traverse 新建築学研究 vol.22

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新建築学研究


Interview 藤江 和子

家具 - そこに座るものがあること

Kazuko FUJIE

Furniture - to have something to sit on

山岸 剛

現像された都市 モノ語りを聴く

Takeshi YAMAGISHI

Developing a Nature of Urbanization—Photography to See Invisibles, to Listen to Silence

後藤 連平

今、建築をいかに伝えるか

Rempei GOTO

How to Communicate Architecture Now

設計を学ぶ君たちへ - 京都大学設計教育 -

竹山 聖

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Dear those who study design

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

協奏的な教育を追い求めて

小見山 陽介

In Pursuit of Collaborative Education

Yosuke KOMIYAMA

岸 和郎 Waro KISHI

平田 晃久

京都で建築と向き合う Facing Architecture in Kyoto

Akihisa HIRATA

Project 平田研究室

「包むもの / 取り巻くもの」を全て生かして

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HIRATA Laboratory

Make the Most of Everything that Surrounds You

ダニエル研究室

Paris Pavilion Project

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高野・大谷研究室

包む音 / 取り巻く音

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TAKANO・OHTANI Laboratory

Enveloping /Surrounding Sound

西山・谷研究室

京都大学建築構法学講座のいま

DANIELL Laboratory

NISHIYAMA・TANI Laboratory

Chair of Construction Technology of Building Structures at Kyoto University

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contents Essay 布野 修司

カンポンとコンパウンド

Shuji FUNO

Kampung and Compound

古阪 秀三

建設業の元請下請関係に包まれた技能労働者の賃金構造

Shuzo FURUSAKA

Wage structure of skilled labors under the Relationship between the General Contractor and the Subcontractor

竹山 聖

包むこと / 包まれること

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

To Envelop/ To be Enveloped

大崎 純

離散微分幾何学を用いた曲面のモデル化と生成

Makoto OHSAKI

Modeling and Generation of Surfaces Using Discrete Differential Geometry

牧 紀男

まちの記憶と都市・建築 - 東日本大震災から 10 年 -

Norio MAKI

Memory of Lost Communities and Buildings ; the 10th anniversary of the Great Earth Japan Earthquake

柳沢 究 Kiwamu YANAGISAWA

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「融合寺院」という建築・都市空間の更新プロセスモデル ― 旧い建築をそのまま残しながら新しい建築を重ねること “Merged Temple” as a Model of Spatial Renewal Process - Layering new building while retaining the old

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小見山 陽介

動く小さな木の建築

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Yosuke KOMIYAMA

Micro Architecture, in Wood, in Motion

Students' Essay 大橋 和貴

こどもを包む愛ある建築を目指して

Kazuki OHASHI

Toward kindful Architecture -Embracing Children-

大山 亮

道具を扱うことの本質

Ryo OHYAMA

What Tools Bring to Humans

山井 駿

未完の思考たちの群れ

Shun YAMAI

A Flock of Bubbles

林 浩平

山・小屋

Kohei HAYASHI

Mountains and a Hut

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Gravure 4回生スタジオコース作品

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Students' Works : 4th Year Studios

Contributors / Back number / Editorial note

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「包むもの / 取り巻くもの」 traverse22 のテーマは「包むもの / 取り巻くもの」です。

目を覚ますと授業開始十分前だった。先の立たない後悔をしながら、慌てて朝食を流し込む。パソコンの起動 を待つ間、ネットニュースに軽く目を通すと、閉業した地元の百貨店の解体工事が進んでいるらしい。感傷に 浸るのも束の間、散らかった机にパソコンを置くスペースを確保し、新調したデスクチェアに座りなおす。カ メラとマイクをオフにして、バーチャルの教室に入室する。授業はまだ始まっておらず無音が流れている。ふ と画面下のアイコンが跳ね、学科の友人から珍しく通知が来た。送られてきたのは文ではなく、1 枚の連鎖す る屋外階段のぼけた写真だった。画面を遡るとひとつ前のチャットには、「夏頃落ち着いたら、建築撮りに行 こうね」。2020 年 4 月のものだった。 -

未曾有のパンデミックから早1年。加速するデジタル技術、それに伴う情報化社会への移 行は顕著である。生活様式も大きく変わり、教育現場の変革や身の回りのものの認識の変 化はのっぴきならない。私たちを包み / 取り巻いていた世界 / 環境はもはやそれ以前と全 く変わってしまった。しかし、そもそも私たちは私たち自身を取り巻く環境を理解してい たと言えるだろうか。 我々を、建築を、社会を、 「包むもの / 取り巻くもの」 当たり前だったものが当たり前ではなくなった今、もう一度それらの関係性を見つめ直す ことで現代を読み解く手がかりを発見したい。

theme


interview

インタビュー

家具 - そこに座るものがあること Furniture - to have something to sit on

藤江 和子 Kazuko FUJIE 1947 年、富山県生まれ。1968 年に武蔵野美術短期大学デザイン科卒業後、宮脇檀建築研究室に勤務。その後フリー ランスとなり、エンドウプランニングで家具デザインを担当。1977 年にフジエアトリエ主宰、1987 年に(株)藤江和子 アトリエを設立し、インテリアプランナー・家具デザイナーとして活動を展開。これまで様々な建築家との共働の中で、 公共施設内の家具やインテリアデザインを数多く手がけてきた。

現像された都市

モノ語りを聴く

Developing a Nature of Urbanization —Photography to See Invisibles, to Listen to Silence

山岸 剛 Takeshi YAMAGISHI 写真家。1976 年、横浜市生まれ。早稲田大学政治経済学部および同大学芸術学校空間映像科卒業。人工性の結晶 としての「建築」と「自然」との力関係を観察・記録する「建築写真」を通して、人間の内なる「自然」を精査する。 2010-11 年日本建築学会会誌『建築雑誌』編集委員。2014 年第 14 回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館チー ム、写真ディレクター。写真集に『Tohoku Lost,Left,Found 山岸剛写真集』(LIXIL 出版)。近著に『東京パンデミック 写真がとらえた都市盛衰』 (早稲田大学出版)など。

今、建築をいかに伝えるか How to Communicate Architecture Now

後藤 連平 Rempei GOTO 1979 年、静岡県磐田市生まれ。2002 年、京都工芸繊維大学卒業、2004 年、同大学大学院修了。建築と社会の関 係を視覚化するメディア「アーキテクチャーフォト ®」編集長。アーキテクチャーフォト株式会社代表取締役。組織系設 計事務所勤務の後、2007 年、小規模設計事務所勤務の傍ら、アーキテクチャーフォト ® を立ち上げる。現在はウェブ メディアの運営等に専念し、建築系求人情報 サイト「アーキテクチャーフォトジョブボード」、古書・雑貨のオンラインス

トア「アーキテクチャーフォトブックス」の運営等も手掛ける。 著書に『建築家のためのウェブ発信講義』 (学芸出版社) 等、編著に『“ 山 " と “ 谷 " を楽しむ建築家の人生』 (ユウブックス)等がある。

設計を学ぶ君たちへ - 京都大学設計教育 Dear those who study design

岸 和郎

平田 晃久

Waro KISHI

Akihisa HIRATA

竹山 聖

Kiyoshi Sei TAKEYAMA

小見山 陽介

Yosuke KOMIYAMA


INTERVIEW

家具 - そこに座るものがあること インテリアプランナー

藤江和子

家具デザイナー / 株式会社

藤江和子アトリエ

インタビュー

Kazuko FUJIE / Interior planner

Traverse22 で 9 回目を迎えるリレーインタビュー企画。

前回のインタビュイーである構造家の満田衛資氏から藤江和子氏へたすきを繋いだ。

家具デザイナーである藤江氏はこれまで数々の建築家と協働して、公共建築の家具や内装を設計されてきた。密に

なることを良しとされない現在、公共建築における家具の利用が制限されて人と家具あるいは建築の関係性が見直 されるタイミングにあるだろう。インタビューを通して、 「建築に内包された家具とその利用者、そしてそれらを取 り巻く社会」の関係性について藤江氏の考えを探ろうと試みた。以下、満田氏からの推薦文である。

「建築家と協働して家具を設計した経験のあるインテリアデザイナー、を紹介してほしいという依頼に対し、私が真っ先に思い浮かべ たのが藤江和子さんでした。私が構造担当した多摩美術大学付属図書館の家具デザインを藤江さんが担当されていて大いに感銘を受 けたのが一番の理由です。多摩美術大学付属図書館はコンクリート打ち放しのカーブしたアーチが連続する、ある意味で建築がすご く強い空間です。しかも1階床が緩やかに傾いていて、家具デザインを行うにはとても難しい空間であったにも関わらず、家具が負 けてしまっていることもなく見事に溶け込んでいました。家具が主張しすぎることもなく、人間を優しく受け止めるようにしっかり と存在していました。当時の私は、家具はそれ自身がいかにカッコよくデザインされているか、みたいな視点しか持ち合わせておらず、 そういう意味では、建築に溶け合った家具デザインを感じた最初の体験だったように思います。 」 満田衛資氏(構造家) 聞き手=奥山幸歩、周戸南々香、北垣直輝、原健登 2021.10.6

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藤江和子アトリエにて


Furniture ‒ to have something to sit on Kazuko FUJIE

家具デザイナーになるまで

私の時代は、まだ女性に対する就職の選択肢というのは多 くありませんでした。そのようなときにたまたま私の兄が、

──まず家具デザイナーを目指されたきっかけをお教えく

建築家の宮脇檀さんが事務所で人を探しているというのを

ださい。

聞いており、その情報を教えてくれました。その当時事務

私の場合は、最初から家具デザインをやりたいという理由

野の人を少し探しているということで、タイミング良くそ

で大学へ行ったわけではありませんでした。私は普通の勉 強はあまり好きではなかったけれど、絵を描いたりだとか、 そういう分野は好きだったので、その方面にいきたくて美 術系の大学に入ろうと決めました。そして学科を決める際 に、将来の生活のことなどを考えると絵描きになるほどの 力は無かったので、デザインの分野を専攻することにしま した。ただ当時は、1960 年代中頃というとまだ大阪万博 が開催される前ですから、世の中の機運が今とは全く違い ますよね。デザインという言葉がもつ意味も今とは少し違 いました。当時はデザインというと、専ら今でいうグラ フィックデザインと同じような意味合いを指す言葉として 使われていて、デザイナーといってもグラフィックデザイ ナーやファッションデザイナーといったものしか、あまり 文化として浸透していませんでした。その当時は家具デザ インという分野がまだ一般的ではなかったので、家具デザ

所には建築のスタッフは何人もいましたが、インテリア分 れで就職することができました。建築の設計事務所ですか ら、家具メーカーとは違い、住宅や商業建築の設計は建築 セクションにいるスタッフが担当し、その中で私はインテ リアの仕上げや作り付け家具といった、造作家具の設計や 市販家具のセレクト、コーディネートを行っていました。 ──そうして宮脇檀建築研究室で働かれるなかで、家具デ ザイナーとして独立されるきっかけのようなものはあった のでしょうか。 宮脇さんのところにいたのは3年あまりだったと思いま す。ものすごい密度でいろいろなことを経験しました。た だ宮脇さんの事務所はやはり設計事務所ですので、設計が 主な業務になっていました。そうすると、実際にものをつ くるというリアルな体験ができず、ものづくりの現場の知

イナーという言葉事体もほとんど耳にしない時代でした。

識がなかったんです。それはあまり良くないなと思ってい

──大学で家具デザインを学ばれたのはなぜでしょうか。

たエンドウプランニングで家具のデザインを手伝うことに

私が入学したデザイン科というのは科のなかでもいろいろ

も多く、そこでは設計して施工までするという、リアルな

分かれているんですよね。今述べたようなグラフィックデ ザインをするところと、工芸品のようなプロダクトをデザ インするところと、あとは舞台装置や空間をデザインする ところ。そのなかで、私はグラフィックデザインのような 平面的なデザインよりも、立体的なものをデザインする方 が面白いと思ったんです。そしてそのとき私の兄がちょう ど建築設計の分野にいたので、兄からそういうインテリア 関連の分野があるというようなことも聞いていました。そ ういった影響もあって、造形物のデザインが学べる武蔵野

た時、あるきっかけで知り合った遠藤精一さんが設立され なりました。そのなかで建築家の仕事を実際に手伝うこと 体験をさせてもらいました。 ──そちらの方が藤江さんの考えにあっていたということ でしょうか。 そうですね。やはりものをどうやってつくるかを考えると きに、もの自体の材料のリアルさや、加工の具合などは、 製作の現場と繋がっていないと分からない。デザインとい うのは形だけではないですから。そのことをどれくらい分

美術短期大学の工芸デザイン専攻に進みました。

かっているかというのは非常に大事だと思います。そうし

──大学を卒業後、宮脇檀建築研究室で勤務されています

と関わる機会も増えてきまして、そのうちに独立し事務所

が、なぜ家具設計の道ではなく建築設計事務所で働くこと

てエンドウプランニングで働きながら、いろいろな建築家 を構えました。

を決断されたのでしょうか。

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INTERVIEW

建築家からの刺激

だと思います。そのようなシェアオフィスの日々から藤江 さんの家具デザイン論のようなものが培われたのですね。

──家具デザイナーとして活動されるなかで影響を受けた 出来事はありましたか。

様々な建築家と出会って、一緒に仕事をしてきたというの

エンドウプランニングから独立する時に、事務所を置く場

のはその時代の世の中の動きを、時にはリアルタイムに、

所が見つからず、候補を探していました。その時、ちょう ど元倉眞琴さんも槇文彦さんの事務所から独立するという ことで、一緒にどこか場所を探そうということになりまし た。そしてこれもたまたま、山本理顕さんが事務所を引っ 越さなければいけないというタイミングと重なって、それ じゃあみんなで一緒に引っ越そうという話になりました。 それで結果的に、スタッフをかかえた山本さん、元倉さん、 私、宗形さんというカメラのデザイナーの4人で中目黒の 一室にオフィスを構えることになりました。1部屋に数人。 その部屋の中で、山本さんも、元倉さんも、私も、みんな

はいい方向に働いてるのかなと思っています。建築という 時には少し遅れて、時には先立って読み取ることで形にな ると思っています。ですので、優秀な建築家の方々は時代 の流れを敏感に読み取って設計しておられるから、そのよ うな方々とのお話の中から頂いた刺激は大きかったです。 ──藤江さんの思考も、家具デザイナーというより、そう いった建築家の方々に影響を受けているのでしょうか。 私は建築と家具の境界をあまり意識していないので、そこ に違いがあるのかどうかは分かりません。家具デザインと

製図板1枚ずつ。要するにシェアオフィスですよね。

いっても、全て建築と共に考えてデザインしますから。つ

──そこまで人間関係が近い距離で働けるなんて刺激が強

デザイン、というのが私にとっての家具デザインなのです。

まり、建築の世界から生まれる考えのなかで必要とされる

そうですね。

この考え方は、宮脇檀建築研究室にいる時からずっと変わ

確かに距離は非常に近かったですね。ただ4人で同じ仕事

て、そのなかで私は何をすべきかという考えが私のスター

をするわけではなかったんです。同じ部屋でそれぞれ別々 の仕事をしているんだけど、そのなかで時々協力しあうと いう感じでした。まあ半分以上遊んでいた気がするけど (笑)。でも、そのなかで彼らといろいろな会話をすると、

りません。建築の設計図があって、 設計構想というのがあっ トになっています。

建築と家具、人と家具 〜インターフェイスについて〜

建築家の考えが伝わってくるし、私が苦労している時には、 こうしたほうがいいよという助言がもらえます。1部屋の 少し大きなスペースを分けてそれぞれ仕事をしていたので すが、やはり空間が一つということが非常に大きかったで すね。皆さん仕事で、電話連絡や打ち合わせ等のやり取り をたくさんするじゃないですか。その内容が全部聞こえて くるわけですよ。高さ 1800 mm の本棚で間仕切りをして いるだけだから、全て聞こえてきます。元倉さんはどのよ うに打ち合わせしているかとか、山本さんが設計中に何を 悩んでいるかとか。そういう環境下でしたので非常に建築 のことを勉強できました。 ──建築家が考えておられることを肌で感じることのでき る環境で家具デザインができる。確かにそれは特別な環境

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──藤江さんは、家具について人と建築を繋ぐ「インター フェイス」という言葉を用いて表現されています。一方で、 建築学を専攻する我々は大学の設計課題に取り組む際に、 建築と人を直接繋げて考えてしまっているため、家具につ いて言及する機会がないまま、学部の4年間を過ごしてき たように思います。ここからは建築と家具、人と家具の関 係性についてあらためて考えていきたいと思います。 ──あらためて、インターフェイスについての考えをお聞 きしてもよろしいでしょうか。 私は建築という世界をベースにして家具を考えています。 家具をデザインするときに、なんのためにデザインすれば


Furniture ‒ to have something to sit on Kazuko FUJIE

良いのか、と自問自答します。例えば、どういうものをデ

いう作品を置いているのですが、そこの上部は吹き抜け空

ザインすれば人に喜ばれるのか、あるいは社会に役立つの

間となっており、それに腰掛けて顔をあげることで、たま

だろうかと考えます。そのような関係性を少しでも明確に

たま上階にいる人と目があったり、吹き抜け空間を囲む廊

するための材料としてインターフェイスという言葉を用い

下を歩いている友達を見かけたり、建築の魅力的なところ

ています。

が見えたりすることがあります。そういったことを促すこ とができる家具をつくっています。だから家具をデザイン

──いつ頃からインターフェイスという言葉を使われてい

するのは、建築が出来上がってからでも良いですし、建築

らっしゃるのですか。

の設計図を読み取りながら設計することもできます。この モルフェシリーズは建築の施工段階でデザインしたもので

かなり前からこのようなことは考えていたけれども、初め

す。いずれにせよ、家具は建築よりも肌に近いので、形状

て言葉として使ったのは 1997 年のギャラリー・間1での

や素材、スケール感を用いて、建築と人をインターフェイ

展覧会の時かな。展示会の1年ほど前にオファーが来て、

スさせています。

予算内でどのような内容にするかを考える時に、それまで のことを振り返りながらこの先どうあるべきかを考えたの

──そのなかでも素材に対するこだわりが強いようにも感

がきっかけです。その時に、私の仕事はどういうものなん

じるのですが。

だろうと考え直しました。あの頃の建築雑誌に載っている 写真には人があまり写っておらず、それに対して私はおか

素材に対するこだわりがそんなに強くあるわけではありま

しな事だと思っていました。何のために家具をデザインし

せんが、その建築が建つ土地との関係で、地場産の木材や

ているのかというと、ここに人が来て座ってくれたり、寝

竹を使うことをテーマとして考えることはあります。伊東

転がってくれたりと、人に利用してもらっているのを想像

豊雄さんと協働したメキシコのバロックミュージアム・プ

してつくっています。ギャラリー・間の時に私自身も、人

エブラでは、大きなベンチにテキスタイルを使いたくて、

が実際に利用している風景をつくるために必要な家具をデ

手織りや色染めなどは地元の女性に伝わる伝統的な手仕事

ザインすることが自分の仕事だとあらためて考えました。

の技術を用いてつくりました。

それ以前も、意識せずに考えていたのかもしれませんが。 ──なるほど。建築による空間を引き立てたり、人間の振 ──そこからインターフェイスという言葉を用いて自らの

る舞いを引き起こしたりと、作品によって重要視する対象

姿勢を作品に表現されるようになったのですね。

は異なるのですか。

公共スペースで使う家具をデザインすることが多いので、 その家具が皆さんから評判が良いか悪いかはあまり重要視 していません。椅子が柔らかいから良いということではな く、あそこに行ってあの家具があったね、あの建築の空間 は素敵だったね、とか何かその時の出来事が人の記憶に残 ることが重要だと思います。家具を利用してもらうことで、 喜びだったり、驚きだったりと、何かその空間が人の感覚 や記憶に刺激的なものとして残ればと思っています。 ──家具は、空間からの刺激を促しているのですね。 そうですね。例えば、福岡大学に『モルフェシリーズ』と

福岡大学 60 周年記念館 モルフェシリーズ MOMENT- η (Photo Credit:浅川敏)

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INTERVIEW

茅野市民館

内観 (Photo Credit:浅川敏)

桐蔭学園メモリアルアカデミウム

内観 (Photo Credit:浅川敏)

どちらかを重視するっていうことはなく、必ず両方考えま

かい操作によって、建築や外の風景へ視線を誘導したり、

すね。例えば、古谷誠章さんとの協働作品である茅野市民

人と人とが目線で繋がったりできるのです。

館は、建築空間の高さはあるが幅が狭くて長く、斜路とい う非常に厳しい条件で、独特な建築でした。この市民館は

──普通に歩いているだけでそのような体験ができるとい

駅舎と直結しており、通勤通学時には皆近道して利用する

うことですね。

この細長い斜路の空間を図書分館として成立させるための 提案を行いました。図書館の利用者でない方も普通に利用

そうです。普段の生活のなかで、体験できる、誘われると

できるようにしつつ、ある程度図書館としての居心地をど

いう意味で、最近では「インフルエンス」するというよう

うやってつくるかが課題でした。両サイドガラスなので外

に考えるようになりました。例えば、槇文彦さん設計の島

の風景がよく見え、利用者は場所の特質を感じることがで

根県立古代出雲歴史博物館では、受付のカウンターを出雲

きます。なので、視界が本棚で邪魔されず、外の様子や近

の空気が封印されているような家具にしたくてね。出雲の

所の人、友人が見えるように背板を塞がず、視線が通るよ

神秘的な場所に家具をデザインするにあたって「気」の漂

うな5mm の鉄板で本棚をデザインしました。

いを表現しました。これ以降の作品は、割とインフルエン スということも考えて制作していました。

──桐蔭学園メモリアルアカデミウムの作品もかなり特徴 的で、私たち建築学生から見ると圧倒されます。

──なるほど、建築と人だけでなく、空気や気も積極的に 反映させること、それがインフルエンスなんですね。

かなり建築的ですね。作品集の中では家具的な機能をもっ た壁という表現をしており、私自身あまり家具と建築の境

プロダクトとしての家具

目がないと思っています。これは、栗生明さんと基本設計 の段階から、一緒にやりましょう、というような感じで始

──家具というジャンルのなかには、量産が可能なプロダ

まりましたね。シースルーのガラスの箱の中に階段があり、

クトとしての家具もあります。そういったものを製作され

階段の下には大学の事務室などが、上階にはレストランを

ることはあるのでしょうか。

つくるとのことでそれらをどのように設えていくかが課題 でした。どちらにしても階段の手すりやいろいろな物が出

いわゆる特定の建築空間を離れた家具ということなら、最

てくるので、空調、照明、情報機器などの設備類も全て、

近製作した『Synapse clover』というスツールがそれに当

この巨大な家具に入れてみてはどうかと提案して、このよ

たると思います。つまりこれは建築プロジェクト前提でデ

うなデザインになりました。

ザインしたものではない製品です。こういった試みは自分 のなかでは初めてでした。

──そういう点では建築らしい気がしますね。 ──プロダクトとしては初めてなのですね。どうして最近 そうですね。その分、 設計施工はとても大変でした。これも、

こういうものをつくろうとお考えになったのですか。

人の視線が抜ける、誘うための角度や高さで縦横のスリッ トの位置を慎重に決めたのです。壁を削ることで下にいる

そうですね。まず、特定の建築空間との関係だけで家具を

人が見えたり、神社の鳥居が見えたりするといいでしょ。

考えていると、少し広がりが限られてきますよね。その関

ただ大きな壁があるということではなく、一つひとつの細

係性から少し離れて、新しい家具のあり方があるのではな

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Furniture ‒ to have something to sit on Kazuko FUJIE

Synapse clover (Photo Credit:オカムラ) 左図:屋外に設置している様子 上左:横からアングル 上右:下からアングル

いかと思ったのが理由として一つあります。昔からどうし

──作品集では、例えば建築の基本設計や工事中など様々

てプロダクトとしての家具デザインをやらないのかと言わ

な段階からプロジェクトに参加されているというお話が書

れてはいましたが、なかなかその余裕がなかったり、依頼

かれていましたが、制作に携わるタイミングによって家具

がなかったりという背景がありました。そのなかでも、今

デザインの構想に違いはあるのでしょうか。

の時代の流れに合わせて、小径木とか間伐材をどう使って いくかというテーマを考えたかったというのがもう一つ

違うと思いますね。コンペを一緒に行うときと、基本設計

の理由です。そのような流れで、今回この Synapse clover

や実施設計の段階、もうすぐ建物が出来上がる竣工前では、

を製作しました。

それぞれ考え方が大きく違います。例えば、よくご存知の 岐阜のメディアコスモスは、コンペのときから一緒にやっ

──屋内と屋外どちらで使うかというのは使い手が選べる

ています。そうすると共有できることも幅広く深く、目指

のですか。

すところにずれが生じません。

このスツールははじめから屋外にも置けることを想定して

――藤江さんの側から建築に働きかけることはあるので

製作しました。そもそも、私は屋内でも屋外でも切れ目な

しょうか。

く同じように生活したい、同じ家具を使いたいという願望 があるんです。だから、インテリアとエクステリアの違い

同列にいるわけではないけれども、意見は申し上げますね。

がよく話題に上りますが、そこに違いはないと思っていま

使う側の感覚というのに近いのだと思います。建築の方は

す。しかしながら、外で使いたいなと思う家具がなかなか

もっと広く大きな視点で、大きなところまで意識を持って

ないんです。だから自分でつくることにしたんです。これ

いるとは思いますけれども。つまり、全部総括的にものを

は三点支持ですからすごく安定していて、なおかつ少し重

考えると思います。テキスタイルの人はテキスタイルのこ

さがある。だからちょっとした風くらいでは飛んでいかな

とを考えていますけれど、彼らも建築家の大きな範囲のな

い。屋外でも使えるとなると、そうしたことも考える必要

かで動いているという意識をもっていると思うのです。そ

があります。

のような意味では、私たちは他のデザイナーとは併走する というか、そうするとはいっても一つの中にいるから、目

建築家との協働

指すものは同じところになるということになりますね。

〜家具制作を取り巻くもの〜 ──ここからは建築家と家具という関係性に着目していき たいと思います。藤江さんは様々な建築家と協働されてい ることが多いように見受けられますが、そのなかでも伊東 豊雄さんとの協働作品である多摩美術大学の図書館は印象 的だと感じました。前回のリレーインタビューに登壇して いただいた満田さんともこの時に出会われたとお伺いして います。このような建築家との関係性のなかで作品が生ま れていくプロセスについていくつか質問していきたいと思 います。

みんなの森

ぎふメディアコスモス

内観 (Photo Credit:浅川敏)

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INTERVIEW

──具体的に、多摩美術大学の図書館についてお伺いし

具の配置計画が書かれていました。このとき想定されてい

ます。建築家である伊東豊雄さんとどのように協働し空間

た本棚は、7段か8段くらいの背の高いものでしたね。ま

を構成されたのでしょうか。

ず建築の簡単な模型を制作して空間の理解をするのです が、私の目にはこの図書館が森のように映りました。そう

伊東さんのことは昔からよく知っていたのだけど、仕事を

なると、本棚は考え直す必要があります。このように直線

するのは多摩美術大学図書館が初めてでしたね。この作品

的に本棚が並んでいると、森を歩くようには移動できない

は、とにかく時間がありませんでした。最初にお話をいた

からですね。また、せっかく建築がガラスで周りの風景が

だいた時点で、既に建築が着工していたのです。そのよう

見えるよう計画されているのに、背の高い本棚で視線が遮

なスケジュールのなかでも良い空間をつくることができた

られてしまうのは非常に勿体ないと感じました。そこから、

のは、建築がもっている特徴が明確だったから、それと伊

約1週間で私が提案できることをおおまかにまとめ、こう

東さんと私の考えに共通する部分があったからだろうと思

いうことが実現できるのであれば、このプロジェクトに参

いますね。伊東さんは当時多摩美術大学で客員教授をされ

加しますと伊東さんにお見せしました。これで本が入るの

ていたのだけれど、たまたま私も客員で同時期に同じよう

か、と驚いていましたね。

に学生に接していました。体験的に、また経験的に、学生 や周辺環境への視点が似ていたのだと思います。

──伊東さんは、蔵書を収納するためには本棚に高さが必 要だと考えていたのですね。

──時間がなく言葉で綿密に意思疎通を取ることが難しい 状況のなかでも、お二人の共通の観点があって建築と家具

私は、提案するにあたって蔵書の入れ方から考え直しまし

の向かう方向が一つになったのですね。

た。美術学生が主に利用するので彼らが手に取る頻度の高 い芸術系の本を中心となる空間に置くことにし、そこに背

そうですね。伊東さんからは図面を渡され、家具を見てほ

の低い曲線的な本棚を設計しました。そうすることで、建

しいと一言あっただけでした。最初にいただいた図面がこ

築の特徴が活きて、窓の外の風景を感じながらも森の中を

れ(次項上図)です。先程も言いましたが、この時もう着

散策するように本に出逢うことができるのです。文学や工

工していたのですよ。

学系の難しい本があっても手に取ることが必要となる機会 は少ないので、大きく開けた窓とは逆側に配置し、収納能

──家具のレイアウトが入っていますね。

力の高い背が高く直線的な本棚を密に配置しています。も う一つデザインについて言わせていただくと、美術系を入

そう、これで一応図書館として成り立ちますよ、という家

藤江和子アトリエによる家具配置検討

初期スケッチ

(スケッチ提供:藤江和子アトリエ)

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れる曲線的な本棚では、棚の有効高さ寸法を大きくとって

多摩美術大学図書館

内観 (Photo Credit:浅川敏)


Furniture ‒ to have something to sit on Kazuko FUJIE

多摩美術大学図書館 上図:伊東豊雄建築設計事務所による家具配置案 下図:藤江和子アトリエによる家具配置

旧図面

新図面 (図面提供:藤江和子アトリエ)

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INTERVIEW

います。小さな本も美術系の大判の本も入るし、そうでな

のが重要になってくる。一方で、公共のものは、できるだ

くても隙間が多くできるので、見通しが良くなりますよね。

け多くの人が喜んでくれそうなものをつくりたいとは思い ますよね。

──プロジェクト一つといっても考案された家具はたくさ んの種類がありますね。

──公共施設であれば様々な年代だったり、いろいろな立 場の方が使われる場面が多くあると思うのですが、そのこ

そうですね。取り組んだ期間は1年ほどだったので、短い

とについて何かお考えはありますか。

時間で一挙にできましたね。本棚に加えて机や椅子の数々 を設計しましたが、そのどれもが一つの感覚と思想のなか

どういう人がたくさん利用するのかというのは、施設に

から出てきています。繋がりがあるので、違和感がないの

よって違いますからね。大学の図書館なら大学生の方が絶

だと思います。

対的に多い。もちろん他の方も来るでしょうけど、大学生 が主体になるわけですから、大学生にとってどうあったら

──複数の家具も一つの思想から出てくるというお話があ

いいかを考える。ですが、大学生にとってどうあったらい

りましたが、その思想は建築や利用者、また敷地環境、つ

いかということを考える時にも、自分が利用者であったら

まり設計の条件から出てくるものとおっしゃられているよ

どうあったらいいか、と私自身に問います。

うに聞こえました。藤江さんの内に存在する思想から作品 をつくることはありますか。

──自分が使う立場になったときのことを考える、という ことについてもう少し詳しくお伺いしてもいいでしょう

それはほぼないと言っていいですね。建築が先にあらわれ

か。

るところから、私の家具設計は始まります。自分が作家で あるという意識はありませんので、何らかの場、ヴォイド

自分が使うんだったらこうあったらいいな、というのは絶

としての環境が必要であり、そこからインターフェイスや

対にある。自分がいいと思うものならば他の人にも勧める

インフルエンスする思想が起ります。

ことができる。自分で良くないなと思うものはつくりたく ないですね。

社会と向き合う 〜公共空間における家具〜 ──藤江さんは、これまで公共空間に設置する家具を多く 設計されています。このような家具と、住宅内の家具とで は、設計する際に全く違う条件が与えられると思います。 ここからは、社会という枠組みのなかで設計される家具に ついてお話をお伺いできればと思います。 ──まず、公共施設に設置されるような家具を考える際に デザインで特に考慮される点があればお伺いしたいです。 私の場合ほぼ 80%以上が公共施設の家具です。民間の施 設であっても、共有スペースの家具が多いので、全て公共 という意識があります。住宅の世界っていうのはそこに住 む人のために考えればいいだけだからその人の意向という

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──デザインにおいて、何か特殊なものだったりすると、 自分がとても良いと思っていても、他の人から見ると嫌な 感情が起きてしまうということもあると思います。なんで もないものだったら皆が使えるのに、と。 でも、なんでもないものを皆が使ってくれるかどうか、喜 んでくれるかどうかは、断言することはできません。あま り好きじゃないなと思う人は何人かいるかもしれない。け れども、つくろうとしているものは家具であって、好き嫌 いを超えたものがあるわけですよね。家具があることに よって恩恵を受ける人もいるわけですから。ちょっともの を置くとか、立ち止まってスマホを見るといった役割をも つこともあるかもしれないし、取り止めのない空間に様々 な仕草を生む、そういうとっかかりを生み出すこともある かもしれない。いろいろな形で役割を提示できたらいいん


Furniture ‒ to have something to sit on Kazuko FUJIE

じゃないかと思いますけどね。そういう時に、全ての人に

──建築の空間が時代と共に変わっていくのに対して、藤

受け入れられるようなニュートラルなものがいいのかって

江さんは自然と変わっていくということでしょうか。

いうのは、必ずしもそうではないと思います。私は建築も 家具もメッセージがあった方がいいと思うんですよ。

建築がどういった材料でどのようにつくられているかに よって、そこに置くべき家具の姿は変わっていくと思いま

──伝わるものがないといけない。何か時代によっても一

す。私は建築の空間の中で活動しているので、社会が変わ

般大衆の見る目みたいなものが変化したりすると思うので

ると建築が変わって、建築が変わるから家具が変わってい

すが、それによって家具のデザインも変わったりするので

くという力がはたらくことはあると思います。

しょうか。 ──それと先ほどコロナウイルスの話に触れさせていただ 見る目は変わっているでしょうね。40 年前に多くの人が

いたのですが、今は人と人との接触があまり好ましく思わ

建築をどう考えていたかというのは今と全然違いますよ

れていない社会になってしまっています。例えば京都大学

ね。ただ、それに合わせて家具のデザインが変わるという

のベンチでも、本来は人が座れるはずのところにバツの印

よりは社会の考え方に沿っているのだと思います。

がされていて、半分しか人が座れないようになっており、 残念だなと思うことがあります。このような大きく変化す

──藤江さんはどのように変わってきたのでしょうか。

る社会において家具が果たす役割というものも何か変化が あると思われますか。

やはり私は、高度経済成長期から 80 年代のバブルを経験 しています。その時の社会の建築空間に対する見方は今と

その例の見苦しい理由の一つは、一つの家具なんだけれ

は全然違います。現代にとって建築は生活する環境であっ

ど、そこに一人ずつしか当てはまらないデザインだからで

て、私たちを取り巻く環境という視点はすごく重要なわけ

すよね。調整することができない。状況によってちょっと

です。80 年代にはそのようなことは言っていなかったで

離れたところに他の人が座るということができないつくり

すよ。

になっています。だからそのような見苦しい風景ができる わけですよね。もっと自由に利用できるようにすればいい

──現代だと地球温暖化といった環境問題が取り沙汰され

のにと思います。今、距離が近いことが良くないと言われ

るようになっていますが、Synapse clover のようなプロダ

ているのは感染防止のためだけの話であって、この一時的

クトをつくられたのもそのような背景が関係しているので

なことに対しては使い方を規定する必要がないと私は思い

しょうか。

ます。個々人の間で対応できるようになっていれば良いと いうだけです。

80 年代には現在のような環境問題はまだ注目されておら ず、ガラスや石だとか高価な材料をふんだんに使ったイン テリアがたくさんできていました。ただ、やはり今つくる とすればそのような環境問題に着目して、木材だとかの再 生可能な素材に意識をもたないといけないと思います。 ──そのような変化というのは建築の流行と一致している ものなのでしょうか。 そうですね。建築もやはり変わると思います。昔と今では 仕上げだって違うじゃないですか。

目黒セントラルスクエア (Photo Credit:浅川敏)

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INTERVIEW

──そうですね。普通のときでも使えるけど距離を取らな

──実際に触れて感じるという視点は建築学生にはあまり

いといけないときでも移動することができる。そうすれば

馴染みのないものだと思います。では建築学生が家具を見

見苦しい風景にならない。

たり触れたりするときに、こういうことに注目してほしい ということはあったりしますでしょうか。

私は感染症の流行などでデザインが大きく変わるようなこ とは、あまり意味がないと思うんですよね。ただ人の動き

建築を学んでいる学生はやはり建築を見に行くことが多い

が変わるということに対応するのはいいと思いますし、密

でしょう。その際に、建築の中にある家具を使うことで、

に座っていいときとか、やっぱりあんまり密に座らない方

建築と家具を一緒の空間体験として捉えてほしい。そして

がいい場面っていうのがあるわけですから。それは利用者

やはり触れてほしいなと思います。使って、触れるという

が選べばいいだけの話です。だから、状況に対応できるよ

体験なしで、ただ見るだけではあまり意味がないと思いま

うに選択が可能になっている方がいいですよね。親子は別

す。そこに人がいないとあまり意味がない。家具というの

にくっついて座ってもいいですし、それぞれがそれぞれの

は人がいて、実際に使うことで初めて成立するもの。です

関係で選べばいい。その自由こそが公共性だと思います。

から家具の写真のなかには人が写っていないと全く意味が ないと思っているんです。私の作品集には必ず家具とそれ

これからについて ──それでは最後に、これからの藤江さんの制作活動につ

を使う人の写真を載せるようにしています。 ──それはつまり家具を使う際の人の振る舞いを見るとい

いて伺いたいと思います。

うことでしょうか。

そうですね。今は少し難しい話で、特別何かがあるという

そうです。人がどういう動きや仕草をするのかには地域性

わけではないんです。これから Synapse clover のような

や国民性が出てきますよね。人の振る舞いは場所や風景に

オリジナルの作品をやらないわけではないのですが、そう

よって全然違いますから。そうした人々のリアルな空気感

いう機会や動きは今のところまだないですね。というわけ で、現実の今抱えているプロジェクトを確実に進めること になるわけですけれども、その他に何か建築家の方から依 頼があればそこでまた考えたいです。ただ、これからも建 築空間との関わりのなかでの家具製作は続けていきたいと

を感じ取ることが家具デザインでは非常に大切です。そし てこの考え方はそこに家具そのものがなくても同じだと思 います。実際にその国に行って、その地域に行ってみない とその場所に建つ建築について深く考えられないですよ ね。まずは人が生活している風景を見るということです。

思います。

どういう空気の中で、人々はどういう姿をしているのか、

『traverse』という機 ──ありがとうございます。また、

行った際にはそういったことによく気を配って見てほしい

関誌は主に建築学科の学生をターゲットにしています。建 築を学んでいる学生に対して何か一言いただければと思い ます。 私はリアル派ですから。実際に触るとか、触れて感じると か、できるだけリアルに自分の肌で体験して、そこから出 発して発想していって欲しいと思います。あまり頭だけで 考えようとしないことです。頭の中で全てを完結してデザ インしよう、設計しよう、というのは良くない考え方だと 思います。

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というのは体験してみないと分からない。例えば旅行に ですね。とにかく建築を考えるときも、家具を考えるとき も、その足元に人がいるかどうかですよ。建築の足元に人 がいるかは常に意識してほしいと思います。


Furniture ‒ to have something to sit on Kazuko FUJIE

インタビュー風景・藤江和子アトリエにて (撮影:編集委員)

藤江和子 1947 年、富山県生まれ。1968 年に武蔵野美術短期大学デザイン科卒業後、宮脇 檀建築研究室に勤務。その後フリーランスとなり、エンドウプランニングで家具 デザインを担当。1977 年にフジエアトリエ主宰、1987 年に(株)藤江和子アト リエを設立し、インテリアプランナー・家具デザイナーとして活動を展開。これ まで様々な建築家との共働の中で、公共施設内の家具やインテリアデザインを数 多く手がけてきた。 --1)TOTO ギャラリー・間のことで、社会貢献活動の一環として TOTO 株式会社が 運営する建築とデザインの専門ギャラリー。1997 年「藤江和子の形象−風景への まなざし」展を開催。

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INTERVIEW

2019 年 9 月 15 日、江東区海の森

現像された都市 モノ語りを聴く Developing a Nature of Urbanization —Photography to See Invisibles, to Listen to Silence 「モノ」を通して、人工性と自然の力関係を読み解く建築写

建築写真家

山岸剛

インタビュー

Takeshi YAMAGISHI

真家 山岸剛氏。 「写真は express( 表現 ) ではない、世界を認識するための手 段だ。 」そう語る彼の目には何が写っているのだろうか。パ ンデミックを経て我々を取り巻く都市はどう変わるべきな のか。彼の写真作品を通して、そこに宿る哲学を紐解いて いく。

聞き手=加藤安珠、中筋晴子、西田造 2021.9.9

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ZOOM にて


Developing a nature of urbanization—photography to see invisibles, to listen to silence Takeshi YAMAGISHI

建築写真との出会い

も含めて、先生からは大きな影響を今も受け続けています。 だから鈴木了二という人は、自分にとってまさに先生、師

――まずはこれまでの経歴や、建築写真家になられたきっ かけについてお聞かせください。 学歴としては早稲田大学政治経済学部経済学科を出て、 少し間をおいて、同じく早稲田大学の芸術学校空間映像科 に入学しました。当時は映画に関心があって、写真はやっ ていませんでした。写真術に惹きこまれ、本格的に始めた のは 24、5 歳くらいでしたでしょうか。なかでも建築を 撮るようになったのは、もともとあった都市や風景への関 心からだと思います。学生時代は旅が好きで、さまざまな 場所を訪れました。観光地に行くというよりは、フラフラ とまちを歩きまわっていました。その土地土地の風土とい うのか、風景の雰囲気を、飲んだり食ったりもふくめて堪 能していく感じですね。今も変わりません(笑)。そして そうした風景というのは、簡単に言うと人間がつくったも の、つまり建築物と自然とから出来ていました。土木構築 物などもふくめた人工物のいろいろなかたちと、自然物と が織り成されて風景が出来ている。そのことが、建築とい う人工性への興味を素朴に募らせました。まちを歩いて風 景を眺め、その空気感を味わうなかで、建築物が粒立って 見えてくるようになりました。 私が写真術に興味をもった当時は、日本では「私写真1」 的なものが世の中を席巻していました。しかし、私はまっ たく興味がありませんでした。自分自身の生活をセンチメ ンタルに、感傷たっぷりに眺めて撮影する行為にまるで共 感できなかった。そういう状況のなかで写真術に手をそめ、 どちらかというとはっきりとした「かたち」、またウェッ

匠であると考えています。 もちろん食い扶持としても意識しながら、こういったこ とが合流して、建築写真を撮るようになりました。卒業後 は、建築だけでなく商業空間やインテリアなどの撮影も手 がける商業写真事務所に3年ほど勤めたのち、独立しまし た。 ――写真を本格的に始められていない段階からも、現在の 作品に通じるような視点はもっておられましたか。 当時から、個々の建築物だけではなく、建築物と自然と が織り成されて生まれる雰囲気に興味がありました。当然 ながら、風景は目に見えるフィジカルなかたちの組み合わ せで出来ているわけですが、それと同時に、目には見えな いその場の雰囲気というのも、自ずと生まれてきますよ ね。その場全体の感じ、空気感。風景というものを考える とき、私にとってその両者は分離することのできないもの でした。 しかし、ひっくり返すようですが、当時から「空気感」 とか「空気」とかいう言葉遣いが嫌でなりませんでした。 「空気感」なんてものは、写真には写らないからです。写 真に撮れるのは目に見える具体的な個物、すなわち「かた ち」だけです。ですから、個々の建築物のかたちに、この 曰く言いがたい「空気感」とやらを、いかにして呼び込む か、それを考えなければいけませんでした。

トなものよりドライなものが好きだという、自分の嗜好性 も影響して、建築写真に進んでいったのだと思います。

形式性と写真の自由

建築家の鈴木了二 さんとの出会いも大きいです。私が 入学した芸術学校の空間映像科は、鈴木先生が立ち上げた

――独立後はどのような活動をされていたのでしょうか。

学科で、先生がやるならと、その一期生として入ったので す。在学中はいろいろと目をかけてもらって、先生の竣工

独立してからは、写真事務所での修行でガチガチに身体

したばかりの建築作品を撮影させてもらったりもしまし

化されてしまった建築写真の形式性、慣習みたいなものを

た。私にとっての、はじまりの建築写真です。写真や建築

ときほぐす作業をしていました。たった3年弱ではありま

といったジャンルに関わらず、作品をつくり、それを世の

したが、商業写真事務所で撮影をすることを通じて様式化

中に発表していく。そのときの社会への態度や距離感など

された身体で、いわばフツーの、そこいらの風景を撮影し

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INTERVIEW

たら、何というか、カチカチのこわばったものにしか仕上

化している状態。本来、形式というものはその先にあるも

がらなくなっていた。それこそ先ほど言った「場の雰囲気」

のをこそ捉えるために要請されるのに、今の建築写真にお

みたいなものがまるで写らなくなっていました。これはま

いては、形式性が自己目的化して終点になっている。そう

ずいと思って、三脚に大きなカメラを載せて撮影するやり

いう意味では、独立後の「学びほぐし」の時期は、形式と

方から、手持ちの中判カメラに持ち替えて、東京中を歩い

いうものが本来捕獲することのできる豊かさを、より多く

て撮影することにしました。学んだ(= learn)ことを、

呼び込めるような、そういう身体の在り方を模索していた

学びほぐす(=unlearn)感じでしょうか。なにせ仕事なん

のだと思います。

てとんとなく、暇だけはありましたから、とにかくカメラ を首にぶら下げてひたすら歩いていました。

――そのような豊かな形式性をもった建築写真として、影 響を受けた写真家の方はおられますか。

皆さんもご存知のように、建築写真というのは、とても 形式性の強い写真です。4 × 5(シノゴ)3 などの大判カ

もちろんです。先ほどお話ししたように、いわゆる「私

メラを三脚に据えて撮るのが通例です。水平性・垂直性で

写真」が流行していた当時、私は見るべき写真などないと

あるとか、対象への光の当たり方、物体のヴォリューム感

勘違いをして、美術館で絵画作品ばかり見ていました。し

の出し方など、いろいろと約束事が多い写真だといえま

かし写真家の畠山直哉4さんの作品と、彼の非常に精緻で、

す。私は基本的に、こういった形式性をとてもポジティブ

同時にふくらみのある言葉は常に追いかけていました。

に捉えています。絵画や建築の図面などが培ってきた技法 のように、3次元のものを2次元に、空間を平面に変換し

また、これはずっと後のことですが、建築写真家の二川

てあらわすために必要な手順が、建築写真の形式性にも流

幸夫5さんにも影響を受けました。二川さんには、日本建

れ着いているといえるからです。写真は若く、 「古き良き」

築学会の会誌『建築雑誌』の編集委員を拝命した際、お話

建築や絵画に較べると、個々の作品が属する系譜や伝統と

を直接伺うことができました。二川さんの写真はそれこそ

いったものはほとんどありません。さらに誰でもが撮るこ

王道の建築写真といった感じ、というかその王道的な在り

とができ、膨大な、今や天文学的な量の写真イメージが

方を二川さんたちがつくりあげたわけですが、そこに写る

日々生み出されています。そうしたなかで建築写真という

建築の懐の深さが明らかに違います。個々の建築物を撮っ

ジャンルは、絵画や建築の知と技術の体系が注ぎ込まれた、

ているんだけれども、それを超えて、その背後にその建築

つまり伝統と呼ばれるのにふさわしい蓄積が流れ込んでい

物が抱え込んでいる、建築の歴史までも余さず捉えてしま

る、ほとんど唯一の写真ジャンルではないかと考えている

う、そういう大きさ、偉大さ、英雄性といったら大げさか

のです。

もしれませんが、そういうものがある。彼の建築写真は、 建築物単体を撮っているのにそれが風景となっている、そ

だから私はこうした形式性を信頼しています。伝統のな

んな感じもある。建築の後先というのか、建築物がそこに

かで培われてきた形式性こそが、現代の雑多なものごとを

建ったあとに風景がどのように変わっていくのか、という

一手に受けとめることのできる、豊かな、まさに現代的な

ことと、その建築物がその前に建築の歴史の何を背負って

ものであるからです。でも今、そこここで見かける建築写

やってきたのか、ということを同時に見てとることができ

真の形式性というのは、たんに生硬な、間口の狭いものに

るような、そういう射程の深さがあるように思います。

4

4

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なっているように見えます。画面の水平垂直さえだしてお けば建築写真になる、とでもいうような安易さに、形式が

形式性ということに関連してもう一つ付け加えると、写

堕しているように見える。建築というのはあらゆる雑多な

真は「受けとる、受けとめる」メディアであると私は考え

ものが寄せ集まって一つのかたちに結晶化するのに、この

ています。ですから、私にとって写真は express、すなわ

ような凝り固まった形式性では、建築の限られた側面しか

ち表現行為ではありません。express というのは自分の内

とらえることができないのではないか。いわば形式が目的

なるものを外に押し出すわけですが、写真はカメラという

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Developing a nature of urbanization—photography to see invisibles, to listen to silence Takeshi YAMAGISHI

箱を媒介にして、その向こうにあるものを受けとめ、それ をフィルムに定着させるものです。それはカメラという機 械による知覚が、人間的なそれではないからこそ可能にな ることでもあります。カメラは、人間の、行動にいたる知 覚とは違って、何が役に立つのかという取捨選択をしませ ん。カメラという箱、この小さな建築物に到来するすべて を平等に、意図しなかったもの、意図しえなかったものも 含めてまるごとフィルムへ受けとめることができます。人 間的な知覚に限定されることなく生け捕りにされた世界の 在り様にまずは驚いて、そこから新しい、いかなる人間的 な意味を見いだすことができるのか。こここそが、写真家 である私の仕事場です。4 月に『東京パンデミック』とい う本を出した時、ある写真評論家が「山岸の写真は表現じゃ ない、世界を認識するための手段だ」と評して6くれまし たが、まさにその通りです。

人工と自然の力関係ーモノ語りー ――山岸さんの近著『東京パンデミック』では「モノ語り」 というキーワードが出てきます。モノから人の振る舞いを 読み解くという意味で使われていたと思いますが、あらた めて「モノ語り」についてお聞かせください。 まず前提として、人間とは関係のない、人間的な関係性 に入る以前の世界の在り方に、カメラによる知覚はアクセ スすることができると考えています。カメラというのはま ずは、端的に言って機械なわけです。これは写真の黎明期 から言われていることですが、やはりカメラで見るという ことは、人間が見るということとはまったく違う。人間は 何かをするために知覚し、行動します。ある有用性のもと で、末端で知覚し、それを中央つまり脳で組織化し、行動 に至る。しかしカメラは本来、そういうものとは無関係で す。機械的な知覚であって、末端で知覚してそれでおしま い、中央/末端の回路もありません。つまり非中枢的で非 選択的、無用な知覚であるといっていい。 たとえばハリウッド映画などに代表される映画において は、このカメラによる、本来非中枢的な、断片化した知覚

写真1

2020 年 1 月 29 日、大田区城南島、城南島海浜公園

のイメージを、人間的な知覚に模していくようにして繋ぎ、

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INTERVIEW

編集することで一連の線的な時間をこしらえていく。非中

という自然、異界からやってきたモノが、ある日、人工の

枢的な知覚を、あたかも人間が見ているかのようにいわば

大地に贈り物として届けられた。それ自体はただの物質な

擬装して、それを繋げることで一つの人間的な物語=ナラ

んだけれども、人工性の集積である都市へ、自然という「向

ティヴをつくっていく。でもそもそもカメラによる知覚は、

こう」側からやってきて、「向こう」側の何がしかを人間

人間の知覚とか、人間の認識や行動とは何の関係もないも

に伝える、たんなる物質以上の贈与物。

のです。ただの機械ですから、もっと直接的で即物的。 ちなみにこれは本にも書きましたが、「むこう」という言 だからカメラによる知覚を、人間的なものに飼い慣らし

葉の語根には「むかし」 、昔ですね、があるそうです。 「む

ていく罠をくぐり抜ければ、 (現在の)人間的なものに絡

かし」は、 物理的な過去をあらわす「いにしえ」とは違って、

めとられる前の、もっと野生的で、酷薄な世界の在り方に

まさに「向こう」からやってくる。夢やモノ語りや昔話の

アクセスできる。私の写真は「人がいない」とよく言われ

ように、人間がコントロールするすることのできない「向

ますが、それは人間をことさら意識して排除しているわけ

こう」から、期せずしてやってくるものです。そういう意

ではなく、カメラによる知覚の形式そのままに、人間のみ

味では、モノというのは自然そのものである、と言ってい

を特筆してとらえていないだけです。よく見れば人間もい

いのかもしれません。人間の意図を超えた、人間がつくる

ますよ、主人公じゃないだけで。人間も、建築物や動物や

ことのできないものとしての自然、その何たるかを人間に

昆虫やらと同等に写っていてほしい、というか少なくとも

伝えるモノ。

カメラの前では当然にみな平等で、それぞれ異質で、それ らがある関係をもって存在しているわけです。

少し前に『東京パンデミック』の刊行記念イベントで、 文化人類学者の今福龍太7さんと対話させていただきまし

私は、「モノ語り」の「モノ」を、「物質であって物質以

た。その時「モノ」について、今福さんがとても刺激的な

上のもの」というニュアンスでカタカナを使っています。

お話をして下さいました。今福さんが長年通われている、

感傷的で思い入れたっぷりの、過剰にヒューマンな「物語」

沖縄や奄美で聞き取りをされた時のお話です。われわれの

より、カメラが即物的に捉えた「モノ」としての風景が語

ように、概念語で考える習慣を身につけた人間は、 「憲法

る「モノ語り」のほうが、よっぽど克明に、そして冷徹に、

(Constitution) 」という言葉から何らかのイメージをつか

動物としてのヒトを、人間の内なる「自然」を見せてくれ

むことができます。そしてこうした言葉から、 たとえば「自

るのだと考えています。

由」や「平等」といった抽象的なことを考えたり、それを もとに行動することもできる。

――山岸さんの言う「モノ」とはどのようなものなのでしょ うか。

しかし、沖縄や奄美の人々にとっては、もちろん十把一 絡げにそういうのではありませんが、憲法という概念語は、

物質であって物質以上のもの。物の怪(モノノケ)のモ

端的に言って、生きられていない。自分たちの生活を左右

ノ。幽霊じゃなくて妖怪だ、なんて書きましたが、いった

するようなものとしては存在していない。そこで今福さん

い何でしょうね……(笑) 。

は、彼らにとって「憲法」に匹敵するものはあるのか、あ るとすればそれは何なのかを尋ねてまわったそうです。い 4

4

4

4

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例えばこの写真【写真1】は『東京パンデミック』の冒

わば「憲法」を言い替えていく、すると何になるのかを聞

頭に載せた写真ですが、これだと「モノ」の含意を言葉に

いていった。そして、紆余曲折あって出てきた言葉が「ム

しやすいかもしれません。これはいわゆる「寄り物」、漂

ン知らせ」という言葉だったそうです。 「ムン」というの

流物ですね。城南島という東京湾の南端に浮ぶ人工島に、

は沖縄では「モノ」という意味です。私たちも「ものの知

台風か何かで流れ着いた、それは見事な木の塊でした。異

らせ」と言いますが、ちょっとニュアンスは違っていて、

界から意図せずして届けられた、異物としての贈り物。海

例えば「ムン知らせの水」とか「水のムン知らせ」とかい

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Developing a nature of urbanization—photography to see invisibles, to listen to silence Takeshi YAMAGISHI

写真2

うように使われる。

2011 年 5 月 1 日、岩手県宮古市田老野原

を超えて、そういった「モノ」になる、それこそ化けてい く可能性があるのだと私は思っています。それは、物質で

河川のほとんどない奄美の島々では、降った水が大地に

あって物質以上で、そこには自分たちの生活を律してくれ

浸透して、地下の珊瑚層に溜まり、そこから水を汲み上げ

る筋道が書き込まれている。だから「モノ語り」というの

て生活する。だから水の存在は決定的に重要で、水のある

は、人間が主体的に、声高に主張するものではさらさらな

ところに人が集まり、集落が出来る。水は恵みをもたらす

く、 「ムン」あるいは「モノ」を受けとめて、そこに書き

し、もちろん悪さもする。悪さというのも、われわれが言

込まれている理(ことわり)を謙虚に読み取り、書き出し

うところの「災害」とは、やはり少しニュアンスが違うと

ていくべきものだと思います。そしてそれは半ば以上は受

思います。そういう自分たちの生活する世界の秩序が書き

動的な事態で、先ほどの写真というメディウムの特質とも

込まれたムンすなわちモノとして、水があるというのです。

響き合うものではないかと思います。

それを「ムン知らせの水」とか「水のムン知らせ」とかい う。人間だけにとどまらない、世界全体を律する理(こと

――建築物でさえも自然を媒介する「モノ」となりうる、

わり)が書き込まれた、抽象かつ具体のモノ=ムン。憲法

ということですが、山岸さんにとっての建築とはどのよう

を言い替えていくとモノになる、というのは、聞いて私も

なものでしょうか。

興奮しました。「憲法」がわれわれにとっていかなるもの であるべきかを、強く考えさせられます。

建築が撮れた、という強い実感をもつに至った写真を2 点挙げます。

だから、この流れ着いた木の塊も受けとめ方によっては、

これは 2011 年 5 月に東北で撮った写真です【写真2】 。

まさにそのような「モノ」となりうる。もっといえば、建

津波被災後間もない岩手の沿岸部、宮古市の田老という場

築物という人間がつくったものでさえも、たとえば使い込

所です。東北地方太平洋沿岸部を継続的に撮影する以前は、

んでいくなかで、あるいは廃墟になって、ある閾(いき)

主に東京で仕事をしていました。当時、建築写真や建築そ

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INTERVIEW

写真3

2010 年 4 月 6 日、 「森山邸」

のものの在り方に強い疑問をもっていました。東京にはあ

いくというか、コントロールできないものを露わにすると

らゆる種類の建築物が林立していますが、それらの人工物

いうか、そんな野生的な、ほとんど獰猛といっていい感じ

は「人工性のための人工性」のなかで自閉していると思わ

があります。誤解なきように急いで付け加えますが、もち

れてなりませんでした。そんなときにこの写真にあるよう

ろんこの建築はきわめて秩序立った作品であって、ここに

な光景に出会って、何か吹っ切れたような、清々しいよう

佇んで時を過ごすと、私はいつも身体全体で多幸感さえ覚

な気持ちになった。建築という人工性が、それが真に向か

えます。だからこの建築作品が統合されていないとかそう

うべきもの、すなわち「自然」と正しく向かい合っている。

いう意味ではまったくありません。そうではなく、アナー

植物が太陽に向かうように、建築という人工性が自然に向

キーなものに場を開くとか、コントロールできないものを

かっている。その底の抜けたような健康さに感動しました。

露わにするというのは、私の言葉でいえば「自然」という

この写真がなければ、その後の9年間、東北に通いつづけ

ことです。「森山邸」という一つの建築すなわち人工物が、

ることはなかったと断言できます。

東京において、人工物で埋め尽くされた東京において、 「東 京の自然」をあたらしく創り出した。「人工性のための人

もう一枚は 2010 年に撮った、 西沢立衛8さん設計の「森

工性」のなかで自閉しているかの東京に、この建築物が置

山邸」の写真です【写真3】。これは「田老」の写真より

かれることで、あたらしく「都市の自然」という概念を創

以前に撮影したものですし、いわば「平時」の写真ですが、

造した。その感じが、この写真で撮れた、というかこの写

この2つの写真は相通ずるというか、たがいに響き合うも

真を見て、そんなことを考えるに至りました。これも私に

のとして私にはあります。

とって、とても大切な写真です。

4

4

基本的に建築というのは統合していくというか、コント

――山岸さんはこのようないわゆる建築スケールの写真だ

ロールしていく技術だと思うのですが、この「森山邸」と

けでなく、ディテールレベルから、都市スケールまで幅広

いう建築物はむしろ逆に、場をアナーキーなものに開いて

いスケールで写真を撮られています。「人工的な力と自然

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Developing a nature of urbanization—photography to see invisibles, to listen to silence Takeshi YAMAGISHI

の力関係」を撮ることと、山岸さんの作品のなかに様々な スケールがあらわれることは関係しているのでしょうか。 私はすべての写真において「人工性と自然の力の関係 性」、その界面をこそ扱っているつもりです。写真をはじ めたころは、いわゆる風景写真を撮っていたわけです。そ ういう写真って、前景中景後景じゃないけど、画面のなか に距離感のレイヤーがあるわけですね。一方でいわゆる建 築写真のような写真は、これを撮ってます、という明白な 対象すなわちオブジェクトがはっきりしている。だから距 離感が一定している、あるいは単一です。そうしたスケー ルの異なる二種類の写真は、両立できないのだと考えてい ました。つまり、例えば展示をするときなど、両者を並べ ても共存しない、やっぱりスケールが違う写真はどちらか 一方を外さないと上手くいかないのだと考えていた。でも 風景を受けとめる実感からすれば、成立しないのはやはり 自分の写真がおかしいのだ、とも考えていた。 建築物単体、土木的な風景、都市の全体、人間のいる近 景など、ことなるスケールの写真を同じ写真として等価に 扱えるようになったのは、やはり 2011 年の震災以降だと 思います。その時に自分は風景そのものというより、一段 抽象度の高い、力の関係性こそを見ているのだと気付きま した。つまり「被災」とか「復興」ではなくて、風景にあ らわれる人工性と自然の力の関係性ですね。こういった 「関 係」性からすれば、遠いも近いも、大きいも小さいも問題 ではなくなって、いわばスケールレスになる。写真の見方 が、写真に写っているものそのものというより、その力の 「関係」という、ロジカルタイプの一つ高い話になる。だ から実際写っているもののスケールは背景に退く。

建築空間をどのように撮るのか ――建築写真家として建築家と共に仕事をする際に、意識 していることはありますか。 建築家と協働する上では、もちろん、まずは建築家の設 計の意図を尊重します。その上で、建築物は建築家の意図 のみで出来上がるのではないし、ある特定の個別具体的な 場所に建ち上がるものですから、そうした設計意図以外の ものもひっくるめて写真に定着させたいと思っています。 あらゆる意図や要素を、どれか一つだけ突出させることの ないやり方で、建築のかたちも、かたちに流れ込むものも、 そこから生ずる場の雰囲気もまるごと写真に定着できたら 素晴らしいですね。そしてそんな写真を建築家に見せて、 これこそ自分が設計した建築だ、と言ってくれたら嬉しい ですね。もちろん「建築写真」なんだけれども、撮った写

写真4 「淡路町の家」 (設計:西片建築設計事務所)

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INTERVIEW

写真5 「物質試行 48 西麻布の住宅」(設計:鈴木了二建築計画事務所)

真を例えば建築業界の外にいる人に見せても驚いてもらえ

超えていく。

るような、そういう写真になるよう心がけています。 「カッ コいい建築の写真だね、キレイだね」だけでは、私として は満足できないですね。

これらの写真は、設計者がしるしづけた、そうしたかた ちのルールをそのままなぞるようにして撮影しています。

その上で、建築家が設計した建築作品を撮る場合は、そ

そしてそれら一つひとつの部屋を、一挙に全体として撮る

の建築での空間経験とパラレルな、 平行するような「イメー

のではなく、差異=しるしづけられた特徴的な部分を、断

ジの経験」を、写真作品としてつくりあげたいとも考えて

片として撮っています。つまりよくあるように狭い部屋を

います。

超広角レンズでひと息に見せるというやり方ではありませ ん。「部分以上、空間未満」くらいの断片を二枚一組にし、

――建築空間と同じような経験を写真で構築するというこ

さらにその二枚組と他の二枚組を照らし合わせていく……

とですが、そのように撮影された作品をご紹介いただけま

というようなかたちで写真作品として提示しました。

すか。 今回、二枚組の写真を5セット用意しましたが、このよ 9

これは西片建築設計事務所 による「淡路町の家」を撮っ

うに個々の組み合わせを、そして組み合わせの組み合わせ

た写真【写真4】です。敷地面積八坪の、とても小さなこ

を眺めていくと、たとえば額縁が開口部のように見えてき

の住宅では、建物の真ん中にある階段室を介して、各層2

たり、テキスタイルが窓外の緑と連動するように見えてき

部屋、計8つの小さな部屋が積層しています。各部屋はお

ます。設計者の意図したしるしに導かれて、建物の外部や

およそ同じ大きさ、同じ仕様でデザインされながら、開口

居住者の家具調度や装飾までもが重なり合い、その重なり

部の位置や壁の傾き、天井の高さなどによって明確に差異

のイメージ経験と、空間の経験がパラレルに進行していく。

づけられています。一つの主題が8回、ズレを孕みながら

そんな写真作品を目指しました。

変奏されていくようにして設計されている。 2 つ目の例が鈴木了二さんの住宅です。 だからこの建築作品の空間経験においては、ある部屋に いると、そこにある差異=しるしに導かれて、かつていた

――この写真をはじめ、山岸さんの建築写真にはパノラマ

他の部屋が想起されてきて、意識の上での行ったり来たり

が多く用いられていますよね。

をくりかえすことになる。設計者は「同時に行けない場所」 と、とても興味深い言い方をしていましたが、「同時に行

はい。実はこの住宅は2回撮影しています。この写真 【写

けない」からこそ意識の上で反省的に、 空間の経験的な「広

真5】は2回目のものです。最初はこの住宅を 4 × 5(シ

がり」が形成され、それは実際の部屋の「広さ」の感覚を

ノゴ)のフォーマットで撮影していたのですが、どうもう

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写真5 「物質試行 48 西麻布の住宅」(設計:鈴木了二建築計画事務所)

まくいかなかった。この建築は、あけっぴろげともいえる

答えしたように、私の建築写真には2つの系列があるので

ような漠とした大きさと繊細につくりこまれた細部、ある

はないかとも思っています。

いは漠たる大きさゆえのフラットな明るさと暗闇、のよう な通常相容れないものが同時に存在していて、撮影してい

先の「田老」や「森山邸」などの写真は、まさに「人工

るときの一方の実感がのちのち裏切られていくような、曰

性と自然の力関係」 を扱う系列。やり取りされるエネルギー

く言いがたい空間経験でした。ぼやっとしてつかみどころ

が大きい。対「世界」といっていいかもしれません。

がないと同時に細部が際立ってくる。あるいは体を包み込 むような過剰な明るさに、差し込んでくるような暗さが、 ふいにやってくる。

もう一方は、それに対して、対「社会」的なもの。制度 的なものを扱う系列というのか、建築なのか建築家なのか 分かりませんが、それらの制度、社会的なものの平面の上

そんなわけで通常フォーマットのフィルムで撮影した1 回目は、なんだかたんにぼやっとした、つかみどころのな

で、 そのゲームを組み替えていくようなやり方。エネルギー の移動は、前者に比較して、さほど大きくない。

い写真になってしまった。で、いろいろ考えた挙句、6 × 12(ロクイチニ)というパノラマフォーマットのフィル

対「世界」とか対「社会」とかいうのは、画家のポール・

ムで撮影してみることにしました。このフォーマットだと

セザンヌをモデルにしてよく考えるからです。セザンヌは

画面の上下が暴力的にカットされてしまうわけですが、す

一方でルーヴル美術館にひたすら通いつめて、それまでの

ると茫漠たる空間の手前に唐突にディテールが大きくあら

巨匠たちが築きあげた絵画の約束事、形式的なことを猛勉

われたり、満面の明るさの一隅に漆黒の暗部が明滅するよ

強する。しかしもう一方で彼にはサント・ヴィクトワール

うにして見えてきた。いってみれば、反省的な意識の上で

山という、彼にとってはどうにもいかんともしがたい、動

のみ同時に存在したものが、フィルムの上でもきちんと存

かしようのない山すなわち「自然」が厳然と在る。その「異

在できるようになった。これで撮れるな、とすぐに分かり

質さ」に挑むようにして、彼はひたすらもがきながら、そ

ましたね。

れを描きつづける。セザンヌにとってルーヴルが「社会」

――山岸さんは建築写真を撮っていて、どのような建築が

が水平軸でのやり取りだとすると、後者は垂直軸的といえ

面白いと感じていますか?

る。

だとすれば、サント・ヴィクトワール山は「世界」。前者

うーん、難しいですね……。基本的には今言ったように、

対「世界」と対「社会」は、両方共になければならない

個々の建築物に即してしかお答えできません。ただ、いみ

ものです。ただ、現在は「社会」的なものがやけに声高で

じくも2つのご質問に2つのやり方で、具体例を挙げてお

すから、 「世界」的なものに振り切ってしまいたい、そう

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INTERVIEW

すべきだという思いもある。また、さきほどお話し

とき、一つの建築物に、人間の学と術の膨大な蓄積がいか

たカメラというものは、対「世界」にこそ有効だと

に流れ込んでいるかを垣間見て、圧倒されました。それま

いう気もします。

では私自身も、やはり「建築=建築家」的な等式で考えて いたように思います。編集委員長の中谷礼仁先生が、建築

ほとんど思いつきの比喩です。答えにまったくなっ ていなくてすみません……。

というのは雑多なものをあまねく受けとめる器である、と いうようなことをおっしゃってました。まさにそうしたも のをまるごとごっそり生け捕りし、見る人がそこから、建

――建築家のつくる建築を撮るときに、他に意識さ

築の豊かさを様々に読み込むことができるような、そうし

れていることはありますか?

た建築写真でありたいと思います。

その建築について知り過ぎないことでしょうか。

東京を撮っていてーオリンピックとパンデ

もちろん、図面を見たり、下見したりもしますが、 作品へのリテラシーを事前に、過度にもたないよう にはしています。それこそ建築家の設計意図を把握 し過ぎると、それをイラストレートするだけの写真 になりかねない。一方で建築家の意図を読めないと、 それはそれで仕事になりません。半分理解して、半

ミックー ――コロナ禍によって写真の撮り方などに変化はありまし たか。

分白紙のような体勢で、現場で向き合ったときの感 じ方や身体の反応を大切にしています。どちらかと いえばアタマより、カラダのほうを、感覚を信頼し ています。 ――そのような態度は『東京パンデミック』でも書 かれていた、「都市に対してストレンジャーでありた い」という態度とリンクしているのでしょうか。 そう思います。東京という都市に対しては特にそ うですね。私にとっては、もう中学生のころから、 さんざん見知ったまちですから、ストレンジャーあ るいは「異人になる」とも書きましたが、そういう 立ち位置に意識的に身を置かない限り、東京で写真 を撮るなんてことは難しいと思っています。実際、 ほとんど撮れません(笑) 。

基本的に変化はありません。さきほども申しましたが、 写真はやはり具体的な個物を、あるいはモノに即してしか 撮ることができません。もちろん震災、原発事故そしてパ ンデミック以後、同じ写真が以前とは違う読まれ方をされ るということは大いにありえますが。 『東京パンデミック』刊行以後、引き続き取り組んでい る東京の写真をご紹介します。まずこれは 2021 年 6 月 25 日に撮影した築地の写真です【写真6】。この写真の画 面左手をさらに南下していくと、オリンピック選手村に行 き着きます。選手村と都心部を直線でつなぐべく、築地市 場は取り壊されたわけです。当時、この築地市場跡の巨大 な空き地は、新型コロナウイルスのワクチンの大規模接種 会場になっていました。先の本でも「東京オリンピック・ パラリンピック」に「パンデミック」を添えて、 「トーキョー、 4

4

4

オリンピック、パラリンピック、パンデミック」と韻を踏 4

同じように個々の建築物についても、設計のこと とか、建築家をめぐるリテラシーが突出してしまう と、どれも同じような写真にしかならないのではな いかと思っています。以前、2010 年から2年間、日 本建築学会の会誌である『建築雑誌』の編集委員を、 会員でもないのに、恐れ多くも拝命しました。その

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む ようにして書きましたが、まさにこの写真では、オリ ンピックという祝祭とパンデミックという疫病が、トー キョーという都市で出会っている。 私が本でそんな風に韻を踏んで読んだのは、2020 年の 8 月に品川の「日本財団パラアリーナ」という東京オリン ピック関連施設の駐車場が、コロナ感染者の療養用のプレ


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ファブ小屋で埋め尽くされている光景を見てのことでし

験は肉眼では得られませんよね。

た。このとき私は、オリンピックに関するさしたる背景知 識もなく直観で、このように韻を踏んで言葉にしたわけで

私もこの写真を仕上げて、紙にプリントした時には思わ

す。しかし、これも先の今福龍太さんと対談した時に教え

ず息を呑みました。写真は express ではないと言いました

ていただいたのですが、古代ギリシャにおいて、都市アテ

が、写真はやはり、あとで驚くんですね。もちろん撮影を

ネで原初、オリンピックという祝祭が執り行われた背景に

しているときはこの光景に反応して夢中で撮るんですが、

は、トロイア戦争の戦没者を弔うと共に、どうやら疫病す

そのあとで、プリントして、写真をモノとして眺めたとき、

なわちパンデミックがあったということでした。つまり都

そこに在るものに、はじめてのように驚きます。

市において、オリンピックとパンデミックが出会うのは、 ほとんど必然と言ってもいいのではないか。トーキョーで、 オリンピックとパンデミックは 2021 年、出会うべくして

都市の自然、コントロールされる都市

出会ったのではないか。東京オリンピックをひと月後に控 えたこのとき、築地市場跡を見下ろす駐車場の最上階でこ の光景を見て、私は思わず身震いしました。今ここの、こ の東京が、都市というものの根源的な、ほとんど神話的な 時間に触れているのを目にしているようで、思わず震えた のです。 その意味では、この「トーキョー、オリンピック、パラ リンピック、パンデミック」に決定的に欠けているのは死 者たちであるといえます。2011 年 3 月の震災であるとか、 新型コロナのパンデミックによる死者の追悼という卑近か つ具体的なことをいっているのではありません。東京とい う、すべてをコントロールし尽くそうとする都市には、死 者という他者あるいは死という自然が欠落しているように 思われるのです。 もう一枚のこの写真【写真7】は、東京を南の端から見 返した、いわば東京の全景です。画面奥に林立する東京の 建築群の手前の、この海の面(おもて)のざわめきとひし めきを見てください。これこそが「モノ」だと思います。 この波立つ表面、この震えに目を凝らすと、この都市が排 除してきた死者たちの声が聞こえてくるように思われるの です。これこそが「モノ語り」を聴く、ということだと思 います。この二枚の写真は、11 月から、東京の赤坂で大 きくプリントして展示する予定ですので、ぜひ実物を見て ください。

――昨今、環境技術が発展して、緑化をした建築などもよ く見かけるようになりました。それらもある意味では自然 といえるのでしょうか。山岸さんにとっての自然とはどの ようなものか、お聞かせください。 専門的なことは分かりません。たしかにオフィスビルや 商業施設で植物や植栽が溢れ返っているのをよく見かけま す。だけどこれらはすべて、人間によってつくられたもの、 人間のためにつくられたものですよね。つまり、人間のた めの自然。人間によって、人間が意図して、人間が計画し てつくった自然。既に馴致された、コントロールされた自 然です。その意味では、都市ではあらゆるものがことごと く人工物であって、自然でさえも人間がつくったものだと いえる。だから反対に「自然とは何か」と問われたら、山 川草木といった文字通りの自然物ではもはやなく、人間が 意図してつくったのではないもの、人間が意識的につくっ たのではないもの、計画してつくられたのではないもの、 それを「自然」というべきではないでしょうか。 人工性と自然の力関係を撮る、なんて言ってたら、東京 に自然なんてないわけです。自然でさえも、人間によって つくられていた。すべて、あらゆるものが、人間が目的を もって、意図してつくったものになっていた。それしか存 在していない、というか存在を許されないような場所に なっていた。だから、いわゆる山川草木といった「自然」 ではないようなやり方で、「自然」を定義し直さなければ

――どちらの写真も震えるような光景です。このような体

ならないと思っています。

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INTERVIEW

Takeshi YAMAGISHI

写真6

30

2021 年 6 月 25 日、中央区築地、築地市場跡、東京都築地ワクチン接種センター

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INTERVIEW

写真7

――人工性のための自然というと、庭園のようにコ

2021 年 5 月 29 日、江東区海の森

――他の都市、例えば京都はどうでしょうか。

ントロールされた自然は昔からありますよね。その ようなものに対してはどうお考えですか。

以前京都に滞在したとき、友人のお宅にしばらく泊めて もらいました。時間があるときはそこから周辺をずいぶん

もちろん、自然をコントロールすることすべてを

散歩しました。すると住宅地で唐突に、名前を聞いたこと

否定するわけではありません。それを否定したら、

もないような、かつての天皇のお墓に出食わしたんですね。

人間の生活はそもそも成り立ちません。建築物に植

それもけっこうな数で出食わした。さらにそれは具体的な

物がたくさんあるのも素晴らしいことだと思います。

死者ですらなく、ほとんど神話的な人物が埋葬されている

私自身、植物が大好きで、自宅でたくさん丹精込め

墓なわけです。まちをフラフラしていると、いきなり「古

て愛でています(笑)。だから大事なのは、人工性と

代的」なものがヌッとあらわれて、面食らった。今の東京

自然の力関係、そのバランス、つまり力の「均衡点」

じゃちょっと考えられない。東京の風景ががんじがらめに

ではないでしょうか。おっしゃった庭園がいいもの

コントロールされていて窮屈だと言いましたが、この京都

だと感じるとしたら、それはそこでの人工性と自然

の天皇の墓から考えると、東京にはひたすら「現在」しか

の力関係、その力の「均衡点」がいい具合になって

ない、ともいえるかもしれません。なんだかわけの分から

いる、だから心地いい、ということなのだと思いま

ないもの、手の届かないもの、さきほどの「向こう=むか

す。そしてさまざまな場所で、 その場特有の「均衡点」

し」じゃないですが、そういったものの手触りがあるほう

があるのだし、 もっといえば、その「均衡点」はフィッ

が、やはりまちとして健康だと思います。

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クスしたものではなく、動いていく ものなのだと思 います。

――そのような自然との良いバランスを築くためには、ど のように都市と付き合っていくべきなのでしょうか。

植物でてんこ盛りの商業施設などを含む、今の東 京の風景は、その均衡点が「人工性」に振り切れて

地震や津波、目下のパンデミックといったいわゆる非常

いるように思います。つまりすべてを人工的にコン

時でなくとも、平時の日常的な風景のなかに、さきほど言っ

トロールし尽くそうとしていて、それが私にはとて

た意味での「自然」は在るのだと思います。

も窮屈に感じます。そういう意味では、今私が東京 中を車で走り回って風景を精査しているのは、この 4

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力の「均衡点」を動かしていく ような、よりいいと 4

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この写真【写真8】では、ごく日常的な風景のなかに、 不定形な塊が転がっています。実際には、ただのアスファ

ころに動かしていく ような、そうした可能性を孕ん

ルトの残骸です。人間の意図で隙間なく、計画にあまねく

だ風景を見いだすべく仕事をしているのだと思いま

貫かれたこの都市に、意図のまるでない、目的のない、 「で

した。

きちゃった」アモルフな、無意識の塊がゴロンと投げ出さ れるようにして在る。なんてことはない光景です。たいし

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写真8

た写真とも思えない。が、私たちはこうしたモノに、今さ らのように驚いて、目を瞠るべきだと思います。「自然」に 意図はありません。目的もない。ただ、存在している。で もそれが、面白い。いま人間がつくるものより、よっぽど 面白い。そしてそうしたモノが世界にはごまんと在ること を、都市はほとんど忘れようとしている。そうしたモノに 4

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驚き、さらにいえば、ある程度それを放っておく。コントロー ルし尽くそうとしない。そのくらいの度量の大きさ、もっ とおおらかな「構え」みたいなもの。ある種の「諦念」といっ てもいい。そうしたものを取り戻す必要があるのではない でしょうか。

2020 年 7 月 12 日、江東区海の森

注釈 1) 私写真 : 撮影者の私生活を題材として、プライヴェートな出来事を感傷的に写 す写真のこと。荒木経惟の『センチメンタルな旅』 (1971)などに代表される。 2) 鈴木了二 : 建築家。主な建築作品に「佐木島プロジェクト」(1996、日本建築 学会賞)、「金刀比羅宮プロジェクト」(2004、村野藤吾賞)など。 3)4 × 5(シノゴ): 4 インチ× 5 インチのシートフィルムを用いた大判カメラ。 大判カメラの中でも最も一般的に使用される。 4) 畠山直哉 : 写真家。 自然・都市・写真の関わり合いに主眼をおいた作品を製作。 代表作に、『LIME WORKS』 (1996)など。 5) 二川幸夫 : 建築写真家、建築批評家。出版社「A.D.A.EDITA Tokyo」を設立し、 建築専門誌『GA JAPAN』などを発行。 6)URL : https://www.tokyo-np.co.jp/article/105852 7) 今福龍太:文化人類学者、批評家。クレオール文化研究の第一人者。著書に『群 島―世界論』(2008)『小さな夜をこえて』(2019)など多数。 8) 西沢立衛: 建築家。妹島和世とのユニット SANAA としてプリツカー賞受賞 (2010)。代表作「森山邸」(2005)、「豊島美術館」 (2010)など。 9) 西片建築設計事務所: 2000 年、小野弘人・西尾玲子・森昌樹によって東京に

よくよく考えれば、人間も自然そのものなわけです。ど

設立された建築設計事務所。

うしたって病気になるし、自分の身体は自分ではいかんと もしがたい。自分の身体は自分で意図してつくれない。自

山岸剛

分の身体は、結果「できちゃった」ものなわけです。そし

写真家。1976 年、横浜市生まれ。早稲田大学政治経済学部および同大学芸術学校

て、どうあがいたって死ぬ。私はかつて、人工性と自然が 「対峙する」という言い方をしていましたが、浅はかでした。 そんな風に截然(せつぜん)と分けられるものではない。 人工性と自然の力関係を見極めながら、その界面を探りな がら、目を凝らさなければいけないのは、人間の「内なる 自然」であると考えています。

空間映像科卒業。 人工性の結晶としての「建築」と「自然」との力関係を観察・記録する「建築写真」 を通して、人間の内なる「自然」を精査する。2010-11 年日本建築学会会誌『建 築雑誌』編集委員。 2014 年第 14 回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館チーム、写真ディレ クター。 写真集に『Tohoku Lost,Left,Found 山岸剛写真集』(LIXIL 出版)。近著に『東京パ ンデミック

写真がとらえた都市盛衰』( 早稲田大学出版部 ) など。

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INTERVIEW

今、建築をいかに伝えるか How to Communicate Architecture Now architecturephoto 編集長

後藤連平 Rempei GOTO

アーキテクチャーフォト ® の歴史

古くから建築家は自身の作品や思想を発信し、新たな仕 事に繋げる手段としてメディアを活用した。メディアはい わば建築を「包むもの」であり、その情報が今や無数に私 たちを「取り巻いて」いる。建築と社会の関係を視覚化す るメディア「アーキテクチャーフォト ®」を運営し、日々 建築情報を発信する後藤連平氏。 情報化が進み、建築と社会の関係が移り変わりつつある 今、建築活動を発信する目的は何か。氾濫している情報を 私たちはどのように受け取るべきか。建築を取り巻く社会 の変化のなかで、ウェブメディアの一つのあり方としての 後藤氏の取り組みに迫る。

聞き手:三嶋伸彦、齋藤桂、三田沙也乃、小久保舞香 後藤連平氏

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photo©Kenta Hasegawa

2021.8.14

於 オンライン会議(ZOOM)


How to Communicate Architecture Now Rempei GOTO

アカデミックとビジネスの両面で建築を経験

ミックな場で考えていた意義的な建築を追い求めるのでは

する

なく、いかにお金を払ってもらえるか、利益を最大化でき

――後藤さんがアーキテクチャーフォトを立ち上げるま でのこれまでの活動について教えてください。 生まれは静岡県磐田市です。高校生時代からファッ ションやデザインに関心があり、その流れのなかでプロ ダクトデザインを大学で専攻したいと思うようになり、 京都工芸繊維大学(以下、工繊大)に入学しました。今 は分かりませんが、当時国立大学でプロダクトデザイン を学べる学校は、工繊大と千葉大学の 2 校しか無かった んです。 工繊大は当時、造形工学科という学科の中にプロダク トデザインを学ぶ意匠コースと、建築を学ぶ建築コース がありました。そして一年生時には全員が基礎的なデザ インの課題に取組み、二年生になった時に、意匠に進む か建築に進むかを決めるという仕組みをとっていまし た。どちらに進むかは、とても迷ったのですが、様々な 建築家が椅子のデザインを手掛けていることを知り、建 築設計に進めばプロダクトの分野もカバーできるのでは ないかと思い、建築コースに飛び込みました。 三年生の後期からゼミに配属されるのですが、もとも と建築設計だけではなく、建築の周辺領域のクリエー ションにも興味があったこともあり、エルウィン・ビラ イ先生の研究室を志望しました。ビライ先生は、1990

るか、いかに短い時間で建築をつくるかが求められている んです。 でも、今から考えると社会というものを知るすごくいい 経験だったなと感じています。学生時代、特に意匠系にい ると、建築を自分がつくり出した「作品」の側面のみで考 えてしまうのですが、マンション設計などに関わると、痛 烈に建築の「商品」の側面を意識させられるんです。商品 として考えると、独創的な計画を立てたとしても、それが もし買ってもらえないと意味無いですよね。そうなると、 ディベロッパーも赤字になって、次から仕事がこなくなり ます。そういう、建築を「商品」として、ビジネスとして 設計をする、ということをそこで実感させられました。 そのあと、地元にある設計事務所で働きました。ここで は、木造住宅や耐震補強などの仕事をしていて、組織設計 にいた時にはあまり感じなかった、設計の仕事でお金を稼 ぐということの意味を実感しました。組織の規模が小さい とお金の流れがよく分かるんです。組織設計は、営業部、 設計部、構造部などに分かれていて、さらに基本的に大き なビルディングタイプを扱うので、なかなかお金の流れが 見えてこないんです。 このような経験の中で、設計事務所が「どうやったらこ の社会の中で生き残っていけるか」という視点が僕の中で 芽生えだしました。

年代当時『a+u』のエディトリアル・アソシエイトをさ れていて、ピーター・ズントーの作品集やヘルツォーグ &ド・ムーロンの作品集などもビライ先生の仕事です。

建築を発信することの可能性

また、大学院では古山正雄先生の研究室に入り、形態分 析や建築批評などを学びました。古山先生は『壁の探求』

――ネットでの発信活動はいつから始められたのでしょう

などの書籍で、安藤忠雄さんを理論面で支援した批評家

か。

として知られていました。 ウェブでの発信活動は大学院の時からずっと続けていま 卒業してからは、東京の組織設計事務所に就職しまし

した。最初に見よう見まねで立ち上げたのは、自身の学生

た。建築雑誌の出版社など、メディアの道も頭に浮かん

時代の作品を中心に掲載するウェブサイトです。ただ、既

だのですが、建築の実務を経験しなければという思いが

にそこで、訪問した建築の紹介や展覧会のレポートなども

強かったんです。当時はもし出版社等で編集の仕事をす

行っていたんです。その後、より閲覧してもらえるように

るにしても、建築実務の世界を知っていないと作品に深

考えて改良を加えたのが、自分がヨーロッパに行った際に

く迫れないのではないかと思い込んでいて。

撮ってきた著名建築の写真などをアップするウェブサイト です。これをさらに改良して現在の建築メディアのスタイ

組織設計事務所では、分譲集合住宅の設計部署に配属 されました。そこは大学院での研究の世界とは真逆の世

ルになっていくのですが、当時はそれが仕事になるなんて ことは考えてもいませんでした。

界で、ショックを受けました。分譲集合住宅は、最初か ら商品として「何千万円で売ること」が前提となってい るビルディングタイプなんです。大学院のようなアカデ

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INTERVIEW

――建築を学ぶ一般的な学生とは興味の方向性が大きく違 いますね。設計コンペに応募したり、研究に没頭していた り、というのがメジャーなイメージなのですが。 そうですね。大学院では同級生の多くが建築のアイデア コンペに応募していました。でも、僕はそれに対しては何 故かモチベーションが沸かなくて。もちろん、建築家にな るためには設計コンペで受賞歴を重ねていくことが大事だ ウェブサイト開設時 2003 年の作品レビューページ

とは分かっていたのですが、それをやるよりも、見に行っ た建物の写真と感想を自分のサイトにアップして、アクセ ス解析を見て何人が見てくれたという反応の方が面白くて やめられませんでした(笑)。一個人が部屋の中でつくっ たコンテンツを世界中の人に届けることができる。そんな ところにインターネットの面白さと可能性を感じていまし た。

――建築の情報発信をするにあたって、影響を受けたもの はありますか。何かきっかけがあったのでしょうか。 建築写真紹介ページ

ただ、ずっと発信したいという気持ちはあって、社会に

現在、武蔵野美術大学の教授をされている菊地宏さんと

出てからも設計の仕事と同時並行でウェブを使っての発信

いう建築家の方に影響を受けました。その方は僕よりも年

を行っていました。例えば、昼間会社でマンションの設計

上ですが、学生時代から自分のウェブサイトをもっていて、

をして、仕事から帰ってきて、夜にウェブサイトの更新や

ヨーロッパに建築旅行に行った時の写真や学生時代の作品

発信をするみたいな。半ば趣味的にですが、ずっと続けて

を載せていました。それがすごく面白くて、印象的でした。

いました。 その時はまだ、僕も独立して建築家になりたいと思って 2007 年に「アーキテクチャーフォト」という名前にあ

いましたが、直観的に、自分が独立する頃には、インター

らためて、“ 建築と社会の関係を視覚化するメディア ” と

ネットで自分の仕事を発信する時代がくるんだろうなと

して発信活動を始めました。アーキテクチャーフォトの認

思ったんです。当時はウェブデザイナーのような仕事が確

知が高まるにつれてだんだんとその比重が増していきまし

立していなかったので、独立した時にまずは自分でホーム

た。浜松にいる時からアーキテクチャーフォトの業務に本

ページがつくれないといけないのではと思いました。

腰を入れはじめていましたが、本格的にメディアとして活 動したいと、2018 年に東京に引っ越してきて、今に至り

レンタルサーバーを借りて、Dreamweaver というウェ

ます。一つのことに専念していたというより、設計の仕事

ブデザインをビジュアルで行うことができるソフトを使っ

をしながら、並行してネットの発信をしていた点が独特か

て自分のサイトをつくりレンタルサーバーにアップしたん

なと思います。

です。その過程は、すごく楽しくて、可能性を感じた瞬間 でした。 そ れ だ け ネ ッ ト に 面 白 み を 感 じ て 魅 了 さ れ た の は、 2000 年前後という時代が、インターネットの黎明期だっ たからだと思います。生まれた時からインターネットやス マートフォンがあって、物心つく時から持っていたら、当 たり前すぎて、可能性も何も感じないのではないでしょう か。

2007 年当時のウェブサイト

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How to Communicate Architecture Now Rempei GOTO

インターネットの世界に魅了される

思います。今であればプロの写真家みんなが自身のサイト をもっているので、依頼先はすぐに見つかると思うんです。

――学生時代のご友人のなかで、インターネット活動を一 緒に始めたり、教えてくれたりした方はいらっしゃったん ですか。 周りにはあまりいなかったんですけど、同時期にネット の面白さに気付いていて発信していた建築学生は日本全国 に何人かいました。当たり前ですが、ネットの良さって、 距離が離れていても、同じことに面白みを感じている仲間 がいることを感じられるところですよね。 そういう人たちが立ち上げたブログやサイトを見つつ、 自分も更新していました。彼らとも交流はありました。 Twitter のようなリアルタイムでインタラクティブな仕組 みではないのですが、BBS(電子掲示板、Bulletin Board System の略)という仕組みがあったんですね。BBS を自 分のサイトに設置すると、そこに訪問してくれた人が感想

初めての経験なのでやり方も分かりませんでしたが、藤森 さんと学園に許可をいただき撮影を行いました。デジタル カメラも普及していなかったので、35mm のポジフィル ムで数百枚撮影したものをイタリアまで送りました。現像 するまでしっかり撮れているか分からないので、その夜は 眠れなかったことを憶えています(笑)。実際に誌面に写 真が使われたのを見た時は嬉しかったですね。 そういう意味ではウェブでの発信を始めるには幸運な時 代だったと感じます。 いろいろな経験をするなかで、自分が書いたものや選ん できた情報が世界中に発信されて届いていることを実感し ました。今振り返っても、僕は自身が発信したものを見て もらうことにすごく喜びを感じる人間だったんだろうなと 思います。

を書いてくれて、それに対してコメントができる仕組みに なっていて、その中でやり取りしていました。 ――発信を始めた当初からサイトの閲覧者数は多かったの ですか。その数が一気に増えたタイミングのようなものは ありましたか。 意外にも、立ち上がりの当初から見てくれる人はいまし た。というのも、その当時はウェブサイトの数が圧倒的に 少なかったんです。あと現在では当たり前の、Google の ワード検索からサイトにアクセスするという仕組みも一般

イタリアの建築雑誌「domus 906 号」

化していませんでした。

生き残る確率を上げるために 当時は Yahoo !のディレクトリ型の「Yahoo !カテゴ リ」というものがあって、申請して審査に通過すると、リ ストに登録されるんです。そして、建築カテゴリだとこう いうサイトがあるよと Yahoo !のページに掲載されるの で、多くの人がそこから様々なウェブサイトにアクセスし ていました。そこに運よく登録されたこともあり、ビュー 数はゼロではなかったです。 もう少しあとの話ですが、こんなこともありました。地 元に藤森照信さんの「ねむの木こども美術館」が出来た時、 見学に行って公道から外観の写真を撮って、雑誌に出る前 にサイトに載せていたんです。そうしたら突然イタリアの 出版社「domus」から、フィーを払うから写真を撮ってき てくれないかという依頼のメールがきたんです。 僕のことを建築写真家だと思ったようですね。それも ウェブサイトが少なかったからこその出来事だったんだと

――2003 年にサイトを始めてからずっと設計の仕事と並 行してウェブの活動をされていて、その後完全にシフトし たという流れですが、どのような判断があって専業になら れたのでしょうか。 もちろん収益的な面でも、次第に得られる収入のバラン スが変わってきたという側面もあるんですけど、一番大き かったのは、ふと 10 年後の自分を想像したとき「どうし たら生き残れるか」を考えたところでしょうか。 当時、僕は静岡県浜松市に住んでいて、そこを拠点にメ ディアの活動をしていたら 10 年後生き残っていない気が したんです。様々な変化があるなかで、作品を掲載させて くれる建築家も、ジョブボードに掲載依頼をしてくれる設 計事務所も首都圏に集まっていました。ずっと行ってきた メールだけのコミュニケーションではなく、直接会ってお

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INTERVIEW

話しして関係性を深めていくことによって、10 年後僕自

社会や価値観の変化、その状況に応じて自分がもつスキ

身が建築の世界で生き残っている確率が上がるだろうとい

ルでやれることをやって、生き残ってきたという感じです。

う直感がありました。それで東京に拠点を移し、メディア

だからたぶんこの先も何らかの形でやることは変わってい

としての活動を展開しようと思いました。

くんだと思います。

――アーキテクチャーフォトを始めた当初は、旅行で撮影 した建築写真を載せる媒体だったとお聞きしましたが、現

――アーキテクチャーフォトは、収益面ではどのように運

在では建築情報のキュレーターのような役割や、建築作品

営されているのでしょうか。

を載せていくことがメインコンテンツになっていますよ ね。サイトの運営方針やメインコンテンツはどのように移

多くの試行錯誤をしてきたと思います。最初は Google

り変わっていったのでしょうか。どこかにターニングポイ

アドセンスという、サイト内に設置した広告がクリックさ

ントのようなものがあったのでしょうか。

れるとお金が発生するシステムを活用していましたが、こ れはアーキテクチャーフォトのようなリピーターの多いサ

コンテンツの変化に大きなターニングポイントのような ものは無くて、結構緩やかに変わっていったような気がし

イトには向かない仕組みだと分かり、うまくいきませんで した。

ます。2007 年にアーキテクチャーフォトという形になっ た時には、SNS が普及していなかったし、建築家が第三者

次にオンラインショップをつくったんです。初めは、古

のメディアサイトで作品を発表するということもまだ一般

物商の許可を得て建築の古書を販売していました。これは

化していない時代だったんです。そんな何もない時代に始

とても楽しくやりがいもあったのですが、更新作業や発送

めて、建築家がネット上に作品を発表する仕組みと習慣を

作業に割く時間が大きくて、メディア運営との両立が難し

つくってきたんです。

いことが分かりました。

2007 年から数年間は、アーキテクチャーフォトでは著

ならば量産品ならどうかと考え、オリジナルのバッグを

名建築家の設計した建築写真が掲載されているウェブペー

つくって販売しました。拠点としていた浜松は繊維産業の

ジをいち早く紹介していて、紙媒体に載る前の作品が、す

まちで、製造してくれる会社も見つかりやすかったですし、

ごく早く紹介されているサイトとして認知されていたと思

もともとファッション分野にも興味をもっていたので、無

います。でも、そのあと、SNS が普及したことによってス

理なく始められました。こちらも 10 年くらいいろいろと

ピードは SNS に取られちゃったんです。

試行錯誤をするなかで「アーキテクツバッグ ®」というプ ロダクトの開発に至りました。この名前で商標も取得し現

例えば、ある建築家がコンペで勝ったとします。そして 自治体や主催者側がこのタイミングで公開していいよって

在も販売しています。今累計で数千個売れているので、収 益の柱の一つになっています。

いうことを建築家の方に伝えて、その最善のタイミングで このコンペに勝利しましたという感じで SNS に投稿しま すよね。そう考えると、第三者が情報発信でその速度を上 回ることはほぼ不可能なんですよね。 そこで、あらためて自分にできることってなんだろうっ て考えました。 今は、膨大な建築を見てきた経験や、実務の現場で得た 感覚を生かして、建築家の皆さんのそれぞれの作品のなか にある固有の良さを編集視点と技術で引き出すことに務め ています。加えて様々なウェブサービスを用いることで、 個人で発信しているよりも作品を遠くに届けられる、とい うことがアーキテクチャーフォト独自の強みになっていま す。 アーキテクチャーフォトを情報収集源にしているマスメ

ウェブサイト収益化の取り組みの一つ 「アーキテクツバッグ ®」

このようにいろいろ試していくなかで、先ほども出てき た「アーキテクチャーフォト・ジョブボード」という建築 系の求人掲載サイトも始めました。開始して今年で約 10

ディアも多いようで、掲載作品がその後テレビに取り上げ

年になります。これも収益の柱になっていきました。当時、

られるなどの話もよく聞きます。

大手事務所や組織設計はリクナビなどの求人サイトを活用

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How to Communicate Architecture Now Rempei GOTO

していましたが、アトリエ設計事務所が求人情報を広く発

アーキテクチャーフォトに載ったという事実だけではなく

信する習慣や場所は全く無かったと思います。そういう何

て、その先に「新しい仕事を生み出したい」という思いを

もないところに道をつくってきたんです。

もっています。それが僕らの時代の建築メディアがやらな ければいけないことだと、徐々に自覚しだしました。

アーキテクチャーフォトというメディアに影響力があっ たこともあり、お金を払ってでも出してみようという方が

20 年前は、住宅だけをこれからずっと建てていけば、

運よく居てくださいました。加えて今は、企業の広告案件

建築家は生きていけるだろうという雰囲気があったんで

も増えています。建築設計者にアピールしたい商品や建材、

す。当時の文献を読み返していてもそういう風潮があった

建築コンペなどに関して、バナー広告やタイアップ記事を

のですが、いざ 20 年経ってみると新築を建てるだけでは

作成するなどして、商品 PR も手掛けています。

なくて、リノベーションの仕事も増えているし、店舗の仕 事も増えています。

なので、ある一つの事業で収益化しているというよりも、 アーキテクチャーフォトというメディアを中心として、そ

そういう変化のなかで建築家の方が、ただ業界内の評価

こに付随する様々なことで収益を上げているという感じで

を得られるというだけではなく、実際の仕事に繋がるには

すね。これは設計事務所にしても同じで、完全に個人のク

どうすればよいか、ということを常に考えてやっています。

ライアントからの仕事だけでやっているわけではなく、例 えば定期的に仕事がもらえる、企業からの仕事を同時並行 でやっている方もいます。

――具体的にはどのような形で、設計者の方々に仕事を繋 げていらっしゃるのでしょうか。

同じ設計でもいろいろなチャンネルがあると思うので、 そのように成立させている方々も多いと思います。

そうですね、アーキテクチャーフォトでは掲載する記 事に設計者のサイトのリンクを直に貼ったり、Instagram 等の SNS でも、設計者のアカウントを紐づけたりする等、 建築業界の内外で繋がりを産むハブとして機能するように 意図しています。 インターネットの仕組みとしてハイパーリンクというの はすごい発明だと思うんです。異なるサイトがリンクに よって繋がり、読者はクリックによって新たな情報と出会 うことができます。ネットがビジネスになると分かってか ら出来たサイトは、自身のサイト内で回遊してもらう事を よしとし、他サイトへの流出を嫌う傾向があるように見え ます。

アーキテクチャーフォトが実現させたポジティブなサイクル (SNS のフォロワー数は 2021 年 11 月時点での数値)

「評価」よりも「応援」を

アーキテクチャーフォトはネット黎明期から続くメディ アでもあるので、そのネットの良さを最大限生かしたいと 思っています。ビジネスの為にネットを使っているのでは なく、ネットに可能性を見出しそれが仕事にもなったメ

――アーキテクチャーフォトの方針である「建築家のため

ディアだからですね。そのスタンスの違いは大きいと思っ

にポジティブなサイクルをつくる」について、お話しいた

ています。

だけますか。 また反響という面で見ると、特に Twitter や Instagram 掲載する作品を判断している以上、評価の側面からは逃

では、数十万を越えるアカウントが閲覧してくれる建築、

れられないのですが、建築家を「評価する」というよりは「応

数万を越えるアカウントがアクセスしてくれる住宅作品も

援する」メディアでありたいと思っています。現代ではも

多く、クライアントの依頼候補先に掲載くださった建築家

はや「批評する」という行為が成立していないという側面

がリストアップされているという手ごたえもあります。

があるとも思うんです。 写真や資料を提供してくださった建築家の方に、ただ

設計者とクライアントの間に入って仲介料を得るマッチ

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INTERVIEW

ングサイトとか紹介ビジネスをやっている人や団体はたく

す方向性のなかでの「追求深度」のようなもので測りたい

さんあるんです。もちろん、そういうところから仕事を得

と思っています。つまり、 「こういうビジュアルの建築が

るというのもよいと思います。ただ、本当は建築家が自分

好きだからそれを載せる」というわけではなく、「その建

自身のサイトや発信を通して、直にクライアントから、仕

築がいかに固有の目的を追及できているか」で作品を見て

事をもらうのが一番よいと思っています。それは僕が設計

いるように思います。

事務所時代に下請け仕事や紹介の仕事をたくさんして実感 したことです。

僕の知識が全ての分野で十分にあるわけではないことは 承知していますが、どれだけ追及できているかについて、

なのでアーキテクチャーフォトは、そのような状況づく りに貢献したいという意識が強くありますね。

ある程度いろいろなことを見てきた経験のなかで判断して いるつもりです。

――雑誌など、昔からある媒体との違いはどのような部分 にあるのでしょうか。 第三者として見ていて、既存のメディアであれば、建築 の歴史性であるとか空間の新規性といったことを価値の中 心においている面があるのではないかと思っています。そ れと比較し、アーキテクチャーフォトでは、例えば、その 社会のなかでのあり方やプロセスなどに独自性が見られる 作品なども評価して紹介するようにしています。多面的な 価値観を伝えることで、読者がそういうやり方もあるん だ、と気づいてくれるように意識しています。アーキテク 「求人情報拡散」の仕組み (SNS のフォロワー数は 2021 年 11 月時点での数値)

「追求深度」を測りたい

チャーフォトは、そういう多様な視点が混在して載ってる メディアになっていると思います。

編集思想は意外に古いんです

――建築家を評価するのではなく、応援していくスタンス

――編集において、アーキテクチャーフォトの独自性が出

ということですが、そのようなメディアを実現していくに

ている部分はありますか。

あたって、どのようにして掲載する作品などを決定されて いるのでしょうか。

例えば同じ建築でも、それぞれのメディアによって着目 点は変わってくると思うんですよね。その外観が語るべき

建築を選んでいくなかでは、あらかじめ決めた視点があ

ところなのか、内装なのか、はたまた背景にあるコンセプ

るわけではないです。前提として建築は作品ごとに目指し

トなのか、設計するプロセスなのかみたいなところは変

てる方向性とか良さは千差万別だと考えていますね。作品

わってくると思っていて、最近はそれを表現しようと意識

ごとに他の作品と違うポイントのようなものがあると思う

しています。

のですが、それをうまくこちら側で見出して、伝えるべき ところを伝えるようにしているので、事前に「こういう視

数年前までは、設計者の名前と作品名があって、写真が

点があったら載せる」という型をもって作品に向き合って

並んでいるくらいのドライな方が作品をフラットに見られ

るわけではないですね。

ていいと思っていました。最近はもう少し、アーキテク チャーフォトらしい編集要素を出した方がいいのかなと

どんな作品にでもよいところは必ずあると思うので、そ

思っています。なので、タイトルの後にこういう作品です

の作品を紹介するとしたらどこをフィーチャーすれば一番

というふうに、短いテキストで少し補足するような構成を

よく伝わるか、という見方をしています。やっぱり、建築っ

とるようにしています。

ていろいろな可能性があると思っているんです。 掲載させていただく作品については、その設計者が目指

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加えて、写真を3枚選んで、建築家の方からいただいた 文章のなかから読むべきところを抽出して、その写真と文


How to Communicate Architecture Now Rempei GOTO

章を組み合わせることで、建築の使われ方や、「アーキテ

また、Instagram や Facebook など複数の媒体を使用す

クチャーフォトはこの作品をこう見ています」という個性

ることで、マス層にアプローチしていくことができると思

を伝えていくことができると思っています。

うのですが、やっぱりマス層と専門家に向ける説明の仕 方って変わるとは思っていて。業界関係者同士で話してい

ただ一方で、伝わるといってもそれは空気のようにさり

たら通じる言葉も、お客さんに対して同じ言葉を使ったら

げないものでよくて、「これはアーキテクチャーフォトっ

うまく伝わらないと思うので、伝え方を調整するというか、

ぽい」と感じられてしまうと、作品よりメディアが前に出

説明の仕方に意識的になると、より効果的なのではないか

てきてしまう状況になっていると思うんです。メディアと

と思いますね。

いうのは作品を伝えるための裏方的存在なので、いかに的 確にその作品の良さを引き出せ、それが作品自体の良さと して伝わるかが重要なのではないかと考えています。

――発信の際には、具体的にはどのような点を工夫されて いるのでしょうか。

だからそういった意味では、古い編集思想をもっている ウェブメディアであるという気がしています。ただバズれ

例えば、媒体によって選ぶ写真や順番などに工夫をし

ばいいとか反響があればいいという事ではなくて、その人

ています。SNS はフォーマットがあり、投稿する形を自由

が考えたことをしっかりと伝えていきたいです。

に決められないですよね。Twitter だったら写真を4枚掲 載すると、タイル状に1、2、3、4という順で並ぶし、

若い学生が本を読まないとか、ウェブメディアすら見て いないとか、建築家のことを知らないという話は聞いてい

Instagram だと2枚目以降の写真が見えなくて、1枚目の 写真をスワイプしないと次の写真が見られません。

て、でもそれって悪口ではないと思うんですよ。もしかし たらそれは伝え方の問題かもしれないじゃないですか。だ

その構造の違いはかなり大きくて、Instagram では、注

としたらどういう伝え方があるのか、というのを考えたい

目を集めるであろう写真を1枚目に置かないと、2枚目以

ですね。

降の写真が見てもらえないということなんです。

例えば、Twitter の 140 文字の中で建築の面白さを伝え

なので、例えば、夜景の写真なんかを意識的に1枚目に

るようにしていけば、そこから何人かは「建築って面白い

もってきたりもします。逆に Twitter だったら、4枚同時

な、もうちょっと深く知ってみよう」と思ってくれるので

に表示されるので、1枚目が必ずしも見せ場となる写真で

はないかと思います。そこからウェブサイトに移動して、

はなくても見てもらえます。なので、4枚の写真の組み合

図面を見るとか、コンセプトを見るという行動に繋がれば

わせのなかで建築の動線を表現してみたりとか、少しずつ

いいかなという気がしています。

変えています。

作者も気付かない魅力を発信する

くとしたら、そこが意識できているかどうかが大きな違い

些細なことかもしれませんが、不特定多数に発信してい になってくると思います。 ――建築家が仕事を得ていくにあたって、アーキテク チャーフォトはどのような役割を担っているのでしょう か。 建築家の方の代理でプロモーションをしている、という 側面もあると思います。全ての人が、自分でうまく作品の

「あえて設計事務所に頼む」選択肢を示す ――建築家が仕事を増やすためには、他にどのような取り 組みが必要なのでしょうか。

魅力にフォーカスして発信できるわけではないので、代わ りに建築家自身も分かっていなかった良さに気付いて、そ れをうまく今の SNS 社会の法則に載せて発信します。

お客さんが建築設計事務所を選ぶときのメリットを伝え ていくことも、必要だと思います。全ての人が、建築家が 考えていることとか社会的意義を理解して、依頼している

一般の人達にもたくさん見てもらえれば、その作品も認

わけではないと思うんです。

知されるだろうし、もしかしたら、建築家とか建築業界っ て社会をよくするために頑張っているんだとか、業界自体 の宣伝にも繋がってくんじゃないかなと思っています。

建築雑誌や建築メディアを見ると、やっぱり建築家の方 はとても深く考えて文章を書いているけれども、必ずしも

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INTERVIEW

依頼者がそれを 100%理解して依頼しているわけでもな

――他のウェブメディアと比較したときにアーキテク

いと思います。でも、建築家の意図とは異なっていても、

チャーフォトの特徴はどのような点だと思われますか。

そこに価値を見出しているから頼んでくれているわけで あって、どこに価値を感じてくれているのか、どう伝えた らよいかを意識するのが大事だと思います。

大きな違いとして、編集している僕自身の経験があると 思います。僕が他のメディアの編集者と違う点は、大学院 である程度アカデミックな視点で建築を見て、次に大規模

例えば、Instagram に「# マイホーム」とタグを付けて

な設計事務所で実務に関わって、その後小規模な設計事務

建築作品を投稿すると、面白いことに、ハウスメーカーと

所で仕事をした経験があることです。その過程で、建築の

かの住宅のなかに建築家の住宅の写真が出てくるわけで

アカデミックとビジネスの両方の面を知りました。

す。そうすると見た人に、世の中にはハウスメーカーだけ でなく設計事務所に頼むという選択肢がある、ということ

建築雑誌に載るような建築をつくろうと思うと、日本建

が伝わってくのかなと。そういう建築業界全体の宣伝も担

築の歴史や空間の変遷などを見て、そのなかで一歩継ぎ足

えればと思っています。

したような新しさを空間の中に埋め込む必要があると思い ます。

実際、Instagram をうまく活用している、住宅を多く手 掛けている建築家の方とやり取りすると、今は DM とか

その一方で、小規模な事務所で住宅を設計してみると、

で仕事をもらう時代だと言ってるんですよね。だから住宅

デザインといってもその方向性によって、お施主さんが価

で仕事をしていくためには、Instagram を活用していくこ

値を感じるデザインと、価値を感じないデザインがあると

とが今の時代に合っているのだと思います。

いうことが対話のなかで分かってくるんです。住宅を数多 く手がけているような建築家だと、そういったクライアン ト層が建築家に求めている空間を、実際の形にするうまさ

多様な視点で評価する

があります。実務を経験したあとだと、そういうこともよ く分かるんです。

――メディアには様々な種類がありますが、ウェブメディ アであるアーキテクチャーフォトと他のメディアの違いに ついて教えてください。 ネットだからと図面を出すことがはばかられるという人 は特に住宅などではいらっしゃいます。雑誌は物理的メ ディアで書店に行かないと見られないけれど、インター ネットだと世界中に公開されてしまうと考えているのかも しれません。逆に、誌面という物理的な制約がないので一 つのプロジェクトに対してたくさんの写真や資料を掲載で きるというメリットもあります。 また、雑誌のような紙媒体のメディアに載っていない住

それは、もしかすると建築の歴史のなかでの新規性を追 求しているわけではないかもしれません。でも、お客さん に設計の価値を感じてもらって、お金を払ってその建物を 建てたいと思ってもらえるとすれば素晴らしいことだと思 います。僕は、そういう作品がアーキテクチャーフォトに 掲載されていれば、こういうデザインをすることが、建築 家として生きていく方法の一つになるんじゃないか、とい うことを読者に伝えられるのではとも思っているんです。 そういうところが、アカデミックな視点とビジネスの視 点の両方を分かっているからこそのメディアであると思っ ていて、実務経験の無い編集者との違いだと思っています。

宅や建築がアーキテクチャーフォトには載っていることも 一つ大きな違いだと思います。それはもちろん編集の切り 口の違いであったりもしますが、アーキテクチャーフォト

メディアが変える建築のかたち

には視点の多様性があると思っています。 ――メディアによって建築が変わることはあると思います そういった意味で、ポジティブに物事を捉えて深読みし

か。

ていく見方をしてもらえると勉強になるかなと思います。 意匠系の建築学生が、学校の課題で新規性のある空間をつ

変わってしまう可能性はあります。例えば、SNS のアク

くろうとしたときに参考になるような建物という側面だけ

セス解析とかを見てみると、住宅だとこういう形の方が反

でなく、社会と接続したり対話している建築という視点で

響がいいということが分かってしまいます。そうすると設

も建築を掲載しているメディアなのかなと思います。

計者のなかには自分のアカウントの解析結果を意識的に チェックして、次も、反響があった建物と同じような外観

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How to Communicate Architecture Now Rempei GOTO

の建物をつくろうと思う人は出てくるのではないでしょう

現代を生きる学生たちへ

か。 それが成功するとは限らないけれど、設計者がアクセス 解析を見て、またこういう建築をつくってみようって思っ たとしたら既にメディアが影響を与えているということに なるのではないでしょうか。 そういった意味では「メディア環境が実際の建築に影響 を与える」可能性は SNS 時代にはより増えていると思い ます。

――現在、建築情報に限らずあらゆる情報が私たちのまわ りにあふれていますが、情報を受け取る際にどのような意 識をもつべきなのでしょうか。 情報の偏りを無くしていく意識をもつといいのかなと思 いますね。例えば、あるトピックに対して一つの意見だけ をみるというよりも、その全く反対方向にある意見もみる ようにすることが大事なのではないかと思っています。 片方だけの意見をずっとみていると、そこに正当性があ

――例えば、反響がよい形というのは具体的にどのような ものですか。 アーキテクチャーフォトの Instagram アカウントに掲載 させてもらっている住宅作品の解析結果を見ていると、 「外 観、切妻屋根、夜景」の3つの要素が揃った写真はすごく 反響が大きいという感覚があります。 僕が一つの仮説として思ったのは、写真はいまやある程 度のものはスマートフォンで誰でも撮れると思うんです が、夜景写真はプロの建築写真家でないとクオリティの高 いものが撮れない。だから、夜景の建築写真はインスタの タイル状に写真が並んだ画面の上で目立つのではないかと いうことです。やはり同じ性質をもつ写真が少ないと目 立って、注目されやすくなる側面はあります。 あと、もしかするとクライアント層の中に、住宅は切妻 屋根という憧憬のようなものがあるのではないかとも考え ています。 SNS 映えする作品をつくることが本質だとは全く思いま せんが、このインタビュー記事を読んだ人が、3つのポイ ントを揃えた建物つくろうって思うかもしれない。それっ て建築の限られた側面でしかないので、それを満たした上 でお施主さんの要望を満たすものを設計することは可能だ し、更にオリジナリティを加えることもできると思います。 なので、パラメータとしてそのような観点が入ってくるこ とがあるかもしれないですよね。 でもそれは今だけの現象なのかもしれないので、今後変 わってくることもあるとは思います。

るような感覚を覚えますが、全く逆の意見をみてみると、 こういう意見もあるんだなという新鮮な感覚を得られると 思うんです。自分がこういうふうに信じたいという想いは 人間の誰しもがもっていると思うんですが、振れ幅のある なかで真逆の価値観を知ってみると相対化できるようにな る、つまり、自分の立ち位置を測れるようになると思いま す。 僕の経歴とも重なると思うんですが、大学院でアカデ ミックに建築を研究した後に、組織設計事務所でマンショ ンは売るためにつくるものだという価値観の世界にいった ことによって、建築を歴史的に意味のあるものだと捉える 考え方と、完全に商品として捉える考え方という、ある種 真逆な2つの価値観を知ることができました。 それと同じで、情報収集をするときも、一つの意見だけ ではなく、その反対側にあるものも知ることで、多面的に 考えられるようになり、結果として自分の立ち位置が決め やすくなるのではないでしょうか。

――自己の判断基準が確立されていない学生の場合、どの ように情報と向き合うべきなのでしょうか。 一つ僕が思いついたのは、メンターのような、この人の 言っていることは信頼できるなという人を探すことです ね。 建築家でも Twitter とか SNS をやっている人がいて、そ れぞれ個性があるんですよね。だから共感する建築家を フォローして、その人が読んだ本を読んでみるとか、そう いうロールモデルのような人をネット上で見つけて、その 人が興味をもっている情報を追跡していくとか、そういう ところから始めていくといいかなと思います。 建築家でなくとも、自分がこの人は信頼できるなと思っ

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INTERVIEW

た人の発信を追いかけていくと、学びの出発点になると思

「建築業界の共有財産」として

うんです。それでだんだんこの人と考え方が違うなと思っ たら、そこを掘り下げていけばいいし、その違う部分が自 分の個性になっていくのではないかと思います。 これは情報に限らないですが、学生のうちは自分で判断 が難しいのだとしたら、既に社会的に認められているもの について、何がいいといわれているんだろうと考えること も大切だと思います。いいっていわれているものも、全て が同じではなくて、違う良さなんですよね。 なので、やっぱりたくさん見て、経験することかなと思 います。例えば、すごく斬新な空間で、写真一枚見ただけ ですごいなって思うものだったら、文章は読まなくてもい いのかもしれません。でも、アーキテクチャーフォトには、 空間が劇的でない作品も結構載ってると思うんです。そこ には、また別の良さやすごさがあるんです。なので何故そ れが載っているか、この作品はどんないいところがあるの かといった、ポジティブな深読みをしてもらって自分なり の答えを見つけて欲しい。だんだんとそういう経験が積み 重なっていくと作品を相対化できていくんじゃないかなと 思います。 僕は毎日建築家の作品写真を見ているし、たくさんの建 築にも足を運んでいます。そういう経験があるからこそ、 他の人が気付かないような作品の違いや特質みたいなもの を解像度高くみられるようになっているのかなと思いま す。

――アーキテクチャーフォトは今後どのように展開してい くのでしょうか。 規模を拡大していくというよりも、どうすれば、先に残 していくことができるのかという意識があります。例えば、 個人名を冠した設計事務所は、その方が亡くなったらたた んでしまう場合もあるし、組織として残っていく場合もあ ると思います。 僕はアーキテクチャーフォトという媒体をここまで育て てきて、作品を預かっているという認識がすごくあります。 今のままだと、僕がいなくなったらサイトがクローズして しまう可能性が高いので、先に残していけるような体制づ くりをしないといけないなと、ここ最近思うようになりま した。法人化したことや、編集パートナーの方々と特集記 事の構築を進める仕組みを始めたのもそういう理由です。 この活動を僕だけでやっていけるわけではないので、考 えていることを理解してくれる人に協力してもらって、僕 自身の経験をフィードバックして得られた知見を仕組み化 すれば、ある程度は継続性をもっていくのではと考えてい ます。 そうやって引き継いでいくフェーズを視野に入れなけれ ばいけないのかなとは思います。 「建築業界の共有財産」 として残っていくことがアーキテクチャーフォトの目標な のかもしれないです。

――建築家を目指す学生がこれから生き抜いていくために どのような工夫をするべきなのか、編集者の立場からのご 意見を伺いたいです。 僕は、建築設計者としての生き方はいろいろあると思っ ています。例えば、空間の新規性を追究して雑誌の表紙を 飾るような空間づくりを目指すというのも一つだと思いま すし、より幅広くクライアントとなる人が住みたいと感じ るような住宅に建築の価値を見出して、そういう建築をつ くる設計者を目指してもいいと僕は思うんです。 もしかしたら、学生の立場からすると、クライアントが お金を払いたくなるような住宅が作品として見えてないと いうことはあるかもしれません。それは実務経験を積まな いとやっぱり理解できない部分でもあり、僕も自分で設計 をしてみて、こういうデザインだとお施主さんが価値を感 じてくれるんだということがようやく分かるようになった んです。

――後藤さんご自身の目標についてもお聞かせください。 アーキテクチャーフォトでの建築作品の発信とは別に、 建築のビジネスの側面について、何か建築家の方へのヒン トになるようなものが本としてまとまったらいいなとも考 えています。例えば、自分たちのデザインをどのように価 値として伝えられるか、ビジネスとして成立させられるか、 というようなものです。実際に僕もそうでしたが、経営的 な側面も考えて仕事に取り組むことは、アカデミックに建 築を学んできた人達には、恥ずかしいというメンタリティ がどうしてもあるように思うんです。 でも、広く社会を見渡したり他分野の経営者と交流する なかで、お金を得ることはその分の価値提供をしているか らだと分かりましたし、そうやって考えていくことにより、 建築家が仕事を積み重ねることができれば、作品としてみ てもクオリティが上がっていくと思っています。そういう ビジネスの側面でも自分に伝えられることがあるのでは、

44


How to Communicate Architecture Now Rempei GOTO

ZOOM にて行われた後藤氏へのインタビューの様子

と考えています。 ただ、アーキテクチャーフォトは建築家が作品を発表す る、ネット上のハレの場みたいな存在でありたいと僕は 思っているので、そこに同時に経営やビジネスの話が入っ てくると、サイト自体のコンセプトが分かりにくくなるの ではないかなと思っていて、別のチャンネルが必要なのだ と思います。 アーキテクチャーフォトでは純粋に作品としての側面を 取り上げていきながら、それを補完する別の形で発信もし ていけたらいいのかなという感じです。note や Facebook では既にそういう発信を始めているのですが、建築を生業 として生き残っていくための考え方とかスキルについて、 ヒントが得られる発信を拡大していきたいという意欲があ りますね。

後藤連平(建築系ウェブメディア「architecturephoto®」代表) 1979 年静岡県磐田市生まれ。2002 年京都工芸繊維大学卒業、2004 年同大学大 学院修了。建築と社会の関係を視覚化するメディア「アーキテクチャーフォト ®」 編集長。アーキテクチャーフォト株式会社代表取締役。組織系設計事務所勤務の 後、小規模設計事務所に勤務。2003 年からウェブでの情報発信を行い、2007 年 にアーキテクチャーフォト ® の形式に改編。現在はウェブメディアの運営等に専 念し、建築系求人情報 サイト「アーキテクチャーフォトジョブボード」、古書・雑 貨のオンラインストア「アーキテクチャーフォトブックス」の運営等も手掛ける。 著書に『建築家のためのウェブ発信講義』 (学芸出版社)等、編著に『“ 山 ” と “ 谷 ” を楽しむ建築家の人生』(ユウブックス)等がある。

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DISCUSSION

設計を学ぶ君たちへ

- 京都大学設計教育 -

Dear those who study design 建築家 京都大学名誉教授

竹山 聖

×

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

建築家

建築家

京都大学大学院講師

京都芸術大学大学院教授

京都大学教授

小見山 陽介

岸 和郎

×

平田 晃久

Waro KISHI

×

Akihisa HIRATA

×

Yosuke KOMIYAMA

対談

撮影:編集委員

建築学科の学生を取り巻く大きな要素のひとつである、設計演習。我々を取り巻く教育環境は、属する社会やその 時代背景に複層的に包まれながら刻一刻と変化を遂げている。そんな中でも変わることのない「京大らしさ」とは 何なのか。様々な背景で建築を学び、そして指導者となった立場から、設計教育の今までとこれからに焦点を当てる。 教育者たちは今の設計教育に何を感じ、何を目指しているのだろうか。これがいずれ、学生らが自らの殻を破るた めの一助になればと願う。

46


Dear thoso who study design

岸和郎

平田晃久

竹山聖

小見山陽介

1970

1980

1990

2000

2010

2020 47


DISCUSSION

協奏的な教育を追い求めて In pursuit of collaborative education 建築家

京都大学大学院講師

竹山 聖

×

小見山 陽介

Kiyoshi Sey TAKEYAMA / Architect

×

対談

Yosuke KOMIYAMA / Architect

2020 年、竹山聖が退官し、小見山陽介が研究室を引き継いだ。これまで京都大学の建築設計教育を牽引してきた竹 山と、これからを託された小見山に話を聞いた。若き日に東京大学で建築を学んだ過去をもつ二人に、京大建築は どう映っているのか。学生達に寄り添い、ともに成長しようと歩む彼らの、指導者としての姿に焦点を当てる。

聞き手=岩見歩昂、川部佳奈、木下真緒、松岡桜子 2021.8.13

対面と ZOOM のハイブリッドにて

――お二人共、京大と東大両方の設計教育に関わられて、 どのように感じましたか。

僕自身、設計演習は一生懸命やっていましたが、大学院 で東大に入って、大きなカルチャーショックを受けました。

竹山――僕が京都大学に入学したのは 1973 年で、ちょう

例えば卒業設計なんかも圧倒的な差があって、天と地とい

ど激しかった学生運動が終わりかけていた頃です。そのせ

うか、話にならなかった。京大の卒業設計は僕ともう一人

いかどうか分からないですが、設計教育もある意味ルーズ

しか模型を作っていなかったけれども、東大はみんな模型

で、締め切りはかたち上のものでしたし、講評会もなく、

を作っていましたし、素晴らしいプレゼンテーションです

評価が分からないような状態でした。当時の製図室は解放

し、論理的ですし。あと、大きかったのは賞があることで

区みたいなところで、そこで建築の話をしたり、設計をし

すね。京大には賞もなかったですから。修士では、原広司

たり、なんかいろいろなことが行われている、それがただ

研究室に入りました。そこで原先生の背中を見て、あるい

ただ楽しかった。設計演習が好きになるかどうかで、その

は日常を見て、ああこういう存在ならば建築家になりたい

人の建築との対し方が変わると思いますけど、僕は好きに

な、と心から思いました。それまで漠然と建築の設計で生

なりました。建築ということを通して、様々なことを考え

きていければいいなと思っていたのが、クリアに、リアル

る場が与えられたっていう感じですね。しかも新たに、実

になったのが東大の修士の時期ですね。

際に、今何か建っていたり空き地になったりしているとこ ろに自分が考えたものを空想するわけですから、こんなに 面白いことはないと思いましたね。

48

小見山――僕が大学生だった 2000 年初頭の東大は、安藤


Dear thoso who study design Kiyoshi Say TAKEYAMA × Yosuke KOMIYAMA

忠雄先生が退任された後、隈研吾先生が着任される前の時

それからもう一つ行ったのは、外部との繋がりをつくる

代で、僕が三年生の時に難波和彦先生が着任されました。

ことです。東大に行って、東京の大学同士の交流が盛んで

難波先生がいらっしゃって設計演習が大きく変わったのを

あることに驚かされました。東京では、多くの大学で何ら

覚えています。

かの連携があって、みんな建築家になる夢をみていて成長 していく場がありました。関西にもそういうネットワー

それまでの東大の設計教育は、感性的な指導が多かった

クがあればいいなと思って、KASNET(Kyoto Architecture

と思います。それをみた難波先生は、東大の教育は数年に

School Network) を立ち上げて、一緒にコンペや展覧会を

一人の天才的建築家を生むかもしれないけれど他の多くの

する場を作りました。はじめは京都7大学ぐらいを繋ぎ、

生徒への教育が為されていない、と感じてやり方を変えよ

後に関西の様々な大学も巻き込んでいって、現在の建築新

うと思ったそうです。複雑な条件を統合的にまとめ上げる

人戦に結びつきました。

設計手法を難波先生ご自身もとられており、考慮した設計 条件が多ければ多いほどデザインは強度をもつという考え 方でしたので、設計演習の講評やエスキスでも、どうして

小見山――僕は 2017 年の 10 月に京大に来ましたが、そ

自分はこう思うか、どうして君はそう思うのかといった対

の年の冬にまず驚いたのは、京大の卒業設計のテーマ設定

話を大切にされていました。

です。京大の卒業設計は、時代性をあまり感じさせない、 私的な問題設定が多いと感じました。どちらがいいとか悪

京大とやり方は違うかもしれませんが、難波先生もどち

いとかいう話ではないのですが、東大との違いをまずそこ

らかというと、個人で独り立ちして生きていける人を育て

に感じました。竹山先生も今おっしゃったように、東京は

たい、つまり建築家を育てたいと思っていたと僕は思いま

大学同士の交流が盛んですから、大学をまたいでテーマが

す。

似通ってくるのかもしれません。だから、この年の卒業設 計だったらこういうものがテーマになるな、みたいなもの がなんとなく共有されているような気がします。他大学の

竹山――僕は京大から誘われて、92 年に着任しました。

卒業設計を見ても、初見でも問題意識が共有できるという

僕の半年前には、西川幸治先生に呼ばれた布野修司先生が

か、根底にあるものは分かる。でも京大の卒業設計はそ

着任されていて、「竹山、これからは京大から建築家を育

ういうものがあまりないように感じました。みんなが同じ

てよう。」と言われたのを覚えています。その頃の京大は、

テーマに対して設計する必要は全くないし、自由であるこ

大きな企業へ就職するのが当たり前で、個人で建築家にな

とは京大の良い面でもあると思うのですが、京大の学生は

る風土が全くありませんでした。僕は他の大学をいろいろ

個人が追求したい思いをそのまま卒業設計のテーマにして

知っていますが、京大もポテンシャルとしては、全く引け

いる印象があります。京都は地理的に東京から離れている

を取らない。むしろもっと面白い人達もいっぱいいるのに、

し、先生同士の交流機会が東京に比べると少ないことも、

花開く土壌がないのはもったいないなと思っていました。

京大らしさの維持につながっているのかもしれません。

だからもし、京大でも建築家になりたいという人があるん だったら、そういう人たちに道を開くような教育をしたい と思って、布野先生と僕とで設計教育の改革に力を尽くし

竹山――そうですね。京大の卒業設計は、社会からの要求

ました。だから、1992 年、僕と布野先生が一緒に教え始

を解いていくというよりも、個人の想いを何かしらの形に

めた時に大学の三回生だった学年は、それまでと全く違っ

する傾向が強いと思います。それに加えてもう一つの特徴

て、多くの個人の建築家が出ています。

が、比較的フォルムがユニークなこと。プログラムに提案 性があるよりも、空間や形にある新しさ、面白さについて

具体的には、まず、内部の環境を変えることに着手しま

考えている。その建築が単にきちんとプログラムを解くと

した。締め切りを意味あるものにすること、講評会を行う

いうプロブレムソルビングではなくて、もうちょっと何か

こと、課題を変更することなどです。課題については、最

違う文脈の中で語っている、ということがあるような気が

初は場所の構成のような、何も制約がない自由な発想がで

します。これがポエジーということかなと最近思っている

きる課題を与えて、のびのびやって建築が面白いなと思わ

のですが。近年の社会は、プログラムが安定しない。同じ

せる。それからちょっとずつ難しい課題になっていくのが

建築でも今日は図書館、明日はディスコ、明後日はマーケッ

いいと考えました。まずコンテクスト ( 文脈、場所の条件 )、

トなのかもしれないというような状況です。だから、どの

それからプログラム。これは今も引き継がれている京大の

ように使われるかは単に一つの手がかりにすぎないので

特徴だと思います。

あって、そこに感動的な空間をつくる、ということが本来 の建築のテーマだと思います。中の機能が失われても感動

49


DISCUSSION

を与える空間があって愛されれば残りますから。僕も学生

大学の先生だけに専念するのとも違う、その中間ぐらいで

にはそのような空間を作れと言っていますし、逆に、その

その両方をやれる場所に自分の身を置きたいとずっと思っ

分トレンドとか社会性とかそういったものにはちょっと疎

ていました。ですから、いま竹山先生がおっしゃったよう

いのかもしれません。

な大学で教えることに対するややネガティブな考え方は、 初めからあまりもっていませんでした。

――小見山先生は竹山研究室を引き継がれましたね。

竹山先生たちの世代がいろいろな迷いもありながら大学 に身を置いて活動されてきた結果を見て、僕たちの世代に

竹山――研究室っていうことだと、僕は原研ってやっぱり

はその姿が魅力的に映っていたのだと思います。

とっても自由だったと思います。何をやってもよかった。 研究室をあげて海外のコンペをやったり、集落調査のため に旅に出たりしていたから、原研はいつも全然人がいなく

竹山――多分ね、僕らの世代では僕が草分けなんですよ。

て、空っぽだった。原先生の事務所もそうだからアトリエ

僕が 37 歳で京大の助教授になったでしょ。その助教授に

ファイ(空集合)ってつけたっておっしゃっていました。

なったってことが、他の大学にも刺激を与えて、團紀彦く

東大って本当に自由なところだなと思いました。この雰囲

んが東工大から呼ばれ、ちょっと世代は上になりますが難

気を京大にも持ち込めたらと思って、僕は研究室をずっと

波さんは大阪市大から呼ばれ、もう多くの建築家が大学か

運営してきたつもりです。

ら呼ばれて、それで、渋々なのか喜んでなのか分かんない ですけども、教え始めた。その口火を切ったのが僕だと。

まあ、もともと僕は、大学で教えるなんて微塵も考えた

川崎清先生も僕が思うに、もし大学っていう足かせがな

ことはない人間でしたが ( 笑 )。世界を股にかける自由な

かったらもっとすごいものを作ってたんじゃないかとも思

建築家になるんだと思ってたところに、京大から誘いが

います。川崎清は僕らが学生の頃、磯崎新とか槇文彦と並

かかってて、それも一度は断ったんですけど、迷った結

び称される、というかむしろそれを凌駕する建築家だった

果、来ることにしました。僕らのずっと上の世代にはプロ

んですから。大学は諸刃の刃だと思うんです。とはいえ一

フェッサーアーキテクトとして、丹下健三とか、あるいは

番の良い点はやっぱり学生たちと語り合あえるということ

増田友也とか、非常に影響力のある人たちがいました。で

ですね。年を取るとテクニックなどは長けてきますし、人

も、その後の名だたる建築家たちの多くは大学に行って教

脈も豊かになりますけど、切れ味は若い時の方が断然あり

え始めて、ただの先生になっちゃった。クリエイティブな

ますから、若い世代と共にいられるというのは圧倒的によ

ものを何も作らなくなってしまった。槇さんだけは大学に

いことです。ただ、大学の組織に足をすくわれるっていう

行っても全然洗脳されずにクリエイティブな建築家のまま

のは気をつけなきゃいけないことだという感じがします。

だったけれども、多くのプロフェッサーアーキテクトと自 称、あるいは他称もされている人たちは、大学に呼ばれて

いざ京大に教える立場として来て思ったのは、僕自身は

教え始めた途端に作品がだめになる、そういう印象があり

教育に対して何ら準備ができていない、ということ。どう

ました。だから、大学で教えるっていう事はあんまりポジ

教えるかとか、どんな教育の方法があるかって何も分から

ティブに捉えられてなかったんですけど、それでも尊敬す

ないわけです。その時に、原先生は旅する研究室って言わ

るプロフェッサーアーキテクトの坂本一成さん、木嶋安史

れて集落調査をやってたな、と思い出して、僕もまずは古

さん、原先生など、周囲が背中を押してくれたので、それ

代都市調査をやってみることにしました。学生達にも刺激

じゃあ行ってみようかって思った感じがあります。

小見山――思い返してみると、僕の京大建築との出会いの 一つは竹山先生の《TERRAZZA》でした。父が日本建築家 協会に所属していて、委員会のたびに群馬から外苑前の建 築家会館まで来ていたので、東京で大学生だった僕はよく 父と待ち合わせて食事をしていました。建築家会館の向か いにある《TERRAZZA》の前を通るたびに、これは京都大 学で教鞭もとられている建築家の竹山聖さんが設計したも ので……と父が話してくれたことを覚えています。そうし た記憶もあって僕は、設計実務に従事するだけでもなく、

50

《TERRAZZA》


Dear thoso who study design Kiyoshi Say TAKEYAMA × Yosuke KOMIYAMA

になるようなプロジェクトを学生と一緒に試行錯誤でやっ て行こうかなと、思って始めたんですね。そして学生たち と話し合いながら、研究の方向も含めて、様々なことを手 探りでやってきました。調査旅行をはじめとして、学生と 何か一緒にやろうというようなこと、それから設計演習の 改革も、講評会がなければコミュニケーションも成立しな い。どこがいいね、よくないねという対話がないと、設計 が嫌いになってしまいますから、設計が好きだと思う学生 を少しでも増やしたいという願いから始めたことです。

イギリスで働いていた頃の自主ゼミ風景

小見山――竹山研究室からお部屋を引き継いだ今、竹山先

るのですが、それとは別に、学生をはじめもっといろんな

生が作ってくださった雰囲気を残した研究室運営を僕もし

人たちとごちゃまぜになりながら何かを作っていきたいと

ていきたいと思っています。

いうモチベーションで大学にいるのだと思います。僕が考 える研究室はそういう場所です。僕がこれまで経験したも

もともと僕は多くの人と何かを一緒につくりあげること

のから学生に何か教えるのであれば、すぐに僕の底が知れ

が好きで、イギリスで働いていた時も、現地の友人たちと

てしまうし、いま僕の中に既にあるものしか与えられませ

夜や週末に集まっては、自主ゼミのようなものを開いてコ

ん。それでは足りないだろうと思っているので、僕自身も

ンペに応募したり展示に参加したりしていました。今現在、

学びながら学生と協働して何かに向かっていく場所をつく

僕は確かに、学生のみなさんに指導教員として接するとい

りたいです。振り返ってみればそういう場所を竹山先生は

う意味で「教育」をやってはいるのですが、どちらかとい

作られてきたのだと僕は思っていますので、竹山先生の指

うと学生のみなさんと何か一緒にやりたいという感覚のほ

導方法を基本的には真似しています。四回生夏学期のスタ

うが強いです。僕が個人として設計する仕事ももちろんあ

ジオ課題を拡張して修士含めた研究室全体で取り組むプロ

アフリカ・サハラでの調査の様子 ( 原研究室時代 )

51


DISCUSSION

ジェクトにしたり、異分野との応答を大事にしたり、最

いうのは、もう全面的に賛成です。

終講評会には海外からもゲストを呼んで英語でのプレゼン テーションにも挑戦してもらったり。卒業設計や修士論文

馬を水飲み場に連れて行くことはできるけれど、水を飲

のゼミでも、僕が一方的に指導するのではなく研究室メン

ませることはできないっていう言葉がありますでしょ。つ

バー全員に発言してもらうことで、僕自身も多角的な視野

まり、学生にチャンスを与える、何か場を与える、という

を得ることができています。

ことはできるけど、そこで水を飲むのは馬であり学生です。 つまり、自ら飲まないと何も学べないわけですね。無理や り水を飲ますということは僕にはできないし、無理やり飲

竹山――小見山先生の、教えるということではなくてむし

まされた水は滋養にならないなと思うんですよ。

ろ学ぶということを主眼に考えたい、というのは全く同意 見で、僕はどっちかっていうと教えようと思ったことがあ まりないんですよね。どうしても偉そうな言葉で何かを

小見山――設計演習も、僕たちは課題を用意することはで

言ってしまうようなことになってしまうじゃないですか。

きますが、最終的にこうして欲しいという部分を決めたと

大学の先生っていうのがいまいち釈然としなかったのは、

ころでそのようにはならず、課題を読み解いてスタディし

そういうところで、一方的に上から下へこれはこういうこ

たり図面を引いたりすることは学生達本人にしかできませ

となんだっていうふうに教えるっていうのはちょっと違和

ん。

感があったんです。自由に発言しながら同じ立場に立って 刺激を受けたり与えたりする、一緒に走ろうよって言って

退任される直前に竹山先生は、建築造形実習の内容をそ

共に学ぶ、というスタイルをとってきたと思いますね。偉

れまでの鉛筆画模写から製図ペンによる製図に変更されま

そうに教えようなんてするところから、自分の建築もダメ

した。いまは僕が担当を引き継いで、最後に竹山先生が改

になっていく。謙虚さとか発見がなくなっていくから。だ

組された内容を踏襲していますが、実はもう一つ参考にし

から、小見山先生がそういうスタイルを目指していくって

ているのが、竹山先生が最初に着任された時につくられた

竹山・小見山研究室ゼミ風景

52


Dear thoso who study design Kiyoshi Say TAKEYAMA × Yosuke KOMIYAMA

建築造形実習の元々のカリキュラムです。当時竹山先生は、

のような空間が立ち上がって、どのように他者が流れてい

建築学科に入ったばかりの一回生に、まずは図面の読み方

くか、他者というのは地形であったり光や風であったりす

や建築写真の見方を指導した、と聞いています。それを取

るわけですが、それを想像できるようなセンスを育んでほ

り入れた現在の建築造形実習は、毎回授業の前半は座学の

しいと考えています。他者にしなやかに応答するセンスで

授業にして教員や TA から建築図面の様々な表現方法を紹

すね。

介し、後半は製図の実習にして学生自身が見つけてきた題 材を読み解いて製図してもらうという方式にしています。

空間を構想するための下地になるもの、様々な他ジャン

僕が担当を引き継いだ最初の年 2020 年度は、コロナ禍で

ルの知恵、つまりウィズダムを得た時に、それを受け止め

製図室も閉鎖され、学生たちとはオンラインでしかコミュ

て広げられるだけの大きく豊かな土壌を持っている方がい

ニケーションできない特殊な状況でした。製図も自分の家

い。だから、ちまちまっと盆栽みたいに育ってうまく組織

でやってもらいましたが、前年度に3週間かけて描いても

の歯車になるような人間は、京大の中に育てても仕方ない

らっていた課題図面を、1週間でみんな描き上げてしまい

んじゃないかと考えています。歯車じゃなく全体を牽引す

ました。特に春先はオンライン対応が間に合わず多くの授

る動力になっていくような人間こそが育って行ってほし

業が実施されない休講状態だったので、ほぼ唯一開講され

い。みな、建築ってどんなものか分からないで京大に入っ

ていた建築造形実習にかけるエネルギーも大きかったのか

てくる。飛来してくる種みたいなものなわけです。そんな

もしれません。2週目は題材自体も自由に探して製図する

学生達の中に、すごい才能をもっている種がある。どんな

よう伝えると、翌週学生たちは僕も知らなかったような建

風になるか分からなくても、できるだけいろいろな種が芽

築まで見つけてきて、自分たちなりによく観察した上で、

吹くような教育をしたいですね。

表現方法も様々な図面を提出してくれました。その時、学 生のやる気やモチベーションに蓋をしない教育をしたい、 とあらためて思いました。こちらが決めた型にはめるので はなく、自身の中にあるものを自由に思いきり吐き出せる ような課題設定を目指しています。 竹山――そうそう、聴き取る能力が大切なんですね。良い 空間の響きを聴き取る力が。その先に空間を構想する能力 が育っていく。僕が思うに、学生達が一番きちんと身に付 けておくべきことは、空間的なセンス。音楽でも演奏者や 指揮者にとっては譜面が読めるだけではなく、そこに音楽

竹山 聖 建築家。1954 年、大阪府生まれ。1977 年、京都大学工学部建築学科卒業、東京

を立ち上がらせることが重要で、作曲家はさらに音楽がか

大学大学院工学系研究科修士課程進学。1979 年、修士課程修了。1984 年、博士

けないといけない。建築に関しても同様に、図面をかける

課程退学。大学院在学中に設計組織アモルフを設立、主宰。1992 年から 2020 年

ことは基本中の基本として、そこに空間を立ち上がらせる センスを大学で見つけてほしい。僕らが図面に書くのは空 間ではなくてモノの有り様ですよね。空間は図面に直接描 けない。しかしモノとモノとの関係の中に空間は立ち現れ る。流れていく。そう、空間は流れです。モノによってど

小見山研究室の活動(国際ワークショップ)

まで京都大学大学院准教授、教授を務める。 小見山 陽介 1982 年、群馬県生まれ。2005 年、東京大学工学部建築学科卒業。2007 年、東 京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了。2007 年から 2014 年まで、 ロンドンの Horden Cherry Lee Architects に勤務。2014 年より株式会社 エムロー ド環境造形研究所勤務。2017 年から 2020 年まで京都大学竹山研究室助教。現在、 京都大学大学院工学研究科建築学専攻講師。

小見山研究室の活動(竹山聖最終講義の展示準備)

53


DISCUSSION

京都で建築と向き合う Facing architecture in Kyoto 建築家

建築家

京都芸術大学大学院教授

京都大学教授

岸 和郎

×

Waro KISHI / Architect

平田 晃久 ×

対談

Akihisa HIRATA / Architect

長年京都のさまざまな大学で設計教育に携わり、古都・京都で活躍する建築家としての顔ももつ岸和郎。現在の京 都大学設計演習を牽引しつつ、建築家としても第一線で活躍する平田晃久。二人がともに学生時代を京都大学で学び、 学生の前に立つ立場となった今、京都の地で建築と向き合うことについて考える。

聞き手=岩見歩昂、川部佳奈、木下真緒、松岡桜子 2021.8.16

ZOOM にて

──先生方が学生時代の京大の雰囲気や、設計演習はどの

いう話を 30 分して、以上、課題説明終わり、と。僕が覚

ようなものでしたか。

えている設計教育というのは増田先生のこの 30 分ですね。 衝撃的で、かっこいいわけですよ、人間として。設計がど

岸――僕は 1969 年の4月に京大の電気工学科に入学し

うこうっていうより、建築家ってすごいな、そんなことを

て、4年間卒業研究までやってから、建築学科の3 年生

考えていられる仕事なんだ、って思いましたね。だから設

に入りました。そのころは大学紛争真っ盛りで、特に大学

計教育というよりは、増田友也に建築家の姿というものを

教授の言うことなんか信じるなっていう時代です。だから、

見たという感じでした。

のっけから大学の先生を尊敬する雰囲気っていうのは全然 ない。製図室は大学の先生が入れるような場所ではなかっ

その姿に憧れて設計やろうと思ったわけですけど、一方

たですね。製図室に入ってくることは、僕たち学生に殴ら

で、70 年安保の世代なので、そんなに素直な反応はしま

れるということを意味していましたから。課題も1年分を

せん。普通は設計をやるんだったら設計の研究室に行くわ

2月にまとめて提出するというのが設計課題だった。

けですが、みんなが行くとこに行っても同じ人生しかない から、それはやめようと思って川上貢先生、建築史の先生

そんななか、建築学科に入って大きかったのは、増田友

の研究室に行きました。

也先生と出会ったことですね。今でも覚えているのが、増 田先生の小学校の設計課題説明で、小学校の説明とか面積

もう一つ、当時ロバート・ヴェンチューリの『建築の複

とかそういうことは何も言わずに、「建築とは何か」 って

合と対立』という本が出たのも一因です。たくさん歴史に

54


Dear thoso who study design Waro KISHI × Akihisa HIRATA

ついて述べられていたけど、一言もわからなかった。でも、

のは感じた。例えば布野先生とか竹山先生とか、先生同士

現代建築を知るためには歴史を勉強しなきゃいけないんだ

がどんどん絡んでいって、学内の批評空間みたいなものが、

ということだけは分かって、現代建築を分かるようになり

講評会という名を借りて展開している感じはあったんです

たい、設計できるようになりたいと思って、歴史の研究室

よ。 それが面白いかもという感じは受けていました。

に行ったわけです。 あとは、当時の京大の設計演習は、圧倒的な放任主義状 平田――岸先生のようなドラマティックな話は、ずるいで

態と、その後に講評会を一気にやりだす気運の境目に位置

すよね ( 笑 )。僕らの時、1990 年っていうのは、バブル

していて、僕らの世代は、出したら出しっぱなし設計演習

も弾けた後だから、社会が弛緩し始めたぐらいの年。のん

も体験しているし、濃密な議論が展開される講評会がある

びりとした雰囲気ではありました。

設計演習も体験していて。僕らの学年の時に建築家熱みた いなものが高まって、それまで全然いなかったアトリエ系

僕の中で設計教育というと、最初に僕が建築家の話を聞 いたのは非常勤講師だった高松伸先生です。 風景のパビ

志望の人が、急に 10 人近く出ました。かなり個性的で刺 激的な同級生に恵まれたと思います。

リオン・こども美術館という謎めいた課題の説明会で、ま さに 30 分ぐらいのお話でした。 何かを見て風景を生成

――平田先生の学生時代に、講評会が京都大学でも始まっ

させるっていうこと、建築っていうのはそういうものを作

た話があったと思うのですが、当時の講評会は今の講評会

ることなんだ、という内容でしたね。視線をどのように限

とどう違いましたか。

定するのか、例えば壁によって視線を導いたり、スリット を開いたりとか、色んな例を黒板にチョークでスケッチす

平田――先生、怖かったです。すごく怒られるんですよ

るんだけど、それが綺麗なんですよ。高松さんってすごく

( 笑 )。 デザインセンスのかけらも感じないとか、そうい

難しくて分かりにくい話をしてくるんだろうな、と身構え

うことを平気でスコンと言われたりするから、まともに受

ていたんです。というのも当時、高松さんが新建築等に発

け取るとなかなか立ち直れないんだけど ( 笑 )。 でも、自

表している文章は漢文みたいで、何言っているか分からな

分たちの建築の議論をするのと同じ地平で、学生たちの作

いけれどとにかくすごそうだっていう感じだけ伝わってく

品もだめな時はだめとこきおろす、みたいなフェアさって

る、みたいな文章だった。でも実際に生で話を聞くと、も

言ったらいいのか、そういう感じはあって。同じ基準であ

のすごく分かりやすい。だから、あれだけ謎めいた作品を

まり包み隠さずに、思ったことをストレートに言っている

つくっている人が、ものすごく明晰な頭で考えているんだ、

んじゃないかっていう、ある意味では今の講評会の原型み

そういうのが建築家なんだなあ、かっこいいな、と感じま

たいなものはあったかもしれないですね。

した。建築家にやられるっていうパターンとしては、岸先 生の話とどこか似ているのかな。

京大的なものっていう意味でいうと、それまではもう徹 底的に放任じゃないですか、2 月にまとめて提出とか。だ

もちろんその後、他の建築家にもたくさん出会って、様々

けど、そのなかにある濃密な空気感が漂っていて、直接的

なタイプがいることもわかった。でもとにかく、建築家と

になにか言われるわけではないんだけど、その人が考え

か批評家っていうのは、ものすごくいろいろなバックボー

るっていう場があったのかもしれないなという。

ンを持っていて、独自の発言をできる人なんだな、という

55


DISCUSSION

岸――僕自身は設計教育を受けたとあまり思っていなく

て。でもそれに気づくまで、ものすごくクリティカルなや

て、増田先生がそうであったように、設計をする人の

つだっていうふうに思われていた。

presence を見ることが教科書みたいな感じだったんです ね。僕は京都大学に来る前に京都工芸繊維大学で教えてい

京都に戻ってきたら、京都の人たちも意外に穏やかに

ましたけど、工芸繊維大学の講評会は厳しいんですよ。ま

なっているので、ちょっと寂しく感じたりはしていたんで

ず褒められるっていうことはなくて、批判してもらえる

すけど ( 笑 )。 でもやっぱり京大生と接していて思うのは、

のが嬉しいっていうような、どこか学生たちがマゾヒス

言ったことに対して、そのまま受け入れるというより、抵

ティックな感じになるようなところがあって。学生たちは

抗みたいなのを感じる時があって。そこはやっぱり僕好き

もう講評会っていうと一週間ぐらい前から、神経がとん

ですね。鵜呑みにされるよりも、その人の中の抵抗感で受

がってくる感じだった。

け止めている感覚は信頼できるなという。そこは変わって いないところとしても挙げられるかな。

京大に移って、4月の第1回目の最初の課題の草案で、 普通に 「これ、こうじゃない?」 って指導を していたら

──先生方の中で、設計教育をする側の立場になろうと

3人泣いたんですよ。今も覚えている。非常に穏やかに言っ

思ったきっかけやターニングポイントはありましたか。

ているのに3人泣いたので、僕もうカルチャーショックで。 高松さんのところに行って 「高松さん、今日、3人泣かせ

岸―― 僕、大学院が歴史の研究室だったんですね。時代

ちゃった。どうしたんだろう京都大学」 って言ったら、「

的には、1969 年に電気工学科に入って、1973 年に電気

いや、俺も泣かしたから安心してろ」 というふうに安心さ

工学科卒業して、1975 年が建築学科を卒業する年なんで

せてはくれたんですけれども ( 笑 )。 みんな優しさに慣れ

すけど、この年が第1次オイルショックで就職最悪です。

てんじゃないのかなと思いました。工芸繊維大学なんかで

役所と商社だけですね、就職先で可能だったの。そんなこ

すね、出来の悪い図面だと図面をゴミのように先生が扱う

ともあってみんな大学院にいって、今度は大学院の修士二

んです。手で触るのも汚れるから俺は触んないよ、お前次

年を終えるのが 1977 年になるわけですけど、第2次オイ

のページめくれ、みたいな感じに。図面というものの大切

ルショックでまた就職ゼロです。それでもう1年留年して

さをそういうやり方で学ぶわけですけど。

て修士やろうってなるわけですけど、その1年が大きかっ たですね。修士二年の時は組織設計に行くのもいいなとか

京都大学にきて、もちろん時代の流れ、ハラスメントに

思っていたわけですけれども、歴史を調べる喜びっていう

敏感な時代というのはあるんだけど、褒めてあげなきゃだ

のを知ってしまったので、教えるというより研究者生活っ

めなんだ、と泣いた学生の姿を見て思いました。それで、

ていうのもいいなと思っていました。

その次の週に泣いた3人がどう変わるか見ていようと思っ て見ていたら、その3人のうち1人がぐぐっと伸びるわけ。

ただ、建築史の研究室ってどこの大学にもあるわけじゃ

僕に何か言われたことを 「馬鹿野郎」 っていうふうに思っ

ないから、教職のポストがすごく少ない。だから、歴史の

た奴がいて、そいつがぐぐっと伸びて、「ああ、よかった、

研究室でどこか研究者として残りたいって言っても意外に

あの指導間違えてなかった」 っていうふうに思いました。

ないんですよ。そういうこともあり、やっぱり建築家に対

ただ、こんなに簡単に泣くのかとも思いましたね。2つの

する夢もあって設計者になろうと思うわけです。で、東京

大学の設計演習の草案の違いを感じた時でした。

の設計事務所で3年過ごした後、川上先生のところに東京 で事務所やりますという報告に行きました。そうしたら、

平田――僕らの時は学生もみんな口が悪かった。先生や建

君なんかはむしろ教職について、同時に設計をするってい

築家のことを平気で批判していたし、まあ今の学生もそう

うプロフェッサーアーキテクトの道を目指した方がいいん

かもしれないけど、十分尊大な学生たちだったんだよね。

じゃないかと言われて。それでいろんな縁があっていろん

先生たちがわーって言っても、ふーんって感じだったし、

な方をご紹介されて、昔の京都芸術短期大学 で教えるこ

人の作品に対して、結構批判的なことを言い合うみたいな

とになった。だから、僕は最初教育者になるというよりは

文化があって、お互いに磨きあっていたようなところが

研究者になりたいなと思っていたタイプなので、積極的に

あった。

設計教育をしたい、そのために教育者として大学に戻りた

1

いと思ったわけではなかった、っていうのが正直なところ 僕、東京行ってびっくりしたのはそういう文化があんま

ですね。

りないっていうところ。東京の学生は、悪いっていうこと を表立って言わないけど、褒めるポイントが違うことに

平田――僕は東京の伊東さんの事務所にいて、その後独立

よって婉曲的に伝えるっていう文化があることに気づい

して、なんだかんだ仕事もあって結構楽しく仕事をしてい

56


Dear thoso who study design Waro KISHI × Akihisa HIRATA

VR の様子

るところに、教える話が舞い込んできたんですけれども。

できるだけたくさんの非常勤講師とか、実地で今一番おも

非常勤講師としていろんな大学で教えてはいたんですけ

しろい住宅をつくっている建築家が来て、その人たちが住

ど、基本的に設計って教育できるものではないと思ってい

宅の批評をするような、そういうのが大事なんじゃないか

るんですよね。手取り足取り教えてもだめなんだろうな、

と思っています。その人が教師として立派かどうかはわか

とどこかで思っているところがあります。だから、そのた

らないけれども、わかることも言っていたしわからないこ

めに京都に教えに行くっていうこと自体、もうすごく躊躇

とも言っていた、そんな強い感触だけが残るんじゃないか

しました。

な、って思っていて。

ただ、さっき岸先生がおっしゃっていましたけど、建築

思ったことはできるだけ率直に言うようにはしている

家っていう presence を見るっていうこと、そういう存在

し、今自分が一番おもしろいと思っていることをベースに、

がいるっていうことが、建築家っていうトライブ(トライ

学生の作品に対して批評したいと思っていて。僕自身が教

ブ=部族の意)を再生産する最も現実的な方法で、すご

育的になっちゃったら、本当の意味では教育的ではないん

く大事だと思っていて。僕らのころは高松先生もいらっ

だろうなっていうジレンマを感じながらやっているところ

しゃったし、竹山先生も来て、僕らが建築家になったのは

はあります。岸さんと講評会に出て面白かったのは、岸さ

そういった人たちがいたからだとどこかで思っている。直

ん切るときはむちゃくちゃバサッと切るんだよね。躊躇し

接何か教えてもらったっていうのももちろんあるけれど、

ないから、 断面がパサっと見えているみたいな切り方する。

建築家なる人が身近にいたという経験がやっぱり、自分た ちをつくっているなあというのがあったから、そこだけで

岸――えー、そう?僕すごく優しい人に見えるように語ろ

すね。

うと思っているけどそうかね?

だけど、教育っていうのは向き不向きがあって、僕はそ

平田――いや、優しいですよ ( 笑 )。切られたことにも気

んなに向いていると思ってなかったし、今でも思っていな

づいてない、それくらいバサっと切ると爽やかなんだなと

いんです。そういう不安はありました。特に教育者として

僕は目の当たりにして、いろいろ学ぶことがあって。すご

目覚めて、つくる作品がつまらなくなったら、結局建築家

く新鮮だった。

としての圧を失うわけです。そうすると建築家としての教 育的効果が薄れるという、非常に矛盾した立場に立たされ

それは、歴史研で建築を設計することを別の時間軸の中

る、そういうのをお前はやるのかっていう躊躇はありまし

で評価するみたいな、別の視点を獲得しているからなのか

たね。それでも高松さんに、今の若い奴らはどうなるん

なと。僕は研究者になりたい思いはあまりなかった。だか

や、って凄まれると、高松さんもそうやって教えていたん

ら、岸さんのような方と一緒に教える機会があって、自分

だなと思うし、そういう諸先輩方がいて、自分がいる。設

の立ち位置がなんとなくわかってきたような感じもありま

計を常勤として教える立場で頑張ろうと思えたのはそうい

す。

うことしかないですね。 岸―― 僕は例えば、ミケランジェロのラウレンツィアー 僕の役割としては、より多くの建築家に接する機会をつ

ナ図書館をみるときと、学生の課題をみるときと、何にも

くることとか、そのような存在として最もコアな存在であ

変わらないんですよ。だからバサッと切っちゃうのかもし

2

り続けることだと考えていて。今年から VR を導入して、

れないけれど。

57


DISCUSSION

北大路ハウスでの宵山ゼミの様子

設計教育ができるのかって話をすると、僕も正直でき

都市空間を体験するっていうのをやらせてあげたいと思っ

ないよと思っています。自分もされていないし。設計しな

て。たまたま私の事務所が大丸の裏なので、 宵山の時にベー

がら、大学で設計を教えるというポジションにいること

スつくりますよ、ということをきっかけにして、東京から

で、絶対これだけは守っていようと思っていることがあっ

建築家に来てもらったりアーティストに来てもらったり、

て、それは、どんなときも建築家として誠実でいようと。

普通だと学生が喋れないような人たちと、その非日常的な

嘘をつかない。面白くないと思ったら面白くない。すごく

都市空間で一緒になる。そこで新鮮な出会いができたらい

面白いと思うものは積極的にすごく面白い、と言う。自分

いなと。しかも都市そのものが非日常的な姿になっている

が発言することに対して誠実であること、誰かにうけたい

時だから、いつもの四条烏丸とは違う四条烏丸が見える。

と思ってこれは誉めとこう、みたいなことだけは絶対しな

桂にいて、あそこで一生懸命設計考えるのもそれはいいの

い、それだけ決めていますね。

だけど、でも建築を学ぶ学生は街の中に出て行かないとダ メじゃないかなと思っているので、年に 1 回京都という

それぐらいしか、現役の建築家が設計教育でできるこ とってないんじゃないのって思います。逆にいうと、設計

街が姿を変える日くらいはそれを経験してほしいと、そう いうふうな気持ちです。

するということをプロフェッションにしているから、誠実 であり続けることしかできない。もしも僕が純粋に歴史や

平田――僕らの時も桂キャンパスはなかったので、ことあ

構造の先生であったとしたら、全然違うコメントができる

るごとに理由をつけて吉田でゼミをしようとしたり ( 笑 )、

と思うんですよ。でもね、悲しいかな建築家なので、もう

まあ未だに僕はやっているんですよ。やっぱり街の中で建

できることは限られていて、誠実になるしかない、そうい

築を考えるっていうのも必要だから。

うふうに考えていますね。 もう少し時間が経って、桂がちょっとずつキャンパスに ──京都の地で設計を学ぶことについては、どのようにお

近づいていくというか ( 笑 )。 都市空間的な特徴、あるい

考えですか。

はキャンパス的な活動をちゃんともって、自発的な活動が 生まれる場所として、もう少し成熟していくきっかけをつ

岸――僕は建築とか都市を学んでいる人にとっては、やっ

くるような働きかけもやらないといけないなと。桂の状況

ぱり都市の中で日常的な時間を送ることがすごく重要だと

を嘆いているだけじゃなくて、っていうのも同時に思って

思うんですね。

います。

百万遍はいいところにキャンパスがあるなあと思ってい

京都の地で設計を学ぶ意義を考えると、京都の学生と東

るんですけれども、初めて桂に行って、ここで設計を学

京の学生って、 時間の感覚がすごく違うんですよね。ショー

ぶっていうの、できないよ、って思ったんですね。誰も歩

トタームで結果が出るっていうことに対して明確な意識を

いてないし、なんか廊下歩いても静かだし、私がイメージ

持って、努力設定するのは東京の学生の方が圧倒的に得意

するキャンパスではなかった。それで設計やりたい連中を

なんですよ。多分ショートタームで見たほうが、社会的に

桂に閉じ込めといちゃいかんなあと思って始めたのが宵山

得をするとは思います。

3

ゼミ です。 宵山の日って、京都が都市空間として祝祭空間に変貌 する日ですよね。そういう祝祭空間に変わった都市の中で、

58

だけど京都の学生って、もうちょっと長い時間で見た時 に意味があるかどうかを、なんとなくじーっと考えている


Dear thoso who study design Waro KISHI × Akihisa HIRATA

ようなところがあって、そこはすごく素晴らしいことだな

うのを。

と。もうちょっと器用になったほうが得をするよ、と言い たくなる時もあるんだけれども ( 笑 )。そういうことを超

平田――今の時代のなかで建築設計するっていうときに、

えて、長い時間軸にちゃんと耐える成果を出せるかを問う

僕はまだ東京ベースでやっていて、京都でも教えているっ

ている感じは、やっぱり京都の街が持っている時間のあり

ていう状況です。学生の時は、京都ってなんかすげえなあ、

方みたいなものが、勝手にそういう思考性にさせると思っ

で済むけれど、古都のすごさっていうのは自分でつくり始

ていて。

めるとひしひしと感じて。でも逆に言うと、そういう場所 で学べていることがすばらしいことなんじゃないかってい

僕自身も、すこし先を見て考えている感覚は、東京で

うのは思いますね。

建築を学んだ人たちと違うと思っていて、それはすごく良 かったなと。損している部分もあるかもしれないけど、非

岸――歴史都市って、いい建築家の数が少ない。例えば、

常に特殊性を持ったものの見方に繋がるのではと思ってい

フィレンツェやローマに行ってみるとわかるけ ど、パン

ます。時代的には情報がすごく等価に与えられているから、

テオンとかがある街をベースに、設計事務所をやるという

どんどん平準化していく傾向があるとは思うんですけど、

ことの傲慢さ。それを忘れないようにしたい、僕自身は。

京都のもつ時間のあり方を身に引き受けて生きていれば、

歴史都市で、現代の建築家として生きてくってことの気分

良いことあるんじゃないかなって思います ( 笑 )。

と大変さと敗北感みたいなものも、せっかく大学にいるん だから、学生に見せていこうというふうには思っていまし

岸――京都の学生と東京の学生との比較、全く同感です

たね。それがいいことがどうか分かりません。もっとポジ

ね。同じ時間が流れているとは思えない。やっぱり京都の

ティブに見せた方がいいのかもしれないけれども、でもそ

大学って時間の流れが 10 倍ぐらい遅い気が体感的にはし

ういう建築がある街で、建築家として生きていくことがど

ますね。だったらそれを活かせばいいのかなと思います。

んなに大変かっていうことだけは見せよう。それが建築家

留年のすすめじゃないけれど、僕自身は大学に9年いまし

として京都にいて、同時に教職についているということの

たから。でも京都大学って時間がゆっくり流れているので、

意味だろうと思っています。でも、それは京都だからこそ、

転学科してみたら留年している同級生がたくさんいたり、

そういうようなことが起こっている。そのことを色々な形

自分より年上の 8 回生がいたり。何回生だか分かんない

で感じてくれればいいんじゃないかなと思っています。

んだけど、そういう人の居場所がキャンパスの中にある、 というのは京都大学のすごく良いところじゃないかなと思 いますね。 一方で、建築家となった時に京都をベースに設計する、 というのは大変なことです、正直言って。経済規模でいう と、広島より小さい街なんじゃないかなという気がしてい ますね。だから、建築家として生きていくには、そういう 場所でどうやって生きていくかを考えるのが一つ。 あと、やっぱり古都であるというのがあって。例えば、前 は事務所が大徳寺の近くにあったわけです。大徳寺の近く に事務所があるというのはどういうことかというと、今度 できた仕事なかなかいいんじゃないかな、自分としてはい い仕事できたなと思って、横見ると大徳寺がある。こんな の相手に建築つくっていかなきゃいけないんだ、っていう 絶望的な敗北感があります。

岸 和郎 建築家・京都芸術大学大学院教授。1950 年、神奈川県生まれ。1981 年、岸和郎 建築設計事務所設立。その後、K.ASSOCIATES / Architects に改組改称。1981 年 より京都芸術短期大学にて教鞭、京都工芸繊維大学大学院教授、京都大学大学院 教授を歴任、2016 年より現職。K.ASSOCIATES / Architects 代表。 平田 晃久 建築家・京都大学教授。1971 年、大阪府生まれ。1997 年、京都大学大学院工学

だから、建築家として大学にいる以上、京都という文化

研究科修了。伊東豊雄建築設計事務所勤務ののち、2005 年、平田晃久建築設計事 務所を設立。2015 年より京都大学赴任。

的には圧倒的に力のある場所で現代建築をやっていくこと の大変さを、正直に、誠実に見せることがいいだろうと僕

---

は思っています。京都のプロジェクトでストラグルしてい

1) 現在の京都芸術大学

る姿とかそういうのは積極的に見せてきましたね。この街 で設計するということは、こんなに大変なんだよ、ってい

2)Vertical Review:2021 年度より始まった京都大建築学科の学年縦断講評会 3)2010 年より岸研究室で毎年祇園祭宵山に開催されてきたオープンゼミ。2016 年より平田研究室に引き継がれた。

59



プロジェクト

平田研究室

project 「包むもの / 取り巻くもの」を全て生かして

62

HIRATA Laboratory

Make the Most of Everything that Surrounds You

ダニエル研究室

Paris Pavilion Project

68

高野・大谷研究室

包む音 / 取り巻く音

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TAKANO・OHTANI Laboratory

Enveloping /Surrounding Sound

西山・谷研究室

京都大学建築構法学講座のいま

DANIELL Laboratory

NISHIYAMA・TANI Laboratory

Chair of Construction Technology of Building Structures at Kyoto University

96


PROJECT

「包むもの/取り巻くもの」を全て生かして Making the Most of Everything that Surrounds You 平田研究室修士二年生

山口航平

従来、建築家は空間を取り巻く環境やアクティビティをあたまの中で想像しつつ建築や都市を形作ってきた。ところが昨今 は CFD 解析に代表されるような環境解析技術や 3D スキャンなどのセンシング技術の進展によって設計手法が拡張し、さらに 一般社会ではデジタルテクノロジーの浸透によって人々の活動までもがビッグデータとして収集・運用がなされており人々の ふるまいをもデータとして分析できる時代に突入した。これまで設計者が把握・処理できていた領域をコンピューターの演算 能力によって押し広げて、建築の周りを取り巻いている環境や人々の想いを全て内包しながら建築を思考することが可能にな れば、そうして出来た建築は多様化したこの時代における一つの理想形になりうるのではないだろうか。 以下では、平田研究室が現在取り組んでいる図書館複合施設の設計プロジェクトを紹介し、そこで行われた〈機械的なデー タ分析〉と〈ワークショップ〉を横断する設計プロセスを概観したいと思う。

旧小千谷市総合病院跡地整備業務 この夏、平田晃久建築設計事務所、IDEC、Arup がコンペで獲得した新潟県の旧小千谷市総合病院跡地整備業務に京都大学平 田研究室の学生有志メンバーも加わった。新潟県小千谷市の眺望豊かな段丘上の敷地に、市民活動の中心であり街のハブとな るような図書館を新たに設計するプロジェクトである。採択されたプロポ―ザル案では、可動式本棚による情報空間と連携し た空間〈フロート〉と市民の文化活動・交流を展開する様々な性能・プロポーションをもったハコ〈アンカー〉と新潟の豪雪 にも耐えうる大きな屋根〈ルーフ〉という3つの構成が示されており、これから市民ワークショップを経て実施設計へと移行 するタイミングだった。この公共建築は建設されることが約束され、市民とのワークショップも開催されるがまだ設計検討の 余地が大きく残っているという稀なケースである。そこで我々平田研究室は実務的な設計フローと並行した別の視点で「ワー クショップで発露した市民の想いから純粋に設計案を浮かび上がらせることはできないだろうか」という思考のもと、設計ス タディを進めることができた。そのために開発した新たな設計ツールや出来上がった設計案は、単なる代案や補助的なもので は決してなく、それ自体が設計の思考を拡張するような役割を事務所と研究室との協働のなかで担っていた。

fig.01

62

プロポーザル案の全体鳥瞰図


Making the Most of Everything that Surrounds You

HIRATA Laboratory

STUDY01 アンカー析出 ー人のふるまいをデータとして扱うー

fig02

この施設で起こりうる活動のサンプル

63


PROJECT

平田研究室でははじめに、市民が集まって地域交流・文化活動を行えるような設備を備えたハコ〈アンカー〉の設計を進め ることにした。旧病院で行われていた課外活動や、この地域で起こっていた市民活動の記録、WS 1で市民に尋ねた「この施 設でやりたいこと」への回答をもとに、新たにこの施設で起こりうる 100 個の活動サンプルを抽出した(fig.02)。建築面積の うちアンカーに割かれる面積はおおよそ 1200㎡であったことから、これらすべての活動に対して逐一スペースを設けることは せず、複数の機能・活動を共存(または時間的にすみ分けた)させた 12 個のアンカーを計画することにした。 筆者はいくつかの公共建築に訪れたときに、平日にガランとしているキッズスペースや、休止期間中で利用されていない展 示スペース、営業時間外で封鎖されている飲食スペースなどが目につくことがあった。施設は開いているのに人がいない様子 を見るとなんだかもの寂しい印象を受けてしまうのだが、本プロジェクトにおいてはリサーチの段階でこの施設でおこりうる 活動例を溢れるほどたくさん見つけることができたので、それらの活動をうまく組み合わせてアンカーを設計することができ れば恒常的に多様な活動が起きている状態をこの公共施設に生み出すことができるのではないだろうか、と考えられた。 いざ 100 個の活動を 12 個のアンカーに配分していこうとする際、人為的な手法では手がかりを見いだせず困っていた。また、 計画学的な合理性に基づいた設計者本意の設計になったのでは従来の建築像とかわらないため、我々平田研究室では、市民の 意見から純粋に活動の様子を浮かび上がらせることができないかと「機械的な手順」によって適切なアンカーを生成させるこ とに取り組んだ。 まず、抽出した 100 個の活動を「活動の状態で(ACTIVITY)」 「どんな空間で(SPACE)」 「何が必要か(ITEM)」という3つ の観点からそれぞれ8つ評価軸を設定し、研究室の複数人で0−1評価を与えた。評価軸をそのままベクトル軸に変換するこ とで活動サンプル同士の距離関係(=類似度合)を算出した。ACTIVITY、SPACE、ITEM という3つの観点から算出された距 離を和算することで、これら複数の観点からの総合的な距離関係を評価することができ、収集した活動サンプルのうち総合的 に類似するもの(同じハコの中で共存可能そうな活動)が近くに分布していくモデルを作ることができた。ここでは距離関係 をばねの強さに読み替えたモデルを Grasshopper 上の Kangaroo による引力ばねモデルを用いて群れをつくるように移動して いく様を可視化した(fig.03)。

fig.03

Grasshopper によって析出された活動サンプルの相関図

fig.04

活動サンプルの分布からまとまり(=アンカー)を見つける

星群のなかから星座を結ぶように、ちりばめられた活動サンプル群から特に類似性の高い活動群を見つけだしたのち、「活動 の頻度」や「必要な面積」を考慮しながら虫食いゲーム的にアンカーを形成していった(fig.04)。コンペ要項では閉架書庫や スタジオ機能など一部で具体的な必要機能が指定されているものの、この施設にあってほしいその他の適切な文化・交流活動 は設計者サイドから提案する必要があった。初めのワークショップ (WS 1) の時点でも各アンカーの詳細は明確ではなかったが、 WS 1を経てつくり上げたこのアルゴリズムによって個性的なアンカーをつくりだし、施設で起こる活動をデザインすること ができた。一つの漢字で表しうる個性的なアンカーが敷地の中に点在し恒常的にヒトや活動が入れ替わり交流が起きるている、 まるで小さなまちのようなイメージがチームのなかで共有された。第2回ワークショップ(WS 2)にむけて、各アンカーに 割り振られた複数の活動をヒントに設計を行い、模型を製作した(fig.05) 。

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Making the Most of Everything that Surrounds You

HIRATA Laboratory

fig.05

WS2 に持っていった各アンカーの模型写真

後日談になるが、このアルゴリズムを用いたアンカー内容の精査は WS 2以降も継続して行われた。WS 2で得た市民の意 見や、設計が進んでいくなかで生まれた変更点・修正点を反映させた新しい活動サンプルに対してこのアルゴリズムを適用さ せても、 「ある程度の正確さ」をもって活動サンプル群のまとまりをつくることができた。ある程度の正確さ、と表現したのは 分布した活動サンプルの概ね8割ほどがアンカーを形成しうるまとまりをもっていて、残り2割の活動サンプルは相容れない 性質のまとまりのちかくに分布してしまうというエラーが確認されたからである。いくつかの乱数を変えて解析をまわしても 概ねこの「ある程度の正確さ」で分布が出来上がるので、2割のエラー部分は、解析後にマニュアルで移動させることで解決 したり、はたまた考えてもなかった活動の組み合わせが発見されるポジティブな側面をもって受け入れることにした。(例えば、 「映画上映」や「コンサート」といった<演>のまとまりの中にしばしば「卓球」が分布していた。不適切な組み合わせに思え たが、素直にデザインに反映させて<演>のアンカーは従来想定していた傾斜のかかったコンサートホールや映画館のような デザインから、平場と段状席があるより多様な使い方ができる体育館のようなデザインへと修正された。 )

STUDY02

fig.06

アンカー配置

ー市民の意見から配置計画が立ち上がるー

第2回ワークショップで各アンカーの模型を説明する様子

fig07

WS 2のワークシートに書き込まれたこの施設で想定される滞在経路

次の第2回ワークショップではアンカーの配置と施設の平面計画についての議論がなされた。具体的な模型を参考にイメー ジを膨らませてもらい(fig.06)、アンカーの中や周囲での活動、施設へのアプローチ、アンカー間の移動について、期待する ことや改善点をワークショップのなかで考えてもらった(fig.07)。得られた回答のなかにはアンカー同士の位置関係を示唆す るものが 30 個近くあり、平面計画の段階で考慮すべき要件が浮かび上がってきた。例えば「子どもをこの施設に連れていくな ら駐車場から子どもの遊ぶ場所が近くに無いと荷物も多いから大変だ」という要望からは「駐車場」とアンカー<子>が近し いという要件が読解できる。近しいものには+1、逆に離れているべきものに−1の評価を、30 個近い回答から計上すること で、市民の意見から平面計画の要件をマトリクスにまとめることができた(fig.08 左図) 。

65


PROJECT

それらのマトリクスを Grasshopper を用いて平面上で解くプログラムを開発し、疑似的に平面計画案をつくり出した(fig.08 右図)。Grasshopper 内の Kangaroo2 には[Grab]というコンポーネントがあり、解析の対象となる点を自由に変位させるこ とができ、同時に解析をまわしてくれる。つまり、任意のアンカーを動かした場合に上記の市民の要望から抽出した関係性を 満たす平面配置が同時に算出される仕組みだ。上図(fig.08)のようなワークショップで得た意見から機械的に算出される平面 配置案と、実務的な要件や従来の計画学的な諸条件を照らし合わせながら何度も往復することで、より理想に近い平面配置を 検討していった。

fig.08

WS 2の回答にあったアンカー同士の関係性をバネモデルに落とし込んだ

fig.09

ワークショップを経たプランニング(仮)

ワークショップと機械演算の横断的な設計プロセス 今回の設計プロセスを概観すると、ワークショップによる設計者と市民との意見交流に終わることなく、ワークショップの 成果から機械的な手順を踏んで純粋な設計案を立ち上げるところまで通貫している点が特徴である。先に紹介した STUDY01、 02 において用いたアルゴリズムはまだ改良する余地があるものの、確かに設計の手がかりとなり設計行為を補助していた。機 能のレベルでの検討にデータ解析を活用することによって、アンカーをより多くの要望や機能を実現可能にした理想形に近づ けることができたのではないだろうか。

fig.10

各ワークショップと設計の対応

それだけではなくデータ解析的な設計手法はワークショップの市民参加の仕方にも影響を及ぼすのかもしれない。というの も、STUDY01、02 で用いた設計アルゴリズムは再現可能な透明性があるので、入力されるデータ(=ワークショップでの意見) 自体が設計を左右する重要なファクターとして等価に扱われるからだ。ワークシートに記入された回答のみならず、会話のな かでちらりと耳にした意見すらも EXCEL に入力しておくだけで設計案に反映されてしまう状況だったので、「少しでも多く意 見を聞き出そう、意見を伝えよう」という気分が会場に共有されていた。 以上で部分的ではあったがプロジェクト紹介を終えようと思う。第3回ワークショップ以降は〈ルーフ〉が主題となり、小 千谷を取り巻くもの(大局的な小千谷の地形、市民の記憶に残る心象風景やエピソード)をもとに形態のレベルで共感可能な シンボル性をもった屋根を設計しているところである。誌面の都合上、詳細な紹介はここでは控えておきたい。

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Making the Most of Everything that Surrounds You

HIRATA Laboratory

実践的な制作活動のなかで 〈アンカー〉の設計プロセスにおいて設計アルゴリズムの開発と運用の仕方で頭を悩ませていたある日、「もう少し設計者と しての意識をもって考えたほうがいい」とエスキスされたことがある。上で示したような機械的なアルゴリズムによって市民 の意見だけで建築をつくろうとする方法はきっと自立せず、他にも作家的な意志決定や実務で培われる知見とが混ざり合って しかるべきだろうと思う。逆に言えば、前時代的な設計のように設計者個人のデザイン力だけではコレクティブな理想形には たどり着くことができず、もう少し建築を取り巻いている物事をつぶさに分析しそれらを包み漏らさないような思考方法がな されるべきだ、ともいえるのではないか。 そういえば、筆者は同じようなことを研究室における別のプロジェクトでも考えていたところがあるので最後に少し話して おきたい。それは小千谷プロジェクトがはじまる以前の冬に行った新建築オンラインとの連載企画で、寒さが厳しい北大路ハ ウス(弊研究室が設計した京都の建築学生が住まうシェアハウス)を舞台に、温熱環境工学の小椋・伊庭研究室と協働し温熱 環境を改善するデバイスをデザイン・制作するものだった。小椋・伊庭研究室の監修で現在の北大路ハウスを取り巻く温熱環 境について温度・湿度・風量・日射量などの要素を詳細に分析することで、課題発見とデバイスの設計を進めていった。

fig.11

北大路ハウスの生活に導入された4つの温熱環境デバイス

これまで、筆者はそのような目に見えない環境を分析するツールを持ち合わせていなかったため、こうした温熱環境的な要 素から設計がデベロップしていく体験は個人的に興味深いものであった。また、打ち合わせや制作のために何度も北大路ハウ スに滞在するうちに、そこで暮らす住人の住まい方や、実際の体感する温熱環境を鑑みて設計内容を修正したこともあった。 連載の締め切りやデバイス部品の納期の関係から早く設計を完了させなければならなかったのだが、もう少し北大路ハウスを 取り巻く温熱環境や実際のライフスタイルを分析していたい、という気持ちが芽生えた。連載企画が終了してからもそのデバ イスは北大路ハウスに現存しているが、一抹の不安が的中し、電気代が思ったより高くついていたり、夏場の温熱環境に悪い 影響を及ぼしたりと、分析不足による想定外のことも起きている ...…。 さて、建築の周囲を取り巻く物事は存外に複雑多様で、クリアに捉えることが難しいのではないだろうか。目に見えないも のをコンピューターの力を借りて解析したり、一旦現実にはしらせてみたり、色々な人の思考を取り込んだりすることで取り 巻くものすべてを生かして建築を作ることができれば、それは多様な強度をもった一つの理想形ではないだろうかと、平田研 究室で設計制作活動を実践するなかで考えてみた。

67


PROJECT

Paris Tea Pavilion Kyoto University Thomas Daniell

Challenge The pandemic panic that began in early 2020 triggered many new rules and codes of behavior, which temporarily transformed various aspects of daily life, notably in education. At Kyoto University, face-to-face teaching became very difficult, or impossible. Students were forced to stay home, and in some cases foreign students were not able to enter Japan. Consequently, most classes took place online, with students watching live lectures and submitting assignments according to programmed deadlines (taking into account time-zone adjustments). These changes obviously had a negative effect on the usual teacher-student interactions and discussions, as well as relationships between students inside and outside the classroom. The formative experiences of university life ‒ a process of socialization and maturation, of making friends and connections, of learning to participate in the intellectual discourse of seminars and laboratories ‒ was replaced by an enforced isolation that led to psychological and motivational problems among students and teachers alike. Students all too easily stopped paying attention to their screens, and teachers found it difficult to spark responses from them. Yet, as online teaching became more accepted and normal, the limitations being imposed also opened other opportunities. If it were indeed possible to teach effectively without regard to physical proximity or temporal alignment, then what else might be possible? Holding classes online means that students did not need to be in the same room, the same city, or even the same country, and this also allows students anywhere to communicate and collaborate in virtual environments, in real time.

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Paris Tea Pavilion DANIELL Laboratory

Response In the first semester of 2021, Daniell Lab initiated an international joint design studio, using a combination of online and face-to-face teaching. Supported by ADAN (Architectural Design Association of Nippon, led by architects Shuhei Endo and Kiyoshi Sey Takeyama), this was a collaboration with students at ESA (École Special dʼArchitecture) in Paris, France, led by Professor Frank Salama, and students at Osaka Sangyo University, led by Professor Noriyuki Hikida, and one student from Osaka Institute of Technology, led by Professor Asako Yamamoto. The visiting critics were Kentaro Takeguchi, a partner in the Kyoto-based architecture office Alphaville, and structural engineer Ryo Watada. The assigned task was to design a pavilion for a site on the bank of the Seine River, adjacent to Asile Flottant, a boat designed by Le Corbusier in the early twentieth century. The ultimate goal was for the students to go to Paris at the end of the semester, and actually build the pavilion. All sessions took place over Zoom, using large monitors installed in each studio. The students of each school would gather in their respective studios, or participate from their homes. Classes were scheduled during evenings in Japan and mornings in France, allowing a global simultaneity with live communication. Outside regular class hours, the students shared their design ideas and presentation files using private video communication and online group chats. The negative consequences of online teaching were thereby turned into a stimulating and inspiring opportunity, creating new relationships rather than damaging existing ones.

Background Asile Flottant (otherwise known as the “Louise-Catherine”) was constructed in 1919 as a barge for transporting coal. In 1929 it was donated to the Salvation Army, who commissioned Le Corbusier to convert it into a shelter for refugees and the homeless. The project architect was Kunio Maekawa, a Japanese architect who worked in Le Corbusierʼs Paris atelier from 1928 to 1930. Asile Flottant is therefore a significant project in the historical relationship between the French and Japanese architectural communities. Today, Asile Flottant is anchored on the left bank of the River Seine, about one kilometer upstream from Notre Dame Cathedral. By 1995, it had deteriorated to the point that it was no longer being used as a shelter, but since 2005 volunteers have been carrying out restoration work. ADAN raised funds to purchase, renovate,

69


PROJECT

and convert Asile Flottant into a gallery for architecture-related exhibitions, and

Asile Flottant, drawing by Kunio

to be a symbol of Japan-France friendship and cultural exchange. Renovation is

Maekawa (1929)

ongoing, though it has been delayed by the accidental submerging of the boat in 2018, and by the COVID-19 pandemic in 2020. During the construction period, ADAN proposed a number of events to raise the profile of Asile Flottant and the work underway there. One of these was to be a small, temporary folly or pavilion located on the adjacent riverbank. With sponsorship from Morihan, an Uji-based company that manufactures green tea, the students were asked to build a pavilion that could also be used as a space for holding traditional Japanese tea ceremonies. The pavilion thereby both celebrates the history of France-Japan architectural relationships, and introduces Japanese tea culture to ordinary Parisians.

Folly In architectural education, and in the architectural profession itself, the temporary pavilion or folly has long been a vehicle for experiments in architectural space, form, and material, due to its relatively low cost, short lifespan, and lack of precise function. Free of the need for longevity, waterproofing, efficiency, and so forth, a pavilion may become a relatively pure creative expression of architecture for architectureʼs sake. This pavilion design studio has multiple, complementary objectives. It provided students with experience in specific building materials and details, human scale and spatial experience, design collaboration and construction teamwork, schedule

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Asile Flottant interior (2021)


Paris Tea Pavilion DANIELL Laboratory

Tea house okoshiezu diagram, taken

coordination and time management. The construction and display of the pavilion

from Arata Isozaki, MA: Espace-Temps

were intended to produce a public event that demonstrates the energy and

au Japon (1978)

creativity of the students, while promoting wider community knowledge about the Asile Flottant project.

Studio The students designed the pavilion over the course of one semester, moving back and forth between hand sketches, digital models, and physical models. The first task was to study precedents in tea house design, specifically the okoshiezu (fold-up drawing) design method used by sukiya carpenters. Students experimented with this technique in order to understand its inherent spatial and geometric possibilities or limitations, and to begin developing a tea house design appropriate to a European site in the twenty-first century. The final okoshiezu proposals were primarily investigations into surfaces, with an origami-like expression that negotiated the possibilities of unusual spaces in dialogue with the ergonomic, functional, and symbolic aspects of the tea ceremony. Following the okoshiezu exercise, the students were placed in groups that contained members of each of the three schools, to begin developing actual design proposals. Given the budget constraints from the sponsor, the practical constraints entailed by having the students themselves build the pavilion, and the necessity for rapid assembly and disassembly, it was decided to limit the allowable materials to several hundred pieces of 100 x 50mm timber, with appropriate hardware fixing elements, while allowing for the possibility of additional lightweight, inexpensive Working in the university

materials such as rope, fabric, and bamboo. The okoshiezu experiments with

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PROJECT

surface elements were thus superseded by investigations into applying linear

Second-place winning design

elements to define architectural form and space. Given that timber is rarely used for architectural structures in France, this also provided an opportunity for students to investigate traditional Japanese carpentry details, and then introduce them to the French audience. The rest of the semester took the form of a tournament, in which the less compelling designs were progressively eliminated. At each interim review, a vote was held, for which all professors, students, and guest critics participated. Based on the number of votes that each design received, half would be selected and half rejected. Those students whose designs were eliminated were then asked to join the other student groups: for example, after the first interim review, the groups of four students were combined into new groups of eight students to continue developing the remaining designs. At the final review, the winning design was chosen, again through a democratic vote. Creativity, originality, and beauty were important criteria, but the decision was ultimately based on which design would be most feasible, given the available time, budget, and labor. Among other issues, the pavilion had to be demountable, with the intention that the materials would be used again in future, for building other variations of the basic pavilion idea. At the final presentation, there were two remaining designs, with different but very strong approaches to the problem. One proposal was in fact subdivided into a set of smaller pavilions, more or less cubic in form, linked by an irregular, orthogonal pathway. Each pavilion was intended to contain a specific activity, such as resting, viewing, shopping, storage, and the tea ceremony itself. They were also demonstrations of potential timber assembly methods, such as variations in the patterns of louvers, slats, and grids. The allusions and inspirations from traditional Japanese building methods were clear and attractive, though relatively conservative in the final forms.

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International collaboration by Zoom


Paris Tea Pavilion DANIELL Laboratory

First-place winning design

The other design was a single volume comprising square frames that were sequentially aligned but progressively torqued and distorted to create spatial and functional variety. This design had far less obvious relationships to traditional Japanese tea house architecture, and clear influences from contemporary digital design techniques. The final vote was extremely close, but the second design won. The tournament format created a posit ive atmosphere of internal competitiveness, rivalry, and effort. Rather than awaiting judgment from their instructors, the students actively debated and criticized the proposals of their peers. Finally, one design had to be chosen and all others rejected, but dealing with the inevitable disappointments and compromises was considered to be part of the learning process.

Construction Final jury

At the end of the semester, preparations began for construction in Paris. Permission to place the pavilion beside the Seine was sought and received from the local authorities. Several students from Kyoto University and Osaka Sangyo University flew to France to assist the ESA students ‒ and so, finally, they were able to meet each other in person. The Japanese students brought with them tea samples and a noren curtain provided by Morihan. Wood and other necessary materials were sourced from local suppliers in the

Between physical and digital

Paris region. Thomas Daniell and Kentaro Takeguchi spent a day with the students at the beginning of the construction period, which included a tour of Asile Flottant. Construction took approximately one week, using the courtyard of ESA for prefabrication and assembly. Onsite improvisation led to a slightly different form than the studentsʼ original design drawings. Budget constraints caused the pavilion

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PROJECT

to be reduced in size by about a third, and other modifications were made to the elements and details as a consequence of problems or opportunities revealed by the initial mockups. The built result is thus a manifestation of both idealized design conceptions and practical proof-of-concept tests, achieved through sensitive responses to the available time, people, materials, and environment. As of this writing, the pavilion remains at ESA, with the long-term goal of moving it to the Seine River site. It will eventually be disassembled, and the wood put in storage to be used for future projects.

Outcome Hands-on construction work with real materials allows the direct testing of innovative detail solutions and design possibilities. Confronted with the freedom of form now permitted by digital modeling, it may seem romantic and reactionary to advocate the use of physical models and full-scale mockups. Paradoxically, the merits of the physical model lie in its material rigidity, and the drawbacks of the digital model lie in its unlimited flexibility. The design process should be predicated on an awareness of the friction and resistance of the real world. The issue is not the comparative speed and precision of computers versus handcraft, but the feasibility of the shapes they each engender. No matter how precise the original pavilion design appears on paper or on a computer monitor, it is unavoidably transformed by the properties of the materials. The Paris Pavilion studio forced students to engage with the tactile, responsive, material world, to respond to the

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Construction in Paris


Paris Tea Pavilion DANIELL Laboratory

resistance and friction of real things. And, not least, to engage with other people during a period when the pandemic panic seemed to make that all but impossible.

Comments from students of Kyoto University Nasu Mayuko The students from the French university, as well as from Osaka Sangyo University, all had different knowledge and experiences, and different points of view. This was a bit of an inconvenience, but it was interesting to see for the first time that my ideas were discussed from a different point of view and that I was able to interpret and shape other people's ideas in my own way. Anju Kato It was my first experience of creating something with multiple people online, Completed pavilion

and I found it both interesting and challenging. As we progressed through the stages, the number of team members increased, and I learned how hard it is to respect each team member's opinion and give them a role. It was also interesting to see the time adjustments due to the time difference and how the values and cultural differences between countries really showed in the design process. I would like to apply what I learnt from this opportunity in my next project. Taichi Kaga All in all, it was a very stimulating experience. It took a lot of time and energy to exchange opinions in English, which is not our mother tongue, with the person on the other side of the screen, who is very difficult to communicate with even in

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PROJECT

Japanese, but we learned a lot from the process of sharing our feelings and thoughts with other students of architecture. The result is a work that is full of the aspirations of all the friends, teachers and colleagues involved. We are very proud to have been involved in this first real project, from the basic design to the construction, and at the same time we can't thank enough all the people who have supported us in this precious experience. We hope that this project will continue to develop and prove to be very fruitful for the next participants. Jiro Akita Although it was only a simple pavilion, it was the first time for me to design and construct a building in a foreign country, and it was very difficult at times. I would like to thank all my friends and teachers who participated in the workshop with me. Usaki Tsujimoto I learned how difficult it is to design a building while taking into account the practical limitations. It was also a great experience for me to see what other universities are doing. Comments from students of École Special dʼArchitecture For the final part of the workshop, four students from Japan, Fuma, Jiro, Kota, and Taichi (who designed the pavilion), flew all the way to Paris to build the tea pavilion with us: Adrien, Ece, Ha, Henri, Kim, Mariam, Mariken, and Maxence. We were all so glad to finally see the Japanese students at our school after months of working with them online. The first time we actually met was, to be honest, a little awkward, but once we got past the initial introductions, we instantly hit it off, and became friendly with each other right away, despite our cultural differences. We started having conversations about Japan and France, we learned a lot about Japan, about their culture, their architecture, and simply, their lifestyles. After some time, we walked around our school, and admired the Parisian architecture of the 14th arrondissement, all the while talking about French culture, and teaching them some common sentences in French. The construction took a couple weeks, and we got to build everything from scratch. We first measured and hand-cut wood planks, then assembled and built the whole structure using screws and drills. We all got to participate and worked very efficiently together. Taichi, Fuma, Kota, and Jiro always knew what was the next step, and made sure we understood the project

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Paris Tea Pavilion DANIELL Laboratory

and how to build it. We all worked harmoniously and everyone had a specific “role,” whether it was measuring the wood, carrying the wood, cutting the wood, drilling the wood, etc. A typical day of construction would start around 10am, and would end around 6pm. During those times we would solely focus on building the pavilion. We would always have lunch all together around 1pm, with all the students, Japanese and French, and it was always during those times that we would get to know each other more. We got to learn more about each otherʼs personal lives, hobbies, aspirations, and so on... Jiro, Fuma, Kota, and Taichi were extremely open minded about French culture, and we were actually surprised. Working with them was so much fun and such an enriching experience, they are all so knowledgeable and hardworking and they would always take the extra mile to make sure that everything was perfect, we all definitely learned a lot from their strong work ethic and perseverance. After successfully building the tea pavilion and completing the workshop, despite only having known each other for less than a month, we felt like we truly connected with Kota, Fuma, Jiro, and Taichi, and that we had a real bond all together. On the last day, we had a tea ceremony all together in the completed pavilion, and at the end, it was quite sad when we had to say goodbye to each other. This experience is definitely one to remember, and Kota, Fuma, Jiro, and Taichi will always have a special place in our hearts. We thank you again for this wonderful and extremely rewarding experience, we are all very grateful. Hopefully, one day, we can all meet up again, and maybe this time in Japan. Until then, you are always welcome here. Manh Ha Tran My personal favorite moment was when we had dinner together on the last day before the Japanese students left. We ate at a French restaurant near the school. After a few glasses of wine, we had some heart-to-heart conversations. I think that was when I bonded the most with them. It was a little sad to say goodbye to them at the end of that night. Mariam Darboe Something that I will remember from this experience is the positive and uplifting energy that Taichi, Kota, Fuma, and Jiro had. They were always smiling, and seemed extremely grateful to be here, which was very heart-warming and nice to see. Mariken Gillet We made a very nice construction team and the atmosphere was very nice. We were all listening to each other, everything

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PROJECT

was well organized and the tasks were distributed well: while one team measured and prepared the parts, the other cut and assembled the parts between them. Our international meeting around architecture allowed us to have very interesting discussions. Lauren Sabah My favorite moments were when we had online meetings with Taichi and Fuma until 3am, trying to understand each other so that we could work together and make the best project. Those were genuine moments of fun, sharing and exchange that I will not forget. Yedidia Senoussi To have been part of this international workshop will always be an unforgettable experience for me. A great moment of exchange between cultures, different working approaches and methods. During this workshop, Mayuko and Kajiura inspired me a lot with their perseverance.

Comments from Instructors Frank Salama (École Spéciale dʼArchitecture) The little story of the tea pavilion… The first month, in June, consisted of a collaboration by Zoom of students residing in two countries (Japan and France) and three different cities (Kyoto, Osaka, and Paris). The collaboration between these students was

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Paris Tea Pavilion DANIELL Laboratory

surprisingly productive. They exchanged ideas with each other during the week and every Wednesday there was a presentation in front of the instructors. There were initially eight teams of four students, then after a first selection there were four teams of eight students left. One project among the four finalists was declared the winner following a vote of teachers and students. In July, the winning team drew up execution plans in order to be able to have the project priced, and obtain the legal authorizations. In August I took care of the costing and authorization of the project. At the beginning of September, we received the delivery of the wood. Four Japanese students and about fifteen French students then together began construction of the pavilion in the courtyard of ESA. The Japanese students, who had a little experience of wood construction, organized the site perfectly. The pavilion was inaugurated in mid-September and we could then have a little tea ceremony all together. Finally, the pavilion will stay in the schoolyard for a few months. The workshop was a great new adventure for teachers and students alike. I hope we can repeat this experience.

Noriyuki Hikida (Osaka Sangyo University) I would like to express my sincere gratitude to Osaka Sangyo University for allowing our students to participate in this international workshop. It was a great experience not only for the students, but also for the faculty members, as we were able to make it this far with warmth and perseverance in the face of many difficulties, such as differences in language and architectural experience. I would like to express my gratitude once again to all the people who have worked so hard to bring us to this point. The theme of the project was an exciting one: to design a contemporary tearoom in front of the remains of a Le Corbusier design, and it was not just a spatial pavilion, but also a fabrication that entailed a certain amount of limited materials. In particular, the question of how to approach the cultural existence of the tea house was answered differently in each school, and overcoming this question is what made this workshop meaningful. I hope that these workshops will continue to be held and that we will have the opportunity to participate, and I hope that we can continue to cooperate in the future. Asako Yamamoto (Osaka Institute of Technology) First of all, Iʼm happy and pleased that this workshop was completed with the realized architecture, as to experience the design at 1:1 scale after deep reflection using smaller

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PROJECT

scale models, or inside a computer, could be the best way to learn about spatial design. Secondly, I think the students were also satisfied with not only the result but also the extraordinary experience of talking and collaborating with foreign students who have different cultural backgrounds and ways to address the problems. Finally, although all the plans that the teachers made at first didnʼt work entirely, because of the difficult situation caused by COVID-19, we could manage to achieve the goal, which was to construct a place to have a cup of tea, even if we had to change many details. I think it is an essential experience for designers who are going to work in society. All these three points are what I have experienced so far, and what I wanted all the students to discover in some way. So Iʼm so proud of the outcome and grateful to all the other teachers who made a big effort to finish this project. I would like to visit the construction site as soon as possible! Kentaro Takeguchi (Alphaville) The workshop began with the possibility of using the banks of the Seine, where Asile Flottant is located. Fortunately, Kyoei Tea, the famous Morihan tea company that Alphaville had met during the proposal process, agreed to sponsor the project. However, as with Asile Flottant, there were many differences in controlling the construction in a remote and metropolitan city like Paris. Estimates from the carpenters were far behind schedule, and when the order was placed, there was talk of a wood scarcity in September. In the end, I prepared a “Plan B” to reduce the amount of wood by two-thirds, so I activated it with the students and ordered the wood from Marseille (I was participating in another workshop) to Professor Salama by phone. However, thanks to the studentsʼ good sense of construction, the construction was completed in the expected number of days, without any carpentry training and with the help of a team of French students, which was a good and unexpected thing. On the contrary, with a structure of this size, the designers can put the timber together as if they were modelling it in 3D CAD. The fact that the construction of the architectural space by a human being was pursued as if it were an instinct, makes it a success at the moment.

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Paris Tea Pavilion DANIELL Laboratory

Participants Kyoto University Instructor: Thomas Daniell Teaching assistant: Anju Kato Students: Hotaka Iwami, Mayuko Nasu, Wang Guoyi, Taichi Kaga, Jiro Akita, Usaki Tsujimoto École Special dʼArchitecture Instructor: Frank Salama Teaching assistant: Maxime Font Students: Louise LeBlanc, Mariken Gillet, Lauren Sabah, Sunny Choukroun, Henri Zenatti, Adrien Bousquet, Maxence Rondel, Ece Gurkan, Kim Gommery, Mariam Darboe, Manh Ha Tran, Yedidia Senoussi, Gravine Lokoto Mbokawa, Louisa Rachedi, Suphi Zencirkiran, Ahmed Khalil Osaka Sangyo University Instructor: Noriyuki Hikida Teaching assistant: Shuji Fujioka Students: Kota Murayama, Fuma Takakura, Saya Hashimoto, Sayaka Yamazaki, Keita Miyazaki, Takeshi Kajiura, Kyogo Shibata, Thomas Loncq Osaka Institute of Technology Instructor: Asako Yamamoto Student: Yoshihiro Okamoto Guest critics Kentaro Takeguchi Ryo Watada Support ADAN (Architectural Design Association of Nippon / Shuhei Endo, Kiyoshi Sey Takeyama) Sponsor Kyoeiseicha Co., Ltd. Morihan

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PROJECT

「包む音/取り巻く音」 Enveloping / Surrounding Sounds 教授

高野

准教授

大谷

緒言 日常的に我々が置かれる環境では、例えそれがどれだけ静寂な場であったとしても、必ず何がしかの音が聞こえてくる。そ れどころか、目を閉じて耳を澄ましてみれば、我々がいかに多様な音に包まれ、そして、取り巻かれて日々を過ごしているか が分かるだろう。我々が様々な場面で聞く音は実に多様であり、心地よいものもあれば不快なものもある。また、必要な音も あればそうではない音もある。心地よい音はより心地よく、不快な音はなるべく減らし、そして、必要な音を必要な人に適切 に届ける。人々にとってより良い音環境を実現するために成すべきことは多い。 建築とは物理的あるいは心理的な境界により空間を区分するものである。物理的境界としての建築は、その境界によって音 のエネルギーを低減させ我々を不要な騒音から保護するシェルターであり、その境界での音の反射により内部空間の音エネル ギーの散逸を防ぎ持続させることで適切な響きを創り出すための箱でもある(写真) 。音環境を形成する上で建築という物理的 存在が果たす役割は大きい。しかしながら、快適な音環境を実現するためには、建築そのものに留まらず、そもそもの音エネ ルギーの発生源である音源が有する性質や、音を最終的に受容する人間の生理的・心理的な特性をも考慮した、幅広い観点か ら音という現象について考えることが必要である。環境構成学講座音環境学分野 1 では、このような視座に立って研究を推進 している。 本プロジェクトページでは、本研究室で行っている音環境に関する研究について俯瞰すると共に、幾つかの個別の研究テー マについて紹介する。

【写真】 音楽ホールでの音響測定・録音の様子(演奏:アンサンブル・セリオーソ)

【参考文献】 1) 京都大学大学院工学研究科建築学専攻 環境構成学講座音環境学分野ウェブサイト : http://acoust.archi.kyoto-u.ac.jp

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Enveloping/Surrounding Sounds

TAKANO/OTANI Laboratory

「音源と音の伝搬・制御の研究」 教授

高野

研究背景 我々は、楽器・スピーカのように音を出すことを目的とした機器、エアコン・冷蔵庫などの家電製品、自動車や鉄道のよう な乗り物などの「音源」に取り囲まれて生活している。これらの音源からの音が伝搬する過程で「自然現象の音」、 「生き物の音」 など様々な音とも混じり合い音環境が形成されている。ヒトはこの音環境の中でそれぞれの音を聞くことにより周囲の環境を 認識し情報を得て、様々な判断を行っている。 近年、携帯電話など我々の身の回りに音を出す機器が増加しているが、音源がどんどん増えていくと、ヒトは個別の音を認 識できなくなる。このため、たとえ有用な情報を持った音であっても、他の音とまざった「騒音」となり音環境が悪化してし まう。また、音源が同一の空間に多数存在する場合、壁面吸音など建築側での一律の対策では音環境の改善が困難な場合も出 てくる。このため、音環境を構成する個別の音源を制御し、音のバランスを考えることも重要となる。

音源の研究 同じ振幅で振動している音源であっても、音源の移動や、 振動モードなどの違いにより放射される音は大きく変化する(図1) 。 このため、音環境を構成する音源のバランスを考えるためには、実際に音がどこから発生しているかを知ることが重要になる。 図2は走行中の新幹線車両の音源分布をマイクロホンアレイで計測した例である 1。車両の速度を変えて測定を行うことにより、 速度を向上させた場合に、どの部分の音源対策がどの程度必要となるかが分かる。このため、音源の分解能をさらに向上させ る方法などについての研究も行っている。また、鉄道騒音のフィールド調査により得られた音源条件や環境条件による音の変 化などに基づく音源特性の推定などの検討も行っている。

音の伝搬・制御の研究 音源が電気的に制御されている場合は、音を特定のエリア内でのみ聞こえやすくするようにアクティブ(能動)制御が可能 である。また、音源に近接して設置された遮音板などを用い、音の指向性や放射エネルギを、パッシブ(受動)制御できる可 能性もある。これらの能動的な手法に受動的な手法を組み合わせたセミアクティブな音場の制御手法についての研究を進めて いる。また、数値解析を用い、吸音材の三次元構造や地表面での温度境界層などが音の伝搬に与える影響などに関する研究な ども行っている。

(a)

振動の波長<音の波長

(b)

振動の波長>音の波長

【図1】同一振幅音源からの音の放射

【図2】 移動音源の音源探査例

【参考文献】 1)Y. Takano et al, Development of Visualization System for High-Speed Noise Sources with a Microphone Array and a Visual Sensor, inter-noise 2003, N930, pp.2683-2689 ,2003-8

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PROJECT

「音に包まれるということ」 准教授

大谷

はじめに スペイン北部の旧石器時代の洞窟遺跡群における近年の調査により、洞窟内の共鳴が強く生じる場所においてより多くの壁 画が描かれた傾向があると報告されている 1。この調査結果と洞窟遺跡内部において旧石器時代の楽器が多数発見されているこ とを併せて考えれば、前史のこれらの地域における人々のコミュニティは、洞窟という原始的な建築の内部で、そこで生じる 音の共鳴を利用して何らかの音楽活動を含む儀式を行っていたのであろうと推察され、さらに洞窟内でより響きの長い場所を 好んだ可能性も示唆される。また、キリスト教の大聖堂やイスラム教のモスク内部の強く長い残響は、 ミサやコーラン詠唱といっ た宗教儀式において欠くことのできない音響効果を生み出している。さらには、音楽を美しく響かせることに特化された音楽 ホールはそれ自体が楽器であるとも表現される。 儀式や祭り(演劇やコンサートもある種の祭りである)といった非日常的な催しは共同体を構成する人々が集い共に祝い祈 るための営みであり、コミュニティの健全な持続性を保つために欠くことができないものである。建築が創り出す響きはその ような営みの舞台装置として古来より意識的あるいは無意識的に必要とされてきたし、 現代社会においても同様であろう。また、 非日常の場だけでなく、住宅・オフィス・教育施設・商業施設といった日常的な生活の場における環境の質も建築が創り出す 響きに大きく依存している。このように、建築により創り出される音の響きは我々の生活に深く影響を与えている。

音に包まれる 音波に限らず波は異なる媒質の境界で反射する。建築内部の空間を満たす媒質である空気を伝搬した音波は境界すなわち天 井・床・壁などの表面で反射する。一度反射した音は空間内を再び伝搬して別の境界で反射し、理論上は反射は無限に繰り返 される。さらに空間内の音源から発せられた音波はあらゆる方向に伝わるため、閉じられた空間内では無数の反射音が生じ続 ける。したがって、内部空間に存在する聴取者は同じ空間内に存在する音源から直接届く音(直接音)に加えて、それぞれが 異なる時間遅延と強度をもつ無数の反射音(間接音)に晒される。このような状態を「音に包まれる」と表現するならば、何 らかの音源を含んだ建築の内部空間において我々は常に反射音に包まれているといえるし、建築とは反射音を生み出し我々を 音で包むための装置であるともいえる。

響きの空間性 建築空間における音をヒトが聴覚によって知覚する際、反射音は非常に重要な役割をもつ。反射音のエネルギーが 60dB 減 衰するまでの時間として定義される残響時間(reverberation

time)2 は、室内の音の響きの長さを評価するための代表的な物

理指標として 100 年以上に渡って用いられており、音響学者の間では「あのホールの残響時間は〜秒だから、もう少し長い方 が良いね」といった会話が未だに頻繁に交わされる。聴取者の観点からは、残響時間とはヒトが音に包まれた状態に置かれる 時間的な長さを表しており、講義室や会議室などの音声をやり取りする場では残響時間が長過ぎると声が聞き取りづらく、発 話者と聴取者双方にとってストレスの多い環境となる。また、音楽ホールなどでは残響時間が短過ぎれば楽音が美しく響かず、 逆に長過ぎれば音源方向に結ばれる聴覚的イメージ(音像)がぼやけ、どちらもホールに対するクレームの原因となり得る。 このため、音響学者や音響設計者は建築空間の目的に応じた最適な残響時間を見出し、それを建築的にあるいは電気音響設備 により実現することに多大な労力を割いてきた。 一方で、残響時間の概念は音のエネルギーの到来方向が均一であるという完全拡散音場の仮定に基づいており、反射音の到 来方向という空間構造は考慮されていない。実際の音場が完全拡散音場となることはなく、 「音に包まれる」状態には時間だけ でなく空間も加えた時空間構造のバリエーションがある。このため、反射音の時空間構造の在り方が聴覚知覚に与える影響を 考慮しなければ「音に包まれる」状態を最適にすることはできない。我々の研究室では、このような反射音の時空間構造を考 慮した音環境の最適化を目標として、反射音の到来方向分布の詳細な分析を可能にする方法を構築し 3(写真1、図1)、これ を利用して反射音の到来方向分布と聴覚知覚の関係を明らかにするために反射音の時空間構造のモデル化 4 を行っている。

響きの再現 適切な音環境を実現する上で、前述のように反射音の時空間構造の分析 3 及びモデル化 4 に基づいた定量的な検討は重要であ るが、その一方で、数値シミュレーションによって予測された建築空間内の音場を、まるで聴取者がその場にいるかのような 聴覚的体験を実験室において仮想的に呈示する可聴化を利用した音響設計へのフィードバックも有用であると考えられる。上

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Enveloping/Surrounding Sounds

TAKANO/OTANI Laboratory

述のように実際の建築空間では反射音が様々な時間遅延をもって様々な方向から到 来するため、仮想的な呈示においても反射音の時空間構造が物理的に厳密に再現さ れなければならない。我々の研究室では、音場を物理的に再現するための理論の1 つである高次アンビソニックス(HOA: Higher-Order Ambisonics)5 を発展させて 高精度化した手法を開発 6,7 すると共に、半無響室内に構築したスピーカアレイ(写 真2)を用いた高精度な可聴化システムの構築を目指して研究に取り組んでいる。 【写真1】 京都大学百周年記念ホールにおける 音響測定の様子。ステージに正十二 面体無指向性スピーカ、客席にダミー ヘッドマイクロホンや球状マイクロ ホンアレイを設置して測定した。

【図1】 桂キャンパス C2 棟の某会議室で測定した反射音の到来方向分布(モルワイデ図法 【写真2】

で表示)。時刻が進んでも、反射音のエネルギーが水平方向 0°, 90°, − 90°, 180

桂キャンパス C2 棟地下半無響室に

°に集中している。この要因は大会議室の壁三面(ガラス張り)で強い反射音が生

構築した 64 個のスピーカで構成さ

じていることにあると考えられ、この部屋での音声の明瞭性の低さの要因の一つと

れるスピーカアレイ。

なっていると推測される。

【参考文献】 1)B. Fazenda et al. Cave acoustics in prehistory: Exploring the association of Palaeolithic visual motifs and acoustic response, J. Acoust. Soc. Am. 142(3), 1332-1349, 2017. 2)W.C. Sabine. Collected Papers on Acoustics. (Harvard University Press, Cambridge, MA, 1922) 3)Y. Izumi and M. Otani. Relation between direction-of-arrival distribution of reflected sounds in late reverberation and room characteristics: Geometrical acoustics investigation, Applied Acoustics 176, 107805, 2021. 4)T. Tanaka and M. Otani. Approximating an isotropic sound field as a composition of plane waves, Acoustical Science and Technology 42(5), 2021 (in press) 5)M.A. Poletti. Three-dimensional surround sound systems based on spherical harmonics, J. Audio Eng. Soc. 53:1004-1025, 2005. 6) 松田遼 , 大谷 真 . 両耳を中心としたマルチゾーン HOA による音場再現の検討 , 日本音響学会講演論文集 673-676, 2019. 7) 川﨑悠季 , 大谷 真 . 両耳を中心としたマルチゾーン HOA 再生に基づくバイノーラル合成の性能評価 , 日本音響学会講演論文 集 183-186, 2021.

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PROJECT

「音響数値シミュレーションへの音源指向性の導入」 修士課程一年生

小川

晃史

はじめに 建築物は量産できるものではなく、特にコンサートホールなどの建築において、完成後に音環境が悪いと判明すれば取り返 しのつかない事態になりかねない。一方で、コンサートホールはランドマーク的側面を強く持ちそれぞれが異なるデザインと なるため、音環境が良いと既に判明しているコンサートホールの内部空間をそのまま再現することは望ましくない。前例が少 ない設計においても、設計段階で建築空間の音環境を正確に予測し、音環境の最適化の検討をすることは非常に重要である。 また、緒言にあるとおり我々は必ず何がしかの音に囲まれているため、コンサートホールのような音環境が特に重要視され る建築でなくとも、音環境の予測は大切である。ここでは、予測手法の一つとして時間領域有限差分法を紹介し、音源指向性 を導入した場合を紹介する。

音場予測の手法 音環境の予測には、音の波動性を無視し幾何学的にモデル化した幾何音響学的手法と、音の波動性も含めモデル化した波動 音響的手法がある 1,2。筆者は予測手法として、波動音響的手法の一つである時間領域有限差分法(以下、FDTD 法)を扱った。 FDTD 法の特徴として、解析した音場の可視化が容易な点と、音場の過渡的な変化を観察できる点がある。 例として、反射壁付近での音の伝搬のシミュレーションを紹介する。図1に示すように、10m 四方の2次元音場で、どの方 向にも一様に音が伝搬する無指向性音源のシミュレーションを行った。ただし、音源に最も近い境界のみ反射壁、それ以外の 境界は吸音壁とした。10m 四方の室において、壁際で音が鳴る様子を、ちょうど真上から観察することを想像すると分かりや すいかもしれない。

音源指向性の導入 上記のシミュレーションに、音源の指向性を導入した場合を紹介する。発話や楽音など現実の音源は特定の方向で音圧が強 くなる指向性を有しているが、音場予測では無指向性音源が仮定されることが多い。 図3に示すように、上述のものと同様のシミュレーションに、人が室中央方向に向かって発話する場合のような、反射壁の 方向に音圧が小さくなり逆側の音圧が大きくなる音源指向性を与えてシミュレーションした。無指向性音源に比べて、0.001 秒では室中央に向かう方向に音圧が大きくなり、それに伴ってその後は反射波の音圧が小さくなることがシミュレーションで きた。 このように、シミュレーションに音源指向性を導入することで、シミュレーション結果が変化したことが分かる。任意の指 向性を音場予測に簡単に導入する方法を確立できれば、音場予測の高精度化に資することができる。

【図1】 無指向性音源のシミュレーションの概要

【図 3】 指向性音源のシミュレーションの概要

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【図2】 無指向性音源のシミュレーション結果

【図 4】 指向性音源のシミュレーション結果


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【参考文献】 1) 豊田政弘ら『FDTD 法で見る音の世界』コロナ社 ,2015 2) 日本建築学会編『初めての音響数値シミュレーションプログラミングガイド』コロナ社 ,2012

「音環境を可聴化する技術:音場再現」 修士課程二年生

川崎

悠季

はじめに ある空間内での音環境そのものを、音の到来方向、距離感といった3次元的な特性を保ったままそっくりそのまま収録し、 再現することはできないだろうか。もしこれが可能になれば、コンサートホールで演奏されるオーケストラの演奏を、自宅な ど全く別の場所で、まるでその場にいるかのように体験することができる。建築分野での応用を考えてみると、建築音響シミュ レーションによって模擬した音を可聴化することにも利用できる。これにより、まだ図面の状態の建築であっても、その内部 で実際に音がどのように響くかをあらかじめ聴くことができるようになる(図1) 。 これらを実現するのが「音場再現」である。この技術は、その名の通り実 / 仮想空間における音の「場」そのものを、マイ クロホンを用いて収録し、スピーカやヘッドホンにより物理的に再現しようとするものである。 筆者らは、前述のような、建築音響における音場の可聴化システムの実用化を目標に、音場再現技術の一つである高次アン ビソニックス(HOA)について、研究を進めている。ここでは、まず音場再現技術の概要および課題を述べ、筆者らが近年取 り組んでいる研究について紹介する。

音場再現技術とその課題 音場再現は、音環境そのものを物理的に再現しようとする技術である。多くの場合、多数のマイクロホンによって音場の収 録を行い、多数のスピーカによって囲んだ領域の内部に音場領域を再現する(図2) 。 このような音場再現技術の一つが、高次アンビソニックス(HOA:Higher-Order Ambisonics)である。この手法は、ある点に 入射する音波の指向性パターンを多数制御することで、一定の領域で音場を再現するもので、多数のマイクロホン、スピーカ を用いることができる環境では、複数人が同じ音環境を受聴できるほど広い音場領域を再現できる。 しかし、このような環境は理想的であり、実際には収録・再生の両プロセスにおいて多くの問題がある。収録系においては、 マイクロホンの数や配置によって、正確に収録できる音場領域の広さと周波数に上限が生じる。また再生系においては、使用 できるスピーカが少数である場合、精度良く受聴可能な音場領域が、周波数の上昇と共に制御中心に向かって小さくなるとい う性質がある。そのため、たとえ受聴者を一人に限定したとしても、高周波数では受聴者の頭部を覆えるほど大きな再現領域 を合成できず、受聴対象である両耳位置での音場の再現精度が低下してしまう(図3-a) 。

耳介位置での受聴領域を確保する再生法 これらの課題解決のため我々は、特に再生系に着目し、 「耳介位置を中心とした HOA 再生」を提案している。従来手法は制 御中心を受聴者の頭部中心とするのに対し、提案手法は耳介位置に設定する(図 3-b)。これにより、高周波数帯域においても、 そのサイズは小さいながら、両耳位置では再現領域を確保できる。数値シミュレーションによる評価から、少数のスピーカを 用いる場合でも、両耳位置での音場の再現精度を保つことができ、従来手法と比較して、高周波数での両耳信号の再現誤差が 低減できることが分かった。 現在は、さらに誤差を低減するためのシステムの改善を検討している。また、この再生手法によって音場を可聴化した際、 音像定位の精度がどれほど向上するか、といった聴感面への影響に関しても調査を進めている。

今後の発展に向けて ここでは主に、スピーカ等による再生系に着目した研究について紹介したが、マイクロホンによる収録系においても課題が あり、その改善に向けて多くの研究が取り組まれている。収録・再生の両面から、広い周波数帯域にわたって精度良く音場を 再現できるシステムを構築することが当面の目標である。

87


PROJECT

また、人間の聴感特性との関連を調査することも大きな課題である。スピーカやヘッドホンを用いた主観的な評価を通して、 どの程度音場が再現できていれば、音の方向や距離、空間印象が正しく知覚されるかということについて明らかにする必要が ある。これにより、単に音場の再現精度のみを追い求めるだけでなく、聴感上最低限必要な再生環境のみを用意する、といっ た人間の聴感特性に基づいたアプローチも可能になるだろう。 これらの研究を通して、冒頭に述べたような実用的な可聴化システムを実現することを目指している。

【図1】

【図2】

【図3】

【参考文献】 1) 小山翔一 . 音場再現技術の基本原理と展開 , 情報処理学会研究報告 ,vol.2014-MUS-103, no. 3, pp. 1-6, 2014. 2)M. A. Poletti, “Three-dimensional surround sound systems based on spherical harmonics”, J. Audio Eng. Soc., 53(11) pp. 1004-1025, 2005. 3)D. B. Ward and T. D. Abhayapala, “Reproduction of a plane-wave sound field using an array of loudspeakers”, IEEE Trans. Speech and Audio Proc., vol. 9, no. 6, pp. 697-707, 2001. 4) 松田遼 , 大谷真 . 両耳を中心としたマルチゾーン HOA による音場再現の検討 , 日本音響学会講演論文集(春),pp. 673676,2019. 5) 川﨑悠季 , 大谷真 . 両耳を中心としたマルチゾーン HOA 再生に基づくバイノーラル合成の性能評価 , 日本音響学会講演論文 集(春),pp. 183-186,2021.

「都市における乗り物からの騒音予測」 博士後期課程

牧野

裕介

はじめに 人間の生活環境には数々の騒音があふれている。近年では、騒音が人体へ暴露され続けることで、心臓血管系疾患・子ども の認知障害・睡眠障害・耳鳴りなど、人体に悪影響を及ぼすことが明らかになりつつある 1。そのため、世界各国にて環境騒音 が健康リスク要因として捉えられ始めている。 そのため、都市全体における騒音被害の実態把握を目的として、音源(騒音発生源)のデータベースと音の伝搬計算に基づ いた騒音予測手法の研究が世界各地で進められている。(写真1)都市全体の騒音を実測のみによって把握しようとすると膨大 な労働力や時間を必要とするからである。例えば欧州では環境騒音予測手法として CNOSSOS-EU2 が開発されて使用されている。 日本でも道路交通騒音 3 や新幹線 4、在来鉄道 5,6 等の騒音予測手法がそれぞれ提案されている。しかしいずれの手法も、音源の 移動速度は音の伝搬速度と比較して無視できるほど遅いことを前提としている。つまり、自動車や鉄道など、移動する乗り物 からの騒音についても、音源となる車両が静止した状態で騒音が放射される状態について音の伝搬を計算した結果を、移動す る音源からの騒音の計算結果としてそのまま利用する形式になっている(図1) 。

音源が移動すると何が起こるか まず、音源が静止した場合と移動する場合とで人間に届く音波の周波数が異なる。例えば救急車が近付くときにはサイレン の音が高く聞こえ、遠ざかる時には低く聞こえる。音源が音を放射しながら移動すると、音源の進行方向に進む音は波長が短 くなり、反対に進行方向と逆に進む音は波長が長くなる。音の波長の長さと周波数は反比例するので、音源の進行方向へ放射 される音波は周波数が高くなり、逆方向への音波は周波数が低くなる。これをドップラー効果という(図2) 。

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次に、音源の指向性(どの方向にどれぐらい音のエネルギーが強く放射されるか)が変化する。進行方向には音源から音波 の遠ざかる速度が遅くなる分、音のエネルギーの密度が高くなることで指向性が強くなる。逆方向には音源から音波の遠ざか る速度が速くなる分、エネルギー密度が低くなることで指向性が弱くなる。実際に、走行する鉄道の鉄道の転動音(レールと 車輪の接触により発生する音)と空力音(風切り音)について、音源が高速で移動することで水平方向の指向性に顕著な影響 をもつことが報告されている 7。 最後に、音源が放射されてから予測点に到達するまでに音源の位置が変化する。空気中を音が伝搬する速度は有限なので、 音が放射されてから空気中を伝搬し、予測点に届くまでに時間差が発生する。つまり、移動する音源から予測点に届く音波は、 音波が届いた瞬間に音源の存在する位置から放射されたものではないことになる(図3) 。 これらの3つの事柄が音源の移動によって発生することで、音源からの放射音の周波数や振幅に変調が発生する。特に新幹 線などの高速鉄道の場合、人間の居住地域付近を音速の約 0.1 〜 0.3 倍で通過することになるため、音速と比較して音源の移 動速度は十分無視できるものではないと考えられる。しかし、これまで説明したような事柄を考慮に入れて音源の移動が放射 音特性に与える影響を検討した例は少ない。実際に、現在欧州で広く用いられている CNOSSOS-EU でも音源の移動の影響が言 及されていないことが指摘されている 8。

騒音レベル評価値への影響 牧野らは、音源の移動による放射音の変調を考慮する場合と考慮しない場合の放射音特性について数値計算により検討した 9

。鉄道車両を点音源列としてモデル化し、鉄道車両が直線軌道上を等速度運動する場合の予測点における騒音レベルを計算し

た結果、放射音の変調を考慮に入れることで、鉄道騒音の評価に用いられる騒音レベル評価値が上昇することを示した。また、 移動速度の増加に伴って変調の考慮の有無による騒音レベルの差は増加し、移動速度が時速 300km を超える場合は 1dB 以上 の差が生じることが示された(図4)。鉄道事業者や鉄道車両メーカーは車両の低騒音化を目指した研究開発に長年にわたって 莫大な資金を投入しており、騒音予測結果が低騒音化の研究開発成果に直結するため、これらの立場からも決して無視できな い差異であると考えられる。

より良い騒音予測へ向けて 音の伝搬計算による騒音予測を精度良く実現することで、都市や地域のあらゆる時代の騒音暴露量を少ないコストで精度良 く推定できる。これを地域住民の疫学調査と組み合わせて、騒音の暴露量と地域住民への健康への影響をより高い水準で明ら かにし、騒音の環境基準や運用方法をより質の高い根拠に基づいて改定できる。また、車両やインフラの計画段階において、 車両各部の必要騒音低減量や防音壁等の必要性能を推定し、騒音抑制対策を事前に検討することにも役立てられる。 一方、精度良く騒音予測を行うためには、各種音源から放射される音響エネルギーや指向性を適切に推定してモデル化を行 う必要がある。しかし日本国内では、鉄道騒音の場合、騒音予測手法 4-6 が提案されてから 20 年以上が経過し、現行の営業車 両に対応していない。特に音源モデルの基礎となる車両走行時の騒音に関するデータが鉄道事業者から公表されていないこと から、従来の手法における音源モデルの妥当性が検証されていない。 これから、高速で移動する騒音源について、音源の移動による騒音伝搬特性の変化を考慮に入れつつ、騒音測定データから 音響エネルギーや指向性、周波数特性などの音源特性を推定することを目指す。またこの結果を音源モデルとして利用し、音 源の移動の影響も考慮に入れた音の伝搬計算による騒音予測手法を構築することも目指す。これによって、新幹線など高速で 移動する乗り物からの騒音予測の信頼性を向上させることを目指していく。

【写真1】 ノイズマップ(騒音レベルのコンター 図)の一例 10)。音の伝搬計算による 騒音予測結果をノイズマップの形式 で公開する取り組みは特に欧州で盛 んであるが,近年日本国内でもノイ ズマップを公開する動きが出てきて いる。

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PROJECT

【図1】 音源から予測点(騒音レベルを音の 伝搬計算によって求める位置)への 音 の 伝 搬(ASJ-RTN Model3 よ り 引 用)。ある時刻における音源と予測点 の位置がそれぞれ決まれば、音源か ら予測点までの音の伝搬を計算する ことで予測点での騒音レベルが求め られる。 【図2】 ドップラー効果の起こる仕組み。一 度音源から放射された音波は一定の 速度で空気中を伝搬するとする。進 行方向から音源を見た場合、音の伝 搬を音源が追いかけながら音を放射 することになるので、その分狭い区 間に波が密集する。逆方向から音源 を見た場合、音源が自分から遠ざか りながら音を放射することになるの で、その分広い区間に波が分散する。 このため音波の波長が変化し、音波 の周波数に変調が起こる。

【図3】 移動する音源と予測点の位置関係。 点線の赤丸は音波が放射された時の 音源位置を表す。音波が放射されて から予測点に到達するまでの間にも 音源は移動し、音源の位置が変化す る。そのため、移動する音源から予 測点に届く音波は、音波が届いた瞬 間に音源の存在する位置とは必ずし も一致せず、音源と予測点の距離は 音波の伝搬する距離と必ずしも一致 しないことになる。

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【図4】 音源移動による放射音の変調の影響の考慮の有無による騒音レベル差。いずれも世 界各地の騒音の環境基準に用いられている騒音評価値である。音源の移動速度が上 昇するほど、変調の考慮の有無による騒音レベル差が上昇することが示された。

【参考文献】 1)World Health Organization Regional Office for Europe, Burden of disease from environmental noise: Quantification of healthy life years lost in Europe. (World Health Organization Regional Office for Europe, Copenhagen, 2011) 2)S. Kephalopoulos et al., Common noise assessment methods in Europe (CNOSSOS-EU). Publications Office of the Europian Union, 2012. 3) 日本音響学会道路交通騒音調査研究委員会,道路交通騒音の予測モデル “ASJ RTN-Model 2018” 〜日本音響学会道路交通騒 音調査研究委員会報告〜,日本音響学会誌,75(4), 188-250, 2018. 4) 長倉 清,善田康雄,新幹線沿線騒音予測手法,鉄道総研報告,14(9), 5-10, 2000. 5) 石井聖光,子安 勝,長 裕二,木庭啓紀,在来線高架鉄道からの騒音予測手法案について,騒音制御,4(2), 4-10, 1980. 6) 森藤良夫,立川裕隆,緒方正剛,在来鉄道騒音の予測評価手法について,騒音制御,20(3), 32-37, 1996. 7)Xuetao Zhang, The directivity of railway noise at different speeds, Journal of Sound and Vibration, 329, pp.5273-5288, 2010. 8)Xuetao Zhang, Three typical noise assessment methods in EU, SP Report 2014:33, June 15, 2014. 9) 牧野裕介,高野靖,音源の移動による周波数・振幅変調が放射音特性に及ぼす影響,日本機械学会論文集,87(899), 2021. 10)NOISE MAP - END lab ‒ URL : https://end-lab.jp/noise-map/index.html

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PROJECT

平面波入射音場の円調和関数展開

修士課程二年生

田中

達宏

はじめに 私は現在,室内音場における反射音の方向分布の分析や音場再現の理論・実装に興味を持ちながら研究に取り組んでいる。 「音場」という言葉は,我々が体験する3次元空間を音波が伝播している場を指して用いられるのが普通である。したがって, 「室内音場」や「音場再現」も3次元音場を対象としている場合が多い。しかしながら,新しい研究アイデアについて検討する 際,いきなり3次元音場を考えると,問題が複雑になったり計算量が多くなったりして問題の本質を掴み損ねる恐れがある。そ のような場合,まずは2次元音場を対象とした検討を行うのが適当である。 そこで本稿は,理論上特に重要である,遠方の波源から原点に向かって平面波が到来する音場,すなわち平面波入射音場につ いて,円調和関数展開による表現を導出する。

極座標系における内部問題の一般解 角周波数

[rad/s] の純音を一定の振幅で発する波源によって励振される2次元平面上の音圧

[Pa] について考える。ただ

し,波源は原点から十分遠くに位置している(内部問題 1 )と仮定する。 音圧

に対し,直交座標系における2次元波動方程式 (1)

が成り立つ。ただし, [m/s] は音速である。直交座標系におけるラプラシアン と極座標系におけるラプラシアンの関係式 (2) より,極座標系での2次元波動方程式は, (3) と書ける。ただし,

cos

sin

である。図 1 は直交座標系と極座標

系の幾何的関係を示している。

【図 1】 直交座標系と極座標系の幾何的 関係。

と変数分離すると,

式 (3) で,

(4) 上式の両辺を

で割ると, (5)

変数

と は独立であり,上式の左辺と右辺はそれぞれ

まず時間 のみに依存する式 (5) の右辺について考える。

と のみに依存するため,両辺定数である。 を定数として, (6)

いま角周波数

の純音による音場を考えているので,

の基本解は,

である。これらの基本解はそれぞれ,ある

方向から到来する波・ある方向へと伝播する波に対応する解の時間項となっている。これらを式 (6) に代入すると, (7) ただし, [rad/m] は波数である。 式 (7) を用いて,式 (5) は (8) と書き直すことができる。

Φ

とさらに変数分離すると, Φ

92

Φ

Φ Φ

(9)


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上式の両辺に

Φ を掛けて整理すると, Φ

(10)

Φ 変数 と

は独立で,上式の左辺と右辺はそれぞれ と のみに依存する式 (10) の右辺を考える。

偏角

のみに依存するため,両辺定数である。

を定数として, Φ

(11)

Φ ここで,Φ 音圧

は偏角

Φ

が成り立つことが必要である。なぜなら,時間 と原点からの距離 が一定のとき,2次元平面上の

回転させても不変のはずである。さもなくば,音圧が不連続になってしまう。以上の議論より, を非負

整数として,

を式 (11) の基本解として採用する。これらの基本解を式 (11) に代入すると, (12)

式 (12) を用いると,式 (9) は, (13) と書き直すことができる。この式の両辺に

を掛けて整理すると, (14)

ここで,変数

についての関数を

となるように定める。合成関数の微分に注意しながら式 (14) の

代入すると, (15) これはベッセルの微分方程式 2 である。 が整数の場合の基本解としてベッセル関数

とノイマン関数

において無限大となる。したがって,式 (15) の基本解としてベッセル関数

しノイマン関数は

がある。しか

をここでは

2

採用する。ベッセル関数は次式で定義される 。 (16) はガンマ関数で,非負整数

ただし, 2

に対し

である。ベッセル関数は,整数

について次の関係が成り立つ

。 (17) ここまでに導出した基本解を用いて,極座標系における波動方程式の一般解を求めることもできるが,変数

に関する解

の代わりに円調和関数

Φ

(18) を用いる。円調和関数は,以下のような正規直交性をもつ。 (19) ただし,

は複素共役,

は整数,

はクロネッカーのデルタである。解として円調和関数をわざわざ用いる理由は,

3次元次元波動方程式の球座標系における解(特に球面調和関数)との一貫性を持たせるためである。以上より,極座標系にお ける2次元波動方程式の内部問題の一般解は, (20) Z

ただし,Z

は非負整数全体の集合,

はベッセル関数と円調和関数の次数

に依存する任意定数である。次章

では,内部問題の中でも特に波源が平面波を発する状況を考え,式 (20) の任意定数を具体的に求める。

平面波入射音場の円調和関数展開 原点から十分遠くに位置する波源が一定の振幅で角周波数

の平面波を発するとき,原点近傍の平面波入射音場

in

は,ベク

トルを用いて in

(21)

93


PROJECT

と表される。ただし,

は平面波の振幅,

は波数ベクトルで,

[rad] は時刻

のときの原点での平面波の位相,

は位置ベクトルである。

は平面波の到来方向を指す単位ベクトルである。これ以降,簡単のために

とする。

ベクトルで表現された式 (21) の解を極座標系での表現に書き改める。すな cos

わち,

sin

cos

sin

in

in

として式 (21) に代入す

ると, cos

in

ただし,

in

in

cos

sin

in

sin

cos

(22)

in

[rad] は平面波の到来方向である(図 2) 。 の項

式 (20) と式 (22) を比較して,任意定数を求める。式 (22) には が無いので,

である。したがって, cos

(23)

in

【図 2】 波数ベクトルと平面波の到来方向。

Z

で割ると,

両辺を

cos

(24)

in

Z

まず,

の場合について考える。このとき,

良い。式 (24) の両辺に

であるため,

を掛けて, について

から cos

より,式 (25) に

として

だけについて考えれば

まで積分すると,円調和関数の正規直交性 (19) より, in

(25)

を代入すると, (26)

次に,ある正の整数

についての係数

を考える。式 (24) の両辺に

を掛けて,式 (25) を導いたと

きと同様の操作をすると, cos

を求めたときと同様に から

を代入すると,

(27)

in

となり,上手くいかない。そこで,両辺を に関して

階微分して

を代入する。まず左辺について,式 (16) より, (28) のとき,右辺の

の項は全てゼロになるので, (29)

次に式 (27) の右辺の被積分関数の に関する cos

階微分を,オイラーの公式と二項公式を用いて展開すると, cos

in

in

in

in

(30) in

in

in

の項は積分するとゼロになるので, cos

in

in

(31) in

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式 (27),(29),(31) より, (32)

in

に対する係数

最後に,正の整数

を考える。式 (24) の両辺に

を掛けてから,式 (25) を導いたと

きと同様の操作と式 (17) により, cos

まず左辺について に関して

(33)

in

階微分する。式 (29) の結果を利用することにより, (34)

次に式 (33) の右辺の被積分関数の についての cos

階微分は,式 (30) での計算を利用して,

in

in

in

(35) in

の項は積分するとゼロになるので, cos

in

in

(36) in

式 (33),(34),(36) より, (37)

in

式 (24),(26),(32),(37) をまとめると,時間項を除いた平面波入射音 場の円調和関数展開は, in

Z

in

と表される。ただし,Z は整数全体の集合である。 波の複素振幅で,

(38) は到来平面

はぞれぞれ平面波の振幅と原点での位相を表し

ている。 現実には,式 (38) のような整数全体についての和を計算することは不可 能であるため,以下のように適当な範囲で無限和を打ち切る必要がある。 in

in

は絶対値が

ただし,

Z

とした場合の

in

【図 3】 , in , の実数部。 場合の in 正確な音圧の計算が可能。

, の の領域で

以下の整数について和をとることを意

味する。また, を打ち切り次数と呼ぶ。例として,波数 数

(39)

,平面波の到来方向

in

,複素振幅

,打ち切り次

の実数部を図 3 に示す。

おわりに 本稿は,極座標系における内部問題の一般解と平面波入射音場の円調和関数展開の導出過程を明らかにした。これらの理論 は室内音場の分析や音場再現の研究を遂行する上で必須である。本稿の内容がこれらの研究分野に関心のある読者にとって, 有益であることを願う。 最後に,私からの質問にメールで丁寧な回答をしていただいた電気通信大学の任逸さん,本稿の掲載に関わって下さった編集 委員の皆様に感謝します。

【参考文献】 1) E. G. Williams, 吉川茂, 西條献児. フーリエ音響学: 音の放射と近距離場音響ホログラフィの基礎. (シュプリンガー・フェア ラーク東京, 東京, 2005.) 2) J. Mathews and R. L. Walker. Mathematical methods of physics. (W. A. Benjamin, Inc., New York, 1964.)

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PROJECT

「京都大学建築構法学講座のいま」 Chair of Construction Technology of Building Structures at Kyoto University 安全に、安心して暮らしたいという人々の気持ちと、愛されるものをつくりたいという設計者の気持ち、 双方を包み込んだ建築を成り立たせるために、建築構造の研究は大きな役割を果たしています。建築構造系 の研究者として、また建築構造を学ぶ学生の教育者として、当研究室の西山峰広教授、谷昌典准教授にこれ までの歩みを伺いました。先生方の思いと共に、当研究室で現在進行中のプロジェクトを知っていただけれ ば幸いです。

西山峰広教授

インタビュー 聞き手=三田沙也乃、吉田遥夏 2021.6.29

京都大学西山・谷研究室にて

――先生はなぜ建築を選ばれたのでしょうか。 私の家は、祖父が大工の棟梁で、引き継いだ父親は工務店の社長という建築一家でした。生まれたころからまわりに弟子で ある大工さんがいっぱいいて、彼らのうち何人かは住み込みだったのでご飯を食べるときも一緒でした。正月やお盆には全員 が集まり、酒宴や博打でみんな大暴れしていました。そういう環境で育ってきたので、建築に進むのはスムーズというかその ままという感じでした。 ――なぜコンクリート系の研究室を志望されたのでしょうか。 今の研究室を選んだのはプレストレストコンクリート(PC)をやりたかったから。Harry Seidler という、シドニーを中心 にプレキャストプレストレストコンクリートでいろいろな建物を設計している建築家がいて、すごいな、こういうのがやりた

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Chair of Construction Technology of Building Structures at Kyoto University

NISHIYAMA/TANI Laboratory

いなと思って六車煕先生の所に来ました。卒論も修論もアンボンド PC で書きました。今でも鉄筋コンクリート構造の講義で Harry Seidler の作品を紹介しています。 ――研究テーマはどのように選ばれるのでしょうか。 自分の好きなことをやってきました。今でもそうですけど、研究のモチベーションは自分の興味。それと分からないことを 分かるようにしたいというのはありますね。コンクリートっていうのは分からないことがいっぱいあるのでそれを知りたいと いう。地震で亡くなる人を無くしたいという願いはもちろんあります。 最近のテーマだと洋上風車は PC も絡んでくるし、今後は環境で流行るかもしれないのでいいかなとは思っています。ここは 代々コンクリート系の研究室ではあるけれども、鋼構造もやっています。ニッチな鋼構造ですが。どうしても縄張りのような ものがありますが、気にする必要はありません。よいアイデアを思いついたらやってみることです。計測システムではありま すが、光ファイバーもやっています。それも自分の興味ですね。面白いことができたらいいなと思ってやっています。元々新 しいもの好きですね。先走って変なものを買って、結局使えずに捨ててしまうということもたびたびあります。 ――プレストレストコンクリートについてお話しを聞かせて下さい。 建築分野において PC はあまり普及していません。建築で PC というと一般の建築関係者は、プレキャストコンクリートのこ とだと思っています。プレストレストコンクリートは PS と略されることが多いようです。プレストレストコンクリートを生業 にしている我々は、プレキャストコンクリートは PCa と書き、プレストレストコンクリートは PC と記しています。したがって、 PCaPC はプレキャストプレストレストコンクリート(プレキャスト部材を PC 鋼材を用いて組み立てる構造)となります。 いろいろな催し物をしたりして PC の啓発というか普及活動をしてきました。PC はスパン飛ばせますとか、柱細くできます とか、優れた構造なんだけどなかなか使ってもらえない。PC を流行らせるためにはデザイナーを取り込まないといけない。デ ザイナーに PC だとこんなデザインも可能になりますよ、こんな面白いこともできますよということを知ってもらわないといけ ない。だからシンポジウムや講習会を開催して、デザイナーにも話をしてもらい、そこで、彼らも巻き込んで PC 論議を行い、 結果として PC を売り込むという活動もしていました。 以前、京大でも PC に関するシンポジウムをやったことがありました。まず最初に私がスクリーンの前をうろうろしながら PC の概論を面白おかしく、あるいは、こんな面白いことができますよという話をしました。すると、次に登壇される竹山聖 先生が、 「Steve Jobs みたいですね。では、私は Actors Studio のようにやってみます。」と、竹山先生と建築家の團紀彦さんが NHK で放映されていた Actors Studio のように、ソファー(はなかったので、椅子ですが)に座って、竹山先生がインタビュー する形式で対談しながら、團さんが PC を使ったご自身の作品を紹介されました。 建物に PC を使うという決断をするのはどの時点かというと、やはりデザインの段階だと思います。構造設計者が知っていて もなかなか使えなくて、デザイナーが最初に PC でしかできないような建築を考えてくれたら自動的に PC となる。だからデザ イナーにもっと知ってもらわないといけないですね。その意味で、三回生後期では鉄筋コンクリート構造 II を特に、計画系に 進む学生に履修してほしいのですが、難しいでしょうね。 ――海外にはよく出張されるのでしょうか。 コロナの前は年にひと月以上は出張で海外にいました。どこにも行けない今のこの状況はとてもさびしいですね。 助手に採用されてすぐに1年くらいニュージーランドのカンタベリー大学に留学しました。正確にいうと留学ではなく、研 究者としての滞在になります。学会での発表とか、 研究の話を英語でするのはできましたが、 日常会話は大変でした。学会のディ ナーに行くとだいたい丸テーブルに 10 人くらいで座るんですが、外国人ばかりのなかに日本人ひとりが入っていくのは難しい。 それでも意を決して突入します。ここでは、仕事の話は厳禁で、外国の先生方は週末に別荘に行って一日中釣りしたとか、山 に登ってスキーしたとか、川でボートを漕ぐとかいろいろな趣味があるわけです。でも日本の先生はずっと仕事ばっかりして いるから話題が無くて大変です。でも若いころはそういう場に無理矢理でも出ていかないといけません。日頃、いろいろな話 題を英語でどう伝えるか考えておいて、日本に興味がありそうな人をうまく見つけて日本のことを紹介して盛り上げるという ことをしていました。これ面白いんちゃうかとか、うけそうだとか、ネタをためておくというのは昔からずっとやっています。 今でも、講義のときに学生に話したらうけるかなとか思う話題をためこんでいます。同じように研究のネタを思いついたら、とっ ておくこともありますね。こちらはついでにですが。 それと、昔から海外の学会に行くと教科書とか論文で名前しか見たことないような偉い先生に話を聞きにいって、迷惑がら

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PROJECT

れながらもいろいろ教えてもらったりしていました。しんどい思いをしないと英語も上手にならないし、そういう先生とも知 り合いになれないので、恥をかいてもいいという思いでした。今はもうだめですね。日本人ばかりのテーブルに加わり、楽し ています。 ――昔と今とで研究スタイルは変化したのでしょうか。 昔と今では、学生も研究する環境もかなり変わりました。昔は研究室で一緒に暮らしていたみたいなものでした。昼ご飯も 晩ご飯もみんなで食べて、風呂屋に一緒に行ってそのあと遊んで酒飲んで寝るというパターンでしたね。研究も今よりのんび りやっていました。例えば、実験なんかでも、当時は計測用の変位計もそんなにたくさん無いし、データロガー(計測装置) の性能も低く、少ない計測点でゆっくりとしか測定できないし、のんびりしていました。実験対象も簡単な部材、例えば、梁、 柱という単体がほとんどでした。ところが、今はいっぱいデータがとれるし、処理は速いけど扱うデータが山のようにあって 大変です。昔と今を比べると研究のスピードが全然違っていて今はすごく速い。その代わり今すごく思うのは、昔は梁の試験 でも梁がどうやって壊れるかずっとじっと試験体を見ていましたが、今は試験体を見なくても実験できるようになってしまっ た。それはいいのか悪いのかわからないところです。 今は昔より厳しくなってしまいましたが、もっとじっくり考えられたり、自由な研究があったりしてもいいかなと思います。 別に失敗してもいい。一生懸命やったんですけどだめでした、というものもあってもいいんじゃないかと思います。 ――人に教えるということにこだわりをおもちだと伺ったのですが。 私は結構長いこと建築専門学校で構造力学を教えていました。昼間働いて夜学校へ来るから眠たい、しんどい、という子た ちに構造力学を教えるというのは訓練になりましたね。講義のプリントも 3 種類作って、よく分かっている子と中くらいの子 と分かっていない子とそれぞれに合わせてやらせていました。できる子は勝手にやるから分かっていない子を教えてやらない といけない。だけれども、そいつらに勉強しろと言ったってなかなか勉強しないので興味を持たせて分かりやすく教えないと いけない。加減乗除の計算が危うい子に不静定梁の解法を教えることには無理があります。それでも彼らが少しでも分かって くれたらいいなと思いながら教えていました。 学生に教えているといろいろな質問がきて、それに答えるために自分が考えるということがよくあります。例えば、コンク リートはなぜ引張に弱くて圧縮に強いのですかという質問は毎年きます。自分が研究しているとまあそういうもんかとあまり 疑問に思わない。でも質問に答えないといけないので改めて一生懸命考えます。それもコンクリートに初めて触れる学生に理 解してもらわないといけない。授業で質問票(講義の最後に、一人2つほど質問を記入した質問票を全学生が提出する。これ を一つのシートにまとめ、全質問に回答を記載し、翌週の講義で配布する。)を始めて十数年になりますが、それまであまり考 えなかったことを考えるようになりました。人に分かってもらうためにはまず自分が理解しないといけない。これが大事です。 研究室ゼミで M 1の皆さんに B 4に向けた鉄筋コンクリート構造の講義をしてもらうのもそのためです。理解していないと人 に説明できません。説明する人の理解があやふやだと、説明を受けている方もすぐに分かります。 ついでにいうと、B 4には鉄筋コンクリートに関する英語の教科書のゼミ後、英文和訳を提出してもらい、これを M 1が添 削しています。これは英語の勉強のためではなく、日本語を書く訓練をしています。何もないところからでは、たとえ日本語 でも作文するのは大変です。しかし、英語を和訳するとなると元となる題材はあるので、これをいかに日本語らしく、読む人 にとって分かりやすく書けるか、その訓練をしてもらっています。 よく分かったので質問が無いという学生が毎年います。しかし、それは私の話を聞いていない証拠です。今年の三回生に初 めて質問票の本当の意味を理解してくれた学生がいます。つまり、質問を考えながら人の話を聞くと、集中して聞けるという ことです。先生はあんなことを言っているが本当なのだろうか、ここはなぜそうなるのだろうか、そういう疑問をもちながら 人の話を聞くと、眠りに落ちることはありません。 ――授業の準備やレポート採点、質問票回答作成など、それだけの授業をするのは大変ではないですか? 学部の授業の準備は大変ですね。わりともう定型化されてしまったから楽にはなりましたけど、 質問票の回答とか演習課題 (こ れも毎講義)の採点は大変です。でも次回の講義に配布する、返却するというのは一回も遅れたことはありません。 講義の前は今でもいろいろ考えるし緊張します。ここでこういう説明をしたら学生は理解できないかもしれない、こんな質 問が出たらうまく答えられないな、調べておかないと、ああでもないこうでもないと。時間が余ったらどうしよう、足りなくなっ たらどうしようとかも考えます。オンラインの講義では iPad を使っていますけど、黒板代わりの授業用ノートと別に Lecture

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Plan というノートも作っています。講義の組み立てを書いたり、図を使って説明しようというときはまずそこに自分で図を描 いてみたりします。講義ではそれを横目に眺めながら話をしています。先生側は同じことを話しても、学生は毎年異なるので 反応は違うし進め方も変わってきます。学生たちの顔を見て分かっていないな、と思ったらもう少し説明の仕方を変える必要 があるし、分かっているようならさっと流せるし。 あといつも思っているのが、講義って舞台で演技しているのと同じだということ。観客がのってくれたらいい講義できるし、 逆に観客が冷めていたらいい講義ができない。だから逆に言えば、 学生が先生をのせるようにしたらいい講義をしてもらえます。 先生にとっても学生にとってもいい。観客がどういう反応しているかというのを私はよく見ています。やっぱり観客のノリが 悪いと私も嫌になります。いい講義ができない。その点、オンライン授業はなかなか難しいけれど、学生が見えないから寝て ようがスマホやってようが何していようが分からないので自分の話にだけに集中できるというのはありますね。でもやっぱり 学生がいた方が、学生の反応を見て、学生に答えさせて間をとったり、そうしながら学生の理解度を把握できます。学生がど んな状態でも平気で講義できる、話し続けられる先生がいますが、尊敬します。私にはそんなことは無理です。

インタビュー時の写真。西山・谷研究室にて。 (撮影時のみマスクを外しています。 )

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PROJECT

京都大学

建築構法学講座

谷昌典准教授

インタビュー 聞き手=三田沙也乃、吉田遥夏 2021.7.2

京都大学西山・谷研究室にて

――先生のこれまでの経歴について教えていただけますか。 高校一年生の時に阪神淡路大震災があって、その時私は京都の実家にいたんですが、すごい揺れでした。テレビつけたら高 速道路がひっくり返ってるし、建物はぐちゃぐちゃになってるし、そういう経験がきっかけで建築の構造に興味をもちました。 元々は車とかロケットにも興味があって機械系も考えていたんですが、そっちは趣味でもいいかと思って、最終的に建築学科 に入りました。最初から構造一本でいこうと思っていたので、構造力学Ⅰで優がとれなかったときはへこみました。これって もう一回取り直せへんのかなって考えて、先生に聞いてみたけどだめって言われました ( 笑 )。 四回生の研究室配属の時は構造解析をやってみたくて、卒論は大崎先生のもとで鉄骨構造の部材断面や施工手順の最適化を やってました。構造解析も面白かったけど実験もやってみたいかなと思って、修士から今の研究室に移りました。そこは大崎 先生には非常に申し訳ないことをしてしまったなと今でも思っています。 修士を出たあとは、プラントエンジニアリングの会社の建築部門に就職しました。元々機械系にも興味があったので、機械 も建築も一緒にみられるし、大きな建物つくれそうやし、面白そうだなと思って。そこで結構楽しく働いてはいたんですが、 ちょうど一年くらいたったころですかね。研究室にお土産持って遊びに行って、修論の指導教員だった渡邉史夫先生と話をし ていた時に、大学の研究も楽しかったよなと思って戻りたくなったんです。そのあと、割とすぐに、渡邉先生に「大学戻りた いんですけどいいですか」って電話して、1年と3ヶ月働いた会社を辞めました。新卒で就職してすぐに辞めて学生に戻るって、 思い切った行動したなと思います。また次の仕事がちゃんと見つかるとも分からないのに。結局、1〜2年ごとに何かしては 次に行くというのが大学生の時から続いていましたね。博士課程では、それまで研究室のバーベキューの時くらいしか接点が なかった西山峰広先生に指導教員になってもらって、4年かかったけど博士をとりました。 博士を修了するちょっと前に公募された神戸大の助教に採用されて、ようやくまた働き出すことになりました。ただそこも 任期付きのポストだったので、次を探しているときに、ちょうどつくばの建築研究所の公募が出て、一回応募したけど落ちて、

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次の年にもう一回受けて採用されました。今度は長いこといることになるのかなと思って いたんですが、結局4年で関西に戻ってきました。この研究室では気が付けば7年目にな ります。これまでで一番長く勤めているのはここですね。いろいろなものがあって今があ るという。 ――建築研究所でのお仕事や印象に残っていることについて教えてください。 建築研究所に異動する直前に東日本大震災が起こって、入所して1週間もしないうちに 現地調査に行くことになりました。海外の調査は何回か経験していましたが、国内の大き な災害で現地調査したのはこの時が初めてでした。余震があったら津波が来るかもしれな い海沿いの地域で調査したり、まあまあ危険を感じることもありましたね。現地では、RC の柱が派手にせん断破壊してるとか、上の階が落ちそうになってる建物なんかを見て、未 だにこういうことが起こってしまうのはちょっとまずいなって思いました。あと、夜 11 時半に大きな余震があって、ホテルの電気が全部消えて、コンビニに様子を見に行ったら 人がすごい殺到してて、地震で人はパニックになるんだな、とも改めて実感しました。そ ういう経験も重なって、地震に対して強い建物とか強い社会をつくりたいというのは、研 究をやる大きな動機になっています。1981 年に新耐震基準になって、そのあともいろい ろと規定なんかが強化されたりして、明らかに建物の性能が良くなってきているので、そ れ以降の建物の被害は統計的に見て減っているし、旧耐震の建物の耐震補強や取り壊しと いった対応も割と進んできてはいます。だけど、事情があって、未だに古くて危ないって 分かっているんだけどまだ耐震補強できてないような建物もあるので、それはすごく悩ま しい問題ですね。 建築研究所では、 「国際地震工学研修」といって、JICA と共同で途上国から人を呼んで きて、1年間研修をして修士号をとってもらうというのも業務としてやっていました。耐 震診断に興味がある人が多かったので、向こうの建物を耐震診断して分析した内容を修論 にすることが多かったですね。英語で教えないとだめだし、基準とか背景も日本と全然違 うから、そこは難しかったです。日本の考え方がそのまま使えるわけではないので、なん とか向こうの設計の考え方に合わせるような工夫もしました。また、中南米の国々を対象 とした研修もありますが、みんなノリが良くてすごい陽気ですね。構造材料実験のような 授業もやっていて、コンクリートを練り混ぜるだけですごいテンション上がる。まず、み んなに材料を計ってもらうときに、ピッタリ合わそうとしてすごく盛り上がる。それか らミキサーに投入してまわすだけなのにそれもめちゃめちゃ楽しそうでした。研修に来る 人って向こうのエリートが多いから、現場の作業にあまりなじみがないのかもしれないし、 やっぱり事情が違うんでしょうね。でも、すごく貪欲だし、それでいて楽しんでる感じが あっていいですね。質問もすごく多いし。教えるこちら側も結構楽しいですね。 ――先生が注力されている研究や現在の活動について教えてください。 プレストレストコンクリート(PC)は自分の中心的な研究対象の一つと考えています。 博士論文でやっていたというのもあるし、坂静雄先生や六車煕先生の時代からずっと、PC の研究は京都大学の建築構法学講座の大きな伝統でもあるので続けていきたいと思ってい ます。

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PROJECT

世間一般では積極的に PC を使って構造設計する人って少ないというか、そもそも選択 肢になくて、RC と S で勝負させるケースが多いのかなと思っています。土木では橋げた とか、スパンを伸ばすために PC を使わないとできないことがあるけど、建築の場合はそ こまで必要に駆られるっていう状況が少ないんでしょうね。そもそも PC と RC で設計式 が違うとか、一貫計算プログラムが対応してないとか、授業でも詳しくは教えていない大 学が多いみたいで、あまり一般的に浸透していないのかなとも思います。うちでは西山先 生が断面計算とか理論の話まできっちり教えてます。PC がいいものであるのは間違いな くて、ひびわれが出にくいとかたわみが少ないとか、建物の耐久性もよくなるとか利点も あるので、単純に値段が安い RC のほうがいいというわけでもないはず。RC で問題ないと ころまで、なんでも PC でやるのは不経済やと思うけど、PC 使ってみたいけどややこしそ うやからやめとこう、となるのは残念なので、選択肢に出てくるように方法を確立してお きたいですね。 あと古い建物が好きで、新しいうねうねしたやつより京大建築の本館とか京都市役所と かいいなと思ったりします。ちなみに、建築の本館は来年で 100 歳だけど、耐震診断の 基準は満たしているんですよ。劣化がひどいコンクリートの補修はしたようですが、耐震 補強自体はほぼしてない。壁が多くて、思っているより強いみたいで。その当時に耐震性 のことをどこまできちんと考えられていたのかは分からないけれど、今の考え方で見ても 耐震性が OK になるというのはすごいなと思いました。また、 ちょうど今、 琵琶湖疎水を作っ た田辺朔郎先生のお宅にある古い RC の蔵を調べようという委員会が動いています。コン クリートのコアを抜いて圧縮試験するとか、中性化の検査をするとか、鉄筋がどれくらい はいっているとか、いろいろな調査の計画が進んでいます。結構楽しいですよ。 研究の方は、 最近は何か一つに集中して取り組むというよりは、 RC も PC もいろいろやっ ている感じですね。どちらかというと壁の研究が多いので壁の人やと思われてるけど、壁 ばっかりやってないですよ。最近は柱とかもやってるんですけどね。 ――現在のお仕事の魅力やモチベーション、今後の展望をお聞かせください。 この仕事は教育も研究もできるので、このまま続けていきたいというのはもちろん思っ ています。修士のころ指導教員だった渡邉先生はどっしり構えてかっこええ感じで、この 道を選んだのは大学の先生への憧れも結構ありましたね。 人にもの教えるというのは昔から好きでやってて、学生時代も塾の講師をしてたし、面 倒はなるべく見たい派であると思っています。自分で勉強したことをかみくだいて分かり やすく説明するというのが割と好きですね。ただ、大学生なのである程度は自主性に任せ たいというか、あまり無理やり管理したくはない。ただ、期間が決まっている外部との共 同研究なんかは、そのスケジュールに合わせていこうと考えた時に、どこまで学生さんに 負荷を掛ければいいのかの判断はいつも悩ましい。気を遣ってあまりゆるくなりすぎても 問題なので、その辺りの塩梅が難しいところです。 研究の一番のモチベーションには安全で安心な社会をつくるというか、地震で困る人を 減らしたいというのがありますね。この仕事をやるようになって地震の被害とか何度も見 に行って、困っている人もたくさん見てきました。事前に何とかできる方法も含めて、地 震被害を減らすために何をしていけばいいのか、考えながら研究しています。もう一つの

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モチベーションとしては、自分が関わったものが世に出るというのはすごくいいなと思っていて、例えば、修士の時に研究し ていた耐震補強が使われているのを実際に見た時にはやっぱり嬉しくなった。自分のやったことが世の役に立っていると思う とさらにやる気がでるので、そうなるように頑張っていかなあかんなと思っています。

研究室の学生を指導中の谷先生。 (撮影時のみマスクを外しています)

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PROJECT

西山・谷研究室

プロジェクト 執筆者:博士後期課程一年生

山田諒

修士課程二年生

石原澪

修士課程一年生

三田沙也乃

3次元載荷を受ける RC 耐震壁に関する研究 RC 造建物で使われる耐震壁は柱、梁に比較して剛性、耐力が高く、優れた耐震要素として設計されます。地震時には耐震壁 は主に面内方向(壁方向)で水平力に対して抵抗しますが、同時にあまり強くない面外方向(壁と直交する方向)に変形し、 鉛直方向に作用する軸力も変動します。しかし、現行の設計体系ではこの面外方向変形の影響がほとんど考慮されておらず、 引張軸力が作用する耐震壁の実験も多くはありません。本研究プロジェクトでは、耐震壁に地震時挙動を模擬した3次元的荷 重を作用させる載荷実験を実施し、載荷条件が構造性能に与える影響について検討を行います。最終的に、より適切な耐震壁 の耐震設計法を提案することを研究目的としています。

(a)損傷前

(b)最終破壊性状 図1 耐震壁載荷実験試験体

アンボンド PCaPC 柱に関する研究 アンボンドプレストレストコンクリート(以下、アンボンド PC)部材とはシース管内にグラウトを注入せずに PC 鋼材を 定着させたもので、地震後にひび割れや変形がほとんど残留しない高い原点指向性を示します。アンボンドプレキャストプレ ストレストコンクリート(以下、アンボンド PCaPC)部材は、前述のアンボンド PC 部材の特性に加え、プレキャスト部材の もつ工期短縮や品質向上などのメリットももち、注目されている技術です。プレストレスは常時荷重に対して優れた性質を示 すため、梁に関する研究が多く、柱部材に対する研究は少ないのが現状です。そこで本研究プロジェクトでは、アンボンド PCaPC 柱部材について実験および解析を行い、その構造性能について研究しています。

(a)損傷前

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(b)最終破壊性状 図2 アンボンド PCaPC 柱実験試験体


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RC 造ピロティ柱に対する UFC パネル補強に関する研究 1,2 2016 年4月に発生した熊本地震により、RC 造のピロティ柱において、せん断破壊をはじめとした甚大な被害を受けました。 昨今、南海トラフなどの大地震の可能性が危惧されている中で、既存のピロティ柱に対しても、大地震時の機能維持、早期復 旧のため、より効果的な補強方法、地震後の早急な復旧方法が求められています。 そこで本研究プロジェクトでは、補強を含む簡便な復旧方法として RC 造ピロティ柱に超高強度繊維補強コンクリート(以下、 UFC)パネルを挟込接着する方法、および UFC パネルや RC 造袖壁を柱の片側に増設する方法を提案し、 その有効性を調べること、 各種補強に対する耐力評価手法を提案することを目的として実験的研究を行っています。具体的には、図3のピロティ柱を模 擬した試験体に損傷を与えた後、補強を施し、静的載荷実験を行っています。

図3 共同住宅 D(熊本市東区、1992 年建設)

図4 ピロティ柱に対する UFC パネル補強の模式図

図5 補強を施した RC 柱の

熊本地震におけるピロティ柱のせん断破壊 3

実験試験体

高周波熱処理により部分高強度化した H 形鋼ブレースに関する研究 高周波熱処理とは、電磁誘導作用により鋼材を急速に加熱した後、急速冷却を行うことで、鋼材の強度を向上させる技術です。 本研究プロジェクトでは、高周波熱処理技術を部分的に施した新しいブレースを開発し、実験や解析を通してブレースの構造 性能について研究を行っています。ブレースは地震力などの水平力に抵抗する耐震要素として新築建物や耐震補強に幅広く利 用され、地震国においてきわめて重要な部材の一つです。新ブレースには、大変形時にも高い剛性や耐力を期待できることや、 座屈による急激な耐力低下を防ぎ、安定した圧縮側挙動を示すことなど、高い構造性能を期待することができます。

図6 ブレース実験試験体

図7 ブレース有限要素解析モデル

<参考文献> 1) 谷昌典,吉田遥夏,林洙娥,石原澪,渡邊秀和,向井智久,石岡拓,小宮山征義,服部翼,松本大亮:UFC パネルにより耐震補強された RC 造ピロティ柱の載荷実験(その 1: 無損傷試験体に対する補強効果),日本建築学会大会北海道支部研究報告集,pp.404-407,2021.6 2) 林洙娥,石原澪,吉田遥夏,谷昌典,渡邊秀和,向井智久,石岡拓,小宮山征義,服部翼,松本大亮:UFC パネルにより耐震補強された RC 造ピロティ柱の載荷実験(その 2: 損傷を受けた試験体に対する補強効果),日本建築学会大会北海道支部研究報告集,pp.408-411,2021.6 3) 国立研究開発法人建築研究所 , 平成 28 年(2016 年)熊本地震建築物被害調査報告(速報), 建築研究資料 ,No.173,2016

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エッセイ

布野 修司 Shuji FUNO

カンポンとコンパウンド

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Kampung and Compound

古阪 秀三 Shuzo FURUSAKA

建設業の元請下請関係に包まれた技能労働者の賃金構造

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Wage structure of skilled labors under the Relationship between the General Contractor and the Subcontractor

竹山 聖

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

包むこと / 包まれること

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To Envelop/ To be Enveloped

大崎 純

Makoto OHSAKI

離散微分幾何学を用いた曲面のモデル化と生成

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The Future of Human Web: COVID-19 & Stay Home

牧 紀男

Norio MAKI

まちの記憶と都市・建築 - 東日本大震災から 10 年 -

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Memory of Lost Communities and Building ; the 10th anniversary of the Great Earth Japan Earthquake

柳沢 究

Kiwamu YANAGISAWA

「融合寺院」という建築・都市空間の更新プロセスモデル

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― 旧い建築をそのまま残しながら新しい建築を重ねること “Merged Temple” as a Model of Spatial Renewal Process - Layering new building while retaining the old

小見山 陽介 Yosuke KOMIYAMA

動く小さな木の建築 Micro Architecture, in Wood, in Motion

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essay

学生エッセイ

大橋 和貴 Kazuki OHASHI

こどもを包む愛ある建築を目指して

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道具を扱うことの本質

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未完の思考たちの群れ

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Toward kindful Architecture -Embracing Children-

大山 亮 Ryo OYAMA

What Tools Bring to Humans

山井 駿 Shun YAMAI

A Flock of Bubbles

林 浩平 Kohei HAYASHI

山・小屋 Mountains and a Hut

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ESSAY

カンポンとコンパウンド Kampung and Compound

布野 修司

「ある都市の肖像:スラバヤの起源 Shark and Crockodile」 (traverse19,2018) で予告した著作をようやく上梓することができた。タイトルは、『スラバヤ物語― ある都市の肖像

時間・空間・居住』 (仮)としていたが、最終的に『スラバヤ 東

南アジア都市の起源 , 形成,変容 , 転生―コスモスとしてのカンポン 』(京都大学 学術出版会,2021 年)(図①)となった。 タイトルは一般に編集者すなわち出版社の意向を尊重することになるが、本書の サブタイトル「コスモスとしてのカンポン」は、京都大学学術出版会の鈴木哲也編 集長(専務理事)の強い薦めがあった。本書は鈴木さんと組んだ 11 冊目の本にな る。鈴木さんには『学術書を書く』 (鈴木哲也・高瀬桃子共著 ,2015) 『学術書を読む』 (2020)という2冊のベストセラーがある。 『学術書を読む』には、 「良質の科学史・ 社会文化史を読む」「 「大きな問い」と対立の架橋」 「古典と格闘するー「メタ知識」 を育む」「現代的課題を歴史的視野から見る」という「専門外」に向けての 4 つの 指針が挙げられている。是非手に取ってみて欲しい。 『スラバヤ』は、建築計画学を出自とする著者の建築計画学批判に関わるひとつ の決算の書(解答書)である。1979 年 1 月、はじめてインドネシアの地を踏んで バラックの海と化したカンポンに出会い、戦後日本において建築計画学が果たした 役割を思い起こしながら、ここで求められているのは日本と同じ解答ではない、と 直感した。以降、毎年のように通い、調査を継続してきたのがスラバヤであり、こ の 40 年間に学んだことの全てを盛り込んだのが本書である。スラバヤで活躍した オランダ人建築家の近代建築作品など、スラバヤ、インドネシアそして東南アジア の住居・集落・都市についての基本的情報は収めてある。 「ある都市の肖像」のグローバルな射程については「結」に記した。「時間―空間 ―居住」「起源・形成・変容・転生」の重層的構成、長めの注カスケード Cascade による時空の拡張、QR コードによる動画の組み込み(図②)など、起承転結型の 学術書を超える挑戦的試みを評価して頂ければと思う。

図1

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Kampung and Compound

Shuji HUNO

コンパウンド ところで、『スラバヤ』がキーワードとする「カンポン kampung」とは、インド ネシア(マレー)語で「ムラ」という意味である。「カンポンガン kampungan」と いうと「イナカモン」というニュアンスで用いられる。そして、カンポン(ムラ) は都市の住宅地について用いられる。「都市村落 urban village」というのがぴった りである。 このカンポン、実は、英語のコンパウンド compound の語源だという。

コン

パウンドには通常 2 つの意味がある。第1は,他動詞の「混ぜ合わせる,混合す る」,形容詞の「合成,混成の,複合の,混合の composite, 複雑な,複式の」である。 そして,第 2 は,名詞で「囲われた場所」である。 英 英 辞 書 を 引 け ば、compound(noun) は,an area surrounded by fences or walls that contains a group of buildings、 と簡潔に説明される。フェンスや壁によっ て囲われた surrounding 領域がコンパウンドである。英語で「包む」は、wrap, pack, encase・・・、「取り巻く」は surround, enclose, circle…などがあり、それぞれ ニュアンスが異なるが、 コンパウンドについて考えることは、 <我々(建築)を包み、 取り巻くもの>を考えることになる。人間社会を構成する最小の居住単位としての 1軒あるいは何軒かの住居の集合体がコンパウンドである。英語には、コンパウン ドの他、ホームステッド homested、 セツルメント settlement が用いられる。他にも, 移動性の高い場合はキャンプ camp、さらに,エンクロージャー enclosure,クラ スター cluster,ハムレット hamlet,そしてヴィレッジ village などがある。

図2

スラバヤのカンポン

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ESSAY

カンポン 学位論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研 究ーーーハウジング計画論に関する方法論的考察』( 東京大学,1987 年)のエッ センスを一般向けにまとめた『カンポンの世界

ジャワの庶民生活誌』 (1991)を

書いた著者として、その不明を恥じたが、カンポンがコンパウンドの語源であるこ とは、東京外語大学の椎野若菜さんから「「コンパウンド」と「カンポン」―居住 に関する人類学用語の歴史的考察―」(『社会人類学年報』26,2000 年)という論 文を送って頂いて初めて知った。

1. そもそも英語の成立自体が興味深い。英語は,古 英語,中英語,近代英語に時代区分されるが,中世 中期英語以降,ラテン語・フランス語をはじめとし て,世界中の諸言語から借入を行っており,英語本 来の言葉は 20 パーセントに満たないという。それ 故,コンパウンドの語源もさまざまに詮索されるが, OED(Oxford English Dictionary) に依れば, 第 1 義は, 中英語(古英語,中英語,近代英語に区分される) の時代から存在するのに対して,居住に関わる第 2 義は,17 世紀後半に英語に借入された,という。

椎野論文は、サブタイトルが示唆するように,人類学者として「居住」に関する

2.Hobson-Jobson: A Glossary of Colloquial Anglo-

英語の語源を確認することを目的としている。そして、その骨子は,コンパウンド

Indian Words and Phrases and of Kindred Terms,

1

は,マレー農村を指す「カンポン」を語源とする説が有力で,その英語への借入 過程には,西欧諸国の植民地活動の軌跡が関わっている,ということである。 オックスフォード英語辞典 OED は,コンパウンドは植民地時代以降の慣例にみ られるとし,異説を紹介した上で,マレー農村を意味するカンポンがインド英語 Anglo-Indian English を経て伝わったとするユールとバーネル Yule, H. and Burnel, 2

E t ym o l o g i c a l , H i s t o r i c a l , G e o g r a p h i c a l a n d Discursive, Delhi, Munshiram Manoharalal. 3.Manuel Godinho de Erédia(or Emanuel Godinho de Erédia)(16 July 1563 ‒ 1623) の ʻDescription of Malaca, Meridional India, and Cathay (Declaracam de Malaca e da India Meridional com Cathay)ʼ(1613) .

A.C.(1903, William Crooke(ed.) の説を紹介している。コンパウンドは,(1) 囲い込

4. ポルトガル語 campanha,campo の転訛,フラ

み(enclosure), 囲い込まれた空間,あるいは,(2) 村(village) ,バタヴィアにお

ンス語の campagne(country 田舎 ) の転訛という

ける「中国人のカンポン」のような,ある特定の民族(nationality)によって占め られた町(town)の地区を意味する。(2)の例として,1613 年のポルトガル人の 3

著書に campon という綴りが見られるという。

異説もある。フランス語起源説は根拠が明確では なく,似たような言葉はない。ポルトガルの使用 例 campana は,近代ポルトガル語では campaign か,campagna( ローマ周辺の平原 ) であり,使用例 champ(1573 年の旅行記 ),campo( イタリア人の文

4

ポルトガル語の campo の転訛という異説 を含めた議論の詳細は『スラバヤ』 (Space Formation Ⅰデサ/村落 4 カンポンとコンパウンド)に譲ろう。カンポン について考えることは、世界中のコンパウンドについて考えることに繋がるのであ

献 ) は,「広場」「マイダーン maidan」の意味で用 いられており,居住地の意味はないという。ただ、 ユールとバーネルは,カンポンというマレー語がポ ルトガルとの接触以前から v 存在していたかどうか 確かではなく,ポルトガル語の転訛である可能性を

る。

全く否定はできないとする。すなわち,ポルトガル 語 campo ははじめ camp の意味をもち,それから, 囲われた地域,の意味をもつにいたったか,ポルト ガル campo とカンポンという2つの言葉は,相互

デサ

作用した可能性があるとする。カンポンという言葉

現在のインドネシアの行政単位は、 農村部(カブパテン kabupaten) はデサ desa (行 政村)である。農村部も都市部(コタマジャ kotamadya)も下位単位クチャマタ ン kecamatan からなり,農村部ではデサがクチャマタンの構成単位となる。デサ はさらに下位単位ドゥクー dukuh によって構成される。都市部では,クルラハン kelurahan がクチャマタンを構成し,その下位単位となるのが RW(エル・ウェー)

図3

110

カンポン・セクター C.Geetz

の語源やポルトガル接触以前の存在は確認できず, ユールとバーネルもこの点は実証できていない(椎 名論文註(8))。


Kampung and Compound

Shuji HUNO

(ルクン・ワルガ Rukun Warga)と RT(エル・テー) (ルクン・タタンガ)である。 5.Eindresume van het bij Guevernments Besluit dd.10 Juni 1867 No.2 bevolen Onderzoek naar de

デサは,もともと,ジャワ,マドゥラの村落を指す言葉であった。14 世紀に書 かれたマジャパヒト王国の年代記『デーシャワルナナ』 (『ナーガラクルターガマ』)

rechten van den Inlander op den Grond op Java en

は「地方の描写」という意味である。サンスクリット語で都市コタ kota に対する

Madoera, zamengesteld door den chef der Agdeeling

地方、村落がデサだから、その歴史は古い。それに対して,スンダ(西ジャワ)で

Statiseiek ter Algemeene Secretarie. 1830 年 以 降, ジャワ(マドゥラ)は,中部の王侯領を除いて,全

は,クルラハンが村落という意味で用いられていた。そして,カンポンというのは

てオランダの直轄領となっていたのであるが,植民

カルラハンを構成する単位であった。

地政庁は,この直轄領内の 808 村を選んで 1868 〜 69 年にはじめて本格的な土地調査を実施した。その

ジャワの伝統的集落デサについては、『ジャワ・マドゥラにおける現地人土地権 5

結果まとめられたのが 『最終提要』 (1876 〜 1889 年)

調査最終提要』 (以下『最終提要』)全3巻(1876 〜 1889 年)という大きな資料

である。土地調査の大きな目的は,私企業プランター

がある。土地権についての調査を主目的とするものであったが,調査項目総数は

の進出を可能にする方向を含めて,土地所有権およ

6

び利用権を確保することである。その調査は,結果

370 に及ぶ。 これを基にした 19 世紀以降のデサの特質についての議論も『スラ

を 1870 年における農地法の制定に結びつけようと

バヤ』に譲るが、結論だけ記すと、共同体的な要素を濃厚に残してきたジャワのデ

するものであった。 6. 内藤能房「『ジャワ・マドゥラにおける原住民土 地権調査最終提要』全三巻について」 , 『一橋論叢』, 第 76 巻

第4号,1976 年。

7. まず指摘されるのは,デサにおいて土地の「共 同占有」の形態が数多くみられることである。 『最 終提要』は耕地の占有形態を「世襲的個別占有」と 「共同占有」とに大きく二分しているが, 「共同占有」 形態とは,耕地の使用の主体は個人であるが所有権

サは,植民地化の過程において、むしろ、その共同体としての特性を強化してきた 可能性が高いということである。20 世紀初頭の植民地政府の原住民自治体条例に よって再編成されたデサは,共同体(ヘメーンシェプ gemeenschep(ゲマインシャ フト))ではなく、ヘメーンテ gemeente(自治体)として規定されている。しかし, 資本制生産様式との接触が伝統的な社会構造を弱体化させるのではなく,むしろ共 7

同体的性格は変形強化されたのである。

はあくまでデサに属し,個人による相続や処分が不 可能な占有形態である。『最終提要』に依れば, 「共 同占有」の形態が集中するのが中東部ジャワである。 「共同占有」の形態においては,その「持ち分」保 有者となる資格が厳しく規定されているのが普通で あり,その資格を満たすことにおいてデサの正式の メンバーとして認められる。持ち分については定期

隣組と町内会 このデサが、デサ的要素を色濃く残しながら,都市において再統合されたものが カンポンである。C. ギアツは、ジャワ社会を,デサ,ヌガラ(国家

政府官僚制),

割替えが行われることが多い。こうした耕地の「共

パサール(市場)をそれぞれ中核とする33 つの社会層からなるとして、インドネ

同占有」形態に象徴される共同体規制は林野につい

シアにおける都市化の歴史を構造的に解き明かすのであるが、都市化の過程で都市

てもみられる。ただ,林野の場合は対外的な規制の ウエイトが大きく,デサの構成員については幾分 ルースである。

に再統合された居住地をデサと区別することにおいて,カンポンと呼ぶ。カンポン は,基本的に「都市村落」であるというのが C. ギアツである。 C. ギアツC.ギアツは, 「カンポン・タイプの居住区はジャワのどこでも都市的 生活の特性をもつが,同時に何らかの農村的パターンの再解釈を含んでいる。より 密度高く,より異質性が高く,よりゆるやかに組織化された都市環境へ変化したも のである。 」という。 C. ギアツは,カンポン・セクターの地図を示している(図③)。 ブロックを囲むように並ぶ白い四角がレンガ造・石造の家であり,黒い点がバン ブー・ハウスである。 そして、実に興味深いのは、このカンポンの住民組織と日本の隣組・町内会制度 が共鳴を起こしたことである。 日本は大東亜戦争遂行のための総力戦体制を敷くために,戦時下の大衆動員の施 策として, 内務省は 1940 年 9 月に「部落会・町内会等整備要綱」 (内務省訓令 17 号) を発令し,隣保組織として55 〜 10 戸を11 組の単位とする隣保班を組織するこ とを決定する。この隣組・町内会制度は,日本軍政下のジャワにも導入される。こ

8.「郷土防衛, 経済統制等の組織および実践単位とし, 地方行政下部組織として軍政の浸透を計るものもの で,ジャワ古来の隣保相互扶助の精神(ゴトン・ロ ヨン)に基き住民の互助共済その他の共同任務の遂

の隣保組織のありかたは,カンポンのコミュニティ組織として戦後にも引き継がれ ていくことになるのである。 日本軍軍政当局が隣組 tonarigumi 制度を導入したのは太平洋戦争末期になっ

行を期する」ことを目的とし, 「デッサ内の全戸を

てからにすぎない。1944 年11 月 11 日に,全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣

分ち概ね十戸乃至二十戸の戸数を以って一隣組とす

保組織を設立することを発表し,これに続いて「隣保制度組織要綱」 (Azas-azas

る,隣組に組長を置くがその選任は実践的人物を第

oentoek Menjempoernakan Soesoenan Roekoen Tetangga)(『KANPOO』No.35-

一とする,隣組は毎月一回以上の常会を開く。さら に字(カンポン)に字常会を設け毎月一回以上の常 会を開く,字常会は字長および隣組長その他字内の 有識者をもって構成する」という組織化を行うもの であった(倉沢愛子(1992))。

8

2604)が出されるのである。 軍政監部は,11 月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデ ル隣組がつくられた。研修会では,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も

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ESSAY

行われたという。一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロ ヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることな どが宣伝された。組織は瞬く間にジャワ各地に広まっていった。1944 年 4 月末の 調査に拠れば,ジャワ全域の住戸数は 896 万 7320 戸,隣組数は 50 万 8745 組, 字常会数は 6 万 4777(64,832),区の総数は 1 万 9498 であった(表Ⅳ 2 ③) 。 隣組は平均 17.6 戸,区(デサ)は平均 3.3 字常会ということになる。隣組はジャ ワの隅々にまでつくられたことになる(倉沢愛子(1992)『日本占領下のジャワ農 村の変容』草思社。 )。

RT/RW 「隣保制度組織要綱」は,隣組を「施策の迅速で適正な浸透ならびに深刻な住民 相互間の対立摩擦の削除をおこない,民心を把握し住民の総力をあげて戦力の維持, 存続をはかるための,行政単位に基づき行政機関と表裏一体である強力で簡素な単 一組織」と規定する(吉原直樹(2000) 『アジアの地域住民組織―町内会・街坊会・ RT / RW』お茶の水書房) 。隣組 tonarigumi,字 aza,常会 joukai は,日本語がそ のまま用いられるが,隣組すなわちルクン・タタンガ RT は, 「ジャワ民族におい て以前から受け継がれている相互扶助精神に基づく住民間の互助救済など共同任務 の遂行に勤めなければならない」 (第 1 条 3 項)という。 ルクンとは,ジャワの伝 的概念である「調和,和合」を意味する。タタンガは,隣人である。相互扶助精神 とは,ジャワではゴトン・ロヨンと呼ばれ,インドネシアの国是とされている。 太平洋戦争末期,わずか1年余りの期間にジャワ全島に及んだ隣組組織が現在の RT の起源である。日本では,戦後 1947 年になって,連合国軍最高司令官総司令 部(GHQ)によって隣組制度は禁止される。隣組制度が総力戦体制,体制翼賛体 9

制を支えた「支配と強制」の装置となったが故に禁止する,というのである。 一 方, イ ン ド ネ シ ア の 隣 組 制 度 は ど う な っ た の か? こ れ も 詳 細 は『 ス ラ バ ヤ 』 に 委 ね ざ る を 得 な い が、RT そ し て, 字 aza は ル ク ン・ カ ン ポ ン rukun kampung=airkaʼ エルケー RKʼ として存続する。税の徴収,住民登録,転入転出 確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たす のである。ただ,公式な政府機関とはみなされてこなかった。1960 年に RT/RW に関する地方行政法(Peraturan Daerah Kotapradja Jogjakarta no.9 Tahun 1960 tentang Rukung Tetangga dan Rukun Kampung)が施行されたが,基本的には引 き続き,RT/RK を政府や政党からは独立した住民組織として認めるというもので あった。RT/RK を政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965 年 9 月 30 日のクーデター以降の新体制になってからである(Sullivan, John (1992) Local Government and Community in Jawa: An Urban Case Study, New York: Oxford University Press.) 。 RT/RK は次第に独立性を失っていくが,ひとつの画期となるのは 1979 年の村 落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。地方分権化をうたう一方, 中央政府権力の村落レヴェルへの浸透を図るものであった。大きな変化として導入 されたのがルクン・ワルガ RW という,RT をいくつか集めた新たな近隣単位である。 この時点で、RT/RW は,国家体制の機関として組み込まれたのである。 インドネシアの場合,以上のように,強制的に組織化された RT-RW ではあるけ れど,自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組 の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,それは再び開発独裁体制 の成立過程で,再び,国家体制の中に組み込まれることになるのである。カンポン の生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンとなるのは,カンポ ンに限らない共同体の二面性である。

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9.GHQ が ま と め た『 日 本 に お け る 隣 保 制 度 ― 隣 組 の 予 備 的 研 究 』(1948) (GHQ/SCAP, CIE, A Preliminary Study of the Neighborhood Associations of Japan, AR-301-05-A-5, 1948 (吉原直樹 (2000) ) 。 ) は,「隣保組織の歴史的背景」(第 1 章)を幕藩体制 下の「五人組」,さらには大宝律令(701 年),養老 律令(718 年)が規定する「五人組制度」まで遡っ て振り返った上で,「1930 年代以降における隣保組 織の国家統制」 (第 2 章)そして「東京都の隣保組織」 (第 3 章)を具体的に検証したうえで, 「隣保組織の 解体」(第 4 章)を結論付けている。


Kampung and Compound

Shuji HUNO

<包むもの/取り囲む>ものという言葉は、ある領域の境界、そしてその外部と 内部をめぐる普遍的問いを突きつける。日本の隣組 - 町内会制度は,戦後改革の過 程で解体されてきたように思える。しかし、災害がある度に、そして COVID-19 の コロナ禍において、共同体における相互扶助と内部規制という二重の機能が孕む基 本的問題は問われ続けているのではないか。

図4

カンポン・サワハン RW12

<参考文献> ・布野 修司『スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生―コスモスとしてのカンポン 』, 京都大学学術出 版会 , 2021 ・鈴木哲也・高瀬桃子共著『学術書を書く』, 2015 ・鈴木哲也『学術書を読む』, 2020 ・インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング計画論に関する方法論的考 察 , 東京大学 , 1987. ・布野 修司『カンポンの世界 ジャワの庶民生活誌』, 1991 ・「コンパウンド」と「カンポン」―居住に関する人類学用語の歴史的考察―, 社会人類学年報 26, 2000. ・倉沢愛子『日本占領下のジャワ農村の変容』草思社 , 1992 ・吉原直樹『アジアの地域住民組織―町内会・街坊会・RT / RW』お茶の水書房 , 2000

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ESSAY

建設業の元請下請関係に包まれた技能労働者の賃金構造 Wage Structure of Skilled Labors under the Relationship between the General Contractor and the Subcontractor

古阪 秀三 前回の traverse21 のキーワードは “ 巣 ” であった。 筆者はこの “ 巣 ” において、建設業の世界での “ 巣 ” として、伝統的に維持されてきた元請・下請関係、しかもそれが専属的 に繰り返されてきた関係を中心に拙稿を書いた。 そして、今回の traverse22 のキーワードは “ 包むもの/取り巻くもの ”。まさに、元請・下請関係が「専属的⇔独立的」の なかでどのように揺れ動いてきたか、優秀な名義人/世話役/職人を選別・確保することを考え、その組織化に乗り出し、名 義人を中心に特定の元請傘下の協力会が形成されることになった。このような流れのなかで、とりわけ、技能労働者に支給さ れる賃金がどのように変化してきたかが気になっている。そこで、今回の traverse22 では、元請から下請を経由して技能労働 者に渡る賃金の変遷について、考えてみることにする。

1.「公共事業労務費調査・公共工事設計労務単価」と「賃金構造基本統計調査」 ここに、農林水産省および国土交通省が例年調査している「公共事業労務費調査・公共 工事設計労務単価」と厚生労働省が例年調査している「賃金構造基本統計調査」の2つの 調査内容とその結果の資料がある。 「公共事業労務費調査・公共工事設計労務単価」とは、 「農林水産省及び国土交通省(以 下「二省」)で、毎年、公共工事に従事する労働者の県別賃金を職種ごとに調査し、その 調査結果に基づいて公共工事の積算に用いる「公共工事設計労務単価」を決定しているが、 この調査を「公共事業労務費調査」という。この調査は、調査月に調査対象となった公共 工事に従事した建設労働者の賃金について、労働基準法に基づく「賃金台帳」から調査票 へ転記することにより賃金の支払い実態を調べるもので、昭和 45 年から毎年定期的に実 施されている。調査対象工事は二省(独立行政法人、事業団等を含む) 、都道府県および 政令指定都市等所管の公共工事。調査対象労働者は調査月において調査対象工事に従事し た労働者で、元請、下請(警備会社を含む)を問わず、全ての労働者(51 職種)が対象。 なお、公共工事設計労務単価は、公共工事の工事費の積算に用いるためのものであり、現 場管理費(法定福利費(事業主負担分)、研修訓練等に要する費用等)及び一般管理費等 の諸経費が含まれていない(法定福利費(事業主負担分) 、研修訓練等に要する費用等は、 1

積算上、現場管理費等に含まれている) その結果の令和3年3月の設計労務単価を含め、平成年度からの設計労務単価の全国全 職種加重平均の推移を図1に示す。端的に言えば、平成9年度から平成 24 年度まで下降 を続けた単価はそれ以降令和3年3月まで上昇を続け、その間で 56%上昇している。

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Wage Structure of Skilled Labors under the Relationship between the General Contractor and the Subcontractor

Syuzo FURUSAKA

図1

公共工事設計労務単価

全国全職種平均値の推移(出典:国土交通省資料)

一方、厚生労働省が例年調査している「賃金構造基本統計調査」は、主要産業に 雇用される労働者の賃金の実態を明らかにする統計調査。賃金構造基本統計調査に よって得られる賃金の実態は、国や地方公共団体だけでなく民間企業や研究機関で も広く利用されている。賃金構造基本統計調査では、雇用形態(正社員・正職員、 正社員・正職員以外)、就業形態(一般労働者、短時間労働者)、職種、性、年齢、 学歴、勤続年数、経験年数など、労働者の属性別の賃金の結果を、産業、企業規模 別などで提供している。この調査は、我が国の賃金構造の実態を詳細に把握するこ とを目的として行われているもので、昭和 23 年以来毎年実施されてきた賃金構造 2

に関する一連の調査系列に属するものである。 その調査による労働者(年間賃金総支給額の建設業男性生産労働者)の賃金を 2000 年(平成 12 年)から 2019 年(令和元年)の推移で図2に示す。端的に言 えば、2000 年(平成 12 年)から 2012 年(平成 24 年)まで下降を続けた賃金は、 それ以降 2019 年(令和元年)までほぼ上昇を続けてはいるが、その間での上昇は 約 18%程度である。

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ESSAY

図2

賃金構造基本統計調査・年間賃金支給額 (出典:2020 建設業ハンドブック)

2.公共工事設計労務単価と賃金構造基本統計調査による労働賃金の推移の比較 前章でみた2つの調査結果には、興味深い違いがある。そのいくつかを上げると 以下のとおりである。①設計労務単価は各年度の公共工事の発注の際の積算に用い るのに対して、労働賃金は労働者に支給された結果の額が示されていること。ただ し、両者の調査の内容には相当程度の違いがあること。②いずれの図でも最低値は 2012 年であり、その後上昇を続けているが、その伸び率には大きな差があること。 ③建設業に特徴的な請負を前提とした契約、重層下請構造、法制度上の元請/元方 責任の在り方などの影響とそれらへの配慮などである ⁵。 3.実際の躯体系専門工事業者(Z 社)における設計労務単価と元請労務単価の推 移について ⁷ ①まずは、設計労務単価と Z 社の元請労務単価(元請支払いの平均値)の推移を、 図3(建築工事と土木工事の土工)、図4(建築工事と土木工事の鳶工)に示す。 これらの単価には社会保険等の経費も含まれている。図3では各年の土工の設計労 務単価と各元請との間での土工の元請労務単価の平均値が、図4では各年の鳶工の 設計労務単価と各元請との間での鳶工の元請労務単価の平均値が、平成 24 年から 令和2年の間の各元請が Z 社に支払った元請労務単価の平均値の折れ線図となっ ている。 ②これらのことから次のことが分かる。 ・設計労務単価に比べて、元請労務単価は建築、土木(更に言えば土工、鳶工)共 に 10% 〜 30%低いが、明らかにそれが建築においてより低いことが分かる。そ の差がどこから出ているかにはいくつかのことが考えられる。土木工事の場合、ほ

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Wage Structure of Skilled Labors under the Relationship between the General Contractor and the Subcontractor

Syuzo FURUSAKA

とんどが公共工事であるため、設計労務単価を通常の契約においても活用している。 それに対して、建築での公共工事は、通常、市場単価制度であり、また、民間工事 では設計労務単価に関してほぼ利用していることがない。このことが最も大きな理 由ではないか(図3および図4) 。 ・図3、図4では分からないが、元請労務単価の元請間での差異は 10%程度あり、 建築、土木のいずれにおいてもある。 ・また、図3における建築工事の土工では、設計労務単価は年々上昇しているにも かかわらず、元請労務単価は平均で平成 24 年〜平成 27 年まで上昇しておらず、 設計労務単価と元請労務単価の差異並びに変動の具体的な要因を検証する必要性は 高い。 ・このようなことがなぜ起こるのか。それらの要因を明らかにすることは、今後の 技能労働者の実質賃金の上昇を検討する上で、欠かすことができないことであろう。 ③ Z 社における元請労務単価のベースになる要因 ・元請からの仕事を請けた後、二次下請(協力会社)に仕事を出す場合も請負契約 を原則としている。 ・元請としては複数の企業と取引があるが、指名競争入札が基本となる。 ・技能工等も社員として雇用している。 ・労働者を守るのが専門工事業者の役割である。 など、二次、三次下請を含んでの元請労務単価でないところに、今後の下請となる 専門工事業者のあるべき姿の一端を見ることができる。

図3

建築工事と土木工事の土工単価(文献7:建築コスト研究 111 号)

図4

建築工事と土木工事の鳶工単価(文献7:建築コスト研究 111 号)

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ESSAY

4.現在までの元請下請関係における技能労働者の賃金の問題 結局、“ 巣 ” あるいは “ 包むもの ” のなかで技能労働者の賃金はどのように変化 したのか。 建設業の世界の “ 巣 ”、そのなかで伝統的に維持されてきた元請・下請関係、そ れらはまさに、建設活動を緩やかに “ 包むもの ” として揺れ動いてきたわけである が、その重層下請構造のなかで技能労働者に渡る賃金の変遷はなかなか改善されず、 とりわけ民間工事においてそうである。一般に公開されている資料ならびに意欲あ る専門工事業者のなかといえども、元請と重層下請の間ではなかなか透明性を持っ たものとはならず、今後の課題として残っているといえる。 端的にいえば、元請から下請を経由して技能労働者に渡る賃金の変遷は曖昧模糊 としており、包み込むものとしてではなく、重層構造の改善とともに、技能労働者 への明快な制度に基づく賃金とすべき時代であるといえる。 その残っている多段階にある技能労働者の賃金構造はどのように動くことが出来 るのであろうか。ここに、2つの第一歩が始まりつつあることを紹介しておく。 ①「技能者の賃金確保へ標準単価を」という建設産業専門団体連合会(建専連)の 活動 ⁴ 2021 年9月3日の「建通新聞(電子版) 」によれば、建設産業専門団体連合会 (建専連)は、技能労働者の処遇改善に向け、技能労働者のレベルごとの最低賃金 と現場ごとの標準単価を合わせて設定し、2021 年度末に公表する方針を固めたと のことである。その際の最低賃金と標準単価は会員団体(全 34 団体)がそれぞれ で設定する。技能者の処遇の見通しを示すことで将来の担い手確保につなげる。ま た標準単価が民間工事で活用されるようになれば、技能労働者に支払う賃金をより 適切に担保できるといった経営者側のメリットもあるとしている。このような動き がようやく始まった背景には、「職人のキャリアパスを賃金的に示すには、その原 資を確保しなければならない中小企業の経営が安定していないことが問題」 、と指 摘。その上で、「標準単価が広く認められるようになれば、下請業者は職人への賃 金支払いの原資を適切に担保できるようになり、不当に労務費を削られるようなダ ンピング行為を防ぐことにもなる」と考える。こうした取り組みを急ぐ背景には、 若者の入職を促すための技能労働者の処遇改善を進める一方で、ダンピング受注が 散見される建設業界の現状がある。(技能者の賃金確保へ標準単価を 設ニュース

建専連|建

入札情報、落札情報、建設会社の情報は建通新聞社)

②全建等元請建設業者団体の元請・下請契約ならびに契約約款における精緻な書面 化や専門分化の実質化 ①と必ずしも連携しているわけではないが、全国建設業協会では元請・下請間での 工事請負契約に関して、工事下請基本契約書/工事下請基本契約約款、個別工事下 請契約約款、工事下請注文書(注文書・注文請書・注文書(控))を用意しており、 さらにより洗練されたものとして改正される方向にある。重層下請構造のそれぞれ の下請契約ならびにその約款をどのようにすべきかの検討に入る。これが技能労働 者の処遇改善にどのような影響が出るかには注意を払う必要がある。 さらに、民間(七会)連合協定工事請負契約約款委員会においても「民間(七会) 連合協定工事請負契約約款」のもとに、工事下請契約約款の作成の検討に入ろうと している。

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Wage Structure of Skilled Labors under the Relationship between the General Contractor and the Subcontractor

Syuzo FURUSAKA

あとがき 2001 年 4 月 16 日に日本 CM 協会が設立された。その際の最も重要な目標とし たものが2つあった。その1つは健全な建設生産システムの再構築、もう1つは倫 理観を持ったプロフェッショナルの育成であった。さらにいえば、 「健全な発注者、 設計者、 コンサルタント、 ゼネコン、 サブコンの結集であり、 それにもまして、 建 設生産システムを支えている職人さんたちの技能と賃金を守ることにあった。 そして、その前途にはなかなか難しいものがあったし、現在もその真っただ中に ある。しかし、技能労働者の高齢化、若者の職人離れの下で、技能労働者の透明性 のある処遇改善が急務である。

<参考文献> 1)

建設産業・不動産業:公共事業労務費調査・公共工事設計労務単価について|国土交通省:https://www. mlit.go.jp/totikensangyo/const/1̲6̲bt̲000217.html

2)

賃金構造基本統計調査|厚生労働省:https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/chinginkouzou.html

3)

古阪秀三,建設業の歴史と巣,traverse21,2020

4)

技能者の賃金確保へ標準単価を 建専連,建通新聞(電子版) ,2021.9.3

5)

古阪秀三,公共工事設計労務単価について考える[前編]専門工事業者の声,建築コスト研究 108 号,建築 コスト管理システム研究所,2020.1

6)

古阪秀三,古阪秀三,公共工事設計労務単価について考える[後編]発注者、元請建設業者、CM 会社、報 道機関の声,建築コスト研究 109 号,建築コスト管理システム研究所,2020.4

7)

古阪秀三,元請・下請関係の変遷と技能労働者の実質賃金の変動について,建築コスト研究 111 号,建築コ スト管理システム研究所,2021.1

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ESSAY

包むこと/包まれること To Envelop / To Be Enveloped

窓の外の風景 しばらく入院した窓の外からは東の空が見えた。さまざまな色の雲が群れ集って は姿形を変え、南から北へ、平野から山の方へと流れていった。窓といっても壁に 穿たれた小窓ではなく、柱と柱、そして天井までの大きなガラスの壁であったから、 空は視界いっぱいに広がっていた。 その夏は降り続く長雨が各地に大きな被害をもたらし、雲はいつも動いていた。 刻々と移り変わる雨雲レーダーを見れば、雨の強弱分布がどのように移動し、窓外 の風景がそれをどう反映しているかを知ることができた。 スマホを眺め、窓外の雲を見上げる。空の上から地図を眺めるように雲の動きを 知る視点と、下から雲の動きを眺める視点とが頭の中で重なり合う。俯瞰と見上げ が交錯する。 ただじっと身動きできぬ病室の窓から眺めるだけであったから、それが激しい雨 を降らせる雲であることはわかっていても、音は遠く、水の感触もなく、道ゆく人々 や車の動きも遠望するだけで、雨や風のリアリティーはない。 点滴の管に結びつけられて病室のベッドに寝ていると、外界との接触はなおのこ と遠い世界のように思われた。ぐるりと周りを取り囲むクリーム色のカーテンがま ず近傍の外界を緩やかに遮蔽し、同じくカーテンに包み込まれた隣人たちの姿を消 していて、ただ気配だけが伝わる。四人部屋の外には廊下を介してすぐにナースス テーションがあり、看護師たちの会話のざわめきに混じって時折ナースコールの呼 び出し音が聞こえてくる。同じ階の中にもさまざまな関係があり、諸々の階層があ る。 病室は大きな病院の上層階にあるから、外来ゾーンのある下層階からは物理的に も心理的にも管理の上でも隔てられている。そんな幾重にも守られた空間的な仕組 みを包むように病院の建物は存在している。管理や監視のシステムを内包しながら、 そして多くの人々の業務や悲しみや喜びや思いやりやため息や絶望を包み込みなが ら。 外の世界から身体を物理的に隔離し包み守る建物の、その入れ子構造の一番の突 き当たりである病床のすぐ横には、しかし窓があって、それが外の世界に開かれて いる。ベッドに寝転んでいても空を動く雲が見える。隔絶されてはいても、外界の 運動が見える。精神の運動が促される。雲の動きを眺めながら天空の動きに想像力 を馳せ、周囲の道や街区を眺めながら建物を包んでいる空気や熱や光を脳裏に描き 出せば、精神にはかりそめの自由がもたらされる。内と外が反転する。モナドのよ うだ、と思った。

内在/超越 建築を設計するには内在的な視点と超越的な視点がいる。内側を動き回らないと 空間の機能も配列も決定できないし、その中で暮らす人たちの心持ちを共有するこ ともできない。一方、それを外側から俯瞰するように眺めないと、平面図も断面図 も描けない。内側と外側はいつも反転しながら建築的思考を促している。 内側から空間を思い描くことができなければ、そこにどんな驚きや喜びがあるの

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竹山 聖


To Envelop / To Be Enveloped

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

かもわからないだろう。日々の生活の潤いも、光の差し込む豊かさも、月影を垣間 見る楽しみに想いを馳せることも、できない。次々に展開するシークエンスは建築 を構想する手がかりだ。内在的な視点である。 そうしたシークエンスを畳み込み包み込む全体があって、これを外から眺めてそ のありようを秩序づけたり祝福したりする外からの視点もある。超越的な視点であ る。 これらをラビリンスとピラミッドと言ったり、メス的視点とオス的視点と言った り、具体と抽象と言ったり、経験と概念と言ったり、内在と超越と言ったりしてき たわけだ。19世紀のボザールはこれを内的原理とファサードの美学に分けて建築 の構成方法とした。ボザールに対抗した20世紀のモダニズムは、ボザール流シン メトリーを捨て、ファサードを捨てて、内と外の融合する透明な空間を目指した。 ただ、それらはさしあたり具体的な建築物のスケールを制御する論理と美学であ る。実は内在も超越も、建築の次元にとどまらない幾重もの入れ子構造になってい る。内在の内にはさらに内在があるし、内在から見て超越と見えたことも、さらな る超越から見ればそれが内在になる。建築を構成するディテールの内には巧緻な仕 組みがあり、素材があり、素材の内には組成がある。内部空間から見れば建築物が その外殻を区切るように見えても、建築物の外にはそれを取り囲む近傍の環境があ り、この近傍を取り囲むさらに大きな環境があり、地域があり、気象があり、大陸 や海洋があり、地球があり、宇宙がある。そしてそれらすべてを包み込むように想 像力を広げる人間の頭脳があり、その頭脳は、といえば、身体に包まれてある。身 体のうちに包まれたこのちっぽけな頭脳が宇宙を超越的に展望するのである。意識 が世界を包み込み、頭脳の内に宇宙が胚胎される。 建築が外部空間から内部空間を守り、これを制御する装置であるとするなら、内 と外は明快だ。ただその境界面には物理的にも心理的にも幅がある。隔離する壁自 体に厚みがあるのである。透明であったり不透明であったり、 あるいは半透明であっ たり。堅固であったり柔らかであったり。実体としても、メタフォアとしても。 だから内と外とが画然と分かたれているわけではないのだ。内と外との境目に、 いわば「あいだ」がある。織り込まれた「襞」がある。この「あいだ」が、あるい は「襞」が、内を外につなぎ、外を内に取り込む。建築の外殻は内と外とを遮断す るだけのものではない。事物や出来事を媒介するのだ。この「あいだ/襞」、いわ ば内在と超越の「あいだ/襞」を計画すること。そしてデザインすること。これこ そが建築に求められる役割だ。 内と外の「あいだ/襞」、プライベートとパブリックの「あいだ/襞」、個人と集 団の「あいだ/襞」、さらには建築と都市の「あいだ/襞」。 「あいだ/襞」つまり 関係̶​̶​̶遮断、媒介、応答̶​̶​̶のデザインこそが建築設計の主要なテーマであっ て、これは人類が居住形態を工夫しつつやがて建築空間の構想を始め、他者̶​̶​̶ 建築を訪れるもの、すなわち光や風や雨や人、猛獣や毒、天空や大地や海、神や死 者、etc…̶​̶​̶との交流の制御装置としての建築を鍛え上げてきた関心の中心に あった。つまり、古来、建築は、異質の他者たちの出会いの場の構想そのものだっ たのである。

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ESSAY

出会いは歓迎されることもあり、忌避であることもあり、多くの場合丁寧に調整 されるべき場面であった。そんな「あいだ/襞」の構築を、建築が司ってきた。そ れはつねに内在と超越が反転される場面であった。包むものと包まれるものの、広 い意味における交歓の場であった。

生命/環境 生命体の細胞では分解と合成が同時に進んでいる。自然界はエントロピーの増大 に、つまり無秩序の方に向かっていくのに対して、新陳代謝や循環はこれに逆向き の力を与えている。あらかじめしかるべきパーツを分解し、と同時にあるべきパー ツを合成することによって、活動は維持される。すなわち放っておけば崩壊してい く自然界の中にあっては生命活動のみが、その生成と循環を通して地球全体のダイ ナミックな環境を保ちながら、エントロピー的な死に向かって、すなわち沈黙と静 止向かっていく運動に対して、抵抗していると言ってもいい。 この状態も幾多の入れ子構造やその重なり合いによって成り立っている。分解と 合成は細胞膜に包まれたその内部で起こっていると同時に、その「あいだ/襞」に おいても起きている。細胞は、外部に包まれ、他の細胞との関係において存在する。 つまり細胞膜に包まれつつ、流動的に他の細胞との関係を築き維持し巧みに調整し て、大きな生命体を構成している。生命体はさらにその外部環境に包まれていて、 栄養分をこの外部から取り込み、吸収し、排泄するという循環を行なっている。排 泄されたものは他の生物や環境を通して循環し、さらに大きな自然環境のバランス に寄与することになる。 このように生命体は絶えず流れを生み、運動を促している。逆にその流れや運動 が生命体を包み込み、生態系を維持している。生命体と生態系は切り離せない。包 み包まれる関係にある。 要素と全体、そして関係について、そしてそれらの総合としての総体について、 一言付け加えておこう。存在する物理的な要素をただ足し合わせたものが総体では ない。要素とその間に成り立つ関係を包み込んではじめて総体が見えてくる。全体 が一方的に要素を包み込むのでなく、要素もまた全体を包み返している。関係への まなざしがあって初めて、総体が捉えられる。この総体を見通す視点が常に求めら れている。 関係のための装置、すなわち「あいだ/襞」を複合的に組み立てながら、その総 体として自然環境は成り立ち、地球環境を形成している。地球は太陽系に包まれて いる。地球に降り注ぐ唯一のエネルギーは太陽エネルギーである。このエネルギー が、すべての生命と地球環境を成り立たせている。地球環境は、したがって、太陽 との関係において存在する。その太陽は銀河の他の太陽系との関係においてあり、 われわれの太陽系を含む銀河は他の銀河宇宙との関係においてある。すべては「あ いだ/襞」をその存在の前提としている。「あいだ/襞」を介して、包み包まれる 関係にある。

エロス/タナトス 欲動は、二つの群に分かれ、つねにより多く生きようとする実体を集めてより大 き い単位にまとめ上げて行こうとするエロス的諸欲動と、この傾向に抗して、生 きて いるものを無機的状態に還元しようとする死の諸欲動とになります。死を終 末とす る生命現象は両欲動の協力作用と反対作用とから生ずるのです。 ̶​̶​̶フロイト (「精神分析入門 ( 続 )」『フロイト著作集 1』人文書院、p.473)

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To Envelop / To Be Enveloped

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

建築は個の想像力に根ざしている。個が世界モデルを構想する力に根ざしている。 ところが個人は社会の中にある。狭くは共同体の中にいる。共同体はまずは家族で あり、かつては地縁血縁に基づく地域でもあり、いまは所属組織であるのかもしれ ない。 個はあらかじめ抑圧の下にあり、それがエロスを掻き立てる、そのように考えた のがフロイトだった。フロイトによれば、エロスは本来個々の生命体における生の 欲動であって、異なるものを結び合せる働きを持つ。異質の二者に官能と惹きつけ 合う力をもたらすのだ。しかしこれがたかだか二者のあいだにとどまれば、それ以 上の展開はない。エロスの発動はそこでストップしてしまう。 フロイトはさらに考えを進める。エロスは自らの発動を生き長らえさせるために、 あえて「文化/文明」という欲望達成への迂遠な回路を築き上げたのではないか。 すなわち「文化/文明」とは巧妙に組み立てられた、いわばエロスのサバイバル装 置なのだ、と。 フロイトによれば、このエロスのザバイバル装置としての「文化/文明」は、人 間社会にあって二つの関係調整機能を果たす。それは自然との関係と他者との関係 だ。つまり<自然の制御システム>と<人間関係の調整システム>である。それは そのまま、自然を支配し社会的な分配を図る<支配の知>と<分配の制度>となる。 歴史を振り返れば、こうした「文化/文明」が機能する社会が淘汰を生き延びた のがわかる。<支配の知/自然の制御システム>と<分配の制度/人間関係の調整 システム>を通して、自然との距離を、そして人間相互の距離をうまく形成した社 会が、種の繁栄に成功を収めたのである。 この点において人間は自然からずれた。 「文化/文明」は自然から逸脱している。 自然と一体化した生態系からのずれ、自然との直接的な関わりからの遅れが今日の 人間を生んだ。そして実はこの遅れこそがエロスの躍動を許す場であり時間であっ た、とこのようにフロイトは考えたのだ。 ところで、自然からの防御と人間関係の規制は、そのまま建築の役割でもある。 古来多くの建築は支配と分配の装置であった。では「文化/文明」が制約なら建築 も制約であり、「文化/文明」を生んだのがエロスなら建築を生んだのもエロスで ある、という並行関係もまた成立すると言っていいのだろうか。そして「文化/文明」 と同じく、建築もまた心的障害物、迂回路、乗り越えられるべき壁となって、エロ スの発動を支えてもいるのだろうか。この問いかけは、建築と欲望の関係について、 ひそやかで深い部分に触れているように思われる。 壁があるからこそ自由があり欲望がある、という逆説的な関係を想起してみよう。 この場合、壁は現実的で物理的な壁でもいいし、メタフォアでもいい。われわれは 障害を乗り越えることに快感を得るのだから。包むものと包まれるものとの差異に よって、抵抗によって、その軋轢を通して、エロスは、そして欲望は、喚起される。 包むものと包まれるものとの差異がなければ、生命現象はそもそも発現しない。 さてその生命現象を駆動する生の欲動としてのエロスは、個体を活性化する。い わば個人のものである。しかしながら「文化/文明」は共同体のものだ。個と共同 体は補い合いながら存在するとはいえ、基本的に対立する。個が、すなわち包まれ るものが、共同体と、すなわち包むものと一体化してしまえばそうした対立は解消 されるが、なかなかそうはいかないし、そうであってはならないだろう。そうした 場合の悲劇を歴史は教えてくれる。とはいえこの対立がこれまで多くの場合、共同 体に優先権を与えて解決されてきたのが人類の歴史でもある。毒杯をあおったソク ラテスをみよ。 あるいは世界の出来事や歴史を振り返ってみるがいい。共同体は個に抑圧を与え

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ESSAY

る。共同の価値のため、人は暴力や死すらも厭わない。滅私奉公であり、鉄砲玉で あり、愛のために死す、であって、部族が、社会が、国家が、イデオロギーが、名 誉が、意地が、そして大義が、個の生命を奪っていく。ニーチェは言う、「錯乱は 個人の場合には例外であるが、団体、党派、民族、時代の場合には通例である」( 『善 悪の彼岸』竹山道雄訳) 、と。 かくして本来生の欲動であったはずのエロスから、すなわち個の生命の躍動への 疼きから、あたかも自らを否定するがごとくに、共同体への個の解消が導き出され る。思想によって、言語によって、観念によって、信念によって。このように躍動 し変容するエロスと、これを固定化し永遠化する死の欲動とは表裏一体である。愛 と死は糾える縄のごとし。第一次大戦を経験したフロイトは、破壊と殺戮を目の当 たりにし、そこに享楽すら覚える人間の精神を感じ取りながら、この確信を強める ばかりだった。 死は個としての生命体に共同体の側から突きつけられた想像力の形である。死へ の契機すらも自らの内に包み込みつつ生へ向かう運動。エロスの矛盾に満ちた発動。 自刃や玉砕さえ美学と化す共同体の論理̶​̶​̶文化も文明も言語も、諸々の思想や 観念も。こうした共同体の論理が死の欲動を生み出した。エロスはその欲動に包ま れてある。逆にまた死の欲動はエロスの内に胚胎されている。 自由に運動するダイナミックな個体に、スタティックな永遠不滅の価値が、強迫 的に、破壊的に、解脱の感覚すら伴いながら、押しつけられる。逆説的ではあるが、 これがエロスの強度を高めもする。フロイト自身は命名に与っていないが、フロイ トの継承者たちはこの死の欲動にタナトスという名を与えた。 建築は共同体のものであると同時に、個の欲望の発露であり構想力の結晶である。 とするなら建築もまた、エロスの躍動と死の契機を内蔵していると言っていいのだ ろうか。タナトスがエロスを包み、エロスがタナトスを包み返す。その運動のさな かにこそ生み出されるのだ、と。 建築という行為を冷静に振り返ってみるなら、建築の根底に息衝く欲望もまた、 死の欲動をめぐって舞踏するエロスが、これを掻き立てているようにも思える。個 と共同体を逆立させたままにつなぎこみながら、さながらタナトスを介することに よってエロスは活性化し、至上の存在を渇望し、やがて永遠の時の形象化へと赴く、 とでもいうストーリーをなぞるように。 フロイトは患者たちの心の中に<反復強迫・破壊衝動・涅槃原則>を見出して、 死の欲動を考え始めた。この発想を建築的に翻案しつつ敷衍するなら、人類の歴史 においては、そうした死の欲動が、建築的想像力を通して駆動され続けてきたと言っ ていいだろう。<モニュメント・廃墟・ニルヴァーナ>がその表象である。これら はいかにもエロスのドラマを物語っている。そういえばアドルフ・ロースが、真の 建築は墓とモニュメントのうちにしかない、と語っていたことを思い出す。 死の欲動は、現実を流れる時間を凍結させて永遠へとつなぎこむ欲望を反映して いるとも言えよう。そもそも生命活動を司る<あいだ/襞>は時間とともに動いて いる。そんな時間を止め、他者との関係を<超越の相・攻撃の相・一致の相>のも とに回収する欲望が発動する。そこに垣間見えるのが <モニュメント/凍結され た時間・廃墟/未完結な形象・ニルヴァーナ/自閉的静寂>であり、それはそのま ま死の向こうに広がる建築的風景だ。建築は死の風景へとわれわれを誘う装置でも ある。 タナトスはついに攻撃と破壊を超えて、永遠の生命のゆりかごに到達する。 生 命体による応答の、媒介の、循環の、エロスに導かれた運動は、包み包まれる関係 は、自ら生み出してきた時間を断ち切ることによって永遠へと結びつけられる。む

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To Envelop / To Be Enveloped

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

ろんこの場合、永遠は幻想であり、あくまでも観念である。理念である。現実の時 間は常に流れている。しかし我々人類は空間を通してしか時間を表象しえない。空 間に時間を刻印する、あるいは現実を理念へと昇華する、そうした営みを通してし か、未来の記憶を形成しえない。 エロスをタナトスへとつなぎこみ、そのことを通してエロスをサバイバルさせ、 流れる時間を一瞬の内に包み込み、凍結させる。新たな流れはそこから再び生み出 される。無機的な物質に生の記憶を刻み込む。不安定な世界に宇宙の秩序をかりそ めにでも刻み込む。これが建築的欲望の源泉である。 変転する現実の、不安定な混沌の、危険でありストレスにも満ちた世界の、この、 包み包まれる関係を脱したい、いわば解脱したい、とでもいう衝動が、建築的想像 力を掻き立てる欲望の一つであったことは間違いないだろう。ただその出発点には エロスという個の欲望が、いつの時代にも、どんな世の中にも、いかなる社会にも 息衝いていたことを忘れてはならない。個の喜びと驚きこそが、これをもたらすと 同時に圧殺する危険を孕みすらする文化と文明を、そして建築を、築き続けてきた のだということを。

音楽/建築 ヴァレリーが『ユーパリノス/あるいは建築家』の中でソクラテスにこのように 語らせている。

人間を人間の中に閉じ込める (enfermer)、あるいはむしろ人間存在を人間の作品 の中に閉じ込める、そして人間の魂を人間の行為とその制作物の中に閉じ込める、 そんな芸術が二つある。̶​̶​̶中略̶​̶​̶この二つの芸術によって、人は包み込ま れる (envelopper) わけだ。ふた通りのやり方で、つまり法則と内に満ちる意志によっ て、別々の素材の内にその姿を現しながら。すなわち石と空気の内に。(拙訳) むろん石が建築であり、空気が音楽である。敬愛するマラルメが音楽に関心を寄 せたように、ヴァレリーは建築にひとかたならぬ関心を寄せた。そしてそれらはど ちらも、われわれの身体全体を包み込む芸術であった。われわれは音楽に、そして 建築に包まれ、全身全霊を委ねて想像力を飛翔させる。脳裏に新たな世界を、宇宙 を、思い浮かべながら。音楽と建築をおいてそんな芸術は他にない、とヴァレリー は言うのである。 『ユーパリノス』は冥界におけるソクラテスとパイドロスのやりとりを綴った対 話篇という体裁を取っている。すでに肉体を失ったもの同士の回想であって、肉体 の制御がないからとりとめもなく話は展開していく。ただその焦点はユーパリノス という名の建築家であり、建築という芸術をめぐって、あたかも「冥界の沈黙の自 然な戯れ un jeu naturel du silence de ces enfers」(ソクラテスの最後の発言)のよ うに言葉が交わされる。 ヴァレリーはソクラテスの言葉を借りて、音楽に宇宙の生成を、建築に宇宙の秩 序と安定を見ている。フロイトの言葉を借りつつあえて単純すぎる図式化をするな ら、音楽にエロスを、建築にタナトスを見ている。いまや冥界で肉体を失ったソク ラテスは、言葉と観念の浪費に費やした人生への悔悟とともに、限りない愛着と執 着を持って建築への思いを語り継いで行く。建築が肉体を持つからだ。物質である からだ。しかも物質を超えた存在でもあるからだ。 ソクラテスは魂の問題を問い続けた人生にひょっとして欠けていたのが、生身の 身体であり物質であり言葉で語りつくせぬ存在であって、その存在に物質的にも精

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ESSAY

神的にも肉薄するのが建築という芸術だったのではないか、と思い当たる。しかも 死んだあとに。ヴァレリーの仕組んだ『ユーパリノス』の構図である。 死後の世界が「存在」するかどうかは別にして、現実の世界に存在するものたち、 生きるものたち、考えるものたち、その神秘に、言葉で語りつくせぬ存在に、ソク ラテスはあらためて思いを馳せる。存在はこのとき、ものに包まれてあるなにかで あり、あるいはものを包み込むなにかだ。現実に実在するものたちは、その内に存 在を包み、そして存在に包まれて、ある。 ソクラテスが思い当たった分かれ道は波打ち際に打ち寄せられたこぶし大の物体 だった。それを彼は散歩の途中に見つけた。自然の波に洗われてできたものか、は たまた精緻な人工物なのか。自然の秩序か人間の欲望の行為としての秩序か。認識 (le connaitre)であるか建築 (le construire) であるか。 この物体をめぐってさまざまな思考を重ねた結果、結局ソクラテスは建築でなく 認識を選ぶ。行為でなく思索を選ぶ。行為のためには認識を縮減し無駄を省き整理 し単純化せねばならず、一方認識は行為を超えて豊かで過剰とすら言える世界を描 き出してくれる。ソクラテスは建築より言葉の豊穣をめざした。そしてソクラテス には彼の言葉を求める多くのオーディエンスがいた。パイドロスもその一人だ。そ のオーディエンスの熱狂にほだされてソクラテスは建築を捨てた。行為を捨てた。 思索に専念した。 あそこが別れ道だった、とソクラテスは振り返る。それがよかったことかどうか。 肉体を失い物質と離れた死後の世界でソクラテスはそんな悔悟の念をパイドロスに 漏らすのである。もし君たちのような聴き手がいなかったなら、建築をつくったか もしれないし歌を歌ったかもしれない。つまり認識でなく行為の道を進んだかもし れない。ああ、なのに思索に耽って失われた日々よ、と。 認識とは知ることであり、建築とはつくることだ。生きていた頃のソクラテスは、 知ることはつくることを包む、つくることは知ることに包まれる、すなわち知るこ とが上位にある、と考えていた。だから思索に耽った。ところが死んだ後、いざ肉 体を失ってみれば、何ものも定かな抵抗物がなく、思考に引っかかりもなく、思索 はとりとめもなく流れ移ろっていくばかり。現世を振り返って、自分は認識ばかり で行為をしてこなかったのだ、と悔いる。形に残る何ものもつくりあげてこなかっ たではないか、と。 むしろ行為こそが重要なのだ、とここでソクラテスは思い至る。そしてそうした 行為の代表として建築をあげる。あらゆる行為の内で最も完全なのは建築する行為 だ、とすらソクラテスは語るのである。むしろつくるという行為のうちに認識は包 まれるのではないか。神が宇宙をつくったにせよ、宇宙が神を導き入れたにせよ。 神も宇宙も。宇宙は神に包まれ、神は宇宙に包まれる。そんな宇宙の摂理の中で、 自らの出自も由来も知らぬまま死すべき運命の人間は、作品をつくるという行為を 通してのみ、神の、そして宇宙の神秘に触れることができる。

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To Envelop / To Be Enveloped

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

反転する風景 窓の外を眺めながら音楽を聴く。音が風景を包み込んでいく。建築が横たわる身 体を包み、風景が建築を包み、その風景が音楽によって包まれる。音楽は、病院で あるからヘッドフォンから流れていて、頭の中で響いている。つまり音楽は身体に 包まれてある。とりとめのない思念が浮かびかつ移ろっては消えてゆく。 生命はやがて働きを終え、死へ向かう。認識も行為もそこでストップする。ただ、 生きた証しとしての作品は、生命に包まれて生まれた作品は、やがて別の生命を包 むだろう。 人間を包む二つの芸術がある、それは音楽と建築である。そうした言葉が脳裏に 蘇る。そうしてみると言葉もまた、人間を包むのではないか。音楽も建築も死を荘 厳する。包み込むことによって。そして言葉もまた、 死を記念する。生命は死によっ て終わるが、死を包み込むことによって反転する。はたして建築という行為は死を 包みかえすことができるのだろうか。個はよりよく生きることができるのだろうか。 建築という行為を通して包み包まれる関係を変え、世界を変革することはできるの だろうか。

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ESSAY

離散微分幾何学を用いた曲面のモデル化と生成 大崎 純

Modeling and Generation of Surfaces Using Discrete Differential Geometry

1. はじめに 建築の大空間を覆う(包む)屋根構造には,古典的には球形シェルや円筒シェルなどの 数式で表現できる幾何学的形状が用いられてきた。これらの曲面は円や直線などの簡単な 数式の組み合わせで表現できるが,複雑な数式を用いると,さまざまな形状の曲面を生成 できる。文献1(38 章 , 752 ページで構成される)には,数式で表現できる線織面,回 転体曲面,推動曲面,螺旋曲面,周期的曲面,極小曲面,ガウス曲率一定曲面などの多数 の例が示されている。しかし,幾何学的形状(数式表現)だけでは曲面の形状は限定され, また,数式の係数をパラメータとして変更したときの形状の変化が直感的でなく,設計者 の意図した形状を実現するのが困難である。このような問題点を解決するため,1990 年 代になって,CAD で開発されたベジエ曲面,B スプライン曲面,非一様有理 B スプライン 曲面(non-uniform rational B-spline, NURBS)2,3 などのパラメトリックな表現が建築曲面 のデザインや最適化にも用いられるようになった。しかし,パラメトリック表現を用いて も,表現できる形状はその基底関数の空間内であり,自由な形状を表現できるとはいえな い。 一方,曲面を生成する際に,何らかの汎関数(エネルギー関数)を定めて,それを最 適化手法を用いて最小化すると,全体と局所的な形状を自然に決定することができる。最 も知られている例としては,与えられた境界を覆う曲面の面積を最小化することにより得 られる極小曲面がある。この曲面は,平均曲率がいたるところで 0 であり,等張力の膜(石 鹸膜)の釣合い曲面として建築の膜構造でも利用される。また,ガウス曲率がいたるとこ ろで 0 であるような曲面は可展面であり,平面から面内変形を与えることなく曲げ変形の みによって生成できる 4。しかし,一般の曲面でのガウス曲率などの特性量の計算は極め て煩雑であり,NURBS などのパラメトリック曲面を用いた場合でも,パラメータに関す る高階の微分係数を必要とする 5。さらに,これらの曲面を建築の屋根構造として用いる ためには,曲面が得られた後で,三角形や四辺形のメッシュで曲面を分割し,有限要素解 析によって力学的特性を評価する必要がある。 以上の理由により,曲面の生成から解析まで,一貫して同一の離散的なモデルを用いる ことができれば便利である。曲面の特性量を微分方程式を用いることなく差分や離散的な 曲面(多面体)を用いて分析する研究分野を離散微分幾何学という 6-8。2000 年以降,離 散微分幾何学を曲面形状生成に適用する研究がコンピュータグラフィックスや工業デザイ ンの分野で活発に行われている 9。本稿では,筆者が関わっているプロジェクト 10 の成果 の一部として,汎関数の最小化によって定義される曲面を,離散微分幾何学の手法で求め る例を紹介する 11,12。 2.ガウス曲率流によるガウス曲率一定曲面の生成 極小曲面と可展面を一般化した曲面を線形ワインガルテン曲面(linear Weingarten surface, LWS)といい,曲面上の全ての点で平均曲率とガウス曲率の線形結合が一定である 。LWS は,次の汎関数

13,14

を最小化することによって求められる。 (1)

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Modeling and Generation of Surfaces Using Discrete Differential Geometry

Makoto Ohsaki

ここで, は平均曲率, は面積, は曲面が内包する空間の体積であり,α , β , γは正の実定数である。 曲面の法線方向の変分(変化量)をψとし,最小化すべき汎関数の第一変分を ψを用いて表現する。このとき,停留条件としての Euler-Lagrange の方程式が満 たされる方向(勾配と逆の方向)に曲面を変形することによって汎関数を最小化し, 停留条件を満たす形状を求める方法を勾配流による方法といい,平均曲率および ガウス曲率で表される勾配をそれぞれ平均曲率流 15 およびガウス曲率流 16 という。 いま,LWS の特殊な場合として,次式で定められる汎関数

を最小化する問題

を考える。 (2) ここで, は指定されたガウス曲率である。詳細は省略するが,曲面の法線方向の 変分に対して,平均曲率の積分と体積の第一変分は,次式で表される。 (3) したがって, の第一変分は (4) となり,Euler-Lagrange の方程式は (5)

-=0 のように導かれる。したがって,‑( ‑

を単位法線ベクトルに乗じたベクト

)

ル(ガウス曲率流)にしたがって曲面を変形させることにより,曲面のいたるとこ ろでガウス曲率が指定値 に一致するような曲面が得られる。

図1: 離散曲面(多面体)の頂点での諸量の定義

ところで,ガウス曲率流を用いた数値解析によって曲面を生成するためには, 曲面を三角形あるいは四辺形のメッシュに分割し,ガウス曲率や平均曲率を離散的 に求める必要がある。例えば,曲面を三角形メッシュで離散化し,頂点 i に接続す る辺と面の諸量を図1のように定義すると,ガウス曲率

と平均曲率ベクトル

次のように定義できる。

(6)

,

ここで, は頂点 の位置ベクトル, は図1のオレンジ色の領域(ボロノイ領域) の面積 ,

は頂点 , ,

に接続する面, は頂点 に接続する面の集合, は頂点

と辺で接続される頂点の集合である。

の定義にはさまざまな表現があり,

Gauss-Bonne の定理や Steiner の定理を満たすことが重要である 7,17。平均曲率の

129


ESSAY

大きさは

のノルムであり,その符号は

の方向によって定まる。式 (6) において

A で割らない場合は,ガウス曲率や平均曲率の積分の際に

を乗じないで総和をと

る。 頂点での単位法線ベクトルは,面

の法線ベクトル

を用いて

(7) のように定義し,曲面が内包する体積

は次式で計算できる。 (8)

ここで,

は曲面の全ての面の集合である。以上より,ガウス曲率の指定値

与えられたとき,式 (2) の汎関数

を離散的に計算でき,頂点座標をガウス曲率流

によって移動させることにより, を最小化して式 (5) を満たす曲面(多面体)を 求めることができる 11。 ところで,建築の空間を覆う曲面屋根構造やファサードでは,区分的に滑らか な曲面が用いられることが多い。ガウス曲率流を用いて曲面を生成する過程におい て,内部の境界での頂点の変化量を,その周辺の頂点の変化量より小さくする,あ るいは変化を遅らせることによって,区分的にガウス曲率が一定の曲面を生成す ることができる。例えば,図2(a) のような正方形平面領域を9個の領域に分割し, それぞれの領域でガウス曲率が一定になるように曲面を生成した結果を図2(b) に 示す。ここで,赤丸は固定された境界の頂点であり,グレーのメッシュは,境界付 近でのガウス曲率を計算するために設けたダミーメッシュである。また,曲線境界 を有する区分的ガウス曲率一定曲面の例を図3に示す。これらの例のように,平均 曲率と体積で定められたエネルギー関数を最小化することによって,離散的な方法 を用いて区分的にガウス曲率が一定の曲面を生成することができる。

(a) 初期平面形状

(b) 区分的にガウス曲率が一定の曲面

図2:正方形の境界を有する区分的ガウス曲率一定曲面の生成例 11

(a) 扇型の曲面

(b) ホルン型の曲面

図3:曲線状の境界を有する区分的ガウス曲率一定曲面の生成例 11

3.ガウスマップを用いた離散曲面の形状設計 曲面のパラメータ定義に依存しない特性量を幾何学的不変量といい,勾配や単

130


Modeling and Generation of Surfaces Using Discrete Differential Geometry

Makoto Ohsaki

位法線ベクトルに加えて,主曲率で定義されるガウス曲率,平均曲率やそれらの関 数が挙げられる。これらの不変量を用いて設計された曲面の代表例は,可展面と極 小曲面である。1990 年代初めに,さまざまな不変量を用いた曲面の設計法が提案 され 18,その応用について traverse 4で紹介している 19,20。ここでは,離散微分幾 何学で定義される不変量とガウスマップを用いて,さまざまな曲面を生成する手法 を紹介する 12。 いま,設計しようとしている主曲面(primary surface あるいは design surface) の幾何学的不変量を用いて定義される曲面を随伴曲面(derived surface)といい, その代表例として,オフセット曲面やガウスマップが挙げられる。前者は図4(a) に示すように主曲面から等距離にある曲面であり,後者は図4(b) に示すように主 曲面の単位法線ベクトルで構成される曲面である。

(a) オフセット曲面

(b) ガウスマップ 図4:筒状曲面の随伴曲面の例

図5の左図ような三角形メッシュの1つの面(グレーの領域)を考え,その3つの 頂点での単位法線ベクトルの始点を同一の点に移動すると,右図のような三角形の 面が構成される。すなわち,主曲面の単位法線ベクトルを頂点において式 (7) で定 義すると,ガウスマップは主曲面と同位相の三角形メッシュをもち,その面積を容 易に計算できる。一方,法線ベクトルを辺や面で定義すると,ガウスマップを同位 相の多面体で定義するのは困難であり,後述のようなガウス曲率や平均曲率を用い たガウスマップの拡張も難しい。

図5:三角形メッシュ多面体の1つの面のガウスマップ

ところで, 特殊な形状の離散曲面(多面体)では, ガウスマップは三角形メッシュ にはならない。例えば図6(a) のような筒状曲面や図6(b) のような区分的平面では, ガウスマップは図に示すように線分に退化し,その面積は 0 になる。したがって, ガウスマップの面積を最小化することによって,筒状の曲面あるいは区分的平面な どの区分的可展面を生成することができる。

(a) 筒状曲面

(b) 区分的平面 図6:筒状曲面と区分的平面のガウスマップ

131


ESSAY

四隅を固定した初期曲面をランダムに生成し,ガウスマップの面積を最小化し て得られた曲面の例を図7(a)-(d) に示す。各図において左に曲面形状,右に勾配と 逆向きのベクトルを示している。(d) は 2 枚の平面で構成される屋根であり, (a), (b), (c) はその四隅に勾配の大きい平面を付加した形式である。

(a)

(b)

(c)

(d)

図7:ガウスマップの面積最小化によって得られた曲面 12

次に,単純なガウスマップではなく,単位法線ベクトル に じた曲面

の関数を乗

の面積を最小化して得られた曲面を図8(a) に示す。曲面 の面積は,文献 18 において rolling metric として定義され,それ

を最小化することによって筒型の曲面が得られる。図8(b) の立面図および図8(c) の勾配からわかるとおり,中央の筒型の曲面と両側の錐型の曲面で形成された区分 的可展面が得られている。

(a)

(b) 図8:曲面

(c)

の面積最小化によって得られた曲面 12

4.おわりに 本稿では,離散微分幾何学の手法を用いて曲面を生成する例を紹介した。コン ピュータの能力の発展により,離散微分幾何学による手法はますます建築の形状設 計において利用されるものと期待される。連続体シェル構造ではなくラチス屋根構 造を設計・施工する際には,パネルの平面性が重要であり,PQ メッシュ(planar quadrilateral mesh)21 や circle packing などの手法に加えて,剛体折紙で開発され たさまざまな手法を利用することができる。また,ラチス部材の平面性も実現する ため,edge offset 曲面を利用することもできる 22。さらに,シェルの形態や釣合い 条件を定める複雑な微分方程式を差分法や最適化手法によって離散的に解くことも 容易になってきている 23。この分野の最先端の研究は,Advances in Architectural

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Modeling and Generation of Surfaces Using Discrete Differential Geometry

Makoto Ohsaki

Geometry などのシンポジウムで活発に発表されており,今後の離散的な手法の 24

発展が期待される。

<参考文献> 1. G. R. Jensen, E. Musso and L. Nicolodi, Surfaces in Classical Geometries: A Treatment by Moving Frames, Springer, 2016. 2. L. Piegl and W. Tiller, The NURBS Book, Springer, 1995. 3. G. Farin, Curves and Surfaces for CAGD: A Practical Guide, Morgan Kaufmann, 5th ed., 2001. 4. 崔 京蘭 , 大崎 純 , 可展面を組合せた自由曲面の近似設計システムの開発 , 日本建築学会技術報告集 , Vol. 25(59), pp. 123‒128, 2019. 5. S. Fujita and M. Ohsaki, Shape optimization of free-form shells using invariants of parametric surface, Int. J. Space Struct., Vol. 25, pp. 143‒157, 2010. 6. A. I. Bobenko, P. Schröer, J. M. Sullivan and G. M. Ziegler (Eds.), Discrete Differential Geometry, Birkhäuser, 2008. 7. A. I. Bobenko and Y. B. Suris, Discrete Differential Geometry: Integrable Structure, American Mathematical Society, 2008. 8. U. Pinkall and K. Polthier, Computing discrete minimal surfaces and their conjugates, Experimental Mathematics, Vol. 2, pp. 15‒36, 1993. 9. E. Grinspun, Discrere Differential Geometry: An Applied Introduction, Course Notes, SIGGRAPH 2006, 2006. 10. 設計の新パラダイムを拓く新しい離散的な曲面の幾何学 , http://ed3ge.imi.kyushu-u.ac.jp/ 11. K. Hayashi, Y. Jikumaru, M. Ohsaki, T. Kagaya and Y. Yokosuka, Discrete Gaussian curvature flow for piecewise constant Gaussian curvature surface, Computer-Aided Design, Vol. 134, Paper No. 102992, 2021. 12. M. Ohsaki and K. Hayakawa, Non-parametric shape design of free-form shells using fairness measures and discrete differential geometry, J. Int. Assoc. Shell Spatial. Struct., Vol. 62(2), pp. 93‒101, 2021. 13. J. A. Gálvez, A. Martínez and F. Milán, Linear Weingarten surfaces in R3, Monatshefte für Mathematik, Vol. 138, pp. 133‒144, 2003. 14. X. Tellier, C. Douthe, L. Hauswirth and O. Baverel, Linear Weingarten surfaces for conceptual design of double-curvature envelopes, In: Proc. fib Conceptural Design Symposium 2019, Madrid, 2019. 15. M. Desbrun, M. Meyer, P. Schroder and A. H. Barr, Implicit fairing of irregular meshes using diffusion and curvature flow, ACM SIGGRAPHʼ99, pp. 317‒324, 1999. 16. H. Zhaoa and G. Xub, Triangular surface mesh fairing via Gaussian curvature flow, J. Comp, Appl. Math., Vol. 195, pp. 300‒311, 2006. 17. X. D. Gu and S.-T. Yau, Computational Conformal Geometry, International Press, 2008. 18. T. Rando and J. A. Roulier, Designing faired parametric surfaces, Comput-Aided Des., Vol. 23, pp. 492‒497, 1991. 19. M. Ohsaki and M. Hayashi, Fairness metrics for shape optimization of ribbed shells, J. Int. Assoc. Shell and Spatial Struct., Vol. 41(1), pp. 31‒39, 2000. 20. 大崎 純,曲線の滑らかさと力学,Traverse 4, 新建築学研究 , Kyoto University Architectural Journal, pp. 47‒54, 2003. 21. Y. Liu, H. Pottmann, J. Wallner, Y.-L. Yang and W. Wang, Geometric modeling with conical meshes and developable surfaces, ACM Trans. Graphics, Vol. 25(3), pp. 681‒689, 2006. 22. H. Pottmann, P. Grohs and B. Blaschitz, Edge offset meshes in Laguerre geometry, Adv. Comput. Math., Vol. 33, pp. 45‒73, 2010. 23. 堺 雄亮 , 大崎 純 , 膜応力の平面投影成分を用いた自由曲面シェルのノンパラメトリック形状設計法,日本建築学会 技術報告集 , Vol. 27, No. 66, pp. 1098‒1103, 2021. 24. L. Hesselgren, A. Kilian, S. Malek, K.-G. Olsson, O. Sorkine-Hornung and C. Williams (Eds.), Advances in Architectural Geometry, Klein Publishing GmbH, 2018.

133


ESSAY

まちの記憶と都市・建築―東日本大震災から 10 年― Memory of Lost Communities and Building; the 10th Anniversary of the Great East Japan Earthquake

牧 紀男

1. 建築・都市とアイデンティティー 東日本大震災から 10 年が経過した。二度と同じ被害を繰り返さない安全なまちを つくるため、まちは高台・盛土の上に再建された。そして再建されたまちには被害 の痕跡は残されていない(写真1、2)。一方、災害の悲惨さ、 学んだ教訓を次の世代、 さらには他の地域の人に「伝える」ための施設が、今は人が住まなくなった沿岸部 に整備されている。岩手・宮城・福島の各県に一つ、国立の「復興祈念公園」が整 備され、こういった施設は追悼の施設であると同時に教訓を伝える施設となってい る。それ以外にも各地に「震災遺構」の整備が行われており、南三陸町の災害対策 庁舎の遺構(写真3)は、被災した建物を残すことで津波の被害の恐ろしさを伝え ている。 被災した建物があまり残されていないのは、災害の辛い経験を思い出したくないと いう地域に住む人々の強い思いを反映したものであり、被災していない人がとやか く言うものではない。東日本大震災後に多くの遺構が取り壊されたのは、震災の教 訓を伝えることの重要性ということを「災害直後」から外部の人間が言ったことが、 その一因であると個人的には思っている。過去の事例から見ても震災の教訓を伝え るということを、被災した人を意識しはじめるのは震災から5年以上が経過してか らのことである。阪神・淡路大震災では、数年間は調査に行った時に「思い出した くない」のでとよく言われた。このことは自分が肉親を失ったときのことに置き換 1

えれば理解できると思う。 「喪の仕事」ということが言われるように、大切なもの

1. 小此木啓吾、対象喪失一悲しむということ一、中

を失ったことを自分なりに解釈するためには長い時間を必要とする。そして、その

公新書、1979

ことについて他人からとやかく言われることを好まない。 人の命については、そうなのであるが、都市・建築を研究・扱う立場から気になる のが被災する前のまちの記憶ということである。再建されたまちには、被災の痕跡 だけでなく 2011 年 3 月 11 日以前のまちの記憶もあまり残されていない。先ほど の南三陸町の災害対策庁舎は被災の状況を伝えているのであるが、周囲が盛り土さ れた結果、現在の「窪地」が再建される前のまちの「地面の高さ」を伝えることと なっている(写真4)。

写真1 災害直後の陸前高田のまち(2011 年 4 月)

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写真2 盛り土の上に再建された陸前高田(2021 年 3 月 10 日撮影)


Memory of Lost Communities and Building; the 10th Anniversary of the Great East Japan Earthquake

Norio MAKI

被災したまちの記憶ということを考える時にいつも思い出すのが建築人類学者の佐 藤浩司の言葉である。10 年以上前のことであるが、インドネシアの津波で被災し た地域を一緒に調査する機会を得た。正確な表現は思い出せないのであるが、災害 で全ての「モノ」を失ってしまって大丈夫なのか、自分の寄りどころ、自分を理解 すべがなく、アイデンティティー・クライシスを起こすのでは、といったことを言っ たのを覚えている。そういうふうに災害を見るんだと驚いた記憶がある。 佐藤浩司を知らない若い人もいると思うので、関連しそうな文章をひっぱってみる。 「建築人類学という学問は、この文化として存在する住まいと、その文化をになう 社会や人間の関係についてあきらかにすることをめざしています。住まいをとおし て、社会や人間の本質にいくらかでもせまることができれば、住まいは、よりよい 社会や人間へ向かう道しるべを、私たちのまえにさししめしてくれるに違いありま 2

せん。」(シリーズ建築人類学<世界の住まいを読む>刊行にあたって) 2. 佐藤浩司、シリーズ建築人類学<世界の住まいを 読む>刊行にあたって、佐藤浩司編、住まいをつむ

「現代家庭における「物」の最も重要なコンテンツとして個人の「思い出」を位置

ぐ、p4、シリーズ建築人類学;世界の住まいを読む

づけ、「思い出」にまつわる多方面の知見と可能性をあきらかにするための研究会

①、学芸出版社、1998

を組織する。 」 (ユビキタス社会の物と家庭にかんする研究会「思い出」はどこに行

3. ユビキタス社会の物と家庭に関する研究会、「思

3

くのか?)

い出」はどこにいくのか?、みんぱく共同研究会、 http://www.yumoka.com/、2021 年 9 月 24 日閲覧

2. アイデンティティー・クライシス

− houseless/homeless −

住まいや「物」の中に人間・社会の関係を見出してきた佐藤は、災害で「モノ」を 失うことのことを、人・地域が、社会との関係性を失うこと、と解釈したのだ。そ して、自分を同定する座標としての住まいや物が無くなったなかで、どのように自 分というものを定置するのか、自分を identify できず、アイデンティティー・クラ イシスに陥るのではと考えたのだと思う。自分が生きてきたことの証としての家や 物、写真を失い、さらには周りの風景も変わってしまい、また肉親や知人もいなく なったら誰が自分を自分だと証明してくれるのか、というまさに SF 映画で出てく るようなことである。喪の仕事も重要であるが、もう一つの問題として、住まいや 「物」も失った上にまちの姿が全く変わってしまって被災地に住む人はアイデンティ ティー・クライシスに陥らないのかが心配になる。 2021 年度のアカデミー賞作品賞を受賞した「ノマドランド」は、古いバン(車) に住み、季節ごとにいろんな場所で仕事をし、移動をつづける女性の物語である。 映画の中で彼女が言った「私は houseless だけど homeless ではないのよ」という 言葉が印象深かった。彼女が元々住んでいたのはエンパイアという名前の企業城下 町で、不景気の影響(おそらくリーマンショック)で工場が閉鎖され、彼女もその 町を離れたのだが、そこには前住んでいた家があり(所有権は定かではない)、そ の家から見る風景が彼女にとって大切なものとして扱われている。その家が彼女に

写真3 南三陸町災害対策庁舎(2021 年 3 月 9 日)

写真4 南三陸町災害対策庁舎(2011 年 4 月 20 日撮影)

135


ESSAY

とっての home なのだ。また古いバンが壊れて修理に持って行った時の場面では、 修理工場で、古いし・修理費用を考えると直してもね、と言われた時に、物理的に は古くても自分の古いバンにはたくさんの思い出が詰まっているんだ、というよう なことを言う。彼女にとっては車が・も home なのかもしれない。

4. 企画・構想:槻橋修+神戸大学槻橋研究室、失わ れた街模型プロジェクトとは?、https://losthomes. jp/about/、2021 年 9 月 30 日閲覧

「私は houseless だけど homeless ではないのよ」ということは、 物理的な家(house) はもたずに放浪生活はしているが、思い出の街の家(home)、思い出の車(home) はあると彼女は言っているのである。ノマドランドの主人公の女性の視点から見る と、災害で住まいや「物」を失い、さらに風景まで変わってしまうと home を失っ たこと、homeless になるということになる。そういった意味で、災害で住まい、 思い出の物、さらには復興の過程で風景までも失うことは houseless ではないけど、 homeless という状態をつくり出してしまっているのかもしれない。 建築や都市をデザインするときには、地域の思い出とでもいうべき地域の文化、個々 人の思い出を手掛かりにするのは、建築・都市に関わる者からすると、あまりにも 当然のことであり、思い出を喪失することがアイデンティティー・クライシスを引 き起こすのではということまでは思いが至っていなかった。しかし、東日本大震災 後、津波で失われた街に非常に関心ももった建築家もいる。槻橋修は「東日本大震 災復興支援「失われた街」̶LOST HOMES̶模型復元プロジェクト」を積極的に 推進する。このプロジェクトは1/500の縮尺の白模型を被災した地域に持ち込 み、地域の人々と一緒に模型に記憶を書き込み、震災前の地域の模型を復元すると 共に思い出を収集していくものである。槻橋は「失われた街が湛えていた豊かな日 常を想い、街への追悼を行わなければならないと感じました。このプロセスを通し て、私たちも、被災地の皆様も、街の再生へ向けて第一歩を踏み出せるのではない 4

かと思いました」と書いており、失われた都市・建築に対する喪の仕事がその背景 にはあるのであるが、それだけでなく、このプロジェクトはそこに住んでいた人々 のアイデンティティー、home を守るという重要な意味があると考える。 3. 記憶の中のまち

5. 志手壮太郎、東日本大震災の住民証言と地域空間 特性に関する研究―「記憶の街ワークショップ」 (岩 手県)のデータを用いて―、京都大学大学院工学研

個々人の思い出を集める試みに対して、疑問として呈されるのは、そんなことは 市史や町史、古い地図を見れば分かることをなぜわざわざ収集するのか?というも のである。確かに史料に当たれば書いてあるが「書かれていること」と「知られて いること・認知されていること」は違う。東日本大震災の被災地には、明治・昭和 の三陸津波、チリ地震でここまで津波が来たということを示す碑は至る所に残され ており、古い史料にはその悲惨さ・大変さが文字だけでなく絵画でも残されている。 しかし、我々は海の近くに街を築いてきた。果たして過去の津波の歴史をどれだけ の人が知っていたのであろうか。「資料として存在する情報」と「我々が認識して いること」とは別のものであり、槻橋が集めているのは人々がどのようにその街を 認識していた・いるのかという情報であると理解し、素晴らしい取り組むだと思っ ている。 「失われた街」模型復元プロジェクトは多くの街で実施されており、岩手県だけ でも集めた思い出(「つぶやき」)の数は6万5千以上にものぼる。「つぶやき」と いうのは「須賀町に小さな神社があり、赤い鳥居があった。大槌の御神輿は、町内 を回ってから川に入る。(末広町

70 代

男性) 」というもので、 「失われた街」模

型復元プロジェクトのホームページ(https://losthomes.jp/tsubuyaki/)からも見 ることができる。個々人それぞれの思い出は、個人が自分を定位(identify)する 上で重要なものである。しかし、建築・都市について考えようとすると、集落全体、 市町村、岩手県の被災地域全体について、どのように捉えられていたのかというこ とを知る必要がある。そのためには全ての「つぶやき」を読んで整理する必要があ

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究科建築学専攻修士論文、2021


Memory of Lost Communities and Building; the 10th Anniversary of the Great East Japan Earthquake

Norio MAKI

り、それはすごく大変な作業となる。 志手壮太郎がコンピューターを用いてテキスト・マイニングする方法で、この課 5

題に取り組んだ。大きな被害を受けた大槌町町方地区で都市・建築のデザインを 考えるときに、まず知りたいのは「どんな地域なのか?」ということである。 「つ ぶやき」を統計的に分析すると地域の特徴を分類する図を描くことができる。この 図(図1)から「町方」は「まち」という位置づけをもつ地域あるということが分 かる。次に知りたいのは、どんな営みが行われてきた場所なのかということである。 頻繁に出てくる単語と単語相互の関係性(共起関係)を分析すると、町方地区を特 徴づける「つぶやき」が抽出できる。 「小鎚神社の神輿が大槌祭りの時には小鎚川に入る」 「大槌川は鮭で有名なため、 「鮭 川」と呼ばれている」 「湧水の利用やコミュニティー形成は昔から存在していた」 「夏 は大町公園の池で遊んだり海に行ったりして遊んでいた」「小鎚の堤防沿いを歩い て白石の漁港まで散歩した」 都市や建築を考える上で手がかりになりそうなキーワードがたくさんでてきてい るが、「地図上でどの場所が重要なのか」ということも知りたくなる。数多くの思 い出が存在する場所を抽出して示すこともできる(図 2) 。多くの証言がある御社 地公園周辺は、どんな場所なのだろうか?「御社地の北側の道路はタイル張りに舗 装されており、向かいにはお社や松の木、津波祈念碑、佐々木クリーニングがあっ た。ふれあいセンターは予約が困難なほど毎日利用されていた。成人式の二次会に も使われており、出会いの場ともなっていた。図書館やカネマンパチンコもよく利 用されていた。さらに夜店も多く出ている。夕方市も開催されている。バイパスが 出来る前は 45 号線の交通量が多く騒音や振動の問題がみられた。またパチンコ屋 前までよく冠水していた。 」ということになる。

図1 コレスポンデンス分析による被災地域の地域類型

137


ESSAY

図2 証言から見る大槌町町方地区(まち)を特徴づける場所

4. 記憶を集めた後 災害前の街の姿を残すことは大事だ、記憶を集めることは重要だ、アイデンティ ティー・クライシスが心配だ、模型復元プロジェクトには喪の仕事という側面もあっ た、ということを書いてきた。東日本大震災の被災地では 10 年が経過、復興の工 事はほぼ完了し、これからどうしていくのかということを考え、たどりつくのが集 めた記憶を活用する「この経験を伝えていかなくては」ということである。しかし、 私は伝えていく、ということについてはかなり悲観的である。記憶というのは俗人 的なものであり、その人が居無くなれば消えてしまうものである。また「資料」や 「史料」として残したところで、それが活用されるかどうかは定かではない。 東日本大震災後、若い研究者が東日本大震災を対象に博士論文をまとめ、本も 出版されている。内容は素晴らしいのであるが、最後あたりに「伝えていかなくて は」というような感じの文章が出てくるとちょっと待てと思う。若い研究者は、お そらく東日本大震災が起こるまでは災害に関心が無く、東日本大震災をきっかけに 災害の研究を行うようになったのだと思う。まさに自分が「伝えられた」人である。 なぜ災害の研究を行うようになり、次の世代に伝えていかないと思うようになった のか、そのきっかけはなんなのかということをしっかりと考える必要がある。その ことに「伝えていく」ということの鍵がある。この質問を若い研究者にした時、昭 和の定住地が面白いと思ってという答えがあった。これは重要なポイントだと思う。 震災についての何か興味深いモノを残しておくと、人は関心をもつということであ る。震災について何か興味をもつようなもの、疑似餌をぶら下げて、誰かが食いつ いてくれるような仕組みを上手く残していくことが「伝える」という取り組みを続 ける上で重要な気がする。

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Memory of Lost Communities and Building; the 10th Anniversary of the Great East Japan Earthquake

Norio MAKI

写真5 石巻市相川の昭和三陸津波後の再定住地(「集団地」)

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ESSAY

「融合寺院」という建築・都市空間の更新プロセスモデル ― 旧い建築をそのまま残しながら新しい建築を重ねること “Merged Temple” as a Model of Spatial Renewal Process - Layering new building while retaining the old

柳沢 究

はじめに 建築にまつわる「包むもの/取り巻くもの」を考えたとき、建築が主語になるの であれば、建築が包む/取り巻く内部空間や人・物ないしはそれらの複合としての 生活や出来事があり、あるいは建築が目的語となるのであれば、建築を包む/取り 巻く物理的な都市空間や自然環境ないしは非物質的な社会背景・時代的空気といっ たものが想起される。しかし時にはある建築が別の建築を、比喩ではなく文字通り に、物理的に包んだり取り巻いたりすることがある。筆者が研究対象の一つとして いる「融合寺院」も、そのような建築が建築を包む現象の一例である(図1) 。 融合寺院は、俗なる建築(住居)が聖なる建築(ヒンドゥー寺院)を包むことで 生じる。本稿の前半では、寺院が住居に包まれるという事態がどのような条件や力 学の元に生起しているのか、その社会的・文化的背景および、融合寺院という場に 1

作用する諸要因の関係について、簡単に紹介したい。また融合寺院は、新しい建 2

築が旧い建築 を包むことで生じるものでもある。本稿の後半では、融合寺院とい

1. 融合寺院に関するより詳細な議論については柳沢 (2018)、Yanagisawa et al.(2020) を参照されたい。

う現象を「旧い建築をそのまま残しながら新しい建築を重ねる」という、より一般

2. 本稿では、ある土地に新しい建築の要求が生じた

的な建築の更新プロセスのモデルと見なし、その定式化を試みたい。

際に、そこに以前から存在していた相対的に古い建

I₂ 型融合寺院

I₃ 型融合寺院

II₁ 型融合寺院

築という意味で、「旧い建築」という語を用いる。

II₂ 型融合寺院

III₁ 型融合寺院

rooftop

room

room kitchen room

room

street workshop temple

room 0

1

2

5m

IV 型融合寺院の断面図

140

居住空間を貫通する主寺院の屋根(写真:笹倉洋平)

図1様々な融合寺院(記号は図 5 に対応)


“Merged Temple” as a Model of Spatial Renewal Process - Layering new building while retaining the old

Kiwamu YANAGISAWA

融合寺院とはどのようなものか 融合寺院とは、元々は独立して建っていたヒンドゥー寺院が、隣接する建物の増 築や新築によって部分的あるいは全体的に包含される現象、およびその結果形成さ れた建築物である。筆者が研究のフィールドとしている、 ヒンドゥー教の聖地ヴァー ラーナシー(インド、ウッタル・プラデーシュ州)の旧市街で数多く観察されるが、 必ずしも同地に限定された産物ではなく、類似の現象はインドの各地で散見される。 デリーではイスラームの宗教的建築にも同様の状況が生じていることが報告されて おり、この現象がインド文化の深い部分に根ざしていることを示唆している。 ヴァーラーナシーの(融合寺院ではない)一般的なヒンドゥー寺院の外観的な特 徴は、ガルバグリハと呼ばれる聖室の上に乗る四角錐状の屋根・シカラである。ま た、しばしばポーチ様の前殿を備える (図2) 。聖室内には神体が収まる。ヴァーラー ナシーはシヴァ神を奉ずる都市なので、ほとんどの寺院ではシヴァ神を象徴するリ ンガが鎮座している。 そのようなヒンドゥー寺院が、 別の建物に覆われることで融合寺院となる(図3) 。 覆われる側の寺院のことを「主寺院」 、 それを覆う側の建物を「副建物」と呼ぶ(図4) 。 副建物の用途は様々であるが、多くの場合は住居である。街を歩いていると様々な 図2 ヴァーラーナシーの標準的なヒンドゥー寺院

形の融合寺院に出会う。主寺院を部分的に囲ったものから、主寺院全周が包み込ま れシカラだけが屋上に飛び出したもの、寺院の上部に副建物が覆いかぶさるものま で、融合の形態や程度はさまざまである(図5) 。融合寺院は、生活上の要求に基 づく副建物拡張の結果として生じる。注意したいのは、たとえ寺院の大半が包み込 まれた場合でも、寺院としての機能を維持し、外部の人が寺院に参拝できるように していたり、シカラの頂点(ヒンドゥー寺院において重要な象徴的意味をもつ)を 覆う増築はなるべく避けるなど、様々な配慮が施されていることである。

図 3 融合寺院の模式図

図 4 融合寺院の主寺院と副建物(文献 1)

図 5 融合寺院の形態的類型(文献 1)

なぜ融合寺院に注目するのか 本稿の結論を先取りして言えば、融合寺院の更新メカニズムの要点とは、ある建 築が強い変化圧にさらされた状況下で、最も大事な守るべきもの・その次に大事な もの、といった重要性の序列を明確にし、その重要度に応じて改変の自由度に差を 設けることで、全体として維持と変化のバランスをとろうとする運用思想である。 このような更新の考え方は、大事なものを残すか無くすか、白か黒、二者択一、オー ル・オア・ナッシングの発想に基づくスクラップ・アンド・ビルドとは、一線を画

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ESSAY

する。 日本の都市における建築のスクラップ・アンド・ビルドによる更新の問題は様々 に指摘されているが、問題の核心の一つは、スクラップされた旧い建築と、ビルド される新しい建築との脈絡の断絶である。特に、更新前において周辺環境との調和 的な関係ができあがっていた場合は、新しい建築と周辺環境との間での景観ないし は空間構造上、利用上の不調和が、短期的な問題としてあらわれる。より長期的に 見れば、物理的な建築が媒介することで伝えうる価値や思想、自然的・社会的条件 への対応策として培われた生活様式や近隣関係、建設技術などの文化的情報の継承 不全が大きな問題となろう。個々の建築の更新時において新旧が断絶すれば、その 集積によって実現する街や集落の更新にも同様の事態が生じる。日本の戸建住宅は 30 〜 50 年程度で建て替えられるという。これが意味することは、そのような住 宅が集まる住宅地では、30 〜 50 年経つと街の物理的組成がそっくりと入れ替わ るということである。旧いものが継承されなければ、いつまでたっても蓄積が増す ことはない。「古い家のない町は想い出の無い人間と同じである」という東山魁夷 の言葉があるが、このような新旧の脈絡の程度による情報の蓄積の多寡は、長い時 間を経た後に、個々の建築や街のスケールにおいては固有性の問題、その集合であ る地域や社会のスケールでは文化の厚み(多様性)の問題としてあらわれてくるは ずである。文化や記憶を伝えるのはもちろん建築だけではない。地形や街路・地割 といった都市の構造をなす要素にも文化的記憶が宿る。 「万物は流転する」というマクロスケールでの真理を現実社会に適用するのは、 一見爽快な態度ではあるが、未来に対しては無責任な開き直りである。ゆく川の流 れは元の水ではないけれど、変化する水の間にも連がりがなければ流れにはならな い。個々の建築や都市空間の更新の局面において、「変えられるもの/変えられな いもの」を見極める賢さとともに、「変えるもの/変えないもの」を目的意識的に 決定し、かつ両者を調停する論理と手法が求められる。 筆者が融合寺院において注目するのは、その雑種的造形の魅力もさることながら、 新旧の建物を(記憶・象徴といった概念的・比喩的な意味においてではなく)文字 通りに物理的に重ね合わせるという、その更新プロセスとしての可能性である。一 見、無思慮で野放図な行為の結果とも思われる融合寺院であるが、その発現の背景 やメカニズムを理解することは、必ずしもインドに限定されない、時間的な連続性 を備えた建築・都市空間の実現に向けた手がかりとなるのではないか、というのが 研究に手をつけた時からの直感である。

融合寺院の発生に作用する諸要因 さて、融合寺院の発生メカニズムについて、現時点で判っている結論をすみやか に示せば、そこに関与する重要な条件は次の4点である。 ①寺院の集積 ②開発圧力 ③寺院の不動性・継続性 ④寺院建築の抑制的な可塑性 ①②③は寺院のある敷地に建設行為の要求が生じる条件であり、③④はそのよう な状況下において融合寺院という解決策が採用される条件である。①②は主に都市 に由来する(個別の寺院にとっては)外在的な条件であり、③④はヒンドゥー寺院 の特質に関わる内在的な条件である。

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“Merged Temple” as a Model of Spatial Renewal Process - Layering new building while retaining the old

Kiwamu YANAGISAWA

G

an

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Riv er

Vishveshvara Mandir

Manikarnika Ghat

融合寺院 融合寺院

非融合寺院 非融合寺院 店舗が密に立ち並ぶ 調査範囲外 Dasashwamedh Ghat

図 6 ヴァーラーナシー旧市街における寺院の分布

①寺院の集積 融合寺院が生じるためには第一に、そこに寺院が無くてはならない。ヒンドゥー 教の一大聖地であるヴァーラーナシーには寺院が実に多い。都市全域における正確 な数値は明らかではないが、俗に 3000 と言われる。2013 年に筆者らが旧市街中 心部で行なった調査では、小さな祠も含め 532 の寺院が確認された(図6) 。およ そ 33m 四方に一つという高密度である。 ヴァーラーナシーを大聖地たらしめているのは、聖なる川ガンガーの存在と、そ の川岸を中心に都市内に散在する数多くのミクロな聖地群である。ある場所に聖性 が宿るきっかけは、樹木や池などの自然物の存在や伝説的事跡など様々であるが、 聖地となった場所には必ず寺院が建設される。特に重要な聖地には多くの信徒や修 行僧が集まり、その周辺に新たな寺院が設立される。そして寺院が集積した状況は、 聖地の集合体としての都市ヴァーラーナシーの重要性をより高め、さらなる寺院の 建設を誘う。このような循環構造を通じて、ヴァーラーナシーには数多くの寺院が 建設され、また集積されてきた。市街地に寺院が集積しているという状況は、寺院 の存在する土地に開発圧が作用する状況が起こりやすいことを意味する。 なお寺院が集積されるためには、単に寺院の数が増えるだけでなく、その数が減 らないよう存続する必要がある。寺院が失われず残り続けてきたのは、後述の③寺 院の不動性・継続性による。 ②開発圧 ヴァーラーナシーは聖地である一方で、インド最大の人口を誇るウッタル・プラ デーシュ州第6の都市として 120 万(2011 年時)の人口を抱える。1931 年の都 市人口は 20 万なので、この間に人口は約6倍に膨れ上がっている(ちなみに同期 間の京都市の人口増は2倍弱である) 。増加した人口は市街地を拡大し高密化する 開発により吸収された。融合寺院が多く見られる旧市街中心部は、場所によって人 口密度が6万人/ km2 を超える超過密の環境となっている。 旧市街にある寺院の多くは、人口密度が今よりもずっと低い 18 世紀末から 20 世紀初頭にかけて建設されたものである。寺院の周囲や上空には当然ながら空間的 な余裕があり、人口増加に起因する開発圧力が、そのような寺院周辺に強く作用す るのは自然な流れである。開発圧は都市全体においては高密化、個々の敷地におい ては床面積の増加の要求としてあらわれる。

143


ESSAY

③寺院の不動性・継続性 しかし、寺院の建つ土地に強い開発圧がかかったとしても、それがすぐに融合寺 院の発生に繋がるわけではない。融合寺院の発生には、寺院を動かさない/無くさ ないための条件、寺院の不動性と継続性が関与している。 ヒンドゥー寺院の聖性は土地に深く根ざしている。そのため寺院は原則として動 かすことができない。これを寺院の不動性と呼んでいる。図7は、道路を1車線か ら2車線に拡幅する際に寺院の移転ができず、そのまま中央分離帯に残された寺院 である。また、寺院の廃却や転用もタブーとされている。そのため、理屈としては (現実には例外もあるが) 、一度つくられた寺院はその後もずっと寺院として存在し 続けることになる。これを寺院の継続性と呼んでいる。 開発に際して寺院を動かしも無くしもせずに、膨大な手間をかけてその周囲や上 部に建物を増築するのは、この寺院の不動性・継続性による。寺院の不動性・持続 性は、個々の寺院においては、寺院の移転・除却という選択肢を封じる力として作 用し、結果として都市に寺院を集積する要因となっている。 ④寺院建築の抑制的な可塑性 とはいえ寺院が聖なる大事な存在であれば、そもそもなぜ寺院の上に覆いかぶさ るような建設が許されてしまうのだろうか。この点については、融合寺院における 主寺院の存在を「場としての寺院」と「寺院建築」とに分けて考えること、また両 者には聖性の格差があると考えることで理解しうる。 「場としての寺院」とは、神体に象徴される神性が宿り、神体が祀られ、礼拝や 祭祀などの宗教的行為が営まれる場である。「寺院建築」は、そのような「場とし ての寺院」に空間を与える建築物である。「場としての寺院」は中身/機能/ソフ トであり、 「寺院建築」が器/空間/ハードである、と言いかえてもよい。 寺院建築はもちろん大事に扱われるべきものであるが、寺院の存在意義の根本は 場としての寺院にある。したがって、その覆屋である寺院建築の聖性はあくまで二 次的である。その聖性が二次的であるがゆえに寺院建築は、場としての寺院ほどに はアンタッチャブルではなく、周囲への増築など状況に応じた改変がある程度許容 されるという可塑性を備えている。実際に、寺院建築に対する自由な増築やその一 部を世俗的に利用するといった事例は、ヴァーラーナシーに限らずインドのあちこ ちで目にすることができる。それと同時に寺院建築は、二次的とはいえ聖性を帯び た存在であるがゆえに、その過度の改変は抑制される。破壊はもちろんであるが、 改変の中にあっても、シカラを覆わない、外観はなるべく露出する等の配慮がなさ れる。 このような寺院建築の二次的聖性に起因する「抑制的な可塑性」が、開発を受け 入れつつ寺院を維持する融合寺院という現象の、 重要な成立条件となっている。個々 の事例における改変/抑制の程度は、その当事者により個別に判断され、その判断 の振れ幅が、図5に示される融合寺院の多様な形態を生み出している。 以上を整理し、融合寺院の発生プロセスを図式化したものが図8である。全体と して見れば、寺院の集積した都市空間に作用する強い開発圧とヒンドゥー寺院の不 動性・継続性とのせめぎあいの中で、寺院建築の抑制的な可塑性を媒体として、融 合寺院は産み落とされているのである。 建築・都市空間の更新プロセスモデルとしての融合寺院 融合寺院は、聖なる建築である主寺院と俗なる建築である副建物とが重なりあう 現象であるが、建設時期の前後関係に注目すれば、旧い主寺院と相対的に新しい副

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図 7 道路拡幅工事後に中央分離帯に残された寺院


“Merged Temple” as a Model of Spatial Renewal Process - Layering new building while retaining the old

Kiwamu YANAGISAWA

内的 要因

現象

外的 要因

場としての寺院

寺院建築

根源的な聖性

二次的な聖性

③ 不動性:持続性

④ 抑制的な可塑性

① 寺院の 寺院 集積

寺院の 設立

場所の聖性

都市の聖性

融合 寺院

開発圧

図 8 融合寺院の発生プロセスの模式図(文献 1 所収の図を改訂)

建物が重なる増築現象であると見ることもできる。以下ではそのような視点から、 融合寺院という現象をより一般的に、建築および都市空間の更新プロセスのモデル として扱うことが可能かどうか、検討してみたい。 さしあたり、融合寺院的な更新プロセスを、「旧い建築をそのまま残しながら新 しい建築を重ねる」ことによる更新であると仮定する。同様の言い方をすればスク ラップ・アンド・ビルドとは、「旧い建築を全て除却した後に新しい別の建築を建 3

3. その他にも、移築=「旧い建物を解体し別の場

てる」ことによる更新プロセスである。融合寺院的な更新と通常の増築やリノベー

所でつくりなおす」、造替=「旧い建築を全て除

ションとの境界は、「建築」や「そのまま」 「重ねる」といった語をどう定義するか

却した後に新しく同じ建築を建てる」といったモ デルが想定できる。

により変動するが、ここではあまり詳細な議論に立ち入らずに、大まかに以下のよ うな要件にかなう建築の更新状況を想定して話を進めたい。 ・更新の前後において旧い建築の形態がおおむね維持されている ・新しい建築が「建築」と呼びうる規模である(部材や部屋単位での増築や改 修ではない) ・新しい建築の構造または意匠・用途等が旧い建築とはある程度異なっている ・新旧の建築が外観上あるいは空間的に密接不可分である 要するに、単純に旧い建築を拡張したり一部改変したものではなく、異なる時期 に異なる構成原理の元につくられた建築(と呼びうる自立性をもった空間)を一体 的に共存させるような更新を、融合寺院的な更新とみなすということである。 このように一般化して考えた時、図8に登場する融合寺院の発生に関わる諸条件 は、どのように読み替えることができるだろうか。 〈①寺院の集積〉は都市スケールにおいて寺院と開発要求との衝突確率を高める 条件であるが、個別の敷地にあっては融合寺院が生じるための大前提として寺院が 存在することを意味する。ここでは話を単純にするために、更新の問題が生じた個 別敷地のみを想定し、 〈❶旧い建築(の存在) 〉としておく。 〈②開発圧〉はそのままでもよいが、なんらかの変化を起こす力が作用するとい う意味で、より一般的に〈❷変化圧〉と呼ぼう。どのような時代・地域であっても、 変化圧は様々な形で存在する。 〈③寺院の不動性・持続性〉は、変化に抗い「旧い建築」の現状を維持しようと する慣性力の一種である。ただし、どのような場合にも存在する、「めんどくさい」 「もったいない」といった身体的・経済的・心理的な負担を避けようとする消極的 な慣性力に比べて、融合寺院において作用しているのは、より積極的で硬骨な〈❸ 強い慣性力〉と呼ぶべきものである。歴史的・文化的・宗教的・政治的・経済的に 価値が高い建築、ある人/集団にとって強い愛着がある建築、なんらかの事情で使 い続ける必要のある建築などには、その建築を壊すあるいは改変することに抵抗す る強い慣性力が働く。 〈④寺院建築の抑制的な可塑性〉は、融合寺院という現象の核心に関わる概念で

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ESSAY

あるため、やや丁寧に整理したい。 融合寺院では「場としての寺院」と「寺院建築」とを区別して考えたが、一般化 にあたって本質的なのは、ソフト/ハードあるいは機能/空間の区別ではなく、両 者に存する聖性の差およびそれに起因する改変の自由度の差である。それは、「場 としての寺院」の聖性が根源的であり「寺院建築」の聖性は二次的であるとするこ とで、前者では原則として改変を一切認めず、後者では抑制がきいた改変を許すと いう、段階的な運用の思想である。抑制的な可塑性とは、より一般化して言えば、 旧い建築を構成する要素間において「最も大事なもの」を明確にすることで、「次 に大事なもの」の改変に一定の自由度を与え、全体として維持と変化のバランスを とることを可能とする概念である。 抑制的な可塑性、あるいは強い慣性力を備えるものは、必ずしもソフト/ハード といった区分に対応するとは限らない。ここでは、 旧い建築がなんらかの次元で〈❹ 抑制的な可塑性〉を備えている、という表現にとどめたい。そして、 〈❸強い慣性力〉 と〈❹抑制的な可塑性〉が同居する背景には、重要性の序列があるというのが融合 寺院的な更新モデルの仮説である。重要性の序列の根拠は、融合寺院では場所の聖 性であるが、様々なケースが想定しうる。 以上の検討から得られた図9は、建築や都市空間の更新を考えるにあたって、何 を示唆しているだろうか。 〈❶旧い建築〉に〈❷変化圧〉と〈❸強い慣性力〉が作用するという状況は、程 度の差はあれ、あらゆる場所で見られるごく普遍的な状況にすぎない。変化圧が慣 性力に比して十分に弱ければ現状が維持され、変化圧が慣性力を上回れば変化が生 じる。問題となるのは両者が拮抗している場合である。この変化圧と慣性力の拮抗 は、設計者や施主などの個人や組織の内的葛藤におさまる場合もあるが、社会的に 立場の異なる集団の対立という形をとると、いわゆる保存/開発論争となる。 葛藤や論争の末に、あるいはなし崩し的に、どちらか一方(日本ではたいてい変 化圧に従う方向)に帰結する場合が多いが、時として、両者の中間的あるいは両立 的・妥協的・折衷的な落とし所に至ることがある。その中には、「旧い建築をその まま残しながら新しい建築を重ねる」という融合寺院に類似した構成をもつものも 少なくない。 そのような事例として、宗教的な建築では、ギリシア神殿の遺構を内包するシラ クサ大聖堂(図 10)、日本の寺社建築に見られる覆屋・鞘堂(図 11) 、ビルや住宅 の一部に組み込まれた地蔵堂(図 12)などがある。現代建築では、路地奥の三軒 長屋に鉄骨フレームとコンテナが重層する『コンテナ町家』 (図 13) 、工場の中に 木造住宅が挿入された『工場に家』(図 14)、近代洋風建築の上に超高層ビルを増 築したいわゆる「腰巻きビル」の一群などが挙げられよう(図 15) 。

最も大事なもの ?

強い慣性力

次に大事なもの ❹ 抑制的な可塑性

新旧の建築 の重なり

旧い建築 ❷

変化圧 図 9 融合寺院的な更新プロセスの模式図

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“Merged Temple” as a Model of Spatial Renewal Process - Layering new building while retaining the old

Kiwamu YANAGISAWA

これらの事例では、変化圧と慣性力を調停する〈❹抑制的な可塑性〉 、あるいは それに類似した条件が存在するだろうか。あるいは融合寺院とは外形的に類似して いるにすぎず、そこには別のメカニズムが働いているのだろうか。更新プロセスモ デルとしての融合寺院の妥当性に関する具体的な事例に基づいた検討は、稿を改め て論じたい。

<参考文献> 1. 柳沢究・小原亮介・山本将太: 「『融合寺院』の概要と成立背景:ヴァーラーナシー旧市街(インド)における既存 ヒンドゥー寺院を核とした増築現象に関する研究」、日本建築学会計画系論文集第 747 号、pp.897-906、2018 2.Yanagisawa Kiwamu, Ohara Ryosuke, Yamamoto Shota: "Outline and background of “merged temple”: Study on extension and construction surrounding existing Hindu temples in Varanasi Old City, India", Japan Architectural Review, vol.3, pp.359‒374, 2020 3.Santos, E.: "A Doric temple in the Baroque cathedral: the case of Syracuse", 2021, http://www.didatticarte.it/ Blog/?p=18135(2021/10/21 閲覧) 4. 大岡実:「金色堂新覆堂」、月刊文化財、No. 56(1968 年 5 月号) 、pp.21-24 5. 裕建築計画:「工場に家」、https://www.hello-uu.com/worksfolder/wr-1800-koubah.html(2021/10/21 閲覧)

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ESSAY

動く小さな木の建築 小見山陽介

Micro architecture, in wood, in motion

動く家、小さな建築、木材 大学 4 年生の僕が難波和彦の研究室に配属されて最初のゼミで、 「そういうこと に興味があるならまずこれを読みなさい」と渡されたのがロバート・クロネンバー 1

グの『動く家―ポータブル・ビルディングの歴史』だった。そのときから「建築の

1.『動く家 : ポータブル・ビルディングの歴史』 (ロ

仮設性」への僕の興味は始まっていたのだ。卒業設計はアーケード商店街の既存の

バート・クロネンバーグ著、牧紀男訳、鹿島出版会、

構造に仮想大学の講義室という仮設的なプログラムを重ねるものだったし、卒業

2000)

後にロンドンの設計事務所で働き始めてからは、仕事終わりや休日に友人たちと 集まっては「可動式建築」の設計と研究に明け暮れた。そんな僕にとって、ミュ ンヘン工科大学留学時の指導教員であり、後に僕をロンドンの事務所に呼び寄せ てくれることになるリチャード・ホールデンによる《micro architecture》シリー ズは強い憧れの的だった。ヘリコプターで輸送可能な小さな住宅《m-ch(micro compact home)》には難波和彦の《箱の家》シリーズと同じく通し番号が振られて いるが、スイス・イタリアの国境にまたがるマッジョーレ湖畔に設置された《micro compact home 016》は、ヘリコプターによる設営の様子がテレビ中継され、イギ 2

リスの建築メディア Dezeen にもその映像が掲載されている。僕はもともと《m-ch》 の日本展開を理由に英国の労働許可証を取得しており、実際にアジア地域の案件を 担当していたのだが、オーストリアの工場でしか製造できない《m-ch》が、多大

2.ʻMicro Compact Home 016 by Richard Hordenʼ (Dezeen、2012) URL:

https://www.dezeen.com/2012/06/19/

micro-compact-home-016-by-richard-horden/

な輸送コストをかけてアジアの地へ運ばれることは残念ながら僕の在籍中にはな かった。 僕がミュンヘン工科大学に交換留学した当時、リチャード・ホールデンはカーボ ン・ファイバーやアルミニウムといった軽量な新素材を先駆的に使った建築で知ら れていた。しかし僕が彼のロンドン事務所に在籍した 2007 〜 2014 年は、実験的 建築プロジェクトの主題が金属から木へと移り変わる過渡期であった。アルミニ ウム建築 の代わりに僕が経験したのが、CLT パネル工法による 7 階建て集合住宅 3

3.「海外レポート

《Kingsgate House》である。

英国ロンドンにおけるサステイ

ナブル建築設計を通して経験したこと」(小見山陽 介、JIA マガジン Vol.308、2014) URL:

http://www.jia.or.jp/service/newsletter̲jia/

detail.html?id=47

Kingsgate House

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撮影:小見山陽介


Micro architecture, in wood, in motion

Yosuke KOMIYAMA

1990 年代に欧州で開発された CLT(Cross Laminated Timber)は小断面の木材 を積層接着して大判パネルを製造する技術である。日本では 2013 年に CLT パネ ル(直交集成板)の JAS 規格が制定され、2014 年には「CLT パネル工法」として 建築基準法の中にも告示が制定された。まさにその黎明期に、図らずも僕は CLT 建築の基本設計から実施設計、現場監理までを海外で経験して帰国することになっ 4. ロンドンでの経験を各所で講演する中で、日本で もいくつかの CLT 建築の設計に携わることとなった

4

たのである。

のだが、その詳細は稿を改めたい

移動可能性 《MK10 Mobility》はもともと、業務拡大に伴い本社の建て替えを計画していた 集成材メーカー銘建工業からの依頼で、旧社屋に隣接して仮設の会議室をつくるプ ロジェクトであった。足場を組むとほとんど土地が残らないような小さな敷地だっ たことから、工場でプレファブリケーションした箱をクレーンで吊り込んで設置す るイメージを元々銘建工業は持っていた。設計を進める間に新社屋が完成し仮設の 会議室は不要となってしまったため、所有地内にいったん仮置きし、当時建設中だっ た CLT 第2工場が完成次第移設して、休憩室として利用するという新しいシナリ 5.2019 年元旦に銘建工業の方からいただいた年賀

オが生まれた。なおこの CLT 第2工場は通称「10 号地」と呼ばれており、MK10 5

状にあった手書きのメッセージ「MK10 号地モビリ

Mobility の名前の由来となった(銘建工業 10 号地に建つ移動建築)。こうしてプ

ティ

ロジェクトがようやく実施設計に進み始めた頃、桂キャンパス・テクノサイエンス

模型拝見しました!」の字面から拝借したの

である。 6. 桂 キ ャ ン パ ス 全 体 を 社 会 実 装 の た め の テ ス ト フィールドとして研究の可視化を進めるもので、こ れにより京大発の研究シーズの実用化、産学連携の 促進を目指すというものである。

6

ヒル構想が発表される。かくして本研究は桂キャンパス実証研究ファンドの支援 を受けることとなり、移動建築《MK10 Mobility》は岡山での本設前に京都大学桂 キャンパスにて仮組みされることとなった。 今回製作した CLT モジュールの外寸である幅 2250mm・高さ 2600mm・長さ

7.

同じく輸送を考慮した 20 フィートサイズの海

上コンテナは外寸で幅 2438mm・高さ 2591mm・

7

4500mm は、運搬時のトラックの最大可搬寸法から決められたものだ。吊り込み

長 さ 6058mm で あ り、 セ キ ス イ ハ イ ム M1 は 幅

には、大型の設備機器の搬入などに使用されるモバイル式のラフタークレーンを使

2400mm・高さ 2700mm・長さ 5000mm である。

用した。一方、モジュールの内寸は、室内の動作寸法を考慮して決定した。内寸で

本計画でこれらより幾分小さいサイズを採用したの

1950mm は休憩室の横幅としては狭いため、モジュールを2基並べて内部で繋げ、

は、当初 4t ユニック車での運搬・吊り込みを想定 しユニットの重量を 3.5t 以下に抑えたためである。

内法で幅 4200mm 四方のスペースを確保している。天井高は 2300mm を確保す

しかし実施設計を進める上で、物流業界では 4t 車

るため、屋根は別パーツのユニットとして現場で接合することとした。こうして、

の需要が減り 10t トラックが主流であることがわか り、結果的には 3.5t の重量制限は無くなったため、

運搬上の制約から決定される外寸と、利用者の使い勝手から決まる内寸とを調整し

長さ 4.5m と 6m の長短のユニットを併用する計画

た、建築の新しい構成単位の仮説としての「木の箱」が完成したのである。

とした。

MK10 Mobility

撮影:小見山陽介

149


ESSAY

解体工程タイムラプス

解体可能性 本計画では設備機器やサッシの取り付けまでを岡山県の銘建工業の工場内で行 い、大工工事が完了した状態でモジュールを京都へ運搬することを試みた。4基の モジュールが現場へ搬入され、積み木のように組み合わされて空間をつくる。直方 体型のモジュールに対し、縦に立てる/横に寝かす、揃えて並べる/ずらして重ね る、といった異なる操作を施し、単純な箱の組み合わせでいかに多様な内部空間を 実現できるかを検証した。モジュールは 6 面のうち 1 面が開放された不完全な構

Day1, 8:00AM

造とすることで、隣接するモジュールと連続した L 型にクランクした室内空間を つくりだしている。建物中央には正面から背面へ視界を通すための大きな開口部が 設けられており、置かれる場所によって変わる周辺環境を内部に取り込むための額 縁となる。ユニットによる完結した世界を極力つくらず、かつ特殊な金物を使用せ ずともギリギリ可能な立体構成となるようにした。デザインを決めているのは隣接 するモジュール同士の位置関係であり、その結果として構成された全体形にはそれ

9:00AM

ほど大きな図像的意味はない。最終形は子供と積み木で一緒に遊ぶふりをしながら スタディして決めたものである。

10:00AM

11:00AM

MK10 Mobility

© スターリンエルメンドルフ 1:00PM

今後一般化しうるディテールの開発を目的としたため、開口部は既製品の住宅用 樹脂複合サッシを採用し、CLT に直接取り付けた。サッシ のヒレ形状に合わせた CLT の端部加工は必要となるが、調整用の木材を省くことで部品点数を減らすこと ができる。連窓や段窓とした際に発生する無目を避けガラス面を最大にするととも に、自然換気を促進するための開けやすい窓とするため、エントランスを除いてす べて引き違い窓としている。モジュール内部の壁面には全周にわたり電気配線と照 明用のダクトが CLT パネルを彫り込んで埋め込まれており、使われ方の変化に応

2:00PM

じて照明の位置や個数を自由に調整することが可能である。ユニットの形状は単純 な矩形であり、3mx12m の CLT マザーボードから構成部材を切り出しやすい計画 とした。マザーボードからの歩留りを意識して設計し、端材を机やベンチに再利用 する例もあるが、本実証ではそもそもモジュール自体が別プロジェクトの端材も利 用しながら製作されている。 3:00PM

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Micro architecture, in wood, in motion

Yosuke KOMIYAMA

モジュールの組み立て及びモジュール間の連結については、解体・移築を前提とし た分解性、そして将来的な廃棄処分時の分別性を考慮して、極力ボルト留めを基本 8

とする乾式接合とした。通常は現場で行われる屋根工事もプレファブ化し、予め 工場で製作した屋根ユニットを現場で CLT モジュールにボルト留めしている。ボ ルト部からの雨水浸入を防ぐための円筒形カバーは、ボルトの脱着を何度でも可能 Day2, 8:00AM

にするとともに、モジュールにレゴブロックのような表情を与えている。

9:00AM

10:00AM MK10 Mobility

© スターリン エルメンドルフ

加工容易性 床壁屋根にはすべて共通で厚さ 150mm(5 層 5 プライ)の杉 CLT パネルを使用 した。床パネルと壁パネル、壁パネルと屋根パネル、壁パネル同士、それぞれの接 11:00AM

合部においては、端部を段をつけた相じゃくり加工とすることで、パネル間の止水 と気密性の確保を目指している。このディテールの止水性は、モックアップを使っ た簡易な実験で事前検証した。 室外側最外層は、CLT パネルをそのまま現しで用いている。風雨にさらされるこ とによる劣化対策として、焼き杉加工+保護塗料を施している。この 1 層分は構

1:00PM

造体として見ておらず、 いわば「燃えしろ設計」ならぬ「劣化しろ設計」とも言える。 焼き杉 CLT パネルが建築に使われたのは世界でも今回が初めてではないだろうか。 CLT パネルをマザーボードから切り出し、設備開口や端部の相じゃくりなどの機械 加工・手加工を施してから、バーナーによる焼き杉加工をした後に箱形状に組み立 てた。 室内側最外層は、ラミナ 1 層分をしゃくることで照明ダクトや設備配線のほか

2:00PM

コンセントボックスや換気扇などをパネル内に収めている。これはスウォッチがプ ラスチックの一体成形ケースで時計を製造することで部品点数を 51 点まで劇的に 減らした故事に倣ったものである。木材の加工容易性をプラスチックの可塑性のよ うに用いて、通常壁体内に必要となる様々な受け材を省くことで部品点数を減らし ている。この木材の加工容易性により、構造体として計算に入れていない室内側表 面の深さ 30mm 分には、スリットを切って板を差し込んで棚を設けるなど、将来 的に住まい手が自由に加工できる余地が残されているとも言える。

3:00PM

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ESSAY

MK10 Mobility

© スターリンエルメンドルフ

MK10 Mobility

© スターリンエルメンドルフ

材料貯蔵庫としての建築 世の中には、仮設であるからこそ存在を許されている規模や用途の建築が存在す る。例えば、愛知県名古屋市においては、民有地を一定期間貸与してもらいそこに 市がプレハブの建物を設置した上で学童保育所に無償で貸与する仕組みがある。後 から増やしたり減らしたりできる木の箱による建築は、そうした場合にも効果を発 揮するだろう。また、そうして森の木を街へ動かし貯めていくことは、再造林を促 すこととなり、社会に木材が貯蔵されていくことを意味する。さらにこれを循環さ せるためには、木の箱の耐用年数と部材生産に必要な木の育林期間とのサイクルを 連動させることが必要であり、最終的な建築の処分方法にも具体的な方策が必要に なる。それらは、OSM(Offsite Manufactured、工場で正確に製造し、現場で正確 に組み立て省資源化を図る)や、DfD(Designed for Deconstruction、将来の解体・ 移築を予め想定し建材を繰り返し使う)、EoL(End of Life Scenarios、廃棄後のこ とも考えてつくる)といった建設の「前後」に着目した研究領域であり、そこでは 建築は BaMB(Building as Material Banks 資源貯蔵庫としての建築)として、分解 可能な建築材料が一瞬だけ固定化されたものと捉えられる。

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Yosuke KOMIYAMA

MK10 Mobility

作成:小見山陽介

プラットフォームとしての木材 日本では現在、CLT パネルには JAS 規格が存在し、JAS 規格外の CLT パネルを 構造材に用いるには特別な認定が必要となり難しい。モジュールに使用する CLT パネルは当初の想定では今回使用した 5 層 5 プライではなく、雨水への劣化防止 MK10 Mobility

対策と構造合理性の両立を求め最外層と第2層のラミナの向きをともに垂直方向に

桂キャンパス実証研究促進ファンド採択事業

揃えた3層 5 プライとするつもりであったが、この層構成は JAS 規格外となって

設計:京都大学小見山研究室(小見山陽介、竹山広志)

しまうため断念した。また本計画は告示で定められた CLT パネル工法として構造

+銘建工業

設計されたが、 「ルート 1」 「ルート 2」と呼ばれる構造計算方法では架構の自由度

構造設計:照井構造事務所 設備設計:双葉電機

が少なく今回のように箱を複合した構成が想定されていないため、「ルート 3」と

防水設計:田島ルーフィング

呼ばれる特殊な計算プログラムを必要とする最も複雑な計算方法をとることとなっ

開口部設計:YKK AP

た。さらには靭性型ではなく強度型の設計を余儀なくされたことから、 横倒しになっ

施工計画:日本サルベージサービス 設計協力・図面作成協力(2020-21) 竹山広志 図面作成協力(2019) 沖林拓実、小林章太、高橋

ても壊れないよう通常の 6 倍の地震力に対する安全性も求められることとなり、 追加で多くの金物が必要となった。動く小さな建築を CLT でつくるという目的と、

一稀、山口大樹、春日亀浩康

現在の CLT パネル工法が想定する建築物との間にある齟齬が本研究を通して浮き

模型製作・ドローン撮影(2020-2021)

彫りとなった。一方、古くて新しい材料であり、いまなお発見に満ちた木という材

松岡桜子、大橋和貴、林浩平 延床面積 33.435㎡

料を研究対象とすることで、本研究自体が異分野との融合を生むプラットフォーム

建築面積 33.669㎡

2021 年 10 月 12 日 -10 月 15 日

設置工事

2021 年 10 月 16 日 -11 月 11 日

京都大学桂キャ

ンパスに設置 2021 年 11 月 15 日 -11 月 16 日 2022 年 2 月

解体工事

岡山県真庭市に移築予定

となっていく可能性もある。ホールデンが教育のための「建築シミュレーター」と して構想した小さな建築の設計・建設《micro architecture》の目的も、その小さ な世界の完全性にあるのではなく、より一般的な問題へとつながるアイデアの部品 を得ることにあった。2021 年秋に桂キャンパスに実現した「動く小さな木の建築」 は、僕にとってその第一歩である。

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ESSAY

こどもを包む愛ある建築を目指して 小見山研究室 4 回生

Toward kindful architecture -embracing children-

大橋 和貴

私事であるが、まだ幼い姪と甥がいる。コロナ禍でなかなか会えない状況ではあるが、二人の存在によって私の建築に対す る考え方や目指したい建築像が大きく変わったように思う。姪と甥が生まれてきて私に芽生えたのは愛おしいという感情であ る。小さい身体ながらも懸命に生きようとする新生児を愛しく思う気持ちは人間が根源的にもちうるものだと感じる。山上憶 良の歌「銀も 金も玉も なにせむに

まされる宝 子にしかめやも」とはよく表したものである。こどもを取り巻く愛および、

愛のある建築の実現の一助となるよう本エッセイを記す。

教育愛について こどもはひとりでに勝手に育っていく、わけではない。無垢で未熟なこどもは大 人が保護すべきである。一方、「可愛い子には旅をさせよ」の精神でこども本人の 理性の強化を促すことも必要である。こどもを保護すべき対象とする見方をこども 化、自立していく対象とする見方を大人化とするなら、こども化と大人化の両ベク トルが教育には必要である。岡田敬司はその両ベクトルを含む教育愛を「子どもの 発展・成長を利することをもって我が喜びとすること」と定義し、教育者の最上の 1

喜びとする。こどもを単に可愛がる、甘やかすこども愛とは異なる。

1. 岡田敬司『教育愛について [ かかわりの教育学Ⅲ ] 』ミネルヴァ書房 ,2002

安心と信頼 さらに、こども化と大人化のベクトルは安心と信頼に置き換えることが可能であ る。大人の監視下にこどもを置けば、不慮の事故や大人の理想にそぐわない非行が 起きる可能性は低く、大人は安心できる。一方、信頼はこどもが予期せぬトラブル を生む可能性があるにも関わらず、信じることであり、いずれ自立して生きていく 一人の人間としてのこどもには大人からの信頼も必要なのである。伊藤亜紗『手の 2

倫理』において安心と信頼については詳しく述べられている。安心と信頼のバラ

2. 伊藤亜紗『手の倫理』講談社選書メチエ ,2020

ンスこそが教育愛の重要な要素である。

教育の成果 さて、教育愛を受けたこどもの発展・成長の先に何を置くか。教育の成果とでも 言えようか。私はそれもまた愛であると思う。あまねく愛を向けられること。キリ ストや仏陀のような自己を犠牲にしてまで他者の利益を優先するのとは異なる人間 的な愛である。ラッセルは「愛情と知識は、正しい行為をするための二つの主要な 必要条件である」とした。幼い時ときには、こどもに愛をもてと教えるのは無益で、 3

愛情にあふれた大人をつくることが教育上肝要であるとも述べている。

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3. 安藤貞雄訳『ラッセル教育論』岩波書店 ,1990


Toward kindful architecture -embracing children-

Kazuki OHASHI

関係性をもつことが愛の起点となる アリストテレスが「いかなる愛も、共同性において存立する」と述べたように、 愛の形成は自身を取り巻く存在と相互的な関係をもつことが起点となる。ドイツ の教育者フレーベルは恩物(Spielgabe)と呼ばれる玩具を用いてこどもとモノと の様々な関係性の構築を促す。恩物を色々な角度から見たり、触れてみたり、他 のモノと組み合わせてみたり、積んでみたり……恩物をめぐる行為は遊びの原点 である。こどもの知育玩具として一般的な積み木もまたフレーベルが発案した恩 物の一つである。幾何学的なモノをこどもの創造力の赴くままに積み上げていく。 フレーベルは積み木を破壊することまでを含めて恩物のもつ役割であるとする。 破壊と創造は世界のあり方であるとし、恩物を通してこどもと世界との関係性を 築くことを考えた。ガラガラと崩れる音によってまた恩物はこどもに語りかける。 このような遊びはときに怪我を伴う。怪我もまた自身と身体とより関係を築き上 げるための一歩である。

図:大橋和貴

『恩物』フレーベル

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ESSAY

建築家によるこどもの遊びの分析 こどもの成長・発展には愛が不可欠であるということをこれまで述べてきたが、 この論を建築の領域に進めていく。 4

仙田満はこどもの遊び場の調査研究の結果から遊環構造を見出した。その条件

4. 仙田満『こどものあそび環境』鹿島出版会 ,2009

の一つに循環機能があることが挙げられている。駆け回るという原初的な運動を伴 う遊びのために、街区ひとまわりすることのできる道スペースがこどものための空 間として必要であるとした。 日本で初めて学校に OPEN システムを導入した槇文彦もまた、東京電機大学の 5

オープンスペースに見られるこどもの行動に注目している。丸柱の周囲をぐるぐ

5.『豊かな空間構成を目指して 』槇文彦

ると走り回るその姿から母親に抱いてもらった記憶が想起されると述べている。

https://www.tozai-as.or.jp/mytech/19/19-maki07.

建築家が幼稚園の設計に携わるとき、園長との協働に依るところが大きく園長の

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教育思想が強く反映されることが多い。毎日最前線でこどもに触れている園長だか らこそ、こどもに気付かされる部分が多いということだろう。

『遊環構造』仙田満

庭から始まる幼稚園 先ほど挙げたフレーベルは幼稚園の考案者としても知られている。Kindergarten はこどもと庭を組み合わせた造語で、フレーベルは幼稚園に必ず園庭を設けた。ま た幼稚園の先生は庭師のようなもので、庭で育つ植物に水をあげるようにこどもの 成長を手助けする存在であるべきと考えた。先日竹山聖研究室の展覧会『庭』を拝 見したが、 「庭に種が飛んできて、花を咲かせ、実を結ぶ」プロセスで研究室を説 明していた。厳格な教育方法をもたず、学生の成長にしたがって研究室を進めてい くそのあり方は、まさに庭師のようである。 『庭』竹山聖 + 京都大学 竹山研究室

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Toward kindful architecture -embracing children-

Kazuki OHASHI

現代にこどもを想う 現代社会には様々なタイプの幼稚園が存在する。郊外にあるか、都市部にあるか でその様相は大きく異なってくるし、地域に対する信頼、また地域からの許容も幼 稚園のふるまいに影響を与える。なかにはこどもの教育よりも幼稚園の維持存続や 経営、便利さといった大人の都合を優先したような幼稚園の計画があることも事実 である。都市部になれば限られた敷地の中で一定数の園児に必要なスペースを確保 せねばならない。 大人はこどもの教育に適切だと思う環境の選択により努めるべきではないか。都 市型の幼稚園を一概に否定する気は無論無いが、こどもが思いきり遊べるスペース や自然との関わり合いが少なくなるのは自明である。このコロナ禍で奇しくも大人 はオフィスから解放されようとしている。オンラインで仕事を済ませられる部分に 気付き、リモートワークの有用性も見出せた。一方、パソコンの画面上ではなかな かうまくいかないコミュニケーションの重要性も思い知らされた。だからこそ、こ どもと面と向かった関わり合いを築いていくこと、十分な時間をとってあげるよう 見直すべきではないか。こどもに示すべき愛ある大人を各人が意識すべき時ではな いか。

こどもを包む愛ある建築を目指して 姪と甥を見ているとこどもの行動は無限大の好奇心に満ちていると感じる。蛇口 から勢いよく流れる水に喜んだり、道端の小さな草花を見るためにしゃがみ込んだ り。今となっては純粋なこどもの視点に戻ることはできないが、こどものための建 築をつくるためには私自分のもちうる最大限の想像力、愛をもって補うしかない。 これまでの私自身の設計課題に対する応答を思い返せば、どことなく無意識的に 私がもちうる優しさ、愛が建築にあらわれていたかもしれない。現代ミュージアム の課題ではコンクリートの集積されたマッスとは対照的な、泡のような透明感のあ る屋根を、スタジオ課題では山に呼応するような緩やかな湾曲のある屋根を。もし 優しさを、愛を故意に建築に注ぎ込めば、注ぎ込めたなら、どのような結果を生む だろうか。 細部に愛を宿らせて建築を続けたい。

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ESSAY

道具を扱うことの本質 平田研究室 4 回生

What tools bring to humans

大山 亮

道具はまず、その仕組みや使い方という観点からみて素晴らしい。ある目的を達成すべく、いかに「つくる」かという知恵に われわれ人間の知性が詰まっている。同時にそれは、人間がいかに世界を見て感じ、どのようにして向き合おうとしたのかを 映し出している。道具を通じて身体感覚の中に生きる世界を落とし込んできたのである。道具を扱う行為の本質を見つめ直す ことで、これからの世界をより豊かに生きる可能性を探ってみたい。 どう - ぐ【道具】 物を作り、また事を行うのに用いる器具の総称。

-広辞苑より

もう少し道具の概念を拡張させて考えてみよう。ある目的を達成するために作られる、あるいは使われるすべての物を道具 と呼ぶことにする。本は情報を得るための道具であるし、紙は文字を書く / 水を拭くための道具である。

快適さの罠 快適という言葉は、もろはの剣ではないか。 あらゆる物事のよしあしが快適さという指標で語られるようになった。合理性、 利便性、安全性、経済性。あたかも完璧な正解があるかのように語られるその言葉 に、私はまだなじめていない。快適さのゴールとは何か。暑い / 寒いと感じた瞬間 に空調が作動し、寒くもない暑くもない適当な湿度の空間が常に維持されている状 態であろうか。仮に人間の向かう先がそこにあるのならば、我々は自らすすんで身 体を退化させていくことになる。 現にほとんどの日本人は、空調がないと生活できなくなった。「空調があるなら 利用する」がいつの間にか「空調はなくてはならないもの」へと変わってしまった。 『エネルギーを投入して快適な環境をつくる→それに体が慣れる→エネルギーを使 わないと体調不良になる→快適さを求めてますますエネルギーを使わないといけな くなる』身体を退化させてエネルギーを投入する、負のサイクルが既に出来上がっ ている。これだけの犠牲を払って、その引き換えに得られるものはたった一つ快適 さである。快適という言葉がもろはの剣である理由は、快適さという指標から見れ ばより快適な状態を目指す以外に疑問を持ち込む余地が発生しないところにある。 ひとたび快適さを求めれば、より快適であることを何の疑いもなく受け入れてしま う。快適さの罠である。 完璧を求めた外部化によってヒトのもつ力が失われている現象は、室内環境に限 らず現代人の生き方において通じる部分が多い。 『(入浴時に全身に)石鹸をつけて洗うというのは、大便が毎日出ているのに浣腸し ているようなものです。浣腸すれば全部丁寧に出るけれども、それを習慣として繰 り返していると、浣腸しないと大便が出ないような体になることは御存じですね。 それと同じように、いつも石鹸をつけて丁寧に(全身を)洗濯していると、皮膚の 排泄するはたらきをすっかり鈍らせ、弱らせてしまう。自分の体のはたらきで掃除 ができないようになり、汚れやすくなる。』

― 野口晴哉『風邪の効用』よ

り引用 種なしブドウ、皮をむかなくてよいブドウ、といったものを最近よく見かける。

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What tools bring to humans

Ryo OHYAMA

何の疑いもなく手に取って食べているが、よく考えるとこれも快適さの塊である。 ブドウを食べるだけの手間をほんとに惜しんでいるのか。皮をむく経験をすること で、意外と実がひっついてくるあの感じを身体が覚えているし、上手にむけるむき 方を自然と身につけているし…必要かと言われれば必要ではないかもしれないけれ ど、皮をむかない場合に比べて確実に自分のスキルはあがっているはずである。わ ざわざ取り立てて話すほどのことではないが、これもまさに身体スキルと快適さの 交換現象である。 情報の快適さに関しても同様である。スマホで検索すればたいていの情報は簡単 に手に入れられるようになった。簡単に手に入れられるならば利用しない理由もな い。あたかも自然ななりゆきで情報の快適さに飛び込んだ今、われわれの記憶力、 判断力は確実に低下する一方である。スマホを手放したとき、われわれの手元には 何が残るのだろうか。 「そこまでして快適であることに価値があるのだろうか。」この問いに向き合う前 に、一旦視点を変えて、道具の仕組みの側から人と道具の関係性について考えてみ たい。

道具の連関 生きとし生けるものはすべて、外部世界(外部環境)に適応するかたちで存在し ている。生きるとは外部環境に対して内部の生存環境を変換し維持し続けることで あり、その生存可能性に収束するかたちで生きる仕組みが形成される。( ⅰ ) 道具を持たない生物にとっては、身体そのものが環境との媒体(- メディア -)である。 [ 身体 - 環境 ] の連関が全てであり、生きてきた記憶は身体の仕組みの中に蓄積さ れる。( ⅱ ) 道具を使う生物は、[ 道具 - 身体 ] の連関をメディアとして環境を捉えている。 すべてを身体の側で対応するのではなく、道具を「つかう」ことで生き方の幅を広 げる。その結果、身体で適応する場合に比べて、はるかに短い時間ではるかに多様 な仕事を生み出すことができる。 ( ⅲ ) 実在する世界とは別の観念上の世界を共有する能力を手に入れた人間は、[ 観念 - 道具 ] の連関のなかで道具を「つくる」ことを可能にした。物事が為るよりも前 にその可能性の選択肢を広げ、選び取り、共有することができる。自らの意思で可 能性を一つに限定する行為が「つくる」ということである。 ( ⅳ ) 「つくる」「つかう」という行為を通して、[ 観念 - 道具 - 身体 ] の連関を媒介として 環境を変換するのが人間の選択した生きる術である。[ 観念 - 道具 - 身体 - 環境 ] こ の響き合いにこそ、人間の知性や感性、美しさというものが詰まっているにちがい ない。 道具を持たない生物にとって、生きてきた記憶は身体の仕組みの中に結果として 蓄積される。では、道具を扱う人間にとって、[ 観念 - 道具 - 身体 - 環境 ] の連関は どのような形で現れ残っていくのだろうか。一つには、それぞれの要素ごとに残さ れていく側面がある。道具は物体そのものの形として残されていくし、観念は文字 や絵画、数式・理論の形で記されていく。二つ目は、各要素間の関係性の中に現れ てくる側面である。身体と連動した道具を利用すると、道具を伴った身体技術とし て身体にそれが刻まれる。考えやイメージを表現しデザインを考えるうちに、道具 を媒体とした観念と身体の結びつきが強化される。 ある目的を達成するために我々は道具を扱うわけであるが、そのプロセスを経験 することは目的の達成以上に自分自身を成長させる働きをもたらす。道具の存在に よって、人間は環境と向き合うスキルを更新し続けることが可能になったのである。 どれほど些細なことであれ、人間にとって道具と関わる過程そのものが何より人間

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ESSAY

を人間たらしめている。日々この連関の中で自分自身を響かせることが、人間にとっ ての生きがいであり、生きる意味ではないだろうか。道具を扱うことは、もはや生 きることそのものなのである。

快適さを超えられるか 快適であることに価値はあるのだろうか。再びこの問いに立ち戻ってみよう。よ りよく生きようとする姿勢は生物としても人間としてのあり方とも一致するように 思える。快適さそのものは変わらない欲求なのだろうか。より確かに生き抜くため の方法として快適さが重要視されていると仮定するならば、どこかで度を越えたタ イミングがあると考えられる。 1つ目のターニングポイントは産業革命である。動力を手に入れたことで莫大な エネルギーを扱えるようになった。それによって快適さに3つの変化があらわれる。 最初の変化は、快適さそのものに対する考え方の変化である。「そこにある環境を 手入れして快適さを生み出す」から「自ら管理し快適さをつくりだす」へと目指す ところが変わっていった。道具から機械への移行である。二つ目の変化は、産業化 による手間の省略である。物事の結果が何よりも求められるようになり、過程をな るべく省いた合理性が快適さとして認識されるようになった。三つ目は、資本主義 の発展に伴う快適さの商品化である。より快適であるということが顧客にとっての 比較項目となり、結果として見える形で快適さがはかられるようになった。 2つ目のターニングポイントは、高度経済成長期以降である。そもそも人間は進 化の過程において、快楽を得ることで極限の環境を生き延びてきた歴史がある。生 きる意味を見出せるからこそ人間は生きてこられたのである。しかし経済成長以降、 飢えという脅威に対する外圧が一気になくなったとたんに、その快楽のみを貪るよ うになった。しなくても生きていける楽をするようになったのである。いってしま えばそれは、必要のない快適さである。「快適」という言葉が、生きるという切実 さとはかけ離れたニュアンスをもつようになってしまったのもそのためである。 さて、こうしてすっかり世界にはびこった快適さの罠であるが、人間の進む自然 ななりゆきの道なのだからとこのまま放置しておいてよいのだろうか。快適さの罠 であげたようなある種の問題提起は、[ 道具 - 身体 ] の連関を絶つことの是非を意 味している。連関を絶つことで、万人に共通して安定した手間のない快適さを提供 できる。楽に生きるために自らの身体を犠牲にする。この生き方は、はじめに述べ た道具を扱うヒトの定義とは全く違ったものである。[ 観念 - 道具 - 身体 - 環境 ] の 響き合いは打ち砕かれ、道具を扱う過程こそが生きがいであるという人間最大の特 徴を失ってしまっているのだ。我々に残された道は二つしかない。改めて生き方を 見直すことでヒトとして蘇るか、完全に別の種であるヒト ’( ⅴ ) として新たな生き 方の可能性に収束するか。二つに一つである。 どちらを選ぶか、私は前者を選びたい。なぜなら、人間自身の身体と精神は昔か らそれほど大きくは変わっていないからである。ヒトを滅ぼすのは、ウイルスや他 の生物ではなく、ヒトの生き方なのかもしれない。快適さなど、もはや幻想にすぎ ないとは考えられないだろうか。タバコを吸えば気持ち良くなるのと同じように、 害があってもやめられなくなる。気持ち良くなるためには、より強く求め続けるし かなくなる。度を超えて自らを滅ぼす前に抜け出さないといけないのかもしれない。 自分自身も、快適さの罠にすでに捉えられた一人である。簡単に変えられるもので はないだろうが、このまま突き進むのを見ているだけにはなりたくない。 快適さに代わって人々を導くことができるものとは一体何か。道具を扱う連関の 響き合いの中で、自分自身を輝かせる素晴らしさをいかに実現していくか、そこに 勝負がかかっている。生き延びるためではなく、生き生きと生きるために道具と向 き合う。快適さに対抗する最後の砦として、「生きる」に直結する道具としての建

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What tools bring to humans

Ryo OHYAMA

築にこだわり続けていきたい。

道具を扱うことの本質 道具を扱うことは、もはや生きることそのものである。 道具を扱うことで、生きる喜びを得ることができる。 それゆえに、ヒトは生き続けることができる。

撮影日

2021.03.10

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ESSAY

『未完の思考たちの群れ』 神吉研究室 4 回生

1. 水が一番好きだ。変に甘いジュースや、苦みしか感じられないビールよりも(舌 が子どもなのだろうか) 、水が好きだ。炭酸も無い方がいい。レモン汁をたまに入 れても美味しいおいしいけれど、やっぱり何も無い方がいい。 純粋だから?透明だから? 純粋で透明に見えても、酸素原子と水素原子の結合物がゴロゴロと渦巻いている。 見えないけれど、きっと微生物がウジャウジャいる。それを押し殺した透明性が好 きなのかもしれない。 いや、やっぱりただ美味しいおいしいだけなのかもしれない。 Zoom よりも電話が好きだ。携帯電話から聞こえる相手の姿は、のっぺりと動く 画面越しの相手よりもよほどいきいき生き生きとして見える。 Zoom では、自分が話しているときに自分の姿が大写しになる。誰に語りかけてい るのだろう?鏡を常に見ながら話しているような、そんなヘンな感覚に陥る。相手 から見た自己を意識しながら会話するのは、なかなか難しいものだ。

水を描く、といったとき、コップを連想するだろうか?波打ち際を思い浮かべるだろうか? きっと何かしらの形態、境界を与えることだろう。 図:山井

散歩するのが好きだ。イヤフォンはつけない。ドからシまでの(♯・♭合わせてあ わせても)たった 12 音で近似された音楽ではなくて、日々にあふれる音階なき音 楽たちを聴く。 楽譜は、人類最大の発明の一つだと思う。世界にあふれる無限の音たちから選り抜 き、抽出して五線譜の中におさめてしまうのだから。僕たちはそのメディアをもっ て、「音楽」を再生することが可能になる。選り抜かれた 12 の音の組み合わせで、 和音が生まれる。その調和と不調和に魅せられて、 いつしか五線譜上の音たちを「音 楽」と呼び、世界にあふれる音楽を「音」と呼ぶようになった。 散歩をする時、そんな五線譜なき音楽に耳を澄ます。別にそれをピアノで弾こうと か思わない。ただ聴くだけ。だからどうということはない。

昼休みのチャイムが鳴ると、一目散にグラウンドへと駆け出す。砂利まみれの下駄 箱。百葉箱。スプリンクラー。そんなものを横目に、我先にと校庭へ急ぐ。 それまで更地だった運動場に、 縦横に線を引いていく。ドッジボールのライン。キッ

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山井 駿


Shun YAMAI

クベースのマウンド。ケイドロのろうや。合間を縫って鬼ごっこが走る。 上級生、下級生それぞれ遊ぶけれど、誰がどこ、とは決められていないけれど、不 思議と陣地争いは起こらない。カオスのなかにも、 器用に境界が形成されていった。 5時間目の予鈴が鳴ると、皆一目散に校舎へと走っていく。引き裂かれたままの 校庭は、再び大きな空白になる。

普通電車が好きだ。車や新快速よりも、どこかゆっくりと時間が流れていて。 本を読む人、音楽を聴く人、今はあまりいないけれど、お酒を飲む人。交通手段 でありながらも、そこは図書館であり、ライブハウスであり、 (これはよくないけ れど)宴会場である。車両の一番前に立ってあたりを眺めると、皆みんなそれぞ れに世界をつくっていて面白い。それは、 いつ均衡が破られるか分からない世界だ。 隣の人が荷物をまとめだす、どこかそわそわしだ出す、そんなとき、それぞれの 世界から「電車の中」に引き戻される。 駅に着くたびに、誰かがその部屋を出て、誰かがその部屋に入ってくる。ふと気 になって、本から顔を上げて窓の外を眺める。自分の世界と、誰かの世界、さら には外の世界が干渉し合い、同期化される。そんな儚い世界の同居が、楽しいの かもしれない。

単語帳の 1 ページ、車内の情景、ドアの外の世界、それらに風景のイメージがオーバーラップする。 図:山井

張り詰めた沈黙。秒針が時を刻む音がする。消えかかった記憶を必死に思い起こそ うとする自分と、もうどうにでもなれ、という自分がせめぎ合う。落ち着かないの で、とりあえず窓の外を眺めておく。鳥が飛び、木が揺れている。そこに時間のズ レを感じて、同時に一種の羨望を感じる。 試験、というものに身を置いたとき、いつもこんなことを思う。 スタジオ課題は、まさに命を削るものだった。大きすぎる、多すぎる大津というま ち町の課題と魅力。大きなスケールと人間の目線を器用に行き来できない自分への もどかしさ。どんどん面白いことを考えていく仲間たちへの憧れ、劣等感。あの数ヶ 月間、心休まる瞬間なんて無かったんじゃないか、とすら思う。 提出前、ギリギリの精神状態で朝ご飯を買いに行くと、公園で親子が野球を楽しん でいた。すぐそばにいるのに、全く違う時間を生きているような気がした。僕たち の提出期限の 12 時と、この親子のお昼ご飯の時間である(かどうか分からないが) 12 時は、きっと全く違うものなのだろう。すごいのは、そんなふうにして、一見 同じ標準時のもとで暮らしているようで、実は全ての人が異なる時間を生きている、 ということである。 時刻とは、それら異なる時間世界をはか測り、結びつけるものさしにすぎない。

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ESSAY

散歩していて、見つけた。誰かに伐られた切り株。遊歩道のど真ん中、人間には邪 魔だったのだろう。表面にキノコがまとわりつく。その間から、一輪の花。 限りなく今であることと、異なる世界が同居すること。古さとは、こういうことな のか、とその時思った。 建築史とは何だろうか。 ブルネレスキ、ブラマンテ、ミケランジェロ、ボルロミーニ ゴシック、ロココ、サン・サチーロ、テンピエット 暗号のように羅列してみたけれど、そんな綺羅星のごとき天才たちの割拠する教科 書の最後に、僕たちの住む家は載りうるのだろうか? 歴史の流れ、という言葉がある。それは特徴的な出来事を時代別に結んだ等高線で ある。近似曲線である。近似曲線であるがゆえに、抽出という作業が必要になって くる。僕の実家と東三条殿とでは、後者の方が重要、というように。 抽出しながら、分類がなされる。でも、そう簡単なものではない。地域差、年代差、 異なる様式の併存。そもそも分類し得ないものを無理矢理ハコに詰めるのだから、 当然矛盾や個別解が出てくる。それでもその大局を俯瞰することで、時代というも のを理解しようとする。 今、とは過去と未来の境界である。今は、古い今を過去として巻き込みながら、そ して新しい今を未来として吸収しながら、前に進み続ける。今とは、過去と未来が 等価に存在する一瞬の連続である。そこに歴史や様式、そんな俯瞰的なものは無い。 それは絶えず動き続ける境界面、いや、境界体である。 歴史を学ぶとき、理想化された時間軸の標本を見ている気分になる。ホルマリン漬 けされた名建築や様式たちが、整然と並んでいる。 歴史を学ぶことは、ホモ・サピエンスが人間たる所以なのかもしれない。けれど、 前進する境界体としての、生物的な時間を忘れてはいけないように思う。今日を、 明日を泥臭くつなぐ、そんな漸進的で儚い時間軸こそを、その境界体の足跡こそを、 歴史と呼んでもいいのではないだろうか。

コンセプチュアルな形態、ダイアグラム、明瞭な語り口、プレゼンテーション そのとき、建築はメディアになっていないだろうか?表現の道具になってはいない だろうか? 信仰のあらわれ、権力のあらわれ、機能性のあらわれ。建築は、人間がつくる以上、 なにかのあらわれであることが多いのかもしれない。 時たま訪れる、充満する空気へのえもいわれぬ感動。人の活力が生み出す迫力。に ぎわい。それらを感じるとき、それが何かのあらわれであることが隠されている。 あらわれが踏み越えられている。あらわれ、それは設計者の意図、もしくは計画と 言えるのかもしれない。それらが覆い隠され、突き破られ、不可視化されたときに、 空間を魅力的だと感じられるのかもしれない。 ならば、建築はどうあるべきか?設計者は何をするべきか? 様式とは、意図・計画を覆い隠すほどの、強固かつ明確なルールである。建築のカ タチが様式へと昇華されたとき、それは個人の思惑から外れた、有無を言わせぬ半 ば絶対的なものに変貌するのかもしれない。そこに僕たちは「美」を感じる。時間 に侵食されない永遠性を感じる。 様式から距離を置いたところに佇む現代、もうあらわれと相克しうる様式は生まれ

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Shun YAMAI

ないのだろう。 人の交流、コミュニティ。あるいは建築の原初、形態の由来、自然と建築。 不確実かつ予定調和的な理想世界が、「コンセプト」として饒舌に映し出される。 もはやその隠蔽や踏み越えが不可能であるほど饒舌に。 その理想世界の純度を、もはや現実世界との乖離が生じるほどに研ぎ澄ますのか。 もしくは、踏み越えが起こりやすいように、単純明快で非人間的で、かつ抜けのあ るルールを設けるのか。あるいは様式の生成を目指しもがくのか。 建築はどうあるべきか?設計者は何をするべきか? まだ分からない。 冬の夕方が好きだ。青白磁の空が、やがて朱に染まり、その対極では藍に染まって いく。スッと空気が冷えた瞬間、日没を悟る。それからしばらくの間、まだ西の空 は朱である。 日没のグラデーショナルな視覚体験は、空気を触覚することで意識づけられる。迂 闊にも家の中で日没を迎えたとき、それを知覚することはない。 思えば、終わりをデザインすることは少ない。終わりは突然かつ予測不可能で、し かも通常忌避されるものだから。

もはや建物は、 行き交う人びとの添景に過ぎなかった。

見慣れた家や田んぼが潰され、更地になり、記憶が抹消された上で、まっさらな家 が建つ。終わりと始まりが見事に切り離されたその場所に、はたして建築は宿るの だろうか。

2. 不可視による可視、自己生成する境界体、異世界の共存。これまでとりとめなく書 き連ねてきた十数編の文章が、僕の理想世界、 「コンセプト」なのだろう。

異なる世界(たくさんでもいい)が隣り合う。片方の世界に身を置いて切り分ける のではなく、そのすき間に身を置いて、それらをつなぎ合わせる。そこは、境界体 としての厚みを手に入れる。内と外、過去と未来、それらは対立概念ではなく、境 界体という緩衝域に媒介されて併存する世界である。 境界の明示は、今、現在の展示にすぎない。そこに異世界の同居はない。その仲介 があからさまでなく、隠蔽や踏み越えによって不可視化されたとき、異世界の共存 が初めて可視化される。

こぽこぽと湧き上がる思考を、辛うじて書きとめてきた。言葉のフィルターを通っ たそれは、自分の思考であり、自分の思考から外れたものである。 この幼い思考に赤面する日が来るくらいで、今はちょうどいいのかもしれない。

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ESSAY

山・小屋 Mountains and a Hut

小見山研究室 4 回生

林 浩平

2020 年夏、つまり三回生の夏、山小屋のスタッフとして過ごした。標高約 2800 メートル、日本アルプスの森林限界に建つ、 割と大きな山小屋だ。風呂はだいたい3日に一度、自室は2畳、ご飯はたくさん食べられる。 2021 年夏、このエッセイを書きながら、小屋を設計している。僕らの手で、間伐材で建てる、小さく粗末な小屋だ。沢から 水を引けたら、煮炊きくらいはできるだろう。 対照的なふたつの山小屋にまつわる話を、この機会に書き留めておきたい。

「自然」 コンクリートのまちで育ったからか、デジタルネイティブだからか、自然に対し て憧れがある。しかしどれだけ山へ川へ出かけても、最後にはコンクリートのま ちへと帰らなければならない。「自然が好き」 と言う自分は、自然を一面的にしか 知らないのだろう。川がめったに氾濫せず、トイレは水洗どころか電化までされ る時代、都市生活者にとっての 「自然」 は薄っぺらだ。一時に比べれば自然は評 価されているが、自然との付き合い方は、キャンプや登山といったレジャーであっ て、暮らしとは直結していない。 その一方で、自然と密接な暮らしも、ごく普通に存在している。自然を相手に するのは大変だろうし、コミュニティでの苦労話もよく聞くが、そんな暮らしを 営む人の自然観は僕のものとは違っているだろう。「大変だけど、 いいものだよ」と、 僕も言えるようになりたい。 そこに近づく方法の一つが、山小屋でのアルバイトだった。短期間・賃金労働と はいえ、自然の中で暮らしつつインフラを支えるという経験は、自分の自然観を 強くし、人の暮らしを考えるためのヒントもくれるはずだ。いろいろな経験があっ てこそ、知識は使い物になるはずだという考えもあった。僕はとにかく経験と出 会いを欲していたのだ。

登山客に続いて朝食をとったあと、つかの間 の休憩。この時間は人が少なく空気が澄んで いて、スタッフはそれぞれが好きなように過 ごす。軽音部、筋トレ部などもある。

山上の日々 目覚ましを止めて、しばらく天井を見つめて、布団を出る。まだ暗い。顔を洗っ て開店準備へ。裸電球を点け、手順書を読みながら一人準備を進める。雲海を眺 めていると、朝食を終えたお客さんからコーヒーの注文が入って、そうこうして いるうちに先輩がやって来る。 「ごはん、いってき」 一日のほとんどは清掃と接客と厨房関連だ。僕が好きな、 歩荷(ぼっか 1)やヘリ の荷上げ下ろし、登山道の修繕といった 「いかにも」 な仕事はめったにやってこ ない。要領が悪く、怒られて元気の無い日が続くこともあった。ごく稀に、夜逃 げする人もいるという。山小屋は閉鎖環境だから、人間関係は何より大切だ。 落ち込んでいたある日のこと、サークルの友人が訪ねてきた。来ると聞いては いても、実際に顔を見た時の嬉しさといったらなかった。一泊していくとのこと だったので、消灯後の無人になった自炊場で、山小屋の仕組みについて、そこで の生活について、道について、そして山小屋という存在について、少し語り合った。 そこで話したことは、およそ次のとおりだ。

166

1. 歩荷 ここでは、徒歩で山小屋からごみを下ろし、必要物 資を上げてくる仕事を言う。背負子などの道具に荷 物を固定して運ぶ。この仕事に憧れて、山小屋に来 たと言っても過言ではなかった。


Mountains and a Hut

Kohei HAYASHI

あるか、ないか 岩と砂とハイマツの稜線に、赤い屋根の小屋が建っている。その風景を当たり前 だと感じるようになっていたある日、小屋がやたらと頼もしく見えた。毎日僕たち が働いているあの建物の中では今、人が休み、談笑している。小屋を目指して肩を 揺らし登って来る人たちがいるかと思えば、足取り軽く次のピークへ向かう人もい る。山小屋はそこにあるだけで、登山者の背中を押している。 では、今ここに小屋がなければ、どうだろうか。登山道は崩れ、飲水は手に入ら ず、寒さは凌げない。よってこの山域は登山者が気軽に訪れる場所とはならないだ ろう。この大きな山小屋は発電機、揚水ポンプ、ヘリコプターのような強力な技術 を伴って、環境を傷つけながらも守りながら、私たちが森林限界で暮らすことを可 能にしている。山小屋の存在は驚異だ。 同時に、現代人の生活が重なって見えた。建築が溢れ、インフラの網目があまり に細かく速くなり、きれいに隠れているから気付きにくいが、僕たちは技術の力で 地球を痛めつけながら、無理な暮らしを送り、そのうえで環境保護を訴えて正しい ことをした気でいる。脅威だ。 2.『王立宇宙軍

オネアミスの翼』

落ちこぼれの青年・シロツグが宇宙飛行士に志願し、

ある SF アニメ 2 のラストで、人類初の宇宙飛行士となった主人公の青年は言う

仲間とともにロケット打ち上げを目指すという SF アニメ。 のちに『トップをねらえ!』 『ふしぎの海のナディア』 『新世紀エヴァンゲリオン』などを制作する GAINAX の 1 作目。

「…海や山がそうであったように、かつて神の領域だったこの空間も、これからは 人間の活動の舞台としていつでも来れる、くだらない場所となるでしょう。地上を 汚し、空を汚し、さらに新しい土地を求めて宇宙へ出ていく。人類の領域はどこま で広がることがゆるされているのでしょうか。…」 山小屋もかつては、南極の基地群や宇宙ステーションのようなものだっただろ う。いずれも初めに資材がもち込まれ、人間社会の経済と技術に支えられて成立す るシェルターだ。人間はフロンティアを求めてやまない。その前哨基地は「あるか、 ないか」なのだ。 「ある」ことによってアネクメーネをズブエクメーネに変え、活 動の可能性を開く。自然を知ろうと山へ行って、むしろ建築の存在を知らしめられ た夏だった。

寝泊まりしていた部屋の概略図。客室を利用しているため、ある程度の広さとプライバシーは確保 されている。上下二段に分かれ、上段に同期が、下段に僕が寝泊まりした。周辺にある同様の部屋 には山岳救助隊も。

167


ESSAY

くものすの喪失 何かを失って初めて、その存在の大きさに気付くことがある。僕たちのサークル は、つい最近、居場所を失った。 京都・鴨川デルタの近く、うっそうとした緑に囲まれ、外とは別の時間が流れて いるような場所。作業後には火を起こし、それで煮炊きし、皆仲良く燻される。そ れが毎週末、開かれていた。僕らがそんな 「くものす」 を去ったのは 2020 年春の こと。

おおいなる計画 退去が決定した時、僕たちは一方で、ある計画を進めていた。小さな山の管理を 任されたのをきっかけに、そこで山林の在り方を自分たちなりに検討・実現してい こうというものだ。ある程度の自由が利くその山に小屋を建設し 「くものす」 の代 わりとする案も生まれた。ごく自然な流れだろう。植生豊かなこの山に小屋を建て、 道を通して、 楽しい山にしよう。機運を盛り上げるためにビデオメッセージまで作っ て、この壮大な計画はそれなりにうまくいきそうだった。 しかし、退去の時を迎え、小屋の建設が近づいた時には市中の様子は全く変わり 果てていた。コロナ禍でサークル活動は停止。僕たちは 「くものす」 に続き、サー クル活動まで失った。小屋は、建たない気がしていた。模型も作り、部材長も出し はしたが、建っているビジョンが見えない。五里霧中とはこのことだなと思った。 社会情勢に振り回されて、小屋の計画もろとも、「大いなる計画」 はうやむやとなっ た。 時は流れ、僕たちは新しい生活に適応していった。感染者数のグラフとにらめっ こし、ありったけの知恵を絞るが、それも明日には無駄になる。何が信用に足るの か .......。濃い霧の立ち込める日々に、僕は気力を失っていた。それでも季節は巡っ てくる。 再び春がきた。大学は対面授業を再開するつもりらしいと聞く。サークル活動は 依然、まともにできていない。それでも僕たちは新入生の勧誘に向けてタテカンを 新調し、徐々に前を向いていた。その延長だったか、 僕たちは思い付きで背負子 (しょ いこ)の製作を始めた。一日では終えられずに、もう一日追加。のんびりした会だっ た。通常の作業ができないからこそ、これまでになくじっくりと腰を据えての製作 ができたのだろう。そうして桜が綺麗な晴れの日、背負子の製作を終えた僕らは、 確かな手応えを感じて、冗談交じりに一言。 「小屋建つなあ、これ」 ところでサークルの生命線、新歓はというと、新型コロナウイルス第三波のあお りを受けて、一番の魅力であるはずの山での作業に新入生を連れて行くことができ ない。やはり去年と同じで、もどかしい状態にあった。 「ええこと思いついた!」

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山小屋で使用していたものを元にして制作し た、背負子。山林の育成だけでなく、材の利 用まで扱うことでより深く山と関われるので はないか。というのは表向きの理由であって、 ただ作ってみたかっただけかもしれない。


Mountains and a Hut

Kohei HAYASHI

「やっぱり、建てよう。」 見切り発車だった。ハードルはいくつかあるが超えられないことはない。建築を 学んでいるのなら、小屋を建てたいという声を拾い集めて、やってみよう。新歓期 が終わらないうちにと、急いで計画を提案した。小屋が建たないとしても、この活 動そのものに意味があると思った。 まず、場をつくること。「くものす」 も作業も無くなった当時、僕たちを結び付 けるのはオンライン会議のみとなっていた。しかも、例年のイベントは軒並み中止。 会議が暗い。僕が新入生だったら、うまく馴染めずに離れていくことだろう。「何 か面白そうだな」 と思える取り組みが欲しい。小屋を建てるまでの一連のプロセス を利用できないか。 構想が広がる。設計過程をオープンにし、山の模型をリアルタイムに映す。模型 に人形を配置してうまく動かし、木漏れ日と風を演出、山仕事をしていると錯覚で きるかもしれない。エウレカ!

すぐ配信ソフトの使い方を覚え、机と機材を2+

1カメラ体制に対応できるようにした。準備万端。一人テレビ局、開局! 設計ミーティングの再現。模型を人形目線で

こうして僕は、すぐ調子に乗る。結局のところ、話も設計もなにもかもが中途半

映しながら、その手前には自分が映るように

端な会だった。後輩が場を回してくれる有様である。そもそも、かなり狂ったアイ

した。画面上部には話し合っているテーマを

デアだ。不器用な自分が、ワンオペで会話と設計と画面表示を同時にコントロール

表示している。

しようなど、さらに一連の取り組みを大学の課題と両立しようなど、ほとんど不可 能だったのだ。 ほどなくして、作業実施基準の見直しによりサークル活動は限定的に再開。設計 プロセスを通じての作業とアフターの再現という試みは、その意義を失うことに なった。 とはいえ、小屋建設計画には長期的な意味もあった。それは埃をかぶっていた、 おおいなる計画を復活させること。構想に関する細かな資料は整理されておらず、 現に散逸しつつあるが、 「学生団体が森林とのかかわりを考え、実践しようとした」 事実とその内容は、残すに値する。小屋は資料整理の景気づけとなるだろうし、小 屋の構想自体も合わせて、 「おおいなる計画」は厚みを増すはずだ。 加えて、もし仮に小屋が実現するのであれば、そこには様々な活動の可能性が開 かれる。僕たちが予想だにしない現象が、きっと生まれる。野に建つ小屋は「ある か、ないか」なのだから。

世界の様子はがらりと変わってしまった。しかしそれは表面的な事柄に過ぎない。 本質は何一つ、変わってはいないはずだ。夢見るのは楽しいし、それが実現すれば 嬉しい。少し前まで僕たちは、楽しい山の実現という気の遠くなる未来の、夢の話 をしていたのだった。未来が見えないからこそ、夢見ることは一層大切だ。夢に形 3. 小屋は建てないことになった。本文はまだ本気で 建てるつもりだった時のもの。

を与えて、楽しいことをしよう。それが僕にできることだと、感じた夏だった。3

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スタジオ設計課題作品 / 推薦文

4回生スタジオコース作品 Students' Works : 4th Year Studios

ダニエル研 Jiro AKITA

秋田 次郎

172

HORIZONTAL SKYSCRAPER 資本主義の象徴たる高層ビルは地面を Z 軸方向に複製して富を生み出す 装置である。自然とは切り離され、今自分が何階にいるのかわからない。 都市、自然、スラブ間、スラブとコアとの間など様々な断絶が生まれ、 それらを抱え込んで立つ。 一方、桂川を阪急が渡る地域は公園、道路、団地、堤防、川、堤防とま るで高層ビルのスラブのように断絶する線が並ぶ。そこに高層ビルを倒 して重ね合わせることで新時代の Horizontal Skyscraper を構想した。

平田研

21 世紀に生きる我々を包み込む都市には当たり前の ように高層建築が乱立する。そんな無自覚な現状に 対して根源的な問いを立てたのがこの作品だ。高層 ビルを地球表面から 90°そのまま倒すという直感的 かつ野心的な操作に対して、実に様々な視点から分 析を施している。種々の分析に対して、設計者なり の建築的回答はまだ作品からは読み取り難いが、今 後導かれるであろう彼の結論に期待したい。

清岡 鈴

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Rin KIYOOKA

始まりのところ ふるさと、と聞くと、多くの人は自分が愛着を持った「ここではないあ の場所」を思い浮かべるのではないでしょうか。私は、生活の場として いる住宅の中で、住人が今いるところを受け入れて暮らしを展開させて いく、そのような場所を目指して設計しました。身の回りに存在するま ちの要素によって異なる質を帯びた 24 つの部屋は、この場所に強く結び ついたふるまいを生むと考えられます。

展示会場にパースはなく、25 枚の平面図が並んでい た。ふるさとという温かな、ともすると主観的にな りすぎてしまうテーマを理性的に解体 ・ 構築した姿 勢が印象的であった。住宅という限られた敷地内に ふるさとを発見するという興味深いテーマを立て、 垂直方向に解決策を求めた。上昇に応じて各部屋か ら見える風景に変化が生じ、街が建築に吸収される ように各部屋の空間性が更新されるというイメージ

神吉研

は、都会にふるさとを見出す希望のようにも見えた。

豊永 嵩晴

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Takaharu TOYONAGA

記憶の現像術

鉄道廃線跡の「場所の記憶」という抽象的な概念に

初めて訪れた場所なのに、どこか懐かしいのはなぜだろう。そんな素朴 な問いから本研究は始まる。人は空間を見るとき、自らの記憶から生じ る空間のイデアを重ね描いている。その像を写真上に表象し、建築空間 へと現像する思考実験である。今から100年前のわずか9年間、現在 の加茂駅―奈良駅間 9.9km を赤い蒸気機関車が駆け抜けた大仏鉄道廃線 跡。記憶が儚げに宿るこの敷地で、写真をツールとした光の記憶の空間 化手法を試みる。

大崎研

中里 桂也

Keiya NAKASATO

線と屋根

/

野村 祐司

真摯に向き合い、それを建築として表現した力作で ある。この建築は過去を幻視するための装置である。 建築空間での体験を写真撮影になぞらえて分解し、 多重露光のように重ね合わせることで一つのイメー ジを成立させるアイデア、そして、各建築群の造形 どちらもが魅力的にまとめられている。現実的な場 所と、抽象的なイメージとの間を自由に横断する作 者の柔軟な発想に今後も期待したい。

丸山 悠斗

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Yuji NOMURA Yuto MARUYAMA

数式の空間

/

いごこち たちごこち

図形から立体を見出し、空間を創出した。構造条件を考慮しつつ、単純な 部材で軽やかに美しく包む空間を作れば、豊かな体験が得られると考えた。 (中里) 数式で与えられえる形に、構造的・計画的に手を加えて、外部と内部が混 ざり合う、3D 曲面からなるシェル構造の展示空間を設計した(野村) 人々の「いごこち」を構造負荷の最適化問題を解く、 すなわち「たちごごち」 から考えるという実験的なアプローチにより新たな空間を提案する(丸山)

今年度初の試みとして構造デザインを専門とする大 崎研究室が 4 回生のスタジオ設計課題を担当した。 コンピュータによる解析技術の使用を要求する本課 題はこれからの建築業界を考える上で無視できない ものであるだろう。彼ら大崎研の学生が表現した解 答は他の学生とは一線を画すものに感じ、意匠を学 ぶ私には特に印象的に映った。ただ、デザインの面 では稚拙な部分もあり、今後彼らの成長と大崎研究 室の課題の継続が期待される。


gravure

スタジオ設計課題概要

ダニエルスタジオ

Urban Farming in Katsura

DANIELL Studio 桂川沿いの地域は、自然景観、公共空間、都市農業の観点から京都にとって重要な地区である。 この課題では、それぞれ学生が川沿いの未開発な場所を選択し、都市農業を中心とした、公共ス ペースなどを含んだ複合施設をデザインする。景観や水景に対する建築の影響、相互作用する 新しいコミュニティ空間の創出、そして生活空間と農業の統合を目指す。

平田スタジオ HIRATA Studio

『ふるさと』から生まれる建築

「ふるさと」とは、一体性と隔たりの両方を含んだ言葉だ。想像力の中で自分自身がそこに含まれている、ある美しい風景。しかしそれ は、 離れているからこそ対象化できるものでもある。突き詰めていえば、それは無限遠の原点とか原風景のようなものなのかもしれない。 さまざまな含意を持った「ふるさと」から立ち上がる、新しい美しさ、あるいは卓越性を持った建築を提案して欲しい。

神吉スタジオ

場所の力

KANKI Studio これまでにない変化をみせる現代の都市・地域で、どのようなランドスケープが受け継がれ創造され得るだろうか。新しいランドスケー プにむかうために、場所に潜む力を読み、その力を顕在化させる建築と都市・地域空間の提案をめざす。各人が選ぶ敷地およびその位 置する都市・地域の「場所の力」の読解作業を重視しつつ進める。敷地は、現地調査可能な範囲、又は資料等で敷地を十分に説明でき る場所から、自由に選ぶ。

大崎スタジオ

コンピュテーションが形作る建築空間

OHSAKI Studio 近年の施工技術・コンピュータ技術の急速な発展にともない、複雑な形態の建築が数多く現れるようになってきている。意匠のみならず、 構造・環境・施工などの種々の設計条件を満足し、高度に調和させるためにコンピュテーショナルデザインやアルゴリズミックデザイン、 ジェネラティブデザインと呼ばれる設計手法に注目が集まっている。 本スタジオでは、大崎・張研究室助教の林和希先生ご指導の下、コンピュータによる解析技術を用いた建築形態創生の可能性を探求する。 プログラム・敷地等に制限は設けないが、コンピュータやデジタルファブリケーションなどの技術を積極的に用いることとする。また、 構造力学やプログラミングの知識を必ずしも前提とはしないが、適宜学習しながら課題に取り組むものとする。


GRAVURE

Students' Works : 4th Year Studios DANIELL Studio / AKITA

HORIZONTAL SKYSCRAPER

住宅と植物工場

高層ビルが資本主義社会において情報から

元来、人間は地面に這いつくばって生活してきた。

それが技術の進歩により、地面を複製し、地面からはなれて平面を作り出すことができるようになった。 20 世紀に登場した高層ビルは、その流れを加速し、人間はますます地面から離れていく。 その結果、高層ビルは数多くの断絶を抱え込む。そんな高層ビルを水平に倒し、地面に近づけ てみる。

情報を生成する場所であるとするならば、 新しい Horizontal Skyscraper にふさわ しいのは生から生を生み出す家と農業とい う二つの機能だろう。垂直に立つ壁に張り 付く住空間は新しい関係性を産み、桂川か

敷地は京都市の西、阪急京都線の桂川橋梁。

ら吸い上げた水と電気によって植物工場は

阪急京都線を Z 軸と見立てると、ここには数多くの断絶が存在する。ここで、

稼働する。

高層ビルを倒すことでその完成されたシステムを移植し、新しい Skyscraper が作られる。

高層ビルと断絶

都市との断絶

都市の文脈を無視した自己シンボル性

スラブの断絶

スラブ間の移動はコアを介してのみ実現する。

よく考えてみれば高層ビルは不思議だ。地 面から離れると同時に自然はその厳しさを 増す。それに合わせて高層ビルは殻を分厚 くする。それはまるで大気圧から守られた 水銀柱のよう。 垂直方向に伸びたことによって逆説的に垂 直方向のつながりは消失し、自分が何階に いるのかすら分からない。

自然との断絶

自然との境目は強固に防護されている。

コアとの断絶

コアは分厚い壁に囲まれ、閉じられている。

体積は3乗で増える一方で表面積は2乗で しか増えず、行き場を失ったアイデンティ ティは自己を彫刻化することで発散され る。結果として都市のコンテクストを無視 した高層ビルが林立する。 そんな断絶にあふれた高層ビルを敷地の断 絶と重ね合わせ、倒してみる。

172

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GRAVURE

Students' Works : 4th Year Studios HIRATA Studio / KIYOOKA

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GRAVURE

Students' Works : 4th Year Studios KANKI Studio /TOYONAGA

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GRAVURE

Students' Works : 4th Year Studios OHSAKI Studio / NAKAZATO NOMURA MARUYAMA

大崎研スタジオ

コンピュテーションが形作る建築空間

近年の施工技術・コンピュータ技術の急速な発展にともな

線と屋根

OSAKI Studio/ Keiya NAKAZATO・ Yuji NOMURA・ Yuto MARUYAMA

中里桂也

ケーブル 1 本にかかる荷重が 80.5kN/cm2

1. 支柱端部の変位は微小変位と見なし、支店部材の変形によるケーブル軸力の変化は考慮しない。

い, 複雑な形態の建築が数多く現れるようになってきている。 意

= tan n ( x-

匠のみならず, 構造・環境・施工などの種々の設計条件を満足

nl ) (0≦x≦L) 100 ( = 1, 2,・・・,100 )

:回転角

l:軸線長さ

2. 釣り合い状態でのケーブルの軸力を解析により求め、軸部材ごとの支点反力を計算する。 3. 片持ち梁一本ごとの荷重をモデル化し、支点部分の軸力と曲げモーメントを求める。

L:線分の長さ

4. 片持ち梁支点のモーメントが軸部材に設定する鋼管の断面二次モーメントを超えないように軸部材を選ぶ。 ケーブル断面積 Ak = 0.25 cm² ≒ 0.785 cm

し, 高度に調和させるためにコンピュテーショナルデザインやア

5. ケーブル断面は直径 1cm の鋼材とする。

ルゴリズミックデザイン, ジェネラティブデザインと呼ばれる設 計手法に注目が集まっている。

本スタジオでは, コンピュータによる解析技術を用いた建築

形態創生の可能性を探求する。 プログラム・敷地等に制限は設

5

線分を回転角

4

3

2

=1 で回転させた線分を用いる

ごとに回転させていく

2つのグループに分けた直線を、それぞれ奥と手前に長さ分張り出す

けないが, コンピュータやデジタルファブリケーションなどの技

術を積極的に用いることとする。 また, 構造力学やプログラミン

グの知識を必ずしも前提とはしないが, 適宜学習しながら課題 に取り組むものとする。

回転させた線分の回転軸とした直線の上半分のみを扱う

合力ベクトル F ≒ 210 kN

70kN 70kN 軸部材にかかる最大応力は

70kN

これが鋼材の降伏応力

( 鋼材の単位重量 )=7.85 kN/m³

0.0000

それらの部材端を支点とするような釣り合い形状を求め、ケーブル構造を形成する

線分の周期性から二つのグループに分ける

軸部材にかかる外力は部材軸の法線方向のケーブル軸力が主なため、軸力による柱の座屈は考えず、曲げ降伏のみを考慮する。

0.2672π

( 単位荷重 )= A・( 単位重量 )

L

0.4914π

部材断面 S = 5:1

A:部材断面積 L

( 部材端にかかる自重によるモーメント )= 0.0236π

0.3485π

0.5119π

M=

0.0767π

0.3960π

0.6339π

θ

0.4011π

2

²

2

2

cos

N A

N/mm2 を超えないように断面を設定する。

6.0mm

190.7mm

外径 190.7 mm

厚さ 6.0 mm の鋼管を軸部材に設定する

A = 34.82 cm2 Z = 156 cm3 このとき、 M Z

cos ー F sin ・L

ケーブルにかかる応力は解析結果より、付着する膜材を考慮して最大でおよそ 90 kN/cm²

= 74.1 N/mm²

となり、降伏しない条件を満たす。

軸力は F = 90kN × ( ケーブル断面 AK) ≒ 70 kN 部材にかかる最大の曲げ応力を求めるため

0.1376π

=

・cos

0

部材端にかかるモーメントは

M + Z

2

Fsin ・L = 2100 kN・m

0.6530π

L≒10 m 2

cos

= 50

2

≒ 0 として概算する

= 392.5 A kN・m

部材端にかかる軸力は N=

たちごこち

sin

cos

=0

〜構造的操作〜

今回は柱の位置と形状を構造最適化によって決定する。 柱の位置について、 屋根の正射影平面の分割面を各柱の移動領域とし、 ひずみエネルギーと曲げエネルギーの和が最 小になる位置をgalapagosによってuv値で算出する。 また各柱の形状についても、 各柱のくびれの高さと半径、 底面の半径、 曲率などの値を下図のようにパラメーターとし て設定し、 位置の最適化と同様にエネルギーの和が最小となるように各値を最適化していく。

柱の形状のaの値による比較(左からa=0.1, 0.25, 0.37(=最適), 0.6 ) 各柱のひずみの分布 ▼

柱の形状決定プログラム (grasshopper)

▶ 各柱の位置を決定するプ ログラム (grasshopper) ▼ 各柱の位置を最適化した 場合の位置の比較 左:全柱のuv値が (0.5,0.5) 右:最適化した後

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Interviewees

藤江 和子

Kazuko FUJIE

Kazuko FUJIE, born in 1947 in Toyama prefecture, is an interior planner and furniture designer. After graduating from Musashino Art University Junior College of Art and Design in 1968, she worked at Mayumi Miyawaki architectural laboratory. She then went freelance and worked as a furniture designer at Endo Planning. She established Kazuko Fujie Atelier in 1987 and has worked with a number of architects to design furniture and interiors for public facilities. p.6-

山岸 剛

Tsuyoshi YAMAGISHI

Takeshi YAMAGISHI, born in 1976, is an architectural photographer. He studied at the Faculty of Political Science and Economics and the Department of Spatial Imaging at Waseda University. He reflects upon human nature through architectural photography, by observing and recording the power struggle between buildings as the the Journal of Architecture and Building Science and the Journal of the Architectural Institute of Japan (2010-11), and was the photography director of the Japanese Pavilion Team at the 14th International Architecture Exhibition of the Venice Biennale in 2014. He is the author of "Tohoku Lost, Left, Found" (LIXIL Publishing). His recent publications include "Tokyo Pandemic: The Rise and Fall of a City Captured by Photography" (Waseda University Press). p.18-

後藤 連平

Rempei GOTO

Rempei GOTO, born in 1979, is the representative of architecture-related web media “architecturephoto®“. He graduated from Kyoto Institute of Technology in 2002 and completed his graduate studies at the same university in 2004. He is the editor-in-chief of architecturephoto®, a media that visualizes the relationship between architecture

architecturephoto® in 2007.He is currently devoted to the management of web media, including “architecturephoto Job Board,” an architectural job information site, and “architecturephoto Books,” an online store for used books and miscellaneous goods. He is the author of “A Lecture on Web Communication for Architects” (Gakugei Publishing Co.) and other books, and the editor of “An Architect’s Life to Enjoy the Mountains and Valleys” (Yuu Books). p.34-

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岸 和郎

Waro KISHI

Architect and professor at Kyoto University of Arts. 1950 Born in Kanagawa Prefecture, Japan. Established K.ASSOCIATES / Architects in 1981. He has been teaching at Kyoto College of Art since 1981. He has been teaching at Kyoto College of Art since 1981, and has been a professor at Kyoto Institute of Technology and Kyoto University Graduate School. Representative of K.ASSOCIATES / Architects. p.46-

平田 晃久

Akihisa HIRATA

Born in Osaka in 1971, Hirata graduated from the Graduate School of Engineering, Kyoto University in 1997. Graduated from the Graduate School of Engineering, Kyoto University in 1997. After working at Toyo Ito & Associates, he established Akihisa Hirata Architects in 2005.He was appointed to Kyoto University in 2015. p.46-

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Contributors 布野 修司

Shuji FUNO

Born in 1949, Dr. Shuji Funo graduated from the University of Tokyo in 1972 and became an Associate Professor at Kyoto University in 1991. He is currently a Project Professor at Nihon University. He has been deeply involved in urban and housing issues in South East Asia for the last forty years. He is well recognized in Japan as a specialist in the field of human settlement and sustainable urban development affairs in Asia. His Ph.D. dissertation, "Transitional process of kampungs and the evaluation of kampung improvement programs in Indonesia" won an award by the AIJ in 1991. He designed an experimental housing project named Surabaya Eco-House and in his research work, he has organized groups on urban issues all over the world and has published several volumes on the history of Asian Capitals and European colonial cities in Asia. Apart from his academic work, he is well known as a critic on architectural design and urban planning. p.108-

古阪 秀三

Shuzou FURUSAKA

Shuzo Furusaka was born in 1951 in Hyogo, Japan. He was a Professor of Architecture System and Management, Department of Architecture and Architectural Engineering of Kyoto University. He had worked in construction

Construction Industry and Construction System in Japan”, and “Project Management”. He was a President of Construction Management Association of Japan and Chairman of Committee on Architecture System and Management of Architectural Institute of Japan. He is now a Representative of The International Study Group for Construction Project Delivery Methods and Quality Ensuring System and Chairman of General Conditions of Construction Contract Committee. p.114-

竹山 聖

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

Kiyoshi Sey Takeyama, born in 1954, received an undergraduate degree from Kyoto University and both a Master’s

invited architect and the commissioner of Japanese pavilion. He was an Associate Professor and then Professor at Kyoto University from 1992 to 2020. He has been the President of Architectural Design Association of Nippon since 2014. He is the Principal of AMORPHE Takeyama & Associates. p.120-

大崎 純

Makoto OHSAKI

Makoto OHSAKI is a Professor at the Department of Architecture and Architectural Engineering, Kyoto University, Japan. He received master’s degree in 1985 from Kyoto University, visited The University of Iowa for one year from 1991, and was appointed as Associate Professor at Kyoto University in 1996. He moved to Hiroshima University in of structural optimization, analysis and design of spatial structures, and application of machine learning to design of building structures. p.128-

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牧 紀男

Norio MAKI

Born in Kyoto, Japan in 1968, Norio Maki is a professor of Disaster Prevention Research Institute in Kyoto University. During his time as a Senior Researcher at the Earthquake Disaster Mitigation Research Institute in Kobe between 1998 and 2004, he also spent a year at the University of California, Berkeley as a visiting scholar, to study disaster management. He mainly studies recovery planning from natural disasters.

柳沢 究

Kiwamu YANAGISAWA

Kiwamu YANAGISAWA, Born in Yokohama, Japan in 1975, Kiwamu Yanagisawa is an associate professor at Graduate School of Architecture, Kyoto University. Receiving his bachelor's degree in 1999, his master's degree in 2001 and his doctoral degree in 2008 from Kyoto University, he held academic positions in Kobe Design University contemporary transformation of traditional urban space in asian cities, as well as architectural design for houses, renovation, community development and so on. p.140-

小見山 陽介

Yosuke KOMIYAMA

Yosuke Komiyama, born in 1982, received both his undergraduate and master's degree from the University of Tokyo. He also studied in The Technical University of Munich and Ecole Nationale Supérieure d'Architecture de Paris La Villette before he worked in Horden Cherry Lee Architects London and Emeraude Architectural Laboratory Gunma. He is currently a Junior Associate Professor at Kyoto University. He works on designing prototypes of various architecture with new timber technologies such as Cross Laminated Timber and also researching Construction History of Early Iron Architecture in 19th century UK. p.147-

183


Back Number Issue

20 interview project essay

2020.01

l

112p

特集:「欠落」

19

project essay

12 interview

112p

interview

米澤隆

traverse 編集委員会 , 竹山研究室 , 神吉研究室 , 金多研究室

workshop

池田剛介 , 大庭哲治 , 椿昇 , 富家大器 , 藤井聡 , 藤本英子

布野修司 , 竹山聖 , 大崎純 , 牧紀男 , 柳沢究 , 清山陽平 , 成原隆訓 , 石井一貴

discussion

倉方俊輔 , 高須賀大索 , 西澤徹夫

essay

interview

l

木村吉成 + 松本尚子 , 宮本佳明 , 伊藤東凌 , 井上章一

project

16

2018.10

特集:「顔」

2015.10

l

96p, 16p in color

インタビュー:石山友美 中野達男 , 石山友美 ,TERRAIN architects 竹山研究室「コーラス」 竹山聖 , 布野修司 , 大崎純 , 古阪秀三 , 牧紀男 , 上住彩華

2011.11

l

96p

インタビュー:深澤直人 深澤直人

15 interview

井関武彦「形態から状態へ―Parametric Datascape の実践」

布野修司 , 竹山聖 , 金多隆 , 牧紀男 , 柳沢究 , 小見山陽介

2014.10

l

112p, 16p in color

特集:建築を生成するイメージ ホンマタカシ , 八島正年 + 八島夕子 , 高橋和志 , 鳥越けい子

project

竹山研究室「ダイアグラムによる建築の構想」

essay

竹山聖 , 布野修司 , 大崎純 , 古阪秀三 , 平野利樹

11 interview

essay 布野修司「建築少年たちの夢:現代建築水滸伝」

竹山研究室 , 平田研究室

project

2010.11

l

128p

インタビュー:平野啓一郎 平野啓一郎 , 森田一弥 竹山研究室 , 高濱史子 , 対談:イワン・バーン×高濱史子

essay

布野修司 , 伊勢史郎 , 石田泰一郎

7

座談会:耐震偽装問題の背景と課題

project 竹山聖 , 上田信行

8 interview

2007.10

l

96p

座談会:大学教育の問題点 森田司郎名誉教授

discussion 「大学教育の問題点 ―プロジェクトマネジメントとそれに関連する諸問題―」

interview

2006.09

l

96p

西川幸治名誉教授

discussion 「耐震偽装問題の背景と課題」 essay

伊勢史郎 , 大崎純 , 竹山聖 , 布野修司 , 古阪秀三 , 青木義次 , 大森博司

3

2002.10 l 112p

essay 大崎純 , 竹山聖 , 布野修司 , 牧紀男

4 interview

2003.06

l

112p

座談会:ゼネコンの経営者に聞く 森田司郎名誉教授

discussion 「ゼネコンの経営者に聞く」 essay 加藤直樹 / 大崎純 , 高橋大弍 / 高橋良介 , 石田泰一郎 , 竹山聖 , 布野修司 , 古阪秀三 , 中嶋節子 , 三浦研

interview

座談会:外部評価を終えて 巽和夫名誉教授

discussion 「外部評価を終えて」 essay

布野修司 , 平岡久司 , 大窪健之 , 伊勢史郎 , 鈴木博之 , 西澤英和 , 古阪秀三 , 竹山聖


バックナンバーは以下の Web サイトにて公開しています。 https://www.traverse-architecture.com/ その他、各種お問い合わせは下記メールアドレスにご連絡ください。 info@traverse-architecture.com

21 interview project essay

18 interview project essay

2017.10

l

112p

特集:「壁」 三谷純 , 奥田信雄 , 魚谷繁礼 , 五十嵐淳 竹山研究室

17 interview project

竹山聖 , 大崎純 , 小椋大輔 , 布野修司 , 古阪秀三 , 牧紀男 ,

essay

2021.03

l

164p

特集:「巣」 満田衛資 , 蔭山陽太 , 鈴木まもる , 大崎純 学生座談会 , 平田研究室 , 小林・落合研究室 , 三浦研究室 , 小椋・伊庭研究室 布野修司 , 古阪秀三 , 竹山聖 , 牧紀男 , 柳沢究 , 小見山陽介 , 井関武彦

l

2016.10

128p, 16p in color

インタビュー:野又 穫 松井るみ , 石澤宰 , 柏木由人 竹山研究室、平田研究室、神吉研究室 竹山聖 , 平田晃久 , 山岸常人 , 布野修司 , 三浦研 , 牧紀男 , 古阪秀三 , 川上聡

Galyna SHEVTSOVA

14

2013.10

l

120p

特集:アートと空間

interview 松井冬子 , 井村優三 , 豊田郁美 , アタカケンタロウ project 竹山研究室「個人美術館の構想」 essay 竹山聖 , 布野修司 , 小室舞 , 中井茂樹

10 interview

2009.11

l

112p

インタビュー:川崎清 川崎清名誉教授

discussion 齊藤公男「構造設計者の夢と現実」 essay

6 interview essay

2 interview

2005.09

l

96p

インタビュー:伊東豊雄

2012.11

l

128p

インタビュー:名和晃平

interview 名和晃平 , 高松伸 , 前田茂樹 essay 石田泰一郎 , 大崎純 , 竹山聖 , 布野修司 , 鈴木健一郎 , 伊勢史郎 project 古阪秀三

9 interview

2008.11

l

96p

座談会:これからの建築ジェネレーション 金多潔名誉教授

discussion 高松伸 / 布野修司 / 竹山聖 / 平田晃久 / 松岡聡 / 大西麻貴+百田有希

松隈章 , 竹山聖 , 渡辺菊眞 , 伊勢史郎 , 大崎純 , 布野修司 , 古阪秀三

「これからの建築ジェネレーション」 essay

田路貴浩 , 伊勢史郎 , 布野修司 , 竹山聖

5

座談会:快感進化論書評

2004.06

l

112p

伊東豊雄

interview

石田泰一郎 , 竹山聖 , 大崎純 , 吉田哲 , 古谷誠章 , 布野修司 , 古阪秀三

discussion 「快感進化論書評」

2001.06

l

112p

座談会:大学論 松浦邦男名誉教授

discussion 「大学論」 essay

13

布野修司 , 高田光雄 , 竹山聖 / 山岸常人大崎純 , 石田泰一郎 , 井上一郎 / 宇野暢芳 , 古阪秀三 , 伊勢史郎

川上貢名誉教授

essay

布野修司 , 竹山聖 , 金多隆 , 瀧澤重志 , 甲津功夫 , 古阪秀三 , 大崎純

1

2000.06

interview

l

140p

座談会:大学論 横尾義貫名誉教授

discussion 「大学論」 essay

高橋康夫 , 山岸常人 , 大崎純 , 布野修司 , 古阪秀三 , 鉾井修一 他 , 石田泰一


編集委員

<『traverse――新建築学研究』創刊の辞>より

石田 泰一郎

布野 修司

京都大学「建築系教室」を中心とするメンバーを母胎とし、その多彩な活動を支え、表現す

伊勢 史郎

古阪 秀三

るメディアとして『traverse――新建築学研究』を創刊します。『新建築学研究』を唱うのは、

大崎 純

牧 紀男

小見山 陽介

三浦 研

竹山 聖

柳沢 究

言うまでもなく、かつての『建築学研究』の伝統を引き継ぎたいという思いを込めてのことです。 『建築学研究』は、1927(昭和2)年5月に創刊され、形態を変えながらも 1944(昭和 19) 年の 129 号まで出されます。そして戦後 1946(昭和 21)年に復刊されて、1950(昭和 25) 年 156 号まで発行されます。数々の優れた論考が掲載され、京都大学建築学教室の草創期より、 その核として、極めて大きな役割を担ってきました。この新しいメディアも、21 世紀へ向けて、

平田 晃久

京都大学「建築系教室」の活動の核となることが期待されます。予め限定された専門分野に囚 われず、自由で横断的な議論の場を目指したいと思います。「traverse」という命名にその素朴

学生編集委員

な初心が示されています。

M1

2000 年 4 月 1 日 The Beginning of "traverse" as the Rebirth of "Kenchikugaku Kenkyu"

岩見 歩昂 奥山 幸歩

Now, we, members of the School of Architecture at Kyoto University, start to publish the

加藤 安珠

"traverse---Shin Kenchikugaku Kenkyu" magazine, which will support our activities and represent

川部 佳奈

our research work. The name of "Shin Kenchikugaku Kenkyu", which means "New Architectural Studies", is derived from "Kenchikugaku Kenkyu", the former transactions of the School of

北垣 直輝

Architecture at Kyoto University, that started in May 1927 and continued to be published until

木下 真緒

1950 in spite of interruption during the wartime. "Kenchikugaku Kenkyu" had played important

小久保 舞香

roles to develop the architectural knowledge in the early period of the School of Architecture at Kyoto University. We hope to take over the glorious tradition of it. This new magazine is

齋藤 桂

expected to be a core of various activities towards the 21st century. To discuss freely beyond

三田 沙也乃

each discipline is our pure intention in the beginning, as is shown in the name of"traverse".

周戸 南々香 1st of April, 2000

中筋 晴子 編集後記

西田 造 原 健登

『traverse――新建築学研究』は、京都大学建築系教室の多彩な活動を支え、表現するメディ

松岡 桜子

アとして 2000 年に 7 名の先生方によって創刊されました。2021 年 9 月に行われました「竹

三嶋 伸彦

アとして、traverse という “ 種を蒔くことができた ” と仰っています。

山聖

京都大学退任記念講義」においても、竹山聖先生は京都大学から建築を発信するメディ

その種蒔きから 20 年が経ち、現在 traverse は計画系・構造系・環境系の様々な研究室の学

M2

生が分野を超えて議論を交わし、まさに京大建築系を横断するメディアという “ 実 ” になりつつ

久永 和咲

あります。特に今年度は、10 を超える研究室から過去最多の 15 名の学生が編集委員として参

前田 隆宏

それでも、議論の末に制定した「包むもの / 取り巻くもの」という包括的なテーマから、分野

加しました。編集委員の多さや多様さから、誌面の方向性を定める会議は至極難航を極めました。 を問わず様々な方に取材や寄稿を頂き、ここに 22 号を発行できたことに大きな意義を感じてい ます。 今後本誌が、さらに様々な人々を巻き込みながら、学内外の建築学生や建築に携わる方々に、 より有意義で親しみ深い機関誌として実を結んでいくことを願ってやみません。 最後にはなりますが、このような大変な状況の下、取材へご協力およびご寄稿いただきまし た皆さま、刊行にご尽力いただきました編集委員の先生方に、学生編集委員を代表して心より 御礼申し上げます。

traverse 22 © 2022 Traverse Editional Committee 編集・発行

traverse 編集委員会

School of Architecture, Kyoto University, Kyoto, Japan 〒 615-8540

京都市西京区京都大学桂 京都大学建築系教室

www.traverse-architecture.com traverse 編集委員会 2022 年 3 月 31 日

traverse22 学生編集長

原 健登


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