Koreana Spring 2017 (Japanese)

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春号 2017

韓国の文化と芸術

特集

春号 2017

韓国の婚姻

韓国の婚姻

伝統婚礼の変遷 伝統婚礼、原型と現代風 結婚-婚需から新婚旅行まで 結婚の未来 国際結婚-私の物語

http://KoreanLiteratureNow.com Literary Translation in a Post-Trump World | Seoul International Writers’ Festival 2016 LTI Korea Translation Award | Reviews of latest translations | Book excerpts

vol. 24 no. 1

WINTER 2016

ISSN 1225-4592


韓国のイメージ


論山訓練所の 入所式

キム・ファヨン 金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員

「父

母兄弟は君を信じて熟睡する!」 巨大なプラカードを背景に頭を短く刈り込んだ若者たちが列を なして歩いていく。緊張した表情だ。しかし捕虜でもなく、罪人

でもない。 「父母兄弟の熟睡」の標語が物語っているように、国家共同体の 安寧を守るために入隊する国軍将兵候補者たちだ。朝鮮半島の南西、忠清南 道論山の陸軍訓練所では毎週月曜日と木曜日になると、このような光景が繰 り返される。入営する将兵たちを歓迎するプラカードの文言以外にも軍の装 備、武器と戦闘服、軍入隊後に使うことになる物品が展示され、若者たちの 軍での生活の一端がうかがえる。 この国の18歳以上の男子なら誰しも心身の健康が許す限り、必ず一度は このような「通過儀礼」を果たすことになっている。毎回2000人程の若者た ちと彼らの父母や恋人、友人など、送別家族まで含めると7000人余りが集 う特別な「祭り」だ。入所式が終わり家族が帰ってしまうと若者たちは、入 所大隊で3日間の入営身体検査、適性検査、普及品の受取などの手続きをふ み、その後5週間にわたる苦難の厳しい訓練に突入する。入所後2週目の火 曜日、父母の携帯電話に教育連隊の配置結果が通知され、若者たちの着て来 た私服の詰まった小包と手紙が自宅に配送される。 「父母に送る将兵の小包」 を受け取った父母の心配の種は尽きない。2年近い軍服務のはじまりだ。し かし、1950年の朝鮮戦争勃発から60余年、戦争の危機と隣り合わせの日常 に人々は慣れてしまった。むしろ遠い外国のテロのニュースに不安がり、旅 行の自粛を促すほどだ。 単一部隊としては世界最大の教育機関といわれる論山陸軍訓練所。上岩 ワールドカップ競技場の約76個分の規模をもつこの巨大な訓練所には、近 隣の村の人口16,500人と同じくらいの数の訓練兵と教官が常駐している。 ここは毎年、大韓民国陸軍の養成人員125,000人の内45%を担当し、1951 年に創設されて以来、これまでにおよそ780万人の新兵を輩出してきた。一 方で、身体検査不合格を理由にこの成年式を免除された相当数の男子たちが 後日、社会の指導層に就いているという事実は長年の謎となっている。


編集長からの手紙

結婚と韓国の未来

結婚制度は普遍的なことであるが、二人の男女が結合する結婚の手続きは 民族や文化、宗教的集団、社会的階級によって異なる。結婚式は個々人の価 値観ばかりでなく、家族や社会の慣習、伝統を受け継いでいる。 今回の特集「韓国の婚姻-伝統婚礼の変遷」は、韓国の伝統婚礼、婚礼の 原型と変遷についての情報を紹介している。幾世紀前の王室婚礼から現代の 結婚式までの各特集ページは、読者の皆様をそれぞれの結婚式場に案内し、 多様な婚礼とその象徴的な意味について紹介する。 また、結婚の現在と未来のあり方についても述べ、愛と夫婦関係のモラル と生活の変化について語っている。このような論議は韓国の人口問題とも深 い関わりがある。他の理由もあるだろうが、多くの若者は主に失業と経済的 な事情によって結婚を先延ばしにしたりあきらめたりし、婚姻率と出産率が 引き続き低下している。その結果、最近の国際結婚によって人口構成が文化 的・民族的に徐々に多様化していく傾向もある。 特集以外には、 「南済州の観光」 、 「北朝鮮離脱住民の英語教育」 、 「韓国人 は三枚肉を偏愛する」 、 「デジタル断食」などの記事が載っている。読者の皆 様がこれらの記事に興味を持たれ、韓国の多様な話題についてご理解してい ただけることを切に希う。 日本語版編集長 金鍾徳

発行人 李是衡 編集理事 金光根 編集長 金鍾徳 編集諮問委員 裵炳雨 那秀昊 崔寧仁 韓敬九 金華榮 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Werner Sasse 監修者 嘉原和代 翻訳者 坂野慎治 金明順 朴美貞 クリエイティブディレクター 金三 編集 林善根、朴道根、朴信恵 アートディレクター 李栄馥 デザイナー 金智賢、金南亨、葉蘭敬 編集 金熒允編集会社 04035 韓国ソウル特別市麻浦区楊花路7-44. 秋思軒ビル3階 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 価格 韓国内:6000ウォン 韓国外:9USドル 定期購読料:詳しくは『Koreana』84ページをご参照ください。 Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr 韓国国際交流財団 06750 韓国ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル 印刷 三星文化印刷 04796 韓国ソウル特別市城東区阿且山路11-10. Tel : 82-2-468-0361〜5

韓国の文化と芸術 春号 2017

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『婚礼図』 金弘道 (キム・ホンド、1745~1806以後) 作と推定 18~19世紀、絹本、墨・彩色、53.9×35.2cm 婚礼のために新婦の家に向かう新郎一行。 朝鮮時代の生活の主な儀礼を描いた画集 『平生図』 より。

Published quarterly by The Korea Foundation 韓国国際交流財団 06750 韓国ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル

掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、『 Koreana』 や韓国国際交流財団の公式見解ではありません。 1987年8月8日 文 化 観 光 部-1033で 登 録 さ れ た 季 刊 誌 『Koreana』はアラビア語、インドネシア語、英語、スペイ ン語、中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語でも発刊 されています。


文化遺産の継承者

海女の守り人 潜水服職人 イ・ソンモさん

36

許栄善

オン・ザ・ロード

風と石 時の息吹までが 慕わしい 南済州紀行

04

40

39

郭在九

日常茶飯事

16 特集

伝統婚礼 原型と現代風 儀軌の記録に見る 朝鮮王室の婚礼

二つの韓国

04

遠くの目

“恨を超えた声” パンソリ、説経節、盆踊り

10

友常勉

豚肉 韓国人は三枚肉を偏愛する

58

薛湖静

ライフスタイル

52

56

62

デジタル断食 金東桓

韓国文学の旅

金学淳

韓敬九

特集 2

48

金瑞鈴

脱北者の立身の足掛かり 「北韓離脱住民 グローバル教育センター」

韓国の婚姻 伝統婚礼の変遷 特集 1

コンビニ店員の さまざな人生模様

料理物語

作家生活30年 ベテラン作家の 「上質なメロドラマ」

66

崔在鳳

『花様年華』 具孝書

イ・ソンミ

特集 3

結婚 婚需から新婚旅行まで

16

李允丁

特集 4

結婚の未来

24

白栄玉

特集 5

愛と幸福という古びた 立札のある庭園見直し

28

李昌起

特集 6

国際結婚 私の物語

チャールズ・ラ・シュア、ナ・スホ

32

40


特集 1 韓国の婚姻ー伝統婚礼の変遷

伝統婚礼 原型と現代風 コリアハウスの伝統婚礼式は、極めて伝統的でありな がら、一方では非常に現代的だ。時空が圧縮されてい るだけでなく、昔だったら席を共にすることのなかっ た人々、つまり両家の両親や親戚、招待客が一堂に会 して式を挙げ、披露宴も行う。 4 KOREANA 春号 2017

ハン・ギョング 韓敬九、文化人類学者、 ソウル大学校 自由専攻学部教授 安洪范 写真


ある土曜日の正午。少し寒いものの、日差しがまぶし く、空は青い。韓国文化財財団が運営するコリアハウス

(ソウル筆洞)の内庭は、人であふれている。庭の真ん中

には日よけが張られ、屏風が立てられている。建物の基壇には、 美しい韓服(韓国の伝統衣装)を着た男女の楽工(楽師)が7人。 それによって、庭は厳かで華やかな儀礼の空間に変わっている。 むしろが敷かれた床面には、大礼床という大きな膳が置かれ、 東西両側に小さな膳が置かれている。男性は「陽」であることか ら東側は新郎、女性は「陰」であることから西側は新婦のために 用意されたものだ。 大礼床には、ナツメやクリの実など、いくつかの食べ物が用 意され、松と竹の盆栽も置かれている。その下には鶏もいる。 大礼床に載せられる食べ物は、地域によって異なる。ナツメは 長寿を、クリは福と健康を、鶏は多産を祈るもので、冬も青い 松とまっすぐ伸びる竹は節操を象徴するという。真昼ではある が、青いロウソクと赤いロウソクも見える。式を夜に挙げてい たその昔、それぞれ陰と陽を表すロウソクは、必ず必要だった のだろう。豪華なシャンデリアのある現代の韓国の結婚式場に も、依然として青いロウソクと赤いロウソクがあり、結婚式の 一番最初に新郎新婦の母親が並んで入場し、ロウソクに火をと もす。 大礼床の南側には、通常の結婚式場と同様に椅子が並べられ ている。新郎側には、新郎の両親と招待客が、新婦側には新婦 の両親と招待客が座っている。他にも多くの人が、庭を取り囲 んでいる。椅子が足りなくて立っている人もいれば、外国人観 光客もいたが、ほとんどは祝儀袋を渡して顔だけ出し、結婚式 が終わる前にさっさと帰る招待客だ。最近、簡素な結婚式を挙 げる人が増えてはいるが、依然として今日の韓国では、知り合 いの結婚式には必ず出席し、祝儀を渡さなければならない。そ のため結婚式の招待状は、時には納税通知書のように受け取ら れたりもする。

コリアハウス(ソウル筆洞)の内庭で行われる伝統婚礼式。赤い布で覆われた大礼 床の東側と西側に、新郎と新婦が向かい合って座っている。

韓国の文化と芸術 5


新婦を迎える 「親迎礼」 いよいよ式の進行役を務める立派な風采の執礼が、道袍とカッ(高麗、朝鮮の貴族階級・両班の装束) の姿で登場し、大礼床の北側に立つ。現代の韓国では、牧師や神父がいない結婚式の場合、新郎の先生 や両親の友人の中から名望のある人に司式を依頼する。しかし伝統婚礼では、ただ笏記、つまり式次第 に沿ってその手順を読み上げることさえできれば十分なので、漢文の分かる村の大人が務めたという。 本日の執礼は、シルム (韓国の伝統的な格闘技) 大会の司会も務めるコリアハウス所属の専門の司会者だ。 程なく執礼が式次第の書かれた扇を開いて「行親迎礼」と厳かに婚礼式の始まりを告げる。漢文で誰も聞 き取れないため、現代の韓国語で 「親迎礼を挙げます」 と親切に説明してくれる。 親迎とは、儒教の理念に従って、新郎が新婦を迎えてくる儀式だ。しかし、朝鮮初期の王朝実録を みると「韓国の礼法は、男性が女性の家に入り、息子と孫を外家で育てる」 、 「韓国は中国のように親迎 する習慣がないため、妻の家を自分の家のように考え、妻の父をアビ(お父さん) 、妻の母をオミ(お母 さん)と呼んで、日頃から自分の親のように考えた」となっている。これに対し、新儒教の理念を強調し た朝鮮の文官は、男性は陽・天であり、陰・地である女性が男性に従わなければならず、親迎、つまり女 性が男性の家に入ることが、婚礼の中心になるべきだと主張した。すなわち、男性が女性の家に入るの ではなく、女性が男性の家に入るものでなければならなかったのだ。 そのため、王室が先に親迎礼を実施し、それに従うことを奨励したり強要したりしたが、成功しな かった。婚姻は、住習慣だけでなく、財産の相続や祭祀など、その他の社会制度と深く関わっていたか らだろう。結局、半親迎といって、婚礼は新婦の家で挙げ、一定期間、新婦の家にいてから、新郎の家 に入るといった多様な方法が登場した。子供を育ててから新郎の家に入ったのが、婚姻3年目に早ま り、さらに婚姻して3日目に入ることになったという。このコリアハウスの親迎礼は、おそらく新婦の 家を想定しているようだ。 楽工が風楽(韓国の伝統音楽)を鳴らし始めると、執礼が古風な漢文と現代韓国語で「新郎が入場しま す。キロギアビ(雁夫)も後を追います」と話す。キロギアビとは、新郎が新婦の家に雁を結納品として 贈る儀式、すなわち奠雁礼のために木製の雁を手に持ち、新郎の後を追う補佐役だ。雁は陰陽に沿って (季節の変化によって)行き来するといわれ、婚礼の結納品として使われる。一度つがいになると、死ぬ まで相手を変えないことから、不変の約束を意味するともいう。建物の裏の上手から、新郎一行が現れ る。新郎は赤紫色の官服に紗帽冠帯、つまり朝鮮時代の高位高官の服装をしている。儒教官僚国家の朝 鮮において、男性は科挙(官吏登用試験)に合格して官吏になることを理想としていたため、平凡な身分 の男性でも、婚姻の日だけは官服を着ることが許された。よく見ると、青紗灯籠(ちょうちんの一種)を 手に持って、韓服を着た二人の子供が新郎を案内していく。おそらく西洋式の結婚式で見られるフラワ ーボーイやフラワーガールを伝統婚礼に取り入れたのだろう。 執礼は「新婦の家で新郎を迎え、導きます。新郎は、膝をついて奠雁床という膳に雁を置きます。新 郎は立ち上がって、2回お辞儀をします」など、式次第を古風な漢文と現代韓国語で話し、その意味ま で親切に説明してくれる。式次第に従って、新郎が正面の建物に座っている新婦の両親に雁を渡し、お 辞儀を2回行う。これで奠雁礼が終わり、新郎は庭に向かって立つ。執礼の説明が終わると、建物の中 から新婦が現れる。新婦は、緑衣紅裳(緑の上衣、赤い下衣)を着て、頭にはチョクトゥリ(婦人が儀式 の際にかぶる冠)をかぶっている。新婦の服装も、身分の高い婦人の礼服だ。婚姻は最も重要でめでた

韓国の伝統婚礼では、誓いの言葉を言わず、指輪も交換しない。互いに向かい合って丁寧にお辞儀 をし、ヒョウタンの杯に唇をつけ、目を合わせて、一生を共にすることをただ静かに誓う。 6 KOREANA 春号 2017


いことなので、この日だけは新婦も、そうした服装を着ること が許されたという。 新郎と新婦の初めてのあいさつ 「交拝礼」 先頭にフラワーボーイやフラワーガール、その後ろに新郎、 続いて新婦が、絹織物の敷かれた階段を下りて庭に出てくる。現 代の結婚式の新郎・新婦入場を少しアレンジして、伝統婚礼に取 り入れたのだろう。新郎と新婦がそれぞれ大礼床の東側と西側 で、手を洗って心と体を清める。互いにお辞儀をすると、一生、 寄り添い続けることを誓う交拝礼が始まる。最近は新婦が妊娠中 だったり、子供を産んでから結婚することも珍しくないが、当事 者ではなく家同士の話し合いによって婚姻が決められていた近 代以前には、交拝礼で新郎と新婦が初めて顔を合わせた。新婦 が、手伝いの人の助けを受けながら、まず新郎に2回お辞儀をす ると、新郎も同じように1回お辞儀をする。執礼は女性は陰で偶 数、男性は陽で奇数になると解説したが、それを見ていた若い女 性は、なぜ新婦が先にお辞儀をするのか、なぜ新婦だけ2回もお 辞儀をするのかと、疑問に思ったかもしれない。 3杯の酒で一つになる 「合巹礼」 こうしてお辞儀が終わると、合巹礼(ハプグンレ:新郎新婦が 互いに良い配偶者になることを誓約する儀式)が始まる。新郎新 婦は、お酒を3回酌み交わす。執礼は、1杯目は天と地に夫婦 の縁を、2杯目は互いにとってよい配偶者になることを、3杯 目は互いに愛し合い、一生、寄り添い続けることを誓う意味が あると解説した。最後の3杯目は、ヒョウタンを縦に割ったも のを使い、杯を酌み交わした後にしっかりくっつける。互いに ぴったり合う相手は、この世に一人しかおらず、二人が一緒に なることで、ようやく完全な一つになるという意味だ。この合 巹礼の際に使われたヒョウタンは、青い糸と赤い糸で飾って天 井にぶら下げ、新婚夫婦の部屋を見守るようにしたという。一 緒に生きていく中で、二人の関係がぎくしゃくすると、夫婦は ヒョウタンを見て心を落ち着かせたという。このように韓国の 伝統婚礼では、誓いの言葉を言わず、指輪も交換しない。互い に向かい合って丁寧にお辞儀をし、ヒョウタンの杯に唇をつけ、 目を合わせて、一生を共にすることをただ静かに誓う。 続いて、執礼が成婚礼を挙げると言うと、新郎と新婦が両家

合巹礼(ハプグンレ)。3杯の酒を酌み交わすことで、新郎と新婦が一つになるこ とを意味する。

韓国の文化と芸術 7


婚礼の変遷 婚姻は、韓国人にとって最も重要な儀礼だった。女 性と男性、つまり陰と陽の調和と結合は、儒教が入っ てくる前からシャーマニズム的な宇宙論と世界観の一 部だった。そのため、婚姻は当然しなければならず、 婚姻できないのは最大の不幸だと考えられていた。農 耕社会の朝鮮では、結婚できない男女を探して、地方 官が婚礼を執り行うこともあった。陰陽が調和せずに 無念が天に届くと、天の運行が乱れ、干ばつに見舞わ れると信じていたからだ。結婚相手を見つけられない 農村男性のために、東南アジアから大々的に花嫁を迎 える行事が、現代の韓国において一時盛んに行なわれ たのも、そのような慣行と無縁ではない。結婚する前 に亡くなった若い男女の ために、霊魂結婚式を行 う風習が今も続いてい る。最もかわいそうで怖 い霊は、婚姻できずに死 んでしまった処女鬼神 (女の霊)とモンダル鬼 神(男の霊)だという話 も伝わる。 しかし、今や結婚す る必要はないと答える若 者が50%を超えており、 去年の婚姻件数は40年 ぶりに30万件を下回っ た。男女の役割と関係を 全て陰陽の原理に基づい て説明し正当化してきた韓国社会において、婚姻に対 する考えが、男女の社会的な役割の変化によって変わ ったとしても不思議ではない。家賃が高いなど経済的 な事情によって、婚姻を後回しにしたり、あきらめた りする若者が増えているという見方もある。結婚する 年齢も上がり続けている。男女の初婚年齢は、この15 年間、それぞれ5年ずつ高くなっている。 「オールドミ ス」や「行き遅れの娘」といった話も、最近はあまり耳に しない。 韓国の婚礼は朝鮮時代に入り、儒教理念の普及と社 会の変化によって大きく変わった。その後、近代化の 中でキリスト教式の結婚式が登場し、牧師や神父の代 わりに仲人が司式のサポートを受けながら進行する西

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洋式の結婚式が広まった。婚礼の場所も、新婦の家か ら教会や専門の結婚式場に変わった。婚姻について取 り決める議婚は、依然として家同士で行われることも あるが、当事者の意思と行動がはるかに重要になって おり、専門的な結婚相談所もある。 (実際にはともか く)男性が陽ということで、新郎の家から新婦の家に請 婚書と共に新郎の四柱(生年月日と生まれた時間)を送 る「納采」 、そして新婦の家から日取りを決めて送る「涓 吉」などは、まだ行われることもあるが、省略されるこ とが多い。 新郎側が婚書紙と婚需を函に入れて新婦側に贈る 「納 幣」は、過去には新しい服を仕立てて、それを着て嫁に 来てくださいという意 味で絹織物を入れたとい う。その後、高度経済成 長期には、絹織物以外に 指輪やネックレスなど貴 金属のアクセサリーを入 れるようになり、その際 に婚書紙と新郎の四柱も 一緒に送るようになっ た。わずか十数年前まで 目にしたのが、新郎の友 人が新婦の家に函を売る 光景だった。新郎の友人 の一人が馬になり、顔に 1 はスルメのお面をつけて 函を担ぎ、別の友人は馬 子になって馬を引く。新郎側の一行が新婦の家のそば で、重い函を担いで遠くから来たのだからもう動けな いと言うと、出迎えに来た新婦側の家族は、元気を出 してくれと酒や料理を出したり金封を渡したりして家 に迎え入れる。そうやって、これ以上進めないなどと 言いながら楽しむのだが、新郎の友人がわざと意地悪 して大声で言い合うこともあった。 一方、新郎扱いといって、新郎が新婦の住む村で婚 礼を挙げる場合、村の青年や新婦側の若者が新郎を試 したり、いじめたりした。本来は新婦側で行ったもの だが、近代以降、新郎の友人の遊びとして行われるよ うになった。


1 大礼床には、ナツメやクリ の実などの食べ物、節操 を象徴する松と竹の盆栽、 青と赤のロウソクが置か れている。伝統的な礼法で は、その下に生きた雌の鶏 を赤と青の布で包んで置 くが、今は模型を使う。 2 婚礼を終えた新郎新婦が、 感謝のお辞儀をするため、 両家の両親と招待客に向 かって立っている。これは 現代の結婚式の影響だ。

の両親と招待客にお礼のお辞儀をする。成婚礼の手順も、現代の結婚式から取り入れたものだ。執礼が 式の終わりを告げ、新郎新婦にこれから一生懸命生きて、子供も産んで、今まで育ててくれた両親に感 謝する気持ちを持ち、恩返しをしながら社会にも貢献するようにと伝える。そして、招待客に向かっ て、忙しい中、婚礼の式に出席してくれたことに感謝の言葉を述べる。非常に短いものではあるが、そ のような感謝の言葉は、おそらく現代の結婚式の仲人の言葉から取り入れたのだろう。 コリアハウスの伝統婚礼はこれで終わりだが、幣帛室が設けられている現代の韓国の結婚式場では 挙式後、幣帛が始まる。幣帛(ペペグ:新婦が嫁ぎ先の舅・姑や近親者に挨拶する儀式)は見舅姑礼とい われ、親迎の場合は初夜を過ごしてから、半親迎の場合は婚姻から3日後に、新婦が新郎の両親と親戚 にあいさつすることをいう。だが現代の韓国では、幣帛が結婚式のイベントのようになっている。 あとがきに代えて 韓国の婚姻と家族生活は、男尊女卑で家父長的だと批判を受けてきたが、最近の変化を見ると朝鮮の 初期、つまり儒教的理念が強調される前の姿に戻っているような印象を受ける。新婚夫婦の暮らしでは、 夫の家族と親戚よりも妻の家族と親戚との関係が重視されている。男性の場合、喪礼の規定と慣行につ いて、自分の親と妻の親との区別もなくなっている。相続についても、男女の差別が法律で禁止されて いる。現代の韓国での結婚式は、一生を共にするという厳かで固い誓いではなく、婚姻というプロセス の一つの段階、しかも自由な演出、取り消し、やり直しまで可能な一つのパフォーマンスになっている ようだ。

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韓国の文化と芸術 9


特集 2 韓国の婚姻ー伝統婚礼の変遷

儀軌の記録に見る 朝鮮王室の婚礼

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「儀軌」とは、朝鮮王朝(1392~1910)における王室の主な儀式と儀礼を広範囲に収集・記録した公式文書。その内容と 絵画の描写は精巧にして優れ、高い価値を有している。階級を問わず、様々な面で当時の婚礼の風習に影響を与えた王室 の婚礼について、詳しく記された資料だ。 イ・ソンミ 韓国学中央研究院名誉教授

2011年2月7日に締結された韓・仏間の合意文書及び韓国国立中央図書館とフランス国立図書館の間で締結された約定によって返還された儀軌

韓国の文化と芸術 11


鮮王朝における王室の婚礼については、20ほどの「儀

枚の班次図(王室の行事を絵画や文字で記録したもの)からなっ

軌」 (記録文書) が伝わっている。 「儀軌」 には、精巧な

ている。嘉礼都監は、王室の婚礼の全過程を統括するために設

儀式の手順が驚くほど詳しく記されている。17世紀

置された臨時の官庁で、その都提調(監督官)には、左議政(朝鮮

初から20世紀初まで、正確には1627年から1906年の間に行われ

の高官) の申欽 (シン・フム、1566~1658) が任命された。この婚

た朝鮮王室の嘉礼の儀式が、文章と絵画によって記録されてい

礼では、昭顕世子の弟が生まれた場所が、新婦の別宮として使

る。

われた。六礼のうち四つの儀式はそこで行われ、新迎と同牢宴

性理学を基本綱領として建てられた朝鮮王朝は、国の重要な

は、明の使臣の迎賓館として使われた太平館で行われた。

儀礼を1474年に編纂された『国朝五礼儀』の規定に従って実施し

「儀軌」の記録によると、世子嬪選びにおける1段階は、旧暦

た。 「五礼」とは、先祖を祀る「吉礼」 、王室の婚礼とその他の祝

6月25日に行われた。その後の日程は、次の通りだ。全て旧暦

賀儀礼を行う「嘉礼」 、外国の使臣を迎える「賓礼」 、軍隊の儀式

で、求婚 (納采) は10月28日、求婚の承諾 (納徴) は11月20日、婚

である「軍礼」 、葬儀を行う「凶礼」を意味する。王室の婚礼につ

姻の日の発表(告期)は11月21日、世子嬪の冊封(冊嬪)は12月4

いては、宮廷で婚姻の話が出ると、最初に3段階の過程を経て王

日、新郎の別宮訪問(新迎)は12月27日。しかし、王世子は新婦

世子嬪(ワンセジャビン:皇太子の正妻)を選ぶ。 名望の高いソンビ(学識と人格を備えた人物)や 官吏の家柄から条件を満たす女性の名前を提出 し、その際に父親、祖父、曾祖父の名前と職位も 一緒に渡す。外家については、祖父までの名前と 職位を書く。 3段階の新婦選び

王世子 (ワンセジャ:王の第一後継者) は、景福宮の勤政殿で 王に謁見する。王は王世子に「新婦のところに行って、宗 廟(朝鮮時代の王と妃の位牌が祀られ、祭祀を行う場所)の 課業を受け継ぐようにし、厳しく束ねるようにせよ」と命 じる。

厳しい新婦選びは、三つの段階を経て決めら れる。その女性は選ばれた瞬間から王族と見な され、自分の家に帰ることはない。別宮で過ごし、婚姻の日ま

のいる別宮を訪れず、太平館に向かって、そこで婚礼の式を挙

で宮廷での作法や生活規範について教育を受ける。婚礼まで数

げるために新婦を待っていた。新婦は一人で輿に乗り、護衛の

回にわたって儀式が行われるため、個人の家は実用的な面でも

行列と共に新郎のもとに到着した。

適切ではない。

王世子 (ワンセジャ:王の第一後継者) の婚礼の場合、新婦に会

「六礼」とは婚姻の六つの儀式のことで、王室の求婚が行わ

う新迎の前に必要な手順がある。王世子は、景福宮の勤政殿で

れる「納采」 、求婚が受け入れられる「納徴」 、婚姻の日を発表す

王に謁見する。王は王世子に「新婦のところに行って、宗廟(朝

る 「告期」 、王妃・世子嬪を冊封する 「冊嬪」 、王世子が別宮を訪れ

鮮時代の王と妃の位牌が祀られ、祭祀を行う場所)の課業を受け

て新婦を宮廷に連れてくる 「親迎」 、公式の婚礼式である 「同牢宴」

継ぐようにし、厳しく束ねるようにせよ」と命じる。王世子は、

からなっている。最後の儀式だけが宮廷で行われ、その他の五

これに 「臣、殿下の命に忠実に従います」 と答え、4回拝礼する。

つの儀式は一般的に別宮で行われる。 それでは、 「儀軌」の記録から王室の二つの嘉礼を見てみよう。

精巧な六礼の手順

一つは、1627年の昭顕(ソヒョン)世子と姜(カン)嬪の婚礼。も

六礼の手順として、王室は2回にわたって婚礼に使われる雁

う一つは1759年、すでに朝鮮の王だった英祖(ヨンジョ)と貞純

を別宮に贈る。1回目は求婚の際に、2回目は新郎が別宮を訪

(チョンスン) 王后 (皇后) の婚礼だ。 『昭顕世子嘉礼都監儀軌』は1冊の本にまとめられており、8

『昭顕世子嘉礼都監儀軌』の班次図より、世子嬪(セジャビン:次期王妃)の輿行列。 輿の前には、青いちょうちんを持った二人と青い傘を持った人物。輿の両側には、 5人の別監(護衛役)と小宦(宦官) 。そして、ノウル(被り物)を被って馬に乗る尚 宮 (高位の女官) 、宮廷の侍女が護衛をしている。 (蔵書閣所蔵)

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れる際に贈られる。2回とも「生雁」と呼ばれる生きた雁を贈る と明示されている。現在、一般的に使われている木製の雁のつ


韓国の文化と芸術 13


別宮の屏風やその他の絵画の提供。第3房は、

がいではない。韓国では昔から、雁は死ぬまで一 生同じ相手と連れ添うと考えていた。そのため、

世子嬪に送られる王の勅命の書かれた竹簡の製

雁は結婚生活において節操を象徴するようになっ

作、それに必要な物品の供給を受け持った。

た。生きている雁なので、首にひもをつけ、この

『昭顕世子嘉礼都監儀軌』の班次図は、現在ま

行事のために特別に作られたふろしきで包んだ。

で残っている王室の婚礼の絵画の中で、最も少

2回目は、馬に乗った雁運びが王世子の輿の前に

ない8枚で構成されている。新郎が新婦のいる 別宮に行かず、太平館に向かったため、班次図

行き、王世子に雁を渡す。王世子は、雁を新婦に 送る儀式「奠雁礼」のため、膳の上に雁を置く。そ の後、王世子と世子嬪は同牢宴の場に移り、1杯の酒 を分け合って飲んだ後、婚礼式の場に移動する。 婚礼の準備は、旧暦の1627年6月から1628年1月まで全て

1

には新婦の輿行列だけが描かれている。宮廷の侍 女に護衛された世子嬪の輿は、腰輿または彩輿と呼ば

れる四つの小さな輿の後に続く。そうした輿には、冊嬪を知ら せる王室の手紙、頌徳文(徳を褒めたたえた文)の書かれた竹簡、

記録として残っている。具体的には、物品や材料の購入、参加

王世子の印章、公式の衣装など、儀式に関する物品が数多く載

者の衣服の規定、新婦の家への贈り物の目録まで、詳細に記録

せられている。

されている。嘉礼都監は、三つの房という組織に分かれて業務

一方、1759年に執り行われた英祖の2回目の婚礼式の班次図

を行った。第1房は、世子嬪の教命(王室の手紙)や衣装の製作。

には、初めて王と王后の輿が共に描かれている。英祖の最初の

第2房は、儀仗隊の行列のための旗、行事に使われる武器、行

王后である貞聖(チョンソン)王后(1692 ~ 1757)が世継ぎを残

事が行われる場所の内部と外部の装飾、儀式の道具を入れる函、

せずに死んでしまうと、宮廷は公職に就いていない若いソンビ、

2

2011年2月7日に締結された韓・仏間の合意文書及び韓国国立中央図書館とフランス国立図書館の間で締結された約定によって返還された儀軌

14 KOREANA 春号 2017


3

1 蛟龍旗は、御駕 (王の輿) 行列において最も重要な儀仗旗。 (絹、404×345cm、国立古宮博物館所蔵) 2『英祖貞純王后嘉礼都監儀軌』の班次図より、王の行列。四面が全て開かれているが、王の姿は描かれていない。王室の婚礼を統括する官庁では、行事に先だって参加 者の位置や役割を記した班次図を完璧に描いて、国王に捧げた。 (国立中央博物館所蔵) 3『英祖貞純王后嘉礼都監儀軌』より、御駕随行行列。官位ごとに繰り返し登場する随行員を描く場合、木版を押してから色を塗る木版彩色も行われたと推測される。各 種武器を持った歩兵 (上) 、矢筒をかけた騎馬兵 (左下) 、ノウル (被り物) を被って馬に乗る侍女や医女も見える。 (国立中央博物館所蔵)

キム・ハングの娘を王妃に選んだ。英祖は当時66歳で、新婦は15

の姿は、国王に対する畏敬の念のため、公式の御真 (王の肖像画)

歳だった。

を除いて決して表現されなかった。 王后を描写した部分は、護衛隊と婚礼式の物品の絵から始ま

60代の英祖の2回目の婚姻 英祖の婚礼式は、1744年に『続五礼儀』 、1749年に『国婚定例』

る。そして、冊妃を知らせる王室の手紙、玉冊、金の印章、公 式の衣装など、新しい王妃に贈る品物を乗せた四つの輿が、馬

が出された後、初めて行われた王室の婚礼だ。 『国婚定例』を見

に乗った尚宮(高位の女官)や年輪を重ねた女官の護衛を受けな

ると、倹約を強調する英祖の政策にふさわしく、結婚の衣装と

がら、その後に続く。また、宮廷の侍女が歩いたり馬に乗った

贈り物の規模が縮小されている。その他の重要な変化は、王が

りして、その後に続いているが、皆ノウル(女性の外出用の被り

別宮に行って新婦を宮廷まで連れてきたという点だ。そのため

物)で顔を隠している。その後ろの王妃の輿は、王の輿とは違っ

班次図には、儀仗隊の護衛を受ける王と王妃の輿が共に描かれ

て扉が閉まっており、緑色の六角形の模様で装飾された赤い布

ている。それ以降の嘉礼都監は、この様式を取り入れた。

で覆われている。

領議政 (朝鮮最高の高官) の申晩 (シン・マン、1703~1765) が、 嘉礼都監を管轄するよう任命された。新婦を選ぶ三つの段階は、 旧暦6月2日から9日まで行われ、六礼は同月13日から22日ま で行われた。 初めて2冊にまとめられた嘉礼儀軌には、婚礼式のために新 しく作られた屏風について言及がない。王が、宮廷にある屏風

壮麗な婚礼行列 この壮麗な婚礼行列は、現在の社稷洞(景福宮の北西側)に位 置した別宮から始まり、大通りを通って昌慶宮へ向かう。その 距離は3.6キロを少し超える。そうした行列で、道端の民は王を 十分見ることができた。

を修繕して使うように命令したものと考えられる。さらに、宮

朝鮮王朝の二つの王室の婚礼式は、約150年の間、いくつか

廷にある玉の小さな彫像を使い、婚礼の衣装に使われる金の装

の形式上の変化を見せているが、その他の慣例はほとんど受け

飾は全てメッキに変えるよう命じた。ただ、新婦と新郎が使う

継がれている。六礼の順序は、英祖が別宮に行って新婦に会っ

儀礼用の杯だけは、純金で作られた。

たこと以外、ほとんど変わらない。つまり、王が大規模な行列

しかし、英祖の婚礼式の班次図は、今まで知られている中で

と共に、婚礼式の開かれる宮廷に新婦を連れてくるようになっ

最も華やかだといえる。50枚に達する班次図は、第1章から第

たわけだ。従来は、王世子が新婦のところに行かず、婚礼式の

28章までは王の行列、第29章から第50章までは王后の行列が収

場に新婦が到着するまで待っていた。おそらく英祖の個人的な

められている。18人の男性によって運ばれた王の輿は、四面が

考えや威厳が、儀式の手順を変化させたのだろう。

全て開かれているが、王の姿は見えない。朝鮮王朝において王 韓国の文化と芸術 15


特集 3 韓国の婚姻ー伝統婚礼の変遷

結婚 婚需から新婚旅行まで どこまで慣例に従って、どこから個性を発揮すれば良いのか。最近の結婚を控えた新郎新婦は、 まずその適切な線を決めなければならない。それは結婚費用にも関わる深刻な問題だ。 16 KOREANA 春号 2017

イ・ユンジョン 李允丁、ノブレス編集長 安洪范、金大賢 写真


最近は平凡なウエディングホールで の結婚式よりも、親しい人だけを招 待して野外で個性的に行う小規模の 結婚式が好まれる。

韓国の文化と芸術 17


が結婚した1990年代後半には、結婚する前に親元を離

婚式場やウエディングドレスなど、情報を集めて選択すべきこ

れて独立することはほとんどなかった。学校や会社が

とが、二人の前に山積みになる。

自宅から遠いなど、やむを得ない理由がない限り、親

結婚式の準備と同じくらい気になるのが、両家の間で取り交

も子も結婚してこそ独立できると考えていた。そのため、親の

わされる婚需だ。婚需とは、簡単に言えば結婚に必要な品物で、

束縛から逃れたくて結婚を望む人も珍しくなかった。

礼物(新郎新婦が交換する指輪や時計など)と礼緞(新郎側への贈

しかし、今や状況は変わった。まず、私の周りを見ても、親

り物)なども含まれる。新婦側から新郎側に贈る礼緞には、新郎

元を離れて一人暮らしをしている独身の社会人が多い。経済的

の両親のための布団、銀の食器、洋服、ハンドバッグ、礼緞費

な自立が独立の前提条件であるため、一人暮らしを始める年齢

(新婦側が用意する現金)などがある。品数や値段は、家の状況

も人それぞれだ。このような変化が、今の若い世代に「結婚は必

に応じて決められる。新郎の両親は、礼物と「大切な娘さんを嫁

須でなく選択だ」と思わせる要因になっている。結婚適齢期とい

にいただく」感謝の気持ちを込めた婚書紙(手紙)を函という木箱

う概念も、ほとんどなくなった。

に入れて、新婦の家に贈る。結婚式の数日前、新郎の友人が函

結婚したくてもできない、あるいは結婚を避けるケースも少 なくない。最も大きな原因は、結婚費用だ。親から援助しても

を担いで新婦の家に向かう。新婦の家では様々なご馳走を用意 して、彼らを迎える。

らうか、一生懸命貯めた預金の多い人でない限り、ほとんどの

函には、指輪や時計などの礼物、ハンドバッグ、洋服、化粧

若者にとって非常に高額になるからだ。2015年の統計庁の資料

品、靴、財布などが入れられる。これらの品目も、それぞれの

によると、結婚費用は新居の費用を含めて平均2億5000万ウォ

家の習慣や状況によって決められる。上流階級の結婚の場合、

ン程度だという。

函に毛皮や革の服、高価なアクセサリーなどを入れて、家の経 済力を誇示することもある。このように、両家の間で金品が取

婚需という難題 一組の男女が、恋愛の末に結婚を決意する。ロマンチックな

り交わされるため、期待と現実のギャップによって対立が生ま れ、周りの親戚が焚きつけて、感情的な喧嘩になることもある。

のは、ここまでだ。両家の両親が顔を合わせ、結婚式の日取り

礼儀と尊敬に基づいた格式ある風習が不和の種になり、時には

が決まると、今度は式の準備という現実が押し寄せてくる。結

婚約破棄という最悪の状況にも発展する。そのため最近は、そ

1

18 KOREANA 春号 2017


2

1, 2 時代は変わっても、完璧な化粧と素敵なウエディングドレスで、人生で一番意味 深く最高の瞬間を華やかに彩りたいという新婦の心に変わりはない。

韓国の文化と芸術 19


©金甫夏

1

20 KOREANA 春号 2017


うした問題を防ぐために礼緞と礼物を省略することもある。 結婚を控えたカップルにとって、最大の悩みは新居だ。以前 は、新郎側が新居を準備し、新生活に必要なものは新婦が準備 すると考えられていた。今でもそのような認識は残っているが、 新居にかかる費用があまりにも高くなったため、最近では男性 と女性が出し合うケースも増えている。

進化するウエディングプランナー ウエディングプランナーは、およそ20年前に韓国に 登場し、今や結婚に欠かせない存在になっている。ウエ ディングホールからウエディングドレス、メイク、撮 影、礼物、新婚旅行先の決定まで、新郎新婦が手間をか けていちいち準備していたが、今ではウエディングプラ

宝石にもトレンド

ンナーに依頼するケースが増えている。

私が結婚した当時、礼物と礼緞を決めるのは、両家の両親だ

ソウルの江南にあるウエディングコンサルティング

った。両親が選んだブランドの時計と指輪をただ受け取るしかな

会社、マリー・オン・ウエディングのイ・ミジャ取締役

く、両親は普通、嫁にも婿にも同じブランドを選んだ。しかし、

は 「だいたい先に結婚した知人や兄弟・姉妹の勧めるコン

最近の新郎新婦は、両親が選んだものを黙って受け取ろうとしな

サルティング会社を訪ねることが多いです。インターネ

い。もちろん個人差はあるが、黙って言うことを聞くことはあま

ットで検索してコンサルティング会社が提携しているウ

りない。 「自分のものは自分で選ぶ」 という考えを隠さず、自分の

エディングドレスや礼物などのブランドやメーカーを見

好みを積極的に表現する。そうした流れを踏まえて、両親が新郎

て、その会社のレベルを把握したりします。ほとんどの

新婦に一定の金額を渡し、二人に選ばせることもある。

ウエディングコンサルティング会社は、お客様の悩みや

以前は一般的に、新婦が3・5・7点セットと呼ばれる礼物セ ットを受け取っていた。つまり、ダイヤモンドの指輪、イヤリ ング、ネックレスを基本に、金、サファイア、ルビーなどを加 えてセットの数を増やしていくのだ。しかし、サファイアやル ビーなど色のある宝石は老けて見えるからと、最近の新婦は日 常生活で使いやすいダイヤモンドや真珠を好む。同じ費用なら、 他の宝石は省略して、指輪のダイヤモンドを大きくする傾向も ある。しかし、石が目立つ誇示用のセッティングという流行は、 昔の話だ。高すぎる礼物を交換して、家のタンスや銀行の貸金

意見をできるだけ反映し、予算に合わせてサポートしま す。それが、私たちの役割ですから」 と話してくれた。 イ取締役は、この業界に入って約10年になるが、最 近この分野でも二極化を実感していると言う。 「中間層 がぐっと減りました。非常に豪華な結婚式か、できるだ け省略する地味婚です。例えば指輪の場合、高価な宝石 のついた指輪を何個も注文する少数のカップル以外は、 プラチナや18金のペアリングといった感じで簡素です。 その影響で、ペアリング専門のブランドが立ち上げられ たくらいですから」 。

庫に保管しておくよりも、普段から気軽に使えるものを選ぶ実

短い期間ではあるが、カップルやその家族の考えや

用主義が主流になっている。例えば、カルティエのペアリング

好みについて話し合いながら、じっくりと事細かに把握

の交換だけで済ませることもある。真珠は以前、涙に似ている

し、結婚に必要なものを選択していく中で、人間的な面 で相談に乗ることも多い。当事者やその周りのちょっと した意見の違いでひびが入りやすいのが、結婚を控えた 男女の関係だからだ。 「新婚旅行に行くカップルからお 礼を言われたり、新婚旅行から帰ってきて小さなプレゼ ントを渡された時に、やりがいを感じます。それとは反 対に、一生懸命結婚式の準備を手伝ったのに、結婚直前 に別れたりすると心が痛みます。今後、ウエディングプ ランナーは単にドレスを選んで礼物のメーカーを紹介す るだけでなく、深い意味で結婚についてアドバイスでき るようになるのではないかと期待しています」 。 ウエディング産業に関する学部が設けられた大学も 増えている。社会の中で一つの職業として定着したウエ ディングプランナーは、さらなる進化が予想される。

2

1, 2 新郎の友人が新婦の家に函を売ったり、その函に高価なアクセサリーを入れて 贈った風習は、少なくとも今の平凡な中流家庭の婚礼においては見られない。

韓国の文化と芸術 21


からと、礼物では避けられていた。だが、最近は日常生活でお

る。式の後も活用できるドレスへのニーズが高まっているのだ。

しゃれに身につけられる宝石が好まれるため、徐々に人気が高

ソウルの清潭洞で27年間ウエディングドレスショップを経営し

まっている。宝石業界の統計によると、結婚の礼物に使う費用

てきたイ・ミョンスンさんは「少し前から、レンタルではなくオ

は平均で500万ウォン程度。ティファニーなど世界有数のブラン

ーダーメイドの販売に切り替えました。ウエディングドレスを

ドは、韓国での売り上げにおいて、結婚・婚約指輪の占める割合

一生に一度しか着ない大げさな礼服ではなく、自分を表現する

が非常に高い。今日も、結婚・婚約指輪の専門店が立ち並ぶソウ

ツールだと考えて、衣服としての価値に重点を置く新婦が増え

ル鍾路5街の宝石通りは、ティファニースタイルの指輪を求め

ているからです」 と話してくれた。

るカップル客で賑わうだろう。 時計選びも、男女で同じブランドやデザインにこだわらない。

ウエディングドレスの変化は、式を挙げる場所の変化と深く 関わっている。千篇一律なウエディングホールではなく、ペン

値段が違ってもいいと考える人も増えている。目を引く変化と

ション、庭園、住宅などで特別な結婚式を挙げたいという人が

いえば、指輪やネックレスに比べて時計を軽視してきた女性が、

増えている。ウエディングホールで式を挙げる場合も、新郎新

時計を非常に重要な礼物と考えるようになった点だ。かつて男

婦が室内の装飾と礼服によって、できるだけ居心地よい空間を

性側に贈る礼物として絶対的な人気を誇ったのは、ロレックス

作り、個性的に演出しようとしている。

だ。今でも人気はあるが、以前に比べて陰りが見えている。そ れだけ時計に関する情報が増え、ブランドも多様になったから だ。韓国での高級腕時計の売り上げが、世界的に上位を占めて いるのは、礼物の需要が非常に大きいからだ。

式はささやかに、旅行は豪華に かつて結婚式は、親の立場から見ると、子供が成長して家庭 を築くことになったと親戚の前で公表する崇高な場だった。一 方では、家柄を誇示する行事でもあった。そのため、上流階級

結婚式とウエディングドレス 韓国の結婚式は、一般的に西洋式だ。それに固有の伝統であ

ほど、そして財力があるほど、華やかで豪華な結婚式を好んだ。 しかし、彼らの子供が親になり、考え方も変わってきた。さら

る幣帛が、結婚式のプログラムの一つとして設けられている。

に、結婚式の主体が親ではなく自分であり、形式よりも中身が、

幣帛は、西洋式の結婚式を終えた新婦が、伝統的な衣装に着替

実利よりも個性が重要だと考える子供の世代が、積極的に変化

えて新郎の両親にあいさつする儀式だ。昔は婚礼が終わった後、

を促している。そのため、多くの人が祝儀袋を受付に渡してあ

新婦の家を出て新郎の家で行われたが、最近は結婚式場で式が

いさつし、式も見ずに慌しく席を立った過去とは違い、心から

終わった後、すぐに行われる。伝統的な衣装に着替えた新婦が、

喜びを分かち合いたい少数の人が見守る中、新たな門出を記念

新郎側の両親にお辞儀をしてお酒を贈る。続いて、新郎の両親

する小規模の結婚式が増えている。

が、多産の象徴であるナツメとクリを新婦に渡す。

また、シンプルに結婚式を挙げ、新婚旅行に多くの費用と時

結婚式場で新婦と同様に注目を浴びるのは、ウエディングド

間を充てる傾向も見られる。 『ザ・ウエディング・マガジン』のイ

レスだ。以前は華やかなトレーンを強調したものが人気を博し

ム・ミスク編集長は「笑い話ですが、数年後にはモルジブが地球

たが、最近は周りを圧倒するようなデザインよりも、自分なら

上からなくなるというキャッチコピーの影響で、この前までモ

ではの個性を表すデザインが選ばれる傾向にある。ウエディン

ルジブが最も注目される新婚旅行先でした。最近はハワイが人

グドレスショップのデザイナーのアドバイスも参考にするが、

気です。ノービザ入国が始まり、需要が格段に伸びました。韓

SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)から資料を探

国の人は、新婚旅行だけは高級で施設の整ったリゾートホテル

してくるなど、自分なりの考えを持って相談する新婦が増えて

でゆっくり過ごしたいと強く思っています。プールヴィラのラ

いる。そのため、特定の時期に流行するスタイルがほとんどな

グジュアリーリゾートを非常に好みます」と言う。また、最近は

いのが、むしろ最近のトレンドだ。ファッションとウエディン

ウエディングプランナーが組んだ旅行コースの代わりに、自分

グドレスの境界がどんどん曖昧になっている点も、注目に値す

たちで日程を組んで自由に過ごすことも多い。

両家の間で金品が取り交わされるため、期待と現実のギャップによって対立が生まれ、周りの親戚 が焚きつけて、感情的な喧嘩になることもある。礼儀と尊敬に基づいた格式ある風習が不和の種に なり、時には婚約破棄という最悪の状況にも発展する。そのため最近は、そうした問題を防ぐため に礼緞(イエダン:新郎側への贈り物)と礼物(新郎新婦が交換する指輪や時計など)を省略すること もある。 22 KOREANA 春号 2017


1

2 1 新郎新婦の入場の前に、両家の母親が並んで入場することが、最近の西洋式の結婚式で慣例となって いる。 2 西洋式の結婚式のプログラムの一つのように行われる幣帛(ペべク) 。西洋式の礼服から伝統的な衣装 に着替えた新郎と新婦が、新郎の両親にあいさつする儀式。新郎の両親は、多産の象徴であるクリと ナツメを新婦のチマ (スカート) にたくさん載せる。

韓国の文化と芸術 23


特集 4 韓国の婚姻ー伝統婚礼の変遷

結婚の未来

ペク・ヨンオク 白栄玉、小説家

結婚の概念が急激に変化している。恋愛において距離は大きな問題にならないが、 一緒にいても独立性を保ちたいという欲求は、ますます強くなっている。

24 KOREANA 春号 2017


夜のFМラジオで、恋愛相談 をしている。午前1時、気持 ちがフワフワするような時間。

たくさんの便りが、ラジオブースに飛び 込んでくる。去年の春から始まったこの 番組のおかげで、以前とは違う世相を反 映した恋愛の悩みがあることに気付いた。 例えば、24時間つながっているSNS時 代を反映した話だ。 恋愛における距離の概念 今や「過去の人」という概念は、時代錯 誤といえる。以前は、卒業と同時に過去 の人とは遠ざかっていった。卒業は入学 を意味し、新たな人間関係が築かれてい ったからだ。しかし、今は距離の問題で、 特定の人と別れることはほとんどない。 それは別れた恋人も同様だ。SNSのア ルゴリズムが、放っておかないからだ。 「昔の恋人をフェイスブックやカカオ トークの『知り合いかも』の欄で見付け た」 。そんな後輩の話をよく耳にする。そ れだけではない。 「フェイスブックが勝手 に、別れた恋人の新しい彼女を表示して きて、何日も滅入ってしまった」と後輩か ら聞いたこともある。彼女は(意図せず) ストーカーみたいに元彼の新しい彼女の SNSを追いかけ、もうすぐ結婚すると ©TOPIC IMAGES

いう(決して知りたくなかった)事実を知 ってしまった。 世相を反映した恋愛話は、他にもある。 それは、遠距離恋愛の活性化だ。彼氏は 東京、彼女はソウルに住むカップルの便りが、ラジオブースによく届く。恋愛中のカップルのどち らか一方が、留学やワーキングホリデーに行くことも意外と多い。東京とソウルなら時差がないの で、かなり良い方だ。それなら、ロンドンとソウルはどうだろうか。ソウルとサンパウロは? 最 近は、恋愛中のカップルだけが遠距離なわけではない。私の周りには夫はソウル、妻は浦項に、あ るいは妻はカリフォルニア、夫はニューヨークに住む夫婦もいる。 ソウルに住む後輩が、アムステルダムに住む男性と遠距離恋愛をしていた。ある日、後輩はその 男性のためにアムステルダムに行って、3カ月間一緒に暮らした。ビザの問題で彼女がソウルに帰 る日、その男性は空港で一緒にいられる方法を探してみると言い「フィアンセ (婚約者)ビザ」の話を した。フィアンセビザは、国籍の違う恋人の国外退去を防ぐための最低限の法的保護だ。すでにヨ ーロッパでは結婚しないカップルが50%に上っている。結婚と同棲の境界が、次第になくなってい るのだ。 韓国はどうだろうか。今の若者は「三放(サンポ)世代」 (恋愛・結婚・出産を放棄した世代)とも呼 ばれている。結婚制度が変わらない限り、結婚を諦めるカップルは増え続けるはずだ。少なくとも 経済的な面で見れば、結婚は生活を豊かにする上でほとんど役立たないからだ。結婚と同時に銀行 韓国の文化と芸術 25


融資の金利を返済することになるなら、結婚を簡単に決められ

きますね。 『私たちが今の傾向のまま進めば、どこに行き付くの

る人なんて恐らくいないだろう。結婚は、単に二人の愛情の問

だろうか』 。その結果について述べていますが、恋愛の様相だけ

題に帰結しない。不動産や金融など様々な政策が、深くかかわ

をみると、多くのカップルが半分だけ結合した状態で生きてい

っているからだ。

くと言うのです。それは距離が遠いからではなく、私たちが一

アムステルダムに予定より長く滞在していた後輩は結局、彼

緒にいたいと思いながら、独立した存在でありたいと願ってい

氏と別れた。ソウルと釜山を行き来しながら恋愛していた他の

るからです。アメリカの映画にも、こんな表現がよく出てきま

後輩も、ついこの前、恋人と別れた。友達とその話をしていた

すよね。 『自分だけの空間がほしい!』 。これは、少し離れてい

ところ、ニューヨークとソウルの14時間の時差を乗り越えて遠

た方が良いということでしょう。ほっといてほしいという、ま

距離恋愛していた友達が、こう言った。

さに現代の理念そのものです」 。

「私が2年間、遠距離恋愛をしながら気付いたのは、たった

バウマンによると、今では「依存性」が不快な言葉になってい

一つだけ。 『ロングディ(遠距離恋愛を意味する俗語で、long

るという。その意味は、結婚する時に誓った言葉、すなわち良

distanceに由来) 』が成功する唯一の方法は、二股をかけるこ

い時も悪い時も、富める時も貧しき時も助け合うという言葉が、

と!」 。

今の時代に全く合わないということだ。現代は、それだけ独立

精神科の専門医だった彼女は、きっぱりと言い切った。二股 だけが、遠距離恋愛で生じる「セックスのない恋愛」という障害

性を強調している。 もはや愛の在りかは、以前と違うところにある。皆が24時間

を克服する唯一の方法だというのだ。従って、現代の「遠距離恋

つながっていたいと願う。しかし、体のある物理的な空間は、

愛」において一番大きな美徳は、相手について詳しく知ろうとし

自分だけの砦だ。インターネットによってつながり、それぞれ

ない適当な無関心だとも話した。

が一人で暮らすという意味だ。私たちは、寂しさをしみじみ感 じるがゆえに、24時間つながっていたいと思う。しかし、どこ

半同棲、新たな結合の形

にでも行ける自由もほしいのだ。問題は「自由」と「安定感」が決

ドイツの小説家エーリッヒ・ケストナーは、 「愛情は地理によ

して両立しない点にある。安定感のある自由など、ありえない

って死んでしまう」と言った。世界のどの国にも「去る者は日々

話だ。自由は必然的にリスクを伴う。安定感は例外なく共同体

に疎し」と同じようなことわざが存在する。それなら、このよう

を求める。

な質問もできるだろう。愛情が保たれる距離は、一体どれくら いだろうか。

そのため、多くの人に好まれる結合の形が、新たに生まれつ つある。半同棲カップルだ。私のネット友達の多くが、そのよ

私は、新年最初の週にも、遠距離恋愛の相談に乗った。二人

うな関係を続けている。同じ家に一緒に住むのではなく、それ

は距離と時差のため、まだ離れてもいないのに恐怖におののい

ぞれの家があって、必要な時だけ会うのだ。済州に住むあるカ

ていた。結婚はしたいが、できるかどうか分からないと、今か

ップルは、夫は挟才に、妻は表善に住んでいる。二人は、平日

ら失敗することを考えているのだ。しかし、私はこう聞き返し

に自分の仕事をして、だいたい週末に会う。もちろん必要な時

たい。恋愛の完成が、必ずしも結婚でなければならないのか。

には、いつでも連絡し、お互いの家を行き来している。二人は、

結婚は、常に愛する人とずっと一緒にいることを意味するのか。

それが結婚12年目になってようやく分かった黄金比だと言う。

現代の結婚は過去とは違い、これからも変わっていくはずだ。

そして、適当な密度感のある自由、適度な安定感が、お互いに

生活環境が、すでに以前と同じではないからだ。アメリカ住在

刺激を与えているとも話してくれた。二人は、自分の愛を抹殺

のジャーナリスト、アン・ヒギョン氏が社会学者のジグムント・

しない正確な距離を見付けたのだ。

バウマン氏に行ったインタビューに、面白い内容がある。 「フランスの小説家ミシェル・ウエルベックについて、話した

近頃は「卒婚」という言葉まで登場している。 「結婚を卒業す る」 という意味で、離婚とは別の概念だ。婚姻関係は維持するが、

ことがありましたか。ウエルベックはとても賢明です。ディス

夫婦二人がお互いの生活に干渉せず、独立した生活を送るとい

トピアについて書きました。ユートピアの反対の概念で、非常

う意味で、日本で生まれた言葉だ。 「卒婚」は、半同棲のカップ

に残酷な未来を指していて『ある島の可能性』という本にも出て

ルよりも、さらに独立した生活を強調する点に特徴がある。

多くの人に好まれる結合の形が、新たに生まれつつある。半同棲カップルだ。私のネット友達の 多くが、そのような関係を続けている。同じ家に一緒に住むのではなく、それぞれの家があって、 必要な時だけ会うのだ。 26 KOREANA 春号 2017


自分だけの空間 多くの場合、結婚についてほとんど何も知らないまま結婚する。それはまるで恋愛について全 く教育を受けないまま、恋に落ちるのと同じだ。現に私たちが知っているのは、恋愛に関する迷信 に近い神話のようなものだ。一目ぼれの恋。頑張らなくても自然と分かる想い。何もかもが当然の ように全身でこの人が「運命の人」だと気付く魔法のような瞬間…。しかし、それは映画、小説、ド ラマが作り上げたものに過ぎない。 私たちが「これから始まる恋」に注ぎ込む関心の半分だけでも「長続きする愛」について知ろうと したなら、今頃はずいぶん違う恋愛をしているはずだ。結婚生活も同じだ。この問題について、ア ラン・ド・ボトンほど長く向き合ってきた作家はいないだろう。彼はブログに「間違った人と結婚す ることについて」という長文のコラムを載せたことがある。そのコラムでは、独身だった頃には普 通の男女だったはずなのに、なぜ結婚と同時に堪え性がなく思いやりもない「いかれた人間」になっ ていくのか、そのメカニズムを詳細に記録している。 「怒っても聞いてくれる人がいないと、怒鳴る相手がいない。結婚するまでは、自分が怒ったら 怒鳴る人だという事実を知りようがありません。一日中仕事をしていても『夕ご飯、 食べた?』と電話してくれる人がいないと、自分がどれだけ仕事に狂っているの かが十分に分からず、誰かが自分をコントロールしようとすると、どんな地獄 が待っているか予測できません。夜、誰かを抱きしめたり、抱いたりするのはい いけど、深い関係になって相手に尽くさなければならない状況になると、冷たく てぎこちない態度を取るかもしれません。一人暮らしをしている人がよく勘違い するのは、自分が他人とうまく暮らせると思ってしまうことです。自分のこと を知らなければ、誰を選べばいいのか分からないのも当然です」 。 従って、この世のすべてのデートは「それで、あなたはどこが狂っていま すか」という質問から始めるべきだと大胆な主張をしたい。結婚とは何か と聞かれたなら、30あまりの文章が書けると思うが、今ここで言いたい のはこの点だ。結婚とは、すべて分かっていたとしても、常にすでに失 敗しているものなのだ。誇張が過ぎると感じるかもしれないが、そん なことはない。いずれにせよ、私にできる結婚への最も現実的なアド バイスは、次の通りだ。 結婚は事実上、どのような苦しみに耐えるのかという選択だ。つ まり結婚相手が、全く想像したこともないような苦しみを与えるかも しれないという意味だ。従って結婚相手は、そのような苦しみに耐えら れるほど価値のある人なのかを選択することになる。生きていく上で傷つけ られることは、誰も避けられない。しかし、誰に傷つけられ耐えるのかは、 少なくとも自分で選択でき、また自分で選択しなければならない。そうす れば、少しでも不幸を減らせるはずだ。結局、私が結婚について最も正直に 言えるのは、大して好きでもない相手と結婚すれば、時には想像よりもはる かに酷いことになるという点だ。 結婚するか、しないか。この質問は依然として、子供を産むか、産まない か。あるいは、男女間に友情はあるか、ないか。そんな陳腐な質問の一つに 過ぎない。しかし、私が15年以上の結婚生活から学んだのは、選択というも のが、AとBから一つを選ぶような簡単なものではないという点だ。あらゆる 種類の選択も同様だ。選択は排他的で残酷な属性を持っている。なぜなら選択 とは、選ばなかったすべてのものを背負い込むことになるからだ。確かなのは、 一人でうまくやっていける人が、二人になってもうまくやっていけるというこ とだ。これだけは間違いない。自分だけの空間が必要なのは、作家だけではな いのだ。 韓国の文化と芸術 27


特集 5 韓国の婚姻ー伝統婚礼の変遷

愛と幸福という古びた 立札のある庭園見直し

©TOPIC IMAGES

新文学と自由恋愛は、20世紀初頭の歴史の荒波の中、韓国の知識人社会の重要な主題となった。 そして近代化と産業化を経ながら、社会の慣習に依存したり立ち向かったりする群像の恋愛と結婚が、 数多くの小説において多様な手法で描かれてきた。 イ・チャンギ 李昌起、詩人、文学評論家

28 KOREANA 春号 2017


しいミレニアムを迎えた2000年。韓国で

ックに注目すべき意味があるとすれば、次の点だろ

は当時、史上初の南北首脳会談と6.15南

う。成長小説や自伝小説のような伝統的な小説形式

北共同宣言のニュースに浮かれて、平壌国

のコンテキストを左右する結婚という通過儀礼が、

際空港の飛行機のタラップの前で南北の首脳が手を

新しいジャンル的探究の対象として完全に切り離さ

取り合って抱き合う場面に感激し、何度も繰り返し

れた点だ。韓国の近代文学をイ・グァンス(李光洙、

て見たものだ。統一という熱い主題と希望はすべて

1892 ~ 1950)からだと見れば、結婚という制度に正

を吸い込み、韓国の文壇は、出版市場において軽め

面から向き合って見直すという文学談論の領域へと

の大衆小説に主役の座を譲り、片隅に追いやられて

拡張するまでに、100年に近い時間がかかったといえ

いた。 「今日の作家賞」を受賞し、同年5月に出版さ

る。そうしたパラダイムの変化がもたらした新たな

れたリ・マンギョ(李萬教)の『結婚は狂気の沙汰』と

関係の中で、韓国の読者は体の一部のように感じて

いう挑発的なタイトルの小説も、そのまま埋もれる

いた制度を服のようにサラリと脱ぎ捨て、痛快で自

かのように思われた。しかし、2002年にこの作品を

由な気分をしばらくの間、感じていたのだろう。

原作とする映画『情愛』が公開され、2006年にはパク ・ヒョヌク (朴賢旭) の 『妻が結婚した』 というさらに不

儒教的な婚礼の伝統

穏で矛盾したタイトルの小説が文学賞を受賞し、ま

韓国人の精神文化は、冠婚葬祭と呼ばれる四礼に

たもや映画化された。これを一つの現象と捉える記

よって、目に見えるものになる。儒教的な統治秩序

事と批評が、多く書かれた。

が定着したのは600年前だが、その時に確立された四 礼は、単純な儀礼ではなく社会生活の基本秩序を超 えて、一種の法のような効力を有していた。その礼

結婚は狂気の沙汰?

法の手本にしたのが『朱子家礼』だ。朝鮮王朝は、こ

一方では不倫を「逸脱と結婚の新しいコード」と捉

の性理学的礼法を基盤に、それまであった風習と現

える反面、他方では「不倫文学はゴミ」だと過激で過

実性を考慮して『国朝五礼儀』という王室の礼法を作

敏な反応を見せた。条件の良い医師と結婚した後も、

り、それを朝鮮最古の法典である『経国大典』に盛り

非常勤講師の元彼との関係を続ける女性主人公の「だ

込んだ。

んだん何の罪悪感も覚えなくなった。人より少し忙

国の礼法は、社会の他の階層においても上位規範

しいかなって感じ」という衝撃的な発言(『結婚は狂気

として受け入れられたが、婚礼だけはしっかりと守

の沙汰』 ) 。そして「星を取ってほしいわけでも、月を

られなかった。両家の合意が必要だったためだ。特

取ってほしいわけでもないでしょう? ただ夫がも

に、新郎が新婦の実家に行って結婚式を挙げた後、

う一人ほしいだけなのに」という突飛な願い(『妻が結

新婦を連れてくる親迎(韓国の伝統的な婚礼を紹介す

婚した』 ) 。読者は、それらに驚愕しながらも、その

る写真によく見られる式次)は、経済的な負担が大き

パラドックスに熱狂した。 『妻が結婚した』の映画ポ

いため、かなりの間、それ以前の風習に従っていた。

スターは「自信ある? 一人だけを愛する自信」とい

おそらく平民にとっては、自由に結婚相手を選び、

うシニカルなキャッチコピーで、現代の予言者とも

子供を産んで成長するまで夫が妻の実家で暮らして

いわれるジャック・アタリが2040年にはなくなると断

労働力を提供する高句麗時代の結婚の方が、楽だっ

言した一夫一妻制の偽善について、一足先に暴露し

たはずだ。父親が決めた結婚を断って、自ら温達(オ

た。ありきたりな日常の虚構性にひねりを加え、多

ンダル)に出会って結婚した6世紀の高句麗の平岡

くの読者と観客にまるで戦場日誌を読ませるような

(ピョンガン)姫の物語や、韓国初の漢文小説として

スピード感を味合わせ、舌を巻いたものだ。 しかし、これらの作品に対して、よりアカデミ

知られるキム・シスプ (金時習、1435~1493) の 『金鰲 新話』 に登場する李生 (リセン) と催 (チェ) 氏の娘のよ

韓国の文化と芸術 29


うに、貴族の家柄でも死も辞さない男女の愛を妨げ

る傾向も、多くの弊害を生んだ。韓国近代文学の始

るすべはなかったようだ。そのため、面倒な儒教的

まりだと述べた小説家イ・グァンスは、当事者の意思

婚礼が朝鮮時代の平民に浸透したのは、農業技術の

が無視された見合い結婚の被害者として議婚の弊害

発達と商業の活性化によって富が蓄積される18世紀

を指摘し、小説によって「恋愛」という言葉を一般化

に入ってからだ。面白いのは、懐が潤った平民が貴

させた。

族との差別を拒み、さらに厳しい『朱子家礼』の儀礼 に従おうとした点だ。

近代文学の中の結婚

結婚を議論する「議婚」の手続きから分かるよう

イ・グァンスは『婚姻論』という論説で、結婚相手

に、朝鮮時代の人々は、結婚を個人の結合ではな

を親が決める当時の社会風潮を次のように批判して

く、互いに異なる家柄や地域の風習が結び付くもの

いる。

と理解していた。同等の勢力を前提に両家が調和を

「『お前の娘をうちの嫁にくれ』 、 『よし。お前の息

なすために、互いに配慮しようとした。そのため、

子をうちの婿にしよう。はっはっはっ』と笑いながら

慎重で敬虔だったのは良かったが、期間が長く手続

酒を酌み交わすことで婚姻が成立し、娘と息子の一

きが細かいばかりか複雑だった。当然、弊害も少な

生が決まる。そもそも婚姻というのは、成人した男

くなかった。まず両家の自尊心と競争心から、虚礼

女が自分の意思で決める行為だ」 。

・虚飾が増えた。18世紀の実学者イ・ドンム(李徳懋、

見ず知らずの女性と不幸な見合い結婚をしたイ・

1741~1793) は 『士小節』 で 「嫁入り道具の準備に多く

グァンスは、愛情に基づいた婚姻、女性の独立意識、

の財貨が必要で、女児が生まれると家が滅びる兆し

男女平等を声高に叫んだ。特に、韓国近代文学の初

だとし、幼い娘が死ぬと金を儲けたと慰めるが、こ

の長編小説『無情』 ( 1917)で、死をもって貞操を守ろ

れは人倫と道徳の堕落だ」と婚礼の堕落を嘆いた。議

うとする主人公パク・ヨンチェの自覚を通じて、伝統

婚の過程で当事者よりも両家の親の意思が重視され

的な倫理意識と規範からの解放を強調した。

30 KOREANA 春号 2017


韓国の若者は今、恐れと不安を抱いて、愛と幸福と いう古びた立札のある庭園をチラチラと見ながら、 さまよっている。その庭園に住むための様々な家族の あり方が、新しく提示されているところを見ると、 結婚がその庭園を活気づける唯一の処方箋では ないようだ。

い金持ち」を選んだが、昔の恋人との不倫で破局した チョヒ。愛する人と結婚したが、自分の未来が「安 宿のように、みすぼらしくて貧しい世界」であると気 付き、姑の尿瓶を洗いながら、愛を呪文のように唱 えて生きていくウヒ。二人の姉をさげすみ哀れみな がら、紆余曲折の末ようやくお金と愛を併せ持つ男 性と出会い、海外に移住するマルヒ。この3人の娘 の「愛と野望」は、今でも韓国のテレビドラマの典型 になっている。 パク・ワンソが、結婚の物語を通じて当時の世相 を通俗的に表現することに成功したとすれば、オ・ジ ョンヒ(呉貞姫、1947 ~)が『古井戸』 ( 1994)で描く 結婚生活は、より根源的で思惟的だ。平凡な中年夫 人の「私」は、いつからか「些細な生活の問題、食と 性」を共にする以外に「きのう見た夢について語らな い」日常を生きている。ある日、心の中に描いてい た「彼」という昔の恋人に出会った「私」は「どこでも いいから、誰もいない場所に行って絡み合いたい」 という熱望と共に「それぞれが元々いた場所まで安全 に送ってくれる船が来ていることに安堵し」ながら別

左: 「幸せなふりする女」 ヤン・ダヒェ (Yang da-hye) 2014、インクとカラー、シルク、69.5 x 53cm 右: 「幸せなふりする男」 ヤン・ダヒェ (Yang da-hye) 2014、インクとカラー、シルク、69.5 x 53 cm

れる。その後、偶然「彼」の死を知るが、彼女にでき るのは、洗濯物をたたみ、昼に塩漬けしておいた白 菜でキムチを漬け、息子の弁当のおかずを作り、夫 とテレビを見ながら冗談を言い合うことだけだった。 きのうと変わらない日常に戻った「私」は、生と死の

自由恋愛を主張する1920年代の新女性の開放的

やるせなさが漂う古い井戸と、いつの間にか消えて

な性意識とそれを支える主体性の不足という矛盾

しまった思い出が宿る古い家を思い浮かべる。そし

を扱った作家としては、キム・ドンイン( 金東仁、

て「時間の流れと共に消えた多くの存在である地上の

1900~1951) がいる。彼は 『弱き者の悲しみ』 (1919) で、

死の影を抱いて、日常の沼で生きていくしかない」自

親を亡くして拠り所を失った 「カン・エリザベート」 と

分の運命を自覚し、号泣する。

いう新女性が、K男爵の家の家庭教師になり、不倫 関係に陥って苦境に立たされる様子を描いた。

新しい結婚の物語を待ちながら 人間関係の無知さと未熟さ、汚さと痛ましさにつ

産業化時代、中間層の結婚の表と裏 韓国文学において、少なくとも恋愛の理論を取

いて、結婚ほど多くの秘密を隠している制度は他に ないだろう。結婚は絶えず家柄と個人、自分と相手、

り上げ、新しい結婚の風習を描くことができたの

理性と感性、男性と女性を対立させる。韓国の若者

は、急激な経済成長と高い教育熱によってある程

は今、恐れと不安を抱いて、愛と幸福という古びた

度、安定した1970年代からだ。パク・ワンソ (朴婉緖、

立札のある庭園をチラチラと見ながら、さまよって

1931~2011)の『ゆらめく午後』 ( 1976)は、何もない

いる。その庭園に住むための様々な家族のあり方が、

ところから蓄財競争で成功した「教養なき中間層」の

新しく提示されているところを見ると、結婚がその

現れた1970年代、ある成功した小企業の社長である

庭園を活気づける唯一の処方箋ではないようだ。し

主人公の3人の娘が、それぞれの価値観で選んだ結

かし、少なくとも孤立が答えにならないのなら、私

婚を通じて、韓国社会の現実を見据え、それがどの

たちは互いについて、ひいては人間について理解を

ように歪んでいくのかを赤裸々に描いた。

深めなければならない。そうしてこそ、相手への憎

親のような貧乏から抜け出そう、苦労ばかりの人 生を送りたくないと、愛する人ではなく、50代の「汚

しみをあおる恐れに打ち勝ち、絶えず競争を促す莫 大な資本主義にも立ち向かうことができるのだ。 韓国の文化と芸術 31


特集 6 韓国の婚姻ー伝統婚礼の変遷

結婚生活を成功させるためには、誰でも相手に合わせる必要がある。国際結婚した夫婦は、一般的にこのような点にお いて、さらに苦労するかもしれない。しかし、私の経験からすると、案外うまくいくこともある。韓国の女性と結婚し、 韓国に住んで約20年。私は韓国社会の国際結婚に対する認識の大きな変化を目の当たりにしてきた。

国際結婚 私の物語 チャールズ・ラ・シュア、ナ・スホ ソウル大学校国語国文学科教授 金大賢 写真

32 KOREANA 春号 2017


最近ソウルで結婚式を 挙げた国際夫婦の幸せ な姿。一般的に国際結 婚の方が、適応が大変 だと考えるが、夫婦に なった男女の適応は、 実際には国籍よりも個 人の差の方が大きな努 力を要する。

1

996年の3月、韓国に来て6カ月目。私は、梨

ったのは、文化的なものでなく、個人的なものだっ

花女子大学校の正門の近くにあるレストラン

た。つまり、どの夫婦であれ、結婚生活を成功させ

に座って、互いに英語と韓国語を教え合うラ

るためには、相手に合わせる必要がある。私たちに

ンゲージ・エクスチェンジ (言語交換) の相手を待って

も、そうした適応が必要だったのだ。まず、他人と

いた。時計を見ると、約束の時間を10分過ぎている。

人生を共有する方法を学ばなければならないが、国

ちょうどその時、一度も会ったことのない女子学生

際結婚だからこそうまくいった点もある。私も妻も

が慌ててドアを開けて入ってきた。そして、私の前

結婚生活が大変だろうと初めから考えていたため、

に座り、英語で「遅くなってごめんなさい」ともじも

有利な点もあったのだろう。つまり、私たちは全く

じしながら話した。彼女は、学校のことで忙しいエ

異なる二つの文化や背景を持っているので、大変な

クスチェンジの相手から、代わりにしてほしいと頼

のは当たり前だと予想していたのだ。

まれたと言う。私は少し不愉快だったが、とにかく 一度やってみることにした。何回か会って勉強し、 口実を見つけてやめればいいと考えたのだ。

文化的な適応よりも個人的な適応 そもそも結婚とは、誰であれある程度、他の文化

しかし、その新しい相手は、とても熱心に韓国語

から来た人とするものだ。同じ国、同じ文化圏同士

を教えてくれた。私は延世大学校の韓国語語学堂に

の夫婦であっても、互いに異なる背景を持ち、違う

登録するまで彼女と一緒に勉強を続け、語学堂で勉

家庭で育ち、別々の人生を経験してきた。しかし最

強を始めてからも勉強のサポートを受け続けた。私

も重要なのは、文化の差とは関係なく、男性と女性

たちは一緒に言葉を勉強する関係から恋愛関係に発

は非常に違うという点だろう。韓国の女性は、韓国

展し、初めて出会った1996年の3月からちょうど1

の男性よりも、アメリカの女性との共通点が多いと

年後に結婚した。

思う。私は国内結婚する人が、その後で直面する困 難について十分に認識してから結婚を決めたのかと

ランゲージ・エクスチェンジのパートナーから人生の

疑問に思うことが多い。私と妻は、適応という深刻

パートナーに

な問題に立ち向かう心の準備をしてから結婚し、そ

それから20年ほど経った今、私たちは相変わらず

のおかげで最初から様々な困難を乗り越えることが

仲良く暮らしている。私たちは、国際結婚して生活

できたと思う。相手にイライラさせられたり、困ら

する上で大変な点についてよく聞かれる。おそらく、

せられたり、傷つけられたりしても、ただの文化的

国際結婚が普通の結婚よりも大変だと考えているの

な違いだと考えて乗り切ることができたのだ。時間

だろう。もちろん文化的な面で、互いに適応しなけ

が経つにつれて、尖った角は丸くなり、互いに円満

ればならない部分もある。韓国ではこうだけど、ア

に暮らす方法が分かってきた。

メリカでは違うといった場合や、反対の場合もある。

これらは全て、国際結婚した当事者としての個人

文化的な適応は、外国で生活する上で常に重要だが、

的な経験で、一般的とはいえないだろう。私は韓国

その国で生まれ育った人と生活するためには、さら

の女性と結婚したアメリカの男性であり、結婚する

に重要で不可欠だ。

ために韓国に来た「結婚移住者」ではない。つまり、

だからと言って、いつも困難や壁ばかりではない。

韓国に住んでいた時に妻に出会っただけなのだ。そ

一緒に生活する中で、思いがけず楽しい経験をする

して、子供がいない点も、他の夫婦とは事情が違う。

こともある。その一例として、韓国で婿は伝統的に

その影響について触れるには紙面が足りないが、と

妻の家でとても歓迎され、妻の母はいつも婿を手厚

にかくそのような点で、私たちは一般的な場合とか

くもてなす。韓国の表現を借りれば、婿は「百年の

なり異なるといえる。

客」なのだ。一方、韓国の嫁と姑の関係は、伝統的に

2015年の「多文化結婚(国際結婚) 」に関する韓国政

難しいものがある。アメリカでは、ほとんどの場合、

府の統計によると、国際結婚の中で最も多いケース

韓国とは反対だ。妻の母と婿は仲良くできないこと

は、韓国人男性と中国人あるいはベトナム人女性と

が多く、嫁と姑の関係は韓国ほど大変でない。その

の結婚だ。おそらく韓国で国際結婚と聞いて、一番

ため私と妻は、両国のメリットだけを享受できた。

最初に思い浮かべる典型的なイメージは、東南アジ

妻は私の母と仲が良く、妻の母は亡くなるまで私に

アの女性と結婚する農村の男性だろう。実際に2016

とって義母以上の存在だった。

年の統計を見ても、この5年間で農業・漁業に従事す

実際に、私たちが互いに適応しなければならなか

る男性の結婚は、22.7%が国際結婚だった(2007年 韓国の文化と芸術 33


韓国で国際結婚の未来を予測するのは、簡単でない。正確な未来は分からないが、国際結婚は、多文 化主義の全般的な発展において一翼を担うことになるだろう。国際結婚への認識が良くなれば、韓 国で生まれなかったり民族的に韓国人ではない人も、韓国社会の一員として受け入れられるはずだ。

の40%から減少) 。韓国では国際結婚と聞くと、そ

成する一員になれるという事実を受け入れようとし

のような状況を思い浮かべる人が多い。これらの現

ているのだ。

象はプラスの面もあり、マイナスの面もある。一方

面白いことに、韓国で国際結婚に対する社会的・文

では、韓国の農村・漁村が直面している嫁不足などの

化的な環境は良くなっているが、国際結婚の件数は

社会問題がある程度、改善されたと考えられる。他

減少している。全体の婚姻件数も減っているが、国

方では、悪いニュースもよく耳にする。例えば、貧

際結婚の減少率がさらに大きい。2011年から国際結

しい国から来た花嫁が、韓国に来て間もないうちに

婚仲介業者への監督と結婚移民ビザの審査が強化さ

逃げてしまうのは、よくある話だ。そのため韓国政

れ、全婚姻件数における国際結婚の割合は、2010年

府は、結婚仲介業者の不法な行為を根絶するため、

の10.8%から2015年には7.4%に減少した。中国人

様々な措置を取っている。

との結婚が大きく減少した半面、アメリカをはじめ 経済協力開発機構(OECD)諸国の人との結婚は増

結婚移住者と多文化主義 韓国政府は、結婚のため韓国に移住してきた人の 大変さを認識している。第一次外国人政策基本計画

加した。このような状況を踏まえると、全般的な減 少傾向が続くというよりも、国際結婚の形が変化し ていくものと考えられる。

(2008~2012)で、政府は結婚移住者のための別途の 条項を設け、彼らが韓国社会に定着し、財政的に独

国際結婚に対する認識の変化

立できるように支援するため、措置が必要だと述べ

韓国で国際結婚の未来を予測するのは、簡単では

ている。また、結婚移住者が直面する差別と人権侵

ない。正確な未来は分からないが、国際結婚は、多

害を認識し、そのような問題を解決するための措置

文化主義の全般的な発展において一翼を担うことに

も取っている。女性家族部は、結婚移住者が韓国生

なるだろう。国際結婚への認識が良くなれば、韓国

活に適応できるように実質的な情報を提供する「ウェ

で生まれなかったり民族的に韓国人ではない人も、

ルカムブック」を8言語で発行している。また、結婚

韓国社会の一員として受け入れられるはずだ。ひい

移住女性に主な韓国文化を紹介するため、キムチを

ては国際結婚によって、韓国と韓国人の意味につい

漬ける「キムジャン文化祭」などの行事や教育プログ

て新たな定義が生まれると予想される。国としての

ラムも実施している。

韓国は、非常に強い民族的アイデンティティーを持

結婚移住者やその他の国際夫婦のための制度的な

っている。そのようなアイデンティティーは、数世

努力よりも重要なのは、おそらく国際結婚に対する

紀にわたって形成されたものだが、20世紀前半の日

韓国の一般的な認識の改善だろう。詐欺結婚など、

本統治時代にさらに強くなったと思われる。韓国は

メディアによるネガティブな報道が多いのは事実だ

国としての地位を失い、国民は日本の臣民になる危

が、外国人との交際や国際結婚に対する一般的な認

機にさらされ、一種の防御機制として強い民族的ア

識は良くなっているようだ。以前は、外国人男性が

イデンティティーが形成されたのだ。その結果、韓

韓国人女性と手をつないで歩いたりするだけで、に

国人は今でも、持っているパスポートではなく、民

らまれることが多く、悪口を言われたり暴力を振る

族性でアイデンティティーを規定するようになった。

われたりすることもあった。しかし、今では国際カ

そのため、アメリカで生まれ育った在米韓国人は「韓

ップルが自然に受け入れられている。これは、韓国

国人」だと考えられる反面、韓国に帰化した西洋人は

社会において一般的に外国人への認識が改善された

いつまで経っても 「外国人」 だと受け止められる。

ためだが、それだけではない。外国人であっても、 ただすれ違うだけの訪問客ではなく、韓国社会を構 34 KOREANA 春号 2017

国際結婚・多文化家庭が増え、そうしたアイデンテ ィティーに対する認識も変わっていくと予想される。


最近の国際結婚に対す る韓国での認識の変化 は、徐々に韓国特有の 単一民族国家という概 念に変化をもたらして いる。

多文化主義は、一般的に多民族主義も意味するから

験で、西洋では多くの人が大切にしていた価値が崩れ

だ。韓国の人口構成が文化的・民族的に徐々に多様化

る危機にひんしており、外部の勢力から防御すべきだ

していくにつれ、血統に対する概念、あるいは韓国

と主張する人もいる。今後、西洋の多文化主義がどの

を「単一民族国家」と見なす概念は見直さなければな

ように展開するのかは分からないが、韓国も多文化主

らず、実際に見直され始めている。これからは、韓

義への道を歩み続ければ、同じような多数のリスクに

国人というアイデンティティーの中核を形成する上

直面しかねない。果たして韓国は、その過程で生じる

で、韓国を生活基盤と考える全ての人が共有できる

問題から逃れることができるだろうか。国際結婚の位

ものが必要になるだろう。

置、つまり社会でどのような役割をしているのか、社

世界のニュースにざっと目を通すと、西洋では多

会の構成員にどのように認識されているのかなどは、

文化主義が攻撃を受けていることが分かる。他の文化

これから起こることに対する良い指標になるだろう。

圏から来た人が、全ての人に有益な共通の価値を持

私の経験から判断すれば、心配ないと思われるが、ま

ち、平和に共存できるという希望を抱いている人も依

だまだ改善の余地はある。

然として存在する。しかし、多文化主義は失敗した実 韓国の文化と芸術 35


文化遺産の継承者

1

海女の守り人 潜水服職人 イ・ソンモさん

ホ・ヨンソン 許栄善、詩人 李翰九 写真

イ・ソンモさんは、酸素ボンベ無しに海に潜る海女たちの潜水服を作る職人だ。 深い海の底で作業する海女たちの安全がその手にかかっているので、 彼は彼女たちに無限の連帯感と友情を感じている。 36 KOREANA 春号 2017


しい潜りを終えてポタポタと水滴のしたたる真っ黒

きてもすぐには水から上がろうとはしません。一度水に入ると

な潜水服姿の海女たちが、黒い岩の上にその荘厳な

5時間ほどは作業をします。特に高齢の海女たちは一人一人み

姿を現すとき、胸が一杯になる人がいる。それが海

んな私の母親も同然なので、細かいところまで気を使うほかあ

女潜水服の職人イ・ソンモ(李聖模)さんだ。海女にとって潜水服 は命綱であり、飯の種であるという。彼はいつの間にか40年を

りません」 。 宿命なのか。彼もやはり海女の息子であり、海女の夫だ。彼 の母、ハン・ヤンチュンさんは西帰浦ポモク里の上群海女(潜り

彼女たちの鎧の裁断士となって生きてきた。 彼は城山日出峰、一番先に陽が昇る村の城山に暮らしている。

の実力が上中下の等級の中で上級の海女)で、妻のキム・インシ

彼が経営するソラ潜水服作業場の壁には、海女たちが潜りの時

ム(金仁心)さんは潜らずには生きていけなかった牛島出身の海

に使う網の一種「テワック」の小型のものがかかっている。そし

女だ。6歳のときに祖母から顔をバケツの水につけられ、もぐ

て作業場の片隅には彼の服を着る海女たちの名前と、彼女たち

りを覚えさせられたという妻は小学校の頃、共同で潜る日には

の身体サイズが書かれたメモ入りの籠が村別に置いてある。別

早退して海に出なければならなかったという子どもの海女だっ

部屋には黒と朱紅のゴムの生地が広がっており、出来上がった

た。97歳で亡くなった妻の母は中国にまで遠征した上群海女で

潜水服も見える。

中国語も達者だった。

作業場にはいつも特有の匂いが漂っている。ゴムの服は一般 の服とは違い、特殊接着剤で接合する。それで冬でも窓を開け て作業をするのだが、彼はその匂いさえも嫌ではない。 ここには潜水服の修理を頼みに、サイズを測りに、頼んだ服

「名品ブランド」 メーカー 「イ社長の服が一番だよ。着ると体にぴったりと合って見栄え もいい。第一は服がきれいだし、そして楽に作ってくれるからい

をとりにと、50代から80代の海女たちがひっきりなしにやって

い。こんなに修繕もしてくれるので助かる。メーカーだからね」 。

来る。彼女たちの弾けるような笑い声と濃厚な会話が一日中聞

ちょうど作業場に入ってきた海女のコ・ヨンイルさんの話だ。海

こえてくる。翌日が共同の潜りの日だということで、この日の

女たちにイ・ソンモ印の潜水服は 「メーカーの服」 で通じる。 数年前に亡くなった有名なデザイナー

作業場は特に忙しい。 「首のところが大きくて水が入ってく るんだ」 。城山里の海女がそう言って入っ てくると、彼はすぐにハサミを手にする。 ちょっと見たところ、ジョキジョキ切っ てボンドでつけただけのように見えるが、 問題点は完全に解消された。ハサミを使

1 海女用潜水服の名職人イ・ソンモさんが作業場で、 たずねて来た海女に新しい潜水服の帽子をかぶせ ている。 2「潜水服は運動服より一千万倍も完璧でなければ ならない」と言う職人魂のこもったイ・ソンモさん のオーダーメイドの潜水服が、作業場にかかって いる。

アンドレ・キムを真似て「アンドレ・イ!」 と呼ぶベテラン海女たち、彼女たちの賞 賛は惜しみなく続く。 「服が温かくて柔ら かいんだ。年をとった者にもいつもよく してくれるから、ありがたいよ」彼の最 高齢のお得意さん88歳のオ・スナさんは

う手さばきはほとんど往年の人気ドラ

言う。彼女はサザエ潜水服の5ミリの厚

マ「マクガイバー」の主人公並みだ。昨年、

さの服を着ないと水に入ることができな

済州海女がユネスコ人類無形文化遺産に

い。 「腰も足も手術した体でサザエを山の

登録され、地方自治体の支援も活発にな

ように獲るんですよ。凄いでしょう」イ・

り仕事の作業量も増えているが、海女た

ソンモ代表が賞賛した。

ちに応対する彼の表情は普段と同じよう 彼女たちに人生を学ぶ

に明るく、これまでと変わらないという

彼の哲学は服をきちんと作るには海女

のが海女たちの話だ。

社会をよく知らなければならないという 海女の夫であり息子

ことだ。それで個人の性格を把握して海 女たちから人生を学ぶ。それでも作って

「完璧にするというのが私の務めです。 服が少しでも大きかったり、隙間ができ

も作っても難しいという。どれだけ体に

たら海水が入ってきます。そんなことに

ぴったりに作るかという課題だけでもそ

なったら大変です。寒い日に服の中に海

うだ。海女のお婆さん達は無条件にすこ

水が入ってきたと想像してみてください。

し余裕があるようにして欲しいという。

潜りの仕事は命をかけた作業です。私が

一着を一年中着ていた時代、ゴムの材質

誤ったら海女たちに罪を犯すことになり

の特性上、冬に着たものをそのまま夏に も着ようとすれば少し小さく感じるとこ

ます。済州の海女たちは仕事に対する愛 着がとても強いので服の中に水が入って

2

ろから生まれた口癖だ。 「お客さんの話に 韓国の文化と芸術 37


合わせると、時には大変なことになります。新調の服を非常に

・ソンモさんの胸がうずいた。最初は知り合いと一緒に潜水服を

寒いときに着て行くと絶対に体に合わなくなります。一番の悩

作りはじめ、紆余曲折の末に独立して本格的に自分の道を歩み

みがお客の要求と私の経験をどのように付き合せていくかとい

始めた。場所を探がすとポモク里と妻の故郷である牛島の中間

うことです」 。

地点に海女社会の中心、城山浦があった。

彼は未だに海女たちの一人一人に情熱をもってさらによくし

生地は日本から輸入して、作る技術者まで招いてデザインと

てあげようと考えている。 「普通の服とは違い、海女の服はあち

裁断を勉強した。しかしそれだけでは十分ではなかった。 「自分

こち傷ついてしまいます。そこが下手をすると鎌にかかって穴

の手で海女たちのサイズを何度も測り、体格と潜りの特性を研

があくことがときどきあります。潜水服はネオプレンという非

究してすべて修正しました。ここの海女たちに合うようにしな

常に柔らかく、保温性の強い輸入の生地を使っています。今は

ければなりませんから」 。当時3万5千ウォンだった服の値段が今

海女たちは自治体から服を支援してもらえるので大丈夫ですが、

では32万もする。

以前は服代がもったいないと穴を修繕して着ていました。修繕

海女の潜水服には冬用、秋のサザエ漁用、一番薄い夏用があ

してくれと持ってくれば何も言わずにしてあげました。そこに

り、それで大部分の海女が3着ずつ持っている。季節によって水

この仕事の特徴があります。お金に釣られてはやってはいけな

の温度も変わっていくのでイ・ソンモさんが扱う生地の厚さは2

いんです。変わってはいけないんです。気難しい彼女たちを説

ミリから10ミリまでさまざまだ。

き伏せながら帽子でも一つ加えてあげます。それで村ごとに私 を息子のように思ってくれる海女が多いのです。いつもいろい

みんな彼の家族

ろな物を持ってきてくれます」 。プレゼントで服を作ってあげれ

2007年のある日。作業場が火事で全焼して、納品直前だった

ば海女のおばあさんたちは鯛を置いていく。常に借りは返そう

多くの服が一夜にして灰となってしまった。 「その服で冬を過ご

という意志の強い彼女たちを見ていると彼は恥ずかしくなるこ

さなければならない海女たちの顔が思い浮かび、心配でたまり

とが多いという。

ませんでしたが、事情を知った海女たちは遅くなっても大丈夫

ゴムの潜水服の登場 ゴム服が島に入ってくる以前の70 年代の中頃まで、海女たちは真冬で も素肌の上に薄い木綿の「ソクコッ」 (水服、ソジュンギとも言う)を着て 海に入っていた。それで海から上が ると瞬間、全身が真っ赤に膨れ上が

彼にとって海女たちはみんな家族だ。どの「アジマン(おばさん) 」が 年とともに体型がどのように変化し、背中はどれほど曲がり、体は どれほど痩せたか。海女たち一人一人の体の変化を知っている。だ から寒い日でも、帽子に問題が起きたと電話をかけてくれば、海女 のために遠くまで配達に行くのだ。

ったり、真っ黒になったりした。 ゴム服は海女たちにとってビック リするような大事件だった。そしてイ・ソンモさんには人生の転

だと、待っていると言ってくれました。私は彼女たちに大きな

換点となった。蔚山に住んでいた済州出身のある在日同胞の知

借りを作ったのです」 。

人が、日本からゴム服を持ってきて牛島出身の妻にその服を売 ってくれと頼んだことから始まった。 「最初は一人二人しかそのゴム服を着て海に入らず、みんな、

彼にとって海女たちはみんな家族だ。どの「アジマン(おばさ ん) 」が年とともに体型がどのように変化し、背中はどれほど曲 がり、体はどれほど痩せたか。海女たち一人一人の体の変化を

いろいろ言っていました。後に自分も着るようになるとは想像

知っている。だから寒い日でも、帽子に問題が起きたと電話を

もしなかったので相当反対しました。一、二年はそんなふうで

かけてくれば、海女のために遠くまで配達に行くのだ。 「海で苦

した。お金のある一部の人だけが着ていました。それがゴム服

労することを考えれば行かないわけには行きません」 。

を着て水に入ると寒さを感じずに何時間でも潜りの作業ができ

彼が一番忙しいのは寒くなる前の9月。修繕する時期だ。 「体

るということを直接見て知ってからは、我も我もと大金をはた

が太ったといえば行かなくてはなりません。義務感です。その

いてでも買い始めたんです」 。

ままにしておくと一日を無駄にすることになるんです。そのま

「ゴム服を着られない人は寝込んでしまうほどだったよ」 。海 女のコ・ヨンイルさんは副業でしていた編み物の機械を売って、 それに3万ウォンを足してゴム服を買い、彼女の姉は借金をし て買ったという。 故郷の西帰浦ポモク里でみかん農家をしていた20代後半のイ 38 KOREANA 春号 2017

ま海に入って風邪にでもかかればどれほど苦労することか。海 女たちは具合が悪くても水に入るんです」 。 彼の服を着た海女は西帰浦市だけではない。全羅道の海岸と いくつかの島。日本に行って潜る海女まで、その数は1500人を 遥かに越える。たった一人の海女しかない島でも身体サイズを


測るために出かけていく。洋装とはちがい潜水服は20カ所以上

胸が熱くなる。 「死ぬまで子供に頼らないこと。通帳をもってい

を正確に直接測らなければならない。 「莞島、平日島、所安島、

ること。これは海女たちの鉄則です。死ぬまで与える側にいる

全羅道の島という島はみんな行きます。全羅道のある島に3泊

んです」 。

4日かかって行ったこともありました。今年は行政支援で島を

しかし私の目には彼の働きぶりも海女に負けず劣らずに見え る。彼は作業量の多い時期には一日に最高6着から10着を作る

一度回って50、60着を作ってきました」 。 サイズを測りに行って忘れられない思い出がある。2、3年

という。作業時間は朝の5時から夜11時まで。今年は非常に作

前、済州島の南の海岸、江汀村で出会った80代の海女だ。 「杖を

業量が増えており、横になっても心配で眠れないという。昼間

ついて歩いているおばあさんでした。若い海女たちから怒られま

は手伝いの人と、夜は潜りを辞めた妻と一緒に作る。

いと一番後に付いて歩いていくんです。風の強い日でした。こん

問題は伝承だ。済州の海女は毎年100人ずつ減っており、そ

な寒い日は家にいたらよいのにと言ったら、人が恋しいので、家

れと共に海女の服を作る仕事も受け継ぐ人がいないので心配

にいると寂しくて仕方がないので潜りに行くというのです」 。

だ。 「海女たちのおかげで食べて暮らしてきたので、ただただ私

彼女の悲報を耳にしたのは、それからわずか1、2時間後の ことだった。海中で岩の隙間に足が挟まったということだった。

の力のある限りやるしかないと思っています」 。 酒はもともと飲まず、5年前に煙草も辞めた彼が30余年来の 趣味がある。自ら「狂っている」と言うほど打ち込んでいるのが

海女と海女服の前途 彼の目には海女ほどの働き者はいない。 潜りをして稼いだお金は生活費にあてて、 みかんを栽培した分は貯蓄する。70代以上 の高齢の海女たちが命をかけた潜りで稼い だお金を子供たちに使う話を聞いていると

盆栽だ。一日中、化学薬品の匂いの染み付 70年代の中頃まで済州島の海女たちは真冬でも 素肌の上に薄い木綿の「ソクコッ」という水着を 着て海に入っていた。イ・ソンモさんは「海女に とって潜水服は命綱であり、飯の綱だ」という信 念でこの40年間、彼女たちの鎧の裁断士として 生きてきた。

いた肺を浄化するために、一年のうちで比 較的暇な5月から7月までは登山をするこ とで得られた趣味、今では専門家水準だ。 彼は引退後は盆栽の庭園を作るのが夢だと いう。

韓国の文化と芸術 39


オン・ザ・ロード

風と石 時の息吹までが 慕わしい 南済州紀行 クァク・ジェグ 郭在九、詩人 李翰九 写真

火山島である済州島(チェジュド)は、島の中央に漢拏山(ハル ラ山)が高くそびえ東西に楕円の形をなしている。その南半分 が南済州、つまり西帰浦(ソグィポ)である。大韓民国の最南 端にあたり、春が最も早く訪れる。

©コ・ボンス「済州の春」(第5回済州国際写真公募展)

40 KOREANA 春号 2017


春を迎えて一面に咲き乱れる菜の花畑の向こうに、青い海と城山日 出峰(ソンサンイルチュルボン)が見える。

韓国の文化と芸術 41


1

んにちは。道端で始めてお目にかかった貴方に挨拶をし

書くこともできませんでした。徹夜して書いた数編の詩につい

ます。

て評論家たちが頷くと、それが最高の評価だと、自慢してうぬ

ご存知ですか。貴方。人生の幸せは、愛する人との挨

拶から始まるということを。愛する人との挨拶が度重なって幸

ぼれていたのです。焦りや軽薄さにまみれた時間のどん底をす り抜けてきただけだと思えば、心は暗くなるばかりです。

せになるということを。幸せは、葡萄酒のようなもので、人生 が絶望と挫折の川を渡る際に、私たちに箱舟と櫓を与えるんで

日の出が美しい理由

す。幸せが必要な理由がまさにここにあります。今日私は南済

私が挨拶を交わした道は済州島の一周道路です。依然として

州の道の上にいます。ここに何度立ったかわからないが、この

旧名称である「12番国道」の方が一般によく知られている1132

道の上に立つ度に私は、初恋の人に出会ったかのように「こんに

番地方道です。神秘的で美しい自然現象をたっぷり秘めている

ちは」と笑顔で挨拶します。貴方も私に明るい声で「こんにちは」

この島の生態は、2007年ユネスコの自然文化遺産に登録されま

と挨拶を返すのです。この挨拶を交わすとき胸がときめき、目

した。火山の爆発でできた溶岩に囲まれた町並み、底知れぬ深

の前に天空の花畑が広がったように視界が明るくなります。憎

さの火山洞窟、海に落下する滝に目をやりながら歩けば、真っ

しみや絶望の陰が春風のように心の中からすっかり消え去るの

黄色の菜の花が咲き乱れています。私はその風景に気をとられ

です。微笑みながら私に手を振っている貴方、貴方は自分がど

て自分がどこの国の人なのか、何をしている人なのかをしばし

この国の人なのかを考える時がありますか。私は韓国人です。

忘れます。気恥ずかしさもつかの間、少し深呼吸をしてみます。

韓国で詩を書いて生活しているんです。地上で私が送った60年

私がこの道を訪れる理由がまさにここにあります。人間は道に

の時間の本質。それは恥に他なりません。純粋な情熱に満ちた

出会ってはじめて寂しさから抜け出すことができ、道は人間の

人生を生きることができなかったし、真心を込めた最高の詩を

孤独と恥に遭遇してはじめて完成するものです。私は今一週道

42 KOREANA 春号 2017


2

す長い息に日の光がサンサンと照りつけます。海女について少

1 赤黒い石の柱が屏風のよ うに突っ立っている西帰 浦・柱状節理帯 (ソギポ・チ ュサン チョルリデ )は、 火山活動によってできた 済州島の絶景の一つと 言われる。 2 秋史・適居地 (文人画家の 金正喜が流刑により済州 に赴いた当時暮らしてい た家)に向かう海岸道路 を歩いていたら、人の形 象石がてっぺんに鎮座す る石塔に出会う。右のほ うに、オルム (寄生火山) が島全体占める済州で は稀な、尖った形象の 小高い丘が見える。

し触れておきましょう。海女は済州島のシンボルです。彼らは

情がなぜこんなにも明るいのかがわかるような気がします。

路の東南側の道の上にいます。眼前には象の形状をした神秘的 な峰が一つあります。済州の人々は、この山を城山日出峰と呼 びます。済州の最東端に位置し、韓国で最も美しい日の出を見 ることができます。5千年前に海中火山が爆発して海の上に聳 え立ったこの休火山は、最初は島にすぎなかったものが堆積物 がたまって陸とつながりました。ここの日の出が美しい理由は、 色彩豊かに降り注ぐ日差しにあります。緑色とピンク、青色、 黄色の日の光のグラデーション。なんて神秘的なんでしょう。 しばしゴーギャンの作品を思い浮かべてください。タヒチ島で 生涯を終えた「高貴な野蛮人」の絵の中に投影された原始の光が 太陽の光です。ポツポツと穴の開いた黒い軽石、山すそから海 に広がる黄色い菜の花畑、青く揺らめくさざ波、海女が吹き出

潜水用具もつけずに水深数十メートルの海に潜って海産物を採

ンボルであります。一生海と戦って老 いていく彼らの姿に脱帽するばかりで す。2016年済州島の海女と彼らの生活 は、ユネスコ人類無形文化遺産に登録 されました。 道端に車を止めて日出峰に朝日が昇 るのを待ちます。初めは黄色と赤色の 混じった日光が降り注ぎ、次第に薄緑 色と青色に変わり、それからとても神 秘的なピンク色になっていくのを目の 当たりにします。春の日、菜の花に囲 まれて城山日出峰の日の出を眺めてい たら、鳥たちがなぜ歌うのか、花の表

ソプチコジへ足を向けていた私は方向を変えました。

取します。経験豊かな海女は、海水の中で5分ぐらい息を止め

「コジ」は非常に小さい岬という意味で済州方言です。30年

ることができます。彼らが潜水作業を終え、海面に浮上して吐

前の私が始めてここに立ち寄ったのが、新婚旅行の時でしたね。

く息こそ済州海女の証であり、済州島女性の強靭な生命力のシ

ここは手づかずの原始風景そのものでした。二人っきりの空間 韓国の文化と芸術 43


1

南済州の観光

ソウル

牛島 城山日出峰 ソブチコジ 漢拏山 李仲燮美術館 山房山

44 KOREANA 春号 2017

天地淵瀑布

正房瀑布

446km

チェジュ


に花の香をたっぷり含んだ風があり、波の音があり、色とりどりに降り注ぐ日差しがありました。 実際は何もなかったのかもしれません。厳しい現実が待ち受けているかもしれない幼い夫婦にとっ てここは、予測のできない未来に対処しなければならないという人生が準備したプレゼントのよう な空間でしたね。今は多くの人で賑わっています。 『オールイン』という韓流ドラマ、ご存知でしょ うか。その他にも数多くの映画やドラマのロケ地になったので、大勢の人が押し寄せてくるのも無 理はないんですね。孤独だが優雅で神秘的なある場所が色あせ、その空間に人々の塔が築き上げら れた時、はじめて私は人間であることを実感します。彼らは皆、内に絶望と悲しみと苦しみを秘め ているようです。その苦しみを忘れるために押し寄せて来たのではと、気の毒な気持ちにもなりま す。私も彼らも皆、悲しみの中で夢見る人間であるからです。 画家・李仲燮と西帰浦の浜 南済州の旅先で会いたい人が二人います。 もうすぐそのうちの一人に会う予定です。李仲燮(イ・ジョンソプ、1916-1956) 、彼は韓国の画 家です。二十歳のころ、彼の作品と人生に魅了されました。詩人・高銀 (コ・ウン) 氏の 『李仲燮評伝』 を表紙がすり切れるほど読み返しました。軍隊に入ってなければこの読書は続いていたことでしょ う。済州の南側の西帰浦(ソグィポ)市には、李仲燮美術館と彼の名前をのついた通りがあります。 何から話せばいいかわかりません。李仲燮が南済州にたどり着いたのは1951年1月でした。朝 鮮戦争のさなか彼はここに妻と二人の息子を連れて避難しました。富裕な豪農の息子として生まれ た彼は、二十歳のとき絵の勉強のために日本に渡りました。そこで運命の女性・山本方子と出会い ます。20代の私には、植民地時代の若い韓国人芸術家と日本人女性の愛が痛ましく感じられました。 二人は日本と韓国にまたがる玄海灘を往来しながら、1945年結婚しました。その直後韓国は解放 されました。今の北朝鮮の地である元山(ウォンサン)で穏やかに暮らしていた夫婦は、1950年朝 鮮戦争の勃発で、元山爆撃から逃れるた め南側に避難しました。李仲燮が南済州 に滞在したのはこのときからです。狭苦 しい避難先の釜山を経て、済州島に移っ た彼は、1951年1月から同年12月まで西 帰浦の海辺に留まりました。妻と二人の 息子とともに留まっていた当時、家族は 海辺のカニをとって食べるなど貧しい生 活を余儀なくされました。彼の作品に子 供と遊ぶ姿が多いのもこのためです。彼 はそのとき食べたカニたちに申し訳ない 気持ちになったと語ったことがあります。 1952年妻と二人の子供を日本に見送った あと、彼は不幸な日々を過ごしています。 彼は毎日のように妻宛に手紙を書きまし た。その中からある日の一通の手紙を紹 介します。 1 西帰浦(ソギポ)を訪れた観 光客が山房山(サンバンサ ン)のドゥレギル (散策路)を 歩いている。 2 秋史・適居地のある済州島 のあちらこちにさまざまな 形のトルハルバン (石像)が 立っている。

芸術は無限の愛情の表現です。真の愛 情の表現。真の愛情に満たされてはじめ て心が清められます。…今より一層深く 熱く、限りなく大切な南徳(ナンドク)を 愛し、愛して、また愛し、二人の清い心 に映った人生の全てを真新しく制作・表現

2

韓国の文化と芸術 45


城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)から山房山(サンバンサン)にいたる道は、 「パラダイスロー ド」と呼ぶにふさわしいですね。自然の美しさもさることながら、そこに韓国人が最も愛したソン ビ (朝鮮時代の高潔な学者) と芸術家の息吹が吹き込まれているからでしょう。

1 秋史・金正喜 (チュサ・キムジョンヒ、韓国の文人画家) の歳寒図 (セハンド、1844)は、 専門画家ではないソンビが描いた文人画の代表作で、寂しい流刑地で人生の意味 を見つめなおしたソンビの精神が盛り込まれている。水墨画、23 x 69.2 cm 2 李仲燮 (イ・ジョンソプ) 美術館の庭に設置された石に刻まれた李仲燮のレリーフ。

1

すればいいのです。限りなく柔らかくて暖かい私の足指君に何

んでした。精神衰弱状態になった彼は食事を拒否し、精神科病

度も何度も真心を込めたキスを送ります。

院を転々とした1956年、ソウルのある病院で誰にも看取られる ことなくこの世を去りました。

南徳は方子の韓国名です。この手紙で目が離せなかった文言

李仲燮美術館で彼が生涯愛した絵と妻に宛てた手紙を見るこ

があります。 「私の足指君にキスを送る」というくだりです。最

とができます。貧しい時代の芸術家の人生がどんな意味を持っ

も低く取るに足らないものに対する無限の愛情表現。李仲燮の

ているのかがうかがい知れて心温まります。美術館の下にある

世界観が伺えます。彼は妻の足指を格別愛おしく思ったのです。

ジャグリ海岸沿いは李仲燮が家族と散策をした道です。孤独で

多くの手紙から妻の足指にキスするという表現が見受けられま

寂しい気持ちになった時、この道を歩きながら貧しかった芸術

す。彼は黄牛の姿をたびたび描きました。牛の愚直さから最も

家の人生に思いを寄せるだけで、あなたの心は癒されるのでは

韓国らしい風景を導き出そうとしたのです。戦禍のなかで絵の

ないでしょうか。徒歩10分~20分の距離にある正房瀑布 (チョン

具や画材をなかなか手に入れることができなかった彼が、よく

バンポッポ)や天地淵瀑布(チョンジヨンポッポ)などの滝に立ち

画幅にしたのはタバコの銀紙でした。タバコをすべて吸い尽く

寄って、人々の息吹を感じることもお勧めです。人はそもそも

したあと、箱の中の銀紙に絵を描いたのです。300余点残ってい

寂しいから一緒に集まって生活するのではないでしょうか。 「寂

るこの銀紙作品のうち、3点はニューヨークの現代美術館に所

しいから人だ」 と韓国のある詩人は歌いました。

蔵されています。 『旅立つ家族』は、彼の作品のなかで私の一番 のお気に入りです。牛車に妻と子供を乗せて遠足に行く家長の

ある朝鮮ソンビの摹瑟浦流刑生活

姿のなかに、彼が夢見た世界が盛り込まれています。李仲燮は

山房 (サンバン) 山は、済州島の南西部に位置している山です。

1955年、最後の展示会をソウルで開きましたが、絵は売れませ

滑らかな山の稜線は穏やかです。放牧された馬が草を食むの

46 KOREANA 春号 2017


2

どかな風景が見られます。すぐ側には摹瑟浦(モスルポ)という

たこの絵をぜひ一度ご覧ください。絵はシンプル極まりないも

美しい名前のついた小さな入り江もあります。尾根道をぶらぶ

のです。数本の線で描かれた粗末な家が一軒、そこに老いた1

らと歩き日が暮れる頃、摹瑟浦のこじんまりとした食堂に寄っ

本の松の木と3本の松柏があります。その木に次のような文字が

てニシンの塩焼き定食を食べました。ここでは食べる楽しみを

刻まれています。 「歳寒然後 知松柏之後凋」 。論語に出てくるこ

生きる楽しみだと思うのは間抜けなことの一つであります。た

の文の意味は以下の通りです。寒い冬が来てはじめて松と松柏

だし侘しい日、深い絶望の淵に立たされた日、小さな入り江の

の青さに気づきます。厳しい年月を経た後にこそ人生の輝きは

古びた食堂に座って、焼酎の瓶を傍らに置き、一人ご飯を食べ

訪れるということを隠喩で表現した格言です。この絵には清朝

るのは間抜けたことではないでしょう。彼は今自分の過去を徹

の文人16人の、絵に対するコメントがついています。配流され

底的に分析し省察しているところです。彼が人生の新しい道を

た朝鮮ソンビの絵に当代の清の文人たちが感想を書き添えたの

見つけられない理由などありません。西暦1840年摹瑟浦に、あ

でしょう。

る男が配流されました。秋史・金正喜(チュサ・キム・ジョンヒ、

秋史謫居址で人生の意味を自らに問うこと。それは十分に意

1786-1856) 。配流は朝鮮王朝時代に王命に逆らった罪人を辺境

義のあることでしょう。城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)

や島に送る流刑です。彼は済州島で8年間配流生活を送りました。

から山房山(サンバンサン)にいたる道は、 「パラダイスロード」

草屋の周りを茨の垣で囲み、外に出られないようにする刑罰で

と呼ぶにふさわしいですね。自然の美しさもさることながら、

した。極度の困窮と欠乏状態に置かれた人間が花を咲かせるの

そこに韓国人が最も愛したソンビと芸術家の息吹が吹き込まれ

は東西古今の真理です。ここで彼は自分の学問と芸術の最盛期

ているからでしょう。

を迎えます。韓国人なら誰もが知っている「歳寒図(セハンド) 」 という絵が1944年ここで誕生しました。国宝180号に指定され 韓国の文化と芸術 47


日常茶飯事

コンビニ店員の さまざな人生模様 コンビニというのは無関心が美徳の空間だ。大部分のコンビニのアルバイトたちは 自分の仕事に生活費の解決策以上の意味は付与していない。しかし、よく見てみれ ばそんな職場にも夢と人情があふれている。

1

1「レジを守るだけでは不十分です。随時、 倉庫をチェックし、陳列台の物品の数を 補充していくことも、コンビニのアルバイ トがしなければならない大切な仕事です」 とイ・ドクジュさんは言った。 2 コンビニでの長いアルバイトの経験は、イ ・ドクジュさんに適当な親切心だけではな く、適当な無関心もまた必要だという事 実を気づかせてくれた。

キム・ソリョン 金瑞鈴、Old & Deep Story 研究所代表 安洪范 写真

年夏の卒業を前にした大学4年

材にも応じてくれた。一方、私がインタ

生のイ・ドクジュ(李徳周)さん

ービューを申し込んだ10人以上のコンビ

は、京畿道富川駅前のコンビニ

ニバイトたちは、取材に応じなかったり、

GS25で働いている。学校に行かない週

2、3時間にわたって話しをした後でも、

末の二日間を朝8時から午後4時まで15坪

記事にしたいと正式なインタビューと写

ほどの空間で過ごすようになって、もう3

真撮影を申し込むと断ってきた。

年になる。時間給は法で定められた2017

今、この国はまさにコンビニ共和国だ。

年の最低賃金の6470ウォンで、昨年の

コンビニを過ぎて100mも行かないうち

6030ウォンから7.3%引き上げられた金

に他のコンビニに出くわす。それでか最

額だ。×8にすれば日当は5万ウォンちょ

も簡単にできるアルバイトがコンビニで

っと。二日働いて稼いだバイト代は翌週

ある反面、離職率もまたそれだけ高い。

の小遣いにする。

たぶんそれがそこで働く人々がメディア

イ・ドクジュさんに大韓民国のコンビ ニのアルバイトの実情を見るには、実は

に自分の姿を見せたくないと思う最も大 きな理由なのだろう。

ちょっと例外的なケースだといえる。両 親に学費を出してもらい、週末だけ家の

48 KOREANA 春号 2017

就職準備過程の人も

近くでしているアルバイトなうえに、そ

コンビニにはありとあらゆる商品があ

の仕事もコンビニ運営会社であるGSリ

る。イ・ドクジュさんは何種類なのか正確

テールに就職するための準備過程だと考

にはわからないという。ただ、生活必需

えているからだ。それで彼は積極的に取

品も取り揃えているが、売上の相当部分


2

を占めるのが缶飲料とインスタント食品

ジュさんに投げかけた。この記事を書く

るのは僕はむしろ避けています。お客さ

の種類だという。以前にはカップラーメ

ために私は、昨年日本で芥川賞を受賞し

んが視線が合うのをあまり好んでいない

ンとオニギリと袋入りキムチが、店内で

た村田沙耶香の小説『コンビニ人間』を事

からです。ただバーコードを正確にスキ

摂る食事の代表的なメニューだったが、

前に読んだ。自分の18年間のアルバイト

ャンして金額をはっきりと言いさえすれ

2、3年前からは弁当が新たに登場した。

経験が溶け込んだというこの自伝的な小

ば良いのです… 陳列のノウハウは別に

コンビニ店同士、互いに競争するかのよ

説には、店員という「均一な生物」に作ら

習いはしませんでしたが、一つだけ原則

うに自社ブランドで開発したいろいろな

れていく「コンビニ人間」になるための2

があります。先入先出。先に入荷した品

種類のおいしそうな弁当を売っている。

週間の研修過程の内容が興味深く記録さ

物は先に売ること。店主がそれだけはき

イ・ドクジュさんのGS25も現在、売上

れている。例えば、お客の目を見て微笑

ちんと守るようにと強調していました」 。

の中で最も大きな比重を占めているのが

を浮かべて挨拶すること、声は明るく、

弁当だ。昨年は自社ブランドのコーヒー

トーンは高く、生理用のナプキンは紙袋

く変わってくる。この地域には外国人労

も作った。コーヒー豆を直接挽いて淹れ

に入れて渡すこと、温かい食べ物と冷た

働者の暮らすワンルームタウンが密集し

るアメリカンが1杯1千ウォンだと店先

い食べ物は別々の袋に入れること、ファ

ている。それでインスタント食品などの

の大きな看板に書いてあった。

ーストフードの注文を受けたらまず手を

生活必需品を買う外国人客が大勢出入り

アルコールで消毒するなどなど。

し、商品を探してくれと言われる場合が

コンビニのアルバイトにも向き不向 きがありますか。顧客に応対するための 訓練の過程は?商品陳列のノウハウは?

しかし韓国の状況は日本とは違うよう だ。ドクジュさんの答えは、

コンビニは地域により雰囲気がまった

よくあるが、まだ他国の言葉と文字に慣 れていない。しかしドクジュさんに購買

レジ袋に商品をつめる原則は?どんな客

「別にトレーニングを受けたことはあり

と関係のないことを話しかけてきた人は

が一番大変か?万引きの現場を見たこと

ません。もちろん明るく明朗ならよいで

この3年間でたった一人だけだった。 「旧

は?事前に準備していた質問を私はドク

しょうが、お客さんの目をまっすぐに見

正月の朝、コンビニのレジに座っていた 韓国の文化と芸術 49


コンビニで扱う生鮮食品の種類がどんどん 増えており、それだけアルバイトが冷蔵配達 車を迎える回数も増えている。

ら、40代くらいのおじさんから『雑煮は

「小学生がアイスバーを盗もうとした

食べたか』と聞かれました。びっくりしま

のを捕まえたことはありますが、強盗に

した。レジに立っている私に誰かが関心

あったことはありません。男性のお客さ

を見せたのは、それが初めてでしたから。

んはほとんどがため口です。 『学生』など

みんな、顔も見ずに金だけ払っていきま

と呼ぶのは行儀のよいほうで、たいてい

す。私もそのほうが気が楽ですし」 。寝

は『おい』と呼び捨てです。ぞんざいな口

起きのような寝ぼけた顔と服装で牛乳と

をきく客、お金をそのまま渡さずに投げ

トイレットペーパーを買っていく客、午

てよこす客もいます。少し大変ですが、

後遅くオニギリとカップラーメンを買っ

そんなもんだと思ってます。僕はお客が

て店の片隅のテーブルで黙々と食事をし

僕を無視するとか、尊重するとかよりも

ている客と店員の間に行き交うのは、無

商品に対する反応を見るようにしていま

関心以外の何があろうか。コンビニとは

す。コンビニ運営会社のGSリテール社

ほとんど人と人とが出会う空間ではなく、

に就職するのが僕の最終目標ですから」 。

機械的にすれ違うところ。存在が破片と なって飛び散るところだ。

50 KOREANA 春号 2017

ある人にとっては家

店員はレジの前で食べ物を食べてはい

東大門近くの大通り沿いにあるコンビ

けないことになっている。しかし食事の

ニ・セブンイレブンのレジを守る50代初め

ために店から抜け出すこともできない。

の男性パクさんは、何度も長時間にわた

客のいない隙を見計らって、彼もカップ

り、もっとも多くの話を語ってくれたが、

ラーメンのようなもので要領よく昼飯を

記事にすることは頑なに拒否された。彼

すませる。

はイ・ドクジュさんとは状況が全く違う。


「旧正月の朝、コンビニのレジに座っていたら、40代くらいのお じさんから『雑煮は食べたか』と聞かれました。びっくりしまし た。レジに立っている私に誰かが関心を見せたのは、それが初 めてでしたから。みんな、顔も見ずにお金だけ払っていきます。 私もそのほうが気が楽ですし」

たと実感します」 。

彼のコンビニバイトに対する考え方は

仕事が終われば、たいていコンビニの

人生観というのにふさわしかった。 「家の

入っているビルのトイレで、洗顔と歯磨

事情や独立心が強く、そのため働きなが

きをすることで一日が始まり、疲れてい

ら学ぶ大学生アルバイト以外の、アルバ

たり横になりたければ、近くのチムチル

イトは社会のルーザー、負け犬なのかも

バン(サウナ)に行く。一月、170万ウォ

しれません。しかし他人に見栄を張る目

ン貯金するのが目標だ。そうすれば一年

的でなければ、これも十分やるだけの価

に2000万ウォンになり、5年貯めれば1億

値のある仕事です。大企業の社員だけが

ウォンが手に入る計算だ。酒も煙草もや

サラリーマンですか。私も月給はもらい

らずに、コンビニを宇宙だと思って働き

ます。毎月の給料、これが天国の果実で

はじめてからもう2年半が過ぎたので、半

す。失敗して初めてそれに気付きました」 。

分は達成したようなものだ。 「 お客様の一人一人が私の恩人です。

彼は自分の店にある商品の数が現在 852種類だと正確に述べた。業務マニュ

そんな気持ちで一生懸命挨拶をします

アルに従い動くのがコンビニバイトだが、

が…それが良いと言って来てくださるお

店員の性格が店の雰囲気を左右すると

名前は仮名として彼の話をしようと思う。

客さんも何人かいます」 。ミネラルウォ

いうことをいろいろな店を見ていて感じ

まず彼にとってこの仕事はアルバイ

ーター 1本を買うにも、必ずここまで来

た。 「この近所にはコンビニがたくさんあ

トではなく本業だ。1日12時間働いてい

て買うというお得意さんが何人もいると

りますが、うちの店が一番掃除が行き届

る。 「8時間3交代」 ではなく 「12時間2交代」

いう。 「人はお金ではなく気持ちが一番

いていますし、ゴミ箱も一番きれいです。

方式で店主と交代で店番をするという勤

大切なんです。特に貧しい人々はもっと

そうしないと僕自身我慢できないので」 。

務条件は、店主の特別な配慮のおかげだ。

そうです」 。それでなのか仕事が終わっ

売上額と在庫は別に計算する必要がな

「ここは何の干渉も受けずに宿食が可

たら一緒に飯にしようという客もいるし、

いという。自動的に処理してくれるプロ

能な職場です。日当2万ウォンプラスアル

売れ残りの服を持ってきてくれる客もい

グラムがコンピュータに入っているから

ファを受け取ろうと長時間働いていると

る。 「どん底だと思っていましたが、意外

だ。画面上に売上と在庫量が現れるので、

いうよりは、今の勤務条件が私には必要

と温かいんです」 。

店主と交代するだけでいい。 「たくさん売

なんです」 。夜8時にコンビニの狭いレジ

パクさんの昼間の日課は、夜通しコン

れれば気分はいいですが、売上が少ない

カウンターの中に入り、朝の8時まで働く

ビニのレジを守り、徹夜の仕事について

ときには自分のせいのような気がして申

朴さんには家が無い。事業に失敗して家

いる人のようではない。例えば街の住民

し訳ないです。辛いときがあるとすれば、

族と別れた。夜をコンビニで過ごすこと

センターでスポーツダンスをしている。

そんな時くらいですかね」 。最後に朴さん

ができるというので、この仕事を選んだ

ひと月2万ウォンだして合計14時間ダン

は国を心配した。 「個人の問題ではありま

のだ。

スを学ぶ。街の図書館にもよく行く。

せん。国家経済が良くならなければ。財

「小さな監獄です。それでもその気に

「お金を使わずに昼の時間を過ごす方

閥が権力に金を差し出しても経済が良く

なればいつでも出て行ける監獄です。こ

法をいろいろと研究しました。前に事業

なるわけがありません。それは1日12時

こは東向きなので毎朝、陽が昇るのが良

でお金をどんどん使って暮らしていたと

間仕事をして7万ウォンを受け取る私にも

く見えます。季節によって若干ちがいま

きよりも、最近はもっと豊かで充実して

分かることです」 。

すが、一旦、日が差したら仕事が終わっ

いると思うこともあります」 。 韓国の文化と芸術 51


二つの韓国

脱北者の立身の足掛かり 「北韓離脱住民 グローバル教育センター」 TNKR (北韓離脱住民グローバル教育センター) は、北朝鮮離脱者の英語学習を支援する非営利民間団体である。 脱北者が英語を母国語とするボランティアから、マンツーマン方式で英語を学ぶことで得た 外国語の競争力を基に、韓国社会で平等なチャンスを得られるように支援している。 キム・ハクスン 金学淳、ジャーナリスト、高麗大学校メディア学部招聘教授 安洪范 写真

ンターネット用語やおかしな省略語が氾濫しているな

韓離脱住民グローバル教育センター (TNKR Global Education

かで、分断以降さらに異質的に変化してきたのが南北

Center)」 だ。略称の 「TNKR」 は 「Teach North Korean Refugees」

の日常用語だ。統計によれば、すでに40%近くその差

の頭文字をとったものだ。脱北者に無償で英語を教えるプロ

が大きく拡大しているという。韓国民が日常生活で何気なく使

グラムを運営しているここは、アメリカ人のケイシー・ラティ

用している外来語だけでも、脱北者にとっては聞き慣れないな

グ(Casey Lartigue)さんと韓国人のイ・ウングさんが意気投合

どという程度を越えて、その不自由さは想像を遥かにこえると

して、2013年3月に立ち上げた非営利民間団体だ。

いう。統一部が2014年韓国に定着した脱北者を対象に行ったア

彼らのプログラム運営方式は独特だ。マス学習で教えるので

ンケート調査の結果、40%以上の人が外来語による意志疎通の

はなく、英語を学ぼうという脱北者と英語を教えたいというネ

弊害を、韓国社会で経験する最も大きな問題としてあげていた。

イティブスピーカーのボランティアを結びつけてあげる方式な

韓国に来て間もない脱北者がコンピュータを修理するために「コ

のだ。何人もの受講生を集めて教える英語スクールとは違い、

ンピュータクリーニング」と書かれたクリーニング店に行ったと

学生は講師からマンツーマン形式で学んでいく。教育の場所、

いう笑うに笑えない逸話もある。

時間、授業方式、教材の決定は学生の希望に合わせる。学び始 めたものの講師と反りが合わないと感じたら、講師を変えて欲

独特な運用方式

しいと要望することもできる。

脱北者にとってさらに大きな悩みは、 「英語格差」という。英

それで期間中に何人もの講師から同時に学ぼうという熱血学

語力を身につけて人生をワンランクアップさせたくても、大部

生も少なくない。ラティグさんは「講師は会話を教えるのがうま

分の人が日々の生計を立てることさえ大変な状況下で、とうて

い人、文法を教えるのがうまい人、脱北者にインスピレーショ

い手を出す余裕もない。このような現実に砂漠でオアシスのよ

ンを与えるのに長けた人など、さまざまな講師陣から複数の講

うに出現したのが、ソウル麻浦区トクマク路180-8にある「北

師を選んで学べるという利点が多い」 と説明する。

52 KOREANA 春号 2017


学生たちは定期的に開かれる面談の場、マッ チングセッション(matching session)を通じて 講師を選ぶことができる。このような機会を設け ているのは互いに信頼を重ねて学習効果を高め るためだ。マッチングセッションは2016年末ま

北朝鮮離脱者のグローバル教育 センターを率いるケイシー・ラティ グさん (立っている人)と韓国人の イ・ウングさん ( 写真一番左 )が、 英語を母国語とするボランティア たちと一緒に話をしている。

でに50回ほど開かれた。講師が決まる前の待機

達したという。彼らの中でも孤児、人身売買の被 害経験者、25才以下の志願者には優先権が与えら れるという。ここで英語を学んだり、学んでいる 脱北者たちは、求職と韓国での生活に大きな助け になったと口をそろえる。 「学生たちに選択権を 与える学習者中心の教育プログラムなので満足し

者たちには TNKRのオフィスで事前段階的な学習機会(in-house

ているようです」 。学生たちの意見を細かくチェックしているイ

tutoring)がある。

・ウング共同代表の言葉だ。

熱意に満ちた学生たち

だ。 「TNKRを開く前の2012年12月にパク・ヨンミさんと初めて会

ラティグさんが最も記憶に残る学生はパク・ヨンミさん これまでにセンターで英語を学んだり、学んでいる脱北者は

いましたが、当時は英語がまだあまりうまくありませんでした。

250人余り。その内訳は、学校の英語の授業について行けなかっ

その後、2013年末に正式に私たちのプログラムに参加しました。

たり、外国に出て勉強したいとここをおとずれた大学・大学院生

パク・ヨンミさんは2014年1月にマッチングセッションに参加

が55%ほどで、会社員が30%、あとは主婦や求職者などだという。

し、8カ月間に18人の先生からマンツーマン指導で、1週間に

ラティグさんは「英語を学んでより良い職業に就くことや、韓

40時間近く勉強しました。彼女の英語を学ぼうという熱意はと

国での生活により自然に適応したいと願う脱北者たちがTNKRの

てつもなく強く、私たちはチャンスを提供できたと思っていま

門を叩きます」と言う。これまでに登録されているボランティア

す」 。TNKR広報大使として活動したパク・ヨンミさんは現在、ア

は470人に達する。

メリカのコロンビア大学に在学中だ。

取材当日の現時点でマッチングセッションの待機者が80人に

30代の大学生ヤン・セリさんは、 「学校の授業時間に英語で自 韓国の文化と芸術 53


分の意見を述べるのに勇気がもてました。脱北者にきちんと学

というグループ。2つ目はすでにボランティアをしているので

べる新たな環境と人的ネットワークを築くチャンスを提供し、

脱北者を教えることもしてみたいというグループ。3つ目は脱

韓国社会への適応をサポートしてくれるTNKRは本当にありがた

北者に特別な関心はないが、教えることが楽しいというグルー

い存在です」 と語る。

プだ。そのほか、ただ新しい経験をしたいとか、英語教師とし

オーストラリア、カナダ、アメリカ、ニュージーランド出身 の講師から英語を学んだ30代の出版編集者オム・ヨンナムさん

て小さな子供たちだけを教えているので大人にも教えたいと言 ってくる人もいるという。

は、 「英語の実力という秘密兵器ができた気がします。より多く

20代のアメリカ人マチュー・マクガワン(Matthew McGawin)

の北朝鮮離脱住民がTNKRで人生に自信を得ることができればと

さんは「発音と文法をきちんと指導してあげると、大部分の学生

思います」 と推薦した。

は次の授業の時までにきちんと直してきます。授業のたびに実

講師をつとめるボランティアの国籍と職業はさまざまだ。ア メリカ人が最も多く、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニ ュージーランドなど英語圏の国籍も多様だ。彼らの職業も教授、

力が向上する姿を見ていると、もっと熱心に教えなくてはと思 います」 と誇らしげに話す。 66人の脱北者に英語を教えた経験のあるイギリス人のライア

教師、英語スクールの講師、大学院生、フリーライターなど各

ン・ガードナー(Ryan Gardener)さんはこう話す。 「TNKRの最も

分野に及んでいる。彼らには最小限の義務が付与される。一度

大きな長所は、脱北者がさまざまな国から来たネイティブ講師

参加したら少なくても3カ月間、1カ月に2回以上、1回に90

を自ら選択して、英語と共に多くのことを学べるシステムです。

分以上教えなくてはならない。

さらに学ぶ場所をその時々に応じて変えられるというのも重要

ボランティアがTNKRに参加する理由もさまざまだ。大きく3 つに分類できる。まず北朝鮮とその国の人々について知りたい 54 KOREANA 春号 2017

な要素の一つだと思います」 。 TNKRプログラムは英語の実力を向上させる方法として、二つ


世大学、漢陽大学などで英語の講師として活動してきたラ ティグさんは、2010年に再度訪れた韓国で北朝鮮の実情を 知り、脱北者に対して深い関心を持つようになった。2012 年3月、30人あまりの脱北者が中国から強制的に北朝鮮に 送還された事件は、ラティグさんの人生に大きな影響を与 えたという。 「当時、中国大使館の前で行われた北朝鮮への 強制送還に反対する集会現場で、断食闘争をしていた自由 先進党のパク・ソニョン議員が、脱北学生たちのための代案

これまでにセンターで英語を学んだり、学んで いる脱北者は250人余り。その内訳は、学校の 英語の授業について行けなかったり、外国に出 て勉強したいとここをおとずれた大学・大学院 生が55%ほどで、会社員が30%、あとは主婦 や求職者などだという。

学校である「勿忘草学校」を建てるという計画を話しておら れ、私も国際協力理事として参加しました。私の主な役割 は「勿忘草学校」に英語のボランティアの先生を募集するこ とでした」 。 ラティグさんは「勿忘草学校」でイ・ウングさんと知り合 い、自分の外国人ネットワークとイ・ウングさんの脱北者ネ ットワークを一つにすることにした。これまでに出会った 脱北者が一様に英語を教えて欲しいというのを聞き、英語 の実力が一定水準に達しなければ職を得ることも難しい韓 国の実情を知っていたので、彼らの味方になることを決心 したのだ。イ・ウングさんは北朝鮮大学院大学校で北韓学修 士、イギリスシェフィールド大学で国際政治学の修士号を 取得した後、北韓人権情報センター、韓国教育開発院脱北 青少年教育支援センターで研究員として10年間勤務した。 現在は韓国ボランティア協議会に勤務しながらTNKRの共同

TNKRプログラムでイ・オジュン講師 (写真右) と学生が向き合い授業をしている。

代表をしている。 当初、事務所もホームページも無いなかで、数人の学 生とボランティアだけで始めたこのプログラムはいまや 脱北者の間に広く知れ渡るようになった。フェイスブッ ク (https://www.facebook.com/TeachNorthKoreanRefu-

の学習ステップに分けてある。 「トラック1」という最初の段階で

gees)、ツイッター(TNKR@TeachNKRefugees)、,ホームペー

は、英語と親しむための基礎英語、文法、語彙、発音などを学

ジ(www.teachnorthkoreanrefugees.org)な ど のSNSを 通

び、自ら勉強する方法を身につけること。このときにボランティ

じて学びたいという人、教えたいという人が活発に疎通す

アの先生たちとの交流を通じて外国人と親しくなるノウハウも自

る段階に達している。

然に覚えていく。現在、大部分の学生たちがこの段階にいる。

さしあたり最大の問題はやはり財政だ。4年近くこの仕

「トラック2」は公の席でのスピーチ(public speaking)な

事をしながら、きちんとしたオフィスを構えるのが難しく、

ど、発表能力を身につけ育てる段階だ。ビジネスに活用したり、

梨泰院を皮切りにソウルのあちこちを転々とした。現在の

公共の場で演説のできる能力を向上させる特別なプログラムだ。

オフィスも予算に見合うところを探してようやく路地裏の

この段階では作文、演説、プレゼンテーションなどを学ぶ。脱

古い一軒家を見つけて借りている状態だ。正式にTNKRプロ

北者が舞台と英語に対する恐怖を一度に解消できるように英語

グラムを運営し始めてから3年目にして得られた、事実上

のスピーチ大会も定期的に開いている。1年に2回。2月と8

最初の単独オフィスだ。

月に大会を開こうと努力している。 TNKRは必要に応じて英語以外の言語も教えている。例えば、

TNKRの運営費は個人の支援金に頼っている。講師の中に は自分の学生のために教材を自ら購入したり支援金を出す

弁護士になりたいという人には法律用語として多く使われるラ

という人も多い。学生たちも先生たちの無料奉仕に感動し

テン語も提供している。

て、額は少ないものの寄付金を出す人もいる。ラティグさ んとイ・ウングさんの自費も入っている。二人は「脱北者た

個人の支援金に依存 ハーバード大学で教育学の修士号を得てから1990年代に延

ちの熱意に打たれて、どんなに大変でもこの仕事を到底辞 めることはできません」 と強い熱意を示す。 韓国の文化と芸術 55


遠くの目

“恨を超えた声”

パンソリ、説経節、盆踊り 放浪漂泊の旅芸人たちによる、パンソリや説経節など説話物語の世界とライブ・パフォーマ ンスが融合してつくりだす至高の個性の実現と魂の浄化。そのような視点を核心において民 衆の芸能を書き直すことには、大きな可能性がはらまれている。 友常勉 ともつね・つとむ、東京外国語大学国際日本学研究院教授

本でもヒットしたイム・グォンテク監督の 『風の丘

りが木偶を操り、もうひとり(あるいは二人)が鼓を担当

を越えて/西便制』 ( 1993年)は、韓国の国内外で

する。実際に門付け芸を担っている「阿波木偶箱まわし保

パンソリへの広範な関心を引き起こしたが、もっ

存会」の保存会長であり、木偶まわしを担当している中内

とも強い印象を残したのは、旅芸人たちの芸と生とのあ

正子さんは、ふだんは温厚で聞き上手の女性だが、祝詞

いだの残酷な葛藤を描写しながら、 “恨を超えた声”を求

を唱えながら木偶をまわしはじめると、顔色が次第に白

道する宿命のようなものであった。そこでこの小論では、

くなってくる。神の代理人であるばかりか、神そのもの

“恨を超えた声”というテーマに触発された思いつきを、

でもある木偶人形による神事芸能を披露しながら、中内

私の研究のフィールドからいくつか述べてみたいと思う。

さん自身が木偶と同化し、祝詞と謡の詞章が憑依してく るかのようである。そこに立ち会うことで、人びとは旧

門付け パンソリや日本の説経節など、説話物語の登場人物た ちは、必ずしも類型的に描かれているわけではない。し かしあらかじめ説話物語のフォーマットは決まっている。

年の悔悟や煩悩を払い、新しい年を招きいれる。そこに はライブ・パフォーマンスとしての門付け芸能の真骨頂が ある。 『風の丘を越えて』では“〈恨〉 (の情念)を超えた声”が

そのなかで、予定されている過酷な運命に個性をあたえ

前人未到の芸域として設定され、 「春香歌」 の 〈幽霊〉 や 「沈

て、登場人物たちの一挙手一投足を輝かすのは、芸人の

清歌」 の 〈舟人が去る〉 が唄われていた。それはパンソリの

パフォーマンスである。

世界観と歌い手が混然一体となった至高かつ至福の領域

私はこの十年近く、被差別の芸能民たちによる芸能に ついての調査にかかわってきた。私がもっとも触発され、 その歴史や芸態、往時の活動の拡がりについて調査し、

であり、無比の個性の造型である。そしてその声に立ち 会うことで、苦悩にみちた私たちの魂は浄化される。 放浪漂泊の旅芸人たちの過酷な生と芸道の追求は、必

さらに、実際におこなわれている門付けに同行すること

ずしも遠い過去に存在した習俗ではない。1960年代末

ができた徳島県に伝承する人形廻し――「阿波木偶箱廻

に日本の演歌界に突如あらわれた藤圭子という歌手は、

し」 ――を例にとろう。

二十歳前にしてすでに夜の女たちの情念を表現する声で

門付け芸能としての「阿波木偶箱まわし」は、正月から

一世を風靡したが、彼女は盲目の三味線芸人である母と、

2月(旧暦の正月)ぐらいにかけて、徳島県を中心に、四

浪曲師の父を持ち、小学生のころから極貧の旅回りの生

国一帯で集中的に990軒にものぼる檀那を回り、新年の

活を送っていた。藤圭子は、今日、宇多田ヒカルの母と

祝福芸を披露する。箱廻し芸人は二人か三人で一組にな

して紹介されることが多いが、私にとっては、中世に誕

り、二つの木箱に木偶(人形) 、衣装、御幣を入れ、ひと

生した説経節の系譜を引く、放浪漂泊の芸能民の直系の

56 KOREANA 春号 2017


表現者である。そしてその声には、門付けの芸能やパン

ついて、民俗学者の折口信夫は、菩薩の化身を待つ「廿三

ソリの唄い手たちと同様の無比の個性がある。

夜」 「廿三夜待ち」に由来していること、それが死霊・生霊 を呼び寄せる意味に転化し、念仏踊りとしての「盆の祭

盆踊り ところで、説経節など説話物語の世界とライブ・パフ ォーマンスが融合してつくりだす至高の個性の実現と魂

り」の本来の目的に合致した名称となったと述べている。 実際、 「さんや」のなかには、徹夜で踊り明かした明け方 に、しめやかな音調で踊られるものがある。

の浄化は、かならずしも天才的な個人によって達成され

盆踊りの音頭は、説経節の「くどき」と、死霊・生霊を

るばかりではない。それは演者と聴衆の区別がなくなる

鎮護する 「さんや」 の二重構造から構成されている。 「くど

集団的な営みによっても形成される。そのことを、大阪

き」を通して説経節の世界に心身が同化する。つぎに「さ

府下の泉州地域と北摂地域の被差別部落における盆踊り

んや」によって念仏踊りの本貫に立ち返る。この二段階の

を題材に紹介しよう。

プロセスを通して、理不尽な差別や不遇に対する憤怒・懊

1982年から83年にかけて、大阪府下の全被差別部落を 対象に民俗調査・聞き取り調査がおこなわれ、それによっ

悩を鎮め、同時に祖霊や無縁の怨霊・亡者の魂も鎮めるの である。

て、泉州地域と北摂地域の盆踊りの特徴が明らかになっ

盆踊りは集団的な祝祭でありカタルシス=魂の浄化の

た(部落解放研究所編『被差別部落の民俗伝承[大阪]古老

行為である。それによって可能になる憤怒や懊悩の鎮静

からの聞き取り』 上下二巻、解放出版社1995年) 。

化は、一瞬である。とはいえ、ここには感情のしこりが

念仏踊りを原型とする盆踊りでは、集落内の広場に櫓

積み重なってできた情念に向き合い、それをまるごと抱

が組まれ、その舞台で演奏される音頭にあわせて、住民

えるための境位に達しようとする営みがある。それは“恨

たちは回りながら踊る。この音頭にかかわって、大阪の

という情念を越える声”を発しようとする行為に、どこか

泉州地域・北摂地域では、説経節をモチーフにした人形浄

共通している。むしろ、民衆の芸能とは、そうした情念

瑠璃が題材となっていることが多い。しかもこの音頭は

とのつきあい方にいかに習熟するかということに、常に

さらに、 「さんや」 と 「くどき」 の二系統に大別される。

目的が置かれてきたといってもいいだろう。

「さんや」はその音頭が一節ごとに完結する小唄形式

〈恨〉の芸能は、そうした営みの本来の姿を原型におい

で、泉州地域独特のものである。これに対して「くどき」

てとどめているが、そのような視点を核心において民衆

は、浄瑠璃の物語的な内容を七七または七五の音律にの

の芸能を書き直すことは、大きな可能性をはらんでいる。

せて長々と口説いていくものである。 「さんや」の語源に

そして何よりも魅力的である。

1

2

1 農家で門付けをおこなう阿波木偶箱まわし 2 藍商家での門付け

韓国の文化と芸術 57


料理物語

豚肉

ソル・ホジョン 薛湖静、食材料コラムニスト 安洪范 写真

韓国人は三枚肉を偏愛する 多くの韓国人にとって豚肉と言えば、サムギョプサル(豚三枚肉)をまず初めに思い浮かべる。 熱い鉄板の上でジュージュー焼きながら食べるというドラマチックな演出を楽しむことのできるサムギョプサルは、 庶民の栄養食として広く愛されている。 58 KOREANA 春号 2017


1

992年、韓国政府は「自然公園法」第27条を改定して、国立公園や道立公園内などで の炊事とキャンプを禁止した。この法律はいわば、自然の中で携帯用ガスコンロを 使ってサンギョプサルを焼き、焼酎を飲むことを禁じるというものだ。

国中の森林と渓谷がサムギョプサルの油で汚れ、ガスバーナーの火による山火事の 危険性も高いことを心配する世論が高まったのだ。多くの国民が何の統制も受けずに、 自然の中でサムギョプサルを焼いていた1980年代から10年が過ぎ、ようやく生まれた 措置だった。 サムギョプサルの故郷 豚は食肉として大きく七つの部位に分かれる。頭を除いて、肩ロース、カルビ、前 足、サムギョプサル(三枚肉)、ロース、ヒレ、後ろ足に分かれるが、その中でもサム ギョプサルは脂肪と肉が重なり、層を成している腹の側の脂身の多い部位を言う。 サムギョプサルは20世紀の初めに開城で開発されたという説がある。商売がうまい ことで知られる開城の人々がどこで覚えたのか成分の違う飼料を代わる代わる食べさせ たことで、腹の部位の脂肪層と肉層を断層になるように「革新」したというのだ。 韓定食レストラン 「龍水山」 の創業者であるチェ・サンオク (1928年生) さんは、故郷で 見た開城サムギョプサルを次のように回顧している。 「開城の肉屋では豚肉のサムギョ プサルを茹でて売っていました。さっぱりしていて美味しかったです。豚肉を茹でた茹 で汁をもらってきて、その汁でキムチチゲを作り食べたものですが、それもまた美味し かったです」 。 サムギョプサルについての最初の記録は、1931年に出版された梨花女子大学校家事 科のパン・シニョン教授の料理本『朝鮮料理諸法』に出てくる。「サムギョプサル」「腹に ある肉」 「三層豚肉」 などと韓国語の秩序に合うように、またかわいく表現されている。 豚クッパと日本のトンカツ 開城のサムギョプサルが美味しかったとはいうものの、伝統的に韓国人は豚肉より は牛肉を好んできた。それは豚特有の臭み、特に雄豚の臭み、そして韓方薬の服用期間 中は豚肉を食することを禁じる習慣などが、人々が豚肉よりも牛肉を好んできた原因と も言えるだろう。さりとて、牛肉に比べて遥かに安い豚肉は、常に庶民の味方だった。 1970年代に入ると豚肉市場に大きな変化が起きる。庶民が豚肉をさらに安く食べられ るようになったのだ。1960年代に入った日本で、経済の急激な成長に伴い肉の需要が急 増し、1973年から韓国の豚肉を輸入し始めたのだ。主に脂身のない赤身の部分だった。 味評論家ファン・キョイクは、その頃から日本人がトンカツに魅了され、トンカツ用 のロース肉とヒレ肉の輸入が始まったと説明する。そして輸出して残った部位が市中で 安く売られ、庶民はさらにたびたび豚肉を食べられるようになったという。ファン・キ ョイクは豚肉の骨と内臓、肉を余さず使って作る豚クッパの店が全国的に増えたのもそ んな状況の結果だと分析している。さらに養豚業が盛んになり、ハム、ソーセージ、ベ ーコンなどを作る食肉加工業も登場した。

包丁を入れたサムギョプサルを鉄網の上で焼いている。炭火鉄網サムギョプサルはフライパンで焼いたものよりも 香ばしくて油気も少ない。

韓国の文化と芸術 59


サムギョプサルの進化 ところで、どうしてサムギョプサルの焼肉がこうも有名になったのか、はっきりしたことは分 からない。忠清北道清州のタルネ家とマンス家という食堂で最初にサムギョプサルを練炭で焼いて 売り出し、サムギョプサルの味が知れ渡り始めたという説がもっともらしい話だ。 いづれにしてもサムギョプサルの流行は、1980年代に入って火がつき始めたと畜産業界や食肉 加工業界は口を揃える。有り余っていた安くて美味しいサムギョプサルと携帯用のガスコンロがう まく結びついて、サムギョプサルブームが始まったというのだ。特にサラリーマンの会食の席には 無くてはならないメニューとなった。 歳月とともにサムギョプサルも進化してきた。厚い鉄製の釜蓋をひっくり返してその上で焼い た釜蓋サムギョプサル、赤ワインに浸して熟成させたあと焼いたワインサンギョプサル、最近では 冷凍サムギョプサルを薄く切り落としたテパサムギョプサルが流行している。 伝統的な豚肉料理 サムギョプサルの愛好家は、済州島の黒豚オギョプサル(豚の五枚肉)を最高の豚肉だという。 脂肪含有量が少ない黒豚のサムギョプサルの部位を、皮のついたまま切り落とした黒豚オギョプサ ルは、実際に最も美味しく(食感が良い) 、最も高価だとして知られている。しかし済州の黒豚なら 全て国産種の豚肉だろうと思うだろうが、事実は違う。三国時代から育ててきた耳がピンと立ち、 体格の小さな済州黒豚は、2015年に厳格な審査を経て天然記念物第550号に指定された。絶滅危機 にあるということだ。そのため現在、済州畜産振興院が260頭の由緒正しい黒豚を保護している。 当然、食べられるはずはない。 食べることのできる済州黒豚は他にある。済州畜産振興院がランドレース種とヨークシャー種の 二種類の豚を交合して作った種豚を繁殖させた食肉用の雑種の豚だ。実際に味も良いが、マーケテ ィングの過程で済州島の土俗種のイメージをかぶせたことに成功し、最高の豚肉としての地位を築 いた。ストーリーテーリングの時代というわけだ。 韓国人の豚肉料理は事実上、サムギョプサル焼肉という新式の料理法をのぞいては、19世紀 までの料理がほとんどそのまま根強く受け継がれている。茹でてそのまま切って食べるス ユク、茹でたあと重石をしてシコシコとした食感をつくるピョンユク(片肉) 、味付け焼 肉などがあり、その他にもクッパ用、キムチチゲ用、コチュジャンチゲ用など、それぞ れの部位ごとに役割があるほどだ。 さて、伝統的に済州島の人々が食べてきた豚肉料理は、陸地とは違い斬新だ。済州 の妊産婦たちは豚の足をよく茹でてからワカメを加えて作った特別のワカメスープを 食べてきた。豚肉を茹でた汁に済州の海でよく目にする海草のホンダワラを入れたモム クッも済州島でしか食べられない料理だ。

サムギョプサルの流行は、1980年代に入ってから火がつき始め たと、畜産業界や食肉加工業界では口を揃える。有り余ってい た安くて美味しいサムギョプサルと携帯用のガスバーナーがう まく結びついて、サムギョプサルブームが始まったというのだ。 60 KOREANA 春号 2017


トンポーロー、ハモン、ラフテ 世界的に見て豚肉を最も愛している国は、やはり何といっても中国だろう。2015年中国人は世 界の豚肉の52%を消費している。 中国人は豚肉を「肉」と呼び、牛肉は「牛肉」と呼んでいる。中国の「肉」料理は少なくとも1500 種類を超えるという。その中で最も有名なのが、宋の時代の文人ソ・ドンパ(蘇東坡)が作ったとい うトンポーロー (東坡肉、豚の角煮)だ。これはサムギョプサルのような脂身の多い部位を酒と醤 油で煮込んだ豚の角煮のことだ。この料理は色が赤いので紅焼肉とも呼ばれており、毛沢東も好ん だという。 世界で最も高価な豚肉は、たぶんスペインのセルド・イベリコ・ベジョータ (Cerdo ibérico de

bellota)品種だろう。イベリコ豚は天然のオークまたはコークの森に放牧され、主にキノコやどん ぐりの実を食べて育つが、その肉の味は世界最高だと言われている。イベリコ豚の後ろ足を塩漬け にして3年以上たった最高級品のスペイン産生ハム「ハモン・イベリコ」は、結婚の際の贈り物に持 っていくほどに貴重な食材だ。 日本の沖縄も「豚は鳴き声以外はすべて食べる」というほどに豚肉を好んでいる地域だ。苦味の あるゴーヤと豚肉を炒めたゴーヤチャンプルー。中国のトンポーロー(東坡肉)のように サムギョプサルのブロックを醤油と泡盛で甘辛く煮付けたラフテー(羅火腿)が沖縄 名物の豚肉料理だ。 韓国人の舌の記憶 韓国では豚肉の需要が持続的に増加し、特に他の部位に比べてサム ギョプサルは少なくとも三倍以上は値上がりした。需要に対し供給 は十分ではなく、毎年チリ、ドイツ、ベルギー、アメリカ、オ ランダ、スペインなどから輸入している。健康に対する関 心が増え、サムギョプサルよりも脂肪の少ない前足、後 足、ヒレの部位の需要も増加しているとはいうもの の、韓国人のサムギョプサルに対する偏愛はまだ まだ冷め止むことはない。

サムギョプサルをいろいろな香辛料と一緒に茹でて から、食べやすい厚さに切って皿に盛ったスユク料 理。韓国人の伝統的な料理方法である豚スユクは、 現代では健康食としても新たに脚光を浴びている。 スユクを盛った大皿に大根の和え物、ネギキムチ、 エイの酢和え、キュウリの千切りと梨の千切り (左か ら)が添えられている。横の小さな器にはそれぞれ アミの塩辛、サムジャン (味噌) 、薄く切ったニンニク (上から) が入っている。

韓国の文化と芸術 61


ライフスタイル

デジタル断食 slide to power off スマートフォンが時間泥棒であることを実感する人々が増えている。 しかし、インターネットという網から逃れて生活をしようと決心しても、 それを実行に移すのは簡単なことではない。それで 「デジタル断食」 という新造語まで登場し、 そのためのキャンプ、スマートフォンアプリまで登場した。 キム・ドンファン 金東桓、世界日報デジタルニュース部記者 安洪范 写真

62 KOREANA 春号 2017


ンドン行きの飛行機の搭乗まで30分ほどある。

地下鉄に乗ったり、降りたりする間も手からスマートフ

ローミングサービスのないただの石ころに過ぎ

ォンを離すことはない。イヤフォンをして片手にスマー

ないスマートフォンで、うまく過ごすことがで

トフォンを持つ人が地下鉄の乗客10人中8人はいると言

きるだろうか。特に話すこともないのに、友人たちとの グループトークルームに一日に何度もアクセスすること を日課としているこの私が。 「そこでもカカオできるんだよな」 保安検索場を通過する前にかかってきた上司の電話 に「いいえ」と思わず答えてしまった。Wi-Fiのできる地 点を探して、そこでメッセージを確認すれば良いのだが、 遠くに出かけるのにわざわざそんなことはしたくなかっ

っても過言ではない。 家に帰っても寝る直前までスマートフォンで音楽を聴 き、検索をしたり、ソーシャルネットワークに参加する。 彼の一日は、翌日の起床時間に合わせてアラームを設定 したスマートフォンを頭上に置き、目を閉じることでよ うやく終わる。 4歳児の息子のいる38歳の主婦チェさんの場合を見て みよう。

た。下手をすると体だけ遠くにあるだけで、スマートフ

夫が出勤した午前8時頃、朝食を食べる。幸いまだ息

ォンでつながれて過ごすことになるかもしれないからだ

子が起きて来ないので余裕があるが、子供が目を覚まし

った。

た瞬間、チェさんの午前の日課にスマートフォンは無く てはならないものになる。チェさの息子がスマートフォ

デジタルに閉じ込められた生活

ンを欲しがったのは母親のせいでもあった。泣いている

いつからだったか正確には覚えていない。昼食を食べ

息子をなんとかあやそうとスマートフォンで人気アニメ

ようと外に出るときには、スマートフォンを事務所に置

の主人公ポポロの映像を見せたところ、奇跡のように息

いて出かけるようになった。買って3年近くになるスマ

子はピタッと泣き止んだ。それ以後チェさんは、息子を

ートフォンがやたらと重く感じられ、ポケットに入れた

あやすのにポポロが欠かせなくなる日々が続いている。

ままで食事をしたくなかった。昼食の時間、垂れ下がる

「スマートフォン保母」の役割は地下鉄やバスの中でも

のは胃袋だけで十分だったから。そして「食事の時だけ

威力を発揮する。映像さえ見せておけば息子は口を閉じ

でも前に座っている人の顔を見よう」というのが私の主

て大人しくしている。息子の世話に効果を発揮したスマ

張だ。スマートフォンとコンピュータに取り囲まれて暮

ートフォンをチェさんは、もうその手から離すことので

らしているので、昼の時間だけでも自由になりたかった。

きない状況になっている。

記者という職業上、昼休みだけが比較的そんな自由が許

しかしある日、チェさんは大事件に直面した。しきり

される時間でもあった。しかしそれさえもスムーズにい

に目をこすっている息子を眼科に連れて行ったところ視

かない時が多い。例えば食事から戻ってきて机の上のス

力が落ちているという診断を聞かされたのだ。一日中、

マートフォンを確認すると、不在中に何本もの電話が入

スマートフォンの画面を近くで見せられていたせいで視

っていることがあるからだ。しかし1分間隔のペースで

力が落ちてしまったのだ。医師はメガネをかけることに

不在着信の電話5通がすべて「昼飯食べる人間がいなけれ

なるかもしれないと警告した。幼稚園にも通っていない

ば一緒に食べよう」という同じ部署の先輩の呼び出しであ

のにもうメガネだなんて。チェさんの心はそうやってつ

ったこともあった。

ぶれてしまった。

仁川からソウルに通う32歳のサラリーマン、イさんの 一日はスマートフォンを見ることから始まる。寝ている

デジタル断食を助けるアプリケーション

間にグループトークルームで交わされた対話を確認し、

未来創造科学部が韓国情報化振興院と共同で満3~59

フェイスブックを開いてアップデートされた内容を見る。

才のスマートフォンおよびインターネットユーザー 1万

「見なければいけない」というのが正確な表現だろう。

8500人を対象に行った 「2015年スマートフォン・インター

会社に到着後、PCを起動させればモバイルメッセン

ネット依存症の実態」のインタビュー調査の結果を見てみ

ジャーのPCバージョンが自動的に開く。仕事のために

よう。ここで言う「依存症」とは「スマートフォンを過度

部署のトークルームの内容も確認しなければならないが、

に使用し、禁断と耐性を帯びており、日常生活に支障が

友人たちとのグループトークルームでも疎外されるわけ

生じている状態」を意味する。程度によって「高危険群」

にはいかない。仕事の間中、彼はPC画面に表れるメッ

と「潜在危険群」に分かれるが、回答者の2.4%が「高危険

セージを確認するのに忙しく、仕事に集中できないと感

群」、13.8%が「潜在危険群」だった。2011年の調査では

じることもあった。それは午後の勤務時間も同様だ。

高危険群が1.2%、潜在危険群が7.2%だったのに比べる

帰り道でもスマートフォンは手から離せない。バスや

と、わずか4年でどちらも2倍近くに増えたことになる。 韓国の文化と芸術 63


スマートフォン中毒から抜け出さなくてはという専門家のアドバイス、スマートフォンに嵌まって 過ごす日常を変えたいという人々の欲求に合った、 『デジタル断食』または『デジタルデトックス』 というタイトルのついた本が飛ぶように売れている。また、青少年のためのデジタル断食キャンプ が企画されており、スマートフォン中毒をスマートフォンで治すというアプリケーションもいくつ も登場している。

このような状況を憂い、スマートフォン中毒から抜け

断食の失敗

出さなくてはならないという専門家のアドバイスや、ス

デジタルから開放されるということ、夢は素晴らしい

マートフォンに依存しすぎる日常を何とか変えたいとい

が現実的にはそんなに簡単にはいかないだろう。昼食時

う人々の欲求により、「デジタル断食」あるいは「デジタ

間にスマートフォンを使わない私をある先輩が真似した

ルデトックス」というタイトルのついた本が飛ぶように売

ことがあった。スマートフォンに縛れて暮らすことに嫌

れている。また、青少年のためのデジタルキャンプが企

気がさすものの、インターネットができない旧型の携帯

画されており、スマートフォン中毒をスマートフォンで

電話にすることもできず、昼休みの間だけでもデジタル

治すというアプリケーションもいくつも登場している。

からの開放を決心したのだ。しかしわずか数日後には昼

スマートフォンからSNS、ゲーム関連のアプリを削除 するという消極的なデジタルデトックスを試みた人々が、 それだけでは効果を得られないと感じたときに使用する のがデジタル断食アプリケーションだ。これはほとんど が一定の時間スマートフォンを使えないように制限を加

休みに食堂で顔を合わせると、先輩のポケットにはスマ ートフォンがあった。 「何ですかこれ。決心、もう終わってしまったんです か」 「昼食のメニューを頼んで待つ間、インターネットの

えるという形式だ。制限の設定を完全に解除するには、

ニュースを見ていたんだが、それをしないと何だか手持

決心をやぶった代価として一定の金額を支払わなければ

ち無沙汰で」

ならないというプログラムもある。

広告代理店で働く30代のファンさんは、デジタル断食

あるモバイルプログラム製作社のアプリケーションは

をするんだと宣言した自分自身が恥ずかしくなったと言

使用料モニターリング、中毒指数計算、予約機能を活用

う。果敢に携帯電話を旧型に変えたものの、モバイルメ

したスマートフォン統制、事前使用料計画を通じて児童

ッセンジャーとインターネットが使えない環境にイライ

保護などを売りにしている。一つのウェブを長時間使う

ラして、わずか一週間でまたスマートフォンに戻ったと

と警告音が鳴り、特定時間スマートフォンのアラーム音

いう。

やインターネット機能を遮断してオフライン関係に集中 できるようにする機能などが目を引く。 ダウンロード100万件を突破したと主張するアプリは、

ファンさんは「最初は気持ちが軽くなった」とし、 「3 日程過ぎると自分だけ世の中から疎外されているような 気分になり、会社の行き帰りインターネットが出来ずに

スマートフォンの画面を開く回数を知らせてくれる。そ

イライラした」と語った。彼は「デジタル断食をするんだ

れ以外にもスマートフォンの使用時間だけでなく、特定

と言ってスマートフォンを使わないというのはあまりお

アプリケーションを使用時間別に把握することも可能だ

勧めしない。1日に数時間だけ使うという姿勢に焦点を

という。

あてることを勧めたい」 とその経験を語る。

グーグル「プレイストア」の関連アプリケーションの下 についているユーザーの書き込みを見てみると、一日にど

短かった私のデジタル断食旅行

れだけ長時間スマートフォンを使用していたかに気付く

ロンドンでの4日間は自由だった。仕事をしないので

だけでなく、中毒のパターンまで把握でき、役に立った

スマートフォンを閉じていてもよいし( Wi-Fiのできる

というユーザーが何人もいた。より強力な機能が含まれれ

ホテルに帰り、寝る前にソウルにいる両親に無事を知ら

ると良いという書き込みも目に付いた。個人的にはスマ

せる文字メッセージを送るときだけ使用した)時間の確認

ートフォンを遠くにおいて、見なければ良いだけなのに、

は腕時計があるので問題はなかった。旅行兼デジタル断

デジタルから抜け出すためにアプリケーションの力まで

食計画がある程度うまくいっているのが感じられた。ス

借りるという現実がきわめてアイロニーに感じられた。

マートフォンとの闘いに勝ったようで勝利の笑みも浮か

64 KOREANA 春号 2017


一緒にお茶を飲んでいる人々、テーブ ルの片隅には自分たちのスマートフォン を一箇所に集めて置いてある。ティー タイムのための短いデジタル断食だ。

んできた。問題はパリで起こった。 出発する前にインターネットでパリのグルメを検索し て手帳に書き込んできたのだが、外国を一人で歩き回る には、文字で書かれた情報には限界があった。リアルタ

ているところだった。 「なんでこんなに遅くなったの」 「なんでこんなに道を探すのが難しいの」 空腹の時間は過ぎて空腹はすでに過去のものとなり、

イムの情報がどうしても必要な状況になるとデジタル断

足だけが痛かった。頭にきた。メニューを見せて欲しい

食はすぐに問題を起こした。

といったところ、店員は午後2時を過ぎたのでランチの

キャプチャーしておいた地図があったことを思い出

注文は受け付けないと言う。えっ ? 時計を見ると午後2

し、石ころのようなスマートフォンの電源を久しぶりに

時6分。まだ6分しか過ぎていなかったが、私はミッシ

いれた。現地の人に保存しておいた地図を開いて見せな

ェラン三つ星レストランを後にし、他のレストランを探

がら「どのように行けばよいのか教えて欲しい」とたずね

すほかなかった。今度は御一行のスマートフォンに依存

ると、大部分の人がグーグルマップが出ていると思い、

したので、なかなか良いレストランを道に迷うこともな

画面を拡大しようとした。

くすぐに探して出した、幸いだった。

“What…?” “Sorry, this is just an image. I can't use the internet.” 同じ宿に泊っていた韓国人観光客とミッシェラン3星 のレストランで会う約束をしていた 。それぞれ歩き回 り、昼食のときにレストランで落ち合う事にしたのだが、 なんとかレストランに到着したときには、二人は待ちく

「乗客の皆様、この飛行機は仁川国際空港に…」 機長の着陸案内放送が終わる前に、スマートフォンの 電源を入れた。画面に「LTE」アンテナが立つのが本当に 嬉しかった。そしてカカオトークにはメッセージが山ほ ど入っていた。 「これで生き返った」 当分の間、デジタル断食は無理のようだ。

たびれて先に食事を済ませ、ナプキンで口の周りをふい 韓国の文化と芸術 65


韓国文学の旅

作家評

作家生活30年 ベテラン作家の 「上質なメロドラマ」

チェ・ジェボン 崔在鳳、ハンキョレ新聞記者

「私の小説に登場する男たちは最後まで告白しないことで愛を猶予し、維持します。言葉もそう いうもののようです。言葉は常に愛する対象を指していても、滑り転がりながら対象との距離 間を保ちます」

『花

様年華』は有名な香港映画のタイトルだ。そ れぞれ配偶者のある男女の愛を描いている。 トニー・レオンとマギー・チャンという主演二

人の素晴らしい演技で長く記憶に残る映画だ。タイトル は「花のように美しい時代」という意味だというが、この 映画について考えたとき、人々は不倫という叶わぬ切な い恋を思い浮かべる。ベテラン作家のグ・ヒョソ (具孝書) が自分の短編小説にこの題目を使ったのも、そんな脈絡 を考慮したはずだ。 具孝書の短編小説で不倫の危うさともどかしさに翻弄 される二人の主人公は、35歳のソンジュと彼女よりも4 歳上のポンハンだ。映画とは違い、共に家庭があるわけ ではなく、ソンジュは夫と子供がいるが、ポンハンは独 り身だ。2月中旬、ポンハンが光陽に梅花を見に行く。 光陽へ向かう途中、光陽から程近い求礼に住むソンジュ に電話で連絡するところから物語は始まる。二人は大学 で同じ科の学生だったが、ソンジュは今は結婚して求礼 で暮らしている。最初から順調に事が運んだわけではな い。国語教育科出身の彼が昔の文献を読んで得た「2月の 梅花」という知識の2月は、実は旧暦の話だったからだ。 しかしポンハンのあきれてしまうような誤解が話の展開 にはむしろプラスになったと言える。最初の通話で彼は まるで冗談ぽく「会いたくて行くというのに他に理由が必 要なのか」 と言い放っていたのだから。 66 KOREANA 春号 2017


小説は二人の過去を振り返っていくのだが、大学時代のポンハンはソンジュに病的 な片想いをしていた。それは、 「自分の体がソンジュの完全な宿主になってしまった」と まで表現しているほどだった。それでも二人は結ばれなかった。最も大きな理由は、ポ ンハンのどうしようもない小心さと躊躇による期限喪失。 要するに 「グズグズしているうちにそうなってしまったのだ」 。 結婚後にもソンジュはたびたび電話をかけてきては大して急用だとは思えない愚痴 や身の上話を並べた。小説でこの状況は「余地」という言葉で表現されているが、可能性 を完全に遮断せずに希望の根拠を残しておくという意味だろう。ポンハンが梅花を口実 にしてソンジュに会いに行こうと思ったのにはこんな背景があった。 『花様年華』は、主人公たちの繊細な心の襞にそって読み進んでいかなければならな い小説だ。互いに愛していながらもその気持ちを口には出せないし、口に出してはいけ ない男女のドキドキするような駆け引きがこの小説の主題だ。ここで駆け引きとは、相 手に対する誘惑と拒絶のゲームを指すだけでなく、自分の欲望の噴出と抑制を微妙に調 節する内面的な闘争も意味している。二人の主人公は相手に自分の本心を正直にさらけ 出すことをせずに迂回と反語、比喩と逆説の修飾法に依存する。だから彼らのどちらか が「A」だと言えば、それは「not A」の可能性が大きいということだ。そうやって本心を 隠してジョークと嘘で立ち向かう二人を見ていると、読者はドキドキするような緊張感 と共に胸の片隅がジンと痛くなってくるような痛みを感じるだろう。 咲かない梅花を見る道理はないのだから二人は当然、梅花を見るのには失敗するが、 その代わりに梅花農園の石に咲いた梅の花模様を発見する。現実の梅花ではない石の中 の梅の花模様を目撃した二人は、約束でもしたかのように互いに見つめ合うが、短い時 間ではあったものの、その視線の深さと強さはこれまでになく深く、鋭いものだった。 「梅花が無くてもお前の笑顔のせいで世の中がみんな輝いているよ」 「恋愛する。アジョシは独身だから」 冗談とそれに似合ったゲラゲラという笑い声が続き、つづいてもう一度、二人の視 線が熱く交わる。そして「2月に来ても俺は梅花を見たんだ」 、 「いつ来ても俺たちは梅 花を見ることができるんだ」という言葉は、小説の題目と合わさりチャンスを逃した二 人の恋が依然として可能な状態で存在するという事実を暗示する。このようにして二人 の恋が時が過ぎても結ばれるべきだったのか。しかし作家の選択した結末はそんなに単 純ではなかった。 具孝書は多様な素材と主題を自由自在に消化できる作家だ。1987年にデビューし、 すでに30年間作家として活動しながら長編20編と中短編小説集8冊、短い小説集1冊、 短編選集と散文集をそれぞれ2冊ずつに童話1冊まで、合計30冊以上の本をだしてい る。そんな彼の実力がこの『花様年華』に集約している。具孝書は2016年4月『夜明けの 星が額に触れる時』という長編の恋愛小説を発表した。この小説を出した後、記者たち と会った席で彼は「個人的には映画やドラマはメロドラマが好きですが、小説では初め てメロドラマを描いてみました」と語った。 『花様年華』をメロドラマだというのは難し いだろうが、恋する男女の感情と関係性の描写を得意とする作家の持ち味が十分に発揮 された作品であることは間違いない。 韓国の文化と芸術 67


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春号 2017

韓国の文化と芸術

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韓国の婚姻

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vol. 24 no. 1

WINTER 2016

ISSN 1225-4592


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