自由訳 蘇東坡詩集抄 第1巻

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自由訳

蘇東坡詩集抄

第1 巻


自由訳蘇東坡詩集抄

まえがき

そ しょく

りくゆう

げんこうもん

杜甫(712-770 年)、蘇軾(1037-1101 年)、陸游(1125-1210 年)、元好問 (1190-1257 年)といった人たちは、その生涯に数多くの詩を作り、その

中で己の心情を(いつもではないが)率直に吐露し、社会の抱える問題 を(かなりしばしば)鋭く抉り出した。従って、その人たちの詩を時系 列に沿って丹念に読み進むならば、いかなる時代をいかにして生きたの か、その人自身の言葉を通して詳細に知ることが可能である。 日本において漢詩は、原文、読み下し文、注解、現代語訳の四者をも って鑑賞するのが一般的で、詩を深く理解するには極めてよい方法であ る。しかし、一つの詩を読み解くのに相当程度の労力を要するという難 点があり、中学や高校の授業で漢詩を習って、こんな面倒なものは(数 学の因数分解や三角関数を使わないように)もう読まないに違いないと 思った人も少なくないであろう。よほど漢詩が好きで、根気のある人で も、100 首も読むのはかなりの苦役である。 i


まえがき

その一方で、 漢詩を平易な現代語に正確に訳すのはほぼ不可能である。 漢詩に使用される語彙には多種多様なバックグラウンドがあって、それ らを踏まえて詩は作られているので、鑑賞する側にも同じ程度のバック グラウンドの備えがないと、作者が詩に盛り込もうと意図したものが十 分には理解できない(詩であるから、複雑な意味や深い含蓄、あるいは 言葉の表層的な意味を超えた何らかのものを伝えようと、特に重層構造 を有する語彙を使いたいということは普通にある) 。 それで漢詩の解説書 にははなはだ煩わしい注解が付いているのであるし、解説書にある現代 語訳は理解の一部を助けるものにしかなり得ないのである。 詩を読む目的を、詩人がいかなる時代をいかにして生きたのかを知る ということに定めるのならば、われわれが詩から読み取りたいのは、そ の人の心の動きであり、その人が社会に向ける眼差しであって、一つ一 つの詩の全てを細部にわたって正確に読み解こうとまではしなくてもよ いと思い切ることも許されるのかもしれない。もしもそうしてよいのな らば、詩の訳し方はかなり変わってくる可能性がある。そこで私は、ま さしく蛮勇をふるって、不正確ではあるものの、その人の生涯がいきい きと浮かび上がってくるような詩の訳し方がありはしないかと、あれこ れと試してみた。目標とするところは、スピード感をもってたくさんの 詩が読め、その人の精神史がすんなり頭に入ってくるということだ。 試行錯誤の末に、正確さの他にも犠牲にしなければならないものがあ ii


自由訳蘇東坡詩集抄 つい く

るとわかってきた。その一つが漢詩特有の表現方法である対句だ。対句 すい

は、 漢詩の粋といってもよいほどに美しく、 読み手に強烈な印象を与え、 これを抜いたら、漢詩はその肝要なものの半分は失ってしまうくらいの ものであろう。しかし、日本語としてすらすら読めるようにするには対 句はかなりの妨げとなる。 日本語は動画的表現法に適しているのに対し、 対句は極めて強烈な静止画的表現法である。画像 A と画像 A´、画像 B と画像 B´、画像 C と画像 C´いった具合にペアをなす複数の静止画像 を配列し、 (音律的効果とともに)全体としてある一つの詩的世界を読む 人の頭の中に形成しようとするのが漢詩の対句である。それに対して、 日本語は普通は A→B→C→D→……と、時間を追って変化して行く有様 を表現するのが得意で、無理に対句的表現を取ろうとすると、多くの場 合にチグハグな印象を与えるだけとなってしまう(だから、漢詩文の流 きのつらゆき

行した時代に、仮名文学のルネッサンスを目指した紀貫之は、 「袖ひぢて むすびし水のこほれるを春たつけふの風やとくらむ」といった和歌を作 ってみせたのである) 。 ここに掲げる漢詩の「自由訳」は、対句を平気で無視してしまうくら 、、 いに自由な訳で、乱暴極まりないものである。ただ一つの長所はすらす ら読めるであろうことで、ここには普通の解説書にはまず収録されるこ とのない詩もふんだんに訳されているので、 「おかしな訳だ」と舌打ちし ながらでもよいので、どんどん読んでみていただきたい。そうすれば、 iii


まえがき

漢文の授業のように猛烈な睡魔に襲われることもさほどなしに、詩人の 生涯をたどって行くことができるであろう。そして、もしも正確に読み たいと思われたなら、詩のタイトルをインデックスとして原詩に当たっ ていただきたい。原詩と対照して「やはりインチキな訳だ」と笑うにし ても、勘所ははずしていないと御承知いただけるはずと、はなはだ傲慢 ながらも、ここでは自信ありげに宣言しておきたい。 2019 年 2 月 3 日 岸本登志雄

追記 第 4 章までを終えた時点で、蘇軾が「いかなる時代をいかにして生きたのか」 を知るには詩だけでは不十分であると強く感じるようになり、蘇軾が記した文章も加 えることにした。 (2019 年 3 月 26 日)

表紙画は、パリ在住の画家、坂田英三氏による『妖怪との闘い』 。 坂田氏は世界各地の海水を用いて「海水ドローイング」という手法で画 を描いている。坂田氏の活動については本人のホームページを見ていた だきたい(http://eizo26.wixsite.com/eizo-sakata) 。ちなみにこの作品で は茅ヶ崎海岸の海水を使用している。

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自由訳蘇東坡詩集抄

目次

第 1 章 游の奇絶の始まり――郷里から都へ 第 2 章 最初の赴任地――鳳翔での 3 年間 第 3 章 不本意な歳月――都、郷里、都、そして旅 第 4 章 大きな転機――初めての杭州 第 5 章 嵐の訪れ――密州、徐州、湖州 第 6 章 赤壁の賦――黄州

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まえがき

■更新記録 2018 年 11 月6 日 2018 年 11 月19 日 2018 年12 月 17 日 2018 年12 月 31 日 2019 年 2 月3 日 2019 年 3 月26 日から 2019 年 7 月15 日 2020 年 1 月3 日

まえがき、第1 章32 ページまでをアップ まえがきの改訂版と第1 章をアップ 第 2 章をアップ 第 3 章をアップ まえがきから第3 章の改訂版と第4 章をアップ 文章も加える形での改訂版を順次アップ 第 5 章をアップ 第 6 章をアップ

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自由訳蘇東坡詩集抄

主要参考文献

孔凡礼点校『蘇軾詩集』 (中国古典文学基本叢書) 、中華書局、1982 年。 孔凡礼撰『蘇軾年譜』 、中華書局、1998 年。 岩垂憲徳訳解『蘇東坡詩集』 (続国訳漢文大成) 、国民文庫刊行会、1927 年。 李之亮箋注『蘇軾文集編年箋注』 、巴蜀書社、2011 年。 小川環樹注『蘇軾 上・下』 (中国詩人選集二集) 、岩波書店、1962 年。 木 小川環樹・山本和義選訳『蘇東坡詩選』 (岩波文庫) 、岩波書店、1975 年。 近藤光男『蘇東坡』 (漢詩大系) 、集英社、1964 年。 劉乃昌『蘇軾選集』 、斉魯書社、1980 年。 上海辞書出版社文学鑑賞辞典編纂中心編著『蘇軾詩文鑑賞辞典』 、上海辞 書出版社、2012 年。 笹川種郎訳註『国訳唐宋八家文』 (国訳漢文大成文学部) 、国民文庫刊行 会、1920 年。 小川環樹・山本和義『蘇東坡集』 (中国文明選) 、朝日新聞社、1972 年。 山本和義『蘇軾』 (中国詩文選) 、筑摩書房、1973 年。 林語堂(合山究訳) 『蘇東坡』 、明徳出版社、1978 年。

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自由訳蘇東坡詩集抄

第 1 章 游〈たび〉の奇絶の始まり ――郷里から都へ

■郭綸 か ゆう

そ しょく

嘉祐4(1059)年、蘇軾24 歳。 そ じゅん

そ てつ

び ざん

し せん

10 月、父・蘇洵、弟・蘇轍とともに郷里の眉州眉山県(現在の四川省 眉山市)を船で発ち、都に向かった。軾と轍の兄弟は 2 年前の春に官吏 か きょ

登用試験の科挙に合格し、官職に就くための上京であった。 おう

(一行には、父子 3 人のほかに、兄弟のそれぞれの妻(王氏と史氏) 、それぞれの乳 にんさいれん

ようきんせん

まい

母(任採蓮と楊金蝉) 、そして軾の生まれたばかりの長男の邁がいた) ちょうこう

びんこう

か じゅ

かくりん

船は長江の支流の岷江を下り、嘉樹という小さな町で、退役軍人の郭綸 に出会った。これが現在伝えられる蘇軾の最も早い詩で、それ以前のこ とは船旅が一段落したところで見ることにする。 (原題を見出しとして掲げているので、 原文を参照する際の助けにしていただきたい)

老いた郭綸が勇猛な戦士であったのを知る人は、 いまこの町にはいない。 しがない役人としてあくせく働いても貧乏であるから、 第 1 章:1


第1章 游の奇絶の始まり

この町の人は、 郭綸の乗る馬がひどく痩せ細っているのをいつも見るだけで、 仮のやどりのぼろ小屋に、 さ く

巨大な鉄の槊が置かれているのを見た者はいない。 郭綸は言う。 「あの槊を振りまわして、 わしは三日間の猛攻に耐え抜いた。 それで敵は引き揚げたのだ。 だが亡び去ったわけではない。 だから、わしはずっと一つのことを願っている。 いつか必ず一万の騎兵の先頭に立って、 今度は敵地へと攻め入るのだ」 私は言う。 「そのときがきたならば、 私も戦場に出て、 あなた方の放つ矢が敵陣に雨のように注がれるありさまを、 必ず見させてもらうと約束をしよう」

■初発嘉州 か

嘉州を過ぎると岷江は二つの川を合わせて水量がぐっと豊かになる。そ 第 1 章:2


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の流れに乗ったときの詩。

朝、にぎやかな太鼓に送られて船は嘉州を発った。 折よく西風に送られ、帆柱の先で旗が軽やかにはためく。 故郷はすでに遠く、 気持ちは船に先んじて遥か前へと飛んで行こうとする。 ともに下ってきた岷江の水はもはやそれとは見分けにくく、 新たに加わった水は清らかである。 川の勢いのままに、 高さ三百六十尺の石仏の足元を瞬く間に通過したかと思うと、 今度は川幅が広がって悠然と平地を行くかのようになった。 ある禅僧と、 ちょうぎょだい

小さな町の釣魚台で会おうと約束しているのに、 船の歩みはちっとも速くならない。 とうとう川面からは夕靄が湧き立つころになっても、 まだまだ先は遠い。 水のほとりにずっと立ち尽して、 僧はいまも待っていてくれるだろうか。

第 1 章:3


第1章 游の奇絶の始まり

■犍為王氏書楼 けん い

おうせい ゆ

犍為という町で父の知人の王斉愈の書楼を訪ねた。あいにくと王斉愈は 遠方に出ていて留守であった。

木々が谷を埋めるその先に、 高くそびえる楼観がある。 昔から知られる書庫で、 今も万巻の書物が塵をかぶっている。 書楼のもとへと上ると、 山の風に乗って窓辺に鳥が飛びかい、 水のせせらぎにまじって猿の声がする。 私たちは尋ねた。 「書楼のご主人はいまどちらでしょうか」 「ここしばらく遠くの地で辛苦に耐えています。 かぶと

ときには、頭に甲を載せて敵陣に突っ込み、 首を斬り合うようなことも覚悟しなければならないようです。 読書三昧の暮らしはもうできなくなってしまいました」 「書物を友としていた者でも、 ためし

戦陣に臨んだ例はたくさんあります。 し ょ かつ こ う めい

諸葛孔明がまさにそうだったではありませんか」 第 1 章:4


自由訳蘇東坡詩集抄

そのように私は言ったものの、 閑雅と思えたこのあたりの風景が、 まるで違ったものに見え、 この世界に生きる悲しみを覚えた。

■過宜賓見夷中乱山 ぎ ひん

い ちゅう

宜賓を過ぎると、川をはさむ左右は、山また山のいわゆる「夷中の乱山」 である。

山々にはさまれた谷の底は天から遠く離れ、 空が晴れているのかどうかもわからなかった。 明け方はことのほか寒く、 立ち昇る靄によって高い峰はすっかり包み込まれていた。 やがて湧き出るようにして岩の壁に光が射してくると、 雲の動きとともに、 崖の木々の一本一本がまざまざと見えてくるようになった。 ついに谷の底にまで日の光が落ちてきた―― 私はそれを手ですくい取ろうとした。 そのとき谷の底から鳥が飛び上がり、 深い青空の中へと吸い込まれて行った。 第 1 章:5


第1章 游の奇絶の始まり ばん い

蛮夷の地であるここの風光を愛する者はいない。 心に適うものなどどこにもない。 だから、世を避ける人であるのなら、 心の鍛錬をするのにここをよしとしないとも限らない。 そのような人を尋ねてみたいと思っても、 山中の道には狼や虎の足跡ばかりがあって行くことができない。

■夜泊牛口 ぎゅうこう

牛口の岸辺に船を繋いで一晩過ごした。

川から上り立つ薄い霧が、 落ち行く夕日によってほんのり赤く染められるようになったころに、 ようやく船を岸辺に繋いだ。 古びた柳の下にたむろしていた三、四人が立ちあがり、 そろりそろりとこちらに寄ってきて、 「薪はいらんか」と売り始めた。 あたりには茅葺の小屋がぱらぱらと建っていた。 船から上がり、その小屋を見に行くと、 壁の間から星がのぞくような粗末な作りで、 夕食に煮ているものはといえば、 第 1 章:6


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せいぜい野菜があるだけだった。 肉らしいものなどはなく、むろん酒もない。 それでも、子供たちの声は楽しげで、 わびしさを感じさせるものは一切なかった。 もしかしたら、 人生とは本来このようなものなのではあるまいか。 何か事があるわけでもないのに、 世の中のあれやこれやに誘われて、 苦しみが生じてしまうのだろう。 富貴の輝きが目の前にちらつけば、 貧賤を守り通そうとするのは難しい。 ここに生きる子供らは自然の友であろうとしている。 えみし

深い山の中の、いわゆる夷の地に身を置きながらも、 その姿にみにくさを感じさせるものは何もない。 あくせく世間を走り回るこの私は、 いったい何をしようとする者なのだろうか。

■牛口見月 その夜に月を見て。

第 1 章:7


第1章 游の奇絶の始まり

人々が静かな眠りにつくと、 閉じられた船の窓の細いすき間から、 ひそやかに月の光が忍び込んできた。 私はそっと衣をまとって外に歩み出た。 すぐに夜露が降りてきて裾をぬらした。 山と川がひとつの色に染まっていた。 大空をひろびろと渡って行くような気分になって、 あたりをあてもなくさまよった。 いつしか私は都にきていて、 「川が切れたぞ」 との叫び声に驚かされた。 見ると、すでに都の半分はすっかり水びたしで、 さっきまで馬や車が行き来していた道は、 いかだでなければ渡れないありさまになっていた。 一度水の出た町がぎらぎら輝く真夏の太陽に照らされると、 むっとする臭気でいっぱいになった。 今度はどこからともなくさわやかな秋の風が吹いてきて、 り ゅ う し ん きょう

「竜津橋のあたりで夜市が開かれるぞ」という声がした。 ふらふらとそちらに行ってみると、 こ う こ う

無数の燈火が真昼のように煌々と輝き、 第 1 章:8


自由訳蘇東坡詩集抄

ものすごい人の多さだった。 あまりの喧騒に、逃げるようにして光の輪の外に出ると、 私は再びもとの川べりに立っていた。 月の光に乗じて、 三年前の都に帰っていたのだろうか。 これからはるばる旅路を重ねて、 世間の塵を浴びるためにわざわざまた都に行こうとしているのは、 いったいどうしてなのだろうか。 ( 「三年前の都」とは科挙の受験にために上京したことをいう。科挙は地方で受ける一 次試験から、都で受ける二次試験、皇帝の面前で受ける三次試験まであり、蘇軾兄弟 は地方出身者であるにもかかわらず一次試験も都で受けた。多くの人が憧れた宋の都 も、蘇軾にはあまり好ましい印象を与えなかったようだ)

■戎州 じゅう

少数民族との交易のための市が定期的に開かれる戎州で。

古くからのこの町は無数の山に囲まれている。 山は痩せて耕す土地はわずかしかない。 それでもここに町があるのは、諸民族との境目であるからだ。 かつては異変の報せに、 第 1 章:9


第1章 游の奇絶の始まり

軍馬があわただしく出て行って、 そのまま帰らぬこともあったと聞く。 いまは夜ものどかに時の鐘が響きわたるだけだ。 そ う

我が宋の文化が広く浸透したのだろう、 あちこちから人々が宋の物品を求めてさかんにやってくる。 ただし金の耳飾りのようなものには関心がなく、 それぞれの民族特有の装飾品で満足しているようだ。 諸民族が互いに強弱を争って何の意味があろうか。 いまやすべては等しく宋の民であって、 見れば皆がそれぞれにいい表情をしているではないか。

■舟中聴大人弾琴 たいじん

父(大人)が船上で奏でる琴を聴いて。

川岸につないだ船の上、 父が奏でる琴の音に、襟を正して耳を傾ける。 夜が更けるにつれ、 我が心のうちが次第に高ぶってくる。 琴の音は、 松を吹く風、あるいは山にかかる滝、 第 1 章:10


自由訳蘇東坡詩集抄

清らかさを窮めるかと思えば、 ほうぎょく

宝玉が当たるように、からころと愛すべき音を響かせる。 みやび

遠い昔に生まれたつつましく雅な音楽が、 いつしか快感を呼び起こす淫らな楽曲にとって代わられて、 太古の楽器の数々がすたれてしまった。 幾千年を経て琴だけが残り、 老いた仙人が世の興亡を閲しつついまも生きるかのようだ。 世間の人々は昔に返るのを好まず、 新しい曲を作っては、 琴に無理強いをして演奏してきたので、 本来のひそやかな音はことごとく崩されてしまった。 それでも非情の存在である琴はいまなおここにある。 いにしえ

古 の人々の心はすでに遠く彼方に堕ちてしまったのか。 川の上に広がる広大無辺の空に月が昇り、 人々の暮らしが立てる音がすっかり途絶えた真夜中に至って、 父は太古の音楽をその当時さながらに奏でたのだった。 (遠い昔に理想の世があり、政治制度も文物も完全なものが整っていたとする尚古主 義は、儒学を中核とする旧い中国の伝統的価値観であった)

第 1 章:11


第1章 游の奇絶の始まり

■泊南井口期任遵聖長官到晩不及見復来 なんせいこう

にん し

あざな

じゅん せ い

南井口で父の知人の任孜(字 は遵 聖)と会う約束していたのだが、そ こに着くのが遅くなってしまって……

川のほとりに始まる一本の細い道。 あなたは別れを告げると、 深く草が茂ったその道を、 馬の足取りも頼りなげに歩み去った。 煙る雨にあなたの姿は融け込み、 私たちは尽くすことができずに残った思いを抱いて船へと戻った。 しばらくすると、 ぽくりぽくりと蹄の音が聞こえた。 船から雨の中へとまた飛び出ると、 あなたがひらりと馬から降りた。 顏を見合わせ、誰もがまだ口をきかないうちに、 残されていた思いは慰められた。 あなたはほほえみ、 「町に帰るにはもう遅すぎました。 どこまでも長い川、 どこまでも広い大地、 第 1 章:12


自由訳蘇東坡詩集抄

そのどこででも、 いついかなるときであっても、 あなた方とお会いできるというわけではないのですから」

■江上看山 南井口の先の急流で。

船から見る山は、 まるで馬が駆け行くかのようだ。 前方から山が現れ出ると、 がらがらと馬に変身して、 足音も高らかに私のかたわらに向かって走ってくる。 山は次々に出てきて、 たちまち数百頭の馬群となって私の横を駆け抜ける。 後ろに振り返ると、 馬の群れはひしめき合いながら遠くへと走り去り、 がらがらと山に戻って消える。 いましもまた走り行く馬の背に、 見れば、一人の男がまたがっているではないか。 船の上の私は手を挙げ、 第 1 章:13


第1章 游の奇絶の始まり

その人に向かって叫んだ。 すると、その声とともに私は飛んで山の上に至り、 船はその間にたちまち流れ去った。 うねうねと続く崖の小道に私は一人残され、 馬上にいた彼の人はというと、 船とともにいずこかに行ってしまった。

■過安楽山聞山上木葉有文如道士篆符云此山乃張道陵所寓二首 あんらくざん

安楽山という山に生える木には、葉の裏に文字のように見える模様があ て ん ぷ

り、それは篆符(天の意向を表わす符号)であるという。かつてこの山 ご

と べいどう

ちょう ど う りょう

には道教の教派の一つ五斗米道の始祖である張 道陵 が住み、いまも残 るその霊威によって葉に篆符が現れるとされていた。山に建てられた道 教の寺院には張道陵が自ら刻んだという玉印なるものが伝わり、それを ふだ

押した符を頂けば病気が治るという。2 首のうち 1 首を訳す。

其の一 て ん し

天師と崇められた張道陵は、 不老不死の仙人となっていまもどこかにいるのだろうか。 天師の刻んだありがたい玉印が、 それからずっと子孫に伝わってきているらしいが、 第 1 章:14


自由訳蘇東坡詩集抄

肝心の不老不死の術は伝えられなかったのだろう、 子孫はこれまで一人残らずみんな死を免れなかった。 天師だけが生死の境を抜けて、 この世界の外に出て行ったのなら、 それはそれで結構であろうけれど、 なぜかよい評判を得ることにいまもすこぶる熱心で、 ひと山に万本もある木の億兆もの葉の裏に、 せっせと文字を書き続けていなさるとは、 なんとご苦労千万ではあるまいか。

■留題仙都観 へ い と ざ ん

おうえん

い ん ちょうせい

しんじん

平都山には王遠、陰長生の 2 人が仙人(真人)になって天に昇ったとい せ ん と か ん

う伝説があり、それに由来する道教の寺院、仙都観があった。

山の前には川が広々と流れ、 山の上には木が高々と茂っている。 旅人は船を置いてそそくさと坂を登る。 路傍の秋の草が冬を迎えてたちまち枯れて行くように、 千年という歳月もそそくさと過ぎ去った。 そびえたつ仙都観に至ると、 第 1 章:15


第1章 游の奇絶の始まり

この頂から、竜の曳く車、虎のかつぐ駕籠に乗って、 二人の真人が遥かな仙界に飛び去ったという。 真人はもはやこの世間を顧みることはなく、 人が生まれたり死んだりするのは、 せいぜい朝と夕の入れ替わりくらいにしか思っていないのだろう。 仙術を獲得しようとして、 米粒を断ち霞を食らう苦行に耐える人がいまもいる。 私が望むのは、 む

ゆ う

無も有もないという哲理を会得して、 風に乗り雲に乗り、 世を超越した境地に至ることだ。

■仙都山鹿 どう し

仙都観のある山にすむ鹿はかつて仙人になった道士(道教の修行者)と 一緒に暮らしていた白い鹿の子孫だという。

太陽と月があくせくと天空を走る下で、 人は地上の塵の世にがっちりとつながれている。 仙人は跡形もなく飛び去り、 山には鹿が遺された。 第 1 章:16


自由訳蘇東坡詩集抄

鹿は霞の彼方に真人を追い求めて悲しみ、 心が通じ合えそうな人がくると知ると、 松を揺らす風とともにしきりに鳴くという。 その鹿が夜の間に鳴いていたと聞いて、 はたして私がそれに該当する人間なのか、 鹿に尋ねてみたいと思っても、 山は秋の草におおわれ、 鹿の行方はどことも知れない。 (蘇洵一行が船から上がると、なぜか土地の長官が出迎え、 「昨夜、鹿がしきりに鳴い たので、誰がくるのかと待っておりました。あなた方でありましたか」と言ったので、 この詩で応じたのである)

■望夫台 びょう ぶ さ ん

ぼう ふ だい

屏風山には人の形をした岩があり、望夫台と呼ばれていた。

川が曲がり、船が廻り行くと、 山の上に連なる岩の壁は、 屏風を折り曲げるように姿を変える。 中に一つ、とりわけ抜きん出た岩があって、 あたかも人が屹立しているかのようだ。 第 1 章:17


第1章 游の奇絶の始まり

かつてここに一人の妻がいて、 旅に出たままの夫がいまに帰ってくるのではないかと、 山に立って川を見続けるうちに、 岩になってしまったという。 岩は千古の昔も、昨日も同じ形であるけれど、 船は来ては船は去り、いつまでもとどまることなく、 川は流れては川は去り、いつもまでもとどまることがない。 私たちは川に浮かぶ木の葉のように大海へと流れ下る。 ああ、できることなら、あの山にしばし残って、 月が昇るのを待ちたいものだ。 月光が岩に当たって、 気高い妻の姿を浮かび上がらせるのを見たいから――。 (望夫台の妻の姿に、蘇軾は母を想ったと推測するのは、たぶん間違いではないだろ う。蘇軾の父はしばしば放浪の旅に出て、母はその間、2 人の息子を自分の手で教育 した。その母は蘇軾兄弟が科挙に合格した直後に郷里で亡くなり、兄弟はそれから足 掛け 3 年の喪に服した。その喪が明けたので、今回の旅に出たのである)

■八陣磧 き

しょかつこうめい

夔州には、諸葛孔明が石を積み、自ら発明した絶対に破れない最強の陣 は ち じ ん ず

はちじんせき

法を記録した「八陣図」を残したとの言い伝えのある河原、八陣磧があ 第 1 章:18


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った。

広い河原に岩がごろごろころがっている。 あれとこれとそれが八陣図なのだろうか。 川に水がみなぎる季節がくると、 それらの岩はどれも流れの下に隠れてしまう。 諸葛孔明は死んで久しく、 岩の並びを弁別することはもはや誰にもできない。 たとえ岩の並びがきちんと保たれていても、 諸葛孔明の神のような用兵はそれらからでは会得できないだろう。 真に優れた人は自分で心に悟るのであって、 その要諦をかたちにして留め置けるものではない。 後世の人々は何もわからぬままに自説を立てるだけだ。 かつて英雄が並び立って競い合ったとき、 禍が次から次へと長く続き、 民衆は戦に駆り出されて野に倒れ川に血を流し、 町からは人影が消えて炊事の煙が立たなくなった。 英雄が大勝負に出ると、 民衆の命は雪に湯を注ぐようにしてかき消された。 目の前の戦闘にひたすら追いまくられ、 第 1 章:19


第1章 游の奇絶の始まり

遠く先を見通したはかりごとはどこにもなかった。 そこに諸葛孔明が現れ、群雄どもを一掃しようとした。 しょく

蜀は小国であったから節制を旨とし、 困難に耐えに耐えてその日がくるのを待った。 諸葛孔明の志は立派だったが、 計画は壮大すぎて遠回りをし、 歳月は瞬く間に流れ、 軍団が十分に整えられる前に、 英気は折れ、諸葛孔明は死んでしまった。 ここの河原に八陣図が残され、 その壮図は知れはしても、 民衆を禍から救うのに役立ちはしなかった。 しょかつりょう

しょく

(諸葛孔明(諸葛 亮 )は蘇軾より 800 年ほど昔の人であるが、蜀 (眉山もそこに含 まれる)の人々にとっては、何かにつけて語られることの多い郷里の偉人であった。 この詩で蘇軾が諸葛孔明に批判的であるように見えるのは、尊敬の念が極めて深いこ との裏返しなのだろう)

■入峡 ちょうこう

さんきょう

船は長江の最大の難関にして最大の景勝地である大峡谷、三峡へと入っ て行った。 第 1 章:20


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昔から三峡の勝れた風光を想っていた。 今しもそれをほしいままに見てとれるところにまできたのだ。 しょく

長江は蜀と楚を結び、 蜀の山から出てきた万本もの川がここで一本に束ねられ、 楚の平地へと注ぎ込まれる。 北東からきた水は電光のようにすばやく走り、 西からきた水は藍に似た緑で、 その他のところからきた水はどれがどれだか見分けようもないけれど、 互いに勢いを競おうとここに集まってくるのだ。 陸地に道らしきものがなくなって、 いよいよ深い峡谷のなかへと入る。 連なる山並みが一つの箱型の壁に変わり、 流れは、あるときは大きくゆるやかに巡り、 あるときはまっすぐに伸びて急流となり、 またあるときはぐっと縮んでどっと落ち込みもする。 風は呼吸をするように谷を行きかい、 あるいは雲の上へと吐き出され、あるいは下へと吸い込まれる。 迫りくる崖は、 垂れ下がる緑の蔓、懸命にしがみつく青い竹、 第 1 章:21


第1章 游の奇絶の始まり

それらもろともに、大きな音を立てて倒れかかってくるかのようだ。 滝となって落ちる水は吹雪のように宙を舞い、 駆け下る馬のように岩が落ちかかる。 不意に絶壁の高さが不揃いなると、 忽然としてそのなかほどに子供の姿が現れ出る。 岩にまとわりついて人家の煙が流れ、 山あいの小さな村の真下に船は着く。 船をやっと繋げるだけの狭い岸辺から、 竹駕籠に乗ってその村へと登ってみる。 このようなところにでも人は住めるもので、 粗末ながらも役所の建物がある。 この地の名産という蜜柑を村の役人が勧めてくれるかたわらで、 夕べの太鼓がドーンドーンと鳴らされる。 村役はいささか誇らしげに、 ここらでは寿命を延ばす薬草がたくさん採れると教えてくれる。 しかし、食に満ち足りて十分に長生きをしているような人は見当たらない。 それでも、ここでは昔からのことがらがよく語り継がれていて、 先人の苦労を大切に偲んでいるようだ。 家は板で屋根を葺いただけで瓦はなく、 巌を削り込んだだけのごく狭い住まいもある。 第 1 章:22


自由訳蘇東坡詩集抄

気候は冬も暖かであるというが、 薪を伐るにはかなりの危険を冒さねばならないだろう。 米を作るような土地はほんのわずかしかなく、 暮らしの厳しさは並大抵ではないようだ。 土地の人が舟を操る腕前はさすがにみごとで、 大波がどこで生じるのかすべてよくわきまえ、 木の葉のような小さな舟でかるがると大河をさかのぼる。 人々の矍鑠とした姿は見惚れるばかりだ。 残念なことに、土地の言葉はよくわからないので、 私などはここには住めそうになく、 この地の奥深い趣きを味わうには至らないだろう。 こつ

いましも一羽の鶻が飛び上がり、 大河の上の百尺の厚みのある靄を超え、その上へと出て行った。 横に滑空する鶻には、自ら心に得るものがあるように見え、 遠く消え去る前に翻るのは、 あえて楽しみを貪るまいとしているのだろうか。 そして悠々と翼を振るって雲間に遊び、 他の鳥のことなど気にもかけていないようだ。 人の世は塵にまみれ、病んでいるのではあるまいか。 そこであくせくすることに私は耐えられるだろうか。 第 1 章:23


第1章 游の奇絶の始まり

万物は自然の内に生きるよさを知っているのに、 人は富貴の喜びを優先させてしまう。 飛ぶ鳥の楽しみを見るがよい、 高くにあって心満たされているではないか。

■巫山‐出峡 三峡を通過する間に複数の詩が詠まれた。それらから適宜抜粋して一つ の訳詩を組み立てると……。

峡谷に入ったばかりのころは断崖の奇観を喜んだけれど、 峡谷を出ようとするころになると、 広く平らかな大地が恋しくてならない。 ついに峡谷が終わるところにまできて、 ずっと圧迫されていた心が、 ふっとのびやかに解放され、 過ぎ去ったあれやこれやが一気に思い返される。 峡谷は西から東へ千里にわたり、 風光の勝れたところが多々あった。 陸に見るべきところがあると聞けば、船を泊め、 遠くも高きも厭わず、私は人々の先頭に立って訪ねまわった。 第 1 章:24


自由訳蘇東坡詩集抄 く と う きょう

三峡の最初の瞿塘峡が終わると ふ きょう

すぐにあたかも鳴り物入りで巫峡が現われ出て、 連なる峰は怪しさ満載で、 岩の色はあるいは青くあるいは緑で、 かみわざ

天の職人が神技を駆使して深く彫り込んだその意匠は、 いまも未完成であるらしく、 生々しい荒々しさにかたときも目を放すことができなかった。 その巫峡には巫山の十二峰があると聞いた。 しかし、次から次へと迫りくる絶壁に怖気づいて、 八ないし九の峰を認め得ただけだった。 川の水の湧き立つようなところで、 し ん じ ょ びょう

この上の高みに神女廟があると聞いて、 岸辺にしがみつくようにして陸にあがった。 上へと登って、岩に腰をおろすと、 ごうごうと音を立てて流れ下る大河の水が、わが身からやっと離れ、 ほっと息をつくことができた。 するとにわかに烏が騒ぎ出した。 次から次へと峡谷の両側の壁から湧き出したかと思うと、 船から高く投げ上げられた餌を目指し、 その一点へと無数の烏が集中した。 第 1 章:25


第1章 游の奇絶の始まり

烏は神の使いとしてすっかり人に馴れている。 神女廟に詣でての帰り道で、冷たい泉が湧いているのを見つけた。 手にすくうと、青くきらきらと光り、 まことに愛すべき水だった。 巫峡の終わりぎわには、 崖にぽっかりとあいた空洞のようなものがあった。 真下から見上げると青い空が覗けた。 こ う し びょう

そこは石づくりの古い孔子廟で、 木と木を結んで中空に鉄の欄干がかかっていた。 その高さは何丈あるとも知れず、 下にめまぐるしく姿を変える波があるのに、 誰がそのようなものを架けたのだろうか。 巫峡を下り切ると、その勢いのままに船を走らせ、 は とう

巴東県では泊まらなかった。 こ う じゅん

巴東は若き日の寇準の任地だ。 寇準は峡谷のなかほどのこの寂しい土地にくると、 もっぱら民衆のために励み、 人々に賦役を課さなければならないときになっても、 責め立てるようなことはしないで、 納めるべき人の名を記した板を役場の門に掲げ、 第 1 章:26


自由訳蘇東坡詩集抄

自ら納めにくるのを待った。 寇準が植えた松がいまもあって民衆が大切に守っているという。 山と川の織り成す自然の厳しさが、 豪俊な寇準を養い育てたのだろう。 せいりょうきょう

三峡の最後は西陵峡で、 そこに入って三十里、 山の裾を船が回りかけると、 まだ見えてこないうちから、 私は驚きに打ちのめされた。 白い波が川幅いっぱいに湧き立ち、 まるで雪の城壁が山の高さにまでせり上げられてから、 深い谷底へと下り落ちるのだった。 いかなる魚もそこをさかのぼることはできないし、 いかなる鳥もそこに近づくことができない。 そのような急な瀬を通過するのに、 船を操る人の腕前などはあてにできないから、 酒を供えて神様に無事を祈った。 こともあろうに、そのときいきなりひどい風にあおられ、 船はにっちもさっちも進めなくなった。 始めは北の崖から扇であおぐくらいの風が吹きおりていただけだったのに、 第 1 章:27


第1章 游の奇絶の始まり

びゅうっとひとたび川面を疾走するや、 雲が右に左にびゅんびゅん飛びかって峡谷をたちまち塞ぎ、 ばしばしと船の窓に雪が打ち付けるまでになった。 手近な岸辺に纜を短くして船をしっかりと繋ぎ、 それからのひと晩は、 ぎしぎしと船体がきしる音に大いに悩まされた。 昔から、悪い天気も明け方までというのに、 朝になっても風雪は少しもおさまらなかった。 これはここを司る神様が遠来の客を大いに歓迎して、 長く引き止めようとの有難い厚意だったのか、 結局は三日間もいつくことになった。 仕方なく船から上ってそこらの村を訪ね、 土地の酒を買い求めて飲んだのが唯一楽しいことであった。 こうぎゅうびょう

幸いそこも抜けられて、黄牛廟の下にまでくると、 「ここらはどこも岩の壁、道などありはしません」 船頭がそう言ったので、廟を遠く見上げただけで通過した。 ぎょくきょどう

次に、 玉 虚洞という立派な洞窟があると聞いていたところにまでくると、 「ここらはどこも岩の壁、道などありはしません」 船頭は同じことを言ったので、これはどうやら、 坂が険しかろうが道が遠かろうが、私が一切構わずにずんずん行ってしまうの 第 1 章:28


自由訳蘇東坡詩集抄

で、 旅路は何かと遅れがちで、 船頭があきれて適当なことを言っただけなのだろう。 しかし、船というものは船頭に任せるしかないので、 玉虚洞はその晩の夢で訪れてすませたのだった。 このような次第では、 無数にある三峡の奇偉を幾つ見逃したかわからない。 かくて重なる危険を無事に脱し、 ついに今朝は広くゆるやかな流れを目にすることとなった。 ここから先は魚が豊富でうまいというから、 順風にも恵まれて旅はますます楽しくなることだろう。 し たい ふ

(この詩の途中で詠まれている寇準は蘇軾よりも 70 年余り先輩で、宋代の士大夫の あるべき手本を示した人物である。宋代の士大夫とは、科挙に合格して官僚になった 人々(あるいは官僚にならなくてもその志があった人も)を指す。出自によらず実力 で政界に入った人々が社会の主役になったのが宋という時代の最大の特徴で、寇準の 父は下級の役人であったが、寇準は 19 歳で科挙に合格し、最高位の宰相にまで昇り、 文字通りの国家存亡の危機を救う活躍をした)

■夷陵県欧陽永叔至喜堂 い りょう

三峡を出ると長江の流れは緩やかになり、夷陵という小さな町に着いた。 第 1 章:29


第1章 游の奇絶の始まり お う よ う しゅう

あざな

えいしゅく

そこは蘇父子にとって大恩人である欧陽脩 (字 は永叔)が若い頃に流 し

き どう

された土地で、至喜堂というゆかりの建物が残されていた。

夷陵は長江の中流域に位置することから、 その昔は、戦略的に重要な場所とされた。 平和な時代になると、 この地から英雄が出るということはなくなり、 地方のただの小さな県になった。 そこにひょんなことから、 文学上の勇者が都から流されてきて、 このあたりを歩いては詩を詠み文章を書いたので、 一躍、夷陵の名がまた高められた。 その人がここを去ってから幾年もが経ち、 その人が住んでいた至喜堂がややもすると傾いてしまうのを、 土地の人は毎年きちんきちんと修繕している。 その人が植えた橘は霜にあたって枯れたけれど、 その人が植えた楠は大きく立派になっている。 土地の人は私たちに尋ねた。 「うちらの長官様はもう髪がまっちろでしょうなぁ」 「ええ、ええ、その通りですとも。 第 1 章:30


自由訳蘇東坡詩集抄

何しろ自分の楽しみなど少しもなしに、 国のために年がら年中頭を悩ませて文章を作っておられるのですから」 ――というわけで、土地に人に代わって、 先生に遠く言葉を寄せようと思う。 「たまにはゆったりなさって、 お酒でも召しあがるのがよろしいのではありませんか」 (この詩の終わりの部分は、欧陽脩が若い頃から白髪が多かったことに基づくいわゆ る「楽屋落ち」である。大恩人でありながら笑いを誘うような結びを置いたのはそれ だけ心を許せる関係にあったからだろう)

■南行前集敘 か ゆう

けい

一行は嘉祐4(1059)年の暮れに荊州に到着し、船を降りてしばらくそ なんこう

こに滞在した。そこまでの旅の間に詠んだ父子 3 人の詩を集めて『南行 しゅう

集』と題する詩集を編み、この序文を書いた。後に、旅の後半の詩を編 集して『南行後集』としたので、この序文は「南行前集敘」と呼ばれる ようになった。

昔の詩文を作った人たちは作るのがもとから上手だったから、巧みな詩文ができ あがったのではない。作らずにはいられなかったから巧みな詩文になったのであ る。 第 1 章:31


第1章 游の奇絶の始まり

山や川には雲や霧がある。草や木には花や実がある。ふつふつと何かしら内側 に充満するものがあって、それが外に現われ出たのが、雲や霧、花や実であって、 雲や霧、花や実が存在しないままでいようとしても、それはできないのである。 か

く ん

いにしえ

私は若いころから家君(父)が文を論じるの聞いて、古 の聖人はどうしても止める ことができなくて詩文を作ったのだと考えるようなった。だから、私と弟はたくさんの 詩文を書いてはいるけれども、詩文をこしらえようとの気持ちはこれまで持ったこと がない。 つちのと い

己 亥の歳(嘉祐4年)に、父の旅に伴って楚に向かった。舟の中では何もする事 がなく、かといって、博打や飲酒は家族で楽しむものではない。一方で、山や川 はすぐれて美しく、川沿いの風俗は素朴であったり粗末であったりし、そこには賢人 や君子の遺跡もあり、それらありとあらゆる耳目に接するものが、さまざまに身の内 にあるものに触れ、詠嘆となって外に出てきた。こうして生まれ出てきた詩文は、家 君の作と弟の作も合わせるとおよそ一百篇となった。これを『南行集』と名付け る。 一回限りの事をこのように記すことで、後に繰り返し尋ねるよすがにしようと思う。こ れらは談笑する間に生まれ出たもので、書こうと思って書いたのではない。 こ う りょう

時に十二月八日、江陵駅にて書く。 (最後にある「江陵」とは荊州の異称。この序文には蘇軾の文学観がよく表れている)

第 1 章:32


自由訳蘇東坡詩集抄

■眉州遠景楼記 蘇軾が荊州に留まっている間に、蘇軾の生い立ちを見ておきたい。蘇軾 けいゆう

び ざん

しゃこくこう

は景祐3(1036)年 12 月 19 日に眉州眉山県紗縠行に生まれた。 ぼうけい し せんたんめい ぼ

し めい

(蘇軾の出自は、蘇軾が亡くなった後で弟が記した墓誌銘( 「亡兄子瞻端明墓誌銘」 ) こう

に簡潔にまとめられている。墓誌銘の初めの一部をここに訳す。 「公」とあるのが兄の ことである。 いみな

あざな

し せん

わ ちゅう

び ざん

あざな

公の諱 は軾、姓は蘇、字は子瞻、和仲という字もあった。家は代々眉山にあり、曾祖父 こう

たい し たい ほ

そう

しょう こ く た い ふ じ ん

つい ほ う

じ ょ

の諱は杲、太子太保を贈られ、妻は宋氏、昌国太夫人に追封された。祖父の諱は序、 たい し たい ふ

か こ く たい ふ じ ん

じゅん

たい し たい し

太子太傅を贈られ、妻は史氏、嘉国太夫人に追封された。父の諱は洵、太子太師を贈 てい

せい こ く た い ふ じ ん

られ、妻は程氏、成国太夫人に追封された。 せん く ん

公が十歳の頃、先君(父)は各地を巡って学び歩いていたので、太夫人(母)が自ら書物 を使って教育した。公が古今の歴史の興亡について尋ねると、太夫人はすぐにその要点 と う かん し

ご かん じ ょ

ぼん ぼ う

を語った。太夫人はあるとき『東漢史』(後漢書)を読んでいて(音読していて)、「范滂伝」 に至ると、慨然と大きく嘆息した。傍らにいた公は言った。「私がもしも范滂のような行動をと りましたら、母上はやはり許して下さいましょうか」。太夫人は言った。「そなたが范滂になれ て、私が范滂の母になれないなどということがありましょうか」。公が発奮して世に大きな働 きをしようとの志を抱いたので、太夫人は「私にはこの子がある」と喜んだ。 いみな

幾つか補足する。 (1)旧い中国では、本名( 諱 )を他人が直接呼ぶのは非礼とされ、 あざな

別名の 字 が用いられた。この訳では、煩雑さを避け、基本的に諱を用いる。 (2)曾 祖父以下が「太子○○」を贈られ、その妻が「○○太夫人」に追封されたとあるのは、 第 1 章:33


第1章 游の奇絶の始まり

子や子孫が大官に昇ったことで、そのような称号が朝廷から贈られたことをいう。自 分が出世することが先祖の栄誉にもなったのである。 (3)范滂は後漢時代の人で、当 かんがん

時の国政を乱していた宦官と対立して都を追われて郷里に帰った。范滂を憎む人々は 皇帝の命令書をでっちあげ、范滂を逮捕する役人を派遣した。県の知事は范滂に逃げ るよう勧めたが、范滂は法を破る悪行はできないと、自ら赴いて逮捕された。范滂の 母は息子の行動を讃えた。 (4)10 歳の兄と母のやりとりを弟は傍らにいて聞いていた ほうげん

のだろうか。弟は宝元2(1039)年 2 月 20 日生まれ、兄とはほぼ 2 年の開きがある)

び しゅう

蘇軾の郷里の眉山がどのような土地柄であったのか、蘇軾自身が「眉州 えんけいろう き

遠景楼記」に詳しく記している。これは本章で見ている都への旅の 20 げんぽう

年ほど後の元豊元(1078)年に執筆されたものだ。

いにしえ

我が州の風俗には、古 に近いものが三つある。 し

たい ふ

(一)士大夫は儒学の古典を貴び、一族の伝統を重んじる。(二)民衆は役人を 敬い、法を畏れる。(三)農民は一緒に農作業に励み、互いに助け合う。 か

いん

しゅう

かん

と う

これは、夏、殷、周の三代や、漢や唐の昔の風俗の名残がいまに伝わるのであ って、他の地域の及ばないところである。 宋の朝廷は、始めのころは音律の整った美文を書ける者を官僚として採用した。 て ん せい

だい

そのため、四代皇帝の天聖年間以前の学者は宋の前の五代時代の(上辺を飾 って中味がない)欠陥をそのまま受け継いでいた。我が州の士大夫だけは、古 第 1 章:34


自由訳蘇東坡詩集抄 いにしえ

典に通じて古 を学び、漢の時代の文学を手本としていた。このとき、他の地域の う

かつ

人々は我が州の人々は迂闊である(古臭いことばかり言って世事に疎く役立たず である)と批判した。郡や県の下役人に至るまで、皆が古典を手元に置き、それ を範として筆を執り人に応対し行動したので、なかなかに立派なありさまであった。 あらわ

そして、名門の人、世に顕れた人は互いに家柄を尊重しあい、甲乙の序列がき こ う きょう

ちんと定まっていた。このような人たちを「江郷」といい、たとえ高位に昇ったり富ん だりしても、「江郷」同士でなければ婚姻することはなかった。 眉山の民衆が州知事や県知事に仕えるありさまは、古の君臣関係を想わせると ころがある。知事が去った後でも、その肖像画を描いて奉仕し続ける。特に賢明 であった知事に対しては、その人が行ったことを記録し、語り継いで、四、五十年 経っても忘れないようにする。商人や町民はいつも善い物を別にして、官からの 求めにすぐに応じられるようにしている。家には法令書が備えられ、いつでもそれ に通暁して、誤ったことをしないようにしている。ごくごく小さな罪も、一生の間に犯さ ない者がたくさんいる。 おさな

眉山では二月に農事が始まる。四月の初めは、穀類はまだ稚く雑草の勢いが盛 んである。このときに人々は一斉に草刈りに出る。数十人から百人が一つの班を ろ う

構成する。目印を立て、水の流れで時間を計る道具(漏)を据え、太鼓を鳴らして 人々を集める。皆から尊敬をされている者を二人選び、一人が太鼓を鳴らし、一 人が時間を計る。進むのも退くのも、作業に掛かるのも止めるのも、ただこの二人 の指図に従う。太鼓を鳴らしても出てこない者、きても力を出して努めない者には 第 1 章:35


第1章 游の奇絶の始まり

罰金が課せられる。農地の広さと作業量を測り、仕事が終わるとそれらを評価し、 農地が広いのに働き手が少なった者は、銭を出して皆への償いとする。七月の 満月の翌日、穀物はすでに収穫され、雑草は衰えたので、太鼓をはずし、「漏」を あまざけ

壊し、罰金と人々に償う銭を集め、羊や豚の肉、酒や醴 を買う。田の神を祭り、 音楽を演奏し、飲みかつ食べ、酔って満腹となってから帰る。これが毎年の恒例 である。 以上が眉山の風俗のあらましで、このようであるか眉山の人は皆が聡明で才智 があり、基本に忠実で一生懸命に働くので、治めやすく、しかし服従させるのは難 しい。新しい知事がくると、その人が話すこと、その人がすることを見て、その人と なりを納得するまで観察する。もしも頭脳明晰で能力があると知れると、何か事を 起こして知事の出方を確かめようとするようなことはもはやなく、後は知事は朝から 晩まで静かな日々を過ごせばよい。もしも知事のすることが道理に合致しないよう であれば、筋を通し法を根拠として知事を徹底的に批判する。だから、眉山の風 俗を知らない者は治め難いというのだ。 れ い じゅん

いまの知事の黎錞侯は、私の父の友人であった。つつましく、一方で華やかで あり、剛直であり、一方で仁愛に富み、明察であり、一方で苛酷ではない。それ で人々は仕えやすいと思い、任期が満ちて交替になるときがくると、去ってしまう のを残念がり、皆で引き留めようとした。朝廷はその請願を聞き入れ、さらに眉山 に留まること三年となり、民衆は知事をますます信頼して、何事もなく治まっている。 え ん

そこで、知事は住まいの北側の土塀に寄り添うようにして建物を増築し、これを遠 第 1 章:36


自由訳蘇東坡詩集抄 けい ろ う

景楼と名付け、その上で日ごと客人や役所の人間と遊んで過ごしているのであ る。 じ ょ

私はいま徐州にいて、我が州の人と手紙のやりとりをするたびに、黎侯のすばらし が書かれていないことはない。そして、遠景楼について文章を書くよう眉州の人に 依頼され、このように記すことになった。 私は、故郷を去ってすでに久しい。遠景楼はそのあるところを想い浮かべることは できても、その詳細を述べることは私にはできない。州の人々がこの楼があるのを 喜び、そのことを記してほしいと思う気持ちは、私にもよくわかる。上に仕えやすい 長官がいて、下に治めやすい風俗がある、そのことこそが何よりもよいのだ。 こ う

孔子はこのように言っている。「昔の史官は不明の文字があると空白のままにした。 昔の人は馬を手に入れると他の人に貸して乗り馴らしてもらった。いまはそのような みち

ことはない」。この二つのことは、根本の道理(道)を大きく損なったり、大きな益を もたらしたりするような事柄ではない。それでも、人の世の美徳が失われて行くのは 残念あるとして孔子のこの言葉が記録されたのだ。 かさ

我が州の古に近い風俗がここにだけ世を累ねても変化しないでいるのは、昔の 人やいまの老人たちが生きることを楽しんできた恵みによるものであり、賢明な知 事が倦まずたゆまず民衆を慈しみ指導してきた力によるものである。これは記録し ないでよいものではない。 遠景楼に登ってあたりを見ることの楽しさ、そして山川風物の美しさを記述するのは、 私がいつしか隠退して故郷に帰り、老隠居の姿で知事のお供をしてそこに登り、 第 1 章:37


第1章 游の奇絶の始まり たけなわ

の こ

酒が 闌 となって演奏される音楽を聞きながら、筆を執って賦を作り、黎侯の遺さ れた愛を讃えるときであっても、まだ遅すぎはしないであろう。 元豊元年七月十五日に記す。 (この文章で蘇軾は過剰なまでに郷里の風俗を讃えている。郷土愛の表れと理解すべ きだろう。家柄を尊重することを美徳として挙げているが、蘇軾自身は「江郷」の出 しゃこくこう

身ではない。蘇軾の生家は眉山県紗縠行にあり、そこは絹などを扱う商人が集まり住 むところで、蘇軾の先祖はそうした商人であったと推測されている。この文章では、 しょう こ しょうみん

眉山の人々は士大夫(中でも特に家柄がよいのが江郷) 、農民、商 賈 小 民(商人・職 人)の三階層に分けられていて、町に住む商賈小民は江戸時代の士農工商と同じく、 そ こう

最も下位に置かれていた。蘇洵はあるとき先祖の系譜を調べ、蘇杲( 「墓誌銘」にあっ た蘇軾の曾祖父)のさらに祖父の名まではわかったもののそれより前に遡ることはで なかった。名の知れた限りの先祖で官職に就いた者は 1 人もいなかったので、 「江郷」 でなかったことは明らかである。蘇杲のころから(たぶん商売によって)貯えた財で 農地を買い求め、次の蘇序の代になるとある程度家が豊かになったので、蘇序は 3 人 の息子に学問を習わせることにした。ところが蘇洵は(たぶん商売の方が面白くて) 書物には見向きもせず、諸国を歩き回っていた。それでも、蘇洵は妻を、ほぼ確実に てい

「江郷」であったと推測される程の家から迎えられたのは、蘇の家が昇り調子にあっ たからだろう。蘇洵の妻が息子に史書を読んで教えられるだけの学識を具えていたの は、実家が「江郷」だったからで、蘇洵は長らく妻の実家に対して頭が上がらなかっ そ かん

た。蘇洵の兄の蘇渙は学問に励み、眉山の蘇家で初めて科挙に合格し、一気に社会的 第 1 章:38


自由訳蘇東坡詩集抄

地位が上がった。それを見て、蘇洵は 27 歳でついに発奮して学問に向かった。つま り、蘇家は数代にわたって商賈小民から江郷に並ぶところにまで昇ろうと不断の努力 を重ねてきたのだった)

■衆妙堂記 しょう が く

蘇軾は 8 歳のときに、父に連れられて「小学」 (寺子屋)に入った。そ ちょう い か ん

げん ぷ

の先生が張易簡という道士であったことは、遥か後年の元符元(1098) 年に記した次の文章から知られる。

眉山の道士の張易簡は「小学」で教え、いつも百人ほどの生徒がいた。私は幼 てん けい かん

ほ っ きょくい ん

い頃にそこに通った。学校は天慶観の北極院にあり、三年ほど張先生について 学んだ。 かい なん

私はいま海南島に流され、ある日、夢に学校に行き、昔のままの張先生とお会 いした。 先生は庭を掃き清めていて、誰かがくるのを待っているかのようだった。 「老先生がじきやってこられる」 ろ う

張先生がそう言うと、二人の者を連れて老先生が現れた。二人は『老子』の言葉 を朗唱した。 げん

し ゅ う みょう

「玄のまた玄、衆妙の門……」 おくふかさ

かつて私も張先生の学校で同じように朗唱していた。私ははたと思った――「 玄 」 第 1 章:39


第1章 游の奇絶の始まり おくふかさ

たえなるもの

のまた奥に「 玄 」がある。そのまた奥の奥にものの根源、「 妙 」がある。その たえなるもの

たえなるもの

し ゅ う みょう

「 妙 」からたくさん「 妙 」が出てくる。だから、「衆妙の門」という。ならば…… 私は張先生に尋ねた。 みょう

いち

「妙とはものの根源、そうならばそれは一であるのではないでしょうか。一でありな しゅう

がらどうして衆を容れられるのでしょうか」 張先生は笑って言った。 たえなるもの

たえなるもの

「一だけではつまらんだろう。つまらなくては 妙 であはるまい。本当に 妙 なら、 たくさんあったほうがよくはないかな」 張先生がそのように言うと、二人の者の一方は水を撒き、一方は草を刈り始め た。 みょう

「おのおの一つの妙を見せてくれるであろう」 張先生がそう言ったので、私は注視していると、二人の者は手をものすごい勢い で動かし、庭の内で風雨が渦巻いた。たちまち雲が散じ、霧が晴れると、見たこ ともない花々があたり一面に咲き乱れ、無数の鳥や虫が輝く姿を現した。 し ゅ う みょう

私は驚き、「これが衆妙なのでありましょうか」と言った。 一人の者が言った。 「何のこれしき、あなたはまだ真の妙を見ていない。我等の技はまだまだ道半ばで、 く う

く う

これより先は空の空へと入り行き、そこは行こうと思って行けるところではない」 もう一人の者が言った。 「あの蝉を見るがよい。蝉は木に登って鳴き続けて止むときがない。蝉は木に登ろ 第 1 章:40


自由訳蘇東坡詩集抄

う、そして鳴こうと思ったから、あのようになったのではない。地中の闇にいたときに は、見ることもなく聞くこともなく、飢えることもなく渇くこともなく、ぴくりとも動かずにじっ としていた。あるとき忽然と地上に現れ出て、あのようになった。いかなる聖人の 知恵も及ばず、いかなる名工の技も及ばない」 すでに姿を消していた老先生の後を追って二人の者は庭から出て行こうとした。 茫然としている私に向かって張先生は言った。 「まあ、心を落ち着けるがよい。老先生がまたこられたときにさらに問うてみよ」 すると二人の者が振り返って言った。 「老先生も御存知ではない。蝉に問うべきである。養生と長生が得られるであろ う」 ――夢はここで終わった。 こ う

す う ど う

その後、広州の道士の崇道大師から「道を学んで妙に至ることを思い、近頃建 てた堂に『衆妙』と名付けました。そのことを記した文書を書いてくださらぬか」との 手紙が届いた。よって、夢の話を記して、崇道大師への返事とする。 (この訳文は原文からかけ離れた極端な意訳である。張先生の問答が理解し難いため である。それはともかくとして、蘇軾は張易簡の学校で道教の経典を習い(もちろん 儒学の経典も教わった) 、そのときは意味がわからないままに朗誦していたにしても、 蘇軾の精神の基底を構成する重要な要素となった)

第 1 章:41


第1章 游の奇絶の始まり

■范文正公集叙 張易簡の学校で、ある日、蘇軾の進路を決定づけるような印象的な出来 げんゆう

は ん ちゅう

事があった。そのことについて、元祐4(1089)年に蘇軾が編集した范仲 えん

淹の文集の序文の中で書いている。范仲淹は宋代の士大夫のみならず、 後世の志ある者から手本と仰がれた人物である。

けいれき

慶暦三(1043)年のこと、私は八歳で土地の学校に入った。間もなく、ある文士が せきかい

けいれき せ い と く

都から石介の作った「慶暦聖徳の詩」を携えてやってきた。学校の先生がそれを 読んでいるのを私は横からのぞき見た。 それが現在特に優れる十一人を讃える詩であると聞いて、「どのような方々なの でしょうか」と私は先生に尋ねた。 「君のような子どもにはまだわかるまい」と先生は言った。 「それが天の上の人であるのならわからないということもあるでしょう。でも、同じ地 上の人であるのならわからないことはないはずです」。 かん き

はん

私の返答に先生は驚き、その詩を読んでくれた。そして、「このなかでも韓琦、范 ちゅう え ん

ふ ひつ

お う よ う しゅう

仲淹、富弼、欧陽脩の四人は人傑である」と言った。 このときはまだきちんと理解できたわけではなかったが、四人の名ははっきりと記憶 に刻まれた。 二十二歳のときに都に行くと、范仲淹はすでに亡くなっていて、欧陽脩が記した 墓誌を読み、「その人のあることを知って十五年、しかし、ついにお顔を見ることが 第 1 章:42


自由訳蘇東坡詩集抄

かなわなかったのは運命なのだろうか」と嘆き悲しんだ。私は科挙に合格し、初め て欧陽脩に会うことができ、その紹介で韓琦とも富弼とも会えた。三人は口を揃え て「残念なのは君が范仲淹に会えなかったことだ」と私に言った。 き ょ

は ん じゅん じ ん

それから三年後に私は許州で范仲淹の長男の范純仁に会い、また六年後に都 は ん じゅん れ い

は ん じゅん す い

でその弟の范純 礼に会い、さらに十一年後に末の弟の范純 粋と同僚になった。 皆と会ってすぐに旧知の仲のようになった。私は范兄弟から父上の遺稿を託され、 文集を編集して、それに序文を添えてほしいと頼まれた。それから十三年が経って いまようやくその約束を果たせるに至った。 范仲淹の功績と徳は、その文章があって初めて世に知れるのではない。その文 章は、序文があって初めて世に遺されるのではない。それでも文集を編集し序文 を記すのをあえて辞退しないのは、八歳で范仲淹を敬うことを知って四十七年に なり、他の三傑とは交わりを結ぶことができたのに、范仲淹一人とは知り合えずに いたのを平生の恨みとし、その人の書いた文章の脇に我が名を掲げることでその 人の門下生の最後の一人であるかのようになれるのならば、ついに願いを叶え たのに近かろうかと思うからだ。 いにしえ

古 の立派な人々が天下のために貢献した事績を見ると、それを為しとげた基本 的な姿勢は、国に仕えてから学んで得たものではなく、庶民のなかで暮らしてい かん

りゅう ほ う

たときからすでに身に備わっていたものであった。漢の劉邦が天下を平定するの かんしん

し ょ

を助けた韓信は、劉邦と会った最初のときすでに遠い見通しを持っていたし、諸 かつ こ う めい

しょく

りゅう び

葛孔明も草庵に尋ねてきた蜀の劉備と初めて会ったときすぐに何をすべきかを語 第 1 章:43


第1章 游の奇絶の始まり

り、終生それを貫いた。人に尋ね、聞いたことを試してみて、成功したらよしとするよ うなことではなかったのである。 范仲淹は母上が亡くなって喪に服していた間に、天下のありさまを見て、いかにし て民衆に泰平をもたらすかをつらつら考え、一万字に及ぶ文章を書いて時の宰 相に送った。天下の人々はその文章を読んだ。後に范仲淹が国政の改革に取り 組んで副宰相にまでなってしたこと、あるいは平生に為したところのものは、皆この 文章に記されていた通りであった。 范仲淹の遺稿二十巻をここに編み、詩賦は二百六十八、文章は百六十五に及 ぶ。これらを見れば、范仲淹が仁義礼楽忠信孝悌を思うのは、飢えて食するのを 思い、渇いて飲むのを思うのと同じで、片時も忘れようとしてもできなかったことで あったというのがわかる。その心は火のように熱く、その情は水のように潤い、天性 からしてそのようであった。慰めに、あるいは戯れに、もしくは瞬時に作った詩文で あっても、その天性から出たものであるから、天下の人々はその真心に打たれ、 争って師として尊ぶのである。 孔子は「徳ある者には必ずしかるべき言葉がある」と言った。それはしかるべき言 葉が初めにあってその人の口から出てくるのではない。徳のある人の口が発する からしかるべき言葉となるのである。 (この序文に記されている通り、8 歳の蘇軾は、韓琦、范仲淹、富弼、欧陽脩の 4 人 の名を聞き、いつかその 4 人とともに天下のために働きたいと思った。范仲淹は実際 に会えなかっただけに理想の士大夫として蘇軾の心に強く残り続けた。また欧陽脩は 第 1 章:44


自由訳蘇東坡詩集抄

蘇父子にとってかけがえのない大恩人となる) (以上の 3 篇の文章から、蘇軾の生い立ちのあらましを知ることができたであろう。 慶暦 7(1047)年、蘇軾が 12 歳のとき、祖父の蘇序が亡くなり、官職に就いていた 伯父の蘇渙が帰郷した。蘇渙が科挙に合格したのは、蘇軾が生まれる 12 年も前で、 それ以来蘇渙はずっと外で官の仕事にあったので、蘇軾は初めて伯父と会い、強い印 象を受けた。それによって、上記の 4 人に少しでも近付きたいとの思いはさらに増し た。とはいうものの、一心不乱に勉強して科挙を目指したというほど蘇軾少年は単純 ではなかった。張易簡の学校で道教について教わった影響もあったのだろう、自然の 中で暮らす隠遁者にも強く憧れ、役人になるべきかの真剣に悩んだ時期もあった。そ のことは本章で見てきた幾つかの詩にも反映されている)

■荊州十首 か ゆう

嘉祐5(1060) 、蘇軾 25 歳。 と

都への旅に戻ると、蘇軾は 1 月 5 日まで荊州に滞在し、その間に、杜甫 しん

しょく

の「秦州雑詩二十首」を念頭に置いた一連の詩を詠んだ。このとき蜀の 人間であるとの意識がかなり強くあったようだ。10 首から 6 首を訳す。

其の一 さんきょう

旅人が三峡を出ると、 そこから先はどこまでも平らだ。 第 1 章:45


第1章 游の奇絶の始まり しょく

蜀の川は山地を切断していたが、 そ

楚の川は平野を切断する。 蜀から下って来た船は、 ご

呉から上って来た船に囲まれる。 蜀の山から来た人間は平地の商売人にまどわされ、 砂を巻き上げる平地のつむじ風にもまどわされる。 荊州の町を囲む堂々とした城壁を見れば、 蜀と楚の間には長い興亡の歴史があったことを、 思わないわけにはいかない。

其の二 荊州から南を見やれば、 古戦場が多々あり、 英雄の猛き思いや、 忠臣の清き思いが、 いまも感じ取れるかのようだ。 古く繁栄した町は消え去り、 井戸を囲んだだけの小さな村が残り、 そこには昔ながらの姓を保つ人々が住んでいる。 古今に変わらぬ大地のありさまは目には明らかでも、 第 1 章:46


自由訳蘇東坡詩集抄

歴史の上がり下がりは、 軽々しく論じるわけにはいかないのだろう。

其の三 楚の地は限りなく広く、 遠くぼんやりとどこまでも田畑が連なる。 そこに汗水垂らして働く人の姿を見ないのは、 植えたら植えっぱなしということなのだろうか。 己の怠け癖を何とかしようという様子がまるでないのは、 愚かというべきか、哀れというべきか。 これで凶作に見舞われたら、 年のめぐりが悪かったと、恨んですませるつもりなのだろうか。

其の四 荊州の町を囲む高い城壁の東の隅に、 ぼう さ ろう

望沙楼の高い朱塗りの欄干がある。 こ う お う

かつて高王はここに隣国の使者を招き、 盛大な宴を催して接待し、 楼から見渡す大地をもって、その隣国に奉仕することを誓った。 いくつもの国に対して高王は同様の約束をしつつ、 第 1 章:47


第1章 游の奇絶の始まり の ろ し

いまにもどこかで烽火が上がるのではないかと、 びくつきながら欄干から眺めていた。 いまは霞む彼方に屋根の先がぼんやり見えるだけであるのだが、 野にはなお戦に倒れた人々の骨がそのままに埋れているのだろう。 百年にわたって競い合った豪傑は誰もいなくなり、 いまとなっては魚と蝦が争ったようなことになったのだ。 ご だ い じっこく

(宋の一つ前の時代は五代十国と呼ばれる分裂の時代で、荊州には高氏が建てた小さ な国があった。大国の狭間で生き延びるために、高氏は徹底した弱腰外交で周囲の全 ての勢力にひたすら媚び諂った)

其の七 年末の荊州は風雪の日が多く、 そうでなくても旅人の心は落ち着かない。 町の人や村の人が嬉々としているのは、 昔から季節行事を重んじる土地柄で、 鬼やらいの日を待っているのだ。 いよいよその日になると、 竹を爆発させる音に、 子どもたちがわんさと集まってくる。 その賑わいのなかで、 第 1 章:48


自由訳蘇東坡詩集抄

私はしみじみと故郷の友人を想うのである。

其の十 荊州城の南門から始まる大道を馬で走り、 春の陽射しが注ぐ野に至ると、 秋の枯れ草を焼いた跡から、 風に誘われて緑が芽生えようとしている。 荊州から道は縦にも横にも北にも南にも通じ、 天下を自在に往来できるというのに、 かつてのここの王様はどうしてああまで弱々しかったのだろうか。

■浰陽早発 れんよう

荊州からは陸路で都に向かった。浰陽を早朝に発って、馬上での作。

富貴なるものがもともとから定まっているのではないとしたら、 栄えたり衰えたりするのはその人自身によるということになろうか。 だとすると、功名心が身の内でやかましく騒ぐのが当然で、 私に限ってそのようなことはないなどとは言っていられない。 それでちんまり縮こまっていられなくて、 こうしてそろりそろりと旅に出てきた。 第 1 章:49


第1章 游の奇絶の始まり

それでも西に故郷を想うことがある。 我が田園が荒れるのは覚悟の上だ。 外に出てきて何をするのかというと、 あくせく富を稼ぐ気はない。 天下に何かしら足りないものを補うのだ。 それができなければ、怠け者で愚か者だったということになろう。 人生は意気を重んじる。 出処進退にためらいがあってはならない。 春を迎えたいま、 故郷の水辺では蓮が葉を広げ始めているだろう。 湖をおおいつくすまでに蓮を育てあげてきた先人の営みに、 何かしら敵うようなことが私にできるだろうか。

■夜行観星 早朝の出発は星を上に仰ぐこともあった。

どこまでも高く涯のない天空は、 夜の厳かな雰囲気に満たされている。 無数の星が正しくその位置におさまり、 大きな星は射るような光を放ち、 第 1 章:50


自由訳蘇東坡詩集抄

小さな星は闇から湧き出てくるかのようだ。 星とはそもそも何ものなのか。 天界と人界とは干渉し合うものなのか。 世の人々は、星に一つひとつ名を付け、 み

ひ し ゃ く

あれは箕の形、あれは柄杓の形と、 無理に見立てようとする。 箕も柄杓も人の道具で、 天にとっては無用であるのだから、 星は自分からそのように名乗りはしない。 遠くから何かに似ていると想像するのではなく、 近くに迫って星を見たらどういうことになるだろうか。 考えてもまるで掴みどころがなく、 溜め息をつくしかない。

■漢水 じょうよう

この地方の中心都市である襄陽に着く直前の詩。

竿を捨ててからのこのひと月ほどの旅は、 ずっと砂ぼこりに悩まされ通しだった。 襄陽の手前で滔々と流れる大河に出合い、 第 1 章:51


第1章 游の奇絶の始まり

その清らかさにさっぱりと身を洗われた気分になり、 しょくこう

この心持ちは故郷の蜀江のほとりに立つのに似ると感じた。 それもそのはずで、聞けばこの川は、 かんすい

蜀の地から我らの旅とは反対まわりで流れ出てきた漢水なのだ。 蜀江はなかに鯨も棲もうかというくらいに水量が豊かで、 漢水もまた広々として、軽々しく渡ってみるようなことはできない。 しゅう

ぶん お う

遥か二千年の昔に、このあたりにも周の文王の教化が及び、 遊女も礼儀正しさをわきまえるようになったと聞いている。 漢水の水の音はそれから変わりはしないのだろうけれど、 いにしえ

ふ う

世の変転とともに、古 のよき風はすたれ、 川風が寒々しさを帯びて吹き過ぎてゆく。 私は文王の時代を偲び、 蜀から流れてきた川に向かって、 我が身なりをきちんと整えるのだった。 (周の文王の治世は、儒学の伝統において理想の時代の一つとされた)

■峴山 けんざん

襄陽の町の南に峴山という有名な山があり、その山頂において悠久の時 間の流れに思索を巡らすことが数百年以上前から繰り返されてきた。

第 1 章:52


自由訳蘇東坡詩集抄

遠く南からきた我らの前に、 ぼんやりと春の塵に包まれる山があった。 登ってみると、山頂の幅は百歩にも満たないけれど、 眼下には、広々とした大地をひと呑みにする。 たちまちもの悲しさに襲われるのは、 千年変わらぬ感慨がここにあるからなのだろうか。 私のこの憂いを後に誰が知るのか。 私はいまを生きているのに、 未来を想ってここに苦しんでいる。 ひのき

山の上には堂々とした不変の檜の巨木があり、 年々緑を取り換える柳を見下ろしている。 大才と小才はもとから異なっているのか。 永久性と一体化することは可能なのだろうか。 旅人が山の上にいる時間などは、 び

星の光が魚篭の底に達する一瞬のきらめきにも及ばない。 現時点では、賢と愚はまだ分かれていないようであっても、 後からくる人にはすでに明明白白となっているのであろう。 未来へと思いを馳せると苦しみばかりが生じる。

第 1 章:53


第1章 游の奇絶の始まり

■隆中 りゅうちゅう

りゅう び

さん こ

襄陽の西の隆 中に諸葛孔明の旧宅があった。劉 備がいわゆる「三顧の 礼」で諸葛孔明を軍師として迎えたところである。

諸葛孔明が西の蜀にきて以来、 諸葛孔明への蜀人の愛は千年変わることがない。 今朝、諸葛孔明の故郷にきて、 蜀を故郷とする私は悲しみに耐えられない。 この山がちの何の変哲もない土地から、 天子の軍団を指揮する人が出ようとは、 当時の人々は思いもしなかっただろう。 が りゅう

世に出る前の諸葛孔明を臥竜と呼んだ人がいた。 竜がわだかまっていたときには、 ここの山水も秀でて見えたのだろうか。 竜がここから去ってしまうと、 棲んでいた淵も消えてしまったのだろうか。 せめて竜が尻尾を引き摺った跡だけでも見たいとの願いは、 むなしく叶わず、はらりと涙を落した。

第 1 章:54


自由訳蘇東坡詩集抄

■新渠詩 とう

ちょう

唐州で、かつてここに用水路(新渠)を掘削して広大な農地を開拓した趙 しょう か ん

尚寛の治績を想った。

さらさらと水路を流れる水が、 やがて四方に分かれて広い沃野を満たす。 かつて民衆は、このような水路が、 まさかできるとは思っていなかった。 町の長官が大河の堤防を修復して新たな水路をつくると、 水はあたかも自ら赴くかのように、 水路の左右の田へと注がれ、 雲のように稲穂の広がる風景が生まれ、 この地の人々は初めて米の味を満喫できるようになった。 貧苦にあえいでいた周辺の民衆は、 水路が完成したと聞くと、 家族を連れて我先に開拓地へと向かった。 長官は言った。 「見よ、ここに広大な土地がある。 好きな場所をおのおの選び取るがよい。 自分で耕し、得たものは自分で食べてよい。 第 1 章:55


第1章 游の奇絶の始まり

いずれ土地は諸君らのものになる。 もといた村に帰ってこのことを吹聴し、 大勢の人々をここに連れくるがよい」 皇帝は、その長官を都に呼びもどすことなく、 七年の間、この地での仕事に専念させた。 以来、民衆はここで十分な食を得て、 立派な家をここに築き、 ここで死んで代々の子孫によって祀られるようになった。 天命に適うこの善政によって、 民衆は永く安らかに暮らしていられるのである。

■許州西湖 きょ

許州で、先の唐州の事例とは対照的な事業について詩を詠んだ。

春の雨が軽やかに降り注がれて、 からりと晴れ上がると、 許州の西湖はことのほか美しさに映える。 さざ波を立ててここに流れこんでくる水は、 古い城郭の角で、 昨夜、その響きを耳にしていたものだ。 第 1 章:56


自由訳蘇東坡詩集抄

かつてこの地の長官は春の遊びの場を作ろうと、 千人の男の腕を使って沼地をさらった。 民衆が土を掘り出して担いで運んだありさまは、 蟻の大群がうごめくかのようであったという。 いま桃の花が咲こうかという時分になっても、 寒さが残っているのが恨めしく思われるのだが、 いくつかの梅の花がまだ落ちずに品のいい姿を保っている。 いずれ春の野遊びをする人々がここに集まり、 酔って杯を持ったまま道に伏せ、 助け起こしてもまた倒れるというようなことになるのだろう。 湖のほとりに建つ楼閣は立派で美しく、 ここを穿った長官は、 そこで民衆とともに春の風光を愛でたという。 町のお歴々は長官とともに喜んだであろうが、 労働に駆り出された農民の痛みは知らずにいたのだろうか。 このあたりは七年もの間、十分な稔りがなく、 村は長く寂しげであったという。 遠く旅をしてきた私は、 湖の岸に立ってしばし思いにふけるのだった。

第 1 章:57


第1章 游の奇絶の始まり

■双鳧観 しょう

そう ふ

かん

葉県にある道教の寺院、双鳧観を訪ねての詩。ここには漢の時代に県知 お う きょう

事であったとされる王喬が祀られていた。

王喬は仙人だったという。 たまには人の世でものぞいてみようと思い立ったのか、 するにことかき役人になって、 毎月きちんと都に上って皇帝への行政報告までこなした。 皇帝は、王喬が馬に乗ってくる様子がないのを不審に思い、 王喬の現れる日に、ものかげからこっそり観察した。 け り

すると、南方から二羽の鳧が宮殿に向かって空を飛んできたかと思うと、 すぐに王喬が宮殿に姿を見せたのだった。 そこで、網を用意させ、 次に鳧が飛んできたときに、ぱっと広げさせた。 網には二つの靴がひっかかり、 それから王喬はぱったり姿を見せなくなった。 本当に仙人であるのなら、 そんなどじを踏むはずがない。 人々にあっと言わせるための洒落だったのか。 そもそも、仙人がこの世にのこのこ出てきて、 第 1 章:58


自由訳蘇東坡詩集抄

役人になるというのがおかしな話だ。 われわれは現実の世の縛りのなかでしか生きられない。 こんなふうにおちょくられたのではたまったものでない。 つまり、王喬の話はそもそもひどいいかさまで、 笑って聞き流せばよいだけなのだ。

■阮籍嘯台 蘇軾は以上の 3 首を通じて、自分がこれから官僚の一員としてどのよう に生きていくべきかを考察したのだろう。そして、いわゆる「竹林の七 げんせき

賢人」の一人、阮籍の旧跡を訪ねての詩。

阮籍は達人にして狂人だった。 世を逃れ、言葉を発しなかった。 高い志は万物の上に出て、 世俗の論に関わらなかった。 胸の内に意気が充満すると、 独り高台に登り、 身もだえし、 息とともにそれを吐き出した。 阮籍の激越な思いは、 第 1 章:59


第1章 游の奇絶の始まり

大地を揺り動かさんばかりであった。 うそぶ

酔っては昏々と眠り、醒めては嘯いた。 乱世に生きながら己を貫いたことにおいて、 阮籍に比べられる者がほかに誰かいただろうか。

■大雪独留尉氏有客入駅呼与飲至酔詰旦客南去竟不知其誰 旅の終わりに、ある旅人と出会った。

どこもかしこも雪がいっぱいに積もり、 古びた宿場はひっそりとして人影がなかった。 そこに北から一人の旅人がやってきた。 降り続く雪のために、払っても払っても追いつかないのだろう、 笠にうず高く雪を載せて、その人はやってきた。 馬から降りて、宿へと入ってきたその顔を見ると、 寒さのせいでこわばり、青を通りこして黒いくらいだった。 私は旅人を招き寄せ、 温めた酒をすぐに持ってくるよう、宿の者に言い付けた。 旅人は酒を手にしたものの、 体が凍えすぎてしまったのだろう、 飲み下すことさえなかなかできなかった。 第 1 章:60


自由訳蘇東坡詩集抄

どこの誰であると互いに言い出すこともないままに、 二人で酒を酌み交わした。 私は杯に軽く注いでちびちびやるのだが、 旅人は体が温まってくるとともに調子が出てきたのだろう、 いつしか樽をさかさまにして呑み尽すまでになった。 大雪のために宿は昼間のうちに門を閉ざし、 二人は大いに語り合って、 夜が更けるのも知らずにいた。 翌朝、ぴしりと馬に鞭を当てると、 旅人はたちまち走り去った。 とうとう最後まで二人は名乗り合うことがなかった。 (時は春の半ば、果たしてこのような大雪が降ったのだろうか。全ては幻想で、これ より役人生活に入ることで失われてしまうであろう何かを去り行く旅人に託したのだ ろうか)

■刑賞忠厚之至論 故郷を発ってから 4 カ月余り、嘉祐 5(1060)年 2 月に蘇軾は宋の都、 とうけいかいほう ふ

べんけい

東京開封府(汴京)に到着した。蘇軾と弟にとって 2 度目の都であった。 1 度目はすでに触れたように、3 年ほど前、科挙を受けるために半年余 り都に滞在した。そのときのことを見ておこう。 第 1 章:61


第1章 游の奇絶の始まり

(父の蘇洵は、38 ページで見たように、27 歳で発奮して学問に向かい、兄の蘇渙に 続こうと科挙に挑んだ。しかし、不合格となり、祖父の蘇序が亡くなった頃には科挙 への思いを絶ち、己の学術によって身を立てる決意をした。すでに 40 歳を超えてい し

せいしん

おう し ほう

た。それから 2 年ほど経った至和元(1054)年、蘇軾は 19 歳で、眉州青神県の王士方 おうふつ

しょく

の娘の王弗を妻として迎えた。同じ年に、蜀 にちょっとした騒動が持ち上がり、それ ちょうほうへい

せい と

を鎮めるために朝廷の大官である 張 方平が成都に派遣された。その翌年、蘇洵は学問 に沈潜してきた成果を幾つかの論文にまとめて張方平のもとに見せに行った。張方平 おうようしゅう

は驚き、 蘇洵を推奨する手紙を欧陽 脩 らに書くとともに、 都に行くよう蘇洵に勧めた。 蘇洵は上京するのなら、息子 2 人も連れて都で科挙を受験させようと考え、嘉祐元 ちょうあん

(1056)年春に眉山を発った。このときは北回りの陸路で、 長 安を経由して都に入 った。夏に到着してすぐに、8 ページで見た洪水に遭遇した。蘇洵が新たに書いたも のを欧陽脩のもとに持参すると、欧陽脩はそれを激賞し、幾人もの名士に蘇洵を引き 合わせるとともに、朝廷にも推薦した。蘇洵の文章は、欧陽脩がかねてから提唱して いた文学の改革にまさに一致するものだったのだ。その年の秋に、蘇軾兄弟は科挙の 一次試験に合格した)

嘉祐 2(1057)年 1 月、蘇軾兄弟は宮中で行われた二次試験に、全国か ら集まった受験生とともに挑んだ。その試験で蘇軾が書いた答案の一つ け い しょう

ちゅう こ う

がこの小論文で、 「 『刑賞 は忠 厚の至り』について論ぜよ」という課題 に応じたものだ。 「忠厚」とは真心、為政者は刑や賞を民衆に与えるとき に真心の限りを尽くさなければならないという意味のことが昔からいわ 第 1 章:62


自由訳蘇東坡詩集抄

れていて、それについて現代的意義を論じたのである。細かいところは 省いて大意を訳す。

て ん し

大昔の理想の天子は、民を深く愛し、民を切に思いやり、人を尊重することを基 本として天下を治めました。一つでも善い行いがあれば、それを賞した上で、歌っ て讃えたので、人は楽しんで善行を始め、最後までそれに努めました。逆に一つ でも悪い行いがあれば、それを罰した上で、憐れんだので、人は悪いことはやめ て、善いことをしようとしました。 このような言葉がありました。「賞を与えるべきか疑わしく思ったときには与えるのが よい。恩愛を広く民に及ぼすことができるからだ。罰を与えるのを疑わしく思ったとき ぎょう

にはやめておくのがよい。刑を慎むことができるからだ」。実際に聖天子の堯の時 こ う と う

代にこのようなことがありました。皋陶という人が死刑を行おうとして、執行を三回 申請しました。しかし堯は三回とも赦すように言いました。天下の人々は皋陶が厳 し

が く

格であるのを畏怖し、堯が寛大であるのを喜びました。また、四岳という人が、あ る犯罪人を赦して仕事に就けるようにしたらどうかと提案しました。堯はそれはでき ないと一度は言いましたけれど、その後で、試しに用いてみようと言いました。この 二つの例から、堯の心は明らかであります。 こういう言葉もありました。「罪の疑わしいときは刑は軽くせよ。功績の疑わしいとき にも賞は重くせよ。無実の者を殺してしまうよりは、罪ある者を取り逃す方がまだまし である」。すべてはこれに尽きます。賞を与えるか与えないか、与えなくてもよいとき 第 1 章:63


第1章 游の奇絶の始まり

にまで与えるのは思いやりが過ぎます。罰を与えるか与えないか、与えなくてもよ いときにまで与えるのは厳し過ぎます。思いやりが過剰であっても人として欠陥が あるとはいえません。しかし、厳し過ぎるのは残忍であって人間性を失います。 昔は賞として地位や俸禄を与えることはなく、罰として刃物を用いることはありませ んでした。地位や俸禄を与えれば、賞はそこだけにとどまって、それ以上の広がり を持たないからです。刃物を用いれば、刑はそこだけにとどまって、それ以上の広 がりを持たないからです。天下にあるありとあらゆる善を全て賞するのに、位や俸 禄はまるで足りません。天下にあるありとあらゆる悪の全てに刃物を用いたら悲惨 なことになります。昔の天子は賞も刑も疑わしいときには全てに思いやりを及ぼし、 世の人を正しい生き方へ導いたのです。ですから刑罰は厚い真心、すなわち忠 厚のこの上なきものであると言ったのです。 おうようしゅう

(このときの二次試験の実施に当たった試験委員長が他ならぬ欧陽 脩 であった。 当時 は、先の「遠景楼の記」に記されていたように、美文がきちんと書けるかどうかを重 視する傾向がなお強く残っていて、受験生は徹底してその技を鍛え、合格間違いなし と前評判の高かった美文家が幾人もいた。欧陽脩は委員長になったのを機に、美文偏 重の風潮を一掃しようと、上辺ではなく内容重視で採点すると決め、自分と価値観を ばいぎょうしん

共有する者を試験委員も集めた。その 1 人に梅 堯 臣がいた。梅堯臣は採点委員とし て蘇軾のこの論文を読むと大いに感心し、これこそ首席ではなかろうかと欧陽脩に見 そうきょう

せた。 欧陽脩もまさにその通りだと思ったのだが、 「もしかするとこれは弟子の曾 鞏 が 書いたのではなかろうか、自分の弟子を首席にしたら、身贔屓との批判を受けるかも 第 1 章:64


自由訳蘇東坡詩集抄

しれない」と迷い、最終的に 2 番目の者と順位を入れ替えた(科挙は一切の不正が入 り込まないよう入念に実施され、答案は全て係りの者が写し替え、採点者には誰が書 いたものか全く知れないようになっていた) 。発表当日、欧陽脩が驚いたことに、首席 が曾鞏で 2 番が蘇軾であった) (蘇軾のこの論文は、歴史上の事例を幾つも織り込みつつ、自分の考えをきちんと述 べていて、科挙の答案の模範のみならず、名文の代表として高く評価された。しかし ながら、ここに引かれている堯と皋陶の問答は実はどこにも基づくものがない。あか らさまにいえば蘇軾が「捏造」したのである。論文の構成と内容があまりにもみごと であったので、採点者全員が何らかの出典があるものと思い込んでしまったのだ。 「捏 造」とわかってからも、蘇軾が一生を左右する大きな試験で堂々とそのようなことを やってのけた豪胆ぶりがかえった称賛された) (科挙の二次試験に合格した兄弟は 3 月に皇帝の臨席のもとで行われた最終試験に進 み、877 人の合格者の 1 人となった。成績はあまりぱっとしないものだった。最終試 験は基本的に不合格者を出さずに、皇帝が成績の順位を決める目的で行われ、順位は 後の出世に影響した。むろん皇帝自身がいちいち採点するわけではなく、誰かが皇帝 に代わって成績順を決めるのだが、恐らくは、欧陽脩とは異なる基準で採点されたの であろう。ちなみに、試験前に前評判の高かった美文家は軒なみ二次試験で不合格と なり、それを不服とした落第生たちが欧陽脩の家を囲んで示威行動をするといった騒 ぎもあった)

第 1 章:65


第1章 游の奇絶の始まり

■上梅直講書 は ん ぶ ん せ い こ う しゅう じ ょ

晴れて科挙に合格した蘇軾は、先の「范文正公集叙」に記されていたよ うに欧陽脩を初めとして多くの著名人と会うことができた。これは梅堯 臣に差し出した文章である。

しゅう こ う た ん

私は書物を読んで、周公旦が苦しい胸の内を詩や手紙に託したところに至ると、 せい

いつも悲しく思いました。周公旦は甥の成王が位に就いて以来、誠心誠意補佐 しようと努めていましたのに、弟が間に入って、周公旦は王位を奪おうとしていると 成王の耳に吹き込んだのでした。周公旦ほどの人であっても、不遇の時があった のです。 こ う

その周公旦を誰よりも尊敬してやまなかったのが孔子で、孔子にもまた不遇のとき ちん

さ い

がありました。孔子は、陳国と蔡国の大臣に嫌われ、野において囲まれて進退に 窮しました。食糧の道は絶たれ、一行に病人も出ました。それでも、孔子はいつも し

がんかい

通りに琴を奏でて歌い、弟子の子路や顔回らと学問を論じ合っていました。 孔子は言いました。 「昔の詩に、『犀でもなく虎でもない。なのに我等は荒野を行かねばならない』と あるのは、戦に駆り出された民衆の嘆きの声だと聞いている。私もまた荒野を行く 者なのだろうか。私は間違った道にきてしまったのだろうか」 顔回は言いました。 「先生の道はとても大きいのです。ですから、天下はそれを容れることができませ 第 1 章:66


自由訳蘇東坡詩集抄

ん。容れられなくても苦しむことはないのです。容れられず、しかしその後偉大な 人物になった人だっているではありませんか」 孔子はにっこり笑い、 「顔回よ、君が財産家になったら、私は君の家の金庫番になりたいものだ」 と言いました。 孔子は、天下に容れられなくても、その弟子たちとこのような冗談を交えた問答を 楽しんでいたのです。 周公旦は実際には富貴で、孔子は貧賤でありました。孔子の貧賤に周公旦の富 貴は及ばないのではないでしょうか。周公旦は賢人でありましたけれど、その弟で さえも周公旦の心の内がわかっていませんでした。周公旦にはその富貴をともに 楽しむ相手がいませんでした。孔子には貧賤をともにする人々がたくさんいて、い ずれもが天下の賢才でした。そしてともに楽しむことができたのです。 お う よ う

私は七、八歳のころ、初めて書物を読み、いまの世には欧陽公(欧陽脩)という も う

かん

ばい

人がいて、その人なりは昔の孟子や韓愈のようであると聞きました。また、梅公 (梅堯臣)という人がいて、欧陽公と交流があり、二人の議論はどちらが上でどち らが下ということはなく、互いに磨き合っているということも聞きました。 それから成長して後に、初めて梅公の詩文を読み、その人となりを想像しました。 俗世間の楽しみから飄然と抜け出て、自ら楽しみとするものを楽しんでいるのであ ろうと思いました。 かみ

さらに成長して、美文調の文章を書くことを学び、お上の下さる禄を食もと願いまし 第 1 章:67


第1章 游の奇絶の始まり

たが、自分のことを自ら評価するに、とても官員の仲間には入れないだろうと思い ました。このたび上京して年を越えましても、いまだかつて官員の誰かの門を訪れ たことはありませんでした。春に天下の優れた人々が宮中に集まり、欧陽公と梅 公が親しく審査された試験を受けましたが、全く思いもよらず、私は第二位の成績 で合格させていただきました。ある人から伝え聞いたところでは、梅公が私の文章 を孟子のようで結構ではなかろうかと評価してくださったとか。そして、欧陽公もまた 世間の並みの人が作る文章ではないとして、私を採ってくだったとか。私を指導し てくださった方々が私を採ってくださったわけでもなく、かねて親しくしてきた方々に 採ってくださいと願ったわけでもなく、お二人が採ってくださって第二位となったので す。 その結果、先の十余年の間に、その名だけを聞いて見ることもできなかった方々 と一朝にして知り合いにもなれたのです。 さて、考えますに、人は何のわけもなく富貴になるものでもなく、何のわけもなく貧 賤になるものでもないのでありましょう。立派な賢人がいて、その仲間となるのなら ば、富貴も貧賤も関係なしに互い心と心を支え合うことができましょう。たまたま一 時の幸運によって、数十人の従者を引き連れる身となり、町の人々が見物に出 て讃嘆するようなことになったところで、賢人同士がまじわる楽しみには替えられな いのです。 孔子は不遇であり続け、亡くなる前の年に、「天を怨まない、人を咎めない」と言 いました。まことに悠然と遊ぶようにして一生を終えたのでした。 第 1 章:68


自由訳蘇東坡詩集抄

梅公のお名前は天下に知れわたっています。それでいてその位は五品でしかあり かん こ う と ん ぼ く

ません。その容色は温和で怒らず、その文章は寛厚敦朴にして怨みの言葉はあ りません。それはここに申し上げた賢人の集まりを楽しんでおられることによるのでし ょう。私もその楽しみにあずからせていただきたく願う次第です。 (周公旦は、52 ページで見た周の文王の弟で、儒学の伝統において極めて高く評価さ れてきた人物。孔子は晩年に「久しく周公旦の夢を見ない」と衰えを嘆いたほどに尊 敬してやまなかった。その周公旦を引き合いに、孔子をより高く称賛するという離れ 業をやって見せたというのが、この文章の一つの眼目である)

(梅堯臣はこのとき 56 歳で、官位はここにあるように五品であった。官位は最上位 の一品から九品まであり、五品はちょうど真ん中であるから、56 歳にして五品は遅い 出世であるのだろう。とはいえ、そもそも官員になっているのだから必ずしも不遇と はいえないのだろう。官員として日の当たる場所に立ったことはなく、下級、中級の 官僚として極めて地味な役人生活を送った。その中で、宋の時代の新しい詩を生み出 す努力を人に余り知られずに続け、後に文学の改革を唱えて華々しく登場した欧陽脩 によって偉大な先駆者として顕彰されたことで、ようやく天下にその名が知れわたっ た。科挙の二次試験の委員に招かれたのは梅堯臣にとって初めの栄誉で、そこで蘇軾 の文章に巡り合ったのだった) (自分を引き上げてくれた大先輩に何か文章を差し出すときに、どのようなことを書 くだろうかと想像すると、この蘇軾の文章がいかに非凡であるのか、幾分か知れてく るであろう。蘇軾は「よろしく御贔屓を」みたいなことは言わないし、先輩をやたら 第 1 章:69


第1章 游の奇絶の始まり

と賛美して媚びるようなこともしない)

■記先夫人不残鳥雀 科挙の最終試験の合格発表は 3 月 11 日で、故郷の眉山で朗報を待って いた母はそれから 1 カ月もしない 4 月 7 日に他界した。 し ば こう

(蘇軾の母がどのような人であったのか、それは後に司馬光が書いた墓誌銘によって し じ

つ がん

知ることができる。司馬光は巨大な歴史書『資治通鑑』を編集した人である。蘇軾の 母と交流があったわけではなく、蘇軾兄弟の依頼を受けて、提供されて資料に基づい て墓誌銘を書いた。執筆の時期は本文にあるように蘇洵の亡くなった直後である。本 てい

せい か

文にある「程夫人」が蘇軾の母。また、 「制科に第三等で合格」とあるのは次章で見る ことになる。 じ へい

ふ くん

治平三(1066)年夏,蘇府君(蘇洵)が都で亡くなったので、私が弔問に行くと、 遺族の蘇軾と蘇轍が泣きながら次のように言った。 「私達は父の棺を蜀の地に埋葬するために帰郷します。蜀人の習慣として、夫婦 は墓を一つにし、内に二つの室を設けることになっています。かつて父が母を埋 葬したとき、母の室に墓誌銘を刻みませんでした。この機会にあなたさまに託し て墓誌銘を刻みたいと思うのです」 私は固辞したのだが、ついには引き受けることになり、このように答えた。 「程夫人の德を残念ながら私は存じ上げません。どうかその概略をお教えくださ い」 第 1 章:70


自由訳蘇東坡詩集抄

よって二人の子息は程夫人の事略を私に授けてくれた。 ていぶんおう

程夫人は程文応の娘で、十八歳で蘇府君に嫁いだ。蘇府君はこのとき極めて貧乏 で、その一方で程の家は裕福だった。そこで蘇府君の家にきて程夫人がどのよう な振る舞いをするのか、一族の者はしげしげと見たのだが、程夫人には少しの落 ち度もなく妻としての仕事を立派に努め、孝恭にして謹倹であったので、誰から も賢い女性であると認められた。 ある人が程夫人に言った。 「あなたの御両親は財産が乏しいわけではないのですから、援助を求めたならば、 父母の愛で応じて下さいますでしょう。それなのに、苦しい暮らしに耐えて、ど うしてあちらにひと言もおっしゃらないのですか」 程夫人はこう答えた。 「おっしゃる通り、私から父母にお願いすれば、きっと聞いて下さらないことは ありませんでしょう。でも、もしもどなたかが、我が夫に『妻子を養うために誰 かにすがったらどうだい』と言ったりしたときに、我が夫はどのようにするでし ょうか。私は夫と同じようにするだけです」 程夫人はついに実家に援助を求めなかった。 このとき蘇府君の祖母がなお健在で、老いてますます厳格であった。家の者はそ の部屋の近くを通って、祖母の声が耳に入ると、何か叱られるのではないかと非 常に恐れた。ただ程夫人だけは祖母の気持ちに適い、祖母はにこにこと話かけた のだった。 第 1 章:71


第1章 游の奇絶の始まり

蘇府君は二十七歳になるまで勉強には見向きもしなかった。ところが、ある日の こと、興奮した様子で、程夫人に言った。 「私は我が身を顧みて、いまならまだ学ぶことができるように思う。しかし、家 業のためには働かなければならない。学べば家業は廃れる。どうしたらよいだろ うか」 程夫人は答えた。 「私はずっと申し上げたいと思っておりました。しかし、私からあなたさまを勉 強に仕向けるということではきっとよろしくないと思っておりました。あなたさ まが自分のお心から勉強されるのであれば、家業はどうぞ私にお任せください」 程夫人は自ら経営に乗り出し、数年の内に家は裕福になった。蘇府君は思い通り に学問に専念し、ついに大学者として大成した。 程夫人は読書を好み、書物の要点を把握し、息子の軾や轍が幼い頃は、程夫人は 二人を自分で教え、常にこのように言って戒めた。 「書物を読むときに、同輩のことを気にするようであってはいけません。書物を 読むとは、己をひとかどの人間にするためです」 さらに、程夫人はいつも古人の名言を引いて、二人を厳しく励ました。 「おまえたちが正しいことのために死ぬのであれば、私は少しも寂しいとは思い ません」 二人は同じ年に科挙に合格し、さらに二人は同じ年に制科にも合格した。宋朝が ご いく

始まってから、制科に第三等で合格したのは呉育と軾だけである。 第 1 章:72


自由訳蘇東坡詩集抄

轍が鋭い直言で人を驚かせるのは、程夫人の教えによるのであろう。程夫人は息 子のことをよく知っていたと言うべきである。 程夫人は家財がようやく豊かになったときに、嘆息してこう言った。 「これは福と言うべきなのでしょうか。そうではありますまい。これは我が子孫 を愚かにするものです」 財産を一族の困窮するものに分け与え、その生業を成り立たせ、結婚の仲立ちを した。地域の人が危難に遇うと財産を与えて救済した。そのために程夫人が亡く なったときには家には一年分の蓄えもなかったのである。 か ゆう

みずのとうし

かのえねずみ

程夫人は嘉祐二年四月 癸 丑に郷里で亡くなり、その年の十一月 庚 子 に墓地に ぶ ようけんくん

葬られた。享年は四十八であった。軾が朝廷に用いられたことから武陽県君の称 号を贈られた。 けいせん

程夫人は六人の子を生み、長男の景先と三人の娘は早くに亡くなった。特に三女 は程夫人によく似ていて、学問にも通じていたが、十九歳で嫁ぎ先で亡くなった。 ああ、婦人が従順でその親族を仲睦まじくさせ、家の内をきちんとさせる知恵が あれば、それで十分に賢いとされるだろう。まして、程夫人はその夫と子を発奮 させ、教え導き、三人とも学識をもって天下に重んじられるようになったのだか ら、その見識の高さはとても真似のできないものだ。古の人は、国でも家でも、 その興ると衰えるとに妻が関わらないことはないと言った。程夫人を見れば、古 の人の言うことがますます信ずべきだと知れる。 その銘に曰く。 第 1 章:73


第1章 游の奇絶の始まり

貧乏のときはその夫の名を汚さず、 裕福になってもその子孫に累を及ぼさず、 学問に努めることが一家の名を顕すことであると知っていた。 真直ぐに世に栄をなし、 夫を励まし、子を教え、 その光は大きかった。 しかし、その寿命はその徳に見合わなかった。 その余った福を子孫に施すということなのであろう。

当時、 都と眉山の間をどれくらいの時間で情報が行き来したのだろうか。 科挙は天下の一大イベントであったから、合否の結果は迅速に眉山にも 伝えられ、母は生前に 2 人の息子の同時合格を喜んだであろう。逆に母 の訃報が都に届くにはそれよりも時間がかかったであろうが、蘇軾はせ っかく欧陽脩を初めとして都の名士と知り合う機会を得ながら、都に長 く滞在することができず早々に帰郷して足掛け3 年の喪に服したのだっ た。 (蘇軾の母は嘉祐 2(1057)年 11 月に郷里の墓地に埋葬され、夫の蘇洵が次のよう な祭文を読み上げた。 よしみ

ああ、君との 好 は百年と約束していた、 その半ばで私を棄てて先に逝ってしまうとは―― 第 1 章:74


自由訳蘇東坡詩集抄

私は都に行き、遠からず帰ることになっていた、 君がこうも早くに逝ってしまうとは―― 君は去って帰らない、 私は永く哀しみ続ける、 反復して君を思うのなら、 もしや帰りくるのではなかろうかと。 人は言う、 死生の短い長いは思い通りにならない、 誰しもそれは異なることはない、と。 それはわかっていても悲しまずにはいられない、 生きてこれほどの災いはないのだから。 君には六人の子があった、 いま誰がここにいるのか。 ただ軾と轍だけだ。 ああ、君は二人を慈しみ育て、 二人はすでに成人となり、すでに結婚もした。 君は二人に学問を教え、 世に何も聞こえるところがないままではいないのを願っていた。 昼となく夜となく、君が子等のために尽くしていたのを、 ほかでもない私は知っていた。 第 1 章:75


第1章 游の奇絶の始まり

私が子等を連れて東に旅立とうとしたとき、 門を出るのをためらわずにはいられなかった。 いま出発して、もしも思うところが叶わなかったら、 いつの時に帰ればよいのだろうかと―― 二人の息子は、私に言った。 「どうしてぐずぐずしているのですか、 後に悔やむことなどがあるでしょうか」 二人の息子は郷里を遠く離れ、寒さにも暑さにも耐え、 一つの試験に合格して宮中での試験に挑み、 堂々の文章を書いて、お歴々の方々を驚嘆させた。 二人の息子が喜んだのは、 官に就けるよりも何よりも、 自分等の文章が世に称えられたのを、 きっと母が喜ぶと思ったからだった。 二人の息子は、母が長生きすることを願っていた、 千里の彼方の故郷に帰ってみれば、 家は無人になっていた。 いくら泣いても母の姿を見ることはできないのだった。 私は、君が平生手にしていたものを見るにつけ、 しみじみと泣かずにはいられない。 第 1 章:76


自由訳蘇東坡詩集抄

ああ、私は老いて一人になった。 君が逝ってしまって、家の内の良き友がいなくなった。 終日孤独であるばかりではない、 過ちを為しても正してくれる者がいないのだ。 昔、私が若かった頃、 私は遊び呆けて勉強をしなかった。 君は何も言わなかったけれど、 心の内は穏やかではなかったのだろう。 私がいつまでたってもふらふらしているのを、 君が心底憂いているのを知り、 私は慨嘆し、ついに気持ちを入れ替えた。 そこから、今日に至った。 ああ君は死に、再び君と時を同じくすることはできない。 あんちん

さと

かりゅう

安鎮の郷、里の名は可竜、 ぶ よう

武陽県に属するところ、 州の北東の小高い丘、 そこに君の墳墓がある。 墳墓には二室を掘った、 いつしかそこで私は君と一緒になる。 骨や肉は土に帰るが、魂はそうではない。 第 1 章:77


第1章 游の奇絶の始まり

私達の旧い家は一切を改めずにおこう。 我が魂は帰るべきところに帰るであろう。 ここに「子等を連れて東に旅立とうとした」とあるのが、嘉祐元(1056)年春に蘇洵 が 2 人の息子を連れて都に上ったことを指し、 「堂々の文章」とあるのが先の小論文 である)

蘇軾自身が母をどのように見ていたのか、後年記した短文がある。題名 せん ふ じん

にある「先夫人」が母のことだ。

私が少年の頃、勉強部屋の前に竹柏や桃の木があり、その左右にたくさんの草 花があった。木にいろいろな鳥がきて巣を作っていた。 母は生き物を殺すことを嫌い、子供にも使用人にも鳥を捕まえるのを許さなかった。 何年かすると、鳥は低い枝にも巣をかけるようになり、その雛を上からのぞくことも できるようになった。 ど う

ほ う

羽根が五色に輝く桐花鳳も、毎日、四、五羽やってきて、そこらを飛び回るように なった。この鳥の羽毛は珍重され、なかなか見るのさえ難しかったのだが、我が 家では人に馴れ、恐れることはなかった。近くの人が見にきて、これは珍しいと言 い合った。 これはほかでもなく、生き物に害を加えることのない母の誠の思いが、鳥にも信用 されたからである。 第 1 章:78


自由訳蘇東坡詩集抄

土地の老人はこのように言った。 むじな

ふくろう

と び

「鳥は人から遠く離れたところに巣を作ると、その雛は蛇や鼠や狐や貍や鴟や鳶 に食べられてしまう憂いがある。だから、人が殺さないとわかれば、むしろ自ら人 に接近して、雛の危険から免れようとするのだ」 ということからすると、鳥が遠くに巣を作って人に近づこうとしないときは、人が蛇や か せい

も う

鼠よりも悪さをすると鳥が考えていることになる。「苛政は虎よりも猛なり」という孔子 の有名な言葉があるが、鳥の判断も全く同じで、思いやりのない人間のそばにい るよりは、自然の苛酷な環境下にあった方がまだよいと考えるのである。 (ここにある勉強部屋で蘇軾は喪の期間を過ごしたのだろうか。 母の喪は嘉祐4 (1059) 年 8 月に明け、蘇軾は父と弟とともに都に向かった。それが本章でここまで見てきた 旅である)

第 1 章:79


自由訳蘇東坡詩集抄

第 2 章 最初の赴任地 ――鳳翔での 3 年間

■次韻水官詩 か ゆう

そ しょく

嘉祐6(1061)年、蘇軾、26 歳。 そ じゅん

そ てつ

前の章で見たように蘇軾は、父の蘇洵、弟の蘇轍とともに前の年の 2 月 ば い ぎょう し ん

春に都に着いた。その直後の 4 月 8 日に恩人の梅堯臣が都で亡くなって いる。 兄弟は都に着くとすぐに実際の官職を授かるための審査を受けた上で、 地方の町の書記のような役をそれぞれ与えられた。しかし、それは辞退 せい か

し、特別試験の制科を受けることにした。2 人が授かった役職は科挙の お う よ う しゅう

最終試験の成績順に対応するもので、欧陽脩らはそれは 2 人の本来の才 能に見合うものではないとして、兄弟に制科の受験を勧めるとともに、 制科の実施を諸方面に働きかけた。制科は、皇帝の意思によって不定期 に行われる特別な試験で、朝廷の有力者の推薦を得て受験し、合格者す れば官界において特に優遇された。制科の実施が決まると、兄弟は家に 閉じこもって試験の準備に専念した。 その一方で、蘇洵は欧陽脩らがその能力を高く評価してくれたことで、 第 2 章:1


第2章 最初の赴任地

試験によらずに特例で官職を得ることができた。当人は、国が自分を必 要とするのなら試験を課すまでもなく用いればよいだけのことだと意気 軒昂であった。蘇洵には人を引きつける独特の魅力があったのだろう、 じょう い ん

だいがくれん

とう

えんりつほん

都にある浄因寺の大覚璉師から、唐の時代の閻立本が水官(水神)を描 いた国宝級の画がぽんとプレゼントされた。その謝礼として蘇洵は詩を 書いた。さすがに 1 篇の詩では釣り合わないと思ったのだろう、蘇軾に も同じ韻で詩を作らせて謝礼を 2 倍にした。

自然の理に通じた人は画を学ばずとも、 天性のままに絵筆を用いることができるのだろう。 泳ぎの上手な人は、水というものをよく知っているので、 初めて船を漕いでも巧みに操れるという。 閻立本は元来は儒者で、文章の妙に通じた先人を慕い、 画はたまたま戯れに始めただけだった。 好んでいつしかやめられなくなり、 筆の勢いは翻る風のようであった。 た い そ う

唐の太宗皇帝はあるとき池に舟を浮かべて遊び、 珍しい水鳥が水に戯れるのを見て、 一人に詩を作らせ、閻立本に画を作らせた。 閻立本は家に帰ると、子に向かって言った。 第 2 章:2


自由訳蘇東坡詩集抄

「私は学問をした人間でありながら、 今日は画によって天子のお召しを受けた。 おまえたちは決して私のように画を習ってはいけない」 時に太宗皇帝は四方の平定を成し遂げ、 南の国からは白い雉が、西の国からは青い蓮が献上された。 そのときのありさまを閻立本は水神の集まりになぞらえて描いた。 竜にまたがって天に昇ろうとする神が皇帝、 大亀の背に乗って左右に従うのが大臣、 熊や豹のような面々は異国からの使者だ。 唐の太宗皇帝の功績はまさしく神のようであって、 後世に並ぶ者がなかった。 その唐朝にも亡ぶときがきて、 ぬす

あまたの盗賊が国土を偸み合い、 都は三日間の猛火に包まれ、皇室の至宝は煙と消えた。 天の神には天官、地官、水官がいて、 閻立本の画は水官を描いたものであり、 しかも神のわざによるといってよいものであったから、 天もこれを焼かせてはなるまいとしたのだろう、 火より脱出させ、東に出て、いまや宋の都にきたのだった。 都の貴人はこの画をほしがり、 第 2 章:3


第2章 最初の赴任地

あの手この手で大覚璉師に話をもちかけた。 高僧は一切心を動かすことなく、 我が父が頂戴することになった。 あまたの宝物を積んだところで高僧のお心にかなうべくもないので、 父は一篇の詩をもって返礼とし、 画の前に清らかな紙片を置かせていただくのである。

■楽毅論 蘇軾と弟は、制科の一次審査として政策や歴史を論じた 50 篇の論文を 提出した。その中から 3 篇を訳出する。 がく き

しん

「楽毅論」は、中国古代の戦国時代(秦による全国統一前の分裂期)の えん

しょう

せい

武将楽毅を論じたもの。楽毅は小国の燕の昭王を助け、隣の大国の斉を 滅亡寸前にまで追い込む活躍をした。蘇軾の原文は種々の歴史的事実を 前提として書かれているが、ここの訳文では大意がわかるよう適宜補足 した(逆に省いたところもある) 。

お う ど う

為政者が徳をもって天下を治めるのを「王道」といい、武力をもって治めるのを「覇 ど う

道」という。「王道」を用いて「王者」になった例としては古代の三人の王が有名で あり、「王道」を用いることができなくて「覇者」になった例としては春秋時代の五人 の王が有名である。 第 2 章:4


自由訳蘇東坡詩集抄

ある人は、「王道を用いようとするならば、もしもそれが成功しなかった場合でも、一 歩下がって覇道を成し遂げることができるであろう」と論じている。本当にそうだろう か。五人の覇者がもしも三人の王者の真似をしていたなら、ただ単に大失敗する だけだったのではないだろうか。 私が考えるに、王道というものは小さく用いることはできない。大きく用いれば王者 になるが、小さく用いたならば亡ぶだけである。 じ ょ

え ん

昔、徐の国の偃王は、仁義を重んじて王道政治を志し、民衆を戦争に動員する のをためらった。そのために、敵国の侵入を防ぐことができず、結局は国を亡ぼし じょう

てしまった。宋の国の襄公も仁義を重んじて王道政治を志し、人の弱みに付け込 むのはよくないことであるとして、戦闘の好機を自ら逃し、国の命運をかけた戦争 で大敗してしまった。 二人はなぜ国を亡ぼすような失敗をしたのか。二人が実際に行ったことと、二人 が求めたものとがかけ離れていたからである。二人は王者であるとの評判を得た くて、王道を矮小化して用いたのである。天下の人々の評判を気にするのではな く、徳によって天下に正しい統治を及ぼせる者だけが、真の王者となり得るのだ。 この二人とは逆に、王道などは念頭になかったけれど、剛毅にして果敢にも迷わ はんれい

えつ

こ う せ ん

ず事を成し遂げた者がいた。その一例が范蠡である。越の国の王の勾踐は艱難 ご

辛苦の末に呉王の夫差を破った。越王の軍に包囲された夫差は懸命に命乞い をし、越王は夫差を憐れに思い、赦してやろうとした。そのとき范蠡は、呉王の使 者を追い帰して軍を進め、夫差を自殺に追い込み、将来の禍根を絶ち切った。も 第 2 章:5


第2章 最初の赴任地 ちょう り ょ う

こ う せき

う一つの例が張良だ。漢の高祖は、旗色が悪くなった項籍が戦闘を止めて東に 引き上げようとしたとき、自分も戦闘を止めて西に帰ろうとした。項籍と天下を二分 することで満足しようとしたのだ。しかし、張良は「天が項籍を亡ぼそうとしているの です。いま急襲し、それを逃してはなりません」と言って高祖に戦わせ、ついには 項籍を撃ち取って天下を統一した。 この二人は、ちまちまとちっぽけな仁義を守ることを、大きな成功を勝ち取ることより も優先させはしなかったのである。 楽毅はいかなる人物であったのか。戦国時代の英雄の一人ではあった。しかし、 王道が大きなものであるということを知らなかった。王道を聞きかじっただけで、自 分も使ってみようとしたがために、我が身を破綻させてしまったのだ。 楽毅は、燕の昭王が自分を全面的に信頼して用いてくれたことに応えようと、宿 敵の斉国に攻め入り、五年にわたって敵地で戦い続け、斉国の七十余りの町を けい

占領し、残る敵の拠点は二カ所だけとなった。そのとき昭王が死に、息子の恵王 が立つと、斉国の間者は「楽毅がたった二つの町をぐずぐずいつまでも征服しな いでいるのは、斉の地で独立して王になる機会を伺っているからだ」との偽の情 報を燕の国に流した。もともと楽毅の存在を煙たく思っていた恵王とその取り巻き 連中は、別の将軍を派遣し、楽毅を本国に召還しようとした。楽毅は帰国すれば 殺されてしまうかも知れないと恐れ、隣の国に亡命した。楽毅がいなくなると、斉 国はたちまち息を吹き返し、占領されていた土地をことごとく取り返し、昭王と楽毅 の努力は虚しく消えてしまった。 第 2 章:6


自由訳蘇東坡詩集抄

このことから、燕の恵王が愚かで、間者の言うことを信じたために、楽毅の事業は 不幸にも成就しなかった、楽毅自身の軍事的失敗ではないと、多くの人は論じて いる。 私はそのようには考えない。もしも昭王が死ななくて、偽の情報を間者が放っても 無効であったとしても、楽毅はきっと失敗したに違いない。どうしてそのように考える のか。 そ

し ん

第一に、燕国が斉国を併合することは、当時、秦国、楚国、晋国などの列強に とって利益にならなかった。燕国は百万と号する軍団を外に出して、残る二つの 町を攻めて、数年かかって決着がつかずにいた。大軍が長く外に出ていれば、 国は疲弊し、必ず事を為そうとする者が内に出てくるものだ。国の内側が乱れ、そ こを外から攻めたならば、いかなる名将であっても防げるものではない。 第二に、楽毅はわずか二つの町を、百倍の兵力で攻めて、数年がかりでも勝て ずにいたのは、その智力が不足していたからではない。楽毅は聞きかじりの王道 を用い、仁義の心で斉国の民衆を己に靡かせようとしたからである。一気に攻め て斉国の民衆の怨みを買うことになるのを避け、王道を用いたとの評判を立たせ たいものだと思っているうちに、長い時間を使ってしまったのである。 びん

楽毅のその考えには根拠がなかったわけではない。斉国の民衆は、斉の湣王の 横暴に苦しんでいたのだから、もしも楽毅が一度戦闘を止め、法令を整え、税金 を安くし、斉の民衆を村落に帰還させて、安定した暮らしを保障したならば、一体 誰が斉国ために立ち上がって戦おうなどと思ったりしただろうか。それこそが王道と 第 2 章:7


第2章 最初の赴任地

いうものではなかろうか。 しかるに、楽毅は百万の軍団を率いたまま、斉の民衆が心服するのを待ったのだ。 はかりごと

これは、斉国にじっくりと国土回復の 謀 を為させるための時間を与えただけであっ たのである。 この当時は戦国の世であった。軍事的に強いところが弱いところを併呑すること が普通に行われていた。楽毅が斉を攻めて滅したところで、誰も非難できなかっ たし、楽毅が王道を真似てみせたところで、それを褒める者は誰もいなかった。 つまり、王道を大きく用いる者は王者になるが、王道の何たるかを心得ずに形ば かり用いたのでは、失敗しても覇者になるということではなくて、結局のところ王者 にも覇者にもなれず、ただ天下の笑いものとなってしまうのである。 (この論文には蘇軾の史論の特徴がよく出ている。 「王道政治」という(儒学が基本的 素養として行き渡っていた社会では)極めて重要な理念をベースにして、一般的に流 布している見方に対して異論を唱えている(独自の見解を提示できないのなら書く意 味がない) 。最初に基本原理を置いて立論するというスタイルを(父の蘇洵から受け継 いで)とっているのである)

■留侯論 りゅう こ う

ちょうりょう

次は留侯を論じたもの。留侯は上の「楽毅論」で触れられていた張 良で りゅう ほ う

ある。張良は劉邦(漢の高祖)を助けて天下統一を成し遂げ、留の領地 を授かったので留侯と呼ばれる。 第 2 章:8


自由訳蘇東坡詩集抄

いにしえ

ひ と

こころ ね

せつ

古 の豪傑とされるような士は、必ず人よりも勝れて堅い心根、すなわち「節」を備 えていた。 こころ

ひ っ ぷ

人の情として我慢できないものがある。並みの人間、「匹夫」は恥辱を加えられた ゆ う

なら、剣を抜いて起ち、身を奮って闘うだろう。これは「勇」というほどのものではな た い ゆ う

い。天下には「大勇」というべきものがある。突然目の前で事が起こっても驚かず、 理由なく恥辱を加えられても、大勇のある者は怒らない。心の内に抱くものがはな はだ大きく、志すところがはなはだ遠大であるからだ。 張良は橋の上にいた老人と出会い、いろいろと振り回された末に軍書を授けら し ん

れたという。それは非常に怪しいことのようではあるけれども、秦の世に隠れた君 子がいて張良を試してみたということがなかったとはいえないだろう。老人が何を いにしえ

考えていたのか、微かに見えるところから推測するに、古 の聖賢が世の人々を 戒めたのと同じ意味のことがその根本にあったのだろう。世間の人々はそういうこ とをきちんと考察しないで、軍書はまがいものだったと決めつけるのは誤りである。 そして、本当に大切なのはその書物ではなかった。 かん

戦国時代の終わりに張良の母国の韓が亡ばされ、秦がますます盛んになったと ひ と

きに、秦は首を切る刀と煮殺す釜を使って天下の士を意のままに動かそうとした。 そのため罪なく殺された者は数えきれないほどであった。秦は法をはなはだ過酷に 用いたので、その鋒先は触れることもできないし、その勢いは逃れようがなく、どれ ほどの勇者であっても手も足も出なかった。 第 2 章:9


第2章 最初の赴任地

このとき張良は怒りに耐えられず、我が力でもって一発ぶちかまして、思いを晴ら し

こ う てい

そうと、始皇帝を暗殺しようとした。そのときに張良は紙一重のところ死なないです んだのだが、非常に危うかったのである。 大金持ちの子は盜賊によって殺されることはない。なぜなら、金などよりもその身 が大切であって、盜賊のために死ぬなどありえないのを知っているからだ。張良 おお

はかりごと

は世を蓋うばかりの才能をもっているのに、古の名宰相のような 謀 を用いるよりも 前に、単なる刺客となって死んでしまわなかったのはまことに僥倖であった。それ こそが、橋の上の老人が張良のことを深く惜しんだ理由である。老人は尊大かつ だい

傲慢に振る舞って張良の意気を挫き、よく忍ぶことができるのをみた後に、大事を 成し遂げられると見なした。それで老人は張良に「こやつ、教えがいがある」と言っ たのだ。 そ

そ う

てい

あるじ

その昔、楚の荘王は鄭の国と戦って破った。鄭の主は荘王の前に完全服従の 姿で現れ、我が身と国を荘王に委ねた。荘王は言った。「人に対してこれほどへ り下ることができるのだから、きっとその民に信頼されてよく治めることであろう」。荘 えつ

かいけい

王は鄭の主を今まで通りに許した。その昔、越の国の王は会稽で呉の国の王に 敗れた。それから三年の間、倦むことなく呉の王に徹頭徹尾仕え、報復の機会 がくるのを待った。 相手に報いてやろうとの志があって、しかし相手に下ることができないのは匹夫の 強がりでしかない。だから、かの橋の上の老人は、張良には才能が十分にありな がらも、その度量が不足しているのを憂い、その若さ故の強く鋭い気分を挫いて、 第 2 章:10


自由訳蘇東坡詩集抄

小さな怒りを耐え忍んで大きな謀をさせるよう導いたのである。 張良と老人は平生から馴染みだったのではない。偶然出会い、老人は張良を 下僕のようにこきつかい、それでも張良が平然としていたのは、後に秦の皇帝も そ

こ う せき

張良を驚かすことができず、楚の項籍も張良を怒らせることができなかったおおも とがそこにあったからである。 漢の高祖と楚の項籍が天下を争って、最終的に高祖が勝利して項籍が敗れた。 その理由は、耐え忍ぶか耐え忍ばないかの違いだけだった。項籍は忍ぶことが できなかったので、即座に戦い、百戦して百勝し、軽々しくその鋒先を用いた。高 祖は忍ぶことができ、その鋒先を大切に養い、項籍が疲れるのを待った。これは かん し ん

張良が教えたのだ。高祖と行動をともにしていた韓信が自立して王になろうとした とき、高祖は怒りを発して、そのことが言動に現われ出た。これを見れば、高祖に は剛強で忍ぶことのできない気分があったことがわかる。そのときに張良がいな かったならば、高祖は韓信と無用な戦いを起こしてしまって、最終的な成功に果 たして到ることができただろうか。 し

せん

司馬遷は張良の事跡を史書に著し、張良のしたことは驚くばかりに偉大であった けれども、その顔や身のこなしは婦人のようであったと伝えられていて、姿と志気 が一致しないのは奇妙であると考えた。しかし、これこそがまさに張良が張良であ った所以であるのだろう。 (蘇軾は文治主義の人で、勇猛な楽毅を低く、婦人のような張良を高く評価したので ある) 第 2 章:11


第2章 最初の赴任地

■教戦守策 これは政策を論じたものの 1 篇で、平和を維持するには民衆に軍事訓練 を施して自衛能力を高める必要があると主張している。

現在の民衆の患いはどこにあるのか。安きを知って危きを知らず、安逸に走って 労苦に耐えようとしないことにある。この患いはたとえ今は見えていなくても、将来 は必ずはっきりと見えるようになる。いまその対策を採らなければ、将来は救いよう がなくなってしまだろう。 へい

昔の偉大な為政者は、「兵」(武器および兵士)をなくすことはできないと考えてい いくさ

たし、天下が安定していても戦を忘れることはなかった。秋と冬の間に、民衆を引 き連れて猟を行い、そこで武を指導し、進み方、退き方、留まり方の作法を教え、 鐘や太鼓や旗による合図を習わせて乱れずに行動できるようにした。そのようにし て、いざ切ったはったの事態になっても民衆が怖がらないようにしたので、盜賊が 異変を起こしても民衆が驚いて大混乱に陥るようなことはなかった。 ところが、後の世においては、学者が机上の空論を展開し、兵をなくすことをもって かぶと

王者の最も優れた行為であるとした。天下が定まると、甲を仕舞い込み、数十年 もするうちに軍を用いることはすっかり廃れ、民衆は日に日に逸楽に流れてしまっ た。そこに突如として盜賊が現れ出ると、民衆は恐れ慄き、流言に驚き、戦わず に逃げ去ったのだった。 第 2 章:12


自由訳蘇東坡詩集抄 と う

げん そ う

実際に、唐の玄宗皇帝の治世の後半には、天下は大いに治まっていたのでは たけ

なかったか。民衆は太平の楽しみにふけり、遊戯や酒食の中で過ごし、剛き心も 勇気もすっかり鈍って消え去り、腰抜けとなってまったく奮わなくなっていた。だから、 あん ろ く ざん

安禄山なるつまらない男がひとたび出ると、その世情に乗じて増長し、四方の民 衆はただ走って逃げるか、急いで囚われの身になるしかなかった。これより天下は 分裂し、唐の皇室は衰微してしまった。 このことについて少し論じてみたい。天下の勢いは譬えれば人の身体のようなもの である。王公、貴人は、自身の身体を養うこと至れり尽くせりであろう。それなのに 普段から病が多いことに苦しんでいる。農民や身分の低い者は一年中辛苦して ばかりいるのに、かえって病気にはならない。風雨、霜露、寒暑の変化は病が生 じるもとである。農民や身分の低い者は盛夏にも力を込めて作業し、冬にも身を 寒さに曝し、その筋肉や骨はいつも衝撃にさらされ、その肌はいつも寒さ暑さに侵 されているので、霜露にも風雨にも慣れて、寒暑の変化も身体に毒となることは ない。王公、貴人は大層な屋敷に住み、外に出るときは駕籠に乗り、風が吹け ば皮の上着を着て、雨が降れば傘で蓋って、患いを慮っての道具の備えが十分 でないことはない。患いをひどく畏れ、それに備えることがはなはだ過剰であるか ら、少しでも意のままにならないところがあると、寒暑の変化が身体に入り込んで しまうのだ。だから、その身を本当に養う者は、上手に患いから逃れようと、身体に 労苦を味あわせ、歩行、動作においてその四体を寒暑の変化に慣れさせるので ある。それによって、身体は剛健、強力となって険しいところを渡っても損なわれる 第 2 章:13


第2章 最初の赴任地

ことがないようになるのである。民衆もまた同じである。 今、天下は久しく泰平で、民衆は驕って怠惰となり脆く弱々しく、婦人や子供が家 から出ずに籠っているのにも似ている。だから戦闘について論じたりするだけで首 し

たい ふ

を縮めて震え、盜賊の名が出ただけで耳を覆って聞くまいとする。そして士大夫も 用兵について言おうとしない。用兵について言えばそれが民を乱し、次第に乱れ が大きくなってしまうと考えている。それはあたかも畏れることがはなはだしくて、養う ことが過剰であるのと同じではなかろうか。 そもそも天下にはいつでも意外な患いがある。愚者は四方に事がないのを見ると、 変事などもうありはしないと思い込んでしまう。しかも、いまは四方に事がないわけ りょう

ではない。我が国の北には遼国、西には夏国があって、この二国に対して我が さ い へい

国は毎年百万をもって数える歳幣(平和を維持するための経済支援)を贈ってい る。二国に奉仕する我が国の財力は有限であり、それを求める二国は満足するこ とが決してないのだから、その勢いの延長上には必ずや戦が生じるに違いない。 戦が必然の勢いであるときに、我が方が先んじなければ、彼の方が先んじるであ ろう。それは西から出なければ、北から出るであろう。予測できないのは、遅いか 早いか、遠いところからか近いところからかであって、いずれにしても免れることは 決してないのである。 兵を用いることがどうしても免れられないときに、徐々に用いられるようにしておか ないで、民衆を安楽無事の中に置いたままにして、ひとたび事が起こってから、 初めて民衆を危うい場に行かせようとしたならば、その患いはきっと予測できない 第 2 章:14


自由訳蘇東坡詩集抄 わたくし

ことになってしまうであろう。だから臣は、最初に、安きを知って危きを知らず、安逸 に走って労苦に耐えようとしないと指摘したのである。これこそが天下の最も大きな わたくし

患いであると臣は考えるのである。 わたくし

臣はこのように提案したい。士大夫には武勇を尊尚させ、兵法を講習させる。庶 民でお上の仕事に就いている者には行陣の決まりを教える。盗賊を取り締まる役 を担う者には剣や鉾の術を授ける。一年の終わりには人々を役場に集めて、古の 武芸試験のように、勝負をさせ、勝ち負けによって賞罰を与える。このようにするこ とが久しくなるならば、民衆は軍法によって事に従うようになるだろう。 しかし、議論を建てる者は、故なく民を動かし、軍法で脅かすと、民衆は安らかで わたくし

なくなってしまうと言うであろう。臣はそうでなく、このようにすることこそが民衆を安ん ずるものであると考える。天下は兵を去ることはできない。何か事があったときには、 用兵について何も教えていない民衆を駆り立てて一体どうやって戦おうとするの か。故なく民衆を動かして小さな怨みを引き起こすかも知れないことと、備えをしな いこととの一体どちらが危ういのか。 いま兵士として集められている者は、傲慢にも驕り、しかも国家に怨みを抱く者が 多くいて、民衆を圧迫し、国に不法な要求さえしている。なぜそのようになっている のか。その連中は、天下の内で戦を知るのは我等だけだと考えているからだ。もし、 民衆に兵を習わせたならば、このような連中も対抗する者がいると知って、その驕 った気分が挫かれて悪だくみをしなくなるだろう。 利害の判断ははなはだ明確なのではなかろうか。 第 2 章:15


第2章 最初の赴任地 せんおう

(幾つか補足する。 (1) 「昔の偉大な為政者」と訳した原文は「先王」である。 「先王」 か

いん

しゅう

は儒学の重要な概念の一つである。遠い昔の夏、殷、周 の三代の世に天下が最もよく 治まった時期があり、そのころと同様の世の中を実現(再現)することが儒学を学ん だ者の使命であるとされた。 三代の世に理想の治世を現出した偉大な為政者を 「先王」 ぎょう

しゅん

とう

あるいは「三代の王」といい、具体的には、夏の時代の 堯 や 舜 、殷の時代の湯王、 ぶん

しゅうこうたん

周の時代の文王、武王、 周 公旦を指す。 「先王」の統治にどれだけ近づけるかで政策 の優劣を論じるのが、儒学者が議論を展開するときの基本パターンとされ、蘇軾のこ の論文もそれに則っている。ただし「先王」がいかなる統治をしたのか明確な記録が 残っているわけではないので、 (それらしいこと言いさえすれば)かなり自由な立論が あんろくざん

可能であった。 (2)宋の人々にとって、唐の世を揺るがした安禄山の乱は常に回顧し なければならない歴史的大事件であった。とりわけ蘇軾が生きた時代は宋の極盛期に し たい ふ

当たり、唐の玄宗皇帝の時代とまさに対比された。 (3)士大夫とは、宋代においては ずい

科挙に合格して官僚になった者(およびそれに準じる者)を指す。科挙は隋の時代に 始まり、唐の時代にはかなりの数の科挙の合格者が官僚として採用されたが、社会の 上層部はなお貴族によって占められ、科挙の合格者はそれを補完する存在でしかなか った。宋に入ると、貴族は消え去り、家柄によらず科挙に合格した者が宰相にも昇れ るようになった。はっきりと実力社会に変化し、科挙の合格者(すなわち士大夫)に は己の能力を最大限発揮して国のために尽くしたいとの高い志を持つ者が多くいた (もちろん蘇軾もその 1 人) 。 (4)宋の統治機構は、その根幹を士大夫が占め、従っ て文官優位で武官は軽んじられた。宋は東アジアの超大国であっても軍事的実力はは 第 2 章:16


自由訳蘇東坡詩集抄 りょう

なはだ心もとなく、北の 遼 国と西の夏国からの圧迫に常時苦しめられた。遼国に対し て、宋は建国以来連戦連敗で、蘇軾が生まれる 30 年ほど前に、かろうじて得られた 勝利を機に、遼国との間に平和条約を結んだ。それは、宋は遼に対して兄であるとい さいへい

う名目を取り、その代わりに宋は遼に毎年絹 20 万疋、銀 10 万両を歳幣として送ると いうものだった。金で平和を贖ったと評判はあまり芳しくなく、遼は何かと歳幣の引 き上げを要求してきたのだが、平和が維持されたことは宋、遼両国にとって歳幣の額 以上の経済効果をもたらした。一方、西の夏国は小さな国であったが、宋が弱体であ るのを見て、国を傾けて無謀な戦争を仕掛けてきた。第 1 章の最初に見た退役軍人の かくりん

郭綸が戦ったのは夏国との戦闘であった。宋はかろうじて夏国の侵攻を食い止め、例 によって歳幣で平和を実現しようとしたが、夏国はたえず不穏な動きを見せ、宋は国 境に常に大軍を配備しておかなければならなくなった。それは宋にとって歳幣どころ ではない財政負担となった。 (5)武官が文官の下に置かれたことから、軍の志気は低 すい こ でん

く、軍律は緩く、国や民に対して害をなす兵士が少なからずいた。後に『水滸伝』の そうこう

主人公となった宋江が反乱を起こしたのは蘇軾の死から 20 年後であったが、民衆は 宋江の反乱軍よりも正規軍の方をより恐れた。 (6)蘇軾がここで主張した民衆に軍事 おうあん

訓練を施して国防と治安に当たらせるという考えは共有する者が多くいた。後に王安 せき

ほ こう

石が主導する国政の大改革で「保甲法」として実施されるようになる。 (7)蘇軾が自 分のことを「臣」と称しているのは、この論文が制科に応じて皇帝に提出したものだ からだ。科挙も制科も最終的に合格を決めるのは皇帝である。蘇軾にしても唐やそれ 以前の時代であれば、官僚になれる可能性は極めて低かったので、科挙に合格させて 第 2 章:17


第2章 最初の赴任地

くれた皇帝に強い感謝の念を抱いた。そのことから宋代の士大夫のほとんどが驚くば かりの忠誠心の持ち主であった。 (7)先の「留侯論」で大きなことをするには忍耐が 肝要であると蘇軾は説いた。この「教戦守策」を書いたころの蘇軾は、 (父の影響を受 けて)遼国や夏国に対して強硬な姿勢で向き合うべきだと考えていたようだが、後に 戦争は極力回避すべきだと主張し、 「留侯論」と整合性が取れるようになる)

■辛丑十一月十九日既与子由別於鄭州西門之外馬上賦詩一篇寄之 蘇軾と弟は 50 篇の論文による一次審査を通り、二次審査(出題された 六つのテーマに対して論文を書いた)も通って、皇帝自身が出題する課 題に論文で答える最終審査へと進み、3 人の合格者の中に 2 人揃って入 った。蘇軾は 3 等、弟は 4 等との評価を受けた。5 段階中の評価であり ながら慣例として 1 等、2 等は付けないので、呉育実質的に 3 等が最高 の成績であった。宋代を通して 3 等で制科を合格したのは蘇軾を含めて 4 人しかいない (母の墓誌銘には呉育に次いで 2 人目と記されていた (第 1 章 72 ページ) ) 。こうして、蘇軾は国からエリート中のエリートである と認定されたのだ。 (制科に合格した頃の気分を、後にある人に宛てた手紙の中で蘇軾は次のように記し ている。やや誇張はあるものの、意気盛んであったことは確かであろう。 ……私は少年のとき、書物を読み文章を作るのは専ら科挙に応じるためであった。すでに科挙 に合格すると、地位を貪り、より高位を求めるようになり、次に制科を受験するよう勧められた。当 第 2 章:18


自由訳蘇東坡詩集抄 ちょく げ ん き ょ く か ん

時の自分に果たしてどれだけのものがあったのだろうか。そのときの制科は「直言極諌」という名 目であったので、ならばそれにふさわしい論文を書こうと意気込み、古今の歴史をみわたして論を 組み立て、是か非かを検討して、筆を執った。人は自分が世間から認められないのを苦しむ。 私は制科にも合格したので、自分はしかるべき論を書いた上で、世間に知られたと思ってしまっ たのだった。それ以来今に至るまで人と争うようにしてたくさんのことを述べてきた。……) せん

制科に合格した蘇軾は、 先に授かって辞退した官職とは大いに異なり、 簽 し ょ ほ う しょう ふ は ん が ん じ

ほ う しょう

書鳳翔 府判官事、つまり鳳翔 府という地方の重要な行政区の知事の補 佐役を職務として与えられた。鳳翔は都から見ると遥か西にあり、蘇軾 か ゆう

は嘉祐6(1061)年 11 月に都を発った。都の門の外で弟と別れ、馬上で この詩を詠み、弟に送った。弟は独り身の父の世話をするために官職に は就かずに都に残った。 (弟の蘇轍が制科の試験で書いた論文の中に現在の政治を謗る文言があるとして、朝 廷のとある高官が立腹して蘇轍を官職に就けることに疑義をはしはさみ、そうなら任 官などするものかと蘇轍が拒絶したともいわれる) 。 あざな

し ゆう

蘇軾は詩題において弟をいうときにはその字の子由を用いている(ちな し せん

みに蘇軾の字は子瞻である) 。

酒に酔ったかのような、 ゆらゆらするこの感覚。 僕の心はふわふわと抜けて、 第 2 章:19


第2章 最初の赴任地

君の馬に追いすがろうとする。 君と一緒に父上のもとへと戻って行けない僕は、 置きどころを失ったこの心を、 誰と慰め合ったらよいのだろうか。 酔いの醒めぬままに坂を登り、 とうとうここで振り返る。 波打つ丘が広がる。 際立って背の高い君のことだから、 黒い帽子が丘の高低の間に上下するのが見えるのではなかろうか。 寒さが身に染みるようになったこの時季に、 薄い衣でやせ馬にまたがる君の姿を、 僕はいつまでも探し求める。 同道する者が言う。 「道を行く人々は誰もが楽しげに歌い、 家の内にいる人々は誰もが楽しげに話しているではありませんか。 どうして若旦那だけが苦しげなのですか」 僕は酔いから引っ張り出され、 「人生に別れは必然だ。 ただそれだけのことなのだよ」 悲しみは僕だけにあるのではなく、 第 2 章:20


自由訳蘇東坡詩集抄

楽しみはほかの人々だけにあるのではない。 すぐにもう一つの必然を僕は思う。 歳月とはたちまち去ってしまうものだ。 君と二人、 夜の雨をしみじみ耳にしながら、 ともしび

灯のもとで今を昔と語り合うようなときが、 必ずあると、思ってよいのかい……。 このことをわかってくれているのならば、 君も高位高官に昇ろうとは決して強く望んだりはしないはずだ。 とう

い おうぶつ

(兄弟が受験勉強をしていたときに、弟は唐の韋応物の詩を示して、 「試験が終われば きっと別々の任地に赴かなくてはならなくなるわけですが、必ずまたこの詩にあるよ うに『夜の雨をしみじみ耳にしながら語り合う』ことをしましょう」と言った。以来、 や う たいしょう

ベッド

兄弟は離れ離れになるたびに「夜雨対 牀 」 (雨の夜に 牀 を並べて一緒に眠る)の日が またくることを待ちわびるようになった) ば せいけい

(この詩の訳の後半は「同道する者」とは馬正卿であるとの解釈に基づく。馬正卿は たいがく

都の太学で学び、科挙を目指していた。極めて個性的な学生がいるとの噂に、蘇軾は 制科の受験勉強中に会いに行った。馬正卿は何か思うところがあったのだろう、学生 の身分を捨て、鳳翔に向かう蘇軾に付いて行くことにした。蘇軾と馬正卿は同じ年齢 で、形の上では主人と従者ということになったが、友人に近い関係であったようだ)

第 2 章:21


第2章 最初の赴任地

■和子由澠池懐旧 め ん ち

鳳翔に向かう途中で澠池という町に着くと、弟からの手紙が先回りして め ん ち

むかし

おも

いた。それには「澠池の旧を懐う」と題する詩が添えられていた。その わ

詩に和して(同じ韻を用いて詩を作ること) 、弟に送った。

この世にあまねく存在する人生なるものは、 何に似ているだろうか。 大空を飛ぶ雁がふわりと降りて、 融けた雪にちょこんと付ける足跡にも似ていようか。 泥の上に爪の痕が残っても、 雁は西に飛んで行ったのやら東に飛んで行ったのやら、 見当を付けることさえできない。 あのとき澠池の寺にいた老僧は、雁が飛ぶようにこの世を去り、 真新しい墓だけが遺された。 僧坊の壁は崩れ、かつて題した詩を見ることもできない。 あのとき僕等の前にあったのは、 長く遠く遥かな道だった。 折悪しくも、乗ってきた馬に死なれ、 かろうじて貧弱な驢馬を手に入れたものの、 その嘶きはまことにわびしげに聞こえたのだった。 第 2 章:22


自由訳蘇東坡詩集抄

(詩の中で「あのとき」といっているのは、5 年前に父に連れられて都に上ったとき のこと。科挙を受験するための上京(第 1 章 62 ページ)で、科挙に合格するか否か で兄弟の未来はまるで違うものになるのだった)

■次韻和劉京兆石林亭之作石本唐苑中物散流民間劉購得之 ちょうあん

鳳翔の手前で、唐の時代の都であった長安にしばらく滞在した。制科に 兄弟揃って合格するという快挙を成し遂げた蘇軾はすでにちょっとした りゅう しょう

有名人で、知事の劉 敞 を初めとして多くの人々に歓待された。この詩 せきりんてい

は知事の庭にある石林亭で詠んだもの。そこには知事の趣味で集められ た唐代の庭石があった。

かつての都は日々に荒廃し、 往時に還ることはもはやない。 やんごとなき方々の庭に置かれていた石は散り散りになり、 人間界の塵に埋もれた。 ここに一人の好事家いて、 石の重さも道の遠さも厭わずに石林亭へと曳いてきた。 ある石は氷雪に削られた顔をしかめ、 ある石は痩せ細った肩をそびらかし、 ある石は青々と水がしたたるかのようだ。 第 2 章:23


第2章 最初の赴任地

唐の世に、奇石を好んだある人が、 石に等級を設けて刻印した。 ここにあるのはさだめし最上級のものばかりだ。 思えば、これらの石は、 ある人が失えばある人が得て、 集まっては散じ、散じては集まり、 いつまでもいつまでも循環を繰り返して、 わ

結局のところ環の外に出ることはないのだろうか。 人間界もまた変転を繰り返す。 自然の要害に守られたこの地に、 かん

漢の都も唐の都も置かれ、 王朝は隆盛を極め、そして滅び去った。 これらの石はかなり重いものがあるとはいえ、 山に比べたら羽根のような軽さだ。 転々とし続けるのもやむをえないのだろうか。 酒を酌んで石に向かって問いかけようとしたものの、 答えの出ないような問題は、 そっくり放り出すのがよいと思うのだった。

第 2 章:24


自由訳蘇東坡詩集抄

■鳳翔八観 ほうしょうはっかん

鳳翔に着任すると、すぐにその地の文物を見て歩き、 『鳳翔八観』という 8 首連作の詩を詠んだ。これは、満身の力を注いだ作品で、これによっ て詩人としての名が一躍天下に鳴り轟いた。8 首から 7 首を訳す。 (原詩は己の才を誇るかのように(恐らく当人は特に意識はしていなかったのだろう けれど、凡才にはそう見えてしまう) 、晦渋にして含意に富んだ高いレベルの語句を縦 横に駆使している。訳詩では無頓着に平易で軽々しい語句に移し替えている)

せ き こ

石鼓の歌 かのと う し

季節は冬、月は十二、年は辛丑。 政治に携わるようになったばかりの私は、鳳翔の孔子廟に詣でた。 昔から聞いていた石鼓がここにあり、 いま初めて見ると、 蛇がじぐざぐに走りまわった痕のようなものがついている。 じっと観察し、指を使って腹の上でそっくりになぞってみる。 それを読み上げようとして、 唇が貼り合わされたかのように何も言うことができない。 かん

いにしえ

唐の韓愈は 古 を好み、この石鼓を見て、自分は生まれるのが遅かったと嘆い た。 それから二百年以上も経ったいま、 第 2 章:25


第2章 最初の赴任地 へん

つくり

当てずっぽうに点や線、偏や旁を見つけようとして、 一つか二つだけなら、それかとわかるような気にもなろうか。 これまでに解読されたのは、 「ワシノ車ハツヨイゾヨ、ワシノ馬モツヨイゾヨ、 魚ハコレトソレ、柳ノ小枝デツラヌクゾ」 残りの八つか九つはとんとわからない。 太古の青銅器の破片がごろごろするなかから、 かなえ

どうにか見分けられるのは鼎の脚だけであったり、 天上界に細かに散らばる星のなかから、 どうにか見分けられるのは北斗だけであったり、 イボやらタコやらカサブタやらがぐちゃぐちゃになったなかから、 どうにか見分けられるのは肘やら膝だけであったりで、 つまりは、雲や霧の向こうに月を、 あるいは、雑草がぼうぼう生い茂る野原に一本だけの稲を、 見出そうとするようなものだ。 石鼓は百回の戦火をくぐり抜け、 かつては文字を発明した伝説の人たちと語り合いもし、 名書家とされた人たちを教え導いたりもしたのだが、 千年の間にただ一人ぼっちになって、 もはや友とする相手はいなくなってしまった。 第 2 章:26


自由訳蘇東坡詩集抄

回顧すれば、遠い昔、乱れた政治に人々はほとほと愛想をつかし、 聖王、賢臣の出現を待ち望んだときに、 しゅう

せん

天は周の宣王とその老臣を生んで、天下を立て直させた。 東方では虎のような猛将が争いを鎮め、 北方では犬のように諸民族が素直になついた。 宮殿には白い狼や白い虎が次々に献上され、 功臣が並んで参内するとたくさんの恩賞が与えられた。 勇ましく太鼓が打ち鳴らされ、将軍に耳目が集まり、 みやび

雅な音楽を奏して歌おうと思った者はいなかったのだが、 どのようなわけかは知れず、 こ う が ん

宣王を讃える「鴻雁の歌」が流れてきたのだった。 その歌が石鼓に刻まれたのだろうか。 それまではおたまじゃくしのような形をしていた文字が、 そのときに改められたのだろう。 いさお

宣王の勲は偉大であるのに、石鼓にはあえて誇るようなところがない。 ぶん

周の文王から遠くないこのころには、 奥ゆかしい真心がなお伝わっていたのだろう。 刻まれた年を示すような字を探そうとしてもないし、 まして、刻んだ人の名は記されるはずもなかった。 その後、周が衰えると、 第 2 章:27


第2章 最初の赴任地 し ん

七つの国が競い合った末に、秦が天下を手にした。 し

こ う てい

始皇帝は儒学の経典を放り投げさせ、 民衆に法律だけを学ばせ、 先祖を祀るための道具は片付けられ、 刑罰に使う鞭や手かせ、足かせの類が並べられた。 り

始皇帝を補佐したのは李斯という人物で、 始皇帝が山に登るたびに、功業を讃える文章を作って石に刻ませた。 「皇帝ハ四方ノ国々ヲ巡ッテ凶暴ナ連中ヲ滅ボシテ人民ヲ救ッタ」 そのような手放しの賛美は前にも後にもないことだった。 始皇帝によって儒家の経典は焼かれ、石鼓も砕かれそうになった。 きゅうてい

周が滅んだときに、王者の徳の象徴とされた九鼎は川に沈んだ。 始皇帝は万人を使ってそれを掘り出して自分のものにしようとした。 暴君は己の欲望を満たすために人民の力を使い尽したけれど、 神聖な九鼎は秦に汚されることはなかった。 石鼓はどこで始皇帝の横暴から逃れたのだろうか。 天が鬼神を遣わして守ったのだろうか。 世の興亡は百変し、富貴はつかの間でしかない。 物質それ自体は変化を免れ、名というものは朽ちることはない。 物の道理をよくよく考え、 人生の長さが石鼓の寿命とは比べようもないのを思って、 第 2 章:28


自由訳蘇東坡詩集抄

私は深く嘆息するのだった。 (石鼓とは、高さが 2 尺、直径が 1 尺ほどの加工された花崗岩で、鳳翔近郊の野原に 10 個ころがっているのが唐の時代の初めに発見された。表面にごく古い形態の文字が 刻まれていて、古代の文化を知る貴重な物として大切に扱われ、現在は北京の故宮博 かん ゆ

物院に第一級の文化遺産として保管されている。この石鼓に関しては唐の時代に韓愈 が詠んだ「石鼓の歌」があり、その著名な作品に 26 歳の蘇軾が果敢にも挑んだので ある)

お う

ど う げん

王維と呉道玄の画 呉道玄の画が鳳翔のどこにあるかと尋ねると、 ふ も ん

かいげん

普門寺と開元寺だとの答えが返ってきた。 開元寺の東塔には王維の画もあるという。 画において呉道玄と王維に優る者はいないと常々考えていた私は、 それで開元寺を訪れた。 まず呉道玄の画を見たところ、 雄々しくも奔放で、海の波が翻るかのようだった。 呉道玄が手を下すと、 筆がまだ到る前から、風雨が迫り、その勢いに万物が呑まれてしまうのだ。 呉道玄が描いたのは、 高く林が繁るなかへと朝日がさしこみ、 第 2 章:29


第2章 最初の赴任地 ね はん

釈迦がまさに涅槃に入ろうとしている場面。 菩薩たちは泣き、 衆人は手をこまねき、 千万の異界の者が悲嘆にくれている。 次に王維の画を見たところ、 その人の詩が気品ある香りをただよわせるのと同じく、 清らかで、のびやかであった。 画かれた釈迦の十人の弟子は、みな鶴のように痩せ、 そこに宿る心は火の消えた灰のように静まり返っている。 ふた群れの竹があり、 雪から現れ出たかのような根や節と、 乱れ動く無数の葉が描かれていて、 その葉のすべてに葉の本質を見てとることができる。 呉道玄の作品は絶妙で、 画に巧みであるという観点からその画を論じることができるだろう。 王維の作品は形の外から得た画で、 仙界の鳥が自由に飛びまわるかのようだ。 二人ともに神技であるのだが、 王維に関しては画を論じるのをやめて、 口を閉ざすしかない。 第 2 章:30


自由訳蘇東坡詩集抄

(呉道玄も王維も唐の時代に優れた画を描いた。この詩においては、王維の方をより 高く評価しているが、別の詩では呉道玄が唐代一であるといっている。また本章の最 えんりつほん

初に掲げた詩にあるように、閻立本も唐代の画家として著名で、呉道玄も王維もその 後輩である)

よ う けい

ゆい

ま きつ

唐の楊恵之が作った維摩詰の塑像 そ う

らい

荘子によると、子祀、子輿、子犁、子来の四人は、 む

せい

「頭が無で、背が生で、尻が死という者がいたら友だちになりたいものだ」 と、いつも笑って言い合っていた。 あるとき子輿が病気になり、子祀が見舞いに行くと、 子輿はひょろひょろと歩み出てきて、水辺に立って自分の姿を映し見た。 子輿の肩は頭のてっぺんよりも上にそびえあがり、 背中は大きく湾曲し、顎は臍の下に隠れていた。 そのありさまはかつて笑い合っていたものに近かった。 子輿は言った。 「造物者は私をどうしたいのだろうか」 子祀は言った。 「君をそんなふうにした造物者を憎んでいるのかい」 「自分の体がこれよりもっと変わったところでそれはそれまでのこと。 どうして天を憎んだりしようか」 第 2 章:31


第2章 最初の赴任地

楊恵之の維摩詰像は、 亀のごつごつとした骨格をからからに干したかのようで、 あたかも子輿を思わせる奇怪さだ。 子輿も維摩詰も、 し じ ん

つまりは道の奥深くに達した至人で、 自分の体の変化など浮き雲が移り行くのと同じと見て、 生とか死とかの境界を超えたところにいたのだろう。 世の中には、堂々した身体を備え、 病ということではないのに、 心を疲れさせてしまっている者が少なくない。 維摩詰は精神が完全な状態にあって、 千人の猛者がかかってきても笑いながら退けた。 ある人が、いかなる法をもってそうであるのかと尋ねると、 維摩詰は首を垂れたまま言葉を発しなかった。 問うた人は心の内で了解した。 そのときと変わらずに、維摩詰の像はいま言葉を発しない。 村の爺さん婆さんはこんな古びた像には目をくれず、 野鼠が髭をかじったりもする。 本来なら、この像の前で大悟するはずであるのに、 無言の師弟となろうとする者はいまいないのである。 第 2 章:32


自由訳蘇東坡詩集抄

(第 1 章 39 ページで見たように、蘇軾は少年の頃から道教の経典に馴染んでいた。 そのため、道教の哲学的道具を用いて仏教の教義に接近しようとする傾向がかなりあ り、そのことがこの詩にもよく表れている)

と う

東湖 しょくこう

私は蜀江のほとりに生まれ、 清らかな川は藍よりも青く澄んでいた。 いま塵で濁ったこの世間を走りまわって、 耐えられない思いになることもある。 き

ざん

岐山のふもとのここの風光ときたらどうだろうか。 山はあっても赤く禿げあがり、 川はあっても白いとぎ汁のようだ。 たまたま町の東に足をのばし、 ふと門をくぐってみたところ、 その先が何やら奥ゆかしい雰囲気に包まれていて、 小さな湖があった。 ここの水だけは澄んで故郷を想わせ、うっとりと夢見心地になった。 水の源は山の高いところにあり、 波を立てて走り、地をひたして走り、 東の丘にぶつかって、 第 2 章:33


第2章 最初の赴任地

ことごとくこの湖に呑み込まれるのである。 そのありさまは、青い竜が山に寝そべって、 清く甘い水を湖に吐き出していると見ることもできようか。 いずれここに蓮の花が開く季節になったら、 夕べの涼を求めて舟を出し、 ざわざわと蓮の葉を分けて湖の中心へと入ってみよう。 葉が風に翻り、遠くも近くもわからず、 世間とのつながりをすっかり忘れて、 ゆったり息つくことができようか。 たちまち晴れて、たちまち雨が降り、 水の深いところには魚や亀、 水の浅いところには巻貝や二枚貝、 それこそうようよ浮いたり沈んだり、 餌をやるまでもなく、糸を垂らすまでもなく、 すぐさま篭がいっぱいになるまで採れるであろうか。 聞くところでは、昔むかし周の世が始まったときに、 おおとり

青い鳳が岐山に棲みつき、この池に飛んできて水を飲み、 いろどり豊かな己の姿を湖面に映したという。 あ お ぎ り

鳳が好む梧桐がいまもここにあり、 よわい

樹の太さは一千年の齢があるかのようだ。 第 2 章:34


自由訳蘇東坡詩集抄

いまは鳳の姿はなく、鷹やら鶉やらを見るだけだ。 私は遅く生まれ過ぎたのか。 いにしえ

鳳について記した古 の書物は時の彼方にぼんやりとかすんでしまった。 こころ

それでも、私は古の意を好んでここに遊び、 鳳の詩を古の人のように詠んでみたいと思う。 ここ鳳翔は長安を守る三つの町の一つだった。 湖のほとりで飲んで、酔って歴史を談じてみようか。 鳳はおそらくこのところの王朝の興亡などには関心がないだろう。 もとの門にもどると、 道行く人はここで馬を止めることなくひたすら通り過ぎて行く。 どのような用事に追われて、 湖に目を向けようともしないのか。 私がいまここでこうしていられるのは、 幸いにも知事がおおらかに見ていてくださるからだ。 ならば、一日に二度ずつここにきて、 そのまま三年の任期を満たしてしまおうか。 暮れ方の鐘や太鼓の響きを聞きながら、 連日、千鳥足で町へと帰って行くのだ。 そうせん

(このときの鳳翔府の知事は宋選で、才気溢れる蘇軾を(この詩では誇張されている が)かなり厚遇した) 第 2 章:35


第2章 最初の赴任地

し ん こ う

真興寺の高閣 真興寺の高閣に登る。 遠くの山や川も、近くの町並みも、 ぼんやりとしたひとつの形に溶け込み、 上を飛ぶ鳥の声も、下を行く人の声も、 ほのかなひとつの響きに溶け込んでいる。 ここの高さはどれほどであるのか。 背を伸ばして落ちる日を見送った後で、 手を伸ばせば流れ星をすくい取れるだろうか。 この閣は誰が作ったのか。 南の山から木を切り出して、 おうげんちょう

すっかり赤禿山にしてしまったのが王彦超だ。 王彦超の往時の姿を写し取った画がこの閣にある。 黒い鉄のような顔面、 切れ上がった眼差し、 身の丈はさながらこの高閣と競うかのようであった。 昔の人は横暴をほしいままにし、 今の人を驚かせる大きな事業を成し遂げた。 この閣は昇るだけでも息が切れて苦しいのに、 第 2 章:36


自由訳蘇東坡詩集抄

建設に携わった人々の労苦はさぞや耐え難かったであろう。 さあ、この高閣を見るがよい。 作った人は果たして勇者にして英邁であったのか。 (王彦超は五代十国時代の終わりから宋の初めにかけて地方の実力者として鳳翔に君 臨した。この詩から、大規模な建築が山の自然を破壊する原因になっていると、蘇軾 は認識していたことがわかる)

てい

李茂貞の庭園 朝のうちに馬にまたがって町の北へと行く。 東に向きを転じると、 青々とした竹が高く伸び上がり、 その下に赤い門がある。 壊れかけた塀に囲まれた古い家だ。 鞭を挙げて扉を軽く叩くと、 静かな音が谷間にこだまする。 馬より降り、門から十歩ばかり進む間に、 早くも九回は目を向けて見るべきものがある。 いろいろな花が四方に咲き乱れ、 百種の鳥がさえずり合っている。 谷の水が西から引かれ、塀際を音を立てて巡り、東の林へと入って行く。 第 2 章:37


第2章 最初の赴任地

その奥に緑に包まれた窓が見える。 竹と水は清らかさを競うかのようで、 その間に一羽の鷺が立っている。 ひとかかえ百尺もあろうかという松の巨木があり、 その幹に歳久しく経た青い鱗が縮こまっている。 これほどの松はこのあたりに珍しく、 長安周辺でこれ一本であるのかもしれない。 橋を渡って流れの南に行くと、 道の左右に高い木が多くあり、 日の光が淡くさえぎられ、 り ん

凜とした空気が蓄えられている。 東の四角い池では、野生の鳥と飼われている鳥とが入り混じっている。 私は問いかける。 「この庭園は誰が築いたのですか」 り

「その昔、李将軍が世の衰えに乗じてこの地で威を張り、 民衆からさまざまな口実で税を徴収し、 課税を免れたのは、一杯の粥、一杯の汁だけで、 耕作地を取り上げてこの庭園を築いたのです。 なり わい

生業を失った人々は、 李将軍が怖くて泣くことさえできませんでした。 第 2 章:38


自由訳蘇東坡詩集抄

いまでは鳳翔に名高いこの大庭園も、 このために破滅した家は千を数えたのです。 い く さ ごろも

勇壮を誇った李将軍の戦衣にはいまでは虱がわき、 ここで飲んだ美酒はむなしく消え、 李将軍は我々からその名を呼び捨てにされ、 冷笑されるだけとなりました」 この地にきた私は、李将軍と違い、吹けば飛ぶような小役人だ。 それが李将軍の庭でぶらぶらと遊んでいられるのだから、 人生というものはどうなるかわからない。 李将軍のような力などはないこの私でも、 後世の人から笑われるという点においては、 李将軍と同じということになってしまいかねない。 ともあれ、今日のところはこの風光を楽しむのでよしとしようか。 (李茂貞は、王彦超より前に、唐の末期から五代十国時代の初めにかけて鳳翔を本拠 地とした軍閥の長であった)

ぼ く こ う

秦の穆公の墓 町の東の一角にちょっとした滝があり、 そのかたわらに千五百年前の秦の穆公のだとされる小さな墓がある。 当時はここに町はなく、 第 2 章:39


第2章 最初の赴任地

昔の人は滝を目印に墓を訪れたのだろう。 穆公が死んだ後で、特に優れた三人の重臣が殉死した。 人々は三人を失って深く悲しみ、それから国は病み疲れてしまった。 だから、穆公は後始末をきちんとしておかなかった愚かな君主だったと、 歴史家からは批判された。 だが、穆公はかつて敗軍の将を罰しなかった。 戦に敗れたのは、自分が欲深く領土の拡大を求めたからで、 将軍のせいではないとして、 その才能を惜しんで起用し続けた。 そのことを思えば、 有用な人物を冥途の旅の道連れにするようなことを、 穆公は望んだりしたのだろうか。 三人はそれぞれの気持ちから殉死したので、 誰も止められなかったのだろう。 昔々の人々は、たった一回の食事の恩でも、 意気に感じると己の身を殺すことも厭わなかった。 いまはむろんそのような人を見ない。 いま見ないから、昔もいなかったはずだと、疑ってはいけない。 遠い昔の人には会うことができない。 だから、いまの人は古の人の心が理解できない。 第 2 章:40


自由訳蘇東坡詩集抄

そのことを私はただ傷むばかりである。 (蘇軾は詩においてもしばしば史論を展開し、世の定説に異論をさしはさむのを好ん だ)

■次韻子由除日見寄 じ いん

年末に弟が送ってきた詩に次韻(同じ韻字を用いて詩を作る、和すと同 じ)した詩。

しがない役人としての仕事が僕を西へと駆り立てたとき、 君と遠く別れるのがさほどまで惜しまれたわけではなかった。 いまになって、この次に会えるのが遠いことが憂わしくてならず、 一年が終わり行くのを惜しむ心のゆとりはない。 酒を酌んで強いて楽しもうとしても、 このあたりのご馳走は羊のスープに熊の干し肉とかで、 飲んでも食べても、気分は冷や冷やとしたままだ。 子どものころの年越しがしきりに思い出される。 指折り数えると、すでにとっくの昔だ。 行ってしまったことは、放った矢と同じ、 いまさら追いかけられるものではない。 あれから得たものは、あれから失ったものを償ってくれない。 第 2 章:41


第2章 最初の赴任地

時の推移に感じ、事の変化を嘆くばかりだ。 そんなことを思っていたら、 役場の年老いた小間使いがやってきて、 「鬼やらいをやんべえよ」と言い、 かくしゃく

その矍鑠としたありさまに驚かされた。 もしかして、いまのこの愁いが鬼の仕業であるのなら、 ひとつここは小間使いを煩わして、 厄払いをしてもらうのがいいのだろう。 寒く凍てつくいまに、 梅や杏の枝を手に取ってみると、 小さな幼い芽は麦粒くらいしかなく、 花はいつ開くとも知れない。 華やかな春の到来が遅いと嘆いてはいけない。 春の次には夏がきて、幼いころは過去となって、 花の終わった後にはもはや顧みられなくなってしまうであろう。 いにしえ

人生はただ楽しむべきだと、古 の人が言った。 名声などどうでもよいではないか、とも言った。 どうして僕はこうも多くのことを感じ、 身を焦がさなければならないのか。 あぶ

油が、油であるが故に我が身を炙らなければならないのと同じなのだろうか。 第 2 章:42


自由訳蘇東坡詩集抄

君の詩がきて、 遠くから僕の心を言い当ててくれ、 胸の内をゆるやかにしてくれた。 まざまざと君の顔を見るような気がして、 すぐそこに君がきているのではないかと疑われた。 兄はちっぽけな役人になったばかりだが、 かたじけなくも知事をお手伝いする仕事をいただいている。 知事のご厚意で官舎の北側に池を掘ることになり、 川から青い水を引いてくるつもりだ。 いずれはその池に臨んで酒を飲みつつ、 ゆったりと日を送るようなこともできるであろう。 君の詩に和して詠み始めてみたけれど、 僕の詩は力が弱く、君の詩と競ったならば、 負けた罰として首をちょん切られてしまうことだろう。 君の詩は作られて十日でここに着いた。 これから一カ月に一篇の詩を寄せ合うのなら、 千里の距離など何でもなく、 なげう

憂愁を軽く擲ってくれることだろう。 (ここに宣言した通り、鳳翔と都の間で兄弟の詩が多数行き来し、後に一つの詩集と して編まれた) 第 2 章:43


第2章 最初の赴任地

■壬寅二月有詔令郡吏分往属県減決囚禁十三日受命出府至宝雞虢郿盩厔 四県既畢事因朝謁太平宮而宿於南渓渓堂遂並南山而西至楼観大秦寺延生 観仙遊潭十九日迺帰作詩五百言以記凡所経歴者寄子由 か ゆう

嘉祐7(1062)年、蘇軾、27 歳。 この詩には非常に長いタイトルが付けられている。要約すると、蘇軾は 全土に発せられた皇帝の指令を受けて、2 月 13 日に鳳翔を発ち、近隣の 4 県を巡って任務を果たし、2 月 19 日に帰った。その間に見聞したこと を 500 字の詩にして弟に送った。日付が明示されているのは、それだけ 素早く回って官僚として精力的に働いたことを強調する意があるのだろ う。若い蘇軾は、過密スケジュールの中でも見るべきものは見て長編の しょかつこうめい

詩をまとめたのだが、ここでは蜀の英雄である諸葛孔明に関連するとこ ろだけを訳す。

夕暮れの迫るころに小さな集落に着くと、 せ い び じ ょ う

あれが諸葛孔明の石鼻城だと聞かされ、 その高みへと登った。 足もとは切り立った絶壁、 その下を奔流が洗い、遠くへと走り去る。 諸葛孔明はここにまで遠征し、 第 2 章:44


自由訳蘇東坡詩集抄

二十日余り戦ったものの退却した。 いまの平和な時代にここで戦を交える国はなく、 道を行く旅人は先を急いでせわしない。 北からきた人はここで初めて険しい山に入り、 南からきた人はここでようやく山から解放される。 だいさんかん

山ははるか南の大散関へと連なり、 わが故郷への帰路がそこにある。 行こうとしても行けないのか。 行こうとしなければ行けるのか。 帰るためにはまだしばらくここに留まらなければならないのだろう。 道を下り、ぼんやりとした月が浮かぶ夕空のもと、 心に愁いを抱きつつ、ほとばしる川を渡った。 宿に着き、そして真夜中。 人々が呼ぶ声に驚いて飛び出た。 真赤に燃える火のようなものが虚空に浮かび、 どこに天があるのかわからなかった。 にわかに強い風が吹き、いつまでもおさまらなかった。 明けて、山がちの道に入ると、 水がさらさらと流れ、川辺に竹が繁り、 これまでと風光が一変した。 第 2 章:45


第2章 最初の赴任地

■鳳翔太白山祈雨祝文 鳳翔周辺では前の年から極端に雨が少なく、旱魃が危惧され、宋知事は たいはくざん

しばしば雨乞いを行った。蘇軾は先の出張中に、太白山の神はすこぶる 霊験があると聞いていたので、 自ら志願して太白山に登って雨を祈った。 これはそのときに山の神に捧げた文。

太白山の神に申し上げる。 西方の英偉の気が集まってできたのが太白山である。太白山の潤いの気が集 しゅう た ん

まってできたのが湫潭だ。湫潭の一杯の水があれば天下を潤すに足る雨になる という。ならば鳳翔の地だけなら潤すのはわけないであろう。 さかのぼること去年の春より鳳翔には雨も雪もない。民衆の生命は何にかかって いるのか。麦や稲だ。あと十日も雨がなければ今年は凶作となる。食べるものが なければ民衆は盗賊となるよりない。土地を治める知事だけがそのことを憂う役務 を負っているのではないはずだ。神は座視していてよろしいのか。 皇帝は神に礼を尽し、民衆は神を崇めてきた。それは何のためであったのか。今 日のこのようなときのためではないのか。 神もよくよく考え、皇帝の心に背かず、民衆の望みを断たぬようにすべきであろう。 (神に平身低頭して雨を乞うというものでは全くない。皇帝は天命を得て中国を統治 している。その皇帝から民衆を委ねられているのが官僚としての蘇軾の立場であるか 第 2 章:46


自由訳蘇東坡詩集抄

ら、山の神に対して正々堂々とものを言うべきなのである) (この詩で、 「気」が集まって山や池ができたといっている。 「気」は中国の自然哲学 上の重要な概念で、 「物質+エネルギー」と考えてほぼよいのだろう)

■真興寺閣祷雨、攓雲篇 蘇軾は太白山の中で雲を掴まえ、それを鳳翔の町に連れて行き、真興寺 の高閣(本章 36 ページ)で放った。そして、空に昇った雲に向かって、 知事とともに雨を祈った。すると、間もなく降り出し、雨は 3 日にわた って続いた。そのことを歌った二つの詩を合成して訳す。

物質が作用するには必ずしかるべき時がある。 知事は星を観て、この日と決めて千騎を従えて町を出た。 私はひとり山へと馬を走らせた。 山の神より一杯の水を拝借し、山中の道を取った。 すると、雲が猛然と我が前に下ってきた。 稲光が走るような、あるいは竜が飛ぶような勢いで迫ってきて、 にわかに散り散りになり、 あるものは野の上の霧となり、 あるものは林の枝にはりつく氷となり、 あるものは私の肘から腿のあたりへとやってきたので、 第 2 章:47


第2章 最初の赴任地

それをむんずとつかんで篭の内に収めた。 水と雲とを携えて帰還し、 待ち構えていた知事とともに、高閣に登って雨を祈った。 ここぞというときに、篭の封を切って雲を放った。 もくもくと暗いものが湧き立ち、 空からいましも雨が生じそうになった。 冷やかな風がたもとを吹き上げ、 山へと近づきつつあった西日がかげって光を失った。 「さあ、雲よ、天へとお帰り、 そして、雨を降らせておくれ。 どうか、我が知事がもう心を砕かずにすむように」 きっと今年の秋は豊かな稔りとなる―― 雨が落ちてきさえすれば、 民は腹いっぱい米を食べることができるのだ。

■喜雨亭記 本章 43 ページの詩にあったように、蘇軾は官舎の裏側の庭を整備し、 あずまや

池のほとりに 亭 を建てた。折しも、雨乞いの成果があって雨が降った き

う てい

ので、その亭を「喜雨亭」と名付け、そのことを記念するこの文章を記 した。 第 2 章:48


自由訳蘇東坡詩集抄

あずまや

雨を 亭 の名に入れるのは喜びを記念するためだ。 何かによる喜びがあったときに、そのことをもって物に名を付けるというのは遠い昔 からある。喜びを忘れないためだ。事例は数多く、喜びの大小はさまざまであって も、忘れないためにということは共通している。 私は鳳翔にきて年が改まってから官舎の改築を始めた。建物の北に亭を建て、 亭の南に池をうがち、水を引き、木を植え、休息の場にしようとした。 春になったばかりのころに、山の北側で空より麦が降った。占いによると、麦は雨 の降る形を示し、豊作になるということであった。ところが、それからひと月を越えて も雨がまったくなく、民衆は憂い顏になった。三月に入ってやっと一日だけ雨があ り、その九日後にもまた雨があった。これだけではとても足りないと民衆はまだまだ 心配し続けた。そして三日後にとうとう大いに雨が降り、三日間続いてから止ん だ。 役人は官舎の庭に集まって祝賀し合い、商人は市場に集まって歌い合い、農民 は畑に集まって踊り合った。これまでの憂いは楽しさに転じ、病は癒えたのだった。 そして私の亭はちょうどこのときに完成したのである。 私は亭において宴を催し、来てくれた客に向かって盃を挙げ、問いかけた。 「あれであと五日も雨がなかったらどうなったでしょうか」 「麦はまったく稔らなくなったでしょう」 「あれであと十日も雨がなかったらどうなったでしょうか」 第 2 章:49


第2章 最初の赴任地

「稲もまったく稔らなくなったでしょう」 麦も稔らず稲も稔らなければ飢饉に陥ってしまう。困窮した民衆は争いごとを頻繁 に起し、盗賊の勢いがさかんになって、私たちがこの亭に集まって楽しみをなそう としてもできることではなくなってしまう。 始めは日照りであったけれども、天はここの民を見捨てず、雨を降らせてくださり、そ して我らにこの亭での楽しみ事を与えてくださった。これらはみな天からの賜わりも のである。忘れてよいものではない。よって雨をもって亭に名を付けるのである。 そしてこのことを歌おうと思う。

た ま

天が珠を降らせてくれても、 凍える者はそれをまとうことはできず、 ぎょく

天が玉を降らせてくれても、 飢える者はそれを食べることはできない。 雨が三日も続いてくれたのは、 誰の力のおかげだったのか。 民衆は知事が祈ってくれたおかげだと言うけれど、 知事は自分ではない皇帝の徳のおかげだとおっしゃる。 ぞ う ぶつ し ゃ

皇帝は自分ではない造物者のおかげだとおっしゃる。 た い く う

造物者は自分ではない太空のおかげだとおっしゃる。 めいめい

太空とは冥冥として名付けようもないものだ。 第 2 章:50


自由訳蘇東坡詩集抄 あずまや

だが私は名を付けるという行為を 亭 にはしたのである。

■鳳鳴駅記 ふ ふう

蘇軾は公務を帯びて鳳翔周辺にしばしば出掛け、鳳翔の東の扶風県の駅 ほうめい

こ いんぶん

館(鳳鳴駅館)に幾度か泊まった。扶風県知事の胡允文に頼まれ、その 駅館について書いた。 (駅館は公の施設で、利用できるのは官人や外国からの使節、それに科挙を受けるた めに移動する受験生などで、蘇軾は 6 年前に父に連れられて受験のために上京した際 に、扶風県で駅館に泊まろうとしたことがあった。その体験から筆を起こしている)

ゆ う

私は嘉祐元(1056)年に科挙を受験するために扶風県を通過した際に、駅館の 管理人に頼んで入れてもらった。しかし、とても泊まれるような状態ではなかったの で、すぐに出て、民間の旅館を捜した。それから 5 年が経って鳳翔府に赴任し、 数日後に扶風県の駅館にまたきてみると、泊まる者のための設備が十分に整え びょう か ん

られていた。そのありさまは役所のようであり、立派な廟観のようであり、何代も続く 裕福な家のようでもあり、四方からここにくる者は我が家に帰ったように楽しく感じ、 ここから去りたくないと思うほどで、いざ出発となると、馬もぐずぐずと振り返って嘶く のである。 私は駅館の係員に、この変わりようについて尋ねると、 「今の州知事様が新しくされました。州知事様は嘉祐6(1061)年8月に初めてここ 第 2 章:51


第2章 最初の赴任地

にお越しになりますと、すぐに改修をお命じになり、木、竹、瓦、釘等が大量に集 められ、延べで三万六千人もの人間が動員されましたときには、人々は一体何 が始まったのかわかっておりませんでした。五十五日間でこのように完成したので す」 私はそのように聞いて成程と感心した。 その翌年、県知事の胡允文が駅館の前に石を据え、駅館の改修事業について 記念の文章を刻もうとし、私に書くよう依頼してきた。私はこれは書き残す意味があ ると考え、次のように記すものである。 いにしえ

古 の君子(行政官)は居るべきところを選ばず、どこであっても安らかにしていられ た。安らかであれば楽しく、楽しければ喜んで仕事ができ、仕える者も喜んで仕事 ができた。こうして天下はよく治まったのである。 後世の君子にはいつも何かしら不満なところがあり、居るべきところにも不満を抱 えている。不満があれば落ち着かないか、怠けてしまうかする。落ち着かなけれ ば仕事は乱れるし、怠ければ仕事は進まない。乱れても進まなくても天下はまとも には治まらない。こういうことが実際によくあるのだ。 いま宋知事が励み勤しんでいることは、ことごとく世の中が必要としているところの ものと合致していている。官の仕事で何をしているときにも不満なところはない。宋 知事は扶風の駅館を見て、誰もがそこで安らかにいられるよう細部に至るまで整 えた。そのようにするのは駅館に対してだけでなく、もっと小さなことであっても宋知 事は心を尽くさないということはない。 第 2 章:52


自由訳蘇東坡詩集抄

いつも肉を食べている者は野菜だけでは満足できない。いつも錦の衣を着ている 者は綿の着物では満足できない。いつも大きく費やすことばかりしている者は小さ な費えでは満足できない。これは世の中によくある困ったことである。 「楽しげでいる君子は民の父母である」 とは昔から言われること。楽しげでいることよりも貴いのは、居るところを選ばずに 安らかであることではないだろう。安らかであれば楽しく、楽しければ喜んで仕事 ができるからだ。 駅館を改修したこと自体は実は書くに足るようなことではない。駅館を改修したこと から、宋知事が居るところを選ばずに安らかであること、安らかであれば楽しく、楽 しければ喜んで仕事ができるということを、自ら実践し、鳳鳴駅館にくる誰もがその ようにできるようにしたということがわかる。このことこそがまことに書く価値があるの だ。

■壬寅重九不預会独遊普門寺僧閣有懐子由 鳳翔での初めての官僚生活は雨乞いの成功に象徴されるようにすこぶる 順調にスタートし、 「鳳鳴駅記」を見ても宋知事との関係は極めて良好で ちょうよう

あった。しかし、なぜか役所の中では孤立化し、9 月 9 日の重陽の節句 に宋知事の主催で開かれた酒宴に蘇軾だけが呼ばれなかった。蘇軾は翌 ふ もん

日、1 人で普門寺に行き、弟のことを思った。

第 2 章:53


第2章 最初の赴任地

ここには菊の花が開き、酒は美味であるけれど、 南に仰ぐ山の高みはいかにも冷え冷えとして、 そのありさまを見るにつけ、 どうして郷里に帰らずにいるのだろうかと思ってしまう。 かけ

僕の心は、南に翔る雁とともに飛び去ろうとし、 山にかかる雲は、弟を想う僕の涙を降らせようとする。 たが

昨日は重陽の宴を楽しむべき日でありながらそれに違うところがあった。 来年のこの日に健やかでいられるとしても人は必ず老いてしまう。 その昔、重陽の宴に酔い、帽子が吹き飛ばされても気がつかずにいた人がい た。 その人の振る舞いがおかしかったのではない。 それを見ていた人が問題だったのだ。 そ し

陽気に笑えばよいのに、ひそひそ謗ったのだから。 (超エリートとして鳳翔に赴任してきた蘇軾を宋知事は厚遇し、自由な振る舞いを許 していた。それを不快に感じる者が役場の中にいなかったはずがないと、容易に推測 できるであろう。初めのうち、蘇軾はそれに全く気付かなかったために、いつしか摩 擦が大きくなったのだろう)

■九月二十日微雪懐子由弟二首 秋の深まりとともに蘇軾は心身ともに不調に陥り、 しばしば弟を想った。 第 2 章:54


自由訳蘇東坡詩集抄

其の一 天は鳳翔の九月に淡い雪をもたらし、 早くもものさびしい年の暮れの心持ちにさせられる。 昼間が縮み、 きぬた

寒さに備えて砧を打つ音がせわしなく響くなか、 役目の薄い役人は、事もなく家の奥に引きこもっている。 君と別れてからの愁いは酒が消してくれているはずだった。 秋になってから櫛にはしきりと抜けた白髪が付く。 とり で

てん

コート

僕は国境の塞の外の寒さにも耐えるという貂の革の裘を買ってみた。 それをまとって、宿場ごとに用意される御用の馬を乗りついで、 西方の国に宝物を探しに行くというのは、どんなものだろうかと、 僕はいま真面目に想っているところだ。

其の二 都へと向かう船で、君と箱いっぱいの詩を作った――。 都の外で君の馬と東西に分かれたとき、涙が胸にしたたり落ちた――。 官人に採用されてから国に報いることはまだ何もできていない。 書物や剣の前で恥じ入らねばならない。 こんなことならいっそ帰郷してしまおうかと思いもする。 第 2 章:55


第2章 最初の赴任地

しかし、同僚たちの手前を畏れないわけにはいかない。 まだ秋なのに、もう年が暮れてしまうのかと驚くばかりだ。 雪景色を寺の二階から眺めようと思っても、 一緒に登ってくれる人はいない。 兄はいまこんな体たらくだ。 え き きょう

君はきっと東の窓辺に机を置いて『易経』の研究に没頭し、 馬車が止まって門を叩こうが一向に応じようともしないでいることだろう。 そ じゅん

(蘇軾の父の蘇 洵 は長年、古代の占いの本である『易経』の研究を続け、弟はそれを えきでん

手伝っていた。後に蘇軾は 2 人の研究成果を踏まえて『易伝』という書物を著した)

■病中聞子由得告不赴商州三首 しょう

蘇軾に遅れることほぼ1年で、弟の赴任先が商州に決まった。蘇轍の言 動を嫌う人が朝廷にいて、その任官を巡ってごたごたしていたのが、よ うやくおさまって辞令が出されたようだ。しかし、蘇轍はなお釈然とし ないものがあるとして、父への孝養を理由に辞退した。商州は鳳翔から 遠くなく、赴任してくれば弟と会えるかもしれないと、蘇軾は期待して いたとこの詩に詠んでいる。

其の一 病のなかで僕は、君が商州にはこないと聞いた。 第 2 章:56


自由訳蘇東坡詩集抄

君と僕が旅する雁のように翼を並べて飛ぶということはこれでなくなった。 君と別れていることに比べたら、官位の高さなど意味がない。 君のことばかりを思って、日々の時間がどうしようもなく長い。 君に暇がたくさんあるのは、書物を著すのにまことによいだろう。 僕は官職に就いてまだ何の功績もないから、みだりに故郷には帰りにくい。 世間から隠れるのに最もよい場所が故郷であるとは限らない。 いま君がいる王城の地こそがよいのかも知れない。 大海の魚のように万人がうようよしているのだから、一身を隠すのはわけもない。

其の二 し ょ う じゅん

先ごろ僕は章惇と会った。 章惇はまさに商州で官に就いていて、 商州の人々は君の赴任を待っていると言っていた。 商州というといくつか思い起こすことがある。 昔この地の帰趨を巡って王様をペテンにかけようとした策略家がいた。 君の真直ぐな言説の前では、そんな連中は赤恥じをかくだけだ。 世の乱れを避けてこの地の山に篭った人がいた。 以来ここでは俗な凡才は嫌われているということだ。 この地には独特の方言があり、余所者はやっと名前が通じるくらいだという。 余計なことは言わないですむのだからまことに結構ではないか。 第 2 章:57


第2章 最初の赴任地 こぶ

この地の人には昔から瘤が多くて首と顎の区別もつかないという。 上辺のよしあしにまどわされることがないのだからまことに結構だ。 君が試験で書いたことがお歴々に気に入られなかったのなら、 お上に願って辞退するのではなく、 商州にくることこそが君に最もふさわしいのではなかろうか。 どうねん

(この詩にある章惇は、蘇軾と同じ年の科挙で合格した。それを「同年」という。同 年は同窓生に似て、官僚人生において長く親交を結ぶことが多い。蘇軾はこの秋に公 務で長安に行って章惇と出会って意気投合し、2 人で小旅行もした。弟への手紙に生 涯の親友を得たと記した。しかし、後に章惇と蘇軾は厳しく対立する政敵となる)

其の三 官職を辞退した君の本意は誰も知らないだろうから、 役目が低いのを嫌ったと言い立てる連中が出てくるかもしれない。 そんなのはほっておいて、悠々と酒でも飲んでいればよい。 歳月は自然と流れ、髪や髭が自ずと白くなるだけだ。 君の答案が誰かの気にさわっただの、人々から嫌われただの、 そんなことは憂うに足りない。 『易経』を読めば大きな道理が知れるだろう。 僕は夢のなかで君を求めてさまよった。 互いに心を知るのは僕と君だけなのだ。 第 2 章:58


自由訳蘇東坡詩集抄

■病中大雪数日未嘗起観虢令趙薦以詩相属戯用其韻答之 11 月になってもなお病みがちで、伏せっている間に大雪が降った。たま ちょう せ ん

たま鳳翔を訪れていた趙 薦という近隣の町の知事が雪のために足止め を食らい、気晴らしに宋知事が雪見の宴を催した。趙薦はその席上から 病気見舞いの詩を蘇軾に送った。それへの返事。

これで十日も伏せって、 ひたすら薬と親しくしていたところ、 どうにもならないほどの寒さを感じた。 つむじ風が窓を鳴らし、 とばり

寝床を囲む帳が巻き上げられた。 雪が深く積もったとも知らずにいると、 なんと雪の重みで軒板が落ちたと聞かされた。 そこに西隣りから歌や音楽が流れてきた。 寒さをものともせずに、 大雪の中にも立派な道が通じて、人々が続々と集まったのだろう。 からっぽになった酒の瓶が次々に横に倒され、 人々の熱気で瓦の上の雪も融けたのではあるまいか。 私はよい酒に近づきたいと思いはしても、 第 2 章:59


第2章 最初の赴任地

雪の様子をのぞきに出る気力もない。 いつか夏の暑さのような活気を身の内に取り戻し、 我が体を働かせたいと思う。 いまは人気のない部屋でひとり憂いに沈んでいても、 いつかこちらから宴に招くようなことをしてみたいと思う。 昔むかしのこと、 も う せ ん

友を呼びたくても毛氈さえないと嘆いた人がいた。 私のところには売って酒代にするくらいの衣類ならある。 しかし、招いても喜んでもらえるとは限らない。 つらつらそのようなことを思っていると、 寒さがまた一段と厳しくなった。 これは雪が晴れ上がったためかと身を起こすと、 半分の月が西にかかっているのが見えた。 そこに貴公からの詩が届けられた。 旅人はひとり苦吟するものと決まっている。 今夜は黙々と詩を作るのがよいのだろう。 詩人は昔から不遇であるらしく、 秀句は寒さと飢えから生まれ出る。 雪はいつか消えるだろう。 私も病を脱して、昔の詩人の後を追ってみたいものだ。 第 2 章:60


自由訳蘇東坡詩集抄

(この後ぐらいから、役所の同輩との関係は少しずつ改善されて行った。それには妻 の助力が大きかったと蘇軾は後に回想している。妻の人間観察眼は鋭く、誰とどのよ うに付き合うのがよいのか具体的なアドバイスをした。若い蘇軾は、弟以外の家族に ついて詩に詠むことがなく、妻や子については知れることは少ない)

■歳晚相与饋問為饋歳酒食相邀呼為別歳至除夜達旦不眠為守歳蜀之風俗 如是余官岐下歳暮思帰而不可得故為此三詩寄子由 年末を迎えて蘇軾は望郷の念を募らせ、故郷での年越し行事を回想し、 き さい

3 篇の詩を作って弟に送った。贈り物をし合うのを「饋歳」 、酒食を用意 べっさい

しゅさい

して招き合うのを「別歳」 、夜明けまで眠らずにいるのを「守歳」といい、 それぞれについて 1 首ずつ詠んだ。

饋歳 農家は収穫を終えると、 互いに贈り物をし合って年を越す。 これを饋歳という。 あまねく皆に喜びが行き渡らないのを恐れ、 値段の高下を気にせず市で贈り物を買う。 山と川とでは産物が異なり、 巨大な鯉を板に載せて贈るかと思えば、 第 2 章:61


第2章 最初の赴任地

兎を篭に入れて贈りもする。 貧富によって多い少ないがあり、 金持ちは華美を誇って、光り輝くばかりの刺繍で飾った織物を見せびらかし、 貧乏人は恥じらいながらも、 臼を曳く賃仕事で稼いでほんのちょっとしたものを用意する。 僕は役人仕事でここにきて、 官舎にくすぶったまま歳末を過ごしている。 故郷の饋歳の風習を詩に詠んでみても、 聞いてくれる人は一人もいない。

別歳 ゆかりの人が千里の旅に出ようとするとき、 ぐずぐずと別れが惜しまれる。 人は行ってもまた帰ってくる。 歳というものは行ってしまったらもう追いかけることすらできない。 「歳よ、君はいったいどこに行ってしまうのか」 「遠く天の涯だ。 大河の水が東へと流れ去り、 海に赴いて帰ることがないのと同じだ」 酒食を用意し、帰ることのない歳と別れるのを別歳という。 第 2 章:62


自由訳蘇東坡詩集抄

東隣りでは、酒がちょうど熟したとふるまい、 西隣りでは、豚がちょうど肥えたとふるまう。 一日を大いに楽しんで、 一年が終わる悲しみを慰め合う。 今年と別れるのを嘆き過ぎないようにしよう。 新たにくる歳ともいずれは別れることになるのだから。 「歳よ、行くなら振り返らなくてよいぞ。 老いと衰えを君に持って行ってもらいたいから」

守歳 まさに終わろうとしている歳とはいかなるものか。 谷底に赴く大蛇に似ていようか。 すべての鱗が谷深くに消えようとするときに、 誰がそれを止められよう。 尾を引っ張って頑張ってみたところで、 無益と知るほかはない。 除夜に朝まで眠らずにいるのを守歳という。 子供たちも眠るまいと、 互いに見張ってやかましく夜を過ごす。 暁を告げる鶏は鳴かずにいてくれ、 第 2 章:63


第2章 最初の赴任地

時を告げる太鼓は鳴らずにいてくれと思っても、 久しく待つうちに燈火は尽き、 北斗七星は斜めに傾いてしまう。 夜が明ければ、新しい歳がこないということはない。 しかし、新しい歳がきたところで、 我が心と我が事には、恐らくはつまずきがあるだろう。 せめてこの夜の思いを尽すことに努めたい。 まだ歳の内である間なら年若いと誇れるのだから。 (秋以降、蘇軾は初めての挫折感を体験していたのだろう。 「我が心と我が事にはつま ずきがある」と、来たる年への不安を詩に詠み、それは的中することになる)

■和子由踏青 か ゆう

嘉祐8(1063)年、蘇軾 28 歳。 弟から、前掲の詩の返しとして、故郷での春の始めの行事を詠んだ詩が 二つ送られてきた。それに和してまた返した。1 首目は、草が芽生えた とうせい

野に出て遊ぶ「踏青」を詠んだ。

東からの春風に、道にわずかな塵が舞うと、 新しい年の華やかさを楽しもうとする遊び心が湧いてくる。 閑があるのなら、路傍で飲むのにちょうどよいし、 第 2 章:64


自由訳蘇東坡詩集抄

麦はまだ短いから、車輪で踏み敷いてしまっても構わない。 町にちんまり篭っているのに飽きた人たちが、 朝早くからがやがやと、 そこらじゅうをからっぽにして出かけて行く。 歌だ、太鼓だと、野山で騒げば、草も木も動こうというもの。 酒だ、料理だと、野原に散らかせば、烏も鳶もやってこようというもの。 どこの誰やらがいかめしい顔をつくり、 道をさえぎって大きな声を張り上げる。 「さあて、お立会いの皆々さま、 我こそは道を極めた達人でありまする」 ふだ

右に左にお符を振り上げ、 「これこそは養蚕によろしいもの。 かめ

繭を大きな甕のようにしますぞ。 これこそは畜産によろしいもの。 のろじか

羊を大きな麕 のようにしますぞ」 道行く人はそんな言葉を信じるわけではないけれど、 新春の縁起かつぎに買っておこうと思案する。 達人はひとわたり銭を稼ぐと、 すぐに酒を買い、酔って倒れて、こう言うのだ。 「ほうらみろ。このお符はこんなにも効き目がある」 第 2 章:65


第2章 最初の赴任地

■和子由蠶市 さ ん し

弟に返した2 首目は養蚕に必要な道具類を売る 「蠶市」 について詠んだ。

蜀の人間は、着る物、食う物のためにいつも苦労している。 蜀の人間は、遊楽に出たら帰ってくることを知らない。 蜀の人間は、千人が田畑で仕事をすれば、 蜀の人間は、万人が遊んで食っていられる。 蜀の人間は、一年中働きづめだ。 それでも、春ばかりはのんびりしていて、 養蚕市がにぎにぎしく開かれると、 いつもの辛苦を忘れて大いに楽しもうとする。 去年の霜が降ったころに刈った荻で、 蚕を飼うための簾を編んで今年の市で売る。 ひさご

つちがま

糸を繰るための瓢や土釜を作って並べておくと、 金や絹なんかよりも争って買い求められる。 君も僕も童子だった昔は、 勉強をほったらかしにして市へとすっ飛んで行ったものだ。 市の商人は巧みな知恵を働かせ、 その口数の多さに、農家の人々はたいていだまされてしまう。 第 2 章:66


自由訳蘇東坡詩集抄

君の詩がきてそのころを思い出し、 故郷を離れている悲しさよりも、 それだけの歳月が流れてしまった悲しさの方が、むしろ大きいのだと知った。

■題宝雞県斯飛閣 ほうけい

前の年のほぼ同じ時期に公務で回った宝雞県(75 ページの詩題にある) し

ひ かく

を再訪し、そこにある斯飛閣に登って詠んだ詩。

ここより西南には故郷へと帰って行ける道がある。 欄干に寄せる我が身から、 するりと魂が抜け出て、 寂しげなその道をたどって行こうとする。 我が魂が飛んで出たら、もう二度と戻ってはこないだろう。 野はあくまでも広く、天はあくまでも長い。 牛や馬は雁や鴨とともに空を飛ぶように見え、 雲の峰は樹木とともに野に生えているように見える。 山の麓は水の気配を帯び、春の風が麦の苗を揺り動かす。 農事や漁労に携わらずに、 官職を愛して軽々しく故国を去り、 老いの日々まで帰らずに過ごそうとしているのはいったい誰なのか。 第 2 章:67


第2章 最初の赴任地

■重遊終南子由以詩見寄次韻 しゅうなんざん

同じときに終南山のあたりにも行ったことを弟への手紙に書くと、それ に基づく詩を送ってきた。その詩に次韻した。

去年ここにきたとき、 柳が芽をふいて春の巡りを報じてくれた。 今日ここにくると、 柳の花は緑の苔の上に落ちていた。 川のほとりの堂に一人でまた泊まった。 重ねてここにくるまでに何があったのか。 琴を弾こうとしても、吹きくる風に音が止まってしまう。 杯を手にしても、さしくる月の光に酔いが醒めてしまう。 このようなもの憂い僕であるから、 新しい詩を求める君の期待にはしばらく応えられずにいた。 この詩はこれまでの負債を弁じてくれるだろうか。

■和子由寒食 現代の日本において春の訪れとともに人々が待ち望むは満開の桜の下で せいめい

の花見であろう。 旧い中国でそれに相当するのが春分から15 日目の清明 第 2 章:68


自由訳蘇東坡詩集抄 せつ

節で、 御馳走を持って一族総出で先祖の墓参りに出かけた。 その少し前、 かんしょく せ つ

冬至から 105 日目に寒食節があり、その前後は火を使うことが禁じられ た。弟が寒食について詠んだ詩を送ってきたのでそれに和した。

み そ か

今年の寒食は二月の晦日だった。 緑深い樹林に春の霞がまといつくようになったので、 郊外を巡るのによい駿馬を誰かが貸してくれたら、 意のままにいたるところの名園を見てまわりたいと思った。 とはいえ、何やら物憂いのはそのままで、 酒は飲むことは飲んでも、杯を重ねるほどでなく、 詩は作ることは作っても、紙に記すほどでない。 も ず

ときに、鵙の声がしたのに僕は驚かされた。 鵙という鳥は、七月に、農作業に励めよと人に鳴きかける鳥だ。 季節はずれのその声に、 故郷の川のほとりの農地が荒れ果てないよう、 いまは誰が耕しているのだろうかと、 僕の心はちくんと痛んだ。

■客位仮寐 6 月に鳳翔府の知事が交替し、蘇軾を巡る状況が一変した。前の知事の 第 2 章:69


第2章 最初の赴任地

宋選は蘇軾の才能を高く評価し、官員としての規格に収まりにくいとこ ち ん き りょう

あざな

ろがあっても穏やかに見守っていた。新たに赴任してきた陳希亮(字は こうひつ

り じん

公弼)は全く違った。陳知事は厳格無比で、下級役人(吏人)に手荒く 体罰を加え、蘇軾に対しても極めて不寛容な姿勢で臨み、事あるごとに 規則と慣習で縛り付けようとした。蘇軾は反発し、陳知事との関係は日 に日に悪化し、公務で知事と会おうとしても控室で半日待たされるよう なことはざらだった。

知事に会おうと控えで待つ。 いつまでも呼ばれない。 だからといって帰ってしまうわけにもいかないから、 枯れた切り株のようになってじっと座っていよう。 知事は私のいることなど忘れてしまっているのだろう。 だったら私も私のいることを忘れてしまうのがよい。 そうすれば本当の枯れた切り株がここにあるだけとなる。 人々はそうしたことを理解しないので、 ひげをふるわせて私のために怒ってくれもする。 し ゃ あ ん

その昔、謝安が当時権勢を振るっていた将軍に会おうとして、 半日待っても呼ばれないことがあった。 お う たん

一緒にいた王坦之がこらえられずに帰ってしまおうすると、 第 2 章:70


自由訳蘇東坡詩集抄

「ほんのひとときの辛抱と命を引き換えにする気ですか」 そう言って、その後も悠然と待ったという。 私には命の心配まではないのだから、 辛抱するまでもなくただの切り株になっていればよいのだ。 (知事の交替は蘇軾にとって短期的には大きな打撃となったが、陳知事との軋轢は蘇 軾を強くし、長く続いた心身の不調から脱却できた)

■陳公弼伝 蘇軾を目の敵にした陳希亮とはどのような人であったのか。十数年後に 蘇軾自身が書いた陳希亮の伝記をここで見ておくのがよいであろう。 (この伝記は陳希亮の事跡をかなり細かく記しているので途中を省略する。冒頭にあ び

せいしん

るよう陳希亮は蘇軾と同郷である(陳希亮の出身地である眉州青神県は蘇軾の妻の生 てい

地である。 また、 陳希亮の妻は程氏とあるが、 恐らく蘇洵の妻の程氏と同族であろう) 。 だからこそ嫌われ役となっても、蘇軾を一人前の官僚にしようと厳しく指導したので あろう)

こ う

いみな

りょう

あざな

こ う ひつ

び しゅう せい し ん

け い ちょう

こ う め い

公の諱は希亮、字は公弼、眉州青神の出身。先祖は京兆の人で、唐の広明 び

え ん ろ く

けい

け ん ちゅう

年間に初めて眉州に移った。曾祖父は延禄、祖父は瓊、父は顕忠、みな官に 仕えることはなかった。 公は幼くして父を喪い、学問を好み、十六歳のときにきちんとした師について学び 第 2 章:71


第2章 最初の赴任地

たいと考えた。公の兄は思案の末に学資として三十万銭余りを公に貸すことにし た。公は銭を受け取ると証文を焼き捨て、町を離れて師のもとに入門した。公は学 問を習得すると家に帰り、兄の子に学問を教えた。天聖八(1030)年、公は兄の さ ん しゅん ぼ う

子とともに科挙に合格した。これより町の人は公の家のある一角を三雋坊と呼ぶ す ぐ

ようになった。三人の雋れた者がここから出たからだ。 ちょう さ

かい いん こ く

公の最初の任地は長沙県だった。そこには海印国師という仏僧がいて、土地の 貴人たちと交わり、あくどいもうけをしていた。人々は海印国師を恐れ、その顔をま ともに見ることもできなかった。公は法をもってその僧を捕え、長沙県の人々は公を 畏れた。 う

次いで雩都に行くと、そこでは老練な吏人(科挙によらずに地元で採用される下 く み

級役人)が銭次第で裁判を左右していた。吏人は公がまだ若いのを見て与しや すいと思った。公はいきなりその吏人に重罪を宣告した。吏人は血が流れ出るま で額を地面に打ち付け、「必ず身を改めます」と詫びた。公は教え諭して後に釈 放した。公は町の文化水準を高めるために学校を建てた。釈放された吏人は家 財を売って学校建設のための資金を提供し、自分の子弟を入学させた。後にみ なよい吏人になり、科挙を受けた者もいた。 この地にはたくさんのまじない師がいて、春になると鬼を祭るためだと言って民衆 ひ

い ろうじん

から銭を集めていた。民間には、赤い衣を着た火の神様、「緋衣老人」がいると の言い伝えがあり、まじない師はそれをきちんと祭らないと火災がおこると脅してい た。公はその祭りを禁じたが火災はおこらなかった。公は、火の神様以外にもあや 第 2 章:72


自由訳蘇東坡詩集抄

しげな神が祀られている数百の祠を壊し、七十余人のまじない師を追放した。村 の老人は「出て行かないでくれ」とまじない師を引き止めようとした。まじない師は 泣いて「陳公がわしらを捨てるのだ。わしらがいなくなれば緋衣老人がまた出てくる だろう」と言った。 けん

公は、母が老いたので故郷の近くに帰りたいと願い出て蜀の劍州に移り、次いで 母が亡くなり、喪のために官職から去った。喪が明けると、都で職を得た。 ふ く しょう

都の福勝 塔が火事で焼け、国は再建のための費用を用意した。このとき、西方 ちょう げ ん こ う

で趙 元昊(夏国の王)が宋との間に紛争を起こしていたので、その費用は軍の 食糧にあてるべきであると公は主張し、塔の再建はとりやめになった。 せい

ちょう う

これより先、趙元昊がまだ宋と事を構える前に、青州の趙 禹は、趙元昊はきっと 反乱を起こすであろうから警戒するようにと朝廷に申し上げていた。宰相はそのよ うなでたらめを言うなと、趙禹をよその土地に追放した。趙元昊が実際に反したの で、趙禹は上京して「自分は正しいことを言った」と訴えた。宰相は怒って趙禹を 獄に下した。公は「趙禹に罪はなく、むしろ称賛すべきです」と、宰相と争った。皇 じょ

帝は公の主張を認め、趙禹は徐州に栄転となった。 ぎょ し

皇帝はそのような公を見て、官員の罪を裁く御史に抜擢しようとした。たまたま公の ちん

外戚の沈氏の子が強盗殺人の疑いで捕えられて獄中に置かれ、まだ己の罪を 認めずにいた。公はその者から直接に実情を聞こうとして獄を尋ね、第一問を発 すると、その者は恐れのあまりその場で死んでしまった。沈氏は公が息子を殺した と訴えた。公および獄の役人が取り調べの対象となった。公は「あの悪者は自分 第 2 章:73


第2章 最初の赴任地

一人が殺した」と、自ら罪を被って罷免となった。 ぼう

都の西で盗賊が村を襲って役人を殺した。盗賊の勢いはさかんで、房州が次の ふ ひつ

標的になりそうだった。富弼の推薦で公が房州知事に任命された。公が赴任す ると、房州には兵備がなく、民衆は盗賊を恐れて次々に逃げ出していた。公は役 場の雑役係や民間人や囚人から数百人を集めて日夜軍事訓練を施し、その号 令があたりに響いた。それを聞いて民衆は安堵し、盗賊も房州には近づかなかっ た。 らいこう

雷甲という者が朝廷から派遣されてその盜賊の征伐に乗り出した。しかし、雷甲 には兵士を統率する力量がなく、兵士は至るところで悪さをした。一方で、別の大 盗賊が房州に近づいてきているとの報せが公のもとに入った。公は人々を率い て、その盗賊と川をはさんで対峙した。公は「じっとしたままで動くな」と人々に命じ、 一人だけ前に進み出た。新たな盗賊とされていたいのは実は雷甲で、雷甲は目 の前の相手が盗賊であると誤認して公に向かって矢を放った。公は動かず、ほ かの人々もまったく動かなかったので、雷甲は人形ではないかと疑った。馬から 降りて様子をさぐり、ようやく公であると知った。雷甲は地に伏し、「官軍であるのを 知らなかったのです」と詫びた。人々は雷甲を切るべきだと言ったが、公は民に 対して暴虐を為した者十余人だけを捕え、その他の者は許し、「盗賊と戦って己の 罪を贖え」と雷甲を放った。 とうぐん し

さい と く ひん

ここに党軍子なる賊の勢いがさかんになった。崔徳贇がそれを捕えようとして逃が しょう

してしまった。そこで、崔徳贇は、党軍子が一度居座ったことのある向 氏という者 第 2 章:74


自由訳蘇東坡詩集抄

の屋敷を囲み、そこの父子三人を殺して、これぞまさしく党軍子であると偽って、そ の首をさらしものにした。公はまやかしであるの見抜き、崔徳贇を獄に下した。崔 徳贇は白状しなかったが、党軍子本人が別のところで捕まった。国は向氏に絹 を贈り、その冤罪を晴らし、家の名誉を回復させ、崔徳贇を流罪にした。 か

ちょう げ ん

ある者が、華州の張 元が西方の趙元昊に仕えようと逃亡したと訴え出た。張元 の一族百余人が捕えられ、房州で取り調べることになった。百余人は厳重に監 視されて房州に連れて行かれた。飢えと寒さのために途中の道でいまにも死にそ うになった。公は「張元が趙元昊のもとに走ったどうかさえまだわかっていない。も しそれが本当だとしたら、張元は家を棄てて行ったわけだから、親類一族に罪は ない」と考え、お上の意向を秘かに聞いた上で、これらの人々を釈放した。皆は 泣いて感謝し、公の画を描いて祠におさめた。いまに至っても公を祀るのを絶やさ ずにいる。 公を中央で用いようとする声が上がった。しかし、「地方での実践こそが私の願う しゅく

べん が

ところです」と言って、公は宿 州の知事になった。宿州には汴河が流れ、そこに 架かる橋が舟運の邪魔になるというので、水に生きる者と陸に生きる者との間で ひ きょう

論争が絶えなかった。そこで公は初めて飛橋 というものを造った。飛橋は高く大き な弧を描いて川をまたぎ、橋を支える柱を河中に立てることもないので、船の航行 を妨げることはなくなった。それ以来、汴河にかかる橋はみな飛橋になった。…… (中略)……

公は鳳翔府の知事となった。そのとき鳳翔府には十二年ものの穀物が貯えられ 第 2 章:75


第2章 最初の赴任地

ていた。管理する者はそれが腐敗してしまうのを悩んでいた。公が着任した年に 飢饉となり、貯蔵庫から十二万石の穀物を放出して民間に貸し出すこととした。 役目の者はそれをどう処理したらよいのか頭を抱えてしまい、公が自身で取り行っ た。翌年は大いに稔り、貯蔵庫の穀物はすっかり入れ替えられ、官民ともによい 処置だったと受け止めた。 う

てん

西方の于闐国からの使者が都に行くに際して、鳳翔府が管轄する地域を通過し た。そのとき、接待役の者は定め通りに饗応したのだが、使者は甚だ驕慢で、一 カ月以上も留まり、駅館の器材はおろか建物までも壊す狼藉を働き、さらには市 場に行って飲食物を奪い取りもしたので、人々は恐れて昼間も戸を閉ざし、大騒 ぎとなった。公はこのことを聞くと、このように言った。 りょう

「わしはかつて遼国への使者として向こうに行き、その実情を見た。外国の人間と て初めから暴橫なのではない。通訳の者がそのようにさせてしまうのだ。私は通訳 の者に対して宋国の法をもって厳しく接したところ、通訳の者は恐れ畏まり、遼国 の人間も特におかしなことはしかなった。まして于闐国は遼国よりずっと小さな国で はないか」 公は気の利く役人を派遣し、通訳の者に向かってこのように言わせた。 「我が国境の内側に入ったからには、もしもほんのわすかでも法を犯すようなこと があった場合は、わしはおまえを斬る。軍の定めに従ってそのようにし、于闐国の 使者には還ってもらうことになる」 于闐国の使者はもとより公の威名を聞いていたので、庭に並んで公のいる鳳翔 第 2 章:76


自由訳蘇東坡詩集抄

府に向かってひれ伏した。公の命令で使者を馳走し、鳳翔府の管轄する境にま でついて行って送り出した。その間、誰一人として騒動を起こす者はいなかった。 そのころ、州郡の知事は訪問客があると酒宴を開いて歓待し、私的な交際相手 に対しても普通にそうしていた。しかし、法としてはもとよりよろしくないことなので、き ちんと取り締まるようになった。公は貧乏な旅人に酒食を与えていたから、「これは 私的な行為であった」と費用を弁済した上で、法を犯したことを自分から朝廷に申 し上げ、辞職を願い出た。そのことから官職を去り、その後間もなく六十四歳で亡く なった。 てい

し ん

か く

じゅん

公は程氏を娶り、四人の男児がいた。陳忱、陳恪、陳恂はそれぞれ官職に就い ぞ う

たが、四男の陳慥だけは官に仕えなかった。 公の人となりは清廉かつ寡欲であった。並みの人より背が低く、顔は黑く、目は氷 のように光り、普段から心の内を表情に出すことがなく、王公貴人も憚るほどの厳 めしさであった。義を行おうと勇んだときには禍福を勘定することなく、必ずその志を 果たすまでやめなかった。公が赴任したところでは悪い民や狡猾な役人は心を 入れ替えて行為を改めた。そうしなかった者は必ず厳罰に処した。それは真心か らしたことであったので、厳しくとも残酷ではなかった。学問を教えて士を育成するこ とを熱心に進め、財産を軽んじで施すことを好み、恩義に厚かった。 しょく

そ う

若い頃に蜀人の宋輔と親しくしていて、宋輔が都で死ぬと、老いた母と幼い息子 が残されたので、公はその母の面倒をみることにし、自分の娘と宋輔の息子の宋 た ん ぺい

端平とを結婚させ、自分の子どもたちと一緒に勉強させた。宋端平は陳忱と一 第 2 章:77


第2章 最初の赴任地

緒に科挙に合格した。 公は高位に昇った特典で、子弟の幾人かを科挙によらずに官職に就けることの できる恩恵を皇帝より頂戴し、自分の子よりも親類の子の方を優先して官員とした。 それで四男の陳慥にはその恩恵が及ばなかった。 じゅん

公は私の父の蘇洵とは一家のような関係にあった。私は風翔で官職に就いたと きに、二年にわたって公に仕えた。この時、私は若くて意気盛んで、愚かにも自分 の行動を改めようとせず、しばしば公と衝突した。顔色を変えてひどい言葉を発し たこともあった。後にそれを後悔した。 いにしえ

ひそかに思うに、公は 古 の真っ直ぐだった人たちの生き残りであったのだろう。国 家においてもっと用いられて、もっと大きな仕事を成し遂げることができなかったの を残念に思う。公が没してすでに十四年、当時活躍していた士大夫でも公の事 跡をきちんと知る者は少なく、ゆかりのある人も日に日に老いて少なくなっているの で、いつか全てが埋もれてしまうのを畏れ、私はその事績を書き残したいと思って はんちん

いた。しかし、詳しくは知らないので困っていたところ、范鎮が書いた墓誌を入手し たので、それに自分が知っていることを補って、公の伝記を作ることができた。私 は普段から伝記や墓碑の類は書かずに今日まできた。だから、書いたのはただ この文だけである。そうするのは、後の君子に見てもらいたいからだ。 さん

(この後ろに「賛」という韻文が付くがそれは省略する。このころから、文章の得意 な人に、墓誌や伝記の執筆を依頼することがさかんに行われるようになった。それは (とりわけ科挙に合格できなかった)文章家にはなかなか結構な収入源になった。蘇 第 2 章:78


自由訳蘇東坡詩集抄

軾はそういうことは好まず、自分が書きたい思うものしか書かなかった。この「陳公 弼伝」は、執筆時には唯一の例外で、後に書かれたものを含めても最も長文の伝記で ある)

■七月二十四日以久不雨出禱磻溪是日宿虢県二十五日晚自虢県渡渭宿於 僧舍曾閣閣故曾氏所建也夜久不寐見壁有前県令趙薦留名有懷其人 たいこうぼう

この年も雨が不足し、7 月 24 日鳳翔を発ち、太公望がそこで釣りをして ぶんおう

はんけい

いて周の文王に見出されたとの伝説のある磻溪で雨乞いをした。土地の 人から、太公望に祈ると雨を降らせてくれると聞いたからだ。25 日の夜 中に目覚めて宿所の壁に記された詩を見ていると、雪見の宴に出られず ちょうせん

に伏せっていた蘇軾に詩を送ってくれた趙薦の名があった。

夢に驚き、枕から頭を上げると、 いまはすでに真夜中であろうか、 人気のない寺に、ともしびが消えかかっている。 風の音が、深い谷間に、ざわざわとずっと響いている。 山の峰から月の光が射し込んできて、 壁に記された詩がぼんやりと浮かび上がる。 かの人の消息を聞かないと想っていたまさにその人の姓名がある。 その詩を繰り返し吟唱する間に、 第 2 章:79


第2章 最初の赴任地

そろそろ太公望に祈りに行く刻限になったろうかと、 北斗七星の傾き具合を人に尋ねる。

■二十六日五更起行至磻溪未明 翌朝、日の出前に宿所を出て、磻溪に行って雨乞いをした。

たいまつ

山を照らす松明に驚いたのか、 猿がどさりと枝から落ちる。 細い月がぽつんと浮かぶ下を、 狭い谷へと入って行く。 川底の岩を洗う川の波が、 暁に向かって、冷たい音を一段と強める。 太公望は遠い昔に白雲の彼方に飛び去り、 神々しい跡だけがいまここに残っている。 どうかして、太公望によって力を得て、 雷神の後ろに従って馬を天へと走らせ、 ひさご

瓢を傾けて地上に大いに雨を降らせたいものだ。 (前の宋知事のもとでは、雨乞いをするとすぐに雨が降ったのだが、今回はそうはな らなかった)

第 2 章:80


自由訳蘇東坡詩集抄

■是日自磻溪將往陽平憩於麻田青峰寺之下院翠麓亭 ようへい

雨乞いの後、別の仕事のために蘇軾は陽平という町に向かった。その間 の詩。

せい ほう

青峰寺を目指すもまだまだ着くには至らない。 い すい

渭水のほとりの村にまできて、 すい れ き

翠麓亭の名と小路のゆかしさにひかれる。 谷合いに朱の欄干がくっきりと映え、 まわりの山を超えて古い木が高くそびえる。 小路は岩の崖に突き当たり、 そこで林が切れ、下に河の流れを見る。 疲れた馬は青い草をほしがって鳴き、 翠麓亭を守る僧が「ここで休まれよ」と言ってくれる。 私がきたのは秋の昼さがり、 日照り続きであるから、石の台がことのほか熱くなっている。 どうかして、空を覆う傘のような雲を得て、 盆をひっくり返す雨を降らせることができないだろうか。 山のふもとに広がる田圃の稲が、 濡れた葉をいかにも涼しげにひるがえす夕べの景色を、 ここで見たいものだ。 第 2 章:81


第2章 最初の赴任地

■妬佳月 陳知事との関係は悪化の一途をたどり、知事が主催する 8 月 15 日の中 元節の行事に無断で欠席した罪で銅八斤を納めるべしとの罰を与えられ た。蘇軾は秋の名月にちなんでこの詩を詠んだ。月を蘇軾に、雲を陳知 事に、かなり露骨に譬えている。

雲は佳い月を妬んで猛り狂い、 飛んで飛んで千里の彼方まで空を真黒にしようとする。 佳い月は怒りはしない。 月の白さそのものが汚されることは決してないからだ。 り

は く

昔、李白が仙界から人間界に降ろされたときに、 月と自分と我が影の三人が友だと言った。 今夜は黒い雲のせいで月が見えず、影もない。 その寂しさに、風の神がきてくれないか思う。 しかし、変わりやすい風の神などあてにしない方がよいだろう。 頬杖をついてしばらく待ってさえいれば、 空にはいずれ何もいなくなり、 さ ん さ ん

黄金の丸い盤が燦々と輝き出し、 その光が青い天空の隅々までも満たすだろう。 第 2 章:82


自由訳蘇東坡詩集抄

星はそのために輝きを失い、 夜露は洗いたての秋の色を宿すであろう。 月がガラスの玉のような光のかけらをぽろりと落とせば、 それは我が胸の内へと入ってくる。 永遠にかげることなき光を得て、 私は月の友となるのだ。

■和子由聞子瞻将如終南太平宮溪堂読書 陳知事と蘇軾の仲の悪さは都にも聞こえ、弟は兄の身を案じた。蘇軾は たいへいきゅう

終南山にある道教の寺院、太平宮にしばらく籠って道教の経典を読むこ とにしたと弟への手紙に記した。 弟はそれに対する詩を送ってきたので、 その詩に和した。

外なる名に使われると、ただただ役目を勤めねばならず、 ぬす

内なる身に任せると、ただただ安楽を偸んでしまう。 まことに愚かで拙い僕は、 名と身の二つをともにうまくやりくりすることができない。 いまさらのように僕は、官員としての口の利き方、 公文書の書き方を学ばなければならなかった。 ここにきてようやく罪人の訊問の仕方を会得したばかりだ。 第 2 章:83


第2章 最初の赴任地

官員というものは、 いま何をすべきか知ろうとしたら、 何はともあれ先例を調べなければならない。 官員というものは、 望む地位を得られずにいる間は、得られないことをひたすら憂い、 得られたら得られたで、それを失うことをひたすら憂う。 だからその心は決して落ち着くときがない。 疲れた旅人が道の途中で清らかな流れに出合い、 しばし休んで水を掬って飲んでも飽き足らず、 塵にまみれたまままた道を進まなければならないのと同じである。 僕は、春の鳥のさえずりを聞いたころに、 自然の内へと入ってみたいと思った。 あれこれ決めかねているうちにいまはもう秋の終わりだ。 御陵造営の期限が迫りきて、府県の役人は仕事の手配に忙しい。 国家の事業であるから不平を言うべきではないけれど、 民衆を煩わせることに恥じらいを覚えないわけにはいかない。 しかも、いまは日照りの嘆きがある。 僕は何よりも雨を呼ぶ術を学ばないといけない。 川の水は涸れ果て、川底の泥まで乾いてしまった。 一本の木を千人がかりで曳かなければならない。 第 2 章:84


自由訳蘇東坡詩集抄

人々は十歩進むために八回も九回も息継ぎをする。 こうしたことを見ていると、食事さえ欲しくなくなる。 何かをする気力の一切が失せてしまう。 もしも秋の雨が十分に降ってくれたならば、 公務の合間に新酒を味わうこともできようかと想像はするのだが、 いまの骨折りが幸いにも終わったとしても、 朽ちた自分はもはや任務に耐えられなくなってしまっていることだろう。 だから、秋の風が僕を丘へと誘い出し、 せめて一日の楽しみだけでも得て、 百日の愁いを慰めようと思うのである。 じんそう

(御陵造営とは、この年の 3 月に皇帝(仁宗)が亡くなり、その陵墓を国の事業とし て造ったことをいう。鳳翔府には大量の木材を期日までに山から搬出せよとの朝廷か ら指令があり、蘇軾は現場監督として山に派遣された。日照りの害は木材の運搬を困 難にし、蘇軾は疲れ切って太平宮でのしばしの休養を求めたのである)

■将往終南和子由見寄 太平宮に向う前の夜にも詩を作って弟に送った。

人生はたかだか百年、 髭や髪が白くなるだけの時間しかない。 第 2 章:85


第2章 最初の赴任地

富貴なんぞは葦の若い茎の中の薄皮ほどのものでしかない。 墨をしたたらせて詩文を書くなどという行為は、 酔いつぶれてきれいなお姐さんに介抱されるよりは、 いくらか体裁がよいだけのことだ。 ここのところ僕は学問をやめてしまったので、 しばらく吹かずにいた笛が詰まって音が出ないようなありさまだ。 今年も残すところ少なくなり、 秋の風がもたらす水のような涼気が身に沁み入る。 明日は南の川に行って鳥や獣を友としようと思っている。 寝床で落ち着かぬまま夜明けを待っている。 昔むかし、一生涯ただ筆だけを弄んで、 烏のように全身真黒になりたいと願った人がいた。 僕もまったく同じことをいま思っている。 門を閉ざして一日中僧侶のように座り続け、 官爵などは泥のように見下すのだ。 僕はどうしてこうもぐずぐずしているのだろう。 歳月は自分と一緒にぐずぐず留まっていてはくれない。 もう夜が明けるのか。 まぐさ

僕の馬に秣が与えられようとしている。

第 2 章:86


自由訳蘇東坡詩集抄

■読道蔵 たいそう

どうぞう

太平宮は宋の 2 代皇帝(太宗)によって建てられ、道教の経典である道蔵 の一式が納められた。蘇軾は道蔵を見ることを一つの目的として太平宮 を訪れた。

どのような幸いに恵まれたのか、 この道教の寺にたまたまくることになった。 何がここにあるかというと、 千の箱にぎっしりと書物が詰められている。 ふくろ

赤い錦の嚢に納められ、 青い霞の裾のような紙でくるまれ、 仙人が箱に鍵を掛け、 神がその部屋を守っている。 神の隙を窺って書物を覗こうというのだから、 ゆっくり眺める時間はない。 それでも、真理を知る人は一言で悟れるというし、 道は静かな心に集まるともいうから、 心を長閑にして蓮のつぼみを想い見るならば、 おのずと純白の大輪を咲かすこともあるだろう。 かくて俗世を離れて千年の彼方に去れたならば、 第 2 章:87


第2章 最初の赴任地 しかばね

むしろ

その後に遺した我が 屍 を包む蓆に、 我がこの詩がなるであろう。 人はかりそめの身をいい加減に扱って、 土くれ、草きれで養おうとしている。 私は道教の真理を得て我が憂いを除きたいと思っている。 それさえできなくて、 天下を治めることにどうして関わろうなどとしているのだろうか。

■扶風天和寺 木材を運び出す仕事はどうにか終わらせることができ、蘇軾は 9 月半ば ふ ふう

てん わ

に数日の休暇を得て家族を連れて鳳翔府から離れ、扶風にある天和寺を 訪ねた。

遠くから見たとき、 朱色の欄干や青い瓦が山に映え、 なかなか愛すべき景色であると感じた。 近づこうとすると、 一歩登るごとに足を止めて息を継がねばならず、 百回以上も寺を見上げることになった。 川の底には水がなくて石が現れ、 第 2 章:88


自由訳蘇東坡詩集抄

野の上には塵が上がって遠くの町の楼閣は見えない。 風に臨んで声を出すのはよそう。 我が思いのほどを抑えられなくなってしまうだろうから。

■稼説送張琥 ちょう こ

鳳翔府には張琥という「同年」の同僚がいた。 「同年」とは同じ年の科 挙でともに合格した者である。その張琥が鳳翔での任が満ちて都に帰る ことになり、この文を贈った。

富む人の田で穀物がどのように稔っているのか、君は見たことがあるだろうか。富 む人の田は良質でしかも広いから、食べるに十分な収穫が得られて余裕がある。 広いから交替で休ませることができ、地力は完全なままに保たれる。余裕がある から、種を植えるのに時期遅れになることはないし、すっかり熟してから収穫するこ とにもなる。だから、富む人の田では穀物の稔りはいつも上質で、中身がすかす かの籾は少なく、実が充実していて長く保存しても腐ったりしない。 ぽ

もし私が十人家族で、百畝の田しかなかったとしよう。一寸の幅の田からも逃さず なら

収穫を得ようと、日夜それを望んで耕したり均したりする。いつも魚の鱗のように人 つ

がびっしり張り付いて仕事をするから、地力は竭き果ててしまう。収穫は家族が食 べるのに足りないから、種を植えるのはどうしても時期に間に合わないし、刈り取る のは熟すのを待ってなどいられない。これでどうして上質の穀物が稔ったりするだ 第 2 章:89


第2章 最初の赴任地

ろう。 いにしえ

古 の人は、その才能が今の人よりもずっと優れていたということはないであろう。 古の人は普段の暮らしでも、自分の持っているものを自分でよく養い、軽々しく用 いるようなことはせずに、十分に熟成するのを待った。それは赤ん坊がゆっくりと成 つよ

長するのを待つのと同じようであった。弱いところがあれば養って剛くなるのを待ち、 うつろなところがあれば養って充ちるのを待った。 こうして古の人は三十歳になってようやく出仕し、五十歳になって高い地位に就い た。長らく身の内に貯め込んでおいた末に、十分に充実させ、大きく伸ばしてから 世の中で用いられたのだ。あるいは、身の内から溢れ出て余りあるまでになって から外に流し出し、あるいは、十分に弓を引いてから放ったのである。これが、古 の人々がいまの人々よりもずっと優れていた理由である。 私は子供のころに学問を志し、不幸にして早くから成果を得て、君と同じ年に科挙 に合格した。君もまた早くなかったわけではない。私は自分の学問はまだまだ不 足していると考えていたかったのだが、まわりの人がむやみと推薦して下さり、今 のようなことになった。 君はここを去って後に、どうか学ぶに努めてほしい。広くいろいろなものを学び、肝 心なところを掴み取り、厚く積み上げて外に出すのは少しだけにする――私が君 に告げるのはこれに止まる。 君は都に帰ったら、是非訪ねてほしい人がいる。それは蘇轍、私の弟だ。同じこと を弟に君から語ってほしいのだ。 第 2 章:90


自由訳蘇東坡詩集抄

(張琥が十数年後に蘇軾に対してひどい敵対行為をしたことを思い合せると、どのよ うな背景のもとでこの文章が書かれたのか、いろいろと想像させられるものがある。 張琥と蘇軾は同時に科挙に合格して鳳翔府で同僚となった。蘇軾は母の喪に服してい たから、官員としてのキャリアはその分だけ張琥の方が長かった。ところが、蘇軾は 制科に合格して天下にその名を轟かせ、いきなり張琥よりも重い役を授かって鳳翔に やってきただけでなく、 「鳳翔八観」などの詩で圧倒的な才能を見せつけ、さらには宋 知事に大いに可愛がられた。張琥が面白からぬ思いを抱いたと想像してもたぶん間違 いではないだろう。蘇軾が同僚から無視されたり、陳知事との関係が悪かったりした 背後には張琥がいたと想像するのは行き過ぎかもしれないが、そのようなことに対し て蘇軾は大人の対応をし、別れ際に、焦らず己を成長させることに努めてほしいと、 巧みな比喩を用いた助言をし、なおかつ角が立たないよう弟への伝言も依頼した。張 琥が素直に受け止めるような人ならよかったのだろうが、残念ながら張琥はさらに気 持ちを屈折させ、十数年後に鬱積したものを晴らそうとした――張琥にとって不名誉 な想像であるが、それはかなりありうるだろう)

■十二月十四日夜微雪明日早往南溪小酌至晚 なんけい

鳳翔府の郊外に南溪という小河川があり、蘇軾は雪の朝にそこに行って 大いに気に入った。後に小さな庵をその近くに建てることになる。

両岸に雪が積もった南渓の景色は、 第 2 章:91


第2章 最初の赴任地

とてもではないが値がつけられない。 雪の消えないうちにと馬を走らせてきて、 木々の間から抜け出て、 雪の中に道を探して、 まだ足痕のない朱塗りの橋を一番に渡った。 興に乗じてなおも行くと、崩れた家があった。 この家の人は雪に埋もれたままでどうやって眠ったのだろうか。 さらに小さな村に行き着くと、 ひっそりとして人の声が全く聞こえない。 人々はすでに飢餓に迫られているのか。 年の暮れの烏の鳴き声だけがあたりにこだまする。 我が馬の足音に、烏が驚いて飛び立ち、 枯れた枝からぱらぱらと雪のかけらが落ちてきた。 (雨が少ないために飢饉の危機が迫りつつあった。雪は豊作の予兆とされ、この詩に は希望がこめられているとともに、烏にからかわれるような無力な自分を嘆いてもい る) ちんぞう

あざな

き りょう

(このころに蘇軾は陳慥( 字 は希 亮 )に出会った。 「陳公弼伝」にあった陳知事の四 男である。陳慥は仕官せず、土地の豪傑と交わり、無頼な日々を送っていた。蘇軾は、 それが何者であるか知らないままに、野で鳥獣を狩っていた陳慥に偶然出会い、たち まち意気投合した) 第 2 章:92


自由訳蘇東坡詩集抄

■次韻子由種菜久旱不生 じ へい

治平元(1064)年、蘇軾 29 歳。 天候不順が続き、都のあたりでも雨が少なく、弟から、家庭菜園に菜を 植えても芽が出てこなくて困っているという詩が届いた。その詩に次韻 した。

新たな春がきたころには、 かめ

塩漬けの菜の蓄えは、甕がひっくり返しとなって、 すっかり尽きてしまった。 きざはし

たけのこ

それでも、そのうち階の下にでも、筍 の芽が出てくることだろう。 麦畑のあたりを巡れば、野の草も芽を出しているだろうから、 それらをちょいと摘んで、 どこか僧坊などを訪れて、軽く茹でてもらって食べてもよいだろう。 食べられるものはどうせそこらにあるのだから、 菜園に雨の恵みがないと心配しなくたってよいのではないかな。 問題は天候ではなく、 世の中と自分が合わないことだというのなら、 田舎に引っ込んで田畑を耕せばよい。 それこそ食べるに困りはしないだろう。 第 2 章:93


第2章 最初の赴任地

ともあれ、新たな春の恵みを、 おい

菜園に生来る菜の芽に見たいと言うことなら、 また一つ年を取って、頭に自ずと白いものが芽生えるのを見れば、 それでよいのではないのかい。 (ここで楽観的な考えを表明しているのには、次に記すように陳知事との関係が改善 され始めたことが反映しているのかもしれない)

■凌虚台記 りょう き ょ だ い

陳知事は鳳翔の官舎の近くに凌虚台という見晴らし台を造り、その完成 を記念する文章を書くよう蘇軾に依頼(指示)した。このような場合は、 先に「鳳鳴駅記」 (本章 51 ページ)で見たように、知事の徳を称えて祝 意に満ちた文章を書くのが普通である(権威に媚びる意図があってもな くても、執筆を引き受けたからには礼儀としてそうすべである) 。蘇軾は はなはだ無作法な文章を記した。

しゅう な ん ざ ん

ここ鳳翔は終南山の麓に位置し、起居、飲食、常に山と接している。 鳳翔の四方に終南山より高い山はなく、終南山の近くに鳳翔よりも立派な都市は ない。互いに近くにあって、互いに最高であることを求めるならば、必ず終南山と 鳳翔ということになる。 知事陳公は鳳翔に住まうようになってから、終南山がすぐそこにあるのを知らずに 第 2 章:94


自由訳蘇東坡詩集抄

いた。山があるのを知らなくても政務にさしさわりがあるわけではない。とはいえ、も のの道理として終南山を知らないというのはありえない。そもそもが理に反している ことから始まってここに高台が築かれることになった。 あるとき陳公はたまたまこのあたりを歩いていて、林の木々の上に山があるのに気 付いた。自分が歩くとともに山が林の上を移ろうのを見て、塀の向こうを道行く人 の頭が移ろうのと似ていると感じた。 「特に優れた眺望がここに得られそうだ」 陳公はそう思うと、ここの前面を掘って四角い池とし、その土を盛って家屋の軒より 上に出る高さにせよと人々に指示した。こうして高台を作れば、そこを登る者は、自 分が高みへと上がって行くとはあまり意識しないで、終南山が自ら高々と飛び出 して来ることに驚くであろうと、陳公は考えた。 しの

りょう き ょ

「山が中空に突き出る、つまり虚空を凌ぐ、凌虚という名がよろしかろう」 陳公はそのように高台の名を定め、完成した暁には記念となる文章を書くよう私蘇 軾に求めた。 そこで私は次のように申し上げた。 すた

こぼ

「物があるいは廃れ、あるいは興り、あるいは成り、あるいは毀たれるのは必ずしも 人の意のままにはなりません。それでも、とどのつまりだけは知ることができます。 昔ここが荒れた野であり、わびしい田であり、露や霜に繰り返し覆われ、狐や狸 がすみかとしていたときに、いずれ凌虚台が築かれると誰が予想できたでしょうか。 あるいは廃れ、あるいは興り、あるいは成り、あるいは毀たれるという連鎖は無窮 第 2 章:95


第2章 最初の赴任地

に続き、凌虚台が後にまた荒れた野ないしはわびしい田になるということは知らず にいようとしてもできるものではありません。 凌虚台が完成しましたら、試しに一緒に高台に登ってみようではありませんか。望 しん

ぼくおう

き ね ん きゅう

だ い せ ん きゅう

ぶ てい

み見るのは、東に秦の穆王の祈年 宮 や橐泉宮のあったところ、南に漢の武帝 ちょう よ う きゅう

さ きゅう

ずい

じ ん じ ゅ きゅう

とう

きゅう せ い きゅう

の長楊宮や五柞宮のあったところ、北に隋の仁寿宮、唐の九成宮のあったとこ ろです。それらが最も盛んであったころには、その規模は宏大、外観は美麗、堅 固で動かぬありさまは凌虚台の百倍どころではなかったでありましょう。しかし、王 朝の繰り返しを経たいま、せめてそのよすがを彷彿とさせるものを求めようとしても、 いばら

割れた瓦、崩れた塀さえ存在していません。麦畑や茨 の荒野を載せる丘だけが あります。この高台がこれから先にどのようなことになるのか、言うまでもありませ ん。 きょ

この高台に託して、虚を凌いで長く久しくあろうとしてもできるものではありません。ま さしく理に反しているからです。人間世界において得たり失ったりするものは、たち まち来てはたちまち往くだけのものなのではないのでしょうか。 世に誇るべきものを作って自己満足を得ようとするのは大きな過ちです。長く久しく あるとたのむに足るものがもしもあるとしたら、この高台の存亡などとは関わりがな いに違いありません」 私は陳公の前から退くと、そのままを文章に記した。 (凌虚台を築く意図そのものが愚かしいと、 「それを言っちゃぁおしまいよ」みたいな ことを書いたのだが、驚くことに、陳知事は蘇軾のこの文章をそのまま碑に刻んで凌 第 2 章:96


自由訳蘇東坡詩集抄

虚台の下に置いた。さらに驚くことに、これを境に陳知事と蘇軾の関係は急速に改善 う てん

されたようである。 「陳公弼伝」 (本章 71 ページ)にあった飢餓対策や于闐国の使者 への対応などに、たぶん蘇軾は関与したのだろう(だからこそ特筆した) 。正しいと信 じることを常に堂々と述べる蘇軾の姿勢を、陳知事は正当に評価したのだろう。

■自清平鎮遊楼観五郡大秦延生仙遊往返四日得十一詩寄舍弟子由同作 しょうじゅん

1 月に章 惇と数日間を過ごす機会を得て、短い旅の間に見聞きしたこと を 11 篇の詩にまとめて弟に送った。その中から 2 篇を訳す。

だ い しん

大秦寺 平原を流れる川筋をさかのぼり、 それが幻のように消える先に、 斜めに横たわる緑の山裾があった。 行き行けば、山また山となり、 そのまた遥かな奥に、 くっきりと一つの塔がそびえていた。 足に任せて尋ね入り、 塔の上に立って、風に臨んだ。 顧みると、海のように原や田がどこまでも広がり、 驚くことに、その全てが東に向かって傾いているのだった。 第 2 章:97


第2章 最初の赴任地 けいきょう

(大秦寺は景 教 、すなわちネストリウス派のキリスト教の寺院。大秦とは東ローマ帝 国のこと。景教は唐の時代にかなり流行し、各地に多数の大秦寺が建てられた。宋の ちゅ う しつ

ころにはすでに勢いを失い、蘇軾がこここで見た盩庢の大秦寺など残るのはわずかと なっていた)

ほ く じ

北寺 唐の初めからこの北寺はあったと聞く。 唐の終わりの世の乱れを経て、 寺はさびれ、当時の石碑すら残っていない。 どこも虎を恐れて早々と門を閉ざし、 近くに村はなく、米を得ることもできない。 山の泉で甕を満たすことならできても、 野の草で腹を満たすことはできない。 ここはまことに美しいところだが、 長くここにいるためには、 飢えを忍ぶことを学ばなければならない。

■和子由記園中草木十一首 なんえん

弟は都の家の庭を「南園」と呼んでいろいろな木や草を植え、その一つ 一つを主題にした 11 篇の詩を作った。その全てに和して返した中から 4 第 2 章:98


自由訳蘇東坡詩集抄

首を訳す。

其の一 光り輝く帝王の都の大路を、 目にもまぶしい人々が行き来している。 そこで君は何をしているのかと問えば、 「門を閉ざして草や木を観ているのです」と答える。 み

微々たる草や木など観て何になるのか。 「物の変化を飽きることなく観ているのです」。 けんぎゅう

たで

き りゅう

藤の品種の牽牛、蓼の品種の葵蓼を育て、 君はそれを言葉に変換して摘み採り、 詩巻の中に納めた。 しゃやあん

昔、謝安は引退後に自然の内に遊ぶのを好んだけれど、 いつも妓女を連れ、酒を置いた。 そうしたものの力を借りなければ、 富貴を忘れ、心を慰めることができなかったのだろう。 いまの君はそのようなことはなく、 富貴などは蔓がまとわりつくくらいにしか見ていない。 自分の内側に抱いている宝に満足しているから、 あえて高潔さを示すような植物を植えることもない。 第 2 章:99


第2章 最初の赴任地

僕は早く君のもとに帰りたいと思っている。 年末まで待てないとどうか嘆かないでほしい。 僕の方こそ早くと願っているのだから。 ( 「年末」といっているのは、この年の 12 月で鳳翔での 3 年間の任期が満ちるからで ある)

其の二 僕の官舎の庭は狭いものだが、 ろくに手入れをしないので、 草や木がいつの間にやら林のようになってしまう。 春の雨がひとたびあまねく降り注ぐと、 美しいのも醜いのも我がもの顔に伸び上がる。 ぶ ど う

葡萄は自立できないから棚にしがみつこうとし、 ざ く ろ

柘榴は破れた赤い布のような花を咲かせ、 あおい

葵は美しい花をつけるが髪にさすには茎が短すぎ、 たで

蓼の赤は秋の終わりまで待たなければならない。 物はそれぞれ時節に感応して生きているのであって、 君はこのようなことから物の変化の本質を観て、 人間界の興廃も同じあると見ているのだろう。 草や木が勢いを得て盛んになるのは、 第 2 章:100


自由訳蘇東坡詩集抄

草や木の持つ能力によるのではなく、 草や木が枯れて散るのも、 やはり自分で自由にできることではないのであろう。

其の十 秋の谷川に野菊が開いた。 菊の花の心を知るのは菊の花自身だけで、 ここには、 菊の花を見て、早くも一年が過ぎ行くと驚くような人間はいない。 こ お ろ ぎ

かたわらに秘かに悲しむ蟋蟀がいる。 谷川のほとりで開いた菊の花は、 谷川の汀に誰にも知られずに落ちる。 菊が枯れると蟋蟀は土に帰り、 また来年に会おうと約束する。 昔むかしのある多感な人は、 秋の風に心を痛ませ、 夕べには悲しみのあまり落ちた菊の花を食べたと、 詩に詠んだけれど、 僕が思うに、 菊の花を拾い集めたところで、 第 2 章:101


第2章 最初の赴任地

朝飯前の腹の足しにもならないだろう。

其の十一 八月十一日の夜、 ふ

が く

府学に泊り込んで君の詩に和しているうちに、 いつしか眠りに入ってしまった。 夢から覚めると、 目にはまだ山の緑がありありと残っていた。 心は白雲とともに飛び去り、 故郷の山の麓のあたりを巡り歩いていたのだ。 君もまたどこかからかやってきて、 白い歯を輝かせてにっこりと笑い、 懐から新しい詩を取り出した。 その詩句は山の景観をしのぐすばらしさだった。 いま君の詩を思い出そうとして、 秋の菊を詠んだということ以外ぼんやりしてしまった。 昔、薪を採りに山に入った人が、 仙人が洞穴の中で奏でる琴の音を耳にし、 里に帰ってから、わずかに記憶に残るところを人に聞かせると、 人間界のあらゆる曲より優れていた。 第 2 章:102


自由訳蘇東坡詩集抄

君の詩もきっとそのようなものであろうから、 断片だけでもいいからどうか教えてほしい。 (鳳翔には府が運営する学校、府学があり、蘇軾はそこで時々学生を教えた)

■次韻和子由聞予善射 か

「教戦守策」 (本章 11 ページ)で見たように宋の西方には夏国があり、 たびたび宋との間に武力衝突を起こしていた。鳳翔は夏国との国境に近 く、それへの備えが必要であることを改めて実感した蘇軾は自ら武芸の 鍛錬に励んだ。そのことを弟が詠んだ詩に和したもの。

都のお偉いさんは、 繁華の地で羽振りよく振る舞うのに熱心で、 遠い国境で戦の太鼓が鳴ったりすることなど思ってもみない。 鄙びた武将が文学を論じるのが得意でないように、 雅な文人は弓を射るのは得意でない。 だけど僕は、 やなぎ

楊の細い枝先に百発百中で射当てても、 「いやいや、なんのこれしき、特段の腕前ではありません」 と笑ってみせたり、 高い城壁に立って隼を射落としてから、 第 2 章:103


第2章 最初の赴任地

すぐさまひらりと馬にまたがり、 敵の馬群を蹴散らしてみせたりしてやろうと、 心の内でずっと考えているのだ。 しかし、君こそは長身であるのだから、 弓を学ぶのにもっともっとうってつけで、 かん

かの関羽だってきっと追い抜くことになるだろう。 (関羽はいうまでもなく三国志の有名な武将。蘇軾の腕前が関羽に迫り得たとは考え にくいが、少年の頃は非常に敏捷であったと回想する詩があり、第 1 章 28 ページの 詩からも運動能力はそれなりに高かったものと推測される)

■次韻子由論書 しょ

前の詩とは一転してこれは書が主題の詩で、弟が書について論じた詩に 和した。蘇軾は後に宋代の第一級の書家と目されるようになり、書に関 しておびただしい数の詩文を作り、書論を縦横に展開する。

し ょ

僕は書がうまいわけではない。 だけど、僕以上に書がわかっている者はいないのではないかと思ったりもする。 書が何たるかがわかっていれば、もう学ばなくてもよい。 美しい人は顔をしかめても美しい、 美しい玉は歪んでいても美しい。 第 2 章:104


自由訳蘇東坡詩集抄

書もそうで、 端正な中に崩れたところがあってもよいし、 剛健な中にあだっぽいところがあってもよい。 字の態勢は大らかであるのがよく、 筆の収まるところは細心であるべきだ。 そうはいってもその通りにできるものではないから、 字を書いても、端から捨てることになる。 ところが、僕の書がよいなどと、 手に入れようとしてくれる人がいたりするのは、 一体どういう勘違いなのだろうか。 君がくれた詩では僕の書をほめてくれているけれど、 賛辞が過ぎて、僕の実力はそれに耐えるものではない。 このごろ僕は弓を学んでいて、 やはり力不足で、弓の強さに僕の腕は耐えられずにいる。 あれこれ好むものがたくさんあっても、 何も成就しなければ意味がない。 いっそ全てを捨て去って、 怠け放題にした方がよいのかもしれない。 昔の書法では、 早馬はのろ馬に及ばないと言ったものだ。 第 2 章:105


第2章 最初の赴任地

今の世俗の筆は気持ちが外に出過ぎて、 多くは無理があって安らかでない。 昔の書家は遠くに去って、 僕の考えはいまの時流には合わないのだろう。

■記所見開元寺呉道子画仏滅度以答子由 かいげん

鳳翔の開元寺には、釈迦の誕生から亡くなった後までを描いた大きな壁 画があった。それについて詠んだ弟の詩に和した。一部分だけ訳す。

釈迦が仏道を修めて後に入滅すると、 あらゆる世界から皆が集まりきて、 天も人も悲しんだ。 鳥の哀れな鳴き声に、林も泣いてもだえ、 獣の哀れな足摺りに、泉も熱い涙をほとばしらせた。 しとね

このとき、釈迦が亡くなった褥のまわりを、 穏やかな心で巡り歩いたのは誰であったろうか。 ら かん

太い眉、奥深い目の羅漢であった。 僕は開元寺を訪れ、 香の煙に向こうに、 この場面を描いた古い画を見た。 第 2 章:106


自由訳蘇東坡詩集抄

釈迦が亡くなって、月は輝きを失った。 しかし、この画にはなお光が残った。 画師の姓名は書かれていない。 縦横な筆使いは名のある画師を軽くしのぎ、 巨大な鰐が小魚どもを呑む勢いがあって、 人々は呉道玄の作であると言っている。

■九月中曾題二小詩於南溪竹上既而忘之昨日再遊見而錄之 南渓(本章 91 ページ)に草堂を建てたのは夏のこと。9 月にそこで詠ん へきせいどう

だ詩から 1 首を訳す。 「避世堂」と名付けたその草堂は人里から離れた ところにあり、時には虎が姿を見せるので夜は外に出ないようにと、村 人から厳重に注意された。

もくもくと山の頭に雲が湧き立つと、 ぱらぱらと水辺に雨が注ぎ始めた。 溜池の水が減って、蓮は枯れようかというこの時節、 町の人が帰って、虎が出てこようかというこの時分。 人間の住むべきところが、 虎の住いになってしまっているのは困りものだが、 山を焼けば虎を追い出すことができると言われても、 第 2 章:107


第2章 最初の赴任地

この千本の竹の緑を愛するのでそういうこともできない。

■南溪之南竹林中新構一茅堂予以其所処最為深邃故名之曰避世堂 鳳翔での任期が満ちるころに南溪の避世堂で詠んだ詩。精神の安定を得 るにはこのような場所が必要であったのだろう。

避世堂の名の割には、 世間を離れることのなお浅いのを残念に思い、 竹林のさらに奥へと分け入ってみた。 自然を愛する者に虎を恐れる心はない。 世を避けようというのだからそもそも俗な心もない。 枯れたありさまは生気を失ったかのようで、 無言のありさまは言語を失ったかのようだ。 官服を脱ぎ、冠をはずし、帯をゆるめて安らえば、 鳥がともに思いを歌おうと誘いにきてくれて、 猿が夢から覚めよと起しにきてくれる。 避世堂に帰った夜に、 階のあたりに雪が積もり出した。 昔むかし、ある禅僧のところに、 緑色の毛を長く伸ばした仙人が訪ねてきたというけれど、 第 2 章:108


自由訳蘇東坡詩集抄

それはまさにこのようなときであったろうかと、 じっと耳を澄ませて戸を叩く音を待った。

■和子由苦寒見寄 鳳翔での 3 年の任期がいよいよ終わる冬になってからの詩。これも弟の 詩に和したもの。

人生というものは百年に満たない。 君と別れてからそのうちの三年を費やしてしまった。 その三年は僕等にとってどれほどのものだったのだろうか。 捨て去ったものは、もう帰ってくる道理がない。 僕がいつも恐れているのは、 別離の間にただただ髪がますます白く、顔がますます衰えてしまうことだ。 かつて僕は喜んでものを書いたのだが、 君と別れてからはろくなものが書けない。 書こうとしてものを考えると、 君との楽しさが思い出されて、 結局は憂いが湧き上がってきてしまうのだ。 たとえ天下の士人を自分に従えるようになったところで、 君と歓びを一つにした方がずっとよい。 第 2 章:109


第2章 最初の赴任地

うらやましいのは、君が外には出ないで、 座り続ける敷物に虱が湧いても気付かないほどに、 書物に没頭していることだ。 男子たるもの出処進退はまことに重い。 三年の期が満ちる僕は、退かずに進むべきだと思っている。 折しも西方の国々は互いの恨みを解消して一つになろうとしている。 それは我が方に侵入してくるためではなかろうかと、 勇猛果敢な士人は恐れている。 朝廷は戦を望んでいない。 しかし、敵はいつだって天を欺いて攻め込んでくるのだ。 ここの土地の人々は、 衣服を買うよりも戦いに使える馬を買い、 身を飾るよりも刀を飾ることを好む。 いつかここの人々を率いて、 敵との駆け引きをしたいものだと僕はいま思っている。 (蘇軾がこの詩のように勇ましいことを言うのは実は珍しく、後の詩にはほとんど見 られない。若さのせいなのか、鳳翔という土地柄が反映しているのか……)

■凌虚台 蘇軾が任期を終えて鳳翔を発つに当たって、陳知事は凌虚台で送別の宴 第 2 章:110


自由訳蘇東坡詩集抄

を開いた。

げ き

陳知事は気位高く、激しやしく、 何事も真直ぐでなければ気がすまないので、 交際を求めて近づく者はまずいない。 知事も人と付き合うよりは、 この凌虚台に登り、 客人として山々を迎え入れ、 杯を挙げる方がよいと考えている。 青い山々は遠くにあっても、 知事が凌虚台からその顔をのぞかせると、 たちまちどたばたと駆けてきて、 他の誰にも見せないいい姿を惜しむことなく披露する。 今日は、ここに人々が集い、 礼儀作法などは忘れ、自由に振る舞ってよいとの、 知事の思し召しであるから、 大いに気分をよくして、高らかに歌声を上げた。 そうこうするうちに、夕日がするすると落ちて、流れる雲にさしかかり、 淡い光を緑の壁に投げかけるようになった。 今年もここに暮れようとし、 第 2 章:111


第2章 最初の赴任地

綿入れの衣にも雪が降りかかるような寒さを覚えるまでになった。 知事は、ではこれまでと、人々とともに凌虚台を下った。 私は山とともにしばし残っていると、 一人の客人が勇ましげに登ってきた。 このとき、雁の群れが台の上のはるか高くにさしかかった。 客人はきらびやかな飾りの付いた弓を手にし、 ひょうと、天空に向かって矢を放った。 矢は雁とともに遠く天上の涯に落ちて行った。 客人はからからと笑い、 青い山々はその声に驚いて凌虚台から立ち去った。 (陳知事はこの翌年の 4 月に亡くなっている。最晩年に蘇軾を鍛えたのは陳知事の立 派な業績と見てもよいのかもしれない) ちんぞう

(この詩の終わりに登場する矢を放った客人は、陳知事の四男の陳慥のイメージであ ろうか。これから十数年後に、蘇軾は思わぬところで陳慥に救われることになる)

■亡伯提刑郎中挽詩 そ かん

前の年の 8 月に伯父の蘇渙が亡くなった。伯父は蘇の一族で初めて科挙 に合格した人で、蘇軾が制科の受験準備をしていたころ、伯父も都に滞 在していて、官僚としての心構えを教わったりした。そして試験の直前 に、伯父が新しい任地に向かうのを都の門の外で見送り、それが伯父の 第 2 章:112


自由訳蘇東坡詩集抄

姿を見た最後となった。そのとき伯父は 60 歳で、すこぶる壮健であっ たから、それからわずか 1 年での訃報は突然過ぎて、蘇軾が昨年の秋以 降不調に陥った一因となったと理解することもできるかもしれない。そ の伯父を悼む詩を作ったのは 1 年以上経ってからだった。2 首のうちの 2 首目を訳す。

其の二 手を振って都の東の門で別れたとき、 伯父の顏はつやつやし、髪に白いものはなかった。 そのときのありさまが夢のように思われ、 いまだに亡くなったのが信じられずにいる。 後に遺されたのは千余篇の詩と文。 新たに作られたのは天の彼方の墓。 昔むかし恩人の息子が困窮しないですむよう、 皇帝の前で物まね芸を披露した人がいたが、 いまそれをするのはいったい誰なのだろうか。 (一族は助け合うという意識が昔の中国の人には極めて強くあった。伯父の息子たち は科挙に合格しなかったので職に就くことができずにいた。大黒柱を失った伯父の一 家を援助するためなら何でもしようというのが末の句の意味である) げんゆう

(遥か後の元祐3(1088)年に弟の蘇轍が伯父の墓表を書いている。兄弟にとって伯 第 2 章:113


第2章 最初の赴任地

父は極めて大きな存在であったから、墓表の概略をここで見ておきたい。 蘇氏は唐の世に初めて眉州に住み、唐の後の五代十国時代には官に仕えることはなか った。蘇氏に限らず、眉州の士大夫は家において身を修め、郷里を治めることに関わり、 しんそう

そ ん かん

出仕しようとする者はいなかった。宋の真宗のときに眉州から初めて孫堪が科挙に合格し た。孫堪は世に目立った働きをする前に亡くなった。眉州の士大夫はやはりもとのままで安 んじ、進取の気にはやる者はいなかった。このとき公(伯父)は独り発奮して学問に励み、 じゅん り ょ う

科挙に合格した。公は官僚となり、法に基づいて民衆を指導し、行く先々で循良であると の評判を得た。 こ うぐん

ぶん ふ

公の諱は渙、字は始めは公群であったが、晩年に文父と改めた。公は少年のころから賢く、 そ じ ょ

ば せん

はん

父(蘇序)は家のことは自分が全て行い、公には学問に専念させ、司馬遷の『史記』や班 こ

かん じ ょ

固の『漢書』を筆写させた。公はまだ少年であったけれど、交際するのは年長の有徳者ば て ん せい

かりで、文や詩はそれらの人々と優劣がなかった。天聖元(10237)年に科挙の一次試験 しょう ど う

(郷試)を受験した。眉州の知事の蒋堂は公の文章を見て、その巧みであることに感心し、 「君は眉州で第一番だ」と言った。すると公は「眉州にはたくさんの年長者がおります。とくに よ う い

そう ほ

楊異、宋輔とは学び合う仲間で、二人に先んじるのは私の願うところではありません」と答 えた。蒋堂はますます公は賢い考え、「それなら君は第三番としよう。それで君の名を輝か せよう」と言った。翌年、公は科挙の最終試験にも合格し、郷里の人々は皆喜び、公が帰 郷したときには出迎えの者が百里にわたって並ぶほどであった。 ほ う しょう

ほ う けい

しゅ ぼ

公は鳳翔府宝鷄県の主簿となり……(中略)…… ろう

つ う はん

閬州の通判になったが、当時閬州では、官が必要とする物資を集めて運搬する労役を民 第 2 章:114


自由訳蘇東坡詩集抄

衆に課す定めがきちんと運用されておらず、争い事が絶えなかった。公は閬州に来ると、 規約を定め、争いは止んだ。公の政治は極めて寛大であり、しかし法で決めたことは必ず せん う し ん

守らせた。そのため官吏は畏れ、民は安心できた。閬州の人の鮮于侁は若くて篤学であ ったので、公は厚遇し、科挙を受けられるよう支援し、それによって合格した。鮮于侁が初 めて官僚になったとき、公は法を守ることを教えた。後に鮮于侁は朝廷の大官となり、名臣 と讃えられるまでになった。公の父(蘇序)は、公がどのような政治をしているのか、眉州か ら閬州にまで見に行った。よくやっているのを見て喜び、数カ月滞在して帰った。たまたま 近隣の州で兵乱があり、閬州の人々は恐れ慄いた。このとき州知事が不在であったので、 公が州政府を指揮して兵乱への備えをしつつ、同僚を連れて楼台に登って酒宴を開き、 民衆の心を鎮めた。兵乱は内部で異変があって崩れ、州境に影響が及ぶことなく終わっ た。……(中略)…… しょう ふ

よ う ふ

祥符県の知事になると、祥符県には富貴の家が多くあったのだが、公は徭賦(民間に課 せられる労働と物的負担)を公平に負担させ、争いをなくし、民衆はそのやり方をよしとして ごうし ょ しゅ

ちょう そ う

安心した。郷書手(徭賦の手配をする土地の有力者)の張宗という者は、それまでずるが しこく振る舞って利益を得ていたのだが、公を畏れ、病気になったと称してその職務から去り、 代わって自分の息子に引き継がせようとした。公は、その息子は不適格であるとして、法に かいほう

基づいて認めなかった。張宗はもとから権貴の人々と通じていたので、開封府(首都近 辺を治める府政府)に訴え出た。開封府から祥符県に実情を視察する役人が派遣された。 かんがん

公はあくまでも張宗の息子を処罰したところ、次に都から宦官(宮中の仕事をする特殊な 役人)が来て、皇帝の意向だとして、張宗の息子を郷書手にせよと言った。公は法を根拠 第 2 章:115


第2章 最初の赴任地

にそれには従えないと応えた。するとまた別の宦官が来て、「法にはずれても張宗の息子 り けん

を郷書手にせよ」と迫った。公は開封府知事の李絢に向かって、「一人の民間人がこのよ うに法を乱そうとしていて、府政府はそれでよしとするのか。公は県は法を守ってはいけない は

と言われるのか」と言った。李絢は愧じ、「明日、朝廷に参上してこの件を申し上げる」と答 ちん

えた。李絢が言上すると、皇帝は「これが朕の意ではない。祥符県の知事は誰であるの か」と言った。李絢は公の名を告げると、皇帝は褒め称えた。そして皇帝はどうしてこのよう ちょう き

なことになったのか調査させた。しかし、当時皇帝に最も寵愛されていた張貴妃の一族の 誰かが張宗から賄賂を受けてしたことであるらしく、深くは追求することができなくて、偽の皇 ほ う じょう

帝の命令を伝えた者だけが処分された。包拯(中国の大岡越前のような超有名人)が公 かん かん

に会って、「貴君は一県令としてよくぞこのようなことをした。朝廷の諌官(官僚の紀綱を取り 締まる役目の者)も遠く及ばない」と感嘆した。公はある日のこと、ぼろぼろの衣服を身に付 そ

し そう

け、水を背負う娘を見た。娘は振り返り、「ああ、蘇士曹様ではございませんでしょうか」と言 りょう こ そ う

った。公は不思議に思って娘に尋ねると、「わたくしは廖戸曹の娘にございます。いまは流 はしため

落して人に使われる 婢 となっております」と言って泣き崩れた。公がかつてある町で士曹 の職にあったときに、戸曹の職に就いていた廖という同僚がいた。公は悲しみに沈み、娘 の主人を訪ね、金を出して娘を家に引き取った。そして家の中で礼儀正しい者を選んでそ の娘に礼儀作法を教え、元の同僚仲間の家に嫁がせた。……(中略)…… り

てい て ん けい ご く

利州路の提点刑獄に抜擢され、赴任する道すがら閬州に通りかかると、公を見ようとする 民衆が続々と集まって来た。子供たちが公の周りを囲み、公が手を振っても去ろうとしなか った。公は言った。「私がここを去ってもう二十年になる。諸君等はよもや私のことは知るま 第 2 章:116


自由訳蘇東坡詩集抄 まつりごと

いに」。子供らは答えた。「父や祖父からあなたさまの 政 について伺っております。家に はあなたさまの画が飾ってあります。あなたさまがまたこられると聞いて、ぜひ見たいと思っ てこのように来たのです」。公は笑い、「なんとまあ、こういうことになっているとは」。…… (中略)…… きのと い

公は嘉祐七年八月乙亥に、病気でもなかったのに俄かに亡くなった。役所の人々も民衆 も皆声を失い、閬州では市を閉ざし、ともに市中で仏事を行って、公の恩に報いようとした。 享年は六十二であった。……(中略)…… ふ

公が亡くなって二十七年が経ち、公の子の不危が公の事績を従兄弟の轍に授け、このよ うに言った。「父が亡くなり、その後、二人の兄も亡くなりました。いまは私がいるだけです。 きちんと記録を残しておきませんと、いつかは散逸してしまいます。それよりも大きな不孝は よ う きゅう

ありません」。私轍は生まれて九年にして郷里で初めて公に会い、後に雍丘で公に会った。 い れつ

公が話すのを聞き、公の遺烈を記憶してはいるけれど、公のされたことのわずかに一つか 二つしか知らなかった。そこで慎んで公の事績をまとめ、墓碑に記すことにした。 私轍と兄の軾は幼いときに伯父上にお会いし(蘇序が亡くなったので帰郷したときのこと)、 このように話されるのを伺った。「私は子供の頃から読書に励み、師を煩わさず自分で学ん だ。少し成長すると、毎日文章を書くことを日課とし、完成するまで止めなかった。外に出 歩くときには、礼法に合致するようにし、家の中にいるときにも、姿勢を崩すことはなかった。 私だけがそうしていたのではなく、私の仲間は皆そうであった。そうしないと、郷里の者から、 「なんだ、あれで儒学を学んでいるなどといえるのか」と後ろ指をさされた。だからこの当時 は、学問はする者は多くなかったけれど、誤った行動をとる者がいるとは聞かなかった。私 第 2 章:117


第2章 最初の赴任地

は都に出て官職に就いてから三十年になった。帰って来て我が郷里を見るに、琴の音が 響き、詩を唱える声が聞こえ、儒者の服を着る者が他郷よりもたくさんいる。それを私は嬉しく 思った。諸君等も人に遅れることなく、私が過ちが少ないのを見習うようにしてほしい」。私 たちは「謹んでお教えを受けます」と頭を下げた。……(中略)…… 伯父が亡くなり、後から生まれた者は老成の人の言葉を聞けなくなった。師と仰ぐべき指 針がなければ俗に流れてしまう。私轍は子弟が日々に怠るようになるのを恐れ、伯父につ いて聞いたところをこのように記し、後の戒めとする。 蘇軾はこのような伯父を手本とし、陳知事に鍛えられて、官僚として成長して行った のである)

■跋酔道士図 ちょう あ ん

せきそうじょ

おう く

蘇軾は鳳翔を 12 月半ばに発ち、長安で石蒼舒、王頤といった人々に歓 待され、年明けまで過ごした。石蒼舒は書の収集家、王頤は画の収集家 で、蘇軾は芸術について大いに論じ合った。王頤はひどく酔っ払った道 ばつぶん

士を描いた画を蘇軾に見せ、画に紙を貼り足した紙に何か感想(跋文) を記すよう求めた。

すい ど う

し つ

私はもともと酒を喜ぶ者ではない。王頤の持つ「酔道士図」を見て、私はこの執 はい

お う

杯持耳翁をはなはだ恐ろしく思った。 (わずかこれだけの文章であるが、蘇軾と酒の関係がよくわかる。蘇軾は酒を好み、 第 2 章:118


自由訳蘇東坡詩集抄

酒にまつわる詩文もたくさんあるが、実はアルコールにはさほど強くなかった。 「執杯 とっく り ぶ ぎょうおや じ

持耳翁」はたぶん蘇軾の造語で、意訳すれば「 徳 利奉 行 親爺」で、つまり、やたら に「呑め、呑め」と強いるアルハラおじさんである。 )

これから数年後に、再び長安にきた際にこの画を見ると、蘇軾の跋文の しょう と ん

後に章惇の書き込みがあったので、蘇軾は次のように書き添えた。

き ねい

お う

熙寧元(1068)年十二月二十九日、私は長安にきてある人を訪ねたところ、王頤 がわざわざ「酔道士図」を携えてやってきて、弟や幾人かの友人の前にそれを広 し ょ う じゅん

げて披露した。私がかつて記した一文の脇に、章惇が「大いに笑わせてもらった」 と書き記したのを見て、皆が私のことを笑った。 じ

お う

私はこの画の酔道士ばかりでなく、世の持耳翁全てを畏れるのだが、章惇はとい えば、持耳翁にいくら「呑め、呑め」と言われたところで、まだまだ呑み足りないと 応じるに違いない。 酒にはたくさんの味わいがある。残念なのはそれを知る者が少ないことだ。持耳 翁はただたくさん呑むのがよいと思っている。 せんゆうたん

私は山水を巡り歩くのを好む。しかし、章惇と同行したときに仙遊潭の深い崖を渡 ることはしなかった。やたらにどこにでも行けばよいというものではないからだ。 私はもともと酒を多く呑むことをしない。持耳翁などと深く付き合ったりはしないので ある。 第 2 章:119


第2章 最初の赴任地

(仙遊潭とは先に見た章惇との小旅行(本章 97 ページ)で訪れた場所。章惇は絶壁 を飛び降りるようにして下って谷底に達すると、そこの岩に落書きをした。蘇軾は自 分も行けるとは思ったが、敢えて危険を冒すのを避けて上に留まった。蘇軾は章惇と の性格の違いをことさらに強調したこの文章で人々を楽しませたのだ。章惇は後に蘇 軾とは政治的に対立するが、十数年後に張琥(本章 89 ページ)とは対照的な行動を 取る)

■華陰寄子由 じ へい

治平2(1065)年、蘇軾 30 歳。 か

こ いんぶん

年が明けると、蘇軾は長安を発ち、華州で胡允文( 「鳳鳴駅記」の執筆を 依頼してきた人)に会うなど人々と交遊しつつ都に向かった。これは華 州を過ぎたあたりで弟に送った詩。

この三年の間、帰ることを思わない日はなかった。 夢の中で家に戻り、 しばらくしてから、現実でないと気付いたこともあった。 十二月の祭日に、酒を酌んで寒さを忘れようとしたときも、 ただ家に帰ることばかりが思われてならなかった。 一月のこの旅では、春を呼ぶ東風が吹いているはずなのに、 雪が衣にまとわりついてくる。 第 2 章:120


自由訳蘇東坡詩集抄 か ざん

いま僕は、天に浮かぶ華山の三つの峰の下を通り過ぎつつある。 ど う か ん

じきに、潼関の四つの扉が日を浴びて開かれるのを見ることになるだろう。 そうすれば、都までの一里塚を全て数え尽くすのを妨げるものはもう何もない。 だから、君はいますぐにも、 家の御馳走を携えて、僕を迎えに出るのがよいのではないのかな。 (潼関は長安のある盆地(関中)と、その東の平野部との境目にある難所。この詩で いう「家」は故郷の眉山のではなく、都に住まう父と弟の家である)

第 2 章:121


自由訳蘇東坡詩集抄

第 3 章 不本意な歳月 ――都、郷里、都、そして旅

■謝蘇自之恵酒 じ へい

そ しょく

治平2(1065)年、蘇軾30 歳。 ほ う しょう

はんとうぶん こ いん

2 月に鳳翔から都に戻った蘇軾は、判登聞鼓院(民衆からの陳情に対応 するような係)として都で働くことになった。都で職に就くのはほとん どの官員が望むところで、普通なら地方で 10 年以上の経験を積んでも なかなか叶わないものなのだが、制科に合格している蘇軾は特別に優遇 てつ

されたのだろう。その一方で、弟の蘇轍は同じ月に初めての官職に就い て都を出た。兄弟が一緒に過ごせたのはごく短い期間でしかなかった。 この詩は、同じ蘇姓の人が酒を贈ってくれた(都で職を得たのを祝した と推測できようか)ことに対する謝礼。

こ う

「高潔な人、〈高士〉は酒を憐れむ」 かん ゆ

これは唐の韓愈の説である。 私には別の説がある。 「酒は必ずしも高士を憐れむものではない」 第 3 章:1


第3章 不本意な歳月 そ う

荘子にはこういう説がある。 「酔っ払いは車から落ちても怪我をしない、 それは酒の作用で精神が完全な状態になっているからだ、 とはいえ、天の道を得た方が精神はより完全になる」 これにも私には別の説がある。 た つじん

「道に達した人、〈達人〉には欠けるところがないのだから、 どうして、より完全になるのを求めたりしようか」 ある酒飲みはこっそり飲んでは酔いつぶれ、 ある酒飲みは飲むとやたらと威勢がよくなり、 ある酒飲みは酒を盗んでまでも飲もうとして役人に捕まり、 すき

ある酒飲みは飲んで死んだらその場にすぐに埋めてくれと従者に鍤を荷わせてい た。 世間はとかく奇異なことを好み、 そうした連中があたかも賢者であるかのように持ち上げる。 と

唐の杜甫にしても、 のん べ

詩を得意とする八人の呑兵衛を詩に詠み、 酒樽を見るとすぐに涎を流したり、 頭に冠を載せない無作法なことを平気でしたり、 「酔うとは禅に逃れることなり」と言ってみせたりした人を、 あたかも仙人であるかのように称えた。 第 3 章:2


自由訳蘇東坡詩集抄

最も笑うべきことではなかろうか。 私はいまこのように思う。 「飲んでも飲まなくても、 心の月は白く輝いて常に全き円であるのがよい。 時に客人があれば酒を酌み、 そうでなければ、酒を強いて去らずとも忘れていればよろしい」 我が一族の蘇先生が深い心で、 ふたかめ

百里の遠方から二甕のお酒を送って下さった。 そこで私はこう申し上げたい―― 「私はお酒はいただきません。世間が同じでも私は異なります」 なんぞと言ってお高くとまるよりは、 同じとか異なるとか論じるのに疎い方がましで、 か ん じ ん かなめ

ごたごた言えば言うだけ肝心要のものを失ってしまうのだ。 結局のところ、 酒があるなら辞退しないのがよろしいわけで、 醒めているのと酔っているのとどちらがよいかなどと、 理屈をこねる必要はないのである。 (この詩は、結局のところ何が言いたいのかよくわからないところがある。たくさん の故事をもとにあれこれ思索する過程を楽しめばよいのだろう。この詩には典拠とす るものが多数あり、それらをきちんと踏まえた説明を加えるのは煩わしいので、大意 第 3 章:3


第3章 不本意な歳月

が通じる程度に大まかに訳した)

■夜宿秘閣呈王敏甫 蘇軾はまた試験を受けた。家柄によらない実力社会に必須の要素が試験 であると、国家として強く認識したのが宋代の特質で、蘇軾はその申し か ん しょく

子であったということもできるだろう。今度の試験は館職を得るための もので、館職とは実際の業務に携わる職掌を意味するものではなく、い わば仮想的な皇帝のブレーン集団の一員であることを示し、館職を授か ると、将来は大臣、宰相へと昇る道が開かれる可能性が非常に大きくな ちょく し か ん

る。蘇軾はこの試験にも合格し、館職の中の「直史館」の一員となった。 以来、蘇軾の肩書には必ず「直史館」の 3 文字が加えられ、並みの官僚 とは異なることが一目で知れた。 よいことばかりが続くものではない。5 月 28 日に妻がこの世を去った。 妻の助力がなければ鳳翔での 3 年間はかなり違っていたであろうと推測 されるくらいに妻の存在は大きく、妻の死は蘇軾にとってかなりの打撃 となった。鳳翔ではあれほどたくさんの詩を詠んでいたのに、都ではこ れといった詩がないのはその影響なのだろう。このころの作と推定され ているのは次の詩くらいしかなく、これは当直として宮中で夜を過ごし おうびん ほ

たときに詠んで、王敏甫という同僚に見せたものだ。

第 3 章:4


自由訳蘇東坡詩集抄 ほ う ら い さ ん

え いしゅうざん

遥か東の海に浮かぶという蓬莱山や瀛州山、 そこにある神仙の宮殿と同じく、 ここ大宋の皇城は俗世間の塵から遠く隔たり、 皇帝がお好みになる天上界の香りが、 私の宿直する建物にも漂ってきている。 冷たい光が宮殿の瓦に注がれているありさまは、 おしどり

月光のもとに鴛が伏すかのようであり、 淡い靄が高い楼閣になびいているありさまは、 おおとり

雲の内に鳳がわだかまるかのようである。 夜の更け行くのをここで過ごす私は、 古今の治乱を論じる相手もなく、 ただ一人で少々の酒と向き合うだけである。 隠者の最たる者はあえて山に隠れるまでもなく市中にいるという。 ならば、ここ皇城の内にあっても、 夜空を飛ぶ鶴を見上げ、 暁に鳴く猿の声を聞く情趣は、 味わえないことはないのであろう。 (宮中を仙界に譬えるのは詩における一つ約束事のようなもので、この詩は精彩に欠 けるようだ)

第 3 章:5


第3章 不本意な歳月

■妻王氏墓誌銘 じ へい

そ しょく

治平3(1066)年、蘇軾31 歳。 そ じゅん

妻の死から1年も経たないこの年の4月25日に父の蘇洵が亡くなった。 蘇軾は妻と父の棺を船に載せ、弟とともに郷里に帰り、2 人を葬った。 おうふつ

妻の王弗の墓誌銘を蘇軾自身が書いた。

ちょう

おう

治平二年(1065)五月二十八日、趙郡の蘇軾の妻王氏は都で死去した。その七 び

ほうざん

あんちんごう

日後、都の西で仮に棺に納めた。翌年の六月、眉州の東北の彭山県安鎮郷 か りゅう り

の可竜 里にある母の墓所の西北八歩のところに埋葬し、私蘇軾がこの墓誌銘 を記した。 いみな

ふつ

せいしん

おうほう

君の諱は弗。眉州の青神の人で、郷試に合格した王方の娘として生まれ、十六 まい

歳で軾のもとに嫁いで来た。子は邁がいる。 君は嫁す前には、君の父母に仕え、嫁してからは我が父と母に仕えた。いずれ きんしゅく

のときも謹肅との評判を得た。 嫁したその初めは、書物を知るとは自分からはひと言も言わなかった。軾が書物 を読むとき、君はずっとそばにいて、音読するのを聞いていた。理解しているかどう かはわからなかった。その後、軾に忘れたところがあると、君はすぐに思い出させ てくれた。他の書物について尋ねてみると、どれもおよそのことを知っていた。それ で君が賢く慎ましやかであると知った。 軾が官職を得たのに伴って鳳翔に来てからは、軾が外で為すことを、君は問うこ 第 3 章:6


自由訳蘇東坡詩集抄

ともないのに詳らかに知っていた。 君はこう言った。 「あなた様はいまお父様から遠く離れています。よくよく慎まなければなりません」 君は、我が父が私を戒めた言葉を日々に語ってくれた。 軾が客と外で話すのを、君は壁の向こうで聞いていて、客が帰ると客とのやりとり を再現してこう言った。 「あの人はいつもどっちつかずのことしか言いません。あなた様がどう思っている かを見て、それに合わせようとしているだけです。そのような人の言うことは聞くに値 しません」 あるいは、軾と一生懸命に親しくなろうとしている人がいると、君はこう言った。 「あの人とはきっと長くは続かないでしょう。すぐに意気投合するような人は、離れる のもきっと速いのです」 いつも君の言った通りになった。 君が亡くなるまでの一年の間、思えば耳を傾けるべきことがたくさんあった。見識 豊かな人と同じであったのだ。 君が死去したのはまだわずかに二十七歳であった。君が死去すると我が父はす ぐに軾に次のように命じた。 「君の妻が君の艱難に従ったことを忘れてはならない。いつか必ず君の母の近く に埋葬するのだ」 それから一年で我が父は亡くなり、軾は謹んで我が父の遺令に従って君を葬っ 第 3 章:7


第3章 不本意な歳月

た。 君はこの墓地で我が母にまみゆることとなった。私は我が母に会うことはできない。 ああ、哀しいことである。私は永く母に仕えることができずにいる。君は死んだとは いえ、我が妻としての勤めを為すことができる。だから傷まずともよいのか。ああ、 哀しいことではないか。 (冒頭に「趙郡の蘇軾」とあるのには少々理由がある。父の蘇洵が先祖の事績を調べ、 その名がはっきりと知れたのは蘇軾から 5 代前まであったことは第 1 章 38 ページで そくてん ぶ こう

見たが、そのまた遠い祖先は、則天武后(中国史上唯一の女帝)の時代に宰相となっ そ み どう

た蘇味道に遡るとした。蘇味道は文名は高かったものの、政治家としての評判は芳し くなく、則天武后の時代が終わると都を追われて眉州に左遷された。その子孫がその らんじょう

まま住み続けたのが眉州の蘇一族の始まりだというのだ。 蘇味道は趙州欒 城 県の出身 らん

であったので、蘇軾は時として「趙郡の蘇軾」と称し、弟の蘇轍は自分の詩文集に「欒 じょう

城 集」と名付けた)

■蘇廷評行状 蘇軾と弟の蘇轍は、父が亡くなってから足掛け 3 年の喪に服した。服喪 おおやけ

期間は悲しみにひたるだけというのが孝の原則で、 公 の仕事から完全 に離れ、詩を詠むこともなかったようだ。一方で、父母や先祖の事跡を お う よ う しゅう

記録に残そうとし、都を去る前に、父の墓誌銘を恩人の欧陽脩に、母の し

ば こう

墓誌銘を司馬光に依頼し、それぞれ資料を提供して書いてもらった。 第 3 章:8


自由訳蘇東坡詩集抄

(母の墓誌銘は第 1 章 70 ページですでに見たので、ここでは欧陽脩が記した蘇洵の 墓誌銘を見ておこう。 しょく

いみな

じゅん

あざな

めいいん

蜀に一人の君子がいて、蘇君といった。蘇君の諱 は洵、字は明允、眉州眉山の人であ る。 蘇君は義を行い、一家をきちんと修め、郷里の人々に信望があり、広く蜀において知られ ることとなった。 お う よ う しゅう

そ しょく

そ てつ

私歐陽修は、蘇君が二人の息子、蘇軾と蘇轍を連れて上京した際に、蘇君が書き著した 文章二十二篇を得て、朝廷の人々に配った。皆は争うようにしてそれを次々に別の人に読 ませようとした。二人の息子は(科挙の)進士科に及第し、しかも成績は上位だった。二人 の息子の文章もまた世に称賛されるところとなった。 眉山は都から西南に数千里の彼方にあり、蘇君父子の名はその地に隠れていたのが、 一日にして都の人々に知られるところとなり、父子三人の文章はついには天下を席巻する に至った。 蘇君の文章は広い知識に裏打ちされ、力強く、普遍性があり、読む者はぞくっと恐ろしいば かりに感じて、これは一体どのような人が書いたのだろうかと想像せずにはいられなくなる。 ところが、実際に蘇君を見ると、あまりぱっとせず、とても鋭いことを言いそうにない。話をし てみて、一緒にしばらくいると、次第に敬愛すべき人だと思えてきて、ふともらす言葉にはっ と感じるところがあり、ならばと問うと、尋ねれば尋ねるだけ無限に答えが返ってくるようにな るのである。 じゅん め い と く じ つ

ああ、この蘇君こそは純明篤実の君子というべきである。 第 3 章:9


第3章 不本意な歳月 そ ゆう

そ こう

そ じ ょ

蘇君の曾祖父を蘇祐といい、祖父を蘇杲といい、父を蘇序という。三代にわたって世に顕 そ たん

そ かん

れることはなかった。蘇序に三人の息子があり、蘇澹、蘇渙、蘇洵といい、蘇渙は進士に 及第した。 蘇君は勉学を好まず、壮年に至っても書物を手に取ることがなかった。父はそのような蘇君 を自由にさせていたので、郷里の親族は訝しく思い、どうして放置しておくのかと、ある人が 尋ねた。父は笑って答えなかった。蘇君もまた気にすることがなかった。 蘇君は二十七歳になると、突如として発奮し、それまで付き合っていた連中と交わりを断ち、 家に篭って書物を読み、文章を書く練習を始めた。歳月を積んで科挙に挑み、二度落第 した。制科にも挑んで失敗し、故郷に帰って、こう言って嘆いた。 「受験のための勉強は学ぶに値しない」 それまで書きためた数百篇の文章を全て燃やし、門を完全に閉ざして書物を読み耽り、数 年の間は筆を持たず、文章を作ることはなかった。儒学の経典、諸子百家の著作等々を 大いに究め、古今の治乱成敗は何によるのか、聖賢の窮達出処の機微はどこにあるの かを考え抜き、その本質を把握し、溢れるほどに知識を蓄えても、なおそれを抑えて、内より 外に出すことはなかった。 長い時間を経て、あるとき、 「もうよかろう」 そのような思いがふとよぎると、筆を手に持ち、たちまちにして数千字の文章が生まれた。 書けば書くほど、縱にも橫にも、上にも下にも自由自在に動きまわって,出ては入り、速く駈 け、遠く駈け、必ず深くまた細微なところに至って初めて止まるのだった。 第 3 章:10


自由訳蘇東坡詩集抄

思うに蘇君の才能は豊かで、その発露が遅かったのは慎ましやかであったからで、ひとた び時機を得るや、真髄を掴み取ったのである。 蘇君が都に来ると、人々は一斉にその賢を尊び、その文章を規範とした。父子三人が揃 ろ う そ

って名を知られたことから、特に「老蘇」と呼ばれるようになった。 し

び かく

始めに私は蘇君の文章を皇帝に差し出し、紫微閣の一員に招こうとしたのだが、蘇君は辞 退した。そこで秘書省校書郎の職を用意した。たまたま宋朝が始まって以来の礼に関する は

書物を編集する作業が始まっていたことから、蘇君は霸州文安県主簿という名目上の職 たいじょういんかくれい

に就いた上で、その編集作業に従事し、『太常因革礼』一百巻を完成させた。ところがそ の書を皇帝に差し出して労が報われる前に、蘇君は亡くなってしまった。没したのは治平三 つちのえ きのえ

こうろ く じ じょ う

年四月 戊 甲、享年五十八であった。皇帝はそれを聞かれると哀れみ、光祿寺丞の名 誉職を贈り、公費で船を用意させ、その棺を載せて蜀の地に葬るように命じた。 ていぶんおう

けいせん

蘇君は程文応の娘を娶り、三人の男児が生まれた。長男の景先は早くに亡くなり、次男は まい

軾、三男は轍である。三人の女児が生まれたが皆早くに死んだ。孫は邁と遅がいる。文 し ほう

集二十卷と『諡法』三卷がある。 蘇君は人とよく交わり、人の危難をよく救い、ある人が死んで孤児が残ったときには憐れん で養ったので、村の人々は蘇君には徳があると称えた。 え き きょう

蘇君は最後に『易経』を好み、 「『易経』は深遠な書物で明らかになっていないところが多くあり、これまで学者は牽強付 会の説を出して混乱させるばかりであったので、それを取り除くことで聖人の本来の主旨が 明らかになる」 第 3 章:11


第3章 不本意な歳月 えきでん

と言って、『易伝』という著作に取り組み、しかしまだ完成に至らなかった。 みずのえ さ る

ほう

あ ん ち ん きょう か り ゅう り

治平四年十月 壬 申、蘇君は彭山の安鎮郷可竜里に葬られた。 蘇君は遠い田舎に生まれ、学問が成るのが遅かったことを常に嘆いていた。 「私を知る者は、ただ吾が父と、歐陽公だけだ」 だから私以外に墓誌銘を書く者はいないのだ。 その銘に曰く、 ら ん じょう

蘇氏の先祖は唐の世に顕れた。それは欒城の人で、官の仕事で眉州に来てそこに留まり、 子孫が繁栄して、曾祖父のころから郷里においてその仁徳が称賛されるようになった。偉 大にして明らかな蘇氏の才は蘇君に至ってその文章において大いに発揮された。蘇君に は文章があり、さらにその子があった。朽ちることのないものを遺し、その子孫はいよいよ盛 あざな

めい いん

んになるだろう。ああ、君の字は明允、その通りに明らかにして亡びることはないというべき である。 (蘇洵の兄の蘇渙の伝記は、第 2 章 114 ページですでに見たように、後に蘇轍が書い ている)

そ じょ

蘇軾は服喪期間中に祖父の蘇序の伝記を書いた。

いみな

じょ

あざな

ちゅう せ ん

ちょう

らん

公の諱は序,字は仲先,眉州眉山の人であった。その先祖は趙郡の欒 じょう

そ きん

城からきたようだ。公の曾祖父を蘇釿といい、祖父を蘇祜といい、父を そ こう

蘇杲といった。その三代はともに官に仕えることはなく、皆世に隠れた 第 3 章:12


自由訳蘇東坡詩集抄

徳があった。曾祖父の代から、義を為し施しを好んだことで郷里に知ら れ、公に至ってますます評判が高かった。しかし公は、自分は先祖に及 ばないと思っていた。 けんとく

公の父は唐王朝の末に生まれ、 周王朝の顕德年間に亡くなった。 その頃、 おう

もう

蜀の地では、王氏と孟氏が順に皇帝を称していたが、公の父はその朝廷 に仕えることはなかった。 せい と

公の父はかつて蜀の都の成都に遊び、ある道士に出会った。道士は人を 遠ざけて公の父だけにそっとささやいた。 「若い人よ、君には優れた徳がある。わしと君にはある縁がある。わし は百物を変化させる薬方を会得した。世が乱れてもこの薬方があれば自 分の命を全うできるだろう」 そう言って、その術を授けようとした。 公の父は笑い、 「僕はそれを学ぼうとは思いません」 道士は驚き、 「わしは天下を往来し、誰にもいまのようなことを語ったことがない。 わしは何でも分かっていると思っていたが、君が学ぼうとは思わないと 言ったのはまことに思いもよらなかった」 道士はそう言って去り、それっきり会うことはなかった。 公は若いときから、大らかで小さなことにこだわらず、本を読んで大略 第 3 章:13


第3章 不本意な歳月

がわかればそれでもう閉じてしまった。 人より一歩下がり、 施しを好み、 人が危難に遭遇すると、自分自身に対してする以上の面倒を見た。衣食 に少しでも余裕があると、人のためにすぐに使い、たちまちにしてなく してしまうのだった。それでいつも困窮し、しばしば飢えと寒さに困ら された。それでも一度も悔いることはなかった。施して残りがあると、 「これは困っている人のための使い余しだ」 と、いよいよ惜しむことはなかった。 ある凶作の年に、公は農地を売って飢民を救った。豊作の年が巡りくる と、助けられた人は公のために農地を買い戻そうとした。公は言った。 「私はもともと売りたかったから売ったまでだ。そなたのために売った のではない」 公は、知り合いであろうがなかろうが、人とすぐに打ち解け、笑って腹 蔵のない話をした。つまらない人間が公を侮り欺いても、怒ることがな かったので、人々は不思議に思った。 り じゅん

宋の統治が蜀に及んだ初めに、李順が反乱を起こし、眉州は反乱軍に攻 囲された。公はこのとき二十二歳で、武器を手に城壁の上で戦った。反 乱軍の攻撃がいよいよ厳しくなったときに、たまたま公の祖父が病気で 亡くなり、家族は泣くばかりでどうしたらよいのかわからなかった。公 だけは落ち着いて死者を送る礼を尽し、そのありさまは平和なときと変 わらなかった。祖母がひどく気落ちしていたので、公はごく穏やかにこ 第 3 章:14


自由訳蘇東坡詩集抄

う言った。 「朝廷が民を見捨てることはありません。賊は必ず破れます」 実際に反乱はすぐに収まった。 けいれき

その後の慶暦年間に、皇帝は州や郡に対して学校を建てるよう詔を下し た。蜀の人々は、朝廷が蜀の人を採用してくれるようになると喜び、学 校ができたら自分の子弟を真っ先に入れようと待ち構えた。 公は笑って、 「お偉いさんが格好を付けたいだけのことだ」 と言い、子供等が入学しようとしても止めた。 このころ郡吏は横暴で、民を苦しめたので、公はそれを批判する詩を作 った。 そ かん

子の蘇渙が朝廷に仕え、公は大理評事という名誉職を授かった。慶暦七 び ざん

しゅう

年五月十一日に家で亡くなった。七十五歳だった。八年二月に、眉山県修 ぶ ん きょう あ ん ど う り

文郷安道里の先祖の墓の近くに葬られた。職方員外郎を贈られた。 し

史氏を娶り、史夫人は公に先立つこと十五年で亡くなった。公が亡くな ほうらい

たいくん

ったときに、蓬莱県太君を贈られた。 せん

三人の男子がいて、長男が澹で、官に仕えることなく、公に先立って死 んだ。 次男が渙で、科挙に合格して官員となった。渙は赴任したところで必ず よい評判を挙げ、任地から去ると、人々は渙を偲んだ。ある人は、渙を 第 3 章:15


第3章 不本意な歳月 り

漢の時代の優秀な官吏になぞらえた。利州の任地で官職に就いたまま亡 くなった。 じゅん

三男が軾の父、諱は洵である。洵は霸州文安県主簿で終わった。 ろ う

渙が蜀の閬州の知事になったときに、眉州からほど遠くないことから、 公はその仕事ぶりを見に行った。渙がきちんと正しくしているのを見て 喜び、数日間そこに滞在した。閬州の人々は、公が賢人であるのを見て 喜んだ。 公は晩年に詩を作るのを好み、 巧みであることは求めず、 いつも即興で、 自分の思いをそのままに詠んだ。亡くなったときには数千首の詩が遺さ れた。 と すいゆう

せきようげん

娘が二人いて、長女は杜垂裕に嫁ぎ、次女は石揚言に嫁いだ。男子の孫 い

ふん

が七人いて、位、份、不欺、不疑、不危、軾、轍という。 唐が滅んで五代の乱れた世になったとき、蜀では学問をする者が少なく なり、学問をしても郷里に留まって敢えて出仕しようとはしなかった。 公がその子の渙に学問をするよう命じると、 学んで至らないことはなく、 渙はついに進士に及第した。渙が官員となって郷里に帰って来ると、土 地の人々は皆で出迎え、その栄えある姿を見て、蘇の家の子に見習って 学問をするよう子供等に教えた。これより眉山県では学問をする者が千 余人にまで増えたのである。 しかし、軾の父だけは学問に目を向けず、壮年に至っても書物を手にす 第 3 章:16


自由訳蘇東坡詩集抄

ることがなかった。公はそのような息子に何も言わなかった。ある人が 「どうして放っておくのですか」と問うと、何も答えなかった。しばら く後になって、 「息子は学ばずにはいられなくなるだろう」 と、言った。すぐにその通りになり、軾の父は学問に努め、ついに世に 名を顕した。 公に見識があり、人に施すことは郷里の間で知られていたが、世の中で 大きな仕事をしたわけではなかった。特に幸運を得ることはなく、世間 にその名が聞こえるようなこともないままに老いて亡くなった。 しかし、 その功名は小さなものであったのだろうか。 古の賢人、君子にも、やはり名が顕れることなく、世に伝えられること がなく終わった人達がたくさんいた。我々が知るのはごくわずかな者だ けだ。公に伝えられることがないのは、ただ公が僻遠の地で一生を過ご したからだけではなく、その子孫が公のことを人に語ろうとしなかった からだ。だから、その始めから終わりについて、為したことの大略をこ こに記録し、もって当世の君子にお見せするものである。

■外曾祖程公逸事 この文章はずっと後年になって書かれたものだが便宜上ここに訳出して ていじん は

おく。母の祖父の程仁覇の一つのエピソードを記している。 第 3 章:17


第3章 不本意な歳月

公の諱は仁覇、眉山の人である。仁者で、郷里の人々に厚く信頼されて いた。 蜀の地が宋朝の統治下に組み込まれたとき、都の人々は遠くまで赴任す るのをいやがり、そのために蜀では官員が不足した。そこで、地元の人 間できちんと仕事のできそうな者を選んで臨時の官職に就けた。公もそ の一人となり、眉山県の参軍という職に就いた。 じょう

盗賊を捕えるのが役目の尉の職にある者が、ある盗人を掴まえた。盗み をしたのは確かで、たまたま持っていた刃物で誤ってその家の主人を傷 付けてしまっていた。そこで、県尉はその盗人を、強盗殺人を繰り返す 極悪人に仕立て、自分の手柄を大きく見せて褒賞を得ようとした。県尉 は獄吏と組み、盗人に拷問を加えて目論見通りに白状させた。 県知事の判決がこれから下されるときに至って、盗人は役所の廊下で泣 き続け、その衣がぐしょぐしょに濡れるほどであった。そこに公が通り かかり、話を聞いて、これは冤罪であると知った。 それで盗人に言った。 「おまえは、これは冤罪であると知事に訴えろ。そうしたら、私がどう にかしてやる」 盗人が言われた通りにすると、公が脇から力を添えたので、知事はもう 一度調べ直すよう命じた。 第 3 章:18


自由訳蘇東坡詩集抄

公は冤罪であると主張した。しかし、県尉と獄吏は徹底して争い、とう とう盗人は死刑になってしまった。そのために公は官職を失い、郷里に 帰った。 それから一カ月の内に県尉も獄吏も急死した。 さらに三十余年後、公は白昼、そのときの盗人が庭先に座ってこちらを 拝んでいるのを見た。盗人はこう言った。 「あっしはあれからずっと閻魔様の前で県尉と獄吏と白黒争ってまいり ましたが、やつらはいまだに自分達の罪を認めようとしません。あっし はあなたさまのお越しを待って決着を付けようと思っていました。閻魔 様は早くにあなたさまを呼んで、結論を急ごうとしましたが、あっしは 『我が恩人を驚かせたくない』と反対しました。しかし、今日に至って あなたさまの御寿命が尽きることになりましたので、あっしはあなたさ まを閻魔様のお裁き場へとお連れしたいと思います。お裁きが終わりま したら、あなたさまは必ず天に昇られ、御子孫はきっと繁栄いたしまし ょう」 盗人は消え、公は見た通りを家の者に告げると、沐浴し、正装して横に なり、そのまま亡くなった。 私蘇軾は幼いときにこの話を聞いた。そのときはすでに曾祖父は九十歳 で亡くなった後だった。

第 3 章:19


第3章 不本意な歳月

■四菩薩閣記 き ねい

熙寧元(1068)年、蘇軾 33 歳。 おうかい

この年の 7 月に喪が明けると、親類に勧められたのだろう、蘇軾は王介 お う じゅん し

おうふつ

の娘の王閏之を後添いとして娶った。最初の妻の王弗と同族の娘である。 妻が亡くなった後に、その妹や従妹と再婚するのはかなりよくあること だった。 10 月に、蘇軾がかつて父にプレゼントした画を納める建物が完成し、そ れを記念するこの文章を記した。

私の父は元来、物の好みがなく、何もない部屋であたかも斎戒しているかのよう に静かに過ごし、ときたま言笑するだけだった。それでも画だけは好み、父の門弟 は父を喜ばすのが難しいので、父の好みそうな画を持って来て、どうにかして父の 喜ぶ顔を見ようとした。それで、父は庶民でありながら、公卿のようにたくさんの画を 所蔵するようになった。 げん そ う

かつて長安に、唐の玄宗皇帝が建てた仏教の経典を納める堂があった。四方 ご

ど う

ぼ さつ

てん

に扉があり、八枚の扉の板に呉道子が画を描き、表側には菩薩が、裏側には天 の う

こ う そ う

王が描かれ、全部で十六体の像があった。唐末に黄巣の乱に遭い、賊の放っ た火がその堂に迫った。その名は忘れてしまったが、ある僧が、兵火の中から四 枚の板だけを抜いて逃げた。ところが、重いし、うまく背負うこともできなかったので、 賊に迫られて全部を失ってしまうのを恐れ、二枚を荷台にして二枚を運び、西の 第 3 章:20


自由訳蘇東坡詩集抄 ほ う しょう

鳳翔にまで逃げた。とある僧舎に身を寄せ、板をそこに留め、それから百八十年 が経過した。この板をある商人が十万銭で得て、私のところに見せに来た。私は それを手に入れ、父に贈った。父の手元にはすでに百余りの画があったが、この 四枚の板を手にしてからは、これが一番であると思うようになった。 べん が

わい が

治平四年、父は都で亡くなり、私は都から船で汴河を下って淮河に入り、さらに長 江を遡って郷里に帰った。そのときに四枚の板も船に載せて持ち帰った。 い かん

服喪の期間を終えると、いつも親しくしている僧の惟簡がこのようなことを言った。 「愚僧は、師よりこのようなことを教わりました。故人が最も大切にしていたものを惜 しまずに喜捨するのが最も功徳のある行為です」 私はその説を用い、父が最も愛していて、私が捨て去るに最も忍び難い物といえ ば、四枚の板以上の物はないので、それを寺に喜捨することにした。 そこで惟簡に向かってこのように言った。 「これは唐の皇帝が守り切れず、賊によって焼かれてしまいそうになりました。まして 私などが守れるはずがありません。天下にたくさんの物を蓄えている人を見ますに、 三代にわたって守れた者がどれだけいるのでしょうか。そもそも始めは、それが欲し くてもなかなか得られないのを苦しみ、得てからはただただ失うのを恐れます。そ れなのに、その子孫に至ると,衣食に替えずにおくことは稀です。私は自分で考 えるにこれを長く守ることはできませんので、貴僧に差し上げようと思います。そこで 伺うのですが、貴僧はこれをどのようにして守るお考えでありましょうか」 惟簡はこう言った。 第 3 章:21


第3章 不本意な歳月

「我が身に代えて守りましょう。我が眼を潰されても、我が足を切られても、この画 は決して奪われないよう守ります。このようにすればよろしかろうかな」 私は言った。 「それでは十分はありますまい。貴僧が生きておられる間だけしか守れないではあ りませんか」 惟簡は言った。 「御仏にお願いし、鬼神に守ってもらいましょう。これを取って人に与えようとする者 は仏法によって罰せられます。このようにして守るのならばよろしかろうかな」 私は言った。 「それでも十分ではありますまい。世には仏を信じない者、鬼神を蔑む者がおりま しょう」 「ならば、どのようにしたら守れるのでしょうかな」 「私が貴僧にこれを与えるのは、父にために喜捨するのです。天下には父のない 子はいません。父のためであると知って、取ろうとする者がいるでしょうか。もしそう だと知っていながら、画を見るだけでなく、自分の欲を叶えようと取ってしまうのは、 その愚さにおいて、黄巣の乱で焼いた賊と同一でありましょう。それほど愚かであ れば、子孫が生きながらえるのは難しく、まして画を所蔵し続けることなどできるわ けありません。取るか取らないかは人によるとしても、貴僧に託すこの画はそもそも 取ることのできない物なのです。貴僧はこの画を守るために何を勉めたらよいの かといったら、取ってはならない物であると、そのことを示すだけでよろしいのでは 第 3 章:22


自由訳蘇東坡詩集抄

ありませんかな」 こうして惟簡に画を与えたところ、惟簡は百万銭で大きな建物を作って画を内に納 め、その上に我が父の画像を置いた。私はその費用の二十の一を負担し、翌年 の冬までに完成することを期待した。 かくて熙寧元年十月二十六日にこのように記した。

■和董伝留別 き ねい

熙寧2(1069)年、蘇軾 34 歳。 先の文章を記した直後に、蘇軾と弟は眉州を発って都に向かった。故郷 を離れるに際し、先祖の墓所の管理など、蘇家のこと一切を蘇渙の息子 たちに託した。そのときには全く予期しなかったのだが、それ以降、蘇 軾は故郷には戻れなかった。 今回の眉州から都への旅は、第 1 章で見た長江を下るルートではなく、 ほ う しょう

ちょうあん

陸路、鳳翔から長安を経由する北回りのコースをとった(10 年余り前 に父に連れられて科挙を受けに都に上ったときと同じ) 。 官員としての最 せきそうじょ

おう

初に赴任地であった鳳翔では大勢の人に歓待され、長安でも石蒼舒や王 き

頤を初めとして数多くの人々と会った(第 2 章 118 ページで見た「酔道 士図」の跋文を書き足したのは今回の訪問のときである) 。 とうでん

長安で新年を迎え、出発しようとしていたときに、董伝がみすぼらしい 姿で訪ねてきた。その董伝の詩に和したのがこれである。 第 3 章:23


第3章 不本意な歳月

(董伝とはかつて鳳翔時代に面識があった。董伝は科挙を目指していて、自作の詩文 を見せて蘇軾の指導を仰ごうとした。その作風は極めて古風で、蘇軾の文学観とは合 と

致せず、杜甫の詩を学ぶよう助言した。 今回都に向かう途中で鳳翔に立ち寄った際に、董伝が父を喪い極貧の内にあるとの噂 ば せいけい

を耳にし、董伝の郷里に人(恐らく馬正卿)を送って弔意を伝えた。 かんき

董伝は蘇軾の前に姿を現すと、自分は間もなく韓琦の推薦によって朝廷に出仕できる とか、そのことを聞き知った大金持ちが婿にしてくれるとか、およそ不可解なあれこ れを並べた。韓琦は元の宰相で、先頃皇帝が代替わりして政情が大きく変化したのに 伴って朝廷から外に出てちょうど長安にきていて、蘇軾も年末に会っていた。いまの 韓琦の立場からして、 無名の人物を朝廷に推薦するとは全く考えられないことだった。 蘇軾は董伝の話を無下には否定せず、別れ際に董伝を励ますこの詩を渡した)

たとえ身には粗末な衣服を纏って生涯を送っても、 詩文を納めた腹の内はいつでも華やかである。 行く行くは落ち葉を拾い集めて豆を煮て暮らすような老学者となるのを嫌い、 科挙の合格者の中に身をまじえて春の花盛りを満喫しようとした。 しかしながら、春の野を駆け廻る馬を用意する銭が懐になく、 婿選びをする大官が目を止めてくれないかと虚ろにあたりを見回した。 我が意を得られさえすれば、きっと世間に誇れるはずだ。 朝廷に召そうと、黒々と記された詔書が必ずや届くであろう。 第 3 章:24


自由訳蘇東坡詩集抄

(その後、都に着いて間もなく、董伝は死んで、遺された家族は貧窮のために葬るこ とさえできずにいると、その地の役所から蘇軾に知らせてきた。遠い都にいては何も できないので、蘇軾は韓琦に支援を請う手紙を書いた。その手紙では、董伝が生前語 っていたことを(貧苦の余りの妄想と疑いつつも) 、事実として認識しているようなそ ぶりで記している)

■送任伋通判黄州兼寄其兄孜 おうあんせき

蘇軾と弟は2 月に都に着いた。 ちょうどそのとき王安石が副宰相になり、 しんそう

神宗皇帝のもとで国政の大改革が本格的に始まろうとしていた。 じんそう

(神宗皇帝は、蘇軾が喪に服している間に 20 歳で即位し、先々代の仁宗皇帝の頃か ら先送りになっていた種々の問題を一気に解決しようとの強い意志で国政に臨み、王 ふ ひつ

安石を大抜擢した。朝廷の重臣連中(韓琦や富弼といった人々)は王安石と意見が合 わず、続々と朝廷を去って行った) (蘇軾と弟は、都に着いた当初、神宗皇帝と王安石からは改革を担う若手官僚の一員 となることを強く期待され、蘇軾は皇帝の秘書集団の一員に加えられ、蘇轍は改革を 実施するための法案を詳しく検討する部署に配属となった。改革について詳しく知る につれて 2 人は種々の疑問を抱くようになり、兄弟それぞれの視点から問題点を指摘 し、次第に改革に反対する中心人物と目されるようになった)

この詩は、 改革に反対する意見をまだそれほど述べていなかったころに、 にんきゅう

郷里の先輩の任伋が都を出て行くのを見送ったときのもの。任伋は兄の 第 3 章:25


第3章 不本意な歳月 にん し

任孜とともに科挙に合格し、郷里の偉人として「大任」 、 「小任」と呼ば れていた。この詩には兄の「大任」へのメッセージも込められている。 なお、10 年余り前に「大任」に会ったときの詩が第 1 章 12 ページにあ る。

にん こ う

任公兄弟は我が州の豪傑である。 若かりし頃は、一日に千里を走る馬のように意気盛んで、 人脈など不要と、我が道を歩んだ。 残念なことに、要路の誰かに知られることなく、 その才能が十分に活かされないまま老境に達してしまった。 小任公とはこの前お会いしてから十年、 いまも学び続けて万巻の書を読破し、 その詩はますます美である。 こうしゅう

これから行かれる黄州は峡谷に挟まれた小さな郡で、 葦原や竹林の中に、茅葺屋根の家が数軒ばかしあるという。 どのようなところに置かれても、 己の天命を知る者は憂いたりしないものだ。 恥じなければならないのは賢人を推薦しない者どもだ。 へいせん

平泉県におられる大任公はさらにうら悲しいといえようか。 六十歳にしてなお書生のような貧乏暮らしだ。 第 3 章:26


自由訳蘇東坡詩集抄

かつて民衆から慕われた地に葬られるのならそれで十分とひそやかに願うのか、 それとも、もはや誰に遠慮することなく振る舞うべきなのか、 一生の終わりどころを考えておられることだろう。 小任公に託して大任公に我が思いを伝えたい。 獰猛な鷹に向かって、俺にだって爪があると、 威勢を張るようなことだけはなさいませんように。 (任兄弟が不遇であるのは、改革に対する姿勢も影響していたのだろうか。この詩か ら、蘇軾は「獰猛な鷹」に立ち向かう決意を固めつつあったと読み取ることも可能だ ろう)

■秀州僧本瑩静照堂 この頃は政治的抗争が激化する前でまだ精神的な余裕があったようで、 しゅう

え くう

せいしょうどう

このような詩もある。秀州から都にきた慧空が、静照堂を建て、その意 味するところを(さも自慢げに)語ったのを聞いて。

鳥は囚われても飛ぶことを忘れない。 馬は繋がれても走ることをいつも思っている。 貴僧は堂に「静照」の名を付け、 静かに身の内を照らし見ることの意義を説く。 鳥や馬は、静の中に置かれてじっとしていられるだろうか。 第 3 章:27


第3章 不本意な歳月

飛びたい走りたいとの思いに任せるのがよいのではなかろうか。 世間の人は俗事はわずらわしいと言う。 しかし、俗事がなければないで悲しく思うものだ。 世間の人は貧乏は身を疲れさせるので勘弁だと言う。 しかし、富貴になればなったで精神を消耗させるようなことがあるものだ。 貴僧は「静照」を誰と一緒に実践したいのか。 市井に隠遁して、このまま老いて死んでも悔いはない、 何より楽しいのは、小さな舟を浮かべ、それに身を任せることだ、 などと言う人達か。 そう言っている者だって、 時が巡りくるなら世に何がしかの働きをしたいと思っていたりするものだ。 それは貴僧がいう「静照」の仲間ではないだろう。 まして私に向かって説いても何にもならない。 (原詩はこれほど露骨ではなく、慧空に敬意を表していると読むこともできる。蘇軾 には、人によって受け止め方がかなり異なるであろうような、ユーモアなのか皮肉な のか、微妙というかむしろ危険な表現をしてしまうところがある。言わずもがなの言 葉を発して人を怒らせ、怨みを買うことが少なからずあった)

■石蒼舒酔墨堂 せきそうじょ

しょ

都にくる途中の長安で、石蒼舒と会っていたのだが、石蒼舒は書の収集 第 3 章:28


自由訳蘇東坡詩集抄

家で、集めた書を納めるための建物をかねてから作っていて、それが完 すいぼくどう

成して「酔墨堂」と名付けたと手紙に記してきた。それへの返事の詩。

人の一生で、憂い患うことが始まるのはいつなのか。 それは、字を知ったときである。 だから、自分の姓と名がほぼ書けるようになったら、 字を学ぶのはもうやめるべきなのだ。 まして、草書の速さを誇るなど何の意味もない。 見る人の口をあんぐりと開けさせ、 どう読んだらよいのかと困らせるだけだ。 わかっていながら、私も草書をとかく速く書きたがり、 おかしなことをしていると自分で笑ってしまう。 貴公も同じ病で、いつ治るとも知れない。 何しろ貴公はこのように言っている。 「草書ほど楽しいものはない。 心が一切何物にも捉われない最高の境地と同じだ」 貴公は近頃、堂を建てて「酔墨」と名付けたという。 美酒を飲んで百の憂いを消すくらいに、 墨を用いるのは素敵だという意味なのだろう。 蓼食う虫も好き好きで、 第 3 章:29


第3章 不本意な歳月

泥や炭が御馳走に感じられてしまう病気があると聞く。 貴公が書を好むのは、なるほどそういうもので、 もしかするとそれどころではないのかも知れない。 何しろ貴公が使い古した筆は一つの丘を作るくらいになっているし、 貴公が興を催して筆を揮ったならば、 駿馬が走り出してたちまち中国全土を踏破してしまうような勢いで、 瞬時に何百枚もの紙が費え去ってしまうのだ。 私はというと、その書には型に基づく法則性はなく、 点や画はただ手の勢いによるので、 読む人にああでもないこうでもないと面倒をかけさせてしまう。 そんなものであるのに、貴公は評価してくれて、 紙の切れ端に書いた一字だけでも欲しいと言ってくれる。 貴公は、昔の草書の達人に並ぶほどだが、 私は、自分一人でうまいと誇って、世の人の首をかしげさせる下手くそ名人だ。 要するに、池いっぱいの墨を使い切るような努力をしていないのだから、 絹などは字を書くために用いるのではなくて、 布団に誂えた方がよっぽどよいのである。

■王頤赴建州銭監求詩及草書 おう き

けん

長安で会った王頤が都にきて、建州で銭を鋳る仕事をするよう命じられ 第 3 章:30


自由訳蘇東坡詩集抄

てすぐに出て行った。別れ際に蘇軾に詩と草書を求めた。王頤もまた書 の愛好家であった。 (地方官は任期を終えると一度都に戻って在任中の業務を報告し、その後で次の職を 与えられるのを待った。運が悪いと、懸命に就職運動をしても仕事にあぶれた。宋は 科挙の制度を整備し、優秀な人材を官僚組織に取り込むことに成功し、それは国家の 安定化にすこぶる役立った。野に大勢の不満分子を残さないよう、科挙では本来必要 とする数よりもやや多めに合格させ、同時に官僚のポストも増やした。ポスト数のい たずらな増大は国家財政を圧迫するまでになったのだが、それでも官職に就きたいと する希望を満たすには不足していた。王頤の場合はすみやかに次の職を得られたのだ が、不本意なところもあったようだ)

ぶ こ う

貴公と初めて知り合ったのは長安に近い武功県だった。 冬の役所に泊まって樽酒を傾け、 たけなわ

酒闌 にして灯が尽きてしまったのだけれど、 それでも話は尽きなかった。 従者は立ったまま眠りこけ、ばったりと屏風を倒した。 貴公は、不死の奥義を学ぶべきだと、熱心に私に説いた。 瞳が四角い仙人から授かったその奥義を聞かせてくれたのだが、 私は心に悟らずにいたので、 酔っての夢から醒めたら、何もかもわからなくなっていた。 第 3 章:31


第3章 不本意な歳月

それからというものは、憂患に身を削られ、 心持ちはいつも霜に枯れた草のようなありさまだ。 羨ましいのは、貴公の顔色がますます若々しくて、 外欲に引かれることが少なく、心の内側が充実していることだ。 貴公がいう奥義はこういうものだっただろうか。 か し ゃ

そ そ

「河車で水を挽いて脳の黒きに灌げ、 たん

丹砂を火に伏して頬の紅に入れよ」 都で再会した貴公は、東に行くに際してこのようにぼやく。 「いつになったら籠の鳥の身から解放されるのやら たん

せめて仙薬の原料となる丹砂の産地に赴任できればよいのに、 銅の産地で銭を鋳る仕事を仰せつかってしまったよ」 というようなわけで、離別の情を篭めてこの詩を送るのだけれど、 草書は書く暇がないので許してもらいたい。 (王頤の説く奥義はこのままでは意味不明だが、説明があったところで理解できるも のではないのだろう)

■議学校貢挙状 5 月、蘇軾は改革批判を本格的に始めた。王安石が意図する改革は多岐 にわたり、その一つに官僚を採用する仕組みの大幅な変革もあった。そ の提案があまりにも大胆だったので、皇帝は関係方面に意見を求めた。 第 3 章:32


自由訳蘇東坡詩集抄

それに応じたのがこの意見書である。 (王安石は、将来的な目標として、教育機関を充実させ、学校の卒業資格をもって科 こうきょ

挙(当時の用語では貢挙の方が一般的)に替えようとした。科挙には幾つかの科があ しん し

り(蘇軾が受けたのは進士科で最も難しく、合格者には高級官僚に昇るルートが開け る) 、それぞれで試験の内容が異なるのだが、詩賦を課したり、経典を丸暗記している かどうかを確かめたり、いずれにしても官僚としての能力を測るものにはなっていな かった。そのような試験で採否を決めるより、学校で実務能力をきちんと養った者を 官僚として採用した方が国のためになるというのが王安石の考えで、極めて合理的で いにしえ

せんおう

ある。しかも、学校制度の充実は、そもそも学校は 古 の偉大な為政者(先王、ある いは三代の王)に由来するもので、儒学に根深い尚古主義にも合致していた。王安石 はそのような大方針に基づいて官僚の採用方法を変えて行くことを提案したので、一 見すると反論が難しいように思えるのだが、蘇軾がどのような議論を展開したのか、 この意見書の見どころであろう)

学校と貢挙(科挙)の利害を検討して、おのおの意見書を出すようにとの勅書に わたくし

応じて、臣は伏して以下のように申し上げます。 人を採用する手段の基本は人を知ることにあります。人を知る手段の基本は実際 にできるかどうかを見ることにあります。国の君主と大臣に人を知るだけの才があり、 朝廷が実際の職務を課して試す政治をきちんと行っているのなら、末端の役人に 至るまで適切な人間がそこにいないということはなく、まして学校や貢挙において 第 3 章:33


第3章 不本意な歳月 わたくし

不都合が起こるはずもありません。その場合には、臣が思いますに、学校や貢 挙は今のままであっても十分過ぎるでありましょう。もしも国の君主と大臣に人を知 るだけの才がなく、朝廷が実際の職務を課して試す政治をきちんと行っていない のなら、高い地位に就くべき人間すらいないという困った事態となり、まして学校 わたくし

や貢挙においては不都合だらけとなってしまいます。その場合は、臣が思います いにしえ

に、古 の理想の制度をそのままもってきたところで、どうすることもできないでしょう。 よ

国のあり方には時代によって好いときとそうでないときとがあり、制度がしっかりと機 能しているときもあれば廃れてしまっているときもあります。安らかに治まっていると きには、暴君といえども制度を廃れさせることはできませんし、制度が厭われてい るときには、聖人といえども元に戻すことはできません。風俗が変化するのに応じ こ う

て法制度は変わっていきます。譬えていえば、黄河の流路が移り変わるようなもの です。河が行こうとするのに順じてこれを治めるのなら、治水の功は得やすく、逆 に河が行こうとするのを無理やり元に戻そうとしたのでは、治水の功は得られませ ん。三代の聖人が今の世にまた生き返ったとしても、人を選び才能を養うやり方は いまの時代に適合したものでなければならず、必ずしも古のままではありませんで しょう。 けいれき

学校を興すことについては三十年ほど前の慶暦年間にも行われ、いずれそれが 充実して行くのを待つということでありました。しかし、今日に至りますと、その目論 みは空しく名だけが残っております。今しも陛下は、徳を具え実務にも長けた人間 を必ず得ようと、制度を変え風俗も変えようとなさっています。学校を大いに興すと 第 3 章:34


自由訳蘇東坡詩集抄

なれば、そこに民の力を集めて、勉学の徒を養わなければなりません。そして、学 校を卒業した者を役人に取り立て、裁判も軍事もこれらの者と謀ることになりましょ う。学校の教えに従わない者は遠方に遠ざけ、採用することなく年を取らせること になりましょう。このようなことになれば、天下はいたずらに混乱し、民衆の苦しむと ころとなるのではないでしょうか。あるいは、それほど大きくは変えずに、時間ととも にそこそこ有益なことがあればよかろうと望むのなら、慶暦年間に行ったのと何が 異なるのでしょうか。 わたくし

臣が思いますに、いまの学校は現在の制度のままでよろしく、先王が定めた学 校が細々ながらも続いているということで十分なのであります。 次に貢挙の制度はどうでしょうか。宋朝において貢挙を行ってきて百年余りになり ます。王朝の治乱盛衰はもとより貢挙の仕組みよって左右されてきたのではありま せん。陛下が御覧になって、貢挙の仕組みは宋朝の初期のころといまとでどちら がより精緻でありましょうか。文章はどちらがより優れていましょうか。文武の才があ る者はどちらが多いでしょうか。天下の人々はどちらがより知恵がついているので ありしょうか。この四点で比べて、制度の長短を議論して結論を得るべきでありまし ょう。 いま学校と貢挙を変えようとする議論はほんのわずかなところしか見ていません。 ある者は言います、地方から徳行のある者を選出し、文章を課すことは止めようと。 ある者は言います、専ら政策を論じさせて詩賦を作らせるのは止めようと。ある者 は言います、唐の時代の故事に従い、評判のよい者を採用できるようにするため 第 3 章:35


第3章 不本意な歳月

に、受験生の名を隠して採点するやり方は止めようと。ある者は言います、経典の 一部だけを示して前後を唱えさせるような試験を止めて全体の意味を論じさせるよ うにしようと。これらはどれも一部分だけしか見ていません。 わたくし

臣は先に挙げた四点について以下のように申し上げます。 第一に貢挙の仕組みについてであります。もしもいまの貢挙と異なって、徳行の 優れた者を採用しようとしたならば、君主も自ら身を修めて行動を正しくし、民衆に も う

対してどのような行為を好ましく思うかを明らかにして示すことになるでしょう。孟子 はこのように言っています。「君主が仁を行えば民も仁を行い、君主が義を行えば 民も義を行う」。すなわち君主の向かうところに天下も向かうのです。徳行をもって 採用するとなれば、君主が好ましく思う行為を自分もしているとあからさまに見せよ うと民は競うようになり、それは天下の人々に挙って偽りの仁、偽りの義を行わせる こととなるでしょう。君主が親孝行の者を採ろうとしていると知れれば、勇む者は自 身の股の肉を裂いてでも親を養うような行為をし、そこまでの意気地のない者は親 の墓の脇に襤褸小屋を建てて、墓守をする姿を見せようとするでしょう。君主が節 約を重んじる者を採ろうとしていると知れれば、おんぼろの車に乗り、痩せた馬に 引かせ、粗末な衣を着て、粗食で我慢することでしょう。とにかくお上の好みに合 わせるためなら何でもするのです。徳行を採るよう制度を変える弊害はここに極ま りましょう。 第二に文章についてであります。政策を論じる文章は有用であるが、詩賦は無 益であるという主張があります。実際の政治との関係でいうなら、試験で政策を 第 3 章:36


自由訳蘇東坡詩集抄

論じようが詩賦を作ろうが、等しく無用であることに変わりはありません。無用である とわかっていながら、宋朝の初めから試験で文章や詩賦が課せられてきたのは、 有用か無用かの判断ではなく、要するに人を採用するための手段として用いられ てきたからです。人の発する言葉によって人を採るのは宋朝で始まったのではなく、 ぎょう

しゅん

し ょ きょう

古の聖天子の堯も舜もそうしていました。『書経』にこのようにあります「言葉を見て 採り、実際の功績で試す」。古の堯や舜から、人を採ってその地位を高めていくに 当たって言葉によらなかったことはなく、人を試すにその功績によらなかったことは ありませんでした。あくまでも政策を論じさせて賢愚と能力の有無を判断するのが わたくし

よいと主張する者がいるのなら、臣はこのように申し上げます。近世の士大夫で 最も華美な文章を書いたのは楊億でありました。しかし、楊億は忠清かつ剛直か つ誠実な人物でありました。華美な文章を書くからといって人間として劣るというこ そん ふ く

せ き かい

とはないのです。古の制度に通じて政策に詳しい者として孫復や石介がいました。 しかし、二人は現実離れの奇矯な説を唱え、実際の政事に施すようなことはでき ませんでした。唐からいまに至るまで、詩賦に長けて名臣であった者は数え切れ ないくらいたくさんいます。それなのに、どうあっても詩賦を試験で課すのを止めなく てはならないのでしょうか。経典の全体の意味を論じさせればよいとの議論があり ますが、近年、経典の参考書が整備され、試験問題となるような項目は漏れなく 模範解答が示されています。試験でそれを適宜繋ぎ合わせて答案を作れば、試 験官を簡単に騙すことができるでしょう。しかも、その文章は詩賦と異なって細かい 規則に従う必要がありませんから、学びやすく作りやすく、よって精緻にものを考え 第 3 章:37


第3章 不本意な歳月

る鍛錬をすることがありません。安直に暗記するだけで精緻にものを考えることをし てこなかった者が官僚になって、もともと自分で考えることを得意としない役人の 上役となったときに、国の政事はどういうことになるでしょうか。それは詩賦を課して 人を採用した場合よりもずっと弊害が大きいのではないでしょうか。 第三に、文武の才のある者の多さです。唐の時代には、貢挙の試験委員長に 強い権限があって、その人がよしとした人物が採用されました。評判の高い人物 を採ることできて、世論を満足させたという美点はありましたが、賄賂をもって権威 者に請願するという害が横行しました。文武の才のある者が一見してたくさん採用 されたようではあっても、それらの人々は権威者の恩に靡き、私的な派閥を生み、 唐の半ばからは党派による争いを生むことになりました。少しもよい採用の仕方で はなかったのです。 第四に、天下の人々はどちらがより知恵がついているかです。いま貢挙の幾つ かの科を合格した者がたくさんの部署で仕事をしています。文章を得意とする者 は進士科を受け、書物の意味をよく理解する者は明経科を受け、そのほか朴訥 で器用でない者はまた別の科を受けます。人にはそれぞれに備わった才能があり、 実際に政事に携わらせれば能力のあるなしは自ずと明らかになります。進士科を 受けるものは日夜に経典、史書を広く深く学び、しかし実際に政事のおいてはそれ で得たもののほんのわずかしか使っていません。だから、そのような勉強したところ で無駄で、経典のおよその大義を理解すれば十分であるとの意見が出てくるので わたくし

ありますが、それは実に粗雑な考えです。特に臣が陛下に願いますのは、遠く考 第 3 章:38


自由訳蘇東坡詩集抄

える者、大きく考える者に意を留めていただきたいのです。衆才の中から、悪知恵 の働く者を退け、必ず優れた者だけを選び出して、政治の根本をともに行うのなら ば、官僚を採用する細かい仕組みはさほど問題にはならないのです。……(中略) …… わたくし

最後に臣は陛下にお願いいたしますのは、以下のような御指示があるますように。 人を試すにはその言葉が正しいかどうか、人を採用するには実学(儒学の本流) を修めているかどうか、そして、広く諸分野の知識がある者は朴訥であっても退け ないように、軽薄に流行の議論を追う者は器用であっても用いないように。そのよ うにすれば世の風俗は厚みを増し、学問は正しい方向に進むでありましょう。忠実 の士を得て、風俗の衰えによって国が傾いた過去の轍を踏むようなことがなけれ ば、天下にとってこれ以上の幸いはないのであります。 (蘇軾がここで述べたのは、制度に何らかの欠点があるとしても、現実に(王安石自 身も含めて)優秀な人材が国に集まってきているのだから、何も急いで変更する必要 性はないだろうということである。なお、 「現実離れの奇矯な説を唱え」るとここに例 示された石介は、第 1 章 42 ページで見たように、8 歳の蘇軾を発奮させた詩を詠んだ 人である) (皇帝はこの意見書を読むと、皇帝自身が感じていた疑問点を明確に示すものであっ たことから、蘇軾を呼んで直接その考えを聞いた。そして、 「これからはいかなること も遠慮することなく申せ」と、蘇軾に言った。このとき皇帝は 22 歳、蘇軾は 34 歳、 王安石は 49 歳、富弼や韓琦などの重鎮はさらに上であったから、皇帝は若くて率直 第 3 章:39


第3章 不本意な歳月

にものを言う蘇軾に心を魅かれたのは十分にあり得えただろう。皇帝は蘇軾を自分の より近くに置こうとしたが、王安石が喜ばなかったので実現しなかった)

■諫買浙燈状 王安石を中心とする改革派は次々に新しい法を作り、改革を実行に移し た。改革全般に疑問を抱く蘇軾は、根本に立ち返って議論し直すことを 希望した。改革派はそうした議論はとっくにすんでいるとして聞く耳を かいほう

持たず、蘇軾は首都開封府の治安維持に関する職務に異動となった(そ の仕事はなかなかの激務で、余計なことに鼻を突っ込んでなどいられな くなるだろうということであった) 。それでも蘇軾は、12 月にこの意見 書を皇帝に差し出して勝負に出た。 (弟の蘇轍は新法の詳細を検討する部署の一員として具体的に法案を調べ、やはり根 ろ けいけい

本に返って議論することを希望した。しかし、その部署を統括する呂恵卿は全く取り 合わず、 呂恵卿との関係はたちまち険悪化し、 蘇轍は都を出ることを朝廷に願い出た。 その願書の中で改革を徹底的に批判したために、 王安石が激怒したと伝えられている) せつ

せつとう

(蘇軾がこの意見書で論じているのは、浙の地方で生産される灯篭(浙灯)を、宮中 の役人が安く叩いて大量に買い占めようとしていることの可否である。1 月 15 日の じょうげん

上 元節に、町の方々に灯篭を飾り、夜それを見物して歩くことが、宋の時代に入って 盛んになり、特に都ではまことに華やかに行われるようになっていた。この年は、宮 中でもたくさんの灯篭を飾ろうと、12 月のうちから準備が進められていた。浙灯の買 第 3 章:40


自由訳蘇東坡詩集抄

い上げは首都の治安にも関係があるということから、蘇軾はこの意見書を皇帝に差し 出したのである)

わたくし

臣は先にお召を受けて宮中に参り、陛下から直接次のようなお言葉を頂戴しまし た。 「館職にある者は全て朕のために深く治乱を検討して、その得失を示し述べること において、隠すところがあってはならない」 わたくし

このときから、臣は同僚に会うたびに陛下のこのお言葉を申さぬことはありません でした。そうするのは、お上の盛徳を称賛するためだけではありません。朝廷にい わたくし

る者は臣のような者であっても、地位の上下によらずに、陛下は意見を聞いて下 さるのだということを知らせて、ともに思うところを献じて、もって太平の功業を補佐 するのに役立つようになってほしいと思うからです。 愚考いたしますに、実のない言葉だけで人を動かそうとするよりも、実のあるところ を見せて、自分から動こうとするように仕向けるほうがよりよいのでありましょう。つま わたくし

り、陛下のお言葉を広く言い知らせるよりも、陛下のお言葉を受けて、まずは臣が わたくし

実行してみせるべきでありましょう。そこで臣はまず天下に先んじてごくごく小さなこと を試みて、もって陛下の聖明の一万分の一でも補うことができるものかどうか、そし て、世の賢者のためには陛下が臣下の意見を採用してくださるものかの判断のも ととなるものを提供しようと思うものであります。この試みによって罪を得て、万死す るとも悔いはありません。 第 3 章:41


第3章 不本意な歳月 わたくし

かんがん

臣が聞きますところでは、宮中の内向きの仕事をするお使い(宦官)が陛下の御 せつ

沙汰として開封府の役所に言いますには、浙の地より産する灯篭(浙灯)を四千 余りお買い上げになるとのこと。役所は実際の価格をお答えしたところ、陛下の御 意向としては、価格を下げてお買いになりたいとのこと、さらに四千余りという数は 必ずなければならないので、民には勝手に売り買いすることを禁じて、次の命令 を待つようにとのことでありました。 わたくし

臣は初めてこのことを聞きましたとき、驚愕し信じることができませんでした。嘆息 すること数日、心中密かに陛下のためにこのやり方を残念に思ったのでありま す。 わたくし

臣は至って愚かであります。それでも、天下の人々が欲しがるものを全て尽くした ぎょう

しゅん

としても、陛下が御心を経術の間に常に遊ばせて、堯や舜が示した規範に則って 行動する楽しみには替えられないとされていることは存知上げております。そして、 天下の玩ぶものを全て尽くしたとしても、陛下が天下を憂う御心を解くには足りない とういうことも存知上げております。灯篭などをお喜びなされはしないのであります。 つまり、これは太皇太后様と皇太后様のために孝行を尽くされようとのことでありま しょう。とはいえ、優れた孝行は物にあるのではなく心にあるのでありましょう。 民衆の一人一人に言い聞かせるのは難しく、民衆はこのようなことを言い出すか も知れません。陛下は御自分の耳目のお楽しみにために、民衆が必要としてい るものを奪い取ろうとしていると。灯篭を売るような者は零細の民で、借金をし利息 も払って灯篭を蓄え、この十日間ほどの間に売り切って生活費を稼ごうとの算段を 第 3 章:42


自由訳蘇東坡詩集抄

しております。陛下は民の父母として、価格を増して高く買い上げることはあっても、 価格を下げて安く買い叩くようなことがあってよろしいのでしょうか。 これははなはだ小さい事ではありますが、その本体ははなはだ大きな問題でありま す。陛下が価格を減じられるのは民衆とわずかな損益を争うというのではあります まい。無用な物を買い上げるのにたくさんの費用を使うわけにはいかないからで ありましょう。無用な物と、もし御存知でありながら、どうしてそれをお求めになるので ありましょううか。たくさん費用を使うわけにはいかないと御存知でありましたら、どう してお買いにならないということになさらないのでしょうか。 宮中の奥向きの故事を見ますに、上元の節の灯篭については、宮中のしかるべ き部署が時に応じて買い求め、その数は少なく、厳しく無理に民間から取り上げる ようなこともありませんでした。費用は多くなく、民衆を騒がせることもありませんでし わたくし

た。臣が願いますのは、先の御命令を取り下げて、ことごとく昔通りになさることで あります。 都の民衆は陛下の深い恩徳にすっかり慣れ切っていて、少しでもそれが脅かさ れるようなことになりますと、すぐにも怨みが生じやすくなっています。慎重にしなけ ればいけないのではありませんでしょうか。近頃、都にはあらぬ噂が流れておりま す。科挙はこれからは間遠にしか実施されなくなるとか、都での酒の売買はお上 の管轄下に置かれるとか、役人の俸給は減額されるとか、兵士の手当てが削ら れるとか……。これらの事は朝廷において決めてなどいませんのに、やかましく 取り沙汰されるのは、陛下が民を大切される徳がまだ下々の者の心に行き渡ら 第 3 章:43


第3章 不本意な歳月

ずにいて、かえって厳しく税を取り立てようとの御意向があると民衆は思ってしまっ ているためであります。いまこそは、朝廷は己を抑制して、民衆が勝手なことを言 わなくなるよう努めるべきときであります。そうでありながら、朝廷のある者が、厳罰 をもって民衆に対処するように勧めているのは、聖徳を損なうことこれ以上のものは ないのであります。さらには、灯篭をお買い上げになる一件で、民衆がますます わたくし

言い募るようにさせてしまっているのを、臣は実に残念に思うのであります。 一方、今に至るまでに、国の様々な余分な出費はまだ削られておらず、民衆の 力は疲弊しております。灯篭のお買い上げの費用は、陛下のお手元の蓄えから 出して、国庫から出すのではないとしましても、いずれでありましても、もとは民衆の 力に拠らないものはありません。平穏なときに不急の用に使ってしまうよりは、貯え わたくし

て何かのときの備えとしておく方が勝るのではないでしょうか。ですから、臣は願い ますに、来るべき灯篭の祭りも、お庭での遊宴も、宴席においての賜り物も、皆係 りの者を戒めて倹約していただきたく思います。 このごろ陛下の御意向で、皇族に対する臨時の賜り物を削減されましたとか。こ れは実に陛下の至明至断の表れであるとともに、深く計り遠く慮って民のために 近親への愛を割かれたことによるものでありましょう。そうではありましても、陛下にい ま少しばかり密かに望むことがないわけではありません。自ら厳しく節減されて、身 をもって天下の人々に先んじて実践していただきたく思います。君主でさえもこのよ うにしているのだから、まして我々はと思わせるようにしていただきたいのです。費 えを省くだけでなく、民衆が怨むようなこともなくなるでしょう。 第 3 章:44


自由訳蘇東坡詩集抄 た い そ う

りょう

た い りょう

昔、唐の太宗皇帝は涼州に使者を派遣して、李大亮にその地の名立たる鷹を献 じるようほのめかしました。李大亮がそれはできないと言ったところ、太宗は褒め、 げん そ う

「臣下がこのようであれば、朕は何も憂うことがない」と言いました。唐の玄宗皇帝 げ い じゃく すい

は江南の地に使者を派遣して変わった鳥を取ってこさせようとしました。倪若水はこ え き

のことを論じて、使者を呼び返しました。また益州から贅沢な調度品を取り寄せよ そ

てい

けい そ う

うとしましたが、蘇頲はその詔に応じませんでした。また、唐の敬宗皇帝が浙西か り

と く ゆ う

ら種々の贅沢品を取り寄せようとしましたが、李德裕はお上に強く反対し、よってそ の沙汰は取り止めとなりました。 いま陛下のもとに唐の時代のこのような人が少しでもいれば、浙燈をお買い上げ になることを必ず強く諌めたでありましょう。また当該の部署に唐の時代のこのよう な人が少しでもいれば、浙燈を買う詔には必ず従わずにいたでありましょう。陛下 の聡明睿聖は堯や舜の後を追っておられますのに、群臣は唐の太宗、唐の玄 わたくし

宗のときように仕えておりません。臣はこのことを群臣に対して密かに咎めるもので あります。 わたくし

臣は開封府の役人として浙燈のお買い上げの件を直接目にしました。それでい わたくし

ながら何も言わずにいたのでは臣の罪は重大です。陛下がもしもそれを見逃して わたくし

罰しないのなら、臣は職務を全うしていない罪としてこれ以上に大きなものはあり ません。陛下のために職務を尽くさずにはいられません。もしもこの意見書が赦さ わたくし

れないとしても、臣としては本望であります。 以上謹んで申し上げ、伏してお言葉をお待ちいたします。 第 3 章:45


第3章 不本意な歳月

■上神宗皇帝 神宗皇帝は強い決意のもと、王安石を抜擢して改革を進めていたので、 改革に反対することは、すなわち皇帝の意思に反することになる。それ でも、蘇軾は国のため、民のためには命をかけても改革の問題点を指摘 しなければならないと決意し、先の意見書を提出し、理にかなった意見 であるのならば、皇帝はそれを聞いて考えを改めてくれるものなのか、 蘇軾は試してみた。幸いにも神宗皇帝はそれを取り上げ、浙灯の買い上 げを中止した。 そこで蘇軾は本当に言いたかったことを書いて提出した。 この意見書では、改革の内容よりもその進め方に重点を置いて批判して いる。 (かなりの長文であるので、 全体の趣旨を損なわない程度に適宜省略して訳す。 また、 歴史上の事柄など説明を要するところも多々あるが、いちいち説明を付すと非常に煩 瑣になるので、一部に若干の言葉を加えるだけにとどめる。流れを読み取っていただ でんちゅう じょう

ちょく し かん

きたい。冒頭は蘇軾の肩書で、 「殿 中 丞 」は職務ではなく位を示し、 「 直 史館」は かんしょく

かんかんこういん

ごんかいほう ふ

皇帝のブレーン(館 職 )の一員であることを示し、 「監官誥院」が本職で、 「権開封府 すいかん

推官」は首都開封府の推官という職務に出向(それが「権」の意味)していることを 示している)

で ん ちゅう じょう

ちょく し か ん

かんかんこういん

ご ん かいほう ふ すいかん

わたくし

殿中 丞 、直 史館、監官誥院、権開封府推官である 臣 蘇軾は、謹んで万死 第 3 章:46


自由訳蘇東坡詩集抄

の覚悟をもって再び皇帝陛下に文書を提出いたします。 わたくし

近頃 臣 は我が身の愚かさ賤しさを顧みることなく、封書を提出し、宮中で灯篭を お買い上げになる件について申し上げました。お上の権威を犯し、罪は赦されな むしろ

いものと、蓆を敷いて畏まって座り、「刑罰を加えよ」との御命令が聞こえてくるのを 耳を澄ませて待っておりました。十日を超えてもそれはなく、その筋の人に尋ねまし たところ、灯篭のお買い上げはすでに中止になったとのことでありました。 わたくし

臣 は、陛下がぶしつけな意見の提出を赦してくださったばかりでなく、それをお聞 き入れくださったと知って、驚喜し、望みを過ぎた結果に感じ入って泣いたのであり ぎょう

しゅん

とう

ます。堯 や舜 や禹や湯の古代の聖君主はいずれも、過ちを改めることに躊躇 せず、善に従うこと川の流れに乗るばかりであろうと懸命に勉めました。ところが、 それは秦朝、漢朝以降は絶えてしまい、よくやく今ここにまた聞くことができたのであ ります。 灯篭の御購入はごく些細な過ちで、陛下御自身をお煩わせするまでもないような ことでありましたが、陛下は瞬時に改められました。このことは、そのお知恵が天下 に抜きん出ていながら、最も愚かな者からも意見を聞かれ、その御権威は四海 に及んでいながら、最もつまらない人間にも腰低く応じられるということを意味しま わたくし

しょう。よって 臣 は、陛下が民を富ませ、刑罰の必要がないように国を治め、兵を ぶ

強くして諸外国を圧すること、堯、舜、湯、武に等しいと知ったのであります。 陛下がこのようでありますからは、誰が陛下に背きましょうか。お仕えする者は心の 内の全てを陛下にお見せして、身の一切を擲って力を尽くすことだけを考え、その 第 3 章:47


第3章 不本意な歳月

他一切を顧みはしないのです。 いま天下には灯篭のお買い上げよりも大きな事柄があります。それを差し置いて 灯篭について先に申し上げましたのは、信頼を寄せるよりも前に諫められるのは 聖人でも受け入れられなかったことであり、交わりが浅いうちから核心に迫ったこ とを言うのは君子の戒めるところであるからです。試みに小さなことを論じ、その結 わたくし

果を待って大きなことを申し上げようと考えたのであります。陛下は 臣 を赦され処 わたくし

罰なさいませんでした。それはすなわち、 臣 がより大きなことを申し上げるのをお 許しになったことを意味すると申せましょう。許されながら言わないのでは臣下とし て罪になります。よってここに申し上げる次第です。 わたくし

臣 が申し上げたいのは三つです。人心を結ぶ、風俗を厚くする、紀綱を存する であります。 第一に「人心を結ぶ」であります。 人の行動には必ず依拠するところのものがあります。臣下は陛下の御命令に依 拠し、それによって人民を動かすことができます。陛下の御命令は法に依拠し、そ じんしゅ

れによって横暴な者も服従させることができます。人の最も上に立つ人主は何に 依拠するのでしょうか。 し ょ きょう

『書経』にこのような言葉があります。 「私は億兆の民の上に君臨している。それは、腐った縄で六頭の馬を操って走る ほどに危ういものである」 これは、天下に人主よりも危ういものはないことを言い表しています。ひとたび集ま 第 3 章:48


自由訳蘇東坡詩集抄

れば君主と民の関係になりますが、ひとたび離れればたちまち仇敵となります。 集散は紙一重であります。天下が一人のもとに帰するときにはその人を「王」とい ひとりぼっち

い、人々の心がばらならになったときにはその人を「独 夫」といいます。 このことから、人主の依拠するのは人心だけであるとがわかります。人主にとって ともしび

の人心は、木にとっての根のようなもの、 燈 にとっての油のようなもの、魚にとって の水のようなもの、農夫にとっての田のようなもの、商人にとっての資本のようなも のです。木に根がなければ枯れ、燈に油がなければ消え、魚に水がなければ死 に、農夫に田がなければ餓え、商人に資本がなければ貧窮となります。人主は 人心を失えば亡ぶのです。これは必然の理であって、逃れることのできない災い です。 この必然の理は大昔からあり、ずっと畏れられてきました。禍を楽しみ、亡ぶのを 好み、性根を簡単に失ってしまうような者でなければ、誰が敢えて我欲をほしいま まにして、軽々しく人心を冒そうとするでしょうか。 し さん

古代の大臣の子産は「衆人は怒らせると手が付けられず、人主一人の欲を押し こう し

通すことなどできない」と言って、慎重に政治を行いました。孔子も「民衆を動か すには、先に民衆の信頼を得なければならない。信頼がないのに動かそうとす れば、民衆の恨みを買うことになる」と言いました。 し ん

しょう お う

ところが、秦国の大臣であった商 鞅は、人々の批判を耳に入れず、法を変え、 俄かに国を富まし国を強くしました。しかし、商鞅は天下の恨みを招き、民衆は利 益だけを知って正義を知らないようになり、刑罰を恐れて道徳を忘れました。その 第 3 章:49


第3章 不本意な歳月

ため秦国は天下統一を成し遂げはしたものの、一瞬にして滅んでしまいました。商 鞅自身も罪を問われて逃亡し、誰にも受け入れてもらえず、ついには車裂きにさ れ、一人も憐れむ者はいなかったのです。 君臣が秦のようであることを願う者がどこにいるでしょうか。 じょう こ う

宋の襄公は仁義に基づく行動を貫こうとしましたが、衆人の心を失って亡びました。 で ん じょう

逆に田 常 は不義を行いながらも、衆人の心を得ていたのでその国は強力でし た。 このことから、君子は行うことの道徳的な是非を論じるより前に、まず衆人の心が まとまっているか、ばらばらであるのかを見ます。 しゃあん

謝安が軍閥の長を用いたのは義として正しいとはいえませんでしたが、衆人がそ ゆ りょう

そ しゅん

れを望んだからそうしたまでで、国はそれによって安泰でありました。庾亮が蘇峻 を 懲らしめるために都に召し寄せたのは正義の行使として悪いことでありませんでし たが、当時の情勢としてはまずいことであったために国の危機を招いてしまいまし た。 このように見てくると、古来、衆人と和やかに一致していて安泰でなかった者はなく、 強引に己の思うところを通して危うくなかった者はいないのです。 よろこ

いま陛下も人心が悦ばずにいることは御存じでありましょう。宮廷の中の人も外の 人も、賢人も不肖の者も、皆が困惑しています。宋の開国以来、財政政策は三 司使副判官の職責とされ、百年を経過して問題はありませんでした。ところがいま 制置三司条例司という部署を新たに作り、六、七人の若い官僚を集めて日夜政 第 3 章:50


自由訳蘇東坡詩集抄

策を研究させ、四十余人の官僚を国内各地に派遣して、その政策を実行させよう としています。その政策は広大な範囲に及ぶために、民衆はどうなることかとびく びくしています。新奇な法が作られ、役人は皆動揺しています。賢者は政策の狙 しょう じ ん

いを掴もうとして理解できないために憂慮し、小人は朝廷の向かおうとしているとこ ろを推し測って、賢者を謗って陥れようとしています。 都から遠く地方に至るまで、様々なことが言われています。例えば、陛下は万民 の主でありながら、利についてばかり目を向けていると。例えば、執政は天子の第 一の臣でありながら財産管理にばかり目を向けていると。例えば、商人の仕事は 破壊されて物価が騰貴すると。例えば、都の店舗には政府の管理人が置かれ、 深山の村にも酒の製造を禁止する命令が下され、宗教寺院の収入は取り上げら れ、兵士や官吏の給料は削減されると。数え切れないほどたくさんのことが言わ れています。特に甚だしいのは、残酷な肉体刑を復活させようとしていると言う者 までいます。このようなことが言われ出して、民衆は不安に駆られ、狼狽していま す。 陛下も二三の大臣からこのようなことをお聞きでありましょう。しかし、陛下にそれを 顧みられる御様子がないのは、 「朝廷には言われるような事実はないし、そのようなことをする意志もない。根拠の じんげん

ない民衆の言論、『人言』をいちいち憂うことはしないでよろしい」 という御判断からなのでしょうか。 人言はどれもが正しいわけではありません。しかし、疑わしいことがあるから批判も 第 3 章:51


第3章 不本意な歳月

生じるのです。富をやたらと貪る人がいると、盗みをするのではないかと疑い、女 性をやたらと好む人がいると、淫乱なことをするのではないかと疑うものです。 朝廷の何が疑わしいのかといえば、制置三司条例司を設置したことです。去年 までの朝廷の人々は忠厚であったのに、今年の朝廷の人々は軽佻浮薄である ために、にわかに人言が騒がしくなったということではないのです。 孔子はこう言いました。 「職人が仕事をしようとするときにはまずそのための道具を整える」「あるいは、役目 に、それにふさわしい名称を与える」 いま陛下は道具を整え、名称を付けておられながら、問題になるような事実はな いし、それを行う意志もないと、弁の立つ者に言い訳をさせても、あるいは千金を ばらまいて人々を納得させようとなさっても、人々はきっと信じませんし、批判もや まないでしょう。なぜなら、制置三司条例司を設置したのは、利を求めることに名 を付けたに他なりませんし、六、七人の若者、四十余人の使者は利を求めるため の道具に他ならないからです。 鷹や犬をけしかけて林に入れていながら、「私は猟をするのではない」と言って、 林の獣たちは信じるでしょうか。鷹や犬を余所にやりさえすれば、林の獣はなつい てくるでしょう。網を川や湖に投げ入れていながら、「私は漁をするのではない」と 言って誰が信じるでしょうか。網をうっちゃってしまえばよいのです。 わたくし

ですから、 臣 は、批判の声を消して和合させ、人心を元に戻して国の根本を安 んずるには、制置三司条例司をなくすのが最もよろしいと考えるのであります。 第 3 章:52


自由訳蘇東坡詩集抄

陛下が制置三司条例司を設置されたのは、国家の利を増やし、国家の害を除く ためでありました。これをなくしたら利が増えず、害が除かれないのなら、なくさなく てもよろしいでしょう。しかし、なくせば天下の人々が喜び、人心が安まり、利を増 やし、害を除くことも行いやすくなるのです。それでいながらどうしてなくさずにいてよ いのでありましょうか。 陛下は積り積もった弊害を除き去るために新たな法を立てようとなさっています。 法を立てるには、必ず宰相が熟議してから発案し、そして中書省において法案を 審議することになっています。その過程を踏まない法は、安定した治世下では存 在するものではなく、乱世の法と言わざるを得ません。聖君、賢相は決してそのよう なことはしないのです。宰相が熟議し、中書省で立法するという正しい手順を踏 むのなら、制置三司条例司は余分な存在であり、実質的に存在する名目があり ません。 ぶん

けい

真に智恵のある者は、際立った特異なことはしないといいます。漢の文帝、景帝 ぼうげんれい

の時代の記録には特筆されるような事績は何もなく、唐朝の宰相であった房玄齢、 と じょかい

杜如晦の伝記には特筆されるような功績は何も記載されていません。しかし、天 下が最もよく治まったのは漢の文帝、景帝の時代だとされ、最高の賢相は房玄 齢、杜如晦だとされています。優れた事績は自然に完遂されて目に付くことがなく、 優れた功績は自然と成就して人に知れないものであるからなのでしょう。 上手に軍事力を行使する者には、際立った戦功がないともいいます。その言葉 は用兵に限らず、あらゆることに通じます。 第 3 章:53


第3章 不本意な歳月

現在、意図されていることはまだ万分の一も実行されていません。それでも天下 に際立った痕跡がすでにできあがってしまっています。それはあたかも泥の中で はかりごと

猛獣が戦ったかのように顕著であります。拙劣な 謀 と言うべきではないでしょう か。 陛下が本当に国を富ませようとなさるのなら、正規の職務にある者を選んで、数 人の大臣とともに熱心に議論させ、十分な歳月を使って実行して行くべきではな いでしょうか。そうすれば、積もり積もった弊害も、天下の人々が気付かないうちに 自然と消え去って行くでありましょう。その際に恐れるべきは、志を立てることが堅固 でなく、道の半ばで終わってしまうことです。 もう し

孟子はこう言いました。「その進み方が速過ぎる者は、後退するのも速過ぎる」。 始めから終わりまで完遂するときはじわじわ進むのであって、ゆっくりであっても十 年の歳月をかければ成就しないことはないのです。 孔子もこのように言っています。「いきなり速く行こうとすると到達できない。小さな 利に目移りすると大きなことは成就しない」。 孔子は聖人の仲間には入らないとするのなら、この言葉は用いるに値しないでし ょう。 『書経』にはこう書かれています。 「広く官僚と謀り、庶民も一緒になって、皆が喜んで行動を共にするのなら大吉と いえる。もしも逆らう者が多く、一緒に従う者が少ないときは、静かにしているのが 吉で、それでも為そうとするのは凶である」。 第 3 章:54


自由訳蘇東坡詩集抄

いま宰相、大臣も続々と辞任し、事を為そうとするところから離れています。朝廷 の外での議論の向かうところは明らかであります。宰相は事を為すなかに加わる ことで己の身が汚れるのを望んでいません。そうであるのに、陛下はどうして安んじ わたくし

ておられるのでしょうか。愚かな 臣 には理解が及びません。……(中略)…… わたくし

臣 が恐れますのは、いまここに昔の悪しき例(ここの訳では省略した)を引いて論じて いるように、後世の論者が今を悪しき例に加えて論じるようになることです。 さらにいえば、今が昔の事例よりも具合のよろしくないことさえあります。中央から地 方に派遣して改革を遂行させようとしている官僚集団には、十分な実績のある者 は一人もいません。事は非常に煩雑であるのに人員が少なく、能力がないにも かかわらず権限だけは重くなっています。能力がないのに権限だけが重い人が いると、人々は心の内で馬鹿にし、表面上だけ服従します。それは争いのもとと なるでしょう。事が煩雑で人手が不足すれば、実効性が危ぶまれ、出来なくても 出来たかのような虚偽の報告が為されるでありましょう。陛下が厳格に命じられて、 こころ

虚偽の功績は断じて許さないとおっしゃっても、臣下の者は陛下の情 を忖度して、 命令を守るよりもむしろ陛下の意向に副おうとするでしょう。朝廷の意向はいまどこ にあるのでしょうか。改革の実行を好み、何もしないのを憎みます。一致して動くこ とを好み、異論を唱えてじっとしているのを憎みます。そうであるとはっきりとわかって いて敢えて従わないのは難しいのです。 わたくし

せき し

臣 が恐れますのは、陛下の赤子が今後、穏やかな歳月を送れなくなることで す。これから行うとしていることは、実行が非常に困難であるのは誰もがすでに論 第 3 章:55


第3章 不本意な歳月

じている通りです。……(中略)…… 孟子は言いました。「死者とともに埋める土偶を初めて作った者の子孫は、必ず 絶えるであろう」。 土偶を作って死者と一緒に埋葬することを始めれば、いずれ土偶に留まらなくなり、 と も

君主は土偶よりも臣下自身が死後の伴をするのを望むようになり、臣下もまた忠 誠を示すために殉死を望むようになります。 いま陛下は新たな法を不正がないよう運用せよと厳しく命じておられます。しかし、 数世の後の暴君、あるいは汚れを厭わない役人が、いま作られた法をもとにあく どいことを企てるのを陛下はどのようにしてお止めになるのでしょうか。土偶から殉 死が発展して数多の悲劇が生まれたように、後世の人々は非常な苦しみに遭う でありましょう。そのときに、元凶は宋の時代の改革にあったと論じられたなら、実 に残念ではありませんか。……(中略)…… わたくし

臣 が推量しますに、このような弊害が本当にあるのか検討しようと陛下が思わ れたならば、果たして実態はどうなのかと法の立案者にお尋ねになるでありましょう。 尋ねられた者は、陛下が改革を断行なさろうとしているのを知っていますから、必 ずこのように言うでしょう。「この法には利はありますが害はありません」。そして実際 に新法を施行して後に、その成果があったと報告するでありましょう。 わたくし

わたくし

臣 の愚見を申し上げれば、このようなことは信頼に値しないのです。 臣 は先頃 西方の地におりました。そこでは、国境方面での事態に対処するために兵士の徴 わたくし

集が実施されていて、民衆が嘆き恨み泣く声を 臣 はたくさん聞きました。ところが、 第 3 章:56


自由訳蘇東坡詩集抄

朝廷から派遣された役人は、民衆は皆喜んで朝廷の命令に従っているとの報告 だけをしていました。朝廷の意向に合うようなことのみを見たいと願う役人にはその ことしか見えず、朝廷がどのような報告を歓迎するかを知っている役人はそのよう な報告をすることしかしません。昔も今もそのようなことはたくさんあります。そうした虚 偽によって国を滅ぼすには至っていないいまのうちに、陛下が正しく詳細に吟味さ わたくし

れることを 臣 は望むばかりです。……(中略)…… 陛下は天機も明瞭にお分かりになり、聖なる智略は神に及ぶほどでありますから、 わたくし

臣 が申し上げるようなことはたちどころに御理解いただけるでありましょうが、それ でもこのようにおっしゃるかも知れません。 「すでに改革を始めたのだ。途中で変えるのはよろしくない。天下の人々は朝廷 の方針が一貫しない、人を用いても最後まで成し遂げさせないと批判するであろ う」 始めたからにはそのままで歳月をやり過ごし、万一の成功を願うということもあり得 わたくし

ましょう。しかし、 臣 は心密かに思うものであります。それは間違いであると。 いにしえ

れき い

はかりごと

古 の英主として漢の高祖に勝る者はいません。酈食其なる者がある 謀 を高祖 に進言し、高祖は即座に「よし」と言って、酈食其にそれを実行するよう命じました。 ちょうり ょ う

しかし、その直後に張良の意見を聞くと、口中の食べ物を吐き出し、「やめさせろ」 と、酈食其を激しく罵りました。高祖が「よし」と言ってから「やめさせろ」と言うまで わずかの間しかなく、まるで子供の気まぐれのようでありました。このことから高祖 が

がなっていないと考える人はおらず、真に英邁な君主は我を押し通すことをしない 第 3 章:57


第3章 不本意な歳月

と知るのです。 陛下が一度は「よし」とお考えになってそれを行い、しかし「よくない」とお分かりにな った時点でお止めになれば、人々は陛下こそは至聖至明の英主であると考える でありましょう。 いま改革を議論している人々は必ずこう言うでしょう。 「陛下は将来、民とともに改革の成就を楽しむことができます。民は陛下のように 初めから先を予測することはできないので、あれやこれやと言い募ります。陛下 はそれに惑わされてはなりません。心に期して必ず実行あるのみです」 これは乱世において危険な一発勝負にかけて万に一つの成功を願う者の言説 であります。陛下がもしもこれを信じて用いられるならば、声高な議論に従って人 間の最良の知恵に逆らい、空虚な計画に頼って実際の禍を迎えるようになり、成 就を楽しむどころでなくなってしまいましょうし、実はすでに民衆の怨みは湧き立って わたくし

きているのであります。 臣 が人心を結ぶことを願うと申し上げているのは以上のよ うなことであります。 第二に「風俗を厚くする」(社会のモラルを高める)であります。 そもそも国家の存亡の根本原因は道德の浅深にあって、国家の強弱にあるので はありません。国家が存続した年月の長短は、風俗の厚薄によるのであって、国 家の貧富によるのではありません。道德が誠に深く、風俗が誠に厚ければ、貧に して弱くとも長く存続し、道德が誠に浅く、風俗が誠に薄ければ、強くかつ富むとも 短くして亡んでしまうのです。国家の君主はこのことから何を重んじるかを知らなけ 第 3 章:58


自由訳蘇東坡詩集抄

ればなりません。 古の賢君は、弱いからといって道德を忘れることなく、貧しいからといって風俗を 傷つけるようなことはしませんでした。智者が他国を観察するときには、何よりもこの 点から評価をしたものです。……(中略)…… わたくし

以上のことから、陛下が道德を尊んで風俗を厚くなさることを 臣 は願い、陛下が いさしお

富みかつ強くなることの功 を急がれることを願わないのであります。陛下がかつ ての秦朝や隋朝のように領土を拡大されたならば功があったと言うべきなのでしょ うか。しかし、国家の長短はそこにはないのです。 げん

そもそも国家の長短は人の寿命のようなものです。人の寿命のもとは「元気」(物質 とエネルギーのおおもと)にあります。それと同じように国家の長短のもとは「風俗」にあ

ります。世間には病気がちでも長生きの人もいれば、血気盛んでも若くして突然 死んでしまう人もいます。「元気」が存在すれば病気があっても生きるに害はなく、 「元気」が消耗してしまえば若くても生きるのは危うくなります。 よく養生する者は、日常動作を慎み、飲食をほどぼどにし、関節や筋肉をよく揉み ほぐし、使い古した「気」を吐いて新しい「気」を身の内に納め、やむを得ず薬を用 いるときには品質のよい物、性能のよい物、長く服用しても害のない物を選びます。 それによって五臓が和平であるから寿命が長いのです。養生がよろしからぬ者は、 慎んだりほどほどにしたり、気を吐いたり納めたりに無頓着で、上質の薬でなく質 の悪い薬を用いて、無理やり「気」を強めようとして、かえって根本を危うくして、たち わたくし

まち倒れてしまうのです。天下の勢いもこれと異なることはありません。 臣 は陛下 第 3 章:59


第3章 不本意な歳月

が風俗を愛惜されてそれを護ること、養生に熱心な人が「元気」を護るようであっ てほしいと願うものであります。 古の聖人は、厳格な法が社会をひとまとめにし、勇敢な者が事を成し遂げる可 能性があると知らなかったわけではありません。一見すると、真心などというもの は役立ちそうになく、老成の者はただののろまのように見えます。しかし、聖人は法 をもって真心に、勇敢をもって老成に代えようとはしませんでした。そうしても得るとこ ろが小さく、失うところが大きいからです。……(中略)…… ろ

盧杞が唐朝の大臣なると、法制を整えて天下を引き締めることを皇帝に採用させ ました。それからは世の人の心が次第に軽薄に流れ、ついには都から皇帝が逃 げ出さなければならない事態に至ったのでした。 じ ん そ う

我が宋朝の仁宗皇帝が天下を治めたときには、法の運用はいたって寛大で、人 を用いることでは順序がありました。過失がないよう努め、旧来の仕組みを軽々し いさしお

く変えることはありませんでした。その時代の功 を検討すれば、さしたるものはなか ったといえましょう。兵を用いることでは、十回外に出て九回敗れました。国庫をみ れば、かろうじて収支が足りて、余剰はありませんでした。それでも、皇帝の徳は 人々に及び、風俗は義を知り、皇帝が逝去された日には、天下の人々は自分の 父母を失ったように悲しんだのでした。国家が長く保たれるとは何によるのか、仁 宗皇帝はよく御存じであったのです。 現在の改革を議論している者は、こうしたことの根本を理解しないで、仁宗皇帝の 治世の終わりには、官僚がいたずらに慣例に従うだけで、業績が上がらなかった 第 3 章:60


自由訳蘇東坡詩集抄

と批判し、そのことをもって、官僚を厳しく管理して引き締めなければならない、能 力主義で評価すべきだと、新進の勇ましく鋭い者を中央に招集して、速やかに実 効性の挙がるようなことをさせようとしています。そのため、改革の実利が出るよりも 先に盧杞の時代のような軽薄な風潮が早くも生まれ出てきています。 歴史は同じことを繰り返すわけではなく、過ちをしない人はいません。国家の君主 は包容力に富むのがよく、明察過ぎてはいけません。もしも陛下が多くの人々を包 み込まれるのなら、優れた人材は順次用いられるようになるでしょう。監察を厳しく して、過ちを一切認めないようにするのなら、人々は不安になって、ただ見逃され ることばかりを求めるようになります。それは恐らく朝廷にとってよいことではありませ ん。陛下が願われることでもありませんでしょう。いまもし、弁が立ちすばしっこいだ けの者を用いて、応対が遅いだけの者を退け、大きなことを言って、言葉を飾るこ とに巧みで、いかにも徳があるように見せかけているだけの者を用いるのなら、古 の聖人が大切にしたものは一切消え去ってしまうでありましょう。 古より、人を用いるときには必ず何度も試しました。際立って抜きん出た器量があ っても、成し遂げた功績がなければ、高い地位に用いることはありませんでした。 そうであるのは、一つには、いろいろな経験をさせて政治の難しさを知らせるため で、それによって軽々しい行動をしなくなります。また一つには、その功績が立派 なものであれば、周囲から重んじられ、とやかく言われることがありません。 りゅう び

こ う ちゅう

し ょ かつ こ う

昔、蜀の劉備は黄忠を抜擢して将軍の地位を授けようとしました。しかし、諸葛孔 めい

かん

ちょう ひ

明は、黄忠の名望はまだまだとても関羽や張飛に及ばないので、もし同じ地位に 第 3 章:61


第3章 不本意な歳月

就けたならば必ずや悦ばれないだろうと、賛成しませんでした。果たして、黄忠を 将軍にすると関羽が不平を口にしたのでした。黄忠はまことに豪勇の士であり、 劉備のもとに君臣は一つにまとまっていたのですが、それでもなお人の用い方に はよくよく考慮しなければならなかったのです。……(中略)…… 高い地位、多くの報酬は人が強く望むものです。必ずたくさんの苦労を重ねてか らでないとそれは得られず、得られたなら長くそれを保てることが明らかに示されて いるのならば、人々はそれぞれ自分の今の状況に安んじて、俄かに獲得しようと 思ったりはしません。いまもし簡単にすぐに進める門が開かれ、思いの他たったひ とまたぎで高い地位に就けるようになり、それを得た者が望外の幸いであると思わ ずに、当然のことだと胸をそらせて自慢したならば、その門に入れなかった者は見 捨てられたとの恨みを抱くでありましょう。天下には官職に就くのを待ち望む者が大 勢います。その者たちを、不用意にも、諸君等は役立たずだと恥じしめたならば、 何が起こるのか予想がつきません。風俗を厚くすることなど全くできなくなってしまう のです。 科挙に合格して官員になってから朝廷で用いられるまでには、常に十年以上が かかるとされていました。難しい仕事を与えられ、その成績を厳しく吟味され、一つ でもよろしくない失敗があれば、生涯にわたって高い地位に上れなくなることさえあ ります。ところが、たった一人の者が推薦しただけで、たちまち朝廷で用いられ、そ れでも足りないとばかりにさらに高いに地位に就けるようなことがいま行われてい ます。それに対して、長年苦労してようやく朝廷で用いられるに至った者はどのよう 第 3 章:62


自由訳蘇東坡詩集抄

に感じるでありましょうか。そもそも官職に就くのを待ち望む人の多さに比べて欠員 が少ないために、長年にわたって人々の憂うるところとなっています。それなのに、 別の門を開いて、巧みに進む者を入れてよいのでしょうか。巧みな者が甚だしく優 遇されるのなら、拙い者はやるせなさに追いやられ、両者の利害対立が形として 現れ出ると察しないわけにはいきません。従って、不器用でも純僕な者が減って、 巧みですばしっこい者がますます多くなるに違いないのです。 かん し ん

陛下はただ簡素であることを規範とされ、清浄な御心で衆人を御覧になり、奸臣 の付け入る隙を与えず、民衆の道徳心を高めるようになさればよろしいのです。 わたくし

臣 の願う風俗を厚くするとはこのようなことであります。 第三に「紀綱を存する」であります。 古から、国を建てるときには、中央と地方の力の均衡に注意を払いました。周王 朝は中央が軽く地方が重い例で、秦王朝は中央が重く地方が軽い例でした。中 央が重いと悪い大臣が皇帝を意のままに操ろうとする弊害が生じ、地方が重い と有力な諸侯が中央に取って代わろうとする弊害が生じます。聖人は国勢が盛 んな間にも衰えることを予測し、規範を立てて弊害が生じないようにしました。我が 宋朝は、国家の租税が中央に集められ、兵力の多くが都に置かれています。中 央が重い例であるといえるでしょう。 そ

そ う

恭しく拝察しますに、我が宋朝の祖宗(初期の皇帝)が予め深く計るところのものは わたくし

だいかん

何であったのでしょうか。臣ごとき者がよく理解するところではありませんが、台諫 (皇帝および官僚の不法な行為を監視する機関)という部署に与えた役目を見れば、祖 第 3 章:63


第3章 不本意な歳月

宗が国家の衰亡を防ごうとした絶妙の計画の一端を窺い知ることができます。 秦朝、漢朝から五代十国の時代に至るまで、皇帝を諌めて死罪に遭った者は数 百人に及びましょう。しかし、宋の建国から、皇帝を諌めて罪を問われた者は一人 もいません。少しばかりのお咎めを与えられることがあっても、その人も後には昇進 を果たしました。官の上下によらず弁明も許されています。 台諫の構成員は尊卑を問われることなく採用され、その言うところが皇帝に関わ る場合は、皇帝は姿勢を改めて耳に納め、朝廷に関わる場合には、宰相も罪を 覚悟しました。仁宗皇帝の世には、「宰相は台諫の言いなり」と皮肉にも言われも しました。聖人の深い意図は、そのようなことを言う俗な者の知るところではありま せん。台諫の任に就いた者は全てが賢人であったわけではなく、その言辞の全 てが正しかったわけでもありません。それでもその鋭気を養わせ、重い権限を与え 続けたのは、無意味なことではありませんでした。悪だくみをする大臣が出てくるの を未然に防ぎ、中央が重すぎることによる弊害から救ってきたのです。奸臣が出 そうになったら、台諫が言論で挫けばよいだけです。奸臣が力を持ってしまってか らでは、武力をもってしても除くのが難しくなってしまいます。いま法令は厳密で、朝 廷は清明で、いわゆる奸臣は万に一つも出てくることはあり得ません。しかし、猫を 養うのは鼠を除くためで、いまは鼠がいないからといって、鼠を捕える能力のない 猫を養うべきではありません。犬を飼うのは泥棒を防ぐためです。いまは泥棒がい ないからといって吠えない犬を飼うべきではありません。陛下におかれましては、 上は祖宗がこの官を設けた意味を考えられ、下は子孫の万世の防ぎのために何 第 3 章:64


自由訳蘇東坡詩集抄

が必要であるかを考えられて、朝廷の紀綱で台諫よりも大きなものはないと御理 解いただきたいのです。 わたくし

臣が幼小の頃に長老の談じるところ聞き、皆がこのように言っていました。 く み

「台諫の言は、常に天下の公議に従うものだ。公議の与するところに台諫もまた 与する。公議が撃つところは台諫もまた撃つ」 え い そ う

英宗の治世の初めに、英宗の真の親をどのように祀るべきかという議論が湧き 起こりました。皇帝が過ちをしたわけでもないのに議論が過熱し、儀礼の決まりが そもそも明確ではなかったことから、人々は不安を感じ、公議は一つにまとまりませ んでした。当時の台諫は死を覚悟してその議論に関与しました。 今はそのときどころではないほどに議論が沸騰し、怨みや誹りさえ次々に起こって います。しかし、公議の所在は自ずと知れるところであります。ところが、台諌は顔 を見合わせて何も言おうとしないので、朝廷の内外の人々は失望しました。台諌 が公議に反するところを弾劾してその権威を示したならば、凡人もまた奮い立つで ありましょう。しかし、台諌が黙りこくってその権威をないものにしたならば、いかに豪 わたくし

傑といえどももう立つことができません。臣が恐れるのは、これ以降、こうしたこと が習慣となって、官僚はただただ執政の手下となって、皇帝がお一人だけ孤立 することです。紀綱がひとたび廃れてしまっては、もはや何が起こるのかわかりま せん。 孔子はこう言いました。 「愚かな人間と一緒に君主に仕えることはできない。愚かな者は、地位をまだ得 第 3 章:65


第3章 不本意な歳月

ていないうちは、これを得ていないことを患い、これを得てからは、これを失うことを 患う。失うことだけを患うのなら、どのようなことでもしてしまう」 わたくし

臣はこの言葉を初めて読んだとき、極端なことを言うものだと疑問に感じました。愚 かな者でも、せいぜい位に就いてそれ相応の待遇をされないのを患うに過ぎな り

も う て ん

いと思ったのです。しかし、秦の時代に、宰相の李斯が将軍の蒙恬にその権限 を奪われるのではないかと患い思ったことから、ついには秦を滅ぼすようなことをし ろ

かい こ う

てしまい、唐の時代に、宰相の盧杞が懐光よって罪を告発されるのではないかと 患い思ったことから皇帝を誤らせて国家の大乱を招き寄せたといった事例を知る に至って、ただ自分の地位が失われるのを心配しただけのことから、ついには国 を滅ぼすようなことにもなるということがわかり、孔子の言葉が少しも言い過ぎでは ないと納得したのでした。 ふだんから己の身を忘れて地位の上の者の顏を犯しても意見を言うような者こそ が、国家の難儀に及んだときに、義に殉じて命を捧げる者であると、国を治める者 は知るべきです。ふだんから一言も意見を言わない者が、国家の難儀に及んで 何かをすると期待できましょうか。人臣が全て何も言わないようになったら、天下は ほとんど危ういというべきです。 しょう じ ん

スープ

『論語』に「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」とあります。「和」とは羹 の中で五味合わさるようなことをいい、「同」とは水の勢いに巻き込まれて何もかも いっしょくたに流されてしまうようなことをいいます。 そん ぽ う

漢の時代の孫宝はこう言いました。 第 3 章:66


自由訳蘇東坡詩集抄 しょう こ う

「周公は古代の偉大な聖人で、同じ時に召公は偉大な賢人であった。互いに悦 ばないところがあり、それぞれに規範となるべきことを示し、しかし、互いに攻撃し 合うようなことはなかった」 し ん

お う ど う

晋の時代の王導は当時の大元老でありました。王導が客人と話すと、一同の者 お う じゅつ

は必ず「まことに結構でございます」と称賛しました。王述だけはそうしたことを悦ば ず、「古代の聖人の堯や舜でなければ、何をしても常に結構ということはあり得な い」と言ったので、王導は襟を正して王述に謝りました。 もしも言うことにおいて同じでないことがなく、思うところにおいて合致しないことが なく、一方が唱えれば他方が賛同するのであれば、見かけ上、賢人同士というこ とにもなりましょう。そこに下らない人間が入り込み、褒め合いの中に加わったなら ば、上に立つ君主は、賢人と下らない者との見分けがつかないでありましょう。 わたくし

臣が願くば紀綱を存するようにと申し上げるのはこのようなことからであります。 わたくし

臣は、新しい政治に単に難癖を付けて異論を唱えようというのではありません。近 けん ご う

頃実施された幾つかの施策は、陛下の神算の至明より出て、乾剛の必断による わたくし

もので、議論も尽くされていますので、臣も敢えて物を申すようなことはいたしませ わたくし

んでした。そして、ここに献じました三つの論議は、臣だけの私見ではなく、朝廷の 内外の人々も憂慮しているところのものであります。 古の聖人であった舜も、偉大な君主であった成王も、漢の高祖も、晋の武帝も、 手厳しい批判の言辞を受けたことがありました。必ずしも当たらないところがあって も、採るべきところを採って、批判した人を罪に問うことはありませんでした。それは 第 3 章:67


第3章 不本意な歳月

美談として史書に記録されています。 わたくし

臣が献じました三つの議論が、いまの朝廷においては全く当たるところがないと いうことであれば、天下にとってはまことに幸いであり、その幸いを天下に示すこと わたくし

に臣が寄与したということになりましょう。もしも万に一つでも当たるに似たところが ありましたなら、陛下はきっとお気付きになるでありましょう。 わたくし

臣がこのようにいたしますのは愚かというよりありません。虫けらのごとき身をもって、 雷神の威光に対峙するようなこと、狂ったような愚かさを積み重ね、それは断じて 赦されるものではありません。罪が大きいとされれば、胴と首が場所を異にし、一 家は破滅となりましょう。罪が小さいとされましても、官員から放逐され遠くに流され て路頭に迷う身となりましょう。しかし、陛下はきっとそのようにはなさらないでありまし わたくし

ょう。なぜなら、臣が生まれながらに愚かの至りで、自分の考えだけに凝り固まっ わたくし

ている者であることを、陛下はよくよく御存知であるからです。先に臣は貢挙と学 校の制度を改めようとする大臣の考えに反することを申し上げました。その時すで に遠く流罪となることを覚悟し、自分の身が保たれるとは思ってもいませんでした。 わたくし

ところが、陛下は臣の議論にも然るべきところがあるとされ、曲げて御前へのお召 わたくし

しを賜わり、穏やかにお話された後で、臣にこのようにおっしゃいました。 「近頃の政令の可否はいかがであろうか。朕の過失であっても指摘してよろしい」 わたくし

臣は即座にお答えいたしました。 「陛下は天からお知恵を授かり、文武にわたってその縦横の才能をお具えでござ います。明察においてお困りになることはなく、励勤においてお困りになることはなく、 第 3 章:68


自由訳蘇東坡詩集抄

英断においてお困りになることはありません。お困りになることがもしあるとしたら、 政治の達成の速さをお求めになり過ぎるところ、有為の人を用いようとするのが鋭 過ぎること、言論を広く聞こうとされ過ぎるところでありましょうか」 このように申し上げましたところ、陛下はそれぞれに当てはまることにはどのようなこ わたくし

とがあるのかとお尋ねになりました。臣がお答えすると陛下は逐一頷かれ、このよ うにおっしゃいました。 「そなたが指摘してくれた三つの困る点を朕はこれより熟思するとしよう」 わたくし

臣の狂ったような愚かさは今回のこの意見書だけではないのです。陛下はかつ わたくし

て臣の狂愚を許容してくださいました。始めに許容してくださって、終わりに許容して くださらないことはないと、それを恃みに、懼れずにこの意見書をお出しする次第 にございます。 わたくし

わたくし

わたくし

臣の懼れるところは別にあります。臣への批判はすでに多く、臣を仇と怨む者も わたくし

すでにたくさんいます。必ず臣を謗り、厳しい法を適用せよ、厳罰を与えよと言い、 わたくし

わたくし

陛下が臣を赦そうとしてもできないようにしてしまうのを臣は懼れます。 わたくし

わたくし

いかに危うくとも、臣は死を辞するものではありません。最も恐れるのは、臣が重 罪になったのを天下の人々が見て戒めとして、ものを言う者がもういなくなってしま うことです。 このようなことを考え、この月日は、日夜この文章に取り組み、書き上げては棄てる わたくし

ということ何度も繰り返しました。陛下が先に灯篭の件で臣の一言を聴いて下さっ たことに感じ入り、考えて考えて断念すべきではないと、ついにこの議論を申し上 第 3 章:69


第3章 不本意な歳月

げるに至りました。 わたくし

陛下にお願いいたします。臣のこの愚忠を憐れみ、これを提出いたましたことをど ゆ う きょう

うかお赦し下さい。平伏して罪を待ち、憂恐の至りに勝えません。 (ここに蘇軾が指摘したことは、その後の改革の進行に伴って、ほぼこの通りの問題 となって顕在化した。その一つの大きな要因は、王安石は大改革を構想する緻密な頭 脳の持ち主であったけれども、人間社会が原則通りには動かないというごく普通の感 覚に欠けるところがあったという点に求めることができるであろう)

■次韻楊褒早春 き ねい

熙寧3(1070)年、蘇軾 35 歳。 蘇軾が皇帝に差し出した先の意見書は聞き入れられるところとならず、 改革は急ピッチで進められ、反対する人々は次々に都を去り、年が改ま ようほう

るとすぐに弟も都を離れた。そのような時期に楊褒が詠んだ早春の詩に 和したもの。

街中から奥に引っ込んだ我が家にいて、 なお続く寒さを、私は悩ましげに過ごしていた。 痩せた馬にまたがり、雪の残る道に出てみたところ、 どこかからか春の楽曲を歌う女性の声が聞こえてきた。 いつの間にやら足を伸ばし、貴君の家にまできた。 第 3 章:70


自由訳蘇東坡詩集抄

貴君の庭には春の訪れを知らせてくれるものがいろいろにあり、 ここで心のうさを晴らしたらどうかと、 貴君は酒を用意してくれた。 天の運行を司る神が、 おせっかいにも我々の年齢をまた増してくれたと、 恨みがましく言おうとは思わないが、 良い時節と楽しい事とが同時に二つ並ぶのは、 なかなかないと、大昔から決まっているようだ。 しがない役人暮らしの歳月をこれからも重ねるうちに、 過ごした年数の証はただ髪が白くなっただけということになって、 いつしか、訪い来る人もいない門を閉ざし、 そぼ降る雨に打たれながら、 野菜を育てて暮らすようなことになったりするのだろうか。 さしずめ今日のところは、 お上より三日の休暇を頂戴したので、 自分がいまどこにいるのかわからないくらいに、 ぐっすりと眠りたいと願うのである。

■次韻柳子玉見寄 りゅう き ん

あざな

し ぎょく

同じ頃に、柳瑾(字は子玉 )が都にきて、すぐに出て行った。柳瑾の 第 3 章:71


第3章 不本意な歳月 そ かん

息子は、蘇軾の伯父の蘇渙の娘と結婚していたので、柳瑾と蘇軾は姻戚 関係にあった。

雷が軽やかに鳴ってぱらぱらと雨が降り、 暁に及んできれいさっぱり晴れ上がった。 春の泥は着物の裾を汚すほどではなく、 行楽によろしい時節になったのだ。 しかし、酒はあるけれど、 門から出たところで良い友がいないので、 仕方なく書物を漫然と眺めていると、 貴君の詩が届き、 「間もなく寒食ともなれば、 遥か遠くの故郷に思いを馳せ、 酒を携えて帰りたいと、 居ても立ってもいらなくなることでありましょう」 まさにその通りだ。 貴君からの迎えがあったなら、 仮病を使ってもったいぶるような野暮な真似はしないで、 何が何でも行くつもりだ。 (仮病にまつわる有名な故事がある。大意を理解するには、何かを踏まえているのだ 第 3 章:72


自由訳蘇東坡詩集抄

ろうと察してもらうくらいで十分であろうか)

■送銭藻出守婺州得英字 2 月に、蘇軾は再度皇帝に意見書を提出したが、やはり聞き入れられる ところとはならなかった。 せんそう

3 月に、銭藻が婺州の長官として都から出て行くのを見送った。送別の 宴で銭藻がまず五言絶句を詠み、それに使われた 20 個の文字を一つず つ出席者に配り、それを韻にして各々が詩を詠んだ。蘇軾には「英」の 字が割り当てられた。 (銭藻は名家の出身で、風格があり、人々から「長者」と呼ばれていた。実力主義の 宋代であっても、皇族や特別の家柄はやはり重んじられた。銭藻は江戸時代でいえば とう

ご だいじっこく

外様大名の子孫に当たる。唐王朝が亡んだ後、各地に地方政権が分立する五代十国時 こう

ご えつ

代となり、 「十国」の一つに杭州を都とした呉越国があった。銭藻は、呉越国の創始者 せんりゅう

の銭 鏐 の五世の孫。呉越国は銭氏のもとで比較的安定した数十年を過ごし、経済的、 文化的に豊かであった。宋による天下統一が見えてきたとき、呉越国は宋との決戦に 出ることなく領地を差し出したことから、銭氏は宋の朝廷で優遇された。銭藻は皇帝 のブレーン集団の 1 人として長らく朝廷にいたのだが、改革派と意見が合わずに都か ら出ることになった)

高い志を持った人は、 第 3 章:73


第3章 不本意な歳月

都の宮殿の内で安楽に過ごすのは好まないとされ、 優れた手腕の持ち主は、 問題山積の地において仕事をするのを好むという。 貴公は地方官の辞令を得て、 朝廷で着用していた衣類を、田舎の清流で洗うことになった。 よ

これから行かれるのは、山水がまことに佳いところだ。 まだ着かないうちから、貴公の心はすでに清らかになるであろう。 赴任の途中で貴公は故郷に立ち寄り、 土地の人々は酒を携えて喜んで郊外に出て貴公を迎えるであろう。 貴公はこのたび願うところを得たわけだが、 残る者は悲しい思いに沈んでいる。 我が君は賢人を求めることに急で、 じ

えい

かく

日の暮れるまでずっと邇英閣に出ておられる。 え ん

しょう

が く

昔、燕国の昭王は黄金台を築いて楽毅を招き、 楽毅は軍事力の増強と他国との連携を図り、 せい

宿敵の斉国と戦った。 燕国は勝利を重ねたけれど、 最終的な勝利を得るには至らず、 昭王が死んでしまうと楽毅は亡命し、 黄金台は虚しく朽ちてしまった。 第 3 章:74


自由訳蘇東坡詩集抄 ちょう

こ う せい

けい

趙国の孝成王は宝玉をもって虞卿を招き、 虞卿は王のために種々の策を建てた。 その策は巧みであったけれど、 趙国の衰退は加速するばかりで、 虞卿自身も窮乏のうちに晩年を過ごさねばならなかった。 楽毅や虞卿のような者を招くに忙しいいまの朝廷にあって、 貴公は卑下することなく、義を説き続けた。 しかし、その声は高い山に虚しくこだまするだけであった。 別れに臨んで、これ以上の言葉を尽くすのはよそう。 酒が醒めて後に、 言い過ぎたと我ながら驚かなければならなくなるだろうから。 (蘇軾は「英」の字を皇城にある邇英閣の名に用いた。このころ皇帝と王安石は改革 の実行部隊となる人材を朝廷に集めるのに忙しかった。その一方で銭藻のような昔か ら仕えていた人々は外に出ることを余儀なくされた。そのことを、歴史上の故事を引 いて、かなり痛烈に批判したのである。この詩に引かれた楽毅について蘇軾が論じて いるのを第 2 章 4 ページですでに見ている)

■送安惇秀才失解西帰 あ ん じゅん

4 月、安惇という若者が科挙に落ちて故郷に帰るのを見送った詩。

第 3 章:75


第3章 不本意な歳月

旧くから伝わる書物を、 厭うことなく繰り返し繰り返し熟読し、 さらに深く思うならば、 君は自ずから全てを知るであろう。 そうなったならば、高い位に昇るのは、 もはや免れようとしてもできるものではない。 いまのこの足踏みをいつまでも続けていられはしないのだ。 かつて私は、人々との交わりを絶って家に籠り、 勉強に専念して、庭の花さえ見る暇もなかった。 その後、官位を慕って東にきて、 学問を捨て、子供の戯れ事のような政界に飛び込み、 愚かな百の企画、誤った百の計画は、 全て成し遂げられないままに、 白髪だけが約束事のように増え続けた。 故郷の山には私が植えた松がある。 それは着実に成長し、 じきに抱えるばかりの太さにまでなるだろう。 その木のもとに帰れるのはいつだろうか。 全ては運命の定めるところなのか。 官界での私のこの十年は、 第 3 章:76


自由訳蘇東坡詩集抄

ばかばかしいどたばたでしかない。 だとすれば、君が故郷に帰るのと私は都に残るのと、 一体どちらが得るものが多く、どちらが失うものが多いのか。 君との別れに臨んで、長く嘆息するのである。 (この詩の冒頭には、科挙の改革に対する批判が置かれている。蘇軾は古典を深く学 んで人格を陶冶することを重視した。 「故郷の山には私が植えた松がある」とは、父と 妻を葬った墓地のまわりにたくさんの松を自ら植えたことをいう。蘇軾は少年時代に 松の植林技術を会得していた。故郷の松は後の詩にもしばしば見られる)

■送呂希道知和州 ろ

き どう

呂希道が和州の知事として赴任するのを見送った詩。

かい

去りし年には、貴公が解州の知事になるのを見送り、 今のこの年には、貴公が和州の知事になるのを見送る。 人が地方に赴任するのを繰り返し見送る間に、 はらわた

ちりあくた

私の胸や 腸 は、都の塵芥でいっぱいになってしまった。 貴公の家は三代にわたって朝廷の重臣を出し、 貴公に至っても貴さはなお続いている。 おおとり

鳳の雛は生まれながらに鳳に、 名馬の子は生まれながらに名馬になるように、 第 3 章:77


第3章 不本意な歳月

貴公に伝わる非凡な風格を見れば、 必ず剣を帯びたまま皇帝のもとに伺候するようになると知れる。 しかしながら、 貴公は小さな町から馬に乗って都に帰ってきたばかりで、 今度は船に帆を上げて、 また小さな町へと慌ただしく出て行かなければならない。 私こそ、川や海をさすらうのが性に合っているはずであるのに、 恥を忍んで、ここらでうろうろしている。 貴公を見送り、言葉なく嘆息する。 ああ、河の水はかくも美しく、 かくも遥かにどこまでも流れて行く――

■跋文与可墨竹 蘇軾にとって厳しい日々が続いていたが、その中でも心のなごむことは そ たい

お う じゅん し

あった。 5月に次男の蘇迨が生まれた。 王閏之が初めて生んだ子である。 ぶんどう

あざな

また、同じ頃に、文同(字は与可)が上京してきたのは蘇軾にとって大 きな救いとなった。文同とは姻戚関係があり、官員として先輩で、画を 得意とし、ひたすら竹ばかりを描いていた。蘇軾が鳳翔にいたころに交 流があり、画の手ほどきを受けたようだ。これは文同が墨で描いた竹の 画に添えた小文。 第 3 章:78


自由訳蘇東坡詩集抄

かつての文同は、質の良い紙を見ると、すぐに気持ちが昂ぶり、居ても立ってもい られなくなり、自分で自分を制止できないままに筆を揮い、竹を描いたものだ。描 き終えた墨の竹を人々が争うようにして持ち去っても、文同は少しも惜しみはしなか った。 その後、人々が筆と硯を用意して待ち受けるようになると、文同はもぞもぞした挙句 に、ぷいと逃げ去るようになった。人が何とかして頼み込んでも、一年経っても、 二年経ってもなかなか描いてもらえなかった。 ある人がその訳を尋ねると、文同はこう言った。 「私は、道を学んで理解できないところがあると、思いが停留してどうすることもで やまい

きなくなり、それが一気に噴出すると、墨の竹となったのでした。それは私の病 で あったのでしょう。今はたぶん病が癒えたのだと思います」 しかし、私が見るところ、文同の病はまだ治っていない。身の内に納めていられな いものがあれば、どうしたって発せずにいられはしないのだ。私はその発する頃合 いを見計らって竹を描いてもらい、その画を我が物とした。こうして文同の病を利用 するのは、実は私にも同様の病があるからなのだろう。 (蘇軾に同様の病があることは第 1 章 31 ページで見た「南行前集敘」に記されてい る通りである)

第 3 章:79


第3章 不本意な歳月

■送劉攽倅海陵 りゅう は ん

8 月、劉攽が都を去るのを見送った詩。劉攽は第 2 章 55 ページに登場 した長安の劉知事の弟である。 げんせき

しん

詩の 2 行目にある阮籍は晋の時代の「竹林の七賢人」の 1 人で、その人 について詠んだ詩が第 1 章 59 ページにあった。

貴公は知っているだろう、 阮籍が人の良し悪しを決して口にしなかったのを。 吾輩には舌があり、硬い歯があると、誇ってはいけない。 舌や歯は、旨い酒を飲むためだけに使うのがよい。 書物なんぞはたくさん読まないのがよい、 詩なんぞは巧みでないのがよい。 貴公がこれから行く海辺の地は何もないところだ。 毎日毎日酒に酔っていればよい。 間違っても夢に朝廷を見たりしないのがよい。 私は来るべき春の味覚を貴公と楽しみたいと思っていた。 しかし、昨夜、庭の木に秋風を感じたばかりであるのに、 貴公はもう遠くに行ってしまうのだ。 貴公は行ってしまっていつ帰るのか。 貴公が植えた桃の木に花が咲くのはいつの春なのか。 第 3 章:80


自由訳蘇東坡詩集抄

すっかり白髪になってしまった貴公が、 その花を愛でることになるのだろうか。

■送蔡冠卿知饒州 さいかんけい

蔡冠卿を見送った詩。蔡冠卿はある刑法の解釈を巡って王安石と激しく 論争し、議論では負けなかったが政治力によって敗れ、都を出て行かざ るを得なかった。

貴公が人と交際しているありさまを見ていると、 大きな声で笑いながら語るのでは、 貴公が一番だといってよい。 まことに大らかであり、 おやっと怪訝に思わせるようなおかしなところはない。 しかし、何か事があったときに、 う

かつ

迂闊な振る舞いに及んでしまうのでは、 私以上であるようだ。 前に落とし穴が見えていれば、 誰だって気を付けるし、 道に金銀宝石がばらまかれていれば、 誰だって拾おうとするだろう。 第 3 章:81


第3章 不本意な歳月

そういう場面で、世間の人はころっと変わり、 かたぶつ

堅物だと評判だった人が、 たちまちぐんにゃりしてしまったりするものだ。 貴公ときたら、 たった一人で昔の法規を守り続けようとしたために、 船を漕いで遠くに行かねばならなくなってしまった。 まことお気の毒さまである。 天をも駈ける馬が、 そこらののろまな牛の後ろにくっついて、 ひょこひょこ歩かなければならなくなったと、 嘆いたりしなさんな。 猛火の中に投げ込まれてこそ、 宝玉はその真価を発揮するというではないか。 世間の事は一炊の夢のようなものだ。 人生がどこまでもがたがた道ということでもないだろう。 貴公が法の基本を順守しようとしたことで、 救われた者も多くあったのだから、 貴公自身には返ってこなくても、 その徳の報いは、必ず貴公の子孫に及ぶであろう。

第 3 章:82


自由訳蘇東坡詩集抄

■送曾子固倅越得燕字 そ う きょう

8 月、曾鞏を見送った詩。送別の宴で韻字として蘇軾には「燕」の字が 割り当てられた。 すいおう

おうようしゅう

(詩の冒頭に「酔翁」とあるのは欧陽 脩 の号で、曾鞏は欧陽脩の弟子だった。曾鞏と どうねん

蘇軾は同じ年の科挙に合格した「同年」で、第 1 章 64 ページで見たように、第二次 試験で首席になった)

酔翁の門下生はにぎやかにどっさりいて、 いずれ劣らぬ粒ぞろいであるから、 優れ者であるとしてそこから現れ出るのは難しい。 咲き乱れる多種多様な花の中で、 貴公ばかりはひときわ高い香りを放ち、 南方から都に出てくるなり、 たちまち酔翁と並び立つまでになった。 その酔翁が今は地方の町に逼塞しているのだから、 弟子もやはりそうなるのが当然であるとして、 都を去ることになったのだろうか。 か

それとも、昔々漢の皇帝に数々の提言をした賈誼と同様に、 諸大臣に煙たがられて地方に追いやられるということなのだろうか。 が く

戦国時代の名将楽毅は活躍し過ぎて亡命を余儀なくされたけれど、 第 3 章:83


第3章 不本意な歳月 え ん

晩年には故国燕との縁を回復させた。 だから、これから行く地の新鮮な魚の味にすっかり魅了されて、 もう都の生臭い肉などは食わない、などということには、 たぶんならないであろう。 とかく世間は口うるさく、 耳の中で蝉がわんわん鳴いているようなものだ。 できることなら、 都のあたりに巨大な池を造って、 大鯨のような貴公の大きな才能を、 自由自在に泳がせたいものだ。 (送別の詩がこのように連続するのは、蘇軾と思いを共有できるような人々が続々と 都を去って行ったからである。これらの一連の詩からも、蘇軾が体制側に対して遠慮 することなく自由にものを言っていることが知れるであろう。それがために蘇軾は次 第に厳しい立場に追い込まれて行った)

■書六一居士伝後 欧陽脩はしばらく前から地方に出ていて、まさにこのころに政界から完 全に引退する決意を固めた。 ろくいち こ じ

(欧陽脩は引退を朝廷に願い出て許可されると、自ら「六一居士」と号し、その意味 するところを「六一居士伝」に記した。 第 3 章:84


自由訳蘇東坡詩集抄 じ ょ ざん

すい お う

私は滁山に流されたときに「醉翁」と自ら号した。あれからすでに老い、すでに衰え、かつ え い すい

病んだので、いよいよ潁水のほとりに引退することにし、ここにさらに「六一居士」と号するこ ととなった。 ある客人が問うには、 「『六一』とはどういう意味なのでしょうか」 居士が答えるには、 . きんせき . 「吾が家には蔵書が一万巻あります。三代以来の金石の遺文を収録したのが一千巻あり . . . ます。琴が一張あります。囲碁の盤が一局あります。そして常に置いてある酒が一壺ありま す。『一』とはこれらのことです」 客人が言うには、 「それでは『五一』なのではありませんでしょうか」 居士が言うには、 「吾が一人の翁がいて、この五つの『一』の間で老いております。というわけで『六一』とい うことになりませんかな」 客人が笑って言うには、 「先生はしばしばその号を変えておられますが、いわゆる『名から逃れようとする者』、つまり、 そ う じ

世の評判から逃れようとする人なのでしょうか。しかし、それは、かの荘子の譬え話にある 『影を畏れて走った者』と同じになってしまうのではないでしょうか。影を畏れた者は、影がど こまでも付いて回ってくるのを憎み、一日中逃げ回ったあげくに、疲労困憊して死んでしまっ たといいます。私は、先生が疾走して、ひどく喘ぎ、死ぬほど喉を乾かして、しかし逃げ切 第 3 章:85


第3章 不本意な歳月

れないでいるようにお見受けいたします」 居士が言うには、 「私は、もとより、名から逃れられないことを知っています。そして逃れるべきではないとも知 しる

っています。私が新たな号を名乗るのは、自分の楽しみをいささか志そうとするだけです」 客人が言うには、 「その楽しみとはどういうものでしょうか」 居士が言うには、 みち

こころ

「私の楽しみは〈道〉と一つになるより勝るともいえましょうか。楽しみの意を五つの『一』の間 たいざん

において得ることができたならば、泰山が身の前にあっても目に入ってきませんでしょうし、 どうてい

落雷が柱をへし折ったところで驚かないでしょう。洞庭の野で聖人を称える壮大な音楽が た くろ く

演奏されても、涿鹿の原で極悪の敵を打ち破る大きな合戦が行われても、その心地よさ、 その快さには及ぶものではありません。しかし、五つの『一』の間での吾が楽しみを極めら れないでいるのを、これまで私は常に患っていました。私にまとわりつく世事がたくさんにあ ったためです。その大きなものは二つです。第一が官服、官印等で、それは外側から私を 疲れさせます。第二が憂患、思慮等で、内側から私を疲れさせます。私の肉体は病いで かじか

はなくてもすでに悴み、私の心は老いるよりも先に衰えてしまって、五つの『一』の間で楽し む暇がどこにもありませんでした。それで私はこの三年の間、身を退くことを朝廷に願い出 そ く ぜん

ておりました。ある日、陛下は惻然とこのことを哀れまれ、引退することを許してくださいました いおり

ので、この五つの『一』とともに我が身は田舎の廬に帰れるようになり、かねてからの願い しる

が叶うこととなったのです。これが私がいささか志そうとするところのものです」 第 3 章:86


自由訳蘇東坡詩集抄

客人はまた笑って言うには、 「先生は官服、官印等が身体にまつわるものであるのを御存知ですけれど、五つの『一』 が心にまつわるものであるとは思われないのでしょうか」 居士が言うには、 「そうではありません。官服、官印等がまつわって私をすでに疲れさせ、たくさんの憂いを生 みましたけれど、五つの『一』はすでに私を解き放ち、幸いにも患うところのものはないので す。私はどちらを選ぶべきでしょうかな」 ここにおいて客人は立ち、私の手を取って大いに笑って言うには、 「まったくもって比べるまでもありません」 そして、居士が嘆息して言うには、 し た い ふ

「そもそも士大夫たる者は、若いときには仕え、老いては休んでよく、七十歳まで待たなくても よろしいとされています。私はもともとその考え方を慕っておりました。官職から去るべき第一 の理由がここにあります。私はかつて大事な御用を勤めさせていただきましたが、称賛を ほしいまま

縦 にしようとする気はさらさらありません。官職から去るべき第二の理由がここにあります。 壮年の頃からそのようにあるべきと考え、今はすでに老いかつ病んでおります。強いて身を 働かせようとしても難しく、それでいながら過分の栄禄を貪るのは、まさしく本来の志に違い、 自分の日頃の言辞を根底から覆すものです。官職から去るべき第三の理由がここにあり ます。去るべき三つの理由があるのですから、たとえ五つの『一』がなくても私は去るべき なのです。これでもう言うべきことは尽きましたでしょう」 熙寧三年九月七日、六一居士自らかく記す。 第 3 章:87


第3章 不本意な歳月

このとき欧陽脩は 64 歳だった。24 歳で科挙に合格して以来、政治改革ならびに文学 改革の闘士として長年闘い、引退の本当の理由は別にあるとしても、政治的なことと は別の次元の価値を自分の行動に見出そうというのがこの「六一居士伝」であるのだ ろう)

蘇軾は「六一居士伝」を読んで、次のような感想を記した。

私は言おう。 ゆ う ど う

みち

「六一居士は有道の者(〈道〉を身に具えた人)であるのでしょう」 それに対してある人は言う。 「六一居士は有道の者とはいえますまい。有道の者なら、懐に抱える物などなし に、安らかにしていられるのではありませんかな。六一居士は五つの物を所蔵し ています。六一居士は世間の人が争ってほしがる物には見向きもしませんけれど、 世間の者が棄てるような物を拾っています。そのようなことをしていて、有道の者で あるといえるのでしょうか」 私は言う。 「そうではありません。五つの物を懐に抱えて後に安らかにしていられるのなら、そ れは物に惑わされていることになりましょう。五つの物を棄て去って後に安らかにな るのも、やはり惑わされていましょう。六一居士は初めから物にまといつかれてな どいません。立派な服も、立派な車も、官位の印しも、つまりは地位にまといつか 第 3 章:88


自由訳蘇東坡詩集抄

れてなどいないのです。まして、五つの物にまといつかれているのではありません。 物に惑わされるのは、物を吾が物にしようとするためです。吾も物も何かしらわけ があって天地の間に形を受けたのでありましょう。吾は吾、物は物でありますから、 どうして物を吾がものとすることができるのでしょうか。ある種の人は物を吾がものに しようとして、これは得れば喜び、これを失えば悲しみます。いま六一居士が自ら 『六一』といわれるのは、その身と五つの物をひとしくそれぞれ一つの物であるとし ているからであります。六一居士が五つの物を己のものにするとか、五つの物が 六一居士を己のものにするとか、そういうことではないのです。六一居士と五つの 物とは等しい関係にあって、お互いに己のものとすることはないのです。ですから、 得たり失ったりということもそもそもありません。このようなことから、私は、六一居士 は有道の者であるというのです。もし一と五とが向き合っているのなら、六一居士 の存在は浮き上がってはっきりと見てとることができましょう。五とともに一があって 六になっているのなら、いずれが五でいずれが一という区別はなく、つまり六一 居士だけが浮き上がって見えることはありません。つまりは、六一居士はすっかり 隠れているということになりましょう」 (この文章で、六だ五だ一だと、何か言葉の遊びでもしているように見えるが、要は 欧陽脩の引退について、政治的発言を避けつつ賛意を示したということであるのだろ う) (第 1 章 42 ページで見たように、蘇軾は 8 歳のころ、郷里の寺子屋の師匠から、都 はんちゅうえん

おうようしゅう

ふ ひつ

かん き

では范 仲 淹、欧陽 脩 、富弼、韓琦らが停滞する政治を変えようとしているという話 第 3 章:89


第3章 不本意な歳月

を聞き、いつしかその人々とともに国のために働けるようになりたいと心に強く思っ た。 范仲淹らは幾度となく国政の改革に挑み、 しかし守旧派の頑強な抵抗に遭ったり、 思わぬ事態が出来したりして、ほとんど成果を上げられなかった。范仲淹は先に亡く なり、欧陽脩は前の皇帝のときに、自ら改革の指揮を執る好機を迎えながら、ある論 争に巻き込まれて疲労困憊して改革に着手できずに終わってしまった。宋は改革の度 重なる先送りによって危機的な状況に陥り、ついに神宗皇帝と王安石がかつてない大 規模かつ徹底した改革に乗り出したのである。欧陽脩、富弼、韓琦は元来は改革を志 向していたにもかかわらず、新たな改革があまりにも急進的であったために強く反対 した)

■墨君堂記 ぶんどう

先に見たように、都において真に心の許せる友として文同がいた。文同 ぼくくん

はもっぱら竹を描き、その画を納める建物を作って「墨君堂」と名付け た。その由来を書いたのがこの文章である。 「墨君」とは墨で描いた竹の こと。

こう

一般に人が人を呼ぶとき、相手が貴人であれば「公」といい、相手が賢 くん

人であれば「君」といい、それ以下であれば「爾」とか「汝」とかいう。 こうけい

公卿の身分にある人に対して、その地位に畏れはしても、心に服さない ときには、世間の人々は公的な場では「君」といいつつも、私的な場で 第 3 章:90


自由訳蘇東坡詩集抄

は「爾」とか「汝」とかいって軽んじるのはよくありがちのことだ。 おう き

かつて、 王徽之が人から空き家を借りてしばしの仮住まいをしたときに、 すぐに竹を植えたので、 それ

「どうせじきに出て行くのだから、何もわざわざ『爾』を植えるまでも なかろうに」 と、ある人が言った。 王徽之は、 「かの『君』なくして一日も過ごせるものではない」 と、答え、それ以来、天下の人々は、竹は必ず「君」の敬称で呼ぶよう になった。 ちくくん

かたど

文同は墨で竹君の姿を象るのを得手としている。文同は墨で竹を描いた ほめ

「墨君」を納めるための堂を作り、竹君の徳を頌たたえる文章を書いて ほしいと私に言った。文同が竹君に寄せる思いはまことに厚いものがあ る。 文同の人となりはといえば、沈着冷静でありながら華やかさがあり、聡 明冷徹でありながら真心がある。潔さを身に具え、広く物事に通じよう と、朝夕に己を磨く努力を重ねている。文同と交際したいと願うのは、 一人だけだということは全くないのだが、文同が厚く思いを寄せるのは ただ一人、竹君だけである。 竹君は飾り気がなく、しなやかで強い。人の耳、目、鼻、口を楽しませ 第 3 章:91


第3章 不本意な歳月

る声や色や香りや味はない。文同が竹君を厚く思うのは、竹君が賢君で あると考えるからだ。 世間というものはなかなかに厳しい。人を震え上がらせたり、冷や汗を ぐっしょりかかせたりする。だからといって、霜や雪や風や雨が直接に 肌に当たる厳しさほどのことはない。それでも、世間の厳しさに挫け、 己の保持するところのものを見失ってへらへらしている連中は少なくな い。 植物を見ても、 季節の移り変わりに応じて大きく変わるのが普通だ。 しかし、竹君だけは四季に左右されるところがない。 竹君は賢君であると、文同でない人も言いはする。しかし、文同こそは 竹君を最も深く理解し、竹君が賢君である真の理由を最もよく知ってい る。文同は談笑しながら筆を執り、獅子奮迅の勢いで墨を注ぎ、竹君の 徳をことごとく描き切る。 文同は、竹君の幼い姿も、成長した姿も、老いた姿も描き、折り曲げら れて一度は伏してもすぐさま立ち上がる勢いを描き、風雪の厳しさの中 でも保っている本性を描き、切り立った崖にあっても真っ直ぐに伸びよ うとする志を描く。 思いのままに大きく成長して高々と茂っても驕らず、 思いの通りにならなくて小さく低いままでも恥じ入りはしない。群がり 立っても依存し合わず、一本だけでも恐れるところはない。 こころ

文同は竹君の情を完全に理解し、その本性をことごとく描き切る。 私はまだまだ竹君を知っているとはいえない。文同に習って、文同の墨 第 3 章:92


自由訳蘇東坡詩集抄 かたち

君の弟や子や孫や友人の象を描いてみたいと思っている。行く行くはそ の画を我が部屋に納めて、墨君堂の別館ということにしたいものだ。

■送文与可出守陵州 き ねい

熙寧4(1071)年、蘇軾 36 歳。 厳しい政治抗争の渦中に置かれた蘇軾にとって、文同との交流は大きな りょう

慰めとなっていた。しかし、この年の初めに文同は郷里に近い陵州の知 じょういんいん

事として都を出て行くことになった。別れの前に一緒に浄因院を訪れ、 どうしん

この詩を文同に贈った。浄因院の壁にはそこの長老の道臻に頼まれて文 同が描いた竹の画があった。

ぼ く く ん

壁に描かれた「墨君」は言語を理解しない。 それでも「墨君」を見れば百の憂いを消すことができる。 我が友は「墨君」に似て、しかも言語を理解する。 友の節義は秋の霜のように純白で凛々しく、 健やかにして清らかな詩を詠み、 思想性は道家の真骨頂に迫る。 地位を下げられても意に介することはない。 暁の風に髪を自在になびかせて、 舵を操って長江を遡って行くことだろう。 第 3 章:93


第3章 不本意な歳月

川を巡る山々が朝焼けに赤々と照り映え、 りょう よ う

千山のそのまた彼方に友の行く陵陽はある。 我が友は、遠く別れて行ってしまうと、 私の心持ちが悪くなるのを知っている。 だからこの「墨君」を見て、 己の憂いを解くようにと言ってくれるのだ。

■朱寿昌郎中少不知母所在刺血写経求之五十年去歳得之蜀中以詩賀之 し ゅ じ ゅ しょう

文同は前年の春に上京した際に、とある町で朱寿昌という者とたまたま 同宿し、身の上話を聞いた。 (朱寿昌の父は官員で、長安にほど近い町に赴任していたときに、何かの事情で妾の りゅう

劉 氏を残して別の任地に移った。 そのとき身ごもっていた劉氏は実家に帰って朱寿昌 とう

を出産した。劉氏は間もなく党という人と結婚し、朱寿昌は父の元に引き取られた。 こうした事情を朱寿昌は7歳のときに初めて知り、いつしか生みの母に会いたいと思 っていたのだが、その機会もないままに 50 歳になった。ある日、このままでは決し て母に会えないと思うと居ても立ってもいられなくなり、ただちに職を辞し、 「母に会 うまで戻らない」と家族に言い置いて旅に出た。それ以来、自分の血で経を写して願 きん

を掛けるなどして懸命に探し、ようやくわずかな手がかりを得たのでこれから金州に 向かうところであると、文同に話した)

文同は都に着くと、朱寿昌のことを人々に話し、そうこうするうちに長 第 3 章:94


自由訳蘇東坡詩集抄

安から、朱寿昌が母親に会えたとの報せがあった。皇帝は母子の再会に 感動し、朱寿昌とその母を都に呼び寄せ、朱寿昌を褒め、本人の希望を 入れて母の郷里に近い町の知事に任命した。朱寿昌が都を去る際に、大 勢の人が送別の詩を贈り、蘇軾もこの詩を贈った。

ああ、貴公が母のことを初めて知ったのは七歳のときだった。 ああ、貴公の心の苦しみは成長するにつれて強まった。 ああ、貴公は老いに臨んでついに母と会うことができた。 喜びが極まり、涙が雨のように流れるばかりで、言葉は出なかった。 貴公は、宰相の地位に昇ることも羨ましいとは思わず、 貴公は、仙人になって天に昇ることに憧れもせず、 母の前で赤ん坊の服を着て、 赤ん坊の泣き声で甘えることを宿願として、 五十歳にしてようやく成し遂げたのだった。 竜を煮て、宝玉を酒に変えて母のための祝いの膳とし、 千年万年の寿命を祈った。 皇帝は美々しい駕籠を使わして母を宮中に迎え、 金文字の詔書で貴公を官職に戻された。 貴公が母と別れ、そして再会した経緯を聞いて、 私は強く感じるものがあった。 第 3 章:95


第3章 不本意な歳月

現代ではこのような事例を他に聞かないが、 昔にさかのぼればなかったわけではない。 ぶ てい

漢の武帝は、 母がかつて卑しい身分にあったときに生み落とした姉がいると聞き、 自ら尋ね回って姉を宮中に迎えた。 か く き ょ へ い

漢の大将軍の霍去病は、 夫なき母より生まれたのだが、 遠征の途上でついに父を見付け出した。 隋朝のある皇后は、 自分には親族が一人もいないのを日頃から悲しみ、 ある農夫が「おいらの叔母は皇后様だ」と自慢していたと聞くと、 すでに死んでいたその男に高い位を贈った。 唐朝のある皇帝は、 自分の生母を知らないままに育ち、 戦乱で行方不明になったと後に聞くと、 四方に命じて捜したのだが、 ついに会うことはできなかった。 ところが、ある男は、 先々大臣になるまで帰らないと言って故郷を出ると、 母が亡くなったと聞いても、本当に帰らなかった。 第 3 章:96


自由訳蘇東坡詩集抄

とかく地位を優先する者が多い世の中であるから、 貴公を見て我が身を恥じる者が、 果たしてどれほどいるのだろうか。 (この詩の最後には実は痛烈な皮肉が篭められている。世には必ず時流に迎合しよう とする者が現れる。改革に反対する人々が続々と都を出て行く一方で、改革の実行部 隊となる人材が集められた。改革の理念を本当には理解していないのに、改革派のふ りをして政権の中枢に入り込もうとする者が大勢いた。王安石は、改革に賛意を示し た者はすぐに採用した(人は安易に嘘を言ったりしないと王安石は思っていたようだ し、自分は決して騙されないと王安石は信じていたようだ)ので、本章 61 ページで 蘇軾が指摘したようなことが起こって、 レベルの低い人間が朝廷に並ぶようになった。 り てい

その一人に李定がいて、亡き母の喪に服すべき期間にあることを隠して急いで都に上 り、改革を称賛して王安石からにわかに高い地位を授かった。李定は王安石への忠誠 しゃけいおん

心を示そうと、反対派を様々な罪に無理やり陥れようとした。李定の仲間の謝景温は 蘇軾を標的とし、蘇軾は父の棺を船に載せて郷里に帰る途中で違法な商取引で利益を 得ていたと告発した。蘇軾は皇帝の信頼を失い、一時期難しい立場に追いやられた(こ の詩のころには疑いは晴れていた) 。蘇軾は朱寿昌を褒める一方で、暗に李定を批判し たのである。李定はこのことを恨み、数年後に恐るべき復讐をする)

■題趙屼屏風与可竹 ちょう ご つ

文同が去ったのは蘇軾にとって大きな喪失で、趙屼という人が所蔵する 第 3 章:97


第3章 不本意な歳月

文同の屏風画に次のようにその思いを記した。

文同が行くところではいつも、口からは詩が溢れ出るし、手からは竹が 描き出される。文同は都にきて一年にもならないのに、地方に出ること を願って、故郷に近い町へと去り、詩も画もみな西に行ってしまった。 一日でも文同を見ないと、文同のことが想われてならない。文同という いか

人は厳めしくも冷静で、とげとげざわざわした気分を静めてくれるし、 せこせこぺらぺらな気持ちを厚くしてくれる。 いまやここを去ること数千里。その詩は求めることはできるだろうし、 その竹の画は描いてもらうこともできるだろう。しかし、その静めて厚 くしてくれるところのものはもうないのだ。私は竹の画を眺めて嘆くし かない。

■浄因院画記 どうしん

5 月、 浄因院の道臻長老 (本章 93 ページ) に頼まれて次の文章を記した。

かつて私は次のように画を論じた。 じょう け い

人物、動物、建物、器物などには皆それぞれに固有の形、つまり「常形」 がある。山や石や竹や木、あるいは水や波や靄や雲には決まった「常形」 じょう り

はないけれど、それぞれに固有の本質、つまり「常理」がある。 第 3 章:98


自由訳蘇東坡詩集抄

画を描いて「常形」を失っていれば、人は誰もがそれに気付く。しかし、 「常理」から離れている場合には、画を理解している人でも気付かない ことがある。だから、世間を欺いて画で名を成そうとする者は、必ず「常 形」のないものを描くのである。 画を描いて「常形」を失った場合には、そのものの形がおかしくなるだ けで、画全体が台無しになってしまうわけではない。しかし、 「常理」が 当たらない場合には、画全体がすっかり駄目になってしまう。 「常形」が ないだけに、よくよく謹んで「常理」に心を用いなければならないので ある。 「形」を徹底的に正確に描き切るのは、世間の技量の優れた人なら為し 得るところである。 「理」までを画に描いて見せてくれるのは、世間から こうじん

いつざい

超越した「高人」であり、卓抜した才能「逸才」の持ち主でなければな らない。 文同が描いた竹、石、枯木は、まことにその「理」を得たというべきで ある。その画を見れば、竹はこのように生じ、このように死に、このよ かが

うに屈まり、このように曲り、このように痩せ、このように縮まり、こ のように枝が伸び、このように葉が茂るものだと、人の心を十分に満た してくれる。根、茎、節、葉、牙、角、脈筋は千変万化し、始めから終 わりまで同じものはないのだけれど、それぞれが全てあるべきところに あって、天の造化の「理」に合致していると、完全に人を得心させる。 第 3 章:99


第3章 不本意な歳月

それはすなわち画を見る者が、達人の精神の内に包み込まれるというこ とであるのだろう。 文同はかつて浄因院の方丈にふた群れの竹を描いた。そして、西に出て りょう よ う

陵陽に赴任するに当たり、浄因院の長老の道臻師に別れを告げにきて、 私も同行した。 文同は方丈の隣の部屋に、 二本の竹と一本の枯木を描き、 さらには本堂の四方の壁を白く塗り替えたばかりであるので、そこにも 竹を描いてくれぬかと道臻師に頼まれた。文同は快諾し、そうした経緯 を私が記すことになった。 後にここに「理」をよく知る者がきて、深く文同の竹の画を観るならば、 私がここに書いたことが妄言ではないとわかってくれるであろう。 (これは文同との交流から生まれた独特の画論である。蘇軾はこの後、数々の画論を 記すが、蘇軾の思索の特徴がここによく表れている)

■出都来陳所乗船上有題小詩八首不知何人作有感余心者聊為和之 これまで大勢の人々を見送ってきた蘇軾も、とうとう都にはいられなく こう

なり、7 月に杭州の副知事として都を離れることになった。 さい が

杭州までは船旅で、都の中を貫通する蔡河を下って南に向かった。船室 の壁に誰かが詠んだ 8 首の詩が記されていたので、蘇軾は旅の折々に、 その詩と同じ韻を用いてやはり 8 首の詩を作った。

第 3 章:100


自由訳蘇東坡詩集抄

其の一 船着き場の青い草の内で鳴く蛙、 川の合流点に垂れる柳の内で騒ぐ蝉、 そして偶然ここに居合わせた旅行く私―― 新たに雨が通り過ぎる。

其の二 鳥が楽しむとき、獲り網があるのを忘れ、 魚が楽しむとき、釣り餌があるのを忘れる。 安らかにいられる場所はどこかと選ばなくても、 流転してやまぬ広大な天下には、ここというところがきっとある。

其の三 炊事の煙が村から上り始め、 朝日が投げかける光はまだ弱々しい。 田園はどこも懐かしさを誘うのに、 どうして郷里に帰らずにいるのだろうか。

其の四 私の旅は速くもなく遅くもなく、 第 3 章:101


第3章 不本意な歳月

軽やかな櫂の動きにゆらりゆらりと進んで行く。 船が止まると村の市はにわかに賑わい、 水門が開くと勢いづいた波が川にみなぎる。

其の五 船上の人間は炎熱に一日苦しめられ、 高い木々に囲まれた入り江に船を停泊させる。 空にはまだ月が上ってこないかわりに、 黒い雲が今にも崩れそうな形でそそり立つ。

其の六 地上の万の穴が一斉に共鳴するかのように雷が轟き、 天上の池の水をまき散らすかのように風が吹き過ぎる。 雷と風が撃ち合う騒動は一瞬にして終わり、 天空に北斗と南斗がかかる。

其の七 え い すい

かんすい

ここは潁水であって漢水ではない、 しかし、水は同じく若い葡萄の実の色をしている。 もしも漢水であるのなら、我が故郷へと通じ、 第 3 章:102


自由訳蘇東坡詩集抄

子供等が懐かしい童謡を歌うのが聞こえてくるであろうに。 えいすい

かんすい

(蘇軾を乗せた船は蔡河から潁水に入った。漢水は故郷の蜀を源とする川で、第 1 章 51 ページに漢水を詠んだ詩があった)

其の八 私のこの詩は拙いものであるけれど、 心が平らになるにつれて、調べは良く和すようになった。 年来の煩悩もいずれは尽き、 波の立たない古い井戸のようになるであろうか。 おうじゅん し

まい

たい

にんさい

(このときに旅には、妻の王 閏 之、長男の邁(13 歳) 、次男の迨(2 歳) 、乳母の任採 れん

ば せいけい

りんじゅうろくろう

蓮、馬正卿、それに林 十 六郎の妻と 2 人の息子が同行した。林十六郎は詳しくはわ からないが、蘇軾の遠い親類で、科挙を目指している途中で、前年の秋に都で亡くな った。まだ 30 歳だった。その妻は、夫を先祖の墓に葬るためか、親類がいるからな のか、杭州に行くことを希望したので、蘇軾は連れて行くことにした。官職に就いた 者は、親類縁者をできる限り援助するのが当たり前とされた。そうした美徳が、一族 の繁栄を優先する余り官僚が不正を行う誘因ともなった。先に李定が不道徳であった と記したが、官僚となった者は一族の命運を一身に荷い、何がなんでもよいポストを 獲得しようとするのである)

第 3 章:103


第3章 不本意な歳月

■和子由初到陳州見寄二首次韻 前の一連の詩で潁水に入るまでを歌っていたが、旅を最初に戻すと、蘇 ちん

そ てつ

軾はまず弟がいる陳州を目指した。弟の蘇轍は先に熙寧 2(1069)年 8 月に朝廷から去ることを願い出る文書を提出し、その中で改革を激しく 批判して王安石を激怒させた。地方官となる辞令が出たもののすぐには そ じゅん

赴任せず、門を閉ざして家に籠った。そして、翌年の 1 月に父(蘇洵) ちょう ほ う へ い

の恩人である張方平(第 1 章 62 ページ)が改革派と対立して都を出て 陳州知事になると、蘇轍を州の学校の教授として招き、弟はそれに応じ た。弟は陳州に着くとすぐに 2 首の詩を蘇軾に送った。それから 1 年半 余り経って、 蘇軾は都を出て陳州に向かう途中で弟の詩に和して返した。

其の一 孔子の時代から遠く離れ、 道徳が失われて久しいとはいえ、 僕らは円熟した人々に出会うことができた。 その人達も、そして僕らも、もはや老い衰え、 いまさら実用の学に転じることなどできもしない。 う

役立たずの独活の大木を決め込み、 この有り難い御代に阿呆の身を委ねるとするのか。 昔から、無名の貧乏人であればこそ、 第 3 章:104


自由訳蘇東坡詩集抄

生涯親から離れずに孝行できるというではないか。 己の暮らしこそを大切にして行きたいものだ。 ( 「円熟した人々」とは欧陽脩や張方平のような人々を指し、皆改革に反対して地方に 去った。蘇軾自身も失意のうちに都を発ったのである)

其の二 故郷と別れて三年、 山の松は生き生きと育っているだろうか。 故郷を思い続け、 その心はいつまでも変わらない。 時には、戸を閉ざして夢に故郷を尋ねもする。 行ってみると、僕の愁いを語る相手はそこにはいない。 夢より醒めれば、 やはり、僕の愁いを語る相手はいない。 流れる涙を添えて、 君がいる南の地へと送ろう。

■次韻子由柳湖感物 陳州に着くと、そこで 70 日余りを過ごした。それだけ長期にわたった のは、弟とできる限り長く一緒にいたかったのと、張方平が別の任地に 第 3 章:105


第3章 不本意な歳月

向かうのを見送る日まで留まったためである。 (張方平は改革に反対して都を出て陳州に知事として赴任した。知事としての任務を 誠実に果たそうとすると、中央からの指令に従って改革の実践に努めなければならな い。宋代は中央集権の官僚機構が整備され、現場の勝手な判断で中央の指令を無視し たり逆らったりすることは不可能であった。張方平は自分の信条と実際の行動の乖離 に悩み、実務から離れた閑職に移ることを朝廷に願い出た。張方平は朝廷の大物であ ったから、それが許されて陳州を去ることになった) りゅう

弟が教授を務める州の学校は、町の北側の柳湖のほとりにあった。柳湖 のまわりにはその名にふさわしく 1 万株にも及ぶ柳が植えられていた。 弟は柳湖についての詩を詠み、 その中で、 池の柳と山の松とを比較して、 風に靡きやすい柳より、どっしりと構えて動かない松を堅固であると褒 めた。それに対して、蘇軾は異なる見方をする。

き しゅう

思えば昔、杜甫が夔州の東の村にいたとき、 茅葺のちっぽけな家は青い山の下にあった。 杜甫は詩を詠み過ぎて辺境の地をさすらう身となり、 猿や鳥と愁いの声を競ったのだった。 君もまた都の人から棄てられてしまい、 いつも独りぼっちで馬に乗って歩み、 柳湖の一万株の柳だけが、 第 3 章:106


自由訳蘇東坡詩集抄

朝に夕に、君のために清らかな蔭を作って待っていてくれる。 そうであるのに、 柳に対して酷な評価をしたのでは、 柳もがっかりして元気に繁ることができないだろう。 柳は口がきけないし、怒ることも知らないけれど、 君の言い方では世間の人々だってがっかりするだろう。 春の柳の光り輝くさまは、 女性のあでやかな姿の譬えによく用いられる。 ねじ曲がった松の根が、 空腹に苦しむ蛇に譬えられるのとは大きな違いだ。 朝には、柳の葉の緑の蔭は、炎天下の松の蔭より濃いものがあるし、 夜には、柳の枝には、松の枝には見られない揺れる月の光がある。 春には、花が風に乗って雪のように翻り、 き つ つ き

ついば

秋には、啄木鳥の虫を啄む音が高く鳴り響く。 四季によって、繁っては落ち、繁っては落ち、 寒さにつけ暑さにつけ、盛衰の異なる姿を見せてくれる。 山の松は、積雪に埋もれようとも凍え死ぬことなく、 常に同じ緑を保っている。 だからといって、 柳と松とどちらかがより賢いということはないのではないかい。 第 3 章:107


第3章 不本意な歳月

■次韻張安道読杜甫詩 あざな

あんどう

前の詩の冒頭で杜甫に言及しているのは、張方平(字は安道)が陳州に きてから杜甫の詩を熱心に読んでいたからである。張方平は杜甫の詩の 感想を詩に詠み、蘇軾はそれに和した。 り はく

(唐を代表する詩人といえば杜甫と李白であって、さらには杜甫こそが中国の最大の 詩人であるするのが現代ではごく一般的な見方となっているが、杜甫の詩が際立って 高く評価されるようになったのは蘇軾の時代のころからで、この詩は後に定説なる杜 甫の詩に対する見方をはっきりと打ち出している)

古代の詩の輝きが薄れると、 詩の流れは横暴な君主達によってねじ曲げられ、 ふ

宮廷詩人が媚びた賦を作る一方で、 く つ げん

中央から放逐された屈原が新しい詩の形式を創った。 それからさらに詩は変転し、 崩れもし壊れもし、 たくさんの俊英が現れもした。 辺鄙な土地に奇怪な物産が出現するように、 源流から離れたところで詩は狂乱の態を呈した。 厚化粧が真の美しさを凌駕するかのように惑わせ、 第 3 章:108


自由訳蘇東坡詩集抄 えび

神に供える神聖な豚や羊よりも生臭い魚や蝦が大切にされもした。 今では誰もが知るように、 杜甫が現れ出て、 その名は李白と共に高く並び、 大地はきれいに掃き清められ、 ただ二人の足跡だけが並ぶのを見るようになった。 詩を作る者は追い詰められて苦しむのが常で、 天の意志がそうさせるのだろう。 唐の天下が暗い塵に覆われ、平和が崩れ去ったとき、 皇帝は暴れる化け物を切って捨てようと、 勇猛な武将だけを求め、 文に優れた者は顧みられなかった。 李白も杜甫も失意に沈んで遠く辺境の地をさまよい、 その悲しみの声が遠く万里の彼方に聞かれた。 李白は鯨にまたがって大海の向こうに行こうとし、 杜甫は虎にまたがって大地の向こうに行こうとした。 杜甫の大いなる筆は竜をも退治するものだったのだが、 うまや

官に就いたときにはしがない厩番ほどの役しか与えられず、 世知に疎いために、手にした物は何もなく、 あるとき久し振りに大いに酔った日に亡くなったのだった。 第 3 章:109


第3章 不本意な歳月

今では杜甫の詩を手本とすべしと見られているが、 児童は単にそれをなぞる努力をするだけである。 現代の詩文において、 先頭に立って旗を振る者は誰であろうか。 他ならぬ張方平殿である。 張方平殿は杜甫の詩巻を開いて遥かに思いを馳せ、 会って語り合えないのを残念に思っている。 人は響き合う友を得ることを願い、 共に自在に才能を飛翔させるとき、 この天下も狭いと感じるのである。 残念ながら、私には張方平殿に見ていただけるような佳句はない。 たまたま重陽の節句を前にしてお酒を頂戴したので、 菊の花を丁寧に世話し、 草の中に埋没させてしまわないようにしたいと思うだけだ。 (結びの部分は、張方平から教わったことを菊の花に譬えて、守って行こうとの決意 を示したのだろう)

■送張安道赴南都留台 こう

張方平が陳州を発つのを見送った。詩中にある「我が公」とは張方平の ことである。 第 3 章:110


自由訳蘇東坡詩集抄

いにしえ

せん は く

我が公は古 の仙伯の生まれ変わりであり、 せんもん

世俗から超然と抜きん出た姿は羨門と変わらない。 ところが、たまたま世間を救おうなどという志を抱いたために、 俗世に繋ぎとめられることになってしまった。 譬えてみれば、竜が皇帝の御苑に遊びにきたようなもの、 あるいは、鳳凰が皇城の儀式に参列したようなもので、 いつまでもせせこましいところに留まっているはずもなく、 いずれは遥かなる仙界に帰るのである。 我が公は皇居に出入りすること四十年に及び、 ただの一度も自身の憂患を口にすることはなかった。 そして、ふと「帰ろう」と漏らしたならば、 朝廷を挙げて引き止めようとしても無駄だった。 我が君はまことに叡智に溢れ、 草の根を払って有用の士を探し求めておられる。 昔の君主は、 よ

佳き人を朝廷に引きとめておきたいのなら、 その人の傍らに誠意をもって応じる人がいなければならないのを、 よく知っていた。 我が公は、「帰ろう」と漏らすと、 第 3 章:111


第3章 不本意な歳月

すぐに居室をきれいに掃除し、 そこには何もかもなくなって、日光が差し込むだけとなったのを喜んだ。 こうして、我が公は、 万物が生まれ出る以前のところで遊ぶ境地に至ったのだが、 世俗の人はそのようなことは理解できない。 私もまた世渡り術に疎く、 世間においてぐずぐずするうちに、 鬢に白髪が出るようになってしまった。 出処進退などはまことにちまちましたことだ。 いずれ我が公の後を追うときがくるであろう。 ( 「仙伯」とは仙界における伯爵、 「羨門」とは太古の時代の仙人の名。この詩では実 務から離れることになった張方平を仙界に帰って行く仙人に譬えている。 「誠意をもっ て応じる人」と言っているのは、都には改革の担い手となる官僚が続々と集められて いるが、張方平のような先輩に敬意を示さないばかりか蹴落とそうとしていることへ の批判が篭められている)

■傅堯兪濟源草堂 ふ ぎょう ゆ

さいげん

傅堯兪という人が引退後は別荘(濟源草堂)で悠々自適の暮らしをする つもりであると語るのを聞いての詩。

第 3 章:112


自由訳蘇東坡詩集抄

私もしがない役人仲間の一人として、 やはり田園の暮らしに興味を持っている。 いざ老いて身を引くときになって、 いおり

どこに廬を結んだらよかろうかと初めて慌てふためいても、 植えた木が立派な蔭を作るには十年どころではないし、 そもそも買い求めるための資金もないということになってしまうに違いない。 先生は、清らかな川の流れに臨む地がよいとの占いを得てより、 すでに高い木々が画のような景観を作っているとのこと。 隣近所の人々も竹を愛しているようなので、 春ともなれば、 さぞかしおいしい筍がわんさと出てくるであろう。 (最後の部分は、隣近所とともに竹を愛でて大いに結構であるという解釈も成り立つ が、ここでは少々皮肉を交えたととって訳した)

■次韻柳子玉過陳絶糧二首 りゅう き ん

先に都で会っていた柳瑾(字は子玉) (本章 71 ページ)は改革派に睨ま れて降格となり、新たな任地に赴く途中で陳州に立ち寄り、手持ちの食 糧が絶えて難儀していると訴えた。それに応えた詩。

第 3 章:113


第3章 不本意な歳月

其の一 天帝は、 多才である貴公の真価を十分に試そうと、 激しい風雨の真っ暗闇の中を旅させているのだろう。 貴公は、 一羽の鶏が鳴けば、自分も合わせて鳴くようなことはしない。 それがために、 「なんとまあ米櫃がからっぽじゃわい」と、 飯炊き婆さんを驚かせる始末となった。 杜甫という人は、 つんつるてんの着物はいくら引っ張っても膝までこないと詩に詠んだ。 がん し ん けい

顔真卿という人は、 家計に無頓着で、数カ月にわたり一家で薄い粥を啜っていると記した。 苦労を嘗め尽くしてこそ詩人の情味は深くなるものだ。 それでお尋ねするけれど、 貴公はいまどれくらいまで嘗めたのかな。 (杜甫や顔真卿と比べたらまだまだ苦労が足りないと言ったのは、縁者故の気安さか らで、 「そういうあなたはどうなのか」という当然の切り返しに対しては次の詩で応え る)

第 3 章:114


自由訳蘇東坡詩集抄

其の二 私のごときは、自分で自分に愛想が尽きる。 貴公の他には、誰も洟もひっかけてくれない。 青い灯のもとで夜更けまで貴公と語り続け、 書物の読み方が出鱈目のままで、 年齢だけを重ねてきてしまったことに悲しみを覚える。 そ う

若い頃は荘子の哲学にのめり込んだのに、 世を救おうなどと、しがない官員になってしまった。 今は南に行く旅の途中で、 向こうで何をするのかといったら、 潮が遡ってくる際の、 一万の太鼓を轟かすような音を聞くだけであるのだろう。 せんとうこう

かいしょう

(潮が遡ってくる音とは、銭塘江の海 嘯のこと。銭塘江の河口付近は潮の干満の差が 非常に大きく、大潮のときには激しい勢いで遡る潮と川の水とが激突して大きな音を 立てる。海嘯見物は現在でも銭塘江の観光資源となっている。杭州に行ってすること といえば海嘯を見ることくらいだと、蘇軾は自虐的に戯れたのである)

■陸竜図詵挽詞 りくしん

せい と

陸詵という成都の知事が、新法の弊害を訴え続けている最中に亡くなっ たと聞き、その死を悼んでの詩。 第 3 章:115


第3章 不本意な歳月

陸先生の真っ直ぐな節義は衆に抜きん出て、 が

び さ ん

峨眉山よりも高く聳え立っていた。 正しい道を行うことだけを考え、 自分のためになどということはなかったから、 亡くなったときには家にわずかな蓄えさえもなかった。 し

せん

四川を行き交う人々は、 陸先生が亡くなったのを皆が悲しんだと聞く。 思えば、陸先生とは都で塵降る中でお見送りしてから三年になる。 し

けん か く

陸先生の遺像は成都の思賢閣にきっと飾られるであろうから、 ほ う しょう

鳳翔で樽酒を酌んで旧交を温め直したことがあるように、 何十年後かにはそこでまたお会いして、 ハンケチ

私は涙で手巾を濡らすに相違ない。 (思賢閣は土地の偉人の肖像を飾って顕彰する建物)

■陪欧陽公燕西湖 えい

蘇軾は陳州を発って潁州に向かった。潁州には政界を引退した欧陽脩が 隠居所を構えていた。弟の蘇轍も同行し、兄弟揃って大恩人に会った。 せい

潁州には西湖という風光明媚な湖があり、 欧陽脩はそこに2 人を連れた。 欧陽脩はこのとき 65 歳だった。 第 3 章:116


自由訳蘇東坡詩集抄

欧陽公はなお壮年であるのかというと、 髭は雪のように真っ白である。 欧陽公はすでに老年であるのかというと、 頬はてかてかと赤く光っている。 欧陽公のもとに参上すると、 早速湖の畔で美酒を飲むこととなった。 欧陽公は酔えば酔うほど縦横に談じ、 ついには激烈な言辞を吐くまでになる。 湖辺の草木に霜が降りるような季節になったけれど、 芙蓉や菊の花が競い合うように明るく咲いている。 花を手にし、欧陽公の長寿を祝して舞うと、 欧陽公はこのように言う。 「百年生きたところで、 ぴゅうと風が吹き過ぎるようなものだ。 仙人の仲間入りをして遊ぶのも悪くはなかろうが、 そのためには飢えを忍んで仙薬を飲まなければならないのなら御免蒙ろう。 若死にするか長生きするか、勝手に決めてくれと、 と

疾うから天帝に任せてある。 どっちを選ぶか頭を悩ませるのは天帝であるのだから、 第 3 章:117


第3章 不本意な歳月

私はこの世で楽しんでいればよいだけなのだ」 視線を上げると、 烏が町から夕靄の中へと飛び去って行く。 視線を下げると、 さけがめ

み な も

灯に照らされた銀の酒缸が湖の水面に映っている。 この詩を歌って、 まだまだ飲んでいただこうと欧陽公に勧める。 残念であるのは、 我等兄弟には、宴席において琴を奏し、 その音で皇帝と大臣のわだかまりをときほぐしたような腕前がないことだ。 (この詩の最後は、そのような故事があったのである)

■欧陽少師令賦所蓄石屏 欧陽脩は考古学の研究家としても知られ、潁州の家には考古学的な資料 がたくさん集められていた(本章 84 ページで見た「六一居士伝」には きんせき

「金石の遺文」という考古資料が「五つの一」の中に挙げられていた) 。 これは欧陽脩が所蔵する石の屏風を見ての詩。

誰がこの石の屏風を欧陽公のために遺したのか。 石の上に淡い墨の痕があり、 第 3 章:118


自由訳蘇東坡詩集抄

林やら草は描かれていない。 それとなく見えるのは、 が

び さ ん

雪を載せた峨眉山の西の嶺か。 そこには一万年を超える不老の松がある。 嶺に近付こうとしても、 崖が崩れ、谷は断ち切られている。 もやもやと空を覆う靄、 力強く差し込む夕日、 風の真の姿が描かれ、 これを見て初めて天の巧みを知ることができよう。 私が恐れるのは、 ひ っ こ う

い え ん

畢宏、韋偃のような昔の画工が、 死んで葬られて、骨はすでに朽ち果ててしまっても、 心はなお苦しみの内にあること―― 「まだ画を極め尽くしていない、 もはや我が腕を揮うことができない、 我が思いを描き表せない」 そのような果たせぬ思いが墨の痕と化して、 この石に宿ったのか。 古来、画師は俗士ではないとされ、 第 3 章:119


第3章 不本意な歳月

物と現象を掴んで描き出そうとするのは、 詩人とほぼ同じである。 願うのは、欧陽公が詩を詠んで、 畢宏、韋偃の二人の不遇を慰め、 幽明宮で憤りの余り泣いていないでもよいようにしてさしあげることだ。 (畢宏と韋偃は唐代の画師。 「二人の不遇」とは、志を果たせずに引退を余儀なくされ た欧陽脩のことをいうのであろう)

■潁州初別子由二首 蘇軾は潁州を発って杭州に向かい、弟は陳州に帰った。蘇軾、蘇轍、欧 陽脩の 3 人の別れに際し、弟に向けて送った詩。

其の一 旅行く帆を西風に掛けると、 え い すい

別れの涙が、清らかな潁水の流れへと滴り落ちる。 ぐずぐず留まろうとしても益はない―― わかってはいても、 いまのこの瞬間の光景を惜しまずにはいられない。 我が人生において、 君との別れはかつて三度あったけれど、 第 3 章:120


自由訳蘇東坡詩集抄

この四度目が最も痛ましい。 思うに、君は父上に似ていて、 ご う

ぼ く と つ

せい

木訥にして、「剛」かつ「静」である。 え き きょう

『易経』にいうところの、 「良い人は言葉数が少ない」とは君の「静」、 「石のように固く、機智に富み賢い」とは君の「剛」である。 今に至るまで、天下の士で、 朝廷を去るに当たって君ほど勇猛であった者はいない。 きょう

僕は長らく「狂」を病む者となり、 ぽっかりと大きな穴が開いているのにも気付かずに歩いていたようだ。 酔っ払って落ちてしまって、 幸いにも、醒めたら傷を負っていなかったようなものだったのだ。 これからは、暇を得た折などには、 黙って座って日を送るようにするつもりだ。 君がもう心配しないですむよう、 そのことをこうして詩に詠み込み、 一日に三度は反省するようにするよ。 (今回が 4 度目の別れと言っているのは、蘇軾が鳳翔に赴いたのが1 回目、蘇軾が鳳 翔から都に帰り、入れ替わりに弟が地方官となって出て行ったのが2 回目、そして弟 が陳州の学校の教授に招かれて都を出たのが 3 回目であるからだ) 第 3 章:121


第3章 不本意な歳月

其の二 別れがすぐ近くに行くだけのものなら、 ことさらに表情を変えることもないだろう。 別れがひどく遠くに行くものなら、 涙が胸を濡らすであろう。 しかし、隣にいても会わないでいるのなら、 地球の表と裏にいるのと変わりはしない。 人生に別離というものがなければ、 恩愛の重さを知ることはない。 え ん きゅう

僕が宛邱に着いたばかりのとき、 君の子どもたちは僕の衣を引っ張って踊った。 その瞬間に、僕は別れの悲しみがあると知った。 だから、秋風が吹き過ぎるまではと、 君のところに留まったのだった。 もうとっくに秋風は終わってしまい、 別れの恨みは窮まるところがない。 君は問う。 「いつ帰ってこられますか」 僕は言う。 第 3 章:122


自由訳蘇東坡詩集抄

「木星が東の空に見えるときだろうか」 天界の星は常に巡り巡っている。 別れと会うも常に巡り巡っている。 そして、憂いと喜びが常に攻め合っているのだ。 こうしてここまで詩を詠んできて、 僕は大きく長く嘆息する。 我が一生は結局のところ、 よ もぎ

根がなくて風のままに飛ばされる蓬のようなものであるのだろう。 ああ、憂うのはもうよそう。 憂いが多いと髪が早く白くなってしまう。 その最たる証拠として、 君も見るがいい、 ろ く いち お う

六一翁がそこにおられるのを。 (宛邱とは陳州にある丘の名で、背の高い弟をその丘になぞらえて宛邱先生と呼ぶよ うになる。欧陽脩が若い頃から白髪が目立ったのは有名な話(第 1 章 31 ページ) 。 「根 がなくて風のままに飛ばされる蓬」とは、中国の乾燥地帯に生える蓬の一種で、秋に ひ ほう

地上部が枯れると根が抜けて風の吹くままに飛ばされる。寄る辺ない姿の「飛蓬」は、 旅ないし人生の悲哀の象徴として唐代の詩に多用された。蘇軾はその「飛蓬」を、こ の詩以降、むしろ肯定的に捉えて用いるようになる)

第 3 章:123


第3章 不本意な歳月

■十月二日将至渦口五里所遇風留宿 都から遠く離れたからなのか、弟に会いさらに欧陽脩にも会ったからな のか、このころから蘇軾の詩は俄然生き生きとしてくる。 わい が

蘇軾の乗る船は潁水をしばらく下ってから淮河に入った。淮河は、中国 か ほく

か なん

を北の華北と南の華南の二つの文化圏に分ける境界として認識されてき か こう

た大河川である。潁水と淮河の合流点を渦口といい、10 月 2 日に渦口か ら 5 里のところで風のために前に進めなくなった。

淮河に向かっていた間は、 久しく風がなく、流れのままに、 滑るような心地良さを存分に味わっていた。 今朝は、 雪を投げつけるような白い波が一面に立ち、 平野が狭まってきたと感じ始めると、 我が前に二つの山が立ち塞がった。 その間から吹き出てきた風のために、 川の水は吐かれるのか、呑まれるのか、ここで滞ってしまった。 桑の木の根元に船を繋ぎ、 ざぶんざぶんと波間に舞い続けて、 夜を明かすことになった。 第 3 章:124


自由訳蘇東坡詩集抄

船頭達は懸命に声を掛け合い、 な

草を綯っただけのような弱々しい綱を頼みとして、 どうにかこうにかしのごうとしている。 私は普段から偉そうに、 「憂患なんぞ何ものぞ、 奇怪なことにも驚くものではない」 と、言っていたので、 鬼神どもは私をこの危難に置いて、 「ぐう」と言わせてやろうと、 このような戯れを仕掛けてきたのだろうか。 どれどれ、 かめ

瓶の中にはまだ酒があったはずだ。 酒があるのなら我が運も尽きはしない。 それが今夜の結論である。

■出潁口初見淮山是日至寿州 じゅ

風が止んで淮河に入り、船はゆるゆると進んで寿州に至った。

我が旅は、 ちょうこう

長江へ、そしてその先の海へと、 第 3 章:125


第3章 不本意な歳月

日夜、向かいつつある。 河畔には、 かえで

あ し

楓の葉が赤く色付き、蘆の花が白く突き出し、 秋の感興は深まるばかりだ。 淮河の流れは平ら過ぎて、 天と水と、どちらが遠くどちらが近いのやら――。 彼方の青い山々の並びは、 船とともに高くなったり低くなったり――。 は く せ き と う

すでに寿州の白石塔が見えてきた。 こ う ぼ う

それでも、船の棹はいつまでも黄茅の岡の下にある。 波はなく風は軟らかく、 望み見てもなお到ることができない。 あの青くぼんやりとした夕靄の中で、 友は久しく立っていることだろう。

■寿州李定少卿出餞城東竜潭上 り てい

りゅうたん

寿州では長官の李定らに歓待された(先に言及した李定とは別人) 。竜潭 という池のほとりでの宴で詠んだ詩。

からす

カーカーと山の鴉が騒がしい―― 第 3 章:126


自由訳蘇東坡詩集抄

神霊が宿っていそうなこの古い池。 竜潭の名の通り、 竜が吐いた息のような泡がぷくぷくと水面に浮き、 よだれ

竜が吐いた涎のような淀みが船のぐるりを取り巻く。 闇に潜む妖怪を照らし出すために、 さ い

つの

犀の角を燃やすようなことはできなくても、 底に潜む竜を誘い出すために、 雀を焼くくらいのことはしてみたいものだ。 長官が別れを惜しんで笛を吹いてくださると、 その音が近隣の村々に響き渡り、 猿たちが聴きに集まってくる。 いつの年かこの土地を訪れる人が、 猿にも及んだ長官の仁愛を讃えて歌うときには、 この池の魚にも聞いてほしいものだ―― そ う じ

長官がここで私と荘子と同じような問答をしたということを。 (竜潭には何か怪異な雰囲気があったのだろう。犀の角や雀を焼くといった奇怪な伝 承を織り込み、長官の徳を称え、宴席での楽しい挨拶とした。 「荘子の問答」について は次の詩を参照)

第 3 章:127


第3章 不本意な歳月

■濠州七絶 ごう

濠州では近くの名所を見て歩き、7 首の七言絶句を詠んだ。3 首を訳す。

ほ う

そ びょう

彭祖廟 いん

しゅう

彭祖は殷と周の時代をまたがってその盛衰を見て、 亀と長寿を競った。 う ん も

それでも、山中の雲母を仙薬にして飲んだのも虚しく、 せい お う

三千年に一度だけ結ぶ西王母の桃の実は見られなかったのだ。 (彭祖は 800 歳まで生きたとされるが、それとて実を結ぶのに 3000 年を要する桃に 比べたらわずかでしかない。何事も相対的であると捉える蘇軾の物の見方がよく現わ れている)

かんぎ ょだ い

観魚台 ごく些細な点にこだわって同じであるか異なるかを吟味したら、 た ん の う

隣り合う肝臓と胆嚢だって、 そ

えつ

楚国と越国くらいに大違いということになるだろう。 ことわり

万物は一つの理に帰るということがまことであるのなら、 今僕が魚の楽しみを知ったことを君は直ちに知るのである。 けいし

(荘子とその友人の恵施が問答を交わした場所だとされた水辺に観魚台が設けられて いた。その問答は、人は他者(人でも魚でも)の心の内を知ることができるのかとい 第 3 章:128


自由訳蘇東坡詩集抄 ばんしゅ

いちり

うことをテーマとした。荘子は知り得ると言った。蘇軾はこの詩で「万殊 一理に帰す」 (様々に異なる幾千万もの物も一つの原理から始まり、一つの原理に帰納される)と いう句で荘子の考えを肯定した)

ふ ざん ど う

浮山洞 浮山洞は遠く東の海の底無しの谷に通じていると人は言う。 底無しの谷の上には波と共に五つの島が浮き沈みしている。 船に乗ってその島を見るなら、上がるやら下がるやらわかりようがない。 大地は水に浮き、水は空に浮いている。 そもそも物の浮沈など誰も知りようがないのだ。

■泗州僧伽塔 か

そう が

唐の初めの頃に、西方の何国から僧伽という人がきて仏教を広め、泗州 のあたりで亡くなった。その後、僧伽は淮河のほとりにあった仏塔の上 に姿を現し、人々の様々な願いを叶えたので、僧伽信仰が盛んになり、 僧伽塔などの大伽藍を連ねる大寺院がその地に作られた。 (蘇軾が泗州にきたのはこのときが 2 度目。これより 5 年前に、父と妻の亡骸を船に べん が

積んで故郷に帰る途中にもきていた。そのときは都から汴河の流れに乗り、今回とは 別のルートでここに至った)

第 3 章:129


第3章 不本意な歳月

私はかつて南へと旅し、汴河のここに船を繋いだ。 逆風が吹くこと三日、砂が顔に当たり続けた。 船頭達が「一緒に祈ってください」と勧めたので、 そ う

それに従って僧伽塔に赴いたところ、 供えた香の火が消えないうちに、 帆柱に掛けてあった吹き流しの向きが早くも変わった。 船に乗り込み、わずかの間に、 ちょうきょう

振り返ると、泗州の長橋はもう見えなくなっていた。 き

ざん

そして亀山の下に着いたのはまだ朝飯前だった。 そのときは、私の願いを叶えてくれたと喜んだのが、 し

じ ん

思えば、道を窮めた至人は無心であるのだから、 誰かには厚く報い、誰かには薄くということはないはずだ。 田植えの時は人は雨を望み、稲刈りの時は晴れを望む。 行く人は追い風を喜び、来る人は向かい風を恨む。 もしも人それぞれの祈りを全て遂げようとしたなら、 ぞ うぶつ し ゅ

造物主はあれもこれもと一日に千回も変化しなければならないだろう。 今私は世の趨勢から遠くにこの身を置いて、 去るものを追うことも、来るものを恋い慕うこともない。 僧伽塔から先へと進むのはもとより願うところ、 しかし、留まるのも悪くはない。 第 3 章:130


自由訳蘇東坡詩集抄

ここに来る者があるごとに願いをかけられたのでは、 さすがの神だってうんざりであろう。 ちょう か ん

唐の澄観がここに営んだ塔を、 かん ゆ

韓愈は高さ三百尺と詩に詠んだけれど、 当時と今とでは姿が変わっている。 神の霊験を信じようとしない俗物の私を嫌って、 塔の階段を昇らせてくれないということでなければ、 雲を載せた山が淮河の左右を取り巻く景色を一目見るとしよう。

■亀山 き ざん

前の詩に「朝飯前に着いた」と詠まれた亀山での詩。

我が生はゆらりゆらりと揺らぐばかり―― どこに行き、何を求めようというのか。 再び亀山の前にくるまでの間に、 五年の歳月が流れ、 万里を旅し、天下の半分ほども巡っただろうか。 亀山に庵を営む僧は、 ひたすらここで寝起きをして老齢に至った。 都はすでに遠く北に地を隔てるところにまできて、 第 3 章:131


第3章 不本意な歳月

私はなおも海に連なる潮に乗って、 たび

東へ東へと游を続けなければならない。 六百年余りの昔、 南朝の皇帝は北朝の侵攻を防ごうと、 ここに砦を築いたという。 そのことを今誰が知り、 砦の崩れ去った址はどこにあるのだろうか。

■発洪沢中途遇大風復還 こうたく

淮河が長江に合流するあたりには多数の湖沼が存在する。洪沢湖で一晩 停泊してから出帆したところ、激しい向かい風に遭って引き返した。

風と波がたちまちこのようになっては、 私の旅の行く末は一体どうなることやら。 とりあえずは、帆を掲げて西に戻るしかあるまい。 そう決めたのは悪い選択ではなかった。 洪沢湖までの三十里は飛ぶが如く―― 我が船が帰ってきたのを見て、 「難儀でござりましたなぁ」 土地の人々が親しく労ってくれ、 第 3 章:132


自由訳蘇東坡詩集抄

酒を携えて売りにきてくれる者もいる。 この人情の温かさは変わらずにあってほしいものだ。 酒を飲んで一眠りするとすでに夜半、 川岸の風の音は静かになりつつある。 わいいん

ならば、明日はきっと淮陰県にまで行けるだろう。 し ら う お

そこの市場に、名産の肥えた白魚が出ているに違いない。 たび

我が行はもとより南も北もなく、 たまたま意に適ったところが行きたかったところなのだ。 ほう はい

波が澎湃と押し寄せ、船の窓を終夜揺らしたところで、 心配することは何もない。 妻や子等にも憂いの様子はない。 し ち

さしあたり質に入れられる衣類がまだ箱にあるのだから。

■十月十六日記所見 淮陰県を過ぎたあたりで、10 月 16 日に見たままを記したという詩。

風が空高くを吹き、月が暗く曇り、 雲も水も黄色味を帯びていた。 淮陰を夜に発ち、山陽に着いたのはその翌朝。 細かい雨のような暁の霧が漂い、 第 3 章:133


第3章 不本意な歳月

朝日が出ても光は弱く寒々しい。 霧が巻き上がって雲の内に収まったのはすでに正午の頃、 北からの冷たい風が、人を押し倒さんばかりに吹き出し、 たちまち窓にばらばらと音がして雹が落ちてきた。 突然のことに人々は避ける間もなく、 市場はひっくり返るような騒ぎで、 売り物があちらこちらに乱れ飛ぶ。 そこに雷が、壁を崩さんばかりに一発鳴り響き、 それで事が終わった。 「今夜一杯いかがでしょうか」 県知事さんからのお迎えが呼びにきてくれて、 宴席の座が定まると、 折よく夕日が射し込んで廊下を明るく照らし出す。 百種の変異、怪異もすっかり消え去って、 全てが夢ではなかったかと疑われる。 人々は言う。 「竜が古びた穴に飽きて、全部の魚を引き連れて移って行ったのでありましょう」 それは何の兆しなのか、黒か白かと論じ合うのだが、 我等愚かな儒者は揃いも揃って無知であるから、 経典の文句を好き勝手に引用して言い募るだけである。 第 3 章:134


自由訳蘇東坡詩集抄

その中で、ただ県知事の言葉だけは用いるべき価値がある。 「寒くなり、雪が降るようなこの時候には、 しるし

まさしく何もよりも酒がよいとの徴でありましょうな」

■広陵会三同舎各以其字為韻仍邀同賦 こうりょう

よう

せんこう ほ

広陵(揚州)に着くと、州知事の銭公輔が蘇軾と気の合いそうな 3 人を

呼び集めてくれたので、1 人に 1 首ずつ詩を贈った。 りゅう は ん

あざな

こう ほ

第一首は劉 攽(字 は貢父)について詠んだ。かつて劉攽が都から出て 行ったときに蘇軾は送別の詩を詠んでいる(本章 80 ページ) 。

劉貢父 去る年に都で貴公を見送った際に、 貴公と私の酔っての言葉は、 人々を驚かせたものだった。 今や二人とも漂泊の身となり、 筆硯の世界に遊ぶのもままならない。 我が命運は天の定めによるのであろうか。 いにしえ

古 の弓の達人も己の技だけで必ず的を射抜いたのではなかったと聞く。 詩を作って思いを晴らそうとしても、 そ し

誹りの声が物憂くてならない年齢になってしまったようだ。 第 3 章:135


第3章 不本意な歳月

孔子は、若い者はとかく雄弁を誇りたがると、 口先ばかりが達者な弟子を常に叱っていた。 矢で一度翼を傷付けられた鳥は、 飛ぼうとしても前の痛みを念ってしまうという。 広陵で貴公とこうして三日飲み続け、 全てが夢のように思えてくる。 誉れ高き州知事のもとで、 良い酒を酌んで早くも春の心地がすればなおさらだ。 互いに手を振って入り江で別れる時がきて、 羨ましく思うのは、 貴公が都を去って以来ここで安閑としていること。 私が行く杭州は、どうも何かと騒がしいらしい……

そんしゅ

きょげん

次は孫洙(字は巨源)について詠んだ詩。劉攽とは対照的に孫洙は無口 だったようだ。

孫巨源 三年の間、私は都にいて、 その時の憔悴ぶりときたら、 今思うと、言いようがないくらいだった。 第 3 章:136


自由訳蘇東坡詩集抄

都の街路に舞う塵の中でびっしょりと汗をかき、 ふらふらと馬の歩みに任せるばかりのこともあった。 人というものは付き合いの良さをとかく貴ぶので、 少しばかり同調しないだけでも恨みを生じてしまう。 昔からの友人でさえ、 私には近付かないようになってしまった。 南にきて、気持ちは実にからりとして、 ただ一緒に語る相手がいないのを残念に思っていた。 広陵の町で、こうして劉君や孫君に会えるとは、 思いがけないことであった。 仲間のように見えても、 おもむき

いささか趣が異なれば一緒にはいにくいもので、 例えばオランウータンとチンパンジーはそうなのだろう。 我々のここでの集いを長く続けると、 疑われて排斥されることになりかねないのを恐れる。 私は偏屈であるが、貴公にはこだわるところがない。 違いはあっても、交わりを断つということにはならない。 私はさらに南東に向かうけれど、 ほんのしばらく貴公と離れるだけのことである。 おうそん

えん

こう

(ここでオランウータンとチンパンジーと訳したのは王孫と猿。王孫は猴の別名で、 第 3 章:137


第3章 不本意な歳月

猴はおとなしく、猿はさわがしく、両者は同じ山にはいられないとされた。明らかに 改革派と非改革派についていっている。都を離れて気の合う人々と自由に語り、自由 に詩を詠めることを蘇軾は何よりも喜んだのだ)

りゅう し

しんろう

次は劉摯(字は莘老)について詠んだ詩。

劉莘老 ここ広陵でかつて会ったときは、 貴公は地域の重要な職務を勤めていた。 二度目に皇城で会ったときは、 貴公は堂々とした高官の衣服を身に付けていた。 そして三度目に会った今の貴公は、 都落ちの境遇にある。 朝には、雲の峰の高いところにあって、 宰相と席を一つにするほどであったのに、 暮れには、水のほとりに追いやられてしまったのだ。 しかし、貴公は喜びも怒りも見せることなく、 真に「できる人」というべきである。 し

士たる者は、 元来田園にいるべきであって、 第 3 章:138


自由訳蘇東坡詩集抄

世に出て用いられようとすると大いに誤るものなのだ。 まじないに使う草で編んだ犬を見るがよい。 草の犬は飾り立てられていい気になっているようだが、 まじないが終わってしまえば道ばたに捨てられ、 人々に踏みにじられるのである。 さあ、もう年の暮れは近い。 故郷に帰って耕作を始めるによい時期である。

■遊金山寺 ちんこう

蘇軾は 11 月初旬に長江を渡って南岸の鎮江に到着した。鎮江には、鎮 きんざん

江三山といわれる名所があり、まず金山に登った。

我が家があるのは、 長江の水が初めて源を発するあたり―― 官界に遊ぶ身となり、 長江の水が海に入るのを見送るようにしてここにまできた。 聞くところでは、 海からの潮が遡るときには高さが一丈ほどにもなるという。 冬の今は川の水位が下がっているので、 砂の上に流れの痕跡が認められるだけだ。 第 3 章:139


第3章 不本意な歳月 ちゅうれいせん

天下第一の名水とされる中泠泉があり、 その南側を囲む石の盤は、 昔から波濤に従って見えたり見えなかったりしている。 金山の絶頂に登り、 試みに郷里の方角を見る。 長江の南側も長江の北側も、 ただ青い山が連なっている。 旅愁に駆られ、 夜になるのを恐れて陸に帰る船を尋ねる。 山の僧は、 「せっかくですから、落日を御覧なさいませ」 とねんごろに引き留める。 日が長江の彼方へと沈み行くと、 わずかな風によって、 皮革の皺のような細かな波模様が、 何キロにもわたって広がる。 空には、無数の千切れ雲が、 魚の尾のように赤く染まる。 かげ

細い新月に薄暗い魄が伴い、 その月もじきに落ちてしまうと、 第 3 章:140


自由訳蘇東坡詩集抄

天は漆黒の闇となる。 その時に、 たいまつ

長江の中央に松明のような明るい何かが生じる。 飛ぶばかりの焔が山を照らし、烏を驚かせる。 寺に戻って床に伏せると、 あの火が何であったのか、 心に納得できるものがなく、 思案の余り嘆息する。 鬼が為したのでもなく、 人が為したのでもなく、 ついに何物であるのか。 金山より見る川と山はこのようであるのに、 び ざん

自分は郷里の眉山に帰ろうとしていない。 だから、長江の神が異変を示して、 かたくな

自分の頑な心を驚かせようとしたのだろうか。 かわ

ならば、私は江の神に謝ろう。 「ただ食うためにやむをえずこうしているのです。 暮らすに足りるだけの田がありながら、 もしも帰らないでいるとしたら、 誓って、長江の水を全部飲み干してみせましょう」 第 3 章:141


第3章 不本意な歳月 はく

(金山の高さは 44 メートル。新月の魄とは、地球からの反射光で月の暗い部分がう っすら見えるのをいう。夜の川の中央に現われた焔の正体は不明だが、蘇軾は見たま まを詠んだと添え書きをしている)

■自金山放船至焦山 しょうざん

金山から船で焦山に渡った。

金山の楼観は堂々として奥深く、 鐘を撞き、太鼓を打つと、 向こう岸の淮河南方一帯に響きわたる。 私は金山に泊まり、 ここにまできていながら焦山に行かないのでは、 我が心に恥じねばならぬと思うようになり、 焦山には何があるのかと尋ねた。 「そうですなぁ、立派な竹がありましょうか。 それと、薪を採ったり、水を汲んだりする僧が二、三人ばかりいましょうか。 しかし、雲から土でも降りかねないようなこの空模様、 しかも川波が高くて、 船で焦山に渡る者など誰もおりますまい。 なり わい

せいぜい川べりで生業を営む人々が、 第 3 章:142


自由訳蘇東坡詩集抄

春の蚕がよく育つようにと祈りに行くくらいでありましょうか」 それを聞いて、 一緒に金山に遊んだ人々は、 もうここだけで十分だと言ったのだが、 ならば、私だけでも行こうと決意したのだった。 お上の勤めを為して、それに報いがあろうがなかろうが、 川を渡り湖を渡る労を断じて厭うものではない。 まして自分で行きたいと思うところなのだ。 朝、私は船を雇い、金山を発った。 風はなく、自ずから波が湧いて、我が船を後押ししてくれる。 流れの中ほどで船歌が湧き、 酔ったような心持ちでその声を聞く。 山から老いた僧が一人下ってきて、 「なんとまあ、こんな日に、客人がこられましたわい」 驚きつつ出迎えてくれる。 老僧と話すうちに、笑って喜び合うのは、 いつの間にか二人とも郷里のなまりになっていることだ。 老僧は言う。 み ろ く ぼ さ つ

「久しくここでは弥勒菩薩様とだけ一緒に過ごし、 郷里のことなどすっかり忘れておりました」 第 3 章:143


第3章 不本意な歳月

腹がくちくなるほどではなくとも、 もてなしてくれた山の食べ物は旨く、 紙を突っ掛けただけの夜具でも、 疲れていたので暖かくぐっすり眠れる。 かくして別れの朝に、私は老僧に言う。 「山林に生きて飢えに苦しむのは昔からありましょう。 田がないから身を退くことができないとの言い訳をして、 実のところは俸禄を貪るような人間ではないと思っております。 その昔、三回左遷させられ、ついに職を辞した人がいましたけれど、 その回数には、私はまだ達していません。 その昔、七つの耐えられないことを挙げて職を辞した人がいましたけれど、 それくらいの数なら、私にはもうすでにあります。 行く行くは官服を自ら脱ぐ時がきっとくるでしょう。 どうか私のために、 庵を立てるによい場所をこの山の中に残しておいてください」

■甘露寺 ほく こ

かん ろ

焦山からさらに北固山にある甘露寺に行った。

長江があって、山もあるのなら、 第 3 章:144


自由訳蘇東坡詩集抄

結構でなかろうはずがない。 好風景であるだけに、一人だけで遊ぶとなると、 気持ちが昂ぶり過ぎてしまいかねない。 ともに行く人がいるのがよいだろう。 必ずしも平素から歓びを共有する相手でなくともよい。 甘露寺に行こうとして、 官職に就いている方々には暇を持て余している人がなく、 面識のない二人ではあったけれど、 喜んで鞍を並べて北固山に向かうことになった。 古い歴史のあるこの山は、 そのまま一つの城のようになっていて、 階段が層を成して山を巡り、 朱色の欄干がぐるぐる巻きになっている。 その先端で大地が窮まって断崖となり、 その上に楼台が立ち、 楼台の尖端の一点の上から大空が広がり、 空の下に水が広がっている。 楼台から一覧するなら、 数州を呑むばかり、 山が長く連なり、漫漫と川が流れる。 第 3 章:145


第3章 不本意な歳月

対岸を望み見ると、 だいめい

靄の彼方にぼんやりと竿のようなものがあるのは大明寺であろうか。 甘露寺の庭には、 羊が伏すような弓なりの岩がある。 りゅう び

そんけん

ここでかつて劉備と孫権が会ったという―― 遥かそのとき、 し ょ か つ こ う めい

諸葛孔明は策を胸に劉備を助け、 たった一言用いただけで孫権を納得させ、 そ う そ う

二言用いただけで曹操を敗走させた。 諸葛孔明の名は高く、 心に想わせるものは多くとも、 事はすでに去り行き、 目に見える形で留まっているものはない。 巨大な二つの鉄の釜があり、 りょう

ぶ てい

これは梁の武帝が寄進したものだという。 ひゃくこく

百斛もの水を湛えて、皇帝の威信を示したそれも、 長年の雨にさらされて錆びて腐りかけ、 虚しく向き合っているだけである。 かなえ

周代の巨大な青銅の鼎も川に沈み、 さ ら

漢代の巨大な銅の盤も土に埋もれ、 第 3 章:146


自由訳蘇東坡詩集抄

山や川でさえもとの形態を失っているのに、 甘露寺のこの鉄の釜ばかりがなぜ今も残っているのだろうか。 しん

ちょうそうよう

なんせい

りくたんび

り とく

(この後に、晋の張僧繇が描いた菩薩の画、南斉の陸探微が描いた猿の画、唐の李徳 ゆう

裕の肖像画についても詠んでいるが、あまりに煩瑣なので省略する。そして、諸葛孔 明、孫権、梁の武帝、唐の李徳裕の 4 人は英雄であるとして、次に進む)

四人の英雄は皆竜であり虎であって、 その残した痕は今もくっきりと残っている。 四人が活躍した時代は争奪を専らとして、 安んじられるときは少しもなかった。 興廃は造物主の手の内にあり、 世の移り変わりについて、 誰かがおざなりに言えるようなことはない。 昔も今も大きな法則は変わらない。 ところが、凡庸な者に限って、 難しい事を為そうとする。 昔の英雄に遥かに及ばない後世の凡人は、 いたずら

徒 に辛酸を嘗めるばかりである。 いにしえ

古 の琴の名手は、 久遠の時間の推移を想わせて人を泣かせたという。 その音を聞かずとも、 第 3 章:147


第3章 不本意な歳月 げんせき

かつて阮籍が無限の思いを込めて、 「もはや英雄はいない」 と叫んだのに声を合わせて、 私は深く慨嘆せずにはいられない。 (阮籍は本章 80 ページでも言及されている。阮籍が「もはや英雄はいない」と叫ん こうせき

りゅうほう

だのは楚の項籍と漢の劉 邦が争った古戦場でのこと。 改革に反対する人々が皆去って しまった都にはもうひとかどの人物は残っていないという思いから阮籍の故事を引い たのであろう) (弟と別れて以降の一連の詩から、杭州でいかに振る舞うべきか、心の内に見定める ものがあったと推測することができようか。いま以上に不本意なことがあれば、いつ でも故郷に帰るとの気持ちで杭州に着任したのであろう)

第 3 章:148


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