人生イチオシの小説を問われたらちょっと選択に困るけれど、
短編小説なら迷わず答える作品がある。志賀直哉の「小僧の神様 」
である。たぶん中学生の時に読んだから、かれこれもう30 年以上
不 動 のナンバー1 だ。なぜか。特段インパクトのある話ではない。
鮨に憧れる小僧がなけなしの四銭を握り屋台寿司屋の暖簾をく
ぐるが、一貫六銭であるために食べられない。それを不憫に思っ た客の紳 士が数日後、偶然再会した小僧にたらふく鮨をご馳走
する。だが善いことをしたはずなのに、その後 紳士 は 妙な罪悪
感にとらわれて時を過ごす。そんな話である。
私がこの物語に惹かれるところは、小僧が屋台寿司屋で勇気を
出して手に取った鮪を「 一貫六銭だよ」と言われてやむなく元に
戻すシーンである。読むたびに、胸がきゅんと締めつけられる。 そんな風に感じるのも、私に原体験と呼べるものがあるからかも
て物心ついてからずっと自粛が続いていたから、刺激が強すぎた かもしれない。 モールの奥の広場で、 一人のお姉さんが風船を
配 っ て い た。私 は 娘 と そ の 列 に 並 ん だ の だ が、す ぐ に そ こ に
1,400 円という値札がついていることに気がついた。イオンモー ルのヘビーユーザ である私には、広場で配る風船=無料という
感 覚 が染 みついていたから、そ の 値 札 を見 たとき驚 き と共に
自分のなかで 何かが沸々と込み上げてくるのがわかった。私は
娘の手を乱暴に引いてその列から抜け出たのだが、予想に反して
娘はちっとも愚図らなかった。立ち並ぶショップのめくるめきが、 モノへの執着を和らげている風だ。
その後も、娘はショップの出入りを繰り返し、その都度モノを
ねだったのだが、 不 機 嫌 な 私の財布は最後まで緩まなかった。
モールを周 回し出入り口に戻ってきたとき、ふと大半の子どもが
しれない。これも中学生の時、大晦日に友だちと二人で山寺に鐘
手に風船を浮かべていることに気づいた。その風船の波のまにま
ぜんざいが振る舞われていたからである。私たちの向いの席で、
ている。そのときだった。小僧が回帰してきたのは。娘は、アン
を撞きにいった。わざわざ 山 寺を選んだのは、そこで美味しい
小学校低学年くらいの少年が、ひとりでぜんざいを食べていた。
その様が、まるで「 飢えきった痩せ犬が不時の食にありついた」
(「小僧の神様 」)ような食べっぷりだったのである。少年の傍に
に、娘がひとり人さし指同士を所在なげにつなげたまま突っ立っ パンマンらの 顔 面を刻 印したパンが次々と流れてくる工場ライ ンをガラス越しにぼんやりと眺めていた。パンぐらい買ってあげ
ようか という 妻の提案を、けれど私は断腸の思いで固 辞 した。
身内らしい人の姿はなかった。まさか彼は一杯のぜんざい食べた
ここが踏ん張りどころだと思った。今にして私は、小 僧の神 様
なことを思うと、胸をかきむしられるような気分だった。その後
紳 士 は、大 人た ち が こ しら え た 通(つう )の世界に子 ど も を
さに、あの真っ暗な竹林をひとりで歩いて来たというのか。そん
も人生の折々で 似 たような シーンに 巡 り 会う 度 に、私 は 必 ず この少 年と小僧のことを思い出す。
そして、ついに最近、私は三歳になる自分の娘に小僧を見てし
まったのである。
それは、家族で神戸にあるアンパンマン・ミュージアムに立ち
寄っ たとき のことだっ た。その建物は二階が入場券の必要な
が な ぜ 善行の後に 罪 悪 感に襲われたのかが分かった気がした。
耽 溺 させてしまったことを悔いたのではなかったか。この善行
で 満足したのはむしろ自分の方で、小僧の空腹は欲望を知った ためにかえって大きくなりはしなかっただろうかと。
ミュージアムを出た遊歩道に、アンパンマンの石像が建ってい
た。私たち家 族 はその前で 記念写真を撮った。家の近所の石材
店の庭に 同じものが置いてある。七 福神とウルトラマンに挟ま
ミュージアム( 遊び場 )で、一 階は誰でも入れるショッピングモー
れて。だが、この写真は私たち家族にとっては特別な意味をも
隠したまま、ウィンドーショッピングを始めたのだったが、娘の
最 初 の “資 本主 義 的 欲 望” を 化 石 化 させる、娘 に とって 重 要 な
ルになっている。長居する気のなかった私は二階の気配を娘に
方は人生初のこの「楽 園 」に興奮冷めやらぬ様子だった。生まれ
つものだった。なぜなら、 それはアンパンマンという名の人生
イニシエーション( 通過儀礼 )となったからである。