Koreana Winter 1997 (Japanese)

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笑顔がこぼれるおしゃれな空間

私は韓国のロッテで、ステキな笑顔を見つけてきました。 日本語の上手な販売員の親切で行き届いたサービス、 地下鉄と連結された便利なロケーション、 1300坪余りの広々とした届肉、 それに400以上の豊富なブランドと 20屈もの有名ブティックで 心ゆくまでショッピングを楽しめるから。 でも口ツテの楽しみは、それだけじゃありません。 垢すり工ステやゴージャスなサウナのあるホテル。 屋内テーマ/ ' ¥ ークの口ッテワー j レド・アドベンチャーと 湖に浮かぶおとぎの島マジック・アイランド。 韓国 5000年の歴史が一目でわかる民俗博物館。 短い旅行を充実させてくれる施設が、たくさんあるからです。 欲張りな私に満足を与えてくれるワンダフルスペース、

ONL Y LOTTE DUTY FREE S HOP

垢すりエステ

釜山シアターレストラン

崩 7=J L- ロザデ箆税唐 口明デヲサL - 1! ! 1l 税唐 ロザデ釜山箆税唐


;t K.J~ 'n"L.] :f. B1

房 5長

2 2 0 c mX 142c m、 19 世紀刺繍博物館所蔵

真冬に戸のすき聞から入

ってくる 激 し い す き ま 風 を

防 ぐ た め に 部 屋 の 戸 にかけ た防寒具である 。

韓国での一房張の使用は、

三国 時 代 か ら で あ る が 、 オ

ンド ル の 普 及 と と も に 次 第

に使われなくな ってい った。

房 張 は 刺 繍 で き れ いに飾り

つけられるのであるが、赤 を基 調 に ﹁ 寿﹂や﹁福﹂の

字 が 吉 祥模様として刺繍さ

れることが最も多い。民家

よ り は 貴 族 の 家 や 王室 で主

赤色は南側を象徴してい

に使われた。

るのだが、防寒具に赤色を

基調に使ったのは視覚で寒

さにうち勝ちたいと願う知

恵であり、 車 問色は東側を象

明さと関連があ り、熱くな

徴すると同時に明るさや透

り過ぎるのを緩和させる意

味 で 使 わ れ た 。 四つの角に

は幸 せ を 象 徴 す る こ う も り

が彫られ、中央には喜びを

加えよという双喜字(喜の

字 を 二 つ並べる)が描かれ

a

ている 。


pp泊天印m c z m γ

l111線 機 騒 機 騒 擁 護 諺 ;

沼 子. カバー・ストーリー 緯国における茶は、生活 の一部分であると同時に 精神の修養を助ける修行

韓国の茶と茶えイじ

史 歴

め、「韓 国の 茶文化 」に ついて特集を組んだ。表 紙の写真は代表的な茶の

相 む 田 山

ル﹂

E

レ い

文 茶

の雲

国龍

4韓 緯

の手段でもある。 コリ ア ナ冬季号では昔から伝わ る茶文化 の伝統を受け継 いで、現代に再現するた

栽培地である宝城の茶畑 の全景である。

12

韓国の茶文化の特性 鄭英善

18

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劉太鍾

文 茶

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民族の魂がこもる茶器

窪夏林

. けい『園田・・ ・・ ・・ ・司 ・・ 28 ・ ・ ノムハ _ l 、〈‘ 2 目.岨 茶 の 種 類 と 薬 用 効 果 ..

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茶に宿る詩情 鄭頂

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38

ONT HE ROAD

宝城紀行 金周栄

44

F OCUS

安東国際タルチュムフェスティバル97 具照書

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KOREANA コリアナ

56

鶴国国際交流財団の季刊誌 大韓民国ソウ ル特別市中区南大門路5街526

KOREANA防 ISTSABROρo

100-095

世界で活躍する韓国人芸術家 リビア・ソン

発行人兼編集人

金正源

朴長俊

斡国国際交流財団理事長

59

編 集長

金泰定

CURRENTS

佑龍

聖在

金沈

燥烈

文範

金李 け

彦 園 照んい雨 損光畑明日 昇

一時金金韓 ド朴 定価

「世界の記憶」 訓民正音と朝鮮王朝実録

白承吉

62

600円 (4, 500ウォン)

97年、世界笛の祭典

韓 明 無

発行所

韓国国際交流財団 大斡民国ソウル特別市中央郵便局

私書箱 2147号

82-2-753-3462 - FAX ・ 82-2-757・2047、2049

- 電話

ART SPACE PUBLI CATI ONS

大韓民国ソウル特別市錐路区新絡洞 31

82-2-734-7184 - FAX : 82-2-737-9377

- 電話

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66

ドイツ・ハンブルク 「 ハンザ都市 J 韓国文化週間 沈在龍

編集デザイン

~ KOREAN

真鍛器の職人、李鳳周翁 を訪ねて

李畑権

1997年 冬 季 号

50

KOREANARTl SAN

)~

ている季干'11主です. 版権はすべて本財団側にあり、本 財団の許諾なしに転載・複製することは禁じられてお りますのでご了承下さい. ま た 、 本 誌 掲 裁 の 記 事 ・論 文 の 内 容 は 、 本 誌 の編集者または本財団の意見 ではあ りません。

1987年 8 月 8 日 登 録 Hト1033号

1997年 12月 20 日 印 刷l 1997年 12月 30 日 発 行

( 毎年3, 6、9、 12 月の4 回発行) 印刷所

三星文化印刷株式会社 ソウル特別市城東区華陽桐 167・29

. 電話 。82-2・468-036 ト5


ソク ヨンウン

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気 一 云一

胆 EU S ‘., 再 司迎平立目 孟主 a

E ﹁ ﹂1

僧侶・草衣文化財団理 事長

韓国の茶文化は 二千年の歴史を持っ ている。古朝鮮時代に始まり、今 日に 至るまでの長い歴史の 中 で、韓国の茶

、又

を前⋮じて 飲むよう になった。 こうして、 韓 国 では白 山茶はすたれ、茶と言えば 中国の緑茶が飲まれるようになった。 その後、韓国では独自の茶の湯の習慣 がつくり出され 、代々伝えられてきた。

文 化 は 生 活 の 中 に 深 くそ の根を 下 ろ し、各界 ・各層の人々に愛されてきた。 ただ、その時々の時代 的状況によって 盛んになったり衰えたりもした。 韓国人の祖先は茶を神聖なものと見

(ご三国時代の茶 三国時代 に茶をたしなんでいた人々

その祭壇に茶は欠か すこと のできない ものだった。それゆ え 、 我々は今でも 秋 夕 (旧暦八月十 五日) には先祖に対 して茶 礼 と呼ばれる儀式を行 っている のである。 このように韓国の茶文 化は天に祭記 を捧げる祭天儀式の場に始ま って、自 然への祭相、そして個人の家で行われ る茶 礼 の祭檀にまで広く欠かせないも のとされてきた。 古朝鮮時代に使われたのは白頭山に 自生する白山茶だった。この白 山茶は、

JP泊一式的 m c zの 己 i

は、全て貴族 階級に属する人々であっ た。王 と王族、 そして士大夫(官僚層) の貴族と寺院 の高僧 、仙 郎 (山奥で修 行する 仙 人)あるいは花郎(新羅時代 の青少年の民間主要団体。またはその

なし 、 天 の 祭 杷 を 行 う と き や 自 然 の 神々や先祖の祭把を行うときには必ず 茶を捧げた。その儀式は聖なるもので、

古い。この 地域の住民は今でも この茶 を飲んでいるが、この茶は東夷族固有 の茶である。しかし、三国時代中期 以 降、唐の 固から入ってきた茶の木の葉

白頭山周辺と高山地帯にだけ自生する 茶の木で、サツキ科に属する。春にな ると薄緑色の薄い葉が出始めるのだ

大興寺の東側の渓谷にある

が、このときこの葉を摘んで茶として 飲む 。 この白 山茶の喫茶の歴史は大変

青磁の茶碗と茶托( 下)

イ じ の 茶を出す時、使われる

手 章

一枝庵は茶の歴史が息づい

ている所である ( 左)

回心畑心

4


中 心 人 物 た ち U国 仙 ) で あ る 。 王族 は 宮 殿 内 で 茶 の 木 を 栽 倍 し て 茶 をたしなみ、 賓 客 の 接 待 や 下 賜 の 品 と る 際 に は 茶 と 香 を と も に 贈 った 。

して用いた。特に、高僧へ贈り物をす 貴 族 も や はり 茶 を 楽 し み 、 茶 を 出 す ことは客を最大級にもてなすことだっ た。また、寺院の僧侶は茶を仏様への 供 物 の 一つ と し て 捧 げ 、 余 暇 に 楽 し み つつ飲む曙好品ともされていた。仙郎 あるいは花郎たちは、深山幽谷をめぐ り心身の鍛錬を行う際、茶を飲みなが らこれを行った。茶はこのように最上 級の贈り物ともなり、心身修行の道具 ともなり、浩然の気を養う際の趣ある 同伴者ともなったのである。韓国の茶 文化はすでに 三国 時 代 に そ の 精 神 的 背 憲安王(新羅四七代の王。 ? 1八七

景が確立され始めていた。

の祭杷に捧げるようにと茶と香を贈っ

) が秀激和尚 六 、 在 位 八 五 七1 八六O

一方 、

たのが稽矢となって、祭認に茶を捧げ る習慣が次第に広まっていった。 忠談禅師が南山の 三花嶺の禰勅世尊に 捧げた茶揚が献茶儀式の始まりとな り、四仙郎(新羅時代の四人の花郎) が江陵の鏡浦台、寒松亭などの地で茶 をたしなみつつ心身の修行を行った。 また、醇聴(新羅時代の学者で新羅 三 文匠の一人)、雀到達(新羅末期の学 者。名筆をもって知られた。八五七 いは学識はありながらも官職に就かな

1?) な ど の ソ ン ビ た ち ( 学 者 、 あ る い人々)が茶を通して浩然の気を養い、 精神を澄ますための飲物として活用し た。このような茶文化は、高麗時代へ と引き継がれながら一層盛んになって

5


韓国の茶え化は天に祭礼を 捧げる祭天儀式の場に始ま

って、 自然への祭礼、 そし

て個人の家で行われる茶礼

の祭壇にまで広くえかせな いものとされてきた

寺院の僧侶にとって茶は仏様に捧げる特別な 供養であり 、 日常は精神を覚醒させる 晴好品

茶文化の中興の祖とな った茶山・丁若舗 の茶

でもある (上)

山草堂 (左) 、肩額 (下)

高麗の茶文化は四つの形態に分けて

(二)高麗の茶

茶会を催す

きや優雅に

擁待すると

ぅ。貴賓を

考える ことができる 。王 室茶、貴族茶、

法のことで

いった。

寺院茶、庶民茶の四つである。 王室茶とは 、王室で行われた進茶儀

ある 。官職

た江左 七賢

老たちが集 ま って 作 っ

を退いた元

ときの飲茶

式や 王族たちの茶の湯を言う。宮中に 茶房という官庁を設置して、国家の重 要な進茶儀式のたびに茶を捧げる儀式 礼、凶 礼、頭礼、 嘉 礼 ・王室の冠婚葬 祭)を挙行する際にむ、必ず茶を捧げ

の集まりで

代表的 な茶

を執り行 った。高麗時代には四礼(吉

る進茶儀式を行った。 臣下の者が死ん ることもあったし、外国に貢物として

は名勝の地

ある 。彼ら

や蓄老会が

だ場合に香典の品として茶が下賜され 贈られることもあ った。 また、 王や王 王女の結婚式、外国の使臣を接待する

を訪ね歩き ながら歌

妃 な ど の 冊封 式(位を授ける儀式)、

舞、詩酒、

喫茶などに

とき、燃燈会と八開会(前者は新羅時

中京と西京で土俗神を祭った)の際に も必ず進茶儀式を行った。

これらを背

法が生まれ

に灯火をともし、祭壇の前で歌や踊り

ら風流飲茶

よ って風流 を楽しん だ。 ここか

代から 高麗 時代にかけての国家的年中 行事の 一つ。陰暦正月十五日に家ごと

一月に盛大に挙行された国家的祭典。

を楽しんだ。後者は高麗時代、毎年十

このように 、王室の茶 は非常に儀式

るものではなか った。 また、宮中に茶

ら茶を入れて 仏前に供えた。それだけ

食 事 ご と に 仏 前 に 茶 の供養を俸げる 。

は寺院 の僧 侶が仏前に献茶したり、 余 暇に茶を楽

寺院茶

た。茶詩は 的で儀礼的なものであり、その手順は

景 に発達し た。 大変複雑なものだった 。王 や皇太子が

亭 を設け て、臣下 の者 を呼び集めて茶 会や詩会を催した 。 こうしたことを背

ではなく、祖師の仏 前 にも茶の供 養 を

茶を飲むときには進楽まで演奏された が、 その荘厳さはとても 言葉に尽くせ

景に儀 礼飲茶法が生まれたのである。 貴族茶は国の元老 や地方官など の士

そして、功徳祭があれば、主が 手ずか

しんだも のを言う。寺院では毎日朝夕、

大夫たちが楽しんだ茶の湯のことを 言


た官吏を弾劾するときにも晩に茶時の

た。また、司憲部の官員が不正を行っ

とを茶母と言った。王の飲む茶のため

時 間 を 持 っ た 。 こ れ を 夜 茶 時 と 言い 、

ま って茶を 飲んでは政 事 を議論 し合っ

特に高麗の人々は茶を贈り物とする

かに碍茶、 紫笥茶、 霊芽茶 などがあ っ た。 ことを好んだが、茶の贈り 物 をもらっ

に仕える者を尚茶と呼び、高級官庁の

高麗の茶風は、朝鮮時代に入って衰退

茶の係りは茶母が兼ねた。

茶の係りを茶色と言った。下級官庁の

このとき茶を入れる役割をする人のこ

は十数編もの詩を詠んだ。このような

た場合には必ず詩による答 礼 をするの が習わしだった。風流をたしなむ人々

していくことになる。

が、ここから三昧飲茶法が生まれた。

んで飲んだ。茶三昧を楽しんだわけだ

飲み、特に禅僧は参禅の最中に茶を好

際には酒の代わりに茶でもてなした。 このように寺院では毎日のように茶を

気覚ましに茶を飲んだ。また、接客の

ち、参禅修行の合間の 休憩時間にも眠

棒、け、供養が終われば喫茶の時間を持

の産業 化 を 妨 げ る 大 き な 要 因 と な っ

を絶たなかった。こうした弊害が 、茶

農作業の時期を逸して廃農する者が後

まで茶の摘み取りに追われた彼らは、

けて奉った。このように、春先から夏

めて新茶を作り、それを開京にまで届

来に怯えながら若い茶の芽を摘み取ら ざるを得なか った。そ して、 真 心を込

雪に深くおおわれた山に入り 、獣の襲

に急かされて、老若男女を問わずまだ

湯の 中興が契機となって 、後期には再 び茶の湯が盛んになった。しかし、日

八五六)らが 中 心となって 起 きた茶の

臣 ・金石学者・書芸家。一七八六i 一

高名な実学者。 一七六 二1 一八三六)、 金正喜(号は秋史。朝鮮王朝末期の文

茶山、朝鮮王朝 二二 代の正祖の時代の

衰退しはじめ、二百年間の空白期間が 生じることになる。その後、韓国の茶 聖といわれる草衣禅師と丁若鏑(号は

長の役と丙子胡乱が起きると茶文化は

風を踏襲していたが、中期に文禄・慶

朝鮮の茶文化は、前期には高一麓の茶

( 三 )朝鮮の茶

完全になくなってしまったわけではな

を捧げるようにな った。

と命じた。これ以降、韓国では冠婚葬 祭や正月、秋タなどに茶を用いず、酒

七 二四1 一七七六)は王命を下して茶

代の王。一六九四1 一七七六、在位 一

な状況になると、英祖(朝鮮王朝 二 一

茶文化が衰退し、茶を求めるのが困難

文禄・慶長の役(壬辰倭乱)以降は

その茶をまかなう ために 、寺院の入 口 に茶村という村をわざわざ作って茶を た 。

本の植民地支配によって韓国の茶の湯

茶礼を行い、寺院では西山大師の﹃雲

﹃四礼便覧﹄に則って冠婚葬祭の際に

に則 ったものだった。

たのち、最後の茶の業を摘み取 って薬

庶民茶とは、一般庶民が茶税を収め

もしたが 、鶏龍山の 岬寺と東鶴寺はそ

色小甑などの茶碗は絶妙な 美 しさを持 っている。禅僧たちは直接茶碗を作り

に大きな影響を及ぼし、金花鳥輩、秘

朝鮮の開国の功臣たちは官人とな って

て継承された茶文化が起きた。そして、

たのである。ソンビと禅僧たちによっ

それゆえ、朝鮮初期には 山奥に隠棲し

政策に押され、 山 の中に逃げ込んだ。

奥に隠棲し、禅僧たちですら廃仏崇儒

朝鮮が興ると、高麗の儒臣たちは山

茶頒﹄を著し、後に﹃茶神伝﹄を公刊

朝鮮後期になって、草衣禅師 は﹃東

ていった。

したままの 状態で茶の湯は引き継がれ

茶礼を行った。このように意識は残っ ていたものの 、文化自体としては衰退

水壇 ﹄と白坂禅師の﹃亀鑑﹄を参考に

一般の 四大夫は、 。 はまたしても廃れてしま った

礼と言う。その儀式は、﹃国朝五礼儀﹄

かった。宮中には吉中のしきたりに従 った茶礼儀式があった。これを宮 中茶

しかし、茶の湯は衰退したとはいえ、

の代わりに酒や白湯で代用するように

た 。

栽培させ、水とともに寺院に奉納させ

高麗の茶人たちは華麗な茶道具を作 って使用した。それが高麗 青磁の発達

用に取 っておいたのを風邪、過労、頭

の代表 的な場所である。これらの茶碗 の中には禅的な無と空の精神が込めら

契節目﹄を作り、茶文 化 の中興を図っ

た由来から薬用飲茶法が生まれた 。

れを飲めば風邪や過労の症状はきれい さ っぱりとなくなってしまう。こうし

のをいう。このとき 、生萎や葱を入れ て 一緒に煎じれば良い薬茶となる。こ

痛などの症状が現れたときに飲んだも

れている。

茶をたしなむようになった。このよう に官人文化と隠遁文化とに分 化した茶

た。秋史は茶詩を詠んで、かつての風 流を再興した。このときから数多くの

した。茶山は茶信契を組織して﹃茶信 は、脳原茶と大茶が 挙げられる。脳原

の湯を官人茶と隠遁茶と言う。宮人茶 は茶時制度を作り 、 一日 に 一回ずつ集

高麗の人々が好んで飲んだ茶として 茶は茶の双葉を摘み取って作られ、ま た大茶は茶の葉から作られた 。 このほ

高麗時代に生まれた茶税制度は非常 に過酷なもので 、多くの弊害をもた、り した。智異山の住民たちは官庁の督促


官せぬ者)、また 山 中 に 追 い や ら れ た

行われ 、隠遁者 や処士(野にあ って仕

て、その結果、 官人 階級 の問で茶礼が

一度は中興されるかに見えた茶文 化

茶詩が詠まれるようになった。 は、日韓併合による日本の植民 地支配

抱くようにな った原因はここにある 。 今日、我々の茶文 化は昔の礼法と風

今日、我々が日本の茶の湯に嫌悪感を

で干渉し、女学校では義務として日本 の茶道教育が行わ れるようにな った 。

うと韓国の茶の湯研究と学校教育にま

本は自国の茶の湯を韓国に浸透させよ

、 日 に葬り去られようとした。その 上

ような境 地 へと昇華させ、儒家の 儒学

びつけることによって、禅と茶を同じ

神を確 立 し、そ の法と体 系を 整 えてい った。寺院の僧侶は禅 の思想と茶を結

たち の宗 教思想 や哲学をも とに茶の精

は彼らなりの茶を楽しみながら、自分

道学者の手によ って育てられた。彼ら

教の僧 侶と儒教の儒 生、そ して 道教の

このように韓 国の茶文 化 は、主に仏

僧侶 たちに よ って茶の湯が 引 き継がれ た。

のもとで再びその光を失い、暗閣の中

流を継承した次元まで復興されなけれ 者は彼ら の倫理 意識に茶を取り 込んで の思想家 は自然と合 一しよ うとする 神

茶礼儀式を 整えていった。ま た、道 家

であり、その民族が生き続ける上でな くてはならない文 化遺産であるからで

ばならない。伝統文 化 は民族の自 尊心

ある。

仙 思想によ って風流の精神位界を完成 させ た。

歌 詩

茶 禅

禅僧の問で茶の湯が流行し、道家の思

なると王族と貴族階級の儒学者、また

想家たちもい た。 そして 、高麗 時代に

また 神仙思想を持った 仙 人と道教 の思

儒学者がどのような形で茶礼儀式を確

茶を禅の境地にまで昇華させ、儒教の

では、次に寺院の僧侶がどのように

立してい ったのか、また道家の 思想 家 が完成 した風流 の詩歌と趣 とはど のよ

想を持った 一部の隠遁者たちも茶の湯

節 介

﹁ベ寸精神

これをわかり やすく図表にしてみる と次のようになる。

し 干

茶の精神は茶の湯をたしなんだその

f単

時代 の思想家や宗教家たちによ ってそ

風 流

茶精神の概念図 事 立

の大部分が完成された。韓国の茶の精

神は茶 の湯が普及 するにつれて確立さ

れたもので、その時代に支配的だ った 思想と哲学、あるいは宗教精神に基づ

いて完成さ れた ものである。それでは、 仏

真 人

その当時、茶の湯をたしなんだ人々と 三国時代には茶の湯の中心はそのほ

子 聖 人 君

人 成

神 仙

はどのような人々であったのか。

{需

うなものであったのかについて述べて みたい。

一部には貴族、花郎、

に親しむようにな った。朝鮮時代には 仏教 の衰退ととも に儒 学者が勢力 を得

とんどが僧侶で、

教 道

茶の精神は茶の湯をたしなんだその時代の思想家や、宗教

家たちによってそのえ部分が完えされた。 韓 国 の 茶 の 精

Y - った思想や哲学、 あ る い は 宗 教 精 神 に 基 f 面A 白

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神 は 茶 の 湯 が 普及するにつれて確立されたもので、 手 、 の Jt p

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づいて完点されたものである m cz の

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の方便である。林凡語では﹁d ah ya

を 体 得 し よ う と す る 際 に 使 わ れ る 一種

は寺院で使われる特殊な用語で、 真 理

という僧侶がこの問答を外で聞いてい

でも 一杯 飲 ん で 去 れ ﹂ と 言っ た 。 院 州

ところ、組州禅師は 、 それならば﹁茶

度参ったことがございます﹂と答えた

と 尋 ね た 。 そ の 修 行 者 がず ﹁はい、

て﹁ここにかつて来たことがあるのか﹂

na﹂ と 言 い 、 漢 語 で は ﹁ 禅 那 ﹂ と 言 たが、これは変なことと思い 、越州禅

尋 ね た と こ ろ 、 組 州 禅 師 は 一礼 を 返 し

う。これを省略して﹁禅﹂と言うが、

(一)茶は禅である

心 静 か に 思 索 す る 静 誰、 あ る い は 考 え 一度 も 来 た こ と が な い と い う 者 に も

師 に尋 ねた。﹁禅師!どうしてここに

禅とは特殊な修行の道である。禅と

ぬいて錬磨する思惟修、あるいは寂滅、

て、行住座 臥 ・語黙動静がすべて禅と

である。すべてが禅である。したがっ

乱に精神 を 集 中 し て 物 事 を 行 う の が 禅

と呼びかけた。院州がその呼びかけに

のとき、組州禅師は院州に﹁院州!﹂

者にも﹃喫茶去﹄なのですか﹂と。そ

﹃喫茶去﹄ 、 二度来 た こ と が あ る と い う

心 の 極 致 と もL = 守つ。それゆえ 、 一心 不

なる。このように精神的意識の存在す 什合えると 、 ﹁お前 も 茶 で も 一杯 飲 ん で 来 た 者 と 来 た こ と の な い 者 、疑 問 を

去れ﹂と言った。 抱 く 者すべてが﹁喫茶去﹂である。 こ

る と こ ろ に あ って 禅 で な い も の は 一つ 茶が禅と同じだというのは、禅の 三

もない。 昧 境 に 入 って 大 倍 覚 醒 に 至 る 道 と 茶 の

れ は 、 茶 と 禅 が 一つ の 同 じ 境 地 に あ る ことを意味する 。 いるのは特別な例示であり、禅と茶が

こ こ で 、 茶 と い う 言葉 で 伝 法 さ れ て

三昧 に 入 っ て 妙 境 を 味 わ う こ と と が 同 じ だ と い う 意 味 で あ る ( 禅 茶 一如 )。 これについての理解を助けるために、 昔 の 故 事 を 一つ紹介し た い 。

れ た も の を 消 し 去 れ ば 大 道 を 得 る のほ う。また、茶には妙なる根源があり、

月 、 最後 に摘まれた茶の葉であ る ( 左)

真水を得て心と休を究め、荒々しく汚

そ の 根 源 に 執着 し な い こ と を 波 羅 蜜 と

下) 、茶の葉は普通 3 回摘み取るが、写真は 9

唐 の 時 代 の 高 僧 の 越 州 禅師(七七八

あ る 日 、 組 州 の 観 音 院 に 二人 の 修 行

言った。一切法に執着しないことを言

けて昼は日陰になる所でよ く育つ (右) 、茶の

1 八九七)の 言 葉 と し て ﹁ 喫 茶 去 ﹂ と い

一人 が 越 州 禅 師 に 一

、 茶の葉と茶の花 ( 中央 葉を摘む姿 ( 中央上)

さして難しいことではないことを言

者が訪ねてきた。

詰め、建と霊を得て、執着のない境地 に至れば、 これすなわち大道に至れり

らも涼しい風が暑さを冷まし、朝の日差し を受

う話が伝わっている。

礼 をして ﹁ 仏 法 の 大 義 と は 何 か﹂と 問

に 懸 け る も の 手二 切 取 り 去 る こ と で 自

う。この世の何ものにも執着せず、心

を飲みつつ心と体について考えを突き

由自 在 な 境 地 に 達 す る こ と が で き 、 茶

の修行者(納子)に﹁ここをかつて訪 れた ことがあるのか﹂と尋ねた。修行

うた。組州禅師は淡々とした口調でそ

者 が ご 度 も 参 った こ と は ご ざ い ま せ も 一杯 飲 ん で 去 れ (喫 茶 去 ご と 言 っ

に 至 る 道 程 で は 全 て の 法 が 不 二 のもの

と言 う。草衣禅師はこのように波羅蜜

ん﹂と答えたところ、それでは﹁茶で

﹁ 祖 師 が西方からい

であり 、故 に 茶 と 禅 は 不 二 の も の で あ

た 。 ま た 、 も う 一人 の 修 行 者 が 越 州 禅 師 に 一礼をして、

らっしゃったのは 何 のためですか ﹂ と

宝城の茶畑の全景、茶は気温と湿気が高いなが


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を通じて恐れを知 らぬ心の平安を得る のである 。

太古の昔から清浄なこの心には 一点

の曇りもない。しかし、人間は欲望の

暴 風雨にさらされながら生きている。 そして、その中で道を見失 ってしまう。

このように道をはずれた人聞が、たっ

た 一杯の茶という余白を通して真実に

目覚め、自分の失われた本来の面目を

探し求めるその道程こそが、 真の 茶人

の姿であると言える。したがって、書

画墨客や詩客が名勝の 地を訪ね 歩きな

がら風雅を楽しみ(風流)、仏僧が自

然の中にとどまって白雲青 山に向き 合

いながら深い思索に浸ること(禅定) は、すべて意味のあることである。

このように、我々の祖先は風流を解

明と 言われるところや名勝の地には決

する民族だ った。だからこそ、山紫水

まってこじんまりとした亭を設け、花

と木を植え、意を同じくするソンビた

の気を養ったのである。また金銭的に

ちが喫茶飲酒を共に楽しみつつ、浩然

余裕のある者は屋敷に庭園と蓮池を作

くの影響を与え、秋史は草衣禅師に

このような思想は、秋史金正喜にも多

り、全ての法は 一如であると説いた。

望には限りがない。そこで、人間は多

言う。風流でありたいという人間の欲

て、俗っぽくなく、思慮の深いことを

の境地に至り、品位と風雅な趣があ っ

風流とは、人間の思考と 言行が理想

一杯の茶をたしなむ思索の空間を通し

らし、また精神の領域を無限に広げた。

人々の情緒生活に多くの良い面をもた

湯である。このような茶のたしなみは

出したが、その中の 一つがまさに茶の

そこで、人間は様々な趣味生活を創り

が茶の精神なのである。

であり、それを得ようとする精神こそ

うか。このような風流な生活が茶の湯

こうしたことは、 美 の極致であると同 時に人間の望む最高の賀沢ではなかろ

平安と肉体的な安楽を共に楽しんだ。

人を招いて茶酒詩画を愛でては精神 的

t

﹃若禅﹄、﹃禅楊茶畑﹄、﹃静座処茶半香初

くの財を尽くして風流な生活をしたい

て人々は無限の世界を開拓し、時 空 を

妙用時水流花開﹄という文を記して贈 っている。

がため、室内を 美 しく飾り、高尚な趣

(三)茶は節介である

7 a tLa2・ r 41汚

券市川

m M d恒 h久

り、珍しい 草花を植え、春から秋まで

花が絶えることのない ようにした 。 ま た、竹を組んで楼台を作り、親しい友

このような逸話は全て ﹁禅茶 一如 ﹂

味を習うのに余念がない。人がまず最

超えた自己完成を通じて自然と自己が 一つとなり、宇宙の 一部分としての完

(二)茶は風流である

の境地を物語るものである 。

初にするのは空腹から逃れることであ

節介とは、ソンビの堅い忠節や婦女

F

全な自由を得て、精神的な自 己 の具現

F

り、、その次には安逸と幸福を求める。

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10


への献茶の際や歴代の祖 師た ちの祭杷 の際に行われた 。 この儀式が高一躍時代には進茶儀式へ

子の貞節、または礼儀礼節を 言 う 。 茶がソンビの堅い忠節に例えられるの は、茶の木が常緑樹で、冬の吹雪にも

は欠かすことのできないものだった。

折れることなく持ちこたえて春を迎え

仏殿に向か って王が自ら茶を入れて功

われ、国家の大小の行事 にもこの儀式

ち克って、節意と気概を守る何ものに

と 発 展 す る が 、 進 茶 儀 式 は 吉 礼 ・凶 礼・殖礼 ・嘉礼の四礼の際には必ず行

も屈しない精神を持 っていることをよ 徳祭を行うものとされ、すべての文武

る歳寒の精神を持っているように、ソ

しとするからである。また、婦女子の 百官が参列した 。 この儀式は大層複雑 で、荘 厳なものであり、茶房という官

OI工、 y

方 、P一 召︿回

一枝庵で撮った茶器、現在、一枝庵では如然僧侶が草衣禅師の茶文化の伝統を受け継いでいる( 上)

ンビも飢えへの恐れと出世の誘惑に打

の木が最初に植えられた土地でその 一 生を終えることが同じと見なされたか 儀式に茶儀をおこな った。この進茶儀

貞節にも例えられるのは、女性が 一度 結婚して 一人の夫に仕えることと、茶

らである。それほど、茶の木は他の地 に移し変えるとすぐ枯れてしまう 。 し

庁を設置して管理 ・監督させた。すべ ての進茶儀式はこの茶 一 房が管掌した 。

たがって、昔からソンビの屋敷の中に を変える。

式が朝鮮時代には茶礼儀式へとその姿 茶礼とは本来﹁行茶礼﹂と言い、

また、士大夫の家では冠婚葬祭などの

は茶の木があり、ソンビの祭礼の祭壇 には茶を捧げるのが一般的だった。ま た、昔は女性が嫁に行くことを ﹁ 茶礼﹂

礼、そして民間茶礼とに区分される。

﹁ 茶でも って礼を行 う﹂ という意味で ある。この茶礼は、宮中茶礼と寺院茶

をすると言ったものだが、これは婚礼 の供え物には必ず茶があ ったからであ

宮中では、使臣の接待や茶詩、そして

師祭、および大小の行事に茶礼を行い、

る。挙式を終えた花嫁は婚家先の御霊

た。この廟見礼のときには、必ず茶 を捧げた 。 茶 を 捧 げ る と い う 行 為 に

を行 った。また、元祖 ・上元 ・三月 ・ 端午・流頭 ・七 夕・重陽 ・冬至 ・順月

宗廟祭の時に、尚茶という正 三品の位 の官吏を内侍部に所属させ、茶 礼を執 り行わせた。寺院では、 仏前献茶と祖

は、茶の木のように 二夫をまみえず 、 この家に骨を埋める時まで、この家 門 のために献 身 し て い く と い う 無 言

と朔望(陰暦の 一日と十五日)にも茶 礼を行った。この茶礼は 、 ハングルが

屋に行き、婚家先の先祖たちに挨拶の 儀式をするが、これを ﹁ 廟見﹂と 言っ

の決意が込められていたのだ った。 この茶礼は、 三国時代には献茶儀式

創製 ・公布されてからは ﹁ チャレ﹂と 読まれるようになり、秋タと旧正月な

民間では冠婚葬祭に際しては必ず茶礼

と言 い、宮中と寺院が中 心とな って行 われた。宮中では社穣壇(王が人民の

どに行われる先姐の祭叩を現在﹁チャ レ﹂と呼んでいるが、これは慣用音で あり、本来は ﹁ タレ﹂である。。

1

ために土地の神と穀物の神を祭った祭 壇)と五岳 三神(韓国の五つの霊山と 恒因・恒雄 ・恒倹の開国の 三神) の祭 叩に際して行われ、寺院では主に仏殿

韓国で茶の聖人と呼ばれる草衣禅師の肖像画( 右)


の特性 れる儀式)、茶道哲学、喫茶習慣、茶

11

器を中心に、 次のような特性を持つ。

1 u F f C N 川発劃 ﹁

韓国では、他のどの国よりも儀式茶 礼が発達した。 日常的な茶礼とは区 別される﹁儀式

る﹁進茶儀礼﹂とがある。

格式と 礼を 整え た行事 として茶を捧げ

る﹁献貢茶礼﹂ と、生きて いる人 間に

茶礼 ﹂に は、山の神、組先神、釈迦、 家の神、蚕の神などに茶を立てて捧げ

精神的成 果である。それゆえ 、ある 地

的基盤を持つに至る。韓半島を 中心に

などが 、大きく変わる ことのない内面

的特性、審美的能力、精神的 価値 体系

飲み物であ った。人や神に対して敬虚

すっきりさせる覚醒効果がある貴重な

け、神 に捧げた茶を人聞が飲む ことに

茶の覚醒効果は、神と人間の交感を助 よって 心が 一つになる﹁組帯意識﹂も

るようにと、簡単な祭記では茶を最も

の願いが神に伝わり、かなえてもらえ

生じると考えられた。それゆえ 、人間

の ﹁ 喫 茶文化﹂は、部分的には変化し ながらも、木の根や幹のような民族の

韓国の ﹁茶文 化﹂は、茶 礼(茶をい

近 い将来、より美しく 花開 くことであ ろう。

文 化 的 特 性 と 哲 学 を 保 っているので 、

一四O O年 以上受け継がれてきた韓国

で喜びにあふれた心を表わす最上のも てなしとして、人々は茶を利用した。

茶は 、人に好まれ、体によく、頭を

喫 茶﹂ 域に住む民族の長 い歴史を持つ ﹁ の文 化は、そ の民族の生活習慣や民族

茶を飲む文 化は、茶の葉と水、茶器 と人間の行為により成される物質的、

イルにまで 発達することになった。

より、茶は徐々に曙好品として発展し、 ﹁ 茶 を飲むこと﹂が 一つの文 化 のスタ

効果、生産が容易であるなどの理由に

そして、飽きのこない味や目を覚ます

、 類は日辰初、茶を食 用 となる ERハ 植 物 で あ る と と も に 、 病気 ノ を治す薬として使用した。

-鄭英善

イ じの

京畿 大 教 授

、又

茶韓

山神閣で茶を俸げる姿

12



祖先の 霊などの霊魂 に茶を俸げたと

庶民にも﹁朱子家 礼﹂を見習った﹁祭

国には見られない。朝鮮時代末期には、

った。 この ﹁茶礼﹂という言葉は、外

よく使 った。

た、客を接待するときに酒や代用茶も

物として の茶は必要ではなか った。 ま

務めるも のであると 同時に、道を究め

飲 む こ と ﹂ (喫茶)は、儒家、仏家、 道家の境地に達する道を案内する役を

大切な供え物として奉じた 。 いう記述が歴史書に現われる最も古い

﹁ 覚醒効果﹂や、茶をいれる時に細や かな気配りと真心をもってすれば、茶

と 酒 は 精 神 を 清らかにしてくれる﹂

のは、醇聴(六九 二1 七四六)の﹁茶

ていたことがわかる記録として古いも

というものであった。

た時の心の境地と精神状態を味わえる

の味が大きく変わりうるというところ が、いつも勉学にいそしみ深く思考し

(茶酒清以精神)という記述や、山佳致

l

﹁ノっし ,﹂。 ・44J/ Adu

が良く、澄んでいるので、単なる飲み

う人や道家の神仙(仙人)が好む贈り

﹁喫茶﹂が修養に役立つと考えられ

なければならない勉学の徒に、茶は雑

遠(八五七1 八九四)が﹁茶は禅を行

近世に至 つて は、還暦のお祝いに両

念を払わせ修養させてくれる飲み物と

親に儀式を整え、茶を供える茶礼も行

二. 修養茶道の発達

文献に見え、高一躍時代の寺では僧侶や

韓国では、中国と違って飲み水の質

して認識されるよ うにな った。つまり 、 ﹁深く思考すること﹂(多思)と﹁茶を

教徒の霊に茶を捧げたという記録もあ る 。 朝鮮時代には、王室や貴族階級が簡 単な祭記に茶を供えたが 、 昼間に行う 祭紀を﹁昼茶礼﹂といい、特別なこと がある時に行う祭間は ﹁ 別茶礼﹂とい

ところで、茶の重要な特性である

叩茶礼﹂という独特の文 化 が生じ、事

産に広げて両手で撲む。全体に広げて干す

ある毎に茶を立てた。

伝統茶を作る過程( 左頁 、上から ) 鉄釜に茶の葉を入れ、かき回して煎る 。煎った茶の葉を莫

ある首露王に茶を奉ったという内容が

(一部分) 、 16世紀後半、絹に彩色、91.1c mX 59.5c m、国立中央博物館所蔵 ( 上)

例としては、六六 一年伽 耶国の始祖で

右下に風櫨の前で茶を煎じている 童が見える。李慶JMが描いたものと伝えられる「山水人物図」

14


茶人であり、韓国の茶道思想を最初に

修養のための茶道を重視した代表的

身 が 茶 を 得 て 憂 い が 消 え 去 った と 記 し て い る も の か ら 読 み 取 れる 。

物﹂として認識している内容、また自

六)は、茶を入れて飲むことは﹁道﹂

金 正 喜 ( 号 は 秋 史 、 一 七 八 六1 一八五

法)は中道思想の学習であると述べ、

は、茶道の ﹁ 泡 法 ﹂ (茶の味を出す方

意絢(口巧は草衣、一七八六1 一八六六)

て道を悟り、釈迦になれると考えられ

に見られるように、茶を飲むと覚醒し

世紀の賓泉(小府寺)の仏供茶礼儀式

った。 ま た 、 茶 は 仏 で あ る と い い 、 七

味 ﹂ 、 ま た は ﹁若禅 ﹂ と い う 言 葉 を 使

の道教とは違い、民族の始祖である檀

うが、韓国の神仙思想の根源は、中国

と信 じ ら れ た 。 道 家 の 道 人 は 神 仙 と い

心と体を修め、道を得ることができる

道家(道教)においても茶を飲めば

仏教では、隣国と同じように茶道は

は、茶を飲んで自ら悟れという意味と

茶 去 ( 茶 を 一杯 飲 ん で い け と い う 意 味ご

中に見い出せ る。そして 、 越 州 の ﹁ 喫

ていたことが、歴史書や詩文、民謡の

である。

民族主義的性格をかなり帯びているの

る。つまり韓国の道教的茶道思想は、

君が神仙であるということから出発す

の本体を会得することだと述べた。 禅と同じであるという認識が早くから

九六)である。 彼 は 、 茶を入れて飲む あった。こうした﹁茶禅一如﹂は、僧

二 確 立 し た 人 物 は 李 稽 (一三二 八1 二 こ と は ﹁ 誠 意 ・正 心 ・修 身 ﹂ す る こ と

ビや僧だけでなく、

であると考える君子修身の茶道観を持

茶生活も心を清らかに磨く修行である

し て よ く 使 う 。 つ ま り、 僧 侶 は 普 段 の

一般 庶 民 も 同 じ で

喫茶を修養方法と考えたのは、ソン

だけでなくソンビ(士人)も同じで、

っていた。つまり、茶事は、儒学の

儒家、 仏、末、

高麗と朝鮮時代の文人は ご 杯の茶は

﹁達道(道を極めるごための 実 践的 な

味わえるというものであった

道を、究めた時の九%の境地と精神状態を

務めるものであると同時に、

道、家の境地に達する道を案内する役を

﹁茶 を 飲 む ミ と ﹂ (喫茶)

あった。茶は寂しさを慰め、心を修め、

すなわち禅の始まり﹂、﹁茶の味は禅の

、 しパ

。 と考えていたのであ る

学習方法であったのである。また、張

U P司穴印白川EZ のIC 、

15

lま


人生に大きな助けになると考えられ、 さらには﹁道﹂を悟ることができると 信じられた。

前の修練だけでなく先祖伝来の古典茶 書を学ぶことが重要視されている。

的に茶を飲む風俗 の担い手は、王と貴

新羅、高麗、朝鮮時 代に かけ、一般

考えるほど重要視した。彼らは、茶を

司法に関わる官吏は﹁喫茶﹂を業務と

う傾向があった。特に、立法、行政、

韓国では昔から、公務を行う官吏た ちが茶を飲むことを大切に考えるとい

七昔の宮吏の茶道重視

族、文士と僧侶、そして武人と庶民も

文士中心の茶道文化

含まれており、その幅は広かった。だ 厳粛に飲むことで公務を偏重せずに正

﹁ 一一一

が何と いっても、千年以上続いた生活

府﹂には、﹁茶時﹂(茶を飲む時間)が

高麗と朝鮮時代に法を扱った﹁司憲 あった。朝鮮時代初期

しく行うことができると考えたのであ る。

り、中国では貴族階級が主導していた。

対し日本の茶道の伝統は武士中心であ にはソウルにある 官 庁

文化としての茶道を発展させ受け継い できた、茶道風俗の主導的役割を果た

韓国の茶道文化の全盛期であり文人

した階層は﹁文士﹂であった。これに

茶道が花開いた時代は高麗時代中期の

者だった。つまり 、韓国の文人茶道は

高麗の王は、死 刑と流 刑 を宣告する儀式に厳

こ と も あ っ た 。ま た 、

また、新羅時代と高 麗時代、官吏が公務を

茶を飲める﹁茶院﹂が たくさんあ った。高麗 朝の 官吏 はいつでも茶 房官庁で茶を飲むこと

z d ι 4院毒 4一

すべてが ﹁ 茶 時﹂ を実 行したが、当時は﹁茶

までと、朝鮮末期の十八・九世紀であ

十 二世紀から朝鮮時代初期の十五世紀

文章家 より学者中心に栄えたのが特色

粛に茶を飲み、続いて

が業務のすべてである

である。彼らは﹁茶詩文﹂(茶の席で

を行った。

時﹂を行う庁が別個に あ って、時には﹁茶時 ﹂

詠む詩)もたくさん残し、例えばこれ

執行するために馬で移

る。高麗時代は性理学者(儒教の 一派)

を七O編以上残した文人は 李 稽 ( 一三 二八1 一三 九 六 ) 、 徐 居 正 (一四 二0 1 一四八八)、 金 時 習 (一四三 五1 一

動する途中、休憩する

の茶人が主であり、朝鮮末期には実学

四九 三)、丁若(一七六 二1 一八三六、 ) 申 緯 (一七六九1 一八四七)、洪顛周 (朝鮮王朝 二二 代の正祖の 王子で十 九

宿場のような所には、

臣下も格式に従 って茶 を飲んだ後、最終決定

国より遥かに多い。

世紀初頭の人物)と六人にもなり 、中 こうした文士の茶をたしなむ風 習 は、 現代にも受け継がれ、 学者や芸 術 家や社会の指導者層に茶人の人口が多 く、茶道を習得しようとする時は 、点

C ﹂ Z の ︿OCZの印とZ

新羅の花郎たちが山で茶を煎じて飲んでいた石の風櫨、

さ約 1 3 c m、高 さ 6 c m、韓 国茶文化研究所所蔵( 下) 、

8 世紀、長さ約 7 4 c m ( 上) 、茶を沸かす鍋、高麗、長

茶具が描かれている朝鮮時代の民画、韓国茶文化研究

所所蔵( 左)

16


このように、官吏が茶道を重視した いれる広いちゃぶ台の一種で、調理台

(二茶車と覆い布 茶卓は、すべての茶器をのせて茶を

か、脚がとても高い茶碗とかがよく使

しているが、特に容量が非常に大きい

(三)茶碗 韓国では、儀式茶礼用の茶碗が発達

い竹でできたコンデを使い、十七世紀

のには、茶文化の基礎を成す儒教思想 に該当する。宋の使臣の徐競が記した

われた。この器には﹁茶﹂という 字 が

独創的な茶器の発達

韓国の茶器は、中国の影響も受けた

気配りの行き窟いた自然な点前

めて開発した。 {山川ぃ

韓国の茶礼の特徴は、 気配りの細や

茶をいれる主人は、茶の本来の味を

かさと自然さにある 。

込めて入れる儒教的な学びの姿勢を取

出すために、細やかな気配りと真心を

として溶け合う道家的な姿である。こ

ごく自然に茶と主人と客が 一つの自然

れは、人為的な自然さではなく、心が

茶をいれる時は茶が主人公であり、茶 を飲む時は人が主人公になり、茶を飲

自由で安らかな自然さである。そして、 ば実用性と手の感触を重視していると

今日の韓国茶碗は、どちらかといえ

その絵柄が浮かび上がるようにするた めだった。

人が白濁した ﹁ 乳茶 ﹂ より透き通った 茶を好んだことから、茶を入れた時、

一般の茶碗は、一人用の茶碗の内側

には、抹茶をかき回す茶完を世界で初

の影響が大きかった。そのため官吏は の上にすべての茶器を置き、その上に

高麗人の喫茶風俗を見ると、赤い茶 卓

ので、韓国固有の独特な茶器である。

普段でも茶を飲み、徳を積もうと努力

刻まれていたが、これは 一般の碗と違

る。同時に、主人と客の行動には、無

ができた。

し、韓国には清廉潔白な茶人官吏が少 赤い絹の覆い布をかぶせたとある。朝 鮮時代には、大きな茶卓が主人の部屋

ければならないためであった。

駄がなく、人間中心で合理的であり、

うことを示し、礼を正し丁重に扱わな

や軒の下に置かれているのを、茶をい

いる碗が多かったが、これは、当時の

に鶴や雲の模様の白い象依が彫られて

なくなかった。

今日でも、平たい大きな茶机が﹁茶

れる様子を描いた風俗図(民画)の中 に見い出せる。

U1 一 った。儀式茶礼が際立って発達した韓

が、大体において非常に独創的な物だ 菓床﹂(茶車)を兼ねたりもする。茶

も正統な高麗の形式を受け継ぎ、厄を

卓の上では湯を扱うので布を敷いて仕 事をしやすくし、茶器を覆う布は今で

国では、茶器も祭記の時や儀礼的な時 に使っていたものが発展して、民族の 早くから野外用茶器が発達した。山や 蔽う力のある赤い色を使う。

文化的特性を帯びるに至った。そして、 野で天の神、海の神(龍神)そして野 外に祭られた仏像などに茶を捧げ、ソ

の出た茶を茶碗に注ぐ

東洋文化の中でも、個性的で、粋で、

深奥な哲学を持持って美しい心を創り

んだ後は精神が主人公となる。

出す韓国の茶文化は、世界の文化の美

言える。 (四)茶匙、コンデ、茶箆 高麗時代には、抹茶をたてる時、泡

(二)石池竃と茶道具 新羅時代の四人の花郎仙人である

がよく立つように小さな輸がいくつも

A'

る。薬纏のお湯を湯冷ましの器に移して冷ます。

一方、茶

天神に茶を入れて捧げた。石池竃とい

﹁四仙 ﹂ が、鏡浦台や寒松亭で ﹁ 石池 竃﹂という石でできたかまどを使い、

付いている様々な形の茶匙でかき混ぜ

しさの水準を高めるのにも寄与すると 思われる。

ンビが水辺や山中で茶を楽しむことも

や庶民よりも文人であったため、審美

道を芸術文化として楽しむ階層が貴族

うのは大きな石塊に空気穴のあいた風

た。また、団茶を細かく砕くために細

冷ましたお湯を急須に入れて茶の味を出す。味

少なくなかったからである。

的基準も韓国の芸術的感覚と思想に基

炉と水をためる小さな窪みを穿ったも

17

づき、その次元も非常に高かった。 pp司犬∞mCZ の e亡

茶をもてなす手 1慎( 上から) 茶具を整然と並べ


茶( チョンミン

漢陽大国文科教授

主﹄ か に 座 っ て 茶 を 飲 む 。 微 か ﹁て司 に漂う茶の香り。 一口含ん

・鄭現

宿

があればこそ、そのほろ苦さも忘れら れようというものである。かつて、先

人生の香気にも等しいものだった。人 の 一生とはほろ苦さの連続のようなも のだが、折々にふれて茶を喫する余裕

かつての先人たちにとって、茶とは

水流れ、花開く

静かに坐し、茶を半ば飲めど その香り初めとかわることなく 妙なるものいきわたりて

静坐処茶半香初 妙用時水流花開

五六)は、茶の霞郁たる味わいのもた らす玄妙な世界をこのように詠った。

の体の中に水の流れが生まれ、香り高 い花が聞く。金正喜(一七八六1 一八

斗コEFEで 味 わ っ て い る う ち に 、 私

hp

ー 、 一層はずませる。それゆえ、古い絵に 描かれたソンビたちの詩会や風流の席 の傍らには、必ずといってよいほど茶 を入れる童子の姿がある。茶を喫する ということは、彼らにとってあまりに も当たり前の日常であり、生活そのも

のであった。

生まれ、心の憂いも怒りもきれいさっ ぱり消え失せ、五杯飲めば、情欲も驚 き去りて体内に巣くう鬼の目と耳が遠 一 ざかり、六杯飲めばひらひらと空へと 舞い上がり遊びに興じる如し。七杯飲 めば、その半ばも飲み尽くさぬうちに 涼やかな風が懐の内から起こり仙界に 遊ぶが如しと。 それでは、先人たちの残した何編か の詩を味わいながら、彼らの喫茶に宿 る詩情を見てみることにしよう。 山北山南細路分 松花含雨落績紛

道人汲井帰茅舎 一帯青煙染白雲

道人は水を汲みて 茅葺きの小屋に帰り

山の北、山の南に細き路は入り乱れ 松の花粉は雨を含みて乱れ散る いて次のように詠っている。茶を一杯 飲めば乾いた青磁の器に雪解け水を入 れるが如し。 二杯飲めば精神が爽快に

高 麗 末 の 李 崇 仁 (一三四九1 二二 九

, t - 一四九八)は、 李穆(一四七一 E ﹁茶賦﹂(茶の詩)の中で茶の効能につ

僧侶たちの修行の場でも、ソンビたち の日常でも茶はなくてはならぬ大切な

なり神仙になるが如し。 三杯飲めば病 める者が癒され、頭痛もすっかり癒や される如し。四杯飲めば雄大な気運が

一筋の青き煙が白雲を染める

ものだった。茶は精神を澄ませ、渇き を癒してくれる。茶を飲めば心は安ら ぎを得る。一杯の茶が友人との対話を

人たちの日常生活において茶とは常に 側にいてくれる友のような存在だった。

属国d

__, .

秋史・金正喜の筆字

澗松美術館所蔵( 上)

茶具セットと茶匙( 右)

18


み、雨を含んだ松の花粉がその上に降

作品である。山の小道は互いに入り組

一一 )の﹁題僧舎﹂(僧侶の家)という

一杯の新茶

残りたるもの無く

生涯を振り返れど、

世のはかなきことを知る

但能 一念心無事

何労向外別求玄

本自天然非造作

き方がよく表れている。

次の詩にも茶とともに暮らす簡素な生

して私の生き方も澄みきってきたよう

れば眠ることのみである。ようやくに

といえば、喉が渇けば茶を飲み、疲れ

えに至り、心は落ちつき迷うところが

りを見いださなければならぬという考

林の彼方に青い煙がゆらゆらと立ち上 の作品である。深山に居を定めた和尚 は 、 一人座して何らなすこと無く過ご

浮 休 堂 (一五四 三1 一六 一四)和尚

何故労して外より

本来天然は造作に非らず

渇則煎茶困則眠

き眠りの中に宿っているものを。

である。悟りとは、喉が渇いた時に飲 む 一杯の茶の中にあり、疲れた時の甘

ない。そうした考えに至ってすべき事

りしきる。どこからか僧侶が一人現れ 一巻の経典あるのみ

出でて、山の頂の湧き水を汲んで再び

り、白雲の上に広がった。僧侶はつい している。門を閉ざしてすることとい

深き道理を求めんとす ただよく 一念し、心に事無く

林の中に姿を消した。しばらくして、

入れているのである。茶を入れながら

さつき汲んでいったあの湧き水で茶を えば、人の 一生とは、はかなきものよ

も、手中にしたものとて無い。ただ、

なき人生であるがゆえに、

一生のうち に成し遂げたことはと振り返ってみて

と繰り返し思うことのみである。はか

は自身の中にあるものなのに、しきり

ることのできるものではない。悟りと

本然の理知は人為によって打ち立て

渇けば茶を煎じ、疲れては眠る

登嶺採茶 引水潅花 忽回首山日己斜 幽奄出撃

満たされるのである。

ゆえ、日々の暮らしは自足した気分で

しさなど無縁のものである。欲が無い

茶を友とする暮らしの中には、騒々

僧侶は何を思うのか。

新しく煎じた香り高い一杯の茶と 一巻

にそれを外から求めようとしてもでき

独坐深山万事軽

の経典が私の友として側にあるのみで

掩関経日学無生 一椀新茶 一巻経

生涯点検無余物

ある。

深き山に一人座し、万事を捨て

喜如此開如此楽如此嘉

古樹有国初 「午睡図」、李在寛、朝鮮 19世紀初、紙・水墨淡彩、 122c mX56c m

るわけがあろうか。自身の心の内に悟

慧勤(一三二0 1 二二 七六)和尚の

嶺に登り茶の葉を採り

水を引き花畑を潤し

振り返れば日はすでに傾く

遠き庵に風鈴の音が聞こえ

古木には烏も有る 喜ばしゃ、これほどまでに長閑で

楽しく、美しきを

恵 蔵 (一七七 二1 一八 一 一 )和尚の 詩である。朝起きて山の嶺に登って新

茶を摘む。竹筒で水を引いて、花畑に

にか日は沈みかけている。仕事を切り

水をやる。そうしてみると、いつの間

いない庵からは風鈴の音が鳴り渡り、

上げて帰っていら っしゃいと、主人の

烏もねぐらを探して古木の上に集まつ

19

門を閉ざして日を過ごせば

W P者!

¥1挙 手i


てくる。

一日の労働を終えて腰を伸ば

し、夕暮れどきの光景を 眺 めていた和 尚は、我知らず ﹁ 喜ばしゃ﹂という嘆 声をあげる。これほどに長閑なことが 喜ばしく、これほどまでに楽しいこと が嬉しく、このように美しい自然が喜 ばしいのである。今、彼の麻袋は摘み ている。

採 ったばかりの新茶の芽で一杯にな っ 丁若 錆 (一七六 二1 一八一二六 )が恵 蔵和尚に茶をもう少し送ってくれとし るのは茶が心の病を癒してくれる薬だ

た た め た 手 紙 の 中 で 、彼 が 茶 を 渇 望 す

の下で茶を入れて一人、あるいは和尚

からだと記している。彼は 、 月明かり と共に味わいつつ、日常生活の中から 生まれる心の葛藤を慰めた。客があれ 飲んではじめて談を交わしたという。

ば、なにはともあれ茶を出して、 三杯 主人と客の聞には何の言葉も交わされ ず、黙々と茶を入れ、三杯の茶を飲む その 間 の沈黙。この沈黙の時間こそ、 喫茶三昧の境地と言わずして何と言お うか。 一 四 一)は 李 室 報 (一 二ハ八1 一一 ﹁訪厳 師﹂(厳和尚を訪ねて)という作 品で茶を飲みながら交わす対話の興趣 を次のように詠 っている。 一一臥純一話 漸入玄玄旨 此楽信清淡 何必昏昏酔 一杯の茶を喫するごとに話を一つ この楽しさは清くして淡く

暫くして後に玄妙なる境地に至る

蕉葉題詩 )J 、李在寛 、 朝鮮 19世紀初、紙に彩色、37cm

r芭蕉の下で詩を作る(

「弾琴図 J 、李慶胤、朝鮮 15世紀、絹本水墨 、 31 .1cmX 24.8c m ( 上)

X 59cm (左上)

20


どうしてそれほどまでに酔う必要が あろうか 主人はしきりと茶を入れては勧め、 次の 一杯を手にした時にはいつの間に

に酔う風流ばかり追い求めているのは まことに残念なことではないか 。 茶は対話の友であると同時に、薬の 効能も持っていた。徐居正(一四 二0 1 一四八八)は、﹁病中煎茶﹂(病中に 茶を入れて)という詩で茶の効能につ いて次のように詠っている。 石鼎閑烹金露芽

衰病年来渇転多 有時快意不如茶 清農為汲寒泉水

政是幽人読画時

細簾透影午晦移 譲畑欲歌茶鳴沸

白き簾にその影は透けて見え 日差しと共に移ろう

的的摺花焼緑枝

年改まって表えの病にかかり

石棺の花は華やかで青い枝は燃える がごとく

喉の渇き例えよう無く 時折楽しきは、茶を喫するときのみ 清らかな夜明けに、

香畑は四方に満ち、茶が音をたてて

か与え

石の鼎に長閑に﹁露芽茶﹂を入れん

冷たき泉水を汲み

沸くとき 幽人が絵を広げて見るにこれ以上の

時はなし

春の 一日、ざくろの花は緑の枝を燃 やすがごとくその紅い花を咲かせた。

一晩うなされて明け方に目を覚ませ ば、唇はからからに乾ききっている。 清らかな朝方にすがすがしい空気を吸 いながら出て、冷たい湧き水を汲んで

部屋の中には白い簾が掛けられてお り、花影の紅い光は午後の日差しと共

a

ていた 。そ れによ って息せき切 ったよ うな暮らしの速度を調節し、失いやす い自分自身を取り戻す術を知っていた のである。

た。ゆらゆらと立ちのぼる茶の湯気の 中にほのかに浮かび上がる面影があ る。かつての先人たちは一杯の茶で憩 い、緊張を解いてくつろぐことを知 っ

懸 ( 一七四 一 1 一七九 三)の﹁端陽日 集観軒﹂(端午の日、集観軒にて)と いう作品である。 このように、茶を飲むことは人生の 意味を吟味することにほかならなかっ

鑑賞に浸りきっている 。 俗世の時間も ここではそのまま停止している 。李徳

屋の中の香炉には香の煙がくゆり、そ の横では茶が沸々と沸き立っている。 主人は先人たちの書画を広げ、幽遠な

に部屋の中にまで差し込んでいる。部

くる。石の鼎の前に座って、金色の茶 をゆっくりと入れる。まだ、茶を飲ん だわけでもないのに、乾いた舌につば が湧いてくる。澄みきった朝、石の鼎 から立ちのぼる茶の香り。病の中にあ っても、体全体が軽くなり、具合の悪 いのも忘れてしまう。また、彼は、 不必更論香色味 畷来方覚長神精 香りと色、その味わいは 論じるまでもなし 飲めば精神の澄み渡 っていくことは 自ずからわかるものを とも詠 った。茶を飲めばふらふらし ていた頭もす っきりしてくるのである から、何もことさらその味わいと香り を論じなくとも、ただただ良いという のである。

21

か話題が変わってしまっている。茶を 何杯も飲めば飲むほど、 二人の対話は 深みを増していく。この清らかで淡泊 な境地を知らず、世間 一般の人々が酒

9

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産チ 夏ハ

林: 金

4、Jえ-

重の 魂 品 カ ミ ー 、 ち'

も る

I~ Jえ

22


韓国の歴史における茶を飲む風習は、仏教と密接な関係、を持っている。 茶のえイじが伝来したのも中国の唐に留学していた僧侶や儒学者によってであり、 それが韓国社会に広まった過程も僧侶らの主導によるものであった。 新羅の王室には茶が虫色えることなく、茶碗も相当な数が唐から入ったという。 新羅の人々の茶は、煎茶であったと『三国遺事』に伝えられており、 『月 目 録 』 に は ま た 、 点 茶 と 記 さ れ て い る 。 煎 茶 は 葉 茶 を 意 味 し 、 点 茶 は 抹 茶 を 意 味 す る

茶器として使われたとされる雁鴨池で出土した (68

国立慶州博物館所蔵

23

~935

)


LI 占

A

国の歴史における茶を飲む

ゴ 広 主 風習は、仏教と密接な関係 r η 寸 をもっている。茶の文 化 が ﹂ ・r

またこの時期には実際、 学者や僧イ呂の詩え

まなか った。結局、王は霊験あらたか

﹁どちらからいら っし ゃたのですか﹂

入 ったという。興徳 王三 年には、使臣

﹁大廉﹂が小さな茶碗を持ち帰ったと な高僧を招いてこいと家来に命じた。

はまた、点茶と記されている。前⋮茶は

事﹄に伝えられており、﹃月日録﹄に

葉茶を意味し、点茶は抹茶を意味する 。

ところです﹂と言った。王は喜び、自

伽 仰 の開国の時、アユタ国の姫﹁許黄

す。今日も弥勅世尊に茶を供えて来た

茶の香りがほのかに漂い、日中にも香

来たという南方伝来説もある。しかし、

許宝玉 ﹂が 一般の船に乗り、 玉﹂と兄 ﹁ 金銀宝貨と共に 一株の茶の木を持って

む僧ではないということで帰した。そ の時 、南の方から粗末な衣を着て網袋

りが満ちた。 この時から新羅の王室には茶が絶え

韓国社会に広まった 過程も僧侶らの主

ることなく、茶碗も相当な数が唐から

もちろん、このような記録以外にも とおっしゃいますか ﹂ と尋ねた。僧は ﹁ 忠談﹂と答えた。王は﹁﹃讃誉婆郎歌﹄ を作 った方ですか﹂と 再び尋ねた。僧

分 に も 茶 を 一杯 も ら え な い か と 尋 ね た。僧侶は 心をこめて茶を入れ捧げた。

侶は﹁そうです﹂と答えた。王は 、

を背負 った僧侶が歩いてきた。王は、

家来たちは 一人の僧を連れてきた。王 は 、 二言 三言 話を交したが、自分の望

いう記録がある。この時期、新羅の

集に茶が登場しないことがないといってもいいほどである

人々の茶は、前⋮茶であ ったと﹃ 三国遺

多彩になった。 の弥勅世尊に供養の茶を捧げにいきま

あったが、 1世紀が過ぎて器の厚さは薄くなり、 器の形も と尋ねた。僧侶は ﹁ 三 月三 日と九月 九 日になれば 、私はいつも南 山 の山花嶺

11世紀の急須や茶碗は、 厚く、 素 朴 で 実 用 的 な も の で

僧侶を丁重に招き入れ、﹁お名前は何

伝来したのも中国の唐に留学していた

12世紀項の茶器は美しさの極致に達する。

。 導によるものであ った 文献によ れば、宮中社会に茶の文 化

五 新 羅 で は 異 常 な出 来事が 相 次ぎ 、 ﹁ 岳 三神﹂に祭事を行ったが、怪異はや

六五)の時であるという。当時 二12一

が入ったの は新羅時代 の 景 徳 王 (三 四

僧侶・ 儒学者によってであり、それが

仏教の儀式で茶を後げるのに使われたとされている青磁の急須、高麗時代、高さ 32.7 c m

24


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τE 州

南方伝来説は神話以上のものとは思え の場合は言うまでもない。釈迦の供え

が建てられた。それくらいだから、土寸

本といえるものができあがった。この

などの模様が現われ、韓国式紋様の 基

三国時代から統 一新羅時代を経て受

れた。アメリカのボストン美術館所蔵

時期には実際、学者や僧侶の詩文集に 物の膳にはその年の初摘みの雀舌茶が 供えられ、急須 や茶碗も極上品が使わ 守 茶が登場しないことがないとい っても

るのも、許黄玉が持って来たからとい って さらに盛んにな り、ついに茶の黄

け継がれてきた茶の文化は、高麗に入

ない 。南の地方に茶の木が群集してい うより、そのあたりは康津霊岩地方の

うと高麗では﹁骨品階層﹂(王族 ・貴

金時代を開くことになる 。歴史的にい

に金メツ キが施され、さらにその上に

を見ると、銀でできた急須の 土台の上

の一一一世紀の銀製鍍金鳳風急須と茶碗

龍山 、鳳山の麓 の森で

嶺南の古 利の客となり

いいほどである。

禅僧の渡唐留学ルl 卜で あり、また気 候条件も合 っていたので、この辺り 一

蓮の花が 二段に のせられ、鳳風が頂に

僧侶に従い鷹のくちばしにも似た

速に全国津々浦々に伝播した。この時

という句があり、やは り高麗末 の大

ぎのようにある。

詩人であった﹁李斎賢 ﹂の 詩にも、

戸を叩く 音 に驚き見れば 玉よりよき茶を送りきたり

清き香り索、食前に採りし故なりや

石釜に沸かす湯の音も

美しき色は森中の露の如く

松林に吹く風の如く

茶碗の紋様はつぼみが

O五日目) ( 寒食 一冬至より 一

まさに・花咲かんとす

高麗末から朝鮮朝初頭の茶器 技術を 援 用して作られたものと思われ る 。

いては、技術の退潮期であるといえる。 しかし 、茶器、中でも特に茶碗を見る

﹁粉青沙器﹂は、韓国陶磁器史上にお

れている 。お そらく このような技法は 象桜青磁が最高潮に達した時期にその

とにかく、 一二世紀頃の茶器は 美し さの極致に達する 。十 一世紀の急須や

とした品があり、高麗 青磁や朝鮮白磁 り、数十万の堤灯が列をなした。茶を

﹁八開会﹂(天 地神など の伝来の神に捧 げる儀式)には、数十万の信徒が集ま

の時期、紋様にも大きな変化が起こ る 。

薄くなり、器の形も多彩になった。こ

民の赤い顔のようだという 。技巧をこ

かりしている)といい、粉青沙器は農

く白磁の壷は長男の嫁のようだ(しっ

を凌 駕する面を持 つ。美 術史家 は、よ

紬や褐紬土器が相当 量生産 されたこと

し、蓮の花、牡丹、葡萄、竹、 雲、鶴

中国系統の菊唐草紋がほとんど姿を消

と、飾り気がなく、無造作でゆったり

茶碗は、厚く、素朴で実用的なもので あ ったが、 一世紀が過ぎて器の厚さは

高麗の勢いが衰えた頃に現われた

とにかく、五1六世紀頃の新羅では 、

日録﹄の記録のように点茶があ ったな ら、茶の葉を粉にする道具も存在して

期 、 寺 院 の 大 き さ は 王室 を凌駕し、

高麗末の儒学者﹁李術 宗 ﹂ の詩には、

帯に茶の木が群集するようにな ったと 族)から豪族に政治勢力の構図が変 化 するのだが、文 化的な面では仏教の新

茶の葉を摘みたり

いたであろうし、それを漉す漉し器も

﹁寺田 ﹂(寺 に 属 す る 田 畑)は広大で、 その収入ははかりしれなかった。記録

碗( 下)

解釈するのが妥当である 。

描いている線が竹の模様の上に添えら

飾 つである 。ま た取 っ手 も細かく円を

進勢力が地方の 豪族勢 力と結 合 して建 てられた王朝であるとい ってもよい。

あった可能性がある。だが、この時期

によれば、春の﹁燃灯会﹂(仏の誕生

急須、鉢型の茶碗 、茶を沸かす道 具が か な り 使 わ れ て い た よ う で あ る 。﹃ 月

の茶器を語るのは難しい。これらは、

従 って、仏教の思想と文化的習俗は急

歴史の中で解体されたり、破片になっ

という銘文のある粉青印花文の平碗( 中央) 、鉄画

ができ 、勢力 家の家の中には﹁茶亭﹂

日に堤灯を灯して行う法会)や秋の

簡潔に草文様が描き込まれた粉青鉄画草花文の平

飲む習俗も例外ではない 。道 には茶庖

てしまったからである。あるいは、統 一新羅時代に土器の表面に施される鉛

青磁象俵雲鶴文の平碗( 上) 、朝鮮時代の「徳寧府 J

から考えて、急須は定かではないが、 茶碗、ぐらいは作られていたかもしれな

25

茶器として使われたものとされている高麗時代の


らさず 、自然に近くあろうという製作

作されたと考えられる﹁彦陽仁寿府銘 ﹂ 茶碗や﹁徳寧府銘﹂茶碗は、朝鮮初期 の平碗とは異なり、四百が丈夫になり姿 も器面の縁に菊の花弁をいっぱいに刻

心理が、 農民の ような姿を帯びる こと 白磁よりも粉青沙器を 好む(日本では 、 の東西南に紋犠を彫り、 北 の余白に格

み、中心に格言や詩を書いたり、器面

になるわけである。日本人は、青磁や

形が歪んで色が澄んでいないと見捨て に世祖年間に作られたものと思われる

言 を彫ったりする形式が創られた。特

粉 青 沙 器 を 三島という)。韓国では 、

い自然 な 器 ﹂ と し て 宝 物 扱 い す る 。 は、脚の長い高台に器を載せ、高台の

られたものを、日本では ﹁ 飾 り気のな

下段と碗の下段に菊の花弁を配置し、

﹁ 三 加仁 寿 府 銘 ﹂ 粉 青 沙 器 印 花 紋 平 碗

う歴史 小説には、豊臣秀吉が江戸の商 碗の上段に 印花 紋を幾何学的にあしら

﹃徳川家康﹄(韓国出版名﹃大望﹄)とい

る。秀吉は、掌で茶碗をさすりながら、

器の形と色は技術的に衰退したが、新

り、そ こで 沙 器 を 焼 い た 。 そ の 結 果 、

た。この時期、陶芸を管轄する官司は 閉鎖され、陶工は各地にばらばらに散

が李成桂に移る 過程で製作され始め

粉青沙器は、高麗末、国政が乱れ王権

日本人をこれほどまでも驚嘆させた

青 沙 器 刷 毛 紋 (刷毛 で色を 塗り筆の跡

されている。 これ以外にも 、粉青沙器鉄画紋と粉

現在でも茶器の技法としてかなり応用

あり、現代的な味わいが濃密なので、

という、自然 の効果を活かしたもので

方で生産されていた漬込粉粧紋の技法 は、暗褐色の器を白土の中に半ば漬け

の代表作だと いえる。主 に、全羅道地

立博物館所蔵 の﹁粉青沙器漬込粉粧紋 ﹂ 平碗も単 純な色 の配置とし っかりした 形の調和をなすという面で、この時期

うなど、洗練された味わいを誇る。 国

人から粉青沙器を贈られる場面があ ﹁朝鮮は本当に素晴しい国だなあ ﹂ と ため息をつく。どうやったらこのよう に美しい器を作ることができるのかと

しい個性を持 って生まれ変わ った。象 山欧青磁の伝統の上に 作られながら、象

を活かした粉青沙器)などがある。粉

いう感嘆のこも った言葉だった。

山欧青磁とは違い、後に出た朝鮮白磁と

青沙器鉄画紋は、鉄分が含まれた灰黒

一方に簡単ないくつかの印花紋や線を 象山飲して彫ったが、時が経つに連れ茶

庫銘印 花紋 ﹂平碗にみるように、器の

好みと陶工の創意により日々新しい器 が生ま れた 。始めは﹁ 粉 青 沙 器 長 興

うである。そのため、新しい需要層の

る。粉 青沙 器刷毛紋は、灰色または灰 黒色の表面に刷毛で白土 粉粧を、力強

る。鶏龍 山 の窯で主に生産され、全羅 道地方で製作されたものもたまにあ

雷 な ど を こなれた 筆 致 で 現 わ し て い

様を描いたもので、柳、鳥、魚、牡丹 、

色または 黒褐色の面に 刷毛で白土を塗

込み、これを取り出して紋様を整える

土豪族 たちを 主な需要層としていたよ

も違うこの粉青沙器は 、地 方の寺院と

り込む洗練された姿を持つにいたっ

碗は大きくなり 、紋様も器の 内外に 彫

く速いタッチで塗り、躍動感あふれる

り、その上に黒か黒褐色の鉄画具で紋

た。特に世宗王末期や端宗王時代に製

仏教儀式で仏様に捧げるのに使わ れた茶碗と茶托である青磁蓋托、 高麗時代、 12世紀前半( 左)

茶を注いで飲むのに使われた 白碗の急須、朝鮮時代、

19世紀( 左頁)

26


紋様の効果を活かしている。 朝鮮時代の茶器 しかし、粉青沙器時代もついに終末

仏教色のあるものは全面的に禁止され

の色が新進士大夫が好む白色に変わ ﹁南原には、上質の茶の木があります。

謁見する座で述べる 。 見し、 宣 祖 に -

がえる。楊錆は南原駐屯地産の茶を発

を著し、茶の復興に火をつけることと

れ 、 草衣禅師は﹃東茶禅﹄や﹃茶話集﹄

草衣禅師と金正喜の聞にも繰り返さ

なる 。

。 り、形もがっしりしたものに変わ った

一銭はゅうにもらえます。その金で馬

以上、急須と茶碗を中心に、器がど

一 その他の 茶器と茶自一一

茶を飲む法はない ﹂ とし、南原のもの は取るに足りないものだといった。楊

れておく茶壷が各時代ごとにいろいろ

ではない 。急須と茶碗以上に、茶を入

しかし、茶器・茶旦(は急須や茶碗だけ

一万頭は充分に 買 えます。﹂その 言葉 を聞いて宣祖は、 ﹁ 朝鮮の習慣には、

あの茶を遼東に持 っていけば十斤で銀

朝鮮中期に入り、茶文化がどれほど

一つだった。 抑圧されたかは、壬辰倭乱(文禄の役)

るか抑圧された。茶文化もそのうちの

ぎ、質朴で実用的なものを求める政治

を迎える。世祖から世宗王の時代を過 勢力が歴史の舞台に登場し、社会の変

鏑が南原の茶は上質のもの

な様式や紋様で作られた。特に茶壷は、

のように変選してきたかを見てきた 。

だといい、﹁あの茶を飲め

蓋を閉め外気を遮断しなければならな

感嘆のこもった言葉だった

の時援軍を率いていた明の将軍楊縞が

心 が関かれる﹂といっても

急須にお湯を注ぐ湯沸かしもいろい

かったので、蓋に重要性が置かれた。

ろな材料で作られたが、中でも高級品

紋様もいろいろなものがある。 の王として、仏教と切 って

は銀製だった。銀製の湯沸かしはすぐ

聞かなかった。性理学を指

も切れない関係の﹁茶﹂を

には沸かないが、すぐに冷めなか った 。

導理念としていた朝鮮王朝

ったのかもしれない。

いた平碗もある。

一五世紀頃に作られ

また、湯を冷ますのに使う注ぎ口のつ

受け入れることはできなか このように、王室と士大 夫の家からは茶が消え去 っ

木を手入れし、茶器を作り、

た。彼 等 は、誠心誠意茶の

茶床は、茶を飲む者が茶を手に向かい

茶 床 (卓 )である。茶匙は竹製で茶壷

で外すことのできないものは、茶匙と

これ以外にも、木でできた茶具の中

鶴紋柳紋などが彫られ、茶を沸かす人 に興を覚えるようにした 。

に、この形の器は器面の内外に印花紋

朝夕に茶の味を吟味した。

合って座る卓、または茶の道具を置い

た﹁粉青象阪蒲柳紋﹂に見られるよう

性理学者 ﹁ 丁若 鏑 ﹂ が始め て茶を味わ ったのも、月出 山の裾にある百年寺で恵蔵

ておく 卓 として広く使われた。殊に茶

たといっても、深い山奥に

樽師に会った時だった。そ

床は、 書 床 (蓄 を読むための机)、飯

入り込んだ寺では、僧侶が

の日の茶の味を忘れること

床(食車)と並んで、木製家具の中で

茶のある生活を続けてい

のできなか った丁若 鏑 は 、 去る時に ﹁ また法師を訪れ たらその時も茶を下さいま

や単純素朴な形が逸品であるといえ る。

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も最も美しい物として、その造形美

に 入 れ た 茶 を 急 須 に 移 す 道 具 であり、

すか﹂と聞いたと伝えられ ている 。 こうした関係は、

27

ば胸のつまる思いも去り、

どうやったらこのように美しい器を作ることができるのかという

王と交した会話からもその実状がうか

「朝鮮は本当に素晴しい国だなあ」 とため息をつく 。

化を志向したので、器の形も時代の雰

青 沙 器 を 贈 ら れ る 場 面 が あ る 。 秀吉は、 掌で茶碗をさすりながら、

囲気を反映して変化するにいたる。器

『徳川家康』 と L 、う歴史小説には、 豊 臣 秀 吉 が 江 戸 の 商 人 か ら 粉


茶 ユ-アジ ョン

・劉太鍾 m ﹁m O I司O ﹂O

類と薬用効果

建陽大食品工学科教授

A r 1 物の霊長である人間は他の ﹃動 物 と は 異 な り 無 限 の 精 神 世界を持っている。そのた

一ノ

﹁F め、昔から思索する動物だとか、考え る葦という言葉によって表現されてき た。パンだけでは生きられない人聞は 普通の食品以外に曙好食品を愛用し た。曙好食品としては酒と茶が代表的 なものであるが、茶は健康維持に多大 な貢献をしているという点で酒とは大 きく違う。生活の中で我々は様々な種 類の茶を作り、飲んできた。高麗時代 初期には茶房という職位があり、王に 進上する茶と煎じ薬をつかさどってい た 。

。緑茶 疲労回復と鎮静作用がある。緑茶の 種類には葉茶、粉茶(抹茶)、団茶(茶の 粉を練り固めたもの)などがあるが、 今は葉茶が主流になっている。茶は頭 や目をすっきりさせ、喉の渇きを押さ え、解毒作用があると古い本に紹介さ れている。茶の成分はカテチン(タン ニン)、フラボノ、カフェイン、ビタ ミン、無機質、葉緑素などがある。茶 を楽しみながら飲んでいれば、独特の

28

」 一 一一一 一

の 手 重


味を満喫した上に疲労回復と共に気持 ちをすっきりとさせることができる。 最近では坑癌作用も報告されている。 一緒に煮てはいけない。

緑茶は沸かした湯を注いで味を引き出 すものであり、 使用する分量は好みによ って異なるが ル手二人分として使用する。適当な湯

普通は緑茶 二グラムに水0 ・二リット の温度は八十度程度で、急須に蓋をし て 二1 三分待って飲む。韓国の銘茶と しては雀舌茶(初摘みの茶の葉を摘んで 作ったもので、形が雀の舌に似ている ということで付いた名前)などがある。

。柿葉茶 新緑の五月の日差しを受けて目が怯 むほど輝く柿の葉で作った茶が柿葉茶 である。柿の葉には繊維質、蛋白質、 葉緑素、ビタミン、無機質が多く、ビ タミン Cとポリフヱノl ル、葉緑素な どが合わさり高血圧などの成人病を予 防する効果が高い。柿の葉にはビタミ

れている。柿葉茶を作る要領は次の通

ンC が レモ ンの 二十 倍 も 入 っていて、 カリウムとカルシウムが特に多く含ま 。葛茶

成分やイソフラボノなどが含まれてい

で広く知られている 。葛の根には痘 簿 作用を鎮静させるダイドゼインという

風邪の治療と予防に効果があること

し蒸す。このように処理をした柿の葉

りである。若くて柔らかい柿の葉を摘

を細かく刻み、陰干しをしてから密閉

る。薬理作用としては解熱、冠状動脈 拡張、脳の血流量を増加させることな

んで葉脈を除き蒸龍に入れ水蒸気で少

した容器に入れて保存する。柿葉茶を

じて飲めば風邪の治療と予防にとても

どが知られている。干した葛の根を煎 効果がある(干した葛の根二十グラム、

飲む方法は緑茶と同じである。柿葉茶 二 ・五グラムに 八0 0ミリの沸かし た よく出たのを飲む 。 柿葉茶には特に味

水 一リ ットル、蜂蜜若干)。 二日酔いに もよく、肩や腕の神経痛にも効果がある。

29

お湯を注いで蓋をし、五分程してから がないので、梅酒を 二、 三滴落とした り、柚子の皮を 一片浮かすのもよい。

緑茶


のサボニンの種類と比率が薬効と関係

卓越しているのは高麗人参である。そ

種類があるが、健康食品や薬用として

米国産、ヒマラヤ産など、いろいろな

味である。人 参 に は 日 本 産 、中国産、

に発音したもので、パナックスは通治 薬餌(綴々なものに効く薬)という意

センである。ジンセンは人参を中国式

高麗人参の学名はパナツクス・ジン

いない人参)十グラムになつめ五個、

(枝根の多い人参)か水 参 (乾燥して

乾燥を防止するとのことである。尾萎

湯などに有効で、皮膚を瑞々しくして

症、心不全、動脈硬化症、貧血症、漬

なものがある。ストレス、疲労、憂欝

証された高麗人参の効果には次のよう

と言われてきた 。 これまで科学的に立

の一つとして、補血、強壮作用がある

では昔から高麗人参を最も貴重な生薬

のあるものとして知られている。東洋

れゆえ、韓国の人暮が有名なのである。

。人事茶

高麗人参には特別な薬理作用を持った 蜜や砂糖を加えて飲む。

にかかった時ショウガ茶を飲むと効果 が 高 い 。 分 量 は シ ョ ウ ガ 一片(十グラ

水一リッ ト ルの割合で煎じたものに蜂

。 ショウガ茶

サボニンが 二十数種も入っている。こ

FmmO わO ﹂ O

ム)に水 一リットル。きれいに洗ったシ ョウガは皮を剥き、 0 ・一ミリ程度に

ショウガには食欲増進効果と漢方薬 の味をよくし、吸収を高める効果があ る。ショウガの辛みのある風味の主成

碗に入れ熱い湯を注いで飲んだりす

薄く切る。これを蜂蜜か砂糖に漬けて 茶さじに大盛りで て 二 杯を湯飲み茶 る 。

分はエツセンシャルオイルやジンジヤ ロー ンなどである。胃を強くし、むか つきを押さえ、咳としゃっくりを押さ

ル、リノリツク酸、ベタインなどが含

まれている。成長ホルモンの分泌を促

進し、コレステロールの沈着を防ぎ、

える。殺菌力もあり乗り物酔いを治す

拘杷はナス科に属し、実は赤い 。ビ

内の血糖を減少させる 。疲労回復、便

肝臓に蓄積される脂肪を分解して血液

タミン A の母体であるカロチン、ビタ ミン B l、・ B 2が多く、シ ト ステ口 l

。拘杷子茶

効果もある。辛みのある風味のため、 温かいショウガ茶を飲むと腹の中が温 かくなるのを感じる。そのため、風邪

る。分量は干した拘紀の実 二十グラム、

泌、冷症、高 血 圧、糖尿病に効果があ

水四0 0ミリ、蜂蜜少々 。

。決明子茶

マメ科に属する植物の種で、つやの

るとして、昔から愛用されてきた。目

ある暗褐色をしている。人体の重要な 器官である肝臓や腎臓に強壮効果があ

がよくなるということで漢方では決明

30


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尚南道で多く産する。柚子茶は、これ

も家で作り置きして飲む茶の代名詞で

ある。柚子は直俊煮ると渋い味が出る

ので砂糖や蜂蜜に漬けておかなければ

ならない(柚子五個、同量程度の蜂

蜜 ・砂糖)。柚子は五O %以上が皮であ ることが特徴。 柚 子は風邪、過労にそ

の真価を発揮する。風邪、過労の時、

柚 子茶を飲め ば体から汗が出て、熱 が

不良や食欲不振には食欲を増進させ、

下がり、症状が軽くなる。また、消化

飲み過ぎにはアルコールの解毒作用も

ことが明らかにされている。便泌 の治 療効果も高い。よく煎った決明子二十

壮、利尿、高血圧、胃弱に効果がある

アトラキノンが含まれており緩和、強

子と呼ばれている。特殊な成分として

が起きる人にも効果がある。また、木

良い。また膝が冷えたり、筋肉に 痩轡

ない神経痛、腰痛に苦しんでいる人に

木瓜茶は足腰が弱くなり、長時間歩け

瓜 一個、砂糖・蜂蜜は木瓜と同 量程度)。

だが、その味と風味は絶品である(木

から漬け置き 、随時取 り出して飲むの

。 五味子茶

ある。

ように煮出して飲む。

グラムを水 一リットルに入れて麦茶の

瓜には食物の消化を助け、下痢の後に くる喉の渇きを押さえてくれる効能が あり、腹を丈夫にし胃を楽にしてくれ るものとして知られている。

。柚子 茶 柚子は 柑橘類の 一種。全羅南道と慶

味子を煎じて冷やして飲むが、五味子

いのが特徴である。五味子茶には新陳 代謝を促進する効能 がある。夏には五

酒石酸などの有機酸のために酸味が強

赤みを帯びている。果肉はリンゴ酸、

塩辛味、苦味、酸味、辛味の五つの味 を言う。モクレン科に属する木の実で、

五種類の味を持っているということ で五味子というのだが、それは甘味、

薄く一枚、ずつ重ねて敷きつめ、砂糖か

茶の代名詞である。よく熟れた木瓜を 五 ミリ程の厚さに切り、ガラス容器に

木瓜茶は晩秋と冬に味わいを楽しむ

。木瓜茶

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蜂蜜を加える手順、を幾度か繰り返して

31

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十グラムに粟、なつめ各 二個を加えて 煎じたり、尾参を入れて煎じると風味 のある茶になる。蜂蜜や砂糖を 加味し

がある。さらに食欲増進効果もある。

て飲む。五 味 子茶には体内の酵素を活 性化させ、性機能障害の改善にも効果

。桂皮茶 佳皮はクスノキ科に属するシナモン

の皮 。噛む と歯ごたえがあり 、多少の 甘味とともに 舌が若干 麻疲するような 感じがする。精油(エッセンシヤルオ に効果があり、中枢神経系の興奮を鎮

イル )成 分 があり、健 胃、解熱、鎮痛 静させ、水分の代謝を調節して 血液の 循環 を促 す。桂皮茶は 胃腸の 粘膜を刺 激し、胃液の分泌を盛んにして胃の活 動と吸収作用を促進するので食欲増進 る効果があることで知られている。桂

効果 が高い。そして 、胃産筆 を押さえ 皮 二、 三グラムをきれいに洗ってから 水四0 0ミリを注いで、一度沸 騰させ てから弱火にして 二十分ほど煎じる 。

なつめ茶

32


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つめを入れて飲んでも良い。

漉してから砂糖や蜂蜜を加えて飲むの だが、松の実を浮かべたり、干したな

が、民間療法では根とともに飲んだり、 ハトムギ自体とともに飲むと通経剤に

茶 は 健 康 維 持 に 多 大 な 貢 献.をしているという点、で酒とは

神経疲労を解消する作用がある。な

と皮を取り出す 。漉 し器にかけたもの に 一度沸かした湯を加え、更に水を足 なり、利尿、健胃効果が高いと言われ

スタミナ食として脚光を浴びている

してひと煮立ちさせ、蜂蜜か砂糖を加 えて飲む。分量はなつめ 三十 個に対し

ている。最近では抗腫蕩薬としての作 用が報告されており、疲労回復や便泌、 神経痛にも効果があるとされている。

器に入れて水を加えてから一煮立ちさ

水0 ・六リットルに煎ったハトムギ 二 十1 二五グラムを使う。ハトムギを容

。 ハトム ギ茶 ハ ト ム ギ は イ ネ 科 に 属 す る 一年 草

AV

せ た 後 、 弱 火 で 三十 分 程 度 静 か に 煎 じる 。 成 分 が 出 た と こ ろ で 漉 し て 飲 む 。

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。なつ め茶 つめは昔から老化防止の特効薬として 知られている。なつめで茶を前⋮じて飲 むと、神経疲労がたちどころに取り除

語l 配

て水 一・八リ ット ル。

で煮詰め、なつめを漉し器で潰して種

かれ、強壮、強精の効果も期待できる。 なつめは弱火で 三分の二程度になるま

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で米と形が似ていてご飯のように炊く と味も似ているので食糧に利用された りもした。必須アミノ酸を含んだ蛋白 質が多く、澱粉質も多く含まれている。

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33

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飲 ん で き た 。高尻時代初期には茶身という職イ立があり、

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l場 困 'μ . .、 王 に返上する茶と煎じ薬をつかさどっていた

「ム 写真 ・ - . 二・ ・ えさく違う 。 生 活 の 中 で 我 々 は 様 ャ な 種 類 の 茶 を 作 り 、

唱 、 蝿,


、又 ン パタフィ ジユ

﹁ 香気を求める人々﹂代表

の中で息を吹き返している。

・朴希域

が見えている。このような草衣僧侶と

出しているのである

一7

の本来の姿を再び見つけ

再び花咲 く茶文化 韓国の現代の茶文 化は激動の時期を 経ながら、さながら茶 礼 に茶が出ず、

中で忘れられている手ムたち

る深い茶の香りが、再び私たちの生活

近代の急速な経済点長の

彼の茶友達である秋史金正喜と先輩で ありま た良 い友である茶山丁若錬が築 き上げた身分や年齢や思想を飛び越え

CZの︿OCZの出とZ

と一つになり、

年は文化遺産の年である。 、 ・ 毎年、演劇の年、踊りの年 、 韓 国文化全 ノ- 国楽 の年な ど 般にわたって新たなスポ ットライトを

当てながら、韓国独特のものを正しく 知るた めに力を注い で いる 中で、韓国 の茶文 化界に おいても 一つの慶び事が あった。この文化遺産の年に韓国の茶 文化の中興の祖としてその功績が称え られている草衣僧侶が茶の月である今 年の五月の文 化 人物に指定され、様々 な記念行事が行われた。このような一 過性の行事で茶文化が新たな面を見せ るわけではないが・ ・・。茶は今まで 韓国文化の主要な部分を占めてきた が、文化の中 心に はなれなか った。し

昔のえイじゃ先祖たちの香気

た国 なの

かし、最近茶文 化 が大事な文 化的 遺産 として認識され始めているという徴候

の 茶えイじを通じて韓国の

手 庁 手 章

酒が 代 わりに 出 るように、 コーヒー や 各種の西洋飲料に押されて永久に消え て去 っていた地点から再び出発した。 その脈を受け継いでいく上で、寺院の 僧侶たちと韓国の精神文 化 の根を守ろ うとした先駆者たちの努力を忘れるこ とはできない。彼らの努力によって一 九七O代になって小さな同好会から社

団法人韓国茶人連合会が作られ、つい に茶を飲む人という一次的な意味を持 った茶人という 言葉が社会に知られ始

めた 。 それによ ってその茶人がどのよ うに生き、またどのよ うに生きて いか なければならないのかに関する本格的

な探求が始ま った。

このように今 日の茶文 化は韓国 文化 の根と生に対する覚醒から始まり 、よ

り多様な姿に発展している 。茶を飲む ことでよ り健康に なる茶が機 能食品 と して発展し、また茶のある生活を通じ

て秩序と教養のある生き方を追い求め て、内 面的な 世界をより豊かに培って

いくのである 。 そして、茶文化を通じ て韓国の昔の文化や先 祖た ちの香気と

一つになり、近代の急速な経済成長の 中で忘れ られている私たちの本来の姿 を再び見つけ出しているのである。現

在、このような動きは韓国茶人連合会、

34


り多様な韓国の伝統文化に近づけよう

東茶頒文化院など、茶に重きを置いた

韓国茶文化協会、釜山茶文化連合会、

る。韓国人の生き方の様式である衣食

俗 に 茶 文 化 は 総 合 芸 術 だ と 言 われ

の香り

韓国の茶文化の震源地仁寺洞の茶

住が 全 て含まれており、茶に合う茶器 や茶室、そしてそれに合う家具とその

な美意識の変化が後に続くようになる

集まりと、茶と礼節を同時に求めてよ

ることができる。また、そのほかにこ

めに起こる様々な美意識の変化が後に

とする礼智院、礼若院などを通して知

続くからである。 このような動きは韓国でも伝統文化

中に合う絵や園芸にいたるまで、それ

が比較的よく保存されている仁寺桐で

れに属さない京郷各地の多くの団体が

でいる若い大学茶人たちの会である全

も見ることができる。仁寺洞は古 書 画 や骨董そして画廊と伝統画具を売る筆

茶を飲むようになると、茶ひとつのた

国大学茶人連合会とインターネ ット通 信上で活動する新しい若い茶人たちで 茶香﹂などの集 ある﹁チャサラン﹂、 ﹁

房が軒を並べており、その中に韓国の

ぞ れ に 合 う 変 化 を 求 め る 。 すなわち、

まりが新たにできている。これは韓国 の茶の生産量が 一九七0年代の 一トン

食べ物が味わえる韓定食の庖や茶道具

茶文化の現場を掘り起こしている。そ

から去年、九百トンに増え、また輸入

を売る専門庖や伝統茶の屈がともに交

の中ですでに 二十年の伝統を 受け継い

される茶もまた少なくなく、漸進的に

わっている所である 。 そして、最近は 韓国の服の専門庖が増えてきており、

茶人口が増えているということでもわ かる。すでに十年以上発行されている 茶専門誌があり、茶のための学習セミ

一言 で言 うなら、韓国の伝統 美 がある 衣食住に 一つの場所で出会える所にな っている。ここで生気を与えてくれる

35

ナー が聞かれているのを見ると韓国の 茶 文 化 は 再 度 中 興 期 に 入 ったと 言 え る 。

茶えイじは総合芸術だと言われる 。

韓国人の生さ方の様式である衣食住が

全て含まれており、茶に合う茶器や茶室、

そしてそれに合う家具とその中に合う絵や園芸に

いたるまでそれぞれに合う変化を求める 。

茶を飲むようになると、茶ひとつのために起こる様々


今では、韓国の茶えイじは経済成長で膨らんできた 消費志向的なえ化を落ちつかせ、 韓 国 の え 化 の 中 に iと め ら れ た 韓 国 の 情 緒 を 学 び ¥ 男jll 染 ま せ る 一 つ の え 化 的 な 況 象 と し て 位 置 づ け ら れ て い る

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36


七カ所以上増え、韓国の伝統茶が飲め

のが伝統茶である。 一九七0年代にはわずか 一カ所にす ぎなかった茶道具の専門庖が現在は、 る所も 三十カ所あまりに増えた。もち ろん、この中で私たちがここでいう茶 専門屈は 一カ所にすぎないが、すでに 十年以上 一つの場所を守っている。ま た、茶やいろいろな代用茶が飲める茶 屈が日に増えていっている趨勢である。 仁寺洞で最も古い茶庖は耕仁美術館 にある﹁茶院﹂である。韓屋の美しさ

目にこの茶道が選択され、幼稚園から 小学校、中学校、高校にいたるまで、

をそのまま生かして作った美術館と、 上品でこじんまりした庭園は都心の中 でもふと昔の情趣を居ながらにして感 じられる場所である。そして、仁寺洞 で茶経香室は外せない所である 。 この 茶屈では韓国の全ての伝統茶が味わ え、また茶のための唯一の専門空間で ある。また、室内を鳥が飛び、水が流 れるように作られた﹁昔の茶庖﹂もさ

生活の礼節を学ぶ時間にこの茶生活が 紹介されているだけでなく、茶に関連

ここで注目すべきことは茶の効用や 茶を水で灰汁抜きして飲むのを学ぶ基 礎段階からもう一歩進んで、直接茶を 作って、昔の茶人たちが残した茶文化 の遺跡を踏まえて、茶文化の古典を学 ぶなど、より原論的な茶文化を作って いくという点である。このような中で 消え去った茶礼に酒の代わりに再び茶

経済成長で激しく揺れ動いた文化的な 断層現象を埋めるために茶文化界の人 士たちは朝鮮、高麗、新羅、高句麗に いたるまでの茶文化を再び復元発表し ながら、衣装や茶器及び各種小品に関 する時代的な考察をして、単純に茶を 飲む飲茶行為の中に、より歴史と思想 的な深みを加えている。 このように活発な韓国の茶文化界の 動きの中で茶文化が持っている内面的 な深さを他の伝統文化が持つ外面的な 幅広さに繋げたとき、早くから高麗青一 磁や朝鮮白磁を作っていた韓国の先祖 たちの静かでかつ豊かだった心が再び 息を吹き返し、まるで 一杯の茶が韓国 の心身を清めるかのように、世の中が より平和になり、香しく包み込める生 の答えがあるはずだと思う。茶 一杯に

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心を込めて、その茶 一杯で私たち皆が 一つになれる社会を私たちは夢見てい る 。

( 右頁上) 、音の茶庖( 中央) などの伝統の茶庖が集まっている

国の情緒を学び、馴染ませる 一つの文 化的な現象として位置づけられている のである。十数年前から大学の教養科

また茶を飲みながら、主人が直接天然

らに異色である。茶を直接水に浸して 灰汁を抜いて入れてくれる﹁草堂﹂、

した社団法人で運営している茶道大学 院が日に増えてきている。

染色をして作った服を見ることのでき る﹁アラガヤ﹂など、全て特色があり、 運営する人の個性がそのまま現れる茶 店がある。ここを訪れる人々は驚くこ とに 二十1 三十代が主流である。二十 年前の茶文化の芽が根を下ろし、今や 世代交代をしながらさらに違う花を咲 かせているのである。

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を出すという動きが胎動し、今や韓国 の茶文化の 一つの特性となり茶礼文化 として定着している。 伝統文化において日帝の占領時期と

37

今では韓国の茶文化は経済成長方膨 らんできた消費志向的な文化を落ちつ かせ、韓国の文化の中に込められた韓

仁寺洞( 右頁下) は伝統茶のメッカで、各種の伝統茶が飲める「茶京郷室」


キム ジユ ヨン

・金 周 栄

作 家

puIA占 国 全 羅 南 道 の 中 南 部 の 端 の 方に静かに収まっている全

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﹂ドE41羅 南 道 宝 城 郡 一帯は、 他 の 地域からあまりにも離れているため、 人々が気軽に行ってみたくなるような

ところではないが、実際に行ってみれ

ば、交通がとても便利なところである。 ま ず 、 京 全 線 (光州 一一般天)が宝 城 に

コ フ/

延びており 、 羅州 からは国道 二三 号線 が、それに国道 二号線が順天から木浦 まで繋が っている 。交 通が便利なだけ でなく、海辺にある宝城に行 ってみる

と、向かい に見え る高興の 地 が宝城湾

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を抱きかかえていて、きわめて居 心地 の良い感じのする 地域である。宝城は チ 〆 フ 長興とともに大部分が 山地 からな って いる 地域なので、昔から農耕 地 が少な

く、長い問 、交通の不便なところとし て知られてきた。そうした、 地 形のた めに、{玉城の人々は大体において外部 の波に容易に 押 し流されない意 地 と自

分に対する侵害には激 し く抵抗する強 靭な 気質 を持 っていることで有名であ る。日帝時代である一九 一一一年 、 宝城 郷校の士大夫たちを中心に朝鮮総督府 の酒税令に 抗議した示威運動などは宝

宝城にはそれほど大規模な文 化遺跡

城の人々の気質を代弁してくれる良い 例 であろう 。

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はないが 、少なからず見 応 えのある 地 域が 全地域に広がっている。最も勧め たいところは 宝 械邑と隣り合わせの

得線 面海坪里という村 の入り口にある 男女 一対の石のチャン スン ( 村 の守り 神)である 。宝城邑から東の方に延び

ている国道 二号線に沿って七 ・四キ ロ ほど行 くと、 軍頭に 出 て、そこから南


び南の方に四 ・九キロほど先 の方へ行 くと海坪里に到着する。石のチャンス ンはその 村の入り口に立 っているけや

きの木の前で見ることができる 。 日暮 れ時にそのチャンスンを静かに眺めて いると、 心がし っく りと落ち着いてく

るのが感じられる。それは、その石の

チャンスンがその昔の庶民たちの持っ

な姿そのままを描き出している容貌だ

ていた典型 的な 顔の形、すなわち謹厳 でありながらもいたずら っぽい諮諺に 満ちた表情、そして飾り気のない素朴

からである。そのため、誰であれ海坪 里の石のチャンスンの前に立つと、す ぐに立ち去ることができなくなるので

ある 。 その前に莫藍を敷き、ど っかと 胡座をかいて、韓国の土俗酒であるマ ツコリ(濁酒)でもが ぶがぶ とあおり たい衝動を押さえきれなくなるのであ る。 ひょ っとすると、宝城の人々の気

質と容貌の原形が 他な らぬ、石のチャ ンスンなのか もしれないとい った考え すらしてくる。

韓国のチャンスンは、それが石を削 って作 ったものであれ、木を削 って作

ったものであれ、伝統的に匠(職人) の手を借りることはない。その時、そ の時の必要に 応じて、腕前の未熟な村 の青年たちが作って立てる習わレ亡あ

る。 それにもかかわらず、どれを克て も美術的な感覚において非の打ち所の

ないほど、完壁に韓国人の心根をそ ρ くり表現し尽くしている。海坪里の石

のチャンスンは 、そ うした韓国のチャ ンスンの中でも、おどけた表情と寛大

さとが 一緒にとけ込んで、それが 一つ の顔に玄 妙に調和されて、 美術的な完


成美においても全く欠点を見出すこと ができない 。 そのチャンスンを見れば、 JJ I

宝城が韓国のパンソリ(南地方の伝統 ヒ ,

J

民謡の 一つ)の 中 の、西便制の本場で

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手 内,,

かへ立ち去ってしまったのだ った。

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昔から宝 城郡文徳面大原寺の周辺に

はお茶の木があり、緑茶を作っていて、

今でも野生の茶の木が竹薮や柏の木、

T1 ホ, , と J

はんの木の林などの傾斜地に三千坪ほ

〆サ

あるというのが容易に理解できる。西

ホ﹀必リ〆け

の堂村、筏橋の澄光寺寺跡の周辺、宝

〆ワ

ど自生している。このほかにも福内面

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便制は朝鮮時代に盛んであったパンソ 、 リの中の 一つで、宝城、康津 、 羅州な

城邑自願寺の寺跡、得糠面亀山の山麓 には、いまだに野生の茶が茂 っている 。

ホ札ギ

どの地を中心に、これまで伝承されて

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きているが、この地域が全羅道の西側

韓国の緑茶の九O %を生産しており 、

山リ

に位置しているというので付けられた 工

茶の主産地として有名な宝城茶園は宝 1Jν

活城山山のボツチェ峠を越えることに

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名称である。西便制の特徴は聞達で力

に海に向かって下っていくと、途中で

城邑蜂山里にある。宝城邑から南の方

て雄壮で力に満ちている。また発声の

されているパンソリで、音声がきわめ

強い東使制(全羅道の東部地方で伝 承

始まりがきわめて慎重で、口節の締め

かと邪魔にな った。ちょうど近くを通 りかか った村の人が困り果てている私

茂っていて、それが写真を撮るのに何

時は、チャンスンの回りに雑草が生い

石のチャンスンを見に海坪里を訪ねた

まれているに違いない。私たち 一行が

ソリを守 っているねばり強い庶民精神 も、海坪里の石のチャンスンに深く刻

歌 った歌でもない 。 { 玉 城の人々がパン

大衆芸能である。それは士大夫たちの ものでもなければ、両班階級が好んで

濡らし、生の哀れを洗い流してくれる

い生活にあえぐ民衆の胸をしっとりと

そのどちらであれ、パンソリは苦し

した発酵茶と、ウーロン茶、包種茶、

そ三つ の種類に分けられる。西洋の紅 茶のように茶を作る過程で茶の葉を醸

である。茶の葉で作られる茶は、およ

終生変わらぬ真心を象徴するものとし

のため、昔は 婚礼の式を挙げるときに、

はない。茶の木のこうした複雑な性質

の木とは異なって移植するのが容易で

そうかと思えば、茶の木は地中の根が 地上の幹の 三倍近くも長いため、普通

いが 、 昼間は日陰になりがちな渓谷を 挟んだ山の傾斜地でよく育つ 。き わめ てやや こしい気候を好む植物である 。

霧がいっぱい に立ち込め、陽射しは い

吹き飛ばしてくれる地域、そして朝は

涼しい風がひ っきりなしに蒸し暑さを

、 は 気 候 が 蒸 し 暑 く 、 湿 気が多くて も

茶の木は憾の木に似ている。茶の木

ぬ茶畑である。

なる 。 そこからは山麓に広がる緑 一色 の畝が 一望できるが、それがほかなら 括りが金槌で断ち切るように明確であ り爽快である)とは対照的に、音色が 柔らかく、味わい豊かで、哀切に満ち

たちを見つけ、急いで走 ってい ったか と思うとどこからか 草 刈りの道 具を携

龍井茶といわれている中国茶のよう

た感じを与える 。

えてきて瞬く間に雑 草 を刈り取 ってく

て茶の種を袋に入れて式を挙げたもの

れた。そしてまた 一言 も言わずにどこ

40


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勺﹀司式的

( 左上から時計四りに) 伝統茶を作る工場、 宝城茶畑の全景、 1997年のミスお茶、

この行事は毎年聞かれている。手で直接 茶を作っている工場長

に、ある程度醸してから妙り上げた半

発酵茶、茶の葉を蒸気で蒸すか、釜の

中で妙り上げて、葉の発酵成分をなく

してしまった後、これを乾かした茶が

ある。宝城茶は、この最後の方法で生

産された茶である。

韓国における七0年代は物質の渇き

の渇きを満たすため、自分の周辺を探

を満たすため、 一生懸命駆けていた時 代であったとすれば、八0年代は精神

り始めた時代だと言える。西洋人は彼

らの暮らしている地域の水が悪くてビ

ールやサイダーを開発し、中国人は水

が黄土で汚れていたため、これを沸か

して飲み、それが茶の風俗の発展につ

ながったとの俗説がある。人は同じ水 でも 刺 激 性 の あ る 水 を 望 む よ う に な

り、そうした中で開発されたのがココ

ア、コーヒー、緑茶であった。これら

の三 つの飲み物は、いずれも中枢神経

ていて、それぞれ独特な味と香りがあ

を刺激するカフェインが少しずつ入っ

って 世界 三大飲料に発展してきた。宝

城の茶は、高血圧と動脈硬化を予防し

値を減らしてくれるだけでなく、放射

ながら、人体内のコレステロ ー ルの数

のような公害に苛まれる現代人にとっ

能も防いでくれる 。重金属や有機水銀

て、茶の中のタンニン成分は、これら

の公害物質を体外に排出させる働きを

する。頭痛には茶の粉末も効き目があ り、哨息と咳、風邪には茶の種を百合

の根と同 量 に 混 ぜ て 水 に 溶 か し て 飲

む。{玉城の茶を度数のきっい焼酎に溶

かして飲めば、容易に酔いもしなけれ

ば、酒が醒める時にも頭痛や腹痛など

をまったく感じるようなことはないと

41


言われている。

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け継がれている。 しかし、解放以後衰退していた茶道 が再び生活の周辺に立ち戻り、宝城茶 園が復興しはじめたのは、多くの人が 生活の風雅な趣が何であるかを探し求 めるようになり、また刺激性を持った

は国内の消費が多くな って供給が需要 に追い付けずにいる。宝城郡には 一九

面積から毎年、七0トン余りの茶を生 産するにいたった。もちろん 、ひと頃 は需要が少なくて赤字だったが、今で

ってきたのである 。今 日、宝城の茶園 はさらに広くなって六百ヘクタールの

飲み物が我々の健康に及ぼす悪い影響

‘.

堂の背後にある流れの水を汲んで茶を

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を悟 ったからである 。 健康を守りなが ら茶を飲むことのできる唯 一の道がま さに緑茶を飲むことだというのが分か

志、

沸かしたのである。草衣禅師が起居し ノ コチ ワ ていた高廠禅雲寺の一枝庵には、いま だにその当時のそうした茶道が禅房を 守っている孤高な僧侶たちによって受

4

一九三九年、茶栽培の適地を求 めて、 韓国の各地を探し歩いた日本の茶栽培 の専門家は、ついにこの宝城邑で足を 止めた。茶の木がよく育つためには、 年中気候が暖かく、年平均降雨量が 一

五0 0ミリ以上にならなければならな いが、この地の降雨量はそれにやや満

と深い交わりを持 っていた大学者、丁 若鏑と朝鮮時代の書道の大家、金正喜の

た。しかし、日帝から解放されてから、

たないものの、大陸性気候と海洋性気 候が交錯するところなので、朝夕に霧 が濃く立ち込め、湿気を補ってくれた。 宝城の人工茶畑はそれが出発であっ 宝城の茶畑はなんと十二年間も放置さ れたままだった。人々の曙好がコーヒ ような学者たちも、草衣禅師と交わり ヘナム ながら茶に心酔した。丁若錦が海南の 茶山草堂で、十八年もの長い問、流配

ー。サイダー、コl ラのような刺激性 のある飲み物に急激に惑わされ始めた からである。それとともに昔から伝え

衣禅師との対話であったと 言われてい るのは、すでに広く世間に知れ渡って いる 事実 である 。茶山草堂前の平たい 岩は彼が茶を沸かした場所であり、草

生活を著作活動で過ごしている問、彼 を慰めてくれたのが茶を飲むことと草

られてきた茶道もやはり韓国人たちの 生活から遠ざかり始めた。茶道の持つ 奥ゆかしさと静けさ、そして端正で優 雅な趣も、韓国人の味わい豊かな生活 からは遠ざかり、色槌せ始めたのであ る。高麗時代には王室や貴族たちの問 で茶をたしなむ習慣が広く行き渡って いたし、寺利には茶を宮中に捧げる茶 村という村があるほどだ った。 こうし た風潮は茶器から始まった有名な高一躍 青磁の発達に決定的な役割を果たした りもした。 朝鮮時代には仏教が押さえ付けら れ、生活が質素になるにつれて、茶を たしなむ習慣が衰退したが、それでも 僧侶たちの問で命脈がつながってき

って茶道は大いに復興した。また、彼

た。朝鮮時代の後期にいた って、茶と 禅は一つと考えた僧侶、草衣禅師によ

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42


、 韓国で 唯 一の宝城の茶番祭では、初 日

五月に合わせて茶番祭を開いている。

八五年から毎年、初茶の収穫期である

る 。

故郷を捨てて都会に行っていた若者た ちが一人、 二人と戻ってくる状態であ

されているからである 。 むしろ今では てゆったりと打ちつけるのである。料

おいた木造の小舟の船縁を静かにそし

元に満ちてくるにつれ、海辺に繋いで

も宝城でもう一夜過ごしていこうとい

の地 を眺めているうちに、無理をして

して 一杯飲んだ後、海の向こうの高興

に海辺の村、粟浦の海の景色と独特な

に沿って南の方に下が っていくとすぐ

ようなものは、{玉城茶園から十八号線

宝城が保有しているもう 一つの宝の

んと跳ねる刺身の材料を仕入れてくる

っておいた網の方におもむき 、ぴんぴ

理屋に入 って 刺身を頼めば 、漁師はそ の木造の小舟に乗って適当な距離に打

を茶でまろやかにして割って飲む。宝 城の人々は昔から茶道を身に付けてき

った決 心を固めるようになる 。酒はき

たせいか、その食堂の女将のように礼

つく、茶はまろやかである。きつい酒

のデモンストレーションなど、多彩な

器の展示、茶の美人コンテスト、茶道

刺身が味わえ る。とくに日暮れ頃、栗

e

活城 山 の麓の茶園で茶の豊 作 を祈る茶

郷土祝祭が催される。宝城にある茶の

ら、なにも世 知辛く空気の汚れた都会

儀正しく親切である 。 その上、漁網を 打 っておいた海が目の前にあるのだか

の方に無理 して出向いていく理由もな

理のお膳には、全羅道特有のおいしそ うなおかずがび っくり するほどたくさ

かろう。

神祭を皮切りに、茶摘み、茶作り 、茶

生産工場だけでも宝城緑茶をはじめと を静かに包み込んでくれる。

浦の寂しげな海岸景色は旅人の気持ち

ん並べられており、ますます豊かさが

ユルド

する六つの工場がある。それに茶畑の

のである。そうした情景は 、 それこそ 一幅の絵である 。刺身がの っている料

ある村の若者たちは都会に出奔するこ

増してくる 。焼酎に宝 城の緑茶を溶か

A-

朝の引き潮で彼方に押し流されてい

43

た海の水が 、満 ち潮になって人々の足

(上から) 宝城近郊にある茶の自生地の大元寺、康津にある茶の自生地の大興寺

となく、村に留まっている。都会での pp司天日mCZ のと

宝城の伝統茶: 礼節院、茶はこのように一緒に飲みながら話をする時、本当の味わいが分る

金稼ぎよりもはるかに高い所得が保障

;毎坪里の石のチャンスン( 右頁) 、


安東国際タルチュム ノyレ 97 フェスティ ミ

m c z の と

刀、P泊翠︿的

演劇評論家

具照書

S U C O F │

月は関天節やハングルの日

さ れ て い る 種 目 だ け で も 一三 にのぼ る。広くない土 地 、 今は分断され本来

4

であり、政府が毎年文化の

EETEー な ど 意 味 深 い 祝 日 の あ る 月 の姿をそのまま維持できない国であり ながらも、 南北 の全てのタルノ リを保

月として記念する様々な行事が開かれ る月でもある。毎年十月にはソウルで

されているタルノ リも無視できない勢 力であるから、北朝鮮では断絶された

存、伝承してきでいるのである。 北 の 故郷をなくした人民の手によ って継承

れ、地域ごとに様々な祭りが目白押し

は演劇祭、舞踊祭、各種音楽祭など公

になる。そのうえ、地方自治 制 の施行

タルチユムの脈が故郷を離れても生き 生き と継承されている。

演芸 術 分 野 の フ ェ ス テ ィ バ ル が 開 か

以後、いろいろな 地域でそれらの 地域

どはもちろん無形文 化財として指定 さ れ、国家の政策的な保護を受けている。 芸能 保 持 者 に は 生 活 補 助 金 が 支 給 さ

これら諸々の地域の各種仮面演戯な

の特性を活か した地域 祭が増えてきて いる。このような 中 で慶尚北道 安東市

れ、伝授生たちには奨学金が与えられ、

に隣接する 河回村 では今年から︿安東 いう大きな名称を掲げ、十月のお祭行

国際タルチュム ・フェスティバル﹀と

一年に 一、 二度ずつ無形文 化財 マダン 種目 発表公演が準備され、演戯のマダ

さる十月一日から五日問、安東市洛

列に割り込んだ 。

だと大口をたたくに足りない状態であ

ン(演舞場)を開くこともできる。 しかし この伝統的なタルノリなどは

東江宅 地造成地区 と隣接する河田村を

に出会うことは難しく、彼らを見たが

舞台でその 一回目の祭典が開かれたの 韓国はタルチユム、山台ノリ、五慶

る観客にとっては観る機会が多くない

今日の観客の中に生きているノリ(芸)

大、野遊、仮面劇など地域ごとに少し ずつ異なった名前で呼ばれ、伝承され

という状態である。タルチユムを観た

だ 。

ているタルノ リ (仮面劇)がかなり多

る。演戯者(芸能人)たちは良い舞台

い。その中でも重要無形文化財に指定

安 東 国 際 タ j レチュム・フェスチィパ; [ . ,- は、 韓 国 の 豊 富 な

タ ル チ ュ ム の 伝 続 と 資 産 を ひ と つ に ま と め 、 世界と出逢う

よとのできる祭典を開くという主旨で準備された

毎年、小正月に行われる「北青獅子遊びJ に登場する獅子タル( 仮面)

44


45


mcZのと

司、y 訂究印

「固城五広大 J ( 中央) 、「鳳山タルチュム.J (右) 「 廉 伺 タルチュム」の「マルトゥギJ (左) 、

(下) ) (~

が っ て い る 熱 狂 的 な観客であっても、 彼らの芸能情報は少なく、たまたまそ んな機会にめぐまれたとしても観覧条 一 件が良い状態でない。このような状況 であるから関 心 が少ないとかあまり関 心のない観客の場合、 言 うまでもなく タルチユムは韓 国 の公演芸術分野で

機会とか情報に接しにくい。 伝統的な脈を保っている大切な資産に は違いない。各地域の多‘ 様で見映えの する踊り、歌 、 音 楽 の 長 短 ( 拍 子 一 リ

その歴史的な価値や民俗的な意味もま

ズム)がその 中 にあり 、 民衆の中に息 づいていた祭儀的なノリ(芸)として 、

安東国際タルチユム ・フェスティバ

た少なくない。 ルは、まさにこのような韓 国 の豊富な タルチユムの伝統と資産をひとつにま とめ、世界と出逢うことのできる祭典 を開くという主旨で準備されたのであ 安東河団地域がこのような祭典の 地

る 。 として選ばれたのは、それなりに意味 があり、いわれがある。それは 河 田村 に残っていたタル(仮面)、つまり河 田別神クツ・ に使われていたタ ルが国宝 に指定されているという点であり 、 別 神 ク ッ の タ ル ノ リ の 伝 統 が あ っ た 地方 であるという点である。安東 地域は 山 と水がよく合う景色と朝鮮朝の両班 (貴族)たちの教育機関であった有名 な書院が多い。河田村はすでによく知 られている朝鮮朝の伝統家屋の村でそ の美しさを誇っている。だからこの 地 域は周辺の観光名所とつながりのある 地域祭を開くことのできる条件を 十分 に備えていると 言える。

46


安東国際タルチユム ・フェスティバ

たのである。

公演はタルチユム公演が五O 回、祭

九名が参加した。

先の発展可能性は十分に立証されたと

ては成功したのはもちろん、これから

主催者側が集計した五日間の観覧客

典公演 が三回と多くの公演が繰 り広げ

考えることができる。

力、中央アジア 地域から来た外国の 三

れたこのタルチュムの祭典では、この

られ、またフェスティバルの付帯行事

数が内国人 三二 万名、外国人 三千八百 人余りというから、初めての行事とし

ような意 味 を込めたいろいろな行事 が、その願いを成就するための最初の

としてはジユルブルノリ(仕掛け花火

団体 二六名と国際公演として 三団体八

この祭典には国内文 化財指定タルチユ

試みとして、その姿を表したのである。

芸)、世界仮面展示会、タルチユム ・ ワークショ ップ、チャンスン(長丞一

十月 一日1五日の五日間繰り広げら

きた文 化企画専門家である萎駿赫氏を 中心に成し遂げられた。 ム保存会 二二 団体四O 六名、非指定専

村 の守護神で上部に人の顔を彫 ったも の)展示会と食べ物市や辻市などが繰

ル九七は、このような意味と願いを込

地域内部で発想が成し遂げられたの 門団体 一団体 二六名、大 学生サ ー クル 七団体 一五九名が参加した 。 現在ある

めて始まったのである。このフェステ ィバルの最初の発想と実 行は、春川 人

でなく、外部の専門家グループが先頭 タルパン (仮面演舞)をすべて合わせ

して、いろいろな困難な点や不備だ っ た点、物足りなか った点などが多か っ た。発展の可能性が十分あるという点

だけでも初めての行 事 の成功に拍手を 送ることができるが、これからずっと

仏教的教理と神話に関する踊り 、米国の rBl ack

(上から) モンゴルの r T ume n EkhJ

形劇祭を作り、九年間成功裡に導いて

に立って慶尚北道安東市河田村を始め

り広げられた 。

しかし、この祭典は初めての行事と

として地域内の官公省と地域の人士た た規模であった。そこに 北米、アフリ

47

ちが参与して内外協同で成し遂げられ

ルの伝統楽器の演奏場面 Mount ai n Si ngersJ 、アフリカ・コンゴの rAf ri ca MbondaJ 、モンコ、


成長させなければならない祭典であり、 それだけの価値のある祭典だったとい う点で、指摘されるべき事項である。 十月 一日午後 二時祝賀公演と序祭で 始まった開幕式で幕を開け、五日午後 七時河回別神クッ、タルノリ公演と仮 面を燃やす儀式で幕を下ろしたこのフ

ム、江陵端午祭の宮奴ノルム、固城五

ェスティバルは北青獅子ノルム、松坂 山台ノリ、駕山五 慶大、康矧タルチユ 慶大、鳳山タルチュム、楊州別山台ノ リ、東莱野遊、股栗タルチユム、統営 五慶大、水営野遊、河回別神クツタル ノリ、霊光ウド農楽雑色タルノリなど が次々と公演された。各チl ムはフェ スティバル期間中、 二1 四回ずつの公 演を行った。これらの公演は祭典の会 場である洛同江宅地造成地区に設けら れた円形のマダン(演舞場)と階段式 客席となっている 二 つの野外仮設舞台 で繰り広げられた。十月というのに真 昼の日差しは強く、あまり楽でない客 席ではあるが、安東や近くの都市から 祭典会場を訪れた老若男女の観客たち や専攻学生たちが熱心な観客として目 を引いた。

ムの人間国宝の安玉氏、梁蘇云氏など が健在で若い伝授履修者たちを導いて いく姿が心強かったし、後継者グルー プがしっかりしていて、それなりに中

身のある姿を守っている固城五慶大や 楊州別山台などが際立って多くの喝采

を受けた。 これらの専門家グループの公演と共 に、大学のタルチユム・サークルがあ

ちこちのタルパンに加わり、ったない

なりに才能を見せた。大学のタルチュ ムは七0 年代の全盛期に大きな勢力を

誇示したが、その後活気がなくなって

きたようである。大体が技能習得に弱 みをみせ、熱意はあるがひたむきな努

力が足りないという印象であった。こ のようなタルチユム祭典の参加が、彼 らに新しい力を与えることのできる機

でに高齢の人間国宝の人々が他界した

ティバルに国際という名を掲げるには 少し物足りない数字のような気もする

とモンゴル国立民俗音楽舞踊団の卜ウ メンエク、アフリカ・コンゴのアフリ カ・ボンダなどであった。このフェス

会となればよいと思う。 外国参加公演はアメリカのアリゾナ 州を中心に住んでいるホビ l インディ アンのブラックマウンテン・シンオズ

り、健康で、ないため演戯に直接参加で きなかったりしたのが残念でならなか

く揃ったということになる。 アメリカに住むインディアン部族た

ちは多様な仮面踊りをもっている。こ

の団体は六歳から 一六歳までの少年太 鼓奏者で構成されており、彼らのプロ

った。古参の演戯者たちが 、まだがん ばっている団体の公演はそれなりに型 にはまり、乱れることなく持ち味を見 せることができたが、そうでない団体

間も公演をしたという昔の公演のしき たり通り、八王パン(全幕)全部を観る

グラムは様々な部族の音楽と踊りを集 めた太鼓の演奏、仮面踊り、歌などで

組まれていた。アメリカインディアン

の演戯は若さだけを誇示し、韓国の踊 りと長短(リズム一拍子)の熟練さは 味わいが足りなかった。鳳山タルチユ

が、アメリカ、アフリカ、アジア、 三 大陸からひとつずつだから一応洩れな

びチュルフ。ルノリ」で、これは韓国の伝統的な花火遊びである( 下)

った。 このような点はただ残念だとい うだけでなく、タルチユムの演戯水準 の全般的な低調を招いた一原因でもあ

安東国際タルチュムフェスティバル97の行事の中から( 上) 開幕式の行事の中から「船遊

機会があったらよかったのにという物 足りなさが残った。 これらの公演の大部分は、いつ観て も楽しく面白いものだったが、これま

る。このような本格的なタルチユムの 祭典であるなら、夜を徹しながら何時

公演が各々 一時間ずつでに制限されて いたのが大きな不満だったようであ

は熱心に、そしてとても面白そうに見 物しながら楽しんでいる様子だ った。

祭典を目的に日程を組んだ外国観光客

から訪れた入、旅行中の外国人やこの

ることのできる良い機会であったろ う。客席にはカメラをぶらさげて遠く

観客と出会って付き合い、喝采を受け

地域の住民にとっては貴重な見せ物で あったし、タルチユム芸人には新しい

で全部見物できるのは、普通ソウルで 開かれる無形文化財発表公演くらいで しかできないことである。だからこの

しかし、このような熱心な観客には、

3

こんなに多くのタルチユムを了刀所

饗詑掴掴輯醒髄繍 醐 蹴

48


ーのようなものである。少年演戯者た

であるパウワウに出てくるレパートリ

たちがお祭の期間中に開く部族対抗祭

付いて出てきた観客たちと即興ノリパ

彼らは公演会場で 一時間の正規の公演 を終えても興奮がさめやらないのか、

ように活気のある舞台を繰り広げた。

鼓の磯子と踊ることですべてを忘れた

両班たちが村の前を渦巻いて流れる河

ルブルノリと流灯ノリは、昔、河田の

火、水、仮面の祭だった。舟遊びジユ

げられた現代式ジユルブルノリである

そして続いて 二日目、三日目に繰り広

ノルム、松坂山台ノリなど四団体が指

台、河回別神クッタルノリ、北青獅子

けられたワークショップで固城五虞

舞台行事の 一つとして祭典会場に設

のにという思いがする。

たせいか、観客たちとの心の交流がい

ちの不慣れな環境の中での公演であっ

かせてくれる解説とともに観た彼らの

自分たちの芸術を紹介した。熱心に聞 交流もそれだけ強かった。

が飛び抜けており、観客たちとの心の

ら選抜された才能の持ち主でみんな芸

うの絶壁から垂れ下がっている綱に一

である。河田村の河辺に座り、川向こ

もので、再現してみようと試みたもの

遊びもちろん今まで、断絶されていた

展示されたし、木石園で開かれたチャ

仮面 三OO 点、外国の仮面四O O点が

で開かれた世界仮面展示会には国内の

場)を広げた。また何回洞仮面博物館

人を対象に十 二回の講習を行ったが、

導を受け持って大学生サークルと一般

に船を浮かべ、河向こうの絶壁に綱を

進行係と参加者たちみんなが積極的に

ン(演戯場)を作り、またしばらくの

行事に臨み、熱いチユムパン(踊りの

間演戯した。現在コンゴで働いている

モンゴルの卜ゥメンエク(追い越す

ら厄を送る遊び兼儀式である。こんな

まいちだった。

の旅に出た彼らは、多くの部族の中か

韓国人の事業家の斡旋で、初めて外国

垂らしておいてその綱に火を吊す火遊 びで、流灯は河の上に灯龍を流しなが

る仮面踊りのサムと多様な歌と演奏で

競走馬)は仏教的な教理と説話に関す

公演は、近くの隣人でありながらも遠

アフリカ・ボンダは外国の参加チー

采を受けた。

接することのできる良い機会として喝

ダンが招かれた。彼らは コ一、四、五日

芸術団、名唱安淑善のパンソリハンマ

と金徳沫サムルノリペ、ハンウルリム

てはソウル・ウインドゥアンサンブル

タルチュム団体の外に祭の公演とし

れらしく素晴らしかった。昔そのまま

に沿って流れる灯寵の趣もいかにもそ

がっていく光景は壮観であり、また波

つずつ火を付けた火種が綱を伝って上

初めて開かれた国際タルチユムの祭

客たちは見るものが多くて足早に見て 回らなければならなかった。

一五O 点が登場し、河田村を訪れる観

ンスン展示会には、各種のチャンスン

く離れて住んできたモンゴルの風物に

ムの中で最も大衆的な人気が高かっ

のジユルブルノリは、材料が求めにく

典であるから不十分なところも少なく

と順に公演を行いながらタルチユムの

なかったであろうが、希望の持てる収

祭典のマダンをより盛大にした。

出すのは恐縮ではあるが、翌日繰り広

た。三人の太鼓奏者と三人の踊り子た

げられた現代式ジユルブルノリは、こ

ちが交互に演奏しながら踊る彼らは、

舞台行事で最も活気のある反応を得

ある行事が活発に進行されることを期

穫も多く、これからこのような意味の

く、お金がかかるということで、欲を

った。今、内戦の真つ最中で飛行機の

みんなが疲れを知らない演戯者たちだ

のフェスティバルの特別な風流のある

A-

たのは、フェスティバル 一日目の夜の 河回村で繰り広げられた舟遊びジユル

自を引いた

界仮面展示会では圏内の仮面 300点、外国の仮面

安東にある河回洞仮面博物館( 上) で聞かれた世

400点が展示された

一日遅れて着

アジア、 三 大 陸 か ら の 参 加 が

待したい。

49

便が 一定でないために、

アメリ力、 アフリカ、

出し物としてうまく開発できれば良い

参 加 国 は 少 な か っ たが、

ブルノリと流灯ティウギ(灯龍流し)、

国際という名を掲げるには

いた彼らは、観客の前に出てくると太

このフ ェ ス テ ィ パ ル に


真鈴器の職人、

李鳳周翁を訪ねて 詩人・文化遺産研究所長

李畑権

そ の 練 炭 ガ ス の た め に 今 度 は 真鍛の 器が赤く錆びてしまい、もうこれ以

家庭の燃料もまた練炭に変わると、

器を磨く風景は、暮らしぶりの雅趣を

上食器として使用することが困難に

けらを粉にしてヘチマにつけ、真織の

zzTEiわ っ て も 真 織 の 器 は 変 わ ら しかし、今や真織の器はすでに生活の

感 じ さ せ る 韓 国 独 特 の 風 俗であ った。

なってしまったのである。加えて、

二大 門 の 中 の 乙 女 の 心 は 変

な い と い う 言葉 が あ る 。 そ

使いやすいステンレスやアルミニウ

A

れだけ、真織は韓国人の生活の中で長

の台所に並ぶ真織の器を見て、その家

必需品ではなくなった。結婚相手の家

し、ついに真織の器は廃品回収業者

器の性格をよく表している言葉であ

るたびにより深い情が湧いてくるこの

年にわたって伴侶となり、歳月を重ね

の財産と女主人の家事の腕前を推測し たいう話もまた遥か昔の思い出話にな

や骨董品の庖の主人の倉庫に積まれ

まったのである。

る邪魔者扱いされるようになってし

ムの器が満ち潮のようにどっと登場

る。今では韓国人の食卓で真織の器 ってしまった。

ともに、その運命を共にした悲しい遺

真織の器は 過ぎし日の 王朝の没落と

を見かけるのは難しくなってしまった が、わずか 三十数年前までは真織の器 は陶磁器の器と共に韓国人の食膳を飾 ℃﹀泊RmmcZ のと

真鈴は、 韓 国 人 の 生 活 の 中 で 、 長 年 に わ

たる伴侶であり、 歳 月 を 重 ね る た び に よ

り 深 い 情、 が 湧 い て く る 器 で あ る 。 わずか

一十数年前までは真鎗の器は向磁器の器

と共に韓国人の食膳を飾った代表的な器 であった

も真織にした﹂とあり、真織の器が韓

いたっては洗面器や室内用の便器まで

べての器を真織でそろえ、甚だしきに

重要視した人々は茶碗だけでなく、す

た﹃ソウル雑記﹄を見ると、﹁真織を

柳得恭が当時のソウルの風俗を記録し

を伐採できなくしたため鉄を溶かすた

によってこの上ない打撃を受けた。木

戦争が終わって燃料政策が変わること

えたこともあったが、六・二五の朝鮮

たのである。解放後は一時、好況を迎

して使うために、国中の真織の器を根 こそぎ集めて、その脈を絶ってしまっ

帝が第 二次世界大戦の時に軍需物資と

練はまず亡国の恨みから始まった。日

のである。 値段も安く、便利なものだけを求め

変わ ってきたかと思うと、最近はまた 真総で作られた器が再び登場し始めた

と・・・窯で焼き上げる焼き物の器に

占していたように思えた韓国人の食卓 がいつの日からか、一つ、二つ

デルミニウム、プラスチック製品が独

しかし、歳月というものは巡り巡って くるものなのだろうか。ステンレスや

物にな ってしまったのである。その試

国人の祖先にいかに愛用されていたか

ていた世相と流行がいつの間にか生活

朝鮮 王朝 時 代 の 正 祖 の 時 の 実 学者 、

が分かる。また、家中の女たちが日

めの炭を手に入れるのが困難になり、

った代表的な器であ った。

李鳳周

当たりのいい場所に陣取って、瓦のか

50



の IC

℃﹀泊XMmCZ

める( 右) 、よい音を出すためには、この

たぎっている( 上) 、鉄を鋳型に注いで固

v ??7 火で鉄を熱する( 左) 、鉄が真っ赤に煮え

川 ヘ lSl

4

筑 -

ように何回も火で熱する( 左頁)

の品格とセンスなどをより重要視する 水準に変わ ってきたのである。ここに は灰かな光を放つ真織に込められた韓 国の祖先の残した科学的精神が 一役買

のある安城 地方の 鍛器を好んで使った

小さめで形のいい、そして灰かな輝き

のであるが 、ここで作 られる食器があ たかも注文して作ったもののようにぴ

ったりと馴染んだために﹁安城仕立て﹂ という 言 葉 が 生 ま れ た と い う の で あ る 。

真鍛は 他 の鉄とは違って生活の中の

っている 。 知恵が込められている。 真織の鉢や容 器で芹を洗うと芹に付いている蛭が自

器の中で最も質が良く、伝統的な製法 で作られているのはパンチャ鍛器であ

鍛器は合金を 正確に行わな くてもいい が、パンチャ鍛器は七八%の銅と 二

に比べて合金か、りして異なる。鋳物の

る。パンチャ総器は、他の鋳物の鍛器

しかし、見た目は少しごつくても鍛

然と離れる独特な効果があるとか、箸 やスプ ー ンや茶碗などに有毒物が付い ている場合にはすぐに色が変わって判

うに農薬成分と公害物質の多い飲食物

別でき るといった ことなどもそんな知 恵の一つだと言える。また、最近のよ

られる。煮えたぎる鉄の成分を蝋石に

器はその作り方によって 三種類に分け

一般的に鎌器と呼ばれている 真織の

まであるというのだから、いくら昔の ガラクタとい っても、もう 一度探し出 して使わざるを得ないのである 。

跡がそのまま手工芸の味わいと品位を

で器の形を作るときのハンマ ー打 ちの

てしまうこともある。また、最終段階

を整 える際、 真 鍛の伸 、 びも悪く、割れ

物が混じ ったりすると 真織を打 って形

二%の朱錫を正確な割合で合金しては じめてまともな作品が作り出せる。こ

流し込んで冷ました後、ハンマーで形

見せ、

はその成分を中和させ、解毒する作用

を整えて作るパンチャ鍛器、型に流し

一層品格のある器と言うことが

の合 金 の割合が少しでも違 ったり、異

込んで形を作る鋳物鍛器、そして鋳物

できる 。 京 畿 道 安 城 に あ る ﹁ 納 清 産 業﹂の門

を開けて入ると、 真 織を打つハ ン マー

の音で耳がガンガンして 気 が遠くなり

で作 った器の口をパリという女性用の

そうになる。ここがすなわち伝統的な

パンチャ技法で鍛器を生産している人

食器 や鉢 湯器のようにすぼめる時、火 で熱くしてたたき打ちしながら作る半 また、製作技法によって分けられる

パンチャ鍛器などがそれである。 総器の容器の種類は地域的な分布にお

た六人の弟 子が李鳳周氏の指示に従 っ

韓国服を着て、頭、に手ぬぐいを巻い 生 産 し 、 安 城 、 慶 州 、 忠 州、 裡 里 は 鋳

間文化財七七号李鳳同氏の作業場であ る 。

物の鍛器でその名が知られ、半パンチ

、 真っ 赤に て 一糸不乱に働いてい るが 煮えたぎる鉄を蝋石に入れて冷ました

いてもその違いがある。定州、雲峰、

ャは順 天がその本場である。面白いの

後、ハンマーで打 つ様 子 は、その昔の 郷愁を思い起こさせる鍛冶屋の風景そ

戚陽、金泉地方は主にパンチャ鍛器を

は ﹁ 安城仕立て﹂という 言葉の由来で ある。ソウルの格式高い両班の家ほど

52


のままである。皆汗を流し、拍子とリ

ズムに合わ せて打 つ音とそ れに 合わせ

て入れる合いの手は、どんな美しい音 る 。

楽よりも耳にする者の心を温かくす

﹁納清産業﹂という名前には総器職

人として半生を送 ってきた李鳳周氏の

というのはパンチャ餓器の集散地であ

切ない思いが込められている。﹁納清﹂

った平安 北道の定州地方の村の名前で

あるが、そこは彼の故郷の村からそう

てふいごで風を送る作業を習ったソウ

遠くない所という。また、自分が初め

ルの工場の主人はナンチョン出身の職 人だったということから、彼は納清鍛

器の魂と技術を受け継ぎ、それを守 っ ていく道を歩むことにな った 。

平安北道の 山 里の村の貧しい農民の

息子として生まれた李鳳周氏は 一九四

八年、寡婦であった母親と兄弟を故郷

に残し、徴兵を避けて 一人で南の韓国

の地に渡ってきた失郷民である。 ﹁春になったら帰ってくるか

ら ・・・﹂と言 って、三八度線を 越え てもうすでに四八年の歳月が流れ、今

まで彼はひたすらパンチャ鍛器と共に 過ごしてきた。

彼がはじめて銭器工場に足を踏み入

れたのは韓国に渡 ってきた直後で、見

しさからであった。本来は総器作りの

知らぬソウルでの独り暮らしとその寂

郷の人々が集まって働く工場というの

職人になる気はなか ったと言 うが、故

が嬉しくて、小使にでも雇ってもらお

うという気持ちで就職したという 。 し

かし、ある日、小使で 一生 終えてしま って はけないという考えにとらわれ 、

53


の IC m ω cz

とるのはそう容易で はなかった。当時

人はこれを承諾した。 しかし 、 パンチャ鍛器の技術を学び

主人に技術を教えてほしいと頼み込 み、彼の誠実な働きぶりを見てきた主

は工場の 片 隅で自分なりにパンチャの

ることが でき なかった。仕事のない 日

齢で、ただその時の来るのを待ってい

落ち着かない李鳳周氏の働き盛りの年

ことは 一日でも早くしてしまわないと

一度決めた

発障できないまま真織の容器を呑み込

て、苦労して磨いたせ っか くの技術を

終わった後は、また練炭ガスが登場し

務を果たすことになり、さらに戦争が

鮮戦争が勃発して、軍人としてその任

ようになった 。しか し、六 ・二五の朝

このようにして 二年問、 一生懸命努 力した結果、総器工場の最高の職人に までなるほど 、 その技術が認められる

一時 、 真 鍛の箸も売れない時もあ っ

した末、やっと身に付けた技術を使わ ずに捨ててしまうのがあまりにも悔し くて意 地 でやってきた﹂と 言っ た。

勺﹀司-︿

は十一 人ずつ一組になって 作業を 行 っ ていたので、自分の受け持った仕事だ

技術の 腕 を磨き 、先輩たちが仕事を終

そんな時、幸運にも彼を救ったのが

いだこともあるという。

れる中図式のパンを売って糊口をしの

人々の中には 一本気な職人気質だと評 価する人もいたが、彼は﹁苦労に苦労

を捨てることができなかった。周りの

かし、李鳳周氏はどうしてもこの仕事

けをしなければならず、それ以上の欲

てはじめて 、 ハンマ ーを打つ鍛冶屋の 一員 になることができた。

は出せなかった。

て、工場をたたみ 、 工場現場で 日雇い をしたり、 妻 と 一一緒にホ ットクと呼ば

作りの職人のほとんどは転業した 。 し

らその姿を消したも同然になり、総器

この時代、パンチャ鍛器は世の中か

む流れに巻き込まれてしま った 。 しやすい亜鉛を買ってきて、それを熔 かし、休む間もなくハンマ ー を打ち、 鉄を扱う技術 を自ら会得していった。

えて、頭にポマードを塗 って外出の準 備に余念のない時も、ハンマ ー打ちの

見まねでパンチャの技 術 をマスターし

の具合を見る仕事をしながら、見ょう

彼に与えられた最初の仕事はふいご

冷ますのを何回も繰 り返し 、扱いやすい状態にする。叩いてだんだん完全な形を作り上げる

で風を送る作業であり、 この単純な火

( 上から) 固ま った鉄を取り・ 出し 、叩いて形を整える。火で熱した後、冷水に入れて急激に

54


ケンガリ(鉦)とチン(銅鐸)だった。 セマウルという新しい村運動のおかげ で迷信や虚礼虚式をあおるご一ナノ﹂ の張本人にされて厄介払いされていた 農楽の 風物 の鳴り物の音が大学街から 徐々によみがえり、彼がパンチャ技術 で作り上げたケンガリ(鉦)とチン (銅鐸)が飛ぶように売れ始めたので ある。 彼はこの時期、伝統楽器を作ること に心酔し、 一九八O 年のはじめに世界 的なシンバル会社であるアメリカの

技法でいくらでも 世界的な名品を作り 出 せ る と い う 自 信 感 で あ り い っかは ﹁ チルジャン ﹂ の名品と競 ってみせる という夢と希望が生まれたからであ る。自分の長男であるヒョングン氏に パンチャの技術をたたき込もうとして いるのも、自分ができなくても、いつ かき っと後継者がその夢をかなえてく れると信じているからである。 作業の途中で飛んだ花火のために片 方の目の失 ってしま ったが、もう目で 見 な く て も 作 れ る 境 地 に 至 っている

A-

55

ので、パンチャ鎌器を作るのに何の支 障もないと言う李鳳周氏、彼の打つハ ンマーの音には魂の響きが大きく反 響 していた。

いう( 上) パンチャ鎗器の食器一式( 下)

﹁ チルジヤン﹂を見学して、シンバル の製作過程が韓国のパンチャ鍛器と同 じ原理であることを知り、笑みを浮か べた 。 それは韓国の伝統的なパンチャ 小さい金槌で叩きながら仕上げる 。このように叩いて作ることを「パンチャ」と


λ O R E A N ARTI STS A B R OA D

三二I .

世界で活躍する韓国人芸術家

月干JI ~ ヘワ 手".U ジュ〉

キ 卜 JJ 俊

r

、 え年で 二十 一歳の リビア・ ソン、やっと淑女という言 叫 ミノプノ 葉 が 似 合 う 年 齢 に な っ た と ころだが、音楽の世界ではすでに華や

ウル大学校の音大でチェ ロを 専攻 した 母親の影響で五歳の時にバイオリンを 習い始めた。両親は音楽を始めるのに

かな経歴を持っている。米国のコネチ カットで生まれた彼女は中堅バイオリ ニスト、金ナムユン氏の姪であり、ソ

μrν

ソ/ •

ビア

1)

観 客 を 魅 了 す る バ イ オ リニス ト、 」 「豊かで熱情的な手え律を言守るパイ

オ リニ ス ト」などと言われ、 名 を

上 げた彼女はレパ ートリー の 幅広さで知られている

歳の時にテレビで鄭京華氏がメンデル スゾーンのバイオリン協奏曲を演奏す

として両親の影響の外にも他の重要な 要素があるとさらにつけ加えた。﹁四

リビア・ソンは自分がバイオリニ ス トの夢を育て始めた決定的なき っかけ

自動車で 二時間かかるニューヨークに レ ッスン を受けに行 った高 校在学時代 には大きな力になったという。

は影響を与えたが、後には週末ごとに

「猪突で 小 柄 な が ら 力 強 い 演 奏 で

る姿を見て、バイオリニストの魅力に 引き込まれてしまいました。﹂ 八九年には 一二歳の年で英国の エフ ジ ・メ ニ ュ ー イ ン コ ン ク ー ル で 優 勝 (ユニス・リ ! が優勝した後、二度目 のことであった)を果たしたが、聴衆

アクレア教授は﹁あまりにも自然で大

たちが選ぶ人気賞も獲得して、世界の 舞台に初めて足を踏み入れた。当時、 審査委員だったパリのコンサバ卜リの 家の演奏を聴く ようだ つた ﹂という 言 葉を残すほどだった。さらに副賞とし てメニューインが指同伴するボストンシ ンフォニーとメンデルスゾーンの﹁バ

じように天才たちを送り出すというジ ユリアlド音楽院の﹃名調練師﹄ドロ

シl ・ディレイとカン ・ヒョに導かれ たのである。 彼女は九五年のあるインタビュ ー で

次のように語った。﹁ 二人のような素

晴らしい師匠に十 一年学んでいるとい うのは光栄なことにほかならないで す。彼らが私に期待しているのは音楽 に対する最大の献身です。彼らと私と の聞は、互いに尊重することが支えに なっていると言えます。 二人は学生た

ちに単純にバイオリンを教えるのでは なく、それぞれが持っている独特な能 力を引き出して、自分だけのスタイル

です。﹂(彼女は韓国語が上手ではなく、 英語でこのインタビューをした。) ドロシ l ・ディレイもやはり、自分 の七五歳の誕生日を期に行 ったストラ

を開発させるのに力点を置いているの

ュー ヨークチェインバ 1 オーケス ト ラ、チヤイコフスキl チエインバ l、

ドとのインタビュ ー で、最も大切にし ている弟子としてファルマン、チョリ ヤン リ ン、五嶋みどり、 キル・ シャハ ム、チャン・ヨンジユなど 二十人あま りを取り上げながら、最後にソン ・リ

イオリン協奏曲﹂を協演 して、ヨーロ ッパの 舞台に足場を固めた。 この外にもハートフォードチエイン

ボストンポップスオ ーケストラ、ロン ドンシンフォニアなどの有数のオーケ ストラと協演し、ア 又ぺン音楽祭 、シ カゴレビニアなどに参加した。九五年 の七月には国際的に有名な青少年バイ

ビアを加えていることが注目された。 バイオリニスト演奏者ならジユリア 1

バl、ピッツパ!グシンフォニー、ニ

フェスティバルに独奏者として紹かれ

オリニストの中の 一人に選ばれて世界 的な室内楽フェステ ィバルであるク モ

天才バイオリニストたちと自然に付き 合い、十歳の時にはキル ・シヤハムと

リビア ・ソンをキル・シヤハムと共に 教えた。 彼女はジユリアlド音楽院に籍を置 きながら、五嶋みどりのような幾人の

あるという物差しとなる。ディレイは

ド音楽院でドロシ 1 ・ディレイに師事 したという事実だけでも主要な﹁経歴﹂ になるだけでなく、ある程度の実力が メニューイン大会以前、八歳の時で

レ#。 # nJ4bT

あった 一九八五年度にコネチカ ットウ ォlリン グフォ ード シンフォ ニーとメ ンデルスゾ ー ンの﹁バイオリン協奏曲 ニ長調﹂を協演したこともあるが、こ の時すでにその天才ぶりを見せて聴衆 を魅了した。その後、リビア ・ソンは サラ ・チャンや五嶋ミドリの場合と同

56


リビア・ソンはドロシー・ディレイに師事した当時、メンデルスゾーンのバイオリンコンチェル卜を演奏して、多 くの人から「昇る明星」として 認められた

共にアスペン音楽祭で五年にわたって

彼女はその音楽祭で唯 一、イサック ・

協演者として出演したりもした 。 特 に

フアルマンのスカラ ー シップを受ける

など、早熟な演奏力を見せつけて目を

ンは彼女を﹁巨木に成長する堅実な木﹂

引いたりもした 。ま た当時、フ アルマ

と比-除したりもした。

﹁猪突で小柄ながら力強い演奏で観

客を魅了するバイオリニストヘ﹁豊か

で熱情的な旋律を誇るバイオリニス

ト﹂などと 言われ、名を上げた彼女は

レパートリーの幅広さで知られてい

る。バッハ、ブラl ムス、ベ ート ーベ ン、バルトー クなどの多様な作品をこ

なしている。﹁協奏曲、ソナ夕、小品 、

室内楽曲・ ・・私には 全 て. の曲が大切 です。どんな曲を演奏しても、常に

﹁今まで書かれてきた作品の中で最高

に美しい曲を演奏するという姿勢を堅

持しようとしているのです。将来 、さ

らに レパートリー の幅を広げようと思 いますが、特に米国の現代音楽家たち、

例えばジ ョン ・コ リリ アl ノなどの作

品で、自分自身の力 量 を見定めていま

す ﹂ (彼女は九 三年 に ア ス ペ ン 音 楽 祭 でコリリア l ノのバイオリンソナタを

演奏して 、作曲者から﹁完壁なテクニ ック と音楽 性 で 作 品 を 演 奏しきった ﹂

という激賛を受けた。)

今年の一月 に鄭明勲 が指揮するアジ アフィルオ ー ケストラと協演したが、

はない。九 二年にソウル市立交響楽団、

彼女の故 国訪問は、そ の時が 初 めてで

ンサ │ ンスの協奏曲を協演し、緯国デ

釜山市立 交響楽団と 共 にブ ルi フと サ

ビュー公演をした 。 その時の公演はア

57


メリカで生まれ、韓国への初めての故 国訪問であったが、﹁聴衆たち の真撃 な態度と高い音楽的知見に感嘆した。﹂ と語 った。九五年にはソウルの外に も 全州 、 清州、光州などで巡回公 演を行 った。当 時 ﹁再度、韓 国 の舞台に立っ てK B S響と協演することにな って本 当に嬉しいです﹂と所感を述べた。特 に、九五年の訪韓の時には、あまり演 奏されず、難解だと 言われているパガ 一 一l ニの﹃バイオリン協奏曲 二番﹄を 演奏して興味を引いた。 なぜフアガニ l ニの﹃協奏曲 二番 ﹄ を選択したのかという質問に対して彼 女は次のように答えた。﹁私は新しい 曲に対するチャレンジが好きです。特 に 、 一度聴衆の前で演奏した曲は前と は完全に異なる意味で私に近づいてき ます。フアガニ l ニを選択したのが、 どういう理由で挑戦的なのかは多分言 葉で説 明す る必 要がないと思います。 この作品を初めて聞いたとき、私はこ の曲を演奏する自分の姿を想像して、 かなり興奮しました。二番より幅広く

想像したりしたと言う。しかし、彼女

る自分の姿がどれほど素敵だろうかと

演奏されるフアガニ l ニの協奏曲一番 はすでに何度となく演奏しています が、その都度、フアガニ l ニの作品世

リニス卜はミル スタ イ ンである。清潔 感が漂いながらも詩的で、また真撃で

分自身を鍛え続けている。 目まぐるしいスケジュ ールで常に忙 しいリビア・ソン。しかし、いつも喜 びに満ちた楽しい気持ちで、全く疲れ

れ持った才能に、ねばり強い練習で自

進学して﹁最高の中の最高﹂に数えら れる才媛たちに数多く会えたのも幸運 だと言う。もちろん、彼女もまた生ま

インを選ぶと言う。彼が演奏するとき

を知らないと言う。世界の﹁光輝く星﹂ として頂上に向かって疾走する彼女の

ありながらも澄んでいるので彼を尊敬 すると言う。バイオリニストの道を歩 むのに影響を与えたバイオリニスト鄭

には演奏者と聴衆と作品の聞に何の障 害物も感じられないほどだと言う。こ

姿が楽しみである。

京華は今でも好きではあるが、﹁理想 のスタイル﹂を選ぶなら、ビル・スタ 独 奏 及 び 協 演 を 持 った 彼 女 で あ った が、今は休む間もなく目まぐるしいス ケジュ ール をこなしている専門演奏者 である。

れらの演奏者の外にもジユリア lドに

a リビア・ソンが最も尊敬するバイオ

ナッシユビル、フィニ ックス、ノ │ス キャロライナなど、 全 地域を旅した 。 わずか数年前は一年に 二O 回あまりの

の母親が常に同行するという。彼女は

界に染み込んでいる美しく叙情的かっ オペラ的なメロディーを発見するので す。自らカデンツアを 作曲して演奏す ることで、こんな喜びがさらに大きく なりました。﹂彼女は第一楽章のカデ ンツアの導入部を直接作曲して試しに 演奏して見せた。 リビア・ソンは九五年から九六年に かけて米国巡回公演を行った。バイオ リン一つだけを持 って 世界を駆けめぐ

リビア・ソン

58


CURRENTS

「世評の記憶」 ベクスン ギJ

﹁圃 -、、

ネス コの多くの活動と業績 の中で文 化財保存事業を選 、はないわけにはいかないで

あろう。 エジプ ト のアブシンベル寺院 とインドネシアのボロブドウル寺院は ユネスコの介入がなか ったら前者は水 の中に沈んでしまっただろう し、後者

迎して いないであろう 。 ユネス コはま た世界文化遺産の選定事業を始め、昨 年は韓国の宗廟 、海印寺、八万大蔵経 板刻と 仏国 寺の石窟庵が 、 そして今年 は水原の華城と昌徳宮がこの目録に登 載された。 ユネスコが三年前に始め た世界記録 遺産に訓民正音と朝鮮王朝実録が、特

に文 化遺産の年である今 年 に登録され たというのは実に喜ばしいことであ る。我々が知っているように訓民正音

は世界 に例のない文字の創作であり、 また王朝実録は世界で最も長く(一三

九 二i 一八六 三)最も詳細な編年体の 記録である。 世界記録遺産プ ログラムは全ての記

59

は現在のような堂々たる姿で我々を歓

訓民正音

国際博物館協会総国委員長

白承吉

r~

古 川 氏五会


CURRENTS

今回 、ユネスコの世界記録遺産に登録された世宗実録の表紙( 右)

i 左) と本文

録遺産資料である木版、紙、皮、羊皮

紙、パピルスの印刷物だけでなく、オ

ーディオ資料と映画と電子媒体までも 世界的重要性が認められるものを選定

して保存し、利用できるようにする事

業である。この事業のためにユネスコ

は会員固にユネスコの世界記録遺産委

員会のような国内委員会の設立をすす

め、現在二六カ国がこのような委員会

を設立し、各国の記録遺産の保護と危

ている。

機に直面した遺産の救済事業に着手し

世界記録遺産に登録する基準は、①

世界史に重大な影響を与えた記録、②

世界史に 重要な転換期を著 しく反 映し ている記録 、③世界史または世界文 化

に大きく貢献した現場についての情報

を含んでいる記録、④世界史または世

界文 化 に格別な貢献をした人、または

集団の生涯や業績と関連のある記録、

@ 世界史 または世 界文化史上、重要な 主題についての記録 、⑥著しく注目に

値する様式や外形を取り揃えた記録、

っている。

⑦ 一 国 の 文 化を超越す る重大な文 化 的、精神史的価値をも った記録、とな

この事業の主要な目的は保存と普及

である。保存は危機に直面した全ての

危機にさらされないようにすることで

貴重かつ 価値 のある記録遺産を救出し、

ある。記録遺産は自然的な原因と人為

的な無関心と破戒とによって無くなっ

ていっている。普及は記録遺産を複製

し 、 CD1ROMやインターネ ットに

るのである。

載 せて多くの人が 利用 できるように作

60


c υRRENTS

六年に陽暦で換算して十月 九 日

一四四 三年 に完成させ、 一四四

している訓民正音は世宗大王が

いるのは、ハングルの持 っている造 形

応用して舞踊の作品にまで利用されて

画作品が制作されており、文字の形を

文字の使用の例﹁用字例 ﹂などである。 最近、ハングルを利用した彫刻と絵

す る よ う に し (一四三 こ、

初期 三代王たちの 実録 を実録庁に 保管

実録の保存の重要性を感じた王朝は

ある。

一四三九

印刷されたというもう 一つの重要性が

八1 一四五O ) の後からは金属活字で

究を始めるようにな った。ある学者は

たちが利用できるようにな った。 この おかげで漢文に近づく ことのできなか った多くの分野の 学者 たちが活発な研

く、コンピュ ータの使える全ての国民

情報の百科事典が学者たちだけでな

今はハングルという名で通用

に頒布したので、その日をハン 性を改めて認識し、解釈しようとする

今、八万大蔵経、直指心体要節、

実録に載っている美術に関する資料を

努力の一貫として歓迎するに値するこ

の正音の序には陰暦でその年の

という話もある。

全て選んで実録韓国美 術史を執筆 中だ

グルの日としているが、鄭麟蹴

るようにした。壬辰倭乱で実録庁と星

年には星州と全 州 に、そして 一四四五 年には忠州に史庫を建て分散、保管す

とである。 朝鮮王朝実録は太祖から哲宗時代に

九月十日に頒布されたと記録さ れている。訓民正音は世宗大王

往五天竺国伝、ハ ー メル漂流記など韓 国の記録遺産を世界の遺産に作りあ

州史庫と忠州史庫が焼けて無くなり、

げ、世界の全ての人々に提供しなけれ

く、社会、宗教、天文学、天変地異、

州史庫本を再刊し実録庁 、江華摩尼山

図書館やその 他 の大学図書館に所蔵さ

ばならない 。そ して 窒章 閣や国立中央

到る四七二年間の政治と外交だけでな

史庫、平安妙香山史庫と慶尚太白山史

が直接書いた第一部には、序文、

など、文字どおり百科事典的な項目を

地理、音楽、科学、軍事、交通、芸術

庫を新しく建てて再刊した実録を保存

制定の目的と初声(子 音 )十七 字、中声(母音)十 一字 の発音 が説明されており、王の命令に 扱 っている。 朝鮮時代の史官たちは今

する処置を取った。

ただ 全州史庫に保管中の 実録だけが残 ったが、 一六O 三年と 一六O 六年に全

した第 二部は六つの章になって

よ って集 賢殿の学者たちが著述 で言うと新聞社の政治部、経済部、社 会部、文 化部の記者たちの全ての職務

ようにするために政府は実録の翻訳事

い 。

A-

科学 研 究 所 を 運 営 し て い る と い う 事 実を我々の心に刻まなければならな

い。先進国の大きな図書館は全部保存

専門的に担 当する別途の保存科学 研究 所のようなものを作らなければならな

れている古書などを、保存と復旧を

いるが、それは 、①文字を作っ

を一度に、それも客観的に記録した大 記者だ ったと 言え る。実録にはまた太

業を支援し、二六年間のその成果を一 九九 三年にハングル翻訳版で出版する ことにな った。 これが 一九九五年には C D l R O Mで出版され、この知識と

実録を多くの国民たちが利用できる

た 原 理 ﹁ 制 字 解 ﹂、② 初 声 に 関 する説明﹁初声解﹂、 ③ 中声に

(一四O 一 1 一四 一八)の 三代 が 筆 写

祖 ( 在 位 二二 九二 1 一三九八)、定宗 (在位 二ニ 九 九1 一回OO) と 太 宗

関 す る 説 明 ﹁ 中 声解﹂、④終声 に関する説明﹁終声解﹂、⑤初、

字よりハングルを主にして表記した最初の文献

本で記録されており 、 世 宗 代 (一四 一

4 守庄の年であるん 1 吋.氏正、まと知的坪王朝守録か、 件付にえ化 見

いニとである

ユ ネ ス コ の 送 足 す る 世R え 化 辻 庄 に 守 録 さ れ た と い I

.h

一黒川与は世界で,ぺも EKく 4

J.

九二1 一 へ、一パミ)

王えーコYTη 4 下 1 1、 V A f

7 . Aリ山正言1 世 、 一例のないえ下の幻作であっ、 ま た 王 朝

うのは実に与、ば

な縞年体の品川 である

61

中、終声を集め文字を作ること に関しての説明﹁合字解﹂、@

月印千江之幽 (宝物第 398号) 、表記において漢


CURRENTS

グア年 、

世界 治 の祭典 •

韓明照

国立国楽院長

と笛別と立 溶楽数のナ千異イうミ楽きス巡ア思でメがのげ果描悠た的し 音 楽 世 は 国 韓 け 器 々 夢 ・ 年 国 ス に ユ 器 が タ つ の え い 口 、 爽 ら て き 長 。な た 色器界異楽国込ののとサの的タ響│ の、ンて大ばたデ静 ゃ れし出な揚物国 とのがな院のん 音 個ロマ古なンきジ中低のい草、 。イかかるなさ中子語立

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世 る伝文まで九 界 。 年 化 さ {量 五 ミ咋、 . にさ十 た年 「 体それ 向 るは世育れた日 とア界部で 「 Z こ フ笛のあ第三 ろリの後 つ 二 ¥

幻想、的な別世界が繰り広げ‘

な ら 再 百 山7 つ く 旋ぬ現年のた青 律 のほ どさ れ前 の麓 に。 ソか つ 中 長て歴位ウた でくい史置ル 十

界から徐々に 別世 界へ と導いていく中 で繰り広げられる情緒の世界、想像の

カ祭援た回ソで 、典を。世ウあ

か 取 て 数 眠〈あ 高 、牛' ; でが

世界がすなわちそれであ った。それら 想念の 世界の 中 と数々の歴 史的な断 面 と地域の風光がパノラマのように連な

韓国の美しい十月の空を背景に、

がけ伴 は 区旬空

っていた。広々とした蒙古草原の清楚 な野の花が香りになって 近づいてくる

かと思えば、星を数えるペルシア王女

の恋が哀れに伝わってきたり、砂挨を ぬ って生死の世界を出入りしてきた隊

ふ M

商たちの哀歓が 現実のように感じられ たりした。しかし、それだけに限ろう

月の 光 の明るい砂漠の夜のオアシス

全世界の笛の演奏家たちが一堂に集まった世界笛の祭典がソウルで開かれた

-

時空を超越した られた。

多くの笛楽器の、その吟村形とメロディーと 音色と情感が、われわれを現実の世界から 徐ヤに別世界へと導いていった

り同しが致なで な 士が 異でお繰

主 主

t 号ZZ2

没まり、かわげ 我つ、衣つれら のて感装たの れ

自 由 T23P 空

にと考なか踊幕 浸女えり。らの か 性 方 、実 せ 祭 現音のえ間数的惚こ だるルり追の共華化クれ祭っとが言際る 典 さ楽空、を百なたうま予さジ、憶永にで時 ロ こ典た音異語、歓は れ的のソ飛年物るし つ 百 アノ 遠、あ代 l そは一楽なと顔 喜 たに下ウびの語歴たさ。えでスでな人るの ド シ、幕でる習のの今 の再でル越時が史 悦に るあタある類と精文ルその織隣わ色極も

62


の十七か国から集まった四九人 の音楽家たちが、それぞれ彼ら 含めて六か 国 の音楽家たちが有意義な

ため、この度の祭典には遥か遠くのト ルコをはじめウズベキスタ ン、カザフ

するほど拡がりつつある。環太平洋時 代とという 言葉が実感を 伴 って使われ ており、ある学者は今日の時代を称し て第三の地中海時代だと名付けたりも している。年を追って西へと進む人類 の文明は、昔の地中海文明からヨーロ ッパに移っていき、次に大西洋を渡っ てアメリカに移動し、今は大西洋を渡

多くの時代的な徴候から見るとき、

二 一 世 紀 は ア ジ ア の 東 洋 文 化 が 浮上

し、人類の文 化 に莫大な影響を及ぼす

可能性が濃厚である。そうしてみると、 最近まで世界文明を圧倒していた西欧

文化が、もう一度陰と陽が調和を成す ように、アジアで対等に出会うように なるのである。十五世紀から衰退した

登場 にほかならないと 言える。そ れで われわれは、二一世紀が東洋文化と西

無関係ではない。周知のように最近は

舞台を演出した。 あえて音楽を通じた形によってでも シルクロ ード時代を振り返 ってみたか った理由は、最近の世界的な流れとも

スタン、中国、蒙古が招かれ、韓国を

固有の伝統音楽を披露しなが ら、音楽芸術の多彩さを臨場感 を持って感じさせてくれた。 二 回目の年である今年は、昨年の ように無作為に音楽家を招請せ ず、特定のテl マを前提にする

って東アジアに上陸し ようとして いる と言うのである。したがって、大西洋 時代が第 二の地中海時代であったとす れば、最近の太平洋時代は第三の地中

洋文化が弁証法的な融合を通じて第三

東西文化の双方の交流が、再現される わけである。まさにシルクロードの再

海時代になるわけである。

東洋に対する関心がいつになく高まっ

おいてもアジアに対する再認識が副目

ている。政治 ・経済的にもアジアの比 重が大きくなりつつあり、文化芸術に

63

こととした 。 より鮮明な個性と テーマ意識を浮き彫りにするた めであった。まさにその答えが、

﹁m 0 m 120 ﹂ 0

スタンの演奏家( 下)

(上) dayra、 surnayを演奏するウズベ キ

r;音声幽 J

弱国の大 2Zの演奏家である金応瑞の独奏

過去のシルクロ ード時代の中心 諸国を招く ことであった。その

CURRENTS


CURRENTS

顔 の 色 が 異 な り 、 衣装が異なり、 言 語 と 習 わ し が 異 な ハーa、 感 覚 と 考 之 、 万 が 異 な る 味 同 士 が 集 ま っ て 織 り な し

た 没 我 の 境 地 に 没 か っ た 一一恭の久不 ・典は、 そ れ こ そ シ ル

ノスタルジアであると言えるだろう。

クロ i ド え 化 時 代 の 精 華 で あ る と 共 に 、 人類の、水速な

る追吃であり、

沈惚たる歴史的な物語が数百年の時間を飛び越え、 ウ ル の 空 のF で 舌 楽 的 に 再 札 さ れ た の で あ る

ノ 、

k emenc e ( 左) と ney ( 中)

カザフスタンの sazi si r の演奏( 上段右) 、 ever bur ea ( 左) と t soor ( 右) を演奏するモンゴルの演奏家( 上段左) 、

を演奏するトルコの演奏家( 下段)

64


であると考えるのであり、この

る絶好のチャンスであり、条件

の人類文化をはらむことのでき ように音楽に使われる多くの楽器の中

おくのがよかろう。よく知られている

を選んだ理由もここでちょっと触れて な美しい曲線や、陶磁器の外形に流れ

ゴリ(伝統衣装の上着)の流れるよう

マ(伝統衣装の長いスカート)とチヨ

でなく、行事期間には民俗風物展も開

ークショップが進められた。それだけ

れ自分の国の音楽について、講演とワ

アジア地域を巡回講演してきた

カ ル チ ャ ー ク ラ ブ ﹂ という名称 で、数年にわたって毎年、中央

した次元で﹁ネオシルクロード

のギターや韓国のカヤグムのように音

楽器ではあるが、これらの中には西洋

などのような弦楽器は素晴らしい旋律

ンだとか、韓国のヘグム(胡弓の 一種)

もちろん弦楽器の中で西洋のバイオリ

管楽器が最初に挙げられるであろう。

で最も旋律的な楽器といえば、やはり

味の中には、各民族聞の音楽的な共通

えに﹁世界笛の祭典﹂の文化史的な意

るほど 美 しい線で満たされている。ゆ

線の宝庫であり、線の溶鉱炉だと 言 え

か。韓国の伝統音楽の中は、それこそ

それはそれだけにとどまるのであろう

る絶妙な曲線がそうであった。いや、

あれば、 互 いに共通分母を持つという

違い、音楽的なイディオムも違うので

もいる。楽器の形も違い、演奏技法も

音楽は万国共通語ではないと言う人

誇りを見せたり、望む人々にはそれら を売 ったりした。

サリーなどを出品して、各自文化的な

書籍や衣服や骨董品、あるいはアクセ

かれたが、参加者たちは自国の楽器や

時代を﹁ネオシルクロード時代 ﹂ と命名したい。われわれはそう

ことがあり、それでこの度の

目的もあるが、別の 一方では、笛の音

点や相違性を確かめてみる音楽自体の

われわれは音楽が万国共通語であると

を一つに持続できない管弦楽器もあ る。しかし、大部分の楽器は音を自由

はどれほどかけ離れた違いを見せてい

ことは実に難しいことであると言わざ

るかを確認しようとする意図も小さく

るを得ない。しかしながら、それでも

ともあれ旋律楽器の代表的なものは

いう 言葉に同意せざるを得ない。少な くとも今回の ﹁ 笛の祭典﹂の期間を通 じての音楽ではそうであった。そこに

の他の民族のそれとどのように、また

管楽器であり、したがって管楽器は韓

なかった。

楽を通じて韓国の線的な文化概念がそ

が対等に出会い、融合して、第

国文化の際立った特徴の中の 一つを代

ったにもかかわらず、彼らの音楽の底

はたとえ外形上の相違点が少なくなか

自在に持続させることのできる完壁な

三 の斬新な文化を創出すべき二

弁し、象徴する楽器だといえる。なぜ

の祭典﹂が四日間の昼と夜にかけて繰

ともかく、小規模ではあったが、内 容の充実した意味ある﹁第二回世界笛

旋律楽器がほとんどである。

一世紀の﹁新たなシルクロード

ならば、韓国文化は線的な特徴が強い

﹁笛の祭典 ﹂ のテーマもシルクロ ードに絞って企画したのである。 遠からず、展開されるはずの東

文化時代﹂に備えるためのもの

と自他共に認めているからである。大

洋の時代、すなわち東西の文化

であったのは再論の必要もな

あり、伝統的な昔の藁葺きの屋根がそ

きくは山野の輪郭の線が柔軟な曲線で

が混成編成されて、それぞれの独特な

り広げられた。夜は各国の演奏家たち

辺にはやはり人間の純粋無垢で赤裸々 な感性と喜怒哀楽が飾りなしに現れて

'LV

一方、国際的な音楽行事を企 画するにおいて、弦楽器や打楽

いたからである。

A情緒の音楽を披露し、また昼はそれぞ

Dizi ( 箇) を演奏する中国のゼ、ン・ミン( 下)

うであり、また小さくは女性たちのチ

双箇を演奏する韓国の金燦蜜( 上)

器を差し置いて、強いて管楽器 F m mO --EO ﹂O

65

c υRRENTS


CURRENTS

ドイツ • ハンブルク 「ハンザ都市」 での

詩 1!J え 化 迭 問 ソウル大哲学科教授

沈在龍

L 3片ド 国 の 文 化 行 事 が 一ヶ 月 以

比 べてあまりにも少ないという点を

合いが歴史 的に関わ ってきた 時間に

あるという。悲しい現実である。今 戸 イツ人たちの韓国文化に引かれる度

次の 二 つの ことを念頭に置いておか

回のハンブルク文化局主管、韓国文

あげることができる。 二 つ目は冷静

と思い、親切にしていて韓国人だと

, E .﹁ 都 市 ハ ン ブ ル ク で 行 わ れ Jr

化体 育部及びその 他 の民間 団体 のい

なドイツ人たちの心性がどんな行事

なければならないと思う。まず、ド

た。ハンブルクのハンザ都市自治政

くつかが後援して準備した韓国文 化

であっても熱狂的になれないという

分かると、きびすを返すことが今も

府の文化局では四年前からアジア文

行事は、やはりドイツと韓国の距離

点も理解できないことではない。

は叫 上 も 北 ヨ ー ロ ッ パ の 港 湾

化 をハンブルク市民に身近に理解さ

を感じさせた。新聞と放送で韓国の

J

日の行事が多く広報されたというが、

せようとする試みを行っている。 一九

九九四年のベトナム文化週間、

まず、歴史的な関わり合いを考え

てみよう。いつ頃からドイツ人が韓

各行事場所にはドイツ人たちの姿は

一九九六年

あまり見られなかった。韓国から派

は 一一三 年 に も な る と い う 交 流 の 歴

国に関心を持ち始めたのか?言葉で

の日本文 化週 間 に 続 い て 今 年 で 四 回

目 の ア ジ ア 文 化 フェスティバルが韓

ツに見学に行った韓国の観光客たち、

遣された行事要員と同じ時期にドイ

の占領と韓国戦争(朝鮮戦争)で、

史も突き詰めてみると韓国側は日帝

九五年の中国文化週間、

国に割り当てられたのである。

る昔の看護婦または鉱夫 出身 の在独

る感じがする。教育を受けた韓国人

ところだったというのが私の率直な

な行事会場は本当にガラガラになる

韓国同胞たちの涙ぐましい献身的な 助けがなか ったならば、今回の様々

以降からだと言わなければならない。

間の交流らしい交流は 一九 六0 年代

ドイツ側は三度に及ぶ世界大戦と東

どうしてガラガラになるのだろうか。

ド イ ツ で 韓 国 の 文 化 行 事をすると

ら突然、工業国に変身した韓国を訓

のも 一九 六 四 年 で あ っ た 。 農 業 国 か

ハンブルクに韓国総領事館ができた

西ドイツ分 断 のために、実際の 両国 たちは普通ドイツをカントのような

報告である。 普通のドイツ人は韓国人を日本人だ

の国だと思っている。これに 比 べて、

年ど ころ か 千年以上も遠く離れてい

哲 学 者 や ベ ー ト ー ベンのような楽聖

かし、百年 あまりの歳月は暦の 上で の こ と だ け で あ って、まだ両国は 百

そしてドイツ人と結婚して住んでい

た韓国文化週間の宣伝ポスター

韓国とドイツが通商を開始して一 一三年にもなると言われている。 し

ドイツ ・ハンブルク「ハンザ都市』で聞かれ

66


CURRENTS

目に値する相手として見始めたドイツ

韓国の文化行事を開催することにした

次々とベトナム、中国、日本に続いて

る﹁自由ハンザ都市﹂、ハンブルクが

も北欧最大の貿易港として繁栄してい

も、韓国政府や主管担当者たちは感謝

事に足を踏み入れたということだけで

も、また一人、二人でも韓国の文化行

文化に関心を持ってくれることだけで

程の不協和音の中で、それでも韓国の

後、大変な財政的負担と社会的統合過

ドイツもやはり東西ドイツ統 一以

る 。 ﹂

のはドイツ歴史上、未曾有な 一大事件 しなければならないことである。ある

み ぷ

が、その中で過去はもちろん、現在で

だと言うべきであろう。韓国の四十あ 人は本来ぶっきらぼうで感情をあまり もいくつもの行事会場を見て回り、拍

あらわさないドイツ人たちが、それで

日 本 の 文 化 行 事 一 四 O あまりに比べ て、その 三分の一にも満たないとして

まりの文化行事を量で見ると、昨年の

も、ハンブルクの上院議長であるポー

とにかく、 筆者が体験した 十日間

だと自画自賛したりした。 のハンブルク滞在は、韓国文化の行事

手をすることだけでも﹁大変な成功﹂

﹁一九九七年のハンブルクの韓国週

カー-。 フラゲマンは最近の事情を次の

間 (Uお 穴 33 は初 Qagdmmzggm一

スケジュールであった。旧盆を過ぎた

会場にあちこち通う特に面白味のない

ように語った 。

めて韓国文化をドイツに包括的に紹介

を閥歩するには寂しい限りであった。

北欧のひんやりとした 空気は半袖で街

する行事として、たとえ現在、韓国で であったとしても、ドイツでほとんど

さらにハンブルクの真ん中にある中央

活動する芸術家たちだけが、その主役

公園に永久の建物として立派に建てら

6、 7

知られていない韓国の文化の伝統を垣

C

仏教彫刻家、朴賛守氏( 上)

間みることのできる絶好の機会であ ω m己Z の

司 、 P訂 } ︿

霊山祭( 下)


CURRENTS

れた日本式の茶室と日本式庭園を散 歩するドイツ市民たちを見ている と、韓国の国力が日本のそれと比較 されて、一種の韓国文化視察団の 一 員 と し て 、 お か し な ことだが身がす うな気分になった。もっとも、その

くみ、妙に自分自身を責めたてるよ

に移すということはどんな意味を持

現場にあるべき文化を外国に一時的 つのだろうか。まさにドイツで進行 するいわゆる現代版﹃文化行事﹄が まるで博物館の剥製された遺物のよ うな姿に映るのは筆者だけの感慨だ このような感情を抑えて、今回の

ろうか。 文化行事のあらましとその中で特記 する点を簡単にかい摘んで紹介して み る 。 期 間 は 九 月 十 五 日1 十月十九 日までで、日程としては 一ヶ月ちょ っとであるが、七つの分野にわたっ て幅広く韓国文化の饗宴が繰り広げ られた。特に際立ったのは韓国教授 仏者連 合 会 が ほ ぼ 三 カ 月 か け て 用 意 した﹃韓国仏教文化芸術祭の夜﹄の 行事である 。

3力

った仏教徒の教授たちはフランクフ

化の饗 宴の 一時 間 半 は 無 形 文 化 財 履

代行為芸術の圧巻を見せてくれたと

る身ぶりで踊るのだが、それこそ現

に集まるドイツ人たちの真撃な視線

たデザイン、写真、そして設置美術

展示された紛糾国的なモチーフを使 っ

て来てくれた熱意と誠意が有り難か った 。 し か し 、 こ れ か ら の 韓 国 文 化

言えるだろう。

、 二O 分 ほ ど で 木 仏 三、四 を彫 って

く始まった。故金素姫女史が歌う恵

個を仕上げた 。 ま た 禅 画 家 党 周 僧 侶

芸術の外国への紹介、普及は、今回

ムスが生まれたハンブルク音楽堂の

ンジエッツ ﹂ と い う 展 示 場 は 、 お 化 けが出てきそうな昔の貿易倉庫に再

小講 堂 で 予 行 練 習 を な ん と か 簡 単 に

急な階段のようにとても険しく困難

A-

のその薄暗い倉庫の展示場の勾配の び手を 加 え て 、 才 気 燦 発 と し た 現 代 設 置 芸 術 家 た ち の 精 神 が 宿 った 一つ

なように思えた。

は一気に十枚あまりの達磨図と禅気

の 場 に 形 を 変 え た と 言 える。そこに

た 。 三百あまりの客席は半分ほど埋

に禅舞踊家である李先玉は活気溢れ

済ませ、その 日 の夜、行事を進行し まったが、彼らが見せた韓国仏教文

の満ち溢れる筆跡を見せて、その聞

修 者 で 構 成 さ れ た 党 唄 二O 分で力強

出演者たちが公演後、挨拶をし

ルト空港から夜行で七時間、パスに

ている( 右下)

揺られてハンブルクに到着してすぐ

『韓国仏教文化芸術祭の夜』の

と、そんな辺郡なところにまでやっ

李基香氏の「喜びJ ( 右)

さらにハンブルク港の片端の四、 五、 六 階 を 借 り て 準 備 し た ﹁アトメ

韓国文化展示場に出品された

の無形文 化財 の朴賛守は大きな丸太

まさに札代行為芸術の圧巻を見せてくれたと言える 庵僧侶の太平歌をバックに木刻部門

月 か け て 用 意 し た 『韓 国 仏 教 え 化 芸 術 祭 の 夜 J の行事である。

に旅装を解くやいなや、眠い目をこ

り広げ‘ られた っ 特 に 際 立 っ た の は 韓 国 教 授 仏 者 連 合 会 が

す っ て 、 夕 食 も 取 ら な い ま ま ブ ラl

故郷で秋夕(旧.盆)も過ごせなか

1 ヶ月間 7 つ の 分 野 に わ た っ て 幅 広 く 韓 国 え イ じ の 饗 宴 が 繰 約

68


J OURNEYS IN KORE AN Ll TERATURE

..

、、 -、

韓 国 の 小 説 の 歴 史 を 紐 解 L 、てみると 一般 に 「 分 断 え 学 」 と い う 名 称 、 で 呼 ば れ る 作 品 群 が 一 つの巨大な; えれを形えしているのが分かるが、その; えれの中 で最も 印 象 的 な 作 品 の 中 の い く つ か が 金 源 ー に よ っ て 書 か れ た も の で あ る 。 しかし、彼 は分 断 え 学 に 含 ま れ て い な い 領 域 に お い て も 多 く の 優 れ た 作 品 を 発表してきただけでなく、実際、実に多様な領域を探求し続けることに 九功した作家であると言うことができる 69


J _ r u. ! h

秀ミ

と 千 皮

σ〉

李東夏

イ ドンハ

克服できる道は何か﹂などの質問が自

然に提起される。このような質問に対

する答えが作品の中には鮮明に描かれ

てはいないが、このような質問を提起

してそれを執助に詮索したというだけ

でも、この作品は 一九七0年代の時点

での、できる限りの探求を最大に具現

﹃夕焼け﹄で提起された 問題に対す

したと評価されなければならない 。

程を通して、偉大な分断文学の山脈を 形成していくのである 。 その山脈の中

この作品世界を拡大させ深 化させる過

におかれている作品が、

再び試みられることになり、その中間

るより徹底した探求は﹃火の祭典﹄で 金源 一の出世作は一九七三年に発表

めの悪名高い居昌良民虐殺事件から素

一九五一年初

メ一、一 来 、 今 日 に 至 る ま で 、 三 十

ATTi の 若 さ で 文 壇 に 登 場 し て 以

この中でも特に﹃火の祭典﹄は一九八

﹃火の祭典﹄を挙げることができる。

ルで結びつけることで分断の問題を扱

開するこ とにより、臨場感あふ れる描 写と緊迫感を 呼び起こす効果を 上げて

の死を 目撃することにより、世の中の

と現在を交 互に登場さ せるスタイルで

m ﹁m O i司O ﹂O

う自らの力 量を改めて確認させたので

ある 。

年もの創作期間を費やした最大の労作

置を占める﹃火の祭典﹄とはどんな作

O年から一 九九七年まで、なんと十七 である 。 それでは、ここで 三 つの作品

品であろうか。前述した通り、十七年

とするなら、こ の系 列で決定的な位 一九七八年に 発表され た﹃ 夕焼け﹄

について簡単に紹介してみることにし よう。

の歳月を費やしたこの作品は全七巻に

及ぶ大作である。金原 一はこの七巻に 及ぶ小説の中で六 ・二五が勃発したそ

は 一九四八年に故郷 の村で起こ った左 翼の暴動の首謀者となって死んだ父親 の記憶を持つ人物が成長して平 凡な 一

月までを日誌の形式を取 って作品を展 の死 亡 の知らせを聞いて葬式に 出 ると

いる。作品の舞台は、主に進永とソウ

の年、すなわち 一九五O年一月から 十 市民としてソウルで暮らしているとい う ことを 基本的な状況背景として設定

いうことで、実に何年ぶりかで故郷を

された小説である 。 その主人公は叔父

一九四八年の出来

秩序と生き方の意味に対する深い疑念

進行し、その結果、﹁凄惨だ った 過去

訪ねることになり、

い切れ ない 。 分断文学に含まれていな い領 域においても彼は多くの優れた作

は現在に対してどんな意味を持つの 、﹁ その過去を現在の時点で本当に か﹂

のない文学的な成功を見せている作家

く。そのような中でも、全体の統 一性 は少しも揺らぐことなく、異論の余 地

ルの 二つの 地域を行き来しなが ら、膨 大な規模にふさわしい多様な人物の群 が登場し 、複雑な事件 を繰り 広げてい

品を発表してきただけでなく、実際、

にとらわれた幼い子どもの内面を追 っ ている。その後、年を追 って金源 一は

事を回想することになる。 作品は過去

彼は実に多様な領域を探求し続けるこ とに成功した作家であると 言 うことが

金源 一の作品世界において 価値 ある部 分が単に分断文学であるとは決して 言

象であると 言うことができる。しかし、

れたものであり、それはごく自然な現

いくつかがまさに金源 一によ って書 か

の流れの中で最も印象的な作品の中の

名称で 呼ばれる作品群が 一つの巨大な 流れを形成しているのが分かるが、そ

いてみると 一般に﹁分断文学﹂という

数々である。韓国の小説の歴史を紐解

北分断と六 ・二五(朝鮮戦争)がもた らした意味を文学的に探求した作品の

議の対象となってき たのは解放後の南

固たる 地位を築いている。 彼の小説の世界において最も多く論

代表する大家のひとりとして、その確

きた。そして、現在、韓国の小説界を

材を 得た﹃冬の谷間﹄ (一九 八 七 年 )

H

でも最も高い峰をなしている作品とし

文学評論家

て﹃夕焼け﹄と﹃冬の谷間﹄そして

ソウル市立大国文科教授

された短編﹃暗閣の魂﹄である。解放 直後の時期を背景にしたこの作品は、

左翼闘争に身を投じて殺害された父親

世 界

年あまりの歳月を創作活動を繰り広げ

口 仁 ヨ 口

ながら送り、数多くの名作を発表して

イ 乍

である 。 この作品におい て金源一は厳 密な自然主義的な細部描写・と ヒ ューマ ニズムに基づいた反戦意識を高いレベ

できるのである。

金 之 原

、ふ晶 源 一は 一九六六年、 二五歳

70


の力量はまことに素晴らしいと言わざ るを得ない。 ﹃暗閣の魂﹄と﹃夕焼け﹄において 幼い子どもの天真欄漫な視線による迂 回 的 な 方 法 を 取 った金源一は 、この ﹃火の祭典﹄に至 つては、断然たる正

いる事実を知ることができる。作家は

ではない。韓民族の生活が最も暗か っ

グリ ー ンの﹃権力と、栄光﹄や白道基の ﹃青道の蛇﹄のような真塾な苦悩の文 学、探求の文学になるのである。畠マ

﹃信仰の衝突﹄は安易な宗教宣伝のた めの文学になることなく、グレハム・

の小説を書いているのである。 このよ うな姿勢で創作した作品であるため、

懐疑と模索と質問を絶やすことなく、 厳しい求道者の姿勢を堅持しながらこ

態の信仰に対しては勿論、キリスト教 という宗教それ自体に対して最後まで

いないということである。彼はここで 書 かれている 三 つのE いに異なった形

のように 三 つの互いに異なる形態の信 仰を見せながらも、そ の内のどれにも はっきりとした肯定的な視線を送って

できる。ただ、重要なことは作家がこ

つの類型を総合してみると韓国のキリ スト教の全体像のかなりの部分が解明

る信仰など、 三 つの類型からなるキリ スト教の信 仰を提示しており、そ の三

窓生であるシン・チユヨプが持ってい

た。しかし、﹃常緑の松の木﹄はこの

たる﹃庭の深い家﹄は金源プ自身が父 親のいない貧しい家庭の長男として苦 しい成長期を送らざるを得なか った体

O年から一 九 二O年にかけて た 一九 一 の時代を背景にしている作品は全九巻 にものぼるその膨大な規模にふさわし

ような作業だけが込められている小説

験を基にした作品である。しかし、そ れは単に個人的な体験の文学的な形成 にとどまらず、戦後という窮乏な時期

ここで話し手であるソン・ムンギユの 信仰、ソ ン ・ムンギュの母親が持 って いる信仰、そしてソン・ムンギユの同

の普遍的 状況に対す る織烈な探求であ り、卓越した表現に昇華されている 。

と宗教的なメッセージが出会う様相を 聞かれた姿勢で探求している点ではこ の作品もまた﹃風と 川﹄や﹃常緑の松 の木﹄と基本的に同 一の性格を帯びて

ると、そのような異彩な面はただ単に 外観的なものに過ぎず、韓国人の心性

せた作品をほとんど 書 かなか ったこと から推察してみると、この作品は金源 一の文学世界の中ではかなり異彩な面 貌を放つ存在だと 一 言 守 え る だろう。しか し、この作品をじ っく りと精読してみ

リスト教の信仰の閉題を扱っている。 前述した通り、金源一自身がキリスト 教の信仰を持つ作家でありながら、今 までキリスト教の問題に関心を集中さ

ている。 た成長小説の 一つにな っ・ 最後に紹介する﹃信仰の衝突﹄は キ

く、その時代の韓国社会を総体的に描 いた巨大な壁画にもなり、これまでに 韓国の文学界が生み出した最も卓越し

また、﹃風と川﹄は李インテという 主人公が死を目前にして深刻に煩悶 し、ついに平和な臨終を迎えるに至る までの過程を描いた作品である。李イ

攻法を駆使しながら韓国の現代史の核 心とな っているイデオ ロギーの問題、 戦争の問題、民族生存の問題を徹底的 に掘り下げている。そうすることによ り彼は上記の問題に対する 一方の立場 を代表している李文烈の﹃英雄時代﹄ 日本軍に捕ま って拷問さ れたあげく、 機密を漏らすことで釈放されるが、自

くしたより本格的な様相で織りなされ

が出会う様相を開かれた姿勢で探求す 孔 る金源一の作業は﹃常緑の松の木﹄に ﹃ おいて再び、今度はさらに規模を大き 叩

韓国人の 心性と 宗教的なメッセージ

る。そのような金源 一の姿勢がこの作 品を真に深い文学的な感動の源泉に作 り上げているのである。

の心性と宗教的なメ ッセージの出会う 様相を、聞かれた姿勢に立脚し、多角 的に探求することだけに終始してい

この小説は決して特定の 宗教を浮き彫 りにする方向に走ることなく、韓国人

る。ここで金源一の探求は自然に宗教 的な主題に向かうようになる。本来、 金源プ白身はクリスチャンであるが、

人物である。この人物が重い病を患い、 死に至るまでの過程を追跡しながら金 源 一は罪と救いの問題を深く形象化す

分の自白のために犠牲にな った人々に 対する自責の念にとらわれ、結局何年 も自暴自棄の放蕩な生活を送ってきた

ンテは日帝時代に義兵になったものの

とその反対側の立場を代表している超 廷来の﹃太脈 山脈﹄という二つの大作 の業績を総合し、乗り越えるという成 果を上げている 。 そのような点で﹃火 の祭典﹄は少なくとも現時点では、金 源一自身がこれまで書いてきた分断文 学系列の 小説の決定版であ るだけでな く、韓国の分断文学全体の決定版であ ると評価するととも可能である。 ここまでは分断文学の系列に属する 金源一の重要な作品を見てきたが、次 はその他の領域における 金源一の成果 の中で特に注目に値するものに言及し てみることする。そこには﹃シギに関 する膜想﹄(一九七九年一韓国文学創 作賞受賞作)、﹃未忘﹄(一九八二年)、 ﹃心の監獄﹄(一九九O年一李箱文 学賞 受賞作)などの 中編や短編の領域に属 する作品もいくつかあるが、ここでは 長編小説に論議の範囲を広げてみるこ とにする。そうした場合、﹃風と 川 ﹄ (一九八五年)、﹃庭の深い家﹄(一九八 八年)、﹃常緑の松の木﹄(一九九三年) などの三編が関心の焦点になる。 このうち、時期的に見て 三番目にあ

71


NE WS F R OMT HE K OR E A F OUNDATl O N

海外での 韓国研究に対する支援 韓国国際交流財団は、海外の大学、研究所などで韓国に関する研究 や韓国語講座の開設などを行なう場合、これを支援しております。人

韓国国際交流財団の

フエローシップ ・ プログラム 韓国国際交流財団は、毎年実施している韓国研究フエロー シップおよ び韓国語フエローシッフを次のようにご案内いたします。

文 ・社会科学 ・芸術分野のうち下記の項目に該当するプログラムについ て支援申請を受け付けております。

韓国研究フエローシッフ。

①韓国学、韓国語など韓国関連講座の開設及び拡大 。 ② 韓 国 特斤究の大学院生並びに教授に対する奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の五月 三一 日で、選抜の結果および支援 額については、同年十月十五日までに申請者に通報いたします。 上記の「海外での韓国研究に対す る支援」および、「車童図国際交流財団 のフェ口ーシッフ。・ フ。 ログラム」の 申請書および案内書は、韓国国際交 流財固または現地の韓国公館で求め られます。申請書および案内などに ついてのお問い合わせは、下記の住 所宛にご連絡願います。 韓国国際交流財団国際協力 1 部 )

~

さい。 選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。 韓国語フエローシッフ。

れ、リ

﹁し

U O FK A ι h R O K (

2147号 電 話 : 82- 2- 753- 3464 FAX: 82- 2- 757- 2047 ・2049

間 楠

勺 珊

り 鵬 句 切

韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生 ・学者お よび適格の専門家に対して、韓国語フエローシップを提供し、六 一二 カ月間、韓国内の大学で韓国語講座を受講する機会を与えております。

韓国国際交流財団は、隔月刊誌K OR E A F OC US

( コリア ・フォーカ

ス) を刊行しております。「コリア ・フォーカス」は日本のみなさんに 韓国関連の情報を提供して韓日両国間の理解を深めていくことを目的と しております。 同財団は「コリア・フォーカス」が日本の皆様にと って韓国に関する 有益な参考資料になるものと信じます。 「コリア・フォーカス j は、日本語版のほかに英文版 K OR E A F OCUS も刊行しておりますが、同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係雑誌、 学術誌などの刊行物か ら翻訳、記載した ものです。 コリア・ フォーカスが取り 上げて いる 記事は、韓国の政治・経済 ・社会 ・文化 などの各分野と、韓国関連の国際問題に 亘っており、このほか韓国に関する重要 な資料と 主な事件の日誌も掲載しており ます。したがって、韓国の時事問題に関 する情報性記事が幅広く盛り込まれてい @ 担 担 単一 一

て、韓国の現実にリアルに接していただ けるに違いありません。

フエロ ーシ ップを与えられること、 が決まった方には、韓国内の大学のう ちの一つの韓国語講座を受講することができ、受講期間中には、授業料 と所定の滞在費がヨ乙給されます。申請ご希望の方は、所定様式の申請書 を作成のうえ、該当年の五月 三ーまでに韓国国際交流財団に提出してく ださい。選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。 申請書および案内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛に ご連絡願います。 緯国国際交流財団国際協力 2 部 大斡民国ソウル特別市中央郵逓局私書函 2 147号

電 話 : 82- 2- 753- 6465

FAX: 82- 2- 757- 2047 ・2049 J

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Earl S. Moor e J .r Presi dent 01 ASl a Paci l i c Mar ke1l ng

ビジネスに は失敗は許されません。しかし残念なことにどんな人も ひとりの人間として完壁ではありえない。 「だから、ホテルは、いつも、完壁でなくてはならな P J アール s . ムーア、 Jr 氏の持論で、す 。 ホテルロ ッテを繰り返してお選びになる氏の理想のホテル像は、 「 完壁な施設とロケーション、そしてゲストを暖かく包みこみ、 決して完壁さを表に出さない優雅なサービス」。 そして乙れはまた、ホテルロッテが追求するホテル像でもあります。

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