日本のスカウト遺産百選(矢島 巌)

Page 1



「日本のスカウト遺産百選」

六十年に及ぶ私のスカウトライフを育んでくれた 先師先輩と 盟友各位に 感謝をこめて書き記し 光の路を往く人々にこの一巻を捧げる

1


は じ め にかえて 「日本のスカウト遺産百選」発想前記

定年退職をしてフリーになったら、ワンボックスカーに寝食機材とカメラなど を積んで全国を訪遊し、「スカウト風土記」のような読物をホームページかスカ ウティング誌にでも載せようかと思っていた。 ところが、辞めるころから、「その経験を活かして」という環境庁の誘いに乗っ て開発途上国の技術支援に出向き、大気環境の調査研究と保全技術の指導という 本職をそのまゝ延長したJICA(国際協力事業団、今の国際協力機構)の技術専門家 として海外に飛ぶことになり、訪遊計画は止まってしまった。 また、そのころは日本連盟の環境委員会にいて「環境ハンドブック」の執筆を 八分通り済ませていたので、残りは現地で仕上げようと参考資料をまとめたり、日 本にいるときの執筆環境を最低限確保できるようにして飛んで、4月の1日には現 地の大使館に居留届を出し、バンコクの住民となっていた。 滞在中、本職のほうは多少の曲折はあったものゝ、比較的順調に進めることがで きたのが、「環境」という専門分野がそこの地理地勢と人間活動の見極めから始 まるので、ボーイスカウトのルックワイドと観察推理にそのまゝ一致することが 幸いして、遺跡や民俗風習に触れ、貧しさを超越した人々の信仰生活に敬服しなが ら国中を廻り、任務を果すことができた。 また、現地の研究員を指導する様子の テレビドキュメンタリーが日本で放映されたので、小学校時代からの友達や遠く の知人にも、あいつは元気に生きていると気付かせることができた。 だが、現地在住の日本人はまるで噂好きの集団で、タイ連盟の指導者や家族など が共同住宅の我が家に出入りしたりすると、一人暮しなのに女性が来ているなど と怪しげな噂を流しては遂にタイ連盟の事務局が怒りだし、管理人に灸をすえる 一件もあって、国を超えたスカウト兄弟の信頼の深さを味わうこともできた。 そして、タイでの支援が終わって、いよいよ「スカウト風土記」の全国訪遊をと 思った矢先、今度はインドネシアの環境研究所の支援を断り切れなくなった。 赤道を越えた南半球での本業は順調だったが、帰国のまとめに入る頃、スマトラ 各所で発生した森林火災と煙霧被害の緊急調査をすることになってしまった。 そして、急遽パレンバンまで飛んだが煙霧で着陸できずに引き返し、バタビアの 2


港から船で渡って日本からの緊急医療チームや消防支援隊と共に視界25メートル という煙霧の町や森林火災現場の調査に奔走。このときもテレビの取材があって、 NHKの「クローズアップ現代」が健在を放映してくれた。 一方、熱帯の多彩な花や鳥や果物の恵みには癒されたが、イスラムを信仰する人 々の敬虔さには驚きもあった。

一週は休日となる聖なる金曜日から始まるが、

月の運行によって日々変動する礼拝時間の11時ごろと3時ごろになると、持ち場を 離れて全身を清め、所内のモスクで礼拝してから職場に戻るので、その間のおよそ 90分をブランクと考える働きバチの日本人には理解できないことであった。 だが、次の赴任国サウディアラビアでは、その礼拝がさらに重大なことになって いた。

礼拝時間を知らずに入った旅行社では、宗教警察に咎められたり、街で写

真を撮っていたときに捕まってフィルムを出せと云われ、デジカメを開けてフィ ルムがないのを見せて放免されたこともあった。また、蒸留したり逆浸透で淡水 化した海水を飲む沙漠の石油大国では、ガソリンよりも水の方が高いので、日本の 生活感覚では驚くことも多かった。 しかし、スカウトの本性が幸いしてベドウィンの国を愉しむことができたし、仕 事のほうも手広く果たすことができた。 ところが、海外支援はさらに続いた。それが南米北端のベネズエラであった。 業務はどの国のよりも順調に進んだが、国中の治安は悪く、測定器の盗難にもあっ た。しかし、貧しいのに人々の向上心は最高で、中でもボーイスカウトの若い指導 者達が、首都カラカスの幹線ロータリーに立つベーデン−ポウエルの胸像を仰ぎ ながら「この国を良くするのは我々スカウトだ」と誇らしげに語ったその自信に、 「活きているスカウト運動」を実感した。 こうして、足かけ5年の海外活動は過ぎた。そして訪遊計画を考え直した。 それは、自分をこゝまでにしてくれたボーイスカウト運動と、その心や技をこの 心身に染み込ませた先師の事蹟や消えつゝあるエピソードを、先ずは自分のスカ ウト史にとどめ、稿を起して光の路を歩む人々に語り継ぐことであった。 そして、発想から6年。多くの支援による「日本のスカウト遺産百選」をこゝ に出版できる喜びを活力に、新たな課題に向いたいと考えている。 平 成 22年 1 2 月 2 5 日= スカウトライフ還暦の日に 矢 3


ボーイスカウト運動の伝来 明治維新(1868)後の変転と混迷の時代、明治12年(1879)、国は、仁義忠孝を基軸 にした皇国主観の教育方針「教学聖旨」を発し、のち明治23年(1890)には国民の 行動規範を示す「教育勅語」を発布して国民道徳の絶対的な基準とし、「国定教科 書」と共に義務教育の統制を図って富国強兵、殖産興業の道を走り始めた。 また、日露戦争の大勝利〔明治38年(1905)〕に沸く国威宣揚の声は、「神国・神 風思想」の富国強兵ムードを助長し、文部省はその年の12月には現代の知事に当 たる地方長官に宛て青年団設置奨励・指導の通牒を出した。 そしてこれに呼応して各地に少年らの団体訓練組織が生れ、明治40年(1907)4 月には、のちにベーデン−ポウエルのスカウト運動に目覚める静岡公報の新聞記 者深尾韻が雑誌「少年時報」で少年團の設立を主張するなど、地域や学校を拠点 とした少年團活動が各地に拡がり始めた。 そうした好機、明治41年(1908)、ロンドン駐在の秋月左都夫全権公使からボーイ スカウト運動の盛況を伝える報告があり、その中で「ボーイスカウト運動は騎士 道精神にのっとり武士道も取入れている」と伝えられたが、この報告が、わが国 ボーイスカウト運動伝来の種子となった。その秋月の人物像を、黒木勇吉著「秋 月左都夫その生涯と文藻 I」が次のように紹介している。 「 べルギー公使とボーイスカウト」 秋月が、スウェーデン公使を免ぜられて、ベルギー国駐箚公使に命ぜ ら れたのは、明治四十一年九月である。これより先、小村寿太郎は、三 十九年 一月七日、第一次桂内閣の総辞職とともに外務大臣を退き、同年 六月駐英 特命全権大使に任ぜられたが、四十一年の八月第二次桂内閣成 り、再び外務 大臣となった。秋月のベルギー公使就任は、小村外相の手に よって行なわれ たわけである。 ベルギー駐箚は翌四十二年の十一月ま でで、一年有余にす ぎなかったが、この間外交事務の処理以外ボーイスカ ウトの研究をしてそれ が、日本におけるボーイスカウトの創始の端緒を なしておることは、有名な 話である。 ボ ー イ ス カ ウ トの 日 本 連 盟 四 代 目 の 総長 三 島 通 陽 は 、 秋 月 夫 人 の 兄 三 島 弥太 郎 ( 日 本 銀 行総 裁 の 時 永 眠 ) の 長 男 で ある が 、昭 和 四 十 年 二 月 、 毎 日 新 聞 に 掲 載した「ボー イスカウト十話」の中で、左のごと く述べてい る 。 「 ボ ー イ ス カ ウ ト の 日 本 に お け る 起 源 」:日本に初めてボーイスカ ウト を紹 介した の は、牧 野 伸 顕(当時文相)、北条 時 敬(広 島 高 師 校 長のちに学習 10


秋 月 左 都 夫

北 条

牧 野

時 敬

伸 顕

院長)、乃 木希典(当時学習院長)の三人である。牧野は元来寸暇を惜しんで 新刊書を読む趣味があったが、ボーイスカウトが 英国にできた、その翌年 の一九〇八年に、もうその本 を得て読み、その神髄をつかんで魅力を感じた 。 これは義兄のベルギー 公使秋月左都夫が、ボーイスカウトを実地に見て感 心し、文相の牧野に その資料を送ってよこしたのであった 」。 ボーイスカ ウト日本連盟の 初代総長は後藤新平であり、二代は斉藤実、三代は竹下勇で あった。四代 総 長 の 三 島 の 記述から想像すれば、秋月はベルギーに駐箚す る前から 、イギリスのボーイスカウトを研究して、当時の文部大臣牧野(義弟) に、一切の研究資料を送ったものであろう。 「秋月左都夫その生涯と文藻 I」 黒木勇吉著

文部大臣牧野伸顕は、この運動を検討するため、この年ロンドンでの万国道徳会議 に出席する広島高等師範学校長北条時敬に調査を依頼した。そして北条は、想像以上 のスカウト旋風に驚きつゝ各地を視察し、翌年の夏、スカウト関係の資料と文献など を携えて帰国した。しかし、彼の滞英中に内閣が変っており、そのうえ時の文部大臣 小松原英太郎〔後の拓大学長〕は、この運動をとりあげようとしなかった。 北条は、やむなく広島高等師範ほか方々の教師らを対象としたボーイスカウト教育 〔北条は、Boy Scoutを「少年武者修業團」、Scoutを「少年武者」と訳称した〕の講 演会や展示会などを行うと共に、高範付属中学の校外活動にスカウト訓育を実践しようと、 翌年4月には寄宿舎に7つの隊を結成し、パトロールシステムによる自治活動を展開 した。その少年武者の一人に、のちに「ちーやん」の名で親しまれた中村知がいた。 また、北条の報告に遅れること1年後の明治42年(1909)から翌年まで、ロンドンにいた 文部省派遣留学生の山口高等商業教授蒲生保郷も、ボーイスカウト運動の有用性を総理大 臣桂太郎と文部大臣小松原英太郎に提唱したが、理解は得られなかった。 明治期・・・・日本にいち早く伝来したボーイスカウト運動は、少年団振興とは口先だ けの政治家の不見識により、厳しい寒風の中に晒されていた。

11


電子版「日本のスカウト遺産百選」 目 はじめにかえて

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1

「日本のスカウト遺産百選」発想前記 目

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

4

「日本のスカウト遺産百選」 分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1. ボーイスカウト運動の伝来

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2. 新聞に見るベーデン ポゥエルの来日

8 10

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

12

3. 最初の日本少年スカウト

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

14

4. グリフィンのオベリスク

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

16

5.「細谷川 座間村幼年会と鈴木利貞」学区少年団の栄光 ・・・・・・・・・・・・

18

6.「新町少年義勇団史」:郷土少年団の足跡

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

20

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

22

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

24

7.「岳陽少年団」国粋少年団の足跡 8.「そなえよつねに」記念碑

9.「英國少年義勇團の組織と其教育」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

26

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

28

11. 聖苑「神仙沼」の発見

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

30

12.「初野営地」の記念碑

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

32

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

34

10.

始祖総長

下田豊松と資料室

13.「神鏡」スカウト章

14. 少年團日本聯盟誕生の地とスカウト像

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

15.「英米の少年斥候」似て非なる少年團を正す

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

38

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

40

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

42

16.「震災復興図」の先師二人 17. 後藤新平と記念館

18. 後藤新平とスカウト像 19. 自治の三訣

36

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

44

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

46

20. 講演採録「少年團運動の使命」 21.「WOLF CUB」の像

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

48

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

50

22.「エスペラント」の隊旗

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

4

52


23. 大日本少年團通鑑「少年團研究」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

54

24. 祝声「いやさか」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

56

25.「花は薫るよ」の誕生

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

58

26. 練習船 義勇和爾丸

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

60

27. 指導者訓練の黎明

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

62

28. 大洞沢に開かれた道心門 29. 運動認識の明暗

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

64

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

66

30. 通陽二十九歳の決断

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

31. 不二健兒蕃社:わが国「指導者道」の起点

68

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

70

32. 碑は語る「健兒の園開拓道場」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

72

33. 健兒に託された仏舎利

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

74

34.「三指礼」の危機と分派

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

76

35. 一意奉公碑と殉職スカウトの像 36. 輪の心「營火の仕方」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

78

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

80

37. スカウトの心を結ぶ「結索法の手引」 38. 生活の原点「簡易測量法」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

82

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

84

39. メダルは語る「義勇和爾丸の航跡」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

86

40. 斎藤 實と記念館

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

88

41.「道心堅固」の碑

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

90

42. 富士臨雲健兒寮

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

92

43.「終戦のころ」日本の新生秘話

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

44. 暗闇から石つぶて:戦後再興秘話 45. 隊旗よ永遠なれ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

46.「少年は明日の世界をつくる」 47. 戦後初の勢揃い

96 98

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 100

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 102

48. スカウト記念切手のモデル 49. 輝く名誉スカウト

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

94

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 104

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 106

50. 宝典「ボーイスカウトポケットブック」 51. 足柄山の「カブブック」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 108

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 110

52. スライドで識る「隊長ハンドブック」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 112 5


53. スカウトの宝島

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 114

54. うちなーんちゅスカウトの始まり

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 116

55. 沖縄版「ボーイスカウトハンドブック」 56. 日本語版BSA図書

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 120

57.「異境」のベンチャースカウト

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 122

58.「軽井沢」光の路と守護神ジャンボリー 59. 太陽の子ここにあり

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 124

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 126

60. 正真 県コミッショナーの「珠玉抄」 61. 初版「隊長の手引」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 118

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 128

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 130

62. 心訳「スカウティング フォア ボーイズ」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 132 63.「夢はかよう」那須野営場

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 134

64. 那須野営場のトーテムポール 65. 楽苑「戸隠キャンプ場」 66. 微笑みの胸像

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 136

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 138

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 140

67. 日米友好ガールスカウトの姉妹像

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 142

68. 総長の太鼓から始まったフォノカード 69. 警察・消防ボーイスカウト隊 70.「ぶらぶら沢」歌の源流 71. 昭和天皇御製の碑

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 144

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 146

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 148

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 150

72.「愛楽園」のスカウティング

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 152

73.「われはふくろう」の歌碑

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 154

74. 歌うスカウティング「ちーやん歌集」 75.「ちーやん夜話集」光の路の磁針 76.「懐かしの古巣」山中野営場

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 156

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 158

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 160

77.「日本ボーイスカウト運動史」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 162 78. 遺稿集「三島通陽」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 164

79.「敬慕のいしぶみ」師と仰ぐ人の思い出 80.「みつきさわ」ハッピーランド 81. 三師の銘板

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 166

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 168

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 170

82.「ちかい」と「おきて」と時代

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 172 6


83. スカウトの「友誼」 84. 指導者道四訓

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 174

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 176

85. からだでおぼえたもの

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 178

86. 世界ジャンボリーに「明るい道を」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 180 87. 世界ジャンボリーのカゲで

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 182

88. 8ミリ映画「富士につどう」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 184 89.「朝霧回想」290フィートのFILMは語る

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 186

90. 消された「広島平和スカウト章」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 188

91. スカウティングと「ハンディ」?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 190

92.「スカウト教育研究会」への圧力

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 192

93.「開け エコ!」環境スカウティングの重扉 94. ECO CAMP 事始め

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 194

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 196

95. チーフスカウトが語る「ジャンボリー賛歌」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 198 96.「バァーバはガールスカウト―翼をもらって」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 200 97. 鋭書「ブラウンシーの空は青い」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 202 98. 鹿野重 顕彰碑

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 204

99. 目覚めよ団家族 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 206 100. スカウト運動と「法人」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 208

参 考 年 表 ・歴 代 総 長 主 大会 一 覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 210

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 219

あとがきにかえて 「日本のスカウト遺産百選」と「ビスタワールド」・・・・・・・・・・・・・・ 220 著者プロフィール

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 222

ギルウェル野営場のシンボル樫の実 7




新 聞 に 見 る ベーデン ポゥエルの来日 1912年(M.45)1月、英国からカリブ海経由で渡米し、「マフェキング英雄のアメリカ 講演」ツアーで大成功を収めたベーデン ポゥエル(B‑P)は、身も心も燃えていた。そ れは、カリブ海を航行中に32歳も若いオレーブ・ソアモス嬢を見染めその年の秋には 結婚という幸運を射止めた旅だったからである。 その後、太平洋を日本、中国、香港、ニューギニア、フィリピン、オーストラリア、ニュージ ーランド、南アフリカを経てルックワイドな233日間の旅を終えた。 日本には4月2日夕刻、ミネソタ号で横浜に入港し、予想もしなかったグリフィン隊 長率いる在日外国人ボーイスカウト隊の歓迎を受け、神戸でも結成早々の外国人スカ ウト隊を知ってスカウト運動の拡がりに驚いている。そして、在留英人の歓迎会のあ と病床のスカウトを見舞う気遣いや、武士道にかかわる泉岳寺を訪ね、日光・京都を巡 ったのち4月7日に神戸港を発った。 そして、B‑Pの来日とスカウト運動にスポット を当てた新聞各紙〔横浜貿易新報・時事新報・読売新聞・朝日新聞・THE JAPAN GAZ ETTE など〕の記事が、日本各地の郷士教育や青少年団活動に向ける社会の目を大き く変えることになった。 少年義勇隊長來る

〔朝日新聞: 明治45年(1912)4月4日 〕

▲ 背広服のポウエル中將

少年義勇隊の創設者ポウエル将軍を乗せたるミネソタ號は昨

日午後六時橫濱に入港せり是より先き横浜少年義勇隊長グリスチン氏は義勇隊の正服着たる 可憐の少年十五名と上海、東京、マニラに於ける各代表義勇少年を率い港外に出迎ふ。 將軍 さしまね

は茶の脊廣にスコッチの鳥打帽を戴きて船室より現れ一同をを 麾 けば少年はミネソタ號移 りてフレーフレーを三唱す。

▲ 船上の検閲

やが

軈て將軍は少年を右舷に整列せしめて検閲を行ひたる上義勇少年の義務、親 ぢゃう

切、忍耐、注意、推定等に就いて一 塲 の訓示を與へ各代表の少年を集めて其土地の報告を聞く。 ▲ 日本武士道

將軍は記者を顧みて曰く「自分の少年義勇隊を作った目的は少年に軍事

的訓練を與へる爲ではなくて紳士的な國民を作る爲である。人は少年の時代から養成せねば 到底駄目だ、日本に來たる途中米國に一ヶ月半も滞在して居たが目下四十萬位の隊員がゐる、 英國には三十萬其他佛、獨、露を始め今や世界全國に擴がってゐる、エ?日本人の少年義勇隊は い

われわれ

まだ無いッて、無くても可い日本には少年時代から武士道で養成してゐる、吾 々も十分に此の こん

その

ところ

武士道を研究して少年義勇隊員を養成したい、今も其訓示をした 處 だ」 <後略>

12


少年義勇隊長來る 〔「讀賣新聞」明治45年4月3日刊〕 ▲ 橫濱義勇少年出迎ふ 二日午後七時横浜入港のミネソタ号には萬國少年義勇隊の創設者英人サー バーデン ポー ウエル中将が乗込んでいた。是より先横浜少年義勇隊員18名はカーキー色の上衣に紺のズ うが

ボンを 穿 ち同じ服装のグリッピン氏に率いられ一艘のランチに乗って中将を迎へるべく岸壁 を離れた。 まんもく

げっしょく

▲ 満 目の月 色 おりから

その

しづしづ

折 柄 ミネソタは其巨体を徐 々と港内に運び第二區に錨を投げるや歓迎の少年隊は日英 まんかんしよく

米の三國旗にて満 艦 飾を施した本船に上った。時に満月は遙に暗き水平線上に現われ きんぱぎんぱれんえん

ことごと

金波銀波瀲艶として春の海は 悉 く月色に満たされた。 やがて中将は鳥打帽子に背広という軽快な服装で甲板上に現われ、中将の来訪を衷心より喜 ぶ旨のグリッピン氏の歓迎の辞に対し、ポーウエル氏また短き挨拶をされ、少年隊は一足先に、 中将は其後より会社のランチで上陸し、一応横浜市内見物して、再び船に帰った。

▲ 中将の旅程 カ ナ ダ 中将は本年一月五日故國を出発してcp渡米し、それより加奈陀を経て二月十七日シヤトルより ミネソタ号に乗り初めて日本に来遊した次第で、三日正午より横浜ユーナイテッドクラブに催さる マ ニ ラ オーストラリア

る在留英人の歓迎会に望み午後より上京し東京日光等を見物して滞在五日の後馬尼刺、濠 州、 ニュージーランド

新西蘭、 南米等を経て帰國する予定である。

▲ 乃木将軍と義勇軍 少年義勇隊は昔から歐州にあったが五年前中将が初めてこれを組織してから世界各國に拡まり、 その

其目的は日本の武士道の如く精神を鍛錬し義勇の気を鼓吹し人格ある第二の國民を作るにあって ぶんれつしき

昨年英國皇帝戴冠式の行われた際其分 列 式に乃木東郷の両将軍が望み殊に乃木将軍が彼らを嘆賞 し

した演説は深く英國少年の記憶に泌み込んで忘れ得ざる処であるそうな。 目下少年義勇隊は英に二十萬米に四十萬を算し其他佛独露伊を初め世界十数ヶ國にて百萬余人も あり各國の少年隊は通信して親交を計りつつあるが、本年七八月頃には三十名の米國少年義勇隊は 渡英して一層親交を計る筈である。<以下略> 13


最初の日本少年スカウト 明治45年(1912)4月2日、ベーデン−ポウエルがアメリカ旅行の帰路、横浜に入港 し、予想もしなかった英人グリフィン隊長率いる在日外国人ボーイスカウト隊の歓迎 に驚いたことは、当時の新聞等によって明らかだが、翌3日の英字新聞 THE JAPAN GAZETTE紙は、「最初の日本人ボーイスカウト隊」の記事【右頁写真右上】を載 せ ―横浜のこの小さな隊はある英国人によって組織されたが、彼が東京に移ると 消滅してしまった ― と書いている。 だが、後にグリフィンも語っているように、その人物 は横浜の本町で実業学校を経営していた英人バーナード・ハインドに違いない。 また、アメリカの少年雑誌 THE AMERICAN BOY が翌年の2月号で、横浜の本町で活 動している日本人ボーイスカウト隊の詳細な写真と記事を載せているが、GAZETT Eの記事と同じ写真が載っていることから、ハインド隊長が去った後も少年達が有 力な支援者を得て活動していたと考えられる。

なお、この隊のその後は不明だ

が、これが日本人少年達の最初のボーイスカウト隊だと断定して間違いなかろう。 ボーイスカウトというものは、日本社会にはまだ馴染みのない新しい言葉だが、日本 の少年達はアメリカの仲間達と同じように、ボーイスカウトになることを今まさに熱望 しているのだ。

昨年の晩秋に横浜で最初のボーイスカウトの班が組織されるまで、

人々はまだ、ボーイスカウトの班活動を見たことはなかった。 現在のボーイスカウト 隊は、まだ2班だけの編成の小さいもので、一つはライオン班、他の一つは猟犬班と名付 けられている。 少年達はボーイスカウト活動を本当に楽しむような十分な時間を持 っていたわけではないが、多くの男の子達がスカウト活動に熱中している事実は、日本 の少年達のこの運動に対する興味の深さを示している。<中略> 今では政府もこの運動に大きな関心を抱き、公立学校を通じて、種々可能な方法でボー イスカウトを支援しようとしている。 その何年か前には、政府が旧い「少年團」を解 散させてきた経緯にもかかわらずに、である。 3年前、ベーデン‑ポウエル将軍によって書かれた「スカウティング フォー ボーイ ズ」によって、この運動が初めて人々を奮起させた時、日本の社会はこの事を重大には 思っていなかったし、その後においても、合衆国、英国とその支配下の国々、ドイツ、フラ ンス、ロシア、南アメリカの全てでそれが組織されるとは考えていなかった。 また日 本人は、日本の少年に、愛国心や確かなる義務感を持たせるための、その種の集団教育は 必要ないと考えていた。 しかしそれから後に、特に合衆国で達成されたその成果が、 日本の精神高揚を願う人々の関心を呼び覚ましたのであり、その人々はいま喜んで、日本 14


左と同じ写真の本町スカウト

初の日本人スカウト隊(明治45年4月:横浜)

のボーイスカウトに最高の設備と利用可能な クラブハウスを提供し、支援している。この 横浜での動きや、ボーイスカウト運動の成功 に影響されて、他の大きな町でも、隊を組織す る準備が始まっている。この横浜のボーイス カウト達は、合衆国の仲間達と同じ教程と教義 のもとで訓練を受けている。 彼らの制服は英 国スカウトのものと似ており、装具の一部に、長 い竹の棒と、「命綱」 (長くて太いロープ)を 携えている。この棒と命綱は、消防訓練での 梯子の製作や、けが人や病人を運ぶための救 急訓練など、さまざまな活動や訓練に使われる。

日本人スカウトの梯子乗り

特に彼らは、 怪我人の世話と病人の援助ができるように訓練されている。 また、日 本ではまだ全く新しいものだが、彼らはいま鼓笛隊を組織し始めており、多くのスカウ トが外国人教師から、楽器の演奏を教わっている。 このスカウト達は素晴らしいクラ ブハウスを持っているが、それは少年達自身が維持し運営されているものとしては、日 本で初めてのクラブである。 それは横浜本町5丁目71番地にあり 、内外の若い訪問 者で連日のように賑わっている。 また、書籍や運動器具、ゲームなど、スカウト達を楽 しませ、教育するあらゆる可能な手段を広く備えている。 昨秋、スタンフオード大学の総長であるデビッド・スター・ジョーダン博士が横浜を訪 ねたとき、スカウト達は彼をアメリカボーイスカウトの監督官として歓迎し、彼の横浜滞 在中には、名誉ある近衛隊としての活動をした。ジョーダン博士が横浜に到着した時には、 母国語と同じほど滑らかな英語を話す日本人の15歳の少年隊長のコブカイ・トタロウが 号令して、ジョーダン博士の前に凛々しく整列して待ち臨んで歓迎し、日本のボーイス カウトから、合衆国の仲間達へ親愛の言葉を伝えた。<後略> THE AMERICAN BOY 1913年(M.46)2月号

15


グリフィンのオベリスク 横浜の山手にある外人墓地の門を入り、すぐ右手に折れてすぐの所にこのオベ リスクが立っている。それが、グリフィン家の墓である。 外人墓地は、黒船艦隊乗組員の死者を埋葬するために幕府が指定して以来、以 来多くの外国人が眠っているが、著名人の墓には簡潔な墓誌が置かれ、ロンドン 生れのアイルランド人 クラーレンス・ グリフィンもそのひとりである。 墓 誌

C . グリフィン氏 1878年来日

来日したときは2歳で、父は横浜で貿易商を営んだ。 1911年4ヶ国の 少年18人のボーイスカウトを結成した。 これは日本で最初であった。 関東大震災で消息を絶ったが、翌年日本に戻って来てボーイスカウト達を 喜ばせた。

毎年5月のグリフィン祭には、横浜のスカウト達が清掃と献花を

して開拓者を偲んでいる。

また、横浜のスカウト有志による銘板からも、功績を知ることができる。 紹介銘文 日本のボーイスカウトの開拓者 クラーレンス・ グリフィン氏 ・1873年 北アイルランドにて誕生 ・1875年 貿易商の両親と共に横浜に居住 ・1911年 氏を隊長として横浜山手にはじめて外国人の子弟によるボーイスカウト隊 が発隊した1912年に英本国よりベーデン・パウエル卿が世界一周の 途上日本に立ち寄りこのボーイスカウト隊を視閲した ・1925年 関東大震災のあと1930年にかけて横浜におけるボーイスカウトの先 覚者と共にYMCA會館に本部を置きボーイスカウト研究會を発足した ・1930年 有吉横浜市長を聨盟長とするボーイスカウト横浜聨盟が結成された 氏は今日 の日本ボーイスカウト神奈川連盟えの発展の草分けであり日本におけるス カウト運動の開拓者である ・1951年 上海より戦後の横浜に帰り病をえて昇天された グリフィン氏の功績を偲んで

1982.2.22

日本ボーイスカウト神奈川連盟 横浜みなと地区協議会 横 浜 地 区 協 議 会 横浜中 央 地区 協 議 会

16

有 志


グリフィン オベリスク

訓話をする壇上のグリフィン

「きみは、君の住んでいる町で、だれかボーイスカウト運動を始めてくれる人を 待っているのですか? それなら待つことはありません。自分で始めればいいの です!」・・・・・・・1911年のアメリカの雑誌に載ったこの一文が、居留外国人の子弟 に厳格な躾けをしたいと思っていた雑貨商、クラーレンス・グリフィンの目にと まったのは天の恵みであった。そこで、英米のスカウト資料を手本に外国人居留 地の少年を募り、17人を集めて「ボーイスカウト横浜第一隊」を発足。翌年4 月には横浜に寄港したB‑Pを歓迎して、「日本にもボーイスカウトがいたのか」 と驚かせた。だが、その後の関東大震災で被災して消息を絶ったまま台湾で大学教 授を15年間務め、第2次世界大戦中は上海にいたが、昭和25年(1950)の夏、忽 然と日本に帰って来た。一方、彼が亡くなったと思って前の年に慰霊祭をしたスカ ウト仲間には驚喜の出来事であった。 しかし、帰国後1年も経たずに病を得て聖 母病院に入院し、昭和26年(1951)4月12日、桜の花の散る日本で78歳の大往生を遂 げた。また、彼は生涯独身を通し身寄りもなかったので、遺言どおりに正装のス カウト仲間が彼の遺骨を棒げ持ち、英国大使館から派遣された牧師の祈りで納骨 式が営まれ、父母と妹と共に永久の眠りについている。 17


「細谷川

座間村幼年会と鈴木利貞」学区少年団の栄光

この本は、1907年に始まるボーイスカウト運動よりも前の明治33年(1900)から、 座間村の子供達に英雄伝や西遊記やイソップ物語などを語り聴かせながら善導す る「幼年会」を始めた鈴木利貞の子息が、偲ぶ会に集まる教え子らの助力により 克明な父の日記や資料をもとに、黎明期少年団運動の迷走とその後の確執にも言 及した先覚者の足跡で、ボーイスカウト運動史に残したい書物である。 10代から始めた利貞の幼年会は、彼が座間小学校の代用教員になってからは学 校教育の一環として勢いを増し、尋常1年生から高等2年(今の中2)までの男女全 生徒を組み込んだ縦型の自治活動となった。そして、お話会を通じた長、幼の相互 ... 学習や、本や文具や夜学用のランプや灯油代など会の活動費を得るためのたにし やイナゴ捕りなどの勤労を通じて自信と連帯意識を高めていった。 ほそたにがわ

そのとき、利貞が幼年会向けの説話小説として書いたのが「細 谷 川」である。 勤勉実直な村人の住む泉村と荒廃した山中村を比べながら、理想の村づくりに必 要なものは何か、人はどう生きるべきかを描き示し、お話会などで語り聞かせた。 また、東京や静岡で始まったボーイスカウト運動に対しては、学校と連携した 長、幼男女が一体となり、地域の後援を得て自治活動をしている幼年会こそが時代 の要求にかなっていると述べている。

そして、その自負を胸に、大正11年4月13・

14日の両日静岡市城内尋常高等小学校で行われた第一回全国少年団大会、付静岡 県少年団々技大会に勇躍出席する。しかし、「少年団事業推進方策」の論議では、 学校教育との親密な連携による振興策を説く鈴木や地方派の声よりも学校とは不 協和を唱えるほうが多勢を占め、結局は東京勢が主導して設立する少年團日本聯 盟に持ち越されることになった。 また静岡の大会に続く4月15日から3日間、東京で開かれた第一回少年団日本ジャ ンボリーには1道1府18県から68団体4,559人が集まり、座間幼年会からも「座間少 年団」の名で18名が参加したが、これは座間小学校の校長がこの大会への参加を 機に5年生以上の男子を少年団員、以下を幼年会員に分けたことによる。それは 幼年会生みの親の利貞にとって辛いことであったが、時の流れに逆らわず、新調の 幼年会旗を腹巻きのように巻き付けて開会式の列に加わったという。 18


また、一連の大会を通して英国式の少年団活動を行う東京組の優勢が固まり、そ の軋轢がその後日本の少年団運動から地方の特色と自発的なエネルギーを失わせ、 画一的、ピラミッド型の中央主導型運動に走る素因が生まれたと指摘している。

「細 谷 川 座 間 村 幼 年 会 と 鈴 木 利 貞 」 目 次 はじめに ・むかしの子供と今の子供 ・ 「何とかしなけれ ば」 「何とかしよう」 ・コミュニティと青少年問題 幼年会の誕生 ・幼年会とは

・子供達主催の父兄会

・ 「入れ知恵では出来ぬ」 ・柿の木の下の誓い 幼年会と鈴木利貞 ・生い立ち ・挫折と成長

・痛切な体験

成長する子供たち ・お話会と勉強会 ・ 『そんごくう』の本が買えた ・波にただよう小舟 ・集団のよろこび ・夜学を開く ・理想社会へ向かって ・真の勇気 明治時代の座間小学校 ・楽園の四季 ・問題の子供 ・一生の師弟 ・ある牧歌風景・日露戦争の陣中 学術家と実際家 ・実際家のカリキュラム ・生活指導

・地理と歴史

・道徳教育と綴り方

・国語と作文

・生きた「校訓」

・情操教育 ・ 「心の鑑(かがみ)」

・ 「内面生活」と綴り方 学校教育と幼年会 ・理想と現実 ・山中村と泉村(1) (2) ・ 「春ちゃんのおじいさん」 ・ 「細谷川」のおしえ ・人の心は何故荒れる? ・子供たちが作った「通学日誌」 ・利貞の「実践教育学」 ・組長制度と指導者養成 地域社会と幼年会 ・幼年会のたにし採り ・子守さんが開いた学校 ・美事な終止符 ・ 「幼年倶楽部」と「青年倶楽部」 ・盛大な記念大会 少年団運動と幼年会 ・世界の少年団運動 ・日本の少年団運動 ・全国組織へ向けて ・第一回全国少年団大会 ・第一回少年団日本ジャンボリー ・少年団運動の理論と実際 ・座間村幼年会の独自性 ・生涯の願い 後に続く者 ・天理(自然)と人道(倫理) ・ 「小さな砂の一つぶも」「 ・ 青年同志会」と「青年団」 ・自らの血を注ぐ者 あとがき ・ 「細谷川」刊行のことば 座間村幼年会を偲ぶ会

19

昭和57年9月30日発行


「新町少年義勇団史」郷土少年団の足跡 明治末期、わが国にボーイスカウト運動が伝来してから、各地で活動していた多 くの青少年団体は、武士道にも共通するスカウト運動に軸足を移したり、または加 味した少年團や義勇軍などを名乗って活動するようになった。 またそれは、富国強兵の国策に基づく小学校教育の充実と共に「国のために身 を捧げられる小国民(学童)向けの社会教育」として歓迎され、その担い手として、 在郷軍人や教師、神職、僧侶らが大活躍した時代でもあった。 その中で、武士道型の岳陽少年團〔別項〕や学校拠点型の座間村幼年会〔別項〕 と並ぶ郷土の子供会型少年団の典型として新町少年義勇団がある。 ここに挙げる「新町少年義勇団史」〔A5版367頁〕は、戦前すなわち封建時代に おけるわが国ボーイスカウト運動の事蹟の集大成であり、那須の森で共に学んだ 盟友井出存祐氏〔群馬連盟〕渾身の名著として次代に継ぎたい。 なお、掲載の年表によれば、明治37年(1904)には群馬県多野郡中里村に少年軍組 織の存在が記されているが、そうした先進性が大正デモクラシーの風潮で高揚し、 各地の篤志家を団長とする少年団が発足。大正期に群馬県下で活動していた少年 団は、製糸業を営む高木勇一郎団長の新町少年義勇団ほか5個団であった。 新町少年義勇団史 群馬県ボーイスカウト運動小史 目次 まえがき ・序 文 第 一 章 群馬スカウトの夜明け ・大正期ににおける少年団の形成 ・群馬県における少年団のめばえ ・少年団の目的 ・訓練要項 ・宣誓義解 ・弥栄の信仰(二荒芳徳) ・少年団の御親閲奉仕(県知事 堀田 鼎) ・少年健児の活動振り(学務部長 岡本保三) ・新町少年義勇団要覧 ・ボーイスカウト初大会 ・群馬県下連合少年団大会 ・高崎所感(三島通陽) 第 二 章 新町少年義勇団の事蹟 ・大正十一年ごろの義勇団

・宣誓・おきて・標語

・新町少年義勇団規約 ・新町少年義勇団々歌

・名誉審議会規約

・新町少年義勇軍の映画会

・五周年記念祝賀会 ・お節句祝ひ・第三回天幕生活

・総長を迎える

・富士山麓野営に行く ・新町幼年健児入隊に就いて ・キャンピングの精神と 道徳

・キャンピング出発の準備

・サイクリング ・燃やす健児服(高木勇

20


一郎) ・野営事務分担順序 ・おきてに就いて ・夏の村規則

・身体を大切にするために

・御大典記念事業と寄附金募集に

ついて ・大日本少年団の歌 ・御大典記念寄附者芳名 員会開く

・夏を送る

・少年団日本連盟評議

・前橋県庁見学

・御挨拶(高木勇一郎) ・週末野営生活

・寄付金精算報告

・昭和三年度決算

・少年団員へ(同)

・関東合同野営参加について

・昭和四年東京連合少年団関東合同野営夏の村開く ・夏の村便り ・感謝 ・夏の村通信 度長期野営予定について ・五月行事予定表 ・週末野営案内

・昭和四年

・幼年健児入隊心得

・八月の事業・第三回夏の村

・御親閲の光栄に浴して(鈴木繁成)

・奉仕に参加して(同)

・教育勅語渙発四十年記念事業 ・溺水少年を助けた勇敢な健児 ・健児訓練要目 ・夏の村組織表

・夏の村開設について

・野営生活案内

・新町少年義勇団第十一回長期野営

・御親閲奉仕健児心得

・野営場に於ける心得

しての心得 ・班の行動について て、愛国同盟新町に組織さる ・松本大将御来新会計報告

・御親閲奉仕について

・御親閲奉仕のための班長と

・少年団員が感激の行脚

・新町少年団早起きを実行

・御親閲式典奉仕加盟団代表者会議 員風害地に義金

・夏の村開設について(昭和八年)

・ハタキを売っ

・御親閲奉仕

・指揮台運搬を奉仕して(高木勇一郎)

・慰問金、武士道の真髄(桜井金久) ・新町少年団

・新町少年団が御親閲講習会・野営の予定 ・高木勇一郎氏

評議員会に出席 ・臨時総会開く ・防火運動に一役 ・連盟結成十五周年記念 式典並関係物故者慰霊祭 ・新町少年義勇軍 第三章 資 料 編 ・健児道を求めて ・地方実修所

・少年団埼玉地方連盟結盟式プロ

・武士道と健児

・茨城・栃木・群馬県諸団体御親閲奉仕及野営要領

・野営地要図

・陸軍特別大演習地略図 ・群馬県外五県学生生徒青年御親閲業務補助奉仕健児心得 ・御親閲式場要図 ・野営地要図 ・少年団日本連盟第四回総会議案 ・会計報告 ・加盟団提出議案 ・栄養献立 ・敵機来襲の際に於ける市民の心得 ・上州小唄 ・新町少年義勇団健児の作品 ・少年団歌 (・花は薫るよ ・光の路 ・大日本少年団の歌 ・たのしき野営 ・ハイキングの歌 ・そなえよつねに ) ・新聞記事(写真) ・終章 ・青少年団の統合

・新体制運動と八紘一宇 ・大日本青少年団結成さる

・教養訓練体系 ・大日本青少年団教養訓練要綱並階程 ・少年団活動・略年表 新町少年義勇団史刊行会 昭和50年12月20日発行

21


「岳陽少年団」

国粋少年団の足跡

本書は、 静岡県三島地区のコミッショナーを務めた辻真澄氏の労作である。 岳陽少年團・・・・それは、わが国少年團史の中で最も異彩で2万人を擁す聯合少 年団であった。発祥は、沼津の地域少年團だが、次第に各小学校に拡がり、和服に 小太刀を携えて活動していたが、統率する軍人団長の皇国史観から西欧型を嫌い、 昭和7年(1932)、ついに日本聯盟を離脱し、当時大きな話題となった。また、その活 動内容は、OB團員布川角左衛門氏による次の序文からも知ることができる。 == 序 == ・・・・・<略>・・・・ 私は、岳陽少年団の初期をなした沼津少年団の 一員であった。 小野俊一先生が担任されていた沼津高等小学校の最上級生として、 その当初に参加した一人である。つまり、ここに記されているように、自ら木太刀 を造り、大正4年(1915)10月31日、天長の佳節に桃郷の御用邸前で行われた第一回の 入団式では、「我等は日本男子なり。……」の宣誓を声高らかに唱和した一人である。 すでに50年以上も昔のことになるが、当時、どのような経過をたどつてこれが誕生 したか、あるいはどのような状況であったか、さらにどんな行事が催されたか、それ らは私の知るかぎり最初の「岳陽少年団のあゆみ」の部分の通りであると思う。 幸いにも、私は自分の少年時代の回想をこれによって彩どり、裏づけられることがで きた。 それと同時に、私が特に思いを新らたにしたのは、小野先生や斎藤金吾先生、 また、そのころ呼びなれていた渡辺閣下や木下少佐その他、多くの人々に親しく接 し、知らずしらずの間に受けた薫陶の重さである。その恩恵である。 もっとも、当時を顧みるとき、これらの先達がどのような意図と配慮をもってな されていたかは、少年時代のこととて、容易に理解されるものではなかった。一団 員として先生にしたがい、さまざまな行事に参加したというべきであるが、私は「岳 陽少年団の特色」の部分を読み、その記述に改めて心を打たれた。 つまり、辻さんは、これらの人々が人間づくりの上に果そうとされた教育的なね らいと、その成果を高く評価し、「特に少年団初期の段階において、少年団幹部に個 性を持った人々が集まり、これから将来を背負って立つ青少年の人づくりに大きな 役割を果し得たその裏には、これらの奉仕に献身的な努力を払った指導者達がいた ことを意味する。人づくりは学問や机上の理論だけでは決して達し得るものでは ない。人づくりの要諦は、人間と人間とがぶつかり合い、心と心が触れ合うその中にこ そ見出されるべきものである。指導者たる人の人格と感化力。実践と行動力。これら

22


の要素を兼ね備えた指導者が岳陽少年団に少なくとも十指を屈するほどにおったので ある。これらの指導者たちは、その個性の全てを尽して少年団活動に身を投じていたと いっても言い過ぎではないであろう。なればこそ、その感化を肌身に受けとめた団員達 は、これを実行をもって応えていったのである。 」と記されているではないか。<中略> 岳陽少年団が存在したという歴史的な事蹟以上に、当時のいわゆる指導者が遺さ れた有形無形の影響と思想は実に大きく、尊く、その精神と真実とは時間と空間をこ えて生き、また新しく生かされなければならないと思う。

布川角左衛門

「 岳 陽 少 年 団」 目 次 ・ 序

布川角左衛門・尾崎忠次・望月庄次郎

◆ 第一章 岳陽少年団のあゆみ 第一節 少年団のめばえ (1)正気隊 (3) 臨海修養団 (2)上香貫少年団と楊原村少年団 第二節 沼津少年団 第三節 岳陽少年団 第四節 岳陽聯合少年団 ◆ 第二章 岳陽少年団の活動 第一節 活動について 第二節 特色ある行事活動 (1)入団式 (2)義士祭 (3) 乃木祭 (4) その他の行事 ・木太刀祭 ・楠公祭

・菅公祭

第三節 特色ある訓練活動 (1) 短期殖民 その他の訓練 ・富士登山 ・少年武道 ・寒稽古 ・夏季早起会 ・諸訓練 ◆ 第三章 岳陽少年団の特色 第一節 特色について 第二節 少年団の精神と教育のねらい

第三節 少年団と学校教育 第四節 少年団の組織

◆ 第四章 岳陽少年団諸論 その一 岳陽少年団長 渡辺水哉 (1)序 論 (3)少年団長としての生き方 (2)軍人としてのあゆみ (4)最後の団長訓示 その二 我輩は木太刀である その三 少年団と柳下 その四 教育指導に徹した教師小野俊一

・ あとがき 「岳陽少年団」 辻 真澄著

23

昭和46年(1971) 蘭契社書店


「そなえよつねに」記念碑 京都、平安神宮外苑の岡崎公園に「そなえよつねに」の碑がある。 平成21年1月、小雪の舞う成人式の日、当地の盟友望雲氏の案内を得て、晴着で賑 わう人並と列んで神宮に詣ってから、この記念碑を訪ねた。 「そなえよつねに」、このスカウト運動のモットー

Be Prepared

をそう訳

したのは、大正100年(1921)に日本健兒團を結成した始祖の総長下田豊松である。 碑は、何百年も河底で磨かれた平らな石の台座にあり、高さ1mほどの自然石に、 「そなえよつねに」の文字と揮毫者の名が「ボーイスカウト日本連盟先達 八木 清」と刻まれ、裏側に次のような由来が記されている。 大正4年(1915年)11月1日 有志者により大正天皇御即位 大礼の記念に、青少年に対する社会教育事業の一つとして 「京都少年義勇軍」 (ボーイスカウト京都連盟の前身)の 結成式典がここ岡崎の地・平安神宮の神前に於て挙行され てから80年、ここに京都連盟創立の起点として、スカウトの モットー「そなえよつねに」の記念碑を建立する。

平成 7年(1995 年 )11 月 1 日 日本ボーイスカウト京都連盟 ここ岡崎公園は、明治28年(1895)に、平安遷都千百年を記念して創建された平安 神宮の外苑で、国立近代美術館、府立図書館や市立の動物園や美術館もあるが、碑 は、神宮に最も近い公園グラウンドを背にした平安茶寮の前にある。 京都少年義勇軍は、市内全小学校の校長が推薦した1、2名ずつの生徒101名を集 め、陸軍中将内藤新一郎を総監として、大正4年(1915)11月ここ平安神宮で結団式 (次頁写真)を行った。そして、指導者の中心となったのが、五条通りで薬種卸小売 商を営み、伝来当初のスキーを始めた日本山岳会員のアルピニストでもあった中野 忠八〔後の第5代日本連盟総長久留島秀三郎の実兄〕であった。中野は、取り寄せ た原書からボーイスカウトの原理と方法を吸収しながら、「ちかい」と「おきて」 に当たる「三個条の誓文」と「軍規」を定め、活動を始めて行った。 しかし、戦時国家がわが国の少年団を解散させた昭和16年(1941)、中野の少年団 も平安神宮で解散式を行うが、昭和22年(1947)にボーイスカウト運動が復活して からは、24年8月には京都キャンポリー、12月には京都連盟創立の結成式を行うな ど、平安神宮とその外苑は記念すべき大切な場所として守られている。 24


↑ 「 そな えよつ ねに」碑

← 京都 義 勇 軍 結 団 式 平安神宮:大正4年11月 (1915)

領 京都少年義勇軍は名譽ある日本國民の本分守り 全力を擧げて正義公道の爲めに竭さんことを期す。

三個条の誓文 一、私は天皇陛下及國家に忠誠を盡します。 一、私は常に他人を助くることを心掛けます。 一、私は綱領を心の掟とし軍規をよく守ります。

規 一、我等ハ隊則ヲ重ンジ長上ノ命令に服ス。 一、我等ハ特ニ時間ヲ尊ビ規律ヲ守ル。 一、我等ハ必ズ毎日一ツ以上ノ善事ヲ行フ。 一、我等ハ常ニ公徳ヲ守リ進ンデ公共ノ爲ニ働ク。 一、我等ハ互ヒニ仲ヨクシ何人ニモ親切ヲ盡ス。 一、我等ハ進ンデ弱キ者ヲ扶ク。 モ 一、我等ハ沈着ニシテ絶エズ勇気ヲ有ツ。 一、我等ハ獨立獨行進取ノ態度ヲ執ル。 一、我等ハ飽クマデ責任ヲ重ンジ一切嘘ハ言ハヌ 一、我等ハ体力ヲ練リ困苦ニ克ツ。 25

中 野 忠 八

京 都 少 年 義 勇 團 員 服 装


「英国少年義勇團の組織と其教育」 我国ボーイスカウト運動揺籃期の大正4年(1912)、静岡新聞の記者深尾韶訳に よる「スカウティング フォア ボーイズ」が「少年軍団教範」の名称で、また、 英国留学中にスカウト運動を詳しく見てきた今西嘉藏が「スカウティング フォア ボーイズ」などのテキストをベースに解説した「英国少年義勇團の組織と其教育」 〔㈱同文社発行〕が相次いで刊行され、スカウト運動に関心を持つ人々にスカウ ティングの原理と方法を示す啓発書の先がけとなった。 特に後者は、「はしがき」で 、『編者は一年半前英国留学より歸朝せしもの、 其滞英中深き興味と熱心なる注意とを以て該運動の創立者バーデン・パゥェル中 将が該少年義勇團の教科書として自ら物したる書に依り、述者が實見したる所を 参考として本團の實際を述べ、江湖の清覧を乞はむとする所以のものは、吾人が 該運動を以て理想に近き少年運動と思惟し、其事業行事は、以て我国類似の運動 を一層振肅發展せしむるに足るべく、併せて我國小中學生の訓練上に採用すべき 所多きを信ずればなり。敢て教育家及び地方有志家の一覧を望む。』と述べてい る。

また、緒言では、B‑Pの実体験に基づくスカウト運動の本質を称え、例え

ば、『・・・・尚團則中に面白き事あり。

即ち團員は毎日必ず一の善事は之を爲さ

ざるべからざるの約束是なり。本團の條規を見るに、總てこれ英國中世の騎士の 掟に傚ひ、之が復古を叫ぶ處多し。而して此の一日一善を積む掟も亦其一なり。 ネクタイ

團兒が一善を爲し了るまでは、各兒が着けたる頸飾の結目を胴衣より外に出しお かしめ、善事の未了なることを忘れざらしむ。・・・・<中略> ・・・・思へ、かの將來國家社會を雙肩に擔ふ少年の中に此の心掛を養成する事、 決して尠少の謂に非ず。・・・・<中略>・・・・道德を實踐するの習慣を、最も根蔕深 く兒童の精神に養ひ置かざるべからず。是れかの徒らに正義人道を口にし、此當 面の道德實踐を疎んずる理論の教育に優ること萬々ならずや。・・・・<中略>・・・・ 吾人は此英國義勇團のなせる所を採り、これを我国に應用して學校社會教育の 不備を補はざるべからず、吾人の此擧ある決して所以なきにあらざるなり。』と 述べ、本文の250ページを次のように構成してスカウト運動の全貌を網羅、推奨し た名著の一つに挙げたい。 26


「英国少年義勇團の組織と其教育」 目次 ◆ 第一編 總 説 第一章 團 則 綱 領 〔用意周到・團則綱領・ 入團式、宣誓〕 第二章 組織 及 制 服 〔組織・階級・分隊名稱・ 分隊旗〕 第三章 團兒資格及其種別 〔年齢・入團考査・ 假團兒・一級・二級團兒・特科團兒〕 第四章 訓練要目〔古武士的精神・忍耐、愛國心・ 規律、公共心・應變的才能、觀察眼〕 ◆ 第二編 訓練事項 第一章 野外生活 〔ズールーの少年・人類退化・ 鍛錬主義・行軍・偵察・夜行・道に迷へる時・ 方位測定・遊戯〕 第二章 海事練習 〔海・ドレイク、ネルソン・ 海事練習・遊戯〕 第三章 信號練習 〔其種類〕 第四章 作用練習 〔綱具結方・測定(尺度、距離、重量、目測) 露營・樹木伐採及架橋〕 第五章 觀察 〔觀察練習・人物鑑定・練習〕 ◆ 第三編 動植物の常識 第一章 忍 び 〔遊戯〕 第二章 動 物 〔鳥類・爬蟲類及魚類・昆蟲類・練習〕 第三章 植 物 〔草木・遊戯〕 ◆ 第四編 鍛錬・・體格降下、其救濟法 第一章 強健法〔運動法其目的・鼻・耳・眼・齒・爪〕 第二章 良習慣養成 〔清潔・禁煙・禁酒・克己・笑へ〕 第三章 疾病豫防法 〔黴菌及殺菌法・食物、衣服・教練〕 ◆ 第五編 騎士の武士道 第一章 對他的武士道 〔騎士條規・無私・献身的精神・親切・慈善・謝禮を受けず・ 快活・禮讓・遊戯〕 第二章 自己の訓練 〔名譽・公明正大・正直・忠義・服従・恭謙・勇氣・堅忍・ 温和快活〕 第三章 自己の修養‑宗教 〔神に對する義務・人に對する義務・勤勞主義〕 ◆ 第六編 人命救助法及應急策 第一章 用意周到たれ 第二章 應 急 策 〔恐慌、火災、水難、狂犬〕 第三章 人命救助法 〔蘇生法・人工呼吸法・窒息者回生法・火傷・挫骨・凍傷・ 感電・氣絶・癲癇・中毒・氣息雍塞・扁桃腺 ・毒蛇・眼の障害 自殺救助・病者運搬法・練習〕 ◆ 第七編 愛国心 第一章 大英帝國 第二章 國民の義務 第三章 兵事知識

◆ 結

〔英國發展史、國民の覺悟〕 〔市民としての義務・兵士としての義務〕 〔海陸軍・國旗・政治、國王〕

論 [英国少年義勇團の組織と其教育] 大正4年7月10日発行

27


"始 祖 総 長 "下 田 豊 松 と 資 料 室 大正11年(1922)、ボーイスカウト日本連盟の前身少年團日本聯盟が発足したと き、初代総長〔チーフスカウト〕に推戴したのは後藤新平だが、その2年前に、日 本のボーイスカウトの国際加盟登録を敢行し、創始者ベーデン ポゥエル卿からチ ーフスカウトの称号を認められた下田豊松を知る人は少ない。 わが国ボーイスカウト運動黎明期の大正5年(1916)、北海道倶知安の在郷軍人 で雑貨商を営む下田豊松は、前年に旭川少年団の結成に尽した宇都宮太郎(旭川 第七師団長)の勧めにより岩内少年団を結成。 大正9年(1920)にはロンドンで行 われた第1回ボーイスカウト国際会議とそれに続く第1回国際ジャンボリーに私 費で参加し、同行した東京少年團理事の小柴博と横浜グリフィン隊のリチャード 鈴木スカウトと共にスカウティングの本質に触れ、さらにはこのジャンボリー最 終日にスカウトの発意で世界の総長の称号を得たばかりのベーデン ポゥエルと の親交を深めて日本のスカウト運動の存在を世界に示した。また、参加33ヶ国代 表によるボーイスカウト国際連盟創設委員に列して日本の国際加盟を確実にし、 B‑Pからは次回第2回ジャンボリーには50名の派遣要請を受けた。 帰国後、下田は各地で100回を超す帰国報告会を行う一方、国際登録上も日本の 統一体が必要となることから、帰国の翌年2月には、各界名士の賛同のもとに日本 健児團 The Boy Scouts of Japan を創立。自宅を仮事務局におき一応の体面を 整えた。また、世界に通用する日本のスカウト章を制作して意匠登録をするなど、 わが国ボーイスカウト運動の国際デビューに貢献した。だが、その後、少年團日本 聯盟が発足すると、下田は日本健児團として承認されていた国際登録の名義や事 務を移譲したが、聯盟は下田を厚遇せず、その余力は北海道少年團聯盟の発足やシ ースカウトの先駆けとなる海拓健児團、健児の園開拓道場の開設に向った。 「始祖総長」とも言える下田の多彩なスカウト人生を語り継ぐ子息〔真・恒久兄 弟〕が倶知安の旧宅に設置したのが「下田豊松資料室」(平成21年閉館)である。 平成17年6月北海道連盟広報委員長鈴木氏と訪ねたそこには、B‑Pとの往 復書簡や活動資料・国際会議・ジャンボリー記念品・その他数千点に及ぶ遺品が整 然と整理、展示され、下田真・恒久兄弟の話に傾聴の4 時間余を堪能した。 28


←健児團旗と下田豊松

メモランダム

↑資料室を語り継ぐ下田兄弟

下 田 豊 松 (しもだとよまつ)

明治20年(1887)11月7日、金沢藩からの開拓団に加わり北海道倶知 安に移住して雑貨商を営む下田家の長男として生まれた。だが、生れつ き病弱で、小学校高等科へ進んだが病気休学。そのとき、私淑する教師久 義訓導に励まされて奮起し、「西国立志篇=スマイルの自助論」を愛読 して心の支えとして「精神修養」と「逞しい身体づくり」を誓う。 明治40年(1907)北海道立函館商業学校を卒業と同時に歩兵連隊に入営 し、少尉で退役後は在郷軍人会の役員を務める。大正3 年(1914)、岩内で 行なわれた陸軍第七師団の秋期演習で、師団長宇都宮太郎から少年団の 設立を要請され、2年後に、旭川少年団に次ぐ岩内少年団を結成した。 大正9年(1920)ロンドンでのボーイスカウト国際会議と第1回ジャンボ リーに参加し、帰国後は国際交流の拠点となる「日本健児団」を創設し て創始者ベーデン ポゥエル卿からもチーフスカウトと認められた。 その後は、大正11年(1922)、全国少年団の連合組織「少年團日本聯盟」 の発足により国際業務を移譲しチーフスカウトの称号も譲るが、スカウ ト運動に懸ける情熱は高揚して、「皇太子殿下奉迎北海道ジャンボリー」 など諸大会やシースカウトの先がけとなる「海拓健児團」の創設、「健 児の開拓道場」開設、「神仙沼」発見など、「スカウティング フォァ ボー イズ」さながらの活動で少年達を魅了し、多くの後継者を育てながら家業 と地域の産業振興にも努め、多くの人々から慕われた。 その功績によ り、昭和37年(1962)にボーイスカウト日本連盟から功労「たか章」、国 からは藍綬褒章を受章。また、昭和39年(1964)に日本連盟から「先達」の称 号を受け、 昭和 57年(1982)10月10日享年94歳で他界した。 29


聖苑「神仙沼」の 発見 「日本健児團」を結成して、日本のボーイスカウト組織の国際加盟登録を果た し、B‑Pや諸国連盟との道を拓いた下田豊松は、大正11年(1922)の「少年團日本 聯盟」発足に伴い国際業務と共にチーフスカウトの称号も譲った。 しかし、北海道のスカウト運動振興に懸ける情熱はなお一層高揚し、「皇太子殿 下奉迎北海道ジャンボリー」の実施やシースカウトの先がけとなる「海拓健児團」 の創設、「健児の開拓道場」開設、「神仙沼」発見など、「スカウティング フォァ ボ ーイズ」さながらの活動で少年達を魅了した。 その活動のなかでとくに興味深いのは「神仙沼」の発見である。当時の地図に もなかった未開ゾーンに分け入った発見譚を、「下田豊松小伝」〔前田克己著・余 市豆本の会発行:平成4年9月1日〕が次のように伝えている。 神 仙 沼 発 見 ニセコ連峰のチセヌプリ(1,135㍍)の麓に神仙沼自然休養林がある。 道道岩内〜洞爺線から約七百㍍、海抜七百五十㍍の所、行政区域は岩内郡共和 町に属するが国有林岩内営林署の事業区にある。 ここに大沼・長沼・神仙沼と小さな火山性湖沼が点在する。神仙沼は昭和三十六 年国土地理院五万分の一地図が出るまで、古い地図には記入されていなかった 小さな沼である。 東西百五十㍍、南北百㍍、水深は平均二㍍ほど、セキショウモやミツガシ ワなどの水性植物が岸辺に群生している。周辺には分布の南限といわれるエ ゾアカマツが点在していて、その独得の枝ぶりは盆裁愛好家でなくても見と れるほど美しい。冬は深い雪の下で人聞をよせつけず、春の来るのが遅く、秋の 訪れは早い。 その短かい期間を沼と湿原と樹が一体となって神秘な景色を展開 する。 天野時次郎は「ニセコ連峰の地理歴史」に次のように書いている。 「この沼が神秘の沼と呼ばれる経緯も見のがす事ができない。倶知安の下田 豊松氏が、かねて育てあげてきた日本健児団の修練キャンプ地をさがす目的で 昭和三年秋、当時の菊地営林署長、松尾林務所長その他数名で、大谷地からこ の地にわけ入って初めてこの沼を見た。まだ道のない時で大難行であった。 その時一行の受けた印象から、この沼を神仙沼と呼ぶことに一決した。」 ところが山役人がそろっていたものだから、チセヌプリ旧道まで踏査する計 画で不用意に歩き出した。結局笹籔の中を迷って食うものもない夜営をした。 30


神仙沼神仙沼探査の一行:中央が下田豊松

余市豆本:下田豊松小伝

そこは熊が水を飲みにやってくる通路にあたっていて、夜中に熊があらわれ て尻や腕をなめられたという。 翌日ようやく岩内まで出て事なきを得たが、 この景勝地を世に出したいと思った下田らは、世界的大恐慌後の緊縮時代に もかゝわらず、何とか予算をとる事に成功して翌四年には大谷地から長沼の下 まで林道を開くことができた。 さらに下田の口述をつけくわえると「この時一行は八名で十月六日の夜は 岩雄登硫黄鉱業所に宿泊、翌七日大沼を経て大谷地に至り、三角鉱山沼(長沼) お い こ み

へ抜けて岩内町老古美に出る予定でした。大谷地からは背丈を越す竹籔をわ けての大難行の末、ようやく湿原へ出たところ地図には名前も記号もない小沼 を発見。そのあまリにも神秘的な景観に一同しばし声も無いほどであった。 やがて我にかえった一行が命名の相談の時、私は『みなが神・仙人の住み たまう所との印象をうけたのだから神仙沼はどうか』と発案したところ一同 賛成し、神仙沼が誕生したのです。」 一行八人のうち鉱山所長ら四人は神仙沼から長沼へ行く途中から引き帰し たので事なくすんだが、迷って夜営したのは下田、松尾、菊地と永江(支庁 林務技師)の四人。沢のかたわらの河原に、松尾所長の傘を開きその下に寄リ あってうずくまリ、二枚のオーバーをかけて夜を明かした。 翌日、岩内と倶知安の双方では遭難したと思い、救援の相談していたので新 聞社のニュース種になリ、十月十日の小樽新聞に「熊がお尻をなでた話」が 載った。 翌四年十月六日倶知安町の名士十四人が探勝に向かい、その記事が掲載さ れ、名勝

神仙沼

の存在が知られるようになった。

それにしても十月七日といえば山中の夜は、かなり低温のはず。よく無事 にすんだものだ。この夜の熊さわぎを知らずに眠っていたのは下田ただ一人 だったという。いかにも下田らしい一面がうかがわれる六十余年も前の話で ある。 「下田豊松小伝」〔前田克己著・余市豆本の会発行:平成4年9月1日〕

31


「初野営地」の記念碑 琵琶湖の湖西、近江舞子の雄松岬に延びる白砂青松の湖岸にこの記念碑はある。 松の木陰に建つ記念碑は、全国のスカウトが贈った土台石に据えた大小2段の 自然石でできており、全高は2mほど。その頂石に「日本ボーイスカウト初野営の 地」、裏面には、由来の銘板があり、昭和35年(1960)8月に建立され翌年5月3日に除 幕された。 訪ねたのは、平成19年の3月と21年1月だが、同行した滋賀連盟の山本 理事長や地元福田寺の住職で県コミッショナー仲間だった佐々木氏、彦根の中村 ・野村氏、京都の寺村氏らとこの碑を仰ぎ、松籟を聴きながらその由来を懐かしみ、 印印

この白き浜辺 緑濃き松の蔭 に

一九一六年故中野忠八氏がスカウトを連れ

現理事長 久留島秀三郎氏の

案内で初めて天幕を張ら

こ こ に 我 等 の 先 覚 者 の道を辿 り

一九六〇年八月

ボーイスカウト日本連盟 総長 三 島 通 陽 印 印

今後の弥栄を祈りこの碑を建てる

先人の偉績を偲んだ。なお、由来 文の4行目が「天幕を張ら××」 と欠落しているが、「天幕を張られ た」と考えられる。 ここで、ボーイスカウトの原書 を読んで京都少年義勇団を結成し た団長の中野忠八が、少年団員を 率いて初のボーイスカウト式のキ

ャンプを行った。また、中野がデンマーク古謡にのせて作詞し、今もボーイスカウ ト歌集の定番として歌われている「たのしき野営」からも、ここでのキャンプの 感動と躍動が彿と伝わってくる。 た の し き 野 営 こ ぞ

ひととせ

1 楽しかりし去年の夏の 野営の夢の思い出は忘れかねつはや一 年 今宵はここに繰り返す 松吹く風もみ空ゆく星の光も変わりなく 楽しうれし 夏はここに あゝ我が夏は来ぬ 2

待ちに待ちし休みは来ぬ キャンプの夜こそ今ここに かがりの火は燃えのぼり おも

我らの面

を照らしたり

若き血潮の高鳴りは 兄弟の誓いた る

我らの胸に流れたり あゝ手足に流れたり おのこ

歌いつれん声は高く 男子 の歌を天までも 語り合わん力こめて きよ

あめつち

世界の平和と人の為 潔き願いは天 地の 神の心に叶いなん 声は高く力込めて あゝ我らは歌いてん あやめ

わか

夜のとばり深く下りて 文目も判らぬ森の蔭 木梢高くのぼる煙 かがりのまどいは更けてゆく

三つのちかい胸にこめ

お き て忘 れ ぬ健 児 等 の あ ゝ今 宵 の た の し さ よ

32


↑ 初野営地の碑 銘板 ← 初野営地の碑

景勝雄松岬の湖岸初野営地

京都少年義勇団のキャンプ風景

簡易測量による川幅測定の図 上 の 図 は 、中 野 が 著 し た ス カ ウ ト の 「 簡 易 測 量 法」から引用したナポレオン法による川幅の測定 だ が 、こ こ 雄 松 岬 の キ ャ ン プ で も 、こ う し た 活 動 が 折り込まれ、少年たちを楽しませていたと考えら れる

33


「 神 鏡 」スカウト章 世界スカウト機構の資料によれば、2006年現在、155カ国と26の地域で2,800万人 以上の青少年と指導者がボーイスカウト運動に加盟しているが、世界機構には未 加盟でスカウト活動をしている国が35カ国もあるという。そして、それぞれが旗 印となる「スカウト章」を定めて活動しているが、その原型は、平和で友愛に満 ちた健民運動を世界中に拡げた一冊の本「スカウティング・フォア・ボーイズ」 の中にある。図‑1 は、創始者ベーデン−ポウエルがその初版に描いたスカウト章 ... だが、「矢じりの形をした北を指すコンパスで、人々の役に立つスカウトの務めを 表し、巻物は、困難なことにもいとわずに微笑んで対処できるスカウトの口元を表 し、標記のBE PREPAREDは、「いつでも務めを果たせる体制にあれ」の意味と、自身 Baden‑Powellのイニシャルを重ね、結び目は、日々の善行を表している。」と説い ている。だが、それもやがてルイ王朝の紋章や聖花のユリの花弁形に変わるが、そ ... の後の版でもこれは矢じりだと述べているのが、いかにもB‑Pらしい。 わが国最初のスカウト章は、下田豊松が大正10年(1921)の紀元節(2月11日)に制 定した日本健兒團徽章【図‑2】である。

下田は、その前年、ロンドンでの第1回

ボーイスカウト世界会議とそれに続く第2回世界ジャンボリーに参加してこの運 動の拡がりを実感し、B‑Pとの親交を得て翌年帰国すると、直ちに奔走して後の総 裁・総長となる後藤新平らの賛同を得て国際的に通用する日本のボーイスカウト 組織「日本健兒團」を結成。それに伴い、日本の代表(チーフスカウト)となった。 やたのかがみ

やさかのまがたま

徽 章 の 意 匠 は 、 皇 位 継 承 の 「 三 種 の 神 器 」〔 八 咫 鏡 ・ 八 尺 瓊 勾 玉 ・ あめのむらくものつるぎ

剣(草薙剣)〕に由来し、下田はその理由を、「鏡は萬象を照すに是非善

悪はの姿顕はれざることなし之れ智の本源なり、玉は温和善順の象にして仁の本源な り、劍は剛毅利決斷の象にして勇の本源なり、抑々この三徳は我が建国以來の精神に もと

してこれを中外に施すも 悖 らざるものなり仍て我健兒團の徽章として日夜其精神を 體すべきものなり」とした。そして、その後発足した少年團日本聯盟は、大正12年(19 23)12月、それをもとに徽章【図‑3】を制定し、出版物等には、【図‑3‑B】を使用した。 しかし、三種の神器を戴くスカウト章も、1941年1月16日戦時下の国家統制によ る日本聯盟の解散に伴い、栄光の歴史を閉じることになった。 34


図 -1

図 -2

図 -3

図 -4

戦時暗黒のときは、日本の敗戦によっ て終わった。そして占領軍司令部(GHQ) との折衝により、ボーイスカウト運動の 復興が許されたが、日本の旧封建体制の 壊滅を掲げるGHQが、ワシを掲げるアメリ

図-3-B

カのスカウト章をハトに入れ替えて日本のスカウト章にさ せようとする意向に対して「神鏡」を掲げる日本側の案を たもつ

許す公算はなかった。だが、折衝に当たった村山 有 理事らによる説明の、「日本 の国体の歴史から神鏡の持つ深い意義と、神鏡は、日本の誇るべき平和のシンボル であり、かつ自らの心を映して反省していく姿をあらわすものである」との力説 が相手側にも感銘を与え、昭和22年11月に許可されたことは、文部省をも驚かせた 奇跡にも等しい快挙であった。 しかし、それと同じ時代、米軍の占領状態が続いていた沖縄では、米人家族の少 年達のために、ボーイスカウトアメリカ連盟が極東連盟の中に沖縄地区と琉球地 ....... 区を置いて活動していたが、 沖縄人(うちなーんちゅ)の少年達が、米軍嘉手納基地内の ..... アメリカ人隊に「胡屋班」として加わった1953 年(S.28)の夏を契機に各地にうちなーん .. ちゅ隊ができた。そして、彼らがその旗印として独自のスカウト章を創案した。 【 図 ‑4】 デザインは、アメリカ連盟のスカウト章の「ワシ」を「鳳凰」に、「星条楯」を琉 球王朝尚家の家紋である「左御紋(ひじゃいぐぅむん)」に、"Be Prepared"を「そ なえよつねに」に代えた独自のものだが、作者は、沖縄平和祈念堂に建立されてい る「平和祈念像」の山田真山画伯で、琉球ボーイスカウト第203隊(現宜野湾第1 ....... 団)の創設者でもある。だがいま、この存在を知るうちなーんちゅは何人いようか。 35


少年團日本聯盟誕生の地とスカウト像 静岡駅から徒歩10分、いまは駿府公園となっている駿府城二の丸の堀際の葵 小学校〔旧称、城内小学校〕の校庭に、等身大のスカウト像が立っている。その由 来は次の碑文に譲るが、力強く帽子を挙げ、木片を突いて霊峰富士を望むスカウ トの勇姿は、昭和47年11月3日、小雨の中で開眼セレモニーが行われ、勇壮に除幕 されたものである。

ボーイスカウト日本連盟誕生の地

ボーイスカウト運動が日本の各地に生れたのは大 正の初めでした。その運動が大正十年(一九二一)十一月 になって「少年団静岡連盟」という組織として生ま れました。この連盟は静岡市立城内小学校(その頃は 城内尋常高等小学校といっていました。 )で日本最初のも のとしてできあがったのです。そして次の年大正十一年四 月十三日には、 この城内小学校で 「少年団日本連盟」が生ま れ、ボーイスカウト国際連盟に加盟登録をして世界中の ボーイスカウトの仲間いりをしました。この日は、全国二十 道府県から少年団指導者の代表が百二十三名も参加し 、 文 部省、内務省、静岡県からは来 賓 をお迎えし盛大な 式典が行なわれました。 その後、 昭和二十三年には「少年団日本連盟」 という名前 を「ボーイスカウト日本連盟」と改めました。 今年は静 岡 連 盟 が 生まれて五十一年め、日本連盟が できあがってから五十年めになります。そこで僕た ちはそれを記念し、この運動の将来への発展を祈り 皆の力で誕生の地にこの像を建てました。 この像は静岡市出身の彫刻家大村政夫氏にお願 いし製作していただいたものです。 昭和四十七年十一月三日 ボーイスカウト日本連盟 ボーイスカウト静岡県連盟

そして、この地こそは、ボーイスカウト運動がわが国に伝来してから14年を経 てようやく「全国少年団首脳者会議」がここで開催され、ボーイスカウト日本連 盟の前身「少年團日本連盟」の名のもとに大同団結して組織を確立した記念すべ き場所である。

その成立までの状況と会議の概要を、翌年(1924)4月に創刊し

た機関誌「少年団研究」創刊号は次のように伝え、全国に周知した。 連 盟 の 成 立 及び そ の 後 の 経 過 わが国の各地に少年団の設立されるものの数がようやく多くなり、相互の連絡 を図り互にはげまし合う機会を得るため、全国少年団代表者の会合を必要とする 声があがっていたが、大正9年(1920)国際少年団大会(第1回ジャンボリー)がロ ンドンで開かれるにあたって、いよいよその必要を認め、その当時最も接近しつ つあった静岡の少年団と東京の少年団と協議を進めていたが実現に至らず,東京並 びに北海道の二つの少年団は各日本の少年団代表として別々に国際少年団大会に 参加した。 (東京の小柴博、北海道の下田豊松の二人である) それ以後東京にお 36


いて全国大会を開催するよう、しばしば相 談は進められたけれども、まだその気運を もりあげることができなかった。 少年団の発達において見るべき成績をあ げて来ている静岡県下の少年団は深く意を 決して、全国大会の責任を負うことを企て、 大正10年11月先ず同県下の連盟を成立させ た。そして全国大会に要する経費の負担を 議決して、ここに全国大会開催の発起をな すに至った。この間東京における機運も ようやく熟するものがあり、越えて11年 に入って全国大会の開催地を大会に移し たい希望をもって静岡との間に交渉をか さねたが、すでに静岡県連盟で諸般の準 備をすすめて各方面に発表をおえた後の ことであったので協議の上全国大会即ち 「全国少年団首脳者会議」を、4月13・14 日の両日静岡で開催し、引続き15・16・17の 3日 間東京において、全国少年団員の団杖

葵小学校に立つスカウト像

大会〔日本ジャンボリー〕を開催し相俟って大会の目的を達することとした。 大会出席者は、文部省嘱託片岡重助、内務省嘱託米沢英之、静岡県理事官本多 猶一郎外9名の臨場者と東京、大阪、神奈川、新潟、栃木、奈良、愛知、滋賀、長野、青森、 岩手、岐阜、秋田、福井、広島、和歌山、徳島、大分、北海道、静岡等の各道府県にわたる 123名の首脳代表者である。 この第1日、少年団静岡県連盟によって提出された「少年団連盟を組織すること」の 議題が協議され、二三質問応答があったが、大勢はすでにその急務を認めていたので、一つの 反対説もなく委員付託説が起った。この時尾崎元次郎が議長となり、 「連盟を組織す ることだけは、この際精神決議をなし、これが方法については委員を選定付託して はどうか」とはかり、満場一致拍手してこれを迎えた。 高島平三郎、三島通陽、 小柴博、高橋喜太郎、勝呂重作、本多憲、木下親光、二村能弘等の12名を委員とし て、少年団日本連盟規約の草案を作り、会議に対し、高島委員長より報告あり可決 確定、ここに「少年団日本連盟」は成立した。 更にこの際役員はこの大会で選挙したものとみなして、高島、三島、小柴の3名を 実行委員とした。この大会の決定にもとずき実行委員会は数回の会合を催し、男爵 後藤新平を総裁に伯爵二荒芳徳を理事長に推薦し承諾をえた。その他の役員を指 名選任してここに連盟成立のことを終えた。尾崎元次郎静岡少年団長はこの役員選 任で三島通陽子爵と共に副理事長となった。 「少年団研究」 創刊号大正13年(1924)

37


「英米の少年斥候」似て非なる少年團を正す ベーデン ポゥエルが1908年(M.41)に発刊した「スカウティング フォア ボーイ ズ」に触発され、またたく間に拡がったボーイスカウト運動は、「正義に燃え、国 家社会に献身できる有能で逞しい国民」を育成する目的において、世界中のどの 国家、社会にも歓迎される青少年の訓練方法であった。 わが国に伝わってきたおよそ10年ほどの間、政府要人や軍、教育関係者らもス カウト運動の文献や資料を紹介し推奨してきたが、グリフィンの横浜隊など少数 を除いては、「スカウティング フォァ ボーイズ」の要素をほとんど含まない兵 隊ごっこの団体や遠足会、子供会または白虎隊的な「ボーイスカウトもどき」も あり、種々雑多な子供集団の活動が乱立していたと思われる。 ここに、そうした状況を憂慮し、日本のボーイスカウト運動に喝を入れたのがカ リフォルニアでボーイスカウト隊の指導経験をもつ移民ジャーナリスト保坂歸一 である。

保坂は、B‑P流の"本家ボーイスカウト運動"と、動物記で名高いアーネ

スト・T・シートンを初代総長とするアメリカ流のボーイスカウト運動の特質をま とめて大正11年(1922)4月「英米の少年斥候(ボーイスカウツ)」を発刊し、日本の 少年團はボーイスカウト運動の本道を往けと説いた。そして、まさにその年の1 1月、各地でボーイスカウト運動を展開していた少年団体が静岡に集り、少年團日 本聯盟の名で大同団結したのも、この著作を通じて投げられたインパクトによる ところが大きい。時代を超えてなお輝く保坂の真意を大切にしたい。 『 <前略> 從來日本で行はれた少年團や青年團は遺憾ながら根本的に似て非な ちが

るものである。然らばどう異ふか少年斥候の何の點が優れて居るか、個々の有用 な訓練に就ても非常な相違がある。兎に角英米の兒童敎育各方面の専門家が、苦 ボーイスカウツ

心し經驗して來た少年斥候が、一朝にして日本に悪く眞似られて、軍國少年の養成 機關であるかの如く取扱はれたのは、非常に不幸な事と云はねばならない。<中 略> 少年斥候の効能を一口に云えば

1、 我國民に最も缺けて居る個性の發達を

計る事。 2、 開拓者的性能の養成。 3、 邪悪に抵抗する正義心の鍛錬で、而して其結 果は家庭に役に立つ少年、國家と社会が頼とするに足る忠義と勇気體力と元気を 兼備へた少年の養成となり、法律を遵守し、社會の秩序を重ずる良市民が出來上

38


るのである 。<中略>

少年斥 候の運動が秩

序ある行進を敎へ、野營生活を習ひ、規律と訓練 を以て終始するが故に、軍國主義の敎育を少年に 施す組織であると思はゞ大なる誤である。不幸 にして東京其他の地方に組織された日本の少年 團は其『主旨は少年兵の養成に非ず』と特記し て居るに係らず、其組織、中堅人物、敎育課目の編 成を見れば、如何にも軍國的色彩が甚だ濃厚で、 少年に軍事思想を養成せしめ、軍事行動を訓練せ しむるのが其主要の目的であり、宛も少年在郷軍 人を作るかの感あるは、甚だ痛嘆すべき事であ る。(東京少年團編少年團指針参照)此んな風 ではとても世の識者が進んで其發達に力を盡 さうとしないのも、亦軍國主義の嫌な父兄が其子弟を進んで此組織に任せ様とし ないのも、無理はない事である。東京少年團が大正三年十二月正式に組織されて からも、其貢献が社會に認められないのも、恐らく缺陥が此處にあるが爲ではなから うか。<後略> 』

「 英 米 の 少 年 斥 候」 1 我国の現状と少年斥候の必要

目次

△個性の發達

△開拓者的性能の鍛練

△罪悪に對抗する正義心の養成 2 少年斥候と軍國主義

△人口過剩の吾國に最必要な平和的開拓者

△ 英米民族の世界的發展は何によるか 續かざれば海外發展も空名のみ

△陸海軍獨りこれを守るも國民之れに △平和の良市民は即ち有事の良兵士

3 斥候運動とは何を意味するや 4 少年斥候の歴史

△マフエキングの少年斥候

△英國少青年の頽廃を救ふ

△北米合衆國に於ける少年斥候 5 目醒しき發達と其理由

6 少年斥候の旗章と標語

8 少年斥候の課目と遊戯

9 新士(テンダーフート)の資格

10 二等斥候(セコンドクラススカウツ)の試練

7 米国少年斥候運動

11 一等斥候(フアストクラススカウツ)

12 技能功章(メリットバッヂ)

13 夏季の天幕生活

14 營舎の日課

15 海上斥候(シースカウツ)

16 基礎三綱領の宣誓

17斥候の符牒と敬禮

18 少年斥候準律

19 米國少年斥候準律と注釋(米國少年操典より)

20 英國少年斥候準律と注釋(英國少年操典より)

21 少年の心理

22 簡單な組織 28 日本に於ける少年斥候運動 「 英 米 の 少 年 斥 候 」大正11年(1922)4月5日

39


震災復興図の先師二人 この絵が両国の震災記念堂にあることはスカウトの頃から知っていた。何かの 記念にもらった「震災復興の図」の絵葉書の中に、スカウトハット姿の男性が立 っていて、感動した思い出がある。後にそれが帝都復興計画を立て実現に執心し た東京市長で、ボーイスカウト日本聯盟総裁の後藤新平であることを知り、長いあ いだ気にかけていたが、いまは呼称も変わった東京慰霊堂と震災復興記念館を実 際に訪ね、「震災復興の図」を観たのは平成20年も師走のことだった。 総武線の両国駅から歩いて10分ほどの横網町公園。

そこに、大正12年(1923)9

月1日午前11時58分に起ったマグニチュード7.9という関東大地震の犠牲者と、昭 和20年(1945)3月10日の東京大空襲の戦災犠牲者を慰霊する立派な慰霊堂があり、 心静かに参拝をしてから復興記念館に向かった。 受付で、「ボーイスカウト姿の人が描かれている大きな絵」のことを尋ねると、 「??」。 来意を聞いた館長が「撮影許可」の腕章を出し取材を快諾してくれた。 大震災の資料や遺物を展示する1階から2階に上がると、予想していたよりも遙 かに大きな「震災復興の図」が展示ホール右壁の中央に飾られていた。 そして、大震災からようやく生き延びた人々と瓦礫の巷に入って復興の想を練 る調査グループの中に、スカウトハットの後藤がいた。だが、その右後ろにもう一 人のスカウトハット姿があり、それが当時日本聯盟副理事長の三島通陽だと判っ たのは、三島晶子著の「バァーバはガールスカウト」からで、有島が復興図に描い た三島の下絵のことや救援活動をした少年團の大活躍を知ったからである。 それにしても、震災直後に設置された帝都復興院の総裁に就任しながら、少年團 を動員、激励し、震災復興に取り組む後藤をスカウト姿で描き、三島と列べたこと や、その後方で手旗信号を送信している海洋スカウトを描いた有島の構想からも、 当時の社会がボーイスカウト運動に寄せた期待の大きさを感じることができる。 また後藤は、震災後直ちに「少年團日本聯盟組織宣言」を発表し、「そなえよつ ねに」をモットーに社会奉仕のボランティア精神を貫くボーイスカウト運動の本 質をアピールした。

そして、全国の各種少年団体に日本聯盟への正式加盟を呼

びかけ、その年の末には270団を超す加盟団を数えるまでになった。 40


「震災復興の図」 震災復興の意気込み を後世に伝えるため、大実業家安田善次郎が二科会創設者 の有島生馬に描かせて寄贈。 〔右下に有島のサインがある〕

復興図右側に立つスカウトハット姿白ひげの男性は後藤新平、 有島描く三島通陽の下図 その右後ろが三島通陽、また後方に手旗信号を送信しているで海洋スカウトが描かれている 復 興 奉 仕 活 動 の ス カ ウ ト た ち

41


後藤新平と記念館 わが国のボーイスカウト運動史に輝く超人と言えば、初代総長 後藤新平をお いて他にいない。 医師として政治家として、また東京市長から満州国、台湾にまで歴史に残る数 々の偉業を果しながら少年團日本聯盟の初代総長を推戴し、超多忙な公務の間を ぬっては全国を駆け巡りスカウト運動を伝え拡めていった。 そして、半ズボンのボーイスカウトの制服姿で集会に臨むと、スカウトたちか ら「僕等の好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気 でニコニコ」との歌声が上がったという。 そうした超人ぶりを知ろうと、その故郷岩手県水沢を訪ねたのも前後4度。そ して、水沢公園に建つ銅像や彼の名を冠した公民館にも後藤新平記念館にも、そ の徳を偲び多彩な生涯を彩るすべてが凝縮していた。 また、本書に選定した「百選」の中で、彼の偉績に関するものがいくつもあるが、 精査すればまだ増えるのを抑え記念館の収蔵物を一括して収載することにした。 平成18年4月末、水沢の城下町が沸く華麗な年中行事「火防祭」の日、地元 教育者の中目氏に伴われて訪ねた後藤新平記念館では、菅原館長の歓待を得て展 示品やエピソードを詳細に調べ、撮影することができたが、郷土が誇る英傑の姿 を残さず知らせようとする熱い信条に敬服した。 記念館の収蔵品と掲示物による知識にも圧倒されながら、巨人のプロフィール を次のように略記したが、到底及ぶものではなかった。 メモランダム

後 藤 新 平 (ごとうしんぺい)

旧伯爵 正二位勲一受章

安政4年(1857)6月4日生れ、昭和4年(1929)4月13

日享年73歳で没す。 台湾総督府民政長官・満鉄初代総裁・逓信大臣・内務大臣・外務大臣 ・東京市第7代市長・少年團日本聯盟初代総長・東京放送局(現・日本放 送協会)初代総裁。拓殖大学第三代学長などを歴任。 明治から昭和に至る激動期日本の近代化に向けて、鉄道・道路・上下水 道・電力・郵便・放送などのインフラ整備に辣腕をふるい、また、関東大 震災後の内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案する など、創意にみちた構想から「大風呂敷」と渾名されながら数々の偉業を 42


果した。 また、多彩な政治家、官僚として活躍する一方、教育面ではロンドンで ボーイスカウトの活動を見て感じ入り、大正11年(1922)66歳の時に東京連 合少年團の総裁、その後間もなく結成した少年團日本聯盟の初代総長に推 戴してボーイスカウト運動への社会的理解を深め、私財を投じて活躍した。 そして、自治こそは人間生活の根本であり、信と愛の奉仕こそは社会生活 の源泉であると、「自治三訣」の自助・互助・自制の心がけを力説し、少年 時代から養い実行するように説いた。すなわち、 <

人のお世話にならぬよう 人のお世話をするように そしてむくいを求めぬよう

なお、三島通陽の『スカウト十話』によれば、彼が倒れる日に三島に残 した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は 中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

愛用の制帽(ハット)

後藤新平 著作「少年團指導者に與ふ」

少年と共に

冒頭に今夏山中野営場における全国野営大会などの成果を述べた総長挨拶文 写真左端の巻紙の太さに注目

43

〔 大 正 14年 ( 1925) 〕


後藤新平とスカウト像 少年團日本聯盟初代総長 後藤新平の銅像や胸像は、生れ故郷の岩手県奥州市 の水沢公園と公民館や記念館にあるが、スカウトと共に立つ銅像はただひとつ、 東北新幹線の水沢江刺駅前に「自治三訣碑」と共に建っている。 像の由来については、後藤に心酔していた地方紙「水沢タイムス」の佐藤博社 長が、後藤の生誕100年〔昭和32年(1957)〕を期に江刺の彫刻家小野寺玉峰に私 と き じ

財で依頼したもので、記念館の絵物語を基に地元の利倉十紀二スカウトをモデル に制作された。そして、完成した昭和35年、水沢の市街を一望する羽黒山神社の 松林に、ボーイスカウト日本連盟総長三島通陽書で「後藤新平」と刻まれた台座に立 ち、上記「自治三訣」の碑( 銅板寄贈者 財団法人ボーイスカウト日本連盟理事長 久留島秀三郎の裏書き)と共にあったが、碑誌に記された経緯で現在の地に安住 することになった。 碑

この「後藤新平と少年」の銅像は、「羽黒山展望園構想」に伴い、1960 年代に建立されましたが、構 想 の 頓挫 により山中におかれたままの状態に ありました。そこで、後藤新平生誕150年の節目にあたる2007(平成 十九)年、有志が集い、広く浄財を募り、鉄 道 院 総 裁として提唱した広軌 鉄道が実現した東北新幹線水沢江刺駅前に移築したものです。 長年の風雪 により老朽化が進んでいた台座も、新しく、丈夫に、ここによみがえりました。 医者として、政治家として優れた業績を遺した後藤新平(1857〜1929) は、ボーイスカウトの初代総裁として、子どもたちの未来が明るく誠意に みちたものになるよう願っておりました。この像には、その慈しみの心が 描かれています。 わたしたちに自立の大切さを訴える「自治三訣」を遺し、悔やむことのない 精一杯の生き方とは何かを示した新平の思いが、未来永劫、この地の精神的 礎になるよう祈念いたしますとともに、ご賛同、ご厚志をいただきました 皆さまに、衷心より感謝申し上げます。 平成19年11月24日

後藤新平銅像移転推進会

44


後藤新平と少年像

公民館の胸像

自治三訣の碑

水沢公園の銅像

東北新幹線水沢江刺駅前の銅像

45


日本のスカウト遺産百選 19

自治の三訣 後藤新平(1857〜 1929)が、少年團日本聯盟初代総長に就任したのは、大正11年 (1922)66歳の時である。 すでにわが国の厚生、運輸、外交政策に敏腕をふるい、 「大風呂敷」と言われながらも着々と成果をあげていた絶頂期の東京市の市長の とき、ロンドンで見聞したボーイスカウト運動に感心して東京聯合少年團團長と なり、続いて少年團日本聯盟の総裁に就任した。 そして、ボーイスカウト運動 の普及奨励のために全国を巡回して数多くの講演会を行ったほか、多額の寄付を するなど物心両面の活躍があった。 また、「我が身を修める自治の力が治国平天下の基礎である。かねて私のいう 自治の三訣(さんけつ)『人のお世話にならぬよう。人のお世話をするように。 そして報いを求めぬよう』と少年時代から心がけてこれを実行するのであります」 と語り、自治こそは人間生活の根本であり,信と愛の奉仕こそは社会生活の源泉 であると唱えていた。 掲載の写真は、昭和の初め、長野県木崎湖の夏季大学で講演の折、主催側の松本 市在犬飼氏の求めに応じた臨書〔縦68×横123cm〕で、軸装で収蔵されている。 少 年團 の 眞 價=國家の土臺石、社會の 柱 少年團日本聯盟総長 子爵 後 藤 新 平 茲に少年團のことに就いて、平生の抱負を述べる機會を得たことは、不尚後藤 新平の最も欣快とするところであります。 顧みれば、世界の大戰は、實に文明の大地震でありました。さしも、榮華を誇たる 物質文明も、兵火に焼かれては一たまりもなく、土臺石からグラグラと搖り動かされ たのであります。 これは、各國の國民が、武装的文弱に耽つた必然の刑罰であつて 世界は、こゝにその弊害を目撃するとともに、文装的武備の必要を心から痛感したの であります。僅かの物質的発明に心驕りて、天を侮りたる結果は怖ろしいものである。 ... 我等はマコトの文明を築き上げなければならぬ。それは、自治の精神の上に建て あげられた文明であるといふことが、明らかになつたのであります。

、、 自治の精神こそは、國家の土臺石であり、社會の柱である。土臺石と柱とがシッ 、、 カリして始め、健全なる文明が建立されるのであります。 『 人の御世話にならぬ樣 人の御世話をする樣に そして酬いをもとめぬ樣 』

これは、自治の三訣として、私が少年の時代から心掛けて来たものであります。 少年團の行くべき途も、此の外にはありません。

46


少年の敎育機関として は學校もあれば家庭も ある、しかし少年の心に 最も偉大なる感化を及 ぼすものは社會の敎化 である、學校と家庭と 社會、この三つの力で少 年は敎化されるものであ りますが、少年團とは實に 此の三要素をあはせた自 治の訓練場一大倫理運動 場であります。かかるが 故に少年團は軍隊の準 備敎育ではない、また外國

自 治 三 訣 〔松本市犬飼家所蔵〕

の流行に誘惑されたものでもない、實に自治的國民を養成すべき社會の土臺石であつて、 少年團の自治がやがて、國民の自治となり、つひに文明社會の柱となるのであります。 少年團の事業は國家的であり社會的であり同時に文明的であります。 而してこ の重大なる使命は少年の心の如くに、大自然に觸れてともに動きつゝ始めて達成し 得るものであります。 少年の心理は大哲學者のそれの如く大自然の秘密を湛へてゐる。その極めて自由 にして奔放なる天性と無邪氣にして眞面目なる發動とが少年團の生命である、所謂 詰込主義の敎育を離れて、自然の大氣を呼吸しつゝ、少年と共に樂しむといふ心持が 少年團の眞面目であります、昔から「敎ふるは學ぶの半』と云ふが、團員と指導者 とが互ひに師となり兄弟となり、社交の一團となって少年團の自治は成立するので あります。 少年の天性は、一人一人に獨得の長所もあれば短所もある、これが少年團と云ふ 自治團體に入るとき、互に補足し互に制裁して、實に愉快に發達して行く處が少年 團第一の妙味である。それは、法令に拘束されて起つたものでもなければ權力に強 制されて出來たものでもない。従つて、地方地方の特色はますます發揮すべきもの であります。少年を補導するものが少年に指導されつゝ自治の面目を發揮するとこ ろに少年團第二の妙味はある。 今や、立憲政治だとか自治生活だとか腐敗堕落を重ねつゝある大人の政治を觀る ごとに此の少年團の純眞なる自治生活こそ、實に將來國家の土臺石、社會の柱であ るとの感を深ふせざるを得ないのであります。 「子供は大人の父である」とウオーズ、ウオーズの歌へる如く私は少年團々員諸 君とともに新しき文明へと勇ましく進軍するものであります。 「少年團研究」 大正13年(1924)8月1日

47


講演採録

『少年團運動の使命』

ここに、少年團日本聯盟初代総長の後藤新平〔当時は総裁〕が当時の都道府県知 事らを招いて行った講演再録がある。そして、ボーイスカウト運動がミリタリズ ムの権化的な運動であるとの風潮を解いて、 「真の目的は少年の純眞な心を通じ て世界平和に貢献することだ」と言い切った根本を伝え継ぎたい。

・・・・・来場者への謝辞に続いて・・・・・私ハ常ニ各位ノ御親交ヲ願ヒ居リマスガ今夕ハ 少年團日本聯盟總裁トシテ各位ノ御光来ヲ願ヒマシタトコロ公務御多端ノ際ニモ不 拘斯ク御參集下サイマシタコトハ私ノ深ク光榮ニ存ズル次第デアッテ少年團事業振 興上寔ニ慶賀ニ堪ヘヌ次第デアリマス。 少年團ニ就テハ各位ノ御配慮ヲ得テ地方 ニ依ツテハ中々隆盛ニ向ヒマシタ處モアリマスガ此機會に聯カ少年團運動ノ使命並 ニ之レニ對スル抱負ノ一端ヲ述ベマシテ各位ノ熱誠ナル御援助ヲ仰ギ 以 ツ テ 國 家 將來ノ負擔ニ堪ヘ得ル少國民ノ教養上ニ一大進展ヲ所期シタイト存ジマス。<中略> 少年團運動ハ夙ニ大戰ノ初マル十五年以前即チ一八九九年其ノ緒ヲ發シタモノ デアリマスガ大戰當時ニ於テハ各國ノ少年團ハ齊シク國難ニ對シテ夫々應分ニ奉 公ノ誠ヲ致シ常ニ訓練セラレタル所ノ少年トシテ異常ノ働キヲ發揮シタノデアリ マス之ニ對スル讃美ノ聲ノ中ニハ動モスレバ少年團則少年義勇兵に對スルモノガ アツテ「ミリタリズム」ノ権化デアルカノ様ナ誤解ヲ生ジマシタコトハ眞ニ遺憾 ニ堪ヘナイ次第デアリマス。 顧フニ少年團運動ノ有スル眞ノ使命ハ國體ヲ尊奉シ忠孝ヲ本トセル國家主義ト 同時ニ博愛協調ノ精神ニヨリ世界人類ノ幸福ニ貢献シタイト云フ國際主義トヲ經 緯トシタ一大倫理運動デアリマシテ兒童ノ少年期ニ特有ナル教育受能性ノ如キ特 性ヲ利用シテ、燃烈ナル愛國者タラシムルト共ニ國際的ニ陶冶セラレタ公民タラ シメ様ト云フニアリマス。 併シ全体カラ之ヲ見レバ少年團運動ハ學校教育其ノ 他少年教育ノ擴充デアリマス併シ其ノ訓練法ニ至ツテハ從前ノ學校教育ト其ノ趣 ヲ異ニシ少年の學業ヤ業務ノ餘暇ヲ以テ少年ニ通有ナル興味ヲ利用シ努メテ自然 ニ親シマシメヤウトスルノデアリマス、然シテ觀察推理ノ練習ヤ手工技能ノ錬磨 ヲ主トシ人格ヲ養成シ身体ヲ強健ニセントスルモノデアツテ内ニ在リテハ能ク家 事ヲ助ケ外ニ出デテハ能ク社會ニ奉仕シ人ヲ助クルノ實力ヲ練リ他人ヲ尊重スル ト共ニ自立の精神ヲ養ハシメルノデアリマス。

48


私ハ豫テヨリ朝ニ在ルト其ノ野ニ在ルトヲ問ハズ意ヲ少年ノ教育ニ注イデ居リ マシタガ近時世界ノ状態ニ鑑ミ且ツ少年團運動ノ主張ニ多大ノ共鳴ヲ感ジタノデ アリマスガ時恰モ大正十一年少年團日本聯盟ノ組織成ルヤ推サレテ其ノ總裁トナ リマシタ、爾來其ノ任ノ重キヲ感ジ其ノ器ニ非ラザルヲ知リマシタガ然シ又意義 アル此運動ノタメニ大ニ盡シタイト覚悟致シタ次第デアリマス。 飜ツテ我國現時ノ思想界ヲ見ルニ東西ノ思潮國内ニ合流旋回シテ動モスレバ人 心歸嚮ニ迷ハントシ軽佻過激ノ言動サヘ瀕發スルノ現状ニアルハ洵ニ憂國ノ情禁 ジ能ハザル所デアリマス、顧フニ現今コソ國民教育特に青少年ノ團體訓練上ニ最 モ重大ナル時期デアルト信ジマス。 最近、英國首相マクドナルド氏ハ世界改良ノ提案ヲ致シテ居リマス、世界改造 ノ要諦ハマヅ有爲ナル少年ヲシテ純眞ナル愛情ヲ通ジテ世界的ニ握手セシメ平和 ニ貢献セシムルニ在リト信ジマス、此趣旨ヲ以テ今夏デンマーク國コペンハーゲ ンニ於テ第三回國際ボーイスカウト、ヂャンボリー開催準備サヘ整ヒマシタ次第 デアリマス、同聯盟カラ我國ヘ招待状ガ參ッテ居リマス此ノ時ニ當リ我國ニ於テ ハ少年團運動ノ振興ニ関シテ面目ヲ一新セナケレバナラヌト信ズルノデアリマス。 近時我國ニ於テモ少年團ノ設立セラルゝモノ實ニ日ヲ追ツテ増加スル有様デア リマシテ誠ニ欣喜ニ堪ヘナイ次第デアリマスガ、折角創立セラレタ少年團モ地方 ニ依ツテハ識者ノ理解並ニ後援ヲ得ル事ガ出來ズ且ツ其ノ指導訓練ノ方法宜シキ ヲ得ヌタメ折角ノ企モ其ノ實蹟ヲ舉ゲル事ガ出來得ナイト云フ状態デアリマス、 本聯盟ノ使命ハ實ニ此ノ點ニ存在スルモノデアリマシテ既設團體ノ聯盟機關タル ト共ニ運動進興ノ爲メニ努力致サナケレバナラヌト考ヘ着々方法ヲ計劃致シテ居 ル次第デアリマス。 少年團ト青年團トハ年齢上如何ニ區別セラルベキカト云フ 問題ノ如キモ極メテ重要ナ問題デアリマス、其他學校教育ト少年團外國ノボーイ スカウト、ト我國ノ少年團ト云フ如キ幾多ノ問題ヲ控ヘテ居ルノデ有リマス、茲 ニ於テカ少年團日本聯盟ニ於テハ近ク全國ニ遊説シテ少年團ノ眞生命ノ存スル所 ヲ宣傳致シ度イト思ツテ居リマス、幸ニ地方長官諸賢ノ御後援ヲ仰グ事ヲ得テ少 年團ニ對スル世ノ逡巡、誤解ヲ一掃シ、其ノ振興ノ上ニ一新紀元ヲ劃シタイト熱 望致シテ居ル次第デアリマス。此ノ點ニ關シテハ何レ案ヲ具シテ御依頼申ス心組 ミデ居リマスガ豫メ御了解ヲ願ツテ置キマス、本夕ハ本聯盟ニ於ケル二荒理事長 三嶋副理事長乘杉監事其ノ他理事諸君モ列席致シテ居リマスカラ各位ノ御高見ナ リ御質問ナリヲ承リ本運動ノ上ニ新シイ意義ト力トヲ見出シタイト切望シテ止マ ナイ次第デ有リマス。

大正13年(1924)2月14日華族會舘(東京)にて

49

(原文は 縦 書)


日本のスカウト遺産百選 21

「WOLF CUB 像」 この「WOLF CUB 発祥の地記念碑」は、JR山陽線と並行する国道2号線に面した 須磨浦公園の二の谷川ロックガーデンにある。 ... 御影石の円柱の上に、すっくと立っているのは、金矢章時代のユニフォームを着 た等身大のカブスカウト像だが、直立して右手をまっすぐに上げた二指のカブサ インが何とも頼もしく、また中天を望む瞳も凛々しく輝いている。 昭和55(1980)年 7月22日に除幕式が行われたこの像は、兵庫連盟発足30周年の 記念事業の一環として建立されたもので、スカウトと指導者らの募金をもとに神 戸市在住の彫刻家新谷琇紀氏が制作したブロンズ像で、モデルに選ばれた3人のカ ブスカウトが何度もアトリエに足を運んでデッサンされたという。 ここが、わが国WOLF CUB運動の発祥の地であるというのは、大正12(1923)年12 月、当時の神戸市長石橋為之助氏の要請で、古田誠一郎氏(後の日本連盟先達)が隊 長となって創設され、いちはやく日本連盟に登録されたからである。 それ以前にも、地元神戸のカナダ人によるウルフ・カブ隊や横浜で居留外国人 のウルフ・カブ隊があったが、日本の子供たちによるカブ活動は、この須磨向上会 ウルフ・カブ隊が最初である。 ベーデン−ポウエルがボーイスカウト運動の対象年齢を下げるウルフカブ方式 を発表したのは、1916年(大5)12月16日のことである。 これは、幼い子供たちの模倣性と遊戯性の本能をラヂャードキップリング著「ジ ャングルブック」に描かれたオオカミの群に育てられた人間の子が、規律と正義 と協力を軸に成長する物語に乗せた訓育プログラムで、発表の年には6,000人のウ ルフカブが誕生し、4年後の1920年には5万5347人に達するほどの盛況を招いた。 また、B‑Pが、スカウト年齢未満の子供をウルフカブWolf CUbと名付けてカブス カウト=Cub Scoutとしなかったのは、「スカウト=一人前の人間」になる前のま だ「カブ=Cub=けものの仔」だと区別し、ボーイスカウトになるための「助走」 であること明確にしたからである。現在でも英連邦系の各国連盟ではウルフカブ 方式だが、アメリカではウルフ→ベア→ライオンの進級方式をとってカブスカウ トと呼び、日本も戦後はアメリカ方式で行っている。

50


WOLF CUB 発祥の地記念碑 写真右:古田誠一郎 (1897: 由来の碑

M.30-1992:H4)は、和歌山県の 出身で、大正8年に神戸でボ ーイスカウト隊を設立後、大 正12年には須磨向上会ウル フカブ隊を設立して団長を務 めた。 昭和4年(1929)には、 第3回世界ジャンボリーに参 加してのち英国ギルウェル 実修所に入所してボーイと カブの2コースを修了。 帰国後はわが国の指導者道を確立した佐野常羽師を援 け日本各地に実修所を開いて指導者の養成に尽した。 戦後は高槻市長を務めたが、日本連盟の再建振興のために 辞し、生涯にわたってボーイスカウト運動に献身した。 ← 最初のウルフカブと古田誠一郎(大正12年=1923)

51


日本のスカウト遺産百選 22

「エスペラント」の隊旗 運動集団の理想や目的を示すシンボルの第一は、「旗印」である。 ボーイスカウト運動においても、スカウト達が自由にデザインできる「班旗」 もあれば、様式を統一した隊旗や連盟旗などもある。 その中で、那須野営場に展示保存されているこのスカウト旗〔76×85cm〕は、色 、、、、 も褪せほつれてもいるが、「そなえよつねに」の標語が国際共通語のエスペラン やたのかがみ

ト語で記され、日本に伝わってからユリの部分に神鏡の八 咫 鏡が加染された ようだが、スカウト運動が世界の平和をめざす青少年の運動であることを標榜し たベーデン ポゥエルの理想を、このエスペラント旗から知ることができる。 また、1924年8月にはコペンハーゲンでの国際スカウト会議で、その理想に根ざ す国際意識の「コペンハーゲン宣言」が決議され、スカウト運動の国家的、国際的、 普遍的な性格が明確になって、今に続いていることを忘れてはならない。 伝 統 旗 の 由 来 (原文は縦書き) 西那須野町三島(旧狩野村)にボーイスカウト隊が発足した。大正九年(1920) 九月ことである。

日本にはじめてボーイスカウトが結成されたのが大正三年(1

914)であるからそれから僅か六年後のことである。 前の総長故三島通陽先生が祖父通庸(栃木県令)の開拓地である三島地区の少 年達のためにこの運動をとり入れたのである。 当時世界のスカウトの仲間入をした我国のボーイスカウトは少年団と呼んでゐ たのであるが、名称も当時としては珍しく「那須野ボーイスカウト」と命名され た。大正十二年(1923)十二月には少年団日本連盟に正式に加盟し登録第四十八 号である。 当時団旗として使用してゐたのがこの旗である。天皇陛下が皇太子 であらせられたとき英國皇帝の戴冠式*に随行した二荒芳徳伯が英國より持ち帰 った四流の内の一つで東京弥栄少年団と那須野ボーイスカウトに各ゝ一流あとは 関西方面のどこかの団にあった筈だと聞き及んでゐる。 以上は先輩諸兄から語り継がれたものではっきりした記録ではない。 「ESTURETA」はエスペラント語で「準備せよ」の意である。 英國の一九四八年版の諸規定集のバッジの図柄には「BE‑PREPARED」ビー・プ リペアード(そなえよつねに)の標語がある。ベーデン・パウエル著の「スカウ ティング フォア ボーイズ」には

スカウトは彼のデューティ(つとめ)をす

るため、つねにそなえ前もって準備すべきである と書いてある。

52


この旗がベーデン・パ ウエル卿と何らかのかか わりがあるか否かはもと より詳ではない。 第二次大戦中国策の故 をもって解散を余儀なく された少年団日本連盟も 終戦と共にボーイスカウ ト日本連盟として再び世 界のスカウトの仲間入を した。 那須野ボーイスカウト も那須第十三団として加 盟登録し、隊旗も新しい規定によるものを使用することになった。那須野ボーイ スカウトの時代から那須十三団と五十星霜にわたり数多くのスカウトをよき社会 人として送り出したこの旗も風雪にさらされ損耗甚だしく、その大役を務め果し た今ここに竿よりはづし那須第十三団の誇りであり宝でもあり中村知先生作詞お 団歌にも歌われてゐる「伝統の旗」として末永く保存せんとするものである。 昭和四十九年八月(第六回日本ジャンボリーの年) 日本ボーイスカウト那須第十三団 団委員長 森 利男 記す

コペンハーゲン 宣 言 ボーイスカウト国際会議は、ボーイスカウト運動が国家的、国際的、普遍的な性 格を持つ運動であり、その目的は各々の国および全世界のために、肉体的にも道徳 的にも精神的にも強い少年を育成することを宣言する。 本運動は、国内の組織を通して各国に有為で健康な国民を育成することを目的 とするという点で国家的である。 本運動は、スカウトの同志愛に国家の障壁を認めないという点で国際的である。 本運動は、あらゆる国、階級、宗教に属するスカウトの間に、差別のない兄弟愛を 主張する点で普遍的である。 スカウト運動は、個人の信仰を弱めるものではなく反対に強化するものである。 スカウトのおきては、スカウトが真に誠実に信仰を実践することを要求し、本運 動の方針として宗教の異なるスカウトの混じっている集会での宗派的な宣伝を禁 止する。

53


大日本少年團通鑑「少年團研究」

わが国各地の少年團が大同団結して少年團日本聯盟を結成したのち、関東大地 震の被災者救援には後藤総長の陣頭指揮で果敢な活動を印象づけたが、さらに、二

荒芳徳理事長を編集発行人として、大正13年(1924)4月、運動の真価と動勢を伝え る雑誌「少年團研究」を創刊した。そして約40頁の紙面に本部からの伝達事項、

活動資料、各地の動向などを載せて、運動の平準化に大きな効果を上げたが、次第

に軍事色を強めた政府はボーイスカウト式活動への干渉を始め、太平洋戦争前夜 の昭和16年1月、ついに聯盟は解散してこの雑誌も1月で廃刊となった。

いま、わが国ボーイスカウト運動の軌跡をたどるには、「少年團研究」に勝る文

献はなく、あたかも「大日本少年團通鑑」に当たる宝典だが、それ故にこそ、21世

紀日本のボーイスカウトにも、このような研究誌や機関誌が欲しいところである。

「少 年 團 研 究 」刊 行 の辭

﹁少年斥候隊の運動は︑少年を軍人に仕立てる豫備敎駄育のやうに考へるも

のがあるけれども︑これは甚しい誤解であつで︑實は少年をして名譽と愛國

との観念を信條化せしめ︑精神︑身体共に強壯なる人間に仕上げやうとする

ものである︒髄って其の訓練は︑の如き日本武士道の眞髄を採ってこれを行 ふものである﹂ ︒ ︵皇太子殿下御外遊記一六〇頁︶

これ英國ボーイスカウトの創立者ベーデン︑パウエル中将が︑先年御渡英あら せられた我が皇太子殿下に謁見の際言上せられた少年團の要旨である︒

少年團が英國に生れ︑英國の軍服に似通った服装をなしてゐることによっ て︑一見泰西風に染まったものとするものもあるが焉ぞ知らん其の精神とす るところのものは實に洗練せられたる日本精神に出づるものである︒之を我 國少年の本質に徴し︑國民の性格に稽ふる時は此運動の最もよく我國土に適 合して発達を見るべきものである︒のみならす今日の國情に鑑みて大いに其 隆盛を望むべきものゝ少からざることを痛感する︒若しも今日わが國人の 一歩を誤らむか彼のベーデン︑パウヱル將軍の所謂日本武士道も舊アゼン ス人やスパタタ人に於けるギリシア文明の如く︑又大ローマ人のローマ文化 の如く︑ 徒に名のみ流れて尚ほ聞ゆるものとなり果てないとも限られない︒ 我國の命維れ日々に新たなりとは明治の日本を世界の檜木舞臺に登せ たる諸先輩の確信であった︒この明治の後を嗣ぐ吾人大正の世に立つも のゝ所信も亦易ることはない︒吾人のこゝに少年團運動を策する所以の ものは實に此の日本武士道の更新であって大正維新成就の大計である︒ 内は小國民の確乎たる大精神を養ひ團体行動を訓練し外は列國小青年 と共に和平の交を結び協力一致以て人類の福祉を増進せしめむとするにあ る︒本誌の刊行は即ち此の運動の要求によりて生れ出でたるものである︒ こゝに謹で本誌を斯道の同士にすゝめる︒

54

早わかり式の だが、最盛期の「スカウティング」や「スカウト」を廃刊にし、

イラスト雑誌「SCOUTING」 に変えてしまった風潮のさなか、まるで風前の灯のよ うな「ボーイスカウトの研究」を絶やしてはなるまい。


少年團研究

創刊号目次

1.創刊の辭 1.少年團運動の使命 總 裁 子爵 後藤新平 1.少年團徽章と標語 理事長 伯爵 二荒芳徳 1.少年團要義 文部省少年團調査員 奥寺龍渓 1.服装の標準 1.少年團設立の手引 1.パトロール、システム サー・ローランド・フィリップス原著 三島章道 譯 1.團杖操法參考標準創案 1.少年團國際大會 1.聯盟情報 1.聯盟の成立及其後の經過 「 少 年 團 研 究 」 創刊 號 毎月1 日発行 定價1部20錢 東京文部省内 少年團日本聯盟 発行→

「 少 年 團 研 究 」 最終号 編 輯 後 記 ◆国際情勢緊迫裡に新春を迎ふ。 同志同行の御健闘 を切に祈上ます。 ◆舊臘來青少年團統合をめぐりて本部員連夜奮闘、 本 誌の編輯刊行も、かゝる客觀的情勢に引きづられて遅 延いたし誠に申譯なき次第です。 ◆さて統合後、さしあたり本誌の運命は如何になる か については、未だ決裁を得ませんが、多分改題の上新に 生まれる財團法人健志會によりて引繼がれ る事を今の 處豫想してゐます 。さうなるとすれば二月號を以て「 少 年團研究」としては最終刊にな ると考へてゐます。今 後、改題して刊行を續けられる事になっても、本誌の精 神には變りなく廣く社會 敎育の研究、又は、今度の統合 團體以外の帝國青 少年層の訓練の研究等に御奉公いた したい念願であります。◇若し「少年團研究」 として の刊行が、二月號を以って最終刊となるならば、過去 「少年團研究」最終号 十八年の本誌の 光輝ある歴史の最後を立派に飾りたいと思ひます。それで全國各地 から一編宛「『「 少年團研究」に寄せる言葉を御送り下さるやう御願します。 ◆新團體のことに就き各地から御照會が來ますが、目下の處、本號に掲げた團 則 案が屈けられてあるだけで、訓練内容とか具體的の組織方法については何 の指示 もありません。故に既設團は現狀のまゝで繼續してゐて差支なく、將來、何分の指示 が地方官廳を通じて各團宛に參るとき、始めて、その指示を 仰げばよろしい。聯盟 本部が何かご指示をする如く考へられるでせうが、統 合の暁は各地方團長(即、地 方長官)が直接、各團の指令者になるのですか ら、その命令系統を明確に認識願度 い。但、從來からの精神的開聯に於いて 聯盟を想起されることは、蓋、人情でせう。 ここの情と、義との關係を明白 にしたいものです。但、聯盟の事務に直接關係ある 事項についてはこの限で はありません。 ◆何れ健志會のことに就いては本部より各團宛に通達されるでせうが、これ は健士 會とは異るものと御承知願ひたい。但、健士(實修所修了者)の人達 が中心となっ て健志會を實際に動かすことになるのでありませうが、所謂、 蕃社の本部といふ意 味での健士會を、指してゐるのではないといふことを御 承知願ひたい。財團法人は その性質上、財を中心とした團體なので、人心の集合體中心といふ觀念と異る點が考 慮されてゐるわけです。 ◆結ばれた魂は、いかなることがあっても斷たれるものではない。健志なる哉!(中村)

55


祝声「いやさか」 日本のスカウトが発する「いやさか」の祝声は、制定された当時とは全く異っ た作法で行われている。

特に、現在のように、右足を後ろに引いて立ち、「い

やァー」と右手の拳を腰の後ろに引いてから、「さかーッ」と頭上前方に突き挙 げる所作は、○○の「ガンバローッ」のようで祝意が伝わってこない。その辺の こ と だま

詮索はしないが、「言霊」の国の祝声に込められた意義は伝え継いでおきたい。 国際的には、1924年(T.13)、佐野常羽がイギリスのギルウェル指導者訓練所で 実修中、ウイルソン所長の求めで参加13カ国の指導者が各々の祝声を披露した うち、日本の「いやさか」が「More Glorious=ますます栄える」の意味だと賞讃 され、以後ギルウェル訓練所の祝声になった。今では、「イージカー」と叫びなが ら両手を上げ下げする動作を3度繰り返すように変っているものの、「変形イヤ サカ」の発声も東洋的だし両手の上下は原型が保たれている。 また、佐野常羽の逸話と並んで、日本聯盟の二荒芳徳理事長が、機関誌に、 『「弥 栄(いやさか)」を採用するの提唱』を述べ、他方で、東京帝國大学の筧克彦教 授が独特の神道思想に基づく「彌榮運動」を興し、スカウト方式と同じ作法を垂 範しているので、少年團からの起源か或はその逆かの判断は難しい。 「 弥 栄(いやさか) 」 を 採 用 す る の 提 唱 西洋のボーイスカウトには「団呼(Howl)」という、一の勧呼が決定されている。 英国のウルフカブのごときは、集合の時それぞれ「DYB,DYB,DYB」と勧呼する。これ はお互いに Do Your Best と勧呼するかわりに、その三語の頭文字のD,Y,B,だけを 結びつけて DYB と呼ぶのである。 日本の少年団も「万歳」という、日本共通の勧呼の他に、少年団独特の団呼がなけ ればならぬ。それ故、余は今回我が少年団団兄諸君が欧州に行かれるに当たって、 特に希望したいのは、「万歳」の他に少年団呼として「イヤサカ」と云う勧呼を採用 すべき一事である。三種の神器・・・・我が国の徽章は我が民族の有する信条を象徴 する唯一のものである。その中の八咫の瓊玉というのは、本義は「弥栄の瓊玉」と いう意で、天壌とともに弥々栄えるの意を有する神器である。 「イヤサカ(弥栄) 」 の思想は、古本最古の思想であり、また、永久不転退の意気込みを意味する発声なの である。 「ヨイヤサ」の「ヨイヤサ」など云うのも弥栄がつまった音である。 西洋諸国で諸兄が少年団の特殊な勧呼に対しては、我が「イヤサカ」を以てせら れたならば崇厳な日本古事記に歴史上根拠を有するだけに最も日本少年団として の団呼として適切であろうと思う。(二 荒 芳 徳) 「 少 年 團 研 究 」 大正13年(1924)7月

56


席に於て祝福の意味を以て唱和さるべき種 類のものとしてはどの點から考へても不適 當であるといふのである。それも他に恰好 (かつかう)な言葉が無いのならば止むを 得ないが、わが國固有の言葉として斯る場 合に最もふさはしい一語がある。即ち「い

である。 』 〔 「いやさかと萬歳」「 〔 樹木とそ

彌榮﹂

やか」である。 「彌榮(いやさか)え」の意

・ ・ ・ ・

に、陰(いん)の氣を帶びてゐる。めでたき

(いやさか)

ンザイ」の「イ」が閉口音になつてゐるため

その語音が尻すぼまりになつて、つまり「バ

ずの鵺語(ぬえご)となつてゐる。 ことに

第三節

らず、現在の「バンザイ」ではどちらつか

第十二條 少年團ハ祝福ノ歡呼トシテ彌榮ヲ唱フ︑彌榮ヲ唱フル場合ニハ發 聲 者 先 ヅ﹁

ンザイ」と發音されねばならぬのにかゝは

ト唱ヘ次ニ唱和者一同彌榮ヲ三唱ス

は「バンゼイ」と發音さるべく、一は「マ

徒手ノ場合ニハ帽子ノ鍔ヲ右手ニ持チ各唱毎ニ兩手同時ニ上下シ︑携杖ノ場合ニハ杖ヲモチタ

その外國語にしても漢音呉音の差により一

ル儘各唱毎ニ兩手ヲ上下シ︑歡呼スルモノトス

てゐる。第一これは外國語であり、而かも

總長歡呼ハ發聲者﹁エイエイオー﹂ト唱フルヤ唱和者ハコレニ應ジテ﹁エイエイオー︑エイエイ

する祝ひの聲はおほよそ「萬歳」に限られ

オー何某總長︑總長!﹂ト唱フ︒其場合右手ヲ前方稍々四十五度ノ高サニ擧ゲ指ハ三指敬禮ノ場

『・・・・日本で何か事のある時大勢して唱和

合ト同ジクシ︑各唱毎ニ前ニ突キ進ム様動カシ︑最後ニ總長ノ唱和ト同時ニ高ク天ヲ突クモ

ノトス

の話として書いた一文も興味深い。

第十三條 總長ニ對シ敬愛ノ意ヲ表スルタメ必要ノ場合﹁總長歡呼﹂ヲ行フ

また、詩人の若山牧水が隣の老人

の葉」より〕 今後二動作を続ける 両手を挙げB-P卿に「彌 榮 」を贈る三島派遣団長

としても、発声の区切 りを「いやさ」と「か ーァ」に変えるだけで、 妙に角張った今の絶叫 調よりも明瞭で祝意も 高まると思うが、それ が解る人士を挙げられ ないの が 殊更に淋し

両手を挙げてB-Pに「いやさか」を贈る三島通陽派遣団長

〔1924年第2回世界ジャンボリー日本派遣団サイトにて〕 57

い。要は、センスの問 題とでも言おうか。


「 花 は 薫 る よ 」の誕生 大正の末期、「少年團歌」として歌われていた「花は薫るよ」が連盟歌として 制定されたのは、大正13年(1924)11月の第1回少年團日本聯盟總会で、総裁職だ った後藤新平を初代「総長」に推戴して全国少年團組織が固まった。 ところで、「花は薫るよ」の前にも「少年團歌」はあったが不評で、新曲への 期待に応えた経緯を作詞者の葛原しげる が「スカウティング」誌上で明かしてい る。なお、現在の歌詞「スカウトわれらの・・・」の原詞は「少年團員」である。 「花は薫るよ」の由来 これは大正12(1923)年2月の末から3月上旬のこと。当時、東京は関東大震災直後で何 事も意にまかさなかったが、日本で少年団運動を隆盛にするためにはよい団歌がほしい とのことで、従前の歌とはすっかり別のものを作ったのである。 作曲者山田耕筰氏は、 ボーイスカウトは国際的だからとて作曲に意をくばり、 「もう5年もすれば日本の少年も、 易々と歌いこなしますよ」と笑って自らピアノで伴奏して水野康孝氏(現在岡山大学教 授)の独唱により日東レコードに吹込んだ。正に30何年昔のこと。 < 前 略 > ・・・・実は、この「花は薫るよ」の前に団歌はあったのである。 これもやはり私の作詞で、「古今東西ためしなき わが国がらの尊さよ」と歌い出すも ので、曲は永井建子(たけし)氏の作。この永井氏は先には「雪の進軍、氷を踏んで」 や「四百余州をこぞる」の作詞作曲で名も高く当時の青少年に愛唱され大いに教化力を 発揮した陸軍戸山学校軍楽隊の指揮者、たまたま私と同郷でもあった。 牛込の富久町 のお宅へ当時の東京少年団(当時唯一のもの)のリーダーであった小柴氏(京橋小学校 訓導)とたのみに行った。勿論、快諾。数日にして曲は成ったので小柴氏自らオルガン を弾いて日曜日毎に教えておいて見学旅行の行進にはつとめて唱和させたが、どうも歩 調に合いにくいので、永井氏に相談したところ、そんな筈はない、自分で教えてみると て或る日曜日、当時の青山師範の大講堂で軍服姿の永井氏がサーベルをはずして自らピ アノを弾いてバリトンの声ほがらかに範唱しては少年たちにおぼえさせ、そのあとで小 柴氏と同僚の日野鶴吉氏とオルガンを校庭に運び出したのを永井氏が弾き、団員には軍杖を 肩にして運動場を行進させながら歌わせた光景など、その熱心さと共に今も忘れられない。 然しその団歌は陳套でもあったので私は、当時の団長伊崎閣下や相談役の二荒伯爵か ら委任されて新作したのが「花は薫るよ」なのである。実はそれが、とっくに役にたた なくなっていることと思っていた。更に、少年団歌について栃木県の那須で或る夏、三 島通陽先生から別に作詞してみてほしいといわれた<中略> その時、前記の第一団歌「東 西古今」は歌いにくいからといわれたのか、はっきりした記憶がない。日記もないので 心もとないことである。 このボーイスカウト運動に私が関心をもったのは、明治45年 (1912)1月1日発行の児童雑誌「小学生」に「英国少年の武者修行」と題して当時の広 島高等師範学校長北条時敬先生の講話を掲げたのを読んだのを始めとする。大正初頭 にはボーイスカウトの本場のイギリスからコンノート殿下が来朝されるのに日本の少年

58


団員は筒袖、袴に草鞋ばきの少年もあっ ては恥かしいので、せめて服装だけでも スカウト式にさせようと、その服装費 を得るために今もある帝国劇場を二日 間借切り子供大会を開催。<中略> その後、東京市長後藤新平伯がボーイ スカウト運動に共鳴して数通の依頼状 を書かれたのを持って廻って小柴氏は 数氏から数万円の浄財を得たのでそれ をもとにして、日本最初のジャンボリー 山田耕筰

葛原しげる 花は薫るよ︑花の香に︑ 日は輝くよ︑日の光︒

我らに不斷の準備あり 手足に心に︑あゝ準備

眼開きて 見きはめよ︒ 耳そばだてゝ聞きたゞせ︒

︵二︶

我らに名譽の重きあり︑ 薫りか光りか︑ああ名譽

準備 準備︑ 固きぞ︑準備︒

少年團歌

名譽︑名譽︒ 重きぞ︑名譽

フレ フレ フレ 少年團員 準備ぞ固き︒

︵一︶

フレ フレ フレ 少年團員 名譽ぞ重き︒

左・上:「健児唱歌」初版

が日比谷公園の大運動場で催されたのは昭和の何年のころであったか、勿論その時、声をそ ろえて「花は薫るよ」を唱和したことはいうまでもない。<中略>また、デンマークでの世 界ジャンボリーに日本も三島先生を団長として参加したとき五月の鯉幟を大空に泳がせて声 をそろえたのが「花は薫るよ」で、これはよい団歌だと世界各国から盛な喝采を浴びたと聞 く。 最近聞くなら今の団員はこの曲を楽々とよく歌うとのこと。 あの当時から作曲者が云 った5年はおろか10年また10年以上を経過した今日の日本の音楽力(?)をよろこび今の隊員のそれを 喜ぶ。< 後 略 >(備後の山村八尋にて) 「スカウティング」 No.47(1956.6)

連盟歌で鮮烈に想い出すのは、「歌の総長」と慕われた尾崎忠次師師の指揮であ る。特に歌い出しの「は」を明瞭にして「はぁなーのォーかにィ」から「名誉ぞ固き」 まで、渾身流麗の手さばきで感情を移入しながらスカウトの決意を歌わせた良き 時代の歌声が、今も甦ってくる。また、尾崎師を継いで各大会の歌をリードした村 上智真氏も音楽委員会の廃止と共に退き、スカウトソングの衰退が案じられる。 59


日本のスカウト遺産百選 26

練習船 義勇和爾丸 第1次世界大戦のさなか、同盟国イギリスのシースカウトが沿岸警備の任務でめ ざましい活躍をしたことや、四方を海で囲まれた日本の少年たちにも「海のボー イスカウト活動」をしたいとの要望は大きかったが、具体的な動きはなかった。 そうした状況のなかで東京聯合少年團は、大正13年(1924)8月26日、海軍少将小 山武の引率により少年たちを軍艦阿蘇(艦長高橋三吉大佐)に乗せ、横須賀港から 清水港までの体験航海を行って海洋少年団設立への確かな手応えを得た。そして、 小山と同行した米本卯吉らは、小柴博らの同志と海軍少将油谷堅蔵や現役を退い た海軍大佐原道太を加え、海洋少年団の年内創設に向けた準備会を開いた。 海洋少年団結成の話が伝わると、東京だけでもすぐに200名の志願者が殺到。そ こで、入団試験を行って50名を採用し、団長には体験航海を引率した小山武、副団 長には原道太の陣容で発団することになった。 大正13年12月7日、東京築地の水交社(海軍将校・士官の親睦会館)で大日本東京 海洋少年團の発団式が行われ、海軍大臣財部彪から団旗が手渡された。また、これ を受けて少年團日本聯盟は、海洋部の新設を決め、同時に東京海洋少年團の小山団 長を理事、原副団長を主事・海洋部長に任用して少年團日本聯盟海洋部の陣容を整 えた。そして、1年の間に、呉、神戸、相川、新、名古屋にも団が生まれ、次いで、長崎、 宮崎、岩手、北海道、大阪、四国、金沢、横須賀へと、全国に拡がっていった。また、活 動の場となる専用の練習船獲得の話題が大きな課題となってきた。そこへ、北海 道大学水産専門部の練習船の老朽化に伴う払下げの話が届いた。 船齢20年の木造帆船忍路丸は、適切な改修を施せばシースカウトの練習船とし ては申し分のない船であった。払下げを受けると、直ちに静岡県焼津の赤坂鉄工 所にドック入りし、補助機関の改装や揚錨機の新設、操舵装置の改造などを行った が、その改修に要する資金は、義勇財団海防義会から全額の出資があった。そして、 日本聯盟は内定していた船名「和爾丸」に「義勇」を冠して「義勇和爾丸」と命 なんじ

名し、その恩義に報いた。「和爾」とは、 爾 に和すること、人と船とが一心同体と なって進んでいく願いが込められていた。 新装成った義勇和爾丸が、天皇のお召船として沼津ご用邸下海岸から内浦村重 須まで仕えるという栄誉の航行をしたのが昭和5年6月2日である。 60


少年團日本聯盟海洋部練習船 義勇和爾丸

義 勇 和 爾 丸 (忍 路 丸 )船 歴 と 諸 元 製造年月:明治40年(1907)12月 製造場所:三重県大湊町 市川造船所 注文主:文部省(北海道大学水産部) 船種:帆船 船式: 「ブリカンタイン」2檣 総トン数:118㌧ 登簿トン数:83.3㌧ 船材:欅・檜 補助機関:50㏋「ポリンダー」式2気筒 (改装)セミディーゼル120㏋4気筒8節(お召船時) 速力:3節 推進機:螺旋推進機1個 長さ:104呎54 幅:25呎20 深:12呎 平均喫水:10呎 貸下年月日:昭和2年10月10日 払下年月日:昭和4年(1929)9月9日 こうした栄誉に意気を高めた海洋健兒の船上訓練は、次第に航行技術を高め、東 京湾や鳥羽などでの合同訓練を重ねる一方、昭和5年(1930)8月1日から5日には静 岡県三保で海洋指導者実修所を開設し、実修生延べ21名を輩出するなど指導者養 成にも重点が置かれるようになった。 日本聯盟海洋部が「南洋遠航計画」を発表したのは、昭和8年(1933)の末である。 そして、同時に発足した海洋健兒遠航後援会が総額7万8,000円の寄金を集めた。 昭和9年(1934)7月15日、少年團日本聯盟練習船義勇和爾丸南洋派遣團は、日本聯 盟理事海軍大佐原道太を団長に、精鋭の海洋健兒隊32名と初又胤雄船長以下の船 員隊、学術研究班の総員57名が東京港を出港。アジアと南洋諸島での親善交歓を 終えて、行程1万3千浬の旅路から東京に帰港したのは10月31日であった。 そうした躍動の義勇和爾丸であったが、昭和13年(1938)3月27日深夜、乗組員の みの予行運行で伊勢大王崎から遠州灘に向う途中、逆風の暴風雨に遭って三重県 的矢灯台近くの暗礁に乗り上げ、誕生地の市川造船所に曳航され検査をしたとこ ろ、練習船としての回復見込みは立たず、遂に解体されることになった。 61


指導者訓練の黎明 ボーイスカウト運動には、確かな指導者養成の理念と体制が欠かせない。だが、 黎明期の大正年代では、「スカウティング フォア ボーイズ」という原典を抱え ながら、実地のプログラム活動では、ひたすら「大和魂」に「忠心愛国」と「心身 鍛錬」を包み込んだ師弟関係に近い少年訓育が優先されていた。 そうした日本の状況を「まだウルフの段階」だと述べながら、ギルウェル仕込 みの佐野常羽を中心に第1回指導者訓練所を開設することになった。 当初、本部役員の中にはギルウェル実修所の体験を基に日本の実修所を開こうとし た佐野の提案に反対の声もあったが、結局は総長の推奨により佐野を委員長とする指 導者訓練所開設準備委員会が発足し、試行コースの検討段階に入った。 そして、大正14年(1925)4月18日から5月24日までの週末の5回、ボーイスカウト教育 には通じていると自負する二荒理事長ほか23名の指導者が東京麻布の高松宮邸内の 林地に集り、野営による第1回指導者訓練所が行われた。 訓練野営の内容は、開設準備委員会の企画案を実地に行ってその適否改良点を探る 実験キャンプで、歌やゲームを交えながらウッドクラフトに取組み、夜はキャンプフ ァイアを囲んでの討議が続いたが、訓練のための1隊1団を組んで理想的なスカウテ ィングを行うことの難しさをそれぞれが切磋琢磨し合って体得し、その後のわが国指 導者訓練の先鋒として活躍することになった。 そうしたいきさつと佐野常羽の精進を、当時日本聯盟の副理事長だった三島通 陽が「少年團研究」(大正15年12月号)で総括している。 少年團日本聯盟が生れて今年は四ツの歳であった。子供ならば、幼稚園に上る歳 であるが、我が少年團もようやく今年は幼稚園に上った位の心地がして来た。少年 團日本聯盟は全体としてみて、英、米等のそれらに比すれば勿論まだまだ幼稚である。 日本聯盟を成立せしめ加盟した各団体は、決して訓令によって完成させられたの ではなく、各団それぞれ自発的に起ったのである。そこに非常に強味があるわけだ。 しかし、最初は広く包含せしめたいと云ふ気持から、中にはよくまだ「少年団教育」 が徹底してゐない団もよき素質の団は皆これに加へられたのであった。 それに はじめの頃は「少年團」といふものを広く一般に知らしめる、云ひかへれば宣伝と

62


云ふものゝ必要も多少あっ た。それで、去 年 位 ま で は か な り そ の 方にも力 を入れて来たものであ った。しかし、今年はこの 「広く包含」とか「広く知 らしむ」と云ふ事は やめ て、出来るだけ「内容の充 実」と云ふ方面に力をむ けかへられて来た。今の日 本の少年團には、全国的にも

第 1回 指 導 者 訓 練 所 〔高松宮邸内〕 大正14年(1925)

又、 各団個々にもこれが先ず第一に必要の事に思はれる。 「量より質へ」とは最初より日本聯盟云って来た言葉ではあったが、今年位よりよ うやくこれがやゝ実行されて来た。又、この四ツになって幼稚園に入る年齢としては、 これからは又いよいよかくあるべきであると思はれる。 とにかく「学びの園」 「遊 戯の 園」に入学した心持でゆけと思はれる年であった。 <中略> 国際会議に佐野、高島、福島の三先生が行かれた事は又聯盟にとっても大きなことで あり、喜びであった。 佐野伯はこの前の会議にも主席代表として出席せられ、又ギルヱルパークにて親し くコースを受けてデュプティ・キャンプ・チーフの称号を得て帰られた事は、誰も知 る如くである。 その方が又、今回正代表として行って下さった事は、種々の方面に 於て真に有難い事である。そして今回伯が、ウ ル フ 訓 練 所の コースを受けて来て 下さった事は、こゝに又聯盟の一時期を画す事が出来るであらう。 喜ばしい事である。 日本の少年團の多くは実はウルフであり、その訓練上には皆が心を砕いてゐる事 であるから、その上に大きな光明が投げられる事と思ふ。又、帰路米国に寄られた事 も大きなお土産が今後に与へられると思ふ。 <後略> 「少年團研究」大正15年(1925)12月

第 1回 指 導 者 訓 練 所参加者 ・二荒 芳徳 ・三島 通陽 ・佐野 常羽 ・芦谷 泰造 ・臼井 茂安 ・尾崎 忠次 ・奥寺 竜溪 ・嘉悦 一郎 ・黒岩 重男 ・菅原

伝 ・田村喜一郎 ・高瀬 栄三

・寺岡 一義 ・戸田 和夫 ・西村 平太 ・花田忠市郎 ・原

道太 ・深尾

・福島 四郎 ・藤山 精一 ・細野 浩三 ・本庄 俊輔 ・吉野 順一 〔 総員23名 〕

63


大洞沢に開かれた道心門 東京で行われた第1回指導者訓練所〔大正14年(1925)4、5月〕の成果を基に、全 国初の指導者訓練会〔第2回指導者訓練所=のち指導者実修所と改称〕が開かれ おおぼらざわ

たのは、同年8月1日から10日間。場所は、富士山麓山中湖畔大洞沢であった。 訓練志願者は、北海道ほか香港、大連、台湾から予定の3倍を超す76名が集まり、 佐野常羽所長のもとに河口隊〔隊長:福島四郎〕、山中隊〔隊長:細野浩三〕の2 隊編成で給食担当の事務局職員花田忠一郎を加えた総員80名の陣容となった。 佐野は、開始に当たり全員を訓練所の木立に設けた「道心門」に導き、厳粛な 入門の誓いをさせた。そして、「それを守る自信のある者はこの門をくゞり、自

信の無い者はこの場から帰ってもらいたい。」と告げ、求道心を固めさせた。 入 門 の 誓 約 一、 この門より中の野営地は、少年團の道を究め、共に修行する道場である。 一、 この門をくゞるにあたっては、この門の外に、現在までの社会的地位、職業、 年齢等をおいて、14、5歳の少年となる。 一、 入所中は一切批判は行はず、素直にすべての行事、講話を受入れ、もし 批判のある場合は、実修が終ってから行ふ。 一、 全期間を野営で行ひ、すべて自営自活する。 入門を果たした一同は、入所式に続いて9か10名が班となる4班編成の実修隊に 分かれ、最初の班集会で班名を合議した。その結果、河口隊は動物名の郭公班・梟 班・烏班・牛班、山中隊は植物名で松班・竹班・梅班・櫻班と名付けて班活動を 開始した。また実修課程では、端正な講義のほか基本訓練やゲームにも試行錯誤 を通じての切磋琢磨を促し、野営生活では、「撤営まで設営である」と日々の改 善と創意工夫を奨励し、スカウトキャンプの醍醐味を体感させた。 翌年、佐野は再度ギルウェルに赴いてウルフカブコースを修了し、ウイルソン所 長からD.C.C〔Deputy Camp Chief = 所長代理〕の資格を与えられて帰国、日本に おける指導者実修所の所長となることが公認された。以後、指導者訓練所は指導 者実修所と改称されるが、佐野はB‑P直伝の指導者精神や指導方法の骨格に武士 道と禅や茶道の心を肉付けて「日本のボーイスカウトの指導者道」を山中湖畔大 洞の訓練所で練り上げ、日本における指導者訓練の原点を確立したのである。

64


山中湖畔の大洞沢に展開する第2回指導者訓練所風景。写真右の窪地の奥にこの沢の 由来となった大洞の小滝があり、佐野はそれに惹かれてここを適地にしたという。

第2回指導者訓練所の野外講義の状況

第2回指導者訓練所参加者一同〔総員80名〕

65


運動認識の明暗 ボーイスカウト運動が興った直後のイギリスに赴き、運動の効果と隆盛を見てわが 国への導入を図った北条時敬や蒲生保郷の提唱を、時の総理大臣や文部大臣は受入れな かったが、それらの閣僚を取り巻く官僚や政治家の無理解、不見識も問題であった。 「古いスカウト研究 者」 ・・・・ボーイスカウトの演習を目撃する毎に其訓練法の整然たるを観て如何にして この制度を本邦に移植するを得ば本邦青少年の徳性極養身体錬磨の上に裨益する 所大なるものあるべきを痛憾せり、学校に於ける体操に加ふるにボーイスカウト の訓練法を以てせば更に其効果の著しきものあらん・・<中略>・・当時は未だ此方 面に関して深く考慮する者なかりしことなれば一介の書生たる不肖の贈呈せし書 籍書面もそのまま顧みらるゝ所となかりしなるべく、帰朝後も此制度を本部に移 植することにつき自らも考慮し関係同僚にも相談したることありしも遂ひに及ば ず、何等の結果も見ることを得ざりき・・・・

「少年團研究」 大正14年(1925) 8月

その一方で、明治44年(1911)6月、イギリス皇帝ジョージ5世の戴冠式に臨席す る天皇の名代〔東伏見宮夫妻〕に随行した東郷平八郎と乃木希典が、ロンドンで べ一デン・パウェル卿と会見してボーイスカウト運動に関心を持ち、乃木はのち に学習院長となったとき活動を次のように讃え、湘南の片瀬海岸で学習院寄宿 生達と班制によるキャンプ生活をしたことは、画期的なことであった。 乃 木院 長 記 念 録 「…ボーイ スカウトの仕事は中々興味あるものだが紀律が厳粛で下手な軍隊の運動を 見て居るよりも気が利いていた。<中略=障害物競争・自転車の運搬・号令の伝達など軍 隊式の様々の行動・救護演習・蓆織りなどの様子の説明> 殊に最も感じた点は此のボー イ・スカウトは単に紀律があるのみならず始め終りのある事である。 「有終の美」と云う ことは屡々我国でも聞くところであるが<中略>ボーイ・スカウトのは皆が皆最後まで 駈け決して半途で止めると云うようなことはない。審判者も亦此の点に重きを置き唯早 く駈け付いたものを賞する許りでなく後れても全カを尽した者をも賞すると云う批評の 遣り方である。何でもないことであるが此の一例は明らかに英国教育の美点を説明 「乃木院長記念録」学習院輔仁会

して いる。

当時、学習院では毎夏生徒を片瀬海岸の寮に合宿させて遊泳訓練をしていたが、 乃木院長の帰国後は、白砂青松の浜辺に日露戦争戦利品のテントを張り、3週間の キャンプ生活をするようになった。これは乃木院長がボーイスカウト運動を理解 し、キャンプ生活を通じた班行動の中で生徒の能力を引き出しながら、遊泳合宿に 66


はない個性教育を実証したものであった。 そうした折の大正3年(1914)7月、ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦の地か ら、ボーイスカウトによる敵艦船の侵犯警備や通信連絡など軍役奉仕の成果が伝 わると、わが国にもそれを歓迎する指導者も出てきた。

そこで、わが国ボーイス

カウト運動の指導陣はこぞって軍事色の世評を打消しに努め平和の斥候であるこ とを強調するが、そうした状況下の大正13年(1924)9月、文部省は「少年團体の概 況」をまとめ、冒頭に海外ボーイスカウトの活躍を挙げながらわが国少年団の設立と 増殖を促した。

少年團体の概況

『・・・・・・少国民が国家の危急に赴いて平素鍛へた剛健な精神と手技とによって挙げ た其の実際が、世界の兒童、少年の敎養方針に著しい注意を喚起したのであるが、之 れが我國にも直接の影響があった。大正四年に於いては今迄少年團が一つもなかった のに始めて少年團を造った縣が三縣、七團体に及んだ。之れを當時迄の創設状態た る毎年一縣乃至二縣一團体乃至二團体位に比する時は著しい進境を示してゐる。 其の外從來少年團を有せし各縣も大いにその創設督励に當りしを以て、こゝに著しい 増加を示した。 大正九年には從來の増加率が四〇乃至六〇位に止りしものが一躍 一五〇内外に達してゐる。之れは 内外に於ける青少年團事業の影響を受けたと見るが 文部省調査結果 大正13年(1925)9月

至當である。<後略> 』

だが、ボーイスカウト運動の浸透は進まなかった。それは、担い手となる指導者 層の社会的地位の高さや参加する少年にも経済的な豊かさが求められ、大半の少 年が義務教育修了後直ちに職に就く社会情勢とはかけ離れた「金持のお遊び」的 な団体だとの一般認識が根強いこともあった。

他方、地域や学校を拠点に、在郷

軍人や青年団系などの市民が世話する「普段着」の少年会や子供会は、ボーイス カウトのいくつかを真似しながらそれぞれの活動をするようになった。 やがて大正デモクラシーの波を越えて昭和期(1926‑1989)に入ると、わが国は、 昭和6年(1931)に満州事変、12年には支那事変を経て16年には大東亜戦争〔太平洋 戦争〕に突入。そして、国民層動員令の下で少年団も青年団も「大日本青少年團」 に統合され、20年5月には「大日本学徒隊」に編入されて敗戦を迎える。 その間、 「少國民」の学童は学校少年團の一員として長上に従い、一致協力の班を組んで「道 普請」や「エンヤラヤ」の歌などを歌いながら勤労奉仕や手旗信号を覚えたり、出征 兵士壮行の楽隊や旗手を務めるが、やがては遺骨となって帰郷する兵士の葬列参加が 重なり・・・・・・遂に昭和20年8月15日、全てが終った。 67


通陽二十九歳の決断 のちにボーイスカウト日本連盟の第四代総長となる三島通陽が、文筆活動をや めてボーイスカウト運動に専念する決断の一文を「三島章道創作全集」(郁文社、 大正15年=1926=6月発行)の序文に記している。 ときに三島29歳。少年團日本聯盟の副理事長として、国際会議や世界ジャン ボリーの派遣団長などで名を馳ながら、この年には東京聯合少年團の理事長を兼 ねることになり、まさにボーイスカウト運動の先頭に立って邁進していたときで ある。そして、この決意のとおり文筆家としての天分を休止してまでも多くの協 働者と共に日本のスカウト運動を拓き、多彩で幸福な生涯を享年68歳で閉じた 「永遠のスカウト」に最敬礼を捧げたい。 また、こうして拓かれたスカウト道の栄光を、自らの使命として守り続ける決意 を、一人一人の指導者が世に示せるか・・・・姿見となるような「決断の書」である。 自分は今満二十九歳である。 それで今年がたって了へば、自分の二十台と云ふ年は 永久に終るのではある。二十台に於ける、自分の生命とした仕事は、はじめ文筆生活で あり、終り頃はボーイスカウト開拓の生活であった。そして私はこゝ暫く筆はとれさう もない。それで、自分はこの二十台の終らぬうちに、自分のこの若い日の記念を残して 置きたいと思ひたった事がこの創作全集を編するに至らしめたのである。 あの大震災より今年で丸三年になる。あれ以来、自分は筆を取らぬのである。震 災の時、沢山の雑誌がつぶれて了った。それで、その時、食ふに困る作家 ― 自分の 友人の中にでさへも其時は出来た― がかなり出来た時に、自分の如き立場のもの、 そして実際豪くもない者は書くことを遠慮したほうがいゝのではないかと心からつ くづく考へさせられた。それに当時、自分は、その一二年前から初めたボーイスカウ トをつれて日夜帝都に活動をして筆をとる暇もなかった。そしてそんな帝都の有様 を見るにつけては、益々ボーイスカウトの必要も感じるし、その方の仕事も面白くなっ て来たし、一つ、日本のボーイスカウトを創り上げる為に全力を尽してみたいと思 はるゝに至った。 日本の文壇には、自分よりも、実際に力もある、又、豪い人が沢山ゐる。自分の心 から尊敬してゐる人々もある。今の自分なんか文壇にゐたってゐなくたって問題で はない。しかし、ボーイスカウトのほうは、そうではない。これでも今や自分は相当

68


大切の立場をもってゐると思はしめた。文壇のほう は、豪い人々にまかせればいゝ(皮肉な意味ではない、 誠心からそう思ったのである)日本のボーイスカウ トはまだ何にも出来てゐないのだから、自分はボー イスカウトを先づ専心やって、相当目鼻をつけてや らうと私かに決心をきめた。それで、当分筆を取る まいと決心した。 自分は、自分の今までかいて来た 新聞や雑誌に、「自分は当分筆を捨てる」と云ふ意 味の手紙を出したのは大正十二年(震災の年)の暮の ことであった。それ以来、自分は遂に未だ創作の筆 をとらないで、専心、ボーイスカウト運動に没頭して ゐる。そして、日本のボーイス カウトも、諸種の方々の御尽力で、震災時よりは、少し は進歩したつもりである。 自分が、文壇を退いたについて、種々噂さをされた。芸術と云ふものには何等党派 なぞあるべきでないものを、党派なぞつくって、ゴシップ的の悪口を云ひあひ、その 何れの党派にも入らぬ自分はいろくと悪口を云はれるので、穢い文壇がいやになって 蹴飛ばしたんだと云はれたり、又は妙な反感や不思議な嫉妬で悪口を云はれるので 文壇にいや気がさしたんだらうと云ふような事を、それでも自分に好意ある人からも 云はれも、書かれもした。しかし自分は、その前者のような潔癖の聖人でもなけれ ば、又後者のように尻の穴の小ッポヶな男でもない心算である。自分は全く、 純な、 前に云ったような「考へ」でのみ筆を捨てたのであった。しかし、自分とても、永 久に筆を捨てるっもりではない。若し、ボーイスカウトが相当まとまって、少しは暇 が得られるようになれば、自分は又折をみて、筆をとりたいと思ってゐるのである。 しかし、そんな時はいつくるか― 今の自分はそれは知らない。今や自分はボーイス カウトの仕事に日をつぶしてゐる。しかし、私が、二十台のはじめ、約十年近く、文筆 生活 ― 文壇にゐたと云ふ事は、それとこんな縁もゆかりもないような仕事ながら、 それで、やっぱり大へん役だってゐると時々思ひ、感謝させられる事が多い。 自分が若し、今後、永久に創作の筆をとれねば、ボーイスカウトとか何とか他の仕 事をして、仮りに少しでも何か仕事をすることが出来るとしたら、それは、やはり、 自分の若き日の十年にみたぬこの文筆生活が、きっとあとで役立ってゐるので、自 分自身に決して無駄になってゐない事を感じるであらうし、又、若し、又文筆生活に かへってくるとすれば、勿論、これは一つのよちよちあるきの歩みはじめにもなるわ けである。<後略: 創作の作意・所感など― > 三島章道創作全集 郁文社 大正15年(1926)

69


不二健兒蕃社:わが国「指導者道」の起点 ベーデン‑ポウェルとの親交を深め、ギルウェル実修所の各部門を修了した佐野 常羽は、指導者訓練の姿勢=行うことによって学ぶ=実習=をさらに進めて、「自 ら悟り修める禅道場のような場」で行う「実修」を考えた。そして、日本聯盟は、 昭和2年(1927)4月、指導者訓練所を指導者実修所と改称すると共に、中央実修所の 修了者による教団「不二蕃社」を組織し、ボーイスカウト運動の伝導者となる「蕃 員」が相互に研鑽し活躍すべき体制を整えた。

また、道府県、朝鮮、台湾、関東州

の名を冠した蕃社ごとに「蕃長」を置き、東部は関東、中部、北陸、奥羽、北海道、西 部は近畿、中国、四国、九州の「蕃」を集合した「族」には「酋長」を置いて、指導 者道の確立をめざした。

蕃社設立の意義を佐野は次のように述べている。

指導者実修所修了者を以て組織する団「不二健兒蕃社」について 佐 野 常 羽 指導者実修所規定第八條に依る修了者を以て組織する団の細則は、此際発表 するを以て時宜に適するものと認め、本誌公報欄内所載の通り本年4月3日より 実施することとなれり。 立団の精神は第二條の目的が明示する通りである。団即ち実修所であって終 了後実地に精進さるゝ人々の協力一致に依り指導経営に関する諸般の向上進歩 を築き上げて行くもの即ち実修所に外ならぬのである。斯道の発展を正確に導 くの重責を負うもの実に此の協同の力に在りと信ずる。 実修所は短期間そこ に集りたる者が其時限り各自何物かを収得して行くだけを以て目的とするが如 き淺薄卑近なものではない。 これ以上、殊さらに規定の精神に渉りて細密の注釋をなすことなく,一に相 互の協力と心の運用に頼らねばならない。唯、細則中、主要と認むる定義を説 明して特にこれを選みたる意味合を述べたいと思ふ。 ◆ 教 団 従来、教団、教会等の称号は主として宗教的結社に依ってのみ使用されて来 た観がある。 茲に掲げたる教の字は教育の教であって、決して健児道を宗教と直感して本団 を認めて以て宗教団体とするが如き意義に出たのではない。 ◆ 不 二 大八洲第一の國母神たる木花咲耶姫尊、山の祖神たる大山祇命等、神代この かたの歴史は申すまでもなく、秀麗なる山容そのものの表徴する神州正大気、 更に山中湖畔に卜したる道場の縁起に譬へて団に冠らしむべき名を富士の霊峰 、、 に因ましむべきことは必然の意義と思うが、更に不二の二字を選みてその言葉 、 が一なる字義の広大無辺なるを念ふ。富岳の絶頂に湧出する清冽なる金明、銀 明の浄泉は千載不涸其源を絶たず。これある哉我等の目標、これなる哉我等の 堅持。 ◆ 蕃 社 心理並に環境の上より見たる健児教育全体の雰囲気より推して蕃の字を蕃人 70


の蕃と直感するのは順当のことであるが、 特に、敬しみ念ふべき事は、誠に恐れ多き ことながら、邇く降し賜りたる御践祚後、 朝見の御儀の勅語に蕃の字を繁茂の意義に 示し給はりてある。誠に有難いことであっ て、大御心を畏みて我等の前途弥増しに滋 り栄ふることを念ふ時、此上もない有難い 意義のある字と歓喜に堪へない。 蕃社紋章の襟布(スカーフ)章 (長辺10cm) ◆ 酋 長 これは稍突飛のやうに感ずる向もあらんか。然し蕃社なる名目に伴う自然の 帰結でもあり、又一面には本団の素質上一般の団との間に斬然たる区別を設け て組織上の関係を全然縁のないものとして見るべき必要と、他面には団長とい ふ名称に伴ふ一般観念を避けて、団、部、族、それぞれの中心に同じやうに酋 長の名を使用することにしたのである。 酋長、蕃長、蕃員等の間柄は一般の団に於ける団長、班長、班員と同様の関 係を有するも、第二条明示されたる目的の範囲内のみに止まりて、各自に経営 するところの団との間に何等組織上の関係を有するものではない。 ◆ 部 族 蕃 蕃界一般の区分の名称に基いた字であるが、区分の必要は、 (一)目的遂行上常時の協同切磋に便なること。 一地方毎に小集団をなして協同して行くことは自然の趨勢であって各人 個々に本部と連絡提携するのでは自然疏漫に流れ易い。 (二)累進的に蕃と蕃、族と族、部と部との間の張合。 (三)協力提携に依て諸般指導系統の基礎を逐次に築き上げて行くこと等に存 するのであって、要するに班別組織に他ならぬのである。 ◆ 古鏡の裏面 表は眞無垢、曇りなく有らゆるものを映しはするが、何物をも刻すべきでは ない。裏 に対して外方に向かはしむるならば、体の何れに佩ぶるも、表は直 ちに内心を指して常に善悪正邪を照らす。 ◆ 団 旗 実修所に於ける教育上、団旗の必要なることは云うまでもない。団の集合即 ち蕃会に際しても必要なることは勿論である。然し、一般の団の旗章とは性質 上之を異にして見なければならない。蕃社の団旗即ち実修所の旗章である。従 って各族に使用すべき分団旗は追て団毎に地方実修所の開設せらるる暁に於て 本部より之を交付する。 ◆ 記 号 食指一つ、此処にも亦一の字を認め得る。胸にあてたる姿は即ち直指人心、互 に心を示し合う所に無限の挨拶の意が篭る。 ◆ 和 敬・静 寂 我邦茶道の極意にこの四字あり、四疊半裡の天地に秘めたる心術は、涯りな き自然に組む健児の作業と其間大いに相通ずるものがある。千軍万馬の往来や 顕幽一理の心境に練り上げた一字一句には味ふ程に意味深長、情味津々たるも のがある。蕃会、蕃舎の名に冠して掬すべき野趣があると思ふ。 要するに規定の内容に関しては、実修所開始以来今日までに得たる経験に基 いたものであるが、初めより万全を期すことは難しい。提案として実行の上、若 し改善を要すと認める点あらば、協力一致の研鑽に依り逐次完成の域に進めて 行かねばならない。 「少年團研究」 昭和2年(1927)4月号

71


碑は語る「 健 兒 の 園 開 拓 道 場」 わが国ボーイスカウト運動史の中で、日本健兒團を創設してB‑Pのイギリス連盟 から認証された日本のチーフスカウト(総長)下田豊松が、スカウトをデンマーク に留学させて酪農牧場を開拓させ、B‑Pが唱える自然の教場(道場)を提供しなが ら、先進的な酪農技術で地元の殖産振興に尽くした話を知る人は少ない。 そして、それを伝える「健兒の園開拓道場」の碑には、有能な少年を自然の中で 鍛え、社会に役立てて幸福な人生を歩ませようとした下田のスカウト哲学と、それ を裏付けた健兒らの汗と叫びと喜びの歴史が秘められている。 平成16年(2004)6月21日。地元連盟の鈴木俊一広報委員長と下田資料室を訪ね たとき、裏の木立の前に建つこの碑について下田の子息兄弟が熱く語ってくれた。 話は大正13年(1924)8月にコペンハーゲンで開かれた第2回世界ジャンボリーの 派遣団員選考に始まる。当時は下田の日本健兒團を継ぐ形で少年團日本聯盟が発 足し、チーフスカウトには後藤新平、そして二荒、三島氏ほかの華族が中核を占め るようになった。そうした中での派遣団員の選考に、下田は北海道から4人(中村 耕平・広田忠雄・安達勇・安達隆世)青年健児を推薦した。 しかし、派遣団長となる 三島からその中の二人が「履歴上不適切なので文部省で試験をする」と言われ、 下田は「ボーイスカウト運動にA.B.Cの試験の結果などは関係ない」と抗議して 押し切り、4人全員の派遣に成功した。 だがその二人こそは、安達農場で働いていた少年時代から下田が注目していた 少年達で、世界ジャンボリーの後もデンマークの農場で先進的な酪農を修得させ、 北海道の酪農を立て直すものと期待していた安達勇と安達隆世であった。そのう え同姓の二人は、共に樺太の実家で兄が農業を継いでおり、近くのデンマーク人エ ミール・フェンガー農場での実習も終え、英語の特訓を受けて出発した。 昭和2年(1927)、3年間の修行から帰国した二人を待っていたのは、下田が手に入 れていた倶知安の西、岩尾別高原の本願寺農場(148歩=147ha)だったが、そこは酸 性が強くて70家族の小作人もすでに離散し、放置されていた土地であった。 下田は、ここを「健児の園開拓道場」と名付けた。そして、この不毛の地の開 発こそ二人の青年に最適の事業であり、郷土に新風を吹き込むものと信じていた。 72


健児の園牧場の書

見るからに痩せた不毛の地に立 った二人は、デンマークの荒れたヒ ース地帯とそれが開墾されて沃土 に変わるのを実見してきた経験か ら、充分な手応えを感じていた。 だが、それは誰の目にも無茶な こととしか映らなかった。 安達隆世は翌年の春、勇は昭和5 年に移住してきた。一方下田は、町 健児の園開拓道場の碑

や支庁との連携を密にして、払下げ 軍馬や大型農機具の獲得と道路の 開鑿などを着実に進め、貧しい地域 の窓を開いていった。 やがて、酪農からはバターなどの 乳製品、畑地からはアスパラガス などの豊かな 収穫が続き、町や畜産

羊蹄山山麓に広がる健児の園開拓道場

組合との係わりや軍事的な需要も増加してきた。そして、着手10年後の昭和11年 には新工場も竣工した。だが、この間の9年8月には安達隆世が他界し実兄が遺志 を継いでいた。

こうした風雪を超えた健児の園開拓道場創立10周年の8月26日、

記念のモニュメントとしてこの碑が建立された。

中央の石碑左側の丸石の「宇

宙魂」は宇宙神との一体を信じた下田の信条、また右の「健児の礎」はB‑Pが開い たボーイスカウト運動の原理と方法を表したもので、下田の万感の叫びが「酪農 よ、デンマークよ、世界ジャンボリーよ、二人の安達よ!」であった。 また、安達勇は町会議員や産業組合や酪農団体、種苗、食品、雪印乳業などや倶知 安農協組合長を17年間務めながら昭和54年4月に世を去った。そして二人の安達 に先立たれた下田も、昭和57年10月10日自宅にて94歳のスカウト人生を閉じた。 73


健兒に託された仏舎利 日本百景の一つ東京郊外の高尾山に、白亜の仏舎利塔がある。 仏舎利塔とは、仏舎利(釈迦牟尼の遺骨)を祀る仏塔のことだが、わが国で真の聖 骨が分贈され祀られているのは、ここ高尾山と愛知県の日泰寺(無宗派)の2塔だ けで、あとは全て宝玉や経典などで代替した仏舎利の塔だという。 毎年4月初めの日曜日には、満開の桜のもとで、高尾山薬王院有喜寺〔真言宗智 山派〕と地元ボーイスカウトの合同花祭仏舎利法要が盛大に営まれるが、その歴 史には、タイ国王が日本少年らの礼儀に感じて真の仏舎利を託した逸話がある。 昭和4年(1929)、少年團日本聯盟がシャム国〔現在のタイ国〕少年團を招待し、 各地での大歓待がシャムの各層に強い親近感を与えた。そして、翌昭和5年秋には 日本の健児がシャム少年団総裁のラマ七世王から招待されることになった。 そこで日本聯盟は、二荒芳徳理事長を団長に21名の健児を12月から約半月間シ ャムに派遣し、同国少年團員と共に王国を巡歴、各地で友好を深めた。 その日程の終盤、一行は宮廷列車でバンコクから西60㎞のナコンパトム王室専 用駅に迎えられ、同国最大の釣鐘型大仏塔のある王室の菩提寺プラ・パトム・チ ェディを訪ねるが、そこには1899年(M31)に印度で発掘され、印度からタイ王室に 贈られた釈迦の真骨を奉安してあり、その奉安殿にも参拝することになっていた。 そして、団長以下少年たち全員が事前に習うこともなく合掌して五体投地の礼拝 をしたが、その敬虔な振舞に同本山の山主プラ・デヴァスディト大僧正と王室の侍 従らは、さすがに仏教国日本の少年なりと感激し、直ちに国王に報告した。 その夜、二荒団長は宮廷からの電話で「国王陛下は、本日、一行少年の礼拝の有 様を喜ばれ、同本山に奉安の仏舎利を日本少年団に頒与せよとの仰せであるから、 明日もう一度同寺院に出向くように」との伝達を受けた。そして、翌日同寺を再 シ ヤ ム

訪し、大僧正から仏舎利を拝領した。

この壮挙を、「暹羅派遣團日記抜粋」は冷

静淡々と記している。 『1月13日〔火〕晴 4時30分起床、6時30分バンコック、ポ アランポ駅着。ダニー殿下始め幹部連、在留邦人多数の見送りの中午前7時、想い 出と離別を惜しむ内チャイヨーの声に送られてバンコックを去ってゆく。午前8 時40分ナコン パトム着、総督モンチャオ、タムロンセリー殿下の歡迎を受ける。 74


ボ ー イ ス カ ウ ト ・薬 王 院 合 同 仏 舎 利 法 要

サナム、チャン寺院参拝、さらにプラパトム寺参拝。 僧より有難く仏舎利を戴く。<後略>

〔H18-4-8〕

此処にてプラデバスデー高

昭和6年2月に派遣団が帰国すると、日本聯盟ではこの仏舎利をいかに奉安する か頭を痛めたが、同年4月7日にシャム国王来日の報せが入り、東京市の永田秀次 郎市長の配慮で、荘厳具一式と奉安の全経費を東京市が支出し、本所の震災記念堂 〔現在、東京都慰霊堂〕に仮奉安することになった。そして、4月5日、市長はじめ 幹部職員と市会議員、日本聯盟からは二荒理事長はじめ数百名が参列して盛大な 仮奉安式を行った。

それから23年後の昭和29年(1954)。中島久万吉元商工大臣

の発議により東京仏舎利奉安会ができると、日本連盟と仏教諸団体の協議により、 都立自然公園の景勝地で交通至便な高尾山に建立することが決った。そして、緑 に囲まれた高尾山有喜苑に、タイ国の仏塔「パゴダ」を模した高さ18m白亜の大 宝塔=仏舎利塔が完成したのは昭和31年(1956)夏。日本少年の敬虔な信仰心に感 じたシャム国王の大英断から25年後の「仏舎利奉安」であった。 平成21年(2010)4月4日、「健児の仏舎利奉戴 80周年記念」の花祭り法要には、 スカウト、タイ国要人、僧侶、仏教徒500名が集まり、盛大に行われた。 75


「三指礼」の危機と分派 昭和7年10月20日(1932)付「大阪毎日新聞」が、スカウトの三指礼について軍 部の介入による次のような事実無根の誹謗記事を載せた。 「世界を通じて少年團が行ふ(三つの誓ひを意味し)拇指で小指を抑へ、中の三 指だけを舉げるいはゆる「三つ指敬禮」は、ユダヤ民族が「シャダイ」といふ民 族神に敬意を表するときに行ひ「シャダイ」の頭文字を描くわけで、しかも国際 的少年團運動の急先鋒である英國のベーデン・パウエル中將がユダヤ人である関 係から、三つ指敬禮がひろく用ひられてゐるのに、どうも面白くないとの意見が 帝國飛行協会總務理事四王天延孝中將を中心に起りこの際國際的劃一主義を止め て三つ指の敬禮を自然のままの舉手の禮に改め、金剛杖からネクタイまで世界の 制式のやうに後生大事に考えている風習を打破しては・・・・・」と。そしてこれに 呼応したのが第四師団長を顧問に冠した大阪聯合少年團で、神戸地方連盟の大半 と大阪・和歌山・松山などが続いた。これに対して、日本聯盟二荒理事長は改め て三指礼の遵守徹底を全国各団に指示すると共に五指派の25団体を除名した。 「スカウト十話」はその顛末を次のように伝えている。 『・・・・<前略>・・・・斎藤〔第2代総長 斎藤實〕は、2・26事件で、青年将校の凶弾 に倒れた。そのころから、軍部はますます横暴になってきた。 第3代は竹下勇がなった。スカウト運動もこのころから、軍部の中の硬派の圧 迫が激しくなってきた。それはスカウトの国際兄弟主義が気に入らぬのである。 寺内寿一中将が大阪の師団長になったとき、スカウトの三指敬礼をやめよと文 句をつけた。大阪のスカウトはがんとしてきかぬので、参謀長山下奉文は、軍略 をめぐらした。 それは、スカウト内部の分解作用である。軍部が羽振りがよく なると、それにおべっかをつかう人々もできるので、その連中をそそのかして、 三指敬礼をやめさす運動が始まり、三指礼はユダヤの敬礼たとウソの宣伝をした。 少年団の内部に、国粋派と国際派の2つにわかれケンカをはじめさせ、全国にも それが波及して脱退者が出てきた。それで「寺内さんも、そんなにもののわから ぬ人でもあるまいからひとつ談合をしてみよう」ということになり、スカウト指 導者の理論家、京都の中野忠八(現理事長久留島秀三郎の実兄)は、師団司令部 76


に寺内師団長をたずねると、寺内は幕僚を従えて、快く会ってくれた。 中野は、 三指敬礼の由来から説きおこしこれはスカウトの3つの誓いから出ていること、 世界中の同志のサインで、外部からの圧力では変えられぬことを堂々と説明した。 寺内は中野の理論に感心したらしく、あとで軍人仲間に中野をほめたそうだ。 しかし、そのときは幕僚の手前、寺内は「わかった。しかし、この五指敬礼は、 天皇陛下のご命令だから、やれ!」といった。 中野は「それは軍人へのご命令 でしょう。われわれも軍人になれば、もちろん五指敬礼をします。また鉄道職員 ともなれば五指敬礼をします。しかし、スカウト同士は、三指敬礼を変えられま せん」と言い切り、どうやら議論では中野が勝った形となった。

すると寺内は

「三指敬礼はカジカンデイルようでいかん。これをみろパッパッ」と五指敬礼を やった。中野は「ガジカンデイマセン。このとおり。パッパッ」と三指敬礼をや りかえした。これでもの別れになった。

軍部はそれで手をかえ、政府に手を回

して少年団日本連盟なぞ、すべての青少年団体を、発展的解消との名の下に、体 よく解散させ、ひとつに統合して、大日本青少年団を作ることになった。 われわれは昭和16年1月16日、他日を期して解散式を行った。この大日本青少 年団は、歴代の文部大臣が団長となることになったが、一体青少年団運動なぞ、 役人の片手間でやれるものではない。しばらくして消え失せてしまった。』 77


日本のスカウト遺産百選 35

一意奉公碑と殉職スカウト像 伊豆大島元町の町営墓地の中ほどに、ハット姿で敬礼をしているスカウトの石 像と、その顕彰碑が並んで建つ緑陰の一画がある。 平成22年9月20日の昼ごろ、大島第1団原田國男氏の案内で訪ねたそこは、太いオ オシマザクラとツバキの樹の下で、三原山を背に立ったスカウト像は、晴れていれ ば真正面に見える富士山に向うように建てられていた。 由来については、入口の説明板(下記)に詳しいが、スカウト像の台座の「永遠の ﹃一意奉公﹄の碑と長田定明君像

本村 少 年団員 長田定明 君は︑昭和八年 ︵一九三三︶十一月十九日︑三原山頂に 昭和天皇行幸記念碑を建設するための奉 仕作業中︑土砂崩壊の厄に遭い殉職した︒ 時に十一歳︒ この碑は︑長田君の死を悼み︑奉仕の 精神を讃え︑当時の少年団日本連盟理事 長 伯爵 二荒芳徳銘 題︑同理事 子爵三島 通陽選文並書により︑在郷軍人会本村分 会︑本村青年団︑本村女子青年団及び本 村少年団がこれを建てた︒ 当時は︑吉谷神社下神様の地に建てら れたが︑昭和四十年元町大火後吉谷児童 公園に︑さらに昭和六十三年ボーイスカ ウト東京大島第一団により︑長田家墓地 に近い現在地に移された︒ ボーイスカウトの制服で三指の礼をし ている長田定明君像は︑本村の石工鈴木 福之助氏の作で︑氏の製作した石像とし ては数少ない作品の一つであると言う︒

平成十一年二月二十六日

日本ボーイスカウト東京連盟大島第一団

ボーイスカウト長田定明君」の部分には、制作時、「行修院定明日殉童子」の戒名 と俗名 定明 が彫られており、墓碑であったことが解る。 広辞苑によれば、「一意」とは、 ひたすら 、「奉公」とは、 朝廷や国家社会の ために力を尽すこと

とある。昭和8年(1933)、満州国に関して国際的に孤立した

日本が国際連盟を脱退し、富国強兵への道を邁進し始めた時代背景の中で、天皇の 行幸碑建立の勤労奉仕で殉じた12歳の大島知恩少年團の長田定明スカウトの献身 が美談となって一意奉公の顕彰碑に凝縮されたものである。また、大英帝国でも、 ジュットランド大海戦で主砲塔を死守し祖国を守ったスカウト出身の水兵ジャッ ク・コーンウエル(16歳)が軍人最高位のヴィクトリア十字勲章と英海軍葬の礼を 受けことから、B‑Pは「格別の勇気と義務に対する献身」の少年に贈る「コーンウ エル・スカウト章」を制定し、カナダ連盟も同じ章を制定して今も続いている。 78


公 奉 意 一

土砂崩壊の遭難現場

行幸碑の建つ三原山頂の茶屋から約500m 離れた木立の斜面(写真右側)の土砂を採取 運搬中に起きた遭難事故の現場

長田定明君殉職ノ記 君ハ本村ノ人岩蔵氏ノ三男ニシテ大正 十一年七月十九日出生明敏ニシテ篤行アリ郷党之レヲ偉トス 昭和四年小学校ニ入リ学業操行トモニ優レ特ニ奉仕的精神ニ富 ミ教職竝学友ノ間ニ重ゼラル嘗テ副級長タリ同八年少年団ニ 入ル 此レヨリ先昭和四年 聖上 行幸ノ御事アリ挙島恐懼御盛徳ノ南阪ニ洽キニ感涙ス 依 此 挙 民 一 致 行 幸 記 念 碑ヲ三原山上ニ建立シ謹 ミ テ光栄ヲ 無 窮 ニ 伝ヘ 奉ル コト ニ 決 ス 偶 々 之 カ 基 礎 工 事 中 土 砂 崩 壊ノ厄ニ遭ヒ不幸職ニ殉ス時ニ昭和八年十一月十九日ナリ。 昭和十年二月十一日 少年団日本連盟理事長 伯爵 二荒芳徳銘題 同 理 事 子爵 三島通陽選文並書

79

長田定明少年像 行幸記念碑


輪の心「營火の仕方」 スカウトライフの中で、営火の光と影と歌から拡がった躍動や感激の思い出は 数知れない。なかでも、那須野営場のギルウェルコースや、山中野営場や赤沢山の 実修所でエールマスターをしたときの輪で結ばれた、尾崎忠次・吉川哲雄・中村 知・山田利雄・秋月鏡観ほか師と仰ぐ人々との一体感に打たれたあの悦び。いや、 それよりも、進駐軍払い下げのテントや寝袋と飯盒やアルマイトの食器などを背 負ってキャンプをした上級班長のころの、弟分のスカウトたちと知っている限り の歌を唄いながら満天の星を仰いだ小さなキャンプファイアーだったろうか。 〜〜 燃えるキャンプファイアー心照らす 友情の集う今宵 我等は一つ心 この火よ あゝキャンプファイアー 〔ボーイスカウト歌集「友情」訳詞・編曲尾崎忠次〕 だが、こうしたスカウト営火の心と輪を踏み外してしまったのは、「都市型ジャ ンボリー」とこじつけて大阪のゴミ焼却工場に続く埋立地の金網の中で断行した 日本ジャンボリーのころからである。

そればかりか、テレビタレントが演じる

ステージショウまがいのどんちゃん騒ぎがキャンプファイアーや夜の集いだとい う印象をはびこらせてしまった。 そこで、そうした乱気流に風穴をあけ、その風向きを原点に戻しうるものとし て、一冊の小冊子にスポットを当てたい。 書名は、「營火の仕方 (附)營火劇集」。著者はわが国指導者訓練の祖佐野常羽 の直弟子吉川哲雄で、少年團日本聯盟が少年團文庫第三輯として発行した文庫版8 4頁の小冊子である。また附録の營火劇集は若宮正著で、60編の主題毎に準備と あらすじ

粗筋を5、6行で述べたヒント集だが、営火劇に求められる簡明さが光っている。 吉川は、ボーイスカウトの営火の流れを、静・動・静のリズムで捉えながら、焚 き火の輪から生まれるスカウト活動の充実感や天地宇宙大自然との一体感を説い て、夢の溢れる営火の極意を語り尽くしている。 「 ・・・・營火の気分!

これが營火には何より大切な事です。これはそこに集っ

たスカウトが、ほんとのスカウトである修行がよく積めて居れば居る程、しんみり とした親しさと火の様な元氣と、朗らかな笑の湧き出る洗練された演技と、涼しい 歌聲が生れ出ます。營火は生き生きとしたスカウトの心持の流れですから、自然 80


とリズムを打ってゐます。丁度歌の様に或時は高く或時は低く、然し全體として その夜の營火獨特の一つの氣持が流れてゐます。・・・・」 「營火の仕方」 目 次 1.營火を待つ心 2. 火 3.夜のヴェール まる 4.營火の圓い輪 5.營火の種類 (イ) 班營火 (ロ) 團營火 (ハ) 巡歴の夜の營火 (ニ) 聯合團の營火 6.營火場 7.火床 8.營火の係 9.營火の気分 10.プログラムの作り方 11.演技 12.服装 13.營火の作法 14.儀式 15.飲み物、食べ物 16.後始末 17.雨の營火 18.室内營火 19.ギルウェルの營火場 キャンプの夜 ◆ 附録 = 營 火 劇 集 = 若宮 1. 天の岩戸

2. ヤマタノオロチ

3. 因幡の白兎

つ き の い き な

4. 大熊座と小熊座

5. 熊襲征伐

6. 野見宿彌

7. 和気清麻呂

8. 調 伊 企 儺

9. 韓信の胯くぐり 10. 司馬温公の甕割り

11. 養老の瀧

12. 五條の大橋

13. 安宅の關

14. 櫻井の驛 15. 兒島髙徳 16. 曽我兄弟

17. いざ鎌倉

18. 青砥藤綱

22. 矢作川

23. 地震加藤

27. 堀部安兵衛の少年時代 31.弥次郎兵衛と喜多八 36.蚊供養 43.猿蟹合戦

19. 毛利元就と三本の矢 24. 石合戦

25. 加藤清正と猿

28. 村上喜劍

32.俵藤太秀郷

20. 鳥居勝商

21. 無手勝流

26. 木村長門守重成

29.大岡裁き釜盗人 30. 大岡裁き子供あらそひ 33.鏡餅のまと

34.うば捨山

35.一休和尚

37.三人片輪 38.無言の行 39.金太郎 40.桃太郎 41.浦島太郎

42.カチカチ山

44.獵師と猿 45.兎と亀 46.日と風 47.鳥獸合戰 48.和蘭をすくったゴルゲット

49.ウイルヘルム・テル 50.ワシントンの正直

51. エヂソン 52.人殺しを見つけた話

53.ズル族の少年 54.メーフヱキングの少年傳令 55.狼少年 56. 爆彈三勇士 57. 沖、横川二勇士の最後 58. .義人呉鳳 59. 白虎隊 60.道臣命 「營火の仕方」昭和8年(1933)9月3日発行

81


スカウトの心を結ぶ「結索法の手引」 つい最近までは、本や映画の挿絵やカットにボーイスカウトが出てくると、ハッ トをかぶり、腰に千段巻か海老巻に束ねたロープを下げた恰好が定番だったが、 ハットはおろか制服姿のスカウトさえ見かけなくなったいまでは、ロープの影さ えない。しかし、スカウト章にあるロープの束が「日々の善行」を表すように、こ の運動のウッドクラフトの全てにロープワークは欠かせない。 とは言いながら、最近のスカウトキャンプを見ても、洗濯干しのビニル紐をネジ .. 結びか巻き結びで止める程度だし、気張ったリーダーが見よう見真似の立ちかま . どを作ろうと角しばりをしても、きつく引けば切れてしまう細紐ではワリも入ら ず、「触手厳禁の展示用」にしかならない。そのうえ、テープで止める紐なし靴の スカウトが幕体にポールを差し込んでパッとひろげる蝙蝠傘のようなテントやガ スや液体コンロでゴーゴーと作ってしまえる炊事に、ボーイスカウトの訓練要素 たるウッドクラフトを探そうにも、残念ながら見つからない。 一方、各段階の進級課目が求める結索法は、スカウトのウッドクラフトに必要な 結び方ばかりだが、基本の本結びはおろかリサイクルに出す新聞紙さえ束ねられ ないスカウト達を見るにつけ、黎明期の少年団が野外活動の基本として親しんだ 結索法のテキストを、どうしても伝えておきたい。 この「結索法の手引」は、少年團文庫第五輯として出版されたA6判96頁の小 冊子で、著者は本庄俊輔。少年團日本聯盟の第1回指導者訓練所(大正14年:1925) の修了者でその後各地の指導者訓練や海外派遣などで活躍した人物である。出版 の意図について、『・・・・少年團で結索に關する作業や遊戲を行ふ場合、進級課程に ある結索法のみでは不十分且つ興味が少ないので、指導者及上級健兒はそれ以外 のものを知る必要がある。然し從來結索法を集めた参考書が無かったので、今回 各國の健兒の間で愛讀されて居る、ギルクラフト著ノッティングを譯して見た。』 と述べている。また、所載した結索法70種の名称については、『海軍敎授内藤信夫 同川井田藤助氏共編「英和海語辭典」に依った。然し海上に於ては殆んど原語其 儘を使用しているので、大半は少年諸子の覺え易いやう譯者が新たに邦譯した。』 と巻末には結びの名の対訳を示し、苦心の一端を述べている。 82


「 結 索 法 の 手 引 」 目次 凡 例 第1章 綱の使ひ方 1. 綱 2. 綱耳又は乳 3. 縛着 4. 帆脚索 5. 結着 6. 一捲き 7. 一と結び 8. 止め結び 9. 8の字結び 10. 絡み止め 11. 鈎止め 12.假止め 第2章 見習ひ健児の結索法(1) もあひ 本結び 一重結び インキ結び 舫 結び 天蠶結び(又は漁師結び) 縮め結び 第3章 見習ひ健児の結索法(2) もあひ 本結び 一重結び インキ結び 舫 結び 天蠶結び 縮め結び 第4章 結着(HITCH)法六種 1. 錨結び 2. 大錨結び 3. 捩結び 4. 引結び(又は追剥結び) 5. マグナス結び 6. 巻結び 第5章 續結着法六種 1. 鎧結び 2. 搾り結び 3. 鈎結び 4. 梃結び 5. 腰掛結び 6. 覇綱結び 第6章 特殊な結索法數種 1. バインダー結び 2. 引懸け結び 3. 張綱結び 4. 大綱結び 5. 雲雀の頭 6. 外科醫結び 第7章 索端止め 1. 壁結び 2. ダイアモンド結び 3. マシュウウォーカー結び 4. 二重マシュウ ウォーカー 5. 王冠結び 6.土耳古人の頭又はマンロープ結び 第8章 綱編み法(PLAIT)六種 1. 平編み又はセニット 2. 輪索編み 3. 平圓編み 4. 角編み 5. 水夫長編み 6. 王冠編み 第9章 組繼法 短接着 第10章

環接着

返し結び

滑車(BLOCHK)及び複滑車(絞轆TACKLE)

1. 若干の説明

2. 力

5. 重量及び必要な力 第11章

3. 綱及び滑車の大きさ

4. 複滑車の型

6. 帯索及吊索

縛材法(LASHING)

1. 縛り綱 2. 角縛り 3. 筋違結び 4. 剪刀巻又は捲縛り 5. 8の字縛り6. 滑車縛り 第12章

重量物引揚法

1. 複滑車の使用

2. 固定動臂

3. 遊動動臂

4. 大鋏

5. 鼎

6. 作業に就いての注意 第13章 杭 (HOLDFAST) 1. 杭の必要 2. 三二一杭 附 かきね結び 海老巻 索 引

3. 埋没杭

結索法の手引

83

昭和9年(1934)5月12日発行


生活の原点「簡易測量法」 度・量・衡に関する観察や計測能力が、日常生活に欠かせないことは言うまで もない。また、その感覚の敏か鈍かによって生活の質に大きな差がついてしまう。 スカウト活動のプログラムにおいて、観察眼と推理力の要素を強調しているの はそのためでもある。 ここに掲げる冊子「簡易測量法」には=青少年の野外作業用=のサブタイトル がついているように、わが国ボーイスカウト運動の草分けとして知られる薬学士 の中野忠八が、内外の文献を渉猟してアカデミックな教授法を避け、中高生程度の 野外活動に興味を起こさせようと、1年半にわたり「少年團研究」誌に連載したも のだが、彼の没後昭和25年8月の第二回全國大会を記念して再版されたきわめて興 味深い測量の入門書として伝えて行きたい。 「簡易測量法」 目 次 第1章 距離の測り方 1.最も簡単な場合の距離の測り方 1.道具を用いて 2.道具を用ひざる場合(歩測) 3.斜面距離と水平距離夜のヴェール 2.見通し式測量法 1. 一端に近づき難き場合い イ.ナポレオン法 ロ. 等三角形法(綱で直角を出す法) ハ. 相似三角形法の一 ニ.相似三角形法の二 ホ.相似三角形法の三 ヘ. 相似三角形法の四 2. 両端には達し得るも中間に障碍物ある二點間の距離 イ.直角法 ロ.正三角形法 ハ.中間標桿法 ニ.平行四邊形法の一 ホ.平行四邊形法の二 ヘ. 相稱三角形法の一 ト.相稱三角形法の二 3. 両端に近づき難き直線の距離 イ.差引法 ロ.平行線法 ハ.相似三角形法 3.距離略測法 1. 腕長利用法 イ. 身長比例法 ロ.横距略測法 ハ.横距略測法の二 ニ.ミリー法 2. 紙折り法 イ. 四十五度法 ロ. 縮図法の一 ハ. 縮図法の二 ニ. 縮図法の三 第2章 高さの測り方 1.高 さ の 測 り 方 1. 投影法 2. 水面反射法 3.見通し法 イ. 地面に眼を接する法 ロ.長竿法. ハ.複式見通し法 4. 横倒し法 5. 腕長利用による測り方 イ.團杖法 ロ.ミリー法應用 ハ.複式腕長法

84


6. 紙折り法 イ.四十五度法 ロ.紙折り縮図法 7. 割當て法 8.インディアン法 9.斜面測高法 イ.杖高法 ロ.眼目高法 2.仰角測高法 仰角簡易測器と其使用法 イ.四十五度法 ロ.三十五度法 ハ.縮図法の一(單仰角法) ニ.縮図法の二(複仰角法) ホ.正切測高法 クリノメーターの利用 ヘ.正弦測量法 ト.正切簡易測機の作り方 と其應用 第3章 平板測量法 平板測量臺作り 方 三 稜 形 定 規 (指 方 規 代 用 )の 作 り 方 1. 放射法 2. 前進法 3.前進法による道路の測り方 4.川の屈曲を圖上に 現はす仕方 5. 交叉法(又は交切法) イ.交叉法の一 ロ.交叉法の二 ハ.交叉法の三 ニ.交叉法の四 6.放散進測法 7.裁断法 8.二點問題 第4章 測角器を用ひざる縮圖法 1.三邊法 2.對角線法 3.繋線法 イ.界線内の繋線法 ロ.延長線上の繋線法 の一 ハ.延長線上の繋線法の二 ニ.一邊を繋線同様に利用する法 第5章 面積算出法 1.垂線法(一名三斜法) イ.地域内に垂線をとる場合 ロ.地域内に垂線をとる場合 . 2.三邊の和を用ゆる法(三和法) 3.一邊の兩端の角が直角な四邊形(梯形) 4.前三法の應用 イ.一般四邊形の場合 ロ 多角形の場合 .ハ. 地域内の一點から 放射線を設ける測法 ニ.地域外の一點から放射線を設ける測法 ホ.地域内に障碍 物のある四邊形の場合 ヘ.地内に障碍物のある四邊形 ト.垂線の測られぬ三角形 チ.縱横距測法 リ.支距式測法の一 ヌ.支距式測法の二 第6章 垂線定置の諸法

1.圖上で直角を作る場合 イ.直角三角定規を用ゆる方法 ロ.別法 2.現地上直線中の一點から垂線を設ける方法 イ.等邊三角法の一 ロ..等邊三角法の二 ハ.三、四、五法の別法 ニ.半圓周法 ホ.十字器法 第7章 羅針器測量法羅盤測量法 1.懐中羅針器の利用 イ.路線の作圓法 ロ.路線外の物體を圖上に現示する 方法 ハ.路線を軸とした地圖 ニ.境界ある土地の測法 ホ.交叉線又は分岐線 の角度 2.覘孔のある羅針器測量 ・覘孔羅針器の作り方 ・磁石の目盛りの別種 ・磁石の北と眞子午線 第8章 野帳記入法 1.路線の記録 イ.單線式記法(下から上へ) ロ.二線式法(下から上へ) ハ.單線式記法の二(上から下へ) ニ.二線式法の二(上から下へ) 2.境界の記録 あとがき 「簡易測量法」中野忠八 昭和14年(1939)8月25日

85


日本のスカウト遺産百選 39

メダルは語る「義 勇 和 爾 丸 の 航 跡」 このメダルには、わが国のシースカウティングが高揚期を迎えた昭和9年(1934)、 2本マストに13枚の白帆を展げた278㌧の練習船「義勇和爾丸」が、海洋健児の夢 を乗せて南太平洋のわが国信託統治領各地を巡航した1万3千浬、3ヶ月半に及ぶ快 挙のすべてが詰まっている。 直径3㎝ほどの表面には、波濤を行く義勇和爾丸と錨を「大日本海洋少年團義勇 和爾丸遠航記念・海軍省」の文字が囲み、裏には航行経路の地図が描かれている。 所有者は、海洋健兒としてこの航海に参加し、戦後はボーイスカウト日本連盟山 中野営場の初代場長、その後は水産会社の工務監督で諸国を巡るかたわら、東京商 船大学や神戸商船大学でボーイスカウトなど青少年の海洋訓練を10年以上も続け てきた浦田太一郎氏である。 平成17年(2005)6月12日、横浜新子安の自宅に90歳の浦田氏を訪ねたとき、愛用 の革製ペンケースに付けてあるこのメダルを撫で、瞳を遙かに移しながら義勇和 爾丸や遠洋航海のことを語ってくれた海洋男児の風貌が、いまは懐かしい。 また、この航海については、浦田氏が編纂した「義勇和爾丸の航跡」に詳細な記 録や資料が収録されており、これを凌ぐ文献は未だ見あたらない。 義勇和爾丸の航跡 目次 口

文 (1) (2) (3) (4) (5) 自 序

練習船義勇和爾丸の写真・船歴・能力 大日本海洋少年團團歌

ボーイスカウト日本連盟総長 東京商船大学長 北海道大学水産学部長 同 練習船忍路丸船長 神戸商船大学 長

渡邉 昭 谷 初藏 秋場 稔 藤井 武治 小谷 信市 浦田 太一郎 遠航を支えた諸先生諸先輩(附・少年団日本聯盟役員名簿 遠航の基本計画と準備(附・伏見宮のお言葉) 遠航船義勇和爾丸の航跡 浦田 太一郎

海技訓練資料の一部 二荒芳徳先生寄稿 原道太先生寄稿 南洋遠航後援者芳名 外務省等関係公文書等 船内新聞「海の子」第1号〜第10号 山本清内先生寄稿 「初代練習船忍路丸の思い出」 あとがき 「 義勇 和 爾 丸 の 航 跡」 浦田太一郎編 昭和55年(1980)6月20日

86


義勇和爾丸南洋派遣團の構成 本

団長 原

道太 ほか、

副団長・幕僚主任・船長・団医・通訳 副長・従属・船員隊 基本隊 隊長=足立脩藏・副長=岡村久雄・滝仲孟雄 東京海洋=浦田太一郎・保科吉信・今里彰志・ 福岡正実・高嶋静男 神戸海洋=和田光太 南葛海洋=桑原博文・龍田金弥・関芳則 横須賀海洋=右田正則 三河海洋=五十嵐弘造 尾久海洋=田中光邦・藤田太一郎 直江津海洋=仲田大二 柏崎海洋=金子四郎 崎浜海洋=刈谷徳蔵 名古屋海洋=木村正二 学術班 義勇和爾丸遠 航 記 念 メ ダ ル 班長・医務、衛生・水産、地理・少年團国際関係・地理及人文・産業、貿易・農業特産・補助員

87


斎藤實と記念館 少年團日本聯盟の初代総長後藤新平が昭和4年4月の没後、第2代総長に推戴した のは、後藤の友で、海軍大臣、総理大臣を歴任していた旧子爵、斎藤實(まこと)であ る。だが、喜びも束の間、在任わずか8ヶ月で2・26事件の兇弾に斃れてしまった。 遺徳を偲ぶために水沢の斎藤記念館を訪ねたのは、平成18年(2006)の4月末であ った。そして、地元の中目氏の紹介を得て展示品をつぶさに閲覧し撮影すること ができた。また公園の桜花に囲まれた銅像にも会うことができた。 だが、記念館で驚いたのは、小さな字の英文で几帳面に綴られたノートや日記 帳類であった。

また 、 スローモーション

と評されながら「自力更生」の信

念とボーイスカウトの原理を重ねて第2代の総長を引受けたこともわかった。 記念館には、総長の暗殺という予期せぬことに、全国の少年團から寄せられた 多数の弔文がケース一杯に納められていた。斎藤総長の本葬が東京築地本願寺に おいて行われたのは3月22日のことであった。 メモランダム

斎 藤 實 (さ いと う まこ と )

旧子爵 従一位大勲位受章

安政5年(1858)10月27日生れ、昭和11年(1936)

2月26日、「2・26事件」の犠牲となり、享年77歳で没す。 海軍大臣・朝鮮総督(第3・6代)・総理大臣(第31代)、文部大臣(第41代)、内大臣 (第10代)などを歴任。 明治12年(1879)海軍兵学校を卒業して軍人となり、27歳(M17年=1884)から 21年まで駐アメリカ合衆国公使館付武官として活躍し、この間に欧米各地の 情勢を学んで帰国。この間に外国人との交友が広まり、歴代政治家の中でも 外国要人との会話も公式会談をのぞいてほとんどを通訳なしでこなし、日記 も英文で書いていた。 62歳(T8=1919)と72歳ときと2度朝鮮総督を務めた 後75歳(S7=1932)で総理大臣となった。そして、「自力更生」のスローガン を掲げて国内の諸問題解決に尽し、国際協調の精神を大切にして当時勢いづ た軍備拡張主義者やファシズムの防波堤とブレーキ役となったが、そのため に好戦者の標的として2・26事件の兇弾の犠牲となった。

また、後藤新平総

長とは同じ水沢生れの竹馬の友で、ボーイスカウト運動にも深く関心をもっ て海外の諸文献を読んでおり、後藤の後を継いで昭和10年6月 第2代総長に 推戴したのも自然のことで、少年健兒との触れ合いを求め、いざ、と言うとき の死であった。

88


斎藤實記念館

第2代総長 斎藤 實

斎藤のスローガン「自力更生」

少 年 と 語 る 斎 藤 實総長

団杖アーチの儀礼を受ける総長

全国の少年團から寄せられた弔文など

89

〔左は、地元水澤少年團からの弔詞〕


「道心堅固」の碑 初めてこの石碑に出会ったのは、昭和28年夏。山中野営場のまだ健在だった臨 雲寮に泊まってカブ達と夏の村をしたときだが、浦田場長の案内でも大きな碑が あるぐらいの印象でカブ達に話せるレベルでもなかったし、当時のネガにも写っ ていない。そして10年後の7月、関東実修所年少部第1期に入所したとき、この碑の 前で語る尾崎忠次所長の講義によって碑の由来と石刻に込められた指導者道を感 得することができた。 指導者実修所の開設状況は、昭和12年(1937)の時点で地方実修所の少年部教程 が5回(修了者178)、年少部課程9回(同295)、青年部課程1回(同17)と海洋指導者実 修所が1回(同22)。また、外地での実修所の少年部教程1回(同62)と年少部課程4回 (同213)を加えると、修了者の総数 年間787名を送り出すほどの盛況

固 堅 心 道

を見せている。

大 日 本 少 年 團 聯 盟 理 事 長 伯 爵二荒芳徳

此の地霊峰富岳の麓山中湖畔こそは健児道修錬最適 の環境なりとし過くる大正年十四少年團指導者実修 所第一回の道場を開設したる所なり此の時初めて全 國の少年團指導者は風を望んで會集い一意奉公の熱 意に燃え社會教育報國の念願を固くし時の実習所長 伯爵佐野常羽先生の薫陶を受けたり爾来茲に十有五 年今や健児教育法の學的軆系は江湖識者の認むる所 となり此の地こそは我國青少年社會教育法の建設の 最初の礎石を置きたる所となれり茲に全國の同志相 謀り碑を建て以て永遠に健児道確立の発祥地たるこ とを記念するものなり

そしてこの活況に呼応して、わ が国指導者実修所の先覚者佐野常 羽の偉業を讃えると共に、日本ス カウト道の一里塚となる記念碑建 設の「第一回実修所開設記念碑建 設会」(委員長二荒芳徳理事長)が 発足し、この年の6月から寄金の募 集を始まった。 それから1年後の昭和13年8月22 日、関東地方指導者実修所少年部 教程終了日に合わせて記念碑の除 幕式が行われ、主人公の佐野常羽を 囲んだ二荒芳徳理事長 ほ か 関 係 者 数 十 名 が 、感謝の「彌榮」を捧げた。

(右頁写真)

90


道心堅固の碑

〔 指 導 者 道 の メ ッカ 残 雪 の 山 中 野 営 場 に て 〕

91


富士臨雲健兒寮 ボーイスカウト日本連盟山中野営場の本館を入った正面の壁の上に、丸太の枠 に収まった大きな木彫の扁額がある。

文字は右から「臨雲健兒寮 臨雲書」と

読むが、これぞ戦時に解体を命じられた「財団法人大日本少年團」が、不朽のスカ ウト精神と人的・物的資産を守り、復活の日のために変身した「財団法人健志会」 の拠点「山中道場山荘」の、今に残るただ一つのモニュメントである。 その臨雲寮は、昭和45年(1970)に始まる本館宿泊研修棟の工事で撤去されるま で、今の宿泊棟のすぐ上のキャビンのところに建っていた。 * 規模は、総坪数 67.18坪、一部中2階木 造 (丸 太 )柿 板 ぶ き 、定員:60名 * 1階:玄関ホール、集会室、日本間(10畳)、湯殿、炊事場、物置、洗面所・便所 * 付属施設

国旗掲揚柱、屋外食堂

その建設エピソードを「日本ボーイスカウト運動史」が載せている。 富士臨雲健兒寮と尾崎元次郎 富士臨雲健児寮の材木は、静岡の尾崎元次郎の寄付であった。 昭和13年(1938)のはじめごろ、二荒理事長と三島理事から、「健児寮の建築材料とし て、尾崎さん、お宅の山の木を寄付願えませんか。材木以外の費用は、結城さん(豊太 郎)が負担してくださるようお願いしてあります」とのことであった。尾崎元次郎 も、「よろしゅうございます。ボーイスカウトのためならお引受けいたしましょう」 と、さっそく、持ち山の静岡県安倍郡清沢村赤沢山山林の伐採に取りかかり、つぎの 年の早春、大型トラック数台に、松材、檜材を満載し、当時まだ好青年の尾崎忠次らが トラックの先頭に乗込み山中の野営場まで送り届けたという。ちなみに、富士臨雲 健児寮の 臨雲 は結城豊太郎の雅号からとったものである。

ここに初めて泊ったのは、昭和27年(1952)の夏、カブスカウトと「夏の村」を した時である。 1階ホールから吹き抜けになった2階に泊まり、窓から見える真 正面の富士に驚き、浦田場長の案内で歩いた大洞の泉から山中湖まで続く森林に は、境界も家もなかった。その後40年前後から、尾崎忠次所長のもとで実修所の奉 .. 仕をするようになると、幕営をする所長のほかは臨雲寮に泊まり、配布資料のガリ .. .. 切りや下田場長も入っての懇親など夜の更けるのも忘れたものだった。 その後、野営場の周りにも別荘や保養所が建ち始めた経済成長期の頃はボーイ スカウト人口も増え、第13回世界ジャンボリーの朝霧高原開催に合わせて、野営場の 大整備が急務となった。そして30年に及ぶ「富士臨雲健兒寮」の務めは終った。 92


富士臨雲健兒寮の全景

今も残る「富士臨雲健兒寮」の扁額

1階集 会 室の 吹 抜 け 部 か ら 煙 突 に 抜 け る 暖 炉 は 、焚 く の に 相 当 な 熟 練 を 要 し た

93


「終戦のころ」日本の新生秘話 この文庫本のサブタイトルが=思い出の人びと=とあるように、B6版320頁の 全巻に、敗戦国日本が灰燼の中から起ち上がる時代に生きたさまざまな人物や、 戦時中に解散させられたボーイスカウト運動の復活にまつわる秘話が、文字のみ か行間と紙背にもぎっしりと詰め込まれている。 たもつ

著者は、村山 有 (1905‑1968)=元日本連盟理事・東京連盟理事長)は、日米の学 校で学んだのち、同盟通信、NHK、ジャパンタイムズにおいて40年間、国際ジャーナ リストとして活動してきた。

この本には、その間に出会った内外の人脈を通じて、

新生日本の復興にまつわるウラとオモテに立ち会った様子が、熱く活写されている。 また、日本の無条件降伏を告げる玉音放送の日の夜(昭和20年=1945=8月15日)、 少年團日本聯盟の元総長(第三代)竹下勇(海軍提督:1869‑1949)から、米軍にも理 解できるボーイスカウトが必ずや日本の再建に役立つ、君ならできると励まされ てこの運動に身を投じ、以後占領軍司令部GHQとの折衝に当たってボーイスカウト運 動の再開と日本連盟組織の基礎を築いたことなど、苦節の活動に頭が下がる。 中でもスカウト関係で特筆すべき話題では、昭和23年1月3日(1948)まだ国旗の 掲揚が禁じられていた占領下、始動したばかりのボーイスカウトを率いて「日の 丸」をかざしながら皇居前広場から銀座へ行進して沿道の人々を感激させたが、G HQに連行されたことの顛末や、日本のスカウト章〔別項〕のデザイン制定では、歴 史的考察のもとにGHQを押し切り、「神鏡」を掲げることに成功したことなどなど、 何度読み返しても手に汗を握る思いがする。 また、三島通陽総長を中心に日本のボーイスカウト運動再建の貢献した功労者 として、6人の先師〔岡本礼一、内田二郎、関忠志、中島睦正、鳴海重和、米村輝国〕 を挙げている。そのうち、「児童憲章」制定に関わった岡本礼一が、占領軍による 公職追放の手から元貴族院議員の三島総長を救ったことや、朝日新聞の協力を取 りつけてボーイスカウト支援の全国バザーを展開し、この運動への認識を高めた ことなどを特筆しているほか、戦後敢然とこの運動に飛び込んだ宮内省職員の関 忠志が、銀座の山本有三事務所に陣取って千代田生命ビルの接収免除と日本連盟 事務局の開設に奔走し、全国大会の開催に献身した秘話なども語り継ぎたい。 94


「 終戦 の こ ろ =思 い 出 の 人 びと 」 目 次 序 は じ め に 〔・GHQと筆者 ・乗り込んできた旧友たち〕 1 龍顔を咫尺に拝して〔・人ごみのなかの両陛下 ・天皇とボーイスカウト・天皇制をまもった松岡駒吉氏〕 2 幣 原 首 相 とマ ク ア ー サ ー 〔 ・幣原首相に呼ばれて ・シェクスピアを朗誦 ・幣原首相の肖像 ・同志クラブ結成 の届け〕 3 押 しつけられた憲法〔 ・ 「ニッポン日記」から ・幣原首相 村 山

の苦衷〕

4 竹 下 老 提 督 の こ と 〔 ・玉音放送の日の夜・ソ連を警戒した提督 ・海洋少年団の解散・ベーデン・ポーエル〕 5 ボーイスカウトに打ち込む 〔・再発足当初の苦難・戦後最初の 日の丸行進 ・ 神鏡 6

を徽章に ・いっしょに働いた人々・マニラで決死の 日の丸行進 〕

ソルトレークの桜騒動〔 ・上野動物園の猛獣・ 「花咲爺」の現代版 ・松本市 と姉妹都市〕

7 フリーメーソンと日本人〔・日本人にも門戸を開く・メーソン禍宣伝のかげに軍部〕 8 フ ィ リ ピ ン 戦 犯 の 訴 え 〔 ・処刑された本間将軍・戦犯からの手紙 ・協力してくれたホーキンス君〕 9 出 光 佐 三 氏 の 真 面 目 〔 ・ 出光興産の家族主義 ・ GHQの出光観〕 ・ジャパンタイムズを救う ・イラン石油の輸入〕 1 0 思い出の数々〔・コスモポリタン・クラブ・ピカドン先詳報第一号 ・愛鳥週間・アイ・バンクの発端 ・切手ブーム・日米修好百年祭 ・アメリカの兵隊ことば・ローマ字論を押える・上野不忍池をまもる ・窓ガラスと教科書用紙 〕 1 1 人物―思い出すままに ― (1) 〔・東条大将の証言・吉田茂の一面・李王殿下・安井誠一郎氏・田原春次氏 ・有末精三中将〕 1 2 人物―思い出すままに ― (2) 〔・宅野田夫氏・谷川昇氏・お鯉さん・上田霊光氏・松岡俊男氏・岡田茂吉氏 ・力道山・ 親分

梅津勘兵衛氏〕

1 3 人物―思い出すままに ― (3) 〔・主席検事キーナン・古都を守ったマイク正岡・アイケルバーガーと原口中将 ・ゾルゲと相良左氏・新聞班長インボーデン少佐・ハースト二世の来日 ・在米日本人共産党員〕 時事新書

95

昭和43年(1968)12月 時事通信社


暗 闇 か ら 石 つ ぶ て :戦 後 再 興 秘 話 ここに、昭和13年(1928)、少年團日本聯盟の月刊機関誌「少年團研究」の第2号の印 刷からボーイスカウト運動に係わって太平洋戦中の曲折を共に歩み、戦後の国際復帰 にも私財を投じるなど尽した、印刷会社経営者で日本連盟参与の白橋龍夫氏が、運動 の上昇期、昭和58年(1983)の機関誌「スカウティング」に綴った回顧記がある。刊行 物の印刷などを通じてわが国ボーイスカウト運動の内情を知り尽くした氏の話は具 体的で、戦後復興秘話の代表格としてその抜粋を収載し、伝え継ぎたい。 ◆ GHQの説得 日本国民が初めて体験した敗戦。占領中の軍政下にあって、困苦欠乏の時代があり ましたが、ボーイスカウトの再建にあたっても、世界を相手に戦った日本の軍国主義 シ ー エ ア の再起をおそれて、海洋、航空少年団の創建が禁止され、規約ひとつを作るにしても 占領軍の意向を打診しつつ進めたものです。 私が結団の前から相談に与っていたのは、目黒の都立大学近くに住んでいたアメリカ 生れの二世で、サンフランシスコ・クロニクル、同盟通信社、NHKを経て、当時日刊 英字紙ジャパン・タイムスの社会部長だった村山有氏が、ボーイスカウト再建にあたっ て進駐軍との折衝の矢表てに立ったのでした。 しかし、直接その衝にあたらない戦前の熱心なスカウト指導者には不満が多く、内容を 批判し、占領軍と談判にあたっているものを泣かせたものです。 相手は紳士とはいえ、勝者の立場にある占領軍の軍政下、たとえば、現在日本のボ ーイスカウトが使用しているスカウトき章には、戦前の少年団時代のき章にあった、 やたのかがみ 三種の神器のひとつ八咫鏡を入れて「日本人の心」をあくまても残そうとする村山 東京連盟理事長に対し、占領軍当局は猛然と非難攻撃したが、村山氏らの説得で日本 側の希望が入れられ、当時の状況下にあってよくこの鏡を許したものと、今もこの鏡が 生きている感慨を新たにしています。 ◆ GHQ幹部の接待 このように米軍関係者との打合わせが度重なるのと、築地の私宅が戦災にあわず残っ ていたので、三島通陽総長からここを会議場にと懇願され、止むをえずここをボーイスカ ウト日本連盟会議場としたのです。また、一日も早くGHQ(連合軍総司令部)の許可 を取りつけるために、出席の外人には必ず日本食の最高のもてなしをするハメとなり、 金も物もない時代、家内に無理算段させて外人の好む天ぷらを整えるため、伊勢エビは 当時河岸にも入荷が少ないために夜半に買出しに行き、愚妻が多少の調理の心得があ ったため、徹夜で料理を作ったものでした。 今でこそ著名なデパートにはボーイスカウト用品売場が特設されていますが、当時 日本連盟の需品部は私の社の印刷工場を無償貸与したり、連盟資金も立替えて百万近 い金額を出資し、社の運転資金にも困窮することがたびたびで、過渡期の苦難を味わった ものでした。 GHQ民政局から私宅に集まった外人は、ダーギン、タイパー、フィッシャー夫妻、 96


ウィリアム、スチューワート大佐、リビスト少佐、ネピア少佐、 サリバン女史らで、日本側は、三島通陽、岡本礼一、村山有、 関忠志の四氏が交渉の主体となり、他に古田誠一郎、今田忠 兵衛、尾崎忠次、鳴海重和の諸氏や、時にはご夫人方のお力添 えも大いなるものがありました。 伊東温泉では、旅館「いずみ荘」で唄い踊る芸能人ともども、 前記の外人のほか、、伏見朝子様、三島夫人、塩野女史の涙ぐま しいご協力で踊りの輪を作るなど、感謝の至りでした。 ラッセル・L・ダーギン氏 昭和23年11月7日、伊東市の胆入りでボーイスカウト運動の講 昭和20年GHQ顧問、民間情 演会のおり、スチュワート大佐から、戦後のボーイスカウト運動 報教育局青少年部長とし て来日。20年11月7日神田 史上初の国旗掲揚と国歌「君が代」の斉唱を許された のYMCAでの演会を聴講し た内田二郎・鳴海重和・村 時、私達はこれでボーイスカウトの再建は半ば成功したもの 山有の3氏が講演後ダーギ と感涙にむせんだのでした。

ン氏の事務室を訪ね、ボー イスカウトの再建を述べたのに 賛同し、早期復帰に尽した.

◆ 幾多の迫害を克服して のろし この活動が、ボーイスカウト再建の狼煙となり、全国各地 の戦前のスカウト同志が運動の主体をはっきり認識して力強く動き得たと思います。 当時文化人と称する方々のもっとも多いとされていたのは、目黒と世田谷の両区と いわれていましたが、村山理事長の自宅近くの都立大学のキャンパスでは学生が労働 歌を高唱し、また自宅の前の区立中学では校舎のスピーカーから白昼公然と教師によ り「ボーイスカウトに入るな。米国の欺隔政策だ」等々、あらゆる反米宣伝があった が、地もとの大学生の文化サークル「八雲青年会」が村山氏に協力して理事長の地も とに一日も早くボーイスカウト隊の創建をと努力したが、暗やみから石が飛んでくる など、若者達は恐れをなして何度も結成はざ折、ついに村山氏は、軍隊から復員した 指導者を隊長に任じ、一方日比谷の米軍憲兵隊司令部バーンズ少佐に連絡、地もと碑 文谷警察署長は防犯係の私服を結成準備の隊活動には派遣ひ護するという、今ではと うてい考えもつかない迫害をうけたのでした。 隊長も父兄も決死の覚悟で隊づくりに奔走したのでした。このような事情から、東 京では成城学園に第一隊、浅草に第二隊と結成をみ、とうとう村山氏の地もと隊はよ うやく70番目の結団をみたのでした。 マッカーサー元帥に談判をして、日本のボーイスカウト再建の許可を取り付けたり、 日本列島を取り巻く当時のマッカーサー・ラインなるものを撤廃させた民間外交の立 役者国際新聞人の村山氏は昭和43年に、再建の揺らん期に終始苦労をかけた家内も昭 和52年に亡くなりました。 日本人がはじめて体験した敗戦、それから40年もの平和な暮しになれた今日ではとう てい想像もおよばぬことで、歴史はとかく時の為政者の手によって勝手に都合のよい ように改編改ざんされ歪められ、歪んだまま正統と信じ認められてしまうことが数多 くあり、まことに残念の至りです。 ◆ 祖国の繁栄に寄与を この再建初期の状況が、日連本部には記録が少ないのは、当時本部の役職員であった故 三島氏、故岡本氏故村山氏の死亡に依り自然推移によることと思います。しかし当時 会議にご参加くださった方々が今尚ご健在であらせられることは、誠に心強きかぎりです。 「スカウティング」 昭和58年(1983)

97


隊旗よ永遠なれ 平成21年夏の昼下り、筆者は、横須賀第4団の山本団委員長と50年以上になる盟 友で前団委員長の石川氏に迎えられ、京急大津駅近くの団倉庫を訪ねた。 目的はここに収納されている大小2流の手書きの隊旗と26年ぶりで再会するこ とで、それに秘められたパイオニアの熱と情に想いを馳せることであった。 ここ横須賀は、米海軍第7艦隊の基地として知られているが、日露戦争で名を馳 せた戦艦三笠も記念艦として公開されているなど、幕末からわが国最大の軍港と して栄え、将兵と市民との交流も盛んに行われてきた。 ついでながら、横須賀の海洋少年団の団員だった筆者の叔父が、山本五十六元帥 と交わした書簡や書や写真を見たことがあるが、高官と少年団員との地の利を活 かした親密な少年団活動が盛んに行われていた様子を伺うことができる。 その後、昭和22年(1947)1月、ボーイスカウト運動が占領軍総司令部GHQの許 可のもとに試行隊が活動を始め、東京に5隊、横浜に1隊が発足した。また、それを 待って全国にボーイスカウト隊の誕生ラッシュが続いた。 それは、公認とか非公 認とかではなく、戦中から閉ざされ、潜伏を余儀なくされていた日本のボーイスカ ウトの種子が、白日の下に芽生えたことであった。しかも、その担い手は、衣も食 も住も全てが貧しく家族にさえ充分なことができなかった時代に、この国の未来 を託す少年達を善導しようとの一心で立ち上がった熱血のボランティアで、手探 り状態からのスタートであった。 しかし、宗教関係など組織的な育成団体のある隊を除けば、ほとんどはユニフ ォームもなく、風呂敷大の四角いネッカチーフを三角の半折にして巻くのが精一 杯の状態であったが、シンボルとなる隊旗だけはと各隊が思いを凝らした旗を作 り、その旗のもとで活動を始めた。 再会した隊旗は、大事に額装されていた。

大きなほうは、縦横78×113cm。黄

褐色に色褪せているが、生地は旧日本海軍航空隊の落下傘で、昭和22(1947)年当時のア メリカ海軍基地司令長官デッカー大佐の好意で入手したもので、一部はネッカチーフにも なったという。その純白の生地に、この隊の創始者で隊長・団委員長を務めた永島重美氏 の妹育子さんが本を見ながら日本の象徴「桜」を添えたスカウト章と隊名をペンテッ

98


ボーイスカウト横須賀連盟第六健児隊」

「ボーイスカウト横須賀第4隊」隊旗 砲台山(現在の中央公園)で隊旗を囲む創生期のスカウト:(昭和22年7月)

クスで手書きしたものである。標記の「ボーイスカウト」に続 く「横須賀連盟第六健児隊」は少年團日本聯盟の呼称のまま だが、当時の横須賀には、米軍の支援を受けてすでに六つの 隊が発隊していた。また、小振りの旗は、縦横45×70cmで、屋敷 を開放して隊を 育てた永島隊委員長が好んだ臙脂色の生地に

初代隊長 永島重美

正規のスカウト章とボーイスカウト横須賀第4隊と手書され、昭和24年に日本連盟が 正式に発足して地方組織名や隊号が確定した時に規定どおりの様式で作成された ものである。

この二つの旗との出会いは、筆者が「神奈川のボーイスカウト発

展史」の執筆に孤軍奮闘していた昭和58年(1983)頃、この隊旗の取材で団の創設 者で初代隊長の永島重美氏宅を訪ねたことに始まる。またその後も温かい助言と 激励を受けたごく少い先師の一人がこの人であった。ここにそのダンディな人柄 に触れるスペースはないが、金沢文庫の社会教育会館で受けた2泊3日のボーイス カウト指導者養成講習会での初対面以来、微笑みの話術や歌唱力とみなぎるB‑P スピリッツ、また、他を押しのけても役職に就こうなどというサモしさとは無縁の 品格は、さすが三浦の庄屋を務めてきた家柄の風格でもあった。

99


「少年は明日の世界をつくる」 手にとって慎重に開かなければ千切れてしまいそうにもろく、黄変したA4版 ... のざら紙に、セピアで印刷した三つ折りのリーフレット、「 BOY SCOUTS OF JAPAN ボーイスカウト要覧」は、昭和22年(1947)に復活したボーイスカウト日本聯盟が、 東京の千代田生命ビル内の仮事務所から全国に向けた最初のPR資料である。 そして、わずかな紙面の中に、スカウト活動の原理や方法を端的に説明し、「ち かい」、「おきて」の条項を掲げて「少年たちが自分自身の意志と力で、これを明 確な生活目標とし、それに到達する自信のある行動力を体得するように仕組んでい る。」と述べている。

また、この年の7月10日にはNHKラヂオから日本連盟制作の「ボーイスカウト 物語」が全国に放送され、新生出発したボーイスカウト運動の復興を印象づけた。 ◆ 少年は明日の世界をつくる 少年期青年期とよばれる、子供からおとなへと移って行く時代は、人間の基 礎をつくる大切な時である。しかも、その生活の大部分をしめる校外生活の過 ごし方如何によって少年の將来はよくも悪くも左右されるのである。 この時期にある少年たちの身体 的 心 理 的 な 特 徴 を 生かしてやり、その激しい 変化にそって健全 な 成 長 をするように助けてやって、よい社会人、よい国民に育 て上げるのが、ボーイスカウト運動の目的である。 少年時代にスカウトになったものは、一生涯スカウト精神を持ちつヾける。 ◆ ボーイスカウトとグループワーク 戰後、社会敎育、特に青少年の社会教育に対する関心が高まり、その方法の 一つであるグループ・ワークなどという言葉が盛に使われるようになった。然 し、組織的な青少年の社会敎育― 校外敎育―は既に百年ほども前から行 われていたもので、ボーイ・スカウト運動は約半世紀の歴史を持っている。 青少年敎育が学問的に体系づけられるようになったのは極く最近のことで あって、しかも既に行われていたものから割り出されたのであるから、グルー プ・ワークと云い、年齢によるグルーピングと云い、実行によって学ぶことと云 い、何れもスカウト運動が初めから行っていたことである。 ◆ 世界に拡がるスカウト運動 <省略> ◆ スカウト運動の教育方針 <省略> ◆ スカウトのちかい ◆ スカウトのおきて <条文省略> このちかいとおきてに言われているこんな簡単なことでも、生活習慣となる までに身につけることは、ほんとうは難しい。また言葉だけで教えても、意味 だけが分かっても、実行されなければ何にもならない。 これをボーイ・スカウトの敎育は、指導者や父兄から言われてするのではな く、少年たちが自分自身の意志と力で、これを明確な生活目標とし、それに到達 100


する自信のある行動力を体得するよ うに仕組んでいる。そのために、少年 たちの自治訓練だけでは進歩向上が ないから、おとなの指導者がつく。この 指導者は隊長と副隊長で、スカウトた ちの父親または兄となって、みなのよ い仲間、相談相手という立場、スカウ トは互いに兄弟という関係で、指導に あたる。こういう指導に当る各隊の 隊長たちは、スカウトと共に進んで行 くと同時にまた、自分自身がよりよい 指導者となる訓練を絶えず受ける。 また各隊の訓練プログラム、行事、 集会場所、野営、その他スカウトのよ い成長のために責任を持ち、守り立て ゝ行くために、 隊委員会 や 育成團體が 各隊につく。(別頁挿図:略) こ のようにスカウト運動は、少年たちが自 分たちのために自分たちで力を出し合 って行くものであるが、もっと成熟した おとな達が指導保護の立場になってや ることを非常に重要視するものである。 ◆ ボーイスカウト敎育の特色 ・訓育のプログラムの建て方において ・訓育の組織において ◆ ボーイスカウト運動の経費 隊では―スカウトは少額の隊費を 納め、又制服や野營等のための経費 は、成るべく自分の勤勞によって作り出す。 日本聯盟と府県聯盟に対しては 年額60円 の登録料を納める。固定的な施設や隊費を納め得ないスカウトの経費は育成団 体が負担する。 聯盟では― 全国的或は全県的な行事や施設のために澤山の経費を必要と している。例えば昭和25年度の日本聯盟本部のみの経費だけでも800万円に達 した、二ヶ所の野営場、数種の刊行物、全国大会、需品類の斡旋等が支出の主なも のである。スカウトや指導者の登録料は現在この支出の1割にも達しない。他 は各種のバザー、その他篤志ある人々の協力によって過ごしてきた。 ◆ ボーイ・スカウト隊を作るには 次の五つのものが揃うことが必要です 1 育成團體<説明略> 2 隊委員会<説明略> 3 隊長及副長<説明略> 4 隊の集会所<説明略> 5 隊 員<説明略> ◆ 青少年不良化の眞の原因とその予防 ◆ 連絡先 東京都中央区西八丁堀4の4 財団法人ボーイスカウト日本聯盟總局

101


戦後初の勢揃い 戦後日本のボーイスカウト運動が確立したのは昭和24年(1949)である。

この

年の2月12日付で、日本連盟の財団法人化が認可され、4月1日には戦時下に名称を 変えてこの日を待っていた健志会(大日本少年團聯盟)の資産を受け継いだ。そし て正式に財団法人ボーイスカウト日本連盟が発足し、加盟隊の正式登録手続きが 始まり、12月には、正式加盟登録隊数は524隊、スカウト数1万453名、隊付指導者数 1092名、指導者有資格者数355名となった。 また、その間の9月22日から24日の3日間、東京京橋の千代田生命ビル講堂に役員 以下283名が戦後初の勢揃いをし、第1回通常総会を行った。また、この時の来賓に は、GHQのCIE部長・ボーイスカウト国際事務局長はじめ各国ボーイスカウト本部代 表、各国駐日代表部、YMCA名誉主事、衆参議長、などが列席した。そして、連合軍総 司令官マッカーサー元帥を名誉総裁に推戴し、役員、事業計画等を議決した。 晴れの全日本ボーイスカウト大会は、通常総会の日程と並んで皇居前広場で行 われた。この日を待ちこがれた各都道府県の代表スカウト約3千500名が集まった。 その服装も下駄履きや風呂敷包みなど色とりどりであったが、在日アメリカの スカウト隊ほか13カ国の少年達が混成隊の国際スカウト隊(横浜)などを迎え、な ごやかな野営を行った。そして、郵政省からは、初のボーイスカウト記念切手も発 売された。(別項にこの切手についてのエピソードあり) 開会式には、天皇陛下ご一家が来臨した時の歓迎の「弥栄」は、この運動の再 建に尽くした人々の感涙を誘った。また、アメリカ連盟を代表したスカウトから は日本連盟旗が贈られ、大きな拍手に包まれた。 続いた夜の大営火では、長良川の鵜飼などお国自慢と歌声に心を湧かせた。 最終日、大会の最後を飾る大行進は、日本連盟旗を先頭に、大日章旗の前後を国 旗集団が国旗を秋風になかせながら、3千600名、1200mに及ぶ大行進が、日比谷公 園から数寄屋橋・外堀通り・新橋・銀座道り・日本橋・呉服橋・東京駅八重洲口へと進 んだ。

そして、この戦後の初の大がかりなこの国旗行進が沿道の人々に大きな

感動を呼び、拍手の嵐で迎えられた。だが、「ある種の文化人」の中には、新聞に 非難を寄せ、嘆かわしく感じた者もあった。 102


【上記写真の記事】両陛下もご覧 ボーイ・スカウト大会 ○・・ボーイスカウト全日本大会は24日午後1時から各府縣代表約3千名と東京、横浜在住 アメリカ代表約30名が参加して開かれた。 この朝「1951年の世界大会に参加を許され た」というので、大会の空氣は元氣一ぱい。 ○・・午後2時会場を日比谷公園ドウリットル廣場に移し、まずアメリカ代表アーレン・ス チュアート君から東京代表佐藤哲夫君へ日本連盟旗が拍手のうちに贈られてのち、競技 会が始まった。 午後3時半天皇、皇后両陛下は皇太子さま、義宮さまを伴われて御臨席、 團体競技の妙技をごらんになった。 ○・・夜は再び皇居前廣場で大キャンプ・ファイヤーをかこみ、お國自慢の歌をひろうじあ うなど、夜のふけるのも忘れた 25日は日曜礼拝と記念行進を行う。〔朝日新聞S24.9.25〕

103


スカウト記念切手のモデル 琉球切手を含む日本のスカウト切手は、右ページの9種類である。その中で、昭 和24年(1949)9月24・25日に皇居前広場で行われた第1回全日本ボーイスカウト全 国大会記念の切手にまつわる話は、収集家には周知のことかも知れないが、日米 スカウトの連携を示すエピソードとして、スカウト史に刻んでおきたい。 日本の切手に載った最初の ( 米 ) ボーイスカ ウト ジョージ ラッセル様 フロリダ州セント・ピーターズバーグ北区ジャクソン通り4623 「ラッセル 様 あなたの写真が、日本のボーイスカウトの切手に載っていますよ。 」 昨年の冬、ラッセルは、強烈な赤いタイプ打ちの手紙を受け取った。そのうえ、ラッセル が今までに日本の切手に載った唯一のアメリカ人だろうとする確認の書面まで受け取 ったのである。 最初の手紙は、ボーイスカウトアメリカ連盟所属団体の「スカウト切手協会」事務局長、オ ハイオ州シェルビイ市のウィラード・H・ボイルズ氏からのものであった。 15年前、ニュージャージー州メンダハム市の優秀なボーイスカウト隊の隊員であったラ ッセルは、もう一人のスカウト、ノーマン・デイと一緒写真を撮られて、その写真が「ボーイ スカウト・フィールドブック」に掲載されていた。しかし、ラッセルは、この手紙を2月に 受け取るまで、そのことを忘れていたのである。 = この切手の発見者 = 日本のボーイスカウトを記念して出されるこの切手を最初に見たのは、スカウト切手協会 の事務局長ボイルズである。 そして、この切手の少年が、ジョージ・ラッセルであることを 確認するために、それを「フィールド・ブック」とアメリカ連盟機関誌の「ボーイズ・ライフ」 の執筆者であったウィリアム・ヒルコートに送った。 そのヒルコートは、ニュージャー ジー州メンダハム市でラッセルの隊長で、「ボーイズ・ライフ」に載ったラッセルの写真の 撮影者でもあった。そこで彼は、ボイルズにラッセルに連絡を取るように頼んだ。 日本の切手に載ったスカウトについては、ラッセルが、2、3日前に東京の村山有(むらやま たもつ)からの手紙を受け取ったことによっても確認された。 村山氏は、アメリカを訪問中 に、ヒルコートに出会っており、1949年にその日本のボーイスカウト切手の発行を公けに したのも村山氏で、そのとき彼は、切手に採用された写真を提供していたのである。 この日本切手の顔は少し東洋風にされてはいるが、その他は、ポーズも姿勢も陰影もまさ にその写真と同じなのである。 ラッセルは、昨年の10月に、ニュージャージー州リビングストン市からここに引越してき て、週刊誌「ウエスト・エセックス・トリビューン誌に雇われていが、今は、ローカル・オプチ ミスト・クラブの会員であり、ゲイ・ブレイズ・ローラースケート場の公共関連マネージャーで ある。そして、いまもスカウティングに興味を持ちながら妻と子供と一緒に暮らしている。 今までに外国の郵便切手に載ったおよそ12名ほどのアメリカ人のなかの一人 【写真説明】ノーマン・デイ(膝をついている)とジョージ・ラッセルのこの写真が、日本のスカウト記念 切手制作時の原画として、ボーイスカウト・フィールドブックにのっていた。 「 セント・ピーターズバーグ・タイムズ」1953年5月13日の記事から

104


【上左から】 ❶全日本ボーイスカウト全国大会記念1949 ❷アジアジャンボリー記念1962 ❸第13回世界ジャンボリー記念1971 dガールスカウトアジア大会記念1963 【中左から】 eボーイスカウト50年記念

❻第23回アジア太平洋地域スカウトジャンボリー

記念2002 ❼ガールスカウト運動50周年記念1970 【下左から】 ❽琉球ボーイスカウト創立10周年記念1965 ❾琉球ガールスカウト創立10周年 記念1964

105


輝く名誉スカウト 戦時体制のもとで解散したわが国のボーイスカウト運動は、昭和22年(1947)1月からア メリカのボーイスカウト方式を採り入れた東京の5ヶ隊と横浜の1ヶ隊が試行隊として承認さ れ、活動を始めた。 その後、運動の拡がりと共に初級・二級・一級の進級課目の内容も整い、また、山中野 営場や那須野営場をはじめ全国各所で研修所や実修所などの指導者訓練も始まっ た。

そして、昭和24年(1949)には、戦後初の「第1回全日本ボーイスカウト大会」には、

会場の皇居前広場に全国から3,500名の代表スカウトが集り、翌25年には新宿御苑 で国際復帰を記念する「第2回全日本ボーイスカウト大会」を行うまでになった。 そうした勢いのもと、スカウトの活動はさらに活溌となり、昭和26年には早くも一級スカ ウトが誕生してその上を目指すようになった。しかし、当時の日本連盟には、現在のような 「菊・隼・富士」という一級以上の進歩制度はなかった。 また、外貨事情もまゝならぬ当時、海外からの招請が増え始めると、派遣するスカウトを 選考するためにも、「優秀スカウトの特別訓練」の実施が急がれるようになった。 そこで、意欲のある優秀な一級スカウトを各県連盟から集め、一定期間〔5泊6日程度〕 の特別訓練を経たスカウトにはその年度の「名誉スカウト」〔例えば、「1951年度名誉ス カウト〕の称号と西暦年を付した「名誉スカウト章」を与えることにした。 その第1回「名誉スカウト特別訓練」が、昭和26年(1951)6月28日から30日まで、改修が 済んだ山中野営場で行われ、13名の名誉スカウトが誕生した。 そして、国際復帰後初の招請大会 第7回世界ジャンボリー(オーストリア)への派遣員 に、大阪の上島真一郎スカウトが選ばれ、復帰後初の外国大会で「日の丸」を掲げる歴 史的な栄誉を担った。さらに、シーリフト計画アメリカ派遣には福沢スカウトが選ばれた。 その後、翌27年の第3回アメリカナショナルジャンボリー派遣には、第1、2回の名誉スカウ トから13名が選ばれ、続く28年の第1回フィリピンジャンボリーには第1回から3回までの名 誉スカウトから16名が選ばれた。そして、1955年(S.30)の第8回世界ジャンボリー(カナダ) には、第1回から4回までの名誉スカウトのうち17歳以下の10名が選ばれ、後に3名を追 加して13名が派遣員となった。 しかし、名誉スカウト特別訓練も第4回の昭和29年になると、一級以上の進歩課程も 106


第1回名誉スカウト特別訓練〔山中野営場〕昭和26年(1951)6月

進んだためか、参加スカウトの中に「菊スカウト」も入るよう になったので、検討の結果所期の目的は遂行されたとし て、名誉スカウト特別訓練はこの第4回をもって終わり、 「名誉スカウト」の称号は修了者118名のみとなった。

名誉スカウト章〔鈴木高氏所蔵〕

全国から精選されたスカウトが、当時の日本連盟が誇る最高の指導者陣のもとで、山 野に学び、堅い友情に結ばれながら、「名誉スカウト」の称号にふさわしい姿と振舞で帰 還し、後輩の先頭に立ったその盟友らも、今は第一線を退き静かになってしまった。

名誉スカウト特別訓練 第1回 名誉スカウト特別訓練 昭和26年(1951)6月〔山中野営場〕 参加スカウト :13名=愛媛4・群馬3、京都・大阪 各2、埼玉・石川 各1 第2回 名誉スカウト特別訓練 昭和27年(1952)8月〔山中野営場〕 参加スカウト:32名=東京5、群馬・大阪各3、北海道・神奈川・京都・ 兵庫・岡山・愛媛・福岡・鹿児島 各5、岩手・宮城・長野・福井・鳥取 各1 第3回 名誉スカウト特別訓練 昭和28年(1953)8月〔東京都芝茸手町田中山〕 参加スカウト:35名=東京4、山 形・群 馬・神 奈 川・京都 ・大 阪・兵 庫 ・ 愛媛・福岡 各2、 北海道・福島・栃木・埼玉・千葉・新潟・富山・福井・鳥取・ 島根・岡山・広島・香川・大分・鹿児島 各1 第4回 名誉スカウト特別訓練 昭和29年(1954)8月〔山中野営場〕 参加スカウト:38名=東京5、北海道・大阪・福岡 各3、群馬・神奈川・ 京都 各2、山形・福島・栃木・埼玉・千葉・新潟・福井・富山・岐阜・兵庫・ 岡山・広島・島根・山口・香川・愛媛・佐賀・大分 各1

107


宝典「ボーイスカウトポケットブック」 この「宝典」を手にしたのは、「ちかい」を立てた翌年のクリスマス集会の時 .... だった。それまでは、金子隊長が配るわら半紙にガリ版刷のスカウトソング程度 だったので、ハット姿の横顔の表紙の「ボーイスカウトポケットブック」を開い た瞬間、実際にしてきた追跡サインや野外工作が、そのまゝイラストになっていること に驚いたが、ネッカチーフの端をきちんと結んだ半袖、半ズボンの一級スカウトのイ ラスト(右図)も眩しかった。当初この本は、昭和22年(1947)に発足した大阪ボーイ スカウトクラブ(OBSC)が、ア

昭和26年11月3日印刷 昭和26年11月5日発行

メリカ連盟のハンドブックを

ボ ー イ スカウト ポケットブック 編 集 印 刷

【 定 價 60円 】 大 阪 ボーイスカウトクラブ 代表者 鈴木榮次郎 大 阪 出 版 堂 代表者 中 井 藤 藏

発 行 財団法人 ボーイスカウト日本連盟 代表者 総

古田誠一郎

手本にガリ版刷で印刷した 「ボーイスカウトポケットブ ック」に始まる。そして翌年 には日本連盟が、占領軍司令

東 京 都 港 区 芝 西 久 保 巴 町 42

部近畿民事部民間教育課長ポ

東京都中央区西八丁堀四ノ六(早川会館内) 頒 布 元 財団法人 ボーイスカウト日本連盟需品部 大阪市東区平野町二丁目七 ボーイ ス カ ウ ト 大 阪 府 連 盟

ール・S.アンダーソンの挨拶 と三島総長の序文を附して刊

行し、全国の指導者公認講習会向けテキストとして好評を博した。また、その後も 版を重ねながらスカウト活動の手頃な「宝典」として親しまれている。

ボーイスカウトポケットブック 目 次 スカウト諸君!(アンダーソン氏)

3

16

4

結 索 法

18

文 (三島日本連盟総長)

ボーイスカウト訓練法概要

5

索端止(止め結・8の宇結・仲仕結・

ボーイスカウトの小史と国際関係

6

絡み止)・ひと結 ・ふ た結・ねじ結

日日の善行

7

てこ結・引とけ 結 ・ 二重ひきとけ結・

進級考査標準

8

巻 き 結 ・粉 袋 結・ ローリング結

11

もやい結・よろい結・本結・膝折結・

ちかい、おきて

12

片膝折結・かのう結・一重継・二重継

標語、スカウト章

14

てぐす結 ・縮 め 結 ・腰 掛 け 結 ・

スカウトサイン、スカウトの敬礼 15

か き ね 結 ・錨結・大錨結・樽結・

左手の握手

縛 材 法

15 108

27


アメリカのハンドブックと日本のポケットブック

追 跡 記 号 スカウトペース 方 位

29 31 31

32

小刀・鉈・斧の使用法

34

ハ イ キ ン グ

35

語源・目的・種類・服装 所持品・注意・計画 簡 易 測 量 法 自測・歩測・音響測・目測・ 川巾測定法・高さの測定法・ 磁石測量・簡易測器 救

種類・場所・準備品・設営・健康・ 荒天準備・注意・営火・森林生活・ 野営地 位

70 74

== 指 導 編 ==

37

42

救急法・止血法・人工呼吸法・繃帯法

スカウテイングとは 指 導 者 組 織 標準的組織例 隊 委 員 会 隊長とその補助者

76 76 77 78 79 80

班 制 要 旨

82

年 少 幹 部 班

88

手 旗 信 号 法

50

隊 集 会

89

電気の基礎知識

52

進級について

92

54

入隊式・進級式・任命式

93

交 通 安 全

54

'プ ロ グ ラ ム

93

55

徽章および標章

94

56

スカウトの服装

96

徒歩旅行報告

56

手 の 合 図

99

モ ールス 符号

57

ゲーム、ソングについて

58

ゲーム

101

火 の 焚 き 方

64

ソング

106

65

災 衆

予 衛

100

「ボーイスカウトポケットブック」昭和26年(1951)11月5日発行

109


足 柄 山 の 「カブブック」 わが国のウルフカブ(幼年健児)活動は、戦後アメリカ流にカブスカウト(年少ス カウト)と呼称を変えたが、8歳半の仮入隊から12歳の誕生日までの少年を対象に 昭和27年(1952)5月から一斉にスタートを切った。 カブスカウトの訓育は、自然な形で集まってくる遊び仲間の5、6人で作る「組= ... Den=けもののすみか」を組織し、4組で標準編成の隊としている。また、活動のプ ログラムは、年齢別の進歩課程により躾と豊かな感性を育む体験を中心に進める が、そのために、成人のデンマザーと先輩役のデンチーフがリードする組集会で課 目に取り組む一方、家庭ではカブブックによって自修できるように仕組まれ、子供 の進歩成長を両親が実感できるようになっている。 その実践の中心となる「カブブック」だが、知る限りの、英米やアジア太平洋地 域や中東、中南米のどれもイラスト入りの課目がメインの「オモチャ箱のマニュ バツクグラウンドストーリー

アル」のようで、全ページに流れる背 景 の 物 語もない。だが、この一冊は違う。 それは、昭和27年6月1日に日本連盟が発行した「カブブック」である。その年 の5月スタートしたカブ活動に向けて出版したテキストだが、B6版の全144ページ の中にアメリカ連盟版の4分冊でも及ばない独創的で格調の高い宝典であった。 .. ... .. ... 驚くべきは、ページ毎の課目に合わせて、金太郎とりす・うさぎ・しか・くま達が .. .. さるやワシに挑む井上茂師作「足柄山物語」の組み立てである。例えば、右に見 る「工作」のページであれば、下部に次のような物語が書かれている。 ・・・・ つかいに来た つきのわから、その話をきいて 金太郎は、さるのむれが やってこない 前に くりのみを はやく とり入れて、かごに入れた おとりのくりで、さるを こらしめる ほうほうを かんがえ 出しました。そして 金太郎は、やぶの中から たけをきって おとり のかごを つくりました。また 森の中でも つきのわが、高い木の 上から つるのさきを は づし、じろっぽが 木の下で、つるのねを くわえて ひっぱり、二ひきで ふじのつるを、なん 本も なん本も あつめました。・・・・

しかも、うさぎのページは緑色、しかは茶色、くまは黒色、金太郎(選択科目)のペ ージは藍色、月の輪とその他は黒色のインクで印刷されており、全1冊でカブの世 界を見渡せるようになっていた。だが、昭和36年、アメリカ式に分冊化されて足柄 山物語も別立となり、各課目の背景物語の役目を捨てられたのが残念でならない。 110


カブブック も く じ ・ご両親へ ・ジャングルブックと 足柄山の物語 ・カブブックのつかいかた ・扉絵「足柄山」 ・僕のカブブック ・しょくん!! 〃 ・月の輪 ・ カブスカウトのやくそく ・ カブスカウト隊のさだめ ・ カブ 隊の さだめとは ・ カブスカウトのサイン ・ カブスカウトのあくしゅ ・ カブスカウ ト の けい れ い ・ カブスカウトのモットー ・ なかよしのわ ・ り すのきしょう り すの必修課目 ・うさぎの足あと うさぎの必修課目 家庭と組との連絡 ・しかの足あと し か の 必 修課 目 家庭と組との連絡 ・くまの足あと くまの必修課目 家庭と組との連絡 ・ 金矢章、銀矢章 金矢章、銀矢章記録表

◆ 選 択 課 目 暗号・劇・音楽・絵画・手品・手工・粘土細工・社交・ 模型・乗物・修理・電気・機械・ラジオ・レンズ・安全・ 奉仕・スポーツ・水泳・戸外生活・園芸・土・家畜・ 食事・鳥・植物・昆虫・動物・魚貝類・星・雲 ◆ 月の輪リングの諸君 ・ボーイスカウト初級考査標準 ・ちかい、おきて(解説) ・ 標語・スカウト章・サイン・敬礼・握手 ・国旗(解説および掲揚法)・結索図解 ・ボーイスカウト記章および制服 ◆ しょ君の組 組のしゅう会 しょ君の隊 ・組のしゅう会きろく ・家庭と隊との連絡 ・しょ君のジャングル(隊集会記録) ◆ カブスカウトの記章および制服 ◆ カブ(動物の子)物語 足 柄 山 ・やと(野兎)の巻 ・じろっぽ(2才鹿)の巻 ・つきのわ(こぐま)の巻 ・金太郎の巻 カブブック」 ボーイスカウト日本連盟 昭和27年6月1日

111


スライドで識る「隊長ハンドブック」 ボーイスカウトの隊指導者を養成する入門コースは、昭和24年(1949)から開講 した指導者養成講習会だが、昭和27年からはカブスカウト指導者講習会年少部(カ ブスカウト課程)が始まると父母層の参加が急増し、活況を呈するようになった。 そこで日本連盟は、カブブックや隊長ハンドブックなどのテキストや訓練システ ムを改革する委員会を設置して着々と実績をあげたが、その中に指導者講習会向 けの視聴覚教材とする音声と連動する教育スライドがあり、下記の指導者講習会 の標準日程に繰り入れられて重用された。 ストーリーは、新興住宅地に越してきた家族が、町のカブ隊を訪ねて興味を示 し、家庭と隊や組活動との連携が子供の成長に役立つ多彩なプログラムで行われ ていくことを見聞し、カブ隊の運営方法を理解する内容、すなわち、目と耳で学ぶ 「カブ隊指導者ハンドブック」になっていた。 だが、昭和55(1980)年4月に指導 者講習会が統合されることになり、このスライドもほとんど上映されなくなった。 講 習 会 の 標 準 ( 最 短 )日 程 時間(分)

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17

5 10 20 35 35 35 35 35 35 35 35 35 35 35 30 20

開 会 あいさつ(県連または地区の代表) あいさつ(主任講師) 青少年問題の特質と現況 スカウト運動の概論 スライド 1. 組 集 会 スライド 2. 隊 集 会 スライド 3. プログラムの立案 スライド 4. カブ隊の環境 スライド 5. 月 の 輪 スライド 6. 仲 間 の 約 束 スライド 7. デンチーフとインストラクター スライド 8. デンマザーとデンダッド スライド 9. 特 技 研 究 会 ピクニックと舎営 総体質疑 閉会式 あいさつ 修了証授与 112

歓迎の辞 講習会の目的・予定

スライド 映写実時間 14分 10分15秒 8分50秒 10分 12分 12分25秒 9分 8分20秒 8分15秒

スライド 駒数 24 22 19 23 23 31 20 19 20

合計 7 時 間 5 0 分


カブ指導者講習会用スライド・テープ一覧

113


スカウトの宝島 表題の記事が「日本ボーイスカウト運動史」のなかにある。 しかも戦後起ち上がった各地のボーイスカウト運動の多くは、占領米軍関係者 の物心両面の支援を拠り所に開花発展をみたが、「島」まで「もらう」とは大ご とで、この記事を読んだときは半信半疑儀の状態であった。

記事に曰く。

宝 の 島 を 買 っ て も ら っ た スカ ウト 和歌山・大阪・京都地区のボーイスカウトは、自分たちの 宝島 を持っている。 この宝島は、大阪にいるアメリカ軍将校が子どもたちに贈ったものだが、この寄 付の裏には、つぎのような秘話があった。 この宝島というのは和歌山の沖にある浦島のことだが、この島は以前は丸善石 油会社の所有で、社員避暑地として利用されていた。ボーイスカウトもこの島を 利用することはできたが、土地と限られた施設だけの利用が許されていただけで、 自分たちのキャンプをここにつくりたいというのが子どもたちの願いだった。 そこで子どもたちは、和歌山の町で真珠やおもちゃを売ってキャンプ地購入資 金を集めはじめたところ、この子どもたちの物売り姿が大阪米軍将校クラブの目 にとまり、理由を聞いた将校たちはこの運動を助けようと約束した。 そのときにに集まった金は200ドル (7万 2000円 :当時)だった。 この約束は クラブ員の1人が1951年 (S.26年 )10月 27日に1500ド ル(57万 円)の小切手を 贈ることで実を結ぶ。子どもたちは、この金を所有者の丸善石油に支払ってこの 島の権利を獲得、自 分 た ち の 映 画 館、浴場、銀行、郵便局をはじめ、ハイキングや キャンプのできる土地をもつことになった。

ところが、この話に出てくる「子どもたち」の一人が、20年来の盟友で和歌山 第21団の嶋田士郎氏であったとは、何とも不思議な機縁であった。

そして、現

地の探訪はもとより、支援の主人公で今も健在で大阪に住むHenrry H. Shepherd 氏との会話を通じてこの話の詳細を知ることができた。 初めてその「宝島」に案内されたのは、鈴なりの紀州みかんが黄金色に輝く晩 秋であった。

場所は、背後に密柑山を控えた和歌浦湾南岸の下津町大崎。海を

望む密柑山の上で下車してからミカン畑の急坂を7、8分ほど下った小さな入り江 のキャンプ場、そこが「浦島トレジャーアイランド」つまり「宝島」であった。 昭和25年、在日米軍近畿民事部・和歌山軍政部勤務のシェパード氏が和歌浦湾で 友人たちとヨットセーリングを楽しんでいたが、ある日強風に遭って田ノ浦海岸 に漂着。 幸い、そこは丸善石油の保養所で、海岸には和風の別荘、山手には2棟の 114


コテージなどがあったが、あ まり利用されていないようで あった。 そこで彼は大阪在日 米軍下士官クラブに呼びかけ て基金を募り、ボーイスカウト 和歌山第2団の父母からも出資 を得たり、スカウトたちも交替 で大阪市内の在日米軍将兵家 族を訪ねて真珠貝を売るなど の苦労の末、遂に買収すること ができた。

そして、スカウトと関係者総出の整備作業が実を結び、「社団法人

ボーイスカウト浦島キャンプ維持会」を結成して昭和 27年8月、めでたく開場した。 当時、浦島でのキ ャンプには、新和歌 浦の魚市場に集合し 大崎渡船の「にしき 丸」で浦島まで約30 分で渡ったが、在日 アメリカ人のスカウ トたちは、米軍の水 陸両用の上陸用舟艇 で乗り付け、食料などもその舟艇で輸送していたという。また、自然豊かな臨海キ ャンプ場として海のない隣の奈良県からもスカウトをはじめ臨海学校、4Hクラブ などの若者が訪れるようになった頃、昭和36年(1961)台風が浦島の夢を崩してし まった。だがその後45年の間、未来にかける法人の息吹は続いていた。 そして今では、平成18年に間伐材の「木づかいコンクール」に入選した手作り のガゼボ〔Gazebo:あずま家〕が建ち、20年には和歌山県の「紀の国森づくり税」 を財源とする事業に選定されたツリーハウスが完成し、スカウトたちの利用が頻 繁になってきた。平成20年3月に訪ねたとき、森から聞えるスカウトの歓声と打ち 寄せる波音のハーモニーに包まれながら、国旗柱と並んで立つトーテムポールに 寄りかかり、21世紀に甦った「宝島」の夢に引込まれてしまった。 115



Issuu converts static files into: digital portfolios, online yearbooks, online catalogs, digital photo albums and more. Sign up and create your flipbook.