霧島海人 前・後編

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霧島海人編 20

は思えた︱︱。


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﹁お前、今日おかしいぞ。どっかで絶対、頭打ってる。で、明日会った時、絶対、今日のこ   と忘れてる﹂

僕は照れ隠しに憎まれ口を叩きながら、不思議な気持ちになっていた。  記憶や思い出が足りないと感じ、そのためにこのカメラを復活させた僕を、哲朗は見抜いて いるようだ。

専門誌を買い込み、撮影の仕方を研究しているところを見れば、一目瞭然だろうか。  哲朗はそれを分かった上で、自分たちも巻き込んでほしいとのサインを遠回しに送ってきて いるのかもしれない。  そのことに気付き、僕はふっと暖かなものを感じる。

哲朗はファインダーから目を離し、僕に8ミリカメラを差し出してきた。  カメラを受け取ると、僕も哲朗の真似をしてファインダーを覗いてみる。

﹁⋮⋮そうだな。高校生だもんな。⋮⋮なんか、やりたいよな⋮⋮﹂    レンズ越しの哲朗に声をかけながら、真新しい制服に身を包んだ四人の姿が8ミリフィルム の映像になり、僕の頭の中をリフレインしていた。

この時から、物語は動き始めた。  命が吹き込まれた8ミリカメラが、シャッターが押される時を待ちかねているように、僕に


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﹁え﹂    哲朗は8ミリカメラを両手で構え、レンズを僕に向けて撮影の振りをしてくる。

﹁いやさ、もうすぐ俺らも高校生だろ? で、幸か不幸か、柑菜たちとも同じ高校になった   わけだし。なんか俺らで、新しいことやりたかったんだよね。フィルムもあんだろ? こいつ でなんかやろうぜ﹂ ﹁なんかって何だよ?﹂

﹁⋮⋮なんつーの⋮⋮いわゆる、思い出づくり、みたいな?﹂    ズームインをするようにカメラで僕の顔を捉えたまま、冗談ぽく呟いた哲朗の台詞が、軽井 沢でフィルムを買い込んだ時の思いと重なり、心をざわつかせた。 ﹁⋮⋮哲朗、お前、なんかあったのか?﹂   ﹁中学を卒業して、来週から高校生になりますが﹂   ﹁そうなると、そんな恥ずかしいセリフを言うようになると?﹂   ﹁いけませんか?﹂   ﹁賛同しかねる﹂   ﹁いいじゃんかぁ。せっかくカメラがあるんだし、何か撮ろうぜ﹂   ﹁撮ってどうすんだよ?﹂   ﹁だから、思い出づくり⋮⋮﹂


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柑菜なんかは、時々おせっかいに感じることもあるけど、その根っからのあったかい感じは 東京の同級生たちには決してなかったものだ。

それがこの小諸という土地で培われたものなのか、生まれつきのものなのかはよく分からな い。しかし彼らと過ごした三年間は僕の唯一﹁思い出﹂と呼べるものだった。  なんでもない時間の、小さな積み重ねが一番の思い出になる。

そのことを教えてくれたのもこの三人だ。  この三人がいなかったら⋮⋮両親や爺ちゃんの死後、僕はもっと﹁孤独な少年﹂を地でいっ ていただろう。

そして来週、短い春休みが終わると、僕らは高校生になる。  四人とも同じ高校を受験し、そして一人も欠けることなく合格を果たしたのは、よく考える と奇跡みたいなものなんだと思う。

いくら田舎で選択肢が少ないとはいえ、四人揃って同じ高校に通えるのは本当にありがた かった。

﹁なあ﹂   か、哲朗がいたずらっぽく目を輝か  僕がぼんやり物思いにふけっているのを知ってか知らず せ、口を開いた。 ﹁こいつで何かできねぇかな﹂


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てねーかって。本当に笑えてるのか、ってな⋮⋮﹂

らしくないクサい台詞に、一瞬茶化そうかと思ったが、その真剣な目を見たら何も言えなく なった。  どうやら僕は、この親友を本気で心配させているようだ。 ﹁⋮⋮好きだよ、この町﹂    僕も真剣な口調で応える。

﹁そりゃ正直、最初は戸惑ったけど、でも、今となっては来て良かったと思ってる。俺にとっ   ては、もうこっちが故郷だな﹂ ﹁そうか﹂    その瞬間、哲朗がいかにも嬉しそうな顔をする。

僕は気恥ずかしさの中、胸が熱くなるのを感じた。  思えば先週の法事以来、フィルム探しと8ミリカメラの研究に夢中で、かかってくる電話に も出ず、哲朗や柑菜、美桜といったいつものメンバーとの連絡を絶ってしまっていた。

哲朗ばかりでなく、柑菜たちにも色々なことを考えさせていたのかもしれない。  先日、軽井沢で柑菜と美桜にバッタリ出くわした時、なんとなく元気がないように見えたの もそのせいか。

普段は意識しないけど、彼らの存在は、小諸に来て良かったと思える一番の要素だ。


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そんな中学生らしからぬバランス感覚が、僕と哲朗の仲を一気に近づけた理由だった。 ﹁いいな、これ﹂    8ミリカメラを眺め回していた哲朗が、ふいに口を開く。 ﹁そうか﹂   ﹁なんかよく分からんけど、雰囲気ある。うん。いいよ﹂

そう哲朗に言われると悪い気はしなかった。  哲朗は、ベッドの上に置かれたカメラの専門誌に目をやったあと、ゆっくりした動作で僕の 方に顔を向けて、言った。 ﹁お前、この町、好きか?﹂    その口調が思いがけず真剣だったため、僕は驚いて見つめ返す。

﹁なんだよいきなり? どんなクイズだよ?﹂   ﹁いや、ずっと訊いてみたいと思ってたんだよ。お前、中一でこっち来てから、昔の話とか   全然しねーし。俺は東京のことはよく分かんないけど、あっちと比べりゃ、てか比べものにな んねーくらい、ここは田舎だしな﹂

そう言って、哲朗は端正な顔を更に端正にさせ、僕を見つめてくる。 は更に続けた。  質問の真意を測りかねていると、哲朗 ﹁柑菜も美桜も口には出さないけど、聞きたがってると思うぜ。⋮⋮無理してここに合わせ


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も持っていくわね、ゆっくりして行ってね哲朗クン、だってさ﹂  その姉さんの物真似が妙に似ていて、僕は思わず噴き出してしまう。

﹁ったく。人んちの姉さんを手なずけんのやめろっつの﹂   ﹁手なずけるとは人聞きの悪い。年上の女性に好感をもってもらうには、それ相応のスキル   が必要で、俺はそれを持ってるってだけだよ﹂ ﹁手なずけてんじゃねーか﹂   ﹁⋮⋮海、それ、何?﹂    僕の手にある8ミリカメラを、哲朗が興味深そうに見つめている。 ﹁見ての通り、8ミリカメラだよ。多分、爺ちゃんの﹂

﹁お前の爺ちゃん、カメラの趣味なんかあったのか。動くのか、それ?﹂   ﹁あぁ。型は古いけど、動きは問題ない。フィルムもたっぷりある﹂

﹁触ってみていいか﹂    8ミリカメラを哲朗に手渡すと、彼はとても大切なものを扱うように、うやうやしく両手に 乗せ、ゆっくり眺め始めた。

子の人気を一身に  ルックスは少女マンガに出てきそうな二枚目、背も高く、常にクラスの女 集めているような奴だが、哲朗には妙に人に気を遣うところがあった。

気安く近づいてきたかと思えば、触れてほしくない部分には決して踏み込んでこない。


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記憶が確かでないのなら、記録に残っていればいい。  そこにある、今はいない家族たちの姿に愛情を感じられれば⋮⋮この不思議な感覚が、消化 できるかもしれない。

そんな期待を胸に、僕は8ミリカメラを磨き込み、電池を新しいものに替え、必死にフィル ムを探した。  しかしどんなに探しても、フィルムはどこにも残されていなかった。

思い出にすがることを許さないみたいに。  ひととおり納屋を引っ掻き回したあと、僕はフィルム探しをあきらめ、代わりに専門誌を買 い求めた。そしてとことん読み込んだ。

思い出が少ないなら、僕が残せばいい。  いつか消えていく瞬間を切り取り、その空気や色合い、感情までも残せればいい。  人の記憶は、とても不確かなものだから⋮⋮。 ﹁おい、海﹂

いきなりの呼びかけに驚き、振り返ると、そこには元・クラスメイトの哲朗が立っていた。 そのまま僕の隣にやって来ると、ドカッとベッドに腰を下ろす。

﹁なんだよ。いきなり入ってくんなよな﹂   ﹁七海さんとバッタリ会って家に誘われたんだよ。海くんも喜ぶわ。あとでお茶とクッキー


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玄関で、居間で、台所で、庭先で⋮⋮。  家の中のあらゆる場所で、元気な婆ちゃんが今にもぬっと姿を現しそうで、あの調子で﹁海 人﹂なんて言いながら、僕に片手を上げてみせそうで、いまでもギクリとすることがある。  そして僕は悟るのだ。

不在ほど、大きな存在は無いということを。  時間の経過とともに思い出は僕の中で発酵し、伸びたり縮んだりしながら、おかしな残り方 をする。

心の奥に押し込めた悲しみは、ふとした瞬間に僕の心を暗闇で覆っては、目の前を真っ暗に させるようになった。  僕は本当はどのくらい悲しかったんだろう。  本当はどのくらい、父さんや母さんに甘えたかったんだろう。

そして僕は本当はどのくらい、亡くなった家族たちに愛されていたんだろう。  そうだ。

僕には、思い出が足りない。  家族で過ごした時間が少なく、そしてその僅かな時間ですら無理やり心の中に仕舞い込んで しまったから、本当のことが見えなくなっている。  そこで見つけたのが、今僕の手にある8ミリカメラだ。


11 霧島海人編

少しだけでもいい。声だけでもいい。僕はそれが見たかった。

両親の事故から三年余り。  葬儀の前後は本当に色々な事があり過ぎて、何かをゆっくりと考える暇がなかった。

だけど僕はその忙しさがありがたかった。  立ち止まってしまうと、心のままに感情を味わってしまうと、そこにある悲しみはあまりに もボリュームが大きすぎて、僕はいとも簡単に潰されてしまうに違いなかったから。

一度でもその悲しみの穴に落ちてしまったら、這い上がれない予感があった。  そんな中、東京から、祖母の家がある長野県小諸市に転校が決まり、小諸の中学校での新し い生活がスタートした。  東京から長野の田舎へ。

今度は婆ちゃんがこの世を去ってしまった。

その変化が目まぐるしく、東京に比べて驚くほど何にも無いことや、信じられないほど空気 が澄んでいること、プラネタリウムかと思うほど満天の星空なんかにびっくりしているうち、 残された、気がした。  この世界に僕と姉さんだけが

そしてそれから更に一年が経った。  亡くなった人の家で暮らしていると、その人が﹁いない﹂という事実がじわじわと体に染み 込んでくる。


霧島海人編 10

﹁姉さん。これ、貰ってもいいかな﹂    8ミリカメラを手に立ち上がった時、僕はここしばらく味わっていないような、鼓動の高鳴 りを全身で感じていた。

新しく購入したフィルムをカメラにセットし、電源を入れる。  赤いランプが点くのを確認し、シャッターを押すと、微かな電子音と共に、フィルムが回り 始める。  どくり。

僕はまた、胸の鼓動を感じる。  最初に納屋でカメラを見つけた時、まっ先に頭に浮かんだのは﹃フィルムが残されているか どうか﹄だった。

爺ちゃんがこのカメラを使っていた時期があったとしたら、記録として残すものは何か。

ある姉さんや僕の幼少の頃をカメラに収めていても何の不思議もない。

家庭でカメラを利用する一番の理由は﹃子供の成長記録﹄を撮るためだろう。  一般的に考えて、 8ミリカメラが発売された当時、もう僕の父さんは立派な大人だったから、爺ちゃんは、孫で  もしそうだとしたら⋮⋮。 にはきっと、父さんや母さんがいるはずだ。  子供の僕や姉さんのそば


9 霧島海人編

けではなかったが、今目の前で分別されていく品々は、爺ちゃんにしか価値が分からないよう な不思議な物ばかりだ。

古いラジオ。大きいばかりの柱時計。釣道具。虫籠に鳥籠。長靴。何かの農機具⋮⋮。

僕は殆どを﹃必要か不要かよく分からないもの﹄に分類した。  しばらく作業を続けるうち、白かった軍手は埃で真っ黒になり、額にはうっすら汗が滲んだ。 横目で姉さんを見ると、 珍しいことに僕と同じく汗をかいているようで、 シャツの袖で額を拭っ ている。  少し休憩にしようか、と思ったその時︱︱。 ﹁あっ﹂    手にとって引っぱり出した物を見て、僕は思わず声を上げた。  僕の手にあるのは、埃を被ったフィルムカメラだった。  掌より二回りほど大きい、8ミリフィルムカメラ。

僕は息を吹きかけて埃を飛ばし、まじまじとその黒とグレーの物体を眺めた。  試しに、電源のボタンを押してみる。電池が切れているようで、なんの反応も無い。よく見 てみると、中にはフィルムも入っていないようだ。

カメラが出てきた箱の中をあさると、閲覧用のビュアーやケーブルなどがずるずると姿を現 した。


霧島海人編 8

僕の隣にいる姉さんが、自分に言い聞かせるように、呟いた。  ふと眼を凝らせば、奥に置かれた一人掛けのソファに腰かけ、思い出の中を漂う婆ちゃんの 姿が⋮⋮見えるような気がしてくる。 ﹁海︵カイ︶くん、掃除道具、取ってくるね﹂

俯いたままで納屋を出て行く姉さんも、きっと僕と同じものを見たのだろう。  今日の法事で、仏壇の前に座った時も、お墓参りで手を合わせた時にも、感じなかったよう な痛みが急に押し寄せてきそうになり、僕はぐっと腹に力を込めた。  僕はもう、泣かない。三年前にそう決めたのだ。

姉さんと僕は、マスク、軍手、手に雑巾という装備を身につけ、ひたすら作業に没頭するこ とにした。

あらゆるものを引っぱり出し、磨き、必要なものとそうでないもの、よく分からないものと に分別していく。

メガネにマスクといういでたちの僕は、すぐにメガネが曇ってしまい、姉さんをクスクスと 笑わせた。だから僕は、わざと曇ったままのメガネで作業を続ける。

納屋に置かれていたのは、その殆どが﹃ガラクタ﹄だった。最近人気のテレビ番組のように、 家の納屋からお宝発見! そしてその驚きの鑑定額は⋮⋮なんていう展開も期待していないわ


7 霧島海人編

そしてカメラ店の紙袋を脇に抱え、小走りでしなの鉄道のコンコースを目指した。  ちょうど一週間前。

祖母の一周忌、両親の三回忌を合わせた霧島家の法事の日。  全ての儀式を終え、遠方からやってきた親戚たちを送りだしたあと、僕と姉さんはどちらか らともなく、家の裏手にある納屋に向かった。

婆ちゃんが亡くなってから、一度も足を踏み入れていない場所だ。  生前、少しずつ体が弱っていった婆ちゃんは、先に他界した爺ちゃんの遺品が納められた納 屋で時間を過ごすことが多かった。何をするでもなく、納屋の中でぼんやりと長い時間を過ご 時間が必要だった。

しているのを知っていたから⋮⋮婆ちゃんの香りが色濃く残るであろうその場所に入るのには、

しかし、この機を逃したら、きっともっと長い時間、あの納屋を封印したままにしてしまう。  そんな想いが、僕と姉さんを突き動かしていた。

るものが埃にまみれていた。  久しぶりに扉が開けられた納屋は、大方の予想通り、あらゆ

扉から差し込む陽の光を浴びて、そこに置かれた全ての物たちが独特の香りを放っている。 ﹁⋮⋮思ったより、物が多いわね。処分できるものは処分しちゃわないと﹂


霧島海人編 6

日曜日の軽井沢は、家族連れやカップルで賑わっていた。  シーズンオフのため観光客の姿は少ないが、それでも小諸と比べたらかなりの都会と言える。

商店街に入ると、僕は他の店には目もくれず、真っ直ぐにカメラ店を目指す。  そこだけ昭和の雰囲気が漂う、薄暗い店内に足を踏み入れると、静かな興奮を覚えた。

す必要もないだろう。

僕は店の一番奥にある地味なコーナーへ進むと、迷うことなく8ミリフィルムに手を伸ばす。 そして続けて同じものを5セット。これだけあれば、しばらくはわざわざ軽井沢まで足を伸ば

今月の小遣いをはたくこととなるが、レジに向かう足取りは軽かった。  フィルムさえあれば、僕のこの手で、あのカメラを生き返らせてやることができる。

どんな風に生かすか⋮⋮それは、僕のこの手にかかっているのだ。  カメラ店を出ると、春の初めの、高地らしい冷気が全身の熱をあっという間に奪っていき、 僕は思わずダウンジャケットのジッパーを上まで引き上げた。

三月だというのに、長野の冬はまだ厳しい。手袋をしないとすぐに手がかじかんでしまう。 ジャケットのポケットから分厚い手袋を出し、しっかりと両手にはめる。


霧島海人 編


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