koizora - another story

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Eagle Hill - eBook


プロローグ もしもあの日君に出会っていなければ こんなに苦しくて こんなに悲しくて こんなに切なくて こんなに涙があふれるような想いはしなかったと思う。 けれど君に出会っていなければ こんなにうれしくて こんなに優しくて こんなに愛しくて こんなに温かくて こんなに幸せな気持ちを知ることもできなかったよ。

いつか、また、もう一度、君に出会いたい。 眩しく、透明で、果てしなく壮大な、この青空の下で。


一章◇君想 昨日までの自分に、さようなら。

同じ学校に通う同級生で、 入学したばかりの高校 1 年の春に出会い、 そして二人の深い付き合いは始まった。 二人と呼ばれる関係になってから

2001 年 5 月 13 日、俺は癌だと宣告された。 そう、忘れもしない。 あれは、 まだほんのり凍えた風が冬の名残りをぴりぴ りと運ぶ、 春の始めのことだった。

早くも 1 年弱という時間が流れている。 その短い期間の中で、 二人は数えきれないほど 多くの出来事を経験し、 様々な想いを得た。

桜井 弘樹。 16 歳になったばかりの 高校 2 年生。 みんなからは ヒロと呼ばれている。

例えば、悲しみ。 俺の元カノというやっかいな存在が起こした 美嘉に対するしつこい嫌がらせ。

俺には自由奔放な 親父がいる。

時に、ちっぽけでくだらない嫉妬によって 美嘉の大切な男友達の将来を奪ったことだっ てある。

そんな親父に 今もまだ恋をしている 純真無垢な母親がいる。

例えば、喜び。

悪そうな奴らとばかり つるんでいるけれど、 いざというときには うんと力を貸してくれる姉貴がいる。 そして お互いの気持ちを ともに分かち合うことができる 彼女というかけがえのない存在だっている。 そいつの名前は田原美嘉。

奇跡的に美嘉のお腹の中に宿った小さな赤ち ゃん。 最終的には流産という形で天国へと旅立って 行ってしまったけれど、 二人の新たな想いが固く結ばれたのは確かだ った。 俺と美嘉は手をつないでそこらへんを歩いて いる、 柔らかい幸せがふわふわと漂っているような


恋人たちとは比べものにならないくらい、 この 1 年の間で数々の試練を乗り越えてきた。

今までのように乗り越えていけるような気が していた。 一年という時間をかけて築き上げてきた絆は

その悲しみや苦しみは二人にとって計り知れ ないものだった。 けれど、乗り越えてきた様々な試練は決して無 駄ではなかったのかもしれないと、 今になって強く思える。 なぜなら、そういった複雑な想いを経験してき たからこそ、 二人が今こうしてここに存在しているのだか ら。 現に、数々の重い試練を乗り越えてきたことに よって、 お互いを想い合う気持ちがよりいっそう深い ものになったのは確かだ。 例えどんな壁が立ちはだかろうと、 それを乗り越えるのは容易なことではなかっ たけれど、 手を取り合えば壊すことだってできた。 そんなことくらいで二人の関係が崩れること はなく、

がっしりと固く結ばれていて、 触れたらすぐに壊れてしまうほど弱々しく細 いものではなく、 ましてや崩れかけの積み木のようにもろくも ない。 “終わり”というたった三文字の言葉は、 今の二人の関係にはほど遠く、 むしろ“永遠”というありきたりな言葉さえ信 じられるようになったくらいで。 俺から美嘉に対する想いの糸と、 美嘉から俺に対する想いの糸は、 それほどまでに強くしっかりつながったもの だった。 二人の糸はこれからも切れるはずはない。 そう信じていた。 ずっと、

それどころか、

そう信じていたかった。

崩れそうになったことさえなかった。

信じていた、

だからこそ、

はずだったのに。

これから先もずっと、

高校 2 年に進学してから 1 ヶ月が経過した 5 月 半ばのこと。

例えどんなに高くぶ厚い壁が二人の前に立ち はだかろうと、 力を合わせていけば

先生の厳しい目を盗んで学校を抜け出した俺 と美嘉は、二人にとって特別な場所である川原 へと足を運んでいた。


持ちになった。 「今日めっちゃ天気いいね。なんか眠くなって きたぁ~!!」 生ぬるい風によって乾燥した目をしきりにこ する俺の隣では、 美嘉がともに片手で目を弱々しくこすりなが ら、 もう片方の手でそこらへんに生えている細長 く茂った雑草をむしっている。 進級してから惜しくもクラスが別々になって しまった二人は、会えない時間を惜しむかのよ うに適当な理由をつけては学校を早退し、 ときには先生の目を盗んで学校をひょいと抜 け出し、 こうして学校の近くの川原へとひんぱんに足 を運び、 二人だけの時間を過ごすようになっていた。 この川原は、まだ美嘉に出会う前、 学校帰りにふらふらと寄り道をしていた俺が 偶然見つけた場所だ。 さらさらと透き通った水が穏やかに流れてい るこの場所は、 生い茂った雑草に紛れたところどころにたん ぽぽが遠慮がちに顔を出し、 ときおり淡く彩られた小さい花が 甘い香りをふんわりと放って緩やかな風にゆ らゆらと揺れている。 初めてこの川原を目にしたとき、 俺はまるで幼い子供のように目を輝かせ、 誰にも知られていない秘密基地を 自分だけが手に入れたかのような誇らしい気

この場所を見つけたことを、 クラスメイトにも、 幼なじみにも、 親友にさえも教えなかった。 誰にも教えたくなかった。 教えるのがもったいないように感じた。 もしこの場所に自分以外の誰かを連れて来る のなら、 いつか自分にとってかけがえのない大切な存 在となる誰か、 そうだな、 例えば恋人と呼べるやつをこの場所に連れて きてやりたい。 けんかをするときもこの場所で。 仲直りするときもこの場所で。 いつどんなときでもこの川原に足を運び、 この川原で二人だけの貴重な時間を過ごして いきたい。 この川原を、二人だけが知っている特別な場所 にしたい。 まだそういう存在を探している最中だった俺 は、 一人で強くそう願い続け、夢見ていたのだっ た。 そして高校に入学して美嘉に出会った。


美嘉は俺にとってかけがえのない大切な存在 となっていた。 だからこそ高校 2 年生に進級したばかりの冬か ら春に変わる、 花が一番きれいに咲き乱れるであろう季節に、 俺は美嘉をこの場所に初めて連れてきたのだ った。

学校に行けば校則の乱れがどうだとか、 進路がどうだとか、将来がどうだとか、 学年主任も担任もぐちぐちと嫌味を含めて口 うるさい。 家に帰れば帰ったで、

美嘉はこの川原を目にするなり、

癒されるわけでもなく、

見ているこっちが息を飲んでしまうくらいに、

いいかげん遊んでばかりいるんじゃないだと か、

大げさに口を開けて驚いてくれた。 これでもかってほどに大きく声を張りあげて、 これでもかってほどにきらきらと目を輝かせ て喜んでくれた。 それからというものの、 二人は毎日のように川原に足を運ぶようにな り、 いつしか川原は二人にとって待ち合わせ場所 となり、 ときにはけんかの場所となり、 ときには仲直りの場所となり、 もう特別な場所と呼ばずにはいられなくなっ ていた。

たまには勉強しなさいだとか、 今度は母さんがいやに口うるさい。 なにもかもがいいことばかりではない。 うんざりするときだってある。 ストレスだってそれなりにたまっていたりも する。 けれど、 川原に足を運べば そんな重々しい気持ちなんて いとも簡単に吹っ飛んでいった。

お互いの家を行き来するのではなく、

この川原で

放課後になると川原へと足を運ぶ。

美嘉と二人で過ごすゆったりと流れる時間は、

街に繰り出してショッピングするでもなく、

俺にとって癒され、

川原で過ごす時間を真っ先に優先し、

落ち着いて、

くだらないことで談笑する。

必要で、


幸せで、 何より手放すことのできないかけがえのない 時間だった。

ふいに口をついて出てきた “幸せ”というこの単純で複雑な言葉は、 くだらない建前なんかではなく、 その場限りでもなく、

「こっち来い!一緒に寝ようぜ」

俺の紛れもない本心だった。

草の上にだらしなくごろりと寝転がり、

できることなら、ずっとこのままこうしていた い。

夢中で雑草を引っこ抜く美嘉の制服のそでを つかみ、 強引に自分のほうへと引き寄せる。 その瞬間、 からかうようにして雲間から顔をのぞかせた 罪のない太陽によって無防備な体を強く照ら し出された俺は、 あまりの眩しさに、ふいに目を細めた。 油断をちらつかせた俺の姿を目にした美嘉の 口元がふっと緩む。 照れ隠しにこっちへ来いと急かすようにして 手招きをすると、 美嘉はその言葉を待ってましたといわんばか りに、 すぐに俺の腕を枕にしてそこに頭を下ろした。 頭の下に置かれた二の腕をそっと美嘉の肩に 回す。 肩に心臓があるかのように、 トクントクンと鳴り響く静かな鼓動が、 まるで全身まで伝わってくるようで。 「やべぇ~俺、幸せだ」

ずっとこうして笑い合っていられたのなら、 どれだけ幸せだろう。 この幸せが、 明日、 あさって、 来週、 来年、 何年後もずっと、 永遠に続いていけばいいのに。 今の二人には、もうこれ以上試練を与えられる 必要はない。 俺は美嘉のことが好きで、 そして美嘉も俺のことを好きでいてくれてい る。 その事実だけで、 もう十分すぎるくらい幸せだと思う。 こんなことを願うのは、


女々しいかもしれないけれど、 らしくないかもしれないけれど、 それでも心の奥でそっと願ってみた。

らこぼれた小銭たちが次々と転がり、 耳をふさぎたくなるような不快な音を奏でた。

「あの、先生、冗談でしょう?」

永遠という言葉が、 この世界に、

母さんは声を情けなく震わせ、

どうか存在していますように。

YES の答えだけを求めて必死に作り笑いを浮 かべながら医者にそう問いかけている。

「美嘉も幸せ~っ!!」 さっきまで太陽に覆いかぶさっていたはれぼ ったい雲は、 風によってさらさらと遠方へと流れ、 いつしか見上げた先には 広く透明な青空だけが広がっていた。

それはもう、 どこまでも限りなく、 果てしなく。 「非常に言いにくいのですが、桜井弘樹さん。 あなたは、癌に侵されています」 それは体調不良のため病院で検査を受けた数 日後の、よく晴れた日のことだった。 さびたパイプイスに浅く腰かける俺の隣で、 母さんが持っていた刺繍がほどこされている 手さげカバンを床へと落下させた。 その衝撃でふたが開いたままのがま口財布か

そこから一歩下がったところでは、 偉そうに腕を組みながら壁に寄りかかってい る姉貴が床に散らばった小銭を丁寧に拾うで もなく、 おろおろと動揺するでもなく、 いたって涼しげな表情を保ったまま組んだ腕 を しきりに組み替えている。 ここ数年もの間、 のどの調子がよくなかったのは確かだった。 それは決して大げさなものではなく、 ちょっとした不快な違和感がある程度。 だからこそ、そこまで大事にすることなく、 それなりに健康的な体でありきたりな生活を 送ってきたはずだった。 しかし最近になって、のどの痛みが激しくな り、 声を発するたび奥に何かがつまっているかの ような違和感が増した。


言葉の語尾が途切れ途切れになるもどかしさ がときどき起こり、 せきが止まらず、寝汗をかくようになり、 しまいにはのどのつけ根の部分にしこりのよ うな小さな腫れものを見つけたのだ。

全然たいしたことがなくても、 半ば強制的に病院へと連れていく。 今回もそのときと同じようなものだ。 いや、今回に限っては半ば強制的というより は、

そんな俺の体の異変に最初に気がついた親父 は

「あとあと大変なことになっても看病なんか しないからね」

「ただの風邪だろう。温かくして寝なさい」

と脅されたというほうがしっくりくるのだけ れど。

とあっさり言い放つと、すぐに持っていた新聞 へと興味なさげに目線を移した。 姉貴はといえば

そしてなんだかんだ嫌味を言い放ちながらも、

「もしかして今頃声変わりしたんじゃない の?」

いつも姉貴が母さんとともに病院へとついて くる。

だとか

例え前々から約束している用事があったとし ても、

「バカは風邪ひかないなんていうけどそんな のただの迷信にすぎなかったんだね」

わざわざそれを断ってまで。

なんて憎たらしいことを言いながら、 腹を抱えてくだらないと笑い飛ばした。

親父は毎回仕事を理由にいない。

そんなプラス思考な家族の中で、唯一、

いたことがない。

俺の体調の変化をひどく心配した人間がいた。

小さい頃からやんちゃばかりやって生傷が絶 えなかった俺のことだから、

それは母さんだった。 それは俺がガキの頃から何一つ変わらず、 市販の薬で治る程度の風邪だとか、 ばんそうこうで治る程度のケガだとか、

ちょっとやそっとのことじゃ大丈夫だと思い 込んでいるのだろう。

俺だってそう思っていた。


風邪くらい。 ケガくらい。 なんともないと。 すぐに治ると。

俺には到底理解することができないような医 学的な単語を次々と並べて、偉そうにのうのう と話し続けるその声を聞いていると、 いっそのこと殴り殺してやろうかとさえ思う。

「悪性の腫瘍で、病名は――」 医者が積み重ねられたカルテやらレントゲン やらに次々と目を通し、淡々とした軽い口調で 詳しい説明を進めていく。

暗闇がいきなり激しい音を発して渦を巻き返 し、

それがあまりにも事務的で。

吸い込まれてしまいそうになった。

その勢いでどこか奥底のほうへと

どうしてもこれが現実だとは思えない。 真っ暗で広々とした部屋。

誰か。誰か。誰か。

走っても走っても永遠に終わりがないような、 そんな部屋に閉じ込められているような孤独 な感覚。 そこはまるで海の底に沈められたかのように 静寂が広がっていて、ときおり目を細めたくな るような甲高い耳鳴りが聞こえてくる。 「生検組織の病理診断で―抗がん剤による化学 療法が―」 どこか遠い場所からぼんやりと医者の声だけ が聞こえてくる。

は? 何くだらねえこと言ってんだ、 こいつは。

かろうじて残っている床板にしがみつき、 大声をあげて必死に助けを求める。 「嘘よ、そんなの!」 そのとき、 突然わっと声をあげて泣き始めたのは母さん だった。

その悲痛な声によって意識は現実へと引き戻 され、今の自分が立たされている立場にほんの 少しだけ現実味が帯びる。 その後ろでは、姉貴がまるで前もって用意をし ていたかのようにポケットから取り出した綿 素材のハンカチを母さんへと差し出している。


薄紫色の糸で細かに刻まれているぶどうの刺 繍が、なぜだか妙に甘酸っぱく感じて。

よさないかと怒ってくれたら どんなに楽になるだろう。

――どうして泣いてるんだよ? 俺はとっさにその場を立ち上がった。 それは理性よりも本能が先に反応した瞬間だ ったのかもしれない。 その衝動でパイプイスが後ろへと倒れ、

顔色一つ変えず、 真っすぐ俺だけを見つめる 輝きを失ったその目の奥には、 同情の気持ちさえ含まれているのが垣間見え る。

激しい騒音が母さんの泣きわめく声と うまく重なり合う。 その音色は美しいなんて言葉にはほど遠く、

「俺は冗談を聞くためにわざわざここに来た んじゃねえ!」

聞きほれるなんて表現を使うには恐れ多くて、 まるで世界の終りを告げているかのような、 それはあまりに残酷なハーモニーだった。

昨日も今日も腹がはちきれるくらい飯を食っ た。 頭が痛くなるくらいによく眠れた。 そしてそれは明日にも、

「でまかせばっか言ってんじゃねえよ!」

どうしても信じることができなくて、 俺は淡々と説明を続ける医者の肩をわしづか みにすると、前後左右へと強く揺すった。

しかし医者の表情に変化は見えない。

あさってにも続いていくに決まっている。 「……なあ、なんとか言ってくれよ」

癌? 俺が? 嘘だろ? 冗談だろ?

冗談だと笑い飛ばしてくれたら

これは、夢だろ?

どんなに楽になるだろう。

看護師が、


慣れた手つきで興奮状態の俺の背中をさすり、 医者がその横でため息を吐き出しながら 淡々と説明を再開させた。 そのとき、 ふいにその場で爪を立てて髪をかきむしり、 カルテやレントゲンを跡形もなく粉々に破り 捨て、

ったアイスノンに薄い生地のタオルを巻きつ けると、 泣きはらした重たいまぶたに静かにそれをあ てた。 家の中では誰一人として余計な言葉を発する ことなく、 触れたらやけどしてしまいそうなくらい熱く、 重い空気がぴりぴりと流れている。

出せる限りの声をあげて 笑い転げてしまいたい衝動にかられた。

俺は冷蔵庫に入りきらなかった生ぬるいアイ スコーヒーを細長いグラスにそそぎながら、

それを思い浮かべるだけで、

さりげなく壁にかけられている時計に目をや ると、

あえて行動に移さない俺は、

現在の針の向きを確認した。

もしかすると自分が思っている以上に 冷静なのかもしれない。

けれど、

律儀な親父はいつも定刻に会社から帰宅する。 その時間に達するまではあと 2 時間程度ある。

ああ、腹が減った。

頭の中の真っ白なキャンバスに 多彩な色が重なり合って 灰色にも近い独特の色彩を 生み出しているところをみると、 ただ冷静なふりをしているだけなのだという ことを、知った。 病院を出て家に到着すると同時に、 母さんは冷凍庫から取り出したかちかちに凍

しかし夕飯はいつも親父が帰宅してから用意 される。 こんなよどんだ空気の中で 2 時間も親父を待ち 続けることを苦痛に感じた俺は、 そそぎ終えたばかりのアイスコーヒーを片手 に、 そそくさと自らの部屋へと戻ったのだった。


窓を開けるといつもよりうんと冷たさを増し た風がカーテンを揺らし、それがえらく非現実 的のように思える。 頭の奥が今もまだぼやっとした薄暗い影をと もしている。

もうこれ以上余計なことを考えるのはやめた。 ………暇だ。

それは

親父が帰宅するまでのあと 2 時間、何しよう。

寝起きの

ああ、そうだ。

あいまいな現実とは

運動不足気味だから筋トレでもすっかな。

どこか違っていて、

まるで 脳が理解することを 拒んでいるかのようで。

居間からは母さんのすすり泣く声が聞こえて きた。

ったく、どうして医者のあんなくだらねえ嘘を 信じるんだ? あんなの悪ふざけの冗談に決まってるだろ。 俺が癌になるわけねえんだよ。 そうだ。 この俺が。 ありえない。 ありえるわけがない。

洋服やら教科書やらが散らかった部屋のわず かな隙間に仰向けで腰を下ろし、 上着を全て脱ぎ捨ててあお向けになり両手を 頭の後ろに組む。 中学の頃からこうして腹筋などの筋トレをほ ぼ毎日のように行ってきた。 やればやるだけ筋肉がつくという単純な体を 持ち合わせて生まれた俺は、 朝目覚めるたびに新たな筋肉が形成されてい くのが楽しくて仕方なかったのだ。 体育の授業のとき、運動前のストレッチとして 腹筋や背筋や腕立て伏せを各 100 回ほど強制 的にやらされる。 毎日のように筋トレを行っていた俺は、100 回 くらい別にどうってことなくて、 できる回数が 50 回に満たないだらしなく太っ た男や貧弱な男のことをよくあざ笑っていた。 42、43、44、45、46、47………。


腹筋を 47 回終えたあたりで、俺はひたすら続 いていた動きをぴたりと止め、 額から流れ落ちる汗を手のひらで拭った。 ふう。 おかしい。 これくらい余裕だったはずなのに。

48、49、50………。 横っ腹が痛む。 息が切れる。 首が突っ張る。

あれ、俺、 いつの間に、 こんなに痩せたっけ…。 周りから見ればそんなに大きな変化ではない のかもしれない。 なんたって、いつも一緒にいる美嘉でさえも気 づいていないくらいなのだから。 けれど自分自身が見ればやっぱり一目でわか る。 16 年間もともに過ごした体の変化に、 気がつかないわけがない。

のどが渇く。 テーブルに置かれているアイスコーヒーへと 手を伸ばし、とりあえず渇いたのどを潤すこと にした。 素早く胃に到達した、いつもより苦さを増すア イスコーヒーは、全身の汗を一瞬にして乾か し、回復という名のやる気を作り出す。 そのとき、ふと、目の前に堂々とそびえ立って いる鏡に映る自分の姿を、いつからか覚えてい ないほど久しぶりに目にした。 横に張っていたはずの肩幅は、 心なしか細く狭くなったように見えて、 力強く存在していたはずの腰回りは、 すとんと真っすぐな筋を端正に表している。

鏡に映る自分は、 今までの自分とは まるで別人のようで、 それは 心のどこかにひそむ もう一人の自分自身の姿であるようにも見え た。 もう一人の俺が現実の俺に向かってにやりと 微笑みかける。 と同時に、全身のありとあらゆる部分に尖った 鳥肌が浮かんだ。 その場をあとずさりする。


すると行き着く先に存在していたアルミ製の 本棚と体が激しく衝突し、 揃えて並べられている本の数々が落下してき たので、俺は危機一髪でそれらをよけた。 教科書。 漫画。 雑誌。 無造作に散りばめられた本の数々。 その中で何より先に視線の先にとどまったの が、 一度も目を通したことがない、厚い灰色のほこ りをかぶった本。

頸部に見つかったしこり。 軟らかさの残る、 腫瘍。 縦に並べられている聞いたこともない難しい 単語の数々に、医者の言葉が次々とよみがえ る。 頼りない逃避がゆっくり現実へと変わってい くのを、冷静に、そして静かに理解することが できた。 嘘だろ? 嘘だろ? 嘘だろ?

医学事典だ。 俺はそれをそっと手に取ると、ぺらぺらと適当 なページを開いた。 癌………癌………癌。 目次をたどって開いた先に、医者が俺に告げた あの病名が、

冗談だろ? 冗談だろ? 冗談だろ?

医学事典にもきちんと存在している。 それだけで衝撃は大きすぎるほどだというの に “腫痬に最初に気づくのは頸部が多い。硬さ は、軟らかいものから硬いものまでいろいろ で” のどに触れる。

信じたくない。 信じられない。 どうしても信じることができない。

けれどもし全ての経緯が真実だとしたのなら、


俺は。 “頸部に初発したものは、まったく無症状のこ とが少なくはなく”

冗談だろ? 冗談だろ?

俺は

信じたくない。

俺は、俺は、俺は

信じられない。

俺は、俺は、俺は、俺は、俺は “扁桃に原発したものは、せき、呼吸困難、顔 面浮腫が起こり” 一体、どうなってしまうんだ? 医学事典をぱたりと閉じる。 縦に並べられている聞いたこともない難しい 単語の数々に、医者の言葉が次々とよみがえ る。 頼りない逃避がゆっくり現実へと変わってい くのを、冷静に、そして静かに理解することが できた。 嘘だろ? 嘘だろ? 嘘だろ?

どうしても信じることができない。

けれどもし全ての経緯が真実だとしたのなら、 俺は。 “頸部に初発したものは、まったく無症状のこ とが少なくはなく” 俺は 俺は、俺は、俺は 俺は、俺は、俺は、俺は、俺は “扁桃に原発したものは、せき、呼吸困難、顔 面浮腫が起こり” 一体、どうなってしまうんだ? 医学事典をぱたりと閉じる。

冗談だろ?

………そうか。 俺は癌なのだ。


嘘でも冗談なんかでもない。

じゃね、え」

俺は、本当に、癌に冒されているのだ。

紛れもない真実が冷静さを奪っていく。

しこりを潰すようにして強めにつまんでみた。 いくら力を入れても、 それはびくともしない。 医者はこれを、 悪性の腫瘍だと言っていた。 こんなにも小さいのに、 この腫瘍は、 俺の人生をがらりと変えていく。 想像していた未来をあっけなく崩していく。 つい昨日まで当たり前のように過ごしていた 日常をひどく恨めしいものへと変えていく。 「ふざけん、な」

振り下ろしたひじがベッドの横に乱雑に積み 重なっている、 今日病院へと足を運ぶ直前まで真剣に読みふ けっていた 100 巻以上続いているスポーツ漫 画にあたり、 それらは次々と音をたてて床へと崩れ落ちて いった。 それはまるで俺の今の心情のようにもろくて。 俺は それらを適当に手に取ると、 言葉にならない声を張り上げながら 一心不乱に壁に向かって強く投げつけた。 「ふざけ、んな。ふざ、けん、な。ふざ、けん

こんなときだからこそ、 冷静さを保てというほうが 無理に決まっている。 こうして興奮しているときのほうが物事を深 く考えなくてすむからまだ救われるかもしれ ない。 一番恐ろしいのは、 冷静さを取り戻したときだ。

様々な想いが一気に押し寄せて、 俺は気が狂ってしまうかもしれない。

癌という病気が死を決定的にしているわけで はない。 けれど、 何日か前の平凡に過ごしていた日々よりも 死がより近くに迫っているのかもしれないと いうことを心で感じたのは事実で。 「どうして俺な、んだよ。どうして俺が、癌な んだ、よ。 俺じゃなく、たっていいだ、ろ。どうして俺な、 んだよ」 頭が痛い。


吐きそうだ。

よく学校帰りに野原に咲いている花を摘んで はお見舞いに足を運んだ。

込み上げる気持ちがどうしてもおさまろうと しない。

しかし、日がたつにつれて、

心のもやもやが、闇が、消え去ろうとしない。

肉づきがよかった伯母さんの体も、

握りこぶしを作って思いきり壁を殴りつける と、

病気の悪化に比例するかのように次第に痩せ こけていき、

壁は鈍い音を発してあっけなく浅い空洞を作 り出した。

あれほど陽気だった性格がいつしか笑顔さえ 失い、

医者の言葉を、

最終的には言葉を発することさえ難しい状態 になった。

自分の病気を、 紛れもない現実を悟り始めた俺に残ったもの。 それは不安なんかではなく、 悲しみなんかでもなく、 いまだ現実から目をそむけようとしている、 終わりのない恐怖感にも似た、怒りという感情 だった。 今になってなぜかふと思い出す。

そしてそれから何日かあとに伯母さんは静か に息を引き取ったのだけれど、 周りの人々は伯母さんの死をまるで予測して いたかのように、 ごく当たり前のように葬儀を進めていったの だった。 そうだ、 その伯母さんも確か、 癌という名の病気に侵されていた。

俺がまだ小学校低学年の頃、 親戚の伯母さんにあたる人が、 病気で遠くの世界へと旅立っていった。 伯母さんは親父の姉貴にあたる人で、 俺がまだ乳母車に乗っていた頃からえらくか わいがってもらっていたと聞いたことがある。 懐いていた俺は、おばさんが入院してからも、

身近で命が奪われていく瞬間を見たのはそれ が初めてで、 そのとき俺は幼いながらに死ぬということに 対しての恐怖を強く感じた反面、 命はなんてあっけないものなのだろうという 儚さを感じた。 あの、のどの奥にアメ玉が詰まったかのような 後味の悪い気持ちを、今でもよく覚えている。


とぐらいで。 病気なんて、

余命を告げられたわけでもなければ、

ましてや癌なんて、

死という言葉を直接耳にしたわけでもない。

自分には永遠に無関係の言葉だと思っていた。

それに、今すぐ焦って入院をしなければならな いほど進行しているわけではないし、治療法だ ってある。

不治の病に冒されたという人のドキュメント 番組を見ていても、

完治した例だってきっとある。

ただ、かわいそうに、運が悪かったのだろう、 と同情するだけで、

癌は終わりを待つだけの病気ではないことく らい、物知らずの俺だって知っている。

心の中では遠い世界のことのように感じてい た。

それなのに今頭をよぎるのは、死、という黒ず んだ言葉だけ。

結婚し、温かい家族と幸せに暮らしながら何十 年も先まで生き延びて、

考えれば考えるほど浮かぶのはマイナスにつ ながることばかりで、

しわしわのじいちゃんになっていつか寿命と いうやつが来たとき、

どうにもできない苛立ちが心の隅々を支配し ていく。

ようやく安らかに死んでいけるとばかり思っ ていた。

俺は第二関節から赤黒い血がうっすらとにじ んでいる、 石のように硬くなった握りこぶしの指を一本 ずつ解き、おそるおそる開いた。

今になって考えてみると、そんなのは楽天家の 夢のような話だ。 いや、ついさっき夢になってしまったというほ うが正しいのかもしれないけれど。 「………どうし、てだ、よ」 さっき病院で医者が口にしていた数々の説明 は耳を通り抜けるばかりで、 ところどころしか耳に入っていなかった。 唯一記憶に残っているとすれば、 入院の準備が必要だとか何とかをしつこく言 われたのに対してひたすら首を横に振ったこ

――細い。 なんて細くなってしまったのだろう。 この手のひらは、 細いけれどほんのり汗ばんでいて、 温かくて、血管だってしっかりと通っている。 指だって普通に動く。 この手はちゃんと物を持つことだってできる し、


親父の新聞を取ってやることも、 母さんの荷物を持ってやることも、 姉貴と殴り合いのけんかをすることも、 美嘉の頭をなでてやることだってできる。 ほら、こうして、今までとなんら変わりなく。 この指がいつか動かなくなる日が来るってい うのか? この手がいつか温かさを失う日が来るってい うのか? 死ぬのか? 俺は死ぬかもしれねえのか?

嘘だと言ってくれよ。 冗談だと言って笑ってくれよ。 今だったら許してやるからさ。

なあ。 頼むよ。 誰かそう言ってくれよ。 なあ。誰か…。

死んだらどうなるんだ?

「………美嘉」

学校はどうなる?

力んでいた肩の力がふっと抜け、

家族はどうなる?

壁に寄りかかっていたはずの体は

美嘉はどうなる?

ずるずると支える力を失った。

俺は…俺はどうなる?

うっすら血のにじんだ握りこぶしの先端が、

死にたくねえよ。

今頃になってずきずきと痛み始め、

まだ死にたくなんかねえんだよ。

その痛みは胸にまで鈍く伝わり、

やりたいことだっていっぱいあるんだよ。

この悪夢のような時間は紛れもない現実であ るということを思い知らされる。

経験しきれてないことだっていっぱいあるん だよ。 生きたい。 生きたい。 生きたい。 俺はこれからもずっと、生きていきたい。

小刻みに震える指先に、もう何もかもに嫌気が さした。 ポケットから PHS を取り出し、おもむろに電 話帳を開く。 あ、か、さ、た、な、は、ま……み………美嘉。


美嘉。美嘉。

美嘉と一緒なら、

美嘉。

俺、

美嘉ならきっとこう言ってくれるよな。

どんな大きな試練も乗り越えていけるような 気がするんだよ。

「ヒロが癌になるわけないじゃん!!」って。 美嘉。 美嘉ならきっと教えてくれるよな。 俺は一体 どうしたらいい? わからねえんだ。 自分でもどうしたらいいのか。 一人で考えるのが怖いんだ。 全てを受け止めるのが怖いんだ。 怖くて怖くて仕方がねえんだよ。 もし、全ての事実を美嘉に話したとしたのな ら、 美嘉は俺のことを弱い男だってさげすむだろ うか。 面倒くさいって投げ出すだろうか。 でも俺は信じている。 美嘉なら一緒に受け止めてくれるって。 一緒に頑張ってくれるって。 それに、

嘘くさい同情の言葉だとか、 意味のないエールだとか、そんなものはいらな い。 欲しくない。必要としていない。 ただ…声が聞きたい。 美嘉、 今すぐ会いたい。 通話ボタンを押して受話器を耳にあてたその とき、部屋のドアが激しい音をたてて開いた。 その衝動に慌てた俺は、鳴り響き始めたコール を途中でぷつりと切断する。 「あーあ、なんだよこの部屋。汚すぎて座る場 所もないじゃん」 眉間に深いしわを寄せながら 無神経にもずかずかと部屋に足を踏み込んで きたのは姉貴だ。 「勝手に入ってくんじゃねえよ」 「へー、珍しい。もしかしてやけになってるっ てわけ?」 粉々に砕け散った灰皿や、無惨にも散らばった 教科書や雑誌。 さらにはいびつに穴のあいた壁は、


どう見たって今の今まで冷静であったという わざとらしい言い訳は通らない。 「うるっせえんだよ!用がないならとっとと出 ていけや」 「ったく、困ったもんだね」 姉貴は形を失った灰皿を足で蹴散らし強引に 座る場所を作ると、その場にどかっと腰を下ろ し、 偶然にも足元に落ちていた半透明のライター で自らのポケットから取り出し、 世間では最もきついと言われているタバコに 火をつけた。 「別に困ってなんかねえし」 「ふう。あ、あんた今あたしが病気のこと言っ てると思ったでしょ? 誤解しないでくれ る?困ったもんだってのは、あんたのこと」 今は何かを強気に言い返す気にもなれず、 というかそんな気力があるわけもなく、 俺はせめてもの反抗として わざと聞こえるように

いつも「もったいない」と言って吸い終えたタ バコの吸い殻でさえ何度もリサイクルしてい る姉貴が、 いとも簡単にタバコを捨てるその行為は、 もしかしたら冷静さを装ったその外見の裏で ひどく動揺しているのではないかというささ やかな疑問を作り出す。 「ヒロ、どうしたんだよ。あんたらしくもない」 「俺らしくない?じゃあ俺らしいってなんな んだよ」 「弱りきった狼みたいに情けない顔しやがっ て。あんたはいつもみたいに何も知らないよう な顔でかっこつけて堂々としてりゃあいいん だよ。 言っとくけどな、癌は不治の病じゃない。 あたしのダチもあんたと同じような病気にか かってるけど、手術に成功して今でも元気に生 きてるし。 しかももうすぐ退院するし。」 いつもなら 「お前に俺のなにがわかるんだよ」

ふうっとため息にも似た声を漏らした。

とかなんとか言いながら強気で言い返してい るところだ。

姉貴は飲みかけのペットボトルのふたを開け、

それなのに今日に限っては、

それを灰皿代わりとしてタバコの灰を落とす と同時に、

姉貴の言葉の一つ一つが妙に心に染み込んで いく。

つけたばかりのまだ長さの残るタバコまでも を一緒に投げ入れては火を消した。

「ヒロ、こんな話聞いたことある?


二つの花を種からまったく同じ場所でまった く同じ条件で育てて、片方の花だけに“キレイ ですね”って毎日声をかけてやるんだって。 そしたらなぜか声をかけた花のほうがキレイ に凛と咲き誇るらしいよ」 「何が言いたいんだよ」 「そうやってうじうじしてたら、治るものも治 らなくなるってこと。病も気から? 病は気か ら?とかなんとかいう言葉もあることだし。 それにさ、もしあんたがいなくなったら、 美嘉ちゃんだって浮気しちゃうかもしれない よ?いいの?」 「は?ありえねえから」 「それはどうかな。いつあんたよりいい男が現 れるかなんて、誰にもわかんないことだし。 美嘉ちゃんがあんた以外のほかの男と仲よく 手つないで歩いてる姿、想像してみな」 まぶたの奥で言われるがままにその光景を想 像してみた。 美嘉が俺以外の男と歩いている。 だめだ。 定められた人物を思い浮かべないとどうも想 像しにくい。 そうだな。 じゃあ試しに俺の隣の席にいる、勉強するしか 脳がなさそうなあいつで想像してみよう。

指を絡めて。 ――離せ。 楽しそうに笑っている。 幸せそうな顔をしている。 そして最後は、俺が二人の間に無理に割り込 み、 その男を殴り飛ばしている映像で想像は幕を 閉じたのだった。 「無理。絶対に無理。美嘉は誰にも渡せねえか ら。つーかむしろ誰にも渡さないし!」 胸の奥が両手で強く絞られて、水気を吸い取ら れているかのように乾燥して、痛む。 ただ想像するだけでこんなにも苦しくて。 「それならなおさらあんたがこんなに弱気で どうすんの。治らなかったらどうしよう、で悩 むんじゃなくて、意地でも治さなきゃ。 ま、それだけの元気があれば腫瘍なんてどっか に吹っ飛んでいっちゃうんじゃない?」 姉貴は地元のヤンキー仲間と夜な夜なつるん でいるせいもあって、それにひどく影響されて か口が悪い。 しかし、その悪い口調の中で遠回しに励まして くれているということぐらいはわかっている つもりだ。 照れると耳の裏を親指でしつこく触れる癖に、 おそらく姉貴本人はいまだに気づいていない。

あいつと美嘉が隣同士で歩いている。

「………弘樹」

それもいかにも仲よさげに、手をつないで。

もともと半開きになっていたドアのわずかな 隙間から、低く通る聞き慣れた声が聞こえてき


た。

頼りなく、けれどひたすら力強くて。

その声の主は、仕事帰りで灰色のぴしっと整え られたスーツを身につけ、

その後ろでは母さんが遠慮がちにおずおずと 顔をのぞかせている。

「お前なら、弘樹なら大丈夫だ。強いから頑張 れる。父さんが保証する。入院が嫌なら無理強 いはしない。通院だっていい。 だけど、あきらめることだけはするな。 明日から一緒に力を合わせて治療を始めてい こう。 おまえなら大丈夫だ、絶対に」

再び泣き腫らしてぱんぱんにむくんだその顔 には、

親父の目から一粒の涙がポトリとこぼれ落ち た。

どこか怒りのような感情が含まれていて、

その丸みを帯びた塩っ辛いしずくは

今の俺と同じように様々な感情を理解し始め、

ネクタイの上にぽつりと落ち、

必死で乗り越えようとしている最中なのだと 思った。

あ、その悪趣味な柄のネクタイ、 昔、俺と姉貴が少ない小遣い出し合って親父の 誕生日に買ってやったんだよなあ、

いつもより真剣な表情を見せている親父だ。

「ああ、おかえり」

親父は散らかったガラスの破片や本の数々を 避けるようにして、それらにあえて目もくれず に、 俺の目の前で足を止め、ゆっくりと腰を下ろし た。 そらすことなく真っすぐ俺を見つめる親父の 目はあまりに真剣で、目をそらさずにはいられ ない。 親父は壁を殴りつけてうっすらと血のにじん だ俺の手のひらを静かに持ち上げ、包み込むよ うにしてそっと握りしめた。 「大丈夫だ」 ぽつりと小さく呟くその声はあまりにか細く、

なんてことをなぜか今になってふと思い返す。 そうそう。 あのとき、 姉貴とわざと変な柄のネクタイを選んで 親父に渡したんだよ。 そしたら親父の奴、 「会社にはつけていけないな」 って嬉しそうな顔をするわけでもなく、 むしろ迷惑そうな表情を浮かべながら すぐにタンスの奥にしまい込んだんだっけ。 それなのに、どうして今さらつけてるんだよ。 もうよれよれになって、


しわしわになってんじゃねえか。

握られた手は温かくて。

そんな変な柄のネクタイ堂々とつけて

握った手も温かくて。

恥ずかしくないのかよ。

生きている。

ああ、もしかしたらもっと前からしていたの に、

ちゃんと生きている。

俺のほうが興味なくて気がつかなかっただけ なのかもしれねえな。 いつも何事にも無関心なのが親父だろ。 隠れてそんなネクタイしてるなんてらしくね えよ。

そうだ。 一番らしくないのは、 俺のほうだったんだ。

俺のために肩を震わせて泣くなんて、

居間の照明が消えて、

そんなの親父らしくねえよ。

独りぼっちになった自分の部屋は、 車の走るエンジン音も

広いと思っていたはずの親父の背中は、

人の話し声さえも聞こえなくて、

いつしか丸く頼りなくなっていて、

昨日とは比べられないほどに

大きいと思っていたはずの手のひらは、

冷たく重く静まり返っている。

細くなってしまった俺の手のひらなんかより もずっと、小さく見えた。

現実を受け止め始めてから

「なあ、俺、死にたくねえよ。助けてくれよ、 親父……」 二粒の涙が重なる。

結構な時間が経過しているというのに、 今もまだ変わらず 不安定な気持ちが持続したままだった。

一生懸命に力を込めるその小さな手のひらは、

ときには

俺の不安を全て受け止め、

まだ夢の続きを見ているのかもしれないと

悲しみをともに吸収してくれているかのよう で。

願いにも近い現実逃避をしてみたり、


ときには

行きたくない。

どうして俺なんだよ…

けれど例え休んだとしても、

という理不尽な思いに

そんなのは一時の休息にすぎないことくらい わかっている。

ふつふつとした怒りが込み上げたり、

いずれ行かなければならないのだとしたら、

ときには

なるべくあと回しにはしたくない。

津波のように襲ってくる死への不安に

だからこそ重い腰を上げてでも行かなければ。

押し潰されそうになったり。

「そういえば数学の宿題があったな」

そんなとき、 いつの間にか俺よりずっと小さく丸くなった 親父の手のひらの温度を思い出すと、 不思議と微かすかな落ち着きを取り戻すこと ができた。 まだ前向きになんてなれていない。 そうなるには相当な時間を必要とする。 けれどさっきよりもずっと、 憎い現実という名の恐怖を受け止めようとし ているのは確かだった。 カーテンのわずかな隙間から顔をのぞかせて いるの は、ぼんやりと不気味な光をともして 自信なさげに空に浮かんでいる欠けた月。 空は闇を抜けてほんのりと明るみを増してい る。 今日は学校だ。

何かを吹っ切るかのように ポツリとそう口にした俺は、 かばんからぶっきらぼうに教科書とノートを 取り出すと、 いつもなら面倒だといって手をつけたことも なかった宿題というやつに手をつけることに よって、 複雑な気持ちを朝まで紛らわせることに決め た。 《次の方程式を解きなさい》 これは無理だな。 《この立方体の体積を求めなさい》 残念ながらこれも無理。 《このグラフの計算式を…》 はい、はい、どれもこれも無理。 身に入らない。


というかそもそも入るわけがない。 この教科書はまるで今の俺の心の中を表して いるかのようだ。 混乱してしまうような数式がありとあらゆる ところに並べられていて、 グラフはといえば中心を軸にしっかりと交わ っている。 それなのに端っこのほうにはどうしていいの かわからないといった感じでまっさらなスペ ースが作られている。 集中することができなかった俺は、 授業中に居眠りばかりしているせいかその隅 の白いスペースに、 鉛筆で適当な言葉をいくつか書き殴ってみる ことにした。 “終りのない絶望” 真っ先に頭の中に浮かんだ言葉。 “果てしない落たん” あれ。たんってどういう漢字だったっけ。 ――あんたがこんなに弱気でどうすんの―― ああ、何書いてんだ、俺は。 はっと我に帰り、今まで書いた言葉たちの上に 何重もの横線を引いて消し去り、 その横にさらに新しい言葉を書き足していく。 “生きるか、死ぬか”

“持ち合わせる強さ” ――おまえは大丈夫だ―― 違う。 俺はこんなことを書きたかったわけではない。 教科書に書かれている数式やらグラフやらを、 全て塗りつぶして消していく。 一本の鉛筆だけじゃどうも足りなくて、 極太の黒インクの油性ペンを使って何度も何 度も。 そしてその上から修正液で新たな言葉を足し ていった。 より大きく、太く。 “夢は叶う” “希望に満ちた毎日” “真っすぐに続く道” ただひたすら文字を書いているだけなのに、 なぜか暗闇にちっぽけな光がともされたよう な気になった。 前向きな言葉を書けば、 一瞬だけでも前に進めたかのような。

そうだ。 残しておこう。


そのときそのときに感じた気持ちを。 想いのたけを。 この世界に生まれた証を、生きた証を、

偽りのない日記。

生き抜いた証を。

自分の本音をここに。 ここだけに。

こうして今の心境を文字で残しておくことで、 ため込んだ気持ちをキレイに吐き出すことが できるよう。

ここにだけ本音を吐き出すのなら、 きっと許されるだろう。

何十年先も、ずっとずっと、 俺が死ぬまで書き続けてやる。

♪~♪~♪~♪~♪ PHS から鳴り響く軽快な音楽のせいで

俺はいったん教科書を閉じて、 まだ 1 ページも使っていない真っ白なノートを 取り出し、おもむろに机の上に開くと、 一番最初のページにさらさらと文字を綴った。

意外にも夢中になっていたということに気づ かされた。 こんな真夜中に鳴り響く音の原因は 着信なんかではなく、寝ぼけていたせいで

―― 2001 年 5 月 13 日――

時間を間違えてセットしてしまった目覚まし 時計だ。

俺は今日癌だと告知された。

そうだ。

最近のどが痛いと思って病院に行ったら癌だ ったとは…。

自分のことで精いっぱいになりすぎて

だから今日から俺は日記を書くことにする。 俺が死ぬまで書く。 卒業するまで入院は嫌だったので 通院することにする。

治療が始まる。

忘れてしまっていたけれど、 美嘉に電話をかけようとしたところで 姉貴が部屋に入ってきたので、 まだ電話をかけていないままだった。 枕の下に乱暴に置かれている PHS を手に取る。 もしさっきの精神状態で美嘉に電話をかけて いたのなら、きっと弱音ばかり吐いてしまって いただろう。


そうしていたら、 きっと俺はそんな弱い自分に後々深く後悔し ていたに違いない。

明日。

でも、今の俺はさっきの俺とは違う。

全てを話すことにしよう。

もしかしたらほんの少しだけ弱音を吐いてし まうかもしれない。

時間をかけてゆっくり、じっくりと。

けれど、精いっぱいかっこつけて強がることだ ってできる。

それを聞き終えた美嘉は一体どんな表情を見 せ、

「心配すんな」って、逆に励ましてやることだ ってできる。

そして何を口にし、

電話帳を開こうとボタンを数回押してみたが PHS は一向に起動しようとしない。 どうやらさっきの目覚ましを最後に充電が切 れてしまったようだ。 充電器を捜してはみたものの、 散らかった部屋の中からすぐに捜し出せるは ずもなく、 時計はすでに夜中を過ぎた 4 時を回っていると いうことを理由に、 俺は PHS を持つ手の力をすっと弱めた。 思えば今から俺が美嘉に伝えようとしている ことは、 電話を伝って軽々しく話せるような内容では ない。 それに、電話だとありとあらゆる誤解を招いて しまうかもしれないし、 俺の開き直った元気な姿を見せれば、 美嘉も より前向きに受け止めてくれるかもしれない。

明日学校で顔を合わせながら

何を思い、 何を失い、 何を得るのだろう。


一章◇君想 優先順位。

全てを話し終えたとき、 美嘉が不安そうな顔をしていたのなら、 大丈夫だからと胸を張って最高の笑顔を見せ てやればいい。

「それでは今日も一日頑張って勉強するよう に」

不安に押しつぶされて泣きだしてしまったの なら、 何も言わずに力強く抱きしめてやればいい。

長ったらしい朝礼がやっとのことで終わりを 告げ、 耳障りに鳴り響くチャイムが学校中に広がっ たと同時にすぐさま席から立ち上がった俺は、 一目散に教室を飛び出した。 複雑な気持ちの中でこうして学校に足を運ん だのは、勉強するためなんかではなく、 美嘉に会うためだけのようなものだ。 今すぐ美嘉に会いに行こう。 そしていつものように学校を抜け出し、 あの川原で俺の病気について告げる。 病名は言わなくとも、 必ず完治してみせるからと安心を与え、 治療が始まることを正直に伝える。

そして最後の最後に 「俺と一緒に乗り越えてくれないか?」 とかっこつけながら問いかけるのだ。 美嘉が首を縦に振ってくれることを祈って。

もしかしたら 「元気出して」 と逆に俺が慰なぐさめられて、 美嘉の堂々とした意外な芯の強さを見せつけ られることになるかもしれない。 「おい、ヒロ」 背後から威勢よく誰かに声をかけられたこと で、 俺は先を焦る足取りをしぶしぶこらえ、 仕方なくといった感じで声のする方向へと首 を向けた。 教室から顔をひょこっとのぞかせたのは クラスメイトのショウだ。 ショウとは特別仲がいいわけではない。 ただ、ノゾムという名の、 俺にとって唯一親友と呼ぶことのできる奴が この男とよくつるんでいるせいもあり、 地元で大人数で騒ぎ遊んだときに何度か言葉 を交わしたことがある程度だ。 ショウが俺に対してあまりいい気持ちを持っ ていないことくらいなんとなくわかっていた。


なぜならショウから俺へと向けられる目線は いつもわかりやすいくらいに敵意むき出しで、 交わす会話の節々にはたっぷりのいやみが含 まれているからだ。 もしこうしてショウに声をかけられたとき、 振り返ることなく走り去っていたのなら、 そうして寄り道することなく 美嘉のもとへ向かっていたのなら、 訪れる未来は変わっていたのだろうか。 誰も傷つかずにすんだのだろうか。

「何か用?」 「うん。ちょっとヒロに話があるんだけど」 見ているだけで不快な気持ちにさせる不気味 な笑みを浮かべながら こっちへ来いとあえて口には出さず、 しつこく手招きをしているショウの姿を見て いると、 先を急ぐ気持ちの裏側で全身にむしずが走る。

「用があんならてめえがこっち来いや」 「もしかしてこれから彼女さんのところに行 くところだった?」 「関係ねえだろ」 「それが関係ないこともないんだよなあ。なん たって俺が言おうとしてることは、 まさにその彼女さんについての話だからさ」

勝ち誇ったように反り返ってふっと片方の口 元を緩めるその表情がいやに腹立たしい。 ………美嘉がどうしたっていうんだよ。 こいつが美嘉についての何を知ってるってい うんだ。 二人にかかわりなんて何一つないはずだろ。 今から俺が美嘉に告げようとしていることと、 こいつが俺に告げようとしていることは、 一体どっちが重大なのだろう。 ごくりと小さく息を飲んでいる自分に気づい たとき、 劣等感に覆われてしまうほどの情けなさに打 ちのめされ、 改めて自分の心が弱りきっていることが身に 染みた。 ショウに話があるとだけ言われたときは、 ポケットに両手を入れながら聞き入れるほど の余裕があったはずなのに、 それが美嘉の話だと濁にごされた途端、 体が前のめりになってしまうほど持ち合わせ ていた余裕はいとも簡単に消え去った。 外見では気にしていないそぶりを見せながら も、 それはただの強がりとかいうやっかいなやつ で、 本当は今すぐ肩を揺すってでも 根掘り葉掘り聞き出してしまいたいと思って いる。 たかだか一人の女のことでこんなにも弱くな ってしまう俺ってどうなんだよ。 って、そんなこと誰にも聞けねえな。


でもまあ、別にこんな自分も嫌いじゃないから いいんだけど。

あまりにくだらなすぎて殴り飛ばす気力さえ 出ず、張っていた肩の力が静かに抜けていく。

首を小さく横に振って余計な邪念を振り払う。

だいたい俺はこんなところでこんな奴と何を やっているのだろう。

「で、言いたいことがあんならさっさと言え や」

こんなことに付き合っている暇なんてないは ずなのに。

ショウはかかとを潰した靴でぺタリぺタリと 不気味な音を発しながら、 わざとらしく長い時間をかけて歩み寄ってき た。 その行為は先を急ぐ俺の神経をさらに逆なで していく。 「彼女さん、ヒロの親友とできてるみたいだ よ」 と、勝ち誇ったように胸をぐんと張って目を細 めるショウ。 「は?」 と、俺は眉間に深いしわを寄せながらショウを 上から睨みつける。 「だから、ヒロの彼女さん、ヒロの親友とでき ちゃってるみたいだよってこと。親友って誰か わかる?ノゾムだよ」 「ふーん。で、話ってそれだけ?」 くだらない。 なんてくだらない。

俺は今すぐ、今すぐ美嘉に伝えなければならな いことがあるんだ。 それはとてつもなく大切で、 とてつもなく重要で、 そして一生を左右するような、 とてつもなく重大な。 「それだけって…」 「やってらんねえ。嘘つくならもっとうまい嘘 つけや。そんなくだらねえことが用事だってい うんならもう行くわ」 俺は親友であるノゾムのことを信じている。 恋人である美嘉のことを信じている。 信じている。信じている。信じている。 無駄な時間を費やしてしまったと呆れて、 ふうっと大きなため息を吐き出しながら その場を立ち去ろうとしたそのときだった。 「待てよ!クリスマスイブの夜、何か覚えはな い?」 その言葉に俺は再び先に進めようとしていた 足をぴたりと停止させ、


あえて体を動かそうとはせずに目線だけをシ ョウへと向けた。 こんなくだらない奴のためにわざわざ足を止 めた理由は、 一つだけ思い当たるふしがあったからだ。 「クリスマスイブの夜がなんなんだよ?」 「教えてやろうか。 クリスマスイブの夜にヒロが酔って寝てると き、ヒロの彼女さんとノゾムがキスしたんだっ て」 そう、あれは確かに去年のクリスマスイブのこ とだった。 俺と、美嘉と、ノゾムと、ノゾムの彼女の 4 人 でクリスマスパーティを開いた。 無礼講だと勝手な言い訳を胸に、 アルコールが入り、 特別な日だということもあっていつもより気 持ちが高ぶったのは確かだった。 初めて足元がふらつくくらいに酔っ払った。 あの日の俺はぐてんぐてんという表現が最も 似合う状態だったに違いない。 夜中まで飲み騒いでいた記憶はかろうじてあ る。 けれど、 その後どうやって布団に入ったのか、 どうやって夜明けを迎えたのか、 正直うろ覚えの部分の方がずっと多い。 朝になって目が覚めたとき、 美嘉の態度が妙によそよそしく感じたのを今 でもよく覚えている。

いや、もしかしたらこんな窮地の状況に立たさ れているからこそ、今さらながらそう思えてし まうのかもしれないけれど。 「いきなりそんなこと言われても信じられる わけねえだろ」 口ではそう言い放ってみたものの、本心は信頼 と裏切りの狭間で揺れながらひどく動揺して いた。 それは決して今にも爆発しそうな怒りや、 食事ものどに通らないような悲しみなどでは なく、 混乱という要素で。 信じている。 二人のことは信じているのだけれど、 この男はどうしてクリスマスイブに四人でパ ーティーをひらいたことを知っているのだろ う。 適当なことを口にしたにしてはあまりに偶然 が重なりすぎている。 もしそれをノゾムの口から直接聞いたのだと しても、二人がキスをしたなんて嘘をつく意味 が果たしてあるのだろうか。 あとで俺がノゾムに問いただしたところで、 あっさり嘘だということが判明して、 俺の逆鱗に触れるのは時間の問題だというこ とくらいこいつもよく理解しているだろうに。 いくら俺のことが気に食わないからって、 友達を犠牲にしてまで嘘をつこうとするこい つは、 正真正銘のバカなのか?


「まだ信じられないみたいだね。 それじゃあ信じさせてあげようか。 俺、ノゾムから相談受けてたんだよね、 その出来事について。 だからいろいろなこと知ってるよ。 証拠として例えば……あっ、そうそう。 クリスマスに彼女さんから香水をプレゼント にもらったんだって? スカルプチャーだかなんだかってやつ」 一瞬だけ視界がぶれた写真のように左右に揺 れたような気がしたのは、それが事実だったか らなのだと思う。 「だから?」 「ノゾムがこう言ってたよ。 ほんの出来心で寝てるヒロの彼女さんにキス したあと、布団から彼女さんがヒロにプレゼン トとして渡した香水の香りが漂ってきたから、 その瞬間、ヒロに対してすごい罪悪感だったっ て。 まあ酔ってノゾムから一方的にしたらしいけ ど、 した事実には変わりないよね」

背中の裏側に冷たいしずくが静かに流れ落ち ていくような感覚。 もしかしたら、 もしかして、 もしかすると。 思い返してみれば、 そもそも美嘉と出会ったきっかけはノゾムが

いたからこそあったようなものだ。 ノゾムが違うクラスだった美嘉から連絡先を 聞き出して、 二人はひんぱんに連絡を取り合うようになっ た。 その中に俺が割り込んだような形で、 いつしか俺と美嘉が想い合うようになってい た。 美嘉と付き合い始めたことをノゾムに報告し たとき、ノゾムは極上の笑顔で祝福してくれ た。 それはまるで自分のことでもあるかのように、 きらきらと輝いていて。 あの笑顔が嘘や偽りだったとは どうしても思えない。 しかし、その笑顔の裏にはもしかしたら、 隠された想いが多々あったのかもしれないと 今になって思う。 ノゾムに彼女ができたことで俺はすっかり安 心しきっていたつもりだったけれど、 俺はノゾムの隠された小さな想いに気づいて いながらも、本当はただ奪われることを恐れ て、 気づかないふりをしていただけなのかもしれ ない。 そう思ったのは誰でもない、 バカみたいにうるさくてうざったい奴だけど、 それ以上にいい部分を数えきれないほど持っ ている、 親友であるノゾムだったからだ。 「じゃあ例えそれが本当の話だったとして、俺 にそれを話した時点でおまえはノゾムを裏切 ったことになるって、わかって言ってんだろう な?」


事柄を認めることに抵抗を感じている体は、 ひざを抱いたまま宙に浮いているかのように ふわふわしている。 不安定。 しかし現実を通り過ぎて逃避してしまった心 の中には、思っているよりもずっと冷静な自分 が存在している。

いて俺と手を組もうとしたこの男の腐った根 性によって、今まで発せられた言葉にさらに現 実味が帯び始めている。 寝ている美嘉にノゾムから一方的にキスをし ただと? 酔っていたせいもあってか? 俺と美嘉が付き合っていることを知っていな がらか?

作られた安定。

彼女がいんのに?

ショウはノゾムの姿がないかあたりをしきり に確認すると、いつも見せているはずの敵意む き出しの表情を心の底に無理に隠してわざと らしい笑みを作り、 声のトーンをぐんと下げた。

親友だと思っていたのは俺だけか?

「いいんだって。あいつ最近なんか調子に乗り すぎなんだよね。だからさ、俺ら二人で手組ん で、あいつのこと懲らしめない?」

美嘉はどうなんだ? 本当に気づいてなかったのか? 本当はノゾムにキスされたことを知ってたん じゃないの か? それならどうして俺に正直に言ってこなかっ たんだ?

友情がいとも簡単に捨てられていくさまを目 の当たりにした。 それはまるで大切にしていた人形の片目が取 れた瞬間、気味が悪いと言って泣きながらいと も簡単にゴミ箱に捨ててしまう子供を見てい るかのような。

相談してこなかったんだ?

あっけなく、 物悲しく、 そして何より

二人は何も知らない俺を見て陰で笑っていた のだろうか。

今の今まで隠し通していたんじゃないのか? それはノゾムを受け入れたってことになるん じゃないのか?

薄っぺらい。

もしこいつの、ショウの言うことが全て真実で あるのなら、

薄っぺらい。

友情なんてやつは存在しなくて。

薄っぺらい。

愛情なんてやつは存在しなくて。

俺のことを陥おとしいれようとしてついた嘘 ならまだ救われた。

結局のところ俺は、 片目の取れた人形ってことで。

けれど、ノゾムを陥れたいがために陰口をたた

ああ、面倒だ。


何もかもが。 もう何もかもが面倒になった。 「触んじゃねえ!」

そう叫んだ俺は同意を求めるがごとく肩に親 しげに置かれたショウの手を強く振り払った。 ショウは驚愕の表情を浮かべながらバランス を崩して、その場に激しくしりもちをつく。 俺は倒れたショウに目もくれず勢いをつけて その場から走りだした。 美嘉がいるはずの教室の前をさっと通過し、 勢いで階段を駆け下り、上靴のまま外に飛び出 て、 息切れする暇なく自転車置き場まで駆けてい く。 追いかけてきて必死に引き止めようとする学 年主任を、あと先考えることなく強く払いのけ た俺は、 自転車に勢いよく飛び乗ると同時に、 無我夢中でペダルをこぎ始めた。 こいで、こいで、こいで、こいで、こいで、こ いで、 とにかくこいで。ひたすらこいで。

て。 こうやって次々と試練を 与えるその意図をそれがもたらす意味を この壁を乗り越えていく方法を 悪い夢から早く覚める方法を 俺は誰に聞けばいいんだ? 誰に答えを求めればいいだ? 誰に助けを求めればいいだ? 肌で感じる柔らかい風が、 したたる汗を一瞬にして乾かしていった。 今日は雨が降っている。 しとしとという霧雨どころじゃない。 木の幹が左右に揺れるほどの大雨、 どしゃぶりってやつだ。 昨日、ショウに呼び止められた後、 学校を抜け出して部屋に閉じこもり、 これといって何かを深く考えるでもなく、 真剣に思い悩むでもなく、 悲しみだとか刻まれた傷あとだとか、 そういった当たり前のように思い浮かぶ感情 はこれっぽっちも得ることはできなかった。 今の俺に残っているのはたった二つの感情。

――桜井弘樹さん、あなたは癌に冒されています。

まず一つ目は“怒り”だ。

俺が一体何したっていうんだよ。

癌を宣告されたときもそうだったけれど、 追いつめられたときに最後の最後に誰もに残 る感情は怒りなんじゃないかって思う。

――ヒロの彼女さんとノゾムがキスしたんだっ


それはそれでとてつもなく寂しいことなのだ けれど。 昨日の俺はひたすら怒りに肩を震わせ、その怒 りは昨日よりだいぶ落ち着いてはきているも のの、持続したまま今に至っていた。

雨のせいか濡れている美嘉の髪先から床にし たたり落ちているしずくの丸みを帯びた輪郭 が、 こんなにも遠い距離だというのに くっきりと目にすることができる。

そして二つ目は“混乱”だ。

そのしずくを拭いてやりたい。

この数日間で告げられた数々のやるせない現 実のせいで、まともなはずだった思考の糸が 徐々に絡まり合い、 混乱という名の大きな邪魔物が頭の中を大き く支配している。

そう思って自然に制服のそでを伸ばす行為は、 今もまだ美嘉のことが好きであるという事実 を強く表していて、その瞬間、 ショウに声をかけられて足を止めてしまった 自分自身に、今さらながらひどく後悔するのだ った。

考えれば考えるほど結論は限りなく遠いよう な気がして、そのたびに吐き気や頭痛がひんぱ んに起こるようになり、 ときどき自分の体が自分のものではないよう な錯覚に陥ったりもした。 まだ混乱という感情が残っているおかげでど うにか理性は保っていられるものの、 それが消え去って怒りだけが残ったとき、一体 俺はどうなってしまうのだろう。 それは自分自身でさえも予測することができ なくて。 美嘉のクラスの教室の前…ドアの小窓から顔を のぞかせる。 そこらへんにぶつぶつと立ち尽くしているど うでもいい奴らが視界を邪魔しているけれど、 窓際あたりに元気な美嘉の姿を確認すること ができた。 会いたかった。 そして今も変わらず会いたい。

美嘉に会ってどうするのか、 どうなるのか、今はまだ何もわからないし、 決めてもいない。 決めたところで実際にその行動を実行に移す ことができるのかなんて定かではないし、 そもそもショウの言っていたことが真実とは 異なっている可能性もあるわけで。 場合によっては強い口調で責めてしまうかも しれない。 場合によっては笑いながら簡単に許してしま うかもしれない。 場合によっては何も知らないふりをして、 いつもどおり接してしまうかもしれない。 癌を宣告されてから、 ここ何日かは風邪をひいたということにして 美嘉と会うことをそれとなく避けてきた。 けれどもう限界だ。


とりあえず、俺は、美嘉に会いたい。 そして、美嘉の口から、真実を、聞きたい。 そして俺も、真実を、話したい。 その一心でいつの間にかここに足を運んでい ただけのことだ。 なるようになれといった勢いでドアに手をか けたその時、 さっきまでいたはずの位置から美嘉の姿が消 えていることに気がついた俺は、 手をドアにかけた状態のまま再び小窓から見 ることのできる範囲の教室中を見渡した。 窓際にいたはずの美嘉は、 いつの間にか廊下側へと移動し、 誰かと話をしている。 相手はノゾムだ。 二人は似たような笑顔を浮かべながら 軽快に言葉を交わしている。 おい、ノゾム。見えてるか? 俺はここにいるよ。 おい、美嘉。見えてるか? 俺はここにいるよ。 けれどその笑顔はまるで俺には向けられてな どいなくて。 ………いる。いるよ。俺はここに。 なあ。見てくれよ。

ぷつんと切れた。 何かはわからないが、 頭の中に存在している細くてもろい何かが、 ぷつんと儚い音をたてて。

俺が癌だと宣告されたことを、 ショウからあらゆることを耳にしたというこ とを、 この二人は何も知らない。 何も知らないのだけれど、 俺がたった一人で悩んでいる間にも、 この教室でこうして二人の時間が共有されて いたとしたのなら、 それは自分本位だとわかっていながらも、 どうしても許すことができない。 つなぎ合わせてきたまともな思考の糸が途切 れ、ついに混乱さえも見失い、 怒りという感情だけが体と心を支配した。 それは自分が最も恐れていた、 最悪なパターンの結末だった。 教室のドアを力いっぱい開ける。 思いのほか大きな音が鳴り響いて、 クラス中の目線がこっちへと集中した。 勢いづいたドアがその衝動で再び閉まりかけ ようとした直前、俺は教室内へと足を進めて美 嘉のもとへと駆け寄った。 「…あれ??ヒロ風邪は治ったの??」 美嘉は目を真ん丸にして驚いた表情を見せな がらも、その表情のどこかには喜びの感情が含 まれている。 いつもなら心の底から幸せを噛みしめてしま うような瞬間なのだけれど、 今日に限っては切なさが込み上げる。


ぐんぐんと。

自分でもとことんずるいやり方だと思う。

「ノゾム、あとでおまえに話あっから」

そんなことくらいとっくのとうにわかってい るはずなのに。

一生懸命にあたりを手探りしてはみたものの、 美嘉にかけるしっくりくる言葉がどうしても 見つからなくて、 俺は仕方なく美嘉の隣で他人事のようにのう のうと座っているノゾムに話を振った。 ノゾムは怪訝な表情で小さくうなずいている。 それを確認すると同時に、 俺は力任せに美嘉の腕をぐいっと引くと、 教室とは反対側の廊下へと無理に連れ出した。 必死に抵抗しようとする美嘉の肩を壁に強く 押しつけ、淡い抵抗を消し去っていく。 「痛………、何すんのっ!?」 美嘉の表情からみるみるうちに喜びが消え去 り、 それは次第に微かな苛立ちと大きな不安へと 変化していく。 「美嘉さ~、俺に話すことない?」 「え…??」 「ノゾムのことでなんか俺に話あるよな?」 これほどまでに強引で、 しかもこんな試すようなやり方をするつもり ではなかった。

それでも、 なぜか体が言うことを聞こうとしなかった。 心ではいいかげん素直になれと命じながらも、 自然と動く唇は止まる気配を見せない。 美嘉の肩をつかむ指先の力を弱めることがで きない。 これは俺ではない。 きっと誰かが俺の体に乗り移って、 操っているに違いない。 そうだ。 きっとそうだ。 そうに決まっている。 「おまえノゾムとキスしたんだろ?」 美嘉の肩が一瞬だけ左右に揺れたのを指先で 感じると同時に、俺は自分の口を心から呪っ た。 本当はまだかろうじて逃げ道はあると信じて いる。 それは 「寝ている彼女にキスした」 「酔ってあいつから一方的にした」 というショウの言葉だ。 もしキスをしたのが事実であるのなら、 ノゾムのことはどっちにしろ許せないにして も、 もし美嘉がされたことにさえ気づいていなか


ったのだとしたのなら、 許してやることだってできる。 そうしたら、 また何もなかったように幸せな日々を送り、 いつか笑い話にできればそれでいい。 そして俺の病気のことを全て話し、支えになっ て………。 「ノゾムに聞いてみて?」

てんだろ?」 ついさっきまでおちゃらけていたノゾムは、 体の動きをぴたりと止めて一瞬だけ鋭く眼を 細めると、 わざとらしく両手を腰にあてて大げさに考え るそぶりを見せた。 が、睨みつける俺からの視線に冗談ではないと いうことを感じ取ったのか、笑顔一つ見せずに 教室を走り出ていく俺のあとをのそのそと追 った。

そのあいまいな言い回しにわずかな逃げ道な どきれいに吹っ飛び、 心中の怒りはさらに加速していく。

廊下にはまだ美嘉の姿が残っている。

何よりその言葉は、 真実を決定づけているようにさえ感じ、 ふいにそらされた視線に確かな答えが出たよ うな気がした。

呆然と立ち尽くしたまま、 とてつもなく不安そうな、 とてつもなく悲しそうな表情をしている美嘉 の横顔は、距離がある場所から見ているだけな のにまるで傷口のように痛々しく、 できたてのかさぶたのようにもろい。

黙ってうつむく美嘉をその場に残し、 早足で教室へと戻る。 「ちょっと来いや」 教室の中、机に顔を伏せて、悪びれる様子もな く寝息をたてているノゾムの手を強く引くと、 ノゾムはまぬけに口を開けて大げさに息を吐 き出しながら、両手を天井に向かって垂直に伸 ばした。 「なんだよ、せっかく気持ちよく寝てたのに。 まさかこの俺に美嘉とのけんかの仲介やらせ ようってわけじゃないよね? 朝っぱらから勘弁してほしいんですけどー」 「なんで俺が怒ってんのか、なんとなくわかっ

美嘉にこんな表情をさせているのは紛れもな くこの俺だ。 だけど俺だって本当は、 美嘉に負けないくらいに多くのことを抱えて いる。 都合のいい話かもしれない。 けれど、どうしてもその本心に気づいてほしか った。 「なんだよ?」 睡眠を妨害されたせいか、 面倒といわんばかりにいかにも不機嫌さを表 しているノゾムのため息交じりの第一声に、


これでも限界ぎりぎりまで耐えてきたつもり だったけれど、 瞬時に胸ぐらをつかまずにはいられなかった。 「なんだよじゃねえよ。てめえ美嘉とキスした んだろ?」 確かな本音をいえば、 さっき美嘉に逃げ道を求めたときと同じよう に、 懲りずにまだ信じている。 いや、信じようとしているといったほうが正し いのかもしれない。 この先ノゾムの口から出る言葉が、 どうか思いどおりの結末であるようにと、 心から祈っているのは紛れもない事実で。 「…ああ、したよ」 瞬間、全身が暗闇に包まれ、 それと同時に時間をかけて積み上げてきた友 情と愛情という名の積み木が音をたてて崩れ ていった。 その下にあった信頼という名の土台さえもが、 崩れ落ちる積み木たちによって跡形もなく 粉々に砕け散っていく。 ―――親友だったんじゃねえのかよ。 つかんだノゾムの胸ぐらをねじって天井に向 かって持ち上げる。 「てめえ人の女に手出してんじゃねーよ。ふざ けんな!」

と同時に、 俺のこぶしはノゾムの頬を見事に直撃してい た。 ガツッという鈍い音が廊下に響き渡る。 赤黒い液体が白いコンクリートの床に水玉模 様を描き、殴った衝撃でふらついた俺はその体 を支える気力さえも失って、 ふらりと弱々しく壁にもたれかかった。 「…ヒロ!!待って!!」 その場を去ろうと、 おぼつかない足を進め始めた俺のワイシャツ のすそをつかんで引き止めたのは、美嘉だ。 ―――信じてた。二人の絆は、これからも永遠に続 いていくって。 でも…俺、もう… 引き止められた美嘉の手を強く振り払い、その 場を歩み去る。 美嘉を突き放したのはこれが初めてだった。 そしてこれが最初で最後になるのかもしれな い。 美嘉もノゾムもバカ正直すぎるんだよ。 「キスなんかしてない」って。 例えそれが嘘だったとしても、 二人がそう言うのなら、 俺は間違いなく信じることができたのに。 親友の頬に直撃した手の感覚。 恋人の願いを振り払った手の感覚。


傷ついてなんかいない。

ったのか?」 だとか。

けれど本当は一人になることをひどく恐れ、 自分が思っているよりもずっと心に深い傷が 刻まれていたことを、 それが後々大きな意味をもたらすということ を、 今の俺は知るはずもなかった。

けれどそんなかっこ悪いことは口が裂けても 聞けるわけがなくて。

友情と恋を同時に失った俺に、 もう何も怖いものはない。

口にすればお互いの傷が深まる。

♪~♪~♪~♪~♪ ≪ホウカゴハナソウ≪ ≪トショシツニイマス≪ 遠くから昼休みが始まることを意味するチャ イムが流れてきたと同時に、 PHSに美嘉から 2 通のメールが届いた。 いざこざがあって廊下で別れてからというも のの、 すでに何通かのメールが届いている。

それにあえて答えを聞きたいとも思わない。 聞いたところで真実が薄くなるわけでもなけ れば、苦しみが癒えるわけでもない。

ただそれだけのことだ。 傷つけ合うくらいなら聞かないほうがいい。 悔しいけれど、 これ以上傷つくことをひどく拒んでいる自分 が存在しているのも確かだった。 学校を抜け出し、いつもの川原で一人寝そべっ て太陽の光を浴びていた俺は、 いったん体を起こしてPHSの電源を切り、 それを乱暴にかばんの奥へと投げ入れると、 再び草の上に背をあずけた。

けれどまだ一通たりとも返信していないし、 このメールだって返信しないつもりだ。

凛と咲き誇ったタンポポがぷちりと儚い音を 発して命を落とす。

もちろん図書室にも行かない。行けない。 行けるわけがない。

ここ最近、ろくに授業を受けることなく、 先生の目を盗んでは学校を抜け出してばかり だった。

本音をいえば美嘉に聞いておきたいことが数 えきれないほどある。

正直、単位だってそこまでの余裕があるわけで はない。

例えば 「どうして俺に何も相談してこなかった?」 だとか、 「キスしたのはその時の一回だけか?」 だとか、 「本当は俺じゃなくてノゾムのことが好きだ

勉強なんて面倒以外の何物でもないし、 堅苦しい校則なんてとにかくうんざりで。 学校が嫌いというわけではない。 けれど、ノゾムという友達がいて、 美嘉という恋人がいるということを理由に、


学校に通うことへの意味を無理に見つけてい た。 今になって改めて思うことは、 その理由は俺にとってとてつもなく大きなこ とを意味していたということだ。 もう追いかけるものは何もない。

と大声で口にしながら、跳び上がった勢いでこ こぞとばかりに俺の胸板に激しく飛び込んで きたのは、美嘉だ。 今いち自分の立たされている状況が把握でき ずにいた俺はその場にただ呆然と立ち尽くす。

失うものも、 ったところで未練を残すものさえない。

「今までのことは全部冗談だよ。びっくりし た?」

「……学校なんてやめてやるよ」

ショウは口元に苦い笑みを浮かべながらも全 身では大げさにおどけた表情を作っている。

生ぬるい春の陽気に包まれてふいに激しい睡 魔に襲われた俺は、 いつの間にか深い眠りについていた。 夢を見ていた。 珍しくのどの調子がすこぶるよくて、 触れるとかろうじて確認することができたし こりが跡形もなくなっている。 小さな望みを託して病院へと足を運ぶと、 医者は眉を限界まで上げて驚きを十分に表現 し、 満面の笑みを浮かべてこう言った。 「腫瘍がきれいになくなっています。 これは奇跡としかいいようがないでしょう。 おめでとうございます!」 嬉しさのあまり、込み上げる喜びを隠しきれず 自然と速まる足取りで病院を飛び出ると、 玄関を出てすぐのところでノゾムと美嘉とシ ョウが横並びで申し訳なさそうに待ち伏せを していた。 その中でもいち早く俺のもとへと駆け寄り、 「ヒロ!!ごめんね!!」

「そうなの。ヒロ、最近あまり元気ないみたい だったから、みんなでヒロを騙して驚かせよう って。 そしたら元気になるかもしれないからって、計 画立ててたんだ。 でもまさかこんな大事になるとは思ってなく て… ごめんね。許してくれる?」 って、美嘉がうつむきかげんであまりに悲しげ な目を見せるもんだから、 俺は「絶対に許さない」って鼻で笑いながらも、 安心と承諾の意味を込めて強く抱きしめ返し てやった。 「はいはい。相変わらず仲がよろしいことで。 これでまた絆がよりいっそう深まったんじゃ ない? めでたしめでたし」 そう言ってしつこいくらいに何度も手のひら をたたき合わせて不快な音をたて、 しっかりと抱き合う二人の間に無神経にも割 り込んできたのはノゾムだ。 「うるせえよ。今回は冗談だったからいいもの の、本気で美嘉に手出したりしたらどうなるか わかってんだろうな?」


半分本気で半分冗談めいて、 ノゾムの腰部に軽い蹴りを入れる。 「わかってるって。俺がおまえを裏切るわけな いだろ。なんたって俺たち親友なんだからさ!」 照れくさそうに頭をかくノゾムに続き、 美嘉が胸板に顔をうずめ息苦しそうな、 けれどどこか満ち足りた細い声を発した。 「美嘉だってヒロのこと裏切ったりなんかし ないよ。好きなのはヒロだけだから。これから もずっと。だから信じて?」 嬉しかった。 幸せだった。 支えがある頼もしさを強く感じた。 涙腺が弱まるほどに安心しきっている俺は、 もしかしたらただ一人になるのが不安だった だけなのかもしれない。 二人がキスしたことに対して苛立ちを感じた のは確かだ。 けれど、心の底では一人になることへの恐怖 を、 怒りという手っ取り早い感情でごまかしてい ただけなのかもしれない。 失いかけて初めて親友と恋人という存在が自 分にとってこれほどまでに大きいものだった ということを痛いほどに思い知らされた。 だからこそ夕日がとっくに沈み終えた頃、 そんな儚い夢から目覚めたとき、 逃避したくなるような現実の中へと放り出さ れたとき、 全てが都合のいい夢であったと知った俺は、 病が今でも体内に生存していると知った俺は、

親友も恋人も手を離したままであると知った 俺は、 これからは一人で乗り越えていかなければな らない壁があると知った俺は、 今までに感じたことのないような重い絶望感 に沈んだのだった。 「夢か…全部…夢だったのか」 生きてきた中でも史上最悪な目覚めだったと 思う。 そしてこのとき以上に夢が憎いと感じること はこれから先もきっと、ずっと、ないだろう。 真実に気付いてからも、 気付いていながらも、 俺はしばらくの間まるで子供みたいに、 夢の中に戻る方法を必死で探し求めた。 しかし、ちょろちょろと流れている川の水音は いつになく静かで、真っすぐで、柔らかくて。 それは俺の心の傷を癒してくれるどころか、 いいかげん目を覚ませといわんばかりに絶え 間なく、 そしてとてつもなく残酷な音のようにも聞こ えた。 ――こんなところにいてもしょうがない。 自分のしてきた行為を妙にばかばかしく感じ、 それを振り切るかのようにおもむろにPHS をかばんから取り出し、 電源を入れた。 顔を眩しく照らすと同時に PHS に表示された 時間は、すでに夜の 8 時を回っている。 図書室で俺を待ち続けているかもしれない美 嘉の姿を思うと、 学校に向かってつい足を進めてしまいそうに


なったが、 思い直しては何度もその足を止めた。 会ってどうなる。 今はまだどうにもならないだろ。

う。 これは想像の中での話。 美嘉は俺との別れという最悪の結末を避けた いがゆえに、俺に何も相談してこなかった。

♪~♪~♪~♪~♪

俺を傷つけたくないがゆえに、 自らの傷を隠し通した。 俺とノゾムの友情を心から心配するがゆえに、 何もかもをなかったことにしようと決め込ん だ。

かばんを手にしてその場から立ち上がったそ のとき、PHSが軽快なメロディーを奏でて小 刻みに震えた。

もしそうだとしたのなら、 もう一度、もう一度だけ、 手を取ってともに歩んでいけるのかもしれな い。

届いたのはロングメール。発信者は美嘉だ。

そうだ。

これからのことを決断するにはしばらく時間 が必要だ。

そうすればいい。 ≪ヒロ、ノゾムにキスされたこと、 気づいてたのに隠していたのは本当です。 ずっと言えなくてごめんね。 言い訳に聞こえるかもしれないけど、 ノゾムは酔ってたから、 美嘉にキスしたことなんて覚えてないのかと 思ってたんだ。 だから言わないほうが誰も傷つかないですむ と思ったし、 ノゾムが美嘉だとわかってキスしたってこと は、 美嘉も今日初めて知った。 あれからノゾムといろいろ話したんだけど、 軽い気持ちでしたことをすごく反省してた。 もちろん美嘉だって反省してる。 自分勝手だってことはわかってるけど、 ちゃんと会って話がしたいです。 お返事待ってます≪

そうすればいい。

美嘉の気持ちをまったく理解してやれないわ けではない。 俺だって美嘉と同じ立場に立たされたとした ら、真実を隠し通していただろうし、 自ら白状するようなバカな真似はしないだろ

それなのに指が勝手にあらゆる文字を打ち始 めていく。

そうできれば、そうできればいいのだけれど。 俺が癌だと宣告されていなかったとしたら、 きっともっと心の広い男を演じることができ ていたのだと思う。 余裕を持って大人ぶり、 今とは違う柔らかい判断を下すことができて いたとのだと思う。 ついさっき都合のいい夢を見てしまったせい か。 気持ちが妙に冷めていて。 最終的な結論を出すにはもっと多くの時間を 要するはずだった。

好きだからこそ。


どんな理由があろうと全てを話してほしくて。 好きだからこそ。

≪ナンデ??≪

負った傷を隠すことなくさらけ出してほしく て。

打ち返す。

好きだからこそ。

≪クルシイ≪

何もなかったことにはしてほしくなくて。 好きだからこそ。 苦しみを抱えてまで想いを貫くほど強くはな れなくて。

やめろ。 やめろ。 やめろ。

好きだからこそ。

やめろ。

裏切りを笑って受け流すほど優しくはなれな くて。

やめてくれ。

好きだからこそ。 抱える全ての想いを受け止めてほしくて。 好きだからこそ。 どうしようもなく好きだからこそ。 最後までいい男を演じきることは、 俺にはできなかった。 いくつにも別れていたはずの細長い道は、 いつの間にか一本の太い道へと広がっていて、 その道は終着道へとつながっていく。 ≪ゴメン、ワカレヨウ≪ 自らの意思だというのに、 送信を完了してすぐに後悔した。 ♪~♪~♪~♪~♪

嘘つくな。素直になれ。 別れたいだなんて本心では思ってなんかいな いくせに。 全てを話して支えてもらいたいと思っている くせに。 俺はポケットからおもむろに財布を取り出す と、 その中から一枚の白黒で彩られた薄っぺらい 写真を抜き取った。 ………赤ちゃんのエコー写真。 去年の秋の終わり、 美嘉のお腹に新しい小さな命が宿った。 俺は迷わず産んでほしいと願い、 そして美嘉も勇気を振り絞って産むという決 意を固めてくれた。 お互いの両親からは多くの厳しい言葉を投げ かけられた。


けれど、それでも二人の産みたいという決意は 最後まで揺らぐことなく、 必ず育ててみせると手を握って、 強く誓い合った。 幸せだった。 とても。 とても。 怖いくらいに幸せだった。 しかし、12 月 25 日のクリスマス… 宿った新しい命は、 流産という形で天使へと生まれ変わっていっ た。 二人は雪が降り落ちる中、 天使になった赤ちゃんのエコー写真を手に近 くの公園へと足を運び、 その公園の角に備えつけられている小さな花 壇に花を添え、両手の指を絡ませ、 目を閉じてお参りをした。

美嘉のことは今でも好きだ。 例えノゾムとキスをしたとしても、 その気持ちは変わらない。 別れたくない。 別れたくなんかない。 それなのに。 どうして許すことができないのだろう。 約束を最後まで守ることができなくて、 ごめんな、美嘉。 付き合い始めた頃は、まさかこんなあっけない 形で終わりが訪れるだなんて、 これっぽっちも想像していなかった。 けれどそれは俺だけではない。 きっと美嘉もそう思っているはずだ。

そして赤ちゃんへのメッセージを、心の中で唱 えた。

二人の想いは未来に向かって永遠に続いてい くと信じていた。

そして二人は 「12 月 25 日のクリスマスには必ずここにお参 りに来よう」 と、固い約束を交わしたのだった。

何があっても、永遠に。

今でもよく覚えている。 あのとき俺は、 光を見ることのできなかった赤ちゃんに

永遠があればいいと願っていた。 けれど永遠なんて言葉は、 本当はこの世界に存在しないのかもしれない。 「これで…よかったんだよな?」

「美嘉のことを一生守っていく」

大切なものを手放した空虚な失望感に、 胸が強く締めつけられる。

と、心で強く誓ったことを。

PHS を留守電へと切り替えた俺は、


紺色がかった夜空の下、 幾度となくあふれ出る後悔を消し去ろうと一 歩一歩を強く踏みしめながら家路についたの だった。 「やっと帰ってきた。いいかげん待ちくたびれ たっつーの」 到着した家の前…頬にいびつに刻まれた痛々し い青あざを揺らめく夜風にさらして、 コンクリートの塀に深くもたれかかりながら 俺の帰りを待ち伏せしていたのはノゾムだ。 もしかしたらこれはさっき見た夢の続きなの かもしれない。 しかし美嘉から届いたロングメールの内容を 事細かに思い返せば思い返すほど、 真実に向き合っていかなければならない自分 の立場をひどく思い知らされるのは確かで。 存在すら見えていないかのようにあえて目を 合わせようともせずそそくさとその場を通り 過ぎようとしたそのとき、 「待てよ。ヒロ、頼む。俺の話も聞いてほしい んだ」 引き止められ引っ張られて横に伸びたワイシ ャツのすそ。 「おまえと話すことなんてもうねえから」 「そんなこと言うなよ」 「どうせくだらねえ言い訳ばかり並べるつも りだろ?」

「言い訳くらいさせてくれよ。俺、どうしても ヒロに言わなきゃならないことがあるんだ。 なぁ、ヒロ、頼むから聞いてくれよ」 引き止めるその力はあまりに弱々しく、 まるで想いを寄せている人に肩を押されて突 き放されてしまったかのような、 そんなノゾムの思いつめた表情を見たのはこ れが初めてだった。 だからこそ放っておくことはあまりに残酷な 行為のように思えて、 そのか細い声をきっかけに玄関の戸を開こう とする手を思いとどめた俺は、 親父に似たのか母さんに似たのかはわからな いが、 とにかく憎らしいくらいお人よしな人間であ るということを知った。 二人は言葉を交わすことさえ拒む状態で近く の空き地へと移動した。 どうも落ち着かない様子でうろうろと同じ場 所を何度も行き来するノゾムを横目に、 俺は無惨にも投げ捨てられている使いかけの 太長い木材の上に腰を下ろした。 空は不気味な暗さを増し、 黒で染められたキャンバスはさっきまであっ たはずの星一つさえ見つけることができず、 雨のような湿っぽい匂いがそこら中にしっと りと充満している。 「とりあえず、マジで悪かった」 重苦しい沈黙を破って先に話を切り出した勇 者はノゾムだ。 「今さら謝られてもどうしようもねえし」


「この際だから腹割って話すわ。俺、美嘉のこ と少しだけ気になってた時期があった。 でもそれはヒロと美嘉が付き合う前の話で…今 はちゃんと彼女のことが好きだから」 「じゃあなんで美嘉にキスした?」 「それが自分でもよくわかんねぇんだよ。 過去に美嘉のことが気になってたってことも あるし、クリスマスイブだからテンションが上 がってたってこともあるし、 酔っ払ってたってこともある。 でもどれもなんか違ってるような気がして。だ から今日廊下でヒロに殴られてからずっと考 えてた。 そしたら一つだけ思い当たる理由が見つかっ たんだ。それは美嘉にも言ってないことなんだ けど…今さらこんなこと言っても信じてもらえ ないだろうけど、 それは言い訳とかじゃなくて、マジなことで」 「どうでもいいから早く言えや」 「だよな。うん。悪い。俺、多分ずっとヒロの ことがうらやましかったんだと思う」 それは予想の域からあまりにはずれた返答だ った。 開いた口がふさがらないという言葉は、こうい うときに使うのが何より正しいのだろうか。 「俺のこと?」 「そう。いつも堂々としてるし、けんかもすげ ぇ強いし、女に人気あるくせに意外と一途だっ たりするじゃん?」

「意外とは余計だから」 「とにかく!ヒロは俺に足りないものをたくさ ん持ってて、そういうところが憧れっていう か、ずっとうらやましかった。 それに、俺が惚れる女ってだいたいいつもヒロ のこと を好きになるんだよな。 だからこそいつかヒロに勝ってやりたいって 思ってたんだ」 「わけわかんねえ」 「自分でもよくわかんないけど、それが美嘉に キスした一番の理由なんだと思う。ヒロの大切 なものを奪うことによって、 一瞬でも勝てたつもりでいたのかもしれない。 そんなことしても勝てるわけねぇのにな。 俺、自分のことしか考えてなかった。 正直、バレなきゃ大丈夫だって、例えバレたと してもヒロなら笑って許してくれだろうって。 そんなことありえるわけねぇのに、そうやって 軽く考えてた部分もあった。 信頼し合えてるって勝手に思い込んで、甘く見 てる部分もあった。 ヒロのことそこまで傷つけることになるだと か、美嘉のことを傷つけることになるだとか、 バカだからそういうことは少しも考えてなく て。 マジでそういうつもりじゃなかったんだ。 反省してる。ごめん。本当にごめん」 吹き抜ける風はいつの間にか生ぬるさの中に 鋭さを作り出し、肌に触れるその刺激的な感触 は季節の変わり目を予感させた。 ノゾムが俺に対してそんな想いを抱えていた とは。


俺だってちゃっかりしていて要領のいいとこ ろだとか、 開き直りが早いところだとか、 決断力がずば抜けているとこだとか、 どんな女にも平等に接することができるとこ ろだとか、 ノゾムに対してうらやましく思う部分は数え きれないほど持っている。 ノゾムの本音を今になって聞き、 美嘉とキスをしたという事実は永遠に消える ことはないけれど、 それがもし裏切りなんかではなく固い絆の裏 返しであるのならば… 完全に修復するには時間がかかるだろうけど、 さっき美嘉のことを想ったときと同じように、 もしかしたらもう一度やり直せるのかもしれ ない。 ――友情と愛情。 この二つは、似ているようで決して似てはいな くて。 限りなく別物で。 ノゾムとは出会ってから今の今まで何度もさ さいなことで争い、いつでも本音でぶつかり合 ってきた。 それは何があっても見放したり、 見放されることはないと互いに信じていたか らであって、ときには胸ぐらをつかみ合い、 ときには罵り合ったことさえあった。 強くぶつかり合えばぶつかり合うほど深い傷 が刻まれ、治りかけたと思ったらまたそこに新 たな傷が刻まれていく。 そして皮膚はいつしか硬くなり、 気がつけばちょっとやそっとのことじゃびく ともしない最強の免疫が作られていたのだ。

しかし美嘉とはそこまで大きな争いをしたこ とがなく、本音でぶつかり合ったことは今まで に何度かあったものの、 それはまだほんのかすり傷程度のものだった。 正直、何があっても見放されないという自信は なかった。 見放されてしまうかもしれないという思いを いつでも捨てきれなかった。 かすり傷程度だったとしても、 それが別れの道へと続いていくのではないか という不安を抱えていたのも確かだ。 それはもちろん信じていないからということ ではなく、本気で好きだからこそ。 そんな状態でいきなり新しい皮膚に重度の深 い傷を負ったもんだから、 免疫なんてあるはずもない皮膚は張り裂け、流 れ出る血が一向に止まらなくなってしまった のだ。 離れゆくある愛情は、 包帯を巻いてもまだじゅくじゅくとした傷を 帯び続けているけれど、 壊れゆきつつあった友情は、 たった一枚のばんそうこうで、 きれいに完治しかけていた。 遠くから聞こえてくる寂しさを伝える犬の遠 吠えが、俺の心をありのままに弱く震えさせて いく。 「俺、学校やめるつもりでいる」 さらりと口から出たその言葉によって、


油断していたノゾムの表情は一瞬にしてゆが み、 みるみるうちに嘆きへと崩れ落ちていく。 「なんでだよ?」 「それに、さっき美嘉に別れようってメール送 った」 深い縦じわが数本寄ったノゾムの眉間をしか と目にした途端、 半信半疑だった気持ちが確信へと変化したこ とを知った。 ノゾムは俺の肩に両手を置き、 ゆさゆさと前後に激しく揺する。 「俺のせいか?だったら何度でも謝るから。 ヒロの気がすむまで何度でも謝るから。 殴ったっていい。だから学校やめるなんて寂し いこと言うなよ。前に一緒に卒業するって約束 しただろ?」 肩を揺するノゾムの手にさらに強い力が込め られる。 その力には戸惑いや動揺に紛れて、 納得がいかないといった怒りの感情さえ含ま れているように感じる。 「それに、美嘉は何も悪くない。 悪いのは酔って勝手にキスした俺だから。 だからそんな簡単に別れるなんて言うなよ。 ヒロ。俺のことは許さなくたっていい。 許してもらえるとも思ってねぇし。 でも、美嘉のことだけは許してやってくれよ」 俺は何かを振り払うようにしてかたくなに首 を横に振り続けた。 大きく息を吸い込んであふれ出る想いの全て

を吐き出したのは、 一つの区切りを示すための決意の表れであり、 さらには現実と向き合っていくことへの確か なる誓いでもあった。 「なあ、ノゾム」 人はみな誰も独りぼっちでは生きていけない だなんて、 「俺、おまえに」 一体誰がそんなつまらないことを言ったのだ ろう。 「言っておかなきゃならないことがある」 でも今になって思うのは、それはあながち、 「実は俺……」 つまらないことなんかではないのかもしれな い。 「………癌なんだ」 意外にもあっさりと口から吐き出されたその 言葉に、言った自分が深く傷ついているという ことに気がついた。 とりあえず今は、ノゾムが家に帰ってすぐに本 棚から医学事典を取り出して開かないことを 願う。 もし開いたとして、 あとで態度がよそよそしくなりでもしたら、 それこそ俺はわずかな希望さえもを失ってし


まうから。 「真剣な顔していきなり何言いだすのかと思 ったら、こんなときに冗談なんか言ってんじゃ ねぇよ!ったく、趣味悪いな」 予想もしていなかった展開に現実味がないの だろう。 拍子抜けした笑いを含めた声を発しながら月 の光に照らされたノゾムの表情は、どことなく 安堵しているようにも見える。 「こんなときだからこそ冗談なんて言わねえ よ」 「ははっ、嘘だろ?」 「嘘じゃねえから」 「嘘、だよな?」 「できることなら俺だってそう思いてえよ。だ けど」 俺が癌だということは永遠に隠し通すことだ ってできたはずだ。 けれど口をついて本音が出てきたのは、 きっと誰かに、誰でもない、 そう、ノゾムに知ってほしかったからなのだと 思う。

あまりに純粋で真っすぐなその視線から、 どうしても目をそらさずにはいられなかった。 見るに耐えかねてふと空を見上げる。 雲に隠れて星一つ見当たらない春の夜空は、 隙間なく真っ黒な絵の具に染められていて、 ふいにどこか遠くの世界へと吸い込まれてし まいそうな、そんなおぞましい感覚に襲われ た。 “また明日ね!” “またな!” その瞬間、 なぜかそんな言葉がふと頭の隅をかすめてい く。 「治るか治らないかなんて、俺にもわかんねえ んだよ」 「でもさ、ほら、悪性とか良性ってあんじゃ ん!」 「悪性だって医者は言ってた」 恐ろしいほどに真剣でぴりぴりとした堅苦し い空気に、一瞬にして全ての言葉に現実味が帯 びたようだった。 その証拠にノゾムから安堵の笑みが時間をか けて消え去っていく。

「わかった。じゃあそれが本当の話だったとし ても、その癌とかってやつはすぐに治るもんな んだろ?」

「おい、それってまさか、まさかだけど、死ぬ とかそういうことじゃねぇよな…?」

全てが冗談であると信じているがゆえに、

――俺が死ぬって?


そんなことありえるわけねえだろ。 笑いながらそう答えてやりたい。 大声をあげて笑い飛ばすことができたら、 どれだけこの苦しみが楽になるだろう。 けれど今の俺には誰かを思いやる余裕など少 しもなくて。 治る。きっと治る。治してみせる。 そう願ってはいるものの、 今もまだ耐えがたい恐怖に包まれることがた びたびある。

ノゾムの肩に手を置く。 その肩は小刻みに震えている。 名前を呼ぶ声に振り返ったノゾムの目はわず かに息を吹き返したみたいだったが、 その奥は満月の夜に変身した狼のように繊細 で、危なっかしいくらいに鋭く尖っていた。 「……どこの病院に行ったんだよ? どうせヤブ医者かなんかだろ? 教えろよ。俺がそいつを殴ってきてやっから さ」

「とにかくそういうことだから。 だから美嘉とは別れるし、学校もやめるつもり でいる」

ノゾムがこぶしを威勢よく振り回すたび、目か らあふれ出る涙のしぶきがあたりに飛び散り、 雨が降ってきたのかと勘違いしそうになる。

どういうことだとさんざんわめき散らすかと 思っていたのに、急に言葉を発することなく静 まり返ったノゾムが心配になった俺は、ノゾム がどんな想いをため込んでいるのかを察する ためにも、 さりげなくノゾムが座り込んでいる方向へと 目線を下ろした。

「ヤブ医者なんかじゃねえよ。ちゃんとした病 院だから」

ノゾムは俺に背を向けたままどこか遠くを見 つめている。 通りゆく車のライトによってときおり見える その横顔は、途方に暮れているかのようで、 どこか遠くを見つめる一途な目はまるで死ん だ魚のようで生きた心地がしない。

「癌ってなんだよ。なんなんだよ。 嘘だろ? おい。だって、なんでヒロなんだよ。 ヒロじゃなくたっていいだろ。それなのに…な んでヒロなんだよ…なんで…」 全てが真実であると悟ったノゾムはそう呟く と同時に、まるで何かがぷつんと切れたかのよ うに瞬時に我を見失い、 住宅街に響き渡るくらいの大声をあげて泣き わめき始めた。

そしてそのまぶたが静かにまばたきを始めた とき、俺は涙の粒が地面にしたたり落ちる切な い瞬間を目にした。

土の地面をひたすらこぶしで殴り続け、 それでもまだ物足りなかったのか、 突っ立っている電柱までもを力いっぱい殴り つける。

「おい、ノゾム」

こぶしの先からうっすらとにじむ赤黒い液体 はまるで心の涙のように腕を伝い、 ぽたりと儚い音をたてて地面へと流れ落ちて


いった。

くれたんだ。

「何やってんだよ。落ち着けよ」

ノゾム…ありがとな。

「ヒロが死ぬわけねぇよな?なぁ? 死んだりしねぇよな?ヒロ?死んだりするな よ、なぁ、死ぬなよ。ヒロにとって俺はもうた だの裏切り者でしかないかもしれない。 でも俺にとっては親友なんだよ。 たった一人の親友なんだよ。 ヒロが俺のことを必要としなくなっても、俺に とってはこれからも必要な存在なんだよ」

しばらくしてどうにか落ち着きを取り戻した ノゾムは、涙のあとにとめどなく流れ出る鼻水 を制服のそでで拭いながら、 鼻の頭を真っ赤に染めて、力を抜かして突然そ の場にへたりと座り込んだ。

泣き、叫び、怒り、震える声で必死に現実と向 き合おうとしているノゾムの姿は今まで見た ことがないくらいに情けなくて。 「おい、落ち着けって」 「今ここで治すって約束してくれよ。してくれ よ、なぁ、ヒロ」 カッコ悪くて。 それはまるで宣告されたときの自分をガラス 越しに見ているかのようでもあり。 「わかったよ。してやる。約束してやるから」 「ヒロ、生きてくれよ、ヒロ、ヒロ、死ぬなよ… ヒロ」 けれどたった一つだけ、俺とは異なっている部 分を見つけた。 ノゾムの目の奥に宿る温かい希望の光は、 俺の心に確かに失いかけていた希望を与えて

「ごめん。ごめんな。俺、ヒロのこと裏切っち まったうえに、ヒロが悩んでることに気づいて やれなかった」 溢れ出す後悔によって微かに震える指先。 自信を失った子供みたいに幼い声。 動物のようにうるんだ、全てを受け入れる純粋 な目。 俺はノゾムのこういう素直なところが、 感情を表に出せる部分がうらやましいと思っ ていた。 ずっと。 そしてもちろん、今も。 「別にもういいから」 「俺、どうやったらヒロの苦しみを受け止めて やれるのかがわかんねぇんだよ」 「そんなくだらねえこと気にすんな。俺なら別 に大丈夫だし」 「何言ってんだよ。全然くだらなくなんかねぇ よ。たまには弱音吐いたっていいじゃん。 いくらヒロが強いからって、一人で全ての苦し


みを乗り越えられる人間なんてどこにもいな い。 弱さっていう土台があるからこそ人は強くな れるんだよ。そもそも弱音を吐くことは弱さじ ゃないと俺は思うけどな。 それって受け入れた強さじゃん? ヒロだってわかってんだろ?だからこそ俺に 病気のこと話してくれたんだろ?」

っさりと拒否した。

「自分でもよくわかんねえ。でも、そうかもし んねえな」

「誤解?されたっていいじゃん、別に!ほら、 遠慮するなって」

「俺、ヒロから信頼取り戻せるように頑張るか ら。今はまだ許してもらえないことくらいわか ってる。けど、こんな俺だけど、ヒロのこと支 えてやることはできるよ?」

「女の胸ならまだしも、男の汗くさい胸なんて 借りたくねえよ」

そう口にし終えたノゾムは、乾きを取り戻しつ つあった青あざが刻まれている痛々しい頬を、 塩っ辛い水滴によって再び濡らした。 「っていうかおまえ泣きすぎ。俺まだ生きてる んだけど?だいたいなんでおまえが泣くんだ よ」 俺はため息交じりに呆れ笑いを浮かべる。 「じゃあ逆に聞くけど、なんでヒロは泣かねぇ んだよ?」

さも迷惑そうな表情の裏に果てしない頼もし さを感じたのを隠しながら。 「やめろよ、変な誤解されんだろ」

「ったくわがままだな。よし、わかった。じゃ あ叫ぼうぜ!」 「は?叫ぶ? 何を?どうやって?」 「心にためてる想い、大声で叫んできれいに吐 き出しちゃえばいいだろ!とりあえず俺が先に お手本見せてやるから」 その言葉の意味をいまいち理解することがで きず、その場にただ呆然と立ち尽くしている と、 ノゾムは数回咳払いをし、声の調子を整えなが ら大きく吸った息をすぐに吐き出した。

「泣けよ。泣いたらスッキリするぞ?よし!今 日は特別大サービスで俺の胸貸してやる!」

「今日学校で…あっ、やべ。 声裏返っちまった。 気合い入れてもう一回やり直し。 よし、いくぞ。今日学校でヒロから受けたパン チ、 かなり効いたぞー!ほら、こんな感じでさ」

その場をすくっと立ち上がり、男くさい胸板に 体を引き寄せようと肩に向かって手を伸ばし てきた親友の行為を、俺は当たり前のようにあ

ぼんやりとした月の光に照らされているノゾ ムの姿は、目を細めてしまうほどに眩しく、 そして力強く見えて、俺は先の言葉を失うどこ

「さあ、わかんね」


ろか目を合わすことすら拒んだ。 「ほら、早く言えよ。 恥ずかしいのは最初だけだって! 言わないなら次も俺が言うからな。 あ、あーあーあー。 よし。声の調子は大丈夫。いくぞ。 ヒロが俺に癌のこと話してくれてすげえ嬉し かったぞー!ってな感じで。 はい、次こそはヒロの番」 ノゾムのあまりのしつこさに根負けした、とい うのはただの言い訳にすぎないのかもしれな い。 けれど、叫ぶことによって想いの全てが清算で きるのなら、というちっぽけな願いを抱えてい たのも事実で。 「わかった。じゃあ俺も行くわ」 「おっ、開き直った?いいねいいね。それでこ そヒロ!」 息を限界まで吸い込む。 吹き荒れる風がのどの奥を乾燥させてむせて しまいそうになった。

ノゾムはハハッと小さく声をあげて苦笑いを も浮かべながら、その笑みにはどこか安堵の喜 びが含まれているようにも見えた。 続いてノゾムが叫ぶ。 「そうそう。いい感じ。じゃあ次は俺ね。俺、 ヒロと一緒に卒業してぇよ!だから学校やめる なんて言うな!撤回しろ!って、これってわが ままだよなー?」 遠くを歩く人の群れが、叫ぶ二人の姿をしきり に気にしている。 おそらく終電を降りた人々が仕事を終えてち ょうど家路につく時間帯なのだろう。 二度と顔を合わせることがないような、 言葉を交わすことがないような奴らになら聞 かれたってかまわない。 むしろ聞いてくれ。 俺の想いの全てを。 何もかもを。 叫んでやる。 叫んでやる。

息を飲んでぐっとこらえる。

叫んでやる。

と、まるでかき氷を急いで食べたあとのような 鈍い頭痛を作り出した。

そして明日になって忘れられたのならそれで いい。

「あんなしょぼいパンチ、まだ俺が持ってる力 の半分も出してねえけどなー!………こんな感 じでいいのか?」

「よくわかってんじゃん。そんなのわがままに 決まってんだ ろ!」

横目でノゾムの表情を確認する。

「だよなー。だーよーなー。まぁ、わかってた


けどさ!」 「でもしょうがねえからやめないでやるよ! その代わり一つだけ条件があるけどな!」 「条件?」 「美嘉のこと傷つけたりしたら、次こそは絶対 に許さねえ!」 懸命に掘り起こした頼もしさの奥に埋もれて いる憎しみを付録に、ノゾムを強く睨みつけ る。 「わかった、約束する。もう絶対に傷つけたり しない!」 「でも俺、本当は学校やめたくなかったのかも しんねえ!」 「なんで!?」 「おまえに学校やめんなって言われて、なんか よくわかんねえけど安心してんだよな。 むしろ絶対に卒業してやるって勢いで!」 「卒業しようぜ、一緒に!何かあったら俺がヒ ロのこと支えてやるからな! だから生きろ!生きろ!生ーきー抜ーけー!」 「おう。生きてやるよ!まだ死にたくなんかね えんだよ。やりたいことだっていっぱいあんだ よ。 病気上等!癌上等!」 「で、美嘉とも本当は別れたくねぇんだろ!?」

「………は?んなことねえよ!」 「この際、素直になれよ!気持ち吐き出しちゃ えよ!」 「わかったよ。別れたくねえよ!別れたいなん て思うわけねえだろ!でも今はどうしたらいい のかわかんねえんだよ。 何か大切なこと忘れてるような気がして、頭が 混乱してんだよ!」 「美嘉はヒロじゃないとだめなんだよ。ヒロが 支えてやらないと何もできないんだよ、あいつ は。 俺はそう思うけどな!」 「そんなことわかってるから!」 「ははっ、自意識過剰。じゃあ面倒なこと全部 抜きにして、美嘉に会いたいか会いたくないか って言ったらどっちー?」 「そりゃあ会いたいに決まってんだろ!」 「即答かよ!じゃあ会いに行ってこい!会って またいろいろ考え直してみたらいいじゃん。 なんだよ、そんなにうじうじして。いつものヒ ロらしくねぇな。でも俺はそんなヒロが好きだ ー!」 「残念。俺はおまえなんて好きじゃねえけど な!」 「うわー、あっさり失恋。大ショック!髪の毛 切ってやる!」


「でも嫌いじゃねえよ!だって俺ら、親友なん だろ?」 「………えっ。こんな俺のこと、親友って呼ん でくれんのか?」 「嫌ならもう二度と言わないけど?」 「あったりめえよ!親友に決まって、んだろ。 生きるぞ、一緒に。んで、お互い、じーさんに、 なったら公園を、ぶらぶらと散歩、したりしよ うな!」 そう言ってノゾムが声を裏返しながら泣き笑 う。

ろ!?」 そう言ってノゾムは涙を拭きながら声をあげ て笑う。 「おまえは泣いたり笑ったり忙しい奴だな!」 ノゾムはまるでおれの代わりをしてくれてい るかのようで、そして俺の心を丸ごと代弁して くれているかのようだった。 そうだ。こいつはいつもそうだった。 いつも俺のために泣き、笑い、怒り、こうして 素直な想いをぶちまける安らかな場所を与え てくれる。

「いや、断る!」

「ノゾム、これからはもう裏切るようなことす んなよ?」

「じゃあ、散歩じゃなくて、ベンチで、談笑で も、いい!」

「おう。俺がおまえを裏切るわけねぇだろ。な んたって俺たち親友なんだからさ!」

「それも断る!ってかいいかげん泣きやめよ。 俺なんかのことで泣いてんじゃねえよ!」

どこかで聞いたことのあるセリフ。

「わかってねぇなぁ。おまえだからこそ泣くん だよ!っていうか俺だってなんでこんなに涙が 出てくるんだかわかんねぇんだよ。 きっとおまえの心が泣いてるからじゃん?だ から俺が代わりに泣いてやってるんだよ! そうだ。きっとそうだ。だから少しはありがた く思えよな!」 「意味わかんねえし。でもありがたく受け取っ ておくわ!っていうかなんかこういうの青春っ ぽくて恥ずかしいんだけど!」 「っぽいんじゃなくて、これがまさに青春だ

ああ、やっぱりこれは川原で見た夢の続きだっ たのだ。 最後の結末は夢の中とは異なっていたけれど、 これはこれでありなのかもしれない。 何もかもを許すにはまだしばらくの時間が必 要だ。 けれど、許す強さも必要なのかもしれないと思 う。 許すことのできない弱さより、 許すことのできる強さを。 「ったく、どうだか。でもまあ、試しに信じて


みてやるよ!」 ………ノゾム。 俺、おまえのように素直で真っすぐになること はできないけど、本心はすげえ嬉しかったん だ。

それは意地に近いのかもしれない。 けれど、俺は今を精いっぱい生きていく。 今ここで、強くそう誓う。 熱いまぶたに力を込めたら、外灯のあかりがぼ んやりとにじんだ。

こんな俺のために必死で泣いてくれる奴がい る。

闇に浮かぶ半月が満月のように見える。

ただそれだけで、何があっても生き抜いてやる って、強くそう決意することができたから。

「なあ、ヒロは朝と夜だったらどっちが好 き?」

どんなことがあろうと時間は止まることなく 過ぎていく。 いくら悩んだとしても、いくら心を痛めたとし ても、この瞬間はもう二度と戻って来ない。 この景色を目にしながらこの風を感じ、こうし て流れる時間はもう二度と刻まれることはな い。 いつか何年後かに、俺はこの光景を事細かに記 憶に残し、思い出すことはできるだろうか。 本当はまだ立ち上がることで精いっぱいで、 ひざなんてがくがくと震えていて、一歩も前に 進んでなどいなくて。 現実を受け入れることさえ拒むときもあって、 先が見えなくなるほどの恐怖に包まれること だってあって。 ――こんな俺だけど、ヒロのこと支えてやること はできるよ? それでも、この日のことを、 永遠に忘れたくない、と、思った。 転んででも前に進んでやるって、

という、雰囲気を一変したノゾムからの突然の 問いかけに、 「どっちかっていうと朝」 と、俺は迷うことなく答えを出す。 「理由は?」 「なんとなく。夜はあんまり好きじゃない。暗 い感じがするから」 「ふうん」 自ら聞いてきたくせに、これといって興味がな いといった様子で小さく鼻声を漏らしたノゾ ムに、 俺は同様の質問を繰り返した。 「じゃあおまえは?」 「俺は夜が一番好き。なんていうか、闇に覆わ れてじっとりとしてる感じがいいじゃん」


「へえ。なんかよくわかんねえけど」 「だってさ、夜が来たらすぐに夜明けが来るじ ゃん?ってことは、闇に覆われてれば覆われる ほど朝がもうすぐ来るってことで。 何か嫌なことがあったとき、目の前が暗闇に包 まれれば包まれるほどその闇に光が差す瞬間 も近いってことなんじゃないかって思う。だか ら俺は夜が一番好き!」 地面に転がり落ちているさびたアルミ缶をつ ま先で蹴飛ばすと、その衝撃ではずれたリング プルがチャリンと情けない音をたてて、 草むらのほうへと飛び込んでいった。 飛ばされたリングプルは吹き荒れる風に乗っ て再び草むらから顔をのぞかせ、地面を伝い、 静かにどこか遠くへと旅立っていく。 それはまるで母親のもとから泣く泣く、けれど 力強く旅立っていくたんぽぽの綿毛のように 頼もしく、 儚く消え入りそうだった。 「なんかおまえらしい答えだな」 「だろ?だろ?ヒロは今ちょうど深い暗闇の 中にいるんだよな、きっと。ってことは夜明け も近いってことじゃん?全てのことを一気に 解決していく必要なんてないし。 焦ることなくゆっくりと解決していけばいい んだって。って俺、さっきからかなりいいこと ばっか言ってんだけど! やべ、なんか普通に照れるし!多分顔赤いし! 録音してみんなに聞かせてやりてぇぐらいだ から!」 そっと闇に消えたリングプルを横目に、その言 葉の一つ一つがひどく心に染み渡った。

目を閉じて言葉の全てをじっと心に焼きつけ ていく。 この言葉達は、いつか未来への道につまずきく じけてしまいそうになったとき、前に進むため の糧になるだろう。 だからこそ、いつでも思い出すことができるよ うに。 「おまえもたまにはいいこと言うじゃん!」 「たまにはって失礼だな!さてと。もうこんな 時間だしそろそろ帰るとするか。ていうかヒロ はぶっちゃけ美嘉に会いたくてうずうずして んだろ? こんなむさ苦しい俺なんかといるより」 「あ、ばれた?」 「ちっ。やっぱりそうだったのかよ。まぁ別に いいんだけど。俺もそろそろ眠くなってきたと ころだったし! しかもこんな時間にヤンキー風味の男といる なんて、むしろこっちが迷惑みたいな?」 大口を開けてあくびをするノゾム。 その行為が明らかにわざとらしくて、 俺は顔をそらして微かに漏れた笑みを隠し、 潔くその場を立ち上がった。 「じゃあそろそろ解散ってことで」 「おう。行ってらっしゃい。また明日学校で。 野外で美嘉とあんなことやこんなことすんな よ!」


「おまえじゃないんだからしねーよ!」 会いたい。 会いたい。 会いたい。 あと先のことなんて考えず、余計な想いとか邪 念とかを何もかもを捨て去ったとしたのなら、 今すぐ美嘉に会いたい。 別れたくない。 本当はこれからもずっとずっとそばにいてほ しい。 その場から足を進める。 しばらくして振り返ると、憎らしいくらいに満 面の笑みを浮かべる親友の唇は、確かにこう動 いていた。 “が、ん、ば、って、こ、い!” よし、行こう。 どうなるかはわからないけれど、 俺はあいつのもとへと向かう。 自分の確かな気持ちを信じて。


二章◇君道 すれ違い、揺れる想い。 美嘉の家の茶色い三角屋根が視界の隅に飛び 込んできたと同時に、俺はおもむろにポケット からPHSを取り出した。

なぜかものすごく懐かしい時間を過ごしてい るかのような感覚に、こめかみの奥が熱を増 す。 『俺だけど…』 2 本の足はすでに美嘉がいるであろう部屋の窓 の前へと到着していたが、 俺は肝心な先の言葉を口にすることに大きな ためらいと限りない恐れを感じた。

時間はすでに夜中の 2 時を回っている。 「こんな時間に来るなんて非常識だよ」 こんな時間に連絡をし、ましてや家に訪れるな んて常識知らずにもほどがあるということく らい理解している。

と、迷惑がられてしまうかもしれない。

けれど今会っておかないとこれからもずっと 会えないような気がして。

「自分から別れようって言ったくせに。連絡も してくれなかったくせに」

それは予感なのかただの想像なのかはわから ないけれど、確信に近いものだと感じていた。

と、呆れられてしまうかもしれない。

何度かボタンを押し、電話帳を表示する。 その中から“美嘉”と映し出されている名前を 呼び出して通話ボタンを押すと、 俺は小さく息を飲んだ。

♪~♪~♪~♪~♪ 『ふぁい…もしもし』 眠りを妨げられて寝ぼけているせいかほんの りかすれた声で電話口に出たのは美嘉だ。 今日学校で会ったばかりのはずなのに、

「付き合うことに疲れたからもういいよ。帰っ て」 と、もしかしたら逆に突き放されてしまうかも しれない。 例えどんな言葉を投げかけられたとしても、 それをしっかりと受け止める覚悟はあった。 自信はあった。 『…ヒロ!!』 それなのに、美嘉からの第一声に喜びという感 情が含まれていることを知ると同時に、 考え抜いた思考はいとも簡単に淡い夜空へと 吹き飛んで消えていく。


『おぅ。今窓から顔出せるか?』 淡いピンク色のカーテンが開く。 その先にはガラス越しに驚愕した美嘉の表情 が存在している。 俺の姿を確認した美嘉は、通話をぷちりと中断 させてPHSをベッドに放り投げると、 焦るようにして窓枠に手をかけた。 開くたび窓ガラスが先を急かしているかのよ うにカタカタと音を鳴らして左右に揺れてい る。 この窓はもうすぐ開く。 開けば美嘉の表情を今よりくっきり目にする ことができる。 そして二人の距離が今よりぐっと縮まるだろ う。 どういう表情をして迎え入れたら一番しっく りくるだろう。 満面の笑みを浮かべていたらどうだ? いやいや、こんな夜中にいきなり部屋の前に押 しかけてきて、さらに笑みを浮かべているだな んて、そんなの明らかにおかしいだろ。 じゃあ試しに怒ってみるか? そうだ。それがいい。

あ、でもそれじゃあここまで会いに来た意味が なくなるし。 わかった。 悲しげにしていればいいんだ。 でもそれはそれでなんだか俺らしくないよう な気がしないでもない。 俺はどうしてこんなに緊張してるんだ? この初々しい気持ちは、 まるで美嘉と初めて出会った 1 年前のあのとき のようで。 「ヒロ…どうしたの?? こんな時間に…」 そんなことを考えているうちに、 開ききって距離が解放された窓の奥から、 美嘉が無理に作った笑顔でひょこっと顔をの ぞかせ、 俺はそれに釣られるようにして笑みを浮かべ た。 声を詰まらせて何度か咳払いをする美嘉。 微かにかすれている声は、 ただ単に寝起きだからという単純な理由では なく、 泣き枯らしてしまったからだという切ない事 実に気付くまでにそう時間はかからなかった。 その声は電話越しで聞くよりもずっと痛々し く、 それほどまでに心に深い傷を負わせてしまっ


たことに対しての罪の重さに、 俺は思わず目をそむけた。 罪悪感を紛らわせようとおそるおそる美嘉の 髪へと手を伸ばす。 「突然話したくなって…今話せるか?」 「…家抜け出してそっちに行くからっ!!」 ぱたりと閉ざされた窓は、 すでにさっきまでの透明さを失っていて、 車一台通らない静けさは、 胸を押しつぶすためだけに作られた沈黙のよ うだった。 今日の放課後、夕日が沈んだ暗がりの図書室 で、 たった一人で俺を待ち続けたであろう美嘉。 握りしめたPHSが震え、 待ちに待った俺からのメールを受信したこと を予感した美嘉は期待に胸を膨ふくらませた に違いない。 そして何度かボタンを押し、 受信メールを目にした。 “ゴメン、ワカレヨウ” このメールを読み終えたとき美嘉はどんな表 情を見せたのだろう。 何を想い、何を考え、どんな未来を想像したの だろう。 メールの返信はなく、電話さえも通じない。

そんな状況の中、 やっとのことで受信したメールは一方的な離 別。 どれほど不安な時間を過ごしたのだろう。 どれほど怖かっただろう。 どれほど悲しかっただろう。 美嘉にとって今日この日は、 きっと一生忘れることができないくらい嫌な 日になったに違いない。 それなのに 「やっぱり別れたくない」 と言うのは自分勝手すぎるだろうか。 美嘉は真実の想いを受け入れてくれるだろう か。 願いにも近い勝手な思い込みだけれど、 病気のことを告げたのなら、 素直な気持ちを伝えたのなら、 もう一度手を取って始めからやり直せるよう な気がしている。 同情とかそういうのは一切なくて、心が通じ合 えるかのような。 終着道に向っていたはずの足は再び引き返し、 振り向いた先に存在していた分かれ道へと差 しかかっていた。 よいしょ、と口にして美嘉が靴の潰れたかかと を指先で直しながら玄関からそろそろと出た のをきっかけに、 思考は停止した。


「こんな時間にごめんな」 「美嘉ね、ヒロにちゃんと説明したくて…」 「説明しなくてもわかってる。 ノゾムから全部聞いたし、俺、美嘉のこと信じ てっから。誤解してごめんな」 先のことを考えると、 どうしても気合を入れずにはいられなくて、 俺は思いきり息を吸っては飲み込んだ。 素早く肺に到達した空気は思っていたよりも ずっと冷たさを増していて、 激しくせき込んだと同時に、 自分の置かれている重々しい立場を改めて把 握した俺は、ひるむことを恐れて美嘉からの返 事を待つことなくずるずると話を続けた。 「ずっと考えてた。俺、美嘉がほかの男とキス したのマジで悲しかった。だから別れたら楽に なると思った。でも赤ちゃんの写真見て…俺、 美嘉のことすげー好きだし、やっぱり別れたく ねえよ」 言葉を聞き終えた美嘉は俺の手を取ると、大切 な何かを包み込むようにしてきつく握りしめ てきた。 「美嘉も別れたくないよ…ごめんなさい」 もしかしたら俺はその言葉を待っていたのか もしれない。 望んでいたのかもしれない。 ということに、気づく。

その証拠に、 高ぶったどうしようもない気持ちが胸の奥か らぐんぐんと込み上げている。 俺はぶつけようのない切なる想いをどうにか して静めようと、冷静さを装って美嘉の唇を指 先で静かになぞった。 「…何回された?」 「えっ??」 「ノゾムに何回キスされた?」 「たぶん 3 回くらいかな…」 「じゃあ俺はその 10 倍の 30 回するから」 美嘉の肩を強く引き寄せる。 そして二人の唇は静かに重なり合った。 1 回、2 回、3 回、4 回、5 回、6 回、7 回、8 回、9 回… やっと一つにつながった愛情は、 10 回、11 回、12 回、13 回、14 回、15 回、 16 回… 涙の味でほんのりしょっぱくて、 17 回、18 回、19 回、20 回、21 回、22 回、


23 回… 触れ合う頬から伝わる濡れた雫の跡は、 24 回、25 回、26 回、27 回、28 回、29 回、 30 回。 まるで自分が泣いているかのように錯覚させ た。 唇を離し、月明かりの下、 やっとのことで美嘉の顔を至近距離でまじま じと目にする。 瞬間、俺は、思わず言葉を失った。 美嘉の心に刻まれた傷の大きさを知った瞬間。 美嘉が俺を想う気持ちの大きさを思い知らさ れた瞬間。 散々泣いたのか目は赤く腫れ上がっていて、 一重にも近い状態になっている。 頬はむくみ、 鼻の下はこすりすぎたのか痛々しくすり切れ、 くっきりと残っている涙の跡、 さらにはついさっき流れたであろう涙の粒の かけらが妙に痛々しい。 悲しみを隠して作り笑いを浮かべながら俺の 目の前に無邪気に存在する美嘉の姿はあまり にもろく、 儚く、触れたらすぐに壊れてしまいそうにも見 えて、それでも俺はこの淡いぬくもりをどうし ても失いたくなくて、あえて強く抱き寄せたの だった。 熱いくらいの温度。腰に回された手。

小刻みに震える肩。 混乱した美嘉を受け止めて、 少しだけ冷静さを取り戻した俺に、 今までかすりもしなかった新たな想いが生ま れた。 なあ、美嘉。 美嘉はどうして俺のためにそんなに弱くなれ るんだよ。 たかだか俺と別れるかもしれないってだけで、 この世の終わりみたいな顔しやがって。 もし俺がいなくなったらおまえはどうなっち まうんだ? ノゾムから発せられたあの言葉を思い出す。 ――美嘉はヒロじゃないとだめなんだよ。 ヒロが支えてやらないと何もできないんだよ、 あいつは。 ………ああ、そうだ。 そうだ。 そうだ。 そうだった。 俺は今まで何をしていたのだろう。 何を考えていたのだろう。


本音をいえば、 病気のことを全て美嘉に話し、 隣で支えてもらいたいと思っていた。 できることなら一緒に壁を乗り越えていって ほしいと。 ついさっきまでそう思っていたはずだ。 けれど。

治す自信はある。 でも、必ず治るという保証はどこにもない。 保証も何もないまま美嘉を守るだなんて偉そ うなことを言って、あまりに無責任すぎるんじ ゃないのか? いつか美嘉のことを守ってやれなくなる日が 訪れるかもしれない。

もし全てを話したとしたら、 美嘉はそのとき何を思う?

美嘉が泣いていても頭をなでてやることはで きなくて、美嘉がけがをしたとしても、 背負ってやることはできなくて。

冷静に受け止めてくれるとでも思っていたの か?

それなら、今、別れを告げたほうが、 いいんじゃないのか?

ばかやろう。 俺は自分のことで精いっぱいになっていて、 なりすぎていて、 自分のことしか考えていなかった。 美嘉のことを考えてやれていなかった。 たったこれだけのことでこんなにもぼろぼろ になってしまう美嘉のことだから、 俺が癌だということを伝えたとして、 そしてもしいつか病に勝てなくなる日が来た としたら…。 残された美嘉はどうなる? さみしがりやの美嘉はどうなる? 独りぼっちになった美嘉はどうなる? 病気なんてキレイさっぱり治してやる。

別れを告げるということは、おそらく美嘉に再 び深い傷を負わせてしまうことになる。 一度別れると決めて離別のメールを送ってお きながら、こうしてもう一度勝手に会いに来 て、 さらに新たな理由で別れを告げるとなると、 それはあまりに酷すぎる。 そして俺もきっと想像できないくらい深い傷 を負うだろう。 けれど、このまま付き合いを続けて、 もし俺がいつか美嘉より先にこの世界から旅 立つ日が来るとしたのなら、 俺は美嘉に見取られながら充実した生涯を終 えることができるものの、 たった一人で残された美嘉の心には、 きっと今別れを告げられることによって負う 傷とは比べられないほどの傷が刻まれること になる。


そうすると、美嘉は一体、どうなってしまうん だ? 美嘉のことを心から想っているのなら、 美嘉の幸せを一番に願ってやるべきではない のだろうか。 「こんな男やめとけ」って。 いっそのこと強く突き放してやればいい。 「これからはほかの男に支えてもらえ」って。 冷たくそう言い放ってやればいい。 でも、やっぱり好きで。 好きで。好きで。好きで。 好きだから、好きだからこそ、どうしても別れ たくなくて。 なあ、俺は一体どうしたらいいんだ? 美嘉の体に回された手にぐっと力を込めたら、 その力が倍になって返ってきて、 ああ、二人はこうしてちゃんと想い合えている んだなって、 すげえ嬉しかったけど、 すげえ切なさが込み上げた。 分かち合ったぬくもりはとても頼りなくて。 だけど温かくて。

このぬくもりを、このまま永遠に手放したくな い。 けれど、もし本当の愛という奴の答えが、この ぬくもりだったとしたのなら。 神様は俺に、ほぼ答えの決まっている、 悪魔の選択を下した。 「じゃあ今日学校でな!」 紺色の空がほんのり水色に染まって明るみを 増してきた頃、二人は学校で再び会う約束を交 わし、 笑顔で手を振って別れた。 しかし俺はその日、 学校には行かないと心に決めていた。 昨晩、ノゾムに対して強気で口にしてしまった 手前、学校は意地でも卒業するつもりだ。 けれど今日美嘉と顔を合わせてしまえば、 おそらく出るであろう結論は一つに定められ てしまう。 抱きしめられる距離に想いを寄せる人がいた として、そいつの体を自ら振り払える奴がいる のだろうか。 会えば俺は美嘉のことを離したくないと思う に決まっている。 別れたくないと思うに決まっている。 抱き寄せてしまうに決まっている。 だからこそ学校を休むしか手段がなかったの だ。


布団にくるまっていると、 1 時間目の始まりのチャイム音が遠くから耳に 流れてきた。 どうも眠りにつけなかった俺はだらけていた 体を起こし、閉ざされた部屋のカーテンをさっ と開いた。 そして暇つぶしがてらあえてノックもせずに 怒り をぶつけられることを承知で、 姉貴の部屋に無神経にずかずかと足を踏み入 れては、無理に安らかな眠りを妨げようと試み た。 前に一度ノゾムが家に泊まりに来たとき、 酔いつぶれて口を開けて寝ている姉貴の部屋 に押し入り、顔にふざけて油性ペンで落書きを したことがあった。 そのときは歯が折れたんじゃないかってほど のカウンターパンチを食らったことを今でも よく覚えている。 その痛々しい経験を踏まえて、 今回は眠りを妨げることだけを目的としたほ んのささいないたずら心だったというのに、 期待と不安を胸にドアを開けた先に目に入っ てきた姉貴は予想外にもいつもより早い目覚 めを迎えていたのだった。 「あ、ヒロ、おはよー」 丸いテーブルにだらしなくひじをつけながら、 ホットコーヒーを片手に、 いつ開けたかわからないようなスナック菓子 をしけった音を発してほおばる姉貴の無防備 な姿は、

なぜか俺に安心という名の即効性のある特効 薬を与えた。 なんだ、起きてたのかよ、つまんねえな」 「早起きして何が悪いってんだよ」 「ていうかよくこんな朝っぱらからそんな油 っこいもん食えんな」 「ぐだぐだうっさいな。こっちは二日酔いで頭 が割れるほど痛いんだっつうの。用があんなら おとなしくそのへん適当に座んな」 わりときれいに整とんされた部屋の角に腰を 下ろす。 姉貴は大口を開けてあくびをしながら、 足元にあったリモコンを手に取り乱暴に電源 を押した。 たまたま映し出されたワイドショーに食い入 るかのようにテレビに向かって体勢を近々と 傾け、その状態のまま聞き飽きたいつもの質問 を投げかけた。 「あんた、今日も学校さぼるつもり?」 「面倒くせえし」 と、俺はしきりに首の骨を鳴らしながら適当に 返答する。 「そんなんじゃいつ退学になるかわからんね」 「なんねえよ。次のテストでいい点取って取り


戻してみせっから」 「余裕ぶっこいて美嘉ちゃんに振られてもし らないからね」 ――――美嘉。 さりげなく発せられたその二文字の言葉に、 切ない単語に、 聞き慣れた名前に、 愛しい響きに、 胸の潤いがぎゅっと絞り取られたかのような おぞましい感覚に襲われた。 自分でもどうしようもないくらいになだらか な呼吸が乱れていく。 右から左へと間近に通り抜けているはずのテ レビの不協和音が、遥か遠くのほうから聞こえ てくるかのようで。

そのとき、暗闇に微かな光がともされた。 それは目をじっとこらさなければならないく らいに儚く、ときおりチカチカと点滅してい る。 その光は徐々に近くなり、 次第に大きさを増し、 最終的に目の前に現れたその光は、 印刷したての写真のようにくっきりと鮮明に 映し出された、紛れもなく俺と美嘉の等身大の 姿だった。 二人は手をつなぎ、顔を見合わせ、とても幸せ そうに笑っている。 「なあ、姉貴。一つだけ聞きたいことがあるん だけど」

この感覚は前にも一度どこかで経験したこと がある。

その幻影にも似た映像を目にした途端、 まるで口だけが誰かに操られているかのよう に、 俺の言葉は勝手に動き始めた。

どこでだったろう。

「何?」

ああ、そうだ。

「例えば、俺のことをすごく必要としている奴 がいるとして、そいつは俺がいなきゃだめで、 俺もそいつのことをすごく必要としていると する。 でも、俺にはこの先そいつを守っていってやれ る保証がない。 一緒にいればいつかそいつを一人にして傷つ ける日が訪れるかもしれない。 本音をいえば、好きだから離れたくない。 でも、離れたらそいつの幸せな姿を見届けてや ることができる。 もし姉貴だったら、自分の幸せと相手の幸せ、 どっちを選ぶ?」

医者に癌であることを宣告されたあの瞬間だ。 先の見えない真っ暗闇で包まれた部屋の中、 俺はがたがたと小刻みに震えるひざを抱えて 一人、 ぽつんと座っている。 この部屋をあえて名づけるのならば、 孤独の部屋、だ。


粉々に砕けたスナック菓子のかけらを手にし たまま、姉貴の目線はテレビからわずかにはず れて、 動きはぴたりと停止された。 「うん、そうだね。 あたしは好きな人の幸せを願うことがかっこ いいことだとは思わない。 むしろ情けない奴って思う。 だってそれはただ楽な道を選んで逃げたいだ けじゃん。 でもね、好きな女のために、 たった一人の女のためにそこまで情けなくな れる奴は、 すげぇかっこいいと思うよ。 あたしだったらどうするかはその状況に立た されてみなきゃわかんないけど、ただ一つ言え ることは、 あんたがいないとだめってことは、 逆に考えるとあんたがいなくなってもだめに なるってことでもあるよね」

しかしこのまま付き合いを続けていったとし て、 いつか俺が先にこの世界から旅立ち、 永遠の別れが訪れたとしたのなら… どちらの罪が重いかなんて、その答えはすでに 決まっている。 さみしがりやの美嘉のことだから、 先立った俺のあとを追う、 なんて危ういことを言いだすかもしれない。 ふざけんな。 俺は美嘉の笑顔が好きだ。 美嘉の笑顔が見れるのなら、 どんな危険なことにだって手を出すことがで きる。

答えはわかっていた。

美嘉が幸せならそれで満足なのだ。

わかっていたのだけれど、 どうしてもその結論に納得するためのうまい 理由が頭の先をかすめようともしなかったの だ。

美嘉を悲しませるために、 苦しませるために、 こんな結末を迎えるために神様は二人を出会 わせたわけではない。

姉貴が言うとおり、 俺がいないとだめになってしまうということ は、 俺がいなくなったらだめになってしまうとい うことだ。

俺のせいで美嘉から笑顔が奪われていく。

もし俺が近いうちに美嘉に別れを告げたとし たのなら、美嘉は立ち上がれなくなってしまう かもしれない。 けれどきっといつか座り込む美嘉に、 そっと手を差し伸べる男が現れるだろう。

幸せに過ごすはずだった美嘉の人生を奪うこ とになってしまう。 そんなこと、 考えるだけで身震いが起こる。 美嘉には幸せになってほしい。


そこらへんにいる誰にも負けないくらい、 世界で一番、 幸せになってほしい。 けれど今の俺では幸せにすることができなく て。 「もう答えは出てるんでしょ?」 眩しく体を照らし出す朝日を背に、 俺はベッドの下に落ちているクッションを手 に取ると、 そこに強く顔を埋めた。 クッションと頬の隙間にちょうど挟まれた手 のひらから全身に流れる、ひやりとした鋭い感 触。 確認しなくてもわかっている。 その原因は左手の薬指についているシルバー の指輪だ。 この指輪は去年のクリスマスイブにペアリン グとして美嘉にプレゼントしたものの片割れ だ。 そのペアリングは片方の指輪は十字架の形を して膨らんでいて、 もう片方は十字架の形をで引っこんでいる。 合わせると二つの十字架が一つになる仕組み になっていて、俺はこのペアリングを店頭で目 にした瞬間、 一目惚れした。

運命を感じた。 俺と美嘉のためだけに作られた指輪なのかも しれないとさえ思ったくらいだ。 それからというものの、 ひそかにこつこつと金を貯め続けた俺は、 無事クリスマスプレゼントとして美嘉に指輪 を手渡したのだった。 今となっては十字架が膨らんでいるほうを俺、 十字架が引っこんでいるほうを美嘉が、 互いの左手の薬指につけている。 この指輪を店頭で見つけたとき、 この指輪をプレゼント用に包装してもらって いるとき、 この指輪を自らの薬指にはめたとき、 この指輪を美嘉の薬指にはめたとき、 そして二人の十字架が一つに重なったとき、 俺は初めて永遠って奴を目にした。 手にした。 それは確かに輝かしく存在していた。 あのときの気持ちは嘘じゃない。 美嘉のことを永遠に守り続けていくと、 手を合わせて心からそう誓ったあの夜。 もしこの先、美嘉を守り続けていくのがこの俺 ならば、それほどまでに嬉しいことはないのだ けれど、 それがどうしてもできないというのなら、 それすら許されないとしたのなら、 俺が美嘉を守り続けていく方法はただ一つ。 それは、とても悲しいけれど、 美嘉の幸せを遠くから静かに願うこと………な


のかもしれない。

いった。

指輪にちりちりと朝日が反射していびつな熱 を増し、その眩しさに俺は思わず目を細めた。

一人残された美嘉は前を向いて違う道へと歩 んでいく。

白々しく照らされた指輪の十字架は、 二人で一つのはずだったのに、 二人じゃなきゃ完成しないはずだったのに、 いつしか十字架の膨らんだ部分が微かに削ら れていて、片割れだけだというのに立派に完成 してしまっている。

その足取りは確かで、 一歩一歩しっかりしていて。

俺の十字架の膨らみがなくなってしまえば、 美嘉の引っ込んだ十字架と一つになることは もうなくて。 美嘉との十字架はもう二度と完成することは なくて。 そうか。 もうこれで俺は用済みということなのだ。 美嘉には、美嘉の引っこんだ十字架の隙間を埋 めてくれる、ほかの男の十字架が必要になって しまったのだ。

静かに遠ざかる背中は、 もう心配ないよって、 一人でも大丈夫だよって、 まるでそう訴えかけているかのように聞こえ て、 そのとき俺は、 追いかけてやれない自分が情けなくて、 一人ぼっちが孤独で、先が見えなくて、 寂しくて、 いっそのことこのまま死んでしまってもいい とさえ思った。 美嘉の残像が静かに消えていく。 それは幻なんかではなく。 そして俺は、確かな別れを想った。 それからの俺は荒れていた。

俺ではない、ほかの誰かの。

荒れて、荒れて、荒れて、これでもかってほど に荒れ狂った。

――美嘉、俺は今でも変わらずおまえのことが好 きだ。でも、ごめんな。 俺はもう、決心したんだ。

両親の心配をよそにささいなことで八つ当た りをしては、姉貴のバイクを勝手に借り、 夜な夜な家を飛び出て遊びに繰り出した。

ついさっきまで脳内に映画のように映し出さ れていた、暗闇にともる幸せそうな等身大の幻 影にも似た二人の映像からは笑顔が消え、 つないでいた手がはずれ、 向き合っていた顔はそれぞれ真っすぐ前を向 き、 そして最後に俺の姿だけがぼんやりと消えて

また、苛立つ気持ちの代償として部屋の窓を割 ったり、 深夜に意味もなく友達に電話をかけたり (これは荒れているという表現とはちょっと 違うけれど)、 ときには街でからまれたガラの悪い兄ちゃん


と、 胸ぐらをつかみ合いながら血しぶきがあたり に飛び散るほどのけんかをおっぱじめたりも した。 ほんの 16 歳。 たかだか 16 歳。 されど 16 歳。 16 歳はとてつもなくあいまいな年齢だと思う。 中学の頃は、 悪いことをすればするほどそれがかっこいい ものだと思っていた。 悪いことといってもたかが知れている。 お酒を舌先につけて渋い表情を見せてみたり、 親父のタバコを拝借して大げさにむせてみた り、 髪をどぎつい色に染めて先生や周りの生徒を 驚かせ、 年上に目をつけられてみたり。 しかし、あの頃より多くの喜びや悲しみの感情 を経験した今、悪いことをするということは果 たして本当にかっこいいことなのだろうか、 そんなささいな疑問を持ち始めているのも確 かだった。 “悪いこと”とはある一線を越えれば“犯罪” と呼ばれる。 それを超えてしまえば今まで俺を支え続けて きてくれた多くの人々を裏切る形になってし まうだろう。

そして自分もいつか何年後かに、後悔する。 それがおもりとなって将来にのしかかる。 そういったことを全て踏まえたうえで、 疑問を抱くようになったのだ。 しかし今の俺の荒れ方は、 中学時代、いいや、その頃とは比べものになら ないほどたちが悪い状態だった。 どこまでがやっていいことなのか、 悪いことなのか、 その区別が理解できなくなってしまったのだ。 悪いことをすればかっこいいだとか、 そういう考えは一切なくて、 ただその悪いことをストレス発散の材料とし て都合よく利用しているだけのこと。 一言でいえば「もう、どうでもいい」という感 じ。 それは人生を投げ出した、 という表現とはちょっと違っていて、 現実逃避、 という言葉のほうが妙にしっくりくる。 俺のしでかした悪い行為が犯罪と呼ばれたっ ていい。 好きなようにしてくれ。 捕まって警察のお世話になったっていい。 いっそのことそうなってしまったほうが楽だ。 そうなることによって誰かが傷ついたって構 わない。

4


俺が今まで負ってきた、 この先負うであろう傷よりも浅ければ。 こんな俺の姿を見て、 美嘉が俺のことを蔑めげすめばいい。 付き合ったことを、 出会ったことでさえもを後悔すればいい。 そしていつか、 二人で過ごした日々をきれいさっぱり忘れる ことができたのなら、それでいい。 それで、それが、一番いいのだ。 心にも思っていないことを願う。 願ってもいないことを祈る。 そんな毎日は苦痛の一言でしかなかった。 そんな俺が自らの手で作り出した唯一の逃げ 道。 それは、シンナーという姑息な手段だった。 シンナーとはツーンとした独特の匂いを放っ ている、いわゆる有機溶剤とかなんとかいう奴 のことだ。 まだ美嘉と出会う前、 高校に入学してすぐの頃、 地元で親不孝者だともっぱら有名な先輩が冗 談半分ですすめてきたのが全ての始まりだっ た。 真夜中の不気味な海に呼び出しをくらい、 奥底にしっかりとシンナーが用意された薄い ビニール袋を半ば強制的に手渡され、

「ほら、吸ってみろよ。気持ちいいぞお」 と、だらしない笑顔を向けられたとき、 やってはいけないことだとわかっていながら も、 犯罪だとわかっていながらも、 人生に一度くらいならいいだろう。 と、軽い気持ちで手を出した。 袋を口にあてて何度か呼吸を繰り返すと、 ぼんやりと耳鳴りがして、 一瞬にしてぶれた写真のように視界がぼやけ た。 記憶がなくなったりだとか、 幻覚を見たりだとかはかろうじてしなかった ものの、 まるで夢の中にいるような、 柔らかい綿の上に乗っているかのようなふわ ふわとした感覚。 けれどそれは気持ちいいという感覚からはは ずれていて、たった一人で無人島に残されたか のような、 開放感たっぷりなのだけれど孤独で、 居心地が悪くて、 気づけばいつの間にかどこかに落下してしま いそうな不安定さに肩が震えたのをよく覚え ている。 目を覚まして現実に戻されても、 しばらくのどに残る不快感が消えず、 市販の薬を飲んでもおさまることのない頭痛 と吐き気に悩まされ、うんざりし、 俺はそのときシンナーなんて二度とやるもん かと固く誓った。 それから何度か先輩から誘いを受けたりもし たけれど、断って後々面倒になることを避けた


かった俺は、そのたび吸っているふりを通して は、その場を難なく乗り越えてきた。 しかしそういったことを何度か繰り返してい くうちに、存在するはずのない幻覚に対して必 死に話しかけている先輩の姿に恐怖さえも感 じ、 これならば後々面倒になったほうがまだ楽だ と悟った。 だから俺は、 美嘉と出会ったことをきっかけに先輩との縁 を切って全ての過去を水に流したのだった。 しかしその過去は今頃になって静かに逆流し つつあった。 ノゾムに癌だということを告白し、 背中を押されて夜中に美嘉の家まで会いに行 き、 二人で朝方まで語り合ったあの日。

「俺ら、やっぱり別れよう」 そう潔く伝えることができなかったのは、 美嘉を傷つけたくなかったというより、 俺自身が傷つきたくなかったからだ。 こんな終わり方はあまりに酷すぎる、と、 いまだ納得しきれていない自分が心の隅っこ に存在している。 それに、 もしかしたらまだ別れるという最終手段を避 けて、 物事がうまく解決する方法が他に何かあるの ではないか、とも思う。 もし俺が「別れよう」と言葉にすれば、 本当に何もかもが終わりを告げてしまうよう な気がした。

最後にそう言って手を振ったけれど、 別れという選択を決意した俺に、 その小さな約束を守ることはできなかった。

出会った日も、 腹を抱えて笑い合ったことも、 抱き合って泣いたことも、 そして最後に見せる表情も、 最後に交わす言葉も、 全てが過去になってしまう。 傷あとになってしまう。

それはわかりやすくいえば、 学校に行かなかった、ということだ。

あんなに幸せだった日々が、 長い人生のわずかな一部となってしまう。

「じゃあ今日学校でな!」

学校へ行こうと足を進めた朝は何度あったろ う。 学校に行けば美嘉に会える。 会いたい。 でも、今は会わないほうがいい。

別れなければならないのだけれど、 今はまだ別れを決定的にはしたくない。 それが俺の正直な気持ちだった。 だからこそ俺は、


美嘉に会って別れを告げなければならないこ とを恐れ、 学校を休んでは俺が癌であるということを知 るはずもない地元の友達を集めて、 遊び暮らしていた。 「あれ、久しぶりじゃん。俺のこと覚えてる?」 それは美嘉と朝方まで語り合い、 美嘉からの連絡をそれとなく避け始めてから 5 日たったとある夕方のことだった。 この日は運が悪かったのだと思う。 病院の診察帰り、学校帰りのノゾムと合流し、 地元のファストフードでくだらない会話を交 わしていたそのとき、 誰かが背後から肩を叩いたので、 俺は不機嫌に振り返った。 振り向いた先にわざとらしい作り笑いを向け て立っていたのは、 肩まで伸びてちりちりに傷んだ毛先は俺より さらに白みがかった金髪で、 こめかみあたりには古いマンガで見たことが あるようなきついそり込みを入れている男。 そう、それはきれいさっぱり縁を切ったはず の、 前にシンナーをすすめてきた、 あの先輩だった。

「そうっすか」 なくなりかけたバニラシェイクをストローで ずずずっと音をたてて吸いながら適当に言葉 を選んで返していく。 へえ。だからそんなきばつな髪の色をしてるの か。 まあ俺も人のこと言えないけど。 なんてことを深々と考えながら。 それからしばらくたっても先輩は一人でべら べらと話を続け、俺とノゾムはげんなりしなが らもとりあえずうなずいた。 そして一緒に来たであろう連れの女に 「まだ終わんないの?」 と不機嫌に声をかけられたことをきっかけに 話は終わりへと進み、 いくつかたわいもないありきたりな言葉を交 わした直後に、 「それにしてもいきなり音信不通になるから 悲しかったわ。なあ、どうせ俺の番号とアドレ ス、電話帳から消したんだろ? もう一回教えるから登録し直してよ」

「覚えてるだろ? あれからそんなに経って ないんだから。俺、高校中退して今は遊び回っ てるんだ」

と、先輩は一番の目的を、付け加えたかのよう にさらりと口にしたのだった。

先輩は、聞いてもいないのに自慢げにつばを飛 ばしながら、周りに聞こえてしまうくらいの大 声でそう言いふらしている。

「やめておけよ。またろくなことにならねぇ ぞ」


ノゾムは声をひそめてそう耳打ちする。 初めてシンナーに手を出したあの夜。 あのときも隣にはこうしてノゾムがいた。 ノゾムも俺と同様の経験を経て、 同じ想いを得している。 だからこそ引き止めるその言葉に確かな重み を感じる。 しかし俺は無理に引き止めようとするノゾム の言葉を強引に振り払うと、 先輩に向かって自らの電話番号とアドレスを 口にした。 先輩は一文字たりとも聞き逃したくないとい った感じで、想像を遙かに超えた速さでそれら を電話帳に登録している。 隣にいるノゾムが今どんな表情をしているの か、 それは哀れみか同情か、 わざわざそれを確認するつもりもなかった。 そう、俺はきっとやけになっている。 もうどうでもいい。 どうなってもいいのだ。 どうにでもなれ。 なってくれ。 そしてそれは急速に現実のものへと変化して いった。 その日の深夜、

早速先輩から受信メールが届いた。 その内容は ≪アシタ、ヒサシブリニドウ?≪ と、少しも成長した様子がうかがえないものだ った。 例えその中に文字はなくとも、 ヒサシブリニドウ? は何を示しているのか、 だいたいのことは予想できている。 ≪シンナーノコトデスヨネ?≪ とあえて聞き返すほど空気が読めない人間で はないし、 ≪アー、アレデスヨネ。アレ≪ なんて濁すほど面倒なことをするつもりも毛 頭ない。 そのメールを目にした途端思ったことは、 いまだにそんなことをやっているのかという 半ば呆れにも近い気持ちだった。 しかしその反面、 前に一度シンナーを吸ったあの夜に感じた、 不思議で不気味で何とも奇妙な感覚がよみが える。 あのとき、余計なことは何も考えなくてよかっ た。


例え無人島にたった一人であろうと、 震えるほどの孤独に震えようと、 今抱えているチューインガムが溶けたような どろどろとした粘り気のある気持ちよりはい くぶんマシなのではないのだろうか。 ≪アシタオレノイエデマッテマス≪ そう返信したのは、 腹いせに近いものだったのかもしれない。

吐く。 たった一回しかやっていないというのに体が 勝手に覚えてしまっている。 吸うタイミングを、 吐く重みを、 悲しいことに、 今もまだ忘れてなどいない。 息苦しくなって窓を開ける。

相変わらず鳴り響く美嘉へのメールに返信で きないことに対する、神様への、 唯一の腹いせに。

そしてまた吸う。吐く。

翌日、先輩は約束どおり家にやってきた。

それでも中断することなく吸う。

律儀というかなんというか、 部屋に入ってそうそう、 前もって用意していた薄いビニール袋を差し 出している。

吸う。吸う。吸う。

それを受け取ろうと片手を伸ばしたそのとき、 壁に貼られている二人のツーショット写真が ふと目に入り、 その中にいる美嘉の笑顔がこっちをじっと見 ていることに気がついた。 濁りのない真っすぐな目。 俺のことを信じきっている目。 俺はとっさにその写真に背を向けると同時に、 先輩の手から奪うようにしてビニール袋を受 け取った。 袋を口にあてて息をゆっくり吸う。

頭が痛い。

吐く。吐く。吐く。 鮮明に映し出されていた視界が一気にぼんや りと景色を変え、視界の全てが淡い黄色の世界 へと追いやられた。 自分が自分ではないような、 脳だけが自分のものであとは何者かに奪われ てしまったかのようなもどかしさ。 隣ではリアルな美嘉の幻覚が俺の腕に両手を 絡め、 頬をほんのり赤らめて微笑んでいる。 俺は黒いタキシードを、 美嘉は薄いピンク色のウェディングドレスを 身につけ、ひげを生やした外国人のおっさんの 前で何かを誓っている。


互いの名前を呼び合いながら、誓い合ってい る。 ああ、そうか。 これは結婚式だ。 俺と美嘉は永遠の愛を誓い合っているところ なのだ。 バージンロードの先には、温かな家庭が見え る。 揺りかごに揺られている小さな赤ちゃん。

先が見えない。 からっぽだ。 心が、からっぽだ。 「また明日も来るから。明日はもう一人連れて くる。おまえと同い年で同じ中学校だったク ミ。 覚えてる? あいつがどうしてもおまえに会いたいってう るさいんだよ」

きっと俺と美嘉の間に生まれた赤ちゃんだ。

「じゃあ俺の連れも呼んでいいっすか」

小さなうさぎのアップリケが縫われた前かけ をつけているということは、女の子なのだろ う。

「かまわないよ。じゃあまた」

女の子かぁ。 かわいいな。 縫い目が粗いそのアップリケは、きっと不器用 な美嘉が針で何度も指先をけがしながら縫っ た努力の結晶だな。 心がふわふわしている。 ああ、幸せだ。俺は最高に幸せな男だ。 突然、幻覚が消えて、はっと意識を取り戻した。 耐えがたい現実に襲われた。

満足げな笑みを残し、先輩は去っていく。 部屋を出てすぐのところで、 偶然にも居合わせた姉貴とすれ違い、姉貴は小 さく、 だけど冷血に言葉を発した。 「余計な口出しはしないけど、後悔だけはしな いようにね」 言い返す間もなく姉貴は玄関で靴に履き替え、 家を出ていく。 しばらくしてバイクのエンジン音が聞こえて きた。

すでに赤く染まりかかっている空は、 カラスが寂しく鳴いていて。

「後悔なんて、とっくのとうにしてんだよ」

なんだろう。

俺は遠ざかるエンジン音に向かってぽつりと


そう呟くと、やり場のない焦りに壁を激しく蹴 り飛ばし、 その場でひざを抱えた。 その翌日、俺はともに多くの悪いことをしでか してきた地元の友人を家に呼び出し、 昨日の出来事を詳しく説明した。 友人は

吸う。吐く。 昨日の夢は最高だったな。 今日はどんな夢が見れるだろう。 吸う。吸う。吐く。

「最近めっきり刺激がなかったところだった からち ょうどいい」

目が覚めて現実の世界に放り出されたときの 虚脱感といったら、尋常ではない。

と言って、 全ての事情を快く受け止めてくれた。

けれど、ほんの一瞬でもいい。

先輩は昨日と同じ時間帯に家へとやってきた。

この現実から逃げ出せるのなら。

帰り際に予告したとおり、 クミという名の派手な女を連れて。 それぞれに手際よくビニール袋が手渡される。 そのとき足元でPHSが小刻みに震えた。 着信。 画面に表示された名前は美嘉だ。 出ない。 美嘉からの連絡を避けるようになってから、 すでに 1 週間が経過していた。 そう思うと胸がちくりと痛んだが、 それを振り切るように俺はビニール袋を受け 取ると、 慣れたように口にあてがった。

幸せな時間を得ることができるのなら。

そう思いながら、ひたすら吸う。 吸う。吸う。吐く。 「…ヒロ??」 耳元で美嘉の声が聞こえたような気がした。 その声はあまりに悲しげで、 不安げで、 今にも泣きだしそうなほどに心細く、 もろくて。 手を伸ばして抱きしめようとしても、 姿はどこにも見えない。 きらきらきらきら。 キラキラキラキラ。


きラキらきラキら。 辺りに蝶々が飛んでいる。 果てしない大空を飛び回っている。 赤、青、黄色、緑、紫、金、銀。色とりどり。 なんてキレイなのだろう。 俺は生まれ変わったら蝶々になりたい。 自由に空を飛びまわる、蝶々に。 ああ、蝶々がいる。 たくさんいる。たくさん、蝶々が。 一匹の真っ白な蝶々が触覚で俺の頬をちくり と刺した。 その触覚は、 ほんのり温かく、 誠実で、 尊い祈りが込められている。 それはまるで、 はずれた道から現実へと連れ戻そうとしてく れている、 誰かの力強い指先のようでもあった。 ああ、ここは天国なのだろうか。 きっとそうだ。 天国だ。 「…やっ…」 頭に鮮明に響いた悲痛な叫び声で、 俺はハッと目を覚ました。

この声は、もしかして。 どうした? 何があったんだ? ぼやけた視界の奥に見えるのは何かにひどく 抵抗している。] 女の姿。 その女のおびえきった表情が、 短い時間をかけて徐々にくっきりとまぶたの 裏に映し出されていく。 ………美嘉? このかぎ慣れた香水の甘い香り、 制服のそでボタンを二つはずすくせ、 薬指につけられた十字架の指輪。 これは紛れもなく美嘉だ。 どうして美嘉が? いつからここにいたんだ? 学校を休んでシンナーに明け暮れる俺の姿を、 全て見てしまったのか? 記憶が飛んでいる間、 一体何が起きたのだろう。 これは夢の続きなのだろうか。

2


でも頭がやけに重く、 痛苦しくて。信じたくない。 信じられない。 けれどどうやらこれは、 夢から舞い戻ってきた現実の世界らしい。 いつの間にか正面には学校にいたはずのノゾ ムもいる。 その横にはノゾムの彼女までもいる。 あれ? どうしてだ? どうしてみんなここにいるんだ? 目の前では美嘉が無理やり先輩に言い寄られ ている。 先輩が美嘉の上に遠慮なく乗り、 スカートに手を入れている。 いやらしい手つきで太ももをなで回している。 どうして美嘉がここにいるのか、 今の状況を把握するとかそういうことを理解 する以前に、 何もかもを抜きにして先輩の行為だけはどう しても許すことができなかった。 手を出していいのは俺だけなんだよ。 許さねえ。 俺の美嘉に手を出すなんて、絶対に許さねえ。

「ヒロ…助け…て」 そのとき、美嘉がか細く俺の名を呼んだ。 その瞬間、 俺は出しかけた握りこぶしをいったん引っ込 めたのだった。 美嘉が俺に助けを求めている。 メールも返さず、電話も出ず、 学校を休んで美嘉の知らない地元の友人たち とシンナーに手を出していた俺のひどい裏切 りを知っていながらも、美嘉はいまだに俺を信 じようとしている。 別れが訪れようとしているなんて微塵も感じ ていない。 ただ奇跡を、 愛を求めている。 そうだ。 俺は、別れなければならないのだ。 助けてやりたい。 けれど美嘉を助けてやることは、できないの だ。 俺は助けない。 助けてやれない。 助けられない。 許してくれ。


ごめん、ごめんな、美嘉。 「ヒロ…ヒロ助けて…」 それでも助けてくれると信じて名前を呼ぶ消 え入りそうなその声に、 俺は再び作った握りこぶしを隠して怒りをぐ っとこらえた。

う呟くと、 俺の腕をぐいっとつかんで強気な態度で先の 行動を止めた。 「………見てるからこそやるんだよ」 有無をいわさず再び唇を重ねながら、 クミの肩をなでる。

爪が皮膚に食い込んでいる。

背中をなでる。

痛い。

腰をなでる。

手のひらも、心も。

上着の中に、手を入れる。

けれどきっと美嘉の心のほうがもっと痛んで いるはずだ。

美嘉、見てるか?

さっきまで斜め前にいたはずのクミがいつの 間にか俺の隣へと移動し、 シンナーの刺激に便乗してか、 美嘉が俺の彼女であることを知らない強みか、 さりげなく肩に頭を置いて甘えてきた。

こんなに最低な男なんだ。

俺はこんな男だ。

俺から美嘉に別れを告げることなんてできね えよ。 考えただけで胸が苦しくなるんだ。

俺はそれをあえて振り払うことなく、 美嘉の目の前でクミの肩に手を回す。

ずるいやり方かもしれない。

そして体を抱き寄せると、 強引に唇を重ねた。

けれど、いっそのこと俺のことなんて嫌いにな ってしまえばいい。

クミは拒むことなくそれをすんなり受け入れ る。

嫌いになって、 美嘉のほうから離れていけばいい。

「おい、ヒロ、やめ…ろよ。美嘉が…いるんだ ぞ?」

こんな男のことなんか忘れろ。

いつしか微かに意識を取り戻したノゾムが、 尋常ではない空気を感じ取ったのか小声でそ

そしてほかの男と、幸せになれ。 美嘉がほかの男に襲われかけているというの

4


に助けてやることさえできず、 美嘉の目の前でこれっぽっちも気のない女に 手を出している。 悪夢だ。 きっとこれは悪夢だ。 油断すると不意に涙腺が緩んでいくのがわか った。 ここで涙を流したらすべてがバレてしまう。 今までの計画がパアになってしまう。

怒りと悲しみの表情を残したまま帰りのドア に向かってくるりと体を振り返る美嘉。 その瞬間、 振り落ちた丸い涙の滴が偶然にも俺の手のひ らへと落下し、 俺はそれを二人で過ごした幸せな思い出とと もにきつく握りしめてゆっくり蒸発させた。 美嘉がノゾムの彼女の手を引いて玄関を出て いく。

そう思ってぐっとこらえる。

窓から見える美嘉の小さな背中を、 俺は見えなくなるまで見送った。

こうして傷つけ合うことでしか、 方法が見つからないなんて。

「おい、ヒロ…いいのかよ。美嘉のこと…追い かけなくて」

なあ、美嘉。

状況が今いち把握できていないノゾムが、 眉間にしわを寄せながら必死で俺の背中をた たく。

俺たち、もしかしたら、 出会わなかったほうが、 よかったのかな。 「…もう…やだ!!」 美嘉は先輩を力強く回避してその場を立ち上 がると、 薬指につけた指輪をはずして俺に向かって投 げつけた。 ペアリングの片割れは俺の頬を直撃し、 床をころころと転がっていく。 ――これで、何もかもが、終わった。

俺はその行為をいとも簡単に振り払うと、 何かが突然ぷつりと切れたかのように、 じゅうたんを背に何事もなく眠りに入ろうと する先輩の胸ぐらをつかんでは、 天井に向かって高く持ち上げた。 「てめえ、ふざけんな。 美嘉に手出してんじゃねえよ」 突然ぷつりと切れた何かとは、 理性だったのかもしれない。 「え? 美嘉? 美嘉って」 言葉の途中でこぶしは先輩の頬に直撃した。


瞬間、鼻からどす黒い血がどろっと流れ出る。 ノゾムはそんな俺の行為を止めるどころか、 殴り、怒り、参戦した。 「てめえが手出そうとした女だよ。謝れ。今す ぐ美嘉に謝れ」 「ご、ご、めん…な、さ…い」 美嘉を傷つけていいのは俺だけだ。 本当は俺だって傷つけたくなんかない。 それでも傷つけなければならない理由がある のだ。 何の理由もないのに美嘉を傷つける奴は、 絶対に許さない。 無駄な抵抗を続ける先輩を床に強く押さえつ け、 手のひらを思いきりかかとで踏んだ。 この手で美嘉のスカートの中に手を入れたの か。 この手で美嘉のふとももを触ったのか。 消えてしまえ。 部屋中におぞましい悲鳴が響く。 その行為によってさすがにはっきりと現実の 世界に引き戻されたようで、 先輩は血を拭う間もなく逃げるようにしてそ そくさと家を出て行った。

とばっちりを恐れてか、 クミと地元の友人までもが慌てて先輩のあと を追って家を出ていく。 「先輩の野郎ざまあみろってんだよなぁ。 自業自得って奴」 部屋から逃げ出した 3 人の姿をあざ笑って見送 ったノゾムは、 両手を高くかかげてすがすがしい表情を見せ ながら、 そう言ってうっすら血がにじんだカーペット の上にごろんと寝転んだ。 「ていうかなんでおまえがここにいるんだよ。 なんで美嘉がここにいたんだよ。どういうこと だか説明しろよ」 洋服のそでで唇を強く拭う。 残っている生ぬるい感覚をきれいさっぱり消 し去っていく。 そして俺はPHSから先輩の連絡先を削除し ながら、ノゾムにそう問いかけた。 「美嘉がヒロと連絡が取れないからってすげ ぇ心配してて、ヒロの家に行きたいっていうか ら連れてきたんだ。 ヒロが先輩と何やってんのか、 連絡先交換したのを見たときからなんとなく はわかっていたけど、断ったほうが逆に怪しい と思ったし、 どうしても行きたいっていうから。 部屋に入ってから俺も先輩に無理やりシンナ ー吸わされて、記憶があいまいで何があったか とかよくわからなかった。 気づいたときには美嘉が先輩に…」 目を渋めて頭を深々と下げるノゾム。


「そっか。だいたいわかった」

できることならあの頃に戻りたい。

「なぁ、ヒロ。シンナーとかはもう…」

どうして二人の想いはこういう結末をむかえ ることになってしまったのだろう。

ノゾムの言葉を途中でさえぎる。

「もう決めたことだから」

「わかってる。もう二度とやんねえよ。逃げて も、なんの意味もねえってことがよくわかった し」

真っすぐ前を向く俺の確かな決意を、 ノゾムは何も言わずにそっと背中をたたいて 受け止めてくれた。

「美嘉のこと追いかけなくて、本当によかった のか?」

ようやく全てが終わりを告げたと思い込んで いたシンナー事件の翌日、 俺はしぶしぶ美嘉のPHSに電話を入れた。

「もう別れるって決めたから」

そういった中途半端な行動を起こした理由は、

「どうしてだよ!」

「ヒロが美嘉と別れるって決めたその固い決 意はよくわかった。 でも、あんなひどい終わり方はないだろ。あれ じゃあ美嘉がかわいそうすぎるよ。 最後に、ちゃんとフォローしたほうがいい。 終わりよければ全てよし、って言うじゃん? ほら、早く早く」

「美嘉には幸せになってほしい。誰よりも。で も俺じゃあ幸せにしてやることはできねえん だよ」 「そんなこと」 ノゾムの目線は床に転がった指輪をたどる。 投げ返されたペアリング。 俺は自らの左手の薬指につけた指輪をはずす と、 美嘉が投げていった指輪の隣に並べるように してそっと置いた。 去年の幸せすぎたクリスマスイブの日を思い 出す。

と、正義感あふれるノゾムにじわじわと責めら れながら、フォローの電話をかけることをしつ こくすすめられ、見事にそれに流されてしまっ たことが原因だ。 当たり前といえば当たり前なのだけれど、 電話越しに通る美嘉の声は、 俺が目の前で美嘉以外の女に手を出したこと に対して激しい怒りが込められていた。 俺は何も覚えていないふりを通しつつ、美嘉に


「俺のこと…嫌いになった?」

来るはずもない電話を待ち続けた。

と、さりげなく確信を得る質問を投げかけた。 美嘉からの答えは「かもね」というあいまいな もので、俺はその答えを聞いて傷ついた反面、 正直わずかに安心の気持ちを得たのも確かだ った。

しばらくして、 もう美嘉との関係は完璧に断たれてしまった のだとやっとのことで悟った俺は、 潔くふんぎりをつけるためにも部屋に貼って あったツーショット写真をはがすことによっ て、 現実に目を向けようと試みた。

なぜならその言葉は明らかに本心ではなく、 その場限りの強がりにしか聞こえなかったか らだ。

はがしてはみたものの、 まだ破っても、 捨ててもいない。

「もういいよっ、バカ」

今はまだ、捨てることが、できなかった。

フォローもできないままそう言い残して最後 の最後に電話を切ったのは美嘉のほうで、 電話を切ってすぐに俺は≪イママデアリガトウ ≪と、 遠回しのさようならを匂わすメールを美嘉の PHSに送信した。 それから何日か経っても美嘉からの返信はな かった。 1 日、3 日、5 日、1 週間。 来ない。 来ない。 まだ来ない。 まだ、まだ、来ない。 意味もなくPHSを握りしめては、 メールを何度も問い合わせた。

8


二章◇君道 好きだからこそ。

♪ピンポーン♪ それはシンナー事件から数日がたった、日曜の ことだった。 特に何をする予定もなく、 昨夜ノゾムと二人で明け方まで語り合ってい たせいで睡眠が足りていなかった俺は、 日が沈む寸前に浅い眠りについたところを、チ ャイム音で妨害されたのだ。 両親はミュージカルを見に外出、 姉貴はといえばいつものように家をあけて遊 びに繰り出している。 一人留守番だった俺はチャイムを鳴らした相 手が誰かを確認することなくいやいや玄関の ドアを開けたのだけれど、 開けてすぐに後悔した。 と同時に喜びを噛みしめたのだった。

意は、 自分でも呆れるくらいに緩いものだった。 部屋に足を踏み入れて床に小さく正座をした 美嘉は、はがされた二人の写真によって空いて しまった壁のスペースを唇を噛みしめながら 見つめ、 今にも崩れそうな表情を保ったまま、 別れたくない、 一緒にいたい、 というような内容を次々に口にした。 別れたくないと自ら口にするということは、 わずかながらも二人の関係が危うくなってい るということに気付き、 別れを意識していたということだ。 それなのにわざわざ息を切らしてまで会いに 来るということは、 それほどまでに俺のことを想ってくれている という確かな証しでもあり、 別れたくないと願っている証しでもあり。 目を閉じ、自分の心に問いかける。 美嘉はどうして俺のことを嫌いにならないん だ?

「いきなりごめんね、どうしても話したくて…」

シンナーに手を出し、 襲われようとしている美嘉を助けようともせ ず、 それどころか美嘉の目の前でほかの女に手を 出した。

そう言って涙声で訴える美嘉。

そんな俺をどうして許すことができるのだろ う。

なぜならそこに存在していたのは息をはあは あと切らした美嘉の姿だったからだ。

「…入れ」 と自らの部屋へと招き入れてしまった俺の決

もしかして、あのときはシンナーのせいで記憶 があいまいだったと思っているからこそ、 許してくれているのか?


そうなのだとしたら、 まともな俺がとことん最低な男だったのなら、 嫌いになってくれるだろうか。 あきらめてくれるだろうか。

何それ? と呆れられると思っていた。 ふざけないで! となぶられると思っていた。

まだこんなに好きなのに、 こうして別れるための方法を懸命に考えてい る自分が、なんだか惨みじめで情けなくて。

そのまま美嘉は部屋を出て、 俺のもとから去っていく。

別れたくねえんだよ。

そして二人の関係は終わりを告げる。

でも、別れなければならないんだ。

そういう結末が待っていると思っていた。

嫌われたくねんだよ。

しかし美嘉は、

でも、嫌われなければならないんだ。 俺だっておまえに負けないくらいに好きなの に。 好きだというのに。 真逆の想いが交差する。 しかしたどり着く答えはいつも同じで。 ―――――大切なのは、 美嘉の、 幸せ。

「…命令って、何したらいい??」 と、これほどまでに最低な条件を受け入れてき たのだった。 美嘉の気持ちが痛いほどにひしひしと伝わっ てくる。 別れたくないという気持ち。 俺を必要としてくれている気持ち。 俺を好きだという一途な気持ち。

決意を固めた俺は、美嘉が俺を想う気持ちの重 さをとことん利用して

それにこたえることができない辛さ。

≪今日一日、俺の命令を聞いてくれたら付き合 ってやる≪

ふがいなさ。

という、ありえない条件を下した。

もどかしさ。

やけになった俺は、 美嘉が引き下がるであろう、 絶対に飲まないであろう厳しい命令を次々と


下していった。 例えば、 「友達に電話をして俺のことどれくらい好き か証 明しろ」

また、それを目にした俺の目からも同じように して自然と二粒の涙がこぼれ落ちた。 それが美嘉の背中に垂れ落ちる前に、 想いが伝わってしまう前に、 手のひらで涙という名の悲しみを受け止める。 俺は悲しんでいるわけではない。

こういった命令。

泣いているわけではない。

美嘉は迷うことなくそれを受け入れる。

これは汗だ。

命令を理由にして乱暴に抱いた。

ただの汗だ。

美嘉の両手をタオルで縛って拘束し、 強引に鏡の前へと連れていき、 恥ずかしい思いをさせる。 辛いことを無理に要求した。 それでも美嘉は戸惑いながらも命令を受け入 れていく。 後ろから強引に挿入したとき、 二人が一つにつながったとき、 きっとこれが美嘉との最後の触れ合いになる だろうという、 切なさを予感した。 そして美嘉も、 そう感じていたと思う。

そうに決まっている。 全ての行為を終えた後、 長らく重い沈黙が続いていたけれど、 しばらくして美嘉は呆然と力を抜かしたまま、 床に投げ散らかっている脱がされた洋服を一 枚一枚時間をかけて身に付け始めた。 「根性焼き」 俺は洋服を身に付け終えた美嘉に、 一言だけを当たり前のように口にして、 火をつけたばかりのタバコを差し出す。 これは俺にとって最終手段でもあった。

こんな、最後だなんて。

もしかしたら、 もしかしたらなのだけれど、 まだ美嘉は俺のことを信じているかもしれな い、 という不安があるからだ。

鏡に映る苦痛に歪ゆがむ美嘉の目からは、 一粒の涙がぽとりとこぼれ落ち、

俺は 「命令を聞けばもう一度付き合ってやる」

こんな、終わりだなんて。

1


と言った。

こげくさい匂いが部屋中に充満する。

そして美嘉は約束どおり下した命令を全て聞 き入れた。

「おまえ何マジでやってんだよ!?」

ということは、美嘉はもう一度付き合えるかも しれないという淡い期待を抱いているかもし れないということだ。 だからこそ今まで以上に受け入れられないよ うな厳しい命令を下さなければ。 俺はそんな焦りを感じていた。 「別れたくねぇならしろよ、根性焼き」 同じ言葉を再び繰り返し、 先の行動を急かす。 まさかこれはしないよな。 嫌だって断るよな。 俺のこと最低な男だって思うよな。 なあ。 しないよな。 美嘉。

俺は思いのほか動揺して、 すぐに部屋を飛び出て居間の棚に置かれてい る薬箱の中から消毒液とガーゼを手にすると、 再び部屋にかけ戻った。 美嘉は火傷の傷口周辺に爪を食い込ませ、 ぷるぷると肩を震わせながらうつむき、 徐々に広がる痛みをじっとこらえている。 「おまえバカだよ…何やってんだよ」 じゅくじゅくした傷口にぽとりと消毒液をた らす。 たれた消毒液は赤みを帯びた傷口に充満し、 染み込みきれなかった余りの消毒液が手首を 静かに伝った。 そこに刻まれている、 一本の線を描く膨らんだいびつな傷跡。 前に一度、 美嘉は手首を切って自殺を図ったことがあっ た。

するわけないよな。

俺はその現場に居合わせたわけではない。

しかし、美嘉は黙って俺の指の隙間からタバコ を奪い取ると、 こぶしを作った自らの腕にそのタバコを強く 押しつけたのだった。

けれど、それほどまで美嘉を追いつめた原因は 間違いなく俺にあった。

じゅわっと鈍い音が鳴り、

美嘉と出会った頃、 俺には彼女がいた。


いつしか俺は美嘉に対して想いを寄せるよう になり、彼女に別れを告げたけれど、 彼女はその理由に納得してはくれなかった。 それでも俺は無理に別れを了承させ、 美嘉との本格的な付き合いを始めた。 それに逆上した俺の彼女… いや、元カノが美嘉にしつこく嫌がらせを始 め、 俺はそれに気づくことができず、 一人でそれに耐え続けられなくなった美嘉は 包丁で手首を切った。

最初から俺が逃げることなく終わりを決めて いたのなら、 こんな結果にはなっていなかったかもしれな い。 美嘉の傷を、最小限に抑えられていたかもしれ ないのに。 「おまえ今日はもう帰れ」 根性焼きによるやけどの治療を終えた俺は、 美嘉の表情を直視するのが怖くて、 背を向けたまま冷たく突き放すのが、 精いっぱいのさようならだった。

………俺はここ最近、 美嘉を傷つけているということに心を痛め続 けていた。

「ヒロ、また付き合ってくれるんだよね…??」

でも本当は、癌だと宣告される前から、 俺は美嘉のことを傷つけていたんだな。

かけるべき言葉が頭をかすめようともしない。

この一本の傷跡がその大きな証拠となってい る。 俺は自身の行動を悔いた。そしてひどく軽蔑し た。 傷つきたくないがために、 悪者になりたくないがために、 いっそのこと振られてしまえばいいなんて。 わざと嫌われるような行動をして、 いっそのことあきらめてもらえばいいなんて。 こんなにずるい手を使って美嘉の気持ちを離 そうとするなんて。

言葉が出ない。

俺は振り返ることなく、 ただこくりと静かにうなずいた。 美嘉が部屋から出ていく。 廊下を歩く音、玄関のドアが開き、 音も立てずに閉まるのがわかった。 部屋は一瞬にして静寂に包まれる。 いつもなら「家まで送っていく」そう言って後 を追っていた。 例えケンカをしたときでも、 送ることだけはかかさなくて、


それをきっかけに仲直りしたこともあった。

言葉によって終わりを迎えるのはあまりに酷 すぎる。

いつもなら今頃、 美嘉を自転車の後ろ座席に乗せて、 爽快に風を切っていたはずだったのに。

それは俺にとっても美嘉にとっても。

ばかやろう。 おまえがもっと嫌な女になってくれたのなら。 そうしたらこんなに苦しまなくてもすむのに。 ばかやろう。

だからといってメールという手段を利用する ことは、許されないことだろうか。 自分自身でも理解していた。 会ってしまえば固い決意がいとも簡単に揺ら ぐことを。

それでも、あれだけ乱暴に抱いたというのに、 小さな幸せを感じていた俺は、 真実の愛って奴を再確認した俺は、 きっともっとばかなのかもしれない。

流れ落ちる涙を目にすれば定められた結末を 見ないふりして、 悲しみを拭ってやりたくなることを。

≪家着いたか?≪

♪~♪~♪~♪~♪

その日の夜遅く、 俺は美嘉にロングメールを打って送信した。 ≪今日俺の命令を聞いたらまた付き合うって言 ったけど、やっぱりなかったことにしてほし い。≪ もう、こうするしか終わる方法が見つからない から。 ≪別れよう≪ 別れを認めたくないがゆえに、 最後をだらだらと長引かせてしまった結果、 美嘉の心に刻まれる傷口がより深みを帯びる こととなってしまった。

メールを送信し終えてすぐに、 思っていたよりずっと早いタイミングで電話 の着信音が鳴り響いた。 相手は確認しなくてもわかっている。 美嘉だ。 出ようか、出まいか。 うろうろと迷路を歩み始める。 出なければいい。 そして永遠にかけ直すことなく、 電話帳を削除して、関係をばっさり断ってしま えばいい。


けれどここで逃げてしまえば、 また今までのようにあいまいな関係を繰り返 していくことになってしまうかもしれない。

俺はおまえに嘘をついた。

俺はつばを飲み込むことによってカサカサに 渇ききったのどをほんのり潤すと、 じんわり汗ばむ手のひらで電話を取った。

そうすればおまえが俺のことを嫌いになって、 軽蔑し、 何の迷いもなく俺のもとから離れていくんじ ゃないかって、そう思ったんだ。

『おぅ』

『あのときはまだ考えがまとまってなかった』

『…冗談だよね??』

『…もう美嘉のこと嫌いなの??』

震声。

何言ってんだよ。

涙声。

そんなわけねえだろ。

悲声。

今でも好きだ。

怯声。 あまりに切実な、その第一声。 この電話は美嘉へとつながっている。

付き合い始めた頃と変わらず… いや、あの頃よりもずっと。 気づけよ。

美嘉の部屋へと、耳元へと、 想いの全てへとつながっている。

気づいてくれよ。

だからなのだろうか。

本当は、本音は、別れたくなんかねえんだよ。

あふれんばかりの悲しみが受話器越しにひし ひしと伝わってくるのは。

………どうしようもない矛盾にいびつな苦しみ が増す。

『冗談じゃねえよ』

今でもまだこんなに好きなんだよ。

『嫌いじゃねえよ。でももう無理なんだ』

『だってもう一回付き合ってくれるって言っ たもん…嘘ついたの??』

『…なんで無理なの??』

そう。ついたよ。

美嘉。


俺、癌なんだって。 医者にそう宣告された。

だからこそ「嫌いになった」というあの言葉が 本心ではないことくらいわかっている。

だから病院に通ってる。

というよりは、わかっていた。

すでに治療だって始まってる。

でも、何も知らないふりを通すしかなかった。

これからもおまえと一緒に過ごせたら、 すげえ幸せだろうな。 でも一緒にいれば俺はおまえに八つ当たりを してしまうかもしれない。 弱音を吐いてしまうかもしれない。 いつかおまえをこの世界に一人残して、 悲しい思いをさせてしまうかもしれない。 今の俺にはおまえを世界一幸せにしてやる自 信が…ねえんだよ。 『俺、わかんねえ。美嘉の前で女とやってたと か知らねえし。おまえだって俺のこともう嫌い って言ったし、わかんねえ』 頭が混乱して自分でも何を言いたいのかわか らなくなっている。 『嫌いなんて嘘だよ、もうしないからごめんね って言ってほしかっただけなの…』 美嘉と付き合い始めてから 1 年とちょっとが経 過し、美嘉の考えることくらい理解できるよう になってきたつもりだ。

そうするしかなかったんだ。 『俺、本当わかんねー。覚えてねえよ』 『別れたくないよぉヒロ…なんでもするから… 本当は…』 美嘉の切実な言葉を最後に、 俺は繰り返される悲痛な会話を中断させ、 一方的に電話を切った。 積み重なっていく偽りに染まった想いに、 これ以上耐えることなどできなくて。 電話を切った指先が静かに震えている。 「………ちくしょう」 怒り。後悔。苛立ち。無念。 達成。不安。不満。不服。 様々な気持ちが込み上げてくる。 それらが積み木のように上へ上へと重なり、 ある一定の場所で崩れ落ちた。 しかしあきらめることなく、


再び積み重なっていく。 不告。不快。不可能。不意。 不穏。不手際。不二。不死。 増える。

蹴り飛ばした壁の向こう側にある姉貴の部屋 から、 ここぞとばかりに蹴りの行為が返ってくる。 むしろ倍返し。 俺はそれに負けじと壁を蹴り飛ばした。

不壊。不離。不愉快。不得手。

蹴りはまた返り、 さらに蹴り、 蹴られて、 蹴って、 蹴り返される。

不可。不滅。不服。不公平。

ひたすらその繰り返し。

また崩れる。

「いいかげんうっせえんだよ」

さらに積み重なっていく。

また増える。

そして、増える。

それを何度か繰り返したところで、 先に対決を投げ出した短気な姉貴が足でドア を開けながら俺の部屋に強引に押し入ってき た。

不会。不可解。不幸。不覚。

「お互いさまだろ」

不起。不覚悟。不羈。不乱。

「そっちから先に始めたんだろうが。何かあっ たの?」

崩れる。

積み重なる。 積み重なる。 積み重なって、終わりが見えない。 俺はそれらの邪念をキレイに発散させようと、 すでに穴のあいている薄っぺらい壁をこれで もかってほどに強く蹴り飛ばした。

「俺、美嘉と別れた」 姉貴は眉をしかめてその場にどかっと座り込 むと、 タバコ吸ってもいい? と珍しく律儀に確認 してきたわりに、 俺からの返事を聞く間もなくどぎつい柄のZ IPPOでタバコに火をつけた。


「あっそ。ていうかすでに知ってたし。あんた 声でかいから、会話あたしの部屋まで丸聞こえ だったからね」

った。

姉貴に続いてタバコに手を伸ばす。

その瞬間、 ちょうどいいタイミングで着信音がぷつりと 音を消す。

しかし姉貴はその行為をすぐに阻止して、 自らののどをしつこく指さしては

一本の線を描くようにぴたりと停止される時 間。

“タバコはのどに悪いからやめておきな”

流れる沈黙は思いのほか重く、 鈍く、息苦しい。

というわかりにくいジェスチャーを見せなが ら、 呆れた笑みを浮かべた。 「ったく、あんたは本当に不器用だね。世話の やける弟だ。姉としてほっとけないというかな んというか。つまりあたしは不幸な姉だっつう ことを言いたいんだけど。わかる?」

マナーモードにしていない限りボタンを押す と鳴る、ピポピポという気の抜ける音によっ て、 その沈黙は見事に破壊された。 姉貴は手に取った俺のPHSのボタンを何や らまさぐっている。

こういった会話の途中にも、 相変わらず美嘉からの着信音が鳴り響き、 ところどころ会話が途切れる。

そして何度かボタンを押した直後に、 わざとらしい冷静さを装って受話器を耳にあ てたのだった。

こうなることを前もって予測できていたのな ら、 着信音を二人の思い出の曲に設定することな んてなかったのに。

プルルルルル。

さっきからしつこいくらいに流れている二人 の思い出の曲が、 記憶の片隅にじわじわと浸透していく。 なんて恨めしく、 切ない。 姉貴はベッドの上に無惨にも転がった一向に 鳴り止まないPHSを奪うようにして手に取

プルルルルル。 プルルルルル。 受話器の奥から聞こえてくる冷たい機械音。 『………弘樹から聞いたよ』 その第一声で、 姉貴が電話をかけている相手が美嘉だという ことを理解した。

8


何を言いだすかはわからないが止めるつもり はない。止める気力が残っていない。 電波とはいえ、 美嘉とつながっているという事実が、ただただ 嬉しかった。 『辛いよね。でも弘樹の気持ちもわかってあげ てほしいんだ………もし美嘉ちゃんと弘樹が運 命の二人なら、今、別れてもまたいつかどこか で出会って付き合うことができる。今は弘樹の ことは忘れな。 何かあったらあたしに電話してもいいから』 そう長々と言い終えた姉貴はしばらく沈黙を 続けていたが、静かに電話を終えてふうっと小 さなため息を漏らした。 「美嘉ちゃん、最後、何も言わずに切っちやっ た。あんたに変わってやろうと思ってたんだけ どな」 うなずいてはみたものの、 考えていることはまったく別のことで、 俺はついさっき姉貴が発した言葉をふと思い 返していた。 別れても二人が運命の相手なら、 また会うことができる。 俺と美嘉はいつかどこかでもう一度出会うこ とができるだろうか。 会えたら、いい。 もう一度、会いたい。 もし出会うことができたそのときは、

運命を、 奇跡さえもを信じてみせる。 「俺、さようならって、ちゃんと言ってねえや」 「言わないと別れたっていう実感わかないか もね。 今からでも遅くないんじゃない?頑張れよ。 あんたが言うさようならは、 美嘉ちゃんにとっていつか最高の愛の言葉に なるから、絶対」 それから数時間が経過した頃、PHS に一通のメ ールが届いた。 題名はたった 3 文字の言葉。 ≪ヒロへ≪ 送信者は、美嘉だった。 ≪これで最後のメールにします。 美嘉はやっぱり今でもヒロが大好きです。 別れたくないです。 ヒロが別れたい理由もわからない。 明日の朝、ヒロとよく遊んだ川原にいます。 もし、また付き合ってくれる気が少しでもある なら来てください。 もうまったくないのなら、来ないでください。 そのときはきっぱりあきらめます≪ もう戻ることはない。 終わりを決めた以上、 あと戻りなどできるはずもない。 けれど俺は、 さようならを伝えに、 川原に行ってしまうかもしれない。

9


それはただのわがままなのだろうか? 最後の美嘉に会いに行ってしまう。 行ってしまう、かもしれない。 眩しい。 眩しすぎる。 うなだれる気持ちとはうらはらに今日は晴天、 青空だ。

橋の上にさしかかったところで、 見下ろした先に草むらを布団代わりに寝そべ っている美嘉の姿を見つけた。 美嘉は寝そべった状態のままときおり雲間か ら顔をのぞかせる太陽の光に目を渋く細めて いる。 一瞬だけ前に進むことにためらいを感じた。

久しぶりの制服を身につけて自転車にまたが った俺の足は、それがまるで常識でもあるかの ように学校を通り過ぎ、 いつしか思い出の川原へと向かっていた。

けれど、抑制は本音に勝利することなどできる はずもなくて。

行くな。

俺は焦るようにして自転車をこいで緩やかな 坂を下ると、いち早く美嘉のもとへと駆け寄っ た。

行くな。 行くな。 付き合うことができないなら行くな。

「…よぉ」

期待を持たせたくないのなら行くな。

自転車を降り、 美嘉の顔を上からのぞき込む。

心でそう唱えながらも、 本音を言えばやっぱり会いたい。

太陽の光に照らし出された美嘉の上まぶたは ぷっくりと赤く腫れ上がっている。

せめてもう一度。

一体どれほどの時間を費やして涙を流したの だろう。

もう一度だけでいい。 最後に最高の思い出を作りたい。 そして笑顔でお別れをすることができれば、 それでいい。

俺の、俺だけのために。 そしてこの先、美嘉はどれほどの涙を流すのだ ろう。 俺の、俺だけのせいで。 美嘉は何も言葉を口にしようとはしない。


ただ口をぽかんと開けて、 放心状態のままきょろきょろと目を泳がせて いる。 俺がここに来るはずないと思っていたのだろ うか。 俺が来ないことを前提にああいったメールを 送信したのだろうか。 だとしたら終わりが訪れる決心がすでについ ているということになる。 「おーい? 美嘉?」

この場を立ち去って今からでも学校に向かえ ばいい。 前もってそう言っておかなければならないは ずなのに、信じきっている美嘉の純粋な笑顔を 見ていると、 胸がつまってそれ以上の言葉が出てこようと しなかった。 ぎこちない会話をいくつか交わし、 時間を持てあました二人は、 とりあえず川原をあとにすると自転車を二人 乗りして近くのショッピングセンターへと向 かった。 どうせ最後のデートになるのなら、 悲しみを見せることなく、

いつものように、まだ二人がこれほどまでにぎ くしゃくしていなかった頃のように何一つ変 化のない声で名前を呼ぶ。

苦しみを見せることなく、

美嘉はやっとのことで立たされている状況を 把握したのか、 半信半疑のとぼけた表情がみるみるうちに喜 びに満ちた笑顔へと変化していく瞬間を、 俺はしっかりと見届けたのだった。

今日一日は余計なことなど何も考えないでい たい。

「あっ、ごめん。おはよっ!!」

二人は同じ気持ちを、 そして傷を抱えたまま何事もなかったように 笑顔で言葉を交わし、 手をつないだ。

俺はもう一度付き合いたいがためにここに来 たわけではない。 別れるという決心は変わらない。 ただ、最後の思い出を作るためだけにここに来 た。 それが嫌なら拒否すればいい。

今までどおりの二人でいたい。

癌だということなんてきれいさっぱり忘れて、 幸せだった頃の二人に戻りたい。

離れ離れになっても一緒に過ごしてきた証を 美嘉の手元にどうしても残しておきたくて、 自らプリクラを撮ろうと提案した。 その中でキスだってした。


楽しかった。 幸せだった。 後々辛くなるということを知っていながらも、 どうしても理性で止めることができなかった。 そして楽しそうな美嘉の表情を見るたび、 罪悪感は増し、 迫りくる別れの時間への悲しみが募のってい くのだった。 ショッピングセンターを十分に堪能した二人 は、 昼どきということもあり、 再び川原に戻って横並びで弁当箱を開いた。 俺は美嘉に気づかれないよう、 ブレザーの内ポケットに手を入れ、 小さなシルバーの指輪を取り出す。

ハンカチに包んで引き出しの奥にしっかりと。 お互いの手につけることはもう二度とないと しても、手に持っているだけでいい。 離れていても、たった一つのつながりがあるの ならそれで十分満足なのだ。 「あ、これ…」 俺はいかにも今さっき気づいたような演技を しながら、美嘉に向かって指輪を差し出した。 その瞬間、 美嘉の表情に華が咲く。 「指輪つけてもいいの??」

ペアリングの片割れだ。

あまりに残酷だ。

俺がシンナーを吸ってほかの女に手を出した あのとき、去り際に美嘉は俺の頬をめがけてこ の指輪を投げつけた。

俺はさっきからなんて残酷なことをしでかし ているのだろう。

何度も捨てようと試みたものの、 結局捨てることができず、 捨てるくらいならいっそのこと美嘉の手で持 っていてほしいと願い、 渡すタイミングを見計らって、 ひそかにポケットに忍ばせておいたのだ。

胸がうずく。 ざわめく。 後悔の念がどっと込み上げる。

俺はあえて指輪をはずしたままつけていない。

こうなったらとことん最低で最悪な悪者を演 じきってやろうか。

つけていたら期待させてしまうと思ったから だ。

「とりあえずポケットに入れておけ」

けれどきちんと保管してある。

いいよ、


と答えてやれないことに、 胸の裏側から苦しみが増す。 二人の十字架はこれからもずっと永遠に完成 することはない。

しかし俺はそれを受け取ることをかたくなに 拒んだ。 それでも美嘉はあきらめることなく、 それを無理に手渡そうとしてくる。

俺の薬指に指輪がつけられていないことに、美 嘉は気づいているのだろうか。

「最後のデートだからプリクラあるとつらい し」

もし気づいていながらもあえて何も触れてこ ないのだとしたら、 もしかしたら美嘉は俺なんかよりずっと強い 心を持ち合わせているのかもしれない。

まだ早い。

「あ~腹減った。そろそろ昼飯食うか」 幸福から変わりつつある微妙に重い空気を再 び取り戻そうと、 俺はざっと話を変えて開ける途中だった弁当 箱のふたを全開にさせた。 美嘉は何か嫌な予感を感じているのか、 あまり食欲がないようで、 昼食に手を伸ばす時間がもったいないといっ た感じで手を止め、 俺に向かってかばんから取り出した紙切れを 必死に差し出している。 その紙切れは、 さっき撮ったばかりのプリクラだ。 俺はいらないという意味を込めて首を小さく 横に振った。 美嘉はどうして? と不満げな声を漏らしながら再び差し出して くる。

それは最後まで決して口にしてはならないこ とだったというのに、 意外にもさらりと言葉が出た。 美嘉を傷つけることに慣れてしまっているこ とが悲しい。 そして俺自身も傷つくことに慣れてしまって いることがもっと悲しい。 「最後って?今日で最後なの??付き合って くれる気、少しでもあるからここに来てくれた んじゃないの…??」 「今日はもう別れるつもりできた」 こうなったら言うしかない、と、 半ば勢いで核心に迫る。 ぐっと早まる別れの時間を心苦しく思いなが ら。 「え…。付き合う気がないなら来ないでってメ ール送ったのに…」


美嘉は手に持っていたプリクラを強く握りし めてところどころにしわを作ると、 それに反するかのようにへなへなと肩の力を 抜かし、 だらんと首をうなだれた。 「…最後の思い出作りたかった」 「じゃあなんで手つないだの?なんでプリク ラ撮ったの!?」 かける言葉が見つからない。 例え何かを口にしたとしても、 それはただの言い訳に聞こえてしまうだろう。 いいや、聞こえるのではなくて、 それは紛れもなく言い訳なのだ。 もっとも俺は、 責められて当然のことをしでかしているのだ から。 「美嘉はまだヒロのこと好きなの、最後だなん て辛いよ。別れるなら来ないでよ…」 「ごめんな、俺、美嘉のこと嫌いになったわけ じゃないから。最後に思い出作りたかったん だ」 美嘉の目からは幾粒もの涙がこぼれ落ち、 その滴は太陽の光によってきらきらと輝きを 増した。 その眩しい輝きは俺の制服のズボンを大きさ が様々な水玉模様へと染めていく。

この水玉模様が乾いて消えたとき、 俺はこの場を去ろう。 そのときにはきっと、 美嘉との関係もいびつな跡を残しながらも、 乾いて消えているはずだ。 「俺もう、おまえの涙拭いてやることはできね ぇ」 川のせせらぎ。 そよそよと肌を通り抜ける風。 交差する車のクラクション。 行き交う人々の軽快な足音。 もう無理だ。 耐えられない。 今はどんな音でも耳の奥に陰りを残していく。 その残った陰りを耳にするたび、 俺は美嘉のことを思い出してしまうだろう。 会いたくなってしまうだろう。 そして涙が出るほど切なく、 愛しくなってしまうだろう。 耳をふさいでしまいたい。 泣くな。 もう少し。 あともう少しだけ、 我慢しろ。 したたり落ちる恋人の涙は、


風に乗って草むらの上で命を落とし、 濡れたズボンは、悲しみの粒によって隙間なく 埋め尽くされた。 「俺、もう学校に戻るわ」 全開になった弁当箱を再び閉じ、 逃げるようにしてその場をすくっと立ち上が る。 「…行かないで…」 しかし美嘉は制服のYシャツのすそを指先で 強く引いて、先の行動を止めた。 これを振り払えば、きっと、 もう二度と戻ることはできない。 数々の思い出が頭の中をフラッシュバックす る。 出会った日。 初めて交わした会話。 晴れの日。 雨の日。 見上げた星空。 誕生日。 クリスマス。 バレンタインデー。 記念日。 傷つけ合ったこと。 笑い合った日々。 すれ違った。 それでも幸せだった。

笑顔。涙。声。肩。背中。指先。髪の毛。温度。 最後に交わす言葉。 最後の表情。 最後の風の香り。 最後の、そしてこれから訪れる、 本当に最後の瞬間。 「じゃあ美嘉から行け」 俺は急かすようにして学校がある方向へと指 を向けた。 美嘉は何が起きたか理解できていないといっ た様子で、うつろな目でまばたきを多めにしな がら、 言われるがままにふらふらした足取りで先の 道へと進んでいく。 別れたくない。 別れたくない。 別れたくない。 本当はそばにいて支えてほしい。 俺、美嘉に言わなきゃなんねえことがいっぱい ある。 聞いてほしいことがいっぱいあるんだよ。 涙が鎖骨あたりまで到達した。 まぶたの裏が、こめかみの奥が、耳たぶが熱を 増す。 歩み始めた美嘉は我に返ってくるりと振り返 ると、 再び足取りを戻してこっちに向かって駆け寄 り、 その勢いで俺の胸へと飛び込んできた。


「別れるなんて嫌だよぉ…」

でも、これで、本当に、 本当に、終わりにしよう。

俺だって、 俺だって別れたくねえよ。

長い道。 分かれ道。

できることなら抱きしめ返してやりたい。

ふらふらとあと戻りしかけていた足取りは、 再び終着駅へと進みだす。

でも………、 「…やっぱり俺から行くわ」 くるりと背を向ける。 けれど美嘉と向かい合う幸せな瞬間をどうし ても心にしっかりと焼きつけておきたくて、 俺はもう一度振り返って美嘉の頭にそっと手 を置いた。 あふれ出す愛を、永遠の別れを、 今ここで、誓う。 ――あんたが言うさようならは、 美嘉ちゃんにとっていつか最高の愛の言葉に なるから、絶対。 もし、これが最後の瞬間になるのなら、二人で 過ごした 1 年ちょっとというかけがえのない 日々にピリオドが打たれるというのなら、 俺は最高の笑顔で最高の愛の言葉をおまえに 贈ってみせる。 「…元気でな。幸せになれよ。バイバイ」 何度も寄り道ばかりして、不器用な二人は傷つ け合った。

振り向かず、 胸を張って、 前を向いて。 よし、行こう。 行ってやる。 俺は決して後悔などしていない。 そして俺は背を向けて歩き始めた。 「…ヒロ!!別れる本当の理由は?ヒロが変わっ た本当の理由は…??」 遠くから聞こえる頼りない祈りに満ちたその 声に、 俺はあえて答えを出すことなく片手を上げ、 決して歩む足取りを止めなかった。 ………振り返りたい。 でも、好きだからこそ、 大切だからこそ、 振り返りはしない。 なあ、美嘉。 俺、おまえのこと、忘れなくてもいいかな?

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俺、おまえのこと、忘れられそうにねえんだ。 なあ、美嘉。 だからおまえも、 たまに、本当にたまにでいいから、 俺のことを思い出してくれないか。 自分勝手かもしれないけど、 こういう男がいたんだってことを、 小さくてもいいから、 心に残しておいてほしいんだ。 なあ、美嘉。 離れたくないよ。 なあ、美嘉。 ずっと一緒にいたかった。 なあ、美嘉。 なあ、美嘉。 なあ、美嘉。 最後に一つだけ、 約束してほしいことがあるんだ。

幸せになれ。 世界で一番、誰よりも幸せになれ。 幸せになれ。 幸せになれよ、美嘉。 なってくれよ。 約束だからな。

俺のぶんまで、いつまでも、 限りなく。 しばらく足を進めたところで静かに振り返っ てみた。 美嘉の姿は見えない。 あの笑顔も、泣き顔も、もうどこにもない。 強くなったんだな。 もう、心配しなくても、大丈夫だよな? 俺がいなくても、 一人でもちゃんとやっていけるよな? 俺はおまえが思っている以上にずっと、 弱虫な男なのかもしれない。 だけど、おまえの思い出の中に存在している俺 は、 永遠に強い男のままであるように。 空を見上げる。 流れる雲 …今この空、美嘉に続いている。 美嘉へとつながっている。 これからはお互い別々の道を歩んでいくんだ。 いびつに伸びたシャツのすそ。 涙でじんわりと濡れたズボン。

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最後のキス。 心に触れたあの言葉。 「…行かないで…」 好きだった。 今も変わらず好きだ。 そしてこれからも、ずっと、 この想いが消えることはない。 一歩一歩を刻むようにして踏みしめる足取り。 ふいに力が抜け、 俺は太陽にしぶとく熱されたコンクリートに ひざを下ろした。 そして俺は、泣いた。 声を押し殺して泣いた。 地面を強く殴りつけ、 息が詰まるほど、泣いた。 泣いた。 泣き叫んだ。 ――やべぇ~俺、幸せだ。 美嘉も幸せ~っ!!―― こんなに好きだというのに。 好きだからこそずっと一緒にいたかった。

永遠に隣を歩んでいきたかった。 それなのに、 好きだからこそずっと一緒にはいられなくて、 好きだからこそ、 隣を歩んでいくことは、許されなかった。 許されなかったんだ。 「美嘉。俺、負けねえから。一人でも生きてい ける。生きてみせる。だからおまえも、絶対負 けんなよ」 風によって雲が散り、 透き通る黄空が顔をのぞかせた。 こうして 1 年というかけがえのない日々は、 美嘉と俺の幸せは、 終わりを告げた。 別れてから 1 ヶ月半学校で美嘉の姿を見つけ た。 肩を通過してストレートだった長い髪はほん のりウェーブがかっていて、 凝っていたメイクは落ち着きを取り戻し、 別れてから今までのこの短期間でぐんと見違 えるように大人っぽくなっていて、 付き合っていた頃の美嘉とはまるで別人のよ うに見えた。 その裏で、 俺も負けじと必死に今までの自分を捨てよう としていた。 堅苦しい校則を無視して髪をさらに派手など ぎつい金色に染め、 意味のないケンカを幾度となく繰り返す。


腹いせにも近い気持ちで自分に気のある女を 彼女という存在に持ってきたりもしたが、 長く続くことなくすぐに終わりを告げた。 新たな恋の訪れを拒んでいるわけではない。 かといって望んでいるわけでもなかった。 恋愛は焦ってするものではない。

「桜井弘樹は 1 か月で 10 人の女に手を出した らしい」 いつしか学校内ではそんな噂がちらほらと飛 び交うようになった。 初めてその噂を耳にした時、 苛立ちを感じたのも確かだ。

したいときにすればいい。

教室のゴミ箱を蹴り飛ばしたこともあった。

無理にしたとしても、 それは後に心におもりを残すだけのむなしい ものとなる。

けれど全てが嘘かと問われたら、 素直にうなずくことはできない。

余計なことは何も考えないようにするために も、 孤独な夜を埋めるためにも、 とにかく俺はいろんな女と遊び回った。 とはいっても、 同じ空間にいるというだけで、 一度たりとも手を出したことはない。 いざというときになってそういう瞬間が訪れ たとしても、どうもためらってしまうのだ。 何かが違う。

なぜならところどころ当たっている部分もあ るからだ。 言いたい奴には好きなように言わせておけば いい。 俺はそんなちっぽけなことを気に留めるほど 器の小さい男ではない。と、思う。 多分。おそらく。きっと。 うん、微妙に。

物足りない。

そう思うことによって苛立ちの気持ちを消し 去っていく。

俺が求めていたのはこんな生活ではない……… と、 心の中で繰り返し繰り返し嘆きながら。

自分自身の本音はそうすることによって抑制 することができたけれど、一つだけ、 どうしても消しきれない想いがあった。

「桜井弘樹は彼女と別れてからやけになって、 女を連れて毎日のように遊び歩いている」

それは、その噂が美嘉の耳に届いているのかい ないのか、ということだ。


もし届いているのなら、 それを聞いて美嘉は何を想っただろう。

決して手に持つことを拒んでしまうほど不便 というわけではない。

そんなことを考えていると不安で寝つけない 夜さえあった。

けれどカタカナ文字のメールは時に読みずら いし、 真剣な話をするときには適していない。

永遠にたどり着くことのない行き場のない切 なる想いは、 キレイさっぱりあきらめがついたつもりだっ た。 しかし、ふとした瞬間、 今でも変わらず美嘉のことを忘れられていな いのかもしれないと疑問に感じることがある。 なぜならそれを強く思い知らされるような出 来事を、つい先日、 身を持って経験してしまったからだ。 それは、二人の関係に完璧な終わりが訪れてか ら 2 ヶ月と数日が経過した、 温度を下げた風が髪を通り抜ける夏の夕方だ った。 学校を終えて家に帰った俺は、 携帯電話の最新カタログを片手に、 疲れもあり気だるく壁にもたれかかった。 最近、同じ学年の奴らがPHSから携帯電話へ と乗り換え始めてきている。 実際に俺自身も長く使っているPHSより、 携帯電話のほうに興味が傾きつつあった。 PHS は本体が細く小さいから持ち運びが便利 だし、 携帯電話に比べれば通話料だってうんと安い。

文字数が制限されているせいもあってありと あらゆる誤解を招きやすいというマイナス面 もある。 メールを送信する瞬間に鳴るピポッというか わいらしい音のせいで、 授業中先生に見つかって没収されることもあ るくらいだ。 そして何より携帯電話はPHSに慣れ親しん だ高校生にとって憧れでもあった。 明日にでもPHSを解約して携帯電話に乗り 換えよう。 潔くそう決心した俺は、 最後ということもあっていつもなら見ること もなかったメール受信の画面を開いた。 受信の日付を徐々に昔へと戻していくと、 そこに現れたのは懐かしいいくつかの過去メ ール。 ≪テストハンイキマッタミタイダヨ≪ 同じ学校の友人から届いたお知らせメール。 ≪アシタヒマ?≪ 違う学校の友人から届いた誘いメール。


≪カエリニタバコカッテコイ≪ 姉貴から届いたいやに偉そうな催促メール。 ≪ジュギョウツマラン≪ ノゾムから届いた数学の授業に対する愚痴メ ール。 ≪ミカッテヨンデイイヨ!≪ 当たり前のように画面に表示されたその受信 メールを目にした途端、 俺の手の動きは瞬時にぴたりと停止した。 受信相手の名前は“美嘉” これ以上、見ないほうがいい。 思い出さないほうがいい。 十分に理解していながらも、 指先が勝手に動きを進めていく。 ≪キョウハヒロニアエテウレシカッタヨ☆≪ これは、まだ恋人という関係になる前の高校一 年の夏、 お互いに緊張しながら放課後の教室で待ち合 わせをし、 初めて二人でまともに会話した日の夜に美嘉 から送られてきたメールだ。 ≪ソウダンニノッテクレテアリガトウ≪

これは、美嘉が初めて俺に悩みを打ち明けてく れた日に送られてきたメールだ。 この頃から二人の心の距離はぐんと深まり始 めた。 美嘉の悩みを受け止めて、力になってやりたい って強く思ったんだ。 ≪コチラコソヨロシク!≪ 俺は美嘉に素直な想いを告白し、 美嘉はその想いをしっかりと受け止めてくれ た。 その日の帰り道、美嘉を家まで送ろうと自転車 の後ろ座席に乗せ、 近くにいながらもあえて言葉を口にすること に照れを感じた俺は、 ペダルをこぎながら ≪コレカラヨロシクナ!≪とメールを送信したの だ。 そのときの返事がこれだった。 ≪グアイワルイヨォ≪ 美嘉のお腹に新しい命が宿ったとき、 美嘉は何日も学校を休んではこういったメー ルをひんぱんに送信してきた。 相当つわりが苦しかったのだろう。 きっと美嘉から俺へのSOSだったんだな。 ≪アカチャン、オンナノコノヨウナキガスルノ≪ ≪ヒロハドッチダトオモウ?≪

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これは、流産する何日か前に送られてきたメー ルだ。 あのときは未来があった。 希望があった。 まさかこんな傷だらけの結末が待っているだ なんて、想像もしていなかった。 ≪ヒロ? イマドコ?≪

………美嘉。 俺も好きだった。 ずっと一緒にいたかった。 でも、二人の来年は、 もう二度と訪れねえんだよ。 ≪ゴメンネ≪ ≪アイタイヨ、オネガイ≪

クリスマスの夜、 激しい腹痛を訴えて産婦人科に駆け込んだ美 嘉。

≪ホウカゴハナソウ≪

美嘉が流産してしまうかもしれないと知った 俺は、 病院を抜け出し、 雪が降り続けるなか、 神社で一日中祈りをささげた。

美嘉とノゾムがキスをしたという事実を知っ た俺は、美嘉に別れようとたった一言を打って メールを送信した。

赤ちゃんが無事生まれますように、ただただそ う祈って。

≪ヒロ…≪

美嘉の寂しさに気づいてやることもできずに。 ≪キョウノホウカゴ、カワラニイカナイ?≪ 二人にとって特別な場所であった思い出の川 原は、傷つけ合う場所となり、 そして終わりを告げる場所となった。 ≪ヒロ、ダイスキダヨ!≪ ≪ズットイッショニイヨウネ≪ ≪ソレハライネンマデノオタノシミ☆≪

≪トショシツニイマス≪

≪ワカレタクナイ≪

≪イマデモダイスキダヨ≪ 0・7・0・5・0・7・4・×・×・×・× 受信メールを読み進めていた俺の指は、いつし か美嘉の PHS の番号を押し始めていた。 会いたい。 なあ、美嘉。 今、俺、おまえに、すげえ会いたいよ。 美嘉は今どこで何していますか?

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泣いていますか? 怒っていますか? ちゃんと笑えていますか? どういう毎日を過ごしていますか? 俺のことを一瞬でも思い出す日はあります か? それとも、俺以外のほかの誰かと、 今ごろ楽しく過ごしていますか? 俺のことなんて、もう、 記憶から消し去ってしまいましたか? 『おかけになった電話番号は現在使われてお りません。番号をお確かめのうえ…』 受話器の向こう側に一方通行で流れる単調な アナウンス。 ただの聞き間違いかもしれない。 と、もう一度かけ直してみる。 『おかけになった電話番号は…』 もう一度。 もう一度。 あともう一度だけ。 『おかけになった…』 いくらかけ直しても美嘉のもとへとつながる 気配はない。 どうやら解約されてしまったらしい。

『おかけになった電話番号は現在使われてお りません。番号をお確かめのうえもう一度おか け直しください。おかけになった番号は現在使 われておりません。番号をお確かめのうえもう 一度おかけ直しください。おかけになった電話 番号は現在…』 もし、生まれてからずっと独りぼっちだったの なら、こんなに寂しい想いはしなかったのかも しれない。 でも、支える心強さを、支えられる頼もしさを、 誰かを愛し、 誰かに愛されるということを知ってしまった 今の俺には、 独りぼっちが寂しくて。 あまりに寂しすぎて。 それはもう、 壊れてしまうほどに。 電話がつながっていたとしたら、 俺は一体どんな言葉を口にしていただろう。 そして美嘉は俺に対して、どんな言葉を投げか けていただろう。 悲しいことに想像もつかない。 「会いたい」この一言を口にすることができな いだけで、こんなにも辛く、胸が苦しい。 美嘉の心にもう桜井弘樹は存在していない。 離れ離れになって空いた隙間は、 きっと違う何かによって埋められつつあるの だろう。 二人で過ごした日々は、美嘉にとって思い出す のも苦痛なほど、 重い人生の一部だったと呼ばれているのかも


しれない。 俺はおもむろに PHS を両手で真っ二つに折る と、全ての過去を殺した。 笑顔の未来は望まなくとも、幸福な結末は望ま なくとも、ただ想うだけなら許されるだろう か。 それとも想うことさえ許されないのだろうか。 俺は本棚の奥から一冊の薄いノートを取り出 して開くと、ペンを片手にそこにさらさらと文 字を書き綴った。 癌を宣告されたあの日から書き始めたこのノ ート。 何かあるごとにまるで日記をつけるかのよう にその時々の出来事や想いを書き綴っている。 ここは唯一、俺の本音をさらけ出せる場所。 ― 8 月 12 日― 突然美嘉に会いたくなって電話をしたけどつ ながらなかった。 番号を替えてしまったのか…。 書き終えた俺は持っていたペンを床に放り投 げると、 ノートを閉じて再び本棚の奥へと隠すように しまい込んだ。 このノートが後に美嘉の手に渡り、 美嘉の目に映るということを、 今はまだ知るはずもなくて。


三章◇君跡 あの頃に、戻れたのなら。 どんなに辛いことがあろうと季節は変わらず 流れていく。 学校祭、夏休み、修学旅行。 様々な高校行事が知らぬ間に目の前を通り過 ぎていったけれど、 どれもつまらないものだった。 俺はそれなりに笑っているつもりだ。 笑っているのは確かなのだけれど、 どこか発散しきれていない。

むしろ離れ離れになっている今の状態が当た り前のように思えて、 一緒に過ごした日々がまるで遠い夢の中に存 在している幻の出来事でもあるかのようで。 そんな寂しさと物悲しさを抱えたまま季節は 冬を迎えた。 灰色に濁った空からは綿のようにちりばめら れた雪が舞い降り、 味気ないコンクリートの地面に儚い夢を植え つけていく。 ―― 12 月 24 日。 テスト結果があまり思わしくなかったせいで、 ほぼ毎日のように行われる放課後の面倒な補 習に散々悩まされ続けていた俺も、 この日ようやく最終日を迎えて解放されたの だった。 今、俺には彼女と呼べる存在がいる。

最後に心の底から声をあげて本気で笑ったの は一体いつだろう。 いつも作り笑いばかりをしてきたせいで、 本当の笑い方を忘れてしまった。 美嘉とは相変わらず互いに避け合う状態で、 たまに廊下で偶然肩が触れ合うことはあって も、 言葉を交わすことはもちろんのこと、 一瞬でも目を合わすことさえなかった。 別れたばかりの頃は、 好きなのにそばで支えてやることができない というもどかしさに夜な夜なうなされたりも したけれど、 最近ではその切なさにも慣れてきた。

しかし彼女とは毎日遊んでいるわけでもなけ れば、お互いの親に紹介し合うほど深い関係で はない。 それに、俺がいまだに美嘉を想っているという ことを、彼女は全て知っている。 知っていながら、それでも付き合ってほしい と、 数か月ほど前、涙ながらに想いを告白してきた のだ。 俺は、迷った。 いつまでもうじうじしている自分が嫌いで仕

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方がなかったということもあるし、何より彼女 は、 美嘉のクラスメイトの友人でもあったからだ。 俺は迷いに迷ったすえ、 その想いを受け止めることにした。 それは俺なりに幸せに過ごしているというこ とを美嘉に見せ付けて嫉妬してほしかったの か、 前に進んでいるということを遠まわしに伝え て安心してほしかったのかは、今となってはわ からない。 今日はクリスマスイブ。 普通、こういった特別な日は、 恋人がいれば一緒に過ごすものなのだろうけ ど、 俺はこの日、彼女からの誘いを断った。 彼女は残念そうな表情を浮かべながらも、 その勝手な行動をしぶしぶ受け入れてくれた。 それは俺の素直な想いを全て知っているから こそ、許されることなのかもしれない。 彼女のこと、本当に好きなの? と聞かれたら、俺は首をかしげて出すべき答え を迷ってしまうだろう。

それは紛れもない事実だった。 学校を終えて彼女と友人たちに別れを告げた 俺は、 厚い茶革の財布をしっかりと握りしめると、 家路につくはずだった足取りをいったん引き 返し、 近所のショッピングセンターへと足を運んだ。 美嘉が流産したのは、忘れもしない、 1 年前の 12 月 25 日。 そう、まさに去年のクリスマスだった。 一年前の今頃は、 俺も美嘉も新しい命が神様の手によって奪わ れていくなんて、夢にも思っていなかった。 クリスマスの翌日、 俺と美嘉は病院で流産という悲しい現実を心 でしっかりと受け止めた。 そして、この世界で一度も光を見ることができ なかった赤ちゃんへの、 せめてもの償いのためにも、 数日後、水子供養をしてくれる寺へと足を運ん だ。

彼女を傷つけていると理解していながらも、 寂しさが募る日には、頼ってしまうこともあ る。

供養を終えると、 坊さんは柔らかい笑みを浮かべながら 「赤ちゃんは女の子だったみたいですね」 と言った。

でも一つだけ確かなことは、 彼女の存在は少なくとも今の俺を支えてくれ ている。

そして 「赤ちゃんはまたいつか、 あなたたちのところへ戻ってきますよ」


とも言った。

信じきっていた。

何一つ迷うことなく毎年という未来をこう口 にすることができたのも、 いつまでも俺の隣には美嘉がいるということ を信じていたからだ。

今となってはその言葉のたどり着くであろう 場所がわからなくなってしまったけれど、

「それいいね!! でも、どこにする??」

それでも最後の最後まで奇跡を信じようとし ている俺は、夢想家と呼ばれてしまうのだろう か。

美嘉は無理に元気を装ってまだ足跡の刻まれ ていない雪の上をぴょんぴょんと飛び跳ねて いる。

そして忘れもしない、二人は供養を終えた帰り 道、互いの手を取り合いながらある一つの約束 を交わした。

「そうだな~俺らが出会った場所が学校だか ら、 学校の近くに公園あったよな。そこにしね え?」

目を閉じてあの日の情景を鮮明に思い返す。

「うんっ、いいよ!!」

――水子供養を終えた夕方の帰り道。両手で凍え る冬空を仰ぐ二人。

そして二人はアンモビウムという名の薄紫色 の小さな花をお供え用として買い、 学校近くにある公園へと足を運んだ。

あの頃は確かにその言葉を信じていた。

「赤ちゃん、女の子だったんだなー」

「こことかいいんじゃね?」

言いながら俺は今にも凍りつきそうな白濁の 息を寒さで赤く色づいた手のひらにふうっと 吐き出した。

到着してすぐに俺が指さしたのは公園の隅っ こにある花壇だ。

視界が一面、白一色に染まり、足取りを邪魔す る。

ここは春になったら新しい芽が顔をのぞかせ、 夏には色とりどりの花が咲き乱れる。

「うん…」

その花は秋になると静かに散りゆき、 冬になったら長い眠りに入る。

「どっか場所決めて、毎年クリスマスにお参り 行かねえ? そしたら赤ちゃんは自分の存在 忘れられてないんだって喜んでくれるかもな」

よし、この場所、すげえ気に入った。 「うん!! ここにしよっか!!」


二人は花壇に積もった雪を手のひらで何度か 払いのけ、そこにアンモビウムを供えると、 両手を顔の前に合わせた。 目を閉じて、 視界を真っ暗に染め、 赤ちゃんへのメッセージをそれぞれの頭の中 で伝えていく。 俺と美嘉の赤ちゃん。聞こえるか? 短い時間だったけど、 俺と美嘉の間に存在してくれて、 ありがとう。 二人を選んでくれて、 本当にありがとな。 俺、おまえの母さんをこれからもずっと守って いくから。 だから、何も心配しなくていいからな。 いつか何十年後かに俺がそっちの世界に行っ たとき…そのときは、うんとかわいがってやる。 それまでいい子にして待ってろよ! 隣にいる美嘉。 目を閉じてうつむく美嘉は、 赤ちゃんにどんなメッセージを送り、どんな想 いを伝えているのだろう。 「美嘉、また来年ここに来ような?」

それは俺にとって祈りにも近い、 あまりに切実な願いだった。 12 月 25 日、クリスマス。 毎日じゃなくたっていい。 だけどせめて 1 年に一度は、 こうして二人で手を合わせ、 素直な想いを赤ちゃんへと伝えていけたなら。 存在していた時間を決して忘れることのない よう。 この想いを決して忘れることのないよう。 「来年~? 毎年だよ!! 来年も再来年もず っとずっとずーっと二人で来るの!!」 美嘉は俺の肩に頭をのせながら、 確かな未来への足取りを誓う。 「ははっ、そうだな。約束だな」 そして二人は手を取り、 前を向いてともに未来へと歩き始めた。 来年が訪れることを、信じて――。 懐かしい出来事の全てを走馬灯のように頭の 中に駆け巡らせた俺の足は、 いつしか街中のショッピングセンターの 1 階に あるお菓子コーナーへと向かっていた。 クリスマスの時期になるとよく売られている、 小さな赤いブーツの中にクッキーやらラムネ


やらチョコレートやらチューインガムやらの お菓子がたくさん詰められたもの。 それを無我夢中で手に取り、 かごの中へと投げ入れていく。 1 個、2 個、3 個。 手を止めることなく次々と増やしていく。 ブーツの横幅が大きいものから小さいものま で、 色が赤いものから黄色いものまで、 形がシンプルなものから派手なキャラクター がついたものまでもひたすらかごに向かって 投げ入れ、 その合計がちょうど 43 個になったところで俺 はようやく手を止めた。 そして次に休む間もなく足を運んだのは衣類 のコーナーだ。 冬の防寒対策グッズが展開されているコーナ ーで、 俺は淡いピンク色の子供用の手袋をかごにそ っと落とし入れた。 1 組、2 組、3 組。 足りなくて店員に問い合わせてみたところ、 在庫があとわずかしか残っていないらしい。 さっきまで選んでいたお菓子のブーツとは違 って、 ピンク以外の色を選んだりだとか、 子共用のサイズをあきらめて大人用のサイズ に替えてみるだとか、 そういった妥協はどうしてもしたくなくて、 いったん全ての会計を済ませた俺はほかのシ ョッピングセンターを次々と回っては、 とにかく似たような手袋をひたすら買い求め

た。 それから数時間が経過して、 雲が灰色ににじんだ影をうっすらと散らつか せた頃、 俺はようやく思い望んでいた数のお菓子のブ ーツと子供用の手袋を手にしたのだった。 思いのほか苦労したので、 やり遂げた達成感はより大きい。 さっきからどうもつま先が痛いと思ったら、 血豆ができている。 その血豆が靴の先端の圧力で潰れてしまって いるせい か靴下の側面を赤黒く染めている。 けれど 43 個のブーツと 43 組の手袋を手に入れ ることができたという事実だけで、 俺は痛みなんて忘れるくらいに満足していた。 “どっか場所決めて、 毎年クリスマスにお参り行かねえ?” 1 年前に美嘉と交わした約束。 夢見ていた未来。 その約束を守り抜くためにも、 いつかの未来を築くためにも、 例え一人だとしても俺は今日の夜、 時計が 12 時を回って世間ではクリスマスと呼 ばれるにぎやかな瞬間が訪れたとき、 赤ちゃんのお参りをするためにあの公園へと 足を運ぶつもりでいる。 美嘉はきっと来ない。


そんなことは予想しなくてもわかっている。 もしかしたら会えるかもしれない…なんてくだ らな い期待はこれっぽっちも抱いていない。 いや、本音を言えば少しだけ期待しているのか もしれない。 というよりは来てほしいと願っているという ほうが正しい。 来ないことぐらいわかっているはずなのに。 お参りに行くということは、 結果的に何かしらのお供え物を必要とするだ ろう。 去年のようにどこかでかわいい花束を買えた らそれが一番いいのだけれど、 花はお供えする直前に買うものであって、 前もって買っておいてしまえばすぐに枯れて しまう。 それに、俺の体はいつお供え物を買いに行くこ とができなくなるくらい弱くなってしまうか わからない。 お参りどころか立ち上がることさえできない 状態に陥ってしまうかもしれない。 そうなったとき、 お参りに行くことをほかの誰かに頼み、 代わりに足を運んでもらうことはできるけれ ど、 行けない代わりにお供え物だけはせめて自分 自身の手で選び抜いたものがいい。

だからこそ俺は、今のうちにお供え用の何かを 買いだめしておこうと心に決めて、 ショッピングセンターへと足を運んだのだっ た。 水子供養に行ったとき、 寺の坊さんが「赤ちゃんは女の子だったみたい ですね」と言った。 だから、手袋は女の子らしいピンク色を選ん だ。 もし生まれていたら、 ピンク色が似合っていただろうと、 直感的にそう感じたということが理由の一つ でもある。 そしてなぜ両方とも 43 の数字にこだわったの かというと、俺が 60 歳になるまでのぶんを今 のうちに買いだめしておきたかったからだ。 つい先日、誕生日を迎えた俺はめでたく 17 歳 になった。 60 歳を迎えるまでお参りを続けていくには、 あと 43 年…つまり 43 個のお供え物を必要とす る。 60 歳まで生きていけるのかなんてわからない。 正直、あまり自信がないのも確かだ。 けれど俺は生きてみせる。 ブーツも手袋も、 60 歳になるまで自分の手でお供えしてみせる。 43 という数字にこだわったのは、 そういった決意の表れでもあった。


外は大粒の雪が舞い落ちていて、 街は銀世界、足跡をつけることさえためらって しまうような眩しい雪化粧で染められていく。 髪の毛にじんわりと浸透する小粒の結晶を肌 で直に感じた俺は、 取れかけたマフラーをしっかりと巻き直すと、 両手いっぱいに袋を下げ、 吐くたびに漏れる白い息に包まれ、 ずるずると足を引きずりながら時間をかけて 家路についたのだった。 いや~なんか悪いっすね! ていうか料理めちゃめちゃうまそう! 早く食いたいなぁ。おばさんすげえ料理上手な ん すね! はっはっはっはっはっ!」 頭に雪を積もらせながらようやく家に到着し、 ドアのわずかな隙間から居間の風景をのぞい た俺はひどく愕然とした。 オーブンでスポンジケーキを焼いたであろう 漂う香ばしさに混ざり合い、 チキンの横に添えられたバジルの独特な香り。 居間の四角い木製テーブルには仕事帰りの親 父、 ごはん仕度を終えた母さん、 徹夜帰りの姉貴の姿がある。 クリスマスイブとはいえ、 今までなら各々の行動が見事にばらばらだっ たはずの家族は珍しく居間に集結していて、 それどころかまるで今すぐにでもパーティ始 めようとしているかのような準備さえ整えら れている。 それだけでも驚きを隠しきれないというのに、 何より衝撃を受けたのは、

俺がいつも座っているはずの席に見慣れた男 が声高らかに笑い声をあげながら、 堂々とした様子で居座っていたからだ。 「あら、それはどうもありがとう」 母さんがその男のからになった透明のグラス に 100%のグレープジュースをそそいでいる。 男は「ありがとうございます!」 と威勢よく口にしつつも丁寧に頭を下げると、 まるでワインでも飲むかのようにグラス下の 細い持ち手の部分を指先でつまみ、 その状態でグラスをくるくると回しながらぶ どうの甘酸っぱい匂いを堪能しながら、 「う~ん、最高!」 と感銘の意味を表しているのであろうわざと らしいうなり声をあげた。 「弘樹、おいしいなんて一度も言ってくれたこ とないんだから。いつもむすっとして、ごちそ うさますら言わないのよ」 とテーブルにひじをつきながら浅いため息を 漏らしたのは母さんだ。 「やれやれ。あいつはぜいたく者だなぁ。 あーあ、できることなら俺が桜井家に生まれた かった」 そう口にしたのはなぜか家族の中に紛れてい る他人の男。 「いらっしゃい。ノゾムくんならいつでも大歓 迎よ」

2


そう、そこに堂々と居座っているその他人の男 は紛れもなくノゾムだ。 今日の放課後、じゃあなと互いに言い合って別 れたはずのノゾムが、なぜここに? ましてやクリスマスイブだというのに。 「マジっすか!? じゃあ俺、今日から桜井家 の子供になっちゃおっかな~? 桜井ノゾム! ほら、なかなか合ってるし!」 「調子いいな、こいつ」 低い一定の音程でぽつりとそう吐き捨てた姉 貴は呆れた表情を浮かべながらも、 その裏で微かな笑みを隠している。 そしていつもなら笑顔一つ見せることなくも くもくとビールを飲んでいる親父までもが、は はは、 と声を遠慮がちに漏らしながら小さく微笑ん でいる。 いつぶりに目にした光景だろう。 「それにしてもヒロ遅いっすね。何やってんだ か」 言いながら両手を天井にかかげて大きく伸び をしたノゾムは、 壁にかけられている時計で現在の時刻を確認 するついでに、 勢いづけてドアの方向へと目を向けた。 隙間からのぞいていた俺は意味もなく慌てて ドアの陰にさっと身を隠す。

「ったくどこで何やってんだろうね、あいつ。 彼女いるんだかいないんだかよくわかんない けど、 今頃街でナンパでもしてんじゃない? 欲求不満の飢えた狼みたいに」 姉貴は人差し指で机をとんとんとたたいて待 ちわびる気持ちと苛立ちのリズムをテンポよ くとりながら、 ローストビーフの横にさりげなく添えられて いるからからのフライドポテトを一本だけつ まんで口へと投げ入れた。 「こら、つまみ食いするんじゃないの。だらし ないんだから」 と母さんはすぐさま鋭い目つきで姉貴に注意 をうながす。 「これくらいいいじゃん、別に」 「そんなんじゃいつまでたってもお嫁に行け ないわよ?」 「別に行けなくてもいい。結婚とかそういうの 面倒くせえし」 「面倒くせえ、じゃなくて、面倒くさい、でし ょ。 女の子なんだからもっと言葉遣いきれいにし なさいよ」 「はいはい、わかったわかった。ったく、いち いち面倒くせえな」 「何よ、全然わかってないじゃない。だから面 倒くせえじゃなくて…」


「ヒロ、女の子ナンパしてんのかぁ。でも別に わざわざこんな日にしなくたっていいのに」 線香花火のように静かに火花が散り始めた姉 貴と母さんの一連の流れを潔くさえぎって話 を戻したのはノゾムだ。 まあ、ノゾムのことだからあと先のことを考え たうえでわざと途中で割り込んだのだろうけ ど。 「クリスマスなのに独り身になりそうだから って焦ってるとか? ははは、うける」 姉貴は悪びれなくそう口にする。 「えー、それなら俺も誘ってくれたらよかった のに!」

桜井家なのだ。 それなのにどうして桜井家の一員である俺が 身を隠しているのだろう。 俺がこうしてこそこそする必要はこれっぽっ ちもないはずだ。 見つからないよう会話の内容に耳を澄ませて いる自分をひどくばかばかしく感じた俺は、 とっさに「ただいま」と何事もなかったふうを 装って半開きだったドアを全開にさせた。 「あ、やっと帰ってきた。今ちょうどヒロの噂 してたところ! でも心配すんな。悪い噂じゃ ないから!」 ノゾムが前もって懐に用意していたかのよう にすかさず口を開く。

ノゾムは脳内で繰り広げているであろう、 今頃街中でナンパしている幻想の俺の姿を羨 望の眼差しでじっと見つめている。

どう考えても無理のあるフォローを兼ね備え て。

そんなノゾムの横顔をドアの隙間からのぞき つつ、 俺はささいな疑問を感じていた。

「へえ、いい噂ね。クリスマスに独り身になり そうだから、焦って街でナンパしてるって、そ れのどこがいい噂なんだよ?」

確かにすぐそこにはノゾムがいる。

「げげげっ! なぜそれを!」

家族の中にノゾムが混ざっている。

露骨に驚きを放つ表情を浮かべながら焦り狂 う大げさなジェスチャーをやってのけるノゾ ムを、 俺はあえて見ないふりをして、 しわなくキレイに巻き取ったマフラーを床に 乱暴に投げ捨てると、 だらしなくソファーに腰を下ろした。

が、混ざっているというのになぜか違和感がま ったくない。 けれどここはノゾムの家ではなく、 俺の家だ。


「一人で帰ってきたってことはナンパ失敗し たんだ?」 片方の口の端を微妙に上げてにやっと不敵な 笑みを浮かべながらそう発したのは姉貴だ。 姉貴がこの笑みを浮かべるときはいつもろく なことが起きない。 下手に何かを言い返しでもすればさらに倍に なって嫌味な言葉が返ってくることくらいわ かっている。 だからここはあえて何も言い返さず、余裕を見 せてさらりと言葉を返すことが一番正しい逃 れ方だ。 「まあ、そんなところだな」

ナンパ失敗したのか…そうだったのか…仕方が ないな、それは…」 途切れ途切れにそう言葉を発する親父は張っ ている肩の力をへなへなと抜かし、 その表情からは笑顔は消え、 なぜかうつむいて元気を失っている。 「おい、親父。まさか俺が街でナンパしてきた とか本気で信じてるわけじゃねえよな?」 「………なあ、一つ聞いていいか? どうやってナンパしたんだ? 背後から声…かけたのか? それとも…前に立ちはだかって…」 「俺の話、聞いてる?」

「だいたいクリスマスイブの街中なんて甘っ たるいカップルであふれ返ってて、一人で歩い てる女なんてそうそういないんじゃない? まあ、それならふられてもしょうがないか」

「だいたい弘樹は…どういった女性がタイプな んだ…? どういったタイプの女性を…そ の……ナンパするんだ…? ちなみに父さんは どっちかっていうとこう母さんみたいにムチ ム…」

「そうそう、まさにそのとおり」

「あなた!」

「えっ!」 と勢いで言葉を発してはすぐに後悔したのか、 手のひらで唇を押さえつけて口をつぐんだの は、 意外にも親父だった。

そう言って必死な形相でここぞとばかりに体 を前に乗り出す親父の言葉を母さんが声を張 り上げて途中で遮る。 「だーかーら! ナンパなんてしてねえから!」

「えって、何?」

「え? し、してないのか?」

俺はあえて強気な態度で聞き返す。

「してないに決まってんだろ! 確かに街には 行ったけど、ただ単に買いたいものがあったか らだし」

「え? あ、いや、その…そうなのか…そうか…


「おじさん、ヒロはね、ふられたっていう事実 を受け止めたくないからってただ強がってる だけなんだよ。だからそっとしてやって。もう ナンパのことには触れないでやって」 ノゾムが飲み物でのどを潤しながら余計な口 を挟む。 「そ、そうか…やっぱりそうだったのか。ナン パなんてそうそううまくいかないもんだよ な…。触れたことに対しては謝る…ごめんな。 そうか…だめだったか…でも元気出せよ、弘樹」 「何回言えばわかるんだよ。してねえって言っ てんだろ。おい、ノゾム、てめえ!」 ノゾムは今にも振り下ろされようとしている 俺の握りこぶしから逃げるためにも居間を駆 け回り、 俺はそんなノゾムの後ろ姿を必死で追いかけ た。 やりとりの一部始終を見ていた姉貴は両手を 激しくたたきながら笑い、 母さんは呆れ返った様子でその場をおもむろ に立ち上がると、 おかずが置かれているお皿たちを電子レンジ に放り込みながら 「お父さんね、昔、お母さんのことをナンパし てこっぴどくふられたことがあるのよ。 それがトラウマになっているみたい」 と言い放った。 度肝を抜かれた親父は 「か、母さん!」 と声を裏返しながら足元に置かれている新聞

を手にして読むふりを見せては、 赤らめている顔を必死に隠していたのだった。 「そういえば、なんでおまえがここにいん の?」 俺は居間中を逃げ回っていたせいで床に倒れ 込みながらぜいぜいと息を切らしているノゾ ムに核心に迫る。 「俺、今日から桜井家の一員になったから。 こんにちは、僕、桜井ノゾムでーす!」 「おまえが俺の弟になるとか普通に嫌なんだ けど」 「違う違う。俺は妹希望だから。よろしくね、 ヒロお兄ちゃん!」 ノゾムはくねくねと体を左右に揺らしながら おぞましいかわいさを無理にアピールしよう としている。 正直なところこれっぽっちもかわいくなんか ないのだけれど。 「断る」 「ヒロ、ノゾム。とりあえずあんたら適当にそ のへん座ってくんない? さっさと乾杯する よ。こっちは早く飲みたくてさっきからうずう ずしてんだから」 姉貴の先を急かさんばかりに発せられたその 言葉をいち早く理解したノゾムは、 さっきまでの疲れがまるで嘘であるかのよう にその場をすっくと立ち上がると、 再び同じ席に腰を下ろした。


席をわずかに詰めて俺が座る狭いスペースを 作ったノゾムは、隣に来いとしつこく手招きし ている。 仕方なく生ぬるいスペースに腰を下ろす。 と同時に各々に求める飲み物が注がれたグラ スが手渡された。 「じゃあとりあえず、新しい桜井家に乾杯!」 なぜか他人であるノゾムのかけ声によって乾 杯が始まる。 カチン、カチン、カチン、カチン、カチン。 5 つのグラスがぶつかり合う涼しげな音を合図 に、 せきを切ったようにそれぞれが好みの料理へ と手を伸ばした。 水菜のサラダ。ローストビーフ。 チキンのバジル添え。散らし寿司。 かまぼこの梅干しあえ。ほうれん草のおひた し。 たまご焼き。 うん、うまい。どれもこれもうまい。 一度だけ、美嘉が俺に弁当を作ってきてくれた ことがある。 その中にもたまご焼きが入っていて、 たまご焼きの横には小さなボトルに入れられ た醤油が添えられていた。

不思議に思った俺は聞いた。 「なんでたまご焼きなのに醤油が入ってん の?」 すると美嘉はこう答えたのだ。 「実はね、味つけするの忘れちゃったんだ…」 舌に広がったたまご焼きは本当に味がしなく て、 形もすごくいびつだったけれど、 それでもすげえうまいと思った。 今まで食ったどのたまご焼きより、 一番うまいって、おせじでも偽りでもなく、 本気でそう思ったんだ。 懐かしい気持ちが胸の奥からぐんぐんと込み 上げてくるのを感じた俺は、 首を横に激しく振って過去から現実へと目を 向けた。 「ねえ、ヒロって学校ではどんな感じなの?」 はしでミニトマトを今にも落としそうにつま みながら突然ノゾムにそう問いかけたのは、 すでに酔っ払い始めている姉貴だ。 「それはぜひ聞いてみたいね」 と、親父がさりげなく横入りする。 「そりゃあもう見たまんま。かなり悪い奴っす よ。


今はクラスが違うからよくわかんないけど、 1 年のときなんてしょっちゅう髪の色とか制服 の乱れとかで先生に呼び出されて怒られてた し、 学校はさぼるわ、何かあればすぐ殴り合いのけ んかばっかしてた。 まぁ、今もたいして変わらないみたいだけど!」 「てめえ、ふざけ…」 「あっ、そうそう。1 年のときの国語の授業で、 出席番号順に一人一人教科書を朗読させられ たことあったんすよ! そのときヒロ、“雑木 林”を“ざつもくりん”て読んでたよな! 最 高にうけた!」 ふつふつと笑い声がわき上がる。 「うるせえ! じゃあこのさい俺も言わせても らうけど、おまえなんてリンゴは土の中で育つ と思ってただろ!」 「ばっか、それは禁句って前に言ったのに! 俺はこの桜井家では天才少年で通ってるんだ からな。 まぁ大切な期末テストで名前書き忘れて 0 点取 ったヒロよりはマシですけどー」 「先生にしようと思ってしかけたいたずら、し かけたことすら忘れて自分でひっかかるおま えに言われたくないから」 「あっ、こら、それ以上は」 「日曜日なのに学校行くし、学校始まってんの に夏休みだと勘違いして休んでるし、彼女と別 の女間違えて抱きついてビンタ食らってたこ ともあったし」

「わかったわかった、俺の負けだ。頼む。勘弁 してくれ!」 姉貴がここぞとばかりに横から割り込んで口 を出す。 「最高にくだらない言い争いしてんね。ていう かあんたら中学のとき、意味わかんないことで つかみ合いのけんかしてなかった? ショー トケーキのいちごがなんとかってやつ」 「なに? なに?」 その話にいやに興味を持ち始めて先を急かし たのは母さんだ。 親父はさりげなく耳を澄ませている。 「それがさ、ヒロとノゾムがショートケーキの いちごは最初に食べるか最後に食べるかで言 い争いになって、最終的にはつかみ合いのけん かになったんだって。そんで絶交までしたと か」 「今でもこれだけは譲れない。いちごはショー トケーキの楽しみだろ? 普通は最後の楽し みに取っておくもんだろ」 と、それが当たり前といわんばかりに胸を張る ノゾム。 「いや、最初に食うのが常識だから」 と、負けじと強気で言い返す俺。 「常識なのは最後だって。生クリームってのど が渇くだろ?だから最後に水分の多いいちご でのどを潤すんだよ!」


に並べられている水菜のサラダを指さした。 「一番上に乗っかってるってことは、最初に食 べろってことだろ」 「いや、絶対に最後」 「いやいや、絶対に最初だから」 「最後だって」 「最初だから」 「最後」 「最初」 「「まあまあまあまあ」」 親父と母さんが声をそろえて始まりかけてい た争いを止めた。 「母さんも新婚当時はよく父さんとくだらな いケンカしたものよ。例えばサラダにはマヨネ ーズかドレッシングか、とかね」 「ああ、そんなこともあったな。俺がマヨネー ズ派で」 「母さんがドレッシング派だったの」 「で、最終的にはどっちが勝ったんすか?」 からになったグラスを片手にわくわくした様 子で身を乗り出しているノゾム。頭の中で答え を予測しているらしい。 「これ見たらわかるだろ」 俺はそう言ってテーブルのど真ん中に偉そう

サラダにはツナとコーンフレークが混ぜ合わ せられていて、その上には柚子風味のドレッシ ングがかけられている。 「俺は今でもマヨネーズ派なんだがな」 酔っ払っているのか珍しく強気な態度に出た 親父が飲み干したビールのグラスを片手に、 そしてもう片方の手で唇に浸透されつつある 白い泡を拭い取った。 頬がほんのり赤く染まっている。 「あら、マヨネーズよりドレッシングが好きに なったって言ってくれたじゃない。あの言葉は 嘘だったの?これからもサラダにはドレッシ ングでいいから俺と結婚してくれって」 「あのときは確かにそう言った。でもこの際だ から正直に言っておく。本当はマヨネーズがい いんだ。 俺はマヨネーズが好きなんだ。大好きなんだ。 ドレッシングはどうも舌になじまなくて」 「マヨネーズなんて油っこくて嫌よ」 「その油っこさがまたいいんじゃないか」 「母さんは断然ドレッシング派です」 「俺は断然マヨネーズ派」 「ドレッシングよ」 「マヨネーズだろ」 「ドレッシング」 「マヨネーズ」


「「まあまあまあまあまあ」」

ベツで、その次はピザトーストで、その次は…」

俺とノゾムの声が同時に重なり、瞬時に顔を見 合わせた二人は思わず笑みを漏らした。

「おまえまさか、毎年クリスマスイブになった らうちに来る気じゃねえだろうな?」

「やれやれ、しょうもねーな」

俺はノゾムの言葉を途中でさえぎる。

その横で姉貴は火をつけたばかりの長さの残 るタバコを片手に、幸せを匂わす浅いため息を 吐き出している。

「当たり前じゃん! だって俺何も用事ない し、一人でいても暇なんだもん。 例え迷惑だって言われても現れてやる!」

楽しかった。いつぶりだろう。

ノゾムの笑顔につられて俺も一緒になって呆 れ笑う。

これほどまでに声をあげて笑ったのは。

それにつられて家族も笑う。みんな笑う。

気持ちが安らいだのは。

心は笑いに満ちあふれている。

生きていてよかったと感じたのは。

温かさに、約束された未来に満ちあふれてい る。

もし独りぼっちでこの日を過ごしていたとし たのなら、多くのことを思い返し、 悩み、嘆き、余計なことばかりを考え、 生まれてこの方最低最悪なクリスマスイブに なっていたかもしれない。

俺は今、もしかしたら、すげえ幸せなのかもし れない。

けれど家族がいてくれたおかげで、 ノゾムがいてくれたおかげで、俺はこうして笑 っている。 本当の笑い方を思い出そうとしている。

「じゃあ来年こそはマジで街中でナンパでも してみるか」 と、俺。 「うまくいくといいな…俺のぶんまで」 と、親父。

「おばさん、来年のクリスマスイブパーティは 俺の大好物の春巻きも作って欲しいな!」

「いやね、父さんったらまだ根に持ってる の?」 と、母さん。

「まかせなさい。ノゾム君のためなら腕ふるっ ちゃうわよ~」

「ヒロ! 俺もぜひ一緒に連れて行ってくれ!」 と、ノゾム。

「再来年はオムライスで、その次はロールキャ

「ったくやかましい奴らだな。でも、こうやっ


て過ごすのも、なかなか悪くねえかもな」 と、姉貴。 家族が前々からこの日にクリスマスイブパー ティを開く計画を立てていたということを、 そしてノゾムが友達や家の用事を全て断って 俺のためにうちに来てくれていたということ を知ったのは、 それからしばらくたってからのことだった。 時計はいつの間にか夜中の 11 時 35 分を回って いる。 姉貴は酒に酔い潰れて床に転がったまま寝息 をたて、 いつも通り早寝早起きである親父と母さんは とっくのとうに寝室の布団に潜り込み、 居間に残ったのは俺とノゾムの二人だけとな った。 「こんなに楽しかったの久しぶりだわ。ってこ とで俺はそろそろ帰るとするか。ってかむしろ 帰ってやるって感じだけど!」 ノゾムは皿に残っている最後のローストビー フを指先でつまんで口の中にひょいと投げ入 れると、まるで全てを見透かしているかのよう に目を細めて俺の横顔をまじまじと見つめた。 「それどういう意味だよ?」 「ヒロ、さっきからしきりに時間ばっかり気に してんじゃん。どうせこれから何か用事でもあ るんだろ?」 自分では気づいていなかったけれど、 俺はさっきから暇があれば時間を気にしてい た。 飲み物を口に含んでは時計を確認し、 夕食の余り物をつまんでは時計を確認し、

あくびをしては時計を確認し。 なんて鋭い指摘なのだろう。 さすがは親友。 何も考えていないように見えるけど、 あなどれない奴だ。 「まあな」 「あっ! でも別にどこに行くとか無理して言 わなくてもいいから。うん。いつか言いたくな ったときにでも教えてくれればそれでいいか らさ! ということで俺は外に出るけど、ヒロはどうす る?」 「俺も行きたいところあるから一緒に出るわ」 言葉では表しきれない感謝の気持ちを残した ままその場をあとにして階段を駆け上がった 俺は、 部屋のクローゼットの奥から今日の学校帰り に買っておいたお菓子のブーツと手袋を一つ ずつ袋から抜き取って上着のポケットへと投 げ入れると、 慌てるようにして階段を駆け下りた。 靴に履き替え、玄関を飛び出る。 外は今にも分裂してしまいそうな薄く儚い粉 雪がしんしんと地面をめがけて舞い落ちてい る。 いつもと違って海の底にいるかのように静ま り返っている住宅街は、 まるで大福に無理に押し込められたあんこの ように息苦しくて、 俺とノゾムはそのあまりに居心地の悪い静寂


を壊そうとするかのように、 足跡一つ見当たらない真新しい地面に新たな 道筋を刻みつけていった。 「寒い、寒すぎる。こんなに寒いとは思わなか った、マジで!」 「冬なんだから寒いのは当たり前だろ」 とろとろと横を通り過ぎていく何台もの車。 その中に必ずといっていいほど存在している のは楽しげに笑みを浮かべる幸せいっぱいの 恋人たちの姿。 クリスマス。 聖なる夜。 イルミネーション。 粉雪。 ああ、なんてロマンチックなのだろう。 それなのに隣に目を向ければノゾムがいる。 男同士で、隣同士で、肩を並べて歩いている。 ふいにノゾムと目が合った。 気まずい空気が流れていく。 きっとノゾムも同じようなことを考えている に違いない。 ――なんで俺はこんな大切な日にヒロなんかと歩 いてんだよ。女の子ならまだしも、男同士って! こんなことなら誘われた合コン断らないで参 加しておくんだった。くそっ。 それにしてもヒロって、親友だから普段はあま り気づかないけど、よく見るとなかなかいい男

なんだよな。背が高くて、筋肉もほどほどにあ って、意外といいじゃん…って、なんで俺ちょ っと意識しちゃってんだよ! なんでちょっと顔赤くなってんだよ! いくら 飢えてるからって男だぞ? 目を覚ませ! あ、やべ! ヒロと目合った! にやにやして んの見られたかな? 変な誤解されてないと いいけど。 よし、来年こそは絶対にかわいい彼女作って二 人でラブラブなクリスマス過ごすぞー! お ー!―― なんて、ノゾムの心情を全て想像で、勝手に、 しかも自分にとって都合よく代弁してみたり して。 「あ、ちょっとここ寄ってもいいか?」 歩いている途中に運よく 24 時間営業のスーパ ーを見つけた俺は、渋るノゾムを強引に引き連 れて足を踏み入れた。 このスーパーでは花が売っているし、 種類も充実している。 お供え物としてお菓子のブーツと手袋は買っ たけれど、どうせならかわいい花も一緒にお供 えしてあげたい。 お供え用の花を懸命に選んでいる俺の姿をま じまじと見つめながらノゾムは、 「ヒロに花って似合わねー!」 といって周囲に怪訝な表情を浮かべさせてし まうほど大声をあげて笑っている。 「おまえだって…」 ムキになってそう言い返そうとしたけれど、 一本の赤いバラを手に持つその姿が思いのほ か似合っていたので、


俺は何も聞こえないふりをしてとっさに口を つぐんだ。 赤い花。黄色い花。藍色の花。 カラフルに彩られるその中で一番隅に置かれ ていて、目立たなくて、なのに視界に真っ先に 飛び込んできた花。 花びらが薄紫色で、小さくて、まるで雪の生ま れ変わりのような淡い色彩を放っている花。 「あ、それいいじゃん。シオン」 ノゾムが座り込んで紫色の花をおそるおそる 手に取る俺の背後からひょこっと顔をのぞか せる。 「シオン?」 「そう。うちの母ちゃんが昔、遠くの町に引っ 越した初恋の人にプレゼントした花らしくて、 今でもえらく気に入ってるみたい。 その話しつこいくらいに何回も聞かされたし、 わざわざ花の事典まで見せられたことがある から嫌でも覚えちゃったんだよね。 なんか花言葉がものすごく切ないとかなんと かいってたけど。ええと、なんだっけな」 切ない花言葉。 シオンという名のこの花は、どんな意味の花言 葉を持っているのだろう。 そして去年美嘉と公園の花壇に添えたあの花 の花言葉は、一体どういう意味を持っていたの だろう。 視界に飛び込んできた花。

一目見て気に入った花。小さくて、目立たなく て、でも輝かしいくらい淡い紫色を放っている シオン。 俺はこれをお供え物として買うことに決めた。 「今日は楽しかった。ありがとな。じゃあ俺は こっちだから」 外に出るなり鼻の先端を赤らめたノゾムはス ーパーの裏側に見え隠れする屋根の一つを指 さした。 ノゾムの家はスーパーの真裏に位置している。 徒歩なら 5 分あれば余裕で到着する距離だ。 俺がこれから行こうとしている公園はその先 にあり、到着するにはもうしばらくの時間を要 する。 「おう、またな」 俺はあたりを漂う今にも凍りつきそうな空気 に両手のひらをこすり合わせながらそう言う と、 ノゾムにくるりと背を向けて静かにその場を あとにした。 そのときだった。 「今日、ヒロが笑ってんの久しぶりに見れて嬉 しかったぜ!」 静かな空間にこもりつつも真っすぐ一直線に 響き渡ったその声に、このまま歩み去っては後 悔してしまうような気がした俺は、 いったん進めた足を引き返して再び体勢をも とに戻した。


「そう? けど」

俺はいつも笑ってたつもりだった

「俺にはわかるんだ。ヒロ、いつも無理して笑 ってた。あのときから、ずっと。見てるこっち が、苦しかった」

でこうして隣にいてくれたんじゃないだろう な? ふと、思い出した。 今から何日か前に俺とノゾムが廊下に座り込 んで話をしているとき、ノゾムはクラスメイト の女に

あのとき。

「24 日って暇? どっか行かない?」

それはきっと、美嘉と別れたあのときから。

と誘われていた。そしてノゾムはこう答えてい た。

ノゾムはいつも何の前触れもなく、 土足で、かつ直球で俺の心にずかずかと踏み込 んでくる。 無邪気な横顔。 裏切られたこともあった。 憎んだこともあった。 でもこいつがいなかったら、 今頃俺はどうなっていただろう。 去年のクリスマス、美嘉が流産したとき、 ノゾムはそばにいた。 だからこそこの時期になると俺の心の傷がう ずくことも、こいつなら知っているはずだ。 おい、ノゾム。 もしかして俺の傷を守るために、隣にいてくれ たんじゃないだろうな? 俺を元気づけたいがために、本当の笑顔を見た いがために、ふざけて、バカなことやって、 まさに日付が変わろうとしているこの瞬間ま

「その日は家族と過ごす予定だから無理。ドタ キ ャンしたらうちの母ちゃんうるせぇんだよ。だ からパス。悪いね!」 おい、ノゾム。 おまえ、女の子は自分の次に大好きなんだっ て、 いつも自慢げにそう言ってたよな? それなのにどうしてそんなに嬉しい誘いをわ ざわざ断ったりしたんだ? なあ? どっちにしろ、俺の家に来る以外に約 束があったんじゃないのか? ったく、自分だけいいカッコしやがって。 俺、おまえに助けてもらってばっかりじゃねえ か。 たまには俺にだってカッコつけさせてくれよ な。 「俺がこれから行こうとしてるところなんだ けど」


冬の透き通った寒空は口を軽くする。 吐き出される白い息は想いを緩くする。 光り輝く星のくずは心を弱くする。 これが恩返しだといったら、 その表現はちょっとおかしいのかもしれない。 けれど、ノゾムにだけはどうしても知っておい て ほしかったんだ。 「え、いや、だから、無理して言わなくてもい いって! そりゃあどこに行くのかはちょっと 気になったりもするけど、それは俺が本当に聞 いていいことなのかわからないし。もちろん聞 きたい気持ちはあるんだよ? でもヒロに無 理強いさせたくないからなぁ」 「わかった。おまえがそう言うならやめてお く」 「や、や、や、やっぱり教えて!」 その切り替わりの早さに笑いがこぼれるその 内心で、赤ちゃんのことを、美嘉と交わした約 束を口にしようとしているだけなのに、 懐かしい想いが胸の奥にぐんと込み上げた。 それはまだ甘酸っぱいと表現するには恐れ多 く、どちらかというとほろ苦い。 「これからお参りに行くんだ」 「お参り? これから? どこに?」

「学校の近くにある公園。の、花壇」 「そっか…」 吹き抜ける風によって斜めになびく長く伸び た前髪を 2 本の指先で必死に直しながら “お参りに行く”たったその一言で全てを把握 してしまうノゾムを、こいつらしいなと誇らし く思う。 「去年、美嘉と約束したんだ。毎年クリスマス になったら、どっか場所決めて赤ちゃんのお参 りに行こうって。そんで今から行く公園に行っ た。 骨とか何もねえから墓作ることはできないし、 それならせめて季節が移り変わっても寂しく ない場所にしようって。 花壇ならほとんどの季節に花が咲いてるから 寂しくないだろうと思って」 息を吸う暇なく言葉を続けたせいでかすかに 息苦しさを感じた俺は、限界まで息を吸い上げ た。 冷気が一瞬にして肺まで到達し、 むせるどころかのどの手前をざらざらと凍ら せる。 「約束したってことは行ったら美嘉に会うか もしれねぇじゃん。いいの?」 「いや、あいつは来ねえよ」 「なんで?」 「来るわけねえじゃん。俺のことなんて嫌いに なって忘れてるから。それに今は会わないほう がいいと思う。お互いに」 「でも美嘉はきっと来るよ」


「来ねえって」

未来のことを考えると不安ばかりが募る。

「来る。だって美嘉は今でもヒロのこと…いや、 今はこんな話やめようぜ。そうだな。今は会わ ないほうがいいのかもれないな。あれからもう 1 年もたったのかぁ」

かといって過去を振り返りでもすれば、 胸が絞られた雑巾のようにぎゅっと締めつけ られるだけにすぎない。

ノゾムは空を見上げて何かを思い返そうとす るかのように目を閉じると、ふわっと濁った空 気を肺の奥深くから吐き出した。

今の俺にはそのどちらも許されない。

そう、あれからもう 1 年がたった。

ポケットから取り出した携帯電話の画面を確 認すると、時間はすでに 12 時を回っている。

“もう”1 年? いや、違う。 “まだ”1 年だ。

「いろいろあったな」 「うん、あった。こうやってあっという間に卒 業を迎えるんだろうな。ヒロは卒業後の進路と かもう決まってんの?」

ただひたすら、今だけを見据えて歩んでいく。

「わりい。俺そろそろ行くわ」 「あ、そうだったな。頑張れよ! じゃあまた な!」 ノゾムが片方の手を高く上げる。 それにつられるようにして俺も片手を上げて、 その状態のまま背を向けて歩きだした。

手に持っているシオンの花が風に揺れる。

歩くたびにさくさくと鳴る雪の塊は、ほんの少 しだけ爽快な気分にさせてくれる。

「俺は今のところ専門学校に行きたいと思っ てるけど。でもまだはっきりとは決めてねえん だよな。おまえは?」

あと何年たてば、降り落ちる雪の結晶を目にす るたび心を痛めなくてすむのだろう。

「俺は働くかな。ぶっちゃけ家の事情で生活が きついんだよね。 まぁ特にこれといってやりたいこともないし、 別にそれでもいいかなって感じなんだけど! 来年俺ら 3 年生になるから、進路希望とかいろ いろあって面倒くせぇだろうな」

公園に到着したのは 12 時から 15 分ほどを過ぎ た頃だった。 外灯の乏しい光だけでぼんやりと照らされて いる夜の公園はどこか不気味さが漂っていて、 凍って動きが静止されているはずのブランコ が強風でキコキコと音を出してかすかに揺れ


ている。 その公園に足を踏み入れようとしたちょうど そのとき、自 らの足音と誰かの足音が二重になっているこ とに気がついた。 俺はとっさに振り返る。 遠く離れた真後ろを横切る黒い姿が、 電柱の陰にさっと身を隠すのが見えた。 目を凝らすその先に確認することができる洋 服の影…それは確かにノゾムだった。 どうやら俺の後をつけてきたらしい。 こいつは一体何を考えているのだろう。 こいつの起こす行動は他人の俺から見ていて も考え深い。 あと何度、俺の度肝を抜かせば気がすむのだろ う。

深く反省しようか、それともいっそのこと開き 直ってやろうか、この二つの究極の選択で迷っ ているようだ。 そして結果、選んだのは 「あは! 来ちゃった!」 後者の開き直る、という間違ったほうの選択肢 だった。 後者の開き直る、という間違ったほうの選択肢 だった。 「来ちゃった! じゃねえよ。帰ったんじゃね えのかよ?」 「だって、ヒロを一人にさせたくなかったんだ よ。 最後に手振ったとき、すげぇ悲しそうな顔して たし、一人にさせたらもう二度と帰ってこない んじゃないかって、そんな気がして。 でもそんなこと言ったらヒロのことだから怒 るじゃん。だからこっそり…」 嬉しい、という気持ちはもちろんある。

俺は背を向けて必死に縮こまって細身になろ うとしているその影に静かに近づくと、 背後から強めに肩に手を置いた。

体中あふれんばかりに。

その影は体を一瞬びくつかせて、だらしなくけ いれんする。

親友にここまで心配をかけてしまっているな んて、 あまりに俺らしくない。

「ここで何してんだよ?」 ノゾムはやってしまった! といった感じの 苦々しい表情を見せながら振り返りつつも、

けれどそれに加えて、ひどく申し訳ないと思 う。

家に帰ったら深く反省しなければ。 でも、もしかしたらこいつの前だけでは、俺は 無理に不安を隠し通さなくたって、受け止めて もらえるのかもしれない。


「ったくしょうがねえな」 「俺、公園の中までついて行くつもりはないか ら。ここでひっそりとお参りしてる。ヒロは一 人で公園に行ってこい!」 頼もしい友人の言葉に強く背中を押された俺 は、ためらう足取りでようやく公園に足を踏み 入れた。 花壇は土や花の跡形もなく雪一色でうもれて いる。 汚れ一つ見つからないまっさらな雪の布団。 やはり美嘉はここに来ていないみたいだ。 裏切られた気分に陥っている俺は、ひそかに期 待していたという自分の本心に気づく。 思いのほか絶望感に浸っている俺は、会いたか ったのだという紛れもない真実に気づく。 赤いお菓子のブーツ、その横に子供用のピンク 色の手袋、さらにその下にシオンを供え、 手のひらを合わせて目を閉じた。 ――あれから 1 年という月日がたったけど、 そっちで幸せに暮らしているか?

だから来年もこうしてここに来てもいいか な? 俺、おまえの母さんを最後の最後まで守ってや ることができなかった。 ごめんな。俺、家族と友達に支えられてどうに か今を生きている。 そしておまえの母さんも、 今頃そうやって一生懸命に生きてると思うん だ。 こんな頼りない父さんだけど、どうか嫌いにな らないでやってくれな。 溶けない頑丈な雪によってシオンが紫色から 白い花に姿を変え、それがまたさらに美しさを 増して見えた。 雪の粒が偶然にも右頬に降り落ち、肌の温度で 溶けたしずくが頬から首元にかけて流れ落ち ていく。 1 粒、2 粒、3 粒… なんだ、今日は、温かい雪が多いな。 俺はコートのそでをぐんと伸ばしてそのしず くを強く拭い取った。

寂しくないか?

しかしそれでもしずくは絶え間なく流れ落ち ていく。 拭いても拭いても。

俺のこと、覚えているのかな?

右頬に、左頬に。決してやむことなく。

俺は忘れてなんかいない。 おまえが存在したこと、ずっと忘れない。

次々と。永遠に。 無事にお参りを終えて公園を出た頃、 時間はすでに 12 時 26 分を回っていた。


音楽でもかけて笑い合いながら。 電柱の陰でいまだ手を合わせているノゾムの もとへと近づく。

あいつと一緒にこれからも新しい発見をして いきたかった。

ノゾムは遠慮がちに「おかえり」と口にしたが、 俺はあえて「ただいま」とは答えず、 「おお、待たせたな」とワイルドさを演じた男 ぶりを発揮した。

切なさの影で、久しぶりに見た恋人以外の人物 に、 寂しい想いを抱えているのは自分だけではな いのだとほっと胸をなで下ろしている自分に、 急に耐えがたいむなしさが込み上げた。

そうした理由は一人じゃなくてよかったとい う心強さを、照れを通してノゾムに見つかって しまうことを隠しておきたいという想いがあ ふれているからだ。 電柱に寄りかかる俺とノゾムの横を、車体ので かい車がのろのろと真横を通り過ぎた。 その車に乗っていたのは一人の男。 空いた助手席。 だからこそ運転する俺の隣の助手席で、 今も忘れることのできないあいつが座ってい る想像が、広く深く頭の中を駆け巡る。 もし俺が 18 歳になって免許を取得することが できたら、 こういう男らしい車を乗り回したい。 色はできれば吸い込まれるように濃厚な照り のある黒がいい。 それでもっと、マフラーの音がガンガンうるさ いやつ。 そういう車に乗ってドライブをしてみたい。 行ったことのない街に、できればあいつと。

「………さっ、そろそろ帰ろうぜ!」 ついさっきまでしんみりしていたはずのノゾ ムは、 さっきとは打って変わって何かに焦ったよう に声を裏返しながら俺の名を呼んだ。 笑顔が引きつっている。 というよりは明らかにから元気だった。 「いや、帰るけど、別にそんな焦らなくても」 「いいから早く早く」 「んなこと言われたって、俺、足に血豆ができ て痛いから、走れねえんだよ」 「あっ! ほら、見て。あっちにかわいい子が いるよ!」 そう言って指を差すその先にはかわいい子ど ころか、人っ子一人見当たりはしない。 それどころかノゾムの目線は指を差す方向か らどこかはずれていて一定の方向にとどまっ ている。


俺はその視線の先をたどって後ろを振り返ろ うとしたが、ノゾムに強引に腕を引っ張られた ことによってそれは制止された。 そして俺自身も、遠くから微かに聞こえてくる 雪をぎゅっと踏みつけるその足音に、 今は振り返らないほうがいいと、 なぜかそのとき強くそう思ったんだ。 ノゾムは俺の腕を引いたまま公園とは逆の方 角へと向かってひたすら突き進んでいく。 その横顔はあまりに真剣で、引き返すことなど 決して許されないようにさえ感じた。 「じゃあな!」 「おお、じゃあまた」 知らない道をしばらくうろうろしてから再び スーパーの前に戻った二人は、 これで二度目に、手を振って別れを告げた。 歩み去っていくノゾムの背中を見送り、 俺は黒一色で染められている空を見上げ、 大きく息を吸う。 今年もクリスマスがやってきた。 去年の今頃、俺の隣には美嘉がいた。 幸せが存在していた。 けれど今は、違う意味での幸せが存在してい る。

それは息を吹きかけてしまえばいとも簡単に 消えてしまいそうなほどぼんやり灯っている けれど、 それでも輝きはしっかりと放っている。 俺は息を力強く吐き出すと、前を向いて歩き始 めた。 この先の道に何があるかはわからない。 それでも俺はこうして生きている。 生きているということは、ただそれだけで、も のすごく幸せなことなのだ。 ………美嘉。

あのとき俺のあとにお参りに来た美嘉は、 花壇に供えられた手袋を見て、 お菓子のブーツを見て、シオンの花を見て、 何を思った? もしあのとき俺らが偶然あの場所で出会って いたとしたのなら、 二人の未来は、どう変わっていただろう? なあ、美嘉。 俺らは出会ったときから、 離れ離れになる運命だったのかな。


三章◇君跡 踏み出せ。1 高校 3 年生になった。 高校最後の学年ともなると、 いやでも卒業後の進路が要求される。 俺は音楽の専門学校を希望していた。 理由は、美嘉と付き合っていた頃、 二人で一緒に行こうという約束を交わしたか らだ。 けれど俺が専門学校に行きたい理由はそれだ けではない。 音楽が好きだからであり、 つまり、決して美嘉との約束を果たすためだけ に選んだというわけではなくて。

3 年生に進学してからというものの、 体調は急激に悪化し、 無理がたたって学校を休むことが多々あった。 胃のむかつき、食欲不振、 手足のしびれが起こる頻度が日に日に増えて いく。 ふくらはぎに一円玉サイズのできものを発見 したとき、俺は最悪な結末を覚悟で病院へ駆け つけた。 かかりつけの医者からは、 これ以上手遅れになる前に通院をやめて、 今から本格的に入院の準備を始めたほうがい いと忠告を受けたけれど、 俺は両親や姉貴の勧めを断り、 その忠告をかたくなに拒否したのだった。 せめて、せめて、学校だけは卒業したい。 専門学校へ行くという夢が破られた写真のよ うに細々に風に舞おうと、 床に落下した花瓶のように粉々に壊されよう と、どうしても“卒業”という意志だけは譲る ことができなかった。

多分。 もう一度、 出会った頃のように幸せで、 温かくて、 ふわふわとした日々を送りたいだなんて、 そんなこと、 夢の中で思うだけなら許されるということく らいわかっている。 しかし俺には、 そんな夢を見ることさえ許されなかった。

「必ず卒業する」そんな約束をノゾムと交わし たからこそ、 その言葉を最後まで貫くのが男としてのプラ イドでもある。 そして何より、 卒業するまでの間、 美嘉の姿を見ていたいというのが一番の本音 だった。 もしいつか二度と会えなくなってしまう日が 来るのなら、


偶然すれ違うことさえできなくなってしまう のなら、 できる限り長い時間、 美嘉の近くにいたい。 もちろん、それ以上のことは何一つ望んでいな い。 ただ、遠くから見ているだけでいい。 言葉を交わすことができなくたって、 体温に触れられなくたって、 愛を分かち合うことができなくたって、 同じタイミングで呼吸し、 同じタイミングでため息をつき、 美嘉の幸せな姿を最後の最後まで見守ること ができるのなら、 それは俺にとって十分すぎるくらいの幸せな のだ。 美嘉が泣いていたら、 多分俺も悲しくなり、 笑っている姿を目にすれば、 ただそれだけで俺は生まれたてのひよこのよ うにほっこりとしていて、 それはあまりに小さく手探りでしか見つけら れないのだけれど、 それでも確かな幸せを感じることができる。 そしてそのたび選んだ道は間違っていなかっ たのだと、自らの選択を心から誇ることができ るのだから。 俺はひたすら入院を拒み続けた。 親父も母さんも姉貴も主治医も、 強情な俺の意志に呆れてため息を漏らしつつ、 高校に通っている間は通院という形で定期的 に病院に通うという条件と引き換えに、 高校を卒業したらすぐに有無を言わさず入院 させるという交換条件を下した。

そして俺は首を縦に振って渋々その条件を了 承せざるをえなかったのだった。 まだ正午になっていないというのに、 じりじりとコンクリートの地面を照りつける 透き通った金色の日差しが、 見違えるように細くなった俺の二の腕を、 まるで一本一本針を刺すかのようにしぶとく 焼き焦がしていった。 それは、夏も間近の、6 月 2 日のことだった。 いつものように自転車にまたがった俺は、 背中ににじむ汗を乾かしてしまうほど勢いづ けてペダルをこぎ、 学校の正門には目もくれず通り過ぎると、 とある場所へと足を進めた。 向かった先は川原だ。 あの、美嘉との思い出が詰まった川原。 坂を下った勢いで飛び降りた自転車をその場 に倒し、 カバンを投げ捨てて両手を頭の後ろに組み、 青々しく生い茂っているたんぽぽの花や草木 の上にだらしなく寝そべる。 どこか懐かしさの漂う風の香りを心の奥で感 じながら、 俺は手を伸ばせば今にも届きそうな太陽に目 を細めた。 こうしてこの場所に足を運んだのはちょうど 1 年ぶりだ。 1 年前のこの日、 俺と美嘉は終わりを告げた。


そう、まさに、 この場所で。 背を向けて立ち去ろうとする俺の制服のそで を、 美嘉は「行かないで」と言って引き止めた。 けれど俺は、その足を引き返してやることが、 どうしてもできなかった。 そうすることが愛という結果につながるのだ と、 あのときはそう思っていたからだ。 けれど今になって思うことは、 その愛は本当に水のように透明で、 純粋で、きらびやかで、 とろとろしたものだったのだと、 胸を張って口にすることができるだろうか。 “好きだから、別れたくない”という美嘉の気 持ち。

備を始めていたからだ。 しかし俺は“別れたくない” けれど“別れなければならない” という二つの分かれ道で迷い、 悩み、足を踏み入れては戻し、 戻しては踏み入れ、 往来を繰り返していた。 そして最終的に美嘉が静かに手を合わせて祈 りながら待ちぼうけしていた道とは別の道に 足を進めたのだった。 “別れたくない” という一本の真っすぐな道を選んだ美嘉。 手のひらにあふれている幸せを見放した俺は、 美嘉とはまったく違う道を歩むことを選んだ。 だから美嘉はどうしていいのかわからなくな ってしまったに違いない。

“好きだけど、別れなければならない”という 俺の気持ち。

もともと一本の結末に定められている道は、 分かれ道などあるはずもなく、 逃げ道さえ見当たらなくて、 後戻りすることも許されない。

どっちも同じくらいの重みを持っていて、 同じくらいの輝きを放っている。

だからこそ長い道のりのゴールにたどり着く 方法はただ一つしかなかった。

それなのにどうして、 俺の気持ちのほうが今もまだより後悔という 灰色の渦を帯びているのだろう。

それは、前に進むことだったのだ。

………ああ、そうか。 美嘉は真っすぐな道の先にある“別れたくな い”というたった一つの結論に向かって歩む準

だから美嘉は、背筋をぐんと伸ばして立ち上が った。 俺よりもずっと早い時間で。


葛藤や悲しみを石ころのように遠くへ蹴り飛 ばし、 真剣に終わりを見据えて。 しかし懲りずに二本の道の間で往来していた 俺は、 片方の道を選びはしたものの、 捨てたほうの道にたらたらと未練を残し、 前に進むことを拒んでその場を立ち止まった まま、 ため息のように吐き出される後悔ばかりを繰 り返していた。 いっそのこと今からこの道を引き返し、 捨てたほうの道を再び一から歩んでいけたの なら。

確かに水のように透明で、 純粋で、きらびやかで、 とろとろしている真実のものだった。 でも、その水はいくらつかもうとしても、 指の間をすり抜けていく。 そしていつか、 跡形もなく消え去り、 存在していたことさえ記憶の隅に追いやられ、 忘れられていくのだろう。 爪の隙間に残るくらいちっぽけでもいいから、 もっとしっかりした愛の形を残しておけば良 かった。

もし、やり直しがきくのなら、 もう一度。

例えるならば、 さらさらした砂のような、 たった一粒でも、 根強く、 力強く、 心の隙間を埋めるもの。

そう思い続けて、 前に進めずにいた。

心許ない感覚に、 背骨がつかまれたようにきゅっと震える。

けれど、すでに先の道を歩み始めていた美嘉の 後ろ姿はもうどこにも見えなくて、 走っても走っても追いつけるはずもなく、

このままではだめだ、 そう思った。

できることならそれが一番いい。

俺はそれを知っているからこそあえて自らが 選んだ道を引き返すことなく、 今もなおだらだらと地団太を踏んでいる。 一生分の後悔という名のおもりを背負い、 足元に咲いた花に目をくれることなく、 気づかないうちに踏み潰していきながら。 あのとき俺が選んだ愛は、

前に進み始めている美嘉。 俺もこれからは前に進んでいかなければ。 こうして立ち止まってばかりいては、 何も始まらない。 何より重要なのは、初めの一歩。


初めの一歩を想いに反して無理に進めてしま えば、 それから先の道を進むのが怖くなってしまう だろう。 初めの一歩を進むためには、 自分自身が抱えているうやむやを全て取りの ぞかなければならない。 地べたにくっついているガムのように強情な 足を進めるには、 とてつもない勇気を必要とする。 けれど、それを乗り超えさえすれば、 きっとその先には全身を包み込むような確か な光が待っている。俺はそう信じている。 今日は美嘉のことをたくさん考えよう。 思い出を心の引き出しに大切にしまっていた としても、 いつか何かの拍子でその引き出しが開いたと き、 思い出を現実の世界へと一瞬にして呼び寄せ てしまうことになる。 一緒に聴いた曲を街中で耳にするたびに。 つけていた香水の甘い香りが風に乗って漂う たびに。 同じ名前の人に、同じ夢を持つ人に、 同じ優しさを持った人に出会うたびに。 思い出が頭の中にふとよみがえるとき、 過去の出来事がまるでつい最近のこと、 もしくは今まさに経験しているかのようにき ゅるきゅると儚い音を鳴らして再生される。

つまり、 体は現実でも、頭は過去に戻される、 ということだ。 思い返し、 初めて交わした会話や、 初めて手をつないだ日、 初めてキスをした日、 “初めて”ばかりが頭の中を駆け巡る。 ドキドキしたこと。 幸せすぎて涙があふれ出たあの瞬間。 こんなに誰かを好きになるのは、 これが最初で最後だと、 そう信じることができた夕暮れ。 しかし記憶は“別れ”や“終わり”を嫌う。 だからこそ、 それらが近づくにつれて再生されていたはず の思い出のテープは途中でぷつりと停止され てしまうのだ。 そしてまたいつかふとした拍子に何事もなか ったように再生される。 それも、都合よく巻き戻しされて、 最初から真新しく、 いつでも新鮮に。 永遠に終わりがない。 よいことばかりを思い出し、 停止され、 巻き戻されて、 また最初から。


それがぐるぐるぐるぐる回って、 忘れることなんて、できなくなる。 記憶から消すことなんて、 できるわけがない。

今でも鮮明にまぶたの裏に映し出すことがで きる。 1 年という短い時間できれいに忘れることがで きるほど、あいまいなものではなくて。

だから今日は目いっぱい美嘉と過ごした日々 を思い出そう。

俺にとって美嘉と過ごした日々は、 人生の一部なんかではなく、 俺の人生そのものだった。

出会った日から、最後の日まで。

永遠だった。

いいことから、悪いことまで。

全てだった。

再生されるビデオを繰り返し見続けて、 テープがざらざらにすり切れればいい。

拭ってやることができなかった、 美嘉の頬に流れたあの涙を。

そして永遠にビデオテープなんて再生できな い状態にしてやる。

俺はあと何度後悔するだろう。

一時停止のボタンを押すことはあっても、 リピートボタンを押すことはあっても、 スローモーションのボタンを押すことはあっ ても、 巻き戻しと停止のボタンは決して押さぬよう。 俺は目を閉じ、 二人で過ごした日々の全てを思い返した。 思い出は宝箱から飛び出た宝石のようにきら きらしていて、 海に落ちている貝殻のように優しい光を放っ ている。 あのとき美嘉が見せた表情や言葉の一つ一つ を、 振り払った手のひらの温度を、 最後に見せた泣き顔を、

そしてあと何度、 俺は美嘉を想ってこうして一人、 この場所で涙を流すだろう。 目を閉じたまま、 片方の手を横に伸ばす。 俺がこうすれば美嘉はいつも喜んでこの腕に 頭を下ろした。 美嘉はもう隣にいないのに、 いるはずないのに、 目を閉じていても、 やんわりとした幸福な柔らかさを感じる。 目を糸のように細め、 唇の両端をこれでもかってほどに上げ、 丸いえくぼを作り、 手のひらを叩き合わせながら声をあげて笑っ

4


ている美嘉の姿が、 薄れることなく俺の心の中に存在している。 それを真実に変えたくて、 俺はふいに目をあけた。 けれどやっぱり美嘉は隣にいなくて、 触れていたはずのぬくもりさえもが消え去っ ていく。 本当のぬくもりは今、 愛しいあのぬくもりは今、 もしかしたら俺ではない、 違う誰かの手にあるのかもしれない。 そう思うと、 耐えがたい孤独に襲われ、 いたたまれない気持ちになった俺は、 唇を噛みしめて再びきつく目を閉じた。 そしてまた再生する。 再生される。 次々と再生されていく。 ちょろちょろと流れる川の音は、 あの頃となんら変わっていなくて、 あの頃の二人の面影が、 性懲りもなくぼんやりと陽炎のように浮かび 上がった。 けれどそれは影に覆われている顔の二人では なく、 眩しいほどの笑顔を浮かべている二人の姿。 胸を痛ませる黒い思い出が、 華やかな白い思い出のふろしきによって包ま れ、

蜃気楼のようにぼやけていく。 白い思い出は、 さらに輝きを増し、 それは本来、喜ぶべきことなのだろうけど、 今の俺には心の傷口を痛ませるためだけに存 在している、 とうがらしのような激辛スパイスでしかなか った。 風に乗って青々しい香りが鼻を通り抜け、 俺はやんちゃにはしゃぐ花粉によって大きな くしゃみを数回繰り返すと、 この川原で過ごした幾日もの日々の出来事を 想った。 この場所でいろんなことがあった。 初めてこの場所に美嘉を連れてきた日、 あいつはしゃいでにすり切れればいい。 そして永遠にビデオテープなんて再生できな い状態にしてやる。 一時停止のボタンを押すことはあっても、 リピートボタンを押すことはあっても、 スローモーションのボタンを押すことはあっ ても、 巻き戻しと停止のボタンは決して押さぬよう。 俺は目を閉じ、二人で過ごした日々の全てを思 い返した。 思い出は宝箱から飛び出た宝石のようにきら きらしていて、海に落ちている貝殻のように優 しい光を放っている。 あのとき美嘉が見せた表情や言葉の一つ一つ を、


振り払った手のひらの温度を、最後に見せた泣 き顔を、 今でも鮮明にまぶたの裏に映し出すことがで きる。 1 年という短い時間できれいに忘れることがで きるほど、あいまいなものではなくて。 俺にとって美嘉と過ごした日々は、 人生の一部なんかではなく、 俺の人生そのものだった。 永遠だった。全てだった。 拭ってやることができなかった、 美嘉の頬に流れたあの涙を。 俺はあと何度後悔するだろう。 そしてあと何度、 俺は美嘉を想ってこうして一人、 この場所で涙を流すだろう。 目を閉じたまま、片方の手を横に伸ばす。 俺がこうすれば美嘉はいつも喜んでこの腕に 頭を下ろした。 美嘉はもう隣にいないのに、 いるはずないのに、 目を閉じていても、 やんわりとした幸福な柔らかさを感じる。 目を糸のように細め、 唇の両端をこれでもかってほどに上げ、 丸いえくぼを作り、 手のひらを叩き合わせながら声をあげて笑っ ている美嘉の姿が、 薄れることなく俺の心の中に存在している。

それを真実に変えたくて、 俺はふいに目をあけた。 けれどやっぱり美嘉は隣にいなくて、 触れていたはずのぬくもりさえもが消え去っ ていく。 本当のぬくもりは今、 愛しいあのぬくもりは今、 もしかしたら俺ではない、 違う誰かの手にあるのかもしれない。 そう思うと、耐えがたい孤独に襲われ、 いたたまれない気持ちになった俺は、 唇を噛みしめて再びきつく目を閉じた。 そしてまた再生する。 再生される。 次々と再生されていく。 ちょろちょろと流れる川の音は、 あの頃となんら変わっていなくて、 あの頃の二人の面影が、 性懲りもなくぼんやりと陽炎のように浮かび 上がった。 けれどそれは影に覆われている顔の二人では なく、 眩しいほどの笑顔を浮かべている二人の姿。 胸を痛ませる黒い思い出が、 華やかな白い思い出のふろしきによって包ま れ、 蜃気楼のようにぼやけていく。 白い思い出は、


さらに輝きを増し、 それは本来、 喜ぶべきことなのだろうけど、 今の俺には心の傷口を痛ませるためだけに存 在している、 とうがらしのような激辛スパイスでしかなか った。 風に乗って青々しい香りが鼻を通り抜け、 俺はやんちゃにはしゃぐ花粉によって大きな くしゃみを数回繰り返すと、 この川原で過ごした幾日もの日々の出来事を 想った。 この場所でいろんなことがあった。 初めてこの場所に美嘉を連れてきた日、 あいつはしゃいで草の上を買ったばかりの履 き慣れないローファーで走り回るもんだから、 石につまづいて大げさに転んだんだよな。 転んだ場所に運悪く落ちてたプラスチックの かけらでひざこぞう切って、 今にも泣きだしそうな顔して痛みこらえてた。 「ドジだな」って言って俺が笑ったら、 唇尖らしながらむくれちゃって。 ワイシャツでひざこぞうから流れる血を拭っ てやったら、あっという間に機嫌直して笑顔に なってんの。 ったく、単純な奴だよ。 あと、学校でくだらねえけんかしたとき… そうそう、美嘉が歴史の教科書忘れて、 俺を頼って教室まで借りに来たんだけど、 すでに違う奴に貸しちゃってたんだ。

そしたら美嘉が 「どうして美嘉以外の人に貸しちゃうの?」 とか意味わかんねえこと言い出すもんだから、 俺が何か言い返したんだよな。 ええと、なんだっけ。 まあそれはいいとして。 美嘉は「もういい」って怒って去っていった。 それから何回かメール送ったけど、 結局、一通も返ってこなかった。 放課後たまたま川原に寄ったら、 そこには美嘉がいたんだ。 あいつ、目腫らしながらひざ抱えて泣いてん の。 俺、そんな美嘉の隣にやれやれって腰下ろし て、 強引に肩を抱き寄せながら 「もう美嘉以外には絶対貸さねえから、ごめん な」 って言ったんだ。 それでやっと、 無事、仲直りしたんだっけ。 うん? 待てよ? 今思えば、というか今さら思わなくても、 教科書を忘れたあいつが 100%悪いんじゃねえ のか? ああ、そう言えばその話にはさらに続きがあっ た。


「今回は許してあげるけど、今度は許さないか らねっ」 とかなんとか言って美嘉が調子に乗るもんだ から、 俺は冗談半分で美嘉に目潰ししてやろうと二 本の指を突き出したんだ。 もちろん、 するフリを見せて驚かせようとしただけで。 それなのにタイミング悪く顔を前に突き出し た美嘉の目に俺の 2 本の指がきっちり直撃し て、 これまた本格的な目潰しになっちまったんだ よ。 せっかく仲直りしたのに美嘉はまた怒り始め て、 それで俺はまた「ごめん」って何度も頭を下げ て謝ったんだ。 確かに俺にも悪い部分はあったかもしれない けど (目潰しは)、 俺が謝ってばかりって理不尽な話だよな。 でも俺、本当はその理不尽さに気づいていたの かもしれない。 気づいていながらも、 それでもいいって思っていた。 毎日が楽しかったから、 一緒にいられることが幸せだったから、 この時間がこれからも続いていくのなら、 何を犠牲にしても、例え俺の完敗でもいいやっ て。 そよそよと肌に触れる風。

雨の匂い。 手を広げ、 空をあおぐ。 もし時間を巻き戻すことができるのなら、 運命を変えることができるのなら、 俺は俺なりに大切なものを一つ、 手放したってかまわない。 捨てたってかまわない。 あのとき、 もっといろんなことを話しておけばよかった。 あのとき、 もっと笑ってやればよかった。 あのとき、 もっと親身になって相談に乗ってやればよか った。 あのとき、 足を止めて振り向いてやればよかった。 引き返してやればよかった。 涙を拭いてやればよかった。 手を握ってやればよかった。 あのとき… あのとき…


あのとき…「さようなら」の代わりに 「ずっと一緒にいよう」って、 そう言って抱きしめてやることができていた ら、 何より、一番、よかったのに。

それなのに、 待っている。 会ってどうにかなるわけでもない。

あまりに近くにありすぎて、 ありのままの幸せに気づくことができなかっ た。

それでも、 会いたい。

遠くに離れたとき、 初めて自分が包まれていた幸せに気づく。

美嘉に、 会いたい。

けれど気づいたときにはすでにもう手遅れで。

会いた、かった。

この広い世界に“当たり前”と“終着駅のない 出会い”は存在しないのかもしれない。

俺はその想いを心の薄っぺらいノートにひた すら書き綴ると、 すぐにびりびりに破いて燃やし、 風に飛び散る灰に変えた。

こんなことを考えるのは今日で最後にしよう。 そして明日からは、新しい自分を作り出す。 別れてから 1 年がたった今日を区切りとして、 俺は前を向いて歩み始める。 背後から聞こえてくる足音に、 俺は目を開くことも、 振り返ることさえしなかった。 それはもう、 美嘉が来るはずないということを、 十分に理解しているからだ。 美嘉は来ない。 来るはずない。

しずくが頬に優しく当たって流れる。 ぽつぽつと天気雨が降ってきた。 さっきまで手でつかみ取れそうなくらいに近 く感じた太陽は、 いつの間にか厚い雲によって姿を隠している。 制服に浸透していく雨はマイナスな気持ちを 洗い流してくれているかのようで。 恋愛は植物に似ている。 植物は水を与えなければすぐに枯れてしまう。 かといって太陽の光を与えなくても枯れてし まう。


新鮮な水と新鮮な光、 そのどちらも欠けてはいけない。

画面が暗黒に染まり、 細々とした砂嵐が映し出された。

しかし逆に与えすぎたとしても、 だめになってしまう。

全てを再生し終えてから改めて知る。

そのかげんを、 自分自身は知らない。

このビデオテープは何度再生したとしても、 永遠にすり切れることはない。

自分以外の誰かに、 全てを任せるしかない。

画面が粗くなることはあっても、 全てがきれいに消え去ることなど、 ありえない。

相手を咲かすことも、 逆に枯らすことだってできる。

だから俺は明日からこのビデオテープの上に、 新たな思い出を録画していこうと思う。

それってまさに、 恋愛の弱肉強食そのものだ。

美嘉という人間は、 これからもずっと、 俺の記憶の中に残るだろう。

誰かに想いを寄せるということは、 心を弱くさせていくということ比例している。 そして弱くさせるだけさせておいて、 神様は何一つ手助けなどしてくれない。 時間が全てを解決するだなんて、 そんな気休めは信じない。 解決の糸口は、 自らの意思にある。 強さにある。 時間はその、おまけのようなものだ。 雨がやみ始めた頃、 二人の思い出のビデオテープが再生を終え、

それはもう幾度となく流れていくビデオテー プなんかではなく、 今にも動きだしそうなくっきりと鮮明な一枚 の写真として。 写真の中の美嘉は笑っている。 だから俺の心で幸せそうに笑う美嘉は、 これからも息を切らすことなく走り続けてい く。 二人の思い出が細やかに動き、 心を駆け巡ることはきっともうないけれど、 この写真は永遠に、 色あせることも、ない。 俺はもう追いかけることも、 後悔も、


期待も、 何一つ持たないで、 明日から手ぶらで一から、 歩み始めていく。 水たまりにうつる雲が、 想いの全てを、 遠くへ運んでいった。 老いた枯れ葉が枝に見放され、 静かに命を落としていく…秋。 ノゾムの口から、 「美嘉は専門学校ではなく、大学を希望してい る」と耳にしたのは、 10 月の初めのことだった。 それを聞いて俺は、なぜだか妙に安心を得た。 けれどその裏側で、 気が狂いそうなほど寂しさを感じたのも事実 だった。 美嘉の心にはもう、 俺と過ごした日々も、 思い出も、 笑顔も、 涙も、 声も、 名前も、 約束も、 影でさえもが消え失せている。 過去の人間でも憎むべき人間でもなく、 すでにこの世界に存在していない人間になっ てしまったということだ。 けれど後悔はしていなかった。 それでいい。

それでいいのだ。 それがまさに俺の望んでいたゴールなのだか ら。 自分自身の心に何度もそう言い聞かせながら。 卒業してすぐ本格的に入院生活を始めるとい う条件に、 今もまだ多少の迷いがあったけれど、 美嘉が専門学校ではなく大学を志望している という事実を聞いてからは、 入院してでもいいから絶対に治してやるとい う決意にさらに拍車がかったように感じた。 しかしそれから数日がたったある朝のこと、 心に誓ったはずの決意をいとも簡単に揺るが す事件が起こったのだった。 朝方に目を覚まし、 枕の上にどっさりと抜け落ちている髪の毛の 束を目にした俺は、 息を飲んで思わず言葉を失った。 おそるおそる枕の上に無防備に落ちている髪 の毛の束に手を伸ばし、 指の隙間に絡めてみる。 これは本当に俺の髪の毛なのか? と疑問に感じてしまうほどそれはきしきしと 傷んでいて、 根元の部分がかいわれ大根のように情けなく 尖り、細く弱々しい曲線を描いている。 「頭髪が抜けるということは、 治療が順調に進んでいる証です」 3 回目の治療を終えた頃、主治医はそう言った。


「脱毛は治療を始めるにあたって避けては通 れない道だから、 それなりの覚悟はしておいてください」とも。

な疑問へと変わっていく。 治してやるという決意が、 本当に治るのだろうかという刹那な弱みに変 わっていく。

抗がん剤での治療が始まってからというもの の、 髪の毛は徐々に抜け落ちていった。

俺はおもむろにその場を立ち上がると、 部屋の隅に置かれている細長い全身鏡で自分 の姿を映してみた。

とはいっても手ぐしを通せば手のひらに数本 絡まるくらいの、 放っておけば気づかないくらい 微量な程度。

鏡に映ったもう一人の自分は、 不健康に痩せこけていて、 大量の髪の毛が生えていたであろう部分の頭 皮は、 抜け落ちた髪の毛のせいかうっすらと肌が透 けて見えている。

主治医に前もって忠告されたおかげで、 それなりの覚悟ができていた俺は、 微量に抜け落ちる髪の毛を目にしても対して 驚きもしなかったし、 わめきも、 叫びも、 嘆きもしなかった。

角度によるただの見間違いかと思って、 閉じきったカーテンを開けて太陽の光を部屋 にさんさんと入れ込んだ。

冷静だったといえば嘘になるかもしれない。

しかし日光があたっている頭皮は、 抜け落ちた部分だけがきれいになくなってい るのは明らかだった。

わき上がる不安や絶望は、 胸の奥にひっそりと隠しておけるくらい、 それほど大きいものではなかったということ だ。

鏡に映るもう一人の自分は、 もうすでに自分ではなくて。

この程度なら、と、 腹をくくっていた部分も確かにある。 それなのに、 枕の上に無残にも抜け落ちている不気味な大 量の髪の毛の束を目にした途端、 俺の中で毅然と保っていた何かがガラガラと 音をたてて崩れ落ちていくのがわかった。 生きたいという願いが、 果たして生きられるのだろうかという不安定

こけた頬。 青白い顔。 骨が角ばっている手首。 どこからどう見たって病人にしか見えない。 それも闘病生活に精を出している活気あふれ る病人なんかではなく、 すでに生きる気力を失った影を背負う病人。


途端、死の恐怖が迫ってくる。 ここしばらく胸の奥で端っこをそろえて折り たたまれていたはずの、 おぞましいほどの死への恐怖が。 津波のように押し寄せ、 戻っては押し寄せ、それをひたすら繰り返して いく。 インターネットで何度か、今俺がまさに闘って いる病気についての詳しいことを調べたこと がある。 そのどれもが“今はほとんど完治する病気だ” と記載されていた。 わかっている。 そんなことくらい。 癌は不治の病なんかではないことくらい、 とっくのとうにわかっている。 それなのに、 半信半疑の思考はときに、 死という恐怖を脳裏に浮かび上がらせること があった。 ある時いきなり顔をのぞかせるその言葉は、 そう簡単には消え去ってくれない。 そうなったとき、 俺は思いのほか混乱して、 正常さを見失う。 落ち着きを取り戻しているときと、 混乱しているときの差はとてつもなく激しい。

落ち着きを取り戻しているときは、 生きるという希望の光だけを頼りに足をふら つかせながらもどうにか立ち上がっているこ とができるけれど、 混乱しているときには希望の光なんて当たり 前のように見つかるはずもなく、 先が見えなくて、 その場によろよろとひざまずいてしまうのだ。 混乱したとき、 周りに八つ当たりをすることもあった。 主治医に、 看護師に、 親父に、 母さんに、 姉貴に、 ノゾムに。 俺が癌だということを知っている人間に。 そして俺自身にさえも。 「大丈夫、絶対に治るから」そんなことを言わ れても、 ただの気休めにしか聞こえず、 素直に受け取ることができない。 ――何が大丈夫なんだよ。 どこが大丈夫なんだよ。 絶対に治るっていう証拠があるなら、 証明書でも発行してみせてくれよ。 「頑張って」これは俺が最も嫌いな言葉だ。 ――これ以上、何を頑張れっていうんだよ。


苦痛な治療。 精神的な追い込み。 健康な体を持ったおまえらにわかってたまる か。 そしていつもすぐに後悔するのだった。 どうしてあんなことを言ってしまったのだろ う。 あんなことを考えてしまったのだろう。 誰も俺の気持ちなんてわかってくれないのだ と、 さじを投げる。 いっそのことこの世界で一人になってしまい たいと願う。 本当の俺は、 独りぼっちでは生きていけないというのに。 枕の上に散らばっている髪の毛の束を手のひ らで払いのけ、 俺は焦るようにして布団に潜り込み、 全身を薄暗く覆った。 体を小刻みに震わせながら死の世界を想像し ていく。 癌を宣告されてからというものの、 死について深く考える時間が増えた。 昼間になると現れる影のように、 死という言葉がぴったりと日常にくっついて 迫ってくるのだ。

それは夜になれば姿を隠してしまうけれど、 決して消えたわけではない。 ただ闇と一体化しているだけのことだ。 それでも迫り狂う恐怖を直に目にするよりは 幾分ましだという思いがあるからこそ、 俺は死の世界を想像するとき、 あえてこうして人工の暗闇に包まれるのだっ た。 死の世界とは、 一体どういう場所なのだろう。 人間、死を迎えたその先は、 どうなってしまうのだろう。 ときどき、生きているより、 死んでしまったほうが楽なのかもしれないと 思うときがある。 それは本当にふとした瞬間で、 目が覚めてすぐのときだったり、 ため息を吐き出すその一瞬だったり。 けれど俺はすぐにはっと目を覚まし、 こんなことを考えてはだめだと我に返って反 省するのだ。 そしてそのたび死の世界を、 自分の都合のいいように想像していく。 もし死の世界が、 甘い香りがふわふわと漂っていて、 いつでも心休まる音楽が流れているような乳 白色の世界だったとしたなら、 俺は嘘で固められている理不尽なこっちの世 界なんかより、


そっちの世界のほうが幸福なのかもしれない と、 あまりの悪循環に途方に暮れてしまうだろう。 だからこそ、 常に暗闇に包まれていて、 悲しみであふれ返っていて、 とてつもなく孤独。 ひどく寒く、 肩を震わせても誰も手を差し伸べてはくれな い。

暗闇からは確認できないものの、 それが何かはわかっている。 桜の花びらが散っていくように、 時が流れるにつれて髪の毛がはらはらと舞い 落ちていく姿がまぶたの裏に浮かび上がった。 俺の最後の日はどんな一日になるのだろう。 最後に交わす言葉はどんな言葉だろう。 最後に口にするのはどんな食べ物だろう。

死の世界とは、 きっとそういう場所。

最後に涙を流すのはどういった理由だろう。

と、俺はあえて死の世界を絶望的に想像するの だ。

最後に誰との思い出を頭に駆け巡らせ、 誰を想い、 誰を愛し、 誰に出会えてよかったと思うだろう。

そうすることによって、 そんな場所へなんか行くものかと、 こっちの世界のほうが幸福だと、 そう言い聞かせるためにも。 想像する。 想像する。 想像する。

誰に出会えて幸せだったと思うだろう。 そして最後の最後に、 どんな想いを心のアルバムに焼きつけて目を 閉じ、遠い世界に旅立っていくのだろう。

………怖い。

本当にもう二度と健康な体には戻れないのだ ろうか。

知らぬ間に進行していく病が、 怖くて怖くて仕方がない。

何も考えずに笑っていたあの日々が訪れるこ とはないのだろうか。

生え残っている髪の毛を引っ張ってみた。

あの日に戻ることはできないのだろうか。

それほど力を込めていないというのに、 指先には毛糸のようないびつな糸が絡まる。

俺、死にたくなんかねえよ。 これからも、ずっと、生きていたい。


生き続けるにはどうすればいいんだ? 今は、ただ、ひたすら、 奇跡を願うしか、 方法はないのか? 映画のラストシーンみたいに次々と飛び出し てくる余計な邪念を振り払おうと、 俺は布団を勢いよくはいでその場を立ち上が り、 思い立って一目散に部屋を飛び出た。 向かった先は洗面所。 親父のひげそり専用のカミソリを手に取る。 そしてごくりとつばを飲み込むと、 それを額の生え際にそっとあてた。 ひやりとした冷たく鋭い感覚が瞬時に全身を 這い回り、 肌という肌にいびつな鳥肌を作り出す。 生まれたときからずっと生活をともにしてき た髪の毛。 これからも徐々に失われ、 そしていつか病によって全てが失われていく のなら、いっそのこと自らの手で全てを奪い取 ってやる。 俺は無我夢中で生え残りの髪の毛をそった。 そり落とした。 きれいにそり終えて、 頭の輪郭がくっきりと浮き出たとき、 自分の中で何か大きなことを成し遂げたかの

ような達成感を得た。 と同時に、丸くなった自分を見て、 ひどく後悔したのだった。 全てをそり落とせば抜け落ちた部分の頭皮を どうにかごまかし通せると思っていた。 しかし全てをそったとしても、 髪の毛が生えていた部分と抜け落ちた部分で は、 明らかに感触や色合いが異なっている。 そのとき、 買い物に行っていた母さんと姉貴がちょうど 帰宅した。 洗面所でカミソリ片手に坊主で突っ立ってい る俺の姿を見た姉貴は 「こんな所に夜中の街をたむろしてる怖い兄 ちゃんがいる」 といつものノリでちゃかし、 母さんは腰を抜かしてしまうんじゃないかっ てほど大げさに驚愕の表情を見せている。 「これからはワイルドな男がモテる時代なん だよ」 とあえて強がってみせた俺は、 いち早くこの居心地の悪い場から逃げだした くて、 一目散に部屋へと戻った。 部屋の戸を閉めて、 クローゼットを開く。 そして俺は奥に追いやられているカラーボッ クスをしきりにあさり始めた。


ない。ない。ない。ない。 あ、あった。そうだ。 これだ。 手に取ったのは茶色いニットの帽子。 高校に入ってから一度もかぶっていなかった せいか、毛糸の隙間にはうっすらと灰色のほこ りが混じっている。 息を吹きかけてほこりの除去を試みたあと、 俺はおもむろに坊主になった頭に除去が成功 したその帽子をかぶせ、 鏡で姿を確認した。 さっきまでの坊主姿よりは幾分マシになった。 けれどやっぱり、 耳の下やうなじ周辺に髪の毛がないことは丸 わかりだ。 家にいるときや近くのスーパーに行くときは これで十分ごまかせるものの、 学校にまで帽子をかぶっていくわけにはいか ない。 「ヒロ! ヒロ! 朗報! ちょっと早いけどあんたに誕生日プレゼント 贈呈してやるよ」 と、大声を張り上げると同時に部屋に押し入っ てきたのは姉貴だ。 「おい、ノックぐらいしろっていつも言ってん だろ」

「いいじゃん、減るもんでもないし」 「で、プレゼントって何?」 「そうそう。じゃじゃじゃじゃーん」 満面の笑みを浮かべた姉貴が背中の後ろから 差し出したのは、 両手であり余るくらいおぞましい量の髪の毛 の束だ。 今朝、枕の上に物悲しく抜け落ちていた自らの 髪の毛の束が記憶によみがえり、 俺は眉間に深いしわを寄せてそれから目をそ らす。 「………いらねえ」 「なんだよ、あたしからのプレゼントが受け取 れねえってのか」 「ふざけんな。嫌がらせかよ」 「あーやだやだ。これだからマイナス思考のハ ゲは」 「ハゲって言うな」 「つるっぱげのほうがいい?」 「それも嫌だ」 「あ、じゃあ丸刈りのほうがよかった? まあ、とりあえず文句言わないでかぶってみ な。 じゃなきゃ具合わからないじゃん」 “かぶる”という聞き慣れない単語が右耳から 左耳に通り抜けた途端、 見ることさえ拒んでしまうほど白黒に映って


いた髪の毛の束にぼんやりとした微かな色彩 が加わったような気がした。 「ていうかこれ、何?」 だいたいの名前は把握していながらも試しに 疑問をぶつけてみる。 「何って、見りゃあわかるじゃん。 カツラ…いや、 今のあんたには付け毛って言ったほうがいい のかもしれないけど」 カツラではなくあえて付け毛と表現されたそ れは、 ミディアムと呼ぶにはわずかに長さが足りず、 ほんのり茶色がかっていて、 ツイストパーマらしきものがところどころに かかっている。 「なんで姉貴がこれ…もしかして悩んでたと か」 「バカッ。変な想像すんな! あたしのダチが暴走族抜けるとき、 けじめとして髪の毛そられて丸坊主にさせら れたんだよ。 そのときカツラを買ったとか何とかって言っ てたのをさっき思い出して、 事情説明して譲ってもらった」 俺はその付け毛ってやつを手に取ると、 おそるおそる触れてみた。 初めて触れたそれはとてもごわごわしていて、 傷みぐあいが本物の人毛のさわり心地によく 似ている。 こんな早くに人工の髪の毛を必要とすること

になるなんて、誰が想像していただろう。 夢にも思っていなかった。 けれど今の俺にとってそれは、 意外にも頼もしい救世主のようでもあった。 「使い古しだけどないよりはいいだろ? ら、かぶってみな」

姉貴は半ば強引に俺の頭からニットの帽子を 奪い取ると、 付け毛と呼ばれるそれを頭にのせて角度を調 整した。 俺は乱暴にのせられたそれをだめもとで強く 固定してみる。 しかし思ったとおり、 見事に髪の毛がなく丸くなってしまった頭に それはなかなかフィットしようとはしない。 固定するための “もとの髪の毛”がないから難しいのだ。 とりあえず具合を確認しようと姿を鏡に映し てみると、 外見はそれなりに自然体で、 思いのほかさまになっていた。 「いいじゃん! これ」 「だろ? いけど」

髪生えるまでは不安定かもしれな

「遠目から見たら付け毛だなんてわかんなく ねえ?」


「うん、わかんない。あんた髪型もとからそん な感じだったし。あ、親父で試してみたら? 夕飯のとき何気かぶっておいて、その変化に気 づくかどうか」 「それおもしろそうだな!」 そのとき、部屋の戸が 2 回ほどノックされた。 なぜか部屋の主ではない姉貴が偉そうに「どう ぞ」と返答をする。 遠慮がちにきいっと小さい音を鳴らして戸を 開けたのは母さんだ。 手には受話器を持っている。 「あら、どうしたのその髪形。 付け毛? へぇ~最近のファッションはいろ んなものがあるのねぇ。なかなか似合ってるじ ゃない。 もしかして母さん、先生に余計なこと言っちゃ ったかしら」 と、母さんはうつむきかげんで声をひそめたま ま意味深な言葉を吐き出すと、 有無をいわさず俺に受話器を手渡した。 受話器の向こうで誰かが声をひそめているの がわかる。 「もうすぐ夕飯だから電話が終わったら居間 にいらっしゃい」と言い残して母さんが部屋を 出て行く。 姉貴は居座ったまま出ていこうとはせず、 むしろ早く電話を終わらせろと言わんばかり に睨みをきかせたアイコンタクトをしきりに 送っている。

なんて恐ろしい。 俺は怪訝な表情を浮かべながらもしぶしぶ受 話器を耳にあてた。 『もしもし』 『おう。桜井か? 忙しいところ悪いな。俺だ。 榎本だ』 この声の低さは、 この呼び名は、 このイントネーションは、 この陽気さは。 できることなら休みの日にまで聞きたくなか った。 『何か用?』 『声を聞く限り元気そうで安心したよ。ってほ ぼ毎日のように顔合わせてるんだけどな。はっ はっはっは』 電話の向こうにいるのは俺のクラスの担任だ。 クラスのみんなからは榎ちゃんと呼ばれてい て、 わりと慕われている。 榎ちゃんが発する言葉は一見とてつもなく軽 そうに聞こえるけれど、 よく聞けば一つ一つにしぶとい重みがあると 誰かが噂しているのを聞いたことがある。


もうかなりいい年だというのに、 先生というよりは生徒の目線で接してくれる。

榎ちゃんは俺が癌に侵されているということ を医者に宣告されたあたりから知っている。

そういった部分がとっつきにくい思春期を迎 えた生徒の信頼を得ていたし、 俺も榎ちゃんを嫌いではなかった。

本当はわかってるんだろ?

進学したばかりの頃はよく口論し合った。

俺の髪の毛が抗がん剤の副作用によって抜け 始めたことを。

殴り飛ばしてやろうと手が出たこともあった。

それが嫌になって、坊主にしたことを。

それでも俺にとって唯一、 本音を隠すことなくぶつけることができるた った一人の先生でもあった。

何も知らないふりしやがって。

『まあね』 『あ、そうそう。帽子、明日からかぶってきて もいいからな!』 と、まるで会話が盛り上がっている途中に背を 向けて去っていくかのようにくるりと変えら れた話題に、 俺はあふれる戸惑いを隠すことができず、 先の言葉を情けなく詰まらせた。 『は? それって…』 『さっきお母さんから聞いたよ。 桜井…散髪に失敗したんだって? ははは! 俺も昔、柔らかいパーマかけるつもりがアフロ になったことがあるから、桜井の気持ちはよく わかる。 うんうん』 どうしてか俺は散髪を失敗した人間に仕立て 上げられていた。

演技しやがって。 本当は何もかも知っているくせに。 母さんも、先生も、 演技が下手すぎるんだよ。 『おお、ありがとな、榎ちゃん。いや、榎本先 生?』 『何だよ、今さら、改まって。照れるじゃない か。 桜井はいいお母さんに育てられたんだな。おま えの母さん、さっき泣きながら学校に電話して きたんだよ。 “弘樹が帽子かぶって学校に行くことを、どう か許してあげてください”って。 ったく、俺までもらい泣きしたよ。 お袋に会いたくなった。大切にしてやれよ』 流れる沈黙。 とてつもなく長い時間のように感じる。 しんみりと流れる空気に耐えきれず、 わざとらしく声を張り上げてその重い空気を


先にぶち壊したのは、 榎ちゃんのほうだった。 『そうそう。 帽子のこと、クラスのみんなにはなんとかうま くごまかしておくから、 桜井は何も心配しなくていからな! えこひいきしてるとでも思われたら、 そりゃあ大問題だからな』 最近、わかりやすいくらいのから元気で学校生 活を乗り越えている俺の姿を目にしたクラス メイトたちが、 何があったのかとちらほら陰で疑問を抱いて いるという話を耳にした。 中には俺がなんらかの病に侵されているとい うことにうすうす気づき始めている奴もいる だろう。 どっちにしろこれ以上隠し通すにはおそらく 無理がある。 それは決してあきらめではなく、 信頼という意味で。 『榎ちゃんに頼みがあんだけど、 みんなに話しておいてもらってもいいっす か?』 その言葉をさらりと口にした自分が誰より一 番驚いた。 でも不思議と後悔はしていない。 『話してもいいって、それはもしかして』 『俺が癌だってこと』

『本当にいいのか?』 『このままずるずる隠してても意味ねえよう な気がするし。それに、言ったところで何も変 わらないって信じてっから』 『そうか。よし、わかった。よく決断した。見 直したぞ、桜井』 『俺、明日病院で検査があって学校休むつもり だから、できれば俺がいないときに話しておい てほしいんだけど』 自らの口で全てを説明する勇気は、 今の俺にはない。 それに、同情に包まれた視線に直接さらされる のはまっぴらごめんだ。 榎ちゃんは『明日の帰りのホームルームでみん なに説明する』と言った。 俺はひどく大それたことをしているかのよう な焦りを感じ、 その言葉を最後に電話を切ったのだった。 「誰? なんだって?」 姉貴は興味津々といった感じで体を前に乗り 出して受話器を持つ俺にそう問いかけた。 「あー、担任の先生。これから学校行くにも帽 子かぶっていってもいいって。母さんが頼んで くれたらしい」 姉貴が鳴らしたぴゅうと響く甲高い口笛が脳


内を素早く横切る。 「へえ、やったじゃん。 じゃあお言葉に甘えて、髪の毛が伸びるまでは 帽子かぶって学校行っちゃえば? 髪の毛がないと付け毛も固定しづらいだろう し。 風で飛んでも困るしね、 ははは、ギャグだよそれじゃあ」 夕食の時間、仕事帰りでどっと疲れてやつれた 形相の親父を前に、 俺はあえて帽子をかぶらず付け毛を固定して 何事も なかったかのように平然と挑んだ。

続いて母さんも俺と姉貴の計画の仲間に加わ る。 これでほぼ同罪。 「え? そうなのか、弘樹。散髪したのか。 そうか? ああ、うん、そういえば毛先が短く なったな。なかなかいかしてるぞ」 口に含んだひとかけらの刺身を日本酒で懸命 に飲み込みながら、 親父はしどろもどろにそう口にした。

しかし親父は俺の姿を見ても何も口にはしな い。

その隣では母さんがやれやれと呆れた様子で ため息を漏らしつつ肩をなで下ろしている。

それは興味がないというよりは、 ]自然な日常に変化があるはずないといった確 信を得ているような感じで。

「ほら、大丈夫だったろ? それくらい自然っ てことじゃん」

変化に気づかない親父にしびれを切らしたの か、 母さんがわざとらしく激しい咳払いを始めた。 しかし親父はそれに耳をくれようともせず、 もくもくと大好物のまぐろの刺身に手を伸ば している。 「ヒロ、その髪形いいじゃん! 美容室に行っ たかいがあったな」 いきなり核心をついた言葉を口にしたのはせ っかちな姉貴だ。 「ええ、ますますかっこよくなったわ。さすが は母さんの息子」

言いながら姉貴は俺の背中を手のひらでたた いた。 それは手形がついてしまうんじゃないかって ほど驚異的な力だった。 その日の夜、 久々に深い眠りについた俺は、 妙に鮮明な夢を見た。 白濁した背景の中、 俺は呆然と突っ立って、 何かにひどく困惑している。 何に困惑しているのかはわからないが、 とにかく髪をかきむしってしまうほどの憤り を感じている。


地面からまるで植物が育つかのように一本の 手が生えてきた。 鋭く尖った爪が伸びきっていて、 ごつごつと角ばった輪郭、 血管が浮き出ている大きな手。 その手はよける間もなく俺の足首に長い指を 回す。

あきらめを認めたのか陽炎を残して消えてい く。 「助けてくれてありがとう」 俺は小さな手に向かって静かに頭を下げた。 しかしその小さな手は、 霧のように薄くなり、 時間をかけて形を失っていく。

あまりに強いその力に、 その場を動くことが許されない。

「まだ早いよ。まだ、まだ、まだ、早すぎるよ」

このままでは引きずり込まれてしまう。

それはとても優しい響きだった。

想像しているよりもずっと、 悲しく、 恐ろしく、 どろどろとした闇の世界へ。

ふわふわしていて、 洗いたてのタオルのようにいい香りを放ち、 マシュマロのように柔らかい。

そのとき、 白濁した背景の見上げた先から、 またもや新たな一本の手が生えてきた。 地面に生えている手とは違って、 うんと小さな手。白くて、 丸々していて、 ピンク色の手袋がとても似合いそうな。 その手は今にも引きずり込まれてしまいそう になっている俺の体を確かな力で引くと、 宙にふわりと浮かせた。 ああ、なんて心地いい。 地面に生えた手は、

どこからか聞こえてくる声。

やがて小さな手は、温かさだけを残して姿を消 した。 目覚まし時計の音によって夢の世界から引き 戻され、 目を覚ます。 枕がほんのりしめっていて、 頬には涙の跡が刻まれていた。


三章◇君跡

好奇、心配、哀れみ…そういった感情が目の前 を飛び交うことを覚悟していた。

踏み出せ。2

しかし、

翌々日、静かに息を飲んで教室のドアを勢いよ く開けると、 姉貴から譲ってもらった付け毛をつけたその 上から茶色のニットの帽子をかぶっている俺 の姿に、 全ての事情を把握したクラスメイトたちから の視線が一気に集中した。

「へ? 何が? 何の事?」

静まり返った教室は時間をかけて活気を取り 戻していく。 そのとき、いつも一緒につるんでいた一部のク ラスメイトの奴らが、 駆け足で俺のもとへと駆け寄ってきた。 「ヒロ、おはよう!」 「昨日も学校来なかっただろ。ずる休みか?」

「それより、あたし昨日の小テストで 10 点取 っちゃった」 「それはおまえが勉強しないからだろ」 「ひどーい。ちゃんと勉強したのに。 ねえ、ヒロ、どう思う?」 そいつらの自然な態度によって会話の盛り上 がりはなんの差し障りもなく、 ごく当たり前のように復活したのだった。 もしかしたら榎ちゃんのことだから俺の病気 のことをつい言いそびれてしまったのか、とも 思った。

「あれ、そのピアス、新作?」 先を急ぐように口調を早めるそいつらに向か って 「いやー、榎ちゃんから聞いたと思うけど俺、 癌になっちゃった。マジまいったわ」 と、同情される前にあえて自ら本題についてを 口にする。 無理に盛り上げられた会話がぴたりと線を張 ったように停止される。

けれど教室に足を踏み入れた瞬間に流れたあ の異様な空気は紛れもなく存在していたし、 自然さを装う友人たちの笑顔の裏からときた ま顔をのぞかせる動揺は隠しきれていない。 全ての事情を耳にしながらも、 あえて口にすることを避けているのかもしれ ない。 それはただ単にどう接していいのかわからな くて困惑しているのか、 触れないことによって俺の心の傷の広がりを 防いでくれているのか。


そのどちらかはわからないが、 俺は思わず緊張でこわばった頬の筋肉を緩め た。 「あ、ヒロが笑ってる」

どっと笑いが起こった。 頼もしいほどの、安堵の笑いが。

違うよね、ヒロ。ね、違う

心の中をのぞいているかのように、 友人たちが 「いつものヒロだ」と胸をなで下ろしているの が、 表情からよく読み取ることができる。

「そうだってはっきり言ってやれ、なあヒロ」

こうして温かい目で俺の人生を見守ってくれ る人がいる。

「おまえが 10 点取ったからじゃない?」 「えーそうなの? よね?」

なんだかおかしかった。 明るく奇抜に染められた髪の毛は傷みきって いて、 肌なんて自ら日焼けサロンに足を運んでこん がりと焼いている。 制服のワンポイントとして派手なシルバーの アクセサリーをつけ、 堅い大人からは 「まったく、今どきの若い者は」 とでも言われてしまいそうなこいつらが、 真実を知っていながらも必死に隠し通そうと している。 「癌なんてチョー最悪」とかなんとか言ってそ うなのに、今までと変わらず接しようとしてく れている。 根掘り葉掘り聞き出したい気持ちをぐっとこ らえて、俺の気持ちを察して、 俺のことを想って。 「10 点はないな! これからはせめて 15 点は 取れよな」

けれどみんながみんな良い目で見てくれてい るわけではなかった。 中には、癌はうつる病気なのではないかと勘違 いをして、 それとなく避ける奴もいた。 俺と言い合いのけんかをしたことがある奴に 関しては、ざまあみろと言った感じで鼻を鳴ら した。 俺と美嘉の仲を壊そうとした、 とにかくいい思い出が一つもないショウとい う名の男は、 わざわざ休み時間になるたび俺の席へと歩み 寄り、 「帽子なんかかぶっていい身分だね」 だとか、「特別扱いされていいね」だとか、い ちいち勘に障ることを口にした。 少し前の俺なら「じゃあおまえが癌になってみ ろよ」とムキになって言い返していたに違いな


い。 それなのに、 「そうか?」 「それは悪かったな」 と軽く受け流すほどの余裕を持っている今の 俺は、 もしかしたら自分で思っているよりもずっと 成長できているのかもしれない。 目の前に立ちはだかる大きな壁を乗り越えつ つあるのかもしれない。 ショウはそのうち飽きたのか、 俺の余裕を見せた返答につまらないといった 感じで去っていった。 俺を支えてくれる人間も、 それとなく避ける人間も、 毛嫌いする人間も、 誰一人として俺が癌だということを他クラス に口外する奴はいなかった。 それどころか、 帽子をかぶっているせいで病に侵されている ということを勘ぐられないよう、 俺が散髪に失敗して、 てっぺんはげになってしまったという嬉しい ような悲しいような凝った噂までわざわざ流 してくれた。 癌を宣告されてからというものの、 失ったものは数えきれないくらいたくさんあ る。 それは俺にとってどれもかけがえのないもの で、

できることなら手放したくはなかったものば かりで。 けれど、得たものも確かにあった。 それは目に見えないほど小さくて細々してい るけれど、砕けたダイヤモンドのようにきらき らと輝いている。 支えられる強さを、 頼もしさを、 生きることの喜びを、 奇跡を、 俺はこの 1 年とちょっとの間で、 もしかしたら世界で一番、 痛感したのかもしれない。 時は過ぎ、 それから 4 ヶ月もの月日が流れた。 ―― 3 月 1 日。 今日は高校の卒業式だ。 長いようで短かった高校生活もついに終わり のときを迎えようとしている。 「行ってくるわ」 「あら、今日は早いわね」 いつもなら台所から顔をのぞかせるだけの母 さんが、エプロンで手を拭いながら玄関まで見 送りに来た。 俺は仕上げとしてニット帽を頭にかぶせると、 颯爽と家を飛び出た。


こうして制服を身にまとうのは今日が最後。 この道を通って学校を目指すのも今日で最後。 学生と呼ばれるのも今日で最後。 当たり前だったことが明日には“あの日”と呼 ばれるようになる。 その変化をいまだ実感することができなくて。

学校に足を踏み入れた俺は教室へは向かわず、 そのまま図書室へと足を進める。 きしむ廊下を歩み、 古びた固いドアを開けると、 うすぼやけた視界の中に、 堂々と居座った本の数々が飛び込んできた。 美嘉と付き合っていた頃、 よくここで二人の時間を過ごした。

コンクリートを足で踏みつけるこの固い感覚 を、 風になびくこの草木の心地よい香りを、 流れる雲の速さを、 晴れ渡る空の青さを、 今のうちにまぶたの裏にしっかりと焼き付け ておかなければ。

川原が二人にとって大切な場所であったよう に、 図書室は二人にとって第二の思い出の場所と も呼べる。

あさってから本格的な入院生活が始まる。

誰もいない放課後、この場所で人目を盗んで体 を重ね合ったこともあった。

あさっての今頃は、 多分シーツが真っすぐに張られたベッドの上 で、 白々しい電球を見ながらの退屈な生活を、 戸惑いながらも仕方なく始めていることだろ う。 だからこそこういった自然の風景を、 いつかくじけそうになったとき、 いつでも思い出すことができるようにしてお きたい。 学校に到着した頃、 靴を履き替える生徒はパラパラといるものの、 まだ活気にあふれていない校舎は、 チャイムの音だけがむなしく校舎に響き渡っ ていた。

俺が美嘉に想いを告白したのもこの場所だっ た。

それらの出来事は今となっては自分自身が経 験したことではなく、 まるで短い映画を見ていたかのようにあいま いな輪 郭を帯びている。 楽しかったことも、 幸せだったことも、 なぜかぼんやりとかすれて見える。 現実なのか幻なのかはわからない、 遠い日のおもかげ。 机の上に腰を下ろす。 あえてイスを引かなかったのは、


このほうがより全体を見渡すことができるか らだ。

すれ違うこともなければ、 影を踏むことさえない。

見慣れている風景のはずなのに、 一コマ一コマがとてつも なく貴重なもののように感じる。

美嘉が志望していた大学に見事合格したとい うめでたい知らせを、ノゾムの口から耳にし た。

本の独特な匂いが鼻をざらざらと刺激する。

これから美嘉は、 美嘉だけが知ることのできる新しい生活を堪 能することだろう。

と同時に、ため込んでいた切なさが込み上げ た。 匂いはいつも想いと連結している。 匂いを感じればその匂いを感じていた当時の ことを鮮明に思い出すことができるからだ。 図書室の匂いは美嘉と過ごした日々と見事に 連結している。 だからこそ俺はこの場所に足を運ぶたび、 美嘉を想い、 切なさに胸を焦がすだろう。 学校を卒業してしまえば、 もうこの場所に足を運ぶことはない。 それはもう美嘉のことを思い出さなくてすむ、 ということを意味している。 しかし俺にとっては、 美嘉を思い出すことさえ許されないという制 御と同じようなものだった。 明日からはありきたりな言葉を交わすことも なければ、目が合うこともない。

そして俺はといえば、 病との本格的な闘いが始まろうとしている。 俺しか知ることのない、恐怖との闘いが。 目を閉じる。 別々の道どころか、 背を向けて真逆の方向へと歩き出そうとして いる二人。 幾度となく頭を駆け巡らせた美嘉との日々。 今まで思い出すことをそれとなく避けてきた。 思い出して気持ちがよみがえるのが怖かった し、 何より忘れられない自分が嫌いだった。 でも、せめて今日一日くらいは、 美嘉の背中を見送ることができる最初で最後 のこの日だけ、 美嘉との日々を頭に駆け巡らせて感傷にひた ることは、もしかしたら許されるかもしれな い。 目を開けると、 ふと、太陽の光に照らされた図書室の隅にある


黒板が視界に飛び込んできた。 一度も使われたことのないような、 薄暗い場所にひっそりと置かれているその黒 板に、 白いチョークで何か文字が書かれている。 ――――君は幸せでしたか? そのいびつな文字はどこか頼りなくて、 心なしか震えていた。 けれど見ているだけで胸が震えるようなしっ かりとした力強さを持っていて。 この言葉を書いたのは誰か。 何度か美嘉からもらったことのある手紙に記 された文字を思い出そうとしても、 どうも記憶から消されているみたいで、 考えることをあきらめた。 これを書いたのは美嘉かもしれない。 いや、美嘉であってほしいと強く願う。 でも誰が書いたか、実際はわからない。

一瞬でも、俺の姿を思い浮かべてくれた時間は あったのだろうか。 いや、そんなこと、あるはずがない。 美嘉が思い浮かべたのは、 俺なんかではなく、 きっとあの男に決まっている。 一度だけ見かけたことのある、あの男に。 あれは半年ほど前の、 秋の終わりが近づく風が肌寒い時期だった。 授業を終えて学校を出ると、 校門の前にはその場にそぐわない白い車が止 まっていて、その車の近くに美嘉の姿を見た。 その隣には、 制服を身にまとっていない男の姿があって、 あのとき受けた衝撃を、 今もまだ夢に見ることがある。 その男は美嘉の頭に慣れたように手のひらを 置き、 美嘉は幸せそうに微笑んでいた。

美嘉は別れてからこの場所に足を運んだこと はあっただろうか。

その男に向かって、 二人で過ごした時間などまるで無かったかの ように、それはそれは幸せそうに。

もし一度でもあったとしたのなら、 そのとき美嘉は何を想っただろう。

見知らぬ男と微笑み合う美嘉は、 もう俺の知っている美嘉ではなくて、 出会ったこともない他人のようにさえ見えた。

誰を想っただろう。

そのとき俺は思ったんだ。 苦しかったけど、切なかったけど、


強がりでもなく心から 「幸せになってくれてありがとう」って。 ビールの泡のようにゆっくりとあふれ出る後 悔を隠しながら、 本当にそう思ったんだ。 廊下を歩く生徒の話し声で我に返った俺は黒 板に歩み寄ると、 すでに短くなっているチョークを手に取り、 書かれている言葉の下に新たな文字を書き綴 った。 ――とてもそう、あれは 3 ヶ月前の 12 月 25 日… 0 時が過ぎてクリスマスと呼ばれる日になった ばかりの夜のことだった。 付き合っていた彼女と別れて独り身になった 俺は、 1 年前と同様、家族と、 そしてノゾムを加えて盛り上がったパーティ を終えた後、 お供えするために買いだめしておいたお菓子 のブーツ、ピンク色の子供用の手袋、 そして向かう途中に買った小さな花束を手に 公園へと足を進めた。 公園を間近に、 遥か遠くからこっちへ向かって歩いてくる懐 かしい姿を目にした俺は、 思いのほか動揺して、 勢い余ってその場にぴたりと足を止めた。 「…美嘉・・・?」 そう、それは美嘉だった。

気づかないふりをして足早に通り過ぎようと する美嘉の腕を強引につかんでとっさに引き 止める。 欲望にまかせて行動したことを、 すぐに後悔した。 後悔したのだけれど、 気持ちは強気で、 でもやっぱり本音を言えば弱々しくて。 「…久しぶりだな」 今にも泣きそうな表情で俺の顔を見上げる美 嘉を見て、いつでも振り払えるよう引き止める 腕の力をぐんと弱めた。 しかし美嘉は目を大きく見開いたまま何も答 えようとはしない。 「…美嘉?」 何度か呼びかけを繰り返すと、 美嘉はすぐに自分を取り戻したようで、 頬の筋肉を無理に上げて痛々しい笑顔を作っ てみせた。 「…ヒロっ、久しぶり! 痩せたね!!」 懐かしい声。響き。 付き合っていた頃のように名前を呼んでくれ たことが嬉しくて、 その呼び名を覚えていたことが嬉しくて。 できることなら会いたくなかった。


クリスマスの夜、雪降る公園で、 白く凍える息を吐き出す美嘉に。 まだ好きだという気持ちに確信を得る。 忘れられてなんかいないということに気づく。 こんなに近くにいるのに、 手の届く距離にいるというのに、 抱きしめてやることができないなんて、 聖なる夜はなんて残酷なのだろう。 気持ちが離れ離れになるというのは、 どうしてこんなにも孤独で寂しいことなのだ ろう。 重なった想いが、 時間をかけて築きあげた我慢を麻痺させた。 「じゃあまたね…」 いくつか言葉を交わした後、 か細い声でかろうじてつながる会話に終わり を告げたのは、美嘉の方だった。 帰り道を進み始めようとつま先を出す美嘉を、 俺は、「おい…」 と、言葉で引き止める。

外灯に反射して美嘉の首元でキラリと輝いた もの。 目を凝らしてみると、 それはハート形のネックレスだ。 シルバーで作られていて、 横にはダイヤモンドのような白く小さな宝石 がさりげなく上品に埋め込まれている。 宝石はまるで俺を責めたてるかのように鋭く 光り、 俺は鈍く痛み始める心を押しつぶしてすぐに 目を覚ました。 そのネックレスはおそらく俺が望むに望んで いたはずの美嘉の幸せの証で。 わかっていた。 幸せに過ごしている美嘉を、 わざわざ幸せを手放すであろう道へと引きず り込むことなど許されないということを。 美嘉はもう俺ではない誰かと、 新しい時間を過ごしている。 そしてこれからも確かな未来に向かって足跡 を刻んでいくのだ。

「…何??」

「いや、じゃあな」

そう言って不安げに足を止める美嘉に、 麻痺しかけて震える俺の本心は、 つい病気のことを話してしまいそうになった。

最後に美嘉の頭に手を乗せようか迷ったが、 考え直してやめた。

そのとき、

触れてしまえばもっと欲張りになってしまう かもしれない。


俺はその言葉を最後に公園につながる道へと 足を進めた。 歩く。歩く。歩く。 数十歩進んだところで、 一度だけ足を止めて後ろを振り返ってみた。 美嘉はすでに先の道を歩み始めていて、 しっかり前を見据えるその凛とした後ろ姿は、 悲しみを乗り越えた強さがみなぎっている。 その足はこれから俺が永遠に知ることのでき ないどこかへと進んでいくのだろう。 想いさえ届かない遥か遠くへと。 追いかけたい。 何もかもを投げ捨てて、 追いかけてしまいたい。 けれど、そんなことをしてもどうにもならない ことくらい、わかっていた。

それはこの世の終わりのように心苦しいとい うことを。 もし美嘉が振り返ったとしたら、 俺は背中を追いかけてしまうかもしれない。 けれど美嘉が振り返ることはないということ を、 俺は知っている。 川原での別れ、 振り返ることが許されなかったあのときの俺 のように。 遠くなる足音。 その足音が鳴り止むことはない。 俺は息を深く吐き出すと公園に向かって歩き 始めた。 手放したのは、自分のほうなのに。 好きだったから、 今も好きだから、 そう簡単にあきらめることができなくて。

川原での別れ。

こんなに辛い結末が待ち受けているのなら、 どうして神様はこの広い世界で二人を出会わ せたのだろう。

最後に美嘉が俺の背中を見送ったときに抱え ていた様々な想いが、 今になってよくわかる。

公園の前、足を踏み入れる。

追いかけたいのに追いかけられない。

花壇に並べて供えられた花束とお菓子を見て、 美嘉があのとき二人で交わした約束を覚えて いたという真実を知った。

追いかけたいのに追いかけてはいけない。

「俺は、間違ってたのか?」


お供えすることさえ忘れて、 地面に腰をおろし、 ひざに染み渡る冷たさを感じながら、 空を見上げて赤ちゃんの心に問いかける。 「間違ってなんかないよな? これでよかったんだよな? なあ? ろ? そうだと言ってくれよ……」

そうだ

必死に自問自答を繰り返す。 頬に舞い落ちる雪の結晶が、 潰されることを恐れて、 自ら姿を消していく。 それはとても儚く、 けれど光に満ちた人生だった。

もちろん悲しかったことも、 辛かったことも、 数えきれないほどに。 それでも、暗闇に思い浮かぶ色彩は、 どれも淡く温かいものばかりで。 間違いなく俺は幸せだった。 多くの人に支えられ、 今こうして笑っている。 生きている。 そして何より、 あいつに出会えたこと。

――とても幸せでした

あの日あのとき、 あいつが俺の隣にいたことを、 俺は永遠に忘れない。

図書室の黒板にそう書き終えた俺は、 静かにチョークをもとの場所へと戻し、 白く染められた指先に息を吹きかけた。

出会えてよかった。

この 3 年間、 思い返せばいろんなことがあった。 一つ一つを鮮明に思い出すには、 とてつもなく多くの時間を必要とするけれど、 それでも 3 年間の引き出しを開けてみれば、 すぐに思い出せることばかり。 楽しかったこと。 嬉しかったこと。

もし出会っていなければ、 きっとこんなに多くの気持ちを得ることはで きなかったと思う。 おまえを幸せにしてやることはできなかった けど、 それでも俺は幸せだった。 すげえ幸せだった。 優しい思い出をありがとう。


俺と出会ってくれて、 本当にありがとう。 名残惜しく図書室を出る。 窓から差し込む朝日は、 いつもよりずっと柔らかい光を放っていた。 卒業する生徒達が集まった狭く息苦しい体育 館。 クラス順に一人一人が名前を呼ばれ、 立ち上がっていく。 受け持った生徒の名前を呼ぶ先生の声には熱 がこもっている。 この学校で呼ぶことができる最後の名前を、 心に焼き付けておきたいからだろう。 ――田原 美嘉 不意をつかれて、 美嘉の名前が呼ばれた。 それはまるでテレビのスピーカー越しに聞い ているかのように遠く。 「…はい」 耳を澄まさなければ聞き取れないほど細い糸 のように流れ消える声で返事をしてその場を 立ち上がる美嘉の姿に、 俺は思わず、 瞬間的に、 本能で、

その声の方向に首を向けた。 緊張でこわばった表情。 涙ぐんで震える肩。 いつもより長いスカート丈。 見慣れない紺のハイソックス。 首元まで上げられた赤いリボン。 珍しくぴしっと着こなされている美嘉の制服 姿に、 俺は慌ててだらしなく緩めたネクタイをきつ く締め上げた。 卒業。 終わり。 最後。 これらの言葉が、急に現実味を帯びていく。 俺は美嘉の姿をただ見ていた。 何も考えず、 余計な感情を表にさらけ出すことなく、 先生に向かって頭を下げ、 席につき、 安堵のため息を漏らすその姿を最後の最後ま で。 まるで見守るかのように、 近づきつつある別れを想いながら。 時間は刻々と過ぎ、 ついに俺のクラスが回ってきた。 ――桜井 弘樹


と軽い嫌味を込めて言った。 榎ちゃんの低い声で名前が呼ばれる。 何度か咳払いをしながら「はい」と無愛想に返 事をした俺はその場を立ち上がった。 斜め左の遠くには美嘉の姿がある。 けれど俺は決して振り返ったりしない。 例え振り返ったとしても、 悲しい裏切りは目に見えている。 傷つくことくらい、 苦しみが増すことくらい、 とっくのとうに知りえている。 もう二度と同じ過ちを繰り返したりはしない。 振り返れば余計な期待を抱いた自分にとこと ん嫌気がさす。 ただそれだけのことだ。 今もまだ温かい存在。優しい存在。 かけがえのない存在。 俺は左肩に、静かにさよならを告げた。 式が終わり、 それぞれがお世話になった教室へと戻ると、 担任の先生から各々に卒業証書が手渡された。 榎ちゃんは俺に 「おまえは一番手を焼く生徒だったな」

「でも、一番忘れることのできない生徒でもあ るぞ。これからも持ち前の強さで頑張れよ!」 とも言った。 そう言った榎ちゃんの表情は、 目には見えない温かさに包まれていて、 俺は榎ちゃんと握手を交わすことによって、 積み重ねてきた感謝の気持ちを伝えたのだっ た。 卒業証書を手にした生徒は慣れ親しんだ教室 や校舎に別れを惜しむことなく、 あっけなく学校を飛び出しては、 友人や恋人や片想いをしている相手との別れ に精を出している。 教室に残った俺は一人、 イスに腰掛けて頬杖をついた。 人がいなくなった教室はどこか物悲しくて、 秋のような寂しい気配を漂わせている。 騒がしい外の風景を目に、美嘉の姿を捜す。 しかし美嘉の姿はどこにも見当たらない。 俺はその風景を背に最後を惜しみつつ、 もう二度と足を踏みいれることのない教室を 後にした。 教室を出た先の長い廊下の突き当りに見える のは思い出の図書室。 もうあの戸を開けることはないだろう。 あの匂いを感じることも、


あの場所で大好きだったあいつと笑い合うこ とも。

もう二度と帰ってこられなくなってしまうか もしれない。

でも本当にそれでいいのだろうか。

あと戻りすることはできないかもしれない。

俺の中で、まだ割り切れていない何かがある。

行くな。

しかしそれが何かはわからない。

きっと、行ってはいけない。

胸の裏側に張りついているそれは、 腫瘍のように重々しい不快感を描いている。 それをきれいに取り除いておかなければ、 俺はあいまいなわだかまりを抱えたまま、 これから先の日々を過ごすことになる。 それは思っているよりもずっと、 痛々しい毎日になるだろう。 だからこそ、それらを取り除くには、 もう一度過去を始めから振り返り、 解決する必要があるように感じた。 あの場所でなら過去を思い返す時間が与えら れる。 今の俺には振り切るためのなんらかの手助け が必要で、それが図書室であったということ だ。 図書室へ向かおうとおもむろに足を進めた。 しかし真っすぐに続く廊下はあまりに果てし なく、 終わりが見えなくて。 ここを進んでしまえば、

これ以上過去を思い返してはいけない。 思い返せば返すほど、 影は濃く映し出されていく。 しばらく考えた末、 俺は足を止めて、 もと来た道につま先を戻すと、 唇を噛みしめて玄関を目指したのだった。 靴を履き替え玄関を出ると、 新たな門出を祝ってくれているかのように雲 に体を隠していた太陽がわずかに顔をのぞか せた。 別れを惜しむ生徒に紛れていたクラスメイト の友人たちが、俺の姿を見つけて、 指を差しながら無邪気に駆け寄ってくる。 「あ、いたいた! どんだけ探したと思ってん だよ」 息を切らしながら先頭で走り寄ってきたこい つは、 胸ポケットに挿された卒業の勲章でもある赤 い花が、笑えるほど似合ってない。 でもこいつ、いつも俺が先生と言い合いになっ たとき、間に割り込んで味方になってくれたよ な。


「どこ行ってたの~? ったじゃん!」

もう帰ったのかと思

今日は卒業式だっていうのに、 いつもより濃い化粧をほどこしているこいつ は、 派手で目立つ外見のわりに彼氏にはすげえ一 途で、 俺が学校を休んだときにはいつも絵文字だら けのメールを送って、 元気を与えてくれたんだ。 「そうそう。ヒロって薄情者~って、陰口叩い てたところ」 こいつとは数えきれないほどけんかした。 くだらないことで殴り合って、 ノゾムを含めた 3 人で言い合いになったことも あった。 でも次の日になると、 お互い何もなかったようにいつもどおり、 肩を叩いてあいさつ交わしたりしてた。 終わりが近づくにつれて、 見えないものまでもが見えてくる。 時間は麻薬。 幸せを麻痺させる。 そしてそれが切れた頃に、 残っているのは遥か遠い真実。 “当たり前”なんてこの世に存在しないのだ と、

改めてそう気づかされることになる。 周りを取り囲む友人の肩越しにノゾムの姿を 見つけた。 ノゾムは過去に付き合っていた女と向かい合 って言葉を交わしている。 あの二人は最後、 険悪な雰囲気で終わりを告げ た。 それなのに笑顔で言葉を交わしている二人を 見て、 俺はふと考えた。 別れは、人の心を優しくするのかもしれない。 もう会えないと思うと、 どんなことでも許してしまえそうな気になる。 どんなに傷つけられたとしても、 その傷さえもが愛しくて、 “別れ”という言葉によって柔らかく保護され ていく。 そういえば前に誰かが言っていた。 別れは神様から与えられた最高のごほうびだ と。 なぜなら、 神様は人間に幸せをつかみ取らせようと、 常にできるだけ大きな幸せを探してくれてい る。 その大きな幸せが見つかったとき、


神様は幸せに慣れて見失うことのないよう、 人間に手助けをする。 それが別れという一つの手段である。 別れを経験することによって、見失っていた幸 せに気づくことができる。 だからこそ次からは、 同じ過ちは繰り返さない。 別れは「頑張れ」と背中を押してくれている神 様の手のひらであり、 また、次に新たな何かに出会うための準備期間 でもある。

別れが辛く苦しいのは、 そのあとに生まれる幸せをより鮮明に感じさ せるため。 確かそんな話だった。 もしそれが真実であるのなら、 別れは決して悲しいことではなく、 むしろ、新しい幸せを得るためどうしても通ら なければならなかった道として感謝しなけれ ばならないことなのかもしれない。 ノゾムと、そしてノゾムの昔の女。 憎み合った二人。 けれど一度は想い合っていた二人。

むことができる。 ただそれだけのことが、 狂おしいほどにうらやましくて。 俺は柄にもなく、ひどく嫉妬した。 「ヒロ、卒業しても遊んでくれよな!」 横から友人の一人がそう口にしたことによっ て、 俺はうごめいている余計な邪念を、 大きく咳払いをして振り払った。 「あっ、あたしも仲間に入れて!」 「20 歳になって酒が解禁されたら、居酒屋と かもいいな」 今日も夜が明けて朝が訪れる。 そうすればそれぞれにそれぞれの道が与えら れ、 それぞれの明日が訪れる。 ああ、そういえばこいつら、 俺が癌だってことに最後の最後まで触れてこ なかったな。 慰めも、哀れみも、 何一つ顔に出すことはなかった。

傷つけ合ったことでさえ温かく、愛しい。

そういう優しさ、すげえ嬉しかったよ。

すれ違いながらも最後には笑顔で別れを惜し

だから俺はその優しさを無駄にしないために


も、 あさってから入院生活が始まることをあえて 伝えないでおく。

それでも多くの人に出会い、 そして別れ、恋に落ち、傷つき、 傷つけられ、自ら手放したこともあった。

そのほうが、記憶が輝くだろ? おまえらと過ごした時間を、 色あせたものにはしたくないし、 してほしくもないんだ。

友人に支えられ、裏切られても、 手放せなくって、楽しいことばかりじゃなかっ た。

「そうだな。またみんなで集まってわいわいや ろうぜ」

それでもこの 3 年間、 青春って言葉が、 世界一似合っていたような気がする。

いつか何年後かに、 癌に冒されたことなんて笑い話にして、 酒でも飲み交わしながらこうしてまた騒ぎ合 おう、 みんなで。 そうすることができたら、 俺は最高に幸せだな。 終わりを告げるチャイムの音が響く。 俺は背を向けていた校舎にくるりと体を向け た。 ひび割れた壁。 開きにくい戸。 落書きされた靴箱。 丸く古ぼけた時計。 一度も花が咲いた姿を見たことのない苗。 ここに通い始めてから、 悪いことも数えきれないほどやってきた。 先生を困らせ、 時にはつかみ合いのけんかをし、

ただ言えることは、 学校に通うことができてよかったです。 そして今さらだけど、 俺はこの学校が、好きでした。 思い返せば思い返すほど、 記憶は優しく浸透していく。 この温かな想いは、 いつまでも消えることはない。 「じゃあ、また」 笑顔で手を振って友人達に別れを告げる。 友人達の姿が視界から消えかけたそのとき、 人影に隠れて一瞬だけ見えた小さな影。 それは紛れもなく美嘉の姿だった。 友人に囲まれて楽しげに言葉を交わす横顔。 最後に見た表情が笑顔だったことに、 安堵のため息を漏らす。


そして俺は校門をくぐり抜けると、 家路に向かって歩き始めた。 まだ雪が完全にとけ切っていないせいか、 茶色の水しぶきがかかとを跳ね、 制服のズボンを水玉模様に染めていく。 そのとき、 歩くたび耳を通り抜ける自らの足音のほかに、 もう一つ、 焦るようにして後を追ってくる足音。 徐々に近づくその音が、 背後でぴたりとやんだとき、 俺は意志とは関係なしに、 気づけば自然と後ろを振り返っていた。 そこに立っているのは腰をかがめたままひざ に手のひらを置いて体重を支え、 ぜえぜえと息切れしている美嘉だ。 わずかな期待さえ抱いていなかっただけに、 心の準備などできているはずもなく、 俺は息を吸い、 力を込めてそれを飲み干した。 どうして美嘉が……俺のところに…。 喜び。 驚き。 緊張。 戸惑い。 様々な想いが混ざり合い、 視界に複雑な色を生み出していく。 それでも美嘉が俺のもとへ駆け寄って来てく れたという事実を把握するたび嬉しくて、

小さな笑みをこぼさずにはいられなかった。 「よぉ」 時間が止まり、 重い沈黙が流れる中、 掛ける言葉に迷う美嘉を置き去りにして先に 言葉を発したのは、 息苦しさに耐えられなくなった俺のほうだっ た。 「そ…卒業おめでとっ!!」 安心したのか美嘉は声を張って顔を上げる。 「…おう。元気か?」 冷静さを装っているはいるものの、 震えるのどは動揺を隠しきれていない。 それを隠すため、 声質がいつもより静かになる。 今、美嘉の目に俺は、 どんなふうに映っているだろう。 「うん!! ヒロは…??」 気のせいかもしれない。 でも、気のせいなんかではない。 俺の顔を見上げる美嘉の肩は小刻みに震えて いる。 「俺はまあまあだな」


とを望んでいた。 いくつかのたわいない言葉を交わしている間、 俺の思考はぐるぐると渦巻き、 視界がかすんでしまうくらい心は動転してい た。 なあ、美嘉。 どうしてだよ。

本音を言えば今でも忘れられてなんかいない。 ただ、忘れようとしているだけだ。 手放したことを後悔していないなんて強がり に決まっている。

どうして今さら俺のもとに駆け寄ってきたり した?

本当は、 毎朝目を覚ますたびに後悔している。

俺に話しかけたりした?

天と地のような、 どうしようもない正反対の矛盾に、 胸の奥が針で突き刺されているかのようにち くちくと痛む。

せっかく、 何もかもを忘れようと俺なりに頑張ってんの に。 最後の最後に台無しにしてんじゃねえよ。 おまえにとって桜井弘樹っていう一人の男は、 付き合ったことを後悔するくらい最低で最悪 な男として、 記憶の一部に刻まれてるはずだろ?

けれど最終的に勝ったのは、 今日に限って本音のほうで。 俺のこと、 最低な男だと思ってもいい。 でも、俺のこと、 忘れないでいてほしい。

おまえはおまえのことを支え続けていくであ ろうあの男と、 これからもずっと幸せにやっていけばいい。

俺のこと、 今すぐ記憶から消し去りたいかもしれない。

そうやって意地を張りながらも、 今になって気づく。

でも、俺のこと、 一瞬でもいいから思い出す日があってほしい。

本音をいえば美嘉の心から俺の存在を消し去 ってほしくなんてなかった。

俺、おまえに伝えたい言葉がいっぱいあるん だ。

本音を言えばこうして顔を合わせて言葉を交 わすこ

でも、口に出すことは許されなくて。


もし、たった一つだけ、 この想いを届けてくれるとしたのなら、 俺、本当は、今でも、おまえのこと、

「俺…」 「あのっ…」 想いはいつの間にか声という手軽な手段を利 用して飛び出し、 それと同時に発せられた美嘉の言葉と偶然に も重なり合って消えた。 目を合わす二人。 「あ…ヒロから言っていいよ!!」 「美嘉から言え。俺はたいしたことじゃねえか ら」 強がってすぐに後悔する。 けれど後悔しても時すでに遅し。 美嘉はブレザーのポケットから何かをまさぐ り、 探し当てた何かをいったん手のひらで大切そ うに握りしめると、 意を決してその何かを俺に向かって差し出し た。 丸っこい手のひらから顔をのぞかせたのは、 見覚えのあるシルバーの指輪。

グ…」 これを受け取ってしまえば、 もうつながりは、何一つなくなってしまう。 終わってしまう。 何もかもが、終わってしまう。 できることなら受け取りたくはない。 けれど強い意志が込められたその表情を目の 前に、 それを拒むことなどできるはずもなくて。 美嘉の手のひらに置かれたペアリングをそっ と受け取る。 その瞬間、胸を支配していた腫瘍のようなわだ かまりがみるみるうちに縮んでいくのがわか った。 いつも追うのは美嘉で、 突き放すのは俺のほうだった。 追う側はいつだって無我夢中で、 寄り道することさえ許されない。 汗を流し、息を切らして、 傷を負うことを知っていながらも、 それでも手に入れたい背中を必死に求めてい く。

それは俺が過去に美嘉に渡した…ペアリング。

追われる側はいつだって、 誰かに求められているという安心を得ている。

「これ、返すね。ヒロからもらったペアリン

寄り道しようと、思い立って走りだそうと、


それでも求められる何かが自分にあることに、 優越感を得ている。 けれど俺は大切なことに気づいていなかった。 最終的に終わりを決めるのは、 追いかける側だということを。 追いかける側は、 いつまでたっても振り向こうとしない背中を 求めることに疲れ果て、やがて道を引き返す。 やるだけのことはやったという達成感と満足 感を懐に抱えて。 追われている側は、 後ろを振り返って誰もいないことに気づいた とき、 求められたときは見向きもしなかったという のに、 とても大切なものを失ってしまったかのよう な気になる。

過去を思い出という言葉に変えていくために も。 きっと、これで、良かったんだよな。 「…ヒロの話は??」 美嘉は重なり合った言葉の続きを気にしてい る。 「…なんでもねえよ。だから気にすんな!」 俺はその言葉を消し去るかのように強気でそ う返答したのだった。 「そっか…わかったぁ」 その瞬間、 ふと、頭の隅に図書室でのあの風景が映し出さ れた。

しばらく途方に暮れる。

――君は幸せでしたか?

それでも時々、 振り返って影を探してみたりする。

黒板の隅に白いチョークで書かれたあの言葉。

追いかける側はすでに違う誰かとゴールにた どり着いているということも知らずに。

あれを書いたのが美嘉だとしても、 美嘉ではなかったとしても、

追われる側だった俺はいつまでも期待を捨て きれずにいた。

「美嘉は幸せだったか?」

だからこそ俺にはこうして美嘉に突き放され る痛みが必要だったのかもしれない。

それでもその答えを、 どうしても聞いておきたいと思った。


「うん。すごい幸せだったよ…」

悲しいもんなんかじゃなかったよな?

それはたった一言だけの短い響きだったけれ ど、 それだけで何もかもに優しさが増したように 感じた。

悲しいだけじゃなかったよな?

幸せでしたか? の問いに、とても幸せだった、 と答えた俺。 すごく幸せだった、と答えた美嘉。 例えどんなに傷つけ合ったとしても、 これから離れ離れになっていったとしても、 二人が幸せを感じた日々は確かにあった。 笑い合った日々は、 時間は、夢でも幻なんかでもなく、 時の流れの中に存在していた。 二人が出会ったことは、 決して無駄ではなかった。 「おまえは相変わらずチビだな。早く背伸ばせ よ」 言いながら美嘉の頭に手を置く。 よくこうして言い合ったよな。 美嘉、覚えてるか? 最後くらい、昔みたいに笑い合おう。 笑顔のまま手を振って別れよう。 俺たちの思い出は、

喜びも幸せも確かにあったよな? そんなこと思ってんのは、俺だけかな。 「バカヒロ!!」 美嘉が抵抗の意味を含めて俺の足を踏みつけ る。 その力があまりに弱くて… 今の俺、ちゃんと笑えてるだろうか。 「俺の足を踏むとはいい度胸だな。チビ!」 「ヒロが巨人なの!!」 よし、ここまで。ここまでにしよう。 これ以上ここにいると、 想いがあふれ出てしまうかもしれない。 右手を差し出す。 美嘉からは一瞬にして笑顔が消え、 俺は抱きしめてしまいそうになった手をすぐ に戻した。 美嘉は俺の手を握る。 俺はその手をさらに強い力で握り返し、 それはまた倍の温かさを増やして返ってくる。


重なり合う温度。

返されたペアリングを強く握りしめる。

最後に、すげえわがままを言うことを、 許してほしい。

どうしても伝えることができなかったあの言 葉と共に。

こうして二人のぬくもりが存在していたこと を、 一つになったことを、 忘れなくてもいいですか?

“俺、本当は、 今でもおまえのことを、 想っているから”

「美嘉、絶対幸せになれよ」 「…ヒロもね!!」 精一杯の笑顔を作ってみせる。 美嘉も最高の笑顔で目を細め、 そしてつないだ手は静かに解かれた。 二人は、もう川原で別れたあの晴れ渡った日と は違う。 それはきっと、“最後”の本当の意味に気づい ているからで。 俺は背を向けてその場を歩き始めた。 まだぬくもりの残る手のひらを上げ、 涙をこらえて、 空を見上げる。 美嘉、 最後に会いに来てくれて、 ありがとな。


四章◇君待 切っても切れない、糸。

このノートには、 医者に癌を宣告されたあの日から感じた、 嬉しかったこと、 悲しかったこと、 抱えている様々な想いが日記のように数ペー ジにわたって書き綴られている。

卒業式から 2 日が経過した午後、 俺は肩に降りかかるほどの夕日が差し込んで いる病院のベッドの上にいた。

俺はそのノートをペンとひとまとめにして枕 の下に押し込むと、そこに強く顔を埋めた。

今日から本格的な入院生活が始まる。

大丈夫。耐えられる。

カーテンで作られた薄っぺらいしきり。

入院くらい、なんてことない。

殺風景な部屋。

これからもこのノートにあるがままの想いを 書き綴っていこう。

かたかたと不安げに音を鳴らす窓枠。 白々しい電球。 消毒液の独特な臭い。 この生活に慣れる日は、 いつか本当に来るのだろうか。 そんな日が来るなんて、 今は到底考えることができない。 俺は重い腰を上げて、 ベッドの下に置かれている家から持参した旅 行用のカバンを持ち上げると、 必要とするものを取り出して布団が掛けられ た足の上に並べた。 ニットの帽子、綿のタオル、そして一本のペン と、 一昨日、荷物をまとめていたときにふと目に入 ってきた、本棚の奥にひっそりと隠された一冊 のノート。

俺が本音を吐き出すことができるのは、 このちっぽけな空間でしかないのだから。 入院生活は想像していたよりずっと息苦しい ものだった。 病院食は味が薄く、 お世辞にもおいしいとは思えない。 もっと味の濃いものが食いたい。 焦げるほど焼いた焼き肉だとか、 醤油をたっぷり染み込ませた寿司だとか。 白々しく光る電球はもう見飽きてしまった。 目覚めてすぐ視界に飛び込んでくるたび一日 の始まりに嫌気がさす。 気分転換として外の空気を吸ってみても、 同い年くらいの奴らが元気いっぱいに走り騒


いでいる姿を見ると、どうしようもない屈辱的 な気分に襲われた。 俺だって癌になっていなければ、 今頃あいつらのように無邪気に騒いでいたに 違いない。 輝かしい未来を思い浮かべながら、 近づく夢を無我夢中で追いかけていたはずだ。 人間はどういった理由で、 幸と不幸の世界に分けられてしまうのだろう。 理不尽という言葉は、 何のために存在するのだろう。 自分が健康な体を持っていたとき、病なんて、 ましてや癌だなんて他人事のようにしか思っ ていなかった。 こうして病院という場所で病という恐怖と闘 い、 一日一日を貴重に過ごしている人間がいるな んて、 そんなこと知るはずもなくて。 ほんのささいなことで落ち込み、 肩を下ろし、もしかしたら自分は不幸せな部類 に入る人間なのかもしれないと思い込んでい た。 だからこそ、こうして俺が病と闘っているこの 瞬間にも、広い世界のどこかで病なんて他人事 だと無関心を装っている奴らがいる。 ささいなことで自分は不幸せな人間なのだと 思 い込み、嘆いているもったいない奴らが存在し ているはずだ。

例えば俺の友人が、俺と同じ学校に通っていた 奴らが、俺とすれ違ったことのある奴らが腹を 抱えて笑い転げているとき、俺は唇を噛みしめ ながら苦痛な治療に耐えているのかもしれな い。 例えば俺の知り合いが、俺と同姓同名の奴ら が、 俺の好きなアーティストのファンクラブに入 会している奴らが、レストランで豪勢な食事を 堪能しているとき、 俺は味気のない病院食の前ではしを持つ手を ためらっているのかもしれない。 例えば俺が病院でイヤホンをつけながらバラ エティー番組を見て笑い、 何気ない日常に心から幸せを感じているとき、 居間で家族とともに全く同じバラエティー番 組を見て笑うことができなかった誰かが、 自分は不幸せなのだと嘆いているのかもしれ ない。 そう思うと、むしゃくしゃして仕方がなかっ た。 それと同時に、 のうのうと生きていた過去の自分を、 ひどく羨望した。 そのうち外に出るどころか、 窓の外に存在している風景を見ることさえ拒 むようになり、治療以外は丸一日をベッドの上 で過ごすようになっていった。 何も考えることなく、 カーテンを閉ざした部屋で、 かわり映えのない天井だけを見つめながら。 ベッドが硬いせいか背骨が痛い。


めったに動かさないから体がなまっているし、 そのせいか食欲も出ない。 そして体はみるみるうちに痩せ細っていく、 というひどい悪循環。 何か考えることが唯一あるとすれば、 孤独な闇に欠けた月が浮かぶ真夜中、 俺は廊下にともる薄暗い明かりだけを頼りに 天井に向かって手を伸ばし、 細く円を描く手首に目をやりながら、 いつも同じことばかり繰り返し考えるのだっ た。 ………俺は何のために生きているのだろう。 生きていく意味がわからない。 毎日のように行われる治療。 それは本当に回復の道へとつながっているの だろうか。 解決の道しるべは、 どちらの方向に傾いているのだろう。 日に日に悪化していく体調。 いっそのこと、このまま目を閉じて、 覚めなければいい。 いっそのこと、体も心も、 消えてしまえばいい。 白く厚ぼったい雲が透き通った青空を埋めて いく。

――10 月。 入院生活が始まってから早くも 7 か月が経過し ていた。 体調は悪いともいえないが、 あながちいいともいえない。 真っすぐに張った線がときには上がり、 ときには下がったりと、 行ったり来たりしている状態が続いている。 外では木枯らしが円を描くように寂しい音を たてて吹き荒れ、薄い窓ガラスを左右に危なっ かしく揺らした。 美嘉は風邪ひいてねえかな。 こんなふうに風が強い日は、 ふとそんなことを思ったりする。 まだ名前を思い出すだけで甘酸っぱく、 どこか居心地悪く、息苦しい。 そうして俺はすぐに我に返って首を横に振り、 想いを消し去っていく。 目を閉じ、息を吐き出し、 よみがえろうとする記憶に残らず掃除機をか けていくのだった。 「今日は黄色い花がなかったからオレンジ色 にしたわ。お父さん、花瓶の水替えたいから手 伝ってちょうだい」


「わかったよ」

ものだった。

見舞いに来ている母さんと親父は、両手を頭の 後ろに組み、天井を見つめながらベッドに横な っている俺の隣でそんな会話を交わしながら、 枯れかけた黄色い花と花瓶を手に病室を出て いった。

「おお、もらっておく」

今日は珍しく家族が集合している。 母さんと姉貴はほぼ毎日と言っていいほど見 舞いに来ているけれど、親父は仕事の都合を理 由にあまり顔を出さない。 だからこうして家族 4 人が病室に集まるのは、 貴重な時間でもあった。 「ほら、いつもやつ」 親父と母さんの姿が見えなくなるのを確認し た姉貴は、にやりといやらしい笑みを浮かべる と同時に、 ビニール袋から取り出した“いつものやつ”を 差し出した。 姉貴は俺が入院してからというものの、 毎週新しい号が出るたびご丁寧に“いつものや つ”を買ってきてくれる。

俺はいつものようにそう返答すると、 親父と母さんが戻って来る前を見計らってそ れを戸棚の奥に隠し入れた。 「今回は、35 ページの女がなかなかかわいか ったな。あんた好みって感じで。あとはダメ。 ブスばっかり。あ、でも袋とじはなかなかよさ そうだったから、見たら感想教えてよね」 姉貴はいつもこうして辛口に中身の情報を提 供してくれる。 いい年した女が(しかもどう見たってヤンキー の)部屋で男もののアダルト雑誌をチェックし ている光景を思い浮かべると、カブトムシが海 を泳いでいるかのようなぎこちない違和感を 覚える。 まあ、実はこの雑誌、いつも隣の病室の中学生 の男にあげている…なんてこと、 口が裂けても言えるわけねえけど。 「わかった。見たら教えるわ」

一度も買い逃したことがないんじゃないかっ てくらい律儀に。

入院生活が始まってからというものの、 口数がぐんと減ったように感じる。

“いつものやつ”は裸同然の女が堂々と表紙を 飾っていて、中身は純情な人間なら手のひらで 目を隠してしまうほど大胆で刺激的な内容が 記されている。

前々からそんなに多いほうではなかったけれ ど、 それにさらに加速して。

それは世間一般ではアダルト雑誌と呼ばれる

何かを口にすればするほど強がる気持ちが前 のめりになってしまう。


「そんなにおかしいことか?」 できるだけ心配かけないようにと、 気持ちを偽ってしまう。 「大丈夫?」そう聞かれても、 本音は大丈夫なんかではない。 苦しい。 辛い。 助けてほしい。 それなのに俺は「当たり前だろ」と胸を張って 答えてしまうのだ。 そうすることによって、 相手の表情が安堵に変わっていくのを目の当 たりにしながら、俺もまた静かに安堵する。 そんな毎日に不満が募り募って、 いつしか言葉を発することさえ面倒になって しまったのだ。 「もう、嫌だわ、お父さんったら」 そう言いながら病室のドアを手の甲で弱々し く開けたのは母さんだ。

親父はベッドの下から 2 脚のパイプイスを引き 出す と、そこに腰をかけ、 母さんは手に持った細長いガラスの花瓶を安 定させながら、それを棚のあいたスペースに置 いた。 濃厚なオレンジ色の花が、 風がないのに左右に揺れている。 「親父ってわけわかんないときあるよね」 姉貴が小馬鹿にしたように鼻から息を短く吐 き出す。 「そうか?」 「そうだよ。この間なんてさ、冷蔵庫に入って たそばつゆ、麦茶だと思って飲んでんの。 最後まで気づかないで飲み干してんの。 今時そんな定番の間違いする人いないから」 三人の会話にぱあっと華が咲く。 「そういえばあったわね。まったくお父さんっ たら」

「親父、また何かやらかしたの?」

「おまえが勘違いしやすい容器に入れたりす るから悪いんだろ」

姉貴が呆れたように問いかける。

「あらっ、あたしのせいにしないでほしいわ」

「だって花瓶の中に肥料は入れないのか、なん て言うのよ」

「どっちもどっちだけどね」 家族。


家族。 家族。 そこにいるのは紛れもなく俺の家族なのだけ れど。 どうしてだろう。 他人のように遠く消えそうに見えるのは。 「そばつゆならそばつゆらしい容器に入れて おいてくれよ」 「ふうん。そんなこと言うんだったら、家事は 全部お父さんがやってください。もう母さんは 一切何もしませんからね」 家が、ある。 部屋、がある。 生活、がある。 未来、がある。 「やれやれ。あたしも困った両親を持ったもん だ。昨日もそんな感じで言い合いしてなかっ た? 部屋まで丸聞こえだったけど」 「そうなの。だって母さんが真剣に料理番組見 てるのに、父さんったら野球にチャンネル替え ようとするのよ」 「料理番組なんか見たって実践したことない だろ」

苛立ちが募る――やめろ。 「親父、そんなこと言ったら今日の夕飯抜きに されるかもよ?」 「えっ」 爆発する――やめろ。 やめろ。 「今日はロールキャベツにする予定だったの に。残念だわ」 「ほら、言ったこっちゃない。あたしは知らな いからね」 「悪かった。謝る。食いたいなあ。母さんの、 ロールキャベツ」 破裂する――やめろ。 やめろ。 やめろ。 「………いいかげんにしろよ」 冷静さを失って、 気づけばそう口にしていた。口から飛び出てい た。 口から抜け出していた。 唇が震える。


頭が真っ白になって何も考えられない。 何も考えたくない。 もう、俺自身でさえもが止めることなどできな くて。

明日に備えて安眠を取って、 母さんは化粧水を片手にパックでもしながら、 近所の主婦仲間との立ち話を思い返して頬の 筋肉を緩める。

「弘樹…どうしたの?」

病院を出ればお前らには本物の時間が待ち受 けているんだろ?

母さんが心配そうに俺の顔を下からのぞき込 んだ。

俺のことなんて忘れて。

いかにも作られたように気遣うそぶりが神経 を逆なでしていく。 「さっきから目障りなんだよ」 姉貴がここぞとばかりに言い返す。 「目障り? なんだよ。あたしらは雰囲気を盛 り上げようとして」 「盛り上げる? ふざけんな。嫌味ったらしく 家の話ばっかりしやがって。俺に対する嫌がら せだろ?」 この時間はどうせ作られている。 偽物だ。 みんな何事もなかったかのように家に帰り、 母さんが作ったまだ湯気の残るロールキャベ ツにそれぞれがはしをつけ、 テレビでも見ながら話題を繰り広げる。 夕飯を食べ終えると、 姉貴はバイクにまたがり夜の街へと繰り出し、 友人たちと手をたたいて笑い転げ、 親父はシンプルな柄のネクタイを選び、

俺の存在を無理に頭の隅へと追いやって。 俺がどんな気持ちで毎日を送っているかなん て知らないくせに。 おまえらに俺の気持ちがわかってたまるか。 姉貴の顔がみるみるうちに真っ赤に染まって いくのがわかった。 それはおそらく怒りという要素で。 「あーそうかい。わかったよ。八つ当たりして んなや。うじうじしやがって、かっこわりいな、 おまえ。もう二度と来ねえよ」 姉貴はその場を立ち上がり、 パイプイスを強く蹴り飛ばす。 そして激しく響く音の余韻を残したまま病室 を走りでていった。 「弘樹、聞いてくれ。俺も母さんも姉ちゃんも、 弘樹に嫌な思いをさせようとしているわけじ ゃないんだ」 親父はまるでこうなることを予想していたか のように冷静さを装うと、


無言の圧力で俺の高ぶる気持ちをぐんと押し 寄せてきた。 その隣では、母さんがおろおろしながら目に涙 をためている。 「じゃあどういうつもりなんだよ」 「家のこと、何も知らないよりは知っていたほ うがいいと思ったんだ。そのほうが弘樹も安心 するだろうって」 「帰れないのに知ってどうすんだよ。 想像でもして楽しんでろってか? ふざけん じゃねえ!」 「そんなつもりはなかったんだ。本当だ。弘樹、 わかってくれ」 誰か止めてくれ。 でも、止まらない。 苛々する。 何もかもに。 この世界に存在するものすべてに。 そして何より、 自分なのに自分ではないような体の鈍さに。 回復しない弱さに。 人間の体を支配する、 癌という最大で最強の敵に。

「いいかげんうぜえって言ってんだよ! いつ もいつもかわいそうだって哀れんだ目しやが って」 「落ち着け」 「だいたい親父なんかあまり見舞いに来ねえ くせに、こういうときだけ父親ぶってんじゃね えよ。内心、俺のことなんてどうだっていいっ て思ってんだろ?」 「……弘樹」 「俺なんて早くいなくなればいいって、邪魔だ から早く死ね ばいいって、そう思ってんだろ?」

―――パンッ。 止まらず暴走していた言葉が一瞬にして止ま ったのは、俺の頬に直撃した手のひらが原因だ った。 それは、涙をぬぐったせいかじんわりと湿って いる、ところどころにしわが刻まれた母さんの 手のひら。 「何すんだよ!」 「いいかげんにしなさい」 真っすぐに俺を見る母さんの目は、 あまりに意志が強く、 力強くて…俺は思わずひるんで、 とっさに目をそらした。


「死んでもいいだなんて…誰がそんなこと…母 さんも父さんも姉ちゃんも…みんな本当に心配 して」 「母さん、もう行こう」 目を凝らさなければ見えないほど小さく肩を 震わせた親父が、母さんの手を強引に引いてそ の場を立ち上がらせる。 「……でも」 「いいから。帰ろう。弘樹、またな」 親父は母さんの肩をそっと抱き、 二人は振り返ることなく静かに病室をあとに した。 ドアノブを握った親父のしわしわの手のひら が徐々に見えなくなり、 閉ざされたドアの向こうに消えていく。 残されたのは姉貴が蹴って床に無惨にも倒れ たパイプイスと、親父と母さんが座っていた 2 脚のパイプイス。

そしてここまで支えてくれた家族の優しさと、 膨らみ上がる後悔の念。 いつも周りには誰かしらがいたから、 すっかり忘れていた。 一人の病室ってこんなに静かで寂しい空間だ ったのか。

花瓶を手に取り壁に向かって投げつけた。 割れた花瓶は悲しく、 そして激しい音をたてて床に転がり、 茎の曲がった濃厚なオレンジ色の花は、 広がった水しぶきによって泣いているように も見える。 そのとき、ドアが数回ノックされた。 返事をしていないというのに、 様子をうかがうようにしておそるおそる開い たドアの隙間から顔をのぞかせたのはノゾム だ。 卒業してから工事関係の仕事に就いているノ ゾムは、いつものように作業着のままだ。 ノゾムは忙しい時間を割いてはいつもこうし て仕事の合間に見舞いに来てくれる。 「ノゾム君が見舞いに来てやりましたよ~。 入ってもいい?」 「勝手にしろ」 ノゾムは割れて床に粉々に砕けている花瓶の 大小のかけらを厚い靴底でぱりぱりと踏みし めると、 その悲惨な状況の詳細を問いただすことなく、 寂しく残っている 2 脚のイスの手前側に腰かけ た。 「今日も仕事帰りに真っすぐ来たから、何も買 ってきてねぇや。ごめん。っていつものことだ けど!」


「食欲ないから」 俺はぶっきらぼうにそう言葉を返すと、 カーテンによって閉ざされた窓のほうへと顔 を向けた。 流れる空気はどんより重苦しい。 それはまるで、 眠りすぎて頭痛がするかのように。 隠していた想いが温泉のようにふつふつと熱 を増してわき出し、湯気が視界を一瞬にして濁 らせた。 その想いは丸い泡を次々に噴き出していく。

本心のわけがない。 姉貴が言うとおり、 これはただの八つ当たりでしかない。 言いながら、 あとあとこうして後悔することくらいわかっ ていた。 それでも止めることができなかったのは、 多分俺の心は、想像しているよりもずっと弱っ ているからなのだと思う。 「おじさん、忙しいから見舞いに来ないわけじ ゃないよ」

後悔という名の、いびつで繊細な泡を。

と、予告なしに口にしたのはノゾムだ。

どうしてあんなことを言ってしまったんだろ う。

ノゾムは俺からの返答を待つことなく、 焦るようにして先の言葉を続けていく。

いいかげんにしろ。 目障りなんだよ。 ふざけんな。 俺に対する嫌がらせだろ? 俺のことなんてどうだっていいって思ってん だろ? 早くいなくなればいいって、 邪魔だから早く死ねばいいって、そう思ってん だろ? 本心で言ったわけじゃない。

「ごめん。さっきのやりとりの一部始終、実は ドアの向こうで聞いてた。止めに入らなかった のは、他人の俺が家族の中に割り込んで余計な 口出しすんのは、間違ってるような気がしたか ら」 そう言いながらノゾムは腰を落として水気を 失くしてしおれたオレンジ色の花を手に取る と、 それを円を描くようにして回した。 「八つ当たりしてんの。俺、情けねえよな」 当たり散らした全てを、 まさか聞かれていたなんて。


たのかもしれない。 合わせる顔がなくてかぶっていたニットの帽 子を目線まで下げる。 「余計なお世話かもしれないけど…ヒロのおじ さん、仕事が忙しくて見舞いに来ないわけじゃ ないよ。 だって俺が見舞いに来るとき、おじさんいつも 病室の前にいるから。 病室の前で立ち止まって、こぶし握りしめて泣 いてる。ヒロがこんなに苦しんでるのに代わり になってやれないのが悔しいって。 何もしてやれない自分が情けないって。 おじさんの知ってるヒロは、いつもやんちゃで いたずらばっかりして、元気に走り回ってるイ メージなんだって。 だから元気がない寝たきりのヒロを見てると、 涙が止まらないって。でも涙見せたらヒロが不 安になっちゃうから、なかなか見舞いに行けな いって。 なあ、ヒロ。おじさんちゃんと見舞いに来てる よ。 ただ入る勇気が出ないだけで、毎日病室の前に 来てるよ」 なんだよそれ。 何言ってんだよ。 そんなこと知ったこっちゃねえよ。 さっきだって、何も言わなかったじゃねえか。 否定しなかったじゃねえか。 弁解しなかったじゃねえか。 でも本当はずっと、 気づいていたのかもしれない。 気づいていながらも気づかないふりをしてい

見舞いに来る親父の指先がいつも震えている ことを。 頬にはいつもしずくが縦に伸びたような跡が ついていることを。 「ヒロが早くいなくなればいいなんて、誰も思 ってない。もちろん俺だって、一度もそんなこ と…」 「わかってる」 「え?」 「わかってんだよ。わかってんだけど」 取り返しのつかない大変なことをしでかして しまったような気になって、 汗とともに噴き出る、 自分自身に対する憤りの中で、 俺は想像の暗闇の中、 背を向けて去っていく姉貴を、 親父を、母さんを、 今すぐ追いかけてしまいたい衝動に駆られた。 けれど俺の体は、吹雪の真ん中で凍ってしまっ たかのように動こうとしない。 指先の先端から全身にかけて冷たく染まって いく。 俺がいない食卓テーブルに、 俺の好物が並ぶことはなくて。 寝室に飾られている家族写真には、 これからも変わらず俺の姿が存在していて。


俺が笑うたび、 きっと家族も笑い、 俺が苦しむたび、 きっとそれと同じくらい家族も苦しんでいる。

途中まで書き終えたところで、 その紙を破って丸めてゴミ箱へと捨てる。

どんなに憎み合っていても、 血のつながりは計り知れないくらいに太い糸 で形成されている。

俺はこんなことを書きたいわけじゃねえんだ。

どんなに心が離れていても、 得る想いはいつも以心伝心している。 それが家族という絆なのかもしれない。 それなのに俺は自らの手でその糸に刃物を突 きつけ、自らの手で以心伝心を切断した。 姉貴が夜遊びをやめてバイトを始めようとし ていること、母さんが原因不明の偏頭痛で毎日 のように薬を服用していること、その後もノゾ ムから多くの真実を耳にした。 そのたび後悔がふわりと宙を舞い、天井で渦を 巻いている。 闇に浮かぶ月の光はいつもよりずっと濃厚さ を増しているというのに、 想いに連携してなぜかぼんやりかすんで見え た。 翌日、昼に最も近い午前中に目を覚ました俺は なまった体を起こし、 おもむろに姉貴からもらった“いつものやつ” の最後のアンケート部分を破って裏返すと、 そこにさらさらと文字を綴った。 ≪昨日言ったことは本心じゃねえから。本当は≪

何かが違う。

――こないだ、癌だって宣告されたんだよ。 前に一度、姉貴の口から発せられた言葉がふと 脳裏をよぎった。 あれは俺が癌を宣告された数日後の真夜中の ことだった。 顔を洗うため洗面所へ向かおうと部屋を出て 廊下を歩いていると、わずかに戸の開いた姉貴 の部屋から、 電話中の姉貴のどでかい話し声が聞こえてき たのだ。 ――うん、そう。あたしの弟が。 盗み聞きするつもりはなかった。 けれど会話の内容が自分のことであることが わかると、どうしても興味をそそられてしま う。 姉貴は俺が部屋を出たことに気づいていない。 俺はその場に立ち止まると、 身動き一つせずに息を殺した。 ――あいつさ、いつも強がって平気ぶってるけど、 本当は結構なダメージ受けてると思うんだよ


ね。 昔からそうなんだよ。 自分の弱さ、 隠そうとするんだ。 どうしようもない奴なんだけど、なんかやっぱ り放っておけなくて。 姉貴の声のトーンが徐々に下がっていく。 それは今まで聞いたことがないくらいに弱々 しく、 か細い。 ――まあ、癌だからどうしたって感じだけどね。 何も変わんないよ。 世話がやけんのはいつものこと。 うん。当たり前。 家族なんだから何があっても見捨てるわけね えじゃん。 俺は雑誌を新たにもう一枚破り取ると、 再びそれを裏にして強がりを消し去り、 思うがままの言葉をそこに書き綴った。 ≪いつも支えてくれてありがとう≪ 家族という存在の大きさを改めて知る。 かけがえのない存在だとは、

今はまだ照れくさくて口にすることはできな いけれど、きっと俺が生きていくうえで、 なくてはならない存在なのだと思う。 この紙はもしかしたら無駄になってしまうか もしれない。 自分勝手な俺に愛想を尽かせた親父はもちろ んのこと、もう二度と来るもんかと捨て台詞を 吐いた姉貴も、俺の頬を初めて殴った母さん も、 今日見舞いに来ることはないだろう。 久しぶりに外の新鮮な空気を浴びたいと感じ た俺はその場を立ち上がると、 閉ざされたカーテンを振り払って窓を全開に した。 肌を通り抜ける生ぬるさの中に冷たさが混ざ った風は、余計な気持ちを取り除き、 前向きな気持ちだけを残してくれる。 そのとき、 耳障りなブレーキ音を鳴らして駐車場に止め られた車にふと目を向けた。 古い年式の、 どこか見慣れた灰色の車。 後部座席を降りてきたのは懲りずに今日発売 したばかりの“いつものやつ”を手に持った姉 貴。 ………もう見舞いには来ねえって言い切ってた じゃねえか。 そして助手席から降りてきたのは、 新しいガラスの花瓶といつもの黄色い花束を


手にした母さん。 ………黄色は幸せの色なのよ、って前に言って たけど、案外それは間違ってないのかもしれな いな。 最後に運転席を降りてきたのは、 なぜか俺と同じように頭を坊主に丸めた親父 の姿だった。 ………そんなことで俺の気持ちがわかったつも りでいるのかよ? 丸くなった親父の頭の形は俺にそっくりで、 いや、もしかしたら俺がそっくりなのかもしれ ないけれど。

踊っている。 入院生活が始まってからというものの、 時間が過ぎるのがとてつもなく速い。 気づけばどんどん流れていく。 そして今年もまたやってきた。 毎年俺の胸を刺すように痛ませる、 12 月 24 日、クリスマスイブというこの日が。 今頃街中ではちらちらと振り落ちる粉雪の中、 色とりどりのイルミネーションを背景に多く のカップルたちが指を絡めながら愛を確かめ 合っていることだろう。

まあ残念ながら俺には負けるけど。

それなのに俺はといえば、 意味もなく安っぽいサンタの衣装を身につけ て病室に登場したノゾムに「せっかく今年もお ばさんの料理が食えると思ってたのに~早く 退院しろよ~」としきりに愚痴をこぼされなが ら、 二人きりの病室でノゾムから初めて受け取っ た見舞いの品であるショートケーキを突つき、 互いのいちごを奪い合っているというこの有 様。

三人が颯爽と病院に向かって足を進めるのを 確認した俺は、全開にした窓を閉めることさえ 忘れてベッドに飛び乗った。

ノゾムは今年も彼女と呼べる存在はいないら しい。

そしてついさっき素直な言葉を書き綴った紙 を、 わざと見つかりやすい場所に置き、 布団に潜って寝たふりを決め込む。

まあ、こいつのことだから、 例えできたとしても俺を気遣って、 当たり前のようにいないって嘘をつくだろう けど。

徐々に近づく温かな足音に耳を澄ませ、 家族という大きな絆をこの胸で再確認しなが ら。

1 年前のこの日、 俺を含めた家族と、 そしてノゾムとで家でささやかなパーティを 開いた。

窓の外では大粒の雪が互いの手を取って舞い

確か一昨年もそうだった。

そんな新鮮な光景がなんだか妙におかしくて、 思わず笑みがこぼれた。 親父の坊主頭なんて初めて見たけれど、 なかなか似合ってんじゃん。


そしてその前の年は…いや、そんなことは、も う、いい。 思い出さない。 過去は振り返らない。 それが自分自身を保つ方法でもあるから。 「そういえばノゾムに頼みがあんだけど」 そう話を切り出した俺は、 真剣な面持ちでノゾムの答えを待つ。 ノゾムはそんな俺の油断した隙を狙ってか、 皿の死角に隠していたいちごを指で奪い取る と同時に 「頼みごと? 何? 何?」 といちごを丸々一個幸せそうに口の中で転が しながら、聞き取れないほど早口でそう言葉を 返した。 重要な話だというのに、 なんて緊張感のない奴だ。 クリスマスイブ。 赤ちゃんのお参りをするため公園に行かなけ ればならない。 けれど俺は今年、お参りに行くことができな い。 なぜなら退院許可が出なかったからだ。 病院を抜け出してしまおうかとも思った。 しかしそうなることをいち早く予測した姉貴 が俺の体調を心配してか、 余計なことに看護師に俺が夜中に病院を抜け

出すかもしれないということをご丁寧に報告 したらしい。 だから俺は今日と明日の 2 日間、 厳戒態勢で監視されるというわけだ。 「今日の 12 時、お参り、俺の代わりに行って きてほしい」 ノゾムは迷うことなく首を縦に振った。 それどころか、 最初からそうするつもりだったとまで言い放 った。 お参り場所やそうする詳しい理由を一から説 明するには、面倒な部分があるといえばある。 けれど一昨年にお参りしたとき隣にいたノゾ ムなら、わざわざ説明しなくても全ての事情を 理解している。 そして何よりノゾムは誰よりも一番信用でき る男。 俺にとって唯一親友と呼ぶことのできる男だ。 俺はノゾムに、部屋のクローゼットにある大き い紙袋の中に前もって買いだめしておいた赤 いお菓子のブーツがあるらそれを一つと、 どんなものでもいいからどこかで花を買って それも一緒に供えておいてほしい、と頼んだ。 あえて手袋の存在を明かさなかったのは、 何か一つでも美嘉と俺しか知らない事柄を持 っていたかったということもあるし、 あわよくば看護師の目を盗んで、 病院を抜け出すことへの希望をいまだ捨てき れてずにいたからでもある。


「了解! じゃあ 12 時ちょっきりに行ってく るわ!」 「悪いな。頼む」 「おう! これくらいのことならいつでも任せ ろって!」 2 本の足がちゃんとあるというのに行くことが できないなんて。 なんてもどかしい。 なんて不甲斐ない。 一年前、お参りに行こうと足を運んだ公園の近 くで、偶然にもお参りを終えた美嘉に遭遇し た。 美嘉は今年も来るだろうか。 もし俺がお参りに行けていたとしたのなら、 もう一度あの場所であのときのように遭遇す ることができていただろうか。 このとき俺は、3 日後に起こる奇跡など知るは ずもなかった。 クリスマスイブから 4 日が経過した――12 月 27 日。 ここ最近、寝不足気味だった俺は昼過ぎだとい うのに夢を見るのも忘れるくらい深い眠りに 落ちていた。 懐かしい香り。 温かく、心が優しくなれるような夢。

しかしその安らかな眠りは誰かに激しく肩を 揺すられたことによってあっさりと妨げられ たのだった。 「ロ…ヒロ……ヒロ! 」 ぼやける視界の先に見えるのは、 何やら興奮した様子で声質を高めながら俺の 肩をわしづかみにしている姉貴の姿だ。 姉貴が見舞いに来て飲み物を買いに行ったと ころまでの記憶はあるけれど、 俺が寝ている間、一体何が起きたのだろう。 「っせーな。なんだよ」 両手を伸ばし、 なまった体を伸ばしながら首の骨を鳴らす。 「あんたに一足遅い誕生日プレゼントが贈ら れてきたよ!」 「は? 誕生日プレゼント? 誰から?」 「う~ん、そうだな。天使、の羽をつけたノゾ ム?」 1 週間ほど前、俺はめでたく誕生日を迎えた。 それは紛れもない事実なのだけれど、 誕生日プレゼントが贈られてきた? しかも贈り主は天使の羽をつけたノゾムだ と?


天使と言えば裸。 裸のノゾムが天使の羽をつけて、 ふわふわと宙を浮いている。 うわっ、やべ、なんかすげえ気分が悪くなって きた。 夢なら早く覚めてくれ! 早く! 想像するだけでおぞましい。

を現す影を目にした瞬間、 自分の目を疑った。 疑いながらも、奇跡さえ信じた。 なぜなら現れたその影は、 本当に俺が一番望んでいたプレゼントだった からだ。 「…美嘉?」

「なんだそれ。ていうかくだらねえ」

驚きのあまり目を見開きながら、 おそるおそる名前を呼んでみる。

「そんなこと言って、後悔しても知らないから な。あんたが一番欲しいプレゼントなのに~」

不確かな現実を確かなものへと変えていきた くて。

そんなことありえるわけねえだろ。 だって俺が一番欲しいのは、 あの頃と変わらず……今でも……。 姉貴は開いたドアの隙間から顔をのぞかせ、 病室の外に向かって手招きを始めた。

嬉しそうに、けれどどこか緊迫した表情を浮か べて。

これは夢の続きなのだろうか? 布団の下で握りこぶしを作って伸びた爪を皮 膚に食い込ませる。 痛い。 ということは、 これは紛れもなく現実の世界。 なあ、嘘だろ?

俺は寝ぼけまなこの状態で体を起こすと、 肺の奥から深いため息を吐き出しながら頭上 にあるベッドの手すりに重い腰をかけた。

「…来ちゃったぁ」

ドアが静かに全開になる。

高校時代がよみがえる。

俺はそこからおずおずと申し訳なさそうに姿

懐かしい声。懐かしい香り。

楽しかった日々がよみがえる。


卒業式からまだ 9 ヶ月しかたっていないという のに、なんだかずっと前から会っていないよう な…懐かしい感覚。

美嘉はあの頃と変わっていない。

ノゾムと美嘉も再会したに違いない。そしてあ いつは美嘉に伝えた。 俺が癌であることを、 そして治療のため現在入院しているというこ とを。

何一つ、変わってなどいない。

そうだ。

だからこそ、 好きだった気持ちが戻ってしまいそうな気が して、 途端…呼吸が震えるほどの恐怖に包まれた。

それしかない。

「なんで俺がここの病院にいるってわかった んだ?」

ったく、相変わらずおしゃべりな奴だ。

「ん?? っ!!」

勘だよ。女の子って勘がいいんだ

わざとらしく明るく振る舞う美嘉。 俺の変わり果てた姿を見てさぞかし驚いたこ とだろう。 それでもその驚きを表情に微塵も出さない美 嘉は、 やっぱり出会った頃よりずっと強くなったと 思う。 いきなり届いた思いもよらない最高のプレゼ ント。 送り主は天使の羽をつけたあいつ。 ノゾムの奴、やりやがったな。 日付が変わってクリスマスと呼ばれる瞬間が 訪れたあの日、1 年前に俺と美嘉が道端で偶然 再会したときのように、

おせっかいなあいつのことだからやりかねな い。

俺がここまで積み重ねてきた苦労を返してく れよ。 どうりでここ何日か、 あいつから俺に対する態度が妙によそよそし かったわけだ。 おい、ノゾム。どうなるかわかってるんだろう な? 今から覚悟しておけよ? プレゼントを目にした瞬間、 思わず笑みがこぼれたなんてことは、 口が裂けても言えねえけど。 でも、まあ、とりあえずありがとう。 すげえ嬉しい。 居心地の悪さを感じたのか、 姉貴が遠慮がちにいそいそと部屋を出ていく。


そして病室は美嘉と俺、二人きりとなった。 さっきから続いている沈黙。 こういうときに限っていつもなら聞こえてく る子供が廊下を走り回る音だとか、 それを追いかける看護師の足音だとか、車のエ ンジン音だとかが姿を隠して聞こえてこない。

らこそ、心許なかった。 離れ離れになった二人。 すれ違った二人。 もう二度と会えないと思っていた。 けれど今こうして二人は再び出会い、 言葉を交わしている。

「元気だったか?」

手を伸ばせば抱きしめることだってできる。

沈黙を崩して先に話を切り出したのは俺のほ うだった。

それなのにこれほど落ち着き払っている俺は、 まだ夢心地の状態であり、 美嘉が全ての事情を知っていながらも俺に会 うためだけにここまで来てくれたという事実 を、奇跡を、 いまだ信じることができずにいた。

「うん。元気だったよ!!」 離れていた時間がまるで幻であったかのよう に、 毛布のような柔らかいものにふんわりと包ま れていびつな隙間を埋めていく。 「そっか。それならよかったな!」 戸惑って言葉がどもったりすることなく、思い のほか自然な態度で接することができている 自分にひどく感心した。 まだ高校に通っていた頃は、廊下で美嘉とすれ 違うとき、玄関でふいに目が合ったとき、 そしてクリスマスの夜に偶然出会ったあのと きも、 どれも心臓が飛び出るくらい鳴り響いていて、 どういう顔をしたらいいのかわからず、緊張し た。 美嘉にどう思われているのかわかっていたか

「ヒロ、なんで内緒にしてたの??」 突然切り替えられる話題に先の言葉が詰まる。 なぜなら、明確な言葉はなくとも美嘉の言葉が 何を表わしているのか、だいたいの予想がつい ているからだ。 前のめりの美嘉の体には精いっぱいの力がこ もっていて、真剣な目の奥には覚悟という名の 力が浮き上がっている。 けれどそれは、 指先で軽く触れるだけで、 すぐに崩れてしまいそうにも見えた。 だからこそ今ここで全てをさらけ出すことは、 あまりに残酷な意味を持ち合わせているよう


に感じて。 「何も内緒にしてねーよ!」 「だって病気のこと…」 「うるせー! もういいから。忘れろ」 美嘉の体から微かに漂ってくる外の空気の新 鮮な匂いに、真実に欠けていた時間に 、急に現実味が帯びた。 嬉しかった。 今の俺ならきっと、 我を忘れて人通りの多い街中で大声を張り上 げて叫ぶことだってできる。 恥ずかしさなんて感じられないほど、 目をくらませるほどの奇跡の光を浴びている。 一瞬だけ夢を見た。 先の道を歩み始めていた美嘉がその道を引き 返し、 逆の方向に背を向けて立ち止まっている俺の 背中に抱きついてくる夢。 自らの手で引き裂いたあの幸せな日々が、 静かに形を戻していく夢。 でも、夢はただの夢でしかなかった。 その夢がいとも簡単に崩れ落ちていったのは、 美嘉の左手の薬指につけられている指輪を目 にしたのが原因だった。

その指輪は、 去年のクリスマスの夜に再会したとき、美嘉の 首元で光っていたネックレスなんかよりずっ と輝きを増している。 それが意味するものは、 見たこともない誰かと進歩し続けている確か な愛の証。 「元気そうだな。それに幸せそうで何よりだ」 言いながら微笑んでいる自分にとことん嫌気 がさす。 本当は寂しいくせに。 幸せそうで何よりだなんて、 本当に思っているのか? そんなの、 ただ強がっているだけだろ? そんなことを思っていると、 とてつもなくむなしい感覚に襲われた。 美嘉は自分の手でつかみ取った幸せを、 壊れないよう壊れないよう大切に握りしめて いる。 指輪の存在をさらけだしたところを見ると、 その幸せを俺の手によって奪われることを恐 れているに違いない。 できることなら、奪ってやりたい。 けれど散々傷を負わせてしまった俺に、 こんな姿になってしまった今の俺に、


それを奪う資格など、 壊す資格など、あるはずもなくて。

追いかけられない体になってしまったのだ。

一瞬でも甘い夢を見たのは、きっと、俺だけだ ったんだ。

病室のドアが閉まる。

急激に夢から覚めていく。

いつも病室のドアが開くたび、 美嘉の姿がそこにあることを期待した。

雨がやんでいくように。 雪がとけていくように。 音を消して。 色を消して。 誰にも知られることなく、ゆっくりと。 好きだからこそ一緒に乗り越えてほしかった。 好きだからこそずっとそばにいてほしかった。 でも、もう………遅いんだな。 「ごめん。またね…」 いるだけで息苦しくなってしまう空気に限界 が訪れたのか、美嘉はそう言い残すと逃げるよ うにして病室を飛び出た。 ――待ってくれよ。 追いかけようと重い腰を上げる。

そこには苦しみだけが残っていた。

それが看護師だったり姉貴だったりすると、 露骨に肩を落とした。 入院していることすら知らない美嘉が来るは ずないことくらいわかっているのに、 それでもひたすら奇跡を待ちわびた。 それなのに突然ひょっこりと姿を現した奇跡 は、 手を伸ばしても届きそうにもなく、 目を凝らしても確認することができないくら い遠い存在になっていて、 得ることを拒んでいた気持ちだけを残したま ま、 ぷつんと姿を消した。 幸せになってほしいと願ったあのときの想い は嘘じゃない。 今でも心からそう願っている。 美嘉が幸せに包まれているのならそれが一番 いいのだと。

しかしなまった体はそう簡単に回復しそうに もない。

それでも、 こんな結末を迎えるのなら会いたくなかった。

そうか。 俺はもう美嘉を追いかけてやることさえでき ないのだ。

もう二度と。


新しい幸せが手のひらの中にあるのなら、 ここに会いに来てほしくなかった。 思い出を、過去を、キレイさっぱり捨てさせて ほしかった。 何もかもを忘れさせてほしかった。 美嘉に会うたび懲りずに期待を抱いてしまう 俺は、 いつか俺自身までもを信じられなくなってし まうかもしれない。 カーテンの隙間。 誰かを待つ車。 見慣れた人影。 駆け寄る美嘉。 それを受け止める手のひら。 伝わる二人の愛情。 …勝てない。 カーテンを閉じる。 忘れようとすればするほど、 それは忘れかけた頃にいろんな手を使ってひ ょっこり姿を現し、いびつな影を残していく。 まるで誰かが「忘れるな」と強く念を押すかの ように。 それなのに手に入れることは許されない。 もしも想い合っていた頃に全てを伝えていた としたのなら、俺の隣には今でも、

美嘉の姿が存在していただろうか。 手に入れることはできないというのに、 どうして、忘れることさえ、 許されないのだろう。


四章◇君待 ただ一つ。

「怒ってるよな?」 「いや、怒ってねえよ。むしろ感謝してるくら いだし」 「感謝?」

年が明けた―――2004 年。 「余計なことをしました。 反省してます。マジごめんなさい」 新年早々、 久しぶりに見舞いに訪れたノゾムが俺に向か って手書きの年賀状を差し出しながら深々と 頭を下げている。 ノゾムは美嘉に全ての真実を話してしまった ことをずっと後悔していたらしい。 その後、病院に美嘉が来たときの詳しい状況 を、 病室のドアの前で盗み聞きしていた姉貴から 聞いてさらに後悔は増し、 俺に合わす顔がなかった。 だからこうして年が明けると同時に心機一転 だと無理に理由をつけて謝りに来た、 ということだ。

「美嘉にはもう二度と会うことねえと思って たから。それに美嘉、幸せにやってるみたいだ ってことがわかったし」 無理に平気さを装う俺はノゾムの目にどんな ふうに映っているのだろう。 思っている以上にずっと滑稽だろうか。 「クリスマスイブの夜、 ヒロの代わりに俺がお参りに行っただろ? そのとき、後ろから声掛けられて。 それが美嘉だったんだ。 どうしてノゾムがここにいるの? って美嘉 が聞いてきたから、新しい恋してんなら聞かな いほうがいいって、そう言った。 でも美嘉はそれでもどうしても聞きたいっ て…」 「もういいって。どうせ俺が死んだら知られて たことだし」 「死ぬとか縁起でもねぇこと言うなよ!」

美嘉が病院に姿を現したあの日からすでに数 日が経過している。 けれどその後美嘉が再び病院に訪れることは なかった。 今となってはあれが現実だったのかさえ疑わ しく思える。

そう言って、ノゾムは初めて本気で怒ってくれ た。 それがすげえ嬉しくて、 俺にはこうやって支えてくれる奴らがいるか ら、 美嘉のことはもういいって。


美嘉が現れたあの日の出来事は一時の夢だっ たのだと、そう割り切ることに決めたんだ。 恋愛なんてとっくのとうに捨てたはずだ。 あきらめたはずだ。 本気の恋なんて一生に一度、 壊れるくらいに誰かを愛すことができればそ れでいい。 軽く、浅く、 何度もしてしまえば、 いつか一つ一つがぼんやりと薄れることにな ってしまう。 俺は確かに美嘉に恋をしていた。 今なら胸を張っていえる。 あれは最初で最後の本気の恋だった。 それが例え過去と呼ばれようと、 その事実がこれからも存在していく限り、 俺は後悔などしていないって、 心から誇ることができるから。 それからというものの、 俺は今までと何一つ変わりばえのない毎日を 送っていた。 病院食の味付けの薄さにはいまだ舌が慣れな い。 けれど前より口に運ぶ頻度は増えたように思 う。 体調はよくもなく悪くもないといった感じだ。 家族もノゾムも相変わらず見舞いに来てくれ ている。

仕事帰りに見舞いに訪れるノゾムは、 美嘉が現れたあの日を境に、 よく美嘉の名前を話題に登場させるようにな った。 例えばこういうふうに。 「覚えてる? 高校 1 年の学校祭のとき、美嘉 がさぁ」 「ふーん」 「それに、ヒロと美嘉がけんかしたときあった じゃん、あのとき」 「そうだっけ」 普通なら、 ましてや親友ならあえて傷に触れないよう心 がけるのが常識ってもんだろ? それなのにノゾムはわざとらしいくらいに美 嘉の名前を会話の節々に出す。 話題が尽きると同じ内容を繰り返していく。 一度口に出した話題だということに感づいて いながらも、それでも繰り返していく。 そのせいか、 それともそれを都合のいい理由にしているの かはわからないが、 いつしか俺の頭の中では美嘉の存在がより濃 く浮かび上がり、 離れなくなっていた。


会わなくなってから忘れることができたとい ったら嘘になるけれど、 思い出を過去と呼べるものにしていこうと自 分なりの方法で努力してきたつもりだ。

ョックなんだからな」 ドアが開くたび、 つい髪を整えてしまっている自分がいる。

それなのに最近、 美嘉のことばかりを考えている。

咳払いをして声の調子を確認してしまってい る自分がいる。

朝から晩まで一日に美嘉のことを考える時間 が明らかに増えてきている。

美嘉、おまえはもうここに来てはいけない。

おもしろいマンガを読んでいるとき、 美嘉がこれを読んだらきっと笑うだろうな…と か、 うまい飯を食ったとき、美嘉は今頃どこで何を して、今日は何を食べたのだろう…とか。 そのたび、 美嘉が俺ではないほかの男と笑っている光景 が頭に思い浮かび、 想像は虚しく終わりを告げるのだった。

美嘉は美嘉の今ある幸せを握りしめていれば いいんだ。 これからもずっと。 そう思っていながらも、 待っている。

「ヒロ、今でも美嘉のこと好きだろ?」

どうしようもない矛盾に悩む俺は、 再会する前よりずっと大きく切ない期待を抱 いてしまっているということに、 やっとのことで気がついた。

と、ノゾムに突然そう問いかけられたのは、 雪どけが始まる 2 月初めのことだった。

「そんなつもりはないけど。気のせいじゃね え?」

「は? いきなりなんだよ?」 「好きなんだろ?」 「好きじゃねえよ」 「嘘つくなよ」 「ついてねえから」 「だって俺が病室のドア開けるたび露骨にが っかりした表情してるし。それ、いつも結構シ

「俺に隠したって無駄。好きなんだろ?」 「違うから」 「違わない。ヒロ、いいかげん素直になれよ! 」 無邪気に見せかけながらも、 額にじんわり汗をにじませるノゾムは、 必死であるという真実を完璧に隠しきれてい ない。 どうしてこいつはいつも俺の心を惑わすのだ


ろう。 俺はもう美嘉のことを忘れなければならない。 いつまでも同じ場所に立ち止まっているわけ にはいかない。 想いを手放さなければならない立場なのだ。 「うっせえな。しつこい男は嫌われるぞ?」 「あ、そう。そうだね。美嘉にはすでに新しい 彼氏いるしね!」 「わざとらしく思い出したふりしてんじゃね えよ」 「でも、そんなことぐらいであきらめられる気 持ちなのか?違うだろ? 彼氏がいても、それ でもやっぱり、好きなんだろ?」 「好きだって答えてほしいのか?」 「ああ、そうだよ。悪い? 俺、ヒロと美嘉に ヨリ戻してほしいと思ってる。 美嘉に新しい男がいるからってあきらめる必 要ないじゃん? 好きならそんなの関係ないし。 これからは病気のことも隠さなくたっていい んだし、いっそのこと奪っちゃえよ!」 「そんなことできるわけねえだろ」 苦しめた。 悲しませた。 傷つけた。

それなのに今さら、 俺が美嘉を幸せにしてやるだなんて、 美嘉から新たな幸せを奪うだなんて、 そんなこと許されるわけがない。 そもそも俺がこっちへ来いと手を差し伸べた としても、美嘉がそれを受け止めることはない だろう。 それどころか嫌悪の表情を浮かべるに違いな い。 全ての真実を知っていたとしても、 多くの涙を流させてしまったのは真実なのだ から。 「なあ、そもそも好きなのになんで別れを選ん だりしたんだよ。俺にはそのヒロの気持ちがど うも理解できねぇんだ。 好きならそばにいてほしいと思うのが普通だ ろ? 支えてほしいと思うのが普通だろ? 美嘉が 幸せになる方法ばっかり考えやがって。 ヒロの幸せはどうなっちまうんだよ?」 自分の幸せなんて考えたこともなかった。 いつも、あいつが幸せになってくれればいいっ て、 誰よりも幸せになってくれればいいって、 いつもいつでもそればかりで。 「でも俺、美嘉のこと傷つけたから」 「俺、思うんだけど、高校のときにヒロが癌だ ってことを打ち明けたとしても、美嘉ならその 事実をちゃんと受け止めてくれたんじゃない かな。 俺にはそれくらい二人が想い合ってるように


見えたから。美嘉に傷を負わせたのがヒロな ら、癒してやるのもヒロしかいないんじゃ ん?」 「でも俺…」 「さっきから、でも、でも、って男らしくねぇ んだよ! それってただ逃げてるだけじゃね? 今だから言うけど、美嘉は別れてからもずっと ヒロのこと想ってた。 ヒロが美嘉の前で他の女に手出したときも、 理由もわからないまま別れ告げたときも、 どれだけ冷たくされても、 ヒロに新しい彼女ができても、 ずっとずっとヒロのこと想ってた。 必死に忘れようとしてた。 俺、立ち直ろうとする美嘉の姿、 ずっと隣で見てきたから。 ぶっちゃけ二人が別れた後、俺一回だけ、 美嘉に告白まがいのことしたことあるんだ。 なんていうか、なんかもう放っておけなくて。 結果はもちろん駄目だったけど、その答え聞い てちょっと安心した。 やっぱり美嘉にはヒロしかいないんだって。 自分のことじゃないのに嬉しかった。 せっかく想い合ってるのに離れ離れになろう としてる二人を見て、 いつももどかしい気持ちでいっぱいだった。 好きだって思える人なんて、 ましてやお互いにその気持ちを分かち合える ことができる相手手なんてそうそうできない のに、 すげぇもったいねぇって」 強気なノゾムの一喝は、 短気な俺の闘争心を高ぶらせた。 おそらくノゾムが緻密に立てたであろう計画 にまんまとはめられてしまったのだろう。 ノゾムは息切れする暇なく言葉を続ける。

「クリスマスの日、公園で美嘉に会ったとき、 俺、確信したんだ。美嘉の目、高校の頃と変わ ってなかった。なんとなくわかるんだよ。 ヒロのこと、今でもすげぇ好きだっていう目し てた」 おさえていた気持ちが込み上げる。 ぐんぐんぐんぐんぐんぐんぐんぐんぐんぐん ぐんぐん。 それが例え嘘でも、 もう、おさまりそうにもない。 「最近、話題のなかに美嘉の名前ばっかり出し てただろ? 美嘉のこと、忘れてほしくなかっ たんだ。 ヒロには悪いことしたと思ってる。 あんな卑怯な手使っちまったけど、 ヒロには逃げてほしくなかったから。 ヒロのこと忘れたなら、お参りなんて来ねぇ よ。 許せないなら、これっぽっちも気がなかった ら、 病院になんか来ねぇよ。 ヒロ、後悔だけはするな!」 永遠に気持ちを伝えないままでいると、 多分この先俺は一生後悔を背負っていくだろ う。 そんなこと、わかっている。 けれど俺が気持ちを伝えることによって、 美嘉の心に新たな傷を刻んでしまうかもしれ ないと、そう思ったから、 今の今まであえて目をそむけてきたんだ。 一度は美嘉を手放し、 後悔の重さを知っている俺は、


これ以上の重みに耐えることができるほど頑 丈にはできていない。 美嘉が病室に現れたあのとき、 本当は無理にでも抱きしめてやりたかった。 力ずくでも指輪を奪い取ってやりたかった。 腕をわしづかみにしてでも、 ほかの男のところへなんか行かせたくなかっ た。 けれど俺には足かせが多すぎたのだ。 日に日に弱まっていく体は立ち上がることさ え困難になっている。 美嘉に多くの傷を負わせ、 嘘をついてまで美嘉を突き放したことへの罪 悪感。 それらの重き罪を償っていくには、 今度は俺が同じ場所に傷を負うべきなのだろ う。 誰か、教えてください。 傷を負いながらも、 祈り続けた自分の幸せを願ってしまうことは、 許されないことですか? 「美嘉のこと、今でも好きなんだろ?」 ノゾムは振りだしに戻って同じ質問を再び繰 り返した。

そう、いつも、いつでも、 美嘉は俺の心の中に存在していた。 素直になることができなかったのは、 選び抜いた決断に後悔している情けなさに打 ちのめされたくなかったからだ。 忘れようと思えば思うほど、 影は濃く映し出されていく。 けれど俺はそれに気づかないふりをしていた。 忘れようと思っている時点で、 本当は、忘れたくなんてなかったのかもしれな い。 「嫌いになれるわけねえだろ」 そうか。そうだったんだ。 俺は今でも美嘉のことが好きなのだ。 狂おしく、 愛しく、 切なく、 これほどまでに。 想いが頭から離れた日なんて一日たりともな かった。 封印していたはずの気持ちが、 びっくり箱を開いたかのように縮こまること なく次々と飛び出してくる。 よし、決めた。 俺は、美嘉に偽りのない素直な気持ちを伝えよ


う。 もう強がったりなんかしない。 美嘉が俺のもとに戻ってきてくれるとは、 手元にある確かな幸せを捨て去ってくれると は、 今はどうしても思えないけれど、 それでもきっと伝えることに意味がある。 例え伝わらなくたって、 言葉にする想いはふわふわと宙を舞うだけで なく、 心の芯にしっかりと届くはずだ。 深呼吸をする俺の決心はすでに固まっていた。 俺はノゾムから顔をそむけ「美嘉をもう一度だ け病院に連れてきてほしい」と頼み込んだ。 ノゾムは満面の笑みを浮かべて、 快く首を縦に振り頼みを受け入れてくれた。 もう後悔はしない。 今でも好きだということを、 出会えてよかったということを、 全ての気持ちを美嘉に伝えよう。 そうすれば俺は、 今度こそ一歩一歩を踏みしめて前に進むこと ができるから。 その日、降り続ける雨が窓ガラスを水玉模様に 濡らしていた。 ――――2 月 9 日。

雨の日を嫌う人間は多い。 俺も前まではその一人だった。 けれど入院生活が始まってからは、 雨の日がわりと好きになった。 絶え間ない雨の音を聞いているとよく眠るこ とができる。 音があれば何も余計なことを考えずにすむか らだ。 その日は朝早くから検査があったので午前中 はほとんどの時間、病室を抜けていた。 治療や検査は今も苦痛に変わりないのだけれ ど、 慣れてきたといえば軽くうなずける部分もあ る。 そんな毎日が当たり前になってきている俺は、 退院したらきっとほかの誰よりささいな幸せ を感じることができる大きな人間に育ってい るのかもしれない。 看護師に腰を支えられながら病室へと戻ると、 薄いドア越しに姉貴の声が聞こえてきた。 姉貴は誰かと軽快に会話をしている。 しかし軽快なのは姉貴のみで、 肝心のもう一人の声は聞こえない。 ………美嘉?


いや、そんなこと、あるわけがない。 美嘉に素直な気持ちを伝えると決めたあの日、 俺は意気込んでノゾムに美嘉をもう一度だけ 病室に連れてきてほしいと頼んだ。 あの日からすでに 5 日という月日が経過してい たが、美嘉は一向に姿を現そうとしなかった。 日が経つにつれて、 来ないんじゃないかという疑問が浮かび上が り、 いつしか来るはずがないという決めつけに変 わっていた。 そんな証拠のない確信を持っていた俺はドア の向こうに美嘉がいるなんてことを、 米粒程度にしか想像していなくて。 なんの疑問も持たずにドアを開ける。 と同時に俺はすぐさまニット帽のよれを焦る ようにして直した。 一定の場所から目が離せない。 まるでそこから今にも何かが飛び出してきそ うな、威圧感にも似た衝撃を感じている。

姿を現したのはあまりに突然すぎて、 声をあげて驚く時間すら与えてはもらえなか った。 「よう、美嘉。久しぶり…でもねーか!」 混乱して口から飛び出た声が裏返る。 「うん…」 そこにいたのは紛れもなく美嘉だった。 傘を忘れたのか、 しずくがしたたり落ちるくらいに髪を濡らし、 服なんて絞れるくらいに水気を浸透させてい る。 タオルをひざに置いて寒さで肩を震わせる美 嘉は、 心なしかどこかに居場所を求めているように も見えた。 看護師に介護されながらベッドに腰かける。 失敗した。 こんな姿を見られるくらいなら、 前もって車いすでも用意しておくんだった。 美嘉はこんな俺の姿を見て何を感じただろう。

こういった感覚は今までにどれくらい経験し ただろう。

姉貴は俺に背を向けたまま、 片方の手を後ろに回して威勢よくガッツポー ズを送ってきた。

そしてその感覚は毎回といっていいほどいつ も同じ人物につながっている。

その横顔は微かに誇らしげな笑みを含んでい る。

来てほしいと頼んだのは俺だというのに、

「とりあえずおめえーは出てけ!」


失いかけたプライドを取り戻すためにも、 強気な口調であえて名指しすることなく眼光 のみで先の行動を指図すると、 いつもより機嫌がいい姉貴は素直に、 「はいはいはいはいはーい♪」 と、明らかに場にはそぐわない声質で返事を発 した。 あまりの軽はずみさに一瞬にして美嘉の表情 がほころび、それに続いて俺の表情も一緒にな ってほころぶ。 俺はいそいそと部屋を出ていく姉貴に、 心で静かに感謝の言葉を送ったのだった。 取り残された二人だけの空間。

座ったままの体勢で素直な想いを伝えたとし ても、 なんだかさまにならない。 これが本当の最後になるかもしれないのなら、 こうして体が弱りつつありながらも、 伝えることができるうちに後悔しないよう男 らしく正々堂々と伝えておきたいから。 ベッドの横に設置されている手すりにつかま りながら立ち上がろうとしたが、 いきなり立ち上がったせいか視界がかすみ、 腰がよろけた。 それを目にした美嘉がひざに置かれたタオル を放り投げるとその場をとっさに立ち上がり、 俺に肩を差し出している。 「最近寝てばっかりであんまり体使ってねえ から、 マジだせえな俺」

まだ準備が整っていない俺の心は、 さっきよりもずっと緊張の糸がきつく張られ ている。

何が後悔しないようにだよ。

窓の外に堂々と立ちそびえている大木が風で 激しく揺れ動く。

ここまできてかっこつけようとしてんじゃね え。

美嘉がここに来てくれたのが雨の日でよかっ た。 もし沈黙が訪れたときは、 雨の音でその重苦しさをしのぐことができる から。 体を伸ばして固まっている筋肉をほぐす。

何が男らしく伝えるだよ。

自分を偽ったって意味がねえんだ。 これが俺。 本当の俺。 逃げも隠れもしない。 もうこれ以上隠す必要なんてない。 ありのままの俺で気持ちを伝えなければ、


なんの意味も持たないのだから。

明日から記憶から消し去っていけるよな?

「あはは…しょうがないよ!!」

後悔しなくてすむよな?

そう言って笑いを発散させる美嘉は、 泣いているようにも、 傷を負ったばかりのようにも、 自分をひどく責めているようにも見えた。

幸せになってくれって…迷いなく送り出すこと ができるよな?

ここに足を運ぶのにも、 多くの葛藤を抱えていたに違いない。 ……それならなおさら早くここから解放してあ げなければ。 閉め忘れた窓の隙間からは雨くさい風が吹き 込んでいる。

「俺、話が…」 「美嘉ね…」 二人の言葉が重なった。 それはまるであの卒業式の日のように。 「ヒロから言っていいよ!!」

俺、今度こそ美嘉に伝えたいことがあるんだ。

「俺、たいしたことじゃねえからおまえ先に言 え!」

ずっと伝えたくて、 けれどずっと伝えることのできなかった言葉。

「も~、それじゃあ卒業式のときと一緒じゃ ん!!」

美嘉の表情が困惑に染められようと、 不快が広がろうと、 嫌悪感を示されそうと、 それでも決意は固まっている。

言いながら美嘉が笑う。

伝えれば、あきらめがつくよな?

二人で笑い合えた時間。

切なさで眠れない夜なんて、なくなるよな?

「だよな。じゃあ今回は俺から言うわ!」 言いながら俺も一緒になって笑った。

心から笑えるようになるよな?

その時間があったという事実が存在している だけで、もう十分すぎるほどだ。

いきなり胸が苦しくなったり痛んだりするこ とはなくなるよな?

俺はこの瞬間を胸に抱えながら、 明日から真っすぐ前を向いて生きていける。


理由はよくわからないけれど、 そんな気がするんだ。 俺は美嘉の腕を引くと、 強引に体を抱き寄せた。 温かなぬくもり。 よかった。 こうして最後に会うことができて、 伝えることができて、本当に良かった。 「俺、今、美嘉に彼氏がいんの知ってっけど、 でも好きなんだよ。もう絶対離したりしねぇ。 だから俺のところに戻ってこい」 言葉は、意地を張る想いなんかよりずっと正直 だった。 戻ってこいだなんて、 そんな大それたこと言うつもりはなかったの に。

欲張りになっていた。 負うであろう傷の深さになんか目もくれず、 最後の最後に残ったものは、 意地もプライドも何もかもを捨ててたどり着 いた答えは、まだこんなにも好きだから、 もう一度あのときに戻りたいという、切なる願 い。 美嘉は俺の胸から離れようとはせず、 それどころか俺の細くなった腰に手を回し、 そこに顔を埋めた。 頭に血が上る。 何が起こっているのか、 よくわからない。 「…バカ、遅いよ…」 美嘉はそう言った。 聞き間違いなんかではない。 俺はこの耳で確かに聞いた。

返ってくる答えは予想できていた。

涙声で、確かにそう言ったのだ。

傷つく準備はとっくのとうにできていた。

遅い? 何が? なんのことだ?

ただ、好きだという真実を伝えることができれ ばそれで満足だったはずだ。

勝手な理由で別れを告げて、 全てを知られた途端に、 都合よく自ら手放した幸せを取り戻そうとし ている。

けれど美嘉のぬくもりに触れた瞬間、 理性がふっとんだ。 わがままになっていた。

今さらそんなことを言われても遅いってこと なのか? もしそう思っているのなら、


俺のことなんて突き放してしまえばいい。 突き放して病室を走り出ていけばいい。

それは美嘉が手のひらで包み込んでいた幸せ の何もかもを捨ててここに来たということを 意味していた。

そして二度とこの場所に現れなければいいだ けのことだ。

美嘉は未来のある幸せを捨てて、 俺を選んでくれたのか?

そんなことをしたとしても、 俺は美嘉を決して恨んだりなんかしないから。

美嘉の言う“遅い”は、 手遅れという意味なんかではなく、 ずっとその言葉を待っていたという意味なの か?

それなのに俺の腰に回されている美嘉の手の 力に、 わずかに愛が込められているような気がして。 ただの勘違いだろうか。 でも、勘違いでなければいい。 どうか、それが消えることのない確かなもので あってほしい。 俺は美嘉の体をいったん離すと、 頬に触れる程度のキスをした。 美嘉はそっと目を閉じその行為を受け入れる。 さっき美嘉がベッドから立ち上がる俺に手を 差し伸べてくれたとき、美嘉の手のひらはとて も温かかった。 こうして俺の腰に手を回している美嘉の左手 の薬指からは、柔らかさばかりが肌を伝い、 一瞬の冷たさも、硬ささえも感じられない。 祈りを捨てた指輪。

うぬぼれていいのか? 期待していいのか? 傷を負わせた俺を許してくれるのか? もう一度あの日々を、 幸せを手に入れることは許されるのか? こんな俺でいいのか? 前みたいに体を持ち上げて自転車の後ろ座席 に乗せてやることも、 手をつないで街中をデートすることもできな いけど、本当に俺でいいのか? もしかしたらいつかおまえを置き去りにして、 寂しい想いをさせてしまうかもしれない。 それでも俺との幸せを選んでくれるのか? 状況を徐々に把握するとともに、 視界が真っ白に染まり、 胸が激しく高鳴って、 軽いめまいを起こした。


「もうおまえのこと、絶対に離さねえから…」 …やっと言えた。 再び美嘉の体を抱き寄せる。 柄にもなくあふれ出る涙をどうしても見られ たくなくて、さっきよりずっと強い力で。 今さらそばにいてほしいだなんて、 あまりに自分勝手だと思っていた。 そんな俺の想いを受け止めてくれた美嘉。 俺の言葉をずっと待ち続けていた美嘉。 遠回りばかりして、何度も傷つけ合った。 けれど、もう一度こうして出会うことができた のは、前に姉貴が言っていたとおり“運命”と かいうやつなのかもしれない。 「俺、ずっと美嘉を抱きしめたかった」 「…うん」 一度手放してしまったからこそ、 きっと二度目は、前よりもっと大切にすること ができる。 離れる寂しさを知っているからこそ、 俺はもう何があっても美嘉を離したりはしな い。 今ここで誓う。 癌なんて治してみせる。

あきらめることなく最後の瞬間まで闘ってみ せる。 そして俺は、 二人が一緒に過ごすことができる時間、 美嘉のことを幸せにしてみせる。 世界一、幸せにしてみせるから。 まかせておけ。 想い続けることには、 間違いなく意味があった。 こうして 2 年と 7 ヶ月という長い時を経て、 二人の歩む道はようやく一つの太い道へとつ ながった。 しばらくして落ち着きを取り戻した俺はベッ ドに腰を下ろし、美嘉はパイプイスに腰かけ た。 そしてささやかな談笑が盛り上がり始めた頃、 案の定ドアの向こう側で全てのやりとりを盗 み聞きしていたと思われる姉貴が、 満面の笑みを浮かべながら病室へと乱入し、 コンビニで買ってきたお菓子やら飲み物やら を、 「復活愛おめでとう!」 と、興奮気味に声を張り上げながらベッドにち りばめた。 いつもなら余計なお世話だと怒鳴り散らすと ころだけれど、今日に限っては素直に喜ぶこと ができる。


なぜなら隣には美嘉がいる。 昨日までは遠い夢の夢だと思っていた光景が、 今ここにこうして現実として存在している。

美嘉はポケットから携帯電話を取り出すと、 雨によって濡れた部分にふうっと息を吹きか けて乾かし、 電源を入れて画面をまじまじと見つめては

ついこの間までいっそのこと死んでもいいと 思っていた気持ちが嘘のように、 俺の中で生きてやるという気持ちが火花のよ うにメラメラと燃え上がっていた。

「あれっ、ノゾムから着信が来てた。一件の伝 言メッセージが届いていますって」

人は何か守るべきものがあると、 驚くくらい強くなれるのかもしれない。 「あ、そうだ。美嘉の携帯の番号とか聞いてお いてもいいか?」 照れ隠しを含めて窓の方向に目線を移す。 「えっ、もちろんいいけど、病院なのに携帯使 っても大丈夫なの?」 「あまり大丈夫じゃねえけど何かあったとき のためにとりあえず聞いておこうと思って」 「逃げたりしないよ?」 美嘉が声をこらえて小さく笑っているのが表 情から読み取れる。 「じゃあ別に教えてくれなくてもいいけど」 すぐに意地を張ってしまうのが昔からの悪い くせだ。 「嘘。ちょっとした冗談だよ」

と、全てを言い終わる前にボタンを押して受話 器を耳にあてると、 録音された伝言メッセージに耳を済ませた。 「ノゾム、なんだって?」 メッセージを聞き終えた美嘉にさりげなく問 いかける。 雨漏りした天井のようにじんわり丸く浮かび 上がった嫉妬心に気づかれぬよう。 「う~ん、言ってることがよくわからないの」 「どんな感じのこと?」 「途中で切れちゃってたんだけど、 もう一回病院に行ってくれって。 ヒロが話したいことがあるみたいだからって」 「えっ、あいつから頼まれたんじゃねえの?」 「?? 何を??」 「俺が美嘉に話したいことがあるから、病院に 行ってやってくれって。そう頼まれてここに来 たんじゃねえの?」


興奮のあまり俺は身を乗り出す。 「ううん? 何も言われてないよ??」 「じゃあ美嘉ちゃんの意思でここに来たって こと?」 重要な会話に横入りしたのは姉貴だ。 姉貴はいつもこうして聞きにくいことをずば っと言葉にしてくれる。 まあ今回は好奇心が勝った偶然なのだろうけ ど。 「そうです!!」 「え、マジで。ったくノゾムはとことん使えね え男だな。でもむしろこれでよかったって感じ だけどね! ヒロ、美嘉ちゃんの意思でここに 来たんだって。やったじゃん。この色男」 いやらしく手をたたきながらその合間に人差 し指で腰をつつく姉貴を横目に、 状況を把握した俺の隣で、 状況を把握できていない美嘉はきょとんと目 を丸めている。 「え? 何? どういうこと??」 「……美嘉は何も知らなくていいんだよ!」 そう言いながら笑みを浮かべる俺の心は嬉し さで泣いていた。 これが進むべき最終道だとしたのなら、 例えどんな試練が待っていようと、 俺はもう二度と寄り道なんかしない。


最終章◇君空 ありがとうの前に。 それから美嘉は毎日のように見舞いに来てく れた。 大学に通いながら、講義が終わってから、 ときには大学を抜け出してまで、 一日たりとも怠ることなく。

弱気だった。 いつかこんな俺に愛想を尽かして離れていっ てしまうんじゃないだろうか。 そう思うえば思うほど胸の動悸が早まってい く。

しかし美嘉は満面の笑みを浮かべながら、 「髪なくても病院以外で会えなくても~いい の!!」 と、迷うことなくさらりと答えを出したのだっ た。

目を覚ませば隣には美嘉がいる。 美嘉が俺の手を握って頑張れと伝えてくれて いる。 これからもこうして美嘉がそばにいてくれる のだと思うと、 退屈な入院生活も、 苦痛な治療や検査も、 驚くほど前向きなものへと変化していった。 そして流れゆく季節は春を迎えた。 「こんな俺で嫌じゃねえのか?」 まだ風に冷気があふれている 2 月の中旬、 自分でもその理由はわからないが、 急激に耐えがたい不安に襲われた俺は、 病室をあとにしようとする美嘉の腕を引き留 めてそう問いかけた。

その日の夜、 俺は人気のない静かな病室で鉛筆を手に持つ と、 癌を宣告された日から書き始めた日記ノート に文字を綴った。 文字で染められた部分はいつの間にか結構な 厚さを保っている。 書くことさえ面倒になり、 捨ててしまおうとノートを折り曲げた夜明け は何度あっただろう。 けれど、思いあまって捨てずにいて本当によか った。 美嘉が俺のもとへ戻ってきたあの日から、 書きたいことが山盛りある。

「こんな俺…って??」 美嘉はきょとんとした表情で首をかしげてい る。 「病院でしか会えねーし髪もないし」

ありすぎて、文字だけでは全てを書ききれずに いる。 それはいつでも思い出せるようにしておきた


いくらいの喜びだったり、 想いを発散するための怒りや不安だったりと 日によって様々だったけれど、 俺は夜な夜な何かを感じるたびにこうして鉛 筆を手に持っては、 外灯だけを頼りに家から持ってきたノートに、 隠すことのない本音を書き綴っていったのだ った。 ―― 2 月 13 日――

「どうしたの? 大丈夫!?」 言いながら美嘉は俺の背中を何度も上下にさ する。

テストの帰り美嘉が来る。 こんな俺でもいいって言ってくれた。 うれしかった。

「…丈夫………超うま…いよこれ…」 「そんな途切れ途切れに言われても説得力な いよ? 来年はトリュフはやめてチョコレー トケーキにするね!」

「はい、これあげる!!」

―― 2 月 14 日―

自信に満ちあふれた表情で美嘉から手渡され たのはハート型の小さな箱。 丁寧に包装された花柄のラッピングを丁寧に はがすと、中から白と茶色の丸く小さい球体が いくつかごろごろと顔をのぞかせた。 「何だ? これ」 「トリュフだよ、トリュフ!! だと思う?」

のどに向かって転がり落ちた球体はまぶされ た粉砂糖を舌の上に威勢よくちりばめ、 そのせいか俺は激しくむせ込んだ。

今日は何の日

「今日? 今日は………ああ!」 「白いのが粉砂糖をまぶしたトリュフで、茶色 いのがココアパウダーをまぶしたトリュフ。ヒ ロはどっちがお好き?」 端っこに転がっている白い球体を一粒だけ指 先でつまんで口にひょいと投げ入れる。

美嘉にチョコをもらう。 うまい。 嫌がるノゾムにショッピングセンターでかわ いらしい星柄のラッピングを買ってきてもら い、 どうしても自分自身で選んだものを渡したか った俺は、 病院内に入っている小さなコンビニでのど飴 やらカンロ飴やらのありったけのキャンディ ーを買い占めると、 今にもはじけ飛び出しそうなくらい多くの量 を詰め込んでラッピングで封をし、 それを枕の上にさりげなく置いて、 音を殺して風になびくカーテンの裏に身を隠 した。 「失礼しま~す! 聞いてヒロ、さっき玄関で ね…あれっ、ヒロ? あれ?? いない……」 案の定、予定どおりの時間に見舞いに訪れた美


嘉は勢いに任せて病室のドアを開けた。

あと 3 回ほど息を吐いたらここを飛び出そう。

言葉の端々から感じ取れるように、 いつもあるはずの俺の姿がそこにないことに あせりを感じているようだ。

1 回、2 回、3 回。

よし。なかなかいい感じだ。

窓枠につかまって体重を支えつつ精いっぱい の力を振り絞った俺は、 計画通りカーテンの裏から身を飛び出した。

そこで美嘉が枕の上に置かれている大量のキ ャンディーが入ったラッピングに気づく。 美嘉が喜びの声をあげたところでいきなり俺 が姿を現す。 そして驚きで呼吸を止める美嘉に 「びっくりした? 普通に渡すよりこういう ふうに凝って渡したほうが、美嘉にとって忘れ られない日になるだろ?」 とかなんとかくさい言葉を吐き出しながら抱 きしめてやる。そこで俺の立てた計画は完璧と いう余韻を残して終わりを告げるのだ。 しばらくして俺を捜し求める美嘉の声が途切 れ、枕の上に置かれたラッピングを手に取り、 ガサガサと開ける音が聞こえた。 あれ? 予想していたはずの美嘉の喜びの声 が聞こえてこねえな。 もしかしたら今日が何の日かさえ忘れている のかもしれない。 まったく、相変わらず世話が焼ける奴だな。 まあ、そのほうがより忘れられない日になるだ ろうからそれはそれでいいんだけど。 カーテンの端の布地を握りしめ、息を飲む。 俺が登場した瞬間の美嘉の驚愕の表情を思い 浮かべるだけでつい笑みがこぼれてしまう。

よし、今だ。

「じゃーん。実はずっとここにいたんだけど な! びっくりした?」 「ぎゃあああああああああああああああああ ああ!」 森の中に潜んでいる獣のような雄叫び。 ホラー映画に出てくるようなぱっくりと見開 かれた赤く血走った目。 今にも飛んできそうに握られたこぶし。 そこにいたのは、なぜか美嘉ではなく、 姉貴だった。 「は? なんで姉貴がここにいんだよ」 「何? 何? 変質者?」 姉貴はのどをしきりにたたきながらパニック を起こしている。 「よく見てみろよ。俺だよ、俺」


「へ? 俺? ……ああ、なんだ、ヒロか。驚 かせんなよ。キャンディーのどに詰まるところ だっただろ」

その後、病室に戻ってきた美嘉は、 本当に半泣きの状態で、 俺はそんな美嘉を抱きしめたけれど、 なんだかかっこがつかなかった。

ベッドの上には無惨にも破かれている星柄の ラッピング。

―― 3 月 14 日――

散らばった中身。 封を解かれたキャンディーの袋の数々。 そして姉貴の口に葬られた多種多彩のキャン ディー達。

うれしい。

「おい! 勝手に食ってんな! しかもいっぺ んにたくさん!」 「何のこと?」 「そのキャンディーだよ!」 「まだいっぱいあるんだし別にいいじゃん。て いうかてっきりあたしにくれんのかと思って た」

美嘉にアメをあげたら喜んでた。

ようやく季節は夏を迎えた。 最近、よく窓を開けるようになった。 ちょっと前までは外の空気を吸えば吸うほど 余計な想いばかりを吸収してしまい、 気分がむしゃくしゃして八つ当たりをしたこ ともあったけれど、 今は新鮮な空気を体内に入れることがより回 復への近道になるのではないかとさえ思える。 生きることへの希望が一つでも存在するとい うことは、病と闘うにあたってとても重要だと いうことを知った。

キャンディーはボリボリと爽快な音をたてて 砕け溶けていく。

運動不足を解消したくて、 あいた時間、 病院内をひたすら歩き回るという努力に励む ようになった。

「んなわけねえだろ。まあ食っちまったもんは 仕方ねえけど。それよりなんで姉貴がここにい んだよ。美嘉は? さっき美嘉の声が聞こえた ような気がしたんだけど」

始めてからは動かさなかったときよりずっと 体が軽くて、柔らかい。

「ああ、玄関で偶然会ったから一緒にここまで 来た。美嘉ちゃん、ヒロが病室にいなかったか ら、もしかしたら緊急の検査が入ったのかもし れないって半泣きで看護師のところに聞きに 行ったよ」

目が覚めると一日の始まりに喜びを感じる。 目を閉じると訪れる明日という日に胸が躍る。 運動不足が解消されたせいか体調もすこぶる よかった。


食欲もあるし、 夜もよく眠れる。 鋭い眼光を持つ医者も「桜井君は最近調子がい いみたいですね」と頬の筋肉を緩めてそう言っ た。 もしかしたら退院の日も手を伸ばせばかろう じて届く場所にあるのかもしれない。 ―― 6 月 21 日―― 毎日が楽しい! いつものように見舞いに来た美嘉が来る途中 のコンビニで、インスタントカメラとみかんキ ャラメルとかいう聞いたことのない名前のお 菓子を買ってきた。 聞きなれない食べ物を口に入れることに恐れ を感じた俺は、 単純な美嘉を騙して毒見させてみたところ、 意外にもうまいとのことだったのでおそるお そる食べてみることにした。 それは微妙に甘くて、 微妙に酸っぱくて、 いわゆる甘酸っぱくてお世辞ではなく本当に うまかった。 「そのカメラ俺があずかったらダメか?」 みかんキャラメルを噛みながら、 買ったばかりでまだ残り枚数がいっぱいのイ ンスタントカメラを美嘉の手から半ば強引に 奪い取った俺は、おもむろにそう口にした。 インスタントカメラを美嘉の手に持っておい てほしくなかった理由はいくつかある。

一つ目は、 今の自分の姿を撮られたくなかったからだ。 もしいつか俺の身に何かが起こり、 写真だけが残ったとき、 写真の中に存在している俺の姿は永遠に残る。 すなわち、髪の毛は抜け落ち、 痩せ細った俺が未来まで残ってしまうという ことだ。 そんなことは考えるだけで残酷だった。 美嘉の記憶の中で、 例え嘘でも幻でもいいから、 桜井弘樹という男は永遠に強い男であってほ しい。 そう願うのは自分勝手だろうか。 そしてもう一つ、俺はそのインスタントカメラ で美嘉の姿を撮っていきたかったからだ。 俺の目に映る美嘉の姿や表情。 笑う美嘉。涙ぐむ美嘉。 怒りに肩を震わせる美嘉。 フィルムを美嘉だけで埋め尽くしていく。 そしていつか二人でその写真を見ながら笑い 合う、 それが今の俺の夢でもあった。 あのときの俺はああいう想いを抱えていたん


だ、 美嘉はどうだった? って語り合えたらいい。 素直に、確かな愛の証を、手を取り合いながら。 ―― 8 月 18 日―― 美嘉がみかんキャラメルを買ってきた。 意外にうまい。 カメラも買ってきた。 このカメラで美嘉のいろんな顔撮りたい。 やがて季節は秋を迎えた。 それは古ぼけた枯葉が乾いた風に舞ってコン クリート地面を颯爽と走り抜ける 9 月の終わり のことだった。 前もって買って用意しておいた、 濃い赤で縁取られたものと、 濃い青で縁取られたものの、 普通のものより一回り小さいサイズの二冊の ノート。 俺はそれを布団の下にこっそりと忍ばせなが ら、 汗ばんだ手のひらを握りしめ、 何度も息を飲んで切り出す瞬間を待っていた。 「最近、あんまり天気よくないよね」 見舞いに来ている美嘉は窓の外を見て寂しそ うに呟いた。

予定外に飛び出した話題に俺は言いだす機会 を逃す。 「太陽が出ないと、ヒロ、枯れちゃうよね」 「俺は植物か?」 「でも雨が降るのも嫌だなぁ。そうだ。てるて る坊主作ろうよ!」 子供の頃によく聞いた懐かしい響きに、 俺は先のことなどすっかり忘れて思わず吹き 出した。 「てるてる坊主って。ガキみてえ」 美嘉は鼻歌を歌いながら箱からティッシュを 数枚ほど取り出すと、そのうちの二枚を俺に手 渡した。 どうやら一緒に作れということらしい。 一枚を丸めて、もう一枚の真ん中に無理に入れ 込む。 それをねじって顔の形を作れば簡易てるてる 坊主の完成だ。 引き出しから油性ペンを取り出し、 二人は自らが作ったてるてる坊主に表情を描 いた。

「そうかもな」

美嘉のてるてる坊主は目を逆三角形にして憎 たらしく微笑んでいる。

これからするべきことを言葉にする決意はで きているはずなのに、

俺のてるてる坊主は笑顔を描くつもりだった のに、


なぜか目を吊り上げて怒っているようにも見 えた。 「ヒロが作ったてるてる坊主、なんだかヒロみ たい」 「俺みたいって? どういうこと?」 「だってヒロ、怒るときいつもこういう顔する もん。目細めて、がーって今にも襲いかかって きそうな感じで」 「こんな変な顔してねえよ」 美嘉は俺の作ったいびつなてるてる坊主を手 に取って、俺の顔の横に並べては、互いの表情 を見比べている。 「うん、ほら、怒ってる顔がそっくり」 負けず嫌いの血が騒いだ俺はすぐさま美嘉が 作ったてるてる坊主を手に取ると、同じように して美嘉の顔の横に並べた。

そして互いの表情を交互に見比べる。 「おまえだってそっくりじゃん。ほら、この口 の角度とか」 さらに負けず嫌いの美嘉はあからさまにむっ とした表情を見せる。 「そんなことない。ヒロには負けるよ! だっ ててるてる坊主とヒロは頭の形までそっくり だもんね」 「坊主ってことか? よ!」

ばかにしてんじゃねえ

美嘉は表情を崩し、わざとらしいくらいに声を あげて笑いながらも、一瞬だけふっと寂しそう な笑みを浮かべた。 美嘉は最近よくこういう表情を見せる。 それは本当に一瞬なのだけれど、 その一瞬がとてつもなく切なくて。 泣きたいのを必死に我慢しているのだろう。 俺が不安を抱えているように、 美嘉だって不安を抱えているはずだ。 大きな声をあげて笑えば笑うほど、美嘉の笑顔 が痛々しく今にも壊れてしまいそうに見えた。 「じゃあここにかざろうか」 背伸びをしながら二つのてるてる坊主をカー テンレールの上に置く美嘉の小刻みに震える 背中を見つめていた俺は、 目的を終えてつま先を下げた美嘉の腕を強い 力で引き寄せた。 美嘉はその衝動でベッドの上…俺のひざの隙間 に倒れ込む。 体をきつく抱きしめる。 早まる鼓動が肌を伝って聞こえてくる。 二人の鼓動は重なって、今、一つになっている。 それは肌と肌を合わせるよりもずっと温かく 感じた。 まぶたが熱を増すくらいに愛しくて、あふれだ


す想いが震えた。 それは心がつながり合った証なのかもしれな い。 体を離し、美嘉の手を取る。 美嘉の手はほんのり汗ばんでいて、 まるでそこに心臓があるかのように激しく脈 打っている。 指先にキスをした。そっと触れるだけの、淡い キス。 美嘉はくすぐったいと言って笑う。

俺、美嘉を一人にさせたりなんかしねえから。 病気なんて上等だ。いつでもかかってこい。 闘ってやる。 負けるもんか。 勝ってやる。 勝ってやる。 勝ってやる。 触れ合った唇には、確かな愛が伝わっていた。 俺はこの瞬間を永遠に忘れない。

そのとき、ふいに目が合った。

それは悲しい瞬間なんかではなく、 優しい瞬間として。

その瞬間、言葉もなしに二人の指先は自然と絡 まり合い、美嘉はそっと目を閉じた。

そして美嘉の中でも、同じ想いが浮かんでいた らいい。

できるなら、できることなら、 ずっとこうしていたい。 この優しい時間がいつまでも続いていてほし い。 来年の今頃は、俺はどこで何をしているだろ う。 そして美嘉も、どこで何をしているだろう。 こうして二人で笑い合うことはできているだ ろうか。 このままずっと離れたくない。 二度目に出会ってしまったから、 もう離れることなど考えることはできなくて。 心の奥で静かに誓う。

俺は布団をはぐと、 美嘉の体を下にして覆いかぶさった。 唇を首筋に移動させる。 美嘉は小さく声を漏らして俺の腰に両手を回 した。 その瞬間、ドサッという滑稽な音とともに落下 した何か。 その何かによって甘い時間はあっさり終わり を告げた。 「なあに、これ?」 美嘉は体を起こすと同時に落下した何かを手 に取った。 「あ………」


それは俺が布団の下に隠していた 2 冊の小さな ノートだ。

もちろん嘘、偽りなく、正直に。 それで、お互いのノートを交換すんの。 そうだな、俺が退院した日にでも。 交換したノートを読んで、お互いの全てを知り 尽くしたうえで、また一から新たにやり直せた らいいなって」

あまりに突然すぎて決意も何もないけれど、こ うなったからには言うしかない。

今までどちらとも過去に関して口にしようと はしなかった。

土壇場で覚悟を決めた俺は美嘉に向かって周 りが赤で縁取られたほうのノートを差し出し た。

離れていた日々について触れることを避けて いた。

「ノート??」

「これ、美嘉に持っててほしいんだ」 「何も書いてないよ??」 美嘉はノートを受け取り、指先をうまく使って ぱらぱらと開いている。 買ったばかりのノートの中身は当然真っ白で。 息を深く吸い、軽く吐き出した俺は、意を決し て言葉を口にした。 「俺、思ったんだ。二人が離れてた日々があま りに長すぎて、お互いに知らないことが多すぎ るんじゃねえかって。 美嘉はどう思ってんのかわかんねえけど、俺は 美嘉の全てを知りたいし、これからもたくさん 知っていきたいと思ってる。 それで、何もかも受け止めることができたら最 高じゃねえ? 俺、美嘉と真剣に付き合ってい きたいし、わかり合っていきたいから」 「………全て??」 「だからそのノートに、お互い離れてたときの 日々を書き綴っていけたらいいと思ったんだ。

でも、このまま逃げていても何も変わらない。 いい部分も悪い部分も、 隠すことなく全てを知ってこそ真実の愛なの かもしれない。 俺は美嘉の全てを受け止める自信はある。 そして美嘉もそう思ってくれていると信じて いるからこそ、 こうして口にすることができた。 「一から新たにやり直す…うん、そうだね。そ うしよう。美嘉もヒロのこと、これからもたく さん知っていきたいと思ってるよ」 「じゃあ俺が退院した日に交換ってことで。約 束だぞ?」 「うん、約束!!」 周りが赤で縁取られたノートは美嘉の手へ、 そして青で縁取られたノートは俺の手へとそ れぞれに渡った。


この 2 冊のノートは、 俺が病という敵に勝利したそのとき、 俺と美嘉の新たなる始まりを結びつける重要 な役割を果たすことになる。 ノートを書き終えた二人は、交換して読み終え た二人の絆は、きっと信じられないくらいに強 くたくましく なっているだろう。 過去をさらけだすということはそれほど大き な意味持っている。 俺、美嘉のことなら例えどんなことであろうと 受け止めてみせる。 だから信じて、 全ての過去を聞かせてほしい。 俺も決して偽ったりなんかしないから。 宣告されたあの日。 別れを決意したあの日。 怖くて逃げ出したあの日。 後悔し、涙したあの日。 離れていた日々の真実は、 胸を張って誇れるものではなかったかもしれ ない。

「はい、クリスマスプレゼントで~す!!」 見舞いの最中、 そう言って美嘉から差し出された大きな包み 紙を、 俺は窓の外にちらちらと舞い落ちる雪の結晶 を見つめながら、 照れくささを隠して受け取った。 「俺なんも買ってねえよ?」 「ヒロは元気でいてくれたらそれでいーの っ!!」 「退院したらぜってえお礼すっから。マジであ りがとな!」 セロハンテープをはずしていく。 しかし弾んだその指先は、 美嘉の力によって予感もなく止められたのだ った。 「プレゼントは 0 時になったら開けてっ!!」 ………夜中の 0 時。クリスマスイブからクリス マスに変わったちょうどそのとき、 言われたとおりに受け取ったプレゼントを開 けていく。 最後のセロテープをはがしたところで箱の奥 底から何か奇妙な音が聞こえてきた。

けれど、美嘉が俺の全てを許し、 過去ごと受け止めてくれることを信じて、 全てをさらけだしていく。

どこか聞きなれた機械音。

ついに季節は冬を迎えた。

夜中だということもあり、 最後のセロテープをちぎるようにしてはがす。

これは、携帯の着信音だ。


箱の中から現れたのは一台の黒い携帯電話。

陽気にクリスマスソングを口ずさむその後ろ からは雪の上をさくさくと歩く鈍い足音が聞 こえてくる。

その携帯電話はすでに電源が入れられていて、 表情を照らす眩しい画面には美嘉の電話番号 が表示されている。

『…美嘉か? なんでプレゼントに携帯…』

鳴り響く着信音を静めようと適当なボタンを 押していると、突然音はあっけなくぴたりとや み、 むなしい沈黙を作り出した。

画面? 電話なのに? こいつは何を言ってんだ?

『もしも~しヒロ?? 聞こえる??』 どこかから美嘉の声らしきものが聞こえてく る。 俺…疲れてんのかな? 『ヒ~ロ~君??』 幻聴なんかではない。 受話器越しの遥か遠くからの美嘉の声が聞こ えてくる。 首をかしげながらも受話器を耳にあて、 その声が聞こえる方向に向かっておそるおそ る返答してみた。 『…あれ? もしもし』 『ヒロ~メリークリスマス♪』 美嘉との電話がつながっているということに 気づくのに、 思いのほか長い時間を要した。

『ヒロ~携帯の画面見て!!』

『え? なんだって?』 『だ~か~ら~、携帯の画面見てよ!!』 受話器を耳から離して画面をのぞく。 暗闇にそぐわないあまりの眩しさに俺は目を 細めたが、驚きのあまりすぐに見開いた。 画面には美嘉の姿が映っている。 背景が黒く、雪が降っているのがわかる。 そして斜め下に小さく映し出されているのは、 まさしく今の俺のとぼけた顔。 『なんだよ、なんで顔が映ってんだ!?』 慌てて受話器を耳に当て、興奮気味に問いかけ る。 『ふふふ~テレビ電話だから受話器から耳か ら離しても聞こえるよ!!』 そう、それはテレビ電話だった。


クリスマス、俺はお参りに行かなければならな い。

そっと目を閉じる。

けれど退院許可が出なくて、 前もって買いだめしておいた部屋のクローゼ ットに置かれているお供えのことを美嘉に伝 えた。

赤ちゃん。俺の声は、聞こえてますか?

美嘉はそのお供えを持ち、お参りに行くことが できない俺に代わって二人分のお参りに行く ことになった。 テレビ電話の向こう側に映る景色。 美嘉の足は公園の横にある花壇へと向かって 進んでいく。 美嘉は俺も一緒になってお参りができるよう にと、 テレビ電話が対応している携帯電話を前もっ て購入し、クリスマスだからという名目でそれ を俺に受け取らせた。 そしてリアルタイムで公園の花壇を映し、 病院から出ることのできない俺にお参りする ための時間をプレゼントしてくれたのだ。 伸びる美嘉の手には俺が買いだめしておいた お菓子のブーツとピンク色の手袋、小さい花。 美嘉は積もった雪を凍える手のひらで払いの け、 それらを花壇に順序よく並べて供えていく。 『ヒロ、お供えしたの見える??』 『…おう』 『じゃあ一緒にお参りしよう??』 美嘉と俺は一緒になって手を合わせ、

俺の姿は見えてますか? なあ、おまえの母さんと、 もう一度出会うことができたぞ。 これって奇跡って呼ぶには大げさすぎるか な? こうして二人で一緒に手を合わせたのは、 何年ぶりだろう。 待たせたな。 すげえ長かった。 すげえすげえ長かった。 前に一度誓ったあの約束。 おまえの母さんをこれからもずっと守ってい くって約束、もう一度ここで、誓ってみせる。 『ヒロ、お参り終わった??』 受話器の向こうから聞こえてくる美嘉の声に、 俺はとっさに手のひらで画面を隠した。 『終わった。マジ最高のプレゼントだわ。あり がとな』 最初で最後の最高のプレゼントに、 あふれ出る涙を静かにそでで拭いながら。 ―― 12 月 24 日――


美嘉がテレビ電話でお参りをさせてくれた。 最高のプレゼント。少し涙出る。 俺が退院したら絶対お返しする。 「え~桜井弘樹さん。あなたは田原美嘉さんを 一生愛していくことを誓いますか~?」 顔をのぞかせたばかりの夕日が窓ガラスを通 り抜ける病室で、 つけ慣れないネクタイをしきりに気にしてい るノゾムが、 初めて身につけたスーツに緊張を隠せないま まベッドの手すりに寄りかかる俺と、 着物を丁寧に着つけてアップにした髪の毛に かんざしを挿した美嘉に向かって、 いつもより真剣なまなざしでそう問いかけた。 どうして三人がこういった慣れない格好をし ているのかというと、 今日は成人式というめでたい日だからだ。 俺も、美嘉も、ノゾムも、 いつしか 20 歳という年齢を迎えていた。 昨日、見舞いに来たノゾムとふとしたことから 話が盛り上がり、 俺と美嘉の小さな結婚式を行おうということ になった。 事の発端は 「明日は成人式だからヒロがスーツで美嘉が 着物か。それってなんか結婚式みたいだな」 というノゾムのさりげない一声だった。 俺がスーツを着る機会なんて何か行事ごとが ない限り滅多にない。 もしかしたらこの先ずっと着ることはないか

もしれ ない。美嘉だって同じだ。 着物なんて、そうそういろんな場面で活躍する ものだとは思えない。 俺とノゾムは、ちょうどいい機会だからという ことを理由に、 美嘉に内緒で病室で小さな結婚式を行うとい う緻密な計画を立てていた。 「誓います」 そして成人式を終えて予想どおり美嘉が着物 姿で病室に訪れた今、計画通りノゾムの進行で 小さな結婚式が行われている。 「じゃあ~田原美嘉さん。あなたは桜井弘樹さ んを一生愛していくことを誓いますか?」 「…誓います!!」 ありがとう。 その言葉だけで、 離れていた時間はにはちゃんと意味があった のだと、強くそう思える。 「じゃあ誓いのキスをしてくださ~い♪」 キスなんて昨日たてた計画には含まれていな かったはずなのに。 …ノゾムのやつ。 顔を見合わせる。


美嘉の頬が薄い桃色に染まっていることに気 づき、 俺もまた初々しい気持ちになった。 二人の唇が触れ合った。 それはほんの一瞬の出来事だったけれど、 愛は確かに伝わり合っていて。 温かく、優しく、愛しい。 「こんな俺だけどよろしくな」 「これからもずーっと一緒だよ。よろしくね」 小さな声で誓い合う二人。 そんな二人の目の前で、 ノゾムはわざとらしく大きな音を奏でて手を たたきながら進行を続けていく。 「じゃあ次は指輪交換してくださ~い♪」 俺はポケットから二つの指輪を取り出した。 高校 1 年のクリスマスに美嘉に渡し、 一度は頬に向かって投げ返されたこともある。 そして川原で別れを告げたあの日、 俺は美嘉の手に無理に握らせた。 けれど、その指輪は卒業式の帰り道、 再び美嘉の手によって気持ちとともに返却さ れた。 最終的に俺のもとへと返ってきた指輪。

いっそのこと捨ててしまおうかと、 何度悔やみ、何度手を伸ばしたことだろう。 それでもいつもその先を実行することができ なかった。 美嘉の左手の薬指に十字架の形でへこんだペ アリングの片割れをはめる。 そして自分の左手の同じ指に、 十字架の形で膨らんだもう片割れを静かには めた。 膨らみを失った十字架。 二人の十字架はもう二度と、一つになることな んてないと思っていた。 それでも重ねた十字架は、 しっかりと一つになっている。前よりずっと柔 らかな感覚を残して。 「俺が退院したら籍入れような!」 一度は離れ離れになった二人の薬指に、 あの頃よりもずっと輝きを増した指輪が一日 の始まりである朝日のように光り輝いていた。 理由はわからないけれど、 捨ててはいけないような気がしたからだ。 ―― 2005 年 1 月 10 日―― 成人式。 着物マジかわいい。


軽い結婚式をした。 指輪も渡した。 早く籍入れたい。

交わした約束を果たすため、 離れていた日々を書き綴った青く縁取られた 小さなノートが、 あと少しというところで完成した秋の始まり を告げる 9 月半ば、 めでたくも 3 日間の退院許可が出た。 初日は親父と近くの銭湯へと足を運び、 背中を流し合った。 久しぶりに戻った家では家族全員が囲む食卓 で、 母さんの手作り料理を胃が痛くなるくらい食 った。 2 日目は地元や高校時代の仲のよかった友達、 とにかく知り合いと呼べる仲間を集めるだけ 集めて騒ぎ遊んだ。 ほとんどの奴らが俺の変わり果てた姿に動揺 を隠せないようだったけれど、 誰一人として同情する奴はいなかった。 言葉はなくとも頑張れと背中を押され、 さりげない優しさを受け取り、 たくさんの元気や勇気を分け与えてもらうこ とができた。 そして最終日。 その日は美嘉と二人で高校へと足を運んだ。 古びた校舎に足を踏み入れ、 あの頃のように手をつないできしむ廊下を歩 み、

図書室で過去を、 思い出を振り返っていく。 別れを告げた思い出の川原にも行った。 あまりに懐かしいその場所に、 俺はため込んだ弱音をつい吐き出してしまっ た。 ………あの頃に戻れたのなら。 先のことなど考えず、 今だけを見つめて笑い合えたあの頃に。 もう一度、もう一度だけ。 そんな弱気なことを考えたのはいつぶりだろ う。 果てしなく広い空を見上げていたら、 なぜか涙があふれ出た。 たった一粒の涙が、 確かな祈りを流れ落としていった。

―― 9 月 13 日―― 家にいた。 久しぶりに家の飯食った。 ずっとここにいたい。 ―― 9 月 14 日―― 今日はダチがたくさん来た。


久しぶりに話せて楽しかった。 明日は美嘉に会える。 ―― 9 月 15 日――

顔なんて青白く染まりやがって、 こんなのいかにも俺は不健康な体ですってい ってるようなもんだろ。

久し振りに病院以外で美嘉に会った。

胃がすげえむかむかする。

学校へ行く。

食事がのどを通ろうとしない。

図書室の黒板にはまだ俺が書いた文字が残っ ていた。

無理に何かを入れようとしてもすぐに吐き出 してしまう。

あれを書いたのが美嘉じゃなかったら困るか ら聞けなかった。 川原へも行った。 雪降る季節にまた来たい。 美嘉に弱さを見せてしまった。 かっこわりぃ。 美嘉も泣いていた。 最終章◇君空 ------------------------------------------------------------------------------さようならの後に。 (11/2 更新) ------------------------------------------------------------------------------ああ、眠い。 どうしてこんなに眠いのだろう。 一日の中で睡眠をとる時間が増えた。

いつしか俺のベッド下には洗面器が置かれる ようになっていた。 呼吸をするだけで胃がよじれるように痛い。 咳をすれば肺が裏返ったかのように苦しい。 それだけ相当な苦痛を伴うというのに、 意識はもうろうとしながらもきちんと現実に 存在している。 どうせなら失神でもさせてくれよ。 そうすれば少しは楽になるかもしれないの に。 嘔吐を繰り返すため、 食事に手をつけず水分ばかりを取るようにな ったせいか、 医者からは栄養不足だと判断された。

起き上がることさえ面倒になり、 体はどんどん痩せていく。

前みたいに病院を歩き回って運動不足を解消 しようとしても、 看護師に止められる。

なんなんだよ、この腰回りの細さは。

それを無理に強行したとしてもめまいを起こ


して自己中断せざるをえないことのほうが多 かった。 ――――大きさに変化のない腫瘍――――他の部位に転 移 ――――白血球数の低下――――手足のしびれ――――― 聞きなれない言葉が次々と頭上を飛び交って いく。 俺はそれらを素直に受け止めることができな かった。 受け止めようとも思わなかった。 例え思いきり手を伸ばしたとしても、 希望は届くはずもなくて。

俺はあとどれくらい我慢すればいいんだ? どうして…どうして神様は俺を選んだのだろ う。 「顔色悪いみたいだけど大丈夫かい?」 ―― 10 月 14 日。 母さんが眉間に深いしわを寄せながら俺の顔 をのぞき込んだ。 今日もこぢんまりとした病室は見舞いに集ま った人間達でさらに狭苦しくなっている。 美嘉はどうしても抜けられない授業があって 今日は見舞いに来ることができないらしい。

つかんだところでそれらは、 現実逃避と呼ばれ、 指の隙間をするりとすり抜けてどこかへと逃 げ出していく。

ノゾムは仕事の研修があり、 2 日ほど前から遠くの地方へと飛んでいる。

どうしてだよ。

そのせいで俺が寂しがっているとでも思った のか、 今日は病室に家族全員が集合していた。

どうして俺なんだよ。 どうして医者は何もしてくれねえんだよ。

「なんともないけど」

こんなに苦しんでるというのに、 こんなに痛みをこらえているというのに、 どうして何もしてくれねえんだよ。

余裕を見せてそう答えながらも俺はきゅっと 絞られたかのように迫りくる胃の不快感を、 目を閉じてぐっとこらえた。

手術だってなんだっていいから。

きっと大丈夫。

痛む原因を取り除いてくれよ。 なあ、早く。今すぐにでも。 俺はあとどれくらい頑張ればいいんだ?

そう願いながらも尊い祈りは天に届くことな く、日に日に体は衰弱していく。


睡眠の取りすぎなのだろうか。 手すりを利用して体を起こし上げると軽いめ まいを起こした。 視界が薄白く濁って見える。 「それはそうと、はい、いつものやつ。そうい えば親父、ヒロになんか言いたいことがあるん じゃなかったっけ?」 姉貴は相変わらず“いつものやつ”をぶっきら ぼうに差し出しながら自らのひじで親父の横 っ腹を突ついている。

「ああ、そうだそうだ。実はな、いい酒を手に 入れたんだよ」 「いい酒?」 俺は胃を親指で強く押しながら聞き返す。 「それがな、その酒は幻の名酒といわれている やつなんだ。おまえももう 20 歳になったこと だし、酒も解禁だろう。だからいつか二人で一 緒に飲み交わそうと思ってな」 そう言った親父の口調はどこかどぎまぎして いた。 それはまるで前々からその台詞を練習してい たかのように。 「いいな~それ。そんなすげえ酒どこで手に入 れたの?」

姉貴が身を乗り出す。 「いや、その、いただきものなんだ」 「またそんなこと言って。いろんなお店で探し 回ったくせに。弘樹と飲みたいからって、なけ なしのお小遣いはたいちゃって。連れ回された ほうの気持ちも考えてほしいわ」 母さんの言葉に敏感に反応したのは、 乗り出した身をさらに前のめりにする必死な 形相の姉貴だ。 「うっそ、マジ? そんなすげえの買った の!? あたしに小遣いすらくれないくせに さ」 「おまえはもう小遣いって年じゃないだろう」 呆れた表情でため息を漏らす親父。 「でも~ヒロだけってずるい。なんか納得いか ない。あたしも仲間に入れてよ。その幻の名酒 とかってやつ飲みたい」 「それなら母さんもいただこうかしら」 「こら、勝手に話を進めるな。俺は弘樹と飲も うと思って」 俺は話の流れに割り込む。 「じゃあその幻の名酒とかってやつはみんな で飲もうぜ。せっかく親父のなけなしの小遣い はたいたんなら、みんなで飲んだほうがうまく 感じるじゃん。


そのかわり、親父、退院したら俺を居酒屋に連 れて行ってくれよ! そんときはきっと俺も仕 事についてて、親父にもっとうまい酒、おごっ てやれると思うしさ」 「ヒロのおごり? それならあたしも行く! 行く! 絶対行くから!」 その場を立ち上がって興奮する姉貴に 「こら、病院なんだからそんなに大声出すんじ ゃないの。お姉ちゃんは母さんと二人でどっか 食事にでも行けばいいじゃない。イタリアンと か。フランス料理もいいわね」 と、母さんが慣れたように落ち着き払って場を 静める。 「そうそう。俺は親父と二人で居酒屋で飲みて えんだよ。男同士でしか話せないこともある し。なあ、親父?」 「そうだな。いろいろとな。いろいろと。弘樹 と二人で飲むことができたら、最高だな」 「ちぇっ。なんだよ。でもまあ、イタリアンで もいいか」 親父にはいつも反抗してばかりだった。 言い合いのけんかもよくしたし、 存在自体が邪魔だと思ったことさえあった。 母さんにはいつも心配かけてばかりだった。 心を休ませる暇なんて与えられてなかったよ な。

姉貴にはいつも手を差し伸べてもらってばか りだった。 俺は姉貴に手を差し伸べたこと、 思い返せば一度もなかったな。 家族という存在。 生きてきたなかで一番長い時間を共にした。 帰る家があるというだけで安心だった。 どんな俺でも見放さないでいてくれた。 いつでも俺のことを真正面から支えてくれて いた。 こんなこと、 今さら気づくなんて遅いのかもしれないけど。 家族っていいな。 うん。 なんかすげえ温かい。

照れくさいから言葉には出さないけど、 俺、この家に生まれることができてよかった。 俺が俺に生まれることができてよかった。 親父が親父で、 母さんが母さんで、 姉貴が姉貴で、 本当に良かった。


誰一人として、 違う奴でなくて、 本当によかった。 桜井弘樹という一人の人間として生まれたこ とを、 今、心から誇りに思う。

俺の家族になってくれて、 ありがとう。 家族が帰った夕方の 5 時、 人が行き来すたびに揺れるドアの向こう側か ら偶然にもこんな言葉を耳にした。 「205 号室の近藤孝信君、今朝方に亡くなった って」 近藤孝信は、同じ病棟で俺より 2 つ年上の、 背が低いわりに筋肉質で、体格のいい男だっ た。 そいつとは特別仲がよかったというわけでは ないけれど、バイクに乗ることが唯一の趣味ら しく、 退院したらバイクの免許を取得しようと考え ていた俺とわりと話が合った。 近藤孝信がなんの病気だったかは知らない。

「最高だろ? あいつはある意味俺の相方な んだ。おまえが退院して免許取得できたら一緒 にツーリングしようぜ」 なんてバイクの話に息を荒くしてみたり、 「どう? かわいいだろう」 なんて言いながら婚約者の写真を見せびらか してみたりと、 何かとせわしない奴だった。 そいつはときどき顔を青白くしてその場をよ ろけたりすることもあった。 けれど、ほんの数ヶ月前までは、 肌の調子はすこぶるよかった。 白く光る生えそろった歯をのぞかせて、 大口を開けて笑っていた。 手をたたいて、 大げさなジェスチャーを見せていた。 それは今すぐ退院してもいいんじゃないかっ てくらい、健康そうに見えた。

一度だけ向こうから言ってきたことはあるけ れど、 あまりに長ったらしい漢字ばかりの病名だっ たので、 正直、覚えていない。

なんだよ。

近藤孝信は暇ができるとちょくちょく俺の病 室に足を運んでは、会話を盛り上げていった。

負けじと美嘉の写真を見せびらかしてやろう と思っ

いつかツーリングに付き合ってやろうと思っ てたのに。


てたのに。 あんなに元気だったじゃねえか。 生きてたじゃねえか。 それなのに、こんな早くに死んでんじゃねえ よ。

ノゾムはつまらないギャグを連発して俺を笑 わせることに精を出した。 美嘉は俺の手を握りながら、 無邪気な笑みを見せる影でどこか不安げな表 情を浮かべていた。

身近に死を感じて、 改めて死の恐怖がじわじわと迫ってくる。

俺は一体どうなってるんだ?

と同時に、悪夢によって目覚めたかのような息 苦しさに襲われた。

死にたくねえよ。

少なからず俺は、 今どこかで手を上げて横断歩道を渡っている 誰かより、死の世界に近づきつつあるのかもし れない。

そして、この先、どうなっちまうんだ?

死にたくなんかねえんだよ。 死ぬのが怖い。 生きたいんだ。 どうしても、生きていたいんだ。

自分が死ぬかもしれないだなんて、 口では言いながらも、 実際はありえないことだと思っていた。

生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生 きたい。

自分だけは奇跡を起こせるんじゃないかって、 闘いに勝てるんじゃないかって、 この状況から抜け出すことができるんじゃな いかって、そう信じていた。

生きたい。

それなのに今になって、 俺は死と隣り合わせになっているということ を実感する。 そういえば、見舞いにくる親父はいつも早口だ った。 母さんは重たく腫れた目をしていた。 姉貴の笑顔は微妙に引きつっていた。

まだやりたいことも、 言い残した言葉も、 いっぱいある。 夢もある。 それは周りにとってちっぽけなことかもしれ な いけど、 俺にとってはものすごく大きくて。


俺には夢がある。 まず 1 つは、親父の生きざまを見届けること。 今まで俺は親父から目をそむけてばかりだっ た。 だからこれからは最後までしっかりそらすこ となく見続けていきたい。 2 つ目は、腰が曲がった母さんの隣で歩くこと。 腰が曲がった母さんが、 もし両手に重い買い物袋を持ってたら、 俺以外の誰がその荷物を持ってやるんだよ。

涙をこぼすだろう。 そして最後は、美嘉と交わした約束。 “俺が退院した日にお互い離れていた日々を 書き綴ったノートを交換しよう” あの約束を、叶えること。 叶えたい。どうしても、 叶えなければならない。 そしてもう一度新たな二人で手を取って、 一から歩み始めていきたい。

3 つ目は、姉貴の結婚相手に一度でもいいから 会うこと。

美嘉の隣にはいつも俺がいて、 俺の隣にはいつも美嘉がいる。

今までの仕返しとしてそいつにケチつけてや る。

平凡だけど大切で、 当たり前のように見えて貴重な毎日。

うんと辛口で。

聞こえるか?

4 つ目は、ノゾムと手加減なしの殴り合いのケ ンカをすること。

神様。仏様。

本気でぶつかり合うのが男ってもんだろ!

誰でもいいからそっちの世界を仕切っている 誰か。

親友ってもんだろ! なあ、そうだろ? 5 つ目は、生まれることができなかった美嘉と の子に会うこと。 この手で抱きしめたとき、 きっと俺は小さな手を握りしめながら幸せの

全ての夢を叶え終えるまでは、 どうか、 どうか俺にあと少し、 生きる時間を与えてほしい。 なあ、生きるにはどうすればいい? ♪~♪~♪~♪~♪


そのとき、携帯電話のバイブが震動した。 俺は残りの力を振り絞って体を起こし、 震える携帯電話を手に取った。 送信者は仕事の研修で遠くに飛び立っている ノゾムだ。 ≪やっほーい。見舞いに行けなくてごめんな! こっちは毎日雨ばっかりで湿気が多くてマジ 嫌になるわ。でもさ、食い物がすげぇうまいん だよ。 ほっぺたが落ちるって表現がまさにぴったり って感じ! おもしろい土産買ってくからおっ 楽しみにー≪≪ 窓の外を見つめると、 沈みつつある赤い夕日が眩しくて、 思わず目を細めた。 風が強いせいか雲がどんどん流れていく。 休む間もなく、 あせるようにして、 どこか遠い場所へと。 思いのほか、弱気になった。

しかしその疑問はいつも最終的には同じ結論 にたどり着いて、落ち着きを取り戻していくの だった。 俺が選ばれた理由はわからない。 健康な人間がうらやましくなるときもある。 けれど、そんなことをいくら考えたって誰かが 代わりになれるわけではない。 例え代わることができる魔法があったとして も、 俺はそれに手を出したりしないだろう。 俺が癌になったということは、 きっと、無意味なことではないのだから。 乗り越えることにいつか何かしらの意味を持 つのだろうから。 「また近いうち遊びに来るから」 「勝手にしろ」 これは、近藤孝信と交わした最後の言葉だ。

どうして癌になったのは俺なのだろう。

存在が消えてから改めて知る。

どうして俺が選ばれたのだろう。

言いたかった言葉。

癌を宣告されてからこういった疑問は、 幾度となく頭の中に鮮明に浮かび上がった。 健康な人間をうらやむことも、 数えきれないほど多く。

してやりたかった行動。 後悔ばかりが押し寄せる。 最後になると知っていたのなら 「またいつでも来い」 と、そう言ってやればよかった。


死を見送る側が言い残したことをそれだけ悔 やむのなら、 死を迎える側はきっともっと悔やむに決まっ ている。 そう。 決まっている。 決まっている。 決まっているんだ。

けれど、本当に届いてほしい言葉なんて、 想いなんて、ほんの一握りしかなくて。 正直な気持ちをメールという手段を利用して 長々と綴ると、 俺は一呼吸ついて送信ボタンを押した。 いつも俺の隣で笑っていたノゾム。

ボタンを打ち、 ノゾムから届いたメールに返信を始めた。

誰かに深く傷つけられたときも、 それでも声をあげて笑っていた。

もしかしたら自分は近い未来、 この世界から姿を消してしまうかもしれない ということ。

すげえ無邪気に見せかけて、 本当はすげえ無理してて、 見ているこっちが切なかった。

そうなったとき、 おまえが美嘉のことを支えてやってほしいと いうこと。

ノゾムは人の幸せを心から祝福できる男だっ た。

もしいつか俺の身に何かが起こったときのた めにも、伝えておきたいことを今のうちに何か しらの方法で残しておかなければ。 そうでもしないと俺は、 伝えたいことを何一つ伝えられないまま、 悔いを残すことになる。 だからこそ、 こうして精いっぱいの想いを残しておこう。 残しておきたい言葉や想い。 それはいくら書いても書ききれないほどたく さんある。

俺に嬉しいことがあると嫌味を含めながらも いつも一緒になって喜んでくれる。 まるで自分のことでもあるかのように祝って くれる。 そういうことって、 なかなかできるもんじゃねえよ。 俺、おまえのそういうところ、 すげえかっこいいと思う。 あ、そうそう。 このさいだから言うけど、 俺とおまえって似てると思わねえ?


思ってるのは俺だけか? なんていうのか、 言葉にするのは難しいんだけど、 すぐ落ち込むところだとか、立ち直りが遅いと ころだとか、 独りぼっちになることをひどく恐れていると ころだとか。 だからこそ反発し合ったこともたくさんあっ たよな。 でも、そういう時間もわりと嫌いじゃなかっ た。 おまえと過ごした日々、 わりと嫌いじゃなかった。 笑い合った時間も、 傷ついた時間も、 悲しみを分け合った時間も、 わりと嫌いじゃなかった。 遠回しに言わせてもらう。 俺、おまえのこと、嫌いじゃなかったよ。 わりと、いや…すげえ、嫌いじゃなかったよ。 いつのことだったろう。

「本当に退院できんのかなって」 「できるよ。できるに決まってんじゃん! い きなりどうしたんだ?」

「自分でもよくわかんねえんだ。なんか最近、 嫌な夢ばっかり見るんだよな」 「なんだよ、らしくねぇな。安心しろ。もしヒ ロのところに死神が来たら、俺の自慢のパンチ でやっつけてやる! 」――― なあ、いろいろありがとな、ノゾム。

♪~♪~♪~♪~♪ 受信メール:ノゾム ≪何弱気になってんだよ。あと 3 日後には帰る から。待ってろ!≪ ノゾム、お帰りって言ってやれなくてごめん。 お疲れって言ってやれなくてごめん。 待っててやれなくて…ごめんな。 ………翌々日。

病室に二人きりの空間で、 いつかノゾムと交わした会話を、 なぜか今になってふと思い出した。

窓の外にある空は灰色の雲で覆われている。

―――「俺、これからどうなっちまうんだろう」

雷がときたま不快な音をたて、 そのたびどこかの病室から騒ぎ声が聞こえ、 それがまた俺の気持ちをより不快にさせた。

「へ? どうなるって?」


最近寝てばかりいるせいか背中がすれたよう に痛い。

前に一度、 美嘉が風邪をこじらせたことがあった。

痛みをやわらげようと体勢を動かし、 窓とは反対の方向に体を向ける。

それでも見舞いに訪れた美嘉は、 会話が途切れた途端、 布団に頭をのせたまますぐに寝息をたてて夢 の世界へと行ってしまった。

そのとき、2 回ほど軽快にノックされたドアに、 俺は「はーい」と作られた陽気さを放って返答 した。 「失礼しまぁす!! ヒロ~元気??」 入ってきたのはいつにも増して元気を装って いる美嘉だ。 美嘉の体からは雨のような生ぬるい匂いが漂 ってくる。 「おう、余裕」 重い体を起こし上げてベッドの手すりに寄り かかると、肺が圧迫されたのかいびつな咳が口 から飛び出た。

そんな美嘉の気持ちよさそうな寝顔を残して おこうと、 俺は前に美嘉がコンビニで購入し、 美嘉の手から無理に奪い取ったあのインスタ ントカメラの中にさりげなく残しておいたの だった。 過去を振り返っていくうちに、 インスタントカメラの残り枚数があとわずか だったことを思い出した俺は、 おもむろにベッドの隣にある木製の棚に手を 伸ばした。 美嘉はそんな俺の行動を不思議そうに見つめ ながらいぶかしげに首をかしげている。 「あった~今これ捜してた」

そんな俺の背中を、 美嘉が慣れた手つきで何度もさする。

枚数が表示されている部分を確認すると残り はあと一枚。

その行為のおかげか、 精神的なものかはわからないが、 さっきよりもずっと楽な気持ちになることが できた。

フィルムを巻く。

「今日雨降りそうだよ。嫌だね~!!」 「風邪ひくなよ? 美嘉、体弱いんだからな」

今まではこのカメラで美嘉の姿ばかりを撮っ てきた。 美嘉がドアを開けた瞬間。 花瓶に入れられた花にそっと触れている指先。 ふいに見せる不安げな横顔。


残り一枚は、二人の写真で締めたい。 幸せそうな二人の姿を。 あの頃と変わらない笑顔のままで。 美嘉の肩に手を回し、 カメラのレンズを二人に向ける。 「世界一最高の笑顔にしろよ!」 「えっ??」 美嘉は理解できないといった感じで俺の横顔 をまじまじと凝視している。 「この先何があってもずっと~?」

彼女は美嘉の制服のそでを引っ張って承諾を 得ようとしている。 美嘉はノーメイクだから嫌だ、 とか、恥ずかしいからやめておく、だとか、 なんだかんだ理由をつけて断っていた。 けれど、しまいにノゾムまでもが彼女の提案に 賛同したものだから、困り果てた美嘉は 「ヒロ、どうする??」 と隣にいた俺に助けを求めてきたのだ。 「俺らが恋人同士だって証拠、残すのもありじ ゃねえ? それで何年か後にその写真見て、あ の頃は楽しかったけど、今はもっと幸せだねっ て言えたら最高じゃん!」

「え、だ…大好き!!」

できるだけ美嘉と過ごした時間を形にして残 しておきたい。

眩しく光るフラッシュ。

春、夏、秋、冬、どんな形だっていい。

その瞬間、過去の出来事が頭の中を駆け巡っ た。

ほんのちっぽけなことでもかまわない。

あれは高校 1 年生の、学校祭でのことだった。

二人が過ごした時間を形に残し、 いつかその形を手にしながら今の幸せを改め て噛みしめる。

―――俺と美嘉とノゾムとノゾムの彼女の 4 人が、 学校祭でぎわっている教室の前で暇つぶしに たむろっていると、 偶然にも学校行事の専属カメラマンが廊下を 横切った。 「ね、ね、カメラマン来てるから 4 人で写真撮 ってもらおうよ♪」 そう提案したのはノゾムの彼女だ。

そうできればいいって、強くそう思ったんだ。 もしかしたらこのとき俺は、 訪れる未来に薄々気づき始めていたのかもし れない。 そう答えを出した俺の横顔を、 美嘉は何も言わずただ見つめていた。 短い話し合いの結果、


最終的に写真を撮ってもらうことに決めた 4 人 は、 廊下を占領して横に並び、 それぞれの恋人と手をつないだ。 「撮りますよ」 そう言ってカメラのレンズを向けるカメラマ ンの手を、ノゾムは思い直したかのように止め る。

それなのに実行したのはそれが確かな気持ち だったから。 再び横に並び、 手をつなぎ、 カメラマンが口を開く。 「撮るよー! と~?」

この先何があってもずっ

「「だーい好き!!」」

そして離れた場所から 「悪いんすけど写真撮る瞬間に、 『1+1 は~?』って聞くみたいに、 『この先何があってもずっと~?』 って言ってもらえませんか~?」 と理解しがたい頼みを告げた。

その気持ちは、 あの頃も、 今も、 そしてこれからもずっと永遠に変わることは ない―――。

カメラマンはその意味を全てを知り尽くして いるかのように笑顔でうなずいている。

美嘉はいきなり写真を撮ったことに対して、 頬を膨らませて怒りを表現している。

「ちょっとこっちに集合」 とノゾムが集合をかけた。

けれどその裏側で、 俺が元気だった頃の姿を思い出し、 心を痛めているかもしれない。

一度は横に並んで落ち着いていた 3 人は再び列 を崩し、 輪になってノゾムの先の言葉をじっと待ちわ びた。 「カメラマンが【この先何があってもずっ と~?】って言ったらみんなこう答えろよ!」 その答えを聞いたとき、 正直ガラじゃないと思った。 照れくさくかった。

言葉はなくとも二人の心はつながっている。 多くのことを乗り越え、 そう信じることができるようになったから。 「これ、現像頼んでもいいか?」 俺は美嘉に向かって残り枚数がなくなったカ メラを差し出した。 「あれ?? なんで残り枚数 0 枚なの!? 何 撮った


の??」 今まで何を撮ってきたのかを知らない美嘉は、 使い終えたカメラを受け取り、 驚きを隠せずにいる。 そりゃあそうだ。 俺は美嘉の姿を、 ずっと美嘉に知られないよう撮ってきたのだ から。

もし半目の写真や不格好な写真があったら、 腹を抱えて笑い飛ばしてやる。 そんな俺に対して美嘉は苛立ちを感じるだろ うか。 俺の目にはいつもありのままの美嘉が映って いるということ。 俺の中にはいつでも美嘉がいるということ。

あえてフラッシュをつけなかったり、 わざと大きな音を鳴らしてその瞬間に撮って みたり。

遠回しなこの想いが、鈍感な美嘉に伝わればい いんだけど。

きどった美嘉の表情を撮ったってなんの意味 も持たない。

「今日帰りに出して明日持ってこれるように しておくからっ!!」

ポーズを作った美嘉の姿を撮ったってなんの 意味も持たない。

「おう、楽しみにしてるわ。頼むな」

ありのままの、 素の美嘉を撮らなければ。 俺の目に映る、 俺だけの美嘉を。 「さあな。現像したらわかるから。写真見て一 緒に言おうぜ。“この時も楽しかったけど今の ほうが幸せだな”って」

「まっかせてぇ!!」 無理して一気に言葉を発したせいか、 咳が止まらなくなった。 呼吸が荒くなる。 息苦しい。 洗面器…吐いてしまうかもしれない。 けれど美嘉にそんな俺の姿を見せたくはない。

口笛を吹きながら答えを濁してみた。

窓ガラスに丸い水滴が浮かび上がった。

この写真を目にしたときの美嘉の反応が楽し みだ。

どうやら雨が降ってきたらしい。


雨のじっとりとした湿気は、 のどの潤いをこれでもかってほどに奪い取り 突っ張るように渇かしていく。 夜になるとたまに襲ってくる、 弱気な気持ちがぐんと胸の奥から込み上げた。 雨の音がいつもより激しいせいだろうか。 美嘉に聞いておきたいことがいっぱいある。

「将来の夢かぁ…なんだろうなぁ」 「昔言ってたよな。お嫁さんになりたいって。 それは?」 望むべき答えを導き出すかように話を進めて いく。 「今もお嫁さんになりたいよっ!!」

今のうちに聞いておかなければ。

「誰のでもいいのか?」

なぜかそんなあせりを感じていた。

「ダメ~!! っ♪♪」

聞いておかなければならない。

美嘉はヒロのお嫁さんになるの

聞かなければならない。

俺は気づかれないよう安堵のため息を漏らし た。

今のうち、 今のうちに。

あの頃から変わっていない。

「美嘉の将来の夢は?」 付き合ってすぐの頃、 一度だけ美嘉に将来の夢についてを問いかけ たことがある。

二人とも、何一つとして。 「…しょうがねーな。俺の嫁さんにしてやるか。 ってかもうすぐ叶うな…」 美嘉の手を取り、握りしめた。

美嘉は迷いのない目で「お嫁さんになること」 と答えを出した。

うんと強い力を込めたつもりだったけれど、 それは思いのほか弱々しくて。

その答えが嬉しくて、 嬉しくて、 帰り道に小石を蹴飛ばしたあの気持ちのいい 夕方を、 今でもよく覚えている。

叶えばいい。 叶えてやる。 絶対に、叶えてみせる。


俺は支えてくれる家族のために、 友人のために、 恋人のために、 これからも生きていかなければならない。 生きて今までの恩返しをしていかなければな らないのだ。 こんなところで立ち止まり、 ひざを抱え、 うつむいている暇はない。 美嘉は小刻みに震える俺の手をありったけの 力で握り返した。

いつでもそれらが俺に前向きな姿勢を与えて くれた。 過去ではなく、未来。 昨日ではなく、 今日でもなく、明日。 「俺と美嘉と赤ちゃんと…3 人で手つないで歩 くことだな」

「じゃあヒロの夢は??」

産むことができなかった赤ちゃんを、 夢の中でもいいから、 せめて一度だけでもこの手に。

そう問いかけられて、迷うことは何もなかっ た。

この腕に。

夢なんて数えきれないくらいたくさんある。

この胸に。

あれもしたい。

贅沢なんて言わない。

これもしたい。

平凡でいい。

絞ることなんてできない。

多少の不幸ならどんとかまえて乗り越えてみ せる。

両手を使っても足りないくらいで。 けれど、答えは出会った頃からとっくのとうに 一つに絞られていた。 「俺の夢は…美嘉が幸せになってくれること」 「ヒロがそばにいてくれたらその夢は叶うよ っ!! ほかに夢はないの??」 美嘉の言葉にはいつも未来が込められている。

………だからせめて、 二人の愛の結晶を、 もう一度、 この眩しい世界に。 「俺と美嘉の間に赤ちゃんがいて~ 3 人で手 つないで歩くのとか最高じゃねえ? 俺が赤 ちゃんを肩車して…美嘉と手つないで歩くのも いいな。毎日仕事から帰ってきて美嘉がいて赤 ちゃんがいて…そんなの最高だな」 想いが膨らむ。

5


浮かび上がってくる。 夢の話をしていると、 いつもそれらがまるで現実の世界に存在して いるかのように鮮明にまぶたの裏に映し出さ れる。 そんなとき、 癌なんて蹴り飛ばしてしまえるんじゃないか ってほど強気になることができた。 それでも目を覚ました先に見えるのはいつも 殺風景な病室で。 シーツの張った白い布団で。 今にも消えそうに点滅する電球で。 薬が入れられた紙袋で。 部分がさびたパイプイスで。 美嘉は全てを話し終え、悲しい現実に戻された せいで放心状態に陥る俺の背中を何度かさす ると、あらわになったひざに布団をかけた。 「大丈夫。二人の夢、絶対に叶えようね!! ヒ ロ疲れたでしょ?? 横になったほうがいい よ!!」 いつから美嘉はこれほどまでに強く、頼もしく なったのだろう。 枕に頭を下ろそうと体重を支えているひじの 力を抜くと、 視界にオレンジ色の細長い箱が目に入ってき た。 再び体を起こし、 指先を限界まで伸ばしてその箱を手に取る。

そしてその中に入っている一粒の四角い個体 を手のひらに置くと、美嘉に向かって差し出し た。 「キャラメル食べたいの??」 美嘉はそれを受け取りながらも首をかしげて いる。

そう、それはみかんキャラメルだ。 興味本位で初めてコンビニで買ってきたあの 日から、美嘉は中身がなくなるたび買ってきて くれる。 「…今、食いたくなった」 甘酸っぱいみかんキャラメル。 俺は元気を失うたび、 いつもこれを口に投げ入れた。 そうするとなぜか生きる力を与えられている ような気になるからだ。 それは健康ドリンクなんかよりもずっと効能 がある成分だった。 みかんキャラメルの袋を取る美嘉の指先を横 目に、 俺は心の中で頭を抱えながら、 またもやあせりを感じていた。 美嘉に伝えたいことが、


山ほどある。

と思っていた。

それは明日でもあさってでも、 いつだって伝えることができるはずなのに。

誰かを傷つけるということへの重みに、 あえて目をそむけていた。

それでも今すぐ伝えなければならない気がし て、 山ほどあるのにうまく伝えることができない ように思えた。 適当だと思われたくない。 その場限りだとは思われたくない。 うわべだけだと思われたくない。 どうすればうまく伝えることができるのだろ う。 ………でも、そうか。

「おまえに出会う前は女いても浮気しまくっ てたし、夢とかなかった。だけどおまえに出会 って…俺、マジでヤキモチ焼いたりとか不安に なったりとかした」 「…うん」 でも、美嘉に出会ってから、 自分自身が傷を負い、誰かを傷つけることへの 重みを知った。 いつしか目をそむけていたことに、 真正面から向かえるようになっていた。

美嘉の前で俺は、 もうかっこつける必要はないのだ。

「最初はこんなに好きになると思ってなくて、 ぶっちゃけ落とそうくらいにしか考えてなか った。でも一緒に過ごしてだんだん本気になっ て…」

俺がインスタントカメラで美嘉のありのまま の姿を撮ってきたように、 美嘉にもありのままの俺の姿を見てほしい。

「ん…」

だから伝えることも、 飾らない言葉で、感じたことをありのまま。

「おまえに出会ってなかったらきっと今頃、寂 しい人間になってた。誰かのために生きたいと か絶対思わなかったし…俺は美嘉に出会えてマ ジでよかった。本当にありがとな」

「…俺、おまえに出会う前まではマジどーでも いい人生送ってた」 親には口答えばかりして、 出会うやつ出会うやつと意味のないけんかを 繰り返した。恋愛なんてすげえくだらなくて、 将来なんてうっとおしいだけで、 悪いことをする行為が自分自身を守ることだ

出会えてよかったと言えば、 それはありきたりで陳腐な表現になってしま うかもしれない。 それでも俺は大声を張り上げて言いたい。


おまえに出会えて、 よかった。 出会い、笑い、怒り、 すれ違い、 傷つけ合った夜。 いろんなことがあった。 けれど、 どれか一つでも欠けていたとしたら、 きっと今ここにいる俺は成り立ってはいなか ったと思う。 もう一度だけ言う。 おまえに出会えてよかった。 もう一度だけ、 あと一度だけ、 言わせてもらう。 おまえに出会えて、 美嘉に出会えて、 本当に、本当に、よかった。 「美嘉もヒロに出会って成長できたよ!! ヒ ロに出会えてよかった。ありがとう…ずっと一 緒だよね??」 その無邪気な問いかけに俺は口をつぐんだ。 確かではない未来を約束することはできない。 その願いを叶えてやれるのか、 気持ちの中でうなずいてやることはできるけ れど、 体がいつどこで果てていくのか、

俺には想像もつかない。 例えこの場限りで適当な返事をしたとしても、 もし叶わなかったとき、 それは美嘉の傷を深めるだけの行為になって しまう。 答えを出すことなく手を伸ばし、美嘉の頭を何 度もなでる。 もっとこうしてやればよかった。 そしてこれからも、こうしていけたらいいの に。 答えを出さない俺に対して不安げな表情を見 せる美嘉は、ふと、 封の解かれたみかんキャラメルの存在を思い 出したようで、 それを自分の唇に挟むと、 イスに腰かけたまま俺の唇へと移した。 みかんキャラメルを食うとき、 よくこうしてお互いに口移ししたよな。 このキャラメルは元気の源なんだって、 俺に元気を分けてあげるって、 美嘉はいつもそう言ってくれた。 微かに触れる唇はいつも温かさを帯びていて、 そのたび俺は生きているということを実感す ることができた。 そしてそのたび、 これからも生きていかなければならないと、強 く誓い続けてきたんだ。 「おいしい??」


みかんキャラメルを噛み潰す。 いつもなら何かを口に入れるだけで吐き気を もよおしてしまうけれど、 これだけは別だ。 甘酸っぱさがいつもより多く舌に広がり、 予感もなしに涙があふれ出そうになった。 「おう、美嘉から元気もらえた。俺、明日から また頑張れる」 弱気だった自分を思い返す。 もうだめだ、なんて言っている暇はない。

「明日もみかんキャラメル買ってくるね!!」 「…おう、ありがとな」 積み重なったキャラメルの箱。 1,2,3,4,5…ここまで乗り越えたという大 切な証。 「この空き箱の数は美嘉から元気分けてもら った数だな」 「そうだね!! 明日は写真とみかんキャラメ ル…二つのお土産持ってくるからお楽しみに♪」

俺は奇跡を起こしてみせる。

そのとき、情けない音をたてて病室のドアが開 いた。

歯を強く食いしばり、 首をうなだれる過去の自分を消し去った。

開いた隙間から顔をのぞかせたのは見覚えの ある看護師だ。

明日から、頑張ろう。

「検査の時間ですよ」

ゆっくりでいい。

「あら~じゃあもうそろそろ帰らなきゃね!!」

あせらなくたっていい。 こうして支えてくれる人がいる限り、 必要としている人がいる限り、 俺は最後の瞬間まであきらめたりしない。 美嘉はみかんキャラメルが入っていた箱を手 に取っては何度か上下に振った。 音が聞こえてこない。それはもう中身が入って いないということを意味している。

美嘉はパイプイスから腰を上げ、 上着を羽織った。 俺は背筋を伸ばし、 体を起こし上げる。 本当はまだ、もっと、一緒にいてほしい。 誰かが見舞いに来るとき、 騒げば騒ぐほど、 笑えば笑うほど、 それに比例して一人になった空間に孤独が訪

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れる。 それはあまりに切なさがにじむものだった。 「こら~!! 寝てなきゃダメだよっ!!」 「俺、つえーから心配すんなって」 守るものがあるうちは、 生きる希望がこの手の中にあるうちは、 俺はこうしてときどき、 強がってみることだってできる。 「そうだね♪ ヒロ強いもんね!! ケンカ負け たことないもんね~♪」 「…病気上等だし!!」 帰り道のドアへと徐々に歩み寄っていく美嘉。 俺はそんな美嘉を手招きすると、 自分のもとへと引き返させた。 今は思いつかないけれど、 きっとまだ何か伝えきれていないことがある。 それは言葉で表せるほど簡単なことではなく て、 行動で伝えるほど複雑でもない。 俺の心だけが知っている。 そしてそれはきっと、 言葉にしなくとも美嘉にも伝わっているよう な気がする。

美嘉の手をそっと取る。 二人の指先が静かに絡まった。 なんて温かい。 なんて柔らかい。 なんて幸せな感覚。 このままずっとこうしていたい。 時間が止まればいい。 やっぱり俺には、 独りぼっちの世界なんて、 考えることができなくて。 弱虫と呼ばれたっていい。 こんなにも優しい温もりが存在する世界で、 いつまでも、いつまでも、 美嘉と一緒に笑い合っていたい。 美嘉の腕をつかみ、 引き寄せ、 唇の端にキスをした。 こんなに切ないキスは初めてで。 こんなに幸せなキスは初めてで。 この想いを恋と一言で表現するにはどうして も物足りなく。 ふいに目が合い、 二人の時間がぴたりと止まった。 絡まり合う指先に触れた冷たいペアリング。


時間をかけて一つにつながった十字架。 一度は離れ離れになった二人。

最初のページを開くと、 痛々しい想いが刻まれている。

それでもこうしてもう一度出会うことができ た奇跡。

途中では悩み、葛藤し、 ノートを読み進めていくたび希望の光がとも されているのがわかる。

生きててよかったと、 この瞬間にこれほどまで強く感じたのは、 きっとこの世界で俺しかいない。

全てを読み終えたとき、 あらゆる過去の出来事が映像として脳内に映 し出されていった。

俺は今、すごく幸せです。

それはもう遠い過去のようにぼんやりしてい るのだけれど、浮かぶ映像だけはいやに鮮明だ った。

それなのに、 どうしてこんなに胸が痛いのだろう。 つないだ手を、 このままずっと離したくないと思った。 ………離したくないと思ったんだ。 真夜中の 3 時半。 雨のせいなのだろうか。 額の生え際がうっすら汗ばんでいる。 息苦しさが持続してなかなか寝つけない。 俺は二の腕で体重を支えながら体を起こすと、 枕の下から取り出した一冊のノートをかけら れた布団の下に存在しているひざの上に置き、 引き出しからペンを取り出した。 これは、 癌を宣告されたあの日から今の今までの出来 事を書き綴ってきたノート。

初めて美嘉と言葉を交わしたのは、 PHSの受話器ごしだった。 美嘉はもともとノゾムのアドレスに登録され ている数多くの女のうちの一人だった。 ふとしたきっかけで二人は出会い、 いつしか毎日のように連絡を取り合うように なっていた。 初めて美嘉と顔を合わせたのは、 学校の廊下のど真ん中だった。 連絡を取り合っていながらも顔を合わせたこ とがなかった二人。 初めて向き合った瞬間、 派手な俺の姿を確認した美嘉がおびえた表情 を浮かべたのを今でもよく覚えている。 初めて美嘉とキスをしたのは、 高校 1 年の夏の終わりだった。


“終わりよければ全てよし” また、初めて美嘉と体を重ねたのも同じ日だっ た。 そのとき俺には彼女という存在がいた。 いながらも、 美嘉を抱いた。 抱きしめた。 多くの人間を傷つけるということをわかって いながらも、 想いは徐々に美嘉へと惹かれ始めていった。 初めて図書室に足を運んだのは、 彼女との関係をきっぱりと断ち、 美嘉に素直な気持ちを伝えたときだった。 美嘉はその場所で俺の気持ちを受け入れてく れた。 本の古くさい独特な香り。 騒がしい校庭に舞う砂ぼこり。 あのとき、 確かに二人は、 明るい未来を信じていた。

思い浮かべるのはいつも初めてのことばかり で、 終わりはいつも想像できない。 考えたところで都合よく記憶が切れてしまう。

そんな言葉があるけれど、 始まりがよければいつか自然と終わりもよく なっていくものなのかもしれない。 思い返せば、本当にいろんなことがあった。 失った気持ちもたくさんあるけれど、 得た気持ちも数えきれないほどに。 悲しい気持ちも、 苦しい気持ちも、 楽しい気持ちも、 幸せな気持ちも、 例えしっかり抱えていたとしてもぽろぽろと こぼれ落ちてしまうほどに。 それでもいつも本音は、 定位置に残されていた。 たどり着く答えは、 いつも、いつでも、 短くて単純で、 けれどとてつもなく重みのあるものだった。 ―――君は幸せでしたか? 高校の卒業式の日に見つけた、 図書室の隅にある黒板に、 白いチョークで書かれていたあの言葉。 丸い文字。 震える文字。 頼りない、けれど、


どこかしっかりとした芯の通った意志と力強 さ。 あの言葉を書いたのは誰なのか、 本当はずっとわかっていた。 けれどあえて知らないふりをしていた。 そうすることによって、 強がることなく、 素直な答えをそこに書くことができたからだ。 ―――とても幸せでした。 今なら胸を張って言える。 俺はとても幸せだった。 その答えは嘘じゃない。 そして今、 あの頃に負けないくらいの幸せを体中で感じ ている。 病に冒された俺を、 人々は不運だとか不幸だと同情するかもしれ ない。 けれど俺は、 そいつらを笑い飛ばしてやることができるく らいに今、幸せだ。 もしかしたらこの瞬間に、 誰より一番、 生きることへの幸せを感じているのかもしれ ない。 美嘉は俺と出会って幸せだっただろうか。

幸せだったと胸を張って言えるだろうか。 そして今は幸せですか? と問いかけたら、 幸せですと迷うことなく答えてくれるだろう か。 あのとき、 黒板の上で答えを出したのは俺だけだった。 まだ美嘉からの答えを聞いていない。 美嘉が出す答えがどんな意味を持つか、 今はわからない。 いつか答えを聞いたとき、 その答えを糧に俺は強い男になってみせる。 おまえを守ることができる、 英雄のような男に。 汗ばむ手のひら。 開いたノートの新しいページにさらさらと文 字を書き綴っていく。 ―― 10 月 16 日―― 美嘉俺は

そのとき、 薄いカーテン越しに存在する空が青白く光り、 豪快な音が暗闇に響き渡った。


おそらくどこかで雷が落ちたのだろう。 静まり返った空間に突然鳴り響いた激しい雷 の音に、ペンを持つ手が揺れ動く。 文字が震える。 背骨が筋を張ったように痛み始め、 圧迫された肺が握りつぶされたように息苦し くなり、 激しい動悸が起こった。 ねんどを水で軟らかくしたようなねっとりと した闇が体中を支配していく。

止め、 雲間から光を透かせるのだろう。 雨のあとの空気は澄んでいる。 それはまるで泣いたあとのようにすっきりし ていて爽快だ。 嵐のあとの静けさ。 明日は晴れるだろうか。 晴れればいい。 そうすれば美嘉が風邪をひかなくてすむのに。

………明日。 このノートの続きは、 明日書くことにしよう。

明日、もし雨がやんでいたら、 看護師に怒られることを覚悟で病室を抜け出 して美嘉と手をつないで外を散歩しよう。

いや、わざわざここに書かなくとも、 言葉で伝えたっていい。

そして思いきって、問いかけてみる。

そうだ、そうしよう。

―――君は今、幸せですか?

そのほうがきっと、 永遠に記憶に刻まれていくから。

さっきよりも少し力を弱めた雷が一瞬だけ空 を昼間のように明るく照らした。

書きかけのノートを閉じ、 いつものように枕の下へとしまうと、 俺はわずかに開いたカーテンの隙間から空を 見上げた。

それはまるで夢の中でもあるかのように幻想 的で、 目を閉じても余韻が浮かび上がる。

雨が降っているせいか全体的にどんよりして いるというのに、 今日は星の数がいつもよりずっと多く見える。 地面を激しく打ちつけるこの雨もいずれ音を

この広い空の果てには何があるのだろう。 何が待ち伏せているのだろう。 生きる果てには何があるのだろう。 何が待ち伏ちせているのだろう。


それは形あるものなのだろうか。 何色で、 どんな香りで、 どんな感触のものなのだろう。 俺はこれからゆっくり歩んでその答えを見つ けていく。 “恋愛は飴玉と同じようなものだ” と誰かが言っていた。 飴玉は口に入れて動かせば動かすほど速く溶 けていく。 だから恋愛も無理に動けば動くほど溶ける速 度が速まってしまう、ということらしい。 飴玉は途中で噛み砕くことだってできる。 それはいつだって自分次第。 けれどいったん口から出してしまえば、 放り投げてしまえば、 それから溶けることはない。 それどころか、 一度溶けて再び固まったものは、 口に含む前よりもずっと強情な固さを残して しまう。 舌にほんのりと甘さの名残を残し、 しっかりとした形で永遠という名の未来を刻 んでいく。 二人にとっての飴玉は、 すれ違って動いて、

動いて動いて動いて動いて、 一度は溶けてとろとろになった。 砕け、ばらばらになり、 それでももう一度出会ったとき、 つながった心はとても静かで、 飴玉は二人の温度でいびつな形を削りながら も、 柔らかい丸みを取り戻そうとしている。 つなぎ合った二人の想いはあまりに情熱的で、 けれどとても静かで、 一つになった想いとともに口から出した飴玉 はもう恋ではなく愛と呼べるほど甘く、 でこぼこを残したまま輪郭を帯びて心にしっ かりと形成されていた。 美嘉、すげえ会いてえよ。 さっき会ったばっかりなのに、 明日も会えるというのに、 今すぐおまえに会いてえんだよ。 なあ、美嘉。俺が美嘉のことを幸せにしてやり たい。 お前みたいに甘えん坊で、 泣き虫で、寂しがりやな女は、 俺じゃねえと支えられねえと思うんだ。 なんて、そんなこと言ったら、 おまえは自意識過剰だって言って笑い飛ばす んだろうな。 でも、絶対に幸せにしてみせるから。 これだけは約束する。


いつか離れ離れになる日が訪れようと、 俺はおまえに幸せを残してみせる。 だから、あまり泣いたりするんじゃねえよ? 悲しみって伝染するもんだから、 美嘉が悲しんでると、 俺まで一緒に悲しくなるんだ。 笑顔の美嘉が一番好きだから。 その笑顔を、 いつまでもいつまでも、 絶やさないでいてくれよな。 急激に睡魔に襲われた。 俺は細長い花瓶に飾られた名前も知らない黄 色い花の花びらを一枚むしり取ると、 それを手にしたまま静かにベッドに横になっ た。 むしった花びらの香りをかいでみる。 いつかどこかでかいだことのあるような、 とてつもなく懐かしい香り。 知らなかった。 花びらってこんなに甘い香りを持ってるんだ な。 たんぽぽはどんな香りがするのだろう。 甘いのだろうか。 それとも、苦いのだろうか。 春の陽気はどれくらい柔らかいのだろう。

夏の海岸はどれくらいにぎわっているのだろ う。 秋の夕日はどれくらいの眩しさを放っている のだろう。 冬の風はどんな香りがするのだろう。 川原の水はどれくらい冷たいのだろう。 太陽はどれほど温かく世界を照らすのだろう。 朝になるとどんな鳥がどんな声でさえずるの だろう。 夜になると月はどのくらいの大きさで浮かび 上がるのだろう。 どんな形で水面に映るのだろう。 今まで目をくれることもなかった自然の香り や、 形や、感覚が、 今の俺にとっていつかの希望になっていると いうことに気づく。 そうか。 俺は今まで支えてくれる人々のために生きな ければならないのだと思っていた。 けれど本当は違っていた。 俺は、生きたいのだ。 誰かのために生きなければならないのではな く、 自分のために生きたい。


これからもこの世界で笑い、泣き、 例え傷ついたとしてもいいから、 生きていたいのだ。 視界がうっすらぼやける。 もし、一分一秒でも、 何か一つでも出来事がずれていたとしたら、 目が合う瞬間が、 言葉を交わす瞬間が、 抱き合う瞬間がずれていたとしたのなら、 俺とおまえはこうして出会えていなかった。 別々の人生を送り、 別々の人に恋をして、 互いの存在さえ知らぬまま、 一生を終えていただろう。 それでもこうしてこの広い世界で巡り合い、 たった一人の人間を想い、 想われ、こうして手を取り合うことができた。 それは大げさかもしれないけど、 偶然なんかではなく、 必然なのかもしれない。 二人はきっと、 こうして巡り合うために生まれてきた。 俺は心からそう信じている。 自分以外の誰かのために笑い、 涙を流し、 怒り、 幸せを握りしめ、 心を痛めて、 愛し、 愛されるなんて、 生きていくうえでちっぽけなことだと思って

いた。 けれどおまえに出会ってから、 誰かを愛するということは、 誰かのために生きていくということだと知っ た。 そして人は愛すべき誰かがいるからこそ、 振り返りながらも前を向いて歩いていけると いうことも。 出逢ってごめんな。 でも、出逢ってくれてありがとう。 ごめんより、 いつも、 ありがとうのほうが勝っていた。 自分勝手かもしれないけれど、 さようなら。 でも、いつかまた会えたならいい。 美嘉、好きだった。 美嘉、好きだよ。 美嘉、愛していた。 美嘉、今でも愛しているよ。 好きでしたより、 好きですのほうが、 愛していたより、 愛しているのほうが、 ずっと、ずっと、 勝っていた。 視界がさらにぼやけていく。


君が前を向いて進んでいく姿を。 もし、もしもいつか俺がこうして眠りにつき、 そのまま永遠に朝を迎えられない日が来たと したら ………親父。母さん。姉貴。ノゾム。 遠くからお前らの背中を押してみせる。 エールは送ってやれないかもしれないけど、 たまに気が向いたときにでも夢の中まで会い に行ってやるよ。 雷が去り、 いつしか雨は止んで、 厚ぼったい雲間か満月が顔を出した。 カーテンの隙間から見える風景。 広がる空は限りなく澄んでいていて。 空はいつでも存在している。 どこでも存在している。 姿を隠すことは、 決して、ない。 もし俺の身に何かがあったときには………美 嘉。 君のことを、いつまでもいつまでも見守ってい る。 君が笑い、泣き、怒る姿を。 君が大きな壁を乗り越えていく姿を。 君が立ち上がる姿を。

君が一生懸命に生きて、生きて、 生き抜く姿を、遠く、 けれど見上げればいつでも存在している世界 から、 しっかりと見守っているから。 寂しいときには君を照らし、 心が乾いたときにはあふれんばかりの雨を降 らせる。 濡れた体に柔らかい風を起こし、 心が凍える日には光を与え、 孤独な夜は雪の手紙を送る。 例えどんなに離れていても、 いつかまた愛しい温もりが存在するこの世界 で、 この場所で再び出会うことができるそのとき まで… 俺は君にとって、 強く、 眩しく、 果てしなく、 淡く、 広く、 温かく、 優しく、青く、 透明な、 始まりもなく、 終わりもない、空になってみせるよ。 君の、君だけの、空に。 ………ああ、眠い。 明日は美嘉が現像した写真を持ってきてくれ


ることになってるし、 俺の元気の源でもあるみかんキャラメルも買 ってきてくれる。 すげえ楽しみだ。 なんだか今日はとてもいい夢が見れそうな気 がするな。 さて、そろそろ寝るか。 神様、今日、俺に朝を迎えさせてくれてありが とう。 生きさせてくれてありがとう。 どうか明日も、俺に新しい朝を迎えさせてくだ さい。生きさせてください。 もしもあの日君に出会っていなければ こんなに苦しくて こんなに悲しくて

こんなに幸せな気持ちを知る事もできなかっ たよ。 君と過ごした日々は、 これからもずっと、 色あせることはない。 いつか二人が離れ離れになったとしても、 思い出は心の中で永遠に動き続ける。 光を放って輝き続ける。 だから俺はこのかけがえのない 20 年間を、 忘れることはない。 忘れない。 忘れたくない。 忘れられない。 永遠に、忘れなくても、いいですか。

こんなに切なくて

「おやすみ」

こんなに涙があふれるような想いをしなかっ たと思う。

目を閉じる。

けれど君に出会っていなければ こんなに嬉しくて

手に持った一枚の小さな花びらが、 はらはらと雪のように舞い落ちていった。 〔完結〕

こんなに優しくて こんなに愛しくて こんなに温かくて

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