路傍の文化財rev8

Page 1

吉備 陵 ・南にある石碑を訪ねて

路傍の文化財

発 行 吉備まちづくり研究会 編集者 庭 瀬 かいわい案 内 人


吉備・陵南にある石碑を訪ねて

–2–


はじめに

私達は「庭瀬かいわい案内人」開設以来、多くの方から様々なことを学びました。知らない事柄も多くあり、 毎月勉強会を開いてお互いの知識の向上をめざしています。 これまで例会で取り上げた事をまとめ、案内の補助教材としたいと考え、今回は「碑文」としました。 神社を鳥居、手水鉢、社殿を備えたものとして数えると、この地域には20を超える社があります。 神社の内外にある記念碑は、戦争や水害の惨禍と復興の記録を直接知ることができ、手水鉢等の寄進者の名 前や年号からその時代の状況が想像できます。 手始めに17社の神社について調べ、碑文は次のものから読み取りました。 燈

竿石と基台に名前、屋号、奉納年月日が刻まれている。

手水鉢

石は水を入れる最適な素材で、寄進者の名とその年代が刻まれている。

規模が大きく最も築造費が掛かり、多くは「講」等の共同体で建てている。

柱や笠木の底面(舟木)に建立年月日と寄進者の名前がある。 神社以外では 地神・水神・牛神など

道路や神社に建て土地や水の自然にお祈りをした。

記念碑

周辺地域の大きな出来事を記録した。

題目石

日蓮宗の題目「南無妙法蓮華経」を刻んだもので当地には多く見られる。

無縫塔

僧の墓で卵塔ともいう。

この度の調査区域の中で調査未了部分があるので、追加調査を継続して行き、内容のある説明に役立てた いと思います。 平成22年11月3日

再版にあたって 平成22年11月に「吉備・陵南にある石碑を訪ねて=路傍の文化財」第1編、第2編を「戸川・板倉時代研 究会」の協力を得て発刊してから4年。未熟な我々なので調査不十分な点も多々あり、そのうえ3〜4年の短い 期間の内にも消滅・移転などがあり、改定の必要性が見られるようになりました。 この度「吉備まちづくり研究会」の協力を得、その後地域の皆様の協力を得て、会員が収集した情報を補填 した「改訂版」を発行することといたしました。 浅学未熟な我々、内容も不十分なものではありますが、皆様のお目にかけることにより、御指摘、御指導を頂 き、より内容の濃いものとできることを願い、刊行を決意しました。 今後の御叱咤、御指導を心よりお願いいたします。 平成27乙未年10月

再々版にあたって 初版から暦がひと巡りしました。その間、開発で撤去されたものもあれば、地元民の努力で移設・再建された ものも多数あり、我々の関わったわずかな間の変化を見るにつけ、400年以上前から残り続けた石碑群にいっそ うの感慨を禁じ得ません。この度「吉備まちづくり研究会」のご協力を得て、追加調査、修正等を反映させ、より 内容を充実させた改訂版を発行することができました。関係各位に感謝申し上げます。 令和4壬寅年10月

庭瀬かいわい案内人(50音順) 会長 香田 清治 井上 靖子 上森 剛 太田 英子 曽我 博之 中島 悦夫 中村せつ子

俣野 村岡 脇本 和気 荒木 高橋

堅 昭雄 三哢 美紗子 功(故人) 浩郎(故人)

(編集)坪井

–3–

慈朗 路傍の文化財


はじめに 案内地図 年表(石碑と時代背景)

3 6 12

【第一編】神社の石碑 名称 庭瀬八幡神社・吉備護国神社 須佐之男神社 撫川八幡神社 天満天神社 御﨑宮 天神社 御崎神社 三十番神社 若宮八幡宮 荒神社 住吉神社 清山神社 弁財天 三神社 太神宮 八幡神社(大坊) 妙見社 薗﨑神社(延友) 稲荷神社(撫川) 新宮社跡 八幡神社(大内田) 花尻八幡宮 白石八幡宮 瀬戸稲荷神社 天満宮(大内田)

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

概要 旧庭瀬郷の総鎮守 撫川、中撫川の日蓮宗信徒以外の神社 撫川、中撫川の日蓮宗信徒の神社 菅原道真をお祀りしている社 大吉備津彦命のお墓守護の社 菅原道真をお祀りしている社 吉備津神社の末社として創建 日蓮宗が選んだ30柱の神々の社 応神天皇、須佐之男命をお祀りしている社 作物、火の神などをお祀りしている社 海の神・住吉大社の分社 庭瀬藩主板倉家の藩祖をお祀りしている社 弁財天、八幡宮、稲荷宮をお祀りしている社 稲荷宮、八幡宮、光明竜王をお祀りしている社 伊勢神宮の天照大神の分霊をお祀りしている社 庭瀬の日蓮宗信徒の神社 北極星を神とし、災難の除去、延命を祈願 大吉備津彦命の重臣をお祀りしている社 撫川地域の人々が商売繁盛を願い祀った神 吉備津宮の摂社として、吉備武彦命を祀った社 誉田別命他二柱の神をお祀りしている社 応神天皇を祭神とし、建武年間に勧請した社 石清水八幡宮を勧請した社 航行の安全を祈願した社 十二ヶ郷用水の霊験あらたかな社

–4–

所在地 川入1165 中撫川502 中撫川551 西花尻279 西花尻129近 東花尻525 川入小西 川入146 庭瀬 中田地内 中撫川 中島地内 中撫川 狭川 庭瀬828 庭瀬827 撫川423 庭瀬707 庭瀬866 平野375 延友 前場地内 撫川166近隣 川入1288近隣 大内田557 花尻57 白石376 邸内776 大内田

16 47 57 67 70 73 78 81 85 88 91 96 103 106 113 118 122 125 129 131 135 141 143 146 148


【第二編】題目石等の石碑 名称 題目石 牛神 記念碑 題目石 釣鐘 題目石 題目石 題目石 地水両神 地神 念仏石 念仏石・道標 念仏石 牛神・地神・常夜灯 地水神 題目石 地神・牛神 題目石 地水両神 題目石・無縫塔 三玉宮 題目石 題目石 題目石・地神・水神 地神・牛馬神 出雲様(撤去) 題目石 水神 牛神・火除神 地神 観音堂 題目石・無縫塔 題目石 題目石・水神 題目石・石燈籠 地神・牛馬神 題目石・地水両神 題目石 題目石 常夜灯ほか 日車大明神 地神・燈籠・手水鉢 常夜灯 常夜灯 常夜灯 常夜灯 常夜灯 常夜灯(撤去) 修堤碑・忠魂碑 題目石・道標 荒神様と千蔵坊阯 常夜灯 大蔵坊無量寺阯

題目石について

151

所在地 東花尻 おそっさま 東花尻 うしがみさま 東花尻 東花尻 正法寺 西花尻本村の「地神さま」 西花尻奥谷の「ほうかいさま」 月心坊跡(西花尻下の池西の山中) 八幡(新幹線側道北側) 川入(東山参道脇) 川入(新宮参道) 川入(観音堂・前堂) 川入(大賀博士の墓地内) 納所 川入(三十番神社門前脇) 川入公民館隣 中撫川田中邸隣 福井公民館南 庭瀬(板東邸前) 中田公民館 中撫川(腰折様) 中撫川(三十番神) 中島公会堂・荒神社の隣 大橋妙見宮・地蔵堂 高田(青井氏宅前) 下東 下東 吉備小学校南 栄町公民館脇 庭瀬 平野(観音堂町内) 平野(妙見社東法界様) 庭瀬駅西踏切南 庭瀬駅東踏切南西 庭瀬駅東踏切南 庭瀬駅東踏切東 延友公民館西側 大内田ふれあい広場内 関戸 関戸 西向 定杭公民館 吉備公民館(旧西向) 大橋(大橋中之町公民館) 高田橋東堤 庭瀬(信城寺境内) 庭瀬港跡 平野(観音堂町内) 吉備西幼稚園内 花尻(半鐘場跡) 大内田 大内田 大内田

153 155 157 158 160 161 163 167 168 169 170 171 175 176 177 178 179 180 181 182 184 188 190 191 193 194 195 196 197 200 201 203 205 206 207 209 211 212 213 214 216 222 224 230 233 235 237 239 240 243 246 248 249

名称 向庵大師堂跡 地神 坂崎出羽守供養塔 西向道標 定杭道標 本町道標 大橋道標 狭川道標 下東道標 大内田道標 毘沙門天・道標 延友国境石 役行者碑 大内田牛神 中正院題目石

–5–

所在地 大内田 福富公民館北 白石 西向 定杭 庭瀬本町遊園地内 大橋中之町公民館前 住吉町内 下東城之内公民館前 大内田 平野 久米(境目川沿い) 大内田天満宮近傍 大内田天満宮近傍 栄町

250 252 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 265 265 266

路傍の文化財


案内地図

川入・納所地区

東山

地神 !0

!2 念仏石 道標

牛神・地神・常夜灯 !4

@0新宮社跡

念仏石 !1

題目石 i

念仏石 !3

花尻地区

西花尻

花尻みどり町

u 御崎神社 納所

題目石 u

川入

@2 花尻八幡宮

r 天満天神社 t釣鐘

題目石 y

花尻

天神社 y

t御﨑宮

題目石 q

題目石r

w 牛神

e 記念碑

%0 題目石 道標 花尻あかね町

地水両神 o

撫川・庭瀬地区

三十番神社 i

地神・牛神

!7

白石

若宮八幡宮 o

中撫川

題目石・無縫塔 @0

!9地水両神 庭瀬

三玉宮 @1

@2 題目石 荒神社!0

@3 題目石

$3 常夜灯

題目石 ^8 水神 @8 常夜灯 $6 道標 %9 $7常夜灯 瀬戸稲荷神社@4

住吉神社 !1 道標^1 !9 稲荷神社 太神宮 !5 $4 常夜灯 八幡神社 !6 道標 ^0 出雲様 @6 ^2道標 道標 %7 !3 弁財天 題目石 @7 西向 !4 三神社 修堤碑 $9 !2 清山神社 日車大明神 $1 題目石・地神・水神 @4

常夜灯 $5

高田

平野 @9 牛神・火除神 #0 地神・水神 $8 常夜灯 #2 題目石・無縫塔 #5題目石・石燈籠 #1 観音堂 #6 地神・牛馬神 !7 妙見社 駅 #4 題石・水神 庭瀬 #3 題目石

国境石 ^5

@5 地神・牛馬神

道標 %8

定杭

東花尻

e 撫川八幡神社

題目石 地神 %5

q

w 須佐之男神社 !8

延友

$2地神 毘沙門天・道標

^4

#7

題目石・地水両神

関戸 道標 ^3

題目石 #9 常夜灯他 $0

#8 題目石

大内田

大内田地区 –6–

薗﨑神社 !8

平野・延友地区

%3大蔵坊無量寺跡 %2 大内田常夜灯 ^7 地神 %1 荒神様と千蔵坊趾 @1八幡神社 %4向庵大師堂 天満宮 @5 ^6 役行者碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

白石東新町

白石西新町

庭瀬八幡神社 吉備護国神社

!5 地水神 !6 題目石

花尻ききょう町

白石八幡宮 @3

%6 供養塔


詳細案内地図

花尻地区

題目石

i

帝釈天

西花尻

花尻八幡宮 @2

西花尻 ちびっ子広場

花尻

r 天満天神社

題目石 u

天神社 y

東花尻

川入・納所地区へ

t 御﨑宮

帝釈天正法寺

t 釣鐘

題目石

%0 題目石

q

道標

妙伝寺 立成寺

題目石 y

題目石 r

西花尻公民館

w 牛神 e記念碑

東花尻公民館

花尻

@2花尻八幡宮

花尻ききょう町公園

%0

題目石 道標

花尻みどり町

花尻ききょう町 花尻あかね町公園 白石東新町公園

花尻あかね町 白石東新町

白石西新町

白石

白石八幡宮 @3

供養塔%6

–7–

路傍の文化財


詳細案内地図

川入・納所地区

東山 地神 !0 念仏石 !1

!2 念仏石 道標

東山公民館

真如院

@0 新宮社跡

納所公民館

牛神・地神・常夜灯 !4

!3 念仏石 小西村公民館

花尻地区へ

u 御崎神社 納所 川入

o

地水両神

庭瀬八幡神社 吉備護国神社 三十番神社 i

!5 地水神 !6 題目石 犬養木堂記念館

中撫川

川入公民館

庭瀬

福井公民館

地神・牛神 !7

w 須佐之男神社 !8

e 撫川八幡神社

題目石

撫川・庭瀬地区へ

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

–8–

q


詳細案内地図

撫川・庭瀬地区 川入・納所地区へ

三十番神社 i

!5 地水神 !6 題目石

犬養木堂記念館

川入公民館

庭瀬

福井公民館

w 須佐之男神社

地神・牛神 !7

文 中国学園大学

題目石 !8

e 撫川八幡神社

%5 地神

若宮八幡宮 o

中撫川

福富公民館

文 吉備中学校

題目石・無縫塔@0

!9 地水両神

中田公民館

三玉宮 @1 庭瀬 吉備公民館

三十番神

常夜灯

@3 題目石

荒神社 !0

$6

$3 常夜灯 文 吉備小学校

信城寺

瀬戸稲荷神社 @4 住吉神社 !1 題目石・地神・水神 @4 大橋中之町 公民館

西向 西向自治会館

住吉公会堂

$4常夜灯

道標 %7

観音院

水神 @8

%9 道標

$7 常夜灯

松林寺

本町公民館

太神宮 !5

!9 稲荷神社

不変院

八幡神社 !6

出雲様 @6 題目石 @7

!4 三神社

!3 弁財天 !2 清山神社

修堤碑 $9

$1 日車大明神 高田公民館

常夜灯 $5 道標 %8

燈籠・手水鉢

高田

@5 地神・牛馬神

定杭公民館

定杭

$2 地神

大内田地区へ

–9–

路傍の文化財

平野地区へ

@2 題目石


詳細案内地図

大内田地区 撫川・庭瀬地区へ

定杭 撫川

関戸 題目石 #8 題目石 #9 常夜灯他 $0

地神

大蔵坊無量寺趾

地神 ^9

%3

八幡神社 @1 天満宮 @5

^8役行者碑

大内田ちびっこ広場

大内田

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 10 –

%2 大内田常夜灯

%1 荒神様と千蔵坊趾 %4 向庵大師堂


詳細案内地図

平野・延友地区 花尻地区へ 陵南幼稚園 陵南コミュニティハウス

東花尻

吉備中学校

庭瀬 平野

@9 牛神・火除神

栄町公民館

#0 地神・水神 $8 常夜灯 不変院

!6八幡神社

#2

!7 妙見社 撫川・庭瀬地区へ

長野公民館

庭瀬

国境石

題目石・無縫塔

#1 観音堂

^5

#5 題目石・石燈籠 #4題目石・水神

#6 地神・牛馬神

題目石 #3 国境石 ^5

平野

庭瀬

延友 国境石

延友公民館

撫川

^5

#7 題目石・地水両神

^4 毘沙門天・道標 国境石 ^5

関戸 題目石 #9 常夜灯他 $0

#8 題目石 薗﨑神社 !8

– 11 –

路傍の文化財


石碑と時代背景

災害状況(吉備町誌 庭瀬藩

年号

三村元親

三村家親

永禄

元亀 井上有景

天正

1602

戸川藩 初代

2

1559

9

1566

3

1575

10

1582

19 元

1591 1592

5

1597 1600

14

1637

碑の種類

碑文のある場所等々

庭瀬の出来事

成羽城主三村家親庭瀬城築城

秀吉備中高松城水攻め 南無

文禄

西暦

p118〜)

東花尻(おそっさま)題目石

文禄の役(秀吉の朝鮮出兵) 慶長の役 関ヶ原の合戦

慶長

達安

元和

1627 2代

正安

寛永

天草島原の乱

板倉重昌討死

正保 慶安 承応 明暦 万治 ⇒

寛文

1677

4

1687

5

1692

薗﨑神社

1700

本町常夜灯

庭瀬八幡神社

水神

天和 貞享

5

南無

⇒ ⇒

代官所

念仏碑(川入吉備津参道)

牛神

1684 久世重之 代官所

延宝

地神

1679

安風

松平信通

元禄

1699

板倉藩

宝永

牛神(牛馬神を含む) 記念碑

手水鉢 1712

太神宮

5

1715

撫川八幡神社

3

1718

4

1719

5

1720

6

1721

12

1729

17

1732

三神社

20

1735

弁財天

延享

3

1746

大神宮

寛延

3

まさのぶ

昌信

須佐之男神社 おそっさま 東花尻うしがみさま

川入公民館隣

3代 かつおき

勝興

元文 寛保

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

旱害

「・夏ひでり、凡そ六十日ばかり照り続きたるゆえ、五穀実り悪しく

備前備中大雨洪水「・・・平野村、 延友村「床の上三尺四尺(水の)入らざるはなし」・・・」 南無

享保

南無

2

正徳

2代

1730

水神

石燈籠

しげたか

1713

地神(地水神を含む)

鳥居

初代

重高

題目石 無縫塔(卵塔)

安宣 ⇒

1674 4代

南無

1669 3代

凡例

弁財天

– 12 –


石碑と時代背景 庭瀬藩

年号

宝暦

安永

天明

かつやす

勝喜

1769

瀬戸稲荷神社

8

1771

弁財天

8

1777

天神社

3

1783

庭瀬八幡神社の狛犬

6 7 8

1786 1787 1788

4 5 6

1792 1793 1794

大橋妙見宮、 延友公民館 清山神社×3 天満天神社

5 6 7 8

1808 1809 1810 1811

10 11 12

1813 1814 1815

2 3

1819 1820

5 6 7

1822 1823 1824

10

1827

13

1830

2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14

1831 1832 1833 1834 1835 1836 1837 1838 1839 1840 1841 1842 1843

弘化

2 3

1845 1846

嘉永

3 4 5 6 7

1850 1851 1852 1853 1854

2 3 4

1855 1856 1857

7

1860

2

1865

4

1868

4

1871

8 9 10

1875 1876 1877

12

0879

(翌7年にかけて)6〜7月大干ばつにみまわれる。 6〜7月大干ばつ 大水 大洪水

清山神社の狛犬

川入御崎神社 西花尻本村 妙見宮東 中田公民館北側 川入公民館東、 西踏切南 撫川城北側太鼓橋の架橋 妙見宮の鳥居

南無

南無

文化

天明の大飢饉 3〜8年にかけて 「・・・気候不順夏作秋作皆無庶民困窮す・・・」

東花尻おそっさま 東踏切南 若宮八幡宮

三神社、 信城寺

南無

南無

荒神社脇

備前備中大雨洪水 備前備中大雨洪水

岡山大水

南無

南無

妙見宮、薗崎神社、大橋妙見宮、中田公民館 妙見社参道、 手水鉢(御崎神社) 荒神社脇、 牛神(中撫川514)

牛神

南無

南無

下東 燈籠(三十番神社)、 常夜灯(高田の堤防上) 住吉神社造営 新宮社 鳥居(荒神社)、 石燈籠(納所76、 栄町)

南無 地神

南無

御崎神社

5〜7月大干害 備中大風雨

天保の大飢饉(4年は冷害、 6年気候不順、 大火) 天保の大飢饉(七年「五穀登らず八月に至りて飢饉ますます甚だしく・・)

日車大明神 妙見社 観音堂通り 住吉神社

天保の大飢饉(八年「窮迫の度合いますます加わり・・・)

千手寺参道 題目石(福井公民館、 中田公民館)、 鳥居(大神宮) 地神

地神

地神

南無

手水鉢(新宮社)題目石(三十番神社脇) 6〜9月大洪水、大風雨、大水

地神

地神

地神 水神

南無

須佐之男神社の狛犬 荒神社

7月 大風 地神

安政 万延

文久 元治

慶応 1869 版籍奉還

三玉宮 中田公民館 大橋公民館

牛神

南無

明治

南無

勝弘

6

1805

天保

11代

庭瀬八幡神社

2

享和

勝貞

1858

1766

庭瀬駅西踏切南側 庭瀬駅東踏切南 三十番神社

8代 かつさだ

勝全

3

1798 1799 1801 1804

1832

10代

西花尻本村

1796

文政

1848 9代 勝成

1763

南無

勝資

13

大神宮

10 11 元 4

1806 かつすけ

1761

8

勝もと

7代

10

若宮八幡宮

南無

6代

1803

1756

庭瀬の出来事

南無

寛政

6

南無

5代

1751

碑文のある場所等々 庭瀬八幡神社

南無

1784 1785 4代

碑の種類

南無

明和

西暦

清山神社 新宮社参道の石燈籠(天金神社)

– 13 –

路傍の文化財


石碑と時代背景 庭瀬藩

年号

19

1886

26

1893

29

1896

37 38

1904 1905

41

1908

43 44 45

1910 1911 1912

8

1919

10 11 12

1921 1922 1923

南無

4 5

1929 1930

9

1933

16

1941

20

1945

碑文のある場所等々

庭瀬の出来事

西花尻・奥谷 福井公民館 修堤碑、 常夜灯(足守川堤防修理記念)

川入公民館 ( 荒神社

南無

南無

南無

南無

天神社本堂改築寄付者 記

御﨑宮(西花尻)改築記念碑 岡山護国神社の従軍碑(犬養毅)

大正

碑の種類

1880 1882 記

明治

西暦 13 15

天満天神社の風致保存碑

南無

忠魂碑(吉備西幼稚園) 三十番神社の石燈籠、 薗崎神社の狛犬

頌徳碑(吉備護国神社) 太平洋戦争敗戦

昭和

58

1983

8

1996

忠魂碑(吉備護国神社)

1956

31

薗﨑神社三百年記念碑

吉備地区戦没者追悼記念碑(岡山護国神社)

平成

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 14 –


第一編

神社の石碑

【第一編】神社の石碑

路傍の文化財

– 15 –


1 庭瀬八幡神社・吉備護国神社

第一編

庭瀬郷の総鎮守(北区川入1165)

神社の石碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 16 –


庭瀬八幡神社

第一編

1〜0 常夜灯ほか Å〜 Ø 玉垣ほか

昭和40年代まであった土塀

恵比寿神社

9 石燈籠

本殿

稲荷神社 子安神社

道 通 宮

Ô ˝

幣殿

倉庫

拝殿

社務所

8 石燈籠

(3代藩主板倉勝興の寄進)

±0m

 土塀修繕寄付者名

5 石燈籠

0神鐘(鐘楼) (横転)

吉備護国神社→

X

6 石燈籠 7 石燈籠

歌碑(不読) 句碑(土筆坊) 歌碑・句碑は、X の位置の土中に 埋め込まれた。深さGL-100cm

鳥居

Ò 山林寄付者名

神門

4 常夜燈 (板倉勝志家臣の寄進)

 歌碑・句碑

Î 玉垣

ほんだわけのみこと

祭神 誉田別命(第15代応神天皇)

玉垣 ´

おきながたらしめのひめみこと

−5m

息長帯姫命(神功皇后)

˜ 随神門

たまよりひめのみこと

玉依姫命 Ç 玉垣

玉垣 Ï

九郎稲荷神

(転倒中)

3 石燈籠 玉垣 Å

1 石燈籠 −9.9m

定書

ı 玉垣

2 寄進者の碑 Ø 狛犬

手水舎 戸川家寄進の手水鉢 延宝五年 (1674)

朱の鳥居

吉備護国神社参道

鳥居

日露戦役従軍者 注連柱

−10m

– 17 –

路傍の文化財

神社の石碑

Ó ˆ

吉 備 護 国神社

本殿基壇の銘板

1. 配置図


庭瀬八幡神社

2. 神社史

第一編 神社の石碑

庭瀬八幡神社の神社史 2008年4月の例会で配布された資料による由緒書きは次の通りです。 (戦前、 戦後で記述の違いを比較) 資料1(太平洋戦争以前に編纂)出展不詳

八幡神社

村社

鎮座地

川入八幡西1165番地

祭神

応神天皇

由緒

当社は貞観二年庚辰宇佐八幡宮を勧請して創建し、 その後備中守藤原宗弘、 藤原良之に命じて祖神天児屋根命を合祀せしめ

神功皇后

かのえたつ

玉依姫命

同年良之をし神主に任ず。 天慶五年(942)壬寅三月十五日伊勢代神をも合祀せる由伝う。 ほんだわけのみこと

あめのこやねのみこと

明治十三年四月前祀掌中尾喜代丸の上書に祭神品陀和気命天照大神天児屋根命とある。 其の後の造営の沿革を記せるに

(本文の年代のみ抜粋略記)

改修(上棟) 貞観2年 庚辰 延長2年 甲申 永延2年 寛徳2年 長治2年

この部分追記

8月14日 8月14日

正遷宮 創建 同左

西暦 前回工事からの年数 860 924 64

戌子 乙酉 乙酉

7月27日 5月12日 3月16日

8月6日 同左 同左

987 1045 1105

63 58 60

承安4年 文永2年 応永11年 文明6年 天文23年

甲牛 乙丑 甲申 甲牛 甲寅

8月15日 8月14日 4月10日 2月10日 2月13日

8月19日 同左 4月15日 2月13日 2月15日

1174 1265 1404 1474 1554

69 91 139 70 80

寛永11年 宝暦11年

甲戌 辛巳

6月10日 11月26日

6月14日 11月28日

1634 1761

80 127

社職沿革を記せる件に 貞観二年藤原良令奉職以来累代奉仕せしが良令之二十一代の孫良三病死の折から (承応年間)庭瀬藩主戸川氏日蓮宗帰依に よりて庭瀬村不変院を以って当社の別当職として良三の三男平太を宮守とす。 その後維新の改正によりて明治三年四月平太夫の孫中 野清麿を当社の祀掌に補せらる。 庭瀬藩主戸川家板倉家において、 累代崇敬せし神社なり。 永宝五年正月二品良尚親王染筆社号「八幡宮」の額(縦2尺 横1尺3寸5分 装いに八幡宮の文字)一面社蔵せり。 境内坪数 727坪 氏子数 453戸

資料2(太平洋戦争以後に編纂)出展不詳

八幡神社 主祭神 例祭 主要建物 摂末社 氏子数 崇敬者 由緒改革

旧村社 岡山市川入1165

応神天皇 神功皇后 玉依姫命 10月17日 境内地 989.7坪 本殿 幣殿 釣殿 拝殿 斎殿 絵馬殿 稲荷神社 恵比寿神社 祖霊社 道通宮 若宮八幡神社 300人 300人 創建は仁徳天皇の御代である。 備中誌及び吉備津神社旧誌によると、 仁徳天皇の御宇勅命によって、 吉備津神社の末社として創建せら れた。 和気清麻呂公が宇佐に下向の際、 山陽道で道鏡の一味が追跡してきたのを、 神吏の猪数十頭が追っ払ったという故事によって、 世人は 厄除守護の神として崇敬した。 古代には神社前は海であったので、 貿易船等が神社前を航行するとき、 座礁したり、 難破したときに、 神前に 祈願して難を除いたと伝えらている。 中古から 「厄徐八幡」 と尊称し、 遠近からの参詣者が多い。 旧庭瀬藩主板倉氏・戸川氏から祭祀費の寄進を受けていた。 享保年中社殿改築のとき板倉氏が寄進した。 昭和11年から社殿の改築修理を起こし、 同14年に完成した。 明治39年神饌幣帛料供進神社に指定された。

若宮八幡神社、 祖霊社とも移転してこの境内に無い。 記録の訂正前に発行されたのだろう。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 18 –


庭瀬八幡神社

3. 戸川安風奉納の手水鉢 第一編 神社の石碑

手水舎

手水舎

手洗鉢

延寶五年 丁巳歳

国富源右衛門

戸川新右衛門

戸川重左衛門

施 主

角南 平右衛門

岡 五郎左衛門

岡 辰之助

八月吉日

580

戸川安風奉納の手水鉢

1670

寛文九年(1669) の侍帳から 役回りと石高 名前 戸川 又左衛門

役回り

石高

家老

950石

戸川 源兵衛

家老

500石+120石預かり

国富 源右衛門

物頭

550石

戸川 新右衛門

物頭

300石

家老

5名

物頭

2名

戸川 重左衛門

江戸家老

300石

角南 平兵衛

弓組

300石

弓組

五郎左衛門

馬廻り

250石

馬廻り

辰之助

馬廻り

250石

1名 15名

戸川家四代藩主安風は、 延宝7年(1679) に江戸屋敷で死去、 享年9歳。 これにより庭瀬藩は断絶となった。 おなじ延宝5 (1677)年正月に良尚親王の筆になる社号「八幡宮」の額も奉納され社寶となっている。 鳥居の額束の文字がその書体である。

– 19 –

路傍の文化財


4. 常夜灯

庭瀬八幡神社

第一編

常夜灯

神社の石碑

天明三年(庭瀬家中 寄進) 右側面

正面

天明三年十一月十五日

奉寄進

庭瀬家中

2180

左側面

2560

①鳥居脇の石燈籠

南側

天明三年(1783)三代勝興の終わりに奉納されたもの。 秋田秀穂 ※秋田秀穂

寄進の碑 株で財をなし、 戦後は海産物問屋を経営した庭瀬出身の篤信家。

昭和十三年の本殿造営工事には多額の資金を個人で寄進し (予算2万3千円の内1万円を寄附した)、 また 昭和三十四年、 太平洋戦争で供出された神鐘の改鋳では市内では最高額の寄進をするなど郷土に尽くした。 現在の鐘は平成2年に鋳込まれた戦後2代目の物である。

250

昭和七年三月

昭和七年三月

1100

寄附

寄附

玉島町上成

一金弐百円 秋田秀穂

玉島町上成

260

一金弐百円 秋田秀穂

② 寄進者の碑

③ 昭和の燈籠(転倒中) 西面

奉燈

奉燈

– 20 –

東面

昭和三年八月

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

昭和三年八月

當所 高橋始之郎

寄進者

當所 高橋始之郎

南側

南面

高橋始之郎はいかなる人かは分からない。


4. 常夜灯

庭瀬八幡神社

第一編

④常夜燈(藩内有力者の寄進) 石段(上段)両脇 南面

畑壱畝 弐 拾

五歩

高壱斗 八 升

常夜燈

明和三年丙戊

右願主

願主 氏子中

秋九月吉日建之

野崎太平次 近藤義兵次

永井安之助 佐藤孫次郎 吉田孫兵衛

難波源次郎

難波長兵衛

2,470

四合

以上

発起世 話 人

永井彦 次 郎

西面

台座(北面)

明和三年丙戊=1766年

東面

奉寄進

永代為油料

河入村内宮下

高弐石五斗

田壱反六畝

六升

この基台に左の銘がある。

平野村内新道

近藤此右衛門 野崎 傳兵衛 住野 平蔵 林 助七 平松 弥八郎

新兵衛 藤三郎 紋兵衛

田地世話人 佐藤 助衛門 高畠 多 七

井上 安井 武南 西側の常夜燈

神社の石碑

永代為油料

河入村内宮下

田壱反六畝

高弐石五斗

六升

平野村内新道

西面

奉寄進

南面

東側の常夜燈

神門脇の常夜灯 この燈籠は明和3年(1766)四代藩主板倉勝志 の時、 氏子の有力者が寄進したもの。 常夜燈の寄進は石燈籠とその光源用の菜種油を 採集するための田畑を同時に寄進している。 田地は川入村宮下の1反6畝(≒1600㎡)、 石高2 石5斗6升と畑地は平野村新道の一畝25歩(≒ 181㎡)、 石高1斗8升4合を併せて寄進した。 – 21 –

路傍の文化財


庭瀬八幡神社

4. 常夜灯

第一編 神社の石碑

⑤⑥⑦ 拝殿前広場の石燈籠

拝殿前東側

⑤ 北面

西面

南面

⑥ 北面

南面

惣 左エ門 市良左エ門

惣 左 エ 門

市良左エ門

東平野村中

奉燈 東平野村中

奉燈

世話人 多兵衛

世 話 人

多 兵 衛

享保二一丙辰暦

享保二一丙辰暦

當社日参講中

奉寄附 當社日参講中

奉寄附

正月吉祥日

正月吉祥日

年代:享保二十一年丙辰暦(1736)三代庭瀬藩主 板倉勝興の時代 寄進者:當社 日参講中 特徴:竿の中ほどが破断し補修してある。

西面

年代:不明(記載無し)享保年間のものと同様に見える。 寄進者:東平野村中 特徴:石は豊島石(角礫質凝灰岩) 土中に埋もれているため、 文字のある竿の表面は損傷していない。 (一対の両方とも転倒)天保年間より前の時代のものと思われる。

氏子が講で奉納した燈籠。

氏子中

十月吉日

風呂屋口 氏子中

風呂屋口

奉寄附

奉寄附

享保五庚子歳

享保五庚子歳 十月吉日

⑤⑦の燈籠は風化し、 基礎も傾き転倒寸前である。

年代:享保五庚子歳(1720)二代庭瀬藩主 板倉昌信の時代 寄進者:風呂屋口氏子中 特徴:素材石は豊島石(角礫質凝灰岩) 加工は容易だが風化し易い。 破損部補修あり。 北側に少し傾いている。 (要補修)

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 22 –

⑦の本殿右側設置の燈籠は転倒し、 部材は分散している。 竿は鐘楼前の踏石になっている。 石材が豊島石である理由は何か? (加工性のよさだけか?)

拝殿前西側


庭瀬八幡神社

4. 常夜灯 第一編 神社の石碑

⑧ 拝殿前

板倉勝興奉納の石燈籠

拝殿西側

拝殿東側 正面

右側面

従五位下

源勝興

寶暦元年未歳

十二月吉日

石灯籠 板倉摂津守

2,560

左側面

宝暦元年=1751

1,100

西側

1,100 平面図

庭瀬板倉家三代藩主勝興が奉納したもの。 勝興が藩主になって20年目、 この地に初めて赴いた時の物である。 五代藩主勝喜が創建した清山神社の石燈籠に比べ優雅さはないが重厚で力強い。 – 23 –

路傍の文化財


庭瀬八幡神社

4. 常夜灯

第一編 神社の石碑

本殿西側

本殿東側

⑨ 本殿両脇の石燈籠

北面

西面

年代:不明 寄進者:□ 六左衛門 特徴:やや古風な形態である。 天保の改修以前に作られた物ではないか。 本殿両脇に設置

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 24 –

南面


第一編

南無妙法蓮華経

神鐘の変遷

●初代神鐘 創建から明治10年代 日蓮宗不変院が八幡神社の別当職を務めていたので題目が鋳込んでいた。 神仏習合 鋳造年月日不明

再鋳奉懸奉賛会

昭和三四己亥年十月秋大祭吉辰日

八幡神社平和の鐘 冶工三和梵鐘鋳造所

鈴木松造

鈴木鉄野

氏子崇敬者除災諸願成就

八幡神社平和の鐘

五穀豊穣商売繁盛

●2代目 昭和34年から平成2年まで 戦後の再鋳造

金壱萬円

吉備町 平松禎三郎

倉敷市 佐野嘉内

東京都 秋田貞夫

在米

脇本猪三男

③ 平和の鐘 平成二年五月再鋳奉懸 冶工京都市岩澤の梵鐘株式会社

② 厄除八幡神社

① 氏子崇敬者除災諸願成就

④ 五穀豊穣 商売繁盛

氏子崇敬者除災諸願成就

路傍の文化財

– 25 –

南無妙法蓮華経

寄進者

金参萬五千円 在米 同

渡辺清次

金壱萬参千円 岡山市 秋田秀穂

国富こみか

撞木

神社の石碑

鐘 神

5. 鐘楼 庭瀬八幡神社

神鐘(鐘楼)

●初代修正 明治10年代から昭和18年頃 明治2 年の明治政府令により題目を削除した。 神仏分離 昭和18年頃 太平洋戦争の戦時供出により砲弾となって消えた。

※寄附金の多くは米国移民の人々によった。

●3代目 平成2年から現在 寄進者は明記されていない


玉垣ほか

庭瀬八幡神社

第一編 神社の石碑

手水舎ラインの玉垣

石段(下段)

A B

F C

本殿基壇銘板

G H

石段(下段)

I

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

J

D E

土塀基礎の銘

– 26 –

K L


6. 玉垣

庭瀬八幡神社

第一編

A 手水舎ラインの玉垣(南面西側)

神社の石碑

昭和年間改修

天保二年築造

南面西側 奉寄進

奉寄進

忠治郎 藤三郎

多五郎 文 八 喜治郎

善兵衛 喜 助

辛右エ門 音兵衛

岩治郎 松 蔵

新 吉 文太郎

平之浜

中松屋 山藤屋

□□□平八郎

才五治 忠五郎 藤 蔵

福智庄次郎

階段{33段(下段) +30段(上段)}

組頭 光屋

今屋

吉屋

2,360

6,170

奉寄進

6,300

奉寄進

奉寄進 8

9

忠治郎 藤三郎

辛右エ門 音兵衛

3

4

5

組頭 光屋

岩治郎 松 蔵

7

多五郎 文 八 喜治郎

新 吉 文太郎

6

善兵衛 喜 助

2

平之浜

中松屋 山藤屋

才五治 忠五郎 藤 蔵

□□□平八郎

今屋

吉屋

1

10

11

随神門

香川嘉保 國富一太

髙畠修二 沖 増 次 岩田宗平

有松霊峰 牧千太郎

氏子總代□□□ 髙橋忠三郎 御松寅太郎

顧問

– 27 –

佐野祷吾

No. 2〜10の柱は創建時のものではなく、 後年取り替えた。 A B の子柱の彫りは他に比べて浅く線が細い。 創建時のものとは異なる。

社掌

玉垣の種類と大きさ 親柱 270mm角×1,500mm高さ 中柱 180mm角× 700mm高さ 子柱 130mm角× 700mm高さ 使用材:万成産御影石

N

路傍の文化財


6. 玉垣 庭瀬八幡神社

第一編

B 手水舎ラインの玉垣(南面東側) 神社の石碑

濱田屋 曾 平 濱田屋 竹三郎 中野屋 豊

屋 仁兵衛

中野屋 半 六 中野屋 富五郎 都 今保屋 彦兵衛 松 屋 笹 平 木掘屋 熊 蔵

屋 助左エ門

川野屋 久右エ門 岡

屋 荘

宝満丸 嘉五郎 中

高松屋 信三郎 松 屋 治 八 森 屋 理兵衛 今 屋 幸兵衛 平野屋 松三郎 平松屋 増三郎 早島屋 平八 中田屋 糸 庭瀬屋 助八郎 岩 屋 久 吉 永野屋 作四郎 丸 屋 文五郎

理兵衛

蔵 中

仙 吉 又兵衛 氏子中

加名屋 永

花尻屋 田 町 同

長右エ門

今治屋

藤兵衛 代五郎

蔵 吉

金 幸

福智屋庄次郎

今保屋 中村屋

奉寄進

天保二年辛卯 八月

福智屋

重兵衛

庄次郎

庭瀬町

世話人 福地屋

治三郎

奉寄進

濱田屋

今保屋

本嶋屋

卯 捨

七 吉

七良兵衛

加津女 熊之助

備前屋 柾 屋

仙右エ門

周匠屋 中

長五郎

八 八 吉

新三郎

新 治 理

高畑多七郎

幸次郎

宇兵衛

辰之歳男 酉之歳女 申之歳男

岩見屋

貞四郎

上仁屋

福知屋

福智屋

岡田屋

– 28 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

N

随神門

東面 10,972

柱No. 112〜114 「きびのさと」に記録が無いが、 現在ある銘。 柱No. 138〜140 「きびのさと」にある名前。 現在は無銘。 127は無い。 (きびのさと)

奉寄進

10,960


第一編

神社の石碑

中田村

中田村

N

随神門

東平野村

平野村

只三郎

手代木 会津藩士 勝富

喜与

三男

只三郎

次男

勝任

長男

京都見廻組々頭 勝任

佐々木 源八

源四郎

坂本龍馬︑ 中岡慎太郎を殺害した 寺田屋事件の首謀者

■太田傳四郎と始 (元) 四郎

傳四郎

下枝

三女

仲枝

二女

元枝

長女

良策

八千代

元四郎

︵始︶

元枝

善根

近江屋事件:京都の醤油屋近江屋で坂本龍馬・中岡慎太郎が殺害された事件。 登美子

登茂江

二男 山一証券︵株︶社長

長男︵株︶清水組技師長

香川県高松市在住

北面上段の再建委員太田傳四郎の娘婿が始四郎である。 (基壇H-2 には元四郎とある)元四郎の妻八千代は一子宋次郎をあげたが、 母子と も先没し、 後妻として会津藩の国老であった手代木勝任(後に岡山区長 《現在の市長》 となった) の長女元枝を娶った。 その二男が収である。 収は山一証券(株) の社長となったが、 昭和13年に会社経営に失敗し 欠損を生じた。 その責任をとり服毒自殺した。 収は母方の会津気質を受け て大の負けず嫌いの性格で、 祖父勝任に似て眼光鋭く、 意志強固、 明敏 細緻な性格であったという( 。きびのさとNo.26から) 勝任の弟佐々木只三郎は、 近江屋事件の首謀者といわれている。 芳子

要蔵

亥歳男

金右衛門

申年女

同人取次

音右衛門 四郎兵衛

吉治郎

吉田多平

久四郎

利助︵または新助︶ 音吉 傳蔵

多助

久米蔵 亀吉

今村屋 多八

惣右エ門

五郎吉 馬之助

長三郎

金太夫

新六

長五郎

佐太夫 栄吉

金次郎

卯年女

卯年女

甚蔵 六治郎

長五郎 良蔵

小助

七右エ門 浅吉

庄治郎

近藤倭佐エ門

西屋 周治

常右エ門

佐右エ門

勝蔵 宗吉

弁蔵 忠吉

直治郎 岩平

宇助

久兵衛 傳治郎 久米吉

同 徳芳 忠治郎 浅右衛門

太田傳四郎

東平野村 重平

奉寄進

路傍の文化財

– 29 –

6. 玉垣 庭瀬八幡神社

C 石段東側(下段)の銘

神門


D 石段東側(上段)の銘 第一編

神門

神社の石碑

中田村

東平野村

中田村目代 金右エ門 庭瀬町組頭 貞四郎

N

随神門

奉寄進

又八 庄助

長 岩

同 内田屋 冨

蔵 蔵

村役人

大庄屋

庄屋

源治郎

長 七 元右エ門

甚 七

森川氏 又 六 定 八

竹太郎 紋 吉

岩助

田丸屋 吉左エ門 長野屋 勘治郎

糀屋

新屋

玉屋

川野屋 虎吉

百姓代

長左衛門

藤四郎 宇 吉

平治郎

木屋 為 治 喜四郎 太田屋 孫太郎

塩屋

中田村

安左エ門

郡代

伊兵衛 久 平 田丸屋 多兵衛

藩役人

代官

郡奉行

金右衛門 久兵衛 八左衛門

五人組

年寄

組頭

目代

中田村 吉井屋

同 岩津屋 甚右エ門 七兵衛 弓削屋 亀蔵

同 中村屋 清 吉 玉井屋 久四郎 同

同 坂田屋 長五郎 尾上屋 理 吉

安太郎 国 蔵 熊治郎

同 備前屋 宗 八 内田屋 金 蔵 同 同

茂太郎 岩治郎 同 松野屋 民治郎 平 蔵 金次郎

同 小野屋 金 花尻屋 仲 同 油屋

嘉兵衛

同 今津屋 宇三郎 松 屋 仁右エ門

同 飴屋

同 魚屋

勘定奉行

奉寄進

– 30 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

平野村

発起人

東面

中田村

西面

随神門

天保二年辛卯仲秋 北面

6. 玉垣 庭瀬八幡神社


神社の石碑

N

随神門

東平野村

平野村

天保二年辛卯仲秋

奉寄進

随神門

西村忠右エ門 永松屋 八右エ門

北国府屋 久米治

鍛冶屋

兼太郎

音兵衛 久米太

庄兵衛 傳蔵 藤兵衛

熊代氏 原 氏

萬屋 紺屋

風呂屋口

喜兵衛 吉 蔵

新五郎 武 助

吉兵衛

音 甚

勘治郎 辰 蔵 同

金五郎 宇吉 松兵衛

稲葉屋

見吉屋

熊治郎 代 吉

忠吉 長五郎 與助

岩田屋

千 代 豊久繁 久 理

奉寄進

弥四郎 岩太郎

観音堂 義助 藤屋 岩吉 九助

金十郎

庄 善

助 蔵

治右エ門

治 梅

萬助 山口屋 甚助 喜助

中田屋 吉五郎

弥五郎

弥 助 幸太郎 市 蔵

吉田屋 儀右エ門

吉 吉

長野

音 梅

音五郎

助 蔵

新 屋 喜四郎 今村屋 八太夫

路傍の文化財

– 31 –

第一編

中田村

中田村

石段西側(上段) の銘

E

6. 玉垣 庭瀬八幡神社

神門

北面


6. 玉垣 庭瀬八幡神社

第一編

神社の石碑

中田村

中田村

東平野村

平野村

N

随神門

奉寄進

新左エ門

平野屋 三治郎 萬 蔵

官 治 助三郎

三河屋 松三郎 文 蔵

久治郎

野崎熊太郎 平野村 周左エ門

仙 吉

平野屋 紋

源四郎

与兵衛 金 蔵

杢右エ門 弥 吉 與左エ門

沖分庄屋 四郎七

福山屋 嘉 濱 屋 清

野崎助四郎

藤屋

吉 蔵

市太郎 亀 吉

文 加納屋 吟

七 蔵

大黒屋 喜三郎 林 蔵

仙太郎 弥四郎

蔵 八

屋 音 屋 忠

吉 甚

光 花

友蔵

伊三郎

吉 吉

喜多屋 理兵衛 吉兵衛

栄 源

松 平

久 助 弥三郎

仲 蔵 光 蔵 嘉四郎 與四郎

宗三郎

伊兵衛 源五郎

吉 蔵

忠治郎 藤三郎

備中屋 傳 喜

左 和 定

吉 七 吉

源治郎

蔵 七

吉 八

屋 萬治郎

組頭 光屋

南面

兵 源

奉寄進

– 32 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

石段西側(下段) の銘

F

神門


Ô

神田地利巻

嘉永

故風呂屋口

常吉

氏子中

栗田

三十銭

金七圓

嘉三郎

同五圓

虎太郎

同五圓

金拾圓 吉田愛三郎

髙橋 梅吉

故片宿

同六圓

國富

國富

文吉

國富藤三郎

氏子中

同五圓

関造

四十五銭

同四圓

同五圓 國富

氏子中

故西平野

氏子中

故両観音堂

若松

同五圓

金拾三圓

金拾六圓

新蔵

國富

五十銭

同六圓

太田元四郎

松田宗右衛門

永井彦治良

北面

奉寄進 金廿五圓

涌五郎

氏子中

金三圓

岩次郎

故長野

氏子中 同拾圓

亀三郎

髙橋 忠七

兼安延次郎

七十銭

髙畠金三郎 同六圓

同五圓 林 桟次郎

髙木廣三郎 同五圓

庭瀬旧邸内 金 八圓 六十銭 氏子中 故庭瀬町 四十銭

金三十九圓

金廿五圓

同五圓

同五圓 金谷長十郎

槻一本

同五圓

同五圓 熊代徳三郎 大森留二郎

故中田村

岡山市内田町

同五圓

同五圓 氏子中

金拾圓 深井槙三郎

三十銭

金廿五圓

同五圓 牧野 長造 佐木 常吉

同五圓 同五圓

國富源次郎

太田宗一郎

氏子中

音造

同三圓

國富 故東平野

同五圓

同廿五圓

深井金三郎

七十銭

金六圓

同拾五圓

˝

并修繕

御本殿扛起

佐野祷吾

社掌

犬養

顧問

有松霊峰

牧千太郎

髙橋忠五郎

総代并建築委員

香川嘉保

御船重太郎

増次

髙畠修二 沖

岩田宗平

國富一太

五月吉日

昭和十二年

路傍の文化財

– 33 –

明治12年(1879) 戸長 脇本 愛慶 髙畠多四郎 賀陽郡平野村 戸長 太田傳四郎 井上光五郎

昭和12年(1937) 髙橋 忠五郎 香川 嘉保 御船 重太郎 髙畠 修二 沖 増次 岩田 宗平 國富 一太

※戸長=明治5年4月、 太政官布告によりそれまでの庄屋,名主、 年寄りを 「戸長」に任命した。

H -3

基壇下部

I

H -1

賀陽郡庭瀬村

天保2年(1831) 目代 金右衛門 庭瀬町 組頭 貞四郎

中田村

H -2

桐野 紋吉

ˆ

神社の石碑

天保二辛卯歳八月

幣殿

Ó-1 基壇上部(西面) 同五圓

Ó-2

Ó-2 基壇上部(北面) Ó-3 基壇上部(東面)

同拾五圓

同五圓 太田牧太郎

金六圓 佐藤興右エ門

孫市

同五圓 千原増右エ門

愛敬

同五圓 太田

脇本

髙畠多三郎 太田傳四郎 井上光五郎

十一月吉旦

明治十二己卯年

人起発建再

Ó-1 本殿

Ó-3

第一編

本殿基壇の銘板

G H I J

7. 本殿再建に伴う寄進者名簿 庭瀬八幡神社

世話人、 発起人の変遷


庭瀬八幡神社

8. 土塀修繕神額所建築工事寄附人名録

第一編

K 土塀總修繕 神饌所建築 工事寄附人名録

神社の石碑

土塀北面

御本社 土塀總修繕 神饌所建築

– 34 –

寄附人名録

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

神田池利

土塀は神社建築には異質な構築物であると思う。 勧請元の石清水八幡宮には、荘重な土塀があるとか。この八幡神社の土塀は、こ れを模したと思われる。 この碑には、明治 33 年に土塀と神饌所を 540 円余(現在の 1,500 万円程度)か けて修繕したとある。 漆喰塗りの土塀は、石造りの玉垣に比べ、建設費、維持費ともに負担が大きい。 およそ20 年前に塗り替えられた正面の白い塀とは対照的に、左奥の土塀は崩壊寸 前である。 明治 25 年度の賀陽郡庭瀬村の予算総額は 2,191 円で、そのうち助役給料が 66 円 とある。540 円は当時の村の年間予算の 25%に当たる。

一金拾八圓 故庭瀬町氏子中

八圓 高橋伊三郎

一金四拾圓 髙畠多七郎

一金

七圓 吉田愛三郎

一金弐拾圓 髙木廣三郎

一金

五圓 髙橋長七郎

通之

小郷槇太郎

新之助

四圓 坂井

修正

西野常治郎

矢吹

一金

一金

藤田熊太郎

頼之助

藤浩

岩月久太郎

永原

一金三圓五十銭 馬場支店

弐圓 林

一金

一金十四圓 旧邸内氏子中

側溝

K -1


第一編

神社の石碑

横溝貞吉 一金 五圓 要次郞 十銭渡邊 一 金三円五 目黒亀二郎 一金 貳圓 子中 圓 故中田氏 一金六十四 牧野 長造 一金 五圓 佐々木ゆう 一金 四圓 牧野 友吉 一金 三圓 角田犬之助 一 同 桐野 紋七 一 同 吉 銭 御船萬 一金貳円廿 伊丹 杢次 一金貳圓 深井峰太郎 一 同 柴岡 六吉 一 同 田中菊 一 同 岸本亀太郎 一 同 松尾 馬吉 一 同 氏子中 銭 故風呂屋口 一金六円十 小池熊太郎 一金 貳圓 平松喜三郎 大熊 勘七 木村 五平 宿氏子中 十銭 故片

一 金三円五

一 同 一 同 一 同

和気萬壽太 太田 利助 井上元五郎

木本 惣吉

氏子中 故西観音堂

郎 國富八十四

國富 万吉 國富 □吉 國富 若松

一金廿一圓

一金 四圓 一金 三圓 一 同 一金貳圓

一 同

一金三圓 一金貳圓 一 同

野氏子中 十銭 故長

一 同

太田三五郎 太田 鶴平 小野 伸造

國富寅三郎 関 儀三郞 太田茂太郎 大森三次郎

一 金六円八 沖 喜三郎 一金拾円 沖 惣平 一金五円 沖 寅太郎 一 同 安井萬亀次 一 同 安井常次郎 一金四圓 沖 岩次郎 一 同 林 重造 一 同 沖 篤次郎 一 同 安井興四郎 一金貳圓 子中 故西平野氏 一金拾四圓 國富源治郎 一金五圓 一 同 一金三圓 一 同 一 同 一金貳圓 一 同

同 同 同

伊丹 杢次 深井峰太郎 柴岡 六吉 田中菊

一金 四圓 一金 三圓 一 同

國富八十四郎

國富

國富 國富

若松

万吉 吉

一 同 大熊 勘七 木村 五平 一 同 一 金三円五十銭 故片宿氏子中

一 同 岸本亀太郎 松尾 馬吉 一 同 一金六円十銭 故風呂屋口氏子中 一金 貳圓 小池熊太郎 一 同 平松喜三郎

一 一 一

一金 三圓 牧野 友吉 一 同 角田犬之助 一 同 桐野 紋七 一金貳円廿銭 御船萬吉 一金貳圓

一金 貳圓 目黒亀二郎 一金六十四圓 故中田氏子中 一金 五圓 牧野 長造 一金 四圓 佐々木ゆう

一金 五圓 横溝貞吉 一 金三円五十銭 渡邊要次郞

K -2 一金貳圓

一金廿一圓 一金三圓

「太田始四郎」は、 全寄附金額の一割近くを一人で負担している。 その財力は何か? 木本

惣吉

故西観音堂氏子中

K -3 沖

惣平 寅太郎

喜三郎

岩次郎 重造

小野

伸造

太田三五郎 太田 鶴平

太田茂太郎 大森三次郎

國富寅三郎 関 儀三郞

國富源治郎

故西平野氏子中

沖 篤次郎 安井興四郎

沖 林

安井萬亀次□ 安井常次郎

沖 沖

一金貳圓 和気萬壽太 太田 利助 一 同 一 同 井上元五郎 一 金六円八十銭 故長野氏子中

同 同

一金拾円 一金五円 一 一

同 同

一金四圓 一 同 一 一

一金貳圓 一金拾四圓 一金五圓 一 同 一金三圓 一 同

同 同

一 同 一金貳圓 一 一

路傍の文化財

– 35 –

K -2 K -3

K -1 土塀西面

8. 土塀修繕神額所建築工事寄附人名録 庭瀬八幡神社

K 土塀總修繕 神饌所建築 工事寄附人名録


8. 土塀修繕神額所建築工事寄附人名録・山林寄贈者 庭瀬八幡神社

第一編

神社の石碑

K 土塀總修繕 神饌所建築 工事寄附人名録 L 八幡山 山林寄贈者

土塀西面

K -4

郎 髙木久太 造 三宅 要 郎 髙橋伊三 郎 吉田愛三

子中 東平野氏 一金拾圓 始四郎 圓 太田 一金四拾 宗一郎 拾圓太田 一金廿八 太田孫市 一 一金五圓 佐藤 勝 吉 一金三圓 大森 重 七 一金貳圓 太田曾之 治 一 同 澤田猪真 郎 一 同 太田利三 一 同 田松次郎 太 吉 一 同 國富 忠 一 同 社掌 吾 佐野 祷 一金七圓 神子 浅野 来 郎 一金七圓 太田始四 氏子総代 郎 髙畠多七 郎 太田宗一 名 世話方連 故本町

旧邸内

K -6

一金拾圓 東平野氏子中 一金四拾圓 太田始四郎 一金廿八拾圓太田宗一郎 一金五圓 太田孫市 一金三圓 佐藤 勝一 一金貳圓 大森 重吉 太田曾之七 一 同 澤田猪真治 一 同 一 同 太田利三郎 太田松次郎 一 同 一 同 國富 忠吉 社掌 一金七圓 佐野 祷吾 神子 一金七圓 浅野 来 氏子総代 太田始四郎 髙畠多七郎 太田宗一郎 世話方連名

2. 旧邸内の「旧」の意味は?

八代 来 治 町田理喜 郎 目黒亀三 吉 横溝 貞

故本町 髙木久太郎 三宅 要造 髙橋伊三郎 吉田愛三郎

故中田 森 巳之助 佐藤 近造 長野 友吉 伊丹 杢次 故風呂屋口 森安辰次郎 小池熊太郎 平松喜三郎 故片宿 國富 若松 故観音堂 野﨑 傳七 木本千代吉 井上光五郎 故長野 安井興四郎 沖 寅太郎 故西平野 野上 金吉 野﨑 増吉 國富源治郎 故東平野 太田 孫市 阿部 六造 吉田安治郎 明治三十三年旧八月

1. 住所の中で、故本町の「故」とは何の意味か?

故本町 郎 髙橋長太 故平野 郎 太田三次

旧邸内 八代 来 町田理喜治 目黒亀三郎 横溝 貞吉 故本町 髙橋長太郎 故平野 太田三次郎

八幡山山林寄贈者 一︑壱反五畝 佐藤勝一 一︑壱反 髙畠 小池 一︑五畝 一︑五畝 角田 沖 宗春 一︑五畝 一︑五畝 國富 一︑貳畝十八歩 國富源 一︑貳畝 西平野氏子中 太田鉄五郎 一︑貳畝 一︑貳畝 國富 太田三治郎 一︑貳畝 一︑貳畝 太田鵜三郎 木村栄太郎 一︑貳畝 大正四年四月 世話人 國富源三郎 平松喜三郎

– 36 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

故中田 助 森 巳之 造 佐藤 近 吉 長野 友 次 伊丹 杢 口 故風呂屋 郎 森安辰次 郎 小池熊太 郎 平松喜三 故片宿 松 國富 若 故観音堂 七 野﨑 傳 吉 木本千代 郎 井上光五 故長野 郎 安井興四 郎 沖 寅太 故西平野 吉 野上 金 吉 野﨑 増 郎 國富源治 故東平野 市 太田 孫 造 阿部 六 郎 吉田安治 月 三年旧八 明治三十

大正四年 富源三郎 世話人 國 郎 平松喜三

K -5

K -6

山林寄贈者名

L

K -4 林寄贈者 八幡山山 勝一 畝 佐藤 一︑壱反五 髙畠 一︑壱反 小池 一︑五畝 角田 一︑五畝 沖 宗春 一︑五畝 國富 一︑五畝 源 八歩 國富 子中 一︑貳畝十 西平野氏 郎 一︑貳畝 太田鉄五 一︑貳畝 富 國 郎 一︑貳畝 太田三治 郎 一︑貳畝 太田鵜三 郎 一︑貳畝 木村栄太 一︑貳畝 四月

L

K -5


庭瀬八幡神社

9. 歌碑・句碑

10. 絵はがき 第一編 神社の石碑

M 歌碑・句碑 歌碑・句碑は、 平成25年12月、 建物の下の土中に埋め込まれた。

歌碑

句碑

歌碑

土筆坊 松風の 梢をわたる 放生会

国富公園 神□まに八幡の□□ 花もみじ う□□□□ 句ひ□りけり

和歌の文字が読めない。 宮司のお話しによれば、 その昔、 碑の建っている周辺は公園だ ったとのこと。 「神の御座所であるこの八幡 山の紅葉は美しく…」 と感じられ る雰囲気がある。

句碑

詠み人 建てた人 設置年

不明 不明 不明 文字読めず

詠み人 建てた人 設置年 放生会

上田土筆坊 ホトトギス同人有志 昭和50年10月吉日 陰暦8月15日に行われる儀式で 仏教の不殺生の思想に基づいて とらえた生き物を山野に放つ。

昭和 12 年発行の絵はがき

– 37 –

路傍の文化財


庭瀬八幡神社

11. 随神門像 神門

第一編 神社の石碑

N 随神門座像

随神門

「隨神門の座像」の銘 吽形(随神)

阿形(随神)

座像の「胎内納め札」

※いずれも阿形(左側) に収納されていた。

家内安全

表 明治三拾壱年 戊十月吉日 再参工

大供通之筋 小笹屋治兵衛作

岡山市桶屋町佐々木長十郎方 岡野豊造 同市上出石町 岩井繁吉

甲子年四月九日

壬午年再興 ヲ

小笹屋治兵衛如雲 同弟子 正兵衛如泉

銀□商人見平七正時

京都今出川寺町西入

– 38 –

家内安全家運長久

文政五

元治元暦

施主

随神尊再興之 ヲ

乙卯 年初發

野崎浄悦 近藤了融 惣氏子中 惣氏子中

85×197mm

随神とは「神の意のまま」、 平安時代以降、 貴族の外出時に警護のた めに随従した近衛府の官人。 神道では門守神、 寺院の仁王門に同じ。 この隋神像は享保20年(1735) に新設された。87年後の文政5年 (1822) に近藤了融が二度目の像を設置し、 その45年後、元治元年 (1864) に氏子が総出で新像を設置した。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

仏師

享保廿

甲子 再三興

壬午 文政五

年再興 元治元 世話方 町 野崎為三郎

脇本小平太

平八 太田徳蔵

野崎今左衛門

佛師小笹屋治兵衛作

大供通之筋

壬午年再興 □

文政五

甲子四月吉日年

小笹屋治兵衛如雲 同弟子正兵衛如泉

京都今出川寺町西入 銀□商人見平七正時

御○○者 兼安長五郎

元治元

随神壱組再興

仏師

享保20年(1735) 文政05年(1822) 元治元年(1864)

文政05年(1822) 元治元年(1864) 明治30年(1897)

104×184mm

(左)文政5年(1822)、 再建した時の像の胎内に納められていた札。 元 治元年(1864)四月九日、 再々興して小笹屋治兵衛が納入した。 納入したのは 小笹屋治兵衛如雲・弟子の正兵衛如泉である。 仏師・京都今出川寺町西入 人見平七。 (右)明治31年(1898)、 前回に続き三度目の修理をした。


第一編

神社の石碑

在京城

發起願主 秋田秀穂 桑原可寛

工事設計者

旧庭瀬藩主子爵板倉家金壹封御寄附

三澤義雄 藤沢芳政 中塚良和 岡部蔵夫

在京城

高橋忠五郎 岩田宗平 氏子総代 御 船 重 太 郎 香川嘉保 建築委員 高畠修二 国富一太 沖 増次

小宮山直造

基礎工事者

西高次郎

石工長

桑原可寛

工事設計者

工匠

英田郡巨勢村

屋根工事者 屋根師 井上秀太郎 井上直一 浅田 一 山本角造 山本 武 濱田定衛 小林継次

顧問

犬養 菫 有松霊峰 牧千太郎 佐野嘉内

世話人 會計係 井上鵜三郎 目黒信夫 井上幸次郎 沖 忠夫 伊丹幸吉 林 十造 林 勝次郎 賛助員

犬養嘉一 板谷俊治 林 十造 西本清人 西野常次郎

高橋忠五郎 岩田宗平 氏子総代 御船重太郎 香川嘉保 建築委員 高畠修二 国富一太 沖 増次

英田郡巨勢村

屋根工事者 屋根師 井上秀太郎 井上直一 浅田 一

山本 武 濱田定衛 小林継次

井上信義 山本角造

顧問

犬養 菫 有松霊峰 牧千太郎 佐野嘉内

賛助員

西村岩次郎 千原清左衛門 太田三次郎 太田千代造 沖 忠夫 吉田啓治 片岡才五郎 壁村寛重 片岡義賢 笠石隆秀 横山観清 吉田貞雄

吉田佐之助 国富嘉野吉 栗田孫市 安井半次郎 安井猪八 松田榮太郎

吉田杢次 高橋福次郎 高木博太 高木章次 高畠実太郎 竹村鉄之助

田熊規矩男 田中久代 難波源吉 難波謙治 難波壽子 村木宗左衛門

深井和三郎 遠藤賢吾 赤木武夫 浅野亦七 青山彌左衛門 坂井磊介

熊代榮五郎 熊代武平 黒澤玄善 八代眞喜治 山上初次郎 矢吹景秀

目黒信夫 関 福次郎 水船宇次郎 柴岡六吉 平松要次郎 人見良一 守屋譲一

矢吹孝秀 安井半次郎 安井 熊 山下利幸 増田猪之七 秋田龍観

赤木武夫 赤木是観 有松シカノ 坂井磊介 桐野初次郎 桐野信義

木村芳一郎 守屋護一 三宅保次郎 杉藤淳慶 平松要次郎 森安繁太 森安伊之吉 森安金八

目黒信夫 関 福次郎 水船宇次郎 柴岡六吉 平松要次郎 人見良一 守屋譲一

赤木是観 木村芳一郎 守屋護一 赤木武夫 三宅保次郎 杉藤淳慶 有松シカノ 平松要次郎 坂井磊介 森安繁太 桐野初次郎 森安伊之吉 桐野信義 森安金八

深井和三郎 遠藤賢吾 赤木武夫 浅野亦七 青山彌左衛門 坂井磊介

矢吹孝秀 安井半次郎 安井 熊 山下利幸 増田猪之七 秋田龍観

圓富岩次郎 国富嘉野吉 栗田孫市 安井半次郎 安井猪八 松田榮太郎

熊代榮五郎 熊代武平 黒澤玄善 八代眞喜次 山上初次郎 矢吹景秀

祭員太田光雄江口式部

吉田鹿一 竹村鉄之助 坪井重太郎 中桐三次 植松傳八 圓富岩次郎

片岡才五郎 壁村寛重 片岡義賢 笠石隆秀 横山観清 吉田貞雄

祭員太田光雄江口式部

吉田佐之助 吉田鹿一 竹村鉄之助 坪井重太郎 中桐三次 植松傳八

田熊規矩男 田中久代 難波源吉 難波謙治 難波壽子 村木宗左衛門

西村岩次郎 千原清左衛門 太田三次郎 太田千代造 沖 忠夫 吉田啓治

吉田杢次 高橋福次郎 高木博太 高木章次 高畠実太郎 竹村鉄之助

世話人 會計係 井上鵜三郎 目黒信夫 井上幸次郎 沖 忠夫 伊丹幸吉 林 十造 林 勝次郎

犬養嘉一 板谷俊治 林 十造 西本清人 西野常次郎

堀家愛兄 堀家愛子 沖 彌五郎 岡崎観是 脇本千珂良 渡辺要次郎

齋主村社八幡神社社掌佐野檮吾 副齋主郷社宗形神社社司佐野正敏

平松要次郎 工事 赤木武夫 監督者 増田猪之七 吉田鹿一

堀家愛兄 堀家愛子 沖 彌五郎 岡崎観是 脇本千珂良 渡辺要次郎

齋主村社八幡神社社掌佐野檮吾 副齋主郷社宗形神社社司佐野正敏

平松要次郎 工事 赤木武夫 監督者 増田猪之七 吉田鹿一

工匠 向所利逸 小野勝三 中原博之 岡部國太郎 林 武夫 見村宣之助

昭和十一年十二月十四日上棟祭執行 請負者 浅口郡黒崎村

工匠長 岩根要一 副工匠長 眞田昌美

發起願主

金 1壱萬圓寄附 秋田秀穂

浅口郡黒崎村

工事請負者

向所利逸 藤沢芳政 小野勝三 中塚良和 中原博之 岡部蔵夫 岡部國太郎 基礎工事者 林 武夫 小宮山直造 見村宣之助 石工長 三澤義雄 西高次郎

昭和十一年十二月十四日上棟祭執行

明治四十四年八月八日生貮拾六才

工匠長 岩根要一 浅口郡黒崎村小原 副工匠長 眞田昌美

路傍の文化財

– 39 –

12. 棟札 庭瀬八幡神社

どちらも高さ 190cm×幅 27cm 本殿の棟札は二枚製作され右側が掲出されていた。 最初に秋田秀穂の寄進のもとに始めたが後に板倉家の寄付があり、作り直したと思われる。 現在は別の棟札が収められている。


庭瀬八幡神社

11. 狛犬

970

神社の石碑

970

760

760

平成九年十二月吉日

氏子中

氏子中

己 天保十 亥年八月吉日

755

第一編

O 狛犬

1000

西面 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

南面 – 40 –

南面

北面


吉備護国神社

第一編

岡山市北区西花尻1108(庭瀬八幡神社の隣)

神社の石碑

御祭神 吉備町関係戦没者の英霊 終戦により公祭慰霊の不可を憂い、 吉備町関係の国家公共に尽くして死没せられた霊を慰めようとして、 八幡神社境内 神社祖霊社を昭和21年に設立して慰霊の祭典をしていた。 昭和21年10月21日、 祖霊社を吉備護国神社と改称し独立神社とした。 そして遺族を氏子として現在に至っている。 昭和46 年3月25日承認された。 (岡山県神社庁の資料による) 山陽新幹線

戦没者追悼記念碑

吉備護国 神社

忠魂碑

八幡神社

手水鉢

鳥居

従軍碑 頌徳碑

九郎稲荷神社

御影大日尊の鳥居

松林寺太神宮(庭瀬707) から移設したもの。 (詳細は117頁)

日露戦争没従軍者 注連柱

– 41 –

路傍の文化財


吉備護国神社

日露戦没従軍者 注連柱

第一編 神社の石碑

日露戦争没従軍者 注連柱 日露戦争

明治37(1904)年2月10日〜明治38(1905)年9月日露戦争に出征した氏子20名 の兵士をたたえた記念碑と思われる。 明治44年建立の日露戦争「從軍碑」には、 出征した吉備郡庭瀬町の若者につい て「⋯ 而戦死傷死病死及蒙重創者各二人 ⋯ 蒙賞者凡一百五人 ⋯」 とあり、 町 内の若者111人が出征し、 その内の20名が八幡神社の氏子だった。

戸川藩

1600

手水鉢奉納

1700

中田 吉田英三郎 田中才次郎 風早吉三郎 平松富次郎 杉本 甚吉

神官 佐野 祷吾 当社世話人 國富 若松 國富源治郎

南面

南面

日露戦争 石灯籠

2000

明治37年(1904) 甲辰

氏子中

氏子中

昭和十三年□健之

奉獻

奉獻

栄町氏子中

昭和十三年六月吉日

– 42 –

1900

明治三十七八年日露戦没従軍者

風呂屋口 平松為太郎 國富清三郎 森谷竹治郎 赤松 三吉 □□ 歳男

深井峰太郎 平松正治郎 國富岩太郎 國富 萬吉

者起發

北面 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

1800

板倉藩

東□ 草野 英行 國富 新助 町 中山萬治郎 坂井 保夫 金谷弥三郎

和気春治 □□□治 長野 林 猪平 太田庫太 関福次郎

平野

明治三十九年四月穀旦健之

穀旦 = 吉日

石灯籠① 石灯籠②


第一編

英霊:大東亜戦争における吉備町戦没者の慰霊顕彰

裏面

吉備町軍友会

昭和三十一年十月

忠魂碑芳名

神社の石碑

犬養健 敬書

堀 芳雄 冨山 公一 奥原 茂 太田 正六 太田 静雄 太田亀太郎 小田 茂 太田 禎一 岡﨑 忠志 大守 直義 岡﨑 弘 岡﨑 清男 岡﨑 時雄 岡﨑 定夫 岡田 毅 大原 敏雄 太田 源一 太田 繁男 小野 逸 太田 孝雄 太田 清 太田 愛治 太田吾作夫 大賀 昊 脇本 務 脇本 稔 片岡 正史 加治 博之 川上 貞男 糟谷 義傳 金平伊三男 亀山 經正 兼松 真一 吉田 博 横溝貞太郎 吉田 信行 髙木 元市 田中 文夫 髙木 貢 髙木 稔 平 信孝 多田 敏男 髙橋善太郎 髙塚 堅 曽我 粋 袖岡 三雄 坪井 一夫 坪井 米造 次田 愈 坪井 昇 坪井 鉄志 難波郁之助 永井 正吾 中桐 強兵 難波 太郎 難波馬佐男 難波 茂夫 中山 亀雄 難波 力男 難波 猛男 難波 健二 難波 朏忠 難波 進吾 難波 静夫 中尾 三三 中尾弥喜三 中川 義末 難波 勇 宇野 芳夫 宇野 直 内田 正志 内田 章男 宇野 秋男

都窪郡吉備町戰没者芳名

北清日清日露戰 岡﨑松 太 郎 大 西 梅 藏 脇 本 鹿 造 武 南 嘉 吉 髙塚辰 五 郎 難 波 改 三 郎 永 井 庄 八 中 山 浚 三 郎 増 田□左 衛 門 前 田 市 五 郎 遠 藤 静 大 江 口 武 一 阿 部 孫 一 郎 斉 藤 勘 四 郎 森 安 民 次 郎 支那事変 犬飼 金藏 石原 信一 西山 信夫 岡﨑 冠 小野 秀男 大塚清□藏 田中常太郎 髙嶋 清志 中桐 照雄 難波 康次 野上 歳一 草野 俊則 楠田金太郎 楠田 甚一 安井 斉 山口 英一 松本 □一 松本 玉男 小山 文造 遠藤 壽之 青井 □吉 浅沼 種敏 浅沼 正 桐野 隆昌 光畑 正志 光畑 典治 平井 忠治 平井 茂男 森安 始衛 栗坂 利市 中村 宗典 澤田 保一 松下 茂 阿部 兼市 東亜戰 犬飼 達志 岩田 定雄 犬飼 甫 犬飼 康男 犬飼孝太郎 犬飼 博 犬飼 誠 池下 正直 板野 四郎 板野杢三郎 井上 孟郎 池上 一美 池田 曻 石田 勉 石田 寛 林 新作 林 虎一 林 貞一 波勢 武敏 二宮 正二 西川 浪治

岡山

佛具店︶

宇野 勇 平松 一行 稔 内田 弥一 光畑 野上 満男 白神 定章 野上 栄一 柴田 一夫 國富 三郎 平松 己章 熊代 要 平松 勘次 草野 英正 平松 義昌 熊代浅次郎 平川 敏己 熊代 清己 平松 哲夫 楠田 太郎 平松 春夫 達男 山﨑 康夫 森 安い 重郎 森 昌士郎 繁雄 安井 弘 森 山西 数雄 森 千鹿志 勝昌 安井 顯正 森 幹春 安井喜代八 森 楙 安井 右 森安 安井 武 森安 繁美 安井熊太郎 森安 克太 矢尾 常夫 森安 因彦 矢吹 嘉男 森安 常信 山根 岩男 森安 正秀 八木 忠吉 森安 三歳 潔 安田 賢次 森安 九川正一郎 森安 次郎 牧野 輝治 森安 岩男 松本長太郎 森安 正樹 増田 邦夫 森安 一爾 増田 彰 森安 時男 前原 忠 森代 四郎 前原五爲男 森谷 義一 松永 敏雄 菅野 正照 明 丸川 政一 鈴山 真鍋 順三 鈴山 亟党 深い 順一 吉田 義夫 國府 愛一 水谷 定男 上坂舜一郎 大月 初太 上坂 鷹志 道久 正一 小山 勇 髙畑 正幸 小山 金栄 中島 美二 公森 靖治 中西 役一 淨 江尻 益太 竹内 荒木 郁生 木山 昌三 赤松 辰夫 小田 茂信 豊 阿部 光雄 中島 阿部 國光 瀧川 柏治 阿部 重平 平井 輝夫 荒木 七五三一 三宅 信義 荒木 隆 中村 武史 荒木 徹 大月 嘉市 荒木 修 宮 清一 荒木 唯男 杉山 繁 荒木 忠司 藤本 末夫 浅沼 正志 坪井 種次 浅沼 寛市 守谷 章 浅沼 正明 守谷 茂 浅沼 均 数田 知正 浅沼 作治 原 弘文 浅沼 喜一 髙嶋 松男 佐藤 近司 猪俣 守一 澤田 房太 西本 清七 佐藤 軍一 難波 昌孝 佐藤 健二 小林 晋 佐藤 裕治 三浦謹一郎 木村 隼雄 上原 正一 桐野 實 冨山 宏 木村静太郎 鈴山 忠夫 三宅 精市 難波壽恵夫 宮本 信二 太田 輝一 光畑 静夫 西村 仁 光畑 史朗 犬飼 敏雄 岡田 延一 髙橋 義一 澤田 凖二 脇本 操

︵彫刻

路傍の文化財

– 43 –

忠 魂 碑 高さ約10m・コンクリート造。 「忠魂碑」の文字は元法務大臣犬養健の筆。 下部に日清戦争以来各戦役に従軍し忠烈悲愴な戦 死をした勇士の氏名を銅板に刻み列記している。 もと吉備小学校内にあったものを、 校舎建て替えに伴い移転した。

忠魂碑 吉備護国神社

忠魂碑


戦没者追悼記念碑 吉備護国神社

第一編

英霊:大東亜戦争における吉備地区戦没者197柱の慰霊顕彰 戦没者追悼記念碑は、 終戦50周年(平成八年三月) の追悼式の際にこの場所に建立された。 神社の石碑

吉備地区戦没者

追悼記念碑

平成八年三月 橋本龍太郎

吉備軍友会

難波 鹿夫 難波千代吉 岡崎 光治 岡崎 威 難波 清一 高原 武一 岡崎登美夫 岡崎 操 桐野 鹿造 難波 毅 岡崎金次郎 大森恵美夫 冨岡 賀一 向崎 義夫 中桐 都善 吉田 清 太田 良三 野崎 勝嘉 友光 正 小坂 秀夫 小田 収蔵 安井 梅夫 永井 勇二 国富 欣一 太田 正雄 横畑 昌訓 枝松 輝二 西山 公博 安井 正明 岸 一二 野崎 武 浅沼 政一 冨山卓志郎 種村 邦雄 太田素太郎 林 杆一 安井 昂三 安井 隆 西 喜久次 沖 弥太郎 上坂 進 宗津 重男 林 登 森安 璋次 岩田 博之

大西 芳雄 内田 秀夫 熊代 寛 吉井 直樹 久山 憲一 難波 将春 片岡善太郎 大西 武夫 太田 正二 熊代 明 中田 唯志 中谷 尚史 難波 照彦 中野 保治 山口 義夫 松永 末治 栗原 隆治 荒木 勝 内田 円一 荒木 梅治 中村知恵男 難波 三郎 三宅 克甫 中野 文男 桑原 勇男 松本 一正 次田 克己 曽我 三郎 曽我 四郎 坪井 喜一 次田 司 黒岡 義夫 平川 良一 難波 欣一 大江 康雄 荒木 定夫 荒木 豊 吉田 勝 荒木 亮郎 柴田 義雄 荒木 潤身 荒木 正司 荒木 行幸 江国 篤 三宅 孝之

平成八年三月

目黒 三男 杉原 義男 太田 頼王 岸部 喜助 熊代 末吉 香川 正三 野上 勇 大月 正光 西本 清久 大沢 有一 荒木 克己 寺坂 大助 吉田 弘 熊代 栄一 風早 栄吉 高木 正夫 岡本 孝雄 小橋 完 犬飼 虎雄 肩山賢二郎 則武 春清 高木 彦吉 増田 勉 脇本 勇 脇本 堅 根岩 浅猪 脇本 鉄男 根岩 実 脇本 要 大賀 敏明 森 實真 山根 太郎 脇本 一郎 増田幸四郎 片岡 義賢 森安 六郎 中村 苗 森安 義治 森安 芳正 森安 始男 宮本 継男 森安 覚 大賀 繁男 大賀 一夫 熊代 房男

池上 正志 太田 正美 中野 熊雄 安藤 豊 大原 廉平 中野 光平 太田 毅 森 清 太田 庄一 小野 亀鶴 俣野 清志 森 醇 太田 里志 太田 孝平 岡本弥寿夫 太田 佳晴 岡本耕一郎 太田 昇 岩崎 照雄 山瀬 喜禄 浅沼志津男 浅沼 明 平松 一二 浅沼 悦郎 沢田 悦治 光畑 薫次 犬飼多三郎 堀 新十郎 坪井 卓弥 大森 勢 林 金一 中川 清一 長谷川謹一 平松小三郎 光畑 伍一 光畑 勝男 坪井 秋男 中尾一太郎 鈴山 一男 中野 為一 中尾 庄七 鈴山善太郎

終戦五十周年記念﹁吉備地区戦没者追悼記念碑﹂設立趣意 平成七年八月十九日︑吉備地区戦没者一百九十七柱の御遺霊に対し︑終戦五十年を記念 して﹁吉備地区戦没者追悼式﹂が︑この地で行われ︑御遺族をはじめ︑地区の方々の真心の こもった哀悼の﹁白菊の献花﹂がなされ︑そのご冥福を祈り︑追悼の誠を捧げました︒ 私達が現在︑平和で豊かな生活を享受できるのは︑ひとえに戦没者の方々が国家の ために自らの尊い生命を捧げられた犠牲により招来されたものであり︑この尊い 犠牲に対し真心から哀悼の誠を捧げるのは︑私達後代の者の義務であることを忘 れてはなりません︒この記念碑は後代の人々に﹁戦没者追悼﹂の意義を正しく理解 して︑伝承して頂く機縁にもなればという願いをこめて︑ここにこれを建立致しました︒ 平成八年三月吉日﹁終戦五十周年記念吉備地区戦没者追悼式﹂実行委員会

– 44 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

戦没者追悼記念碑 裏面


神社の石碑

日露戦役戦没者 故陸軍歩兵上等兵勲七等 仝 仝 勲八等功七級 仝 仝 仝一 仝 仝 仝 仝 仝 仝 仝 仝 仝 一等卒勲七等

北清事変戦役者

武南 嘉吉 岡﨑松太郎 高塚辰五郎 阿部孫一郎 永井 庄八 中山俊三郎

故陸軍歩兵上等兵従八位 脇本 鹿造 故陸軍砲兵輸卒 増田興左衛門

難波改三郎 森安民次郎 大西 梅造

仝 仝 仝

勲七等

軍曹勲七等 仝 仝 伍長勲 七等功七級

安井

水島 辰三郎

千代次

上等兵勲七等功七級 根岩興右衛門

陸軍主計監正五位 草野 英行 勲三等功三級 陸軍歩兵曹長勲七等功七級 深井政太郎 中山萬治郎 國富 新助 仝 仝 繁四郎

本多

有眞三

仝 勲八等

勲七等

板野

熊代

守谷

留吉

金吉

竹次郎

竹蔵

仝 仝 野﨑源四郎

仝 仝

宇八

嘉之吉

仝 仝 仝 関本 長七

労太郎

治右衛門

仝 仝 高木 保夫

仝 仝 坂井 官治

勲八等

仝 仝 勲八等 野﨑

仝 仝 仝 佐藤

高木

一等卒勲七等功七級 國富

仝 仝 仝

仝 仝

仝 仝

勲八等

渡邊

太田

金谷弥三郎

永井森三郎

大森善次郎

高木

岡﨑喜一太

岡﨑猪太郎

熊代

庫太

平松冨次郎

赤松

久保田安五郎

磯島

末松

杉本

西村

新造

國富清三郎

高塚

甚吉

清吉

三吉

庄吉

二等卒勲六等 小島

善吉

岡﨑善十郎 榮治

赤木喜六郎 脇本

田中□次郎

熊代兵太夫

犬養興四郎

森安

犬養兵次郎

飯塚實太郎

太田

三宅

勲八等 吉田

登一

芳樹

杢治

新八

陸軍砲兵軍助卒勲八等

高木常右衛門

大西

森安勘次郎

森安廣太郎

國富岩次郎

森安鳳太郎

大西伊三郎

安井玄之助

吉田三之助

仝 仝

初太郎

陸軍歩兵一等卒勲八等

寅吉

桐野清次郎 仝

一等卒勲八等

上等兵

加治緊太郎

間野

音助

糟谷喜五郎

久吉

陸軍工兵軍曹卒勲七等 仝

野﨑初二郎

関造

一太

䏮本

石川

秋山

森安春三郎

佐藤

大西又三郎

風早吉三郎

海軍一等兵曹勲七等 森安龍三郎

粂次

淺松

難波

吉井 仝

丸川虎次郎

松□ 仝

勲八等

久保伊勢七

平松爲太郎

三郎

槌田

永井竹三郎

陸軍輜重輸卒勲七等

滝三

石工

木村榮次郎

謹書

難波初三郎 大西 要造 熊代六三郎 林 猪平 永井伊三郎 田口 喜作 森 恒太郎 牧野 勝治

太田菅太郎 仝

勝次郎

眞野鹿次郎 井上小四郎 難波 仙造

陸軍二等看護長勲七等功七級 野﨑 二郎 陸軍二等靴工長勲七等 難波連太郎 桐野 鹿造 陸軍騎兵一等卒勲七等 仝 仝 勲八等 関 福太郎 陸軍砲兵軍曹勲七等功七級 太田 久七 仝 上等兵勲七等 吉田榮三郎 仝 仝 仝 平松要次郞 和氣 春治 仝 仝 勲八等 有松武太郎 仝 仝 仝 小橋孫左衛門 仝 一等卒勲七等 板野岩吉 仝 仝 仝 仝 勲八等

仝 仝 仝 仝 仝 仝 仝 仝 仝 仝 仝 二等卒 仝 仝 仝

路傍の文化財

– 45 –

甲辰乙巳之役岡山縣吉備郡庭瀬町壮丁属第五師団従 征露国而戦死傷死病死及豪重創者各二人其陀従軍矢 死夷険一節凱旋録功蒙賞者凡一百五人鳴呼諸子同長 里閭出入相伴慶弔相扶一旦国家有緩急則義勇奉公忠 愛忘私而迄其事平也釈兵執鋤退而耦畊田野真不愕乎 為 聖世忠良之臣民亦可以表童干一邑者也頃日有志 胥議建碑以図不諼来請予銘予嘉其用心之敦也乃為之 死号何哀 生号何栄 惟我同胞 忠義作盟 銘日 死者尽職 生者有成 執是来耦 蔵彼才兵 穣々百穀 以資太平 無謂邑小 亦国之楯 明治四十四年辛亥四月 犬養毅撰并書

高さ 3200×幅 1350mm 撰文:犬養 毅 謹書:太田菅太郎 石刻:木村榮次郎 日露戦争の戦没者慰霊のため 明治 44 年 4 月吉備小学校(当 時庭瀬尋常高等小学校) に建碑。 裏面に日露戦没者 6 名 北清事変戦没者 2 名 日清役戦没者 3 名 及び日露戦従軍 105 名を列記 (きびのさとNo.47より) 吉備小学校の増改築に伴い、護 国神社に移転された。

日清役戦役者 故陸軍歩兵一等卒 仝 仝 故陸軍砲兵一等卒

碑軍從

第一編

裏面 英霊:日清・日露・北清戦役等戦歿者の慰霊顕彰 同 従軍者の顕彰

戦役従軍者 從軍碑 吉備護国神社


故眞野辨作君ハ赤磐郡高陽村ニ生レ此ノ地吉備町 巡査駐在所ニ在勤シ忠實勤勉民衆ノ敬慕深ク 終始銃後治安ニ任シ範ヲ埀示セシカ偶々昭和

石材寄付者

光岡義當撰 福島明治

2000

十五年五月八日未明部内永井竹次郎方ヲ襲フ 兇漢ト闘ヒ銃彈ニ殪ル壮烈哉官ハ巡査部長トシテ功勞 章ヲ賜フ嗟君ノ生涯四十九赤誠輝ク功績ハ千古 ニ傅ヘ皇国ノ鎮護タルヘシ

1360

奥行470

皇紀二千六百一年二月八日 倉敷警察署長地方警視従七位勲七等

390

頌徳碑

700

900

頌徳碑 神社の石碑

– 46 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

1900 第一編

920

頌徳碑 吉備護国神社

凶弾に斃れた駐在所勤務の巡査を顕彰した碑。

頌徳碑 裏面


2 須佐之男神社

第一編

撫川、 中撫川の日蓮宗信徒以外の神社(中撫川502)

神社の石碑

– 47 –

路傍の文化財


須佐之男神社

神社のいわれ

第一編 神社の石碑

境内の碑文からこの氏子士出或の当時の状況を考えてみた。

須佐之男神社のいわれ 旧社格 村社 鎮座地 岡山市北区中撫川502 氏子地域 中撫川、 撫川 ■由緒 往昔、 吉備中山に大吉備津彦命鎮座後、 十握剣を宝物として彼の社に納めた。 寛喜年中 (1229〜1232) に彼の社が回禄の 際、 御剣を此の地に遷して奉斎した。 御剣を彼の社に奉遷後、 御剣の縁に依って須佐之男命天照大御神を跡地に祭った。 後、 須佐之男神・櫛稲田姫・大穴牟遅神を祭って上社とした。 寛永年中 (1624〜1644)社号を疫神社とし明治2年現在の社名とした。 社殿は寛永6年(1629)、 元禄3年(1690)9月、 天保6年 (1835)8月に夫々再興している。 昭和31年8月、 本殿炎上。 同54年6月に本殿を改築した。 ■御祭神 建速須佐之男命

(岡山県神社庁の資料による)

地元の方のお話では、主に真言宗の信徒がお参りをした。 例祭など神社の行事は下社(八幡神社)と全て同日に行われる。 同程度の社を並立させていたのは領主戸川氏の政策だろう。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 48 –


須佐之男神社

神社の由来 第一編 神社の石碑

須佐之男神社の由来 撫川の須佐之男神社の由来は定かではないが、次の伝承が最も信 憑性がある。康平 4(1061)年 11 月、吉備津神社が火災で炎上し たとき、現在地付近に仮宮を建ててご神体をお祭りしていました。そして 康平 7(1064)年、備中守藤原定綱が吉備津神社を再建し、ご神 体は本殿に還られ、仮の宮の建物だけが残りました。そこでこの地の有 力者が、京都の八坂神社(ご神体は須佐之男命)から分身を受けて きてお祀りをしたと伝えられています。中撫川遺跡の発掘調査によりこの 伝承の信憑性がさらに高まりました。 この神社の特徴は、特定の権力者の氏神ではなく、領主的存在者 と住民の協力によって、 祀られた神様であると考えられることです。したがっ てはじめから地域の神様であったことです。 創建以来 「疫神社」と呼ばれていましたが、明治 2 年の神仏分 離令により「須佐之男神社」に改称されました。 中撫川遺跡の発掘調査から考えられることは次のとおりです。 1. この当時(13 世紀)すでにこの地方は発展しており、領主的 勢力者があり、神社創建の知識と資力を持っていたと考えられる。 2. この当時都への貢物を納品しており、京都との交流があり、八 坂神社の分身を受けることが容易であったと考えられる。 3. 吉備津神社の火災から年月を経ているが、当時は何れの神社 仏閣も長い年月を要し、建立再建をした。

参考(山陽新聞平成 15 年 9 月 1 日朝刊) 中撫川遺跡発掘調査の詳細

網用おもり大量出土 ! 岡山市教育委員会が発掘調査している川入・中撫川遺跡(岡山市 中撫川)で 31 日までに、鎌倉時代(13 世紀後半)の 1 個 500g 近 い " 特大級 " の漁業用のおもり(土錘)が大量に出土した。一帯が 同時期から発達した鯛網漁などの漁業基地だったことを示す資料とし て注目されている。 土錘は粘土の素焼き製。ラグビーボールをやや平らにした形で、 平均して長さ 11cm、幅 7cm、厚さ 5cm 強の大きさ。遺跡から出土 する土錘としては最大クラスな上、今回の 300 個を超える出土数は岡 山県内の遺跡では最多になる。 土錘の大多数は両側面に幅 2cm、深さ 1cm の溝があり、縄を結 んで網に取り付ける形式。同タイプの大型土錘は考古学、民俗学的 な研究から、瀬戸内特有の鯛しばり漁法に代表される袋網系の錘と 想定されている。当時、川入、中撫川遺跡は「吉備の穴海」と呼ば れた内湾の沿岸部に立地。土錘とともに中国製の高級磁器も出土し ていることから、発掘担当の草原孝典・岡山市教育委員会文化財保 護課主事は「都などへの貢納品にもなった鯛漁を足がかりに発展した 領主勢力がいたのだろう」とみている。

4. 真言宗と須佐之男神社 時代は撫川知行所初代領主戸川達冨(みちとみ)の治世で、こ の神社は真言宗金華山観音院が奉仕したので、法正山信城寺(日 蓮宗)が別当として奉仕していた(撫川)八幡神社にたいし、真言 宗の宗徒の神社として神事をつかさどった。 明治四年の神仏分離まで領主の庇護の下にあった日蓮宗と、そ れ以外の宗派の対立は容易には解決せず「真言と法華」の関係 は継続している。二つの神社があることは不合理なので一体化の努 力はなされている。たとえば祭礼の同一日時実施、釣鐘の同時再鋳、 社号記念碑の同時建立など融合の努力は続けられている。 5. 創建の時代 境内参道の中ほどに「享保三年(1715)に奉納された燈籠二 基と手水鉢があり、おそらくこの時期に建立されたのであろう。鳥居に は銘が刻まれていないが同時代のものと思われる。 【額束に「明治十六年癸未年二月吉日難波政則三男壬牛之年」 の記録がある。神仏分離令により今までの「疫神社」から「須佐 之男神社」に改め掲額したものである。 】 拝殿の入口上部に「明治十五年(1882)壬午本宮、幣殿、 拝殿新造営)の奉納額があり、創建以来 160 年以上経過している。 したがって、それ以降少なくとも一度は改築していると考えられる。 昭和三十一年(1956)八月に本殿を焼失した。現在の本殿は 昭和五十六年(1981)六月に改築された鉄筋コンクリート製の建物 である。本殿周囲の玉垣も焼け残った南側以外はコンクリートで改築 された。火災により優雅な歴史ある本殿と寄進者の銘が消えた。 鐘楼の創建は「文政六癸未(1823)三月吉良日 別当観音 院奉建立」とあった。今から186 年前の建物である。 本殿の北東 5 メートルにある稲荷神社はその燈籠の銘に「享保 十一年(1723)九月吉辰」とあり、疫神社本殿造営の八年後にま つられた。社務所、井戸など整った施設があった。 6. 環境の整備 社殿の南側にある玉垣の石版に寄進者名が刻まれている。社殿 の東側 20 〜 30m に法万寺川(板倉川)が流れ、降雨期には付 近の水田は冠水し、遊水地となる湿地帯であった。境内の法面保 護のために、延長百間余りの石垣を寄進した。 石板によれば、文久三年(1863)、93 人の氏子が現在の金額 に換算して 3 千万円余りを寄進した。なかでも吉岡屋、吉見屋など 廻船問屋がその約半額を、特に袖岡新助は全体の 1 割を寄進して いる。庭瀬が水運で繁栄していたことがわかる。また石板の銘は高度 な技巧を持った石職人の技が作った傑作である。 7. 狛犬 嘉永四年(1851)に氏子 20 名が狛犬一対を寄進している。備 後尾道の石工嶋居勘十郎の作で、後足で子狛犬をあやす姿が珍 しい。

– 49 –

路傍の文化財


須佐之男神社

配置図 190

600

安藤信 右エ門 安 藤 岩二郎

神社の石碑

明治四十五年五月

井戸施主

第一編

仮殿

井戸

稲荷神社

発起人 岡本今蔵

堀人 安原俊造

燈籠

(享保十一丙午年九月吉日)

本殿

玉垣の銘

社務所跡

注連柱その2

54000

拝殿

拝殿前石段袖壁

狛犬

狛犬 (嘉永四年辛亥二月奉納)

大正元壬子年十月十七日献之

昭和三十年春季祭

石燈籠No.6 石燈籠No.5

170×190

昭和三十二年十月吉辰 寄贈者 奉賛會

両神社釣鐘再建記念

1500

石燈籠No.4

北面

4500

石燈籠No.3

百度石

160×180

石燈籠No.2

撫川町大字 下撫川 次田直蔵

東面 南面

撫川町大字 下撫川 次田直蔵

都窪郡清音村 大字軽部 江口モト

都窪郡清音村 大字軽部 江口モト

注連柱その1

石燈籠No.1

神社名碑

玉垣碑その1

西面

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

玉垣碑その2 26000

注連柱その2 西面

– 50 –

鐘楼

(昭和31年再鋳)

手水鉢(享保三戊戌年九月吉日奉納)

鳥居

1660

2900

300×320

3600

注連柱その1


須佐之男神社

狛犬の台座 第一編 神社の石碑

880

南面

1100

納 奉

参道の左側(西側)

参道の右側(東側)

1065

西面 下撫川村東分

難波始治

嘉永

四年

辛亥

四月

吉日

願主

西面

嘉永4年=1851年

曽我弥左衛門 □左衛門 仙左衛門 元吉 六太夫 志□兵衛 徳十郎 浅次郎 富治郎 柳左衛門 仙三郎 久米七 利吉

□ 平兵衛

新助

庄五郎

袖岡

吉岡屋庄吉

吉岡屋粂治郎

吉見屋善吉

小西屋栄蔵

石工

嶋居勘十郎

尾道

北面

北面

参道の左側(西側)

参道の右側(東側)

石工 嶋居勘十郎久之は、 江戸時代後期、 尾道の人。 尾道浦は瑠璃山、 愛宕山、 大笠山に囲まれ巨石が折り重なり、 石材に囲まれ、 水運に よる搬出も容易で、 中世初頭から荘園米の積出港として豊かな港町経済を担っていた。 主に備後地方を中心に燈籠、 狛犬の傑作を残しているが、 遠くは山口県、 島根県、 姫路市内にも彼の作品が残っている。 太平の世となり備後の石工は城郭建設が無くなり、 優れた技術を寺社・民生に発揮した。 この狛犬の寄進者は多くの廻船業者が名を連ねて いる。 「阿吽の形相で子を守る獅子を彫った一対の狛犬は珍しい」 と氏子の人が話していた。 – 51 –

路傍の文化財


玉垣碑その1

須佐之男神社

第一編 神社の石碑

石垣の総延長は約 160 m、寄進された総延長は 107.5 間で一致しない。間数は何を あらわしているのか、高さも加味されているのか? 単純に長さだけの表示ではないようだ。 玉垣は倒壊したため、再度組み直したと思われるが、柱の組立順序が倒壊前後で違っ ているため、「きびのさと」に記載されているものと異なる部分がある。 破損したものは新たに作り直し、再建時の寄進者の名を刻んだ。残材は本殿北側に集 積されている。板状の碑文は、かなり高度な技能者が刻んだと思われる。

84

吉岡屋新助

所司利男

岡山市撫川

吉井久善 85

83

弥左エ門

110

下撫川

文治郎

111

大橋町

重吉 112

巳年女

玉屋

石助 113

下撫川

中屋

114

吉三同郎次傳川撫下 同

弥五郎 重太郎

115

大橋町 魚屋 同

116

同人

117

興之七

118

世話人組頭

文吉 宗右エ門

栗坂屋

助太郎 松次郎

119

86

南面左側その2

– 52 –

茂四郎 熊藏

120

121

難波定右エ門

122

同藏徳川撫下

87

岡山市撫川

88

同人

89

同人

藤吉

善吉 多藏

90

同人

世話人組頭

煙草屋

炭屋

91

鳥越平兵衛

文兵衛

糀屋

92

世話人

123

郎三松

同人

124

93

郎三六同郎三元川撫下

栗坂屋=西向にあった料亭

林 享平

125

幸原文武

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

曽我三郎

西川

難波政則

126

向西

幸原 富士夫

助之石

伊勢太郎

見助 友八 94

玉屋

扇屋

95

髙 勇

96

にわせ屋 同

97

同人

常藏 98

玉屋

99

昭和54〜55年に取替え

奉寄進 127

民藏

100

福屋

同人

長次郎 千賀二

101

千代藏 文左衛門

坪屋

三国屋

102

難波祐三郎

利右エ門

橋本屋 狹川町

103

吉卯西同吉榮川撫下

郎次金同郎三源川撫下

奉寄進

昭和54〜55年に取替え

南面左側その1

109


須佐之男神社

玉垣碑その2 第一編 神社の石碑

■大橋 万納屋 儀助について 2012 年(平成 24 年)8 月、愛媛県南宇和郡愛南町の岩井義晴(72)さんの問い合わせにより、次の事が分かった。 愛南町一本松に「まんのうやお長」さんのお墓があり、 位牌には「文化十年九月晦日 備中戸川領なつ川 まんのやお長」 とある。この人は女性遍路で、巡礼の途中行き倒れになりここに埋葬された。毎年 8 月 16 日には「まんのや踊り」という盆 踊りをして霊を慰め、地域の方々に手厚く守られている仏様である。今まで不明であった生国に、200 年経って里帰りさせて あげたいと地元の関係者が考えた。 この話が、岡山市教育委員会を通じて当会に問合せがあった。 「きびのさとNo.68」によると、万能屋はもと讃岐塩飽(しあく)諸島の出身で、いつ頃撫川へ来たのかは知れないが、かな りその道に名を知られた宮大工で、傍ら料理店を開いていた。観音院の墓碑に「文化十二乙亥年六月十一日 満んのうや かよ」の墓石があった。 (今は整理され現存しない) 私たちの調査では、松林寺の太神宮本殿の玉垣に「天保十四癸卯秋八月 万納屋 和三郎」の銘があり、また須佐 之男神社の玉垣には「文久三年九月 万納屋 儀助」の銘がある。この碑は文化十年(1813)九月のお長さんの死から 50 年経っている。 これ等の屋号は何れも「万納屋」と書かれており、類似の名前もなく一族と思われる。 2012 年 8 月 10 日(金)記 同年 8 月 22 日 山陽新聞に掲載

奉寄進

郎三助同松庄同郎次彦川撫下

勇左エ門

下撫川

64

文久三癸亥年 九月吉辰 世話人

定右エ門

定杭

45

44

63

御石垣施主

同 同 同 同 同 同

下撫川

17

三間 難波政義 弐間 難波経徳 三間 髙 文八 三間 同 喜右エ門 三間 同 定七 弐間半 東 勇右エ門 壱間半 髙六良右エ門 壱間 同 多治郎 壱間 同 八右エ門

壱間 壱間 壱間 壱間 壱間 壱間

亦左エ門 久兵衛 新 六 兵治郎 甚太郎 岩太郎 石太郎 万三郎 和三郎 興四郎 興 八 清 吉 新 助 藤 市 万 藏 清三郎 18

南面右側その2

43 42 41 40 39 38 37 36

壱間

壱間

壱間

19

文久3年=1863年

奉寄進

46

壱間

– 53 –

定杭

中川屋 千代藏 定杭 平 藏 高田屋 増 吉 定杭 氏子中

中島

五間 二間 壱間半 弐間

三間 三間 壱間 壱間

23 22 21 20

47

65

八間 袖岡庄五郎 三間 吉見屋 善吉 三間 吉岡屋 粂治良 壱間 吉岡屋康右エ門 壱間 児島屋 惣兵エ 壱間 瀬口屋 清三郎 壱間 大黒屋 惣吉 山口亮平 壱間 飴屋 喜助 嘉三郎 壱間 児島屋 定助 栞屋 佐治郎 卯吉

48

中島

67 66

68

壱間 幸屋 日畑屋

49

大橋

惣兵衛

50

児島屋

定杭氏子中 世話人 勘太郎

69

壱間 吉岡屋 源五郎 児島屋 庄吉 西尾屋孫右エ門 壱間 末吉 吉杢屋 定吉 岡屋 壱間 宇助 中屋 喜十郎 紙屋 壱間 宗津屋 喜助 芳藏 岡島屋 吉兵エ 仙吉 友太郎

30

27 26 25 24

狹川町 吉岡屋庄五郎

70

水島屋 壱間 高田屋 魚屋

壱間

太田新助 中島 万吉 同 百助 同 三藏 八蔵 榮次郎 同 嘉七 菊次郎 玉藏 六太夫 藤四郎

福居 民藏 重藏 十七吉

同 壱間 中 妹尾川 同

壱間

壱間

壱間

32 31

28

同人

71

54 53 52 51

29

72

音吉 吉三郎

清次郎 平 藏

55

73

壱間 儀助 弐間 魚屋 伊平 壱間 平瀬屋 喜平 壱間半 万屋 文治郎

56

狹川

吉岡屋小三郎 同人 娘 袖岡新助 35 34 33

藏 吉

57

六間 壱間 拾間

南面右側その3

藤 佐

59 58

74

安太郎 儀 助 治兵エ 榮 吉 彦兵エ 庄兵エ 初治郎 重太郎

60

75

魚屋 壱間 万納屋 鳥羽屋 壱間 魚屋 鳥羽屋 万屋 壱間 新地 箕島屋

九三郎 常 藏 六治郎 伊三郎 さ と 重 吉 平十郎 冨三郎 吉 藏 安 吉 61

西

壱間 玉屋 弐間 玉屋 玉屋 壱間 玉屋 中屋 鳶屋 壱間 八浜屋 道具屋 壱間 栗坂屋 八浜屋

62

76

77

嘉吉

78

郎三治同松幸同吉卯川撫下 世話人 狹川町 茂左エ門

同人

79

同人

同人

吉岡屋庄五郎

土佐屋 大橋町 世話人弥吉

奉寄進 80

南面右側その1

16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1

路傍の文化財


須佐之男神社

玉垣碑名一覧表

第一編 神社の石碑

柱 35 36 33 20 24 38 37 4 5 25 6 1 2 59 3 21 23 22 7 52 40 41 42 58 53 54 34 39 8 9 10 11 12 13 14 15 26 27 31 51 43 43 55 48 44 46 45 61 44 48 47

須佐之男神社 枝番 村 名 挟川 挟川 挟川 定杭 中島 挟川 挟川 下撫川 下撫川 中島 下撫川 下撫川 下撫川 西向 下撫川 定杭 定杭 定杭 下撫川 大橋 挟川 挟川 挟川 西向 大橋 大橋 挟川 挟川 下撫川 下撫川 下撫川 下撫川 下撫川 下撫川 下撫川 下撫川 中島 中島 福居 大橋 1 挟川 2 挟川 1 大橋 1 挟川 1 挟川 2 挟川 1 挟川 西向 2 挟川 2 挟川 1 挟川

No. 柱 52 61

枝番 村 名 西向

53 45

2

挟川

54 55 55 46 56 47

2 1 2

大橋 挟川 挟川

57 58 59 60 61 62

16 16 17 17 29 29

1 2 1 2 1 2

下撫川 下撫川 下撫川 下撫川 中島 中島

63 30

1

64 65 66 67 68 69 70

30 32 32 50 56 49 49

No. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51

石垣寄進者名簿 字 役割 屋号

吉岡屋 中川屋 吉岡屋 吉見屋 高 高 中島 東

玉屋 高 定杭 定杭 高田屋 高 魚屋 児島屋 瀬口屋 大黒屋 玉屋 平瀬屋 万屋 吉岡屋 吉岡屋 高 高 高 高 高 高 高 高 中島 中島

飴屋 魚屋 岡屋 児島屋 児島屋 幸屋 蔦屋 繋屋 中屋 西尾屋

枝番 1 3 2 1 2 3 1

村 名 挟川 大橋 挟川 下撫川 下撫川 下撫川 下撫川

88

19

2

89 90 91 92 93 94 95 96 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137

19 28 28 28 86 98 119 127 112 112 95 95 116 116 93 67 74 92 92 94 100 110 104 75 76 111 96 96 105 101 104 69 80 83 63 64 65 66 68 71 71 72 72 73 73 81

3 1 2 3

1 2 1 2 1 2 1

No. 138

柱 81

枝番 村 名 2 下撫川

139

81

3

下撫川

治三郎

140

82

1

下撫川

彦次郎

141

82

2

下撫川

庄松

142

82

3

下撫川

143

90

144

91

1

下撫川

元三郎

145

91

2

下撫川

金治郎

146

99

1

下撫川

147

99

2

下撫川

148

102

千代蔵

149

102

文左衛門

1 2 1 2 1 2

高 高 関戸 東

名 吉兵衛 重太郎 喜助 與八 清吉 新助 藤市

石垣幅 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間

下撫川

万蔵

壱 /3 間

下撫川 中島 中島 中島

東 中島

清三郎 八蔵 栄治郎 嘉七 平兵衛 祐三郎 定右エ門 政則 弥五郎 重太郎 見助 友八 文吉 宗右衛門 文兵衛 惣兵衛 茂左衛門 多蔵 善吉 伊勢治郎 常蔵 重吉 長次郎 弥吉 嘉吉 石助 高 勇 利右エ門 民蔵 千賀二 庄五郎 庄五郎 新助 勇左エ門 定右エ門 万吉 磯助 勘太郎 音吉 吉三郎 清次郎 平蔵 藤蔵 佐吉 卯吉

壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 № 87,88,89 同人

下撫川 大橋町 大橋町

魚屋 魚屋 扇屋 扇屋 栗坂屋 栗坂屋 糀屋 世話人 児島屋 世話人 児島屋 炭屋 煙草屋 玉屋 玉屋 玉屋 坪屋 世話人 土佐屋 土佐屋 中屋 庭瀬や 庭瀬や 橋本屋 福屋 三国屋 吉岡屋 吉岡屋 吉岡屋 世話人 世話人 世話人 世話人 世話人

大橋町 大橋町

挟川町

下撫川 下撫川 大橋町 大橋町 下撫川

1 2 挟川町 2

屋号 姓 水島屋 箕島屋 宗津屋

鳥越 難波 難波 難波

2 1

1

役割

下撫川 挟川町 挟川町 下撫川 定杭 中島 大橋 定杭 挟川町 挟川町 挟川町 挟川町 挟川町 挟川町 下撫川 字

役割

屋号

名 幸松

日畑屋

宇吉

半間

万納屋 吉岡屋 吉埜屋

儀助 源五郎 末吉

半間 半間 半間

高 高 高 高 中島

石太郎 万三郎 和三郎 與四郎 菊次郎 玉蔵

半間 半間 半間 半間 半間 半間

150

106

下撫川

中島

妹尾川

六太夫

半間

151

107 1

下撫川

源三郎

2 1 2 3 2 3 1

中島 福居 福居 挟川 大橋 挟川 挟川

妹尾川

半間 半間 半間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間

2

西向

栗坂屋

末蔵

壱 /3 間

72 72 73 74 75 76 77 78 79 80

2 2

大橋 挟川 西向 西向 西向 大橋 大橋 西向 西向 大橋

新地 高田屋 玉屋 玉屋 道具屋 鳥羽屋 鳥羽屋 中屋 八浜屋 万屋

初治郎 仙吉 六治郎 伊三郎 富三郎 治兵衛 彦兵エ さと 安吉 庄兵エ

壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間 壱 /3 間

107 108 109 114 115 115 117 117 118 118 123 123 128 122 124 125 84 126 121 85

下撫川 大橋町 下撫川

71 62

152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 97 98 99

2

魚屋 魚屋 岡島屋 紙屋

藤四郎 重蔵 十七吉 友太郎 栄吉 芳蔵 喜十郎

1 2 1 2 1 2 1 2

下撫川 下撫川 大橋町 大橋町 大橋町 大橋町 下撫川 下撫川 西向

金治郎 文次郎女 巳年女 與之七 傳次郎 三吉 助太郎 松次郎 茂四郎 熊蔵 徳蔵 松三郎 石之助 富士夫 文武 三郎 利男 勝 享平 久善

3 1

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

備考

柱 50 57 49 18 18 18 19

石垣幅 半間

1 1 3

役割 屋号 姓 八浜屋

No. 81 82 83 84 85 86 87

名 平十郎

57 50 60 60 62 56 56 60 62 57

文久癸亥三年九月吉辰(1863) 姓 名 石垣幅 備考 新助 拾間 庄五郎 八間 小三郎 六間 千代蔵 五間 新助 参間 粂治良 参間 狛犬の寄進 善吉 参間 狛犬の寄進 喜右衛門 参間 定七 参間 万吉 参間 勇左エ門 弐間半 政義 弐間 経徳 弐間 常蔵 弐間 文八 弐間 平蔵 弐間 氏子中 弐間 増吉 壱間半 六良右エ門 壱間半 伊兵 壱間 壱間 惣兵衛 清三郎 壱間 惣吉 壱間 九三郎 壱間 喜平 壱間 文治郎 壱間 小三郎娘 壱間 康右エ門 壱間 多治郎 壱間 八右エ門 壱間 亦左エ門 壱間 久兵衛 壱間 新六 壱間 兵治郎 壱間 甚太郎 壱間 岩太郎 壱間 百助 壱間 三蔵 壱間 民蔵 壱間 磯助 壱間 亮平 半間 喜助 半間 安太郎 半間 定吉 半間 嘉三郎 半間 庄吉 半間 佐治郎 半間 重吉 半間 定助 半間 宇助 半間 孫衛門 半間

宮大工

– 54 –

藤吉

親柱

№ 77 ~ 79 同人

№ 70 同人 親柱 親柱

氏子中

石垣幅

備考

組頭

栄吉 西

卯吉

世話人

弥左エ門

世話人

撫川

№ 120 同人

助三郎 世話人

撫川

備考

世話人 幸原 幸原 曽我 所司 西川 林 吉井

組頭

組頭

昭和の人 昭和の人 昭和の人 昭和の人 昭和の人 昭和の人 昭和の人


須佐之男神社

玉垣の銘

玉垣の銘

第一編

(本殿の南側)

神社の石碑

奉寄進鳥越平兵衛

新助

安原登興

中野屋

奉寄進横田盛貞

安原登興

奉寄進難波祐三郎母

拝殿前石段袖壁 難波純一郎長女 備前竹原村 赤松満勢

同苗茂登

袖岡粂二郎長女

東、西、北側の玉垣は、本殿焼失のとき破壊さ れた。玉垣はコンクリート製で再建され銘は無い。 創建時のものは南側のみ。

年代不詳 国境を越えての婚姻も一般的だったようだ。 西側

東側

燈籠(竿) の銘 No.1

南面

南面 (参道)

No.2

西

西

願主

岡本保八郎

疫神社

享保十八年九月吉日

奉献燭

奉献石燈籠

九月吉日

下撫川 難波太兵衛 岡山紙屋町 大工屋久左エ門

享保五庚子歳

みずのとみ

享保十八癸巳 = 1733 年

かのえね

享保五庚子 = 1720 年

No.3

南面

南面

No.4

九月吉日

願主 荒木十郎兵光重

奉献燭

東 享保三年

西

奉献燭

疫神社

願主 荒木藤左エ門光豊

西 享保三戊戌九月吉日

北 疫神社 つちのえいぬ

つちのえいぬ

享保三戊戌 = 1718 年

南面

No.5

享保三戊戌 = 1718 年

No.6 東

西

奉献石燈籠

享保四九月吉日

難波姓 重行

銘なし

つちのとい

享保四己亥 = 1719 年

– 55 –

路傍の文化財


五穀豊穣

備後国新市甼 髙田鋳造所作

疫 神 宮 発起者並世話人 両社宮奉賛会

天下泰平

奉寄進 福井 太田佳晴 宮司 中島逹夫 彫刻 福井 岡本仲男

奉寄進 福井 太田佳晴 宮司 中島逹夫 彫刻 福井 岡本仲男

維持平成四年十月吉日健之

須佐之男神社

手水舎

東面

南面

昭和三十一丙申年仲秋再建

須佐之男神社

2210

正面敷石廿七枚

奉寄進

百 度 石 難波常造

南面 西面 北面

1060

□150 □240

西面

北面

2450

維持平成四年十月吉日健之

240 450

西向

享保三

戌戊 九月吉日

– 56 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

鐘楼 東面 北面

明治廿九年八月吉旦

540 1200

社神疫

鉢水奉 415

手水舎 神社の石碑

3300

百度石 第一編

4000

鳥居

百度石ほか 須佐之男神社

南面


3 撫川八幡神社

第一編

撫川、 中撫川の日蓮宗信徒の神社(中撫川551)

神社の石碑

– 57 –

路傍の文化財


撫川八幡神社

神社の沿革

第一編 神社の石碑

八幡神社の沿革 旧社格 村社 鎮座地 岡山市北区中撫川 551 氏子地域 中撫川、 撫川 ■由緒 往昔、 吉備中山に大吉備津彦命鎮座後、 十握剣を宝物として彼の社に納めた。 寛喜年中 (1229〜1232) に彼の社が回禄の 際、 御剣をこの地に遷して奉斎した。 御剣は彼の社に奉還後、 御剣の縁に依って天照大御神須佐之男命を跡地に祭った。 後、 天照大御神を祀り下社とした。 寛永年間(1624〜1644) に八幡神・春日神を勧請して八幡神社と改号した。 慶長の頃(1600年前後)再興し、 元禄15年(1703) にも再興し現在に至っている。 ■御祭神 ほんだわけのみこと

あめのこやねのみこと

品 陀和気命・天照大御神・天 児 屋 根 命

(岡山県神社庁の資料による)

八幡神社と須佐之男神社 両神社が並存している理由について 『きびのさと」No.71 p−5(昭和39年8月発行) には次のように書かれている。

天和三年(1683) に撫川5000石を知行した初代領主達冨は、 領内に国家鎮護の神が無かったので、 八幡の大神を勧請して 氏神として崇め奉った。 (八幡山の八幡神社の分霊を祀り正八幡宮と尊称した。 ) はるか昔の10世紀頃に本地垂迹説に基づいて神仏は一帯であるという習合から神社は社僧を置いて社務を掌らしめた。 この下の宮は日蓮宗の法正山信城寺が別当として奉仕してきたのである。 創建については境内の燈籠に正徳四年(1715) の銘があるので、 それ以前、 戸川氏が転封してから30余年の間に建てられたこ とは確実である。 上の宮も創建については何も文献が無く明確を欠くも社前の燈籠の軸石に享保三年(1718) の年号が刻まれているので、 下の 宮よりも年代が浅いが大体同じぐらいに建てられたものと推定される。 上の宮は真言宗の金華山観音院が奉仕した関係上宗教 的に分れて神事が行われ永い年月の間に日蓮信者と他の仏教徒とが自然に分離し、 ついに今日見るような宗教別に二つの氏神 が存在するという変則になったのである。 思うに創建当時戸川氏は日蓮宗の大檀那にして権勢の上にあって他宗を排斥するかの態度(信仰者も勿論) を示した事がそ の原因となって他宗を刺激した結果「信仰の自由」の立場から宗派別に氏神を祭祀するようになったと想像せられる。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 58 –


撫川八幡神社

配置図 第一編 神社の石碑

須佐之男神社へ 寄宮 時芳神社

妙見宮 本殿 玉垣その3

拝殿

鐘楼

手水鉢

61.6m

狛犬

狛犬

狛犬

石燈籠

石燈籠

狛犬

石橋 神社名碑

鳥居 玉垣その1 21m

– 59 –

玉垣その2

路傍の文化財


第一編

神社の石碑

中尾屋 妹尾屋 新 町

北面

定十郎 吉蔵 松之助 角常

惣助

善助

坪井康吉

赤木万雄

横田庄三郎盛貞

28

27

26

29 同

川入屋

中尾屋

新田屋 八十八

木島屋 久三郎

多喜治

中浜屋

久米屋

のぶや 善兵衛 花尻や 友

長右エ門

あらき屋

利兵衛

庭瀬屋

見付屋 吉四郎 角 屋う

蔵 助

吉兵衛

大内屋

川入屋 嘉

佐伯屋 岩

狭川町

定杭

狭川町

妹尾屋

岡山市撫川

岡山市撫川

奉寄進

南面

津田氏

六 吉

初三郎 音 吉

定右エ門

金左エ門

新 町

甚 多

家根屋

弁左エ門 吉三郎

川入屋

屋 松之助

山田屋 喜代八

大工

大工

亀太郎

山田屋

清兵衛

才楽屋

大工

惣十郎 杢 蔵

久米屋伊助

大工 同

安五郎

大供屋

増五郎

中村や 三五郎 現金や 半左エ門

本 屋里

今出や 儀

助 栄

大橋町

45

中尾屋源八

ゆきや

42

46

奉寄進

43

47

44

48

50

51

桶 屋 川入屋 □□や 定杭

太田佳晴

No.27 赤木万雄 食品会社社長 No.28 坪井康吉 畳表製造会社社長

喜 助 善 蔵 金左エ門

柱の本数は破損により取り替えられ、創建当時のものではない。 No.27, 28は昭和後期に取り替えられた。

世話人

京城

助五郎

30

33

49

奉寄進

– 60 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

31

34

52

54

53

55

57

56

58

59

32

35

37

36

38

39

40

41

60

61

62

玉垣その 1 撫川八幡神社


鳥居

鳥居の銘は、 笠木の下面に刻まれている。 正徳5年=1715年 寛永→正徳→享保 庭瀬藩主戸川安風の弟達冨が、 早世した安風の名跡を 相続し撫川知行所の初代領主となっていた。 玉垣も鳥居と 同時代の築造ではないか? 4000

髙橋善七郎

2750

和吉 平吉 仙三

吉 八

太田安兵衛 六右エ門

長十郎

佐 弥

中撫川

六三郎 多 助

奉寄進

奉寄進

長太夫

久左エ門 宇三郎

福富

多五郎

三吉 甚 吉

赤木

幸 蔵 金次郎

勘 助 庄五郎

善 七

平 吉 新 吉

佐藤 順蔵 吉田 彦蔵

要 蔵 安五郎

三次郎 久 吉

嘉右エ門 浅 吉

与平治 伝 吉

下撫川 文左衛門

俣野庄右衛門

丸川 茂 市

佐藤 要 助

福富 和 介

徳右衛門 喜四郎

福居喜三右エ門

源 吉

2

中嶋

3

神社の石碑

3450

第一編

正徳五乙未年四月吉祥日

行□髙橋長太夫 同

中島 下撫川 同

昭和十八年十二月吉日

中撫川 清兵衛 福居 喜三衛門 福富 多五郎

路傍の文化財

– 61 –

奉寄進鳥居惣氏子中繁昌

北面 世話人

南面

1

4

5

6

8

7

9

10

11

12

13

14

15

16

17

18

19

20

21

22

23

24

25

玉垣その2・鳥居 撫川八幡神社


第一編

神社の石碑

奉寄進

太田多治郎

難波興平

大阪順慶町四丁目

奉寄進

奉寄進

奉寄進

下撫川東 新 町

氏子中

氏子中

氏子中

氏子中

氏子中

高塚

多喜

江本千代女

斧田猶次兼次

太田幸右エ門

佐伯屋場所

狭川町

植木藤四郎

奉寄進

安次郎

津田

伊 加

野 津

泰 純 民次郎

和孝

木下孝三郎

今屋

中尾屋

斧田猶次兼利

太田惣右エ門

平野屋

大町 住田屋

狭川町

福居

中島

亀太郎

高田屋 新町 友右エ門

下撫川東

大工

伊勢太郎 六三郎

吉 鶴

光 金

吉 よ

子供中

徳 寛

吉次郎

□□や内 八千代 □京屋内 小八重

かご屋内 小 伊世屋内 小

□□や内 琴 小 鳥羽□

玉屋

大橋町

川入屋

小ひ文 せ 以

大橋丸や 甚 新 町 き

庭瀬や内 小 園田や内 小

大橋町

定杭 魚屋内

135

136

137

138

139

140

141

142

144

143

145

146

147

148

149

150

188 102

151

189

187 190 103

192 の東面 101 の東面

191 104

南面

192 193 105

101 106

– 62 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

南面

107

152

153

154

155

156

157

158

159

玉垣その 3 撫川八幡神社

本殿

北面

本殿

北面


第一編

神社の石碑

佐伯屋場所

同 梅次郎

佐伯屋場所 同 同

勝 蔵

太郎左エ門

佐伯屋

佐伯屋

狭川町

中撫川

橋本屋 伊平衛

橋本屋 万三郎

狭川町 児島屋 宇兵衛 同 同

奈加屋 金 助

屋 定十郎

屋芳 同

屋 文兵衛

大内屋 平兵衛

吉岡屋 庄五郎 同

小原屋 藤 蔵

吉岡屋 新 助 吉岡屋 徳之助

同 同

屋 一平兵衛 同

吉岡屋又三郎

奉寄進

紋次郎

福富

熊次郎

八兵衛

民 喜

蔵 八

福居 同

藤三郎

中撫川

太田宇三郎

磯井幸四郎

太田

太田千代治

福井

太田孫三郎

福井

福井

太田亀治郎

地利禾以調之

角 常右エ門

定杭

太田三造

土佐屋 弥

芳野屋 孫

佐伯屋 藤吉郎

福井

奉寄進 太田 健次郎

福井

傳吉

福井

下撫川東 平之助

難波祐三郎

くらしき魚屋

160

西向屋 孫右衛門

路傍の文化財

– 63 –

東面

本殿

159

163 162 161

164

169

112 117

168 167 166 165

172 171 170

173

175 174

177 176

181 180 179 178

184 183 182

186 185

187

奉寄進

奉寄進

No.186 現在空白 (昭和39年7月まで存在した銘) 「きびのさと」No.74から転載

108

107 111 110 109 116 115 114 113 120 119 118 121 123 122 125 124 129 128 127 126 132 131 130 134 133 135

本殿 西面

玉垣その 3 撫川八幡神社

西面

東面


撫川八幡神社

第一編 神社の石碑

No. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89

柱 26 152 152 150 37 46 151 52 136 53 40 130 56 156 154 26 151 39 157 51 41 153 26 30 50 185 62 35 164 157 122 1331 58 41 114 120 184 105 108 115 139 29 26 54 148 61 60 55 61 146 149 182 150 26 141 44 32 34 53 125 126 186 33 154 38 36 124 123 36 128 140 140 52 134 127 33 39 155 51 57 43 129 132 133 135 24 27 167 107

枝番 7 1 2 1

2 1 2

1 5 1 2 1 2 6

2

1

1

2 3

1

2

2 2

1

1

2 1 2 2

1

1

1

玉垣碑銘一覧表

八幡神社 石垣寄進者名簿 正徳五年(1715) 名 役割 屋号 姓名 備考 世話人 □□や 松之助 大橋町 □□や内 八千代 大橋町 □京屋内 小千重 大橋町 □庄内屋 琴喜 定杭 あらき屋 長右衛門 新町 家根屋 定右エ門 大橋町 伊世屋 小金 内 大橋町 今出や 儀助 狭川町 今屋 安次郎 大橋町 現金や 半左エ門 狭川町 大内屋 吉兵衛 狭川町 大内屋 平兵衛 大橋町 大内屋 安五郎 大橋町 大橋丸や 甚吉 大橋町 岡田や 小寛 内 世話人 桶屋 定十郎 大橋町 かご屋 小光 内 定杭 角屋 うた 定杭 角屋内 小ひ文 松之助 大橋町 神歳屋 挟川町 川入屋 喜助 大橋町 川入屋 吉次郎 世話人 川入屋 吉蔵 挟川町 川入屋 惣助 大橋町 川入屋 仲蔵 芳野屋 孫助 久米屋 伊助 狭川町 久米屋 春吉 福居 くらしき魚屋 藤三郎 定杭 栗坂屋 せ似 狭川町 児島屋 宇兵衛 狭川町 小原屋 藤蔵 大橋町 才楽や 岩吉 狭川町 佐伯屋 岩蔵 佐伯屋 梅次郎 狭川町 佐伯屋 勝蔵 佐伯屋 藤吉郎 佐伯屋 場所 佐伯屋 場所 佐伯屋 場所 狭川町 住田屋 民治郎 狭川町 妹尾屋 善助 世話人 妹尾屋 善蔵 大橋町 大工 亀太郎 大橋町 大工 亀太郎 大橋町 大工 惣十郎 大橋町 大工 豊吉 大橋町 大工 増五郎 大橋町 大工 杢蔵 新町 髙田屋 友右エ門 大橋町 玉屋 伊勢太郎 土佐屋 弥吉 大橋町 鳥羽口 小鶴 世話人 中尾屋 喜助 狭川町 中尾屋 喜助 狭川町 中尾屋 源八 狭川町 中尾屋 助五郎 狭川町 中尾屋 多喜治 大橋町 中村や 三五郎 狭川町 中屋 芳助 狭川町 奈加屋 金助 西向屋 孫右衛門 狭川町 新田屋 八十八 庭瀬や 小徳 庭瀬屋 利兵衛 狭川町 のぶや 善兵衛 狭川町 橋本屋 伊兵衛 狭川町 橋本屋 万三郎 狭川町 花尻や 友吉 狭川町 花屋 丈兵衛 伊野 狭川町 平野屋 狭川町 平野屋 加津 大橋町 本屋 里栄 東屋? 狭川町 信屋 芳兵衛 狭川町 松屋 定十郎 狭川町 水島屋 久三郎 定杭 見付屋 善四郎 大橋町 見世 子供中 大橋町 山田屋 喜代八 大橋町 山田屋 文吉 狭川町 ゆきや 吉助 狭川町 吉岡屋 庄五郎 狭川町 吉岡屋 新助 狭川町 吉岡屋 徳之助 庄三郎事 狭川町 吉岡屋 又三郎 下撫川 赤木 三吉 撫川 赤木 万雄 中撫川 磯井 幸四郎 植本 藤四郎 村

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

職業

旅籠・料理屋 旅籠・料理屋 旅籠・料理屋 旅籠・料理屋 旅籠・料理屋

旅籠・料理屋 旅籠・料理屋 旅籠・料理屋 旅籠・料理屋

旅籠・料理屋 旅籠・料理屋

興業 興業 興業

旅籠・料理屋

旅籠・料理屋 旅籠・料理屋

旅籠・料理屋

旅籠・料理屋

旅籠・料理屋 廻船業 廻船業 廻船業 廻船業

– 64 –

No. 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178

柱 168 193 172 173 104 181 143 169 170 171 2 139 142 192 137 19 11 103 138 42 28 165 101 13 12 26 19 17 4 2 16 8 47 26 16 22 7 25 9 183 49 163 156 45 23 26 161 5 3 23 22 20 24 48 25 59 21 25 147 48 25 25 4 163 121 1 6 180 15 9 162 47 17 8 14 20 25 166 49 159 18 3 18 15 144 10 25 160

八幡神社 枝番 村 名 役割 福井 2 福富 福井 福井 1 福富 福井 福居 福井 福井 福井 1 中撫川 1 狭川町

1

下撫川

1

狭川町 狭川町

4 1 2 1 1 2 2 2 2 2 8 1 1 3 2 2 2 2 2 2 4 1 1 1 2 2 2 1 2

7 2 1 4 2 1

1 2 1 1 2 1 1 6 1 2 2 1 1

5

大阪

下撫川 下撫川 中撫川 下撫川 下撫川 福居 新町 定杭 下撫川 下撫川 福居 福居 福居 新町 福居 大橋町 新町 下撫川 新町 福富 中嶋 中撫川 下撫川 下撫川 下撫川 下撫川 新町 中撫川 大橋町 下撫川 下撫川 下撫川 新町 福富 福富 中撫川 福居 中撫川 中撫川 中嶋 定杭 下撫川 福居 福富 新町 下撫川 福井 下撫川 下撫川 下撫川 下撫川 新町 福富 下撫川 中撫川 下撫川 下撫川 中島 福富 中島 福富

石垣寄進者名簿 正徳五年(1715) 屋号 姓名 備考 太田宇三郎 太田多治郎 太田亀治郎 太田健次郎 太田幸右エ門 太田三造 太田惣右エ門 太田千代治 太田傳吉 太田孫三郎 太田安兵衛 大町泰次郎 斧田猶次 兼利 斧田猶次 兼次 木下考三郎 佐藤順蔵 佐藤要助 髙塚多喜 津田和孝 津田 No.138? 坪井康吉 難波祐三郎 順慶町四 難波興平 俣野庄右衛門 丸川茂市 横田正三郎 盛貞 吉田彦蔵 三次郎 六三郎 六右エ門 浅吉 宇三郎 音吉 世話人 角常 嘉右エ門 勘助 喜左衛門 世話人 喜左衛門 喜四郎 喜助 吉三郎 喜八 新町 きよ 金左衛門 金次郎 世話人 金左エ門 熊次郎 源吉 佐吉 幸蔵 庄五郎 新吉 甚吉 甚六 世話人 清兵衛 清兵衛 善七 世話人 仙蔵 東 仙蔵 多吉 多五郎 世話人 多五郎 多助 民蔵 太郎左エ門 長十郎 長太夫 角 常右エ門 伝吉 徳右衛門 八兵衛 初三郎 久吉 久左エ門 文左エ門 平吉 世話人 平助 東 平之助 弁右エ門 紋次郎 安五郎 弥八 要蔵 余平治 和吉 和介 世話人 和助 和助

職業


撫川八幡神社

鐘楼・手水舎 第一編 神社の石碑

鐘楼

奥行2440

2260

昭和31年11月4日再興奉献

西面

五穀豊穣

備後国新市甼 髙田鋳道所作

正 八 幡 宮

発起者並世話人 両社宮奉賛会

天下泰平 北面

南面

昭和三十一丙申年仲秋再建

銘は「正八幡宮」

東面

手水舎

奉納 丸川□□□□

– 65 –

路傍の文化財


石燈籠4基+(1基火袋欠損) 正徳5年(1715年)

神社の石碑

1650

石燈籠 第一編

妙見宮

社名碑

奉寄進 福井 太田佳晴 中島逹夫 宮司 彫刻 福井 岡本仲男

奉寄進 福井 太田佳晴 宮司 中島逹夫 彫刻 福井 岡本仲男

維持平成四年十月吉日健之

維持平成四年十月吉日健之

240

450

正徳五乙未年九月

正徳五乙未年九月

– 66 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

八幡 神 社

2210

その他 撫川八幡神社

時芳神社・寄宮

社名碑


4 天満天神社

第一編

菅原道真をお祀りしている社(西花尻279)

神社の石碑

– 67 –

路傍の文化財


天満天神神社

配置図

第一編 神社の石碑

本殿

拝殿 寛政八年八月廿九日 寛政八年( 1796)

風致保存碑

手水鉢 文政五壬午年 文政五壬午年(1822)

燈籠 鳥居

創 祭

建: 年月日は不詳である。 神: 菅原道真 15世紀ごろ、吉井大和守がこの地への移住に際し、氏神として奉斎したとされる。 この地域には吉井姓の子孫が多く在住している。ある子孫の話では先祖は播磨から来たと言い伝えられているとのこと。 大和守がいかなる人かはわからない。 石灯籠は寛政八年(1795)、手水鉢は文政五年(1822)年に奉納されている。 記念碑: 風地保存碑 大正8年に風致地区に指定されて事業をした時の記念碑。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 68 –


寄付者名簿

天満天神神社

第一編 神社の石碑

天満天神社の寄付者名簿

(風致保存碑)

代惣神氏

当村

一金十円

一仝 一仝 一仝 一仝

惟門

磯島清吉

西組講中 中組講中 奥田講中 飛谷講中

磯島仙吉 中田篤雄 磯島留次郎 江尻梅吉

発起者 一金五十七円 一金五十三円 一金五十二円 一金四十二円

難波春三郎 石工 熊代弥九郎 森 吉井興平

水島千代治 難波武雄 熊代俊太郎 難波金五郎 森安興一郎 水島寿一郎

大正八年五月建之

世話人

中田一雄 太田光造 中谷喜代治 磯島利吉 近藤政次 太田兵吉

篤志者芳名

都窪郡撫川町大字新ヤシキ

当村

一金拾五円 太田銀次郎

吉井照太郎

吉井弥市

一金拾五円 難波彦四郎

当村

赤木喜太郎

江尻丈助 水島清吉 水島久馬男 熊代多賀次 磯島城太郎

一金拾二円 江尻安次郎

一仝

一仝 仝

一金拾円

一仝 一仝 一仝 一仝 一仝

風致保存碑 名簿詳細

裏面

風致保存とは? 風致地区とは、大正 8 年(1919)に制定された都市計画法において、都市内外の自然美を保存するために創設された制度。 村の有志が、この宮を中心に自然の景観を保存し村民の安息の場にした。 帰米者とは? 明治 30 年代以降、アメリカへの農業労働者として出国し帰国した人。 ・・・国策としての(ブラジル移民)は明治 41 年の笠戸丸に始まる。 大正 8 年(1919)風地保存の事業を行った際、アメリカ帰りの人 6 名が世話役をしている。 近隣の地区からも、同時期に農業労働者として渡米した人たちが多い。 近くの例では ※ 1 東花尻の天神社の記念碑には、15 名の在米の氏子の名がある。 ※ 2 庭瀬八幡神社の鐘の寄進者 9 名のうち高額寄進者の上位 3 名は在米者である。 (昭和 34 年鋳造の鐘に鋳込んであったが、現在の物は平成になって再鋳され、寄進者名は書いて無い。 ) ※ 3 薗崎神社(延友)の鐘の寄進者 等々 この地域では現在でも、渡米した成功者の話が多くの集落で伝えられている。

– 69 –

路傍の文化財


5 御崎宮

第一編

大吉備津彦命のお墓守護の社(西花尻129近)

神社の石碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 70 –


御崎宮(西花尻)神社の由来・配置図

第一編

本殿

神社の石碑

拝殿 社号

本殿

5m

0

祭塔 180

社号の額 980

線香台

手水鉢 ←

150

この碑は天保の頃(1830 年代)、 この集落の為に犠牲となった僧の怨 霊を鎮める為、明治になって建てられ、 毎年祭祀した。 銘の意味は「怨んで退いてゆく僧を 祭る」と云う意味らしい。

22段

土塀が崩落している︒

僧怨退祭塔

拝殿

祭塔

奉納碑

記念碑

男書 難波佐久 毅 刃 森安

鳥居 2590

鳥居 燈籠

2230

拝殿入り口の社号の額 男書 難波佐久 毅 刃 森安

11段

創建:延喜年間 祭神:吉備武彦命 来歴: 醍醐天皇の延喜年間(900年頃)、 大吉備津 彦命の御墓守護の社として創建されたという。

18段

床面

屋根瓦の紋は「丸に五七の桐」。 誰の紋か? 社号の額は美術愛好家の氏子の手によった。 難波 佐久男 書 森安 毅 刃 – 71 –

路傍の文化財


御崎宮(西花尻)記念碑ほか

第一編

線香台

九月立之

奉納碑 手水鉢

東面

燈籠

造立之

天保六未己年八月

天保六年(1835)

奉燈

碑文詳細

念紀築改

明治四十三年

一金

一金

一金

八円

八円

拾円

拾円

拾円

一金拾弐円

一金拾弐円

一金拾弐円

一金拾弐円

一金拾五円

金弐拾五円

富山

江尻

森安

江口

森安

矢尾

江尻

難波

吉井

吉井

山形

藤原

矢尾

澤□□

福□

安太郎

兼□□

静太郎

金□□

七十□

君□□

実五郎

傳□

照太郎

弥市

房吉

嘉文

改修寄附者芳名

一金

五円

矢尾

神門 石段

一金

五円

吉井

一月一日

一金

五円

佐太郎

弥市

一金五円 赤木喜太郎

一金

五円

辰之□

一金十円 吉井

矢尾六三郎

一金

近藤

始太郎

矢尾富次

矢尾卯三郎

江尻実五郎

江尻丈助

近藤政次郎

吉井照太郎

難波傳次郎

一金

五円

近藤

矢尾福造

一金

五円

氏子中

一金

儀一

彦四郎

吉井

林□□

五円

難波

久次郎

一金

念紀築改

矢尾一□ 建之

奉 文政五 午壬年 五月

赤木

静□

兵吉

三円

赤木

益太郎

森安

三円

森安

キヌ

五円

一金

三円

矢尾

丹次郎

一金

一金

三円

内田

政□

関造

一金

三円

吉井

初治

内田

一金

弐円

熊代

磨志夫

四円

一金

弐円

吉井

長十郎

一金

一金

弐円

義男

重吉

一金

弐円

岩吉

吉井

一金

赤木

一金一円五十銭 熊代

一金

曽我

勇太郎

四円

一金一円

内田

一金

一金一円

磯島

丈助

一金一円

矢尾

檜板(幅2m×高さ25cm)

四円

随神門に掲げた寄附者名

一金

明治四三年(1910)建之

一金三円五十銭 江尻

一金五円

昭和九年五月

– 72 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

明治四五寅年

飛谷 若連中

神社の石碑

昭和9年(1934)設置

奉 納

明治四五年(1912)築造

文政五年(1822)築造

西面

氏子中

記念碑


6 天神社

菅原道真をお祀りしている社(東花尻525) 第一編 神社の石碑

本殿

鐘楼と土俵

– 73 –

路傍の文化財


神社の由来・配置図 1

天神社

第一編 神社の石碑

N

A断面

本殿

築造碑 富神社総代

森安延五郎 々豊 吉 々 貞太郎 々貞 治 々 伊之吉 々太 一

岡山市三門 田中石工所

昭和八年十月

拝殿

土俵

鐘楼

妻 喜美

倉庫

150

550

昭和三十五年四月施工

天 満 宮

旧登山道(山王大権現へ至る)

豊島石の石灯籠の竺石

手水鉢 24段

500

600

500

随神門 道真の座像が一対、 阿吽の像である。

寄進の年月不明

参道の石燈籠より以前に寄進されたようだ。

32段

0

祭神:菅原道真 創建:徳川家光の時代(1630年頃) 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

次頁に続く

– 74 –

5m

米寿 大賀芳夫

石灯籠の竺石(倒壊している)

15段

一金壱百萬円也

昭和三十九年四月吉日

高さ (道路面)+約25m


天神社

5m

第一編

0

鳥居

神社の由来・配置図 2

神社の石碑

38段

旧米穀倉庫所在地

10段

創建について 昔、 備前領尾上の丘に菅原道真公を祭祀していた小宮を東花尻 村民の願いによってこの地に勧請したと云われている。 尾上の宮跡は、

4段

礎石もありこの丘は天神山と呼ばれている。 創建時は西側の山王さまを経由し山道を登り参拝した。 「山王さ ま」は天神様の100m手前にある。 その後、 百八段の石段が作られた。

のぼり竿台

※山王様:本地垂迹説で天照大神を現す。

道路面±0

常夜灯 在米氏子寄附の碑 天神社本堂改築寄附の碑

道路 – 75 –

路傍の文化財


二十五円 中村仙次郎

十円

森安

森安

馬吉

友吉

森安佐源次

森安房次郎

森安源次郎

十一円 森安藤五郎

安吉

二十二円 森安久次郎

大賀

森安品次郎

二十二円 森安藤次郎

二十円

森安伸太郎

五円

藤田

絹子

吉野 市

富田

源吉

増七

伊之吉

赤税 原

小川

幹郎

矢代

□□ □

吉木

平□

犬飼小三治

西阿知

森本

大賀三次郎

森安常次郎

森安完一

竹内久次郎

□□

同年十月建之

森安定五郎 森安芳太郎 大賀茂次郎 森安忠七 森安 澄吉 森安徳二郎 大賀 庄造 大賀 亀吉 明治四十一年申十月吉日

代惣子氏

板野六二郎

安永六 丁酉天

附寄築改堂本社神天

円 大賀仁三郎 森安 作治 森安 健一

桂吉 山本十五郎

大工棟梁

信徒中

西花尻

板野シゲノ 福

藤田キミエ

嘉吉

七日市

沼辺

嘉吉

古新田

沼辺

鶴吉 門

□川

□之

光田

古新田

円 仝

金籠篭一対

横内

他出氏子

五十銭

七十銭

附寄子氏米在 仝

明治41年(1908) の本殿改修工事に渡米している氏子15名から寄附を受けた。 寄付者の総 数は72名、 うち在米者は15名である。 寄付金543円のうち、在米者は4割を寄附している。

奉燈

八月吉祥日

三十円 森安三五郎 二十五円 森安万次郎 二十円 森安 忠七 仝 大賀浅二郎 十六円 大賀 亀吉 十三円 森安 豊吉 仝 中村 治平 仝 大賀得三郎 十一円 大賀 造吉 十 円 森安遠三郎 九 円 森安先太郎 七 円 大賀安八郎 仝 佐藤仁十郎 六 円 森安 増七 一 円 板野六三郎 森安 円次 森安 茂平 仝

当村

安永六丁酉年(1777年)

四円五十銭

この石灯籠は基台が3段あり、 ほか神社の燈籠より高くて大きい。 高くする理由はなにか?

在米氏子寄附の碑 四円五十銭森安清十郎 四 円 森安伊三郎 仝 森安 亀太 仝 森安春三郎 仝 森安泰三郎 仝 板野 浅吉 仝 大賀 浅造 三円五十銭大賀 直造 仝 森安曾平治 仝 佐治久次郎 三円 森安吉平次 仝 則武 国造 仝 森安桂次郎 二円五十銭川上 定作 二 円 森安千代吉 仝 森安六三郎 一円五十銭森安風太郎 仝 森安恵一郎 大賀 キタ 上民 新吉

右のみ 右のみ

2600

神社の石碑

– 76 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

1050

第一編

員委築改

1680

本堂改築寄附の碑・常夜灯 天神社

常夜灯(左右一対)

天神社本堂改築寄付の碑


第一編

神社の石碑

天満天神宮

近隣にある神社の鐘は戦後14〜5年で再鋳再建している。 この神社は9年で再建している。

中村兼次郎 板野 茂

金山姫神 總代 森安金八 森安朝清

路傍の文化財

– 77 –

昭和二十九年掲げる

手置帆負神 金山彦神宮司 佐野光正 屋船久々能知神

天下泰平国家安穏

氏子 森安太一 板野信治

天神社鐘楼殿釣鐘再鋳竣成奉告祭

鐘楼の棟札

屋船豊受姫神 彦 狭 知 神

五穀豊穣氏子繁栄

都窪郡吉備町大字東花尻 昭和二十九年甲午年四月再鋳

梵鐘の銘

梵鐘 天神社


7 御崎神社

吉備津神社の末社として創建(川入小西) 第一編 神社の石碑

大賀一郎博士 顕彰碑 大賀一郎博士は、 2000年前の古蓮の実からの発芽を成功させた理学博 士。 神社の近傍に、 大賀博士の偉業を讃える顕彰碑があります。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 78 –


神社の由来・配置図

御崎神社

第一編 神社の石碑

0

5m

地神・水神・牛神 これらの社殿は大正6年頃まであった。

(現状は畑)

歌碑

荒神社

鳥居 稲荷神社

火の見櫓

鳥居の笠木のみ移設

史跡の碑

用水路

手水鉢

本殿

燈籠

↑ 御立橋の親柱 (御立橋架け替えで 不要になった欄干の親柱) 掲示板

拝殿

だんじり倉庫 (昭和初期まであった)

(公民館を兼ねる)

手水鉢

鐘楼

大賀博

士顕彰

(梵鐘は太平洋戦争の為に供出された)

この神社は吉備津彦命の随神犬養健命を祭神とする吉備津 神社の末社である。 明治43年「神社合祀令」により吉備津神社 の本宮社に合祀され、 その社殿跡に「御崎神社址」の碑が建て られたが昭和23年に再建、 造営された。 (碑は不要となった) 創建の時代は文化の頃、 庄村の日幡宮から勧請したと記録に ある。 手水鉢には文化五年(1808)と刻まれている。 社号は先導役の随神犬養健命の先導の御先が転訛し御崎と なった。

境内の南側に用水路を隔てて、 大正6年頃まで荒神様と稲荷 神社が祀られていた。 御崎神社を結ぶ橋の手前に鳥居があった。 その笠木が保存されている。 境内にある「御立橋」の碑は観音堂の北西にあった橋の欄干 の親柱で、 昭和の拡幅工事で不用になり記念保存している。 「小 西」 とは境川の西、 「かわにし (川西)」が転じて「小西」となった。

– 79 –

路傍の文化財


御崎神社

燈籠ほか

第一編 神社の石碑

本殿前の燈籠

1000

文化五辰年 氏子中 大賀氏造之

願 主 森 氏

氏子中

大賀氏造之

文化五辰年

願 主 脇 本 氏 族

願主 森氏

願主 脇本氏族

1950

手水鉢

文化5年(1808)

奉納の年代は不明。 脇本氏、 森氏一族により奉納された。 脇本氏は高松の合戦の時、 毛利勢の援軍として参戦した津和野城主吉見正頼の一族で、 その後板倉村近くに「脇本」を名乗り土着した。

200

850

みたちばし

御立橋

元は用水路を隔てた土手の上にあった。

1150

明治四十三年 七月

石工 太田富□

牛神

地神

水神

北面

明治四十三年七月

石工 太田富□

地神・水神・牛神

御立橋の親柱

南面

明治43年(1910)

史跡の碑 (この碑は意味が無い)

東面

西面

350

うぶすなのかみを とおとむみやしろに うじがまごころ ささぐたまがき

尊む御社に

産土の神を

氏が真心 さゝぐ玉垣

– 80 –

読み人しらず

犬養毅敬書

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

歌碑

犬飼健命後裔

大正六年春建之

御崎神社址

2270

1070


8 三十番神社

第一編

日蓮宗が選んだ30柱の神々の社(川入146)

神社の石碑

– 81 –

路傍の文化財


三十番神社

神社の由来・配置図

第一編 神社の石碑

N 玉垣造営 昭和九年

倉庫

本殿

0

燈籠①

5

燈籠①

拝殿

用水路

鐘楼

橋の入り口の標柱 南側(横倒しになっている) 北側 施主 氏子中

犬飼武右エ門

発起人

世話人 若連中

南面

手水鉢

東面

稲荷神社

燈籠②

燈籠③

用水路

戸川達安が八幡神社から分霊。水門守護の番神。 祭神:30 柱の神々 三十番神は、 神仏習合の信仰で毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のこと。 日蓮宗では不参不拝の精神から寺自体が全国有名な神を一日一神として30 神を祀った神社といわれている。 最澄が比叡山に祀ったのが最初とされ、 鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。 中世以降は特に日蓮宗や法華宗(法華神道) で重視され、 法華経守護の神とされた。 これは京都に日蓮宗を布教する為に比叡山の三十番神信仰を取り入れた。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 82 –


三十番神社

燈籠・鳥居・手水鉢 第一編

燈籠①

神社の石碑

2158

2158

奉燈

昭和九年二月 高木 諦

高木

昭和九年二月

奉燈

鳥居

2730

屋根、 額とも木製

手水鉢 900

530

享和元年

辛酉八月吉日

奉 寄 進

享和元年辛酉(1801)

燈籠③

文政十三庚寅四月吉日

文政十三庚寅四月吉日

2260

燈籠②

文政十三年庚寅(1830) ※12月天保改元

– 83 –

路傍の文化財


第一編

梵鐘の銘文 神社の石碑

三十番神社

備中国吉備町川入

平和の鐘

三十番神社

備中国吉備町川入

平和の鐘

前の梵鐘は大東亜戦 争中政府に献納しそ の鐘楼は傾き崩潰せ 氏子痛くこれを嘆く

んとす 仍て医師高木諦この 梵鐘を寄進し以て 氏子一同日本国の安 川入氏子中

泰と繁栄を祈る

疾水不及 解怠零終 警告今有 夜與慰休 上通梵宮 涛声応響 須聴懸龍 宣学虔中

銘白 時光急流 精進積功 夙設時鐘 暁破耽夢 下達奈落 松籟和音 甦祖啓蒙 大哉法器

– 84 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

昭和四十五年十月十八日再鋳

憧木の位置

昭和四十五年十月十八日再鋳

④ ②

① ④ ③ ②

740

梵鐘

1200

梵鐘 三十番神社


9 若宮八幡宮

第一編

応神天皇、 須佐之男命をお祀りしている社(庭瀬 中田地内)

神社の石碑

本殿は日吉造りの赤銅張り屋根で、技巧を駆使した壮麗な造りの社殿 である。往時、 社領は広く鳥居は 50m 程先に設置され、 参道が続いていた。 現在では、近隣の宅地化により境内が狭くなり、昔の石材が境内の周 辺に散乱している。

拝殿 – 85 –

路傍の文化財


若宮八幡宮

神社の由来・配置図

第一編 神社の石碑

0

5m

若宮八幡宮

三寶荒神

祇園牛頭天王

燈籠

三寶荒神

祇園牛頭天王

拝殿

道 願主 願主

宇野佐久衛門

八月十五日

寶暦六丙子年

進寄奉

宇野佐久衛門

寶暦六丙子年 八月十五日

手水鉢の銘

寶暦六年八月十五日(1756年9月9日)

手水鉢 鳥居

祭神: 牛頭天王 若宮八幡宮 三宝荒神 創建: 不明

(須佐之男命)祗園精舎の守護神。 祇園神という祗園信仰の神。 神仏習合では薬師如来の垂迹であり、 須佐之男の本地とされる。 (仲哀天皇,神宮皇后、 応神天皇) (法の守護神) (八幡神社を分祀した) (真言宗の信者が多いという) 板倉の御用人田丸屋新吉が京都の祇園神社に参詣し分霊をいただき祭祀した。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 86 –


第一編

神社の石碑

天明八年三月

發起□屋 伊八郎

南面

燈籠の銘

奉寄進

奉寄進

天明八年=1788 年

氏子中 發起人 武南源七郎

石燈籠

物部忠一

物部忠一

柴岡長藏

田中猪七

佐々木敏夫

岡本榮吉

福井鶴治郎

熊代榮五郎

犬飼嘉一

廣井真吉 平松さえ 坪井重太郎 谷口太六 伊丹幸吉

兼造 片山政治 吉田長次郎 包二

年一

社掌

牧野

御船義夫

御船

佐野祷吾

深井美代子

深井和三郎

亥□歳男

武南

田中

風早政一

牧野正男

小串ひさし

武南光五郎

森本甚吉

東面

牧野

西面

井上幸次郎 勇

矢尾勝司 佐々木

平松爲太郎

柴岡六吉

髙橋八太郎

深井和三郎

昭和八年十月 御船重太郎 世話人 武南光五郎

妹尾春久 福岡岩作 森田君子 宇野千加 宇野幾治 宇野義子

吉田

風早嘉源治 難波嘉太郎

阪東徳太郎

御船重太郎

深井権吉

深井権吉

奉献深井権吉

奉献深井権吉

深井権吉

深井権吉

柴岡六吉

路傍の文化財

– 87 –

南面

東面

本殿 西面

玉垣 若宮八幡宮

北面

北面


10

荒神社

第一編

作物、 火の神などをお祀りしている社(中撫川 中島地内)

神社の石碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 88 –


神社の由来・配置図

荒神社

第一編

800

670

490

神社の石碑

地神

牛神

龍宮海

N

地神

樹木

牛神

龍宮海

社殿

社殿

題目石

手水鉢

鳥居

燈籠

12370 この擁壁(石垣)南面に寄進者名が刻まれている。

0

5m

祭神:地域の守護神と屋敷神( 火の神、 作神など)の信仰対象

鳥居 燈籠

150

2235

石工

1900

270

山地村 惣兵衛

嘉永五年子秋

奉寄進

手水鉢

氏子中

天保四 癸巳年六月吉日

氏子中

吉日 天保四 癸巳年六月

2400

荒神宮

北面(裏)

天保四年(1833)

嘉永五年(1852)秋

750

– 89 –

路傍の文化財


第一編

神社の石碑

寅 治 周次郎 福次郎 幸次郎 儀三郎 與兵造 小三郎 千 智

三次郎 吟 造

常 蔵 伊三郎

治 郎 忠 吉 富二郎 平次郎 島 吉 其 吉 源 吉 利三郎

丸山 久吉 太田 三造

南面 650

450

難波六治良 坪井 五八

半間 難波

西向

半間 同

利平

傳藏

萬吉

嘉七

小三郎

太田

太田桂治良

八造

又吉

芳松

平松繁右エ門

太田

太田

太田五郎平

庄吉

興吉

芳蔵

平松榮治郎

松本

佐藤

中嶋

忠造

平川 源吉 西向 難波伊三郎

児嶋

大橋 荒木幸治良

太田 三造

太田 百造

丑五月建焉

明治十年丁

貳間

太田 利吉 中嶋 太田菊治良

壹間

半間

壹間

半間 荒木與四良 定杭 荒木彌五良

下撫川村 壹間 荒木岩太郎

世話方

半間 太田

壹間 森

半間 木下 中嶋 貳間 太田

難波政五郎

忠平

久平

平藏 藤作 万吉

嶋村平太良

新介

亮平

總平

唯治

寄附

三宅

袖岡庄五郎

袖岡小三郎

袖岡

山口

森本

狭川

徳芳村 壹間 小池 同 同 二間 壹間 同 半間

荒木

利七

伊三郎

粂吉

傳造

荒木源七

荒木兵治良

下撫川 一間半 岡政 治良 同 壹間 半間

難波

壹間 難波 同

中嶋

難波八右エ門

半間 難波 同 同

難波 仝

坪井 仝

多吉

平川

定吉

磯助

次田石之助

金光

大橋 曽我

難波 喜代造

常造

半間

西向 壹間 難波

半間

一間

一間半 難波

定杭 三間 難波定五郎

鳥居の東側

荒木 仝 仝 仝 光畑 仝 難波 仝

仝 仝

仝 仝

今岡 児島 平松 内田 曽我 仝 平川 仝

明治廿九年 申二月

社新築

施主 壹間 同

– 90 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

嗽 水 氏子中

鳥居の西側

明治十年(1877)

西面 北面 東面

袖岡 新介は三代袖岡守信 袖岡小三郎は袖岡利秀

460

手水鉢・寄進者銘 荒神社

手水鉢側面の銘

南側石垣側面にある寄進者銘


11

住吉神社

海の神・住吉大社の分社(中撫川 狭川) 第一編 神社の石碑

– 91 –

路傍の文化財


住吉神社

神社の由来・配置図 火の見櫓 (2022年現在撤去されている)

第一編

N

神社の石碑

社殿

稲荷神社

木野山神社

拝殿

由加神社

恵比寿神

燈籠

道 路

燈籠の銘

鳥居 天保十一年

水神 消火栓

屋岡吉

南面

道路

北面

天保十一年(1840) 境内には燈籠、玉垣などの壊された 部材が散乱している。

1,150

水神 天保年間に廻船問屋吉岡屋新助守端が大坂・住吉神社の分霊を祭 祀し、私家の海路の守護神として社殿を建てた。 今は吉岡屋の手を離れ、狭川町町内会で維持管理している。 当時は南側の掘割は巾 5m 程度あり船が行き出来たが、道路拡幅の 為埋め立てられた。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

施主

掘割

子十一月

住吉 大明神

燈奉

– 92 –


住吉神社

その他の神社 第一編 神社の石碑

③ 稲荷神社 商売繁盛の神様

④ 木野山神社 祭神:大山祇命 流行り病に霊験あらたか。

① 由加神社 厄除けの神

② 恵比寿神 商売繁盛の神様 「貝光庵心界」は応徳寺の住職 恵比寿神はイザナギ命、イザナミ命の第 3 子。

嘉永 四年 辛寅 季冬 吉辰

倉敷 石工徳松

東面

西面 嘉永 四年 辛寅 季冬 吉辰

倉敷 石工徳松

天下太平

国家安全

五穀成就

諸人快楽

天保十二辛丑年 六月吉日

天保十二辛丑年 六月吉日

施主 吉岡屋新助

吉岡屋新助

施主

北面

立建界心庵光貝

守昌繁売商

立建界心庵光貝

嘉永4年(1851)

天保12年(1841)

祠の恵比寿像は風化し剥落している。

– 93 –

路傍の文化財


住吉神社

玉垣

第一編 神社の石碑

本殿玉垣の銘 2540 北

1

11

2700

1

13

西

本殿

13

1 4

1

4

1

西

13

1 中島廣太 1 主施

袖岡屋新助

世話人

天保九戌十一月

天保9年=1838年 1

綱島清□

多田加太郎

吉田敬一郎

荒木正雄

袖岡六三郎

袖岡静太

袖岡小三郎

袖岡武夫

中島保蔵

東← 13

4

4

1 児島屋宗兵衛

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 94 –


吉岡屋について

住吉神社

文久3年(1863)

吉岡屋庄三郎

袖岡

徳之助

吉岡屋小三郎

袖岡

利秀

吉岡屋新助

袖岡

覚築

新助

袖岡

守端

新助

袖岡

守信

1800

元吉岡屋

荒神宮

(狛犬)

庭瀬八幡神社(玉垣)

(旧)撫川大橋常夜灯 慶應4年(1868)

須佐之男神社

天保11年(1840)頃

道標(住吉神社前) 安政6年(1859)

住吉神社 撫川八幡神社(玉垣)

明治10年(1877)

嘉永4年(1851)

天保2年(1831)

神社の石碑

碑文の中の「吉岡屋」

第一編

須佐之男神社(玉垣)

碑の場所と寄進者(○印)

1900

四代 五代

中吉岡屋

1815

初代

1861

二代 三代

吉岡屋庄五郎

庄五郎

吉岡屋庄五郎

初代 二代…

吉岡屋康右衛門 吉岡屋庄吉 吉岡屋粂治郎

袖岡

粂治郎

袖岡

茂登

粂治郎長女

吉見屋善吉

六三郎を後に善吉と改名

吉岡屋新助, 新介及び庄三郎、 小三郎は同一人物 庄五郎、 庄吉、 康右衛門の生没年不詳 二代、 三代庄五郎の生没年は不明 撫川領内の神社( 須佐之男、 八幡、 住吉、 荒の各神社)の玉垣に435名の寄進者の名前がある。 このほか、 庭瀬領内の太神宮( 松林寺境内)の玉垣に吉見屋善吉、 善吉母の名がある。 四代 小三郎

吉岡屋の系図 三代

元吉岡屋 小三郎

曾右衛門

文政2年(1819)没

徳之助

天保9年(1838)没51才

五代 小三郎

利秀

里與

安政14年(1859)没

明治14年(1881)没71才

岩五郎

東吉岡屋

源五郎

角吉見屋

九代 小三郎

登與

六三郎善吉

七代 小三郎

六代 小三郎

亀吉

文久元年(1861)没47才

甚三郎

明治5年没

(遠祖は相模国) 備中真壁郷溝口の郷士

真壁郷より移住、 吉岡屋と号す。

小三郎

袖岡四郎左衛門安之

明和6年(1769)没

延享3年(1746)没

中吉岡屋

二代

初代

新助

曾右衛門小三郎 寛政11年(1799)没

③ 覚築

文化11年(1815)没

新助

④ 守端

寛政9(1797) 〜 文久元(1861)

新助

⑤ 守信

静太

芝次

明治16年没

⑥ 清一郎

明治17年(1884)没65才

八代 小三郎

⑦ 正平

⑧ 経男

⑨ 雄蔵

昭和20年(1945)戦死

大正14年(1925)没71才

大正5年(1916)没41才

長女

茂登

吉岡屋

粂治郎

明治15年(1882)没

慶應2年(1866)没

ぶ ん

吉岡屋

康右衛門

多賀

吉岡屋

庄五郎

天保11年(1840)没

「きびのさと」№38、 99から

康平

撫川八幡神社の玉垣

須佐之男神社の玉垣 文久三(1863)年9月

同人娘

吉岡屋 小三郎

壱間

袖岡

六間

拾間

吉岡屋 小三郎

同人娘

袖 岡 新助

袖 岡 庄五郎

吉岡屋 粂治良

吉岡屋 康右エ門

庄三郎事

吉岡屋新助は二代袖岡守端 吉岡屋庄三郎徳之助は利秀?

八間 三間 三間 壱間 壱間 壱間 壱間 壱間

壱間

吉岡屋 庄五郎

袖 岡 庄五郎 吉見屋 善 吉 吉岡屋 粂治良 吉岡屋康右エ門 児島屋 惣兵エ 瀬口屋 清三郎 大黒屋 惣 吉 山 口 亮平 飴 屋喜 助 児島屋 嘉三郎 繋 屋定 助 幸 屋 佐治郎 日畑屋 宇 吉

狭川町

大内屋 平兵衛

吉岡屋 新 助

壱間 壱間

吉岡屋 新助

吉岡屋 徳之助

狭川町

吉岡屋 徳之助

吉岡屋 庄五郎

小原屋 藤

庄三郎事

信 屋 芳兵衛

吉見屋又三郎

奉寄進 御石垣施主

天保十(1839)年

吉岡屋小三郎は利秀、 娘は里與、 登與 袖岡新助は二代袖岡守信

– 95 –

路傍の文化財


12

すがやま

に わ せ

清山神社(庭瀬城址)

第一編

庭瀬藩主板倉家の藩祖をお祀りしている社(庭瀬828)

神社の石碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 96 –


清山神社

神社の由来・配置図 第一編

このお社は創建時、 邸内の東南の庭園にあったが、 明治の初頭にこの地に移転した。 ないぜんのかみしげまさ もんどのしょうしげのり

神社の石碑

祭神: 板倉内膳正重昌 、主 水 正 重 矩 かつやす

創建:寛政五年(1793)五代藩主勝喜

鳥居、 燈籠、 手水鉢には寛政五年(1793)、 狛犬は享和四年(1804) の銘がある。

本殿

保存樹(クスノキ)

燈籠③ B

A部側面 ※ 1035

保存樹(イチョウ)

450

拝殿 玉垣の中柱は他の部分に比べ作りが粗い。 明治の移転で新たに作ったもののようだ。

※柱の銘

B

大庄屋 御用達

寛政五癸丑年 十二月吉辰

句碑

A 献備三郡

玉垣は吉備の三郡の大庄屋が寄進した。 「備三郡」 とは?

鳥居 手水鉢①

旧庭瀬藩大手門は移築され、立成寺 (東花尻439) の山門となっている。

燈籠①

狛犬

手水鉢②

– 97 –

路傍の文化財


手水鉢・句碑 清山神社

関原□□ 宮田□□ 町田成□ 野崎庄□ 保田臣孝 保田恒義

森 又四郎 稲垣 和□ 高橋惣左衛門 谷口清左衛門 中田要右衛門 ○○ ○○

宮本直□

寛政五癸丑 九月吉辰

土筆坊の句碑は庭瀬八幡神社にもあるが清山神社の句は情緒的である。

句の意味は

土筆坊

後陽成帝 の露 けき御宸翰

平成四年十月」 とある。 土筆坊は俳誌「若あゆ」 の主宰。 「若あゆ誌友建之

献 奉 神社創建時に奉納されたもの

盥漱

明治八年五月吉祥日

神社の石碑

或る日、 展示された御震翰を拝見しました。 その歌を見ると帝が耐えた労苦がし のばれ寂しさと悲しみにが思いおこされます。

「つゆけし」 秋の季語で、悲しく涙がちであるの意。

上田土筆坊

庭瀬城址・清山神社と句碑の句について

後陽成天皇御製

………………… 清山神社の宝物の一つに︑ 後陽成天皇御震筆の和歌の色紙一葉がある︒ 板倉内膳正重昌拝賜とあり︒

空蝉のなく音やよそに杜の露 ほしあえぬ袖を人の問うまで

添書 ︵十代藩主勝全が 空蝉御歌之記 書いたの添書き︶ 一人王百九代聖主奉称與 後陽成院 則 正親町帝 御子 天正十五年 御即位 當時豊臣秀吉為関白 距今暦数二百六十七稔也 今年嘉永癸丑冬更拝 此 帝宸翰 不堪於 恐惶因而陳此件旨趣 恐惶因而陳此件旨趣 特明庫中之於為珎也失

︵宇垣武治編著 ﹁清山神社宝物要記﹂ 参照︶

即ち︑﹁後陽成天皇が天正十五年に皇位につかれた︒ 当時豊臣秀吉は関白になった︒ 今を距てること二百 六十五年である︒ 今年嘉永六年の冬更にこの帝の叡 慮の程が明らかに表されている︒庫中のうちで珍し いものである﹂ と︑慶長十年徳川家康は六十四歳に なり将軍職を秀忠に譲ったが依然として幕府の実権 を握り︑朝廷の権威を押さえる政策を強く執ってい たので︑後陽成天皇はいたく慨嘆されたのである︒

後陽成帝の露けき御宸翰 土筆坊

句碑の句は︑清山神社の宝物を拝観した際に詠ん だ作品の一つである︒

– 98 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

碑 句

西面 南面

手水鉢②

南面 西面 第一編

手水鉢①

北面

明治8年(1875)奉納の手水鉢。

東面

句の背景は

御陽成天皇の在位期間は秀吉、家康の執政時期であった。豊臣秀吉は天皇の権威を利用し政権の定着を図るため、家 が保管されている。 (宝物目録の②) 清山神社に、藩祖重昌が後陽成院より拝領した御宸翰(天皇直筆の文)

康は朝廷の権威抑制し、天皇の行為は多くの制約をうけ政治的に不本意な在位であった。

そこで、 天皇の不満は信頼の篤い京都所司代板倉重矩の言葉に救いを見出したのであろう。

殊に家康は天皇の権能である即位や譲位、元号の改元、官位叙任権などまで幕府主導とした。


清山神社

燈籠・鳥居ほか 第一編 神社の石碑

きびのさとNo.13に詳細。

燈籠③ 家老渡辺要次郎奉納の燈籠

社号の額

2230

柳 次男

養子

正四位子爵源勝弘敬書

清山神社

要次郎

要次郎

拝殿に掲げてある社号

川野屋︵醤油醸造︶ 長男 高木久太郎

還暦記念

奉納 渡辺要次郎

昭和九年

家老 渡辺寿吉信元

阿曾村林家︵老舗鋳物師︶ の娘

渡辺要次郎は、 川野屋高木久太郎の二男 で、 家老渡辺家の養子となり家督を継いだ。

燈籠① この燈籠はこの地域で最も優美なものの 一つである。 特に基台から傘まで多角形を多 く用いている点が特異である。

献 燈

寛政五 癸丑年十二月

2590

11代藩主板倉勝弘が明治維新の後、 爵位を受けて書き残した額。 6角形

寛政五年(1793)

6角形 8角形

銘は通路側に刻まれている。 (多くの場合は前面か側面にある) 備東西家中の意味は?

献備東西家中

寛政五 丑

年九月吉辰

みずのとうし

寛政五癸丑年(1793)

– 99 –

路傍の文化財


清山神社

板倉家の系図

第一編

板倉の系図

は養子

重冬 家(康の曾孫︶

八代将軍

紀州徳川家

吉宗

享保元年(1716)

吉宗の人口調査 2,654万人

次男 田安

貞永

陸奥白河藩主 桑名藩主

定信

勝静

七代

老中

勝職

六代

宗武

勝竣

八男

老中

五代

信正

老中

勝成

かつひろ

勝全

勝弘

阿部正信

かつまさ

伊勢崎藩主

勝全

家 重

九代将軍 長男

勝政

四代

︶伊勢亀山から転封 1744

勝従

三代

延享元年︵

勝武

二代

備中松山藩

伊勢亀山

勝澄

初代

安藤信由

陸奥磐城平藩主

重治

勝志

長男 かつゆき

勝並

長男

次男 かつもと

かつしげ

十一代

勝弼

八代

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

重常

勝興

三代

備中庭瀬藩

昌信

二代 かつおき

重高

初代

四代

勝紀

勝氏

勝成

十代

勝顕

九代

板倉勝俊

陸奥福島藩主

備中松山藩征討 明治元年( 1868)備前岡山藩に合流し本家備 中松山藩征伐に参加。

は実子

重郷

重宣

陸奥福島藩

勝長

至親 六代

勝貞

五男 かつさだ

八代

老中

阿部正信

勝弘

11代勝弘

京都所司代

重宗

比佐

重良

※1

重矩 寛文5年(1665)老中 4代将軍家綱を補佐 8年(1668) 京都所司代 10年(1670)再び老中 12年(1672)下野烏山城主 13年(1673)57歳で死去

長男 周防守

しげのり

京都所司代

重矩 武蔵岩槻藩

重寛 かつひろ

勝宦

勝喜

四男 かつよし

五代

五男 かつすけ

勝資

七代

清山神社創建

京都所司代 伊賀守

重昌 三河深溝陣屋

綱政

重直

光政

政元

→次頁に詳細

内膳正 次男 しげまさ

重大

備前岡山藩主

利隆 常元 比佐

重昌碑

陸奥福島城主板倉勝長①、備中庭瀬 領主板倉勝喜②、三河深溝地頭板倉勝 宦③の3名で寛永15年の島原の乱で討死 した藩祖重昌の顕彰碑を原城内に建てた。 寛永15年(1638)、板倉重昌は深溝藩 一万五千石の領主で、 全体を指揮する為 には (特に九州の諸大名を動かすには)、 重 量感に欠けているといわれていた。

勝重

重昌・重矩

清山神社の祭神

神社の石碑

※1

備中松山藩 勝静の財政改革 ・財政改革(山田方谷による財政再建を実施) ・産業振興(たたら製鉄による鍬,釘の生産) ・行政改革(大阪蔵屋敷の廃止、 上下共々質素倹約・ ・ ・) → 7年間(嘉永3〜安政4) で20万両の負債完済 この金は幕府の長州征伐の軍資金となって消えた。 **真剣に財政再建に取り組み実現した藩は備中松山、 米沢藩等少数しかない。 ** 大方の藩は踏み倒した。

– 100 –


神社の石碑

一月纉先志以戮力建石勒文云

陸奥国福島城主 従五位下行内膳正源朝臣 板倉勝長

板倉主税助源朝臣勝宦

備中国庭瀬領主 従五位下行主水佑源朝臣 板倉勝喜

参河国深溝地頭 無位

南樓關其寧書

路傍の文化財

– 101 –

第一編

高さ 1610mm× 幅 1053mm× 奥行 515mm

嚮林子文成遭時蜂乎事不果今慈寛政九年歳次丁己十有

従五品内膳正板倉重昌碑 整宇林 直民甫撰 志士仁人無求生以害仁有殺身以成仁也夫生死者天也命也倫生全身者君子所恥見危致命者君子所 取也是以欲立義行道母論難易欲立身者名無顧利害也従五品内膳正板倉重昌者武林剋楚也大考従 四品拾遺伊賀権守勝重大兄従四品羽林周防権守重宗父子相継任京兆尹保護 禁廷美誉芳声戴在口碑也重昌自幼奉仕 東照大神君視国事其性剛彊直廡温恵闊達歴任 台徳公 大献公恩眷不翅寛永十四年丁丑肥前国高来郡賊民蠱感耶蘇拠有馬村原古城蜂起蟻同事達江府 大献公悉使西州候伯士林誅伐之殊命重昌薫其師監其事重昌携令嗣重矩即時進発入其地巡視郭塁 邑土屡出奇計明年正月元日重昌突馳奮戦勇気赳甲冑砕戈折遂死之年五十一惜哉痛哉重矩追跡震 撃竭力労心嗚呼勝敗命也翟義死千賊軍袁燦死干石頭忠憤義気干古不磨亦是同日之談也不幾賊兵 族滅所謂雷霆之誅由我而速巣穴之固由我而覆者乎可謂舎生取義者也誰為斯人不反袂拭悌乎乃 厳有公治世之時重矩暦栄選鎮守難波城其後頻被登庸列執政叙従四品任拾遺為野州烏山城主食禄 五万石高大門楣庇其子従四品重道継封済美今 大君幕下聴政之初預国務増食邑移封武州岩築城世世積善之余慶於是可以見焉重道為重昌建碑於 其戦死之所欲記其美而傳之干不朽也追遠之志述事之孝可以嘉奨焉謂之平准西碑乎謂之峴山堕涙 碑乎請詞干余乃叙要概旦係之以銘銘曰 板倉之姓 源流兮清 奕世継美 策勲乖名 蠢春耶蘇 蚩虻賊氓 有馬拠険 同郡聚兵 海日耀甲 風雪瓢旌 泰山名重 鴻毛死軽 天降霜雪 松柏持貞 人處夷険 節操存誠 一朝趨義 千歳余情 考孫縄武 猶胎後栄 志士感信 以望家聲 其人錐没 宛爾如生 延宝九年辛酉九月

重昌の死後四十三年の延宝九年︵一六八一︶ に孫重道の依頼で建立を 計画し︑ 林整宇︵林羅山のひ孫︶ の碑文を彫った︒ 島原の乱の後一五九年目の寛政十年︵一七九八︶︑ その子孫に当たる板倉 八右衛門勝彪︵島原松平城主席家老︶ により建てられたという︒ 刻まれ て百年以上放置されていた︒︵地元の住民感情に配慮したのか?︶

裏面

前面 写真提供:長崎県南島原市観光協会

板倉重昌碑 清山神社

島原の乱で重昌が討死を遂げた原城内に建立された石碑。

従五品内膳正板倉重昌碑

寛政9年 (1797)


宝物目録 清山神社

清山神社の宝物目録 ① 一︑清山神社縁起書 一葉

一巻

出典 ﹁きびのさと﹂第13号

寛政四年十二月 吉備津神社藤井高尚の撰文

② 一︑後陽成天皇 御宸筆 和歌

昭和三十四年七月一日

寛永十四年 肥前国島原に重昌佩用︑朱皮包 四歩一

⑰ 一︑ 太刀鞘付

二振

一杖

小柄

一枚

芝引鉄

⑱ 一︑ 金采幣柄

一枚

社に倣った。 (時代も分野も規模も異なる

鎧櫃の ﹁前﹂ の一字 ⑳ 一︑ 雉尾の差物

一箱

一箱

一振

一個

一個

年月不詳

一具

⑲ 一︑ 紅葉山神廟の古瓦

㉑ 一︑ 陣羽織

内膳正重矩が拝領した ﹁鳴門﹂ の銘の金蒔絵の硯箱

㉒ 一︑ 後光明天皇より拝領の硯箱

寛文十年二月

㉓ 一︑ 右皇太后より御菓子を副え賜る蘆の御菓子器

寛文十年四月

㉔ 一︑ 明正天皇 ︵女帝︶ より拝領の花器 草花を副え拝領

㉕ 一︑ 白鞘の太刀 年月不詳

鉄鍔 緑頭

無銘

女院様お付の局の書翰

壱拾七通

が)冷泉家の時雨亭文庫にも似ている。

板倉内膳正重昌拝賜 年月不詳

一巻 二幅 一幅 一幅 一巻 一幅

㉖ 一︑ 鞆鮫

東園大納言の書翰

一箱

㉗ 一︑ 老中より令達の書状 ㉘ 一︑ 甲冑添書 一箱

一箱

鞘務革緑沈記 ㉙ 一︑ 徳應院様親筆 ︵勝資︶ ㉚ 一︑ 光永院様真筆書翰 ︵勝志︶ ㉛ 一︑ 春光院様真筆書翰 一︑ 源光院様御碑銘一箱 ︵重昌︶ ㉝ 一︑ 永寿院様真筆書翰 ︵勝興︶

以上

祭神重昌・重矩の恩賜の御物や板倉 家の家宝等。 重良の正室比佐の力が大 いに貢献している。 福島板倉藩の板倉神

③ 一︑ 後光明天皇御宸筆 年月不詳

板倉主水正重矩拝賜 年月不詳

④ 一︑ 板倉内膳正重昌自筆の書翰 ⑤ 一︑ 肥前島原陣跡板倉内膳正重昌の碑文 故大学頭林氏の撰文 関其寧の書 石摺

⑥ 一︑ 同右 再建の碑文 森岡氏の撰文 関克明の書 石摺 文化十一年五月 落成︒

年月不詳

上州伊香保温泉之記

⑦ 一︑ 東照神君︵徳川家康︶画像景文筆 ⑧ 一︑ 板倉家旧領地 真筆

寛文七年八月 野間柳谷撰文

⑨ 一︑ 備前岡山藩主池田光政

一巻 一幅 一巻 一面 一面

㉞ 一︑ 勝弘公︑ 勝成公両方の書 ㉟ 一︑ 神道官長占部良連の書︑ 神号二葉 六左衛門の書翰

⑯ 具足

② 後陽成天皇御宸筆の和歌

董仲叙の語 ﹁義利道功﹂ 年月不詳

⑩ 一︑ 寛永十四年十二月板倉重昌肥前国島原一揆追伐 在陣中幕府より下された奉書 辞世 梅の花

寛政十五年正月 肥前国島原にて出陣の朝揮毫のもの

⑪ 一︑ 板倉内膳正重昌

横一尺 ×

神道長官占部良連真筆

画並びに和歌 寛文七年八月 野間氏抑谷の撰文

⑫ 一︑ 板倉主水正重矩嫡男重良の夫人自筆 ⑬ 一︑ 神号の額

寛政六年戌 欅板 内法二尺

⑭ 一︑ 神鏡 明治九年 従五位下板倉勝弘 献納 径一尺量二百目

一領

– 102 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

右二品は本殿に安置

⑮ 一︑ 錦陣羽織 板倉内膳正重昌徳川家康より賜る 年月不詳

神社の石碑

⑯ 一︑ 具足

第一編

清山神社の宝物とは


13 弁財天

弁財天、 八幡宮、 稲荷宮をお祀りしている社(庭瀬827) 第一編 神社の石碑

– 103 –

路傍の文化財


弁財天

神社の由来・配置図

第一編 西本留清書

昭和四十三年六月 植松伝八建之

大賀ハス

庭瀨城址

神社の石碑

蓮 池

くろがねもち

﹇大賀一郎博士と大賀ハス﹈ の説明板

本殿

秋葉宮 拝殿 (現在は祭礼用の倉庫)

燈籠①

燈籠②

※3

﹇庭瀬城跡﹈ の説明板

鳥居

鳥居

※1 常夜灯

手水鉢 花壇

※2

※1〜3の石材はかつての使用材の再利用品で溝やほぞ穴の跡がある。

手水鉢 弁天

稲荷

永谷氏

これ等の碑文は三代藩主板倉勝興の在位中に建てられている。 祭

神:

南側は弁財天(学芸の神)、 八幡宮(武勇の神)、 稲荷神(農業の神) を合祀。 北側の祠は秋葉宮(防火の神) でその扁額の裏に天保7年(1836) の銘があった。 この島に弁財天が祀られており、 「弁天島」 と呼ばれる。

建:

寛文年間(1661〜1672) の庭瀬城絵図に記載されており、 板倉以前に創建である。 燈籠は享保20年奉納が最も古く、 三代藩主板倉勝興になってからである。 束や柱は手の込んだ造り (八角形) で造作も江戸期の様式のものが残っている。 拝殿の入り口上部には3枚の額が掛けてある。

秋葉宮:

扁額には「天保七丙申歳五月」の銘があった。 【天保7年(1863)、 きびのさと】 社殿は桧皮葺で鞘堂が懸かっている。 軒瓦の紋は戸川 (梅鉢)、 板倉(左三つ巴)共にある。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 104 –


奉寄進

1430

1430

1930

神社の石碑

535

第一編

奉寄進

寛延三庚午年 六月吉辰

庭瀨城址

岡山市庭瀬

この説明板は現在の「撫川城」 を本丸、 この「庭瀬城」 を二の丸とする 本来の「庭瀬城」の説明板である。

父子を祭り歴代の遺品を収蔵した︒ ︵遺品

清 山 神 社 を 建 て 板 倉 氏 中 興 の 祖 重 昌 ︑重 矩

寛 政 五 年︵ 1 7 9 3 ︶板 倉 勝 喜 は 城 内 に

た堀もよく残り︑沼城の典型を示している︒

り 明 治 を 迎 え た ︒自 然 石 の 石 垣 を め ぐ ら し

元 禄 十 二 年︵ 1 6 9 9 ︶板 倉 氏 の 居 城 と な

町をととのえた︒

達 安 が 入 り︵ 1 6 0 2 ︶古 城 を 拡 げ 城 下

で あ っ た ︒そ の 後 宇 喜 多 の 重 臣 戸 川 肥 後 守

ば れ た ︒一帯 は 泥 沼 地 で ひ じ ょ う な 難 工 事

に 築 城 し た ︒付 近 の 地 名 か ら 芝 場 城 と も 呼

松 山の三 村 元 親は備 前の固 めとしてこの地

室 町 時 代 の 末 ご ろ︵ 約 四 〇 〇 年 前 ︶備 中

寛延三年(1749)

は現在︑吉備公民館に収蔵︶

路傍の文化財

– 105 –

享保二十乙卯□閏 三月吉日

永代常夜燈

明和八 辛卯年五月吉日

本殿前の石燈籠② 明和八(1771)辛卯年五月吉日

正一位出世稲荷大明神

拝殿の入り口上部には3枚の額が掛けてある。 ( 受け金具2枚分あり) あその北側のお社は「秋葉宮」。

稲荷宮 弁財天

本殿前の石燈籠① 石段脇の常夜灯

八幡宮

弁財天

拝殿床面

拝殿の中の額

正一位出世稲荷大明神

拝殿の入り口にある額

額・燈籠ほか 弁財天

享保二十年(1735)

こうげじょう

芝場城は足守川右岸にあった城の名称。 (この城は永禄10年、 宇喜多直家の重臣戸川平右衛門秀安により落城。 )


14

さんじんじゃ

なつかわ

三神社(撫川城址)

第一編

稲荷宮、 八幡宮、 光明電(竜)王をお祀りしている社(撫川423)

神社の石碑

撫川城址は、野面積みの石垣を持つ古城で「岡山県指定史跡」第一号として指定され、周囲に幅 15m の豪池をめぐらしている。 城址内の三神社は、明治になって旧領主戸川氏によって造られた。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 106 –


三神社

配置図 第一編 神社の石碑

扁額

三神社

5m

0

手水鉢 700

燈籠

壬子年四月

敬白

□介

850

太田

手水鉢

享保十七

鉢 水 奉

享保十七年(1734)

享保17年(1734) は大飢饉の年だった。 戸川撫川知行所は二代達索の治世で、 飢饉により年貢を例年より半減し、 幕府に借金を仰ぎ、 商人に金策を頼むなど 窮迫した財政状態だったという。 その中で、 寄進した太田さんはどんな人か? 3460

鳥居 公園名称碑 北面

南面

撫川城址公園

大手門 横田盛展はいかなる人か? 撫川八幡神社の玉垣に横田(正三郎)盛貞とある。 享保3年(1718)頃の人盛展はその子孫(天保の初期の人)

– 107 –

この公 園 用 地は撫川城 址の土地 所 有 者で ある岡田全殿 佐藤瀧江殿 難波斐太殿

みちよし

文化二乙丑歳(1805)…六代戸川達義の時代

森下亀三郎殿 坂田壽平殿 以 上 五 氏の相 続 者の方々から岡 山 市が寄 付 を 受けたものであり公 園 開 設に当 たっ ては﹁ 撫 川 城 址を守る会 ﹂の宮 田 和 正 殿 坪井邦太殿をはじめ︑ 逢澤潔殿ほか多くの 方々のご尽力によるものである︒ 昭和六十年六月 岡山市長 松本 一

きのとうし

︵北面にある︶

奉寄進 横田盛展

鳥居

九月

文化二 乙丑歳

2840

井戸

路傍の文化財


三神社

神社の由来

第一編 神社の石碑

三神社のいわれ 旧幕時代、撫川領主戸川氏が領内の守護神として鎮座したもの 祭神 : 八幡、稲荷、龍王 龍王神は別名を雷神または光明電王ともいい、仏教からきた尊稱語で、祈雨を受け持つ神である。 (「きびのさとNo.82」からの抜粋)

三神社の由来(一色節二氏筆) 戸川氏はもともと戦国大名宇喜多(直家・秀家)氏に仕え

には「竜(電ヵ)王堂」が造られ、水神を祀っていた。その

ていた重臣であったが、達安の時秀家と対立し、関ヶ原の戦

後、堂は安永七年(1778)に新たな社殿が完成し、寛政六

いでは東軍に属して戦った。戦後、達安は徳川家康から大名

年(1794)には修築された。

に取り立てられ、備中に 2 万 9200 石の領地をあたえられ、庭

明治維新を迎えると、最後の領主戸川達敏(彼は高松藩

瀬に陣屋を構えた。大名としての戸川氏は 4 代安風に嗣子が

主松平頼胤の一族で、 養子として戸川氏の家督を継いでいた)

なく延宝七年(1679)一旦絶えたが、安風の弟達冨に知行

は讃岐に隠棲する際、「本段(撫川城址)に祀っていた光

地(都宇郡下撫川村・中撫川村・日畑村、賀陽郡庭瀬村)

明電王と八幡・稲荷の三神を合祀し、その保存と維持を旧家

5000 石があたえられ、旗本として戸川氏嫡流の名跡を継ぐこと

臣に委託し、陣屋内の水田 1 反 5 畝余をあたえた。委託さ

になった。

れた旧家臣らは明治十一年(1878)、社殿(本殿修繕、拝

その後幕府によって庭瀬村(領地と陣屋)が召し上げられ

殿造営)を造り、三神社と称した。

た際、「古城」と呼ばれていた撫川城址を中心に新たに陣屋

以来、撫川城址及び三神社は在住する旧家臣の末裔らに

を構えることになった。庭瀬村の替地として賀陽郡三田村、小

よって守られてきたが、昭和五十九年(1984)旧家臣末裔

田郡宇戸谷村、川上郡ニケ村・九名村・大津寄村・高山

の宮田和正らの働きかけにより「撫川城を守る会」が結成され、

村等があたえられ、以後明治維新を迎えるまで 8 代にわたって

翌年城内の土地はすべて岡山市に寄付され公園となった。そ

この地を支配した。

の際、地元有志によって「三神社奉賛会」が結成され、老

達冨時代に作成された「撫川陣屋絵図」には、当時の

朽化していた社殿は改築された。その後、「撫川城址整備委

陣屋の様子が克明に記されている。旗本は江戸在住が原則

員会」 等が組織され周辺の整備が進むとともに、住民の奉仕

であったが、陣屋には「御用場」(知行所)や「御蔵」 等

活動によって美しい状態が保たれている。

が設けられ、少数の家臣と武家奉公人が住んでいた。城内

太鼓橋

太鼓橋は旧屋敷内への重要な表口にして、 欄干の敷石に ( 1 8 1 4 )

たこお

「文化十一□□石工人 高尾村 中谷新助」 と刻んである。 (高尾村は現在の妹尾の一部) (きびのさとNo.2より)

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 108 –


三神社

拝殿・大手門 第一編 神社の石碑

拝殿 拝殿の正面には廣陵間寛の筆による「八幡祠」、右側に「光明電王」があり、 左側に「稲荷」が掲げてある。

大手門・表門 現在の門は、 太鼓橋の南にあった大手門を御 本壇に移築したもので (時期は不明)、何度か手 が入っている。 また大手門が移築される前は、戸川家館邸の 表門があり、 明治初年に岡清三郎が譲り受けて本 屋敷392番地に移築したが、 現存はしない。

太鼓橋

撫川城址

⓮ 三神社 大手門

⓭弁財天 ⓬清山神社

庭瀬城址

館邸表門

– 109 –

路傍の文化財


三神社

奉納額

本ページは、 一色節二氏の調査記録より抜粋 第一編

れらは昭和60年の改築まで拝殿内の鴨居に掲げてあった。 改築時に社殿裏の倉 奉納額 こ庫に移さ れたが、 後に雨漏り等によって甚だしく腐朽した。 平成28年に県立博物館で

神社の石碑

燻蒸処理をしていただき、 現在は社殿内に保管されている。

( 1 8 4 4 年 )

【天保15年9月の額】 上部は雨水を含んで破損が著しい。 左上隅に「天 保十五年甲辰歳」 と記載され、 下部には8名の記載 あり。 竹釘を使用している。 ※「きびのさとNo.2によれば、 当時三神社の拝殿には「岡元貞門 人8名による小笠原流の奉納額」が存在したという。 これがそれでは ないかと思われる。 おな小笠原流とは弓馬術の礼法である。

小笠原流

源 仲綽

奉寄進鏡一面

干時寛政十二庚申 九月下旬

藤原元貞門人

藤原博篤

藤原政道

十二歳

【寛政12年の鏡台座】

鏡は現 存せず。 森下氏は戸川氏 の家臣。

夏春

施主 森下性 冝知

(1862年)

岡五郎左右衛門 難波 徳四郎

浅沼 長之進 竹内 藤太

( 1 8 0 0 年 )

藤原恭鎮 藤原守常 源 仲綽 十五歳 藤原博篤

幅29×高さ86cm

十五歳

新藤 市右衛門 天保十五甲辰歳 古川 孫左衛門 土用 難波 徳四郎 三宅 太郎 浅沼 長之進 十二月吉旦

冬秋

藤原守常

源 直矢

藤原恭鎮

【天保15年12月の額】

横田 常之丞 三宅 兵吉

古川 孫左衛門 山崎 解作 新藤 市右衛門

天保十五甲辰歳九月吉祥日

幅106×高さ73(63)cm

( 1 8 4 4 年 )

幅33×高さ34cm

( 1 8 4 4 年 )

【文久2年の札】

【天保15年9月の札】

戸川定太郎達寛

裏面記載無し

戸川主馬助藤原達敏

幅34×高さ97(94)cm

– 110 –

天保十五甲辰歳九月吉祥日

納奉 文久二壬戌年

九月吉辰日 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

奉納

幅34×高さ97(94)cm

額面上部の左右に矢を装填する輪っかがあり、 近くに矢の 一部と思われる竹片があった。 和釘を使用。 戸川主馬助藤原達敏は八代(最後の)撫川領主(旗 本)。 戸川定太郎達寛は七代領主である。


棟札ほか

三神社

第一編

棟札

社殿の修理は創始以来数回にわたって行われた。 ( 1 8 7 8 年 )

【棟札(明治11年)】 表

幅16×高さ76cm

裏 普請成就 嘉永三庚戌歳四月十五日 御開門 御普請掛 御作廻方元締役 棟梁 家臣 岡田右衛門晴重 丸川喜右衛門光久 丸川新右衛門保政 福永増五郎 横田武右衛門嵩盛 難波章右衛門常貞 佐藤武右衛門栄成 嶋村甚五郎 大工 三蔵 松蔵 菊治

裏面記載無し 幅13.5×高さ72cm

南無妙法蓮華経 覚如 啓運両山 十五世嗣法燈 日侃

(1850年)

【棟札(嘉永3年)】

幅14×高さ56cm きびのさとNo.82には、 嘉永三年、 神 門と社殿を修復したという一対の 棟札の記述があるが所在は不明。

(1797年)

【法華曼荼羅(寛政9年)】 本 殿 右 側に収められた覚 如山( 不 変 院 )第 十一世住職の日顕によって、 法華経・天照大神・ 鬼子母神・十羅烈女・八幡大神などを勧請。 表 裏

幅12×高さ34cm ( 1 8 4 4 年 )

【法華曼荼羅(天保15年)】 不変院第十五世日侃のもとで社殿の旧札を真札 (南無妙法蓮華経 稲荷大明神を中心に、 四天 王・妙見大明神・八大龍王・天照大神・鬼子母 神・八幡大神を周辺に配す) に替える。 表 裏

幅15×高さ26.5cm (1860年)

【安政7年の獻納冠發句集 秀吟五十章】

幅197×高さ67cm 拝殿内東面の鴨居に 掛けられている。

「當所」 (撫川陣屋) のほか「板くら、 宮内、 茶や町」など近在の居住地が記載されており、 戸川家家臣だけでなく、 身分を越 えて発句(俳句) を楽しむ同好の人々が集まっていたことが想像される。 額裏に「願主」 として9名の名前が記載されているが、 雨水と虫害のため痛みが激しい。 – 111 –

路傍の文化財

神社の石碑

( 1 9 2 6 年 )

【棟札(大正15年)】


戸川家の系図 三神社

第一編

戸川家の系図

秀安

神社の石碑

二万九千二百石 庭瀬城主 二万三千三百石 庭瀬藩主 三代

安宣

二万一千石

二代

正安

みちやす

初代

達安 四代

安風︵延宝七年断絶し庭瀬藩は天領に︒達冨が名跡を継ぐ︶

みちひさ

みちよし

は実子

みちひろ

は養子

みちとし

八代

達敏

みちくに

七代

達寛

みちつね

六代

達義

みちのり

五代

達壽

みちとみ

撫川領主 五千石

四代

達利

達邦

達穀

三代

達本

達恒

達証

二代

達旨

やすいえ

達索 達和

やすみち

安道

安宅

初代

正方

安勝

やすゆき

やすてる

安昶 やすたみ

やすおき

安熈

安行

やすひろ

安泰

安民

やすちか

八百次郎

や おじ ろ う

安清

安愛

やすずみ

安論

安栄

やすとも

安精

安章

やすきよ

安長

村真

やすちか

村由

やすなが

四百石↓五百石

やすとし

安聡

安悌

達冨

安章

安村

やすはる

安晴

やすみち

安通

中島領主

やすさだ

安貞

妹尾領主 一千五百石分知

安成 安直

旗本 三百俵 ともやす

令安

やすあき

安明

早島領主 三千四百石分知 やすもと

安尤 しげあきら

︵重明︶

安広

帯江領主 三千三百石分知↓三千石 やすとし

安利

旗本 一千二百石

忠興︵断絶︶ 後月・小田両郡内三千石

安平 旗本

孫六︵断絶︶

正安

勝安

女 ︵坂崎出羽守の室︶

– 112 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて


15 太神宮

伊勢神宮の天照大神の分霊をお祀りしている社(庭瀬707) 第一編 神社の石碑

– 113 –

路傍の文化財


太神宮

神社の由来・配置図

第一編 神社の石碑

石燈籠⑤

石燈籠⑤

小田郡

小田郡

献燈

天保十四年

天保十四年

石燈籠④

本殿 石燈籠③

倒壊中

御用講中

御用講中

怨八建立之

怨八建立之

宝蔵 石燈籠④

明治三八晩秋日 施主 庭瀬講中

献燈

天保十五辰二月蠖山代

天保十五辰二月蠖山代

石燈籠③ 石燈籠②

手水鉢

2m

鳥居の跡

手水鉢

(現在は吉備護国神社に移設)

800

石燈籠①

九月吉日

正徳二

奉寄進

施主 備前岡山

700

天満宮

壬 辰

隣 家

正徳二年(1712)

戒壇石

仏道で天照大神を御影大日尊と言う。 臨済宗東福寺の別峰国師が天 照大神の分霊を勧請して旧栗坂村(倉敷市庄) の少融山定林寺(現在の 松林寺) に鎮守としてお祀りした事に始まる。 鳥居の在った位置は正確ではないが、 昭和時代に吉備護国神社に寄 贈・移設され、 (銘は戦後にセメント詰めされた)現存している。 (額束の文字は「大国魂神社」 となっている)

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 114 –

禅臨済宗 清水山松林禅寺 東福寺派

御影大神宮は伊勢神宮の天照大神を祀った神社。


太神宮

第一編 神社の石碑

石燈籠②

【北側】

燈籠

【南側】

西面

西面

東面

東面 蠖山代

奉献

蠖山代

奉献

郎次熊屋田岡

参道(石畳) 北面

南面

北面

南面

直次郎

平野邑

定介

弥吉

観音堂

當町

福岡屋重右衛門

天保

十五

辰歳

三月

願主

片宿邑

観音堂

永野邑

西平野邑

福岡屋重右衛門

世話人 観音堂 定介 同 新吉 平野邑 直次郎 當町

天保十五年(1844)

「蠖山」は第十六世 蠖山禅師(明治十二年没) 明治十二年=1880年

石燈籠①

【北側】

北面

【南側】

北面

東面

東面 宝暦十庚辰天 三月朔日

現住月枝珊代

現住持鰲山代

永代常夜灯

延享三丙寅歳 九月廿有六費

宝暦十年(1761)

延享三年(1746)

参道(石畳) 「鰲山」は第十代中興 鰲山禅師(宝暦九年没)

「月枝珊」は第十一代 月枝珊禅師(安永四年没) 安永四年=1776年

宝暦九年=1760年

鐘 青銅製又は鋳鉄 朝夕の時報(暁鐘、昏鐘)太平洋戦争の為ほぼ9割が鋳潰された。

名称

口径

梵鐘

1尺8寸以上

半鐘

1尺7寸以下

喚鐘

高さ75cm以下

– 115 –

←駒の爪

平安時代以前

それ以降

路傍の文化財


玉垣 太神宮

金 幾 宗

第一編

この間、 倒壊中。

備前国津高村尾上村 佐々木啓亮 同 谷

上原

翁介

同 江本

甚右衛門

同 要吉

太田宗一郎

万納屋については、 頁参照。

同 尾原屋

万納屋

和三郎

伊兵衛

庄九郎

平兵衛

五郎

辰之歳男

西村喜太夫

同 同

鳥越

森田

東平野村

同 同 扇屋

橋本屋

早島 同

萬三郎

俊造

橋本屋

三八郎

大山

同 大坂渡海

喜三郎

撫川

當町

物部筆蔵

岡山

藤治衛門 源五郎 □□□ 伊兵衛 半三郎

延右衛門 俊

難波重右衛門

長崎屋

小西屋

吉岡屋

佐伯屋

栗坂村

同 同 同 同 宮内

平田村 同

撫川

世話人

世話人

中野屋

嶌屋

吉兵衛

當町福智屋重兵衛 福岡屋幸右衛門

加納屋

奉寄進

宮内

国富

片嶌屋

若松

萬五郎

は 都

舟越□

幸屋

巳之歳男

田中屋

柾屋

小 原

忠七

槌蔵

文治郎

氏 氏

和一郎

宗兵衛

源次郎

治三郎

定治郎

惣吉

浅尾與右衛門

西田

風呂屋口

国富

魚屋

児島屋

撫川

岸田

牧太郎

渡辺 絆

太田

荒木 恕平

政恒

大河内 又七

鈴木

當町

撫川

萬屋

福岡屋

庭瀬町

西平野

吉兵衛

浅五郎

清十郎

大工屋

太田屋

大内屋

板倉

鈴屋

彦兵衛

小西屋

鳥羽屋

土佐屋

竹屋

文治郎

吉田孫兵衛

蔦屋

松三郎

喜十郎 芳 吉

撫川町 吉岡屋

紙屋 岡島屋

藍屋

東側 仙 同 同 同

平野屋

儀兵衛 幸 吉

同 同

勘次郎 太田元四郎 吉見屋善吉 安井 久七

萬屋

浦見世 平野屋

同 平埜 撫川 長埜

土佐屋、 鳥羽屋など 「ござ」 を商う商家の名前があり,「いぐさ」の生産が基幹産業だった。 「土佐屋弥吉」は 撫川八幡神社、 須佐之男神社、 大橋観音堂にも残っている。 寄進者は庭瀬周辺の村々に広く及んでいる。 備前尾上村、 平田村、 栗坂村、 宮内村 … 吉岡屋、 吉見屋、 福智屋は廻船業。 「大坂渡海 三八郎」は船頭か廻船問屋? 南側の片嶌屋萬五郎以下六名は宮内村の人々。

上庄村 故東平野

奉寄進

庄千

玉垣の銘

奉寄進

奉寄進

田口衛士助

徳田又兵衛富潤

中山豊平衛

金 五 郎 幾 蔵 宗 兵 衛

石原猪平太

當藩

←天保十四癸卯秋八月

奉寄進

郎 蔵 衛 同 撫川町

吉見屋善吉母

嶌屋

南側

53

この柱の西面 石工

郎三徳代熊

– 116 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

奉寄進

神社の石碑

西側

北側


太神宮

鳥居 第一編

御影大日尊(松林寺太神宮) の鳥居

神社の石碑

(現在は吉備護国神社にある)

かくざん

十六世 蠖山禅師(明治十二年〔1880〕没) の創建

月吉辰 天保十四癸卯歳九

現住恕蠖山代

3100

1265

5600

天保十四年(1843)

この地域では最大級の鳥居である。 伊勢神宮と同じ形の神明鳥居(貫が柱から尽きだしていない形) であるが、 笠木に反りがある。 柱の文字はセメントで埋められ、 額束は「大国魂神社」に掛け替えられている。

– 117 –

路傍の文化財


16

八幡神社(大坊)

庭瀬の日蓮宗信徒の神社(庭瀬866) 第一編 神社の石碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 118 –


八幡神社(大坊)神社の由来・配置図

第一編 神社の石碑

燈籠①

不変院

昭和拾年正月吉日

米寿記念 高木 柳

米寿記念 高木 柳

奉納

燈籠② 太田 俊三郎

昭和六年一月建之

安井

燈籠③

燈籠①

隣家

石灯籠

(コンクリート製)

拝殿

3,380

隣家

石灯籠

石灯籠

0

5m

戸川家の家紋

梅鉢

手水鉢 狛犬

軒瓦

鳥居

鳥居 寄進者 手水鉢 太田

太田俊三郎 誠

寄進者「河野屋」 (高木久太郎) とあるが造り替えられた。 「きびのさと」No.118

狛犬、 石灯籠はコンクリート製である。 屋根の形状、 紋章など日蓮宗そのもの。

– 119 –

路傍の文化財


八幡神社(大坊)玉垣

軍一 輝太

則武 栄蔵 岡本 小野 本町邸内信徒中

西観音堂信徒中

太田 敏夫

太田 敏夫 熊代仁左衛門 熊代仁左衛門 草野 慶三 野崎 幹雄 安井 勝太郎 熊代 栄五郎 熊代 栄五郎 守屋 定治郎 安原 又五郎 太田 辰三郎 中田信徒中 高塚 弥三郎 高塚 久次郎 森安 繁太 人見 良一 午之年男 岡崎 初治 田中 猪七 片山 政治 糟谷 喜三郎

奉献

奉献

片山

真野 守夫

安太郎

吉田 金作

安井 岡崎

安井

孝兵衛

常太郎 孝兵衛

常太郎

永井 伊三郎 国富 三喜次

岡崎 東平野信徒中 東平野信徒中 三宅 常次郎 安井 京一

吉田 佐之助

難波

郡安

野崎

重太郎

庄次

斧七

官治

吉田 佐之助 野崎 官治

難波

亥之年男

奉献

奉献

奉献

奉献

草野 安井

末 吉 米太郎

西 牧太郎 国富 浦 造

浜蔵

信徒中

兼松 保次郎

栄町戎町片宿

三宅

山崎

森安

岡本

高木

豊三郎

徳太郎

康二

源治郎

宗次郎

三宅 保次郎 高木 宗次郎

岡崎

常吉

太田 誠之 矢尾 寿吉 野崎

野崎

野崎

淑夫

友吉

源之助

林 彦次郎 国富 清三郎

野上

武吉 増三郎 増三郎

野崎 野崎 野崎

源平 虎吉 道造

中尾 黒瀬 松本

西光田信徒中

高木申年女

東光田信徒中

本家

当町

奉献

奉献

一金六拾円

一金八拾円

一金壱百円

一金壱百参拾円

一金参百弐拾五円

藤田 熊太郎

太田 五郎吉

安井

安井

太田 俊三郎

内田 慶太郎

高木

常太郎

積立金氏子中

本社拝殿建築寄附連名

一金六拾円

宗太郎

太田 昌治 半二郎

勝次郎

安井

柳三郎

半次郎

一金二拾五円

一金二拾五円

一金二拾五円

一金二拾七円

一金三拾円

一金三拾円

太田 久 一

野崎

吉田 佐之助

太田 敏夫

太田 鉄五郎

三宅

野崎

要造

廣太

一金拾七円 安井甚四郎

一金拾七円 田和富十郎

一金二拾一円 野崎常吉

一金拾二円 野崎 友吉

一金拾二円 野上 金吉

一金拾二円 野崎 武吉

一金拾二円 野崎 信雄

官治

一金二拾一円

野崎 一十郎

一金拾六円 林 勝次郎

一金拾二円 国富清次郎

一金拾二円 安井辰三郎

猪七

一金拾二円 安井源次郎

一金拾六円 田中

一金拾三円 永井伊三郎

一金拾二円 安井五百吉

一金拾三円 野崎増三郎

一金拾六円 森 巳之助

一金二拾一円

一金二拾一円

久太郎

一金五拾円

竹三郎

太田 俊三郎

一金五拾円

高木

太田 多三郎

則武

永井

燈籠①の寄進者「高木 柳」及び玉垣の「当町本家高木申年女」はその妻

一金三拾二円

高木 久太郎 本町の富豪醤油醸造業「河野屋」当主

一金三拾円

本殿と幣殿を結ぶ回廊の壁( 南側)

太田 鉄五郎 林

林 勝次郎 太田 鉄五郎

安井 鉄五郎 安井 虎之進 林 竹造

安井

新三

安井 五百造

西村

安井 惣太郎 安井 光 平

奉献 安井

奉献

西側

奉献 河村丑年女

奉献

奉献

奉献

神社の石碑

– 120 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

西→ 北側 ←東

北→ 東側 ←南

東→ 南側 ←西 第一編

瑞離(玉垣) の銘


第一編

神社の石碑

一金弐百参拾円

氏子中

金作

勝次郎

吉田 佐之助

一金八円 吉田 □□

一金八円

一金七円 江本

○○

光番

□□

一金七円 千原

西村

太田

金拾二円 儀三郎

森安常次郎 関 仝 安井

繁次郎

熊代仁右衛門

乙松

宇□金二郎

仝 末吉

野崎

六郎 和田

金七円

□ 仝

阿部

拾円 河村 □

金拾一円 金 仁科

各イロハ順

兼松

富岡 新治

次郎

吉太郎 仝

西村

管野

森安

森安

恵三郎

新造

清治

重二

利喜

太田 卯三郎

太田 鉄五郎

西村 光番

□燈 俊三郎 金次郎

仝 横畑 金六円

太田

寿之助

仝 仝 利平 仝

常次郎

阿部

栄三郎

惣五郎

勝次郎

栄三郎

三宅 要造

阿部 六郎

安原 栄吉

安井 鉄五郎

黒瀬 喜代治

則武 栄蔵

草野 慶三

野崎 常吉

野崎 官治

高塚 弥一郎

田中 猪七

高木 宗三郎

吉田 久右衛門

吉田 佐之助

渡辺 康男

岡本 源吉

真野 安太郎

太田 敏夫

仝 永井 伊三郎

太田

発起者 河村 太田 担当 安井

仝 野崎

中山

会計

仝 仝

芳松

治郎

山崎

寛夫

徳三

桐野

要次郎

則武

千原

常次郎

草野

鉄五郎

渡辺

藤造

直次郎

吉田

多七郎

安井

□造

吉田

辰造

□三郎

真野

分七

高島

重衛門

野崎

松本

倉吉

田山

仙太郎

軍安

担次郎

難波

栄蔵

国三

小山

定次郎

内田

米次郎

熊代

佐藤

繁太郎

則武

光三郎

守屋

金作

安井

木太郎

喜代治

加治

弥三郎

小山

黒瀬

吉田

真喜夫

佐藤

高塚

源治郎

寿吉

野崎

常三郎

矢作

本殿と幣殿を結ぶ回廊の壁(北側)の内側

岡本

栄吉

太一郎仝

熊吉

岡崎

芳之助 徳三郎

角田

金十五円 二宮

安原 太田

濱次郎

七円

八円

岩藤

仝 仝

兼松

三次郎

金 仝

川村

明治五壬申四月吉日

田本屋

兼吉

忠八

信者中

花尻屋

大見屋忠兵衛

路傍の文化財

– 121 –

一金五円

大正四年五月建之

書之

川田 丈之助

世話人

世 話 人

回廊の壁にある芳名録 八幡神社(大坊)

本殿と幣殿を結ぶ回廊の壁(南側)の内側

本殿と幣殿を結ぶ回廊の壁(北側)

本殿前の線香台


17

妙見社

北極星を神とし、 災難の除去、 延命を祈願(平野375) 第一編 神社の石碑

このお宮は妙見宮です。 「開運北辰妙見大菩薩」 を祀っています。 境内には備前・備中の国境石が甲南村より移設され保管されています。 国境石

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 122 –


妙見社

神社の由来・配置図 第一編 神社の石碑

道路 190

法界様

1600

従是西備中國甲南邨

手水舎 境守明王

火の見櫓

① 国境石

三十番神

境目川河畔にあった国境石。 設置時の正確な位置はわからない。 甲南村は明治8年9月から14年9月までの6年間存在した。 昭和の末期、 造成の為放置されていたものを、 総代が永久保存の為、 ここに 移設した。

荒瀧光王

吉川明王

境守明王 三十番神 荒瀧光王 吉川明王

奉納

今保村 栄屋 次左エ門

田本屋友三郎

平野村 光屋亥歳男

② 拝殿前の線香台

妙見社

中正山了性寺

奉納 妙法蓮華経如来神力□第二十一番

(中正院の隠居寺として創建)

③ 標識柱 ③ 5m

地 道用 鉄 JR

祭神: 北極星を神格化した菩薩妙見菩薩は日蓮宗で祀られている。 創建: 寺領は線路の南側の墓地まで及んでいる。

– 123 –

路傍の文化財


鳥居・玉垣 妙見社

女中講

神社の石碑

妙見大菩薩

十二月十一日

十二月十一日

献燭

中講中家 寄附

玉垣右 玉垣左

天保九戊年

天保九戊年

寄附

文政五壬午三月十五日 文政五壬午三月十五日

献燭

観音堂北片宿 中田長野 西平野 岡山中□町 清七

川入上庄

井出二軒屋 延友今保 白石久米

宮内

大福屋 濱田屋

中屋

奉寄進

岩吉

岡田屋 熊治郎

宮内三門屋

妙見講中

半左衛門

西花尻

弥吉 北屋

宮内長崎屋

観音堂 東花尻

岡山本町 紋屋 藤四郎

儀助

彦四郎

忠八 多八

光屋 濱田屋 今保本屋

風呂屋口

藤三郎 曾 平 甚 平

辰之助

東平野村年寄 太兵衛

太田□□吉

木屋

今保

宮内柏屋

玉垣右

宇七

三郎兵衛

常太郎

吉五郎

松蔵

久三右衛門

宮内山田屋

中田屋

中野屋

野崎 太平次

申之歳

中田村目代 金右衛門 今 保屋

奉寄進

– 124 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

文化十二 己亥年

第一編

宮内村の人の名前が多い。

橋の欄干の親柱か、 何に使われていたのか用途がわからない。

路 道

石灯籠 石灯籠

中講中家 中 當 藩

1838年1月 中邨當

中當藩 中邨當

北面 南面 南面

東面 北 辰

西面

文化十二年(1815) 鳥居の舟木の底面に書かれている。

1822年

狛犬(台座のみ)

玉垣左


おんざき

18 薗﨑神社

第一編

大吉備津彦命の重臣をお祀りしている社(延友 前場地内)

神社の石碑

– 125 –

路傍の文化財


本殿の尊像に「貞享4年9月20日 (1687)備中国賀陽郡延友村」 と明記されている。 第一編

神社の石碑

鐘楼 線香立

安政四巳年

奉 燈

維時昭和五十八年五月

東側

午七月吉日

賽銭米之積 功徳力懸之

寒中修行依 勲功力懸之

安政五年

(銘はない) 井戸

西側

本村子供中

世話人□女

本殿前の石橋は、 永年寒中修行で積み立てた浄財で 安政5年(1858) に寄進された。

維時昭和五十八年五月

薗崎神社御祭神ハ吉備津彦命ノ重従臣ナリ︑ 此ノ地ニ鎮座セラレシハ貞享四丁卯九月二十日 備中国加夜郡延友村ト御尊像ノ最下部ニ明記シ テアリ其レヨリ起算シテ三百年ニ相当ス︑依テ 往時ヲ偲ビ偉大ナル御神徳ニ感謝シ︑記念碑ヲ 建立シテ永ク後世ニ伝フルモノナリ 合掌

旗竿

④ 南側

南側 北側

手水鉢 記念碑

薗崎神社御祭神ハ吉備津彦命ノ重従臣ナリ︑ 此ノ地ニ鎮座セラレシハ貞享四丁卯九月二十日 備中国加夜郡延友村ト御尊像ノ最下部ニ明記シ テアリ其レヨリ起算シテ三百年ニ相当ス︑依テ 往時ヲ偲ビ偉大ナル御神徳ニ感謝シ︑記念碑ヲ 建立シテ永ク後世ニ伝フルモノナリ 合掌

5m

0

貞享四丁卯九月二十日 (1684年10月25日、 庭瀬戸川藩滅亡し倉敷代官所管理下にあった)

焼却場

薗﨑神社三百年記念碑

– 126 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

太鼓橋

④ 北面 西面 南面

太鼓橋の欄干親柱 献 奉

燈籠① 本殿は昭和57年4月大修理された。

1550

配置図 1 薗崎神社

本殿

燈籠①

線香立

南面

安政4年(1857)

記念碑


配置図 2

薗崎神社

第一編 神社の石碑

石段の親柱

村氏子中

明治廿一年 子一月吉日

世話人

二濱社員

④ ③ 堤防のかさ上げ工事(約2m) は明治21年に完了していた。

石段は、平成 27 年 12 月、南 側堰堤拡幅工事のため撤去さ れ、少し南側に新しく設けられた が、古い親柱だけは敷地内に残 された。

狛犬

狛犬

鳥居 燈籠②

燈籠② 石段の親橋 ④ ① サクラ

鐘楼

サクラ

道路 0 足守川

平成27年土手改修前の配置

五穀豊穣

延友氏子中

世話人

氏子繁栄

備後国新市甼 髙田鋳造所作

天長地久

岡山県都窪郡 吉備町大字延友

昭和三十二年五月

薗﨑神社

秀吉 歌津 一子 円吉 静雄

柾治

北米ポートランド市在住

奉納者

氏子

岡崎 岡崎 狩谷 野崎 岡崎

牧野

北米加州在住

– 127 –

国土安穏

神鐘の銘

5m

路傍の文化財


薗崎神社

鳥居・狛犬

第一編

燈籠2基と狛犬も合わせて少し南側に移設された。

平成27年11月までの姿

平成27年12月に移設

元禄五

元禄五

八月吉日

800

八月吉日

鳥居の額束は旧来のものが 使われている。

元禄5年(1692)

文政五 壬午九月吉日

正茂

奉燈

安田

文政五 壬午九月吉日

正茂

奉燈

安田

文政5年(1822)

平成27年12月に移設

700

狛犬

薗﨑神社

旧鳥居

2,060 昭和九年

寄附者 延友

岡崎善十郎

1,250

神社の石碑

鳥居・燈籠② 平成27年12月、南側堰堤拡幅工事のため、老朽化した鳥居は撤去され、少し南側に復元新造された。

狛犬、台座とも赤御影石。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 128 –


19 稲荷神社

第一編

撫川地域の人々が商売繁盛を願い祀った神(撫川166近隣)

神社の石碑

– 129 –

路傍の文化財


稲荷神社

神社の由来・配置図

第一編

380

540

正一位稲荷大明神

子年女

備前岡山尾町あたりや

天保十四癸卯年二月

神社の石碑

絵馬

社号の扁額 天保十四癸卯年二月 (1843)

□は籤奉? 4000

800 300

手水鉢

700

5850

早島

商人中

社号

線香台

270

480

手水鉢 鳥居 (信者のお話によると) 約150年前、 伏見稲荷の「三の鳥居」の神を勧請したと伝えられている。 藺草長者の寄進が多い。 天保十四年(1843) に奉納された絵馬がかかっている。 信者の人々は信心深く、 社殿はきれいに 祀られているが社殿が私有地にあり相続などの問題も起きている。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 130 –

480

お吉 お市 お近 お亀 お花 お熊

線香台

氏木荒

お吉 お市 お近 お亀 お花 お熊

明治十九年 五月吉日

納奉


20 新宮社跡

吉備津宮の摂社として、 吉備武彦命を祀った社(川入1288近隣) 第一編 神社の石碑

– 131 –

路傍の文化財


新宮社跡

神社の由来・配置図

第一編 稲荷神社

跡地碑

吉備武彦大神遙拝所

新宮社跡

薬師堂

木野山神社

つち饅頭

(伝・吉備武彦の墳墓)

吉備武彦命鎮座地跡地

神社の石碑

影向石

※詳細は次頁 ようこうせき

影 向 石

岩は王墓山古墳と新宮社の位置関係を表 している。春分、秋分に王墓山→鳥居→真如 院は一直線で太陽に並ぶ。

手水鉢

弘化3年(1864)

祭神 正宮 主神 本宮社 内宮社 新宮社 岩山神社

大吉備津彦命 考靈天皇 百田弓矢姫命 百田弓矢姫命 吉備武彦命

吉備武彦命

弘化三歳

吉備津神社

正月吉日

進奉寄

犬養健命

明治六年 癸酉仲秋

牛神

明治6年癸酉(1873)

牛神碑 1. 大吉備津彦命 吉備の中山の麓に「茅葺の宮」に住み吉備 の国の統治をした。280 歳の長寿を保ちついにこの茅葺の宮に 薨じ、御墓は「吉備の中山」 茶臼山の頂に葬られたという。 2. 吉備津宮の創立は吉備津彦命の五代の孫、加夜臣奈留美 命が茅葺の宮・・・ 3. 一説には、仁德天皇が吉備海部直の娘黒媛を慕って難波か ら吉備国に行幸したとき、吉備津彦の功を嘉して社殿を創建し これを祀った。 4. 創建時、吉備津神社から当社迄約 900m の回廊が設けられ ていたが、藁葺でもあり、山火事で焼失した。

弁財天

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 132 –


新宮社跡

鎮座跡地碑・遙拝所

神社合祀政策明治39(1906)年の勅令 その目的 神社は「国家の宗祀」 という国家原則に基づき、 神社の数を減 らし、 残った神社に設備、 財産を集中し、 神社の継続的経営を 確立させた。 その結果 大正3年(1914) までに20万社あった神社が7万社に減った。 現 在の数は、 2012年、 国学院大学神道学部の調査で7万9千社 と判明した。 考察 博物学者南方熊楠らの反対で1910年(明治43)以後急激な 合祀は収まった。 しかし、 多くの祭礼習俗が消滅し信仰心に損傷 を与えた。

吉備武彦大神遙拝所

880 300

昭和十五年五月建之

木野山神社 稲荷神社

吉備武彦大神遥拝所

三宝荒神 豊受比賣神

裏面に

– 133 –

路傍の文化財

1600

神社の石碑

日本武尊

かつて吉備津神社の摂社(本社に縁の深い神社) であった新宮社は明治43年(1910)合祀令により、 吉備津神社 に合祀され、 この碑文はその記録である。 ここにあるのは本殿の礎石である。

第一編

吉備武彦命

景行天皇

分社祭執行

官幣中社吉備津神社禰宜藤井杢之助謹誌

神ハ吉備津神社ノ摂社本宮社御祭神ノ曾孫ニ座坐シ 元村社新宮社御 シ御由緒上緒離ル 可カラザル御関係ヲ有スル為ニ往古ヨリ絶ヘズ本社ヨリ幣帛ヲ 奉リ奉祀 セルニ偶々合祀ノ命令ニ接シタルヲ以テ熟議シ上記新宮社ヲ本宮 社ニ合祀シ益々財産ノ基礎ヲ鞏固ニシ四時ノ祭祀ヲ厚クセンガ為明治四十 二年八月五日其ノ筋ヘ出願同四十三年二月二十六日許可ヲ得遂ニ同年 三月十六日盛大ナル合祀祭ヲ執行シタリ依テ碑ヲ建立シ諸々顛末ヲ記

シ後年ノ記録ト資スル云々爾 大正四年十一月上萍

吉備武彦命鎮座跡地

7代 大吉備津彦命 孝霊天皇 若日子建吉備津日子命

吉備津彦命鎮座跡地


新宮社跡

鳥居

神社の石碑

春分、 秋分には、 新宮社跡にある影向岩→鳥居→王墓山古墳が、 一直線で太陽に並ぶと言われている。 (実際は下図)

鳥居

影向岩

王墓山古墳

額は吉備武彦命遥拝所跡に置かれており 一部破損している。 (鳥居にはない) 島木

6460

笠木

380

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

4000

– 134 –

新宮社

天保2年辛卯(1831)

吉備津

天保二 辛卯九月吉辰

氏子中

5150

第一編

明神鳥居


21 八幡神社(大内田) (大内田557)

第一編 神社の石碑

由緒沿革 大内田の集落西の山中腹にあり、大内田の氏神(もと弥陀八幡という) 誉田別命(応神天皇)他二柱の神を祭神としている。

– 135 –

路傍の文化財


八幡神社(大内田)神社の由来・配置図

第一編 神社の石碑

社領 9000坪

寄進者芳名碑

⑤ 燈籠

御成婚記念碑

④ 狛犬

⑥ 木山神社

寄進者芳名碑

天満宮参道

玉垣 注連柱

② 手水鉢

③ 注連柱・玉垣

⑦ 秋葉神社

※ 鳥居

公森氏は藤原俊成の末裔。 (1114〜1204)

藤原俊成

定家 俊直

公森家初代 500年略

為俊

5代略

7世

8世

太平

仲次

孝俊

光俊

9世 太郎

正俊

太郎 大蔵官僚から 中国銀行頭取

(1650年3月)

為俊の母 都宇郡大内田村の 森竹右衛門に再嫁し姓を公森に改める

藤原定家

燈籠

1 鳥居脇の石燈籠 鳥居

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 136 –


八幡神社(大内田)燈籠・手水鉢ほか

第一編

①鳥居脇の石燈籠

神社の石碑

正面

天明四甲辰

吉日

八幡宮

願主當邑 新井川虎藏 母

北面

鳥居脇の石燈籠

西面

新井川虎蔵の母が寄進した。 新井川虎蔵はいかなる人物か。 家紋を刻んであり、 それなりの功のある人物と思われる。 天明4年(1784)、 大飢饉の始まる前で、 田沼意次の放漫財政で人心は表面上、 豊かであった。 社領9千坪といわれたこの神社は裕福さを象徴している。

宝暦8年(1758)

惣氏子中

宝暦八年

② 手水鉢

③ 注連柱・玉垣

公森氏

奉献

嘉永七壬寅八月吉日

奉寄附 奉献

牛之歳男

明治卅二亥年八月吉日

– 137 –

路傍の文化財


八幡神社(大内田)狛犬ほか

第一編 神社の石碑

④狛犬 狛犬(吽形)

狛犬(阿形)

狛犬の台座(吽形)

東面

氏子中

天保十三年 八月吉日

倉敷住 石工徳松

南面

獻奉

北面

これは天保13年(1842)、 石工徳松の作である。 他に3基の作品が旧撫川領内にある。

⑤拝殿両脇

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

施主當村 坤蔵

奉納

献 瓶

– 138 –


八幡神社(大内田)寄進者名碑

神社の石碑

燈籠 御成婚記念碑

一金壹百圓 一金壹百圓 一金壹百圓 一金壹百圓

當所

鈴山幸十郎

尾道市

光畑 岩吉

坪井 隆治

東京市

當所

光畑 岩平

公森 宇八

在米国

一金五拾圓 撫川町

坪井

米造

秋山

渡邊

坪井

早男

林八

金造

一金貳拾圓也 一金

西田伊三郎 一金

岡山市

一金

古新田 高松町

十九一

富造

昭和五十三年二月

寄附者

寄附者

公森太郎

昭和三年五月

一金貳拾萬圓也 斎藤友一

一金百 円

平野仙造

昭和三年五月

寄附者

光畑

寄附者

光畑槇次郎

大阪市

寄附者

寄附者

鈴山忠夫

中尾二郎

昭和十七年十月吉日

寄附者

昭和十七年十月吉日

一金参拾円

一金五拾円

一金百円也

一金百円也

一金百円也

鈴山幸十郎 光畑 岩平 坪井 米造 永瀬甚太郎

永代電燈寄附

發 起 者

大正十三年九月建之

裏面

御成婚

路傍の文化財

– 139 –

撫川町

一金

永瀬甚太郎 平松 槇吉 鈴山嘉平治 坪井 持夫 松本槇次郎 吉田勘三郎 公森 傳吉

光畑

有志

光畑

利須

光畑 春□

光畑 九□

光畑 常□

坪井 浅□

橋本 仙□

光畑 伜□

池上 能□

小野 基□

光畑 □□

坪井 吉□

坪井

所 岡山市 撫川町

一金拾圓也 当 所 同 一金 同 同 一金 同 同 一金 同 同 一金 同 庄村 一金 同 大福 一金 同

一金六拾三圓也

一金

一金拾円也

一金

一金五圓也 当所 一金 同 一金 同 一金 同 一金 同 一金 同 一金 同 一金 同 一金 同 一金 同

太田丑之年 鈴山又五郎 光畑徳五郎 沢田吉次郎 佐藤 多□ 大阪市 光畑槇太郎

関戸

一金五圓也 当所 一金 同 一金 同 一金 同 一金 同 一金 同

寄進者芳名碑(2)

一金五拾圓 松本松次郎

寄進者芳名碑(1)

第一編

⑥ 木山神社

寄進者芳名碑(2)

木山神社

寄進者芳名碑(1)

ご成婚記念碑


八幡神社(大内田)秋葉神社

第一編 神社の石碑

⑦ 秋葉神社

秋葉神社

鳥居

燈籠

鳥居

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 140 –


22 花尻八幡宮

第一編

応神天皇を祭神とし建武年間に勧請した社(花尻57)

神社の石碑

花尻八幡宮 住 所 岡山市北区花尻57番地 主祭神 応神天皇 建 物 本殿・拝殿・幣殿 総 代 長櫓 定雄 境 内 227.48坪(約750㎡)

由緒沿革 備前国旧藩主 池田家文庫本 神名帳に花尻天満宮とあり、建武 年間(1334〜1335)の勧請と伝えられている旧村社である。 本殿は塩飽諸島の舟大工により建てられたと伝えられ、拝殿横の広 場には相撲の土俵もあり、秋祭の奉納相撲が開かれた。 手水鉢は宝暦6年(1756)に、鳥居は安政元年(1854)、石燈籠は 慶應2年(1866)といずれも長櫓氏の寄進による。 「長櫓」は吉備津 彦命から賜った姓で、櫓を操る集団の長を示す。 尚、西側の石燈籠は昭和初期、台風で境内の樹が倒れて破壊さ れたため、昭和8年(1933)に再建した。 (森安 哲彦)

– 141 –

路傍の文化財


花尻八幡宮

神社の由来・配置図

第一編 神社の石碑

幣殿

拝殿

本殿

1m 本殿

土俵

手水鉢 東面 630

拝殿

北面

350×220×300h

宝暦六丙子歳

手水鉢

常夜灯

幟旗杭

常夜灯

幟旗杭

常夜灯

大正七年

吉田氏

長櫓長太夫秀好

宝暦六年=1756

300

長櫓長太夫秀好

願主

600

南面 360

常夜灯

東面

西面

東面

北面

西面

十二月上旬

十二月上旬

慶應二寅年

奉献

正十位則武新四郎

昭和八年十月吉日

奉 燈

正十位則武新四郎

昭和八年十月吉日

鳥居 慶應二寅年(1866)

南面

南面

初三郎

涼太郎

庄治郎

長櫓 平三郎

鳥居

– 142 –

世話人

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

長櫓平三良 同住六三良 同住長右エ門

安政元年=1854年

同住庄治良

氏子中

安政元寅年十二月吉日

1800

この銘は西面にある。


23 白石八幡宮

第一編

石清水八幡宮を勧請した社(白石376)

神社の石碑

白石八幡宮 住 所 岡山市北区白石376番地 主祭神 応神天皇・神功皇后・玉依姫尊・武内宿禰 建 物 本殿・拝殿・幣殿 境 内 121.4坪(約400㎡) 例 祭 春、秋(10月22日) 総 代 板野英資

由緒沿革 当神社は、京都の石清水八幡宮と深い関係があったため、現在で も、地元では「石清水八幡宮」と呼ぶ人もいる。 昔は神仏混淆であり、戦時中神社の改修時に3体の古い石像が発 掘され、境内に社と石碑をたて丁重に祀った経緯がある。 創建は1334年(建武年間)頃で、備前国旧藩主池田家文庫本に 津高郡白石村鎮座八幡宮とあり、建武年間の勧請と伝えられてい る。1880(明治12)年に村社に列格した。 (森安 哲彦)

– 143 –

路傍の文化財


白石八幡宮

神社の由来・配置図

第一編 神社の石碑

田圃

本殿

記念碑

田圃

幣殿

常夜灯

拝殿

南面 常夜灯

常夜灯

東側の常夜灯はない。 狛犬(像はない)

北面

文 政 六 未癸 九 月

鳥居

文政六癸未年

手水鉢

奉献

政十建之

深井文七郎

深 井 政 文 十 七 建 郎 之

手水鉢

文政6年(1823)

幟竿

用水路の石橋

田圃 祠

用水路の石橋

720×650

55 吉

120

石橋の側面の文字

西面

天保二辛卯四月吉日

720

1920

天保2年=1831

昭和4〜5年に発掘された石像の祠 石像三体をお祀りしてある。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 144 –


1620 金壹百五拾圓

還暦辰之歳 金壹百弐拾圓

平松 竹六 板野 仲次 板野 一市

子 寄 喜志子 勝太郎 トシ子 誠作 壮久

佐平 清

音次郎 治郎 鉄造 春治

大角 大藪 板野 磯井

高谷

金拾 圓

時光 板野 山上 板野

長瀬

金五 圓

浅治

房吉 近雄 孝雄 綾吉

安吉

□ク

板野

金参圓

文平 小富 由婦 登免

エト 武内 清野 槇香 幾太 小富貴 政野 豊子 榮 綾子 國松 美恵子

板野 林 神埼 赤木

中島 公森 橋本 中村 間野 渡邊 大月 脇本 板野 浅沼

尾崎 文惠 富山 艶子 岡崎 豊 福永 艶子

竹野 長一郎 兼吉 登□□ 喜一郎 梅次郎 文七 留男 金作

板野 板野 大藪 板野

金拾五 圓

篤三郎 順 作 壽 治 留 吉

河内 ヨシ 宗田 貞子 林 ヒデ子 坪井 伴次郎

浪 英明 嘉惣治 直佐 房子 昌香 小春 嘉三郎 八重子 タカ

綾太郎 春惠 富男 貴志

板野 板野 平松 板野

浪 トメ コトラ 房野

種山 西崎 藤田 山崎 齊藤 坂野 中田 大藪 川上 岩田

井上 熊野 板矢 織田

馬太郎 ソヨ 金造 スミ クミ子 歌子 須満子 フミヨ 富貴子

芳 名 美代野 文子 艶子 能武

大久保 馬津野 丹原 岡田 松田 壽 板野 齊藤 茂子 矢吹 難波 元 児子 小野 惠伊 山本 岩田 駒野 藤田 岸本 美登 岸本 結城 忠雄 大森 元成 千代子 人見 時治 金五 圓

附 者 曽我 石村 水畑 矢吹

千八 正志 岩男 慶治 彦次郎 浦太

大藪 森安 大笹 大橋 板野 森安 森安 細川 板野

皇紀二千六百年紀念本殿拝殿幣殿改築費氏子寄附者芳名

板野 斎藤

大藪 板野 板野 板野 板野 太田

金参百圓

金貳拾 圓

田村

金参拾円

金五拾圓

板野 辰次 涼治 板野 政一 慎平 板野 清二郎 鹿治 高谷 再治 銀三 藤介 金六拾圓 孫九郎 大藪 金二 仙三郎 板野 肇 五平治 金五拾五圓 百蔵 板野 柾二郎 深井 源六

金壹百五圓

左市 利英 誼作 文一 政雄

山口 板野 平松 板野 関 中村 大藪 板野 深井 板野 亀太郎 大藪 金壹百圓 板野 板野 虎吉 板野 平松 多作 平松 平松 敬太郎 板野 金壹百圓

出 氏 則武 板野 時光 中田

八重子 鶴治 榮子 國造 辰 末野 富次 際一 クニ 秀雄

板野 藤吉

梶原 富太郎 箕延 寺門 省三 大藪 慶 浦岡 國 難波 川口 藤澤 矢吹 小寺 登志夫 直吉 小松 幸次郎

路傍の文化財

– 145 –

金五拾圓

金貳 拾圓

長瀬 太田 岸 土光 金 拾圓

板野 細川 吉田 今井

300

820

神社の石碑

2330

第一編

氏子の戸数は現在と変わらない60戸程である。

改築記念碑

八 幡 宮

鳥居

鳥居・手水鉢・記念碑 白石八幡宮

手水鉢

この地域では、 全体が完全な状態で保存されている鳥居である。

鳥居

銘はないが門前の太鼓橋(天保2年) と同時期に奉納されたと思われる。

記念碑

昭和15年の改築工事に寄せられた寄進者の名簿


24

瀬戸稲荷神社

第一編

航行の安全を祈願(邸内776)

神社の石碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 146 –


瀬戸稲荷神社

神社の由来・配置図 第一編 神社の石碑

瀬戸稲荷神社

ご神木

伐採

燈籠

棕櫚の木

315

伐採

440

伐採

瀬戸稲荷神社

石榴

2,480

社号の扁額

(西面)

(南面)

(東面)

御祭神 ウカノミタマノミコト

1100

鳥居(鋼管製φ90)

稲倉魂命 (穀物の神) 大土祖命 (土地の神)

ミクマリノミコト

水分命

(水の神)

930

奉燈

惣氏子中

惣氏子中

明和六巳丑年 一月廿八日

明和六巳丑年 一月廿八日

1590

オオツチミオノミコト

「庭瀬城址ものがたり」 (庭瀬城址保存会発行) から 庭瀬付近の陸地化は9世紀ごろから進んだ言われ、 創建は延喜年間(901〜23) である。 この周辺は海で浅瀬となっていたので、 航行の船舶は難航していた。 醍醐天皇の延喜年間にこの地に祠をたて にいせ 稲荷神社を奉斎した。 この地の浅瀬は新しい瀬であるから 「新瀬」で庭瀬の地名の発祥である。 明治4年の庭瀬藩邸内絵図によれば、 神社は現在地の南100m程の川岸に在り、 大正年間には遷座してい たという。 境内には明和6年(1769) に奉納された石灯籠とクスノキのご神木に抱きかかえられた手水鉢らしき石もある。 元西本商店社長 西本正哉さんのお話 藺草の生産量は昭和41年をピークに徐々に衰退して、 西本商店は平成21年に廃業した。 この年に神社を 整備した。 お社の基台を改築し、 ご神木も幹を3mを残し伐採した。 社号は「稲荷神社」だが地元では「瀬戸稲荷」 とも呼んだ。 尚、 弁天島にある 【庭瀬城址】 の題字は先々 代社長 西本留清(本名清人) の筆による。(2014.9.5 中島悦夫 記)

– 147 –

路傍の文化財


25

天満宮(大内田)

第一編

十二ヶ郷用水の霊験あらたかな社(大内田)

神社の石碑

大内田ちびっこ広場の北側山頂に、 コンクリート 塀に囲まれた菅原道眞公を祭祀する小祠がある。 元は妹尾山田地区にあり、 妹尾兼康も信仰し、 その霊験で平家に重用された。 また十二ケ郷用水 の水脈筋(みおすじ) も霊験によると言われ、 「用水 の神」 と郡中の信仰が篤く、 池田家の崇敬も篤く、 例祭には代参が行なわれていたと言われている。 江戸前期(1655年) に大内田に移奉されたが、 昭和40年代の流通センター開発に伴い、 地元民 の尽力によって現在地に遷座された。 「天満宮縁起」によると、 平安時代の永長年間(1096) に妹尾郷に勧請され、 寿永の昔(1183) この地の豪族妹 尾太郎兼康が十二ケ郷用水路の創設に当たり、 当社に祈 願、 無地成就したと伝えられている。 故に用水天神または兼 康天神と崇め奉られるのである。 その後社殿の朽壊により一時ご神体を大内田の観音堂 へ移したが、 旧山田村の尾崎神社の建立に伴い同社に 遷座された。 益々霊験あらたかにして近郷の人々の参詣す 三谷の観音 るものが多く、 ついに明歴(1655)年間に大内田山中(現 岡山流通会館) に新宮を建てて移奉された。 (そのため当 時はその山は天神山と呼ばれた) …きびのさとNo.82より 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

題目石 題目石 常夜灯他

^3 大内田道標

$0

大内田

大蔵坊無量寺阯 地神

^8

天満宮

@5

%3

– 148 –

関戸 妹尾崎

%2大内田常夜灯 %1 荒神様と千蔵坊址

^7 役行者の碑

%4 向庵大師堂址 山田

岡山流通センター 1km

#8

遍光山千手寺

@1 八幡神社 大内田ちびっこ広場

#9

500m

0m 伍社神社


天満宮(大内田)社殿・鳥居ほか

奉納石柱

神社の石碑

2200 210

社殿

3600

2400

奥行 1020 1200

鳥居

本殿からつづら折りの階段を約50m降りた所、 八幡様か らの分岐道にある。

3600

3600

天満宮

2200

– 149 –

第一編

奉 福田村長難波幾太郎

撫川町長太田清作

大正2〜3年頃に妹尾用水路の安全を祈願するために 建てられたもの。 撫川町長と福田村長の銘がある。

路傍の文化財


第一編 神社の石碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 150 –


第二編

題目石等の石碑

【第二編】題目石等の石碑

路傍の文化財

– 151 –


題目石について

妙見菩薩

第二編 題目石等の石碑

題目石とは、題目の「南無妙法蓮華経」を刻んだもので

古代中国では北極星は天帝とみなされた。之に仏教思想

当地には多く見られる。これは日蓮宗の信者が集団をなして住

が流入し、菩薩の名がつけられた。「妙見」とは、優れた視

んでいたことの証であるが、信者の多い理由はおよそつぎのよう

力の意味で善悪や心理を見通すもの。ご利益は、国土を守り、

な事情による。

災難を除去し、敵を退け人の寿命を延ばす。大黒天、毘沙

日蓮上人の死後 60 年余りたった延元年間 (1320 年頃)

門天、弁財天と同じ天部に属す。北極星を神格化したもの。

大覚大僧正が備前の国で布教を始めた。この人の祖先は近 衛家、または後醍醐天皇の第三皇子であるとも伝えられてしる。

髭題目の説明(「はねだいもく」とも言う)

大覚大僧正は日蓮上人の高弟日像上人に師事し仏門に入っ

日蓮宗で題目「南無妙法蓮華経」を「法」 以外の 6 文

た。大覚大僧正は備前における布教活動で多くの有力者を

字の筆端をひげの様に伸ばして書いたもの。法の光を受けて

帰依させ、信徒の勢力拡大を成し遂げた。信徒の信仰の意

万物が真理の活動に入る姿を現したものという。

思は固く戦闘的であり強力に実行された。 教義を広げることはまさに戦いであり、有力者は領民に改宗 を迫り叛いて焼き討ちされる者など出て、今までの宗派から法 華に改宗せざるを得ない状況にもなっていた。大覚大僧正はこ の地域において日蓮宗最大の功労者であった。題目石は当 時の人々の法華経に対する気持ちを表したもので、団結力や 勢力拡大の証となった。 碑文から見ると大覚大僧正の指導力は宗祖日蓮に近い。

無縫塔 無縫塔は高僧の墓で卵塔ともいい、もとは宗祖日蓮を刻み 祀ったが、後に有力な高僧にも及び、崇拝された。この吉備 地区にある題目石 43 基のうち宗祖日蓮の名を刻んだもの 14 基、大覚大僧正は 11 基でありいかに大覚大僧正の信頼が 厚かったかわかる。一般的に農村集落には五穀豊穣を願い、 地神、水神、牛神を祀る。ここでは合わせて 32 基である。題 目石と無縫塔の 43 基は日常生活のなかの法華経の占める大 きさを示している。

地神、水神、牛神 一般的に農村集落には五穀豊穣を願い地神、水神、牛 神を祀る。 地神:地の神。 水神:水の神。水のある場所により海の神、川の神、 泉の神、池の神、井戸の神等と呼ばれている。 (海神、龍神などもこれに含まれる)

牛頭天王 薬師如来の化身としてスサノオの尊とされ、祇園社の祭神と なった。「牛頭」は栴檀の木を産出する牛頭山に由来する。 もとはインドに発して祇園精舎の守護神となり、中国に入り道教 と習合して民間信仰の神となった。

天津神・国津神 神話、伝承の中で語られるもので、特定の神ではない。 天津神(高天原に居る神、又は天下った神々) 国津神(天照大御神によって平定された地域の人々が信 仰していた神々) 大祓詞(おおはらえのことば)に 「高天原に神留りますカムロギ カムロミの命を以て…天津神 国津神 八百万の神等共に聞こしめせと白す」

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 152 –


1 題目石(東花尻)

東花尻 おそっさま (御祖師様) (東花尻467南)

第二編 題目石等の石碑

– 153 –

路傍の文化財


東花尻 題目石

通称:おそっさま(御祖師様)

第二編

舟形の水鉢

③ ① 題目石等の石碑

説明板

奉誦漸々

日蓮大菩薩法界万霊

千部成就開眼 享保四己亥年七月十三日

南無妙法蓮華経

右施主為二世菩提願主茂就院日香営之

日蓮菩薩

成就砌郶

天正第十九年辛卯年 奉唱首題一千

南無妙法蓮華経

大覚大僧正と題目石 ︵岡山市東花尻︶ 大覚大僧正は日蓮聖人の孫弟子である日像聖人に 師事し︑ 正和二年︵一二一三︶師の命を受けはじ めて中国地方に日蓮宗︵法華宗︶ を広めました︒ 辻説法により教法は広められ︑ 以降大覚大僧正の 石碑とともに︑ 題目石の建立が相次ぎ民衆の法華 信仰の対象となりました︒ 当所の題目石 ︵中央︶ は天正十九年︵一五九一︶ 二月十三日﹇岡山県下では備中三軽部の題目石 ︵大覚大僧正真筆︶ の次に古い﹈と云われており︑ 日戒上人の建立とみられます︒ 享保四年︵一七九一︶︑ 左側のものは天明六年 ︵一七八六︶ の建立と見られます︒ 銘 天正第十九年辛卯年 奉唱首題一千郶成就砌 花尻村東西眞俗一結士

日戒敬白

弘化二巳年

十一月吉日

願心未年男

弘化三年八月吉日

③ 祠 弘化2年/3年(1845/1846) 乙巳 (きのとみ)/丙午(ひのえうま) ④ 題目石 享保4年(1719) 乙亥(きのとい)

南無妙法蓮華経 日蓮菩薩 二月十三日

大願主

① 線香立 大正7年(1918)戊午(つちのえうま) ② 題目石 天明6年(1786)丙午(ひのえうま) ③ 題目石 天正19年(1591)辛卯(かのとう)

花尻村東西眞俗一結士 二月十三日

村中

村中 天明六年丙午九月十三日

天明六年丙午九月十三日

日蓮大士

大正七午年

五月吉祥日

大正七年五月

建立の年代

中村

施主故日照上人

大願主日戒敬白 岡山市吉備地区活性化推進委員会

全体の平面図

– 154 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

南無妙法蓮華経

文政六癸未歳四月

邑中

大覚大僧正 奉唱首題一千部

文政6年(1823)癸未(みずのとひつじ)

① 卵塔

⑤ ①

④ ③ ②

説明板の内容

N


2 牛神(東花尻) 東花尻 うしがみさま (東花尻190)

第二編 題目石等の石碑

– 155 –

路傍の文化財


東花尻 牛神 通称:うしがみさま

N ③ 燈籠

第二編 題目石等の石碑

南無妙法蓮華経奉献

②祠

① 牛神

地水両神 牛頭天王

④ 手水鉢

大正十二年三月吉 信徒中

施主故日照上人

大正七年五月吉日 享保五年庚子十一月十三日

明治八亥年

十月吉日

大 正 七 年 五 月 吉 日

牛神

大正七年五月吉日 施主故日照上人 施 主 故 日 照 上 人

中村 施 主 故 日 照 上 人

大 正 七 年 五 月 吉 日

ご づ て ん のう

牛頭天王

京都の八坂祇園社の守護神「スサノオノミコト」 と同様に疫病退散を担う神とされた。 ②は何神の祠か不明( 牛頭天王をお祭りした祠?)

建立の年代 ① ② ③ ④ ⑤

牛神 明治8 年(1875) 乙亥( きのとい) 祠 「地水両神」の祠か? 牛頭天王の祠か? 燈籠 享保5年(1720)庚子(かのえね) 手水鉢 本来は燈籠の「礎石」か「笠石」ではないか のぼり

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 156 –


3 記念碑

道路改修記念碑(東花尻160)

第二編

立成寺十九世

九円

拾円

森安延五郎

森安芳太郎

森安柳三郎

一金三拾円 小澤日照

八円 七円五拾銭 大賀浅次郎

森安喜十郎

森安忠七

森安粂次郎

六円五拾銭 森安貞太郎

五円

備前花尻

森安豊吉

五円五十銭 森安伊之吉

七円

森安清三郎 三円 森安住三郎 仝 二円五拾銭 森安仙一郎 森安増七 仝 森安□三郎 仝 森安與平次 仝 森安光造 仝 森安喜一 仝 森安□吉 仝 森安仲太 仝 森安□郎 仝 森安新吉 仝 森安旦治 仝 森安浅八 仝 森安兵吉 仝 大賀楽三郎 仝 □□新吉 □□□□

四円五拾銭 森安 四郎 中村兼郎 仝 大賀高宣 仝 板野啓次郎 仝 大賀岩造 四円 森安定一 仝 三円五拾銭 森安高四郎 森安□□ 仝 江国仁十郎 仝 森安喜太郎 仝 大賀三次郎 仝 妙傳寺 三円 板野大三郎 仝 森安信太 仝 森安□七 仝 森安旦平治 仝 森安興吉 森安□一郎 仝

為道路改修堤防切下記念建之 明治三十七年甲辰年四月吉日

森安 森安 森安 森安

芳太郎 傳五郎 忠七 久四郎

大賀進吉 大賀きく 大賀仁三郎 大賀□郎 森安万年治 森安円次郎 森安千代吉

仝 仝 仝 仝 仝 仝

六人 森安□二郎 仝 森安田平次 四人 森安甲三郎 仝 則武□□ 二人 森安利吉 仝 赤木房次郎 森安桂次郎 森安民三郎 森安涼太 森安兼吉 森安政次郎 板野平吉 森安仁吉 二人 仝 仝 仝 仝 仝 仝

森安藤一郎 森安□郎 森安七三郎 森安大三郎

貞太郎 進五郎 豊吉 啓次郎

仝 仝 仝 仝

森安 森安 森安 板野

路傍の文化財

– 157 –

人話世 工 担

事 當

題目石等の石碑

附寄下切防提雨

明治三十七年、東花尻地区の水害復旧工事のため堤防の 切り下げ工事行った記念碑。 立成寺が経済的、精神的に大きな指導力を持っていた。 70 名の名前が刻まれているが、うち 58 名が森安一族である。


4 題目石(東花尻)

東花尻地域の題目石(東花尻176近辺)

第二編 題目石等の石碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 158 –


東花尻 題目石

題目石等の石碑

道路

明治三十七 年十一月吉 日 一天四海皆 □ □結注法 □□六月 酉歳 為□衆無□

南無妙法蓮華 経 妙見大菩薩 現無量神力

天下泰平

南無日蓮大菩薩

南無多寶如来

南無妙法蓮華経

国家安穏

南無釈迦牟尼佛

建立の年代

① 明治38年(1905)6月23日 ①’ 大正11年(1922)3月吉日 ② 明治37年(1904)10月13日 ②’ 大正10年(1921)10月吉日 ③ 不明 ④ 明治3□年□月□日 ⑤ 明治37年(1904)11月吉日 ⑥ 昭和5年(1930)1月□日

第二編 平成二十七年九月吉日建立

西谷番神社

明治三十七年十月十二日 建之

末法下種大導師

宗祖日蓮大菩薩 西谷信徒中

維持明治三拾八年六月三日

大毘沙門天王

□□□□

南無妙法蓮華経

路傍の文化財

– 159 –

倒壊した燈籠の笠部分

道路

⑤の西面

⑤ ④ ③

南無妙法蓮華経

大覚大僧正 西谷信徒中

南無日蓮日朝大聖人

南無妙法蓮華経

森安酉年男七十才

昭和五年十一月□□日

南 無 日 蓮 日 朝 大 聖 人

奉燈

道路

北面 南面

② ①

⑤ ⑥

④ ③ ② ①

N 路 水 排 路 水 排

隣家 隣家


5 釣鐘

正法寺の半鐘(西花尻261)

第二編 題目石等の石碑

重兵衛 太兵衛 勝 蔵

當村中

330

享和二年 壬戌天

※1

東平野村

九月廿三日

庭瀬町 平野屋源助 今保屋傳右エ門 中田村 梶屋太七 木屋儀八 長野孫七 平野村 助四良 利右エ門 傳兵衛

世話人

※1の文字は記すの意。 享和二年九月廿三日=1802年9月11日

500

南無妙法蓮華経

半鐘は僧房内の連絡合図用に作られたものである。 この半鐘は平成21(2009)年11月、 西花尻の火の見櫓に吊るされていたものを撤去し、 正法寺へ移設保存した。 本来は正法寺の備品だったが、 太平洋戦争の金属供出を免れる為、 防災用として火の見櫓に吊るしたと言われている。 鋳造の地阿曾村には、 1800年代に鋳物の工房があり、 有能な技能者集団がおり、 昭和初期まで存在した。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 160 –

備中賀陽郡西花尻村

林勘五良武雅

西花尻の半鐘

浄泉山正法寺常住

智覚院日應代

十五世

加治

備中国賀陽郡 阿曾村住

南無妙法蓮華経

三宝諸天善神

元祖大菩薩

志諸精昊法界

平等利益

天下太平

国家安全

御領主 御武運長久


6 題目石(西花尻本町) 西花尻本村の「地神さま」 (西花尻739北)

第二編 題目石等の石碑

– 161 –

路傍の文化財


西花尻 題目石 通称:ぢじんさま

献奉

奉 燈

南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩

南無妙法蓮華経 法界

大覚大僧正

題目石等の石碑

地神

第二編

2,000

④ の詳細 ③ の詳細

東面

東面

皆帰如法 祈講中安全

四拾人

宝暦十三癸未年

当村講中

天保二辛卯年建之

南無妙法蓮華経 法界

十月十三日

平面図

一天四海

南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩

西面

西面

④ ⑥

畑 畑

築造の年代 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥

地 神 題目石 題目石 題目石 燈 籠 線香立

建立年代不明 大正10年(1921)5月 宝暦13年(1763)10月13日癸未 天保2年(1831)□月辛卯 文化6年(1809)9月己巳 明治31年(1898)□月

道路

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 162 –


7 題目石(奥谷)

西花尻奥谷の「ほうかいさま」 (西花尻791東)

第二編 題目石等の石碑

– 163 –

路傍の文化財


西花尻奥谷 題目石 通称:ほうかいさま

建立の年代 ① 無縫塔 明治12年(1879) 己卯(つちのとう) ② 題目石 文政5年(1822)壬午(みずのえうま) ③ 無縫塔 文政5年(1822)壬午(みずのえうま) ④ 御本尊 安政4年(1857)辛巳 (かのとみ) 題目石、 花筒に「女講中」 とある。 第二編

⑤ 番神様の御本尊 ⑥ 寄進者銘板

⑦ 卒塔婆

題目石等の石碑

天神様木像

堂の中の断面

450

床 ▼ 土間 ▼

辻堂平面(1/5)

890

950

1300 450

1110

800

東面

文政五歳□戊午 三月十三日

– 164 –

女講中

680

大覚大僧正

=時

南面

奉唱妙題五百部

文政五歳舎

460

奉唱妙題五百部

西面

女講中

750

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

壬午三月十三日

南無日蓮大士

女講中

明治十二年己卯八月 村中

中講女

女講中

土間

地神

床面

東面

東面

360 南無妙法蓮華経

560

南面

献五百五十年遠忌報恩謝徳造立之

南面

1330

西面


西花尻奥谷 題目石 通称:ほうかいさま

④ 天神様木像

天神様木像はここから50mほど西の高台に鎮座した「番神様」のお堂に祀られて いた。 お堂が老朽化したため解体し、 ご本尊をここに移転して安置した。

510

廣田大明神 貴船大明神 春日大明神于時安政四 辛己稔七月吉祥日

諏訪大明神 江文大明神 大原大明神 八王子権現 三上大明神

健部大明神

聖眞子権現 赤山大明神

熱田大明神 北野大明神 松尾大明神 客人権現

稲荷大明神 兵生大明神

気比大明神 天照大神宮 平野大明神 住吉大明神 苗鹿大明神

建之

28〜30

正法寺 廿一世日廣◎代

22〜24

気多大明神 八幡大菩薩 大比叡権現 祇園大明神 吉備大明神

16〜18

鹿嶋大明神 加茂大明神 小比叡権現

願主 當邑奥谷中

10〜12

1〜3

7〜9

13〜15

19〜21

25〜27

◎花押

三十番神の順番(日蓮宗) 国家人民を一か月30日間日替わりで守護する神様 日

神名

初日

熱田大明神 熱田神宮

現在の名称

神名

現在の名称

十六日 平野大明神 平野神社

初二日 諏訪大明神 諏訪大社

十七日 大比叡権現 日吉大社西本宮

初三日 廣田大明神 廣田神社

十八日 小比叡権現 日吉大社東本宮

初四日 気比大明神 気比神社

十九日 聖眞子権現 日吉大社宇佐宮

初五日 気多大明神 気多神社

二十日 客人大明神 日吉大社白山姫神社

初六日 鹿島大明神 鹿島神宮

二一日 八王子大権現 日吉大社八王子社

初七日 北野天満宮 北野大明神

二二日 神明大荷稲 伏見稲荷大社

初八日 江文大明神 江文神社

二三日 住吉大明神 住吉大社

初九日 貴船大明神 貴船神社

二四日 祇園大明神 八坂神社

初十日 天照皇太神 伊勢神宮内宮

二五日 赤山大明神 赤山禅院

十一日 八幡大菩薩 石清水八幡宮

二六日 健部大明神 健部大社

しょうじんし

まろうど

せきざん たけべ

みかみ

十二日 加茂大明神 上賀茂神社・下鴨神社 二七日 三上大明神 御上神社 ひょうす

十三日 松尾大明神 松尾大社

二八日 兵主大明神 兵主大社

十四日 大原大明神 大原野神社

二九日 苗鹿大明神 那波加神社

十五日 春日大明神 春日大社

三十日 吉備大明神 吉備津神社

– 165 –

のうか

路傍の文化財

題目石等の石碑

285

4〜6

⑤ 番神様の御本尊

南無妙法蓮華経

表面

裏面

第二編

安政4年(1857) に造営。 正法寺21世日廣上人の揮毫。 「ばんじん堂」は平成19年1月、 新築された「法界様」に合祀された。 このご本尊は 「番神堂」解体の折、 天井裏から発見されたものである。 三十柱の神々の名が書 き込まれている。 多くのお札は [三十番神] とまとめて書かれている。 正法寺第21世日廣上人が奉納した三十番神はすべてが記されており、 順番はひ げ文字の様式に倣い、 中央から放射状に表示されている。


題目石等の石碑

⑦ 卒塔婆

法界様改築 寄進 御芳名 平成十九年一月吉祥日 金壱百万円 納税組合 金参拾弐万円 実行組合 金四拾万円 土地売却 金壱百万円 熊代 房男 金弐拾万円 大西 定雄 熊代 明 熊代 誠一 熊代 博一 熊代 実 金拾万円 大西 啓嗣 白神 快至子 金六万円 坪井 道雄 金五万円 熊代 敬三 熊代 洋 熊代 正己 金四万円 熊代 忍 熊代 次俊 熊代 恭伸 黒住 涼子 金参万円 大西 亮旦 大西 正志 大西 好江 熊代 巌 金弐万円 井野川勝己 大西 和郎 大西 清 大西 秀俊 熊代 二郎 熊代 熊夫 熊代 健一 熊代 浩三 熊代 太一 熊代 辰雄 熊代 信男 熊代 弘道 熊代 正英 古武 健一 白神 秀男 惣路 和子 竹内 啓之 谷本 智 藤原 初美 矢吹 悳治 矢吹 妙子 御祝金壱万円 江口 幸雄 三栄 石販

一天四海皆歸妙法

且四月中旬十二日

南無妙法蓮華経 □□ 日蓮大菩薩六百御遠忌報恩謝徳者也 令汰人住廣宣流布

真浄 棒高祖日蓮大菩薩第六百五十遠忌報恩謝徳 寶 塔 法會

南無多寶如来而今此歳多諸患難唯我一人能□

南無妙法蓮華経 奉修

昭和五十六年酉歳三月彼岸社日 奥谷講中

南無釋迦年尼佛今此三界皆是我有其中衆生生悉是吾子 昭和六年九月廿三日 西花尻講中

南無多宝如来維持

南無妙法蓮華経 奉 備 宗祖日蓮大菩薩第七百遠忌御報恩謝徳 矣 南無釋迦牟尼佛

– 166 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

2120

第二編

2400

西花尻奥谷 題目石

通称:ほうかいさま

⑥ 寄進者銘板


8 題目石

月心坊跡(下池西の山中) (西花尻615東)

第二編 題目石等の石碑

[きびのさと] № 28 によれば

東側の祠は持地妙正大明神である。昭和 35 年には祠の説明札(木の札)があった。 妙正大明神は日蓮宗の疱瘡神である。 中央の題目石は二十四世日廣上人建立とあるので明治時代初期のものであろう。 この石柱の下部に観世音菩薩座像が刻まれており、「観音古墳」の名はこれに由来する。 古老の話では、この碑が「疱瘡」に効くとう言い伝えがあり、子供の頃石を削りに来たという。 西側の「谷住明王」の碑の詳細は不明。 藤原成親が配流された三つの坊の内のひとつ、月心坊のあった場所。 月心坊は観音古墳の下の平地に建てられ、ここが庵の跡地である。現在は古墳は盗掘され、塚石は散乱している。 日廣上人が成親の遺徳をしのび、700 年たってこの碑を建てた。

説明札(今はない)

2260

持地妙正大明神

当邑講中

除疫病 観世音菩薩 疱瘡守

説明札

高山院

明治三十四年 三月吉日

谷住明王

奉勧請 中山修験者

干時安政四丁巳歳七月吉日 願主 当邑奥谷信者 南無妙法蓮華経 奉勧請持地大士 正法寺 廿一世 日□

月心坊舊跡

南無妙法蓮華経

正法寺廿二世日廣代建之

裏面

安政4年(1851)

– 167 –

路傍の文化財


18 9 地水両神

八幡(新幹線側道北側) (川入1115北東)

第二編 題目石等の石碑

八幡の集落の地神、水神様。春、秋の社日祭は法華経を唱えてお祭りする。 社日: 「社」は土地の意で春分、秋分に最も近い戊の日をいう。 土地の神をお祭りして春は生育、秋は収穫のお礼参りをする。

460

– 168 –

830

920

地水両神

南無妙法蓮華経南無待地菩薩

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

520


10 地神(東山) 東山参道脇(川入734南)

第二編 題目石等の石碑

石燈籠

火の見櫓

地神

←東山吉備津参道

1,900

弘化二巳年 十月一日

地神

吉池 天金神社 新川

明治十二 己卯四月吉日

燈奉

弘化二年(1845)

あまかね

なぜ天金神社がここにあるのか?

– 169 –

路傍の文化財


11 念仏石

新宮参道(川入770)

第二編 460

1800

240

貞享四年之天東山村

七月十五日念佛講

法界萬霊

南無阿弥陀佛

770

題目石等の石碑 貞享四年(1687)

...............

仁王門の説明書 (念仏石の解説はない)

仁王門の由来

– 170 –

仁王門は慶長十二年真如院中興尊賀法印代 松並木馬場境内の中間に建立安置さる︒ 明治二十五年破損甚だしく取崩され爾来 八十有余年間尊像は本堂下陣に安置さる︒ 昭和四十八年春祖信徒の淨業により現地に 仁王像を再建し尊像を安置し奉る︒

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

昔、 この地に仁王門があり、 参道の脇には松並木があった。 真如院の仁王門の裏側に説明書きがある。

...............

仁王尊とは左方密迹金剛は口を大きく開いて阿宇金剛力士といわ れ、 万有の根源、 胎蔵界の真理を表し、 右方那羅延金剛は口を閉じて 吽字金剛力士といわれ、 万有終局の真理を表す。 両金剛共全身裸で下方こしのまわりだけ衣装をつけ勇猛な形相をして 仏法を守護し寺の門前の左右に安置されている。 金剛は智を意味し智を以て心の実相を開発して衙迹衆生の苦を抜き 楽を与えてくださる大縁の深いみ仏であります。 因みに仁王尊像背銘を記す。 奉新造慶長十二未年現住尊賀 奉再興明暦二申天現住隆海 仏師 岡山市丸亀町 小野十郎衛門貞武朝臣 奉再興天保十四卯天九月吉 備中宮内片山 中山 力蔵 真如院東林山明仙童寺 天台の題目碑(仁王門)


12 念仏石・道標

川入の観音堂・前堂(川入578)

第二編 題目石等の石碑

– 171 –

路傍の文化財


川入観音堂・前堂 念仏石・道標

吉備

真金

県道

川入の前堂 一畑薬師

④ 弘法大師坐像 手水鉢

第二編

題目石等の石碑

共同墓地

前堂

そてつ 道路

190

道路

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 172 –

300

280

570

670

番一第国西

245

中山善太郎

脇本恒三郎

脇本慶四郎

太田谷三郎

明治四十年未三月八日

発起人

世話人

信者中

有松鹿四郎

小西 東山 各村

800

860

100

西 小 中者信


川入観音堂・前堂 念仏石・道標

観音堂のあらまし

①薬師如来像

所在地 岡山市北区川入577−2他 ここには観音堂、 薬師如来像、 弘法大師像が安置されている。

明治40年(1907)3月、 出雲一畑薬師より薬師如来を勧請し た。 この地は土地が河川水面から僅かに高いところで「川田」 と呼 ばれる低湿地て雨季にはたびたび水没した。 それを避ける為石仏 の基台は60cm程度高く上げてある。

観音前堂

②弘法大師像 ③観音様 ④御遠忌塔

子時明治四拾三年三月廿一日 施主 敬白

北面

子時明治四拾三年三月廿一日 施主 敬白

南面

昼夜萬民住普賢悲願

– 173 –

我昔遇薩埵親悉傳印明

奉為弘法大師一千七拾六年遠忌報恩謝徳

奉為弘法大師一千七拾六年遠忌報恩謝徳

東面(お堂側)

西面

路傍の文化財

題目石等の石碑

この石像は小西の熱心な弘法大師の信者が、 その家の護り本 尊として祀っていたものここに安置したものと言われている。 明治41年(1908)8月、 弘法大師像を建立。 明治43年(1910)3月、 弘法大師千七十七年御遠忌塔を建立。 明治43年「神社合祀令」により、 氏神様が村々から吉備津宮へ 合祀されたので、 身近な信仰の対象として「観音様」、 お大師様 を勧請したのではないかと考えられる。

第二編

この観音前堂は明治39年(1906)西国33カ所一番札所紀伊 那智山青岩渡寺より如意輪観音菩薩を勧請した。 観音堂の西面には一間半の中段の窓があった。明治43年 (1910)陸軍大演習の際、 惣爪の御立見台上の明治天皇を中 段の窓から直視するのは「不敬に値する」 と指摘され改造したとい う。 現在の建物は昭和60年(1985)4月改築された。


川入観音堂・前堂 念仏石・道標

みたちばし

享保の地蔵尊

この橋は庭瀬郷、 板倉郷の境界にあり、 ここで縁者を見送った のでこの名がある。 昭和になって架け替えられ、 親柱は撤去され御﨑神社に移設 保存されている。 (脇本三哢氏 談)

観音堂北側の共同墓地に地蔵菩薩がある。 享保五(1720)年 の設置とある。 天明年間の墓石もあり大飢饉の被害者を供養した ものであろう。

子時明治四拾三年三月廿一日 施主 敬白

子時明治四拾三年三月廿一日 施主 敬白

昼夜萬民住普賢悲願

我昔遇薩埵親悉傳印明

奉為弘法大師一千七拾六年遠忌報恩謝徳

題目石等の石碑

奉為弘法大師一千七拾六年遠忌報恩謝徳

小西の御﨑神社に移設された御立柱 東面(お堂側)

南面

北面

享保の地蔵尊

西面

道標

享保五庚子歳

念仏講

八月廿四日

370

角に道標があり 「いなり道」、 「きびつ神社道」 とある。

910

3980

西面

2740

吉 備 津 神 社

毅敬書

難波丑 年之男

都窪郡撫川村

道標 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

官幣 中社

犬養

都窪郡撫川村

昭和六年十月 小西氏子建之

施主 施主

明治三十三年八月

難波丑 年之男

七 丁

一里半

たちはし足守

きびつ神社道

いなり

明治三十三年八月

御 﨑 神 社

注連柱

200

第二編

御立橋について

注連柱 – 174 –


13 念仏石

(岩根山金剛院)

大賀一郎博士の墓地内石碑 (川入 461 北)

第二編 題目石等の石碑

大賀家墓地

1400

3600

1900 450

金剛院慈光 大和尚

義海等薩謹書

大正十一年七月吉日建之

﹁義海等薩﹂は大賀綱太の法名

大本山 直轄

南無大師遍照尊

大正十一年(1922)

大賀一郎博士の父 綱太は、晩年出家し真言宗の布教活動を行い、真言宗岩根山金剛院 (岡山市磨屋町)の僧になった。後に報恩寺の境内にあったものを譲り受け、昭和 4 〜 5 年ご ろこの地に庵(金剛庵) を建て本尊とした。大賀綱太は昭和 20 年に没した。 (脇本 三哢氏 談)

– 175 –

路傍の文化財


14 牛神・地神・常夜灯

常夜灯 (納所76隣)

第二編 題目石等の石碑

ここは信城寺から法万治川をさかのぼり宮内 に至る水路の中間点にあたる。 現在はこの南西30mのところに水路がある。 消火栓

牛神

地神

常夜灯

→吉備津宮方面

←金毘羅方面

南面 常夜灯の側面

2095

御崎宮

450

地神

消火栓

牛神

– 176 –

350

金毘羅宮

天保四癸巳歳 四月十五日

吉備津宮

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

金毘羅宮

天保四癸巳歳 四月十五日

吉備津宮

天保4年=1833

740

630

西


15 地水神(川入) 三十番神社門前脇(川入 139)

第二編 題目石等の石碑

用水路

稲荷宮

地水神

電柱

文政3年(1820年)

弘化三丙午年六月

地水神

文政三庚辰年十一月

背面に

祭神:稲荷宮

弘化3年(1846年)

– 177 –

路傍の文化財


16 題目石

川入公民館隣 (川入75)

第二編 題目石等の石碑 2600

4300

文化10癸酉年(1813年)

女講中

四百五十遠御忌為報恩

南無妙法蓮華経

丁未二月三日

享保十二

– 178 –

文化十癸酉四月三日

南無妙法蓮華経

享保12丁未年(1729年)

四百年恩忌為報恩

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

日親大上人

明治二十六年丁亥 九月十七日建之

明治26丁亥年(1893年)


17 地神・牛神

中撫川田中邸隣 (中撫川 514 西)

第二編 題目石等の石碑

隣家

道路

文政七年(1824)

文政七巳寅年

三月吉日

牛神

地神

弘化三丙午年

– 179 –

三月吉日

1050

弘化三年(1846)

路傍の文化財


題目石等の石碑

1820 第二編

六百遠御忌報恩塔

宗祖日蓮大菩薩

明治十五年(1882)

大正十二年(1923)

明治十五年十二月 女中講建之

行覚院日月上人

大正十二年六月立之

中講

世話人太田コトヨ

文政三 庚辰年 健 之

南無妙法蓮華経

村中 安全

天保十四龍集紀三月吉祥焉

大覚大僧正

風雨順次五穀豊穣

– 180 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

文政三年(1820)

天保十四年(1843)龍集紀(=癸)

界法

2150

18 題目石

福井公民館南側(中撫川507東)

4400


19 地水両神

板東邸前 (庭瀬 29 南)

第二編

1250

題目石等の石碑

地水両神 – 181 –

路傍の文化財


20 23 題目石・無縫塔

中田公民館 (庭瀬21南)

第二編 題目石等の石碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 182 –


中田 題目石・無縫塔

第二編

祠 2600

道 路

題目石等の石碑

5200

南無妙法蓮華経日蓮大士

大覚大僧正

一天四海皆帰妙法

文政五年(1822)

元治二年(1865)

文化八年(1811)

年 二 月 三 日

天保十四年(1843)

北面

庭瀬八幡神社の玉垣にも「魚屋

– 183 –

中田村 宗門中

辛未 年

世話人魚屋 冨八

文化八

元治二年 乙巳三月吉祥

西面

十月十三日

末法萬年廣宣流布

北面

□屋伊助

東面

世話人

西面

平成21年(2009)

中田村 宗門中

世話人魚屋 冨八

文政五 午壬年七月立之

文政五 午壬年七月立之

天 保 十 四

冨八」の名がある。 路傍の文化財


21 三玉宮

腰折様(中撫川665南側)

第二編 題目石等の石碑

社殿は銅板葺きで、 鞘堂は昭和五十六年に改修されたとある。 説明板からも地域の信仰の深さがよくわかる。

平成20年8月撮影

手水鉢

令和4年8月撮影

手水鉢は文久四年(1864)奉納されている。

西面

南面

北面 主願 倉子城

甲 歳 子

播磨屋 彦助

文久四

建之

三月吉日

當村

太田常治

太田宇八

人話世

東面

文久四年(1864年)

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 184 –


第二編

題目石等の石碑

神社 三十番

大正十年十月健之

三玉宮

三玉宮︵腰折様︶ 創建のほどは不明であるが 祭神について古老の説に従 えば︑昔このあたりは古戦 場にして︑一人の武士が腰 を痛めて休んでいるところ へ敵兵が迫り︑討死した場 所と言われ︑その武士の霊 をまつったという︒後世︑ この宮に念ずると腰より下 の病に霊験あらたかである と信じられている︒

説明板

平成十九年九月一日 中撫川町内会修復

注連柱

路傍の文化財

– 185 –

注連柱

獻 2150

中撫川 三玉宮(腰折様)

注連柱

三玉宮

1m

くぬぎの大木

説明板

手水鉢


中撫川 三玉宮(腰折様)

第二編

題目石等の石碑

西面左側

参千円 黒岡正夫 参千円 石原健助 参千円 難波 昇 参千円 金子義雄 参千円 藤原 栄 弐千五百円太田里志 太田早苗 佐藤 猛 太田傀一 太田吉夫 太田清生 太田俊太 太田卓志 太田数一 楠田豊子 池上寿治 守谷孝正 荒木定夫 荒木潤身 難波 巧 荒木岩夫 難波正憲 髙橋虎男 藤井タカエ 藤井貞夫 荒木 喜久恵 太田孝平 平松竺夫 平松英次 俣野 務 俣野 保 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円

弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円 弐千円

いぬかい電器

壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 五百円 五百円 五百円 五百円 五百円 五百円 五百円 五百円 五百円 参百円 弐百円 壱百円 壱百円 壱千円 壱千円

橋本省吾 松田健一郎 石川 哲 内藤正則 太田晴海 今泉 久 増田光□ 田原博□ 横田 博 出原悦司 郷原俊之 塩田邦男 今城 浩 三好智邦 坂本 操 岩本 章 安田泰治 山砥孝平 東山 □ 能□貴美 林 □□ 安岡 勇 難波欣一 中野保治 西 百千 曽我四郎 秋山和夫 荒木 勝 中原□文 太田行治 藤井 明 北村□市 熊代善正 浅野鮮魚店 犬飼 中 小林 博

高橋兼一 増田誉雄 三宅孝之 太田宣明

中撫川 町内

弐万円 物 納 参万円

太田豊彦

壱万五千円 長谷川種二 壱万五千円 磯井麗子 壱万五千円 太田次夫 壱万五千円 太田 猛

五千円

太田

壱万五千円 江国 篤 物 納 山野茂海 壱□円

三宅

壱万五千円 太田 哲 壱万五千円 太田 巧 壱万五千円 磯井武夫 壱万五千円 吉田 昭

参万円

壱万五千円 和田英男 壱万五千円 汐崎辰男 壱万五千円 中山実典 壱万五千円 三島隆志

中島達夫 宮司 施工者 谷本宏志 三宅 恵 増田誉雄 世話人 太田宣明 三宅孝之 三宅 誠 次田 猛 三宅 誠

□□

– 186 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

小野亀鶴 橋本裕文 小野 勉 太田勝利 河内孝彰 坪井達二 野村 忠 難波 聡 難波清治 藤井輝正 山下道夫 難波忠夫 草野正志 髙木正夫 髙橋 勲 藤原熊夫 佐藤 好一郎 難波 勲 坪井喜一 加藤健一 中島 杢太郎 荒木 慶三郎 下根清人 大原 猛 荒木仙吉 太田佳晴 山本忠治 坪井 登美夫 三宅敏昌 難波素行

南面


中撫川 三玉宮(腰折様)

第二編

題目石等の石碑

三玉宮

西面左側

昭和五十六年七月吉日 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円 参千円

落慶 荒木長太郎 楠田一雄 難波泰治 高島久男 グッド9 アンド 9 ショップ 前田弘志 袖岡照子 松永富喜雄 曽我正典 小林 定 渡辺隆幸 正村おゆき 服部 尚 佐藤美義 三宅 勝 太田 薫 佐藤 茂 太田 任 太田常雄 太田始男 太田和男 黒住祐枝 太田多喜夫 太田 明 俣野清志 俣野広二 犬飼健二 太田真治郎

壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円

長瀬一二三 伊沢幸子 御船 実 太田芳子 吉川 弘 郡安敏之 中山 孝 千田軍平 田中元一 大賀祐光 平 貞子 岡本克己 山口義夫 内田円一 俣野美和子 荒木梅治 太田雅美 中野熊雄 梶谷 豊 柴田辰次 丸川直則 平川道彦 日下政行 坂田 清 安井正喜 小田保正 林 登 冨山 正 曽我 強 平川良一 高原卓士 渡辺 猛 栗原隆次 山谷幸治 河内保雄 河口睦己 荒木千代 荒木 均 藤原欣二 難波卓雄 幸原富士夫 曽我 彰 難波千賀雄 佐々木幸太郎 池上省三 黒瀬良雄 岡崎元二 平松賢蔵 平松良一 平松弥寿恵 高橋孝吉 中島達夫 難波 恒

参千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円 壱千円

福森敏男 小原喜久夫 間野 保 岩崎 稔 曽我 靖 曽我静夫 荒木高子 吉田 勝 荒木武志 難波正夫 難波 質 荒木 悟 荒木勝美 荒木 勤 児子伴一郎 太田喜洋 溝手 進 坪井圭一郎 佐藤文夫 太田義夫 高島 昇 俣野 勝 平松虎三郎 太田宰至 森 醇 井上大助 花岡鉄雄 大山一夫 近堂高男 岡本耕一郎 太田 登 岩崎照雄 作間 斉 岩崎市郎 赤木仁史 岡本昌子 太田碩夫 太田順作 太田 操 岡本仲男 岡本 昭 岡本浜一 岡本 弘 太田 令 瀬崎昭友 川上寄夫 中野勝行 犬飼 昭 原田豊治 冨山 昭 姫井 晃 長尾 謙 白石正信

路傍の文化財

– 187 –

三玉宮改築寄附者御芳名 弐万円 肥田璋三郎 弐万円 門木和郎 弐万円 蜂谷勝司 弐万円 脇本一郎 弐万円 次田 猛 弐万円 飛龍株式会社 壱万五千円 大善紙工業 西川 勝 池上正志 岡崎 顕 岡本健一 山本嘉雄 所司市子 三宅 恵 横田 広 松永末治 松永辰美 中瀬雅恵 谷本宏志 安井 隆 平田 修 太田弘之 太田 毅 平松順一 黒川鮮魚店 三宅克甫 吉田政一 坂東徳治 壱万円 壱万円 壱万円 壱万円 壱万円 壱万円 壱万円 五千円 五千円 五千円 五千円 五千円 五千円 五千円 五千円 五千円 五千円 参千円 参千円 参千円 参千円

(株)

北面


22 題目石

中撫川三十番神 (中撫川706)

第二編 題目石等の石碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 188 –


中撫川 三十番神

中撫川・三十番神

題目石等の石碑

道路

鳥居 三十番神

鳥居

平成十年九月吉日建之

車の衝突で倒壊した為立て直した。 中国産の鳥居である。 これも現代の世相を表している。

幟旗台

道路

東面

側面

– 189 –

側面 明治十年四月二十四日

安政七年(1860)

③ 牛神

地神

安政七庚申年 二月社日

界法

安政七庚申年 二月社日

嘉永六年(1853)

明治十年四月二十四日

一天四海 皆帰妙法 後五百歳 廣宣流布

南無妙法蓮華経日蓮大士

天下太平国家安穏 五穀豊饒萬民快楽

嘉永六癸丑霜月辰日

2430

西面

幟旗台

850

裏面

平成十年九月吉日

裏面

太田 哲 太田修市

奉 納

奉 納

北面

第二編

中撫川公民館

明治10年(1877)

路傍の文化財


23 題目石

中島公会堂・荒神社の隣(中撫川253-1)

第二編 題目石等の石碑

中島公会堂

荒神宮 地蔵尊

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 190 –

講中一結

大覚大僧正

文政七甲申

十月大吉日

文政七年(1824)

文政二乙卯年八月十三日

東面

南無妙法蓮華経

西面

界法 文政二年(1819)


24 題目石・地神・水神 大橋妙見宮・地蔵堂 (撫川 28-1)

第二編 題目石等の石碑

1m

妙見様

妙見様

④水神様 地蔵堂

⑤地神様

地蔵堂 – 191 –

路傍の文化財


大橋妙見宮

題目石・地神・水神

妙見様の所在地は足守川の東側堤防にあったが治水工事のため この地に遷座した。 寄進者は藺草で財をなした人々である。 土佐屋

ござの商人

「土佐屋弥吉」は撫川八幡神社、 須佐之男神社の玉垣にもある 第二編

鳥羽屋 岡 屋

狭川の人 ござの商家 東町の人(業種は不明)

題目石等の石碑

南面

450

980

1420

五角形の石柱は数が少ない。

正面(東面)

北面

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

安政三年

仲春=2月

仲春吉日

建之

土佐屋 弥 吉 鳥羽屋 重兵エ 岡 屋 政 吉 世話人 ちゅうしゅん

安政3年(1856)

– 192 –

1320

780

嘉永七年(1854)

法 界

撫川在町惣講中

嘉永七甲寅年十一月五日

みずのえ ね

文政五年(1822)

五月十有五日

嘉永六年(1853)

妙見大菩薩

嘉永癸 丑六年

六月吉日

水 正

文政五壬午年

東面

南無妙法蓮華経

西面

寛政四壬子

寛政四年(1792)


25 地神・牛馬神

高田青井氏宅前 (撫川 372 隣)

2011年1月撮影

第二編 題目石等の石碑

2021年5月撮影

この石碑は、足守川左岸堤防に在ったが、昭和 42 年に河川改修で 移築された。 地元町内会の努力により、ここに移設した。毎年、社日のお祭りは住民 総出で行われる。 ③の文字は読み取りができない。

年の堤防

現在の堤防

昭和

足守川

42

昭和42年以前 改修前

高田橋(板の橋)

撫川 373

高田用水路脇に移設

用水路

常夜灯

高田 ①

1m

嘉永七年(1854)

地神

鎮座

守護

– 193 –

940

日之御守 金刀比羅 秋葉火除

牛馬霊神 若宮大明神

嘉永七甲寅八月

路傍の文化財


26 出雲様

出雲大社の分霊を奉祀 (撫川336隣) ※平成 25 年、造成に伴い撤去された。

第二編 題目石等の石碑

0

5m

※平成25年、 造成に伴い撤去された。

@6

出雲様

下東城之内 公民館 元の位置

^2

こん ぴら 道

@7 地神・題目石 民家

民家

戸川時代に大庄屋の難波純一郎が出雲大社の分霊を奉祀したという。 古老の話では、「昔この辺りにお嫁に来てくれる人が無かったのでお祭りした」 お社は年代物であるが出雲大社の御札が納められている。 難波純一郎の長女満勢は、須佐之男神社の本殿前階段の右側壁に備前竹原 村の「赤松満勢」として寄進者名がある。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 194 –

道標


27 地神・題目石

下東 (撫川 332 西側)

第二編 題目石等の石碑

0

5m

※平成25年、 造成に伴い撤去された。

下東城之内 公民館

@6出雲様

元の位置

^2

こん ぴら 道

道標

@7 地神・題目石 民家

民家

1480

240

1640

文政十丁亥八月吉日

下撫川村

吉備津大明神

金比羅大権現

地 神 社

④ 南無妙法蓮華経

大峰山上大権現

明治四乙未

大覚大僧正

四月三日

天保六乙未二月吉日

天保六乙未二月吉日建焉

明治四年(1871)

天保六年(1835)

文政十年(1827)

– 195 –

路傍の文化財


28 水神

吉備小学校南 (庭瀬305東)

第二編 題目石等の石碑

吉備小学校南側

水神

600

歩道橋

岡山倉敷線

用 水 路

条里制の基点?

亀井説(亀井政男先生の学説) 6 世紀末から出現したいわれる条理型地割が 7 世紀末から8 世紀中ごろにかけて、全 国の平野部にひろがった。吉備地区にも条里制に由来する小字名が数多くある。この塚 が条里を線引きする為の基点となったという学説。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 196 –


29 牛神・火除神

栄町公民館脇 (庭瀬641)

第二編 題目石等の石碑

– 197 –

路傍の文化財


栄町 牛神・火除神

① 社殿 牛神

第二編

牛神

栄町公民館

題目石等の石碑

①⑥

社殿 燈籠

道路

⑥ 栄町公民館

燈籠

いちょうの木

道路

左の宝珠は創建時のもの

いちょうの木

① 社殿

左の宝珠は創建時のもの

⑥燈籠 西面

西面

① この社殿は瓦葺で丸瓦の紋は「左三つ巴」であった。 (きびのさとNo.83) 現在は銅版葺きで家紋は入れていない。

⑥燈籠

西面

2100

950

2100

もとは、社殿は南向きで今の公民館は幣殿、拝殿に当たりその前に石灯籠があった。 老朽化し、現在の様式に建て替えたとある。 石灯籠や社殿を見ると、かなりの格式のあるお社であったと思われる。 石灯籠の発起人 「金右衛門」 は庭瀬八幡神社にもある社殿は何神様か?。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 198 –

発起人 当村目代

天保四年(1833)

金右衛門

風呂屋口

Aの東面

世話方

献 燭

牛神

秋葉神社 火御崎神社

⑤献

金右衛門

明治12年(1871) 明治十二年卯旧八月建之

荒神宮

天保四年 癸巳八月

天保四年(1833) 献

献 燭④

風呂屋口

南面

左右共同文

発起人 当村目代

Aの東面

西面

世話方

天保四年 八月 幡宮 癸巳正八

左右共同文


栄町 牛神・火除神

① 社殿 第二編 題目石等の石碑

西面

③ 西面 明治12年(1871)

秋葉神社 火御崎神社

牛神

明治十二年卯旧八月建之

荒神宮

正八幡宮

南面

950

② ③

神様の名前がわからない 正八幡宮と荒神の裏側に「風呂屋口中」 と刻んであった、 が今は読めない もとは、 燈籠だったが火袋の部分を破損して笠石のみを載せた。 (2022年3月現在倒壊している) 風呂屋口は明治34年2月の町制改革で栄町に改名された。 ④ 秋葉神社は火を司る神。 火御崎神社は日御碕神社で国家繁栄の神様。 ⑤ 造立の日付けがある牛神の無縫塔は例がすくない。 飼い牛のお墓なのか?

中正院浜田住職の解説 俗称を 「地鎮様」 と呼び地神・水神・牛神・火の神を合祀しており、 日御碕神社の交通安全祈願をする人も多い。 しゃにちさい お社の管理は、 地元栄町町内会の方々 (日蓮宗の信徒で構成する講中) が春秋2回の社日祭というお祭りをし、 当日は中正院住職のご祈祷が行われる。 拝殿はいま栄町公会堂に使用されているが、 もとは幣殿を有する建物で、 正面左右に石灯籠があった。 後年、 老朽化のため建て直し、 燈籠は裏に移設したため、 拝殿の機能はなくなり、 現在の建物となった。 石灯籠の台石に「風呂屋口」 とあるのは旧名で明治34年2月の町制改革により栄町となった。 – 199 –

路傍の文化財


30 地神

(庭瀬676東側)

第二編 題目石等の石碑

1100

道路

地神

牛頭天王

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 200 –


31 観音堂

一切諸法の観察 衆生救済の自在(平野 427 西)

第二編 題目石等の石碑

2m

看板

観音堂

隣家

地蔵菩薩 天秤石

地蔵菩薩

天秤石 出所不明なれど趣有。 – 201 –

路傍の文化財


観音堂

第二編 謹誌

大悲尊容 ヲ遷座

シテ

雲山慧龍

注:岡山県立博物館の鑑定では、 「恵心僧都」の作とは断定不可。

并ニ

天平十(739) 〜寛仁元(1017)

當菴圓通庵開基

慧心僧都

玉冠厳 リ後光臺座

元文四(1739)隠室

世話役堂 ノ片田定吉

明和六(1769)再興 宝暦九(鼇山没1759)

和六巳丑歳七月吉辰

– 202 –

249

銀三百目は五〜六十万円に相当 ※

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

1030

鰲山は鼇山に同じ ※

観音堂看板

平成29年

1279

丑歳正月上京七月朔日下向也

ごうざんぜんじ

松林寺十世鼇山禅師の開山と言われ、 御本尊として恵心 僧都の作と伝えられる観音菩薩像が安置されている。 恵心僧 都は天台宗の僧であるが、 その著書『往生要集』 は法然上 人、 親鸞上人の教えの原点となった高名な僧である。 尚、 現在 安置されている像は聖観音坐像である。 往時、 隣接地に尼僧 庵があったという。 「観音堂」は地名としても残った。 堂内には鼇山和尚の位牌が祀られている。 松林寺境内の 大神宮に鼇山禅師の奉納した常夜灯がある。 鼇山和尚 宝暦九年(1759)70歳で没す。 恵心僧都 天慶五年(942)〜寛仁元年(1017)

厨子共代銀三百目

観音菩薩像

台座の銘

元文四未年 松林中興鰲山禅師隠室建立 了 圓成

長径355mm

當年再興御手 ノ蓮華 堂本尊観世音大士 慧心僧都御作也 當年 迄一千三十年成 ル茲時明

聖かん音様

題目石等の石碑

台座裏


32 題目石・無縫塔

妙見社東法界様 (平野375西)

第二編 題目石等の石碑

– 203 –

路傍の文化財


平野 題目石・無縫塔 妙見社参道

道路

第二編 題目石等の石碑

② 道路

① 文政六年(1823) 文政六癸未十一月吉日

施主

1720

南無妙法蓮華経

□大覚大僧上 構中

法界

火の見櫓

(解読不能)

日親大上人

日朝大上人

笠石

南無

□文化七庚午天四月三日

□文化七庚午天四月三日

光 田 観音堂 女中講造立之

南無妙法蓮華経

後五百歳中廣宣流布

後五百歳中廣宣流布

当知是処

南無日蓮大菩薩

即是道場

中邑当

明治九年四月六日遠忌

四月廿八日

弘化二乙年

大覚大僧正

裏面

2100

中者信女男 弘化二年(1846)

文化七年(1810)

「きびのさと」から

③ この碑は安原栄吉、 太田俊三郎、 永原藤造、 太田五郎吉、 岩藤芳之助等らが発起人となって当時の寄附金参銭、 五銭の浄財を募り、 観音堂の妹尾屋安原栄吉の所有地に建てたが、 昭和29年にこの地に移し斎祀した。 ④ 光田は駅前付近にあった古い集落の名前。 ⑤ 昭和32年、 既に風化して読めないと記している。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 204 –


33 題目石(庭瀬) 庭瀬駅西踏切南(庭瀬923東側)

第二編 題目石等の石碑

用水路

斎主 観音堂

堅牢地神

大覚大僧正

文化十丁亥天八月吉祥日

南無妙法蓮華経

世話人 講中

寛政十年

奉寄進

牛二月日

□妙象馬車珍宝之輦輿

寛政十年(1798)

北面

正善院十二代 象馬車牛羊輦輿車乗 長野村中

南面

③ 昔「大覚大僧正様」 と呼ばれていた。 今は表面が剥落して読めない。

– 205 –

路傍の文化財


34 題目石・水神

庭瀬駅東踏切南西 (平野239北線路側)

第二編 題目石等の石碑

900

水神

両前川 明治八乙丙歳 講中 難舟精霊 七月吉日 為

祭主 日正

華経 法界 南無妙法蓮

祭主 日正

両前川 明治八乙丙歳 七月吉日 為難舟精霊 講中

線路

道路

明治八年(1875)

①は、かつて船の禍いによって死んだ霊魂を弔うために建てられた。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 206 –


35 題目石・石燈籠 庭瀬駅東踏切南(平野238-1)

第二編

題目石等の石碑

道路拡幅工事後(平成25年) 道路拡幅工事前

庭瀬駅東踏切 庭瀬駅構内

1m

題目石

地蔵堂

民家

民家

電柱

地蔵堂

題目石

民家

民家

木野山神社

平成 二 十 五 年︑道 路 拡幅工事のため︑ここに祀られていた御崎神 社は吉備津 神社へ遷座し︑ 木野山神社は備中松山の木野山神社へ遷座した︒

御崎宮

掲示板 電柱

路傍の文化財

– 207 –

掲示板 電柱


庭瀬 題目石・石燈籠

道路拡幅工事前(平成24年)

第二編 題目石等の石碑

道路拡幅工事前(平成25年以前)

ごみステーション

電柱

道路拡幅工事後(平成25年)

講中

1m

弘化三年(1846) その昔、 近くの民家で起き た家人の不慮の死を悼ん で建てた供養塔。 ここに祭られる理由は不明。

題目石

地蔵堂 1300

1990

木野山神社

地蔵堂

630

730

2200

民家

1070

600

1300

民家

御崎宮

民家

題目石

民家

– 208 –

不明

火袋が無く笠を乗せた。

④ 弘化三丙午年

大覚大僧正

掲示板

四月三日建之

← 電柱

寛政十一年未年

講中

天明七丁未歳

南無妙法蓮華経

路 電柱

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

平成25年、道路拡幅工事のため、 御崎神社は吉備津神社へ遷座した。 地蔵堂は南側へ新たに建立された。

地蔵堂 御崎宮

天明七年(1787) 寛政十一年(1799)

掲示板

平成 二 十 五 年︑道 路 拡幅工事のため︑ここに祀られていた御崎神 社は吉備津 神社へ遷座し︑ 木野山神社は備中松山の木野山神社へ遷座した︒

電柱

七月十三日建之 法界

庭瀬駅東踏切

庭瀬駅構内

95

道路拡幅工事前


36 地神・牛馬神

庭瀬駅東踏切東(平野199西側)

第二編 題目石等の石碑

平成25年、地蔵堂が新設された。

– 209 –

路傍の文化財


庭瀬 地神・牛馬神

第二編 題目石等の石碑

隣家

水門

1m

②牛神

③地神

水 ①牛馬神

路 掲示板 地蔵堂(平成25年新設)

③地神 地神: 五角形の塔 {自然石の地神様に対し塔(心石)が五角形} 若宮神社、日車大明神、高田橋近郊等数は少な い。備前の西部にはあるがこの庭瀬近郊では少な (庭瀬八幡神社の宮司・田井さんのお話) い。

庭瀬往来

あまてらすおおみかみ

① 天照大神 おおなむちのみこと

② 大 己貴 命

⑤ ① 配置の順序

地神様 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

名称

すくなひこなのみこと

牛神

牛馬神

天照大神

– 210 –

③ 少彦名命

はにやすひめのみこと

④ 埴安姫命

うかのみたまのみこと

⑤ 倉稲魂命

神格

太陽神 国造りの神 医薬の神 土の神 食物の神


37 題目石・地水両神

延友公民館西側 (延友331-6)

第二編

題目石等の石碑 道

消防器庫

南無妙法蓮華経

文政十丁亥歳

窓前天子守

七月二十四日

女中講

四月三日

天保五年甲子歳

当村中

奉唱玄名千部供養塔

大覚大僧正

当村中

奉唱題目千部供養塔

壬子天

十月十三日

寛政四年

南無日蓮大菩薩

路傍の文化財

– 211 –

天保5年(1834)

寛政4年(1792)

西面

北面

南面

北面

西面

火の見櫓

延友公民館

北村

地水両神

花入

南面

南無妙法蓮華経

③ ②

④ ③ ② ①

家 隣

文政10年(1827)


38 題目石(大内田ふれあい広場)

ふれあい広場内(撫川713隣 関戸)

400

第二編

花入

道路

天保四 癸巳

関戸村中

世話人 右衛門

南無妙法蓮華経 法界万霊

十月十三日

960

題目石等の石碑

基台

路肩

現在道路面 創建時路面

往時、 ここは足守川の半役樋門と関戸樋門の間の舟溜りであった。 この碑はその西側の堤防の路肩に建てられた。 今は、 埋め立てられ遊園地となったが、 この碑は建立時とほぼ同じ位置であると云われている。 水の事故で亡くなった人の慰霊の為たてられた。 世話人 坂右衛門がいかなる人かは分からない。

道路 天保時代の路面

遊園地

舗装により基台が 道路面になっている。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 212 –


39 題目石(関戸)

南無妙法蓮華経(撫川714 関戸)

第二編

1450

題目石等の石碑

南無妙法蓮華経

道路

400

天明元年丑天 七月十三日

法界万霊

犬飼喜右衛門

(きびのさと№39)より 大きさはこの近辺で最大級のものである。 以前は堤防の上に在ったが、明治の中頃、河川改修工事の為現在の地に移転された

– 213 –

路傍の文化財


40 常夜灯ほか(関戸)

水難者慰霊塔・木野山神社(撫川720南側 関戸)

第二編 題目石等の石碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 214 –


関戸 常夜灯ほか

N

③ 牛頭天王 ① ④ 常夜灯

第二編

② 木野山神社

題目石等の石碑

⑤ 水難者慰霊塔

火の見櫓

六間川 旧樋門のゲートのガイドレール用の石

⑤ 水難者慰霊塔

④ 常夜灯

明治二六年 七月二十三日 建立為水死 群霊菩薩□

400

世話方

← 千木

奉 燈

1, 300

庄村下庄

平松源吉

関 戸信者中 妹尾崎

発起人

700

② 木野山神社

← 重し 850

法界

① 600

ハニヤスヒコノカミ

1, 000

埴 夜 須 毘 古 神

彌都波能賣神・ ・ ・ ・農業用水の神

ハニヤスヒメノカミ

埴夜須毘賣神・ ・ ・ ・稲作の神

300

埴彌 夜都 須波 毘能 媛媛 神神

牛頭天王

埴夜須毘古神・ ・ ・ ・土地の神

ミツ ハ ノメノカミ

この神々を祀り天土の恵みを祈願した。

旧樋門の設置場所で、 対岸には番小屋があった。 自然石で作られた常夜灯は巨大である。 当時、 ここが水運には重要な場所であった事を表しているのだろう。 水難者慰霊塔は明治26年に起きた大水害の犠牲者の慰霊塔だとのこと。 風が強い場所なので、 木野山神社の社殿の床下には重し用の石が置かれ吹き飛ばされるのを防いでいる。 しかし屋根の千木は補強もなく置かれている。 吹き飛ばされないのだろうか・ ・ ・。

– 215 –

路傍の文化財


44 41 日車大明神

日車大明神(稲荷宮) ・地蔵尊・地水両神(撫川1063-25西向)

第二編 題目石等の石碑

昭和40年代の足守川拡張工事による移転

常夜灯

平成25年移転

昭和15年移転

常夜灯 明治19年水害の後建立 橋

旧大

道標

足守川修堤記念碑

明治19年水害の後建立

平成30年原状回復

昭和42年移転

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

昭和43年移転

– 216 –

地蔵堂 堤

大正5年建立

旧東

日車大明神

建立年不詳


西向 日車大明神

地蔵尊

稲荷神社 第二編 題目石等の石碑

格天井画

①地神碑 ②線香台

⑪狛犬

Å

玉垣

⑩狛犬・石柱

玉垣

狛犬

ı

⑨燈籠

⑦燈籠

⑤水神 ④賽銭箱

⑧鳥居 ⑥手水鉢

③六地蔵

玉垣 Ç

この社は昭和 40 年代、旧撫川大橋の西側に在った稲荷宮(日車 大明神)と、旧大橋西詰にあった地蔵堂を、河川改修工事のため移 転し、一つのお堂にお祀りした。 鳥居前の親柱には「皇紀二千六百年記念」の文字がある。鳥居 も石燈籠も同じ時期(昭和 15 〜 16 年)に築造されている。

– 217 –

路傍の文化財


西向 日車大明神

①地神碑

310

福居 幸 吉 大橋町 吉五良 同甼 亀太良

670

下撫川村 利平治 孫 弥五郎 男木 宗七 馬揃村 七五良 150×113

⑩狛犬・石柱

⑤水神

一金七拾五圓御社祠 難波織物工場

奉献

昭和四十三年五月吉日 水梁 是

水神

390

⑪狛犬

980

題目石等の石碑

安政二乙卯三月

地神

第二編

安政2年(1855)3月

660

銘板を再利用したもの。 何に使われていたものか不明。

②線香台

⑧鳥居 東面

北面

建之

昭和16年(1941)7月

– 218 –

昭和十六年七月

奉燈

寄附者 難波泰次

同 上

寄附者 難波泰次

南面

昭和十六年七月 建之

裏面

天保9年戊戌(1838) 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

⑨燈籠(北側)

林 享平

天保九年

天保九年

奉燈

戌十月吉日

戌十月吉日

北面

南面

1,800

東面

昭和十五年二月建之 幸原 叡 献上

裏面

日車大明神

⑦燈籠(南側)


870

題目石等の石碑

世話人

世話人

大倉貞一

西向

平松茂吉

世話人

辰之歳之男 難波 嘉平

曽我三郎 難波 勲 木元寅夫 難波季一 川中嘉市

隆博

木元敏明

西川米三郎

岡謹一郎

曽我四郎

熊代節夫

曽我

莊 木元莊介

幸原昇平 藤原

土師四海平

幸原出 高 松

難波久夫 幸原富士夫 藤原欣二 世話人

次田利左衛門

皇紀二千六百年記念

岡 富蔵 熊代 繁夫

西川藤太郎

栗阪屋文治

次田秀雄

佐々木恒男

佐藤好一郎

奉献 曽我徳太郎

世話人

難波朋平

岡本栄次郎

木元壮吉

世話人

木元壮吉

世話人

木元壮吉

世話人

幸原文武

次田

川中種次

荒木貞夫

者起発

外側 内側

路傍の文化財

– 219 –

奉献 難波静男 難波孝太郎 加藤健一

難波航三 西川

曽我二郎 林

次田 建設 委員

児島

三宅寿子 幸原昇平 林 陽平

難波玉蔵 発起者

次田竜太 難波寛治 島村善治

100

第二編

明治百年祭

昭和十五年一月建之

発起者

玉垣 Ç

玉垣 ı

2, 115 2, 050 外側

献 東側

玉垣 Ç

北側

玉垣 ı

南側

玉垣 Å

西向 日車大明神

玉垣 Å

外側


西向 日車大明神

地蔵尊

第二編

昭和四十九年二月二十三日 岡山市原尾島巳之生五十八才女

馬報恩謝徳之

寄進者 市會議員 脇本一郎

箱 銭 賽

手水鉢の側面

西川建設 西川勝

天保八年丁酉(1837)

天保八酉歳

大橋町

九月吉日

信者中

惣右ェ門 茂 吉 富 吉

– 220 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

④賽銭箱

よつのつぢ むつのちまたを ひとすじに たすけたまへや みだのじゃうど

大 願 成 就

きもいり

肝煎=名主・庄屋

享保11年(1728)

人 話 世

肝煎 荒木氏

奉 納

延命地蔵大菩薩六地蔵 大菩薩講員連名 大倉しげ 曽我政子 荒木花子 難波登喜世 川中嘉市 木元壽野 西川八千代 難波幹子 江原光江 杉山伊勢野 藤原小糸 奉南無延命地蔵大菩薩 難波静子 おん かかか びさんまえい そわか 幸原 亀 昭 和 五 十 八 年 壮月望日 陰暦八月十五日 難波登美子 ※ 次田加女 荒木菊野 加藤よし 幸原君子 幸原富士夫 難波久男 林 亨平

南無延命地蔵大菩薩之御宝前

忠左衛門

地蔵尊の壁に貼ってある書き付け のれん

下撫川村河惣建之

享保十一丙午霜月

題目石等の石碑

③六地蔵

⑥手水鉢


西向 日車大明神

寄進者連名 難波まん 曽我ひさ 荒木七五三吉 金田重一 西田増平 小郷文治

題目石等の石碑

奉納者 岡屋政吉︵東町の岡菊一の先︶ 現銀屋藤吉︵狹川町所司利男の先︶ 矢田部屋市三郎 日畑邑 脇本長八 新地初治郎 橋本屋音吉︵平川某の先︶ 橋本屋源吉︵平川達治の先︶ 世話人 道具屋冨三郎︵平松哲男の先︶ 鳥羽屋重兵衛︵難波貞一の先︶ 高田屋増吉︵難波某の先︶ 岡山花尻 児島屋藤三郎 下撫川 大工音吉 児島忠吉 小郷卯三郎︵小郷利郎の先︶ 曽我宗五郎 荒木仁吉 町内 坪井元平︵坪井礼次郎の先︶ 木本愛吉︵木本一郎の先︶ 難波伊三郎︵難波文雄の先︶ 高島惣吉︵高島熊男の先︶ 難波静雄︵難波恭文の先︶ 金子城板谷 岩崎市五郎 世話人 大橋若連中

日車様

一金 壱萬円也

一金 貳萬円也

一金 貳萬円也

一金 貳萬円也

一金 貳萬円也

一金 貳萬円也

一金 貳萬円也

一金 貳萬円也

一金 拾萬円也

西山 博昭

難波 弘威

島村 次女

佐藤 朝子

振角 隆成

幸原 末美

難波 卓雄

難波 泰文

熊代

吉井 久善

集会所 改修工事

一金 壱萬円也

農業土木

御芳志者

一金 壱萬円也

三二郎

一金 壱萬円也

九阡円也

一金 拾六萬 西向十五町内会

一金 拾萬円相当 撫川産業

平成七年九月吉日

路傍の文化財

– 221 –

第二編

寄進者連名 難波勢伊 髙嶋まさ 昭和八歳旧七月 荒木お七 小郷ひさ 難波千代野

※「きびのさと」No.119より (この書き付けは所在不明)

地蔵堂の奉納者記録

中央棚の中にある幟旗袋?

稲荷神社(日車様)

世話人

格天井画

元地蔵堂の天井にあったものを移設

日車様遷座

昭和43年4月3日、西向町内の私有地98平米を確保し、 撫川橋西詰にあった日車様と、旧大橋西詰にあった地蔵堂を遷座。 同年5月落慶式を行った。遷座の日は不明

平成七年の改修工事の御芳志者


42 地神・燈籠・手水鉢

地神・石碑・燈籠・手水鉢(撫川1147 定杭公民館前)

第二編 題目石等の石碑

定杭公民館にある地神と、少し離れたところに燈籠と手水鉢があり、町内会の人の手で管理され ている。また以前は「大政翼賛」「臣道實践」と刻んだ石碑があったが、現在は撤去されている。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 222 –


定杭 地神

道路

定杭公民館

③ 第二編

道路

令和4年3月現在撤去されている。

裏面

裏面

100

吉備

實 践

公民館敷地面

皇紀二千六百年記念

地神

900

大 政

1,250

240

題目石等の石碑

令和4年3月現在撤去されている。

道路

設置時の路面

定杭公民館にある「大政翼賛」「臣道實践」と刻んだ石碑。昭和 15 年(1940)に 建てられた。この石碑が建てられた時の地盤面(点線)は現在よりかなり低い位置に在った ため碑文の文字が何文字か隠れている。 時代が下ると都市整備により道路面が上がり碑が埋まった。この種の石碑は残っていること が珍しい。地神様の基礎も埋もれており、設置した時から今まで同じ場所に在ったと思われる。

%8

道標

燈籠・手水鉢

燈籠 415

$2 地神(100m先)

450

310

450

平川 重平

光畑 亀造

荒木 甚七

明治十三年

榮蔵 兼造 勝三郎 忠七

庚辰立春

荒木 平川 難波 岡

奉献

1,100

寄 附 平川 重平

亀造 甚七

榮蔵 兼造 勝三郎 忠七

明治十三年(1880)

光畑 荒木

荒木 平川 難波 岡

明治三十八年九月吉日

奉燈

手水鉢

この場所から50m北の空き地の道路わきに燈籠と手水鉢があるが関連は無いのか? この形状の燈籠は小さな祠や参道沿いに建てられたものである。 同じ場所に置かれていたか否か不明。

– 223 –

路傍の文化財


43 常夜灯(旧西向)

旧撫川大橋西詰の常夜灯(庭瀬416 吉備公民館駐車場内)

第二編 題目石等の石碑

昭和40年代の足守川拡張工事による移転

常夜灯

平成25年移転

昭和15年移転

常夜灯 明治19年水害の後建立 橋

旧大

道標

足守川修堤記念碑

明治19年水害の後建立

平成30年原状回復

昭和42年移転

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

昭和43年移転

– 224 –

地蔵堂 堤

大正5年建立

旧東

日車大明神

建立年不詳


旧撫川大橋西詰常夜灯

東面(昭和42年以前は北面)

4700

第二編

金刀比羅神社

題目石等の石碑

堤防の路盤面

3070

燈籠講加入連 燈籠講加入連名 半口持

小郷吉造

高島増右衛門

難波菊次郎

難波文作

難波三治郎

次田直造

坪井吾八

平川源吉

難波萬治郎

平川多吉

曽我宗吉

仝 四 半口持

難波利平

荒木甚五郎

木元愛介

熊代直道

児島忠吉

岡藤十郎

鉄治郎

四半口持

曽我宗五郎

児島源三郎

難波栄治郎

大江平治

「氏神両神」とは中撫川の須佐之男神社、八幡神社の2社である。そ の昔、日蓮宗の信徒であった領主戸川氏の信城寺(中撫川の八幡神社 の別当)と、観音院(須佐之男神社の別当)の対立融和策に心を痛めて いた。常夜灯には転機となるそれぞれの年代が刻まれている。

壱口持

難波常造

難波徳三郎

難波新吉

難波伊三郎

難 波 常 造

難波吟造

発起人

世話人

次田武吉

難波伊三郎

難波徳三郎

難 波 吟 造 島村平太郎

難波藤作

難波定五郎

曽我彦太郎

町内北西 仝

難波平吉

難 波 栄一郎

荒木千代造

この常夜灯は、明治19年の大水害のあと、大橋の西岸に創建され、 北側の「修堤碑」と並んで建てられていた。この一対の石造物は西向町 内の人達が自力で守った我が町のシンボルである。 「修堤碑」は現在、 吉備西幼稚園の園内に移設されており、当時の水害の様子を細かく伝 えている。 大正5年に大橋は架け替えられ、昭和43年に現在の撫川大橋の新設 によりこの橋は廃止された。 明治19(1886)年:足守川大水害のあとに創建 大正5(1916)年:再建 昭和42(1967)年:足守川拡幅工事のため西向(撫川1495-2)に移築 平成25年(2013):防災の見地から、 「西向常夜灯を守る会」と 当会の協力で吉備公民館駐車場内に移築

この近郷では吉備津彦神社の燈籠に次ぐ規模で、地域の遺 産である。創建当時の石工の銘はないが、蓮弁の出来は秀逸 で、何度か落下事故にあい修理されている。笠石はモルタルで 接着し、擬宝珠は蓮弁に鉄筋で繋ぎ、まさに満身創痍である。 川の東岸にあった慶應4年(1870)築造の常夜灯は、大正5年 (1916)の大橋架け替え工事で不要になった欄干の親柱一対と ともに、大橋公民館に保存展示されている。 明治19年の創建当時、常夜灯の基台の内部は、石材の加工 時に発生する割石の破片で満たされていたが、昭和42年の移転 工事ではコンクリートで固められた。これは荷重が有効に垂直に 伝達され、最適な素材であるとの事。移設のたびに内部は現代 様式変化した。近年は加工方法が機械化され、適当な端材が 少ないこと、技能工不足等によりコンクリートで固めるようになっ た。石燈籠を刻む技術も衰退してしまう。

– 225 –

路傍の文化財


旧撫川大橋西詰常夜灯

南面(昭和42年以前は東面)

第二編

題目石等の石碑

吉備津神社

勒記建再籠燈石

南面

勒記建 再 籠燈 石

發起人

難 波 吟 蔵 難波菊次郎 難 波 嘉 平

世話人

難 波 静 夫 難 波 常 吉 次 田 直 蔵 島 村 善 次 佐藤常三郎 難 波 寛 治 坪井源次郎 児島精太郎 高 島 惣 吉 木 元 安 吉 岡 藤 十 郎 小郷卯十郎 中野小十郎 児島源三郎 児 島 円 蔵

寄 附 連 名

一金 五 拾 円 難波吟蔵 一口 参 拾 円 難波菊次郎 一口 参 拾 円 難波嘉平 一口 参 拾 円 難波静夫 一口 参 拾 円 難波常吉 一口 貮 拾 円 次田利右衛門 一口 拾 貮 円 島村善治 一口 拾 円 佐藤常三郎 一口 拾 円 難波寛治 一口 拾 円 児島忠吉 一口 拾 円 坪 井 源二郎 一口 拾 円 高島惣吉 一口 拾 円 井上次郎吉 一口 五 円 曽我善雄 一口 五 円 中野小十郎 一口 五 円 岡藤十郎 一口 五 円 平 松 久一郎 一口 五 円 小郷卯十郎 一口 五 円 島いり 古 や 岡浅次郎 一口 五 円 熊代繁雄 一口 五 円 佐々木恒夫 一口 五 円 木元安吉

金 1 五円 難 波 欣二 同五円 柴田品松 以上

大正五年三月 石工 井上次郎吉 柴田品松

– 226 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて


旧撫川大橋西詰常夜灯

西面(昭和42年以前は北面)

第二編

題目石等の石碑

金 五 千 円 幸 原 文 武 寄 附 連 名 仝 次 田 克 己 仝 燈 籠 敷 地 坪井禮次郎 四坪五合 仝 永 代 寄 贈 難 波 泰 文 難 波 久 男 仝 金 貮 萬 円 難 波 二 郎 次 田 猛 仝 西川米三郎 金 五 千 円 仝 岡 謹一郎 西 川 勝 仝 仝 亨 平 加 藤 健一 林 仝 仝 林 隆 博 川 中 嘉 市 仝 仝 林 亨 木 下 芳 雄 仝 藤原万寿男

幸 原 昇 平

幸原富士夫

路傍の文化財

– 227 –

昭和四十二丁未年第拾月移転 明治十九丙戌年第一月建之 大正五丙辰第三月再建

昭和四十二丁未年第拾月移転 明治十九丙戌年第一月建之 大正五丙辰第三月再建

念記年百治明

西面

念記年百治明


氏神両社

題目石等の石碑

100

2160

昭和五十乙卯年修復再建

世話人

西川組

490

255

発起人

藤原万寿夫

次田 猛 荒木貞夫 西川米三郎 難波伊平 藤原万寿夫 難波保二 佐藤好一郎 林 亨平 次田克己 加藤健一 寄附者連名 幸原文武 拾 萬 円 一金 壹 萬 円 田 猛 難波忠史 五萬円 幸 原 亀 波伊平 林 陽 平 波保二 藤原欣二 川 勝 次 田 茂 司利男 光畑虎雄 本一美 中 村 清 参 萬 円 一金壹萬円 井久善 林 隆 博 貮萬円 林 亨 妙子 亨 平 邑久町林 林 法子 木貞夫 虫明

一金 次 一金 難 難 西 所 山 一金 吉 一金 林 荒

一金壹萬五千円

施工者

西川米三郎 佐藤好一郎 次田克己 一金壹萬円 加藤健一 難波三十四 幸原文武 難波 勳 幸原未美 難波 泉 幸原富士夫 曽我三郎 曽我寿一 一金五萬円 町吉 木元淳介 岡 三 二 郎 同 町内会 川中嘉市

六月

– 228 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

幅2160×高さ620mm

■ 昭和50年の修復再建の銘板

620 第二編

300

旧撫川大橋西詰常夜灯

北面(昭和42年以前は南面)

念記年百治明

130


旧撫川大橋西詰常夜灯

変遷の記録 足守川の大水害の後に大橋の西詰に建設 大水害で大橋とともに崩壊したものを再建 河川拡幅工事で町内有志により私有地に移設 町内有志により修復再建 町内外の有志により吉備公民館敷地に移転

第二編

大正5年3月13日「山陽新報」に撫川大橋の落成 式の様子との文中に、 『 道橋の西詰なる燈籠修築 祝いを兼ねて』 との記事がある。

西向の常夜灯は、 明治19年に足守川の旧撫川 大橋の西岸に築造され、 当時は船舶往来の燈台 として重要な役割を果たしていた。 花崗岩で作られ た独自の様式は、 歴史的にも文化的にも貴重な郷 土の文化財である。 その後、 大正五年の河川氾濫に伴う再建、 昭和 42年の足守川拡幅工事による移築、 昭和50年の 修復再建と、 地元西向町内の有志による尽力で、 今日までその勇姿をとどめてきた。 平成25年、 老朽化に伴う防災の見地から、 吉備 公民館敷地内に移転することになった。

昭和30年代当時の様子(東側から臨む・難波伊平氏提供)

昭和42年10月移転の様子(西向の難波久男氏敷地・南側から臨む)

昭和42年10月〜平成25年1月(西向の難波久男氏敷地) – 229 –

路傍の文化財

題目石等の石碑

明治19年(1886)1月: 大正5年(1916)3月: 昭和42年(1967)10月: 昭和50年(1975)6月: 平成25年(2013)1月:


44 常夜灯(大橋)

旧撫川大橋東詰常夜灯(撫川211 大橋中之町公民館)

第二編 題目石等の石碑 昭和43年須佐之男神社に移転

昭和43年の足守川拡張工事による移転

昭和41年の足守川周辺見取図(きびのさとNo.96より)

旧東

川 足守

妙見堂 地蔵堂 常夜灯

橋 旧大

平成19年移転

妙見堂

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 230 –


旧撫川大橋東詰常夜灯

大橋中之町公民館 第二編 題目石等の石碑

西面

1360

常夜灯

北面

大正五年三月架け替え

おほはし

慶應4年=1870

南面

大正五年三月架け替え

光華明彩

金毘羅大權現

慶應四戌辰歳 春先勝日建焉

2340

南面

寄附講中

袖岡 新助 同 庄五郎 同 小三郎 太田 新 介 児島屋 宗平衛 吉見屋 善衛門 吉岡屋 粂治郎 同 康右衛門 瀬口屋 静三郎 児島屋 庄 吉 万 屋 文治郎 屋 丈 助

基台の北面

岩次郎

平三郎

徳兵衛

治三郎

重兵衛

庄兵衛

貝光庵持位

吉見屋

土佐屋

川入屋

瀬口屋

中木屋

魚屋

鳥羽屋

発起人

袖岡新 助 同 庄五郎

世話人

万屋 文治郎 鳥羽屋 重兵衛 現在の地盤面

この常夜灯が建設された時期は、明治新政府が誕生する激動のとき で、 まさに 『明治に改元さる』 その時を見ていた記念碑である。竿石の「光 華明彩」の文字はその時代を象徴している。 昭和 43 年撫川大橋新設に伴い旧大橋は廃止撤去され、 東詰にあっ

たこの常夜灯も解体されて須佐之男神社に仮置きされた。 景観保存の運動により、平成 19 年にここに復元展示された。「大正 5 年 3 月架け替え」と彫り込んだ親柱と共に保存展示されている。 火袋と基壇の一部は再建の時、新しく作り替えて補強された。

– 231 –

路傍の文化財


旧撫川大橋東詰常夜灯

昭和30年頃の旧大橋と常夜灯(絵はがき)

– 232 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

旧撫川大橋の常夜灯と親柱

題目石等の石碑

﹃備中国道筋扞灘道船路帳﹄︵正保四年︶︵一六四七年︶十月︶によれば︑撫川 橋長拾弐間︑はば七尺︑深さ一尺五寸とあり︑庭瀬往来が足守川を渡る所には︑ 撫川橋が架けられていました︒撫川橋というのは︑﹁大橋﹂という名で親しまれ ていた撫川大橋のことです︒現代の長さに換算すると︑全長は二十二メートル ほどの橋ということになります︒そのたもとには︑石造の常夜灯と親柱があり ました︒ 親柱に刻まれた年号によると︑﹁大橋﹂は大正五年に架け換えられ︑さらに昭 和四十三年にはその南の位置となる現在の場所へ架け換えられました︒その際 に東側の常夜灯は中撫川の須佐之男神社の境内に解体保存され︑西側の常夜灯 は撫川西地区に︑また親柱は︑大橋中之町公民館に移設され保存されてきました︒ 陣屋町の当時の景観を今に伝える庭瀬・撫川地区の堀や水路による町割り︑ 城跡v や家屋の街なみを大切にする住民の熱意は強く︑そのため須佐之男神社 の境内に解体保存されていた常夜灯を大橋中之町公民館へ移設して︑当時の常 夜灯の景観を平成十九年度に復元しました︒

第二編

昭和43年10月新大橋渡り初め式の記念写真

対岸西側から 橋より南より 右に修堤碑 後ろに地蔵堂

対岸西側から 橋より北寄り 妙見堂

南側から

東側から 手前に親柱 対岸に西向常夜灯


45 常夜灯(高田) 高田橋東堤(撫川 高田)

第二編 題目石等の石碑

旧東

川 足守

昭和42年の足守川拡張工事により移転

高田公民館

橋 高田

$5 常夜灯

– 233 –

路傍の文化財


高田常夜灯

平成22年 改修後

現在の堤防

足守川

昭和

昭和42年以前 改修前

年の堤防

42

高田用水路脇に移設

常夜灯

現在の堤防

題目石等の石碑

足守川

常夜灯

六十六部 供養塔 1m

N

昭和42年の河川改修により、 堤防上に置かれたすべてのすべて石碑の類は撤去され、 防災上、 復旧は禁止された。 その十数年後に、 規則に適った現在の位置に再建された。

南面 金毘羅大権現

北面

1830

東面

道路

由加大権現

←東

西面 吉備津宮

文政十三 庚寅年

文政十三 庚寅年

文政13年=1830

西→

300 220

第二編

高田橋(板の橋)

▽文化 13 年の堤防面

足守川

六十六部供養塔

弘化五年

– 234 –

戊 申

村方世話人 清右エ門 徳十郎 和三郎 三 吉 藤 蔵 助十郎 岡田屋熊治郎

下撫川村

主施万十

四月八日

天下和順

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

願主六三郎

六十六部供養塔は全国66か所の霊場に 1部ずつ納めて回るために書写六十六部、 詳 しくは「日本国大乗妙典六十六部経聖」 と云 い、 全国の六十六か所の霊場に一部ずつ納 めて回るために書写した。 刻まれている願主の名は高田周辺の人々で あるが、 宮内村の岡田屋熊治郎の名もある。

日月清明

世話人 清四郎脇願主備中 道 安 同 伊兵衛 大坂 藤 吉 雲□脇三郎 世話人 同行中

供養塔について

弘化5年=1848 北面

東面

奉納大乗妙典六十六部日本四国供養塔

南面


46 常夜灯(信城寺内) 信城寺境内(庭瀬524)

第二編 題目石等の石碑

– 235 –

路傍の文化財


信城寺境内常夜灯

西面

信城寺 川 治 万 法

第二編 題目石等の石碑

法万寺川

信城寺境内

信城寺境内

北面

東面

吉備津宮

文化二年 乙丑九月吉旦

發起人 橋本屋吉兵衛 世話人 大黒屋

栄講中

文化二年(1806) もとは法万寺川西岸に在ったものを歩道新設工事により移転した。橋本屋、 大黒屋とも狭川町の廻船問屋で、須佐之男神社の玉垣にも寄進者の名があ る。作品の精度は最も高く、特にコーナーの加工は手が込んでいて美しく機 能的。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 236 –


47 常夜灯(庭瀬港跡) 庭瀬港跡(本町公民館北隣)

第二編 題目石等の石碑

庭瀬港は建久 3 年(1192)頃から重要な港として利用され てきた。庭瀬城の外堀でもある南側は石垣のみ。北側は陣屋 町の船着き場でもある雁木がある。庭瀬港は飛鳥時代(6 世 紀頃)には吉備津(宮内)の外港であった。

平安時代には港の機能は庭瀬に移り、東高梁川がせき止め られて 12ヶ郷用水として整備されて新田開発が行われ、慶長 年間の末には延友が外港になった。 川の南側は外堀のため石垣のみ で、北側は庭瀬陣屋町の特徴であ る石段があります。 表御門跡の石垣も往時を偲ば せてくれます。 表御門は廃藩置県の 時、 東花尻の立成寺に移築され、 現 在山門として残されています。

– 237 –

路傍の文化財


本町常夜灯

常夜灯 第二編

6,520

題目石等の石碑

西暦 和暦 1699 元禄12年 1700 元禄13年 1798 寛政10年 1818 文化12年 1818〜文政年間 1830 文政12年 1954 昭和29年 2007 平成19年 2020 令和2年

出来事 板倉重高庭瀬藩主となる。 本町の常夜灯が建設された。 野崎家 船問屋として庭瀬藩より独占許可を得る。 水路が小舟でも通行できなくなり浚渫作業をする。 …6m×15mの船の残骸。 人骨12、 馬骨9、 銅鉄片々、 鎧甲… 本町の常夜灯が修善された。 (1818〜1830) 吉岡屋が屋敷内に住吉神社を祀り、 専用航路を作る。 吉岡屋は油・穀物等を扱い財をなした。 台風により常夜灯が破壊され、 撤去された。 (9月26日) 岡山市の町並み整備事業として復元された。 (19年10月) 礎石は創建時のものであるが位置は現在の道路法に基づき、 北東に約2m移動している。 常夜灯は現代の街灯、 燈台の役目。 光源は「菜種油」燈芯は 天然藺草の芯。 イグサは別名燈芯草(とうしんぐさ) と言われる。 現在の栽培イグサは細すぎて燈芯には適さない。 外壁焼杉板を修復

真 實 一 路

昭和四十七年七月矢吹景秀書

石碑

1,465

1,430

素材:御影石自然石

石碑「真実一路」について 常夜灯の南隣りの本町公民館の敷地内にある石碑。 1954(昭和29)年に山本有三の同名の小説が映画化され、 その名が広まった。 昭和47年、 本町の住民がその理想を目指して進もうと、 当時の法正山信城寺の住職矢 吹景秀の揮毫により、 この碑をたてた。 その後、 平成18年建物の新築移転に伴い、 廃棄する計画を高橋浩郎氏の強い希望に よりここに移設した。 標題の「真実一路」は北原白秋の詞「巡礼」からとった。

真実 諦メタダヒトリ 真実一路ノタビヲユク 真実一路ノ 旅ナレド 真実 鈴フリ 思ヒダス 矢吹景秀について 妹尾町に在った元亀元(1570)年から明治5(1872)年まで300年余続いた私塾(寺子 屋)矢吹学舎を主宰する矢吹家の末裔。 学舎は矢吹家の転居と共に移転しその地名に 従ってそれぞれ、 今寺学舎、 上寺学舎、 和田学舎、 白浜学舎と呼ばれ、 現在は跡地に碑 がある。 2013年7月 (森安 哲彦)

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 238 –


48 常夜灯(観音堂)

観音堂町内会入口 (平野439隣) (平成29年建屋の解体に伴い撤去・廃棄)

第二編 題目石等の石碑

N

水路

常夜灯

西面

南面 天保十子 庚年六月吉日

金毘羅宮

妙見宮

←北

正八幡宮

2, 480

北面

南→

700

天保10年=1839

1,200

1,900

道路

水路

(冬期の水位)

– 239 –

路傍の文化財


49 修堤碑・忠魂碑 吉備西幼稚園内(庭瀬416)

第二編

題目石等の石碑

台座: 幅 2650 × 高さ 350〜500mm × 奥行 500〜900mm

碑堤修

– 240 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

明治十九年六月十二日足守河修堤功了河發源於賀陽郡間倉村 徑賀陽都宇両郡南注入海綿宜十里許其水平時僅及膝霖潦一到 氾濫崩渤流亡蘆舎荒壊田園其惨状有不可言者蓋堤防卑弱之所 致也郡長橋本貞固赴任後遭此災者再因歎日本郡膏野沃土民物 殷阜濁洪水之暴為深患不可不為之處也奮然起修堤之議而此年 民憊苦慮百計終謀之賀陽窪屋二郡長及各村戸長請官開設都宇 廿二村賀陽七村窪屋二村聯合会議之議即決矣乃都宇郡衙管理 其工事築石搬土修治堅牢之務林奔蔽提者悉芟除之増修總五里 一望寥廓頓改旧觀焉用工三閲月費金壱萬四千円除地方費五千 円之外皆係村費負担也於是平嚮之卑弱変為牢固生命財産頼以 保安焉郡長奮励々氣人民賛翼之刀相須淂到此其功也偉兵郡人 慮其事之久委堙滅将樹石録之来請余銘余亦受任地方治水之功 淂如此豈不欣挊乎因不辞銘之銘日 平時掲励暴漲襄邱提之不固民之所憂慮此危険旧提新修芳澤長 潤河水悠々

岡山縣知事正五位勲四等千阪高雅毫 仝 書記官從六位 高津輝撰文 仝 属判任六等官 多田省一書 倉敷 藤田市太郎調之

水害と修堤の記念碑(明治19年)

足守川の度重なる大水害と修堤工事の様子を細かく伝えている。

表面(東面) 幅 1370 × 高さ 1860mm × 奥行 240〜320mm 碑:


西向修堤碑・忠魂碑

都宇郡 窪屋郡 関係戸長 賀陽郡

林 庫夫 片山虎右衛門 平松朋治 内田泰造 古谷亀賑治 澤田龍雄 高尾仙作 太田始四郎 難波讓太郎 中西政愛 龍治竹太郎

第二編

題目石等の石碑

岡山縣知事正五位勲四等千阪高雅毫 仝 書記官從六位 高津輝撰文 仝 属判任六等官 多田省一書 倉敷 藤田市太郎調之

明治十九年六月十二日、 足守川の堤防改修工事が終了した。 足守川は源

を賀陽郡間倉村(足守)から出て流れ、賀陽郡と都宇郡の両郡を経て海へ注ぐ、

遠く十里 (三九二七二米) ばかりに亘り、 平時は僅かであるが、 霖雨となれ

ば水は漲り、 水音は高く氾濫して家屋 を 流し、 田園は荒れ、 その惨状は言

語に絶する。 これは堤防の卑弱によるものである。

郡長 (都宇) 橋本貞固が赴任してその災害に遭れ、 深く慨嘆した。 本郡

は土地肥沃し、 農産物は豊富であるが、 洪水のために甚だしく損害を蒙ってい

るので、 深く憂へ何とか改善せねばならぬと思い、 足守川堤防改修の議 を 起こ した。

住民は毎年水禍に苦しんでいるので、賀陽、窪屋の郡長と各村の戸長に謀り、

川の流れは遠く続くことであろう。

険を心配していたが、 ここに新しく堤防の修理を終へ、 恵みは長く潤い、 足守

する。 これは堤防の堅固でないからである。 住民は常に災害 を 憂え、 この危

平素は衣服 を 掲げて浅い瀬 を 渡る程度であるが、 洪水になると邱にまで達

の略歴を記して終わりにその人の功績を称賛した詩文である。

しめくくり をした ものである。 墓地の碑文などによく見られるもので、 生前

銘にいうとは前書にその状態を詳しく述べ、 更に四字を綴って何句かにわけて

辞することはできず欣んで應じたのである。

を 録 するに当たって余に銘 を 請うた。 余は治水の功績の威大なることに感じ、

郡の住民はこの事業の久しく堙滅していくことを慮り、 記念碑をたててこれ

である。

なり、 住民の生命財産の保安を頼するに至った。 これは郡長の奮励によるもの

地方費五千円を除く外は皆関係諸村の負担である。 先の卑弱な堤防は堅固と

旧観に収まった。 この工事は三ヶ月を要し、 費用は金壱萬四千円を要した。

改修 を 終わった。 延長五里 (一五六三六米)に及び、一望にして住民の家屋が

工事には堤防 を 蔽う雑木 を 悉く除き、 石垣 を 築き、 土砂 を 運搬し堅牢に

議の結果、即決した。 よって都宇郡役所(應徳寺にあった)が工事を管理した。

当局に要請した。 都宇二十二村と賀陽七村、 窪屋二村が聯合して開かれ、 会

表面訳文(きびのさとNo.107より)

路傍の文化財

– 241 –

明治十九年六月十二日足守河修堤功了河發源於賀陽郡間倉村 徑 賀 陽 都 宇 両 郡 南 注 入 海 綿 宜 十 里 許 其 水 平 時 僅 及 膝 霖 潦一到 氾濫崩渤流亡蘆舎荒壊田園其惨状有不可言者盖堤防卑弱之所 致 也 郡 長 橋 本 貞 固 赴 任 後 遭 此 災 者 再 因 歎日本 郡 膏 野 沃 土 民 物 殷阜濁洪水之暴為深患不可不為之處也奮然起修堤之議而此年 民憊苦慮百計終謀之賀陽窪屋二郡長及各村戸長請官開設都宇 廿二村賀陽七村窪屋二村聯合会議之議即決矣乃都宇郡衙管理 其 工 事 築 石 搬 土 修 治 堅 牢 之 務 林 奔 蔽 提 者 悉 芟 除 之 増 修 總五里 一望 寥 廓 頓 改 旧 觀 焉 用 工三閲 月 費 金 壱 萬四千 円 除 地 方 費五千 円之外皆係村費負担也於是平嚮之卑弱変為牢固生命財産頼以 保安焉郡長奮励々氣人民賛翼之刀相須淂到此其功也偉兵郡人 慮其事之久委堙滅将樹石録之来請余銘余亦受任地方治水之功 淂如此豈不欣挊乎因不辞銘之銘日 平時掲励暴漲襄邱提之不固民之所憂慮此危険旧提新修芳澤長 潤河水悠々

表面(東面)原文 裏面(西面)原文


西向修堤碑・忠魂碑

忠魂碑

第二編

題目石等の石碑

裏面(西面) 表面(東面)

戦病死者芳名

日清戦役 陸軍砲兵上等兵 齊藤勘四郎

北清事変 陸軍輜重隊輸卒 前田市五郎

陸軍歩兵一等卒 板松金次郎

袖岡経男 分会長 副分会長 鈴山 魏

平田音市 河内源次 石原佐平 佐藤寿夫 松永君夫 荒木岩夫 吉田常夫 斉藤友一 三宅兵一 林 亨平

碑:幅 1380 × 高さ 2300mm × 奥行 310mm 台座:幅 2030 × 高さ 700mm × 奥行 1080mm

日露戦役 陸軍歩兵上等兵 坪井竹三郎 同

昭和四年四月建立 帝国在郷軍人會撫川町分會發起 大手寺下憲治 朔

– 242 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

忠 魂 碑

陸軍大将一戸兵衛書

世話人


50 題目石・道標

半鐘場跡の道祖神(花尻 142 西)

第二編 題目石等の石碑

修復前

由緒沿革 周辺にお祀りしてあった石碑を半鐘場(火の見櫓)跡地に移転し整備した。 常夜灯は半壊の状態で放置されていたが地元の皆さんの文化財保護の熱意で復元された。 (森安 哲彦) 修復日時 修復担当 世話人代表

平成26年(2014)1月24日 花尻 東・中・西 講中 板野 隆 – 243 –

路傍の文化財


1470

天保十三年 寅壬拾二月十日

則武喜代治

則武幸四郎

施主

五穀豊穣 村中安穏

1720

堅牢地神南無妙法蓮法蓮華経

明治十四年辛己年九月建立之

南無妙法蓮法蓮華経 日蓮大士 高祖六百遠忌為報恩村中安全

大覚大僧正

長櫓抗吉

赤井亀造

田中源治郎

日蓮大士

文政四年 辛己十一月日健之

天明元年 子丑十月十三日

南無妙法蓮法蓮華経

為第五百遠忌□之□□□

1480

道標 題目石等の石碑

牛神

1150 第二編

赤井

丑之年男

赤井

酉年之男

– 244 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

花立て

花立て

没年61歳

年遠忌は没後行う法要で50年毎に行う。 日蓮上人の命日は弘安4年(1282)10月13日 弘安4年:元の来襲した弘安の役

天保十三年(1842)

明治十四年(1881)

天明元年(1781)

文政四年(1821)

⑤ ④ ③ ② ①

820

題目石 半鐘場後の道祖神・道標

常夜灯


題目石 半鐘場後の道祖神・道標

第二編 題目石等の石碑

常夜灯

北面 1870

西面

未八月吉日

弘化四年

献燈

弘化四年(1847)

南面 この常夜灯の火袋は破損し笠石は長期間放置されていた。 町内会で新しく火袋を作り、 平成25年に復旧された。

東面

大正九年二月 青年団発起 寄附則武始男

南面

白石 久米

一ノ宮 岡山 ☝

☝白石 久米 西面

大正九年の道標

北面

元々は20m程北の三叉路の一角にあった。 車が接触し、 折れて放置されていた物を今回 鉄筋4本を入れて接続し復旧した。

– 245 –

路傍の文化財


51 荒神様と千蔵坊址

大内田524の東丘

第二編 題目石等の石碑

集落南端の小高い丘の上にあり、日差山廿二坊の一の千蔵坊の阯。本尊観世音菩薩は千 手寺の観音堂に安置されている。現在は石地蔵尊が祭られ、傍らの塀の内に堅牢地神、水神 が祭られ「荒神様」と呼ばれている。 元は草庵があった。本尊の観世音菩薩は千手寺の観音堂に遷され、石の地蔵尊は小堂に 安置されている。 千蔵坊は大蔵坊と同じく、日差山二十二坊の一つで、退転してここに祭祀された。この丘は 昔の大内田住民の墓地であった。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 246 –


荒神さまと千蔵坊址

荒神様

荒神様

② ③ 第二編

鳥居 地蔵堂

題目石等の石碑

第76番札所 第75番札所 七十五番

薬師如来

善通寺

第75番札所の石像

金毘羅講中

大正六年十月吉日

水神

天保九戊戌年二月吉日

堅牢地神

世話人 若連中

天保9年(1838)

荒神さん

額束の文字

鳥居

200

235

地蔵堂

鳥居の銘

當村 若連中

文政十三庚寅八月吉日

鳥居断面

文政13年(1830)

– 247 –

路傍の文化財


52 常夜灯(大内田)

大内田68隣

第二編 題目石等の石碑 北西面

大内田集落の入口(もと船着場)に花崗岩製で高さ約 2.4m の常夜灯 が、高さ 90cm、1.8m 四方の台(石垣)に建っている。「天保十五年甲 辰四月建之 吉備津宮 八幡宮 金毘羅大権現 世話人 村中 若連中」の 銘あり。天保年間までは、この一帯は海岸線であった。 はじめ、燈籠は神仏に献ずる燈火であったが、暗い夜の道案内に目的が 移ってきて、現代と同様交通安全の目的が主流となった。

北東面

南西面

南東面

N

金毘羅大権現

八幡宮

吉備津宮

天保十五年 甲辰四月建之

↓千手寺

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 248 –

水路

道路

世話人

若連中

天保13年=1842


53 大蔵坊無量寺阯 大内田 586 坪井氏宅北

第二編 題目石等の石碑

日差山の山坊の一つが移った坊跡。本尊などは千手寺へ。二畝(60坪)程の敷地の南西に石地蔵尊あり。北に 2祠があり、右は皇太后大夫天神、左は大蔵大明神。皇太后大夫天神は、藤原中納言俊成(大内田里正の公森 家の祖)を祀る。皇太后大夫とは皇太后の仕える役所の長官で俊成がその職にあった。※里正=村長

樹齢300年、樹高20m、目通りの 周囲3.7mのムクノキの巨木が、 岡山市の保存樹に指定されてい たが、現在は倒れて二代目の木 が育っている。

– 249 –

路傍の文化財


54 向庵大師堂跡

在りし日の大師堂(昭和40年発行「吉備町誌」より)

大内田 大池南墓地の上 向庵記念碑

第二編

碑念記

發起者 大内田 仝 はつ□ 光畑佐平 中野奈津 世話人 仝 とみ 荒木進三 光畑こま 仝 政拾 仝 □くに 仝 千年 内田□介 大正十四年四月建立之

1160

裏面

屋高

犬飼はま 岡本きぬ

撫川

□□

長尾常造 板谷幸一 □□□太郎

當霊場建立天明年 間勧請高祖大師大 正十年三月九日浮 映於此泉底尊影矣

浮映於此泉底尊影矣 ︵このいずみのそこにそんえいふえいかな︶

題目石等の石碑

600

350

900 1700

飽本島藤原末孫大倉傳五郎政光」、裏面に「当村武井鉄之丞輝 高書之」とある。 現在、ゆかりの人々の墓石、姿見の井戸跡、それと記念碑 「當霊場建立天明年間勧請高祖大師大正十年三月九日、浮映於 此泉底尊影矣(このいずみのそこにそんえいふえいかな)」 が建てられている。地場大師八十八箇所の八十五番札所あり。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 250 –

南面

東面

文化七 庚牛歳八月廿四日

寅蔵童子一廻忌追善 武井鉄之丞輝高十六歳書之、大工棟梁塩

荒井幸之進範光 墓 同 人 妻 琴 女

千手寺の真南の山腹の御堂跡で、弘法大師を祀る。 千手寺に保存の当庵棟札に、 「天明六丙午歳 大師堂当村建立為

西面

蓮華院観月心淨信士 蓮臺院心月智淨信女

向庵の墓

天保十三壬寅年十一月廿四日

當菴施主

北面

「きびのさと」No.119によると 大内田の山中にある。大正11年頃、撫川大橋に住んでいた荒木近造という 人が或る日、昼寝をしていたところ、大橋の上から真南に当たる山中に一つの 井戸があって、それに弘法大師の霊姿が映ったという。霊夢を感得しその所 在を探し求めて大内田の向庵大師に辿り着いた。 向庵は荒れ果てた小さなお堂が一つと荒井幸之進の古い墓が草むらに 立っているばかりである。雑草をかき分けて行くと竹藪におおわれて古い井戸 が見つかった。これが先に夢に見た井戸の違いないと信じ、一家そろって此の 大師堂に参籠し拝殿をしつらえて念仏信仰の道へ入ったのである。


第二編

題目石等の石碑

四國霊場

西國霊場

秩父霊場

坂東霊場

大内田 大内田 撫川 妹尾崎

西田紋蔵 中尾一太郎 坂東□ 久山市夫

四国霊場巡拝者芳名

十五回巡拝 十五回巡拝 十四回巡拝 十四回巡拝

五回以上巡拝

妹尾崎 料治豊一郎 大内田 安原政二 仝 中野紋太郎 仝 料治杢一 仝 中野猪之太 仝 久山 仝 光畑楠□ 仝 蜂谷正子 仝 坪井達夫 仝 平松愛子 撫川 中瀬雅惠 仝 龍治□ 仝 松永アヤメ 仝 福島光蔵 仝 所司市子 仝 中山富太郎 仝 平川良一 仝 阪 水島 江堂美代子 仝 中山武夫

表示外全員

千手寺住職松本文秀 僧正 四国霊場會公任先達西田紋蔵

百八十八ヶ所巡拝祈念碑

四国霊場會公任先達中尾一太郎 建設発起者 久山市夫

西国秩父坂東巡拝者芳名

大内田 西田紋蔵 妹尾崎 平松愛子 仝 中尾一太郎 仝 久山米□ 仝 坪井勝男 仝 岡本アイ子 仝 中野猪之太 仝 青□昭三 仝 中尾庄七 大橋 福島光蔵 撫川 松永アヤメ 仝 古市八重子 仝 所司市□ 仝 阪口禮子 仝 平川□野 仝 中山安野 庭瀬 藪田綾子 仝 中山武夫 松島 光畑直二 仝 中山栄子 妹尾崎 久山市夫 仝 中山官太郎 仝 料治杢一 仝 中山嘉市 仝 料治重子 高尾 □ 仝 蜂谷正子 仝 西口□□

昭和五十六年二月吉日

路傍の文化財

– 251 –

巡拝記念碑 向庵大師堂

地場大師八十八箇所の第 85 番札所・巡拝記念碑


55 地神

福富公民館北(中撫川 66 隣)

第二編 題目石等の石碑

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 252 –


⑤の基礎石

常夜灯

第二編

公民館

奉 燈

題目石等の石碑

常夜灯

A

中講女

遊歩道

1,650

A断面

福富公民館

公民館の始まりは石碑の御守堂であった。 戦後、 昭和 23年頃に公民館の形をとった。 昔、 集落で火災が多発し、 火除けの神秋葉神社を勧請 しご加護を祈った。 常夜灯は足守川左岸の妹尾用水の取 り入れ口にあった。 (俣野 堅)

①の裏面

②の裏面

安政二乙卯年二月五日

安政二乙卯年二月五日

明治三庚子十月吉辰日

明治三庚子十月吉辰日

後五百歳中廣広宣流布

當村中

後五百歳中廣広宣流布

③の東面

文化八辛未年 建立之 三月十三日

文化八辛未年 建立之 當村中 三月十三日

③の西面

文化8年=1811

① 地神

法界

B断面

② 大覚大僧正

南無妙法蓮華経

牛頭天王

秋葉神社

安政2=1855

– 253 –

路傍の文化財


56 坂崎出羽守供養塔

(白石 482 附近)

第二編 題目石等の石碑 あきいえ

秀家

豪姫

詮家

達安

宇喜多家の系図

直家

忠家

秀安

戸川家の系図

坂崎出羽守直盛は元の名を宇喜多詮家といい、 備前藩主宇喜多直家の弟 忠家の長子である。 宇喜多詮家は従兄の秀家に仕え2万4千石の知行を取っていたが、 秀家と折 り合いが悪く、 家康に敵対した秀家に対し、 詮家は関ヶ原の戦いでは徳川方に与 し、 その功績により津和野3万石の領主となった。 燃えさかる大阪城から千姫を救い出したことで家康から信頼され、 千姫の再嫁 を約束されたが、 秀忠に代替わりし、 幕府と対立しお家断絶となった。 八坂山の富山城主(岡山市北区矢坂東町1−1) であったころ、領民からの 信頼が厚く、 その死後ここに供養塔を立て遺徳をしのんだ。 墓所は津和野町の ようめいじ 永明寺にある。

32 0

供養塔

供養塔 花立

18m

板野耕一郎邸

隣家

通路

18m

車庫

往時の水害で「水輪」を流失した。 当時周辺を探したが見つからなかった。 空輪 風輪 火輪 水輪

道路 用水路

→笹が瀬川

地輪 供養塔の通常の形と名称

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 254 –


57 西向道標 北区撫川 1283

南面

東面

北面

260

150

第二編

650

題目石等の石碑

三宅 辰 太郎 高橋 幸 太郎

毘 沙 門 金 ぴ ら ゆ が

吉 備 津 宮

1,000

人話世

江戸時代末期の道標 設置者 不明(倉敷松島の住民?) 世話人 高橋幸太郎、 三宅辰太郎 設置年月日 不明

平成29年春、 この道路沿い西側の宅地開発が行われ、 開発業者から敷地内にある道 標一基を撤去処分する旨の申し出があった。 しかし地元町民が立ち上がり、 当時の庭瀬かいわい案内人会長香田氏のご支援と、 市 会議員赤木一雄氏、 市役所及び開発業者各位の協力により、 本来の位置より東へ30cm ずらす形で永久保存できることになった。 平成29年9月8日 西向町内会

坪井慈朗

電信柱

N

元の位置

カーブミラー

道路

移設前の様子

2m

昭和の遺産 この道路は太平洋戦争の前に本土防衛 のため拡幅整備された。 このコーナーは大砲 が通れるように修築された。 明治28年、 大日本帝国陸軍発行の2万分 一地形図にこの隅切りはない。

– 255 –

路傍の文化財


58 定杭道標

(撫川 1182-4 の三叉路)

このコーナーは、 西向の道標の角と同じく、 太平洋戦争の前に本土防衛 のため、 大砲が通れるように修築された。 南に数mのところに 42 燈籠と手水鉢がある。

58 道標

42

第二編

燈籠・手水鉢

題目石等の石碑 300

1280

岡 山 吉備津

140

西

– 256 –

倉 しき 玉し満

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

難 波 定五郎 平 川 源 吉 難 波 藤 作 520

金毘羅 道

明治十四年辛巳歳 第一月吉辰建焉 方附寄


59 本町道標

(庭瀬本町遊園地内)

道標は、 人馬の往来の盛んな道に沿って建てられていました。 庭瀬・撫川の道標は、 二つの ルートに沿っており、 一つは庭瀬往来(鴨方往来)、 もう一つは信仰を対象としたもので、 金毘 羅、 由加、 熊野神社、 吉備津神社、 高松稲荷のルートに沿うものです。

第二編 題目石等の石碑

この道標は、 庭瀬町当時に道路拡張のため撤去された折 り、 他所で保存されていたが、 平成19年、 岡山市の町並み整 備事業として庭瀬本町遊園地に移設復元した。 元の方角とは少し違う向きになっている。

270

1360 東

西

松林寺

まつ 山 足 毛り 板 久ら

庭瀬本町遊園地

現在の向き

庭瀬常夜灯

左吉備津

移設場所

西

こ ん ぴ ら

旧藤田薬局

ゆ が 倉しき 玉 嶋

元の場所と向き

元の場所

安政六龍舎己未年九月吉日健之

)往来 庭瀬(鴨方

おかや ま み ち

吉備小

於可山道

吉備公民館

右 古 んひ ら

西

庭瀬往来

– 257 –

路傍の文化財


60 大橋道標

撫川 213(大橋中之町公民館前)

第二編 題目石等の石碑

この道標は、撫川領主四代戸川達邦の時代である。書体は草 字にして優雅な筆法である。慢迷方とは「行く道の方角に惑い迷っ ているものに」と解すべきか。交通の発達していない旧幕時代に幾 千人、幾万人の旅行者が、この道しるべの惠を受けて東西に往来 したことであろう。篤志家の大町、野﨑両氏が如何なる経歴の人 か知る由がない。 きびのさとNo.47より

200

880

野﨑氏

慢迷方建之 大町氏

吉備宮廿丁

瑜伽山五里

– 258 –

寛政九年

於 か や 満 みや う ち 道

た 満 し ま 下 津 井 道

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

西

大橋常夜灯 大橋中之町公民館

道標


61 狭川道標

住吉町内(撫川 172)

第二編 題目石等の石碑

教 黒住 会所 教 日生

神社 住吉

寺 應徳

吉備町地内では最も大きく刻字も立派にして道標としては代表的なものであ る。上部に扇子を手に持って、その方向を示している浮彫りが刻んである。 標字のなかの星舎は秋、吉祥旦は目出たき暁とか、朝の異称である。 きびのさとNo.83より

道標

360

安政六己未年星舎 九月吉祥旦建之

吉備津

金毘羅 300

倉敷住 石工徳松

寄附狭川町 吉岡屋 庄吉 仝 康右エ門 吉見屋 善吉

大阪 岡山

由 が 倉 し き 玉 島 か さ 岡

1560

西

630

– 259 –

路傍の文化財


62 下東道標

撫川 331(下東城之内公民館前)

第二編 題目石等の石碑

0

5m

※平成25年、 造成に伴い撤去された。

@6

出雲様

下東城之内 公民館 元の位置

^2 道標

こん ぴら 道

@7 地神・題目石 民家

公民館前の道標

民家

西面

南面

東面

215

740

右 おかやまみち

ゆ が 道 こんぴら

– 260 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

左 しもついみち

四国道から新町を南へ入って御本壇に至る三叉路の東路傍にたてられている。 もと反対側にあったが、道路改修のため無造作にここへ移したものである。 きびのさとNo.83より


大内田 665-1

第二編 題目石等の石碑

観音

63 大内田道標

定杭から大内田集落に入った曲がり角に、 折れた道標があり 「ゆうか、 こんぴ ら道」 と判読できる。 また大内田の荒神様北にも一基あったが現在不明である。

題目石 題目石 常夜灯他

^3 大内田道標

$0

大内田

大蔵坊無量寺阯 地神

^8

天満宮

@5

%3

関戸 妹尾崎

%2大内田常夜灯 %1 荒神様と千蔵坊址

^7 役行者の碑

%4 向庵大師堂址 山田

岡山流通センター 1km

#8

遍光山千手寺

@1 八幡神社 大内田ちびっこ広場

#9

500m

0m 伍社神社

– 261 –

路傍の文化財


64 毘沙門天・道標

平野 23-1 隣

第二編 題目石等の石碑

自然 石の台 上に、毘 沙 門の線 彫りの碑( 高さ 178cm×幅 78cm)がある。隣の自然石台上に石造 祠があり、 その左側に瓦製祠が並んでいる(七福神)。 岡豊前守が足守川の築堤をした一期工事の南端とい われている。 堤防修築の時(1624 年)その記念碑として建てら れたと思われる。足守川堤防修築に伴い設置場所は 多少の移動があるが、本体は元のままで地元民に篤く 祀られている。

毘沙門天

860

に わ

つ か

に 王 せ い な り

なつか 王 くらしき

620

1780

140

1200

石造祠

道標

450

780

足守堤防から庭瀬へ通づる三叉路で浜という処にある。この浜は 藩政時代の港にして、船路によって上陸した旅人のために建造され たものである。ここには他藩の蔵米の役所が置かれて年貢米を上方 に船積みしていた港でもあった。 きびのさとNo.83より

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 262 –


65 延友国境石

久米(境目川沿い)

備前・備中の国境となる境目の川で、 元禄15年より境界争いがあり、 宝永年間に13ケ所26本の境界石が立てられた。 ( ※吉備郡史より) その内、 現存するのは、 梶ケ野樋門の東寄り南に1基、 境目川に沿って 数基が現存する。※昔は、 川幅が現在より広かった。

□190

題目石等の石碑

1600

第二編

從是東備前國久米村分

国境石1(説明板)北向き

国境石1(東面)

国境石1(説明板)

境目川 国境石2

旧庭瀬往来の国境東側にあり、 説明板が設けられている。

久米村の国境石

妙見様

わきを流れる用水は、備前備中の国境とされる境目川です。 この川をめぐって、江戸時代に境界論争がおこなわれてきました。 元禄15年(1702)、備前久米村・今保村と備中の延友村のあいだ

国境石3

でおこった境界争いは、用水問題も絡からみ5年にわたり争われ、宝永5 年(1708)に大内田村の大庄屋孫四郎の仲裁で和談が成立しました。 その際、三ヶ村の役人が立会のうえ、境目川にそって13ヶ所、計26本の

天神様

杭が打たれ国境の標示としました。 この石柱は、備前備中 1 対のうち久米村分の一つ。当時の人々の 辛苦を見守ってきた国境石ですが、一時期行方が分からなくなっていまし た。地元の探索と現持ち主(岡山市関八田光弘氏)のご厚意により、

国境石4

元の場所にもどされました。 絵図は「撮要録巻之十二」からの写し(一部改変)。 平成14年3月吉日 御南学区水辺の集い協議会

岡山市教育委員会 – 263 –

薗崎神社

路傍の文化財


延友国境石

横倒しのままになっている。

從是東備前國今保村分

石柱の一つは、昭和の末期、平 野375の妙見社の境内に移設さ れている。 (122頁参照)

1400 1950

1170

從是東今保村分

從是西延友村分

1200(地表部分)

□180 幅190×奥行170

從是西備中國甲南邨

□190

1140

国境石1(説明板)

国境石3(西面)

境目川 国境石2 妙見様

□190

国境石3

天神様

国境石4

薗崎神社

国境石4(北面) 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

從是西延友村分

1300

題目石等の石碑

□190

第二編

国境石2

– 264 –


えんのぎょうじゃ

66 役行者碑

大内田 天満宮近傍

第二編

役行者

不動尊

題目石等の石碑

800

1600

施主当村中先達

奥行 400

先達坪井恵三︑長次郎

干時天保十一年

大山登山永代講

□□月吉日

1400

800

奥行 400

八幡神社の西山腹に、 「役行者(えんのぎょうじゃ)」 と 「不動尊」の浮彫の石碑が村を 見守っている。 左は伴鬼を従えた役行者で「干時天保十一年大山登山」 と書かれ、 右 の不動尊には「施主当村中 先達 坪井恵三、 長次郎」 とある。

う し が み

67 大内田牛神

大内田 天満宮近傍

(大内田)

1200

580

奥行 400

大内田天満宮から北へ約60m山道を進んだ所に広場があり、 そこにひっそりと鎮座している。 古老の話によると、 毎年お正月・5月・9月に八幡様と牛神さまにお詣りして、 御神酒とおにぎりをい ただくのが慣例になっていた。 (おむすび=お結び、 宗教民俗の儀礼) – 265 –

路傍の文化財


570

南無妙法蓮華経

1250 題目石等の石碑

南無日朗像菩薩

南無日連大菩薩

南無大覚大僧正

安政六年己未歳 當所

講中

四月廿八日立之

– 266 –

吉備・陵南にある石碑を訪ねて

840 第二編

裏面

460 2100

68 中正院題目石 庭瀬 614

800


中正院題目石

忠魂碑ほか

第二編 題目石等の石碑

忠魂碑

渡米者寄附芳名

中正院の門を入った東側に高さ 2m 余りの自然石に「忠魂碑」とした旧庭瀬町 出身の戦没勇士の大碑がたてられている。「見延嗣法日慈書 大正三年七月健之 当院廿一□日明代」と刻んである。これは在郷軍人会庭瀬町分会渡米者三十一 名外に四十八名の篤志寄附によるものである。その南側本堂に接して「妙法蓮華経 薬草品第五」と刻んだ石碑がある。 …きびのさとNo.89より

– 267 –

路傍の文化財


第二編 題目石等の石碑

編集委員

(アイウエオ順)

上森 香田 高橋 坪井 森安

剛 清治 浩郎(故人) 慈朗 哲彦

吉備 ・ 陵南にある石碑を訪ねて

路傍の文化財 2011 年 4 月 2011 年 8 月 2011 年 10 月 2011 年 12 月 2014 年 3 月 2015 年 10 月 2022 年 8 月 2022 年 10 月 発行人 発行所

初版発行 第二版発行 第三版発行 第四版発行 第五版発行 第六版発行 第七版ダイジェスト版発行 第八版発行

吉備まちづくり研究会(岡山市北区庭瀬 947) 坪井技研(岡山市北区撫川 1274-1)

ISBN978-4-9908867-0-7 C0001 Y5000E

本書の一部または全部について、庭瀬かいわい案内人から文書による許諾を得ずに いかなる方法においても、無断で複写・複製することを禁じます。 吉備・陵南にある石碑を訪ねて

– 268 –