宮城県監獄署沿革史 西南戦争余話

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宮城県監獄署沿革史 西南戦争余話 柴 修也 宮城県監獄署

鹿児島県人七士の墓

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宮城刑務所(宮城集治監)は市民なら誰でも知っている施設で、かつてはその獄舎が六角 大学と呼ばれ市民から親しまれていた。しかし、仙台の片平丁に宮城県監獄署という施設 があったことは殆ど忘れ去られてしまった。 藩政時代の牢屋が明治になり監獄則の制定により片平丁に明治10年7月に新築開庁した 施設で、この移設には後の外務大臣陸奥宗光公、さらに同時期に西南戦争の国事犯305名が 収容されていた。国事犯達は自ら宮城県内の開墾を申し出て、仙台市内、塩釜、野蒜、雄勝 等で荒地の開墾、道路の開鑿、築港、石盤製作に従事して戊辰戦争後の宮城県の発展に大き な役割を果たした。また市内の瑞鳳寺には獄中で死亡した7人の薩摩軍兵士の墓があり、毎 年、鹿児島県人会の皆さんが墓参りを実施している。 平成2年NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」の放映の際に、宮城県に配置された国事犯に関 する資料を纏めて「西南戦争余話」を出版したところ、鹿児島県でも大きな反響を呼び、国 事犯の子孫の方々から沢山の手紙や貴重な資料をいただいた。それらの資料等は閲読後倉 庫に閉まっておいたが、今回のNHK大河ドラマ「西郷どん」の放映を知り、改めて国事犯 の子孫から来た手紙を読み直し、その中で貴重な記録を抜粋して後世に残すことを思い立 ち、「宮城県監獄署沿革史」の中に纏めてみた。 先祖の貴重な体験を送ってくれた多くの方々は、既に鬼籍に入られてしまったと推察さ れるが、国事犯として宮城に配置され、宮城での生活を綴った貴重な記録を、このまま歴史 の中に埋もれさせてしまうのは国事犯の子孫の方に申し訳ないので、資料集として後世に 残したい。 将来、国事犯に興味のある人が、小生の意思を継いで更に宮城県に配置された国事犯の 研究を引き継いでくれることを希望する。特に瑞鳳殿に眠る七人の薩摩軍兵士の功績はい つまでも後世に語りついで行きたいものである。 令和2年4月1日 柴

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修也


目 は

じ め に ............................................................................................................................................ 2

宮城県監獄署の沿革 ..................................................................................................................................... 6 幕末の頃の仙台藩牢屋の様子(佐藤専蔵一代記) .................................................................................. 7 明治初期の囚獄 ............................................................................................................................................ 8 明治 10 年 2 月 15 日 西南戦争勃発 ....................................................................................................... 9 明治 10 年 7 月 宮城県監獄署が新築 ..................................................................................................... 9 明治 10 年 11 月 3 日 西南戦争国事犯の宮城県護送について ............................................................. 12 明治 11 年1月 28 日 国事犯の宮城県開発 .......................................................................................... 30 明治 11 年 5 月 6 日 草野藤助の日記 ................................................................................................... 32 明治 11 年 9 月 宮城県監獄署で雄勝浜に分監を設置 .......................................................................... 34 明治 12 年 10 月 8 日 国事犯の移監 ..................................................................................................... 40 明治 12 年 12 月 2 日 陸奥宗光宮城県監獄署に収監される。............................................................. 42 明治 13 年 3 月 1 日 宮城県監獄署雄勝分監が宮城集治監に管轄換えになる ..................................... 47 明治 14 年7月 26 日 監獄署の改築 ..................................................................................................... 51 明治 14 年 9 月 3 日

斬首の様子 .......................................................................................................... 52

明治 15 年 2 月 1 日 獄内談弁、当時の監獄署の様子.......................................................................... 56 明治 15 年 5 月 29 日

雲野香右衛門の監獄土産 (1) ........................................................................... 57

明治 16 年 1 月 8 日

陸奥宗光離仙 ...................................................................................................... 61

明治 16 年 7 月

藤澤幾之輔逮捕 .......................................................................................................... 62

明治 17 年 9 月 1 日 凶悪犯鈴木安吉の脱獄 ........................................................................................ 67 明治 18 年 1 月 17 日 脱獄囚の死刑判決 ............................................................................................. 69 明治 18 年 7 月 10 日 脱獄囚の死刑執行 ............................................................................................. 70 明治 36 年 3 月 宮城県監獄署は仙台監獄に改称 ................................................................................. 72 「鹿児島県人七士の墓」の歴史 ................................................................................................................. 73 宮城県監獄署内で病死した6人は誰か .................................................................................................. 80 昭和 50 年 7 月 16 日

鹿児島に呼びかける ......................................................................................... 82

昭和 50 年9月 28 日 よやく落成供養仙台瑞鳳寺

鹿児島県人七士の墓.......................................... 82

宮城県監獄署に収容された国事犯関連新聞記事録集 ................................................................................ 83 平成 2 年7月 4 日 石巻かほく 薩摩士族が雄勝開拓に力 ................................................................. 83 平成 2 年 12 月 8 日

河北新報

「西南戦争余話」を出版 ................................................................. 84

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平成 3 年 8 月 15 日 河北新報「七士の墓」初墓参へ東京在住の南洲翁顕彰会.................................. 86 平成 3 年8月 17 日 本間宮城県知事からのメッセージ ...................................................................... 88 平成4年2月 23 日 河北新報・・祖父の形見は雄勝硯 ...................................................................... 90 平成 4 年 9 月 20 日 朝日新聞 西南戦争で国事犯として仙台に送られ獄中で死亡した旧薩摩藩士の 墓土 115 年ぶりに里帰り........................................................................................................................ 91 平成 9 年 12 月 27 日 河北新報 仙台白百合高校全国放送コンクール日本一 ................................... 93 平成 20 年 9 月 7 日 河北新報 西郷隆盛曾孫 仙台墓参 獄死旧薩摩藩士の冥福を祈る ............... 98 光明寺に眠る5人の薩摩軍兵士 ............................................................................................................... 102 あとがき ................................................................................................................................................... 104 参考文献及び資料..................................................................................................................................... 105 関連ブログ................................................................................................................................................ 106

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西郷隆盛の伯父「椎原国幹」画の鍾馗様

鍾馗(しょうき)様は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では疱瘡避けや学 業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。また、鍾馗様の図像は 魔除けの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾った。 椎原国幹の長女春子は海軍大臣川村純義のもとに嫁いだ。明治 34 年昭和天皇(裕仁)が 誕生するや、明治天皇から「裕仁」の養育係りを命じられる。春子の父椎原は「裕仁」の学 業成就を祈願して上記の「鍾馗」様を描き娘に送った。椎原は西南戦争の国事犯として宮城 に送られ、明治初期の宮城の開発に大きな足跡を残した。

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宮城県監獄署の沿革 仙台藩牢屋・・仙台藩牢屋はもと花壇にあ った。「仙台鹿の子」に「琵琶首は北の方 細く南の方円く太く川廻り琵琶の首に似 たれば琵琶首という、此の所にて罪人を 刑罰する、寛文6年の頃米ケ袋に移す」と あり、刑場が花壇にあったので、牢屋も裁 許所(裁判所)に付属していたと考えられ る。 寛文4年の城下絵図には、現在の片平市 民センターのある場所に「籠」とあり、以 仙台藩牢屋 後、明治維新を迎えるまでこの地に牢屋 があった。片平丁鍛治屋敷前の手前の坂を下ったところに牢屋の門があった。門から片平 丁の道に沿って、高い塀が北に37間(65㍍)続いた。ここから広瀬川までの不定形の敷地 が牢屋跡である。奥行は一辺27間と37間の不整形で、川辺は柵貫とからたちを植えつけ、 ほかは板塀を巡らしてあった。 門を入って牢守・牢役人などの居る会所があり、次に御蔵更に火消し道具を揃えた物置 があった。続いて13の牢が並んでいた。揚り屋2ヶ所・座牢・6間座牢・前牢・大牢・川前 牢・三尺牢が3つである。士分の者を収容するものを揚り屋と呼び2棟ある。夫々6畳又は8 畳の2間あらなり、真中に御番人居所あった。凡下(庶民)の牢は8畳又は6畳の5棟である。 3尺牢とは独居房のことである。この5棟の両端に各1棟の御番所があった。宮城県監獄署は、 この仙台牢屋にわずかに手を加えて作ったものであると言われている。 岩見重太郎の入った牢・・仙台市民図書館に、石見重太 郎と妹辻の入った牢と称する写真が保存されている。こ れは極めて貴重な得がたい写真である。この写真につい て重松一義氏が「日本刑罰史蹟考」で考証している。 要約すると、岩見は父の敵を打つために、妹とともに 諸国を巡り、やっと本懐を遂げることができた。この2人 の入牢理由は不明であるが、仙台で入牢後、破獄し逃亡 している。この時の牢屋が左記の写真である。明治40年 に取り壊されるとき撮影したのがこの写真である。 岩見重太郎・・安土桃山時代の剣豪。読本「岩見重太郎」 などでは怪猿(狒狒・ひひ)退治などの逸話や、山賊を 懲らしめる物語の主人公として登場。壮快無類の豪傑と して余りにも有名で、戦前の「少年倶楽部」などでは何 度も連載されたものである。重太郎は実在の人物で、筑前小早川の臣である。

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幕末における仙台牢の名主制度 幕府時代の牢屋における牢名主は公然と官から命じら れた。牢名主は囚人たることには変わりないが、囚人の 内から才覚があり且つ人望のあるものを選んだと言う ことで、牢内における戒護及び規律の維持、配食、病囚 の看護に至るまで、牢名主以下役付囚人等の職域とされ ていたと言う。従っていわば職権めいたものを利用して 或いは冒用して、他囚に私的制裁を加え、因って不正の 利益を得、得られなければ更に眼に余る制裁を加えて、 一命を失う囚人も珍しくなかったなど、その弊害は言語 に絶するものがあったと言う。役付と言うのは大体、添

江戸時代の牢屋

役、角役、二番役、三番役、四番役、五番役、本役、詰役、詰番助、五器口番の如きを言い、 この制度は、明治 3 年 3 月時の囚獄権正小原重哉氏によって廃止された。

幕末の頃の仙台藩牢屋の様子(佐藤専蔵一代記) 幕末の頃、伊具郡大張(丸森町)の組頭佐藤専蔵なる者が肝 入と争い、金津の代官所に連行されたことがある。この時、村 の順忍寺の住職が「寺入り」を進めていたが、専蔵はこれを退 けて争いを続けたので、遂に仙台の牢屋に収容された。 その時入獄した仙台藩の牢屋の様子を佐藤専蔵は次のように 記録して来た。牢名主が牢屋の実権を握り新入りの囚人たちに 定法(私刑)を加えている。特に仙台藩牢屋の場合は「テレつ く舞」という特殊な私刑を加えて新入りの囚人を苦しめ「この 世の地獄」と言わしめている。 御牢屋敷の御門を入り右の方は御屋敷也。前に柱を立ちおき、御囚人の縄をとき更に衣 類を脱がせ裸にしてその柱につなぎおき、口の中を改め髪の結いを解き下帯を外し、内股 まで改め・・・戸前を開き縄を解きて直にじゃ口より入る。 御牢内にはいずれも山伏の如くなる者共也。両人じゃ口に参り左右の手をとり、這えと 申して、洗足場へ引き込み、足を洗わせそれよりはるかの端座に下げ平伏致させ、上座に ましますは御先牢様、その御次は御先牢脇様、その御次は・・・。何郡何村百姓だれと申 し上げるべし、何とか致してまいり有体に申し上げろと也。御牢お土産は何を持参致し た。御牢振る舞いは何度入る。 小遣料は何程親類何人、右の内金持有るべし、包まず申し上げろ。その身のこと、御牢 内の御各を背き、偽りなど申すにおいては定法に申す可しと、まなこを睨んで申し付ける これをよくよく案じ見るに地獄にて閻魔大王の前御へ引きすえ、火しゃくの責めに行えし も、かしゃくと思い知らされたり、漸く涙の顔をあげ何郡何村御百姓誰と名乗り・・・御 牢お土産とて相見えず、其の元は御牢内の御格を心得ず不案内故の義とみえたり御牢小遣 料も不足也・・・右の所御お詫び申しあげされるべし、さすれば、定法御免なり。

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寺入り・・関所や番所の役人が不正をして逆に民衆から訴えられることがあったが、地方 で紛争が起きた時は僧侶が仲裁に入り示談解決をする例が多かった。僧侶は代官所におけ る訴訟に関してももらい下げすることがあった。これを「寺入り」と言った。 牢内の定法(私刑)とは 新入りを素裸にして 3 寸縛り、逆さまにつるして、又順に直し気絶の時は水を吹込み、縄 を緩めたりまたしめたり、そのほか色々な行いを申すなり・・・背く事ならばこれも御牢の 御格にて、テレつく舞を致すべし、このテレつく舞と申すのは新入りを素裸にして魔羅(ま ら)を荒縄にて縛り、左右の縄を 2 人に引かせ、先には平仄(ひょうそく)を持ちたる人が 1 人立ちながら「見さいな見さいなテレつく舞は見さいな」と云えば、また左右に列座して 「てれつく舞をみなさい、みなさいな」と囃すなり・・・生きたる心更になし、これすなわ ちこの世の地獄なり。

明治初期の囚獄 宮城県では明治4年11月聴訟課を設置、その小分課の一つとして囚獄係を設けて監獄に 関する事務をつかさどった。 明治5年・・明治政府の囚獄権正小原重哉により監獄則並びに図式が制定された。監獄則の 緒言に「獄は人を仁愛する所以にして、人を残虐する所以に在らず、刑を用いるは已むを得 ざるに出ず、国のために害を除く所以なり」と誌している。これは改良主義の宣言である。 この監獄則が、現在の刑務所の基本参考資料になったものである。 同年監獄署収容人員筈185名、杖348名、徒39名、流20名、総計592名。 明治6年6月・・改定律例が発布(7月1日施行)され、士族の閏刑は禁錮に改め、筈、杖、 流刑(島流)を廃止して懲役刑一本に統一し、いわゆる自由刑が刑罰の主体となった。監獄 署内で囚人は労役に服すことになったので、各地の監獄署では就労設備が設置されること になった。同年監獄署収容人員懲役581名、徒25名、棒鑑7名、准流18名。(法律改正によ り懲役刑が導入された。) 明治7年・・監獄署収容人員懲役834人、棒鑑13名。 明治8年11月・・全国の既決、未監の統括事務を内務省第一局から警保寮に移管して、各 府県では、第4課警保が監獄事務を取り扱うことに なった。(監獄事務は警察の事務に入っていた。) 明治9年9月18日 未決監新築計画・・監獄署に出勤し た水野に県庁から呼び出しがあった。9月13日付けで、 府県の裁判所を廃止し、地方裁判所を置くことにな り、一ノ関裁判所を廃止して、仙台に地方裁判所を置 き、更に宮城上等裁判所(現在の高等裁判所)も置か れ、宮城県以外の東北各地を管轄にすることになった

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宮城上級裁判所


ので、従来の県監獄だけでは未決監が不足するので未決監新築の必要にせまられた。水野 は25日土木課の中川、高木の両人を呼び、未決監新築の一件につき談判するのであった。

明治 10 年 2 月 15 日

西南戦争勃発

西郷隆盛は明治 6 年 10 月、征韓の儀に 敗れたので、政府に辞表を提出して鹿児島 に帰った。 明治 7 年 2 月、佐賀の江藤新平を首領と する不平士族による「佐賀の乱」が起こっ た。同 9 月には熊本の「神風連の乱」、前 原一誠の「萩の乱」と続いたが、いずれも 数日のうちに平定された。 田原坂の戦い 明治 10 年1月私学校生徒による陸軍弾薬庫略奪事件が発生し、さらには警視庁巡査中原 尚雄以下による「西郷刺殺のための帰省」事件が起きた。 西郷は「その刺殺の理由を新政府に尋問するため」と称して、同年2月15日、鹿児島県下 の旧士族1万3千人を集め、篠原国幹らを隊長とする5隊が進発、4月19日には熊本城を囲ん だ。城の包囲攻防戦は50余日も続き、更には田原坂の激戦。人吉、都城、延岡と薩軍は後退 し政府軍の追撃が続いた。薩軍は最期に鹿児島の城山に拠り、9月24日西郷は自刃して半年 に及ぶ西南戦争は集結した。

薩摩軍兵士の裁判・・ 明治10年10月24日西南戦争終結するや、新政府は臨時裁判所を 東京と長崎に設け、政府に投降した薩軍兵士3万5千人の裁判が行われた。東京では元鹿児 島県知事大山綱良以下首謀者及び参謀並びにこれに準ずる者の裁判が行われ、22名が断罪 となった。長崎の臨時裁判所では、大隊長以下の兵士の裁判が行われ、大隊長懲役10年が 31人、懲役7年が11人、中隊長級は除族の上懲役5年が126人、小隊長級は除族の上懲役3年 が380人、半隊長級は除族の上懲役2年が1,183人。 分隊長級は除族の上懲役1年が614人、大小荷は除族の上懲役2年、押伍・伍長・給養・兵 士は自宅謹慎、一旦降伏後薩軍に再び投じた者は除族の上懲役2年の判決とした。除族とは 士族を平民におとす事である。裁判の結果懲役1年から10年までの判決を受けたものは 2,600余人で、これらの国事犯は判決後、直ちに長崎港より全国の監獄署に分散して護送さ れた。

明治 10 年 7 月

宮城県監獄署が新築

明治6年監獄則制定により近代行刑制度が開始され、宮城県でも新たなる監獄署の建設が 急がれたが、県の予算の関係で直ちに監獄署の建設ができず、明治10年にようやく旧仙台 藩牢屋の道路向かい(現在の放送大学)の敷地に、近代的な監獄署が建設され、同年7月に 県令以下幹部出席のもと竣工式が行われた。仙台日々新聞はその模様を次のように報道し ている。

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明治10年7月15日

宮城県監獄署落成式祝詞・・同日午前11時県令県幹部を引き連れて、監

獄署の事務室に臨む、各員座るのを見て県令立ち上がり祝詞を読み上げ終了後、監獄署を 代表して水野警部が祝詞を読み上げ、次に監獄署の医者、教員、講師等が次々に県令に挨拶 する。その後県令ほか参列者一同監獄署及び病舎、囚獄署(旧仙台藩牢屋)内に新設した工 芸署(囚人の作業場)を視察して事務所に戻る。午後1時より監獄署内の2階で参列者一同 酒肴を賜り、監獄署の構造の立派なことを語り合った。 仙台日々新聞 明治10年7月15日

宮城県令宮城時亮祝詞・・本県監獄署及び工芸場(作業場)完成したこ と宣言する。乃ち明治10年7月15日を以て、 監獄事務を新監獄署に於いて執り計らい、 工芸場を新たに設ける。監獄署とは国の法 律を犯し刑罰を科せられた者にして、過ち を改善に還らせしむ所なれば、監獄が厳粛 なるは過ちを改めるに切々ならしめ、工場 区域が作業を熱心に努め励むことは、将来

再び犯罪に手を染めることなく善人に帰る ことを望む。故に宮城県の監獄に勤務する 職員にこの意味を汲んで勤務に励んでもら 新築になった県監獄署配置図 いたい。 県令(県知事)の他に、宮城県監獄署副典獄水野重教、囚獄署長三浦親粛、教員若生精一 郎、更には終身懲役岩井某、懲役1年伊藤某等が祝詞を述べている。当時の監獄署の管轄は 県庁で職員は警察官で、監獄看守として勤務していた。 明治10年8月1日 監獄署の差し入れ屋・・差し入れ屋 佐藤屋は広瀬川沿いの高台の上にあった。道路を隔て てすぐ前は監獄署、斜め向かいは囚獄署(拘置所)。 建物の1階の一部は斜めにある囚獄署の未決囚を対 象とした差し入れ業者で、岩井という名の業者が場所 を借りて住んでいた。2階の2間の部屋は監獄署の囚人 に遠方より面会に来た家族が、宿泊する木賃宿兼下宿 屋に当てられていた。この佐藤屋の2階に中国の医学 生魯迅が後に下宿していたのである。

佐藤屋

明治10年8月27日 監獄署内の作業場・・明治6年の監獄則により島流しの刑が廃止になり 新たに監獄内で労役に付す懲役刑が導入された。新設した監獄署内にも作業場が設置され た。仙台日々新聞はその様子を次のように報道している。 当県監獄署作業場の主管警部水野、三浦の両名は一心不乱に公務に尽力され、囚人たち が放免後に、良民として社会復帰出来るように、それぞれの囚人に対して自立できるよう に、腕に技術を身に付けさせて再び悪の道に堕落しないようにと、監獄内に一大授産所を

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設け、各囚人たちがそれぞれの職種、櫛挽、筆結、灯篭張り、紙漉、竹細工、木工、金属 細工等各自の特性に応じて作業を課し、婦女子には裁縫、洗濯を課して、日夜監督奨励さ せて技術の向上を図った。 今般、内国勧業博覧会へも種々出品 したが、中でも金銀細工指物細工の如 きは頗る精巧極めて専業の職人も一歩 譲る程良好なり、然るにまた東京より 教師を雇入れて瓦焼きを試さんとした ところ、幸いにも県内に天然善良な泥 土ありとて忽ち堅牢耐久の良質の瓦を 製造するに至れり、扨瓦に市中売買の 品物よりもその材質頗る良好にして、 その価格も市中の品より5割ほど安く、 目下建設中の仙台高裁に於いても悉く皆この瓦を用いる事にな る。尚追々煉瓦も製造するとの事、漸次市街家屋建築の面目を一 宮城県監獄署作業場

新するにも至るべし、囚人達の我が良民社会に率先して斯の如く 工業進歩の効を奉するに至るかな。 余談・・当時の宮城県監獄署の囚人処遇は現在の刑務所の処遇と 遜色ないほど充実している。囚人の中には読み書きのできない者 が殆どであったので、獄内に勧善学校を設立して外部より講師を 招き、勉学に勤しませた。更には職業訓練を実施して、放免後獄内 で身につけた技術を以て生計を立て再び悪の道に入らないように 教育した。

明治10年

監獄署開設当時の囚徒給与規則

当時県監獄署に収容中の国事犯の中で脚気症による死亡者が相次いだが、監獄署の囚人 給与規則は次のとおりだった。 主食 囚人

白米七合

強役之者(重労働に従事する者)

未決

白米五合五勺 白米五合 白米四合

並役之者(普通の労働に従事する者) 軽役之者(経作業に従事する者) 男女共(未決は労働に従事せず)

副食は囚人、未決共、野菜、魚肉適宜、醤油、塩、お茶共代金1銭3厘であった。 全国の監獄署でも脚気患者は夥しく、死者も多かった。当時脚気は伝染病であるとい う説が有力であったので、岡山や栃木の監獄署などでは寺を借りて避病監とし、そこ に脚気患者を隔離して治療していた。

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明治 10 年 11 月 3 日

西南戦争国事犯の宮城県護送について

鹿児島県立図書館所蔵の「国事犯処刑懲役人配置人名簿」によると、宮城県には4回に 分けて305人が護送されて来ている。 長崎港より仙台までの護送経路・・西南戦争従軍の国事犯は、鹿児島から仙台までどのよ うな経路で護送されたのであろうか。この資料は中々見つけることが出来なかったが、東 京の某図書館から国事犯小牧久湊の日記(北謫)を発見。その中に官軍に投降、裁判博多 から佃島監獄そして、陸路宮城県監獄署までの護送が克明に記録されていた。政府軍に投 降し臨時裁判所で懲役の判決を受け、博多から仙台までの護送経路の足取りを追ってみ た。 宮崎県宮崎学校(臨時収容所)から長崎臨時裁判所へ護送 明治 10 年 10 月 15 日・・午後、国事犯全員監房より庭外に出され警部より、「明日長崎臨 時裁判所に移送になるので護送途中謹慎し監吏の指示に従って行動するように」との訓示が あった。同月 26 日夜中より護送の準備をなし、早朝国事犯一同整列し宮崎学校門内に至れ ば、そこには各地より集合した国事犯に笠や茣蓙(ごさ)を配布していた。 凡そ 200 余人、の国事犯の護送に、監吏・警部・巡査等 20 余名で明け方鳥の鳴く声とと もに宮崎を出発する。宮崎から大淀川を渡り中村町を通り清武町に至る。夜もふけて民家に 至り松火を乞い、これを力に山路を行き亥の時刻に飫肥の町に着く。宿屋の主人は懇篤にも てなし宵になると薬用なればと酒や煙草が許された。国事犯の護送にあったっては沿道の住 民からも差し入れが多く、宿泊した宿には地域の住民から国事犯に対して、果物、お菓子更 には禁制品のお酒、煙草なども差し入れされていた。 長崎港より東京に護送の様子 明治 10 年 11 月 3 日・・本日より東京に護送されるとのことにより、日も西に傾き頃に監 獄を立出て港の方に赴く。当地に在りし囚人も一緒なれば、凡そ 450 人にも及ぶ黄昏の頃、 皆々汽船に乗り込みぬ。夜半の頃に至れば碇を抜いて出艦せり。来るときと打ち変り風も激 しく浪荒たち海上頗る悪かりき。 同月 4、5 日両日は風雨殊更激しく猛浪天をひたしつつ、蒸気の動揺大かたならず人々一 粒の食も喉をとおらず、或いは吐却するものあり、又は転倒して苦声を発するもあり、目も 当てられないさまなり。いずれも背は折形の如く縄にかかり、腹這うさまはおかしくもあり 又あわれにも覚えたり。海路、日向灘より直行、四州の東を過ぎ遠州灘に向かう。戦争終結 して 2 ヶ月も経たないうちに、東京に 450 人が船で護送された。東京に護送された国事犯 の配置先は東北が主であり、その半分以上は宮城県への配置である。なれない船旅そして暴 風雨の中、船底で船酔に苦しむ国事犯の様子が記録されている。

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横浜から新橋までの護送 明治 10 年 11 月7日・・朝、相模なる横須賀沖に着 艦せり。爰にて、しばし船を留め医官数名、陸の方か ら小船にて乗来し患者の有無を検査せり。コレラの 予防のため検査終了後抜碇、直ちに横至りける。此処 でも医浜港へ官の検査前の如し。巳にして一同揚陸、 同地警察署にて昼食を給う。横浜は以前に打ち変り、 各国の軍艦・商船等木の葉を散らすが如く、ことに洋 横浜港 館の結構清楚愛すべく、且つ又遊園の樹木等其趣一 ならん。外路地も清潔を極め、殆ど驚かすばかりなり、午後 4 時同所より汽車に打乗り東京 へ出発す。汽車は聞くにも猶勝り瞬く間に新橋駅に到着せり。車の上にて同列の人、余に向 かって曰く「我生汽来いまだ斯の如き車に乗りし事などなし此処こそ、所謂地獄の火車にあ らざるを得ん」と余に対して曰く「此れ当る哉一笑々汽車を下りて列をなし、佃島監獄署へ 送られ東京の監獄官へ引き渡たされる。」 佃島(石川島)(監獄署に収容) しばらくするうち、夜ももはや更けぬれば、入監の混雑大かたならず。佃島監獄署は警護 も殊更厳重で獄吏、3 名監内に相詰め厠の前にも1人ずづ終夜立ちながら監守せり。獄内は 筵を敷き渡し、囚人 67 名に各蒲団一枚位を相渡された。諸事取締上より 3 食渡し方に至る 迄、規則向き能く整ふてのぞみへたりし。 明治 10 年 11 月 8 日・・各人身体検査あり。検査医官より銘々「道中は歩行し得るかどうか」 問われる。即「「何処までも歩行し能ふ」と答える。同日一同温浴(入浴)を許される。宮 崎以来満身に堆き程の垢を取り去り身体の軽きを覚えた。 そもそもここは九重の都東京の空、うららかに往来の人い繁く繁華の色をあらはせり。昔 この地に遊びしは、はや 10 年とせに近かりき。風意今は痕もなく、星も移りて物換わる。 そのことはりも斯くもあらん。おもい廻せば外ならん、我が骨肉の弟や姪もこの地にありけ れば、懐かしくこそ思えども咎の身なれば如何せん。 われ我が弟は、けふしも兄がこの島に囚われきたる旅衣、囚屋の中のいふせ 逢見ん事は 中々に、只一封の書信さへ叶ふべくこそあらざれば、咫尺も千里に異ならず。あきに物おも ふとは露知らず心つくしの故郷は如何なるべきとおもうらん。実に定めなき世の中はままな らぬこそ習いなれと、思い明らめ臥しぬれどいぶせきままに夜もすがらまどろむ暇もあらざ りし。 明治 10 年 11 月 9 日・・この度護送せられる国事犯 50 名位夫々人数を分けられて、日より 追々府県へ分送あり。いずれも北国(東北)にして路程も殊更遠遼なり。遠くは 200 里に過 ぎ(青森監獄署又近くは 100 里)福島監獄署を下らずともと聞こえたり。長き月日を重ねれ ば又逢うこともならざねば、満期の後は皆壮健にて立ち帰り目出度く再び相逢わんと互いに

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言い交わしつつ銘々ここにて分かれた。 佃島監獄署で国事犯に対し、それぞれの護送先を告知される。東北は青森、岩手、秋田、 山形、福島の 5 県は各 50 人前後、宮城だけが 305 人が 4 回に分けて護送される。国事犯の 中には戊辰戦争の際、勝者として東北に凱旋したものも多数おり、敗者がいかに惨めか肌で 感じているだけに、白河の関を超えたら生きては帰れないのではと多くの国事犯が思ってい た。 石川島監獄署〜千住(昼休)〜越ヶ谷(泊) 明治 10 年 11 月 10 日・・道中宿泊の際は必ず多勢 を一間に置かれ(一畳敷に 4 人の時あり)甚だ狭く、 殊に縄せられたまま寝に就く事にて痒きも掻くこと さえならざれば、虱は泰山の安きに居りその豊かな るを相賀して襟袖等にゾロゾロと這い回りたり。 監吏(看守)は椅子に腰掛け終夜枕元に相詰めて、 石川島監獄署 国事犯の出入りを厳しく警督せり、医官も夜回診し て病囚に投薬したり。三食は団飯の事あれど碗つきにてたまわる事多かりし、出発は東方未 明の時にして 12 里は星を載て行く程なり、又着宿も多くは夜に入る事のみなりき。 途上は2列にて歩行をなし、隊列の位置及び先後の順序頗る正しく、行装宛然兵隊の如く 前後左右を警護する監吏の状態は士官に似た。多勢一つに繋がれて鞭叱をうけながら行く姿 をよくよくみれば、兵隊の装ならで繋がれし牛馬の群れとも覚えた。 国事犯の通行は珍しく、宿駅を通るごとに老若男女傍観し舌吐き驚く者あり、顔低れて憐 れみ見るものあり。時として休泊の処に着せし折々宿の者万事心をそえ接待の厚き過ぎるに より、監吏の叱りを受ける者など往々之あり。今夜警部より、夫々故郷家内の者共心もとな く案じているであろうから、一先安心のために文遣わしたき者は一通の文のみ認書を認める ので、開封のまま差し出すこと、検査の上上官より郵送取り計らうべし。夕食の際牛肉をた まわる。皆懇切の志に感じそぞろに袖をぬらした。 小牧久湊の「北謫日記」・・国事犯小牧久湊が長崎から盛岡まで護送される様子を日記に 記録したものである。護送中の様子が克明に記録されていることから、護送職員も寛大な る処遇を行っていたことが伺える。国事犯は一般犯罪人とは違い、国を思っての戦いに従 軍して敗れたものであり、護送職員の中にも西南戦争に従軍した官軍兵士も多くいたこと であろう、政府の職員にとっても同情すべき点が多々あったであろう。 越谷〜杉戸(昼食)〜栗橋(泊) 明治 10 年 11 月 11 日・・この辺は郊野渺茫(町外れの野原で広く果てしない、樹木甚だ 少なし。田畷(田んぼ道)只樹を植列し、縛するに、横木を以ってして稲を挂るの便とな りせり。田皆沮洳(ぬかるみの土地)、或いは蓬(よむぎ)及び慈姑(水草)の類を植え

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ゆるものあり。垣籬(かきね)、往々植えるに極樹(最高の木)を以って整端観るべきあ り。 栗橋〜野木(昼食)〜小山(泊) 明治 10 年 11 月 12 日・・音に聞く刀水、乃、坂東太郎と唱える。川は三大大川の一ツに居 り、水烟淼々、眼世潤然望で窮らず。衰柳霜岸に遥れ、寒鴨枯荻に鳴き四願斎然人をして無 端の感を生ぜしめた。さればこそ古人がここを渉るとき、といひつべし。 「平生不瀧 カ 半 行涙偏 ニ 向 ニテ 刀根河 ニ 上多シ」と、読ぜしは先つ我が心を得たるもの。扨、 途中歩みに艱むものある事を憐まれ、特別の訳を以って、明日より当か 10 日間、壱拾人に 付き車壱輌つづたまわるよしを達せらる。且つ今夜より喫煙をも許されたれば、我々の如き、 煙草嗜は何よりうれしく、取り敢えず用いてり。今夜は郷へ書を認めて監守に託す。 (池田、 伊地知、田村、安藤 5 人連名也) 3 日目になると、国事犯と護送職員の間に親近感が出てきて、歩行に困難をきたす国事 犯に対して車輌(大八車か?)や喫煙を許可した。護送の警察官も国事犯と共に目的地ま で同行するわけであるから、昼夜行動を共にしていると互いに心の交流ができて、共に国 事犯、護送職員の壁を乗り越えて助け合いながら目的地まで歩行した。 小山〜石橋(昼休)〜宇都宮(泊) 明治 10 年 11 月 13 日・・宇都宮は、去る戊辰の役、賊大鳥圭介、城に投じて善戦し、官軍 と互いにこの地を争いて僵屍途に横り、鮮血川をなせしと。山川今に至る迄、猶惨愴の色帯 び、市街も衰退の色あらわにした。此街、その時戦塵を蒙りしは、只独りここのみならず。 二本松、本宮、小田川、根田、泉田及び、白川の諸々も又同じく戦地となりし由、道すがら 該処を行き過ぎる。折りしも、冬枯れし木々の木の葉の袖の上にはハラハラと落ちながら、 そこここに散り残りし、紅葉の見へけるは、猶血痕の残るかとも思われて、いと見る眼を傷 ましめ、梢に伝ふ小鳥の音さえ、幾度か旅魂を驚かし。 戊辰の役の傷跡が残る地域を通過する国事犯及び護送職員にとって、国事犯の逃走よりも、 戊辰の役の傷跡の残る村々の人々による、国事犯に対する報復が予想されるので、昼夜間に おける警備は厳重なものがあった。 宇都宮〜喜連川(昼休)〜作久山(泊) 明治 10 年 11 月 14 日・・今夏の大嵐は尤も暴列なりしとみえて、沿路樹を抜き、屋根を 破り、これが為道路の障害をなせしところ往々之有、今日打ち過ぎる那須野原は、喜連川 と佐久山の間にあり、乃下野、陸 名に聞きし殺生石は此処を距ること凡そ 3 里のあなた なる山麓にありて、今もなを数十歩の間は、草木をも生せずして、隅々人にの之に触れる 時は、悪気に感じて惣地に死するとて、これを還するに垣根を以てして人を近かざらしめ たり。

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国事犯の日記には、通過した土地の観光名所も記録している。護送中の筆記も認められて いたことを示すものであり、護送は一般犯罪者と違い国事犯と護送職員が一体となって、目 的地目指して歩いて行ったものと思われる。 作久山〜越堀(昼休)〜芦野(泊) 明治 10 年 11 月 15 日 ・見るめさへ淋しく暮れて松風の音も見にしむ那須野篠原 ・打向ふ雪の八重山吹きおろす嵐やさむき那須野篠原 国事犯が那須野を通る際に詠んだ句 奥の境たり。荒涼たる一郊堌にして極目十里、風景寥寞、過客覚えず凄愴の念を壊きぬ。 白河の関 国事犯達はどの様にして護送されていたのであろうか、 佃島監獄書を出発するときは 2 列に並び、全員縄で捕縛し て編笠を被り、顔を沿道の民衆に見られないようにして歩 いて服装は私服で、私物もかなり所持してきていたと思わ れるので、それらの私物は、馬の背なかに積むか、大八車 に積んで運んだものと思われる。護送も最初は厳しかった が、数日すると規則も緩んで縄での捕縛を止め、国事犯が 歩きやすいようにして、喫煙も自由であった。国事犯は所持金で通過する土地の名物なども 食べていた。犯罪者の護送というよりも、観光旅行の一団の様相を示していた。 芦野〜白河(昼食)〜矢吹(泊) 明治 10 年 11 月 16 日・・今日は、又朝よりかき陰り、野辺の枯れ草吹く風のさらても寒き 旅衣、雪となり又雨となり手足もシビレル程なりき。白河駅に至るころ、雪吹く風すざまし き、さても名におふ白河は、奥羽の道の一要所、昔、三関・勿來・安宅の一ツにして故ある 処なりければ形もそれと見へひける。思えばここは中々にいとも過ぎうき処なれ。 去る戊辰のその昔、殉難諸士の餘所ならぬ、従弟や又友だちのその遺骸を葬りし、あはれ 墳墓のあるところ、何処なるそと見廻せば、駅の中央の標木に墓地のしるしのあざやかに、 大文字に記したる。実にここか、と懐かしく、笠傾けて目早くも墓所のかたを打のぞみ、心 の中に物思う。我従弟よ、友達よ斯まで遠き陸奥の草葉の露と消にしも、昔、君の為、国の ため、後の世までも名を流すけなげにも又あわれ也。 そもそも世の常の旅ならば花の一枝も手向なほ、無き魂も嘸(さぞこそ嬉しからん、かか る身なれば如何にせん。福島の白河を通ると、戊辰の役で死亡した官軍の墓を見つける。国

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と為、友の為に殉職した、鹿児島の人々の墓に花の一枝でも手向けたいが、今国事犯として 東北に送られる身なれば、何もできないのが残念である。 矢吹〜郡山(昼食)〜本宮(泊) 明治 10 年 11 月 7 日・・郡山は国事犯にとってまた、護送職員にとても最も警戒の必要な 地域である。戊辰戦争最大の激戦地会津を控えており、沿道の人々の目も険しいものがある。 嘗ての官軍の勝者が国事犯となって、福島を通っているのである。 西南戦争には福島県から、多くの士族が志願して従軍している。沿道の人々の中には親族 を戦争で失った者も多くいたであろう。その恨みを晴らすべく護送途中の国事犯を襲う者も いるかもしれない。夜間などは特に警備を厳重にして、護送職員は一晩中警戒していただろ うし、国事犯達も何時襲われても対応できるように警戒しながら眠っただろう。 本宮〜二本松(昼休)〜福島(泊) 明治 10 年 11 月 18 日・・沿路、宿村学校ならざるはなし。門前必ず一大票木を建て、学区 番号等を大書せり。毎校必ず名称あり、或いは明倫舎・ 時習館・啓蒙学舎等の雅名をもちいた。 而してその内を窺えば、多くは旧寺院等を用い、生徒 亦甚多を見ず。教則の正否、生徒の進否は因より知らず、 只外見に付きて云うのみ 特に福島県下には頗る宏麗の 学校多し。 極めて平坦なるが中に、福島県境に入りては、殊更道 路橋梁の着手に汲々たるを覚ゆ。日本の翼北とも云うべ 二本松城 き処なれば、道中馬群、(上岡へ売る者)結鐸不絶。 福島〜白石(昼休)〜大河原(泊) 明治 10 年 11 月 19 日・・鳥となし(白鳥神社あり)て之を射ざるのみならず称呼敬を加 え、他鳥を以って之を視るに至る。故に能く人に馴れて、聊驚く色なし。扨て、追々北地 に入白石川筋には、白鳥とて(羽色、純白雁に似て大なり)数百千も打群れて、或いは芦 洲に休食り、水上に浮みて喧しく鳴渡れり、土人呼んで神るに随て諸鳥類甚少なく稀に烏 雀の類を見るのみ、盖し冬節雪深くして餌なきによるならん。只、宿駅店上雉子を拄くる 処は間々之あり。二本松辺より今日通過せし桑折などは、別而養蚕の盛なる処とみえて満 薗悉く桑を植え、培養向等余程注意せしものと覚えた。 大河原〜岩沼(昼休)〜仙台到着 明治 10 年 11 月 20 日・・広瀬川を渡る時心に沈みしまま 旅にして

渡るも床し広瀬川

我が故里の

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おなじ名なれば


仙台は流石大藩の跡なれば、人烟秱密街衛も宏潔にして此街道筋にては第一の繁華に地 とおもはるる。次は指を宇都宮、福島白河に屈す。余は認めるに足らず。 宏先生、詩あり 「未 到仙台

半日程

青松夾

路々平々」東方第一

旧藩國

風景依稀

帝京」

11 月 3 日長崎港から船で一路横須賀へ、同月 7 日横須賀着、同 10 日東京発 11 月 20 日 仙台着、10 日間かけて 360 キロを走破した。途中で脱落した国事犯はいなかったのであろ うか、残念ながら記録は残っていない。 護送中の国事犯に対する暴言・・去る5月6日東京より国事犯を護送して片平丁の監獄署に 着いたが、この日名取の増田付近を通過中、同所在住の南都長之助なる者が護送中の国事 犯に暴言を吐き、更に制止する巡査にまで悪口を云ったので、監獄署から出迎えに来てい た職員に取り押さえられ、警察に引き渡された。警察署では本人を厳しく説諭して放免し た。全く困った馬鹿者である。 明治11年5月13日(仙台日々新聞)

第1回護送の分(仙台日々新聞の国事犯報道) 「かねて当県へお預けになると聞き居たる鹿児島犯罪人51人は、近日中に着県になるよ し、その筋に電報ありし」とあり、更に同11月2日の雑報欄に、埼玉県でコレラにかかりし もの2人あるよしと報じ、また11月3日51名着県、すぐさま県監獄入りとも報じている。 そ して、本県の三浦八等警部が医員1人とともに越河まで検査のために出張したこと、護送に 当たったのは、矢口三等少警部ほか3人の巡査とも報じている。 明治10年11月3日 長崎県より護送・・同月10日東京発〜明治10年11月20日仙台着51人。 懲役3年 鹿児島県 野田郷下名村士族 片野坂 弥右衛門 同 〃 高隈郷上高隈村士族 藤田 熊助 同 〃 百引郷士族 鶴田 喜市 同 〃 大隅国姶良郡蒲生郷麓村 松田 正之丞 同 〃 〃 瀬之口 才蔵 同 〃 荻野村士族 谷村 助七 懲役2年 同 同 同 同 同 懲役2年 同 同

鹿児島県 薩摩国日置郡群山郷群山村士族 木場 須賀人 〃 〃 永田 善之進 〃 〃 群山 伊平太 〃 〃 群山 弥一郎 〃 薩摩国泉今郷士族 伊集院 兼雄 〃 〃 池田 金左衛門 鹿児島県 薩摩国泉今郷士族 塚田 仙蔵 〃 〃 黒江 吉之丞 〃 〃 大窪 新左衛門

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懲役2年 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 懲役2年 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 懲役1年 同 同 同 同 同 同

鹿児島県

薩摩国泉今郷士族

神宮司 市郎次

〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃

〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 薩摩国今泉郷 大隅国蒲生郷北村

秋山 幸吉 山之内 源平 詫摩 英蔵(16歳) 成尾 一二 桑原 彦次 肥後 百一 辺見 曾八 粟野 雄八 荒牧 郷十郎 満尾 仲右衛門

〃 〃 〃 鹿児島県

同 麓村 今泉郷岩元村 新面方村 岩元村

谷川 有馬 坂口 四本

十蔵 信助 平吉 八平

永田 岡部 別府 山村 鳥山

金兵衛 輿助 栄輔 隼次 平之助

永吉 山口 萩田 日高 書川 吉元 川﨑 山口 射越 鶴丸

紋兵衛 市四郎 銀一郎 祐吉 次郎 浅右衛門 輿兵衛 仁之助 金太郎 量衛

〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 鹿児島県 〃 〃 〃 〃 〃 〃

〃 〃 〃 〃 〃 〃 日置郡日置郷 〃 〃 〃 〃 〃 〃 永利郷吉利村 〃 〃 清水郷弟子丸村 〃 日向国志布志郷帖村 出水郷麓 野田合麓

奈良迫 卯之助(平民) 木佐 木平 万膳 正蔵 海老原 盛平 愛甲 七郎右衛門 田代 修一郎 合計51名

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明治10年12月13日

国事犯の護送第2回分

明治11年1月8日の紙上で86人着県、うち鹿児島士族84人、熊本士族2人で中にはもと大書 記官(椎原国幹・鹿児島県知事を補佐する役職)を勤めたものもいると報じている。 熊本士族は懲役5年の有馬源内(熊本協同隊半隊長)と、同3年の中根正胤(協同隊連絡係) の2人で、有馬は百石取りの旧熊本藩士、中根は二百石取りの旧藩士である。共に西郷軍に 呼応して立ち上がった熊本協同隊の幹部である。 (下記名簿では83名) 懲役3年 懲役5年

鹿児島県 〃

志布志郷帖村 滑川通

懲役5年

鹿児島県

西田鷹司馬場

同 懲役3年 同 同 同

〃 鹿児島県 〃 〃 〃

下荒田村天保山 高山郷新富村 吉田郷麓

永山 盛香 鵜木 五左衛門 (明治12年10月8日宮城集治監に移監) 池田 兼長 土岐 丑之助 (明治11年9月10日監獄署内で死亡・25歳) 柏原 勇之進 谷口 政範

冷水 串木野郷上名村

中村 郷兵衛 池田 正義 (明治12年10月8日宮城集治監に移監 ) 薩摩国市来郷 梶原村 右衛門 下谷山郷山田村 中馬 秀普 (放免後北海道に移住・雄勝の硯を所持していた)

懲役3年 同

鹿児島県 〃

懲役3年 同 同 同 懲役2年 同 同 同 同

鹿児島県 〃 〃 〃 鹿児島県 〃 〃 〃 〃

冷水 上平ノ馬場 伊敷村曽牟田他ノ平上通 薩摩国谷山郷川口村 田布施郷大野村 今泉郷岩元村 谷山郷下ノ馬場平民 鹿児島平之馬場 同所上内ノ丸

内山 川北 本田 山口 床次 逸見 椎野 谷元 赤塚

仲七郎 陽孝 尚方 吉左衛門 利左衛門 甲之助 喜三太 延清 源左衛門

同 同 懲役2年 同 同 同 同 同 同

〃 〃 鹿児島県 〃 〃 〃 〃 〃 〃

日置郡日置郷 高山郷前田村 吉野村実方 坂本村実方 下園牟田村 加世田郷内山田村 福昌寺門前池の上 薩摩国指宿郷東方村 坂本村冷水

山口 児玉 塚田 松岡 富山 石塚 市来 永池 吉留

松次 実明 十右衛門 岩次郎 吉彦 金助 政平 吉之進 真賢

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懲役2年

鹿児島県

元乗馬場居住

宮地 貞明

同 同 同 同 同 同 同 懲役3年 懲役2年 同

〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃

日置郡日置村 襲山郷西郷村 鹿児島内ノ丸 同西ノ谷 日置郡市来郷 鹿児島内ノ丸 襲山郷村 高尾野郷栄引村 加世田郷津貫村 大崎郷永吉村

西方 為兵衛 最勝寺 半次郎 椎原 国幹(西郷隆盛の伯父) 海老原 正兵衛 高崎 親良 飯牟禮 吉兵衛 最勝寺 清一郎 土屋 宗太郎 成田 宗淳 鮫島 善之丞

同 同 懲役1年 同

〃 〃 〃 〃

吉郷麓 太良郷旧本城居住 吉利郷吉利村 栗野郷水

大寺 伊右衛門 前田 慶左衛門 大山 真次治 瀬戸口 慶次郎

永吉郷 第一大区七小区八 肥後国上益城郡土山 永吉郷麓 高山郷前田村

肱岡 有馬 中根 横山 渡邊

同 懲役5年 懲役3年 懲役2年 懲役1年

〃 熊本県 〃 鹿児島県 〃

同 同 同 懲役1年 同 同 同 同 同 同

〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃

紙ヶ谷 上の原 志島転住村 栗野郷木場村 同 加世田川畑村 同郷麓 市来郷 鹿児島城ヶ谷 永利郷山田村

伊地知 謙介 黒田 清定 中馬 才助 池田 兼為 本山 省強 永田 林左衛門 尾辻 佐八 永井 四郎 樺山 喜平治 柳田 源八

同 同 同 同 同 同 同 同 懲役1年

〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃

國分郷麓 鹿児島上冷水 上伊敷村 鹿児島冷水 下荒田村 同所冷水 踊郷麓 日置郡一来郷 湊村

宮原 元右衛門 土師 盛 種子島 廉四郎 柳田 彦兵衛 川上 弥之助 山口 新吉 種子田 太八 石神 音助 和田 應介

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勘左衛門 源内(熊本協同隊長) 正胤(熊本協同隊) 矢次郎 伴助


懲役1年 同 同 懲役1年 同 同 懲役3年 懲役2年 同 同

鹿児島県 〃 〃 鹿児島県 〃 〃 〃 〃 〃 〃

噌於郡襲山麓 串木野郷 南方郷坊村 坂本 佐多郷 大姶良郷姶良村 新屋敷 志布志郷帖村 永吉郷麓 同

荒田 彦七 福島 武二 永井 弥藤太 (明治11年11月20日監獄内で病死・48歳) 早川 兼知 橋元 甚助 北方 盛二 酒匂 景継 福山 吉連 宇田 津之助 有馬 龍左衛門

同 同 同 同

〃 〃 〃 〃

同 指宿郷 頴娃郷石垣浦 同

和田 六郎兵衛 山名 亀治郎 西牟田 勝太 有馬 純治

同 同

〃 〃

同 永利郷山田村

井上 治右衛門 上村 勘之丞

合計83名

椎原国幹の娘川村春子・・西南戦争で敗れ、国事犯として宮城県に配置された鹿児島県人 の1人が椎原国幹(西郷隆盛の伯父)である。獄中で病死した鹿 児島県人七人の墓が、仙台市の瑞鳳寺につくられた。椎原は放免 され帰郷の際に、寺に供養料を寄贈、その記録を刻んだ碑が墓の 横に立っている。椎原の娘は、政府軍の重臣だった川村純義海軍 大臣に嫁いだ春子だった。 春子は明治天皇の命令で昭和天皇の養育係りを務めた。将来天 皇になる人物に対して、決してわがままを許さなかったという。 国事犯の娘として世間から冷たい目で見られたが、重責を努め上 げた。「さすが薩摩おごじょ(お嬢さん)の鑑」と柴さんは評す る。春子の孫が白洲正子で、その夫が東北電力初代会長を務めた 鹿児島県人の墓の脇ある椎原の顕彰碑 白洲次郎である。

明治11年2月4日

国事犯の護送第3回分

第3回については、当時の新聞が欠けているので見られないが、監獄署の水野典獄の日記 によれば、到著近しとのことで2月23日白石まで迎えかたがた打ち合わせのために出張した が、福島以南の道路が悪いため遅延とのことで、一旦帰署、2月28日大雪の日正午に、85人 の国事犯が警視庁巡査前島らに護送されて到着した。途中落伍者があったことと思われる。 (下記名簿では91名) 懲役5年 鹿児島県 高簾町上之園 久永 喜兵衛 同 〃 上連橋通 伊藤 應助

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懲役5年

鹿児島県

懲役5年

鹿児島県

懲役5年 懲役3年

鹿児島県 〃

懲役3年 同 同 同

鹿児島県 〃 〃 〃

同 同 懲役3年

〃 〃 鹿児島県

懲役3年 同

鹿児島県 〃

懲役3年

鹿児島県

同 同 同 同 同 懲役2年 同 同 同 懲役2年 同 同 懲役2年 同 同 同 同 同

〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 鹿児島県 〃 〃 鹿児島県 〃 〃 〃 〃 〃

高麗町

石原 近秀

(雄勝で火災の際消火に尽力した功績で減刑になる) 上荒田 稲田 新平 (伊藤・石原・稲田・明治12年10月8日宮城集治監に移監) 後口迫 宮之原 良明 中村 齋藤 八郎 (明治11年5月以前に監獄署内で死亡・遺族引き取る) 草牟田 岩元 弘平 上ノ園 町田 実堅 塩屋村 田実 胤重 谷山郷上福本村 平山 小左右衛門 市来郷 上村 友右衛門 谷山郷下ノ馬場 山下 静吾 (明治11年5月以前に監獄署内で死亡・遺族引き取る) 後口迫 伊知地 李脩 (明治11年5月以前に監獄署内で死亡・遺族引き取る) 同所吉野中別府 伊地知 啓吉 同所伊堅ノ馬場 川上 赴二 (明治11年5月以前に監獄署内で死亡・遺族引き取る) 同所伊敷村 芦谷 八太郎 同所草牟田 竹内 清一郎 同所萩野村 吉田 精 頴娃郷別府 有馬 八五郎 鹿児島後迫村 松山 善左衛門 伊敷村草牟田 志和屋 良彦 鹿児島馬乗馬場 大野 清満 同所元村 永田 嘉市 西田村薬師馬場 中原 尚政 喜入郷 丸岡 助次郎 (監獄署傍の軍用地で人命救助した功績で減刑になる) 谷山郷上福本村 下伊敷村 草牟田 吉野村中ノ町 喜入郷上村 冷水 沖ノ村 川邊郷野崎 上ノ園居住

榎 並兼起 伊集院 兼一 竹下 勘兵衛 鎌田 政 志々目 真幸 寺師 休五郎 平瀬 宗五郎 金田 金次郎 蒲田 政敏

23


懲役2年 同 同 同 同 懲役2年 同 懲役2年 同 同 同 同 同 同

鹿児島県 〃 〃 〃 〃 鹿児島県 〃 鹿児島県 〃 〃 〃 〃 〃 〃

下伊敷村

寺師 権右衛門

同 成尾 常彦 上一ツ橋脇 美代 清吉 同 濱田 兼長 加治木郷 上村 嘉左衛門 (明治11年5月以前に監獄署内で死亡・遺族引き取る) 下伊敷村 弟子丸 慎次 柿本寺通 伊集院 兼丈 第三区 宇都 宇右衛門 草牟田 松井 十郎 上伊敷村 野崎 半兵衛 松原通 飯野郷 日向国小林郷 高崎郷大牟田村

重久 佐平太 大河平 隆行 横山 通春 岩崎 伊兵衛

同 同 同 同 懲役1年

〃 〃 〃 〃 鹿児島県

高江郷久見﨑村 下川邊郷宮村 鹿児島阪本村 谷山郷山田村 日向国延岡大野村

中村 高良 鎌田 榎並 貴島

周兵衛 友益 龍次郎 新五郎左衛門 良蔵

同 同 同 懲役1年 同 同 同 同 同 同

〃 〃 〃 鹿児島県 〃 〃 〃 〃 〃 〃

鹿児島中村 東郷斧ノ淵村 鹿児島上水坂本村 日向国諸県郡大井手村 吉野村 草牟田居住 喜入郷上村 鹿児島鑓鞘冬 伊敷村 谷山郷上福本村

木原 壯ノ丞 東郷 恕兵衛 吉村 貞寛 佐多浦 三省 三島 金之助 松崎 蔵右衛門 勝目 新太郎 児玉 七之丞 川上 郷之丞 山下 金助

同 懲役1年 同 同 同 同 同

〃 鹿児島県 〃 〃 〃 〃 〃

鹿児島上荒田村 谷山郷上福元村 鹿児島草牟田 下谷山郷 重富郷橋山馬場 鹿児島城ヶ谷 柿本寺通

懲役1年

鹿児島県

鹿児島同所

加世田 工 平井 政挙 面高 源之丞 山下 弥七郎 有馬 菊治 脇田 寛 大山 新助(誠之助) (官軍陸軍大将大山巌の弟) 藤井 清茂 24


懲役1年

鹿児島県

高江郷高江村

懲役3年 熊本県 同 鹿児島県 同 〃 同 〃

肥後国京町 県城ヶ谷 谷山郷麓 下指宿郷

懲役3年 同 同 同 同

鹿島西ノ谷 阪本村 庄内郷山田村 飯野郷大河平村 都城東方

同 同 同

鹿児島県 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃

懲役3年 鹿児島県 懲役1年 〃 同 〃 同 〃 同 鹿児島県 同 同

〃 〃

隈ノ城郷東牛村 高江郷久見﨑村 日向国小林郷

鮫島 仲二 安藤 維(熊本協同隊) 坂本 平八郎 園田 弥右衛門 寺田 泰介 (明治12年2月11日監獄署内で病死) 徳永 正八郎 鎌田 央吉 皿良 彦四郎 奥松 新之丞 山田 早苗 尾上 正右衛門 ニノ方 八十次 有馬 義定 (明治11年10月14日監獄内で病死)

日向国小林郷 同 同 同 西田村

掘 勝 永野 祐喜 山口 栄喜 鳥丸 栄太郎 帖佐 正之進

韃靼冬 高崎郷前田村

桐原 喜右衛門 黒木 東朔

合計91名

大山巖の弟誠之助・・大山某氏からの手紙、「私の聞いている処では誠之助 は戦場で負傷して官軍に捕まった際に、小隊長大山誠之助とは名乗らず新助 と名乗ったそうです。本人にすれば官軍の大山巌少将の実弟だと思われたく なかった為だったのだそうですが、賊軍の仲間からは刑を軽くするために改 名したと思われ、後々まで国事犯仲間に嫌われたそうです。放免後は生涯就 職もせず主に息子の大山慶吉(陸軍士官学校出身の将校)に扶養されたよう 大山 巖 です。弓矢の矢を造る特技の持ち主でしたが、余り仕事もせず焼酎ばかり飲んでいたとのこ とでした。誠之助の夫人菊子は、奄美大島時代の西郷隆盛の庶子で本人自身西郷と従兄弟で すので近親結婚になります。尚、大山巌は西郷隆盛と従兄弟関係になります。親代り師匠の 西郷の首実検が辛かったようで、生涯再び故郷には帰らず墓地も本籍も鹿児島にはありませ ん。

明治11年5月6日

国事犯の護送第4回分

「仙台日々新聞」によると、89人ほどが、4月28日東京発、5月6日片平丁の監獄署につ いたと報じている。鹿児島県図書館蔵の「配置人名簿」に比して人数も多く、おそらく誤 記であろう。 (下記名簿では80名)

25


懲役5年 同

鹿児島県 〃

懲役5年

鹿児島県

懲役5年

鹿児島県

懲役3年 同

鹿児島県 〃

懲役3年

鹿児島県

鹿児島新屋敷

左近 允澄明

元村

森本 休五郎 (明治14年7月29日・宮城集治監より最後に放免) 荒田村 東郷 七兵衛 (明治12年10月8日宮城集治監に移監) 鹿児島舷手内塩谷村 仁禮 兼氏 (明治12年10月8日宮城集治監に移監) 草牟田 長谷場 喜蔵 西田村後馬場 谷山 甚助 (明治12年10月8日宮城集治監に移監) 家鴨馬場池ノ上小路 児玉 実得 (明治12年10月8日宮城集治監に移監) 市来 弘 新穂 利秀 (明治12年10月8日宮城集治監に移監)

懲役3年 同

鹿児島県 〃

後迫 荻野小路

懲役3年 同

鹿児島県 〃

上園 西田村

懲役3年

鹿児島県

西田村

懲役3年 同 同 同 同 同 同 同 同 同

鹿児島県 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃

上田野浦 日向国緒方郡綾郷北俣村 後迫 榎小路 鹿児島荒田村 西田村 小根占川北村 荒田村 中福良 冷水

桐野 今吉 西田 薬丸 肥後 松崎 下村 伊木 池田 草野

源七郎 善右衛門 郷之丞 兼文 隆之助 貞徳 重賢 七之助 熊明 藤助

同 同 同 同 同 懲役2年 同 同 同

〃 〃 〃 〃 〃 鹿児島県 〃 〃 〃

坂本村上野原新道 常磐 新屋敷 高麗 山の口郷山口村 荒田村 鶴江﨑 出水郷武本村ノ内字小原 田上村

市来 高柳 伊勢 久留 池江 大山 上野 前田 和田

政大 市二 芳治 十郎 矩倫 精一 忠兵衛 寿左衛門 真義

石見 半兵衛 加藤 景道 (明治12年10月8日宮城集治監に移監) 緒方 惟次 (明治12年10月8日宮城集治監に移監)

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懲役2年

鹿児島県

帖佐郷鍋倉村

米良 佐平太 (明治12年2月9日監獄署内で死亡) 稻留 謙次郎 中山 甚蔵 﨑元 盛介 河野 龍蔵 山崎 隆雄 植村 荘七 三原 経寿 橋口 仲次郎 (明治11年4月11日監獄署内で死亡)

懲役2年 同 同 同 懲役2年 同 同 同

鹿児島県 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃

永吉郷 坂本村冷水 冷水 荒田村 上の園 坂本村 同 高城郷湯田

懲役2年 同 同 同

鹿児島県 〃 〃 〃

敷根郷麓村 西田町平民 天神馬場平民 西田町平民

前原 坂本 篠原 田中

谷山郷 岩川郷久木野村 武村 高麗町 田上村

吉利 一熊 牧野瀬 良清 永田 武雄 相良 角兵衛 有馬 純俊

同 同 同 同 同

〃 〃 〃 〃 〃

懲役2年 同 同 同 同 同 同 同 同

鹿児島県 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃

西田村 山ノ口馬 坂本村上ノ京 伊敷村 上ノ園武村 西田村 荒田村 草牟田 武村

同 同 同 同 同 同 懲役2年 同 同

〃 〃 〃 〃 〃 〃 鹿児島県 〃 〃

草牟田 下谷山郷上福本村 武村 城ヶ谷 坂本村 西ノ外府村 中村 鶴江﨑 西田村

胤二 政右衛門 武次郎 勇八

(明治11年9月26日監獄署内で病死) 小幡 佳次郎 村田 経義(村田新八の次男) 馬場 彦二 松山 一助 野間 勝 平山 武一 川西 勝 東郷 辰二 淵村 利直 宇宿 行吉 橋口 安治 廻 政正 指宿 良徳 上原 七之助 獅子野 喜太郎 有川 平之進 江尻 祐徳 和田 助秋

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懲役2年

鹿児島県

新屋敷

榎田 玉喜

同 同 同 同 同 同 同 同 同 懲役5年

〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 鹿児島県

小野村西谷 新屋敷 荒田村 谷山郷 後迫 士族 下田布施郷尾下村 坂本村字上戸柱脇 内ノ丸 旧大乗院門前

寺師 清蔵 伊地知 貢 山下 美兼 榎並 甚左衛門 中村 兼業 平原 景美 鎌田 政法 吉利 節 児玉 利純 伊東 七左衛門

懲役3年 同

鹿児島県 〃

西田村 肥後国訖摩郡健郡村

森 啓蔵 吉田 壮太郎

合計

1回目51名、2回目83名、3回目91名、4回目80名、 合計

80人 305名

「仙台日々新聞」によると、89人ほどが、4月28日東京発、 5月6日片平丁の監獄署に着いたと報じている。鹿児島県図書 館蔵の「配置人名簿」に比して人数も多く、おそらく誤記で あろう。鹿児島県西南戦争資料の「国事犯処刑懲役人配置人 名簿」によれば宮城県には4回に分けて305人が送られてきて いるが、果たして名簿に記載されているとおりに送られてき ているのか検証してみると次のことが分った。 宮城県監獄署に配置された国事犯が、戦地での事情景況に ついて提出した「西南役懲役人筆記」と前記の「配置人名簿」 を対比すると、「配置人名簿」に載っていて「筆記」にない 国事犯護送名簿 もの9人、その逆で「筆記」にあって「人名簿」にないも3人、 差し引き6人を左記の「人名簿」から引けば299人となり、印刷された「懲役筆記」と合致 する。(80ページ参照) 明治10年11月2日

国事犯の護送・・九州国事犯の輩にて当県へ護送なるがいよいよ両3日

に着県になるとの事、該当人数中埼玉県でコレラに罹り2名死亡のこと、検査のため本県よ り三浦警部、医員と共に一昨日越河に出張されました。 仙台日々新聞 明治10年11月5日 国事犯着・・兼ねて噂せり九州国事犯の51名は一昨3日に着県、直ちに 監獄署に収容された。その護送には矢口警部外巡査3名が警備に当たった。 仙台日々新聞 明治10年11月30日 国事犯護送の照会・・西南戦争の国事犯で懲役刑の判決があった者100 名を当県に護送する旨の連絡が県庁に届いた。

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明治11年1月8日・・西南の役国事犯処刑済みの輩今回当県に護送になる人員は99名、内86 名が着県なり、鹿児島士族84名熊本士族2名中には元大書記官を勤めた輩も居たと言う。 仙台日々新聞

明治11年1月15日

配置囚の人々

「仙台日々新聞」の記事によると、宮城県に配置された国事犯の獄中での生活の様子を次 のように報道している。国事犯は思いのほか温和であり監獄署内の勧善学舎(読み書きの出 来ない人が署内で勉強するところ)に入学した者が15人もあり、中には無点の(返り点の、 送り仮名のつかない)唐宗八大家文集などスラスラと読める者が8、9人もいた。また先日 岩手県五等属鈴木君が監獄視察に来たとき、椎原国幹に、梅枝の図を描かせて、報酬として 金50銭を贈ったという。更に監獄署内で書画の寄せ書きをしたが、それが、中々立派であっ たと記し、同月18日と22日の同新聞紙上で紹介している。 椎原 国幹(大小荷駄)の歌 梅が枝にさわたる風も静まりて 今朝あらたまる初春の空 土師 盛(分隊長)の歌 新年の年立ち空にあしたづも いはひ初めけり萬代のはる 谷 元延清(大小荷駄) 初春を祝う門辺の松が枝に 積もるうれし今朝の白雪

西郷隆盛の伯父椎原国幹の墨絵

赤塚 源太左衛門(大小荷駄心得)の漢詩 静波養々遍春池 四海風温雪解時 端気浮雲山色隠 有馬 源内(熊本人)の漢詩 残雪未融広水洪 黄鳥出谷一声新 誰知十歳浮雲客

挙家揮筆字新詞 風月姻霞又遇春

獄中に咲いた風流の花である。 勧善学舎・・学校の勧善の趣旨に背かず、書籍の多くは修身に係るものが多く、教育時間は 毎夜午後6時から同8時までで、講義内容は読み書き及び勧善訓豪(修身)なり、監獄署の 開閉時間は午前7時から午後5時まで(囚人作業時間)、不便を感じるのは政治上の書籍が 備え付けていないということである。 (監獄署内に設置された学校の様子を仙台日々新聞が上記のように報じている。)

明治11年1月23日

減刑の公判記録

宮城県磐城国亘理軍小山村出生無籍終身懲役阿部某 。その方儀窃盗の科により懲役終身 を申し付け候のところ、本月県下広瀬川に於いて、外役作業中同所三文渡(御霊屋橋)より 童子2名が水中に転落して急流に流されているのを認め救助する段奇特の義に付き特典を 以て本罪を一等減じて懲役10年に減刑する。 仙台日々新聞

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明治11年1月25日

国事犯の開墾協議会

「郵便報知新聞」は次のように報じている「ある日、同犯一統内 寄り協議したき事のありとて獄吏の立ち会いを請けて、暫く服役 を解き其の請をゆるされ、有馬源内ハ議長ともいふ可き気取りに てキュウゼンを撚り、さて言う様、吾輩既に方向を誤り天兵に抗 し、大逆無道万死も亦余りあるに図らずも、慈仁の特典を被り、首 領を全ふするに得たるからバ、如何様にも努力して此天恩に報い 悔悟の実効を奏す可きハ勿論なり、聞く、当地方は広漠の野多し と、寧ろ開墾を一手に引受不毛の地を以て良田好圃となし、万一に 酬いひ奉らむと欲す、諸君異議なきや、如何と述べけるに80余名の 一般囚人の外役作業 国事犯は一同に、承知と答えた有馬再び声を張り上げ、諸君既に同意の上は誓て中止なす 可らずと、其の言葉未だ終わらずに異口同音に快く受けて、中止せずと答えたる様、実に衆 心一体、岩をも徹す勢いにて・・・・」。

明治 11 年1月 28 日

国事犯の宮城県開発

「仙台日々新聞」紙上には、国事犯の代表から、県内の不毛の地を開墾して朝恩に報い たいと、次の嘆願書を提出したと報じている。 開墾奉願書 懲役御処刑、当御県へ御送付相成り、寛大至心の御趣旨、誠に以て有難く感佩奉り候、即 今それぞれ事業御授与、或は元手染めたる者は御許可の末、日々就役罷在候処、到著後日浅 く未だその実効を奉するに能はず、恐懼千萬に御座候。然るに当御県下の如きは、広々たる 原野許多開け罷在候、就いては何卒一同不毛の地開墾仰せ付けられ、挙って奮励努力し永 く有用の地に至らしめ、以て実効を表したく、右懲役の身を以てみだりに願上候儀、実に恐 縮の至りに候得共、朝恩の万分の一に報酬奉りたる。 赤心より、多罪を願みず、此段嘆願奉り候也明治11年1月 熊本県懲役人 有馬源内 鹿児島県懲役人 総代 酒匂 景継 谷元 延清 谷村 助七 別府 英助 飯牟礼 吉兵衛 椎原 国幹 宮城県監獄御役所 この嘆願書については、当時監獄掛警部水野重教の日記にも見えないが、恐らく水野等 は喜んでその意を受け入れ、或は雄勝の石版製作硯石掘出作業や、野蒜築港工事、又は道路 工事などの使役に出すことにしたと思われる。 ここでも、有馬や椎原等の人物が偲ばれる。有馬は熊本協同隊の幹部で、明治4年には同 隊長平川惟一らと伏見兵学寮に学んだだけはある。 30


明治11年4月1日・・宮城県監獄署の在監者数、未決79名、既決418名、禁獄10名、既決女8 名、懲役監24名、合計539名。 明治11年4月18日・・監獄署内の様子 ある人の話に、友人が賭博で捕まり監獄署に入れられたが、この男社会では何の技術を 持っていなかったので、獄内では土方作業でもやらされて居たのだと思っていたら、放免 後、櫛引の技術を覚えて帰ってきた。今では櫛引で生計を経てているそうだが、懲役に行っ てかえって仕合わせになったという話を聞いたので、監獄署内でどのような処遇を行って いるのか、署内を取材してきました。 囚人達は朝早くより道路向かいにある囚獄署構内に設けられている作業場に出役して、 灯篭を張るものあれば筆を造る者あるいは紙を漉す者刺物細工、瓦焼き、鍛冶職更に櫛を 引く者等様々な業種に従事させてそれぞれ手間賃を渡している。囚人の中には職芸のない 者に対して、好む仕事を教えて放免後に飯が食えるようにしてくれるのですから、中々の 世話ではありません。この他監獄署内にある養鶏所から上がる利益金にて学校を設けて囚 人に読書、算盤、手習い等を教示される故、狡猾な奴は悪いことをして懲役になり学問をし て、仕事を覚えたりする横着者が出来るかもしれません。嘘だと思うなら皆さん願って一 度見ておくが宜しいかと思います。(おや、飛んだ失礼なことまで書きました。) 仙台日々新聞 余談・・当時の仙台日々新聞記者が監獄署内を取材した様子を書いたものであるが、非常に 囚人に対する処遇が先進的で再犯を防止するために、職業指導や一般教養の教育など現代 の刑務所にも通じる処遇を行っていたことが解る。 明治11年4月24日 瓦職人の護送・・この度当県に新たに中央監獄(宮城集治監)を建設 するにあたり、東京警視庁監獄署より囚徒の中から瓦製造の技術を取得した者11名を監獄 署に護送して瓦製作に当たらせる事になった。 仙台日々新聞 余談・・当時宮城県では明治新政府の方針で旧若林城址に中央監獄(宮城集治監)の建設が 進められていた。政府は集治監の建設にあたり少しでも予算を少なくするために、監獄署の 囚人を使役させることとし、集治監の瓦製作は東京警視庁の監獄から、瓦製作の技術を習得 した囚人を監獄署に護送し製作に当たらせた。 その際に監獄署では将来の煉瓦外塀の建築に備えて、東京の監獄署で囚人たちに煉瓦製造 技術を指導している。東京舟形村の煉瓦職人植木留吉を監獄署の授業師として招き、瓦製造 をしながら県内の煉瓦製造に適した陶土を探し、名取郡根岸村の陶土を使い本件最初の煉瓦 製造に成功した。 明治11年5月 監獄署の増築・・西南戦争終結後監獄署では多数の国事犯を収容することに なり、そのための予算を内務省に上申して国事犯満期まで、職員16名採用、獄舎2棟新築職 員待機所一ヶ所、炊事場は亀ヶ岡の武家屋敷の古材をもって増築する。

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当初の国事犯の見積もりは150名の予定であったが、その後305名に増員され当初の計画 では国事犯を収容する施設が不足してしまい、水野副典獄は3回目以降に配置されてきた国 事犯を監獄署周辺にある空き家になっている武家屋敷を修理して国事犯を収容した。 明治11年5月1日・・大河原に宮城県監獄署支署が設置された。 明治11年5月4日・・囚徒逃走終身懲役山田某と懲役10年阿部某の2名は、予てより申し合 わせて当監獄署より近くの山に薪取りに行く際に逃走した。今頃は既に取り押さえられて いるだろう。(当時獄外の作業につく場合は2名連鎖で拘束されていた。)

明治 11 年 5 月 6 日

草野藤助の日記

平成2年10月、鹿児島県垂水市上松に住む草野さんから、下記の手紙をいただきました。 祖父の草野藤助は西南戦争に従軍しましたが、久木野の戦いで右胸に銃弾を浴びて負傷し、 その後傷病兵として薩軍の後から都城迄付いて行き、本隊は血路を開いて鹿児島まで帰った が、草野はその場で官軍に投降して島の浦に留置されました。城山陥落5日前に長崎から裁 判官が来て取り調べを受けて、自宅謹慎を命じられた。自宅で銃槍治療中に呼び出しがあり、 戦争に従軍した仲間と共に長崎の監獄に送られたと記録された日記が残っています。 そして、長崎臨時裁判所にて次のような判決があった。 鹿児島県鹿児島冷水士族

甚七長男

草野藤助

其の方儀西郷隆盛等の逆意に與し、兵器を弄し衆を集め半隊長となり、官軍に抵抗する科によ り懲役10年可申し付ける處、情状斟酌し除族の上懲役2年申し付ける。 九州臨時裁判所

長崎出張所判事

中島信近

と判決書に書いてあります。 その後、祖父の書いた日記を続けますと、薩軍兵士96人それぞれ判決の言い渡しがあり、 明治11年4月22日長崎港から広島丸に乗り込み出帆しました。警護は内田警部他巡査10数 人、国事犯96人を甲乙丙の三班に分け各班に班長を置き、取締及び諸事等の役を嘱託せり、 神戸に寄港したとき内田警部が来て「何なりと嗜好の物品あれば適宜取り計る」旨の言い 渡しがあった。 国事犯有志で所持金を出し合って酒、牛肉、菓子を注文す る。夕方船内に持ち帰り酒物は禁止だが内々の許しなれば、 各自謹みて適量を願いたいと寛大なる御取り扱いを受けた。 同年4月26日昼横浜に入港、直ちに上陸して鉄道貨物に積 込まれ佃島監獄署に護送された。そこで2泊して未明に警 部1人、巡査10余人の警護で陸路宮城県目指して出発した。 佃島、向島、千住、宇都宮、喜連川、白河、矢吹、須賀川、 佃島監獄署 群山、白石を経て宮城県監獄署に到着した。白石迄は監獄署 長、看守長他23人が出迎えに来ていた。

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監獄署内での作業・・入獄当日赤衣に着替え各監房に入った。4〜5日後、監獄の職員から 各自希望の仕事を聞かれ、自分は工作部大工の小細工に従事した。 9ヶ月後には監獄署内の幼年囚(現在の少年受刑者)の勧善学校(囚徒に読み書きを教え る監獄署内に設けられた学校)の助教を命じられそれ以後、内外役にも為さず教員室に昼 夜起臥する事になり、勧善学校の教師は黒川老先生と師範学校より午後2名の教師が来た。 勧善学校の生徒は40余人なり、監獄署内で死刑の執行があるときは見せしめのため、生 徒を引率して現場で整列させ、明治11年には斬首を見せ、同12年(法律が改正され斬首が 禁止された)には絞首を見せた。 年末には僅少の賞与金を貰ったり、且つ日給壱銭給与せられたり、また外出も自由で独 歩もゆるされた。国事犯の中より取締を命じられたる人は、椎原国幹、飯牟礼吉兵衛、樺山 喜平次、有馬源内、谷村、別府某など、取締人は監獄署と社会と自由に往来ができて、内外 公私の用を弁ずる役を為すものなり。 病死者の葬儀・・在監者病死者あれば寺院(瑞鳳寺)に於いて国事犯多数参列して、盛葬を 為し葬儀後多量のお酒を飲み帰途広瀬川に落ち込みたる人もある。又寺院に於いて死者の 1年祭を執行下した時もあり、放免者がある時は多数旅館に国事犯を招き送別会を開いた。 放免許可書

鹿児島県冷水

士族

草野藤助

懲役満期に付き差し免す

明治13年4月17日、放免日の午後出獄広瀬橋の湖畔の旅館に泊り残留者の国事犯40数人 を招き送別の宴を開き午後9時まで大騒ぎをして、翌朝仙台市内を見物し松島に行き富山の 観月楼に1泊して仙台に帰り、東京に向かい途中観光地を見物して4月26日東京に着く、東 京に4〜5日滞在して横浜から船で神戸を経て5月8日に鹿児島に帰宅した。 検特第318号

証明書

鹿児島県鹿児島郡冷水通町

藤助事

草野勝臣

右明治11年4月中九州臨時裁判所に於いて処断を受けたる内乱に関する罪は本年勅令12大赦に依 り消滅す。

明治22年6月7日

松島観月楼

大審院検事長

名村泰蔵

放免後の生活・・祖父は鹿児島に帰宅後、銃弾を胸 に留めたまま78歳まで生き、昭和7年8月にこの世 を去りました。西南の役には22歳で従軍したそうで

す。祖父の長男草野嶽男(叔父)は元鹿児島高等農 林学校長(現在の鹿児島大学農学部学長)で、叔父 が祖父の書き残した物を辺見十郎太から渡された半 隊長旗(祖父の血痕付)とともに祖父の10日祭に印 刷して置いたのが残って私の手元にあるのです。叔父には子供がなく、その妹の子供であ る私が草野家を継いでいるのです。遠い土地の縁もない人々の事を調べて書き残して下さ って誠に有難い事と思います。私達孫は昔母から聞いたようですが、こうして書いたもの が残っていればこそ、当時のことがわかるわけで、また子孫にも伝えることが出来るので すから、本当に書いておく事は大切なことだと思います。

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明治11年5月14日

囚人の人命救助・・去る7日、南町に住む70歳に

なる老婆が、米ケ袋の三文渡しの橋を渡っている途中、誤って川の 中に落ちて溺れたところを、囚人遠田郡小中田生まれの岩井某と同 郡田尻村生まれの千松の2人が之を見つけて川に飛び込み泳いで救 助した。年寄りの1人歩きは浮雲の如く気をつけるべし、尚2人は罪 1等減じられた。 仙台日々新聞

三文渡し(御霊屋橋)

明治11年8月11日 集治監建設応援・・警視局出張所(仙台に開設)の依頼で、監獄署囚人 100余名(国事犯を含む)を動員して、旧城址(若林城)へ材木運搬作業に従事させた。こ れは市街地の南東部若林の旧城址へ、新しく宏大な監獄を建設することになったので、そ の作業に駆り出された。 明治11年9月2日 立志社関係者の入監・・電報で内務省から「禁獄2名発配の義、何様にも 差繰り入監すべし」との連絡あり、これは宮城監獄署収容中の陸奥宗光らと同じく土佐立 志社事件に参加した高知県岩崎長明と大分県人石松勝一(各懲役1年)が、県監獄署に移監 される通報である。2人は監獄署に収容後翌12年8月19日満期釈放になり、21日水野を高橋 楼に招いて謝礼のあいさつをした。

明治 11 年 9 月

宮城県監獄署で雄勝浜に分監を設置

明治6年小学校令が発布され全国に学校が開設された。当時は 児童用石盤や学芸用石盤も外国からの輸入された物を使用してい た。山本儀兵衛は横浜の人、たまたま雄勝に来て玄昌石の破片を 発見して、輸入石盤より優れていることを発見して、雄勝に移り 住み探鉱と石盤製造を村民に進め、資金を募り東京開運社を設立、 東京に支社を置き、日本における石盤製造の嚆矢となった。 山本義兵衛の案内板 東京開運社では石盤の採掘に西南戦争の国事犯を使役することを宮城県監獄署に上申し て許可になり、監獄署では40余人の国事犯を雄勝浜に出役させた。当初は寺(天雄寺)を 仮の宿舎としていたが、作業成績が殊のほか良かったので、分監を設けて順次人員を増や していった。 明治11年10月2日 国事犯の減刑・・監獄署に収容中の西南の役国事犯榎本甚左衛門と石神 音吉の両人は、兼ねて懲役1年の刑であったが、今年の7月一般囚人佐藤卯吉が脱獄するの を監獄の職員に知らせ、自ら追いかけ捕まえたのは殊勝のことなり、その罪を減軽して懲 役100日申し付けられしが、既に100日過ぎたれば今度放免になりし、また国事犯三原経寿 も懲役2年の処、之も卯吉脱獄の際に尽力を尽くした功績により懲役1年に減刑された。 同日、国事犯有馬純俊(25歳)は脚気症にて治療中の処、去る26日の11時に死去致し瑞 鳳寺へ埋葬した。 仙台日々新聞

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明治11年10月5日・・県監獄署典獄水野重教、国事犯椎原国幹(西 郷隆盛の伯父)と共に雄勝分監の実地点検の為に雄勝浜に出張す る。「桃生郡雄勝浜石盤製造所へ国事犯数十名差越有に付き実地 点検として本日出発す、同行者は国事犯取締椎原国幹、三原経寿 松島観覧亭にて昼食(瑞巌寺住職も同席する)、石巻には午後8 時到著、県監獄署石巻分監へ立ち寄る。陰山某宅に投宿する。

天雄寺山門

明治11年10月6日・・午前9時に石巻出発する。雄勝には午後4時に到著、国事犯一同に面 会する。村扱宅に投宿国事犯池田某(雄勝に出役していた国事犯の責任者)を招いて衆囚勉 励の義を説諭する。翌日、作業場である留山、賀々戸山、硯浜の三山を点検する。更に乗船 のうえ明神山を点検、その他の囚徒の就業場所を見分する。7日午前5時雄勝出発、同12時 石巻到著、同日仙台に帰る。 明治11年10月12日 職員の表彰・・監獄署に勤務する二等し守卒木村惣平氏は、監獄署内 にある囚人の勧善学校に書籍代として10余円寄付されたので其の賞として宮城県令より木 盃1個賜る。(当時の監獄署の職員の月給は7円余り、10円の大金を囚人の為に寄付すると は現代では考えられないほど奇特な人も居たものである。) 明治11年10月13日 国事犯の釈放・・宮城県図書館蔵「国 事犯囚徒放免添翰綴」によると、第1回配置(明治10年 10月9日)の51名の中には明治10年10月長崎臨時裁判所 で懲役1年の判決を受けて宮城に配置されたものが、奈 良迫宇之助外5名あり、この人々が同年11年10月に刑期満 当時の宮城県庁養賢堂 了となり国事犯の中で第1号として釈放された。 奈良迫が10月13日に鹿児島に帰る途中、越河駅で宿料13銭の繰替を、越河駅通運会社で 受けたことが「国事犯囚徒放免添翰綴」の中に記録されている。更に通運会社は翌年2月21 日右一泊代金を受け取っている。ちなみに宿料は13銭、昼食代は5銭であった。 国事犯の釈放、鹿児島県への帰郷に当たっては、宮城県令から本籍地県令あて宿村逓送 の通知書、沿道宿村町役人あて休泊の費用は官費で支払う旨を記した「旅費繰替帳」を、め いめい持たせた。病気等の際は人力車を利用できるように行き届いたものであった。しか も、刑期満了を待たずに何等善行ある場合に、刑期の軽減もかなり行われたらしい。 明治 11 年 10 月 21 日 脚気症の治療・・未決囚星某は先月より脚気症に罹り、本月に至り 重症化して九死に一生の状態に陥ったが、幸い監獄署の医師岩渕旭堂が東京警視庁病院の発 明した鉄蛋水を東京から求めてその薬を調和して、去る 10 日星某に服用させ又「エンテル マチス」と云う器械を以て股間に注射したところ、翌日より翌朝に至るまで尿のする事数度、 12 日に至り自ら病床に起居するほど快方に向かい実に効用の著しさに驚く、国事犯鶴丸量 衛、永田善之助も脚気症にて重病のところ、岩渕医師が鉄蛋水を調和して服用させ病状も次 第に快方に向かいたる。 仙台日々新聞

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明治 11 年 11 月 4 日

監獄医の表彰・・監獄医岩渕旭堂は囚人の患者に治療を加えるのに、

余程親切にて急病の者ある時は昼夜問わずに嫌ということなく監獄署まで駆けつけ治療を なし、特別尽力を以て囚人たちの治療に当たっているので月俸の他に金 3 円を賜る。 (当時の監獄署の医療体制が、かなり充実していることが解る新聞記事である。) 仙台日々新聞 明治 11 年 11 月 6 日 脱獄未遂事件・・終身懲役鈴木某は去る 2 日細工道具の金具を隠し 持ち、獄舎の柱を切断して脱獄しょうとしたが、隣房に収容中の鹿児島国事犯に発見され て、職員に通報され捕獲されたが、その際鉋(かんな)で腹を切り自殺を図ったが浅手な れば命に別状なし。 仙台日々新聞 明治 11 年 12 月 22 日 宮城集治監の上棟・・旧城址(若林城)に建設中の中央監獄の建前 済の祝いが警視局出張所で行われた。出席者は県令(県知事)大書記官、検事、裁判官、判 事、県庁の幹部、県警の警部他、水野監獄署副典獄も参列した。頗る鄭重な饗応であった。 明治 12 年 2 月 10 日 囚人逃走・・監獄署収容中の懲役 10 年市内大町生まれの杉田某は中 央監獄(宮城集治監)建設の労務に服していたが、過日作業場から逃走して本荒町の佐藤長 吉方に隠れ潜んでいるところを、捜索中の警官に発見されたが、警官の手を逃れ更に逃亡し 新河原町付近で警察官により取り押さえられた。(当時集治監の建設に監獄署からも多数の 囚人が建設現場で働いていた事がこの新聞記事でわかった。) 仙台日々新聞 明治12年3月25日 賞金の下賜・・市内東二番丁東本願寺の説教者大岡某は、客歳以来監獄 署に出張して、懇ろに各囚人に説教するゆえ、囚人たちも前罪を悔悟し当今は頗る工芸、学 業に専念するようになった。これも要するに大岡氏の親切なる説教によるものとして、県 令からの下命にて、この頃監獄掛かりより金3円賞与になった。 仙台日々新聞 明治12年4月14日・・雄勝浜分監の勧善学校、「仙台日々新聞」は雄勝浜の勧善学校を次の ように報道している。「雄勝浜の石盤工場に出役している囚徒は凡そ70余名いるが、この 頃看守今野源之進の発起にて学校を設立、課業の暇に学問をなさせて固質の善人に復くさ せんと雄勝浜の長沼半治の家を仮の教室として男澤新八を教員に雇った。また国事犯の池 田正義、清原恵昌を学校総取締として百事皆備えしをもって、勘善学校と名づけて開校し たところ囚徒40余名が入校し、中々盛んなこと近辺の小学校などの及ぶところなし。 土地の人々も皆この学校に入学することを希望するが夫々規則があるゆえ、その筋に伺 わねば入校する事が出来ぬと取締より伺い中なり。長沼半治の母は此の挙を見て自分が数 10年辛苦して貯蓄した金11円で学問に必要な書物を買い寄付した。また同所の石盤製造会 社社長三重県士族岩手弥兵衛も10円を書物代として寄付した。 明治12年4月30日 「桃生郡雄勝浜の現況」・・新聞報道によると、当時の雄勝浜は戸数200 にも満たない少浜だけども産出の石類多くして、昨年東京より来る硯石、石盤その他種々 の石工に従事する人有り、製造の道益々開けその生産盛大に趣、昨年は石盤の生産50萬余

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に及びしが、未だ製法粗にして舶来品に拮抗すること能わざるなり。 本年1月東京より石工数名を呼び寄せ石盤製法を改良したところ西洋品にも勝り、1ヶ月 89萬枚の製造をなした。東京開運社の出張所は特に盛んで、雄勝浜には製造所が3ヶ所有り、 第一雄勝浜職人20名、第二船戸職人23名、第三明神浜職人25名、三ヶ所合わせて10日間で 石盤製造56,800枚に及び、また硯その他の製品も日々改良に趣にて、その生産は日々盛か いを極める勢いなれば、金融も大いに良く製品も思いのほか安く、このまま行けば雄勝の 石盤とうは国益の一端友なるべし。 当時は雄勝で石盤生産と海外に輸出をしていて非常に景気のいい時期であった。この時 期に東京開運社は監獄署に収容されている国事犯を雄勝に出役させることで、更に生産を 上げたものと思われる。 同日、監獄署内では囚人の老若に係わらず、それぞれの役務(作業)終了後、学問(読み 書き算盤)は勿論各自得意の手芸(技術)を教え放免の生計に役立てようとしている。すご く結構なことであります。 仙台日々新聞 明治12年5月4日

水野副典獄国事犯と青葉山へ・・水野副典獄は国事犯の椎原国幹、安藤

維、壱岐七之助、野崎半兵衛らを引き連れて青葉山の西南側、大海原を見渡す適当な芦の口 に遊んだ。西南の大洋を眺めさせ、望郷の情を慰めてやったこともある。 明治12年5月21日 国事犯椎原国幹の減刑上申・・その放儀先に西郷隆盛等の逆意に加担し 官軍に抵抗する科により明治10年11月29日九州臨時裁判所に於いて除族のうえ懲役2年の 処刑を受け宮城県監獄署に服役中なれど、罪を悔悟し獄則を守り誠哀の懇篤能く他の囚徒 を薫陶する段奇特の義につき特典を以て本罪一等を減じ直ちに放免する。 宮城県知事松平正直(宮城県監獄署は県の施設であり、署長は県知事である。) 椎原国幹・・通称与衛門、文政4年、鹿児島平馬場町に生まれる。維新の初め鹿児島藩の典 事となり、明治10年西南の役薩軍に応じて、5番大隊の大小荷駄となり、熊本に向かい、後 延岡に於いて官軍に降り、懲役2年の刑に処せられる。 宮城県監獄署に服役後明治14年鹿児島学校長となる。国幹の姉は西郷隆盛の母にして、 国幹の娘は明治新政府の重臣海軍大将川村純義に嫁す。故に国幹は隆盛の伯父にして、純 義は其の女婿たり。 明治12年5月21日 今吉善左衛門の放免宣告分・・右の者は、入獄以来前非を悔梧、獄則を 確守し性質篤実温厚萬事勉励により、客年2月以来病監看護人(監獄内の病院)を申し付け 置き処、孟夏より晩春に至る迄患者不勘繁忙不一方も、昼夜懇切に看護尽力壮患者苦痛の 余り粗暴あるものも慈母の子を感ずる如く、老患者には孝子の父母に事ふるが如く、総て 患者の意に適し親切至らざる処なく、難治の患者も或いは快復に趣く者往々有之且、また 懲役場内学事奨励の挙げあるに感じ、自ら得るところの傭銭を以て書籍を寄付せんと願出 等、其の行跡亦殊勝之者に有候 監獄係 六等警部 水野重教

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明治12年6月10日・・監獄署7等警部三浦親粛が集治監5等看守長に転じる。集治監建設が 進み、監獄署の職員を集治監開設の際の準備に当たったものと思われる。 仙台日々新聞 明治12年7月1日・・国事犯の釈放、先にあげた椎原国幹の場合など、西郷の伯父という 名門の故か、長崎での判決でも懲役10年申し付けられ、県監獄署でも獄囚取締にあげら れ、付けで、中川検事から、「獄則を厳守し誠忠懇篤よく衆囚を薫陶する功により一等軽 減の処、役過ぎるを以て直ちに放免」と宣告され、即日釈放された。 仙台日々新聞 明治12年7月2日・・国事犯の釈放、国事犯にて当県に護送されたる鹿児島県人の内疾病に 罹りし39名は特典を以て、去月26日仙台裁判所にて放免された。 その宣告分は下記のとおり。 鹿児島県 左近允澄明・・その方の儀先の西郷隆盛等の逆意に與し官兵に抵抗する科により、 明治11年4月18日九州臨時裁判所において除族の上懲役5年の処刑を受けたる処疾病に付き 特典を以て放免。

明治12年7月15日

国事犯椎原国幹の寄付

国事犯にて当県に配置された椎原国幹は先ごろ放免になり鹿児島に帰ったが、帰るに先 立ち監獄署内で病死した国事犯が眠る市内瑞鳳寺へ永代供養費として金30円を寄付した。 その次第を聞くに、かねてより寄付せんと思っていたが、先に郷里より送金された分と 自分の所持金を県庁の方に預かり置いたが、県庁では利子が付かないので国立銀行にあず けおいたところ、帰国にする際に利子30円を添えて渡されたので椎原国幹は思いがけない 利子を得て、大いに喜びその利子を瑞鳳寺に寄付したとのことである。 仙台日々新聞

明治12年7月15日

国事犯の減刑上申

熊本県熊本 有馬 源内(27歳) 上記の者獄則を固守し孜々(仕事に励む)勉励不怠是又既決囚取締(囚人の監督)を申し 付け、近来学事一層奨励の折柄教授の任に当たる。朝夕囚人外役の歳職員の警備の補佐を なし、勧善学校においては誠心懇切に学業を教授するので、囚人たちも悔悟の念を発し学 業、工芸に励み、更には獄内の囚人の悪行を苦心して探偵して、監獄に密告するにより、そ の行状誠に殊勝なりよって減刑を上申する。 仙台日々新聞

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明治12年7月16日

大隈重信監獄署視察・・大隈大蔵卿と香港知事

ヘネシー一同正午監獄署に来臨、一旦事務局2階にて休憩、夫より 既決監、勧善学校一覧、幼囚(少年)就学中にて親しく熱覽、目前 読居たる小学校の本一、勧善訓導の2巻を香港知事の望により相譲 る。終わって作業場一見あり、総て都合よく済めり、香港知事曰く、 監内空気流通よし且つ香港に獄舎ありとて製造物等なし、我県の 製造大によしと賞賛せり、瓦場の体裁等悉く聞尋あり、皆一覧表を 製作して差出せり。

大隈 重信

明治12年9月10日 有馬純治の外科手術・・宮城県に配置された国事犯の中には、戦争によ り銃槍を受けたものも多く、中には戦地で敵の弾丸を体に被弾し、体内に留まり苦しんで いる者もいた。監獄署ではこれらの負傷者の治療の為に、鎮台病院に照会し軍医の派遣を 要請して、署内で手術を行っていた。また署内で脚気症が流行し、国事犯の中にも多数の者 が脚気に罹り、軽症の者は蔵王の青根温泉で天地療養させ治療に当たらせたが、当時は脚 気の治療法が解明されておらず重症者13人は署内で死亡した。 典獄日記によると、国事犯有馬は西南戦争田原坂の戦いで右頬に銃 槍を負い、弾丸が体内に残っていたため終始困難を感じ、神経の休ま る暇とてなく漸次日と共に疲労を呈して来た。監獄署の医者では治療 できないので、鎮台病院に紹介の結果、名倉軍医始め軍医一同来臨の うえ、名倉軍医自ら執刀のもと切開手術を行い、弾丸が骨に止まって いたのを取り除く事に成功した。その後傷の痛みも発することなく、 有馬は安眠につくことができた。 仙台日々新聞 集治監六角塔

明治12年9月13日 宮城集治監の建築落成・・過般来工事中の集治監の建築が総落成して、 開場式が挙行された。水野監獄署副典獄が参列した。当日は本監を一覧したあと3階に登っ て休憩、祝宴は事務所で開かれ、県の幹部、裁判所の判事、新聞記者、伊達家令、銀行頭取 らが参列した。 明治12年10月6日 国事犯の人命救助・・国事犯鹿児島県坂本村出身の松岡岩次郎は懲役2 年の刑で監獄署に服役中であるが、過日片平丁の陸軍御用地の井戸に幼児が転げ落ちたの を現認するや、直ちに引き上げ救助したので、罪2等減じられて直ちに仙台裁判所より放免 の言い渡しがなされた。 仙台日々新聞 明治12年10月6日 山形監獄署火災・・先月25日山形監獄署失火の節に死亡した囚人18名に て、逃亡者9名、けが人は消防夫1名なり、なお陸奥宗光は被服室に避難して難を逃れた。

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明治12年10月7日

監獄署の脚気患者青根温泉・・明治12年頃、青根温泉は好景気で宮城・

山形・福島から多数の温泉客が来ており、仙台からは鎮台病 院の患者や監獄署の囚人も療養に来ていた。当時監獄署では 収容中の国事犯で脚気患者は青根温泉に転地療養させ、国事 犯永田善之進(懲役2年)は脚気症で独歩できず放免後も青 根で療養して遅れて鹿児島にかえった。青根温泉の景況(明 治初期の様子)・土地は固より隘路で、記するに足らずと雖 も、その客の多き当時1,300〜1,400人は下らず、その客は本 青根温泉 県・山形県及び福島県、その種は農工商と仙台鎮台病院患者及び宮城県監獄署(国事犯)の 囚人なり、温泉宿は丹野七兵衛・同七三郎・佐藤仁右衛門・同喜右衛門・同重兵衛・同文四 郎なり。湯壺は6ヶ所にして溝湯、名後・新湯と言う自余の3湯の分かれなり、中に最も清 浄なる溝湯にして余は皆少し濁れりと雖も、新湯の如くは名後に比すればやや清りと言う。 仙台日々新聞 明治12年10月8日

宮城集治監に職員の配置替え・・集治監の建物が落成して収容業務を開

始下が、監獄行政に精通した職員が居なかったので監獄署から職員を配置替えさせた。監 獄署の4等監守松野求馬他4名、一等獄丁鈴木作次郎他2名、同2等獄丁斎藤権四郎他10名が 集治監に配置換え、国事犯仁礼友氏他8名、一般囚人宮本某他15名が監獄署から集治監に移 送された。

明治 12 年 10 月 8 日

国事犯の移監

10 月宮城県監獄署から国事犯の移監が行われた。しかし、既に県監獄署に収容されてい た国事犯は釈放になり、また雄勝・野蒜等の監獄署の外役所に出役している者も多く、刑期 の長い 12 名だけが集治監に移監された。 明治12年10月8日・・仙台日々新聞は県監獄署から左記の国事犯が移監された事を報じて いる。 伊藤 應助 24歳 中隊長 懲役5年 明治12年5月19日 放免 石原 近秀 31歳 同 同 明治12年5月2日 放免 (雄勝浜で火災の際に消火に尽力した功績により特典放免) 稲田 鵜木 池田 仁禮

新平 五左衛門 兼長 兼次

24歳 24歳 31歳 27歳

中隊長代理 中隊長 中隊監軍 中隊長心得

懲役5年 同 同 同

明治13年7月7日 同 11月29日 同 9月30日 同 10月30日

明治13年5月15日・・「宮城日報」の記事に、「西南の役中隊長と して従軍、懲役5年となり、集治監収容中の仁禮兼次は非常に悔悟 し、日夜獄則を遵奉し、且他の囚徒を懲励して学事に誘導するな どは、感ずべきも余りある程なれば、どうか減等の御沙汰にもな

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放免 放免 放免 放免 集治監


るべしーある人の話」と掲載されている。集治監に収容された国事犯と職員、或いは一般囚 徒との間にトラブルが起きたときは仁禮兼次を呼び、説諭させるといずれも一笑に付して 和解するという、それだけ国事犯仁禮は職員からも一般囚徒からも信頼されていた事を「宮 城日報」は報じている。 東条 緒方 児玉 谷山 加藤 新穂

七之丞 惟治 実得 甚助 景道 利秀

26歳 38歳 24歳 32歳 23歳 34歳

中隊長 小隊長 同 同 同 同

懲役5年 懲役3年 同 同 同 同

明治13年10月30日 明治14年4月18日 同 13年3月6日 同 13年7月7日 同 14年4月28日 同 13年7月7日

放免 放免 放免 放免 放免 放免

新穂利秀の次男からの手紙・・小生は利秀の次男で明治38年8月に生まれました。今年で85 歳になります。長男は異母兄で、大正15年に病死しました。小生の実姉(新穂利秀の娘)が 拙宅の隣に住んでいます、87歳で健在で華の教師をしております。利秀は明治天皇崩後の 翌日病死しました。小生小学1年生の時でした。 父からは西南戦争の事については一言も聞いた覚えはありません。母から間接的に聞い たことを覚えています。母は明治元年生まれで西南戦争の時は鹿児島市内に住んでいたそ うです。戦争が始まった時は味噌醤油等地中に埋めて逃げたそうですが、戦後帰ったら全 部掘り起こされて何もなかったそうです。母の兄は22歳の時、鹿児島で戦死したそうです。 母の話ですが隣の家の下男が逃げるところ後方から官軍の兵士に切られるところを目撃し たそうです。兄が昭和の始めまで住んでいた家が官軍の戦争中の宿泊所になっていたそう で、柱に刀の切り傷が残っていました。 筆作りに従事・・利秀は宮城の監獄で筆作りを教わったそうで、家には父の作った筆が数本 残っていました。放免の時に監獄から入獄中に働いた分のお金を貰ったそうです。国事犯 として丁寧に扱われたそうで、宮城から放免後鹿児島の警察に入り警部まで昇進したそう で退職後は、日置郡で開墾作業に従事しそこで小生は生まれました。 古川中学(旧制)の教員・・小生は戦前教員として宮城県に赴任し ました。昭和15年ころ旧制古川中学校で教鞭をとりました。その後 仙台の中学に4年勤務しました。住まいは市内の米ケ袋中丁で、御 霊屋の「鹿児島県人の墓」には幾度もお参りに行きました。広瀬川、 向山など懐かしい所です。小生が古川中学時代の教え子に伊藤宗一 郎(元防衛庁長官)がおりました。今でも文通しています。

現在の古川高

余談・・平成の時代に明治10年の西南戦争に従軍した兵士の子供健在だったとは、それも 教師になって宮城県に赴任していたとは驚きの連続であった。古川高校の昭和15年の職員 録を調査すると新穂精二氏の名前があった。更に伊藤宗一郎防衛庁長官も同年代ころに古

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川高校に在籍していたことが分かった。 御霊屋の「鹿児島県人七士の墓」に父(利秀)と共に西南戦争を戦い、宮城で病死した戦 友を弔い、自分の父が服役した集治監(現宮城刑務所)を眺めながら、故郷に憶いを馳せた のではないだろうか、一冊の本が小生と新穂氏を結びつけて呉れたのである. 明治12年10月16日 監獄署水野典獄の青根巡視日記・・青根温泉へ国事犯脚気症に罹りた る者先般移転し置候処、追々冷気に及び候に付き、引き上げかつ病状検査のため本日出発 する。医員宮田勉同行、大河原監獄支署(当時大河原町に監獄署の支署があった。)に立ち 寄り、この日遠刈田に一泊する。 明治12年10月17日・・遠刈田出発、青根温泉に午前10に到著、囚徒の療養状態を視察する。 鎮台病兵も温泉に来ていた。翌日山上軍医が見回りに来ていたので囚徒全員を診察する。 明治12年10月20日・・国事犯伊知地啓吉、最勝寺半次郎、同清一郎、高崎親良の4名雄勝浜 より仮放免となる。(放免者は現地で釈放になった。雄勝から仙台に帰り途中松島を観光し て、仙台に収監されている国事犯たちに挨拶してから鹿児島にかえった。) 仙台日々新聞 明治12年10月24日 監獄署製造物品の改良・・当監獄署で囚人の製造する諸物品は、監獄 署内いて製造する物品と比べれば至って上位を占めるなれど、陶器ばかりは他県より不出 来なので、今後監獄詰の警部方が尽力えられて、作業指導の笹原某を迎え入れて陶器製造 を負担せしめ一層上等品を製造せらるるなれば、これまた国産の一部分を占めるに至らん と云う。 仙台日々新聞 明治12年11月10日 陸奥宗光の移監・・昨日東京通信社より、電報によると山形県監獄署 在監中の陸奥宗光外1名を宮城県監獄署に移監する旨の連絡がありました。

明治 12 年 12 月 2 日

陸奥宗光宮城県監獄署に収監される。

明治10年の西南戦争の際、林有造らと反政府の挙兵を企んだとして、禁獄5年の刑に処せ られていた陸奥は、明治11年9月山形監獄署に送られたが同12年9月25日の夜中、山形監獄 で火災が発生し陸奥は奇跡的に助かったが、山形では生命の保証が出来ないとのことで、 時の内務卿伊藤博文は宮城監獄署に移監することを命じた。12月1日宮城監獄署から水野 副典獄外5名の職員が山形まで迎えに行った。山形からは陸奥は駕籠にのり、所持品は馬3 頭に積んでこれを運んだ。多くが書籍であった。同月2日午後4時片平丁の監獄署に到着し た。 陸奥宗光の専任給仕が語る陸奥の獄中生活・・明治15年12月31日、恩赦で出獄するまで陸 奥の生涯を通じて、最も失意のどん底に陥っていた際、ほとんど陸奥の専任給仕として、そ の身辺を親しく世話し、獄中における陸奥伯の生活ぶりを、巨細に知悉している珍しい生

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き証人が仙台に生き残っている。今は市内の袋町に住む老司法書士大宮某氏である。大宮 氏は「ずいぶん古い昔のことで忘れているところもあるが・・・」と断りつつ、当時の陸奥 伯の獄中での生活ぶりを語ってくれた。 (サンデー毎日昭和11年11月22日号・日本史の目撃者より) 監獄の隣の民家に収容・・「さよう、陸奥さんが、国事犯として、山形 の監獄から宮城の監獄に護送されてきたのは、なんでも明治12年の暮れ のころでした。その頃ちょうど山形の監獄が火事で焼けたため、身柄を 移されたのだと思います。また当時の山形県令三島通庸さんが陸奥さん をあまり丁寧に扱いすぎたために、政府で危険視してこちらに移された ためだという噂もありまして・・」と冒頭して、大宮某は語りだした。 山形県令 三島通庸

当時の宮城県監獄署・・監獄署は地方費支弁、つまり県立の監獄署で あり場所は今の東北帝国大学理学部教室の一部、本多光太郎博士の研究で世界的に知られ ている金属材料研究所一帯の場所(現在の放送大学構内)を占めていた。周りは6尺以上の 高い板塀を廻らし、獄舎は旧藩政時代の牢屋をほとんどそのままに模倣した陰惨なもので あった。(明治10年7月に新築している。) 陸奥伯が監獄署に収監された頃は、ちょうど西南戦争の国事犯300余名の他一般囚人が 500余名収容されており過剰拘禁状態で、署内は囚人同士の喧嘩等は絶えず、殺人、強盗等 を犯した凶悪犯が看守の隙を、しばしば脱獄を企てるといった極めて物騒千万なじきであ った。 そこで、これらの一般囚人と鹿児島の国事犯と一緒に陸奥伯を収容するのもどうかと考 えたのか、それとも時の宮城県令松平正直の一存で陸奥を優遇する意図があったのか、陸 奥の身柄を受け取った県監獄署では、陸奥を収容するために特別に監獄外の東側にあった 民家を買い上げ、ここに昼夜2名の看守を詰めさせて、陸奥の身辺の監視と警戒にあたるこ とにしたのである。 陸奥宗光が収容された民家・・その民家たるや、萱葺、平屋建て、8畳に6畳、4畳半くらい の3間と便所を持ったお粗末なものであったが、当時の事情から見れば、破格の優遇であっ たに違いない。しかし、もちろん普通の民家といっても獄舎に相違ないから、家の周囲には 監獄と同様に6尺以上の厳重な板塀を張り巡らし、門もいちいち看守が誰何見聞してから人 を通すという風で朝夕2回、一定の時刻を定めて運動のため塀の中を歩き回る以外は一切外 出禁止となっていた。家の北側には3尺幅の竹縁がついており、他の側は壁または3寸角く らいの格子がいれてあり、獄舎の感じを出している。 陸奥伯の給仕になる・・大宮某氏が宮城県監獄署給仕に採用され、日給15銭也の辞令をも らったのは、陸奥伯が監獄署にきて間もない翌13年23日、ちょうど14歳になったばかりの 小僧だった。「日給15銭といっても、その頃はそれだけあれば、米一升は十分に買えたも のです・・」と大宮氏は笑う、とにかく午前8時頃から午後4時頃まで、監獄の事務所へ通勤

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して給仕をやるわけですが、4、5日おきに監獄の別棟、つまり陸奥伯の獄舎に呼ばれ、伯 の用事をいいつけられるのが習慣だった。 大宮少年の仕事・・獄中の陸奥泊はさすがに明治政府で新知識を誇っていた人だけに、ほと んど一日中、8畳の部屋に座り込んで読書に耽ったり、ものを書いたり、 洋書を翻訳したりしていたのであるが、たいていペンを使っていたの で、そのままではザラザラの土佐用紙には書きにくいので、紙を石の上 に置き、棒で幾十回も叩いて書きやすいように紙を柔らかくするのが 私の役目であった。「とにかく、どうしてあんなにたくさんの紙を使う のか、一回に5帖も10帖もの土佐用紙を叩くのであるから、一日かかっ 陸奥 宗光 てやっと終わるといった有様でネエ。まったくアレには閉口しました。」 と、大宮翁は述懐した。 獄中の陸奥伯・・陸奥伯はよほど猛烈に獄内で勉強していたのが紙の使用量で分かる、この 頃の監獄署の署長は(典獄)は千葉県出身の水野重教という人で、ガムシャラな元気のいい 男だった。看守詰所に山崎某という看守と今一人交代で 勤務し、昼夜間断なく陸奥伯の獄中の動静と外部との連 絡を監視していたわけであるが、さすがに明治新政府の 高官であった陸奥伯も、国事犯として禁獄中にあっては いた仕方なく、東京から要路の高官が来て監獄署に顔を 出しても、陸奥伯の獄舎を訪れるものは一人もいなかっ た。 旧仙台地図

獄舎内の様子・・陸奥伯の室内はまるで書籍で埋まり、足の踏み場もないほどで、便所の引 き出しの中まで書物が持ち込まれていて、若い給仕の大宮少年を吃驚させたものである。 この便所や獄舎の中を掃除するために50歳くらいの老爺が使われていたが、これは浅黄色 の獄衣を着ていた。この当時、刑期が満ちて釈放されても、行き先のない者は浅黄色の獄衣 を着せて監獄の小使い等に使う習慣があったので、陸奥伯の獄舎に付き添っている老人も おそらく、此の種の免囚の一人だった。 夜遅くまで書見と翻訳・・獄中の陸奥伯の日課は、要するに読書と書物と議論と運動の4つ だったと言える。第一に陸奥伯が何時に起きて、何時に寝るのか、終始注意の目を放ってい る警戒の看守も知らなかった。朝はもちろん看守の知らぬ間に起きて、夜は、この当時は獄 内では行灯を使っていた。深更を過ぎる遅くまで、書見に余念がなかった。 「何しろ私は当時まだ16歳の鼻っ垂れ小僧だったので、わたしにはろくろく読めない洋 書が多かったように記憶している・・・」と大宮翁は言っている。それで書物は?といえば これはその時々の獄中の感想を誌す、いわば洋書の翻訳であった。

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面壁独語・・大宮翁が宮城県庁の給仕となり、陸奥伯が禁獄を解かれ放免になったとき、こ の獄中で陸奥伯が書き残した「面壁独語」と題する随筆があったので、大宮翁や同僚の青野 喜左衛門(当時市議会議員)がこの原本を筆写したのであったが、50余年の歳月を経た今 日、すでに散逸して探す術もない。 この随筆の内容は、おそらく陸奥伯が獄中の徒然のあまり、また悶々のあまり時世を慨 し、独自の政治的意見を吐露する一面、別離数年になる妻子の身の上を思って、折に触れ書 き誌したもので、今日それが見出されれば、当時の陸奥伯の心境を窺ううえに足りるもの であったに違いない。大きくいえば明治裏面史の資料として、惜しむべきことであった。ま た獄中で熱心に翻訳していたものは「利学正宗」と題するものであった。 この訳書は後に出版されたというので筆者は宮城県図書館で調べてみたが、翁の言う通 り果たしてあった。これは46版、200ページ余のもので、上巻と下巻に分かれ、上巻は陸奥 伯が出獄後ただちに16年11月、東京日本橋通り2丁目、薔薇楼から上梓したもので下巻は翌 17年1月同じ書房から出版したものである。 獄舎に説く大声の政論・・出獄後外務大臣になり、明治27年の日清戦争当時、李鴻章を相 手に見事な外交手腕の切れ味を見せ「剃刀大臣」の異名までもらっただけに、陸奥伯は獄中 にあっても相手さえあれば、時間の過ぎるのを忘れて時局を論じるという風であった。 当時は監獄署長が水野重教、看守長には千葉文五郎という男のほか2、3人いたが、いず れも陸奥伯が重大な国事犯だということで、前の元老院議官という肩書きに恐れをなし、 なるべく敬遠主義をとっていたようである。大宮少年が給仕をやっていた間、比較的頻々 と陸奥伯の獄舎にやってきて、その政論に対して熱心に耳を傾けていたのが千葉看守長で あった。 他の監獄職員が訪れてもそうであったが、議論好きでしかも霊閉中の鬱憤が胸に蟠って いるだけに、陸奥伯は職員が来れば誰彼となく時世を慨する政論をいつまでもあくことな く語るという調子であった。しかもその声は、禁獄中の人とは思えないような元気な大声 で立て続けに喋るので、相手になった典獄や小心の看守長などはついにハラハラして、い い加減にお茶を濁して、ほうほうの態で逃げ帰るという風であった。 陸奥伯の運動・・当時陸奥伯は大いなる艱難にも屈せず、前途に大望を抱いて、一朝出廬し た場合の下準備を獄中にあっても着々として整えていた陸奥伯の風格が、躍進如として眼 底に映るがごとくである。もちろん一日中、机にかじりついたり議論したり、洋書の翻訳に 没頭していたかというとそうではない、健康維持のためであろうか、朝夕2回ほど雨が降っ ても風が吹いても必ず獄舎の周囲の庭を駆け回って運動するのである。それが単に散歩し たり走り回ったりしたのではない、どうゆう理由か、5寸以上もあるような高い一本歯の下 駄を穿いて、しかも6尺くらいの長い棒を片手に持って、猛烈な勢いで10坪あまりの庭中を 駆け回るのである。 一見、狂人じみているが、陸奥伯のことだから一日中の疲労を消し飛ばして、精気を一気 に回復するというつもりであったのであろう。狭い獄庭を懸命になって走り回る陸奥伯の 奇妙な姿は今でも目の前に思い浮かべることができる。

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井筒屋の差し入れ・・「その頃の陸奥伯は40歳ぐらいで、顔が馬のように馬鹿に長く、痩せ て背の高い人でした。」当時15歳、大宮少年の印象に残った陸奥伯の姿はこういうもので した。そして着ている着物は絹物ずくめであった。これは当時監獄に近い南角にあった井 筒屋という髪油などを売る大きな商家が、陸奥伯婦人の親戚にあたり大阪から出張店を開 いていたが、そこから毎日のように絹布や洗濯物、菓子類などを、こっそり女中・下男が獄 舎まで届けてくれていた。 食事の差し入れ・・3度3度の食事は監獄から持ってきていたようですが、これも多分、こ の井筒屋から特別に差し入れしてもらっていたようです。監獄でも黙認していたのでしょ う。第一、明治初年の監獄のことであり、監獄の規則など囚人によってすこぶるルーズに手 加減していたのではあろうから、今日、疑獄事件等に連座して収監されたいわゆる大官連 程には、獄中の陸奥伯は身の回りの物に不自由しなかったことが、これでよくわかる。 大宮翁が陸奥伯の傍らで給仕として勤めていたのは、明治15年の春、大宮翁が15歳の時 までであった。当時の大宮少年にはもちろん、陸奥伯の偉さが分かるはずもなかったが、や はり一般囚人とは違った特別扱いを受けていたし、それにまるでわけの分からない洋書な どが房内にうず高く積まれていたので、何となく尊敬の気持ちは心の底に抱いていたと思 われる。 そこで例の土佐用紙を叩いて滑らかにする用事をいいつけられた時なども、一生懸命に やったので、陸奥伯に可愛がられたが、永の禁獄生活を物ともせず、将来の飛躍に緊張し切 った準備と修養を怠らなかった陸奥伯も、時折さすがに可愛い妻子のことを思い出すと見 えて、大宮少年の頭を撫でては「俺の子供の広吉も、今頃はこのくらい大きくなっただろう な・・・」と、しみじみ述懐して溜息を漏らすことがあったという。 明治15年12月30日陸奥伯仮放免・・大宮少年が2年あまり勤めて陸奥伯の給仕をやめ、宮城 県庁の給仕に愛用された後、陸奥伯の禁獄生活はさらに1年近く続き、明治15年の大晦日に 仮放免され、例の南町角の井筒屋1ヶ月近く滞在、精養して、東京へ去ったが、当時若かっ ただけに、大宮少年は1度陸奥伯の居を訪れようと思いながらも、遂に果たさなかった。 「陸 奥伯は禁獄がとけて東京に帰ると間もなく、ワシントン公使に任ぜられ続いて、農商務大 臣から外務大臣になられたのだから、あの時私がもし陸奥伯にお願いして東京に連れて行 ってもらったら、今頃細々と代書人などしていなくとも、もっと偉くなっていたかも知れ ないが・・・世の中というものはやはりこんなもんでしょう、ハハハ」と今年70歳になる50 余年前の陸奥伯の給仕、大宮翁は嗄れた咳払いをしながら語ってくれたものである。 昭和11年11月22日サンデー毎日より 余談・・山形監獄署から宮城県監獄署に移送された陸奥伯は予想以上の厚遇が待っていた。 松平宮城県令(知事)は伊藤博文内務卿(首相)からの特別な依頼を忠実に実行するよう に、水野監獄署長に命令し、水野もまたその命令を忠実に実行したのである。

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明治13年1月3日

雄勝浜火災

夜の12時頃、桃生郡雄勝浜の或人家より失火15戸焼失、同浜の宮城集治監雄勝分監の囚 徒らの消火により同2時頃に鎮火したとの電報が新聞社の方にあった。 「本月4日午前1時雄勝浜の出火の報は先日も掲げたるが、その場に遭遇した囚徒に話を 詳しく聞くと、この火災に罹りし地区は僅か5戸18棟の戸数なれど、雄勝浜は80年来火災発 生はなし、地域住民が消火に出たけれども、ただ呆然として呆れ果て火災現場に近づき消 火に従事する者無し、火災は折からの強風に煽られ他の家に燃え移り、消火する術がなか った。 国事犯の消火・・この火災を近くで現認した雄勝分監職員は直ちに囚人50人を引き連れて 現場に急行した。囚人の多くは西南戦争の国事犯で、戦乱をくぐり抜けてきただけに火災 など諸共せず消火活動に従事したが、火の回りが早く同港の山下青蔵の借家に住む勧業雇 で石盤検査掛かりの鈴木明の家にも燃え広がり、見る見る猛火に包まれ焼け落ちんとする 時に逃げ遅れた鈴木の老婆が、火の中より「助けてくれー」と叫んでいるが、火災周辺にい る人々は只「アレー」と騒いではいるが誰ひとり、火中に飛び込み救ける者とてあらず、既 に焼死と思われたとき、遥か遠くで消火中の囚徒3名がこの声を聞きつけて猛火の中に飛び 込んだ。 噴煙の中3人とも体が見えなくなったので、辺りにいた人々は老婆共々3人とも焼け死ん だのではと固唾をのんで見守ると、煙の中より3人が老婆を助け髪もおどろに飛び出してき た。この3人の囚徒の活躍を見て感動しない人はいなかった。 仙台日々新聞 明治13年1月14日 水野副典獄野蒜に出張・・日記によれば水野は14 日から、野蒜の築港工事の現場視察に出張している。当時監獄署から 囚人を派遣して工事用の煉瓦を焼かせる計画があったので主任の千 葉某と煉瓦技術指導の植木留吉を同道した。 野蒜・築港跡

明治13年2月・・雄勝分監の近傍民家より出火、国事犯石原近秀、池田正義、東条七之進消 火活動に尽力する。同3月東条七之進雄勝火災の際に消火に尽力した功績により仮放免とな る。

明治 13 年 3 月 1 日

宮城県監獄署雄勝分監が宮城集治監に管轄換えになる

宮城県監獄署雄勝分監は作業成績が良好により、石盤採取事業を継続して漸次事業を拡 張する。国事犯はそのまま雄勝に収容され仮放免が決まると雄勝から放免された。児玉実 得も雄勝で仮放免となった。功績により仮放免となる。 明治13年4月・・植村荘七、前原胤二、市来政吉、雄勝分監から仮放免。3人は放免の帰り に監獄署の典獄の処に寄り、在官監中のお礼を述べ、鹿児島までの旅費がなかったために 水野副典獄に金12円の借用を申し出ている、典獄も快く15円を貸してやる。 (当時の職員の月給6円)同年5月国事犯石原近秀、雄勝火災の際、消火に尽力した功績に

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より罪一等減じられ特典放免となる。同年9月国事犯池田正義、雄勝火災の際、消火に尽 力した功績により罪一等減じられ特典放免となる。 明治13年3月29日 宮城県監獄署の煉瓦製作・・水野監獄署長はこの頃、煉瓦製作に頗る熱 中していた。野蒜の築港工事に使用するために囚人を使役して煉瓦を焼かせていた。長袋 村(現仙台市秋保町)の陶土を取って監獄内の本窯の火入れを行ったのは3月29日のこと、 その試作品を野蒜の土木出張所の黒沢内務属に鑑定させ、試作品適当との回答を得たので、 野蒜の現地で本式に煉瓦製作に当たらせることにした。 明治13年5月27日 野蒜の煉瓦工場視察・・9時仙台出発、野蒜に午後4時に着く、煉瓦工場 に至り点検する。事業大に進歩、上等品を製出するに至れり、丁長千葉定知、授業師植木留 吉をはじめ総囚の尽力、容易ならざる精神の然らむところと感銘せり、煉瓦製作所の実情 を視察して、5月31日に仙台に帰宅、県庁にも報告。3日には陸奥宗光にも面会して、心中 の喜びを噛みしめていた。(現在煉瓦製造場所は鳴瀬川、吉田川の合流点に水没し、当時使 用した煉瓦はわずかに近くの橋脚に残存するのみである。) 明治13年6月4日 水野典獄野蒜出張・・木局よりの依頼により囚人10数名を野蒜に遣わし ているが、煉瓦石製造に着手せしめられしが、丁長千葉定知氏並びに授業師植木留吉が率 先奨励により、囚人悉く服役従事し非常に尽力を以て終に上等煉瓦石を製作せられたりと。 この景況にては将来該地にて煉瓦石を要するとも、遠方よりの来品を仰ぐことなくして弁 ずべしと。何に至せかく工事の進歩するの一大幸福にして、誠に喜ばしく賀すべきことに こそある。 宮城日報 明治13年6月10日 賞金下賜・・記火災の際に消火に尽力した職員に対して下記のように賞 金が下賜された。宮城集治監雇今野源之進、同一等獄丁今野清七、同二等獄丁黒田虎之助、 村田和一の4名は宮城監獄署勤務中桃生郡雄勝浜分監に出張中、去る 2月3日の夜同浜民家出火の際、折からの強風で近傍に延焼するや、 分監の囚徒52名を引率して消火に尽力し囚徒1名も逃走に至らしめ ざるは殊勝なりとて、各人に1円づつ監獄署獄丁高橋千信も同1円、 集治監雇笹野直人は同じく糧食炊き出しに尽力せしを以て75銭、同 浜小学校教員男澤俊八郎も同じく75銭賞与された。 囚徒の活躍も目覚ましものがあり、特に国事犯の活躍が目立って いて消火の功績により減刑されたものが多数記録されている。宮城 監獄署長水野重教は日記の中で国事犯の活躍を賞賛して「国事犯に より不思議な幸福を得たり」と記録している。 明治13年11月5日 囚徒の減刑・・宮城集治監の囚徒11人はさる2月の桃生郡雄勝浜で分 監付近の民家での火災の際に消火に尽力した功績により減刑放免になったという。 仙台日々新聞

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明治13年6月5日

宮城集治監典獄石澤謹吾からの抗議・・石澤典獄が県庁に来て、水野監

獄署長に対して次のように抗議をして来た「近来諸県監獄に於いて囚人を御するに緩に過 ぎ、既に市中独歩を許す等は不都合なれば、本県に於いても然る事なきを要す。この旨監獄 局長の命なりとて、署長より談あり、なおこの旨県令より更に署長に喩達ありと」 そもそも囚人をして門外独歩させるのは法理上不都合なことは言を待たず。本県の如き は、その囚情かつ人物を見抜いて独歩をさせるなり。また石澤に於いて、平素我輩と懇親の 際、本局に至りこれを云うのはもっとも不可解なり。 宮城集治監典獄が宮城県庁に来て、内務省監獄局長からの命令だと、囚人の制御が緩に 過ぎる、囚人の市内独歩を許すなどは不都合極まる。以後禁止する ようにと、県令に伝えた。県令も水野監獄署長に対して囚人の処遇 を改めるように伝えた。 水野監獄署長の反論・・これに対して、水野は憤慨する。そもそも囚 人の門外独歩が法理上許されない事くらい百も承知の上だ。本県で 独歩を許しているのは、囚人の実情を考慮し、囚人の人物を見抜い てのことである。特例中の特例であって、今更「緩に過ぐ」だの「不 石澤 謹吾 都合」とかの評は当たらない。しかも石澤と自分は平素からの懇切 の間柄であるのに、何をもって県庁に出向いて、そんな告げ口めいたことを言うのか。自分 にはその真意が理解できない。不可解極まりないと日記にぶつけている。 集治監と監獄署の違い・・県監獄署は旧仙台藩以来の場所と建物を使って居り、更に職員は 土地の人間が多く、たまたま他県人とも云うべき水野監獄署長は旧沼津藩、旧佐幕藩士で あり、薩長藩閥以外の人間であった。 これに反して、宮城集治監は創設日浅く、典獄の石澤を始め幹部は中央政府から派遣さ れた官僚であり、獄則を厳守して大過なきを期することを旨とし、唯唯自己の栄進を望む 風が多かったのではないか。故に監獄局長の指令とあれば唯唯諾々、惟命惟随という態度 であったのではないか。 水野典獄の如きは、地位とか栄達とかは望むべきもなく、むしろ囚人に対して深い同情 を有し、出獄後の生活に有利な職業の指導や学習の機会を作ることに努めたのではあるま いか。 明治13年6月15日 国事犯の処遇・・同新聞では監獄署の国事犯の処遇について次のように 報道している「当監獄署では看守の見込みによりこれまで囚人に独歩を許し置かれしが、 此の程集治監の懲役人がそれを不公平とかなんとか言い出したので、俄かに獄丁を附ける ことになりました。してみると牛乳配りにも獄丁がつくでしょうか。」と、いささか冷やか し気味の記事がでるほどであった。陸奥伯は宮城県監獄署に移されて、結局有利だったの ではあるまいか。集治監だったら、自由を制限されること厳しく書見も翻訳も不都合だっ たに違いない 宮城日報

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明治13年11月5日

囚徒の減刑及び逃走・・集治監の囚徒の内10名は去る2月桃生郡雄勝浜

の火災の際に消火に尽力した功績により減刑若しくは放免になった。その中には西南戦争 の国事犯も多く含まれていた。又去る2日集治監の囚徒2名が広瀬川三文渡しに砂利取りに 行った際に3等獄丁半沢平蔵(塩釜分監で殉職)他4名の職員の隙をみて午後3時ころに逃走 する。 明治13年11月12日 国事犯の放免・・熊本県人安藤維のほか2名に つき検事局で仮放免の協議が行われ、熊本県人有馬源内と鹿児島 県人土屋宗太郎が仮放免になり、謝礼と称して水野典獄宅を訪れ 早朝から祝杯をあげた。獄吏水野の温情のあかしが見られる。 (放 免になった国事犯はその足で典獄の自宅を訪ねて、祝杯を挙げる のが恒例になっていた。国事犯は懲役刑を務めてはいるものの、実 際は一般人と変わらぬ待遇を受けていたことが水野の日記でわか る。) 国事犯 左下・安藤、右・有馬

明治13年12月4日 賞金下賜・・監獄署の2等獄丁高橋某は、去る4日囚徒を引き連れ外役作 業中に、集治監より囚徒佐藤某が逃走した旨の連絡があったので、引き連れて来た囚徒を 指揮して八方探索中逃走犯の佐藤某を捕獲したことは殊勝なりと賞金50銭下賜された。又 終身懲役武井某は集治監の囚徒が逃走したとき獄丁の指揮に従い所々探偵の末、脱獄囚が 潜伏している所を発見して捕獲に尽力した功績により罪一等減じられ懲役10年に減刑され た。(逃走犯を逮捕するのに、外役中の囚徒を指揮して捕獲する。そして捕獲に尽力した囚 徒は減刑される。終身懲役から懲役10年に減刑されることは、囚徒にとって終身監獄で暮 らさなければならないのが、10年で社会に復帰できることはこの上もない喜びであろう。 当時は集治監の体制がまだ固まっていないので、囚徒の優秀な者を職員補助として使った。) 明治13年12月21日 賞金下賜・・宮城県監獄署雇千葉定知、佐藤勝治、小島運治の3氏は、 煉瓦製造の為囚人を率いて桃生郡野蒜へ出張中、精励能く其の職を尽くせし段殊勝なりとて 昨日県庁より1ヶ月の俸給を下賜された。 仙台日々新聞 明治14年3月

監獄事務の分離

県庁内に監獄署を置き、警察から監獄事務を分離した。以後警察本署などとともに県庁 機構の中の独立した組織として、監獄本署(明治19年5月)、監獄課(同12月)、監獄署(同 23年10月)という経過を辿る。 監獄事務が警察から分離しても、人事面ではなおも警察と関わりを持ち、明治14年4月5 日、5等警部中村ありと。中、6等警部水野重教の両名が宮城県監獄署副典獄、9等警部水野 太郎は同看守長にそれぞれ兼務発令されている。 裁判制度の発展とともに、県内にも裁判所の支部が開設されそれに伴って、支部の所在 地に監獄支署が設置されることになった。 看守の俸給警察から新たに監獄に独立した看守の俸給は次の通りである。

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一等看守 10円・二等看守 8円・三等看守 7円・四等看守 6円 一等獄丁

8円・二等獄丁 7円・三等獄丁 6円・四等獄丁 5円

明治14年4月5日水野警部副典獄に昇進・・警察から監獄事務が分離したので水野警部は新 たに監獄署の副典獄に昇進する。典獄は県知事で名前だけの典獄で、監獄署の責任者は水 野副典獄であった。月報は35円を下賜された。 明治14年7月1日の給与改正・・監獄内ではそれまでの給与規定を廃止して次のように改正 した。 主食・・強役者(重労働に従事する者)七合(白米十分の四、挽麦十分の六) 軽役者(軽労働に従事する者)五合(白米十分の四、挽麦十分の六) 副食金一銭五厘以下

この給与規則改定は主食を白米とせず、白米4に対して麦6の混合としたことが特徴であ る。それは、監獄の改良に取り組んでいた小原重哉によって起草され、実行に移されたもの であった。なぜ、麦を白米より多くいれた飯を主食にしたか。一般の庶民、ことに貧しい人 たちは白米など口にすることができず。麦、粟、ヒエ等を主食としていた。それに比べて囚 人達が毎日白米を食べていることは矛盾していると小原は考えたのである。 囚人が罪を犯さぬ良民よりもまさった白米を毎食口にしていることは、刑罰の意味が失 われる、与論の批判も受ける恐れがあるという理由からであった。しかし監獄に収容され ているとはいえ、囚人の主食を一般人より減らしたものとするわけにはゆかない。 監獄で暴動が起きるのは食物に対する不満に寄ることが多いことは、小原は知っている。 このような事情で、経費節減の意味もあって白米100%であったものを白米40%、麦60%に することに定めたのである。 麦を主とした飯を主食とした以降、囚人の脚気患者の発生率は年々減少して明治17年に は皆無になった。国事犯の脚気患者も年々原減少して死亡者もいなくなった。国事犯で監 獄署から最後に釈放されたのは森本休五郎(懲役5年)で明治14年7月27日に放免されたが、 森本は麦飯を食べ健康な体で鹿児島に帰った。 仙台日々新聞

明治14年7月26日

監獄署の改築

水野副典獄は野蒜に出張し築港用の煉瓦を一 時借用して、監獄署の改築に当てようとする。無 論獄舎建設のことは、県令に相談してその諒解を 得た上でのことで、舟5艘に煉瓦2万枚を積み込。 7月8日に野蒜の川口から仙台に送り出した。 獄舎改築工事は7月下句には落成する予定であ る。同月29日県令が書記官同道の上、監獄署を訪 れて獄内を検分した。その前日の27日と28日に仙 台市民に監獄署内の煉瓦造りの獄舎を開放した ら4,802名の市民が見学に来た。

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改築した煉瓦獄舎図


明治14年7月30日

煉瓦監房完成・・今度監獄署において、新築せし煉瓦石造りの獄署は一

棟の長さ10間、横2間の総鉄窓にて第1号から7号まで、その新築費大凡5,000円見積もりで授 業師は明治10年に雇い入れた植木留吉にて、名取郡の根岸村の陶土にて焼きだしたものであ る。(監獄署の煉瓦造りの獄舎は本県における煉瓦造りの建物の第一号である。) 仙台日々新聞 明治14年8月1日 囚人の転房・・未決監2棟が落成したので、囚人を移転させた。1棟は堅牢 獄7房。1棟は尋常獄8房である。この日、煉瓦石を以て新築された獄舎へ移された囚人には、 夕食の節県令心づくしの特別食が配膳された。米飯に魚一切れがついた。囚人らは、従来の 獄舎に比べて空気の流通がよく、清潔でもあるので深く悦悦したということである。 明治14年8月2日 職員慰労・・水野副典獄は獄吏一同を対橋楼に招いて慰労の宴を開いた。 この度の未決監新築につき獄吏一同尽力した故を以て、県令から一人当たり50銭の慰労金、 並びに酒肴を下賜されたからである。設計に当たった建土木課の職員も招待した、囚人も喜 び、獄吏も喜んだ。 明治14年8月5日 内務卿松方正義来仙・・監獄を視察、県令、書記官が随行した。内務卿か ら獄事についての尋問あり、水野副典獄は一々答弁に及んだ。恐らく収容中の陸奥宗光につ いても尋ねられたのであろう。同月12日明治天皇宮城県到着の日、警保局長田辺某以下3名 監獄に来署、監獄の隅々まで点検あり。

明治14年9月3日

斬首の様子・・山形において殺人事件

を犯し、福島地裁山形支部で死刑の判決を受けた男(仁太郎) が監獄署内で断罪の執行を申し渡された。その状況を書き立 てれば、午前8時30分に死刑囚が囚獄(拘置所)より呼び出さ れ、看守に連行され警察署に歩む、警察署で白州に呼び回さ れ、法のごとく斬首の宣告を読み言い渡しを受けて死刑囚仁 太郎、少しも臆せず「お受けいたします」と答えた。 江戸時代の斬首の様子 看守、押丁はいざとばかりに促して刑場に連行した。かくなるべしは予てより心置きし事 なかろうに、さり是れとて女のために身は斬首の重刑に処せらるのみか、死後まで世間に浮 名を流すのかと思いきや、哀れふし路ち行く付き添いに来た人々もそぞろ哀れに思いつつ、 「最期に言うことあらば述べて何か望まれるものがあればと」恵み厚き言葉に仁太郎「この 期に及んで何事か言い残すことはない、ただ願わくば一太刀にとばかりに言い」默然たる心 の中をうちあけたる。 然らば急げと気を利かして早めに仁太郎がここぞとこの世の死出三途の川の監獄署ない に入れば、先ず控え室において酒肴を賜り時刻をはかりて刑場に引き出された、仁太郎は看 守の指揮に従い一段高首の座に悪びれることもなく辿った。 さて刑場に臨場の人々は一等警部兼典獄の鬼塚綱正氏を始め巡査に至るまで列を正して

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控えて警備は厳重になされていた。時遅れて警官が太刀取り

福島県監獄署

(斬首執行者)お今野源吉を招きよせ、仁太郎に「願いあれ ば何分とも聞き届ける旨申せよ」と言い渡す。 規則により目隠しをうたんとするが仁吾郎は「覚悟してい るのでその必要はない」と断るが、それぞれ説諭して目隠し をすれば悠然と首を伸ばし疾く(ハヤク)疾くと云う間も待 たずに源吉が「ヤー」と共に丁と切る刀は水も溜まらず仁太郎の首が落ちるかと思いきや、 いかんせんこの日に限り首筋半に切掛け、其の儘倒れ伏し悶え苦しむ、その姿を見るや周囲 の人々は「アナヤー」お騒ぎ立った。今野源吉は人々の騒ぎを制して、各ならんときの用意 して置きたる助定の太刀をもって今野は摺り切りに漸う首を切り落とせし、仁太郎の死体は 同宮町鳳応寺裏に葬られた。 明治14年9月10日 報知新聞記者原敬(後の首相監獄署訪問) ・・この頃に原敬が報知新聞記 者として東北漫遊中宮城県監獄署を訪れ陸奥宗光と対面している。後に陸奥が外務大臣にな ったとき原敬を陸奥は書記官に登用している。「原敬日記によると」原が陸奥と始めて会っ たのは、明治14年9月で宮城県監獄署を視察した時である。伊藤博文内務 卿の命令で、山形監獄署から宮城監獄署に移され、宮城県令松平正直は 伊藤内務卿から、陸奥を寛大な処遇をするように密命をうけ、この大物 政治犯を大切に処遇した。獄舎は旅館に譲らず、食事は山形時代と同じ く料理屋(井筒屋)からとりよせ、読書も面会も自由で、時には市内散歩 も許されていた。居室にあってはベンサムの訳筆をとり、しばし珍客を 迎えて高談放論に憂さを晴らしていた。

明治14年9月24日

原 敬

凶悪犯脱獄

この頃世上に噂高かりし、本県の警察官殺しの犯人藤田熊吉、宮城郡で縛に就きし海賊長 南吉五郎、仙台区芭蕉の辻にて捕縛の東京生まれ掏摸の親分田中彦十郎、国分町小谷某の手 代にて主人の金700円を窃取せし三浦徳治の4名は、去る22日午前2時頃看守菊池安通の目を 盗み宮城県監獄署から脱獄した。 この件に関しては様々な風評ある中で信ずべきは、当夜不寝番の看守達も新築の煉瓦獄舎 の堅牢なるを頼みに心強くなりしの事、且つ秋の夜長にしばし微睡み、夜回りのカチカチの 音に眠りを破られ目を覚まして見れば、獄舎の錠が目の前に捨ててあるのに驚き獄舎に近寄 り獄内を視察すると扉は常のごとく閉めてあるが、中には囚人の人影がなく始めて脱獄した ことが判った。 脱獄の手口については様々な風説があり、錠へは獄内から手の届く場所に在らず、獄舎の 前に捨て置き錠とて別に損傷も見えぬ捻り切った様子もなし、さりとて獄舎の鍵は署長自ら 納め置くので、事故看守等も容易に鍵に手を付けることもない、ましてや囚人の手に入る筈 もなければ、今回の脱獄に付いてはその係りの者の不手際に議論があるとの風説、何しろ斯 かる凶悪犯が脱獄したことは、監獄側の油断の事と存ぜられる。 東北毎日新聞

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明治14年9月24日

囚人脱獄・・有名な強盗藤田熊吉を始め、宮城郡寒風沢の長南某、国分

町の薬店手代三浦某、掏摸の親分田中某の4名は、去る22日午前2時片平丁(県監獄署)の煉 瓦造りの獄舎の錠を捻じ切り逃走せし、捕獲方の儀監獄署から警察本部に照会になり同署で は直ちに探偵方を四方に馳せて厳重に探偵中のよし、熊田は数度の糾問にも警察官殺しの件 は一向に自白するに及ばず、警視庁に移監する旨本署へ照会ありしも2、3日中に東京へ護送 する手続きをしている最中にてもありたるとは残念次第でござる。 陸羽日々新聞 明治14年9月26日 水野副典獄の苦悩・・9月下句、煉瓦作りに熱心だった千葉定知が没し た。既に9月12日、黒澤某から、監獄新築のために借用した煉瓦石2万枚を返済するように との催促状が来ていたのである。水野としては煉瓦石製作主任千葉定知を必要としていたの だ。技術指導の植木留吉は野蒜にいるが、囚人指導の指揮監督に巧みな千葉定吉の存在を欠 くことはできなかったのである。 明治14年9月27日

脱獄の再報・・藤田熊吉以下4名の脱獄囚の始末は上記に掲げたるが、尚

探索するに前号と趣を異にするところあれば聞きたるままに再録する。脱獄当夜午前2時頃 獄内に俄かに急病ありと叫ぶ声が頻りにするので、当直の看守菊池某が署長に報告したとこ ろ、署長から「然らば監房を開錠して房内を視察し見てくれ」と言われ鍵を渡されたので、 急ぎ監房に戻り房を開錠し房内の様子を視察したところ、いずれの囚人か分からぬが突然力 任せに胸部を殴りかかってきた。菊池看守が後ろに倒れたスキに4人の囚人は互いに顔を見 合わせて菊池看守を尻目に塀を乗り越えて逃走した。 署長以下当直看守は、菊池看守の帰りが遅いので、獄舎の方に様子を見に行ったところ、 菊池看守は大地に倒れ気絶したままであった。菊池看守を発見した当直者は脱獄と騒ぎ出し、 署内は大騒ぎになった。その頃脱獄者は既に遠くに逃げ去っていた。 以上が昨日探り得た処なれど、斯る強悪人を収容している獄舎を開房するのに職員1人と は、又囚人が逃走する物音に気がつかないとは、署長以下何をしていたのか未だその真相は 不明である。 陸羽日々新聞 明治14年9月29日 脱獄事件の当事者の処分・・22日の暁に、凶悪犯藤田熊吉、南彦次郎、 三浦徳治外1名が、厳重な官房から脱獄して、1週間を経過してもその消息は分からない、水 野はあれこれ苦悩の末、遂に同日に決意して、進退伺を県当局に提出して処分を待った。然 るに県当局は水野に対してはその儀に及ばずと指令すると同時に、脱獄者を出した責任を追 求して、高橋看守長に対して当日当直にあったという理由で、月報10分の1の罰金を課し、 更に看守小野某、菊池某、押丁の早坂某を解職してその処分をおわった。 明治14年10月1日 県令の指令・・県庁から呼び出しがあっ た。脱獄の件で叱責を受けるのかと思いつつ恐る恐る出頭す ると、県令から監獄署内で製作している煉瓦石を以て、県会 議事堂と警察本部の建築に用いたいので、煉瓦の製造に努力

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県会議事堂


せよとの「談判」であった。水野副典獄は県令の命を受けて、早速監獄署に戻り、県会議事 堂建築に要する煉瓦石の生産立案に当たるのであった。 明治 14 年 11 月 3 日 古河市兵衛の陸奥宗光面会・・東京から古河市兵衛が来て、陸奥の 親戚のかどを以て面会を求め、水野はこれを許可した。古河は当時東京での政変、自由党副 総理中島信行についても詳くに語ったことであろう。 古河 市兵衛(ふるかわ いちべえ、天保 3 年 3 月 16 日(1832 年 4 月 16 日)〜明治 36 年(1903 年)4 月 5 日)は、日本の実業家で、古河財閥の創業者。京都出身。幼名は木村巳之助、幸助。陸 奥宗光の二男の潤吉を養子とした。従五位。

明治 14 年 11 月 10 日 「在監人工銭規定改定」・・知事の在監人工銭規定改定命令がでた ので、水野は野蒜、石巻に出勤中の囚人労働の実情を視察激励のために出張する。10 日野 蒜に至り、13 日には高屋敷の運河浚いの現場に臨み、囚人労働の景況を点検、更に石巻大 街道に赴き士族開墾地を一見、囚人たちが仮監へ引き揚げて来るのを待って、一同に対して、 獄則が改正されたこと、労働の浅深を斟酌して手当を附することを説明した。 一同に餅を特配して激励もした。15 日には大街道出張所へ立ち寄り、野蒜一泊、同所に ある囚人へも獄則改正のことを示して激励した。そして野蒜の出張所と内務省の土木局出張 所へも立ち寄って用談をすませ、正午野蒜発、東名浜から乗船、塩釜に上陸、午後 7 時帰宅、 翌 17 日には県令に対して、視察結果を具状し、監獄署ないでの煉瓦の製作見込みについて 報告した。 余談・・現在の作業褒賞金にあたる受刑者の賃金が改定された。明治初期でも現在のよう に囚人労働に対して、賃金が支払われていたのである。 明治14年12月12日 囚人脱獄・・宮城監獄署の終身懲役福島県生まれ佐藤某(34歳)は藤田 熊吉と並び称されるほどの凶悪犯なり、監獄署では外かの囚人よりも一層厳重に警備してき たが、去る9日午前10時頃監獄構内で作業中に、看守の隙を覗い囚獄署の裏手の崖を滑りお ち、広瀬川を泳いで渡り向こう岸を登り行方不明になった。脱獄に気がつき大勢の職員が越 路付近を捜索したが影も形も見えなかった。 明治14年12月30日 仙台警察署上棟式・・年末30日、警察本部の上棟 式が行われた、水野副典獄も招かれて臨場した。この工事には、囚人 製作の煉瓦が使用され、洋風新式の建築として後々まで一異彩を示す のである。 「宮城県史」警察編の記するところによれば、この建築物は 国分町52番地の373坪の地を相して、64坪の建物を建て、総工費は 1,100円を要したとのこと、借用した煉瓦は10万個にのぼるという。 煉瓦一個8厘と予定したが、在監人工銭の規定ができて、一個9厘2毛 と高くつくことになった。 仙台警察署 55


明治 15 年 2 月 1 日

獄内談弁、当時の監獄署の様子

当時新法(監獄則)の施行で猶日も浅く獄内の取締総て完全具備とは申し難いけれども、 従前と比べると面目一新頗る改良の効果あり、中村監獄署典獄指揮の下事務一層整頓を見る べし、看守、丁長等囚人取り扱いは中々丁寧にて囚人も感服している。 監獄署の囚人は総て240名前後で、未決監には50余名収容中で日々多少の出入りはあるけ れど増減に至りてさしたる変わりもなき様子なりし。 当時の食事、医療・・1日の食事は1囚人に対して白米1合4夕、麦2合6夕の割合にて朝夕は汁 に昼は漬物1菜なり、尤も1週間毎に魚類一品を与えられるの規則なり、病監は2ヶ所あり、 1ヶ所は急病の者を収容、もう1ヶ所は入院を必要とする病監で、当時45名ほど入院してい た。医者は常勤医と宮城病院からの来診あり代わる代わる診察していた。常勤医の千葉氏は 最も懇切に診察して囚人皆悦び居りたる。 勧善学校・・学校は勧善の趣旨に背かず書籍の多くは修身に斯ものが多し、読書時間は毎夜 6時より8時までとて、当時講義は勧善訓豪の一書なり、監房の開閉は午前7時から午後5時ま でなり、獄内唯一不便を感ずるものは政治上の書籍を見ることができないということである。 仙台日々新聞 明治15年2月10日 囚人脱獄・・一昨日の明け方宮城県監獄署の囚人3名が、看守、押丁の 隙を窺い脱獄したのをいち早く看守が発見し大声で「脱獄だー」と連呼したところ、多数 の押丁が八方手分けして追い詰め、難なく3名とも捕獲された。 明治15年4月1日 「木村長七自伝」・・陸奥宗光の獄中生活・当時仙台の監獄に居られる陸 奥伯を訪問しました。仙台の監獄で伯の差し入れその他の世話をしているのは、古川某とい う人で、同人は古河財閥の人で陸奥の身の回りの事を総てやっていました。監獄にも顔が利 くので伯に面会をお願いしましたら即許可になり翌日、伯のもとに面会に行きました。 伯は元来朝寝坊の方であったので、朝もゆっくりと出掛けました。伯は病人ということで、 士族の屋敷に居られました。其故に監獄と言っても、実は名前ばかりで監獄の病室と云うの は、8畳敷の1間で縁側が付いておりまして、次の間が6畳敷で、そこには高知県人の国事犯 三浦介雄という人が居りました。座敷は庭に面して縁側には、2〜3寸角の格子が打ち付けて ありました。伯の座敷は、床の間は西洋の書物で堆高くなっていました。 「木村長七自伝」によって陸奥が病の故を以て、士族の8畳と6畳の部屋を代用監獄として、 格子を打ち付けただけの形だけの屋敷に、三浦青年を従えていたことが知ることが出来るの である。それにしても、優雅な禁獄生活である。水野副典獄及び宮城県令(知事)が如何に 陸奥を優遇していたのかが分かるが、しかし、その後ろで伊藤博文内務卿(首相)の指示が あったことは紛れもない事実である。

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明治15年4月1日

宮城県監獄署を脱獄した藤田熊吉のその後・・宮城、秋田、山形の3県の

境なる松森嶺の近傍は、常に聞こえし深山にて分けいる人の稀なるに、この頃嶺より遥か離 れたる谷間に時折煙の立ち上るのが見える。何者なるかと嶺を通る旅人の怪しむ道理にて宿 場人足どもの話によると、是れは昨年警察官を殺害して、その後監獄署から脱獄した藤田と 言う凶悪犯で10名余りの子分を引き連れ、鉄砲等の飛び道具を備え此処に立て籠り、この嶺 を通る通行人や旅人、荷物運送の人足等を誘拐して彼らの棲家に連行して手下として使って いるとのこと。 明治15年4月28日・・県会議事堂及び5月20日仙台警察署が落成し、開場式が挙行される。そ れぞれに使用の煉瓦は監獄署囚人の苦心製作にかかるものである。県会議事堂落成の前日松 平県令は監獄に臨み。看守以下の労を謝して金20円を、囚人へは肴を下賜された。新時代の 象徴新式洋風建築の落成を見て、県令はまず縁の下の力持ちを賞するところに、明治人のよ さ、真の牧民の姿を見るのは快い。

明治15年5月29日

雲野香右衛門の監獄土産 (1)・・雲野は仙台日々新聞記者で仙

台裁判所の判事を愚弄した科により監獄署に収監された。その時の監獄の様子を放免後に新 聞紙上に公表した。 夫より看守に引かれて、裁判所内の留置場に至れり、見ればここには窃盗犯、詐欺犯と思 われる者共、5、6人腰縄を打たれて、余が身体異業なるを見て大いに怪しむ風情あり、や がて午後5時頃他囚と共に片平丁の監獄署に赴く、この日あいにく雨降りで下駄・傘は法の 許されない処なれば鼠の如く濡れ、麻裏草履を穿きしのみにて東一番町を通る折り4、5人の 友人に行き逢うが言葉を交わすことも間々ならぬ有様なり。 囚人共は堅獄舎に繋がれ、余は一人煉瓦造りの並獄舎に繋がれた。堅獄舎は鉄格子で並獄 舎は木の格子との差別あり、並獄舎は夜具その他日用品の器物に至るまで堅獄舎より清潔に 見受けたり、さて、食事は4分6分の麦飯にて、汁は実葱の花に凍大根を漬けたたる香るお物 に野菜にも余も殆ど困却を極めたり。 明治15年5月31日 監獄土産 (2)・・さて20日より3日間は刑の宣告に就いて上告期間なれど も、既に法律の有無に問わず明文ある以上は、控訴するも無益なりと断念して、いざ骨休み の取越しせんと布団を被り横臥していた。 5月24日、獄吏に引かれて裁判所の白州に至れば、判事は余の人相及び生所、住所、その 他親戚、戸籍、年齢まで一々問われた。翌日午前7時頃獄吏2名来たり、既に裁判も確定した ので本日より定役に服すとて、囚人控え室に連行して、衣服を赤衣に着替え、更に食器も新 たに弁当さえ添えて渡され、朝食を食べた後再び獄吏に連行され囚獄署跡(現在の片平市民 センター)の作業場に至った。 数多の囚人共が余の頭髪を見て素敵な髪の長き野獣が来た。こやつは泥棒か、または追い 剥ぎかなどと罵りあい、是れより余は作業場担当の看守に引き渡され、作業は罫紙の摺り方 と定めれれ、罫紙場い至るここには東北者の桜田時俊氏も稼ぎ居り、外囚も大いに穏やかな る者共のみなればやや安堵の思いをなせしか。

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余は言論の罪に陥り身を獄舎に投ぜじものの、今度もって3回とす然れども服役するのは 今度が始めてなれば、先囚なる桜田氏等に其の作業の模様を尋ねしに、罫紙摺りは余と共に 3名にて余り骨の折れる仕事にあらざるしと聞き、益々安心したうが同日より更に巻紙続き を命ぜられ官に於いても、又同役囚人輩の余を憐れみなるべしと思えり。 明治15年5月31日 監獄土産 (3)・・署内の各囚は、午前7時の鐘にて就役し正午昼食後1時 間の休息を賜り、午後4時の鐘にて解役する規則なるが、25日の正午に社員の長橋氏が面会 に訪問され、今回の事件の付加刑の罰金は30日以内に完納すべき言渡があり、余は少し早く 放免されることになり早速監倉(軽い罪の人を収容する)に転房になった。 監内の同囚は何者共と見回すと、桜田氏他幼年囚のみと聞きまた一安心する。午後4時の 鐘がなると囚人たちは本日の仕事が終り帰監の準備をなし、中央看守所の前で看守より各人 衣服身体検査をうけて、終わった者から浴場に走り、その雑踏実に名状すべからず。新入り の囚人は入浴の場合酷く辱めを受けると聞き至るが、余は幸いにしてこの難をのがりけり。 署内には現在130余名収容されており、獄舎は甲、乙、丙、丁の4監あり、甲乙の建坪10坪 にて乙丙は8坪なるが丁監内には懲治場、拘留場、病監ありまた無籍授産者も此処に収容さ れている。署全囚人は、その向きの工芸(作業)に就役しているが作業場は大工、櫛工、陶 磁器、瓦師、竹細工、桶工、藁細工などがあり、日曜日は午前しか就役せぬ規定にて、囚人 は何れも藁細工を課される筈だが、余は社会では筆硯の他重労働をしたことがないので、軽 作業を命じられた。 監獄署内には昨年まで夜学校の設置があり多くの囚人が就学していたが、本年1月に法律 が変わり学校は廃止になり、監獄則に従い毎日曜日に本願寺の住職が出張して午後1時間ば かりお説教があるのみである。 去月24日広島から宮城集治監に護送途中、箱根の山中で逃走未遂事件を起こした終身懲役 堀某なる者が監獄署でも、10数人の囚人を脅迫して暴動を起こし集団逃走を企てたが、他の 囚人に密告されて未遂に終わる事件があった。 本月22日は余が満期放免の日なれば、早朝より社員数名が衣類等を持参して迎えに来ら れ、余は白州に呼び出されて看守長より放免の旨達しられ、まずは90日間無病にて腕車を連 ねて帰社せしは午前9時前でした。 明治15年6月10日

賞与下賜・・宮城県監獄署看守佐藤勝氏は、本年1月28日囚人佐藤某、

片倉某の両名が市内北9番丁支倉通りで外役作業中に逃走した旨の通報あるや、直ちに出張 し逃走した現場付近を探索中に、新坂通りの竹本某氏家に潜伏しているのを発見して難なく 両名を捕獲した。職務柄とはいえ誠に殊勝なり去る8日県庁に於いて賞金2円を下賜された し。 明治15年6月15日 囚徒移監・・宮城県監獄署より宮城集治監へ終身懲役6名護送になる。 (この頃から県監獄署に収容中の長期囚は宮城集治監の方に移監になる。)

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明治15年7月21日

市内でコレラ蔓延・・仙台市内でコレラが蔓延して大騒ぎになっていた。

監獄署ではコレラ対策として、正門、小門とも悉く閉められ署内で勤務する職員も消毒を励 行して、何れの人も入門を許さない断固たる処置を取った。 明治15年7月22日 コレラ流行・・監獄署副典獄水野氏の日記によると、この年コレラが全 国的に流行して、7月22日から10月にかけて、水野副典獄もテンテコ舞であった。7月22日荒 浜に蔓延して24名の患者を出したコレラは仙台区内にも流行し、立町でも4名が感染して大 騒ぎになった。 監獄署でも署内で流行した場合を想定して、監獄医と共に台原の避病院を一見し、監獄の 分を取り決め、更には27日に向山避病院を検分して、万一の場合の準備をした。一方囚人一 同に対して28日非常予防胃薬を混入した酒を、一人一合あて与えた。未決囚へは5勺あて投 与した。囚人たちはともかく酒が飲めると「一同の悦、大方ならず」であった。 明治15年8月10日 監獄署のコレラ対策・・水野副典獄は看守、押丁へ実丹、としゃ散各々 2、3包与え、看守佐藤某、阿部某他押丁5名に検疫係りを申し付け、監内を清掃し、未決囚 には差し入れ物(食料品)を禁じ、面会も極力禁止して十分に注意を加え囚人の作業は午前 中のみとして、身体の疲れを出来るだけなくし、食事も吟味しているので、今だコレラ患者 は人り罹る者なし、実に幸福と囚人等も喜び居る。 一方国の直轄する集治監では監内でコレラが蔓延して、急遽薬師堂にコレラ専用の避難病 院を建設したところ、29日の夜白山神社べっとうのらを先頭とする人民が病院に放火する事 件が起きた。翌日には事件に関係した10人が逮捕され監獄署に入ることになった。 明治15年8月11日 首切り佐七・・藩政時代の頃、斬首の執行が あるたびに藩の役人に依頼され刑場に出張して、斬首係を代行 していた仙台区同心町に住む今野佐七といえば、仙台では誰知 らぬ者も無しだが、昨今コレラの検疫係りとなり日々荒巻の火 葬場へコレラにより死亡した遺体を送り届けていたが、さすが に死人の焼きたる火にて握り飯をあぶり、これを最上のご馳走 なりと喉を鳴らしている姿に他の係員は舌を巻いて恐れたとい う。

斬首の刑

この佐吉が斬首の刑が廃止になり、仕事に窮して家屋敷を抵当に去るかたより金25円借り 受けたが、返金の期限になっても資金がなく返金できず抵当の家屋敷は貸主の所有となり 「売り家」の張り札を掲げる事になった。 然るに何者の仕業なるや其の張り札の脇に「此の屋の主は昔、罪人の首を切ること250余 人、それらの怨念が毎夜12時を過ぎると台所に怪しき響きがして幽霊が出る。」と、気味の 悪い張り札を付けてあるので貸し主は怒って破り捨てると、翌日また同じ文面の張り紙がし てあり、それが再三続くので貸主も恐れをなして、佐七と相談して元金の半額で売り戻すこ とになった。佐七大喜びで雨漏り畳の破れ等を修理しニコニコもので住居したという。

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明治15年8月21日

コレラ騒ぎ・・コレラ患者は仙台区だけでも、患者920名、死者410名と

も伝えられて居る。鎮台の軍人にも感染者がでたというが、幸いにして監獄署だけは1人の 患者も出さず、予防の厳なると摂生のよろしきによると長次官の賞賛を受けた。 明治15年9月26日 宮城県監獄署の近況・・同署の中村看守他2名が発起人となり、去る24 日当区北8番丁のお寺に於いて執行された弔祭法会に故看守千葉定知の1周忌にて、副典獄 水野氏も臨席いて懇ろに祭事を周施せられた。同署お看守が共同一致して能く規則を遵奉し 法律などを勉強する事は、囚人も自然に其の風に陶酔され修身学等を心に入れることになり、 誠に結構な事なり、また同署の押丁是川氏は看守に昇格して月報7円を給与される。 明治15年10月12日

西郷従道の巡視・・西郷隆盛の弟、当時農商大臣。宮城集治監を巡視

する。巡視に当たり囚徒の現状を問われ、食堂に於いては食料の様子まで 尋ねられた。 明治15年10月21日

西郷從道の伝言・・先年、鹿児島県人椎原国幹はじめ

数百人が、宮城県監獄署拘留中、百事にわたり注意を受け、別して水野署 長からは厚情を受けたので、是非とも西郷自身で水野署長に面会の上、謝 西郷 従道 儀あらんことを期していた。 然るに、過日来署の節、水野に面話あるべきところ、混雑したため、かつ集治監と監獄署 との区別も判然とならざるために、つい失念してしまった。このことを、よろしく伝えてく れと、西郷農商務卿は松平県令に篤と嘱託されたので、県令が水野署長を県庁に呼んでその 旨を伝達したのである。 明治15年12月23日 囚獄新築・・仙台鎮台(陸軍)において囚獄 署を仙台区川内輜重兵営構内に新築する。 (衛戍(えいじゅ)監獄) 通称陸軍刑務所、軍の法律に違反したものを収容する施設。裁判 も軍法会議で判決を受けたものを、一般収容者とは個別に収容し た、戦後廃止され、軍の法律に違反した者は宮城般刑務所に引き 継がれ収容された。現在は住宅街(川内亀岡町)になっており当 時の面影はほとんどない、監獄の記録も残されていない。敗戦時 に焼却したものである。 衛戍(えいじゅ)監獄

明治15年12月30日 陸奥宗光仮出獄

本日司法省から陸奥宗光、三浦某の両名本罪を一等減じ、直ちに仮放免する旨の電報が司 法卿(法務大臣)から県令に届いた。午後7時頃看守長の水野某が司法卿より県令への電報 の写を持参に付き、自宅より監獄署に赴き電報の内容を確認する。翌日、陸奥、三浦の両氏 を即刻呼び出し仙台裁判所検事より仮放免のお達しが有り、千葉某看守長と夫々手筈を整え て両名を裁判所に連行して法廷に出頭する。法廷に於いて検事より両人に対して、特典を以 て罪一等減じるの口達あり。両名はその場で仮放免になり、一旦監獄署に立ち寄り私物品を 受け取り引受人である南町の古川某宅にいたった。 60


明治16年1月8日

陸奥宗光離仙

本日仮放免後、仙台区南町古川某宅に滞在していた陸奥宗 光伯が東京に出発するというので、記念撮影をした後広瀬橋 まで水野署長以下監獄職員、警察関係及び裁判所関係者多数 が見送る。同月13日着京する。 明治16年1月31日 県令の監獄署視察・・松平県令(知事) は、去る27日和達書記官同道のうえ宮城県監獄署を巡視さ 左から 2 番目が陸奥宗光 れ、職務勉励の者は夫々酒肴料を下賜された。(当時の監獄 署の管轄は宮城県で県知事が名目上監獄署の署長になっていたので、時折県令は監獄署を視 察して適正に運営されているか確認していた。) 明治16年2月12日 囚人解剖・・監獄署在中の山形県生まれ無籍松田某なる者は、一昨日病 死したが、生前当人は医術研究の為解剖を願い出ていたので、宮城病院(東北大病院)へ死 体の引渡しの儀を照会した。病院では昨日監獄署より遺体を引き取り解剖致し、同病院一等 教論瀬川某より県庁の方にその旨の連絡があった。(監獄署内で死亡し、遺体の引取り手が ない場合は、監獄署の共同墓地は仙台区内米ケ袋松源寺構内にあったので、その場所に埋葬 されたが、囚人本人が生前に死亡後に医術研究の為、解剖を願い出る場合はそれを許可して、 死亡後宮城病院に送られ解剖された。) 明治16年3月13日 護送中の囚人(被告人)の覆面・・これまで囚獄署より裁判所へ護送す る際囚人に覆面を被らせていたが、これでは却って人目に付きやすいので、以後は竹皮の笠 を被らせ人力車で往復させることにした。ただし裁判所の門前より中までは例のごとく覆面 を被らせるよし。 明治10年新監獄署が完成した。監獄則に基づき懲役の判決を受けたものに対して作業を 課していた。しかし、監獄署の収容人員が多くなってき たため、署内だけでは作業場が確保できなくなり、やむ なく道路向かいにある旧仙台藩牢屋跡(片平市民センタ ー)に作業場を設けそこで労務に就かせた。新たな作業 場に行くには朝夕どうしても道路を横断しなければな

護送用竹皮笠

らず警備上も問題があり、地域住民からも苦情が殺到し たために新監獄署から作業場まで道路の地下にトンネ ルを堀り、朝夕トンネルの中を歩いて通ることにして問 題を解決した。

明治16年3月19日 暴徒取り扱い・・仙台高等裁判所では、召喚の囚人中凶悪犯と認められ る者は、人目に触れる処では決して覆面を脱することなく、食事の際も、囚人控え室、白州 においても弁当を遣えし、また弁当は別段賄い方により取り寄せ、すこぶる上等のものにし て取り扱いも至って丁重なる。押丁の手を掛けず看守自らこれを取り扱うとのこと。

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明治16年3月26日・・宮城県監獄署古川支署開設・同支署の新築について長らく紛糾を生じ て決定せざりしが、此の程ようやく右地所の古川駅字古城三ノ構へ新築することに定めら れ既に坪数も決定されるよし。 明治16年5月26日 囚人逃走・・宮城県監獄署の囚人粕倉某は過日脱獄せしが、川内追廻の 高橋某方に獄衣を脱ぎ捨て、衣類股引き帯など4点を盗み此の場所で衣類を着替えて逃走し たものと思われる。 明治16年6月21日 囚人脱獄・・宮城県監獄署在監の懲役10年牡鹿郡湊村生まれの伊藤某は 去る18日朝食後、かねてから共謀していた仲間と一目散に逃亡する。看守、押丁等が追跡 したところ瑞鳳山に駆け上がったので、大勢で山を取り囲み、もはや逃走不可能と思われ たが、伊藤某は滝之口渓谷に逃げ込み未だ行方不明との事、然るに同類の1人は捕縛された るよし。

明治16年7月

藤澤幾之輔逮捕

同年藤澤24歳の時、河野広中氏等の福島事件に関連して逮捕され、官吏 侮辱罪により重禁固8月罰金40円の判決を受け宮城県監獄署に服役した。 藤澤幾之輔:父は仙台藩士。宮城英語学校、東京神田の茂松法学舎で学び、明治 13年(1880)代言人試験に合格し仙台で開業。自由民権運動に従事する。宮城県会 議員、仙台市会議員・議長を経て、25年衆議院議員(当選13回)。以後、進歩党か ら立憲民政党まで憲政会系政党に籍を置き、大正15年(1926)第1次若槻内閣商工 相、昭和5年(1930)衆議院議長となる。6年貴族院議員に勅選、9年枢密顧問官。

藤澤 幾之輔

監獄署内での藤澤・・翁(藤澤)は服役するや罫紙場に廻された。ここの作業場には懲役10 年の2人の囚人が働いていたが、今ではこの2人とも誠に良い友達であったと云っている。 洵に2人は翁のためによい作業の師匠であり助言者であった。なんでそんないい人が懲役10 年となったかと言えば、昔は盗んだもの多寡を以て刑期を定めたもので、100円以上窃取し たものは懲役10年に処せられたものであった。 藤澤の作業・・罫紙場は監獄署内では一番楽なところであった。極楽と称されて他から羨ま しがられていた。ここでは翁は毎日監獄署で使う巻紙をつないだり罫紙を畳んだりした。 翁は最初慣れなかったので、1日に巻紙2本とか罫紙2本とか罫紙2、3帖くらいしかできなか った。此処に1週間ばかり置かれて翁は他に移ることになり、その日の昼飯の時に思いもよ らぬ旨い肉のご馳走が出た。ところが後からこれを聞くに監獄署に来た犬を殺し、それを 罫線用に使用する油で炒めて、味噌で味をつけて食わせた物だそうです。食って仕舞って 後の祭り、如何にともすることが出来なかった。 監獄内の様子・・この宮城県監獄署には普通建物が2棟あった。その一は未決監の方にあっ たもので、小ざっぱりした庭などがある小さな建物であった。ここは彼の陸奥宗光伯が明

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治11年6月国事犯に座して元老院幹事の職を奪われ獄に繋がれ、同13年4月出獄するまでい た場所である。 他の一棟は既決監の方にあった穢い荒屋である。翁が既決になった8日目に獄内に、勧善 学校が出来た。翁はそこの先生になった。翁のために一つの学校が設けられたわけである。 この学校の校舎は其の荒屋である。学生と云えば丁年未満の囚人であった。この青年達は 午前中は労務に服して午後1時からこの学校にくるのであった。翁も大喜びであったが、翁 から色々教えられる青年も大喜びである。 勧善学校の生徒・・僅か20人ばかりの青年であるがよく規律を守った。監獄署で最も禁物 なものは火気であるがこの学校にだけは朝から火があったし、またお茶も飲むことが出来 た。またこの学校は月に一度教誨師がいろいろと説教に来た。火とかお茶とかは、その教誨 師を待遇するためのものであった。 ところが翁がこの学校の先生になって2、3日目に突然病人の様になった。当時翁は粗末 な引割麦を食わせられていたので、その中にあった小石の為に歯を2 本傷つけた。それで毎日の飯はお粥と変わり、又特別に毎日2個の卵と 1週間毎にミルク1缶を与えられることになった。特に葡萄酒を与えら れるという歓待ぶりである。当時の囚人の扱いは良かったり、ひどか ったりで、こんな待遇は陸奥伯以外なかったことである。 翁は午前から学校に行って、午後学生の来るまで間自分の読書に当 てていた。恐らく翁としては一生中この時ほど読書の出来たことはな いだろう。この学校は翁のために設けられたものだから、翁の出獄と 同時に廃止された。

藤澤の授業風景

藤澤の放免・・いよいよ出獄の日は来た。何百人という人が翁を迎えに来ている。ところが 時間になっても出てこないので迎えに来た人たちは怒ってしまい、典獄を攻撃すると言う 始末。併し翁が時刻になっても出獄しなかったのは他に理由があった。それは当局の計ら いで翁の学校における子弟共に午前中に労役を休ませて、翁と別れを惜しませたためであ る。僅かな間であったが囚人共は翁と別れを非常に悲しみ、大きな男が声をあげて泣くと 云う始末であった。 明治16年9月29日 囚人死後の解剖を願い出る・・宮城県監獄署囚人菊池某は、明治14年11 月より中風に罹り寝起きも自由にならぬ程なり、同署において最も親切に看護せしを百方 治療を加えられし、同人廻らぬ舌にただ有り難くとのみ言い居り、この世をでた後(死後) その病気を研究する一助にと解剖を願い出た。 昨日遂に死去せしを以て、その筋にても哀れな事と思われ夫々手続きをへて、昨28日よ り3日間を期して宮城医学校生徒をして解剖せられる由、人の将に死なんとする其の言しを、 菊池もまた死して効ありと言わしめた。

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明治16年10月2日

野蒜監獄支署・・宮城県監獄署野蒜支署では、東名運河の掘削作業に囚

人を出役させているが、看守長千葉文五郎は頗る人望あり。(野蒜築港工事の際、野蒜に監 獄署の支署を設置して多数の囚人を出役させていたことが分かる。主に煉瓦製造、東名運 河の掘削作業に従事していた。) 明治16年10月3日 宮城県監獄署の収容人員・・懲役人324人(女8名)、未決100人(女4 人)、懲役人200人。野蒜支署28人は玉造郡大崎村(大崎市)に、その他96人は地方に出役 中である。 明治16年10月31日 赤痢の流行・・宮城監獄署野蒜分監に赤痢の流行ありと報道せしが、 去る23日まで6名の患者を出せり、されど医局員諸氏の尽力と係官の勉強に依りまず蔓延の 勢いなしと聞く、ところで同署に別に病舎あれば看護万端諸事頗る都合よし。 明治16年11月16日 囚人の法要・・宮城監獄署では毎週日曜日に囚人 を集めて本願寺の僧侶の説教を行って来たが、去る11日も例のごとく 柴田順法法師が出張して己の説教中に取り掛からんとした時に、囚人 の中より懲役10年の富塚某なるものが恐る恐る看守の前に進み出て 申すには、日頃忘れし事なれど段々法師の御説教で思い起こしたが、 本日は亡き母の7回忌に相当せし、されど我が身は悪業によりかかる 有様あいなり牢獄の中にいる果報なき者、法事を営み一遍の回向を試 したければ、せめてもの罪滅ぼしにと柴田法師に回向を願い出た。 集合教誨 ついては所持金の中より50銭を香花料に献じたき所存ゆえ、哀れ格別のご慈悲をもって ご許可くださるべく涙ながらに願い出た。立会の看守も座して感涙を催し、早速願いを差 し許された。柴田法師も其の趣を通じられ、同師も痛く賞揚し取り敢えず本願寺に人を走 らせ、僧侶2名を招き、添え物、香燭杯式、悉く整え懇ろに弔う。その後説教せられたとい う一念発起菩提心実にありがたきこそ南無阿弥陀仏。 仙台日々新聞 明治16年12月1日 囚人脱獄・・市内北材木町生まれの囚人鈴木某は、去る30日午前6時頃 監獄署内において便所に行くと偽って、看守、押丁の隙を窺い、同監を囲いたる板塀を飛び 越え逃走した。看守等が追跡したがついに行方不明になってしまった。 明治17年1月10日 看守の点検・・監獄署では看守、押丁の出勤点検は整列の方式を取らざ る処のものを、本年より午前7時をもって看守、押丁悉く整列して点検することにあいなり けり。 明治17年3月25日 凶悪犯鈴木某・・同人は尋常の囚人であらず。常時監獄署内に於いても 厳重に取り締まられ、密室監禁と称する特殊房に繋がれ、看守長代理の他は、妄りに入るこ とができず、食事は全て看守部長に於いてこれを取り扱い、まだ裁判所に出廷の際には、黒 の頭巾にて覆面をなし、何分にも厳重に扱いたるが、尤も此の獄舎は鈴木某他に入る者な く三重に囲み暗室なりと言う。 64


明治17年3月25日・・監獄署内では東京より剣道道具到着に付き、道場も新築され過日より 稽古を始める由。 明治17年4月2日 看守の巡回方法・・宮城県監獄署では此の程、各房巡回方法を一層厳重 にされ、毎夜看守長は2時間毎、看守部長は1時間毎、看守は30分毎夫々巡回することに成 りしと云う。(現在の舎室の巡回は15分毎になっており、巡回ボタンが設置されているの で、何時に巡回したか記録されることになっている。) 明治17年4月17日 看守の増員・・監獄署では最近囚人が激増して現在の看守、押丁の人員 では監獄署が管理できないので、県会議に図り看守の増員を決定した。(宮城県内の治安の 悪化に伴い犯罪が急増して監獄署が過剰収容になり、職員不足が問題となり県議会におい て職員増員の議決がなされた。看守は主に士族から採用された。) 明治17年4月22日 監獄署内で法律研究・・監獄署内において来る28日より看守、押丁等の 人々が申し合わせの上法律研究会を開き傍ら剣道の稽古も始められた由。(新たに採用し た職員の研修を始めた。監獄則の研修と実技として当時は剣道が義務付けられていた。) 明治17年4月22日 夜学の開設・・藤澤幾之輔の入獄以来監獄署では、囚人のために夜学を 開設に相成り、同氏をもって教師にあたらしめ丁寧に教授されるも、或之法律を講じ、また 人間の励むべき道理を説き、おしなべて善道に導きたるも囚人も先非を悔い自然面目に改 るに至りて、いずれの氏も勉強を覚えておられると云う。 明治17年5月1日 囚人の放免・・加美郡生まれ加藤某は窃盗の科により懲役10年に処せら れていたが、入獄後先非を悔いて就役中神妙に立ち働き、なお他の囚人を善道に導く等何 事も監獄署の為になるように心掛け殊勝に思われ、同署では右の趣をその筋に上申ありし によりて、此の程仙台軽罪裁判所(簡易裁判所)において2年300余日を贖刑金(刑期を短 縮するために金銭を裁判所に支払うこと。)8円71銭に代え、放免を申し渡されたと云う。 明治17年5月1日 獄中の出産・・山形県東村山郡の子供殺しの件で入獄中の大場某の妻た く(22歳)は予てより妊娠中であったが、去る26日午前2時頃腹痛を模様し、しばらくして 産声高く男子を産みたる、看守、押丁はあれこれと周旋一方ならざりと。(当時の獄中出産 は、産気付いた後産婆を呼ぶなどさぞ大変であっただろうし、産後も子供の世話等女看守 の少なかった時代なので監獄としてもその取り扱いに最も苦慮したことであろう。) 明治 17 年 5 月 12 日 集治監囚徒の逃走・・宮城集治監では宮城郡塩竈村に分監を開設し て、集治監の囚徒を使い塩竈近郊の開墾、築港、道路開鑿などの作業に従事させていた。 昨日午前 7 時頃、予め計画中の囚徒多数が脱獄を企て看守、押丁に襲い掛かり、看守長代 理半沢平蔵及び押丁岡崎一の両名は重傷を負い、後に半沢氏は死亡したとの急報が集治監 に入った。

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明治 17 年 5 月 15 日

職員の慰労・・宮城県監獄署では特別のご詮議を以って、毎週日曜

日に夫々の用達を署内集めて食物の市を設け、1 年以上の囚人にて服役純益金あるものは何 品によらず買い求めることが許可され、かつ風呂も立てて其の労を慰められ又最近袋町の裏 には剣道場を設けて看守、押丁をして演習せしめられるという。 明治 17 年 5 月 19 日 剣道場落成式・・去る 16 日宮城県監獄署に於いて、剣道場落成式を 執行された。当日臨場ありしは松平県令始め各課長、宮城集治監から安村典獄、看守、押丁、 仙台警察署より署長始め警部、巡査等各設の席に就かれるや、3 本勝負及び柔道などありし、 中々盛んなりし、尤も来賓には折り詰めを配られたし。 明治 17 年 5 月 29 日

囚人の脱獄・・宮城県監獄署に懲役 4 年の高橋某と云う囚人あり、

大工職のものなれば昨日も例の通り監内木工場で作業中、看守の隙を見て素早く外塀に梯子 を掛けて蜘蛛の如く駆け上がり難なく乗り越えて、獄衣を脱ぎ捨て何処とも泣く逃走した。 同署では八方へ手を遣わしたが未だに行方不明である。 明治 17 年 6 月 6 日 囚人の増加・・監獄署では日増しに収容人員が増加して、当今 650 余名に至り、事務頗る繁雑となり去る 5 月中の願い事は 1,919 件になり。 明治 17 年 6 月 20 日 代書人の官許可・・宮城県監獄署ではこれまで代書人を設けておら ず、人民が当署で関係のある囚人に面会又は品物の差し入れを望む場合、願書の書き方に困 惑して、止むを得ず近傍の者に代筆を頼めば以外の賃金を取られ、その不便は計り知れない、 故に今度庄司某、山澤某の両人に代筆を官許したことにより、本人達が自費で監獄署脇に事 務所を新築して、毎日代理人を置き願い事を等の筆耕料を仙台裁判所に代理人の賃金に倣い 代書することになった。 明治 17 年 7 月 12 日 宮城県監獄署未決監への差し入れ・・同監への差しれ物は流行病お 予防の為、夫々制限が設けられているが、その差し入れで許可になっているものは、鯛、鰈、 細魚の生魚なりては一度炙り上げ、または煮立て調理お宜しき物たる。牛肉、同鶏肉、生卵、 鯛味噌、鰹味噌、煮付けなる冬瓜、同里芋、同山芋にては可、その他は受付られぬ。 明治 17 年 7 月 31 日 囚人の病患・・監獄署では此の程来の炎天下で、とかく病気気味に て医師の診断を請う者が多い、時には 1 日に 50 余名あるとて、同署にては丁寧に囚人の診 察いたしているところ、そのうち病患い罹るもの僅か 10 名程度にして、大抵のものは水の 飲みすぎによるものである。監獄署では暑中に限り各囚人に日々琵琶葉湯を給与されると云 う。

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明治 17 年 8 月 18 日

囚人の縊死・・宮城集治監塩竈分監において暴動をなし、看守、押

丁を死傷せしめた発頭人鳥取県因幡国八上郡高橋村生まれの終身懲役渡辺某(32 歳)は殺 人等の被告人として監獄署の秘密監に収容されていたが、去る 14 日の夜看守の隙を窺い房 内の鉄窓に 3 尺帯を駆け自殺した。 明治 17 年 8 月 28 日 監獄署の在監者数・・去る 25 日の調査によると監獄署の在監者数 は、既決 477 名(女 47 名)、別房舎 39 名、未決 201 名(女 21 名)合計 717 名。

明治 17 年 9 月 1 日

凶悪犯鈴木安吉の脱獄

去る 30 日午後 2 時 30 分頃鈴木某が脱獄に及んだ。同日監獄署周 辺に非常用の早鐘が響いた。周辺の人々は脱獄囚あり我捕縛して手柄 にせんと、広瀬川で川狩をしている人々も急に脱獄囚の捕縛に心を配 る折柄、監獄署の押丁、看守を始め小使人まで大勢獲物を引っさげ川 原を目指して駆けきたる。 この時既に警察に急報ありと覚えて、市村警部は 20 余名の巡査を 従え出張し手分けして捜索していた。実に今回の脱獄は容易な事では なく、脱獄者を糾問すれば何と鈴木某にて、監獄署に収容中は中々油 断成り難しと、両足に鉄鎖、その上に一貫 500 の重釣鐘を結びつけ、 両足に鉄鎖 看守 1 名が不断の張り番(24 時間監視)つき内役に僅かの隙もなきものなのに、如何なる 術をばなして、鉄鎖を取り外し米つき場から脱室して 9 尺余りの外塀を苦もなく飛び跳ね本 署向かいの桑畑毛に逃げ込んだのか。 同署門前へで遊び居りたる子供らが早くも脱獄囚を見付けて「囚人が逃げ出した」と、叫 びたてたる声に押丁、看守が一大事と非常の早鐘を鳴らし、或いは警察署に急報した。脱獄 囚鈴木某は、桑畑けより広瀬川へ飛び込み向こう岸にたどり着くと其の儘何処かえ姿を隠し て見えなくなった。 凶悪犯捕縛・・此の処に監獄署看守佐藤某氏は、この日幸い非番として同氏が代々の檀家寺 なる向山宗善寺よりの帰り路、藩祖政宗公の御霊屋下工藤屋敷の元結製造所に来たとき裏手 の藪に逃げ込みたる怪しい曲者を発見して、その男は正しく鈴木某と認め直ちに羽織を脱ぎ 捨て韋駄天走りに駆け入り様に鈴木某の平首確と掴み、捻り倒すさんとしたが、彼も去る者 激しく抵抗し互いに揉み合う中、大勢駆けつけた監獄署の職員に十重二十重に縄をかけられ 捕縛された。 明治 17 年 10 月 6 日 凶悪犯鈴木安吉の最期・・宮城県内はもとより、東京の新聞にも報 道されるほどの凶悪犯鈴木某は、一昨日監獄署の看守柳沼某の刀の露と消えた。監獄署では 近日中に絞首に処せられる者があるために、刑場の掃除の為に凶悪犯鈴木某に懲役 10 年の 者を連鎖で繋ぎ合わせ、高橋看守警備の元草取り作業をしていたが、いつの間にか職員の隙 を窺い連鎖を外し脱獄しようとしていた。

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草刈作業を監視していた高橋看守は鈴木某の不審な動作を見て、連鎖を確認しようとした ところに、柳沼看守が監督者として巡回してきたのを見るや、鈴木は逃走しようと走り出し たが、それを現認した柳沼看守は素早く鈴木の襟首を掴んで引きずり倒した。 鈴木は大胆不敵にも「邪魔するのか」と看守の手を振りほどき、隠し持った利鎌で柳沼 看守に真正面目掛けて切りつけた。「咄嗟」と見れば柳沼看守は「心得たりし」と、帯剣の 鍔を以て受け止め、身を退去し早速の早業で刀を抜きその手で、鈴木の手に切りつけた。 さしもの鈴木も鎌を「カラリ」と手から落とした隙を就いて、更に付き手をいれ目的外れ ず喉を付いた。 其の儘飛び付き捻り倒したが、鈴木は尚も逃げようと身をもがくところを、そうはさせ まいと高橋看守も帯剣でなおも抜き打ちに頬に切りつけ、肩先を 8 寸余り切り下げられ、 不敵の鈴木安吉も刑場の草原の露と消えたのは、一昨日の 4 日午前 11 時 20 分なりしと実 に心地良き次第なり。 明治 17 年 10 月 8 日 鈴木安吉の遺体・・同人の遺体は城田某の倅鶴吉が叔父にあたるを 以て願い下げられ、夜中に米ケ袋の松源寺に埋葬された。誰が言いだしたのか市中では同人 の墓地に参詔すると、無尽に当たるなど南の方で流言するものありしとは愚のいたりなり。 (当時凶悪犯鈴木安吉の墓石を身につけて博打をすると勝つという噂が立ち、夜中に鈴木の 墓石を削るものが後をたたなかった。) 明治 17 年 10 月 11 日

看守の増給・・凶悪犯鈴木安吉を切殺された監獄署看守柳澤某

高橋某の両名及び御用掛かり石塚某に対して一等宛昇給される。 明治 17 年 10 月 25 日 伝染病の発生・・宮城県監獄署で赤痢患者発生、去る 22 日より 28 日までの 1 週間に 19 名の患者が発生した。 明治 17 年 11 月 17 日 獄事会の開催・・宮城県監獄署において各支署長(古川・石巻・大 河原)を招集して、中村典獄の会頭にえ去る 15 日より獄事会を開催して一昨日閉会された という。 明治 17 年 11 月 24 日

藤澤幾之輔の放免・・同氏は一昨日満期いて出獄されしにつき、有

志諸君は先ず、片平丁の大観楼にて待っていた。夫より午後 2 時を以て元櫓丁の大二楼に会 して出獄の祝宴を開かれたし、会したる人数は 60 名ばかりあり演説もあり中々盛んなり。 明治 17 年 12 月 20 日 獄舎の落成・・監獄署の獄舎 2 棟が此の程落成した。(県内の警察 制度が整備されてきて犯罪の検挙件数が上がり、それに伴い監獄署の収容人員が増加して獄 舎の増築が急がれていた。当時の獄舎は煉瓦づくりのモダンなものであった。当時の職員の 俸給は書記(現在の庶務課長)25 円、看守長 15 円、看守 7 円であった。) 明治 17 年 12 月 22 日の在監人未決囚 208 人、懲役囚 515 人、各支署併せて 790 余人。

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明治 18 年 1 月 17 日

脱獄囚の死刑判決

仙台の裁判所において、去る 17 年 5 月宮城集治監塩竈分監に於いて囚徒 11 名が看守半 沢平蔵氏を殺害し、押丁岡崎一の両氏に重傷を負わせ遂に半沢看守長を死に至らしめたる重 罪公判開廷中の被告人谷某、金鉉某,森田某、梶川某、新田某、徳野某、川中某、姉尾某、 楠本某及び、未だ逃走中であるで村西某、杉野某の 11 名は何れも死刑の判決をうけた。 (実 行犯 11 名中 2 名は逃走中であるために欠席裁判となる。) 明治 18 年 2 月 25 日 監獄署支署の実地監査・・牡鹿郡石巻支署、志田郡古川支署は近頃 非常に在監者が増加したために監房隘路なるを以て、実地監査のため本署長中村某が御用掛 かりの高橋某を従えて、両支署へ巡回すべき旨を命じられた。尚監獄署の在監者数は、本月 22 日の現在数は未決・既決併せて 926 名なりしと言う。 明治 18 年 3 月 4 日 囚人脱獄・・監獄署収容中の懲役 5 年原田某(33 歳)は密かに隠し持 っていた櫛引き鋸をもって舎房の格子を切断して逃走した。翌日早速追跡したが、名取郡岩 沼阿武隈川の渡し場より船を盗んで逃走したのは明白であるが、その後の行方は絶えて分か らない。 明治 18 年 4 月 6 日 監獄署職員の凧揚げ・・去る 3 日は神武天皇大祭日なるを以て、監獄 署職員一同休暇なりし、看守、押丁は銘々に早くより企てて居たとみえて、同日午後 1 時頃 より夫々台原に集まり 16 枚張りの大凧に「腕力」の 2 字を染抜きたる物を飛揚して一日の 與を催せしと。 明治 18 年 4 月 9 日 監獄署の在監者数・・宮城県監獄署の在監者は既決 655 名、未決 198 名、支署 3 ヶ所併せて 110 名、合計 963 名なりしと云う。同日付けで看守 6 名、押丁 16 名 新拝命あり、俸給は 6 円なり。 明治 18 年 4 月 13 日 監獄署の現状・・同署では囚人が増加している為に、種々の出費が かさむにより、今度釜の築法を改めて薪の消費量を減少させる事とする。また新たに採用し た看守、押丁の研修のために外部より講師を招き勤務の合間に受講させる事とする。更に現 行法律監獄則の研修も追々実施する予定である。(収容者の急激な増加により、職員不足が 深刻になり大量の職員を採用した。看守は士族の身分を有するもの、押丁は平民から採用し た。職員に対する監獄則及び、その他の法令の研修も必要なので、その経費もバカにならな かった。) 明治 18 年 5 月 14 日 監獄署の工作場道・・監獄署には従来同署の作業場に囚人を出役さ せるには片平丁の公道を横断しなければならなかったが、今回監守長千葉某氏の屋敷内に新 たに作業場までの道を造り通用することとした。道が近くなり逃走の憂いが少なくなり頗る 便利になったと云う。(朝夕監獄署の獄舎から囚人の作業場に行くにはどうしても片平丁の 公道を横断しなければならなかった。それも数百人の囚人が毎日のように公道を横断するの

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で逃走事故も多発して与論の批判もあり、更に職員の負担も大きかった。そこで監獄の職員 の私有地に近道の道路を造ったものである。その後更に公道の地下にトンネルを堀り、その トンネルを通って作業場に通役するようになった。)

明治 18 年 7 月 10 日

脱獄囚の死刑執行

宮城集治監塩竈分監で職員を殺傷して脱獄した谷與吉ほか 8 名の死刑が執行された。その 時の実況を当時の新聞は次のように報道している。同日午前 5 時宮城県監獄署中村典獄に谷 與吉等死刑確定の脱獄囚が次々に呼ばれ、本日死刑執行の旨言い渡された。死刑囚は刑場に 引き出され餅・酒を賜りいよいよ準備が整えられた。 当日は仙台控訴裁判所、検事筧某、仙台警察署署長、警部他 5 名、集治監からは安村典獄他 6 名また、医局員 2 名参列し た。午前 6 時から 2 名ずつ一度に執行された。その順番は第 1 番金弦某・森田、第 2 番梶川・川中、第 3 番楠本・谷、第 4 徳 野。姉尾以上 4 組 8 名にて、楠本某はさすがに立ち上がること もできぬ有様にて係りの職員が後ろより抱き抱えて絞首台に 登らせた。また他の死刑囚は絞首台に登り念仏を唱えるもの、 題目を唱えるもの、谷某に至っては臆することもなく高らかに 詩を吟じたる。徳野・姉尾は都々逸を連節に謡うなど大胆な振 る舞いなりし。 死刑執行の様子

囚徒の解剖・・さて総ての執行が終わったのは午前 8 時頃である。人の将に死にならんとす る時その言や五逆十悪の罪人も知死期はまた格段なるものと見え、その死刑に処せられたる 者の中で 6 名の者は殊勝にも解剖を願い出て医学の研究の一助にもなりたしと言い出せば、 その筋にて法令の如くに手続きを踏まれて去る 9 日より宮城医學校及び陸軍病院において 解剖した。 (当時の刑場は宮城県監獄署内。現在の片平市民センター構内に設置されていた。 これまで宮城県監獄署の歴史の中で 1 日に 8 名の死刑の執行が行われたのは初めてである。 日本の近代行刑史の中でも大逆事件 12 名に次ぐ大量死刑執行である。ちなみに戦犯の死刑 執行は東条英機以下7名である。) 明治 18 年 8 月 20 日

女監取締婦・・宮城県監獄署では、女監取締婦(女性看守)に対して

袴を着用するように指示された。(当時は男子看守には制服が定められていたが、女性看守 には制服の規定がなかったので新たに袴を着用して勤務するようになった。) 明治 18 年9月9日 仮出獄の際の副典獄の訓示・・監獄署の囚人平間某なるもの、放火事 件で懲役 5 年に処せられたが、入監このかた獄則を守り他囚の模範なる程に、去る 6 日仮出 獄の言い渡しを受けた。当日中村副典獄は幹部職員を引き連れ席を設けて、ほかの囚人も列 席させ、厳に仮出獄の言い渡しを行った。 その後、副典獄は囚人一同に向かって「汝らの衣食住は是れ同胞の血税にて、汝等は悪業 の為に良民を苦しめ、返す返すも申し訳なき次第故に一日も早く刑期を終え良民なるを以て

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前遇を慎み、しかるに政府はかかる謹慎者を仮出獄の恩典をもって刑期を短縮する。」と最 も懇ろに列席の囚人達を説諭された。囚人も思わず獄衣を濡らしたと云う。 明治 18 年 9 月 14 日 脱獄囚の減刑・・愛媛県生まれの平民新田磯五郎は、塩竈分監で看 守謀殺の科により本年 1 月仙台重罪裁判所で死刑の判決を受けて宮城県監獄署に拘禁中の ところであるが、今般特典をもって本刑 3 等減刑して懲役 9 年の判決となった。(新田は死 刑の求刑だったが、その後の取り調べで分監を脱獄して逃走したが、脱獄の際に職員に直接 手を下すことなく単純に逃走したと判明したので死刑から懲役 9 年に減刑されたものであ る。) 謎の墓石・・新田は獄中で死亡したが親族(当時は遺体は親族以外引取りができない)が遺 体を引取りに来て、遺体は囚徒の合葬碑の中に葬られずに、集治監の合葬碑の傍に墓石があ り葬られている。新田は愛媛県生まれで宮城には身内はいないはずであるし、愛媛から親族 が来たとも考えられず誰が埋葬し墓石を建立したのか全くの謎である。 大逆事件・・1910 年 5 月各地で多数の社会主義者等が明治天皇の暗殺計画をしたとの理由 で検挙され,翌年 1 月 26 名の被告が死刑その他の刑に処せられた事件。裁判は 10 年 12 月 10 日から非公開の大審院刑事特別法廷で行われ、翌 11 年 1 月 18 日には 24 名に死刑、 幸徳秋水ら 12 名は 1 月 24〜25 日処刑された。 明治 18 年 11 月 11 日 宮城県監獄署貞山堀・・名取郡蒲崎浜方面に当たる本県 5 大工事の 内、貞山堀の堀割工事、卽ち第 6 区の内宮城県監獄署に於いて請け負ったが、此の程仮監も 落成し更に 80 名の囚人が差し回された。 明治 18 年 12 月 18 日 宮城県監獄署の撃剣会・・去る 1 日の正午を以て来場の方々は正面 警部長高崎某、宮城控訴裁判所検事筧某、仙台警察署長樋脇某その他 5 警部、宮城集治監か ら書記山崎某他 4 名の諸氏席順に従って着席された。副典獄中村某が主座にありて書記、看 守長の面々が審判となり、麻布選手、藤田選手両剣士の勝負について午後 1 時より 1 本試合 3 人勝ちの試合が始まる。全ての試合が終わったのは午後 5 時ころなりし、その後それぞれ の参列者に饗応あり且つ、試合参加者には折詰を配られたし。 明治 19 年 1 月 29 日 監獄署の現況・・同署では目下非常に多忙にして、職員は午前 8 時 出勤、午後 9 時退庁にして事務を整理している。看守、押丁に至るまで勤務以外の時間帯に 法律(監獄則)の研修又はその他の常識として漢書或いは歴史等の研修をするために、中村 副典獄を中心に、全員参加の研修計画を作成しているが、新年度から未だ 1 回の開催なし、 去る 20 日になりようやく開催したと云う。以後毎月開催の予定と聞く。 (過剰収容につき大 量の職員を採用したが、業務に追われて新採用の職員の研修する暇がない。) 2 月の在監人は未決 125 名(女 13 名)、既決 586 名(女 15 名)、各支署 67 名、合計 778 名。

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明治 19 年 2 月 13 日

看守に短銃の携帯・・同署では明治 19 年度より、看守に短銃を携帯

すること、押丁には洋剣を携帯させるように規則を改正した。 (収容増のため、監獄署内の治安が悪化しているので職員の身を守るために武器の携帯を 認めることにした。)更に獄舎不足による過剰収容が問題になり未決監の増築が図られた。 明治24年8月・・大河原支署が廃止されたが、この直前の同年8月14日、大河原警察署長今 野三朔が、兼ねて宮城県監獄書記、大河原監獄支所長を命じられている。これは、残務処 理程度の暫定人事だったものであろう。 明治27年2月8日 宮城県監獄署の隧道・・昨年本県議会において、当片平丁なる同県監獄 署囚徒が各自工作場に赴く際に、一般共通の道路を往来するは風紀上また警備上不都合を 感ずるところから、同署から広瀬川河畔の工作場まで隧道を堀り通行させる議は県会議員 の大多数をもって可決せられた。この事につき過般本県技師佐藤氏外1名が、同監獄署に出 張隧道の位置、その他測量を終えられた由にて目下其の設計中なりと聞く。 東京朝日新聞

明治 36 年 3 月

宮城県監獄署は仙台監獄に改称

「監獄官制」の公布により、同月31日限りで宮城県監獄署は仙台監獄と改称された。こ の時、すべての監獄は司法大臣の所管に属することとなり、監獄事務は、一切県から国に移 った。(当時の監獄の維持管理費は政府の指示で地方税から拠出されていた。宮城県では 年々囚人の数が増加して、経常経費支出では警察費、土木費に次ぎ、教育費と並ぶ多額の負 担となった。1891年(明治24年)連年の水害による失費で苦しんだ県会では、「国法施行 の要具」である監獄費を国庫負担にするように請願し、ようやく1900年(明治33)監獄費 は国庫支出になり県監獄署は国の管理に統合され、名実伴うものになった。) 明治37年5月 仙台監獄の廃止、宮城監獄仙台分監の設置・・勅令を以て同年6月1日限りで 仙台監獄が廃止され、仙台監獄は石巻及び古川の両分監とともに宮城監獄に合併され、そ の跡に宮城監獄仙台分監が設署された。 大正7年

宮城監獄仙台分監・・片平丁から米ケ袋鍛冶屋前に移築される。(現在の放送大

学の敷地にあった監獄分監が現在の片平市民センターに移築された。当時は主に未決者を 拘禁していた。すぐそばに裁判所があり被疑者の裁判に便利なために移築された。) 大正11年5月 監獄から刑務所に改称・・宮城監獄が宮城刑務所と改称されたために宮城監 獄仙台分監は宮城刑務所仙台支所と改称された。 昭和17年10月1日 宮城刑務所仙台刑務支所廃止 宮城刑務所の女区が廃止されたために、未決拘禁者は元女区へ収容となる。 (現在の仙台拘置支所敷地)

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「鹿児島県人七士の墓」の歴史 宮城県監獄署が開設したのは明治10年7月である。開設と同時に監獄署内で死亡した引き 取り手のない囚人を葬るために、米ケ袋の松源寺が選定され、国事犯が護送される頃には 既に幾人かの囚人が葬られていた。 明治11年9月10日に国事犯土岐丑之助が監獄署内で病死したので監獄署では鹿児島に住 む親族に死亡通知を出し遺体の引取りを要請したが、当時の社会情勢や交通機関の問題等 で、引きとりに来ることができないとの連絡があったので、監獄署の方で監獄則の規定に より、指定された寺に葬ろうとしたが、国事犯達の反対もあり、監獄署では国事犯と一般囚 徒を同一の墓に埋葬するのは忍びないと して、瑞鳳寺境内に埋葬していたのである。 墓の管理は監獄署で毎年春、秋、お盆に は掃除役の一般囚徒と監獄署の職員、そし て瑞鳳寺の住職が読経して供養していた。 明治36年監獄署は司法省の管轄になり 仙台監獄と改称され、翌年宮城監獄(宮城 集治監)に併合される。墓の管轄は宮城監 獄となり、宮城監獄は大正11年宮城刑務所 と改称され、それ以後昭和41年まで国事犯 の墓は宮城刑務所の管轄になっていた。 改装前の七士の墓の写真

別府氏による七士の遺族探し・・昭和35年別府氏(大分県小林市出身)は、河北新聞で瑞鳳 寺にある七士の墓の供養の記事を見て、小林市出身で霞の目の自衛隊に勤務していた別府 氏は、七士の遺族探しを思いつき、宮崎県小林市で郷土史を研究している父に依頼して南 日本新聞に、宮城県にある鹿児島県人の墓の現状を報道してもらった。この新聞記事が宮 城に眠る国事犯達の最初の報道ではないだろうか、記事の内容は次の通りである。 昭和35年4月18日 西南の役の勇士弔う仙台七人の鹿児島県無縁仏 西南の役に西郷隆盛に従い戦い、捕らえられて宮城県で拘留服役中、獄死した13人のう ち、引き取り手のない7人の供養が、23日仙台市で行われている。これは小林市出身の別府 利成さん(40歳)(仙台市霞目自衛隊業務課勤務)から、郷土史家の父利兵衛(70歳)に 宛てた手紙により解ったもので、手紙によると墓は仙台藩祖伊達政宗の廟のある瑞鳳寺境 内にあり、鹿児島県人の墓と記した案内板があり、石碑まで建っている。 西南の役の際、305人の薩摩藩士が、長崎で懲役を言い渡され、隊長椎原国幹以下仙台に 護送服役中に病死した。7人は引き取り手がなく「遺族の人がいたら是非連絡を」と利成さ んは書き添えている。 南日本新聞

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土岐丑之助

懲役5年

明治11年9月10日死亡。

享年25歳。

出 身:鹿児島県下荒田村天保山士族土岐嘉壽弟 所属隊:薩軍行進隊第五番中隊長 顔の特徴:丸顔・色黒・髪散・歯揃・声清・妻帯者 土岐丑之助の遺族からの手紙・・まだ対面もしませんが、実は4月18 日(昭和35年)鹿児島の南日本新聞に、あなたの父利兵衛宛の手紙 が写真入りで掲載されておりました。その中に私の伯父に当たる土 岐丑之助に関する記事もありました。叔父の墓は、現在仙台市の瑞 鳳寺にありますが、明治13年ころに監獄署から遺髪が送られて参り ましたので、郷里に墓石を立て供養しております。 4、5年前に私の養子(土岐盛治)が山形に3ヶ月ほど技術研修に行 った際に、仙台まで足を伸ばして伯父の墓参をして来たそうです。 仙台には奇特な方がおられ墓参りをしてくださっているそうです。 又、7、8年ほど前に大阪朝日新聞に「宮城県の七士の墓」の記事が 宮城刑務所設置時事情史 掲載されました。 それで私の養子を案内してくれた方は、船越さんという方で、この方が七士の墓のこと を良くご存知かと思いますので、時間がありましたらお尋ねください。また山田野理夫(当 時の県史編纂委員)さんが「宮城刑務所設置時事情史」を送ってくれました。その中に七士 のことが詳しく書いてありました。 現在は伯父の遺骨を郷里に移葬しなければと思っていますが、長いこと外地に居りまし て終戦後郷里の小林市細野に引き上げて住んでおります。 私の伯父は薩摩軍の中隊長で、長崎の裁判所で10年の刑に処せられ、情状酌量のうえ除 族、懲役5年を申し付けられたと判決文に有ります。何とかして移葬したいと考えておりま す。 昭和35年5月16日 鹿児島県肝付郡内之浦北方 土岐国彦 土岐丑之助の遺族からの電話・・平成2年に鹿児島の南日本新聞に小生の「西南戦争余話」 に関する記事が掲載されたが、同年7月にその記事を読んだ土岐丑之助の子孫で宮崎県延 岡市在住の土岐盛治さんから次のような内容の電話があった。 「先日南日本新聞で宮城に眠る7人の薩摩軍兵士の記事を読み ました。私の先祖は7人の兵士の1人の土岐丑之助です。」 「今から30年ほど前に仕事の関係で山形に行った際に仙台の瑞鳳 寺に行き、先祖のお墓参りをしてから寺の住職にお願いして、土岐 丑之助の墓石の下から霊土を少し持ち帰り、鹿児島市内にある土岐 家先祖代々の墓に収めました。また、機会があったら仙台の方に行 ってお墓参りをしたいと思っています。」とのお話でしたので、墓 の近況等更に、七士の墓は鹿児島県人会で毎年秋に墓参りを実施し ていることなどを報告しました。

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有馬純俊

懲役1年

明治11年9月26日死亡。

享年25歳。

出 身:鹿児島県下田上村士族 所属隊:薩軍第4番大隊5番小隊押伍 子孫からの手紙・・昭和62年頃、長男純敏(南日本放送勤務)が、 当時小学4年の息子純平を連れて、伊達政宗の史跡巡りのために仙 台市に行きました。政宗の御霊屋瑞鳳殿に行く途中瑞鳳寺に「鹿 児島県人の墓」を見つけてお参りをした処、その中に先祖の有馬 純俊の墓を発見して、帰省後に両親に報告して墓の引取り方法を 相談していました。 丁度その頃(仙台に史跡巡りに行く数ヶ月前)、親戚から祖父 の生前の日記10冊が届けられ、その中に叔父有馬純俊の仙台での 葬記録が出てきて始めて、叔父が国事犯として仙台に送られ獄中 で亡くなり瑞鳳寺に埋葬されていることを知りました。そこで息 子が仙台に行くと聞いたので、瑞鳳寺に寄ってお墓を探してくれとお願いしていたのです。 早速仙台市内の知人を頼ってお墓の引取りを相談してみましたが、市の観光課が許すま いとの返答でした。そこで直接、瑞鳳寺の若い住職にお願いしてみましたが、若い住職は仙 台市の観光課から墓の掘り下げ許可を貰って下さいとのこと、当方では困り果てた末に、 翌日再度お寺に電話してみました処、老住職が出て下さいまして「寺の方で面倒を見るか ら準備出来次第すぐ来仙せよ。」とのありがたい言葉でした。 急ぎ電話で仙台の墓石業者と掘り下げの段取りを決めて東京、仙台へと飛びました。そ の日に瑞鳳寺に参りまして、翌朝墓前祭のお願いを致しました。当日は住職様の読経に始 り、墓石の掘り下げに掛かりましたが、墓石の大きな台には長い6本の脚があり、撤去する と墓所の地盤が緩んでほかの墓石が傾いてしまうとのことなので、墓石はそのままにして 墓石の真下の霊土を骨壷に頂き鹿児島に帰りました。墓石は業者に棄却を依頼しましたが、 住職様の希望で寺側に寄贈してそのままにする事にしました。 鹿児島に持ち帰った霊土は自宅の床の間に安置して、神道の祭ひにも慣れて頂き神官に よって田上の先祖代々の墓に合ひ致しました。そして仙台の瑞鳳寺の墓地の土手の小笹や 庭せき草も持ち帰り、墓地に移植しましたが、気温の差がありすぎて枯れてしまいました。 獄死の国事犯手厚く供養、仙台瑞鳳寺遺族に誓った「条約書」 西郷隆盛が政府軍と戦った西南戦争(1877年)に加わり、宮 城県監獄署で獄死した旧薩摩藩士の遺族に対し、瑞鳳寺(仙台市 青葉区霊屋下)が遺骨を手厚く葬ることを約束した「条約書」が 鹿児島市の子孫宅でみつかった。国事犯を伊達政宗の菩提寺に葬 ったことからも、当時宮城で西郷らへの敬慕の念が広がっていた ことをうかがわせる。

条約書

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鹿児島の子孫宅で発見・・条約書は、瑞鳳寺に葬られた7人の内の1人有馬純俊の子孫、有 馬純敏さん(58歳)宅に保管されていた。新聞紙半分ほどの大きさの和紙に,墨で書かれ ている。手厚く永代供養することを約束する内容だ。有馬さんは20年ほど前に仙台を旅行 した際に曽祖父に当たる有馬純俊の墓が瑞鳳寺にあることを見つけた。その後、親類宅に 条約書があることを知り、引き取って自宅で保管してきたという。 有馬儀定

懲役1年 明治11年10月14日死亡。 享年23歳。 出 身:鹿児島県下日向国小林郷士族 顔の特徴:丸顔、色黒、髪散、鼻高

小林市の郷土史家井上改造氏からの手紙・・有馬儀定の墓は、私の家から歩いて10分程の 近くにありました。今まで迂闊に気が付きませんでしたが、墓地と言っても私有地の狭い 境域に昔の郷士墓が傾いていたり苔むしていたりして荒涼とした所です。 墓地の正面に「有馬儀定の墓」の刻字があり更に左側には「明治11年10月14日」右側に には「享年23」の刻字がありました。いつごろこの墓を建立したのか不明ですが、隣にあ る同型の墓石と苔の付着具合が似ているので明治中期に建立されたようです。 儀定の墓の前方に「森岡儀吉の墓、昭和8年3月7日享年75歳」と「森岡儀武之墓、明治36 年3月3日、享年72歳」の2つの墓が並行しています。死亡年齢から逆算しますと、儀武は 天保2年生まれ、儀吉は安政5年生まれ、有馬儀定は安政2年生まれになり、儀定・儀吉の父 が儀武ということになるのではないでしょうか。 小林市史(昭和40年発刊)によりますと、儀武も西南戦争に従 軍田原坂で負傷しています。儀定の養子先には有馬姓が10戸ほ どありますが、儀定についての手がかりは掴めませんでした。彼 岸にお墓参りに行ってきましたら、墓の花筒に一輪の花が挿して ありました。お彼岸に誰かがお参りをしたのでは、その後の調査 でお墓を守っている方がいるとのことでした。 有馬さんの遺族分かる・・仙台で服役中に死んだ「西南の役」の 遺族探しは仙台に住む息子から依頼された小林市真方農業別府 利兵衛さん(74歳)や同市福祉事務所の手で続けられていたが、 去る26日倉庫から古い戸籍を引き出して探していた同福祉事務 所が同市出身の有馬儀定さんの遺族を見つけ出した。 それによると有馬さんは現在同市上泉に住む行政書士森岡長英さん(47歳)の亡父儀吉 さんの兄に当たり、西諸県郡高原町広野の有馬家へ養子に行ったのだが、行くと間もなく 半隊長代理として西郷軍に加わったらしい、そのため遺品などは森岡家の墓がある小林市 大塚墓地に埋めてあるという。 福祉事務所から連絡を受けた森岡さんは驚いているが、何とかして引取り故郷の土に葬 りたいと喜びを次のように話している。「叔父が西郷軍に参加して死んだことは亡父から よく聞いていた。墓もあり、今まで別に気にもとめていなかったが、遠い仙台で丁寧に葬ら

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れていると聞いてほんとうに有り難く思っている。何とか都合して出来るだけ早く引取り に行き安らかに眠らせたい。」と語っていた。 昭和35年5月1日 米良佐平太

日向日々新聞

懲役2年 明治12年2月9日死亡。 享年23歳。 出 身:鹿児島県下帖佐郷鍋倉村士族 所属隊:薩軍第7番大隊6番小隊輜重方 顔の特徴:丸顔、色黒、髪散、鼻高

佐平太の遺族は、昭和35年4月仙台市在住の別府氏が鹿児島県姶良 郡姶良町役場に問合わせた処、役場から下記のような回答があった。 「共同墓地(仙台市瑞鳳寺にある七士の墓)の供養をしていただき まして厚く御礼申し上げます。本件に関しましては、子孫の方が下記 の通り現存して遺骨も分骨して帰郷されておりますのでお知らせいた

七士の墓

します。」尚仔細は篤利氏へご紹介願います。 鹿児島県姶良郡姶良町麓 米良篤重(当時鹿児島県伊佐養蚕試験場長) 鹿児島県姶良郡姶良町岩崎 米良篤利 昭和35年4月15日姶良町役場 永井弥藤太

懲役1年

明治11年11月20日死亡。

享年48歳。

出身:鹿児島県南方郷坊士族 所属隊:薩軍常山隊第三番隊兵士 顔の特徴:丸顔・色黒・髪常 永井弥藤太の調査依頼について、坊津歴史民俗資料館から次のような回答があった 1. 弥藤太の遺族及び住所・永井一郎・鹿児島県川辺郡坊津町坊9220番地 2. 弥藤太の墓は坊津町に現存する 3. 弥藤太のことは町史に記録されている。一郎氏(坊津町立病院長)の談話 弥藤太西南戦争への出陣・・監獄署で病死した弥藤太の西南戦争への出陣経過を追ってみ ると。薩摩軍は熊本城の強襲に失敗して、包囲持久戦を取った。 兵員の不足を補充するため、明治10年3月別府晋介、辺見十郎太が 募兵の任に当たり、鹿児島に帰り壮兵千五百余人を募った。 この時、坊泊(現在の坊津町)において、敢然と立ち上がり衆 を勧誘し、自ら郷党を率いて西郷軍に従軍したのが弥藤太であっ た。彼は叔父が大乗院最後の住職であり、また妹は大山巌の生家 に行儀見習いに行っていた関係もあって、かねてから西郷や大山 に面識があり崇拝特に著しかった。弥藤太は既に子女6人を持つ46 歳の年配者であったが、敗勢を黙視しておれず決然として西郷軍 77


に投じたのである。 この時、弥藤太は6番小隊の半隊長であった。西郷軍は敗退を続け9月に鹿児島に帰り、 城山の陥落で西郷軍の多くは官軍に投降した。弥藤太は延岡で投降して鹿児島に送られ終 戦と共に解放され故郷にかえった。 戦後処理・・終戦後政府は九州臨時裁判所を長崎に置き、出張所を鹿児島・宮崎に置いた。 各裁判所に巡察官を派遣して従軍者の罪状調査を行った。郷によっては取り調べの巡察官 に反抗したかどで過酷な処罰を受けたところもあったが、坊泊では厳しい取り調べもなく、 ただ、矢藤太だけが半隊長として従軍した科により自首してでて懲役1年の判決をうけた。 遺体を鹿児島に移す・・遺体は実弟(島津の藩主の葬式を二代務めた)僧の墓と、昔のまま の納骨堂脇に保存してある。なお、弥藤太が仙台で病死したとき、許されて仙台の瑞鳳寺に 赴き石鹸化した屍蝋状態の全然形の崩れない遺体を掘り起こし坊津に埋葬した実見した子 孫の話が伝わっている。 なぜ、奥州仙台に収容されることになったのか。城山で西郷と最期まで供をして、碁の相 手をしていたが西郷の帰郷するようにとの勧めに応じて坊津に帰った。西郷との親交の他、 島津家との関係が強く再度兵を集める力が強いとの見方で仙台に送られたとの話が伝わっ ている。 「仙台での生活は、妻帯を許され一戸建ての家も与えられ厚遇されたが、老いた身には寒 さが堪えて病死したようです。自由に行動して地域の農民達に農業の改良指導を行い地区 の人々から感謝されたと聞いています。」 この文書は平成3年に、坊津町歴史民俗資料館から小生の調査依頼に対する回答書であ るが、非常に興味深いことが記録されている。果たしてこの報告書にどれだけの真実性が あるのか考察してみた。 「一戸建ての家を与えられていた」・・宮城県監獄署は県の施設で明治10年に現在の放送 大学のところに新築された。当時の宮城県は戊辰戦争の傷跡が生々しく治安が悪く、犯罪 者も多かった。監獄署の収容定員は500人弱であり、既に開設当時から過剰拘禁に悩まされ ていた。 同年9月西南戦争が終結するや、明治政府の方から県に対して国事犯の収容依頼が来た。 その人数300余人、4回に分けて護送の予定であるが、引き受ける県としては収容する場所 が無い。そこで監獄署では明治維新後、周辺に残された空家となった藩の武家屋敷を修繕 して収容することにしたのである。 妻帯を許され・・国事犯とは言え犯罪者に変わりない、鹿児島に残してきた家族にとって宮 城に送られた国事犯が一戸建ての家に住み妻帯を許されていたなどとは信じがたいことで ある。回答書を読むまではその真偽を疑っていたが、その後の国事犯の子孫の証言から、真 実ではないかと思うようになった。 弥藤太は48歳で、当時の平均寿命からすれば既に老人である。東北の一戸建てに住むに

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は1人で生活するには大変だったであろう、そこで地域の人々が身の回りの世話をする女性 を同居させたのでは。 農民達に農業の改良指導・・明治初期の鹿児島はあらゆる分野で日本の最先端を行ってい たのではないだろうか、農業の分野でも外国の農業を積極的に取り入れて生産力を向上さ せていた。それに比べれば東北の農業は藩政時代のそのままを受け継いでいたのでは。弥 藤太はこの遅れていた宮城の農業を改良して、生産性を高めるために尽力した。この功績 に報いるためにも、薩摩から国事犯として送られ一戸建ての住宅に一人住んでいる矢藤太 に世話役を同居させたのではないだろうか。 遺族が鹿児島から遺体の引取りに来たとき、監獄の職員も立ち会っているはずである。 その際に、職員から弥藤太の仙台での生活ぶりや、農民たちへの農業の改良指導で感謝さ れたことなど報告を受けているはずである。それが子孫の間に語り継がれて来て今回初め て公になったのである。 寺田泰介

懲役1年

明治12年2月11日死亡。

享年33歳。

出 身:鹿児島県指宿郷西方村士族 所属隊:薩軍第一番大隊6番小隊兵士 顔の特徴:丸顔、色黒、髪散、鼻高、声清 鹿児島市の子孫あす仙台で墓参

宮城開発に貢献

薩摩七士

明治初期の宮城県開発に貢献した薩摩藩七人の墓参りが16日、仙台であり、藩士の1人 だった寺田泰介のひ孫・有満睦子さん(72歳)=鹿児島市荒田四丁目=娘玲子さん(44 歳)とともに参列する。「長年手厚く供養してくださった方々に感謝したい」と話す。 有満さん親子は、宮城まで足を延ばし寺田の足跡を調べて いる。協力者の歴史研究家・柴修也さん(59歳)=仙台市= によると、寺田は西南戦争では西郷隆盛の末弟・小兵衛とと もに戦い、熊本城進撃後、田原坂などでも参戦。降伏して国 事犯として宮城県監獄署に誤送された。寺田ら国事犯は自ら 願い出て原野の開墾などに従事したという。 獄中で病に倒れた寺田ら七人は仙台市内の瑞鳳寺に葬られ た。みちのく宮城鹿児島県人会が30年ほど前から毎年墓参り をしている。当日はピアニストの玲子さんが録音したピアノ 伴奏で、参列者が「田原坂」を歌う予定。有満さんらは「七 士の霊に届くよう歌いたい。野蒜築港など祖先たちの苦労し た所に行ってみたい。」と話している。 平成18年9月15日

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みなみ日本新聞

朝刊


橋口仲次郎

懲役2年

明治12年4月11日死亡。

享年36歳。

出 身:鹿児島県高城郷湯田村士族 所属隊:薩軍第二番大隊一番小隊兵士 顔の特長:丸顔、色黒、髪散、鼻高 現在のところ遺族不明は橋口だけである。宮城集治艦の死 亡帳に氏名が記載されているところから、同人が死亡後監獄 署では鹿児島に死亡通知をしたが、既に遺族は行方不明にな っており連絡がつかず、監獄署では引き取り手のない遺体と して集治監に引き継いだものと思われる。 現在は集治監から墓地を引き継いだ宮城刑務所の合葬墓地 に眠っている。

宮城県監獄署内で病死した6人は誰か 監獄署内で病死した人は13名で6人が鹿児島に引き取られ、 7人が残られたと今まで伝わってきた。鹿児島に引き取られたのは誰なのかこれまで不明だ ったが新たな調査で次のことが分った。 鹿児島県西南戦争資料「国事犯処刑懲役人配置名簿」によると、宮城県には4回に分けて 305人が送られてきているが、名簿のとおりに送られてきているか検証すると、明治11年5 月に宮城県監獄署に配置された国事犯が、戦地での事情景況について提出した「西南役懲 役人筆記」と前記の「配置人名簿」を対比すると、「配置人名簿」に載っていて「筆記」に ないもの9名、その逆で「筆記」にあって「人名簿」にないもの3名、差し引き6名を左記の 「人名簿」から引けば229となり、印刷された「懲役筆記」と合致する。この差6名こそ来 仙後戦傷等で遺族に引き取られたと言われる人々ではあるまいか。現在瑞鳳寺参道側の鹿 児島県人の墓には7基の墓石が残り、13名死去して6名は引 き取られたとの説に合致する。現在墓地の7名については 「人名簿」にも「筆記」にもちゃんと残っているのである。 更に考えると鹿児島から宮城への国事犯の「配置人名簿」 にあって、明治11年5月現在の監獄署収容中の国事犯が提出 した上申書の中に9名の氏名が欠けているが、このうち3名 は東京で脱落したと思われ、残り6名は上申書を提出前に死 去したと思われる。 第2回護送分 懲役1年 鹿児島県永利郷山田村 柳田 源八 第3回護送分 懲役3年 同 中村 齋藤 八郎 同 懲役2年 同 加治木郷 上村 嘉左衛門 同 懲役3年 同 谷山郷下ノ馬場 山下 静吾 同 同 同 鹿児島後口迫 伊知地 李脩 同 同 同 伊堅ノ馬場 川上 赴二 以上6名が監獄署内で死亡して遺族に引き取られた国事犯である。

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昭和31年8月13日・・昭和30年代の宮城刑務所の墓参りの様子が河北新報で取り上げられて いる。記事によると「昭和31年8月13日(月曜日)盂蘭盆墓参が実施された。当日は午前11 時宮城刑務所出廷用バスで出発、米ケ袋の松源寺(宮城県監獄署の一般受刑者の墓)に行き 墓参り、御霊屋下の瑞鳳寺(西南戦争の国事犯の墓地)にも墓参り、更に宮城刑務所の墓地 (保春院)に至り、保春院の住職三浦誠之(当時宮城刑務所の教誨師)の読経、焼香後同寺 の本堂に於いて休息、午後1時に宮城刑務所に帰る。 参詣人員、長谷場所長、小杉教育部長、三村教育課長、油谷保安課長、大槻部長、佐藤養 治部長、伊藤看守、中川副看守長、収容者代表3名。 宮城刑務所の墓地の合葬 昭和41年まで上記の要領で、宮城刑務所 で、松源寺、瑞鳳寺、保春院の3ヶ所墓参り を実施してきたが、同年墓を合葬して保春院 だけとした。松源寺にあった監獄署の合葬碑 は保春院に移し、瑞鳳寺の墓石はそのままと して、刑務所による瑞鳳寺の墓参りは中止と なった。 その後、墓は瑞鳳寺の管理となったが、墓 地は荒れ放題、訪れる人もなく無縁仏となり 撤去されそうになったが、墓石の脇にある椎

保春院の宮城集治監の収容者の墓

原国幹の碑に、寺側に国幹が永代供養費として明治11年に30円の大金を収めて条約書を交 わしているので、簡単に墓石を撤去してしまうわけにも行かず、寺の方でも墓の管理に苦 慮していた。 この話を耳にした九州出身者の間に墓の保存と、改修工事の話が出て、鹿児島県人会の 婦人部が活発に動いて、墓の改修工事が実現した。 七士の墓の改装運動始まる・・昭和41年宮城刑務所からの墓参りが中止され、瑞鳳寺の管 理となった七士の墓は訪れる人もなく荒れ放題になってしまった。この現状を知った宮城 県在住の九州出身者で組織する「九州県人会」の中の鹿児島県出身者が立ち上がり、墓の 整備運動を開始した。しかし、鹿児島市の方に資金の依頼をしたが返答なし。だがこの鹿 児島県人の運動が下記の河北新報で取り上げられ、多くの賛同者の募金で新たな墓地が完 成したのである。 仙台・瑞鳳寺に眠る・・仙台の広瀬川近くの霊屋下にひっそりとしたたたずまいを見せてい る瑞鳳寺。さる5月末、伊達政宗公の再埋葬の時見せたにぎにぎしさはもうない。この瑞鳳 寺の片隅に7基の鹿児島県人の墓がある。 西南の役(明治10年)で捕らえられ、国賊の名をこうむったまま仙台で亡くなった7人の 墓だ。時代の流れとともに忘れられ、墓はコケむす一方だ。「このままでは見るに忍びな い」と在仙鹿児島県人会婦人部の人たちが立派な墓をと、運動に立ち上がった。

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だが問題なのはその資金、郷里の鹿児島市などに働きかけをしたが、今のところ暗礁に のりあげたままだ。明治6年(1873年)征韓論を唱え、大久保利通らに敗れた西郷隆盛は 下野し、鹿児島に私学校を興した。同10年2月15日〝明治政府に対する士族の最大にして最 後の反乱〟といわれる西南の役が起きる。約7ヶ月の戦闘の末「西郷軍」は敗れ去った。 この時官軍に投降した2万余名の反政府軍兵士は長崎臨時裁判所で裁判の結果、2,700余 名は懲役刑の判決を受け、北海道を除く全国の都府県の監獄に分散して送られた。 宮城県には椎原国幹(西郷隆盛の叔父)をはじめとする305人が宮城県監獄署に収容され たが、13人が刑期を終え故郷に帰る前に、宮城県監獄署で病死。椎原国幹が瑞鳳寺に永代 供養として30円を寄付、手厚く葬ってもらった。6人は身元が分かり鹿児島に引き取られ た。

昭和50年7月16日

鹿児島に呼びかける

七士の墓は、道路に面した所に説明板がなければ見逃してしまいそうな場所にあり、粗 削りに彫られた7つの石の墓と傍の石碑にはコケがむしている。宮城県内に住む鹿児島県人 会婦人部の人たちは時々お参りをしては、花を供えたりしていた。婦人部代表藤江知美さ ん(66歳)=仙台市青葉区上杉=は「もっときれいにして、歴史の一コマとして伝わるよ うに半永久的に残したい。」と話す。 その絶好のチャンスが昨年11月上句開かれた「福祉を語る革新市長と婦人のつどい第3回 仙台集会」として訪れた。鹿児島市からも出席者がいたので、墓の話をすると検討しようと 約束して帰っていった。 12月下句、同市役所から2人が訪れ、墓の現場を視察もした。しかし、その後はなしのつ ぶて。そしてさる6月「検討した結果、死亡者に鹿児島市出身がいないので、県の方にお願 いして欲しい。」とつれない返事が戻ってきた。婦人部の人たちはここでくじけてはならな いと、近く墓を整備するための見積書を鹿児島県知事に提出するという。また、宮城県内に 住む鹿児島県出身の人たちにも広く呼びかけ、故郷鹿児島とゆかりのある無縁仏の霊を慰 めたいと相談している。 河北新報

昭和50年9月28日

よやく落成供養仙台瑞鳳寺

鹿児島県人七士の墓

仙台市霊屋下の瑞鳳寺に、ひっそりと眠っている西南の役に参加した鹿児島県人七士の 墓は、永年放置されたままで、コケむす一方だったが、在仙鹿児島県人会の人たちの努力が 実り、綺麗に整備され、彼岸最終日の27日その落成供養が行われた。 これは、明治10年の西南戦争で敗れた西郷軍の兵士の墓、当時305人が県の監獄署に送ら れうち13名が刑期を終える前に病死。生き残った人たちが瑞鳳寺に依頼して葬ってもらっ た。その後、6人は身元が分かり地元に引き取られ7人の墓だけが残った。が、訪れる人も 少なく、7つの墓はコケむし、寂れたままになっていた。これを知った同県人会の人たちが、 「このままでは余りにも死んだ兵士がかわいそう。もっときれいにして、歴史の一コマと して、いつまでも残したい。」と昨年秋から「七士の墓整備保存同志会」をつくり、故郷鹿 児島や同県に援助を求めるなどの努力を重ねてきた。同県からはまだ返事は来ていないが、

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宮城県に住む九州出身の人たちや、鹿児島在住の人たちからの募金が百万円ほど集まり、 やっと整備ができた。 墓地は、約20平方㍍の敷地を土盛りし、周りをミカゲ石で囲い、新しく花立て、焼香台 などを置いた七士の墓と碑は「当時の面影をしのびたい。」とそのまま残した。落成供養に は菊などの色とりどりの花が飾られ、保存会長の藤江知美さんをはじめ、関係者約30人が 参列、読経が流れるなか、1人ずつしめやかに焼香した。藤江さんは「やっと出来上がって とてもうれしい。九州人の心意気が示せました。これからも盆や彼岸には集まって、冥福を 祈っていきたい。」と話していた。 河北新報

宮城県監獄署に収容された国事犯関連新聞記事録集 平成 2 年7月 4 日

石巻かほく

薩摩士族が雄勝開拓に力

西南戦争で「国事犯」70余名石盤採取に従事・・明治初期雄勝地方の開拓に力を貸したの は、西南戦争で敗れた薩摩の反政府軍士族だった。歴史に埋もれた秘話を地元の人々に知 ってもらおうと、仙台市に住む宮城刑務所の職員が7年かけ調べた成果を「西南戦争余話」 として記録にまとめた。この士族たちは、当時宮城県監獄署に「国事犯」として収容されて いた305人。うち、はるばる九州から連れてこられた国事犯を中心に、70余名が雄勝浜での 石盤採取事に従事したという。70余人の中には、西郷隆盛の伯父も含まれる。NHK大河ド ラマ「翔ぶが如く」で西郷ブームの折、この史実は県内でも話題を集めそう。 西郷隆盛の伯父もいた・・記録をまとめたのは、仙台市若林区古城2-5-23、柴さん(42歳)。 柴さんは元教育長・宇野量介さんの「仙台獄中の陸奥宗光」(昭和57年)を読んだのをきっ かけに、西南戦争に興味を持つようになった。柴さんが全国から集めた資料によると、西南 戦争(1877年)では、東北地方から多くの士族が政府軍に参加した。西南戦争終結後、反 政府軍士族は国事犯として全国の監獄署に収容された。このうち、懲役1〜5年の刑を受け た305人が、仙台市青葉区片平にあった宮城県監獄署に収容された。この数は、各県の監獄 署では最も多く、西郷隆盛の伯父・椎原国幹ら有力者も含まれている。 国事犯たちは、反政府軍の中でも幹部クラスが多く、学問の知識も高い士族がほとんど であった。宮城集治監(現宮城刑務所)建設、県内各地の開拓には自発的に従事を願い出る ほどで、初めのうち怖がっていた地元住民とも次第にとけこんでいった。柴さんの調査に よると、70余名の国事犯らが雄勝に来たのは明治11年9月、天雄寺を宿舎(分監)にして、 石盤製造所で硯や石盤作りにあたった。 西郷の伯父・椎原国幹は、当時の宮城県監獄署副典獄、水野重教とともに雄勝を訪れ、仲 間の囚人らに仕事に励むように促したりもしている。明治13年2月に雄勝に大火が起きると 囚人らは消火作業に尽力し、逃げ場を失った老女を火中から救出したというエピソード、 また、明治政府が着手した一大プロジェクト、野蒜築港でも、レンガ積みなどに従事したと の記録が残っている。

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雄勝に住み着いた・・国事犯らは明治14年までに釈放されたが、そのうちの何人かは雄勝 に住み着いたという。地元・雄勝町では、国事犯らのことを知る人はもうほとんどいない。 杉山源之助(78)雄勝町上雄勝は、「国事犯のことは、祖父などに聞かされていた。囚人た ちは、毎日、3雙の船で仕事場に向かったそうで、分監は後に雄勝から伊勢畑地区に移った。 地元民の感情は、好感を持っていたのではないか。」と語る。柴さんは「鹿児島の人々が宮 城のために働いてくれた事実を、多くの県民に知ってほしい。これからも調査は続けたい。」 と話している。

平成2年12月8日

河北新報 「西南戦争余話」を出版 収容された国事犯の記録。

明治10年(1877年)の西南戦争で破れた反政府士族のうち305人が、当時仙台市にあった 宮城県監獄署に国事犯として収容されていた。一般には余り知られていないこんな史実を 市民に知ってもらおうと、宮城刑務所職員が全国から収集した資料を基に、国事犯につい ての記録をまとめた「西南戦争余話」をこのほど自費出版した。 出版したのは、宮城刑務所保安課主任柴修也さん(43歳)=仙台市若林区古城2-5-23 柴さんが西南戦争について興味を持ったのは、元宮城県教育長の宇野量介氏の著書「仙台 獄中の陸奥宗光」を読んだのがきっかけで。その中に国事犯についての記述があり、さらに 詳しく調べてみようと、7年がかりで資料を集めた。 西南戦争で、東北から多くの士族が政府軍に志願したことは広く知られているが、国事 犯の収監に触れた歴史関係の本はほとんどないという。「西南 戦争余話」はB5版で160頁。それによると、全国の監獄に収容 された反政府士族ら約2,700余人のうち、懲役1年〜5年お国事 犯305人が宮城県監獄署に収容された。この中には西郷隆盛の 伯父椎原国幹や、後の陸軍大将大山巌の実弟大山誠之助なども 含まれていたという。また、国事犯達はいずれも模範囚で、宮 城集治監(現宮城刑務所)の建設に従事。さらに、自ら申し出 て県内各地の開墾に当たったことなど、刑期中のエピソードも 数多く紹介されている。出版に際して柴さんは「明治時代の始 め宮城県の振興に尽力した国事犯の業績を、多くの人たちに知 ってもらいたい。」といい、「引き取り手のないまま仙台に眠 っている鹿児島出身の国事犯7人を、古里に帰す一助になれば」 と話している。

西南戦争余話 柴修也著

平成2年12月 七士の墓を調査していた別府氏との出会い・・平成2年12月、宮城町(現在 の仙台市太白区)在住の別府氏から電話があった。苗字からして九州の人ではと思ったが、 話をしてみると宮崎県出身で元霞目の自衛隊基地に勤務していたとのことだった。別府氏 は仙台市にある「七士の墓」について遺族を探しているとの話だった。しかし、「高齢にな ったためにこれまでの調査が道半ばであるので、私の意思を引き継いで調査してくれない か」とのことだったので、後日自宅に別府氏を招いてこれまでの七士の墓の調査経過と資 料を頂き、別府氏の意思を引き継ぎ調査することを約束した。

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昭和30代当時は、宮城県史編纂委員の山田野理夫氏が七 士のことを「宮城刑務所設置事情史」に一部発表していた。 別府氏はそれを基に鹿児島の新聞社や七士の出身地の市町 村に問い合わせの手紙を出して遺族を探していた。 西南戦争から百年余り、地元鹿児島の人々の記憶から忘 れ去られていたが、それでも2名の国事犯の遺族を探すこ とができた。しかし、残り5名については何の手がかりもな 昭和40年代の案内板 かった。別府氏は高齢になり自分の意思を引き継いでくれ る人を探しているうちに小生の「西南戦争余話」を知り、残りの5人の遺族を探してくれる ように依頼して、土岐丑之助と米良佐兵太に関する資料を下さった。 平成27年8月別府氏の長男と偶然会うことができたが、別府利成氏は既に亡くなっていた。 そこで別府氏の墓前に「七士のうち6人の遺族が見つかった」ことを報告して下さいとお 願いした。 平成3年5月26日

南日本新聞「西南戦争余話」に思う・・5月26日付けの南新聞に仙台の一

公務員が「西南戦争余話」を冊子にまとめたとの記事があった。国事犯として収監された薩 摩士族のエピソードもさることながら、「宮城で亡くなった13人中7人が、いまだ引き取り 手がない。1日も早く鹿児島に帰してあげたい。」とのくだりにショックをうけた。 大口市の高熊山に行き、辺見十郎太が奮戦奮闘した生々しい弾痕や塹壕の跡を見て、113 年前に思いをはせて帰って来たばかりだけに、なおさらであった。「翔ぶが如く」ブーム。 鹿児島市内はもとより、県内の観光地には、看板が立ち並び、カラフルに染め抜いた布旗が 林立し、観光客誘致に大わらわだ。 この宣伝費用の一部でも良い。遠く奥州仙台の地で寂しく眠る7人を,なんとか引き取 れないものか。たとえ単独で投降されたとしても、西郷軍の一兵として、西南戦争に従軍し たことは間違いないことである。 激戦の最中戦死され、山野に今も眠る戦士もいると聞くが、この7人の士族が死に場所を 監獄に求めたとは思わない。大西郷も「県民の皆さん、1日も早よ、おいどんの所に引き取 ったもんせ」と、言われているようでならない。 原口桜衆 平成3年5月26日 宮崎日々新聞 異郷に死した七人の心情を思う・・仙台伊達家2代藩主の 菩提寺瑞鳳寺の墓地に「鹿児島県人の墓」がある。先日縁があってここにお参りできた。西 南の役に従軍した椎原国幹(西郷隆盛の叔父)ら305人は国事犯として宮城県監獄書に収容 され、うち13人は病死してここに葬られた。 六基は遺族が引き取ったが今尚七基が残されている。椎原国幹は放免後故郷に帰るに当 たり瑞鳳寺に30円を寄付して永代供養を依頼して、墓のそばにその旨を刻んだ石碑を建立 していった。 自然石の古びた七基の中に宮﨑県小林市出身の有馬義定の墓もあった。宮崎5番小隊長だ ったが、負傷して帰郷後自首し、服役中に病死した。「明治11年14日23歳」と刻まれてい

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た。墓前に手を合わせながら異郷の地で獄死した7人の心情を思うときしばし墓前を離れる ことができなかった。 井上改造 平成4年8月26日 南日本新聞 旅先で薩摩士の墓に詣でた・・8月21日付けの南日本新聞 に「仙台に眠る薩摩藩士の霊を供養」の記事を読み、思い当たることがある。昭和58年10 月、みちのく観光の旅で瑞鳳寺に薩摩藩士の墓があると聞き、旅行社の人の案内で雨の中 を一人でお参りをした。「他人の里でお寂しかったでしょうが、伊達様のお殿様とご一緒で すから・・・」と独り言を言って拝んだ。 瑞鳳寺は伊達家初代から3代の墓がある瑞鳳殿の入口にあり、うっそうと生茂る木立の中 にある。大きな石を立てて祀られていた。昨年は「翔ぶが如く」で県民が沸いたが、西南の 役の敗者ながら大西郷の面目を大いに回復したドラマだった。その西郷のために獄死した 藩士が、いま認識されたのだろうか。みちのくの旅に行かれたら、瑞鳳寺のこの寺に詣でら れんことをー。 奥 江

平成 3 年 8 月 15 日

河北新報「七士の墓」初墓参へ東京在住の南洲翁顕彰会 明治10年(1877年)の西南戦争で敗れ、遠く異郷の地 で獄死した旧薩摩藩士が眠る仙台市青葉区霊屋下の瑞鳳 寺に17日、東京在住の鹿児島県人で組織する西郷南洲顕

彰会東京賛助会(下青木秀吉会長)のメンバーが初めて 墓参に訪れることになった。賛助会では「115年もお世話 になった宮城県の人たちに心から感謝したい。」としな がらも「出来ることなら、分骨して,七士の霊を故郷に 帰してやりたい。」と話している西南戦争後、約2,700余 人の反政府士族は全国の監獄に分散投獄されたが、仙台 平成4年に設置された新しい案内板 にあった宮城県監獄署にも305人を収容。このうち獄死し た7人が「七士の墓」として瑞鳳寺に葬られた。 今回,墓参が実現するきっかけとなったのは宮城刑務所保安課主任看守部長の柴修也さ ん(44歳)=仙台市若林区古城2丁目=が昨年、自費出版した「西南戦争余話」。この中で、 宮城県監獄署に収容された305人のうち13人が獄死した史実が紹介されており、鹿児島県内 の新聞などで取り上げられた。 賛助会の事務局長を務める樺木野実徳さん(61歳)=東京都国分寺市=は「昨年10月に 本を拝見するまでは、仙台に士族の墓があるのを知らなかった。供養と、地元の人々にお礼 を述べるため、有志で出掛けようとすぐに話がまとまった。 そして、「できることなら」と断りながら「七士の霊を西郷翁が眠る郷土に帰して上げた い。分骨などについて,御住職にも相談してみたい。」と話している。一方、7年かけて資 料を収集し本をまとめた柴さんは「獄死した13人のうち、6人は遺族が遺骨を持ち帰った が、7人の遺族は当時の事情もあって、それができなかったのでしょう。港や原野の開発に

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も駆り出された七士の霊に報いる事ができて出版したかいがありました。」と、感慨深げに 語っている。賛助会の一行は、17日午後1時過ぎに、瑞鳳寺の境内にある「七士の墓」を訪 れ、慰霊祭に参列した後、士族の墓を守ってきた瑞鳳寺やみちのく宮城鹿児島県人会(帖佐 盛雄会長)の関係者らと懇談する予定。 瑞鳳寺の話によると「七士の墓」には10数年前から、どこかで情報を聞きつけた鹿児島 関係者がぽつりぽつり墓参に来ていたが、団体の墓参は今回が初めて,鎌田宗州住職は「鹿 児島ゆかりのある方々が今回、大勢墓参されることで、さぞ供養になるでしょう。」と話し ている。 平成3年8月18日 記者手帳同郷藩士の意気に感慨・・「一言では言えません。感慨無量」 と、しみじみ語るのは西郷南洲顕彰会東京賛助会事務局長の樺木野実徳氏。西南戦争後に 国事犯として宮城県監獄署に投獄され、死亡した旧薩摩藩主の墓が、仙台市青葉区霊屋下 の瑞鳳寺にあると聞いて、会員とともに17日、墓参に訪れた。 遠い異郷の地に送られた旧薩摩藩士たちは、進んで開墾事業に取り組んだと伝えられ、 説明を受けた樺木野事務局長は「薩摩男の心意気を感じる。」と感心しきり。18日には、釈 放された藩士も立ち寄った松島を訪れる。 平成3年8月15日 「七士の墓」墓参の記・・杜の都仙台、その市街の西方広瀬川の近くの こんもりした森に伊達政宗公霊廟の瑞鳳殿がある。だらだら坂の参道を上り始めるとすぐ 左に「鹿児島県人の墓」と白板に黒文字で書かれた大きな案内板があり、傍の小道を左に登 ったところに墓地があった。 墓地の一番手前ひだりに「鹿児島県人墓地」という2メートル程のどっしりとした石碑が 建っており、それに守られるように「七士の墓」が二列に整然と並んでいる。 今回墓参のきっかけとなったのは昨年(平成3年)の10月仙台在住の公務員柴さんから 手紙をもらったことに始まる。内容は「仙台に七士の墓があること、宮城に配置された国事 犯の長年の研究を「西南戦争余話」にまとめて自費出版したこと、是非一度七士の墓のお参 りに来てください。」と言った内容だった。 早速電話で事情を聞き、著書を送ってもらい、その後何回か電話をしているうちに言い 知れぬ親しみを感じてきた。5月に開いた当会の総会に図って今年の事業計画の一つとして 墓参を行うことになった。8月17日・18日はお盆休みで忙しい中、下青木会長以下24名が参 加することができた。 瑞鳳寺での墓参・・平成3年8月17日東北新幹線東京駅10 時で仙台に、駅には「西郷南州顕彰会」様の旗を持って 県人会の皆様が出迎えてくださった。墓参のきっかけを つくってくださった柴さん、私との窓口になって一切を お世話くださった鹿児島県人会事務局長竹山さん、2ヶ 月余りに渡って電話する度に生来の知己みたいな親しみ が深まってはいたが、実際は初対面である。出会いがこ

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んなに感動的なものかと胸が躍った。人生の醍醐味である。(株)帝産キャップ仙台の社長で もある帖佐会長のご好意による差し廻しの観光バスに乗り込み、仙台市街地目抜き通りを 経て「七士の墓」に着いた。 墓前に佇んだときにはさすがに胸がつまった。鹿児島から凡そ2,000キロ、国事犯として のここまでの道程、そして刑期中の先人の心情を想うとき、手を合わせたまま足が動かな かった。帖佐会長から「七士の墓」について昭和52年に整備されるまでの状況等の説明が あった。現在は積立金をして近々その利息で末代まで供養出来るようになっているという ことである。 瑞鳳寺の鎌田宗州住職の読経の流れる中一人 一人がご焼香をした。下青木会長の追悼の辞に 続いて社団法人錦城会師範竹山事務局長の「わ が胸の燃る想いにくらぶれば煙はうすし桜島山」 と「故山に帰る」の詩吟が奉納された。私どもは 東京から持ってきた鹿児島の焼酎を墓前にそな えた。 今回の墓参については、出発前の8月15日付河 北新報に「東京在住の南洲顕彰会「七士の墓」の初墓参へ」という見出しで記事が掲載さ れ、また17日の当日は河北、朝日からも取材に見え、NHKからもカメラマンが見えた。墓 地は壮厳かつ賑々しい雰囲気だった。翌日の河北、朝日の朝刊に写真いりで大きく記事が 掲載された。またNHKでは翌日の朝のニュースで鹿児島県と宮城県で同時に放送された。 なお特筆すべきは、本間宮城県知事からメッセージを頂いたことである。知事も墓参団 と会いたかったが当日の日程が調整つかなかったとのことだった。当日の夜は鹿児島県人 会の皆さんと楽しい懇親会を持った。 「西南戦争余話」にも詳しく書かれていることであるが、国事犯でありながら先人たちが 110余年前,この東北の地でなお薩摩隼人の「チエスト」の気概を少しも失うことなく、宮 城県民にいまだに感謝されている諸々の貢献された事実を知って驚いた次第である。 そのことは,本間宮城県知事のメッセージからも如実に伝わって来るものだが、まさに 木曽川治水工事の「薩摩義士」にも等しい先人達への限りない畏敬の念と誇りを感じた。

平成 3 年8月 17 日

本間宮城県知事からのメッセージ

財団法人西郷南洲顕彰会東京賛助会の皆さんの御来県を心から歓迎申し上げます。西南 戦争は明治初期の内乱として多くの死傷者を出しました。一方で多くの鹿児島県民が捕ら われの身となり、「宮城県監獄署」に収容されました。 これらの人は、当時疲弊し切った宮城の港の開発や原野の開墾などに大きな役割をはた しました。宮城の大地には、多くの鹿児島県民の汗が染み込んでいると言えます。瑞鳳寺の 「鹿児島県人の墓」にはふるさとに帰ることなく、無念の中にこの地に没した鹿児島県民 の魂が眠っています。 今、その志は国際貿易港「仙台港」として、また、おいしい「ササニシキ」をもたらす耕 地として、本件の発展を支えています。どうか、この度の訪問が皆様方の友情を暖め合うと

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ともに、故郷の思い出話に花を咲かせる機会であってほしいと思います。 最後に、南洲顕彰会と貴県人会の皆様方のご発展とご活躍をお祈りいたします。 平成3年8月17日 「七士の墓」の墓参に参加して・・8月17日正午ごろ、下青木会長以下24 名が仙台駅に到著すると、鹿児島県人会の方々が出迎えてくださった。現地を見るまでは、 引き取り手のない国事犯の墓、ということから、薄暗い木陰のひっそりとした墓地という イメージを抱いていたのだが,行ってみたら全く違っていた。伊達家の3代の霊廟のある小 高い山を少し登った左手にある墓地は、眼下に仙台の市街地が見渡せる眺望のいい明るい 場所だった。 七士の墓はすぐ手前、低い石の冊に囲まれて自然石の墓石が並んでいた。廻りはきれい に掃き清められ、新しい花があふれるように供えられていた。こんないい環境に手厚く葬 られているならとほっとして救われる思いだった。県人会の話によると10年程前にお参り をする人もなく荒れ果てていた墓を見るにしのびなく、募金を募り墓を現在のように整備 して以来毎年供養を続けているということだった。 地元の新聞社等が取材に来て墓地周辺は俄かに賑やかになった。瑞鳳寺住職の読経が始 まり、1人1人が心をこめて焼香した。香煙のたなびく中で最後に顕彰会の樺木野事務局 長が、「鹿児島の焼酎を飲ませてあげよう」と言って、1つ1つの墓石に焼酎を注いだとき には、急に胸がつまり、こみ上げてくるものがあった。 薩摩からはるばる2,000キロ。長崎か船で横浜まで、開通間もない汽車(貨車)に乗せら れ東京へ、更にそこから陸路仙台へ、10数日もかかって護送されてきた。今でさえ鹿児島・ 仙台間は遠いとおもうのだから、当時はまさに遠流の身となった実感だったであろう。剛 毅を誇る薩摩隼人といえども、やみがたい望郷の念に陥ることもあっただろう。薩摩の焼 酎が飲みたかっただろう。それでも無事に刑を終え帰国できた人達はまだよかった。 再び故郷の土を踏むことも叶わず、異郷の地で病死しなければならなかった人達は,ど んなに無念で、悲痛な思いだったことだろう。病の床で、古里の山河,親や妻子の顔を瞼に 思い浮かべ、いまわの際にその名を呼ばなかっただろうか・・・。 今からでも、分骨して,ふるさとの土に帰して上げられないものだろうか。墓参団の人た ちの間にそんな思いが語り合われたのだった。 西郷南洲顕彰会東京賛助会 芳ヶ野令子 平成3年8月15日「鳴呼西南の役」・・仙台の獄舎で病死した三州七士の墓前に捧ぐ 黙々と北へゆく人の群れは何ぞ 粛々と秋風の山野に哭するは何ぞ 維新の確信を目指し早春の郷関を出てし三州の烈士 信ずるは西郷南洲と敬天愛人の旗一とう 干戈幾度九州の山野に桜花は散り血涙河流る 誰か言う維新後自ら官位を辞し帰郷せし南洲に一片の野心ありしや 誰か言う身分を捨て家族と分かれた一死をかけし烈士に私心ありしや 時に利あらず苦難の末敗れし南洲他遂に城山の露と消えゆ 嗚呼されど死ぬことも能わずして空しく異郷に俘囚となりし烈士数千余士天 89


よ意あらば君等の真意を照らせ

地よ情けあらば君等の心魂を鎮めよ

みちのくの冬は風雪茫々として 獄舎の寒気又心身を貫く 雁は千里南へゆけど病床に臥し生きて帰郷叶わざりし十数余士 今百年の歳月は夢の如く流れ 吾等尚仙台に眠る七士の墓前に佇つ 松風颯々として遠く鴉声聞こゆ 苔むす七士の墓石は声なき父祖の如し 吾等深く頭を垂れてみ霊を拝し 立ち去り難くして哀れみに唯哭するのみ 平成3年8月 何ならむみちのくの秋さみしきは国に歴史人にも歴史露の墓 ふるさとの焼酎をかけ露の墓 明治大正昭和平成梅雨の墓 みちのくの苔むす墓石忘れまじ 西郷南洲顕彰会東京賛助会 古屋繁行

平成4年2月 23 日 河北新報・・祖父の形見は雄勝硯 西南戦争に敗れて、宮城県の監獄に収容された薩摩藩士が作 った硯と戦争で使われた軍旗が北海道で見つかった。百年余り の歳月を経て、このほど産地の同県雄勝町に里帰りした硯は、 軍旗の写真とともに3日から町硯伝統産業会館に展示される。 百年ぶり宮城に里帰り・・硯を作ったのは、下谷山郷山田村(現 在の鹿児島市山田町出身の中馬秀晋・第4大隊2番小隊小隊長。 祖父の形見として、北海道浦河町姉茶で牧場を経営する中馬武 北海道で発見された硯 光さん(75歳)が保管していたものを、薩摩藩士の生涯を調べて いる柴さん(44歳)=仙台市若林区=が「雄勝産」と確認した。柴さんによると、中馬小隊 長は明治10年(1877年)の西南戦争に従軍、国事犯として懲役3年に処せられた。硯は雄勝 町の雄勝浜分監に収容された時に作ったらしい。同13年、内山仲七郎(鹿児島県冷水出身)、 谷口政範(鹿児島郡吉田町麓出身)とともに釈放された後渡道、アイヌ民族の生活向上など に努めて、昭和9年に92歳で亡くなったという。 宮城の監獄に収容された薩摩藩士の生活をまとめた「西南戦争余話」を出版、薩摩大使に も任命されている柴さんは「鹿児島に雄勝硯を持ち帰った人も多いと思う。今後も宮城と 鹿児島の交流に役立ちたいと考えているので、硯を持っている方がいたら連絡してほしい と」と話している。 中馬武光氏からの手紙・・7月11日小生が庭木の剪定をしている庭先に、藤本某(宮城県 古川出身)氏が来宅して「中馬さんですね実は町内のお方から一寸聞かされましたのです が、お爺さんのことでお尋ねしたく出向きました。」とのことなので、祖父の話をしまし た。その話の中で祖父が入獄中に硯を作った話をしましたら、藤本さんは宮城県の略図を 書かれ、「雄勝から良い硯石が産出されますよ。」と話しましたので、折があったら硯の 産出先を調べて見てくださいとお願いしました。 藤本さんは地元の宮城県に帰ったあと図書館で祖父の氏名のある「西南戦争余話」を見

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つけて、中馬さんとの約束が果たせたと我が事のように喜 んで手紙で知らせて下さいました。先日本が届きましたの で改めて確認しましたら、やはり祖父の入獄場所は宮城県 の仙台であることが分かり、永年の念願が叶いました。 監獄署放免後の祖父は北海道の浦河に入植しました。明 確ではありませんが明治13年頃と聞いていましたので、墓 誌にそのように刻みました。西南の役は明治10年9月24日 西郷先生の自刃で終わりましたが、この日、中馬は数名の 部下を連れて食料の買出し中だったそうです。生き残りの 中馬秀晋が住んでいた北海道浦河町 兵士の中には自決した者もいたそうですが、自分は死ぬのは馬鹿らしいと考えて官軍に投 降したそうです 仙台での獄中年数は聞きませんでしたが、服役中に造った菱形で厚さ3センチ程の硯があ ります。祖父は北海道に入植後アイヌ民族の生活向上や安定に意を注ぎ、土地問題、海産物 採取問題、生活様式等に関与して各要件に前記硯が使用されました。祖父は珍客が来ると 剣術の話をよくしていました。昭和9年に91歳でなくなりました。昨年鹿児島に帰えった とき川内市(せんだい)があり、この地に服役したのかとも思いましたが、祖父が入獄中に 硯を造った事を私に話してくれましたし、藤本さんも宮城県内で硯石のあるところは雄勝 と聞かされ祖父も仙台と語っておりました。 祖父は出獄後鹿児島に帰りましたが、西南戦争で多くの戦死者と、自決者が出て、反面生 き残っている自分はと、祖父は肩身の狭い想いの日々もあったのではと考えられます、そ れが北海道に入植した動機ではなかったかと思います。

平成 4 年 9 月 20 日 朝日新聞 西南戦争で国事犯として仙台に送られ獄中で 死亡した旧薩摩藩士の墓土 115 年ぶりに里帰り 明治10年(1877年)年の西南戦争で敗れ、異郷の地・宮城県で獄死した7人の旧薩摩藩 士の墓土が115年ぶりに鹿児島県に里帰りすることになった。東京在住の鹿児島県出身者の グループが19日、七士の眠る仙台市青葉区の瑞鳳寺を訪れ、墓土を受け取った。今月23日、 墓土は改めて西郷隆盛の傍に「埋葬」される。 宮城県仙台市の郷土史家柴修也(44歳)があつめた資料によ ると、西南戦争で国事犯として捕らわれ、宮城県監獄署(宮城刑 務所の前身)に収容された旧薩摩士族は十代から五十代まで305 人。収容されてから4年余りで全員が釈放されたが、その間に13 人が戦傷などのため獄死。6人の遺骨は鹿児島県に帰ったが、7 人の骨は引き取り先のないままに仙台市内に葬られた。 長い間、「七士の墓」は世間から忘れ去られていたが。2年前 に墓の存在が鹿児島県で紹介されたのをきっかけに計画が持ち 上がった。この日、仙台を訪れた「西郷南州顕彰会東京賛助会」 の樺木野実徳さん(62歳)は「本当は遺骨も持ち帰りたいが、形 だけでも西郷さんのそばで眠らせてあげたい」。これまで、墓を

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見守ってきたみちのく宮城鹿児島県人会の帖佐盛雄会長(63)は「異郷の地に捕らわれ、 何度となく望郷の念にかられたことでしょう。」と七士に思いをはせていた。

薩摩藩士115年ぶりに帰りもす。 西南戦争後仙台で獄死 地元の寺に七人墓判明

南洲神社で墓の土を供養

西南戦争(1877年)で敗れ、異郷の宮城県仙台市で 獄死した薩摩藩士のなかで、遺骨の引き取り手がなか った7人の供養祭が23日、鹿児島県の南洲神社で開 かれる。西郷南洲顕彰会東京賛助会(下青木秀吉)が、 7人が埋葬されている仙台市の墓の土を持ち帰って 行うもので、115年ぶりに西郷隆盛の霊と再会が実現 する。 平成二年、宮城刑務所看守部長の柴修也さんが自費出版した「西南戦争余話」で、仙台市 の瑞鳳寺に獄中で病死した7人の墓があることが分かり、東京賛助会のメンバーらが翌年墓 参したのがきっかけ。異郷でひっそり眠る志士の霊に心を打たれた同会の樺木野実徳事務 局長が「何とか故郷に返し、仲間と一緒にしてあげられないか。」と同寺に切望。西郷の命 日(24日)に合わせて、七人の墓の土を持ち帰ることで願いがかなうことになった。 23日は、南洲神社内の全国各地で亡くなった藩士をまつった招魂碑に土を供え,霊を慰 める。西郷南洲顕彰館の山田尚二館長は「七人を長い間見守ってくれた仙台の人々に感謝 したい。当日はセコドンのエンコもあり、西郷さんも大喜びのことでしょう。」と話してい た。 平成5年4月10日 父の足跡を探す国事犯の娘・・西南戦争終結から110数年たった現在、 国事犯の娘が鹿児島に健在だった。そして甥に父の仙台での生活を記録する文書を探して くれる様に依頼していた。平成5年の春、突然、鹿児島出身で市川市在住の鮫島と名乗る人 物から電話があった。 「私は鮫島というものですが、現在仙台に来ています。祖父は西南戦争の国事犯で塚田 といいます。仙台に配置された国事犯の事でお聞きしたいことがありますので自宅に伺っ てもよろしいでしょうか。」と言う内容だったので、「お待ちしています。」と返事をして 国事犯に関する資料を取り出してきて鮫島氏の訪問を待った。 1時間ほどして鮫島氏は小生の自宅を訪ねてきた。名刺を拝見すると某一流会社の会長 で、年齢が70過ぎでどっしりとした落ち着いた感じの人だった。鮫島氏は国事犯となった 祖父の話をしてくれたが、その中で驚くべきことを話してくれた。 国事犯の娘・・「私の叔母は94歳になりますが、まだ鹿児島で健在です。叔母は国事犯塚田 某の娘なのです。叔母は私に諸用で仙台に行く機会があったら、父(塚田)の仙台での生活 を記録した文書を探してくださいといつも言われています。」しかし、20数年間仕事の関 係で仙台に度々来て図書館等で国事犯に関する資料を探しましたが、今まで発見すること ができませんでした。

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先日、鹿児島に住む姪から「南日本新聞に仙台在住の郷土史家が『西南戦争余話』という 本を自費出版したという記事を見て、本を入手して読んだところ、その本の中に祖父塚田 某の名前が書いてあったので、仙台に行く機会があったら是非その人に逢って、祖父の足 跡を調べて見てくださいとの電話があったので早速飛んできたのです。」との話だった。 明治10年の西南戦争に従軍した薩摩軍兵士の娘が健在だとは信じがたい話でただ驚くば かりであった。「叔母は父塚田某から国事犯として仙台で生活した時の話は断片的に聞い てはいたが、どうしても納得がいかないことがあったので、その事実を知りたかったよう です。」 白河の関・・多くの国事犯たちは東北に配置されることを知ったとき死を覚悟したという。 かつての戊辰戦争の時は勝者として東北に君臨して、敗者がいかに惨めなものかよく知っ ていた。それが今では立場が逆転して今度は西南戦争の敗者として東北に送られるのであ る。そこで待ち受けるのは厳しい戊辰戦争の怨念ではないかと誰しもが思ったのではない だろうか。 鹿児島に残された家族もまた東北に送られ戊辰戦争の敵として過酷な取り扱いが待って いて生きては帰って来ないと、危惧していたのではないだろうか。それが刑期を終えて無 事鹿児島に帰って来たので家族は安心したのではと、思いつつ2ヶ月ほど過ぎたある日、小 学5年の長女の音楽の教科書の裏側を見た。 世界的なソプラノ歌手・・そこには日本を代表する世界的なソプラノ歌手鮫島某と写真入 りで載っていたのである。その時、鮫島氏が帰り間際に話した娘の歌手とは鮫島某の事を いったことが始めて分かった。いくら日本の演歌歌手を探しても見つけることはできない はずである。 早速市内のレコード店でCDを買い、店員に鮫島某のことを尋ねたら「日本を代表する ソプラノ歌手で、ドイツを拠点として世界中で活躍しています。」との話だった。それか ら間もなくドイツから鮫島某のサイン入りの色紙が国際便で送られてきた。 その年の紅白歌合戦で、ドイツから衛星中継で参加して「菩提樹」を歌った。それ以後 テレビコマーシャルに出演するようになり、仙台市での演奏会の際には楽屋までおじゃま して親交を深めた。

平成 9 年 12 月 27 日

河北新報

仙台白百合高校全国放送コンクール日本一

西南戦争で鹿児島から全国各地の施設に収監された国 事犯約2,700余人のうち、宮城県には最多の305人が配置 された。西郷隆盛の伯父椎原国幹らは、自ら申し出て、 塩釜、雄勝、野蒜などで開墾作業にかかわった。幅広く 技術を伝え、教養を生かして監獄署内で学校を開いた活 動記録も残っている。 宮城県側も、彼らの意向を受けて開墾現場に派遣した り、病死した人を仙台藩主伊達家の墓がある寺に葬った

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白百合学園


りと、手厚く対応したという。放送部顧問の高橋陽子教諭(54歳)は「受賞は話を聞かせて いただいた方々のおかげ。生徒は取材したことをまとめるのに苦労したようだが、いい作 品に仕上がった。」と、生徒たちの努力を評価。3年の阿部純子さん(18歳)は「宮城に送 られても薩摩魂を持ち続けて活躍したのは素晴らしい。同年代の人に身近な歴史を伝えて いきたい。」と話している。 仙台白百合学園には鹿児島県庁や地元紙から問い合わせが相次いでいる。鹿児島県知事 が任命する薩摩大使で西南戦争に関する郷土史に詳しい仙台市若林区の公務員柴さん(50 歳)は「鹿児島からはるばるきた人が、宮城でどうすごしたかがよく分かる。鹿児島と宮城 の交流のきっかけになる。」と期待している。仙台市青葉区の仙台白百合学園(三ツ谷絢子 校長、生徒765人)の放送部が製作したドキメント番組が22日、全国の高校生が放送作品を 競う「千代田杯第35回放送マルチメディアコンクール」(学校法人千代田学園など主催) で最優秀賞にえらばれた。 西南戦争に(明治10年)にからみ、政治犯として宮城県内の施設に収監された鹿児島の 兵士の足跡をたどった力作。今年は事件後120年に当たり、関係者は「宮城と鹿児島の交流 の懸け橋に」と期待している。 平成9年12月27日 南日本新聞 ビデオ制作の高校生に感動・・先日、この欄に薩摩大使の 柴さんが仙台から寄せられた話を興味深く読んだ。「西南の役」に敗れ、国事犯として宮城 県に配置された薩摩軍兵士たちが原野開墾に従事、地域の開発に大きな役割を果たした。 それをわずかな記録を頼りに入念に調査し、ゆかりの各地をくまなく取材、6ヶ月もの苦労 の末ビデオを制作した高校生グループのエピソードに感動した。 「みちのくに残る西南の役」と題したビデオ制作のきっかけは「鹿児島県人七士の墓」を 見たことからという。私も以前、瑞鳳殿参観の途中「七士の墓」の標柱が目に止まり、たま らず駆け寄った。手入れの行き届いた墓地に静かに眠る七士の墓参ができ、感動したこと を思い出す。このビデは全国高校放送コンクールで最優秀賞に選ばれたとのこと、柴さん の話で「七士の墓」に関心を持った1人として、素晴らしい映像をぜひ見たいものである。 鹿児島県姶良郡姶良町平松 有村(76歳) 平成10年1月11日 南日本新聞 みちのくで苦難をしのんだ・・大晦日の宵、鹿児島市の まったくの未知の方から「みちのくに残る西南の役」のビデオを入手したから見においで と、電話をいただいた。思いがけない朗報に小躍りした。 先日、この欄に、ビデオを是非見たいと投稿したのが目に留まり、要望をかなえてくださ ったもので、好意に感激した。遠い「みちのく」のできごと、まだ先のことと思っていたの で、早い実現に驚いた。好意に甘え、年明け早々、お訪ねして映像を見せてもらった。 鮮明に写し出された七士の墓碑や周辺の風景など、かつての墓参の思い出が蘇える。宮 城県各地で開発に寄与した薩摩の旧兵士たちの足跡をたどった映像に、当時の苦難をしの び感慨に浸った。立派にまとめられた映像。女子高グループの苦労がうかがえる傑作だっ た。素晴らしいお年玉をありがとう。 鹿児島県姶良郡姶良町 有村(76歳)

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ビデオ制作秘話・・平成9年の春、突然市内の白百合学園から自 宅に電話があった。話の内容は「白百合学園高校放送部で、全国 高校生が放送作品を競う『マルチメディアコンクール』に『みち のくに残る西南の役』と言うタイトルのドキュメント番組を制 作するので高校生に指導して欲しい」との内容だった。 鹿児島県人の墓 翌日仙台駅前にある白百合学園を訪れ、女子高校生10数人に 囲まれながら、国事犯に関する資料を提供しながら説明をした。高校生は熱心に耳を傾け ながらメモをとっていた。小生の研究していた国事犯の事を女子高生が興味を持ってくれ た事は非常に嬉しかった。その時は全国で最優秀に選ばれるとは予想もしていなかったが、 内容がよかったのでいいところまで行くのではと淡い期待をもった。 それから6ヶ月程すぎて、高校から電話があり東北大会で最優秀となり全国大会に出場す ることになったとの喜びの内容だった。担任の先生によると全国大会に出場する高校は民 間の放送局並みの設備を持っているので、仙台の私立高校で予算も限られているので入賞 は難しいのではないかとの話だった。 それにしても全国大会である。設備とか予算では全国の強豪校に劣るかもしれないが問 題は生徒が制作したドキュメント番組の内容である。この内容が審査員の心に響けば優勝 も夢ではないと思った。 全国大会最優秀賞・・それから数週間後に更に嬉しい知らせが届いた。「全国大会最優秀 賞」に輝いたのである。7分30秒の作品ではあるが、学園の2、3年の生徒が1年がかりで 県内の国事犯ゆかりの地を取材して、苦労してまとめた作品は高校生の作品とは思えない ほどの素晴らしい出来栄えであった。このニュースが鹿児島県の地元で報じられると、鹿 児島県庁そして宮城に送られた国事犯の子孫等から高校あてに問い合わせが殺到した。 この作品の影には、瑞鳳寺に眠る七人の薩摩軍兵士の「見えない影の力」が働いたのでは ないだろうかと思いつつ、瑞鳳寺の七士の墓に行き墓前に最優秀賞の報告をした。 平成 10 年 10 月 国事犯の孫からの手紙・・私の祖父(塚田)は戊辰戦争と西南の役と、二 度の戦いに参加していた。一度目は英雄だったが、二度目のときは賊軍となり遠く宮城県監 獄署送りとなった。塚田十右衛門の末娘にあたる母、久保田某から私が聞いた言葉、「怪我 をしていたから、人力車に乗せてくれてナ、アッゼていねいな目に合うたチ」 解説・・「父は西南戦争で銃弾が当たり、そのために怪我をしていたので、仙台に行った ときの移動は人力車に乗せてもらって、とても丁寧な扱いを受けたということだよ」 塚田の末娘にあたる母からそんな風に聞いていたが、賊軍の兵士がそんな丁寧な扱いを 本当に受けていたものか永年私は疑問に感じていましたが、柴さんの調べて下さった資料 により、母の言っていたことが事実だったとはっきりしました。ありがとうございました。 そう言って聞かせた母はこの8月に98歳で祖父の元に旅立ちました。 塚田十右衛門の孫、山下某からの手紙

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平成17年9月30日

国事犯の子孫からの電話、仙台七士墓交流に期待・・宮城県仙台市に

明治10年(1877年)の西南戦争に従軍して官軍に投降し、国事犯として宮城県に配置され、 獄中で死亡した7人が葬られている。寺(瑞鳳寺)の入口には「鹿児島県人七士の墓」の案 内板があり墓の由来が書いてある。 以前、七士の墓に関する記事が掲載された関係で、8月に鹿児島の七士の遺族から電話で 「初めて墓参に行きますので、当時の国事犯の生活をお聞きしたい。」と連絡があった。8 月末に遺族が来仙し七士の眠るお寺で先祖の霊を供養した後、市内のホテルで当時の宮城 県民が戊辰戦争の恩讐を超えて、殊のほか国事犯を厚遇 していたことを説明した。 今回の墓参は、遺族にとって長年の夢がかなったよう で「120余年分緒の線香を上げてきました。」という言葉 が全てを物語っているようだった。七士の墓が、宮城、 鹿児島両県の友好親善の懸け橋となり、交流がさらに深 まることを期待している 仙台市若林区 薩摩大使 柴修也(58歳)

平成18年2月15日

河北新報

手厚い墓参に感謝

薩摩藩士の子孫、仙台訪問

西郷隆盛が政府軍と戦った1877年(明治10年)の西南戦争に加わり、宮城県監獄署で獄 死した旧薩摩藩士7人の子孫3人が11日、仙台市内のホテルで開かれた「みちのく宮城鹿児 島県人会」 (宍戸郎大会長)総会に出席した。県人会は藩士が葬られている瑞鳳寺(青葉区) で墓参を続けており、子孫がお礼を述べた。訪れたのは、獄死した薩摩藩士、有馬純俊の子 孫、有馬純敏さん(58歳)と寺田泰介の子孫、有満睦子さん(72歳)、玲子さん(43歳) 親子。いずれも鹿児島市から県人会総会に合わせて来仙し、墓参後総会に出席した。 有馬さんは、瑞鳳寺が7人の墓を永題供養まで祭ることを約束した当時の条約書を持参 し、県人会で披露した。有馬さんは「30数年もの間、手厚く墓参を続けていただき、ありが とうございます。今後はもっと自分のルーツを調べてみたい。」と述べた。宍戸会長は「県 人会は七士の墓を守るために発足した会。子孫の皆さんに来ていただき、うれしく思いま す。」と挨拶していた。 平成18年11月2日

南日本新聞

仙台に「七士の墓」自ら申し出て原野開墾

功績を後世に

西南戦争に敗れ国事犯として宮城県に配置され獄死した薩摩藩士。原野を開墾したとし て仙台市の「鹿児島県人七士の墓」に眠る。彼らの消息は、子孫を含め郷里ではあまり語ら れてこなかった。七士ら国事犯の功績を紹介する。 同市の歴史研究家・柴修也さん(59歳)によると、明治10年の西南戦争に従軍して投降 した薩摩軍兵士2,700余人が、北海道を除く全国の監獄署に配置された。仙台市には、東京 の約380人の次に多い305人が送られた。うち13人が病死。6人は遺族に引き取られ、残り 7人が同市の瑞鳳寺に残る。1970年代に七士の墓保存会として「みちのく宮城鹿児島県人 会」が発足。墓を整備し、毎年墓参して30年余りになる。 階級が一番高かった中隊長土岐丑之助は、桐野利秋隊の兵として鹿児島を出発、熊本城

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攻撃後に田原、吉野などで連戦した。自首して懲役5年を言い渡され、仙台に送られた。 最も年長の小隊長・長井矢藤太は、延岡まで西郷隆盛と行動を共にした。年齢を配慮した 西郷の勧めで自首、懲役1年の刑で仙台に送られる。薩摩兵士に対する判決は、自己申告に よる所属部隊の位に応じた即決裁判で、監獄署に収容されてから罪状(西南戦争での戦歴) を上申した。有馬純俊の上申書は勇ましい。「鹿児島城下に侵攻、吉野帯迫に戦い、9月1 日城下に突入官兵追い払い、生け捕り分取り数多し」とある。 米良佐平太の上申書は薩摩軍の敗走を伝える。「即日木山(熊本県益城町)へ退き、矢部 (同山都町)より人吉へ至る、直ちに鹿児島県下吉野村へ転陣、・・高鍋(宮崎県高鍋町) 美々津(同日向市)延岡の戦い悉く皆敗にて、・・長井村(同北川町)に於いて自首帰順仕 候也」。薩摩軍兵士は戊辰、西南戦争で宮城と戦った。監獄署も処遇に苦慮したが、1878 年1月15日付けの仙台日々新聞に「思いの外に温和」と記されるほど従順で協力的だった。 同28日付けには、西郷の伯父・椎原国幹らが中心となって県に対して「不毛の地を開墾 して朝恩に報いたい」と開墾奉願書を出した、とある。国事犯は開墾地雄勝での石盤採掘や 野蒜築港、道路工事など明治の疲弊していた宮城県の開発に大きな役割をはたした。 雄勝では分監そばの民家が火事になった際、国事犯が消火の指揮を執り、逃げ遅れたお 年寄りを救出した逸話も。住民は薩摩隼人の勇敢さに驚き「監獄の為に不思議な幸福を得 たり」と絶賛したと伝えられている。国事犯は民家を借りて学校を開いたが、住民も一緒に 勉学したという。 長井は監獄署近辺の農民に農業改良などを指導して妻帯を許され、一軒家に住んで出入 りが自由と厚遇された。有馬純俊の死は「脚気症により去る26日死去」(仙台日々新聞10 月2日付け)と報道されるなど、仙台市民の国事犯に対する関心の高さがうかがえる。 分隊長だった寺田泰介のひ孫に当たる有満睦子(72歳)=鹿児島市=らは9月、子孫と して初めて同県人会と一緒に墓参した。曽祖父の足跡をたどった有満さんは「異郷の厳寒 地で自ら申し出て難事業に当たった国事犯のことを、鹿 児島の人に知ってほしい。」と願う。 柴さんは「西南戦争では勝者となった東北も、戊辰戦 争では敗者だった。国事犯の気持ちが分かっただけに厚 遇し、宮城の開発に功績のあった七士を、藩祖伊達政宗 公を祭った瑞鳳殿の入口にある寺へ埋葬したのではない だろうか。仙台に来た折には、ぜひ墓参して七士のこと を後世に語り継いでください。」と話している。 平成19年8月23日

河北新報

子孫がピアノ演奏会 薩摩七士に鎮魂の調べ「田原坂」テーマ曲披露 西郷隆盛が政府軍と戦った西南戦争から今年で130年。節目に合わせて「みちのく宮城鹿 児島県人会」(会員140名)が9月8日「宮城県監獄署」で獄死した旧薩摩藩士の子孫で、 鹿児島市在住のピアニスト有満玲子さんを仙台に招き、藩士の墓参りと記念演奏会を開く。 有満さんが、激戦地を歌った民謡「田原坂」をテーマにしたピアノ幻想曲を初めて披露。 県人会メンバーとともに先祖をしのぶ。

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県人会によると西南戦争で政府軍に国事犯として捕らえられた旧薩摩藩士のうち、監獄 署に収監されたのは305人で、獄死したのは13人。このうち引き取り手のなかった7人の遺 骨は瑞鳳寺に葬られ、1974年設立の鹿児島県人会が毎年9月に墓参を重ねてきた。 7人の1人、寺田泰介の玄孫に当たる有満さんは2年前に初めて仙台を訪れ、先祖の墓 参りを果たした。今年の墓参を前に、有満さんが「西南戦争130年に合わせてつくった曲を、 ぜひ仙台で披露したい。」と県人会に持ちかけ、演奏会の開催が決まった。 「田原坂幻想曲」は、有満さんが平成音楽大(熊本県)の出田敬三学長に制作を依頼し、 昨年11月に完成した。「越すに越されぬ田原坂・・」で知られる歌 のメロディーを、約12分の優雅なピアノ曲に仕上げた。有満さんは 9月24日に鹿児島市で開かれるイベントで新曲を発表する予定に しており、仙台での演奏は地元に先駆けての初演になる。「長年、 墓を守り続けてくれた県人会への感謝と、先祖への追悼の気持ちを 演奏に込めたい。」と有満さん。 県人会会長で、学校法人尚敬学院理事長の宍戸朗大さんは「ピア ノの音色とともに、130年の時の流れをかみしめたい。」と話してい る。演奏会は瑞鳳寺への墓参に続いて8日午後4時から、青葉区御霊 屋下の「レストラン・パリンカ」で。 平成19年9月12日

河北新報 墓参に感謝の調べ 西南戦争から百三十年節目記念、ピアノ演奏

宮城県監獄署で獄死した旧薩摩藩士の子孫で、鹿児島市のピアニスト有満玲子さんのコ ンサートが8日、仙台市青葉区のレストラン「パリンカ」で開かれた。西郷隆盛が政府軍と 戦った西南戦争から130年の節目を記念して、「みちのく宮城鹿児島県人会」が主催した。 有満さんは、激戦地を歌った民謡「田原坂」をテーマにした「田原坂幻想曲」を演奏。熊 本県の平成音楽大学の出田敬三学長に作曲を依頼し、昨年11月に完成した曲で、全国初披 露となった。「荒城の月」などを演奏した後、締めくくりに「ふるさと」「みかんの花咲く 丘」を会員約40人と歌った。 有満さんは旧薩摩藩士・寺田泰介の玄孫。寺田の遺骨は仙台市青葉区の瑞鳳寺に葬られ、 県人会が33年前から墓参を行っている。有満さんは「みなさんが真剣に聴いてくれた。先 祖の霊を見守ってきてくれたことに、感謝の気持ちを込めて演奏した。」と話している。

平成 20 年 9 月 7 日

河北新報 西郷隆盛曾孫 仙台墓参 冥福を祈る

西郷隆盛が政府軍と戦った西南戦争の国事犯として仙台で獄死し た薩摩藩士7人が眠る仙台市青葉区の瑞鳳寺に6日、西郷のひ孫の陶 芸家西郷隆文さん(60歳)=鹿児島県日置市=が初めて訪れた。藩士 の墓に手を合わせた西郷さんは、墓碑を建立し、30数年もの間、追悼 を重ねてきた「みちのく宮城鹿児島県人会」に対し、お礼の言葉をの べた。

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獄死旧薩摩藩士の


鹿児島からは西郷さんのほか約130年前に宮城県監獄署で獄死した藩士・寺田泰介の子孫 でピアニストの有満玲子さんらが来仙した。 西郷さんらは県人会のメンバー約30人とともに、七人の藩士が眠る墓に参り、西南戦争 の激戦を歌った民謡「田原坂」を合唱して冥福を祈った。 「仙台に眠る藩士の存在は知らなかった。」と西郷さん。県人会のメンバーに「異郷の地 で眠る魂を長く見守ってくれたことに感謝したい。」とあいさつし、「これをきっかけに宮 城と鹿児島の交流を深めていきたい。」と述べた。西郷さんは8日、宮城県庁を表敬訪問す る。 平成25年5月8日

河北新聞

薩摩七士の鎮魂を祈る 関東鹿児島県人会 瑞鳳寺訪問 首都圏の鹿児島県出身で組織する「関東鹿児島県 人連合会」の会員20人が7日、仙台市青葉区の瑞鳳寺 を訪れ、旧薩摩藩士七人が眠る「鹿児島県人七士の墓」 を墓参した。会員らは墓前で焼香。西郷隆盛の奮闘を たたえた漢詩「城山」を代表者が吟詠し、藩士の冥福

を祈った。連合会長の内門さん(79歳)=横浜市=は 「初めて墓参した人がほとんど。有意義な機会にな った。」と話した。七人は西南戦争(1877年)に従軍 し、国事犯として宮城県監獄署に収監された。収監中に志願し仙台近郊や東松島市の野蒜 海岸を開墾した功績が認められ、瑞鳳寺境内への埋葬が許されたという。連合会は6日か ら2日間の日程で、東日本大震災の被災3県の鹿児島県人会との交流を目的に東北を訪れた。 平成30年3月15日 河北新報 薩摩隼人の功績語り継ぐ NHKの大河ドラマ「西郷どん」の放映で、鹿児島市内はもとより、鹿児島県内の観光地 は西郷隆盛ブームで沸き立っているのではないだろうか。一方仙台市内には、ブームとは 無縁の7人の薩摩隼人の墓がある。1877年(明治10年)の西南戦争終結とともに、官軍に 投降した薩摩郡兵士たちは国事犯(政治犯)として全国の監獄署に送られた。宮城県にも 305人が4回に分けて送られ、監獄署周辺の武家屋敷に収容された。 国事犯たちは自ら宮城県内の開墾を願い出て、戊辰戦争で敗れ疲弊していた宮城県内の 開発に大きな役割を果たした。だが北国の生活になじめず、病死した国事犯もいた。 宮城県では国事犯の功績をたたえて、病死した7人を仙台藩祖伊達政宗公の眠る瑞鳳殿 の入口にある瑞鳳寺に葬った。 墓の入口には大きな案内板がある。最近の西郷ブームの影響か、瑞鳳殿を訪れた観光客 が墓の前で足を止めることも多くなってきている。戦いに敗れ異郷の地に置かれても、西 郷の「敬天愛人」の思想を忘れず、宮城のために尽くした7人の薩摩隼人。その功績を後世 に語り継ぎ、鹿児島との友好交流を深めて行きたいと思っている。 柴 修也

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平成30年8月15日

南日本新聞朝刊

西南戦争薩摩兵士宮城に貢献

異郷の開拓者慰霊 大日さん(仙台市)今秋舞台劇ゆかりの地来鹿し巡る 西南戦争に敗れ、国事犯として宮城県に配置された薩摩軍兵士たちが、築港や道路工事 などの開発に貢献した史実を基にした舞台劇を、仙台市の演出家、大口琳太郎さん(58歳) が企画し、秋には鹿児島公演を目指している。打ち合わせのために鹿児島を訪れ、鹿児島市 の南洲神社など西郷隆盛ゆかりの場所を巡り、「古里を思いながら異郷の地で亡くなった 人々の魂を帰してあげたい。」と意気込みを語った。 西南戦争に従軍して投降した薩摩軍兵士約2,700人が、全国の監獄署に配置され、仙台に は東京に次いで多い305人が送られた。「不毛の地を開墾して朝恩に報いたい。」、西郷隆 盛の伯父、椎原国幹らが中心となって奉願書を出し、開墾地雄勝での石盤採掘などに携わ った。 舞台劇は「石に刻んだ赤心」。異郷の地で苦悩し葛藤する元兵士らの姿を歌や音楽に乗せ て伝える。指宿市出身のバリトン歌手大山大輔さんが主演を務め、11月2日仙台公演を皮切 りに、石巻市、東京、鹿児島で上演する。 鹿児島を訪れたのは8月初旬。私学校跡の塀に残る弾痕などを見た後、「これだけ生々し い戦争の傷跡に、空想だけで書くのと違う細部を埋めることができ、西郷の回想部分が固 まってきた。」と話した。仙台市には服役中に病没した薩摩藩士七士の墓があり、鹿児島県 人会の手で守られている。「薩摩郡兵士たちが宮城で、国の土台を築いたということを描 き,慰霊になれば。明治維新150年の年に、古里の皆さんにも伝えたい。」と意欲を新たに する。 平成30年9月5日

朝日新聞 西南戦争仙台での獄死の薩軍兵 西郷どんの曾孫悼む 仙台市内の寺に「鹿児島県人七士の墓」がある。1877年(明治 10)年の西南戦争で新政府を相手に戦った薩摩軍の多くの兵が、 国事犯(政治犯)として宮城県の監獄署に送られた。このうち7 人が収監中に亡くなり、この地に葬られた。元号が平成に変わっ て150年の今年、薩摩軍を率いた西郷隆盛のひ孫が訪れ、手を合 わせた。

隆文氏

捕らわれの地開墾「薩摩の気概」・・伊達政宗の霊廟、瑞鳳殿(青葉区御霊屋下)への坂道 の途中にある瑞鳳寺。墓地の一角に,石碑や墓石が並んでいる。1日みちのく宮城鹿児島県 人会が企画した墓参に、鹿児島県日置市から、陶芸家の西郷隆文さん(70歳)が訪れた。隆 盛のひ孫で、西郷隆盛公奉賛会の理事長。祖父は第2代京都市長などを歴任した菊次郎だ。 読経の中、隆文さんは県人会の会員たちとともに墓前で手を合わせた。 国事犯の宮城県開墾・・西南戦争の国事犯は2,700余人のうち、仙台の監獄に振り分けられ たのは305人。隆盛の伯父にあたる椎原国幹もいた。郷土史を研究している柴修也さん(71 歳)=仙台市若林区=の著書「西南戦争余話―宮城県に配置された国事犯」によると、国事 犯の代表が「県内の不毛の地を開墾して朝恩(天皇への恩)に報いたい。」と開墾奉願書を

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提出したという。 申し出は認められ、仙台市周辺や塩釜、東松島市野蒜地区、石巻雄勝地区の開墾や築港の 工事などに当たった。野蒜築港は大久保利通の発案で、日本初の様式近代港湾として計画 されたが、その後中断された。隆文さんは取材に「あの時代、のほほんと生きている人は薩 摩にはいなかったはず。捕らわれても、その地域のために何かできないかとやり始めたと 思う。薩摩野武士の魂が残っていたのでしょう。」と話した。 仙台で亡くなった国事犯・・刑期を終えた人たちが故郷に戻るなか、13人は病気で亡くな り、遺族の引き取り手がなかった7人が瑞鳳寺に葬られることになった。県人会は1970年 代に墓を改めて整備し、墓参りを重ねている。東京都内の病院に勤める長井直人さん(42 歳)は、今回初めて参列した。 埋葬されている長井弥藤太が、曽祖父の親類だったとみられている。長井さんは亡くな った父親からは生前、宮城県で亡くなった先祖がいて,墓もあることを聞かされていた。数 年前、インターネットで調べた処、瑞鳳寺に「七士の墓」があることを知った。「一度、県 人会の墓参の機会に訪れたいと思っていた。由緒正しい寺に墓があり、県人会の方が供養 してくれることを知り、感慨深い。」と語った。 平成30年9月11日 河北新聞 恩讐超え交流の深化願う・・みちのく宮城鹿児島県人会の 方たちが1日、仙台市青葉区の瑞鳳寺境内にある「鹿児島県人七士の墓」に参り、法要に参 列した。この墓には、1877年(明治10年)西南戦争に従軍して国事犯として宮城県監獄署 に送られ、獄中で死亡した旧薩摩軍藩士7人が眠っている。当日は小雨の中、鹿児島県から 西郷隆盛のひ孫の西郷隆文氏も訪れ、近年にない盛大な供養が行われた。 今年はまた、墓に眠る国事犯の子孫の男性と息子さんが初めて参列した。子孫の家では、 宮城県に国事犯として送られた先祖の墓があると語り継がれてきたという。NHK大河ドラ マ「西郷どん」の放映、さらに昨年西南戦争140年の節目ということもあり、一度宮城に眠 る先祖の墓にお参りをしようと思いたったとのことだ。 「鹿児島県人七士の墓」は仙台藩祖伊達政宗公の霊廟「瑞鳳殿」の参道脇にある。整然と 並ぶ7人の国事犯の墓を目の当たりにした子孫の方は、戊辰戦争の恩讐を超えて、宮城県 民が市内有数の名刹・瑞鳳寺に手厚く葬ってくれたことに感激。先祖の墓前で手を合わせ て、140年の歳月をしのぶかのように冥福を祈っていた。今後も鹿児島県人七士の供養を続 けることにより、両県の交流がますます深まることを願っている。 柴 平成30年10月15日

修也

河北新聞朝刊 宮城と薩摩の絆劇に 実業家らと旧藩士雄勝石採掘通し交流仙台・大日さん逸話交え脚本 1877年の西南戦争に敗れ、囚人として送り込まれた宮城県で雄勝石採掘に従事した旧薩 摩藩士の史実に基づく歴史劇「石に刻んだ赤心」が宮城、東京、鹿児島3県で11月2日から 上演される。企画した仙台市若林区の演出家 大口琳太郎さん(58歳)は「宮城と鹿児島の 深い結びつきを知ってほしい」と語る。

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雄勝石の産地、石巻市雄勝町は東日本大震災で、屋根材に用いるスレートや硯を製造す る事業が大打撃を受けた。事業の創生期に旧薩摩藩士も関わった歴史を発信し復興を後押 ししようと、大日さんが現地で取材を重ねて脚本を仕上げた。 劇には明治初期、雄勝に会社を設立し石盤製造の先駆けとなった実業家山本儀兵衛や囚 人3人が登場。囚人たちが地元民との交流を通じて、新しい国づくりに貢献する決意を固 める姿を描いた。 雄勝であった火災で囚人が人命救助に活躍した実際の逸話や、第1話は出所後も雄勝に 残って硯彫りの名人になったという伝説を盛り込んだ。鹿児島県指宿出身のバリトン歌手 大山大輔さんらが出演し、ギターの生演奏も付く。 実業家の山本を演ずる大日さんは「地域の国の礎を築いた先人の思いを受け継ぎたい。」 と言う。囚人を世話した地元女性役のアマチヤ劇団員島田江梨子さん(39歳)は「特産の 雄勝石によって雄勝が栄えた原点を知ってもらえるはず。」と話す。 公演は11月2日仙台市青葉区の電力ホール。4日石巻市雄勝小・中学校。5、6日東京文 京区の文化シャッターBXホール。7、8日鹿児島市の県民交流センター。

光明寺に眠る5人の薩摩軍兵士 栃木県宇都宮市本町光明寺(曹洞宗) 戊辰戦での薩摩藩の戦死者は報恩寺に葬られている が、市内はもう1ヶ所、「薩州志士之墓」というのがあ る。市内本町(とちぎ国際交流センター横)の光明寺。か つてのご住職によって建てられた、西南戦争関係者の墓 碑である。 「薩州志士之墓由来」・・という文書の一部意訳。 『西郷隆盛が城山で自殺した後、同志の士は尽く降伏し、 臨時裁判所にて刑せられ、各府県の監獄に分散拘禁され た。宇都宮監獄署には 65 名が服役したが、やがて期満ち て漸次出獄し、鹿児島に帰郷。彼等はその後、憲法発布 の大典に遭遇し、大赦の恩典に浴した。 しかしながら、不幸にして獄中で病死した者 11 名あ り、内6名は親族等が来て改葬されたが、残る 5 名は 30 余年間 1 人として弔う者なく、墳 土は荒草となり、墓標も朽ち果てようとしていた。宇都宮監獄署典獄の佐藤氏その他はこれ を憂い、碑を建て追悼法会を営もうとしていたが、そのうち多くの者が他県に転勤してしま い、実現せず。これを嘆いた時の監獄署医務所長・渡氏等は、各宗寺院の団体である栃木県 仏教慈善会に謀ったが、裁決されなかった。その時、独力で碑を建立せんと立ち上がったの が、光明寺住職の松岡道順禅師。道順禅師は、苦労しつつも自寺本堂西側に碑を建て、遂に 市内各寺院を招いて追悼法会を催した。明治 36 年 5 月 24 日の事であった。』 現在は、墓碑の横に鹿児島県人会による供養碑(昭和 58 年建立)があり、同会の名で塔 婆もあげられている。「薩州志士之墓由来」によれば、5 人の氏名は下記の通り。彼等は今 なお迎えに来る縁者無く、この遠い異郷に眠ったままなのだろう。 102


鹿児島県鹿児島郡塩屋村平民

大山 末吉

鹿児島県西来郡湊村士族 鹿児島県揖宿郡宿村西方士族 鹿児島県同郡同村士族 鹿児島県同郡頴娃村士族

高崎 彦助 石嶺 恕吉 永井 源吉 都外川 新五郎

今回、ネット上で、宇都宮監獄署内で病死した国事犯の眠る寺を発見した。全国に配置さ れた国事犯は 2,700 余名、監獄内で病死した国事犯について氏名が判明しているのは宮城と 宇都宮だけで、宮城については瑞鳳寺に七基の墓があり、鹿児島県人会の皆さんに手厚く供 養されている。 同寺は藩祖政宗公の御霊屋瑞鳳殿入口の参道脇にあり、瑞鳳殿を訪れる観光客の目に触れ る場所なので、九州地方から仙台を訪れた人々が手を合わせて行く、宇都宮の場合供養塔が あり、栃木県人会が毎年墓参して供養しているそうです。個人的な墓石はなく、5人一緒の 供養塔になっているそうです。お寺の住職は仙台にも国事犯の墓が有ることは知らないそう です。 宮城県監獄署と宇都宮監獄署・・明治 10 年の西南戦争の国事犯は宮城に 305 人宇都宮に 65 人配置された。獄中で死亡した人は宮城が 13 名、宇都宮は 11 名である。護送された人数か らすると、死亡率は宮城が 0.04%、宇都宮は 16%になる。宇都宮が宮城に比べて国事犯の 死亡率が極端に高いことが分かる。これは何を意味しているのであろうか。宮城県に送られ た国事犯は殊のほか厚遇で病気や怪我に対して鎮台から医者を招聘して治療に当たり、更に 脚気患者は温泉で療養生活まで送っている。そのため国事犯の死亡者が極端に少ない。 宇都宮の場合国事犯に対してどのような処遇をしていたのか記録が残っていないので判 明しないが、死者の数が宮城と比べて非常に多いことが分かる。このことから見ると宇都宮 では国事犯は一般囚徒と同じ扱いを受けていたのではないだろうか。11 名の国事犯が亡く なり 6 名は遺族が引取りに来たとのこと、残る 5 名は今も引き取り手がなく寂しく眠って いる。 国事犯の墓所一般囚徒の場合、合葬碑に収められ、獄死した囚徒の氏名のみ監獄署の死亡 帳に記載され、その死亡帳はマル秘扱いで監獄の特定の職員しか閲覧できないのである。 監獄署では国事犯が死亡した際に鹿児島から親族が引き取りに来ることを想定して、一般囚 徒とは別に墓所を設けていた。そのお陰で明治 36 年にお寺には「薩州志士之墓」が当時の 光明寺の松岡住職によって建立され更に、昭和 58 年に鹿児島県人会により供養碑が建立さ れ、それ以後毎年栃木県鹿児島県人会の皆さんが毎年供養するようになった。

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あとがき NHK大河ドラマ「西郷どん」もいよいよ最終章に入り、大久保と西郷との決別、そして 我が国最後の内乱西南戦争と時代は変化していく。その戦争に従軍した西郷軍兵士が投降 し監獄に収容された史実は、ほとんど残っていない、今回その史実を纏めてみた。 そこには宮城と薩摩の強い絆があった。明治初年の戊辰戦争では敗者となった宮城。薩 摩は勝者として仙台市内を凱旋したが、わずか10年後にその立場が逆転する。宮城県民は 戊辰の恩讐を超えて薩摩の人々を暖かく迎え、薩摩の国事犯たちもその朝恩に報いるため に、戊辰戦争で疲弊していた宮城の発展に大きな役割を果たした。 今回、仙台在住の演芸監督の大口氏制作の「石に刻んだ赤心」この演劇が、仙台、雄勝、 東京、鹿児島で上演されたが、国事犯と雄勝住民との交流が感動的に描かれていて、視聴者 に、これまでにない薩摩と宮城の絆を教えてくれた。 平成31年1月ネット上で、偶然宇都宮市内の光明寺境内に5人の国事犯の墓が有ることが 分かった。20数年探してこれまで分からなかっただけに、偶然とはいえ気縁が感じられた。 早速、今回の資料集に収録することにしたが、5人とも遺族は判明していないそうなので 今回の資料集が遺族の方の目に触れることを願っている。 歴史は時代とともに忘れられることが多いが、一冊の本に記録しておけば、次の世代に 新たに思い起こされることもあるだろうと思いつつ、後世の人に読んでもらうために本書 を書いてみた。 令和2年4月1日 柴 修也

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参考文献及び資料 鹿児島県立図書館所蔵の「国事犯処刑懲役人配置人名」 宮城県公文書館蔵「国事犯囚徒放免添翰綴」 宮城集治監沿革史 仙台日々新聞 郵便報知新聞 河北新聞 朝日新聞宮城版 明治42年東京読売新聞 宮城県監獄署副典獄水野日記 征西戦記稿 熊本商大名誉教授甲斐弦 坊津歴史資料館から長井弥藤太に関する回答 本間俊太郎宮城県知事からのメッセージ 西郷南洲顕彰会東京賛助会投稿 別府利成氏からの資料 国事犯小牧久湊の北謫日記 国事犯草野藤助の日記 国事犯の子孫からの手紙 有馬議定・新穂利秀・塚田某・中馬武光・大山誠之助 海軍大臣川村純義の子孫からの手紙 宮城集治監第3代典獄安村治孝の子孫からの手紙 国事犯土岐丑之助の子孫からの電話 国事犯有馬純俊の子孫からの聞き取り 国事犯寺田泰介の子孫からの聞き取り 国事犯椎原国幹の子孫からの聞き取り 西郷隆盛のひ孫からの聞き取り 国事犯長井弥藤太の子孫からの聞き取り

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関連ブログ 下記ブログには本書の中に書き込むことができなかった資料、写真等などが組み込まれ ています。尚ブログは現在も更新中です。 1. 西南戦争と国事犯のその後 http://satumahayato.cocolog-nifty.com/blog/ 宮城県に配置された国事犯の監獄署内での生活の様子、国事犯が開墾した宮城県内 の原野、石盤製作に携わった雄勝地区、国事犯と地域住民との心温まる交流等を収録 しています。現在も更新中です。 2. 宮城集治監六角塔ウェブリブログ https://siba77.at.webry.info/ 国事犯を収容した宮城集治監の内部写真等です。昭和48年に解体されましたが、そ の時に撮影された写真、及び昭和53年の宮城県沖地震の際の貴重な写真です。 上ブログは日本の近代行刑史を語り継ぐ貴重な資料ですので、興味のある方は是非ア クセスしてみてください。

本書に関する連絡 柴

修也(しば しゅうや) 住所: 984-0823 仙台市若林区遠見塚1-12-25

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