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坂根豊子

継継継継 伝伝伝伝

坂根豊子

【 出 生 】 一九二五年(大正十四年)九月二十二日

【 制 作 】 二〇一二年(平成二十四年)八月 満 八十六歳 1

〝Small signpost〟 signpost〟 Toyoko Sakane Born September 22,1925 Production August 2012 (At the age of 86)


継継継継 伝伝伝伝

……

遊んでばかりいた小学生時代

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戦争が身近だった女学校時代

…… ……

都会の暮らしに憧れた青春時代 戦争中の結婚、大忙しの日々

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坂坂坂坂根豊子

▼▼▼▼ 目目目目 次次次次

■■■■ 生生生生いいいい立立立立ちちちち

……

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三歳で菊池家から坂根家へ

坂坂坂坂根豊子のののの生生生生いいいい立立立立ちちちち

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趣趣趣趣 味味味味 ……

生きがいの読書 ……

……

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……

今でも続けている短歌教室

■■■■ 歴史 伝統 文化

井山屋周辺、、、、街街街街のののの変遷 ……

……

田儀村のののの風景 饅頭のこと

…… ……

〝こし餡〟 と呼ばれる所以 〝花馬饅頭〟 命名の由来

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坂根家のののの歴史、、、、井山屋屋屋屋ののののルーツ 坂根家 家系図

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■■■■ 暮暮暮暮らしのののの知恵 料理

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私の得意料理②『かぼちゃのタルタルソース風のせ』

私の得意料理①『ポテトサラダ』

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炊事歴六十七年

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■■■■ 教教教教 訓訓訓訓 ……

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商売をををを長長長長くくくく続続続続けてこれた理由

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■■■■ 想想想想 いいいい

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尼崎勤務時代のののの思思思思いいいい出出出出 母母母母はははは強強強強しししし 次男・・・・均均均均

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仲良しししし三人組 今今今今のののの想想想想いいいい

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継 伝

■■■■ 生生生生いいいい立立立立ちちちち

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坂坂坂坂根豊子のののの生生生生いいいい立立立立ちちちち

三歳で菊池家から坂根家へ

私は大正十四年九月二十二日、父・菊池幸吉、母・マサの六番目、三女として簸

川郡窪田村(現 :出雲市佐田町)に生まれた。兄弟は男四人、女五人の九人兄弟だっ た。

三歳の時、母の実家である簸川郡田儀村(現 :出雲市多伎町口田儀)の坂根家に子 供 が い な か っ たた め、 私 は 養 子 と して 出さ れ る 事 に な る。 以後 、 父 ・ 坂 根 次良 蔵 (じろぞう) 、母・ヨシの元で育てられる。 (※今後本文の中で出てくる父とは次郎蔵、母とはヨシを指す)

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遊んでばかりいた小学生時代

私が通っていた頃の田儀小学校は一学年四十人位いた。一年下も三十数人。 (現在の田儀小学校は全校で五十人。全学年一桁の人数。 )

小学校の時の私はいけずもしたよ~(笑) 。男の子はすぐ女の子にげんこつしたり、 いじわるしていた。私はよく仕返ししていた。汚いゴミをいじわるした男の子の机 の中に入れたり(笑) 。男の子はいけずがおったよ~。今はすぐ親がいじめられたと か言って先生に言いに行くけど、昔だから親も何とも言わんしねぇ。農家の子が多 かったねえ。私らは街(小さくても)の子だった。

まあ、その頃はとにかく楽しかった。あんまり勉強せんこに本読んだり外に出て 遊んでばっかりおったねぇ。夏には一日砂浜で遊んでねぇ。泳ぎに行っても大波の 時ほどおもしろくて、山みたいな波が来るとそれに乗ってね。 「お前は前か後ろか 分からん」と言われるほど真っ黒けに焼けて。私は泳ぐのが得意で、潜ってサザエ でも何でも捕りよったよ。ボベおこしでボベを捕ったり。昔は海も綺麗だったねぇ。

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今の店の前にある田儀川もきれいで透明でね。川エビや手長エビがいっぱいおっ たの。竹に網つけたエビたもでエビを捕まえて、夜に焚いて食べていた。カワニナ や毛ガニもよく捕ったし、鰻もいた。鰻を捕るために石をいっぱい積んで仕掛けを 作ってねぇ。 海でさんざん泳いだ後に川に入って身体の塩を落としていた。

冬はおこた(こたつ)で本読んだり、お手玉したり、あやとりしたり。勉強なん かしたことない。近所の友達と遊ぶのがとにかく楽しかった。死んだ父親が新し物 好きで、当時はラッパのラジオがうちにあった。世間の事が分かるのは新聞だけだ ったねぇ。

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田儀小学校運動会。2 年生の時

小学校 3 年生。近所の友達と 11


田儀小学校の 6 年生時。田儀の港にて

小学校の卒業写真 12


戦争が身近だった女学校時代

田儀小学校を六年で卒業すると、簸川郡(現 :出雲市)今市町にある今市高等女学 校(現 :出雲高校)へ進学した。四年間、毎日田儀駅まで歩いて行き、そこから汽車 で通った。 昔は男女の仲が厳しくて、通学汽車でも、前二両が男子、後ろ二両が女子とはっ きり男女が分かれていた。だから恋愛なんかできない。それでも当時も今と一緒で 中には不良がかった男女がいて、汽車の連結した部分で一緒にいたりした。 私はといえば、母の妹の息子と手紙の交換ぐらいはしていたけど、ただの友達で、 恋愛と言えるものではなかった。私は一人っ子で育ったので、そういう恋愛に対す る関心はあまり無かったかもしれない。

とにかく戦争でえらい時代だったから、女学校の頃からもう勉強させられる事は 少なかった。女学生は五十人くらいずつそれぞれ日の丸の旗を持って、出世兵士を 今市の駅に見送りに行っていたものだ。

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当時の田儀駅

現在の田儀駅 14


今市高等女学校 2 年生時 15


都会の暮らしに憧れた青春時代

女学校の夏休みに姉が住んでいた大阪に行って、姉に奈良とかに連れて行っても らった事があった。都会の空気に触れた私は、一回は親元を離れて情緒がある京都 や奈良のような街に住んでみたいと大きな憧れを持つようになっていた。 そんな思いもあり、女学校を四年で卒業した私は昭和十七年(大東亜戦争開始の 翌年) 、姉がいた兵庫県の尼崎市に移り住むことにした。しかし実際に移ったら、戦 争が激しくなって、憧れの都会生活どころではなかった。 ここにいた時に、 「B29(アメリカの爆撃機)が飛んで来たわ!」と思って空を 見上げていた覚えがある。 「日本の戦闘機はきれいな飛行機だが、B29はおっきく て怪物みたいだなぁ」と思って眺めていた。

尼崎では姉の住んでいた家の後ろの田んぼの中に〝電溶鋼業株式会社〟という大 きな軍需工場があり、そこに試験を受けに行って幸い受かったので事務員として働 く事になった。最初は原価計算課、途中で販売課に配属され、大半がお客さんと電 話でやりとりするような仕事だった。工場では戦争で使用する機械の部品を作って

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おり、当時千人くらいの従業員がいた。

尼崎で二年ほど過ごした頃、義兄(姉の夫)が招集がかかって戦争に行ってしま った。二人の子供がいた姉は子育ても大変だったので(私も子育てしてあげてて大 変だった) 、義兄の里の松江市に帰る事になった。私は一人尼崎に残る事になり、秋 田県出身のずうずう弁のおばあさんが家に居候させてくれると言うから、そこで下 宿させてもらう事になった。 その後いよいよ戦争が激しくなってきて、私も地元で一人残っていた母(父は私 が十歳の時に他界した)が心配になり、一年後の昭和十九年に地元田儀村に帰る事 にした。

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就職した電溶鋼業㈱の同僚と 18


戦時中の結婚、大忙しの日々

昭和十九年、一九歳で田儀村に帰ってすぐ、夫・清と結婚する。夫は私の母の十 九歳年下の弟で、私より五歳年上だった。私から見ればおじさんにあたる人。母と 同じ地元の農協に勤めていた。母と主人は七人兄弟だった。 その後、昭和二十年に日本は終戦を迎え、二十一年三月六日に長女・宏子、二十 三年十一月八日に長男・守、二十八年一月一日に次男・均(ひとし)が誕生する。

私が結婚した後、世間が落ち着いて砂糖や粉が入るようになってから、母と夫と 私で和菓子屋を再開した。私は子育てしながら働いていた。 私の夫は結核で身体が弱かったから、兵役の召集令状が来ても行けなかった。夫 の兄二人は戦争に行っているが、夫は行っていない。元は東洋レイヨンに勤めてい たが、軍需工場に引っ張られて、昼夜の過酷な労働がたたったせいか結核になって

しまい、死にそうになって地元の簸川郡江南村(現 :出雲市湖陵町)に戻ってきた。 そこで養生して元気になったからうちに養子に来た。うちに来てからも身体が弱く て病気がちだった。その後結核にはならなかったけど、とにかく色んな病気がつい

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ていた。だから結局私が店で一生懸命働かないといけなかった。店には母も夫もみ んな出るけど、身体を使って和菓子を作るのは主に私の役目だった。

(つらいとは思いましたよ~。とにかく仕事せなならんけん。なかなか忙しくてで きんのに注文があったりするとねえ。十二月三十一日の夜まで働いてねえ、散髪屋 のおじさんがうちの羊羹が好きでねぇ、夜の〇時前に買いに来られるのを最後に店 を閉めていたもんだ。 )

しかし、うちのお菓子は時代遅れのお菓子だったから、再開して何年かしてから 私は赤ちゃんだった均を家に置いといて大社の和菓子屋に桜餅など新しいお菓子の 作り方を習いに通った。朝一番の汽車に乗り、出雲で乗り換えて大社に行っていた。 習いに行ったお店はそんなに有名なお店でもなかったが、そこの主人は満州から引 き上げて和菓子屋をしていた人で、歴史が古くベテランだった。 今と違ってガスがないので、炭火を起こして消えそうになると炭を足して作って いた。上の鉄板が重たかった。カステラを焼いて赤い色をした餡に寒天をちょっと 混ぜてぐる~っと巻いた「渦巻き」というお菓子を作ったり、正月の松竹梅の牛皮 を教えてもらったりしていた。

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その当時この辺は戦後の混乱からようやく落ち着いて、同窓会が流行っていた。 するとお菓子包みをあっちもこっちもでよく頼まれた。正月には松竹梅を入れてあ げようと思って寝ずに作ったりしていたけど、今と違ってストーブも無いので寒く て寒くて。全部手作りなので、手間も時間もかかったものだ。

そのうち長男・守が大きくなって大阪に一年勤めた後、東京の東芝に勤め出し、 当初から「いつかは帰るいつかは帰る」とずっと言っていたが、昭和四十八年十一 月にとうとう実家に戻ってきてくれた(五十一年十月に守は結婚) 。守も手伝ってや っているうちに、手じゃ追いつかないくらいだんだん売れ出してきた。車を買って からたくさん運べるようになり、大田の方にも持っていくとみんな饅頭が来るのを 待っていて、降ろそうとするとすぐだあ~っと売れていた。 そのう ち守が 機械を 入れて くれた ので、 それか ら大量 生産で きるよ うにな った。 (手作りの時は作るのも競争で私が一番早かった(笑) )

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本町にあった創業時の井山屋の外観 22


平成 13 年~23 年の外観

現在(平成 24 年)の井山屋の外観

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新国道 9 号線に移転当初の店内 24


現在(平成 24 年)の店内 25


40 代の私。本町にて

長男・守 結婚当初。妻・恵子と 26


趣趣趣趣 味味味味

生きがいの読書

私は昔から算数や化学など理系は嫌いで、国語が大好きだった。女学校の時から 本を読むのが大好きだった。文学でも何でも読むが、特に時代小説が好き。司馬遼 太郎の『坂の上の雲』を読んで、湖笛(松江市の湖笛会が毎月発行。読書感想文を 短歌で十首投稿し、選出されたものだけ掲載される)にその感想を書いて出したら、 今年の五月号に九首掲載された。昔源氏物語を読んで出したら十首全部載った事が ある。 高等女学校の時に源氏物語を主人の兄からこっそり借りてきて読んで、読書感想 文を書いて学校に出したら職員室に呼ばれた。光源氏が一人おっていろんな女の人 が取り巻いてハーレムを作ったっていう感想を書いたんだと思う。当時はそういう 男女間の色恋事に厳しかったから、先生に「こういうのを読むだない、もっと清ら かなものを読みなさい」って叱られた覚えがある(笑) 。

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本は小学校一年生からずっと読んでいた。女学校になってからは「少女の友」 、結 婚した頃からは「主婦の友」とかを本屋さんに頼んでずっととっていた。本だけが 生きがいだったかなあ。子供が出来た頃などなかなか読めない時期もあったけど、 今はなんぼでも読める。 佐伯泰英さんの『陽炎(かげろう)の辻』というのがおもしろくて、三十八巻ま であるが全部読んでいる。宮尾登美子さんの上村松園(美人画の大家で明治・大正・ 昭和と生きられた方)の生涯を描いた『序の舞』もおもしろかった。上村さんとい う人は絵の虫だねぇ。山岡荘八さんが書いた徳川家康もおもしろかったなあ。池波 正太郎さんもおもしろい。守も本が好きでよく買ってきて「これおもしろいけん読 みなはい」って渡してくれる。徳川家康はねぇ、始め出しなは守とお金を出し合っ て上等なのを買ったなぁ。

まだ主人がいる頃は、毎年冬になると温泉に入りに三瓶山にある国民宿舎さんべ 荘に主人と泊まりに行っていた。本をたくさん持って行って夜はスタンドを点けて 読んでいた。次男の居た大阪に行くのにも本を抱えて行く。娘のとこでもどこでも 必ず本持参で、読む本が無くなると本屋に寄って買っている(笑) 。

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《 坂根豊子 おススメの ススメの本 ベスト 3 》 第1位 徳川家康

全 13 巻

(山岡荘八 著) 守とお金を出し合って買った本。 家康は苦労して苦労して成り上が った人。他の殿様は三代までだが、 家康から続く徳川家は家来に恵ま れ、何代も続いたのだと思う。

第 2 位 平家物語 全 4 巻 (宮尾登美子 著) 愛読の朝日新聞が発行した本。 武将でも何でも上り坂の時は読む のも楽しいが、下り坂の時は読む 気がしなくなる。

第 3 位 源氏物語 全 5 巻 (円地文子 訳) 難しくて腹入りしないから三回読 んだ。瀬戸内寂聴さんのも図書館 で借りて読んだ事がある。 29


今でも続けている短歌教室

私はこの前までは古文書教室と文学教室と短歌教室と三つに入っていたが、今は

短歌だけ。出雲の湖笛会に一回と、多伎町の汐路 (しおじ )会という会に参加している。 両方とも七十二歳の時に入会した。

松江から来る湖笛会の先生はほんにすごいわ。八十歳で私より若いけどねぇ。一 字直されただけでパッと歌が変わってねぇ、素敵になるのよ。そこがまだ私達には 分からん。

出雲の短歌会では私が一番年上。私ぐらいの年代が二人であとはみんな若い人で しょう、言われる事もされることも。だから勉強になる。会には出てこられんけど 一〇七歳の会員さんもおって、その人はいい歌作られるよ~。

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湖笛会創立後最初 の作品集。 私が最初に書いた 思い出の短歌。

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湖笛 2012 年 5 月号 に掲載された 「坂の上の雲」 の感想短歌。

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継 伝

■■■■ 歴史 伝統 文化

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井山屋周辺、、、、街街街街のののの変遷

昔は現在の清龍寺や本願寺の前の道、本町から農協マーケットや山陰合同銀行が ある中町が国道九号線だった。 現在の九号線も旧九号線も道路が高くなっているが、当時は道路が低く、手が届 かないくらいの高さに鉄道があって、鉄道ののりの下に溝があって道路があってそ の前に私の家があった。

旧九号線の当時は、本町に呉服屋さん、うち(井山屋) 、自転車屋さん(今は大田 市に移っている) 、その隣に田尻というおばあさんがお店をやっていた。その向かい

側に藤原商店(現 :香り芽本舗)があって果物や魚、パンなど何でも売っていた。藤 原商店さんはいろいろ失敗を重ねて今の香り芽本舗さんのように大きくなった。今 でこそ当たり前だが、当時インスタントのわかめスープを作ったのは画期的だった。 でも最初は思うように売れなくて、神戸の方に送ったら、全部返品で返ってきて、 社長さんも泣くに泣けんかったというエピソードもあった。 その隣が佐々木屋さんといってその昔は旅館だったらしい。そこまでが本町で、

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曲がって中町には、三島さんという米屋さんが角。その先は広瀬散髪屋、その隣が

山陰合同銀行、向かい側に豆腐屋の永見さん(現 :駐車場)と、その隣が呉服屋さん だった。だから当時は本町にも中町にも呉服店があったという事で、それでもやっ ていけたのだ。 この辺にはうちの他にもお菓子屋があった。本願寺の二軒隣りで大黒屋というお 店。おじさんはどっかで修行した人だったから、うちよりもたくさんの種類のお菓 子があり、小田に卸していた。一代でやめられて今はうちの裏で美容室をされてい る。

さらにその後昭和三十九年に家の近くにあった海を埋め立てして、新しい国道九 号線ができた。うちの店はそれに合わせて新しい九号線に移った。その時は、呉服 屋のかまや、井山屋、高田布団屋さんと並び、そこから港に続く道路があったが、 呉服屋さんがやめたのでうちが買い取って、うちの敷地は長くなった。九号線沿い に、店と工場、住居と続いていた。

そ の 後 、 平 成 四 年 に駐 車 場 が 必 要 な 店 舗作 り を す る た め に 今の 場 所 に 移 っ た 。 以前の店は取り壊して今はもう無い。

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中町も今では過疎で空き家が多くなった。角の永見豆腐屋も廃業され駐車場にな っている。反対側の三島米屋も廃業した。以前は酒屋も本町のとやお酒屋と本願寺 の先の渡部酒屋と二つあった。 大型商店が出雲や大田にできたり、馬車の時代、そして鉄道の時代から車の時代 に移ったことで、田儀の商店街は廃れてしまった。

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< 当時の 当時の井山屋周辺の 井山屋周辺の街図 >

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大正時代 家の近くが海だった頃(写真左の道が上町・中町)

現在。海が埋め立てられ、国道 9 号線ができている 39


田儀村村村村のののの風景

昔は荷物を運ぶのは馬車だった。人力車もあった。馬車の糞が落ちたり、地面も アスファルトではなく泥なので、車が出てきた当初は埃で汚かった。当時は外へ出 ればたくさん人がいたものだが、今は港町の郵便ポストまで行くにも誰にも会わな い。年寄りは家にいるし、若い人は車で移動する。随分風景が変わった。特に海岸 が大きく変わった。 最初家のすぐ近くが海だった時に、高波が来て中町の家ごと流してしまったのを 見た時はすごかった。たまにああいう高波が来ていた。新しく国道九号線ができた 頃は高波で道路にたくさん石が乗ったりしていた。田儀の海は海水浴場で、出雲の 方から汽車で海水浴に来る人がたくさんいた。笠取坂(風が強くて笠も飛ばすとい う意味から命名)のトンネルの下に飲み屋や休憩所があって、そこから饅頭(花馬 饅頭が主)を頼まれていたものだ。

田儀には最初学校が小学校だけしかなくて、久村に高等科があった。私の父は毎 日四㎞歩いてこの学校に通っていた。

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大正初期の本町 JA 田儀付近の街並み

現在の本町 JA 田儀付近の街並み 41


昭和初期頃の本町・港町

国道 9 号線ができる前の田儀の海岸 42


饅頭のこと

〝こし餡〟 と呼ばれる所以

昔のこし餡の作り方は、小豆を釜で炊いて柔らかくなったものをザルを使って手 ですって、皮ほど上に残して中身を下へ落とす。それでもまだ荒いので、布でもう 一度こす。それで「こし餡」と言う。とにかく身体使って世話やかないかん。

水を絞るのに、こした餡を袋に入れて、その上に竹のスノコみたいのを乗せて、 そして栗の木なんかで作った棒に腰掛けてテコを利用して体重で絞る。それで、薪 で炊く羽釜にその餡を入れて砂糖を入れて底につかないように、手で練っていく。 だからいっぺんにたくさんはできない。でもその頃はそんなもんだと思ってやって いた。

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〝花馬饅頭〟 命名の由来

最初の頃扱っていたお菓子は、千鳥饅頭、モナカ、生菓子、焼き物、牛皮とか十 種類くらいだった。現在の花馬饅頭は当時、千鳥饅頭という名前で売っていた。千 鳥の焼印を使っていた。うちで作っていたら出雲の方で真似しだしたので、商標登 録せないけんということになって、申請しようとしたら、既に九州で取得されてい た。それで千鳥饅頭の代わりの名前を何にしようか家族で話し合ったり、学校の先 生にも相談していたが、 「地元の 〝花馬祭り〟 にちなんで 〝花馬饅頭〟 はどうか?」 と私が考え、福田先生(私を教えていた先生)に相談にいったら、それがいいと 言われ決定した。昭和四十九年か五十年のことだ。 昔からの常連さんは今だに「千鳥饅頭ありますか?」と言われる人もいる。 「昔は 千鳥だったね」とか。千鳥饅頭の時代が長かったから。

ちなみに今いちじくを島根県がブランド化しているが、お菓子の材料に使い始め たのは昭和五十二年(孫の俊が生まれた年)に羊羹に使ったのが最初。

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〝 花 馬 饅 頭 〟 45


昭和 24 年 花馬祭り(24 歳の時)

俊と慶

平成 21 年 花馬祭り(84 歳の時) 46


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坂根家家家家のののの歴史、、、、井山屋屋屋屋ののののルーツ

我が坂根家の初代は坂根只七という人で、坂根の本家(坂根為四郎)から分家し

た人。それに子供がなくて、同じ櫻井家に勤めていた鳥屋尾家(屋号 :中鳥屋尾。 田儀一番の分限者(大金持ち)だった屋号 :本鳥屋尾の分家)から養子にとったのが 二代目の祖父・益市(ますいち)。三代目が父の次良蔵(じろぞう)、四代目が夫の 清、五代目が私の長男・守で、現在孫の俊で六代目。

初代の坂根只七 (明治二十七年没 )は奥田儀の宮本地区に住んでいて(当時は七十件 くらい家があった) 、二代目の祖父・益市 (大正七年没 )の時に口田儀(現 :清龍寺の横。 その後鉄道が通る事になり本町に引っ越し、その場所が井山屋の最初の地)に移り 住んだが、二人とも宮本地区にあったたたら製鉄工場で仕えていた。このたたら製 鉄工場は、奥出雲のたたら製鉄で栄えた櫻井家から、櫻井三郎左衛門直重さんとい う人が奥田儀に進出してきてできたものだ。当時ここらの人の多くがそこに仕えて いた。旦那さんは馬に乗って出てきていたものだ。

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今もそこに智光院(人や花の絵が書かれている天井(格天井)がある)という櫻 井家の菩提寺がある。たたら工場が無くなって長い年月と共に宮本は廃れてしまっ て荒れてしまっていたが、最近口田儀を中心とした住民達の間で「田儀櫻井家たた ら製鉄遺跡保存会」を作り、皆で掃除して綺麗になって、たくさん人が来るように なっている。 (田儀櫻井家が経営したたたら製鉄の中心地とも言えるこの場所は、宮本鍛冶山内 遺跡として平成十八年一月二十六日に国史跡に指定された)

智光院は廃れた後に仏像とか無くなったりしたので今は鍵がしてあるが、頼めば 開けてもらえるし、ガイドもしてもらえる。たたら工場跡地に金屋子神社(たたら にとって大切な火の神、鉄の神を祀っているお社)があって毎年五月に祭りがあり、 神楽などもする。神社の本殿までは一一〇段もの急な階段があるが、この前ひ孫の 慶が全部登りきった。

櫻井家はたたらですごく栄えたものだ。工場があって働いている人がたくさんい た。関ヶ原の合戦で落ちてきた有名な武者の塙団右衛門 という人が櫻井家の元祖ら しい。

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櫻井家たたら製鉄工場跡地 50


現在の智光院

智光院の中。絵が書いてある格天井 51


金屋子神社へ上る 110 段の階段

金屋子神社 52


そんな栄えていた櫻井家だったが、宮本の工場は当時大火事で皆焼けてしまった。 従業員の家(社宅のようなもの)も焼けて皆街へ出る事になったが、家も無いし職 も無いしでみんな大変だった。 従業員だった私の祖父は、運良く生家である中鳥屋尾が富豪であったため、そこ から土地をもらって家を建てることはできたが、仕事が無く、路頭に迷っていた。

祖父と祖母は蚕を飼ってまゆを売ったり、父は百姓で使う機械を売りに歩いたり して何とか生活を凌いでいた。昔の人はみな身体を使って世話を焼き、足で稼ぐと いうのがほんとだった。

そんな折りに、包丁一本で世を渡り歩く流れお菓子職人に出会う。その職人にう ちに一ヶ月ぐらい食事付きで泊まってもらって、父が千鳥饅頭の作り方を習った。 これが明治三十五年のことで、坂根家がお菓子屋を始めた最初。 饅頭を作っていたのは父だったが祖父も存命だったので、井山屋としては祖父が 一代目、現在孫の俊が五代目となる。

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井山屋 当時の饅頭作り 54


現在 井山屋 5 代目 孫の俊、妻・綾 55


現在の商品 (一部) 56


< 坂根家 家系図 > 平成 24 年 8 月時

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継 伝

■■■■ 暮暮暮暮らしのののの知恵

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料料料料 理理理理

炊事歴 六十七年

私の母は炊事があまり好きでなく、私が結婚するとすぐ「お前せえ」と言って全 て任された。だから私はずうっと八十六歳になる今でも炊事をしている。でもその おかげで今では何しようかと考えるだけで脳の活性化になっている。まあ、私はこ んな風に生まれついたんだと思っている。 私は今でもお昼は料理も家族みんな分(八人分)作る。若い頃はNHKの本や料 理の本も買ったり、この頃は新聞を切り抜きしたりレシピがいっぱいある。ここは 田舎で調味料とか材料がなかなか無い。だから似たようなものを作っている。きゅ うりの酢の物にタンパク質でたこ入れたり、卵焼き入れたり。そうすると孫でも食 べる。昔は新聞読んだりしてなんぼか作った事がある。短歌の友達と毎月勉強会が あって、料理のレシピをみなで持ち寄って、できそうなのを私も作る。 私は今でも刺身以外は何でも食べる。洋食のハンバーグでもパスタでも。

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私の得意料理① 『ポテトサラダ』 昔からよく作っていて、季節の定番料理。 【材料】 ・ キュウリ

二分の一個

二本

・ ジャガイモ 五個 ・ りんご

・ 干しぶどう 少々 ・ マヨネーズ 少々 【作り方】

一.皮を剥いたジャガイモをゆがく。キュウリは刻んで塩もみしておく。 りんごは少し皮を残して乱切りしておく。

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二.ゆがいて柔らかくなったジャガイモを鍋の中で潰して弱火に掛け、水分を 飛ばし、熱いうちにマヨネーズを和えて冷ます。 三.キュウリとりんご、干しぶどうをマヨネーズで和える。 四.二と三を混ぜ合わせて出来上がり。

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私の得意料理② 『かぼちゃのタルタルソース風のせ』

最近知った料理。湖笛会の勉強会で若い人が作って持ってきて教えてもらった。

・ カボチャ 二個

二分の一個

【材料】 ・ ゆで玉子

・ とろけるチーズ 四枚 ・ マヨネーズ 少々 【作り方】 一.かぼちゃを五㎜の厚さに切る。

二.皿に並べてラップをして、レンジで約五分温める(かぼちゃが柔らかく なるまで) 。

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三.ゆで玉子をみじん切りにして、大さじ二杯のマヨネーズを和える。

四.三を二の上にのせて、とろけるチーズをのせ、チーズがとろけるまで レンジで温めたら完成。

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継 伝

■■■■ 教教教教 訓訓訓訓

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商売をををを長長長長くくくく続続続続けてこれた理由

私は結婚後、二十三歳で長男・守が生まれた年から家業の井山屋を手伝い始め、 そこから五十七年間、八十歳まで第一線で働いてきた。八十歳の時に風邪をひいた のを機会に引退した。 井山屋のお菓子屋としての歴史は明治三十五年に創業し、途中配給が無くなった せいで閉店していた時期もあるが、孫・俊の代の現在で五世代約一一〇年にも及ぶ。

長年続けてこられたのは、正直に商売してきたからかもしれない。

まじめにしておればよいと思う。いいかげんな事をするとダメになる。手を抜い たりしたらすぐお客様に見抜かれる。

家族経営だから家族同士よくぶつかる事もあるけど、ずっと後継者がいてくれた のも運が良かった。なんぼ一人が良くてもダメで、一緒に働く連れ合いもよくない といけない。

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継 伝

■■■■ 想想想想 いいいい

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尼崎勤務時代のののの思思思思いいいい出出出出

尼崎の会社に勤めていた時の忘れられない思い出が二つある。 一つは海水浴。私はとにかく田舎っぺだからみんなについて行って、紀伊半島の 先の方で海水浴を楽しんでいた覚えがある。 もう一つは中華料理。会社の同僚にどんどん戦争の招集がかかって次々に男の人 が減っていっていた頃、神戸の方から当時は珍しい大学出のぼっちゃんみたいな人 が会社に入ってきた。私がその人に自分は島根出身だと話したら、たまたまその人 のお手伝いさんが出雲市大津町の出身で、奇遇にも私の仲良しの友達をよく知って いるという事だった。そんなご縁から私はその人によくしてもらっていた。その人 が大東亜戦争に出征する前に、課の人を全員連れて中華料理屋でお別れ会が開かれ た。そこの料理が見たことも聞いた事もないようなおいしいご馳走で、それが今で も忘れられない。 当時は遊ぶとこがあまりなかった。統制で物も無いし。大阪難波の大阪歌舞伎座 五階に映画館があって、それを見に行くのも楽しみだった。そのうち戦争が激しく なってそういうのも無くなって、娯楽なんてほとんど無くなってしまった。

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母母母母はははは強強強強しししし

私が小学校五年生の頃、当時の家では戦争によって砂糖や小麦粉などの材料の配 給が一切無くなり、店を断念せざるを得なくなった。明治生まれの母は一生懸命簿 記の勉強をして、農協に勤める事になった。そろばんもできないのに自分で簿記を 勉強してよく農協で勤めたなあと思う。 母も苦労したと思う。母は私が子供の頃(おじいさんがいる頃)から勤め出すま で家で麹を作っていた。鰻の寝床みたいな長い家だったが、家の隣に自転車屋があ ってその後ろに大きな納屋があって、その中に室(むろ)と言って、厚いコンクリ の4畳半くらいの部屋があった。外はコンクリ、中は暖房が逃げんように藁を壁や 床全部に敷き詰めて、そこに棚を組んで、もろぶたという木の入れ物を置く。熱い 蒸し米に麹菌を混ぜて、もろぶたに入れて山にして、温度を一定にして二晩くらい 寝かせる。その間、何時間おきか分からないけど麹を混ぜてやらないといけない。 子供だった私はいつも一人家で留守番していたが、よく母について室に入り、中が 暖かいので寝てしまっていたものだ。

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作った麹は家でも売っていたし、人を雇って売り歩いたりしていた。よく農家の 人が麹を作ってくれと米を持ってきたりしていた。みんな味噌や醤油を作るために 麹を買っていたものだ。 麹売りを辞めてからも、十年くらいは人が買いに来ていた。 私が十九歳で結婚して、次男・均が生まれ、井山屋を再開するまで母は農協で働 いていた。井山屋でも母は身体は小さかったが、力は強かった。

昔の人はほんとに芯が強い。 そんな母は九十九歳と十ヵ月でこの世を去った。もうちょっとで百歳だった。

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次男・・・・均均均均

平成二十三年十一月一日、次男・均が私より先にあの世へ旅立ってしまった。

明け方の 夢に出てきた あの子は誰れ 幼き頃の あの子にしてをこ

日に一度 逝きし息子の 名を呼べば 涙がじわりと 睫毛をぬらす

顔思ひ 必ず治ると 書きし日記も 七八日で ぱたりと止まる 呼んでみる もういないのね 幻の声を 聞かむか風の 土手道

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近所のののの仲良しししし三人組

近所に仲良しの友達が二人おってね。私と同い年の鳥屋尾(中鳥屋尾)さんと、 一年下の山崎さん。今でも定期的にお茶をする仲良し。三人とも連れ合いが亡くな り、家族が居て私と同じ状況。近くに同じような趣味のある三人がおるので、みな に羨ましがられる。 毎年自分達で計画建てて一泊でどっか行っている。松江とか益田とか津和野とか 大体県内で。とにかく松江が多い。美術館行くのが好きでね。県立美術館も今年も 二回行った。松江の水天閣にはなんべんも泊まっている。足立美術館もお庭がよく て何回も行った。石見銀山も何回も行ったけど、世界遺産になってから一回も行っ てないなあ。佐渡の金山も行ったけど良かったあ。

益田行った時かなあ、観るとこ全部行き尽くして十四時くらいで行くとこが無く なってしまって、蟠竜湖の近くのホテルで「もうチェックインさせてください」っ てロビーで長い時間待った事がある(笑) 。津和野の『津和野山荘』だったかねぇ? 今はもう無いけど、それが廃業する前の年に行って、もうボロボロで、お風呂の窓

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は割れてダンボールが貼ってあって、客も私達ともう一組しかおらんで。夕飯の時 に出された皿に何も入ってなくて、仲居さんに「ここに何が入りますか?」と言う と、 「入ってますわね」って言われて、よく見るとすごく薄い刺身コンニャクが入っ ていて、皆で大笑い。今でも笑い草になっている。

ディズニーランドは行ってみたいなあ。だけど歩かないけんけ今は難しいかなあ。 今年から杖つくようになったけ。旅行はいいねぇ。今年は有福温泉に行こうって三 人で話している。

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みたり

勇みたち 三人の旅よ 青空よ 一泊なれど 心の満つる

美術館 めぐりて息づく 三人も 湖の夕焼に 真向かひて立つ

あら夕日 驚く友よ 我もまた 息を呑みたり 大き太陽

友と来て 一夜の宿の 部屋の名は 夢の浮橋 彼の姫君か

列車にて 宇治の姫君 語りつつ 我が里へ着く 皆健やかに

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琵琶湖めぐり 文学教室

松江フォーゲルパーク 75


幸せは 本あり友あり家族あり 言ふことの無きて 今を生きてる

(大好きな本を好きなだけ読め、 友達もいて家族も元気で、 この上ない幸せを感じながら、 まだ生かしてもらっている。 )

多伎町口田儀 坂根 豊子 八十六歳

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夫 と 私

(雲仙)

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《 坂根豊子 人生年表 》 (0~30 歳) 西暦 1925年

年号 大正

14年

年齢 0歳

1926年

元年

1歳

1927年

2年

2歳

1928年

3年

3歳

1929年

4年

4歳

1930年

5年

5歳

1931年

6年

6歳

1932年

7年

7歳

1933年

8年

8歳

出来事  菊池幸吉・マサの6番目、3女として誕生

 坂根次良蔵・ヨシの元に養子に入る

 田儀尋常小学校入学

1934年

9年

1935年

10年

10歳  父:次良蔵他界

1936年

11年

11歳

1937年

12年

12歳

1938年

13年

13歳  田儀尋常小学校卒業 今市高等女学校入学

1939年

14年

14歳

1940年

15年

15歳

1941年

16年

16歳

1942年

17年

17歳

1943年

18年

18歳

1944年

19年

19歳  実家の田儀村に戻り、清と結婚

1945年

20年

20歳

1946年

21年

21歳  長女:宏子 誕生

1947年

22年

22歳

1948年

23年

23歳  長男:守 誕生

1949年

24年

24歳

1950年

25年

25歳

1951年

26年

26歳

1952年

27年

27歳

1953年

28年

28歳

1954年

29年

29歳

1955年

30年

30歳

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昭和

9歳

 今市高等女学校卒業    兵庫県尼崎のへ電溶鋼業㈱に就職

 次男:均 誕生    母、夫、私で井山屋再開


《 坂根豊子 人生年表 》 (31~60 歳) 1956年

31年

31歳

1957年

32年

32歳

1958年

33年

33歳

1959年

34年

34歳

1960年

35年

35歳

1961年

36年

36歳

1962年

37年

37歳

1963年

38年

38歳

1964年

39年

39歳  新国道9号線開設に伴い、店舗を9号線沿いに移動

1965年

40年

40歳

1966年

41年

41歳

1967年

42年

42歳

1968年

43年

43歳

1969年

44年

44歳

1970年

45年

45歳

1971年

46年

46歳

47年

47歳

1973年

48年

48歳  長男:守が里帰り、店を手伝う

1974年

49年

49歳  主力の千鳥饅頭を花馬饅頭へ改名

1975年

50年

50歳

1976年

51年

51歳  守が結婚

1977年

52年

 孫:俊 誕生   52歳   初めていちじくを材料に使用した“いちじく羊羹”を開発

1978年

53年

53歳  孫:優 誕生

1979年

54年

54歳

1980年

55年

55歳

1981年

56年

56歳

1982年

57年

57歳

1983年

58年

58歳

1984年

59年

59歳

1985年

60年

60歳

1972年

昭和

 守の妻:恵子が店を手伝う

80


《 坂根豊子 人生年表 》 (61~ 61~86 歳) 1986年

61年

61歳

62年

62歳

1988年

63年

63歳

1989年

元年

64歳

1990年

2年

65歳

1991年

3年

66歳

1992年

4年

67歳  駐車場が必要なため、店舗を現在の場所に移動

1993年

5年

68歳

1994年

6年

69歳

1995年

7年

70歳

1996年

8年

71歳  夫:清 他界

1997年

9年

1998年

10年

73歳

1999年

11年

74歳

2000年

12年

75歳  母:ヨシ 他界

13年

76歳

2002年

14年

77歳

2003年

15年

78歳  孫:俊が里帰り、店を手伝う  ひ孫:結 誕生

2004年

16年

79歳  

2005年

17年

80歳

2006年

18年

81歳  ひ孫:遼、ひ孫:善 誕生

2007年

19年

82歳

2008年

20年

83歳  ひ孫:貫 誕生

2009年

21年

84歳  ひ孫:慶 誕生

2010年

22年

85歳

2011年

23年

86歳  ひ孫:幸 誕生 

2012年8月

24年

86歳  現在

1987年

2001年

81

昭和

平成

72歳  湖笛会、汐路会に入会

 俊の嫁:綾が店を手伝う 井山屋を手伝い始めてから57年で一線から退く


米寿 おめでとう

坂根 俊俊俊俊、、、、綾綾綾綾

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この本は、孫の俊と綾から 米寿の祝いの贈り物

感 謝

豊子

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継 伝

人間のののの暮暮暮暮らしというのは

過去のののの歴史やややや伝統、、、、人人人人々々々々のののの足跡といったものから

叡智をををを学学学学びとることによって成成成成りりりり立立立立っている。。。。 〝〝〝〝継伝〟〟〟〟 とは、、、、

自分のののの歩歩歩歩んできた人生をををを振振振振りりりり返返返返りりりり、、、、書書書書きききき残残残残すすすす事事事事によって

たとえば家族といった自分のののの一番身近なななな人人人人にににに

ささやかな道道道道しるべを残残残残すためのものである。。。。

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【制作】ニッチノーマス

代表 細田次郎

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sakane