Koreana - Autumn 2013 (Japanese)

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秋 号 2013

韓国の文化と芸術

特 集 秋号m2013 n o . n3o . 2 sum er 2012vo l.vo20 l. 26

庭 と 庭 園 私の庭; 集合住宅の室内庭園、古民家の庭; いにしえの詩人の山水庭園

ISSN 1225-4592

v o l. 20 n o. 3

庭と庭園 韓国人の自然と向き合う暮らし方


発行人

柳現錫

編集理事

全南鎭

編集 金熒允編集会社

編集長

金鍾徳

ソウル市麻浦区西橋洞384-13

監修者

嘉原和代

Tel : 82-2-335-4741

編集諮問委員 裵炳雨

Elisabeth Chabanol

韓敬九

金華榮

金文煥

金英那

高美錫

宋惠眞

宋永萬

Werner Sasse

Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水2街274-34 Tel : 82-2-469-0361~5 Fax : 82-2-461-6798

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掲載された記事は筆者の個人的な意見で

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あり、『Koreana』や韓国国際交流財団の公

© 韓国国際交流財団2013 『Koreana』に掲載されているすべての記事 の著作権は韓国国際交流財団に帰属し、 著作権法により保護されています。 『Koreana』の記事を転載する場合には、 事前に『Koreana』編集室に電子メール (koreana@kf.or.kr) かFAX(82-2-3463-

式見解ではありません。 1987年8月8日文化観光部-1033で登 録された季刊誌『Koreana』はアラビア語、 インドネシア語、英語、スペイン語、 中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語 でも発刊されています。

6086)で転載許可を申請してください。 『Koreana』の記事を引用したり、非営利目 的で使用する場合にも『Koreana『からの 転載であることが分かるようにクレジッ トを明示してください。

韓国の文化と芸術 秋号 2013

http://www.koreana.or.kr

韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル

チ ャ ン ・ ウ ク チ ン( 張 旭 鎮 ) 『午後』 1985年、キャンバス・油彩、42× 32cm

庭園に対する韓国人の意識 コリアナの特集セクションは、世界中の読者の皆さんに「韓国の文化と芸術」

大阜島、礼山、牙山、論山、井邑、咸陽、良洞、清道など、全国五つの地域に

について観点を深く掘り下げた独特な内容をお届けします。読者のみなさんが、

散在する伝統家屋を訪問し、貴重な体験をしました。この三日間の旅のガイド

韓国とその人々が織り成す韓国文化への理解と関心を高めていただけるように、

を務めた曹全煥さんは韓国の伝統建築の大工として、「韓国伝統家屋の庭園」の

各分野の専門家たちが様々な視点から特集記事について話し合います。

記事の執筆者でもあります。

編集スタッフは各セクションごとに、テーマを熟考した後、編集委員会の承認

過密スケジュールの中、駆け足で廻った古い家々は豊かな歴史を内包しつつ、

を得るために、提案の中からトピックを選択します。その後、選定された執筆

創作された庭で風流に暮らす人たちの独創的なアイデアとコンセプトに一つ一

陣は、包括的かつ洞察力に富んだ創作活動の一環として、意見を交換し合い、

つ驚かされました。編集者一同は読者の皆さんに今回の取材訪問で得られた感

記事の焦点の概略をつかむための会議を開催します。また、特集に関連した現

動を記事や写真で楽しんでいただき、そして、我々の先人たちが残した豊かな

場調査と関係者へのインタビューのために編集者を含むグループツアーが頻繁

遺産を共有していただければ幸いに思います。

に企画されます。 今回の特集「庭と庭園 ‐ 韓国人の自然と向き合う暮らし方」の取材グループは、

日本語版編集長

金鍾徳


特集 庭と庭園

04 08 14 18 28 32 38

特集1

庭と庭園

韓敬九

特集2

私の庭

徐華淑

特集3

集合住宅の室内庭園

6

金裕卿

特集4

古民家の庭

曹全煥

特集5

ガーデンデザイナー、ファン・ジヘ 最も美しい庭園は、原始的な感性が息づいているところ

徐華淑

特集6

いにしえの詩人の山水庭園

24

許鈞

36 40 44

文化フォーカス

崇礼門の復旧とその後

金昶煕

インタビュー

アリラン研究家 キム・ヨンガプ

林鍾業

アート・レビュー

独立映画「Jiseul-終わらない歳月2」一個のジャガイモに込められた希望 ホ・ヨンソン

43

48 54 58

58

51

世界の中の韓国人

「音楽を通して世界を感受します」ジャズ・ボーカリスト ナ・ユンソン

徐鄭珉甲

韓国大好き

リトル・サイの母「息子の夢が私の夢です」 金大午 我が道

家族のルーツと、民族史を語る「族譜」 キム・ハクスン

62 64 68

遠くの目

丸森の町から―「3.11」 以降の暮しを考える グルメを楽しむ

マツタケその香りを食す

芮鍾碩

韓国文学の旅

暴力の解毒 魚秀雄 そんな、クンウォン(根源) 白佳欽

野本京子


[ 特集 1 庭と庭園 ]

庭と庭園 韓国の伝統的な庭園が、近代ヨーロッパの幾何学的な秩序に沿った庭園や、日本と中国のように精巧に構成された庭園と 全く異なる理由は何なのだろうか。それは居住空間の使い方が大きく違うためだと考えられないだろうか。 ハン・ギョング(韓敬九、文化人類学者、ソウル大学校自由専攻学部教授)| 写真 : 徐憲康

国人は伝統的に家を建てる際、隣国の日本人や中国人のよう

普通の韓国人は、広く美しく庭園を造るよりも、庭をすっきりときれ

に美しい庭園を造ろうと努力しなかった。貧しい庶民の家だ

いに保つよう努力していたようだ。

けでなく、権力者や富豪の大きな家も、表の庭は総じて何も植えな かった。小さな石ころや草などが一つもないように、土を押し固め て、きれいにならしていた。 もちろん、韓国に普遍的な概念の庭園がなかったわけではない。

もう一つの広い部屋 伝統的な家屋「韓屋」において庭は、家の顔でもあった。チェ・ ミョンヒ(崔明姫)は小説『ホンブル(魂の火)』で「裸足で歩いても土

潭陽の瀟灑院や甫吉島の芙蓉洞(特集5を参照)など、哲学的・象徴的

が付かないほど、滑らかで固い」庭の話をしている。「顔でも洗った

に奥深い意味を持つ美しい庭園は、今でも朝鮮時代の庭園文化のレベ

ように、すべすべに」掃き掃除されているためだ。ソ・ジョンジュ

ルの高さを物語っている。だが、そうした庭園はむしろ例外といえる。 (徐廷柱)が『チルマジェ神話』で歌った「春香の顔にも劣らないほど、

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韓国の文化と芸術


滑らかで芳しい」庭の部屋(部屋のように使われる庭との意)は、床 暖房のオンドル部屋や板の間と共に、韓屋を構成する重要な要素

咸陽にある鄭汝昌古宅の舍廊マダン。ほとんど何もなく視野が開けており、 高殿の下の築山など一部のみ趣向が凝らされている。

だ。 移行の空間であり緩衝の空間でもある庭は、季節によって、ある

あった。婚礼があれば結婚式場になり、家族に不幸があれば弔問客を

いは家の大小様々な催しによって、時には外になり時には中になって

迎えたのも庭だ。旧暦1月15日に太鼓や銅鑼を打ち鳴らし、家の土地

多彩な機能を果たした。子供の遊び場になり、作業の場にもなり、祝

を守っている地神を祭る「地神踏み」の儀礼は、庭で行われる「庭踏み」

い事や祭祀があれば日よけを張って部屋のように使われた。山菜や唐

でクライマックスを迎えた。クッ(巫女の儀式)に集まっていた雑鬼を

辛子を干したり穀物を積んでおき、夏には家族が集まって夕飯やス

送り返す最後の儀式が行われたのも庭だ。

イカを食べ、話を交わしているうちに横になって眠ってしまうことも K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

このように庭は、仕事の空間であり、遊びの空間であり、憩いの

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都会で暮らす現代の韓国人は、自然を家や公園にはめ込む必要を切実に感じているようだ。 家の中や外のあらゆる空間を利用して自然を身近に育もうという工夫が、 どのマンションでも見られる。

空間であり、祭儀や祝い事の空間であり、時には生産と貯蔵の空間で

なかった。また、自然を縮小・模倣して、はめ込んでおく場所でもな

もあった。それほど多くのことが行われて多彩な役割を果たしたた

かった。一言で言うと、庭は庭園でなかったのだ。ただし、塀のわき

め、何かが行われている状況や空間も、庭を意味する「マダン」と呼ば

や母屋の後ろに、小さく美しい花壇を造ることはあった。裏庭に菜園

れるようになった。パンソリ(伝統歌唱)やタルチュム(仮面劇)などの

を造り、野菜を育てることもあった。

段(場面)を数える単位にも使われている。また、器用で顔の広い人を 「マダンバル(足)」と呼ぶこともある。

韓国人は、なぜ庭園にあまり熱を入れなかったのか。支配階層の 贅沢を厳しく規制・批判していた儒教の教えのためだろうか。あるい は、木や花が自然のまま育って咲くことを好み、人為的に切ったり

空けておく空間 このように見ると、韓国人にとって庭は、必ずしも家の外部では

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曲げて形作ることを嫌ったのだろうか。韓国の伝統的な庭園が、近代 ヨーロッパの幾何学的な秩序に沿った庭園や、日本と中国のように精 韓国の文化と芸術


もしれない。家の外に少し出れば美しい景観がいくらでも広がってい たため、あえて自分の家に庭園を造る必要がなかったのではないだろ うか。住居や農作業に使える空間を大きく減らしてまで、人工的な自 然を作って独占するよりも、景色の良いところに庵を結んで自然を楽 しむことを選んだのではないだろうか。 ソウルは19世紀末まで人口が20万人ほどで、周りは全て風光明 媚な山と森に囲まれていた。貧しくて力のない庶民も、裕福で権勢 をふるった両班(支配階層)も家から山を眺め、家を出て少し山に 登れば澄んだ水の流れる渓谷もあった。このように簡単に楽しめる 景色がすぐそばにあるため、家に庭園を造るよりも、庭という空っ ぽの空間をつくって余白を楽しみながら暮らしたのではないだろう か。

庭から庭園へ しかし現代の韓国人は、そうした余裕を持てなくなった。ソウル の人口は1千万人に上り、韓国の都市化率は80%を超えている。多く の人が急に都会に集まって住むようになり、都市が膨張して自然が次 第に遠のいたため、韓国人は遅まきながら家や都心に小さな自然の一 部でもはめ込もうと必死になっている。 産業化によって生産・貯蔵・作業の空間としての意味を失った庭 は、急速に庭園へと姿を変えていった。伝統的な韓屋の愛好家は、強 い日差しが照り付ける空っぽの庭こそ、家の中をやさしく照らす間接 照明の効果があり、裏庭の涼しい空気を引き寄せる温度調節の効果も あると主張する。だが都会の主婦は、芝生や花や木を植えて庭造りに 余念がない。こうして韓国の都市では、それぞれの家でミニ庭園が美 しく生み出されている。 だからこそ庭のある家は幸せだが、かなりの数の韓国人は、利便 性を求めて庭のないマンションに住んでいる。ソウルは人口の50%、 大田と釜山は60%以上の人が、マンションなど集合住宅に住んでお り、多くの家で思い思いにミニ庭園を造っている。ベランダは植木鉢 でいっぱいで、時には廊下、階段、玄関まで植木鉢があふれている。 忠清南道・牙山にある建斎(イ・サンイク〔李相翼〕、1848~1897) 古宅のアンマ ダン。アンマダンは基本的に家事の空間。コンノン房の前(写真左)にある縁側 に座ると、目に映る塀のそばに木や花が植えられている。台所の前には石臼と 井戸。縁台には唐辛子が干されている。

少しだけ注意を払えば、マンションの間の花壇にも、誰かが丹念に手 入れした跡をたやすく見付けられる。 昔の韓国人は、家の空間は庭として空けておいて、山や川を訪れ て自然を楽しみながら暮らした。しかし、都会で暮らす現代の韓国人 は、自然を家や公園にはめ込む必要を切実に感じているようだ。家の

巧に構成された庭園と全く異なる理由は何なのか。ひょっとすると、

中や外のあらゆる空間を利用して自然を身近に育もうという工夫が、

稲作に基づいた経済では、大きく華やかな庭園を作れるほど、富を蓄

どのマンションでも見られる。空間を空けておいて余白を楽しんだ先

えることが難しかったのだろうか。

人の知恵が、そうした流れの中で意味のある役割を果たすよう期待し

むしろ、空間の使い方が大きく違うためだと考えた方がいいのか K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

たい。(翻訳:坂野慎治)

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[ 特集 2 庭と庭園 ]

私の庭 多くの働く女性のように、私もとても慌しく生きてきた。忙しく駆け回ってきた中で 「人生で最良の選択は?」 と聞かれたら、 子供を3人産んだことと、この家を買ったことだと答えるだろう。我が家の庭は、春から秋まで花が咲いては散っていく。 ソ・ファスク(徐華淑、韓国日報選任記者)| 写真 : 安洪范, 河志權

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韓国の文化と芸術


は、ソウルの付岩洞で一戸建ての家に住んでいる。 付岩洞は、朝鮮王朝の正殿・景福宮の裏手にあり景色が美しいため、官吏が別荘を

建て、女官は渓谷で洗濯をしていた場所だ。宮廷の味噌玉麹も、ここで作られたという。北岳 山には朝鮮の首都・漢陽の境界になる城壁があり、そのふもとに渓谷があったため、澄んだ水 でつくった紙を王室に献上する官庁もあった。また、漢陽に入る四小門の一つ紫霞門(正式に は彰義門)は、今でも朝鮮時代の姿そのままに残っている。 景福宮の上に青瓦台(大統領府)があるため、付岩洞は青瓦台の裏手に当たる。北朝鮮の武 装工作員が1968年、パク・チョンヒ(朴正煕)元大統領の暗殺を狙って青瓦台への侵入を図り、 警察と銃撃戦を繰り広げたのもこの辺りだ。ソウルの旧都心・光化門まで徒歩で30分。 2007 年にここで撮影されたドラマ『コーヒープリンス1号店』が日本、台湾、香港、タイ、フィリピ ン、マレーシアで人気を呼び、地図を片手にした外国人をよく見かける国際的な地区でもある。 ソウルが近代化し、どこもかしこも急速に高層ビルが建てられたが、この一帯は急勾配の 丘にあるおかげで難を免れた。ソウルではとても珍しいことに、低層の集合住宅や一軒家を中 心に街が形作られている。さらに、どこからでも少し歩けば、渓谷があり山がある。そのため、 長い間「ソウルらしくないソウル」と呼ばれてきた。 海抜190メートルで気温も低い。去年の冬、ソウルの気温が氷点下17度ほどになったとき、 ここは氷点下20度以下だった。平均的にソウルの都心より2度は低い。冬は寒くて家は古い ため、家の値段が安い場所でもある。

庭のある家を夢見て 江原道の田舎で生まれて、7歳でソウルに来た私は、韓国の社会の変化に合わせるように、 ごく平均的な住宅で暮らしてきた。ソウルに来たとき、日本の統治下で大量に建てられた改良 韓屋(都市型伝統家屋)に住み始めた。その後、丘の上の貧しい村で、急ごしらえのとても小さ な平屋に住んだ。 1970年代の中ごろ、急に増え始めた2階建ての一軒家に住んだが、敷地の ほとんどを建物が占めていて庭など許されるはずもなかった。 1983年には高層マンションに 引っ越した。それから2007年末まで地域は違っても、2年を除けばずっとマンション暮らし だった。2年を除く理由は、次の通りだ。 マンションは、ソウルで最も一般的な住宅だ。だが、いくら長く住んでも、私はマンショ ン暮らしになじめなかった。マンションは、家でなく寝るだけの場所に感じられた。土を踏ん で花を育てる庭のない家は、私にとって家ではなかったのだ。 知人は皆、マンションで幸せに暮らしていた。そればかりか、庭のある家に引っ越すと言 うと、必死になって止めさせようとした。管理が大変で苦労する上に、一戸建ては売ろうにも 売れないから、そのときになって後悔するなどと、怖くなるような話もした。結局30歳代半 遠く北漢山が夕暮れに染まる頃、付岩洞の隣人 と自宅の裏庭に座っている筆者ソ・ファスク氏 (写真中央)

ばに、家を買わずに保証金を払うチョンセ(伝貰)で借りて、庭のある一軒家に2年間住んだ。 そうしてみて、気に入れば一戸建ての家を買うと審査してみたわけだ。子供たちが幼い頃の話 だ。 その結果、やはり気に入った。マンションに住んでいたときは、テレビかゲームばかりだっ た子供たちが、庭に飛び出していった。土を掘ってくぼみを作り、木の枝を集めて焚き火をす る。子供たちと外のかまどでジャガイモを焼いて食べる。冬になれば、下の家に続いている斜 面でソリに乗る。しかし、そんな生活は長く続かなかった。韓国がアジア通貨危機に見舞われ

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て夫が失業し、私名義のマンションと賃貸の一戸建てを同時に保有す る余力がなくなったため、マンションに戻ったのだ。

う。我が家の庭は、春から秋まで花が咲いては散っていく。 私は、冬の週末には遅くまで寝ている。だが春になると、知らず 知らずのうちに朝早く目が覚める。早く庭に出たいからだ。夜になる

庭のある家で暮らす楽しみ

と、庭を放っておいて眠るのが惜しいくらいだ。それなら、庭で特別

私は、家らしい家で暮らせない未練を、一戸建てを買うために家

なことでもしているのか。そんなことはない。ただあちこち歩き回っ

を見て回ることで晴らした。本当に買うわけではないが、あたかも購

て、昨日とは違って今日も変わっていく花を一つ一つ観察するくらい

入するかのように不動産屋を訪れては、売りに出されている家を見て

のものだ。新しい芽が出ていたり、つぼみが付き始めると、その前に

回ったという意味だ。もちろん、値段さえ合えば買っていたかもしれ

しゃがみ込んだまま、かなりの時間を過ごす。そうした後、芝生に生

ない。だが見て回る家々は、思ったより高かったり、6人家族が住む

えてきた雑草をとって、勢いのありすぎる木や花をうまく調節する。

には手狭だったりした。仕事をしながら細切れの時間に、会社から近

天気予報が午後、雨が降ると言うと、木を移して種をまいたりする。

い景福宮のそばの様々な街を見て回った。高層ビルが立ち並ぶ江南

半日陰で育てるものを日なたに出していたことを後になって気付いた

(漢江以南)とは違い、1970年代以前の風景が残っている古びたその

ら、位置を変えることもある。 50坪余りの空間で毎日見る草木なの

地区が、私の情緒に合っていた。

に、日ごとに新しくて面白い。

そのように景福宮の周りで家を探しあぐねて、北岳山を越えて付

我が家の庭園は北漢山まで 韓国の伝統的な庭園は、別荘の場合、渓谷

花をあげるから、花見をするから、あるいは何の理由もな

のある自然をそのまま模写したものに近かっ

く、庭に人を呼ぶようになる。マンションに住んでいると、

た。だが民家の場合、草一つないほど庭を毎

隠しておきたいプライベートな空間まで見せる覚悟がなけ

日きれいに掃き掃除して、塀の近くに梅、竹、

れば、人を呼ぶことは難しい。だが、庭はプライベートな

ボタン、ザクロ、ワスレナグサ、あるいは果 実の木を何本か植える程度だった。しかし、

領域でありながら、住宅の内部のように密かな空間ではな

その何本かの木には意味が込められていた。

い。庭があるおかげで、気軽にご近所さんを招待できるよ

梅や竹はソンビ(学者)の気概を象徴し、ボタ ンは富貴を、ザクロは多産を、ワスレナグサ

うになった。

は男子の誕生を象徴していた。ソンビの仕官 を表すエンジュ、兄弟の友愛を象徴するサル

岩洞まで来たのは、前にも話したように当時はそこがソウルの都心で

スベリを門の近くや家の外に植えた。そして、民家には必ず菜園を

最も家の値段が安かったからだ。私の持っていたお金に少しだけプラ

造った。儒教を重んじた朝鮮時代には、本読むだけでなく汗を流して

スすれば、大きな庭のある家を手に入れることができた。そうして、

働くことも、ソンビが毎日心を磨くためにすべきことだった。別荘で

1977年に建てられた庭のある家に住み始めたのだ。

はなく民家では、庭園は見ほれるほど美しい存在でなく、淡々とした

我が家は、冬になると室内でもコートを着るほど寒い。最初の頃

実用の空間だった。

は、冬でも半袖で過ごしていたマンションと比べて、野戦のテントの

我が家の庭は、韓国の伝統的な庭園ではない。私が夢見てきた大

ように感じられた。隙間風がヒューヒューと吹き込む窓を新しく入れ

好きな庭は、そうした儒教様式の淡々とした庭園でなく、幼い頃に見

替え、カーテンも付けたため、少しは良くなった。それでもいまだに、

た物寂しい丘に華やかな花があふれる中国風の庭園を合わせたもの

こちらの一戸建てはマンションと比べて季節に温度差があるようだ。

だ。そのため引っ越してから6年間、少しずつ庭を変えていった。華

冬は都心より1カ月早く来て、春の花は都心より半月は遅く咲く。家

やかな花は植えたが、奇岩怪石は避けた。物寂しい丘に似せるため、

が寒いということは、冬の暖房費がとても高くなることを意味する。

駐車場の上の盛り上がった場所に高麗芝を植えた。いや、元からあっ

それでも気に入っているのだ。どうしてこんなに気に入っている のか、不思議なくらいだ。「人生で最良の選択は?」と聞かれたら、子 供を3人産んだことと、この家を買ったことだと、迷わず答えるだろ

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1, 2 ソウル明倫洞にある韓戊淑文学館の庭。小説家の故ハン・ムスク氏が40年 間、執筆した家で、典型的な近代韓屋の狭い四角形の庭が見える。 韓国の文化と芸術


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た芝を生き返らせたのだ。 この家を1977年に建てた最初のあるじは、おそらく庭園の好みが 私と似ていたようだ。家を中心にして、庭の東側に八重桜、西側にア

は本来、あまり手を加えず、遠くに見える自然をありのまま借りてき て庭園に取り入れる「借景」が重要な概念だ。借景の観点からすると、 我が家の庭園は、遠くに見える北漢山まで含まれている。

ンズを植えた。春になると、ピンクの花が雲や夕焼けのように華やか に咲く木だ。庭には芝を張り、ボタンとシャクヤクをふんだんに植え

庭園造り

たという。当時の様子を知るご近所さんの話だ。その間には、白いモ

家を買った夏から翌年の冬に引っ越すまで、私は空き家によく立

クレン、赤いボケ、薄紫のチョウセンヤマツツジも植えられていたそ

ち寄った。そうして、庭園に手をかけた。表の庭の雑草をとり、座布

うだ。

団くらいの大きさの芝から一つ一つ抜き取っては、針仕事でもする

しかし、最初のあるじが事業に失敗した後、1996年にこの家に住 み始めた二番目のあるじは、裏庭の芝生をセメントで覆い、ゴルフ

ように空いている場所に植えていった。水をよくやって数カ月過ぎる と、芝が放射状に伸びて庭に広がった。

ボールを叩き込むビニールテントの練習場を造った。表の庭の芝も手

ある日、表の庭の盛り上がった場所に座っていると、芝生と雑草

入れがされず、門のそば以外は枯れた状態で、私はこの家を買い取っ

が絡まっている間から、根元から切られた太い木が見えた。不思議に

た。木は枯れてはいなかったが、庭はほとんど干上がって、オオバコ

思って揺さぶってみると、腐った根ではないようで抜けはしなかっ

などの雑草がちらほら見られるほどだった。ボタンもシャクヤクもな

た。その翌年の春、そこからボタンが伸びてきた。その年の夏、枝が

く、ユスラウメは芽が出ずに干からびた枝だけが残っていた。

干からびていた庭の西側の木は、みずみずしくなって白い花を咲かせ

それでも、庭が広くて古い木がたくさんあるだけで、私はうれし

た。ユスラウメだ。門につながる道のシャクヤクも、茎が伸びてき

かった。裏庭に出れば、北漢山が一望できた。北漢山よりも近くある

た。不思議なことに、自分を大切にしてくれる人の呼びかけに、植物

小さな丘は、春になると山桜の薄桃色に染まる。韓国の伝統的な庭園

が答えているようだった。 庭ができると、花をくれる人もたくさん現れた。ある人は取りに

1 ソウル平倉洞にある住宅の庭。北漢山の岩を自然の塀としている。2 驪州に ある住宅の庭。老夫婦が菜園の手入れをしている。3 群山にある住宅の庭

来なさいと言って、車のトランクいっぱいに乗せてくれ、ある人はト ランクいっぱいに載せてきて植えてくれた。路地の入り口にある空き

© Womansense

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韓国の文化と芸術


地を庭のように手入れしていた雑貨屋の店主は、その空き地がソウル

に人を呼ぶようになる。マンションに住んでいると、隠しておきたい

市の都市計画によって駐車場になるため、そこにあったボタン、シャ

プライベートな空間まで見せる覚悟がなければ、人を呼ぶことは難し

クヤク、黄色いドイツアヤメを我が家の庭に植え替えてくれた。植物

い。だが、庭はプライベートな領域でありながら、住宅の内部のよう

同好会の集まりで花の種をもらってきて、増やしたものも多い。私の

に密かな空間ではない。庭があるおかげで、気軽にご近所さんを招待

父は、故郷の庭にあったラッパ水仙を持ってきてくれた。花の市場で

できるようになった。

買ってきたものもある。

また、庭は個人にとって瞑想の空間だ。ロバート・ルイス・ス ティーヴンソン(1850~1894)からヘルマン・ヘッセ(1877~1962)、

草むしり瞑想

ダイアン・アッカーマン(1948~)まで、時代も国も性別も違う作家

ある花は夢のように美しい姿を見せて、2年で消えてしまい、あ

が、草むしりの中毒性をそろって認めている。庭の手入れをしたこと

る花は毎年、困るほど増えていった。ある花は日陰で枯れかけていた

がある人なら、座ったまま何時間もつらい労働を強いられる単純な作

ところを日なたに移したら、息を吹き返した。焼け付く日差しや厳し

業が、時間の経つのも忘れるほど面白いことを知っているだろう。そ

い冬に耐えられず、消えてしまった花もある。ノイバラとサンシュユ

の間、一つの事柄について何度も反芻を続ける中で、ついには悩みが

は、鳥がついばんでくれたおかげで、庭のあちこちに生い茂っている。

ふっと消えていく神秘的な経験を誰もがしたはずだ。庭を歩いては立

増えすぎた花は、ご近所さんにおすそ分けする。厳しい冬に耐えて春

ち止まって植物を観賞し、また歩き出すという単純な散歩によって、

に花を咲かせると、ご近所さんと元気に育っていることを伝え合う。

聖地巡礼のように人生が浄化されるという経験も、庭の手入れをした

珍しい花が咲けば、ご近所さんを庭に呼んで花見をする。一緒にご飯

人なら珍しくないだろう。

を食べて、お酒も進む。

韓国の伝統的な信仰・巫俗(シャーマニズム)では、人が死ぬと、

庭があることの良さは、誰かに何かをあげたりもらったりする点

魂が花に乗って花に囲まれた世界へ向かうとされている。そうなの

だ。私にとっては、あふれかえる命を分け与えることなので、贈る側

だ。私たちの魂が望んでいるのは、そのように美しい世界なのだ。だ

も受け取る側も心が軽くて楽しい。

からこそ、生きている間に庭を造らない理由などない。(翻訳:坂野

花をあげるから、花見をするから、あるいは何の理由もなく、庭

慎治)

© Womansense

3

K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

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© Womansense

マンションの最上階に住むこと で、屋上に造った庭。メゾネット (2層式)のマンションの2階にあ る小さなドアを開けると、秘密の 庭園が広がっている。

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韓国の文化と芸術


[ 特集 3 庭と庭園 ]

集合住宅の室内庭園 キム・ユギョン(金裕卿、ジャーナリスト)| 写真 : 安洪范

を育てるのが趣味で人生の一部だという人は、集合住宅に住んでいても諦めることはな い。熱心に鉢植えを育て、ベランダに庭園を造って、狭くて特色のない空間を自分だけの

ものにしていく。 「朝、目を覚ましてすぐに目にする花が、幸福感を与えてくれます」 「四季の変化を鉢植えから感じます。春に芽が出る時期と、秋に葉が落ちる時期は、とりわけ 良いですよ」 高層マンションやアパートなどで100以上の鉢植えを育てている主婦チョン・ヨンオク(全英 玉)さんとイ・ギュヒ(李揆姫)さんの話だ。二人にとって鉢植えは、家族のように身近な存在で、 世話をすべきパートナーだ。鉢植えに囲まれた屋上の庭園にパラソルを広げて座り、都会の風景 を見晴らすひと時を、家族も楽しんでいる。 マンションなど集合住宅で花を楽しむなら、植木鉢が動かしやすく手入れも簡単だ。そのため 花が咲く時期にだけ、つぼみの付いた小さなプラスチックの植木鉢をいくつか家に置き、枯れれ ば捨てて植物を消費する人もかなりいる。だが、いくらマンションでも、花ばかり見ていては飽 きやすい。植物を育てるのは、単に花を鑑賞するだけでなく、長い間世話をして、その美しさが 次第に完成していく姿を追求することだ。 植木鉢の美的な要素も無視できない。そっけない植木鉢に植えられていた植物も、見栄えの良 い観賞用の植木鉢に植え替えると、これまでとは違って素敵に感じられる。しかし、焼いたばか りの陶器の植木鉢は、寒い冬が一度過ぎただけで簡単に割れやすくなる。そのため、植物に合っ た丈夫な植木鉢を探しているうちに、だんだん目が肥えてきて、植木鉢に贅沢をすることもある。 鉢植えの手入れは、決して優雅なだけではない。鉢植えにかける手間は、小さな庭と変わら ない。手をかけずにおのずと得られる花など当然ない。春が始まる直前の鉢替えなど土の管理、 病虫害対策の薬、肥料、そして枝の剪定など植物の形を美的に完成させる努力ま で、一年を通し て世話する必要がある。例えば、きれいなマンションのベランダだとしても、夜中の2時から3 時ごろ鉢植えにそっと近付いて、その時間になるとどこからか這い出してきて新芽を食べるナメ クジを退治しなければいけない。さもないと、葉の汁が吸い取られて花も食べられ、体裁が悪く なってしまう。 「草をとって、新しい土で鉢替えして…。そんなことで、都会のちっぽけな悩みが消えていき ます。そうして咲かせた気品のある美しい花の存在感が、好きなんです」 「いっときでも自然と共生している喜びがあります。絶望に陥ったとき、希望に気付かせてく れた花なんですよ」 K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

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「草をとって、新しい土で鉢替えして…。そんなことで、都会のちっぽけな悩みが消え ていきます。そうして咲かせた気品のある美しい花の存在感が、好きなんです」。「気に 入った植木鉢に、この手で咲かせた美しい花は、妻へのラブレターみたいなものですよ」

© Womansense

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韓国の文化と芸術 4


1 都心で最上階に住むキム・ジョンスン氏の屋上の庭 2 マンションの1階に住んでいるため自由に使える庭を 立派な庭園に仕立て、周りの人たちと共有しているカ ン・ヨンシム氏 3 韓国工芸デザイン文化振興院 (KCD F)のギャラリーのベランダ。ガーデンデザイナー、ソ・ スヒョン氏によるデザインで、狭い空間がプランター で美しく彩られている。 4 ソウル杏堂洞にあるベセル幼 稚園の屋上の庭。子供たちの自然学習の場として設け られている。

「この鉢植えの前に立っているだけで も、とめどなく心が安らぎます」 趣味で花を育てている主婦は、その 気持ちをこのように表現している。しか し、花は必ずしも主婦だけのものではな い。花の属性も、一概に女性的だとはい えない。「気に入った植木鉢に、この手

で咲かせた美しい花は、妻へのラブレターみたいなものですよ。妻は、気付かないふりをするこ ともありますが」と話すキム・ジョンフンさんのような事業家もいる。木への知識欲が旺盛な会 社員、花が好きな軍の将校もいる。 去年亡くなった建国大学のチェ・ビョンチョル(崔丙喆)教授のヒョリム植物研究院は、そうし た人たちが集う場所になっている。そこには、フィールド植物学の大家・チェ教授が40年余り育 ててきた盆栽が数百もある。樹齢600年以上のイチイをはじめ松やスズランなど、美しくも厳か な生命力を感じさせる盆栽は数え上げたらきりがない。そこではチェ教授が生前、時おり特別講 義を行っていた。チェ教授の講義は、盆栽に関する様々な知識や手入れの方法だけでなく、植木 鉢の選び方、木を見る審美眼などを扱っていた。その講義が美しさの持つ力に気付かせてくれた ことを、多くの人が今でも覚えている。 保育所のチョン・ヘスン(全海順)所長は数年前、偶然そこに立ち寄って、年輪を重ねてきた盆 栽に感動し、保育所で様々な鉢植えを育て始めた。チョン所長は最近、都会の子供たちに花を見 せ、さらには森を見せることに力を入れている。 チェ教授から学んで「鉢植えの植物が、大衆的なレベルを超えて、芸術の域に達することを知っ た」と話す主婦のユ・ジョンス(柳貞守)さんは、これまで育ててきた300の鉢植えで70歳記念展示 会を開いた。女子高の同窓生は、植木鉢に囲まれたユさんをうらやんだ。 マンションのベランダ全体を大きな植木鉢のようにして、庭園を造っている家もある。マン ションの1階に住むカン・ヨンシム(姜年心)さんは、1階なので自由に使える庭以外にも、ベラ ンダまで庭園にしている。日当たりが良くないため、タイルの上に排水シートと(土が流れない ように不織布で覆って)土を敷き、半日陰の浅い土でも育つ植物を植えて、鉢植えも置いた。壁 にも古木を輪切りにしたものに、ランやテイカカズラなどを 糸でくくり付けてあり、まるで緑の トンネルのようだ。居間からは、ベランダとその向こうの庭まで続く緑が、波のように目に飛び 込んでくる。 しかし、旅行のときだけは、その鉢植えがわずらわしく感じられる。家族がそろって長期間家 を空けるときは、お隣に決められた時間に水をやるようにお願いしなければいけない。 最上階に住むキム・ジョンスン(金正順)さんは、2坪ほどのベランダと屋上の庭園に、春から 夏まで花を咲かせ続けている。ベランダは天井までガラス張りなので日当たりが良く、様々な植 物が植えられている「花の持つ全ての色とそれぞれの形を楽しんでいる」と言う。水道の蛇口の前 には、骨董品の石臼と水がめを置いた。はしごやいす、空中の洗濯ひもが、バラ、ゼラニウム、 ライラック(ミスキム種)、アジサイなどの花と、画面の中に溶け込んでいる。屋上に植えたチシャ やセキチクは、ハクサイほどの大きさに育った。「花屋さんに行くと、新しく植えたいものが必 ずあるんです」。そうして庭は、枯れては生まれる植物によって少しずつ姿を変えていく。(翻 訳:坂野慎治) K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

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[ 特集 4 庭と庭園 ]

古民家の庭 私は、家業を継いだ5代目の韓屋大工だ。20年余りの間、全国に残っている韓国の古い家を足しげく 訪ね歩いた。私の目と心が、木にばかり奪われているわけではない。私のあくなき韓屋巡礼は、 ある日山寺の庭で得た驚くべき悟りとともに始まった。 チョ・ジョンファン(曹全煥、大工、利然韓屋代表)| 写真 : 安洪范, 徐憲康, 河志權

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浮石寺は独特な構造で、天王門か ら無量寿殿まで9段にわたって敷 地がある。写真右は、その7段目 にある安養楼と庭

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95年の台風が通り過ぎた翌日、私は慶尚北道栄州にある浮石寺を初めて訪れた。大雨で道が途切 れ、靴を手にして尾根を伝っていくと、寺院の境内に入る第一の門・一柱門が姿を現した。その

門をくぐって振り返ると、視野が暗い山でさえぎられて圧迫感を覚えた。

浮石寺の九つの庭 多少険しい山道をしばらく歩いて息が上がる頃、第二の門・天王門が現れた。階段を上りながら、天王 門越しに見える風景は、まだ高い石垣だけ。だが振り返ってみると、一柱門から見た圧迫感のある風景で K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

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はない。山との距離ができ、山の大きさをある程度把握できた。一息ついて、また上っていくと、眼前に 横たわる美しい石垣の中に階段が見えた。その階段を上って、もう一度振り返ると、暗い山はどこかに消 えて空がひらけている。前方には、四つの仏具(法鼓、雲版、魚板、梵鐘)がかかっている梵鐘閣のそばに、 仏様が鎮座する無量寿殿の屋根が見え始めた。梵鐘閣を通って、また階段を上り、安養楼を過ぎて、さら に階段を進む。すると、雄大な無量寿殿が突然、目の前に姿を現す。振り返ると、大雨でちり一つなく澄 み渡った小白山脈の全景が一望できる。私は、雷にでも打たれたような衝撃を受けた。それまで経験した どんな建築物とも比べられない、生きた建築物に出会ったのだ。私はその衝撃によって伝統的な家屋「韓

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1 牙山・外岩マウルにある松禾宅 の門から舍廊チェへと続く通路。 朝鮮後期の両班の庭園の中で最も 自由奔放に構成されている。 2 礼山にある秋史古宅のアンマダ ン。伝統的な韓屋の四角い庭は、 風や雨、太陽の熱などを手なずけ る装置の中心

屋」を本格的に勉強しようと決心し、日当15万ウォンの現代建築の大工仕事をやめて、景福宮の復元現場で 3万8千ウォンの仕事を始めた。 数年後、その日の衝撃が偶然ではなく、千年以上という遠い昔に理性的に構成された結果だと知った。 浮石寺は、斜面に9段にわたって敷地がある、独特な構造をしている。天王門から無量寿殿まで三つの庭 があり、それぞれが三つに分けられて、異なった意味を持つ九つの庭になっている。参拝者は、その庭を 通る108の階段を上りながら、心を磨いていく。煩悩にさいなまれる衆生が仏様のいる理想郷に向かう魂 の論理的な過程、急斜面を上る体の物理的な過程、そしてそれぞれの段階ごとに新たに飛び込んでくる自

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然の風景、そうした三つの要素が複合的に作用する三諦の構造だ。私は今でも毎年1~2回は浮石寺を訪 れるが、峰の位置と角度を変えながら小白山脈を寺院の庭に取り込む絶妙なお堂の配置を、行くたびに再 認識させられる。無量寿殿までの私の心の風景、体の状態、そして大自然の変化が、常に新しい関係を作っ ていると実感するためだ。

東屋と高殿 思想と感性と機能が複合的に作用して造られたという点は、15世紀の隠居した儒学者らの別荘や園林も 同じだ。特に朝鮮王朝への協力を拒み、世俗を離れて故郷へ戻った高麗の忠臣チョ・スンスク(趙承粛)と チョン・シンミン(全新民)が隠居した咸陽の教授亭と潭陽の独守亭は、後に徳裕山と無等山のふもとに多 彩な東屋文化を発展させ、今に伝えられる朝鮮の士大夫(両班、支配階層)の代表的な庭園・瀟灑院という 名園を誕生させた。そうした東屋文化は、住居建築にも積極的に取り入れられ、舍廊チェ(夫の住空間)の 高殿という形で今も受け継がれている。 例えば、咸陽の介坪マウル(村)にある鄭汝昌古宅の高殿を見てみよう。性理学の講論が行われ、国の大 事・小事について議論された舍廊チェの東側にある高殿は、庭の築山をめでることができる最も良い位置 にある。その築山は、現代の韓屋がモデルにするほど典型的なものだ。塀のそばに植えた2本の曲がった 老松は、高殿に日陰をつくる。このように高殿は、客人のもてなし、自然を詩歌にうたう吟風弄月のため の「室内の東屋」として機能した。反面、舍廊マダン(舍廊チェの前の庭)には、ほとんど何もなかった。

自然との節制された交感 昔の人は、生活の地を決めるとき、第一に山容と川の流れを考えた。人と大自然が主体と対象の関係で なく、共存の関係だと基本的に考えていたからだ。そのため、山の形状から感じる心象を重要視し、家の 方向を決めるとき、そして部屋の窓の位置を決めるときに主な判断基準とした。その家の要となる場所に 座ると、複数の窓からそれぞれ違った風景が目に飛び込んでくる。その風景は、塀の中の近景と塀の外の 遠景、そして部屋の中の内景が、おのおのの意味をもって構成しており、心象と関係している。遠景は、 大自然なのでそのまま手をつけず、窓の方向と大きさによって取り入れる範囲を調節した。近景は、塀や 煙突など住居の機能として必要なものを適切に装い、樹木や石、草花などを配して造園した。そうした造 園の要素も、目に見える美しさだけでなく、それぞれの意味が重なり合って作用している。都心に家があっ たり、そうした景色をつくるのに限界がある場合、山水画を描いて壁にかけたり、怪石などをあしらったり、 築山や池を庭の一部に配置した。

その家の要となる場所に座ると、複数の窓からそれぞれ違った風景が目に飛び込んでくる。 その風景は、塀の中の近景と塀の外の遠景、そして部屋の中の内景が、おのおのの意味をもっ て構成しており、心象と関係している。 22

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論山にある明斎古宅の舍廊チェと 高殿。庭だけでなく村全体を一望 できる。

自然を最も積極的に家に取り込んだ例としては、慶州の独楽堂を挙げられる。 16世紀の朝鮮の優れた性 理学者イ・オンジョク(李彦迪、1491~1553)が政治的な問題で官職を退き、「一人で楽しむ家」という意味 で「独楽堂」と名付けて過ごした場所だ。紫玉山から流れ出す谷川のそばに家を建て、塀を重ねて外部から の出入りを防ぎ、奥に渓亭を建てて谷川の水と生い茂った森を積極的に家に取り入れた。まさにそこで中 国の性理学とは異なる韓国的な性理学の基礎がつくられ、イ・ファン(李滉、イ・テゲ=李退渓)に継承さ れて朝鮮性理学の大きな軸となった。厳密に構成された庭から渓亭を通して、絶えず揺らめく野生の庭園 を眺望できる家の構造は、気より理を重視する主理的性理説の思想体系とどこか似ている。このように500 年以上過ぎた今でも、その家を建てた人の考えを読み解くことができるのは、変化する自然と人間が関わ り合う方法を織り込んでいるからだろう。 興味深いのは、瓦を重ねた高い塀で囲まれた断固たる姿に、小さな転換を与えている格子だ。渓谷に面

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した塀に格子があるおかげで、縁側の扉さえ開ければ、渓谷が目の前に広がる。塀という形を保ちながら、 自然との節制された交感を図っているのだ。(実は、板の間の横に渓谷があること自体が、絶妙な構成だ。 板の間越しの部屋があるべき空間に、渓谷を配したのだ) ここで、ソウルの北村に少しばかり目を移してみよう。その下にある街には高層ビルが立ち並んでいる が、今でも北村には四角い庭が空を仰ぐ、奥ゆかしい韓屋がいくつも集まっている。その中に、嘉会洞の 角で路地を行き交う人たちに話しかけるように建っている小さな韓屋・無無軒がある。その辺りの韓屋は、 道に長く面していて、ほとんどは防火用の塀がある。だがその家は、道沿いの一面が門で、他の一面は庭 に面した塀になっている。塀の内側で庭の草花に水をやるあるじの姿が、縦格子の間からうかがえる。道 行く人がのぞきこんで、あるじと目が合っても、互いに顔を赤らめることはなさそうだ。ひと気のない路 地だが、その格子一つで息苦しさから開放される。独楽堂の格子の現代バージョンだ。

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家の庭 家の庭を領域ごとに区分すると、一般的に仕事の空間・行廊マダン、夫の空間であり接客と特別な儀式の 空間・舍廊マダン、妻の家事の空間・アンマダン、そして味噌などのかめや煙突があり、扉を開ければアン 房 (妻の住空間) やコンノン房 (アン房と向かい合う部屋) から見通して鑑賞できるように後園とした裏庭など がある。背山臨水の立地によって、家の裏にある自然の地形をそのまま利用し、その裏庭には花壇を造った。 論山の明斎古宅は、典型的な上流階級の住居だ。 17世紀の大学者ユン・ジュン(尹拯)のために、多くの 弟子が力を合わせて建てたものだ。その家には、天地万物の絶対的な価値に従う性理学から脱却し、人の 心に理があるとする心即理説を唱えたユン・ジュンの学問的な世界がよく表れている。庭の構成にも、住 む者の気持ちを見据えた様々な配慮がうかがえる。例えばアンマダンは、四方がふさがっているが、家全 体や周りの変化に気付けるようになっている。男女の役割がはっきりと分かれていた朝鮮時代の生活習慣 のため、妻の活動範囲は、特別な場合を除いてアンチェ(母屋)に限られていた。だが明斎古宅では、妻が アンチェから目視で、舍廊房(夫の住空間)の客人の出入りを把握できる。アンチェとクァンチェ(物置)に 続く庭は、仕事をする人には効率的な動線となっている。また、空気と雨水の流れを科学的に扱い、便利 に生活できるようにしている。内外塀(アンチェと舍廊チェの間の塀)を上手に配し、井戸の周りにはイブ キを植えて、舍廊チェの客人の視線を自然にさえぎって双方に配慮した構造も、庭の賢い運用の結果だ。 明斎古宅の舍廊チェの西側にある高殿は、村全体を一望できる物見やぐらのようなものだ。舍廊チェの 前の広い庭は、池が造られて築山と井戸もある。アンチェの板の間の窓を開けると、後園と味噌などのか めが目に映る。

アンマダンの科学 秋史古宅は18世紀、英祖王の寵愛した二女・和順翁主が、月城尉・金漢藎(朝鮮後期の実学者で書芸家 の秋史・金正喜の曾祖父)と結婚して住んだ家で、宮大工の腕が発揮された。本来の建物の半分ほどしか 残っていないため、全体的な姿は分からないが、舍廊チェとアンチェの上品な姿は、代表的な18世紀の上 流階級の住居だ。特に和順翁主が暮らしたアンチェは、伝統的な四角い家の典型的な特徴がある。瓦屋根 で覆われた天井に夏の強い日差しが照り付けると、その放射熱によって地面の温度が上がり、上昇気流が 作られる。そのとき板の間の後ろの窓を開ければ、裏手の森から涼しい空気が家に流れ込み、すがすがし く過ごせる。これは野生の馬を手なずけ、あぶみや手綱をつけて、うまく扱うような感覚だ。アンマダンは、 時には暴力的な大自然を手なずける装置の中心だ。強い風を換気に必要な柔らかい風に変えて、真昼の暑 い太陽熱を夜のための暖かみとし、どしゃ降りの雨は池に流れ込むようにする。(真砂土を敷いた空っぽの

1 慶州・良洞マウル(ユネスコ世界文化遺産)にある書百堂。アン チェの裏庭に、味噌などのかめ置き場と納屋が見える。 2 慶州・ 玉山書院に程近い独楽堂。渓谷と生い茂った森に囲まれている。 人類学者ハン・ギョング教授(特集序文筆者)と本稿の筆者で大 工のチョ・ジョンファン氏が、特集の取材に際して板の間に座っ ている。

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アンマダンは、そうした作用を最大限に発揮する。しかし、復元された秋史古宅のアンマダンは、なぜか 砂利が敷かれている)

おわりに

1 咸陽にある鄭汝昌古宅。舍廊 チェの高殿から庭を眺ると、築山 と老松が目に映る。 2 慶州にある 独楽堂の渓亭。流れる水と生い 茂った森をめでることができる東 屋

私は15歳の中学生のとき、父の跡を継いで韓屋の大工の道に入った。文化財の修復現場を回って働いて いるうちに、過ぎし日の王朝の宮廷を復元するよりも、今の時代を生きている人たちの家を建てる方にふ と心が傾いた。その後、現代人の韓屋造りに全力を尽くしてきた。昔の人たちが残してくれた家は、そん

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な私にいつも新しい示唆を与えてくれる。 最近は韓国西岸のある島で、古い韓屋の実態を調査している。 15年前に島が陸地と橋で結ばれて、突然 の不動産開発ブームが起きて以来、放置され古びて崩れていく家々だ。島という地理的な特徴のため、規 模が大きかったり華やかな家ではないが、伝統的な建築と造園の方法を垣間見ることができる。そのため 実地調査して実測・記録し、小さな家から多くのことを新たに学んでいる。しかし、そうした家々も遠か らず消え去る恐れがあるため、気がせく。手遅れにならないうちに、多くの人たちが、自然と共に生きて いく昔ながらの生き方を取り戻せるよう、微力ながら役立ちたい。(翻訳:坂野慎治) K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

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[ 特集 5 庭と庭園 ]

ガーデンデザイナーファン・ジヘ 最も美しい庭園は、原始的な 感性が息づいているところ ソ・ファスク(徐華淑、韓国日報選任記者)| 写真 : 安洪范

1 1“貧しい材料が集まって豊かなストーリーになる”と信じるガーデンデザイナー、ファン・ジヘ氏。今回の博覧会の出品作も、都市開発によって引き抜かれた木 など死蔵される材料の再利用に努めた。2 ゴカイのおなかの中にいるような庭園の室内空間。その中にはギャラリーと図書館がある。3「種をまく手」。観客の立っ ている場所が、以前は農家で種をまいていた水田だったことを思い起こさせる造形物

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国の南西、海に面した世界五大沿岸湿地・順天湾を抱く順天

ソ:ここのストーリーは何ですか。

では、4月20日から10月20日までの6カ月間、2013順天湾国

ファン:順天湾には数十万坪の自然の干潟があります。その内側

際庭園博覧会が開かれている。国際的に承認された庭園博覧会で、韓

にあるこの庭園博覧会の会場は、農家の生計を立ててきた人工の湿

国では初の開催だ。会場では、世界各国の室内外庭園や世界的なガー

地・田んぼのあった場所です。私は順天の本質が、その干潟や湿地に

デンデザイナーの作品を鑑賞できる。

あると考えました。干潟に生きるゴカイを通じて、目には見えない生

そこで出会える「ゴカイの小道(Lugworm Path)」には、2011年と

態系の話をしたかったのです。自然の主人公を畏怖して、それらと一

2012年にイギリスのチェルシー・フラワーショーで連続してゴール

緒に生きる人間の暮らしについて考えようというのが、今回の庭園に

ドメダルを受賞し、2012年には最高賞のプレジデント賞に輝いて、

込めたストーリーです。ゴカイのおなかの中にギャラリーと図書館を

世界的なガーデンデザイナーへと成長しているファン・ジヘ(黄知海)

設けて、全てのドアの高さを1.2mに下げました。頭を下げてドアを

氏の幼い頃の夢が織り込まれている。丘、小川、ネズミの穴とアリの

通るたびに、小さなものの価値を一緒に考えようという意味です。枯

巣、ビオトープ、犬が駆け回る野原で構成されていて、ゴカイのよう

れ木の薮を通り過ぎるときも、静かにしなければいけません。動物

にクネクネした道に、ゴカイに似た図書館とギャラリーまで設けられ

が、つがいになっているからです。

ている。観客に最も人気のある庭園の一つだ。 その庭園に入ると、韓国の昔の街に踏み込んだように感じられる。 本当に昔からそこにあったかのように少し曲がったエンジュの木が、

ソ:髪を洗うように頭を後ろにそらした女性の頭像から水の落ち る滝が印象的ですね。 ファン:この博覧会は、イギリスの建築理論家で造園家のチャー

道から少し離れて両側に立ち並んでいる景観のためだ。実際には、そ

ルズ・ジェンクスが造った湖の庭園を心臓のように中心に置いていま

こは平坦な田んぼだった。そこに自然な丘を造り、角度まで計算して

す。その周りに、草原を刈って造った丘をいくつか配しましたが、そ

木を植えて景観を演出したと知ると、思わず嘆声が漏れる。その道を

うした形は韓国の生態とは釣り合いません。それで組織委員会から、

通り過ぎて、ゴカイのような形のギャラリーを見て、ゴカイのような

その湖の庭園と韓国の生態を自然につなぐ庭園を造ってほしいと依頼

形の図書館に入ると、窓に「叩かないでください。エナガが住んでい

されました。そこで私は、ジェンクスの湖に流れ込む水の源をつくる

ます」と書かれている。聞くところによると、窓の外に植えたヒキオ

ために、滝を考え付いたのです。大地の母を象徴する女性の頭像から

コシの間にエナガが巣をつくって、卵を四つもかえしたという。庭園

あふれた水が、湖の庭園に流れていくわけです。

が完成して100日目の頃だ。そこをのぞいて見ると、親鳥が飛んでき て、ひなに餌をやっていた。

韓国の八季 ソ:造園の過程で、最も難しかった点は?

話をする庭園 ソ・ファスク:新しく造られた庭園に、すぐに鳥が飛んできて巣 をつくるなんて、びっくりしました。 ファン・ジヘ:ハチやチョウだけじゃなくて、鳥までやってきて こそ、庭園が完成するんですよ。 ソ:鳥を引き寄せるほど、ここにぴったりの植物をちょうどよく 植えたという意味でしょうか。 ファン:韓国の庭園特有の静けさが守られるように、自然をその

ファン:地面が泥だと、丘を造るのにも限界がありますし、大き な木も植えられませんでした。村の入り口のエンジュの木や、あちこ ちに置かれた石は、近くの工事現場で宅地の造成のために取り除かれ たものなどを使っています。地面がセメントの場所には、金物でおも しろいの絵を描きました。その金物も、地元で中古品を手に入れるな どしました。貧しい材料が集まって豊かなストーリーになるのです。 ですが、そうやって造園すると予算は削減できても、はるかに手がか かります。

まま生かそうと努力しました。鳥やチョウ、目には見えない生態系

ソ:韓国の庭園の概念は、もともと自然をありのまま庭に取り入

は、誰よりも先にその静けさに気付きます。ゴカイのギャラリーと図

れるものです。それでも普通は、最も理想的な自然の華やかな姿を形

書館の周りには、ヒキオコシやフキなど韓国人が菜園で育ててナムル

作ろうとしませんか。ところが、この庭園は韓国の人たちがとても見

(和え物)にして食べる身近な植物を植えました。 ソ:どんな基準で庭園を造るのですか。 ファン:その土地が本質的に持っているストーリーを探して、中 心になる話を組み立てるのです。 K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

慣れた韓国の自然の山や川そのものなので、懐かしくて本当に不思議 な感じがします。 ファン:私は、韓国には四季ではなく八季があると考えています。 月ごとに姿を変えるほど、自然が多彩で美しいからです。それで、自

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1 1 ファン・ジヘ氏の「ゴカイの小道」の航空写真。ゴカイのギャラリーと図書館、ネズミの穴のカフェ、アリの巣の休憩所などで楽しく構成された自由奔放な庭園 2 大地の母を象徴する女性の頭像。そこからあふれた水が、今回の庭園博覧会の中心となるチャールズ・ジェンクスの湖の庭園に流れ込む。3 木と石で造られた 「ゴ カイの小道」の休憩所

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「私は順天の本質が、その干潟と湿地にあると考えました。干潟に生きるゴカイを通じて、目 には見えない生態系の話をしたかったのです」

然をありのまま庭に取り入れる「借景」の技法を使って、木の波と森の

「憂いを解く所」という意味で、韓国ではトイレをそう呼んでいまし

塊を鑑賞できるように、程よく風の吹く丘の下に東屋を一つ設けまし

た。実際にトイレは、韓国の昔の家のように外にあっても、現代の

た。幼い頃、うちの家は裏庭が山につながっていました。私はその山

住宅のように家の中にあっても、心が安らぐ空間ではないでしょう

に行って毎日遊んだものですが、いくら見ても飽きることはありませ

か。留学していたとき、私自身と向き合えた唯一の場所もトイレで

んでした。

した。『解憂所に向かう道』を造るために、韓国からオオバコ、ヒロ

ソ:ご自身の幼い頃の話も、作品に反映されたそうですね。

ハハシドイ(ライラックの仲間)、ヤグルマソウ、ツルニンジン、タ

ファン:私は全羅南道・谷城の田舎にある韓屋(伝統的な家屋)で

ンポポなどの野草を持ち込んで植えました。私の感じる安らぎを、

育ちました。母は私が7歳のときに離婚して、弟二人の三姉弟を女手

イギリスの審査員や観客も認めてくれたことが不思議に思えまし

一つで育てながら、庭の隅に菜園を造って果物の木も育てていまし

た。

た。ユスラウメが熟すと「ジヘちゃん、鳥が食べる前に、ユスラウメ

ソ:2012年に造った『DMZ、禁じられた庭園(Quiet Time:DMZ

の実を食べなさい」と言われました。母は今回、庭園に使うようにと

Forbidden Garden)』も、前作と同じように話題になりましたね。朝鮮

ベンチをくれたので、ゴカイ・ギャラリーのそばの坂に置いて、近く

戦争の参戦兵士に熱い感動を与えて、王室の好きな庭園としてイギリ

にユスラウメも植えました。そこに、母の言葉も書いてあります。

スのBBCでも紹介されたと聞きました。 ファン:この世で最も美しい庭園は、原始的な感性が息づいてい

トイレとDMZ

るところではないでしょうか。その点から見ると、長らく人の手が

ソ:どのようにしてガーデンデザイナーになったのですか。

入っていないDMZ(非武装地帯)は、庭園の持つ最も本質的な話がで

ファン:ガーデンデザイナー、環境アーティスト…、どんな名

きる場所です。原始的な感性と自然の再生力に関するストーリーで

前がふさわしいのか分かりません。私は、目に映る全ての場所をデ

す。その庭園は今年、朝鮮戦争休戦60周年と韓英修好130周年を記念

ザインしています。もともと大学では西洋画を専攻しました。田舎

して、ロンドンのテムズ川のそばにあるプレジャーガーデンに移され

に教育実習で行って子供たちのために壁絵を描いたところ、文化ス

て、2016年まで展示される予定です。

ペースのない田舎の子供たちが喜んでくれたのを見て、環境アート

ソ:来年の主な計画は?

を始めました。路地の小さな壁絵や造形物、街のデザイン、小さな

ファン:「ゴカイの小道」のために今年は参加できなかったチェル

公園など環境アートの仕事を10年ほどしました。でも、無生物ばか

シー・フラワーショーに、また参加したいのですが、どうなるかは分

り扱っていると、木や草、土のような自然が懐かしくなって、2009

かりません。数百種類の植物を植える庭園デザインには、費用がとて

年に後先考えずイギリスに留学しました。語学研修を終えて、ガー

もかかります。国や企業などの後援なしに、個人の費用だけで毎年参

デンデザインで有名なインチボルド・スクールに願書を出して、チェ

加するのは難しいものがあります。韓国では、まだ庭園デザインへ

ルシー・フラワーショーにも応募したところ、両方とも合格しまし

の関心が高くないので、快く支援してくれる企業があるかどうか…。

た。どちらを選ぶか悩んだ末、チェルシーに決めました。そうして

ヨーロッパの人たちは、今ここで庭園を造らないと、30年後に3000

2011年に発表した初めての作品が『解憂所に向かう道(Hae Woo So:

の精神病院が必要になると信じているくらいなんですよ。(翻訳:坂

Emptying your Mind – Traditional Korean Toilet)』です。解憂所とは

野慎治)

K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

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[ 特集 6 庭と庭園 ]

いにしえの 詩人の山水庭園 朝鮮半島南端・海南のタンクッマウル(「地の果ての村」の意)から船で1時間の距離にある小さな島・甫吉島の 洗然亭一帯は、17世紀の朝鮮詩歌文学の大家・孤山ユン・ソンド(尹善道)の隠居所だ。あるじの繊細で洗練さ れた美的感覚と想像力の中で、自然と人為が境界なく一つに融合した伝統的な山水庭園の典型だ。 ホ・ギュン(許鈞、韓国民芸美術研究所長)| 写真 : 安洪范 徐憲康, 河志權, 李東春

1

32

韓国の文化と芸術


鮮中期の文臣であり詩人の孤山

が、理にかなった説明だろう。この名

ユン・ソンド(尹善道、1587~

前には、孤山が甫吉島に移った意味が

1671)が、官職を捨てて全羅南道莞島

投影されている。

郡の甫吉島に移ったのは、仁祖(朝鮮

洗然亭に入って四方の扉を開ける

第16代王)が清の太宗(第2代皇帝)に

と、遠近のあらゆる景色が飛び込んで

降伏した翌年の1638年だ。侵略軍の前

くる。前方には、洗然池の澄んで幽玄

に王がひざまずくという屈辱的な降伏

な風景が広がっている。後方には、四

に反対したユン・ソンドは、鬱憤やる

角い岩の島が魅力的な回水潭(人工池)

かたなく、世俗を離れる決心をして済

が見える。その池の水辺には、大きな

州道に向かう。その途中、甫吉島の黄 原浦に立ち寄って、その美しい景観に 魅せられた。そして、85歳で亡くなる

2

松が水面をかすめるように立っていて、

1 甫吉島・尹善道園林の洗然亭一帯 2 山腹の洞天石室から見 下ろした芙蓉洞

まで、30年余りの歳月をその島で過ご した。

カエデとネズの木が大きな岩を覆って いる。その後ろには、高いものから低 いものまで峰が屏風のように並んでい

て、まるで別天地のようだ。 洗然亭は、心身を浄化する休息の場であり、風流の舞台でもあっ

自然と人工の境界がない庭園

た。涼しい風が吹き、四方が水面下にあるような静けさの中、孤山は

孤山は、甫吉島に庭園を造った。その庭園は、大きく三つの区域

東屋でひとり昼寝を楽しみ、月の明るい夜なら欄干にもたれて月と

に分けられる。まず渓潭、東屋、台(舞台)、そして樹木が溶け合う洗

心を交わし、様々な思いを巡らせただろう。時おり知人が訪ねてくれ

然亭一帯。そして、私生活の空間である楽書斎と渓流一帯。最後に、

ば、清談を交わして酒杯を傾け、酔興から詩興がわけば幽玄な詩の世

休息と読書のために楽書斎の向かい側の山腹に造られた洞天石室一帯

界に浸ったはずだ。

だ。しかし、実際には人為的な境界のない庭園という表現が正しいだ ろう。東屋の周りの洗然池と岩、池で泳ぐ魚、老木やカエデの影だけ でなく、遠くに見える山、空に浮かぶ雲まで鑑賞の対象になる。さら

詩歌文学の涵養の場 詩文は、朝鮮のソンビ(学者)の必須教養であり、情緒生活の重要

には、ひと気のない山にかかった月、夜空に輝く星、鳥や虫の鳴き声

な要素だった。それは、自然の哲理を表しており、老子、荘子、孔子、

など、甫吉島のあらゆる自然環境が庭園の構成要素であり鑑賞の対象

孟子など孤高の思想を表現し、宇宙と自然と人間の道理を会得する方

だ。これは、私たちのよく知る典型的なヨーロッパ式ガーデンの概

法の一つだった。そのため、ソンビなら詩の1~2篇は誰もが残して

念、つまり区切られた一定の空間を人為的にあしらったものとは大き

いるほどだ。

く異なる。そうした昔の庭園は、山水庭園あるいは林泉庭園と呼ばれ ている。

文学的な感受性は、流刑の地や世俗を離れた蟄居の地でいっそう 豊かになる。国文学史を彩る珠玉の文学作品の中に、隠居や流刑の地

韓国人は昔から自然を眺めて鑑賞するだけで、近くで細かく観察

で書かれたものが多いことも、それを証明している。朝鮮詩歌文学の

したり過度に手を加えなかった。そうした点は、この芙蓉洞庭園にも

代表作に挙げられる『漁父四時詞』も、孤山が芙蓉洞に隠居していたと

よく表れている。潭陽の瀟灑院や和順の臨対亭園林など朝鮮時代の別

きに作られたものだ。この作品は、それ以前のほとんどの時調(定型

荘庭園なども、同様の性格を持つことが広く知られている。

詩)とは違って純粋な韓国語を駆使し、俗世から離れて自然と一つに なった漁師の生活を表現した点が高く評価されている。

風流の中心舞台・洗然亭

『漁父四時詞』の漁師は、単なる漁師ではなく、自然の中で悠々自

洗然亭は、芙蓉洞庭園の中心にある東屋だ。一般的に「洗然」の意

適に暮らす仁者を意味する。ソンビは、手ずから魚を釣ることない

味は「周りの景観が水で洗われたように清く、端整ですがすがしい」と

が、隠れて暮らす漁師だと好んで自称した。つまり『漁父四時詞』の漁

理解されている。だが自然は本来、清らかなため洗う必要がない。洗

師は、世俗を離れて山水にのんびりと暮らす孤山自身を象徴している

うべきなのは自然でなく、けがれた人の心だ。したがって「洗然」は「山

のだ。

水・自然の中にいれば、心が洗われたように澄んで美しい」というの K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

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歌舞の常設舞台

飾り気のない大小の岩、水面に漂う水

回水潭は、四角い人工の池だ。名前

草、水面に映る木の影、そして所々に

の通り、東屋の前の渓潭から流れ込ん

刻まれた歳月が、この上なく自然に溶

だ水が、東屋の周りを半分ほど回って、

け合っている。

出水口に戻って流れ出す。広葉樹の緑

洗然池の重要な鑑賞ポイントは岩

陰が濃い夏、スイレンの花が満開にな

だ。ソンビが昔から岩を特に好んだの

る頃、回水潭の一帯は仙境のように美

は、森羅万象の中で最も恒久的だから

しい。孤山の5代目の子孫ユン・ウィ

だ。自然界の花と草が、本来の意志を

(尹偉)が著した『甫吉島識』に、そこで

守れず季節に妥協・屈服しても、岩は

行われた風流韻事(風流な遊び)につい て記録されている。 それによると、孤山は楽書斎のそば の無悶堂を住まいとし、穏やかに晴れ

1

本来の硬さを保っているため、めでる

1 洗然亭には遠近のあらゆる景色が飛び込んでくる。その東 屋の中央に洗然亭という扁額がかかっている。2 洗然池の周 りに美しく咲いたツバキの花が、尹善道園林に春の訪れを告 げている。

価値があると信じたのだ。 岩の姿を見てみよう。最も大きくて ヒキガエルのような岩が、或躍岩だ。 名前は『周易』に出てくる「大きなヒキ

た日には洗然亭で歌舞を楽しんだが、 詩と音楽がなければ、世の中の憂いを忘れる日は1日もなかったとい

ガエルが、跳びそうに見えて、跳ばずに淵にいる」という内容から付

う。孤山が洗然亭にやってくると、子弟が付き従い、回水潭で船遊び

けられた。孤山は、その岩を臥龍岩と呼んだ。臥竜は、三顧の礼で

が始まった。色とりどりの服を着た楽童(楽士)は、船で池を回りなが

有名な諸葛亮(孔明)を指す言葉で、まだ世に出ず隠れて暮らしてい

ら『漁父四時詞』を調子に合わせて歌う。洗然亭の中では管弦楽が演奏

ることを象徴している。射投岩という岩もある。弓を引く岩という

され、東屋の左に石を積んだ舞台・東台と西台では、何人もの踊り子

意味で、その岩から向かいの山の中腹にある玉簫台に矢を射たと伝

が群舞する。同時に、向かいの山の中腹にある玉簫台では、踊り子が

えられている。

仙女のように長い袖をなびかせる。 そうした華やかで大がかりな光景は、世俗を離れた隠者に似つか わしくないと感じるかもしれない。しかし「詩・歌・舞一体」という儒

楽書斎と洞天石室 孤山が甫吉島に移って最初に建てた家が、書斎を兼ねた楽書斎だ。

教的な芸術を追求した孤山の芸術精神を考えれば、そのような生き方

家の周りに様々な花や木を植え替えて、奇岩怪石を配し、家のそばに

も肯定的に理解できるだろう。

ある大きな岩を小隠屏と名付けた。それは、武夷山の大隠屏のふもと で蟄居し、学問に打ち込んだ宋の性理学者・朱子への敬慕の念の表れ

洗然池と岩

でもある。

洗然池は、格紫峰から流れ出た谷川を板石 洑 でせき止めた池だ。

洞天石室という名前は、神仙の住む名山・景勝を洞天福地という

流れる水をせき止めて作ったため、人工池というほかない。しかし、

ことから来ている。そこには現在、20年前に復元された一間の木造

涼しい風が吹き、四方が水面下にあるような静けさの中、孤山は東屋でひとり昼寝を楽しみ、 月の明るい夜なら欄干にもたれて月と心を交わし、様々な思いを巡らせただろう。時おり知 人が訪ねてくれば、清談を交わして酒杯を傾け、酔興から詩興がわけば幽玄な詩の世界に浸っ たはずだ。 34

韓国の文化と芸術


の建物が立っている。建物の周りには不等辺三角形の池があり、さら

味している。

に南に四角い池が一つある。その四角い池の右側の壁付近に地下石室

だが、官職を捨てたからといって、必ずしも賢者ではなく、官職

があり、中に入る石の階段がある。孤山の作品なのか、その子孫が

に就いているからといって、おもねっているとは限らない。隠者に

造ったものなのかは定かでない。洞天石室の真価は、一間の建物や石

なったからといって、必ずしも高尚ではなく、姿を現したからといっ

室ではなく、その前に広がる無限の空間に見いだされる。

て、卑屈だとは限らない。重要なのは、身の振り方が道理にかなって いるかどうかだ。ソンビは進むべき道の分かれ目で、どのように対処

大義と名分を守るための生活空間 孤山が、縁もゆかりもない甫吉島に移って芙蓉洞庭園を設け、隠

することが、ソンビとしての人格を損なわず道理に反しないかを常に 考えていた。孤山も進むべき道の道理について深刻に考え、熟考の末

者となったのは、儒教の生活哲学「出処之義」と深く関係している。

に下した結論が、甫吉島での隠居だった。孤山にとって甫吉島と芙蓉

出処之義とは、ソンビが世に出て官吏になれば国と民のために力を

洞庭園は、決して政界から落伍した者の逃避先でなく、自然と共に暮

注ぐが、その世が本人の理想を受け入れず道義が地に落ちれば、果

らしながら大義と名分を守って修身する理想的な生活空間だったの

敢に官職を退いて処士(在野の士)として大義と名分を守ることを意

だ。(翻訳:坂野慎治)

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2


文化フォーカス

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韓国の文化と芸術


復旧されたソウルの正門

年以上も我々の前から姿を消していた国宝第1号の崇礼門が今年5月に戻ってきた。焼失か ら1911日ぶりに、旧ソウルの正門が本来の姿を取り戻して、我々の前に堂々とその姿を現し

たのだ。復旧には文化財庁の予算147億ウォンに、寄託金と企業からの援助金まで合わせて計245 億ウォンの費用と、延べ3万5千人が動員された。5月1日には朝鮮王朝の歴代王を祀った宗廟 で、復旧作業の完了を報告する告祭が行われ、4日にはソウル市民参加の復旧記念式典も開かれた。 誰でも崇礼門に近づけるうえ、600年前からその胴体を支えてきた石造りの門に直接触れたり、虹 蜺(訳注:アーチ型の門)をくぐることもできるようになった。さらに、週末の決められた時間には、 門楼に立って朝鮮王朝の王の目線で、旧ソウルの内と外の風景を想像して眺めることもできる。崇 礼門がソウルの温かい正門として生まれ変わったのだ。 正門がないということは、その中に備わるはずの財産や遺産もないということだ。だが城壁の ない現代都市に門などあるわけがない。その代わりに隣の都市や隣国につながる道路網が四方に走

崇礼門の 復旧とその後 朝鮮王朝最初の王・太祖の時代(1398年)、漢陽城 の正門として建てられた崇礼門(南大門)の復旧工 事が昨年5月に完了した。今回の回復に関しては、 2008年の火災で破損した門の修復にとどまらず、旧 ソウルの都城の輪郭と、門の内側で息づいていた暮 らしの足跡を蘇らすための出発点とすべきである。

る都市の姿の方が自然である。ところで、歴史の長い都市の場合は事情が 違ってくる。ソウルは現在も旧都心に様々な歴史的地層をはらんでいる。 我々は朝鮮の開国から数えて600年、さらに遡れば高麗時代における3京 の一つである南京が設置された時から900年も続いたソウルの歴史と共に 生きている。 五カ所の王宮と宗廟・社稷、忠節と義理に生きたソンビたちの清楚な 暮らし、独自の芸術家たち、そして元気の良い街なかの商人たち。その暮 らしの足跡がこの崇礼門を含めたソウルの四大門と四小門、この八つの門 をつなぐ都城の中に現在も息づいているのだ。 その事実からも、古都ソウルの正門といえる崇礼門が蘇ったのは、単 に古い建物がまた見られるということ以上の意味合いをもつ。その正門の 内側の事物が、再び自分の居場所を見つけて鼓動し始めたことを意味す る。正門の奥にそれぞれの論理に基づいて配置されていた各種の建物や道

キム・チャンヒ(金昶煕、ジャーナリスト)| 写真 : 徐憲康

路網、そのすべてが集約された都市ソウル、そしてその都市で生活を営ん できたソウル市民の暮らし…。これからはそのすべてを蘇らせ、それぞれ

の居場所を見つけ出してあげる番だ。生まれ変わった崇礼門を自分の目で確認した人々は、韓国人 であれ、外国人であれ、歴史ある旧ソウルの痕跡を捜してみてほしい。さてどうすればいいですか。

新旧の技術がなす調和 今回の崇礼門復旧プロジェクトは技術的な面でも良い先例となった。各分野における重要無形 文化財保持者など、最高の職人たちが参加して崇礼門のありし日の姿を再現したのだ。伝統技法や 材料を見出すために、最新の文化財復元技術を生かした考証と研究作業を実施した。その結果は復 旧作業にすべて反映された。 瓦は手作業と伝統窯で製作し、丹青も人工顔料をやめ天然顔料を使った。朝鮮戦争で損なわれ てしまい、戦争直後に適当に復元しておいた扁額も、朝鮮時代の拓本を基に、本来の書体で再現し 復旧された崇礼門。崇礼門は朝鮮時代、 ソウルの都城を取り囲んでいた城郭の正 門であり、石垣の上に建った楼閣型の2 階建の建築物である。 K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

た。さらに、植民地時代に撤去されてしまった左右の城郭も一部ではあるが、元の場所に本来の形 通りに復元した。門に翼ができたようだ。 このように、新旧技術の調和のもとに作業が進められたことに意味がある。本来の姿を確認し

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生まれ変わった崇礼門を自分の目で確認した人々は、韓国人であれ、外国人であれ、所謂そ の崇礼門と同じぐらい歴史ある古都ソウルの痕跡を捜してみてほしい。さてどうすればいい ですか。

て、元来の材料を見出すために最新の技術を採用する一方で、本来の姿を再現するために、徹底的 に伝統技法を取り入れたのだ。 例えば、1970年代以降の石工たちは、石を切って手を加える時に、現代の道具を使っていた。 大きな花崗岩を電動機械を使って豆腐を切るように、すんなりと切り取った後、産業用ダイヤモン ドつきの最新式機具で石の表面を滑らかにした。ところが、今回はまったく違っていた。崇礼門 と周辺の城郭を構成する石の成分にもっとも近い花崗岩を見つける作業は最新の技術に依存した が、それ以外の作業はすべて伝統技法に従った。まず、花崗岩の表面に適当な間隔でくさび用の穴 を掘った後、そこにくさびを刺して、金づちで叩き込んで石を切り取った。石の木目に沿って自然 に切断された石を伝統鋳鉄で作った石切のみで仕上げた。伝統技法の欠点を補うために、崇礼門の 復旧現場に伝統鍛冶屋を設けて、直接ツールを製作したり、手入れした。そこでツールを作る際に 使った鋳鉄の塊は浦項製鉄が朝鮮時代の鋳鉄の成分通りに再現して 製作してくれたものだった。 このような方法で崇礼門を復旧しょうとすれば、時間もさるこ とながら労力も数倍もかかるのは当然の理だ。だが、その地道な努 力は結果となって明瞭に現れた。かつて鋸盤で切断した滑らかな石 で復元されたソウルの城郭や北漢山城、南漢山城などからはあまり 感じられない、自然で素朴な味わいが崇礼門にはある。材料と技法 がもっとも原型に近く再現されたおかげである。そこには現代技術 に基づいた、伝統職人の魂がこもっている。

苦難と解体の時代を後に これからは、新旧の技術が調和した方法を、崇礼門の内側にあ るソウルの歴史的建造物にも取り入れるべきだ。たとえば、現在も 復元作業が行われている景福宮の殿閣に丹青を載せる作業において も、科学的且つ伝統的な方法で進められるはず。朝鮮を建国した李 成桂(イ・ソンゲ)が景福宮と社稷団を造成した後、地と穀物の神様 を初めて祀るために通った道も、昔の地図と水路を見つけ出せば、 いくらでも再現できる。 それだけではない。コンピューターでシミュレーションをすれ ば、昔の建物の位置と向きを確認し正確に復元することも可能であ 1

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韓国の文化と芸術


2

る。地上数百キロの衛星写真を使って、地下鉱脈まで探し出せる時世に、たった地下数メートルに 埋まっているソウルの原型を見つけることは大した作業ではない。その気になれば、いくらでもで きるはずだ。原型が分かった後は、伝統技術を駆使し可能なかぎり様々な原型を復元すればいい。 ソウルにとって20世紀は苦難と解体の時代だった。植民地の近代性(colonial modernity)は古都

1 今回の復旧作業を通して、石垣の両側の 城壁も一部復元された。2 朝鮮前期の様 式に倣って、伝統的な天然顔料の丹青が 塗られた楼閣の天井。一番高く、横切っ て掛かっている梁に、「世紀2012年3月8 日、復旧上棟」という上棟の記述が刻まれ た。

の原型に深い傷跡を残し、解放以降の戦争と手当たり次第の開発は、かろうじて残っていた古都の 痕跡さえも無残に消し去ってしまった。崇礼門も例外ではなかった。 20世紀初め、電車の線路を 敷くために、崇礼門の両側の城壁が寸断されてしまい、朝鮮戦争の惨禍で崇礼門本来の原型は深刻 なまでに損なわれた。そして、21世紀を迎えて間もなく、とんでもない火災で再び危機に瀕した が、今日、我々のもとに帰ってきたのだ。 「崇礼門の帰還」を心から祝福するなら、生まれ変わった崇礼門が語りかける話に耳を傾けるべ きだ。 600年前からこの場所を守ってきた石塀に触れながら、虹橋のもとへ歩いていけば、間違い なく崇礼門がそっと語りかけてくるはず。再び蘇らせてくれてありがとうと。そして、どうせなら 正門の役割に徹するようにしてくれないかと。それに対して我々が答える番だ。戻ってきてくれて ありがとうと。そして、これからは崇礼門と都城が守ってきた在りし日の都を蘇らせることに取り 組む番であると。さらに、ソウルを歴史と現代が調和をなし共存をする都市に作り上げる方法を模 索してみると約束する番なのだ。(翻訳:趙祥恩) K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

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インタビュー

アリラン研究家 キム・ヨンガプ アリランは韓民族の代表的な民謡だ。南北だけでなく韓国人が暮らしているところなら世界中のどこでもこの歌を聞くこ とができる。世に埋もれたアリランの調査と発掘に特別な情熱を傾けているキム・ヨンガプ(金煉甲)さんの人生は現代ア リランの歴史であり、ある意味で韓国の現代史だとも言える。 イム・ジョンオプ(林鍾業、ハンギョレ新聞記者)| 写真 : 安洪范

1

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韓国の文化と芸術


年の春に慶尚北道聞慶のイエッキル(古道)博物館で開かれた

「道の上の歌、峠の歌アリラン」展では貴重なSP版のレコード

には不可能なほどだ。 彼を虜にしたアリランとはどんな歌なのだろう?韓国には無数の

2枚が公開された。第1次世界大戦当時にドイツ軍捕虜となった朝鮮

アリランがある。旌善、珍島、密陽、慶州、海州、端川、茂山、穩城…。

人2世とロシア兵士の二人が歌うアリランが収録されたレコードだ。

アリランは韓国人が暮らしている所ならどこでも歌われている。朝

このレコードが韓国のアリラン展で公開されるまでには「アリランに

鮮半島の全域で採集されたものだけでも140曲余りになる。それに日

狂った」一人の男の役割が大きかった。

本、中国、ロシアなどで暮らす海外同胞のアリランまで合わせればア リランの数はさらに多くなる。代表的なアリランは地域名のつかない

アリランのすべてを収集

「アリラン」 アリラン、アリラン、アラリヨ / アリラン コゲロ ノモ

アリラン研究家・キム・ヨンガプ(金煉甲、59歳)さんがこのレコー

カンダ(訳:アリラン アリラン アラリヨ / アリラン峠を越えてい

ドの行方を捜し始めたのは1980年代の

く)を主題としており、この主題と同じ

ことだった。ドイツが第1次世界大戦

構図の語りをつけるという構造だ。誰で

当時、捕虜収容所に言語学者を調査員

も即興的に新しい語りをつけることがで

として投入し230の民族の言語による歌

きる。そんな個人的なバージョンまで含

や口述を初期の録音方式であるワック

めるとアリランの数は韓国人 (朝鮮人)の

ス盤に録音し、そこに前述した二人の

人口の数と同じだといっても過言ではな

兵士の歌うアリランが含まれていると

い。

いう事実を、彼はアリランの研究過程

アリランは歴史の激動期に歌われて

で知った。しかしこの音源が1933年に

きた。朝鮮時代末期の景福宮の再建、日

再びSP盤で作られ、東ドイツのどこか

本の植民地時代の鉄道工事、抗日独立軍

にあるということだけは確認したもの

の武装闘争、韓国戦争、反軍事独裁闘争、

の、その後はドイツ統一を待つほかな

光州民主化運動、ワールドカップサッ

かった。ドイツが統一した後もそのSP

2

カー大会、そしてソウルオリンピックな

盤の所在を確認するのにはさらに15年

1 アリラン研究家 キム・ヨンガプさん。30年間に渡りアリ ランに関連した直・間接的な資料を収集し、アリランの起源 と伝承過程を研究してきた。2 北朝鮮で1972年に発売された 「アリラン交響曲」のレコードの表紙(キム・ヨンガプ所蔵)

ど。そのせいかアリランには韓国の民族

の年月がかかった。それから数年が経 過した今年の2月、ついに彼はベルリ ンフンボルト大学付属の資料館ラウト

史が縮小されていると言える。どこから かアリランの合唱が聞こえてくれば、そ こには韓国人が集まっており、韓国人の

アーカイブに保管されていたそのレコードと対面、そのデジタル音源

同質性を示す必要があり、その合唱が団結と相生を誓う契機となった

を研究資料として所蔵することができた。

とみて間違いない。アリランはそれだけ韓国人の心琴を鳴らす歌であ

金煉甲さんは30年前にソウルの昌徳宮の西(鍾路区桂洞)に引っ越

り、歌に込められた情緒はまさに韓国人の心情そのものだと言える。

してから現在もそこで暮らしている。それには理由がある。骨董品の 街である仁寺洞と通りを隔てたすぐ近くに彼の住まいはあり、アリラ

生命力を備えた歌

ン関連の資料や品物が出たという話を聞けばすぐに駆けつけ購入でき

金煉甲さんがアリランと最初に出会ったのは1978年、軍に入隊し

るからだ。これまでに買い集めた品々がここと、旌善、珍島にある三

ている時だった、休戦ラインの鉄条網付近で新兵として服務している

つの倉庫にいっぱい詰まっている。アリランの楽譜、アリランが録音

時に、北朝鮮の対南拡声器から聞こえてくるアリランを耳にした。そ

されたLPレコードなど、直接的な資料からアリランの標章をつけた

の歌詞を書きとめたら「あの山が白頭山だと/冬至の12月にも花が咲

タバコ、マッチ、雑誌など間接的な資料にいたるまでアリランのすべ

く」という一節があった。同僚の軍人の一人がそれを見て「白頭山は金

てを集めてきた。前にもちょっと紹介したように、収集と関連した特

日成を意味するんだ」と言って、この歌詞を歌わないようにと忠告し

別な逸話も多い。アリランの資料に関する限り彼は国内で一番のコレ

た。韓国の兵士が北朝鮮の歌を、それも不穏だと思われるような歌を

クターなので、国立民俗博物館は言うに及ばず、アリランを主題とし

歌っていたら、その場で投獄され罪に問われたからだ。

た展示をするときには、それがどんな展示であっても彼の所蔵品無し K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

除隊後に大学に復学した彼はアリランについて調べた。まず彼が

41


確認したのは休戦ラインで聞いたアリランの歌詞だった。そしてそれ

(1994)』、『アリラン(1998)』、『アリランの始原説研究-アリランの

が北朝鮮政権が誕生する前から歌われていた歌詞だという事実を確認

アリラン、旌善 アリランと牧隱李穡(2006)』などの本を出している。

した。イデオロギーとは関係のない内容にもかかわらず対韓国宣伝用

また北朝鮮 から出された『朝鮮民謡アリラン(2011)』を影印出版(訳

に使われているという理由だけでイデオロギー的な判断をする分断の

注:複写出版)して韓国の学会に無料で配布した。

現実がまず悲しかった。 「70年代末に民衆文学と国土紀行が流行しました。檀国大国語国文

アリランの起源に関する見解

学科の学生だった私はそんな雰囲気の中で民謡紀行をしました。旌

「文献上ではアリランは朝鮮末期の詩人であり歴史叙述家のファ

善 、密陽、珍島など、アリランの本場はもちろん、アリランのあると

ン・ヒョン(黄玹)の書いた歴史の本『梅泉野録』 (1894年)に初めて登場

ころならどこへでも出かけて行き録音機を向けました。そして剥製と

します。しかし私はアリランの起源は青銅期時代にまで遡ると考えま

なった昔の民謡ではない生命の通った歌と出会ったのです。史学者イ・

す。韓国人の祖先と言われる濊、貊、韓族が朝鮮半島に定着し、彼ら

ビョント(李丙燾)、国文学者ヤン・チュドン(梁柱東)の研究文献から

がアリランを歌ったんです」

学んだ民謡ではなく人々の暮らしと密着して歌われている歌です」 彼はその過程で民謡とは当代の人々が口から口へと歌い継ぐこと

彼は咸鏡道、江原道、慶尚北道など、白頭大幹地域で主に採集さ れた赤ん坊の泣き声、柳笛の音色、棺を墓地まで運ぶ際の弔い歌、

により、さらに新しい肉を付け加えて豊かになっていく生命体だとい

九九段を唱える時の歌などに共通するメロディであるメナリ調をその

うことを確認したのだった。そして1979年、自らリーダーとなり大

ような主張の根拠としている。彼はこのメロディが韓国人にとって聞

学生の現場調査団である「アリラン紀行団」を結成した。大学卒業後の

いていて最も心地よい音源であり、その分布が濊、貊、韓族の移動経 路と一致するという。歴史研究および現場調査を総合

「私はアリランの起源が青銅期時代にまで遡ると見て います。韓国人の祖先と言われる濊、貊、韓族が朝鮮 半島に定着し、アリランを歌ったんです」

した金煉甲さんのこのような主張は中国を念頭に置い たものでもある。 朝鮮族を自国の少数民族の一つに含めた中国は少し 前にアリランを文化遺産として登録した。彼らはアリ ランを漢四郡時代に中国人が朝鮮半島に移住した際に

1983年には彼を実務者として詩人コ・ウン(高銀)、パク・ジェサム(朴

慈悲嶺を越えるときに残してきた家族を思いながら歌った歌だと説明

在森)、劇作家ホ・ギュらが参加する「グループアリラン」が作られた。

している。古朝鮮と高句麗の歴史を自国の歴史に編入しようという中

1989年、このグループは全国のアリラン演者の集まりとして拡大し

国の東北工程の一つだ。

「全国アリラン保存連合会」となり、さらに1994年「社団法人韓民族ア

金煉甲さんはアリランは昔から続いているメアリ調に後代の事件

リラン連合会」と名前を変えて現在に至っている。この団体はアリラ

が付け加わり今日に至ったと見ている。その例として旌善アリランの

ンに対する学術研究、アリランの歌の普及と保存のための祝祭を開催

歌詞「雪が降るかな/雨が降るかな/梅雨の大雨が来るかな/マンス山に

するなどの活動を行っている。

黒い雲が/集まり始めた」をあげる。この歌詞には高麗王朝を倒して朝

「“たかがアリランに何の研究することがあるんだ”というのが私を

鮮を建国した李成桂を避けて江原道の山奥に隠遁した高麗王朝72臣

見る一般的な視線です。非常に長い間、家の中でも外でもそうでし

下の情緒が反映しているという。マンス山は高麗の首都であった松都

た。今はそれでもアリランが文化遺産だという認識が生まれて幸いで

(開城)を守る山の名前で、黒い雲は李成桂の軍隊を意味しているとい

す。しかし今も昔もアリラン研究は金にならない研究です。アリラン

うのが彼の主張だ。

連合会もアリラン関連の仕事をしていくための組織に過ぎず、会費も

北朝鮮ではアリランが朝鮮時代の初めに現われ、朝鮮時代の前半

無く、構成員たちは組織化を警戒しています。お金を出して団体を組

期にその形を整えて洗練された歌として発展し、後半期には今度は全

織化しようとすれば事業の本質はそのときから歪み始めてしまうとい

国各地に広がり、近代にいたって地方ごとに定着したと見ている。

う考えからです。人々は運営資金はどうやっているのかと聞きます。

北朝鮮で公式に出版された『朝鮮民謡アリラン』の著者ユン・スド

私にもよく分かりません。ただ一生懸命に本を書いて、機会があれば

ン(朝鮮民族音楽研究所所長)はアリランの起源を「ソンブとリラン」の

講義もして……」

伝説に求めている。朝鮮初期、地主の横暴に立ち向かった農民暴動と

金 煉 甲 さ ん は 自 分 の 研 究 成 果 を 集 め て『 八 道 ア リ ラ ン 紀 行 1

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官軍の鎮圧が頻繁に起き、若者リランも暴動に加担した後、官軍をさ 韓国の文化と芸術


けて身を隠すために峠を越えて逃げた。そのときに彼の恋人ソンブ

た大衆雑誌の名前もアリランでした。アリランが韓国人の脳裏に最初

が「アリラン アリラン アナンリヨ/アリラン コゲロ ノモカンダ

に浮ぶということです。それは皆が知っているということでもありま

(アリラン アリラン アナンリヨ/アリラン峠を越えていく)」と即興 的な歌詞で歌ったのが哀切で広く知れ渡ったというのだ。歴史を階級 闘争とみている北朝鮮知識人の視覚が反映した主張だ。それに対し て、金煉甲さんの主張は言葉、音、歌を意味する「アリ」がもとになり 「アリラン」という言葉が作られたというものだ。

す。アリランは韓国人の存在証明といっても良いでしょう」 彼は自分の採集した日本植民地時代の逸話を紹介しながら、涙ぐ んだ。 「日本で韓国の高校と日本の高校が野球の試合をしました。其の時 に親日派の人物が出席するという情報を入手し、韓国から刺客が送ら

羅雲奎の映画「アリラン(1926)」を契機にアリランが広く普及した

れました。試合終了後、同胞と後援者が残っているときに刺客が刀を

という点では南北ともに一致している。ソウルで苦学した主人公が

手に親日派に飛びかかりました。危機に襲われた親日派のその人物は

3.1独立運動に参加し、拷問にかけられ体を壊して落郷する。彼の家

アリランを歌いました。すると刺客は『お前も朝鮮人なんだな。俺た

は親日地主の小作農で、妹は彼の友人と恋仲だった。ある秋の日、妹

ちはもう二度と会わないようにしよう』と言い残して放してやったと いいます。そしてその後はその人物は二度と親日 派と言われるようなことはしなくなったといいま す」 彼はまたアリランはすでに成し遂げられた統一 だと思っている。 1989年3月に南北が統一チーム の団歌としてアリランを選んだ。そして1991年4 月5日、日本の千葉で行われた世界卓球選手権大 会で始めて南北の女子選手たちが統一チームで中 国と戦い見事優勝した。そのとき、南北の選手た ちはもちろん南北から応援にきた観客も皆アリラ ンを歌い涙を流した。 「全世界にはすばらしい民謡が山のようにたく さんあります。しかし好きな歌を一つ選べと言わ

1

2

れたときに、皆が一致する国や民族はあまりあり

1 1926年作の羅雲奎の映画 「アリラン」に出てくるアリラン の歌の楽譜。このメロディーが世界に広く知られるように なった。(キム・ヨンガプ所蔵)2 アリランのユネスコ人類 無形文化遺産への指定を記念して出された「峠の歌 聞慶 アリラン」のCD 3 キム・ヨンガプ氏のアリラン関連著書

ません。ですから韓国人の99%が好きで、99%が 歌うことのできるアリランは韓民族の単一性を示 す確かな証拠なのです。統一した時には国の国歌 3

にしても遜色がありません」

に横恋慕した地主の手先のマルミが村の人々が豊作を祝う祭りをして

彼は特別制作の名刺を差し出した。表には彼の名前の3文字が書

いる間に、一人で家にいた妹を強姦しようとする。悲鳴を聞き駆けつ

かれ、裏には職位や電話番号の代わりに特別な文句が印刷されてい

けた友人とマルミは激闘となり、主人公がマルミを殺してしまう。彼

る。「韓民族すべてが毎年6月25日午後6時25分に空を見上げて各自

は警察に捕まり、村人たち々はアリランを歌い主人公を見送る。

の位置でアリランを歌うこと」 彼にとってアリランは統一運動なのだ。しかし政府からも在野か

アリランは統一の歌 金煉甲さんはアリランは韓民族のそのものだと考えている。

らも公式的な職位を得たことはなく、彼は平和統一を追及する人々の 大部分がそうであるように、敏感な時期になればなるほど左と右から

「韓国人は最初の紙巻タバコにも、最初の人工衛星にもアリランと

同時に攻撃を受ける。左翼からは原則を固守する保守だとして、右翼

名づけました。高速鉄道の名前もアリランにしようという声が多数あ

からは北朝鮮に同調するアカだとして。たぶんそれが統一する前の

りましたが、結局KTXになりました。在外公館が作られればその周り

韓半島でアリランが経験しなければならない運命でもあるのだろう。

に最初にできる飲食店の名前もアリランです。 70年代に人気のあっ K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

(翻訳:金明順)

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アート・レビュー

雪が吹き荒れる、済州の方言でオルムと呼ばれる寄生火山。

のメロディーが流れても私は席を立つことができなかった。美しい火

そしてその上にこだまする風の音はまるで慟哭のようだ。固

山の稜線の上に悲しみが広がっている。映画は残酷だがしびれるほど

く閉ざされたチュンサンカン村の藁葺きの家の門。門の開く鋭い音、

に魅惑的で、骨の髄まで染み込むような苦痛だった。悲しい霊魂たち

深い煙の中に一人佇む軍人、廃墟のように床に転がっている祭器(祭

は少しは慰められたのだろうか?

祀用の器)。画面を見つめる観客には燃え残りの線香の匂いまで伝

風と火山の島、済州島。その美しい海岸と山野には4・3事件の痕

わってくるようだ。続いて灰色の画面を横切る風の音、波の音が胸を

跡が今も残っている。オ・ミョル監督はインタビューの際にこんなこ

突く。映画「Jiseul-終わらない歳月2」はこんな風に済州島の音で始

とを語った。「そこが4・3事件の空間だということも知りませんでし

まる。少し前まで祭祀をしていた人々はいったいどこに行ってしまっ

た。それが風の音が泣き声に聞こえ、ススキの揺れるのが悲しい踊り

たのだろう?

を踊っているように見えました。その時、ああ、この空間が記憶して いるのだと感じました。雲、木、風、そのすべてが今、アングルに役

雲が、木が、そして風のすべてが役者

者として飛び込んできたんだと思いました」

果てしない闇のなかで人々は恐怖と希望を語る。 65年前のあの日 の風景もそうだったのだろうか?観客はその封印されたあの日の歴史

映画の形式は「祭儀」

が現代の我々の目の前に現れたと感じる。映画「Jiseul」は、その冒頭

済州4・3事件は国家公権力により済州の島民3万人が犠牲となった

から観客を映画の中に引き込んでいく。当時の傷跡がそのまま転移し

韓国現代史の悲劇だ。独立後、アメリカの軍政がしかれていた1948

たのか。観客は痛みを感じ、胸が苦しくなってくる。

年11月、済州島に疎開令が出された。映画は当時の状況を「海岸線か

映画が終わり、クレジット画面が登場し、済州民謡「イオドサナ」

ら5km以上離れた人間は暴徒とみなされ射殺された」という一行の字

独立映画 「Jiseul-終わらない歳月2」 一個のジャガイモに込められた希望 「Jiseul-終わらない歳月2」は韓国現代史の混乱期である1948年に、朝鮮半島の南端、済州島で起きた悲劇的な事件 を扱ったモノクロの独立映画だ。国内の独立映画の興行記録を更新し、大きな話題となったこの映画は、左翼と右翼 の激しい理念対立の渦中で多くの良民が「アカ(共産主義者)」呼ばわりされて殺された歴史の1ページにスポットをあ てたものだ。ホ・ヨンソン(詩人、済州大講師)

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韓国の文化と芸術


幕だけで伝えている。そしてチュンサンカン村の焦土化作戦の渦中で 逃げまどう民衆の話を語り始める。

きるわけではない。 オ・ミョル監督は4、5年前にその「クンノルケ」に入ってみたと

疎開令を避けて深い山の洞窟に逃げ隠れた村人たちと彼らを捜

いう。そして4・3事件で犠牲になった人々の霊魂を慰める映画を作ろ

し出そうとする討伐隊。生きるためにどこかに逃げなければならな

うと思い立った。そのため映画は真っ暗な洞窟の中に隠れていた4・

かった120人の村人たちは近くの大きく広い洞窟という意味の「クン

3の霊魂たちに捧げる祭儀の形式をとっている。あの日の霊魂たちの

ノルケ」に隠れる。 50日間、その洞穴での暮らしが続いた。今は世界

「神位」、その霊魂を祀ってある「神廟」、祭祀につかった供物を分け合

自然遺産として広く知られる済州の天然溶岩洞窟は4・3事件の当時、

い食べる「飲福」、加害者、被害者のすべての霊魂を解き放つ「焼紙」 (神

村人たちにはとっては一寸先も見えない真っ暗闇の中で命を長らえ

位を象徴する紙の位牌である紙榜を燃やすこと)、この4つの単語を

た最後の逃避場所だったのだ。空を眺めたくても、風に吹かれたく

映画全体を貫く4章のテーマとしている。悲しむ自由さえなかったあ

ても、洞窟の外には死が待っていた。捜索隊に見つかると彼らは布

の時、罪無きことが罪となり、涙さえもが罪となった時代、草の葉の

団と唐辛子を燃やして辛い煙を出し、軍人らの侵入を防ぎ、その間

ように倒れていって人々の魂をこの祭祀を通して慰安するのだ。映画

に危機一髪逃げ切る。(これは生存者の証言に基づいたリアルな場面

「Jiseul」は悲しい霊魂のためのお祓いの儀式である「シッキムクッ」で

だ。映画には出てこないが、このときに生き残った村人たちは再び 捕まり海岸の絶景地である西帰浦の正房滝で虐殺され、海に投げ捨

あり、「鎮魂曲」なのだ。治癒と慰安だ。 オ監督は言う「イデオロギーが主人公ではない、人が中心の映画で

てられたという) 映画の主人公は、死にゆく村人たちと命令を遂行しなくてはなら なかった軍人たちだ。もちろん映画で彼らの「あの時」をすべて表現で

K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

独立映画「JISEUL-終わらない歳月2」 で討伐隊を避けてクンノルケと呼ばれ る大きな洞窟に隠れ暮らす済州の住民たちがジャガイモ(JISEUL)を分け合い 食べながら飢えをしのいでいる。

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す。 4・3事件は冷戦の時代に埋もれてしまっていた話です。この映

人々が温まるシーン。意地をはって家に置いてきた豚を心配する男、

画の生命力で今からでも韓国社会に4・3事件に対する歴史的な認識を

嫁をもらう心配をするチョンガー、馬のように走ることができる「マ

新たに呼び起こしたいと思っています」

ルタリ(馬の脚)」だとして自分の足を自慢する純朴な青年、村の乙女

この映画はオ監督が4・3事件を素材にして作った最初の映画だが

スンドクへの淡い恋心を胸に秘めている青年、今にも産まれてきそう

「終わらない歳月2」というサブタイトルがついている。彼より前に

な大きなお腹の妊婦、島特有の共同体の暮らしが避難所である洞窟の

4・3事件をテーマにした映画を作ったものの陽の目を見ることができ

中でも維持される。外が見えない切迫した状況の中でも彼らは灯り一

ずに故人となったキム・ギョンリュル監督の映画「終わらない歳月」に

つを頼りに、この闇もいつかは去ると希望を失うことはない。ジャガ

続くものだという意味から2という数字をつけたという。

イモは彼らが闇の中でも失うことのなかった肯定と楽観、余裕を象徴 している。字幕で処理されている彼らののんびりとした島の方言は異

「Jiseul」 が象徴するもの

国の言葉のようであり、肉感的だ。

ジャガイモは世界的な「スローフード」だ。「Jiseul:ジスル」済州島 の人々はジャガイモのことをこう呼ぶ。 4・3事件の当時、主食とし

多くの賞に輝いた独立映画

ていたのがサツマイモとジャガイモだった。村は焦土化してしまった

映画「Jiseul」は済州島に生まれた監督が済州の無名の役者たちとと

が、家ごとにヌル(穴を掘って藁で蓋をした済州式の貯蔵庫)の中にこ

もに作った独立映画だ。資金が無く、志願した役者たちをキャスティ

れらが備蓄されていた。

ングして直接演技指導をし、ソウルから撮影装備を空輸しながらなん

焼け焦げたジャガイモが庭に散らばっている場面は4・3事件の一

とか撮影したという。制作費は一般商業映画の10分の1にも満たない

つの風景だ。炎の中から母が持ち出したジャガイモ数個で洞窟の中の

2億5千万ウォン。それでも多くの人々が支援し、監督は個人的に借

疎開令を避けて深い山の洞窟に隠れた済州島の村人たちと彼らを捜し出そうとす る討伐隊、この映画は死にゆく運命の村人と命令を遂行しなければならなかった 軍人たちの話だ。

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韓国の文化と芸術


金もした。

無彩色の悲しみ、そして希望

紆余曲折の末に完成したこの映画は2012年第17回釜山映画祭で4

映画「Jiseul」は歴史的な悲劇を扱ってはいるものの政治的な思想や

つの部門で賞をとり話題となった。今年の封切りを前に世界的な映画

イデオロギーを土台にして物語を展開しているのではない。始終一環

祭でも相次いで注目を浴びている。第29回アメリカのサンダンス映

して個人史のミクロ的な1ページを描くことで観客を笑わせ、涙を流

画祭では「脚本と演出を兼ねたオ・ミョル監督が驚くほど節制された

させる。死の岐路に立っても日常の暮らしに対する希望を謳ってい

感情表現を駆使して、戦争の不合理さを繊細且つ絶妙に描いた、か

る。画面は人間愛と母性愛にあふれ、誰でも共感する普遍的な温かい

つて無い傑作」だという賛辞をあび、ワールドシネマ劇場映画部門の

情緒に満ちている。

最高賞である審査委員大賞を受賞した。続いて第19回フランスのヴ

美術を専攻した監督の視線は済州の燦爛たる色彩を最大限節制し

ズール国際アジア映画祭でも長編映画競争部門の最高賞である黄金の

て島を水墨画のように描いている。私は知らなかった。モノクロがこ

車輪賞に輝いた。

んなにも深く、悲しく、苦しいものだということを。そして節制され

4・3事件の導火線となった事件の発生した3月1日に済州島で始

た音楽とイメージがさらに大きな吸引力を発揮し、美学的だ。彼は言

めて封切られたこの映画は以後、全国の映画館で上映が始まり1週間

う「無彩色の悲しみを表すことのできる色彩を探すことがもっと重要

で観客動員数が4万人を突破した。2カ月後の5月26日には14万人を

でした。観客が自分の感性で自らその色を発見できるようにしたかっ

越える観客が映画「Jiseul」の世界に魅了された。そして観客の口から

たのです」

口へと評判がウイルスのように広がった。人々はなぜ極度に節制され

オ監督は美術、演劇、演出、シナリオ作業などで多彩な青春を過

た描写、耳慣れない済州島の方言、単調なモノクロ映画の映像に涙を

ごした。映画は「数百本の映画を見て勉強した」という。 25歳の時に

流し、拍手を送るのか?

彼の感性を魅了した作品がソ連の絶対純粋主義の巨匠アンドレイ・タ ルコフスキー監督の「犠牲」と「ノステルジア」だ。 「Jiseul」の制作期間は2011年のクリスマスから翌年の2月まで。 撮影現場となった西帰浦市安徳面東広里クンノルケ、トル文化公園、 善屹里の冬柏東山の冬は厳しい。寒さと闘いながらの撮影だったた め、スタッフ・キャストの大部分が凍傷に悩まされた。撮影を終え た後、長い時間が過ぎてもオ・ミョル監督は寒さと戦っている。当 時を思い出すと体が冷えてくるのだ。体が寒さを記憶しているの だ。 映画「Jiseul」は悲劇を悲劇として語ってはいない。またはっきり口 に出すことはないものの、最後には希望を語っている。映画のエンデ イング場面で死んだ母の傍らで、もぞもぞと動き泣き出す赤ん坊の泣 き声。それは明らかに希望の声だ。監督はその幼い赤ん坊を「私自身」 または「我々」と考えてシナリオを書いたのだと言う。 映画を見終わって私は思った。画面の中のぼんやりした煙のよう に私を包んでいるこの気運は何なのだろうと、まだあの風の音と人々 の息遣いの波動の中で。極限の状況の中にあっても人間の希望とはハ ンラ山の冬の木のように立ち続けているのだ。あの木はあの当時も、 そして今もなお立ち続け、そして生きている。(翻訳:金明順)

映画「JISEUL-終わらない歳月2」で討伐隊のパク一等兵が村の娘に銃口を向 ける場面。彼は到底暴徒に見えないこの娘に対して最後まで引き金を引くこと はできない。 K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

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世界の中の韓国人

「音楽を通して世界を感受します」 ジャズ・ボーカリスト ナ・ユンソン フランスの舞台を中心に活躍しているジャズ・ボーカリスト、ナ・ユンソン(羅玧宣)は、ヨーロッパジャ ズを体得しながらも東洋的な情緒も失ってはいないという評価を受けている。 ソジョン・ミンガプ(徐鄭珉甲、大衆音楽意見家)

い黒髪に素朴なドレスに身を包んで舞台に立った彼女が、うつむき加減で、はにかむような微笑で客席 を見つめた後、目を閉じる。低く静かな声で歌い始めると、緩やかなピアノの伴奏がついてくる。高音

域の半ばを過ぎて、後半のスキャット(音によるジャズの歌唱法)にいたるまで、客席には心地よい緊張感が漂 う。細く長い指先で、静的で思索的な動きを表していた彼女は、やがて両手を広げてその静けさを破る。 ピアノ伴奏であれ、アンサンブルとの協演であれ、また世界のどこの舞台に立っても、彼女の歌は華やかと いうよりは至って淡々としていて簡潔だ。特に韓国の童謡や民謡を再解釈して歌う時、彼女の持ち味といえる 可憐な歌声は聴き手の胸に響くが、曲のイントロだけで何の歌なのか分かる韓国人よりも、むしろヨーロッパ の聴衆により強く訴える力があるようだ。

「会社員のように頑張っただけ」 先ず、ジャズ・ボーカリスト、ナ・ユンソンがスウェーデン出身の世界的ギターリストのウルフ・ワケー二 ウス(Ulf Wakenius)と組んで2012年にリリースした7番目のレコード 〈セイム・ガール(Same Girl) 〉が打ち立て た記録を見てみよう。 10万枚の売り上げ、フランスのレコード販売チャートのフナック(FNAC)のジャズ部門 トップと、80週間のステーディセラー、フランスでゴールデン・ディスク受賞、ドイツ、スイス、ノルウェー、 ベルギーのジャズ・チャートのトップを記録。 今年3月、フランスのパリで150年の歴史を誇るシャトレ座の2500席を満席にしたコンサートで、15分間に およぶスタンディングオベーションを受けた彼女に今年の近況を尋ねた。新発売の8番目のレコード〈レント (Lento)〉と〈セイム・ガール〉が揃ってフランスのアマゾン・ドット・コムのジャズ・レコード販売のトップを 記録していた。来年4月まで、アメリカ、フランス、ドイツ、スペイン、日本、イタリア、スロベニア、トルコ、 スウェーデンなどを巡るコンサートの日程が確定している。多い月で17回も舞台に立つことがあるという忙し い中、今年7月にはスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)のボーカル競演の 審査委員長を務めた。 しかし、当のナ・ユンソンはこのすべてのことが「未だ夢のようだ」と言う。 1969年に音楽家夫妻のナ・ヨ ンス(羅永秀)国立合唱団の元団長と元ミュージカル歌手キム・ミジョン氏の娘として生まれた。大学でフラン ス文学を専攻した彼女は、2年生の時にフランス文化院主催のシャンソン大会で大賞を受賞した。大学卒業後、 大手企業の広報室に勤めたが、仕事に向いていないことに気づいて8カ月でやめた彼女は、韓国の有名なシン ガーソングライターであるキム・ミンギ(金珉基)が制作したミュージカル〈地下鉄1号線(Line1)〉のオーディ ションで、主人公の延辺の乙女・仙女役に選ばれたことで、人生の航路を定めた。

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ジャズ・ボーカリスト、ナ・ ユンソンさん。小柄な体で 淡々と簡潔に歌う彼女だ が、舞台を自分のものにし てしまうパワーには驚かさ れる。 韓国の文化と芸術


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49 © Seung-Yull Nah


「ミュージカル歌手なら、歌はもちろん、演戯や踊りもできなければなりませんが、仙女は歌だけで良かっ たんです」 それでその役柄をこなすことができたという謙遜な解釈である。二本の作品に出演した後、「このままでは いけない。何をするにしてももっと学んでからやりたい」と考えた彼女は、1995年にフランスへ飛び立った。 その決定はその後の彼女の人生を大きく変えた。ナ・ユンソンという名は韓国よりヨーロッパでもっと知られ るようになり、ジャズ愛好家たちの「傍において置きたいジャズ・レコード」のリストには彼女のレコードが次々 と載った。 ところが、多くの成功を手中に収めた歌手、ナ・ユンソンは四十路に至っても、少女のように笑いこけるだ

今年3月、2500席が完売とな り、15分間にわたりスタン ディングオベーションを受 けたフランスパリのシャト レ座でのコンサートの場面

けだった。 「有名なジャズ歌手になりたいと思ったことはありません。立て続けに仕事が入ってきたため、ただ続ける ことに一生懸命生きてきただけです」 しかし彼女の成功は自ずと転がってきたわけではない。世界の大衆音楽の源流の一つであるジャズを深く勉 強してみたいという意志だけを頼りに、ヨーロッパでもっとも古いジャズ学校の一つであるフランス・ジャズ・ スクールCIMに入学した彼女は、ボーヴェ(Beauvais)国立音楽院の声楽科など、三つの異なる音楽学校の課程 を並行し、様々な授業を受けた。その間に彼女はジャズを「スポンジのように吸収した」という。もちろん、壁 にぶつかることもあった。 「ジャズのスタンダードを学ぶ課程で、自分の声では到底届きそうもない限界を感じたこともあります。し かし、先生たちが聞かせてくれるヨーロッパのジャズ・ボーカリストの多様な演奏を聞くうちに、『これもジャ ズで、あれもジャズ』と気づかされました。そして、勇気を出すことができました」 彼女は“世界各国から集まってきた人々が、世界を家の中に自然に取り込んで暮らす”パリを根拠地に選んだ のは良い選択だったと振り返る。 「夕食に誘われて友だちの家を訪問すると、インド音楽が流れています。料理本を開いて作る料理はタイ料 理で、食後は甘くて濃いアフリカ茶を飲むんです。そして中東の音楽に合わせて踊ったりしました。私はそん な友だちを通して多様性を学びました。今も、マレーシア、シンガポール、エストニアなど、世界のどこへ行っ ても、そこのミュージシャンたちと作業しながら、音楽を通して世界を受け入れています」 CIMでミュージシャンとしての資質を身につけてから、自分だけの音楽世界を構築した彼女は、卒業後、5 人組の「ナ・ユンソン・クインテット」を率いりながら、音楽的理想の現実化に着手した。 「小規模のクラブを回ってデモ(demo)テープを渡しておいて、呼んでくれる所はないかと、一日に何回も電 話を入れたりしました」 現在、たとえ有名なミュージシャンであっても、自分を認めてくれる舞台を増やすために努力を惜しまない 先輩たちのやり方に習って“会社員みたいに努力した”経験ある彼女は、先輩たちのやり方に習って、“足を使っ て”地道に自分の名前を知らしめていった。

シンプルさと自由 彼女が最も重視しているのはコンサートだ。彼女は「コンサートに備えて練習をし、コンサートをこなす過 程で練習をし、コンサートを終えてもなお自分を省みるために、常に練習をしていますね」と話す。またコン サートは彼女が音楽における最も大きな意味をもつ「疎通」が実現する瞬間でもある。「音楽家として併せ持つべ きことを二つ挙げるとすれば、テクニックと感動です。もちろんテクニックも重要ですが、感動はやはり心と

できます。感動は言語と関係なく、歌い手の真実さや素直さによって、感動がもっと大きくなったりしますね。

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© Chris Jung

心の通じ合いですね。フィンランドのある部族の歌の意味は分からなくても、その歌を聴いて感動することは

韓国の文化と芸術


聴衆にはそれがすぐ分かってしまうんです」 ナ・ユンソンがコンサートに与える意味合いはそれだけではない。 「日によって舞台から感じ取られるエネルギーがそれぞれ違います。舞台に立つと、今日はうまくいきそう だと感じる時がありますが、その実感の8割は観客からきます。だから私は、聴衆が自分と共に呼吸している かどうか確認できる小さな舞台の方が好きです」 20年近くも音楽に携わりながらも彼女は依然として、己の壁にチャレンジし、実験し、またその過程を通し て自分の成長を確認している。 「発声の実験をよくします。毎日違う実験をします。すると、以前は出せなかった声、思ってもいなかった 声が出せる瞬間があります。できなかったことができた時、その分自由になったなと思いますね」 その自由さの原点はシンプルな暮らしだ。

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「私は、英語で歌う時、フランス語で歌う時、 また韓国語で歌うその都度、楽器を変えて いるんだと思いますよ。でも私はあくまで も私なんです」

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© younsunnah.com

韓国の文化と芸術


「体が楽器ですので、よく食べてよく寝ます。電話もインターネットもあまり使いません。怠け者だし、シ ンプルに暮らそうと努める方です。しょっちゅう旅行しているので、シンプルな暮らしが可能になったのかも しれません。旅行鞄一つに私の人生が全部詰まっています。このように訓練されたシンプルさが、音楽をやっ て体の調子を整えることに役立っているかも知れません」

韓国人として暮らすこと シンプルな暮らしを追求するナ・ユンソンの新しいレコード〈Lento〉は、単純な組み合わせは決して単純で はないという響きを創り出した。ナ・ユンソンのボーカルは変化に富んでいながらも、常にぴりぴりとした緊 張感に満ちている。鬼の気配が感じられると言ってもいい程、迫ってくるボーカルに圧倒されてしまう。「す べてをワンテイク(一度に録音する方法)で録音しました。最初に歌った時がもっとも緊張感が高く、200パー セント集中できるからです。ライブの方がもっと緊張感が高いわけでしょう。正直に言いますと、今回の収録 曲の中で、あらかじめ合わせてみたのはアリラン(Arirang) とモーメント・マジコ(Momento Magico)だけです。 リハーサルもせず、いきました。瞬間的なことを表現したかったんです」 すべての音楽は一瞬に揮発される。演奏する人の指先から、聞く人の蝸牛管から痕跡もなく消えていく。感 知はできるが、記録できない音楽の気運と余韻を残らず囲い込むために、ナ・ユンソンは自分が音楽と向かい 合った最初の瞬間、恐れることなく対面して、その瞬間の音だけでなく、その空気までをも取り込んだ。 その彼女が韓国人に生まれてヨーロッパで活躍しながら認識する自分のアイデンティティーとは何なのか。 「私はフランスで音楽のすべてを学びました。初めて舞台に立った時から、フランスの人々は私がどこから 来たのか、何をやって暮らしていたのか、全然関係なく、ありのままの私をアーチストとして受け入れてくれ ました。つまり、フランスの人々は私をフランス人と思ってくれます。本当にありがたいことです」 しかし、彼女にはどこへ行っても韓国人という説明がついてまわる。彼女への視線には東洋から来たジャ ズ・ボーカリストという好奇心も混ざっているはず。 「親から譲り受けた声をいかに出すかということは学習できるものじゃありませんね。韓国人だという事実 が自分の音楽にいかに働くかという問題も同じでしょう。自分としては、英語で歌う時、フランス語で歌う時、 また韓国語で歌うその都度、楽器を変えていると思いますよ。でも私はあくまでも私なんです」 彼女はこれまで、録音作業の際に、〈故郷思い(Nostalgia)〉、〈死の賛美(Heart of Glass)〉、〈セノヤ・セノヤ (Senoya Senoya)〉、〈アリラン(Arirang) 〉などの韓国の作品を入れてきた。ところが、その動機を単に韓国の歌 をグローバル化したいという愛国心に求めてはならないという。 「〈アリラン〉は一緒に作業するミュージシャンたちも好きな曲です。民俗音楽ならではのパワーでしょう。 理解できない言語だが、メロディが単純であるためか、受け入れ方がそれぞれ違っていました。好きに解釈で きることがメリットです。コンサートで観客にアリランは韓国人なら誰もが知っている民俗音楽であり、歌詞 の種類が8000を超えると説明すれば、とても驚きます」 舞台に立つことが怖いという彼女は、音楽の話題について話し合う間、テンション高く楽しげに話していた が、一度も自分のことを強く主張することはなかった。執着や欲のない人らしく、その夢も素朴である。 「今のようにやっていけることが私の夢です。コンサートが続けられて、声を出して歌えればいいんです。 若いアーチストたちに、私のような声、ジャズに似合わない声でもやっていけるんだよと、希望を与えること 「しょっちゅう旅行してい るので、シンプルな暮らし が可能になったのかもし れません。旅行鞄一つに私 の人生が全部詰まっていま す」

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ができればいいですね」 最後にナ・ユンソンは「時間の経過とともに、やりたいことが増えて幸いであるとも思うし、これからがもっ ともっと楽しみです」と一言付け加えた。そんな彼女の姿に接してみて、彼女が歌い続ける限り私の心はときめ き続くだろうと思った。(ナ・ユンソンのホームページwww.younsunnah.com) (翻訳:趙祥恩)

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韓国大好き

リトル・サイの母 「息子の夢が私の夢です」 ヴ・ティ・リ(Vu Thi Ly)さんは息子のおかげで、「リトル・サイ・ママ」という愛称で呼ばれる。この愛称は、結婚を機に 韓国に定住し10年が経った彼女の生活に多くの変化をもたらした。この10年間、嬉しいことも、悲しいことも経験した。 キム・デオ(金大午、オマイスターのチーム長)| 写真 : 李正珉

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02年、二十歳になったばかりの若い彼女ははるか遠い韓国に嫁いだ。ベトナムの花嫁は、結婚か ら3年後に男の子を生んだ。生まれて100日が経った頃、家事のため抱いていた息子を胸から離

すたびに、息子は母親を求めてぐずった。彼女は携帯電話の音楽を聞かせた。すると、息子はすぐに泣き やんで、リズムに合わせて何かつぶやいたり、声をあげて笑ったりもした。サイの「江南スタイル」が生ん だもう一人のスター、「リトル・サイ」と呼ばれるファン・ミンウ(9)君は、生まれながらにして音楽に親 しんだ。いや、生まれる前からそうだったというのが、ミンウ君のお母さんの話だ。

息子の才能に気づく 「私の故郷はベトナムなので、ホームシックに陥った私のために夫はベトナムの音楽の入ったCDをよく 買ってくれました。妊娠中にも一日中、韓国の音楽やベトナムの大衆歌謡を聞いていました。そのおかげ でミンウは音楽に敏感になったようです。音楽を聞かせると喜ぶので、ずっと聞かせていましたが、3歳 の頃からはテレビに出る歌手たちのダンスをまねし始めました。特に、マイケル・ジャクソンの“ビリー ジーン”は驚くほどそっくりでした」 ヴ・ティ・リさんはベトナムを往来しながらビジネスをしていた夫、ファン・ウィチャン(53)さんに出 会って結婚した後、光州に定住した。結婚と同時に韓国の国籍を取得したが、韓国語をうまく話せない彼 女は近所の付き合いも難しく、夫の国になかなか馴染めなかった。しかし、ミンウが生まれてから、彼女 も韓国生活を楽しむようになった。ミンウの溢れる「才能」のおかげだった。 「ミンウが4歳の時、夫が私たちをベトナムに 連れて行ってくれました。メコン川沿いに、ショーを観 覧したり歌を楽しみながら食事ができる船上カフェがありますが、そこで私たちもディナーを楽しみまし た。ショーの司会者と顔見知りだった夫が、『わが息子はダンスが上手いが、一度舞台に上がらせてくれな いか』と頼みました。司会者は頼みをすぐ受け入れてくれました。舞台に立ったミンウは、マイケル・ジャ クソンの“ビリージーン”のダンスを披露し、ベトナムの歌も歌いました。その場にはフランス人、中国人、 日本人、韓国人など、様々な国からの観客がいましたが、皆、息子のパフォーマンスを楽しそうに見てい ました。夫はミンウが踊り歌う場面を録画して、韓国に帰った後、会社の従業員たちに見せながら自慢し ました」 父親の息子自慢に終わるはずの話だったが、会社の従業員たちはさらなる行動をとった。「彼には天才 的な才能がある。このままじゃもったいない」と思った彼らは、社長に内緒でSBS(ソウル放送)の人気娯楽 番組「スターキング(Star! King)」に録画テープを送った。

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韓国の文化と芸術


「スターキング」の舞台に立つ 「スターキング」の作家から出演の依頼を受けたヴ・ティ・リ夫妻は、深く悩んだ末、才能ある息子に訪 れたチャンスを受け入れることにした。放送作家たちが提示したコンセプトは偶然にも、世界的スターに

ヴ・ティ・リさんと息子のファン・ ミンウ君。9歳で早くも芸能人とし て歩みだした息子が、母親には誇ら しくもあり、不憫でもある。

なったサイの二番目のヒット曲のタイトルと同じ「ジェントルマン」だった。せっかくテレビ出演するなら、 息子の好機を生かそうと、夫妻の生活は突然あわただしくなった。 「夫と一緒にミンウを連れて、光州のデパートを巡りました。衣装と小物を買い求めました。気に入っ た子供用のスーツとシャツ、ネクタイの購入も簡単ではありませんでした。しかし、韓国に来て以来、そ の日ほど興奮してわくわくした日はありませんでした。今もその日のことは昨日のことのように覚えてい ます」 ところが、録画の日は楽しいどころか、一家にとっては気が気でならない大変な一日だった。 「プロデューサーと作家の方々は“百年に一度のスター”とミンウを褒めそやしましたが、夫と私は内心 ハラハラしどうしでした。さらに、ミンウはその時、ひどい風邪を引いていて、台本の練習やリハーサル の間、苦しさのあまりずっと泣き顔でした。それで、「このままじゃ難しい。もう帰ろう」と言うと、ミン ウは『ぜったい舞台に上がりたい』とお父さんの手を握り締めました。舞台に上がってMCたちと話したりダ ンスをしたりする間も、人に気づかれないようにそっと鼻水を拭く姿を見てどんなに不憫だったか... ミン ウは辛いのを我慢して、マイケル・ジャクソンの“ビリージーン”とシャイニーの“リンディンドン”、スー パージュニアーの“美人”を、家で歌った時よりも見事に歌い切りました。当日、一日中見守っていた夫と 私は心に決めました。これから息子が希望することは何でも支援しようと。息子に真の「才能」があること を確信しました」 K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

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放送出演後、ミンウに「光州のファン会長」というニックネームがついた。幼い子供とは思えない強烈な 振る舞いのため、「スターキング」のスタッフたちからもらったニックネームだった。その名の通りに母子 の日常も大きく変わった。ミンウを連れて出かけると、人々が寄ってきてミンウに撮影とサインを求めた。 イベントや舞台出演の依頼も相次いだ。ミンウは光州広域市児童福祉施設、老人福祉施設、そして大学祭 はもちろん、全羅南道咸平で開かれる蝶フェスティバルにも招待された。 その翌年、SBS「スターキング」の上半期の決算公演が麗水エキスポの会場で開かれ、最年少出演者のミ ンウが堂々と優勝を果たした。

「リトル・サイ」というニックネーム 「スターキング」の優勝はサイのミュージック・ビデオに抜擢されるという幸運をもたらした。その話題 になると、お母さんの隣に座っていたミンウ君が、全羅道のなまり交じりで、「江南スタイル」のミュージッ ク・ビデオの撮影にまつわる話を聞かせてくれた。 「サイおじちゃんとの撮影はとっても面白かったよ。同じ踊りを6回ぐらい踊り続けても、全然疲れな かった。撮影が終わって、サイおじちゃんが親指を立てて、僕に『お前、最高だ』と言ってくれた時は、飛 び上りたいぐらい嬉しかった。ミュージック・ビデオに僕が出るから、サイおじちゃんを応援したの。歌 謡番組でトップになるようにね。ぼくが成功したみたいにとっても嬉しかった」 それからミンウのニックネームは「光州のファン会長」から「リトル・サイ」に変わった。学校に行けば、 授業中にも高学年の生徒たちが彼の教室まで来て、こっそり写真をとったりもした。担任の先生は授業を 進めるために教室の窓ガラスを紙で隠すしかなかった。休み時間には写真撮影やサインで忙しかった。 しかし、急に有名になったばかりに傷つくこともあった。韓国もだんだん多文化社会が進んでいるが、 有名人の独特な家族構成は、当然ながら世間で噂話のネタにされた。単一民族として受け継がれてきた文 化的背景や慣習がちょっとやそっとで変わるのは難しい。 「最初はミンウには才能があるので、本人のやりたいことを支援しようと思っただけです。しかし、い つからか「リトル・サイの母さんはベトナム人」と周りの子供たちにからかわれるようになったんです。本 ヴ・ティ・リさんの息子、ファン・ ミンウ君の出演したサイの「江南ス タイル」のミュージック・ビデオの ワンシーン。わずか数秒に過ぎない 場面だが、大衆は彼女の息子を「リ トル・サイ」と呼び始めた。

当に辛くて後悔もしました。他の子供みたいに平凡に育てたなら、あえて知られずに済み、ミンウが傷つ くこともなかったのにと思ったのです」 彼女はさらに話を続けた。 「韓国に嫁いで一番嬉しかったことはミンウが健康で良い子に育っていることでした。私は韓国人と結 婚したれっきとした韓国人ですが、自分の祖国ベトナムにもプライド を持っています。しかし、韓国では依然として多文化家庭に対する見 方が自然ではありませんね。ミンウが人気を得てから私たちを偏見の 目で見る人もいるようです。もちろん、そういう人が多くはいないこ とを願っていますが、そういう方々もミンウを他の子供と同じ韓国人 として受け入れてほしいです」

ベトナムまで知られた息子 ミンウの活動舞台はベトナムにまで拡大した。歌やダンスだけで なく、韓国とベトナムの合弁で制作した映画〈サイゴンの花嫁〉にも出 © YG entertainment

演し、最近はベトナムに輸出する紅参製品の広報イベントにも参加し た。

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韓国の文化と芸術


「ホーチミン市から車で数十分のところに私の故郷ドンライはあります。夫だけを頼りにベト ナムを離れて韓国に来た時は、自分の息子が後に故郷の人々にも知れるほどの有名人になる なんて、母も私も想像だにしませんでした」 「その時は忙しくて実家にも立ち寄れず帰ってきたら、母に孫に会いたかったのにと散々言われました。 当時、サイゴンの他にホーチミン市にも立ち寄りましたが、そこから車で数十分走れば私の故郷ドンライ に着きます。私たちがホーチミンまで寄ったことが分かったら、母はかなり寂しく思うでしょう。次回は 必ず会いにいきます。夫だけを頼りにベトナムを離れて韓国に来た時、自分の息子が故郷にまで知れ渡る なんて、母も私も想像だにしませんでした」 ヴ・ティ・リさんはミンウが「リトル・サイ」で終わらないことを信じている。息子が地道に努力してい るのを知っているからだ。 「ミンウは現在も毎日3~4時間は歌とダンスを練習します。一度練習すれば、びしょびしょになるほ ど汗を流します。ミンウの活動のために光州から仁川に引っ越しましたが、ミンウがあまりに練習に熱中 するため、マンションの管理室に住民からの苦情が3回も入ったらしいです。それで、今は好きなだけ歌っ て踊れるように稽古場で練習をしています」 ミンウは今年9歳になった。しかし、芸能界に足を踏み入れた幼い息子が、早くも自分のイメージキャ ラクターを意識し始めたことに彼女は気づいた。その度に、母親として複雑な心境になる。 「スーパーなど、人の多いところに行けば、写真撮影やサインを求められることが多いんです。大勢の 人々がミンウを知っていることは嬉しいですが、自分の格好が気に入らない時、ミンウはその求めに応じ たくないようです。そのせいで、以前のように気楽に歩き回ることはできません。時には友だちと喧嘩を したりする歳ごろなのに、喧嘩することすらありません。顔に傷を負ったら大変だからと言うんですよ」 そこでミンウが話しに入ってきた。 「ぼくは前から、ピザやアイスクリームなどはあまり好きではなかったけど、今は太るのが怖いので、 ぜんぜん食べません。光州ではガンギエイや生タコも食べていたけど、今は霜降りロースが一番すき。で も、母さんが作ってくれる料理が一番おいしいです」 話しを聞いていた夫のファン・ウィチャンさんが彼女の料理を自慢した。 「女房の料理はとても美味しいです。ベトナムの食べ物はもちろん、韓国料理もとても上手です。ウナ ギの鍋料理からヒバのスープ、カニ鍋にいたるまで何でも作れます。母の手料理が口に合うのかミンウは 外食やインスタント食品はあまり好きではないらしい」 幼い歳で大統領の就任式の記念公演の舞台にサイと一緒に上がるほど、国民的注目を集めたミンウの将 来の希望は途方もなく大きく見える。しかし、一方では他の子供とそんなに違わないようにも見える。 「韓国、いや地球で一番有名な歌手になりたい。サイ爺おじちゃんみたいに、ビルボード・チャートや ユーチューブでもスターになりたい。それから、母さんに大きい家も買ってあげたい。父さんには車も 買ってあげたい。一番だいじな人は母さんと父さんだから」 最後にヴ・ティ・リさんは語った。 「ミンウの夢は結局有名になることでしょう。息子がそれを望むなら、私も息子が有名になることを望 むべきでしょう。でも、有名人として生きるということは、ちょっと怖いことですね」 おそらく彼女は、これからも息子の夢は自分の夢だと信じて、自分が犠牲にになることも厭わない典型 的な韓国のお母さんとして生きていくだろう。(翻訳:趙祥恩) K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

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我が道

家族のルーツと、 民族史を語る 「族譜」

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韓国の文化と芸術


「回想社」は韓国の族譜出版の先駆である。韓国にある現代族譜の8割以上を出版してきた同社は、来年創立60周年を迎え る。時代の流れに歩調を合わせて電子族譜も作成しているが、創業者の父親と家業を受け継いだ息子も「千年はもつ」紙の 族譜に強い信念を持っている。 キム・ハクスン(マスコミ関係者)| 写真 : 安洪范

分のルーツを捜し求めることは人種と地域を越えた関心事項である。家柄にはそれぞれの伝説や逸 話などがあり、それを確認したいのが人間の本能であるからだ。アメリカの有名な黒人作家、アレッ

クス・へイリーのセミドキュメンタリ小説『ルーツ』は、1976年の出版と同時に37カ国語に翻訳されるほど、 世界的な大ブームを巻き起こした。作家自身の7代前の祖にあたるクンタ・キンテが1767年にアフリカの ガンビアから奴隷として売られアメリカに渡った後の、その子孫たちの悲劇的な歴史を描いたこの作品は、 世界的にルーツ探しのブームを巻き起こした。アイルランドにルーツをもつジョンF. ケネディ、ロナルド・ レーガン、ビル・クリントン元大統領たちがアメリカ合衆国の大統領として選出される度に、アイルラン ドは国上げてのお祭り騒ぎになった。

王家にも民家にも伝わる族譜 ところで、韓国のようにほぼすべての家が族譜を本として作成し保管する国はほとんどない。 韓国の族譜は古代中国から影響を受けたが、単なる家系の記録にとどまらず、歴史的な意味合いをもつ。 族譜には各家の個人にまつわる細かい記録が残っており、歴史の空白を埋める貴重な資料ともいえる。王 室や貴族の特定人物を中心とした諸外国の族譜に比べて、韓国の族譜は一般人がその主人公となり、さま ざまな形式や内容は民族文化を表している。さらに、韓国は他の国々に比べて印刷技術が早くから進んで いたおかげで、族譜文化が発展することになったと専門家らは口をそろえる。国立中央図書館の資料室に は、6百種の1万3千余におよぶ膨大な量の族譜が収蔵されているが、アメリカのハーバード大学にも韓 国の族譜がマイクロフィルムに記録されているほどだ。 族譜は英語圏ではファミリ・ツリー(Family Tree)、中国では宗譜、日本では家譜と呼ばれる。韓国の族 譜は高麗中期に、キム・グァンウィ(金寛毅)が記した王代宗録がその始まりとして記録されている。王室 を除き、民間の最初の族譜は1423年(世宗5年)に編纂された文化柳氏の永楽譜である。ところが、この族 譜は実物は残っていない。現在に残っている最古の族譜は朝鮮時代、1562年(明宗17年)に編纂された文化 柳氏の嘉靖譜である。中国では文章家の蘇東坡が編纂した蘇譜が民間の族譜の始まりとする。

回想社のルーツ 韓国の現代における族譜出版は、昨年89歳で亡くなったパク・ホング(朴泓九)初代を抜きには語ること ができない。彼が1954年に設立した回想社は名実ともに、韓国最大の族譜専門出版会社である。現代韓国 の族譜の8割以上が同社で出版されたほど、同社は他社の追随を許さない。回想社で作成された族譜はな んと6百万冊以上にのぼる。社屋の6階には、1988年に作られた韓国初の族譜博物館である回想文譜院が あり、回想社で作成された9百点以上の族譜2万5千冊余がここに収蔵されている。大同譜(宗族全体を収 録) が5百点以上、派譜(同姓同本集団の一部を収録)が1千5百点以上、直系家族を記録した家乗譜が9百 族譜専門出版会社の回想社の 2代目の代表、パク・ビョン ホさんが社屋の6階にある族 譜博物館で、これまで同社か ら出版された族譜を取り出し て見ている。 K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

点以上ある。これは、国立中央図書館の資料室よりも多い規模である。さらに、古書、文集、郷教誌、仏 教書籍まで合わせると、5万点以上にのぼる。衿川地域の姜氏の族譜から永川の皇甫氏の世譜にいたるま で、書架にはハングル文字順にぎっしり収められている。ちなみに、韓国の苗字は280種類以上、寛郷本は

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8百余点、派は3400余点ある。 「回想社という名前ですが、私の父が『昔のものを回想して新しいものを創造し よう』という趣旨で名づけました。祖先の智恵が盛り込まれている美しい過去を回 想しながら、現在を正しく認識することで、素晴らしい未来を創造しようという 意味合いが盛り込まれていると思います」 回想社のルーツを説明してくれた創業者の長男 パク・ビョンホ(朴炳浩、67歳) 氏は、元々は薬剤師であり、市会議員や大田東区の区長に就くなど、家業から離れ ていた。しかし、 「代々、家業を受け継いでほしい」 という父の言葉に逆らうことは できず、2007年に回想社2代目代表になった。また、彼の弟パク・ビョンソク (朴 炳錫) 氏は4選の国会議員として現在、国会副議長を務めている政治家である。

涙ぐましい裏話 1970年代以降、国民所得の上昇とともに、自分のルーツ探しがブームとなり、族譜作成のニーズが爆発 的に増えた時期があった。 1980年代半ばからは過去に編纂された族譜を改定する需要も増えた。そのおか

1 1 回想社の電子族譜。回想社は2004 年に、時代の流れに合わせて「族譜 のデジタル化」時代を切り開いた。 2 回想社から出版された数々の族譜。 先端メディア時代にもかかわらず、 パク代表は依然として、紙製の族譜 の保存性をもっとも高く評価する。

げで回想社の規模もはるかに大きくなった。そこまで成長した背景には、パク・ホング初代の涙ぐましい 努力があったという。 「父から聞いた話の中で今でも忘れられない話しがあります。ある寒い冬の日の未明、族譜の注文を取 るために、とある元老の家を訪ねて、依頼主が起きるまで軒下で待っていました。ところが、その家の嫁 さんが、父がそこに立っていることに気づかず、米のとぎ汁をほうり捨てたらしいです。それを浴びせら れた父は、その厳しい寒さにもかかわらずその場で待っていたそうです。そんな姿を見たその依頼主は父 を気の毒に思ったのか、その場で仕事を依頼したそうです。いつも朝5時前に起床していた父は、2階の オフィスで野戦ベッドを愛用していましたが、横になっても常に族譜を手から離しませんでした」 パク代表はむかし初代から聞いた話として、族譜を身分証明書の代わりにし ようと訪れた成金の人につ いての逸話も聞かせてくれた。「50代前半のある男性が高級外車に乗ってきては、名門家の族譜に自分の名 前を載せてほしいと要求したと言います。専ら金儲けに余念のなかった彼は、複数の会社を経営する社長に なったが、自分のルーツは全然知らないということでした。彼は娘の結婚相手の家から族譜を求められ、 族譜をでっち上げしようと思ったのです。もちろん、父はその要求を一言で断ったらしいです」 儒学の教育機関である成均館の副館長を勤めたソンビ(訳注:李氏朝鮮の高潔な人柄を持っ た人に対する呼称)らしく、パク・ホング初代の足跡は会社や印刷工場のそこかしこに、 筆跡として残っている。その中でもっとも印象に残ったのは「頭のない者よ、智恵を 出してくれ、智恵のない者よ、汗を出してくれ、智恵も汗のない者よ、静かに去っ ていけ」という筆跡 だった。

紙の族譜、デジタル族譜 回想社は創業50周年を迎えた2004年から「デジタル族譜」の時代 を切り開き、紙の族譜と並行して電子族譜も出版している。電子族 譜はハングルに漢字を併記して名前をクリックすれば、影幀(訳注: 肖像が入った額縁)、行状(訳注:故人の業績や行動などを簡単に記した内 容)、書画、先山(訳注:先祖の墓のある山)の写真、生前の動画にいたるまで、様々 な資料が見られる機能が備わっている。しかし、パク代表はディスクやCDローム、インター

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韓国の文化と芸術


成均館の副館長を勤めたソンビらしく、パク・ホング初代の足跡は会社や印刷工場のそこか しこに、筆跡として残っている。その中でもっとも印象に残ったのは「頭のない者よ、智恵を 出してくれ、智恵のない者よ、汗を出してくれ、智恵も汗のない者よ、静かに去っていけ」と いう筆跡だった。

ネットなどの保存メディアは信頼できないと言う。「紙に印刷した族譜は数百年、いや一千年が過ぎても保 存可能です。しかし、先端の保存メディアというのは、いつまで保存できるか正直に言って分かりません。 私の役割は回想社だけが積み上げてきた技術と資料を印刷して保存していくことです」 パク代表は回想社ならではの自負だといって、膨大なコンテンツと正確性を挙げた。きわめて珍しく名 前にしか使われない僻字の7百余りの漢字は、韓国の他の印刷所にはない財産であると言う。族譜の印刷 に使われる字体もパク・ホング初代が独自開発した春田体だけを使う。春田はパク・ホング 初代の雅号で ある。製本も長期保存できる丈夫な方法を創案した。 「今や、ネットを始めとするデジタル機器が発達したため、自ら回想社を訪れて校正作業をする人はあ まりいませんが、2000年代以前にはガッ(ヤンバンの帽子)を被ってハンボク姿のお年寄り達が、1週間以 上も会社に寝泊りしながら校正作業に取り組む姿を見かけることも多かったと父は常に言っていました」 族譜作成の成功を祈るために豚の頭を載せて祭祀を行う風習もなくなった。遠くから会社を訪問して族 譜の校正作業に取り組んでいた人々のための旅館や食堂は、未だ会社の中に遺跡のように残っている。 女性の戸主制の導入や国際結婚の増加などの影響で、氏族の概念がだんだん薄らいでいく中、族譜に対 する認識も過去に比べて弱まっている感が否めない。さらに、電子族譜の出現によって紙製の族譜のニー ズも急減している。このため、回想社の経営環境も厳しくなっている。しかし、パク・ビョンホ代 表の族譜出版に向けた意思は固い。「族譜は家族のルーツであると同 時に、民族史の一つだと、父は常に言っていまし た」 (翻訳:趙祥恩)

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遠くの目

丸森の町から 「3.11」 以降の暮しを考える え ご

ある年、庭にあった荏胡麻の葉を見つけた韓国人留学生が、工夫しながら即席でキムチを作ったこ とがある。それは大変美味しく、みどりさんからも作り方を教えてほしいとの声があがり、韓国そ して中国の食材や料理についての話しで盛り上がった。 ノモト・キョウコ(野本京子、東京外大国際日本研究センター センター長)

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11年3月11日、日本の福島は世界の「Fukushima」とし

のみどりさんとともに各地をめぐり、定住の地と決めたのが丸

て、歴史に名をとどめることになった。いうまでもな

森町小斎地区であった。保さんに先立って、みどりさんが農を

く、津波により二万人もの人々のいのちを一瞬にして奪った東

志すきっかけとなったのはチェルノブィリ原子力発電所事故

日本大震災、そして何よりも東京電力福島第1原子力発電所の

(1986年) だったという。

建屋爆発による放射能被害によってである。ただし、原発被害

神奈川県から家族で移り住んで以降、妻のみどりさんは自

イコール福島というイメージで語られがちであるが、隣接する

然農法による無耕起・無肥料・無農薬によって生産した野菜の

他県の地域への関心はそれほど高くないように思う。

産直、保さんは有機農業を営み、自然に負荷のかからない農業

ここで紹介する宮城県伊具郡丸森町は人口14,675人(2013年

そして生活を実践してきたのである。里の家は住む人のいなく

6月1日現在)の、宮城県最南端の町である。交通の便としては、

なった農家を、自然農法や有機農業に関心を持つ人たちの研

東京からは東北新幹線で福島駅下車、福島駅からは第三セク

修、そして都市から訪れる人々の宿泊施設として、自分たちの

ターの阿武隈急行鉄道に乗り換えて50分ほどで丸森駅に到着す

手で改修したものである。このように、さまざまな努力と苦労

る。この丸森町は2005年の夏から毎年、私が勤務する東京外国

を重ねたうえで自らの生きる場を一から築きあげ、さまざまな

語大学のゼミ合宿(学部3年生)でお世話になってきた所である。

思いが実現しつつあったところに襲ったのが原発事故であっ

合宿ゼミには日本人学生とともに、私の担当する日本地域研究

た。

ゼミの韓国・中国・台湾の留学生も参加してきた。宿泊するの

小斎地区は丸森町のなかでも平坦な地域である。地区の中 あ

くま

ざお

は、20年ほど前に丸森町にIターンした私の友人夫妻が提供し

心に水田が広がり、西に阿武隈川、その向こうに蔵王の山並み、

てくれる「丸森かたくり農園 里の家」である。

東側に低くこんもりとした里山が見える、美しい田園風景の広

地方出身者が出身地の地元にもどるUターンに対し、Iター

がる農村である。この地での合宿は、卒論に向けての自らの

ンとは都会出身者が地方に移り、定住することを意味する。私

テーマを報告するという目的とともに、学生とりわけ東京での

の友人夫妻の出身地は栃木県と東京都であり、二人とも農家出

生活しか知らない留学生たちに「日本の田舎」を見せたいという

たもつ

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身ではない。保さんは大学卒業後、地方公務員として横浜市に

思いからである。年によって異なるが、大豆と米を無農薬・有

勤務していたが、体調を崩したことをきっかけに、30代半ばで

機栽培して熟成させた味噌をつくる工房や、町内に2か所ある

安心して食べられる物を自ら作ることを決意した。パートナー

滞在型市民農園等も見学させていただいた。この味噌工房も東 韓国の文化と芸術


丸森かたくり農園 里の家

京からIターンした方が営んでいる。

ち、小さな子どもがいる家族を中心に町から去った(去らざる

「里の家」での2泊3日は、用意していただいた野菜等のほ かの必要な物を買出しに出かけ、自分たちで献立を考え、作る

を得なかった)人々も多く、残った人たちも多くの困難に直面 したのである。

というものであり、学生たちにとって思い出深いものであっ

保さんとみどりさんは2011年11月、宮城県南部で有機・自

た。庭には五右衛門風呂のある小屋があり、薪割りや風呂焚き

然農等を営む生産者8軒12名でみんなの放射線測定室「てとて

も体験した。何より、「里の家」ではゆったりとした時間が流

と」をオープンさせ、その運営に携わっている。「てとてと」と

れ、勉学そしてアルバイトに明け暮れる留学生にとっては、ま

は手と手をつなぐという意味である。放射能測定器を購入し、

さにいっときのやすらぎを感じさせる場所であった。最終日に

生産者でも消費者でも「誰でも測れる」ことをモットーに活動

は恒例になった外でのバーベキューで打上げをし、ご夫妻にも

し続けている。目に見えない放射能は県境を越え、市境を越え

参加していただいた。ある年、庭にあった荏胡麻の葉を見つけ

やってくる。ただし地形や土質などによって、農産物から検出

た韓国人留学生が、工夫しながら即席でキムチを作ったことが

される放射線値は驚くほど違うという。「てとてと」の活動は、

ある。それは大変美味しく、みどりさんからも作り方を教えて

目をそらさず、でもあきらめずに現実に立ち向かっていこうと

ほしいとの声があがり、韓国そして中国の食材や料理について

いうものであり、農園から届く産直野菜はすべて、測定数字が

の話しで盛り上がった。学生たちは、みどりさんと保さんのラ

明示してある。ただし、それでも震災以前からおおはばに送付

イフスタイルや自然への向き合い方から多くの示唆を受け、ま

先は減っているという。

たお二人も毎年10名~15名の学生たちの名前を覚え、その後も ひとりひとりのことを本当によく記憶している。 丸森町は友人夫妻以外にも多くのIターン者を受入れてき

丸森では相変わらずのどかな田園風景が広がり、山に入る と緑のトンネルのようになった道や渓流がある。ここを去った 人、残った人それぞれさまざまな思いを抱えてのものであった い

たが、定年帰農というより、年齢層の若いIターン家族が多く、

ことは想像に難くない。現在、私たち、いえ私にできることは

「丸森ニューファーマーネットワーク」というゆるやかなネット

何か。少なくとも、関心を持ち続けること――これはたやすい

ワークも存在した。福島第1原子力発電所の事故はこの丸森

ようで実は容易ではない――が大切ではないか。そこに住む人

で、生活の基盤を作りあげてきた人々、あるいは作りあげよう

たちに勇気をもらいつつ、決して「見捨てられた」という思いを

としていた人々の生活を一変させたのである。Iターン組のう

抱かせないという決意をあらたにした夏であった。

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グルメを楽しむ

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韓国の文化と芸術


マツタケ その香りを食す マツタケの魅力はその香りと食感、そして希少価値にある。 韓国では秋のごく短い時期にいくつかの清涼な地域の深い松林の中でしか採れないので、 グルメの間では秋の味覚の王様と言われている。 イェ・ジョンソク(芮鍾碩、漢陽大学経営学部教授、飲食文化評論家)| 写真 : 安洪范

ツタケは韓国人や日本人にとって秋を代表する食材だ。韓国の秋夕(旧暦の8月15日)には帰郷の際のお 土産に、あるいはお世話になった方への贈答用として使われるので値段が高騰し、ニュースにとりあげ

られるほどだ。

松の木との共生関係 マツタケの魅力は一口ほおばると口の中にほのかに、しばらく漂うその香りにある。早朝に林の中で採取し たマツタケについた土をはたいた後、手で裂いて口に含むと独特な松の香りが一日中、口の中に漂っている。 弾力がありながらも柔らかな食感はマツタケのもう一つの特徴だ。マツタケはそれ自体の風味も素晴らしいが、 他の食材と取り合わせて調理すると、調和しつつ他の食材の味を倍加させ食欲を増進させる効果がある。汁物 や鍋物にマツタケのひとかけらを最後に入れるだけで汁の香りが増し、料理の品格が高まる。肉を焼くときに も、細かく裂いたマツタケをさっと焼いて一緒に食べると肉の味がいっそう引き立つ。またご飯を炊くときに 混ぜて炊く、マツタケご飯の美味しさは日本でも良く知られている。韓国人、そして日本人のマツタケに対す る思い入れはヨーロッパの人々のトリュフに対する思い入れに勝るとも劣らない。トリュフも希少で高価なも のだが、マツタケもそれに引けを取らないないくらい希少で高価だ。育つ環境条件が難しく、採れる時期も非 常に短く、人工栽培がほとんど不可能だという事実がマツタケの価値を高めている決定的な要因だ。 マツタケはマツタケ科に属するキノコで、樹齢20~60年の松の木の根に寄生して互いに栄養分を吸収しなが ら共生して大きくなり地上に顔を出す。そのために必要な環境条件も非常に厳しい。昼間の気温が摂氏26度を 超えず、夜の気温が摂氏15度以下に下がってはならず、およそ20日の間に100mm以上の雨が降るとようやく顔 を出し始める。したがって新鮮なマツタケを市場で手にすることのできる期間は9月から10月の間の20日間ほ どに過ぎない。8月にも気温と降水量が合えば時には「夏マツタケ」といって出てくる場合もあるが、旬のマツ タケに比べればやはり香りと味の面で質が落ちる。

昔から貴重な食材 天然物の焼きマツタケ、銀 杏。薄くスライスして焼い たマツタケを松の葉の上に 綺麗に並べる。 K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

マツタケがどれほど希少な食材だったかを物語る記録も数多く残っている。 1613年の朝鮮時代に出た医学書 『東医寶鑑』はマツタケを「山中の古松の下で松の精気を吸って育つので毒がなく、味は甘く香りが良い、木にな るキノコの中では一番」だと記録されている。 13世紀に遡ると高麗時代の文人イ・インロ(李仁老)の詩画集『破

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閑集』にマツタケが登場するが、松芝という名前で記録されている。また14世紀高麗末の文臣イ・セク(李穡)が 残した詩にも「淡々とした中の味(淡中有味)」というマツタケに対する賛辞が伝わっている。 朝鮮時代にもマツタケは各地で採取され王に献納される尊い特産物とされていた。第21代王の英祖(1694~ 1776)の統治功績を記録した『英祖実録』には食膳にのぼったマツタケを見た英祖が先王たちの祭祀の供物にも もう差し上げたのかと尋ねたところ、臣下がまだだと答え、それを聞いた英祖はその臣下を叱り自分も食べな かったという内容が出てくる。第26代王の高宗(1852~1919)に関する記録『高宗実録』にも興味深い内容があ る。生マツタケの献納ができなかった官吏を破職させたと報告する江原道監司に対して高宗が、多忙な秋の刈 り入れ時につき特別に許してやるように指示したという内容だ。

マツタケ祭りも開催 韓国のマツタケは東海湾から太白山脈、小白山脈と続く赤松の森で多く採れるが、主な産地としては慶尚北 道の盈徳、奉化、蔚珍一帯と江原道の襄陽が有名だ。これらの地方はすべて良質の松林が鬱蒼としている。特 に慶尚北道地域は全国のマツタケ生産量の80%以上を占めている。内陸の山間地域で採れるマツタケは堅固で 重く香りも濃い、反対に海岸地方で採れるマツタケは大味で大きいのが特徴だ。その中でも太白山のふもとに 位置する清浄地域の奉化のマツタケはその一帯に群落を成す形が美しく、木材としても人気の高い松の木と春 陽木の鬱蒼とした森の中の磨沙土の土壌で育つため、

韓国人、そして日本人のマツタケに対する思い入れは ヨーロッパの人々のトリュフに対する思い入れに勝る

水分の含有量の少なく堅固で香りの高い最上級の品 質を誇っているマツタケはカサが開いておらず、カ サの厚さが軸よりも若干太く、色の鮮明なものが上

とも劣らない。マツタケの命はその奥深い香りにある

物だ。マツタケの命はその奥妙な香りにあるが、注

が、気をつけて保管しないとその香りは2、3日で消え

意深く保管しないと、その香りは2~3日で消えて

てしまう。

しまう。従って産地に行って食べるのがその風味を 最も楽しめる方法だが、都市で買って食べる場合に は産地直送のものがお勧めだ。(産地で運営するインターネットショッピングモールなどを通じてその年の作 柄と価格を検討し、予約注文することが最も確実な方法だ)海外にも大量に輸出されており、そのため鮮度と 香りを維持するための様々な包装術が考案されている。 マツタケの香りを楽しむには、前述したように生のままで直接手で裂いて食べるのがベストな試食方法だと いえる。調理をするにしても加熱する時間は短ければ短いほどよく、調理法も単純で調味料や添加物が少ない ほど淡白な香りを生かすことができる。 18世紀の半ばに出された農業書の『増補山林経済』には「雉の肉ととも に汁にしたり、串に刺して油醤を塗って半熟になるように焼いて食べると果たして新鮮な品格を備えた菜中仙 品」とある。 19世紀末の料理の本『是議全書』にはマツタケ汁、マツタケの串焼き、マツタケの蒸し煮などが登 場する。それ以外のマツタケ料理としてはマツタケ入りの焼肉、マツタケ鍋、マツタケ釜飯、マツタケとアワ ビの粥、マツタケ入りのカルククス、マツタケの醤油煮などがある。 奉化でマツタケ料理のおいしい食堂としては鳳城面の「ヨンドゥ食堂」と市内の「ソルボンイ」をあげることが でき、蔚珍では「ナミャンスップルカルビ」が知られている。江原道の襄陽では国道7号線沿いにある「ソンイコ ル」と「ソンイポソッマウル」が専門店だ。マツタケの旬の時期に産地の食堂に行くと朝食の定食にマツタケ汁が

マツタケは深い森で樹齢20 ~60年の松の木の根に寄生 して、互いに栄養分を吸収 しながら共生して大きくな り、秋のある時期地上に顔 を出す K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 3

出るという幸運にめぐり合う可能性もある。食堂の主人が山から採取してきたマツタケの中で商品価値のない 不揃いなマツタケを入れて薄めの味噌汁を作るのだ。思いがけず出会った一杯のマツタケ汁の方が、奮発して 食べる高価なマツタケ料理よりももっと大きな感動を与えてくれるものだ。奉化と蔚珍、襄陽では毎年秋に競 うようにマツタケ祭りを開いている。(翻訳:金明順)

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韓 国 文 学 の 旅

作家評

暴力の解毒 オ・スウン(魚秀雄、朝鮮日報文化部文学担当記者)

壇の先輩後輩の大小の行事に関らずほとんど欠かすことなく顔を出して世話を焼く「文壇の 白幹事」というニックネームがピッタリの小説家ペク・カフム(白佳欽)。多くの作家が何か

につけ彼を呼びだし、彼の運転する車に乗り三千浦へ、南海へ、光州へと出かけて行く。小説家の 故・朴景利先生が後輩作家たちの創作活動を支援するために建てた原州の土地文化館。白佳欽はほ とんどシャトルバスのように定期的にこの土地文化館を往復しているという噂もあるほどだ。どれ もが彼の人徳と顔の広さ、そして頼まれると嫌とは言えない性格を物語るエピソードだ。 不思議なのは彼の小説が“人間”白佳欽とは川一つを隔てるほどに大きな差があるということだ。 彼の小説の登場人物のほとんどが暴力的に露出している。小説の中の恋愛も平凡ではない。レイ プ、殺人、所有、服従、サドマドはもちろん、倒錯的な愛情も数多い。 小説家・白佳欽の文学を“肝”で分析した文章を読んだことがある。彼よりも2年ほど前にデ ビューした、また年齢的にも2歳年長の小説家イ・ギホの「白佳欽の異常な肝に対する報告書」だ。 このユーモラスな報告書で、この先輩作家は「手や頭、あるいは胸で小説を書くのだと信じている 人がときどきいる。それは誤解だ。小説は肝で書くものだ。健康で頑強な肝だけが問題作を作り出 すことができる。それが小説のもつ内密な秘密だ」と前提した上で、白佳欽の例外的な事例をこん な風に興味深く分析している。 ところが、作家・白佳欽を見ると必ずしもこの前提には当てはまらないような気がする。血色 を見れば健康的でないことは明らかであり小説は問題作だ。 ---白佳欽の“肝”は韓国文学史に由来 を見ない驚くべき伸縮性をもっているようだ。 ---普段はピンポン玉ほどに縮んでいて、小説を書 くときだけは風船のように膨らむ肝。膨張と収縮の繰り返しでより深いしわが生じた肝。腫れた 肝。弱い肝、柔らかな肝、異常な肝。 肝の働きで一番重要なのが毒素を分解する作業だと言える。各種有害物質の除去と分解、そし て解毒など、私たちの体の自浄能力に至大な影響を与えるのが、肝だ。普段はこの作用が円滑でな いため、疲労と全身脆弱感を与える白佳欽の収縮した肝が、小説を書くときだけは膨らんでくる というのだ。彼の小説に多くの暴力と不祥事を登場させ、自らそれを解毒しなければならないから だ。彼の小説を読むと、読者は自浄作業の中間あたりで時には戸惑い、口当たりも良くない。しか しその瞬間、読者は自分自身の解毒能力と自浄能力を疑ってみる必要があると言える。 今回紹介された短編『そんな、クンウォン(根源)』の主人公は頑強で、愚直な元垢すりで、現職 は人気歌手のマネージャーだ。小説はクンウォンの人生の時点を交差させながら圧縮して描いてい

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2001年にデビューした小説家ペク・カフム(白佳欽)は、直視するのは辛くとも決して無視す ることのできない「彼ら」を、その劇的な精神世界と目を背けたくなるような現実を、アイロ ニーとファンタジーで包んだ個性的な作品を発表してきた。 ペク

フム

白 佳 欽 る。幼いクンウォンと弟のクンボンを捨てて母は家出し、母が家出をする前に父はすでに行方不 明になっている。祖母は「主イエス様」に一人息子が帰ってきますようにと祈り、母は他郷に再嫁し た。クンウォンとクンボンの人生が悲惨なものになっていったことは火を見るよりも明らかだ。 3年前、クンウォンは芸能プロダクションに就職した。ソウルに上京してから27番目の職場だっ た。 26番目の職場は前述したように「洗身士」すなわち垢すりだ。垢がでなくてもいつでも同じよ うに力を入れて垢をこするクンウォンの愚直さを買った芸能プロダクションの社長が彼をスカウト する。 反面、弟のクンボンは問題児だった。内気なクンウォンとは違い、クンボンは幼い頃から怖い もの知らずで、同じ年頃の子供たちから金を巻き上げてはこづかいにしていた。村の古物商で起こ した偶発的な殺人事件により刑務所に入り、出てきた後も今度は故意の殺人を犯し、現在は無期懲 役で服役している。 演歌歌手のキャッシュのマネージャーとなったクンウォンはキャッシュと外部との接触を遮断し、 監視しろという社長の命令を一度も逆らわずに黙々と誠実に実行する。そうやって3年間働いたク ンウォンに事情が生じた。28年前に自分と弟を捨てて家を出た母が突然電話をかけてきたのだ。 クンウォンはすべての悩みを後にして母のいるという田舎の村に向かって歩いていく。月までそ の姿を隠した暗黒の山道を月のかわりに桜の花が道を照らしている。芸能プロダクションでの新し い生活が彼を洗練された人物に生まれ変わらせたようだったが、人生の本質は変わらず、クンウォ ンの根源も元のままだ。母の家は結局見つからず、クンウォンは見ず知らずの家で一晩を過ごす。 もしかすると『そんな、クンウォン』は彼の小説の中でも暴力と残忍さが最も少ない作品なのか もしれない。しかし解毒と自浄効果は最も強力な作品なのかもしれない。作者はこの作品で読者に こんなことをささやいていいるような気がする「あなたの根源はなんですか?あなたの根源は穏や かですか?この小説があなたの苦痛を予防するワクチンになれば幸いです」 最後に冠形語と固有名詞の間に休止符を入れたこの小説の個性的な題名について評論家のソ・ ヨンチェの解説を紹介しよう。(翻訳:金明順)

「そんな」と「根源」の間でしばし呼吸を整える間に、28年の時間が流れる。時間はひとりでに流れるものではな い。『そんな、クンウォン(根源)』で白佳欽は時間の中で流され予想もしなかった場所に到達することになった 一人の男の物語を語っている。そんなものが人生だということか」

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韓国のイメージ

の木は背が高い。子供たちは背が低い。秋が深まると空はますます高くなり柿の実はさらに高 くなる。小さな子供たちの視線と夢は長い竿に乗って柿の木のあの高い幹に上り青空ほど高く

なる。 子供たちが野菜畑の片隅にある柿の木の枝にぶら下がって柿の実をとる。竿先に捕らえられた柿の 枝をゆらす子供たちの腕や腰が踊りを踊るようにねじれる。籠の中は紅い柿でいっぱいだ。 柿の木はどこにでもある韓国の風物だ。山のふもと、畑の片隅、庭の隅、裏庭のどこにでも育つ。

青い空と紅い実 キム・ファヨン ( 金華榮、文学評論家、 芸術院会員)

肥料や農薬をまかなくても、枝を整えなくても勝手に自らすくすくと育つ。それで柿の木 はどこでも独り空に向かって思いっきり背伸びをする。 柿の木はこの国の四季の風景を写す鏡だ。

初春の黄緑色の新芽、夏の艶やかな緑色の大きな葉、6月には白く小さな柿の花を咲かせ、それが 落ちると、子供たちは柿の花を糸に通して花の首飾り、花の腕輪を作る。そして秋になると葉が先ず 落ちて、柿の実が青空を背景に真紅に熟す。空高く柿の木のてっぺんにぶら下がり独り霜を迎える柿 は、それぞれの心の奥底にある郷愁を呼び起す。ふいに故郷の老いた両親に手紙を書きたくなった。 木に実った柿の実は全部とりはしない。一番高いところの枝に残った数個の紅い柿の実は青空と鳥 たちのために残してあげる。それを「カッチパブ(鳥の餌)」という。葉がすっかり落ちて物寂しい枝の 先に垂れ下がった紅いカッチパブまで鳥たちが全部食べ終わる頃、雪が降る。その後、家族みんなで 温かな部屋の中にぐるりと座り、よく熟した柿や干し柿を食す。 季節は今、子供たちの夢が長い竿にのって紅い柿に向かって高く、高く上っていく蒼く澄んだ秋だ。 (翻訳:金明順)

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