2022 年 1 月 14 日号
一緒に考え、 一緒に学ぶ保育で 子どもと共に成長を続ける
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INTERVIEW
すぎのこスクール園長
鹿取しおん■父親の仕事の関係から家族と幼少期に渡米。高 校1年までをシアトルとロサンゼルスで過ごした後、帰国子 女として日本の高校に編入する。卒業後はシアトルに戻り、 ベルビュー・コミュニティー・カレッジ(現ベルビュー・カレッ ジ)にて幼児教育を専攻。アメリカで幼児教育・保育者として 約30年、インクルーシブ・クリエイティブ・カリキュラムを軸 とした教育を推し進める。2020年、すぎのこ幼稚園・保育園 園長に就任。現在、 すぎのこスクール園長を務める。
イーストサイドにて日本語環境での保育・幼児教育を提供する、すぎのこスクール(以下すぎのこ)。 創設メンバーでもある鹿取しおん新園長に、日米を行き来した自身の生い立ちと、すぎのこのこれま で、そしてこれからについて語ってもらいました。
すぎのこスクール 1997 年の開園以来、 「よりそう保育」をモットーに日米の懸け橋となる教育を続け る。2021年にレドモンドの新園舎への移転を完了し、 すぎのこ幼稚園・保育園から、 すぎのこスクールに改称。さらに充実した環境でシアトル近郊の子育てファミリー をサポートする。
取材・文:加藤 瞳 写真:すぎのこスクール提供
Suginoko School
鹿取しおんさん 日本人としてのアイデンティティーを 育んだ子ども時代
8460 160th Ave. NE., Redmond, WA 98052 ☎425-869-7651 contact@suginoko.com www.suginoko.com
尊敬する恩師との出会い 両親の思いもあり、高校は神奈川県茅ヶ崎の帰国子女受け
ていました。物事は、 『これが正しい』という考え方だけでは 測れないということを教えられました」
幼稚園立ち上げに携わる日々
生まれは北海道。高知、東京での幼少期を経て、8 歳でシ
入れ校へ編入。卒業後にシアトルへ戻ると、コミュニティー・
アトルに家族と移住したというしおんさん。どんな子ども
カレッジで教育学を学んだ。 「幼少の頃からずっと、小学校の
時代を過ごしたのだろうか。 「パスポートの署名の仕方だけ
先生になりたかったんです」 。若干の路線変更をしたのは、
教わって、英語は全くわからないまま、いきなりスクールバ
オープンしたばかりの日系保育園で働く姉から助っ人を頼ま
結婚を機にアイダホ州への転居が決まっていた。転居まで
スに乗せられて現地校に放り込まれたような感じでした」。
れてから。 「ちょっと手伝ってと言われて行ったら、もう子ど
の猶予となる 1 年の間に、またしても運命的な出会いを引き
それでも柔軟に適応していたほうだと振り返る。 「姉や妹は
もたちがかわいくてかわいくて! 小学校の先生と違って、
寄せる。 「たまたま日系新聞に、ベルビューの新幼稚園オー
それこそ固まってしまって、学校では座りっ放し。私は兄と
黒板に向かって教えるのではなく、子どもの目線に立って一
プニング・スタッフ募集の広告を見かけて、立ち上げだけな
姉、妹に挟まれた真ん中だからか、もう少し要領が良かった
緒に考えて、一緒に泣いたり笑ったり。体力的には疲れるけ
らお手伝いできると思い、電話してみたんです」 。それは、す
のかもしれません。自分の容姿に近いアジア人の子を見つ
れど、 すごく充実していて、 いいなぁって思ったんです」
ぎのこの前身となる園だった。初代園長とのデニーズでの
大学卒業後の 2 年間は姉の勤める日系保育園で働いたが、
けて、とにかくその子について回っていました」。身振り手
大学での恩師との出会いも後押しとなった。教授がいな
面接は、今でもはっきりと覚えている。大学を出て間もない
振りに始まり、しどろもどろの英語から、徐々に打ち解けら
ければ、今の道に進んではいなかったかもしれないと顧みる。
しおんさんは、自身の理想とする教育について、あふれる思い
れるように。「担任はミセス・ジョーダンという日系人の先
ネイティブ・アメリカンの出自というその教授は、 「クリエイ
が止まらなかった。 「 『じゃあ、あなたが園長やる?』っておっ
生でしたが、日本語はあまり話せなくて、おはようございま
ティブ・マインドを育む・差別をしない子どもたちを育てる」
しゃって (笑) 。いやいや、自分は未熟だから、とにかく教授か
という教えを徹底していた。 「衝撃的でした。最初の授業で
ら学んだことを実践できる園作りのお手伝いをさせてくださ
『この中で何人が実の両親に育てられたか、手を挙げてみて』
い、と伝えました」 。まさにゼロからのスタート。スタッフで
そんな中でも、両親は子どもたちに日本人としてのアイ
と教授が聞くと、 30人くらいのうち6人しかいない。継父母、
毎日のように勉強会をして、どんな園にしたいかを話し合っ
デンティティーを持ち続けて欲しいと強く望んでいた。家
養父母、里親と、次第に手が挙がっていき、教授は『私たちは、
た。本当に何もない状態だったため、家にあった本箱にペン
の中では全て日本語。学校の勉強についてとやかく言われ
そういうダイバーシティー(多様性)の社会で子どもたちを教
キを塗って子どもたちのロッカーにしたり、手描きの紙芝居
ることはなかったが、夏休みには日本語の読書感想文を父
育していく。両親がそろった家庭が必ずしも幸せとは限らな
を作ったり。おやつも手作りした。 「本だけは園長先生にな
親に提出していた。「両親は日本人らしい思考やマナーに
いし、 決めつけないことが必要』 と。もう目からウロコでした」
んとかお金を出してもらって、私が日本に一時帰国した際に
関してはとてもうるさかったんです。そんな両親に感謝し
近年では、文化的マイノリティーへの配慮から、 「メリーク
買ってきました。そこからちょっとずつ教材を増やしていっ
ています」。しかし、ひどくショックなことも経験した。 「日
リスマス」というフレーズの非使用が認知されつつある。し
本に遊びに帰った時、税関で読めない漢字があって、職員の
かし、その教授は 30 年前からすでに提唱していた。 「たと
その時に集まった 4 人の創設メンバーには、今では同志と
方に聞いたんです。そうしたら『日本人のくせにこんなのも
えば、ネイティブ・アメリカンにとってのサンクスギビング
も呼べるマルケヒー真知子前園長もいた。シアトルを離れて
読めないのか』ってすごく怒られて。私はパスポートも日本
(ヨーロッパ系入植者からの侵略と迫害の歴史の始まりの日
からも密に連絡を取り合い、日々起きる問題や悩みへの解決
のものだし、見た目も日本人。見た目からは内面の文化的背
と捉えられている) のように、ホリデーというのは、 『一部の人
策を探った。アイダホでは、 インクルーシブ・チャイルドケア・
景までわからないんだと気付いて、そこから自分のアイデ
にとっては自分たちの文化を失った日かもしれない。だから
センター(子どもの年齢や国籍、障がいにかかわらず、さまざ
ンティティーについて考えるようになりましたね」
私たちは、ホリデーを敏感に捉えなければいけない』 と強調し
まな背景を持つ子どもを受け入れる保育施設)にフルタイム
す、ありがとうくらい。日本語を話す『日本人』は本当に少な い時代でした」
たんです」