Koreana Summer 1998 (Japanese)

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韓国の芸術と文化 Vo . 1 1 1 .NO.2 1998 年夏季号


笑顔がこぼれるおしゃれな空間

私は韓国のロッテで、ステキな笑顔を見つけてきました。 日本語の上手な販売員の親切で行き届いたサービス、 地下鉄と連結された便利なロケーション、 1 3 0 0坪余りの広々とした居内、 00以上の豊富なブランドと 2 0屈もの有名ブティックで それに4 心ゆくまでショッピングを楽しめるから。 でもロッテの楽しみは、それだけじゃありません。 垢すりエステやゴージヤスなサウナのあるホテル。 屋内テーマ/てークの口ツテワールド・アドベンチャーと 湖に浮かぶおとぎの島マジック・アイランド。 000年の歴史が一目でわかる民俗博物館。 韓国 5 短い旅行を充実させてくれる施設力¥たくさんあるからです。 欲張りな私に満足を与えてくれるワンダフルスペース、

ONLY LOTTE DUTY FREE SHOP

賄罪,1,ロザデ箆税唐 ロザデヲータI,p箆 税 唐 ロザデ釜山1!.税唐


B UY FKOREA

彩箱

p b -︿ 印mCZ のと

勺 、

三合彩箱

我々の部屋の中のどこかに、細かく編んで作っ

た行李の一つや二つは必ずあったものである。大

きな行李には服のようなかさばる大きな物を、小

て整理したり、時には弁当箱としても使われたり

さな行李には貴重品、お裁縫道具など何でも入れ

して行李を見るだけで唾を呑み込んだりしたもの である。

木材家具に比べると行李は大きさも小さく、作 ‘

り方も単純であるが、大きな家具の代わりをする

いは、五つの小さい箱が大きさによってきちんき

には十分であった。大きな箱の中には三つ、ある

によって三合または五合の箱と呼ばれる。

ちんと入るように作られていて、これらの箱の数

彩 箱 は 竹 で 編 ま れ た 行 李 の 一種 で あ る 。 皮 竹 を

薄く切り取ってその竹の切れ端をいろいろな色に

染め、編みながら多彩な柄を入れるので本来は彩

言葉である。時代を遡っていくと彩箱は宮中と貴

竹箱子と呼ばれていたが、彩箱はそれが縮まった

の一種として使われていたが、木材家具が一般化

族階層の女たちが貴い物としていた奥の聞の家具

の幅もずっと広がった。

されてからも固有の機能を維持し、使用する階層

制作技術は竹の切れ端をどれだけ二定に切り出

すかによる。皮竹を刃物でそぎ取りだしたあと 一 日 ぐ ら い 水 に ふ や か し て 一枚 の 紙 の よ う に き れ い

に整え、そこにベニバナ(赤色)、クチナシ(黄色)

アイ(藍色)、クロウメモドキ(黒色)などでむら

なく染めるのである。竹の切れ端が用意できると

むとき、主に吉祥的な象徴性のある模様を入れた

縦横に編んで望みの形の行李を作るのである。編

りもする。行李の内部は紙を貼り付けて仕上げ、

外部は縁取りや角に地の模様に合う絹の布を補強 する。

a


a 薗薗圃 カバー・ストーリー

韓国の多島海

海洋の時代を迎えている

4

今日、韓半島の南端の多

ただ一つ残された青い夢ー多島海

なく、海に進 出す る始点

島海は大陸の終わりでは

文淳太

であると同時に 、韓国の

1 2

未来でもある。 コリ アナ

韓国の歴史の中の多島海

の関 門になる多島海地域

金井畏

の島文化につ いての特集

18

を組んだ。

では 2 1世紀環太平洋時代

海 鄭芝溶

20 多島海地方の豊漁祭 河孝吉

24 多島海、 島 、 島の人々 韓勝源

32 多島海出土の陶磁器 罪龍二

38 ONT H EROAD 多島海の秘められた宝石一牛島と可居島 窪星民

45

日 え

J

F O C U S 夢と愛一魅惑の韓国民画展を見て 金煩宗

5 0 AKOREANN A T I O N A LT R E A S U R E 盤亀台の岩刻画 李源、福

52 KOREANMYTHOLOGY あの世と死一ああ!その矛盾の地よ 金烈圭

a e b m 伽

n d 柑o n

i i i l i 町 平 ω叩

主 J崇 ∞ mCZ のと


仇; 三 : 九 三

; V o l .1 1, No.2, SUMMER1

KO旺必~ コリアナ 1 9 9 8年 夏 季 号 韓国国際交流財団の季刊誌 街5 2 6 大韓民国ソ ウル特別市 中区南大門路5

1 0 00 9 5

発行人兼編集人

李廷彬 韓国国際交流財団理事長 業務理事

鄭鍾文 編集長

金 泰 定 編集委員

金 光 彦金文; 換 金 畑図 沈在龍 李鍾 烈 李種 爽 韓明照 アート・ディレクター

定価

600円

日; ー 一 二 三 三. . 日I 差額思議選議翻警護. 54

N A T U R EOFK O R E A 韓国の洞窟 洪始燥

5 9

I N T E R V I E W 写真作家林臆植 金t 英旭

64

T R A D I T I O N A lA R T I S A N 谷城トルシルナイの名人 金貼順ハルモニ 李畑権

70

D I S C O V E R I N GKOREA 東海を守るサプサリ 河智鴻

7 4

M A R K E T SOFKOREA 浬陽の竹物市場 鄭勝護

発行所

韓国国際交流財団 大韓民国ソウル特別市 中央郵便局 私書箱21 4 7号

-電話 :8 2 2 7 5 33 4 6 2 0 4 9 .FAX:8 22 7 5 72 0 4 7、2

78

A R T I S T SOFKOREA 演出家手浩鎮 具照書

編集デザイン

ARTS P ACEP U B L I CA T I O N S 大韓民国ソウ) ~ 特 別市錘路区新橋澗31

-電話 8 22 ・7 3 4 7 1 8 4

.F AX:8 22 7 3 79 3 7 7 ~ KOREANA

(コりアナ )B は韓国国際交流財団が発行し

ている季刊誌です。版権はすべて本財団側にあり 、本

82

C U R R E N T S ソウル市の中心に息づく異色の伝統空間 南山韓屋村 張世政

財団の許諾なしに転厳 ・複製することは禁じられてお りますのでご了承下さい。

また 、本誌掲載の記事 ・論文の内容は、本誌

'98韓国写真映像祝典 安恵利

の編集者または本財団の意見ではありません。

1 9 8 7 年 8月 8日 登録 叫 1 0 3 3号 1 9 9 8 年 6月 8日 発行 (毎年3 、6 、9 、1 2 月 の4 回発行) 印刷所

三星文化印刷株式会社 ソウル特別市城東区華陽洞 1 6 7 ・2 9

.電話 ・8 22 4 6 80 3 61 -5

ソウルファッションアート協議会 ニューヨーク・コレクション 李 星姫

92

E v e n t s&E x h i b i t s


ムンスンテ

. 文 淳太 光州大学文芸創作科教授

つ残された -園田園圃圃

小説家

た だ

た青い海と真珠のように美し

主F の多い海。そこには広々とし

L 二一一﹂

BIEtい多くの島々、そして海辺の

砂浜と松林があり、船と漁夫たちがい る。また、彼ら独特の多島海文化とそ

こでのみ見られる草木や蝶、鳥や魚な どが生息している。それゆえ、韓国人 は多島海を﹁残された最後の清らかな

遺産﹂、あるいは﹁国土の真珠﹂と呼ん でいるのである。そこに未来の夢があ るからである。 韓国は 三方を海に固まれており、一 万五千四 二キロに及ぶ足袋の形をした

非常に長い海岸線の周辺には、大小 三、 一五六の島が散在している。特に、西 中でもまる 南海岸には島が多く、その・ で島が夜空の星のように点々としてい

る六、四 二五キロの典型的なリアス式 海岸の西南海岸周辺を多島海と呼んで いる。紅島から閑山島までの多島海に は約 二千に及ぶ島があり、この中の三 百あまりの島で 三O 万人前後の人々が 暮らしている。 一九七 三年頃までは多 島海の様々な島に四八万人もの人々が 暮らしていたのだが、年毎に四%ずつ 人口が減少している 。島の人々が続々

と陵地へと去っていく 一番大きな原因 は、子供たちの教育問題である 。有人 島 全 体 で 学 校 の な い 島 が 五O を超え、 高等学校にいたっては 二 二 校しかない。 このため、高等学校以上の高等教育を

受 け た 人 々 の 割 合 は 、 人 口 全 体の 一 二 ・三 %という非常に低い数字を示し ている 。 その他、医療施設や交通施設 も た い へ ん 遅 れ て い る 。 年毎に島の 人々の生活は苦しくなり、職を求めて 島を離れる人々の数が増えている。し


かし、莞島、珍島、突山島、南海島、

巨済島、古今島、金禁島、居金島、薪

智島、平日島、青山島、麓花島、智島、 荏子島、慈恩島、飛禽島、都草島、安 佐島、押海島などの大きな島には、比

較的よい教育、医療施設が整 っており、 一万人以上の人々が暮らしている 。 た だし、莞島、珍島、突山島、南海島、

智島、巨済島などは、陸地との連絡橋 がかけられ、すでに島とは 言えな くな っている 。

麓嶺山脈や小白山脈、太白山脈の尾 根の先が海底に細く伸びてこれらの島

を形成しているのだが、小白 山脈と太 白山脈の端から隆起している島には高 い山がそびえ立 っている 。紅島のコレ

峰(海抜 三六八メートル)、珍島の尖察 山(四八五メ ートル)、莞島の象晃山 (六四四メートル﹀、南海島の望雲山

(七八六メ ー トル)、巨済島の玉女峰 (五五五メ ートル)などである。 多島海は比較的、温暖多湿な海洋性 気候で、西南海岸側は雨量の少ないほ うだが、南海岸の島の多い地方は、年 間 降 水 量 が て 四001 一、六0 0ミ リと韓国では最も雨量が多い。東シナ

海で発生した低気圧が通過する際には、 冬でも雨の降る月が多く、特に晩夏か ら初秋にかけては台風に見舞われて大 きな被害が出ることも多い。台風のた めに今でも撒船の海難事故がしばしば

起きており、七0年代までは大小の旅 客船の沈没事故が頻繁に起きていた。 このため、島の多い地方には夫を失 っ た婦人が多く、また、海で命を落とし た漁夫たちの遺体が発見できず、松の 木の切れ端の皮をはいで、 墓 をつくる


草類の養殖場が多く、高興と麗 川 郡の

にはノリ、ワカメ、テングサなど、海

は有名である。莞島郡のいくつかの島

その反面、多島海は生態系の宝庫で

こともあったという。 もある。一年を通して温暖な海洋性気 い。これらの島には、それぞれの村ご

島にはカキなどの貝類の養殖場が多 とに漁村契が形成され、水産物の採取

候なので常緑広葉樹林の暖帯林が多く、

から販売に至るまで共同で管理してい

特殊な環境でもあるため陵地ではお目 にかかれないような特異な植物や見虫、

かつて、この地域にはイシモチ漁で

そして鳥たちが生息している 。 その中

に ぎ わ っ た 七 山 魚場をはじめとして、

る 。

けでも数え切れないほどである 。 紅 島 黒山漁場、巨文島漁場、青 山漁場、同維

で天然記念物に指定されているものだ の天然保護区域の暖帯林をはじめとし

と呼ばれる海よ市が立ち、夜でも船の

て、甫吉島礼松里の常緑樹林、珍島観

光であたり 一面を照らし、酒を飲ませ

がいくつかあった。漁場ごとに﹁波市﹂

黒鳩などが保護の対象となっている。

る女たちとそれを目当てに集まる漁夫

老島漁場など、その名の知られた漁場

特に、紅島にはナドカゼラン、紅島カ

たちでまるで一つの都市のようににぎ

梅里のタブノキ群落、 七護島のミル務

ササギスイバ、紅島ヤブカンゾウなど、

草群落、黒山面九窟島の千日務草群落、

貴重な植物が多い。可居島のカゼラン、

いくとともに、黒山島と巨文島、羅老

わっていたという。漁業が近代化して 島などの島は漁業前進基地に指定され、

ン、牛耳島の白瑞香、黄撞、巨文島の

水産物を 加 工 処 理 す る 施 設 が で き た だ

クロラン、エビラン、タマカンザシラ

ルウルシの木、黒 山島の黒 山 スス キ な

黄 漆 の 木 、 キ ン モ ク セ イ、下白島のツ

けではなく、製氷、造船、船舶修理な に輸出されていた頃は、莞島をはじめ

どが可能になった。ノリが日本に大量 として、ノリを養殖していた島では子

の七護島のミル務草群落にはウミツバ メ、オオミズナギドリ、マツバメが、

ども珍しい植物である。また、多島海

黒 山面九窟島の千日務草群落ではツノ

ていると言われたほど海産物の収入で

犬さえも一万ウォン札をくわえて歩い

に入ってからはノリの価格が下落し、

暮らしが楽だった。しかし、九0 年代

また、多島海海域は平均水深五0 メ

コガ モなどの鳥が生息している。

ったりとした暖流が流れているため、

ー トルの浅い大陸棚に一年を通じてゆ 魚類などの水産資源が豊富である。こ の 地 域 は ワ カ メ 、 ノ リ 、 ホンダワラ、

による生産量は飛躍的に増えたが、収

年代以降、養殖技術の発達により養殖

暮らしは再び苦しくなってきた。七0

漁業資源も枯渇しはじめ、島の人々の

テ ン グ サ な ど の 特 産 地 として知られて

ンギエイがたくさんとれ、ガンギエイ 漁の漁民たちはおもしろいように収益

八0 年 代 ま で は 黒 山 島 の 近 海 で は ガ

益はさほど伸びていない。

いる。特に、黒山島と紅島沿岸のナマ コ、アワビ、ガンギエイ、牛耳島のワ タリガニ、海南湾のマダコ、麗 川 郡駕 アサリ、尖 山島 の ホ ヤ 、 カ キ 、 ア ワ ビ

莫湾のアカガイ、ハイガイ、マダコ、

O ︿ Z工﹀勺

多島; 毎南端の美しい島、巨文島


を上げることができた。今でも木浦の 市場にはガンギエイの刺身を食べさせ る食堂が軒を連ねているが、黒山ガン ギエイはほとんど姿を消し、そのかわ キロ以上離れている島が多く、住民数

港も兼ね、出入りする漁船でご った返 している。今でも郡庁所在地から五0

ガンギエイをことのほか好み、祝い事 にはガンギエイの刺身が欠かせない 。 甫吉島の場合、海南の最南端の葛頭里 と莞島港から 一日にそれぞれ五回ずつ 船便が運航されているほどである。六

島の交通は、さほど不便な点はない。

の少ない 村 一つといった小さな島の場 合には、旅客船の運航回数が少なく、 依然として大変不便な暮らしを強いら れている。観光地として知られている

しかし、今では使われるガンギエイの ほとんどが輸入ものである。最近でも 黒山ガ ンギエイがわずかながら取れる

りチリなどから輸入されたガンギエイ が幅を利かせている。全羅道の人々は

ことは取れるのだが、大きなものは 一 匹六O 万ウォンもするので、市民は口 にすることさえかなわなくなってしま った。

らしてきた彼らの 心は、そ の自然に 似 て海のように青く、広く、 美 しく澄み 渡っている。 天の与えた海の宝箱とも言える多島 海は、 一九八 一年 に多島海海上国立公

く鍛え上げたことは想像に難くない。 その 一方で、美しい自然環境の中で暮

として、抗 蒙古遺 跡、壬辰倭乱(文 禄・慶長の役)戦跡地などが数多く残 っている。このような自然および歴史 的環境が、彼らの生命力をより一層強

安な暮らしを送ってきた 。多島海は時 として海戦の場ともな った。 そのため に、ここには張保皐の遺跡地をはじめ

略奪がひっきりなしに起こり、常に不

暮ら す人々の独特の生活風俗がつくり 出した﹁多島海文化﹂である 。多島海 の人々は 、暴風雨などのちょっとした 海難事故でも多くの命を失い、かつて は日本などの近隣の島国の人聞による

の恵みである美しい自然景観とそこに

0年代までは、黒 山島に行こ うとすれ ば命がけのことだったのに、今では木 浦から定員三百名の旅客船に乗りさえ すれば、たったの 二時間で到着する。 多島海と言えば何と言っても、自然

多島海の島で生活している住民の半 数は漁や海産物の採取によって生計を たてている 。漁の 場合、漁船や漁具な ど漁業に使う装備が貧弱なため沖合い には出られず、大部分が漁村からそう 離れていない沿岸漁業が主流である 。 この地域には二万般あまりの漁船があ るが、その多くが二トン未満の小型漁 船で、せいぜいウナギやカタクチイワ シやエビなどをとる程度である。 昔は、船便の数も少なかったため、 多島海の島をめぐるのはなかなか大変 なことだ った。特に、黒山島に上が っ てから台風に見舞われ、船便が途絶え ると、数日間島に閉じこめられるなど というのはよくあることだった 。しか し、現在では木浦、麗水などから運航 される航路が六O路線にもなり、島へ 行くのも便利にな った。島を結ぶ寄港 地としては木浦、麗水、法聖浦、羅老 島、巨文島、莞島、珍島などがあり、 莞島港、鹿洞港、黒 山島の曳里港は漁


固に指定された。一九六八年に指定さ れた全羅南道麗水から慶尚南道統営郡 関山島に至るまでの閑麗海上国立公園 までも合わせれば、韓国最大の多島海 国立公園になる。紅島から閑山島に至 るこの広々とした美しい海の国立公園 の中にある二千にのぼる島々は、その どれもが個性的で、神秘的な秘境がま だ数多く残っている。あらゆるところ で神の恩恵が感じられ、島ごとにそれ ぞれの美しさを誇っていて、そのすべ てを訪ねて歩きたいほどである。ゆっ たりとたゆたう波の聞に海の宮殿を築 くかのようにそびえ立つ奇岩怪石、 青々とした松林と果てしなく続く白い 砂浜、天然記念物の群生地にはえてい る珍しい植物、それらが一つになって 絵のような光景を織りなしている。島 でありながら、陸地にあるような渓谷 と沼、洞窟と滝がある。清水渓谷など、 名の知られた渓谷だけでも六カ所を数 え、鶴沼など六ヶ所の沼と湯、二ハカ 所の洞窟と八カ所の滝がある。 韓国人が最も行ってみたい島として 挙げる紅島。紅島を訪れてこそ、この

はこの世のものとは思われぬほどの美

世で見るべきものをすべて見たと言わ れるほどの島である。南海の海金剛と 呼ばれる紅島を訪れてみると、この島 しさに悦惚感さえ感じさせる。島全体 の面積は六・八七平方キロメートルに しかならない、蚕のような形をしたこ の小さな島の岩の成分は珪素からなっ ており、長い年月の問の浸食作用によ って海岸線一帯が赤褐色の様々なおも しろい形をした奇岩絶壁に固まれてい る。なかでも、酸化した珪素岩は赤黒

この島を紅い島(紅島)と呼ぶのであ る。岩一つ、草木の一本に至るまで大

く変色して、夕日の光がこれらの岩を 照らす時刻になると、島全体が赤く燃 え上がる火住のように見える。黄昏の 濃いコバルト色の海に浮かぶ紅色に染 まった紅島は、竜宮城のような神秘的 な雰囲気をたたえている。それゆえ、

をしているところから飛禽島と呼ばれ るこの島のことを語るには、四・コ一キ

木浦から黒山島への航路の途中に位置 するもう一つの真珠のような島、飛禽 島。まるで鳥が飛び立つかのような形

山島は木浦から紅島に行く航路の要所 にあり、紅島への行き帰りに一度は寄 ってみるだけの価値がある島である。

変貴重なこの島は、島全体が天然記念 物第一七O号に指定され、保護されて いる。海岸線に沿って、くるりと廻って

の道で、その他にも三別抄の抗戦地、 壬辰倭乱の戦跡地である鳴梁海峡、珍 島アリラン、珍島シツキムクツ(シャ ーマニズムの儀式)、文人画家許小療

浮ぶのが珍島犬と引き潮に現れる海上

珍島側の列島は、遠く孟骨群島まで 四二島の有人島シ二八九の無人島から なっている。一九八一年に長さ二九五 メートルの大橋がかけられ、今では島 ならぬ島となった珍島だが、まず思い

記録した﹃蕗山漁譜﹄という本を著し たところでもある。

また、丁若捕の兄の丁若詮が流刑とな り、流罪の身ながら魚の種類と生態を

戦いの末に逮捕されて、この島に流罪 となった窪益鉱が、わが国はすでに遠 い昔から存在し、独立国家だと記した 文を彫り込んだ掌岩がある。黒山島は

て締結させ、外交権を完全掌握した条 約)が締結されるやいなや義兵を募り、

たものである。 黒山島践村里には、一九O 五年に乙 巳条約(日本が大韓帝国政府を威嚇し

ロにも達するどこまでも続く白い砂浜 と欝蒼とした松林からなる﹁飛禽明沙 十里﹂に触れないわけにはいかない。 飛禽島には、韓国最大の規模を誇った 塩田がかつて存在し、明沙十里には漁 期になると波市が立ち、不夜城となっ

みると、イルカ岩、虹岩、柱岩、ドー ム岩、ツバメ島、南門岩、高僧岩、刀 岩、塔岩、扉風岩などが、海の彫刻公 園のような趣で、心底感嘆せざるを得 ない。紅島海水浴場の水はあまりにも 済みきっていて、俗世の垢にまみれた この身を浸けることさえためらわれる ほどの美しさである。 黒山島の美しさを満喫するには、ツ バキと風蘭の咲く頃に訪れるのが一番 である。ツバキの花がその赤い花弁を 開く早春の頃になると、風蘭の例えよ うのない香りが島の人々をつつみ、そ こはかとなく酔ったような気分にさせ てくれる。しかし、有人島十一島と無 人島八九島からなる黒山島は、春夏秋 冬、四季折々を通して独特の情趣を感 じさせる島である。紅島の特徴がその 繊細な女性的美しさにあるとすれば、 黒山島は多少荒々しい男性的な美しさ をそなえていると言えるだろう。鎮里 港と曳里港の二カ所にだけ船を停泊さ せることが可能で、台風が荒れ狂うよ うな時期には中園、日本、台湾船籍の 船二千隻あまりがこの島に待避、密集 して、まるで国際港のようになる。黒

(小療許錬)三代の雲林山房など、多く

のものが思い浮かぶ。それほど、珍島 には文化的に見るべきものが多い。最

近では、韓国版モlセの奇跡と呼ばれ ている義新面茅島里と古郡面フェドン 里を結ぶ世にも不思議な海上の道が新 しい観光地として脚光を浴びている。 その他に、まだ比較的観光地化してい

ない観梅島、トルモク島、白也島など もぜひ訪れてみたいところである。

高麗の明宗時代の文臣、金 一 幸ヰアは、 珍島の美しい景色を次のように詠って いる。

はるかなる心は果てしなく 小さき舟、波聞に浮かび漂いて

雨降りしきり、雲は島影をおおい 風吹きすさび、水は天に舞い上がる 霜とともに暮らす神仙となれぬことを 恥ずかしくも思っていたものを

いまやこの私が牽牛星を 犯すがごとき神仙となりぬ あそこはどこの園、どこの村か 島影離れて、青き煙が立ち上る

莞島郡に属している多くの島々に

は、欝蒼とした常緑樹林と白い砂浜、 そして青黒い色をしたつややかな石が 多い。莞島には、新羅興徳王の三年 (西暦八二八年)に張保皐が晴海鎮を 設置して海賊から島の住民を保護し、 海上貿易の前哨基地とした頃の歴史的

遺跡がある。また、晴海鎮からほど遠 くないところにある正道里の海辺に は、黒く、青く、白い五つの色をした つややかな小石が果てしなくどこまで も敷かれている。莞島ロ巴の船着き場の


向かい側にあり、白い砂浜が一里(四 キ ロ)も広がっている薪智島明沙十里 海水浴場の景色もまた美しい。しかし、 何と言ってもぜひ訪れてみたいところ は、四百年ほど昔、手善道(李朝時代 の時調作家。一五八七1 一 六 七 こ が 二十年間にわたって何回か訪れては滞 在し、多島海の美しさと漁夫たちの風 流な暮らしぶりを詠んだ﹃漁夫四時調﹄ など、数多くの作品を書き上げた甫吉 島である。甫吉島は、南海のどの島よ りも 山水の景色が美しく、特に弔ア善道 の遺跡である芙蓉 洞周辺 の山林や岩、 渓谷、礼松里の常緑樹 林 に入って深く 勺﹀司天 mmCZ のと

息を吸い込むと、自然のすばらしさに 心 が洗われるようである。晋ノ善道は、 この地に洗然亭、楽書斎などの亭を建 て、オダム、小隠扉、朗吟渓、 由水堂、 洞天石室などの聞を行き来しながら詩 を作り、風流な生活を楽しんだのだが、 その当時の足跡がそのまま残っている。 甫吉島には朝鮮時代の儒学者、宋時 烈が故郷の済州島に帰郷する際、風雨 のおさまるのを待って、しばらくの問 白島里に滞在した折りに岩に彫りつけ たという文字がはっきりと残ってい る 。 その詩は 、次のようなものである。

八三歳の老いた身が 青い波の万里の航路に 一言、東夷の悪 口を吐いたところ 耳と 口と鼻をふさがれて しまった 北方の見知らぬ土地を 訪なうこともかなわず 南方の風は当てにもできず ふらりと家を出て、海路に遊べば 心の底から哀しく、寂しい 莞島から南方に遠く離れたところに 巨文島がある。巨文島舟歌で有名なこ の島は、一八八五年四月から一八八 七 年三月までの 二年問、英国海軍によっ

( 上)雀益銭の文字が刻み込まれてい る掌岩 (右) r わが国はすでに遠い昔から存在 し、独立国家である」と刻み込まれて いる ( 下)予善道はここの洗然亭で詩を作 るなどの風流を楽しんだ

て不法に占拠されたという歴史を持 つ。軍艦六隻と商船二隻で巨文島にや

ってきた英国海軍八百から九百人の一 行は、この島に兵営を設け、砲台を造

るなど、防 御施 設を築きもした。この 島にハミルトンが駐屯したことから、 英国ではハミルトン港と呼ばれてい

る。英国の将兵の墓も残っている。巨 文島から東に六里(二四キロ)ほど離 れている白島は、南の海に残された最

後の秘境と言われている。晴れた日に は、巨文島から上白島、下白島がはる かに望める。人は 住 んでおらず 、 長い こと忘れ去られていた白島は、自然景


観がたいへんすばらしく、夢のような 島と言われている。九九の岩からなる 峰ごとに伝説があり、その中でも鷹岩 は、漁民たちを守ってくれる守護神の 象徴となっている。あまりにも遠く離 れているため、航路は開設されておら ず訪れるのはなかなか難しい島である。 ふたたび巨文島から閑麗水道の方へ と紬先を向けると、羅老島に沿って高 興半島へと至るのだが、羅老島海水浴 場をはじめとする翼岩、三仏庵などの 名所がよく知られている。九六年に羅 老島もやはり陸地と地続きになり、島 ならぬ島となった。高興半島を過ぎる とツバキの花が壮観な麗水梧桐島と突 山の向日庵が見えてくる 。 閑麗海上国 立公園への関門となる梧桐島は、三月 頃になると島全体がツバキの花でおお

の出にはすばらしい眺めとなる向日庵

われ、巨大な桃色のパラソル型の花の 島と化す。そして、麗水から突山大橋 を渡って、よく舗装されたアスファル ト の道を通って島の突端に至ると、日 が見 えて くる。海抜百メートルの絶壁 の縁にカササギの巣のように危なっか しく引っかかっているこじんまりとし た庵。この向日庵から眺める日の出の 光 景は、あまりの美しさに息をのむほ O ︿ Z 工﹀勺

どである。日の出の光景に負けず劣ら ず、月の出の光景もこの世のものとは 思えぬほどで、月出庵とも呼ばれてい る。名所としては、亀の甲羅の形をし た亀岩と庭岩、揺れる岩などがある。 観光シーズンにはここを訪れる人々で ごった返し、近海で取れる各種の海産 物を売る屈が軒を連ねている。 多島海は、すでに陸 地 から遠く離れ た忘却の海ではない。多島海は、常 に我々の心の中で青くたゆたってい る。多島海は 、我 々に残された最後 の光り輝く遺産であり、豊能な海の 幸の宝庫である。そして、海に生き る人々にとっては、決して恐れるべ き海でもない。荒れ狂う波に揺られ ながら、海に生活の糧を得る場とし、 これを守ってきた島の人々の暮らし には彼ら独特の文化があり、愛着が あるからである。これからは、我々 も彼らに見習って島々の美しさを大 切にし、彼らが長い年月をかけて育 んできた生活文化を理解し、愛おし むことを学んでいくべきだろう。な ぜなら、多島海は、我々が大切に守 っていくべき未来の青き夢だからで ある。

' A

mcz のと

u ﹀忍︿帥

( 上)紅島の小さい岩島で羽を休めている鴎、(左)奇巌怪石で秘境となっている白島

1 0


1 1


ョンホ

キム剖γ

. 金井 異 全羅南道 農 業 得 物 館 長

占 半島はアジア大陸の東北側を LI占 E 占 人々が船に乗って太平洋に出 JHr円寸 入りするとき 利用するのに便 利なように作られた渡し場の浮き桟橋 のような形をしている。このような比 喰が適当であるならば、日本列島は韓

半島という渡し場に打ち寄せてくる太 平洋の荒波と風を防いでくれる防波堤

と言えよう。神はこのアジア東北部の 渡し場の浮き桟橋に寄せてくる船をも

っと安全に保護するつもりで、韓半島 の南側に二、五O Oほどの島をばらま いておいた。この島々のあるところを 多島海という。 このように海と内陸に通ずる要所に

位置を占めている渡し場のような地形 ゆえに、韓国の歴史は、北側の大陸民

族と太平洋の海の方の民族のよって千 四あまりも侵略を受けてきたし 、 近世 では世界の列強が互いに手に入れよう とよだれを流した角逐の場にもなった

りした。 韓国の島は全部で 三、 一五三である。

その中の西南側である全羅南道に一、 九六九の島があり、東南側の慶尚南道 と釜山に四六八の島があるので、これ

らの南部の島を合計すると二、 間三七 である。その中で人が住んでいる島は 三五Oくらいで、一 四%にあたり、残 りの二、 O八七 の島に は人が住んでい ない。二六年前である一 九七 二年には 、 韓国の南の島の中で人が住んでいたの

は五二 七 の島であっ た ので、 こ の間 、 一八七 の島の人々が島を後にして都会 へと去っていったわけである。もちろ

ん都会に職場の少なかっ た百年あ ま り 前に ははるかに多くの島に人が住んで


いたのだった。

一九七 二年、韓国の島に住んでいた 住民の数が 一一一万人を越えていたの に引き替え 、 二二 年後である九四年末

にはわずか二五万五千人が住んでいる に過ぎなかったのを見れば、その間に

いかに多くの島の住民が、陵地に生き る術を求めて去っていったかを想像す ることができよう 。 それだけ陸地の生

活と稼ぎが島より良くなったという証 拠である。

二千年前にも人が住んでいた痕跡 韓国の多島海の島の中には昔の人々

が食べた後に投げ捨てた貝塚がたまに 自につく 。全羅南道からも っとも遠く、 中国に近い可居島では石の斧と石の録、

そして櫛紋土器などが出土された 。 チンドワンドコフン 珍島、莞島、高興などの島でも同じ時 代の容器や道具が出土され、珍島や コ リ'エ ド 巨済島のような大きな島には青銅器時 代の墓である支石墓などが無数に散在

している 。 これらのことから、韓国の 多島海には陸地と同じようにきわめて 久しい昔から人が住んでいたし、その 当 時からこれらの島の人々は中国や日 本などを行き来したのに違いな いと思 われる 。陸地には猛獣が多く、また森 林が生い茂 っていた太古の昔を想像す れば、海に固まれた島は人が住むのに

より便利であ ったろうと思われる 。 猛 獣の被害を心配する必要がなか ったし、 山には食用に利用できる木の実や植物 が多いだけでなく、海辺には四季を通 じて食べるのに十分な貝類と海草類に 魚までふんだんにあ ったので、それこ そ地上の楽園だといえたであろう 。 こ


EE 一式的 m E z m y c

うした事情は中国も同じであったのか、

中国を統 一した 秦の始皇帝の ころの徐 市(徐福)という人物は、不老長寿の 神仙園、三神山が中国の東方の海上に あるとい って中国大陸を出発したとい

う昔話がある。 中国 の人々は徐市が戦 争と死 の大陸 を避けて海の真ん中にある漸江省の岱

山島に移り住んだとい って 、 この島を 蓬莱島とい っている 。 もちろん 山東省 の北側 にも蓬莱という 地名がある 。 日 本の人々は、徐市が中国を出発して海 の真ん中に定着したのが日本だと考え ている 。 おもしろい ことに、韓半島の人々も 徐市がこの韓国の南の方の島々を探し

歩いたとして、多くの伝説を作った 。 ナロド 全羅南道高興郡の羅老島は徐市が来て、 住みよいところだと 言っ たということ で、この島を蓬莱島ともいったのだが、

チリサシパシンペノサシ

今 日 の行政 区域 の名称である 蓬莱面の 。 淵源とな った 韓半島の昔の人々は、 三神山の 一つ だと考えていた全羅南道と慶尚南道の

境界の地にある智異山を方丈山といっ たし、秦の始皇帝のころの徐市がこの クレ 山 を訪ねてきたというので、求 礼邑内

を流れる川の名称を徐市川とい った。 ナムヘドヲムサ/ 慶尚南道 の南海島の錦 山には、徐市 が この山を通り過ぎたと いう 内容の岩刻 文字が彫刻してあるし、も っと南方の ソギ f ホ 済州島の西帰浦にも徐市が寄 っていっ たという文句が残されている。

隠遁の地、理想郷の地 ハイ ト 多島海の島の中の 一つである荷衣島 という島名の由来も、実は島に対する

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工﹀mZ﹀ 互 のOCZ↓︿030m

(右)将島の日の出、(上)将島にある清;毎鎮遺跡の発掘調査作業の様子

(下)海南地方で発見された青銅器時代の支石墓の数々

陸 地 の人々の切実な想いを込めた島の 名前である。元来、荷衣とは中国の道

教に出てくる八人の神仙の中で河仙姑

が着てい た衣裳の名称で ある。中 国 の 人々はこの昔話をもとに﹁荷衣﹂とは

隠遁者の衣裳を想像するか、修道者の シンボルみたいな単語だと考えるよう

にな ったのだが、この影 響を受 けた 全 羅道多島海の人々は、それらの島の中

の 一つに、修道者が隠れ住んでいる島 だという意味の荷衣島という島の名称

をつけた。

このような韓国の遠 い先祖たち の島 に対する夢と意識は、朝鮮時代の有名

な民衆 小説である許 均 ( 一五六九1 一 六一八)の﹃洪吉童伝﹄や、 朴 配 遠

﹃許生員伝﹄、 (一七三七1 一八O五)の ・ ﹃辺山群盗﹄などの文 学を誕生 させた 。 これらの小説の主人公たちは、抑圧さ

れ、搾取される陸地を捨てて武陵桃源

のような 地 上の楽園を求めて、島に向

かって 旅立っている。 今日 、多島海で 暮らしている人々の

中 の多くは 、こうした 島に対する期待

のために 、朝鮮時代 の 半 ば (一八世紀) 以降、島に隠れ て住 んできた人々の末

商である。 ボキル卜 そのよい例を莞島郡の甫吉島で見る

ことができる。この島では現在、 二 ハ 世紀の士大夫、矛善道(一五 八七1 一

六七 一 ) が老後を送った多くの遺跡の 復元が進行中である。 海南の名門に生まれた孤 山・ ヰア善道

は、官僚に取り立てられる前の 三O 才 のとき、当時、権勢をほしいままにし

て い た 李 爾 幡 (一五六01 二 ハ二三 ) を弾劾する上訴をしたという罪名で流

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刑に処された。流刑五年にして仁祖反 強制的に移住させる政策を施したりし

身売買や海賊行為を 一掃し、日本と中

七年間の流刑生活をし、八五才の年に

度目の流刑に処された。彼はこのよう に八 一才になるまで、 一 二回にわたり 一

カムバックしたが、孝宗が死ぬや、 三

子が王位に上がった後、五年間官職に

度目の流刑に処された。その後、王世

の謀略により七年で職を罷免され、 二

(孝宗)の師停となったが、政敵たち

二才で官職に登り、王世子、鳳林大君

海君を追放)により放免された彼は四

りした。日清戦争が起きた時にも、日 本は朝鮮政府の許諾を受けることもな

かった朝鮮王朝の末期には、自分勝手 に外国の船が出入りして水深を測 量 し たり、牛などの家畜を略奪してい った

り、食料の補給基地として利用した。 辺境である多島海を守るだけの力がな

入して、彼らの隠れ家として利用した

り前から 全 羅南道の多島海に倭冠が侵

は、壬辰倭乱(文禄の役)の 三O年余

のようなことが多かった 。朝鮮時代に

歴史的に新羅の末期と高麗の末期にこ

陸地の盗賊の略奪の狙いの的になった 。

つようになる。そのため、国に盗賊の 群れを防ぐ力のないときには、隣国や

脆くもすぐに順応してしまう特性を持

体意識で団結しながらも、強い者には

な限界性は外地の人々の流入を嫌がる 潜在的な排他性として現れ、強い共同

と島が散在している多島海がはるかに

あった。とりわけ海は、遠海よりも島

は、島の人々の生存手段であり技能で

かなかった。船を造り、航海する技術

の外部へ出入りするとか漁労作業をす

が課せられた。

国防のため水軍を編成する時には常に 動員され、最下位の水兵としての義務

になるチャンスが与えられなかったし、

あ った。 このため彼らには中央の官僚

治を拒否して隠れて住んでいる人々で

朝廷からみれば、島の人々は朝廷の統

探し出すことができない 。陸地にある

れている歴史的な記録はこれといって

全羅道多島海の島の人々の話が書か

いても栄山江河口の高下島や莞島の古

より大勝利の栄光を勝ち得たのであっ た。彼は、最期を遂げた露梁海戦にお

人々を呼び集め、彼らの知恵と協力に

水営に到着する問に、この海域の海流 と船の操舵にあかるい名もなき島の

乱(慶長の役)のときに珍島の鳴梁海

家であったので、

歴史は李舜臣将軍が抜きんでた戦略

に移ってきて、大陸の侵略軍である蒙 古軍に対抗する基地として活用したの だった。

逃げるところもない 。 こうした地理的

甫吉島で波乱に富んだ人生の幕を閉じ

しに済州道と莞島、薬山島、新安郡荷 衣面玉島などの島に軍隊を 一ヶ月以上

険しかった。遠海では静かであった海

年に着手された。彼はこの島の奥地に 書堂を作り、洞天石室、芙蓉蓮池、曲 水堂、洗然池など、多くの造景事業を 繰り広げ、この地でのどかな漁村の風

航海技術者の補給基地

島の人々はきわめて遠い昔から、色町

島の人々の協力を得て後三国を統7 、 レ また蒙古が韓半島を侵略じたとき、江

華島にいた陸軍出身の 三別抄軍は航海 技術者の多い多島海の中心である珍島

一五九七年の丁酉再

峡で大勝利を得たと書いている。彼は

(忠清・八王羅・慶尚 三一道の水軍を統率し

険川の海印寺で白衣従軍(官位を持た ずに従軍すること)中に水軍統制使

た朝鮮時代の水軍の武官職)に任命さ れるや、単身で宝城を経て、海南の右

かった頃、全羅南道の多島海はともす

陸地との通信方法がこれといってな

で、かつて新羅時代(八二八年)の張

を持った人々が住んでいるところなの

も容易なことではない。こうした技能

を操ることは航海術の発達した今日で

から自分の家の庭のようにこの海域を 出入りした者でなければ、多島海で船

る川の流れまで加勢していて、幼い頃

珍島、鳥島、金甲、南桃、莞島、所安、

いる。慈思、荏子、智島、黒山、牛耳、

多くの島に燦火台や山城の形で残って

に貢献した。そうした痕跡が多島海の

の勇敢さや団結力を発揮して国の防衛

島海で会得した航海術と島の人々特有

われる度に、立派な指導者を得れば多

島の人々を水軍の将卒として掻き集め、 最後の勝利を飾ることができたのだっ

今島に直前までとどまり、この海域の

れば、外国や海賊たちの巣窟となり、

保皐は、南海岸の多島海の中心である 人々を糾合して、中国の人々による人

露花、椴子、青 一山、古今、薪智、薬山、

た。このように国が累卵の危機に見舞 国の保護から見放されていたため、こ の島の人々はどうしょうもなく命を守

莞島に清海鎮を設け、この海域の島の 高麗の末頃と壬辰倭乱前の朝廷は、 こうした不幸を防ぐため、島の人々を

るためにこれらの侵略者たちに協力し たり、あるいは 一緒になって沿海岸の 盗みに荷担したりした。

るため、船を操る仕事を身に付けるし

高麗を開国した王建も、この海域の

た。彼はこうした世俗的な権力と戦争 と外侵が嫌になり、甫吉島に理想郷を

も隠しておいて、清の艦隊を襲撃した 。

流も多島海にいたれば島にぶつかって

国を相手に 三角貿易をしたのだった。

建設する。この甫吉島の別荘は、彼が

これより先に英国は麗川郡巨文島を占

たが、海を相手に暮らしていた島の

景を描いた ﹁ 漁夫四時詞﹂という連作 の時調(韓国の定型詩)を書いた。し

領 、 二年間も兵姑基地を作って粘って

正(西人派に擁立された仁祖が前王光

かし、世の中は彼のこのような隠遁と

いたが、朝鮮と中国の抗議を受けて撤

逆巻き、風すらも島に遮られて方向を 変え、その上、島に向か って流れてく

人々には農業を営むのもまた容易なこ とではなかった。

悠々自適の生活をそのままにはしてお

収したこともあった。

五 一才で丙子胡乱を体験した 二 ハ三七

かなかった。彼は七 三才という老体に もかかわらず成鏡道に追いやられ、八 年の流刑生活の末、やっと甫吉島に帰 ってきてその四年後にこの世を去っ た 。 盗賊 の群れの狙いの的、 受難 の地 島は海に固まれている制限された空 間である。これは自給し得る資源も制 限されていることを意味するものであ り、多数の外敵の侵入があったときに は、彼らを防ぐこともできなければ 、

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馬島、呂島、突山、巨文島などのニ O ばならなか ったので、中央 の治政官が 配 置された珍島や巨済島には、とくに多く の罪人たちが流された。歴史の記録に現

探り、食べ物は当該の島で担当しなけれ された隔絶性によるものがもっと大き い。この隔絶性は、沿岸の官吏たちの 収奪と抑圧の要因にも利用された 。自 分の労力で土手を築き上げておいた農

は、日本の 植民地統治 が始 まり、宮室 の土 地が日本人の 手に渡ってからは 、 収穫量の半分を小作料として出した後

作闘争は、抗日民族闘争 のシンボ ルと

人々も集団行動に出て、日本植民統治 の時代には全羅南道の多島海地方の小

にも、舎音といわれた現 地 の管理人に

地すらも宮室や権勢家たちに奪われて

小作権を 他 の人に渡さないようにと哀 願し、地主が提供してくれた種代や税 金 を自 ら負 担する収 奪の 対象にならね ばならなかった。 三 ・一万歳運動 以後、 民衆の意識が次第に目覚め、この島の

小作人におとされ、魚を捕ると 言つて は漁税、塩を造 った と 言つ ては塩税、 船があ るから と言って 船税、網 がある と言つ ては 漁網 税、税 金の 品を 集めに 行く のに運搬の費用がか さむと 言つて は別収米など四O種あ まりに達する雑 税と付加税をとられ、さらに季節ごと

に特産物である海苔、ワカメ、魚の干

して 浮かび 上がりもした。 多島海は昔から理想郷を 夢見ながら 島の人々が飢え死にしかねない状況であ

三八年である西暦 一七六 二年、全羅道監 司(朝鮮時代の道知事)が ﹁ わが道の珍 島にあまりにも多くの流刑の囚人を送っ てくるので、彼らの食糧のため罪のない

れる珍島への流刑者は百人を越えてい る。宰相クラスは 言うに及、ばす、王子だ けで 三人、宮人も 二人の者がこの地で流 刑中に死んだ。王朝実録を見ると、英祖

か所には、昔の水軍駐屯の痕跡が残っ ており、多くの別将の哨所と燦火台の 跡が残 っている 。 流刑の地、収奪の島 韓国の昔の王朝では、中国の唐の刑罰 制度を見習 って重罪を犯した人物や政治 犯たちを王宮から 三千里(日本 の三百里) 圏外に流刑するようになっていた。しか し国土の長さが 三千里 にしかならない国 で、統治の中心地を韓半島の中間地点で pp司一︿日mCZ のと

ある開城や漢陽(現在のソウル)に置い たので 、遠い地方といっても二千里を越

ります。別の所に送るように願います﹂ と王に建議書を提出した記録がある。こ のように多くのソウルの罪人たちが流さ

訪ねてきた人々の生活の基盤であ った。 しかし、中央政府と地理的に遠く離れ ていて 、国力の興亡により侵略と抑圧、 収奪を体験し たこ ともあった。今 日 の 多島海は遠い 祖先たちの理想郷そのま まに豊富な自然資源の 宝庫であり、公

えるところはなか った。そのため案出さ れた流刑の地が、海で固まれた多島海の

、 ぼら、鯛などを 賞 し物、あわ び 、ぎ物 として提供しなければならなか った。 これらの海産物は宮中用に定められた もののほか、持ち運びにきた官吏の分 け前、その 地方の役人の分け前、道知 事の分け前まで付け加えられた 。宮室 用に土地を与えられた島の人々は客室

害のないレジャー -スペ ー スとな って いる。そのため一=世紀の海洋時代に なれば多島海は新たな転機を迎えるこ

とになるだろう。畠守

れ、彼らは久しぶりの閑 日を楽しむほか なかったので、彼らが身につけた学問と 芸術、そして優れた技量を珍百町の人々に 教え、今日、民俗の宝庫であり、芸郷の 伝統を維持するようになったのである。 もちろん多島海の島々には外来の文 化に染まることなく古 くからの 風習が 多く残っているのは、海によって隔離

に納入する宮房税の外に、 別途に地方 の官庁で地税を徴収していたので、 一 土両税に苦しめられながらも訴えると ころすらなか った。 このような悲しみ

島々であった。船に乗ってみたことの 内 陸の人々にとっては、島は何千里も隔た った地域に思われただろう。それで、内 陸でも っとも険しい流刑地は成鏡南道の 三水郡と甲山郡であり、島でもっとも遠 いのは済州島であ った。しかし、それよ り少し軽い犯罪に属する人々は多島海の 多くの島に一様に流され、罪人の動向を

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( 上から )甫吉 島に残っている宋時烈の文 字で、済州島に島流しされる 途 中で残し たもの ;倭窟の侵入を防 ぐため に積 まれ た石械で珍島に残っている ;海南地方の 貝塚で発見された先史時代の土器


首1 > ~ノ

美 溶3

之ジ

海は底の底まで見えてるよ 青竹の葉のように青い

海つばめその翼で滑り飛ぶよ ガラスのような青空に

つつじ色の貝、陽にさらされ

わかめの臭い漂う岩の裂け目で

浮かび上がる海ひばり ・.. 小半日、赤い肉あさろと いとまなし

銀のしずく飛び散るように

碁石のようにころころと転げ落ち

もやがたつ白い波の下を

鯨が横切り、今 海峡はテントのように ばたばたとなびく

宰 鄭1

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小高い丘に見えるでしよかっ・

花のつぼみの提灯をともしたような

松 、 竹

茂る茂みに見えるでしよかっ

黄色と黒の縞模様の

ブランケッ トを羽織り うずくま った虎に

見えるでしよかっ・

君は﹁こんな風景﹂引き連れて

白い煙のような

遠く遠く航海なさい

鄭芝溶(チヨン・ジョン、一九

O 三i?)詩人 、忠清北道沃川出

生。徽文吉岡普(現在の徽文高校)

を経て京都の同志社大学英文科卒

業 。解 放 後 は 梨 花 女 専 ( 現 在 の 梨

花女子大)教授、京郷新聞編集局

長を歴任した。知性的でしかも感

覚的な詩風で、一九三0年代前後、

韓国現代詩の真正な局面を開拓し た と 評 価 さ れ る 。 韓国動乱当時、

北朝鮮に位致され、そこで死亡し たものと推定される 。

1 9


文 化 財 専 門 委員

多島海地方の ハヒョギル

. 河孝吉

F

史時代から今にいたるまで漁労生活を 営みながら豊漁の喜びを味わう ことも

のであり、今日の豊漁祭もするように なったのである。すなわち漁村で、海

し、人間としてはどうする こともでき ない大きな変化のカを持っているので ある。それで海を相手に暮らしている 人々は昔から神を求めるようになった

ど、個人祭儀と住民全体が協同で行う ﹁ 堂祭﹂、﹁別神クツ﹂など、村の共同祭 儀とをあげることができる。

しばしばあったが、時には不漁が引き 続いたり、また、風浪の激しい海から

は自分たちの生の存続のため、その海 に命をかけて船を出し、漁をしなけれ ばならず、それゆえ海における無事故 と豊漁がもっとも大きな願望でもあっ た 。 漁村では海での生命の安全と豊漁が

船コサは多くの多くの島々の村で、 船を持っている船主たちが、一月の初 旬と秋夕(旧暦の八月十五日)などの 祝祭日やその年の出漁を控え、自分の 船で船員たちと共に船重である﹁ペソ ナン﹂に船と乗組員の安全、そして豊

市﹀司犬印m cZのと

もっとも大事であるが、この二つは人 間の能力では永遠に解決することので きない命題だと考えられてきた。 もちろん今日では漁村での生活方法 と漁労形態は昔とは大きく変わってき た。すなわち、絶対的な生計手段とし

永久に帰ってこられない身の上になっ たりすることもあった。しかし、彼ら

ての漁労時代から、いまや選択的な生 計手段としての漁労、そして企業形態 としての漁労の時代へと。それにもか かわらず彼らの生活が海に根拠をおい ているという点には変わりがなく、ま た海は常に穏やかであるわけでもない

手主

上での安全と豊漁のために神に祈りを 捧げるのが豊漁祭である。 南海岸地域の豊漁祭は祭儀形態の上 から見ると、船を持っている船主の ﹁船コサ(告間)﹂、﹁船クツ(亙儀ごな

島海、取り分け島の多い韓 r3 国の南海岸地域を称する言 企M d で あ る 。 韓 国 は 三面 を 海 ノで 葉 に固まれている半島で、その中でもっ とも複雑な海岸線と多くの島々が散在 しているところが南海岸である。 この地域で海を相手に海とともに暮 らしてきた漁民たちは、はるか昔の先

ー、.~・-­ ‘事唖聖,

し、漁を助ける神として祭られている。 その年の初の船コサは正月に祭るよ うになっているが、一般家庭の茶礼 (先祖の霊に捧げる祝祭日の祭り)と同 じような意味を持っている。船にはす

漁を祈る祭りである。ペソナンとは船 と城陸の複合語で、船と乗組員を保護

げて拝する形で終えるが、真 心 を込め て行う。船コサが終わった後、乗組員

ところで、同じ村の共同祭儀ではあ

のすべての規範が祭儀範節に包括され ている。

同祭儀で、これは住民 個 々の人の問題 ではなく、村の共同体が中心になるの であり、そのため村共同の豊漁祭は個 人レ ベルではなく、村 レ ベル(社会的 なレベル)の性格を持つようになる。 今日でも村共同体の豊漁祭では村を リードしているリ ーダーシップのある 人々が主体となり、祭儀期間中は、村

のすべての海岸で同じである。 漁村の船 コサが船主中心の個人的な 豊漁祭だとすれば、堂祭や別神クツな どの豊漁祭は住民全体のための村の共

を運び、その後は男性たちが食べ物を 船の上に持ち運び祭物を供える。女性 が船に上がるのを禁忌とするのは韓国

たちと共に船で供え物を分けて食べる ことになっている。これを飲福(直会) すると言う。船コサのときの 一つの特 徴は、女性たちは一切船に乗らないと いうことである。そのため女性たちは 船の泊まっている船着き場まで食べ物 でに大晦日の日から船旗が掲げられる が、旗は五色あるいは三色の布で子供 たちの韓服の上着のセク ト ンと言われ る縞模様の袖と同じ色彩の布で作られ、 これらは横に長くつながれているが、

云守つ。

旗の 内側には女性のチマ(韓服のスカ ート)の上側にあてた帯のように黒い 布をあてるのだが、それをマジヤンと 旗の色は、後にな っては、天地、宇 宙を意味するようにもなり、また、東 西南北と中央の方位を意 味する場合も あったが、元来は神に捧げる麗しい色 彩の礼鍛だったと見られる。そしてこ の船旗自体がシンテ(神竿)の役割を 果たしていたとも言う。 祭物は船の甲板と船室などに餅、果 物、ナムル(野菜の和え物)などささ やかに貯えた物を供え、船主が杯を捧

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工﹀ 工︿円γEF

(右) 量;魚祭のために供えられた祭物の 前でムーダン(亙女)が祭記を行っている

ムーダン

(上) 祭壇 にク ッが始まることを告げる

るが、豊漁祭としての際立った特徴を 有しているのは 別神クツである。船主 の船コサや村の堂祭は南海岸地域の 島々の多くの村でほとんど行われてい るが、 別神クッは南海岸の統営と巨済 島お よび葛島、閉山島などいくつかの 島々で行われているだけであり 、 別神 クツを行う村でも毎年行うのではなし に二年間隔あるいは数年間隔で行うの が各村での慣例である。そして、この 別神クッは堂祭のように村の住民の中

から選ばれた祭宮によりなされるので

はなく、専門的な司祭亙によ ってなさ れる。ところが専門的な司祭亙は南海

岸全体を通じて三、四名程度に過ぎず、

それすらも 一級の大亙堂(豊漁祭の 中 心になる主亙でデモとも言う)たちは

すでに他界していて、その弟子たちが 別神ク ツの命脈を 受け継いでいる 。 韓国の亙堂は神が降りて亙女になっ

た降神亙(神が乗り移 ったと もいう) と、神が降りるのとはかかわりなく家

系代々に受け継がれている家系世襲亙 に区別されるが、との南海岸における 別神クッの司祭亙は世襲亙である。女 性は別神クツを司祭する亙女になり、 男性は別神クツの音楽の伴奏を担当す る楽士になるのだが、特に亙女は大体

において幼い頃から別神ク ツの各儀式 での辞説の暗記から踊りと歌、祭物の 供え方など、別神クツの手順に伴うす べての司祭の技術を厳しい学習を通じ

て身に付ける ことになる。そして彼ら の結婚もほとんどが亙家の家系同士で なされるのが通例となっている。 今日、巨済島のいくつかの村と付近 の島を中心に伝承されている南海岸の

別神クツは、村によ って別神ク ツの 進 行の過程やクツの形態が少しずつ異な る特色を見せてはいるものの、全体的 に見て大した違いはない。それは別神 クツを 司祭す ることのできる 司祭亙が 二、三名に 過ぎず、彼女らが巨済島を 中心にしたその一帯の別神クツを司祭 しているからである。では南海岸別神 クツの内容を簡単にではあるが見てみ 。 ることにし よう 南海岸の別神クッは、 主に旧暦の 一

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歌も長いので、いずれもそれぞれ一つ のまとまったくだりとして取り扱われ

コル メギクッで南海岸の別神クッの すべての儀式は終わりを告げる。別神

ツをするが、 これを コルメギあるいは コルメギクツとも言う。﹁コルメギ﹂と は村を防御するものという意味で村の 守護神を意味する。

チャンスン(村の守護神)のあるとこ ろと井戸など村の所々に寄ってメグク

て村に入ってきたものと想定してこれ を告げるクッである。

る。南海岸の別神クッで催されるいろ いろな音楽と調子、踊りの動作などが 大部分このクンクツに集められていて もっとも重要なクツの儀式であり、そ

クツが終われば、村に よ っては住民た ちが集まって飲福をしたり、あるいは 別神クッの費用について決算をしたり する。

月の初めに行われるのだが、別神クツ のクッ堂(祭堂)は主に村の会館など

れだけ難しいクツであるので、大体に おいて主亙が司祭する。この中でも客

南海岸の別神クッは、東海岸の別神 クツや西海岸の大同クツのようにクツ

に設けられる。統営市の場合(統営市 は十月、閑 山大祭行事の一 の別神 失 ヅ, 環として執り行われているようになっ ている)は海辺にクツ堂を設け、七メ

和解は怖い煽鳩神(ソシニムママと言 って天然痘を 引 き起こす疫神)をねぎ らい命と福を祈願する内容であり、十 二祝文は人 間の死を悲しみ、死んだ後 の祭記の手順を悲しく描写した内容で ある。また、十王誕日は人聞がどうす

σ

別神クツの正式の儀式ではな いため、 村によっては執り行わないところもあ る。クッジヤンモ宅の不浄クツが終わ ると、村の建物の中に設けられたクツ 庁(クツを執 行う場所)でクツが始

堂 山 クッを終えると今度は早速クツ ジャンモ(村で選定した祭官の一人で、 祭物などすべての準備を整える人)の 家に行って、 ' 彼の家庭とクツジヤンモ の不浄を取り除き、家内安全を祈願す る 。 このクッジヤンモ宅での不浄クッは

ー トルにおよぶ長い祭壇に多くの種類 の祭物を供え、紙の造花を作って飾っ たりもするが、巨済島などの村で執り 行われている別神クツの場合には祭物 は簡単に準備し、紙の造花などの装飾 もすることはない。 村で別神クッの準備をしていると、 司祭亙の一行(亙女と楽士)が村に到 着するのであるが、大体において昼食

の過程で司祭亙と楽士の間でやり取り する才談(機知に富んだやり取り)の

クツ庁の中で執り行われるクッは以 上で終わるのだが、時間は夜の十 二時 を越え早暁に近い時刻となる。クッ庁 に集まった住民たちは家に帰り、司祭 亙たちも休息を取るのだが、朝日が昇 る直前に村の 山 の中腹のハラボジ(お 爺さん)堂 山 に登って行き 、日 月迎え のクッを執り行う。このクッは村と住 民たちのためのクッである。日月迎え のクツが終わると直ちに海辺に出向い て城陸竿を差しておいて竜王クッを執 り行う。竜王クツは竜王と水中の孤魂 を慰め、海上での安全を祈願するクツ である。竜王クッの後、村に帰って来 る道すがら堂主(祭官)と楽土たちは

神 クッで見られるトドックジャビノリ

また、南海岸の別神クッは東海岸の 別神 クツや西海岸の大同クッで見られ るショ ー的な 要素や娯楽性の濃いクツ の儀式は少ないほうである 。東海岸別

銅鍵型の楽器)、ジエクム(シンバルの 一種)などの楽器でクツ 庁の雰囲気が かえって浮き立つようにするが、これ とはきわめて対照的である。

がきわめて清く優雅であるので、クッ 庁の雰囲気を静かで落ち着いたものに つくり上げる。東海岸の 別神 クッはセ ナップ(唐人笛)とケンガリ(小さい

の音楽に二重の効果を持たせ、次へと 移る亙クツの過程を便利にしてやるの が特徴である。そして亙クツが始まる 前と終わった後に、テグムで請神楽と 送神楽を吹奏するが、このテグムの音

ない代わりに楽士、特に枝鼓の打ち手 がパラジノレ(楽器の調子と共に司祭 亙の亙歌の拍子を取る歌)で、亙クツ

れば十王の世界(あの世の良い所)に 行くことができるかを明らかにしてく

ソナノグ

城醒クツ一 各地域八道の名 山 の神々 を招き 迎えて 家庭と村の繁栄を祈願す るクッである。 クンクツ(大クツ) 一クンクッはソ ンクッ とも言われているが、このクン クツの中には、客クッ、客和解、十二 祝文、黄泉問答、古今歴代、還生誕日、 十王誕日などが組み込まれている。こ れらのクッは内容も皆多様であり、亙

れる内容である。 群雄ク ッ将軍の神々の威力を称え、 生業が繁盛するのを祈願する内容であ る。このクッでは他界した別神クツの 先代の人々を慰めたりする。

まるのだが、そのクツ儀式の順序と内 容は次の通りである。 不浄クッ一 クッ庁の不浄を清め祭壇 を浄化し、多くの神々を立派に迎える ためのクツである。 カマンクツ 一不浄クッとつながりを 持って行われるクッであるので、時に は不浄カマンクッとも言っているが、

後である。村に到着した司祭亙の一行 は﹁トルマジ﹂(神迎え)と言ってテグ ム(横笛の一種)を吹き銅鑓を鳴らし ながら村の 旧道に沿って村中を一周す るのだが、これは村の守護神と住民た

知らせる別神ク ツ儀式の 一つである。

ちにクツを執り行うために来たのを告 げ、もうすぐクツが始まるというのを

帝蒋クツ一 帝鐸天を敬い幸運を祈願 するクツだが、帝緯天は幸運を与える 神だと思われている。

クツ庁の不浄を清めた後、先祖の御霊 を迎えもてなすクツである。

トルマジが終わるとしばらく休息を 取った後、司祭亙は快子(ケジヤ H昔 の戦闘服の一種)に縞模様の袖からな っている亙服とクン モリ(司祭亙特有 の髪形)で服装を整え、楽士たちと一 緒に村の麓にある木神堂(樹齢の古い 大木で、村で神木と して 尊び、その大 木の隣には木で削って打ち立てた鴨の 形のソッテを立てる)に降りて行き、 堂山クッを執り行う。この堂クッは司 祭亙の 一行が村に入って来て一番先に 堂神(村の守護神格)のために執り行 うクッで、新年の村の平安を祈り、海 の孤独な魂たちがクツの時間に合わせ

2 2


を交わすクツ)などは風刺と詰諺が溢

の仮面の遊戯)、テコリクツ(やり取り

(盗人捕捉の遊戯)、ポムタルノリ(虎

ど演劇性が高い。

などがあって、総合芸術、だと言えるほ

員たちが太鼓を叩きながら歌う舟歌)

だんに盛られ、またはペチギノレ(船

る 。

に思いいたる時、納得のいくものであ

上事故がいっそう多かろうということ

方であるので、他の海岸地域に比べ海

がっていくのである。

がら喜びを満喫する村の祭へと盛り上

大監遊戯)、サニヤンクツ(狩りクツ)、

えることもあるが、ソテカムノリ(小

る司祭亙特有の神秘性、だけで興味を与

の大同クッの場合にも、クッを司祭す

るほど笑いこけるようになる。西海岸

ていてクッを見る人々はお腹がよじれ

わらず、観衆に与える信仰への信頼性

音楽的な面で優れていると言える。そ れに娯楽性の少ない方であるにもかか

ナップなどの独奏楽器が多数演奏され、

げるパラジル、そしてテグムと笛、セ

な歌のメロディーとその調子を盛り上

娯楽的な面は少ないが、司祭亙の清雅

しかし、南海岸別神クッは演劇的で

を解消し、互いに楽しみを分け合いな

歌と踊りの中で個々の人が緊張と葛藤

漁祭は住民たちが酒と食べ物、それに

漁祭を通じて住民たちの団結と和合を もたらしもする。そうかと思えば、盛一 E

に対する期待と確信を持って漁にいそ しむことができるようにし、また、豊

助 け に よ る 海 で の 生 命 の 安 全 及 び 豊漁

海岸地域の豊漁祭は、漁民たちが神の

船コサや別神クッのようなこれら南

今日も生きていくのである。

を持って限りなく広い豊躍な海と共に

がら、彼らだけが会得した生活の知恵

じているように豊漁の喜びを期待しな

った。そして、明日は再び暗閣の中か

が、しかし決して絶望することはなか

どにより悲しみに見舞われたりもする

た彼らは、時には海上の事故や不漁な

ように生活の潤滑油としてきた。海を 生活の基盤にし、海と共に暮らしてき

漁民たちは昔から村の祭儀を、この

れ、また担委じみた内容も織り込まれ

ンサンハルミャム(霊仙爺さん・霊一仙

タサルクッ、ヨンサンハラビャム・ヨ

これは南海岸地域が島の多い多島海地

が高いので観衆を真撃に導いて行く。

ら明るい太陽が昇るであろうと固く信

の合聞に演劇的なノリ(遊戯)がふん

、 1

~V

工 、 y工︿O R F

2 3

婆さん)など多くのクツの儀式とクツ のと

m u ﹀泊干︿印mCZ

(上)神竿の役割をする船旗 (下)豊漁祭を見に集まった人々、このように豊;魚祭は村の人々全体の行事である


刀 、 と剖RMmCZ のと

韓り


v 島海地方の島の人間として

, -Mr︾ 生 き て い く に は 韓 半 島 の 南 ノ JJd の海ならではの特異な 気象

と天然の浄化槽と 言える干潟と迷路の ような水先と潮時に精通していなけれ ばならない。変化の激しい海に繰り出 すには天気に敏感でなければならず、 に出かけて貝や海草類を採らなければ

潮時(引き潮と満ち潮)を見て、干潟

って船に乗って出かけ、風と潮の流れ

ならない。また、水の流れと水先に従 の条件にあわせて釣糸をたれたり、網

るものの 美 し い 情 緒 を 把 握 す る こ と が

人々の強靭な体質と荒くれだってはい

を 深く か み し め て み る と海と島と島の

あるいは真理の魂そのものである。諺

じめ感知する)

(鴎は 霊 妙 な 鳥 で あ る た め 台 風 を あ ら か

﹁鴎 が 低 く 飛 ん だ ら 漁 場 を た た め ﹂

に乗り上げる﹂(愚かな者が賢いふりを

潮の潮の流れがある。海の塩辛い水と

彼らの海と同じように、満ち潮と引き

の体の中には、多くの島を抱えている

いかなければならない。多島海の人々

ないのはもちろん、その機嫌もとって

時ということで のが同じく夜中の二 一

の月の沈む頃と二三日の晩の月の出る

けて考える 。すなわち陰暦の八日の晩

の出る時間と海の潮の流れとを関係づ

夜中﹂(船に乗る人々は月の大きさと月

﹁八日に暮れる夜中、二三日に明ける

日と二九日のことである。この日は引

る﹂(五日の潮時というのは陰暦の一四

﹁五日の潮時には竜王の金玉が見え

でも頭を突っ込むこと)

る﹂(物事の順序や内容も知らずに何に

﹁網をひっくり返して魚を穫ろうとす

海の流れと海の風が体質化している。

ある)

して失敗する時に使う言葉)

彼らがよく口にする諺は生活の知恵、

を投げて魚を捕まえなければならな 海にぽかりと浮かんでいる島の中で

できる 。

﹁かれいが潮時を賢しくはかつて干潟 ら海の生理を知っておかなければなら

海と仲良くして生きていこうとするな


(左から時計四りに)韓半島の最南端の村である 土末全景、;巷と漁港を兼ねていていつも;魚船で 混雑している黒山島の曳里港、務国でもっとも 美しい島である紅島の浦

多鳥海の人々の体の中には、 多くの島を抱えている彼ら の海と同じように、 朝の;えれが 満ち;朝と引き潮の j ある 。

海の塩辛 L 、 7~ と海の

;えれと海の風が イ本質イじしている 彼らがよくロにする諺は 生活の知恵、あるいは真理の 孟鬼そのものである 2 6


﹁ 無能な漁師は竜王のせいにする ﹂ (新米の亙女はチャンゴ l韓国式の長鼓 ー のせいにする)

全 である)

き潮が激しいため深くて柔らかな干潟 の仕事 をしなければ船を操ることはも と普通は外に現れない岩礁がその姿を , とより航海や漁にも慣れることはでき 見せる) ない) ﹁九月十日の風雨には雨の一滴に風が ﹁下男の飯と錨網はたっ ぷり与えなけ ればならない﹂(下男はたっぷり食べて はじめて一生懸命働き、船を停泊させ る時は錨のロ 1プに余裕を持たせるこ とにより風で錨が抜けな いため船が安 三石﹂、あるいは﹁九月十日の風雨に虎 も恐れをなす﹂(海においての陰暦の九 月と十月の突然の突風は船を転覆させ ることもあるから注意せよとの意) ﹁挨をバケツ 一杯ほど食わなければ本 物の漁師になれない ﹂ (漁師が網を張 っ たりロ ープを扱う作業をすれば挨をた くさん吸うことになる。それほど多く

﹁女の顔がきれいなことと、海の顔が きれいなことは当てにならない﹂(心変 わりが激しいという 言葉) ﹁五月の大潮の潮の流れにはアヒルの 足も折れる﹂(陰暦の五月の大潮の頃は それだけ潮の流れが速いということ。 海の水は月の引力によって、 一目前後 と 一五日前後の大潮と八日前後と 二三 日前後の小潮を繰り返す) ﹁ 満ち潮にはボラやスズキを穫り、 引 き 潮 に は カ ニ や 巻 貝 を 採 る ﹂ (日暮 れ時の虎は肉付きのいい雌犬を狙う

が、夜明けになれば鼠や蛙でも食う。

言 +莱)

環境に従って変わる人の心を風刺した

ご寸五分の向こうは黄泉の国﹂(船 底の厚さは一寸五分、つまり五センチ ほどであるから 、 その下に落ちたら死 んでしまうので海では気をつけろとい う言葉で、黄泉の国を身近に感じて暮 らしているだけに虚無も農村の人々よ り早く体得するという意味) ﹁夕焼けを見れば一人息子を海に出

す﹂(夕焼けになると必ず天気がいい)

2 7


pp一司一︿印mcZ のと

明︾﹀泊宍白川C Z のIC

;毎と共に生きていく多島海の人々の体の中に は海と同じく満ち潮と引き潮が流れる 。; 毎と 共に泣き笑いながら強靭で荒っぽいながらも 美しい海の姿に引き寄せられていくのである

﹁ツツジが咲けばニシン船の帆を掛け

結ぼれているが、その口 lプは 二本に

見るのである。 もちろん落ちなければ

引 っ張 ってある。そのが っしりした環

二本のロ lプが櫓を支えられるように

上に浮かぶ船は前後左右に大きく揺れ

波が荒く、波が荒ければ荒いほどその

して容易いことではない 。 青山の海は

底に落ちないように櫓を漕ぐことは決

な っており、そのロlプの端にはわな 一 合格である 。 二本のロープの聞にはさんだ卵が船 のような環がぶら下がっていた。その

﹁ムツゴロウが跳ねれば蟹も跳ねる﹂

(櫓かけ)という。櫓を漕ぐとその櫓

の ぶ ら 下 が っ た 口 l プを﹁ノコリ﹂

動き、その船を進ませるために漕ぐ櫓

る﹂(ニシン漁の時期を草木の変化に従 ってわかりやすく表した言葉) (﹁ボラが跳ねればハゼも跳ねる﹂すな わち付和雷同という意味である)

かけがピンと張ってくるわけだが、

て波に乗って漕がなければ、櫓が船体

その櫓を漕ぐ試験の方法は奇妙で変わ っていた。

の外に外れてしまう。そうなると櫓を

は揺れて震える。櫓に適切な力を加え

昔、青山島には奇異な風習があ った 。 婿選びをする時は採取船に乗せて櫓

﹁花婿抜擢試験﹂はそのピンと張った 二本のロlプの聞に卵をはさんだまま

引っ張り上げる二本のロ lプはゆるみ

を漕がせてみた。試験をしたのである。

櫓 を 潜 が せ る の で あ る 。 櫓を漕ぐ時、 その卵が船底に落ちるか落ちないかを

木船には櫓を引っ張る ロ 1プが当然

2 8


2 9


pg︿鼠亡 Zのと

勺 、

のように無力で虚無な存在であるが、 抵抗することもできる存在である。多

り狂いはじめたらその海に和解を求め

島海地方の島の人々は海に出て海が怒

卵は落ちて割れる 。 櫓をよほどうまく、そして性根をす えて潜がなければ卵が櫓かけの二本の

入れない場合は抵抗する。やれるもん ならや ってみろ、あらん限りの 声 でぎ

る。しかし、その海がその和解を受け

ロlプ の聞に最後までは さまって いる ことは難しいのである。それこそ挨を バケツ 一杯ほど食べていない漁師では 海は死んでいるのではなく、生きて

合格できない ﹁花婿抜擢試験﹂ である 。

ゃあ ぎ ゃあとわめきたて、舵を大きく 取 って船を覆うような大きな波をかき

ふくよかで華やかでありながら生命力

多島海の女たちはハマナスのように

わけながら前に進む。

のできない不思議な存在である。大人

いる生命体のひとつであり、その内面 意識や思惟をそう簡単に把握すること しく静かにしていたのがいきなりつむ

が強靭で多産型である。

花は四季花(コウシンバラ) のよう に花びらや 花芯が大き くてふくよかで

込んでいっても枯れずに残っている。

酷寒の冬には身を切るような風を受け、 台風の時には家ほどの大きな波が飲み

しつぶされた花々が枯れることはない 。

漁師たちが鍬やシ ャベ ルで枝を刈 っ て網や杭をかけておくが、それらに押

毒虫に刺されたように痔き傷む 。

虫 の肌のような毛に包まれて いる。 桃 の産毛より太くて長く 、肌に触れると

としてそれに刺さると針に刺さったよ うに痛い。実を割ってみると種が松毛

囲には鋭い刺が針千本の透明な針や白 髪の ようにび っしりと生えている 。 そ の刺には 毒 がついており、花を摘もう

多島海沿岸の砂浜にはハマナスが群

じを曲げたかのようにつむじ風を起こ

がって咲いている。茎と葉と花弁の周 その海のつむじのためにどれほど多

して波を揺り動かして船をひっくり返 す 。 くの船と網を失い、どれほど多くの船 乗りが命を失 ったことか。 海は恐ろしい存在である。恐ろしい 存在の上に浮かんで漁をしたり、運送 をしたりする船乗りたちは、その恐ろ しい存在をなだめ親密に過ごしたがる。 それは海と人間の和解である。その 和 解 行 為 が ﹁ 海 神 祭 ﹂ である。 ﹁浦祭 ( ケ ッチェ ご あ る い は ﹁竜王祭 ﹂とも いう 。 それはか弱い人間たちの 一方的 な和解の要請行為であり、海との円満 な合意からなされるものではない 。全 ての海に祭杷を行う行為は ﹁ ゴマスリ﹂ そのものである 。 ﹁ゴマスリ﹂は恐くて怖ろしい存在へ にご機嫌をとる行為である。それは人 間の自分自身への慰めであるだけなの

一本のハマ ナ ス に 数 十 個 の 花 が つく。

ある 。薄い ピンクもあればオレンジ色 もあるのだが、華やかなかぎりである。

花が落ちた後には間違いなく小さなリ

だが、人聞は海と 一旦和解をしたのだ から、海が航海や漁を助けてくれると

ンゴほどの実が重そうに実をたれてい る 。 人聞は葦のようにか弱く 一つの水玉

信じるのである 。

3 0


﹁明砂十里(日本の 一里)ハマナスよ、 花が散 ったとて悲しむことなかれ﹂ サンドゥ歌に出てくるこの台詞は多

タイラギ、ホヤ、ウニ等々・ ・・、そ の微生物と貝を食べるために小魚が群

がり 、沖の大きな魚はその小さな魚を 追って、そしてまた、卵を産みにも来 る 。

引き潮が流れる。その流れは 二疋の道 筋を作 っている。それを水先という 。 全 ての島のあちこちの角にある水先に

島海に浮かぶ島の人々の頑丈な生命力 を物語っている。それはこの地の歴史 の無窮の未来の繁栄を象徴するもので あり、絶望を克服して 一生懸命生きて いこうとする希望を意味するものであ る 。

安吉夏の父親は名高い船乗りであった。 もちろん、ヰア吉夏も漁師である。彼の

乗り上げる ・・・﹂ 彼の父親の頭の中には海流図が常に 描かれていて、魚の種類と回避図が表 示されていた。さらに全ての漁場の日 付別の気象図も描かれていた。漁師た

からそれにつられて船を漕ぐと岩礁に

んな潮時を見てどちらの島に向か って 網を投げたらいい・・・ 。どこどこの 海の引き潮はどこどこの島の前を回る

話を懇切丁寧に語 って聞かせた。 ﹁どこどこの海で網を投げる時にはど

父親は年老いて漁をやめた後、その後 を継ぐ若い漁師たちに島の話や水先の

私の故郷徳島に住んでいる友だちの

そ って網を張る。水先にそ って移動す る魚を捕まえようと 。

星の数ほど多い島の周囲を満ち潮と

夜空の星のように散らば っている大 小様々な島、蓮の花のような島、花び らを閉じた蓮の花のつぼみのような島、 パッと咲いた蓮の大輪のような島、首 を持ち上げたオットセイのような島、 獅子や虎や狐や兎のような島、タニシ のような島、雌牛のような島、子牛の ような島、鶴のような島、軍艦のよう な島、木船のような島、人魚のような 島、柚か根(からたち)のようでもあ り、法螺目(のようでもある無人島、墨 をポトリと落としたような岩礁の群れ。 それらの島々が眺められる全羅道地 方の全ての沿岸の浜辺や島々の沿岸や 浦には灰色の干潟が広々と広がってい る。女性の豊かな管部を連想させるよ うな干潟には貝が所狭しと転が ってい る。テナガダコ、ムツゴロウ、カニ、

ちは魚の回避する道にそ って船を移動 させながら漁をする。漁師もまたその 魚たちと同じように回避するのだ。 彼の父親はどんなに真っ暗閣の中で もウロウロせず、釣糸に餌をつけて釣 竿をたれた。安吉夏もその父親から譲

り受けた海で海苔の養殖、ワカメの養 殖もし、タイラギも採る 。彼の息子も 漁師にな って海を見つめながら生きて

いくであろう。

3 1

ゴカイなどがゴロゴロしている。数え きれないほどたくさんの微生物が棲息 しており、それらが魚を呼び寄せる。 得良湾という湖のような海がある。 長興郡、宝城郡、高興郡半島と莞島郡 と康津郡の 一角が連なり面しているそ の海の干潟は黄金より貴重なものであ る。干潟の状態も深さもちょうど良く、 微生物が多いため員がとりわけ多い 。 いろいろな巻員、アサリ、灰員、赤貝、


ユンヨンイ

・ 予龍二 園光大学博物館長

地理的環境から、昔から活発

LIa占 国は海に固まれているという

ゴE 占 それは韓半島周辺にとどまらず、中園、

JHr﹁寸 な海洋活動を行ってきたが、 日本をはじめ東南アジアにいたる広い 海域におよんでいた。 古代には、海の道を通して中園、日 本と幅広い交流を持ち、統一新羅後期 アジアの海上貿易を起こし、大きな影

には張保皐が新羅│唐 │ 日本を結ぶ東 響力を持った。高麗時代にも活発な海 上活動が続き、船舶による輸送が発達 して、貢物を沿海航路を利用して運搬 した。朝鮮時代にも海上活動は活発に 展開され、船舶による輸送は一段と発 達した。 このように韓民族は長い歳月にわた り海を利用して独特な固有の海洋文化 を築いてきたのであるが、これに関連 した多くの文化遺産が陸地や海のいた る所に散在している。 一九七六年から 一九八四年にかけて 全羅南道新安の近海から中国元代の貿 易船である新安船と陶磁器をはじめと する大量の遺物が引き揚げられた。そ の中には韓国、中国、日本はもちろん のこと、東南アジアの品物まで含まれ

の ー -

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の F 勾 志 議

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志望主

3 2


ていて、陶磁史研究にとって大変貴重 から 一九八四年にかけては、全羅南道

な資料となった。その後、一九八三年 莞島付近の海底から十二 世紀の高 麗時 代の陶磁器運搬船と推定される莞島船 と生活陶磁器をはじめとする数多くの 遺物が引き揚げられた。 それでは、莞島付近の海底と新安近 海から引き揚げられたこれらの陶磁器 を中心に高一麗人たちの当時の暮らしぶ りと海上活動について見てみることに しよう。 初期青磁の宝庫、莞島海底遺物 莞島付近の海底から引き揚げられた 一九八

三年十 二月八日、莞島郡薬山面漁頭里

三万七O 一点に及ぶ陶磁器は、 前島付近の海でタイラギ貝の採取作業 を行っていた麗水に住む 一人の漁民に よって偶然発見され、この漁民の届け 出が発掘のきっかけとなった。同じ年 の十 二月十九日から 三十日まで、莞島 海底遺物に関する第一次の学術的な海 によって行われ、一九八四年三月十五

底発掘調査が文化財管理局発掘調査団 日から五月 二 一 二 日まで行われた第 二次

莞島周辺の海底から出土した陶磁器

の調査と合わせて 二回の調査により完 了した。 の大部分は青磁で、その他に黒褐紬土 器と灰黒色の向器の甑、壷などが若干 含まれていた。これらの青磁は、鉄画 技法の梅瓶と長鼓をのぞいて、そのほ とんどが文様のない青磁だった。これ らの文様のない青 一磁の紬色は緑青色、

3 3

緑褐色、暗緑色などで、その中でも緑 青色の青磁紬色が多く、一部は紬面が

引き揚げられた箱の中から 1 0個ないし 20 個ずつまとまって出てくる白磁の平鉢


長い年月の問海水に浸っていたため、

混じった 耐 火土を四、五カ所で重ね合 わせて焼いたものがほとんどで、碗の 場合に は重 ねずに匝鉢に入れて焼いた ものもあっ た が、平鉢 、皿 類は 、大部 分重ねて焼いた痕跡が残っていた。 青磁の糸底の形は平鉢、 皿類の場合 、

た。焼き方 (矯造)としては、粘土が

青磁の器壁は大体のところ薄く、硬 い音がして、糸底は厚いものが多かっ

変色していた。これらの青磁の紬薬は 胎土に薄く施紬され、細かい紬氷裂が 入っており、胎 土 はそのほとんどが灰 白色 を帯びていた。 胎 土が露出してい る場合には胎土面が鉄呈色を帯びてい る例もあったが、大部分は砂などの雑

(下) r 新安船」が引き揚げられた新安近海の全景と海軍調査員(ダイバー)たちの作業姿

物が混じ ったきめの粗いもので、その ため紬面がざらざらしているものが多 かった。

引き揚げられた陶磁器の中の ( 左上 ) r 青釜鉄画牡丹紋梅瓶」 、高さ 21. 0cm、(右上 ) r 青釜陰

糸底の上下の部分を削 って、中ほどを 竹の節のように角張らせているものが 大部分で、糸底の削り方は器ごとに異 なり、糸底の内円の直径も 一定してい なかった。

5cm 刻運機紋広口瓶」、高さ 27.

ー の

メ ﹂Z ︿O Z -

3 4


梅瓶、広口瓶、査の糸底は、白く細 実が、莞島周辺の海から引き揚げられ

産の質の低い青磁であったという新事

粗い胎土と紬薬を使 って 作られた 地方 れる。

の海で座礁して沈没したものと推定さ

造船で、構造的には 一九七五年に雁鴨

船は、わが国の沿岸運航用の小型の木

に向か って聞いており、胴体が S字型 の曲線を描くとともに器壁は薄く、紬

磁の平鉢、 皿類は、口部が広く、外側

青磁の中でその大部分を占めている青

莞島周辺の海底から引き揚げられた

の茶碗用で、特別に製作されたものと

点にも達する青磁の碗は茶を飲むため

の使われ方がよくわかる。さらに、千

る皿からなり、生活用品としての青磁

ご飯と汁ものを盛る平鉢とおかずを盛

ていたことを示している。すなわち、

近の海で漁をしていた漁民の網に青磁

新安海底遺物の発掘は、 一九七五年 五月に全羅南道新安郡曽島面防築里付

て注目されている。

れていた高麗時代の木造船の 一つとし

早くから海上運搬手段として広く使わ

型韓船へとつながる基本的な資料であ る 。 三方が海に固まれているわが国で

が二万点余り、青磁皿類が 一万点ほど 一 ていて、それが発達して規模が大きく あり、平鉢二点と皿 一点で 一組 となっ なったものと推定され 、朝鮮時代の小

池の底から発見された木造船とよく似

かい砂を 底 に当てて焼いており、糸底

ったのである。

た陶磁器を分析した結果、新たにわか

引き揚げられたものの中で青磁平鉢

ているものとそうでないものの 両方が

の厚さは薄い方だった。これらの青磁 平鉢、 皿類は糸底の裏側まで施紬され

色は緑褐色のものが施紬されていた。

化における陶磁器の必要性 や食器セッ トの組み合わせ方を知るための資料が

瓶など六点の遺物が引っかかって引き

見られた。

した青磁平鉢、皿などまで合わせると 三万二千点 以上に 上 る。その 他 の器形 糸底は灰白色の耐火土のものを薄くつ

得られたのは、大きな収穫の一つだっ

一点の中の三万点以上に上った。破損

このように、当時の社会の食生活文

その重要性がある

ているこれらの質の低い青磁は、全羅

生活用品の青五議だという点に

これらの青磁の器形は大部分が平鉢 と皿、碗で、引き揚げられた三万七 O

としては、百 三点の青磁広口瓶と十 一

南道海南郡山 二面珍山里 一帯の海岸周

た 。 莞島の海底から引き揚げられた木造

向磁器は平鉢、 皿 類 と い っ た そ の 当 時 の

O片 に上り、当時の船体の原形を復元 するのに充分な量の資料が集められた 。

が、引き揚げられた船体の破片は七 二

は六 ・六メートルで、甲板より上の部 分は害虫により完全に侵食されていた

の船体の長さは 二八 ・四メートル、幅

調査の結果 、 引き揚げられた新安船

な協力を受けて行われた。

文化財管理局新安海底発掘調査団によ って実施され、海軍の支援団の積極的

四年九月まで 、全部で 十 四にわたって

的な調 査は一 九七六年十月から 一九八

通じて発掘の必要性が確認され、本格

揚げられたことをきっかけに始められ た。それ以降 、何回かにわたる調査を

の証拠│新安海底遺跡

東北アジア 三国 の 活 発 な 海 洋 活 動

点 の 梅 瓶 、 そ し て 三点の長鼓と油瓶、 壷、鉢、杯などで、種類としては平 凡 なものである。 った。この船は海 南 から南海岸方面に

辺の窯で製造されたことが明らかにな

思われる。

莞島付近の海底から引き揚げられた

向けて航路をと っていたが、莞島周辺

莞島付近の海底から引き揚げられた

けて焼いてあり、胎土に雑物が混じっ

陶磁器が高麗陶磁史にとって非常に貴 重な資料であるのは、単に引き揚げら

のではなく、高麗青磁において初期の

れた問磁器の量が 三 万点以上にもなる というその莫大な量的側面だけにある ものとされる緑青磁と似た特徴を持つ 青磁がその大部分を占め、また 、青磁 以外にも黒褐紬土器と灰青色陶器が含 まれていたからである。そして、それ までに発見された大部分の青磁が、高 麗の古墳から出土した死者とともに棺 に入れられた副葬品の青磁であったの に比 べ、これらの陶器は平鉢、皿類と いったその当時の生活用品の青磁だと いう点にその重要性がある。 特に、これらの陶磁器を通して 、 九 世紀から十世紀にかけて作られたとい

切られた船倉の中から引き揚げられた。

発掘遺物は全部で 二二 、0 0七点に 達し 、 これらの遺物は 七 つの隔壁で 仕

この新安船は、約 二0 0トン程度の木 造船で、莫大な量の品物が積み込まれ

3 5

う緑青磁についての従来の見解が誤っ たものであり、仁 川景西洞の窯と海南 珍山里の窯に代表される緑青磁が、十 二世紀の前半頃には海岸近くのきめの

黒褐紬陶器壷


高見陶磁文にとって非常に貴重な資料であるのは、 単に引き揚げられた陶磁器のその美大な量的

側面だけにあるのではなく、 高麗青磁において初期の ものとされる緑青磁と似た特徴を持つ青磁がその また、 青磁以タトにも黒褐粘土器と 大部分を占め、

反青色陶器が含まれていたからである

生活用品までも含めた商品と、さらに 船員たちの所持品も少数ながら引き揚 げられ た。 引き揚げられた中国陶磁器の総数は 二O、六六 一点で、その中で青磁が 一 二、三五九点で一番数量が多く、その

の原木 で 、 その 他 に金属工芸 品、石製 品、木製漆器、生薬の材料など、日常

ていた。 それらの積み荷の中 心 は中国の陶磁 器と銅銭、そして東南アジア産の紫檀

莞島付近の海底から引き揚げられた陶磁器が

次が青白磁と白磁で五、 三O三点に達 した。青磁は龍泉窯系の青磁で、青白 磁と白磁は景徳鎮窯系のものが大部分 を占めていた。青函白磁は一点も発見 されなかった。その 他 に、天目と鈎窯 系の陶磁器が六九四点、また、陶器壷 (雑紬壷)が二、三O五点に達した。こ れらの陶器は四耳壷が主流を 占め、生 活用品などを入れる容器として使われ たと推定される。実際にいくつかの壷 の中からは胡淑や墨、果物の種などが

(左上から時計四りに)

龍泉窯産 ;r 青白蜜小瓶」

て使われた)、高さ 2 5 . 7c m、

(線香立てとして使われ 4. 1cm、景徳鎮 た)、高さ 1

窯産 ;r 青釜縞紋壷 J (酒瓶

として使われた)、高さ

鋳字されている青銅錘も確認された。 慶天路は元 代 の地名で、 現在の漸江省 寧波港の昔の名前である。 木製品としては、貿易製品の包装、 運搬用に用いられた木箱と木備などが

発見された。 一般商品は主に金属製品(七二九点) で、香炉や瓶などの銀製品と銅鏡 、急 須、杯、秤の分銅、厨房器具などの日 常生活に必要な品物がその多くを占め ていた。それと同時に、慶天路の字が

と中国の銅銭の数量は二八 ト ンを超え たが、五銭銭、開元通宝をはじめとし て元代の至大通宝にいたるまで四十数 種類の貨幣が発見された。 このような 二万点余りに上る遺物が、

石製品は全部で四三点を数え、硯と 茶を挽くための小型の石臼などがあっ た。船底から引き揚げられた紫檀の木

発見され、その 他 には胡械をはじめと して様々な香料と香木が引き揚げられ た 。

「青妥魚、 龍飾瓶 J (花瓶とし

3 0. 4c m、龍泉窯産

3 6


当時の海上運送の規模を物語るもので あるのはもちろんのこと、経済的な交 流の裏付けともなるものである 。 その 上、遺物の大部分が 中国元代の製品で あるとはいえ、高麗青磁など七点の高 麗遺物も確認され、下駄や万の鍔など の日本の遺物も 二十点ほどあ って、当 時の東北アジア三国の交流の様子を知

代理業者から構成されていた。 中国と日本を結ぶ航路としてはかつ

新安の沈没船から引き揚げられた陶 磁器は、 一つの遺跡から発掘された一

世紀から十四世紀にかけての七点の高 麗象阪青磁が引き揚げられており、こ

行われていたことを明らかにする代表 的な発掘作業の 一つであった。

沿 って北上し、礼成江に到着するルー ト が取られ、高麗からは逆方向の航路 を取 った。新安の沈没船は、このよう な十四世紀前半の高麗と中国問の海上 交通路を通して、当時、活発な活動が

十一世紀後半からは、高麗と宋との 海上航路としては中国の明州(寧波の 古称)、泉州などを出航して黒山島を過 ぎ、西南海岸の島々、そして海岸線に

を代表する中国陶磁器の一大博物館で あった。

磁をはじめとするあらゆる種類の、そ してありとあらゆる形の陶磁器が網羅 されており、十四世紀前半という時代

括遺物としては類例のない大発見であ り、これらの陶磁器の中には青磁と白

の貿易船が高麗にも寄港した可能性の あることを示している。

て三 つの航路が存在したが、そのうち の一つは黄海を迂回する北路、また一 つは南へと向かって沖縄を経由する南 島路だった。しかし、中世の貿易船の 多くは、東シナ海と黄海をわたるいわ ゆる南路を主に利用して いた。これは、 揚子江 下流から舟山列島を経て、韓国

高麗と宋の聞の貿易船も似たような海 域を航海し、舟山列島から黒山島へと 直行した後に、西海沿岸航路へと進ん である。これは、宋の﹃宣和泰使高麗

の済 州島の南側を通過した後に、日本 の九州の五島列島を目指す航路である。

また、陶磁器をはじめとして引き揚 げられた品物の量が莫大で、積み込ま れた商品の量としては非常に大量であ 図経﹄の記録によ っても確かめられる。 新安の沈没船は中国の船で、日本を 目指して航海中だった貿易船と推定さ

る上で重要な糸口を与えるものだ った 。 新安船は龍骨を備えた尖底形をして おり 、隔壁を持つ構造の中国の 船舶で あると推定される。

り、引き揚げ られた陶磁器の 中には同 じ器形を持つものが少なくなか った。 さらに、すべて無傷の新品で、同じ種

れ、この船舶が高麗を経由して日本へ と航海していたかどうかについては、 それを示す確かな証拠がない。ただ、 高麗青磁の存在と中世の航路から推し て考えるのみである。なぜならば、二

' a (下)莞島の漁頭里の海「莞島船」の引き 揚げ付近の全崇

万点を超える中国陶磁器と 一緒に十三 メ ﹂Z ︿ OZE

(上)作業船で調査区画を話し合っている

類の器ごとに十個、あるいは 二十 個ず つ重ねられ、組で縛って木箱に入れら れた状態で発見された。 新安船からは銅銭の束や、その他の 品物に付けられていた多くの木牌が引 き揚げられた。木牌には、その表と裏 に所有者の名前をはじめとして、品物 の名前と数量、年月 日が 墨 で記されて いたが、その名はすべて日本人のもの

3 7

だ った 新安の沈没船は中国の寧波港を出航 して日本ヘ向かっていた貿易船で、こ の船に積まれていた莫大な量の商品は、 陶磁器や銅銭をはじめとして大部分が 中国製品で、その他に紫檀の木などの 東南アジア産の品物が含まれており、 高麗青磁と日本の遺物も積み込まれて いた。木牌によれば、 これ らの商品を 購入した荷 主 たちは、日本人と現地の

様子


ONTHEROAD

多島海の秘め られ た 宝石 寸 士 ァ 自 Y "'n 4 E! 自 1 -缶コーく-o】J 'e:正面才 I

A

チェソン ミン

. 窪星民

『ハンギョレ新聞』記者

3 8


t1 、}春期の少女が日記に書く﹁未

BZ

住む人々にとって島は常に憧

、 -知の世界﹂のように、陸地に

TE , J

れの対象である。たやすく接近できな

いため、島ではいつも不思議なことが

起こっているように感じられるからで

ある。それは我々の枠にはまった日常

生活を壊してくれる清涼飲料水にもな

水平線の向こう、遥か遠くにある島

り得るであろう。

は行ってみたいという心情をかき立て

る。そんな島には異国的な情緒があふ

(下)幻想的な海上ドライブコー・ スで脚光を浴

洗い流してくれる。霧のかかった水平

の胸にたまった煤煙のすすをきれいに

ませてくれる。青い海原を通り抜け、 緑陰にとされて出てくる空気は都会人

きない自然の交響楽となって耳を楽し

拍子を合わせ、陸地では聞くことので

が響きわたってくる。それは波の音に

からはすこぶる騒がしい山鳥の鳴き声

れている。島を包んでいる常緑樹の森

びている可居島

(上)水平線上の可居島、その前を「仁川

線をさまよっている船を低い卜l ンで

3 9

国の青島」間の旅客船が通っている


。zom8mzφ 一 豆

Z

。 たやすく接近できないため、

陸地に住む人々にとって島は常に憧れの 対象である

くにあるよ島は行ってみたい

。 水平線の

島ではいつも不思議なことが起こっている

遥か也市

ように感じられるからである 向こう、 という心情をかき、工てる 。 そんな島には

島には陸地とは違った暮らしと文化

ではの温かな情景である。

呼び寄せる灯台の霧笛の音も、島なら

う。﹁島の中の島﹂済州島の牛島がそん

存されている島のひとつを訪ねてみよ

それなりに自然の風光と人情がよく保

韓国の島の多様な姿を描きながら、

島の中の島│済州島の牛島

の所から養殖物を持ち込むことはない

いほどあふれでいるのであるから、別

を海の外で売りさばかなければならな

は全て自然産である。自然産の大部分

民宿などで味わうことのできる海産物

そして各種魚類・・・。牛島の食堂や

焼き上がったさざえの殻の中に箸を突

またおぼんをかぶせて焼くものである。

アルミのおぽんの上に並べ、その上に

で海女が取ってきたばかりのさざえを

ができる。さざえの壷焼きは天津里沖

き と 巻 貝 と う に の スlプ を あ げ る こ と

異国的な情緒があふれでいる

がある。島をすっぽり包んでいる情緒

な所である。牛島は済州島の東北の方

中には黒っぽい醤油のような色をした

は孤寂感である。陸地から隔離され、

汁が残るが、これは胃をさっぱりさせ

あまりにも寂しい島の人々はいつなん

上げた自然の産物を現地で活きのいい

っ込んで中身を取り出し、それを塩に

取り立ての状態で味わえるということ

つけて食べる。この時、さざえの殻の 四O 分 程 度 か か る 距 離 に あ る 。 済 州 島

るのに効果があるという。

のである。化学調味料と西洋式のファ

の六つの小島の中で一番大きな島であ

だけでも牛島旅行は貴重な体験になる

ー ス ト フl ド の 時 代 に 清 浄 な 海 が 育 て

り、済州島の物産を代表することので

であろう。牛島だけで味わうことので

ついていて、済州島の城山浦から船で

は客に豊富な海産物でその人情を施す。

原始の自然と原初的な人情、島の人々

きる海産物が最も豊富にとれる。あわ

きる特別料理としては、さざえの壷焼

角にちょうど胸に抱かれた子のように

そんな島に行くと陸地では感じ取るこ

び、さざえ、うに、わかめ、ひじき、

卵を取り出し、コドン(巻貝一牛島で

巻 員 と う に の スlプ は 黄 色 い う に の

とのできない完壁な自由を味わえるの である。

は汚れを知らない人の心が残っている。

(最上段から)牛島の名物さざえの壷焼き、牛島だけで味わえるポマルソンゲ汁は巻貝の 卵とウニの卵を入れて炊いたワカメ汁、牛島の西;賓白沙海水浴場は珊瑚の粒でできた砂な ので、珊瑚が育ちながら白沙場がどんどん広がっていく。(下)牛島灯台

どきでも客を歓迎する。そのため島に

¥

4 0


の全地域から見ることのできる光景

の大きさである。﹁夜航漁帆﹂は牛島

牛島八景のうち﹁天津観山﹂は牛島

一 群を指しての風景である。六月から七 牛島八景にはこの外に、﹁昼間明月 、 ﹂ 夜航漁帆﹂、﹁地頭青沙﹂、 月にかけて砂浜から見る夜間のひしこ ﹁東岸鯨窟﹂、 ﹁

のである。これを牛島八景の﹁西浜白

面天津里の浦から眺める漢撃山の美し

﹁前浦望島﹂、﹁後海石壁﹂があげられ

が育つように砂粒も大きくなるという

っさりしていて、何とも言えない味わ

みると済州島の中からよりは牛島ほど

さを指していう名称である。そうして

ている。﹁昼間明月 ﹂ は 島 の 南 側 の 東 天津港の右にある海蝕洞窟で、昼間で

で見ることができるところである。こ

﹁地頭青沙 ﹂ は 牛 島 面 牛 島 峰 ( 海 抜 一 三 二メ ー ト ル ) か ら 牛 島 の 全 景 が 一目

付けられていることからも推察するこ

いである。特に活きのいい自然産を取

の距離をおいてはじめて霧のかかった

こは青い砂が有名である。 ﹁ 前浦望島﹂

とができる。

り立ての段階で炊きあげるということ

漢撃山の絵のような姿をきちんと眺め

る。﹁東岸鯨窟﹂は牛島面チョイル里

も大きくて明るい月が見られる所であ

は牛島のソグアン里沖から眺められる

は ﹁ ポ マ ル ﹂ と い う ) と 一緒 に わ か め

もあって食べた後の感じも爽快そのも

ることができるのだということがわか

にある﹁鼻の穴﹂のような形をした洞

で、かがり火をたいて漁をする漁船の

﹁牛島を見ずして済州島を語るなか る。牛島にはまた、韓国で唯一の﹁育

窟で、東の丘にあり、鯨が住めるほど

沙﹂という。

れ﹂という言葉がある。牛島は風景か っている海水浴場﹂がある。珊瑚の粒

のスlプ で 炊 く も の で あ る 。 と て も あ

らしても済州島の旅程から外すことの がたまってできた砂浜なのだが、珊瑚

る 。

いわし漁の風景がいちばん有名であ

できない所である。それはこの小さな 0mmOmzφ亘 Z

のである。

島の中に﹁牛島八景﹂という名称まで

工 。

4 1

(下)可居島里 1区の村

(上)可居島里 1区の海岸の美しい景色、


. .

石と絶壁が見事な調 和 をなして海に沈

島の美しい全景である。﹁後海石壁﹂は 牛島の裏側の海にぽつんと構えている

最後に牛島で最も素晴らしいのが日

水 平 線 の 向 こ う に あ る 未 知 の 世 界 、 昔は ﹁月の国に行く より遠くて未国に行くよりも時間がかかる ﹂

J

んでいる風景をいう。

言われた島のひとつが近項ぐんと我々の身近になって

r

の出である 。 よく城 山 の日出峰から見

きた 。 ﹁島流しの島﹂ と 言 わ れ て い た 可 居 島 が 昨 年 の 夏 に

F

る日の出が最も美しいと言われている

ィ ~

が、それは日の出自体よりも日出峰の

. .

快 速 船 の 抗 路 が で き て か ら ﹁幻想的な海のドライブ

/

. . , ,

"

周辺の景観によるところが大きい 。 写 真作家たちは口を揃えて、日の出だけ

F

コース﹂ として脚九を浴、びている

を見るなら、牛島の牛島峰から見る景

~.

かし、これは文章だけではうまく説明

観の右に出るところはないと言う。し

t

& ・

nzomMOmZ の豆三

〆 す

r ¥

. ,

な岩島は鴎と 鵜の楽園である

( 上)可居島周辺に ある 「コムンヨ J という小さ

飛禽 一都草」聞の架け橋 、 この 橋 ( 左下から ) r を越えると大海 で ある 「黒山海」に入る 。 「 木

浦一黒山海」を行き来する快速船。可居島で捕 れる自 然の農魚 (鰭.スズキ )

4 2


T

昔は﹁月の固に行くより遠くて米国に

黒山・可居島 水平線の向こうにある未知の世界、

水平線 の向こうの﹁住みよい島﹂ │

るべきである。

できないので、直接行 って確かめて見

d

一 戸持、 &

ぷ 十

、 、 角

行くよりも時間がかかる﹂と言われた

想的な海のドライブコl ス﹂として脚

しの島﹂と言われていた可居島が昨年 幻 の夏に快速船の航路ができてから ﹁

﹁島流 の島を人々は可居島と名付けた。

都草島に到達する。二つの島を結ぶ海 の橋がまずはじめに目に入ってくる名

出航する快速船は三O分後には飛禽・

を体験させてくれる。木浦港を朝早く

路が ﹁ 内海 ﹂ と﹁大きな海(黒山海ご には っきり区分されていて、多様な海

旅行とも違 った特色を持 っている 。航

黒山 の海に 入ります 。 ﹂ 黒山 の海は西南海の端にあり、西海

様は下の階にお降り 下さい 。 これから

送が流れてくる。﹁船酔いをなさるお客

海の橋を抜けると次のような船内放

行き来する 。 可居島旅行はどの島への

に一度快速船が 一気に突 っ走りながら

ればならなか ったこの島を、今は一日

平線を見ながら何日もかけて行かなけ

トル、木浦港を出発して船で四1五時 間ほどのところにある 。 昔 は 四 方 に 水

の角を回るたびに少しずつ近づいてく

ば って陸 地 の人 々を迎えてくれる 。島

多島海新安郡の島々が大小様々に散ら

がいわゆる﹁内海﹂である。ここまで

所である 。木浦港からこの海の橋まで

し、それは風 船(帆 かけ船)に乗 って

ながる航路の中で特別に ﹁ 険しい海 ﹂ の代名詞のように呼ばれてきた 。 しか

と南海の海風と波涛がぶつかり合う所 である。そのため昔か ら韓国の島につ

る真っ 白な灯台が妙に懐かしく感じら れる 。

光を浴びているのである。 木浦から西南の方に一四五キロメー

4

品』

凶 ,, ー

、 、

島のひとつが近頃、ぐんと我々の身近に な ってきた。行く道すがら帰らぬ人に

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なるかも知れないが、い ったん着いて しまえば、人の住みよい所、それでそ

4 3

、 、

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いのひどい人でなければ、馬に乗って 青い海原を疾走するような楽しみが味

それだけに、これらの島々には原始 の自然と原初的な人情が生きている。 苔島は自然産の石苔(岩海苔)が多か

居島、満財島が三0分間隔で西南の方 に構えている。この島々は昔は黒島か ら 二日に一度ずつボンボン船に乗った り、島の住民が自分の船(漁船)に乗 って行くしかなかったため、一般の人 が訪ねるということは夢であった。ま た、朝鮮王朝時代の末期に乙巳保護条

島流しにされた朝鮮王朝時代の話であ る。時速七0キロメートルの快速船で 突っ走る近頃では、むしろこの大きな 海の野生は旅行に若干の冒険心と緊張 感を与える長所として作用する。船酔

わえる。 黒山の海はやはり大きな海としての 荘厳な魅力を持っている。藍色の海と 水平線がぶつかる姿が何より胸にじん とくる。それは狭い土地で地平線とい うものがない我々に小さな心の安らぎ ったので、そんな名が付けられ、さわ らが波市(海上で関かれる魚市場)が

約に反対して上訴した勉奄 ・雀益鉱先 生が黒山島に移される前、島流しの第 一歩を踏んだ所が可居島である。

を与えてくれる壮観である。その藍色 の水平線は時折、宝石のような小さな

黒山の海はやはり大さな海としての荘議な魅力を持って いる。 藍 色 の 海 と 水 平 線 ・ が ぶ つ か る 姿 が 何 よ り 胸にじんとくる。 そ れ は 狭 い 土 地 で 地 平 線 と い う も の が

の人々が純度一 OO%の空気を思いつ きり吸いにやって来る。

ていた。可居島は苔島群島と満財島の 間にあり、 三島の生活圏の 中心的な役 割をしており、今も観光客や釣り人を はじめとする公害に嫌気がさした都会

る。満財島は今まで韓国の有人島の中 でいちばん行きづらい所として知られ

聞かれるほどたくさんとれる 。 この航 路のいちばん最後にある満財島はその 名の通り財物をあふれるほど抱えてい る島である。公害とは無関係の自然と 海産物があふれでいるという意味であ

ない我々に小さな心の、安ら主を与えてくれる 島を抱えていたりする。飛禽島を過ぎ てから二O分、ぐらいすると、遠く右手 の水平線に現れる七発島は絶壁の頭の てっぺんに白い灯台をのせている灯台 守の島であるため、ここを通る人々を 一度は立ち寄ってみたくなるような気 持ちにさせる 。 また、 青い 画用紙の端 に時折 、顔を出す魚釣り舟と貨物船の ゆっくりとした動きがなんとも平和に 近づいてくる。 黒山の海の航路は母島の黒 山島と子 島の紅島を過ぎて、﹁未知の世界﹂に入 る。上・中・下苔島(苔島群島)と可

。zom8mZや豆一Z

可居島里 2区の海岸の全景

4 4


F RJjj 、 二 J

純度の高い韓国的美意識の世界

いる。一つは文人、ソンビ、

L I二 一国の絵は二元的構造を見せて

ゴE 占

いわゆるフォ ー クソングがあるように

は一般の市民層に好まれ た装飾用の彩 色画である。もちろん、彩色画におい

ったり、願い事を込めるといった目的

の民画のように芸術性が高く、また絵 画的完成度も高いくて様式の多彩な例 は希である。それは単に生活空間を飾

フォークア ートとしての民間の絵があ ったということである。しかし、韓国

ても宮中装飾や王の行幸などに関する

性に局限されておらず、造形美と芸術 性において も 正統函の世界に決して劣

﹂ ドrη 寸 土大夫など、主に支配層が好 んでいた文人画系列であり、もう一つ

支配層のイデオロギ ーと符合した絵が 多いが 、 一般的には文人 画 の観念的か

っていないので、専 門家たちはもちろ ん一般の人々にも日増しに大きな関心

三日1六月三O 日)を開催 し ており、 再び韓国民画の精髄を見る ことができ る機会になっている。 湖巌美術館はすでに一九八三年に ﹃民画傑作展﹄を催すことで、民画のブ ー ムを呼び起こしたことがあり、民画 に対する世間の関心を高めたが、今回、

を呼び起こ し ているのであ る。 このよ うな状況の下、民画に関する圏内最大 のコレクション規模を誇る湖巌美術館 が﹃夢と愛、魅惑の韓国民画展﹄(四月

「金剛山図」 、紙に水墨淡彩、126. 2x56.0cm

っ詩書画一致的な世界観に比べ、彩色 画は割に易しいので庶民とさらに身近

だったのが事実である。その中で代表 的なものが民画である。 民画という言葉は日本の著名な美術 史家かつ文 化評論家であり、著述家で もあった 柳宗悦が付けた名前で、その 意味は民間で広く通用し、民間に よ っ て描かれ、楽しまれた純粋な民間の絵 であるという意味である。もちろん民 画は韓国にだけあった様式ではない。 世界のどの国においても 純粋なアマチ ュア様式としての民画的な絵はあり、

4 5

ソウル大学東洋画科教授 画家

. 金柄 宗

本 包

と愛 園 民画

惑の 見て 『面画面画面面画』


瓦非

f、 南牧ナ史

石裂

J

札蒼 患 や

ラー として人 気 を集めて販売されるま でに至ったことがある。しかし、これ

一 . ,

再び秘蔵とされてきた個人の所蔵品も 含めて大々的に公開することで、再び

美術史学者であった。彼の異議という のは次の通りである。もちろん日本と

に関して私はほろ苦い思い 出 が一つあ る。 、 私はドイ ツのベ ル 一九八九年の 夏 リ ン市立美術館の後援で講演を行う機 会があった。題目は﹁韓 国美術に現れ た造形的特色二両句麗壁画から朝鮮民

性にあると説明しな がら 、関連 スラ イ ド三O O点あまりを見せた。特に朝鮮 民画の造形的優秀性を強調し説明した が、講演の後、異議が提起された 。 白 髪 まじ りの老学者からであったが 、彼 は生涯を東洋美術研究に 費やし てきた

大きな関心を呼び起 こし ている。事実、 柳 宗 悦 (一八八 九i 一九六 一)が朝鮮 民画を称賛して以来、日本では朝鮮民 画の収集ブl ムが起こり、数えられな いほど 多 くの韓 国 の傑 作 民画の数々が 日本に搬出された 。 また李朝の民画と

韓国は 地理的にとても近 く、 一つの国 のようであり、そうすると金教授が日 いう分厚い上下巻の画集まで発刊され、

画まで﹂であ った。私はその講演で繰 国芸術の特 質が楽天 性と単純性と譜諺

七0年代に世界的な 美術ステディ lセ

と言う 前提の下に、先ほど韓国の 美術 として紹介した民画類は日本のもので はないのかという反論であった。明ら かに日本の 美術を持 って、韓国のもの であると紹介するというのは大きな間 違いであると 言 うのであった。そして その場で日本の講談社から出版された ﹃ 李朝 の民画﹄ と いう本を差 し出した 。 その本は日本の著名な出版社から日本

本の 美術を紹介する のも無理はないが

( 上) 申在銭 、 「 鵠と 虎 」 、紙 に彩色 、 96. 8x56. 9cm、 ( 下)湖巌ギ ャラリーの展示場全景

4 6


の学者の解説と注釈を入れて 出版され た 日本の本ではないかというのであっ た。彼は李朝というのを日本の幕府体 制か王朝か何かの名称であると理解し ていたのである。私は説明にとまどい 困り果ててしまった。かろうじて大英 博物館にあるエジプトの昔の 美術を英 国人の美術だと 言えないし、私がたつ た今お見せした民画は日本が韓国を侵 略して、奪っていったものに過ぎない というふうに説明しながら、それらは 明らかに韓国の美術であると再び強調 するしかなかった。それでも彼は釈然 としない表情であった。 このように韓国美術の精髄としての 朝鮮民画の傑作の数々が日本の美術だ と思われている事例が時折出てくるた びに、自らの美しい純画(韓国の純粋 な絵画)を認識し、守ることのできな かったことに対する 抑え きれない悲哀 をたっぷり感じさせられるのである。 事実、私が大学に通っていたときでも、 民画はおもしろい絵、おかしな絵とい う程度でしか認識されていなかったし、 正規の美術史の講義のようなところで 扱われたことはなかった。いつも文人 画中心、 山水画中 心 、 士大夫絵画中 心 の正史を主にした授業であった。もち ろん、韓国伝統画の中には独特で深み のある韓国美術の流れをくみ取ること

4 7

はできるが、 中国 の影響 を全く受けず、 自然に発生し、花を咲かせてきた朝鮮 民画の優秀性は決して見過ごすことは できない。 そこには韓国民族の心がそのまま溶 け込んでいるからである。伝統家屋の 構造や生活様式とも 一致しながら多様

「チェ ッコリ(本や文房具を描いた絵)八曲扉 Jの中から、紙に彩色、各 52.2X31.0cm


な目的性と様式を持っており、これは 世界の絵画史に類例がないくらい、鑑 賞と効用というこつの側面を同時に満 たしているのである。特に優秀な韓国 の格紙によって耐久性の優れた画面で できており、保存の側面においても素 晴らしいものである。しかし、何より も画家という私の立場からはその技法 の多彩さに対して驚かざるを得ないの である。 あるものはとても原始的かつ単純明 快なものがあるかと思うと 、 チエツコ リ(本または文房具を描いた絵)や十 長生(長寿して死なないという十種の もの)のような細密でありながら着色 力の高いものもある。気の抜けたよう な花鳥や山水画系列があるかと思うと、 亀、鶴、虎、鵠、犬など、多様であり ながら象徴性を持った動物の絵は、動 物を通じて韓国人の心情を明瞭に表し ているとも言える。 一般的な民画である虎の絵にしても、 韓国美術の特徴として捉えられている

( 下)r 文字図八曲扉」の中から 、「 義J ( 左) 、

90 . 5X270.5cm

「 礼 J( 右) 、 紙に彩色、各 55. 0X44. 0cm

今回の出品作からも花鳥、山水、動 物、人物、神仙、チエツコリ、文字な

いわゆる外部からの絵画史的影響を 受けていない自然発生的な現代的性を 持っているのである 。 西欧の現代絵画 の様々な傾向が余すところなく盛り込 められている。超現実主義、極事実主 義 、 表 現 主 義 、 抽象主義、原始主義、 文字絵画等々。

なし。

平和でユーモラスである。攻撃性や敵 意は 全 く見あたらない 。 今回、出品された 山 水 画 系 列 の 作 品 中、﹃金剛山図﹄や﹃天下八景図﹄、﹃蓮 鴨図﹄のような作品はほとんどミニマ ルな﹁現代絵画﹂と 言 っても過言では

じみ出ている。勇猛で恐ろしい虎と鵠 が話を交わしている場面は この上 なく

譜諺性と暖かい情緒がそのまま表れて いる 。 鋭い牙をあらわにじているが、 攻撃性よりは親しみを感じさせる虎は そのどんぐり眼や姿勢などから百獣の 王という威容よりは親近感がもつとに

( 上)r 日月五峰図六幽扉」、紙に彩色、

4 8


どの様々な傾向からそのような現代性 が如実に表れている。技法面において

成就を同時にはかつて作られたという

家を知る ことができないという 点が美

描いた場合が多く、匿名性によ って作

もちろん、同じ内容を同語反復的に

ことに価値があるのである 。

あるかと思えば、淡々とした水墨系列、

も思い切った省略と再構成的な技法が 濃彩系列、水墨淡彩系列などが共に出

術史的評価においては常に弱点として

かれた絵が多く、しかも必要に応じて

あげられる。例えば、注文によって描

描かれたので、純粋な鑑賞用ではない

て松の木が登場する傑作﹃虎鵠図﹄は 日本の講談社から出た画集に収録され

品されている。特に母子虎と鵠、そし

ている﹃虎鵠図﹄と共に高い水準の造

という点も評価にマイナスを与える項 目の 一つである。それにもかかわらず、

行き過ぎではないようである。純度の

朝鮮民画の世界は徹底して現実性に

高い民族的絵画様式として遜色 のない

形的な優秀性を見せている。

が滝を上る絵、忠孝を盛り込んだ絵、

ものである。

た芸術的完成度はどんなに強調しても

富貴を願う絵、長寿を願う絵、夫婦が

ける韓国民画の再評価がより高い密度

朝鮮民画のその奇抜な想像力と卓越し

琴悲相和するのを願う絵、福を願う絵 等々、どれも人間の普遍的な所望と願

を持って行われることを期待する。ま

その美意識をおいているという点にも

いを込めて絵画で表現しているのであ

う一つの特徴がある。登竜のための鯉

る。そこにはほのぼのと暖かい人々の

た、正規の美術史から抜け落ちること

されることを期待するものである。

今回の展示をきっかけに美術史にお

る。韓国民族の生活哲学と感性が込め

生き様と庶民たちの話が込められてい

なく、その優れた芸術的価値が専門家 にはもちろん 一般の人々にも深く認識 られているのである。そうありながら も実用性だけを念頭に置かず、芸術的

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4 9


国立中央博物館学芸研究官

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刃 一川 ﹀ωCE川 ﹀Z Z﹀ ↓ 一OZ﹀﹁ ﹁ ﹀穴O E川

イウキンポク

・. ‘. . . ノ、

発掘というのも時流に乗るもののよ うで、 伝染 効果も また かなりのものと

るのかさえ推測が困難な実情である。

化財 もまた 、 はたして各時代を代表す るものの中でどれほどが残 ったと 言 え

書画の被害が大きく、今日現存する文

おいて、鑑賞のレベルに堪える優れた

著しく少ない。木造建築や東洋美術に

現存する文 化財は量的ないし数的面で

族侵入を被 ったため、造形芸術の破壊 がひ ど かった 。隣国の 日本に 比 べても 、

韓国は何回かにわたる大々的な異民

らつと した若い 日 の思い出のような感 じであると 言おうか。

烈な力 、 そして生命力が感じられる。 それは 、幼い頃のおぼろげな夢やはつ

﹁ 呪術﹂や﹁儀式﹂にあるとされている が、先史美術には何よりも神秘性と強

と生気 を吹き込む 。美術誕生の起源は 、

‘ A ﹂ 史時代の美術は洋の東西を問 ET匂11わず、文明の公害 にまみれた / 一 ノ 現代人の心と胸にさわやかさ

. 李源福

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思われる。 一九七 一年の夏、百済の武 寧王の王 陵が発掘され、その年の末の 十 二月 二五日にはここで扱う盤亀台の

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岩刻画が発見され た。その翌年には奈 良の高松塚古墳、そして一九七六年に は北韓で古墳内の銘文により四O 八年 という建立年代がはっきりした徳興里 壁 画古墳 が発掘 された。また、淳化 三一 年の銘がある青磁祭器が北韓の奉天元 山 里窯の跡から発見され、続いて韓国

慶尚南道蔚山市彦陽面所在の 川前里

の光 州忠 孝 洞 か ら 数 基 の 朝 鮮 前 期 の 窯が発見されたりもした。 と大谷里の 二つの先史時代の岩刻画は、 現在ではよく知られるものとなった。 、 一九六八年 これ らが発見されたの は の秋から三年計画で東 国大学博物館学 術調査チ ー ムが蔚 州地域 の﹁仏蹟﹂を 調査していた時のことで、第 三次年度 である 一九七O年十 二月 二五日に 川前 里のもの、その翌年の 一九七 一年の同 じ日に大谷里の岩刻函が発見された。 川前 里の岩刻画は 一九七四年に国宝第 一四七号に指定され、大谷里 は 一九七

。 岩壁彫刻﹄が 一九八四年に刊行され た 一方、大谷里のものは 、 一九九五年に

扱った注目すべき著述である﹃盤亀台

境が 作用して いた。製作年代 は学者に

そして 外部 の手から逃れられる水中と いう条 件などによ り、保存に有 利 な環

度防ぐ ことのできた内側 に傾いた岩面、

る。つまり、左側が時代が先のもの と

上の動物を﹁線彫琢﹂技法で彫 つであ

はシカ、卜ラ、イノシシなど、主に陸

彫り出した﹁全面琢﹂で刻まれ、右側

などは、ヨー ロ ッパの洞窟壁画やシベ

内臓、腹の 中の子ども まで表現した レ ントゲン技法 、モリ で突かれるクジラ

二年から一 九七七年まで四回 にわたっ て調査されて、この二カ所全てを取り

国宝第 二八五号に指定された。盤亀台

リ アなどの岩刻函におけるように、槍 で刺 され苦しむウシやシカと 同じ形態 で世界的な範囲で 見られる普遍 的 な内 金属を使 った跡がある ことなど が、時 代 が異なるという説の 根拠になる 。 一

して理解することもできる。そして盤 亀台は、食糧源である動物の増殖や豊

容である。 こうした 岩刻 画を通じて韓

思われ、遠洋漁業の場面や彫り込む時

一九七六年の初

岩刻画全体の拓本は、

より多少意見が食い違うが、シベリア などと 比べて みて、新石器時 代末期か

九O点あま りの素 材の 中 には人間も い る 。 一番上には、両手を顔の近くに当 てた横からのアングルで表現され性器

漁 、 豊 か な 狩 猟 の 幸 、 そして狩りの安

先史美術の特徴の 一つである食道や

たと 一般的に理解されている 。

A'

全 を祈る儀式という目的から製作され たか、あるいは慰 霊 の祭壇の場であ っ

国の先史文化の源泉と民族の移動に関

が大きく描写された裸の人 物 が、下段

め 、 日本 の三 つの都 市で巡回 展示され た﹁韓国美術五千年展﹂を通して海外

り古い時代にわたって描かれたもので ありぜ これは製作技 法に照らしても 確

には踊りを踊る動作と、仮面の形のも

ら青銅 器時代、進んで鉄器時代まで下 ると推定されている。とにかく、かな

物館でも展示されている。

かめられる。

でも公開され、国立中央博物館や延世 大学、ソウル大学、忠北大学などの博

るが、表わそうとしている対象全体を

向か って左側にはクジラ、ウミガメ、 魚類など 、 主に海の動物が密集してい

のも見える。

に、盤亀台もまた、風化作用をある程

盤亀台岩刻画は 、韓国 の絵画史の第 一ページを飾る。今日現存するラスコ ーやアルタミラの洞窟壁画と同じよう

5 1


︿

る。それなりの新しい未来の世界とか 霊魂の安息とかというようなものはそ こからは感じられない。 あの世は何よりも地下に位置してい るのである。それも大地母性の根拠地 という感じを受けることのない地下の 世界なのである。そういう具体的な 細 部にわたる描写を見せてくれているわ けではないが、全体的な雰囲気からし て暗黒の世界であるということを間接 的に感じさせる所がいわゆるあの世で ある 。 も し 、 本 土 の 亙 俗 神 話 で あ る ﹁パリ公主 ﹂ が描いて見せるあの世ま で考えてみるなら、あの世が ﹁ 血 の殺 裁﹂と﹁ 血 の加虐﹂の 地 として 描 かれ ているのが韓 国 の神話である。 済州亙俗の神話の中の代表格である ﹁ 天地皇本解﹂は韓国の﹁天地創造神話﹂ であるが、それにはあの世とこの世は 折衷不可 能 な極端な対立像を見せてい る。﹁天 地皇本解﹂で天の王である天地 皇は自分の 二人の息子にそれぞれ、地 上世界と 地下世界の支配権を割り当て

土也 よ

なだましを使ってまで執効にこの世を

き所 という観念が持たれていることを 読みとることができる 。 それに弟は兄 と公正な競争で負けると、悪練で狭滑

めに最善を尽くすことから見でもあの 世がこの世に比べて相対的に忌避すべ

者には地下世界が割り当てられるよう に予め決まっていたことから見て、ま た二人の兄弟がE いにどのようにして でもこの世(地上世界)を支配するた

一矛盾の地 この過程で勝者には 地 上世界が、敗

して競争に勝つと兄は弟に 地上世界を 支配するよう譲歩しながらある予 言 を する 。 兄は 地上世界全体が不正と不義 の地、そして病める世界になるという 呪わしい予言をするのであった。

ょうとする。王が息子兄弟に自 主的に 地上及び 地 下世界の支配権の選択を 一 任すると兄弟は謎解きと花 作 りを競い 合って勝った者が地上の支配権を、負 けた者が地下世界の支配権を持つよう にしようと合意する。しかし弟がだま

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く 工 O 刃一川﹀Z 三︿﹂﹁ OO ﹁の

仁済大学国文科教授

は死の世界は少々凄絶に描かれてい

ヨ ア ーら

あの世と死

布引

済州島の亙女達の問で今でも伝えら れているいわゆる ﹁ 済 州 亙俗神話﹂で

る。人間の生命がどのように始まり、 どのように営まれ、最後にはなぜ死に、 そしてどんな方式で死を迎えるように なるのかなどについて 神 話は厳粛に 語 る 。

神話は人間の存在の起源と生の様式 を扱うと同時に、一方では人間の死の 起源及びその様式について語ってい

世界 神話は原初的で根元的な事象を扱う 人間の聖なる物語である。聖なる原初 的な物語あるいは聖なる根元的な物語 だと言った方がいいであろう。その点 は生と死の主題と関連づけても確認で きる。

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載 するシリーズの第一回目である 。 二 回目は﹁あの世と死、二度死ぬ王達﹂、 第三回目は﹁韓国人の宇宙像 、 天地創 、 宇 造 ﹂ 、第四回目は﹁韓国人の宇宙 像 宙の構造﹂を予定している 。

次の文は金烈圭教授がコリアナに連

. 金烈圭

キムヨ ル ギュ

あ あ


支配しようとやっきになっている。神 話全体がこの世に対してより大きな価 値を置いていることがうかがわれるの である。いずれにせよあの世は先験的 に忌避されるべき地なのである。﹁命 あっての物種 ﹂ ということわざは神話 にも適用される。 だからといって﹁天地皇本解﹂がこ の世をあの世とは別に絶対的に美化し たり理想化したりしているのではな い。死霊があの世で悪と罪の審判を受 け、劫罰に苦しむように予め呪われた 地がこの世だからである。人々があの 世の一部として観念化された地獄に落 ちる理由はこの世が堕落と腐敗の地だ からだと韓国神話は語っている。 このように罪と悪が得失相半ばする ようになるにもかかわらず執助にこの 世の生活を弟が選ぶのは、韓国人の宗 教心に強く表れている、いわゆる﹁現 実主義﹂的な指向性に対する証言とな るだろう。 しかしながら韓国の神話であの世が 源泉的にまた根本的に﹁暗黒の地﹂と してのみ考えられているのでは決して ない。この世が矛盾等価の地、すなわ ち全て矛盾が五分五分の比重で共存す る地であるようにあの世もまた矛盾等 価の地である。 たとえば、韓国亙俗神話で死者の魂 をあの世に導く役割を引き受けている 神として信じられているパリ公主(捨 姫公主)は彼女の死んだ父親である王 を蘇らせるためにあの世に出かけて行 くが、そこで﹁命の水﹂を求めること に成功している。その命の水でパリ公 主が父王を蘇生させることから見て、

帰 る ﹁ 生 命 の 故 郷 ﹂ と さ え 言 えるの で あ る 。 人 生 は あ の 世 か ら 始 ま って この世に来て再びあの世に帰る循環 で あ る と 言 え る わ け で あ る 。 その循

環が繰り返されていると考えられて いるのはいうまでもない。人生はあ

の世とこの世の聞の絶え間ない循環 なのである。 すなわちあの世は﹁死の泉﹂も、地

獄もあるところだが同時に﹁命の泉 ﹂ も あ る と こ ろ な の で あ る 。 このこと

は韓国の上古代の墓の中の死体の頭 の方向からも確認される。三一韓時代 の慶州地域の一部の墓の死体の頭の 方向が日の出の方向であるという点 はそのことについて示唆している 。 死の世界を日の出の方向に定めた

人々にと って 、 生 命 の 起 源 の 地 が ど のように観念づけられているかは改

めて問う必要もないであろう。日の 出から没落や滅亡を連想する人は誰 もいないだろう。人々にとって死と

滅亡は、少なくとも神話的には別個 のものでありえるのである。死が生 の滅亡と同一視されるのはずっと後

頭を上流に向けて置かれた死体の霊魂 がどこに行くことになっているかは聞 くまでもないであろう。この場合、川 の上流を、すなはち水の源泉のもつ象 徴性を生命の源泉と関連づけて考える

代のことである。 また韓国人の 一部の上古代の 墓 で死 体がその頭の方向を川の上流に向けて 置かれている例から同じあの世観が引 き出せるであろう。山の峰で川の水の 流れに沿って横たわっていて、わざと

循環する人間の生命 ここで少し極端な推定をしてみる と、韓国の神話が描き出すあの世はこ

ことはたやすいことである 。

あの世はこの世の人々の生命の源泉と も考えられているようである。 こうして我々は、あの世というのは 人々がそこで命を受けこの世に来て命 を終え再び帰る場所と定められている と乙ろだと考えることができる。

の世の人々がそこから出て来てそこに

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5 3




窟の地面には、そこが二次溶岩流の末 端部位であったことを物語る姿も見ら れる。 一方、万丈窟と隣り合わせの金寧蛇 窟には、その昔、洞窟の中の淵に村の 乙女を供え物として捧げたという伝説 も残っている。この洞窟付近には日出 峰を抱いている城山浦、そし成徳海水 浴場などの有名な観光地があり、格好 の観光休養地となっている。 狭才窟の洞窟地帯は天然記念物とし て済州島の西北側の翰林公園区域内に あり、狭才窟、双竜窟、黄金洞窟で構

成されている。洞窟の規模は五0 0メ ートル内外に過ぎないが、一般の火山 洞窟とは異なり、洞窟の天井から二次 的に石灰質の鍾乳石と石笥ができてい て、それこそ華麗な景観をなしている。 これは地表に積み重なっている貝砂が

く、地表の 地 質も大昔の始生代の石灰

灰洞窟である聖留窟は慶尚北道蔚珍の 王避 川 の川岸に高くそびえ立つ 仙遊山 の麓にあり、やはり天然記念物の洞窟 である。おおよそ九つの広場でできて いるこの洞窟は、内部に広さ二 0 0平 方メ ートル に達する湖があるだけでな く、所々に大型の鍾乳石と石街、石柱 などが整然と並んでおり、大壮観をな している。ただし、洞窟内に湿気が多 溶解して、その石灰質成分が洞窟内に 染み込んで、このような 二次生成物を 作るようになったのである。さらに、 黄金窟はまだ公開されていないが、現

殿を連想させる。

岩地帯になっており、また暗灰色の薄 暗い光を放っていて、まるで地下伏魔 在まで発見された韓国の洞窟の中で最 だと言うことである。 も華麗な地下宮殿、 韓国で 一番初めビ観光開発された石

る長さ約一キロメートルの洞窟で、水 蝕作用による各種の洞窟地形、すなわ ち鍾穴、侵食棚、天井溶蝕溝などの特 殊地形と大規模な鍾乳壁をなしている 乳石の景観、そして鍾乳石、石笥をは じめ盾鍾乳などの 二次生成物がとても

天然記念物である古薮洞窟は石灰洞 窟で、韓国一の観光洞窟として知られ ている。おおよそ三層で構成されてい

忠清 北道丹陽は洞窟の多いことで有 名な所で、乙の地域には古薮洞窟、温 達窟、麓洞窟、泉洞窟など、有名な洞 窟が数多くある。

(最左上段から時計四り!こ)古薮洞窟の鍾乳壁、高氏窟の 12神仙と呼ばれる石笥、金寧窟 の洞窟通路、聖留窟の洞窟湖

5 6


華麗である 。 それこそ石灰洞窟の二次 生成物の総合展示場と言える。 特に洞窟の入口ではここが先史時代 の住居地であったことを物語っている 打製石器などが発見されており、また 付近 一帯には観光 開発された洞窟が多 く、自然を学ぶ良い場所となっている。 最近開発された 洞窟である温達 窟も 同じく天然記念物で、ここで高句麗の 温達将軍が悟りを聞いたと伝えられて おり、付近には温達城をはじめに中国 の天台宗の総本山である求仁寺があり、 脚光を浴びている。しかし、洞窟の生 成物が暗灰色を漂わせていて、伏魔殿 のような感じを与える二層からなった 洞窟である。南漢江の辺りにあるため、 洪水で川が氾濫した時にはこの洞窟の

物には最もロマンを満喫できる洞窟だ 念物で、十八世紀末に金鉱を採掘して いる途中発見された。この洞窟は二つ

腔善にある画岩窟は江原道の地方記

東海岸には先に述べた 二 つの洞窟の

の広場からなっているが、まず開発さ

と 言 える。朝鮮時代の壬辰倭乱の時、 高氏の一家族がここに身を隠したので、 れた円形広場洞窟は高さ三0 1四0 メ ートル、直径一 0 0メート ルを超える 広場が中心になっており、韓国随 一で ある高さ 一 一 一 一 メートルの華麗な銭乳壁 が壮観をなしている 。 また、洞窟の内 側には将軍岩と 言える大石筒、石柱が 並んで立 っており、この洞窟の守護神 になっている。

物である。 一方、天然記念物である幻仙窟は 三 砂市にあるが、入口から 一五0 メート ルほど入ると、六O O坪を超える大き

中は泥水でおおわれており、 二次生成 物が多く、さらに天井溶蝕溝やペンダ ント 地物などはとても 珍しい特殊生成

他にも泉谷洞窟、龍淵洞 窟、幻 仙窟な ど、有名な観光洞窟が何カ所かある。 泉谷洞窟は東海市内の真ん中にある が、地表面にデコボコが多く、洞窟の

高氏洞窟と呼ぶと伝えられており、一 時は高麗葬の場所としても利用された という。全長二キロメートルを超える この洞窟は比較的水平な洞窟で、多く の二次生成物の中でも特に石街がよく 発達している所としても有名である。 特にこの洞窟の中には十 二仙と呼ばれ る鍾乳石と石笥、また烏鵠橋と呼ばれ る岩棚が有名である。

韓国の陸地部には石灰洞窟があり、 南方の済川島には丸山洞窟が、王に 分布している。 そ の 中 で も 済 州 島 の 丸山洞窟はその太部分が世界的に 知られている大規模な洞窟で、

5 7

学術的価値が一角く有名である

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(下)古薮洞窟の守護神と信じられている獅子岩

中に漢江の水 が入り込んだりする 。 産 洞窟は月出峰の 山頂に開け られた 穴から出入りするようになっており、 内部が大きい広場になっている天然記 念物の石灰洞窟である。洞窟の生成物 である石街と鍾乳石の乳石の景観が秀 麗であり、洞窟の入口では山のてっぺ んの穴から洞窟の中に落ちた動物たち の骨の化石が見られる。 泉洞窟は忠清北道記念物第十九号で、 全長は三二 0 メートルに過ぎないが、 洞窟の中の二次生成物がとても多様か っ華麗であり、洞窟の実験室として認 められており、特に浮遊カルサイトの お盆の形をした堆積物は他の洞窟の中 では見られない景観である。 江原道の寧越と旋善にはそれぞれ高 氏洞窟と画岩窟がある。寧越の南漢江 の絶壁に位置している高氏洞窟は船に 乗って渡らなければ入れないため、見

( 上)麓洞窟 にあるエミーレ鐘の形に似ている 鍾乳石


その他、韓国には非公開の洞窟で世 界的な規模や特色を持っているユニ ー クなものが多くある。その中の何カ所 かだけを選んで紹介すると次のように

られている。そして、水山窟も長さが

石灰洞窟で、洞窟の中には四カ所の滝 があり、これに沿って洞窟 川 が多く、 さまざまな二次生成物が成長してお

キロメートルと推定されている大規模 な洞窟で、洞窟の入口は山地中腹から 垂直に十五メートルも下りていかなけ ればならず、内部が急傾斜の地形をな

り、洞窟環境保全のために出入りを統 制している。 一方、草堂窟は長さが四

ニ洞窟)や特異なコフイン現象な、どとが

さ二 、九八0 メートルの世界的な洞窟 であり、特にその中の長さ二四O メ │ 卜 ルのチユ │ブ .イ イ ' ン .チユ│ブ(、、

しており、通路もかなり険峻である。 内部の洞窟 川渓谷では石ワカメが棲息 しており、学術保護区域に指定されて いる。

四、六七四メ ート ルで世界七位の 洞窟 であり 、 この中にある龍岩橋は長さが 二三0 メートルに達し、やはり世界的 に名を馳せている。一方、昭天窟も長 記念物第 三 四 二号で、単 一火山洞窟と してはその長さが一一、七四九メート

学界の注目を受けている洞窟である。 江原道三砂の観音窟と草堂窟もまた 屈指の洞窟に値する。観音窟は韓国の 洞窟の中では最も 美 しい天然記念物の

な広場のある大型広場洞窟になってい る。華麗な洞窟生成物はそれほどない が、 洞窟滝と洞窟 川 の流れる音は話し 声が聞こえないほどで壮観をなしてい る 。 そして 、太白市にある龍淵洞窟も観 光洞窟として、江原道記念物に指定さ れている。乙の洞窟は比較的高い所に

ルにもなる世界第 三位の規模である。 この洞窟の中には二八センチの高さの 世 界第一の珪酸柱と長さ七メートル、 高さ 一・五メートルの溶岩溝があり、 またくねくねした迷路窟として広く知

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位置していたせいか、昔から避難地と して利用され、また 山神を迎える聖所 が設けられていた洞窟でもある。洞窟 内部にある湖にはさくらえびが棲息し ている。

なる。 済州島にあるピレモッ ト洞窟は天然

洞窟内部を飾 る様々 な備造物の数々

( 上か ら) 函岩窟の将軍岩 、泉洞窟の水中珊瑚 、幻仙窟の玉座台

5 8


写真作家

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晶、‘晶 史 家 が 関 心 を 持 つ の が 事 件

Al

zvti の結果であるならば 、 芸術 真実、それ自体である。 一つの対象を見たいがままに見るの

き生きとした姿で記録してきた写真 は 、 他 の何物にも変えられない私たちの貴 重な文化遺産です﹂と彼は語る。

﹁我が民族の生き様と歴史の瞬間を生

レl ムの中から透明な目の光と穏やか な笑みがにじみ出ており、短く伸ばし た口髭からは元老芸術家の気品が溢れ 出ている。

ではなく、その対象のありのままの姿 を見てこそ、正に芸術家だと言うこと ができるのである。リアリズムだけが

FEr -家 が関心を持つのは事件の

本当の写真芸術であるとこだわる写真 家がまさに林臆植氏である。リアリズ ムを通して本当のヒューマニズムを追

という悲壮な覚悟を持 っている。 ﹁写真は最も卓越した記録の道具であ ると同時に人間の精神を表現するす、ぐ れた芸術媒体です。あらゆる情報伝達、 広告、科学において写真は最も有用に 使われており、写真のない日常生活は 想像もできません。しかし、私たちは 今まで記録と芸術としての大切な写真 の多くを失ってしまいました。写真の 大切さに対する私たちの認識と関心が 足りなかったためです。私たちは他の

韓国政府が支援する﹁九八写真映像 の年﹂を迎え、組織委員長を引き受け た彼は、何よりも韓国人の貴重な歴史 的記録と芸術を永久保存できる写 真博 物館設立に彼のすべての情熱を捧げて でも、必ず実現させなければならない

求する彼は写真が持っ ている本質的な 側面、すなわち記録という立場で徹底 的に歴史と人聞に取り組んでいる韓国 写真界の巨匠である。 韓国写真界の開拓者として、荒蕪地 と何ら変わらなかったこの地の写真界 に種をまき、実を結ばせた生きている 韓国写真の歴史とも舌守える彼は、人間 を通じて歴史を記録する写真家として、 過去七0年間、手からカメラを離した ととがない。持って生まれた楽天的な 性格、いつも笑みを失わない彼は、八 六歳の老人らしくなく、少年の天真繍 漫ささえ感じさせる。黒く太い眼鏡フ

キムヨンウク

. 金煉旭

本誌副 編集長

日 ﹂ 0一 0 6 ・

文化遺産と同じく、今からでも写真を 集めて保存し、私たちの子孫に伝えな ければなりません﹂と彼は語る。 この地に写真が入ってきて以来の記 録 と 芸 術 と し て の 写 真 文 化 を起こし、 育てるための博物館設立に力を結集す ることが、彼自身はもちろん、韓国の すべての写真に関わる人々の切なる願 いだとカを込めて語った。 ﹁歴史のない民族は考えることができ ません。他の文化先進国家も立派な写 真美術館を作って、各々の文化遺産を 保護、育成しています。私たちも正に 文化国家として、それらの国々と共に 肩を並べて進んでいくためには、一日

して知られているが、しかし自らは信 念が強かったためだと言う彼は徹底し

た自由主義者であり、また人間味溢れ るロマンテイストである。

一九一二年、釜山で裕福な家庭の末 っ子として生 まれた彼は、幼いときか ら芸術的雰囲気の中で育った。ソンビ (士人)的な気質が強かった彼の父親は いつも本と書芸を身近にしていた。彼

の兄弟たちも絵と音楽を好み、彼の家 にはコムンゴ(琴の一種)、テグム(横

笛の一種)、バイオリン、ピアノなど、 ない楽器がないほどであった 。絵を描 くことが好きだった。彼は画家になる

のが夢だった。美術大会に出ると必ず 賞をもらうほど彼の才能は卓越してい

た。しかし、彼の兄もやはり同じよう に絵を描いていて、弟の才能に嫉妬し た兄の妬みのため、結局は絵を描くの を放棄しなければならなかった。幼心 にも兄の立場を配慮した彼の心遣いは

も早く写真博物館を設立しなければな りません﹂と彼は語る。 最近、彼の頭の中は写真博物館のこ とでいっぱいである。総建築費百億ウ ォン以上かかる大変な規模であるが、 幸運にも政府レベルから半分ほどを支

しぼんだが、生まれつきの芸術的気 質 を捨てられなかった彼は素晴らしいバ

ただ事ではない。彼は絵の代わりにバ イオリンを選んだ 。 画家としての夢は

援してもらえる見込みであり、今年中 に敷地だけでも確保しようという大き く脹らんだ希望を持っている。 彼は韓国の写真界では頑固な作家と

5 9

E圃璽盟璽彊圃圃園

・ -


イオリニス卜になりたかった。 そしてまさに音楽が実を結ぼうとし た頃、彼は結婚と共に再び挫折を味わ わなければならなかった。今のように 芸術家がもてはやされる時代ではなか ったために、彼の妻はバイオリニス ト を夢見る夫の将来を不安がったのであ え い 町 。

﹁ほんとうに漠々としていました 。音 楽が実を結ぼうとしていた頃だったの で、葛藤が大きくなる一方でした。妻 と音楽のどちらか一つを選ばなければ

ならない切迫した状況でした。今のよ

その後はただの一度もバイオリンを

うに離婚が自由にできる時代ではなか ったので、悩んだ末、結局は妻を選び ました﹂と彼は語る。 手にしたことはない。彼は 一度 心を決 めると、どんなことがあってもやり遂 げる信念の強い人間である。彼は妻を 残して日本に留学し、早稲田大学で地 質学を学んだ。彼は現在、片方の耳が よく聞こえない聴覚障害を持っている が、当時地質を研究しながら患った病

にも思わなかった。 一九三O年に全朝鮮写真連盟展に入 選し、本格的な写真作家の道を歩み始 めた彼は、六 ・二五(朝鮮戦争)直後、 働く場を求めるいたましい青年を撮っ

た﹃求職﹄、そして縄で編んだ目の粗い 袋を担いで、済州島の海辺を歩いてい る二人の少女の姿を記録した﹃ 二人の

少女﹄などの ヒューマニ ズムの濃い写 真を通して韓国写真界の巨匠として知 られている。それだけでなく、今まで

の彼の作品活動と写真啓蒙活動の歩み は、韓国の近代・現代写真史の胎動期 から築かれてきた様々な流れの随所に 多くの足跡を残している。彼は一九五 0年代初期に やはり リア以ズム写 真の 芽を胎動させた玄 一条氏と共に﹁韓国 写真作家協会 ﹂を作り、十 年近く会長

を務めた。全国のいたる所に写真団体 が続々と登場し始めた頃、この団体は

光復(独立)直後、李海善氏などが組 織した ﹁ 大給料写真芸術研究会 ﹂と共に、 当時主流をなしていた﹁趣味と娯楽と してのアマチュア写 真 ﹂を克服して ﹁ 芸術としての写真﹂を追求し始めた最 初のの社会的動きを代表していた。 をあきらめて、生涯を写真で生きてき た彼には決して偶然とは言えない写真 との因縁がある 。十四歳の時のことで ある。絵に卓越した才能があるという ことを認めた彼の 一番 上の兄が、満州

同じにされては困ると 言う彼らの無理 解を押し切って、 一九五 三年に﹃芸総﹄ の前身である﹃韓国文 化 団 体 総 連 合 ﹄ にかろうじて加入することができまし た﹂と彼は語る。

としては、小説家や画家などの他の文 化芸術家たちと同等な扱いを受ける こ とができませんでした 。写真屋たち と

﹁出発 当時、写真芸 術に対する社会的 認識はまったく情けないものでした。 写真屋に過ぎなかったその当時の認識

から買 ってきたドイツ製のカメラを手 にしたのが写真との最初の出会いであ った。絵を 描 くのに役に立つはずだと 渡してくれたこのおみやげが、彼の運 命を再び変えるきっかけになるとは夢

気だと言っ た。 画家として、また音楽家としての夢

「求職」、ソウル市明;同のミドパ百貨庖前、 1953年

6 0


属する作品を残したりもした。彼が美

ン主義の写真と称される絵画派写真に

存 在 だ っ た 。 彼 も 一時はいわゆるサロ

画の脇にとどまるしかなかった哀れな

った当時の雰囲気の中では、写真は絵

写真を芸術のジャンルとして見なか

たと き守えるでしょう﹂と彼は語る。

に対する信念はこの時から芽生え始め

明瞭な答えが探し出せたのです。写真

真は窮極的に記録が目的﹄・というまっ たく当たり前のことではありますが、

ことを考えるようになったのです。﹃写

かったのでした。それで最も本質的な

写真世界には歴史意識が現れはじめる。

を鮮明に悟ったのである。以後、彼の

した作家精神が求められるということ

な写真にだけ心酔してきた自分のすべ

ある 一九五 三年のソウルの明洞、ボロ

姿がいつまでも痛ましい。戦争直後で

うと作家は現場で記録に忠実でならな っかりと縛り付けた 一枚の紙に切迫し け れ ば な ら な い 、 そ う す る た め に 徹 底 ・ た家族の生活をかけて道に出た青年の

ての作業を捨てて、どんな状況であろ

ボロの野戦ジャンパー姿に帽子を深く

書かれた 二文字が目を引く。下腹にし

ることができる。﹁求職﹂と筆で大きく

彼が﹁写真は記録 ﹂であり、歴史を、 そして人間を撮らなければならないと

の分水嶺を記録する白眉として数えら

韓国の近代・現代写真史の展開過程

戦争直後の索漠さを伝える 一つの時代

被った求職者をとらえたこの写真は、

しさだけを耽美する写真の領域からリ アリズム写真で 一貫させ、自分の写真 にこだわるようになった動機は六・ 二

歴史と人間に取り組んでいる韓国写真界の巨匠である

の風景を真撃に見せつけてくれる。 ﹁ 写真とはなにか﹂という 問 いを真塾

本質的な側面、 す な わ ち 記 録 と い う 立 場 で 徹 底 的 に

れる彼の作品﹃求職﹄を見ると、まさ

J

に過ぎ去った歴史をありのまま読み取

写 真 家 が ま さ に 林 底 植 氏 で あ る L リアリス ム を 通 し て

ったのである。その時から彼は耽美的

c

いうごく普遍的な悟りを得た瞬間であ

リアリス ム だ け が 本 当 の 写 真 芸 術 で あ る と こ だ わ る

五であった。米軍に勤務していた友達

"Eに芸術家だと言うことができる

の勧めで仁 川上陸作戦に従軍記者とし て参戦することになったのである。し

J

かし、彼は 血塗れになった凄絶な死骸

その対象のありのままの姿を見てよそ、

の群れや苦痛を訴える若い兵士たち、

本当のヒューマニス ムを追求する彼は写真が持っている ο

砲弾でめちゃめちゃに壊れた惨憶たる 勇気が出なかった。それまですべての

状況を前にどうしてもカメラを向ける 美しいものが彼の作品の対象であった が、これとは正反対に、足がちぎれ 、 人々のむごたらしい現場にカメラを向

血がどくどくと溢れ出す苦痛で歪んだ けなければならなかったのである。従 軍記者として活躍していた彼もやはり も傷はそれほど大きくなかった。野戦

敵の砲弾を受けたが、不幸 中 の幸いに

「二人の少女」、済州島、 1947年

病院に運び込まれた彼は 何 日聞かを病 院のベッドの上で過ごしながら、写真 の本質について考えるようになった。 ﹁写真とは何か﹂、 ﹁ 写真が生まれた動機 は何だろうか ﹂、﹁その目的はどこにあ るのか﹂等々、多くの疑問が生まれは じめた。 ﹁私が従軍記者になったのは間違いだ ったと思うようになりました。従軍記

6 1

者になったからにはこの現実を撮らな ければならないのに、そのような勇気 の出 てこなかった自分自身が壁にぶつ

一つの対象をえたいがままに見るのではなく 、


『初夏」 、ソ ウル市明洞のミドパ百貨盾前、 1956 年

今も堂々たる尻役として活動中である写真作家、 林 忠 植 氏 は 写 真 家 の 重 要 な徳目を何よりも「歴史意識」に見出す。 生活の深い所に根を下ろし、

そこから歴史を見出さなければならないという、 いわゆる「生活主ゑ写真」

哲 学 で 我 々 の 写 真 の 歴 史 の 新 し L、傾向を掘り起こした

彼。は 「写真とは記録性 と 真 実 性 を i とめた平面芸術である」 と定美する

に投げかけた作 家 、韓国写真の泰斗、

開拓者そして生き証人などと呼ばれて

きた彼の作家的な位相の前には、また ﹁最初﹂という 言葉が 常に添えられる 。

圏内作家 としては 最初に国際展に入 賞

し、外国の権威ある写 真雑誌に最初に 作品が掲載され、また最初の写真講義

を持 った教授であるとともに、写真家

としては最初に大韓民国文 化勲章を受

章する栄誉 も受け た。言う ならば彼 の 個人史が韓国の写真の歴史と脈を共に

すると言えるのである。

その中でも彼の人生を通じて忘れ ら

れないほど 最も大きな感動として残 っ ているのは 一九五七年 の ﹁入間家族展﹂

の圏内誘致である。ニューヨーク近代

美術館 二五周年を記念するために企画 された大規模なこ の国 際的な 写真展 を

メリカ大使館に通って、執助な説得を

国内で開催するために、彼は独力でア

続けた末に成し遂げたことである。 ﹁ 韓国写真家協会会長時代に私がアメ

リカ大使館手二年間に九回も訪ねまし

た。 しかし、戦争直後の混乱した状況 のせいか、特に反応を見せませんでし

た。ですから、私が直接アメリカ国務

じるもので、ある日、アメ リカ国 務省

省に手紙を送りました。真 心は神 に通

から作品を送るという通知が来ました 。

当時、展示準備に動員されたトラック

だけでも七O台を超えました ﹂ と彼は 語る。 景福宮内の美術館で展示をしたが、

会場は作品の数が大変多かったために 足の踏み場もないほどで、ディ スプ レ

イの 専門家 を呼ばなければならな かっ た。展示 期間である こ五日の問、おお

6 2


講座を開設し、 二0年間あまり 出講し、 また続いて梨花女子大の美術大学にも

ル大学校の美術大学に韓国最初の写真

の写真教育が必須であると考え、ソウ

正しい写真芸術を教えるため 、大学で

独学で写真を学んだ彼は後学たちに

る栄光を受けた。

四二 O点の作品すべてが永久所蔵され

規模な招待展を持ち、当時展示された

術性が認められ、国立現代美術館で大

八二年に写真家としては初めて彼の芸

釜山で初の展示会を持った彼は、去る

﹃京仁戦線報道写真展﹄で一九五O年に

戦 争 ド キ ュ メ ン タ リ ー 写真である

た 。

よそ 一 O 万人あまりの観覧客で賑わっ 二

で我々の写真の歴史の新しい傾向を掘

から歴史を見 出 さなければならないと いう、いわゆる﹁生活主義写真﹂哲学

す。生活の深い所に根を下ろし、そこ

な徳目を何よりも﹁歴史意識﹂に見出

る写真作家、林臆植氏は写真家の重要

中の 一人である。 今も堂々たる現役として活動中であ

界では重鎮に属する実力のある作家の

父親を継いで写真の道に入った。写真

一番上の息 子はソウル大の美大を出て、

子ども全部が美術大学を卒業し、彼の

どもを抱える大家族の家長で 、 七人の

つも後悔はないと語る。彼は七人の子

ていれば 、お金を儲けたかも知れない と言 いながら、しかし自分の生涯に 一

を儲けられなかったと笑う。絵を描い

ソウルの明洞の平 凡な日常など、多様

家の鄭飛石などの芸術家たちの顔写真、

た作曲家の安益泰、画家の張旭鎮、作

の実存的な苦悩が込められた庶民生活 の断面や寺利などの古い建築写真、ま

彼は戦後の荒廃した都市風景と人間

九五五年版の米 国 のU S Aカメラ年鑑 に載せられる栄光を得た。

風景を演出しているが、この作品は一

幹だけが残り、この 上 なく荒涼とした

の小枝がすべて燃えてしまい、大きな

いる作品、﹃裸木﹄は戦争で丘の上の木

気を表現している。彼のよく知られて

疲弊した人間性と暗欝とした社会雰 囲

する。戦争以後、彼の作品の大部分は

実性を込めた平面芸術である﹂と定義

り起こした彼は﹁写真とは記録性と真

る 。

の足取りは鳥の羽のように軽やかであ

を入れて、 忙 しく飛び歩く老写真作家

明洞を、そして人々を撮るために今 日も小さなカバンの中に手動式カメラ

日が最後となるでしょう﹂と彼は語る。

している所です。この作業は私の死ぬ

変化と時代の社会性を最も敏感に反映

現場です。ソウルの心臓であるここは、

﹁明洞は今も進行中である私の作業の

里から週に 二l 四回は明洞にや って来 る 。

真世界を構築してきた。写真家は常に 現場にいなければならないという彼の

な素材にレンズをあて、自分だけの写

' A

信念に従い、明洞の街を現場にしてい る彼は 、今も都市外郭にある京畿道九

写真専攻を新設、七年間在職し、写真 学部と大学院課程を開設したりもした。 以後、中央大学校の写真学科長を歴任 するなど 、後学養成にも並外れた熱情 今でも白黒写真だけにこだわり、写

を注いできた。 真の焼き 付け作業を自分でやってこそ、 真正たる自分の写真であると語る彼は 後輩たちには恐い先輩として、また教 育者としては完壁な教授として写真界 に素晴らしい業績も多く残した。 一時、 彼のこのような功労を認めて、ソウル 市 文化賞を与えると聞くや、 ﹁ 功労賞よ りは作家として堂々と作品賞を受ける﹂ と言い張って、周囲を困らせたことも あった。時折、作家精神が透徹な彼を 見て、周囲では彼を妥協の知らない、 頑固な人間という批判もする。

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バイオリニス ト よりは画家になるこ とをあきらめたことにより無念さを感 じると言う彼は、いまだに写真でお金

「ラケ ッ トJ、ソウル市明洞 、 1993 年


窯 占

谷城トルシルナイの名人 守三

) 1民

竹林の中に埋もれた村である竹山里の金貼順ハルモ

ノ入、

(七九戎)

レ ノ

って 麻 布 を 織 る ほ ど 気 力 に あ ふ れ 、

八O 近 い 年 齢 に も か か わ ら ず 、 ん7 だに機織り機の前に座

詩人

文化遺産研究所長

言えるだろ う。 だが 、今日 、遠き日の母 たちの﹁機 織り歌﹂は、消え去ってから久しい。 その苦難と恨(ハン)に織り込まれた 母たちの歳月は、都市の夜空か ら消え

れも ﹁ 人間文化財﹂に指定された人た ちが、かろうじて糸のように細々とそ の伝統を支えているという とこ ろもあ

ったが、現在に至るまでその命脈を保 っているのは、安東布、韓山苧布、谷 城卜ル シルナ イ、羅 州セ ツコルナイと いう名の付いた数カ所だけである。そ た日々の我々の母親たちのつらく悲し い 生 活 史 が に じ み 出 る遺産であって も、機を織る母の姿は、我々の記憶の 中に残る最も高貴で情にあふれる聖な

去った銀 河のよ うに 、遥かな 存在にな ってしま った。時が経つにつれ忘れら れてしまう昔の風景が今更のように懐

﹁ キ ルサム﹂と呼ばれる機織りは、 全てのもの を自給自足していた昔、ど の地方、どの家でも当たり前のものだ

かしく感じられ、あの母たちの機織り 歌を探して旅に立つことにした。

- 李畑権

一 一ー

る母親像であるからである。 野に育つ麻と綿の花がひと塊の縦糸 になり、横糸になり、これがお互いに

て凄絶ですらあったあの歌を聴きなが ら眠りについた記憶を持つ者は、それ でも幸せである。それが、たとえ過ぎ

、 もの悲しさを超え せた 機織りの音 と

幼い頃、母がかったんこつとん響か

声もまた心不自の知かい麻布のように明るく澄んでいる

ι r

A ‘ 、 に機を置いて れ 雲をつかみ綾木にかけ 一- ノ カヤの木の錘へ ナツメの木の践に かっ たんこ つとん織るよ

母さん母さん私の母さん その機織ってどうすんの お前の兄さん嫁取る時の 青布洞布を作 ろう と こ つと ん こ つとん かったんこつとん

~

絡まりあって 一幅の布になるまで、こ こに俸げられた母の労苦と真心を思う と、それは湖の水を素手で汲み上げる ような涙ぐ まし い忍 耐 の賜物だ ったと

国の人間、又化財として、認定されたトルシルナイの最高の名人である

守 ' ま [

-.I~l辺倒11剛直悶・盟組鶴間II.

6 4


mcz のIC

J ﹀泊穴印

(左)水蒸気で蒸し出した麻茎の表皮を石で叩いて柔らかくする、(右)灰汁ときれいな水に何度も繰り返し濯いで絞って踏んで漂白する

る。夏の季節の布地の内でも最上とさ れ、時の王に捧げる献上品の 一つであ った谷城のトルシルナイも、そうした ものの一つである。 全羅南道谷城郡石谷面は、地元の言 葉で﹁トルシル(石糸ごと言われて いる。石の多い機織りの 村 という意味 である。ここで織られる麻布は、いつ からか﹁トルシルナイ﹂と呼ばれるよ うになったが、これはトルシルで生産 される織物という意味である。﹁機を 織る(ペルチヤダごの昔の表現が ﹁ペルナダ﹂であるが、﹁ナイ﹂はこの ﹁ナダ﹂から派生した言葉である。羅 州のセ ツコル(小谷)で作られる木綿 の織物をセツコルナイと呼ぶのと同じ 表現である。 トルシルの人々は、麻を苧のように 細く結った糸で織るので、 他 の麻布よ りずっと高級品とされている。その優 れた技術は代々受け継がれ 、昔から王 への献上品として重宝され、国家から 無形文化財に指定されている。 竹林の中に埋もれた村である竹山里 の金貼順ハルモニ(七九歳)は、国の 人間文 化財として認定されたトルシル ナイの最高の名人である。八Oに近い 年齢にもかかわらず、今だに機織り機 の前に座って麻布を織るほどに気力も よく、声もまた糸目の細かい麻布のよ うに 明るく澄んでいる。 だが、ハルモニ(おばあさん)の生 活は想像できないほどみすぼらしく貧 しい。強風が吹き寄せたならすぐにで も潰れてしまいそうな草葺き屋根の粗 末な家を、かろうじてスレ ート屋根に 改良しただけである。土問の床と土壁、

今では当り前のガス台さえ見当たら ず、古式ゆかしく飯釜のかけてある台

所は、情緒あふれる雰囲気というとこ ろを通り越して、一課、が出るほどだった。

旅人にみずぼらしい生活を全部見せて しまったのが 恥ずかしかったのか、ハ ルモニは﹁ こんな風に、ネ一ズミを友だ

ちにして暮らしているさね﹂と無理に 乾いた笑みを浮かべた。

生涯を、土地の 一つもなく賃仕事と 織物で生きてきたハルモニは、二O歳 の時にこの家に嫁に来てから今日ま

の母親に実の母の ように尽くしてくれ

で、この家でのつつましい暮しから抜 け出したことがなかった。夫が天下の 遊び人である上に博打うちだったため である。だが、夫が身寄りのない実家

たため、生涯一滴の涙もこぼさず、不 満 一つ言わず 従 順 に 生 き て き た と 言 う。若い時には、昼夜を徹して 卜 ルシ ルナイを織って貯めたお金でいくらか

の田を持った ことも あったが、その掛

か赤く染まっていた。

け替えのない土 地 の証書を、夫が一晩 で博打につぎ込んでしまった時も、 ﹁望夫石 (夫の帰 りを待ちわびた妻が 化したと 言 わ れ る 石 ど の よ う に 不 平 一つこぼさなかった。泣いて訴える人 もいなかったそんな時、かったんこつ とん音を立てる機織り機に座り、機織 りの歌を歌うと、心の苦しさも悩みも 麻布のようにさっぱりと消えたものだ と語るハル モニ の目尻は 、 いつの間に

で行かせて、末娘は大学まで進学させ

息子 二人と娘 一人をかかえたハルモ ニは、母親と一緒にひたすら機織りだ けをして 二人の息子を中学校と高校ま

6 5


て筋をほ ぐす、(最左上)麻茎の表皮を爪 (最右上)漂白した麻茎の表皮の端を叩い

で細か く割いて引き離す、(中央)棒に割

いた麻茎をかけて糸を作る準備をする

て軽 く撰んで糸にする 。 この時 、糸の端

(下)細かくちぎれた麻糸は膝の上にのせ

と端をうまくつないでこそ丈夫な糸にな

金ハルモニは、 十一殺に

二O 歳 に な っ た 年 、

なった年、 、初めて織り機に、座り

布を織り始め、

昔から王へ美しい布を紋上して

を仕事

いたことで有名な竹山村にお惇に

、.、 本 格 的 に 機 織 り しミ﹄. .

、 他 の麻布と 同 谷城 卜 ルシ ルナ イは じように、縦糸の問の詰め(単位を ﹁ 農布﹂ 、 ﹁中布﹂、 セ ﹂ という)により ﹁

v

司ノ。

り通してきたトルシルナイの伝統をそ のまま残したいというのが願いだとい

をと って昔の よ う に は い か な い と 語 る。若い時は 二日もあれば布 一反を難 無く織ったが、今では 一年 に十反織る のも大変だ と いう。そのため 、最近 で は、死ぬ前に展示館を作り、自分の守

として始めるミととなった た。その頃、母親は ﹁ お前、金になる のは太い布だよ ﹂ と言っ て 、 一生懸命 ﹁ 農布﹂(農家用の布)を織っていたと いう。と ころが、ハル モ ニはどういう 訳 か こ の 時 ご 反 売 ってもまとま った 金になるものを織らなければ ﹂ と、十 数倍高価な麻布だけにこだわって織 っ ていた。そ れ が後にトル シル ナイの命 脈を残す腕となり、ついには人間文 化 財になるとは 夢 にも思わなか ったとい うハルモニ。だが、もう自分も随分年

6 6


ヲ﹀司犬∞mCZ のと

(下)準備した糸を糸車にかけて糸巻きを押さえる棒に巻いて杯糸を作る

(上)膝で探んでf 下った糸を糸車で紡いで強い糸にする 。(中央)完成した糸

﹁細布﹂に分かれる。﹁農布﹂は四1五 セで農民が着る服の布地や葬式に使わ れる喪布用、﹁中布﹂は六1 七セで、 ソンビ(土人)たちが着ていた苧の上 衣や外套用、﹁細布﹂は九1 一二セの 最高級品で、王や高位官職についてい る官僚たちの布地だった。 金賭順ハル モニは、農布、中布、細 布を始めとして木綿の織物、蚕から糸 を紡ぎ織った絹織物など、望まれれば

生むより大変だったと手の甲をさすり

ながら語るハルモニ。一反の卜ルシル ナイが作られるまでのことは、この仕 事に捧げられたハルモニの時の刻まれ

た手を見れば、子供を生むより大変だ というその苦労と真心が実感できる。

金難順ハ ルモニの麻布織りは、まず 小暑(夏至と大暑の間 一七月七日頃) の頃、すっかり成長した麻を 刈り取り 葉を取り除いて、茎を釜に入れ蒸気で 蒸す ことから始まる。 釜の中の茎が充 分蒸されたら茎の皮を剥き、その茎を

そろえて縛り、乾かす 。 この時注意す

何でも織ったが、その中でも一糸一糸 真心を込めて織らねばならない﹁細布﹂ 織りにおいては、その腕に並ぶ者がな

べきことは、乾燥状態である。乾かし すぎると麻の水分が抜け、糸を紡ぐの

という漂白過程を経る。この過程が今 日のトルシルナイの名声を保たせる秘 法の中の一つである。漂白をしない黒 、 トルシル っぽい 他地域の麻布に比 べ

この後、乾かした麻は質により上中 下に分けられ、礼服、通常服、喪布用 に事前に決められた後、藁を燃やした 灰に浸け、それをきれいな水ですすぐ

によくない。また、湿気が多いと腐っ てしまうこともある。

幼い時から祖母に麻布の仕事を習い

った。そんな時の機織り 仕事は子供を

覚えた金ハルモニは、 一 一 歳になった 年初めて織り機に座り布を織り始め、 二O歳になった年、昔から王へ美 しい 布を献上していたことで有名な竹山村 にお嫁にいき、本格的に機織りを仕事 として始めることとなった。その歳月 を数えるといつの間にか七O年である。 若い時、トルシルの市に合わせて、 そこで布を売るため何日も徹夜して織

6 7


の ・ 亡

刀、﹀一司民的白川CZ

ナイはその艶からして違う。 漂白過程を経た麻は、爪で細く裂き、 膝の上に載せて軽くもみながら 糸 にす る。この時、糸の端と次の糸の端をつ なげる作業を並行させ 、 乱れないよう に龍にきちんと入れ、糸車にかけて強 い糸に経る。 機に掛ける糸ができ上がると、 一反 分の長さと セ の数に従って縦糸を平行 に組みそろえて張り、糊づけして乾か

す。 これは糸を筏(おさ・横糸を寄せ る櫛状の道具)に一本 一本掛け、震側 ( 手前)の糸の端を機の緒巻に結び 、 反対側の端を キ ンシンゲにつないでか ら、適当な間隔にそろえて垂らし、ぴ んと張り 、緒糸の傍らに組末な 明かり を灯しながらきれいに整え 、糊づけを して緒糸に巻く 過程に至る。 これが終わると縦糸がいっぱいに張 られた緒糸を機に載せ、二重になって

いる 二種の縦糸の聞に糸巻きを差し込 み、糸巻きの下の縦糸をインア(綾 糸 一縦糸をまとめる糸)にかけるのだ が、その縦糸をインアオルといい、も う一つの縦糸をサオルという 。 こうした 過 程 が 全 て 終 わ っ て 初 め て、機織りをする者が機織り台に上が り、機を織り始める。機織りをする者 は機に座り織るのだが 、織る時は左足 引き靴 ﹂ を前後に出したり に履いた ﹁

順ハルモニのトルシルナイは、韓国で

織り 一織 り機が織られ、布となる。 し かし、このように多くの苦労を伴 う手の込んだ過程を経て生まれた金黙

引いたりしてインアオルと サオルを上 下に交差させながら、片手には横糸が 巻かれた符を 二種の縦糸の聞に左右に 投げ送 って横糸を掛け、もう 一方の手 では縦糸と互いにしっかりと織り込ま れるように筏を力いっぱい打つと、一

糸が準備できると布地一反の長さと反物の縦糸の数にしたがって経線を作って機にかける

6 8


PPER日mcZ のと

はそれほど手厚い待遇を受けていると は言えない。見る目があり粋のわかる 一握りの人聞が、ほんの時たま自然産 の麻服の品格を認めたりはするが、時

とが、考えれば考えるほど恨めしく、 最近は機に座っても昔のように力が出 ないと語る。

遠くから訪ねてきた旅人のために、 村の入り口まで見送ってくれ、手を

についた。旅人の心は真っ暗な夜道 のようだつた。その閣の中で、ハル モニの家の裏手におい繁った竹林が 風に揺れ、かったんこつとん響く悲

振ってくれたハルモニを残して帰路

噂も入ってくる﹂といいながら、数百 万ウォンの洋服をオーダーして着るソ ウルの人々が、真っ暗な夜空に流れる

しい機織りの音が、耳元から離れる ことがなかった。血'

ハルモニは﹁あたしも聞く耳があり

が経つにつれ、次第に忘れ去られてい く有様である。

銀河のように一糸一糸真心をこめて織 られたこのトルシルナイを知らないこ

谷域トルシルナイは、 他 の 麻 布 と 同 じ よ う に 、

縦心不の問の詰め (単位を ﹁セ﹂ と い う ) に よ り ﹁農布﹂、

﹁中布﹂、 ﹁知布﹂ に分かれる。 ﹁農布﹂ は四1 五 セ で

二七の回収、一口同級品で 、

ソンピ (士人) たち、が着ていた苧

農氏が着る服の布地や葬式に使われる長布用、 は 六1 七セで、

の上、衣や升套用、 ﹁知布﹂ は九1

(上)機に座って布を織る金貼順ハルモニ (下)完成した布、 トルシルナイは独特な 漂白過程を経るので色が白く布目が細かい

王や 、 一口同位官職についている官僚たちの布地だった

6 9


サプ

サプ サ リ は 神 霊 的 な 犬 で あ る 。 昔 か ら 仏 教 え 化 圏 で は も の 長い犬を貴重に扱い太初にする伝統があった 中 国 で 知 蔵 菩 薩 の 化 身 と し て 崇 め ら れ た 、 新 羅 の 王孫 で あ る

日本、 韓 国 の 神 霊 的

金 喬 覚 僧 侶 が 連 れ て 歩 い た と い う 新 羅 の サ プ サリ 、 不 思 議 な こ と に チベッ ト 、

度かわいがるとその主人を 生涯忘れないで陽が沈む頃 になると、 村 の入り 口 の外

金獅子狗の ペキニス、日本の 皇室 と神 社を守る神堂守としての獅子狗のこま

韓国の神 霊的な犬は 全部が獅子狗とい う別名をもっ毛の 長 い犬なのである 。

ハジホン

慶北 大 学 遺 伝 工 学 科 教 授

韓国サプサリ犬保存会副会長

と推定される絵

の神霊的な犬であ った。 サプサリは中形の 、 毛 の長い犬で、 青 サ プ サ リ と 黄 サプ サ リ に 大 別 さ れ る。青 サプ サ リは黒色の長い毛に 薄 い 灰色の毛がうまく配合され、暗い灰色 または黒青色の色彩を放つが、月光で

プサリの群 れ を歌っている 。 春香伝、 淑香伝、歌 調、民間説話などいたると ころで発見 され るサプサ リは我々の先 祖 の情感に深く関わり合っていた韓国

は詩の中で、手なづけるのが難しい 北 方の馬に対応 し て吠えたてる南方 のサ

・ 河智鴻

犬 、中国で 知蔵菩薩の 化身 として崇め られた新羅の王孫である金喬 覚僧侶が 連れて歩いたという新羅の サプサリ、 不思議なことにチベ ット、中園、日本、

愛され宮廷でだけ飼われていたと いう

の丸坊主の中学生時代だ った。 その当 時飼っていたシェパ ードや珍島犬に 比 べ 、 何か 一 風変わっていて神秘的だっ たと いう感 じだけが残っているが、真 っ黒な 毛 がぼ うぼう と生えていて、表 情も見分けられない黒犬がまさにその 青サプサ リだった。

1 )

サプサ リ に関する昔の記録は新 羅 以 後の長い歴史を通じていたるところで 発見される。高麗の将 帥 である食千通

一 ・ ノ

サプサリは神 霊的な犬である 。昔か ら仏教文 化 圏では毛の長い犬を 貴重に 扱い大切にする伝統があ った。チベッ ト のラマ寺院で飼 っていた鬼神を追い 払う毛の長い獅子狗、唐の玄宗皇帝に

な犬は全部が獅子狗という別名をもつもの長い犬なのである

A

一 一

まで 出 て行 って昔の主 人を 待つという サプ サリ (むく犬 ) は、 その顔つきの 漂わす滑稽な 印象とは違い、気品と強 サプサリのいる 靭さを備えている。 ﹁ ところには鬼神も近づかない ﹂という 昔話はサプサリの精神的な強靭さと無 関係ではないであろう。 生 ま れ つ き 犬 が 好 き だ った筆者が、 初めてサプ サリに会ったのは三O年前

約 200年前の宮中薗員がサプサリを描いた

・ E 幽圏直図星組血盟;c. .JPiM

7 0


青みを帯びた光を出すというので青サ プサリと呼ばれたという話もある。黄

えられる。由来の経路がどうであった にしろ、サプサリはずっと以前からこ

朝鮮朝中葉の﹁訓蒙字会﹂をみる と、犬という字が俗称サプサリとな

の地に生存してきた固有の我々の友達 であることにはまちがいない。

共通した特徴は、体全体が長い毛に

サプサリは黄色の毛に白色と黒色の毛 が適当に混じり合って多様な黄金色を 帯びている。

って い る が 、 犬 と い う 言 葉 が サ プ サ リと同 一語 に 使 わ れ る ほ ど そ の 当 時 はサプサリが多かったのだと思われ

応しながらこのような体質を身につけ たのだと思われる。 サプサリの性質について話す時、ま ず知っておきたいことはすぐに新しい 主人に慣れる西洋の犬とは違って、幼 い時にかわいがってくれた一人の主人

で、七、八月の真夏の暑さの中でも、 一度 も病気にかからずにたやすく過ご すというのもまた特記すべきことであ る。長い問、韓国土の気候と風土に適

軽になるさまはまつけたく不思議なもの である。その長い毛の外套を着たまま

当たって過ごしても 一度 も風邪をひか ない。冬の雨に夜通し当たっても明け 方、体に凍りついた氷を振り払 って身

サプサリは体質の強靭さも車越して いる。真冬の問、家もなしに雨や雪に

という口伝などと通じるところがあ るように思う。

か 、 鬼 神 を 追 い 出 す 犬 が サ プ サ リだ

で、サルは鬼神、悪鬼の意味で家の 中の悪鬼を追い出す犬という意味か ら由来したといわれる。サプサリの いるところには鬼神も近づかないと

サ プ サ リ は 純 粋 な 韓 国 の 言葉 で 、 ず っと 以 前 か ら 使 わ れ て き た が 、 サ プは追い出す、汲み取るという意味

る 。

おおわれ、ちょ っと目にはライオンと 同じように野性的な外貌を見せるが、 下に垂れ下がった耳に目が長い毛で覆 われていておかしな表情をかもしだし たりもする。胴体はよく均衡がとれて いて雄は頭が大きく、上体はよく発達 していて、鼻を除いた口の周りにも長 い毛がぼうぼうと外側に向かって生え ている。青サプサリを見ると、生まれ たばかりの時は体全体が黒色だが、六 ヶ月、ぐらい経つと毛替わりをして黒い 毛と薄い灰色の毛がほぼ等しく混じっ て生えてくる。黄サプサリの毛の色も 生まれた時は黒色の混じった黄金色だ が、毛替わりをすると薄い黄金色に変 わる 。 サプサリのこのような外貌は東洋圏 ではその由来を見つけることができな い独特なもので、どのような経路を通 して韓半島に入って来て、この地に棲 息するようになったのかはほとんど知 られていない。ただ慶州地方の口伝に よると新羅時代には王宮で飼われてい た貴重なサプサリが、統 一新羅の滅亡 とともに民家に流れて来て半島の南側 の地方に広く拡がったという説がある が、新羅時代に幅広い海上貿易路が開 かれていたことを認めるなら、インド、 中東、中国あるいはさらに遠い外国か ら貿易船に乗って来た犬がこの地に定 着するようになったのではないかと考

7 1

( 有 )黄サプサリ ( 左)成長した青サブサリ、


を長く 記憶するだけでなく、その人に 実に忠実だということである。筆者の 弟が何年か前に幼いサプサリを友達に

のために 近づきがたく 、人 によく懐か ない動物のように見えるが 、実は不愛 想な外貌とは違って奥深い忠実さを備 えているのである。 吾園・張 承業の十枚扉 風 の中には木 の上を見上げる目玉の大きなサプサ リ が、また金弘道の﹁耕作図﹂には畑仕 事をする主人にちょこまかとっきした

振って忠実さを見せるサプサリが、毎 日、習慣的にえさを与える人達には実 に冷淡だった。このような独特な性質

Z﹀﹂-I の ZO Z

譲っ たこと があった。何年ぶりかに友 達の家を訪問したが、驚いたことにあ んなに荒々しくて勇猛だ ったサプサリ が昔の主人を見分けたことだった。甘 えて本当に喜んで昔の主人を迎えたの で驚いてしまった。幼い時は世話をし てやったが、大きくなってからは食べ る物さえ与えなかった弟に、しっぽを

がう黒いサプサリの姿が描写されてお り、先人達の哀歓が奥深く込められて いる民話の 中 に、あるいはまた口伝や 田舎の老人達の記憶の中に、いまだに 生きて動いているサプサリを描き出す こともできるだろう。 しかしこのように我々の先祖の情感 に密接につながっていたサプサリが最 近急に少なくなり絶滅の危機にあるの はなぜだろうか 。色々な理由があるが、 その中で日本植民 地時代の民族文 化 の

特徴がよく現れている 。 (下)雪原で飛び跳ねて遊んでいる黄サプサリの子犬たち

って、日本の土着犬に対する研究と保 存の熱気が高潮し、当時、秋田犬、柴 犬、紀 州犬、北海道犬などの土着犬保 護会が組織され、政府でももこれらを 天然記念物に指定し国家的な保護運動 を行った。 内鮮 一体の政策を標傍する日本とし ては、日本の犬に似た朝鮮の犬を探す ようになり、その結果、珍島犬が朝鮮

抹殺政策にその主な原因を発見するこ とができる。日本は 一九 三0年代に入

(上)成長した青サプサりの顔、垂れている耳に 、長い毛が目に覆 いかぶさっているサプサリの

7 2


を代表する犬になったのである。珍島 犬の標準体型を決めるために日本の紀

ることにし、その犬 と似て いない犬は

州犬の標準をも ってきて、それと同じ ような体型の犬は珍島犬の純種と認め 屠殺するようにした。時を同じくして 朝鮮原皮株式会社を設立して珍島犬以 外の犬はすべて野犬であるという名目

大東亜戦争の期間中には年間三0 1五 の軍人達の防寒服の材料に使うため満

O 万匹の犬が屠殺され、犬の皮は日本 州に搬出されたという 。 日本の犬とは全く 似 ていないだけで はなく、勇猛でけんかをよくする、 ある面では韓国人の気質に似た韓国 のサプサリは急速にこの地からいな くなるほかなかった。解放とともに 押し寄せてきた西洋の文物に対する

の物なら何でもめずらしくていい物 だと思われた時期を迎え、サプサリ が急速にいなくなっていく反面、西 洋の毛の長い犬が輸入され飼われだ したのである。 しかし、この地のサプサ リ は完全に 姿を消したのではなく、昔の原型を保 ったまま現在 三O O頭あまりが生存し ている。 慶北大学校の卓練斌、河成珍教授と 筆者によって引き継がれ保存されてき 一九九 たこれらのサプサリの集団は、

二年、韓国の政府により天然記念物第

三六八号に 指定され、品種改良による 多方面の研究が多くの研究者によって

行われている。 サプサリを通して韓国の愛犬文化の

伝統を訪ね、土着の動物に対する新し い認識と愛情を持つことができれば幸

いである。 現在、サプサリは独島(日本名竹島) の守備隊の警備犬として東海(日本海)

で大韓民国の領海を守る任務を果たし

ている。

7 3

で屠殺するようにしたので、韓国の犬 の受難史は実に世界の歴史のどこにも その由来を見つけることができないほ 選 り 好 み も ま た サ プ サ リ の滅亡と無 関係ではなかったように思う。外国

(上)絶滅の危機に瀕していたサプサリを蘇らせた河智鴻教授(筆者) がサプサリを抱いている (下)黄サプサリの子犬

ど特異なものであった。記録によると 工﹀﹂一士OZ の



タムヤン

、‘畠 羅南道の揮陽では昔から竹物

KFTTL(竹細工)、すなわち竹の木 メ 剛 一で 作 っ た 品 物 が 多 数 生 産 さ れた。その伝統は現在にとつながって いて、この地域を象徴するほど濁陽の 竹物は全国的に有名である。 今から四百年ほど前、全州から来た ある老婆が農閑期を利用して竹の切れ 端をまさぐりながら三年かけてチャム ビツ(真統一髪に艶が出るほど続麗に 透ける韓国の櫛の一種)を作り出した という伝説があるが、これは、七百種 余りに達する調停陽の竹物生産の伝統が

e

いつ頃から始まったのかという関心の 現れだろう。 一九 一六年にはこの地に チンソケ(真杭契)という契(頼母子 講)組織が作られたし、これが発展し て 一九五九年には ﹁澄陽 竹産物協同組 合﹂という組合も生まれた。 一九八0 年代に限ってみても、置陽地域で竹物 を生産する家庭が住民全体の三O %で ある七千所帯余りもあった。こうした 条件を背景に竹細工だけを専門に取り 扱っている特種市場が湾陽に形成され 発展してきたのである。 竹物市場 の固 有の名称は﹁サツカツチヨムモリ ﹂ で

A 原山 沼 南 ・県出 軍国

• したところは栄山江の上流地域である 檀陽邑万城里から客舎里の方にできて

ヨンサンガン

中心地であ ったため、 このような名称 が付いたのだという。竹物市場が位置

編み上げた笠)をかぶって往来してい たころ、この地が特にサツカツ流通の

ある。過去、サツカツ(竹や葦で粗く

-光州

いる堤防の下の広い 川原で ある。竹物 は大部分その 嵩が大きいので、 このよ うに余裕のある取り引き空間を必要と する 。 また雨が降 って も、普通の地面 よりは砂利まじりの川原の方が竹物を きれいに管理するのに有利である。市

場のスペースが大きかったので、ほか の地域の生産品もこの地域で取り引き されるほど竹物流通の中心地になった。

湾陽の竹物は、農村の各家庭で手工 業の形で生産されたものが、五日間隔 の二の日と七の日に聞かれる市日に合 わせて市に出される。明け方の五時ご ろに市が立ち始め、朝の八時ごろ取り 引きはピークに達し、真昼になると市 をたたむことになるが、主に直接生産

者である農民たちが供給者であり、各 地から集まってきた中間商人たちが需 要者である。

7 5

-和1慎

羅州

圃; 章 陽 -霊光


EZ の 己

hJP 司式印一川

制動E l l f 朝鮮時代には今日とは違い、竹物市 場が葎陽邑の市場と別途のスペ ー スを 持 っていたものとは思えない。 一八三 0年代に書かれた文献﹃林園経済志﹄ を見ると、海陽市場で取り引きされる 品目の 中 に は サ ッ カ ッ 、 竹 製 の 容 器 (竹器、竹龍)、扇子、彩枕(彩色を施 した枕)、彩箱(彩色を施した箱)な どの竹物のほかにも、米、麦などの穀 物類、麻、木綿の反物などの織物とか 柳行李なども取り引きされた。それに

( 上)竹細工芸の伝統を 継承 して競争力を強化するた め に生産から販売までーカ所で行われ ( 下)竹細晶を伝統的に販売してい る ; 章陽竹物市場入口

羅道内の竹製品取り引きの中心地は光

た 煙 竹 (キ セル)加工は南原がもっと も活発であったほか、扇子の生産は 全 州が有名であった。 日帝時代の一九 二0年代に書かれた 朝鮮総督府の報告書などを見ると、全

れた。また、当時は全般的にはむしろ 羅州が竹製品生産の中心地であり、ま

その当時は濠陽のほかに、同じ全羅道 ナムウォンナジユチョンウプ 内にある南原、羅州、井邑などでも竹 物が大量に生産されたが 、 これらの物 はそれぞれその生産地域で取り引きさ

る竹細工芸振興団地が新 しく設立された

グノア /

インチョ ン

州と羅州にな っている。光州に集めら れた竹製品は京城(現在のソウル)、 群山、仁 川、それに道内に売りさばか れたとな っている。また、羅州に集ま った竹製品は一九二三年の十二月を基

特に夏の用品にはうってつけである

竹の木は植えてから 三1 四年過ぎた

ルと忠清道など、西部地域に売りさば

後、十月から翌年の 三月にかけて切り 取られるが、これを約 一メートルの長 さに切って百個から五百個を 一つの束

ιE ﹃化川引が

l

チヤムビ ッとサ ツカツの流通から専門 市場へと発展してい ったようで あ る 。

ていったものと見られる 。 そのため檀陽が竹物の生産と流通の 中心地になったのは、日帝の後半期以 後と見られ、交通が発達したおかげで、

ことができ、 感 触 が 冷 た い の で 、 かれたとなっている。地理的に見て、 湾陽の竹製品は、一 E交通の中心地で ある光州に集まった後、︿王国に広が つ

準に、年間 二 一 万 一六九O個で、金額 では六八、六八八ウォン(園)に及ん だとな っているが、これもやはりソウ

竹はよく曲がるので多彩な形の物を作り上げ‘る

7 6


花龍とかアクセサリーなどの飾り物に

以降、これらの需要が減り、代わりに

一九六0年代

以上の製品は農家で手工業の方法で

うが、今では目にすることすらできな い。チャムビツもやはり取引量が多く、

や日本にまで売れるほどであったとい

のサツカツが売れたこともあり、中国

い。日帝時代の頃、市の日には 三万枚

使われているものは半分にも満たな

他で小売りしようとする仲買商人たち

入してきて売っている外地の商人たち

れに中国産やベトナム産の竹製品を輸

売っているおばさんやおばあさん、そ

車の背当てなどを持ってきて小規模に

け放しておく代わりに、マル(縁側、

テバル(竹製の簾)は夏場に襖を開

センター﹂が建設されたように、葎陽

砧里に機械施設を整えた﹁樟陽竹細芸

と道費、郡費などを投入して湾陽白紙

一九六六年六月十一日に国庫の補助

米国、日本、英国などに輸出されもし

が 商 品 化 さ れ て 、 一 九 六0 年代には、

た宝石箱、花龍、玩具、椅子、枕など

ってしまった。その代わりに竹で作っ

いうが、今や生活品ではなく遺物にな

チャムビツの契ができるほどだったと

日ではなくとも揮陽竹物市場の昔の名

の方には常設の屈が並んでいて、市の

市場に変わってきている。また、邑内

される傾向があるなど、その性格が卸

なわけで市の日ごとに価格が別に策定

を相手にしているのが見られる。そん

生産してきたものだが、

かの工芸口聞を作って売ったりもする。 竹はよく曲がるので多彩な形の物を作 対する人気が高まってくるにつれて次

板の間)や門柱などに掛けておいて、 郡でも行政的に竹物生産の機械化に努

にして市場に売り出すか、あるいはほ

り上げることができ、肌で感ずる感触 第に生産量が減ってきている。

部屋の中が透けて見えないようにする めた結果、こうした需要の変化にもか

が、この市場の品物を卸値で買い入れ、

てつけである。

が冷たいので、特に夏の用品にはうっ

一種のカーテンである。竹を細かく割

かなかった。プラスチック製品が登場

た。しかし、こうした好況も長くは続

海陽邑内には、置陽竹物博物館があ

声を聞いて訪ねてくる消費者たちを迎 えている。

勺﹀翠︿印mcZ の己 i

って削り上げ、それらが重なったり、 で固定させている。長さ 一 一 0センチ、

抜け出さないように糸できちんと結ん

形に作られた竹夫人は、長く薄めに割

チュクプイノ

直径 二0センチほどの大きさの円柱の った竹を螺旋形に巻いて円筒形に編ん でいくが、中が空洞で風通しがよいた め、いかに暑い夜でもこれを抱いて眠 い。そのためこうした類いの竹製品は

れば汗をかかないので暑さを感じな 団一扇や扇子と共に夏場を過ごすのに愛 用されている。 雨や日差しを遮るため、または喪中 に外出しなければならない喪主がかぶ かわらず湾陽が引き続き竹細工生産の

したり、安手の中国産竹製品が輸入さ

るサツカッは竹を薄く割って鋭角に結 びを作り、それを次第に広げるように

中心地になる基盤が整えられた。

きに簡単に脱げないように﹁ミサリ

作っていく。内側には頭にかぶったと

っていろいろな竹細工を展示してい る。この博物館は一九八 一年に、地下 ようになり、また農村の人口が急激に 減少し、需要が減ってくるにつれて、

れるにおよんで価格競争に後れを取る り変わりは韓国の産業化の過程をよく

このような現象が現れてきたのであ る 。

大会を聞いてこの地の竹物の伝統を広

こん にちの姿 竹物市場で取り引きされる品目の移

竹を利用して作る日常用品には、こ のほかにも竹枕、キセル(韓国のキセ

表している。過去、竹物の主な品目は バクニ(焦や龍)、サッカッ、チャム

く紹介している。

(丸い枠ごを作っておく。

ルはとりわけ長い)、灰皿、行李、ス テッキ、弁当箱、箕、矢箱、笛、テグ

んだ縁のない丸くて平たい器)、自動

最近の濠陽竹物市場では、家で直接 作った焦や龍、箕、チエバン(竹で編

館する予定である。また、揮陽郡では 毎年五月十日から十日間、竹製品競進

一階、地上二階の建物として開館した ものだが、これから新たに拡張して開

ム(横笛の 一種)、空襲(笠の笛)な

かし、この中で今でも生活用品として

7 7

様々な竹細工品

ビッ、団扇や扇子の骨組み、箕、簾、 ござ、竹夫人などだったと言える。し

どの楽器、そして各種農機具や畜産用 具など、数えきれないほどである。


演出家

J コ斗﹂砕 7 ジカル﹃明成皇后﹄のニュ

δ

一 ・

﹂ 0 日m0

キ 白 一 ハ

ていく俳優は、彼と出会 ったその瞬間 から一皮むけた見事な俳優に変身し、

い価値創造を行うのにすぐれた手腕を

彼が選んだスタッフも同様に 一流の陣 容へと変容していく。彼は、芝居に関 するすべての要素の本質を引き出して 自分の舞台を作り上げるという、新し

旦︿配小童日

演劇評論家

を売りつけることができるほど説得力 に富んだ性格だという 。彼は、非常に 説得力に富んだ人間である。彼に 出会 った人々は大抵、彼の中に穏やかさと

誠実さを見いだし、彼がおもしろくて

真剣で 、非常に魅力的 な人間であるこ とを発見するだろう。 彼のこうした人となりは、舞台でも 遺憾なく発揮される。演出家としての 彼は、彼とともに仕事をする人々から もそうした深い信頼を得て、また観客 からも同様の信頼感を得ている。

実験劇場小劇場での成功作品 弘益大学工学部精密機械学科を卒業 した一人息子が芝居をやりたいと言い

演出家になるんだと言う息子の 言葉と 決心、そして彼の能力を信じた母親は、 当時﹁実験劇場﹂の代表だ った金東勲 氏を訪れて、息子の将来を託したのだ っ。 # こうして、彼の芝居は劇団実験劇場

張 ったとき、そのあまりにも突然な人 生の方向転換に驚く母親をついには説 得することができたのも、彼のこうし た人となりとそこから出てくる信頼感 によるものだった。芝居をやるんだ、

になる。 こうした作用は作家 や作曲 家に対し ても、そして作品の主題や素材にもそ のまま現れている。彼が話し始めると、

で始ま った 。 一九六 一年に大学演劇の 各派が集まって意を同じくする者たち の劇団として結成され、韓国演劇界の 代表的な劇団としてその勢力を誇 って 発揮する演出家である。 彼はもちろんこれまで、すばらしい 俳優たちゃ 一流のスタッフと仕事 をし てきたわけだが、彼らの誰もがいった

来するものであるのかもしれない。彼 は 一九四八年六月七日に生まれた。西 洋の星占いで言えば、双子座になる 。

を必要としていた 。 安浩鎮は、まさに そうした名声を得ていた劇団実験劇場 を彼の演劇修行の場として選んだわけ

その作品の主題や素材もまた、今の 我々にとって最も必要で非常に大切な ものになってしまう。 このような能力は、あるいは彼の演

ん安浩鎮の舞台に足を踏み入れると、 その瞬間に何らかの天啓を受け、これ

双子座と 言 えば、エスキモーに冷蔵庫

いた実験劇場は、七十年代に入って劇 団の主役級の俳優たちがテレビ出演に 流れ出すとともに何らかの大きな転機

才能を持っている。 彼の扱う作品の 主題は、その時代が 要求するものであり、その時代に最も

まで以上にすばらしい仕事をするよう

、 出 家 と し て の 能 力 以 前 の問題であ り 一人の人間としての性格上の特性に由

必要なものである 。 また、彼の芝居の やり方は最も先鋭的で、最も真剣なも のである。彼とともに作品を作り上げ

展開させる方法や舞台構成はもちろん のこと、舞台に関係したあらゆる要素 を非常に内容の濃いものにしてみせる

彼は舞台でその作品を通じて観客と 出会う。彼は作品名や素材、それらを

せる説得力に満ちた演劇運動家でもあ る 。

ラ劇場を満員にできる能力を持 った演 出家であると同時に、文 化支援には渋 りがちな韓国企業の懐のひもを緩めさ

の一つである﹁芸術の殿堂﹂内のオペ

舞台とおもしろい芝居を保障する 一種 の、ブランドとして信頼されるまでにな った。彼は、ソウルで最も大きな舞台

の寵児として 一躍脚光を浴びている。 彼の名前は今や、観客に常に質の高い

再演により新聞、テレビなどマスコミ

? 二1 、出家安浩鎮は最近、ミュ l

、Mdιlヨl ク公演とソウルでの

圃圃臨調悶目崎髭置副温辺倒国軍調・・

7 8


である。 当時の実験劇場は、劇団結成当時の 中心俳優たちの多くがテレビ出演に流 れ、その求心力が多少弱まっていた。 実験劇場は新しい人材を得て、新しい 形の公演を模索しつつ、こうした劇団 の弱体化を食い止める努力をはじめて いた。 そうした努力の一つが、秘苑前にこ じんまりとした小さな専用舞台を設け ることだった。五十人ほど収容できる ベンチ型客席の小さな狭い舞台とは言 え 、 一年を通して自由に使える劇 団の 専用舞台を持つということは、大きな 飛躍だった。 実験劇場の新進勢力として登場した 安浩鎮にとっては、この舞台が彼の初 舞台となり、未来の大演出家を目指す 彼の道場ともなり、ほとんど彼専用の 舞台ともなったのである。彼はこの舞 台で、実験劇場の将来を担って行くだ けの力量を備えた新進演出家として十 分な評価を得た。 ユージン・オニlルの一幕もの、マ ックス・フリッシユの﹃放火犯たち﹄、 ﹃女王と娼婦﹄と続いた彼の舞台は、作 品の選択からキャスティングにいたる

彼は、雲泥洞の実験劇場で劇団の成 功作であり、かれの出世作ともなる 数々の作品を上演していった。﹃グリー

非常にやりがいに満ちた、実りの多い

カ留学時代を除けば、彼の 三十代のほ とんどの時期をこの小劇場で過ごし、

その舞台で多くの観客の共感と喝采を 得たことにより、非常に高い評価を得 た。彼は、八十年代半ばの彼のアメリ

品は、アトル・フガ l ドの代表作で、 もに次第に頭角を現してきた俳優だっ た。二人は共に実験劇場では主役を務 拘禁と拷問の噂が暗い影を落としてい た当時の韓国の政治状況にとってまさ める俳優である。 七七年は、演出家安浩鎮にとってた 一 に時宜を得た作品だった。 演出家安浩鎮は、当時の困難な状況 の中でこの作品の公演を可能にさせ、 いへんな成功作となった﹃アイランド﹄ の公演が開始された年である。徐仁錫、

李承錆の 二人の俳優が出演したこの作 品は、それまで実験劇場が持っていた ﹃エクウス﹄によるロングラン記録を書

ン・ジュリア﹄(七六年)は、主安部起、 徐仁錫の二人の俳優の演技力を充分に 引き出すと同時に、演出家予浩鎮の確 かな力量をはっきりと見せつけた印象 的な舞台として評価を受けた雲泥洞の 実験劇場小劇場における彼の最初の舞

カ共和国の良心の声とも言えるこの作

き換え、その後もロングランの記録と してはいまだに破られていないほどの 長期公演を成功させた舞台だった。人 種差別政策で悪名の高かった南アフリ

台であった。美都起は、雲泥洞小劇場 のこけら落としの作品となった﹃エク ウス﹄のアロl ン役でその爆発的な演 技により認められて登場した俳優であ り、徐仁錫は秘苑前の小劇場で彼とと

年月とした。また、それは、彼の明日 に向けた、次の飛躍への出発点ともな った。彼は、実験小劇場で数々の成功 作を演出、企画しながら多くの仕事を こなし、同じ時期に大劇場の舞台でも 重要な作品を演出している。

実験小劇場でのもう 一つの彼の画期 的な成功作は﹃神のアグネス﹄である。 この作品は、八 三年に彼がブロードウ

ェイで見てきた作品を、帰国後に彼自 身の手で上演したものである。 彼はこの舞台で、安小晶、李貞姫と アグネス役の安石花の三人の女優によ る最高のアンサンブルを作り上げ、観 客の反応もすさまじいほどの好評だっ た。そして、もちろんこの作品も実験

小劇場史上、記録的なロングランとな り、その後も 何回も再演を繰り返して いる。そして、現在でも俳優の顔ぶれ こそ変われ、常に変わらぬ成功を収め

る実験劇場の固定レパートリーとなっ ている。 ﹃アイランド﹄と﹃神のアグネス﹄は、 彼に七八年度と八 一年度の二回にわた り東亜演劇賞の演出賞、大賞と各部門

7 9

まで、作品に対する解釈からそれを解 きほぐしてみせるその演出の技量にい たるまで、非常に確かな目を備え、ま じめで、バランスのとれた完成度の高 いものだった。 一九七五年に実験劇場小劇場は鍾路 区雲泥洞へとその場を移し、こけら落 としが行われた。これを機に、実験小 劇場全盛時代の幕が開き、同時に明浩 鎮の成功の時代が始まった。

ニューヨークで大盛況のうちに公演が行われた『明成皇后』の一場面


賞をもたらした作品であるだけでなく、 彼の演出経歴を確固たるものとした重 要な作品だった。 彼の実験小劇場での成功作や意義の 深い重要な舞台は、このほかにもまだ あ る 。 ア ト ル ・フガ ー ド の ﹃ マ ス タ ー -ハロルド﹄と﹃血縁﹄、アイラ・レ ビンの﹃ドクタ ー ・クックス ・ガーデ ン﹄、李文烈の﹃ひとの息子﹄、ハロル ド・ピンタ!の﹃最後の 一杯のために円 安大星の﹃死の賛美﹄などである。数 多くの代表作を持つ小説家の李文烈は、 安浩鎮と出会 って意気投合し、自分の 小説を喜劇に脚色したUをき っかけに、 その後芳浩鎮と組んでいくつもの喜劇 を書 いている作家 である。最近の﹃明 成皇后﹄も、この二人がそれまでず っ と続けてきた共同作業から生み出され た 一つの結晶である。これらの中で、 ﹃死の賛美﹄と﹃最後の 一杯のために﹄

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は、弔ア浩鎮が留学後に演出した作品で ある。

EE 彼の演劇研究は、実験劇場でのワ ー クショップや舞台の現場での作業から P 始まったと壬える。しかし、彼は、現 場での勉強だけにとどまらず、学問的 な裏づけを身につけることを望んでい る。彼は、八O年に東国大学大学院演

劇映画学科を修了し、八七年にニュ ー ヨー ク大学公演学科を修了した。彼が 文芸振興院の演劇海外研修プログラム による海外研修と本格的な演劇研究を 終えて海外から帰国した八八年は、彼 の演劇生活にとってそれまでとは一線 を薗すような非常に大きな変化を見せ

た年だった。それ以降の彼の舞台は、

のに比べ、留学後の舞台は音楽、舞踊、 美術などの様々な手段を総動員した総

換を告げるよい出発点となった。彼は、 この舞台で新羅の慮容説話を劇化した

合的な舞台となり、一方でミュ ージカ ルに向けた努力が顕著に見られるよう になったことである。 する考え方、舞台に課す重さの変化と して現れ、観客との出会いの方式にし てもその規模や深みに変化が見られた。 それ以前の彼の舞台では、彼が探し出 した評価の高い海外作品の翻案ものが 主流を占めていたが、留学後の舞台で

呉泰錫の喜劇を取り扱いながら、韓国 の伝統的な舞踊と音楽の美しさを再現 しようとする努力を見せた。

﹃八曲扉風﹄は、彼のこのような方向転

国立劇団の八八年のソウルオリンピ ック文化祭典参加作品だ った呉泰錫作

は、国内の作家たちの作品発掘に熱意 を見せるようになった。また、留学前 の舞台がセリフ中心の芝居が主だ った

それ以前の彼の舞台と、はっきり区別 できるほど様々な変貌を遂げていた。 それはまず、彼の演劇の大きさに対

6月にニューヨーク で再び公演される『明成皇后』を演出してい る矛浩鎮

実験劇場のソウル演劇祭参加作品だ った鄭福根の﹃失われた碑銘﹄も、彼 が舞台の視覚的な要素や動きというも のを重要視するようになったことを示 す作品だ った。﹃死の賛美﹄を小劇場へ と舞台を移し替えて、ミュ ージカル仕 立てにしてみせたのもこの時期だった。 こうした活動を通じて、彼は彼自身 が育ってきた実験劇場の凝り固まった 制作システムに変化をもたらそうとし、 何とかその限界を乗り越えようと努力 しはじめた。そうした努力の最もよく 表れた舞台が﹃アントニ!とクレオパ トラ﹄(九 一年)だった。彼はロンドン 演劇界を中心に活躍していた舞台美術 家を招いて、彼に衣装 ・舞台デザイン を依頼し、自分の舞台により 一層の品 格を与えようとした。この時期に彼は、 彼のアメリカ留学中に行き詰まりをみ せていた実験小劇場にふたたび活力を 取り戻そうと努力した。もう一度後援 者たちを集めて説得し、全面的な内装 修理を行い、新しいレパートリーで観 客の関心を引きつけようと努力した。 実験劇場の危機的状況打開のレパート リーである﹃神のアグネス﹄(九二年) の再演も行った。 しかし、実験劇場はすでに彼のスケ ールには合わなくなっていた。彼は'自 分自身の企画によるより大規模な舞台 のために、独立を模索しはじめた。そ れは、ミュージカル専門劇団エイコム (A│Com) 創団へとつながっていく。

ミ ュージカル専門劇団エ イ コムの出発 エイコムはそれまで韓国の演劇界で 主流を占めていた意を同じくする者同

8 0


士の同人制劇団や代表中心の劇団とは 多少異なったシステムの下に始められ た。それは、代表は予浩鎮が務め、劇 団の運営は、彼を助けて財政的な仕事 を補佐する運営委員会が中 心となって 行うというものだった。彼のこの仕事 を支援するために、企業の経営者、演 劇界内外の人材が集められた。 そして、創団当初から彼らの最初の 主要上演作品として李文烈の﹃明成皇 后﹄が予告され、その準備段階として 団員を選抜し、厳しい 訓練を課しなが ら﹃娘とやくざな奴ら﹄がまず舞台に かけられた。それまでに鍛えられた団 員たちの実力を見せる舞台であり、創 団当初の苦しい財政状況を潤すための 舞台でもあった。﹁劇団民衆﹂の演出家 鄭鎮守と力を合わせて作り上げたこの 舞台は、興行的にも大成功だ った。﹃明 成皇后﹄上演という予告の下に、彼は もう一つのミュージカルを作り上げた。 その時には李相雨作・演出で、弔ア浩鎮 自身はプ ロデュースに専念した。 これらの舞台は、﹃明成皇后﹄を準備 しつつ、その前哨戦として作られた作 品だった。そして、ついに九五年十 二 月に﹃明成皇后﹄の幕が開けられた。 この作品は、演出家安浩鎮のそれまで のあらゆる経験と力量が遺憾なく発揮 され、それまで彼が骨を折りながら培 ってきたありとあらゆる人間関係を結 集させた舞台だった。そして、もちろ ん制作規模の面でも前例のない大作だ

乱的に開花した舞台だった。この舞台 き続き、延長公演、アンコ ー ル公演を 行い、さらにはこの作品の海外公演を

エイコムは﹃明成 皇后﹄の初演に 引

画力がよく現れている。韓国ミユ│ジ

成皇后﹄に続いて エイコムが準備中の もう 一つの野 心作 ﹃夢遊 桃源図﹄ の相 談にあずか つてきた作家である。こう した面には、演出家安浩鎮の徽密な企

名な作品だ った。それに窪仁浩は﹃明

ル化した。この作品は 、もと もと小説 だったもので映画化されたことでも有

推進する 一方、後続 作品として昼仁浩 作﹃冬のさすらいびと﹄をミュージカ

はどれをとっても最高、最善のもので 埋め尽くされていた。 韓国演劇界のドル箱スタl、ヰア石花 をはじめとしてクラシ ック 界、テレビ タレント、エイコムが育て上げた若い 団員までをもひっくるめた華麗な配役 に加えて、作曲に金喜甲、衣装に金賢 淑、舞台美術に朴東祐などが参加した。 ﹃明成皇后﹄の初演は、多くの面で評 価された。エイコム創団当初からの目 標であった本格的なミュ ージカル作 品 の誕生だった。

カル大賞を第 一回目から 三回連続で受 賞し、ミュ ージカル界での地位を不動 のものとしたのも、 一種の彼の意志表

illili--i

現だ ったと言 えるだろう 。

恥劃ー 合EE叫ん

﹃明成皇后﹄は九七年八月、ニューヨ

ークのリンカーン・セ ンターでその幕 を開けた。初演当初からの明成皇后役

で、エイコムの芸術監督でもあ った女 優の予石花を事前の了解もなしに配役 から降ろし 、声楽専攻者を起用した新 しい配役はにぎにぎしい騒動を引き起 こし、大規模な予算をつぎ込んだ無理

矢理な海外公演だという非難もあった が、彼はこの海外公演を成功させ、ニ

ューヨーク・タイムズ紙からも好意的

は評価を得た。 ﹁ 韓国を代表する文化商品﹂という彼 の強烈な自負心と失敗や挫折を決して 許そうとしない彼の意志、そして最も 大きなもの、最良のものに狙いを定め る彼の姿勢が一丸となって得た成果、だ

った。 現在、彼は、﹃明成皇后﹄のニュ ー ヨ ークでのアンコ ー ル公演とロサンゼル ス、ロンドン、パ リ公演も準備中であ る。そして、﹃明成皇后﹄の海外公演に

続いて、﹃夢 遊桃源図 ﹄でもう 一つの ﹁韓国を代表する文化商品﹂を 成功させ ようと奮闘中である。 楽観的な性格、信頼を勝ち得る説得 力、失敗を許さない不屈の推進力、舞 '台を愛し、舞台を知り、舞台を自在に 繰る力量を備えた演出家安浩鎮こそは、 韓国演劇界を 代表して世界へと羽ばた いていくことだろう。

' a

8 1

っ ち。 それは、自分自身があらゆる面で最 高でなければ我慢できない性格の安浩 鎮が追求するすべてのものが、百花綴

『明成皇后』の成功的な公演は韓国を代表する文化商品開発に大きな力となった


I

ソウル市の中心に息づく異色の伝統空間

韓星材 芹 T山

『中央日報』記者

- 張世政

事訓練機関(南別堂)と教育・出版

物足りない点でもある。

ある藁屋をみることができないのが

﹁ 南 山 面影探し﹂の一環として、一

が、今は伝統文化空間として様相を

に軍部隊が場所を占めたところだ

してくれる。まさに、ここが韓屋村

った正 門)が ひとつ訪れる人を歓迎

忠武路駅から南 山 の方向へ徒歩で

継がれてきた。一八九四年の東学農

ソスル大門(両脇の屋根より高く作

五分ばかり登ってみると伝統様式の

関連施設が立ち並ぶ場所として受け

晶 、 韓民国の首都ソウルの象 徴 で あ る 南 山 の北 の谷間 、 一 ノ に 一九九八年四月 一八 日

以降、首都防衛司令部に至るまで主

民革命時に日本軍の駐屯地とな って

I ιハ

ソ ウ ル 市 が 定 都 六 OO 年 を 記 念 し

新しい観光名所がひとつ誕生した。

九九五年から推進してきた伝統韓屋

の正円である。

年問、内外国人観光客 二O 万名が

宮など既存の四大宮とはまた違う雰

すソウルの真ん中に、景福宮、徳寿

通の便がいいというのが大きな長所 である。高層ビルが広大な密林をな

る 一種の﹁住居文 化博物館﹂という

人々の生活像をうかがうことのでき

と家財道具を配置し、朝鮮時代の

る。家屋主の身分に合った生活家具

たものを復元し移転したものであ

韓屋村は都心に位置しており、交

訪れると予想される南山の韓屋村を

囲気の伝統的な建物が建っているか

一般人に公開されたので

一新し た。

て完成し、

村の復元工事が 三年余りの期間を経

大門を通過すると正面に、によっ きりとそびえ立つ南 山 の樹木と奇岩

怪石が一目で見渡せ、南山タワl の 尖塔が遥かに空を貫いて立つ姿が壮

観である。

右側に目をやると、大型楼閣と人 工池が悠々と位置している。池の水

はモーターポンプを通して首都防衛

司令部跡の西側にある こ00 メート

ルあまりの人工渓谷からくねくねと

でも折って行けば、子どもたちと思

流れ入ってくるものである。紙の船

う存分童心にひたれるほどよく整え

られている。

池 を基準に東側に広がる瓦屋が韓

屋村のメインの建物でふめる。大きく 五棟に分類される韓屋(韓国式の建

物)は、ソウル市の指定文化財とし

紙上で訪ねてみよう。

らである。四大宮が王宮ならば、こ

わけである。各建物の由来と建築様 式、そして、ここで聞かれる各種プ

てソウル市内の所々に散らばってい

韓屋村はソウル市中区筆洞 二街八 四の 一、昔の首都防衛司令部敷地の

られるところである。もちろん瓦屋

ログ ラ ム に 留 意 し て ま わ っ て み よ

ある。

中から 、一九八九年にソウル市が 払 い下げを受けた 二四O O坪余りであ

が中心なので、下層民の家屋様式で

こは両班と庶民の生活の匂いが感じ る。ここは本来、朝鮮英祖時から軍

8 2


V

。 つ五棟の伝統家屋のなかで一番最初 に位置するのは、一八六O年に建て られた都通首(朝鮮時代の大工頭) の﹁李承業家屋﹂。元は中区 三角洞 にあったものを母屋と含廊棟(客聞 を兼ねた主人の書斎)のみ移転・復 元した。韓屋の優雅な線と自然美を 観賞しながら伝統茶と伝統菓子を味 ねうことができる 。 韓屋村のなかで南山方向に位置す る五衛将(朝鮮時代の軍隊の下級将

一八九O年に鍾路区

に処理し庶民住宅の様式を備えてい

校)の﹁金春築家屋﹂は、軒を 一重 るのが特徴で、 三清洞に建てられたものを動かした ものである。ここでは、ソウル市が 指定した無形文化財技能保有者たち の機織・伝統染色・韓服の裁縫・組 ひもなどの実演がみものである。 ソウルの八大家として伝わる ﹁ 朴 泳孝家屋﹂は、元々は五棟の別々な し、合廊棟と別堂(母屋の傍らに建

建物で構成されていたが 三棟が破損 てられた離れ)だけが復元された。 この建物は台所とアンパン(母屋の 主になるオンドル部屋で台所と隣り 合った居間)が同じ方向を向く平安 共和国)を中心とした中部地方型で、

道の開城(現在、朝鮮民主主義人民 ソウルの住宅では滅多にみることの

日 ﹂ 008

8 3

ない様式である。韓屋村のなかで 一 番広く(九八坪)、週 二1 三回、伝 統婚礼の宴が行なわれる。週末に、 ここを訪ねれば実際に伝統婚礼式と

南山の北側に位置する南山緩屋村の全景

引-た.片山-三CUR 挺Ii 三 C

;-山県三-山

韓屋村は都'-: ょに 位 置 し て お り 、 交通のイ史が L、 い と い う の が え さ な 長 所 で あ る

高 辱 ピ ノ レ が 広 大 な 密 林 を な す ソ ウ ル の 真 ん 中 に 、 景福宮、 徳 寿 宮 な ど 既 存 の 四大宮とはまた違う雰囲気の伝統的な建物が建っているからである


f U R R E N T S I

ある。 え さ く 五 棟 に 分 類 さ れ る 韓 屋 ( 韓 国 式 の 建 物 ) は 、 ソウル市の指定え化財としてソウル市内の

所々に散らばっていたものを復元し移転したものである 家 屋 主 の 身 分 に 合 っ た 生 活 家 具 と 家 財 道 具 を 配 置 し、

朝鮮時代の人々の生活イゑをうかがうことのできる 一種 の

六O年の四・一九革命時に消失し、 今回それを復元した。家屋全体の雰 囲気 が住居用というより、祖先の祭

置された朝鮮王朝第 二七代王の純宗 の義父﹁安海築家屋﹂は元は東大門 区祭基澗に建てられていたが、 一九

ムの演奏も観賞できる。 嗣堂と母屋を頭に﹁元﹂字型に配

コムンゴ(弦楽器の 一つ)、カヤグ

j 也を基準に東側に広がる瓦屋が韓屋村のメインの建物で

日m 0 ﹂ 0

。 君 ・

池 の 方 に 配 置 された正方形﹁口﹂ 字型の建物は、純宗の妃である純貞 孝皇后・予妃の実家である。弔ア妃が 一三歳まで過ごした家で、彼女が王 世子妃として冊封された後、高級に

間を執り行なうのに便利なように作 られた建物で、伝統風習と茶道・恭 しい対話礼法を学べるところであ る 。

「住居え化博物舘」になっている

再築され、 全般的に最上流層 の邸宅 として分類される 。鍾路区玉仁洞に あったものを復元したこの建物は、 伝統時代の教育機関である 書堂と 書 画教室として活用される 。 韓屋見物を終えたところに記念品 販売館がある。ここでは人間文化財 の人々が製作した多様な伝統工芸品 を購入することができる 。また、記

イムカ プ セル広 場 をパ ッケー ジとし てまわ ってみるのもいいアイディア である 。韓屋村から南山方向に坂道 を上 っていくと、火山噴火口模様の 造形物が現われる 。 ソウル市民の思

楽・サムルノリ・伝統武術・マダ ン 劇が多彩に繰り広げられている 。 九四年に作られた定都六OO年タ

念品販売館前の大型広場では 宮中音

韓屋村はオープン後、車量級を着て訪れる名所として人気を集めている

8 4


F m m ﹂円円﹀ eNAU

O O年後の二三 九四年に開封される

いが込められた六O O種の各種用品 が保管されたタイム カプセルは、四

園周辺に植えられているからであ る 。

か伝統の香が全身からついてでる。 南山韓屋村は、生まれて初めてソウ ルを訪れる人も九八年四月以前にソ ウルを 訪れ た人も、 韓国の伝統家屋

このような韓屋村と伝統庭園、タ イムカプセル広場を一 ﹀ f 二時間かけ て全てまわってみると、いつの間に

予定である。 韓屋村を取り囲む二万坪の﹁伝統 庭園﹂も見逃すことのできな い コー スである。所々に設置された楼閣と 人工 池ととも に、韓国の花、木、草 を観賞してみるのも目新らしい楽し

A'

細かい部分まで復元された室内の様子、(よ)韓国式奥の間であるアンパン

みとしていいだろう。大口、桃、アズ

文化の特徴と粋を感じてみるために は必ず一度はまわってみなければな らないところである。

8 5

ミ ミ〉 t

キ梨、カリ ンなど韓国固有の樹木数 種が三万株あまりが韓屋村と伝統庭

(下)書斎

一一一一一…一一一 C URRENTS P

ー … 虻 九 …

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〈宅玄〉

〈誌を{ ー


瞳輯輯蝿醸輯輯輯鶴髄輔輯輔離種輯麟機韓廊麗直感騒騒騒騒機騒謬幾畿議欝機騒饗鱗鱗鱗繍

'98 韓国写貫映像祝典 『中央日報』記者

. 安恵利

れ て お よ そ 一二O 年余りになる。

、と

、 一 コ す が、国内に写真が導入さ

J 見る意見は少しずつ違う

まで、写真界の長い間の願いであ った 写 真 博 物 館 を と の 機 会 に 建 て

直してみようというのである。今

真人口に見合う位相を新たに立て

えている 。五 万 人 余 り に 達 す る 写

は、写真家たちに特別な意味を与

況で迎えた﹁九八写真映像の年﹂

く ら い で あ る か ら 、 こ の よ う な 状'

のイベント、大衆芸術としての写

示とお祭りの雰囲気を高めるため

すべてのものを見せてくれる本展

一個所に集まり、写真芸術となる

領域を確保している各写真団体が

分けられ繰り広げられた。独自の

て準備された。

写 真 を 改 め て 認 識 さ せ る 契 機 とし

者によって写真の出発を

ある人は、 一八 七 二 年 の 呉 慶 錫 の 山円像写真が現在残っている最も古

るのはもちろん、他のどの芸術も

りだと言う。また、ある人は、外

真の可能性を見せてくれるフォト

b ' '

国人の力を借りないで自ら写真作

確保できなかった大衆との親近感 を基に、写真を媒介とした全国民

資材展である。

│ギャラリー展示、そして写真機

今度の祝典は大きく四つの部分に

業ができるようになった時を本格 的な写真導入と見るべきだとして、

的祝典を繰り広げてみようという

写真家たちに特別な

い幅広い写真人口にもかかわらず、

比べてみても決して劣ることのな

とは言えない歴史に、どこの国と

こそ韓国の写真の元年だと品= 守 つ 。 とにかく、このように決して短い

で来て写真館を開いた一八八四年

ている池運永が日本で写真を学ん

らかにした重点事業の中で最も規

韓国写真映像祝典 ﹂ である。 ﹁写真映像年﹂の組織委員会が明

総合広報展示場で関かれた﹁九八

日 ま で 九 宜 洞 テ ク ノ一 マ l 卜一階・

このような考えを具体化したイベ ントが、正に五月一 日から 二七

計画が立てられている。

韓国広告写真家協会、韓国写真家協

た 。 一つは韓国写真作家協会と大韓 プロ写真作家協会、韓国写真記者会、

焦点を合わせたと言える。 本展示会はさらに二つに分けられ

そして写真産業の現住所と全てに

的価値と生活文化としての可能性、

ケ所に集まった中で、写真の芸術

い写真であるから、この時が始ま

韓国人最初の写真家として知られ

﹁九八写真映像の年﹂

五万人余りに達する写真人口に

写真芸術は他の分野に比べて遅れ

国写真の位相を示すのはもちろん、

模が大きい行事として、現在の韓

会、写真学会など各写真団体の会員

ショナル写真家たちと全国民が一

ている方だと言える。﹁記録﹂とい

一般の人たちに生活文化としての

の写真博物館ひとつ備えていない

う写真本来の機能を遂行するだけ

一言で言って、全国のプロフェッ

繰り広げてみようという計画が立てられている

親近感を基に、 写 真 を 媒 介 と し た 全 国 氏 的 祝 典 を

である。 他 の ど の 芸 術 も 確 保 で き な か っ た え 衆 と の

見合う位相を一新たに、正て直してみようというの

意味を与えている。

ま l

8 6


たちの出品作を報道写真、広告写真、 芸術写真など分野別の主題に合うよ うに分けて見せてくれた﹁韓国写真 作家 一 000人展﹂である。 各団体の特性が見られるだけあっ て、広告写真や報道写真などが全 て含まれているが、その中でも特 に芸術性が浮き彫りにされた作品 だけを選別して見せてくれた。

を一度に享有することができた。

たちの直接現場参加によって成し 遂げられたものなら、祝典期間中

﹁スーパースライドショ l﹂は、静 的な展示を再構成し、より立体感 があり、親近感のあるように見せ

ずっと催し場で繰り広げられた

﹁思いでのウエディング写真大会﹂ は M B Cラ ジ オ が エ ピ ソ ー ド を 公 一 募し、そこから選ばれた夫婦を対 象に無料でウエディング写真を撮

てくれることにより観覧客が写真 の妙味を味わえるように考案され

は、海外の有名な写真作家たちの 作品を通して世界の写真芸術の水 準を見せてくれたものと言える。 みんなが軽い気持ちで楽しむこと ができたお祭りイベントは﹁ヌー

かった夫婦たちをあらかじめ選ん

た。スライドショーはまた韓国写 真史一二O 年を再構成した﹁よもう

ってあげる行事。特別なわけがあ って結婚写真を撮ることができな

ドボディペインティング撮影大会﹂ と﹁思いでのウェディング写真撮 影大会﹂などがあった。

O 日ド で、祝典に先んじて五月 一 リームランドで先にウエディング

行事期間中、毎日繰り広げられた ﹁ヌードボディペインティング写真 撮影大会﹂は、ボディペインティン

一度見る感動の瞬間フォト一二O ﹂ と世界の人々の多様な文化を生き 生 き と 伝 え た ﹁ 地 球 へ の 愛 ﹂ とに

この展示が韓国の写真芸術の全体 的な流れを把握できるようなされ

写真を撮り、この写真を祝典期間 中だけ展示したのである。 上記のふたつのイベントが一般人

8 7

グを見る楽しみと、これを写真に写 し、芸術的に表現するこつの楽しみ

(下)徐銭吉、「チュム(踊り ) J

たものなら、この展示に続くもう 一つの展示﹁世界有名作家招待展﹂

この行事に出品された作品、(上)朴晩在、「月下枯松図」


C

この行事 に出品 され た作品 、(左上 か ら時計回 りに ) 裳 乗 主 、 「長 署 刻 道人 J ;李鍾燥、 「協 同J ;柳目玉 、r F ishFee d i ngJ

分けて進行された。 一般人たちの作品を主に、生活芸

術としての写真の 位置を見せて くれ たフォト!ギャラリー展示では、 ﹁ 九 八フランスワー ルドカッ プ十六

強 祈 願 写 真 展 一勝 利 の 瞬 間 ﹂ と ﹁ 我 々のス タl 写真展一星たちの戦 い﹂、﹁写真同好会と共にする写真祭 り﹂、﹁韓国映画 写真 ・ポ スタ ー展 示 会﹂、﹁ U F O写真展﹂が展開された。 ﹁九八フランスワ ー ルドカップ十 六強祈願写真展一勝利の瞬間﹂で は韓国の歴代ワールドカップ出場 予選競技の重要場面と九八フラン スワールドカップ地域予選競技の

重要得点場面を見ることができ、

ワー 展示 と 共 に ﹁ 応 援 合 戦 ﹂ や ﹁ ルドカップコンサート﹂など多様 な関連行事も開かれた。 ﹁我々のスタ l 写真展﹂では 、ス

ター た ち の 公 開 ・ 未 公 開 の 写 真 が 展示 された 。 観 覧 客 た ち が 一 番 気 に入ったスタ l 写 真 の う え に 星 を 付けるようにし、祝典閉幕の日に 一番たくさ んの 星 をもら った最高 のスター を選んだ 。

﹁写真 同好会と共にす る写真祭り ﹂ は、アマチュア写真家たちに無料 展示空間を提供し、今まで磨いて きた技量を披露する場であった。

最後に写真機資材展は、飛躍的な 成長を重ねてきたわが国の写真産 業の現況に再びスポ ットをあてて、

A'

よ り 深 く 写 真の 世 界 を 理 解 す る こ とのできる場を提供した。

8 8


A 月=二日午前九時、 一ハッタシ・ブライアン

一 一 -

マ /

O E E

ていた。韓国の代表的なデザイナ ー・グループ、ソウル・ ファッショ ンアlト協議会(庁 担任。ロ旨丘三

ョンショーの会場は軽い興奮に揺れ

。包ぽミ)入口にかかげられた青紗灯 龍(赤と青の韓国の伝統的な灯龍) がかすかに光を放つなか、ファッシ

一卜 ・パーク近隣四O番街 に位置したザ・ギャラリー 3宮

﹀目的

同門戸

o n H O コ・ SFAA) の初のニュ ーヨーク・コレク ションのデビュ ー 舞台である。辞潤亨、韓恵子、金東 順、朴潤沫、池春姫など SFAAを 代表して参加した五名のデザイナー

が、ファッションショ ー直前、醇氏 の主導のもと短いが簡潔な祈祷を行 なった J韓国ファッションが世界に も通用するのかに狙いをつけた最初 の試験台である。﹁甘い期待はしな いが最善を尽くしただけのものは得 られる﹂と祈祷の後、五人の力強い 掛け声﹁フアイテイング﹂が、 バッ クステージの騒乱房二瞬整え 舞台の幕が上がった。 叫 ﹁ソウル・コレクション﹂ a p ツというタイトルのもと、五人 か の デ ザ イ ナ ー が 各 自 九 八 ・九

L

ト 九 秋 冬服二五着づつを発表す るカラl ショ l 形式の舞台。 7 ップバッタ ーは、唯 一の男 潤ト 醇 性 デ ザ イ ナ ー 朴 潤 沫 氏。朴氏 沫は シャープな裁断を通してセ クシlで強靭な女性美を追究 杭

苅-の舞台でも男性的な感覚を女

ω 基 す る デ ザ イ ナ ー で あ る。今回

i

。軒性服に加味したフォーマルス コ 韓 l ツをブラック&ホワイトの JK

一 姫 強 烈 な 対 比 で み せ た。 北 喝ヨ 二番手は、カジュアルであ トデ制 ヤ‘、りながらもエレガンスな女性 ギス

美 を 忘 れ な い 池 春 姫 氏 の舞 台。池氏はブラックとグレl、アイ ボリlを基調にしたハl フコl卜と フlドジャケットなどモダンな作品 を発表した。 SFAAの会長ともいえる韓恵子 氏は、シホオンとウール、ベルベッ ト、ジャガードなどの異質な素材を 再構成しボリュームとリズム感のあ

る新しい東洋美を追究した。シース

ルーの上着とロングコ l卜の裏地を 刺繍で処理した作品は、表と内の境 界をなくした点で注目を浴びた。

また、金東順氏は布目の粗いもの と柔らかいもの、男性的なものと女

性的なもの、昔のものと新しいもの の調和を通して新しい試みをし、醇 潤亨はスリップドレスなど、主にイ

ブニングウェアlにポソン(朝鮮足 袋)、福巾着、指貫などの韓国女性の

生活と情緒が込められたアクセサリ

ーを使用し服を着ることの面白さを 追究した。 モダンな感覚の朴潤沫氏からエス ニツクな雰囲気の醇潤亨に至るまで、 ショーは終始、東洋と西洋が応呼す るように一塊となり西洋の観客に深

い印象を残した。今回のショーを観 た米国のファッション専門日刊紙 W W D (ぞ052-M巧 日R U山口三のある記 者は、﹁五名のデザイナー全ての服が

個性的で、ショーも余分なもののな いシンプルな演 出 がなされていた。 米国でも十分に市場性のある作品、だ﹂

と好評した。 舞台の上に集中していた照明が暗

転し、次の瞬間、 一斉にショ l会場 全体を照ら し出し ショ ーの終わりを 告げた時、バックステージではぴん と張った緊張の糸を解けずにいたデ ザイナーたちが、それまで我慢して

いた長い息を吐き 出した 。全身の脈 がすっとほぐれていくなか、二五日 ソウル金浦空港を発ってからフアツ

8 9

ー コ ・ ・ ・ ・ 圃 .

『日刊スポーツ』記者

. 李星姫

ク • コ レク シ ー園田・園町' ,田園園町'

, 園 田 ・ 圃 .

ファッションアー 卜協議会 ソウノレ

I

~ ω~尉. . べ : ー

三 │ 墜皇室:長


I

: ' _ ,, 三 与 三 九 三 ~,'

γ 一円.守弓CURRENTS -

! 日-シン

。ogo ファッションショーで発表された衣裳の数々 、(左上から時計回り!こ)朴潤沫、韓恵子、金東順の作品

シヨンショ l当日までの瞬間瞬間が 走馬灯のように脳裏をかすめた。

米国に到着するや、 二六日のオー ディションで 一五名のモデルを選抜 し、二七日には SFAAデザイナー のニュ ーヨー ク・コレクション進出

に決定的な助力を与えた世界ファッ ショングループ ( 22Egoo吾

ZEBEES三宮こ のセミナーに 出席、

二八日舞台照明とショ!の進行を決 定するために会場の現場調査を行な い 、 二九1三O日作品の最終手直し のためのピl ティング作業を行なう など、息つく暇なく慌ただしく 過ぎ 去った 一週間だった。初対面のうえ、 言語疎 通もよくできないモデルたち に、自分たちの服をどのように着て 表現してほしいかを注文することは 簡単なことではない。さらに、国際 舞台で知名度もない韓国デザイナー

たちの舞台に関心を持 ってほしいと 世界各国から来ているプレスやバイ ヤーたちを説得する作業にもひとか たならぬものがあった。カルビン・

クライン、アンナ ・スイ、ラルフ ・ ローレンなど世界的なデザイナーの ショーだけでも五O余りが開かれる ニューヨーク・フ ァッション ・ウィ

ーク期間ではないか。しかし、世界 のファッション舞台の中心地ニュー ヨークに韓国フ ァッション最初の旗 を立てるため、織列⋮な準備をしてき た何 ヵ月聞かの努力に後悔はなかっ

た 。

SFAAのデザイナーたちがニユ

9 0


ーヨlク ・コレクション進出を決行 したのは、最近、韓国に広がってい る為替危機とこれによる経済不況の 余波が大きく影響している。昨年十 二月、 I M F (国際通貨基金)救済 金融が入ってきて以降、韓国のファ ッション業界は揺れに揺れている。 チンド、シンウォン、ナサンなど巨 大なファッション企業が相次いで倒 産危機に見舞わられ、急激な衣料消 費支出の減少は衣料製作社だけでな く、布地と繊維業体にまで大きな波 及効果を及ぼした。昨年末までに倒 産した中小衣料繊維業体だけでも一

O O社余りにのぼると推測されてい

ここには、九O年の正式発足以来、 圏内最高水準のデザイナーグル ープ

も優れており、海外市場の開拓は順 調とみている﹂と自信のほどを見せ ている。米国市場が最大の活況期を

らも、商品の価格競争力はむしろ高 の関心が高くなっているからなのか、 東洋的色彩の強いこれらの作品に早 くなった。縫製状態など商品の質的 な側面で、同じ価格の海外商品より ' くも幾かの現地販売代行社が関心を

ある。

として韓国ファッションの発達史と 足跡をともにする SFAAが率先し て垂範の精神をみせなければならな

迎えているように、ニューヨーク・ ファッションを通じて米国市場の攻 略に踏み切ろうという目標もある 。 初のファ ッションジョ ーが終わ っ

回のニューヨーク ・コレクション進 出を契機に、今後、毎年春秋に 一度 づっ、ニューヨーク・コレクション

いる﹂と語った。 SFAAのデザイナーたちは、今

同じ席につくのが重要なことを S F A Aのデザイナーたちは良く知って

裡に根をおろすためには、信頼を積 み重ねることが必須。為替差益で漁 夫の利を得る一時のビジネスより、 たゆみなくコレクションの舞台に立 ち、本当のファッション人として認 められ、国際的ビジネス相手として

ョン広報企画社(株)コデオ(円急 O) 代表の丁基子氏は﹁海外市場に成功

はない。 SFAAのニューヨ ーク・ コレクション進出を総括しファ ッシ

い﹂という韓国の諺を忘れたわけで

持ち、販売マネ一 │ジャ│契約を 打診 してきている。 もちろん、 SFAA関係者たちが ご匙の飯では腹いっぱいにはならな

い時だとの認識もあった。韓恵子会 長は、﹁コレクションが流行を創り出 し、バイヤーを通じて商品の流通を

た後、これらの作品はそのままマン ハッタン五番街に位置する世界ファ ッション ・グループの ニ ューヨ ーク 本部コンフォロンスルームに移され、 三月= 二 日と四月一日の二日間、展 示会を行なった。バイヤ ーたちとの 商談のためである。経費不足で展示 場の準備が難しかった彼らに、平素 から韓恵子と親しい間柄でニューヨ ーク ・コレクション参加を積極的に 激励した世界ファッション・グルー プ会長マーガレット ・ヘイズが快く コンフォロンスルームを貸してくれ た。世界的にオリエンタルなものへ

ロ ロ

促進する場にな っている海外と違い 国内ではコレクションが単に流行を 提示する﹃ショーのためのショ l に終わっている。コレクション期間 中、本格的な商談にまで広がらない 圏内ファッション流通業界に刺激を 与えるためにも、中堅デザイナ ー の 海外進出を通してファッション流通 の正道を歩まなければならない時と 考えた﹂と語った。 為替率の高騰する外為危機が、輸 出企業にはむしろ好機として作用す るという判断にもよっている。参加 者の朴潤沫氏は、﹁昨年の初めに比べ 為替率が二倍に跳ね上がっていなが

参加を定例化する予定である 。また、 ニューヨーク現地に今年中に常設の ショールームを設け、ブランドの認 知を広めるとともに持続的な商談も 広げていく計画もある。韓国に本格 、 的な洋裁が入ってからわずか五O年 韓国的な線と色、形が世界のファッ ション・トレンドに小さいながらも

A'

意味のある絵を今まさに描き始めよ うとしている。

9 1

るほどである。 SFAAのデザイナ ーたちは﹁危機はチャンス﹂という 命題に忠実に従った。総体的な国家 経済危機のなか、国内市場だけを対 象にしたファッション産業の限界を

のO O O

ファッシ ョン シ ョーで発表された衣裳

実感し、グ ロー バル ・マーケッ トを 指向するためには国際的な行事に参 加し、韓国ファッションの水準を広 報することが切実だと判断したので

の数々、(上から )池春姫 、醇潤亨の作

目 CURR 剖


と . ょ . 広 三 ァ ; ー . 竺 l 1 l i ケ.凶TS&EXHIBITS

の と

人類の文化芸術の遺産が集積され ている世界的博物館に独立の国家 室が設置されるということは、そ

世界三大博物館の中の一つである アメリカ・メトロポリタン博物館 に韓国室が関かれる。

J 明 P 司 犬 同CZ

メトロポリタン博物館に韓 国室が開館

又 4 じ

待遇をするということにほかなら

の国の文化芸術の伝統の独創性と 優秀性を広く認め、それに見合う

めてである。 海外の博物館に独立した韓国展示

ないため、韓国の文化芸術界にと っては重大な意味を持っている。

セックス博物館、カナダの王立オ ンタリオ博物館、イギリスの大英 博物館、フランスの東洋専門国立

る。更に、財団の支援で今年下半 期からアメリカのロスアンゼルス のカウンティ博物館とビバディエ

工芸芸術博物館、イギリスのビク トリア・アルバ l ト 博 物 館 、 オ ラ ンダの国立博物館、日本の東京民 芸館などに韓国室が設置されてい

になった。現在、アメリカのサン フランシス コ東 洋 博 物 館 、 シ ア ト ポ 1トランド博物 ル東洋博物館、 ・ 館、デイトン博物館、ドイツのケ ルン東アジア博物館、ハンブルグ

室 が 設 置 さ れ 始 め た の は 一九八0 年代末からであり、一九九二年、 韓国国際交流財団が海外博物館の 韓国室設置を財政的に支援し始め てから、さらに活気をおびるよう

更に、独立した韓国室に展示され る優秀な伝統文化遺産を通して、 年間六O O万 名 に 達 す る メ ト ロ ポ リタン博物館の観覧客に、誇り高 い韓国文 化の 精 随 を 披 露 で き る よ うになったのである。 メト ロポリタ ン博物館のアジア館 二階に四八坪規模で設置される韓 国室は、﹁アl 卜・オブ・コリア﹂ という名で六月七日開館される。 開館記念展が六月七日から来年の 一月までおよそ八ヶ 月 問 、 約 一 O O点余りの展示品で開催されるが、 ここには 三 国 時 代 の 仏 像 の 傑 作 と される国宝第七八号の﹁金銅弥勅 一銅 銀 入 総 蒲 柳 菩薩半蜘像﹂や﹁青

博物館であるギメット博物館など に、韓国室が次々と設置され開館

当な数の韓国古美術品を保有して いる博物館が、韓国室の設置と開 館を計画しており、財団の支援を 要請している。

される予定である。その他にも、 北アメリカとヨーロッパ各地で相 館などから貸与展示される。 一九 八0 年 代 ア メ リ カ と ヨ ー ロ ッ パ の 主 要 国 家 を 巡 回 し た ﹁韓国 美術五

水禽文浄瓶﹂(国宝九 二)、﹁紺紙銀 泥大方庚悌華厳経﹂(国宝二一五)、 風俗画帳﹂(宝物 檀園・金弘道の ﹁ 五二七)など国宝級、宝物級文化 財八O 点 余 り が 韓 国 の 国 立 中 央 博 物館、国立慶州博物館、湖巌美術

千年展﹂以来、これら文化財が海 外に出ていくのは初めてであり、

ベルリンにある世界文化会館は

ェステ ィバル

ドイツ・ベルリンの韓国フ 特 に 、 海 外 単 一の 博 物 館 に 国 宝 と 宝物級文化財がこのように大規模 に長期展示されるのは、今回が初

四月 二日 か ら 六 月 一 四 日 ま で 約 七 0 日間﹁虎の年 1 韓国﹂という主 題で、韓国の現代美術、音楽、演 劇、舞踊、伝統クツ(伝統的な亙 女の儀式)など、韓国文化を総合 的に紹介する。ドイツ政府とベル

リン市当局の財政的支援を受けて 運営される世界文化会館は、韓国

フェスティバルを通して伝統と現 代の調和、シャーマニズムなど、

韓国文化の特性をドイツ人たちに 伝える計画である 。 初日の四月二日、金徳沫サムルノ リペ・ハンウルリムのサムルノリ、

慶応開幕され 明唱安淑善の歌で華 一

た韓国フェスティバルでは、人間 国宝第八二号の金錦花のクツパン

(クツの舞台)、演劇演出家李潤揮 の﹃悪鬼!死の形式﹄(五月一 1 二 日)と金亜羅の﹃エディプスとの

旅行﹄(六月五1 六日)、舞踊家洪

信子の﹃ピルク リ マジユ﹄(五月一 六1 一七日)、金賢玉舞踊団の創作 舞踊、﹃罪伊桑に敬意を﹄(五月九 日)など多様な公演が行われる 。

また、活発な活動を見せている三 01四O 代 の 作 家 た ち の 韓 国 現 代 美 術 展 と 韓 国 フ ァ ッションア l 卜

展、更に、アジア三か国の書道を 比較 で き る 韓 ・中・白 書 道 展 も 開 かれる。 今度の行事を通してヨーロッパ文 化 の中心地であるドイツに韓国の 魂を植え付けることができるもの と期待される。

9 2


ペEVENTS&E X H I B I T S.

存ななの展三湖 れこ点仏品展幅で国陀きと 都板副欄齢、 衆 る 煩 示 。 巌 てにの像テ示広形に仏るし メ 似 劃 幽臥 生生悩 日美 いは所、│はく成伝信寺、 慨 も み潤罷極圏独立命をしま術 て国蔵 仏 マ湖根さ播 仰 つ f t ..~昌殿涯銭a冨調甥腔謝E を照ァで館 関宝晶画展巌をれさは祈 N l f 唖話路面!:G置量福富羽田植 持らよ阿は 心 三 で、と美下たれ、願 い~'/;J膨刻初刊E・E・4温眠 っす与弥 を点構経し術ろもる仏し 臨祉 ¥ 広通過・圃踊置賜 た限 1陀 三

2

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(五七一年)

i~(.劉置齢、

を 開 催 し た 。 四 月 一五 日 か ら 一 ヶ

る﹃二O O人 彫 刻 家 小 型作品展﹄

目として彫刻家一一一一人の参加す

との距離感を縮め、囲内の彫刻界

見せる小型作品などを通して大衆

の世界が圧縮され、独特な妙味を

今度の展示は、作家の個性と造形

像彫刻、浮き彫りなど多燥な作品 などが披露された 。

ブジエ彫刻、ホログレム彫刻、映

月の問、画廊開館一二周年を記念

のとき制作された﹁金銅辛卯銘 三

り、すでに三国時代に阿弥陀信 仰

作の由来、年代などが刻まれてお

して開催された今度の展示に出品

の多様な流れを見せるのに力点を

昨年﹃二O O人の作家一号展﹄で 好評を博した ﹁ 選 ﹂ 画廊が、 二 回

が存在していたことを表している。

置いた。これを通して一般の美術

尊仏﹂(国宝八五号)は、圏内最古 の阿 弥 陀 仏 像 で 、 光 背 の 裏 面 に 制

仏画としては阿弥陀仏の慈悲 心と

大きさ以下の小型で、展示のため

さ れ た 作 品 は 、 殆 ど 四0 センチの

泳 中 、 関福鎮、雀満麟、厳泰丁、

参加した作家たちは、表英子、金

おいては不況である時ほど大衆の

知りえる場となったし、画廊界に

同時に我々の現代彫刻の現住所を

新作小品を安く求めることができ、

愛好家たちには、有名な彫刻家の

沈 文 堂 、 美 寛 旭 、 朴 賞 、 沈英首、

中 に 入 って い く 多 様 な ア イ デ ィ ア

に新しく制作されたものである。

知恵の力を、繊細な線とおだやか な表情、完壁な構成で表現した ﹁阿 弥 陀 三 尊 図 ﹂ ( 国 宝 一二 八 号 )

韓愛査、李亨雨、安室哲、琴ヌリ

が注目されており、今回初めて公 思王(一三六

開された高一麗恭

氏 な ど 、 七O 代 の 元 老 か ら 二O 代

一度実感させてくれる契機となっ

が開発されるべき必要性を、もう

﹁弥陀発

の新人まで国内彫刻界で活発に活

三年)の時の

動中の作家たちで 、 石の彫刻とブ

た 。

は、四

ロン ズ を 始 め と し て 木 の 彫 刻 と オ

﹃ 徐政泰

廊(四月一五1 二八日)、錦湖美術

野心あふれた連作展示を東山房画

中堅作家徐政泰氏が、五年ぶりに

彩色画の現代化に没頭してきた

h

願文﹂

つ 1l/¥P

いの韓紙に三

O O人余りの 自筆の名前が 極楽往生の祈願といっしょにあり、 当時の西方浄土に対する熱望をは

九五年光 州 ビエンナーレ、九六

た 。

館(四月一 五i 五月三 日) で聞い

年パリ国際現代美術見本市で好評

を博し、今年の若い作家賞など大

遺物で構成されていて、特定の宗 体系であり、芸術の素材としての

展示の主題は﹁青い肖像﹂で、人

口問中心の二O点が展示された。

作中心の三五点、東山房画廊で小

の今度の展示は、錦湖美術館で大

きな美術賞を受けたりもした作家

教をはなれ、既に我が民族の信仰

ま で の 一 三O O年 に わ た る 多 様 な

この 展 示 は 三 国 時 代 か ら 朝 鮮 時 代

かり知ることができる。

位置を占めていた阿弥陀信仰を考

察してみるいい機会となっている。 ﹃一

O O人の 彫刻家 の小型 作品展﹄

9 3

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ゑ 1 f 1 陀無ち 、い五て具陀める韓中ン。土心な 陀仏阿は衆るめて光仏題か道 高ぞ点おな仏て。国央ドこにのが?仏 . . . . 生てに、とはにら龍 句 もりど関の A でアかの往拠亘~, '''' ..._ ム ザ 来 惰 永 衆 し 八 仁

阿弥陀 ﹄展 滞巌美術館の ﹃

引と成典て館しの過教て極陀をに(弥南たか在救仏り阿仏月


EVENTS&E X H I B I T 物の歪められた形を通して漠然と した絶望と悲しみ、ノスタルジ! の間で繰り広げられる人間の訪僅 と孤独を奥深く描きだした。技法 面でも西洋のテンペラ技法、木版 画の味を生かした作業が披露され た。即ち、テンペラ技法を引き出

中の疎外と孤独が実生活でどんな 姿で現れるかをより具体化してみ せるというこれからの計画を明ら かにもした。

え 術 l 生局 ﹃ 陶磁器と共にする韓菓物

語﹄展 陶芸家が作った生活磁器に伝統韓 菓(韓国のお菓子)を調和させた 変 わ っ た 展 示 が 、 四 月 一 五1 二O 日 、 ソ ウ ル の 寛 勲 洞 ガ ナ ・ アl ト スペースで聞かれた。 ﹁カマソツ﹂(韓国飲食経営研究会) が主催したこの展示は、陶磁器と 伝統韓菓の生活化のために設けら れ、季節ごとに分けられ作られた 茶菓膳(茶やお菓子を乗せる膳) に各種の餅と茶食(お菓子の一種)、 正菓(果物や蓮根、大根などを水 飴、砂糖で煮詰めたお菓子)、カン

っ存ん。

るった各種韓菓と金大勲氏など七 人の作家が作った生活陶磁器が 一 つに合わさった今度の展示会には 茶菓子の献立の試演もいっしょに 開かれ、伝統の香りが漂う場とな

、す楽

韓国の近代音楽の先駆者である蘭 坂・洪永厚(一八九八1 一九四 一) の生誕百周年を迎え、記念大音楽 会が四月一 一1 一一一日水原とソウ ルで引き続いて開かれた。今度の 音楽会は、彼の音楽の業績を讃え

洪積域生誕一 O O周年記念 行事

作った菓子)などがのせられた。 今度の展示は洋菓子を主として使 っていたデザートを、独特な美感 と装飾性の引き立った韓菓に替え

るための大音楽会で、彼の﹃管弦 楽を集めた曲﹄、﹃バイオリンとオ

し、色感を透明にし、その変化を 多様にした。これと共に木版画の 彫刻万の彫り味と色彩の力を絵に 生かすために、筆の代わりに雑巾 を使って色を付けた後、乾く前に ふき取るやり方を使ったりもした。 雑巾を木版画の彫刻万のつもりで 作業した作品は、彩色画のやわら

ることのできる可能性を見せてく れた。

ーケストラのための器楽曲﹄、﹃鳳 仙花の旋律によるピアノ協奏曲﹄

ジョン(もち米の粉で作った菓子 の 一種)、果片、熟実果(小麦粉な

かい弱々しさを飛び越える力強い 彩色、韓国函の世界を展開してみ

韓泳輔氏など﹁カマソッ・韓国飲 食経営研究会﹂会員十人が腕を振

どを油揚げにして蜜などをぬって

せたと評価された。 作家はこの展示を終えて、観念の

などが水原市交響楽 団 、 K B S交 響 楽 団 などにより演奏され

た 。 一八九八年水原で生 まれた蘭披は、韓国

近代音楽の父として 崇められた民族音楽 家として﹁最初﹂と いう修飾語が最も多

く付けられている。 バイオリニストであ った彼は蘭披トリオを結成し、最 初に室内楽活動に力を入れたし、 韓国で最初に交響曲を全楽章演奏

したりもした。最初の音楽の雑誌 である﹃音楽界﹄と﹃朝鮮童謡一

0 0曲集﹄、﹃朝鮮歌謡作曲集﹄の

出版も彼の功労である。 このように近代音楽の先駆者とし て崇められた彼であるが、 一方で は親日団体と関連のあったいくつ かの事件によって、その是非を原 罪のごとくにとどめている歴史の

生け費でもある。本当は拷間後遺 症で四四才で惜しくもこの世を去 ったにもかかわらずである。

今日、後世の音楽家たちは、彼を 西洋音楽が韓国に根をおろせるよ

うに種をまいた作曲家として評価 している。

志木ム宮

韓国オペラ五O 周年祝賀音

今年で韓国オペラ五O周年を迎え

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発刊とシンポジウム開催など記念 事業も多彩に推進している。 その最初の行事として﹃オペラカ

る韓国音楽界が、大規模な祝賀音 楽 会 を 開 催 し 、 オ ペ ラ 五O 年史の

大韓民国国楽祭

文化開館で聞かれた。

ラl コンサート﹄(芸術の殿堂)が、 四月 一八 日 韓 国 オ ペ ラ 五O 周年記 念祝賀推進委員会の主催で聞かれ た 。 こ の 公 演 は 、 五0 年 間 を 通 し てよく自主公演された作品を中心 に 、 初 演 の 時 の 出 演 陣 か ら 三O 代 までの全てが登場する大型舞台で 行われた。 韓国オペラは、一九四八年、李寅 善が韓国音楽史上最初の民間オペ

島 固 有 の 土 俗 ・民俗遊びであ るカ ンガンスルレ、珍島太鼓遊技、野 うた(珍島地方の農謡のひとつ) タシレギ(珍島地方で棺興が出る 葬式が行われる前夜、通夜の家で や る 棺 の 担 ぎ 手 の 笑 劇 )公 演など も面白おかしく繰り広げられた 。 一方、珍島の民俗祭である 霊登祭 は 、 海 に 道 が で き る 四 月 二六日か ら三 日 間 珍 島 群 古 群 面 で 関 か れ た 。 珍島では毎年、陰暦三月潮水干満 の差により幅四0 1六O メーター の道が海にでき陸地と繋がるのだ が 、 こ れ を 韓 国 版 モl セ の 奇 跡 だ とも言い、霊登祭はこれを記念す るお祭りである 。

檀では、儒教式の熊津檀祭礼が行

山)の 一帯 で 再 現 さ れ た 。 公 州 市 と忠清南道が主催し、公州民俗劇 博物館が主管した今度の祝祭は 一 一日 明 け 方 六 時 に 始 ま り 、 二 一 日 まで鶏龍山新元寺 一帯で開かれた。 一 一 日には鶏龍山で公州郷校主管 で儒教式の祭礼が、コムナル熊津

朝鮮時代末まで国泰民安を祈願 し、国のお祭りとして行われてい た鶏龍山 ・山 神 祭 が 四 月 一 一 1一 二日 の 二 日 間 公 州 ( 錦 江 辺 と 鶏 龍

吾余年ぶりに再現された鶏 龍山・山神祭

1~十

ラ団体である﹁国際オペラ社﹂を 創立、ソウルの明洞で﹃ラ・卜ラ 圏内最高の権威を誇る国楽の行事

舞踊、唱劇、農楽など多様なジャ ンルを余すところなく披露した。 特に、今度の国楽祭は、海の道が 開く時に 合 わ せ 開 催 さ れ る 珍 島 の

ビ│夕﹄を公演したのが最初であ る。その後、数多くの公演がいた る所で開かれたし、現在全国で活 動中の団体だけでも=二にいたる ほどの成長と発展を重ねてきた。 創 作 オ ペ ラ も 一 九 五O 年に披露さ れた﹃春香伝﹄をはじめとし、 三 O曲 余 り に 達 し て い る が 、 推 進 委 員会は全声楽家五千人余りの中 一 五O O人 余 り が 、 今 度 の 行 事 に 参 加するものと期待している 。 そして元老たちの証言をもとに整

民俗祭である霊登祭と共に、新人 と既成田楽家たちのお祭りハンマ ダ ン (一つの場)となった。 今度の国楽祭ではパンソリの名唱 の舞台とい っしょにカヤグム(琴) と花仙舞などが披露され、また珍

である大韓民国国楽祭が、四月二 三日から二五日までソウルと全羅 南道珍島で聞かれた。今年で一八 回目になる大韓民国国楽祭は、伝 統 公 演 芸 術 界 元 老 と 重 鎮 一五O O 名余りがこぞって参加し、国楽、

理 し た 略 史 と 五0 年 間 の オ ペラ公 演年表を収録した﹃韓国オペラ五 O年 史 ﹄ が 発 刊 さ れ た 。 こ れ と 共 に﹁一二世紀韓国オペラの進んで いく方向と諜題 ﹂ を主題としたシ ン ポ ジ ウ ム も ま た 、 四 月 七 日世宗

われたし、ひき続いて鶏龍山周辺 の村の住民たちの風物遊びと忠清 道亙俗家たちが参加する山神クツ

が、それぞれ繰り広げられた。そ して 二一 日 に は 仏 教 式 山 神 祭 と 風 物遊びが披露されたあと珍島・シ

ツキ ム ク ッ と ソ ウ ル ・セナムク ツ など、 全国 各 地 の ク ッ (亙女の儀 式)が再現された。 朝鮮 王室 は毎年妙香山(北岳)、

鶏龍山(中岳)、智異山(南岳) の 三岳で、 仲春・陰暦 三月一五日と仲 秋 ・陰暦八月 一五日に、国家の安泰 を祈願する国行山神祭をしたが、王

が香と供物、祝文などを遣わしたく らい重要な国の行事であった。 一九 世紀末以後、日帝によ って脈が断た

れていたが昨年公州民俗劇博物館 (館長一沈雨農)の徽密な考証を経 て復元された。

9 5

E 竺?三.己三三-空 EV 凶ii1瓦巨m l 的-


りなく真面目な聞いを投げかける

た独特な作品の世界に、観客に限

て発行する。このため全ての作品

二八巻規模の﹃李清 俊 全集﹄とし

一、 編 全 て の 作 品 を 主 題 別 に ま と一 め

達 の 天 国 ﹄ を 始 め と する 総一

O

を自ら整理する。代表作﹃あなた

の疎通がうまくいかず、結局使い

に見える夫婦であるが、世の中と

照耕の﹃妻の箱﹄(原題一不妊蝿) が選ばれた。見かけは平穏のよう

箱 文 学 賞 受 賞 作 と し て 小 説 家 ・股

李康白は比喰と寓話的技法を使っ

んで使い、社会に対する批判的気

作 家 と し て 、 ア レ ゴ リ ー 方 法 を好

る妻の話を描いたこの作品は、 他

の人と同じでないという理由で疎

も の に な ら な い と し て 追 い 出 され

外される人たちの傷を見せてくれ

に対して作家自身の細かい修正を

る。また、この作品を始めとして

経て決定版を出す予定であり、文 学 評 論 家 ・爵燦済氏など何人かの

孔枝泳、金仁淑、朴相馬などの候

四年の作品﹃五つ﹄でデビューし

編集委員たちが参与し、 一人 の 作 家の自己点検を越えて、韓国の現

質の強い作品を発表してきた。七

代小説の軌跡を整理する作業とな

補作が一緒に収録された﹃九八李 文学エリートとともに大衆から愛

家である。

て以来 三O 編 余 り の 創 作 戯 曲 を 舞 台に上げてきた力量のある戯曲作

葦を折らない﹄以後、ちょう、戸二

(ムンイ堂)を発表した。﹃洪魚﹄は ﹃客主﹄、、﹃禾尺﹄など大河長編を 主に発表してきた作家が﹃漁夫は

箱文学賞受賞作品集﹄が文学思想 社から出版された。

ることが期待されている。 されている韓国詩檀の代表的詩人 黄 東 歪 が 、 今 年 で 文 壇 人 生 四O 年 と還暦を迎える。これに当たり、 全二巻の﹃黄東套全集﹄ 、黄東牽が 書いた散文と彼の文学に関する評 論を集めた﹃黄東査を深く読む﹄ が文学と知性社から発行される。

家の作品世界を多様に分析する芸

中堅小説家金周栄が長編﹃洪魚﹄

術祭である今日の作家シリーズは、

演劇発展に寄与した圏内の代表作

今日の作家シリ ーズ ﹃ 戯曲 作家・李康自の演 劇祭﹄

JÌ~J

吉宮で共にする ﹃ 韓毘伝統 文化芸術祭 ﹄

我々の周辺でなかなか見ることの

の踊り、農楽などを毎月公演する

舞を始めとし、宝相舞、春鴬鴫な どと、楽しくて浮き浮きする太鼓

できない伝統宮中舞踊である慮容

五0 年 代 の 僻 地 を 背 景 に 十 三 才 の

文 化空 間 が で き た 。 徳 寿 宮 の 中 和 殿の前で、毎月第三日曜日ごとに

宗廟祭礼楽と慮容舞の無形文 化財 として国楽界の生きた教科書とい

開かれる﹃韓国伝統文化芸術祭﹄ がそれである。 げられ 、 不況の 出 版 界 に 新 し い 風

行事では、宮中舞踊である宝相舞、

われる金千興翁が解説をするこの 文学思想社が主管する第 二二 回李

を起こしている。

純文学としてはベストセラーにあ

一ヶ月の問に五万部を越えるなど

せてくれているこの作品は、出版

方の本来の姿を水彩画のように見

少年を主人公にし、韓国人の生き

O 年ぶりに発表した長編である。

重鎮作家李清俊が文学人生 三三 年

の他

李清俊文 学三三 年の作品一

るが、今年は戯曲作家李康白に焦 一四 日 ま で 、 芸 術 の 殿 堂 の 自 由 小

点をあてた。四月一六日から六月 劇場と土月劇場で彼の初期作品で ある﹃ネマ﹄を始め、﹃ジユラ紀の 人々﹄、﹃寧越行日記﹄と最近作 ﹃感じ、極楽のような﹄など時代の 違った四編を選定し舞台に上げて いる。

一 一 O編余りの全 集作業とそ

九 四 年 か ら 二年 ご と に 開 か れ て い

ム人叩写

9 6


春鴬嶋、慮容舞、民俗舞踊、僧舞 のほか笛独奏と太鼓の踊り、農楽 などが一所に集まり、宮中文化の 宴を繰り広げる。特に、早春の朝、 木の校で歌ううぐいすの姿を舞踊 化した春鴬鴫は、韓国伝統文化研 究院の代表である印南順が直接公 演し好評を受けた。一方僧舞芸能 保有者である李愛珠(重要無形文 化財 ・人 間 国 宝 第 二 七 号 ) が 特 別 出演し、優雅な僧舞を披露した。 この行事は韓国伝統文化研究院が 主催し、文 化観 光 部 宮 中 遺 物 展 示 館などが後援し、一九九八年四月 一九日の初演を皮切りに、同年十 月まで進行する予定である。

画人として 一生 の 業 績 を 讃 え る 功 労賞の性格の特別賞である。黒沢 明監督が最初の受賞者であり、 ロ

月 二三 日 か ら 五 月 七 日 ま で ア メ リ カ ・サンフランシスコで開かれた第 四一回サンフランシスコ国際映画祭 で特別賞である黒沢賞を受賞した。 この賞は日本映画の巨匠である黒 沢明監督の名を取ったもので 、映

韓国映画の巨匠・林権津監督が四

林権運監 督、サンフランシ スコ映画祭で特別賞受賞

見 失 l ベ ル ブ レ ソ ン 、 ス テ ン リl ・ド ー ナン、ア l ソ・ペンなど、 そう

列に名を連ねている。 林権揮監督の受賞と共に映画祭で は﹃蔓陀羅﹄ 、 ﹃チケッ ト ﹄、﹃シバ

そうたる監督たちが歴代受賞者の

自、江原道を旅しながら経験する 日常の風景を綴った映画で、デビ

ある大学の講師と女子大生が、各

ュー 作 で あ る ﹃ 豚 が 井 戸 に 落 ち た 日﹄以後 、 一貫 し て 追 及 し て い る 残忍なまでにつまらない日常生活 と、きまりきった感情を頑固なく

らい淡々として精巧にとらえてい る映画である。 二 五人の監督﹂部門に招請され

ジ﹄、﹃西便制﹄、﹃太白 山 脈﹄など、 林監督の代表作五編が集中上映さ れる﹃林権津特別展﹄も聞かれた。

た李光模監督の﹃美しい時は﹄、全

一方 こ の 映 画 祭 は 、 林 監 督 の 作 品 の他にも李治東監督の﹃緑の魚﹄ ン﹄が招請上映された。

と 朴 起 捕 監 督 の ﹃ も l テルサボテ

世 界 か ら 出 品 された七五O 編余り と織烈な競り合いの末、 ﹁一五人の 監督﹂部門の上映作に選ばれた。

れるなど、今度のカンヌ映画祭で は韓国映画が大々的に出品され好 評を受けた。

リスマス﹄が、国際批評家週間に 出品され全部で九回も公開上映さ

このほかにも死を前にした青年の 最後の生と愛、孤独を繊細に淡々 と描いた許秦豪監督の﹃八月のク

の映画は モ ン ト リ オ ー ル 映 画 祭 と サンセパスチャン映画祭にも招請 の申し入れを受けた。

い少年たちの目に映った戦争の傷 跡を描いた内容で、美しい画 面 と 優雅なスタイル、感動的で繊細な 演出などで高い評価を受けた。こ

が初めてである。 この映画は韓国戦争を背景に、幼

名監督の登竜門で、韓国映画がこ の部門に進出したのはやはり今度

この 一五 人 の 監 督 部 門 は 、 世 界 的 に 有 名 な 監 督 た ち が 辿 っ て い った

フランス・カンヌ映醸祭に 韓国の映画田編出品 五月一 三 日から 二四日まで、 フラ ンスのカンヌで開かれる第五一回 カンヌ映画祭に韓国の映画四編が 出品され、話題を呼んだ。まず、 毎年一五編ていどが選ばれる短編 映画競争部門に出品された越恩給 監督の﹃スケート﹄(三五ミリ白黒、 一 O 分 ) は 、 ス ケ ー トをしている 少女と身体障害者の少年の出逢い を通して、普通の人が身体障害者 に初めて出逢った時感じる馴染め ない妙な感情を、寓話的に描き出 した作品である。この部門に韓国 映画が出品されたのは初めてであ る 。 洪尚秀監督の﹃江原道の力﹄は、 芸術性に大きな成果を上げた作品 であるが、注目に値する新人監督 を主に選ぶ﹁注目に値する視線﹂ 部門に出品された。不倫の関係で

9 7

-三三三-ピ与 f三 - 目 EVENTS& E X H I B I T S


韓国国際交流財団の 海外での フエローシッフ・フログラム 韓国研究に対する支援 韓国国際交流財団は、毎年実施している韓国研究フエロ ーシップお よび韓国語フエ ローシップを次にように ご案内いたします。

韓国国際交流財団は、海外の大学、研究所などで韓国に関する研究 や韓国語講座の開設などを行なう場合、これを支援しております。人 文 ・社会科学 ・芸術分野のうち下記の項目に該当するプログラムにつ いて支援申請を受け付けております。 ①韓国学、韓国語など韓国関連講座の開設及び拡大。 @韓国学研究の大学院生並びに教授に対する奨学金または研究費支援。 1日で、選抜の結果および支援 上の申請のしめ切りは該当年の 5月3

穏国研究フ エローシップ

額については、同年 I I 月3 0日までに申請者に通報いたします。 上記の「海外での緯国研究に対す る支援」および「穏国国際交流財団 のフエローシップ・フ。 ログラム」の 申請書および案内書は、韓国国際交 流財固または現地の緯国公館で求め られます。申請書および案内などに ついてのお問い合わせは、下記の住 所宛にご連絡願います。 緯国国際交流財団国際協力 1部 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函

2 1 4 7号

電話 8 2 2 7 5 3 3 4 6 4

3 1 日までに通報いたします。

F A X:8 2 2 7 5 7 2 0 4 7・2 0 4 9

鑓国語フ ェ口一シップ 韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生 ・学者 および適格の専門家に対して韓国語フエローシップを提供し、 6~ 12 カ

月間、韓国内の大学で韓国語講座を受講できる機会を与えております。 フエローシップを与えられることが決まった方には、韓国内の大学の うちの一つの韓国語講座を受講することができ、受講期間中には、授 業料と所定の滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の 月3 1日までに韓国国際交流財団に提出 申請書を作成のうえ、該当年の5 してください。選抜の結果は同年 8月3 1日までに通報いたします。 申請書および案内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛に ご連絡願います。 穏国国際交流財団国際協力 2部 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函2 1 4 7 号

電話:8 2 27 53 6 4 6 5 0 4 9 F A X :8 2 2 7 5 7 2 0 4 7・2

KOREAFOCUS (コリア・フォーカス) (韓国の時事問題関係隔月刊誌) OCUS ( コリア・ フ ォーカス) 韓国国際交流財団は、隔月刊誌KOREAF を刊行しております。 「 コリア・フ ォーカス Jは日本の皆様に韓国関連 の情報を提供して韓日両国間の理解を深めていくことを目的としており ます。

同財団は「コリア・フォーカス Jが日本の皆様にとって韓国に関する 有益な参考資料になるものと信じます。 、 日本語版のほかに英文版 KOREAFO CUS 「 コリア・フォーカ スj は も刊行しておりますが、同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係雑誌、 学術誌などの刊行物から翻訳、記載した ものです。 「コリア ・フォーカス」が取り上げて いる記事は、韓国の政治 ・経済・社会・ 文化などの各分野と、韓国関連の国際問 題にわた っており、このほか韓国に関す る重要な資料と主な事件の日誌も掲載し ておりますJしたがって、緯国の時事問 題に関する情報性記事が幅広く盛り込ま れていて、韓国の現実に リアルに接して いただけるに違いありません。

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