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秋号 2018

韓国の文化と芸術 特集

平和へのプレリュード

映画に見る南北関係と国民情緒 ポピュラー音楽で春を待つ 新たな転機を迎えた南北のスポーツ交流 別の形で出会うだろう北の山河

平和への プレリュード

大衆文化で歩み寄る南北

VOL. 25 NO.3

ISSN 1225-4592


韓国のイメージ

墓参りと伐草 キム・ファヨン

金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員


「秋

夕」は十五夜の中秋の名月が裏山に昇る、明 るい秋の夜を意味し、韓国人にとっては故郷 に帰る日だ。この頃になると、ソウルや都市

近郊の公園墓地やその周辺の高速道路は、墓参りと帰省の車で大 混雑となる。寒食(4月5日)と秋夕(旧暦8月15日)の墓参り は、先祖の墓地を訪れてお墓の手入れをするものだ。昔から続く この風習は、お墓が先祖の魂と肉体が共にあるところだと考え、 子孫に重要な場所だと認識させるためでもある。 山裾の斜面を平らにして、木棺に納められた遺体を土深くに埋 葬したあと、その上に土を盛って円形の封墳を造り、芝を植えて 土砂が流れ落ちるのを防ぐのが韓国特有の墓づくりであり、毎年 の管理が必要である。寒食には冬から春の間に生じた墓地の裂け 目や凹みなどの傷みを補修し、薄くなった芝を植え直す。雑草の 成長が止まる処暑の頃には、墓地の雑草を抜き取り、周りをきれ いに整える。これが伐草だ。秋夕に墓参りをするためには、事前 に必ず伐草を終えていなければならない。秋夕には祖先のお墓を 訪れ祭礼を行う。秋夕の墓参りは1年間汗を流して収穫した、そ の年に採れたばかりの米や果物を、ご先祖様にまず第一にささげ るという意味で重要だ。 しかし、時代の変化とともに多くの人々は墓参を忘れたり、伐 草と祭礼を公園墓地の管理機関に任せて、自分たちはリゾートに旅 立ったりしている。火葬、納骨堂、樹木葬などが増えており、墓参 を代行する互助会が盛業中のご時勢だ。ある主婦がインターネット にのせた1通の手紙が今日の韓国人の心の断面を反映している。 「舅が亡くなって早6年。義父は故郷に骨を埋めたいと申し ておりましたが、都市に暮らす子供たちは、たびたび墓参りに行 くこともできないと、風水地理的にも良いところがあると説得し て、大都市近郊の公園墓地に埋葬しました。そのため夫の故郷に は義父が存命中のときのように、たびたび行くこともなくなりま した。たまに旅行の途中で故郷に立ち寄っても、昔のように心惹 かれることもなく、糸の切れた凧のように思い出だけが遠い空を さ迷っています。しかし年に1度だけ、義兄の家族と一緒に伐草 のために故郷を訪れます。ご先祖さまのお墓の手入れをしなくて はならないので、今頃の少し暇な時期を選んで伐草をします。明 日の朝、夜明け前に出発しようと草取りのときの飲み水とスイカ を準備して、コーヒーは明日の朝ハンドドリップしようと氷だけ 先に準備しておきました」。 © Yonhap News Agency


<編集長の手紙>

平和への険しい航海

発行人

李是衡

編集長

金鍾徳

編集理事

朝鮮半島が再び平和と統一に向けて航海するかのように見える。4月27日の 南北首脳会談は、朝鮮半島の長い敵意と葛藤を終わらせるだろうという希望を 与えた。今回の特集「平和へのプレリュード - 大衆文化で歩み寄る南北」は、 そのような希望に満ちた雰囲気の中で企画された。 しかし、70年間も続いた敵意と葛藤は、休戦ラインの両側に様々な領域で甚 だしい苦痛と損害をもたらしてきたが故に、韓国社会で激しい不信と不審を呼 び起こしたりした。多くの人々は、もっともらしく見える友好的な会合が一時 的なイベントに終わり、両首脳のレトリックが何の収穫なしに終わるだろうと 疑った。実際に平和のための航海は険しいということがまたもやあらわになっ た。核心的イシューである非核化は、複数の利害関係者と北朝鮮の策略との間 で繰り広げられる戦略的主導権争いで、難題として横たわっている。しかし幸 いなことに、この容易でない旅程に参加した各国も、対話と交渉の推進力が消 滅したとは思ってはいないようだ。 これを機に、イデオロギーの対立により芸術と文化関係者が苦悶した悲劇に ついて、読者の関心を呼び、また、少なくないアーティストや作家が分断と戦 争による混乱状況下での破滅的運命について、向き合う必要があった。今回の 特集記事は外交面の進捗とは別に、朝鮮半島の政治的分断から始まった念願の 挫折、そして大衆文化を通じた人々の経験と成果を振り返る。この方面に関し て見識深い筆者陣による鋭い洞察力に富とんだ記事が、読者の皆さんの心に響 くことを希う。

日本語版編集長 金鍾徳

姜榮必

編集諮問委員

韓敬九

Benjamin Joinau

鄭德賢

金華榮

金英那

高美錫

那秀昊

宋惠眞

宋永萬

尹世鈴

監修者

嘉原和代

翻訳者

坂野慎治

金明順

クリエイティブディレクター 編集

アートディレクター デザイナー

編集

朴美貞 金三

池根華、盧倫永、朴道根

朴相培

金智賢、金南亨、葉蘭敬

金熒允編集会社 04035

韓国ソウル特別市麻浦区楊花路7-44. 秋思軒ビル3階 Tel : 82-2-335-4741

Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 価格

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韓国の文化と芸術 秋号 2018

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スポーツ、映画、ポップミュー ジックのイメージで作られたコ ラージュ。分断された朝鮮半島 の和解を象徴する。

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掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、『Koreana』や韓国国 際交流財団の公式見解ではありません。

1987年8月8日文化観光部-1033で登録された季刊誌『Koreana』はア

ラビア語、インドネシア語、英語、スペイン語、中国語、ドイツ語、 フランス語、ロシア語でも発刊されています。


特集

平和へのプレリュード - 大衆文化で歩み寄る南北

04

特集 1

18

特集 3

チョン・ドッキョン

新たな転機を迎えた南北の スポーツ交流

12

26

映画に見る南北関係と国民情緒

特集 2

ポピュラー音楽で春を待つ オ・ギヒョン

34

フォーカス

オンドル 国家指定文化遺産となる ハム・ソンホ

40

インタビュー

過ぎ去りし記憶を キャンバスにとどめる チョン・ジェスク

46

オン・ザ・ロード

城北洞の 三人の男の物語 イ・チャンギ

チョン・ユンス

特集 4

別の形で出会うだろう北の山河 ウン・ヒギョン

54

二つの韓国

これがピョンヤン冷麺だ キム・ハクスン

58

日常茶飯事

老後を自ら切り開く白髪の学生 キム・フンスク

62

遠くの目

歌麿と申潤福 友常 勉

64

エンターテインメント

大衆文学の中の嫁 もはや従属した客体ではない ジョン・ドキョン

66

料理物語

秋深まれば紅葉も コッケの味も深まる チョン・ジェフン

70

韓国文学の旅

彼女に本当に必要な薬は? チェ・ジェボン

『薬の歴史』

オ・ヒョンジョン


特集 1 平和へのプレリュード - 大衆文化で歩み寄る南北

『シュリ』(1999)、カン・ジェギュ(姜帝圭) ⓒカン・ジェギュ・フィルム

『シークレット・ミッション』(2013) チャン・ チョルス(張哲秀)

映画に見る 南北関係と国民情緒 『ブラザーフッド』(2004)、カン・ジェギュ ⓒカン・ジェギュ・フィルム

4 KOREANA 秋号 2018

『トンマッコルへようこそ』(2005) パク・クァンヒョン(朴光賢)


ⓒMCMC

『JSA』(2000)、パク・チャヌク(朴賛郁) ⓒミョン・フィルム

戦争と分断から65年、まだ冷戦の続く朝鮮半島において、北朝鮮に対する韓国の国民意識はど のように変化してきたのだろうか。大衆文化、その中でも映画ほど、意識の変化がはっきりと 読み取れる分野はないだろう。歴史的な南北首脳会談が開かれた2000年から現在まで、北朝鮮 をテーマにした映画がいくつも上映されてきた。そうした映画を見ると、韓国社会が北朝鮮と 南北関係をどのように捉えているのか、視点の変化を知ることができる。 チョン・ドッキョン 鄭徳賢、大衆文化評論家

ⓒFilm It Suda

『ベルリンファイル』(2012)、リュ・スンワン(柳昇完) ⓒ外柔内剛(Filmmaker R & K)、CJ ENM

韓国の文化と芸術 5


『鋼鉄の雨』(2017)、ヤン・ウソク(楊宇錫) ⓒワイウォクス・エンターテインメント

「韓

1

国の映画の歴史は『シュリ』以前と以後

る北朝鮮の強硬勢力と、それを阻止する韓国側との死闘を描い

に分かれる」。

ている。そのため、クライマックスで北朝鮮の工作員と韓国の

1999年に公開されたカン・ジェギュ

機関員が対峙する競技場では、当時の南北の実情をそのまま映

(姜帝圭)監督の『シュリ』は、大きな反響を呼んだ。ソウル

し出したようなシーンもある。南北の首脳が観戦する南北親善

で245万人、全国で582万人という当時としては記録的な観客動

サッカー大会が、南北の和解ムードを象徴しているとすれば、

員数を叩き出したのだ。それまでソウルで観客動員数100万人

それに反対する強硬勢力の登場は、韓国社会に依然として残っ

を超えた映画は、イム・グォンテク(林権澤)監督のパンソ

ていた緊張と敵対感を表現している。しかし、観客は男女主人

リ(韓国の伝統芸能)をテーマにした『風の丘を越えて/西便

公がイデオロギーによって銃を向け合う中でも、愛を確かめ合

制』(1993年)が唯一だった。

うストーリーに共感した。

莫大な制作費を投じた洋画が押し寄せていた当時、韓国の

冷戦終結への渇望は、分断から55年が経った2000年6月13

映画はスクリーンクォーター制度によって、かろうじて息をつ

日、南北の首脳が平壌で手を取り合うことで現実のものになっ

ないでいた。そうした中『シュリ』は、韓国型ブロックバスタ

た。キム・ジョンイル(金正日)総書記の招きに応え、キム・

ー映画に十分勝算があることを証明した。制作費も当時として

デジュン(金大中)大統領が平壌を訪問したのだ。その首脳会

は最高の31億ウォンが投じられた。『シュリ』のヒットはそれ

談は、朝鮮半島の情勢における画期的な変化を予告する一大事

以降、韓国映画のブロックバスター化を加速させ、文化産業の

だった。同年9月に公開されたパク・チャヌク(朴賛郁)監督

一つとして韓国映画が発展するきっかけになった。

の『JSA』には、ソウルだけで251万の観客が熱狂した。この

しかし、ここで注目すべきなのは『シュリ』のどのような

ヒットも、歴史的な首脳会談と無縁ではないだろう。板門店と

点が、大衆的な成功につながったのかということだ。端的に言

いう緊張感あふれる特殊な空間で起きた銃撃事件。それを推理

えば、変わり始めていた南北関係を映画に大胆に取り入れたか

していく過程で、緊張と対立の中、南北の兵士がひそかに交流

らではないだろうか。

し友情を育んでいたという衝撃的なストーリーを描いていく。

新しいテーマ、新しい視点

降、民主化の気運が高まり、1993年には文民政権が発足したも

『シュリ』は、韓国との和解ムードを壊そうとテロを企て

6 KOREANA 秋号 2018

その当時を振り返ってみると、1987年6月の光州事件以 のの、北朝鮮に対する保守勢力の強い反発が依然として続い


『オペレーション・クロマイト』(2016)、イ・ジェハン(李宰漢) ⓒテウォン・エンターテインメント

ていた。実際に国家保安法によって、多くの芸術作品で自己検 閲が行われていた。『シュリ』はスパイ・アクションというジ ャンル的な特徴に、恋の物語を加える迂回的な手法を用いた。 『JSA』は南北の兵士の友情をストレートに扱ったという点

2

1. 南と北を代表する二人がイデオロギーや政治体制を乗り越えて核戦争を防 ぐ、緊迫感あふれる作品。

2. 朝鮮戦争の形勢を逆転させた国連軍の仁川上陸作戦(1950年9月)を素材に した映画。

で、非常に画期的だった。そのため、パク・チャヌク監督は当

中、一つの家族が崩壊していく過程を兄弟愛の観点から描いて

時「この作品では逮捕まで覚悟している」と話していた。しか

いる。弟が強制的に徴兵され、兄が助けようとするが共に徴兵

し、幸いなことにその直前、南北首脳会談が劇的に実現し、大

されてしまい、一緒に戦線に送り込まれる。戦いの中で疲弊し

きな熱狂を呼び起こしたのだ。

ていく兄は結局、北朝鮮軍に加わり、兄と弟が銃を向け合うと

ジャンルの拡張

いう悲劇的なストーリーだ。 パク・クァンヒョン(朴光賢)監督の『トンマッコルへよ

カン・ジェギュ監督は『シュリ』で韓国型ブロックバスタ

うこそ』(2005年)は、戦争に立ち向かうヒューマニズムを描

ーの成功を確信し、2004年にスケールアップした『ブラザーフ

いて、640万人の観客を動員した。この映画は戦禍を免れたト

ッド』でスクリーンに戻ってきた。キム・デジュン(金大中)

ンマッコルという山奥の村で韓国軍、北朝鮮の人民軍、米軍が

政権に続き、ノ・ムヒョン(盧武鉉)政権も北朝鮮に対して融

共に過ごすことになり、そこで起きるエピソードを描いた作品

和政策を続けていた。南北関係を扱った映画は、本格的に朝鮮

だ。道に迷ってトンマッコルにやって来た彼らは、同じ空間で

戦争を素材にしたが、過去の反共主義時代とは全く異なる視点

過ごしながら絆を深め、敵と味方ではなく人として関係を築い

を持ち始めた。それは戦争そのものではなく、その中の人々を

ていく。この映画は、ヒューマニズムの観点から、敵ではなく

見つめる新たな観点だ。

戦争そのものと戦う物語だ。そうした点で、反戦の気運が高ま

対北工作のために地獄のような訓練を受ける特殊部隊員を

っていた当時の人々から共感を得た。また、この作品が画期的

通じて、分断の悲劇を間接的に描いたカン・ウソク(康祐碩)

でユニークなのは、朝鮮戦争というトラウマのような素材を才

監督の『シルミド』(2003年)は、韓国映画史上初めて観客動

気あふれるファンタジーとコメディーに昇華させた点だ。そし

員数1000万人を突破した。そして翌年『ブラザーフッド』も

て、南北関係を扱う映画が、より多彩な形で観客から共感を得

1000万人を超えた。『ブラザーフッド』は、朝鮮戦争の悲劇の

られることも証明した。

韓国の文化と芸術 7


南北関係を扱った映画は、本格的 に朝鮮戦争を素材にしたが、過去 の反共主義時代とは全く異なる視 点を持ち始めた。それは戦争その ものではなく、その中の人々を見 つめる新たな観点だ。

『シルミド』(2003)、カン・ウソク(康祐碩) ⓒシネマ・サービス

1

商業化の波

げられる。それぞれ720万人、696万人を動員した作品だ。北朝

その頃、南北関係を扱う映画も、商業化の波に乗り始めて

鮮をテーマにしているが、ジャンル映画の要素を取り入れた

いた。ソン・ヘソン(宋海成)監督の『無敵者』(2010年)に

商業映画として成功した。『ベルリンファイル』は、2002年の

は脱北者が登場するが、『男たちの挽歌』のようなフィルム・

『ボーン・アイデンティティー』から2016年の『ジェイソン・

ノワールだ。『無敵者』には「敵わない者(無敵者)」であり

ボーン』まで続く「ボーン・シリーズ」などのスパイ・アクシ

ながら「国籍のない者(無籍者)」という二重の意味が込めら

ョンに属し、ベルリンで活動する北朝鮮のスパイと韓国の国家

れている(韓国語では同じ発音)。ストーリーは「脱北者は殺

情報院の要員との対決を描いている。『シークレット・ミッシ

人兵器」という漠然とした先入観と幻想を基に、ノワール・ア

ョン』は「イケメン・スパイ団」という突飛な組み合わせを軽

クションとして描かれている。それは、北朝鮮の人はどこか違

快なタッチで表現している。北朝鮮に捨てられたスパイ団が、

っていて、厳しい人生を生きてきたはずだという漠然とした推

韓国でスーパーヒーローになるという内容だ。その上の世代

測に基づいている。

は、スパイと言えばキム・シンジョ(1968年の青瓦台襲撃未遂

当時の南北関係をテーマにした映画が、本格的に商業化の

事件)のように、実際に韓国に侵入した武装スパイを思い浮か

波に乗っていたことを極端に表す作品がある。イ・ジェハン

べるだろう。だが若い世代では「イケメン」を想像するほど明

(李宰漢)監督の『戦火の中へ』(2010年)だ。この映画の素

るくなった。

材の「洛東江戦闘」は、朝鮮戦争における激戦の一つで、それ

韓国映画に登場する南北関係は、その後も商業化の影響を

までにも反共映画として何度も取り上げられてきた。この映画

受け続け、コメディー、刑事物、スリラーなどジャンルの要素

は反共映画ではないが、反戦映画でもない。極めて商業的な戦

を取り入れてきた。一連の作品で描かれた北朝鮮軍のイメー

争スペクタクルだ。

ジは「殺人兵器」としてキャラクター化され消費された。そう

このような商業化の波は、自ら「経済大統領」と称して

した中で注目すべきなのは、反共映画ではないが保守的な観点

2008年に当選したイ・ミョンバク(李明博)政権の雰囲気と無

から映画が作られた点だ。その代表的な作品が『ノーザン・リ

縁ではないだろう。保守と進歩のイデオロギー対立がなかった

ミット・ライン 南北海戦』(2015年)と『オペレーション・

わけではないが、それよりも経済が時代を支配していた。2013

クロマイト』(2016年)だ。600万人の観客を集めた『ノーザ

年まで続いたイ・ミョンバク政権の中で、南北関係をある程度

ン・リミット・ライン 南北海戦』は、2002年6月に韓国の西

真剣に扱った映画は、チャン・フン(張熏)監督の『高地戦』

海で行われた南北の交戦を描いているため、制作前から「官製

(2011年)くらいだろう。南北が互いに高地の奪還を繰り返す

映画」ではないかという論争が起きていた。イデオロギーも保

過程を描くことで、戦争の無謀さと無益さを表現した作品だ。

守に偏っているとの危惧があった。しかし、この映画はイデオ

商業化に成功した作品としては、2012年に公開されたリュ

ロギーも商業化できることを証明した。兵士の団体観覧が相次

・スンワン(柳昇完)監督の『ベルリンファイル』とチャン・

ぎ、公開初日には667スクリーンだったが5日後には1013スク

チョルス(張哲秀)監督の『シークレット・ミッション』が挙

リーンに増え、映画館の独占だという論争まで起きた。

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『高地戦』(2011)、チャン・フン(張熏) ⓒTPS Company

2

『オペレーション・クロマイト』も保守と進歩の対立をう まく活用した商業映画だ。制作会社の代表取締役が「精神を鍛 えて安保意識を持ってほしいという思いから作った」と話し、 イデオロギーを全面に押し出しているように見られた。だが実 際には、朝鮮戦争における仁川上陸作戦という歴史的な出来事 を典型的な戦争スペクタクルとして描いただけだった。「イデ

『ノーザン・リミット・ライン 南北海戦』(2015)、キム・ハクスン(金学詢) ⓒロゼッタ・シネマ

1. 北朝鮮潜入のため地獄のような訓練を受けた特殊部隊の実話に基づいた映 画。韓国映画史上初めて観客動員数1000万人を突破した記念的作品

2. 戦争の無謀さと無益さがテーマの作品。イ・ミョンバク(李明博)大統領の 保守政権の時期に南北関係を扱った映画の中で、比較的深みのある洞察力が見 られる。

3. 2002年6月に延坪島(ヨンピョンド)近海で起こった南北の武力衝突を素材 にした映画。保守的観点を感じさせる代表的な作品

オロギーは血より強い」と言いながら、考え方が違う家族に銃 を向ける北朝鮮軍の将校を絶対的な悪とし、マッカーサー元帥

れほど大きく注目されていたのかを物語っている。

を神のような存在として描くことで、戦争の惨状よりも勝者の

2017年に当時のパク・クネ(朴槿恵)大統領が弾劾され、

カタルシスを強調している。戦争のスペクタクルとイデオロギ

ムン・ジェイン(文在寅)政権が発足した。その頃に封切られ

ーの商業化によって、この映画は700万人を動員した。

たヤン・ウソク監督の『鋼鉄の雨』は、関係改善が予想される

映画の想像力と現実

南北関係への期待によって、445万の観客を映画館に向かわせ た。仮想の核戦争を描いたストーリーで、空から降り注ぐ「鋼

ファン・ドンヒョク(黄東赫)監督の『天命の城』(2017

鉄の雨」のような殺傷兵器によって、瞬く間に地獄絵と化す残

年)は、丙子の乱(清による朝鮮への侵攻)を描いた作品だ。

虐さを物語っている。しかし、そのような悲劇が敵国の脅威で

だが、深刻化していた北朝鮮の核問題と相まって、南北関係を

はなく、分断を利用して権力を握ろうという欲望によるものだ

捉える観点がぶつかり合った映画でもある。映画では、朝鮮の

と考える南北の要員が登場する。そして、イデオロギーや政治

朝廷が清の大軍に包囲された南漢山城で、斥和(主戦)派のキ

体制を乗り越えて、核戦争を防ぐために助け合う姿が描かれて

ム・サンホン(金尚憲、1570~1652)と主和(和親)派のチェ

いく。二人は、戦うべき敵が南でも北でもなく、分断を利用す

・ミョンギル(崔鳴吉、1586~1647)が熾烈な論争を繰り広げ

る権力者たちだと確信する。観客は、この映画のスペクタクル

る。それが、当時の南北関係に対する保守と進歩の観点を思い

よりも、南と北を代弁する二人が、核よりも温かみのあるヒュ

起こさせたのだ。

ーマニズムで核戦争という悲劇に立ち向かう姿に、大きく共感

「死を恐れ、恥辱の中で生きてはならない」と応戦を主張

した。

する礼曹判書(儀礼祭事や外交などを司る官職)のキム・サン

南北関係を扱った韓国映画の変化は、上映当時の政府の北

ホンと「生きてこそ大義も名分もある」という吏曹判書(人事

朝鮮政策と切り離して考えることができない。それほどに政府

を司る官職)のチェ・ミョンギルの主張は、国防力を強化すべ

の意志が、北朝鮮との関係を見る人々の観点にも大きな影響を

きだという保守の主張と、外交的な解決策を見出すべきだとい

及ぼしているという意味だ。それにも関わらず、韓国映画で描

う進歩の主張を連想させた。実際に政界での摩擦につながるな

かれる南北関係の変化は、明らかに対立から和解と対話へ向か

ど、この映画を巡る論争は、北朝鮮の核問題に対する観点がど

っている。

韓国の文化と芸術 9

3


『リョニとヨニ』(2017)、チェ・ジョング、ソン・ビョンジョ ⓒチャンプンE&M

1

自主映画が脱北者を見つめる視線 自主映画の大きな価値は、商業性のないテーマを真っ向から取り上げることだ。脱北者を描いた いくつかの自主映画は、脱北者が韓国の資本主義社会で経験する問題と正面から向き合い、資本か らの独立という自主映画の存在意義も証明している。 2017年末に公開された自主映画『リョニとヨニ』には、実際には同

この映画は「家から逃れた女、国から逃れた女」というポスター

じ名前だが、それぞれ北朝鮮式と韓国式の発音で呼ばれる二人の女性

のキャッチコピーからも分かるように、脱北者が直面する現実と、家

国のコンビニエンスストアでアルバイトをしている。ヨニは、そのコ

は、生活が苦しくて韓国に渡ったものの、決して住みやすい社会では

が登場する。リョニは脱北する中で娘を失い、心に傷を抱いたまま韓 ンビニで消費期限切れのおにぎりを盗もうとしたが、見つかってしま ったことでリョニと知り合う。

リョニとヨニの韓国での生活は、決して楽ではない。コンビニの客

や他のアルバイトも脱北者のリョニをそれとなく無視する。大変なの はヨニも同じだ。乱暴な父親から逃れて家出をするが、世の中は冷た い。父親の分からない子を妊娠したヨニは、さらに公園で性暴力に遭 いそうになる。

10 KOREANA 秋号 2018

父長的な構造の中で女性が直面する現実を同時に描いている。リョニ ないことをアルバイトで知る。そうした中、家出して出産を控えたヨ ニを迎え入れる。脱北の際に亡くなった娘のことでつらい思いをして きたリョニ。だがヨニの出産で、その深い悪夢から少しずつ解き放た れていく。

この映画は「脱北者」と「女性」という素材が、ないがしろにされ

たところで出会い、絆によって問題を克服していく過程を描いている。 また、二人の女性の出会いを通じて、世界的に重要なキーワードになっ


ているジェンダーと脱北者の問題をオーバーラップさせている。

も生存のための苦痛でしかない。スンチョルを受け入れてくれるの

ョンヒ』は、ドキュメンタリーのタッチで、非常にささやかな日常を

のは、自分と同じように捨てられた白い犬だけだ。

2014年にミジャンセン短編映画祭に出品されて話題を呼んだ『ミ

描いている。こうした点は、脱北者を扱った他の映画とは大きく異な

は、あらゆるものを神の子とする教会しかない。黙って慰めてくれる 1987年に小型船に乗って北朝鮮から逃れてきたキム・マンチョル

る。一般的に脱北者の映画には、脱北の厳しさや残虐さなどが欠かせ

(金万鉄)一家は、記者会見で韓国を「暖かい南の国」と表現した。

ョンヒの姿だけが描かれている。

南の国」などなかった。映画は、待っているのは厳しい生存競争だけ

ない。だが、この作品には脱北した後、韓国の社会に深く溶け込むミ 映画は、気功体操を習う日常的な空間から始まる。友達に連れら

れてきたミョンヒは、スジンとミジョンに出会い、さばさばした性格

しかし、『ムサン日記~白い犬』の脱北者のスンチョルには「暖かい だと述べているようだ。

のスジンとすぐに仲良くなる。特別な出来事など起きそうにない映 画は、ミョンヒがスジンの服屋に毎日のように行って、ただで仕事を 手伝う中で意外な葛藤が生まれ、緊張感が漂う。ミョンヒは「北朝鮮 では、真冬でも外で石を割らないといけない」と、ただで手伝うのは 大したことではないと言うほど経済観念に欠けている。ミョンヒは、 親しい姉のような存在だから、手伝うのが人情だと思っている。しか し、周りの人たちは違う。資本主義を根幹とする韓国で、労働への報 酬は当然支払われるべきだ。そのため、友達から「あなたはスジンの 召使いなの?」と言われ、ミョンヒは動揺する。

日常的な出会いと友情から始まったものの、それぞれ違う政治体制

の下での人生、異なった経済観念や考え方によって起きる摩擦。『ミ ョンヒ』では、そうした摩擦を通して脱北者を描き出す。他の映画で は脱北者を他者の視線で描くが、この映画は共に生きていく友人の視 線で見つめている。ハイライトは、そう言った友達に、ミョンヒが本

1. 脱北者が直面する現実と、韓国の家父長的な構造の中 で女性が直面する現実。この二つを同時に描いた作品 2. それぞれ違う経済観念や考え方によって起きる脱北者 とその周りの人たちとの摩擦を描いた作品

3. 多くの海外映画祭で好評を得た同作品は、ネオリアリ ズム的な視線で脱北者を見つめている。

2

心を口にし、感情を爆発させるシーンだ。「こんな目に遭うために、

命をかけて来たわけじゃない!」というミョンヒの毅然とした発言 は、韓国社会の脱北者に対する無視や同情を鋭く指摘している。

一方『ムサン日記~白い犬』(2010年)は、自主映画ながらロッテ

ルダム国際映画祭のタイガーアワード(グランプリ)と国際映画批評 家連盟賞、ロシアのアンドレイ・タルコフスキー映画祭の大賞など、

実に16ものトロフィーを得ている。トロント・リールアジアン国際 映画祭は、この作品への大賞授与に際して、次のように述べている。 「ある脱北者の武骨で荒々しく、しかし感動的なストーリーの中に、 私たちは新しい環境に適応しようとする一人の人間の崇高な闘争を見 出すことができる。主人公の率直で強烈な生への執念を称えて、審査

『ミョンヒ』(2014)、キム・テフン ⓒセントラルパーク・フィルム

3

員の満場一致で大賞作とする」。

『ムサン日記~白い犬』が海外でも好評を得たのは、この映画が持

つネオリアリズム的な視線のためだろう。映画は、北朝鮮の咸鏡北道 ムサン(茂山)出身のスンチョルが過ごすつらい日々を描いている。 だが、そこに映し出されるものは、脱北者だけの現実ではない。韓国 の貧しく疎外された「無産者」のつらい人生でもあるからだ。

この映画は、ドキュメンタリーのようなリアリティーで、脱北者へ

の偏見と脱北者が生きるしかない冷たい現実を描いている。チラシを 貼ることで命をつなぐスンチョルの人生は、良くなる見込みがない。 暴言と暴力が日常化した韓国社会で、スンチョルの人生は、いつまで

『ムサン日記~白い犬』(2010)、パク・ジョンボム(朴庭凡) ⓒセカンドウインド・フィルム

韓国の文化と芸術 11


特集 2 平和へのプレリュード - 大衆文化で歩み寄る南北

© The Hankyoreh

ポピュラー音楽で 春を待つ 韓国と北朝鮮との音楽交流は、30年の歴史がある。特に、ポピュラー音楽によって距離を縮め始めてから約 20年になる。イデオロギーも政治体制も異なる韓国と北朝鮮が、音楽で交流をする。これは単純な文化交流 ではなく、和解と平和によって同じ民族としてのアイデンティティーを回復するための努力だ。 オ・ギヒョン 呉騏鉉、SBSプロデューサー

12 KOREANA 秋号 2018


昌冬季オリンピックの開幕式を翌日に控えた

で、その他の11曲は純粋なポピュラーだ。その11曲の歌詞には

2018年2月8日。冬の海風が吹きすさぶ江陵

「愛」という単語が40回、「涙」が10回、「別れ」が4回入っ

は寒さが和らぎ、気温も午後には6度まで上

ている。つまり、北朝鮮が警戒する「資本主義の黄色い風」に

がった。江陵アートセンターで、北朝鮮の三池淵管弦楽団の公

当たる楽曲だ。普段は排斥している韓国の歌を政治的なリスク

演が開かれる日でもあった。この楽団は140人ほどで、平昌冬

を負ってまで選択した理由は、何だろうか。それは、韓国の人

季オリンピックの祝賀公演のために北朝鮮政府が公式に派遣し

たちの感性と好みに合わせて日常を表現するポピュラー音楽に

ていた。三池淵(サムジヨン)楽団、牡丹峰(モランボン)楽

よって、互いの生活や考え方を理解し、韓国と北朝鮮との間に

団、朝鮮国立交響楽団などから最高の演奏者、歌手、舞踊家を

立ちはだかる情緒的な障壁を取り除こうとしたのではないだろ

選んで構成した楽団だ。

うか。

幸い暖かくなったが、江陵アートセンターに集まった観

選曲のもう一つの動機として、1999年から時おり行われて

客は、公演が始まるまで緊張気味だった。わずか1~2カ月

きた韓国のアーティストの北朝鮮公演が挙げられるだろう。

前まで戦争の危機が取りざたされていたため、韓国の一部の

今回の公演で歌われた曲の中で『離別』は1999年にパティ・キ

メディアは三池淵管弦楽団のヒョン・ソンウォル団長を北朝

ムが、『愛の迷路』は1999年と2002年にチェ・ジニ(崔辰煕)

鮮の代表的な革命歌劇『花を売る乙女』に例えて「核を売る

が、そして『Jへ』は2003年にイ・ソニ(李仙姫)が、それぞ

乙女」と描写した。また、楽団がプロパガンダを行うという

れ平壌の観客の前で熱唱している。

主張もあった。 (お会いできて嬉しいです)』が始まると、瞬時に和らいだ。

ポピュラー音楽の交流の歴史

その後のレパートリーも政治色を強調せず、韓国と北朝鮮の人

その年の9月、離散家族故郷訪問団の行事に合わせて行われ

たちが共感できるような曲で構成されていた。観客は、楽団の

た「南北芸術団交換公演」が始まりだ。それぞれ50人の芸術団

情熱的な歌と演奏に温かい拍手を送った。

が、互いに南北を訪問し合って公演を行った。しかし、その当

会場の張り詰めた空気は、1曲目の『パンガプスムニダ

韓国のポピュラー中心のレパートリー

北朝鮮の楽団は、16年ぶりの韓国訪問公演の準備に余念が

韓国と北朝鮮の音楽交流の歴史は、1985年にさかのぼる。

時はあまり評価されなかった。北朝鮮は韓国の芸術団に対して 「封建的で退廃的だ」と非難し、韓国は北朝鮮の芸術団に対し て「伝統の破壊で画一的だ」と酷評した。

なかったようだ。一番目立ったのはオーディオ・ミキシング

それ以降も何度かソウルと平壌で音楽会が開催され、韓国

だ。ミキシングは、エンジニア2人が北朝鮮から持ち込んだコ

と北朝鮮の芸術交流は続けられた。しかし、本格的にポピュラ

ンソールで行った。歌声と楽器のバランスが良く、ミキシング

ー音楽の交流が始まったのは1999年からだ。同年12月5日、平

もスムーズだったため、録画放送を準備していた韓国のスタッ

壌烽火芸術劇場で開かれたSBS「2000年平和親善音楽会」。こ

フも感嘆していた。照明も優れていた。音楽の流れに合わせて

の音楽会は、当時のビル・クリントン米大統領の弟ロジャー・

楽器の演奏者を正確に捉えていて、かえって作為的に感じら

クリントンの公演に、SBSが合同公演として参加したものだ。

れるほどだった。ユニフォームは男女共に少し時代遅れな感じ

引き続き12月22日にも、同じ場所でMBC主催の「民族統一音楽

で、ヘアースタイルも全体的に単調ではあったが、一糸乱れぬ

会」が開かれた。これが、韓国の放送局が初めて単独で進めた

動きと統一性を重視する北朝鮮の集団主義文化が感じられる部

北朝鮮訪問公演だ。当時のキム・デジュン(金大中)政権が太

分でもあった。演奏者は約2時間、ほとんど楽譜を見ずにクラ

陽政策を推進していたため、交流に有利な環境だった。SBSの

シックからポピュラーまで数多くの曲を演奏した。短い準備期

公演は、90年代の韓国歌謡界をリードした第1世代のアイドル

間でも、しっかりと練習してきたのだろう。

グループ「ジェクスキス(Sechs Kies)」と「ピンクル(Fin.

今回の公演では韓国の楽曲も13曲、演奏された。そのうち

K.L)」の参加からも分かるように、韓国の大衆文化によって

2曲は北朝鮮でも知られている労働歌(学生・労働運動の歌)

韓国と北朝鮮の社会・文化的な違いを見せることに狙いがあっ たと思われる。一方MBCの公演は、当時のヒット曲よりも、主 に民謡や日本統治時代の流行歌が選ばれ、韓国と北朝鮮の文化

三池淵(サムジヨン)管弦楽団が今年2月11日にソウル 国立中央劇場で行った公演。「少女時代」のメンバー、 ソヒョン(徐玄、左から4番目)が、北朝鮮の歌手と一 緒に歌っている。北朝鮮政府が平昌冬季オリンピックに 公式派遣した同楽団は、2月8日にもオリンピック開催 地の江陵(カンヌン)で公演を行った。

的な同質性に訴えかけたという点で性格が異なっている。 M B Cは2002年9月27日に「イ・ミジャ(李美子)特別公 演」、9月28日に「オー!統一コリア」をそれぞれ東平壌大劇 場で行った。「オー!統一コリア」ではロック歌手のユン・ド ヒョン(尹度玹)が自由奔放にアリランを歌い、北朝鮮の観客

韓国の文化と芸術 13


韓国と北朝鮮が厳しい状況の中でも続けてきた文化交流は、 ほとんどがポピュラー音楽の公演で、韓国から北朝鮮を訪れ た回数の方が多い。

に衝撃を与えた。その公演は北朝鮮全域に生放送され、ユン・

不安定な政治状況によって7回も延期された。結局、1年後に

ドヒョンブームまで起こした。

実現した公演だ。

また、2003年8月11日にはKBSの「平壌のど自慢」が牡丹

韓国と北朝鮮が厳しい状況の中でも続けてきた文化交流

峰公園で行われた。この番組は一般の市民が参加して歌唱力

は、ほとんどがポピュラー音楽の公演で、韓国から北朝鮮を訪

を競うもので、1972年に始まった長寿番組だ。本来は「全国の

れた回数の方が多い。つまり「韓国の放送局による北朝鮮訪問

ど自慢、平壌編」というタイトルだった。しかし、北朝鮮側が

ポピュラー公演の歴史」だといえる。北朝鮮の事情によって北

「革命の心臓部に当たる平壌をタイトルの後ろに付けるわけに

朝鮮芸術団の韓国訪問が難しかった点、ポピュラー音楽の公演

はいかない」と主張し「平壌のど自慢」で合意したという。12

が他のジャンルに比べて情緒的に共感しやすい点、多くの人員

歳の子供から77歳のお年寄りまで、平壌市民20人が出演した。

と経費を必要とする大規模公演は放送局が比較的に行いやすい

SBSは2003年10月に「平壤柳京鄭周永体育館・開館記念統 一音楽会」を開いた。韓国の現代グループと北朝鮮が2003年に

点などが、そのような特徴を生み出したのだ。

団など1100人が休戦線を越えて平壌を訪れたのだ。この音楽会

牡丹峰楽団の登場

は、北朝鮮において初めて体育館で行われた公演でもある。韓

流は、互いに少なからぬ影響を与えた。北朝鮮芸術団の韓国公

国の国民的歌手チョー・ヨンピル(趙容弼)の平壌公演も2005

演によって北朝鮮の好戦的なイメージは改善し、平和統一に対

年8月、SBS が主催して同体育館で行われた。この公演は北朝

する一般国民の関心と期待が高まった。その反面、韓国芸術団

鮮側の要請で進められたが、キム・イルソン(金日成)主席の

の北朝鮮公演に対する反応と成果は、明らかになっていない。

10周忌の弔問を韓国政府が許可しないなど、朝鮮半島における

北朝鮮のメディアが韓国芸術団の公演を論評することは、極め

総合体育館を竣工し、それに合わせて、韓国の芸術団と参観

イデオロギーと政治体制が異なる韓国と北朝鮮との芸術交

1. 今年4月3日に平壤柳京鄭周永(ピョンヤンリ ュギョンチョンジュヨン)体育館で行われた南北合 同公演「私たちは一つ」。熱唱するユン・ドヒョン ・バンドは、MBCが2002年に東平壌大劇場で開催し た「オー!統一コリア」にも参加した。

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14 KOREANA 秋号 2018

2. 今年4月1日に東平壌大劇場で行われた「南北平 和協力祈願・南側芸術団平和公演-春が来る-」。 観覧している平壌市民が、一緒に歌い歓声を上げて いる。


© Yonhap News Agency

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て珍しい。さらに北朝鮮の観客は、会場でも目立った反応を示

範囲が広くて躍動感のある撮影ができるため、公演やスポーツ

さない。普段は厳しく禁止されている韓国の楽曲に、観客が好

などの収録によく使われる。北朝鮮では2003年の「平壤柳京鄭

意的な反応を見せることは不可能に近いだろう。

周永体育館・館開記念統一音楽会」でジミージブが初めて使わ

しかし、牡丹峰楽団の公演によって、韓国芸術団の北朝鮮

れた。その時、北朝鮮の要請で韓国の放送局が1台渡していっ

公演の間接的な成果が確認された。牡丹峰楽団は2012年の初

た。それ以降、北朝鮮で公演の撮影にはジミージブが欠かせな

め、キム・ジョンウン(金正恩)委員長の指示で結成され、歌

くなっている。舞台効果の花火と紙吹雪も、韓国芸術団の平壌

手や演奏者など約20人の女性で構成されている。団員は美しい

公演以降、北朝鮮が積極的に利用している。

容姿だけでなく、以前は考えられなかった衣装や振り付けで、

三池淵管弦楽団の韓国訪問に続き、今度は韓国側が芸術団

国内外から注目を浴びている。そこには、国内外に変化のメッ

を構成して2018年4月に平壌を訪れた。2005年のチョー・ヨン

セージを発信し、北朝鮮の明るいイメージを演出するという狙

ピルのコンサート以来、13年ぶりに行われた歴史的な公演だ。

いがあると考えられる。

正式な名称は「南北平和協力祈願・南側芸術団平和公演」で、

牡丹峰楽団のもう一つの特徴は「体育館公演」だ。北朝鮮

サブタイトルは「春が来る」だった。

は本来「公演は劇場で、競技は体育館で」という原則を守って

分断以降、韓国と北朝鮮は絶え間なく軍拡競争を行い、そ

いた。韓国側が体育館で公演を行うと伝えた時も、強く反対し

れぞれに体制の安定を図ってきた。だが、かえって平和から遠

た。しかし、2003年と2005年の韓国芸術団の公演以降、北朝鮮

ざかり、経済的な負担だけが重くのしかかっている。もう終わ

でも重要な公演を体育館で開催し始めた。北朝鮮のガールズグ

りの見えない競争を終えて、理解と協力によって共に繁栄すべ

ループといえる牡丹峰楽団の公演も、ほとんどが体育館で行わ

きとの声が高まっている。文化・芸術交流こそ相手を理解する

れている。多くの観客を集められ、舞台を立体的に演出できる

最も効果的な方法だ。わずか数回の芸術公演で、数十年間の不

からだ。

信の壁が完全に取り払われることはないだろう。しかし、その

公演の録画にジミージブを使い始めた点も注目に値する。 ジミージブはクレーンの先にカメラを取り付けたもので、移動

ような努力が続けられてこそ、私たちは「春」を迎えることが できるはずだ。

韓国の文化と芸術 15


K-POP 北朝鮮上陸記

韓国のアイドルグループ「防弾少年団(BTS)」の3枚目のアルバム『LOVE YOURSELF 轉‘Tear'』が 2018年6月、アメリカの音楽チャート「ビルボード200」で1位になった。英語以外のアルバムがメインの アルバムチャートで1位を獲得したのは、12年ぶりのことだ。このようにK-POP は世界に広がっており、 閉鎖的な北朝鮮の社会でも静かにうねりを起こしている。 カン・ドンワン 姜東完、東亜大学校教授、釜山ハナセンター長

板門店では去年、北朝鮮の兵士が、全身を銃で撃たれながら韓国

に亡命した。その兵士が、韓国のガールズグループ「少女時代」の歌

取り締まりvs. 浸透

アイドルグループの新曲など韓国で人気の音楽は、ほぼリアルタイ

が好きだと発言して、話題になった。また、米紙ニューヨーク・タイ

ムで北朝鮮内部でも流通している。中国との密輸によって、K-POPを

ールズグループ「レッド・ベルベット」に焦点を当てて「Can North

一例として、PSY(サイ)の『江南(カンナム)スタイル』が世界的

ムズは、去年の春に行われた韓国芸術団の平壌公演について、特にガ Korea Handle a K-Pop Invasion?(北朝鮮はK-POPの侵攻に対処できる のか)」という記事を載せている。

収めた DVDやUSBメモリーなどが大量に流れ込んでいるからだ。その にブームを巻き起こした当時、北朝鮮でも大きな人気を集めた。

北朝鮮で「棒型メモリーカード」と呼ばれるUSBメモリーは、主に

もちろん、北朝鮮は住民が「資本主義の軽薄さ」に染まることを

韓国の映画や音楽を楽しむために使われる。USBメモリーやSDカード

し、すでに北朝鮮では韓国の映像コンテンツが大金を稼ぐ人気商品に

ているのだ。最近は、MP5という機器が中国から北朝鮮に入ってい

恐れて、韓国の映像の流通と視聴を厳しく取り締まっている。しか なっているため、取り締まりを避けて急速に広がっている。ヒット曲 だけでなく、韓国の映画やドラマのサウンドトラックも密かに流通し ている。

は持ち歩きやすく、取り締まりを避けることができるため、愛用され

る。以前からある MP3は音楽再生用だが、MP5は高画質映像の視聴

用だ。特に、MP5は USBメモリーよりも小さいマイクロ SDカードを 使うため、保存容量が大きい上に取り締まり対策としても有効だ。

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1. アイドルグループ「防弾少年団 (BTS)」は、3枚目のアルバム『LOVE YOURSELF 轉‘Tear'』が今年6月「ビルボ ード200」で1位になり話題をさらった。 北朝鮮の若い人たちにも人気だという。

2. ガールズグループ「レッド・ベルベッ ト」は今年4月、平壌公演に招待され、北 朝鮮の観客の前でヒット曲『Red Flavor』 と『Bad Boy』を歌った。

2

映像視聴用のMP5の普及は、北朝鮮の若者がK-POPのミュージック

剤になっている。上の世代は「銃爆弾の精神」といわれるほど忠誠心

の顔、ダンス、ファッション、ヘアスタイルまで全て見られるため、

テンツへの規制や取り締まりが強化されても、大胆に視聴を続ける。

ビデオに接する新しい機会を与えている。歌を聞くだけでなく、歌手 カルチャーショックの度合いも大きくなっている。

カルチャーショック

北朝鮮は昔から、音楽を体制維持のための代表的な手段としてき

た。「1曲の歌が千万の軍隊に代わる」と、音楽による思想戦を強

が強いが、新しい世代は集団の結束力が弱い。彼らは韓国の映像コン K-POPを歌うことで、同世代の仲間から優越感を得られると考えてい るからだ。さらにK-POPを歌ったり、振り付けを真似することを「意 識が高い」とまで表現している。

調してきたのだ。そうした社会的な雰囲気の中で育った北朝鮮の若

チャンマダン世代

(友達)』という歌のように、思想やイデオロギーではなく人間の感

程度受け入れざるを得ない状況になっている。以前の高圧的な取り締

らも分かるだろう。「北朝鮮の歌は、ほとんどが政治的な宣伝と指導

文化によって対応しているのだ。

者がK-POPに熱狂する理由は、アン・ジェウク(安在旭)の『チング

情を歌っているからだ。多くの脱北者が次のように話していることか 者への称賛だが、韓国の歌は歌いやすく、ストレートに表現されてい

そのため、北朝鮮もチャンマダン世代の文化的な変化と抵抗をある

まりや規制から脱し、資本主義文化を乗り越えられる新しい社会主義 「人民の高いレベルの要求」を反映するという政治的なメッセー

る」。

ジには、創作によって北朝鮮の住民の新たな要求に応えようという思

プがある中で進んでいる。北朝鮮の新しい世代は「チャンマダン(市

制の下で作られた牡丹峰楽団が挙げられる。楽団員の衣装やヘアスタ

K-POPの北朝鮮への流入・浸透は、階層の分化と世代間のギャッ

場)世代」と呼ばれている。北朝鮮は1990年代の半ば、深刻な経済難

を解消するため、対外的・対内的に無償教育、無償医療、無償配給と いう福祉体制を打ち出した。だが、これはうまく機能しなかった。チ ャンマダン世代は、ちょうどその前後に生まれて、社会主義による福 祉を受けられなかった世代を指す言葉だ。彼らは規制に対して、上の 世代よりも相対的に強い拒否感を持っている。

K-POPは、そのような新しい世代の消極的な逸脱行為を促す起爆

惑が読み取れる。代表的な例として、キム・ジョンウン(金正恩)体 イルなどのファッションは、今までの北朝鮮のスタイルとは全く異な る。特に、歌手の歌や振り付けは、韓国のガールズグループを連想さ せる。

北朝鮮は、K-POPをはじめとする外来文化に対して、取り締まりや

規制を続けている。そうした中、新しく登場した世代の変化は、今後 の北朝鮮体制の変化において重要な糸口になり得る。北朝鮮社会への K-POPの影響に注目する理由も、ここにある。

韓国の文化と芸術 17


特集 3 平和へのプレリュード - 大衆文化で歩み寄る南北

新たな転機を 迎えた南北の スポーツ交流 スポーツは昔から、イデオロギーの対立や激しい政治 的軋轢を解消するためにも用いられてきた。休戦状態 にある朝鮮半島においても、これまで何度も南北が合 同チームを結成して世界大会に出場したり、オリンピ ックで合同入場するなど、スポーツイベントを通じて 平和ムードが醸成されてきた。最近、南北の平和構築 に向けた取り組みが進み、スポーツ交流もそれに合わ せて新たな段階に差し掛かっている。 チョン・ユンス

鄭允洙、スポーツ評論家、聖公会大学校文化大学院教授

第41回世界卓球選手権大会での韓国ヒョン・ジョンフ ァ(玄静和)選手と北朝鮮リ・ブンヒ(李粉姫)選手 (1991年4月、千葉)。二人が一つのチームになって 中国を3対2で破り、女子団体戦で優勝を果たした。 分断以降、南北合同チームが参加した最初の国際スポ ーツ大会でもある。

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韓国の文化と芸術 19


ン・ギジョン(孫基禎、1912~2002)選手は

部の力によって、産業化と都市化が進展した。代表的な港湾で

1936年、第11回ベルリンオリンピックの男子

工業都市だった元山には1897年、早くも6ホールのゴルフ場が

マラソンで金メダルを獲得したが、胸に日の

造られた。各工場を中心にサッカーチームもあった。同じく港

丸をつけて走らなければならなかった。ソン選手の生まれは、

湾都市の仁川も、近代的な産業都市として成長し、サッカー、

北朝鮮の新義州だ。16歳の時に中国の丹東にある会社に通って

野球、バスケットボール、バレーボールなど様々なスポーツク

いたが、新義州から鴨緑江を渡って丹東まで8キロほどを毎日

ラブが作られた。

のように走って出勤した。一方、優れたサッカー選手であり、

そうした都市の中で高い競技力によってファンを集めたの

監督であり、サッカー代表チームの団長を務めた韓国サッカー

が、平壌と京城(現ソウル)だ。中国を通じて早くから西洋の文

界の巨匠キム・ヨンシク(金容植、1910~1985)氏も、今は北

物を受け入れ、大陸気質の平壌。朝鮮半島の中心であり拠点とし

朝鮮の領土になっている黄海道の信川で生まれた。二人はソウ

て、豊かな人的・物的資源を持つ京城。両都市は、特にサッカー

ルに渡り、同じ時期に現在の高麗大学校の前身である普成専門

において強烈なライバルだった。そのため当時は、京城と平壌の

学校に通った。

頭文字を取ったライバル戦「京平戦」が大変な人気を呼んだ。こ

スポーツ界の英雄である二人を見ても、少なくとも70年前 の朝鮮半島では南北間の往来が、ごく普通に行われていたこと が分かる。しかし、そうした往来は、1950年に勃発した朝鮮戦 争とその後の分断によって途絶えてしまった。

戦争と分断

20世紀初頭、朝鮮半島は西洋の文明と日本の統治という外

のダービーマッチは、世界中どこでも見られるようなライバル都 市間のスポーツイベントとして関心を集めていた。 京平戦は、ホームアンドアウェーと定期戦という近代的な 方法で、終戦直後の1946年まで開催された。京城のスターだっ たキム・ヨンシク選手が、1940年代にライバルの平壌のチーム に移籍するなど、両チームは活発に交流していた。もし、戦争 と分断がなければ、ソウルのチームで活躍した選手が平壌のチ

© KPPA

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ームに移籍したり、平壌の女性ファンが列車でソウルまで応援

時、北朝鮮の善戦は韓国に刺激を与えた。韓国では、情報機関

に来ていたかもしれない。だが、この70年間そのようなことは

の中央情報部が1967年に陽地サッカーチームを作った。このチ

一切なかった。

ームの目標は、ワールドカップやアジア競技大会での優勝では

分断以降、先鋭化した政治的・軍事的緊張の中、スポーツ

なく、ただ北朝鮮に勝つことだった。当時、優れた選手はほと

を通じた南北の交流と協力は、時に滞ることがあっても、完全

んどが軍人だったため、中央情報部はたやすく海兵隊、陸軍、

に絶たれはしなかった。南北がスポーツ交流を模索し始めた

空軍所属の選手を集めることができた。前例のない支援も行わ

のは、1964年からだ。国際オリンピック委員会(IOC)が、南

れた。1969年の1年間だけで105日もヨーロッパでトレーニン

北合同チームを結成して東京オリンピックに出場するよう要請

グを行ったのだ。スポーツを通じた競争心が、いかに激しかっ

し、会談が開かれたためだ。しかし、会談は決裂した。1980年

たか想像できるだろう。

代末からスポーツ会談が13回も行われたが、これといった成果 は得られなかった。

皮肉なことに、この破格のトレーニングキャンプの監督 は、北朝鮮に故郷がある「失郷民」のキム・ヨンシク氏だっ た。また最も若い攻撃陣は、1990年のワールドカップ・イタリ

対立と交流

ア大会で韓国代表チームの監督になるイ・フェテク(李会澤)

政治体制を競うかのようなスポーツ大会が数回開かれた

選手だった。1990年10月11日に平壌で行われた南北統一サッカ

が、それは皮肉にも戦いながら探り合い、緊張しながら対話

ー大会で、韓国の顧問として北朝鮮を訪れたイ・フェテク氏に

するといった交流だった。例えば、1966年にイングランドで開

は、特別なエピソードがある。イ・フェテク氏は、様々な国際

催された第8回FIFAワールドカップで、千里馬サッカーチーム

大会で関係を築いてきた北朝鮮のパク・トゥイク(朴斗翼)氏

を軸とした北朝鮮代表は、強豪を破ってベスト8入りする波乱

の計らいで、北朝鮮にいる父親と劇的に再会したのだ。パク・

を起こした。スポーツも政治体制の競争だと考えられていた当

トゥイク氏は、1966年のワールドカップ・イングランド大会で ベスト8入りを果たした主役であり、北朝鮮サッカー界の英雄 でもある。イ・フェテク氏の父親は、1950年の朝鮮戦争の際、 当時4歳だった息子を置いて北朝鮮に渡った。実に40年ぶりに

2

親子が再会した翌日は、ちょうどイ・フェテク氏の誕生日で、 父親が息子に誕生祝いのごちそうを振る舞うというドラマチッ クな演出も加えられた。 数多くの大会で、南北の激しい体制競争の象徴として試合 が行われた。そこには、分断の悲しみと涙で彩られたシーンが いくつもある。例えば、陸上女子400mと800mの世界記録保持者 だった北朝鮮のシン・グムダン(辛今丹)選手は、朝鮮戦争の 際に一人で韓国に渡った父親シン・ムンジュン(辛文濬)氏と 1964年の東京オリンピックで14年ぶりに再会した。わずか数分 しかない離散家族の切ない再会は「涙のシン・グムダン」とい う歌謡曲が作られるほど注目を集めた。 1978年にバンコクで開かれたアジア競技大会では、南北の サッカー代表チームが久しぶりに対戦した。両チームは決勝戦 で延長の末、0対0で引き分け、共に優勝となった。その際、

© Newsbank

授賞式で分断による苦いエピソードが起きた。韓国代表のキャ プテン、キム・ホゴン(金鎬坤)が、北朝鮮代表のキャプテ ン、キム・ジョンミン(金鍾珉)に授賞台に先に上がるように

1. 平壤柳京鄭周永体育館で「南北統一バスケットボール大会」に 参加する南北の監督と選手団(2018年7月4日)。二日間にわたり 4試合が行われた。南北がバスケットボールで交流するのは、2003 年以来15年ぶり。 2. 2002年9月7日にソウルワールドカップ競技場で行われた「南 北統一サッカー大会」。試合後、南北の選手が大きな朝鮮半島旗を 持ってグラウンドを回っている。1990年以来12年ぶりに開かれた親 善サッカー大会で、結果は0対0の引分けだった。

譲ってから上がろうとすると、キム・ジョンミンが場所を空け なかったのだ。キム・ホゴンは割り込むように上がろうとした が、北朝鮮のゴールキーパー、キム・グァンイルに突き倒され た後、何とか授賞台に上がった。分断の悲しいワンシーンだ。 1960年~70年代は、スポーツに限らず南北間の全ての問題 が、統治権強化と政権延長の正当化の手段として用いられた。

韓国の文化と芸術 21


分断以降、先鋭化した政治的・軍事的緊張の中、スポーツを通じた南北の交流と 協力は、時に滞ることがあっても、完全に絶たれはしなかった。 2018年7月4日には南北のバスケットボール選手が平壌で親善試合を行い、 京平サッカーの復活や南北の主要都市対抗交流戦なども模索されている。

1980年代は、南北共に敵対的な力の優位を誇示した時期だっ た。そのため、スポーツの交流も、南北の政権の対内的・対外 的な正当性の強調と国際的なイメージ向上の手段として悪用さ れた。

政治とスポーツ

1. 平昌冬季オリンピックに女子アイスホッケーの南北合同チームが出 場し、世界から注目された。海外メディアも「合同チームが南北のた めの歴史を作った。試合は負けたが、平和は勝った」と報道するなど 大きな関心を寄せた。 2. 平昌冬季オリンピック開会式(2018年2月9日)。南北の選手団 と関係者が、朝鮮半島旗を持って一緒に入場している。開催国の韓国 は15種目に145人、北朝鮮は5種目に22人が出場した。

南北のスポーツの交流が実を結び、進展したのは1990年か

らだ。韓国のノ・テウ(盧泰愚)政権は、脱冷戦という世界的 な流れに沿って「北方政策」を進め、南北の交流、中でもスポ ーツに重きを置いた。それは、1990年10月に平壌とソウルで2 回に渡って行われた「南北統一サッカー大会」へとつながっ た。キム・ジュソン(金鋳城)選手は、この大会で平壌の綾羅 島にある5.1競技場で試合を行ったが、あるインタビューで次 のように回想している。「平壌の人たちが韓国の選手を肩車し て、平壌空港から1㎞ほど歩いたことが、最も衝撃的で感動的 だった」。 このようなスポーツ交流は、南北関係に一定の効果をもたら した。南北は1991年12月13日にソウルで開かれた第5回高官級会 談で「南北基本合意書」に署名した。この合意書は今でも、南 北の対話と交渉において肯定的に評価される歴史的文書だ。 こうして作られた対話ムードによって、1991年4月に日本 で行われた第41回世界卓球選手権大会で南北合同チームが出場 することになった。韓国のヒョン・ジョンファ(玄静和)選 手と北朝鮮のリ・ブンヒ(李粉姫)選手が一つのチームになっ て、当時世界最強だった鄧亞萍選手が率いる中国を3対2で破 り、女子団体戦で優勝を果たした。その様子は、後に『コリ ア』として映画化されている。また、同年6月には南北合同チ ームがポルトガルで開かれたFIFAワールドユース選手権に出場 し、ベスト8入りを果たした。これを受け、南北のスポーツ交 流が本格化するのではないかと期待された。このように本格化 するのではないかと期待された南北のスポーツ交流は、1994年 のキム・イルソン(金日成)主席の死亡と北朝鮮の深刻な経済 難により中断されるしかなかった。 南北のスポーツ交流が再び活気を取り戻したのは、2000年 6月に韓国のキム・デジュン(金大中)大統領と北朝鮮のキム ・ジョンイル(金正日)総書記が首脳会談を行い、6・15共同

22 KOREANA 秋号 2018

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宣言に合意してからだ。2000年のシドニーオリンピックでは、

は、キム・ジョンウン(金正恩)第1書記(当時)が優勝した

史上初の南北合同入場が実現し、2002年のアジア競技大会(釜

北朝鮮の女子サッカー選手を空港で出迎え、功績を称えた。ま

山)、2003年のアジア冬季競技大会(青森)、2003年の夏季ユ

た、綾羅島と羊角島の競技場、平壌ゴルフ場、馬息嶺と三池淵

ニバーシアード(大邱)、2004年のアテネオリンピックまで合

のスキー場など、施設も意欲的に拡充している。さらに、2013

同入場が行われた。そして、2002年9月にはソウルワールドカ

年9月に平壌で開かれたアジアカップおよびアジアクラブ重

ップ競技場で南北統一サッカー大会が行われた。その時、韓国

量挙げ選手権では、史上初めて韓国の国旗「太極旗」が掲揚さ

のチェ・テウク(崔兌旭)選手と北朝鮮のリ・ギョンイン選手

れ、国家「愛国歌」も演奏された。

がユニフォームだけでなく履いていたサッカーシューズまで交

キム・ジョンウン体制の発足以来、変化した北朝鮮の政策

換するという感動的なシーンも見られた。FIFAが、衛生の問題

によって、2014年のアジア競技大会(仁川)では北朝鮮の高官

から試合後に交換したユニフォームを着ないように呼びかけて

が韓国を訪れ、2018年の平昌冬季オリンピックには大規模な北

いたが、チェ選手とリ選手は互いにサッカーシューズまで身に

朝鮮選手団と応援団が急遽参加することになった。特に、平昌

付けて、同じ民族であることを象徴的に示した。

オリンピックでは女子アイスホッケーの南北合同チームも結成

再び訪れた平和の転機

された。さらに、2018年7月4日には南北のバスケットボール 選手が平壌で親善試合を行い、京平サッカーの復活や南北の主

北朝鮮は2011年から「サッカー大国、体育大国」を提唱し

要都市対抗交流戦なども模索されている。このように朝鮮半島

始めた。文化とスポーツを政策の優先課題として「社会主義

において平和構築に向けた一連の取り組みが進展し、南北のス

文明国」を目指している。2015年のEAFF女子東アジアカップで

ポーツ交流も新たな局面を迎えている。

韓国の文化と芸術 23


1

「我々は一つだ!」 2018年2月に開かれた平昌冬季オリンピックには、北朝鮮の応援団229人が参加し、北朝鮮だけでなく韓国の選手も 応援した。その規模は、北朝鮮の選手団22人の10倍にも達した。また、北朝鮮はオリンピック参加に合わせて、 えりすぐりの演奏者、歌手、舞踊家140人で構成された芸術団を派遣し、江陵とソウルで2回公演を行った。 キム・ヨンノク 金泳録、スポーツ朝鮮記者

北朝鮮の応援団は、朝鮮半島の情勢と北朝鮮の体制の特殊性だけで

のアジア競技大会(釜山)、2003年の夏季ユニバーシアード(大邱)、

登場は緊張を緩和し、和解ムードを対外的にアピールできるため、南

応援団の派遣は、北朝鮮内でも重要な社会的関心事だといえる。何

なく、女性団員の優れた容姿で世界から注目を集めてきた。応援団の

2005年のアジア陸上競技選手権大会(仁川)に続いて4回目だ。

北双方にプラスになる。特に、国際スポーツ大会を主催する韓国とし

よりも団員は珍しい海外旅行の機会が与えられ、場合によっては将来

も得られる。

て激しい競争が繰り広げられていると考えられる。応援団は主に平壌

ては、分断国家に不安を感じる各国の選手団と政府を安心させる効果 平昌冬季オリンピックに参加した大規模な北朝鮮応援団は、予想通

り韓国内にとどまらず国際社会からも大きな注目を浴びた。競技場だ けでなく会場近くの観光地でも多くの人が集まり、大会期間中どこに 行ってもメディアの取材対象になった。

の地位向上の機会も得られるからだ。そのため、応援団の入団を巡っ の芸術学校の生徒・学生を対象に、容姿、出身、忠誠心など厳格な基 準によって選抜されるといわれている。2014年のアジア競技大会(仁

川)を控えて応援団の派遣が中止になったのは、入団を巡る過度の競 争のためだという根拠のない噂もあるほどだ。

韓国には以前から「南男北女」という言葉がある。「男性は南出身

4回目の訪問

の方が格好良く、女性は北出身の方がきれいだ」という意味だ。その

応援団を派遣してきた。北朝鮮の応援団が韓国を訪問するのは、2002年

ターになった団員もいる。2002年の応援団長のリ・ユギョン氏と最年

北朝鮮は、これまでアジアで開かれる国際スポーツ大会に、時おり

24 KOREANA 秋号 2018

ためなのか、北朝鮮の応援団に寄せられる高い関心によって、一躍ス


少団員のチェ・ボンイ氏は、韓国にファンクラブができるほど大人気

るはずがない」と釈明した。

撮影した。

は「独島入り朝鮮半島旗(統一旗)」が登場した。国際オリンピック

団員の中で最も大きな関心を集めた人物だ。2003年に南北青少年赤十

を懸念して、旗から独島を削除するよう求めた。しかし、北朝鮮側は

となり、チョ・ミョンエ氏は韓国の歌手イ・ヒョリ氏と一緒にCMを 北朝鮮のファーストレディーであるリ・ソルジュ氏は、歴代の応援

字「友情の植樹行事」のために初めて韓国を訪れたが、その時から優 れた容姿で視線を集めた。そのため北朝鮮側は、2004年の金剛山南北 教師会談と2005年のアジア陸上競技選手権大会(仁川)にも彼女を応

援団員として派遣した。リ・ソルジュ氏はその当時、あるメディアと

これに先立って、女子アイスホッケー南北合同チームの練習試合に

委員会(IOC)は、日本政府の抗議が想定外の問題を引き起こすこと 「統一旗に我々の民族の固有の領土を表記しただけ」という立場を表 明し、応援団は大会期間、一貫して北朝鮮の国旗と独島の入った朝鮮 半島旗を振りながら応援を繰り広げた。

かつて北朝鮮応援団は、存在そのものが話題になった。初めて韓国

のインタビューで「今後は芸術団で活動するのが夢」と話していた。

を訪れた2002年には、宿舎として使われた万景峰号が停泊する港に、

正恩)委員長と結婚したといわれている。

木)応援」と一糸乱れぬパフォーマンスが反響を呼び、真似して楽し

その後、牡丹峰楽団を経て、2011年か2012年にキム・ジョンウン(金 しかし、北朝鮮の応援団に関する話題が、いつも明るいものとは

限らない。その一例として2003年の夏季ユニバーシアード(大邱)に

一目見ようと数千人が押し寄せた。北朝鮮特有の「タクタギ(拍子 む人も見られた。

2005年に仁川で開催されたアジア陸上競技選手権大会以降、13年

参加した際には、応援団の存在よりも「キム・ジョンイル(金正日)

ぶりに平昌で出会った北朝鮮応援団は、以前と変わらず活気あふれる

ジョンイル総書記の顔写真の入った横断幕が道端で雨に濡れているの

「わが選手、頑張れ」、「わが民族同士」などのスローガンを叫び、

横断幕事件」の方が話題になった。バスで移動中の応援団が、キム・ を見て「将軍様の肖像が雨に濡れている。置いて行くわけにはいかな い」と一斉に泣き出したのだ。

姿で多くの人から注目を集めた。一糸乱れぬ動きで「我々は一つ」、 『故郷の春』や『ソルラル(旧暦の正月)』といった南北双方で馴染 みのある歌を歌いながら、北朝鮮らしい応援を繰り広げた。しかし、 競技場に響く韓国の音楽には反応を示さなかった。他国の競技には徹

人気、そして話題

平昌冬季オリンピックでは、序盤に「キム・イルソン(金日成)

仮面?」が話題になった。応援団が北朝鮮の歌謡曲「口笛(フィパラ

底して無関心な態度を貫き、南北の競技が終わると直ちに席を立つこ とも多かった。

そのような北朝鮮応援団に対して、韓国の人たちの中には「孤立

ム)」を歌う時に、ある仮面をかぶっていた。これを巡って「若い

した島のようだ」、「自分たちの世界に閉じこもっているようだ」、

た」という主張が、韓国側から提起されたのだ。韓国政府と北朝鮮側

近まで続いた北朝鮮の核・ミサイル挑発行為と急に結成された女子ア

頃のキム・イルソン主席を連想させる仮面を使って、北朝鮮を称賛し は「北朝鮮の有名な俳優の顔をかたどった、ただの美男子の仮面で、 政治的な思惑はない。キム・イルソン主席の顔に穴を空けるなど、す

「機械や操り人形のようだ」など、以前とは違う反応も見られた。最 イスホッケー合同チームなどが、世論にマイナスの影響を与えたもの と考えられる。

© Yonhap News Agency

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1. 平昌冬季オリンピックに参加した北朝鮮の応援団を韓 国の観客が歓迎している。北朝鮮の応援団は、競技場だ けでなく会場近くの観光地でも多くの人を集め、注目の 的だった。

2. 女子ショートトラックの選手を応援する北朝鮮の応援 団。2002年のアジア競技大会(釜山)で初めて韓国を訪 れた北朝鮮の応援団は、今回の平昌冬季オリンピックに も229人が参加し、特有の一糸乱れぬ動きとスローガンで 目を引いた。

韓国の文化と芸術 25


特集 4 平和へのプレリュード - 大衆文化で歩み寄る南北

別の形で出会うだろう 北の山河

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白頭山(ペクトゥサン)の天池で記念撮影 をする韓国の観光客。北朝鮮の両江道と中 国の吉林省の境界をなす白頭山は、朝鮮半 島で最も高い。ここから南に1400㎞ほど連 なる「白頭大幹」が、韓国の背骨ともいえ る山脈。韓国人は、中国を経由しなければ 訪れることができない。 © Yonhap News Agency

韓国人が白頭山と金剛山を訪れずにはいられない理由は、ただ美しい景色にあるわけではない。 白頭山と金剛山は、朝鮮半島の人たちにとって、歴史・文化・芸術的に特別な意味を持っている。 特に韓国人にとっては、切なさと懐かしさの対象でもある。 ウン・ヒギョン 殷熙耕、小説家

韓国の文化と芸術 27


(反共産主義)教育の中で育った。私が学ん

見知らぬが 、求め続けてきた美しさ

だ北朝鮮は、傀儡政権、強制労働、貧困だ

ン・ジュヨン(鄭周永)氏の「牛の群れの北朝鮮訪問」といえ

った。1日に千里を走る馬のように休まずに働く「千里馬運

る。チョン氏は北朝鮮に故郷がある「失郷民」で、17歳の時に

動」、5軒ごとに共産党員を一人ずつ配置して日常生活を監視

父親が牛を売ったお金を盗んで韓国に渡り、大企業を育て上げ

する「5戸担当制」は、社会の試験によく出る問題だった。新

た。1998年、83歳の時に北朝鮮と交渉を行い、平和に向けた故

聞には武装共匪(スパイ)の侵入という記事が載せられ、学校

郷訪問を実現した。牛1頭分の借りを返すという意味で500頭

では、武装共匪の手榴弾や短剣などを見せるため「反共展示

の牛を連れ、CNNが生中継する中、板門店を通って北朝鮮に

会」を訪れた。

渡ったのだ。フランスの文明批評家ギ・ソルマンが「20世紀最

は分断国家の南側で生まれ、徹底した反共

その歴史の始まりは、現代グループの創業者である故チョ

しかし、音楽の授業では「金剛山へ行こう。1万2千峰、

後の前衛芸術」と評した出来事だ。そして、同年末から現代グ

見れば見るほど美しくて新鮮だ」と歌った。そして国語の授業

ループの主導で、韓国民間人向けの金剛山観光が始まった。キ

では、教科書に載せられた金剛山の旅行記『山情無限』で、金

ム・デジュン(金大中)大統領とキム・ジョンイル(金正日)

剛山の森、滝、雲、霧、岩などの美しさを想像することができ

総書記が初めて会って「6・15南北共同宣言」を採択したの

た。金剛山は、季節ごとに全く違った風景が広がるため、春夏

は、それから2年後のことだ。

秋冬それぞれに違った呼び名がある。金剛山は春の呼び名で、

キム・デジュン大統領が掲げた「太陽政策」によって、南

1万2千の峰が全て新芽と花で覆われて、ダイヤモンドのよう

北の反目は徐々に解消していった。その結果、釜山で2002年に

に見えるからだという。

開かれたアジア競技大会に、北朝鮮が応援団と共に参加した。

韓国には「金剛山も食後景」ということわざがある。いく

分断の歴史上初めてのことだった。その年は、ちょうどサッカ

ら景色が美しくても、お腹がいっぱいでないと楽しめないとい

ー・ワールドカップが開かれる年でもあった。文化界・芸術界

う意味だ(「花より団子」に相当)。金剛山は、ことわざでも

・体育界の関係者が集まって、金剛山で「ワールドカップとア

美しい景色の代名詞になっている。それだけではない。韓国人

ジア競技大会の成功に向けた日の出イベント」の開催を決め

がよく歌う歌として、チェ・ヨンソプ(崔永燮)作曲の『懐か

た。私は、学校で嫌になるほど各種行事に動員させられた世代

しき金剛山』がある。「誰のものなのか。清く美しい山」とい

だ。官が主導するイベントには、何となく拒否感を覚えた。し

う出だしを聞いた瞬間、想像せずにはいられないだろう。金剛

かし、あの金剛山ではないか! 正直なところイベントに招か

山は、どれほど美しいのだろうか。どれだけ美しければ、分断

れた瞬間、作家になって本当に良かったと思った。

によって失われたものの中で、最も惜しくて恋しいといわれる のだろうか。

初めて北朝鮮の地を踏んだ時に感じた小さな身震いは、何 だったのだろうか。北朝鮮の人と初めて挨拶を交わした瞬間の

白頭山への関心も、金剛山に劣らない。何よりも白頭山

不思議な感動は、何だったのだろうか。他の人たちから離れ

は、韓国の国歌『愛国歌』の冒頭に登場する。「東海が乾き果

て一人で金剛山の渓谷を歩いた時に私を包み込んだ、おぼろげ

て、白頭山が磨り減る時まで、神の護り給う我が国、万歳」。

ながら生き生きとした精気は、何だったのだろうか。私は山歩

この歌詞の意味を今日の分断の状況から考えてみると、韓国の

きが好きで、韓国のいろいろな山に登った。そんな私の目の前

東の海が乾き、北朝鮮の白頭山の峰が磨り減るくらい無限の時

に、それまで見たことのない風景が広がったのだ。初めて見た

が過ぎるまで、超自然の力が国を守り助けるという意味だ。

が、求め続けてきた美しさとでも言おうか。私の「美しいもの

白頭山の裾野には、高くて広い蓋馬高原が広がり、神秘的 な原生林が残っている。白い軽石に覆われた山頂が白髪のよう

リスト」にその風景が加えられると同時に、美しさを見る目が 一つ増えたような気がした。

に見えるため、白頭山と名付けられた。国境を接している中国

3年後の2005年には北朝鮮を訪れる機会が2度あった。白

では、同じく「白」の入った長白山と呼ばれている。雄大な白

頭山で「民族作家大会」が開かれることになったのだ。韓国、

頭山と、世界で最も深い火山湖・天池の姿は、今は分断されて

北朝鮮、海外に住んでいる朝鮮民族の作家200人ほどが、終戦

いるが、かつて大陸まで進出した朝鮮民族の気概を思い起こさ

から60年にして初めて一堂に会する歴史的なイベントだ。主催

せる。白頭山は、二度と行けないという切なさもあり、「民族

側の勧めで、ちょっとしたプレゼントを買うために、家の近く

の霊山」という象徴としてのみ存在し続けると思われた。

の薬局に行った時のことだ。薬剤師が「どうして、そんなにた

しかし、歴史は一歩進んだ。私は2002年、ついに奇岩怪

くさん薬を買うのか」と尋ねるので「北朝鮮に持っていくプレ

石が連なる金剛山の渓谷に足を踏み入れた。さらに数年後に

ゼントだ」と言うと、薬剤師はさらに多くの薬を渡して代金を

は白頭山の頂上に登って、青い水をたたえる天池を見下ろし

受け取らなかった。そして「みんな元気に過ごして、いつか会

ていた。

えるといいですね」と話した。

28 KOREANA 秋号 2018


© The Hankyoreh

ソウルから高麗航空の飛行機に乗って、1時間足らずで北 朝鮮の平壌国際空港に着いた。船で金剛山に向かった時、一晩 中船酔いに苦しんだことを考えると、呆気なく感じるほどだっ

すばらしい景色が季節ごとに違った姿を見せる金剛山。南北分断後、 1998年9月に船での観光が始まったが2004年に中断された。陸路での 観光も2003年9月に始まり、2008年に中断されている。

た。「平壌」という赤い文字とキム・イルソン(金日成)主席 の写真が左右にかけられた空港の入口で、出迎えの北朝鮮の人 たちから歓迎の拍手を受けた。

った眼差しなのだから。

創作者は、それぞれ個性的な世界観を持っているため、コ

同一性を確認した瞬間は、何度もあった。同じテーブルに

ントロールされた団体活動をするのはなかなか難しい。長い間

座っていた北朝鮮の作家が、サンチュ(包み菜)のことを「プ

異なる政治体制の下で、違う人生を生きてきた作家の交流でも

ル」と呼ぶと、韓国・済州出身の作家がとても喜んだ。済州

あった。いろいろな事情があり、様々な出来事もあった。互い

島の方言だと思っていたが、北朝鮮の標準語だと聞いて嬉しか

に見せたいものと見たいものが異なっていた。何よりも、互い

ったのだろう。そうすると、話題は南北の言語の同一性にな

にどこに価値を置くのか違っていたため、緊張と葛藤が生じて

った。南北の言葉は、60年間分かれていたが、外国語の影響を

誤解を招いた。その一例として、韓国側は1970年代を連想させ

受けた言葉さえ除けばコミュニケーションに全く問題がなか

る田舎の風景に郷愁を感じてカメラを向けたが、それは体制の

った。それは、南北共に朝鮮語学会が1933年に制定・公表した

優越性に誇りを持つ北朝鮮に対して失礼な行為だった。同じ民

「朝鮮語綴字法統一案」に従っているからだ。民族作家大会が

族という連帯感の中で、相手を尊重して譲り合い、調整してい

開かれた当時、韓国で出版された北朝鮮の作家ホン・ソクチュ

くことが何よりも重要だと肝に銘じた。結局のところ大切なの

ン(洪錫中)の小説『ファンジニ(黄真伊)』を見ても分かる

は、平壌の高麗ホテルで杯を交わし、玉流館で冷麺をすすり、

だろう。この小説は広く親しまれ、韓国の著名な文学賞も受賞

妙香山で一緒に歌いながら、「これは夢じゃない」と交わし合

している。

韓国の文化と芸術 29


夜明けと共に目覚める白頭山

べ、お酒を飲んだ。統一したら、私たちの中で誰の本が北朝鮮

翌日の日程は、白頭山の頂上で日の出を愛でながら行う予

で人気になるのか予想するなど冗談を言い合った。少数言語を

定になっていた。南北の作家を乗せたバスが、真っ暗な夜明け

使っている国の作家として、統一は読者数を増やす唯一の方法

前、白頭山の麓にあるホテルを出発した。最後の夜ということ

だと、励まし合いもした。

で遅くまで宴が続いたため、ほとんどの作家は寝ていた。起き

2008年には南北の作家の作品が載せられた雑誌も発行され

ているのは、司会を任せられてひどく緊張していた私だけだっ

た。6・15民族文学人協会の機関誌に当たる『統一文学』だ。

た。しかし、そのおかげで一生忘れられない風景を目にした。

小説、詩、随筆、評論など33編が載せられた。そこには私の短

夜明けと共に目覚める原生林の美しさ。白樺の白い森の中、曲

編小説も運よく入っていたので、その雑誌を手に入れることが

がりくねった道が続き、グイマツの鱗のような幹の間に様々な

できた。紆余曲折の末、ようやく世に出たその雑誌を大切に本

花が咲き乱れていた。マツ、チョウセンゴヨウ、エゾマツ、ヤ

棚に収めた。平壌でプレゼントされた北朝鮮の詩人の詩集の隣

ナギ、そして花々…。澄んだ水、奇妙なシルエットを見せる黒

に…。私の作品はいろいろな言語で翻訳されているので、図書

い岩。白頭山に住むという白い虎、黒い熊、ジャコウジカが今

展や文学イベントなどで外国の読者に会うこともある。しか

にも姿を現しそうな風景だった。そうして頂上に辿り着き、将

し、北朝鮮の人たちが私の小説を読むと考えると、不思議な感

軍峰に登った瞬間、天地を突き抜けるように荘厳な太陽が昇り

じがした。長く続けられてきた反共教育の影響から抜け出し

始めた。ある北朝鮮の作家が、私たちに言った。

て、小さな一歩ではあっても歩み寄れた気がした。

「本当にすばらしい日です。白頭山は高い山なので気候の

しかしその年、南北関係が急激に冷え込んだ。金剛山を訪

変化が激しくて、私は5回登りましたが、日の出を見るのは初

れていた観光客が事故に遭ったのも、一つの契機といえる。早

めてです」。

朝、散歩に出かけた韓国人の観光客が、鉄条網を越えて軍事地

そこで南北の作家は詩を朗読し、一緒にスローガンを叫

域に入り、北朝鮮軍に銃で撃たれたのだ。その結果、毎年観光

び、肩を組んで写真を撮った。その日のことを記した文章によ

客が増え、2005年には100万人を超えた金剛山観光が、即座に

ると、韓国の作家が「醜いバラのとげのような鉄線をそっと取

中断された。米外交専門誌『フォーリンポリシー』でアメリカ

り去れ」と言うと、北朝鮮の作家が「人の思いを集めれば、天

人が行けない世界の絶景の第1位に選ばれた金剛山が、韓国人

にも勝る」と答えたという。その時、私たちは様々な困難に直 面しても、新しい歴史を作れると強く感じた。 そのような雰囲気はさらに続いた。翌2006年には「南北6 ・15民族文学人協会」が発足し、結成式が金剛山で行われた。 韓国と北朝鮮の作家が一堂に会する「金剛山文学の夜」も開か れた。陸路での観光が始まった頃だったので、船酔いに苦しむ ことなくバスで移動した。北朝鮮には、韓国の江原道からすぐ に到着した。そこで私たちは再び北朝鮮で取れた穀物や肉を食

1

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1. 現代グループのチョン・ジュヨン(鄭周永)名誉会長は1998年、2回にわた って計1001頭の牛を連れ、板門店(パンムンジョム)を通って北朝鮮を訪問し た。南北の民間交流と経済協力の契機となった。 2. 2005年に北朝鮮で開かれた「民族作家大会」で、韓国の作家が記念撮影を している。キム・デジュン(金大中)大統領とキム・ジョンイル(金正日)総 書記が初の南北首脳会談(2000年)で「6・15南北共同宣言」を採択し、和解 ムードの中で開催された。

© 孫民好


初めて北朝鮮の地を踏んだ時に感じた小さな身震いは、何だったのだろうか。 北朝鮮の人と初めて挨拶を交わした瞬間の不思議な感動は、何だったのだろう か。他の人たちから離れて一人で金剛山の渓谷を歩いた時に私を包み込んだ、 おぼろげながら生き生きとした精気は、何だったのだろうか。

にも閉ざされてしまったのだ。それから10年間、韓国政府は北

を300袋も買えるほど、かなりの金額だった。それでも、私も

朝鮮側と対話をしなかった。そのようなぎくしゃくした雰囲気

ためらうことなく買った。「初夏にも氷が浮かぶ天池」、「渓

の中、金剛山観光は、その収益で敵性国家に利益を与えたとい

谷の紅葉」、「原生林、木と氷」などの風景は、言うまでもな

う批判も受けた。しかし、その扉は再び開かれつつある。

く素晴らしく美しかった。しかし、私の心を一層ときめかせた

2018年4月、板門店で南北首脳会談が開かれた。「徒歩の

のは、今は訪れることのできない北の地にある白頭山と金剛山

橋」を散策した後、その橋にある椅子に座った両首脳は、30分

について、現在の様子が見られることだった。写真集の裏にあ

以上二人だけで話し合った。その間に聞こえてきたのは、鳥

る文章も、風景の美しさ、そこから感じられる子供の頃の思い

の鳴き声だけだった。翌日、読唇術で両首脳の会話を解読する

出と懐かしさ、民族の精気に関する内容だった。

メディアもあった。しかし私は、鳴き声の主を探して、その地

もう一つの写真集は、1982年に平壌の朝鮮画報社が発行し

域の生態系を紹介した記事が印象に残っている。鳥の鳴き声が

た『白頭山』だ。私が民族作家大会に参加するために平壌に行

平和をもたらす音に感じられたのは、私だけではないだろう。

った際、買ってきた本だ。限られた時間の中、許可を得て撮影

鳥の鳴き声だけが聞こえてきた30分間、私は金剛山と白頭山を

された『北の山河』とは違って、四季折々の風景が収められて

思い浮かべていた。そこを訪れた後、私はいくつもの山を旅し

いる。また、ディテールに富んだ『北の山河』よりも、親近感

た。アンナプルナのベースキャンプに行き、マチュピチュに向

があって多彩だ。写真のクオリティーは比べられないが、自然

かうインカトレイルを歩き、ロッキー山脈でキャンプもした。

だけでなく人々の様子も収められていて、情感を増している。

レーニア山が見えるアメリカの西部の都市で2年間過ごし、ワ

最も大きな違いは、山を捉える見方だ。この画報集の第1

シントン州の周辺の山だけでなく、イエローストーンやグラン

章は、白頭山でも金剛山でもなく「偉大なる首領・金日成同

ドキャニオンなども旅しながら、自然の驚異を実感した。しか

志」の写真から始まる。ページをめくると、抗日革命闘争の歴

し、白頭山と金剛山のように心に染み入る風景ではなかった。

史として、白頭山が登場する。その次に、白頭山と金剛山の美

私が韓国人だからかもしれないが…。

しい山河が多彩に広がる。北朝鮮において白頭山は、風景の美

分断後の歴史への理解

しい場所でもあるが、抗日闘争の遺跡としての価値も同様に重 要だ。白頭山は朝鮮人民革命軍の蜜営(軍の密かな野営地)が

私の本棚には、白頭山と金剛山の写真集が二冊ある。一つ

あった場所であり、あちこちに銅像、記念塔、記念碑が建てら

は、マグナム・フォト(国際的な写真家グループ)を代表する

れている。遊撃隊の隊員の家や野営地も保存されている。韓

写真家・久保田博二による『北の山河』。1979年に日本の雑誌

国と断絶された後、北朝鮮の領域になり、その中で変容してき

『世界』のために撮られたものだ。日本人として北朝鮮の登山

た。韓国と違う歴史、分断後の北朝鮮の現代史が凝縮された領

許可を得たのは、4番目だったという。本の末尾には、次のよ

土なのだ。そうした理解がなければ、その地に足を踏み入れる

うに書かれている。

準備がまだできていないと言えよう。

「雄大で大陸的な山の典型といえる白頭山、まるで東洋そ

最近、私は友達といくつもの旅行の約束をしている。韓国

のものという感じを与える金剛山。私はこの二つの山の豪気で

から始まる鉄道が北朝鮮、ロシア、ヨーロッパにつながれば、

荘厳な大自然の迫力に圧倒された」。

順に平壌、ウラジオストク、モスクワ、パリに行くという約束

この写真集は、30年前の1988年、市民を株主として誕生し

だ。「汽車旅ができるのに、飛行機なんかに乗るなんて…」と

たハンギョレ新聞社が発行したものだ。当時は文民政権の発

言いながら。そして、白頭山にもう一度行ってみたい。中国を

足前で南北関係が冷え込んでいたため、勇気が必要なことだ

通らず、鉄道で直接。もちろん、長く閉ざされた道をつなげる

った。この本の発行は、読者をとても興奮させるものだった。

には、多くの時間と理解が必要だということは分かっている。

3万ウォンという値段は、当時としてはインスタントラーメン

私たちは十分待てるはずだ。間違いなく…。

韓国の文化と芸術 31


和解と平和のための旅 非武装地帯(DMZ)は、朝鮮半島の中央を横切る155マイルの軍事境界線から南北に幅22kmずつ設けられ ている。朝鮮戦争が休戦協定によって一段落したことから、当時の戦線がそのまま反映された。休戦会談が行 われた板門店は、共同警備区域(JSA)であり唯一の通路だ。板門店と境界地域の分断関連施設は、国内外か ら年間300万人が訪れる観光スポットとして人気を集めている。 ハム・グァンボク 咸光福、韓国DMZ研究所所長

アメリカの歴史学者兼コラムニストのT.R.フェーレンバッハは、

る。二人は親しげに歩き、テーブルに向かい合って座った。会話の内

生まれた板門店での休戦協定(1953年7月27日)の様子を次のように

シロハラが澄んだ声で鳴き、向こうからヤマゲラが大きな声で答える

朝鮮戦争を記録した著書『この種の戦争』で、非武装地帯(DMZ)が 描写している。

「10時01分。彼らは双方が準備した18の文書の中で、1番目の文書

に署名した。彼らが全ての文書に署名するのに12分かかった。署名が 終わると、それぞれ席を立って無言でその場を離れた」。

容も、背景の音楽も聞こえなかった。ただ、いつもの板門店のように だけだった。

四つのキーワード

DMZは、大きく四つの意味で捉えることができる。第一に、冷戦に

地球に残る冷戦の最後の戦線と呼ばれるDMZ。分断の象徴として永

よって作り上げられた生態系の宝庫だ。自然は決して教科書通りに、

た。休戦と分断が続く板門店で、韓国のムン・ジェイン(文在寅)大

は世界的な絶滅危惧種であるキバノロの群れが暮らしている。悲惨な

遠に存在するかと思われた悲劇の現場が、突如として平和を語り始め 統領と北朝鮮のキム・ジョンウン(金正恩)委員長が2018年4月27日

「板門店宣言」を発表し、平和な時代に向けて共に努力することを約 束したのだ。そこでは65年前、戦禍の中で敵同士が12分間言葉を交わ

人間の思惑通りに移りゆかない。昔の田畑は湿地になり、その湿地で 戦争、そして長い軍事的な対立を経て、思いもかけず自然が自らの居 場所を育んだのだ。

国立生態院の統計(2018年6月)によると、DMZには絶滅危惧種

すことなく向かい合い、すぐに背を向けた。今度は二人で握手を交わ

101種など、野生生物5929種が生息しているという。熾烈な戦場が健

板門店の「徒歩の橋」での南北首脳会談。この劇的な場面は、多

張り巡らせ、地雷を埋め、さらに枯葉剤を撒くなど、自然の営みを大

し、抱き合い、一緒に歩いた。

くの人の目を引いた。青い徒歩の橋は、緑の森を背景に架けられてい

1

康な森に復元されるまで、人間は何の役にも立たなかった。鉄条網を きく妨げただけだ。そのため、DMZを「神の庭園」と呼んでもいいだ

2

© Gyeonggi Tourism Organization

32 KOREANA 秋号 2018


ろう。

第二に、DMZは生きた戦争博物館だ。朝鮮戦争に参戦したイギリス

の兵士は「バーナムの森が動くまでは安泰だ」という『マクベス』の

北方限界線

一節を痛感しただろう。臨津江の向こうの野原が動くと、中国人民志

軍事境界線

願軍の大攻勢が始まったのだ。DMZは、63カ国が参戦した「人類の戦

南方限界線

2km 2km

高城統一展望台 DMZ

争」の記憶を収めた叙事的なドキュメンタリーといえよう。

第三に、DMZは境界文化のインキュベーターでもある。DMZの南側

鍵展望台

数kmは、立ち入りが制限された民間人統制区域に指定されている。そ こにある村は、渡り鳥に餌を与えて観光資源として活用するなど、人

板門店

間と自然が共存する「道徳社会」だ。そこでも老いた者は死に、若き

者は愛し、子供は生まれる。それだけではない。DMZは、韓国史の重 要な節目とも大きな関わりがある。弓裔(?~918)が新羅末期に建国

した後高句麗の都は、DMZの中にある現在の鉄原だ。その後、高麗も 鉄原で建国され、後に開城に遷都した。それから約400年後、その開城

黄海

乙支展望台

鉄原平和展望台

台風展望台

華川七星展望台

勝利展望台

都羅展望台

烏頭山統一展望台

愛妓峰展望台 江華平和展望台

で朝鮮王朝が興り、現在のソウルに遷都している。

いた。雨の中、宣祖が小さな村に着いたが、川が氾濫して前に進めな

板門店の橋

たのだ。それ以降、その村は「ノルムン(板の門)里」と呼ばれるよ

板門店を理解するための第四のキーワードは、橋だ。休戦協定直後

に中立国監督委員会は、会場への移動距離を短くするため、板門店の 東側の軍事境界線上にある湿地に木造の橋を架けた。人だけが渡れる

くなってしまった。すると、村の人たちが門の板を外して、橋を架け うになった。ノルムン里は朝鮮戦争の休戦会談当時、中国側の主張に よって「板門店」という漢字の名称に変えられた。

狭い橋なので「フット・ブリッジ(徒歩の橋)」と呼ばれている。こ

平和への歩み

れている。「板門店宣言」には、DMZを平和地帯にするという内容も

1984年11月、平壌のソ連大使館で観光案内員をしていたヴァシリー・

える。

の建物の間を通って軍事境界線を越えた。軍事境界線の「渡河」は、

の忘れられていた冷戦の副産物が、今まさに平和の象徴として注目さ 含まれている。徒歩の橋での散策は、その実現に向けた第一歩だとい

板門店と橋との運命的な関係は、すでに400年前に始まっていた。

朝鮮第14代国王の宣祖(在位1567~1608)は1592年、南海岸から破竹

の勢いで進撃してくる日本軍に追われ、慌てて北に向かって避難して

板門店の軍事境界線には、時として「象徴的な橋」が架けられる。

ヤコヴレヴィチ・マトギョク氏が亡命の意志を示し、軍事休戦委員会 2017年11月にもあった。北朝鮮軍の兵士1人が銃撃の危険を顧みず、 走って軍事境界線を越えたのだ。

また、アメリカのジミー・カーター元大統領は1994年6月、北朝鮮

の第1次核危機の仲裁のため、初めて板門店を通って北朝鮮を訪問し た。分断以降、板門店に架けられた最もスペクタクルな「平和の架け 橋」は、現代グループの創業者であるチョン・ジュヨン(鄭周永)氏 が1998年に行った「1001頭の牛の群れの北朝鮮訪問」だろう。チョン

・ジュヨン氏は同年6月と10月、それぞれ500頭と501頭の牛をトラッ

クに載せて北朝鮮を訪れた。キム・ジョンイル(金正日)国防委員長 とも会談し、経済協力の契機をもたらした。そして同年11月、金剛山 観光客を乗せた船が、初めて韓国の東海港から北朝鮮へ向かった。

最近、板門店やDMZの近くへ「安保観光」に出かける国内外の観

光客が急増している。しかし、板門店はいつでも誰もが無条件に訪問 1. 南北を分ける非武装地帯(DMZ)の唯一の通路「板門店」を北朝 鮮側の訪問者が見て回っている。韓国で「安保観光」と呼ばれる板 門店訪問をするには、国家情報院に遅くとも60日前に申請する必要 があり、団体しか受け付けられない。

2. DMZの近くは自然生態系の宝庫で、朝鮮戦争の痕跡と分断の現実 を実感できる。そのため、年間300万人ほどが訪れている。

できる場所ではない。一定の審査を経て許可を得なければならず、昼 間にガイドの引率の下、決まったルートでしか移動できない。写真撮 影の許可がなければ、カメラのシャッターに指を乗せることもできな

い。いろいろと不便な点はあっても、多くの人が板門店に向かうの は、そこが世界で唯一の冷戦の現場・遺跡であり、その意味を体験・ 実感できるただ一つの場所でもあるからだ。

韓国の文化と芸術 33

東海


フォーカス

34 KOREANA 秋号 2018


オンドル

国家指定文化 遺産となる 韓国の伝統的な暖房方式であるオンドル文化が 今年4月、文化財庁により国家無形文化財に指 定された。間接輻射熱を利用して床を温めるオ ンドルは、西洋はもちろん隣国の中国や日本と も一線を画す独創的な暖房方式だ。 ハム・ソンホ

咸成浩、詩人、建築家

© 安洪範

慶尚北道安東にある敬堂宗宅の客間。オンドル部屋のほとん どの床に韓紙を貼り、その上から大豆油を塗ってピカピカに 磨き上げられている。家具はアグンイ(焚き口)に近いアレ ンモクではなく、火元から遠いところに置く。

韓国の文化と芸術 35


高年層以上の多くの韓国人はオンドルに対し

口)だ。焚き口は壁付暖炉の入口のように火を焚く場所だが、

て同じような思い出を持っている。真冬に外

壁付暖炉よりもはるかに複雑な構造と機能を備えている。壁つ

からすっかり冷え切った体で帰宅すると、ま

き暖炉は火をつけて室内の空気を温める。温かくなった空気は

ず部屋の中でもアレモク(焚き口に近いところ)に寝転がり冷

上昇し、壁付暖炉で燃えている火は室内の酸素を燃やし続ける

えた体を温めた記憶、遅く帰ってくる父のために夕飯が冷めな

ので室内の空気は自然と濁ってくる。西ヨーロッパで壁付暖炉

いようにと、ご飯の入った茶碗を布団に包んでアレモクに大切

に煙突を初めてつけたのは13~14世紀、イタリアのベニスだっ

にしまっておいた記憶-このような思い出の詰まったオンドル

たという。それ以前には、ようやく温めた空気を換気のために

文化が国家無形文化財に指定されたのには、いろいろな理由が

窓からすべて外に出さなければならなかった。

ある。

煙突の無い家はヨーロッパだけではない。中国の伝統家屋

朝鮮半島の新石器時代の遺跡にその初期の形態を見出すこ

にも煙突は無い。その代わりに火を使う空間の天井が高く、屋

とのできるオンドルは、長い歴史を通して床に座って生活する

根の構造が簡単だ。直径10cmほどの丸太を一定に並べ、その上

韓国人の住居方式を決定づけた主な要因だ。有形のオンドルで

に瓦をのせた。火を使うと煙が高い天井の下に集まり瓦の間の

はなく、「オンドル文化」が重要無形文化遺産に指定された理

隙間から外に出て行くが、その時に温かい空気も一緒に出て行

由は、それが韓半島全域に今日まで伝わっている共同の生活文

ってしまう。大部分の地域で寒くても特に暖房をしない中国で

化だからだ。

は、食べ物を調理するときを除いては火をつける理由はあまり

オンドルの焚き口のある台所は、韓国人にとって特別な意 味のある場所だった。そこは神を祀る祭壇であり、浄化の場所

なかった。床に畳みを敷いて過ごす日本の伝統家屋にも煙突は 無い。

であり、家族の命をつなぐ食べ物を作り、寒い冬を暖かくして

韓国のアグンイ(焚き口)は壁付暖炉とは違い、その中

くれる火のある場所だ。オンドルは昔から火を扱う技術に優れ

で部屋とつながっており、オンドルという暖房設備を備えて

た韓国人が作り出した伝統住居文化の精髄だ。

いる。オンドルは焚き口で焚いた火の熱気で部屋の床を温

焚き口と壁付暖炉

台所で火を扱うところ、薪をくべる穴がアグンイ(焚き

1

36 KOREANA 秋号 2018

め、その熱が空気中に伝わり室内を温めるという輻射暖房方 式だ。それに比べて 壁付暖炉は空気を直接温める対流暖房方 式だ。それで壁付暖炉は部屋の床の上にあり、オンドルは焚


き口が部屋の床よりも下にある。輻射暖房は対流暖房に比べ

グンイ(焚き口)、コレ、煙突の入り口だ。床下に作られた火

て熱効率が高く、広い空間をより簡単に温める事ができ、室

の通り道を「コレ」と言う。コレは、焚き口で点けられた火の

内温度の分布が比較的均等で、対流が自然で床の埃が上に舞

熱気が、床に均等に伝わるようにするために並べて作られた空

い上がることもない。

気口の穴だ。焚き口の火がコレを通りながら下から部屋の床を

輻射暖房形態は世界各地で見ることができる。ヨーロッパ

温め、煙は煙突を通じて外に出て行く。幅が20cmほどのコレは

ではフィンランドのスモークサウナがそれであり、ロシアに

普通レンガを積み重ねて作るが、煙突に向かって傾斜し並行に

もペチカがある。韓国のオンドルと類似した暖房方式として

伸びている。コレとコレを分けるレンガの壁を支持台として厚

は、中国の河北地域から東北地域で広く使われていた「カン

さ5~8cmほどの石板で床全体をおおい、その上に泥を塗って部

(坑)」がある。カンは部屋の一部分だけがオンドルになって

屋の上下の空間を完全に分離する。この石板を「クドゥル」と

いるもので大きな寝台くらいの大きさだ。このような輻射暖房

言う。コレにそって炎が通り過ぎ、その炎の道に集まった煙が

方式と対流暖房方式を韓国のオンドルと比較してみると、その

クドゥルの真下で渦巻きながら煙突のほうに流れていくことに

最も大きな差は、オンドルは暖房をする時に煙が部屋の中には

なる。

生じないという点だ。

構造と原理

オンドルは暖房だけのためにある設備ではない。いくら炎 をうまく扱うといっても焚き口は部屋の外側にあるので熱気が 漏れるのは仕方が無い。それで部屋に隣接する台所に焚き口を

部屋の外側から火を焚いて部屋の中を温めるという点でオ

ンドルは特異な暖房形式だ。そのため難しい作業が必要とな る。火の熱気を外部に逃がさずにそのまま焚き口の中の空間に 流れ込むように保存し、誘導しなくてはならないからだ。 暖房をする時に熱を集めることと煙を取り除くことを同時 にするのは矛盾している。しかし、オンドルはこの矛盾を部屋 の床下に集熱と配煙の機能を兼ね備えた設備をおくことで解決 している。すなわち、床下に大きく3つの設備を置くのだ。ア

1. 韓国の伝統家屋は、台所が主婦の部屋アンバンに隣接しており、台所 のアグンイ(焚き口)で火を焚けば、熱い炎の熱気が床下に伝わり床を 温めることになる。

2. 床を均等に温かくするためには、炎の熱気が伝わる「コレ」と呼ばれ る床下に作られた火の通り道と「クドゥル」と呼ばれる床に敷き詰める 石板の配置が何よりも大切だ。「コレ」は通常レンガを直線、あるいは 扇型に置いて作られる。このレンガの上に石板の「クドゥル」をのせて いくが、一般的に焚き口に近い方には厚い石板を、焚き口から遠くなる ほど薄い石版を使う。

2

© newtimehousing

韓国の文化と芸術 37


1 © Cultural Heritage Administration

据えて、炎からもれる熱気で調理をした。オンドルは熱を温存

り込み真冬の夜の寒さをしのいだりした。朝になり何気なく焚

する機能に優れ、寒さが厳しい真冬の夜に一度火を焚くと、翌

き口に火を入れると、中で寝ていた犬が驚いて焚き口の中から

朝まで部屋の中の温もりが保たれた。よく出来たクドゥルだと

飛び出してきたこともあった。そのため人々は焚き口に火をく

薪5、6本ほど焚けば3日間温もりを維持できたという。智異

べる前には棒のようなもので焚き口の中を叩き、中に何もいな

山にある七仏寺の禅室亞字房は、一度に0.5トンの薪を燃やす

いことを確認してから火をつけた。

ことができ、そのように一度火を焚けば部屋の床と壁の温もり がなんと100日間も続いたという。 オンドルはこのように一度火をつけると少ない燃料でも長

温水暖房の始祖

オンドル文化が国家指定無形文化財になったのは、伝統

い間、その温もりを保つことができるが、火が消えて熱気が冷

的なオンドルが次第に消えていっているからだ。今日の韓国

めると外部に露出した焚き口と煙突から冷たい空気が入りこ

の住宅には、ほとんど焚き口はない。その代わりに温水ボイ

み、コレの内部に湿気がたまる。コレに湿気が長い間とどまっ

ラーが入っている。炎の通り道となっていたコレの代わりに

ていると火をつけても炎の通りが悪くなり、より多くの燃料が

温水パイプを敷きつめて床を温める。規模の大きなアパート

必要になってくる。そのような短所を補うために、煙突側のク

団地では、中央暖房方式で数百あるいは数千世帯に温水暖房

ドゥル付近の適当な位置に壺を埋めてコレの内部にたまった湿

を提供している。

気を集めた。壺にたまった湿気はコレ内部にまた火が入ればそ

オンドルからヒントを得て温水暖房を初めて作ったのは、

の熱気で蒸発する。それで暑い夏にも、梅雨の時にも朝夕、焚

意外にもアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトだ。近代

き口に火を入れて部屋の中だけでなく床下の湿った空気も乾燥

建築の巨匠の一人である彼が韓国のオンドルと出会ったのは

させた。

1914年の冬、日本の東京だった。

昔は家で飼っている犬がときどき焚き口からコレの中に潜

38 KOREANA 秋号 2018

帝国ホテルの設計を依頼した大倉喜八郎は、日本の畳の部


還流

伝導

かまど

2

© Hansol Academy

「床に膝をついて座っ たが、本当に言葉で言 い表せないような心地 よさを感じた。目に見 える暖房設備もなく、 これで暖房しているの だと分かるようなそん な物もなかった。それ は本当に暖房している かどうかの問題ではな く、一つの気候的な事 件だった」

1. 慶尚北道青松にある松韶古宅は1880年頃に建てられたもので、朝鮮後期の上流階級の家屋の典型 的な形態をなしている。他の伝統家屋と同様にそれぞれの部屋はアグンイとつながっており暖房が可 能だが、前方に開けたマル(床)は板張りとなっており暖房はきかない。

2. アグンイに火を入れると、炎は火の通り道のコレの中を伝わる際に床下のクドゥルを温めるので、 部屋の中の空気の対流現象が起き、煙は煙突から外に出て行く。放射-伝導-対流-灰

トにその部屋を「コリアンルーム」だと説明した。そこは日本

治癒の空間

が景福宮から持ち出した、朝鮮の皇太子が居住していた資善堂

房方式は蓄膿症や肺炎など気管支疾病を予防するのに役立ち、

だった。韓屋は木材と木材を組み合わせて建てる木造構造方式

神経痛や関節炎の痛みの緩和にも大きな効果がある。よく風

だったので、解体と復元が自由自在だった。ライトはそこで奇

邪をひいたときに、オンドル部屋の暖かい焚き口近くに横にな

跡のような経験を下記のように述懐している。

り、布団をかぶって汗を流せば、詰まった鼻も通じ、高熱も下

屋で寒さに震えていたライトをある部屋に案内した。彼はライ

オンドル部屋は「治癒の空間」でもある。煙のない輻射暖

「気温が突然変わったようだった。決してコーヒーのせい

がるという。またオンドルは、産後の妊婦にも卓越した効果が

ではなかった。まるで春が来たようだった。私はすぐに体が温

あり、重労働で疲れきった身体もオンドル部屋でぐっすり休め

かくなり、また楽しくなった。 床に膝をついて座ったが、本

ば翌朝には体が軽くなる。

当に言葉で言い表せないような心地よさを感じた。目に見える

このような現象は、焚き口に点火したときに石と黄土か

暖房設備もなく、これで暖房しているのだと分かるようなそん

ら放射される遠赤外線が、人間の体の奥深くに熱を伝えて温

な物もなかった。それは本当に暖房しているかどうかの問題で

熱治療の効果が現れるからだと言われている。遠赤外線は身

はなく、一つの気候的な事件だった」-『Frank Lloyd Wright:

体の免疫力を高めて自然治癒力を回復させる。また空気で伝

An Autobiography』、「Gravity Heat」、1943年 増補版

わる熱よりも皮膚に直接あたる熱が血液の循環を助けるとい

「コリアルーム」でこの「気候的な事件」を体験したライ

う原理でもあるが、現代式の温水暖房においてもオンドルの

トは、当時すでに実用化されていた電気ラジエーターの曲がり

伝統的な治癒効果を発揮できるよう、科学的な実験と努力が

くねったパイプを広げて帝国ホテルの床に敷き詰めた。これが

続けられている。

温水暖房のはじまりであり、以後ライトはいくつもの建築にこ の方式を適用した。

韓国の文化と芸術 39


インタビュー

過ぎ去りし記憶を キャンバスにとどめる 40 KOREANA 秋号 2018


『チェシ商会』2018年、 アクリルインクのペン画、 75×135.5㎝

ペン画家イ・ミギョン(李美京)は消え去ろうとする存在に惹かれる。この20年間、彼女が全国を歩き 回って描いてきた「衰退と消滅の象徴」は村の小さな商店、クモンカゲだった。 数十年の間、その店を訪れた人々が残した物語を、彼女のペン先が一筆一筆、紡いでいる。 チョン・ジェスク 鄭在淑、中央日報文化専門記者 河志権 写真

韓国の文化と芸術 41


家イ・ミギョン(李美京)は、右手の中指が

う話を聞くと、すぐに出かけて行った。一度では足りない。昼

他の指にくらべてひときわ太く、ペンだこが

と夜の違い、季節によっても変化する店の姿をすべて絵に取り

できている。一日に10時間以上ペンを握り、

込みたかったからだ。写真を何十枚も撮っても、撮りきれない

数千~数万本の線を引くという気の遠くなりそうな作業の痕跡

ものがある。目ではなく心でみつめたクモンカゲはまた違う。

だ。毎朝、アトリエに出勤でもするかのように入るや否や、彼

彼女がクモンカゲを描く画家だという噂が広がり、知り合いを

女はペンを握る労働者となる。カリカリ、キューキュー…。ペ

通じてたくさんの情報が集まりはじめた。数年前には知人から

ン先が紙の上を通過するときに出る音は、彼女の命のエネルギ

こんな文字メッセージが届いた。

ーとなる。繰り返されるペンと紙のふれあうカリカリという音 に息を合わせながら、彼女の日常が動き始める。 「要領よくやろうという人にはペン画はできません。薄く

「作家先生、うちの村のユシムスーパーがもうすぐ店を閉 じるといいます。まだ写真を撮っていなければすぐに来てくだ さい」。

細い線が積み重なって作り出すペン画の質感を数回の筆塗りで

「このユシムスーパーはすでに2、3度たずねて行った店

表すことはできません。28色のアクリルインクを組み合わせて

でした。80歳をこえたお婆さんが50年以上続けてきたお店をつ

何層にも塗っていくような感じで描いていきます。すると、透

いに閉めることにしたのかと思いました。ソウルの古い店舗が

明できれいな色になるんです。混泥せずに頑強になっていきま

また一つ閉じるのかと、胸の片隅に穴が空くように悲しくなり

す。風化と頽落のなかできれいに老いていくクモンカゲのよう

ました」。

ですね。絵の素材とペン画という方式が実にうまくかみ合って いると思います」。

彼女が絵を描いている間にも多くの店が壊され、他の店に 建て変えられた。噂を聞いて出かけていったときには、すでに

彼女は弘益大学校美術大学で西洋画を専攻した。ドイツの

看板を下ろしていた店も数知れない。クモンカゲがその姿を消

新表現主義が流行していた頃だった。大学のアトリエで一晩で

しつつあるのを眺めていると「開発・発展という美名のもとに

大作4点を描きあげた時期もあった。そんな彼女が極めて精

失っていくものがどれほど多いか、自ずと数えてしまう」と作

密なペン画にたどりついたのはまさに「偶然」だった。2歳に

家は語る。

なったばかりの上の子を育てながら二人目を妊娠した1997年の

「20年ちかく描いてきた絵を集めてみると、地域によって

夏、ソウルを離れて引っ越した京畿道光州のある村で、彼女は

建物の構造と屋根の形、材料がすべて違っていました。昔から

まるで自分のことを待っていてくれたかのようなクモンカゲと

の店に出会うと、最初に店を開いた時にはどんな姿だったのだ

出会った。

ろうと、想像する癖ができました。たとえばスレートの屋根は

「2番目の子を産んだ春のことでした。ふたたびキャンバ

1970年代の初め、セマウル運動の所産です。屋根が高い木造住

スの前に座ってペンをとり、何かをしなければと悩みながら手

宅の日本式の家屋もときどき出会います。私の絵の屋根の部分

当たりしだいに描いていた時でした。桜の花が吹雪のように舞

だけを比べてみるのも面白いでしょう。新しい物が出てくると

い散るある日のこと、久しぶりに訪れたその店がそれまでとは

昔のものは無条件取り壊して無くしてしまうことに慣れた私た

違う魅力的な対象として迫ってきました。赤褐色のスレートの

ちの歴史と、保存と復元の大切さを自ずと教えてくれます」。

屋根は時を重ねて奥深い光を放ち、窓ガラスに何気なく書かれ

このように全国を足で歩いて探しまわったクモンカゲとそ

た『飲料水』という赤い文字さえ素敵に見えたんです」。

の主たちの姿が彼女の絵には残っている。次を約束できないの でなおさら、ゆっくり詳細に描いていく彼女のペン画は、一時

胸躍る素材

代を証言する記録保管所となった。

彼女は家に帰り子供たちが寝付くのを待ってペンを手にし

た。久しぶりに胸躍る幸せな時間だった。つねに何かを描かね ばならないという思いに押しつぶされるように生きてきたが、 突然そんな苦痛と不安から抜け出せた気がした。一生描いてい きたい素材、心の琴線にふれる題材との出会いだった。「あ あ、これだ。絵とはこういうもの」という悟りを得たのだ。そ して気に入ったクモンカゲに出会うまで待ちながら、ゆっくり ゆっくりと描いていった。そうやって最初の10年間に描いた作 品はわずか15点だった。 彼女はどこかに「魅力的に老いた」クモンカゲがあるとい

42 KOREANA 秋号 2018

細密な線が積み重って作られるペン画の質感を出すためには数 千、数万回、線を引かなくてはならない。一日10時間以上、こ のような作業をするイ・ミギョン作家の右手の中指には、いつ もペンダコが出来ている。


「店横の街灯の光と店内からこぼれる昼光色の照明は、 暖かい温もりを与える聖人のやさしい眼差しのようでした。 夜の闇と灯りが出会ってかもし出される神秘的な雰囲気は、 衰落する店だけがもつ凄然たる独特な美しさです」

韓国の文化と芸術 43


1

記憶、そして共感

「こんなことを聞かれることがあります。なぜそんなに落

には、この作家が全国を歩き回り求めていたクモンカゲのイメ

ちぶれた店の風景を描いているのかと。昔の郷愁に浸ることに

ージがすべてこめられていた。徐々に青紫色の闇に包まれてい

何の意味があるのかと。私は記憶の中にしっかりと貯蔵してお

く店の後ろにはぎっしりと木々が屏風のように生い茂り、堂々

いた物語を、私と共に今を生きる人々と分かち合い、共感し、

とした存在感をあらわしていた。店の真の姿が見えた。

薄暗い夕暮れの空の下、ひっそりとたたずんでいるその店

思い出にしたいのです。手遅れにならないうちに、同じ時代を

「店横の街灯の光と店の中からこぼれる朱光色の照明は、

生きてきた素朴でささやかな存在と目線を合わせる、そういう

暖かい温もりを与える聖人のやさしい眼差しのようでした。夜

機会を失う前に周囲を見回そうという私の提案なんです。懐か

の闇と灯りが出会ってかもし出される神秘的な雰囲気は衰退す

しいクモンカゲ、母の懐、裁縫箱や昔の食器のような忘れてい

る店でだけがもつ凄然たる独特な美しさです。私の作品のモチ

た大切な心、普通の暮らしにしみこんだ人の匂いのする物語を

ーフがこの店に凝縮されていたんです」。

思い出させるそんな絵を描きたいと思います」。

彼女はクモンカゲと一緒に必ず木を描きいれる。

イ作家にとってクモンカゲは平凡な建物ではない。人に人

地域によって、季節に合わせて、他の服を着せることで家

格があるようにクモンカゲも一種の人格体だ。彼女は海南のタ

と調和させるのだ。人には家族があるように、クモンカゲには

ンクッ村を訪れ、そこで出会った一軒の名も無い店を忘れるこ

木の一株くらいはなくてはならない。絵の中の時間は止まって

とができないという。

いるが木は成長を続ける。古い店ほど大きな木が友のように聳

「国道806号線の弥勒寺の横の坂道を上がっていく途中で した。一目で年輪のある店だということが分かりました。時代 の哀歓を背中に背負っているという雰囲気でした」。

44 KOREANA 秋号 2018

え立っている。 「10年くらい前に出会った全羅北道群山のソクチ商会は、 私の絵をそのまま移したようなクモンカゲの典型的なモデルで


2

1. 『豊年スーパー』2017年 アクリルインクのペン画、35×35㎝

した。店の左側には大きな木が二本立っており絶妙な調和を成 していました。白髪の店主は神仙のような姿でこの店の40年の

2. 『山尺で-冬』2017 アクリルインクのペン画、80×80㎝

歴史を語ってくれました。一つのことを長く続けてきた人生が かもし出す感動が大きかったです。数年後、店は閉じられ、そ こには二本の大きな栗の木だけがポツンと残っているという話 を伝え聞きました。今ではその木が家族のように店と主の思い

れ、日本語版も準備中だ。そして来る10月にはソウルで個展を

出を記憶して、私たちに語りかけてくれるのです」。

開く予定だ。

ゆっくりと、そして長く

いです。頑強な体力が必要で、健康にも注意しながら速度の調

クモンカゲの魅力(The Charm of South Korea's Disappearing

で、心に余裕を与えようと思います」。

今年3月、イギリスBBCは「消え去ろうとしている韓国の

「時間と手間のかかる絵なので個展を開くのもたやすくな 節をしなければならないんです。それで来年にはちょっと休ん

Convenience Stores)」というタイトルのイ・ミギョン作家の

しかし、その間も仕事は山積みだ。これまでに描いた200

ペン画10点を紹介した。そして5月には日本の「東京インター

点あまりのクモンカゲの絵があちこちに散らばっているので、

ナショナルアートフェアー」に招待された。「内需向け」だと

その絵を集めて資料の整理をし、クモンカゲに加え、古い本屋

ばかり思っていたクモンカゲの絵が海外から来た画商と観覧客

を描く計画もある。しかし急ぐ気持ちはないと言いながら、彼

の注目を浴びた。彼女がペン画80点とクモンカゲにまつわる思

女はこう付け加えた。

い出を書き綴った本『硬貨一枚でも幸せだったクモンカゲの 日々』もまた人気だ。6月にフランスと台湾で翻訳本が出版さ

「細く長く、遅く、ゆっくりと…、ペン画が教えてくれた 人生の知恵です」。

韓国の文化と芸術 45


オン・ザ・ロード

城北洞の

46 KOREANA 秋号 2018

三人の男の物語


城北洞(ソンブクトン)は、その名が示すように、朝鮮後期 にハニャン(漢陽)都城の北東側の外郭に沿って造成された 街である。文化遺跡が多く、ソウルの主要観光スポットにな ったこの街には、モダンな高級住宅団地と古い町並みが共存 している。

ハニャン(漢陽)都城に扇状に取り囲まれたソウルの古い住宅街・城北洞(ソンブクトン)。 ここは日本統治時代に、北岳山 (プガクサン)の麓の風情を慈しんだ大勢の文人や画家たちが、集まって住 む芸術家村として名を馳せた。そのせいか、今もこの街の通りには有名な美術館や文化遺跡が多い。 イ・チャンギ 李昌起・詩人、文学評論家 安洪範 写真

韓国の文化と芸術 47


はいつも一様ではない。街はそこに集まって

の道程を指す。遠くの山を前にして思う存分飾り立てた道端の

暮らす人々のライフスタイルと彼らが追い求

店をのぞき込みながら、とぼとぼと歩いてみたらいつの間にか

める価値に基づいて、常に新しく変化する。

道がますます狭くなり、急傾斜になるのを感じる。北岳山 (プ

そのため、街はいつも不慣れで、昨今の旅行者向けの丁寧なガ

ガクサン)から流れる城北川に蓋をして道路を作ったためだ。

イドブックはまだ作られていない。地図を広げると、街はおお

当然のことながら足下では、ノドゥル磐の上を渓谷の水が層を

むね広場につながる大通りとその通りから派生した小さな路地

成した滝となって流れ落ちているのだろう。

からなっている。

ハニャン(漢陽)都城のすぐ近くにありながら、森林が山

職場で疲れた一日を過ごした人や、またはプラカードを掲

里のように茂り、ある金持ちには別荘地として、またある貧し

げて声高に叫んでいた人々も夜になると広場を離れて、やや後

い者には雨と寒さを凌げる場所でしかなかったに城北洞。100

悔の念に駆られながら、扶養しなければならない家族の待つ閑

年前までは70戸に過ぎなかった城北洞が、いつの間にか人口

静な坂道を上る。その街角にある主のいない家の素朴な庭をぶ

2万人の街となったことから、この再開発を非難してばかりは

らついた私は、かつてその家を建て暮らしていたある男の暮し

いられない。

と想いに改めて向き合うことになった。その日、私は彼に対す る古びた偏見を考え直した。

漢陽都城と桃の花

城北洞街は、地下鉄4号線・漢城大(ハンソンデ)駅から

城北小学校を経て、三清洞(サムチョンドン)へ向かう約3㎞

48 KOREANA 秋号 2018

作家のイ・テジュン(李泰俊)は、1933年に鉄原(チョルウォ ン)の古家を解体した木材で建てたこの家で10余年にわたって住 み、創作に没頭した。寿硯山房(スヨンサンバン)と呼ばれるこ の家は今、彼の姪が喫茶店として運営している。


ソウルでよく見かけるありふれた街ではあるが、あちらこ

人の居住地を含めているということから、西洋の城郭とは一線

ちらに各種の文化イベントを知らせる張り紙が貼ってある。折

を画す。「春と夏になると、漢陽の人々は、都城の周辺の景色

々に足を止めさせる看板も多い。いずれもこの街を誇りに思

を見ながら一周するのに、日が昇ってから日が沈むまでの時間

い、称えてきた誰かの跡形である。小さな手旗を持ったガイド

がかかる」という記録があるほど、ハニャン(漢陽)都城は軍

に従い、群がって歩く観光客も目に付く。自治体ごとに地域の

事施設でありながらも住民に開放された施設だった。その中で

歴史と文化を観光の目玉として発展させるため、投資を行い、

も城北洞は、北岳山から駱駝山(ラクダサン)につながる約4

キャンペーンに取り組むことも稀ではない。いつからか観光が

㎞の山城遺跡を擁している。都城の中で最も高台に位置するた

一つの産業として位置付けられ、街の政策を変えている。いろ

め、稜線の城郭通りを上ると、遠くにソウル市内の全景が見渡

んな面で満ち足りたように見えるニューヨーク市観光局も、気

せる。古い城郭とモダンな住宅が調和をなした風景が見事だ。

にも留めなかったハーレムを「黒人文化の本拠地」として紹介

地元の人々は、一番の眺めとして臥龍(ワリョン)公園のマル

し、黒人文化祭典を支援するなど、毎年新しい観光資源を模索

磐を挙げるが、専門家たちは北門の粛靖門(スクチョンムン)

しているほどだ。

と彰義門(チャンイムン)の間にある青雲台(チョンウンデ)

城北洞で一番の観光資源はハニャン都城である。この都城 は、朝鮮を建国したテジョ(太祖)・イ・ソンゲ(李成桂、

から南山(ナムサン)を望む眺めを最高の絶景スポットとして 挙げる。

1335~1408)が漢陽に遷都し、景福宮(キョンボックン)を建

ハニャン城は、築年数が数百年過ぎた今でも、土台が崩れ

てた後、首都を防御するために周辺四カ所をつないで築いた直

たところが一カ所もなく、頑丈さを誇っていたが、都城内の人

径18.6㎞の都城だ。平城と山城が連結されたこの韓国の伝統的

口増加には30年先も予測できなかった。城内に人口が急増する

都城は、その内側に宮殿と各行政施設はもちろん、市場と一般

と、朝鮮は東大門(トンデムン)の外を始点とし、都城の外10

城北洞 観光地図

ソウル

吉祥寺 三清閣 粛靖門

三清トンネル

老柿山房

漢陽 都城

北亭街

壽硯山房 城北区立美術館

尋牛荘記念館

澗松美術館

先蚕美術館

臥龍公園 漢城大入口駅 (4号線) 恵化門

吉祥寺

北亭街

澗松美術館

先蚕美術館 韓国の文化と芸術 49


里(約4㎞)を住居地域に定め、人口を分散させた。しかし、

北屯が「桃花北屯」に変わったわけだ。この頃から権勢の

その時も城北洞は除外された。渓谷が深く、森林が茂っていた

ある文人や王族、富豪たちの別荘がぽつぽつ入り始めた。日本

ためだった。ここに人が住み始めたのは、英祖(ヨンジョ)時

統治時代に洋館が建てられ、今日の財閥の高級住宅が立ち並ん

代の1766年。都城の防備を強化するという目的で、都城警備の

でいるのも、このような脈絡から理解できる。

派遣隊である北屯が設けられてからだ。軍隊が常駐すると、兵 家々が建てられた。河川砂地での農業はままならなかった。結

寿硯山房と老柿山房

局、彼らの定着を手助けするため、呉服の手入れをして納入す

う雑誌に「城北洞の文人村」という記事が載った。ソウル近郊

るなどの仕事の機会を与え、生計を立るため、桃の木を家の

にある城北洞は、景色がよく空気が清んでいるので、このほど

周辺に植えた。それからおよそ20年が経った後、この一帯を遊

多くのソウルの人々が移り住んでいるが、特に芸術を楽しむ文

覧していた朝鮮後期の文人・チェ・ジェゴン(蔡濟恭、1720~

人たちが多いという内容だった。その文人の一人が、小説家の

1799)は、城北洞の風光をこのように描写した。

イ・テジュン(李泰俊、1904~未詳)だ。イ・テジュンは、当

糧を支給するための農地が作られ、これに基づいて河川沿いに

「休み休み行く途中で見下ろしていたら、村家が点々と麓 に散在しているが、大多数が桃の木を垣根の代わりにし、窓と

1929年6月に創刊された『三千里』(サムチョルリ)とい

時30歳になったばかりの新鋭の作家だったが、優れた文章力で 文壇の注目を一身に集めていた。

軒先が桃の木の垣根から見え隠れした。都城の人々は、貴族で

チェ・インフン(崔仁勳、1936~)は、小説『話頭』

あれ、庶民であれ、すべての人がこの眺めに心奪われ時が経つ

(ファドゥ)でイ・テジュンが住んでいた家をこのように描

のを忘れた」。

写した。

50 KOREANA 秋号 2018


「楼がついていてᄀ字型の南向きの家だが、この楼の南方

生かしたということから、「ずさんな建て方はあまりしない」

向の正面に「聞香楼」(ムンヒャンヌ)と刻まれた木の扁額が

と自評したわけだ。ヌマル(三面の壁が開放され外の光景が楽

かかっている。この楼は、家に向かって右端にあり、ᄀ字の横

しめる部屋)を茶の間兼客間として活用したアイデアは、「モ

が板の間と奥の間の向かいの部屋だ。この板の間は、外の部分

ダン韓屋」のポイントだった。

が縁側であり、その内側はガラス入りの格子戸で遮られた広間 になっている。冬に温かい板の間だったろう」。

寿硯山房(スヨンサンバン)と呼ばれるこの家は今、イ・ テジュンの姪によって喫茶店として運営されているが、庭の最

イ・テジュンは、1930年に結婚し、ここに引っ越してき

も低いところに井戸がある。毎朝歯ブラシに歯磨き粉をつけて

た。1933年に古い藁葺き屋を壊して、子供時代をすごした鉄原

歯を磨き、向かい側の山の稜線に不ぞろいに並んでいる城壁を

郡龍潭面の叔父の家を解体し、その木材でこの家を建てた。彼

じっと見つめていたイ・テジュンが、「歯を磨いていたら、歯

は、この家を建てた老齢の大工たちの腕を見守りながら、「彼

ブラシが城の石垣の隙間を磨くという錯覚をして、驚いたりも

らの腕前なら、いくら流行の「シチェチブ」だとしても、いい

する」といった平穏な日常を過ごしていたところだ。今は、大

かげんな建て方はしないだろうと思って、一安心した」と称え

きな松の木と建物に隠れて城壁は見えない。

た。「シチェチブ」とは、男女の空間を区別せず、障子紙の代

イ・テジュンの家から坂をもう少し上ると、僧侶兼詩人の

わりにガラスを使い、母屋から遠く離れていたトイレを板の間

ハン・ヨンウン(韓龍雲、1879~1944)が、刑務所を出てから

とつなぐなど、時代の流れに合わせて韓屋(ハノク)の仕組み

1933年に世を去るまで住んでいた尋牛荘(シムジャン)の入り

を変更させたという意味であり、そうしながらも瓦屋根と軒、

口が見える。偶然にも、その入り口に変わったヘアスタイルの

垂木、欄干の装飾のように、韓屋ならではの外見の趣を丁寧に

小説家・パク・テウォン(朴泰遠、1909~1986)が、1948年か

1

2

1. 尋牛荘(シムジャン)は、独立運動をして 投獄された僧侶兼詩人ハン・ヨンウン(韓龍 雲)が刑務所を出ると、1933年に彼のために 多くの篤志家たちが力を合わせて建てた家であ る。彼は解放を迎えることなく、1944年にこ の家で生涯を閉じた。朝鮮総督府に向かないよ うにとわざわざ北向きに建てたとされる。 2. 尋牛荘(シムジャン)のある城北洞の北亭 (プクチョン)村は、「空の下の最後の貧民 街」というあだ名のように、山裾の急斜面の 路地を挟むように、小さな古い家並みが集中 している。

韓国の文化と芸術 51


ら3年間住んでいた家の跡地がある。パク・テウォンは、イ・

キジと狼などが下りてくる」此処への移住を「猛烈に反対す

テジュンの助けを得て、当時としてはユニークなロードムービ

る」妻の手を引っ張るようにして引っ越してきた。彼は「私は

ーのような構成の『小説家・仇甫氏の一日』という小説を新聞

本当にこの老いた柿の木、数本を愛したからだった」と打ち明

に連載して注目を浴びた。ところが、借金をしてまで建てた敦

けた。「老柿」は、老いた柿の木という意味で、友人のイ・テ

岩洞(トナムドン)の家を、金銭トラブルに巻き込まれ戦々恐

ジュンがつけた堂号だった。彼は、この家で十年あまり過ごし

々としていていた彼は、結局手放し、だれもが離れ去った城北

てから、大切な弟子分の画家・キム・ファンギ(金煥基、1913

洞の谷間に、印税の代わりに受け取ったハギの垣根で取り囲ん

~1974)に売った。無理を言って買ってもらったといった方が

だ藁ぶき屋根の家を建てた。

より適切かもしれない。これをもって「老柿舎の冬を飾ってく

パク・テウォンの家の跡地から向かい側を眺めると、水月

れた私の唯一の友」である「枝だけ寂しく残った木とカササギ

庵(スウォルアム)というお寺とモダンな集合住宅が見える

の巣、ハギの垣と石ころ、そして白い雪と温かい日差し」とお

が、その間に、韓国画家でありながら随筆家のキム・ヨンジュ

別れをした。キム・ヨンジュンは、この家を手放した経緯を

ン(金瑢俊、1904~1967)の老柿山房(ノシサンバン)があっ

『鬻莊後記』というエッセーに残し、彼との縁を大切にした。

た。イ・テジュンとは日本留学時代の友人だった彼は、1934年

さらに、この家での生活を「一塊の幻影」だと述懐した。その

「門前に一台の車さえ入れないだけではなく、家の裏に時折、

せいか、今は跡形もない。

キム・ヨンジュン(金瑢俊)は、彼との縁を大切にし、 この家での生活を「一塊の幻影」だと述懐した。 そのためか、今は跡形もない。

© Whanki Museum, Whanki Foundation

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52 KOREANA 秋号 2018


一塊の幻影

ここからは、私の「古びた偏見」の内幕を打ち明けたい。

イ・テジュンは、『解放前後』で主人公の「ヒョン」を通して このように述べた。 「ヒョンは本当に生きたいと思った。生きたいというより は耐え抜きたかった。連合軍の勝利を信じてみよう! 正義と 歴史の法則を信じよう! 正義と歴史の法則が人類を裏切れ ば、その時切望しても遅くないだろう。ヒョンは家を売らなか った。ヨーロッパで第2戦線がまだ展開しておらず、太平洋で 日本軍がまだラバウルを守ると言われるが、長くても2~3年 したら戻ってくるつもりで、ぎりぎりまで担保融資を利用して ソウルを発ったのだ」。 イ・テジュンが日本の敗北直前の1943年に田舎に逃れても 手放さなかったこの家を建てたのは、日本帝国が満州事変を起 こし、独立運動家たちの武装闘争が激化していた時期だった。 そのころ、ソウルは平穏だった。ソウルの近代化を促すため、 京城府が1928年発刊した『京城都市計画調査書』は、大勢の人 々の関心を集めて、今の江北区(カンブック)と城北区一帯 を、京元(キョンウォン)線が南北に縦断して市街地として発 展した地域として位置付けた。京元線は、彼が愛する故郷・鉄

2

原(チョルォン)へ向かう鉄道だ。城北洞が京城府に編入され てから、恵化門(ヘファムン)から城北洞、敦岩洞(トナムド ン)まで道路ができるという噂も立った。地価上昇への期待 感から城北洞には不動産屋が集まり始めた。当時イ・テジュ ンは、1931年「中外日報」に入社し、後身である「朝鮮中央日 報」で学芸部長を務めていた。私には、彼が抱えていた観念と 現実のずれを説明する誰かの釈明が必要だった。 恐らく彼は、自分の努力と能力で成し遂げた、このこじん まりとした家で享受する日常の幸せを追い求めていたら、正義 と歴史の法則がそれに見合う、納得できるような結論を出して

1.『樹郷山房』キム・ヨンジュン、1944年、水墨画、24×32㎝ 画家であり随筆家のキム・ヨンジュン(金瑢俊)が、後輩のキム・ファンギ (金煥基)夫婦に描いてあげた絵。キム・ヨンジュンが住んだ当時は、老柿山 房(ノシサンバン)と呼ばれたこの家は今は無く、多くのエピソードだけが 伝わる。彼から家を譲り受けたキム・ファンギは、自分の号である樹話(スフ ァ)と妻のキム・ヒャンアン(金郷岸)の名をとって「樹郷山房」と呼んだ。

2. 寿硯山房(スヨンサンバン)に今も掛かっているイ・テジュンの家族写真。 この家の庭に立って家族がカメラを見つめている。解放後の社会的混乱の中、 心の葛藤に悩まされていた彼は、1946年家族を連れて越北した。

くれるだろうと信じたかったのだろう。作家としていかなる妥 協もせずに、変化していく社会に適応できずにいる下層民たち の生活と、その中からにじみ出る素朴な人間愛、そして故郷と 古き良きものにしっかりこだわっていくと決めたのだろう。そ のために堪えなければならないこの辛い植民地の「海内」での

んだ研究がなされたことはない。

屈辱的な生活が、「海外」での闘争より厳しくて難しいことだ

ドイツ文学者として執筆を楽しむムン・グァンフン(文光

と感じたのだろう。でなければ、チェ・インフンの言葉通り、

勲)が、イ・テジュンの家族写真一枚を見て、長い間思惟した

「敵たちが占領した国の中にいてはいけなかった」のだ。

「幸せな詩的瞬間」というエッセイーの一部を引用する。

ところが、解放以降、ソウルの情勢は理性的な判断を下す

「ここに古い写真が一枚ある。それは、作家イ・テジュン

には手に負えない状況の連続であり、そのいかなる選択も内面

が1942年城北洞の家で妻と2男3女の子供とともに撮ったもの

の傷を癒したり、彼が望んでいた解放の夢を保証してはいなか

だ。…この場面は、人間に幸せとは何か、幸せは私たちの人生

った。1946年イ・テジュンは、突然家族とともに城北洞の家を

にどのように位置づけられているのか、それがどのようにやっ

出て、越北した。また、時差を置いてキム・ヨンジュンとパク

てきて、どのように去っていくのかを最もよく見せてくれるよ

・テウォンも彼に従って越北した。その後、北朝鮮で彼らがぶ

うなイメージなのではないかと思う」。

つかったイデオロギーと現実の葛藤は、短編的な履歴といくつ かの証言のみで要約されるだけであり、まだ文学史的な突っ込

彼らが立っていた場所を見て回る。主のいない庭には、何 事もなかったかのように、花が咲いている。

韓国の文化と芸術 53


二つの韓国

これが ピョンヤン冷麺だ

11年ぶりに行われた南北首脳会談は、政治的な話題のみをもたらしたのではない。板門店で南北の首脳が 食べた「ピョンヤン冷麺」は、インターネットのリアルタイム検索語で1位となり、大都市のピョンヤン 冷麺の専門店には大勢の客が押しかけ、ピョンヤン冷麵は南北首脳会談が生んだ最大のスターとなった。 それと共に、脱北民出身の調理師ユン・ジョンチョルさんの店「トンムパブサン」も再び注目されている。 キム・ハクスン 金学淳、ジャーナリスト、高麗大学校メディア学部招聘教授

年4月、11年ぶりに開かれた南北首脳会談の生

「店の規模に比べてお客はもともと多かったのですが、南

んだ最大のスターは、ピョンヤン冷麺だと言

北首脳会談のおかげで突然さらに多くなりました。国内のメデ

っても言いすぎではないだろう。北朝鮮のキ

ィアはもちろん、日本やフィリピンのような外国の放送局まで

ム・ジョンウン労働党委員長が、首脳会談の晩餐の食卓にのせ

この店を取材したいとやってきます」。

た「玉流館のピョンヤン冷麺」に誰もが言及し話題となり、そ 市の有名冷麺店の前には長蛇の列が出来たからだ。あるカード

南北のピョンヤン冷麺の差

会社の統計資料によれば、南北首脳会談直後の3日間のソウル

のではない。メニューには鴨肉のプルコギ、ミョンテシッケ

市内のピョンヤン冷麺店の売上は、前の週よりも80%以上増え

(スケトウダラをもち米などと一緒に発酵させた料理)、チャ

たという。

プサルスンデ(もち米入り豚の腸詰)、カムジャマンドウ(皮

の日から昼食と夕食の時間には、ソウルをはじめとする主要都

「トンムパブサン」ではピョンヤン冷麺だけを出している

ピョンヤン冷麺の爆発的な人気の中で注目された店があっ

にジャガイモ粉が入っている餃子)、トウモロコシククス(ト

た。キム・ジョンウン委員長は総調理長を同伴してきたが、ま

ウモロコシ麺)のような様々な北朝鮮の郷土料理が並んでい

さにその玉流館でピョンヤン冷麺の秘法を学んだ脱北民調理師

る。やはり一番人気のメニューはピョンヤン冷麺だ。韓国人は

ユン・ジョンチョルさんが経営する「トンムパブサン」だ。こ

北朝鮮料理というと、自然にピョンヤン冷麺を一番先に思い浮

の店は今回のシンドロームが起きる前からすでにテレビのグル

かべるからだ。

メ番組を通じて広く知られていた。「ピョンヤンの玉流館の冷

ピョンヤンでは玉流館、清流館、高麗ホテル、民族食堂が

麺を味わえる」という噂が広がり、平日の昼食時間には1時間

四大冷麺店として有名だという。その中でも特に、玉流館の冷

以上待たなければならないほどの人気店となっていた。そこに

麺が代表的だと言及されるのには、何か理由でもあるのだろう

首脳会談を契機にさらに関心が集まるようになったのだ。

か。ユンさんは「高度人材がいるから」と答える。

より一層忙しくなったユン・ジョンチョルさんに、ソウル

「北朝鮮では何でもうまくできる才能のある人は全員ピョ

合井(ハプチョン)駅の近くにある「トンムパブサン」で会っ

ンヤンに送られます。料理がうまいと言われる人の中でもずば

た。昼の時間をはるかに過ぎていたが、店は相変わらず混んで

抜けてうまい人が集まっているのが、1961年に金日成の肝いり

いた。

でつくられた玉流館です」。

54 KOREANA 秋号 2018


ユンさんは自分の作るすべての料理は、ピョンヤン最高 のレストランである玉流館の味を再現しようと努めているも のだという。それで冷麺を作るときにも韓国のピョンヤン冷 麺の店とは違う、玉流館式に牛骨、雉肉、鶏肉などでとった 茹で汁を、石と炭、砂が入った濾過機に一度かけてつくる。 醤油、たまねぎ、長ネギ、リンゴ、梨を入れて煮立てる。 ところがユンさんは「玉流館のピョンヤン冷麺の原型をその まま再現したいが、いくつかの理由でそうできないのが残念 だ」と語る。 一番の理由は冷麵の汁と醤油をつくる水にある。北朝鮮の 大同江と韓国の漢江では、水の味が違うと強調する彼は、「玉 流館は金剛山にも中国にもできだが、水が異なるので冷麺の味 が少しずつ違う」という。「トンムパブサン」の冷麺は麺の材 料の配合比率にも差がある。そばの含量が60-70%に達するソ ウルの有名冷麺店とは違い、そばの比率を40%と低くし、その 代わりにサツマイモの澱粉40%、小麦粉を20%入れる。それで 麺を噛むと柔らかい感じがする。彼は「玉流館の冷麺の麺は、 ソバ40%に片栗粉60%」だとして、自分も開業初期には玉流館 と同一の比率で麺を打っていたという。ところが、麺が固いと いってはさみで切って食べるお客が多く、仕方なく片栗粉の比 率を減らして小麦粉を混ぜることにしたという。 「北朝鮮では冷麺を含めた麺類を『ミョンキルクッス (命の長さの麺)』といいます。それで誕生日にも冷麺 を食べ、祝い事のある家に行けば冷麺をふるまってくれ ます。健康で長生きするようにという意味ですね。と ころが、韓国に来てみたら、冷麺をわざわざハサミ で切って食べているではありませんか、ビックリ しました。最初のころは、麺の腰が強く歯ごたえ のある理由を詳しく説明していましたが、私の 話に不快な表情をするお客様もおり、説明をし ないことにし、その代わりに材料に小麦粉を加え ました」。 彼はまた、玉流館では消化を助けるためにベイ キングソーダを加えて麺を打つが、自分は入れない と言い、その理由について説明した。 「健康に気を使う韓国人はベイキングソーダを入れると 食べません」。 ベイキングソーダにより玉流館の冷麺は葛冷麺に近い黒 い色だが、「トンムパブサン」の冷麺は薄灰色だという。 韓国側の芸術公演団の一員としてピョンヤンに行き、玉流

咸鏡北道穏城が故郷のユン・ジョンチョルさんは、1998年に脱北し、 2000年に韓国にやってきた。ピョンヤンの玉流館で料理を学んだ経歴 をもつ彼は、2015年にソウルハプチョン(合井)洞に「トンムパブサ ン」という店を開き、北朝鮮料理を出している。

© Newstomato

韓国の文化と芸術 55


1. 「トンムパブサン」には多くのメニューがあるが、その中で も一番の人気はピョンヤン冷麵だ。この店の冷麵は玉流館方式 で作られており、ほとんど「韓国式」に変わってしまった他の 冷麵専門店とは調理方法、材料、味のすべてが違う。

2. ピョンヤン冷麵は韓国人が普段から好んで食べている料理だ が、最近の南北首脳会談以後は爆発的な人気を集めている。特 に南北の首脳が晩餐会の席で食べていた玉流館式のピョンヤン 冷麵が話題になってからは「トンムパブサン」の前には連日、 この店の冷麵を食べようという人々が列を成している。

館のピョンヤン冷麺を始めて食べた歌手ユン・ドヒョンは、 「玉流館では従業員が直接、麺を箸でもちあげて酢をかけてく れます。韓国のように汁に直接酢を入れるのとは違って珍しく 感じられました」と語っている。ユン・ジョンチョルさんは南 北の飲食文化の差を受け入れ、酢と芥子は客の好みに合わせ て食べられるようにしている。「トンムパブサン」の冷麺メニ ューにはピョンヤン水キムチ、咸鏡道(ハムギョンド)大豆キム チ、両江道(ヤンカンド)キャベツキムチなど、無料のお通しが 出てくるが、これもまたユンさんの配慮だ。お客に北朝鮮の名 物として有名なキムチを一通り味わってもらいたいからだ。 韓国のピョンヤン冷麺の味に慣れた人々は「トンムパブサ ン」の冷麺に最初は、「物足りない」とか「味が薄い」などと いう反応を示す。それでも、お客はこの店の冷麺の味を一度覚 えると忘れられなくなり、何度も来るようになるという。その 秘訣は何の味もつけずに、箸でさっとかきまぜて継続して食べ たくなる汁の味のせいだ。

大切な北朝鮮料理の原型

咸鏡北道穏城が故郷のユンさんが、ピョンヤンの玉流館で

1

56 KOREANA 秋号 2018


料理を学び得られたのは、党幹部をし ていた父によるところが大きかった。 祖父が日本の植民地時代に日本料理の 調理師として働いていた経歴は、やや もすると彼の妨げになるかもしれない 要因だったが、父が党幹部をしていた のが幸いした。そのおかげでユンさん は軍に入隊後、党の配慮で専門炊事兵 教育を受けるために行った先が、玉流 館だった。 そこで4カ月ほど料理を学んだ 後、軍幹部の専用食堂の調理師として 配属された。10年以上北朝鮮軍の将校 専用食堂で、故郷の違う将校たちがそ れぞれ注文する料理を作っているうち に、いろいろな地域の料理をほとんど 身につけることができた。それで彼は

© Ahn Hong-beom

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「私の頭の中には北朝鮮料理のレシピ が数百以上ある」と自信を持って語った。そのような様々なレ

ジョンチョルさんは、韓国の人々の好みに合わせた料理を作

シピを身につけた彼は除隊後、会寧軽工業専門学校で発酵の勉

る方法を模索し始めた。わざわざハサミで切らなくても食べ

強をして味噌・醤油のような発酵食品やサイダーを作る技法を

やすいように澱粉と小麦粉の配合を作り出し、食べた後で水

学び、講義もした。ピョンヤンで大きな行事があるときには呼

が飲みたくなるようなことのないように、調味料の量を抑

ばれて料理の腕を発揮することもあった。

えるレシピも開発した。店は彼の誠実さと腕の良さが噂を呼

いわゆる「苦難の行軍」時代だった1998年に脱北した彼

び、客足が絶えないようになる。すると玉流館冷麺の秘法を

は、中国を経て2000年に韓国に来た。定着初期には建設現場の

伝授して欲しいという人々が彼のもとを訪れ始め、フランチ

日雇い労働者など、ありとあらゆる下働きをしながら韓国社会

ャイズにしようと持ちかける人も多かった。しかし、彼はき

に適応しようと努力した。そして、2013年に行われた飲食文化

っぱりと断った。万一、金儲けのためにそのような方式を選

行事に参加したユンさんは、北朝鮮料理に関する話がでると、

んだりすれば、玉流館式のピョンヤン冷麺をはじめとする北

自分が体験した玉流館の料理についての話を披露した。彼の話

朝鮮料理の原型を守るという自分の哲学が変質してしまうか

に耳を傾けていた料理スタジオ「ホヤクックス」のイ・ホギョ

もしれないと考えたからだ。

ン社長の支援で、3日間のポップアップ・ストアーを出すこと

「北朝鮮では食べ物が美味しいという表現を『タクソリナ

ができた。顧客の反応が良く、2015年から本格的な営業を始め

ンダ』と表現します。『トンムパブサン』の冷麺が玉流館の冷

るに至った。

麺に決して劣らず美味しいことを、統一したら北の同胞に証明

ようやく自分の得意な仕事ができるようになったユン・

するためにも、そのような誘惑には負けたくありません」。

「北朝鮮では冷麺を含めた麺類を『ミョンキルクッス(命の長さの麺)』 と言います。それで誕生日にも冷麺を食べ、祝い事のある家に行けば冷麺 をふるまってくれます。健康で長生きするようにという意味ですね。とこ ろが、韓国に来てみたら、冷麺をわざわざハサミで切って食べているでは ありませんか、ビックリしました」 韓国の文化と芸術 57


日常茶飯事

1

老後を自ら切り開く白髪の学生 韓国では1950年の朝鮮戦争以降から1963年までに生まれた人々のことを、一般的に「ベビーブーマー」世代と 呼んでいる。高度成長期をリードし、激動の現代史を生き抜いてきたベビーブーマーたちも、 いつの間にか引退の時期を迎えている。誰よりも熾烈に生きてきた彼らは、引退後の生活も前向きだ。 イ・チャヌン(李燦雄)さんもそんな一人だ。 キム・フンスク 金興淑、詩人 安洪範 写真

とりある老後の生活は

国1万6千人の労働者と引退者を対象に

も準備ができていない国なのかもしれな

誰もが望むものだが、

「引退、老後」について調査をしたとこ

い。高齢化の速度は世界でも最も早く、

それはごく少数の人だ

ろ、「調査対象の大多数が、老後の生活

老人貧困率はOECD加盟国の中で最も高い

けが味わえる幸運でもある。今年5月

のための基本的な金融知識さえなかっ

からだ。年金所得代替率もアメリカは

ブルームバーグ新聞が「世界は引退す

た」と、この記事は伝えた。

71.3%だが、韓国は39.3%に過ぎない。

る準備ができていない(The world isn't

韓国はこの調査の対象国には含まれ

さらに、所得が減っても医療費負担

prepared for retirement)」というタイ

ていないが、老後の準備ができていない

は高齢になるほど増え続けるという現実

トルの記事を掲載し、注目された。15カ

という点では同じだ。もしかすると、最

を考えると、問題はかなり深刻だ。60歳

58 KOREANA 秋号 2018


以上の韓国人の1人あたりの月平均診療

ほど資金管理の

費は、全年齢の平均の2.3倍に達し、一

仕事をした。そ

生に使う医療費の半分は65歳以上に集中

の後は完全に仕

するという。このような状況から高齢

事から退き、本

者の自殺率も10万人当り54.8人という、

格的に引退者と

OECD平均の3倍近くに達し、大多数の韓

して老後の生活を始

国人が老後自体を恐れているのは決して

めた。

驚くべき事実ではない。 そのような点を鑑みて、1951年生ま

「退職前から、老後にした いことをメモしておいたんです。一

れのイ・チャヌンさんは運の良い引退者

つ目が自伝的な小説を書くことでした。

に属する。数年前に胆のうの摘出手術を

小説を書くには文章を書く練習をしなけ

受け、視力と聴力が減退するなど日々健

ればならないと思い、新聞社の文化セン

康の問題と戦ってはいるものの、老人貧

ターに通いました。小説の講義はなかっ

困層に転落してしまった他のべビーブー

たので随筆のクラスに入りました」。

マーに比べれば、恵まれた人生だといえ

2

彼は10年近く随筆の勉強を続け、と

る。キャベツのスープと果物を食べて、

るだろう。

きどき作品を発表し、2013年春にエッセ

これはと思う新聞記事にチェックを入れ

バケットリストを実行する

イ集『私は学生だ』を出版した。本の題

てから、隣のアパートで行われている国

名はノーバル文学賞候補に名前のあがる

仙道教室に行き、1時間ほど禅武道の練

中国の作家王蒙の著書『王蒙自述:我的

習と丹田呼吸をする。彼は黒帯の国仙道

間勤務した後、2004年2月に銀行を退職

人生哲学』からとった。

の有段者でもある。帰宅しても、妻のク

イ・チャヌンさんは外換銀行で34年

した。定年退職ではなかったが、同期の

「そのときに、泉にたまっていた水

・ギョンビン(丘瓊彬)さんは熱心なカ

大部分はすでに退職した後だったので、

をすべて汲み上げてしまったようで。最

トリック信者で、聖堂のミサのため留守

さほど未練もなく職場を離れることがで

近は書いていません。また泉に水が溜ま

にすることが多い。

きた。

るまで待たなくては。でも、物を書きな

朝チェックしておいた新聞記事を読

「元旦に北漢山で初日の出を見た

がら自分自身にあまり才能が無いことを

み終えてから、夫人の名前で開設したイ

後、日記に『もういつでも銀行を辞めら

悟りました。随筆の勉強をして自分を見

ンターネットカフェにアクセスする。カ

れる。後姿が惨めな先輩にはなりたくな

つめなおしてみると、私は小説よりは随

フェの会員は家族と親戚、友人らだ。全

い』と書き留めましたが、まるでそれが

筆のほうがあっているようでした」。

員合わせると70人近くになるが、毎日ア

予言のように一カ月後に辞めることにな りました」。

物を書く以外にも引退後にしようと

クセスするのは5人ほどしかいない。カ

考えていた白頭山登山、クルーズ旅行、

フェで目にする一番嬉しいニュースは、

退職を前にして資産を計算したとこ

長距離徒歩旅行などはすべてやってみ

スペインに派遣勤務中の次男の家族が書

ろ、何とか暮らしていけそうだった。本

た。それでもまだいくつかは残ってい

き込む孫娘のことだ。長男はまだ結婚し

人名義の家もあり、借金はなかった。当

る。幼い頃から興味を抱いていたアフリ

ておらず、イ・チャヌンさんにとってた

時は預金金利も高く貯蓄した資産が目

カに一度は行ってみたい、マジックを習

った一人の孫というわけだ。

減りする心配もほとんどなく、二人の息

って人々を喜ばせたい、智異山の山奥

「子どもと孫は比べものになりませ

子のうち長男が大学4年だったので出費

やヒマラヤの奥地で四季を過ごしてみた

ん。孫娘はいつでも見ていたい花のよう

もやがて減るだろうと踏んだ。彼は退職

い、という彼のバケットリストは未だ有

な存在です」。

後、家で6カ月ほどブラブラした後、妹

効だ。

の夫が経営する輸出販売の会社で2年半

1. 1951年生まれのイ・チャヌンさんは銀行で34年 間勤務した後、2004年に退職した。退職後に彼が 一番最初にしたことは、新聞社の文化センターの 随筆教室に登録したことだ。 2. イ・チャヌンさんは10年間、日々の暮らしの 中で見たり聞いたり、感じたことを書きためて、 2013年にエッセイ集『私は学生だ』を出版した。

カフェに文章と写真をアップし、他

「いつぞや友人が、『他の人間はや

の会員の書き込みを読んでいるといつの

りたいと思っているだけだが、おまえは

間にか昼食の時間になる。約束があれば

やりたいことは必ずやってみようとして

外出し、約束がない日には家で食事をす

る』と言ってましたが、そのとおりだと

る。妻が聖堂から帰ってくれば一緒に、

思います」。

遅くなるときには一人で食卓に座る。妻

人生と信仰の意味

とは同じ支店で勤務していて知り合い、

彼は毎朝7時に目覚ましの音で起き

恋愛の末に結婚したのだが、今年の4月 7日が結婚40周年の記念日だった。

韓国の文化と芸術 59


「妻は私のことを家父長的だと言う

気質の長男だからだけではなさそうだ。

んです。家の中のことはすべて私が決定

「家内が聖堂であったことや、ご近

するからだそうです」。

は善き人として暮らすことが重要なので はないでしょうか」。

所のいろいろな噂話をするときは、あま

妻と宗教観が違うせいで、彼は宗教

彼は最初の家を購入するときから部

り聞きたくありません。正直、関心もな

と人生に対して誰よりも深く考えている

屋が4つある家を探した。一人暮らしの

いんですよ。家内とは40年間一緒に暮ら

ようだった。五台山月精寺の短期出家学

母と一緒に暮らさなければならなかった

してきましたが、今でも家内のことは良

校に入学して20日を過ごし、忠清北道沃

うえに、祭祀のときに兄弟や親戚が泊ま

く分からないと思うことがありますね。

川のメリウォード霊神修練院で10日間の

っていく部屋が必要だったからだ。少な

家内が聖堂や家で祈りを捧げている姿を

修練生活を送ったこともある。

い資金で部屋が4つの家を買おうという

見ていると、何だか他人のように感じら

のだから、交通が不便な郊外の一軒家を

れるときもあります」。

「仏教は宗教というよりは心の故郷 のような感じです。それで寺での生活は

買うほかなく、その後マンションに引っ

母胎信仰の夫人の実家がカトリック

越すときにも部屋が4つあることにこだ

信者だったので、彼は妻と結婚するため

わったために大きな借金をして、それを

にカトリックの信者となった。妻の洗礼

イエス会の修練院では沈黙したまま

返すのに10年間も苦労したという。彼は

名はジュリアナ(Juliana)、彼はアウグ

で生活し、1日に1度修道女マザーと話

7人兄弟の長男で、姉が3人、妹1人に

スチヌス(Augustinus)だ。

をするのだが、

自由だと思ったのですが、規律が厳しく 驚きました」。

弟が2人いる。兄弟が多いことからも彼

「私は宗教が人生の構成要素だとは

「マザーは神様に会いたいという欲

は典型的なベビーブーマー世代だ。実際

思いません。そのために日常を放棄する

を捨てて、神の答えを待ちなさいと言わ

のところ夫人の不満は、彼が家父長的な

べきではないと考えています。それより

れましたが、私は無心にはなれませんで した。次にまた機会があれば、もう一度

1

来ればよいと思って帰ってきました」と 当時を振り返った。

人面の大岩のように

彼は彼自身の宗教観を模索するよう

に、引退後の人生に対しても早くから 整理していた。若い頃、自分のロール モデルだった、アメリカの小説家ナサ ニエル・ホーソーンの短編小説『人面 の大岩(The Great Stone Face)』の主人公ア ーネスト少年のように「家族を越え、 誰かの役に立つ人生」を生きることに したのだ。 「2009年のある日、偶然にこんな文 章に出会いました。『あなたはどんな人 間として記憶されたいですか? 年をと ってもこの問いに答えられなければ、人 生を無駄に過ごしたことになるのです。 あなたは他の人が変化するのに、どんな

1. 彼は毎朝、国仙道教室に行き丹田呼吸をする。数 年前に国仙道の有段者にもなった。

2. イ・チャヌンさんはこの9年間、非営利民間団体 「美しい書堂(Beautiful Seodang)」が運営するヤング リーダーズアカデミー(YLA)で大学生に経営学を教 える奉仕活動をしてきた。今年6月ソウル市立大学校 の講義室で彼が最後の授業をしている。 60 KOREANA 秋号 2018


幼い頃から興味を 抱いていたアフリ カに一度は行ってみ たい、マジックを習 って人々を喜ばせた い、智異山の山奥や ヒマラヤの奥地で四 季を過ごしてみた い、という彼のバケ ットリストは未だ有 効だ。 2

助けとなっていますか』という文章を見

憶されたいか? そして答えを得たんで

さんは、アーネストをロールモデルにし

たんです。その瞬間、アーネストのこと

す。アーネストに似ようと努力した人間

た理由を学校誌に書いたことがある。

が思い出され、他人の助けになりたいと

として記憶されたいと思っているんだ

いう思いになりました」。

と」。

「僕は彼の夢が素朴で好きだ。彼は 賢くないので好きだ。真面目なので好き

ちょうど市民団体が行っていた引退

学生たちに対する愛情に変わりない

だ。実に平凡だから好きだ。温厚な思想

者のためのプログラムで、非営利民間団

が、イ・チャヌンさんは6月23日の授業

体「美しい書堂(Beautiful Seodang)」

を最後に講義を終えた。聴力が衰え話を

彼のエッセイ集『私は学生だ』を読

のソ・ジョギョン(徐在景)理事長と出

正確に聞き取れないことが多くなり、言

んだり、彼と話をしていると、イ・チ

会い、ソ理事長の勧めで書堂が運営する

語の駆使も以前のようにはいかないうえ

ャヌンさんは「アーネストに似ようと努

ヤングリーダーズアカデミー(YLA)の講

に、咽喉炎により声がたびたび出なくな

力した人」ではなく、「アーネスト自身

師となった。ヤングリーダーズアカデミ

り、学生たちに迷惑をかけることが多く

だ」という気がしてくる。彼もまた素朴

ーは人格、能力、奉仕精神を兼ね備えた

なったためだ。

な夢を追いかけ、真面目に生きる平凡で

家なので好きだ」。

人材育成を目標とする大学生教育プログ

「最近の学生たちは夢を失っている

ラムで、古典と経営学の授業、奉仕活動

ようです。卒業後就職できなければアル

「これまで生きてきて別に損をした

の教育を無償で提供している。講師陣は

バイトしかないという強迫観念が夢を奪

こともありませんし、この状態で終えて

主にメディア、企業、金融などに従事し

っているようで、実に不憫です」。

も良い気がします」。

ていた引退者で構成されており、無報酬 はもちろんのこと、自腹を切って教育に

学生たちの傍らを離れても奉仕まで やめたわけではない。

温厚な人だからだ。

彼は10年前に上手な死に方について 悩み、すでに遺書を書き残し、臓器提供

参加している。イ・チャヌンさんは9年

「これからは精神的、肉体的に余り

の誓約までしている。彼は確かに「運の

間講師として教えたが、少し前に学生た

負担にならないことをしようと思いま

良いベビーブーマー」ではあるが、彼の

ちと一緒に読んだ本の中に、2009年に自

す。困っている隣人の家を掃除したり、

幸運は親から譲り受けたものではなく、

分にアーネストを思い起こさせた、あの

修理するような単発的な奉仕をしようと

自らの手で掴んだものだ。知らないこと

質問を見つけた。

思っています」。

を知ったかぶりせず、常に学ぼうと実践

「ピーター・ドラッカーの『プロフ

全羅南道木浦で生まれ、商業高校を

する「学生」の人生を追及してきたイ・

ェッショナルの条件』でした。再び考え

卒業した後ソウルの銀行に就職し、夜間

チャヌンさんのような人が、この社会に

てみました。自分はどんな人間として記

大学に通っていた。その頃イ・チャヌン

たくさんいて欲しい。

韓国の文化と芸術 61


遠くの目

歌麿と申潤福 「申潤福と歌麿が美人画や風俗画を通して獲得していたもの――それは、性と説話が 地続きであるということ、そしてそのつながりの知的な追求である。個人的なトラウ マや悲運はそのなかでこそ昇華される。そこには、儒教的世界にではなく、大衆文化 が根拠とするもうひとつの公共圏がある。その世界を表現していこうとする決断に、 迷いはない。二人の美人画家の線は、そうした確信を伝えている。」 友常 勉 ともつね・つとむ、東京外国語大学教授

の8月、北関東に位置する栃木市で

筆画『巴波川杭打ちの図』には、この徳成の狂歌

歌麿について話す機会があった。

「出る杭の打たるる事をさとりなばふらふらもせず

戦前のプロレタリア美術運動と戦

後くひもせず」が書き込まれている。木版多色刷り

後の反戦平和運動のなかで活躍した鈴木賢二(1906

の錦絵の成功で、鈴木春信(1725?‐1770)からは

‐1987)という版画家がいる。栃木県栃木市の出身

じまり、歌麿で頂点に達した、浮世絵・美人画とい

である鈴木賢二の画業や、その文化的背景や交友関

う大衆文化を確立した近世日本のアーティストたち

係を研究する、鈴木賢二研究会に私も所属している

と、その消費者たちが、同時に、諧謔を忘れない反

縁で、講演を依頼されたのである。

骨の精神を育てていたことがわかる。

栃木には、2007年に歌麿の真筆であることがわ

 ところで、18世紀後半にピークを迎える、美

かって大発見となった「女達磨図」、「鍾馗図」、

人画を中心にした大衆文化の成立は、長いスパンで

「三福神の相撲図」をはじめ、七点の作品が存在す

みれば、17世紀半ばから後半にかけての明清交代を

ることが知られていた。さらに、1879年(明治12)

契機にした、中国を中心にした華夷秩序の崩壊、そ

に栃木市内の定願寺で歌麿の『雪月花』という、三

れに対応した東アジア諸国の独自の儒教解釈の多様

福対の肉筆が展観されたことが記録に残っており、

化が背景にある。またこれも世界史の常識の話にな

歌麿が栃木に滞在していたこともわかっている。

るが、世界規模での国際貿易と商工業の進展、そし

浮世絵や春画を代表する喜多川歌麿と栃木の縁

て商人階級の台頭もまた、同時期の新たな文学と科

は、けっして一時的なものではなかった。江戸時代

学の成立を促した。こうした歴史的条件が、朝鮮に

後期の寛政の改革のおり、歌麿を世に出したプロデ

おける申潤福を、歌麿や春信と比較することを可能

ューサーであった版元・蔦屋重三郎が幕府の検閲に

にしている。しかも、申潤福と歌麿は、ともにアン

ひっかかり処罰され、蔦屋は財産の半分を没収され

ダークラスの女性たちを描いたこと、その出自が謎

た。吉原遊女の昼の生活を描いた山東京伝による三

に包まれていること、さらにその表現によって当局

部作が処罰の対象になったのである。NHKで歌麿の

の弾圧を被ったという点で共通性がある。

スペシャル番組を制作したディレクターの近藤史人

2008年に公開された映画『美人図』やドラマ

は、1791年(寛政3)に、歌麿もまた弾圧をのがれ

『風の絵師』によって、申潤福は日本でも知られて

て栃木のパトロンを頼っていたと推定している。醤

いる。そして、李美林や金貞我らの研究によって、

油業で財をなした豪商・善野喜兵衛という歌麿のパ

日本の浮世絵との比較研究も進んでいる。また、申

トロンは、自らも通用亭徳成という狂歌名をもち、

潤福の代表作である『蕙園傳神帖』は、神奈川大学

江戸で狂歌師たちと交流していた。そして歌麿の肉

の研究成果報告書『東アジア生活絵引』朝鮮風俗画

62 KOREANA 秋号 2018


編で、その主な作品を鑑賞することができる。

とには、版元のニーズという理由以上のこともあっ

「美人図」に代表される申潤福の女性像は絶品

たのではないかと推定したくなる。大衆文化の商品

である。たとえば歌麿の浮世絵を見つづけて、その

生産を扱うとき、作者個人の私的なトラウマという

官能的な線から、申潤福の美人画や風俗画の流麗で

要因を加えることは、危険な分析であるということ

個性的な動きの描写に目を転じたとき、それが与え

を承知の上でである。だが、さらに重要なことは、

てくれる幸福感は、まったく別のものである。申潤

この奇想を覆っている説話的な主題である。山姥が

福が描く妓女たちと比べたときには、日本の浮世絵

手にしている「栗」(「山姥と金太郎」)、美人画

の形式性が、とりわけ顔の線を際立たせるその様式

ではあるが、母子と海女という豊饒な世界観を主題

性がどうしても強く意識される。もちろんどちらの

として扱った「鮑取り」。翻って申潤福には、歌麿

美人画も、そして春画も、奇想にあふれているのだ

のような母子像という主題は見いだせないが、服装

が、李美林や金貞我ら比較研究の結論も、個性的な

・髪型・道具・所作の正確な転写には、説話的な世

表現か様式性の強さかという点に落ち着いているよ

界に対する強い肯定と、それを伝えようとする知的

うである。

で実証的な意識がうかがえる。申潤福と歌麿が美人

ただし、歌麿とほぼ同時代を生きていた本居宣

画や風俗画を通して獲得していたもの――それは、

長は、リアルな描写の良さも認めたうえで、様式性

性と説話が地続きであるということ、そしてそのつ

のほうも評価している。「まことの物のやうをよく

ながりの知的な追求である。個人的なトラウマや悲

見てまねびかく、これを生(シヤウ)うつしとかい

運はそのなかでこそ昇華される。そこには、儒教的

ふ」。それもいいが、実物に似せた模写は「まこと

世界にではなく、大衆文化が根拠とするもうひとつ

の物と絵とはことなることもあり」、だから「家々

の公共圏がある。その世界を表現していこうとする

の法」も捨ててはならないと(「絵の事」『玉勝

決断に、迷いはない。二人の美人画家の線は、そう

間』)。宣長の主張は、伝統的な形相学が、内面的

した確信を伝えている。

な価値を重んじることに由来している。つきつめれ ば、どのような美学も理念から自由ではない。歌麿 には歌麿の、申潤福には申潤福の美学があるという ことになる。 もう一つ、両者の共通性として考えてみたいこ とがある。歌麿には、「山姥と金太郎(金時)」と いう説話に題材をとった50あまりの連作がある。母 子像である。金太郎は端午の節句に必要な季節もの だから、美人画や春画の制作が制限されたときの表 現として選ばれた主題だったかもしれない。ただ し、出自が謎である歌麿が、母‐子の関係を描くこ

歌麿「山姥と金太郎」

歌麿「鮑取り」

韓国の文化と芸術 63


エンターテインメント

大衆文学の中の嫁 もはや従属した客体 ではない 姑と嫁の間で起こる葛藤とトラブルは、映画やド ラマの定番素材だ。この古い素材が今でも受けるの は、嫁姑の葛藤が依然として健在であるからだ。 ところが最近、大衆文化の中の嫁たちが変わってき ており、彼らを見る観客の視線も変化している。 ジョン・ドキョン 鄭德賢・大衆文化評論家

年初めに公開されたド

考え方はどの家庭にも依然として存在

されるため犠牲を強いられ、「良いA級の

キュメンタリー映画

し、嫁姑の葛藤に嫁たちが苦しむ状況も

嫁」にならなければならないのかと、質問

『B級の嫁』は、2万

続いていると強調する。これは、主人公

を突きつける。変化した時代の代案になる

人近い観客を動員した。政治や時事問題

のチンヨンが、姑の嫁いびりのため『B

ような嫁像を見せたということから、観客

ではない、日常生活を風刺したドキュメ

級の嫁』にならざるを得なかった理由で

はこの映画に共鳴した。

ンタリーとしては異例の興行成績だっ

もある。

た。このような兆候は、昨年の全州(チ

チンヨンは最初からB級の嫁だった

ョンジュ)国際映画祭、DMZ国際ドキュ

わけではない。ところが、姑のキョン

観察者の視線

メンタリー映画祭、春川(チョンチョ

スクの「これからは家族になったのだか

して放映した『不思議の国の嫁』は、結

ン)ドキュメンタリー映画祭など、複数

ら、家庭行事に参加するんだよ」という

婚した女性の日常を観察する内容で大き

の映画祭でこの作品に対する賛辞が飛び

要求とぶつかり始め、チンヨンは結局、

な話題を呼び、6月から正規編成の番組

交った時から読み取れた。

いい嫁になることを諦める。嫁は、旦那

となった。同番組が注目を集めた理由

この映画が描いている嫁姑の葛藤

の実家に行かずに「完璧な秋夕(チュソ

は、最近新しい放送トレンドになった観

は、韓国の大衆文化で長い間取り扱われ

ク)を送った」と満足げにほほえみ、姑

察カメラの形式を導入し、人々が気づい

てきた素材だ。そのため視聴者は、テレ

は、「せっかくの秋夕だったのに嫁が実

ていなかった普通の韓国家庭の「不思議

ビドラマに嫁をいじめる姑が登場する

家に来ない」と涙を拭う。

な風景」を赤裸々に見せているからだ。

今年4月、M B Cがパイロット番組と

と、「もうあんな素材はうんざりだ」と

『B級の嫁』は、二人の板挟みになっ

同番組に出る嫁たちは、義実家を訪

不平を漏らしたり、「今の時代、あんな

てしまって悩み苦しむ、同映画の監督で

れることだけでも負担に思い、到着する

姑なんていない」と指摘する。とすれ

あり、チンヨンの夫であるホビンの観点か

とすぐ台所に行ってせわしく料理と食器

ば、いったいこの映画の何が多くの人々

ら描かれる。この映画は、解決策を示すわ

洗いをする。半面、夫たちはテレビの前

の心に響いたのか。

けではないが、その代わりに映画のタイト

に座って、何もしない。まるで男性たち

ル通りに、なぜ嫁たちが義理の家族から愛

の空間と女性たちの空間の間に、目に見

『B級の嫁』は、根深い家父長的な

64 KOREANA 秋号 2018


えない壁が立ちはだかっているかのよう

中には、視聴者がこの番組を見て義実家

イキック!』では、社会でうまくいって

に行動する。そもそもこれは、どの家庭

に対して抵抗感を感じる理由が込められ

いる嫁にいびられる姑が登場したりもし

でもよく見られる平凡な風景だが、家の

ている。それは嫁に対してお客様のよう

た。また、2007年放送されたドラマ『ヨ

随所に設置されたカメラを通じて観察者

に遠慮していないからだ。『不思議の国

メ全盛時代』は、姑と嫁の間で起こる葛

の視点で見ると、嫁の役割として当たり

の嫁』は、「他人の大切な娘」である嫁

藤と仲直りを見せてくれた。このドラマ

前に思われていたことが、実は非正常な

を強引に「家族」に作らず、「お客様」

が興味深かったのは、未だに嫁いびりさ

ことであることが分かる。

として尊重すべきだという見方を示す。

れている嫁であり、姑でもあるキャラク

っているだろうか。それは「家族」とい

変化する嫁像

ターを登場させ、嫁姑間の和解を探った

家父長的な風習が今よりずっと厳し

の中の嫁は、一方的にいじめられる存在

う言葉が持つ拘束から始まる。韓国の姑

かった1972年に放送されたドラマ『旅

ではなく、自分の嫁としての位置づけを

たちは、嫁に「結婚したからお前も家族

路』(ヨロ)は、典型的な嫁姑の葛藤を

確かなものにする、主体的なキャラクタ

になった」という表現をよく使う。この

取り扱い、視聴者たちは切なさと感動で

ーに変化している。

言葉には家族になったという歓迎の意味

涙の海と化した。馬鹿息子の面倒を手厚

夫を見る目も変わってきている。2012

のみが盛り込まれているのではない。家

く見る、天使のような嫁をいじめ、ひい

年に放送されたドラマ『棚ぼたのあなた』

庭行事を取り仕切る任務を引き受け、義

ては他の男性と浮気をしたと誣いる姑が

に登場するクィナム(貴男)は、嫁姑関係

実家に尽くす嫁を強要するという意味も

登場し、全国の嫁たちを憤らせた。

で妻の肩を持つ姿で視聴者たちの共感を呼

『シーワールド』(旦那の実家)で は、なぜこのようにおかしな状況が起こ

ということだ。このように最近のドラマ

秘めている。この番組のある男性出演者

ところが、それから30年あまりが経

び起こした。興味深いのは、「貴重な男」

は「婿を『100年のお客様』と呼ぶが、嫁

った今、テレビに出る嫁たちの姿はかな

という意味の彼の名前が、1992年作『息子

もそのようなお客様になれる時代がやっ

り変化している。2006年放送されたシチ

と娘』の息子の名前と同じであるという

てくればと思う」と話した。彼の言葉の

ュエーションコメディー『思いつきりハ

ことだ。『棚ぼたのあなた』の作家は、同 名の男性主人公を登場させ、20年の歳月の 間に一変した韓国人男性の家庭内のステー タスと位置づけを明確に示した。『息子と 娘』でクィナムは、母親に「貴重な男」で あり、男児を好む傾向を代弁するキャラク ターである。ところが、『棚ぼたのあな た』のクィナムは、妻にとって「貴重な 男」である。 ドラマの中の嫁たちの姿からもわか るように時代は確実に変化している。今 の韓国の嫁たちは、結婚とともに義実家 の家族の一員になるよりは、適度な距離 感を保ち、独立した家庭を作りたいと願 う。このような変化は、家族主義時代が 色あせて、代わりに個々人の幸せがより 重要になる個人主義時代の影響によると ころが大きい。 もちろん、大衆文化に現れた嫁たち が以前と異なるからと言って、現実が必 ずしもそれと同じであるとは言えない。 しかし、少なくとも違った見方が目指す 変化の方向は明確である。これからは従 属した「客体」ではなく、平等であり、 堂々とした「主体」としての嫁の時代が 開かれている。

韓国の文化と芸術 65


料理物語

も 葉 紅 ば れ ま 秋深 る ま 深 も 味 の コッケ

66 KOREANA 秋号 2018


蟹は世界中の人々に愛されている食材だ。その中でも春・秋に韓国人が好んで食するコッケ (ワタリガニ)は、特別手を加えなくても特有の風味を満喫できる。そして、蟹の身が甘く ジューシーなのは、蟹の生存方式と深い関係がある。 チョン・ジェフン 鄭載勳、薬剤師、フードライター

はコッケ(ワタリガニ)

れないが、続けてチョン・ヤクジョンが

度をあわせている。シーフードビュッフ

の季節だ。身がぎっしり

描写したコッケの味については、誰もが

ェで食べる蟹の身からは、さほど甘味が

詰まったコッケは、想像

同意するだろう。彼はその味を「とろけ

感じられないのは、茹でて加工する過程

しただけでも思わず生唾が出てしまう。

るように甘い」と言った。新鮮な秋のコ

でグリシン成分が流れてしまうからだ。

オス・メスを区別するなら秋はオスの季

ッケは実に甘い。ただし、砂糖の甘さと

甘味の秘密はこれだけではない。蟹の身

節だ。交尾を前にしたオスが脱皮し身体

は全く違う。塩辛い海水の中で作り出さ

にはグリシン以外にもアラニンという甘

を引き締めるからだ。

れた繊細で複雑な甘味だ。コッケだけが

味アミノ酸が含まれており、グルタミン

コッケは加熱して火が通ると殻が花

そうなのではない。竹の節々に似た足を

酸や核酸のようなうま味成分も豊富だ。

のように赤くなるが、それで「花蟹(コ

持つとしてその名前を得た東海のテゲ

ここに様々な揮発性物質が加わること

ッケ)」と言われているわけではない。

(ズワイガニ)も、ロシア産のキングク

で、蟹の身特有のソフトで濃い風味を引

コッケの「コッ」は甲羅に串(コッチェ

ラブ(タラバガニ)も同様に甘い。

き出す。

ンイ)のような模様をした二つの触角が

このように蟹の身が甘い理由は、砂

海水が塩辛いほど、塩分濃度に合わ

あるとしてついた名前だ。朝鮮中期の実

糖の70%程度の甘味を出すアミノ酸のグ

せるために蟹の身の中のグリシン、ア

学者イ・スグァン(李晬光1563~1628)

リシンがたくさん含まれているからだ。

ラニンのような遊離アミノ酸の濃度が

が編纂した文化百科事典『チボンユソル

もちろん、海水も深い関連がある。蟹が

より濃くなり、味も良くなる。また、

(芝峰類説)』には、コッケの名前の由

塩辛い海水の中で生存するには、塩分濃

高冷地の大根や白菜が凍らないために

来について「後ろ足が平たく薄い櫓(オ

度と均衡を保つことのできる物質が必要

糖の含有量が増すように、海水が冷た

ール)の形をしており、それで水を掻き

だ。海水よりも濃度が低いと浸透圧によ

くなる秋から冬の間に蟹の身の中の甘

分けて泳ぐ」という説明がついている。

り体内の水分が海水に溶け出してしまう

味アミノ酸の含有量も増える。そのお

200年後、チョン・ヤクジョン(丁

危険があるからだ。そうかといって、塩

かげで秋蟹の料理には手間をかける必

若銓、1758~1816)が書いた最高の海洋

を使って濃度をあわせることはできな

要はない。ただ蒸すだけで風味が増

生物百科事典『チャサンオボ(玆山魚

い。ミネラルが必要以上に多いと体内の

す。メイラード反応のおかげだ。糖と

譜)』にも「だいたい蟹はよく動き回る

酵素の活性に支障をきたし、生命活動を

アミノ酸を一緒に入れて加熱すれば二

が、泳ぎはうまくない。しかしこの蟹だ

続けることが難しいからだ。

つが反応して褐色に変わり、本来の食

けは扇の形をした脚でうまく泳いでい

海水魚はT M A O(t r i m e t h y l a m i n e

材とは違った複合的な風味を作り出す

る」とコッケのことを描写している。英

N-oxide)という物質で、塩分濃度の浸透

というメイラード反応は、もともと摂

語でコッケを「swimming crab」と呼ぶ

圧の均衡を調節している。TMAOは本来無

氏120℃以上の高温で起きる。肉を茹で

のも同じような理由からだ。古今東西を

色無臭だが、流通や保管中に分解すると

たスユクからは、火で焼くステーキの

問わず、海を泳ぐコッケの姿は不思議に

魚の生臭さの原因となる。蟹の身にもこ

ような特有の香りを得ることができな

思えたようだ。

の成分が入っており、保管に失敗すると

い理由だ。しかし蟹の身は例外で、も

甘味の秘密

魚と同じ生臭い臭いがする。ただし蟹の

ともと甘味アミノ酸と糖が豊富なので

ような甲殻類は、TMAOの代わりに甘味ア

120℃以下で蒸したり、茹でてもナッツ

ミノ酸のグリシンを主に使って海水と濃

類に似た香ばしい香りがする。殻ごと

コッケが泳ぐ姿は少し珍しいかもし

韓国の文化と芸術 67


1 © TOPIC

茹でれば香りの物質が多く閉じ込めら

う。コッケは獲ってすぐに急速冷凍すれ

れるので、より風味が増す。

ばこのような現象を防ぐことができ、一

自己消化酵素を利用した調理法

年を通して身入りのよいコッケを楽しむ

蟹は保管の過程で傷みやすい。運搬

一方で自己消化酵素を利用した料理

の途中で死んだりしたらすぐに身がふに

が、韓国人の大の好物「カンジャンケ

ゃふにゃになってしまい、食べられなく

ジャン」だ。ニンニク、タマネギ、ショ

なる。蟹のような甲殻類には「肝膵臓」

ウガなどを入れて沸騰させたヤンニョム

と呼ばれる消化器官があるが、死んでし

・カンジャン(醤油ダレ)を冷ましてか

まうとそこに含まれている自己消化酵素

ら、きれいに洗ったコッケに注いで、醤

が溶け出し、身を分解してしまうから

油漬けにして食べる料理だ。コッケの自

だ。家にもち帰るまで生きていた蟹も、

己消化酵素とコッケについていた微生物

すぐに調理しないと身がどろどろになっ

により蟹の身と内臓が分解され、その過

てしまう。蟹を低い温度で茹でたり、ま

程で遊離アミノ酸の含有量が増え、うま

たは茹で足りないときにも自己消化酵素

味がでる。醤油ダレの中のうま味成分と

が活性化して蟹の身がすべて溶けてしま

溶け出した蟹の身のうま味物質が合わさ

68 KOREANA 秋号 2018

ことができる。  

1. 韓国人の好物、カンジャンケジャンはニン ニク、ショウガ、赤唐辛子などを入れて煮立 てたカンジャン(醤油)にコッケ(ワタリガ ニ)を漬けて熟成させて作る。コッケは3~ 4月頃に獲れたメスのコッケを使用する。 2. 水産物市場で商人たちが獲れたてのテゲ (ズワイガニ)を並べている。殻が薄く身の 厚い淡白な味のテゲは東海岸一帯で多く獲 れ、漁獲時期の冬から翌年の春までこのあた りの食堂はどこも新鮮なテゲを味わう人々で 賑わう。


海が冷たくなる秋から冬にかけて、蟹の身の中で甘味のアミノ酸の含 有量が増える。そのおかげで秋蟹の料理には手間をかける必要はない。 ただ蒸すだけでも風味が増すからだ。

り、生み出す珍味だ。加熱して食べる蟹

嚢に保管されて翌年の春に卵子と出会い

の身とは、ひと味もふた味も違う特有の

受精する。受精卵はトビコ(トビウオの

秋の紅葉に似ている理由

風味が「ご飯どろぼう」という別名を作

卵)に似ており、透明な糸に粒粒がくっ

は気温が下がり寒くなると木の葉の葉緑

りだしたほどだ。朝鮮時代には肉汁たっ

付いている。外に飛び出した卵の色は、

素が破壊され、その緑色に隠れていた黄

ぷりのケジャンを作るために「牛肉や鶏

最初は朱紅色を帯びており、段々と濃い

色、朱黄色、赤色の色素の物質が現れる

肉を蟹に食べさせてからケジャンを作っ

褐色に変化する。受精卵の抜けた蟹は、

現象だ。生きている時には「ブルークラ

た」という記録も残っている。フランス

コッケであれテゲであれキングクラブで

ブ」という名前にふさわしく、青味を帯

のフォアグラの生産と似たような方式だ

あれ、食べても美味しくない。繁殖のた

びていたコッケの殻も加熱すると、その

と言える。

めにエネルギーを注ぎ込んだメスの身が

色素成分が蛋白質から溶け出し鮮明な赤

コッケは秋の紅葉に似ている。紅葉

私たちが蟹の卵だと思って食べてい

ぎっしりつまっていないのはもちろん、

色を帯びる。それでコッケと紅葉は似て

るのは、実は本物の卵ではない。正確に

卵を産み終えたメスは、環境保全の次元

いるというわけだ。

言えば、まだ受精していない卵巣だ。こ

からも捕獲してはならない。普通、メス

韓国の野山では秋の初めから紅葉

のような蟹は食べてもよい。ただし、身

1匹が75-300万個の卵を生むが、生き

がはじまる。ただし、このときは草木

体の外に濃い褐色の卵が塊になって飛び

残るのはそのうちの一つに過ぎない。そ

の一部が色づく程度に過ぎない。さら

出している蟹には、注意が必要だ。

れで禁漁期間は厳守する必要がある。ア

に、もう少し待つと紅葉がピークに達

メスとオスの蟹が交尾する時期は秋

メリカで毎年沿岸のコッケの個数を推定

し、野山全体が鮮やかな朱色の紅葉に

の初めだが、その時に受精が行われる

するための研究調査が行われているのも

覆われる。コッケもそうだ。毎年8月

わけではない。オスの精子はメスの貯精

同じ理由からだ。

末には禁漁が解かれコッケ漁が始まる が、この頃には中身がスカスカの若ガ ニが多い。蟹やロブスターのような甲 殻類は殻より大きくなることはない。 それで成長のためには周期的に脱皮を しなくてはならない。新しい宿を準備 し引っ越すのにかける生物学的なコス

2

トは大きい。脱皮の過程で多量の筋肉 とエネルギーを消耗しきると、半分は 身で残りの半分は水がつまった若ガニ が誕生する。再生し水のつまった空間 を再び身でいっぱいにして殻を固くす るには時間がかかる。 これを逆に利用して、コッケが脱皮 するのをじっと待ち、獲って食べるソフ トシェルクラブもあるが、海では卵を産 んだメス蟹と同様、若ガニも捕獲しな いのが賢明だ。秋が深まれば紅葉も、コ ッケの味も深まる。趣と味を楽しむ人な ら、放す時には放すことを知り、待つ ときには待つことを知らなければならな 2

い。

韓国の文化と芸術 69


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