減って来たんだがー」 と 言 っ て い ま し た。 お ば ち ゃ ん が 父 に「 お 腹 に 固 い 物 が あ る ん だ が ー」 と 話 し た の は、 そ の す ぐ 後 と聞 い て い ま す 。   こ れ が、 私 が お ば ち ゃ ん に 会 っ た 最 期 に な っ て しま い ま し た 。

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    お ば ち ゃ ん の 作 る、 美 味 し い 煮 し め が も う 一 度 食べ た い で す 。

栄子と最後に実家で別れをした時の写真


平成十六年十月、新生大田市と共に、栄子 の大好きだったテジョンから、名前を〝ホー プ・ウィン〟に変える事になりました。これ は、前市長の熊谷国彦さんに名付けて頂きま した。その後は、主人の妹・千代子さんに手 伝ってもらった事もありますが、現在は貴之 の嫁・綾子がスタッフ三人と切り盛りしてい ます。私は経理だけを担当していますが、こ れからもみんなの頑張りで続けていけたら良 いと思っています。

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三人で稲用での生活  

 平成十七年二月に会社の隣の家を息子家族に明け渡し、主人と私は三十三年ぶりに  稲用の実家に戻りました。

  私 の 父・ 秀 五 郎 が 建 て た 家 で あ り、 愛 着 も あ っ た の で、 戻 る 事 は 嬉 し か っ た で す。  何年か空き家同然だったので、クロスを張り替え、物入れを作ったり、トイレを洋式に したり、お風呂をボイラーにしたりと、一部リフォームしました。

 当時、高齢の義母(シマヨ)は、義妹(千代子)が面倒を見ていました。その義母を 引き取り、三人での生活を始めました。義母は歳のわりにはしっかりしていました。

その年、主人は念願の田んぼ作りに張り切り、ゴミ捨て場の様な畑もユンボとトラッ   クで畑を全部起こして、きれいにしてくれました。・・・しばらくは危険物が出たりも しましたが・・・

 しかし、この年の秋頃から主人は病気のせいか少しずつ笑顔が消えて、イライラす る事が多くなり、急に怒鳴り散らす事も出てきました。私も次第に不安になり、翌年

は田んぼを他の人に作ってもらう事にしました(主人は少し不満の様でしたが)。そし

て 四月頃から、主人がしきりに「腹の中に虫がいっぱいおる」と言い出すようにな

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り、ふと気が付くと、全く興味の無いはずのクラシック音楽の番組を見入っていたりし

て、 私はおかしいなと感じ始めました。それからどんどんおかしな事を言う様になり、 夏なのに「寒いからストーブ点けろ」と言ったり、勝手に検査の日をキャンセルしたり、

日にちも分からなくなっていきました。あれだけヘビースモーカーだった主人が、私が 

タバコを預かり、欲しい時にだけ渡すようにしていたら、いつの間にかだんだん、タバ コそのものを忘れた様でした。

その後はインシュリンも自分で打てなくなり、私が病院で教わり、代わりに打ってい   ました。家に一人にしておけないのでデイサービスに預ける事にし、恵寿園さんに迎え

に来てもらったのですが、 「何でわしが行かないけんのか!」と嫌がるので、預けるの を止めました。

  人 義母のシマヨおばあちゃんは、鳥井町の双葉園( 福介祉護施老) 設 に迎えに来てもらっていまし   た。あまり喜んでは行きませんでしたが、「今日も行くだかな?」と言いながら、二ヶ 月ぐらいは続きました。

 平成十八年九月に、義妹・千代子さんが、私の主人がこんな状態だからと、シマヨお ばあちゃんを引き取って見てくれることになりました。

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お ば あ ち ゃ ん と 父 、 そ し て 母

~(娘・久美子談)

 お ば あ ち ゃ ん は 私 が 帰 る と、 母 と 私 の 話 しを黙ってニコニコしながらずっと聞いていました。  食事の際も、私と母の向かいに父とおばあちゃんが座っていました。

 二人は、既に自分の事は分からない状態で、ましてやお互いの事も分かるはずもなく、お互いが 『誰だろう?』という感じでじろじろ見ながら食事をしていたんです。  

 ふと、『毎日この二人を前にして食事をしている母はどんな気持ちなんだろう?』と思いました。 大変という前に、義母は高齢で致し方なく割り切れるものの、自分の旦那も同時に会話も出来ない

なんて、相当切なくて悲しいんちゃうかな?と思いました。世間一般に、介護してる奥さん方は、「旦

那は何もしてくれない」、「愚痴も聞いてくれない」なんてよく聞くけど、うちの母はそれどころで

はない。分かんなくなった人はまだ幸せであり、私は『母の方が心配だ』とその時思った事を覚え てい ま す 。

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その後、主人は足が悪くなり思うように歩けなくなったので、六路さんの紹介で波根   へ 三 ヶ 月 ほ ど 入 ら せ て 頂 く 事 に な り ま し た。 一 人 部 屋 で ト イ のたてがみの郷( 支委援託事介業所護) レ付きが快適だったのか、不思議と「帰る」とは言いませんでした。

 相変わらず、気に入らない事を言われたりすると癇癪を起こして大きな声で怒鳴って いましたが、私が帰る時にはエレベーターまで見送ってくれていました。見舞いに行く

と、主人から「もう帰れ!」と怒鳴られて気分を害した親戚もいたようです。

十一月に入り、たてがみの郷から、 「ご主人の足がむくんで熱があるので、市立病院   に入院してもらう」と電話が入りました。その後、熱も下がり十二月に今度は双葉園に

入所しました。二~三日、二階の一人部屋に入れたのですが、あの時主人を一人にして 帰った事を、 『かわいそうな事をしたな』と今でも後悔しています。

それからは毎日主人に朝食を食べさせてから仕事に行っていました。時々飴を持って   行くととても喜んだので内緒で食べさせていました。そのうち毎日主人が「飴をくれ」

と言い出したので、喉に詰まらせてはいけないと思い、時々饅頭にして食べさせていま しばら

した。

くしてシマヨおばあさんも双葉園に入所し、時々親子対面はするものの、お互い誰  暫 か分からない状態でした。

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主人の最後  

 平成十九年八月に、主人の体重が減ってきたからと、鼻から管を通し流道食になりま した。好きな飴も饅頭も食べられなくなり、もっと食べさせてあげとけば良かったと思

いました。食事は食べさせられなくても、毎朝顔だけは見に通いました。

父・ 秀 五 郎 が 他 界 し、 双 葉 園 に 三 ~ 四 日 顔 を 出 せ て い な か っ た 折、 双 葉 園 か ら「 ご   主人の熱が下がらないので、病院に連れて行ってほしい」と電話がかかってきたので、   貴之と一緒に主人を大田市立病院に連れて行き、夕方の診察でやっと診てもらえました。

床ずれの傷がひどく、すぐに手術をしてもらいましたが、既に菌が体中に回っていると

言われ、そのまま入院する事になりました。翌日、もう一箇所の傷も大きくなっていて、

再度手術するも、菌の回りが速く、入院二日目に息を引き取りました。あっと言う間の 出来事でした。

「年を取ったらキャンピングカーを買って、二人で日本一周しよう」と言っていたのに…。

 主人は痛い時は何倍も大げさに言う人で、まったく我慢が出来ない人でしたが、そん な主人がこの一年は一度も痛そうな顔をした事が無く、無表情のままでした。

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父の最後 ~(娘・久美子談)  

 父は、母が言う通り、ほんとに我慢の出来ない人でした。床ずれが悪化して骨が見えるほど腐っ ていたのに、全く痛みは感じない様子でした。幾度かの入院の際もタバコは止められず、私もこっ

そり病室に運んだ事があります。どうしても止められなかったタバコも無理する事なく止められ、

痛 さ も 感 じ な い 状 態 で 天 国 に 召 さ れ た 父 は、ある意味幸せだったと思います。あの父の性格から  考えて、痛みの感覚や苦しい感覚があり、意識もしっかりしていたとしたら、絶え難い苦しみだっ たに 違 い あ り ま せ ん 。  神様が頑張って生きた父に、最後のご褒美をくれたのだと思います。  

 私と父の最後の会話は、福知山線の脱線事故があった直後のゴールデンウイークに、父が京都に 帰る 私 を 見 送 り な が ら 、 「久美ちゃん、一番前の車両には乗るなよ!分かったか!」

と心配して声を掛けてくれたことでした。次に帰って来た時は、病気が原因でまともな会話は出来

最後まで会社の事や儲かる仕事、これからやりたい事を、目を輝かせて話してくれていました。

帰省する度によく話はしたけど、もっともっと話したい事が、いっぱいありました。

なく な っ て し ま っ て い ま し た 。    

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サンデイズ双葉園にて

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趣味 〝何でもござれ〟  勝の趣味  主人は道楽は何でもしました。

結婚した当時は休みになると江津の射撃場に行っていました。一回の射撃の金額も     相当だったと思います。当時給料がどれくらいだったか全く覚えていませんが、足りな

いので私も内職をしていました。この頃の生活が一番しんどかったですね。

射撃をするのに鉄砲の免許は経験をしないと取れないので、日曜になると江津にあっ   た射撃場に行ってクレーを打っていました。富山町に射撃場ができてからはそっちに 

行ったり。上の子を子守りしないといけないから一緒に連れて行って、いつも優勝した じゃなんじゃと言ったりしながら帰ってきていました。

 だからこの頃のことは上の娘がよく覚えています。主人もマイペースで自分が行きた い所に行って遊ぶ人でしたので、主人の趣味にだけは娘も一緒に連れて行ってもらえて いました。  

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城山に住んでいる頃はヘリや飛行機を飛ばす のが好きで、毎週日曜になると娘を連れて三瓶 山に弁当を持って連れて行かされていました。 三瓶の周りをぐるぐる競争したりするのです。 三星テレビサービスの三星社長さんや山崎水道 の山崎社長さんやら好きな人と揃ってその話ば かりしていました。     長久に会社が移っ てからも当分みんな 友達が来ては会社の 庭でヘリコプターを やっていたもので す。最後にはリモコ ンから本物の飛行機 に変わりましたけど

超軽量動力機で三瓶を一周して降りるところ

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ね(笑) 。  

三瓶西の原でのラジコンについて行った時


細やんと二人で二回ほどヘリコプター遊覧を企画した事があります。

 一番最初は彼岸市の時に、山崎団地の中にあった空き地(その後保育園ができたが今 は無い)が主人の友達の土地だったので、そこを借りて遊覧飛行を行いました。一人

五千円の料金でしたが、すごい人が来ていました。島根マツダの長廻さんと私で受付を

したりしていました。子供の日に三瓶の西の原でもやって、その時もものすごい人が  並んでいたものです。息子・貴之がまだ小学校三年生か四年生の頃でしたが、何遍も  ヘリに乗せてもらっていましたね。   僕が飛行機にハマッたきっかけ ~(息子・貴之談)   おそらくおやじが一番好きな頃より僕は飛行機にハマりました。

 僕が中学校二年生くらいの頃は反抗期でほとんどおやじと会話をしていませんでした。そんな僕 とコミュニケーションをとろうとしたのか、急におやじが「一緒にヘリコプター作ろう」と言って

きたんです。僕は模型とか機械が大好きだったので、その時に反抗期ながら食いついたのを覚えて

い ま す。 そ れ で お や じ と 二 人 で〝 ジ ェ ッ ト レ ン ジ ャ ー〟 と い う ヘ リ コ プ タ ー を 組 み 立 て ま し た。   エンジンからオーバーホールして、灯油できれいに磨きをかけたり、いろんな工程を一緒に組み立

その時だけは反抗期から抜け出したんですね。そしてそれを機に飛行機にハマったんです。

てて飛ばしたんですね。その時おやじと作ったジェットレンジャーは今でも倉庫にあります。  

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貴之とヘリ(工場前)

親子で作った “ ジェットレンジャー ”(現在の写真)

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パチンコは細やんと夜遅くまでパチンコ談義。昼は「あの台が今出とる」と無線で  連絡しあったり、夜は二時三時までパチンコ談義で盛り上がっていました。私たちの 

会社が長久に出た頃にパチンコ屋(ビクター)もできましたから。そのパチンコに行っ

た人達がまたうちに寄って飲んで帰ったりしていました。昭和六十四年まではパチンコ に行っていたと思います。

単 車 の ハ ー レ ー の 壊 れ た の を 直 し て 大 事 に 大 事 に し て 乗 っ て た 事 も あ り ま す ね え。     そのハーレーは壊れてから平成十年くらいまで稲用に置いてありましたが、広島の方の 人が二十五万円で買って持って帰られました。

 モーターボートも好きで、城山に住んでいた時に一台買って所有していました。温泉 津町の方だかにボートを置いていて、主人がいつも夕方になると「ちょっと行こうや」

と言って一緒に乗りに行っていました。主人は引っ張るだけで絶対に海に入ったりはし

ません。サザエとるのとかでも私に潜らせていました。夏の海水浴シーズンになると 

会社のみんなで鳥井の海水浴場に行ってボートで笠が鼻まで行っていたものです。  

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故金川社長さん(昭和技研㈱)が水上スキーを持っていたので、それを借りて主人が ボートで引っ張って、私や工場の人が乗っていました。当時水上スキーなんてやってい

る人がいなかったので、海水浴に来ている人たちがびっくりして見ていたものです。

あの頃の私たちは海水浴といったらモーターボートで水上スキー。あの当時の従業員   はみんな家族のようで、日曜日だというのにいつも家に来て一緒に遊んでいましたね。

一時は株にものぼせていました。私に内緒で買ったりとか。私は度々電話で連絡して   確認していました。 『 お か し い な あ 定 期 が な い け ど な あ 』 と 思 っ て い た ら、 主 人 が 金 融

機関の人と結託して内緒でそれを担保に株を買っていたり(笑)。油断するとこれです から。

 主人は何でも人より先に持たないと気が済みません。自動車電話というのが一時流行 り、それも一番最初に自分が持って人に宣伝していました。無線も大きなのを一番最初 に持っていました。  

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ゴルフに関しては、最初は主人から「お前がゴルフしろ」と言われ、私がゴルフセッ トを揃え、 当時池田先生に習い始めて主人が一緒について来ました。そのうち主人が「俺

が先に覚えてからお前に教えてやる」と言い出し、女性用でいいからと私の道具を持ち

出し、ゴルフにのめり込んでしまいました。私のセットは女性の相棒にやったり、人に

貸したりで無くなってしまい、結局自分で買い求めていました。徐々にゴルフ仲間も増

え、会社の事務所には入れ替わり立ち替わり仲間が集まりゴルフ談義で盛り上がるよう

になり、狭い事務所でクラブを振るので机を叩いたりして、私が怒る事も度々ありまし た。

 最初は気の合う仲間で〝ウィンクラブ〟というゴルフクラブを立ち上げ、毎月一回大 会を開いて楽しんでいました。メンバーは故青木会長(㈱青木組)、故金川社長(昭和

技研㈱) 、故森山社長(㈲大田オート) 、故竹下社長(㈲竹下工材)、三浦さん(三浦銃

ほう店) 、 森脇さん(森脇保険事務所) 、 安田さん(㈱サンマルコ)、道下社長(道下産業)、

名付け親の橋本さん(朝日新聞記者) 、故小西さん(朝日生命)など随分おられますが、

その頃は毎日誰かが事務所に来ていましたね。一ヶ月に一度コンペをし、打ち上げはい

つも赤ちょうちんでしていました。私もワコールのショーツを景品に出したりして盛り 上がっていました。  

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少 人 数 の 時 は 奥 様 も 付 い て 行 き、 ビ デ オ や 写 真   を写していました。いつも大口を叩いているのに、  いざ写真を撮ると緊張するのでしょう。木に当てた り、逆戻りしたり、山の斜面に落ちたりでハプニン グが続き、途中で付いて歩くだけになった事もあり ます。あの頃はプレーしなくても付いて歩く事が出 来たんですね。途中の休憩所でビールを飲み、トコ ロテンのおいしかった事は今でも忘れません。 一度だけ貴之とゴルフに行ったかも…。でもその   時は途中で足がつると言って最後まで続かず帰って きて、その後何度か挑戦したけど諦めたものです。    主人は趣味が高じていろんな友達がいましたね   え。猟から飛行機からゴルフからねえ。やりたいこ

とをやってきました。前立腺の病気をするくらいま ではよく遊んでいたものです。

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自 己 中 心 的 な 父 と 、 支 え た 母  

~(娘・久美子談)

 夏になると、会社の人達とみんなで海水浴に出掛けていました。

 父は友人達とモーターボートを買い、それに乗ってサザエを取りに行っていました。潜ってサザ エを取るのが一番上手いのは母でした。それをサザエご飯にしてくれるのですが、 本当に美味しかっ たで す 。

 しばらくして、四級船舶の免許が必要になり、乗船者の誰かが免許を持っていれば良いらしく、 母が講習まで受けて免許を取りました。でも操縦するのはいつも父でした。父に「なんで海に潜ら

ないの」と聞くと、「昔心臓麻痺になって死にかけてから、水に入るのが怖い」と言っていました。

 そういえば一時期、必ず注射を愛用のポーチに入れて持ち歩いていました。そのポーチを忘れる と、家族の旅行さえも途中で引き返す有様でした。子供の私が同じことをしたら、忘れた方が悪い

と取り合ってもらえないのですが、父の持論は、忘れた自分は悪くないらしく、持っていないこと

に腹を立て、癇癪を起こします。そんな父に何か言える人はいません。その事をきっかけに、出か ける時にはみんな、自分の事より父のポーチを気にかける様になりました。

本当にわがままで、自己中心的な父でしたが、人間としてはかなり面白みのある、憎めない性格   でした。ただ、娘としてはそれであきらめもつきますが、母は大変でしたでしょうし、よく付き合っ てこ れ た な あ と 感 心 し ま す 。

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勝子の趣味〝バレーボール〟  

  私 の 趣 味 は 二 十 九 歳 で 始 め た バ レ ー ボ ー ル で し た。 私 は バ レ ー ボ ー ル が 大 好 き で、   週二回はバレーボールの練習に行っていました。  

 当時会社に背が高くバレーがものすごく上手な早川さんという人が入社してきたの で、大田鈑金バレーボール部というのを作りました。それが周りが恐れるくらい強くな

ってしまい、大会の抽選に行っても「あそこに当たらなにゃあいいが」と言われるほど で気持ちがいいくらいでした。

 チームを作った一年目は敗者復活のBゾーンから三位になって、二年目にはAゾーン で優勝しました。それ以降も二位とか三位とかとにかく上位でした。当時は職場ごとに チームがあって、大田市内で四十何組も大会に出ていました。

 あの頃はみんなバレー気違いで、仕事が終わってから職場のメンバーでバレーの練習 をしていたものです。私もそれまでバレーをやったことが無かったのですが、早川さん

にずっと教えてもらって覚えていきました。それでバレーが大好きになってママさんバ

レーに入ったり、長久小のPTAのバレー部に入ったり、大田一中のPTAのバレー部

にも入っていました。当時PTAバレーボール大会が年一回あって、学校をあげて応援

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をして盛り上がってましたね。

 会社のバレー部の打ち上げももちろん、PTAでも勝敗に関係なく打ち上げは楽しか ったですね。一中PTAのチームメイトとも大変気が合って、よく夜の街を一緒に遊び

回っていました。時々遅くなり過ぎて主人に怒られたこともありましたけどね(笑)。  

 主人も理解してくれていて、息子がおたふくになって熱を出していた時も、 「あんたがおったてて熱は下がらへんわね」 と言ってバレーに行かせてくれたりしていました。  

 バレー人生三十年ですが、おかげ様で怪我をした事は一度もありませんでした。五十 代の時右肩が五十肩になって三年間痛めて、治ったと思ったら今度は左肩も同じように

なりまた治るのに三年かかりましたが、一度もバレーボールは休みませんでした。

おかげ様で五十九歳くらいまでバレーを楽しませてもらいました。バレー人生を楽し

み、友達もたくさんできました。今は孫の紫織がミニバレーで頑張っています。

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← 大田鈑金バレー部 左下がバレーが上手 でいつも教えてもら っていた早川さん。 ボールを手にしている のは主人の弟 ・ 恒夫さん

長久小PTA バレー部 →

← 大田一中PTAバレー部

元大田一中PTA 社会人仲良し バレーチーム → よく一緒に遊び 回った仲間

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継伝

    

■ 歴史・伝統・文化

        

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孫四郎

  森野家 家系図

釈常念

※ 市右衛門から前の代は菩提寺である 明善寺の火事による過去帳消失で不明

釈尼妙智

安永 4 年没

八重吉

シナ

辰次郎

春吉

安政 6 年生

勝太郎

ユミ

明治 9 年生

マツ

富造

新造

明治 4 年生

シマヨ

大正 2 年生

登志未

末人

静枝

大正 6 年生

昭和 18 年生

久美子

貴之

綾子

昭和 50 年生

勝子

昭和 12 年生

幸子

恒夫

千代子

昭和 49 年生

春貴

豊之

紫織

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文化 10 年没

順七

音市 安政 6 年生

寛延 4 年没

良平

ぬい

タメ

弘化 3 年没

享保 12 年没

寛保 3 年没

藤兵衛

文政 2 年没

作右衛門

をそ

享保 16 年没

市右衛門

釈尼妙見

享保 4 年没


大田鈑金塗装工場 ㈲ の歩み

 三人で創業

昭和四十二年七月、主人と私の兄 前 ・ 坂定美、山本松三さんの三人で大田市大田町城   山に百坪程の土地を家賃三万円で借りて鈑金会社を設立。

有限会社〟の始まりです。  これが〝大田鈑金塗装工場 いすゞ自動車を退職した兄 定 ・ 美は経理担当、山本自動車を退職した山本松三さんは  鈑金担当、石見交通を退職した主人は塗装担当でした。全くの素人工場で主人は経験が

無かったので、塗料メーカーの紹介で大阪へ勉強に行きました。従業員は私の従兄弟の 古城増実さんともう一人いました。

 当時は修理も見様見真似で塗装もいいかげんなものでした。色が合わないとかでクレ ームもよくきていました。当時鈑金屋といえばうちの他は佐藤ボディさんだけでしたの

で、今思えば楽だったのかもしれません。そんな折、西谷さんという鈑金の熟練工の方

が入社してこられ、その頃から会社への信頼も増すようになり、主人も自信を持って  仕事に専念できるようになったのでした。

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それから四年後に私の兄は実家のある三瓶で〝池の原石油〟を立ち上げる事になり     退職、山本さんも自営で建物の塗装店を開業することになり退職し、主人が一人で会社

を切り盛りする事になりました。東和商事が大田市駅通りから川合町吉永に移ったばか りの頃で、私は二年前からそこへ通っていました。

 仕事は次から次へときて、すごく忙しかったのですが、昔のことだから今みたいに きれいにやっていなくて、いいかげんなことして何遍も怒られていました(笑)。仕事

もらいながら、色が合わんとかなんだかんだ叱られながらやっていました。ほんと気を

使うくらい叱られたものです。その頃は競争相手がなかったからそれでも通っていたん

開業の経緯 ~(兄

前 ・ 坂定美談)

ですね。それでも誰や彼やにかわいがられて成長させてもらいました。

     

 私がいすゞ自動車の大田営業所で事務員として働いていた時に、勝さんが鈑金屋をやるからどが でも(どうでも)一緒にやってほしいと言ってきた。あの頃は大田の鈑金屋が佐藤ボディさん一件

しかなく、それがものすごく忙しかったので、自分も鈑金屋を始めたいということだった。

 それで勝さんと山本さんと私の三人で一人十五万円ずつ出資して始める事になった。工場は池の

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原に住んでいた方が所有していた車庫を私が借りに行き、少し改装したものだった。

 当初私はいすゞを辞めさせてもらえず、開業時は勝さんと山本さんと二人の手伝い人で始めた。 私が大田鈑金に合流したのは昭和四十三年の八月からで、いすゞと大田鈑金を半日ずつ掛け持ちし

ていた。私は技術的な事が分からないので営業と会計事務を担当し、森野さんと山本さんが技術仕

事 を や っ て い た。 二 年 後 の 昭 和 四 十 五 年 四 月 十 五 日 に 私 は 実 家 の あ る 三 瓶 町 池 田 で ガ ソ リ ン ス タ ン ドを開業し、同じ年の五月三十日に大田鈑金を退職した。

 当時は儲かりよった。お客さんがどんどん来て忙しいのなんの。あの頃周りに自慢しよったが三 人の 給 料 は 市 長 並 だ っ た 。

 そのかわり技術がついていかんかった。日の丸トラックが修理に入った時には、前がべしゃーっ とへこんでいるが鉄板が厚いのでガスで炙って出そうとしてもなかなか思うように出ない。しょう

が な い か ら パ テ を 思 い 切 り 厚 く 塗 っ て「 キ レイになったなあ」と言いながら返した。そうしたら 

ひ と 月 せ ん う ち に そ の 車 が ま た 衝 突 し て、 そのパテがぼろっと落ちた。日の丸トラックの支社が  京都にあって、そこからクレームの連絡が来て呼び出され、私が営業だったのでしょうがないけ行

ったら、めそくそ(ものすごく)叱られてもういっぺんやり直しさせられた。あれには参ったなあ。

勝さんは素人なのに塗装をやっていて、仕事については鬼で、真剣に取り組む男だった。ごまか   しがない。ほいだけあそこまでできたんだと思う。私らも感心しよった。

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上段右から 2 番目:前坂定美、左端:山本松三さん、下段左端:勝、  上段右端:従兄弟の古城増実さん、下段中央:勝子 

元大田鈑金の工場(現在)

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夫婦二人三脚へ

 主人は一人経営となり、若い事務員さんも辞めてしまいました。私と一緒に働くこと はとても好まない人でしたが、やむを得ず私に会社を手伝わせる事にしました。私も万

博の社員旅行を最後に東和商事を退職し、昭和四十七年四月に大田鈑金に入社しました。

 入社した当初私は小切手の切り方も分からず、怒鳴られながらも主人に聞いていたも のです。商売って最初は面白いものですね。給料の支払日には当然お金が貯まっている

ものと思っていたら当座にお金が足りなくて、銀行からの連絡を受けた主人が、 「当座にくらい、ちゃんとお金入れとけや~!」 と怒鳴り、私が 「お金があったら入れとくわね!」

と大ゲンカ。決算の時には黒字になっていても資金繰りが苦しく、絶えず借入をしてい

ました。あの頃の借入は国民金融公庫ばかりでしたが、公庫の方から「お兄さんに保証

人になってもらってください」と言われ、兄にすぐOKを出してもらい、何度も助け

てもらっていました。長男の貴之には借入があるまま後を引き継いでもらいましたが、  幸い今は保証制度があるので助かっています。

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主人は裏表が無く、あっさりしていましたので、各保険の査定員の方達も気さくに     会社に集まって良くして頂きました。趣味も色々ある主人は小の事を大に言う人で話題

を楽しくしていましたし、自分で言うのも何ですが、嫌味を言う人ではありませんでし たので人に好かれていたと思います。

 石見交通に勤めていた事もあり、その頃の所長さんや車両係の人とも仲良くしていた ので、バスの事故の際は必ず修理に入れて頂いていました。工場にあるバスを見てお客

さんから「バスでも事故するの?」と言われた事もあります。今でも石見交通様や富士

第一タクシー様にはかわいがって頂いてます。主人の残してくれた功績に感謝していま す。

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会社を移転

 昭和五十年に木村建設さんに依頼して、会社を長久町川南(現在の場所)に移転しま した。移転した当時の会社近辺には何も無くて、現在ではたくさん建物があって見えま

せんが、当時は森田製菓の前の踏み切りまで見渡せていました。道路に関しても、現在

の亀の子の前の道路は地道でデコボコだらけの道、工場の前の産業道路も地道で、現在

のようにガードの下をくぐる事はできず(できたのは二年後)、大田市街に出るときは

森田製菓の前の踏み切りを渡って大回りして出ていました。お客さんには「何でこんな 辺鄙な所に出たの?」と言われていたものです。

その会社の土地は主人の同級生の土地で一四〇坪くらいだったと思いますが、八千円   坪 / で購入しました。その後大田町城山の前の工場の土地百坪と、新しい工場の道路を 挟んだ前の土地百坪を交換してもらいましたが、交換してもらった土地が翌年には道路

が整備されたりして三万円 坪 / に 値 上 が り し た も の で す。 そ れ か ら 工 場 の 裏 の 土 地 を 市 から購入し、全部で一六〇坪くらいになりました。工場が新しく広くなった事で仕事の

量も増え、事務所も毎日のように仕事の話、趣味の話と絶えず人が出入りするようにな っていきました。  

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新工場開所式

大田鈑金前の道路(左上は現在)

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2001 年の大田鈑金周辺

現在の大田鈑金

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あの頃は本当に忙しくて、工場の上に住んでいる時もなーんか下で音がするなあと     思っていたら、共和運送の下垣社長が大きなクレーンで事故車を降ろしている。慌てて  下に降りたりしていました。

 今でも忘れませんが、当時うちの従業員で若い子がいたんです。その子なんかでも  専 門 学 校 の 時 に 赤 い コ ス モ と い う 大 き な 車 に 乗 っ て い た ら 三 瓶 で 落 と し て し ま っ て、 

それを修理するのにあの当時で一〇〇万円かかるとなったらしく、それでうちに来て、 「社長、この僕の車がきれいに直ったら大田鈑金に入社するにい」

と言ってきました。それでその車がうちできれいに直ったんです。そうしたら本当に  学校を卒業してからうちに入社してくれました。

事故は夜中に多くて、雨の日、雪の夜は必ず夜中に電話で起こされたものです。事故   車 を 載 せ る 台 車 も こ の 辺 り で は 一 番 最 初 に 導 入 し て い ま し た。 そ の 後、 事 故 車 ば か り  

当てにしていては営業ができないということで、民間車検の認証を取得しました。今ま

で親しく取引をしていた会社からライバル視されるようになり、取引きが無くなった事

もありましたが、主人は車検を受けるのが夢でしたのでそれを叶える事ができました。

しかし、最初が鈑金工場でスタートしているため鈑金のイメージが強く、認証を取って

もなかなか信用してもらえず、車検の仕事はなかなか増えませんでした。

 それでも少しずつ信用を得ていき、今では車検が売り上げの半分を占めています。

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息子・貴之へ継承、社長就任

 平成七年四月に息子・貴之が京都自動車専門学校を卒業し、会社に入社することにな りました。

 最初は貴之も会社に入る気はありませんでした。その頃従業員も二人体調を崩し入院 をしていた時期で、ちょうど主人と二人で、もう会社をやめようかと話していました。

そんな時、赤ちょうちんでバイトをしていた貴之の友達がうちの会社に入社してくれま

した。それを聞いた貴之が、 「あれが入ったなら僕も帰って会社に入る」と言い出し、

自らやる気になって帰って来てくれる事になったのです。それを聞いた主人は、本当に 嬉しかったと思います。

 その年の三月に、卒業した貴之を主人と二人で京都まで迎えに行く事になりました。 その日の朝、主人がトイレに行くと、コーヒー色の尿が出たんです。主人はそれまで   私には言っていませんでしたが、その時「実は病院のベッドが空いたら入院する事にな っている」と聞かされたのでした。

 それでも貴之を迎えには行ってやりたいので、私が運転すると言ったのですが、結局 主人がずっと京都まで運転しました。何とか無事に京都から戻って一週間後に、主人は

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前立腺で入院しました。

 入院するまでの一週間は貴之に夜遅くまで仕事の事を一生懸命教えていました。貴之 は主人の入院後、無線で頻繁にやり取りしながら、分からないなりにも必死に仕事を

頑張っていました。千代田火災の山崎さんという主人とは長い付き合いの親切な方が  

見積りを手伝ってくれて、貴之も見様見真似で仕事を覚えていきました。

しばらくして貴之も落ち着き、主人も退院しました。   平成八年に会社の創立三十周年を迎え、記念式典を行う事となり、その中で息子の     貴之をご来場の皆様に紹介する事ができました。

 それから四年後の平成十二年に貴之が社長に就任し、同時に主人は会長となりました。 主人は自分の机が無くなった事にすごく寂しい思いがあったのでしょう。竹腰家具で   十三万円の大きな机を買い、家に置いて気を紛らわせていました。

 私は引き続き経理を担当する事となったものの、当時は不安もありました。 『主人が社長の頃は、怒鳴りながらも私の言う事を聞いてくれていたけど、さて息子は

どうだろう? 世代も違えば考え方も違う。親子という事もあり、お互い甘えも出るだ

ろ う。 』 そ ん な 不 安 も あ り ま し た が、 七 十 歳 に な っ た 今 も、 喧 嘩 を し な が ら も 現 役 で  頑張っています。

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父からの引継ぎ ~(息子・貴之談)

   

 あの時は景気が下がってきた時期とも重なり、大赤字を出していましたねえ。一日で終わる作業

に 何 日 も か か っ た り、 間 違 え て お 客 さ ん か ら請求の半分しか頂かなかったりと滅茶苦茶でした。  僕はもう無我夢中だったのでよく分からなかったですけど、資金繰りしていた母は大変だったと思

います。今の何倍も借金があったし、毎月の返済額もすごく多くて、今考えたらよく返してたなあ と思います。それまでの蓄えもあったりして乗り切れたんでしょうねえ。  

 おやじとは仕事ではけんかばかりしていました。おやじのやることなすこと気に入らなかったし、 おやじも僕のすることが気に入らないしで全てが合いませんでした。接客の仕方とか仕事の進め方

とか請求書の書き方一つ気に入らなくて反発してましたね。それでもおやじは自分が正しいと思い

ながらも半分くらい僕に折れてくれてはいて、そこはありがたかったですけどね。

 それで今あの頃のけんかの内容を思い出すと、ほぼ一〇〇%おやじが正しかったと思うんですよ。 おやじがいる時にはすごく疎ましかったけど、いなくなったらあれしときゃよかったなあって思   いますね。ゴルフもそうだし、酒も差しで飲んだことないんですよ。たまに同級生とかが「おやじ と差しで飲んだ」なんて話をするとやっぱり羨ましいですもんね。

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現在のこばと保育園が建っている所はうちの土地です。

こばと保育園 

 

 平成五年にうちで事務所を建てて人に貸しましたが、二年もしないうちに出られて、それ からずっと空家でした。その後平成十年に国立病院の裏にあったこばと保育園が、病院が国

立から市立に変わるのに合わせて引っ越したいのでうちのその土地を貸してほしいと言って

こられました。その元々あった事務所を改装して、現在までの十五年間家賃貸ししています。

この前こばと保育園さんが来られて、その場所をずっと貸してもらって建て直してもいいか

と聞いてこられたので、 「 自 由 に 使 っ て く だ さ い 」 と 伝 え ま し た。 現 在 は 前 は 駐 車 場 に な っ たり後ろの山にはアスレチックができたりしています。

少年 野球

) が 全 国 大 会 で 東 京 に 行 っ た 時 の メ ン バ ー 五 人 が、

 場所が自然の中で子供を育てるのに環境がいいので、人気があるようです。うちの孫三人 もこばと保育園にお世話になっていました。   平 成 十 年 に 長 久 ス ポ ー ツ 少 年 団( こばと保育園の卒園者でした。 

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孫・紫織の卒園式

79


継伝

    

■ 暮らしの知恵

         

80


勝の開発

 主人は車を牽引するのに、トラックの後ろからタイヤだけぽっと引っ掛ければ引っ張 って歩くような道具をちゃんと自分で作っていて、夜中でもスムーズに車を持って帰る

ことができていました。現場に行ってすぐサーっと積んで帰る。市販の大きな牽引車も

ここら辺では主人が一番最初に取り入れていますが、それまではその手作りの道具を使

っていました。周りが「まあ早いことやっちゃるなあ」と言うぐらいでした。相手の車

は他社がなかなか牽引できないのに、うちのお客さんの車だけはすぐサーっと持って帰 っていたものです。

主人は特許を取ると言ってはいろんな物作りをしていました。申請して随分お金も使   いましたが…。何でも出来ない事はないと挑戦していました。    (息子・貴之談) 当時全国でも無かったんじゃないかと思うけど、おやじがアルミホイ   ル を 修 理 す る た め に、 鉄 筋 を 溶 接 し て ア ル ミ ホ イ ル を セ ッ ト す る 機 械 を

まし た 。

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作 っ て い ま し た。 だ か ら 市 外 や 県 外 か ら ア ル ミ ホ イ ル が 送 ら れ て き て い  

アルミホイル修理機械


勝子の手料理

 炊き込みご飯 【材料】

… 適量   ㏄ ~

 ・米    … 5合(もち米2合) ・鶏肉、人参、ごぼう、椎茸、揚げ、竹の子            ・料理酒  …  ・薄口醤油 …       80

 ③

 ②

釜の目盛りになるよう水を足してから炊く

釜に米を入れ、具と料理酒と醤油を入れる

① 具を刻んで、フライパンで炒める  

【作り方】

75 75

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きゅうりのからし漬け 【材料】 1

 ・キュウリ …  ・塩 …          g g  ・砂糖   …  ㏄  ・酒    …  g  ・洋からし …  【作り方】  ②

②に①を入れて一~二日置いて出来上がり

砂糖、酒、洋からしを混ぜ合わせる

キュウリを塩でこすってから切る  ①  ③

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kg

20 100160140


みかん(甘夏)の皮 【材料】 みかん(甘夏) … 適量  ・ … 適量  ・砂糖        【作り方】

100

① 皮剥ぎでみかんの薄皮を取る   取った皮を1 くらいに切る  ② 水に半日漬ける  ③ お湯を沸かし2~3分茹でる  ④ ざるに上げて、みかんの皮が gだったら g少ない量の砂糖を入れる  ⑤ 砂糖が溶けるまでは弱火にし、溶けたら少し強くする。水が少なくなったら、  ⑥ 500

    

ながら鍋の中で乾かす(これがコツ)。火にかけて1時間

分くらいで出来上がり

また弱火にする。火の調整をしながら皮がべとつかないよう、ゆっくり混ぜ

cm

30

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継 伝

■教 訓

           

 

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ノンストレス

 やっぱり私がこれまで病気をしなかったのはストレスが少ないからだと思います。  私は昼には 「やあ、今日頭痛いわあ。お金無いし、給料が足りんし」

ってなんだかんだブツブツ言っている。それで夜のバレーの練習になると、 「バレー行ってきまあーす♪」   と言ってターっと家を出るもんだから、主人がよく、

「お前は今頭が痛い痛い言うとったのにバレー行きゃあすぐ治るだなあ」 と言っていました。私はバレーほど行けばストレス解消でした。

それで友達も     「私ら金が無いだ言うて悩んで頭痛んなるけど、あんたぷるっとしとるねえ」

とよく言っていましたけど、苦しいのはみんな一緒で、表に出すか出さないかだと思い ます。人にグチグチ言ったって助けてもらえませんし。

  話 し て い て も 金 が ど う だ の 主 人 が ど う だ の 文 句 言 い な が ら 話 し て い て も お も し ろ く  ありません。自分が聞いていても嫌ですし。だから私は「金が無い」という言葉は人に こぼしたことがありません。主人には、   

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「あんたの道楽のせいで金は無いし!」

と 文 句 た ら た ら 言 っ て い ま し た け ど …( 笑 )。 人 に 愚 痴 こ ぼ す こ と は 絶 対 に し な い。 

実家なんかに行っても主人の悪口なんか言わなかったですもんねえ。言ったってしょう

がないし、心配かけるだけですから。主人とけんかして「もう帰る!」と言って家出し

 

て家の周りをぐるぐる回ったことは何遍もありますけど(笑)。主人が寝た頃にそろー って戻ってきてね。でも実家に戻ったことは一度もありません。兄は 「いつでも戻ってこいや」 と言っていたけど、そう言われたら余計戻られません。

昔と今の若者の違い

 今頃は若い子が事故をしなくなりました。昔はよく事故していました。やっぱり運転 が上手になったり道がよくなったからかもしれませんね。それで今の若い子は家庭を

持つとどうしても子供の世話をしたり、 家庭本位になる。私らの世代で話していても、「今

頃の子は家庭の世話ばっかりだがあ」と言っています。あまり家庭サービスが豊富だか

ら自分本意で遊び回らないんだと思います。最近の子はあんまりやんちゃしないみたい ですね。

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商売  商売を近くで見ながら育った子供たち

今の孫は家が別だから職場というのを知りませんが、子供が小さい頃には家と職場が   一緒でした。下に降りてきたらもうお客さんがいる。だから自然とお客さんとの会話と

か私達の後ろ姿を見る。故青木会長(㈱青木組)、故金川社長(昭和技研㈱)、㈲山崎組

の山崎社長、故森山社長(㈲大田オート)、森脇さん(森脇保険事務所)、故下垣社長(㈲

共和運送) 、JAの岩佐常務、㈱日商の細田社長たちはいつも来る人でしたから。私が

居酒屋をやる前はもう毎日のように夜は家で飲み会をしていました。居酒屋の仕事で私

が夜いなくなってからはやらなくなりましたが。夕御飯をうちで食べて、やっと帰った

かと思ったら夜中に電話してきて「車ぶつけた!」って事もありましたねえ(笑)。

 だからあの頃の苦しさやなんだかんだいうのは娘がよく覚えています。会社の基盤を 作る時で忙かったので全く面倒を見てやれませんでしたが、私らが覚えていないことも

娘はよく覚えているんです。息子も近くで見ていたから本当にお客さんをよく知ってい

ます。息子はお客さんがきたらお茶を出したり伝言を聞いたりしていました。

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旧会社の前

新工場の 1 階にあった住居にて

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商売で一番大事だと思うこと

 やっぱり商売で大事なのは人との付き合いだと思います。気さくに寄ってくれたり話 ししてくれたり。商売にはそれが一番じゃないかと思いますねえ。

 おかげ様で主人も裏表がなくて、言いたい事ぱっぱという人だったから絶えず人が来 てくれていました。あの人が生きている時は人がすごく集まっていました。やはり商売

するには人が寄ってきてくれないと何にもなりません。それで私も人が嫌いじゃないか ら、なるべく誰とでも親しく話をするようにしています。

 私はやっぱり女房が一番だと思います。家庭で奥さんに嫌われたら仕事が来ないし、 奥さんに「あそこはやめなさい」と言われたら旦那も行きにくいし。奥さんの機嫌はと

らないけんというのが私の方針です。それは私の主人も理解してくれていました。

当時会社の忘年会を五年間ほどやっていました。最初は普通の忘年会としてお客さん   を招いていましたが、途中からペアパーティということにして、「できれば奥さん同伴

で来てください」という事にしました。特に昔は奥さんが夫と公の場に出ることがあり

ませんでしたから。そうすると、奥さんは喜んで来てくれます。中には絶対に奥さんを

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連れて来たくない人もいましたけど、女房連れて出たいと言う人もいましたし、そのた

めにわざわざ服を作りにいく奥さんなんかもおられました。奥さんがそこまで喜んでく

れるというのは私としても念願でしたから、とても嬉しかったのを覚えています。

私は中元や歳暮もその会社の(個人の)奥さんが好きな物、ほしいと思う物を選んで   きました。適当に選ぶんじゃなくて自分がもらってほしい物を選ぶことです。それも  生モノや新鮮な物は届いたらすぐに持っていかないといけません。

去年の暮れなんかは生の餃子のセットを贈りました。でもそういうのを心掛けている   と、息子とかが「あれおいしかったって言うとっちゃったわ」と言ってきたりと、ちゃ

んと耳に入ってきます。そういう細かい事をしないと、何でも適当にしていてはいけな

いと思います。取引してもらっている以上、そのことは昔から神経を使っています。

 たとえ何を贈るにしてもあそこは酒が飲めないからこういうのは駄目だとか、飲める からこうだとか今だに一つ一つ全部私がチェックしています。大田市はみんな中小企業 で会社はみんな女房が影で頑張っていますからねえ。

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敵を作らず

 おかげ様でねえ。あんまり敵を作らんことですね。私も好き嫌いがあるので、嫌いな 人は大っ嫌いだと思ってしまいますが、これは性格ですからね。人間だから嫌いな人は

嫌いな人でしょうがないと思っています。自分から嫌いだと思ったら相手も嫌いだと思

うから、それだけはしちゃいけんなと思っています。思っていますが、人間が単純だか

ら出てきちゃうんですよ。でも特別変なことされない限りは嫌いにはなりません。

だいたい私もこういう事したら人が喜ばれるなあとかそういうことを先に考えます。   あまり人を嫌いにならないようにそういう事を先に考えるんです。    これまでの商売とこれから

 やっぱり人の世話はしないといけないですね。それと知り合いはたくさん作っておい た方がいいと思います。知り合いがたくさんいると、何かあった時にお互い助け合えま すからね。  

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私は商売に大それた秘訣など考えていませんでした。誠心誠意やってきただけです。

 でもそれだけではこれからの時代はならないかもしれませんね。競争が激しいですか らね。それだけでやっていけてたのが私らの時代。今は親が付き合ってた人だからとい

って、いつまでも付き合ってくれる人は少なくなりました。昔のように情だけを頼りに 仕事できるものではなく、今は食うか食われるかですからね。

大田商工会議所 女性会

 平成十九年から四年間、大田商工会議所女性会の会長をさせて頂きました。全く自信 もなく、そんな器ではない事はよく分かっていたのに、なぜだか受ける事になりました。

私は入会当初から女性会と会員の皆様の団結力、そして一人一人の個性豊かなこの会   に惹かれていました。  

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商工会議所女性会 中国大会(大田市民会館)

 

 私のぎこちない挨拶も、皆さん大目に見 て く だ さ り、 私 は こ の 明 る く て 頼 も し い 

女性会をこれからもずっと応援したいと 思っています。

今まで皆さんのお力をお借りして、無事   に大役を務め切る事が出来、本当に感謝し ています。

 平成二十四年の女性会五十周年は、直前 会長と言う事で、実行委員長をさせて頂き ました。

  波 多 野 瑠 璃 子 会 長 と 各 委 員 長、 そ し て  会員の皆様と、楽しく盛大に、無事終える

事 が 出 来 ま し た。 こ の 経 験 は 私 の 一 生 の 

思い出になると思います。

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大田商工会議所女性会 50 周年記念式典 (大田あすてらす)

女性会のイベント “ ひな祭り ”

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〝あゆみ太鼓〟結成

 私が四十八歳で大田商工会議所女性会に入会した年がちょうど創立三十周年で、「三十 周年記念行事のアトラクションで何か出してほしい」と依頼がありました。波多野瑠璃

子さん(㈱はたの産業社長)と二人で相談し、太鼓はどうかと考え、天領太鼓の方に  相談したところ、教えて頂ける事になり、太鼓も貸して頂きました。

 当日まで二ヶ月程しかなく、毎日久手の刺鹿神社で夜十二時まで練習しました。その 甲斐があり、アトラクションは大成功に終わりました。

その後は、女性会の〝あゆみ太鼓〟と命名して活動を続ける事になりました。結成当   時のメンバーは、波多野さん、市村さん、勝部さん、柳沢さん、渋谷さん、私の六名。

最 初 の 頃 は 天 領 太 鼓 を 借 り て 練 習 を し て い た の で す が、 い つ ま で も 借 り て は い ら れ ず、 資金を借り入れして購入する事にしました。

 三年ぐらいしてメンバーが入れ替わり、清水さん、稲田さん、妹の栄子が加わりました。 この頃から、女性だけの太鼓という事で珍しかったのか、祭り、文化祭、敬老会、結婚 式等に呼んで頂き、披露する場面も増えました。  

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なり、夢中になりました。講演が終わるといつも〝赤ちょ  妹の栄子も太鼓が大好きに ひじり うちん〟か、栄子のお店〝聖〟で打ち上げをして盛り上がっていました。平成二十四年

に女性会は五十周年を迎え、あゆみ太鼓もあっという間に二十周年が経ちました。     (娘 ・ 久 美 子 談 )

   

 私が帰省した時も、母は太鼓の講演や練習で家を空ける事がしばしばありました。 そんな時は、父と二人で留守番をしていたのですが、父は母が太鼓に夢中になっているのを喜んで

いるように思えました。なぜかというと、「こないだ(この間)は、どこそこに太鼓しに行ったで」 とか 、 私 に 自 慢 げ に 話 し て い た か ら で す 。

晩年の父は、もっぱら孫が中心の生活だった様に思いますが、母は、バレーボールに代わる良い   気晴らしを見つけた様で、活き活きとしていました。

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〝あゆみ太鼓〟結成メンバー

妹・栄子の息子の結婚式にて

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↑中国大会呼び込み PR

 

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↑女性会中国大会(サンレディ大田) 


継伝

                 

 

■想 い

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同級生

 主人・勝の同級生   

 主人はいつも邇摩高校の人達と同窓会をしていました。 主人の同級生の方達はよく我が家に遊びに来ていたので、私も仲が良かったです。   主人は、このメンバーと飲むのが楽しいらしく、私が同窓会をすると自分も負けじと

同級生に会っていた様に思います。 中でも白根さんには最期まで話し相手をしてもらい、 稲用の家の縁側で二人楽しく話している姿が忘れられません。

主人が亡くなった今でも、水上の藤本さんや、大屋の川北さんは仕事を入れてくださ   います。皆さん今もお元気で、 『主人も生きていたらなぁ』と思わずにはいられません。

主人は私の同級生も大好きで、我が家に集まって飲んでいるといつの間にか仲間に入っ

て楽しんでいました。大田で同級生と飲んだ時は迎えに来てくれた事もありました。

主人は「お前の同級生は、みんな兄弟みたいだなあー」とよく言っていました。

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勝子の同級生

 私の同級生は、小学校の六年間と中学校の三年間の九年間、ずっと同じのクラスだっ たので、余計に仲が良いです。

 ちょくちょく同窓会をしていて、私が居酒屋の赤ちょうちんをし出してからは私が夜 出られんからという事で、みんなでうちの店に集まってくれたりとかしていました。

この前も同級生で集まったけど、ああいう段取りは私がしないと誰もする人がいませ   ん。還暦の祝いをさんべ荘でしたり、去年もみんなで道頓堀に行きました。ちょくちょ

く会うんですよ。これからもずっと楽しい時間を過ごす為に、みんなが健康でいる事を 願い、そして自分も健康には気を付けようと思っています。 来年平成二十六年は東京を計画しています。    

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邇摩高校同窓会

池田小・中学校同窓会(道頓堀にて)

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怒りまくった主人の飛行機

 うちの息子が長久小学校を卒業して次の子らの時に、小学校の体育館が建て替わるの で、最後いうことで主人が運動会の日に〝さよなら、ありがとう〟をすると言って飛行 機に乗った。

前の日に田んぼ(現在の稲用の家の前)の上を滑走して飛んで、花束と垂れ幕を落と   す練習を一日中やっていた。当日は花束はうまい具合に落ちたが、垂れ幕は体育館の上 に落ちた。その時の写真は今でも長久小学校に飾ってある。 まあ、人がせんことする人なんよ。  

  その飛行機は一五〇何万円かで内緒で買っていた。今でも写真を見るとようあがなも   ん乗ってたもんだと感心するけどねえ。よう松江の方から趣味の人が何人か来て、三瓶

で滑走して回るんよ。だけ以前ニュースで飛行機事故やってた時もねえ、自分がこうい

うの乗ってなんやかんややってるから飛行機評論家みたいなもんでねえ、「何がダメで こうなってほいで落ちとるんだ」とか言ったりしてねえ。

 その内緒で買った飛行機に自分の体重じゃ足らんからと、息子乗せてこの田んぼから

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滑走して三瓶行ったことがあってね。私に黙って乗せたもんだから、

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「死ぬのはあんた一人で十分だ!」

現在の長久小学校

と言って怒りまくった。それから乗せんかったけどね(笑)

体育館に落ちた垂れ幕

 飛行機は最終的には落ちて壊れて直すのにお金がかかるからやめたのよ。 主人は息子をパイロットにしたかったの。息子は全然興味ないけど、趣味は一緒なん   だよねえ。

主人が乗った飛行機


主人と前坂家

 主人は、私の兄弟達と大変仲がよく、前坂家の集まりに混じっていつも楽しそうにし ていました。

 主人は、私の兄・定実を何でも相談できる頼もしい兄のように思っており、何かとい つもアドバイスをもらっていました。長男・貴之を身篭った時も、電話でなく車を飛ば して真っ先に報告に行ったぐらいです。

 

 姉・好子夫婦とも仲良しで、姉達が田舎に帰って来ると、本当に嬉しそうに話をして いたのを思い出します。主人は私の姉達が泊まりに来ると、本当に良くしてくれました。

妹・栄子は、夫にも相談しにくい事などは、主人に相談する事がありました。栄子も   夫に心配を掛けたくなかったのか、体の不調を一番先に相談したのは主人だった様に 思います。

 私の弟・広美は、主人を兄のように慕ってくれていました。弟が糖尿病を患った時は 先に糖尿にかかっていた主人を冗談交じりに「師匠」と呼び、色々な相談をしていました。

私は、主人が兄弟と仲良くしてくれているのが何より嬉しく幸せでした。

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前坂ファミリー他( 平成 12 年 金子旅館 )

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主人の弟・恒夫さん  

 主人が一人で会社を経営する事になった時、静岡の自動車の工場に勤めていた主人の 弟・恒夫さんを呼び戻す事になりました。恒夫さんは塗装の担当で、ずっと主人を助け

てくれました。彼の塗装の腕は相当なもので、主人も周囲に自慢するほどでした。

 私の二人の子供達も「お兄ちゃん」と慕い、とてもなついており、恒夫さんは可愛がっ てくれました。

会社の飲み会のあと、二次会、三次会と飲み歩き、時には会社の仲間三人と大喧嘩に   なり、夜中にお店から主人に呼び出しの電話がかかる。そんな時主人は、こうもり傘を

持参し、それを振り回して、仲裁に入る事もありました。このように、飲みすぎると大

変な弟でしたが、 主人は「仕事が出来る奴は、やんちゃもする」と言って許していました。

 ある日、恒夫さんが主人の買ったばかりの新車、マツダのロータリークーペに乗って、 飲酒運転の果てにれんこん畑に突っ込んで大破させ、実家の納屋に入れていました。

翌朝その情報を聞き、主人と私で実家に駆けつけました。納屋の中にある、無残な泥だ

らけの新車を見て、二人とも声も出せず、ショックで動けませんでした。  

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そんな様々なやんちゃをしてきた義弟ですが、それ以外 の場面では、本当にたくさん助けてもらいました。あの頃 は年に一度会社の慰安旅行があり、その時もいつも陽気で 楽しい人でした。  そんな破天荒な義弟も、平成二十一年五月三十日、闘病 生活の末、他界してしまいました。今でも元気で居てくれ たら、 貴之の良い相談相手になってくれていたと思います。

(娘 ・ 久 美 子 談 )

   

 お兄ちゃんとの思い出は、会社の三十周年の式典の時です。

女学生がズラ して履く靴下

) を 履 い て い ま し た。「 何 だ か ー、 史 絵 の か あ!」 と 言 っ て 笑 っ て い ま し た。

 私は同じテーブルで隣同士でした。宴もたけなわの頃、お兄ちゃんが「何か靴下がズルだいなー、 何でだかいな」と言い出しました。それで私が「見せてごらんよ」と言って見たら、 史ちゃんのルー ズ ソ ッ ク ス(

何ともお兄ちゃんらしいと、みんなで大笑いしました。

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(左から 3 番目が恒夫さん。大田鈑金社員と)


勝の味噌汁  

 主人は、家のことは全然ダメでした。それが、私が居酒屋を始めてからは、朝ごはん を自分で用意しなくてはならなくなり、料理をするようになりました。

とにかく何でもかんでもお味噌汁に入れていました。一番驚いたのは、ピーマン。     久美子曰くナスのへたも入っていたと言う。それを毎朝孫の春貴に食べさせていました。

その為、今中学三年生の春貴は、朝は必ずお味噌汁がないとダメで、しかも何の野菜が 入っていても食べてくれます。 (娘 ・ 久 美 子 談 )

 

食べさせていました。春貴は文句一つ言わず、おじいちゃんが作ってくれるものをパクパク食べて、

  孫の世話をしている時の父は、団子を作り、ニラ入り玉子焼きを作り、何だかんだと孫の春貴に それを見てニヤニヤ笑って喜んでいる父の顔は本当に幸せそうでした。  『あの父がこんな事できるんだ!』とびっくりしました。  しかも三人の孫をお風呂に入れて、順番に洗っていたのにも驚きました。

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続いた周りの死  

私 の 祖 父 が 昭 和 五 十 年 十 二 月 二 十 四 日 に 九 十 二 歳 で 亡 く な っ て 以 来、 私 の 父 母 共 に  

元気で長生きだったので、幸せな事に身内の不幸は二十年間ありませんでした。

 ところが、平成七年二月二十六日に、とても可愛がってくれた叔母・木下イサヨさん が肝臓の病で亡くなりました。それは私の誕生日の日でした。みんなで折った千羽鶴に 込めた願いも叶いませんでした。

今度はその年の平成七年七月十一日、義父・実さんが七十六歳で、闘病生活の末に亡   くなりました。義父は、明神(山)で倒れた事が原因で、晩年は言葉が分からなくなり、

会話が出来ない状態になっていました。自宅で養生していた義父に、あ・い・う・え・

お・から教えて、筆談が出来るようにまでしたのは義母でした。その後は少し話せる様

になったものの、義母の通訳なしでは聞き取れない状態で、その義母にも伝わらない時

は、癇癪を起こしていました。話すのが大好きだった義父にとって、話せないという事 がどんなに苦痛だった事か…

 入院生活となってからは、義母は高齢にも関わらず、ずっと病院に泊まり込んで甲斐

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甲斐しく世話をしていました。

 それから暫くして、平成十六年七月二日、最愛の妹・栄子が、末期のすい臓がんで、 五十九歳の若さで亡くなりました。

最期まで気丈に病と闘っていました。「体を動かさないと」と言い、  完治すると信じて、 腫れてパンパンになった重い足を引きずりながら、ベッドの回りを歩いて頑張っていた のに…

兄弟で、元気な間に、みんなで旅行すれば良かった、といつも話しています。    栄子の音声がDVDに残っていますが、私は未だにそれを聞く事が出来ません。

平成十八年九月に妹の夫 福 ・ 間幹雄さんが、自宅お風呂場で倒れ、心不全で他界しま   した。あっという間に、妹の後を追う様に亡くなりました。

 平成十八年十一月三日、母・秋代がさわらび苑から市民病院に入院したその日に他界。 夕方の五時頃まで、 「お腹が空いた、パンが食べたい!」と言っていたのに、義姉・浪

子さんが、 「おばあちゃん、もう心配せんでいいけね」と一言耳元で言ったら、安心し たのか、兄と私の見守る中ですーっと息を引き取りました。

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兵庫の姉・好子は、母の看病中に「そばが食べたい、そばが食べたい」と母が言っ ていたのに食べさせてやれなかった事を今だに後悔している様です。

  平 成 十 九 年 一 月、 イ サ ヨ 叔 母 さ ん の 夫・ 俊 雄 さ ん が 他 界。 木 下 夫 妻 に は、 私 達 の     結婚の際に仲人をして頂きました。   平 成 二 十 年 一 月 二 十 五 日、 父・ 秀 五 郎 が、 お世話になっていたさわらび苑で、老衰のた め他界。

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平成二十年二月一日、夕方八時頃、夫・勝   が大田市立病院へ入院二日目に他界。  平成二十年四月二日、義母・シマヨさんが 天神の清水病院にて老衰のため他界。    

兄弟旅行


娘・久美子

 娘がちょうど中学高校ぐらいの時に毎日どんちゃん騒ぎだったから、娘も 「お母さん、よそは試験の時に夜食まで出るのにうちは飲み会だわ」

と言って勉強になんかならなかった。私は夜食など作ったことがない。

うちで夜大酒飲んだお客さんが翌日には二日酔いでまたうちに来る。「しわい、しわい

(しんどい、しんどい) 」と言ってうちで寝かしてくれと。そしたらうちの娘がバケツ持 って行ったりして。当時よく来ていた人が今でも 「世話になったけなあ、娘には。 」 と言われる。

 主人も娘はしっかり者だと思っていた。あれほどは安心しよっちゃった。 娘 は 京 都 の 短 大 を 自 分 で 探 し て き て、 「 こ こ に 決 め た け 」 と 言 っ て 行 っ た。 そ の 後 の 

就職の段取りなんかも全部自分でやった。最初はワールドという服飾の会社に行きたか

ったけど、百人に二人か三人の枠でそれに落ちて、今度はワコールを受けて採用され、 そこに就職した。全部親が行く前にやってしまっている。

 子供のとき商売でほったらかしてたから、しっかりするようになったかもしれない。

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私らは勉強せとも言わんし、模擬試験の時でも大宴会したり、全然構ってやってない。

とにかく会社にいて人が出たり入ったりしていたので、その人たちが相手をしてくれて

いた。あの頃は会社も家庭的だったから、従業員が子守りしてくれたりとか。みんなで

恐怖のどんちゃん騒ぎ ~(息子・貴之談)

スキーなんか行っても従業員が子守りして私らがすべりよった(笑)。

     

 小さい頃はテレビが居間に一台しかありませんでした。毎晩いろんな人が入れ替わり立ち替わり 家に来てどんちゃん騒ぎしていて、うるさくてテレビの声が聞こえないので、僕はスピーカーに耳

をあてながらテレビを見ていたものです。『人がスピーカーに耳まであてとるのに何でうるさくす

るかないな』と思いながら。自分の部屋には勉強机しかなくておもしろくないので、うるさくても

仕方無しに見ていましたね。夕方くらいになると「一杯飲んでいけ」みたいな話が聞こえてくるん ですよ。『ああ、また来るわぁ…』とうんざりしていましたね。

今 の 時 代 じ ゃ 考 え ら れ な い け ど、 父 と 母 は人が大好きで、仕事でお客さんと話をしていて昼近   くになってくると、「昼ごはん食べて帰りんさい」と言って家に上がらせていました。お客さんも  普通に「じゃあ、ご馳走になります」と言って食べて帰っていたものです。

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就職するなら ~(娘・久美子談)

  私 は、 関 西 で 就 職 す る な ら、 本 社 が 関 西 に あ り、 テ レ ビ コ マ ーシャルをしている会社が条件 で し た。 田 舎 の 人 も 知 っ て い る 会社じゃないと両親が心配する と思 っ た か ら で す 。  当時最も人気があったワール ド を 受 け た の で す が 落 ち た 為、 今 の ワ コ ー ル に 入 社 し ま し た。 両 親 は、 私 が ワ コ ー ル に 入 っ て

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か ら は、 ず っ と 応 援 し て く れ て いま し た 。

平成 15 年 京都にて


息子・貴之  

 貴之ができた時は男の子だから主人は大喜びで、できたのが分かった途端に実家の方 に行って「できた、できたー!」言うて。かわいくてかわいくてやれんで。貴之をおん ぶしながらリモコン飛行機上げとった。

 あの子も構っちょらんねえ。会社を移転したのが生後七ヶ月くらいの時だから。主人 も遊びが激しいし、私までバレーに行くとお姉ちゃんと二人だけで留守番していた。

私は一週間に二回もあったバレーの練習に子供を連れて行ったことがないのよ。子供が ちょろちょろするのが嫌で。ほいで 『おかしいなあ、あの時貴之は誰がみとっただろかあ?』 と思い返しとったら娘にある日言われた。 「いっつも私が見とった。 」 (笑)

社団法人 島根 大田青年会議所

)入って良かったと思う。目上の人にすごく敬語使

 息子は性格は私に似てるって人が言うちゃる。何でも人の世話焼いたり、何でもかん でも役受けたり、よう断らん。 「あんたにそっくりだわあ」って人が言うちゃる。 ほいでもねえ、大田JC(

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って立てるんだよねえ。話聞いとっても目上の人はきちんと立てて、挨拶なんかした時

もそれなりに上手になるいうのは、お父さんともよく言っとったけど、JCのおかげだ

なあと。喋る事とか色々人に世話焼いたり、接し方とか。ああいうのはやっぱり良かっ

たなあと。だけお客さんなんかも「人当たりがいい」と言ってくれちゃる。ようしても

らえるって。二十二歳からJC入って長いことやってるがよう辞めんかったもんだ。

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貴之誕生の父の喜びよう。私とのギャップ ~(娘・久美子談)    父は、貴之ができた時、本当に嬉しそうでした。

 まだよちよち歩きの弟に、使えるわけもない高価なラジコンカーを与え、それで自分が遊んでい ました。ラジコンヘリは、二歳にもならない弟に操縦までさせるほどの可愛がり様でした。私は、

射撃やラジコンには連れて行ってもらえましたが、退屈なのに帰りたいとも言えず、ひたすら時が

過ぎるのを良い子にして待つだけだったのに、えらい違いだとずっと思っていました。

「工場は継がなくて  こんなに可愛がっている弟なので、父は自分と同じ苦労はさせたくないと、 よいから好きな事させちゃりたい」と言っていました。それでいて自分の夢であるパイロットにさ

せようと言い出し、本人の意思は無視して、遠方まで航空機を見せに連れて行っていた事を私は知っ てい ま す 。

 弟には自分の夢を託す一方で、私には、「久美ちゃんが男だったらなあ~、工場を継いでもらえ るにな~」と何度か言った事があります。「私は苦労させても良いのか!」 ・・・って言いたかった です 。

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小さい頃はかわいかった弟 ~(娘・久美子談)

 貴之の小さい頃はほんと可愛くて、「パンパースのコマーシャルの子役に応募したら良いのに」 と母に言った事があるくらいです。でも母はぽっちゃりした弟を見て、 「お相撲さんみたいになっ たらどうしよう」と心配していたらしいです。

 小学校低学年の頃の弟は、テレビの〝8時だよ全員集合〟を見て、一人で大笑いをしていました。 それが聞こえて、別の部屋で父と母、そして私の三人が笑っていた事を弟は知らなかったでしょう。 寝言は「なーんちゃって!」と叫ぶし、ほんと面白い子でした。

「あんなに可愛かったのに・・・」と、今の貴の姿を見て言いたくなります。  

 私の試験前の夜の子守は、貴を前に座らせて、単語を何度も復唱させて自分が覚えていました。 本人 は ま っ た く 覚 え て い な い で し ょ う 。

  私 が 高 校 を 卒 業 す る ま で( 貴 が 小 学 校 三 年 生 ) は、「 私 が 育 て た よ う な も の だ!」 と 言 い た い。 貴に自転車を教えたのも私なのに、おじいちゃんに教えてもらったと思っているようです。私自身

が、誰も教えてくれなくて、なかなか補助車が取れずいじめられたから、貴には同じ思いをさせた

くないと思い、3歳ぐらいの時に教えたと思います。すぐに乗れるようになって、小さい体でさっ そうと漕いでいたのが目に焼きついています。

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子供、孫の思い出   

 息子はキャッチボール一つしてもらったことない。どっか行く言うても主人の趣味の とこだないと行かれん。だから家族で遊びに行ったのは娘が中学校で息子が小学校の時

に広島の宮島に一回だけ。 あとはおまけいうか子供会とかで遊園地なんか行くじゃない。

ああいう時は主人はたいぎでたいぎで(面倒で面倒で)ねえ、ついて行くのが。私も「も ういいわ」って言いたくなるくらい。

 

息子は今、 孫の野球にのぼせとる。私も子供のことだけまあ目をつぶってるけどねえ。   そういう私らもじいばあさん会を作っとるけんね。

スポ少(少年野球)の時から上の子の全国大会で東京行っとるし、下の子もおる次の   年に今度は九州での全国大会について行って、ほいで広島のマツダZoomZoom

スタジアムに行って、平成二十四年に坂本龍馬杯にもついて行って、今度は一中(大田

第一中学校)が全国大会に出たから静岡について行って。私がついて行っとるけ息子に

なんだり言われん(笑) 。じいばあさんの気がおうたもんばっかりでみんなでバス貸切

ってすぐ行くんよ。勝っても負けてもついて行く。孫には楽しみをもらっとる。

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次男 ・ 豊之 長男 ・ 春貴  長女 ・ 紫織 平成 17 年 元旦

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主 人

 あの人が病気の時にねえ、一年に一回は手術して入院したりしとった。

自分の 世話

) し て も ら お う と も 思 っ と ら ん け、 

 病気になるといらいらするじゃん。主人が包帯しとって、それを私が洗ってあげよう としたら少し濡れたかなんかで、それに主人が怒ってホースをぱちーんと投げて大小言 言ってきたことがある。私もカチンときて、 「 そ が に イ ラ く る よ う だ っ た ら 私 も 手 間 替 え( 面倒見てあげんよお!」 と言うたんよ。そしたら 「いや、わしはふらふらしながらでもお前を見てやる」

って言うとったの。ほいで意外と早く亡くなった。それで私も主人が意外と早く亡くな

ったのは、主人が『ふらふらしてでも見てやる言うたけど、やっぱり自分は見られん』 と思って、早目に逝って楽させてやろうとしたんじゃないかなあと。

この家に引っ越した時は家の前に一升瓶のかけらとかいろんなもんが畑に捨ててあっ

てゴミ捨て場のようだったけど、主人がユンボとか乗って一年できれいにしてくれちゃ

った。山の中にあったお墓も、主人が死ぬまでに全部自分で段取りしてこっちへ出して くれた。さんざん遊んだ分、最後に全部やってくれた(笑)

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私は癇癪を起こしている方が主人らしいと思うけど、 今は楽しそうに笑った表情だけが思い浮かぶ。

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私 も 主 人 と 同 様 に 趣 味 に 明 け 暮 れ、 友達もたくさんでき、悔いのない人生 を過ごしています。   今の趣味は、新しくなった我が家で   たくさんの友達と話をしながら飲ん

 

だ り 食 べ た り す る 事 と、 野 菜 を 作 り、   花 を 育 て、 そ れ を 眺 め な が ら 一 日 を 過ごす事です。    時々三人の孫が来てわがままを言っ てくれると、長生きしてもっとわがま まを聞いてやりたいと思います。

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《 森野勝 ・ 勝子 人生年表 》 西暦 1937年 1938年 1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年 1946年 1947年 1948年 1949年 1950年 1951年 1952年 1953年 1954年 1955年 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1962年 1963年 1964年

年号 12年 13年 14年 15年 16年 17年 18年 19年 20年 21年 22年 23年 24年 25年 昭和 26年 27年 28年 29年 30年 31年 32年 33年 34年 35年 36年 37年 38年 39年

勝 0歳 1歳 2歳 3歳 4歳 5歳 6歳 7歳 8歳 9歳 10歳 11歳 12歳 13歳 14歳 15歳 16歳 17歳 18歳 19歳 20歳 21歳 22歳 23歳 24歳 25歳 26歳 27歳

勝子

出来事  勝 誕生

0歳 1歳 2歳 3歳 4歳 5歳 6歳 7歳 8歳 9歳 10歳 11歳 12歳 13歳 14歳 15歳 16歳 17歳 18歳 19歳 20歳 21歳

 勝子 誕生

 長久小学校卒業

 大田第一中学校卒業  池田小学校卒業  邇摩高等学校卒業、伊丹の陸上自衛隊入隊  池田中学校卒業、大阪の日本化学工業に就職

 地元に帰り東和商事に運転手として勤め出す

 地元に帰り東和商事に勤める、二人の出会い  富士第一交通に転職、三瓶グリーンランドに転職  結婚 (東京オリンピックの年)、自動車免許を取る


1965年 1966年 1967年 1968年 1969年 1970年 1971年

年号 40年 41年 42年 43年 44年 45年 46年

28歳 29歳 30歳 31歳 32歳 33歳 34歳

1972年

47年

35歳

1973年 1974年

48年 49年

36歳 37歳

 栄町の高野家を借りて住む  久美子 大田小学校入学 柳楽アパートに引越し。大田鈑金入社 29歳  バレーボールを始める 30歳 31歳  稲用の実家を勝子の父・秀五郎が建築

1975年

50年

38歳

32歳

51年 52年 53年 54年 55年 56年 57年 58年 59年 60年 61年 62年 63年 元年 2年

39歳 40歳 41歳 42歳 43歳 44歳 45歳 46歳 47歳 48歳 49歳 50歳 51歳 52歳 53歳

33歳 34歳 35歳 36歳 37歳 38歳 39歳 40歳 41歳 42歳 43歳 44歳 45歳 46歳 47歳

西暦

1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年

昭和

平成

勝子 22歳 23歳 24歳 25歳 26歳 27歳 28歳

出来事  長女・久美子 誕生  大田鈑金塗装工場㈲ 開業  東和商事入社

 大田鈑金を長久町に新築移転、会社兼住居

 長男・貴之誕生

 工場の2階を住居として改装。久美子大田一中入学

 久美子大田高校入学、貴之長久小学校入学

 久美子、京都ワコール入社、貴之大田一中入学

 〝赤ちょうちん〟開店、その2階に住居を移す


1991年 1992年 1993年 1994年

年号 3年 4年 5年 6年

54歳 55歳 56歳 57歳

1995年

7年

58歳

1996年 1997年

8年 9年

59歳 60歳

勝子 出来事 48歳 49歳  大田商工会女性会30周年、あゆみ太鼓結成 50歳 51歳  貴之、専門学校卒業・大田鈑金入社 52歳  父・森野実 他界 53歳  大田鈑金設立30周年記念 54歳

1998年

10年

61歳

55歳

1999年 2000年 2001年 2002年 2003年

11年 12年 13年 14年 15年

62歳 63歳 64歳 65歳 66歳

56歳 57歳 58歳 59歳 60歳

2004年

16年

67歳

61歳

2005年

17年

68歳

62歳

69歳

 妹の夫・福間幹雄、勝子の母・前坂秋代 他界 63歳 大田商工会女性会会長に就任 4年間務める

西暦

平成

2006年

18年

2008年 2009年 2010年 2011年 2012年

20年 21年 22年 23年 24年

65歳 66歳 67歳 68歳 69歳

2013年

25年

70歳

 10月 貴之結婚(式:清水大師、披露宴:大田商工会議所)

 長久町長久ロ266-10へ家を新築し、勝・勝子移る  大田市役所1階に〝テジョン〟開店、孫・春貴誕生

 貴之、大田鈑金社長に就任  赤ちょうちんを閉める。孫・豊之誕生  女性会40周年。孫・紫織誕生  勝子の妹・福間栄子 他界、テジョン→HOPE WINへ

 10月新生大田市 赤ちょうちんをテナント貸し、稲用の実家に帰郷

 貴之家族266-10へ住まいを移す

 勝子の父・前坂秀五郎、勝、母・森野シマヨ 他界

 恒夫他界  長久スポ少全国大会出場、春貴 東京へ行く  長久スポ少全国大会出場、豊之 九州へ行く

 10月女性会50周年、実行委員長を務める 大田一中野球部全国大会出場、春貴 静岡へ行く

 稲用の実家をリフォーム、4月より移る


あとがき

 

・ 子 継伝〟制作のご依頼主であり、息子さんでもある森野貴之さんから、あとがきの依  この〝森野勝 勝 頼を受けたのは制作途中の事だった。 「この本は制作者である細田さんの感想が最後に入って初めて完結

する気がする。だから是非お願いしたい。 」と頼まれたのだ。私は『なるほど、そう思われる事もあるのか。

それであればその思いに応えなければならない』と考え、非常におこがましいながらも引き受ける事にし

た。貴之さんのご期待に沿うためにも、継伝制作を通じた率直な感想をもって、あとがきとさせて頂く。

 この継伝の主役である今は亡き森野勝さんと妻の勝子さん(語り手)ご夫婦にぴったり当てはまる言葉 は〝破茶滅茶〟である。お二人の暮らしぶりは、まさに破茶滅茶で奇想天外なのである。

勝さんの雑多な趣味と商売における開発意欲は、人間が本来持っている野性のエネルギーを感じさせる。   タンクトップ姿で飛行機に乗っている姿、妻がいながらも自分の初恋の相手の名前を娘につけようとする

行為、すぐ癇癪を起こすところなどは、勝さんの野性味溢れる人間性がよく表れているように思う。

 一方、勝子さんも勝さんに負けず劣らずエネルギッシュで、その暮らしぶりは、ごく普通の暮らしをし て い る 人 か ら 見 る と 幾 分 常 軌 を 逸 し て い る と 思 わ れ る か も し れ な い。 お た ふ く 風 邪 で 熱 が 出 て い る 息 子 を

ほっといて趣味のバレーに精を出す、娘が試験勉強の最中にどんちゃん騒ぎをして土手を歌いながら帰っ

お 二 人 の 暮 ら し ぶ り は 一 般 の 家 庭 と 対 比 す る と 破 茶 滅 茶 で は あ る の だ が、 ど こ か ユ ニ ー ク な の で あ る。

てくる。人間の本性を剥き出しにした行動である。  


そんなユニークで気が置けないお二人の魅力に惹かれ、大田鈑金にはいつも沢山の人が集まってきていた

のだろう(私の父もその一人である) 。このご夫婦が人を散々楽しませ、自分たちも散々楽しんできた事が、 大田鈑金発展の原動力だったのではないだろうか。

そして最も注目すべきが、ここまでほっとかれて育った子供達の行く末である。ここまでほっとかれて   も二人の子供は立派な社会人となり、とても親思いなのである。娘の久美子さんは高校生の時、就職先は

親を心配させないために 田 “ 舎でもテレビコマーシャルをやっている会社 が ” 第 一 条 件 だ っ た。 こ ん な 事

を考える高校生が一体どれだけいるだろうか。息子の貴之さんは父親と仕事で散々けんかをしながらも、

亡くなってからは『一緒にゴルフをしたり酒を飲んだりしたかった』と後悔している。両親のためにこの 継伝を残してあげたいとも考えた。

商 売 に 向 き 合 い、 真 剣 に 生 き る 姿 を 側 で 見 て き た か ら に 違 い な い。 ご 夫 婦 は 自 分 で 意 図 さ れ た 事 か ど う

  何 故 散 々 ほ っ と か れ た に も 関 わ ら ず、 立 派 に 育 ち、 親 孝 行 の 思 い が 強 い の か。 そ れ は 両 親 が 真 剣 に  

かは分からないが、立派な後ろ姿を子供たちに見せてきたのである。そして子供たちはほっとかれた分、   自分で考え行動せざるを得ず、自立心が養われたのだろう。

 野生動物の世界では、自立を促すためにまだ甘えたい時期から親は子供を突き放していくという。一方、   現代の日本では、親が子供に付きっきりの家庭が非常に多い。子供の将来のためにはどう接するのが良い のか? 森野家継伝を読むことは、その一考の機会となるはずである。

平成二十五年八月  細田次郎  この継伝を残してくれた森野親子に心から感謝したい。             


継 伝

人間の暮らしというのは 過去の歴史や伝統、人々の足跡といったものから 叡智を学びとることによって成り立っている。 〝継伝〟とは、

自分の歩んできた人生を振り返り、書き残すことによって たとえば家族といった一番身近な人へ

 

ささやかな道しるべを残すためのものである。


代表 細田次郎

【制作】 ニッチノーマス      

森野家 継伝  

森野家継伝

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