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Koreana Summer 2006 (Japanese)

Page 1

日本語版

韓国の芸術および文化

V o l.

13

No . 2 夏 号 2 0 0


V æ—§monoh AI RBAG

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Pr oduc ed b y Vi a monoh C o mp a n y viα111011011 Ltd. Al l ri ghts reserved

⑤ 2006 by

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韓国の美

トッサル( 餅型〉

。円滑 棚 田 川

井

( トツク) は韓国の食文化の華である。昔

紋でもあったわけだ。

トッサルには実に多様な

の人は餅一 つを作るのにも美しい模様を施すな

模様があり、その模様ごとに意味があり、使われる時

ど 、 一つ一つに心を込めて作り上げていった。のっペり

期も違っていた。子どもの百日のお祝いには喜びを表す

とした餅の表面に模様を入れることで、餅に表情がでて

魚と百蕉、結婚の時には夫婦円満を象徴する鴛鷲( オシ

くる。その模様入れのために使われた道具がトッサル

ドリ) 、福をもたらす一組の幅幅( コウモリ) の模様な

()

(918~32)

どが使われた。また、還暦には長寿を願い鯉や亀のよう

きたといわれるトッサルは表面に陰刻、または陽刻の模

な動物の模様が使われ、お寺では蓮の花や配型の模様な

様が施されている。適当な大きさに切った餅に水気をつ

どが使われた。

け、その上からハンコを押すようにしてトッサルで模様

「見た目の良い餅は味もよい」ということわざがある ように、昔の人々は一度食べてしまえばなくなってしま

を入れていく。 ありふれた台所用品のように見えるが、実はトッサ

う餅にも意味を込めたのだ。餅は、食べる楽しみだけで

ルには多くの意味が込められている。その模様を見ただ

なぐ J 見る楽しみまでも満喫させてくれる。そんな餅作

けで、それがどの時代に作られ、どこの家の物なのかが

りに一役買うトッサルは、韓国の格調高い食文化を物語

分かつたという。

っている。国

トッサルの模様がその家を象徴する家


Kor ea n a

韓国の芸術および文化 V o l. 13. No. 2 夏 号 2 0 0 6

韓国の海 8

海と韓国人の心 │ 羅景沫

Kor eana ホームページ htlp://. 州 w.koreana. or. kr

@ 韓国国際交流財団 2006 ( Kor eana) に掲載されてい るすべての記 事の著作権は韓国国際交流財団 に帰属し‘

12

韓国の海上交流と海路 │ 表明話

2 0

生命の宝庫、韓国の海 │ 金雄西

著作権法 により保護されています. ( Kor eana) の記事を転載する場合には、

事前に ( Kor eana) 編集室に電子メール ( kor eana@附 or. kr) か FA X ( 82- 2- 34636086) で転載許可を申請してください. ( Koreana) の記事を 引用したり、非営利

目的で使用する場合 にも ( Kor eana) から の転載であることが分かるようにクレジッ トを明示してください。

2 6

大陸棚で産油国の夢を実現 1:金 玄泰

28

生活の海、海と共に暮らす人々 │ 南成淑

掲載 された記事は筆者の個人的な意見であ り 、 ( Kor eana) や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。 1987年8 月8 日文化観 光 部 叶 1033で登 録された季刊誌 ( Kor eana) は英語、中国

語、フランス語、スペイン語、 アラ ブ語、 ロシア語 、 ドイツ語でも発刊されていま す.


36

文化フォーカス「科学技術を筆に使え」 ビデオ・アーテイス卜ぺク・ナムジュン( 白南準)

が我々に残したもの 40

1軒関

インタビ Z ー金徳沫

世界に響く韓国の魂│ 玄環彩 46

韓国の南海岸、全羅南道突山島付近の ある漁村の風景. 半島民族の韓国人 に

巨 匠 関 弘 圭・

とって,毎は数千年間とも に暮らしてき た生活と文化の場である。海は逆らう

王の印章に威厳を彫る職人 │佳 免 源

ことのできない力で我々に管威を 与え る時もあるが、天然ガスなどの資源の

52

恵みをもたらすこともあるのだ.

傑作/ 名品華巌寺 田獅子三層石塔

塔に表れた仏陀の悟り│ 申龍激 56

文化イベント・レビュー プレ大邸ミュージカルフェスティバル│ 金文燥

62

緯園再発見伝統錠

怪盗ルパンでも開けられない優れた装置 ! 鄭 東 環 68

世界の中の跨国人李昌錆

囲碁で世界を制覇│ 朴治文 72

オン・ザ・ロード抱川

樹木が息づき、森が歌う街│ 李謙 78

料 理 イ ム ジャスタ ン ( 荏子水湯)

鶏肉と白胡麻の冷スープ、夏の栄養食 82

l 国際貞

遠くの目

www. kf . or. kr

韓国のお寺と博物館を歩く│ 日向一雅 84

暮らしモバイル・テレヒ、 の時代がやって来た 1

地下鉄の中でテレビを視聴する若者達 │朴 建 畑 89

発行人 権仁赫 編集理事 金 恵 媛 編集長 金鍾徳 編集諮問委員 ~

金文換,金英那,李湊培

緯国文学の旅

A d-Fr ont ソウル市瑞草区瑞草洞 1588- 8 Tel : 82- 2・588・6016

手大寧

存在の深淵を凝視する感覚的な内面への旅 光の足跡

発行 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区瑞草 2洞 1376 - 1 T el : 82- 2- 3463- 5684 Fax: 82-2- 3463- 6086

l 鶴護金明順

Fax: 82- 2-2057・0509

l 鄭恵理

編集 金使允編集会社 京畿道機州市交河邑文発里504 - 5 T e l : 82- 31-955- 7421 Fax: 82- 31 ・955・7415 www. gegd. co. kr 印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水 2街 274- 34 T el : 82- 2・469・0361- 5 Fax: 82- 2・461- 6798


8 Kor eana I 夏号 2006


海と韓国人の心 数多くの神話と歌を作り出してきた海は我々の暮らしの原型.である。 長い歳月を海と共にに暮らしてきた韓国人にとって、海はどんな意味をもっているのか。 我々の暮らしや心に映し出される海のもつ意味を探ってみよう。 ナ・キヨンス ( 羅景; 朱全南大学校

国語教育科教授)


朝

鮮半島の西南端に陸地から一番離れて叩居島

式が多いのも、韓国人と海との密接な関係の現れと言わざ

という島がある。小黒 山島とも呼ばれる可居島は、

るを得ない。

限りなく青い海と奇妙な形をした崖が神秘的な絶景で、初

一方、竜王が漁村の生産の場で暮らしの規範として崇

めてこの島を訪れる人々の自には仙境のように見えるほど

められてきたことも事実であるが、一方では文化史的な側

美しい。ところが、代々この島に住んでいる漁師の中には、

面に広がり説話へとつながった。竜王が社会的理想や特定

カモメのように魚を獲って生計を立ててきた人が多い。彼

の機能を代弁する主体に変容されて崇められていた例も数

らが網を引きながら歌っていた可居島の舟歌は有名だが、

多いわけである。

その歌詞の中に「お前は死ね、俺は生きる j という節があ

一番広く伝わり知られた説話の一つが「シムチョン伝

る。これは漁師と魚が海を背景に生死をかけて繰り広げる

( 沈清伝 )J である。親孝行の娘、シムチョン( 沈清) は盲

闘争を描写している。 .いつもその闘いは漁師に有利なゲー

目の父の目が見えるように、三百俵の供養米を稼ぐため漁

ムとは限らない。農民たちが豊作を願いながら働いている

師たちに身を売って印塘水に身を投げる。船の安全祈願の

ように、漁師は豊漁を願いながら海に出る。ところが海は

ため、竜王に奉る供養米の代わりに売られ、竜王への供え

危険極まりない・ ところである。風浪の神竜王は、人間たち

物として奉られたのだ。竜王に生きた処女を供える話は昔

に獲られた魚のための慰霊祭に供えるためなのか、逆に漁

から伝わっているが、「沈清伝」 は文学的に見ても完成度

師たちを奪い去ったりもする。

の高い作品である。この話の中で竜王は、単 に女を欲しが る欲情の化身ではなく、叙事的なタ ーニングポイン トとし

竜王の住んでいる神聖な空間

ての役割を果たしている。竜王は、海の中に投げられたシ

竜王は海の中の竜宮に住みながら海を治めている。韓

ムチョンを蓮の花に乗せて再び海上に浮かばせている。韓

国に伝わる伝統儀礼や昔話には、竜王が登場する話がかな

国には「至誠天に通ずJ という諺があるが、シムチョンの

り多い。海が生活の場になっていた人々は、自身の暮らし

父を思う深い孝心は天上の神を感動させるほどであった

を竜王に透写する過程で様々な儀礼や神話を創ってきた。

が、実際に感動したのは海の竜王であったというわけだ。

海岸沿いに暮す人々は、 自らの生命だけではなく、生計ま

竜王が天上の神 と同 じ資格をもっていて、シムチョンの親

でもが竜王によって左右されると信じているため、本気で

孝行に心を動か し、親孝行が達成できるように彼女を助け

竜王を祭る。漁の安全や豊漁を祈るために 、家の中はもち

たのだ。

ろんのこと、船や町の神堂などにおいても祭る。それだけ ではない。定期的に亙女に多額の費用を払い竜王グッ( 儀

海から上がって睦に国を建てる

式) を行う。

竜王は昔話に登場し、韓国人にとって一番大切な徳目

このように生活の中で祭られてきた竜王は、韓国人が

として教えられた親孝行の実現に貢献している。ところが、

海に対して抱いている集団的な心性を透写して創り上げた

それは理念的な徳田.に止っていない。韓国ーの美人として

典型的な神格であるはずだ。つまり竜王の性格

伝えられるのは 、新羅の聖徳王( 在位: 702~

( personali ty) は、韓国人が有している海の性格 (nat ure)

カンヌン( 江陵) 太守、純貞公の妻であった水路夫人( ?

と一致すると見てもよい。韓国に竜王にまつわる神話や儀 ~?)

7 3 7 )


を手に入れたい竜王が彼女を竜宮に投致した。竜王は人間

外部の世界に開かれた通路

たちの請願に屈し彼女を海の外に帰したものの、最高の美

海は内と外の世界をつなく会巨大な通路であった。韓国の

人を自分のものにしようとした竜王の行為は、極めて人間

古代神話をみると、海を通じて入ってくる神格は、何か新し

的かつ世俗的に見える。ところがここで注目すべきは、竜 王の行いによって水路夫人の美貌を最高の価値まで押し上

い文化をもたらす伝播者としての資格を有していた。海から (

57~80)

げたことだ。対象の価値を最高の水準に引き上げるための (42~56)

劇的な装置として、竜王を叙事的な主役として登場させた (

のである。

仏教を伝えた。さらに、現在の済州島にあたるタムラ国( 耽

古代韓国の建国神話を見ると、国を建てた王様はほと んど天の神様の子孫であった。しかし天孫だけでなく、竜

42~19)

羅国) に入ってきて三人の始祖の妻となった三人の女神は、 穀物をもたらし農耕が始まったと伝わる。 このように海は、農耕 ・鉄器 ・宗教文化が伝播される

(892~36)

を建国したクョンフォン( 甑萱) が竜王 の息子であり、高ー 麗 を建国したワンゴン (:

918~43)

の娘であった。ところが、このように天 孫ではない竜孫が登場する建国神話は朝 鮮半島の西南部に分布しているのが特徴 である。この地域は先史時代はもちろん、 有史時代になってからも、早くから中国

重要な通路であるという点で、神話を通

竜王は、海に対して 韓国人が抱いている集団的 信仰を透写して作り出され た典型的な神である 。 したがって、竜王の神格は 韓国人が抱いている海の 性格とも 一致する 。

や東南アジアとの問で、海上を通じた交 通が便利だ、った地域であり、示唆する点が大きい。

じて記録されている韓国の古代史のなか で、海の占める位置をはっきり示してい る。しかし海は、外の世界に聞かれた 「開放と疎通 J の通路に止まらない。時 には、海は外部の勢力による破壊をもた らす。 新羅の文武王( 在位 661 ~68 1)

最期に自分を水葬するように遺言を残し た。死後も竜になって海から侵略してくる敵から国を守り

一方、この神話が伝えている地域を考古学的に見ると、

抜こうと思ったためである。文武王の尊い護国精神は、新

他の地域ではあまり見られないほどの多様な古代のお墓の

羅に広く伝わっていた護国竜の思想によるものである。ま

様式が伝わっている地域でもある。お墓は他の文化要素と (

875~6)

は違って、集団の移動がなければあまり変わらない。先史

として政( まつりごと) を助けていたチョヨン( 慮容) は、

時代から海上を通じた交流はもちろんのこと、集団的な移

鬼神の侵入を防ぐ神に崇められる。竜は国と家庭を守る役

動が活発に行われたという証明として、物的証拠であるお

割を果たしていた。

墓と、言語的証拠である神話が伝わっているのだ。神話の

このように海は韓国人にとって、生計をかけた場のみ

みならず歴史的にみて、のちのち、海神とも呼ばれたチャ

ならず社会文化的な要素をもっ場でもあった。したがって、

(

?~846)

決して偶然ではないだろう。

海は暮らしを取り仕切る神格として神話に描写されたり、 また国の運命を左右したり、文化史的な変容をもたらした りする神聖な空間として信じられてきていたのだ。 国

1 竜王は,毎に対する韓国人の集団的信仰が神格化した典型である. 湾州 ヨンデゥングッの中、竜王を迎える i 暑面. 2 ユニヴァ ーサルバ レエ団の新しい創作劇「シムチョン物語」 3 ウルサンで聞かれる「慮容文化祭」は、竜王の息子、虚容( チョ ヨン) を祭る行事である. 4 蛸島ティベツノリ( 舟遊び) の最後のところ. 人々が船出をし、希望と厄運を海の中 に送り出 している.


一 一 一一 - .-

.

4

韓国の海上交流と海路 海は固と国を結ぶ文化のネットワークであり、また文物が交流する文明の 高速道路でもある。昔の韓国人が聞いた海路を追いながら韓国と周辺諸国との 関係を探ってみた。 ユン・ミョンチョル( 予明詰東国大学校歴史学科教授) 安洪範写真家

『


夏 号 2006 I Kor eana

13


土三里子 園人には韓国のみならず東アジアの歴史を陸地中心

の人々によって海上活動が盛んに行われていたことが分か

i .J.← に見ょうとする傾向がある。ところが東アジアは現

る。この小国のほとんどは海岸や大きな川の河口に位置し

在、中国や北朝鮮が共有している大陸と朝鮮半島や日本列

た「都市国家J であり、日本列島や中国との間で鉄などの

島などの陸地とともに、広大な東海( 日本海) や狭い南海、

交易をしていた。

それに黄海という内海、東シナ海を抱えている。いわば東

B C三世紀から A D三世紀に形成された日本列島の弥生

亜地中海と表現できる形をしているのである。昔の韓国人

文化は、主に朝鮮半島の南部地域の住民が集団移動して創

が活動していた満州 一帯や朝鮮半島は東亜地中海の真ん中

った文化である。移住民は、南海の東部海岸から九州につ

に位置しているという地理的なメリットがあったため、海

づく航路を利用しており、時には東海の南部から出発して

洋文化が発達できた。

日本列島の本州地域に上陸する航路も利用していた。

海の狭間にできた国々

海を支配する者は世界をも支配する

韓国の海は規模的にみてそんなに広くもないが、先史 (BC37~AD68)

時代から活発な海洋活動が行われた。南の海岸地域にある

ある大河を内陸水筆活動に利用していた。そして徐々に鴨

プサン( 釜山) とウルサン( 蔚山) は、日本の対馬島等と

緑江の河口を掌握しながら黄海に進出して行った。 AD2 3 3 (AD2~80)

60~7

の 鴨 緑 江 河 口 、 遼 東 半 島 な ど の 地 域 に も 、 約 6 0 0 0年

という固と使節の交流をし、馬などを輸出した。康開土大

7000年前の海洋遺跡地が発見されている。主に海辺で発見

王( 在位 391 ~413)

された大小のドルメン( 支石墓) は、黄海を挟んで活動し

戦を立てて京畿湾を攻撃し、次の長寿王( 在位 413 ん 491)

ていた人々が建てた遺物である。

時代には、黄海の中部以北や東海の中部以北の海上権を完 (BC23~108)

は、その都を海岸に聞き、黄海の北部にあった遼東半島や 西韓湾、大同江河口を中心に海洋文化を発展させた。その

全に掌握してしまい、分断された中国の南北朝の国々を相 手に海洋外交を展開し、活発に交易が行われた。 (BC18~60)

(

BC18~

AD2 8 ) が南下して定着していく過程そのものも海洋と深 (BC206~)

済圏を広げていたが、当時成長し続けていた衛満朝鮮と衝

い関係がある。百済初期の都だ、った河南尉櫨城は一種の河

突し、両国は黄海の北部海上権をめぐる主導権を握るため、

港都市だった。四世紀初頭に入ってから、高句麗の南部を

長い間水陸両面における戦争を繰り広げた。また、その時

攻撃して中固までつづく海上交通路を拡大し、また西海の

期を前後にして、朝鮮半島の南側には三韓の小国があった

南部にある島々を飛び石のような交通路に利用して、日本

が、いままで見つかった考古学的遺物や「三国志」、 「後漢書」などの中国の古文献を見ると、

∞

14 Koreana I 夏号 2 6

列島への進出を本格化した。その後、高句麗に京畿湾 を奪われてからは海洋活動が縮小されたが、国力を回


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復して黄海の南部はもちろん南海でも活発な活動を繰り広

には、山東半島の登州港を通じて唐との交易が活発に行わ

げていた。さらに中国の南朝諸国と活発に交流しながら発

れた。高級の織物や金銀の細工品などを輸出し、亀、紫檀、

展した百済は、特に日本列島にまで進出し、日本の古代国

孔雀の尾、宝石などの東南アジアの産物を唐から輸入した。

家の成立と仏教文化の伝播に大きく寄与した。

また日本との交易をほとんど独占して、唐や東南アジア、 (42~

562)

アラビアなどから入ってくる品物の仲介貿易も行った。

も、元々海洋文化の発達した国だ、った。加耶は滅亡

一方、唐ではいわゆる「在唐新羅人」が、大運河の周

するまでに日本列島と盛んに交流したが、日本で発見され

辺や山東省、江蘇省、漸江省などの海岸に新羅坊、新羅村

た遺物や建国神話などに加耶の文化を伺わせる要素が多く

などの定着村を建設した。在唐新羅人は主に商業を行いな

含まれていることがそれを 裏付けている。

がら時には外交使節としての役割を果たし、東アジアの海

一方、朝鮮半島の東南部に孤立していた新羅 ( BC57 (?~846)

~935)

政府の支援を受けて清海鎮を設置し、すべての航路を掌握

港口施設も未発達で海洋文化は育たなかった。ところが、

しては商人と海洋民らを組織化した。また清海鎮を軍港か

日本の神話にはスサノオノミコトや天日倉など、新羅と関

っ自由貿易港にし、拠点となる都市と有機的につなげて、

係を窺わせる項目を含み、また新羅の対岸、本州中部の出

在唐新羅人と在日新羅人、本国新羅の人々を同時管理する

雲からは新羅系の遺物が多数発見されている。特に新羅は

ようになり、東アジア海の海上権を掌握した。

6 世紀中盤になってからハンガン流域や京畿湾を支配する

潮海は初期に、水軍と艦船を率いて唐の登州を攻撃し

ようになったことをきっかけに、中国との交易が盛んにな

占領したが、後には唐と活発に交易を行った。また国が滅

った。それから海洋を利用した秘密外交が成功し、唐と連

亡した後は、流民が海に慣れない遼の人々に代わづて宋と

合して百済と高句麗を攻撃 した。

の交渉に当たり、長江の河口まで進出して行った。さらに

韓国の三国時代を取り巻く東アジアの構図を正確に理

日本には公式使節団を 33 田も派遣し、 9 世紀になってから

解するためには、陸地情勢とともに海洋情勢の理解が不可

は一度に 100 人を超える使節を派遣したこともある。 1100

欠である。特に古代の韓国と日本の関係を見ると、韓国の

人にのぼる湖海の 一般市民が船団を組んで日本に入港した

昔の人々が海を渡って移住した後、政界に進出して形成さ

という記録も残っている。地政学的な関係から新羅を 警戒

れた関係である。その過程はフェニキアとギリシャの人々

したため、溺j 海は日本との海洋外交を通じて協力関係を維

が地中海沿岸を東西に航海しながら、新天地を見つけ、開

持するしかなかった。崩! 海は後期になってからは主に交易

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拓していく過程と似ている。

中心の交流を行っていたが、交易の不均 衡が激しくなり、日本政府は潮海からの 使節団の運行回数や乗組員の人数などを 制限した。

海神と呼ばれたチャン ・ボゴ( 張保皐) は清海銀を拠点に中国と 日本を結ぶ海洋航路を開拓した. 張保皐の 代記を描いたドラマ 〈海神〉の撮影場所、莞島( 昔の清海銀) に張保皐時代の船を復 元( 左) 。張保皐の肖像画( 右)

16 Koreana I 夏号 2006


張保皐時代の海上航路

中国

張保皐船団の活動範囲

ー ・ 黄海中部の横断航路( 清海銀 から石島、日本の僧侶、固仁 が利用) ー 黄海中部の横断航路( 清海鎮 から燕雲) 一 東シナ海の斜断航路( 清海銀 から舟山群島/ 湾州島から登 州) 一 東シナ海の斜断航路( 唐に居 住していた新羅人が利用)

夏 号 加 06 I Kor eana

17


大陸の秩序、海洋の秩序 (918~32)

重きを置き、専ら中国との交流のみを進めた。結局海洋文

(

化は蔑ろにされ、水軍のカも弱まり、民間が外国と海洋活 918~43)

は、海軍大将という称号をもった海洋勢力であった。高麗

動を行うことも禁じた。その結果、朝鮮は中国の属国的な

は契丹族の国である遼を牽制するため、宋と活発な海上交

存在に転落してしまった。さらに海から侵略してきた日本

易活動を行った。 160年以上の問、高麗は宋に 57 回、宋は (l

高麗に 30回にのぼる使節団を海路を通じて送っている。使

は苦戦の末、陸地での敗北を水軍の力で克服する。海戦史

節団は普通 100 人から 300 人規模になっていたが、一種の

上例のない 23戦 23勝という不滅の神話を創った名将イ・ス

公的交易船であった。一方、民間の商人達も盛んに交易を (

行い、同時期の高麗には中国の福建省・贋東省・ j折江省地

躍のおかげで、長きに渡る戦争を勝利に導いた。しかし朝

域の商人達とアラブ人商人も多く集まってきた。

鮮はその後にも海洋力を強化せず、結局日本の海洋力に屈

592~

1598)

も起こる。この戦争で朝鮮

154~98)

し、強制開港を強いられてしまった。

高麗は 1274年に高句麗と元の連合軍が日本遠征に向か った時、 900 隻.の船を四ヶ月半という短期間に建造した。

近代に入り、海洋力は東アジアの力学関係を決める際

後期に入ってからは日本からの侵入を受けたが倭軍を退け

にかなり重要な役割を果たしていた。第二次世界大戦が終

て、対馬を攻撃するなど、強い海洋力を発揮した。

わってから東アジアにとって唯一の通路である海が閉鎖さ

(1

れてしまいL 東亜地中海圏は本来の役割を果たせなくなっ 392~10)

た。ところが現在、東アジアの秩序は再編されている。韓

海洋文化の様相は変わってしまう。朝鮮は大陸との情勢に

1 新安船から発見された遺物は当時の交易品で あった。この船には中国を始め韓国と日本の 2 万点余りの遺物が積まれていた。鎌倉時代

の陶磁器

2 元時代の青銅製花瓶 3 新安船から発見された高麗青磁. 12~3

頃に製作されたものと推定される。 @国立中央博物館

4 元時代の魚模様の青磁水差し 5 元時代の木牌。貨物主の名前と貨物の重さ、 日付などが書かれており、

新安船の謎を解き

明かす重要な資料となる。。国立中央博物館

2'

18 Koreana I 夏号 2006


国は現在東アジアのすべての地域と国と物流や文化交流を

ロールできる力が持てれば、韓国は日中 韓のパワ ーバラン

つなぐ海洋ネットワークを有している。このネットワーク

スを調整できるうえ、それに伴う莫大な経済・文化的利益

の通路にあたる幾つかの海路を牛耳ることで海洋をコント

を得ることだろう。 四

Co. ,Lt d.) 、 S T X 造船 ( S T X Shi pbui l di ng Co. ,Lt d.) 、韓進 重工業( 株) ( Haj i n He a v y I ndust ri es Co.,Lt d.) など、韓 国のメーカーが 7社も含まれて

. ,

いる 。

導入された。幅 600 メートル規 模の野積み場は、中国の上海の 洋山港よりは小さいが、埠頭の 中ですべてのサービスを提供す るオンードック ( On-Dock) シ ステムを持っており、燈頭の効 率性や競争力をいっそう高め

釜山新港、

北東アジアにおける 物流のハブとなる

た 。 韓国の海洋水産部は地理的 環境に恵まれた新港を、北東ア ジアにおける物流の中心港湾と して育成していく計画である。

北東アジアのハブ港湾を目 指すプサン( 釜山) 新港が、

グローバルリーダ一、

韓国の造船技術

韓国が世界造船市場を席巻

また新港を中心に、海上・陸 上・鉄道・航空が結ぼれたマル

2006年 1月 19 日に本格的にスタ

チ物流システムを構築して、朝

船海洋( 株)

( Daewoo Shi pbui l di ng & Mar i ne

ートした。釜山新港は 5 万トン

鮮半島が統一されれば、シベリ

クラスの船舶 3隻が同時に入港

ア横断鉄鉄道 ( TSR) 、中国横

Engi neer i ng C o.,Lt d.) 、現代 三湖重工業( 株) ( Hyundai

でき、年間 90万個のコンテナの

断鉄道 ( TCR)

処理能力がある 。 また 1万2千個

平洋とユーラシアを結ぶ鉄のシ

と連携して還太

した。造船・海運の専門市場調

S a mho He a v y I ndust ri es Co. ,

のコンテナを積み込んだ船舶を

ルクロードのスタート地点にす

査機関、クラクソン ( Cl arkson)

Lt d.) 、現代尾浦造船( 株)

処理できる超大型クレーンな

るという構想も立てている。

の統計によると、韓国が 2005

( Hyundai Mi po Doc kyar d

ど、先端の荷役装備が 172台も

年 、 1450万C G T ( 標準貨物船 の換算トン数) を受注し、 700 万 C G Tの中国と、 620万C G T の日本の追撃を振り切って、世 界トップの地位を獲得した。韓 国の受注量は世界の造船受注量 の37. 8%にの』ぎる。また L NG船 ( 液化天然ガス運搬船) 分野に おいても世界的に 7 6 %のシェア を記録し、造船大国の地位を見 せ付けた。 船舶建造の能力において は、世界五大造船所の中の四ヶ 所が韓国の造船所である。また 世界十大造船所の中には、現代

( Hyundai He a v y I ndust ri es Co. ,Lt d.) 、三星重 工業( 株) ( Sams ung Heav y I ndust ri es Co. ,Lt d.) 、大字造 重工業( 株)

夏号 2006 I Koreana

19


生命の宝庫、韓国の海 半島国家、韓国の海にはどんな生物が生息しているのだろう。西海・南海・東海の 三面に固まれている韓国の海を見ながら、それぞれの特徴をもっ韓国の 海洋生物界を紹介する。 キム・ウンソ( 金雄西緯国海洋研究院海洋資源研究本部長) 李宣明写真家


J

уБе


J 信干

は地球上にあるすべての生命の源である。生命体な

ともに、世界五大干潟の一つに数えられている。干潟は海

1ゆ

ど、おおよそ存在しない砂漠のような地球に海が誕

洋生物にとって、産卵地や生息地として最適の場所であり 、

生して以来、海は母親の子宮のように生命体を宿し、悠久

生命力に満ち溢れている。干潟のどこを突っついても貝や

の歳月を経た今、地球は数え切れないほどの生命体が共に

タコが取れる。西海では韓国人の好きなイシモチ、太万魚、

住む活気あふれる星となった。生命体の故郷といえる海に

カタクチイワシ、 ワタリガ二などが多くとれる。

固まれている朝鮮半島は、自然に恵まれている。その朝鮮

南海の水深は、西海より深いが、最も深いところで約

半島に住み着いた韓国人は、昔から海と切っても切れない

200 メー トル、東海に比べればまだ浅い方である。海岸線

関係を築いてきた。貝塚の遺跡地から確認できるように、

が複雑に隆起し、大小の島々が多いため美しい景観が広が

我々の祖先は、多くの海の幸を食料にし ていた。またウルサン ・ ( 蔚山) デゴ ッリ ( 大谷里) から発見された半球台岩刻画 からも分かるように、沿海に多くいた鯨 をはじめ、海洋生物を水産資源として活 用してきた。この よ うに韓国の海は食糧 貯蔵庫のような役割を果たしてきた。

西海の干潟、南海の水中

っている。また、干潟、砂浜、岩海岸な どが発達しており、海洋生物には絶好の

水深の浅い西海には広い 干潟が発達しており、 海中の景観の美しく、 熱帯性魚類をはじめ、 さまざまな魚が生息 している 。また水深の 深い東海では鯨に出会う こともある 。

棲息環境となっている。南海は暖かい黒 潮海流の影響で、水温と塩分濃度が高い ため、熱帯や亜熱帯地域でしか見られな い華麗な色の暖流性魚類も多い。南海に 棲んでいる代表的な魚類といえば、サパ、 サワラ、アジ、ブリ、イワシなどがある。 温帯・熱帯性のさまざまな水産資源物も

韓国は三面が海に面している。西海 は、韓国と中国に挟まれていて平均水深は約 40 メー トルし

漁獲されており、水質上清浄海域である ため、海苔やカキ、ホヤなどの養殖場も多い。

かない。中国の大河から黄色いマッド( 泥) が流入するた

南海の中でも特に美しい海中景観が見られるのが済州

め海の色も黄色い。これが黄海と呼ばれる所以である。ま

道である。済州 島は韓国最大の島であり、海岸線の長さが

た、干潮や満潮の差が激しいため、広い干潟が発達した。

2 5 4 k mに達する。岩の多い この島の沿岸には海藻類の森

西海の干潟はカナダの東部海岸、アメリカの東部海岸、北

が発生しており、ウニ、ナマ コ 、 イソギンチャク、アワビ、

海沿岸、 ブラジルのアマゾン川河口などに発達した干潟と

カニ、海老などの底生生物が棲息している。済州島の沖合

韓国最古の 魚類学専門書 韓国最古の魚類学の専門書 (l

760~

1816) の『主主山魚譜』と金慮 (176~82)

各々の海洋生物に関する説明の 最後の部分には、その生物を 素

が、海洋生物があまりにも生き 生きと描写されており、現在読

道と慶尚南道はさまざまな水産 物の獲れるところである。丁若

材にした漢詩が収録されてお り、文学的にも価値の高い本で

んでも感じ入るすばらしい本で ある。

鐙は黒山島に楼息する魚種の数 が多いことと、それを人々が、 それぞれ違う名前で呼んで いる

ある。ちなみに、「牛海」とは

鎌十位同 事 え崎 AR

A-m 血EL併尚

A n e

な海洋生物が記録されている。 『牛海異魚譜』には 70種類

品卸住町

類など、 200種類を超える多様

a R-A 且 74ぬZR民間員企ぬ胡巾両損宥崎一銭 M回一

とになったと語っ ている。 『 主 山魚譜』には魚類 、 貝類、海藻

文 凶岬

のを見て、 整理する必要性を感 じ、『吉富山魚譜』を執筆するこ

今拍 a m 点鳩

南海岸に面して いる全羅南

Hwa z

慶尚南道鎖海で、それぞれ島流 しの生活を送る 羽目になった。

うになった。

κ札制ザ肺 ゑ 案 通 削曙織田﹄VA ヤ aax 納 乙

時代を生きた人物である。丁若 鐙は全羅南道黒山島で、金慮は

200年前に執筆された本である

ι

られている。丁若鐙 と金慮、は同

が詳しく 書かれている。さらに

SRH 月有 -Am 雌h v 明容 向F暑 押合償措栂温温水晶茂山汐 u p e庫&供 者ル叫件烹俊一 耳鳴泳都鍾喝向ホ外舟陶ホ内局駿 愛品事 瞳抱則人以手織 革 問京釦世£人鍋同州届叫 九柿崎よ え fr

には『絃山魚譜 』 がより多く知

物の神秘に惹かれて本を書くよ

内錐Rd 帽ふ 札 MM手持雨後&軍命令韓 mmm凪&命 &mm位主

11 年先に発行されたが、韓国人

鎮海の昔の名前である。『主主山 を超える魚類、カニ類、 貝類な どについて、その形や特徴など ・ 魚譜』と『牛海異魚譜』は約

制品Aふ ・ 半 F' 7 島 a t u n A 島町他 ゑ A押削骨骨領丸谷仙 朱令と一品目 柚府直ι柚 -ehホマ 手eh a a朝 沙L到 bz

譜』がある。 1803年に発行さ れた『牛海異魚譜』 が1814年 に発行された『絃山魚譜』より

二人は海を眺めながら多く の時 間を過しているうちに、海洋生

{牛海異魚譜 〉 、延世大学校中央図書館所蔵

24

Kor eana I 夏号 2006


セミクジラの群れ。東海には多くの種類の鯨が棲息している。

にある蚊島は特に海中景観のきれいなところであり、スキ ューパ・ダイパー達が集まる場所でもある。花畑のように

うに船を追ってくる場面も見られる。 東海の東端には独島( 竹島) がある。独島は東島と西

見える赤い珊瑚礁の狭間に、色取り取りの熱帯魚が泳いで

島、そして大小の岩島からなる。

独島には波に削られてで

いる光景はさながら地球のパラダイスである。

きた海蝕洞窟など、景色の美しいところが多く、海中景観 も非常に美しい。また独島は人の手があまり及んでいない

鯨の遊び場、東海

おかげで、海洋生態系がよく保護されている。現在まで独

東海は最大水深が4000 メートルに達する深海である。

島沿岸には 100種類を超える魚類が棲息していると報告さ

東海は寒流と暖流が交錯するため、水産資源の豊富な黄金

れている。代表的な水産資源といえば、クロソイ、メバル、

漁場になっている。秋になり北から流れてくる北韓寒流の

コブダイ、イシダイなどタイ科の種類が多く、アワビやナ

勢いが強くなると、産卵のためスケソウダラやタラの魚群

マコなども独島で獲れる重要な水産資源である。独島は北

が来る。また、水温が低いと、わかめやコンブなどの海藻

緯 37度 14分に位置しているが、対馬暖流が北上するため亜

類の生育に最適だ。一方、夏になると南から上がってくる

熱帯の海域でしか見られない魚類が見られる。ソラスズメ

東韓暖流の影響が強まると、暖流性のイカやサパ、サンマ

ダイは熱帯や亜熱帯の魚類であるが、韓国では済州島の沿

などが魚群をなす。

岸に棲息し、夏には独島の近くでも見られる。

東海には数多くの鯨も見られ、東海から捕獲されたと

このように韓国を取り囲んでいる西海・南海・東海

いう記録がある。現在、棲息している鯨の種類は、ナガス

は、それぞれ特徴をもっている。干潟の地平線が広がる西

クジラ、せみクジラ、イワシクジラ、ニタリクジラ、ミン

海、大小の島々が、まるで一枚の絵のような風景を創り出

ククジラ、ザ、トウクジラ、コククジラ、マッコウクジラ、

す南海、砂浜や奇岩怪石が美しい東海は、韓国が世界に誇

その他には、シャチ、ハナゴンドウ、カマイルカなどであ

れる自然遺産である。 国

る。東海で捕鯨が許されていた 1985年まで、鯨の数が減少 したが、現在は捕鯨禁止により、その数も増えている。船 で東海を航海していると、イルカの群れが競走するかのよ

夏号

2006 I Koreana

25


大陸棚で産油国の夢を実現 これまで非産油国だった韓国が 2004年に、東海- 1 ガス田の竣工で、 95番目の産油国になった。 海の資源開発に向けた韓国の取り組みと、これまでの足取りを振り返る。 キム・ヒョンテ( 金玄泰韓国地質資源研究院 石油 資源技術情報センタ一長) 写真 . 韓国石油公社

すう士 業化から 50 余年たって、韓国の産業競争力は世界

棚に対する日韓共同開発区域における石油資源評価が行わ

10位圏に入った。ところが韓国の石油依存度は、代

れ 、 1983年からは韓国石油公社が韓国の大陸棚における石

l生

替エネルギー開発に向けた韓国政府の努力にもかかわら

油探査をリードしてきた。

ず、まだ 5 0 %を超える。現在、韓国の産業基盤を支えるの

それまでの石油開発は、探査やボーリングは全面的に

に必要な原油量は、年間平均 8億バレルにのぼる。この内、

外国企業に依存し、国内の技術者たちは外国企業の開発事

韓国の技術や資本によって確保される原油量は約 4 %に留

業に参加して先進技術や経験を習得した。斯くし て 1989年

まっており、残りの 9 6 %は外国からの輸入に依存せざるを

に韓国地質資源研究院の中に石油開発を担当する部署がで

得ない。輸入費用が自主開発の原油価格より 2 倍以上も高

きてからは、独自の研究事業を進めるようになった。 1996

いことを考えると、現在のような石油の受給構造の下では、

年に韓国は、石油探査技術が急速に発展する契機を作るこ

高い石油価格が続いた場合、経済的に莫大な負担を担うこ

とになる。韓国地質資源研究院が 2000 トンクラスの石油物

とになる。

理探査専用船を建造することになったのだ。その時から韓

このような問題に対する根本的な解決策として、内外 で油田を自主開発することが考えられる。ところが油田開

国は、石油探査に関するコア・テクノロジーを保有するよ うになる。

発には莫大な資金と技術なしには不可能である。外国の場

一方、石油探査を除いた石油地質及び開発生産技術は、

合、自圏内の油田開発の過程ですでに技術力を蓄積してお

1997年に石油公社が外国の企業と共同または単独で大陸棚

り、その蓄積された技術力を基に海外の油田開発事業に積

の探査事業に参加するようになってから発展した。石油公

極的に参加してきた。しかし韓国の場合、自国資源が乏し

社の探査チームは 1998年に東海のウルルン( 欝陵) 盆地で

いため、油田開発技術の発展に限界があ り、そのため他の産業に比べて油田開発 技術は遅れていた。しかし、このような 現状を克服することが油田開発の技術を 一段とレベルアップする機会と捉えた。

95番目の産油国になる 韓国社会が大陸棚の石油探査開発に 対して関心を持ち始めたのは 1960 年初

最近、世界各国は石油の 代替エネルギーとして、 メタンハイドレートに 注目している 。 韓国の東海からも メタンハイドレートが 見つかり、研究や探査が行 われている 。

韓国最大規模のガス層を見つけた。

2000年に東海 - 1 ガス田と名づけられた このガス層は 2500億立方フィ ート ( L

N Gに換算して約 500万トン) の天然ガ スが埋蔵していることが確認された。

2004年 10 月に生産施設が完成し、韓国 の大陸棚で韓国の技術と資本によって天 然ガスと超硬質原油を生産することがで きるようになった。これで韓国は石油探

頭である。急速な産業化に伴って増える石油需要を国内大

査から開発生産に至るすべての独自技術を保有するように

陸棚によって解決しようという、国民の期待が高まってき

なった。東海 - 1 ガス田の開発の持つ意義は、世界有数の

た。これを受け韓国政府は、 1970年に韓国の大陸棚を 7 区

石油開発会社も失敗に終わった韓国の大陸棚で、独自の資

域に分け、鉱区を確定して開発に向けた準備を整えた。

本や技術によって良質のガス田を発見し、開発・生産に成

1972年に外国の石油開発会社による韓国初の大陸棚の石油

功したことである。これで韓国は長年の夢を叶え、世界で

探査が行われる。 1970年代のオイル・ ショックを経て、韓

95番目の産油国になることができた。

国の石油探査が本格化し、 1978年に動力資源部が発足し、

1979年には韓国石油公社が設立された。 1980年には大陸 26 Koreana I 夏号 2006

クリーン・エネルギー、メタンハイドレート


東 , 毎 ー 1ガス回開発の意義、先進国有数の石油開発会社が失敗し撤退し た韓国沿岸の大陸棚から韓国独自の資金と技術によって、良質のガス 田を発見し、開発 ・生産した ことにある。

最近、ウルルン盆地にメタンハイドレ ートが埋蔵され

韓国政府は 2005年にメタンハイドレート事業団を発足

ている可能性が高いことが分かり、韓国国民の関心が高ま

させた。同事業団においてはメタンハイドレート埋蔵の可

っている。メタンハイ ドレートは高圧・低温の環境で、天

能性の高い地域に於いて精密探査や海底ボーリング作業を

然ガスと水が結合し、氷のような固体状で存在する新しい

行い、資源の現状や埋蔵量などを確認する一方、商業的生

概念の天然ガスである。この天然ガスは石油に比べて二酸

産に向けた生産核心技術の研究開発を行う国策研究開発事

化炭素の排出量が少ないため、環境にやさしい新エネルギ

業を進めている。この事業が成功した暁には、その影響力

ー源として注目を集めている 。 日本、カナダ、アメリカな

はかなり大きいものと予想される。韓国は世界に先駆けて、

どの先進諸国はそろって、自国の陸上や沿岸でメタンハイ

最先端のメタンハイドレート生産技術を保有する国とな

ドレートを発見しており、エネルギー源として活用する可

り、莫大な天然ガスを韓国の国土から開発することによっ

能性を把握するために、多角的な研究が行われている。韓

て、エネルギーの自立化を果たすという国民の念願が叶う

国は 1996年から領海でメタンハイドレート埋蔵の可能性に

ことになる。

関する研究や探査を進めており、 2001 年からは大陸棚第

現在韓国は 24カ国の 57 の油田において海外油田開発事

6 - 1鉱区においてメタンハイドレートの探査を行った。一

業を進めている。しかし、このような成果に満足するのは

連の研究 ・探査を通じて、ウルルン盆地の水深 1000 メート

まだ早い。 5 0 %以上の自主開発原油の確保比率が実現し、

ル以上の深海地域にメタンハイドレートが埋蔵されている

真の エネルギー独立国家になるまで、我々はさらに努力し

可能性が高いことが確認された。

なければならない。 l週 夏号 2006 I Kor eana

27


生活の海、海と共に暮らす人々 母の懐のように穏やかでいながら、ある日突然荒れ狂う海。その激浪の海と一つになって 暮らす人々がいる。韓国漁民のタフな生活と彼らだけのユニークな文化をご紹介する。 ナム・ソンスク( 南成淑、光州毎日

論説主幹) 写真: 権泰鈴、安洪範


土: 4 国を囲む三面の海は、それぞれ特色があってその 干 午 有様も違う。またそこに住んでいる漁民の生活も、 漁村の暮らしもそれぞれだ。比較的広い道路がくっきり敷 かれた東海岸の人はどこか単純で骨太である。ところが、 リアス式海岸による複雑な道や、小さな干潟の多い西海岸 や南海岸の暮らしは、くねくねした海岸道路、海を渡る数 多い橋、まだ陸地から遠い島々の数のほど、哀歓に溢れて いる。

海辺の生活、海辺の文化 海辺に家を建て生活するということは、苦痛と希望を 同時に胸に抱くことを意味する。激しい高波と津波の恐怖 がある反面、時に海は希望を伝えてくれる。怖い存在では なく、いつも静かに余裕のある姿でわれわれの胸の中に件 んでいて、夢と生命をもたらすのも海である。特に都会や 山間部に住む人々にとって、海はいつも美しくてロマンチ ックで、胸が躍る空間である。ところが、海辺を生活の場 とする人々にとって、海は強い生命力を感じさせる所であ る 。 韓国漁民の昔ながらの暮らしは、今日まで受け継がれ てきた漁村の信仰や歳時・風俗、遊びなどによく表れてい る。その漁村文化は韓国の漁民たちが求めてきたものや暮 らし向き、またこれからの暮らし方を知る手がかりとなる。 その代表的な例が海神に対する祭記の風俗である。海神に 対する祭儀は、地理的条件やその地域の習慣によって、そ れぞれ独特な文化として発展してきた。 どこの漁村でも伝わるビョルシングッ( 別神グッ: グ ッは韓国語で亙女が原始宗教的観念にしたがって主宰する 儀式の総称) は、円滑な海事を祈願し、村の安泰や太平を 祈願する風魚祭としての性格を持つ。ビョルシングッの対 象である海の竜王をはじめ、山神や城陸神( 村の守護神) のような神霊、雑神などを全部招いて、供え物を供えて祭

1 海辺が生活の場である人々は、海からの生命力を常に 感じ ている。 2 リアス式海岸が発達し‘ 波の静かな南海岸では 、 海苔やカキなどの養殖業が盛んである. 3 照りつける海辺の太陽の下、いわしとスケソウダラの 干物のじゅうたんが舷しい。

30 Kor eana I 夏号 2006


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事を行う。

韓国の漁村で行われるこのようなグッからは、韓国人

南海岸のビョルシングッとして竜王グッがあるが、こ

が生命に対して抱いている観念や韓国人ならではの芸術性

れは竜王の機嫌をとるグッである。またティベッノリは海

もうかがわせる。また地域性や時代性に基づいており、韓

上に藁でつくった船を浮かべるが、その船の中を案 山子と

国人がつちかつて来た生活精神や情緒の跡も見られる。も

竹で装飾し、村の汚れや厄などが一緒に運ばれていくと信

っとも素朴でまた民衆的な文化であるグッは、今や国際社

じられていた。このような祭事が行われたのは、竜王が水

会に誇っても遜色のない世界文化である。

を取り仕切る神様だと信じていたためだ。グッの 内容をみ ると、東海岸のビョルシングッは海で死んだ漁民の怨恨や 海の雑神などを労わり、竜王に対して海上の安全や豊漁を 祈る内容である。 32 Koreana I 夏号 2006

開発と保存の岐路に立たされる ところが伝統やロマン、希望や苦痛が共存する韓国の 海を取り巻く現実は厳しい。自然の力に挑戦する開発政策


1 世界的にも例のない大規模なセマングム干拓事業 ( 40, 1∞同の 土地が得られる) が 15年にわたる工事の末に完成した. 同プロ ジェクトは工事中止を求める環境団体によって、長期間工事が 遅延されていた。 2 干潟はいろいろな生物の棲息地であり、 j揮をきれいに浄化して くれる環境の番人である. 3 忠,青南道保寧市は干潟から採取した赤土でユニ ウな化粧品を 作って商品化した.

$

夏号 2006 I Kor eana

33


済州島の海女は家族のために自ら進んで海に出る。海と闘いながら生きてきた海女は強い韓国女性の . 表象である。彼女らは 60歳を超えた年齢にもかかわらず、特別な装備もなく、 海中 20メー トル深くまで 2 分余りの聞に海産物を採取する。彼女らの 超人的な技は生理学的

3 4 Kor eana I 夏号 2006

医学的研究課題として注目された。


と、自然に順応しようとする保存論がぶつかり、海をめぐ

海女達がこのように人間の限界を超えた身体的苦痛に耐え

って激しい論議が繰り広げられている。なかでも一番問題

ながら潜り続けてきた理由は、採集物を現金で販売できる

なのは、韓国の西海岸の干潟の控損と保存に対する論議で

ためである。 l 年に一度しか現金が手に入らない、ニンジ

ある。

ン・ミカン農家とは違って、海に潜って採った海産物はそ

干潟はこれまで数多くの生物の生息地であると同時 に、海をきれいに保ってきた恩恵多い存在であった。また

の日に直ちに現金化できるため、生計に大きな助けになる という。

潮流、湖、河口から流入する汚染水を物理的・化学的・生

海女にとっては肺活量が一番大事だ。海中に長くい続

物学的な漉過過程を通して浄化した後、海に流す機能をす

けるだけ、儲かるためである。海に潜って海底に到着する

るため、「地球の腎臓」に喰えられる。このように干潟は、 10~5

水産物の宝庫であると同時に、自然の浄化や生態系のバラ

のを探すために 30秒以上、目標物を採って網に入れるのに

ンスの維持、気候調節、観光資源の役割まで果たすなど、

また 20秒がかかる。つまり、海女が海の中で自由に活動で

人間に非常に多くの利益をもたらしてくれた。干潟の役割

きる時間は l 分だけである。そのため、海産物の採取に欲

は言葉通り無尽蔵であるといえる。

を出して、海上にでるために必要な息を保っていなければ、

しかし 1980年代後半から始まった開発によって干潟が

命を失うはめになる。 済州島の海女の腕や意志は超人的で

埋め立てられることが多くなった。干潟 の価値と機能をないがしろにし、土地造 成を目的に開発した結果、広い面積の土 地が生まれた。ところが分別のない開発 による負の遺産も多く、汚染された河川 水がそのまま海に流れ込み、海の生態系 が変わり、漁民の生計に影響を与えてい る 。 一方、干潟の干拓で生まれた干拓地

乱れた呼吸を整えながら 海の中に潜っていく海女。 その気丈で忍耐強い海の 娘たちが海の底から拾い 上げるのは、魚の ようにぴんぴんと 挑ねる彼女たちの 熱い生活だ。

あるため、外部の人々の自には神秘的に 映る。特別な装備もなく、海底 20 メート ルまで潜り、 2 分ほども我慢しながら海 産物を採取する驚くべき技は、 一時生理 学的・医学的な研究課題として注目を集 めた。さらに、寒い冬の海に飛び込んで、 海産物を獲る特別な能力は、関係分野の 学者達から大きな関心を呼んだ。そして

1960 年代にアメリカの国務省では、深

はソウルの面積と同じ約 620平方メート

海工事の能率と軍事力を向上させる目的で、韓国と日本の 1960~7

1980年には最盛期となり、 1990年代からはシファ( 始華) 防潮堤工事が完成した。同時多発的に進められた埋め立て 10

30~4%

海女たちを研究したこともある。 済州島の海女達は一ヶ月の半分以上も海に出る。もち ろん海の事情によって作業日数も変わってくるが、一ヶ月

消えてしまった。干潟の経済的価値は農耕地の 100倍、沿

の半分以上も作業できるという事実は、生理学的・医学的

岸の海域の 40倍にもなるといわれる。これからは国土の拡

に見て、 驚 くべきことと認められている。ひどい場合は、

張を目的にした干潟の埋め立てよりは、干潟を保存し、自 3~4

然と人間が調和しながら共生する道を探るべき時を迎えて

海の中に飛び込むことさえあった。これは厳しい生活環境

いる。

に立ち向かつて、生計を立てていこうとする海女達の意気 地があってこそ可能なことであり、労働の尊さを信じてい

激浪の中でも屈しない生命力 韓国の海を守る漁民のなかでも海女は特別な存在であ

た海女たちの姿から、人生に対する貴重な教訓を得ること ができる。

る。海女は家族のために自らが進んで海に出て、海と闘い

グッと干潟があり、海女と海の男達がいる韓国の漁村。

ながら生きてきた強い韓国女性を象徴する。中でも済州島

そこには海と共に笑い、時には泣きながら数千年の歳月を

の海女が代表的で、海に出る度に最低 5 時間は作業を続け

過ごしてきた人々がいる。彼らは陸地と海を行き来しなが

る。波の激しい日には薬を飲んでも 00 0 ; 吐してしまうという。

ら、激浪にも屈しない強い生命力で今を生きている。 凶

夏号

2006 I Koreana 35


文化フォーカス

「科学技術を筆に使え」 ビデオ・アーテイス卜、 ぺク・ナムジュン( 白南準) が我々に残したもの 1月29 日、フルクサスやビデオ・アートの創始者、ペク・ナムジュンさんが土に帰った。 蛾烈な実験的精神で常にニュー・アートを模索した彼の炎のような世界を振り返ってみる。 イ・ヨンウ( 李龍雨メディア芸術批評家) 写真: 李龍雨、「月刊美術J

「二人の先生 J ( 1991 年) 。 この作品においてベク

36 Kor eana I 夏号 2006

ナムジュン( 白南準) は、中学時代 にピア

ノを 教わっ たシン・ジェドク( 申 載徳) と 、ア テイス卜、ベク・ナムジュンを精神的 ・思想 的に支えたジョン ・ケ ジ ( J omCage) への尊敬の意を表現した。


20

現代美術を華やかに花咲かせた

作品は彼を表現する様々な呼び名として表れている。ビ

巨匠たちの言卜報がこの頃相次いでいる。アル

デオ・アートの創始者、テクノロジー思想家、作曲家、

テ・ポーヴェラ ( Art e Pover a : 土、木切れ、鉄片、セ

詩人、情報芸術家、行動アーテイストなど、表現の多様

メント、布切れなど、日常の素材を使って歴史や自然、

性は、 ぺク ・ナムジュ ンの芸術の複合性を象徴している。

日常から比喰的イメージを作り出すアート) の巨匠、マ

それほど、ペク・ナムジュンのアートは多次元的だと言

リオ・メルツ ( Mari o Mer z)

をはじめ、ヌーヴォーレア

える。今日の絵画や彫刻、設置美術、電子テクノロジ

リズム ( Nouv eau Real i s me : パリの画家や彫刻家らを

ー・アート、パフォーマ ンスなどの視覚ア ートなどの ジ

中心に起こった美術潮流。新現実主義) を代表するアル

ャンルに捉われないアーテイストを相互提携型アーテイ

マン ( Ar man) 、ミムモ・ロテラ ( Mi mmo Rot el a) 、ヌ

ストと呼んでいるが、それこそペク・ナムジュンにぴっ

ーヴォーレアリズムの理論的創始者と 言われる ピエー

たりの呼び名と言える。

v

世紀中

後半

ル・レスタニー ( Pi erre R est any) 、そして 、フルクサ ス ( Fl uxus) グループ。の創立メンバーであり、ビデオ・

ニュー メディア、特に科学技術を芸術作 品の 素材と して開発したアーテイストのほとんどがそうであったよ うに、ぺク・ナムジュンも自分の作 品が科学技術ではなくアートである ことを説得するのにかなりの時間を 費やした。 そのために彼は作品名を、 冷たい機械のもつイメージを与えな いよう、文学的で譜語的なタイトル を付けることによって、観客との距 離を縮める工夫をした。例えば、展 示場にかなりのスペ ースの庭園を作 っておいてそこに数十台のテレビを

f TV ブッタ J ( 1974年) . 白南準の 1968年発表のこの作品は、 展示会で高く評価され、 19 7 0 - 1980年代 には様々な方法で 変形または再構成がなされた.

(

1932~06)

がこの世を去った。 彼らに共通している点といえば、 20世紀の美術史上

展示した後、「テレビの庭園 ( T V Gar den) J と名づけた り、空っぽにしたテレビの内部を土で埋めて「テレビ・ プラント ( T V Pl ant ) J

と名づけたりした。

もっとも注目された 1960年代の「勃興期」に活動を始め

テレビで庭園を作るという発想そのもののユニーク

た人々であることだ。そして、創造的な訪律や前衛的実

さよりは、ペク・ナムジュンがテレビという政治的メデ

験を進めていた 1960年代の美学に基づいて、その精神を

ィア批判の 芸術的パフォーマンスという意味合いがより

実践してきたアーテイストである点である。

重要である。つまり、商業的且つ政治的メディアである テレビは、生物学的な庭園と出合うことでその機能が有

相互提携型のアーテイス卜

機的に変化できると見ていたのだ。テレビ固有の情報伝

今年 1 月 29 日に死去したぺク・ナムジュンさんは、

達を図るためには、テレビを有機的な環境にし、そうし

科学技術と芸術との出会いを積極的に推し進め、それが

てごそテレビにとっての救いの道が聞かれるとみる。テ

いかに複雑で華麗なるものかを語っていたアーテイスト

レビ内部を空にし、その空間に植物を植えるという抵抗

でもある。そのためか、ぺク・ナムジュンが創った芸術

的な行為も同じ動機によると見られる。 夏号 2006

1Kor eana 37


ビエンナーレに韓国館が設置されたが、 白南準の果たした役割は大きい。

ペク・ナムジュンの試みは、テクノロジーの偉

技術によるビデオ ・カ メラに捉えられ、モニターに

大性よりそれが生態的に別の物と融合することで有

映し出されることによってナルシシズムに 浸っ てい

機的な芸術が誕生できるという過程を実践してみせ

るかのようにみえる奇抜性は、それこそ絶妙である。

た。テクノロジーは偉大だが、冷たくて無機的だ。

一方のテレビもその冷たい機械的属性から脱して救

それが生物学的な何かと融合し、アーテイストの手

われるためには、仏陀との運命的出会いを通じて こ

に掛かり、ようやく有機的な芸術作品になるという

そ解脱への道が聞かれるという黙示的な解釈もでき

過程を見せてくれた。

る。仏陀はテレビのモニターに自分の姿を映し出さ れることで存在を確信しているかのようだ。

芸術的な閃きとテクノ口ジーとの出会い

テクノ ロジーを単なる自然科学として見るので

ペク・ ナム ジュンの名を 世界に知らしめた作品

はなく、人文学的な見地で眺めたぺク ・ナ ムジュン

「テレビ仏陀 ( T V B u d d ha) J を見てみよう 。この

の態度、つまりテクノ ロジーがそれ 自身のためにあ

作品はテレビと仏陀が向かい合っている。そしてビ

るのではなく、人間のためにあるという事実を語ろ

デオ・カメラが仏陀のイメ ー ジをテレビに伝送して

うとした彼の人本主義的な考え方は、ビデオ ・アー

いる。技術的に見れば非常に簡単な作品である。と

トの根 幹を 成している。 ペク ・ナムジュ ンが ビデ

ころが東洋 的な思考 と膜想の象徴である仏陀が科学

オ ・アートの始祖であると言われる理由は、以前か

3 8 Koreana I 夏号 2006


らテレビというメディアを通じて始めていた美 学的姿勢による。権力且つ商業的なメディアと

「虎は生きている J . 銭国の伝統的弦楽器「月琴」とチェロの 映像を対比させた作品である。 映像に登場するチェリス卜

シャル口 γ ト・ムアマン (C同けotte M∞rm an) は白南準の芸

術的分身と呼ばれる。

してテレビをたたえるよりは、それを攻撃し、 またテレビのもつ大衆的アイドルとしての地位 を剥奪しようとすることによってぺク・ナムジ ュンの芸術性が光るようになったわけである。 つまり、観念的な思考や価値を否定し、権威 的・威圧的 ・社会的モデルを一つずつ覆そうと する試みを芸術という名の下で誕生させたわけ である。もちろん彼の活動はア ート であって社 会運動ではない。しかし、彼の芸術活動の基と なる理論的なバシクグラウンドは非常に社会的 で攻撃的である。

支配構造に対する抵抗 ペク ・ナムジュンのビデオ・アートは、以 上で述べたように脱権威的かつ芸術的パフォー マンスから始まっている。そのため、彼はビデ オ ・カメラがテクノロジーによる発明品という よりは、国籍、人種を問わず、自由に描写でき る筆であると強調したのだ。テクノロジーがー

る。彼は、常に大衆に近づこうとし、大衆的な関心事や、

本の筆になって始めて、それは人間のための技術であり、

権力的な素材などを求めていただけである。そしてその

人文学的な発明であると定義した。このような彼の思想

ような考えを実践し、彼ほど成功したアーテイストはあ

が理解できなければ、ぺク・ナムジュンのアー トの世界

まり いないという事実に気づく。

ペク・ナムジュンは「芸術家の役割とは、未来を思考すること」と語っていた。 彼はテクノロジーそのものが筆になった時、ょうやくそれは人間のための 技術となり、人文学的発明になると定義した。

は理解できない。

ペク ・ナムジュンが芸術的な抵抗を試みたテレビや

ぺク ・ナムジュンは

テクノロジーなどは、既に我々の暮らしの中の隅々に浸

韓国で生まれたものの 、 18 歳以降はドイツやアメリカ、

透し、生活の一部となっている。情報技術はぺク ・ナム

日本などの諸外国で暮らした。そのため、彼は母語で考

ジュンが素朴に語っていたコミュニケーションのツール

え、母語で行動するアーテイストの思考体系から離れて

という位置を超えて、そのもの自体が目的として認識さ

いる。それは彼が民族的よりは民主的で、一国に囚われ

れる時代になった。しかし、彼が追求し続けた支配構造

ることなく、自由な想像力を通して自主性を獲得する哲

に対する反抗的な姿勢は、これからも永遠に教育的資産

学を持っている所以である 。彼が多様な韓国 的素材を求

として残るだろう。 国

めていたことを民族的であると解釈するのは間違いであ 夏号 2006 I Koreana

39


インタヒ、ュー

ミスターチャンゴ〈杖鼓〉金徳沫

世界に響く韓国の魂

ケンガリ( 麗銅) 、チャンゴ( 杖鼓) 、プク( 鼓) 、チン( 鉦) の4つの楽器が織りなす雷鳴と雨と雲と風の 音楽、サムルノリ( 四物ノリ) 。韓国の魂を世界に鳴り 響かせる音楽家金徳沫さん。 その尽きることのない情熱に出会う。 ヒョン ・キヨンチェ ( 玄環彩 ・ 音楽評論家

A

(1

主立.

952

韓国文化芸術委員会

伝統芸術委員)

~)

には、魔法の金棒を振り回し金銀財宝を作り 出す

楽器が作り出すサムルノリの世界。その前では、誰もが 思わず肩を揺ら せてリズムに身をまかせてしまうだろう。

r Mr

トッケビ( 韓国の鬼) が 出てきたという。彼は自らを

そのためか、海外のマスコミは彼を

「トッケビのように生きている」と語る。この打楽の名人

鼓 )J 、「世界に響く韓国の魂」 と呼んでいる。

は今日は東に、 明日 は酉へと、世界中を飛び回 り、太鼓 を叩けば、心弾む音楽が飛び出して人々の喝采を浴びる。

. チャンゴ( 杖

「毎日 0. 00 1秒を短縮するのに努力する 100m 競争の 選手のような気持ちでチャンゴをたたいてい ます J 金徳 沫さんは世界 60 カ国で計 4 , 000 回以上の公演を行ってき

韓国の伝統的なリズム感覚 金棒を振り回す トッケビのように、縦横無尽に飛び

た。韓国文化を世界に知らせようと、彼の海外公演は休 む間もない。

回り全世界の人々の目と耳を楽しませている大韓民国打

ケンガリ( 慶釦) 、チャンゴ( 杖鼓) 、プク( 鼓) 、チ

楽器奏者の第一人者、金徳沫さん。彼はサムルノリとい

ン( 鉦) の四つの楽器が織りなす雷鳴と 雨 と雲と風の音

う「神がかりの音」で瞬時に人々の心をつかんでしまう。

楽サムルノリ。その主人公、金徳沫さんは海外でもその

ケンガリ( 慶釘) 、チャンゴ( 杖鼓) 、プク( 鼓)、 チン

名を広く知られている。父の影響で幼い頃からチャン ゴ

( 鉦) 、どんなアンサンプルよりもシンプルなこの 四つの

を叩き始めた彼は、早くからチャン ゴの神童 として知ら

40 Koreana I 夏号 2006


一mMeTE勺目前品。 Mum 吋虫色﹂、U え 管 銀 幾 勺 有 ECえγ富山︿口、川塁側 U 句。 Z付制品。、引けzzumM

4h y 。樺 同


サムルノリはこれまで国連会議場、 A S E M首 脳 会 談 の 会 場 、 そ し て 世 界 中 の 文化フェスティバルでダイナミックに鴫り響き、世界中の人々を感動させると同時に、 世 界 に 韓 国 を 深 く 印 象 づ け る 媒 体 と な っ て き た。

れていた。野外で演奏されていた庶民の音楽、農楽をベ

ュンへンの兵器庫、東京の渋谷の街角、イラクのアルビ

ースに 1978年、サムル ノリと いう舞台用の新 しいジャン

ル派遣の韓 国軍ザイト ゥー ン部隊など、どこ へでも出か

ルの打楽演奏、パーカッション・アンサンプルを作り出

けて いき演奏する 。そしてどこに行っても公演は必ず韓

した。これが韓国音楽史の新たな転機となった。その結

国スタイルで進行する。

果、彼は朝鮮 日報の「独立( 1 945年) 後、最も影響力の ある 50人」にも選ばれている。

12 月末のザイト ゥー ン部隊での公演も 例外では あり

ませんでした。食べ物を供え、ロウソクを立てて、 昔か

その登場は、とてつもない衝撃だ、った。それは伝統

ら守られてき た私たち の崇高な儀式を行い ました。同盟

音楽の息吹を忘れていた人々に、韓国の伝統 的なリ ズム

軍の司令官も、アメリカ、日本、オ ース トラリ アの司令

感覚を思い 出させると同時に、 それ まで誰もな し得な か

官、その夫人も 順番に韓国式の拝礼 をし ました。このよ

った韓国音楽の 世界化と 、海外の音楽との対等な交流 、

うに韓国の伝統儀式を行ってから サムル ノリを始 めるの

という道を聞いたのだ、った。

で 、 すJ

圏内公演で旋風を巻き起こした 金徳沫チ ームのサ ム ルノリは 国連会議場、 AS E M首脳会談の会議場、エルサ レムの働突の壁、ニューヨークのセントラルパーク、ミ

42 Koreana I 夏 号 2006

ファンクラブ

サムルソリアン

( samul nori an)

金徳沫 さんの海外公演は単純な舞台公演で終わ らな


1 会徳沫は韓国音楽・サムルノリの世界進出を果たし、世界の音楽との交流を画期的に進めた. 2 安山文化芸術会館で開かれた金徳沫サムルノリチ 3

ムと安山市立国楽管弦楽団の共演の篠子

韓国の伝統的なリズム感覚をよみがえらせたサムルノリは、今や韓国を代表する音楽となった。

夏 号 2006 I Kor eana 4 3


い。公演は講習へとつながり、さらに現地にサムルノリ

チームをこう評した。

の団体を組織することになり、彼の行った先々にはサム

「たったの 4 人で構成されたサムルノリの、気の遠く

ルノリアン( サムルノリの熱狂的なファン) というファ

なるような演奏を聴いた後、私は改めて韓国文化をもっ

ンクラブも結成されている。今年もすでに金徳沫サムル

と知らなくてはと思った。サムルノリは世界のどこへ行

ノリチームはドイツ在住の韓国人を対象に 4 月 10 日から

っても、わずか数分で聴衆を彼等の音楽のトリコにして

17 日までベルリンで「ヨーロッパ・サムルノリ・ワーク

しまう。 」

ショップ」を開催した。そしてドイツワールドカップの 会場にも金徳沫さんのサムルノリは行く。

今や、韓国音楽の代名調となったサムルノリは国内 外の劇場で熱い喝采をうけている。またマスコミでもサ

「私達の文化をどのように伝えるかが非常に重要で

ムルノリはお馴染みのメニューであり、 C Dもまたベスト

す。今回はドイツにコリアン・カルチャー・ビレッジを

セラーになっている。 1978年に登場したサムルノリが 30

作り公演やフェ・ スティパルを開催し、韓国の文化を紹介

年にも満たない期間にこれだけの成果を上げられたのは

しました。またワールドカップにも行き、前回のように

驚異的なことだと言える。サムルノリはその短い歴史の

サムルノリを利用して応援してきます。サムルノリこそ

中で韓国人の生活に溶け込んだ。サムルノリチームのな

最も韓国的な応援文化です。」

い小学校はないほどで、専門公演団体だけで全国 300 チ

アメリカのアジア文化紹介の窓口であるアジアソサ エティー ( Asi a Soci ety)

はどんな団体も 一度だけとい

ームにもなる。アマチュア団体まで合わせると 2000 を超 えるだろう。

う原則を破り、金徳沫チームだけは五回も招待している。 同団体の総監督であるベアテ・ゴードンさんは「サムル

ワールド・ミュージックとなったサムルノリ

ノリは一つのアクシデントだ。音楽のかなめはリズムだ

金徳沫サムルノリチームは発足当時から他のジャン

が、彼らはメトロノームでも測定できないリズムをもっ

ルとも積極的に交流してきた。ジャズ、コンチェルト、

ている」と語った。

ロック、ポップオーケストラ、現代舞踊、国楽管弦楽な

金徳、沫さんは海外公演の中で最も印象深い舞台は

どと競演することで世界的な音楽になった。国内外の多

1982年 11 月 19 日、アメリカのダラスで聞かれた世界打

くの音楽家たちと競演するので、海外公演回数は数えき

楽器奏者大会

( Percussi ve Art s Soci ety Internati onal

Convent i on PASI C-82) だ、ったという。

れず、海外でも C Dが制作販売されている。 金徳沫さんは 「 聞かれた」音楽家だ。その聞かれた

世界 2 4カ国から招かれたチームの公演を見て、打楽

世界にさまざまな音楽の枝葉が飛び込んできて新たな美

器奏者協会理事のモーリス・レンジは金徳沫サムルノリ

意識を創出する。世界中の人々、世界中の音楽と出会い

1 雷鳴を象徴するケンガリ( 民釦) 2

風を象徴するチン( 鉦)

3 雲を象徴するプク( 鼓) 4

4 4 Koreana I 夏号 2006

雨を象徴するチャンゴ( 杖鼓)


ながら多様な舞台と作品を作り出してきた。彼の音楽世 界の中で一番大きな出会いはジャズグループ・レッドサ ンとの出会いだ、った。レッドサンは多国籍チームでウォ ルフガング・プシュニク ( Wol f gang puschni g サック スフォン、クラリネット、フルート) 、リック・イアンナ コン ( Ri ck I annacone,エレキギター) 、ジャマッラデ ィーン・タクマ( J amaal adeen T a c uma ベースギター) 、 リンダ・シヤーロック ( Li nda Shar r ock ボーカル) の 四人で編成されている。このグループとは「サムルノ リ・レッドサン」という名で国際的なコンサート活動を 繰り広げ、三枚のアルバムを発表し、新しい音楽ジャン ルを開拓した。 彼は最近、演劇を舞台化する新しい文化プログラム を企画している。「これからはサムルノリと農楽だけでな く、タルチュム( 仮面劇) 、人形劇などの伝統的な演戯 ( 演劇) とのコラボレーション( 競演) を通じて総合的な 舞台芸術を作り出していきたいと考えています。今の時 代の新しいグァンデ( ピエロ集団) となりたいのです。 そして韓民族が作り出すエネルギーのようなものを見せ ていきたいと思っています。 j チャンゴの名人金徳沫さんも来年でもうデビュー 50 周年を迎える。彼は今、芸能生活 50周年を記念する本の 出版と同時に、現在、記念公演も計画中だ。ヨーロッパ、 アメリカ、南米など、これまでに公演を行った国々をも う一度訪れるワールド・ツアーが計画されている。彼の 金待沫の海外公演はサムルノリの講習の場となる。 さらに現地でサムルノリ愛好会の 発足につながり、サムルノリアン (sam uηorIan) と呼ばれるファンクラブもある。

尽きることのない情熱とともに今日も韓国の音が世界に 広がっていく。凶

夏号

2006 I Koreana 4 5


関 弘 圭 ( ミン・ホンギユ) 王の印章に威厳 を彫 る職人

玉璽とは、 王の権力を象徴する印章のこと 。王のいない現 在、玉璽もその姿を消して久しい。 しかし今も玉璽製作の 秘法を守り続けている匠がいる 。玉璽築刻匠、閲弘圭さん その人だ。 チェ・テウォン ( 雀党源フリ ーラ イタ ー) 徐憲康 写真家

T マんな些細なことでも、それを繰り返し繰り返し長

に置かれていたということからも、うかがい知れる。

、一期にわたり反復するということは大変なことだ。

王の印章には玉で作られた玉璽と、金で作られた金

まして国家権力の象徴である玉璽の伝統を守るとあれば、

宝( 金印) があるが、普通この二つを合わせて玉璽と呼

そのプレッシャーは想像を絶する。国家の印章である玉 (

璽の原型復元にたずさわって 4 0年以上。築刻匠、関弘圭 (1954~)

いどんな意味を持っているのだろう。

BC246~10)

にまでさかのぼる。その後、 ‘ 中国の歴代の皇帝たちは玉 璽を使い、諸侯や親王などは金印を使っていた。それで は韓国ではいつから玉璽が使われていたのだろう。 国印、璽宝、御宝、大宝とも呼ばれた玉璽が最初に

玉璽は国家のシンボル

韓国の文献に登場するのは『三 国志』の「説志東夷伝」

今でこそ印章の代わりにサインが一般化してきたが、

に表れる夫齢の「滅王之印」からで、三国時代にすでに

数十年前までは印章は重要な取引や約束の際に無くては

中国との外交文書に国璽が使われていたことがわかる。

ならないものだ、った。もちろん、昔も現在のサインに相 (918~32)

1894

当する手決( 花押) というものが無かったわけではない。

改革( 開化党が執権後、従来の文物制度を近代的な国家

しかし外交文書や王の命令が書かれた多くの文書には、

形態に変革した改革) の前まで、外交文書に使われてい

国王の権威を象徴する玉璽が使われていた。そのため特

た玉璽はすべて中国の歴代王朝の皇帝から下賜されたも

に王位継承の際には玉璽が特別な意味をもち、玉璽を手

のであ・ った。

にする者こそ正統な国王だったのである。その価値がど

圏内で作られ使用された玉璽には、教書や教旨( 朝

れほどのものであったかは、王の行幸の際に行列の先頭

鮮時代に王が高位官吏に下した命令書) などに使われた 夏号

2006 I Koreana 4 7


朝鮮王宮、

122 X 1 2 2 mm、 ブロンズ、

2000年復元、

玉璽は王の権威を表す印で、各種儀典や行

政業務に使用された。

施命之宝、諭書に押された諭書

伝統的な鋳物技術が器に息を吹き

之宝、官僚選抜のために行われ

込むように、玉璽にも命が宿るのです」

た科挙の文書に押された科奉之宝、外交文書

と語っている。そんな彼が玉璽と長い因縁を

( 特に日本との関係文書) に押された昭信之宝などがあっ

結ぶことになったのは、書道をしていた祖父のおかげだ。

たという。そしてこのような印章は王宮内の尚瑞院で製

ある日、祖父は弘圭少年を玉璽纂刻匠、石悌師、故鄭基

作・管理されていた。甲午改革以後、中国との長い間の (1

89~1)

(玉

当時、中学生だ、った弘圭少年は印章を彫ることにあ

はすべて処分され、その代わりに「大朝鮮国宝」と

まり関心がなかった。しかしその後、築刻の仕事の偉大

「 大朝鮮大君主之宝J が使用されるようになった。そして

さに気付き、その魅力にとりつかれた。築刻は印章に字

1897年に大韓帝国( 1 897年 10 月 12 日から 1910年 8 月29

を彫る技術だけを学べば良いというものではない。漢学

日までの国名) が樹立され、国璽には「大韓国璽」 とい

から始まり命理学( 易学) に至るまで、幅広い知識を身

う文字が刻まれた。

につけてこそ、ようやく使う人の運命も好転させてしま

事大関係が終わると、それ以前に使われていた大宝 璽)

うほどの印章が作れるようになる。若い頃からさまざま

いかなる才能も努力には勝てない

な学問に没頭していた弘宝少年に師は 140歳になるまで

国家の象徴として重要な意味を持っていた玉璽、昔

は世の中に出ずに、勉強にだけ専念するように」と誓わ

からその製作には匠たちが心血を注いできた。そのため

せたという。基本に忠実でなければならないことを強調

復元もたやすいことではなかった。関弘圭さんは「最先

する意味もあったであろうが、むしろそのずば抜けた才

端の設備でも完壁な玉璽を作ることは難しいでしょう。

能により弘圭少年がかえって禍を被ることを心配しての

4 8 Kor eana I 夏号 2006


玉璽とは言わば、宮中文化の華だ。玉璽は書道、彫刻、絵画、家刻、錬金術、陶芸、鋳造技術など、 少なくとも 7 つの分野に精通せずしてなしえない総合芸術作品なのだ。


三足烏園璽、

、銀、銅、錫、亜鉛、チタニ ウ

112 X 1 4 5 mm

ム 、 2006年製作、三足烏は古代北東アジアの 太陽崇拝を象徴する三本の足を持つ鳥。

ことだ、った。このように弟子を愛し

圭さん。この度、自分が受け継いだ

た師は関弘圭さんに「世仏」という

玉璽製作の秘法を本にして世に公開

号を授け、自分の秘伝を彼にだけ伝

した。その理由は後継者が現れず、

授したことを表す一筆を残した。おもしろいこ とにこの「世仏 j

という号は、この世の人ではないとい

う意味になる。 若くしてその才能が世に出たが故に短命に終わるこ

綿々と受け継がれてきた玉璽蒙刻の技が自分 の代で途絶えてしまうことを心配してのことだ、った。し かし彼は「言葉や文章では伝えられない部分があまりに も多いのが玉璽の蒙刻です。窯の温度のようなものは長

とを心配した師の心が、この年になってようやく分かる

い間の経験で培った感覚でしか分からない j

ようになったと語る。関弘圭さんは今だに 15歳の時、釜

ている。

と残念がっ

山の師の家で最初に目にした作品からかもし出されてい

関弘圭さんは玉璽作りをしていて水銀中毒にかかり、

た近寄りがたい気品と気運を忘れることができない。「技

鼻の骨が溶けてしまうという辛酸をなめたこともある。

巧に走らずとも技巧にあふれ、力と気運がみなぎ、ってい

しかし、現代的な感覚を取り入れながらも技巧に走らず、

た」師の境地を目指しながら、彼は「手先の技術や騒慢

多くの人々から共感を得られる作品作りの匠になりたい

さからは何も生まれない J ことを常に胸に刻んでいる。

という夢だけは一度も忘れたことがないという。今後、 伝統的な方式で玉璽を復元すると共に素材を多様化して

真の匠の道を行く 「朝鮮国王之印J I 明徳之宝」など、朝鮮時代末期ま で現存されしていた玉璽 72個の半分以上を復元した閲弘

国際的な感覚に合わせた作品も作って行きたいと抱負を 語った。取材で工房を訪れたときにも、全州とソウルで 聞かれる展示会の準備に追われていた。団 夏号 2006 I Koreana

51


傑作/ 名品

華厳寺四獅子三層石塔 塔に表れた仏陀の悟り

四頭の獅子が担ぐ石塔の中に僧侶の像があり、その前にある石灯の中には塔に向かつて 脆くもう 一人の僧侶の姿も見える。このユニークな三重石塔から窺える驚異に満ちたシンボルの 世界に飛び込んでみよう。 シン・ヨンチョル( 申龍激通度寺聖費博物館

学芸研究室長) 徐憲康写真家

的のお寺

が、この寺に伝わる説話によると、石灯の主人公は華巌

の名前の意味を知ることが近道であろう。名前の

寺を創建した緑起祖師であり、石灯の中の僧侶像は彼の

通り華巌寺( ファオムサ) は「華巌経 ( Av at ams ak a

母親だという。つまり、親孝行の緑起祖師がお母さんに

sut ra) J において説かれた壮大な仏陀の世界を表わす言

お茶を供えている姿を描写しているものだという。ここ

葉から由来したものである。ところがこの華厳の始まり

が孝台と呼ばれていることもこの説話による。それでは

あ吋の山こ辻とを棚理醜解する… こは

は元々、四獅子石塔の存在からスタートしている。 (68~935)

れたのか。

ユニークな構造と美しい造形美 この石塔の構造は非常にユニークだ。お寺の中心で

一つがすべでであり、すべてが一つである

はなく、外郭の高台に建てられたこともおもしろい。 2 重

いつの時代にも J その時代を支配する観念がある。

基壇の 上に 三重の塔身と屋根のある 形態だが、上層基壇

韓国では 8 世紀以降、華巌思想が支配的であった。中国・

で独特な変化が見られる。下層基壇には一面 に3体ずつ、

日本・韓国は文化的に似ているようだが、韓国だけが筆

天上人の像がダイナミックに表現されている。上層基壇

巌信仰に大きな関心を持ち続けてきた。また 8 世紀以来、

の四辺には雄雌それぞ、れ二頭の獅子4 頭が蓮花座に座って

統一新羅は中国の影響から脱して華巌思想を完全に吸収

いて、その真ん中には僧侶の像がある。しかし僧侶像は

し芸術的に昇華するだけの文化的パワーと、それを実現

塔身の蓋にまでは至っておらず、塔は4 頭の獅子に よって

するだけの芸術性を有していた。

支えられている形になっている。基壇の上には 3重の塔身

「華巌経」はシッダールタ太子が悟りを得た( 成道)

と屋根がある。 l 階の塔身の中央には門のようなものがあ

後の説教を盛り込んだ経である。悟った瞬間、太子は毘

り、西に金剛力士 ( Vaj r apani ) 、南と北に四天王、東に

虚遮那悌 ( Vai r ocana Buddha)

帝稗( I ndra)

説教を聴きたがる大衆に向かつて何も語らない。つまり、

と党天 ( Br ahma)

と、天上を守る 神将像

の模様がある。

になる 。 ところが彼の

真 理 と い う の は 言 葉 で は 説 明できないものであり、

特に塔の前にある供養石灯はユニークである。塔に

三昧の境地のなかから得られるものであるためだ。

向かつて膝をついている人物の上に石灯がある形である

三昧の中で無言のまま、自ら悟りを得た普賢菩薩

5 2 Koreana I 夏号 2006


この石塔は衆生が皆悟りを得るという( 一切衆生成椀道) 大勝仏教の世界を顕現したものである。 そのため、華! 被寺を訪ねた瞬間、既に我々は仏陀の悟りの中にいるはずである。

( Samant abhadr a) が毘虚遮那悌に代わって「一つがす べてであり、すべてが一つである J (ー即一切 ー 即 切ー) という緑起思想 ( Prati tya- samut pada)

を説法するとい

うのが「華巌経J の内容である。 三昧とは正しく心を集中する状態( 正定) をいう。 ところが、「華巌経j の「入法界品 ( Gandavyvha) J によ ると、仏陀の境地は獅子頻迅三昧に通じなければ得られ ないという。獅子頻迅三昧とは党語であり、

Isi fl.1 ha-

vi j rmbhi t ahi ta- s amadhi J を解釈したものである。ここ で'si fl.1haは獅子、 vi j rmbhi t ahi t aは「口を大きく開けて威 厳を表した」を意味し、 s amadhi は三昧を意味する。即 ち、獅子の勇ましさを三昧に入る姿に喰えているのだ。 三昧の中にあってこそ仏陀の世界を見ることが出来るが、 悟りは言葉や形で説明できるものではない。自ら修行と 実践を通して得られるものである。 「入法界 品」 の 中で、獅子は仏陀が常駐する場所を 意 味すると同時に、三昧に入る気運そのものを獅子の勇ま しさに喰えている。塔身を支えている 基壇 の四方に四頭 の獅子を配置することによって、塔身は獅子頻迅三昧に 入った仏陀の身体になるのである。その身体から真理の 説法が出てくることで、それ自体が仏陀の法身になる。 つまり華巌寺四獅子石塔から壮大な「華巌経」が始まっ ているのだ。このように奇抜でユニークなアイデアは韓


1 雌雄それぞれニ頭ずつ四頭の獅子を配置し、中央の 石塔の中に僧侶の像があり、善財童子が探し求めていた

53人の善知識の人である. 2 石塔の前にあるのは石灯である. 塔に向かつて膝を突い ている人物は求道者、善財童子を表している.

国にだけ存在し、この塔を創りだした職人とその時代精

頻迅三昧の中から人間世界に向けて光明の光を当 7てる。

神に敬服するしかない。

その理由から塔は華巌寺の全体が見下ろせる空間に位置 する。塔の一番高い所にある賀珠は、人間世界に光を当

塔が実現した華巌の世界

てる光明を象徴している。この時、華巌寺は全僧侶と菩

華巌寺田獅子石塔は「華巌経」の「入法界 品」におい て語っている華巌の世界を形状化している。

r入法界品J

薩、弟子、信徒などが共にいる「入法界品」の舞台に化す るのである。

は善財童子という求道者を通じて、悟りに向かっていか

人間としてのシッダールタが悟った瞬間、彼の悟り

に願いを決め、いかに実践し、いかに悟りへと辿り着く

は形こそないが滅してしまうのではなく、大衆を共に救

かを説明してくれる。特に善財童子 ( Sudhana)

うべく本質的な概念である毘虚遮那になる。毘虚遮那は

が 53

人の善知識 ( kal yam i t ra : 修業者達の先生) に会って各

太陽のごとく、どこも光を当てる光明の象徴であるため 、

種の法文を聞いて、最後には悟りの世界に入る という内

光は華巌世界の始まりであると同時に完成である。光明

容は、理解し難い華巌の世界が広く知れ渡るきっかけと

を発して、大衆に仏陀の世界を見せ、そこに入れること

なった。以上の内容からすると、石塔のなかにいる僧侶

こそ大勝仏教が目指す究極の目標でもある。獅子頻迅三

は善財童子が出会った善知識の一人であり、石灯の中に

昧は仏陀の用いた方法であるのだ。獅子頻迅三昧の中か

膝をついている人物は善財童子である。言い換えれば、

ら発せられる光 明は法身そのものであり、華巌の世界で

この塔は「入法界品」に出てくる人物達を形にすることに

もあるはずだ。そのため華巌寺を訪ねた瞬間、我 々は既

よって、自らが信仰、実践、修業を通じて悟ることがで

に仏陀の悟りの 中に存在しているのだ。 国

きるということを具体化したもので ある。 四獅子石塔の象徴体系は、石塔が位置している空間 の中で最高の価値を獲得することになる。石塔は法堂の ない別の空間を有しながら、華巌寺のすべての伽藍が見 下ろせる所に位置している。 「 入法界品」 には仏陀が人間 世界を悟りの世界、つまり華巌の世界にするために獅子

訂正のお知らせ. 春号の本 コラムで紹介された『太祖の御真 ( Port rait 01 Kng Taej o) J の中で、 " 1872年に制 作された肖 像画である" という内容を、 “ 1872年に制作された肖像画を 1999年に改めて模 写した作品である" と訂正させていただきます. お詫びとともに、ご了承の程お願いいた します。 夏号 2006 I Kor eana 5 5


文化イベント・レヒ、ユー

プレ大邸ミュージカルフェスティバル 2 月2 白から 3 月31 日までプレ大邸ミュージカルフェスティバルが開催された。今回のイベントは 韓国文化芸術産業の新たな旗手として急成長中のミュージカルに対する大衆の 関心とミュージカル界の期待に答えたものだった。 キム・ムンフヮン ( 金文換ソウル大学校美学科教授 写 真 大 邸 ミ ュ ージカルフェスティパル事務局

演劇評論家)

t

二 と から紡績関係の工場が多くファッションの都市と

では唯一、大郎においてのみ公演が行われ、八回の公演

して知られた大郎市が「科学技術の都市J と共に

は客席占有率 8 5 %以上を記録した。また、 2003年の( キ

「文化芸術の都市J を目指して生まれ変わろうとしている。 そしてその一環として、大郎を公演文化の都市とするた

(Cats) ) はアンコール公演を含めた 31 回の公演 に38, 000 人の観客を動員した。これは他の地方に比べて

めに公演特区の指定を積極的に推進して来た。民間投資

圧倒的に高い数字であり、また、 2004年 の ( キャバレー

500rrf) の土地を確 を誘致することで 3万 5千坪 (11 万5,

( Cabaret) ) ブロードウェーチーム来韓公演の際にはソ

保 L 、3つのミュージカル専用劇場と、ミュージカルスタ

ウルよりも座席占有率が高かったほどだ。

目

ヤツツ

ー養成機関や舞台装置製作所などを備えた、ミュージカ

大郎市民の関心はミュージカルだけでなく、演劇な

ル中心の公演専用タウンを 2012 年までに造成する計画

どに対しでも高まっている。インターネット前売りチケ

だ。さらに既存のオペラハウス、大郎市民会館、大学の

ットリンクによれば、大郎で行われた各種公演の回数は

ホールなどの大型公演施設と連携させて、一年中、国内

2003年の 124本に対し、 二年後の 2005年には 314本に増

外の著名 な公演が観賞できるようにする。

えている。チケッ ト販 売総額も 2003年の 19億 7000 万ウ ォンに対し、 2005年には 66億 9000万ウォンと三倍以上

文化芸術の都市‘ 大郎' このような計画の裏には 2004年、ミュージカル( マ

i a! )) の大郎公演の成功がある。 ンマ・ミーア ( Mamma M

増加している。 また、大郎オ ペラハウスでは全公演に占 めるミュージカルの比率は、 2004 年の 13. 9 % に対し

2005年には 67. 1%と大きく飛躍した。

当時、地方公演と言えば長くとも 10 日程度だ、ったのが、

このような成果は大郎周辺の地域からの観客の呼び

「 マ ンマ・ミ ーア J の大郎公演は 2 ヶ月以上のロングラン

込みに成功したことが、大きな要因となっている。( マン

という大盛況を博し、 57 回もの長期公演に 64, 000人の観

マ・ミーア) の場合などは、近隣地域からの観客の割合

客が集まった。これは 地方公演としては異例の記録だ。

が4 5 %にも達した。

またチケット販売 1位を 6週間も続けるという大記録を達

1000席を越える大劇場が六つもあり、高価なチケッ

, ・

成 し た の だ っ た 。 こ れ 以 前 に も 2002 年 の 〈 シ カ ゴ

トを購入できる富裕層も多く、いわゆる VI P顧客向けの

( Chi cago) ) ロンドンチーム来韓公演では地方都市の中

マーケティング用団体チケットを大企業が購入するのも

56 Kor eana I 夏号 2006


ソウルを除けば大郎だけだ。今回のフェスティバルの共

手兼俳優の莫文蔚( カレン・モク) が広報大使に任命さ

同代表であるソル・ドユンさんは、以上のような理由の

れ大郎にもやってきた。 2004年にも大郎で公演されたこ

ほかに、総制作費に占める人件費の割合が 6 0 %以上だと

とのある( ジキル& ハイド) は、その時、見逃して残念

いう公演産業の雇用創出の高さにも大郎市が注目し、来

がっていた観客にとって、韓国最高のミュージカル俳優

年から毎年 1月に「大郎ミュージカルフェスティパルJ を

の一人で現在最も注目されている曹承佑のジキルが見ら

開催することになったと話す。そしてその事前事業とし

れる最高の舞台となった。

て今年、プレフェスティパルを開催したのである。大郎

ブロードウェーの興行記録を新たに塗り替え、ブロ

市は究極的にはこのイベントを釜山国際映画祭 ( Pus an

ードウェーの歴史上もっとも愉快なミュージカルと評判

I nt ernat i onal Fi l m Fest i val ) のように発展させ、大郎

のコメディー( プロデ、ユーサーズ) はミュージカル・プ

を「アジアのミュージカル中心都市」に育成したいとし

ロデ、ユーサーを主人公にした作品で、 2001 年にトニー賞

ている。

の 12 部門受賞という史上最多受賞記録を樹立した作品 だ。興行性と作品性が共に認められた作品ということで

プレ大郎ミュージカルフェスティバル 2006年 2 月2 日から 3 月31 日まで聞かれたこのイベン トでは、オペラハウスをメイン会場として( レント

( Rent ) )

( ジキル& ハイド( J ekyl l & Hy de) ) そして

期待されていたが、韓国でも 100億ウォンあまりの制作 費をかけた、この超大型ミュージカルにはブロードウエ ーのオリジナル舞台とスタッフが動員された。 その他にも( くるみ割り人形 ( The Nut cr acker ) ) 、

( フ。ロデ、ユーサーズ ( Pr oducer s) ) が上演された。海外

( キャッツ・フォーエバー ( CAT S f orever) ) 、( ファン

参加作の( レント〉はブロードウェーのオリジナルチー

ヤングのホワイトバブルショー ( Fan Yang' S Bubbl e

ムがやってきた。プッチーニのオペラ、ラ・ボエーム

S how) ) 、( マリアマリア ( Mari a Mari a) ) 、そして( さ

( La Boheme)

を現代化したこの作品は 1990年代のア

なぎ) などの子どもミュージカル、家族ミュージカルも

メリカの若者たちの姿をロック、タンゴ、バラード、ゴ

上演された。その中でも( さなぎ) は大郎の公演芸術専

スペルなど、多様な音楽で表現したものだ。また、今回

門団体である演劇協会、音楽協会、舞踊協会の合同公演

のレントアジアツアーのために香港のトップスターで歌

として開催され、大郎の公演芸術能力を高めただけでな

58 Kor eana I 夏号 2006


く、公演芸術産業育成の可能性を示す舞台となった。ワ

31 日までにはソウル公演の有料観客比率である 7 0 %は軽

ンランクアップした専門集団による公演は、これまでに

く達成できるものとみている。大郎に先立ち公演された

大郎で製作されてきたミュージカルとは一味違い、音楽

大田では有料観客数が 5 0 %水準にとどまり、大きな違い

的な楽しさだけでなく、社会から疎外されている障害者

を示した。また大郎は大学にミュージカル関連学科も多

たちの挫折と葛藤、リハビリへの取り組み、そして信念

く、ミュージカル産業発展の礎となる人材育成でも充分

などを表現することで社会性にあふれた舞台となり、そ

な可能性を秘めており、展望は明るいと言えよう。

の作品性も高く評価され韓国ミュージカル大賞を受賞し

急速に成長したミュージカル市場

た 。 それとともに閉幕式では韓国の代表的なミュージカ

ニューヨークやロンド ンなど、世界的にも公演文化

ル俳優らが参加する授与式 CMusi cal Awa r d) も行われ、

は大都市に集中しているが、市場原理からも需要の多い

ミュージカル関連のセミナー、ワークショップ、ミュー

ところに供給されるのは自然なことだ。アメリカ・ニュ

ジカル映画祭、ミュージカル資料展などが開催された。

ーヨークの ブ ロードウェーや、英国 ロンドンのウ エスト

また、ミュージカル俳優とのファンミーティングの場も

エ ンドが自国にやってくる観光客を劇場にひきつけ年間

設けられ、市民を対象にしたミュージカルの講演会も行

数兆ウォンの売上高を上げている。これまであ まり関心

われた。

を示さなかった欧州各国もミュージカルに対する関心が

興行面では、大郎オペラハウスで行われた( プ ロデ

高まり、観客も増えている。

いまやミュ ージカルは名

、 1500席 ューサーズ) が、公演4 日目の 3 月 15 日午後 7時

実共に 一つの産業だ。( オペラ座の怪人) は 1億人が見て、

規模の劇場に 1400 人の観客がつめかけるなど客席はぎ、っ

売上は 5兆ウォンを超えた。( オペラ座の怪人) の 制作社、

しり埋まった。「大郎が公演産業の希望だ」という公演業

英国の R U Gは公演だけでなく、これをもとにした劇場、

界の話が証明されたと言えよう。( フ。ロデ、ユーサーズ〉は

音楽、フィルム、など六つの子会社を運営し、劇場で販

すでに前売りだけで 8回の公演のチケットがすべて売り切

売する多様な商品と記念品の開発と事業の多角化を試み

れたほどだ、った。当日までの平均有料客席占有率は 6 5 %

収益を上げている。

水準、製作社のソルエンドカムパニーでは公演が終わる

韓国でも 2001 年にはおよそ 800億ウォンに過ぎなか 夏号

2006 I Koreana 59


文化の多様性は大きなパワーを発揮する。来年からの本格的な活動を 前にして行われたプレ大邸ミュージカルフェスティバルは、地方文化と世界との 出会いとその可能性を示した意義ある一歩だった。

った公演市場が、( オペラ座の怪人) が観客 2 4万人を動

ートセンター, K y y k ミュージカルと共に国際的な

員し、ミュージカ ルブームが起きて いる。年内にミュー

ージカル・ショーケース」を 2 回ほど聞いた。実際の公演

ジカルの観客数が 100 万を 突破するのは時間の問題であ

に必要な投資を引き出すための 一種の試験的公演である

り、業界では来年には 2000億ウォン規模の市場になると

ショーケースは公演文化が定着している外国では本公演

見ているというから、その急成長には驚きを隠せない。

の前にショーケ ースを通して競争力のある公演を選り分

いまや韓国におけるミュージカルは映画産業以来の、確

けるのが普通だ。

実な エ ンターテイメント産業になりつつあると言える 。

「ミユ

第 1 回目の「ミュージカルショーケース 2005J は

( We I nvent Musi cal s) J

大型作品の場合、一つの劇場で出演者、演奏者、制作、

「ミュージカルに投資しよう

技術、企画、マーケティングなどに直接関わるスタッフ

というスローガンをかかげて進行した。ショーケースは

だけでも 200 人余りになるという。公演に関連した外注

去年の 10 月から 1 ヶ月間に渡って行われた作品公募を通

スタッフまで含めると 1000 人余の人々が数ヶ月間にわた

じて選抜された 2 4チームの中から最終的に選抜された 5

り働くので、その雇用創出効果も決して無視できず、他

つのチームが参加した。 5 つのチームは公演界および学界

の産業にも負けないと言える。

関係者と制作者、および投資家 らの前で準備した作品を

20分のハイライトで発表した。この場で可能性を認めら

解決すべき課題

れた作品は実際に公演するチャンスを得ることになる 。

このように圏内ミュージカル市場は飛躍的に成長し

大きな成果というにはまだ早いが、しかし最近可能性の

たが、いまだに公演文化は文化産業として認識されてい

高い小劇場用の創作ミュージカルが目に付くのは非常に

ない。( 明成皇后 ( The Last Empr ess) )

幸いなことだ。

のような大作

もあるが、大部分が外国の作品のリメイクであり、いま

しかしミュージカルというジャンルの性格上、長期

だ競争力のある創作ミュージカルは不足している。創作

公演が必修なのだが、残念ながらソウルにさえミュージ

ミュージカルは題材が重く退屈だ、 ったり、そうでなけれ

カルの専用大劇場はどこももなく、特筆すべき問題であ

ばありきたりで完成度が低いという批評を受けることが

る。 芸術の殿堂オペラ劇場が、昨年から外部の制作者と

いまだに多い。幸いにも CJ エ ンタ ーテイ メントが L Gア

共同で企画した( マンマ ・ミーア ) をはじめとする公演

60 Koreana I 夏号 2006


に対して最長 3 ヶ月の貸館を認めたが、これは劇場貸館問 題を解決する良い事例だと言われている。一つの制作社 2~3

現在、大部分の劇場は貸館申請を 1年前に受け付けている が、ひどい場合は作品の貸館決定を数ヶ月前に通達して いる例もあり、これが準備不足の公演となる一因となっ ている。このような点で貸館システムも改善の余地があ ると思われる。 韓国の公演界はまだまだ多くの面で未熟であり、こ れに関連して公演現場からは、不合理な点を解決してい くことが文化産業をさらに発展させるという主張が聞か れる。もちろんミュージカルを中心としたフェスティバ ルは今回が最初ではない。すでに議政府市芸術の殿堂が 毎年、( 音楽劇祭り) を開催しており、内容面でも比較的 充実している。大郎の場合もまだ本格化されてはいない が、規模や意欲の面などで韓国のミュージカル発展のた めに期待されるところは大きく、そのような点からプレ 大郎ミュージカルフェスティパルの開催意義は大であ る 。 l >i I

夏号

2006 I Koreana 61


韓国再発見

伝統錠 怪盗ルパンでも聞けられない優れた装置 先端のセキュリティーシステムの発達した今日、骨董品扱いされている錠。だが、 その装置の中には現代の技術でも解き明かせない科学的な秘密が隠されていた。 堅く閉まった錠の秘密を解いてみよう。 チョン・ドンチャン( 鄭東珠国立中央科学館

b rl-t

M決じ(

科学技術史展示研究

チーム長) 徐憲康写真家

は大事なものを入れておく箱や箪笥、ディジユ

し、新しい形の家具が製作されるに伴い、錠の機能もい

米などの穀物を貯蔵するための容器、米びつ)

ろいろ工夫されてきた。デロン錠・ハンパック錠・物象

のように、扉のある家具などに付随して鍵がなければ聞

形錠・備え付け錠など、その種類も豊富で、また、さま

かない仕組みになっている。韓国の錠の歴史は遥か三国

ざまな形や模様が施され洗練されたものであった。

時代に始まる。現在は、指紋・声紋・体温認識などの最

また材料も時代ごとにいろいろなものが使用された。

先端のテクノロジーが施された装置まで開発されている

百済の錠は、扶飴( ブヨ) の扶蘇山城から発掘された錠

が、貴重品を守ってくれる錠にはその当時のテクノロジ

から見られるように、主に鉄を使って作られた。その後、

ーが組み込まれている。さらに、錠は盗難防止や秘密保

朝鮮時代の後期までは銅に亜鉛を合金した黄銅が主な材

持という主要な機能だけでなく、家具の美しさを際立た

料として使われていたが、朝鮮時代末期には銅とニッケ

せる装飾としての機能も果たしていた。

ルの合金の白銅で作られるようになった。錠は頑丈でな ければならないため合金素材も進化してきた。黄銅や白

機能と形態の調和 韓国語で錠は「ジャムルシエ」という。この単語は

銅などは、近頃の合金に劣らない強度や特性を持ってい る 。

「閉める j という意味の動詞「ジャムルJ と「鉄」という

昔の錠の構造は大きく、錠、ばね、鍵の三つに区分

意味の名調「シエ」の複合語である。この名前からして

できる。ここでいう錠は胴体で、ばねは錠をかける部分

ジュムルシェは閉めるという機能性を強調して、閉鎖・

である。閉める機能は錠とばねにある。板ばね( サルジ

保管・補修・守秘などの意味を持っている。ジャムルシ

ユツデ) に付いている弾力性のある

エは時代や用途に合わせて、その構造や形、材料などが

差じ込むと錠が閉まる。鍵を差し込む穴と鍵がぴったり

変化しながら発展してきた。

合い、開聞ができるようにするためには板ばねに付いて

まず、箪笥や米びつなどの家具の機能や構造が発展 6 2 Koreana I 夏号 2006

r>J

模様のばねを

いるばねのサイズと構造に合う鍵でなければ決して聞け


られない構造になっている。 特に錠の板ばねに付くばねの弾力は重要だ。錠を閉

えないものもあれば、鍵を 一旦差し込んだ後、再び戻せ ば聞くなど、発想の転換が必要な錠もある。

めたり、鍵を引き出した後、元の位置に戻すためにはダ

実際 に昔の錠を 100 人に与えて実験してみた。実験

イビング台のような弾力性が必要だ。 このためにばねは

に参加した人には錠と鍵が与え られた。三段階錠の場合、

長い時間白銅板を槌で 町いて作る。こうすることによっ

100人のうち、 50人が開けることに成功し、平均 5分かか

て 、 金属の組織が撤密になり、強度や弾力性が向上する 。

った。 しかし、六段階の場合、 10人が成功し、平均 20分

下の部分に付いている板( ミルテ) は現代風に言えば板

かか った。八段階錠の場合は、成功したのは 一人だけだ

スプリングの役割を果たすが、真ん中が窪むように設計

った。つまり、簡単に複製できる今の錠よりもはるかに

されている。乙の板はばねを 長 く使用しでも錠が緩むこ

安全なわけだ。

とを防ぎ、両側に偏らないようにする。

昔の錠を制作するためには職人と道具、設備と素材、 作り方や使い方などが調和を成さなければ生まれない。

迷路のように複雑な構造

作り方としては鋳造法と板材接合法の 二つがあった。鋳

昔の錠のなかには一文字型のように簡単に開けられ

造法は木形を作った後、鋳型を作り、溶解した金属を鋳

るものもあれば、迷路のように制作して順序通りに幾つ

型に流して鋳造する方法である。主に物象形の錠を制作

もの段階を経なければ開けられないとい った高度の技術

する方法で、金属の材料は鉄と 黄銅が主であった。板材

が反映されたものもある。

接合法は金属の板を切断したり、曲げて接合する方法で、

この迷路のような錠はジグザグ に引いたり、押した

一般的な錠の製作方法であ った。

りしながら開けていく。いわば錠と鍵が繰り広げるパズ

. ・ 錠を製作する職人として重要無形文化財に指定され

ルゲームのようだ。その操作段階も 2 段階から 8 段階にま

た豆錫匠パク・ムンヨル( 朴文烈) さんがいる。彼は 15

でのぼる。錠の種類もさまざまで、鍵を 差 し込む穴も見

歳の時から家具装錫( 木家具に付く金属材の装飾) 、金属

64 Koreana I 夏号 2006


1,2 伝統錠職人、パク・ムン ヨルさんは、 2002年に国立中央科学館の協力を得て、

朝鮮時代に使用した八段秘密錠を復元した。 3

八段秘密錠の開け方。 (1) 錠の左側にあるクァンデゥジョンを下に下ろす。 (2) 引 つ掛けの部分を前に少し引く。 (3) 錠の上にあるクァンデゥジョンを上の方に引き 上げる. (4) 右側にある回転盤を回せば一番目の穴が見える. (5) 下の方にある締 め金を左に押せば、二番目の穴が見える。 (6) 錠の端の部分を 45度斜めにして鍵を 差し込む。 (7) 鍵を右から 90度回して‘ 錠の本体と水平にさせる。 (8) 鍵を最後ま で押せば引っ掛けが外されて錠が聞く。

3

八段秘密錠の構造

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夏号 2006 I Kor eana

65


伝統錠の中には、迷路のようにl i I 員を追いながら幾つかの段階を経な ければならないものもある 。錠を押したり引いたりする作業は、 錠と鍵が繰り広げるパズルゲームと同じだ。

パク ・ムンヨルさんが制作した 様々な錠。左から竜頭の形をし た錠、魚の形をした錠、 ハンパック錠

工芸を学び、工具の使い方や柄を入れる方法、工具製作、

いうことはそう簡単ではない。一段階でも間違えば鍵の

溶接の過程などを学んできた職人である。彼の仲間は機

穴すら見つからないくらい精巧に設計された科学性が光

械を使って装錫を作っているが、朴さんは自分なりの信

る 。

念をもって、伝統的な手作業にこだ、わっている。

昔の錠を一つ一つみていると、それぞれ違った作り

「報酬よりも、伝統技法をきちんと学んだ上で作らな

方を考え出した祖先の知恵と科学的な頭脳に感心してし

ければなりません。基礎がしっかりしていれば、失敗と

まう。またユニークな錠を製作した職人も自分の錠に対

逆境からでも真の作品が生まれるんです」と語る。作業

する自負をもっていたため、自分の名前を錠のばねに丹

するたびに、祖先の科学性とアイディアが感じられると

念に刻むこともあった。

いう彼は、昔ながらの技術に現代的な美を融合させてい る、韓国が誇る錠の名人である。

我々の祖先の科学性は現代にも通用する。昔の錠製 作の技能が現代の技術と融合すれば、新概念の装置が開 発できると思う。前述したように、昔の錠は装飾性に優

現代技術との融合を期待しながら

れている。新しく開発した装置を高価の家具や建物の門

錠作りには、手と頭がうまく噛み合わなければなら

に使えば、保安機能とともに装飾機能も十分果たせるだ

ない。少しでも気を抜いたりちょっとしたミスでも、そ

ろう。韓国民の科学的アイデアが結実する日を期待す

の錠は無用の代物になってしまうため、精密さが要求さ

る。国

れる。鉄の塊から千年の秘密を秘めた伝統錠に生まれ変 わるまでには、何回も手を加えなければならない。 精巧な錠の製作には、普通、丸一週間がかかる。一 見簡単そうに見えるが、手のひら程度のスペースしかな い錠の内部に、頭の中にある構想をそのまま展開すると 夏号

2006 I Koreana 67


碁王」 の縮図である。真の ある少年が現れた。囲碁の天才、

パク・チムン (朴 j台文中央 日報 囲碁専門委

〈李昌鏑 になれるのは早くて 40代と言 . チャンホの出現であった。 雀 恒 永 写真家


サムスン火災杯世界囲碁大会の決勝戦で、 イ・チャンホ( 李昌錆九段) と中国の羅洗河( 九段) の対局。

中

国に起源を持つ囲碁は 5千年

もは日本に比べてかなり遅れをとっ

ゲームの棋譜すら暗記できなかった

近い歴史を誇る東洋最古の

ていた。韓国の棋士達は日本に留学

という。しかしイ・チャンホが光の

ボードゲームである。横・縦 19線 、

して囲碁を学び、日本で出版された

ない名剣であり、鈍い動きのなかに

361 路の上で、黒と白の碁石が知恵

囲碁関係の本を教科書代わりにして

無限の才能を潜めている存在である

を競う。囲碁の手は無限で計り知れ

いた。ところがこういう事情はイ・

ことはすぐ現れた。

ないため、道や芸に分類されること

チャンホの登場により大きく変わっ

イ・チャンホは 1986 年にプロ

も多い。チェスの場合、最高の実力

てしまった。韓国が日本を抜いて世

テストをパスし、 1988 年には 75 勝

者がスーパーコンビュータに敗れて

界最強の地位を獲得したのだ。

10 敗を記録した 。 8 8 %という 年間

久しいが、囲碁の場合は、コンビュ

イ・チャンホは 1975 年、韓国

最高勝率だ、った 。 1989 年に師 匠の

ー タと人間との聞に まだ、格差が残っ

全羅 北道のチョ ンジュ( 全州) にあ

チョ・フンヒョン九段はシンガポー

ている。囲碁は西洋で言われている.

る裕福な家で生まれた。幼い頃から

ルで聞かれた膳昌期杯世界大会で優

通り、「地球上でもっとも知的なゲ

祖父に囲碁を学んだイ・チャンホ

勝し、 40万ドルの賞金を獲得したが、

ームJ であ るのだ。

は、さながら「鏡の国に落ちてしま

同年、イ・チャンホも韓国で聞かれ

った少年J のよ うに奥深い囲碁の世

たプロ大会で優勝した。 14歳の最年

界に引き込まれた。当時、韓国最強

少での優勝記録は簡単には敗れない

といえばチョ・フンヒョン( 曹薫鉱)

だろうと言われている。

光のない名剣 囲碁は現在、世界 65 カ国に普及 しており、地域別に見ると欧州地域

九段であった。日本留学時代から天

が 30 カ国と 一番多い。しかし、北東

才と呼ばれた彼は、日本から帰って

アジア、つまり韓国、中国、日本の

韓国の囲碁界を簡単に制覇した。

イ・チャンホの囲碁は遅い 。囲

3 カ国がリードしてきたゲームであ

イ・チャンホは九歳の時からチョ・

碁 は 戦 い に 似 た 能 率 の ゲ ームであ

る。特に日本は、江戸時代以来、幕

フンヒョンの内弟子になった。内弟

り、なんと言ってもスピード性が要

府が囲碁を奨励した事情もあり、組

子は先生の家に住みながら学ぶ。

求される。つまり、動きは軽くて早

敗北を知らない少年棋士

くなくてはならない。ところがイ・

織的にプロを育ててきており、

ところが最初チョ・フンヒョン

1940 年代からは新聞社が主催し、

はイ・チャ ンホの鈍さに失望したと

チャンホは話し方も行動も遅いだけ

大金をかけたプロ大会が相次いで開

いう。九歳の時に既にプロになった

でなく、囲碁の打ち方も遅い。イ・

催され、その実力がさらに向上した。

チョ・フンヒョンは、 3 ゲームくら

チャンホは「厚い囲碁」を追及した

韓国では昔、囲碁は身分の高い人々

いは簡単に覚えてしまうほどであっ

が、西洋ではイ・チャンホの囲碁を

が楽しんでいたゲームで、実力その

たが、イ・チャンホは自分が打った

it hi ck nessJ と表現する。しかし厚 夏号 2006 I Koreana

69


13歳で年間最高勝率 ( 88%) を記録、 15歳で最多連勝 ( 41 連勝) を記録、 17歳の 時に最年少で早くも世界トップに立ち、 18歳で年間最多勝 ( 90勝) を記録する。 「不敗の少年」イ・チャンホの神話は今も続いている。

さは t hi ckness とはかなり違う概念

ながら欲張ることなく、大胆な挑戦

な雰囲気が漂う。鋭い 一手で鮮やか

である。厚さはどちらかというと抽

や想像力が求められるゲームであ

に勝利を決めることは、囲碁をする

象的な概念であり、簡単には崩れ落

る。そのため日本では、昔から棋士

者なら誰もが望むことだ。しかし

ちないもので、時にはパンのように

は真の強者になれるのは早くて 40歳

イ・チャンホは 20歳そこそこの若さ

膨れ上がる可能性も秘めている。

と考えられてきた。しかしイ・チャ

にもかかわらず、平凡で分かりやす

またイ・チャンホは非常に優れ

ンホという少年棋士の出現によって

い手を選び、相手によらず、遠く厳

た計算力の持ち主でもある。戦局が

この従来の考え方は覆された。その

しい道を進んできた。イ・チャンホ

いかに展開されるかを判断する能

ためイ・チャンホには「高段者の生

の道程は砂漠を流れる長い川のよう

力、つまり、形勢の読みにかけては

まれ変わり」という新しいニックネ

であった。

他の追随を許さない。つまり優れた

ームもつくようになる。

計算力ゆえに遅くても構わず、厚主 を維持しながら徐々に進展 していく ことが可能になる。

イ・チャンホは自分の囲碁を打 って、韓国内の全大会で優勝を果た

ついに世界を制覇

した。もう一人の天才、師匠チョ・

イ・チャンホは相手に決定打を

フンヒョン九段と共に世界の舞台で

イ・チャンホが 15歳の 1990年 、

打つことはない。そのため敗れた相

活躍し、中国と日本を制した。中国

41 連勝という前例のない記録を打ち

手は自分の敗因がどこにあるのかよ

は囲碁の本家を自負しながら世界ト

立てた。この記録によって「敗北を

く分からない。イ・チャンホが「弱

ップを目指し、国レベルの支援を受

知らない少年J という別称で呼ばれ

腰 J と呼ばれる所以である。しかし

けているが、イ・チャンホという存

るようになる。さらに 17歳になった

イ・チャンホの真のパワーは不動心

在に世界最強の道を常に阻まれる。

1992 年には、当時日本の最強と言

から起こる。相手の激しい挑戦や鋭

イ・チャンホは誰もが認める世界ト

われ強者であった林海峰九段を破っ

い動きにほとんど反応を見せない。

ップの座にいる。遅い試合運びを武

て世界大会で優勝を果たした。さら

彼は完壁なほど無心な天秤であり、

器に、戦いを連想させる囲碁の世界

にその翌年には 90勝をあげ、年間最

幼い修道僧である。

で第一人者となったイ・チャンホの

多勝の記録を打ち立てた。

イ・チャンホは囲碁を打つ時、

東洋で囲碁は昔から 「 人生の縮

妙手が見つかってもほとんど使わな

図」 とされてきた。囲碁には人生で

い。相手が瀕死状態になっても攻撃

経験する戦闘や妥協、実利と勢力、

を急がない。しぶとく耐えながら何

強硬さや穏健さなど、対立的な要素

時間でも待つ。年は若くてもイ・チ

が多く含まれており、平常心を保ち

ャンホには長い歳月を経てきたよう

神話は、囲碁史上に永遠に記録され るであろう。国

夏号

2006 I Koreana

71


街

つ 歌 が

森

き

n h

ω

ン・・・ 自づ ヨ・・・・・ チ ・ ・ 'カ ポ 抱酬 オン・ザ・ロード


退屈な日常と人生に疲れたら、森に行ってみよう。森の小道を歩き、 語りかけてくる木々の声に耳を傾けよう。森のおかげで一層輝いて見える街、 抱川。抱川に行けば日々の生活の中で忘れかけていた何かと出会えるだろう。 イ・ギョム ( 李謙 写真作 家 文 と 写真)


くどっしりとした山々が扉風のように重なり連な

誰かが抱きしめてあげたら樹木はどんなにか喜ぶだろう。

った地形はおのずと孤立し、発展も通り過ぎてし

でも樹木よりもその木を抱いている人間の方がもっと幸

まう。その代わり、そこに手付かずの美しい自然が残り、

せな気分になれるはずだ。その時、我々は何を忘れて暮

その荒々しくも純朴な自然に溶け込んだ人々の暮らしが

らしているのか 思い起こすことだろう 。陽の光を浴びた

ある。自然の原型と息吹をそのまま残している土地。荒

透明な緑の葉を見ていると、子どもの頃に見た秋の落葉

涼たる大地、そして山と渓谷には肥沃さが隠されている。

が思い出される。自然の摂理とともに暮らし、落葉のよ

仁ゴ

I司

うに自然の土に帰った人の話を聞いたことがある。 「大地

夜明けの森の小道 夜明けは、都市と抱川│ のような山間部とでは全く違

へ帰れ運動J を提唱した環境保護運動のパイオニア、ス コット・ニアリング CScott Neari ng)

とへレン・ニアリ

う。抱川の与える先入観が大きく作用しているのかもし

ング ( Hel l en Near i ng)

れないが、無意識に大きく息を吸い込んでしまう。冷た

あの時のことは今も忘れることができない。「今、あなた

い空気が呼吸器を通って体の奥深くに入りこんでくる。

は何を見ていますか。森を見ているのなら木の若かりし

毎日およそ 19. 000 リットルの空気の中から 4000 リットル

日のことも一度くらいは思い出してください。 J

に憧れていた時期があったが、

の酸素を吸収する人間にとって呼吸ほど大切なものはな

竹葉山( 海抜 601m) 渓谷には澄んだ、水が流れてい

い。肺から毛細血管を通じて体中に行き渡る酸素が人聞

る。雨が降らなくとも渓谷の水は枯れる ことがない 。渓

を活性化させるのだ。

谷の水は足をつけるのにちょうどよい深さだ。岩の上に

森は共存して生きるという自然界の秩序を知ってい

座り足を水に浸す。同行した知人とともに遠い山々を眺

る。森が深いということで秩序が崩れるということはな

め川面をのぞきながら、よも やま話に花を咲かせる 。水

い。ただ、秩序の過程が増えていくだけだ。そしてより

面下に積もった木の葉は腐って、葉脈だけが残っている。

森は豊かになる。草に覆われた草木層: ( 高さ O.4m 以下

樹木の枝葉の頭を垂れた姿からは一抹の寂しさを感じる。

の層) 、低木の濯木層: ( 高さ 0.4"-' 2m) 、それより大きい

しかし水の中の生物に栄養をあたえているのだ。自然の

亜喬木層( 高さ 2"- ' 8m) 、そして 一番高い木のある喬木

もたらす命の循環に驚くばかりだ。

層( 高さ 8 m以上) 。各層ごとに木々の間で動植物が秩序

森と渓谷の美しい抱川は昔から詩人 ・文人が好んで

を保ちながらも、競い合うかのように各々の領域を守っ

訪れた。葉脈だけ残った木の葉一枚を手に、流れる水に

て暮らしている。

詩を詠む。もっ とも偉大な 芸術家は詩人だ という。抱川

森はいつも心に安らぎを与えてくれる。ちらつと目

では誰もが詩人になれるだろう。どんな偉大な詩人であ

をやるだけですぐに背を向けてしまう人もいるだろう。

ってもそのすべての作品が名作ではない ように、凡人 の

モミの木の葉がどんなに 柔らかくて美しいか、 触 って確

詩もまた、傑作になることも有り 得るだろう。 他人 の評

かめてみる人は少ないかもしれない。木々がどれほど暖

価にこだわらなければ、 詩を書いている聞は誰もが幸せ

かいかを知っている人と出会うことも難しい。しかし、

になれる。自分で作った詩は、偉大な詩人の詩よりも満

7 4 Koreana I 夏号 2006


1 週末の山弁湖は‘ 家族連れて

にぎわう抱川の名所の

って

ある。

2 モミ の木の葉に朝露が光る。 この小さな命の芽生えは、い つか大きな森をとなる。 3 森て育まれる生命体、キヌカ

,

サタケ ( Dct yophor a Indusl atal

まるて黄色のレ ースを羽絞っ 4

ているかのようだ。 : . ". テ コ ブシ ( Magnol 由 stel l atal の咲く 4 月になると、木々に黄 緑色の新芽が吹き出し始める


1

山井湖では美しい風祭と共に多僚なレ ジャ

とスポーツを

楽しむことができる. 2 抱川の名物、二東力ルビ. 1960年代初めにヌティナムカル

ピ信の開業以来、次第にカルビ庄が増え続け、 二東面

帯がカルピ村になっている。

3 抱川のもう一つの名物、ニ東マ γ コリは米で作られた 韓国伝統酒で、その味わい,菜さは全国に知られている。

足できるはず。葉脈だけ残った木の葉一枚を手に、流れ

積を占め、秘境という 言葉にふさわしいうっそうとした

る水に詩を詠む。この詩がどこに流れて行くのかは誰に

原始林が生い茂る。 100ha の専門樹木園とl , 018ha の天

も分からないものだが、流れている聞は濁流を作らない

然樹木園とに分れ、その中には木本植物1 , 863種、草本植

でほしいという願いを胸に、創作していく。言葉の糸が

物 1, 481種がある。専門樹木園は樹木の特徴や用途、機能

解けるように水の上を詩が流れる。

によって 15 のパ ートに 分れている。その中でも目の不自 由な人のための手に取って見る植物園が目につく。樹木

樹木の故郷を訪ねて

園の中央には山林博物館があり、韓国の山林と林業の歴

抱川の自慢、国立樹木園を訪ねてみる。国立樹木園は 朝鮮第 7代王、世祖( 在位: 1455 - 1468)

史と現況、未来を説明する各種展示物と資料が展示され

と彼の夫人の

ている。その隣には山林生物標本館があり、現在は山林

貞薫王后が眠っている光陵の森の 真 ん中に 1,118ha の面

に生息し、分布している動植物と微生物 11 万点あまりの

76

Kor eana I 夏号 2006


森は共存して生きるという自然界の秩序を知っている。森が深いからといって秩序が 崩れるということはない。ただ、秩序の過程が増えていくだけだ。 この秩序の過程が多いほど、森はより豊かになる。

標本が展示されている。韓半島の模型を真似て作られた

様な命が生まれ、生産と消費のバランスの取れた完壁な

水 生 植 物 園 に は ス イ レ ン ( wat er lily ( Nymphaea) ) 、

生態系となる。湿地は多くの生命体に棲息の場を提供す

コガマ ( Ty pha ori ental i s) 、ヒシ ( Tr apa j aponi ca)

る。生命体は安定した生態系の中で育まれる。また湿地

な ど の 水 生 植 物 204種 が 植 え ら れ て お り 、 湿 地 園 で は ミ

は水を溜めて地下水層に送る役割をも果たしているので、

ソハギ( l oosest r i f e ( L y t hr um anc eps ) ) 、 フキ

水温や水量の変化が少なく、多くの生物の生息に適した

( but t erbur) 、 花 菖 蒲 ( bl ue fl ag) など 212種 の 植 物 が

環境を作り出している。また乾季地域では、生命体の維

見られる。

持に重要な役割を果たすと共に、生き物の多種多様性を

湿地に水が流れて溜まり、幾多の過程を経て多種多

ミニインタビュー

生み出しているのだ。 国

クオン・ウンオ ( 権根五国立樹木園長)

森で働く人はどんなこと

また、疲労も回復します。人聞は木か ら学ぶ ことがたく

を考えているのだろう。槙坂

さんあります。すべてを与え尽 くレ て土』こ帰っていく木

五園長は笑顔で迎えてくれ

の美徳を人間は学ばなければなりません。 森が与えてく

て、握手を交わしたその手の

れる経済的な価値は一年に 58 兆ウ才ンに達します。しか

力強さが印象的だ、った。樹木

し、それよりももっと大切なのは自 然の教訓です、木よ

園を管理する権園長は植物学

森、動物と人間の調和について考えなければなりません。

と園芸学に通じた農学博士

悪い木など、ありません。役割が違うだけで、みんな森

だ。知れば知るほど愛おしく

の一員なのです。」

なるのか、草の一掴み、木の 一株を愛でる彼の想いは果 てしない。 「一日に一時間半ほど森の中を歩き、土と樹木、そし て花の様子を確かめます。観覧客の立場から 見ょうと思

自然から大きな恩恵を受けている人聞が、まるで自 然の主人のように振舞うことは間違っている。私たちは 木よりも、石よりも、小川よりも長生きすることはでき ないのだ。誰がそれらを所有でき るだろうか。

っています。その中から仕事に関するアイデアが得られ、 〆

夏号

2006 I Korea na 77


料理

イムジャスタン( 荏子水湯

鶏肉と白胡麻の冷スープ、夏の栄養食 暑さで疲れやすい夏は、食欲も進まないもの。そんな 時にピッタリの冷たく、さっぱりとした料理。 味も栄養も抜群の夏の栄養食、イムジャスタン ( 荏子水湯、鶏肉と白胡麻の冷スープ) をご紹介しよう。 チョン・ヒジョン( 田県貞 淑明女子大皐校、韓国飲食研究院諮問教授) 蓑宰亨写真家


イ 山 ス タ ン は鶏 間 ん だ ス ープに白胡麻をすり入れ茄でた鶏肉とワ ンジャ( 肉因子) 、ジダン( 黄身と白身を別にして作った薄焼卵) 、キュウ リ、椎茸などを入れて冷た くして食べる 料理だ。イムジャ( 荏子) は白胡麻、水湯 は水に胡麻を入れたスーフという意味で、胡麻汁とも訳すことができる。イムジヤ スタンは宮中や両班家で夏に栄養食としてよく食べられていた。庶民が食べていた ケクッタン( 胡麻湯) とは違う。ケクッタンは白胡麻をすって水にまぜたものに麺 だけを入れた料理だが、このイムジャスタンは鶏肉がメインとなり、さらにいろい ろな具がたつぷり入るところに特徴がある。両方とも胡麻を利用した料理ではある が、味と栄養ともに荏子水湯の方がはるかにすぐれていると言える。

胡麻、マルコポーロが発見した東洋の味 ゴマが韓国に流入したのは4 世紀以前だという。これは胡麻と胡麻油を多く使 う韓国料理がすでにその頃には定着していたという乙とだ。学者たちの研究によれ ば、胡麻はアフリカ大陸の草原が原産地だが、古代東洋の諸国では紀元前 3 千年頃 にすでに大々的に栽培されており、香料や医薬用として高い評価を受けていたとい

つ 。 中国の薬学書の『本草綱 目』には「張霧 (?.........BC11 4) が西域から持ってきた ので胡麻という J とある。しかし胡麻の遺跡や、米食文化の初期からすでに胡麻が 使われていたという点からして、胡麻栽培の歴史はそれよりもさらに古いものとみ られる。中国大陸の温帯型栽培種はシルクロードを通ってきたもので、華北と満州 に広く分布した。そして胡麻がたくさん使われ、その味と香りは中国料理の基本と なる。中国で 17年間生活したマルコボーロは『東方見聞録』に東洋で発見した味 は「ゴマの味だ、ったJ と書いている。 韓国には胡麻は中国を経由して入ってきた。韓国人は胡麻を絞って油を作っ たが、それが胡麻油である。『高麗図経』や『郷薬救急方』のような古書には胡麻 と胡麻油を利用したという記録があり、朝鮮初期に編集された食事療法の本『食療 (1 460) ~

~

に は 「 荏 子 ( 黒胡麻) を食べれば風病( 中風) にかからない」と 書

( 1670 頃) にはケクッ( 胡麻の汁) に麺をいれて夏に食べるということと、ケジュッ( 胡麻粥) について紹介し古いる。

夏 号 2006 I Kor eana 7 9


他の家畜とは違って南方から流入してきたという説も学 者の聞にはある。 鶏の原産地は韓国ではない。しかし韓国人は外国か ら持ち込まれた鶏を外形、味、薬効ともに卓越した品種 に改良し中国に再輸出した。中国宋の時代の古書『開宝 本草』や『図経本草』には薬効の高い朝鮮の鶏を使わな ければならないという記録も見える。アヒルや鴨を主に 飼っていた中国とは違い、韓国は鶏を多く飼育していた ため鶏林とも呼ばれていた。鶏は韓国の風俗にもたびた び登場する。鶏に関する迷信やことわざも土地ごとに多 様で、婚礼の時には雄雌二羽の鶏が登場する。 (1 ~

392~10)

( 1849) には、夏に白麻子湯を食べたとあ

るが、これはケクッタン( 胡麻湯) にカボチャと鶏肉を 入れて食べる料理だ。その後に発刊された一種の百科事 典である『閏閤叢書』、料理の本の『是議全書』などにも、

( 1765) には芥子菜の汁が辛

ケクッタンやイムジャスタンの名前が見える。またケク

いときには胡麻の汁をまぜると、味がまろやかになると

ッと鶏肉をまぜて夏に食べたという記録は以後の古書で

いう説明があり、胡麻を利用した韓国式茶食( 茶懐石) 、

もみつかる。そのためイムジャスタンは 200年以上の歴

胡麻油を絞る方法なども詳しく記録されている。

史をもつものと推定される。

~

韓国人が好きな夏のスタミナ食の中には、ユッケジ

200年余りの歴史を持つ料理 韓国ではいつから鶏を家で飼っていたか?

( BC

ャン( 牛肉の辛味スーフ) やペッスク( 茄で鶏) のよう 新羅

57~93)

に熱くして食べるものもある。熱くして食べる時には食 品から出てくる油気をとらずにそのまま食べるが、冷た

事』にも鶏と関係した話があり、鶏の羽を頭に挿して装

くして食べる時には油気をとるので味がさっぱりしてく

飾用に使ったとある。よく鶏は農耕民の家畜として農業

る。主に冷たくして食べるイムジャスタンも好みに応じ

とともに中国を通じて入ってきたと考える人が多い。し

ては温めて食べることもできる。ケクッを温めれば良い

かし新羅の建国神話に鶏が登場し、鶏を崇め尊んだこと

のだが、温めて食べても荏子水湯のさっぱりとした口当

や、首露王妃がインドから来たという伝説などからみて、

たりはそのままだ。凶

80 Koreana I 夏号 2006


イムジャスタン( 荏子水湯) は冷たく冷やした鶏肉のスープに胡麻を すりいれ、細かくほぐした鶏肉や野菜と共に食べる料理だ。 鶏肉を使うものの調理するときに油気を抜くのでスープの 昧はさっぱりし ている。

イムジャスタン 材料と分量 ( 4人分) : 1/2~

1

1/2

6

y

キュウリ 1本、椎茸 3 つ、卵 3個、イワタケ少々、セ

リ 100g、ニンジン 1/ 2本、牛肉 100g、豆腐 30g ワンジャ( 肉団子) の味付け: 醤油 小 さ じ 1/ 2、塩少々、みじん切りにしたねぎ

小さじ 112、叩いたにんにく小さじ 1/ 4、胡麻油小さじ

1/ 2、砂糖少々、胡麻塩少々

生旦左 1 鶏は血を抜いた後、きれいに洗い、生萎ーかけを入れて茄でてから皮を剥く 。肉は細 くほぐしておく 。2 鶏を茄でたスープは冷ましたあと、 あくや油を取り除く 。3 胡麻はきれいに洗って妙ってからすり鉢でする。胡麻の粉を鶏の茄で汁に入れて、ブレンダーでよく混ぜながらさら 4

1.5~2cm

4cm

O.3cml

のある部位を取り除いたあと、同じ大きさに切って片栗粉をまぶしてさっと湯がく 。5 椎茸はきれいに洗って水につけておいてから、閉じ大 きさに切る。フライパンに油をひき塩か醤油を入れて妙める 。6 セリは柔らかい茎だけ楊枝に車JI して小麦粉をまぶし、溶き卵をつけてフライ パンで焼いた後、閉じ大きさに切る。7 イワタケはお湯につけた後、細かく切 り、卵の白身をつけてフライパンで焼いた後、同じ大きさに切る( 手にス らな ければ入れなくてもよい)

0

ン ( 薄焼き卵) 8 卵は自身と黄身にわけで、ジ夕、

をつくり 2 う4 c mの大きさに切る。9 ワンジャ( 肉団子) を作る。牛肉は細かく 切りミンチ状態にし、豆腐は水気を切る。牛肉と豆腐を合わせて調味料をいれ て直径 1.5 c mの大きさに丸めて小麦粉をまぶし、溶き卵をつけてフライパンで 焦がさないように丸く焼き上げる。 10 スープの器に 1で準備した鶏肉を盛り、 その上に薬味を色をあわせてきれいに飾り 、真ん中にワンジャ( 肉因子) を乗 せる。 11 冷たく冷やしたス

プを上からゆっくりかける。

夏号 2006 I Koreana

81


韓国のお寺と 博物館を歩く 友好と反目の聞を、あたかも振り子の ように往き来してきた。重要なことは、 互いに先入見を捨てて真筆に 向き合うことである。 ひなた・かずまさ( 日向一雅 明治大学教授)

メ為、 年の三月下旬、 三泊四日のあわただしい旅であっ

I

たが、久しぶりに韓国を訪ねた。海印寺と雲住寺

を訪ねるのが目的であった。私の韓国体験は十七年前に 韓国外国語大学校大学院に日本文学の講義のために 一年 間赴任した時にさかのぼる。それ以後、韓国の古典文学 や仏教などに関心を持って、外大の金鍾徳教授をはじめ 親しくなった先生方と日韓比較文化の共同の調査や研究 を行 ってきた。 海印寺は十七年前に一度訪ねていたが、その時はは じめて見た韓国の大寺院の景観や堂内の絵画装飾、そし てあの八万大蔵経の版木を収蔵する倉庫に驚嘆した。も う一度見たいと思ったのだが、残念ながら、今回は大蔵 経の倉庫はたまたま休館日で見ることができなかった。 今回の旅行は明治大学の大学院生二人を同行し、中 央大学校の具廷錆教授に案内してもらった。初日羽田を 9 時に発ち、ぜひ乗ってみたか ったので、午後の K T X (日 本の新幹線) でソウルから東大郎に行く。日本の新幹線 に比べると少し窮屈な感じであ ったが、静かな走行で乗 り心地はよい。海印寺に向かう前に、少し時間があった ので、大郎の郷校を見学した。管理人の話では、午前中 に論語の講義があり、午後はまた別の講義をしていると のことであった。広い講堂は中高年の受講生で満員であ

82 Koreana I 夏号 2006


った。以前にも郷校はいくつか訪ねたことがあったが、

かしい。こういうものが実際に遊べるようにしてあるの

全州の郷校に行った時には、夏休みだ、ったので小学生が

は大変よいことだ、と 思った。 d

千字文を習っており、千字文に節を付けて読んでいたの

三日目は雲住寺、今回ぜひ行ってみたいと思ってい

が印象的であった。韓国の学校教育の中で漢字漢文の学

た寺である。光州からパスで約 1時間、のどかな田園のな

習の比重は低いど聞いていたが、こういうかたちで学習

かの静かなさびれた寺である。千仏千塔の寺といい、昔

されているのかと感銘を受けた。そのころはソウルの道

はもっとたくさんの石仏や石塔があったというが、立て

端でも千字文の教科書を売っていたので、買ってきた。

札には日本の植民地時代に破損されたように 書かれてい

日本でも近世以前には千字文が児童の漢字学習の教科書

た。本当であろうか。すばらしい好天であったので、境

に使われたと思われるが、今は国文学科の学生でも千字

内をゆっくり散策し、汗をかきながら小山を上り下りし

文が何かわからない。

て有名な臥仏を見る。臥仏というので最初は浬柴仏のこ

夕方に海印寺に着く。夕食は日本の総理が来たとホ

とかと 思っていたが、男女二体の仏が寄り添って臥せて

テルのフロントで聞いた近くの食堂に出かけた。大きな

いる石仏であった。寄り添う姿はまるで道祖神のようで

瓢になみなみとあふれるばかりのトンドン酒を具教授と

あった。韓国の寺を歩いていると、こういう思いがけな

二杯飲み干した。日本の総理が誰かわからないが、この

い仏像に出会うことがある。臥仏の由来については調べ

トンドン酒はうまかったにちがいない。

ていないが、韓国の仏教のおもしろさである。仏教説話

二 日目、午前中海印寺を見学 J 午後光州に向かう。

J

との関わりを調べてみようと思っている。

光州の博物館では、玄関の前に投壷が置かれていて驚い

最後の四日目はソウルの新しくできた国立博物館を

た。平安時代の遊技のなかに出てくるが、実際どのよう

駆け足で見学。考古部門の展示室は圧巻であった。日本

な道具なのかわからなかったので、大いに参考になった。

も自国の文化と歴史を次世伏にしっかり伝達していくた

矢のような棒を 2、 3 メートルほど離れた所から三つつな

めには、このくらいの博物館を造ったらどうか、と思っ

がる四角い壷

た次第である。凶

高低差がある

に投げ入れる遊びである。

数回ためしたが、 一 回しか入らなかった。なかなかむず

夏号 2006 I Kor eana

83


暮らし

モバイル・テレビの

時代がやって来た

地下鉄の中でテレビを視聴する若者達 D M B サービスのスター卜でテレビを持ち歩きながら見る時代がやって来た。世界的に I earl y- adaptor J として名の知れた韓国の若者のデジタル文化は地下鉄の中でも確認できる。 パク・ゴンヒョン( 朴建畑デジタルタイムズ記者) 雀恒永写真家

Mul t i medi a Pl ayer) に続く「一人で遊ぶ」製品は、 10 19~ t ノほとんど居眠りか新聞または本を読むかであっ

代から 30代までの若者の間で爆発的な人気を得た。元々、

た。こうした従来の地下鉄の風景を変えたのが、 2000年

皆、頭を下げて自分の世界に浸る地下鉄の「一人で遊ぶJ

初頭に登場した MP 3フレイヤーである。一方的に聞かさ

文化を創った原動力は携帯電話である。携帯電話を通じ

れるラジオや、 C D を購入しなければならない C D プレ

てS MS ( Short Message Servi ce)

イヤーとは違い、誰もが自分のお気に入りの音楽をダウ

楽 し む こ と は す っ か り 定 着 し て し ま い 、 最 近 は D MB

ンし、また簡単にチェンジできる MP 3 の登場によって、

(Di gi tal Mul t i medi a Broadcast i ng) を楽しむ消費者も

「 一人で遊ぶJ という新造語まで現れた。

増えている。 I T 専門家らは、今まで登場したすべてのデ

を伝送し、ゲームを

ジタル製品は、究極的には一つの製品に融合される方向

携帯電話がデジタル文化の中心に デ ジ タ ル カ メ ラ 、 電 子 手 帳 、 D MP ( Di gi t al

84 Kor eana I 夏号 2006

に発展し、それはおそらく携帯電話であろうということ に意見が一致している。


移動しながら、いつ‘ ど こでも放送が 見られるモパイル ・テ レビ ・サ ビスは、 韓国の進んだ ITインフラを基に自然に広 まった.

ぶ

ー ' ーーー 、

- - ーー

、一

'

∞6 I Koreana

夏号 2

85


最近の韓国のr DMB人気」は、韓国で開発されたモバイルテレビ技術と いう技術革新の賜物とも言える。新技術を積極的に取り入れる韓国人の あたらし物好きの性格とひ。ったり合った結果だといえる。

L G電子 ( LGElectr 町>c s) とサムスン電子 (S剖 唱 団19 日 民tron口)

が売り出した DMBモパイル慌帯電話の

各種壬デル. これを見る限りコミュ二ケーション 技術分野で、 高レベルを求める諸国の消費者の 性向が分かる . 、

m

移動中でも D MB T Vを通じて、人々は正確なナビゲ ション( 問vl g計四、) 情報をリアルタイムで入手で きるようになった. ( 左)

π業界の専門家らは、すべてのデジヲル製品は 携帯電話に統合される、という意見で一致している. ( 右)

86 Koreana I 夏号 2∞ 6


最先端の技術が集約された携帯電話はこれまで進化

ところが、一般消費者の立場からみるとこのような

し続けてきた。 1996年韓国で、世界初のデジタル通信が

技術競争はあまり意味がない。技術方式の問題を別にし

始まって 10年間、携帯電話は過去 100年間の発展以上に

て、携帯電話または専用の端末を通じて放送が見られる

進化した。特に、 S MS の登場によって音声ではなくデー

点においては大きな差はないからだ。 T - D M B とS

MP3 プレーヤ

D M Bが商品化された韓国では、既に 1 0代から 3 0代前半

一、ゲーム機などと融合することによって、マルチメデ

の消費者を中心に、サービスの広がりが早い。 S - D M B

ィア機器としての位置を固めた。

の場合、一ヵ月 1万 3 千ウォンの使用料が必要であるにも

タによる無線通信が可能になり、カメラ、

昨年から韓国でスタートした D M Bサービスは、これ

かかわらず、 3 0 万人を超える加入者を確保しており、

まで急成長してきた携帯電話の進化をさらに後押しする

T - D M B は二ヵ月に 2 0 万人以上に上るユーザーを確保

契機になると期待されている。まだモパイルテレビに関

したものと推計されている。

する標準が決まっていない中で、いつでも、どこでも好

このような韓国の D M Bブームは、サービスの質の高

きな放送が手軽に見られる「手の中のテレビ」というサ

さや韓国人の性向がうまくマッチした結果だと分析され

ービスは、人の生活に大きな変化をもたらすことは間違

ている。サムスン電子、 L G電子など、韓国の携帯電話

いない。

メーカーは後発組としての悪条件にもかかわらず、ノキ アやモトローラなどの古豪の大企業と、世界市場で肩を

モパイルテレビ時代

並べられるのは、韓国のマーケットが有しているユニー

これまで開発されたモバイルテレビの関連技術は、

クさによる。韓国の消費者は、よりよいサービスを積極

世界トップの携帯電話メーカ一、ノキアが主導する

的に受け入れ、ちょっとした問題点に対しでもその修正

D V B - H、韓国が主導する T - D M B と衛生 D M Bである

を徹底的に要求する。

S - D M B、それにアルコム社主導のメディアフロなど、

アメリカやヨーロッパの移動通信ユーザーの場合、

合わせて 4種類に分けられる。業界の専門家らはこのうち、

依然として音声通話中心になっているのに比べて、韓国

今年上半期中に世界 2 0 カ国でサービスがスタートする

のユーザーは携帯電話による動画データ・サービスを既

D V B - Hと、韓国で世界初の商品化に成功し、ヨーロッ

に数年前から利用してきたため、モパイルテレビに対す

パ・中国を中心に輸出されている T - D MBが今後、モパ

る抵抗感はあまりない。彼らは数十万ウォンもする携帯

イルテレビ市場の主導権を競争するものと見ている。

電話を、短い場合は 3 ヵ月から 6 ヵ月単位に買い替えて、

夏号

2006 I Koreana 87


インターネットの掲示板を利用して意見を交換する。ま

ーション情報を リアルタイムで利用できる 。

たお金に不自由な大学生の中には、 e- bayや G マーケット

特に、今年 6 月にドイツで開催されるサッカーのワー

などのオークションサイトを利用して自分の物を売った

ルドカップは、モバイルテレビの広がりに大きな影響を

お金で新しい製品を購入する i hungr y- adapt or J

までい

及ぼすとみられる。世界のフェスティパルと言われるワ

る。世界最高水準のブロードバンド普及率は、メーカー

ールドカップが開催される度に、放送サービスや家電業

にとって消費者のニーズを積極的に反映できるチャンネ

界に大きな変化をもたらしたためである。 2002年に聞か

ルとしての役割を充実に果たしている 。

れた日韓共催のワールドカップは、高価なため手の届か なかった L C DやP DPテレビの普及に決定的な影響を与え

ライフスタイルまで変える

た 。

モパイルテレビが人々のライフスタイルを変えるこ

韓国の携帯電話の各メ ーカーは、既にドイツのワー

とは、既に韓国で証明されている。地下鉄の乗客たちは

ルドカップをターゲットにした広告やプロモーションを

移動時間に読むために、従来のように本や新聞などを持

開始しており、モパイルテレビの販売に乗り出した。こ

たなくても良い。もう生活に欠かせない携帯電話で十分

のような現象は外国でも現れている。 ドイツ、イタリア

だ 。 D MBで放送される多様なビデオ・チャンネルや数十

など、サッカ一好きの国々では既に六ヵ月前にはモパイ

ヶ所を数えるラジ オ放送は、単に時間つぶし水準に止ま

ルテレビのサービスをスタートさせ、ワールド・カップ

らない。受験生は携帯電話を通じて教育放送の講座を聴

視聴による需要を逃さないための計画を発表している。

き、マイカーのドライバーは、データ ・チャンネルを通

いつ、どこでも手軽に見られ、自分の意見を即時に反映

じて既存の GPS ( 衛生航法装置) より正確で早いナビゲ

できるモバイルテレビは、もう S F 小説だ、けに登場するも のではない。韓国の地下鉄の光景のように、世界の地下 鉄の中でモパイルテレビに夢中になっている人々を見る 日もそう遠くない。凶

D MBサ ピ ス は、オディオ、映像、 読み物など、多種多様なプログラムを

提供しており 、「一人遊びJ の 文化を創っている.

88 Koreana I 夏号 2006


ヂ

ニョン ↑ 同 -

ユン

ユン・デニョン( 予大寧 1962- - ) は 文学性の回復が求められていた 1990年代の 時代精神に 一番合った作家だと 言われている。 彼は独特な構成と 美学的な文体を通じて 常に存在の深淵を探求してきた作家だ。


作家評

存在の深淵を凝視する 感覚的な内面への旅 チョン・ヘギョン( 問 1,悲磁文学ぶ i論家、 j的^ 郷大切 "ltj 正予部教授)

ユ ン デ ニ ヨ ン は 1990年代の韓国文学を代表する

これは 1990年代の都会の風景描写であると同時に孤独な

作家だ。 1980 年代の韓国文学は疎外された階層

人間の内面描写でもある。平穏な日常を生きる小市民の

の無い、皆が一つになるその日のために前進していた。

「僕」は突然、偶然の出会いを通して予想も しなかった世

しかし、 1990年前後の世界史的な地殻変動に突き当たり

界に引きづり込まれる。正体不明の彼女を追いかける過

深い混沌に落ち込んでしまう。新しく始めるには、それ

程は推理小説的な要素も加わり興味深い。しかし彼の小

まで依存していた歴史法則への信頼の代わりになるもの

説は論理的に解 明される世界を目指しているわけではな

が必要だ、ったが、簡単にそれを見つけだせなかった。そ

い。「彼女J をさがす道はまるで鏡の表面を突き抜け、鏡

んな時に傷ついた者たちの内面への旅を感覚的な言

の中に入っていくようだ。その道は「僕J の無意識的な

語で解き明かした予大寧の処女小説集『鮎釣り通信』

内面につながる。

(1 995) が発表され一躍読者を魅了した。

道の上で「僕」はいつの問にか自分の日常が「傷の

彼は 1990年のデビュー以後、『鮎釣り通信』、『南の

痛みに麻痩した j ものであることを発見する。「彼女」は

階段を見ろ』、『多くの星がー箇所に流れて行った』、『誰

僕が忘れていた密かな傷となくした欲望をつきつける。

かが歩いていく』

などの創作集と『昔の映画を見に行っ

「彼女」は 「僕の中にいるもう 一人の僕」だと言える。反

た』、『思い出の遠いところ』、『月の地平線』、『美蘭』、

復的な日常と虚偽に慣れた「僕J がその堅い殻の表面に

『雪の旅行者』、『虎はなぜ、海に行ったのか』などの長編小

亀裂を入れて人生の深淵を覗き込むことは苦痛に満ちて

説を発表した。詩的な要素を導入することで小説の領域

いる悦惚でもある。作家、ユン・デニョン( 手大寧) は

を広めた表大寧の独特な文学世界は、その作品性を認め

それを最後まで見せることで韓国文学での一人称「僕 J

られ 1994年に「今日の若い芸術家賞」、 1996年「李箱文

の世界を深化させた。

学賞」、 1998年「現代文学賞J 、 2003年「李孝石文学賞J をそれぞれ受賞した。

洗練された優麗な言葉を駆使する詩的なイメージは ユシ・デニョン( 罪大寧) の小説の持ち味だ。感覚的な

ユン・デニョン( 予大寧) の小説には主に大都会の

イメージ、時には陰欝に、時には華麗な色彩のイメージ

片隅のオフィステルに一人住まいという人物が登場する。

は「僕J の内面への旅を幻想的なものにし、同時に底の

90 Koreana I 夏号 2006


深いものにしている。文字一宇一字からあふれる魅力的

この小説で作家は時間を光の流れで捉える。その流

な世界が読者をひきつける。これが作家ユン・デニョン

れは悲劇的な人生の裏面の真実を透明に照らす。正午を

( 手大寧) がマニア的な読者層を確保する理由の一つだ。

「クレパスで書きなぐったような光のたばが二重、 三重に

白色はデビューから最新作まで銀魚と花で深く刻印 されたイメージだ。それは生と死の境界から染み出てき

飛び交いからみあった J と表現する感覚的な言葉はその 発見をさらにまぶしいものにする。

た瞬間の光だ。「光の足跡J (1 998年作、現代文学賞受賞

「そしてあの赤い唇! J で緊張感を形成するのは、主

作) は白色の光の流れに変奏しながら存在の深淵を印象

人公は妹の独自だ。彼女は繭の中に入り込んだ人物だ。

深く見せている作品だ。

妹のイメージはクタにいるパリサマーホテルの愛しいス

この短編小説は初夏、南向きの小さな家に住む家族

ーザンに移っていく。妹は現実的な実態というよりは

の一日を描いている。アンパン( 寝間) には病院から退

「僕」の妄想をデフォルメした存在だ。「僕 J が彼女を

院してきたばかりの母が寝ており、東の部屋には妹が出

「おまえ」という 二人称で呼ぶ瞬間から、彼女は現実の営

産の養生のために帰ってきており、西の部屋には離婚し

みの中から抜け出し「僕J の妄想にかわる。

た姉がいて母の世話をし、庭では父がウロウロしている。

「行かず後家の婆さん j がケシの花を折った時から、

家族を描く場合にもユン・デニョン( 予大寧) はその中

母の死はすでに予告されていた。問題は死という事件で

に孤独な存在をみつける。ヒマワリの部屋、鮮血のよう

はなく、母の死を見つめる視線だ。時間の流れを「光の

に咲き乱れるケシの花、数百個の練炭が真っ赤に燃えた

足跡」で現した神話的な想像力が人生を悲痛なものにす

夢、クロード・モネの( 印象、日の出) 、バリサマーホテ

ることもなく、死を痛切な働突で刻印することもしない。

ル、豆腐、白い運動靴と白いゴムシン( ゴムでできた韓

母の遺体の枕元に置かれた白いゴムシンは死さえもまぶ

国の靴) などは、生と死を光の中で同時に捕らえようと

しくしてしまう。それは生と死の秘意を受諾した者がそ

した視線でみつけた文学的な現象だ。ここでは家族の苦

の苦痛さえも昇華したいという欲望があったからこそ可

しい人生は 「 一つの小宇宙で、孤独な惑星」の次元に位

能だ、ったのだ。四

置を変えている。そのため彼等の傷は岬き声を上げない。 夏号 2006 I Koreana

91


学ム 国ラ 韓グ 外口 援 海プ 支

韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区瑞草2洞 1376 一1外交センタービル 郵便番号: 137- 863 瑞草郵便局私書函 227

韓国国際交流財団は韓国学研究と理解増進の為に海外の大学、研究機関、図書館、そして研究者 を支援しています。人文科学、社会科学、及び文化芸術分野に対する支援をしています。下記の プログラムと該当事業部案内を参考にして下さい。

韓国学事業部

研究奨学事業部

メディア事業部

⑨教授職の設置

⑨政策研究

⑨韓国研究資料支援( 定期)

⑨滞韓研究フェ口一シップ

⑨韓国研究資料支援( 非定期)

⑨客員教授の派遣 Tel : 82- 2- 3463- 5612 Fax: 82- 2- 3463- 6025 e- mai l : st udi es@kf . or. kr

⑨韓国語研修フエローシップ ⑨ポストドク卜ラルフェ口一シップ ⑨学者の研究支援

Tel : 82- 2- 3463- 5684 Fax: 82・2- 3463- 6086 e-mai l : publ i cat i on@kf . or. kr

⑨韓国学専攻の大学院生奨学制度 ⑨出版補助費支援 ⑨教育資料の開発支援 Tel : 82- 2・3463・5614 Fax: 82- 2- 3463 6075 e- mai l : f el l ow@kf . or. kr 司

申請締切り案内 フ。ログ ラム P

ー教授職の設置 客員教授の派遣 ー政策研究

滞韓研究フェ口ーシップ 韓国語研修フェ口一シップ ポストドク卜ラルフエローシップ 重鎮学者の研究支援 韓国学専攻の大学院生奨学制度 出版補助費支援 ー教育資料の開発支援

締切り 事業執行前年度の 7月31 日まで 11

事業執行前年度の 9月30 日まで

事業執行前年度の 7月31 日まで 11

毎年 1月 15 日まで 毎年 1月31 日まで 固と機関によって変動 上半期は 3 月31 日、下半期は 9月30 日 まで 11

ー韓国研究資料支援( 定期) 韓国研究資料支援( 非定期)

毎年7月31 日まで 随時

連絡先 Kor ean St udi es Dept . Tel : 8Z- 2- 3463- 5612 Fax: 82- 2- 3463- 6025 e- mai l : st udi es@kf . or. kr

Kor ean St udi es Dept . Tel : 82- 2- 3463- 5614 Fax: 82- 2- 3463- 6075 e- mai l : f el l ow@kf . or. kr

支援申込書、プログラムガイドライン など詳しい情報を知りたい方は担当事 業部または財団ホームページをご参照 下さい。 Medi a Dept . Tel : 82- 2- 3463- 5684 Fax: 82- 2- 3463- 6086 e- mai l : publ i cat i on@kf . or. kr


with hope into tom orrow...

POS CO 巴 preservlng Ihe loc口motive al J angdhan Slallon ( Modern Cultural Proper ly No. 78i Ihrough Ihe Cultural He吋age Admlns 旧口巾 OCHOS pn句 ram,

Whe n we care for our past , it fills t omo汀 o wwi t h hope. we're preservi ng steel artifacts f r omKor ea's past At P OS C O, like the st eaml ocomot i ve at J angdhan Stati on in the D MZ t hrough the One Cul tural Heri t age t Q One Support er program.

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The 回目 loolh word mark and l ogos are 品 川 ed by Ihe 81uel ool h 81G, Inc. and any use of such marks by 8amsung Electronics is under il cense. "

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