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冬 号 2012

韓国の文化と芸術 特 集

ファ ッ シ ョ ン 物 語

冬号m2012 n o . n4o . 2 sum er 2012vo l.vo19 l. 26

韓国人にとって服とは? 東大門市場、韓国ファストファッションの連綿たる中心地 世界の舞台に羽ばたいた韓国のファッションリーダー ソウルスタイル

ISSN 1225-4592

v o l. 19 n o. 4

ファッションにかける情熱 韓国スタイル


発行人  編集理事 編集長  監修者  編集諮問委員

金宇祥 全南鎭 金鍾徳 嘉原和代 裵炳雨 Elisabeth Chabanol 韓敬九 金華榮 金文煥 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Werner Sasse

編集 金熒允編集会社 ソウル市麻浦区西橋洞384-13 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水2街274-34 Tel : 82-2-469-0361~5 Fax : 82-2-461-6798

Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr © 韓国国際交流財団2012 『Koreana』に掲載されているすべての記事 の著作権は韓国国際交流財団に帰属し、 著作権法により保護されています。 『Koreana』の記事を転載する場合には、 事前に『Koreana』編集室に電子メール (koreana@kf.or.kr) かFAX(82-2-34636086)で転載許可を申請してください。 『Koreana』の記事を引用したり、非営利目 的で使用する場合にも『Koreana『からの 転載であることが分かるようにクレジッ トを明示してください。

掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、『Koreana』や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。 1987年8月8日文化観光部-1033で登 録された季刊誌『Koreana』はアラブ語、 インドネシア語、英語、スペイン語、 中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語 でも発刊されています。

Koreana Internet Website http://www.koreana.or.kr

韓国の文化と芸術 冬号 2012 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル

チョルリク姿のモデル。朝鮮時代中期 の男性の官服チョルリクを美しいプリ ーツで再解釈した作品。モデルの大胆 な身ごなしとヘアスタイルが、伝統的 な韓服の破格のスタイリングを物語っ ている。 韓服デザイン:イ・へスン、写真:オ・サ ンソン、モデル:ノ・ソンミ、ヘア:イ・ ヘヨン、メイク:Nest by ユ・ヤンヒ ©Damyeon Image Book(2007年10月)

カラムシのウォンサム(女性の礼服) ©Damyeon Image Book

今後の新しい課題

 多くの国で長引く景気低迷と政治的混乱が続く中で、2012年は韓国の文化と 芸術がグローバル舞台で実り多い成果を上げることができました。いわゆる韓 流は著しい飛翔を続けています。たとえば、国内の映画業界はチケット販売で 記録破りの好調であったし、異端児キム・ギドク監督はベネチア国際映画祭で金 獅子賞を受賞しました。K-POPへの熱狂は非主流派のアーティストPSYを登場さ せました。PSYは数カ月間、滑稽で陽気なダンス音楽ビデオ「江南スタイル」で、 Ytube再生回数の新記録を樹立しました。またインバウンド観光客数が1000万 人を突破したことも注目に値します。韓国の文化娯楽収支は2012年に史上初め て純利益を計上しました。

これらの著しい成果にも関わらず、今後の課題が山積しています。多くの有能な 映画制作者は巨大企業に支配された敵対的な市場環境に苦しみ、 K-POPのアイドル 歌手たちは自らの芸術的魅力を広げるのに苦労しています。そして観光産業は持 続性を維持するためには早急のパラダイムシフトが求められています。しかし、 ようやく韓国も国際的な文化や芸術への貢献が可視化されることになり、今後 ますます明確なアイデンティティと独創性を確立する必要があります。 『KOREANA』 もまた2013年には、新たな挑戦を模索しなければならないと思います。 日本語版編集長

金鍾徳


特集 ファッション物語

04 08 16 22

7

特集1

韓国人にとって服とは?

梁善姫

特集2

東大門市場、韓国ファストファッションの連綿たる中心地

世界の舞台に羽ばたいた韓国のファッションリーダー

ソウルスタイル

チョ・ユンジョン

30 42

60

曹世耕, 金尹洙

特集4

36

52

インタビュー

「文化ゲリラ」李潤澤

金文煥

巨匠

木の家具を「宝石」で飾る豆錫匠 金克千

朴炫淑

アート・レビュー

息を紡ぎ人生を縫う―金守子の「ツー・ブレス展」 高美錫

36

世界の中の韓国人

ベネチア映画祭で金獅子賞を受賞したアウトサイダー映画監督、金基德 ダルシ・パケット

我が道

愛の咲く食堂

キム・ハクスン

56

ブック・レビュー

族譜で理解する韓国社会 『韓国の族譜』 近現代の韓国音楽の宝庫 国楽アーカイブ

69

27

特集3

32

46

李珍朱

58

遠くの目

60

エンタテインメント

62

グルメを楽しむ

66 70

ウェルナー・ザセ

朱宰槿

私の韓国との関わり-中島敦・湯浅克衛など-

木村一信

世界を躍らせたB級ペーソス「江南スタイル」とPSY

豆腐料理

芮鍾碩

ライフスタイル

「本の声を聞く」祭り

李光杓

韓国文学の旅

マルシュアス、またはピエロ 『猫蛇塚』 沈相大

魚秀雄

イム・ジンモ


特集 1

韓国人にとって 服とは? 「韓

国人は、どうしてそんなに着こなしがうまいのか」 海外に住んでいる友人や外国人から、よく聞かれる質問だ。韓国にいるときは、この質問に実

感がわかなかった。ところが数年前、海外研修のためアメリカのニューヨークにある大学で1年ほど過ご した後、私もソウルの街中で感嘆の声を上げた。 「いったい韓国人は、どうしてこんなに着こなしがうまいのだろうか」 実際に平均的にみて、ソウルの人たちは、 ニューヨークの人たちよりも着こなしがうま

いるためではないだろう。うまく着こなさなけ

服を着ることに対する特別な考え、色彩感覚、そして有能なデザイナーが常 に新しい服を発表し続ける巨大な市場-韓国人が服を着ることは、この三つ の要素からなっている。

ればいけないという考えが、一般的にとりわけ

ヤン・ソンヒ(梁善姫、中央日報論説委員)

い。おそらく、ファッション感覚が特に優れて

強いため、外出の服装にとても気を遣うからだ と思われる。また、韓国は産業発展が服地と縫製業から始まったので、服の製造と流通のインフラがたい へん整っている点も挙げられる。

服から始まった経済発展 韓国の経済発展は、服から始まったといえる。それだけに繊維とアパレルは、経済成長の原動力になっ た産業だ。韓国の近代産業は、実際に織物と縫製から始まった。韓国の輸出品目は現在、電気・電子、半導 体、造船などが中心だが、1960~70年代にはアメリカやヨーロッパ向けのドレスシャツ、ズボン、スカー ト、ブラウスなどが最も多かった。韓国人は元来、勤勉で手先が器用なため針仕事にも長けていて、服作 りの腕も秀でていた。衣類の生産基地が中国に移った今でも、企画と流通は韓国企業が行うことも多い。 しかし、黎明期の衣類輸出はOEM(相手先ブランドによる生産)で行われていたため、ファッション産業 とはいえないものだった。当時の韓国の衣類市場を振り返ってみると、1980年代の初めまで、上流層の女 性は質の良い服地を買って洋装店で仕立ててもらっていた。洋装店は、ファッション雑誌の服をそのまま 作ったり、客の好みと注文に合わせて仕立てたりしていた。それ以外には「市場の服」と呼ばれる平凡な普 段着が主流だった。 そうした中、1980年代に本格的なナショナルブランドが登場すると、韓国にもプレタポルテの時代が訪 れ、本格的なファッション産業が始まった。そして、韓国のファッション産業は、短期間で飛躍的に発展 した。韓国は現在、ファッションブランドの天国であり、アメリカやフランスのラグジュアリーブランド

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世界的に活躍する韓国人モデル、 イ・ヒョニ氏(写真左)を起用したフ ァッション写真家スティーブン・マ イゼル氏による新世界百貨店の2012 年の広告。カナダの有名モデル、コ コ・ロシャ氏と共に。 韓国の文化と芸術


韓国は、ファッションブランドの天国であり、アメリカやフランスのラグジュアリーブラン ドのCEOが年に一度は立ち寄る大きなマーケットになっている。海外化粧品メーカーは、新 製品を韓国で真っ先に発売して、市場の反応を見ることもある。韓国の消費者は、ほとんど 全てのファッション商品にとても敏感だからだ。

のCEO(最高経営責任者)が年に一度は立ち寄る大きなマーケットに

を整えていた。もちろん貴族社会での話だ。

なっている。海外化粧品メーカーは、新製品を韓国で真っ先に発売し

韓国社会において服は、身分、性別、既婚・未婚などを表し、哲学

て、市場の反応を見ることもある。韓国の消費者は、ほとんど全ての

を体現する手段でもあった。一着の服に、色と形で宇宙の理と起源ま

ファッション商品にとても敏感だからだ。また韓国人デザイナーも、

で込めようと努めていた。韓国人は、今では覚え切れないほど複雑な

アメリカやヨーロッパに相次いで進出している。

規則を服に取り入れ、その服を着ることを儀式のように受け継いでき たのだ。もちろん今では昔の伝統的な規範はなく、そのような服の意

ファッションDNA 韓国人は、昔から服に格別な関心を持っていた。韓国は元々、儒 学を尊ぶ哲学者の国だ。そのため、何に対しても規範と基準が厳格

味さえ忘れ去られている。それでも、韓国人は誰かに会うときや外出 するとき、服をうまく着こなさなければいけないという意識をDNAの ように持ち続けているのかもしれない。

だった。人物の評価にも基準と条件があり、その条件は「身言書判」 だった。つまり容貌、話し方、文章、判断力だ。興味深いのは、容貌 が最も優先されていたという点だ。 実際に韓国の昔の文書を見ると、人物を描写する際、どういう顔

韓国ファッションのアイデンティティは色 韓国ファッションのキーワードは、色だ。今年9月のニューヨー ク・ファッションウィークに5人の韓国人デザイナーが開いたグルー

立ちで、どんな服をどのように着ているのかから始まることが多い。

プ展「コンセプト・コリア」のテーマは「五方色-青、白、赤、黒、黄」

しかしながら、顔は持って生まれたものなので、どうしようもない。

だった。この5色は、それぞれ東西南北と中央を示しており、中国の

そのため、服の着こなしで風采よく見せることが重要だったのだ。

哲学から伝わったものだ。服だけでなく、日常生活や文化において

昔の記録を見ると、韓国では、社会で活動する男性の贅沢がたび

様々な形で用いられている哲学的な色でもある。もちろんその5色だ

たび問題になっていた。朝鮮中期には、王が直々に男性の耳飾りなど

けで服を作ったわけではなく、冠婚葬祭など通過儀礼では、そうした

のアクセサリーを禁止して、質素な装いをするように指示するほど

色がそれぞれ異なる配置で用いられていた。

だった。さらに、貴族の男性は白い肌を手に入れようと、米をすりつ

韓国の服の色は、その5色よりもはるかに華やかで多彩だ。藍や

ぶして、その水で顔を洗ったが、これも行き過ぎた浪費であり禁じる

柿など各種の植物から採取した色で染めて、独特な色を表現した。ま

べきだという記録も出てくる。また、家で客人を迎えるときも勉強す

た、色は身分を表しもした。例えば、女性のチョゴリ(上衣)の袖先

るときも、さらには妻と顔を合わせるときも(当時は男女の住居空間

や結び紐の色を見れば、既婚なのか息子がいるのかを知ることができ

が完全に分けられていた)、男性は常に服や帽子などで端正に身なり

た。色の組み合わせも奇抜だ。韓流ドラマの時代劇を見るときには、

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韓国の文化と芸術


ニューヨークで2012年10月11日に開かれた「Kファ ッション・センセーション」の会場に飾られた韓国 ブランドの作品 ©韓国ファッション協会

主人公の服の色に注目して欲しい。黄色いチョゴリの袖先を藍色や赤

社更生法に相当)に追いやられはしたが、ナイロン生産で韓国最大手

紫色の布で飾って、薄紅色のチマ(スカート)をはいたり、薄紅色の

だった韓一合繊や化学繊維メーカーの高合などは、すべて東大門市場

チョゴリに青いチマをはいたりする。他の国では想像できないような

の反物商から始まった。また、韓国の大手ナショナルブランドの羅山

色を不思議と調和させている。(もちろん十分に考証されたものもあ

やヒョンジアパレルなども、東大門市場から育った企業だ。最近で

り、想像力が加味されたものもあるだろうが…)

は、ニューヨークに進出する東大門市場出身のデザイナーも多い。

中国人は、服に施した刺繍で多彩な色を楽しんだ。もちろん韓

東大門市場は、日本、中国、香港、ロシアなど近隣国のバイヤー

国にも刺繍はあったが、それよりもチョガク褓というキルティング

が服を買い付けに来る中心市場でもある。中国や香港などでは最近、

(パッチワーク)で色違いの布をつなげて、服や布団などの生活用品を

韓国衣類のショッピングモールが多くなっているが、そうした店で仕

作るのに長けていた。 近代以降、西洋の服飾を受け入れたデザイナーは、そうした韓国

入れている服は、大部分が東大門市場のものだ。例えば、香港コー ズウェイベイのそごう近くのショッピングセンターには100店舗余り

の色の調和と西洋の服飾とを融合できずにいた。そのため、韓国の伝

の衣類店があり、そのうちの80%以上が韓国衣類を取り扱っている。

統的な色彩感覚と日常的な衣生活とは、長きにわたり切り離されてい

そうした店は月に1~2度、東大門市場を訪れて衣類を仕入れていく

た。しかし最近、センスと才能あふれる若者が、そうした韓国の色の

という。

調和と西洋の服飾との融合を進めている。

何といっても、東大門���場はデザイン競争力が高い。特に10数年 前からミラノ、パリ、ニューヨークなどでファッションデザインを学

ファストファッションの元祖

んだ新鋭デザイナーが東大門市場にショップを出し、自らデザインし

最近「ザラ」や「H&M」などファストファッションが、世界の

た商品を売り出すことが多くなっている。東大門市場では服地の買い

ファッション業界をリードしている。しかし、韓国には昔から、そう

付けからパターン・生産まで全てが行えるため、デザインを渡せば1

したファストファッションの源流があった。東大門市場に代表される

日で1000着の服を作ることもできる。そのため、昨日売れた服が今

大規模な衣類卸売市場だ。

日は買えないほどデザインの回転が早く、いつも新しい服があふれて

東大門市場は、1960~70年代の経済開発期から様々な生地と衣類が 集まる場所だった。韓国は化学繊維産業が発達したが、そうした企業 を立ち上げて大企業へと育てた第1世代の実業家は、多くが東大門

いる。その上、値段も手ごろだ。 韓国の着こなし上手な人たちは、おおいに東大門市場の恩恵にあ ずかっているといえよう。(翻訳:坂野慎治)

市場の出身だ。アジア通貨危機による構造調整で廃業や法定管理(会 K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

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特集 2

東大門市場、 韓国ファスト ファッションの 連綿たる中心地 数

カ月前、ソウルを離れて韓国の南の島・済州道に引っ越した。上の子が今年、済州英語教育都市に 開校したインターナショナルスクールに入学したからだ。済州道にはデパートもショッピングモー

ルもないため、初めは「慢性的なショッピング癖が、ついに直る!」と考えていた。しかし、勘違いだとす ぐに気付いた。30年以上、苦楽を共にしてきたショッピング・ホリックのDNAは、宿主の心変わりをもの ともせず、存在感を現してきた。手の届くところにあったが、今では遠くにあるものをリストにして、も がき苦しんだ。その最たるものが東大門市 場だった。

度、記名でファッションコラムを書き、東

東大門市場は、100年を超える歴史があるが、依然として若々しい衣類専門市場 だ。挑戦的なデザイナーのファッション・ラボであり、流行に敏感な人たちの ファッション・アミューズメントパークなのだ。

大門に足しげく通った。一流モデルの写真

イ・ジンジュ(李珍朱、中央日報記者)| 写真 : ジョン・ホソン

新聞のファッション記者として月に一

を撮るときも、何かが物足りないときも、 何はさておき昔馴染みの宝島へと駆け付けた。個人的にも、とても重要な場所だった。スパンコールの舞 台衣装は、スペイン・イビサ島のクラブでヒットし、モノキニの水着やデザイナードレスは、ドバイのホテ ルで輝いた。東大門があったからこそ、私はファッションピープルとして振舞うことができたのだ。

「世界最大にして唯一無二の自己完結的ファッションクラスター」 東大門市場は、一つの巨大な発電所だ。ファッションという現代の最も熱い分野のアイテムが、人口 1000万人のメガシティー・ソウルの真ん中で企画・生産・流通されている。そうしたダイナミズムは、経験 の浅い韓国のファッションを一気に世界のトップレベルに押し上げた。ビデオアートの創始者ペク・ナム ジュン(白南準)は生前、「私は韓国人の可能性と生命力を南大門市場と東大門市場に見出す。世界経済の競 争力は流通と自由市場の機能だが、南大門市場と東大門市場は、その問題をすでに100年前に解決してい る」と高く評価していた。 東大門市場は、鍾路5街の広場市場から清渓8街の総合市場までの2キロに及ぶ一帯を指している。そ の一帯には、およそ40の商店街、3万5000の衣類店、2万の関連工場が集まっていると推定される。その

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韓国の文化と芸術


観光特区・東大門ファッションタウンを代 表する総合ファッション小売ビル「ドゥー タ」から広場に出てくるショッピング客


ファッションバレーで働く人は15万人、1日の流動人口は100万人。

唯一無二の自己完結的ファッションクラスター」 だ。

韓国貿易協会によると、1日の売上は500億ウォン、年間の売上は10 兆ウォンに達する巨大な市場だ。 東大門市場は、コリアン・ファストファッションの中心地でもあ

「Open until 5 am!」 東大門市場は100年以上、衣類専門市場として名声を築いてきた。

る。2000年代に入り「ザラ」や「マンゴ」などのグローバルSPA(アパ

その始まりは、1905年にパク・スンジク(朴承稷)氏が中心となって

レル製造小売業)ブランドが毎月3~4回、新商品を出すファスト

作った広場市場にある。パク・スンジク氏は、反物商から斗山グルー

ファッションで業界の流れを変えた。しかし東大門は、すでに数十年

プの基盤を築いた人物だ。韓国の10大企業グループに成長した斗山

前から「多品種少量生産」という中核戦略を駆使してきた。服の材料が

が「ヴォーグ」など海外ファッション誌の韓国版を発行して、ドゥータ

全てそろっており、安価な専門人材も常に待機していた。市場である

(Doota=斗山タワーの略称)という実験的ショッピングモールを運営

と同時に工場でもあったのだ。東大門市場の卸売・小売商に起業、求

しているのも、そうしたルーツがあるからだ。そのように始まった市

人、求職、ビジネス、工場などの情報を提供する専門コミュニティサ

場の歴史は、朝鮮戦争当時、北側からの避難民が作った平和市場へと

イト「トンタ・ドットコム(www.dongta.com)」の代表で、東大門市場

続いていく。

の歴史を研究してきたシン・ヨンナムさんの言う通り「世界最大にして

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東大門は、1960年代末から1970年代初の産業化を経て、韓国の衣

韓国の文化と芸術


類卸売市場を南大門と二分する存在になった。南大門がきめ細かい手

崩した。1998年にはミリオレ(Migliore)、1999年にはドゥータのよう

仕事で良質の服を作ったとすれば、東大門は一回り安い衣類を供給し

な総合ファッション小売ビルが建てられ、東大門市場は抜きん出た

た。労働者は、日の入らない地下や屋根裏で、コーヒー1杯分の日当

ファッションタウンへと発展していった。

でつらいミシン仕事を続けた。平和市場の裁断師だった22歳の青年

東大門市場は、昔ながらの市場とデザイナークラブやユアス

チョン・テイル(全泰壹)が、労働条件の改善を叫んで焼身自殺したの

(U:US)など東側の卸売商圏、ミリオレやドゥータを中心とする西側

も、その頃だ。韓国の労働史で最も熾烈な記憶には、そうした背景が

の小売商圏に大別される。大きく異なる二つの世界が共存しているわ

あった。

けだ。卸売市場がニセモノとコピーの天国である反面、小売市場は、

東大門印の服は、国内外に急速に広がっていった。東大門がアジ

本物の高級ブランドとオリジナルのデザイナーブランドを取り扱って

アの生産基地であり輸出拠点だった当時、いわゆる東大門ソーシング

いる。昔ながらの市場は、明け方に店を開けて午後6~8時には店

のファッション・サイクルは、たったの1日だった。有名デザイナー

を閉める。卸売市場は、夜9時から翌朝6時まで営業する。小売市

が海外コレクションで発表したスタイルも、翌々日には並んでいた。 1990年代初に建てられたアートプラザは、貸切バスで訪れる地方の 商人を営業時間の繰り上げで取り込み、南大門卸売市場の牙城を切り

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「ドゥータ」のビル内。午前10時半から翌日の午前5時まで営業し、1日の来店者 はおよそ5万人

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1

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場は、午前10時から翌朝5時まで開いている。ハリウッドスターの ジェシカ・アルバは、今年の春に韓国を訪れた際、ツイッターに「Late

1.「デザイナークラブ」前の人気のない大通りを走り去る車が、 夜も深いことを物語っている。 2.「デザイナークラブ」のそばにある卸売市場の路地

night shopping in Seoul. Open until 5 am!」と投稿した。 1990年代末から2000年代には、不況で職に就けない若いデザイ ナーとベンチャー店舗が、新興勢力として急浮上した。デザイナーの

わせたイベントを先を争うように行って、東大門のランドマークに

下で10年近く修行する徒弟制度のようなナショナルブランドに比べ

なった。

て進出しやすく、意思決定も速かった。市場の反応を即座に知ること ができる点も強みだ。東大門は、新しいスタイルのファッション実験 室になったのだ。

新進デザイナー養成システム ソウルの明洞にも梨泰院にもある服を、あえて東大門で買う理由

「留学派デザイナーが東大門に押し寄せてくる」という噂が広がっ

はない。デザインの自活力こそ、東大門の競争力だ。東大門市場で働

たのも、その頃からだ。イタリアのマランゴーニ校を出て「エルカン

く15万人のうち、ファッションを専門的に学んだデザイナー、ある

ト」のデザインチーム長を務めたキム・ホウォン氏、イギリスのセント

いはデザイナーのような役割をする人だけでも1万人に上る。繊維畑

ラル・セント・マーチンズ校出身で「ポール・スミス」と「ケンゾー」に勤

生え抜きの店主のセンスも無視できない。そうした店主が売り場一つ

めたチョン・ヘソン氏などが、メディアに取りざたされた。シリコン

当たり毎週5~6種類のデザインを発注すれば、市場全体では1日に

バレーのスティーブ・ジョブズの車庫のように、東大門は、若い独立

2~3万種類ものデザインが生まれることになる。まずは数量が圧倒

デザイナーの聖地になった。そうしたデザイナーを支えたのが、賢明

的だ。

で好みがはっきりとした新世代の消費者だ。ミリオレとドゥータは、 ブレイクダンス・バトルやロックコンサートなど10~20代の好みに合

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ソウル市傘下機関のソウルファッションセンターは、ファッショ ン創業スクールを通じて東大門の新進デザイナーにチャンスを与 韓国の文化と芸術


「マルタン・マルジェラのようにアバンギャルドにブランド・アイデンティティを求めてきたが、 ここでは実際に着られる服を作っている。東大門という実験室から学ぶことが多い」

えている。ドゥータは毎年「ベンチャー・デザイナー・コンファレン

る。

ス(DVDC)」という公募展を開いて、受賞者に地下1階ドゥーチェ (Dooche)の売り場の1年間無料テナント権を与えている。いわゆる ブランド・インキュベーティング・システムだ。 「クレスエディム(Cres E Dim)」のキム・ホンボム氏が、代表的な

新しいパートナー、インターネットショッピングモール 世界的な不況は、アジア通貨危機も耐え抜いた東大門市場を揺る がしている。2005年頃からグローバルマーケティングで武装したSPA

成功例だ。キム・ホンボム氏は2008年に

ブランドが韓国に大挙進出し、環境も変

DVDC大賞を受賞して、2012年9月に「コ

化した。「安くて良い服」の境界が消えた

ンセプト・コリア」の支援対象(5人)に選

のだ。

ばれ、イ・サンボン氏やソン・ジョンワ

1960~70年代に東大門神話を生み出

ン氏など韓国のトップレベルのデザイ

した安い労働力は、すでに中国か一部の

ナーと共にニューヨーク・ファッション

東南アジア諸国でしか実現できない。裁

ウィークに参加した。ドゥーチェでス

断、パターン、ミシンなどの中核人材も

タートを切ったキム・ホンボム氏は現在、

不足している。韓国衣類産業協会による

1階エスカレーター横の最も広くて目立

と、ソウルの縫製工場の労働者は現在、

つ場所に店を構えている。ブランドを立

85%が40~50代だ。ファッションピラ

ち上げてから3年目にして、注目のデザ

ミッドの上層部であるデザイナーは供給

イナーに成長したのだ。北欧のデザイ

過剰だが、下層部を支える裁断と縫製は

ナー、ドリス・ヴァン・ノッテンのように

昔の女工だけだ。製造インフラの崩壊

洗練されたカラーブロックで認められて

は、日本と台湾がすでに経験している。

いるが「初めは、やりたいデザインと大

企画・製造・流通が同時多発的に行われて

衆性との間で大いに悩んだ」と打ち明け

いたクラスターは、一つの軸が崩れてし

ている。

2

学で職人を育成すべく検討しているが、

男性服「グラウンドウェーブ(Ground Wave)」のキム・ソンホ氏は、ドゥータ1階に女性服「ザズー(Zazous) 」 を出店している。キム・ソンホ氏は、ソウルコレクションで僧衣を連

まったのだ。ソウル市は、東大門名匠大

それだけでは心もとない。 不動産投機に近かった商店街の分譲も、東大門の斜陽を招いた。

想させるグレーのキルティングコートで注目され、ドゥータ4階の男

商店街の供給が飽和状態になり、空室率が上がったのだ。ソウル中

性服売り場への入店を提案された。だが「女性服に挑戦したい」と逆に

区庁の調査によると、2011年8月現在の平均空室率は30%に迫って

申し出た。「マルタン・マルジェラのようにアバンギャルドにブラン

いる。特に2005年以降に竣工したショッピングセンターは空室率が

ド・アイデンティティを求めてきたが、ここでは実際に着られる服を

63%に達し、もぬけの殻ともいえそうだ。賃貸料が下がった商店街

作っている。東大門という実験室から学ぶことが多い」という。

では、一部の階をビジネスホテルに改築したところもある。

それ以外にも、ドゥータにはチェ・ボムソク氏の「ジェネラルアイ

そうした中、内需から輸出へ、オフラインからオンラインへと東

ディア(General Idea)」、イ・ドイ氏の「ドルドルドル(DolDolDol)」な

大門のフィールドを広げようという努力���本格化している。ドゥータ

ど、ソウル・ファッションウィークを代表する顔ぶれが店を構えてい

の1日の平均来客数は、2012年4月現在で5万人、そのうち1万人が

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「ドゥータ」4階のメンズデザイナーゾーン「2ndG」でショッピングする 若者

東大門パラディソ 東大門ファッションタウン一帯は、2002年にソウルの観光特区に指 定された。梨泰院、南大門・明洞に続き3番目だったが、その前から

外国人観光客だ。人数では全体の20%ほどだが、売上では半分を占

ソウルの観光客の半分ほどが立ち寄る観光名所だった。昔ながらの市

めている。そのうち70%は中国人観光客だ。この機に東大門をブラ

場と近代的なショッピングモールが混在する東大門は、韓国の現代

ンド化して、物流・金融・エンターテイメントが集約された北東アジア

史の象徴でもある。外国人は、東大門で圧縮された時空を経験する。

の中心商圏に成長させるべきだという主張が、説得力を得ている。

ニューヨーク発のホットイシューとなったトルコのイスタンブール・

低価格競争で一時は敵だと考えられていたインターネットショッ ピングモールも、パートナーになっている。「オークション」や「G

グランドバザールに劣らないほどエキゾチックだ。 東大門では、今でも遊び心ある楽しいショッピングが待っている。

マーケット」では、衣類の70~80%が東大門の製品だ。卸売商が、

狭くて不便だが、色々な楽しみが隠れていた路地裏の遊び場のよう

シーズンの過ぎた在庫処分品を販売することも多い。百貨店やテレビ

だ。ドゥータをはじめ値札の付いた売り場が増えたが、今でも値引き

ショッピングのサイトにも進出している。「新世界モール」は、卸売商

交渉ができる。鶏小屋のように小さな売り場の狭苦しい通路、いつも

店街の営業時間に合わせて、オンライン夜明け市を開いている。「現

修理中の古い建物の不便さも、かえってユニークに感じられる。額縁

代ホームショッピング」は、専門の担当スタイリストが目利きした商

の絵のように壁にかかっていた服をはおって、屋台に眠っていたビン

品を、1週間以内に海外に配送している。「スタイル・ナンダ」など人気

テージ品を安値で目覚めさせる楽しさも、なかなか乙なものだ。さら

のあるインターネット衣類ショッピングモールも、東大門の世界化の

には、世界的なコーヒー専門店「ポール・バセット」や正統派スウェー

柱の一つだ。「1万ウォンの服を売って大金を儲けた」という“4億少

デン・カフェを標榜する「フィーカ」のコーヒーを片手に、デザイナー

女”など富豪少女ブームを呼んだショッピングモールが、先を争うよ

の限定商品を手にする味ときたら…。東大門の夜は、まだまだ熱い。

うに中国、日本、アメリカに法人を設立している。

14

(翻訳:坂野慎治) 韓国の文化と芸術


東大門市場の夜景

10時。秋夕(旧暦8月15日)の書き入れ時を控えた東大門は、

光煕市場は、客入りがよくなかった。5つの売り場をつなげた「ベ

ロックスピリットにあふれていた。ドゥータ前の野外舞台で

テル(Bethel)」のペク・ウォングク社長(55歳)は「歩けば肩がぶつかっ

は、ロックコンサートがクライマックスを迎えていた。観客の半分

たのは、10年前の話だ」とため息をついた。「150~300万ウォンの毛皮

は、買い物袋を手にした外国人。日本から来た千葉ハルミさん(33

を買うのは、今では中華圏の観光客だけだ」という。深夜1時「モンゴ

歳)と山下ユキコさん(32歳)は「初めてのソウル旅行で楽しい見物が

ルで韓流商店とホテルを経営している」というオ・ユナさん(48歳)が、

できた」と満足げだった。その日、千葉さんが買ったのは、真っ赤な

ミンクのコートを買っていった。

パンプス。ドゥータ3階で1万円(14万ウォン) だったという。

外に出ると、カーキ色のTシャツのミリタリールックで決めたロシ

二人は革のジャケットを買いに、通りを渡って光煕市場に向かっ

アの親子に出会った。娘のアンナ・ウィンゴさん(31歳)は幼稚園の英

た。その途中、屋台でミネラルウォーターを一本ずつ手にした。増築

語講師。韓国で9年間暮らし、梨泰院や高速ターミナルの地下商店街

中の商店街は、落ち着かない雰囲気だ。立入禁止のテープで囲まれた

まで知り尽くした“達人”だ。母親のエレナ・コルサコヴァさん(51歳)

エスカレーター。そのそばの階段を上がると、外の様子とはずいぶん

が好きな場所は、路地裏の露店。政府の取り締まりにも関わらず、東

違って、 2階には別世界が広がっている。つやのある毛皮のコート、海

大門のニセモノの名声は衰えていないようだ。

外のコレクションで発表されたばかりの革ジャケットが並んでいる。

デザイナークラブの方に向かうと、深夜2時半の路地には、各地

それぞれ「ニールバレット」、「バレンシアガ」、「ロックシック」風

方の小売商に送るビニール袋が積み上げられている。ビルの前の歩道

のスタイルだ。“広(クァン)バレット”や“広(クァン)レンシアガ”と

は、仕込みを終えた地方の商人の荷物で雑然としていた。人一人入れ

呼ばれるコピー商品。知る人ぞ知る「ハイダーアッカーマン」もある。

るほどのカバンは、半分ほど荷物が詰められていた。ドゥータまで歩

山下さんは130余りの店舗を2~3回りして、ベージュのシンプルな

いてタクシーに乗ると、不夜城のビルも点々と明かりが消えている。

ハーフコートを選んだ。19万円 (270万ウォン) 也。

東大門の夜が深まっていく。(翻訳:坂野慎治)

K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

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特集 3

世界の舞台に羽ばたいた 韓国のファッションリーダー チョ・セギョン(曹世耕、ファッションコンテンツクリエイター) キム・ユンス (金尹洙、ファッションジャーナリスト)

「服は私の夢」 チェ・ボムソク(ゼェネラル・アイディア・クリエイティブ、ディレクター)

チョ・セギョン:弘大前(弘益大学校前)の小さな壁を借りて始めた服屋から、ここまできた。今や 韓国で指折りのメンズデザイナーで、挑戦する若さの象徴になった。そのため、チェ・ボムソク氏 のデザイナーストーリーは、いつも話題になる。 チェ・ボムソク:幼いころから好きな服に絞って、その道をずっと進んできたからだと思う。学校の 勉強の代わりに、道端で服を売り始めた。最初に壁を一つ借りて服を売っていたときは、屋根のある 場所で商売するのが夢だったが、すぐにその夢がかなった。東大門でTーシャツを売って、デザイン をしたいと考えていると、じきにデザイナーになった。もちろん、たやすい道ではなかったが、夢が できれば迷わず前を向いて走り続けてきたから、今の自分があるのだろう。 チョ:正規のデザイン教育を全く受けていないため、先入観を持つ人も多かったのでは? チェ:私は中卒だ。父は「もし高校と大学に行かせていれば、今よりも立派になっていたのに…」と言う が、私は「それは違う。もしそうしていたら、今の自分はなかった」と答えている。私は、初め て屋根もない場所で商売を始めたときを中学、東大門の時期を高校、デザイナーとしてソウ ルコレクションに出始めたころを大学の課程だったと考えている。色眼鏡で見ていた人 たちも、私の仕事を見て、認めてくれている。 チョ:ソウルでスターデザイナーとして活動し、条件の良い提案も数多く受けて、安住 することもできたはずだが、ニューヨーク行きを選んだ。金銭的に厳しいのにも関わ らず。その理由は? チェ:ソウルの市場に限界を感じて、自分の服をもっと多くの人に着て欲しいと思っ たからだ。どうせ始めたことなら、大きな舞台でやってみたかった。他のデザイナーの ブランドを見ると、もう少し頑張れば、すぐに追いつけると考えた。それで行ってみたわ けだ。だが実際に行ってみると、競争相手があまりにも素晴らしくて、手に余るほどだっ た。費用もたくさんかかったが、自分を新しく試すチャンスだから損することはないと考 えて、飛び込んでいった。もちろん、最初のシーズンはみじめなものだった。ニューヨー クのダウンタウンの小さなギャラリーでショーを開いたが、取材の記者はおろか人が集まら

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韓国の文化と芸術


「私は、初めて屋根もない場所で商売を始めたときを中学、 東大門の時期を高校、デザイナーとしてソウルコレクション に出始めたころを大学の課程だったと考えている」

ずガラガラだった。だが最近、ゼェネラ

ているが、そこにツイストを加味したデザ

ル・アイディアのコレクションは、GQ.C

インをよくする。意図したことはないが、

OMにレビューが必ず載せられ、WGSN

私の服がユニセックス的だという話をよく

のニューヨークコレクション・ベスト5に

聞く。

も選ばれた。

チョ:そして、東洋的なニュアンスも強い。

チョ:第2のチェ・ボムソクを夢見る人たち

キム:そこは面白い点だ。私はとてもモダ

へのアドバイスは?

ンだと考えて作っているが、レビューは

チェ:自分の運だけを信じて突き進むのは

「宗教的、東洋的」に集中している。私の使

危険だ。楽天的に、だが同時に現実的でな

う素材が、そんな雰囲気をかもし出してい

ければいけない。漠然と誰が助けてくれる

るのだろう。

と考えるかもしれないが、実際には人に

チ ョ:そ の 通 り だ 。 素 材 が 非 常 に 印 象 的

頼った分だけリスクが大きくなることも

だった。去年秋のパリコレクションの際、

知っておくべきだ。私もデザインと経営の

デザイナー、チェ・ボムソク氏。

ソウル市が支援するグローバルファッショ

狭間で苦しんでいたときに投資家が現れて、それを信じて事業を広げ

ンブランド育成プロジェクト「10 Soul’s Seoul」で発表した2着の服

たが、その代償として跳ね返ってきたのは自分の借金だった。

を見たときも、ラインはモダンだが宗教的で東洋的な印象を受けた。 まるで、その場に香でもたいているようだった。 キム:様々な素材を探し歩いている。そうするうちに見付けたのが、

韓国的アバンギャルドと「ドゥータ」

ヌビム(キルティング)だ。ヌビムは、内と外にそれぞれ違う素材を使

キム・ソンホ(金善虎、ファッションデザイナー、グラウンドウェーブ・クリエ イティブディレクター)

うことができる。また、西洋の服に合わせると、とてもモダンになっ

チョ・セギョン:コレクションの後、良い評価が続いているが、安定期

のはないかと探したところ、韓紙(伝統的な紙)の服地を探し当てた。

に入ったということか。

去年の秋に発表したコレクションで、韓紙の服地を使ったときも宗教

キム・ソンホ:すでに3年になるが、いまだにジェットコースターに

的・東洋的と評された。

乗っているような気分だ。私が見つめる方向は同じだが、シーズンご

チョ:特に韓紙の風合いがそのまま生かされていて、初めて見たとき

とにバイヤーの反応が違う。私がよく売れると考えていた服が、実際

は「あれは、何なんだ?」と思った。

に人気を得たこともあるが、逆の場合もあった。もう少し経験が必要

キム:大邱に韓紙の服地を開発している人がいる。韓紙は本来、湿気

だ。

をとる働きがある。韓国の夏はとても蒸し暑いので、そうした市場を

チョ:韓国のメンズデザイナーのキャラクターは、本当に多彩だ。

狙って5年間、実験して作った服地だという。しかし、商品化できず

スーツ中心のデザイナーもいれば、ここしばらくアウトドアのコンセ

に困っていた。そのとき、縁があって私と出会った。質問のとおり風

プトを用いたデザインが目に付いた。だがグラウンドウェーブは、ど

合いが生きていて、しかも柔らかいので、高級素材として可能性があ

んなカテゴリーとも相いれず「感性」に訴えている。

ると判断し、コレクションに活用した。

キム:男性服はこうあるべきだという固定観念を捨ててデザインする

チョ:独特な素材を意識的に探し歩いているのか。

ため、そう感じるのかもしれない。男性服の基本的なルールを基にし

キム:新人デザイナーにとって、良い素材は手に入れることさえ難し

K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

た。さらに、伝統的な技法で作った素材で、モダンな印象を与えるも

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「私はとてもモダンだと考えて作っているが、 レビューは『宗教的、東洋的』に集中している」

い。量が非常に少ないため、気に入っ

ソ・ヨ ン ヒ: 『 ヴ ォ ー グ・コ リ ア 』の

た素材があっても、注文を受け付けて

ファッション写真を撮る際に、パリや

もらえないからだ。だが、その会社は

イタリアの『ヴォーグ』ができないも

規模が小さいので、私の要望ともかみ

のを作ってみようと、韓服スタイリン

合った。

グに挑戦した。完全平面裁断の韓服を

チ ョ:そ う し た 挑 戦 が 、 グ ラ ウ ン ド

着たときに現れるラインがあり、立体

ウェーブを差別化する力になるのだろ

裁断の良さとは違う。例えば、袖や襟

う。

のラインなどだ。そうした魅力を外国

キム:そういうことだ。もともと直接

の人たちにも訴えられるよう、韓服を

やってみて経験してみないと、気がす

クチュール的に読み解いてみたかっ

まない性格だ。デビューのときも、自

た。私が最も魅力的に感じたのは、下

分が作った服を持って、まずはパリト

着だ。ソッコッ(女性の下ばき)、ソッ

レードショーに出かけていった。新人

ソッコッ、ムジギチマ(チマの下に着

デザ���ナーとしては破格のポップアッ

る下着)、タンソッコッ(肌袴類)を重

プストアもギャラリア百貨店に開いた

ねて着たときに演出される美しさは、

が、そのときも同じだった。自分が

スタイリングをする間、私の心を高ぶ

作った服の評価を聞きたくて、手当た

らせた。またコットン、カラムシ、シ

り次第に電話して訪ねていったのが契 機になった。

デザイナー、キム・ソンホ氏によるヌビム(キルティング)地 のトレンチコート(写真提供:グラウンドウェーブ)

ルク、亢羅(絽織り)など韓国の素材 は、使い方によってイメージが豪華に

チョ:新しい試みがあるとすれば?

も素朴にも変わる。今年の夏、ロンドンファッションウィークを見

キム:2013年春夏のソウルコレクションは、ランウェイではなく、プ

にロンドンに行ったとき、セレクトショップの「ドーバーストリート

レゼンテーションにした。10分足らずの間に服を見せるだけでは物

マーケット」で、イギリスのテキスタイル誌『セルビッチ(Selvedge)』

足りなく、さらに多くの人に服を見てもらい話を聞きたかった。そ

の表紙に、私のスタイリングした韓服の写真が載せられているのを見

うした過程で、新しいアイデアと方法が得られた。また、東大門の

た。韓服の国際化も遠くないと感じた。

「ドゥータ」でレディースラインを展開している。世界の舞台では韓国

キム:韓服の美しさを伝える展示と雑誌の制作も、活発に行っている

的なアバンギャルドを追求するが、「ドゥータ」では韓国の大衆的な

そうだが。

ファッションを実験している。

ソ:駐英韓国文化院で開かれたアルムジギ(韓国の伝統文化を守り伝 える財団)の海外展示「韓国の服-褙子」のスタイリングを受け持った。

韓服が刺激する無限のインスピレーション ソ・ヨンヒ(スタイリスト)

韓服の職人が作った伝統的な褙子(チョッキ)、新進デザイナーが作っ た現代的な褙子、そしてデザイナー、チン・テオク氏の作った伝統と 現代が融合した褙子を発表した。その入口にシャンデリアのように赤

キム・ユンス:韓服(伝統衣装)を素材にしたスタイリングに取り組んだ

ちゃん用の 褙 子を展示したのは、私のアイデアだ。先日の韓国国際

きっかけは?

アートフェアー(KIAF)では、文化財庁主催で無形文化財工芸分野の

18

韓国の文化と芸術


「私が最も魅力的に感じたのは、下着だ。 ソッコッ、ソッソッコッ、ムジギチマ、タンソッコッを重ねて着たときに演出される美しさは、 スタイリングをする間、私の心を高ぶらせた」

履修者と現代のデザイナーとの共

ト、フェラガモのヴァラシュー

同展示があった。私は、刺繍・針

ズ、華やかなキュービックのピ

線(裁縫)職人と共に、透明で美し

ン、ブラック&ホワイト一辺倒

い韓服のチョゴリ(上衣)を幾重に

だった1990年代の後半に登場し

も重ねた展示を担当した。また、

た。無駄のないデザインと女性

韓国の文化を伝える雑誌『ofk( オ

のボディーラインを際立たせる

ブ・ケイ)』と『Sulwhasoo(雪花秀)』

フィット感、簡潔なカラーパレッ

の表紙では、五方色(黄、青、白、

トで江南スタイルを代表するブラ

赤、黒)と韓服の線と形を素材に

ンドになり、着実に成長してき

して、様々な試みをするつもり

た。立ち上げ当初の話を聞かせて

だ。韓服というテーマが私に与え

欲しい。

るインスピレーションは無限だ。

ユン・ウォンジョン:1999年に狎鴎

キム:今後の構想は?

亭洞のロデオ通りに店とアトリエ

ソ:スタイリストにも専門分野が

を開いた。最初に15着作ってディ

あり、私は写真の背景作りが専門

スプレイし、売れればまた作ると

だ。その仕事をしながら見識を広

いう具合だった。その頃、その通

く深くして、韓国の良いものと

りはファッション関係者が多く

海外の良いものを色々と知ること ができた。もともと大学のときか

スタイリスト、ソ・ヨンヒ氏による『ヴォーグ・コリア』のファッション 写真

て、同じ建物の地下には『ヴォー グ 』の ハ ウ ス ス タ ジ オ 、 上 の 階

ら手芸店をしたかったが、その素朴な夢が少し大きくなった。2階

には当時一番大きくて有名だったファッション広告代理店があった。

はギャラリーにして、ファブリックや刺繍など手工芸品を展示した

ファッション関係者が自然に私たちの服に接して、噂になっていった。

い。イギリスのアーティスト、トレイシー・エミンを招待して、彼女

チョ:ニューヨークで学んで、ソウルでブランドを立ち上げて安定す

のファブリック作品を展示できればと思い描いている。韓国の刺繍・

ると、今度はニューヨークコレクションに挑戦した。何か特別な理由

針線職人のニット作品も紹介したい。1階では、韓国の職人が作った

でも?

コットン、外国のリネン、刺繍のファブリックなどを色々と販売した

ユン:単独でのショーやソウルコレクションへの参加などで3年が経

い。ドアを開ければ心安らぎ良い香りが漂う、韓国的で異国的な手芸

ち、セカンドブランドを立ち上げるか、ニューヨークコレクション

店を持つのが、私の夢だ。

に進出するか悩んだが、ニューヨークに行った。初めからニーマン・ マーカスなど有名デパートやバイヤーが関心を示してくれた。大変な こともあった。デザインは気に入ってくれても、値段が問題になっ

ニューヨークとソウル

た。簡単には値段を下げられないので、妥協点を探すのが難しかっ

ユン・ウォンジョン(尹媛楨、ファッションデザイナー、アンディ・アンド・デ ブ、デブ・クリエイティブディレクター)

た。ニューヨークでの経験は、セカンドブランドへの確信を持たせて

チョ・セギョン:アンディ・アンド・デブは、上品なHラインのスカー

市場への要求が強いことを確認した。そしてソウルに戻って、デブを

K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

くれた。ニューヨーク市場だけでなく、世界的にコンテンポラリー

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「韓国のデザイナーは、服を作っても売る場所が足りない。 最近ではオンラインストアやセレクトショップなどチャンネルが多様化しているが、まだ十分ではない。 デパートの名品館は、輸入ブランドに明け渡されて久しい」

立ち上げた。プレゼンテーション

く伝える。しかし、ソウルコレク

の方法やブランドのコンセプトな

ションはまだ「ショー」であって、

ど、全てにおいてニューヨークで

ファッションビジネスの場として

の経験が基になっている。ソウル

は不十分ではないか。

で服を作って、海外に持っていっ

ユン:だんだんと良くなっている

てショーだけをするシステムで

ことは確かだ。国内のデザイナー

は、やりたくてもできないことが

を海外に紹介するいくつかの行事

多かった。ショー会場の制約も多

を通じて、ソウル市も経験を積ん

かった。それで、ソウルに戻って

で、そうした経験がさらに良い結

からの方がかえって、やりたかっ

果をもたらしている。ソウルコレ

たことを自由にできているよう

クションに招待される海外のバイ

だ。

ヤーと報道陣のレベルも、シーズ

チョ:そうした事実を知りながら、

ンごとに高まっている。ソウルコ

巨額の資金を投じて海外市場に進

レクションが、世界の4大都市の

出するのは、国内市場の流通構造

コレクションと同じような日程で

のためだ。デザイナーのすべきこ

行われれば、さらに盛り上がるだ

とが、多すぎないか。 ユン:韓国のデザイナーは、服を

アンディ・アンド・デブの代表デザイナー、ユン・ウォンジョン氏(写真 左端)とキム・ソグォン氏夫妻

作っても売る場所が足りない。最近ではオンラインストアやセレクト

ろう。今は4大都市のコレクショ ンが終わって、何週間か後に行わ

れるので、気が抜けたような感じだ。

ショップなどチャンネルが多様化しているが、まだ十分ではない。デ パートの名品館は、輸入ブランドに明け渡されて久しく、私はそこに 店を構えた最後の世代のデザイナーと言ってもいいくらいだ。最近独 立した後輩は、もっと大変だ。注文の入った製品だけを生産するので

アジアンモデルとして世界のランウェイへ イ・ヒョニ(李賢而、ファッションモデル)

はなく、デザイナーがどれくらい売れるのか予想して、ほとんど全て

チョ・セギョン:ここ数年、ファッション界ではアジアンパワーが、目

のデザインを生産し、残った在庫を抱え込まなければいけない。

に見えて大きくなっている。アレキサンダー・ワン、フィリップ・リ

チョ:そうした悪循環を好循環に変えることはできないか。

ム、タクーンなどアジアのデザイナーが活躍し、ごく少数に過ぎな

ユン:韓国の市場が、もう少し開かれたものにならないといけない。

かったアジアのモデルも、ランウェイと広告で縦横無尽に活動してい

ビジネスモデルが極めて韓国的だから、海外のバイヤーが来てもコ

る。イ・ヒョニ氏の活躍も輝かしい。デビューのきっけは?

ミュニケーションがうまくいかない。ファッション界で力のあるバイ

イ・ヒョニ:2005年にSBSスーパーモデル選抜大会でデビューした。

ヤーがソウルに来ないのも問題だ。

デビュー当時、ソン・ギョンアやハン・ヘジンなどのモデルがちょうど

チョ:コレクションは、ファッションビジネスの真骨頂だ。デザイ

海外での活動を増やしていたので、相対的に国内で活動するトップモ

ナーは毎シーズン服を作り、ファッションの最前線にいるバイヤーは

デルが少なかった。新しいモデルが求められていたので、新人のと

購入を希望して、ショーを見たエディターはトレンドを見出して広

きからすぐに『ヴォーグ』、『エル』、『バザール』などのファッション

20

韓国の文化と芸術


「朝早くリハーサルに行くと、ただの綿の布でできたサンプルの服しかなく、 それでリハーサルしたこともある。今やソウルコレクションは、 服の完成度だけでなくデザインやそれを表現する方法も、全て世界的なレベルにあると思う」

誌に起用されて、知られるように

イ:初めから絶対に海外に行きたい

なった。そして、2008年1月に所属

と思って始めたわけではなく、自

していたエージェンシーがニュー

然に海外進出のチャンスが生まれ

ヨークにプロフィールを送り、先

て、その時間を存分に楽しんだ。

方から連絡が来て海外に進出した。

私は舞台に立つことが好きで、モ

4シーズン、海外のランウェイに

デルになった。今でも写真撮影よ

立った。

りランウェイに立つときに、大き

チョ:韓国ではトップモデルでも、

な喜びを感じる。パリ、ミラノ、

海外では新人だった。一番大変

ロンドン、ニューヨークのラン

だったのは?

ウェイは規模からして違う。そん

イ: 「私は、どうしてここに来たん

な舞台に立てることに心が高ぶっ

だろう?」という思いが絶えなかっ

た。今でもシーズンごとに舞台に

た。自分の努力だけではどうにも

立つわけではないが、海外エー

ならないことが、あまりにも多

ジェンシーとの契約は続いていて、

かった。アジアのモデルの需要が

毎シーズン私をキャスティングし

増えたとはいえ、依然として白人

てくれる広告主もいる。

のモデルが中心なので、機会も少 なかった。パリコレクションのと

モデル、イ・ヒョニ氏を起用した高級アパレルブランド・ブルネロクチ ネリのワールドワイドキャンペーン

チョ:今でも海外からキャスティン グされる理由は?

きにエージェントから連絡を受けて、某ブランドのモデルキャスティ

イ:私のマスクの持つ力ではないかと思う。「アジアのモデル」と一

ングに行ったことがある。2時間近く立ったまま待たされた。モデル

まとめにされるが、それぞれに個性がある。フォトグラファーのス

の待ち時間が長くなると、ブランドの担当者が出てきて、私を見ると

ティーブン・マイゼル氏の言葉を借りると、普通の東洋モデルには見

「No Asian」とだけ言って、どこかに行ってしまった。20~30分待つ

られないノーブルなマスクだという。

のは当たり前だった。それでもキャスティングされれば平気だが、そ

チョ:モデルとして過ごした7年間、ソウルのファッションも変わっ

んなふうに断られてばかりだと、頭にも来るし疲れもする。

たか。

チョ:今ではイ・ヒョニ氏を好んで起用するデザイナーもいると聞いた

イ:もちろんだ。私が初めてソウルコレクションの舞台に立ったとき、

が。

夕方のショーで発表する服が、朝になっても完成していないことが何

イ:ジャンポール・ゴルチエ氏が、私をモデルとして重用してくれた。

度かあった。朝早くリハーサルに行くと、ただの綿の布でできたサン

それで、自分のショーだけでなく、クリエイティブディレクターだっ

プルの服しかなく、それでリハーサルしたこともある。わずか数時間

たエルメスのショーにも私を立たせてくれた。また最近、何シーズン

後に渡された服は、粗雑なことこの上なくて、着心地も当然悪かっ

かは、ブルネロクチネリの広告キャンペーンの撮影を続けている。

た。でも、今のソウルコレクションで、そんな光景を目にすることは

チョ:東洋のモデルは、3シーズンを超えられないという説がある。4

ない。モデルは数え切れないほど服を着るので、体が微妙な差まで感

シーズンにわたって活躍し、今はほとんどの時間をソウルで過ごして

知するが、服の完成度だけでなくデザインやそれを表現する方法も、

いる。心残りは?

全て世界的なレベルにあると思���。(翻訳:坂野慎治)

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特集 4

ソウルスタイル 首都ソウルで最もにぎわうファッションの中心地から観光客のショッピング名所に生まれ変わった明洞、 トレンディーなファッションスポット・街路樹通り、自由と若さの街・弘大前…。 ソウルは、ファッションの作り手と使い手であふれている。 チョ・ユンジョン(翻訳家、梨花女子大学校通訳翻訳大学院教授)| 写真 : 安洪范

22

韓国の文化と芸術


K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

街路樹通りの入り口にあるカフェとアパレルのテナントビルが、 通りの雰囲気を物語っている。

23


1

1. 独立運動家、島山・安昌浩の銅像が立っている島山公園。 ウェディング撮影や映画撮影の名所でもある。

2

2. 街路樹通りにアイドルスター、スーパージュニアのチェ・シウォンが 現れると、ショッピング中の観光客があっという間に取り囲む。 ここでは珍しくない風景だ。


国のリアリズム写真の先駆者イム・ウンシク(林応植、1912~

は狎鴎亭洞が、次に街路樹通りが、ファッションの中心地になった。

2001)氏が明洞を撮影した有名な写真がある。花柄の韓服(伝

そして、漢江の北側・江北にも、流行をリードするファッションスト

統衣装)姿でゆっくりと歩く中年女性の後ろを、白いホットパンツ姿

リートが登場し始めた。梨泰院や新村の弘大前(弘益大学校前)だ。だ

で歩く若い女性。その後ろ姿を収めた明洞の写真だ。その写真は、韓

が、文字通りソウルの中心を意味する明洞は、依然として現金の流通

国が戦争の焼け野原から復興するため、死に物狂いでがんばっていた

量、不動産価格と賃貸料、流動人口がソウルでトップクラスだ。

1954年に撮影されたものだ。漢江の南側・江南は当時、ほとんどが田 畑だった。明洞は1960年代、韓国初で唯一のファッションストリー

最新流行をリードする街路樹通り

トへと変貌し始めていた。裕福な家庭の女性は、ツーピースのスーツ

街路樹通りは、ソウルで最もトレンディーなファッションスポッ

を仕立て、ヘアーアイロンで髪を巻くために明洞を訪れた。美容室か

ト。程近い狎鴎亭洞の人気が過熱して賃貸料が高騰した結果、ファッ

ら出てくると、いきなり差し出される物乞いの真っ黒な手に、服が汚

ション業界のリーダーが居を移し、街路樹通りが「ファッションの中

れないか色を失って悲鳴を上げたものだ。

心地」というタイトルを受け継ぐことになった。街路樹通りという美 しい名前は、英語の「Tree-lined Street(木々が並ぶ道) 」という地味な

明洞メインストリートの変貌

名前に比べて、ロマンチックな雰囲気をかもし出している。実際に街

明洞は数十年間、数多くのファッションアイテムを代表してき た。1970年代と80年代、明洞のファッションストリートには、ウェ

路樹通りは、美しくロマンチックなだけでなく、最新流行をリードす るファッションストリートでもある。

イターのような男性販売員が接客する靴店と、女性のオーダー服を専

地下鉄3号線・新沙駅と現代高校の間にある、わずか700メートル

門にする個人ブティックが立ち並んでいた。1990年代になると「タイ

の道。そこには、ほのかにエキゾチックな雰囲気を漂わせる狭い2車

ム」、「マイン」、「システム」、「デコ」、「シャトレーヌ」、「ノンノ」な

線道路に沿って、小さな店やカフェが集まっている。白や明るい色

どの国内ファッションブランド。そして今では「ザラ」や「H&M」など

の店構え、青い日除けのオーニング、黒いウッドワーク、英語の店名

海外ブランド、「エイトセカンズ」など国内ブランド、さらに商品の製

が、通りの全般的な印象を物語っている。だが、全ての店に一つ一つ

造と消費者の反応のサイクルがはるかに速い東大門市場の無名ブラン

はっきりとした特徴がある。狎鴎亭洞の方に下っていくと、ファン

ドなど、ファストファッションの中心地になっている。

キーなTーシャツが並ぶ、赤い小さな店が目に映る。その向かい側

明洞で今、様々なアパレルショップよりも一段と目に付くのは、

の赤い店は、窓が取り払われたオープンスタイルのカフェブティッ

低価格の化粧品店だ。メインストリートに並んでいる低価格の化粧品

ク「アラウンド・ザ・コーナー」。室内がとても広い2階建てのカフェは

店は、明洞ファッションストリートの真の支配者として君臨してい

「コーヒースミス」で、ここもオープンスタイルだ。そして多少アンバ

る。多くの化粧品ブランドが、若者をターゲットにしたマーケティン

ランスに感じるが、チューダー様式の建物に入っている韓国のファス

グの一環として、女性の心をつかむために男性歌手や俳優をメインモ

トファッションブランド「エイトセカンズ」もある。

デルに起用している。例えば「フェイスショッ

街路樹通りは一日中、行き交う人でにぎ

プ」はキム・ヒョンジュン、「エチュード」はシャ

わっている。そうしたソウルのファッションス

イニー、「トニーモリー」はJYJ、「ミシャ」は

トリートは、正午になってやっと活気を帯び始

東方神起、「ネイチャーリパブリック」はチャ

めるため、朝は静かだ。カフェでは、ベビー

ン・グンソクなど…。化粧品業界としては異例

カーを押す若い母親やごく普通の主婦が陣取っ

だ。店の外に立っている女性店員は、通り過ぎ

てモーニングコーヒーを飲んでいる。そのそば

る日本や中国の観光客を呼び込んで、店内を見

では写真家が、片手にコーヒー、片手にビッグ

て回る観光客の手に化粧品のサンプルを手渡し

バックを持ってポーズを取っているショッピン

ては、何も買わない客から無料サンプルを素早

グモールのモデルを撮影している。

く回収している。(一部の観光客は、そうした

時間が経つにつれ、訪れる人の年齢が次第

行動にとても驚いている様子だ) 「ファッションの中心地」というタイトルが、 明洞から江南に移って、すでに久しい。まず K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

に若くなっていく。午後になると、学生、広 3 3. 道で休むショッピング中の外国人観光客

告・マ ス コ ミ 関 係 者 、 フ ァ ッ シ ョ ン 関 係 者 、 ショッピングモールのモデルのような若い女

25


性、ソウル全域から訪れるショッピング客でに

ンド品なのに、ニセモノでも気にせずに買うん

ぎわい始める。最近では江南スタイルを確か

だぁ。ほんと、ラグジュアリーよね。私もいつ

め、何かしらの江南スタイル・アイテムを購入

かは、ああならなくちゃ!」。

するために訪れる外国人観光客も増えている。

ハイエンドファッションの街・島山公

街路樹通りは本来、若いデザイナーの

園&清潭洞

ファッションと無名ブランド服のショップで有 名だった。だが今では、まだ無名のデザイナー

島山公園のファッションストリートの問題

のショップと「ケイトスペード 」のような有名

は、最も目立つのが公園だという点にある。当

ブランドのショップが並んでおり、そのそばに

然だという人もいるだろう。だが、ハイエンド

は「ザラ」や「フォーエバー21」などのファスト

ファッションの聖地として名声を築いている島

ファッションブランドも店を構えている。さら

山公園だ。そこに期待する人にとっては、そう

に、東大門市場のファッションから厳選した商 品だけを並べる小さくかわいらしい店、背中に 青いネコが描かれたピンクのシャツやカラフル な藤のつるで作った男性用ローファーなど、と てもユニークな商品があふれている「エイラン

1

簡単な問題ではない。

1. 清潭洞のメインストリートに並ぶ世界的 な高級ブランドのフラッグシップストア 2. 島山路の高級ブランドショップ 3. 狎鴎亭洞にあるアンディ・アンド・デブの 店内

島山公園は、ファッションストリートとし ては閑静すぎるため、その他のにぎやかな通り とはずいぶん違う。島山公園のファッションス トリートは、公園前のT字形の通り、公園前の

ド」のようなセレクトショップもある。このように、独創的なファッ

島山大路東側(狎鴎亭洞側)の脇道からなっている。島山公園の店は、

ションと大衆的なファッション、高価なファッションと安価なファッ

清潭大路の交差点にある華やかな国内デザイナーのブティックやその

ションが共存しているのだ。街路樹通りで売られている商品は、実際

向かい側の海外有名ブランドのショップに比べて比較的地味だ。

にはソウル市内の他の場所でも買えるものが多い。人の目をものとも

島山公園にあるフラッグシップストアは多くない。建物の横が

しない自信と、多彩なアイテムをアレンジする独自のスタイル。それ

ゴールドで飾られた「エルメス」。モノカラーで上品な雰囲気の「ラル

が真の江南スタイルではないだろうか。

フローレン」。コンクリートの柱から飛び出した髪の長いデザイナー

夕方の街路樹通りは、しゃれた若者であふれ出す。様々な店から

の上半身像以外には、これといったウインドウディスプレイがなく

流れる音楽がさらに大きく響き渡り、それほど長くない通りを若者が

シンプルな「リックオウエンス」。そして脇道には「アンドゥムルメス

闊歩する。スリムなスーツ、あるいは膝丈のショートパンツとTー

テール」。モダンなホワイトの曲線美が際立つ建物に入っている「ポー

シャツ姿の若い男性。今年の夏ヒットした短いフレアスカートにシル

ルスミス」。建物前の階段にある一対のヘテ(想像上の動物)の石造

クの上着、あるいはスキニージーンズに高いハイヒール、小さなカバ

が印象的な「マークジェイコブス」など…。その間には「CPカンパ

ンを提げた若い女性など…。今一番旬でより良い職業、さらに速い自

ニー」、「ヴェッキア&ヌーボー」、「アティジェ」、「マイソン」、俳優

動車、あるいは芸能界での大ヒットを夢見る人たちの願いが、街路樹

ペ・ヨンジュンが運営するレストラン「ゴリラ・イン・ザ・キッチン」、有

通りをいっそう熱くしているように見える。数多くの江南の住民が街

名人がよく訪れるヘアーショップやビューティーショップなど、もう

路樹通りを埋めているが、その雰囲気に触れようという他の地区の人

少し規模の小さい店舗やカフェが集まっている。

も多い。路上でニセモノのハンドバッグを売る若い女性、露天で安物

そうしたフラッグシップストアが、人波でにぎわうことはない。

のピアスを売るかわいらしい男子学生は、どの大都市でも見られる

そのような高級ブランドショップの狙いは、まさに「閑静」にあるの

ウェイトレス・ウェイター兼俳優の卵。きらびやかな未来を夢見る若

だ。真の高級ブランドショップは、閑散としていて、限られた富裕層

者だ。

向けの高額商品を扱っている。あるファッション業界の関係者が言う

モノカラーのドット柄のクラシカルなワンピースを着て、大きな

ように、韓国で高級ブランド品はデパートで購入するものだ。一方、

サングラスとダイヤモンドのピアスをした女性が、道端の露天でニセ

フラッグシップストアはディスプレイのために存在する。高級車のエ

モノのオーストリッチ(ダチョウ革)のカバンを細かくチェックしてい

ンジン音が聞こえたり、有名な歌手やタレントを乗せた黒塗りの大型

る。そんな女性の背中で、露天の若い女性店主が、小さくささやく。

バンが見えたなら、その店に客がいると考えてよいだろう。映画のワ

「見て、あの人。着てるものから持ってるものまで、ぜんぶ高級ブラ

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ンシーンのように、美しい女性が両肩にいくつもの紙袋をさげて闊歩 韓国の文化と芸術


街路樹通りで売られている商品は、実際にはソウル市内の他の場所でも買えるものが多い。 人の目をものともしない自信と、多彩なアイテムをアレンジする独自のスタイル。それが真 の江南スタイルではないだろうか。

2

3


1

ぶしい日差しと込み合う6車線道路の土埃で、昼間のウェディングドレスは、純白がくすんで見え

る。地下鉄2号線・阿峴駅と梨花女子大駅を結ぶ阿峴洞ウェディングドレス通りは、ソウル市内の

他の通りと別段違いがないようだ。だが、夕方になって全ての店に明かりがともり、ドレスが輝き始め ると、長い通りが白く明るく照らされ、所々に華やかなディスプレイの韓服 (伝統衣装) 店が目にとまる。 阿峴洞ウェディングドレス通りの歴史は、1969年にさかのぼる。当時、阿峴洞の歩道橋のそばに「嫁入 りする日」というウェディングドレスショップがオープンした。洋風の結婚式が普及し、そのショップは 梨花女子大学校、延世大学校、西江大学校など周辺の大学から顧客を集め始めた。その周りには多くの ウェディングドレスショップが先を争うように店を開き、程なくウェディングタウンが形作られた。そ

阿峴洞ウェディングドレス通り

して1980年代と1990年代、およそ200店のウェディ ングドレスショップが道の両側に長く列をなし、全

盛期を誇った。阿峴洞のショップは当時、全国のウェディングドレス需要の半分以上を担っていた。 だが、現在は状況が変わっている。江南のブティックとウェディングプランナーを利用することが一 般的になり、阿峴洞のショップは大きく数を減らした。それでもディスプレイされているドレスの数で は、阿峴洞ウェディングドレス通りに並ぶところはないだろう。 麻浦ウェディングタウン協会は、オンラインマーケティングと現代化によって、阿峴洞ウェディング ドレス通りの全盛期の光栄を取り戻そ���と大変な努力をしている。阿峴洞のウェディングタウンは現在、 過渡期にあるようだ。80年代風の塔をかたどった洗練されていない色調のショップが、洗練されたパス テルトーンでミニマリスティックなラインのドレスをディスプレイした現代的なブティックのそばに並 んでいる。ボリューム感ある白いフリルで飾られたドレスが並ぶショップや高価なレースで飾ったタイ トなアイボリーのドレスが1着だけディスプレイされたショップなどが目を引く。母親や姉妹、友達と 共に訪れた新婦は、長い通りをウインドーショッピングしながら、ついに気に入ったドレスと出会い、 満足と安堵のため息をつく。すべての新婦に必要なドレスは、結局たった1着だけだ。 (翻訳:坂野慎治)

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する姿は、ほとんど見られない。

には明るい赤や黄色に染めたモヒカンヘアー、数少ないグランジルッ

その代わり島山公園では、コーヒーを飲んだり公園を散歩した後、 のんびりと通りを歩く住民、小さなオートバイで勢いよく配達する短 パンにカーディガン姿の若い男性、島山大路の端では配達中の荷物を 整理する高齢の宅配員、カフェで昼食をとりながら仕事をこなす若い 専門職のホワイトカラーが見られる。

クとも出会える。さらには、数百年前のご先祖様のようにサントゥ (まげ)を結った、カプリパンツにカーディガン姿の洗練された若者に もお目にかかれる。 数多くの人が、弘大地区のランドマーク・弘益大学校の向かい側に ある公園に移動する。その公園では週末にフリーマーケットが開か

道の西の端にある「リックオウエンス」の上半身像のように、公園

れ、時には即興公演も行われる。公園には、自治体から許可を得た露

の中には島山・安昌浩先生の銅像が、大通りのある西の方を見つめて

天が一列に並んでいる。露天の電球の明かりが、携帯電話のケース、

立っている。妙な組み合わせのようだが、この二つの銅像が、島山公

ヘアバンド、ピアス、靴下、スカーフ、時にはビニール袋に入ったパ

園の両端を結んでいるように見える。ネームプレートに刻まれた「韓

ステルトーンのノンアルコール飲料などの商品を照らしている。

国の青年よ、山のように大きな力を準備しよう!」という島山先生の

その公園から分かれている細い道を進むと、再びビートルズを連 想させる、ハッとするような風景が広がっている。「Little boxes on

言葉と共に…。

the hillside(丘の上の小さな箱)」という歌声が聞こえてきそうだ。丘

都市のサブカルチャーを代表する街・弘大前

はなくとも、駐車場通りの端につながる道には、そんな店が並んでい

漢江を北側に渡ると、そこは弘益大学校。夜のとばりが下りた地

る。まるで一つずつきれいに積み上げられた箱のように、一番下の階

下鉄2号線・弘大入口駅の9番出口で、押し合うように外に出てくる

と一番の上の階が、それぞれ別の建物のようだ。それぞれの小さな箱

人波を見ていると、大きなイベントでもあるのかと勘違いしそうにな

(店)は、最新流行の服やカバン、靴下、Tーシャツ、ヘアーアクセサ

る。しかし弘大前は、それ自体が巨大なイベント会場だ。弘大前の名

リー、あるいはシューレースなど単一品目を扱っている。その小さな

を広めた美術とインディー音楽の精神が、様々な形で息づいており、

店が地下にあれば階段を下りていき、上階にあれば階段を上がってい

多彩な店、カフェやバー、ギャラリーに影響を与えている。

くことになる。そうした店の間にタロット占い、伝統的な四柱推命占

弘大前にやってくるのは、若者だけではない。弘大文化の起源は、

い、タトゥー、ボディピアシングなどの店もちらほら見える。

1990年代初にさかのぼる。当時の芸術家(ほとんどが美術学部で有名

駐車場通りが始まる道では、一列に駐車された車の間に、いくつ

な弘益大の卒業生)と独立系ミュージシャンが集まってきたのが、そ

かの店が向かい合うように並んでいる。若いデザイナーのブティッ

の始まりだ。

ク、いくつかの海外ブランドショップ、高価なファッションアイテム

ほとんどイスもない店内で大音響が耳をつんざく「ドラッグ」や「発

の店などだ。ガラス張りの白い大きな建物には「プリンスエドワード」

電所」などのテクノバーやライブ・ロックカフェは、ソウル中からやっ

というカラオケ店がある。取り澄ましたり、おしゃれしたり、あるい

てきた人々でごった返していた。その起源を作り、足しげく通ってい

はノリノリで大声を張り上げるカラオケ店の客を外から眺めることが

た若者は、今や40代だろうが、その精神だけは今でも弘大前に息づ

できる。脇道には「マイ・ブラウン・バッグ」や「ケリーズ・クローゼッ ト」などの小さなファッション店、

いている。

「飯」や「酒」あるいは「月光の豚」と

弘大前は現在、ソウルで最も

いう飲食店もある。

都市のサブカルチャーが際立つ街 であり、男性が多く訪れ、男性の

最後に迷路のような路地から出

ファッションをリードする街でも

てくると、弘大一帯を取り囲んで

ある。細身のズボンにカーキ色の

いる道と出会う。そこでは、ニッ

ジャケットを着て、前髪を長く垂

ト帽のビーニーを目が隠れるほど

ら し た1 0代 の若者が、ギタ ーを

深くかぶった若い男子学生や、ド

背負って歩いていく。黒のブーツ

クターマーチンのブーツを引きず 2

にチェックのシャツと革のベスト を着た年配のロッカーも若いロッ カーも、通りを闊歩している。時 K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

1. 阿峴洞のウェディングドレスショップで完成間近のドレス 2. ソウルのストリートファッションを代表する若者の街・弘大前の駐車場 通り

るようにして歩く女子学生が、ま ばらに地下鉄の駅に歩いていく姿 が見られる。(翻訳:坂野慎治)

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インタビュー

「文化ゲリラ」

李潤澤 イ・ユンテク(李潤澤)は海外の演劇作品の韓国的な表現と、韓国伝統演戯の現代化を、劇 作、演出、演技教育の多方面から追及してきた演劇人だ。そして来年1月までゲリラ劇場 を含めた4つの劇場で行われている「ストリンドベリ100周忌記念フェスティバル2012」の 芸術監督でもある。 キム・ムンファン(金文煥、演劇評論家)| 写真 : 安洪范

劇人イ・ユンテク(李潤澤)をインタビューするために、彼が実質的な代表を務めるソウル恵化洞の ゲリラ劇場を訪ねた。都心のど真ん中でゲリラというのも、なかなか過激的な名前だが、この劇場

の名前は実は彼のニックネームだといえる「文化ゲリラ」をもじったものだ。そして「文化ゲリラ」を理解す るためには彼の人生を振り返って見る必要がある。

ゲリラの意味 李潤澤は1952年に釜山で生まれ、いわゆる名門の中学・高校を経て2年制のソウル芸術専門学校(現在 のソウル芸術大学)に入学したが卒業できずに中退した。その後、釜山の小劇場で演劇を始めたものの失 敗し、釜山郵便局の職員など数々の職業を転々とし馬山、密陽、忠武などに移り住む。1979年に27歳で文 学雑誌に詩を発表し詩人としてデビュー、翌年からはいくつかの同人誌に詩と批評を発表している。同 じ頃に釜山日報の記者として7年ほど働き、詩集と評論集も出版している。釜山の小劇場が相次いで つぶれた1986年頃、彼は記者生活を辞めて自分の小劇場を作り劇団活動を始める。そして一連の状 況劇を発表し、主に伝統演戯を実験劇的に演出し、彼の表現のとおりに書くならば、ソウルを「攻 撃」した。その一方で後にテレビドラマの台本や映画のシナリオも手がけ、自分の演劇を直接映 画化したりもしている。 このように多彩な経歴を備えた彼をマスコミは「文化ゲリラ」と呼び、彼自身もこのニック ネームが気に入っているようだ。それでこれを劇場の名前にしたのではないかと思う。しかし彼 自身はこの「ゲリラ」という言葉にもっと積極的な意味を付与したがっている。彼は「前衛」という意 味と共に「解体と再構」を強調する。彼はその詩や評論を通じて、自己反省的な純粋主義を主張した 前時代の文化や既存の商業文化に決別するという強い意志を示している。そして釜山を大韓民国の第 2の都市だと言いながら、文化的にはほとんど僻地扱いをしていることにも強い不満を抱き、中央の 文化を訳もなく真似しようとはせずに地方色を最後まで貫こうとしている。そのような努力の一環と して彼は韓国文化の原型を追及している。そしてそれを今を生きる伝統にするために現代芸術とのコ ラボを試みている。さらに知識階級から無視されてきた伝統楽劇のような大衆演劇にも熱を入れてい

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蜜陽演劇村の野外劇場の客席に座り演技指導中の 演出家イ・ユンテク

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る。 李潤澤はミュージカル、舞踊、祝祭分野にも進出しているが、大衆演劇といえるこ のような分野に対する関心は、彼の子供時代の記憶にさかのぼるという。中学生の頃、 彼の家は周辺地域の開発のために撤去を余儀無くされた撤去村にあり、彼はその村で は唯一の一流中学校に通う中学生だった。そのため彼は村の子供たちのリーダー兼先 生的な存在で、よく村の子供たちを集めて演劇ごっこをしていたという。彼が教育劇 を主張するブレヒトやハイナー・ミュラー、そしてタデウシュ・カントルに並々ならぬ 関心があるのも、このような思い出が背景にあるからだ。また自らをスタイリスト、 あるいは修正マルキシストなどと言ったり、自分はニーチェ的な思考をしており、積 極的な意味でのアナキストだとも主張している。 彼は実際にブレヒトの『肝っ玉お母とその子供たち』を韓国の演戯の伝統に結びつけ たり、カントルの『死の教室』を『ホジェビノルム(案山子遊び)』というタイトルで韓国 の演戯に結びつけたりした。自分の劇団に「演戯団コリペ(大道芸人)」という名前をつ けたのも同じような理由からだ。また死んだ人間の霊魂を慰めるために行う伝統巫俗 儀式のオグクッを演劇にした『オグ‐死の形式』では亡命したチェコのマイム・アーティ ストのミラン・スラデクの作品に使われた扮装を誇張した性器の形として借用してい る。2009年の『原典遺書』で彼はゴミの山を連想させる舞台を作ったが、これはカント ルを念頭に置いたものだった。「包装」に対する記録でカントルはハイデガーの「対象」 と「事物」の区分理論をもとに舞台の上の対象に対する自分の感覚を紹介している。そ れは包装の「儀式(ritual)-荷物を包むという創造‐」が「折る」 「縛る」 「封じる」という行 為を含んでいるためだ。すべての荷物を包むという行為に共通するこのような行動の セットは、ハイデガーの言おうとした(対象と対立するものとしての)事物をどのよう にして一つの行為として理解するかを説明するための一つの方式となっている 。

定着と放浪 李潤澤の演劇スタイルは自分の演劇の本拠地をソウルから遠く離れた、むしろ釜山

1. イ・ユンテクが演出した 「オグ」 ( 」上) とストリンドベリ100周忌記念フ ェスティバル参加作の 「夢」 」 の一場面 2. 彼は演劇で韓国文化の原型を現代芸術の実験として蘇らせている。

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韓国の文化と芸術


彼は廃校になった小学校を長期契約で借り演劇村を建てた。そこでは俳優とスタッフのほと んどが寝食を共にして練習を重ねている。彼はこの演劇村を「個人性のない集合体は共同体で はない」という自らの持論にしたがい理想主義的な演劇共同体にしようとしている。

に近い密陽に移したことからも理解できる。人口の減少で廃校となった小学校を長期 契約で借りて演劇村を建てたのだ。そこでは俳優とスタッフのほとんどが寝食を共に して練習を重ねるだけではなく、夏のあいだはずっと祭りを開催している。彼はこの 演劇村を「個人性の無い集合体は共同体ではない」という持論に従った理想主義的な演 劇共同体にしようとしている。彼が映画に手をだしながらも、演劇により多くの情熱 を傾けるのも演劇は見知らぬ人々を共同体に、一つにする力があると信じているから だ。 そのようなライフスタイルはフランスのアリアーヌ・ムヌーシュキンが主導する太 陽劇団からヒントを得たのではないかと尋ねると、彼はそれを強く否定した。太陽劇 団は寝食を共にしないばかりか、アンダーグランドの劇団というよりもむしろ政府か ら莫大な支援を受ける特殊エリート集団であり、一種の文化権力者だというのだ。仮 に外国に同じような例を探すなら、アメリカの劇団「パンと人形」だとか、イタリアの ダリア・ポのラメ劇団がより近いと言う。密陽演劇村も祝祭予算と基本運営費を市から 支援されている一種の半公共施設ではないかと反論したかったが、彼はそんなことは 気にもとめずに密陽村をむしろ大衆芸能の放浪集団だったナムサダンペの現代版だと 主張している。 「定着と放浪」、あまりピンとこないが彼はこの演劇村が「生きている演劇博物館」と なることを願っているのだ。いわば、定着はあくまでも放浪を前提としたものであり、 そうでなければ一つの遺物に過ぎなくなってしまうという意味だ。そう言われてみれ ば、彼と彼の劇団は実に世界中で公演しており、まさに放浪劇団らしい様相をしてい る。彼の劇団の海外公演は1990年に李潤澤がシナリオを書き演出した「オグ」が東京国 際演劇祭に公式に招待されたのが始まりで、1991年『オグ』のドイツ世界演劇祭(エッセ ン)公演、1992年『旅立つ家族』のニューヨークのラ・ママ劇場公演、1996年『ハムレット』 のロシアのロストポ5大陸演劇祭公演、1998年の『オグ』と『ハムレット』のベルリン世界 文化の家公演、1999年『オモニ(母)』のロシアタガンカ劇場公演、2000年『ハムレット』 の日本の新利賀山房公演、というようにほとんど毎年海外公演をしてきた。その後、

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ちょっと時間をあけて、また2007年『肝っ玉お母とその子供』を日本の静岡舞台芸術セ

ン(柳徳馨、演劇演出家)を鮮明に記憶している。

ンターで公演し、2010年には『ハムレット』でルーマニア世界シェイクスピアーフェイ

ユ・ドクヒョンはアメリカで照明と演出を学び、

スティバルに参加している。

帰国して1970年代の初めに韓国初の演出発表会 を開いたが、彼から李潤澤は「台本の肉化」つま

「演劇は真剣な遊び」 このように韓国の劇団としては珍しい海外公演を繰り返す一方で李潤澤は自分の演

り、言葉と体の密接な相互関係について学び、大 きな影響を受けたという。ユ・ドクヒョン が韓国

劇源流を求める作業も忘れてはいない。彼は1996年に『ハムレット』公演を追えた後、

にアルト(アットナン・アルト、台詞だけではない

バイカル湖に立ち寄り、そこの風景を目の当たりにし、まるで「存在の発祥地」を発見

舞台の総合的な効果を重視する後日の前衛劇に影

したような衝撃に襲われたという。特に地面に転がっている岩の墓は韓国の城隍堂(村

響を与えたフランスの劇作家)の世界を本格的に

の守り神を祭る祠)を連想させ、韓国の民俗文化がどこにルーツをおいているかに対す

紹介した最初の人物だとすれば、李潤澤にも間接

る確信を得たという。そして彼は韓民族分断の現実を思い浮かべ国家主義理念が招い

的ではあるがアルト的な演劇が深い影となって潜

た文化的な孤立を嘆くのだった。

んでいると見ていいだろう。また彼はアメリカの

彼は今年還暦だ。昔は還暦を迎えると老人扱いをされたものだが、平均寿命がの びた今は誰もそんなことは考えない。特に李潤澤にはまったく関係ない。彼は今もア ンプロワズ・ヴァレリーやゴットクリーナ・ベンの詩を読んだり、ショスタコビッチの

1

音楽を聞くと胸が躍るという。そしてポストモダン方式のリアリズムを追求しようと

1. ゲリラ劇場の事務所で筆者の演劇評論家キム・ムンフ ァンと対談中のイ・ユンテク

している。それでいながら演劇に入門した頃、彼に大きな影響を与えたユ・ドクヒョ

2. 密陽演劇村の初期の野外公演の場面

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Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts


リビングシアター(1950-60年代に急進的な主題で革新的な実験劇を見せたアメリカ

彼は今、何を夢見ているのか。彼は今は密陽

ニューヨークのレパートリ劇団)にも言及する。しかし同じような関心とスタイルを示

演劇村を離れて金海陶窯マウルに居を構え、当分

し、一時は担任の教師でもあったオ・テソク(呉泰錫、演劇演出家)とは距離をおこうと

の間は劇作と演出は辞めて、詩とギリシャ古典

している。

劇、そして韓国演劇史について再び書こうとして

李潤澤は長い間、劇作と演出だけでなく、演技教育にも大きな情熱を傾けてきた。 彼は自分の劇団以外にも1994年ウリ劇研究所を設立し、演技論の体系作りをしてお

いる。さらにそれをもとに児童劇へのチャレンジ も視野に入れている。

り、ドイツや日本などでも演技のワークショップを実施している。その結果、彼は最

彼が韓国放送通信大学の初等教育科を卒業し

近『魂と物質』という演技論集を出版した。彼は演劇を「真剣な遊び」だと表現し、人生

ていることを考え合わせれば、このような希望は

に対する新たな認識と緊張を与え、想像力を膨らませ、人生に活気を吹き込むものだ

彼がこれまで示してきた歴史に対する関心と全く

と考えている。考えたり、働くことを止めて休息する時に「一息つく」という表現を使

別のものだとは言えないだろう。彼は自分の個人

うことに注目し、俳優たちに人文学的な読書を勧めると共に無心に行っている吸った

的な関心やスタイル、またはストーリーテーリン

り吐いたりという呼吸の間に位置するもう一つの息にも注目するようにと教えている。

グのための歴史劇ではない、同時代を反映した鏡

「その時から人間は外部的な現実に自分を任せないで、自分と世界を主体的に感じ、眺

としての社会劇に関心を持って来たと主張する。

めることができるようになる。そしてようやく人生の主体となり、世界の中心に置か

彼の絶えることのない情熱が一つにまとまり、韓

れている客体である自分が存在することになる」 というのだ。

国演劇史にはっきりとした一画を残すことを期待

彼はこのような多様な経験をもとに成均館大学演技芸術学科の招聘教授、国立劇団

する(翻訳:金明順)

の芸術監督、東国大学演劇学科教授、霊山大学演技ミュージカル学科教授を歴任した。

KK oorr ee aa nn aa ıı W n t e r2 0210212 冬i 号 2

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巨匠

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韓国の文化と芸術


木の家具を 「宝石」 で飾る

豆錫匠 金克千 家具が空間の顔ならば、豆錫は家具の表情だ。木を扱う小木匠とはまた違った匠の 世界-伝統工芸の故郷、統営で豆錫匠キム・クックチョン(金克千)さんは4代にわ たり白銅装錫工芸の命脈を受け継いできた。 パク・ヒョンスク(朴炫淑、フリーライター)| 写真 : 安洪范

女の区別を強調する儒教哲学の長期にわたる影響で、韓国の伝統家屋は男性の空間と女性 の空間がはっきりと分かれていた。男性の生活空間であるサランバンの家具は簡潔で謙虚

なソンビの顔に似てシンプルだ。これとは違い女性の生活空間であるアンバンの家具は華やかで優 しい。簡潔で比例美に長けた木の家具にこのような表情を付け加える要素が豆錫だ。 装錫とも呼ばれる豆錫は韓国伝統の木工芸品、特に木の家具の機能性と美しさを兼ね備えた金 属工芸品だ。豆錫は金属の種類と合金の比率に従い、まるで冬の木の上に積もった雪の結晶のよう

統営で4代にわたり白銅装錫工 芸の命脈を受け継いでいる豆錫 匠キム・クックチョン。彼の家 門は特に蝶の装飾で有名だ。

に銀色に輝く白銅装錫、金色の黄銅装錫、黒いムセ装錫、黄色の朱錫(真鍮)装飾などに分かれる。 また機能によって、上下左右の平面の開閉の機能性を生かしたキョンチョブ(蝶番)装錫、三面がで あう立体的な角を包むように保護するキィサゲ(隅金物)装錫、直角にであう二つの面やㄷ字型でで あう三面を強固につなぐコモルセ装錫、引き出しや扉を開閉するための取っ手の役目をするトゥル セ(引き手)装錫、チャムルセ(鍵)を支えるチャムルセアップパタン(鋲)装錫などに分かれる。男性 用の家具には機能性が強調された装錫を、女性用の家具には機能性の上に装飾性が加味された装錫 が使われた。朝鮮の木製家具は朝鮮後期になると装錫の装飾性が強調され、慶尚道、その中でも特 に統営で大きく発達した。 家具に深い黒色の漆を塗り、アワビ、サザエなどの貝類の華やかな貝殻をはめ込んで装飾する 統営の螺鈿漆器には、韓国の女性用伝統家具の中でも際立った華麗な美しさがある。それに合わせ て装錫も銀色の燦爛とした白銅を素材に、蝶と花、鶴と雲、鳥と梅などの美しい模様があしらわれ 華麗さが強調されている。

統営 白銅装錫の名家 重要無形文化財第64号の豆錫匠技能保持者キム・クックチョン(金克千・62歳)さんは統営の白銅 装錫の名家に生まれ自然にその技術を身に着けた。彼の曽祖父であるキム・ボイク(金寶益)さんは 朝鮮時代12工房の豆錫匠だった。12工房は朝鮮時代の海軍本部だった三道水軍統制使が1604年に 統営に移った際に、国が軍需品の需給のために全国の腕の良い匠を集めて作ったもので、家具、衣 服、装飾品などを生産し、規模はだいぶ縮小されたものの今日でも名品の命脈が受け継がれてい る。 K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

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1. 均等な厚さにのばした白銅板を薄くはぎとってできた明るい銀色の 表面を指でなぞっている豆錫匠キム・クックチョン 2. 蝙蝠模様の装錫。蝙蝠の羽に鮒の模様を付け加え装錫の華やかさを 極大化した。(写真;ソ・ホンカン)

1

金克千さんの祖父、金春国氏は豆錫の技術に長けて全国的に「春国 の装錫」といって、良く知られていたという。金克千さんの父の金徳

工程を正確にきちんと作るようにという言葉は今でも耳の奥に残って おるんじゃよ」

龍氏もまた銀色に輝く統営の白銅装錫の堅固でありながら華やかな 模様を生かし卓越した装錫製作で装錫名家の名声をさらに高めたとい う。そしてその素晴らしい技能が認められ1980年に国の重要無形文 化財豆錫匠の技能保持者になった。 「父の装錫を求めに来た女性たちはコムシンをずいぶん履きつぶし

合金も匠の仕事 白銅は朱錫とニッケルを7対3の比率で配合して作る。最近は質 の良い合金が工場で作られているが昔は匠が直接合金の作業までして いた。

たでしょうよ。ひとつの三層箪笥には装錫が少なくても300個、多い

「白銅を作る時に朱錫が少しでも多いと後で装錫の色が変色してし

ときには350個も使われておりますんじゃ。装錫は材料を取り揃えて

まい、ニッケルが多すぎると壊れやすくなってしまうので、7対3の

作り上げるまでに少なくても6カ月から1年はかかり、その間待たな

割合をきちんと守らなければならんのじゃよ。朱錫とニッケルを混合

くてはならんのでのう。そこで金持ちの家の奥方たちがコムシン(履

した金渋を溶かす作業は一時も気を抜けないほど重要な仕事じゃけ、

物)を6足はダメにするくらい長い間、行ったり来たりしないと注文

70~80年代の父が生存中には匠が集まり祭祀まで行って始めたと言

した装錫を手に入れることができなかったということじゃな」

いとりました。熱い金渋を扱う仕事なんで、晩秋や冬に合金作業をし

鉄を餅を捏ねるように扱うという表現がオーバーでなかった金徳

ておったんじゃよ」

龍匠の見事な腕を伝え聞き、直接訪れて注文する夫人たちが多く、そ のおかげで統営地域の大部分の家具製作所も注文が途切れることがな

金克千さんは今も特別注文に対しては自ら合金を行うと

かったという。金克千さんは軍隊を除隊後、25歳から本格的に父の仕

いう。

事を手伝い装錫の仕事を身に着け始めた。当時彼の父は20人余りの

「摂氏1300度に溶けたものを枠に流し込めば白銅の塊になるんじゃ

弟子を率いる工房の代表だったが、注文が殺到し徹夜仕事をすること

が、それが一つ一つ出来上がるたびに収穫する農夫のような気分にな

はあっても、作業の工程一つ一つに手を抜くことは絶対になかったと

るんじゃよ。蔵の米を取り出し飯を炊いたり、餅にしたりするように

いう。

家具に従い適当な量の白銅の塊を取り出して再び溶かして、適当な厚

「父は本当に楽天的で、誰に対しても文句一つ言わないような人

さの形に叩いて伸ばしていきますのじゃ」

やったのう。私をはじめとした工房の職人たちに常に『急いでやろう

用途と模様に従い厚さを測り、白銅の板を作るまで再び1300度の

とするな、一つひとつゆっくりとおおらかな気持ちでするように』と

熱で20~50回熱し、数千回も叩いて伸ばす工程を経る。40年近くし

言っとりました。おおらかにするというのは、何度も手を入れないよ

てきた作業だが、金さんは白銅を叩いて伸ばすたびに雑念がなくなり

うにするという意味で、何度も手を入れるというのは、腕が未熟なた

新しく作る装錫に対する期待でわくわくしてくるという。使い道に従

め何度も直してしまうということなんじゃ。それでは装錫の美しさと

いだいたい0.5~1mmの厚さに均等にのばした白銅板の表面を薄く

機能性が落ちてしまうんじゃ。小さな装錫一つを作るのにもすべての

はぎとり白銅特有の明るい銀色を得る。その裏面に型を当てて押し切

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韓国の文化と芸術


2 © 徐憲康


「ひとつの三層箪笥には装錫が少なくても300個、多いときには350個は使われておるんじゃよ。 装錫は材料を取り揃えて作り上げるまでに少なくても6カ月から1年はかかり、その間待た なくてはなりませんのじゃ。そこで金持ちの家の奥方たちがコムシン(履物)を6足はダメに するくらいの長い間、行ったり来たりしないと注文した装錫を手に入れることができなかっ たということじゃな」

り用の刀で切ってから、ノミで立体感を出す。その次に前面に刀で模 様を彫っていく。その時により繊細な味をだすために金銀を添加した 烏銅のような金属で模様を象嵌したりもする。模様を彫った後、釘を うつ穴を開けて、紐で整えてから土器の粉をつけた古布で拭くと目立 ちすぎず軽薄ではない深い銀色を秘めた白銅装錫が完成する。 白銅装錫は産業化の流れで一時受難を経験したこともあった。 「曽祖父の時から継続して白銅を使っておったが、70代から全国的 に練炭をつかい始め、そのガスのせいで装錫の色が変色するように なったんじゃよ。それで白銅の代わりに練炭ガスに強いステンレスが とって変わりましてな、そして練炭が使われなくなった90年代から 白銅がまたその位置を取り戻し始めたんじゃよ。プラチナのような深 い色を出す白銅にステンレスはかなわんしな」 世界の海戦史に輝く李舜臣将軍の面影があちこちに残る統営。金 克千さんの工房は李舜臣将軍の忠魂を偲ぶ忠烈祠の向かいにある。彼 の父の金徳龍匠が80年の生涯を通して、働いていた3坪ほどの小さ な工房で彼も37年間装錫を作り続けている。百年以上、代々受け継 がれ使われてきた数多くの道具と多様な模様の見本でいっぱいの彼の 工房が由緒ある匠の家門の伝統の重みを感じさせる。そして、この工 房の伝統は、大学で工芸を専攻し、父の後を継いで装錫を作っている 息子の眞煥さんへと受け継がれていくだろう。

多様な模様に彫り付けた意味 堅固で美しい装錫が施された家具が部屋の中に置かれていると暗 かった室内がぱっと明るくなる。昔からきちんと作られた装錫は繊細 な木の屈曲にぴったり合うばかりでなく、花びらのように華奢な印象 とは違って堅固で、タンスは壊れても装錫が壊れることはないといわ れる。宝石デザイナーが原石を磨いて美しい模様をだすように、豆錫 1

韓国の文化と芸術


1. 菊花紋装錫。花びらの表現が実に繊細に装飾 されているが、「タンスは壊れても装錫が壊れるこ とはない」と匠はいう。 2. 開閉部位の機能性を生かしたキョンチョブ装錫、 角を包むように補強するキィサゲ装錫、取っ手の役 目をするトゥルセ装錫など、木家具にはさまざまな 機能を備えた装錫が使われ華やかさを増している。

匠は装錫で多様な模様を作り出す。蝶、コウモリ、鮒などの動物模様 をはじめとして菊・水仙・蓮などの植物の模様、各種文字と幾何学的な 模様など、2千余りの模様が作られている。 「豆錫匠は模様の一つ一つに意味を込めておりますんじゃ。花蝶 (花と蝶)の模様は夫婦円満を象徴しとります。多産と福を表すコウモ リの模様もあり、夫人たちが使用する家具や米を入れて保管していた トウィジュには鮒の鍵を作ってつけてな。鮒が水の中に住んでいるの で火災を防いでくれ、目を開けて寝るので財産を守ってくれると考え たんじゃ。また鮒が卵をたくさん産むので多産を祈願する意味もあ り、その口が小さいので入ってきた財産が出ないと信じられておるん でな。男たちが使うサランバンの家具には儒教の忠孝思想と君子の品 格、節操を意味する竹の模様の装飾がたくさん使われとります」 吉報を象徴する蝶の装錫は統営の代表的な名物であり、金克千さ んの家は代々蝶の装錫に長けていることで有名だ。金さんは数多くの 蝶装錫の中でもアゲハチョウの装錫を作る時には「アボジそのものだ」 と感じるという。 「華やかなアゲハチョウの蝶番をつけると家具の扉を開けるたびに 蝶が羽ばたいているようで実に美しいんじゃよ。父は風雅な人じゃっ たのう。いくら忙しくても余裕をなくすことはなく、あきれるほど歌 を上手に歌っとりました。服を着るのでも帽子から靴まできちんと正 装しないと気がすまないおしゃれな人やったなあ。亡くなった後、遺 品を整理したときに履いていた靴が色別に、デザイン別にすべて揃っ ていたのが今も思い出されますんじゃ」 『須弥入芥子(カラシナの種子の中に須弥山が入っている)』という 禅の言葉がある。小さな工房で小さな装錫装飾を作っているものの、 彼らの作り出してみせる世界は限りなく大きく美しい、そしてそんな 世界の真ん中にいる匠は実に幸せそうだ。(翻訳:金明順) K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

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アート・レビュー

息を紡ぎ 人生を縫う 金守子の 「ツー・ブレス展」 世界各地でパフォーマンスとプロジェクト、そして設置が併さった 作業を繰り広げてきたキム・スジャ(金守子)さんが久しぶりに韓国で 「ツー・ブレス (To Breathe)」 という題名の個展を開いた。今回の 個展は「ボッタリ(風呂敷)」 「パヌル(針) 」と共に、彼女が 持続的に探求してきたテーマがすべて網羅されている。 コ・ミソク(高美錫、東亜日報論説委員)| 写真 : Kukje Gallery, Kimsooja Studio

1.「ボッタリ(風呂敷)作家」と言われる マルチメディアアーティスト・金守子 2-3. 2010年作 「糸の軌跡」第1部の場面 4. 2011年作 「糸の軌跡」第2部の一場面 5. 2008年作 「ムンバイ:洗濯場」の一場面

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韓国の文化と芸術


ルチメディア・アーティスト金守子さんは「ボッタリ(風呂敷)

糸を追って

作家」と言われる。1997年に「動く都市:ボッタリトラック

人間は裸で生まれてから棺に入るまで布と共に生きていく。従っ

2727km (Cities on the Move―2727km Bottari Truck)」をヴェネチア・

て生地を作る糸の軌跡は人生の軌跡に通じる。「糸の軌跡」2部作(全

ビエンナーレに出品し、その存在を世界的に知られるようになったか

6部作の予定)では伝統的な方式で糸を紡いだり、レースを編む行為、

らだ。これは、伝統的な布切れをつないで作った、さまざまな色の

地域ごとに違う独特な糸の伝統にスポットをあてて人類が蓄積してき

ボッタリ(風呂敷包み)を縛って青色のトラックの荷台いっぱいに積み

た人生と文化史を振り返っている。

込み、幼い頃に暮らした村や都市を訪ねる11日間の旅程を記録した

1部はペルー、2部はベルギーとクロアチアなどヨーロッパを舞台

ビデオ作品だ。積み上げたボッタリの上に座っている作家の姿と周辺

にしている。何のストーリー性もなく20分間にわたって流れる映像

の風景が溶け合ったこの作品は、現代人の宿命である遊牧の人生と移

は詩的であり、瞑想的だ。ペルーでは一人の女性が糸の束を巻いてい

住の概念を表していた。2007年にはパリでも彼女は「ボッタリトラッ

る場面から始まり、山裾の村に下りてきて撮影された農耕地は織物と

ク」に乗り込み移民者たちの区域を訪ねるというパフォーマンスを

耕作の関連性を悟らせてくれる。その地域固有の糸の文化と慣習が魅

行った。このようなパフォーマンスが国際舞台で紹介されたため、今

惑的なイメージで描かれている。女性の糸紡ぎとレース編みは自然環

や「ボッタリ(風呂敷)」という韓国語は海外の美術界でそのまま通用す

境や建築とも絶妙な調和を成している。マチュピチュの自然と民俗衣

るようになる。

装の紋様が絶妙につながり、ヨーロッパの精巧なレース模様は人間の

作家はビデオ作品では後ろ姿だけ登場する。前面は飾ることがで

骨で装飾された教会の構造と横糸縦糸に通じている。映像を通じて自

きても後ろ姿を飾ることはできないので、後ろ姿が最も真実の姿だ

然の流れと体の流れが重なり、人間もまた自然の一部だという事実が

という考えからだ。また他の作品「針の女(A Needle Woman, 1999-

胸に迫ってくる。

2001)」でもそうだ。上海、デリー、カイロなど、世界8カ国の大都

糸とレースという素材を生と死の根源的な話頭にした「糸の軌跡」

市の群集の中に作家は黒い服を着て微動だにせずにじっと立ってい

は一つのテーマをミクロ的、マクロ的な観点から解き明かしていく作

る。観覧客は背を向けている作家とその横を通り過ぎていく群集を目

家の力量が光った作品だ。三星美術館のアン・ソヨン(安昭姸)副館長

にする。自ら針となり異なる都市と人間を一つに結びつける旅程を隠

は「顕微鏡と望遠鏡を自由自在に使える作家」だと賞賛する。

喩した作品だ。 2012年8月29日から10月10日まで、ソウル国際ギャラリーで開か

モンバイの洗濯場からナイジェリアの海辺まで

れた「ツー・ブレス」展はその間、探ってきた主なテーマを網羅した中

作家は「私の関心は幅広い。特に自然が好きとか、大都市が好きと

間回顧展的な性格の展示だった。新たに作った16mmのドキュメンタ

いうことはない。私が知りたいと思う世界を探求する原材料として質

リーフイルム「糸の軌跡(Thread Routes)」の1、2部をはじめとして「ム

問と答えを与えてくれるところならどこでもへ出かけていく」という。

ンバイ:洗濯場(Mumbai: A Laundry Field)」など10本の映像作品が紹

2007~2008年にインドのモンバイのスラム街で制作した「モンバ

介された。作家は「人為的に作るよりは、あるがままを掴み出して、

イ:洗濯場」は華やかな色彩とサウンドの二重奏だ。スラム街の人間

どうやったらその中から新しい意味や観点を取り出すことができるか

ドラマを4チャンネルで、それも4つの画面で同時に映し出した。寝

を悩み、その過程で映像作業に重きをおくようになりました」と説明

て、飯を炊き、体を洗うという私的な行為が公的な空間で行われてい

している。

る姿、汽車のドアに荷物のようにつかまっている人々の姿を映した映

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「ムンバイ:洗濯場」はスラム街の人間ドラマを4つの画面で同時に映して見せる。寝て、 飯を炊き、体を洗うという私的な行為が公的な空間で行われている姿、汽車のドアに 荷物のようにつかまっている人々の姿を映した映像からは、必死に生きる人間に対する 作者の温かい視線が感じられる。

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像からは必死に生きる人間に対する作家の温かな視線が感じられる。

画面は作家の息遣いを視覚的に表現したものだ。2006年にイタリア

グリーンランドで撮影した3部作「水の鏡、空気の鏡、風の鏡

ベニスのあるオペラ劇場で初めて上映された作品だ。空と海の位置を

(Mirror of Water, Mirror of Air, Mirror of Wind)」ではキャンバスでは

入れ替えた「ボッタリ‐アルファビーチ」は奴隷貿易が行われていたナ

ないメディア作業で絵画の表面に質問を投げかけた。展示の表題作

イジェリアの海辺で2001年に撮影された。自分の土地から引き抜か

である「ツー・ブレス:見えない鏡/見えない針(To Breathe: Invisible

れ奴隷として売られていった人々の受けた挫折と喪失感を引喩した作

Mirror/ Invisible Needle)」ではデジタルの色彩画面を視覚的な呼吸と

品だ。作家はここで出会った水平線を「私の見た最も悲しく衝撃的な

解釈した。何のイメージも登場せずに徐々に色彩だけが変化していく

線」だったと言っている。

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韓国の文化と芸術


1. 2008年作 「ムンバイ:洗濯場」の一場面 2. 1997年作 「動く都市:ボッタリトラック2727km」 の一場面。マルチメディアアーティスト・金守子の 存在を世界に知らしめた作品だ。

光州ビエンナーレ展示作 個人展とは別に9月7日~11月11日、光 州広域市で開かれる2012光州ビエンナー レの企画展「ラウンドテーブル」に紹介され た映像作品「アルバム:ハドソンギルド(An Album: Hudson Guild)」も印象的だ。脳を傷

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めた後、記憶を失くし亡くなった作家の父 に対する想いから始まった作品は老年の孤独と存在に対する問いから

に変身した。イブルボをほどいて作ったボッタリは新しいキャンバス

始まっている。

となり、作家の身体は世界をつなぐ針と糸になった。

およそ31分間の作品にはニューヨークのハドソンギルド・シニアセ

移住と文化的な衝突に対する関心を個人的なパフォーマンスに

ンターで生活する60~80歳の移民のお年寄りたちが順番に登場する。

結びつけた作業は時間が経つにつれ世界の美術界に確かな存在感を

マリーナ、ピーター、作家が低い声で名前を呼ぶと、それまで後ろを

表しはじめた。美術評論家のローザ・マルティネスさんは「この30年

向いて座っていたお年よりたちがカメラに向ってゆっくりと振り返る。

間、彼女の作品は東洋と西洋の間の新しい形態の造形的な脈絡を追及

彼らはそれぞれ個性ある表情と態度で人生のシワと曲折を表現し、し

し、美、治癒、自覚の空間を作り出した」と評する。世界的な美術館

ばし観客を凝視した後、背景の中に消えて行く。レンブラントの描い

とキューレーターが先を争うように彼女を招いている。作家は「ボッ

た集団肖像画を現代に呼び寄せたように、人物の人生と心理的な状態

タリ・トラックと針の女を通して移住・避難・戦争・文化的な衝突、互い

が染み込んだ映像には静かな悲しみが漂っている。名前を呼ぶという

に異なるアイデンティティなど、時代の主なテーマを言及してきまし

単純な行為がまるで生と死の境界を物語っているように迫ってきて私

た。観客は作品の現実性を通してこのようなテーマに対して悩んだ

たちの生きている 「今、ここ」 の重さが実感として伝わってくる。

り、関心を持つようになります。たぶんそのような点が私の作業が成 功した理由の一つなのでしょう」と謙虚に語る。

作家自身の遊牧的な人生 作家は家族を韓国に残し1年のうち5カ月はニューヨークに、そ して残りは世界のあちこちを旅している。一年に20~30回は国際展

ボッタリから針に、そして今度は糸へと進んだ彼女の関心は人生 の根源に向かい、さらに深い省察を求めている。それは人生、芸術、 世界の統合を追及してきた作家の夢でもある。

に参加しなくてはならない孤独で多忙な日常だが、彼女の顔は常に落

作家自身の遊牧的な人生を通じて柔軟な観点から育まれた彼女の

ち着き穏やかに見える。芸術を金と名誉を求める手段ではなく、ひた

映像作品は静かで叙情的なイメージで観客の心を魅了する。彼女の展

すら作業し、それ自体を愛するという固い意志が感じられる。

示空間にいる間、観客は映像に溶け込み自然と人間、東洋と西洋、表

今年、55歳の作家は大邱で生まれてソウルの弘益大学絵画科を卒業

面と裏面、定住と移住、陰と陽、空間と時間の関連性について思惟す

した後、画家として活動を始めた。そして1983年に母と向かい合い

る楽しさを味わうことができる。日常の中で見つけた互いに異なる伝

イブルボ(布団用の風呂敷)を縫っているときに、ふいにインスピレー

統と文化を人類の普遍的な価値として昇華させた彼女の作品は私たち

ションを得たという。傷をつけると同時に、治療の道具でもある針の

に人間の本質と、人生の原形質に出会う貴重なチャンスを与えてくれ

両面性を認識したのだ。その時から彼女は治癒の意識を主管する司祭

る。(翻訳:金明順)

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世界の中の韓国人

2012���ベネチア国際映画祭で 「ピエタ」で最高賞の 金獅子賞を受賞したキム・ギドク監督

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韓国の文化と芸術


ベネチア映画祭で金獅子賞を 受賞したアウトサイダー映画監督

金基德

頑なに自分の映画の世界を追求してきたキム・ギドク(金基德)監督が、2012年第69回のベネチ ア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。16年の経歴をもち、自力で成功を成し遂げた映画監督に はこれまで、不自然で残酷で、挑発的という修辞が付きまとっていた。ところが、世界3大の 映画祭のひとつであるベネチア国際映画祭で最高賞を受賞したことで、彼は“以外にも”韓国映 画を代表する顔になった。 ダルシ・パケット(Darcy Paquet、映画評論家、俳優)| 写真 (株) : ファインカット

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02年1月、私はソウル仁寺洞の小さなカフェでインタ

での任務を終えた後、目の不自由な人々のために教会でボランティ

ビューのために、初めてキム・ギドク監督に会った。中産階

ア活動をしながら20代を過ごした。絵を描くことが好きだった彼は、

層のある女子大生を身を売る女にしてしまう男の物語である彼の3作

パリまでのチケット代をかき集めて1990年にパリに渡り、2年間道端

目の映画『悪い男』が封切りして間もない時期で、当時、第52回のベ

で絵を描いて生計を立てた。

ルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品される予定であっ

パリでキム監督は映画に惹かれてしまった。「私は34才の時にパリ

た。様々な論議を巻き起こしたこの映画は観客から極端な評価を得た

で初めて映画を見ました。それまでは映画館で映画を見たことがあり

が、彼の映画としては以外にもそこそこの興行成績を上げていた。寒

ませんでした。韓国ではいつも働いていたからです」。『羊たちの沈

い日にも関わらず、キム監督はコートの下にTシャツ一枚の姿で、頭

黙』、『ポンヌフの恋人』などの映画に強い印象を受けた彼は映画監督

には彼の特徴である野球帽が短かく刈り上げた髪の毛を覆っていた。

になろうと決心した。韓国に帰ってきて間もなく、彼は韓国映画振興 会から脚本賞を受賞した。これを足がかりに1996年、チョ・ジェヒョ

挑発者キム・ギドク 「私の映画は海外の映画祭では多くの関心を受けましたが、韓国で 人気を得たのは今回が初めてです」と彼は言った。彼は韓国の映画批

主演の低予算映画『ワニ』でデビューを果たした。それ以来12年間、 彼は15本の映画を作って国際的な名声も得た。まともに映画教育を 受けたことがないにも関わらず成し遂げた実績である。

評家らと公然と論争する人物としても知られていて、批評家たちは彼

我々は彼の映画が他の監督らの映画と違う点についても話し合っ

のことを「怪物」または「つたない映画監督」と呼んだりしていた。しか

た。彼の映画はクリエイティブな映像美と完成度の他に、挑発的な点

し、直に会ってみた彼は、品があって饒舌だった。「韓国では批評家

で有名である。キム監督は自分の目的が時には観客の居心地を悪くさ

たちが私の映画が悪いとか危険だと批評するため、映画を見てくれる

せることにあると認めた。観客が考えたくもない社会の一面に注意を

人は多くありません。しかし海外の映画祭での批評は、私の映画は社

促すせいだと言った。「人々は身を売る女性やヤクザなどの世界を見

会に対し訴えたいことに焦点を合わせます。ただ良いとか悪いとかの

ると、「人間のくずだ、排除しろ」と言います。しかし、彼らも尊重さ

一言で烙印を押すことはないでしょう」と言った。

れなければならない同じ人間です」

インタビューの間、我々は韓国の有名な監督らとは大きく異なる

引き続き彼は韓国における中・上流層の人々が社会の下流層を軽蔑

彼の成長過程についても話し合った。彼は貧しい家庭に生まれ、16才

していると話していたが、そのうち、彼の声が高ぶっては震え始める

の時に学校をやめてソウルの清渓川一帯にあった工場で働いた。海軍

のを見て内心驚いた。このテーマが彼にとって非常に重要な問題であ

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「私の映画は観客を拉致して向こう側の世界に押し込む手段です。もちろん、人々を攻撃しよ うとするわけではありません。私が見せてやりたいのは、我々の社会が抱えている本当の問 題です」

り、彼のクリエイティブなパワーを支える原動力の一部であるのは間違いなかっ た。「私の映画は観客を拉致して向こう側の世界に押し込む手段です。もちろん、 人々を攻撃しようとするわけではありません。私が見せてやりたいのは、我々の 社会が抱えている問題の本質です。韓国の主流社会が、私が映画で見せている階 層の人々と距離を置こうとすれば、葛藤はさらに深まるでしょう。私は映画を通 して双方がお互いを理解できるように導きたいだけです」。

哲学者キム・ギドク 芸術家も年をとれば変化し、成熟する。しかし、その変化があまりにもドラマ チックに展開するケースもある。キム・ギドク監督が海外の多くの映画ファンの想 像力を引き立てた理由の一つは、彼が自分の映画を通じて数回にわたって驚くべ き変化を見せたからだ。一人で映画を勉強した無名の彼が1996年に映画を製作し 始めた時、彼は自分が映画界で、そして韓国の社会でアウトサイダーであること (2000)、映画が出品され を十分意識していた。吐き気がするほどに酷い映画『島』

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たベネチア映画祭で、ある記者が映画の観覧中に気を失ってしまう騒動も起きた。 そして米軍部隊が駐留した地域で起きる問題を扱った『受取人不明』 (2001)などの 作品でキム監督は、甘い自己満足から逃れるように観客に衝撃を与えるため、暴 力と残忍さを用いた。映画評論家のスティーブ・チェはキム監督の映画について 「暴力的なイメージを使って、観客が何となく映画館を訪れる理由を再考すように 仕向け、彼らの甘い文化趣向を揺るがしている」と説明している。フランスの映画 批評家であるセドリック・ラグランドル(Cedric Lagrandre)は「キム・ギドクの映画 に出てくる人々は話し合わない。ただ投げ合うばかりだ。関係は常に対面勝負で あり、直接的で利害関係がはっきりしている。暴力を中性化できる言語を媒体と して使っていない」と評している。 しかし、時間の経過とともにキム監督も変わり始めた。彼のレジュメの中で新 しい時期の到来を証明してくれる映画は、ある仏教の僧侶の生涯を四段階で表し

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た『春夏秋冬そして春』 (2003)である。遠く寂しく美しい湖を背景としたこの映画 が、暴力をほとんど動員していないことだけが重要なわけではない。もはや彼は、 観客とまったく違ったやり方でコミュニケーションをはかっていた。初期の作品 に見られる挑発性は、やや違った、もっと柔らかな形の挑発性に代えられ、観客 が世の中を違う視線で見るように促していた。暴力ではなく、驚くべき創造的な やり方で観客を他の人々の立場に置いておくことで、観客の期待感を裏切った。 キム・ギドク監督の映画の中で高い評価を得た『うつせみ(原題:空き家)』 (2004)

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1. 2004年のベネチア国際映画祭で 「うつせみ (原題:空き 家)」で銀獅子賞 (最高監督賞)を受賞したキム・ギドク監 督と、 「ザ・シー・インサイド(The Sea Inside) 」で審査委 員大賞を受賞したスペインのアレハンドロ・アメナーバ ル(Alejandro Amenabar)監督。 2. 2003年の作品で、彼の履歴に新しいページの幕開け を予告した映画、 「春夏秋そして春」の一場面 3.2005年の作品 「矢」のポスター 4「うつせみ」のポスター 韓国の文化と芸術


は、たったの10日間の撮影期間にも関わらず、海外の批評家たちから熱い賛辞を得 て、第61回のベネチア映画祭で最高監督賞を受賞した。この映画はしばらく空家に なっている家に入り込んだある男の物語だ。彼は盗みをする代わりにそこで暮らしな がら、壊れた家具を直したりもする。そしてある日、夫に殴られたある女と関わるよ うになり、二人だけのユニークで独特なスタイルの生活を追及することになる。観客 たちにはこの映画が、自分だけのルールによって作動する興味深くて新しい世界への 招待状のように感じられた。この映画は最後にかなり実験的に展開されるが、そのよ うな暮らしと現実との接点について深く考えさせてくれる。ここでキム・ギドクは哲学 者になって生と道徳について意味深い質問を投げかけ、観客自らが結論を出すように 仕向けている。 キム・ギドク監督は海外の映画祭でかなりの成果を挙げていて、『うつせみ』と『春夏 秋そして春』はヨーロッパと北米、そして日本でもなかなかの興行成績を残した。そ れにも関わらず、彼の映画は韓国では観客動員に失敗した。『春夏秋そして春』は韓国 でチケットが55,000枚しか販売できなかったが、アメリカでは計2百万ドル以上の利 3

益を上げた。これは当時の韓国映画としては最高の記録だった。『うつせみ』はベネチ ア映画祭で最高監督賞を受賞したが、95,000枚の販売に留まった。彼より2年前に、同 じく衝撃的な内容のイ・チャンドン監督の映画『オアシス』 (2002)が同賞を受賞したお かげで、国内での興行にも成功して10倍以上の総利益を上げたこととは対照的であっ た。祖国で認められない事実にキム・ギドク監督は不満を持ったに違いない。彼は自分 の13作目の映画『時間』 (2006)が封切られる前に、チケットが20万枚以上販売されなけ れば、自分はこれから韓国では映画を上映しないと宣言した。 結局、キム・ギドク監督の『時間』は3万枚しか売り上げなかったが、自分の約束を 守らなかった。一つだけ確実なことは、韓国の観客とキム監督の映画履歴の間には、 未だ解決していない問題が燻っている点である。そのひとつはイメージの問題なのか も知れない。観客たちのほとんどは、彼の映画そのものよりは、一般的に知られてい る彼の戦闘的イメージに慣れている。さらに、外国の観客らがキム監督の映画が見せ てくれる創造性に魅了される反面、彼によって露になった韓国社会の肖像は韓国の観 客にとっては馴染みが薄いようである。キム監督と韓国観客の間に存在するよそよそ しさは今も続いている。

キム・ギドクの帰還 2008年から2011年まで、キム・ギドク監督は姿を消した。創作の危機を経て、韓国 4

の映画産業に裏切られたと感じた彼はひとり人里離れた所に身を置き、外の世界との 関わりをすべて絶った。沈黙の期間が長くなると、人々は映画人としての彼の映画人 生も終わったのではと陰口を叩いた。しかし2011年、彼は自伝的ドキュメンタリーで ある『アリラン』を手にカンヌ国際映画祭に現れた。自分の考えや不満をカメラの前に ぶつけたかなり例外的な映画で、キム監督が自分の未来と映画製作の意味合いについ て苦慮しながら時間を費やしたことが分かる映画だった。このドキュメンタリー映画 は、その悩みの賜物であって、カンヌ映画祭では「注目すべき視線大賞」を受賞した。 その年の年末に彼がスペインのサンセバスチャン国際映画祭に、自分の実験作品の

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『アメン』 (2011)を出品した時、私はキム・ギドク監督と再会した。すっかり変わった彼の外見 には驚かされた。長く伸びた髪の毛の半分は白くなっていて、出立ちは現代風にアレンジした 韓服姿だった。ところが外見の印象とは違って、肩から重荷を下ろしたかのように、彼は本 当に幸せそうだった。韓国の主流をなす映画産業に対しての批判的な態度は、以前変わりはな かったが、(「大手配給会社は創造的な映画の生産には関心がない」と言っていた)韓国社会にお ける自分の位置づけや韓国の観客たちとの関係は受け入れているように見えた。さらに、映画 制作に対する情熱にも再び火が付いていた。「キム監督の頭の中は新しい映画に関する構想で 一杯です」と、彼の共同製作者の一人が耳打ちした。 キム監督が『ピエタ』 (2012)で今年のベネチア国際映画祭に姿を現すと、待ってましたとば かりに批評家たちは歓声を上げ、彼は金獅子賞まで獲得した。もちろんこの賞は映画監督に とっては最高の栄誉であり、韓国映画の歴史においても世界3大映画祭といわれるカンヌ、ベ ネチア、ベルリン国際映画祭で最高賞を受賞したのは、今回が初めてのことである。ここ数年

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間、映画人として危機を経験した後キム・ギドック監督は、復活し今や映画人生の中で絶好調 に達したようだ。 彼はようやく韓国の観客らとの幅広い出会いを求めている。ベネチアに出品する前にすで にキム監督は、初めて自分の映画をテレビで放送することに同意し、彼が見せた開放的でや さしい態度は多くの韓国人がこれまで彼に対して持っていた否定的なイメージをがらりと変え た。『ピエタ』という映画も、残酷で気味悪いいくつかの場面にも拘わらず、一般の観客らが感 情的なレベルで呼応しやすい重要な接点をはらんでいた。この映画は彼の挑発的な初期のスタ イルと、『うつせみ』で見せた省察が混ざっているように見える。女の主役を演じたチョ・ミン スの演技は好評 を得て、彼の映画を見向きもしなかった韓国人も金獅子賞の受賞を誇らしく 思った。 自分だけの映画の世界を追求し続けながら、主流トレンドに抵抗してきたアウトサイダー キム・ギドク監督が、韓国映画至上もっとも名誉な賞を受賞した事実は意義深い。韓国の他の 監督たちも将来認められる可能性が十分あるが、この瞬間、キム・ギドク監督は以外にも韓国 の映画を代表する顔になった。どんな���画祭でも審査委員の構成や審査過程には、避けられな い妥協など様々な要素が働く。2004年の審査委員の構成が違っていたら、彼の『うつせみ』が 金獅子賞を受賞していたかもしれない。しかし、彼の映画履歴の中で、現段階で栄誉なる実績 を上げたのは適切なのかもしれない。彼の映画は依然として鋭い切り込みがあるが、ついに祖 国と平和協定を結ぶようになったと思われる。(翻訳:趙祥恩)

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韓国の文化と芸術


1-3.「ピエタ」の一場面。最初のカットでキム・ギド ク監督と共に注目を浴びた女優のチョウ・ミンス 4. 2012年7月19日「ピエタ」の制作報告会が開かれ た大韓聖公会のソウル主教座聖堂に、「ピエタ」の ポスターのイメージが掛かっている。(NEW提供 写真)

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我が道

愛の咲く食堂 この食堂の看板には「タンポポ麺処」とはっきりと書かれているが、メニューに麺類は見当たら ない。ご飯と7~8種類ものおかずが食べられるバイキングである。値段は「ご馳走さまでし た」という一言で十分だ。ソ・ヨンナム(徐英男)さんは体の不自由なお客さんが現れると、自ら 出迎えて席に導いては、ご飯やおかずを食べさせたりもする。 キム・ハクスン(マスコミ関係者)| 写真 : 安洪范

の食堂の表向きはホームレスや貧しい人々を助ける ための無料給食所であるが、その中身は他の給食所

カトリック教修道士から一般信者になったソ・ヨン

1

ナムさんは今年58歳になった。彼は2003年4月1日に、貧

とはやや違う。同じ人が一日に何回現れても門前払いはしない。実

しい街の仁川広域市東区花水洞ファド峠の頂上に「タンポポ麺処」を

際、一日に5回も訪れて腹いっぱい食べていく人もいる。一日7回も

オープンした時から、普通の人なら気がつかない細かいところまで気

食べた人もいた。いつも腹を空かしていた人たちなので、食べても食

を配った。お金をもらわない無料給食所という気負いもなく、正式な

べても空腹感が消えないのだ。ソウルを始め、首都圏から集まってく

手続きを経て管轄の保健所から許可を得て、事業者登録も済ませた。

るホームレスたちは、ここでは思う存分自らご飯を盛って食べる。

調理師としての資格コースに登録して3カ月間料理を学んだ。 リサイクルした看板もあえて目立たない薄い黄色の文字で書いて、

お客さんは皆VIP

客の自尊心に配慮した。資金が300万ウォンしかなかったため、たっ

この食堂では早い者勝ちではない。人が多くて列ができても、先

た3坪(9.9㎡)の狭いスペースでスタートした当時は、不遇のホームレ

着順ではなく腹が減って我慢できない人をまず食べさせる。食堂の壁

スの人々に麺料理を一杯ご馳走しようと思った。しかし、麺を食べる

には黒板が掛かっていて、そこには常連のリストが書かれている。代

とすぐ腹が減ってしまうという話を聞いて、メニューをご飯に変え

表のソ・ヨンナムさんは、ご飯を食べる量、好きなスープの種類、具

た。しかし看板だけは「タンポポ麺処」のままにしておいた。お客の栄

が好きなのか、それとも汁の方が好きなのかなど、細かい情報までメ

養状態がよくなって、麺類を求めてくるまで食堂をやり続けようと決

モしておくほど、お客さんに気を配っている。さらにそのメモには、

めたからだ。

お客の過去と現在の事情、希望事項までがびっしり書き込まれてい る。彼は毎日400~500人ものお客をみんな「VIP」と呼んでいる。「神 様が送ってくださった最高のお客さん」という意味だ。壁に掛かって いる文章から、彼がこの食堂を営む理由が分かったような気がする。 「所有からの事由、貧しい人々と共にある喜び、美しい世の中のため の投身」

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四つの原則 ソ・ヨンナムさんはタンポポ麺処のオープンに際して四つの原則を 立てた。政府から支援を受けない。寄付金をもらうためのプログラ ムは運営しない。見せるため寄付金はもらわない。後援会を組織しな い。政府の支援を受けると、一日に一食しか提供できなく、一人当た 韓国の文化と芸術


2

り米155gを超えてはならないという非現実的な規定を守らなければ ならない。「政府の規定というのは冷たい」と言う彼は、お腹を空かし

1.「タンポポ麺処」のロゴ 2. お客さんたちに食べ物を振舞っている「タンポポ麺処」のソ・ヨンナム代表 (写真中央))とボランティアの人たち

た人々が好きなだけ食べられない政府の規定なんかに従うつもりはな い。その代わりに全国各地から一般人の寄付金とボランティア活動に 支えられて食堂を運営している。後援会とかお金持ちの金も自分の趣 旨には合わないと考えている。 「ホームレスは腹を満たすことしか考えない怠け者だと思われがち です。しかし、昼12時に配る食券を受け取って午後5時にご飯をも らうためには、一日中そのことしか考えられないでしょう。他の仕事 などできるはずがありませんよ」 ソ・ヨンナムさんはお客さんの自尊心が傷つかないように気を使っ

くれたりする。初めて家を貸してくれた大家は、家賃の3分の1を後 援している。 「買い物に行くと、モヤシを売る露店のお婆さんが幾つものザル のモヤシをただで下さったり、食堂で食べていたホームレスの人が ティッシュを売って稼いだお金を出したりもします。また、わざわざ

ている。「頑張らないといけませんね」など、決まり文句を言ったり、

休みをとってボランティアに来てくれる方々に支えられて運営して

特定の宗教について話しかけたりもしない。一度は酔っ払った若者が

います」と語るソ・ヨンナムさん。インタビューの間にも、78才のお婆

来たが、嫌がることもなくより親切に迎え入れた。食後にタバコを吸

さんが隣接した徳積島で直接獲ったと言いながらカニや嗚呼アサリ

いたがる客には一本のタバコを分けてあげた。

の入ったビニール袋を彼に手渡していた。20人近くのボランティア

ここを訪れる「VIP」は10代の青少年から80~90代のお年寄りに至る

の人たちがいて、人手が足りない時は食事を済ませた客たちが、進ん

までさまざまである。最初は6人入れば一杯になったが、隣の家を賃

で手助けしてくれる。余ったお米は貧しい村の人たちに分けてあげる

貸で借り上げて、一度に24人を受け入れられるほどまでに広くなっ

が、20キロ入りを1000個も配った時もあった。ところが、ソ・ヨンナ

た。後援者やボランティアの人々もかなり増えた。お金を寄付する人

ムさんにとって一番心強い後援者は妻のベロニカさんと大学院を休学

もいれば、物で援助してくれる人々も多い。隣近所の人たちも米、キ

中の娘のモニカさんだ。奥さんは東仁川のある地下商店街で服を販売

ムチ、カボチャ、キュウリ、肉、サバなど、多様な食材を持って来て

しているが、稼いだお金はすべて食堂のために差し出している。

K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

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「ホームレスは腹を満たすことしか考えない怠け者だと思われがちです。しかし、昼12時に配 られる食券を受け取って午後5時にご飯をもらうためには、一日中そのことしか考えられな いでしょう。他の仕事などできるはずがありません」

子供たちのための施設

のほとんどがお金がなくて、学校

タンポポ麺処では食事だけを

が終わった後に食事や勉強などを

提供しているわけではない。自立

解決しづらい小学生である。食堂

の意志のあるホームレスには泊

は午後1時から6時までのオープ

まる所を斡旋し、日用品や衣服ま

ン時間にはいつでも、誰でも無料

で提供している。「一人で」しかし

で食べられる。ご飯を食べる姿を

「一緒に」緩いコミュニティーとし

外から見られると、子供たちが傷

て暮らす20人余りの人々が生活

つくのではないかと気を使って、

している。食堂の周辺に広がる町

窓には畳み式のカーテンまで取り

には彼らのために、6~7か所の

付けた。3階の勉強部屋には後援

タンポポ家がある。最近、独立し

者と出版社から送られた偉人伝や

た人もいる。

童話の本が数百冊もある。ここは

後援金が増えたおかげで4年

娘のモニカさんが主に切り盛りし

前から「タンポポ麺処」から150m

ている。

くらい離れた所に、子供たちのた

希望を与えること

めの「タンポポ夢子供食堂」、「タ ンポポ夢勉強部屋」、「タンポポ図

ホームレスの人たちに出会っ

書館」もオープンした。名目通り

てから、ソ・ヨンナムさんは彼ら

子供のための空間である。塾など

が一番求めているのは生きる意味

に通えない貧しい子供たちが、自

だということに気づいた。「まず

由に来ておやつや夕飯を食べて、 本を読んだり、勉強をしたりする

1

希望を与えることは欠かせませ ん」と話すソ・ヨンナムさんは、2

ことができる。36㎡のスペースの1階には食堂が、3階には勉強部屋

年前に周辺の仁ヒョン洞にホームレスのための文化スペースであるタ

が入っている。

ンポポ希望支援センターを新たに設けた。同センターの設立に向けて

「子供たちが“タンポポ麺処”に来て大人たちと一緒に食べるのは気

カトリック仁川教区社会福祉会では3億2千万ウォンを支援してくれ

が進まないだろうと思って設けた空間です。1階は家賃を払ってい

た他、ソ・ヨンナムさんの古き友人の建築家イ・イルフンさんが建て替

ますが、3階はただで提供されています。食堂は建築業者の後輩がた

えを担当するなど、多くの人々が助けてくれた。1階は暖かい水で足

だで建て直してくれました。食卓も寄付されたものです。あるボラン

の洗える洗足室と、最新型のパソコンの入った情報検索室、図書室、

ティアの団体は火災保険に加入してくれました」

映画上映室などで構成されている。2階には洗濯室、睡眠室、休憩室

この食堂や勉強部屋を利用する子供たちは一日平均100人余り。そ

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などがしっかり据えられている。シャワーを浴びたホームレスの人た 韓国の文化と芸術


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ちは、乾燥機で服が乾かすまでの間、用意された服に着替えて昼寝を したり、テレビを見たりしながらして一休みをする。この施設を利用 するには簡単な個人情報記入欄のある会員カードを提示するだけで済

1.「タンポポ麺処」の客たちの自立をサポートする「タンポポ家」の塀に寄りかか っているソ・ヨンナム代表 2.「タンポポ夢子供食堂」で夕飯を食べた子供たちはこの「タンポポ夢勉強部屋」 で午後の時間を過ごす。

む。さらに、ホームレスの人たちが本を読んだ後、鑑賞文を書いて読 み上げれば、3000ウォンと靴下がもらえるのも面白い。彼らにはとて も大事な現金である。 ここでは2010年から仁荷大学病院の6人のお医者さんが個人的に

ニューヨークに設立して以来、現在まで運営されている「歓待の家」を

ボランティアで タンポポ診療所を運営している。ここでは一日に慢

見習ったをいう。ジム・フォレスト(Jim Forest)の書いたドロシー・デ

性疾患を患う100人以上の患者が利用している。また、隣にある別の

イの伝記『All Is Grace: A Biography of Dorothy Day』 (韓国では「物差し

タンポポ商店ではホームレスと貧しい人に必要な服や靴、カバンな

は愛」というタイトルで翻訳・出版)はタンポポ麺所をオープンする時

どを無料で配っている。さらに、2011年からはフィリピンのパヤタス

はもちろん、ソ・ヨンナムさんの生涯に大きな影響を与えた。

(貧民村)の子供たちに衣服や日用品を支援する海外活動も展開した。 「タンポポ麺処」は土日に午前10時から午後5時までオープンし、

ソ・ヨンナムさんは辛い時には、壁に貼っておいた 詩人キム・ナム ジュの「愛」という詩句を思い出す。

木曜日と金曜日は営業しない。この日はソ・ヨンナムさんが修道士の

愛だけが/ 冬を凌ぎ/ 春を待つことができる/ 愛だけが/ 不毛の地を

ころからやっていた刑務所の囚人のための矯正司牧活動を行う日であ

掘り起こし/ 自分の骨を灰に変え撒くことができる/ 千年の時を越え/

る。彼は全国の刑務所を回りながら、死刑囚と長期服役囚の話の相手

春の丘に/ 一本の木を植えることができる/ そして収穫を終えた野原

になってあげたり領置金も入れてやる。奥さんと娘さんも囚人の人た

で/ 愛だけが/ 人間の愛だけが/ 一つの林檎を二つに割り/ 分け合うこ

ちとの手紙のやり取りを手助けしてくれる。

とができる

ソ・ヨンナムさんは貧しくて辛い人たちのために尽くした労が認め られて2011年に韓国政府から国民勲章の石榴章を受けた。 タンポポ麺処はアメリカのキリスト教の社会運動家のドロシー・ デイさんが1930年代の大恐慌期に、ホームレスと失業者のために K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

愛の咲くタンポポ麺処、愛がタンポポの胞子のように飛んでゆく 食堂を見ていると、「あなたの始めは小さくても、その終わりは、は なはだ大きくなるでしょう」という聖書の一節(ヨブ記8章7節)を思 い出してしまう。(翻訳:趙祥恩)

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『韓国の族譜』 チョン・スンモ著、イ・ギョンヒ訳。ソウル: 梨花女子大学校出版部(2012)、 160頁、 15000ウォン 『韓国の族譜』は韓国の地域文化研究をリードしてきた歴史民族学 者が書いた本であり、韓国が朝鮮時代に堅牢な父系主義に基づいた 階級社会に移行する主な手段の一つであった族譜について研究した 本である。族譜は儒教的王朝の下、女性に対する抑圧がいかに厳し くなったか、また家系体制で縁組や社会的階層化が進む過程で生じ る問題を理解するにはうってつけの史料である。 韓国版『韓国の族譜』の翻訳書である同書は決して読みやすい本で はない。数多くの文献のタイトルが長���と羅列されていたり、著者 の名前も散見されるため、外国の読者にとっては理解しがたい情報 である。しかし、羅列された名前と繰り返される描写を克服した読 者は、韓国の族譜の構成の過程やその社会的機能に関する情報をた くさん得ることができる。 この本は15世紀以降に書かれた記録が中心になっている。それ以前の記録は ほとんど残っていないため、簡単に取り扱われている。そのため、息子と娘を 対等に待遇していた社会からだんだん男性中心になっていく15世紀に入るまで 繰り広げられた社会の変化については、十分な情報が得られないことは残念だ。 計4章で構成されている同書は、族譜のもつ社会的意味と機能を扱ってい る。つまり、韓国の族譜が中国の 族譜の形式を受け入れていく過程など、族譜 の歴史を扱っている一方、誰が、なぜ、どうやって族譜を作成したのか、族譜 が誕生するまでの過程を紹介している。さらに、偽の族譜が多数作成された理 由と、朝鮮社会における役割、そして族譜の読み方や解釈の方法などについて も説明している。様々な族譜の写真や画像は読者の理解を深めるのに一役買っ ている。 ただ、残念ながら翻訳や編集には改善の余地が残されている。中でも、表題 や地位などの特殊な用語に、昔の漢字が使われている場合は説明や解釈が必要

ブック・レビュー

族譜で理解する韓国社会

であり、翻訳する用語の統一も欠かせない。さらに、読者の中には両親の家系 を16代にまでさかのぼって記録する家系図表をどうして「8代祖先家系図」と読 んでいるのか疑問に思うだろう。また、索引は物足りなく、学問的原則を欠い ている。ブサン(釜山)をブアン(扶安)と書いた大きなミスは本の信頼度にかかる 深刻な問題である。 しかし、このような間違いや不明瞭な点を除けば、『韓国の族譜』は英語圏の 読者に朝鮮という社会の一面を紹介するという点で、その価値が十分あるだろ う。朝鮮時代の時代的一面は現在の韓国人の社会的関係の有様や意識にもある 程度の影響を及ぼしている。 ウェルナー・ザセ(韓国学研究者、画家)

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韓国の文化と芸術


近現代の韓国音楽の宝庫 国楽アーカイブ http://archive.gugak.go.kr/ArchivePortal/ 世界最古の国家音楽機関の伝統を継いでいる国立国楽 院の原点は、651年『三国史記』に記録された新羅音声署から 始まる。その後、大楽署(高麗時代)、掌楽院(朝鮮時代)な ど、歴代の国家音楽機関は国レベルで行われる祭祀を始め、 様々な公式イベントの場で、楽歌舞を取り仕切った。 現在の国立国楽院は伝統音楽、舞踊、演戯種目と、それ に基づいた創作活動の成果など、生き生きとした韓国民族 の音楽の記録や継承、保存に努めることで、韓国音楽の伝 統に対する包括的な洞察と再創造に取り組んでいる。 毎年、国立国楽院の公演、教育、研究活動の結実として3千点以上のドキュ メンタリーが作られている。国楽アーカイブ・プロジェクトはそのドキュメンタ リーを体系的にまとめ、著作権を管理・保存・活用する目的で2007年から始まっ た。その結果、18万点程度(約3万点のデジタル資料を含む)のドキュメンタリー を保有しているが、このうち国外を含めて民間で制作され、蒐集されたドキュ メンタリーは約12万点にのぼる。 2012年7月、過去5年間の成果を基に、国楽アーカイブ・ホームページ (www.archive.gugak.go.kr)サービスをスタートさせ、約7万件のデータ情報を ネット上で提供している。その中で約2千件程度の動画や音響コンテンツは、 ネットにつながっていればどこでもリアルタイムの再生方式によって視聴でき る(その他のものは著作権の問題のために、所定の手続きを踏まなければならな い)。アメリカのアーヴァイン大学の人類学科のロバート・ガルフィアス教授が 1966年から1981年までまとめた国楽関連の動画や録音資料など、一千点の資料 をはじめとする個人コレクションなど、貴重な資料も見られる。 国楽アーカイブでもっとも重視しているのは、信頼できる資料の蒐集であ る。そのため、外部機関との連携および交流、個人収蔵の資料の受託などの方 法で、これからはさらに前向きにデータを集めていく計画である。また、公開 コンテンツの範囲拡大などの取り組みも平行して行っている。ところで、もっ とも早急に取り掛かるべき仕事として、ハング ルの分からない韓国学の研究者たち も音源データを簡単に調べられるよう に、多言語サービスを行うことである。 これは最も急を要する課題として認識し 開発を急いでいる。(翻訳:趙祥恩)

チュ・ゼグン(朱宰槿、国立国楽院学芸研究官) K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

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遠くの目

私の韓国との関わり 中島敦・湯浅克衛など 中島敦研究を志していた私は、研究を同じくするT氏に誘われて、「京城」時代の中島の事蹟 を調べに行く計画を立てた。1979年の秋のことである。私にとっては、生まれて初めて国外 へと出る旅であり、それなりの緊張を覚えながら資料収集のための準備を進めていた。 きむら・かずあき(木村一信、立命館大学名誉教授)

の 韓国との関わりは、中島敦という33歳で夭折した文学者から始まる。日本の高校の国 語教科書に、教材として採られることの多い「山月記」や「名人伝」といった短編小説、また

「李陵」などの作品で知られるこの作家は、11歳から17歳までの6年間、当時は「京城」とよばれて いた現在のソウル、漢江北岸近くの龍山に住み、そこから小学校、中学校(旧制)へと通っていた。 父親は、龍山中学校の教員であった。 中島敦研究を志していた私は、研究を同じくするT氏に誘われて、「京城」時代の中島の事蹟を 調べに行く計画を立てた。1979年の秋のことである。私にとっては、生まれて初めて国外へと出 る旅であり、それなりの緊張を覚えながら資料収集のための準備を進めていた。すると、当時の 大統領である朴正熙氏が部下の一人に暗殺されるという、予測もしない事件が起こった(10・26事 件)。もちろん、私たちの訪問は、中止を余儀なくされたが、T氏は少し世情が安定するとすぐさま ソウルへと旅立った。やがて、T氏によって中島の評伝が、写真や回想文で構成された一冊の書物 として刊行された。T氏の再度の誘いに躊躇して同行しなかった私は、いささかの悔いが残った。 数年ほどして、今度は、勤務している大学の国際交流の仕事による韓国の大学を訪問する機会 がやってきた。丁度、私は国際交流委員を務めていた。中島敦の足跡などを確かめる時間的余裕 はなかったが、ソウルや忠清南道にある大学を訪ね、交流協定の話しあいをした。また、道庁の 文化交流担当の人に、古都の扶余などを案内してもらった。落花岩を見物し、白馬江を下った。 その観光の途次、案内をしてくださったその文化交流担当者は日本語がきわめて堪能であって、 マイクロバスの中で話された時のことがいまも強い記憶として残っている。 その時すでに高齢に見えたその方は、いまもご存命ならば90歳をこえておられるであろう。私 は、かつて「京城」に住んでいた中島敦や、1930年代から40年代にかけての日本の戦時下の文学研究 を専門としていると話すと、その方は、日本が「朝鮮」を「併合」していた時代のことを、自らの体 験にそって口にされ始めた。感情が強く表面に出、言葉は怒りを帯び、一方でそれを抑制しよう とする意志も働いて、しばらくの間は茫然とした思いになった。憤怒がおさまると、いまや友好 と協力の時代なので、韓国と日本とはしっかりと手をつがなければならないと、まったく真率な 思いにあふれた態度で言われた時は、ホッとしたのを覚えている。初めてやってきた韓国で、お そらく家族や自身に関連した日本の支配時代の辛い体験を語られるのを聞いて、私は打ちのめさ

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韓国の文化と芸術


れる感じがした。と同時に、それを敗戦後生まれの私には、前向きな姿勢で語り伝えようとされ る理性の力も感じたのである。 中島敦の「京城中学校」時代の同級生に、やはりかつての「朝鮮」で幼少年期を送った湯浅克衛と いう小説家がいる。湯浅は、幼少時に両親と共に京畿道の水原に住みつき、そこで小学校に入る。 1919年、三・一独立運動を水原の地で目撃する。日本の文壇で小説家としてスタートするのは、こ の独立運動を背景としたある初恋物語によってである。「カンナニ」と題されたこの作品は、ある 貴族の敷地内に住む日本人少年と「朝鮮人」少女との淡い恋物語として始まっている。仲間から揶 揄されたり、いじめられたりしながらも、二人は親しみを増していく。そこに、三・一独立運動が 起こり、カンナニは姿を消してしまう。どうやら日本の軍隊によって悲劇的運命に見舞われたら しい。少年の怒りと悲哀は、爆発しそうになる。1935年、日本の雑誌にこの作品が掲載になった 時、多くの伏字、削除処分を受けた。独立運動の描写はカットされ、日本の統治政策を批判した りする文字や言葉は伏字とされた。作品の後半部は、すべて削除。作品の全容が明らかにされた のは日本の敗戦後のことである。 中島敦作品に、「巡査の居る風景―一九二三年の一つのスケッチ」と題された短編がある。これ は「朝鮮人巡査」を視点人物としていて、日本の統治の末端にいて、ジレンマを抱えて生きる一人 の青年を描いている。そこに、東京から1923年9月の関東大震災時の「朝鮮人」の悲報がもたらさ れる。 私は、こうした湯浅克衛や中島敦の作品を研究していく中で、あの扶余を往復した折に、激し ながら、しかもそうした自らを必死に抑えて体験を語ってくれた方の姿を幾度も思い浮かべた。 体験や記憶を受けとめること、そしてそれらの持つ意味を歴史認識とつなげていくことが重要で あるのは言うまでもない。その時に最も大切なことは、未来のための前向きな姿勢であり、お互 いに知性と理性とをもって話しあいを深めることだと思う。 その後、私は数十回にわたって訪韓を繰り返すこととなり、友人、知人も多く得た。かつて訪 韓を躊躇した折の悔いはなくなった。共編著を韓国の研究者と刊行することができ、また拙編著 も韓国語となって出版されている。多くの敬愛する韓国の人々との出会いに心からの感謝の意を 表したいと思う。 K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

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エンタテインメント

11月6日、パリのエッフェル塔前のトロカデロ広場で開かれたサイの「江南スタイル」のフラッシュモップに参加した人々が、サイの登場に歓声を上げている。

「歌

手になって12年目に全盛期に出くわすなんて、ま

返し見たりしますね。そんな感じじゃないでしょうか。私の

だ実感がわきません。ネットでは「強制海外進

ミュージック・ビデオが滑稽で見始めたんでしょうね。私

出」と言われているが、私は(外国への進出と成功を)意

自身、音楽をやっている歌手なので、可笑しさで成功した

図したつもりはないので、これを分析する暇はありませんでし た」

ことに笑ってしまいますが、納得はできます。世界が共感で きる感情こそ“笑い”ですから」と続けた。

「ビルボード・トップに上るまでアメリカに居座って」と促す 韓国の熱烈なファンたちの主張にもかかわらず、予定されて

数多くのヒット曲を作ったシンガーソングラ

いた秋のスケジュール、特に大学祭への参加の約束を守る

イター

ために一時帰国した9月末、サイは帰国の記者会見場でこ

サイは韓国では誰もが知っている人気歌手であ

う語った。さらに、「我々も外国の珍しい映像があれば繰り

る。ヒット曲も2001年に大きな反響を巻き起こし

世界を躍らせたB級ペーソス

「江南スタイル」 とPSY 歌手サイの「江南スタイル」のミュージック・ビデオが11月24日現在、ユーチューブで8億件を超える再生回数を記録した。 「世界マーケットに認めてもらいたい」と決意したわけでもなく、いつもと変わらぬ自己流で制作したミュージック・ビデ オが世界的に大ブレークしたのだ。サイは一体どんな 歌手なんだろう。そして「江南スタイル」が我々に伝えてくれるメッ セージとは何だろう。 イム・ジンモ(大衆音楽評論家)

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韓国の文化と芸術


た「鳥(B i r d)」をはじめ、「チャンピオン(C h a m p i o n)」、「芸能人

かった。しかしサイは「海外進出を強いられた」という表現のようみた

(Entertainer) 」、「We the One」、「ライトナウ(Right Now)」など数多

いに、事務所や歌手自身の力が働いたというよりは、アメリカ市場自

い。「江南スタイル」が収録されている今回のアルバムは6枚目であ

らの判断で注目を浴びた。ブームの前、CNNが「江南スタイル」を「必

る。一時、大麻喫煙事件と兵役問題で再入隊するなど、一連の事件で

見のミュージック・ビデオ」に取り上げたのが決め手だった。結果的に

話題になったが、彼は個性的な音楽ですべての困難を乗り越えた。ま

「江南スタイル」はサイの音楽性とアメリカの選択という二つの要因が

た彼は女性歌手のレキシの「エソンイ(訳注:若造の意味)」、イ・スンギ の「俺の女だから」、DJ DOCの「俺、こんな男だよ」など、多数のヒット 曲を作曲・作詞してきた。 彼はプロのダンス音楽家である。彼の楽しいリズムの曲を聞いて いると、自ずと踊りだしてしまう。歌詞も常にユニークで面白い。さ

重なって巻き起こした現象である。 サイ現象は1996年、年配のスペインのおじさんコンビ「ロス・デル・ リオ」の「マカレナ(Macarena)」が世界的に人気を得た時を連想させ る。ダンス音楽という共通点もある。人々を興奮さ���、集団の熱気を 作り出すダンス音楽のパワーを改めて知らしめる。

らに、体中のエネルギーを発散させるかのように彼は舞台の上で踊 る。観客たちは最善を尽くす彼の姿に感動する。彼は数回にわたって

上品な社会に投げる愉快なパンチ

パフォーマンス分野で賞を受賞した。「江南スタイル」のミュージッ

「江南スタイル」はもはや音楽の領域を越えている。その意味を問

ク・ビデオでも情熱的に最善を尽くすエネルギッシュな彼の真の姿が

うべき「社会現象」になり、世界中の街々を熱くさせたグローバル現象

確認できる。

になった。果たしてこの歌の中にどんなメッセージが潜んでいるのだ

「江南スタイル」はまず音楽の勝利であり、サイ音楽性の結実だと

ろうか。

言わざるを得ない。繰り返されるの電子音のリズムには我を忘れさ

ミュージック・ビデオで一所懸命に演じているサイ本人は、小さく

せるほど中毒性がある。普通トレンス(trance)という独特の雰囲気に

てどこかもの足りなく、壊れた姿に見える。品性もなければ、格調も

可笑しな歌詞まで加わり、世界の人々を虜にしたのも当然。「ここぞ

高くない。自らも語ったように、B級であり、脇役であり、ランクを

の時には結んでいた髪をほどく女」、「筋肉より思考がムキムキしてる

付けるとしたら20位ぐらいかな。尊大なピエロだ。そんな彼が「韓国

男」などの歌詞は、十分自由であると同時にはっきりとした意見もあ

のビバリー・ヒルス」と呼ばれる「江南スタイル」を叫ぶ。まったく笑っ

る青春像に対する愉快な表現である。

てしまう。

「江南スタイル」というタイトルを、ファンたちが自分のスタイル

そのギャップが面白さにつながり、大衆的パワーを発揮する。も

に合わせていくらでもアレンジできるのも醍醐味である。既に「ロン

し、イケ面のチャン・ドンゴンやカン・ドンウォンが江南スタイルを口

ドン・スタイル」、「ニューヨーク・スタイル」、「変態スタイル」、「警察

に優雅に振舞っていたなら、好感どころか反感を買ったに違いない。

スタイル」 など、変容し続けていることからも分かる。

A級ではないB級、一流ではない二流、三流、主演ではない脇役、上 位ではない下位ならではの親近感がもたらす爆発力である。この点で

馬ダンスのパワー

人々は、優秀な人々と1等、1%が支配する世の中、クールさと品格

サイは韓流ブームを巻き起こした若いK-POP のアイドルたちと

が強調される社会に対する愉快なパンチを読み取ることができる。既

は一線を画す。36歳(1977年生まれ)の彼は、イケ面のアイドルたち

に『フィナンシャル・タイムス』誌などの複数のメディアがこのような

が披露してきた華やかでセクシーなシンクロダンス(synchronized

分析をしている。ただ、サイ本人が江南の裕福な家庭で生まれた点も

dance)とはまったく異なり、全然優雅でない「馬ダンス」を踊る。華

興味深いパラドックスである。

麗さとは程遠い滑稽なダンスである。彼は「外国の記者たちに『どうし

偉大なる役者チャールズ・チャップリンの言葉が思い出される。

て私の歌の人気がどんどん上がるのか』と質問したところ、『あなたは

「私はただ一つ、一つの存在として残っているが、これがピエロだ。

B級ペーソスのコメディ映画「オースティン・パワー」みたいだ』という

ピエロという存在は私をどんな政治家よりも高いレベルに押し上げて

返事が返ってきた。実は自分もB級が好きだ。生まれつきのB級みた

くれる」。久しぶりに出会った楽しい大衆歌謡に人々は酔いしれてい

い」と語っている。

る。ピエロの仕草や言語を楽しむと同時に、暮らしのペーソスを味わ

従来のK-POP の歌手たちは海外進出への意思を持って、地道にア メリカの音楽市場をノックし、それなりの成果も挙げてきた。つま

うように、我々は「江南スタイル」のリズムに体を任せて、その歌に潜 む嘲笑の意味にちょっとだけ共感する。 (翻訳:趙祥恩)

り、マーケティングと広報という人為的な取り組みに負うところが多 K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

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グルメを楽しむ

豆腐料理 豆腐は昔から韓国人のたんぱく質の供給源としての役割を果たしてきた。 そして今日では世界的なダイエット食品として脚光を浴びている。 イェ・ジョンソク(芮鍾碩、漢陽大学経営学部教授、飲食文化評論家)| 写真 : 安洪范

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韓国の文化と芸術


「良

いおかずは豆腐、きゅうり、生姜、ナムル(青菜)である(大烹豆腐 瓜薑菜)。すばらしい会食は夫婦、息子と娘、そして孫と共にする

ものだ(高會夫婦兒女孫)」朝鮮時代最高の書道家であると同時に金石学(碑 文学、拓本などから考証する学問)の大家でもあった秋史・金正喜(1786~ 1856)がその晩年に書き残したものだ。韓国人の食生活に占める豆腐の役 割を良く物語ってる一文だ。

太らないチーズ 長い間、アジアの人々の栄養供給源だった豆腐が今や、世界的に脚光 を浴びている。20世紀の末から世界各国で健康に対する関心が高まって きたことがその背景にある。アメリカをはじめとする先進国で始まった高 カロリー、高脂肪の動物性食品の摂取過多への反省と、健康食品に対す る要求が豆腐へとつながっていったのだ。豆乳を凝固材で固めて作る豆腐 は、牛乳を固めて作るチーズと非常によく似ているものの、健康には豆腐 の方がもっと良いと言われている。それで「太らないチーズ」という呼び名 でダイエット食品として人気が高い。ビル・クリントン元大統領の時代に ファーストレディだったヒラリー夫人が夫の健康ダイエットのためにホワ イトハウスの食卓にたびたび豆腐料理をのせたと、CNNが報道したことも あった。今やアメリカやヨーロッパのスーパーでも豆腐を簡単に買うこと ができ、豆腐料理を出すレストランもだんだんと増えている。豆腐は豆の

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栄養分をそのまま含んでいる上に、豆より消化がよいという長所を備えて いる。

豆腐の歴史 中国の医書『本草綱目』や韓国の『名物紀略』、『才物譜』のような古書はどれも一様に豆腐を2000

1. 柔らかなスン豆腐 (水豆腐)はその ままでも前菜やおやつになる。 2. 市販の豆腐を食べやすい大きさに 切り、水気を切ってから赤唐辛子を スライスしたものをのせる。

年前に漢の淮南王である劉安(BC179~BC122)が発明したものだという記述がある。もちろん異論 はある。日本の食文化研究家の篠田統は、林梅音の著書『中国豆腐』に収録された豆腐考という文章 を見ると隋、唐の時代までの多くの中国の文献には豆腐に関する記録が全く見られず、宋の時代の 初期に学者陶穀(903~970)の書いた『清異録』に初めてその名が見えると主張している。これとは 反対に朝鮮時代末期の実学者丁若鏞(1762~1836)が書いた語源の研究書『雅言覚非』には中国の古 書を引用して淮南王以前に豆腐を食べていたという風説があると書かれている。中国の安微省淮南 市では劉安の功績を記念して9月15日を豆腐文化節に定め毎年、豆腐祭りを盛大に開催している。 韓国では豆腐は高麗末の文臣李穡(1328~1396) の詩文集である 『牧隠集』に初めて登場する。

青菜の汁を長い間食べすぎて味が良くわからない 菜羹無味久 豆腐が新しい味を教えてくれた         豆腐截昉新 歯の無い人も食べやすく            便見宜疏歯 老いた体の養生にもまたとないものだ      眞堪養老身

という詩句だ。豆腐は韓国では寺刹の料理として発展してきたが、その名前はポ(泡)と呼ばれ K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

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ていたという。丁若鏞の書いた『経世遺表』にも「南漢、北漢およびいくつかの道、山城を守護する

1. 市販の豆腐を食べやすい大きさに 切り、水気を切ってから油で薄く焦 げ目がつくまで焼く。

寺と陵に豆腐を供給する寺は免税とすること当然であり、その他はそれを許さないものとする」と

2. ピリッと辛い海産物のスン豆腐

いう一文がある。昔から有名な豆腐には奉先寺豆腐、衍度寺豆腐のように寺の名前のついたものが

3. ソウル歴史博物館の中にあるフュ ージョン・韓国レストラン「コン豆」 の「豆腐ステーキ」

ていた。昔から王陵の近くには必ず豆腐を作る寺の造泡寺を建てて、祭祀の際の供え物を準備させ

多いのも、そのためだ。 朝鮮の豆腐を作る技術のすばらしさは中国にも知られていたようだ。朝鮮の世宗の時代の歴史 を記録した『世宗実録』には、明の皇帝が「(朝鮮)王が先頃、送ってくれた料理と食べ物をつくる婦 女子たちは皆、飲食を調和させることに長け、美しく、調理するのも手早く敏捷で、豆腐を作る こと、特に絶妙だ」と、その才を褒め称えたという一文が出てくる。日本の豆腐は朝鮮から伝 わったものと見られる。崔南善の『朝鮮常識問答』は韓国の豆腐が日本に伝わった 経緯を説明している二つの説を紹介している。一つは壬申倭乱(文禄・慶長 の役)の時に日本の武士が朝鮮の豆腐製造法を学んでいったという 説、もう一つはやはり壬申倭乱の特に捕虜として日本に連れて 行かれた朴好仁という人物が今の高知県で豆腐を作ったのが 近世日本の豆腐製造業の始祖だという主張だ。しかし日本 ではそれよりもはるか以前の平安時代(794~1192)末か ら豆腐があったと主張している。

豆腐キムチ、豆腐ジョン 韓国の家庭の食卓の定番メニューであるクック(汁物)

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4. 韓国の代表的な酒の肴「豆腐キム チ」


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湯気の上がる出来立ての豆腐を厚く切り、豚肉入りのキムチ炒めと一 緒に食べる「豆腐キムチ」は代表的な酒の肴だ。煮付け、鍋物などな ど、豆腐メニューは種類が豊富だ。

やチゲ(鍋物)に豆腐は必ずと言ってよいほど登場する食材だ。柔らかなスン豆腐(水豆腐)、豆腐を 作った後のかすであるピジ(オカラ)もチゲの材料として使われている。それで豆腐は韓国人の蛋白 質の主な供給源としての役割を果たしてきた。湯気の上がる出来立ての豆腐を厚く切り、豚肉入り のキムチ炒めと一緒に食べる「豆腐キムチ」は代表的な酒の肴だ。煮付け、鍋物などにも豆腐は使わ れる。豆腐ブチムは誰でも簡単に作れるご飯のおかずだ。豆腐を食べやすい大きさに切り、水気を 切ってから油で薄く焦げ目がつくまで焼いて、薬味の入った醤油につけて食べる。厚く切った豆腐 に塩を少し振り、水気を切ってから小麦粉を薄くまぶし溶き卵をつけて、油で焼く豆腐ジョンは祭 祀の供え物にもなる。 ソウル瑞草洞の百年屋に行くと、薬味醤油を入れて食べる真っ白なスン豆腐チゲから、真っ赤 な唐辛子粉の入ったピリッと辛いスン豆チゲ、豆腐ジョンゴル(鍋)まで、韓国の大衆的な豆腐料理 をすべて味わうことができる。鍾路区のソウル歴史博物館の1階にあるフュージョン韓国レストラ ン「コン豆」では西洋化された華やかな豆腐料理を味わうことができる。(翻訳;金明順) K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

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ライフスタイル

「本の声を聞く」祭り 「太鼓の音祭り」はパジュ(坡州)出版都市が読者とのコミュニケーションの活性化を図るために 企画した本の祭りである。この他にもソウルの弘益大学前の「ワウ・ブック・フェスティバル」な ど、秋になると全国各地で本にまつわる祭りが開かれる。 イ・グァンピョ(李光杓、チャンネルA 経営戦略室チーム長)| 写真 : 安洪范

ウルから漢江 に沿って車で北側に一時間ほどの距離にある、京畿道坡州市ムンバル洞。 ここに2007年に作られた出版団地がある。87万5000m²(約26万5151坪)の敷地に250余りの出版社が

入っている。そこで働く人々の数は8000人以上で、売上額は1兆2000億ウォン。2014年には156万m²(約47万 2727坪) に拡張され、300余りの出版・印刷会社が建設される予定である。 「パジュ出版都市」 (Paju Book City) と呼ばれるこの「都市」の魅力は、知識・教養を生産する出版社が集まって 醸し出す静かで落ち着いた独特の雰囲気だ。出版社の建物もそれぞれユニークで洗練された外観を誇る。また、 この「都市」の真ん中には、崩れかかっていた地方の古風な客間をそのまま持ってきて建て直した韓屋 があり、葦やススキの茂る川が流れ、そして会議や宿泊もできるホテルもある。

「本で疎通するアジア」 2012「太鼓の音祭り」が開かれた9月15日から23日まで、出版都市のそこかしこは人々で賑わっ ていた。駐車場から車があふれ、道行く人々の肩がぶつかるほどの盛況ぶりだった。本と人の息 遣いが調和しているのが感じられた。 今年で2回目を迎えたこのイベントは、アジアにおける最大規模の本の祭りと して既に有名になった。今回のテーマは「本で疎通するアジア(One Asia Through Books)」だった。出版都市に入居している100以上の出版社の建物や特設舞台で は、展示会、講演会、著者との対話、詩の朗読、図書の割引販売など、130のプ ログラムが運営された。9日間のイベント期間中、太鼓の音祭りを訪れた客 はおよそ45万に上った(「太鼓の 音」は本を意味する英語の「ブッ ク」と韓国語の「ソリ(音という意 味)の合成語である」 本の町の意味を考えてもらうと 同時に、世界各国にある本の町同

1.「パジュ太鼓音2012」祭りの会場に設けられ た巨大な本のモニュメントを見上げている子 供 2. 弘益大学校前の「ワウ・ブック・フェスティ バル」の口演童話のイベント会場 3. 弘益大学校前の「ワウ・ブック・フェスティ バル」イベント会場における童話パフォーマ ンス

1 韓国の文化と芸術


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3


士の連携を深めるために、「世界本の町シンポジウム」も 開かれ、ノーベル文学賞を受賞したフランスのル・クレジ オさんや、日本の歴史小説家の佐藤賢一さんの講演も行 われた。朝鮮時代の代表的な実学者である茶山チョン・ ヤッヨン(丁若鏞)の生誕250周年を迎え、彼の生涯や哲 学を改めて考えてみる「茶山の日の記念講座」をはじめと して、多彩な講演やセミナーも開かれた。 ハングルの誕生569周年(1443年に創製)を迎えて、ハ ングルの意味を考えるための「ハングル誕生569」展は、 家族連れの観覧客が特に多かった。独創的で科学的な ハングルは世界にある数多くの文字の中でも、創作者が

1

はっきり分かる唯一の文字である。特にハングル手紙、 ハングル系譜だけでなく、足袋、お守り、おしろい入れ、キセルなど

祭りに参加した客たちが深い関心を寄せたところは他にもあった。

の、ハングル模様が施された生活用品を通して、500年以上も我が民

活版工房である。韓国における活版印刷は1980年代にパソコンの組

族の暮らしとともに生きてきたハングルの足取りを再確認できる有意

版システムの導入に伴って消えてしまっているので、未だ活字一個一

義な場であった。

個を手作業で拾い、本を製作するところがあるという事実に人々は驚

「金素月文学の日」イベントに対する人々の関心も高かった。キム・

いた。地方ではまだ活字で名刺などの小物を作るところはあるが、本

ソウォル(金素月)は韓国人にもっとも親しまれている叙情詩人の一人

を製作するのはここが唯一だとか。全国にある古い鋳造機と活版印刷

である。彼の生誕110周年を記念するためのイベントとして、キム・

機を買い集め、活版技術者として転職せざるを得なかった職人たちを 捜し出し、2007年にオープンした

出版都市に進出している100以上の出版社の建物や特設舞台では、

という。人々はここで活版印刷作 業に直接参加できる機会にも恵ま

展示会、講演会、著者との対話、詩の朗読会、コンサート、図書の

れた。ぎっしりはめ込まれている

割引販売など、130のプログラムが運営された。九日間のイベント期

数多くの鉛の活字。文選工らが活 字の旋盤を行き来しながらせわし

間中、太鼓の音祭りに訪れた客はおよそ45万人に上った。

なく採字(活字を選ぶ作業)をする 姿、組版をかけておいた活版印刷

ナムジョ(金南祚)、シン・ダルジャ(慎達子)など、著名な詩人たちが

機から漂う潤滑油とインクの匂い、訪れた人々は自ずと活字の歴史や

出版都市の一帯にある出版社や書店など、10余か所で読者たちと会っ

本の思い出の中に浸っていた。

て詩を朗読したり、金素月の詩をテーマに音楽を演奏するコンサート も開かれた。

特に、ここで鉛の活字で印刷された詩集のページをめくりながら 凸凹とした紙の活字の手触りも確認しつつ人々は口々にこのように話

詩人たちが「ツツジ」、「山有花」など、金素月の代表作を朗読する

していた。「手でページをこすって見ると、凸凹とした活字の感触が

際には、観覧客たちも一緒に詩を読み上げた。「山には花咲く/ 花が

感じられます。本のページをめくる際に感じるその手触りこそ、活字

咲く/ 秋春夏なく/ 花が咲く// 山に/ 山に/ 咲く花は/ 離れて

本のもつ一番の魅力ですね」

一人咲いている(…)」、「私が見づらく/ いらっしゃる時は/ 何も言 わずそっとお送りします // 寧辺の薬山/ ツツジの花/ 一抱え摘ん

パジュ出版都市の太鼓の音祭りを訪れた人々は、このように本に はまって、また活字にはまって、最後は文学にはまって行った。

で行く道に撒きましょう(…)」。友達と一緒に訪れたという会社勤め のハン・ソヨン(韓瑞英)さんは、目をつむって静かに詩を読んだ後、 感動の余韻が残っているうちに静かに話した。「こうやって素月先生 に出会うなんて素敵な秋です」。

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出版団地から文化芸術団地へ 普通パジュ出版都市を出入りする人々のほとんどは本の製作に関 係のある仕事に携わる人々である。ところが、ここの出版関係者の間 韓国の文化と芸術


1. パジュ出版都市「本屋街づくり」のプロジェクトに参加してオ ープンしたブック・カフェ「オリーブの木」 2. ワウ・ブック・フェスティバル「街の図書展」に立ち寄った若者 たち

人々には嬉しいニュースではないか。

ワウ・ブック・フェスティバル 本祭りはパジュ出版都市に限って開かれるわけではな 2

い。秋になると、全国各地で本祭りが開催される。ソウ ルの国立中央図書館や国立青少年図書館を始め、各自治

では出版文化の活性化のために、本の消費者である一般大衆に来ても

体の公共図書館などが多彩なテーマを掲げて本祭りを開催している。

らうべきだという声が上がるようになった。出版都市が出版人らの空

国立デジタル図書館では、「デジタル・ブック・フェスティバル」が開か

間で、読者たちと一緒に本を楽しむ空間に変えるべきだという主張で

れ、ソウル市庁前の広場や徳寿宮などの歴史的文化空間が本祭りの場

あった。

所として活用されたりもする。

そのため、2011年から出版都市の中にある100以上の建物の一階を

プログラムも作家との対話、出版・書店の関係者らが一同に集ま

書店に作り変える「書店街づくり」プロジェクトがスタートした。書店

り、本の文化の発展に向けて話し合うセミナー、親が子供たちに本を

だけでなく、読者らが集まってお茶を飲みながら話し合える空間も

読んであげるイベント、特定のテーマの本を読んでクイズを解くイベ

増えている。このプロジェクトを率いるソン・ヨンマン(宋永萬)ヒョ

ント、テーマ討論など、実に様々である。また、本の割引販売も欠か

ヒョン出版代表は、「一階書店は単に本を販売する機能に止まらない。

せないイベントである。本をたくさん読む人々にとっては、祭りで行

書店街が形成されれば、本に関わるさまざまなコンテンツも活性化さ

われる割引イベントは魅力的な機会であり、まとめ買いをする人も多

れるだろう。最初から広々とした敷地に建てられたおかげで、まだ活

い。イベント会場で購入した本は宅配便サービスも受けられるため、

用されていない出版社の社屋が抱えているスペースが美術館や博物館

さらに便利である。

に、またはコンサート場として活用されることになる。いわば、一種 の文化芸術団地に衣替えしていくことだ」と意気込んでいた。 太鼓の音祭りも同じ目線からスタートした。本の作り手や本の読 み手、皆で参加する祭りである。今年のイベントもそういう姿を見せ

毎年9月、ソウル麻浦区弘益大学の周辺で開かれる「ワウ・ブック・ フェスティバル」も代表的な秋の本祭りである。若者の町、芸術の町 として知られる弘益大学の周辺は、パジュ出版都市とともに韓国で出 版社が密集した代表的な出版街である。

てくれた。100余りの出版社の社屋のあちこちで開かれた「知識ナン

パジュ出版都市で行われる太鼓の音祭りの場合は家族連れが多い

ジャン(乱場)」プログラムはまさにその代表例である。著者の講演を

が、ワウ・ブック・フェスティバルの参加者は主に若者たちである。出

聞いて、出版社のユニークで立派な建物も見て回れる時間になった。

版社が本を安く販売する「道端図書展」、一般参加者自らが本を売買す

『建築、音楽のように聞いて美術のように見る』の著者である建築家の ソ・ヒョン(徐顕)漢陽大学教授は、「楽しくて居心地のいい場だった。

る「ワウ本マーケット」、作家との出会いなどのイベントも開かれる。 デジタル時代を迎え、活字の媒体よりは映像の媒体が溢れるご時

自分の本が出版された出版社の建物でコーヒーを飲みながら、建築の

世になったが、韓国人は心の奥底から本を信頼し、また尊敬してい

ことについて、また本について話し合えるなんて、著者としても非常

る。これは現存最古の木版印刷物である『無垢淨光大陀羅尼経」』 (8世

に幸せな経験だった。また、本を通じて読者の皆さんにより一層近づ

紀初頭)と、また現存最古の金属活字印刷本である『直指心経』 (1377

ける貴重な機会だった」と評価した。

年)を製作した優れた印刷出版文化の伝統に対するプライドに基づい

書店街プロジェクトが仕上がると、祭りの期間中だけでなく、普 段から読者たちは出版都市で本にまつわる多様な疎通の経験を体験で

たものかもしれない。秋晴れの下、楽しい本の祭りの庭にて紙製の本 は永遠に続くという信念を改めて確信した。(翻訳:趙祥恩)

きるようになった。本をもっと楽しみたい、本に近づきたいと思う K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

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韓 国 文 学 の 旅

作家評

マルシュアス、またはピエロ オ・スウン(魚秀雄、朝鮮日報文化部文学担当記者)

韻生動という言葉がある。「天地万物のもつ生気に満ち溢れた

という恋人のおかげであるようなもの」と述べた。そして「命をかけた

状態」という意味だが、同時に気品にあふれた素晴らしい芸術

恋愛も、血を吐くような失恋も、胸にポカンと穴のあくような離婚

作品をさす場合にも使う。審美主義、唯美主義という言葉を連想させ

も、一度も経験したことの無い今の作家たちが本当にうらやましくな

る短編小説『猫蛇塚』もそうだが、作家自身を見ても作家・沈相大に実

るような人生の条件だ」と声を高めた。

にピッタリな表現だと思う。

貧困と疾病という条件も同じだ。彼はある読者がインターネット

彼を紹介するには、まず「マルシュアス沈」というペンネームにつ

に書き込んだ小説家と芸能人を露骨に比較した文章を引用した。その

いて話さなければならない。ギリシャ神話に登場するマルシュアスは

読者は「最近の小説は本当に面白くなく、嘆かわしい。ミュージシャ

音楽の神アポロンと勝負して負け、その生皮を剥がされ殺されても神

ン、コメディアンは麻薬でもするというのに、作家の中にはどうして

の芸術に対抗し、人間の芸術を擁護した半人半獣だ。そして、自らの

麻薬をする人間が一人もいないのだろうか」と最近の文学界にかみつ

作品に対する自負心に満ちたこのペンネームを文壇は歓呼と揶揄で迎

いた。それに対して沈相大は「この読者の知らない重要な事実がある。

えたものだ。

それは作家には麻薬を買えるような金などありはしない」と応じて会

もう一つ、最近のエピソードとして作家・沈相大のユーモアと世界

場を沸かした。

観を紹介しよう。2012年の春、彼は中篇小説『ボタン』で第6回キム・

そして次にキム・ユジョンが肺結核で闘病し、死ぬ直前に親しい友

ユジョン文学賞を受賞した。この文学賞は30歳に満たずに夭折した

人のアン・フェナム(開化期の新小説の作家アン・クックソンの息子)に

韓国の短編小説の開拓者キム・ユジョン(1908~1937)を偲んで作られ

送った手紙を引用した。キム・ユジョンはその手紙に金を用立てて欲

た賞だ。1990年季刊の『世界の文学』でデビュー後、賞とはあまり縁

しいと、「その金でまず鶏30羽を茹でて食べる。そうすればもっと生

のなかった作家・沈相大は2001年短編小説『美』で現代文学賞を受賞し

きられるだろう」と書いている。

た時、10年ぶりにもらったこの賞の受賞あいさつで「作家人生の3大

作家・沈相大は20代の頃、春川で「大衆浴場の垢すり」として働いて

必要条件」という自説を披露した。それは何かというと失恋、貧困、

いた経験がある。当時、脱衣室担当の老人と浴槽の掃除の件でいつも

疾病だ。自分の内面にだけ忠実な最近の若い作家と読者に興味深い刺

もめていたという。「垢すり」のくせして、脱衣室のオンドルの床に横

激を与えることができそうな話なので少し長くなるが、ここに引用し

たわりチェ・インフン全集やマルセル・プルーストの『失われた時を求

たいと思う。

めて』を読んでいたというのだから、そんな彼をその老人が良く思う

まず失恋。沈相大は、名唱であると同時に妓生でもあったパク・ロ クジュに振られて挫折する青年キム・ユジョンと彼の数多くの恋文を

はずはない。作家は「あの時の脱衣室担当の爺さんにこの受賞の栄光 を捧げたい」と述べた。

例にあげ「自分の気持ちを無視する恋人に向け血を吐くような想いを

窮状が芸術になり、人生が芸術になる境地があるのなら、21世紀の

訴えるにはどれほど濃密な文章が要求され、そして深化発展していく

韓国ではたぶん作家・沈相大がその代表だと言えよう。困窮した暮ら

だろうか」と言い、「キム・ユジョン文学は多くの部分がパク・ロクジュ

しの中でも、自分以外の誰にも頼らないという態度からくる傲然さ

70

韓国の文化と芸術


シム

サン

沈相大 猫と蛇の墓という意味の短編『猫蛇塚』は作家シム・サ

たる絶望と混乱がごちゃ混ぜになったその空の縁から花畑よりも華や かな夕焼けが燃え上がった。」

ンデ(沈相大、1960~)のデビュー作だ。さらにこの作

作品の中の老いた僧侶はこの残酷な風景を目撃する。老いた父と 幼い娘、猫と蛇の死体が踏みにじられた花畑の中に横たわっている。

家に「美を貪る者」 「 審美主義者」という芸術的なニッ

そしてこの人間と動物の重なった花畑に、その花畑よりも賑やかな夕 陽が西の空から押し寄せてくる。いわゆるエロスとタナトス、生の本

クネームをもたらした作品でもある。

能と死の本能をこのように魅惑的な自然の色と光で描写したデビュー 作はそれほど多くはないだろう。 作家はこの作品を通じて、美とは人生の精髄であり本質に属する もので、美を貪るこ���こそ人生を最も誠実に生きることなのだと言っ

は、政治や経済、処世が取るに足らないからではない。文学が実に素

ている。この傲然とした自負心の核心には芸術に対する強い信仰が横

晴らしいものなので迷うことはないという自負心、精神の奢侈と魂の

たわっている。

気概が彼の作品にはある。 デビュー作『猫蛇塚』は審美主義者、沈相大の最初の咆哮というこ とだ。猫蛇塚の一節を見てみよう。

10年前に筆者は彼と共にある酒場で夜明けを迎えたことがある。 作家や芸術家の良く訪れる仁寺洞の酒場だった。初対面の人間同士で も気楽に自分をさらけ出すことのできるようなそんな酒場の中で、小

「猫はさっと飛び降りると老人の首筋にかみついた。猫の歯が老人

説家と筆者は昨酔未惺(昨夜の酔いがまだ覚めやらぬ)状態で仲良く目

の首に深く食い込んだ。鋭い爪は老人の両肩に錐のように突き刺さっ

を覚ました。その時も今も変わらない彼の信念は「ピエロ」としての芸

た。老人はふらふらしながら蔓をつかむ。太い指が宙を切り、猫の両

術家論だ。作家はどんな場合にも傲慢とユーモアを忘れてはならず、

目に乱暴にくい込んだ。山葡萄の実のような猫の目がはじけ、足元

読者を教える存在ではなく、体全体で示す存在なのだという。そして

では花びらがつぶれた。しかし猫は決して老人の首を離そうとはしな

「私の悪ふざけと軽はずみな行動は恥ずかしさを隠すためのもので、

かった。山の影が屋根に落ちてきた。倒れては起き上がり、腐っては

軽薄でない者は本当の自分自身と出会う機会もない」と弁明するよう

また芽吹く、その光と影の片方の端から影を持ったすべてのものが身

に語っていた。

を震わせわめきだす。婆さんが包丁を振り上げた。そして一度、二

世俗の世界で彼は低質だという評判も、灰色人だという非難も恐

度。猫の背中に夢中で振り下ろした。三度、四度、すさまじい悪徳が

れない救いようの無い遊び人だった。しかし作品に対してはただの一

きらめき、包丁は血だらけになった。猫の白い骨と赤い肉が凄絶に現

度も譲歩する姿を見せたことはない。『猫蛇塚』は譲歩しない作家マル

れた。しかし猫は切り刻まれても老人の首を離そうとはしなかった。

シュアス沈、審美主義者沈相大の文学的なルーツともいえる魅惑的な

衰残した光はあわてて西の空に退き始めた。ありとあらゆる光の惨憺

短編だ。(翻訳:金明順)

K or e a n a ı 冬 号 2 0 1 2

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韓国のイメージ

の腹の中からこの世に出てきた時の最初の記憶がそうであるように、韓国人の始原は先史時代の深 い闇に包まれている。歴史の本の最初のページには「韓国という歴史の舞台に人々が登場した年代

を正確に知ることはできない」 と記されている。よって私たちはその最初の闇を神話と呼ぶ。 神話の闇の中で遠くの高い山の頂に、緑の葉に覆われた神秘的な大きな木が一本、立っている。神の息 子である桓雄が天上からその木の下に降りてきた。彼はニンニクとヨモギを食べ、熊と結婚し、男の子が 産まれた。その子孫たちは山から下りて来ると、遠くを目指して歩き始めた。陽の出る方向に向かって歩 き、そしてまた歩いた。陽が昇り、そして落ちた。陽が落ちると「行く年」が去り、陽が昇ると新しい「来る 年」が始まった。それで韓国語の「해(へ)」は太陽の意味であると同時

新しい年の始まる海、 正東津 キム・ファヨン(金華榮、文学評論家、 芸術院会員) 写真 : 安洪范

に「一年」をも意味するのだ。 時には蝶の背に乗りひらひらと飛び上がった。陽が暮れると花の 中で眠り、花に嫌われれば葉の間に入って眠った。時には母の背に負 ぶさり、時には父の手を握り、ひたすら前へ前へと歩いていった。一 つの世代が終われば、次の世代が続き、また次の世代が、ひたすら陽

の出る方向に歩みを進めて行った。 ついにこれ以上進むことのできないところまで来た。世の中の端、歴史の始まり、「静かな朝の国」だっ た。目の前には大きな海が開け、素顔の海、世の中に最初に顔を出した海がそこにはあった。その海の端 から最初の陽が昇り始めた。韓国人はそこで足を止めた。 初めて昇った太陽の、そのおぼろげな記憶を忘れることができず、韓国人は毎年、年の暮れになると汽 車に乗り韓半島の東の海へ向う。そして暗闇の中で陽の出を息をこらして待つ。「静かな朝の国」の人々は ソウルの真東の港である正東津、その海から昇る太陽がこの世で最初の陽だということを知っている。そ してそこが再び新しい年の始まる海だということを自分の胸の底深いところで彼らは固く信じている。(翻 訳:金明順)


KOREANA - Winter 2012 (Japanese)