ニューズレター21号日文版

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台灣東亞歷史資源交流協會 會刊 東アジア歴史資源交流協会 アジア歴史資源交流協会ニューズレター 歴史資源交流協会ニューズレター

No.21 日文版 2015/12/1 eaphet@gmail.com Tel/Fax:886-4-2251-9593

East Asia Popular History Exchange, Taiwan (EAPHET)

台灣台中市西屯區黎明路二段972巷40號

http://eaphet.myweb.hinet.net

<目次> 目次> ◆辺野古・高江と安保法 制―沖縄平和営報告 アウイ・カズオ p1

◆日本国安全保障法制: 捻じ曲げられる言葉の行 く先 村山さたね p6

◆様々な環境汚染に直面 し、平凡な一人のお母さ んができること 五十嵐祐紀子

辺野古・ 辺野古・高江と 高江と安保法制― 安保法制―沖縄平和営報告

アウイ・カズオ

p9

◆Eaphet活動報告【象仔 書屋”午後のビタミン “】 p12

◆聊聊映画レビュー p14 ―日本人はなぜ戦争へ と向かったのか ―ニュルンベルグ裁判

◆第13回台湾同志遊行を 契機に、LGBT運動の現 在を考える トーマス・ ブルック p15

2015年9月19日から22日まで、平和の島連 帯主催の「沖縄ピースキャンプ」に行って 来ました。台湾から15名ほどの参加者が同 行し、済州島、沖縄現地の参加者を合わせ て65名ほどの大所帯(上写真)での催し物 となりました。 今年の2月にEaphetで、済州島と沖縄 からの参加者を迎えて行った《【蠱惑的 假面】不要!分裂中的台灣‧沖繩‧濟州》 活動の続きです。来年夏には、さらに台 湾での「台湾ピースキャンプ」の開催が 予定されていますが、それについては本 稿の最後に報告します。

抗議活動を中心に、辺野古での海上抗 議、高江での抗議活動などに参加しな がら二度の公開シンポジウムを行って 済州島、台湾、沖縄、そしてアジア太 平洋地域の軍事化の現状について意見 交換を行うという、盛りだくさんな内 容。

■新インターン紹介

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キ ャ ン プ は、実 質 三 日 間、辺 野 古 (キャンプ・シュワブのゲート前)での 宣言文を検討する台湾からの参加者たち

最終日には 参加者全員で 宣言文を練り 上げて発表し た。そ の 主 な 大浦湾で宣言文を読み上げた 内 容 は、① 軍 事 演 習 の 停 止、②人工島の建設の停止、③江汀村海軍基 地建設の停止、④高江のヘリパッドの建設の 中止、⑤与那国島レーダー基地建設の中止、 ⑥石垣島、宮古島、奄美大島の基地建設計画 の停止、そして⑦辺野古新基地建設の中止を 求めるものでした(宣言の最終版はまだ確定 していないので、以上は暫定版に基づいてい ます)。 東京で安全保障法制が強行採決(議事録も 11

なく採決ですらないわけですが)され た直後、早朝のゲート前での抗議活動 で、私たちのキャンプの参加者が逮捕 されるアクシデントが起きました。翌 日の予定をすべて変更して、キャンプ は名護警察署前で、逮捕された人の即 時釈放を求めて座り込みました。逮捕 後48時間が経過したところで10日間の 拘留延長となり、最終的に釈放された のはキャンプ終了後の10月2日でした。 以下、キャンプの内容を、私個人の 立場からではありますが、簡単にご案 内します。 1.事前準備 2 月 の「蠱惑 的 假 面」イ ベ ン ト の 際


辺野古・高江と安保法制―沖縄平和営報告

2. 沖 縄 へ : 県 庁 前 で琉球SEALDs sに出 琉球 逢う 9 月 19 日 の 早 朝 の LCCで多くの台湾参 加者は沖縄に向かい ました。すでに現地 入りしていた上前万 由子さんと合流し、 大部分の参加者はそ のまま南部戦跡と平 和祈念資料館へとバ スで。すでにそこは 経験ずみの一部の人 は、県庁前広場で琉 球 SEALDs(シ ー ル ズ)の企画する安保

に、沖縄ピースキャンプの日程が9月のシルバー ウィークになると聞き、その日程では台湾の学生の 参加はむずかしいのではないかと心配しました。し かし、蓋をあけてみると、社会学系の学生を含め、 318ひまわり学生運動にいろいろな形で参加した学 生たちを中心に、次つぎと参加申し込みがあり、 Eaphetとしてはうれしい誤算となりました。過去 (のツアー)最大の参加者数でした。夏の江汀平和 行進に参加し、現地で済州島と沖縄の面々と打ち合 わせをして台湾に戻ってきた上前万由子さんを中心 に参加者募集、沖縄チームとの連絡をとり、象仔書 屋を借りて事前の勉強会を何度か行いました。困っ たのは中文で沖縄の基地問題について書かれたよい ものを見つけることができなかったことです。象仔 書屋にも適当なものを見つけられず、ネットで読め るものをみんなで捜しました。

法制抗議集会に参加。私もそちらに合流しました が、その日の未明に強行採決がなされたにもかかわ らず、集まった人たちは30人前後で決して多くはあ りませんでした。通りを隔てた向こう側では安保法 制を支持する人たち2, 3人が街頭示威行動をしてい ました。そちらも極めて小規模でしたが、数十人を 集 め た シ ー ル ズ の 側 で 話 を 聞 き ま し た。途 中 で Eaphetの仲間、琉球新報の呉麗君記者も合流。 琉球シールズの人たちの話を聞いていると、沖縄 をあくまで日本国の一部として認識したい人たち と、そこをあえて明確にしない人たちがいました。 沖縄独立という立場を明確にしたスピーカーは(少 なくともシールズ関係者には)皆無でした。沖縄の ことは沖縄が決める・・・標語にはそうあるのです が、沖縄の位置は全体としてはっきりしなかった。 自分たちの生活に大きく影響することについて、自 分たちの考えや利害ではなく、「私はあなたたちよ

上)安保賛成の示威行動 下)SEALDsの示威行動

りもっとずっと大きく、正義なんだぞ」と主張する 《何か、誰か》の考えや利害によって決められてい くとき、その《何か・誰か》を自分たちもその一部 であるものととらえるか、あるいは自分たちとは別 のものであるととらえるか。琉球SEALDsの全体と しての声は、この《何か・誰か》の主体は横に置い ておいて、その「正義」の質を問うことに終始して いたという印象です。東京での問いの問い方と、沖 縄での問いの問い方の間にあるべきなのではないか と思う差が見失われているようにも思いましたが、 それが意図的なのかどうかは分かりませんでした。 3. 辺野古: 辺野古:海とゲート前 とゲート前 一夜明けて、翌朝、一行は辺野古の海へと向かい ました。私が海岸のテント村を訪れるのはほぼ10年 ぶり(沖国にヘリが墜落したとき以来)でしたが、 その変わらない様子にほっとしたというか、どう感

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辺野古・高江と安保法制―沖縄平和営報告

じ て い いか 分 から な かっ た と いう か…。 実は、私たちの中で、テント村で 話を聞く一団と、海上行動の真似と い う か 練 習 の た め カ ヤ ッ ク(カ ヌー)に乗る一団とに分かれていま し た。私 は テ ン ト 村 に 行 き ま し た が、カヌーの方は初めて乗る人もい て、なかなか大変だったようです。 一行は昼に合流してゲート前へと移 動しました。 今日のゲート前は「ミスターゲー ト前」山城博治さんが退院してゲー ト前に復帰する日で、糸数慶子さん ら も 山 城さ ん を待 ち うけ て い まし た。登場した山城さんはまだ体力が

回復していないことが動きや発声か ら分かりましたが、話すうちに元気 が湧いてきているようでした。化学 療法で髪の毛が抜けおちた頭にハン チングをかぶった彼のスピーチは前 日の安保法制強行採決に触れ「もし あの強行採決のときのように東京の 装甲車では足りず大阪から、神奈川 から100台以上の装甲車を並べて私 たちをもし(ゲート前から)シャッ トアウトすることがあるとすれば、 笑ってやりましょう。そんな装甲車で俺たちの前に 壁を作ることはできない!」と檄を飛ばしました。 まだまったく本調子ではない山城さん、身体を大事 にしてほしいがゲート前の闘いが彼の生きる力なの だろうとも思いました。 この前の日(私たちが沖縄に降り立った19日)

ゲート前の座り込みのテ ントに酔っぱらった右翼 が殴りこんだそうです。 その現場では見ているだ けで何もしなかった沖縄 県警ですが、その後、こ の右翼を逮捕したと聞き ました(翌21日の話)。 私たち一行も、沖縄のお じちゃん、おばちゃん、 お母さん、子どもたちの 中に混じって坐り、お弁当を食べました。 午後は宜野座の公民館でシンポジウムをやりまし た(上写真)。生態系中心の討議で、済州島チーム からはヒョンジン(いるか)さん、台湾チームから は恩恩さんが発表。辺野古の海を潜り続けている牧

志治さんのスライドと発表が圧巻でした。沖縄の人 たちも聞きにきてくれたのですが、会場が広すぎた のでしょう、あまり活発な議論にはなりませんでし た。内容的には、しかし、あまり馴染みのない海の 中の生態系の話にみな聞き入り、辺野古と大浦湾の 海に何が起きているのか、多少なりと理解すること ができました。台湾の話は直接これと関連しなかっ たのですが、島全体の環境汚染とこれに対する島民 の闘いの様子が伝わったと思います。

性が最初にちょっと英語であいさつした後「ここは 日本だから日本語で話しましょうね」と言ったのが 私の耳に刺さって、なかなか抜けてくれないのです が、お話の内容は(通訳にてこずりましたが)充実

4. 高江と 高江と汀間公民館 翌21日は、早朝のゲート前抗議の後、高江へと向 かいました。N4テント。途中の道が寸断されてい るところがあって迂回の必要に迫られ、右往左往し た後、何とか高江のテントに到着。説明の途中で大 雨になり、テントの中も足元を水が川のように流れ る状態。お名前を失念しましたが説明してくれた男

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辺野古・高江と安保法制―沖縄平和営報告

ハン・パイクさんが話しました。聴衆の中に馴染 みの顔(例えば知花昌一さん)を発見しつつも、 私自身、慣れない通訳に追われて挨拶もできない 状態でした。汀間区は基地と引き換えの振興予算 などもらわずとも豊かな未来が思い描けるのだと 宣言した地元の人の言葉に 何かきりっとしたものを感 じました。 クーハンさんの発表を聞 いて最近になってやたら めったら軍事演習が増えて いること、それも軍事同盟 上は敵と味方になるにもか かわらず行われる合同演習 が急増しており、演習の場 が武器の見本市と化してい て、実際に武器商売のため

したものだったと思います。同時にテント訪問だけ では高江の現状も人々の暮らしも分からない、とい うこともよく分かりました。天候があやしく、時間 もない中での高江訪問だったので、これをしかたの ないことでした。私たちは急いで汀間(てぃーま) の 公民館 へと向 かいまし た。 汀間の公民館では汀間の 区 長さん も出迎 えてくれ て、シ ン ポ ジ ウ ム の 会 場 いっぱいに沖縄の人たちが きてくれました。台湾チー ムからはLeoさんの発表、 済州島からはチェ・ソンヒ さん、沖縄から高里鈴代さ ん、そしてハワイからクー

に演習を行っているようにも見えること、さらに軍 事演習がいかに海を傷つけているか、について再認 識しました。 ここでも中日韓英の通訳作業は大変でしたが、み なさんの不屈の精神だけで乗り切った、という感じ でした。

一行はこの日の予定を返上して名護警察署前に急 行しました。面会は許されず、警察署の外から逮捕 された人を大声で激励することしかできませんでし

5. 名護警察署と 名護警察署と満月祭り 満月祭り 翌日、22日の早朝のゲート前抗議でキャンプ参加 者の一人が逮捕されるというアクシデントが起きま した。警察の方もこの日はなぜか人数も多く、殺気 立っていたようです。私自身は寝過して朝の抗議活 動には参加していなかったので実際に何が起きたの かは、別の人が現場で撮ったビデオなどから推測す るしかないのですが、逮捕された参加者は「警官を 足で蹴っ」て公務執行妨害現行犯逮捕になったと説 明されました。

た。 糸数慶子さんが弁護士とともに署長に談判に入り

ましたが本人には会えず、容疑を知らされただけで した。結局この日はまったく進展がなく、私たちは 前から予定されていた大浦湾での音楽祭「満月祭 り」へと向かうしかありませんでした。この音楽祭 で沖縄ピースキャンプの共同宣言文を読み上げるこ とになっていました。 ところが肝心の宣言文(四言語)がまだ未完成。 読み上げる部分を重要な部分だけにしても、まだ四 言語で出来上がっていない状態だったのです。私自 身は、英文担当のNan Kimさんが急いで次つぎに仕 上げてくる英文の日文相当版の作成に駆り出され、 これまでの人生でこんなに集中したことがないとい うほど集中して使いなれないラップ・トップを膝 に、不安定な砂浜に椅子の足を食いこませながら作 業。最終的にどうにかこうにか四言語間に合ったの はまさに奇跡でした。 次頁上の写真は、宣言文の作成に奮闘する面々で

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辺野古・高江と安保法制―沖縄平和営報告

す。 音楽 祭に来た一 般の人たち には、突然 の「平 和 キャンプ宣 言文」を唐 突に感じ、 何のこっ ちゃという 人たちもいたに違いありませんが暖かい拍手を もらいました。 そういうわけで音楽祭の大半を見ることがで きずにいたわけですが、最後に南コリアからき たサムルノリの表演だけは見ることができまし た。ここ二日間、ずっと宿も一緒だったのにど ういう人たちかわからないままだったんですが、こ

こで初めて分かりました。ああ、彼らはこのために

来てたんだ、というわけです。

込んだ話はできませんでした。第二回目から実質的 な相談に入りました。 ここでは、今私たちが考えていることをアウイな りにまとめて報告に替えたいと思います。ネット上 には「台灣島際和平營」というタイトルでhttps:// www.facebook.com/%E5%8F%B0%E7%81%A3%E5%B3% B6%E9%9A%9B%E5%92%8C%E5%B9%B3%E7%87%9F864974866954614/ という場所で、最新情報を載せ ていますのでご参照ください。

6. 台湾ピースキャンプのこと 台湾ピースキャンプのこと、 ピースキャンプのこと、台湾に 台湾に戻って 9月21日の夜に、来年のピースキャンプを台湾で 行うことが決まりました。今回の沖縄ピースキャン プに参加した台湾チームが中心となって企画・実行 することになりました。これも「満月祭り」で発表 しておきたかったので前日の夜に決定しておいたわ けです。 台湾に戻ってから今日(11月12日)までにすでに 三回の会合をもち、台湾ピースキャンプについて話 し 合 っ て い ま す。 もっとも一回目はま だ沖縄で逮捕された 参加者が釈放される 前 だ っ た の で、そ の 話 が 主 で、キ ャ ン プ の計画について突っ

① 台湾ピースキャンプを実施する母体として『和 平之海聯盟台湾分部』を立ち上げ、Eaphetはそれに 参 加 す る。緑 色 公 民 行動聯 盟の洪 先 生、台 東 廢 核 反 核 廢 聯 盟 の 郭 さ ん、 國 家人權 博物館 籌 備 處の蔡 先生な ど

り、そ の 民 進 党 は 安倍政権の安保政 策を歓迎している よ う な の で、台 湾 住民としてこのこ とが台湾のどのよ うな急激な軍事化に繋がっていくか警戒しなくては ならない局面を迎えている、と認識し、3】それゆ え、環太平洋および東アジアで進行中の軍事化につ いて台湾でも人々の関心を喚起し、情報を交換して いくことの価値は大きい、という三つの共通認識に 立脚して考えていきたい。これは、これまで過去の 戦禍と白色テロに焦点を当てがちだった台湾の平和 運動に新たな局面を開くものとなる可能性がある。

が参加してくれるこ と に な っ て い る。 (ま だ 関 係 者 に 連 絡 が取りきれておら ず、参 加 者 リ ス ト は 今後増えていくこと になるだろうと期待している)。 ② 台湾には(済州島や沖縄と違って)米軍基地が なく、軍事基地をめぐる大きな抗争もなく、平和運 動そのものの様相が他の二つの島とは異なってい る。そこで共通点を見つけていく必要があるが、 1】済州島、沖縄、グアム、ハワイ等で展開されて いる米軍を中心とする軍事化とその社会、自然環境 への影響は、台湾にとって対岸の火事ではなく、そ の影響をもろに被るものであると認識し、2】来年 の総統選挙でも民進党の躍進がほぼ確実視されてお

③ キャンプの実施時期は2016年8月後半から9月初 旬までの間のどこか、全5日間の日程とし、内容と

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日本国安全保障法制:捻じ曲げられる言葉の行く先

場所については検討中。南コリア、沖縄、台湾から 40名前後の参加を予想。助成金についても検討中。

日本国安全保障法制:捻じ曲げられる言 葉の行く先 村山さたね

④ キャンプ実施前に、北部、中部、南部、東部で 小規模のフォーラム的な催し物および読書会(勉強 会)を行い、議論を深めていく。北部については洪 先生等北部在住者が詳細を詰めていく。中部、南 部、東部についても同様。例として南コリアの問題 を扱ったドキュメンタリー(例えば「グロンビの 風」)を上映し、江汀村の誰かにスカイプで現状報 告をしてもらい、参加者で討議する、など。12月に 初回が開催できることを期待している。

68年前、日本国憲法ができた。ロシア皇帝が失脚 したときには世界一の金持ちと言われた天皇はその 大方の財産を奪われ、神ではないと宣言され、「主 権」は 民 に あ る と も 宣 言 さ れ た。こ の“主 権 在 民”、“民主主義”に加えて、新憲法の三本柱の最 後は“国際平和主義”と呼ばれた。憲法制定当時の 政権には明治憲法を化粧直しする以上の発想はな く、議会は結局、GHQ草案を手直ししたものを承 認し、その新憲法が施行された。

まだ計画を始めたばかりなので、とりあえず合意 したのは以上だろうかと思います。詳しいことが決 まり、計画が立ちましたら、その時点でみなさまに お知らせしたいと思います。この文章を読んでくだ さった方々、ぜひご協力いただければ幸いです。

新憲法の施行から一年も経たないうちに、アメリ カ合衆国のアジア戦略が変化した。GHQの中心勢 力は民政局から参謀部に移り、治安の強化(社会を

変えようとする人々への弾圧)と再軍備(親米の 軍隊創出)に力が注がれていった。朝鮮戦争に入 ると、日本の軍需産業とこれを支える資本、利権 を求めて群がる(戦中から続く)特権階級がアメ リカ合衆国の防共政策を利用して日本国憲法を土 台から腐らせ始めた。

労働運動は共産主義の温床とみなされ、警察の 容赦ない弾圧にさらされた。レッド・パージが始 まった。朝鮮戦争とこれに加担する日本国を批判 する人たちは共産党とされ、ものが言えない状況 に追い込まれていった。占領当初は朝鮮半島に帰 還しようとする朝鮮の人々を保護する動きを見せ ていた連合軍が、一転して朝鮮人を潜在的な北朝 鮮スパイとみなしていった。 - - - 「平和日本はあなたを求めている」-1950年8月 に結成された警察予備隊の隊員募集ポスターに書 かれた文句だ。警察予備隊は、朝鮮戦争で大忙し だったマッカーサーが日本政府にその設立を要請 (命令)したもの。その「平和日本」は2ヵ月後の 10月にはアメリカ合衆国軍を援助するために朝鮮

A級戦犯として告発された人々の中でGHQの参 謀部が利用できそうな人材は起訴を免れていっ た。有罪は間違いないと考えられていた戦犯た ち、岸信介、児玉誉士夫、笹川良平、正力松太郎 ほか多くが不起訴釈放となり、その後の日本国を 食い物にしていった。日本軍の非人道的行為の チャンピオンとも言える731部隊の関係者さえ、生 化学兵器の情報(人体実験情報)提供と引き換え に起訴を免れたばかりか、その後、日本医学界の 要職への道も用意された。

水域に特別掃海艇(海上保安庁を中心に湾岸労働者もかき集 められ、56人が死亡)を派遣した。そこから後は坂道を転げ 落ちるように「平和」の名の下に軍隊が増強されていった。 《転げ落ちるように》拡大していったのは軍隊だけではな かった。占領開始当初は特別高等警察(特高)のような警察 権力の一極集中を避けるために警察力を地方に分散する政策 がとられた(1947年旧警察法)が、すったもんだの末に、公 安 をト ップ とし た一 極集 中型 の国 家警 察組 織が 復活 した (1954年警察法)。1954年と言えば、自衛隊が発足した年で もあった。 他者への 他者への暴力 への暴力 日本国のメディアは戦争中の日本社会を「力で押さえつけ られた社会」として描くことが好きだ。人々はいやいや、無 理やりに戦争に駆り出されていった、と。しかし、事実はこ れとは違った。人々は銃剣を突きつけられたから嫌々ながら 侵略戦争に協力したのではない。ひとつの方向に心を誘導さ

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日本国安全保障法制:捻じ曲げられる言葉の行く先

Arbeit macht frei 「労働によって自由になるArbeit macht frei」とア ウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の入り口に書 かれていた。貴族の女性が労働を通して(まっとう に)自立していくというディーフェンバッハの短編 小説のタイトルだが、病的なユーモアなのか、多数 のユダヤ人、ロマ 人、同性愛者など を殺戮したナチの 強制収容所の入り 口にこの標語が掲 げられた。労働せ ずに遊んで(金貸 し業で?)いたユ ダヤ人たちを労働 を通して真人間に するのだ、という

れ、反対したり疑問を投げかけたりする人を互い に陰に陽に攻撃し、黙らせ、後は群集について行 けば安心だということになって、引き返せないと ころまでいった。 一方で自由や平和や民主などを標榜しながら、 他方でそれらが本来指し示していたものの姿をぼ やけさせ、捻じ曲げ、腐らせ、特定の人々の利益 にために特定の他者に対して加えられる暴力を許 容し、美化し、推進していく社会がつくられる。 言葉が根扱ぎ(ねこぎ)にされるとき、通常なら 人々が眉をしかめ、中には積極的に反対意見を表 明し、阻止する行動に出る人がいておかしくない であろう暴力に対して、人々が全体として許容し 推進してしまう状態―それを何と呼べばいいか知 らないけれど―が出現する。

ことか。現実を言葉で捻じ曲げるレイシズムの病的な論理だが、 それがまかり通った。 積極的平和主義

あなたは平和のために血を流せるか。それができないならあな たの平和主義は偽善にすぎない。平和のために血を流したものだ けが平和を語ることができるのだ。―そういう主旨のことがソウ ルの「戦争記念館」のどこか出口近くに以前は書いてあったのを 覚えている。今はなくなっているかもしれない。南北合わせて 500万人の死者を出した朝鮮戦争を記念する場所だ。記念館を一 通り見て、最後に「だから戦争は止めましょうね」とはならない のだ。われわれを脅かす者があれば、これからも銃をとって立ち 上がるぞ、というのだ。 身近な誰かの生存と幸福と健康を守るため、あるいは自分自身 のそれらを守るために攻撃者に対して緊急の場合「暴力で阻止」 することは―絶対的平和主義の信念をもった方々には受け入れが たいだろうが―避けにくい。それはとりたてて勇敢な行為でもな

ければ熟慮を要する行為でもなく、ほぼ反射的な行 為なのだと思う。戦争とは、「攻撃者」と認定され た者たちへの「暴力による阻止」から「暴力による 応酬」へと、組織的に制度として一定の規模で持続 的に暴力を行使し、その常軌を逸した行為に大義名 分を与えることを言う。戦争の中では、日常生活に おいては緊急の事態(近しいものや自分自身が攻撃 者から身を守らねばならないという事態)をあえて 意図的に継続的に作り出していく。相手を暴力的に ねじ伏せる目的で相手の生活領域に踏み込んでいく 兵士たちは、相手にとっての緊急事態を作り出す。 相手が身を守る行為に出れば、それは踏み込んで いった兵士たちにとって緊急事態となる。それら緊 急事態は、しかし、組織的・制度的・継続的に「作 り出された」ものであって、日常的、偶然的に起き るのではない。

日本国は安保法制によって、緊急の暴力の発動 と、常備軍による戦略的な軍事行動(広義の戦争) との間に「切れ目のない」曖昧化を行った。緊急の 暴力の発動を避け、暴力の連鎖が組織的に継続され ないためにあらゆる手段を積極的に講じることが積 極的平和主義の(通常の、まっとうな)意味である はずだが、言葉の意味は捩じられた。 「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武 力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永 久にこれを放棄する」という憲法の規定は、このよ うな意味での積極的平和主義を必要とするものであ り、安保法制を支える「積極的平和主義」とは真逆 の意味になる。言葉の捻じ曲げによって軍事予算が 拡大され続け、三菱重工などを中心に武器産業の海 外競争力が強化される。一度軍需の甘い汁を吸った ら、産業はなかなか後戻りができにくくなる。かつ

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日本国安全保障法制:捻じ曲げられる言葉の行く先

の可能性は存在し、また存在し続けるでしょう。こ の軍産複合体の影響力が、我々の自由や民主主義的 プロセスを決して危険にさらすことのないようにせ ねばなりません。…』

てアイゼンハワーが警告したのもこのことだった (1967年1月、離任TV演説)。彼は言った。 『最後の世界戦争までアメリカには軍事産業が全 くありませんでした。アメリカの鋤の製造者は、時 間をかければ、また求められれば剣も作ることがで きました。しかし今、もはや私たちは、国家防衛の 緊急事態において即席の対応という危険を冒すこと はできません。私たちは巨大な規模の恒常的な軍事 産業を創設せざるを得ませんでした。これに加え て、350万人の男女が防衛部門に直接雇用されてい ます。私たちは、アメリカのすべての会社の純収入 よりも多いお金を毎年軍事に費やします。…我々 は、政府の委員会等において、それが意図されたも のであろうとなかろうと、軍産複合体による不当な 影響力の獲得を排除しなければなりません。誤って 与えられた権力の出現がもたらすかも知れない悲劇

自由・ 自由・平等・ 平等・博愛 11月13日、パリ市内の5か所でほぼ同時に銃と爆 弾による市民攻撃があり、129人が命を落とし、多 くの人が傷を負った。ISISが犯行声明を出し、オバ マ米大統領、オランド仏大統領などが「テロは許さ ない」と《例の悲痛な顔》でTVで語った。フェイ スブックなどの会社は、ここぞとばかりにユーザー のプロフィール写真をトリコロール(フランス国 旗)化するサービスを始め、たくさんのユーザーが フランス国旗を掲げる結果になった。世界の主要メ ディアは、各国で著名な建物にトリコロール三色の 照明をあてたりフランス国旗を掲げる場面を報道

し、そ れ こ そ が「テ ロ に 対 す る 抗 議」で あ り「犠 牲 者を哀 悼するこ と」な のだと宣伝した。

を身近に感じることなく教育され、国家暴力が発動 されるような場面から常に遠くにいることができた 人々なのかもしれない。 「テロとの戦い」という言葉で、特権層(と軍事 産業)の利益のために他国の内乱に武力介入してい く。自国にその報復がもたらされると「我々は何の 罪もないのに卑劣な攻撃を受けた」という言葉で、 人々の間に捻じれた国家主義とレイシズムを煽る。 言っていることとやっていることの間の巨大な落差 が暴力であることに、人々は気づかない、そっぽを 向く、無視する…。大義名分を戴いて、フランスの 軍産複合体は今日もフランス国旗を掲げてシリアを 爆撃し続けている。

幸いに して、これに対 して違和感を表明する 人々も少なくなかった。 し かし、企業 と国家が仕 掛 けた「フラ ンス国旗掲 揚」に 何の疑 いももたな い人々がいたことも事実だ。私たちはただパリの犠 牲者に対して哀悼の気持ちを現しただけだ、何がい けないのか、と彼らは反発するだろう。彼らは、 人々と国旗との間にある(徐々に顕在化し、今では 決定的にさえなった)亀裂を身近に感じることなく 育ち、国旗が人々を代表してしまうことが持つ暴力

国家安全保障 かつて砂川事件の最高裁(田中)判決は、安全保 障に関することがら(日米安全保障条約に関連する

ことがら)は高度に政治的なことがらであり、司法 がそれを合憲か違憲かを判断することはできず、内 閣と議会がこれを決める権限を有す、と述べた―こ れは正確な引用ではないが、この結果として憲法以 外の法体系を許容した。国家安全保障にかかわるこ とは司法(裁判所)判断の埒外だ、と宣言したの だ。

いう試算(過小評価ではないかとも思うが)もある (http://www.jca.apc.org/stopUSwar/notice/reportclimateofwar.htm)。加えて各国の常備軍が単独、あ るいは寄り集まって不必要に繰り返される軍事演習 が一体どれほどの温室効果ガスを排出し、環境破壊 を行うのかも、人々には知らされていない。 おわりに 憲法について定義を探してみると『憲法とは国家 の統治体制の基礎を定める法。国家の根本法。』と いうようなものが一般的なようだ。日本国憲法とい うのは主権在民主義、国際平和主義、民主主義とい う三本柱でできているというから、その三つの「主 義」が根本法(の精神)となって、下位の法律(立 法)と政策(行政)が運営されていることになる。 この全体を一つの《法体系》と考えてよければ、憲 法を戴く単位である国というのは全体として整合的 な一つの法体系をなしていることになる。

国家の安全保障と言いさえすれば、そして人民に 恐怖を植え付けさえすれば、行政府はほぼフリーハ ンドを手に入れることができる。不都合な情報公開 も必要ない。 国家のCO2排出量の削減目標計算の中に、軍事行 動は含まれていない。軍事行動=秘匿情報として査 察の対象外に置かれる。報告義務はあるのかもしれ ないが、報告の真偽を確認するすべはない。イラク 戦争ではアメリカ合衆国一国で、イギリスが一年間 に排出するCO2の総量以上のCO2を排出していると 8


様々な環境汚染に直面し、平凡な一人のお母さんができること

矛盾かなあ…微妙だけど、まあいいか」ということ もあるのだろう。根本法(憲法)はけっこう大きな 言葉で書いてあるから、それを一つ一つの小さな具 体的な事例に当てはめようとしたら「解釈の幅」が 出てくるだろうことも、もちろん想像できる。それ を厳密にしようとしたら、それはそれで実行上のさ まざまな問題を生み出すのだろう。しかしその「解 釈 の 幅」と い うか「誤 差」と い う か「差 別」は、 《みんなが納得できる範囲》になくてはならない、 ということだ。

ある行為をAという人がすれば犯罪になるがBとい う人がした場合には犯罪にならない、といった差別 があって、その差別が合法的に認められるとした ら、AさんとBさんは一つの法体系の下に住んでいる とは言わない。 根本法に「誰もXを持ってはいけない、してはい けない」と書いてあるのに、「Xの所持、行使」が ある人たちには認められているとしたら…。同じ労 働をしているのに待遇に(個人差という範囲を大き く越えた構造的な)差別があり、それが合法的に認 められているとしたら…。とりあえず、一つの法体 系の下に生活するということは、法が(少なくと も)人間を平等に扱い、平等に扱わない場合にはそ の理由が公的に納得できるものである必要がある、 というところまでは言えるだろう。

この《みんなが納得できる範囲》には絶対的な基 準が存在せず、じわじわと誘導されるままに曖昧化 されてきた。民主主義から全体主義まで“切れ目の ない”地続きになってしまった。 改めて新自由主義とは何なのか、資本主義とは何 なのか考える。経済的な自由が、市民的自由の基盤

しかし、まあ、人間のすることだから「これって

となるとミルトン・フリードマンは主張した(「資 本主義と自由」Milton Friedman)。それ以外の方 法では必ず政治的な権力に従属させられ自由を奪わ れる人々が出てくるのだ、と。その経済的自由を追 求してきた結果、他者への暴力に対して鈍感な社会 が出来上がった。政治権力は「経済優先」と念仏の ように唱え、自分を取り巻く経済状況さえ「良けれ ば」他者のことなど関心の外にあるという社会を作 り出した。

衣食住に困り、災害時に最も被害をこうむり、経 済危機で死んでいくような人々が望むことは、自分 たちが金持ちになって「被害を受けずに安楽に暮ら す階層」に加わることではないのではないか。世界 がこのように不正義であることを修正することなの ではないか。 沖縄は日本国政府と裁判で争っている。その目的 はすでに「沖縄も本土並みになって、米軍基地はグ アムやサイパンに押し付ける」ということではな い。沖縄に対して日本国が行ってきた不正義を是正 することが目的なのだと思う。日本国はこうした要 求を、新たな沖縄振興策と金の力によって押さえつ けることはもはやできない。そして沖縄のたたかい は沖縄だけで終わらない。(了)

民主主義は衣食住が足りた人々のぜいたく品だ… そういう意見も出てくる。南コリアで朴正熙の評価 が上がって、その娘が大統領になった。どんなに悪 辣な独裁者であろうと、経済を良くしてくれた大統 領なのだ。フィリピンでマルコスの評価が上がった のも、台湾で蒋経國の人気が衰えないのも、李光耀 が讃えられるのも同じ理由なのかもしれない。

様々な環境汚染に直面し、平凡な一人の 五十嵐祐紀子 お母さんができること 日 本 に い た と き、私 は と に か く「こ れ は お 前 (女)の仕事だろ」と食事の支度や家事全般を押し 付けられたり、「あなたは結婚して子どもを産めば もうそれでやることないわね」と言われるのが嫌 で、いつも「家庭、台所、家事から解放されたい」 と願い、その願いを実現するために深夜まで残業し たり、国家資格を取得するために勉強したり、大学 院へ通ったりしていました。

りました。最初の二年間は寮住まいだったこともあ り、三食外食。文化研究に関心があったので、とに かく現地人の食べるものを食べ、現地人の生活様式 を理解しなければという思いが優先していました。 また、「人間が食べるものは何でも食べられる」と いうのが私の数少ない長所の一つだとも思っていま した。でも、なぜかちょっとしたことで怒りが止ま らなくなったり、感情的になったりしていました。 当時はカルチャーショックだと思い、関連する論文 を読んだりしていました。 博士課程三年目から台所のある部屋に引っ越し、 近くの市場で買い物をし、ごはんを作るようになり ました。このときは単純に、伝統市場という空間に 関心をもち、研究テーマにならないかと考えていた ことが関係しています。当時は特に食品の安全には 関心がなく、現地人の買い物の仕方や店主と消費者

十年前にジェンダーと空間についての勉強をする ために台湾大学の博士課程に入学したとき、台北で は女性が一人で三食外食しても周囲の目を気にしな くても良いことに気づき、とても開放的な気分にな

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様々な環境汚染に直面し、平凡な一人のお母さんができること

のコミュニケーションのあり方、市場という空間の 特性、現地人のごはんの作り方を学びたいと思って いただけでした。

る老舗の大手企業ですら、独自の基準で対応するこ とができないということに大きな衝撃を受けまし た。このときはじめて、「安全基準」「国家基準」 というのは、何か政府や企業に不利なことが起きれ ば、あっという間に変更されるものであり、汚染さ れた食品を食べた人が大量にすぐに亡くなったりし なければ、問題にならないということに気づきまし た。2011年は台湾でも塑化劑の問題が起こり、結局 日本でも台湾でも「国家基準を満たしている」「検 査済み」イコール食べても安全というわけではない ということに気づきました。

そんな私が変わったのは、やはり311原発事故が きっかけです。当時長男が生後三か月で、そろそろ 赤ちゃん用のビスケットのようなものを準備しなく てはと考えていました。311前はデパートで販売し ている日本の大手企業の赤ちゃん用食品の購入を考 えていましたが、心配になり老舗の日本企業に連絡 してみました。対応された男性はとても礼儀正しく 丁寧な方でしたが、彼は、会社としては日本政府の 基準(500ベクレル/キログラム)を満たしていれ ば商品を販売する方針ですと回答されました。

日本から輸入された食品の購入を断念したことを 皮切りに、この四年間さまざまな食品と「さような ら」をしてきました。この四年間でわかったこと は、慣れ親しんだ食品とさようならすることは、一 見とても困難なようですが、私のような料理音痴で

原発事故後、食品の安全基準を500ベクレル/キ ログラムまで大幅に引き上げた日本政府の対応にも 驚きましたが、長年乳幼児向けの商品を販売してい

も、簡単でおいしく作れるレシピと、現地の生産者 が心を込めて育てた旬の食材さえ入手できれば、三 食楽しくごはんをいただくことができるということ です。肝心なのは、安心な食材や実用的なレシピを

探したり、ごはんを作る時間や労力を惜しまない、 自分の生活様式を根本的に変える決心があるかどう かということです。 食事を変えてしばらくすると、まず味覚大きく変 わったことに気づきました。食材を慎重に選んで三 食作るようになってから、たまに以前外で食べてい たものを食べると、舌がひりひりしたり口内炎がで きるようになりました。味覚が変わっただけでな く、加工食品、添加物や乳製品、砂糖を控えるよう になってから、ひどかった月経前症候群や生理痛が なくなりました。また、留学当初のように怒りが止 まらない、感情が爆発したり、無性にイライラする ということもなくなりました。 その他の五官もより体に悪いものに敏感に反応す るようになりました。以前使っていたシャンプーの 臭いに耐えられなくなったり、高圧電線の下に行く

と頭痛がしたり、大気汚染がひどいときは目や鼻が かゆくなるなるのです。また、自分の体の変化に敏 感になっただけなく、子どもたちの心身の変化にも 敏感になりました。例えばpm2.5が45以上になると 長男の目が赤くなること、お正月や旅行などで外食 が続くと子どもの大便の色や臭いが変わること、白 砂糖のたくさん入っている加工品や農薬が残留して いる可能性の高い果物を食べたあとやけに怒りっぽ くなったりすることなどに気づくようになりまし た。

まで待てないということです。また、高価な機器を 使用したり大規模な調査が必要とされる研究では、 莫大な経費が必要です。私たち一般人にはこれらの 研究にどのような団体が助成をしているのかわかり づらいのです。関連企業から助成を受けている研究 者がその企業に有利な研究結果を「科学的に正し い」と主張しても、毎日の一食一食が勝負のお母さ んにとっては、それらの「科学研究」はあまり参考 価値がありません。 私たちが求めているのは、企業を利するための研 究ではなく、子どもたちを健やかに成長させるため の研究です。市民の立場に立って研究をしている専 門家は誰なのかを見極める作業もしつつ、自分の生 活様式を身体や環境に負担の少ないものに変えてい くこと、家族や小さな子どもたちの日々の心身の変 化に敏感になることが、子どもや家族の健康、私た

私は科学者ではないし、精密な研究用の機器を有 している訳ではないので、これらのことは素人の気 のせい、科学的根拠がないと言われれば反論ができ ません。でも、原発事故や台湾の大気汚染が私に教 えてくれたのは、毎日家族にごはんを準備する者、 日々成長する子どもたちは、疫学の研究結果が出る

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様々な環境汚染に直面し、平凡な一人のお母さんができること

ちが暮らす場所を守るためには有効であると考えて います。

では多くの自分も被害者になる可能性の高い人た ちは、なぜ少数派の危険を訴える人たちを批判する のでしょうか。それは多くの人たちが、従来の、慣 れ親しんだ生活様式や思考様式を変えたくないと考 えているからでしょう。今まで食べてきたものが食 べられない、住み慣れた場所が実は居住に適してい ないという事実を受け入れるのは誰にとっても困難 なことです。

311後、台湾でも毎年食品安全の問題がつぎつぎ 表面化してきました。事件が起こるたびに、「じゃ あ何を食べれば良いの?」「少しくらい食べても問 題ない。騒いでみなの恐怖心を煽るな。景気が悪く なるじゃないか。」という意見を目にします。本当 は問題のある食品を生産、流通させている企業や政 府に問題があるのに、問題のある商品の購入を控え る消費者が責められるのです。

しかし、原発事故による汚染水は日々流出し、対 岸のカナダ海岸でも放射性物質が検出されたという ニュースもありました。原発事故だけでなく、台湾 の数々の食品安全事件から明らかなように、現在の 食品の大量生産、大量消費、輸入食材への過度な依 頼など、私たち一人一人が意識して消費のあり方、 生活様式を変えない限り、私たちや次世代をとりま く環境は悪化の一途をたどることは間違いありませ

このような現象は311後の日本でもより極端なか たちで現れています。なぜこのようなことが起きる のでしょうか。政府や企業などの利害関係者はもち ろんこういった世論の流れを歓迎します。人々が少 数派の市民を攻撃している間、自分たちは責任を逃 れられるからです。

ん。

ために、彼らの生活様式を模倣し、彼らが食べてい るものを食べていました。でも、原発事故後、自ら の生活様式を変える試みを始めてから、以前勉強し たことは「正しいけれど正しくない」と思うように なりました。ある場所を理解する際に、私たちは、 その場に存在できる人(その他の生物)や事物を良 く理解しようとつとめるだけでなく、その場に存在 することのできない人(その他の生物)や事物は何 かということを常に考えながら観察を続けなければ いけないと思うようになりました。

もう間に合わないかもしれない。でも、命のある 限り、私たちにできることはまだまだたくさんある のです。例えば毎日台所に立ち、食事を作る、それ だけでも自分のできることはまだたくさんあるとい うことを実感できるのです。ある意味では、最も恐 れるべきことは、汚染物質そのものより、生活様式 変えたくない、面倒なことは知りたくないという 人々の心のありようだと思うのです。 私たちが生活している空間はどのような場所で しょうか。 博士課程で勉強していたときは、ある場所を理解 するためには、現地人の生活に入り込み、彼らの生 活様式、思考様式を内部から理解しなければならな いと考えていました。「よそ者」の研究者志望だっ た私は、一刻も早く現地のコンテクストを理解する

その場に存在できるものは、良く言えば生命力が 強い、悪く言えばその場にある問題に鈍感であると 言えます。その場に存在できない者こそ、その環境 が抱えている致命的な問題(放射能汚染、その他の 環境汚染など)について、身を以て私たちに教えて くれるのです。その場にある致命的な問題により、

死亡した人、病気になり公共空間に出現できない 人、見て見ぬ振りができず、その場を立ち去った 人...私たちはこの場に存在できない彼らに思いを 馳せない限り、私たちがいる場所について理解でき ないのです。

は、被害が出ても補償をしなくて済む権力者たちで す。 もう、子どもたちに「(食品汚染なんて気にせず に)わがままを言わないでなんでも食べろ(鈍感に なれ)」「抵抗力をつけるために(大気汚染がひど くても)外で運動しろ」などと強制するのはやめま せんか?子どもたちには「自分の体の変化にもっと 敏感になりなさい。」「体が発しているNOのサイ ンをきちんと受け止めましょう。」と教えません か?刺激に弱い、敏感な家族や子どもの世話は面倒 でしょう。でも、彼らは科学者の精密な検知器の代 わりに身を以て私たちに警告を発してくれているの です。敏感な人たちの警告を謙虚に受け止め、彼ら が安心して暮らしていける生活空間を創造する努力 をしなければならないと、私は日々自分に言い聞か せています。(了)

私の周囲の人の中には、「環境はもう汚染されて いるのだから、子どもも少しずつ汚染されたものに 慣らして、抵抗力をつけなければならない。過保護 はよくない。」と私を諭す人がいます。私はこのよ うな考え方に反対です。弱きものがとどまれる場 所、生き延びられる場所は、その他の生物にとって も暮らしやすいはずです。私たち市民が「弱肉強食 は仕方ない。」「環境に適応できないものは病気に なっても、淘汰されても仕方ない。」という考えを 受け入れるとき、病気になって苦しむのは私たち自 身又は私たちの大切な人です。そして得をするの

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Eaphet活動報告 象仔書屋“午後のビタミン” 5月にオープンしたブックカフェ「象仔書屋」で

Eaphet活動報告【象仔書屋”午後のビタミン“】 すが、毎週水曜日の聊聊(ドキュメンタリーフィル

ムの観賞と討論の集い)のほか、不定期で土曜日に 「午後 午後のビタミン 午後のビタミン」イベントをしています。これま のビタミン での活動をまず簡単に紹介します。

オープン紀念活動として、アヒム(阿鑫)先生― 陳永鑫先生―に企画協力してもらって一連の《音楽 とトーク》イベントをしました。皮切りはアヒムさ んによる『「純」不了的台語歌謡』で、6月13日に 象仔書屋で行いました。純粋じゃない台湾語の歌、 とでも訳したらいいでしょうか、いろいろな異なっ

た系統、異なった言語の歌に影響されて、その時代 その時代に歌われてきた閔南語の歌をめぐるトーク と演奏でした。閔南語が不自由な人も、何となく理 解しながら演奏を楽しみました。 7月18日のビタミンは阿川企画で(ア ヒム企画の中に挿入しました)「日本 平和憲法と立憲主義の危機」と題して 笹沼俊暁さんに中文で講演してもらい ました。集団的自衛権の行使容認、安 保法制成立へ向けての国会審議が進む 中で、今台湾でも共有しておきたい東 アジア社会の変動について話し合いま した。(左下ポスターと当日の写真)

アヒム企画第二弾は、7月25日、『劇 場を通して共有される歴史―李国修の 世界』と題して、廖瑞銘先生が話して くれました。李国修は2年前に亡くなり ましたが、屏風表演班の芸術総監であ り、コメディアンであり、舞台、映画 に活躍した方でした。彼が舞台で作り 上げたコミカルな中にも哀愁漂う物語 にしばし耳を傾けました。 アヒム企画第三弾は8月2日、江慶洲 先生を迎えて『我家「水水」台中』とい う お 話 と、ア ヒム さ ん の演 奏 の 会 でし た。台中の川、水路の変遷についての話 は、都市の環境と文化の関係を考えさせ てくれました。

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Eaphet活動報告 象仔書屋“午後のビタミン” アヒム先生の企画としては、ここまででし た。歴史、環境、文化・・・それらを音楽を通 じて縫い合わせようとしたアヒム企画、全体を 通して象仔書屋オープニング企画としてぴった りでした。アヒム先生に感謝。

アヒム企画の第四弾、8月15日、「農村武裝青年」 阿達(アダー)の弾き語り(上)。9月12日の第五弾 の客家歌手、黃瑋傑さんの演奏(右)へと続きまし た。強く歌いかけるアダーと、静かに話しかける瑋 傑、対照的な二人の表演でした。

順番は前後してしまいますが、9月5日の「午後のビ タミン」は、上前万由子さんの話で『不方便的幸福生 活』と題して南コリアのフリースクール(alternative school)クムサンガ ンディー学校に 行って見てきたこ とについての話を 聞く会がありまし た。日 本 の 自 由 の 森学園で学んだ上 前 さ ん に と っ て、 南コリアのフリー スクールはどのよ うに写ったのか、皆興味津津で聞き入りました。

した。各自の問題のとらえ方がなかなかかみ合 わなかったのですが、その噛み合わなさに味が あったと思いました。下写真。

10月4日、安保法制の台湾への影響と題して、笹沼 さん他何人かの発題で、参加者全員討論形式で行いま

10月31日の“ビタミン”は台東から郭靜雯さんに 来てもらって「小琉球反BOT與生態旅遊經驗交流」 と題して、小琉球(高雄沖の小さな島)の生態系破 壊について報告してもらいました。ずっと台東で廢 核反核廢聯盟の活動をしている 靜雯さん、美麗湾の観光ホテル 問題でもニューズレターに記事 を書いてもらったことがありま す。遠くから来てくれてありが とうございました。

度トーマスさんでスコットランドの独立運動につい ての報告会があります。15日(火曜)夜8時~9時 は、特別に象仔書屋を開けて中田雅史さん(ギター とボーカル)の演奏会を予定しています。フェイス ブックの象仔書屋のページに情報をご案内していま すので、そちらをチェック願います! 象仔書屋での 象仔書屋での展示報告 での展示報告 8/8~9/30 318学生運動写真展 【写真家:狩集武志】。 11/21~12/20 湿水彩画展 【私と色との出会い】。 狭い空間ですが、開いている場所を利用して展示 を行っています。お気軽にお立ち寄りください。

11月7日のビタミンは、協会で インターンを始めたばかりの ト ーマ ス・ブル ック さん が「台 湾のLGBTQの現在」というテー マで発表してくれました。 12 月 は、12 日(土)に も う 一

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聊聊

映画レビュー

聊聊 映画レビュー 映画レビュー 毎週水曜日夕方7:30 から、Eaphetではドキュ メンタリーを見る会をし ています。どなたでもお 気軽にご参加ください。 こ こで は2015年 6月 か ら10月に討論した映像の いくつかを紹介します。

から始まって、どうし てそうなっちゃうの か、どうして世界のメ ディアから孤立してい くのか、と議論は進ん だ。 日本の大メディアの 編成は昭和期にはすで に相当進んでいて、地 方メディアと全国メ ディアとの差はどうし ようもなく大きかっ た。メディアの寡占状 態だ。そうであれば、 翼賛体制はしごく簡単 に出来上がったともいえるのかもしれない。その常 態が今でも変わっていないところにメディア操作の

「日 本 人 は な ぜ 戦争へと向かっ たのか?」 たのか?」 阿川 これは映画では な く、NHK が 放 送 したドキュメンタ リーで、第3回『"熱 狂”はこうして作ら れ た』と 第 4 回『開 戦・リーダーたちの 迷 走』を 見 た。メ ディアが翼賛体制を 作って戦争を煽って いった・・・なあん だ、今の状況と同じ じゃん!という感想

容易さがあるのだろう。 作り方は、しかし、ナチス・ドイツを描いても同 じになるような気がするというか、すでに出来上 がったシナリオに合わせて画面を作ってるという か、新証言に基づいて云々という喧伝された新しさ がないというか、少々不満。(了)

ガーランド、マレーネ・ディートリッヒ、ほか、す ごい出演者で、どれもまあ力演してる。判事役のス ペンサー・トレーシーだけ、しっくりこなかったけ ど、後はとにかくがんばってるのがよーく分かる映 画だ。 『もし被告たちに罪が認められるなら、全ドイツ 人も同じ罪に問われなければなら ない』と弁護士は熱弁する。映画 は、ニュルンベルグ裁判の本番の 方 で 判 事 長 を 務 め たロバ ー ト・ ジャクソンが述べたこと(国の法 には背いていなくても、人間には 守るべき国際的な倫理がある、と か何とか)をなぞるのではなく、 ジャクソンの言葉によって切り捨 てられてしまったものへの視線と いうか思いが、もう一歩進んで疑

ニュルンベルグ裁判 ニュルンベルグ裁判 多田直海

1961 年、ス タ ン リ ー・ク レ イ マ ー 監 督 作 品。い や あ、力 が入った映画でびっくり。マ クシミリアン・シェルの弁護 士役も、想像に反してよかっ た。スタートレックのW.シャ ト ナ ー(カ ー ク 役)の 若 い の 何 の っ て・・・ジ ュ デ ィ・

問がある。 日本国憲法草案を作った“アメリカ人”も、この 映画に描かれたような(あるいはこの映画を作った ような)人たちだったのかなあ、などとも考えてみ る。(了)

事故からま る 4 年、5 年 目 に 入 っ た 現 在、福 島 は ど う な っ た の か。ほ ぼ 1 年 半 前に製作した 「福 島 の 現 在」を 改 訂 し ま し た。上 前 昌子さん書き 下 ろ し「福 島 の 現 在 改 訂 版」販 売 し て います。 (一部60元)

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第13回台湾同志遊行を契機に、LGBT運動の現在を考える

10月31日の曇った空の下、数万人 が第13回の台湾同志遊行(LGBTプラ イド・パレード)のために集まり、 台北の街を行進した。主催者の台湾 同志遊行聯盟によればその数がおよ そ8万人にも上った。端から見れば同 性婚姻の合法化を求める運動と見紛 われる。少なくとも、そのような了 解はマスメディア(英文中國郵報で は「Thousands march for marriage equality, equal rights」と い う 見 出 し だった)、政治家ともによって促さ

れる。 パレードの前日に、民主進歩党の蔡英文党首が Facebookに、「私は結婚平等を支持しています」 (我是蔡英文 我支持婚姻平權)というビデオ・ メッセージを掲載した。本人 パレード前日に投 こそは遊行に加わらなかった 稿された蔡英文の ようだが、それでも民主進歩 支持メッセージ 党の存在が強く感じられた。 「民主撐同志」という虹色の ステッカーをいたるところに 見かけたし、蔡英文への支持 を表明する旗を掲げる者もい た。もちろん、「同志人権」 や同性婚合法化をプラカード に書いて求める参加者も少な くはなかった。実際に、その 課題への関心も高い。1月16

日の総選挙に向けて、立候補者の同性婚姻に対する 立 場 に 焦 点 を 当 て る ウ ェ ブ サ イ ト(http:// www.pridewatch.tw)を見れば、その熱心な取組み が垣間見える。 しかし、同性婚姻を合法化するだけで、性的少数 者が直面する問題は解決されるほど簡単なものでは ない。というより、社会における性をめぐる認識や 理解はいわゆる性的少数者に限った問題ではない。 主催者もそのような意識を持っているようだ。言論 が同性婚姻に限定されることに抵抗 するかのように、今年の同志遊行の 主 題 を「年 齢 不 設 限」/「No age limit」に設定した。 公式のホームページで、主催者は その意図を次のように説明してい る。「適切年齢」に達すれば人は結 婚し、家庭を持つように要求される 社会において、その期待に応じない 人は無責任者、利己主義者と看做さ

れてしまう、という。そのような社会規範は、一人 一人の「自在な自己空間の展開」を妨げている、と *1。 具体的にこの問題提起は何を指しているかとい えば、未成年に提供される情報がまず考えられる。 2004年に立法された性別平等教育法は学校における 性的差別の撲滅を図り、性・ジェンダーの多様性に ついての教育を義務付けている。しかし、2011年に キリスト教団体「真愛聯盟」は、教育省製作の小中 学校向け参考書の出版に反対 今年の同志遊行 し、出版阻止に成功した*2。今 の主題、ロゴ 年の5月にも、キリスト教団体 に牽引される「台灣宗教團體愛 護家庭大聯盟」は教育省の性的 差別撲滅活動に対し反発して、 「同性間性行為」を依存性の高 い麻薬に喩え、伝染病よろしく 病理化し、アメリカのヘート・ スピーチをそのまま輸入したと

いう風に思わせる表現で恐怖と嫌悪感を煽り立てよ うとした*3。 年齢的規範は一見周辺的な問題と思われるかも しれないが、社会の規範を意識し克服しようという 意向はLGBT運動の基本にある。上記のような、同 性間性行為に対する圧迫と差別は同性愛嫌悪の産物 だが、同性愛嫌悪もまた男性として生まれた人が 「男性らしく」、女性として生まれた人が「女性ら しく」振舞わねばならないという固定概念=社会規 範に根付いている。その大前提の下、「普通」「正 常」と規定される以外の(行為をする)者は「異常」 とされ、「病人」とされ、ときには「犯罪者」とさ れてしまう。 そのようにして、今のLGBT運動には一種の二 分化が生じているように見える。既成概念の結婚制

度に参加権を求める、どちらかと言えば保守的な面 と、「正常」という考え方自体を覆し、社会規範を 解体し、より望ましい社会形式を求めるという、よ りラジカルな面も内包している。イギリスのキャメ ロン首相すら2011年の政党大会で、「保守党であり ながら同性婚姻を支持しているのではなく、保守党 だからこそ同性婚姻を支持しているのだ」と政党の 新方針を提唱した*4。結婚という制度は2人の人間 の、死別までの、貞操という約束に基づいた結合を 法的・社会福祉的に特権化する。その意味において は限定的かつ排他的であり、互いに互いを「所有」 するという意味においては物質主義と無関係でな い。「経済成長」ばかりが謳われる世の中、同性婚 姻が主流の支持も得て、驚くべきところは何もな い。

第13回台湾同志遊行を契機に、LGBT 運動の現在を考える トーマス・ブルック

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第13回台湾同志遊行を契機に、LGBT運動の現在を考える 台湾では台灣伴侶權益推動聯盟という団体 (https://tapcpr.wordpress.com、2009年設立)は同性 婚姻を平等実現のために求めつつも、それと同時に 並列的にシビル・パートナーシップと複数人型家族 を別の制度として促進している。その可能性が発揮 されれば、性的差別のない社会への大事な一歩にな るかもしれない。それはより「寛容」になっている からではなくて、人が「性」によって規定されなく なるからである。それこそ、「性的解放」の(まだ 遠い)行き着くところなのではないだろうか。

除せよ」という横断幕も。 私は参加者なのか観察者なのか、よくわからな かった。日本語を身に付けてから、移り行く帰属意 識、アイデンティティの流動性についてよく考える ようになった。言語的アイデンティティ、国家的ア イデンティティ、ましてや性的アイデンティティ も、変って行って当然だと思えるようになった。だ から、台北の有名なLGBT本屋さんに入り、台湾同 志咨詢熱線協會の出版物である『親愛的爸媽,我是 同志』を拾ってみたところ、その序文にあった「簡 單的事實、艱難的生存」を読んで、少し引っ掛かっ た。私にとって、性は「簡単な事実」ではない。で も、私のもしかすると特殊的な感じ方を、アイデン ティティの本質と決めつけていた可能性もある。多 くの、少なくともゲイとレズビアンと自認する人に とっては、「簡単な事実」かもしれない。あるいは 単純過ぎる圧迫に対しては、単純な反論しか通用し

第13回台湾同志遊行のために初めて台北に行っ た。初めてのプライド・パレードでもあった。大人 込みの中、多様な主張を目に留めた。LGBTのBを代 表する「Bi the Way」という団体、聾唖同志の認識 を請う人たち、そして主題と直結する物としては、 (未成年のわいせつ罪を定義する)「刑法227を排

な い か も し れ な い。見 渡 す 限 り 目 に 入 っ て く る 「BORN THIS WAY」というスローガンも、そのよ うな考えに導いてくれる。 いずれにしても、それを選ぶことのできなかった 性的指向を理由に、世界中の多くの人は差別と迫害 を受けてき、受けつづけていることは簡単な事実で ある。そして、プライド・パレードも、その広範囲

な支持がほとんど約束しているように思われる同性 婚姻の実現も、「正常」「普通」な「異性愛者」で あるプレッシャーを少し和らげ、人が性別とは関係 なく、好きな人と好きなように関係を築けるような 状況に貢献しているように思いたい。(了) 注釈: 1.http://twpride.org/ (中文も参考の上、英文から の要訳) 2.http://www.taipeitimes.com/News/feat/ archives/2014/07/01/2003594066 3.http://www.taipeitimes.com/News/taiwan/ archives/2015/05/18/2003618565 4.http://www.theguardian.com/politics/2011/oct/05/ david-cameron-conservative-party-speech

プラカードを掲げる参加者たち

新インターンのお知 インターンのお知らせと自己紹介 らせと自己紹介 つのまにか人生最大のテーマとなりました。 私は日本語を身につけることを自分の意志で選ぶこ とができましたが、明らかにそうではない、同じよう な状況が日治時代において無数の台湾人に押し付けら れました。そのことの意味、とそのことの現在に至る 影響を念頭に置きながら、協会を通して地元の人と交 流ができれば幸いと思っています。 11月7日に、第13回台湾同志遊行と現在世界規模で 進行しているLGBT運動をめぐるトークを象仔書屋で 行いました。そのレポートは上に書きました。また、 12月12日に、スコットラ ンドの独立運動を対照的 に取り上げ、台湾の独立 運動をめぐるトークを行 います。ご関心とご時間 のある方、ぜひご参加く ださい。どうぞよろしく お願い致します。

2015年11月から翌年1月末までの3ヶ月、東亞歴史 資源交流協会のインターンとしてトーマス・ブルック さんをお招きしています。以下、トーマスさんが書い てくれた自己紹介です。【編集部】 トーマス・ブルックと申します。イギリス・イング ランドの中北部で生まれ育ち、今年夏にその首都にあ るロンドン大学(東洋アフリカ研究学院)を卒業し、 台湾に来ました。去年の夏にも10日ほど滞在しました ので、2回目の台湾滞在となります。 今回は、台湾のとても複雑な日本と日本語との関係 を現地で考えてみたいという気持ちで来ました。8年 前に初めて日本を訪れた時から、徐々に、日本語は 「他者」を理解し、「他者」と交流するためのもので はなくて、「自」と自分の世界観を形成するものと なってきました。その過程中、母国(祖国?)語の英 語、そして唯一籍を置きつづけているイギリスとどの ように向き合い、どのように付き合えば良いのか、い

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