秋号 2016
特集 秋号 2016
非武装地帯
DMZ DMZ、統一への夢が育つ場所 DMZ の森の道で満喫する「心の平和」 保存と破壊、静けさに隠された DMZ の生態系
summer 2016
al feature
ISSN 1225-4592 Sinan’s Natural Riches and Beauty: A Legacy for the Future; Intrigue of the ‘Black Mountain’; Salt Fields Preserve the Time-honored Values of Island Culture
vol. 23 no. 3
Islands of summer 2016 vol. 30 no. 2
vol. 30 no. 2
ISSN 1016-0744
鉄条鋼を通して 見つめた禁断の地 Korean ulture & rts
韓国の文化と芸術
韓国のイメージ
山と アウトドアルックの 和合 キム・ファヨン 金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員
韓
半島の国土面積の70%が山だ。残りの30%の平地に人が家を建て、田
畑を作って耕している。18世紀の思想家パク・ジウォン(朴趾源)は山の 多いこの地には「100里に達する平野が少なく、1000戸に達する村もな
い」と嘆いた。しかし今日、人口1千万人を超える巨大都市ソウルを訪れる外国 からの訪問客は言うだろう「どこに行っても高層アパートしか見えない」と。狭 い国土に多くの人間が暮らすには家は広げる代わりに高くするほかない。
しかし高層ビルの向こうまでよく観察した人なら気付くだろう、非常に近く、
それも四方に高い山が屏風のように都市を囲んでいることを。ソウルだけでは ない。韓国では人々の暮らすすぐそばになんと4,400個もの山がそびえている。
それで韓国人が楽しむレジャーと趣味に登山は欠かせなくなる。韓国人は山
があるから山に登る。調査機関によって差はあるものの、全人口およそ5千万人 のなかで毎月定期的に登山をするという人口が1500万人。18歳以上の韓国の成
人5人中4人は1年に一回以上登山をするという。すなわち、年間4億6千万人も の人々が山に登っているとの統計もある。
この現象は今日ファッション産業に影響を与えた。20~30年前には登山服は
登山用具の一部に過ぎなかった。当初は登山道の入口にある小さな店で登山服
や登山用品が売られていた。しかし今や山に登らずとも、家の前の道や漢江沿 いの道を散歩すればエベレストでも征服に行くかのような機能性登山服を身に まとった人々を簡単に目にする。今日、この国で登山用の衣類は作業現場、野
外スポーツ、レジャー生活のすべての場面に登場するほど材質、デザイン、カ
ラー、機能が進化した。韓国のアウトドア市場はこの数年間に急成長し市場規 模は7兆ウォン台を超えた。韓国の秋、山野が五色の紅葉に彩られれば、その山
道ではアウトドアルックの巨大なファッションショーが繰り広げられ、それが またもう一つの紅葉となるだろう。
編集長からの手紙
サイバー戦争時代のDMZ
鉄条鋼の向こうのDMZには奇怪で平穏な空気が漲っている。最前線の展 望台に配置された純真な少年のような表情をした若い兵隊は、この静かで緊 張感の漂う対峙状況を日常のように受け入れているようだ。しかし、深刻な 戦闘ではなくても軍事境界線を越える接戦はいつ起こるか分からないとい うことを予感しているようだ。 今の時期に朝鮮半島を南北に分断する帯のような非武装地帯(DMZ)を 特集号に取り上げることは不思議に思われるかもしれない。しかし、今回 の『KOREANA』出版の準備をしている間も、朝鮮半島の平和と安全は危機一 髪の緊張感が漲っている。65年前、戦車と曲射砲で戦った戦争でも民間人 を含め数百万人の命を落としたことを想起すると、核武器やミサイル、潜水 艦から発射される弾道ミサイル(SLBM) 、サードシステムなど最先端武器を 使用する戦争は想像を絶する結果になるだろう。 実際、この「非武装地帯」で朝鮮戦争の休戦協定に決まっている規定を守 った時期はほとんどなかった。大量破壊の最先端武器に対する憂慮が高まっ ていることはさておいて、ここが今日地球上で軍事的に最も「武装された」 警戒地域であることは誰もが知っている。サイバー戦争時代に軍事的な緩衝 地帯だという地理的な距離は、もはやその有効性を失っている。 今回の特集「DMZ-鉄条鋼を通して見つめた禁断の地」は韓国の非武装地 帯を歴史的・人道主義的な観点で取り上げている。人間の接近が厳重に閉ざ されているこの「無人地帯」の過去と現在を照明しようとする。また境界線 近くの住民の日常を垣間見る機会でもある。この記事を読んで「なぜ、誰の ため、朝鮮半島が依然と分断されているのか」という質問が頭から離れず、 読者の皆さんがDMZのことを省みる契機になることを切に願う。 日本語版編集長 金鍾徳
発行人 李是衡 編集理事 尹錦鎭 編集長 金鍾徳 編集諮問委員 裵炳雨 那秀昊 崔寧仁 韓敬九 金華榮 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Werner Sasse 監修者 嘉原和代 翻訳者 坂野慎治 金明順 朴美貞 クリエイティブディレクター 金三 編集 林善根、盧倫永、朴信恵 アートディレクター 李栄馥 デザイナー 金智賢、金南亨、葉蘭敬 編集 金熒允編集会社 04035 韓国ソウル特別市麻浦区楊花路7-44. 秋思軒ビル3階 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 04796 韓国ソウル特別市城東区阿且山路11-10. Tel : 82-2-468-0361〜5 Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr 価格 韓国内:6000ウォン 韓国外:9USドル 定期購読料:詳しくは『Koreana』84ページをご参照ください。 韓国国際交流財団 04539 韓国ソウル特別市中区乙支路5-26. Mirae Asset CENTER1 Bldg. West Tower 19F © 韓国国際交流財団2016 『 Koreana』に掲載されているすべての記事の著作権は韓国 国際交流財団に帰属し、著作権法により保護されています。 『Koreana』の記事を転載する場合には、事前に『 Koreana』 編集室に電子メール(koreana@kf.or.kr)かFAX ( 82-2-21516592)で転載許可を申請してください。 『 Koreana』の記事を引用したり、非営利目的で使用する場 合にも『 Koreana』からの転載であることが分かるようにク レジットを明示してください。
韓国の文化と芸術 秋号 2016
Published quarterly by the Korea foundation 韓国国際交流財団 06750 韓国ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル
『DMZ2009-黄い河』 金惠蓮 2009、油絵、150cm x 200cm
掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、『 Koreana』 や韓国国際交流財団の公式見解ではありません。 1987年8月8日 文 化 観 光 部-1033で 登 録 さ れ た 季 刊 誌 『Koreana』はアラビア語、インドネシア語、英語、スペイ ン語、中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語でも発刊 されています。
フォーカス
庭園としての 街の階段
36
郭熙秀
アートレビュー
イ・ジュンソプ 純潔な魂、高潔な魂、 さまよう魂の記録
06
40
鄭在淑
文化遺産の継承者
サンダムに 座り永遠に 想いをはせる
46
ホ・ヨンソン
オン・ザ・ロード
18
私の名前は 「高3オンマ」
DMZ-鉄条鋼を通して 見つめた禁断の地 DMZ 統一への夢が育つ場所 DMZの森の道で満喫する 「心の平和」
04
エンターテインメント
金光石 彼が蘇った舞台 金古今平
保存と破壊、静けさに隠された DMZの生態系
12
喬桐 一人でも向かい合う島
料理物語
米の 多様な変身
64
66
金臻榮
遠くの目
韓国の夏 チメクを味わい 考えたこと 韓国文学の旅
私があの時の僕だと いうことを証明できるか
70
72
崔在鳳
18
『プラザホテル』 金美月
徐載哲
特集 4
60
牧野愛博
李昌起
特集 3
48
姜信哉
咸光福
特集 2
52
郭在九
日常茶飯事
特集
特集 1
詩を頑張って 書いてください 統一の日まで
24
45
李昌起
特集 5
ビジュアルアートを通して見る 冷戦の最後の現場 「リアルDMZプロジェクト」 高美錫
30
52
特集 1 DMZ -鉄条鋼を通して見つめた禁断の地
霧の臨津江の明け方。京幾道の中西部 戦線に位置し、軍のジープが鉄条網を 見回っている。
4 KOREANA 秋号 2016
DMZ 統一への夢が 育つ場所 韓国と北朝鮮の間にある軍事境界線に沿って、朝鮮半島の中
央を横切る幅約4km、長さ238kmのDMZ。軍事的な緩衝地 帯を表す名前とは異なり、地球上で最も重武装された冷戦の
遺産だ。停戦から60年余りが経った今も、依然として分断と 対立の象徴となっている。この逆説的な空間を統一実現に向 けた想像力のインキュベーターにしなければならない。 ハム・グァンボク 咸光福、韓国DMZ研究所長、DMZルポライター 安洪范, 李尚燁 写真
昌道郡 北方境界線
軍事境界線
南方限界線
2km 2km
平康郡
4km DMZ
江華郡
楊州市
麟蹄郡
北朝鮮
抱川市
板門店 坡州市
喬桐島
楊口郡
華川郡
漣川郡
開城直轄市 開豊郡
高城郡
金化郡
鉄原郡
長豊郡
白川郡
高城郡
鉄原郡
民間人統制線
延安郡
金剛郡
加平郡
春川市
38度線
韓国
金浦市
韓国の文化と芸術 5
そ
の日、国連軍司令部のウィリアム・K・ハリ
ウモロコシ畑。身を隠して南側を見つめる北朝鮮軍
戦協定に署名すると席を立ち、それぞれ別
軍の哨所…。戦場とはいえないが、DMZについて正
ソン中将と北朝鮮のナム・イル大将は、停
の扉から出ていった。DMZ(非武装地帯)が生まれた
歴史的なその日、二人は無言のまま握手もせず背を 向けた。1953年7月27日午前10時12分、板門店で
の出来事だ。DMZは、そうした憎悪と不信から生ま れた。
戦争も平和もない場所
そのDMZが、今年で63年目を迎える。人の年齢に
置き換えるなら、生きてきた歳月よりも、これから
生きていく歳月の方が短いといえる初老だ。そのた
のバンカー。そして、最前線でそれを見つめる韓国
しく理解していれば、平和があると信じる人もいな いはずだ。
DMZとは何か
停戦協定では、第0001号の表示板が立てられてい
る西海岸の臨津江河口と第1292号の表示板が立てら
れている東海岸の明湖里を結ぶ軍事境界線から、南
北にそれぞれ2㎞の区域をDMZとしている。つまり、 朝鮮半島の中央を東西に伸びる長い帯だ。
朝鮮半島の分断を語る際に「休戦ラインの155マイ
め、多くの人がDMZに対して、広くて寛大なイメー
ルの鉄条網に沿って」という表現がよく使われる。こ
ない自然の中で、野生動物が自由にたわむれる姿を
理学者が臨津江河口から東海岸の草邱までの距離を
ジを持っている。例えば、長らく人の手が入ってい
想像するだろう。南北分断という不幸の反射的利益 によって、宝石のように美しい自然を得たと信じた いわけだ。
しかし、DMZは決して「気力の衰えた高齢者」で
も「生態系の宝庫」でもない。幾度もの山火事によっ
れは正しい表現なのだろうか。確認のため、ある地
南側の限界線に沿って測定したことがある。その結 果は148マイル(238km)だった。また、休戦ライン
といっても目に見える区切りはなく、地図に描かれ た軍事境界線に過ぎない。
観光客は、DMZの南側の鉄条網沿いに造られた複
て荒れた野原。青い山を貫く南北の鉄条網。山肌の
数の展望台から、大きなガラス越しに静かで穏やか
険しい軍用道路。山の斜面に造られた北朝鮮軍のト
場所だと記憶される。しかし、DMZでは今も絶え間
あちこちに掘られた塹壕とセメントの階段。狭くて
1
6 KOREANA 秋号 2016
なDMZを眺める。そして、DMZはすべてが静止した
1 中部戦線の最前線の 哨所。陸軍の二人の 兵 士 がDMZを 監 視 している。 2 中 部 戦 線 のDMZに 近い最前線部隊。兵 士が朝の点呼をして いる。
2
韓国の文化と芸術 7
1
なく巧妙な戦争が起きている。例えば、韓国軍と北
が多いかもしれない。
を妨げる草木を焼き払う。古い戦法の「火攻め」が、
DMZの生態系の秘密
朝鮮軍は毎年2月中旬から5月の間に、視界と射界 DMZでは今でも重宝されているのだ。
つまり、DMZの自然は決して自然ではないのだ。
停戦協定では、軍事境界線から南北に2㎞ずつ退
DMZの森は火攻めで焼け野原になり、多くの定住
になっている。だが、そうした内容は形骸化して久
は「DMZ一帯の森林蓄積量(木の体積)が韓国の平均
いて、それぞれ南方限界線と北方境界線を守ること しい。少しずつ鉄条網を前進させる「陣取り」が行わ れているからだ。野火の戦争、地雷の戦争、トンネ
ルの戦争に続き、最近は中断されていた拡声器放送 による音の戦争が再開されている。
もう一つ注目すべき点は、DMZ付近の人口統計
が、実際に暮らしている定住人口よりもはるかに少
人口のために切り開かれ、汚されてしまった。学者
の半分にも満たず、崩れた自然生態系の復元が急が れる」とずいぶん前から助言してきた。その弱りはて
た森にすむ動物は、韓国と北朝鮮の心理戦といえる 拡声器による音の戦争、毎晩鉄条網を照らす光の戦 争によって苦しみ、地雷の犠牲になることもある。
それなのに、DMZに関するルポは、常に野生動物
ないことだ。軍人は、常に「隠れた人口」だ。DMZに
の天国だと紹介する。軽快に跳び回るキバノロの群
そ2万7000人。しかし「隠れた人口」である軍人の方
カモシカ。兵舎の近くを歩くイノシシの一家…。だ
接している江原道華川郡の人口は、2015年現在およ 8 KOREANA 秋号 2016
れ。高い岩の上に立って、どこかを見つめる孤高の
金剛山へ汽車が走る日を待ちながら… 江原道鉄原郡金化邑にあるタンポポ野原。韓国最北端にあ
り、北朝鮮の黒い山々が見下ろしているため、気が休まらな い。その野原をDMZ(非武装地帯)が貫き、錆びた鉄橋も架か
っている。1926年に開通した金剛山電車は、鉄原と内金剛を結 んでいたが、分断後は止まったままだ。橋脚には「途切れたレ ール! 金剛山まで90km」と、これ以上進むことのできない切 なさが刻まれている。
70年代前半、民間人統制線(民統線)内の村で農業を営んで
いた未婚の男性キム・ヨンボムさんは、当時はやっていた韓国
の歌謡曲『君と一緒に』の歌詞を借りて「あの青いタンポポ野 原に絵のような家を建てて、一生一緒に暮らさないか」と村の 娘キム・スニさんにプロポーズした。漢灘江の川辺では、サツ キが満開だった。彼女は頷いた。 2 1 西部戦線の最前線の哨所。写真には写っていないが、北朝鮮の 哨所と至近距離で対峙している。 2 江原道鉄原郡の民間人統制線内の村が故郷のキム・ヨンボムさ ん、キム・スニさん夫妻。戦線休憩所は80年代に村の前のタンポ ポ野原に造られ、今では観光客が軍の検問所を通って辛いナマ ズの鍋を食べにやってくる。夫妻はそうして統一を待っている。 3 金剛山鉄道の亭淵鉄橋は1926年、鉄原の漢灘江に造られた。 「途 切れたレール! 金剛山まで90km」という切ない夢が刻まれて いる。
キム・ヨンボムさんは、息子と娘に恵まれて幸せに10年ほ
ど暮らす中、郡の役所を訪ねたり軍の部隊に頼んだりして、本
当に約束を守った。青い野原に絵のような家を建てたのだ。そ して、いつか途切れたレールがつながり、観光客をたくさん乗
せて走るのではないかと考え「前線休憩所」という看板を掲げ た。金剛山を訪れる観光客が来ることはないが、キム・スニさ んの作る辛いナマズの鍋は評判になり、民統線の外にまで知ら れるようになった。今では二人の純朴なラブストーリーまで伝 わり、民統線の隠れた名所になっている。
3
韓国の文化と芸術 9
観光客は、DMZの南側の鉄条網沿いに造られた複数の展望台から、大きなガラス 越しに静かで穏やかなDMZを眺める。そして、DMZはすべてが静止した場所だ と記憶される。しかし、DMZでは今も絶え間なく巧妙な戦争が起きている。 が、カメラの前でポーズを取ってくれる野生動物な
間人統制区域には休戦直後、人が住んでいない村が
みかが露わになっただけなのだ。
め、移住政策が進められた。その結果、民間人統制
どいない。大きな森が消えた無情の地で、密かなす DMZの五つの顔
DMZについて漠然と「平和と生命の地」 、あるい
は「巨大な分断の傷跡」と考えていたなら、これから
は型にはまった固定観念を捨てて、真剣に向き合う 必要があるだろう。
第一に、DMZは生きた戦争博物館だ。1950年6月
に始まった朝鮮戦争は、世界を巻き込む戦争だった。 およそ60カ国が直接的・間接的に参戦しており、共産
およそ100カ所あった。その村を開拓民で埋めるた
線(民統線)の範囲が最も広かった1983年には、統制
区域内の81の村に8799世帯、3万9725人が住んで いた(その後、民統線が北側に引き上げられ、多くの
村が統制区域から外された) 。そうした中、独自の民
統線文化が生み出された。それぞれ多様な言語習慣、 思考、風俗、家族史、履歴を持つ人たちの異質な文
化に軍事的な文化が入り混じって「第三地帯」の独特 な文化圏が作り出されたのだ。
最後に、DMZは冷戦自然生態系公園だ。冷戦構造
圏からもおよそ10カ国が参戦した。このように様々
の厳しい干渉によって、DMZの自然生態系は本来あ
の歴史上ないことだった。DMZは東西対立の証であ
た水たまりは池になり、人に捨てられた田は沼にな
な民族や国が一つの場所で戦争を行ったのは、人類 り、冷戦のドキュメンタリーともいえる。
第二に、DMZは人類学と韓国史の宝庫だ。在韓
米軍の兵士だったグレッグ・ボーウェン氏は1978年、
るべき形で変化できなかった。しかし、砲弾の落ち
った。その沼の水草はキバノロの生息地になってお り、昆虫やミミズは鳥や獣を呼び集める。
韓国と北朝鮮の軍人が火攻めを行ってきた野原の
京畿道の漣川郡にある漢灘江の川辺でアシュレアン
木々は、小枝なしに生きる道を選んだようだ。高く
類よりも古い人間が暮らしていた証拠だ。漢灘江と
たのかもしれない。炎が通り過ぎた後、春になると
型の握斧を見つけた。30万年前、DMZ一帯に現生人
臨津江の川辺にある数多くの山城など古い戦争遺跡
は、2000年前( ? )に高句麗・百済・新羅がせめぎあっ たことを物語っている。後三国時代の901年、泰封
国はDMZの中にある鉄原で建国された。918年には
そこに高麗が建てられ、高麗の首都だった開城には、 1392年に朝鮮が建国された。DMZは、韓国史におけ る三つの王朝を誕生させた地なのだ。
第三に、DMZは近代文化遺産の宝庫だ。鉄原平野
にある廃墟・鉄原は、1940年代には3万7000人が住
伸びて、その下を炎が通っていくように知恵を絞っ 野原が再び緑を帯びるのは、生えては枯れる一年生 植物だけが燃えるからだ。しかし、その野原は、大
きなイノシシにとって食べる物が十分でない。野生
動物は、地雷やブービートラップなどの犠牲になる こともあるが、それでも生き残り、軍人の残飯で命 をつないでいる。香炉峰の深い谷では、大雪が降る
真冬になると、軍人の副食の野菜をカモシカに分け 与えることもある。
一方、ウイルスや病原菌の恐れも、DMZにおける
んでいた。日本の統治時代に計画都市として建設さ
独特な自然現象だ。朝鮮戦争の際に国連軍の3000人
た。しかし郡の役所、警察署、普通学校、教会、農
しており、狂犬病やマラリアがはやることもある。
れた鉄原邑は、朝鮮戦争で爆撃を受けて廃墟と化し 産物検査所、貯氷庫、金融組合、汽車駅、北朝鮮の
余りが感染した腎症候性出血熱 (HFRS) が今でも発生
DMZの五つの顔は、すべてが地球上のどこにもな
労動党舎など、崩れかけた建物が昔の町並みを残し
い歴史文化遺産だ。これは、20世紀が韓国人に残し
で北朝鮮の領土だったため、北朝鮮が1948年に造っ
苦しい時代を生きてきた人たちに、未来に与えられ
ている。鉄原は1945年の終戦から1953年の停戦ま
た承日橋と韓国が1996年に造った漢灘大橋が、漢灘 江に並んでいる。
第四に、DMZは人種のるつぼだ。DMZに接する民
10 KOREANA 秋号 2016
た貴重なコンテンツでもある。あたかも分断という る補償であるかのように…。これから私たちは、こ のコンテンツを統一に向けた想像力のインキュベー ターにしなければならない。
板門店の共同警備区域 で、南北の軍が軍事境 界線を隔てて向かい合 っている。写真正面が 北側にある板門閣
韓国の文化と芸術 11
DMZの森の道で満喫する 「心の平和」 特集 2 DMZ -鉄条鋼を通して見つめた禁断の地
平和を生む力はどこから来るのだろうか。
今では森になっている60年ほど前の戦場を歩きながら、私は考え続けた。 イ・チャンギ 李昌起、詩人、文学評論家 安洪范 写真
12 KOREANA 秋号 2016
江原道の揚口郡亥安面にある乙支展望台では、朝鮮戦争の激戦地パンチ ボウルが広く見渡せる。晴れた日には、遠く北朝鮮の金剛山の峰々も見 える。
「暴
力に関するセビリア宣言」は1986年5月、ユネ スコがスペイン・セビリアで開催した非暴力教
育に関する国際学術会議において発表された。
戦争のような組織的暴力は、人間が持って生まれた生物
学的な暴力性に起因するという考えを覆すために作成さ
れたものだ。このセルビア宣言は五つの命題からなり、 次のように締めくくられている。
「戦争が人の心の中から始まるように、平和も私たちの
心の中から始まる。戦争を発明した種と同じ種は、平和
を発明する力もある。その責任は私たち一人一人にある」 。 それならば、DMZ(非武装地帯)は人の心の中から作り
出された、戦争から平和への中間段階といえるほど素晴 らしい発明品なのだろうか。かなり成功したいくつかの ケースについて信頼できる情報を持つ人は、意味深な微
笑みを浮かべて頷くだろう。何も考えずに生きていると 思われたくなければ、何か言わなければならない。 DMZと間田
中国の商(殷)の時代。諸侯国だった虞と芮が土地を巡
って争い、互いに主張を曲げなかった。双方は、他の諸
侯国である周の西伯に裁決を仰ぐため、訪ねていった。 しかし、双方の王は周に入ったところで過ちに気付き、 西伯に会わず国に帰っていった。二人の王が目にしたの は、畑を耕す者が互いの境界になるあぜを譲り合い、共 有する風習だった。
司馬遷の『史記』にあるこのエピソードには、周の文王
になった西伯を称賛する意図もある。だが、東洋の農家
の知恵や風習の一端がうかがえるという点で興味深い。 いわゆる間田、または閑田のことだ。 『尚書大伝』 では 「紛 韓国の文化と芸術 13
争になる所を譲り合い、間田とする」とし、 『説苑』では閑田につ
かせない最激戦地だ。ここを敵に奪われれば春川まで危険にな
た『礼記』では「閒田」と呼んでいる。誰の物でもない、窓越しに
るため、死守するしかない戦略的要衝だった。楊口郡内だけで
いて「両国のどこにも属していない緩衝地」と定義している。ま 見える月や木の枝のような土地という意味だ。
こうして見ると、DMZと間田には、歴然とした違いがある。
DMZは、人間の考えの中で最も単純で機能的であり、利害に関
係ある国を中心に交渉で判断された結果に過ぎない。だが間田 は、現実的な利害関係を基に、相手への譲歩、節度、寛容とい
り、春川を奪われればソウルが敵の攻撃にさらされる恐れがあ 大きな戦闘が9回あったが、そのうち4回がパンチボウルで行 われた。韓国の海兵が「無敵海兵」と呼ばれるようになった「兜率 山戦闘」 、40日の間に6回も奪い奪われた熾烈な高地戦「加七峰 戦闘」 の舞台もパンチボウルだ。
パンチボウルという地名は、朝鮮戦争の外国人従軍記者が、
う心が化学的に融合した概念といえる。
標高1000mを超える山々に囲まれた地形がパンチボウル (カクテ
考えられる。暫定的ではあるものの、多くの紛争地域で戦争を
ちも、抵抗感なくこの名前を使っている。岩の風化と浸食によ
それにもかかわらず、DMZは比較的、成功した発明品だと
中断させる効果があり、特に南極など科学的な探査や研究のた めには功を奏した。しかし二つ以上の勢力が、軍事力によって
自国の価値と利益を保護するために、引くことのできない争い をしている場合、DMZの効果は非常に限られるだろう。韓国の
DMZは、最初の意図とは異なり、約150万人に及ぶ軍人とあら
ゆる武器が集まった重武装地帯になってしまい、殺傷を恐れな い不確実な対峙が、広範囲にわたって60年以上に続いている。
もし巨大な国際機関、国のシンクタンク、有能なリーダーの
決断が、朝鮮半島に平和をもたらすと信じるのなら、この文は
ここまでにしておいた方がいいだろう。私が言いたいのは、さ
さいなことだ。小道をふさぐ枝を切ったり、通学路を広げたり、 庭に名も知らぬ野花を植え替えたりといった、ささいなことに ついて言いたいのだ。違うところがあるとすれば、彼らの住ん
でいる場所がDMZに近い民間人統制線 (民統線) 内だという点だ。
ルを入れる大きなボール)のようだと言ったためだ。韓国の人た って造られたこの亥安盆地は、戦争当時まで小さな山村に過ぎ なかった。この村は、休戦後の1956年に民統線内に含まれて廃
墟と化したが、政府が政策の一環として民間人を集団で移住さ
せ、現在のように1700人余りが暮らす村(韓国での行政区画は
面)になった。一人当たりの国民所得が100ドルにも満たなかっ た時代、移住民は生きていくために命をかけて土地を耕し、大 量の地雷が埋まっている標高600メートル(最も低い所で標高
400メートル)の山の斜面まで農地にした。15年前に山林処の主
導で臥牛山に森を造ろうと地ならしをした際、薬莢が2俵分出 てきたことからも、その当時の苦労が想像できるだろう。今も
彼らの手が及んでいない場所は、地雷原や軍事保護地域のまま だ。今年も第4南侵トンネルがある懸里の辺りで、地雷事故が 2件起きている。
2011年の秋、この最北端の村に 「DMZパンチボウル・トゥルレ
同じところがあるとすれば、彼らもより良い生活のために常に
キル(周回遊歩道) 」というトレッキングコースができた。民統線
らに平和を生み出す力があると考えている。間田も、そのよう
なければ、管轄の軍部隊から通行許可が得られないからだ。さ
我慢したり譲り合ったりして生きているという点だ。私は、彼 にして作られたのだろう。 パンチボウルの道で
江原道楊口にある「パンチボウル」は、朝鮮戦争を語る上で欠
1
14 KOREANA 秋号 2016
内にあるため、遊歩道を造る際に地雷探知が行われた。そうし
らに、安全のために必ず「林道体験指導士」が同行しなければな らない。キム・ウンスク氏(56歳)は、林道体験指導士として働 き始めて5年になる。観光客の案内だけでなく、遊歩道の管理 や生態系の調査も仕事の一つだ。彼女は、この仕事をこの地で
1 「DMZパンチボウル・トゥルレキル(周回遊歩道) 」の林道体験指導士キム・ウン スク氏 (右端) 。観光客に周囲の地形を説明している。 2 林道体験指導士キム・ウンスク氏は、観光客に 「パンチボウルの遊歩道は、戦争 と平和、そして自然の神秘について考えることができる特別な森の道」と説明 する。
2
韓国の文化と芸術 15
産まれ育った恩恵の一つだと考えている。夫と一緒に農業をし
ぱいだった。
農産物の価格は下がり続けた。そこで何か他の仕事を見つけよ
にきているような錯覚に陥る。木々の間から見え隠れする青い
彼女にとってトレッキングコースは、食料が足りない春の初
パンチボウルでの戦闘に参戦した老兵を案内したときも、彼女
ながら二人の子供を育ててきたが、仕事はますます大変になり、 うと思っていたところ、この仕事に出会ったのだ。
めに母親とシナノキの皮や山菜などを採りに行った道と重なる。 そのときに母親から聞いた木や草の名前が、こんなにも役に立 つとは思いもしなかった。もちろん、その当時とは違ってハハ
コグサやセンボンヤリなど姿を消してしまった植物もあれば、
彼女は観光客を案内しながら、ふと母親と一緒に山菜を採り
空と白い雲を見ていると、特にそう感じる。いつか海兵として
は彼らの目から同じようなものを感じた。おそらく彼らも、こ
の森の道のどこかで、銃を握りしめたまま小さな子供のように しゃがんで眠る幼い兵士の姿を見たのだろう。
新たに入ってきた外来種も多い。
鉄原平野で
で「平和の森の道」 「五柳の畑の道」 「萬垈の野道」 「モンメッチェの
鮮半島は最適な越冬地だ。しかし、急激な都市化や干拓によっ
メッチェの道」も好きだが、 「五柳の畑の道」は特別な存在だ。地
の場は、鉄原平野だ。カリ(ガン)やツルの先発隊は、秋の収穫
DMZパンチボウルの遊歩道は、73㎞のトレッキングコース
道」の4区間に分かれている。彼女は、白頭山脈が始まる「モン
雷が多く斜面が険しい加七峰や大愚山とは違って比較的なだら かで、高原の黄土の道、谷、貯水池が次々と現れるなど、見所
が多い。そして何よりも、彼女が小学生のときから、かまどで ご飯を炊き暮らしてきた村がある。 「五柳の畑の道」が始まる場
所には、両親の墓地もある。農業をし、出かけるときにはカッ
(帽子)をかぶり、トゥルマギ(外套)を着ていた父。酒好きな父
親が恥ずかしくて背を向けた記憶に、長い間申し訳なさでいっ
シベリアや中国の東北部に生息する冬の渡り鳥にとって、朝
て渡り鳥は減ってしまった。そんな渡り鳥にとって唯一の憩い が終わる前から姿を現す。10月になると、鉄原平野の空が覆わ れるほどのカリやツルが集まってくる。比較的に遅くやってく るマガモとトモエガモまで合流すれば、数百万羽の渡り鳥で壮 観を呈する。
渡り鳥がここを最初の中継地とするのは、鉄原の火山・五里山
が造り出した溶岩の大地に、摂氏15度の温かい川が流れている からだ。この水路と肥えた玄武岩の風化土によって、江原道は
いつか海兵としてパンチボウルでの戦闘に参戦した老兵を案内したときも、彼女は彼らの目から同 じようなものを感じた。おそらく彼らも、この森の道のどこかで、銃を握りしめたまま小さな子供 のようにしゃがんで眠る幼い兵士の姿を見たのだろう。
1
16 KOREANA 秋号 2016
1 1990年に揚口から北東26km のDMZで発見された南侵第 4トンネルは、パンチボウ ル地区の安保観光地の一つ。 DMZでは、北朝鮮が掘った 南侵用の軍事トンネルが合 わせて四つ見つかっている。 2 江原道鉄原郡の民間人統 制線内にある月井里駅は、 1914年に開通した京元線(ソ ウル~元山)の簡易駅。朝鮮 戦争の開戦直後、爆撃によ って止まってしまった客車 の残骸が「鉄馬は走りたい」 という言葉と共にレールの 横に展示されている 3 民間人統制線内の哨所。鉄 原平野の秋の風景が広がり、 その先には北朝鮮の野山が 見える。
2
最高の穀倉地帯になっている。民統線内にあるにもかかわらず、
名なブランドになった。その鶴に再び出会ったという人はいな
穫の終わった田畑に落ちている穀物、草、様々な幼虫、魚を求
忘れずに渡り鳥に餌を与えている。
観光客が訪れる理由も、豊かな自然環境にある。鳥たちも、収 めてやってくるのだ。
そして、ここも朝鮮戦争の最激戦地だった。鉄原、平康郡、
金化郡を結ぶ三角形は「鉄の三角地帯」と呼ばれ、中部戦線にお いて死守すべき重要な戦略的要衝だった。ここで中国人民解放 軍と戦った国連軍は、停戦交渉が結ばれる直前まで猛烈な砲撃 戦を繰り広げ、数万人の死傷者を出した。
1992年12月、鉄原のDMZでの出来事。一人の兵士が、雪に
覆われた野原で、なぜか動かずに立っている1羽のツルを見つ
けた。1週間後、ツルはその場に倒れていた。兵士が近づいて
いが、鉄原の人たちは鶴のおかげで有名になったと考え、毎年
京畿道坡州市の長湍半島、積城面斗只里の臨津江、鉄原郡東
松邑の土橋貯水池など、民統線一帯は屈指のハゲワシの越冬地
でもある。20 ~ 30年前から、巨大なハゲワシが飢えで倒れ、民 家でしばしば発見された。そのため住民が餌をやり始め、ハゲ
ワシの飛来がさらに増えたのだ。数は増えたり減ったりするも のの、およそ年間2000羽が民統線一帯で冬を過ごしている。こ
の自然の掃除屋は、畜産農家の動物の死体まできれいに片付け るため、人と自然との新しい共存モデルを示している。
国際自然保護連合(IUCN)が1979年、国際自然平和生態公園
みると、この雌の鶴のすぐそばに、1羽のツルが死んでいた。
を提案して以来、多くの国際機関だけでなく韓国の政府機関や
た。兵士は、倒れた雌のツルを介抱した。この兵士とツルの話
国と北朝鮮は、これを基にDMZの平和利用について数回、合意
そのツルは雄で、死んでからかなり時間が経っているようだっ は、雄の死を悲しむ雌のツルの話として村々に広がった。
保護されて1カ月ほどで元気になった未亡人のツルは、村の
人によってシラカバに囲まれた湖の岸に放された。その鶴の足
マスコミの支援を受け、様々な調査と研究が行われてきた。韓 しているが、約束は常に守られなかった。平和を前提にした交 渉の結果だったからだ。
詩人ハム・ミンボクは『すべての境界には花が咲く』という詩
には足環がつけられた。再び鉄原平野を訪れたら、すぐに分か
で、次のように警告している。 「涙が渇いて/月の光と影の境界
は、肥えた土地と清らかな環境というイメージに支えられ、有
ての境界が崩れゆく」 。
るようにと。その後、この民統線内で生産された米 「鉄原五台米」
で立っていられない日/花の鉄条網がしおれ/私と世界のすべ
3
韓国の文化と芸術 17
特集 3 DMZ -鉄条鋼を通して見つめた禁断の地
京幾道漣川郡の台風展望台では、北朝鮮から 韓国へとDMZを蛇行する臨津江が一望できる。
18 KOREANA 秋号 2016
保存と破壊 静けさに隠された DMZの生態系
ソ・ジェチョル 徐載哲、緑色連合専門委員 安洪范 写真
DMZは、朝鮮半島の重要な生態系の一つだ。軍事活動による持続的な山林の破壊にもかかわらず、 停戦から60年余りの間、道路の建設や都市化など文明の積極的な干渉が全くなかったため、 西部は湿地が発達し、東部は手つかずの温帯の原生林が広がっている。
韓国の文化と芸術 19
D
MZ(非武装地帯)への立ち入りは、境界での作戦を実行する韓国と北朝
鮮の一部の軍人にだけ認められている。停戦以降、民間人の出入りは、 ほとんどなかった。私は2000年代初め、韓国と北朝鮮との和解・協力ム
ードの中、DMZを貫いて南北を結ぶ京義線や東海線など鉄道と道路の環境アセ スメントのための政府・民間合同生態調査という公的な目的で、この禁断の地に
3回入ることができた。しかし、そのときの調査は、極めて一部の地域に限ら れていた。
2006年には、山林庁が主導して国防部が支援する非武装地帯の山林環境実態
調査に参加した。このとき、西部戦線が始まる京畿道坡州臨津江河口から東部 戦線が終わる江原道高城まで、南方限界線の鉄条網に沿って軍人の移動路を全 区間歩くことで、DMZの実体を具体的に把握することができた。朝、民間人統 制線(民統線)を通ってDMZに入り、軍事境界線の南側で1日に決まった区間を 歩いて、2カ月に及ぶほど大変な調査だった。そこには、温帯林の様々な生態
系がモザイクのように広がっていた。小さな水たまりが極相林に発達した山林 まで、すべてが存在する多様な生態系の宝庫だった。 生物多様性の湿地
DMZの西部で最も躍動的な光景は、湿地で見られる。非武装地帯のすべての
水路は、その周辺が自然に湿地へと変化してきた。河川、小川、谷、貯水池、池、 水たまりなど様々な水の流れがあり、所々に古いあぜが残っている。
中西部内陸の広い地域は、朝鮮戦争以前、農村だった。農地には水が流れて
いる。戦争で使われなくなった田は、長い歳月を経て水の流れと共に自然遷移 を繰り返して、留鳥、魚類、両生類、爬虫類、多くの昆虫が生息する湿地とな り、生物多様性の楽園になったのだ。鉄条網に沿って歩くと、この多彩な姿を
見せる湿地こそ、途絶えた農耕文化を基盤に自然が演出したパフォーマンスで
はないかと感嘆するだろう。冬になると、そうした湿地にタンチョウやマナヅ 1 華川郡にあるDMZ内の北漢江上流。天然記念物の黄 ソガリ (アルビノのコウライケツギョ) も見られる。 2 中部戦線のDMZで、キバノロの家族が鉄条網に沿っ て歩いている。
ルなど様々な渡り鳥がやってくる。
この湿地に生息する国際的な絶滅危惧種が、キバノロだ。他のシカ科の動物
に比べて小さく華奢で、湿地の水辺など静かな所でのんびりと過ごす姿はおと なしそうに見えるが、ネコ科の猛獣のように力強く飛び跳ねもする。
DMZの河川と谷は、ほとんどが北から
南に流れている。近代化と産業化以前の 河川の原形をとどめており、水も澄んで いる。すべての開発行為に加え、漁業や
釣りもできないため、多様な川魚が悠々 と泳いでいる。 「水半分、魚半分」といわ
れるほどだ。そうした河川には、絶滅危
惧種のカワウソが全域に広く生息してい る。カワウソが食べるのは、あふれるほ どの魚類だ。
東部の山林地域
東部戦線は、すべてが山林だ。谷が深
く山は険しいため、山火事が起きても急 1
20 KOREANA 秋号 2016
激に燃え広がることは少ない。そのため、 動物には安定したすみかだ。最前線の兵
2
韓国の文化と芸術 21
鉄条網に沿って歩くと、この多彩な姿を見せる湿地こそ、途絶えた農耕文化を基盤に自然が演出し たパフォーマンスではないかと感嘆するだろう。冬になると、そうした湿地にタンチョウやマナヅ ルなど様々な渡り鳥がやってくる。 士は、絶滅危惧種のカモシカやジャコウジカにたびたび出くわすという。ジャ コウジカは70年代以降、朝鮮半島ではDMZ以外で見つかっていない。2014年 になって生息が再確認された後、国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅の恐れ があるとして「レッドリスト」に掲載された。その他にもカワウソ、テン、キバ
ノロ、ムササビ、ツキノワグマなどの哺乳類が生息している。不思議なことに、 DMZの動物は人を恐れない。軍の部隊では、野生動物を捕まえると部隊に事故
22 KOREANA 秋号 2016
1 秋の収穫が終わった鉄原平野。落ちた穀物を求め て飛んでくる渡り鳥に境界線はない。 2 錆びて割れた鉄帽に、カタクリの花が咲いている。
が起きると考え、手を出さないからだという。
雄大な山と峰が東西につながる天然林には、モンゴリナラ、ナラ
ガシワ、アベマキ、チョウセンハウチワカエデ、ヤエガワカンバ、 ヤマザクラ、イタヤカエデ、ハリギリ、マンシュウグルミ、カラコ
ギカエデなどが生い茂っている。マツバユリ、金剛ホタルブクロな ど30種類ほどの韓国固有の植物も育っている。
DMZの自然と生態系は、多くの人の関心を集めている。しかし、
生態調査は全面積の10%ほどしか終わっておらず、それさえも古い
ものになってしまった。さらに、大量の地雷によって近づくことさ えできない地域も多い。韓国と北朝鮮との平和の基盤が築かれ、本 格的な生態調査が行われることで、神秘の全貌が明かされる日を心 待ちにしている。
DMZの生態の概要
山林庁の林業研究院は、DMZと隣接地域の山林
の生態系を西部海岸地域、中西部内陸地域、中東部 山岳地域、東部海岸地域の四つに分けている。 ■ 西部海岸地域は、漢江と臨津江の河口など大
規模な湿地が多く、淡水と海水が入り混じる汽水域 だ。100mほどの丘陵があり、肥えた平野が農耕地 として利用されている。クロツラヘラサギ、マナヅ
ル、サカツラガンなど絶滅危惧種の鳥類が生息して いる。 ■ 中西部内陸地域には、漢灘江流域の火山地帯
である鉄原平野と漣川郡が含まれている。臨津江や 1
漢灘江などが蛇行し、世界的な絶滅危惧種であるタ
ンチョウやマナヅルが冬を過ごしにやってくる。 ■ 中東部山岳地域は、白頭山脈から漢北正脈ま
での北漢江流域で、1000m以上の高い山と鬱蒼とし た森からなっている。天然記念物であるカモシカや
ジャコウジカが生息している。 ■ 東部海岸地域は、白頭山脈の東側に当たり、 香炉峰から乾鳳山までは天然保護区域に指定され ている。
2
韓国の文化と芸術 23
特集 4 DMZ -鉄条鋼を通して見つめた禁断の地
24 KOREANA 秋号 2016
喬桐
一人でも 向かい合う島
喬桐島(キョドンド)は、島全体が民間人統制線の中にあるため、軍事境 界線や非武装地帯が特に設けられていない。島の外にある海が、そうし
た役割をしているからだ。喬桐島と江華島(カンファド)をつなぐ橋は、
軍事・安保をめぐって議論になったが2014年に開通し、船に乗らなくて も行けるようになった。
イ・チャンギ 李昌起、詩人、文学評論家 安洪范, 金容喆 写真
漢
江(ハンガン)と臨津江(イムジンガン)が出会い、江華島と喬桐島
の横を流れて黄海につながる水路は、韓国で祖江と呼ばれている。 ここは、停戦協定に 「漢江河口中立水域」 と記されている。DMZ (非
武装地帯)とは違い、韓国と北朝鮮の民間の船舶に平和利用が認められてい る。だが、両政府は船舶の安全を理由に漁業を制限している。この水路沿い にある喬桐島は、37.5㎞の海岸線の3分の2が鉄条網で囲まれている。
1992年に幸州大橋と臨津閣の統一展望台を結ぶ自動車専用道路・自由路を
造る際、この水域でのバージ船の通過が認められたことは、トップニュース
になるほど異例の措置だった。喬桐の海が「見る海」になったわけだ。だが、 赤い太陽と強い風と白い霧の海は、戦争と分断に伴う出来事と変化を、ここ に住む人たちに絶え間なく思い起こさせる。
晴れた日に京幾道江華郡の喬桐島の華蓋山に登れば、北側の延白平野が一望できる。今では数少 ない喬桐の失郷民(北朝鮮に戻れなくなった人)の高齢者は、次のように話している。 「喬桐島の 人たちは、南北が分断されるまで、渡し船で黄海道の延白の五日市に行っていたものだ」 。
韓国の文化と芸術 25
1
父の喬桐の海
終戦前、喬桐は四つの定期旅客船があるほど重要な寄港地だ
私は仁川で育った。幼い頃だけでなく、学校に通い、結婚し
った。海岸には10余りの船着場や渡し場があり、出入りする様々
でいた。しかし、いつからか「ふるさとは、どこですか」という
が安らぐようだ。また大潮で水が引くと、延白まで歩いていけ
て家を出るまで、ずっと喬桐から遠くないこの港湾都市に住ん 質問の答えに詰まり、適当にお茶を濁してしまうようになった。 父の故郷は、黄海道延白郡湖南面松野里だ。仁川は、父が朝鮮 戦争のときに避難してきて定着したところなのだ。誰に言われ たわけでもないが、この難民意識がいつからか心の中に生まれ ていた。たぶん旧暦の正月や盆などに親戚が集まって、ふるさ
との習慣である大きなソンピョン(松餅)や二つでスープの器が
一杯になるほどのマンドゥ(餃子)を作って食べながら、昔話を する中で自然に芽生えたのだろう。ときには、一度も行ったこ
な船とそこから聞こえてくる音を思い浮かべると、なんだか心 るほど潮の満ち引きが激しかった。歩いて向こう岸の延安の市
場に行っている間に潮が満ちてきて、次の日に潮が引いてから 家に帰るのは、喬桐の人なら誰もが一度は経験したはずだ。干
ばつで作柄が良くない年には、延安の市場で柿など喬桐の特産
物を売ることもあり、仕事を求めて延白に向かう若者も多かっ た。喬桐島の娘が栄えた延安の男性に嫁ぐと、周りからうらや ましがられたものだ。
生活習慣も黄海道の内陸部と同じだった。地元の人たちの言
とのない故郷の村の地図を父親と描いてみたこともある。
葉遣いは、長い間会っていない親戚の顔が自然に思い浮かぶほ
くなった父には、故郷の延白(ヨンベク)を懐かしみ郷愁を癒す方
南の地方よりリズムが早く力強い。大きめに切ったカブで作る
10年ほど前に亡くなった伯父と今では体が思うように動かな
式がいくつかあった。その一つが、天気の良い日に喬桐島の北
側の丘で、角山の野原の向こうにある故郷の裏山の松をぼんや
ど、黄海道そのものだ。旧暦の小正月や盆に家々を回る農楽は、 キムチやコエンドロを好む食文化も、北方式といえる。
り眺めることだった。喬桐から父の故郷の湖南面までは2~3
庭のような海
いたものだった。
ある邑内里・南山浦港船着場から江華島倉後里と席毛島の間まで
㎞に過ぎない。そんな日は、泥酔して帰ってきて、早く床につ 26 KOREANA 秋号 2016
喬桐島の漁業は1955年、漁労限界線が定められ、島の南端に
に制限された。それによって喬桐八景から消えしまった風景が ある。漁船が描く最も美しい三つの風景、そして波市(漁場での
市場)が開かれた竹山浦・賓長浦の飲み屋と酒色を供する色酒家
く者たちの時には冒険的ながらも素直で、現実的かつ緩やかな 人生に敬意を表したい。
だ。喬桐の漁場は、南山浦から船で5~ 10分で境界に着いてし
喬桐の屋台骨
で10世帯ほどが魚を捕ってきたが、今では5人の漁師がかろう
は、4万㎡を超える田畑を持つ、自他共に認める成功した農業
い出に応えている。以前は軍の部隊長が旧暦の正月や盆に、軍
喬桐では他の経済活動よりも農業が高く評価される。海を奪わ
まうほど狭い。網の数も二つに制限されている。この小さな海
じて喬桐の漁業を守り、 「昔のあの味」を覚えている人たちの思 人の保護の下で民間人統制線(民統線)を開放してボラや貝類な どを捕らせていたが、それも昔の話に過ぎない。
喬桐では、今年の上半期の漁獲量もあまり多くない。チャ・グ
ァンシクさん(67歳)は黄海道の延白で産まれ、朝鮮戦争の際お くるみに包まれて避難してきた。まさか生涯、漁師として生き ていくとは思いもしなかったはずだ。チャ・グァンシクさんが捕
喬桐で代々暮してきた家に産まれたハン・ギチュルさん (67歳)
経営者だ。 「島で土地自慢か…」などと思われるかもしれないが、 れて、島の機能を十分に生かせないからだ。こうした高い評価 は、大規模な貯水池を造って耕地を整理し、農業がしやすくな
って生産性が上がり始めた1970年代以降の話だ。防波堤を造っ
て干潟を耕作し、喬桐の農地が増えた点も大きく関係している。 そうした革命的な農業の変化に、彼も若き日を捧げた。
その結果、今では多くの肩書きを持ち、地域の信望を集めて
った今年の塩辛用のエビも例年並みで、常連客にしか行き渡ら
認められている。その中で彼が最も大切にしているのは、喬桐
捕った水産物で直売所と食堂を運営している。休戦の翌年に避
史・文化の発信・保全は、ほとんどが彼の手を経ている。今後、こ
ないだろう。漁村をまとめているヒョン・サンロクさん (63歳) は、 難民の息子として産まれ、南山浦で40年以上、海と共に生きて きた。
幸いなことに、時おり中立水域を泳いでくる北朝鮮の住民に
よって大きな騒ぎが起こることはあっても、喬桐の海ではおよ そ60年間、一度も軍事的な衝突がなかった。海と共に老いてい
2
歴史文化発展協議会の会長という役割だ。いつからか喬桐の歴 の団体の名前を取って『喬桐誌』という郷土誌も発行する予定だ。 彼がこの役割を重要視するようになった背景には、開発が自然 を破壊して歴史をなくし、文化を傷つけたという痛切な自覚が
ある。彼は喬桐の歴史と文化について、声を荒立てることなく、 歴史の先生のように分かりやすく低い声で、年度までスラスラ
3
1 大龍市場は、朝鮮戦争の際に延白から避難してきた人たちが、故郷の市場をま ねて造ったものだ。朝鮮戦争直後から時が止まったような市場の風景に、郷愁 を誘う壁絵も加わり、2014年7月の喬桐大橋の開通後、魅力的な観光地になっ ている。 2 朝鮮戦争の際に延白から避難してきたチ・グァンシクさん (75歳) 。20代前半に 理容師を目指し、1970年代末に喬桐理髪館の主となってから今まで続けてき た。早々に足が切れても 「日が沈むまで」 という営業時間を変えたことはない。 3 「喬桐面民の日」の体育大会は、およそ2700人の喬桐島民が集まって心を交わ す行事
韓国の文化と芸術 27
と話す。話を要約すると、次のようになる。第一に、喬桐は他
の地域に比べて経済的・文化的にないがしろにされてきた。第二 に、しかし喬桐は十分に誇りを持てる歴史と文化がある。第三
に、したがってこれを守って保存するのは、ここに住む皆の責 務だ。
「喬桐は両京咽喉といわれていました。高麗の首都・開城と朝
鮮の首都・漢陽にとって、喉のような場所という意味です。江華
は水の流れが速くて、船を泊めることができませんでした。そ のため、税穀船など開城と漢陽に向かう海上の物流は、すべて
喬桐で検査され、外国の使臣もここを通って首都に入りました。 さらに、海から漢江と礼成江につながる入口なので、首都圏の
海洋防衛の司令部にあたる京畿水営と三道水軍統御営が置かれ、 軍事的にも非常に重要な要衝でした。今では喬桐が江華に属し ていますが…」 。
彼の話を聞いて、単に郷土愛が信念になったと考えてはいけ
ない。喬桐に200万坪の工業団地を造って南北交流事業をしよう と地方自治体が提案したとき、彼は「経済的な利益中心の経済特 区ではなく、お互いに歴史や文化を共有し、相手を理解する南
北交流こそ真の交流だ」 と主張した。そして、次善の策として 「気
候と土質が似ている喬桐を北朝鮮との農業交流の足掛かりとし て、喬桐の文化と特性を生かして住民の仕事も守り、共に生き ていく道を模索しよう」 と提案したことがある。
1
大龍市場と遊撃隊
大龍市場は、朝鮮戦争のときに延白や開城から避難してきた
人たちが集まって暮らす中で形作られた。喬桐を避難ルートに
したのは、陸路よりも海路がはるかに安全で早かったからだ。 特に中国の人民解放軍の参戦によって連合軍が退却した1950年
12月から、船に乗った数万人が喬桐と江華を経て、仁川や忠清 道に避難した。そうした中、延白から渡ってきた多くの若者が 喬桐に定住した。彼らが喬桐に残ったのは、奪われた土地を取 り戻せば、一番先に故郷に帰れるという期待、そしてまだ避難
1 朝鮮時代に海外からの侵攻を防ぐために造られた喬桐邑城跡が残る邑内里。朝 鮮戦争後に島の干拓事業が始まるまで、長らく喬桐の中心だった。 2 海を奪われた喬桐島民にとって、農業は重要な生業だ。
父には、故郷の延白(ヨンベク)を懐かしみ郷愁を癒す方式がいくつかあった。その一つが、天気 の良い日に喬桐島の北側の丘で、角山の野原の向こうにある故郷の裏山の松をぼんやり眺めるこ とだった。喬桐から父の故郷の湖南面までは2~3㎞に過ぎない。そんな日は、泥酔して帰って きて、早く床についたものだった。 28 KOREANA 秋号 2016
していない家族の消息を聞き、家族を連れてきたいという思い
える「遊撃軍忠魂戦跡碑」が建てられている。しかし、彼らがそ
ッパ(スープご飯)や冷麺の店、飲み屋を開いた。その後、定住
担したとして虐殺したという記録は抜けている。
からだった。彼らは生計のため、道端で服、靴、服を売り、ク して現在のような市場になったのだ。
の時期に、北からの避難民を左翼と見なし、あるいは反逆に加
朝鮮戦争がもたらした傷跡は、朝鮮半島の他の地域と同様に、
チ・グァンシクさん(75歳)も、先に避難してきた父親を探す
癒されることなく歴史に埋もれていった。しかし傷は、ゆっく
理容師になろうと決め、ここに理容室を開いて今まで続けてき
中で1位は、かつて敵国として戦った中国人だ。そうした変化
ため、家族で喬桐に来た。彼は20代前半に当時人気の高かった
た。その後、多くの人がやってきて市場が大きくなり、学校、 警察の支署、役所も近くに移され、いつのまにか大龍市場は喬 桐の中心になった。ただし、土地と建物の持ち主が違うため利
害が合わず、再開発計画から常に外されたため、今でも1960年
代の市場がそのまま残っている。そのため「時間が止まった街」 として、故郷に戻れなくなった「失郷」のイメージと共に、心引 かれる観光地になっている。
延白郡民会が1986年に発行した『延白郡誌』には、延白郡の若
りとだが少しずつ癒されている。最近、韓国を訪れる外国人の の中、反共主義の下で敵と戦った暗い過去が、勇気ある人たち
の多くの証言と記録によって残されている。2005年に設立され
て2010年に活動を終えた「真実和解のための過去史整理委員会」 は、反逆容疑者の家族という理由で183人の民間人が喬桐の国連 軍遊撃隊によって無念にも虐殺されたと2009年に発表した。内
面に埋もれていた冷戦時代の歴史が、私たちに和解の手を差し 伸べているのだ。
1975年に喬桐の住民団結のために制定された「喬桐面民の日」
者、落伍兵、元警察官が自発的に組織した「タイガー部隊」が国
が、今年で41回目を迎えた。今年は記念体育大会も盛大に行わ
ている。彼らは休戦までの2年半の間に2746人もの敵を射殺し、
そ、喬桐と延白が橋でつながる日を待ち望む韓国の人々が、喬
連軍に編入され、喬桐を中心に遊撃活動を展開したと記録され 8万人を超える民間人を救出したという。喬桐島には彼らを称
れた。そもそも市民が勝者の戦争など存在しない。この点にこ 桐に思いを馳せるべき理由がある。
2
韓国の文化と芸術 29
特集 5 DMZ -鉄条鋼を通して見つめた禁断の地
ビジュアルアートを通して見る冷戦の最後の現場
「リアルDMZプロジェクト」 「リアルDMZプロジェクト」 は、DMZとその周辺地域の多層的な意味を現代美術によって 解釈し、記録する企画だ。2012年に江原道鉄原の安保観光コースで、
施設の一部を活用したサイト・スペシフィシティな展示が開かれたのを皮切りに、 多彩な実験的展示と学術フォーラムを行ってきた。 コ・ミソク 高美錫、東亜日報論説委員
30 KOREANA 秋号 2016
D
MZ(非武装地帯)は矛盾した空間
にアメリカと国連、北朝鮮と中国が当事
マにした日本のアーティスト、宮島逹男
帯を隔てて、韓国と北朝鮮が銃
ない。韓国が主導的な役割を果たせなか
臨津閣や漣川の台風展望台などを背景に、
だ。分断が生んだ軍事的な緩衝地
を向け合っている。人の往来がなくなり、 珍しい動物や植物が生息する生態環境の 宝庫でもある。だが、常に衝突の恐れが
あり、世界で最も危険な境界に位置して いる。それでも、非武装地帯の南方限界
線の南側に一定の民間人統制区域が設け
者として出席したが、韓国は含まれてい った過去を振り返り、このプロジェクト を通して、DMZの意味について私たちが
新しい解釈を主導的にしてみたかった」 。 彼に会い、参加したアーティストが見た DMZについて話を聞いた。
られ、その韓国最北端の村々では、平凡
分断の再解釈
DMZプロジェクト」 は、DMZの政治的・軍
場を芸術プロジェクトとして企画したき
な住民が農業をして暮している。 「リアル
事的な意味を超え、この二律背反ともい える状況の表現に中心を置いている。
このプロジェクトを構想・主導してき
たキュレーターのキム・ソンジョン氏(金
宣廷、SAMUSO:Space for Contemporary Art代表)は、企画の意図について次のよ
うに説明している。 「1953年の休戦交渉
コ・ミソク なぜDMZなのか。紛争の現
っかけは?
キム・ソンジョン 2008年に境界をテー
マグナス・バルタス作『勝利の叫び』 ( 2015) 。ソウル と平壤の戦争記念館が戦争をどのように表現してい るのか、二つ並んだ画面で対照的に見せる映像作品
氏の展示を企画した。境界に近い坡州の
南北を隔てる北緯38度線の象徴として 「3」 と「8」を人の体にペイントした後、撮影
するという内容だった。その展示の下準 備のための社会調査で、韓国人である私 がDMZに特に興味もなく、何も分かって いないことに気付き、反省した。
その後、DMZに関する記録と芸術作品
を蓄積することを目標に、10年プロジェ
クトを構想した。最初から韓国内だけで なく、海外のアーティストの参加を念頭 に置いて、DMZの資料調査と研究を並行
して進めた。軍事境界線という境界を見 る視点、分断が残した社会的・政治的状況
に関する研究、環境問題などに視野を広 げている。ソウルのアート・ソンジェ・セ ンターでは、パフォーマンス、アーティ
©SAMUSO
韓国の文化と芸術 31
ストとの対話、ワークショップなど展示
の深い所でも展示したため、アクセスは
っているのも、そのためだ。 「リアルDMZ
プロジェクトの主な舞台は江原道鉄原
展示するのとは違い、このプロジェクト
の市場、教会、バスターミナル、その他
との連携も進めている。
郡だ。1945年の終戦直後に38度線が引か れ、鉄原はソ連軍政の管轄に入った。当
時は労働党舎など共産政権の施設が建て
られたが、休戦後に韓国に編入された。 鉄原にはDMZの3分の1があり、南側は
大韓民国鉄原郡、北側は朝鮮民主主義人 民共和国鉄原郡になっている。朝鮮戦争 において、中部前線を掌握するための戦 略的要衝であり、最大の激戦地の一つ「鉄
の三角地帯」に象徴される地域でもある。 朝鮮半島の中央に位置しているため、か
つては物流と交通の拠点として栄えたが、 戦争でほとんどが廃墟と化した。 地域住民とのコミュニケーション
良くなかった。既存の作品を持ってきて ではほとんどが新しい作品を発表してき
た。そのためには、アーティストがDMZ
について理解する時間が必要だ。しかし、 長い時間をかけて作った作品が、限られ
た時間しか展示されないのは残念だった。 そこで毎年、行事の内容を修正・補完し
統制線(民統線)内外の不便な場所を中心
にした展示から脱し、商業・文化施設が密 集した場所に移したことで、地域住民と コミュニケーションする機会も増えた。
コ 民統線村のレジデンシープログラ
ムも、そうした方向性によるものなのか。
地域での展示へと変わってきた。だが、
ある空き家を改造して「陽地里レジデンシ
ェクトなのに、住民がないがしろにされ
究者が現場で寝泊まりしながら活動する
から、誰でも身近に接することができる 地域から予算の支援を受けているプロジ
たという反省から、2015年には地域住民
が行き来し、休暇中の軍人もよく訪れる 東松邑に展示場所を移した。
コ 境界そのものよりも、境界近くの住
民の日常に溶け込もうという意図が読み
キム 最初の1年間は、一般の人がな
キム 公の場で開かれる公共美術プロ
取れる。
かなか行けない境界近くで多くの展示が
ジェクトなので、持続性を重視している。
光コース内の施設、さらに南侵トンネル
年住民と親密なコミュニケーションを図
行われ、期間も短かった。鉄原郡安保観
の空き施設を活用して開かれた。民間人
て、立ち入り許可が必要な地域での展示
コ これまでプロジェクトにどのよう
な変化があったのか。
プロジェクト2015:同送歳月」 は、東松邑
1回で終わるイベントにとどまらず、毎
キム 2014年に鉄原郡東松邑陽地里に
ー」を始めた。国内外のアーティストや研 プログラムで、今まで10人ほどが参加し
ている。1970年代に北朝鮮への宣伝のた めに造られ、今は75世帯130人余りが住
んでいる小さな村だ。最初は、地域住民
もアーティストもぎこちない様子だった
が、今では住民の助けを借りて農業をす るほど親しくなっている。アルゼンチン のアーティストは、住民と仲良くなって バーベキューパーティーを開き、村の人 たちの映像作品を作っている。
1 リアルDMZプロジェクトに参加したアーティスト と話を交わしているキュレーターのキム・ソンジ ョン氏(右端) 。朝鮮戦争で破壊され壁だけが残っ た鉄原の日本統治時代の貯氷庫跡地にて。 2 チェリストのイ・オッキョン氏。鉄原の民間人統 制線内の村・陽地里の使われていない精米所で『壊 れた空』 ( 2014) の即興演奏を行っている。 3 アーノウト・ミック作『 アイスクリーム高地 』 (2014~2015) 。江原道鉄原のDMZに近いサプス ル峰を背景に、若者の楽しそうなハイキングが緊 張で歪む描写によって、南北の境界と対立を表現 した映像作品
©SAMUSO
1
「韓国はDMZを戦争観光商品として開発しているような印象で、北朝鮮は国全体が戦争 テーマパークのようだった」 (プロジェクト参加アーティスト、インゴ・ニールマン) 。 32 KOREANA 秋号 2016
2
3
韓国の文化と芸術 33
超えた今日、難民を取り巻く鋭い対立を
内の者と外の者、視点の違い
見ても、よく分かるだろう。
コ 韓国の特殊な状況を扱いながら、地
コ 海外と韓国のアーティストでは、
域性と普遍性を同時に求め、思い悩んだ 様子がうかがえる。
DMZの解釈にどのような違いがあるのか。
複雑に絡み合っている境界は、全世界
アーティストは、見慣れた状況を新たな
1975年に統一するまで、北緯17度線に沿
ーティストは、DMZを自分なりの視点で
キム 学校で反共教育を受けた韓国の
キム DMZのように戦争や国際情勢が
が共有・共感すべき問題だ。ベトナムは
って南と北を隔てるDMZが存在していた。 かれていたが、ベルリンの壁が崩壊して
題を正しく把握できない。冷たい戦争と
ーマは常に有効だと考える。冷戦時代を
©SAMUSO
34 KOREANA 秋号 2016
された映像作品だ。激しい砲撃を受けた
高い。内の者の視点にとらわれると、問
と人を分けるもの、つまり境界というテ
ノ・スンテク氏の写真インスタレーション『生きよう とするなら vs. 来たのなら』 ( 2012) 。北朝鮮の平康高 原を一望できる鉄原平和展望台の屋上から撮った「写 真撮影禁止」 の標識と 「軍人の後ろ姿」 が、写真の中の その場所にかけられている。ノ・スンテク氏は次のよ うに話している。 「韓国で分断の境界線は、韓国人も 外国人も訪れる観光地になっている。そんな特殊な 場所を訪れる者の義務は何なのか。見ることだ。撮 ることだ」 。
トは、ほとんどが国、民族、イデオロギ
文化など韓国ならではの特徴にも関心が
れた。物理的であれ心理的であれ、領土
コ 記憶に残る海外アーティストの作
の『アイスクリーム高地』は、プロジェク
けるか苦心しているようだ。また、軍隊
帯は、国連安保理決議案によって設けら
記憶に残る作品
解釈したり、もっと大きな流れの中でア
各自の関心事とDMZをどのように結びつ
イラクとクウェートの間にある非武装地
が必要なのだ。
品を紹介するなら?
ーなどの境界に関心を持っているので、
境界も消え去った。シリアとイスラエル、
ためには、国際的な視点、外の者の視点
視点で見ようと努力している。海外のア プローチしている。参加するアーティス
ドイツは第2次世界大戦以降、東西に分
熱い平和の間にあるDMZを立体的に見る
キム オランダのアーノウト・ミック氏
トのコミッションで1年にわたって制作
山が、溶けて流れるアイスクリームのよ うに見えたことから「アイスクリーム」と いう名前がつけられた。 「美しい丘がある
場所に、重い歴史の意味が含まれている」 ことを表している。
スウェーデンのアーティスト、マグナ
ス・バルタス氏は、ソウルの戦争記念館と
のシナリオ』を示している。2014年のプ
た『勝利の叫び』で話題を集めた。南北の
ジを読み上げる朗読パフォーマンスをし、
平壌の祖国解放戦争勝利記念館を撮影し
対峙について、双方の戦争記念館がそれ ぞれどのように表現しているのかを示す 映像作品だ。平壌の記念館は、40人の画
家が描いた背景の壁画と戦利品である本
物の戦車とジープが展示されており、ソ ウルの記念館は、特殊効果を生かしたコ
ロジェクトで、執筆中のこの本の1ペー
て開発しているような印象で、北朝鮮は
見られる過去の歴史と現在の生活、緊張
と述べたことも記憶に残っている。
多い。イム・ミヌク氏は停戦後、鉄原水
ューで「韓国はDMZを戦争観光商品とし
国全体が戦争テーマパークのようだった」 コ 海外のアーティストはニュースで
感じたアーティストが、二つ並んだ画面
キム アーティストごとに、それぞれ違
ような点に関心を寄せたのか。
にその対照性を集約している。
った方向で展開されている。例えば、重
ルマン氏は、韓国と北朝鮮を訪問した経
自然に関心を寄せるアーティストもいれ
験を基に 『解法264-274:訓練国家』 とい
うタイトルで『統一した韓国のための11
コ 韓国のアーティストの参加作品
は?
しか見たことのないDMZを体験し、どの
ドイツのアーティスト、インゴ・ニー
い未来を構想するアーティストもいた。
2015年にようやく出版された。インタビ
ンピュータゲームのようなジオラマが展
示されている。対照的な展示を印象深く
立てた部品で作られた作品」のように、遠
要な生態系として注目されているDMZの ば、 「韓国と北朝鮮の住民が一緒に暮らす 家」 、 「韓国と北朝鮮の住民が共同で組み
キム 韓国のアーティストは、境界で
と日常の共存について考えさせる作品が 道局があった場所で虐殺されたといわれ
る300人について、その記録をアーカイ ブとして公開した。ク・ジョンア氏は、溶 岩台地の鉄原の象徴である玄武岩を使っ
て、平和広場でインスタレーションを発 表した。写真記者出身のノ・スンテク氏
は、DMZの南侵トンネルを訪れた観光客
の後ろ姿を撮るなど、記者的な視点の写 真を発表した。百聞は一見に如かずとい う言葉があるように、より多くの人が実
際にDMZを訪れて、見て、感じてほしい。 このプロジェクトが、どのように、そし
てなぜ地域的な問題を国際的に扱ってい るのか一緒に考える時間が必要だろう。
ビジュアルアート、建築、音楽、人文
学、社会科学のコラボレーションの道を 切り開いているキム・ソンジョン氏。彼
は、今年はこのプロジェクトの展示を行 わない代わりに、来年から永久に残すこ とのできる 「パビリオン・プロジェクト」 を 実現するため、準備に入っている。10年
プロジェクトをさらに長期的に発展させ ていくとも語っている。
「リアルDMZプロジェクト」 は、韓国の
現代史と朝鮮半島の分断について理解を
深める調査・研究のプラットホーム、そし て世界史に記録された冷戦の遺跡で行わ
れる実験的な芸術祭を目指している。究 極的な目標は、韓国を超えて世界の人々 の観点と結びつけ、人類の平和と共存の
糸口になる 「DMZの解読」 だ。実現すれば、
DMZという物理的な境界だけではなく、 私たちの中にある見えない心理的な境界 まで顧みるきっかけになるだろう。
韓国の文化と芸術 35
フォーカス
庭園としての 街の階段 クァク・ヒス 郭熙秀、IDM都市建築代表 金東賢 写真
立ち後れた町外れに公共美術で活気を吹き込もうとする都市再生事業は、
これまで全国的に散らばる高台の貧民街、タルドンネ (月の町) を壁画の町に 生まれ変わらせた。しかし、閑散としていた町が地区外の人々の ロマンチックな遊び場になり、ドンネ住民の不満の声があちら こちらから噴出している。
戦
争の廃墟から立ち上がって成長
階段の市がなくなった背景
余りで人口1千万人の国際的な
文化を形成している梨泰院(イテウォ
ル」の背景になった江南は、今でこそ高層
イスラム寺院のソウル中央聖院につ
外国人が大勢集まって異色の地域
したソウル市は、わずか60年
ン)の雩祀壇(ウサダン)通りに入ると、
大都市となった。サイの「カンナムスタイ
ながる階段がある。世界各国のレス
ビルが立ち並ぶ韓国経済の中心地である
トランが密集しているため、風変わ
が、40数年前までは果樹園と耕作地が大
りな風景と料理が若者を引き寄せて
半を占める町外れだった。一方、依然と
いた。2013年この階段に市が立ち変
して開発の手が及ばずに時が止まったま
化が起きはじめた。階段の市は、近
まの処もある。
韓国は山地の面積が国土の70%以上を
占める山岳地形である。ソウルも山を中心
1
隣地域の若い創業者たちと雩祀壇通 りで活動しているアーティストが中
に形成された都市である。そのため、ソウ
心になって企画、運営した。アクセサリー、小料理、ファッショングッズなどを売るの
に中でも、近代化と都市開発の真っ只中
かな収益だった。口コミが広がって毎月最後の土曜日になると、雩祀壇通りの階段は市
ルに階段が多いのは至極当然のことだ。特
で、貧民層は高台の急斜面に追いやられ、 安普請な家を立てて定着した。人々はそ のような地域を月に一番近いという意味 で 「タルドンネ (月の町) 」 と呼び始めた。
タルドンネの階段の傾斜は、彼らの生
活と同じぐらい険しい。昨今、その階段 が論争の火種となった。 36 KOREANA 秋号 2016
がせいぜいの市だったが、彼らの目的は無邪気な興味と充実した遊び心地、そしてわず を訪れる人々で賑わった。買い手も売り手も楽しんだ。ところが、この市が今年3月か
ら開かれずにいる。よそ者が押し寄せてきて周辺の賃貸料が跳ね上がった上、通行の妨
げになるという苦情が殺到して中止となった。くたびれた階段がこの地域のランドマー
クになり、階段の市を媒介に芽生えた隣人の絆が前向きな変化を導き出すだろうという 希望は、結局中途半端な成功で終わった。階段は有名になったが、隣人の絆は希薄にな ったのである。
1 梨泰院・雩祀壇(ウサ ダン)通りで地元の若 手アーティストたち が「ポラロイドカメラ で思い出を残してく ださい」というフレー ズで人々を呼び込ん でいる。 2 2013年にスタートし た階段の市は、梨泰 院・雩祀壇(ウサダン) 通りをソウルの新た な観光スポットにし たが、それによる賃 貸料の高騰と通行妨 害への苦情が噴出。 結局、市は今年3月 に姿を消した。
2
韓国の文化と芸術 37
階段の絵が消された背景
は、時計の針が止まったような錯覚を引き起こす。そこにパブリックアートの華麗な色
の壁画の町も似たようなケースである。
場所としてクローズアップされるのは当然のことである。
鍾路区梨花洞(チョンノグイファドン)
600年余の歴史あるソウル城郭と文化芸
彩が加わり、人気ドラマにまで登場したことから、せちがらい都市空間の中で魅力的な 問題は居住者の立場である。この公共事業の趣旨通りならば、文化生活とは程遠い低
術通りの大学路(テハンノ)をつなぐ梨花
所得層は、自分たちが住む町の中で日常的に芸術に接することによって、生活の質が向
した「疎外地域生活環境改善のための公共
とした満足感に浸かるのもつかの間、遊び場でありふれあいの空間、憩いの場だった階
洞一帯は、2006年文化体育観光部が主管 美術プロジェクト」の一環として壁画事業
が行われた、いわゆる11の「Art in City」
モデル地区の一つである。70人のアーテ
ィストが参画し、急な坂道に沿って立ち 並んだ古びた住宅の壁に絵を描き、施設 物、造形物、標識版などを整備した。と
くに、ソウル城郭の下にある立ち後れた
上し、文化的な誇りを感じなければならない。しかし、タルドンネの住民たちはちょっ
段と小路に混雑が生じ生活環境そのものが一変してしまったという不満を募らせた。よ
そ者が望むロマンチックなスポットとそこに住む当事者たちの現実的な日常生活の間で 相反する利害関係がぶつかり始めた。住民たちが階段の絵を消すと、行政当局は公的資
金で作られた絵を毀損したことを理由に法的責任を追及した。この問題に対する解決の 糸口をどこに見い出せばいいのか。行政当局が住民たちに損害賠償を請求したり、せっ かく作った都市再生事業を打ち切ったりすることが唯一の解決策なのだろうか。
集合住宅や小規模な縫製工場が密集して
都市再生事業のあり方
魅力的な絵に生まれ変わったので、テレ
るようなプログラムを探すことだ。階段のような街の公共インフラについての議論で、
を競ってここを背景として使った。この
ルドンネの住民も、訪問客も、いずれも市民であり同等な公共財への使用権利を持って
いるタルドンネのくたびれた壁と階段が、 ビのバラエティー番組や人気ドラマが先 ため、ここを訪れる人々が増え、たちま
ちデートスポットや観光スポットとして
問題のポイントはその空間を楽しみたいと思う人たちと地元住民がともに満足でき
使用権利のみを中心に問題にアプローチすることは利害関係者にあまり役立たない。タ いるからだ。
浮上した。ところで、最近この町の階段
に描かれた魚とヒマワリの絵を住民たち
が消すという事件が発生。観光客の騒音 とゴミ、プライバシー侵害などが原因だ
という。人々に衝撃を与えたこの事件は、 法的問題にまで発展した。
よそ者のロマンvs居住者の現実
雩祀壇通と梨花洞のタルドンネは、都
市の人々にとっては希少な宝石のような 空間である。広々とした眺め、迷路のよ
うに広がる小路と階段、大小不ぞろいの ボックスがぎっしり詰まっているような
空間。訪問客はこの空間の中で碁盤の目 のように整備された現代都市ではなかな か見られない風変わりな風景を目にする
ことができる。昔そのままの素朴なタル ドンネの雰囲気と住民たちの純朴な印象
1
住民たちが階段の絵を消すと、行政当局は公的資金で作られた絵の破壊を理由に法的責任を追及した。 この問題に対する解決の糸口をどこに見い出せばいいのか。行政当局は住民に損害賠償を請求したり、 せっかく立ち上げた都市再生プログラムを打ち切ったりすることが唯一の解決策なのだろうか。 38 KOREANA 秋号 2016
韓国の街の壁画は、1980年代の民主化運動から生まれた。当時不合理な韓国の政治
状況により、民衆運動が広がり、一部のアーティストたちが自分たちの政治的な立場を
壁画で表現した。このような壁画も芸術主体と住民の利害関係がぶつかる中で生まれて おり、都市の美観が目的ではなかったので寿命はそれほど長くなかった。純粋美術壁画 運動の出発点となったのは、92年に弘益大学校美術学部の学生たちが学校の近くの小
路を利用して始まったストリート美術展である。学生たちが地元住民の同意と協力を得 て、さえない街の壁をクリエーティブな壁画に変える同ストリート美術展は、政府レベ ルの文化環境整備事業作りの呼び水となり、今年で24回目を迎える。
重要なのは事業への自主性と住民参加であろう。たとえ政府が舵取りをしたとして
も、それに支えられて初めて真の意味の持続可能な都市空間 再生事業が可能であり、その結果物が現代都市の人間性回復 にも寄与することができるだろう。幸い、最近の都市再生事
業は都市を有機体として見なしてアプローチしており、市民 中心の共有概念を取り入れている。2015年ソウル市が打ち
出した 「ソウル都市再生総合プラン」 も、計画から施行まで住
民が中心となり地域密着型整備を行うなど、その空間ならで はのアイデンティティを維持する方向に向かっている。“地
域密着型整備、住民の参画、物理的な成果よりは持続可能な 開発エンジンの確保”などの内容が柱である。
雩祀壇通と梨花洞の階段をこのような視点で見直してみ
1 梨花壁画町の住民たちの 間では、 「古くて汚かった 町が壁画のおかげで明る くてきれいになった」とい う見方と「住居地に観光な んてとんでもない。我々 もゆっくり休みたい」とい う見方に分かれ、妥協点 を模索している。 2 梨花壁画町は、ソウル城郭 通りのうち左側の駱山(ナ クサン)の稜線に沿って曲 りくねった駱山区間下の 丘に形成された町である。
よう。階段は人々が上り下りするところ である。また、階段は人々が座ってくつ
ろぎ、街を眺めるスタンドの役割もする。 このような階段の基本的な機能の上にプ ログラムをかぶせれば良い。そして、領
域を区分すれば良い。隣人との利害がぶ つかるのは、領域が区分されていないか らである。領域の見分け方は持続可能な ものにしなければならない。さらに、住
民の参画が前提になるべきだ。作為的で 不自然な都市活用のアイデアは長続きし ない。
階段に庭園を造るのはどうだろうか。
スカイラインガーデン、コンテナガーデ ン、ループガーデンなど、世界の複数の
都市で試みられているさまざまな庭園造
りをみると、都市空間と人間が自然を媒 介にどのように持続的に美しく結び付け
られたかがわかる。住民自ら造る階段庭 園は想像するだけも楽しい。
2
韓国の文化と芸術 39
アートレビュー
イ・ジュンソプ
純潔な魂、高潔な魂、さまよう魂の記録 40 KOREANA 秋号 2016
©国立現代美術館
『旅立つ家族』 ( 1954) 、紙に 油彩、29.5×64.5cm まだ太陽が完全に昇りきら ない薄暗い夜明けに家族全 員で旅立つ場面で、家族に再 会するという希望にあふれ た作家の心を反映した絵だ。
イ・ジュンソプ(李仲燮)は20世紀の韓国の画家の中で最もよく知られており、最も愛されている
画家だ。彼の作品は1970年代以降に 李仲燮 ブーム”と言われるほど爆発的な大衆の関心を集め
た。したがって相当数の作品が個人コレクターの所有となったため、一般人や研究者が遺作を時
系列かつ包括的に鑑賞することは難しかった。イ・ジュンソプ生誕100周年、逝去60年を記念し国 立現代美術館で開催されている 「百年の神話:韓国近代美術巨匠展イ・ジュンソプ(李仲燮)」 展は最 初の大規模な回顧展だ。
チョン・ジェスク 鄭在淑、中央日報論説委員兼文化専門記者
韓国の文化と芸術 41
・ジュンソプは小説や映画の主人
公のように大衆的な人気の対象
となってきた。非凡・悲恋・流浪・
として復活したイ・ジュンソプはピュアな 心のシンボルとなったのです」
夭折など等、ドラマチックな要素をすべ
流浪する魂の記録
となっている。1916年に生まれて1956
まれ、平壌、東京、済州島の西帰浦、釜
彼は貧しくはあったがなかなか愉快な人
都市を転々として暮らした。彼の絵には
て兼ね備えた彼の短い生涯はすでに伝説
年40歳の若さで孤独な死を迎えるまで、 生を過ごし、韓国近現代美術史の星とな った。2014年に『李仲燮評伝―神話とな った画家、その真実を求めて』を記した美 術史家チェ・ヨル (崔烈) 氏はイ・ジュンソ プが国民的画家となった背景を次のよう に説明している。
「朝鮮戦争で傷ついた人々に必要だっ
たのは、荒廃した時代に耐えられるほど
イ・ジュンソプは平安南道平原郡に生
山、統営、ソウルを含めた10カ所以上の
憂鬱と愛への渇求がにじみ出ており、空 虚さと天真爛漫さが混在するのは、さ迷 う魂の記録のせいであろう。文人らと幅
資料を借りてイ・ジュンソプの全貌に迫っ
ている。 『黄牛』 、 『旅立つ家族』の連作な
ど、彼の代表的な油絵60点余りと銀紙画、 ドローイング、葉書画、手紙画、遺品な
どが数多く展示されている。貧困と戦争 のせいで家族と離れて暮らした時間が長 かったために誕生した葉書画や絵手紙は
それ自体が哀しい家族の歴史、韓民族の 別れの歴史を表している。
大部分の作品が1950年代の5年間に
集中的に制作されたものであることから、
放浪暮らしの痛みを昇華させていた。イ・
た彼の創作にかける情熱が感じられ驚か
彼らとの出会いで培った詩的な芸術魂で
ジュンソプは生前“芸術は真実の力が嵐に 耐える記録”だと語っている。
6月3日から10月3日まで国立現代美
術館徳寿宮館で開かれている今回の回顧
天才であると同時に、高潔な魂の持ち主
術館(MOMA)をはじめとして60余のコレ
42 KOREANA 秋号 2016
クターから200 余点の作品と100余点の
広い交流のあった画家イ・ジュンソプは、
の純潔な魂であり、その基準に最も適し た人物がイ・ジュンソプでした。爆発する
©国立現代美術館
イ
1
展では、アメリカニューヨークの近代美
戦争直後の貧困と苦痛の中で燃え上がっ
される。特に生涯最後の1年あまりの期 間、画家は拒食症と精神疾患、感染と死
闘を繰り返しながらも筆を放さなかった。 死が迫っている瞬間にも彼は貧しさ故に、 日本に送り出した愛する妻と二人の息子 との再会のみを考えてその意志を固めて
いた。1954年に妻に送った手紙の一節に そんな心を垣間見ることができる。
「最も大切な愛しい妻にすべてを捧げ
てひとつになれない人は決してリッパな
仕事は出来ません。独身で制作する人も ありますが、アゴリ君(顎の長いイさん
という意味のイ・ジュンソプのニックネ
ーム)はそんなタイプの画工ではありま せん。自分を正しく見ています。芸術は
限り無い愛情の表現です。真の愛に満ち
てはじめて心は純粋無垢な状態となり、 良い作品を作り出すことができるでしょ
う。… 君だけを心にかき抱く大画工、ジ
ュンソプを固く信じて、東京で誇り高い 心と気概をもって、常に心は明るく健康 でありますように」
イ・ジュンソプは自らを“正直な画工”と
表現することを好んだ。自分の感情に忠 実な率直さは、彼の作品にたびたび登場 する子供の描写に現れている。画家は自 分を童子に投影することで、貧しく疲労 に満ちた日常を忘れようとしたのかもし
れない。遠いかなたの夢を追い求めて浮
遊するかのように、画幅の上を飛び回る 少年の姿に画家の純粋な顔が重なる。 銀紙画の創造
イ・ジュンソプの作品世界を論じると
きに、その冒頭に出てくるのが銀紙画だ。 彼は煙草をよく吸っていたが、本当に重 要だったのは煙草の包み紙として使われ
2 1 『闘鶏』 ( 1955) 、紙に油彩、28.5×40.5cm 対角線で画面を分けて二羽の鶏が争う場面を描いた。三原色で基本形状を描き、そ の上に濃いグレーをかぶせた後、乾く前に太い輪郭線で一気に描き上げ完成させた 作品だ。 2 1954年に統営で開かれた4人展当時の李仲燮の姿 3 『二人の子供 』 (1950年代) 、銀紙に彫刻、8.5 x15.5cm 銀紙画は高麗青磁の象嵌技法や金属工芸の銀入絲技法を連想させる李仲燮だけの独 創的な技法で制作された。
ていた銀紙だった。彼は画材を買うお金 が無かったため、銀紙をキャンバスにし た。釜山への避難時代に集中的に制作さ れた銀紙画はイ・ジュンソプが草案した
絵のジャンルと言えるほどで、世界美術
史にも見当たらない独創性を帯びている。 銀紙画は外国の煙草の包み紙に付いてい
る銀箔を刻んだり、引っ掻いたりしてか
ら、その上に絵の具を塗って拭き取ると、 引っ掻いた部分にだけ絵の具の跡が残る
という方法で制作された。そのような過 程を経て深くえぐられた線からなる一種
のドローイングが完成するが、平面であ りながら凹凸の陰影が生じ、さらに光沢 のある表面効果まで現れて魅力的だ。
3
韓国の文化と芸術 43
1 『魚と遊ぶ3人の子供』(1950年代)、紙に油彩、27 ×36.4cm 2 『黄牛』 (1953-54)、紙に油彩、32.3×49.5cm 李仲燮が残した何点かの牛の絵の中で最も強烈な 作品とされる。
©国立現代美術館
1
イ・ジュンソプは銀紙画に裸の子供たちの姿をたびたび描いているが、単純化された線描画は味わ い深く、家族を恋しがる画家の思いがいかに切実だったかを感じさせる。画家はこの銀紙画をのち に壁画を描くためのスケッチだとも語っていた。 大部分9cm×15cmの大きさで画面
一杯に図像が描かれた銀紙画は300点あ
まりが制作されたと知られている。何本 かの線で形態の本質を引き出すドローイ
ングは“画骨” という単語が表現している ように事物の骨格を現すものだ。イ・ジュ ンソプは銀紙画に裸の子供たちの姿をた
びたび描いているが、線描の直接的であ りながら味わい深い表現は、愛しい家族 への思いがいかに切実だったかを感じさ
せる。画家はこの銀紙画をのちに壁画を
描くためのスケッチだとも語っていた。 今回の展示では銀紙画だけを集めて展示 した第2展示館の壁面をギガピクセル
(Gigapixel)で撮影した銀紙画の拡大映像
で埋め尽くしており、壁画にするという 画家の意志を受け継いだ。
画材を選ばずに続けた造形の実験
イ・ジュンソプの妻と二人の息子への
44 KOREANA 秋号 2016
愛情は彼の作品全般を貫く核心的主題だ
の生涯と作品の関係を研究するうえで重
好感と支持を得ている理由もここにある。
書体と即興的な絵が合わさり一つの芸術
といえる。彼の絵が老若男女の大衆的な イ・ジュンソプは日本留学時代に東京の
文化学院で出会った日本人の後輩、山本 方子(韓国名;李南徳)に90通あまりの葉
書の恋文を送り続け夫婦の縁を結んだ。 葉書の片面一杯に描かれた絵は『神話か
ら』 、 『男と女』などファンタスティック
要な資料であるだけでなく、自由自在な 作品として見ても遜色ない。 「一生懸命絵
を描いてはやく個展を開いて絵を売って お金とお土産をたくさんもって行きます
から、元気で待っていてください」という 文面には胸が熱くなる。
イ・ジュンソプにとって画材は大きな
な物語からシュールな画風に満ちている。
意味を持たなかったようだ。没頭して描
らあふれ出るエネルギーは並々ならない
造形の実験に飛び込んだ。今年4月に終
手のひらサイズの絵ではあるが、そこか ぬものがある。銀紙画と同様に、それ自
体で独立した絵のジャンルを成している。 1952年朝鮮戦争の最中、家族を日本
に送り出し一人残ったイ・ジュンソプはあ ちこちの地方を放浪しながらも手紙は欠
き始めるとどこでもためらわずに新しい
えた最新の調査結果によれば、彼が残し た作品数は合計540点余りだが、その中 で油絵は140余点、彩色素描画は160余点 に達する。
イ・ジュンソプの牛は画家の分身であ
かさず出していた。愛情あふれた文面に
り、彼の作品世界を凝縮した一種の魂だ
枚に達する。この絵手紙はイ・ジュンソプ
白い服を着た朝鮮人の艱難辛苦を克服す
絵をあしらった絵手紙は70通余り、150
った。彼は特に白い牛を好んで描いたが、
2
る忍耐と根気の暗号のようなものだった。
る時代精神の所有者に生まれ変わったの
員を記録した。1999年1月ソウルギャラ
しりとした歩みで大地を踏みしめ断固と
ヒューマニズムこそ当時の現実に最も大
様に多くの観客を集めた。
やせ衰え骨格が露わになった牛は、どっ した行進を続ける。数回のタッチでこの ように強烈な牛のフォルムをつかみ出す 表現力に、彼の猛烈な気力を感じる。書
道の筆法を見るように生き生きとした躍 動感が画幅の上にあふれている。
今回の展示には合計5点の牛の絵が出
です。殺戮と不道徳、貧困に立ち向かう
切な人間の価値でした。イ・ジュンソプは
らで見つめた詩人のグ・サン(具常、1919-
作は民族史と個人史の間に位置する時代
した。 「私はジュンソプのように絵と人
のです。ですから1950年代の「牛」の連 の産物だったと言えるでしょう」 終わりの無い伝説
夕陽を背景に咆える巨大な紅い牛の頭の
院先のソウル西大門赤十字病院で一人息
の涙、咆哮する瞬間の大きく開いた口、
彼の遺体は4日後に見舞いに来た友人に
部分をクローズアップした油絵だ。大粒 深く刻まれた頬の皺などリアルな描写が
見る者を圧倒する。美術史家チェ・ヨル氏 は牛の意味をこのように分析している。
「裕福だった若き日、幻影と神秘を追
求していた純粋主義者のイ・ジュンソプが
戦争を経験し、世の中をしっかり見つめ
生涯の友人として画家の生きざまを傍
世の中と家族の中でその価値を発見した
品されている。その中で最も代表作だと 言えるのが1953-4年の作『黄牛』で、紅い
リー現代で開かれた「李仲燮特別展」も同
イ・ジュンソプは1956年9月6日、入
を引き取る。無縁故者として処理された 引き取られた。悲劇的な人生の最後とは 対照的に、死後、彼の個展は常に話題と
なり大きな人気を集めた。1986年6月ソ ウル湖巌ギャラリーで開かれた「30周忌 特別企画 李仲燮展」は、観覧客がつめか
2004)は、彼を称えながらこんな言葉を残
間、芸術とその真実が一致する芸術家を 知らない。彼は彼と付き合いのあったす べての人々に一点の汚れもない限りない
愛情を注いだだけでなく、その明るく、 奥深い愛情を獣や鳥や魚、または草木に いたるまで情熱を注ぎ、そしてそれらの 生を、互いに睦みあう姿を生き生きと力 強いタッチで描いた」
イ・ジュンソプに対する研究と評価が
なぜ現在進行形なのかを如実に伝えてく れる言葉だ。
け延長展まで行われ合計10万人の観客動
韓国の文化と芸術 45
文化遺産の継承者
サンダムに座り永遠に 想いをはせる 済州島のサンダム(墓を囲む石垣)は、家の周りのチプダム、畑の周りのパッダムなどと同様に、 暮らしに根付いた石文化を発達させた済州島ならではの特別な風習だ。しかし済州の山すその急
斜面に広がる大地の芸術のようなサンダムも開発の波の中で段々と破損され、姿を消しつつある。 済州文化研究所のキム・ユジョン(金唯正)所長がサンダムの研究と保存に力を入れている理由だ。 46 KOREANA 秋号 2016
ホ・ヨンソン 詩人 安洪范 摄影
火
山の溶岩が岩の島を誕生させた。火の島済州。掘っても掘
っても限りなく石ころだらけの畑。済州島の人々の荒々し い暮らしの背後にはこの石の文化がある。島の畑の周りを
囲む石垣はくねくねと波のように流れていく。小高く盛り上がった 寄生火山(オルム)の川筋も流れていく。そのオルムの稜線と畑の石
垣の境界の中に丸い土まんじゅうの墓が見え、その墓をとり囲む石 垣が見える。その石垣がサンダムだ。
空から見下ろしてごらん。春の日、漢拏山(ハンラサン)の麓の菜
の花と調和するサンダム。真冬の日、寂寞とした雪に覆われた墓、 降り積もる白雪と真っ黒な玄武岩の完璧な調和。巨大な大地の芸術 だ。まさにこれが済州美学だ。
だれもが生まれ、いつかは死ぬ。サンダムは生と死の境界石だ。
自然と人間、死者と生者の時空を超越した安息の空間、人間の有限
さを示す謙遜な美徳なのだ。石の一つ、一つを積み上げていくこと が愛であり、死者に対する配慮だ。済州では石と関係をもたない人 生などあり得ない。
サンダムから受ける慰め
済州文化研究所のキム・ユジョンさんはこのサンダムを「霊魂の囲
い」と表現する。
「まるで黄昏のように、済州島全体に流れるように横たわるサンダ
ムの群れを見てください。なんと壮大な規模なんでしょう。エジプ トのパラオのピラミッドは四角錐の形で天に向かって上昇する気運
を放っています。単一記念物として天へと盛り上がっているので勇
壮に見え、最大の墓だと言われます。しかし済州の地に目を向けれ ば、ここでは漢拏山自体が巨大なピラミッドなんです」
彼は20年間、石が中心に置かれた済州の人々の死の文化を写真で
記録し、美学と科学と歴史の観点から分析して、 『美しい石造―童子 石』 、 『済州サンダム』 、 『文人石』などの本を記してきた。彼は孤独で
厳しいこの作業を愛している。彼はなぜ死者たちの囲いを探そうと しているのだろうか。そこにどんな価値を見出したのだろうか。
サンダムを研究する、生まれも育ちも済州島という生粋の済州っ子の美術評論家、キ ム・ユジョン氏が北済州郡朝天邑にあるギョプダムサンダム(二重の石垣)に腰かけてい る。
韓国の文化と芸術 47
運命だ。絵に才能があった少年は幼い頃から死に対し恐怖を抱か
なかった。彼の故郷モスル浦は土俗海洋文化に近現代史の傷が加わ
った地域だ。旧日本軍の飛行機の格納庫があり、開放後は韓国の左
翼と右翼のイデオロギーの対立が生み出した最大の悲劇のひとつ、 済州4・3事件の現場でもあった。村には孤児が多く、乞食もたくさ ん死んだ。そんな時に彼は必ずその死を見に行った。15歳の中学生 の時には死んだ村の子供の葬儀でその棺を担いだという。
彼をサンダムに導いたのは彼の祖母だった。跡取り孫である彼を
非常にかわいがっていた祖母が息をひきとった時、彼は葬儀には出
席もせずに、家にあったオリンパスカメラで7日間の葬礼の模様を
すべてレンズにおさめた。1981年、19歳のときだった。そしてしば し、済州を忘れて過ごした。
文化運動家として生きていた36歳の春、人生に疲れた彼は弁当
を手に山に登った。そして木陰のサンダムに座り、酒を墓の周りに
撒きながら亡者と対話を交わした。人生無情。自分がなぜあんなに 怒ったのか。生きていた時は人生の喜びと悲しみを経験したであろ うあの墓の主も無常に思っているだろう。サンダムに座って酒を傾
けながら霊魂の囲いを見つめていると、心はいつの間にか落ち着き、 温かくなり、人生の路が見えてきた。彼はサンダムで胸がジンとな ったあの瞬間を今も忘れることができないという。
「雨が降った後、霧が立ちこめ風が吹き、水を含んだススキがリ
ズムをとるようにカサカサと音を立てて揺れているのを見ていたら、 自分でも知らず知らずのうちに涙が滲んできました」
当時、韓国社会には「自分たちの物」に対する芸術的な苦悩が沸き
あがっていた。彼もまた民俗美術とは何か、韓国固有の伝統美術に 対する苦悩が深まっていた頃だった。彼が求めていた伝統美術の原 型がサンダムとその前に向かい合って立つ素朴な童子石の造形美に
すべて含まれていた。どんなに暮らしが大変でも先祖の墓だけは誠 意をこめて築こうとした先人たちの気持ちが感じられた。胸が熱く なった。翌日、目を覚ますとすぐに山に向かった。石工の仕事を卑
しいものと考え、子供たちに被害が及ぶのを心配し、名前を明かす
ことを嫌った名も無き石工たちのところを訪れ、その教えを請うた。 そしてその教えはまたとない人生の勉強となった。ある日、山の仕 1 1 童子石は火山の島、済州が生んだ、独特な造形の墓の守り神だ。 2 北済州郡朝天邑の野原で草を食べている馬の一頭が、サンダムの中を 覗き込んでいる。
事をする人たちから連絡が来た。彼は喜んで駆けつけサンダムを一 つ一つ実測し、内外部の構造を図面に書き写し類型を分析していっ た。このように長い歳月、サンダムを研究してきたので、今や彼は サンダムを築く技術をもほとんど体得している。
自分がなぜあんなに怒ったのか。生きていた時は人生の喜びと悲しみを経験したであろうあの墓の 主も無常に思っているだろう。サンダムに座って酒を傾けながら霊魂の囲いを見つめていると、心 はいつの間にか落ち着き、温かくなり、人生の路が見えてきた。 48 KOREANA 秋号 2016
畑 に墓を立てる深い意義
「サンダムの類型は実に複雑です。これは典型的なサンダムで
梅雨の雨が済州の森を濡らすある日。彼について山道を進ん
す。童子石、文人石、望柱石、土神檀の全部が揃っています。地
た。水を含んだ森は静寂に包まれていた。こんな草ぼうぼうの森
く眺められるようにしてあります。背山臨水。前が開けて、水が
で行った。漢拏山の山裾、橋來里の森はどこも緑色に輝いてい のどこに墓があるというのか。しかし彼はかまわずどんどん森の 奥に踏み込んでいく。そうして目にした墓は雑草が生い茂り墓を ほとんど覆いつくしていた。通り過ぎる際に感覚で見つけたサン ダムだという。今ではほとんど霊魂と共感するムダンの粋にまで
形のせいで傾斜がきついので石の階段を築いて霊魂が見晴らしよ よく流れる型です」
キョプダムサンダムだ。象徴的な境界表示であるウェダム(一
重の石垣)とは違い、キョプダム(二重の石垣)は内側の石垣と外側 の石垣を積み上げた後で、その間をさらに接石で埋めていく。キ
達しているのだろうか。ひと気の無い森の中を歩きながら一瞬、 ョプダムサンダムにも正方形、台形など、いろいろな類型がある。 予感がして回りを見回すとサンダムを発見するという。
金氏の墓の近くの、もう一つの大きなサンダムに目が行く。
傾斜地の死角にあるサンダムは階段型だった。彼は石の階段
双墓だ。夫氏の姓をもつ男性とその隣には女性の墓。このサンダ
でかき分けるようにして進むと、苔の生えた丸い目の童子石が表
水滴のついた青紫の小さな山水菊が亡者を哀悼するかのように咲
を踏んで注意深くサンダムの中に入って行った。背の高い蕨を手 れた。墓の左右対称に立つ一対の童子石は亡者が呼べばすぐにで も駆けつける霊魂の友であり、小間使いだ。
ムには霊魂が行き交う門のオルレ(神門)がある。石のすき間には いている。
サンダムは昔、放牧していた牛や馬の出入りを防ぐために墓
長い歳月、雨風にさらされてきた墓はこの墓の主が140年前に
の周囲に築いた囲いだった。それがだんだんと家門の記念碑とな
サンダムは東側が開けていた。亡者もこの森の風音、雨音を聞い
と、小さく目立たないサンダムから、このように壮大に築かれた
49歳でその生涯を終えた金氏姓の人物であることを示していた。 ているのだろうか。
り、家の威勢を示すシンボルとなった。済州の野原を歩いている サンダムまでさまざまなサンダムを目にする。
2
韓国の文化と芸術 49
済州の山すそに広がるサンダムが 巨大な大地の芸術を成している。
50 KOREANA 秋号 2016
「耕作地に墓を作るのは本土では見られない現象です。先祖の墓
を畑仕事をする際に一緒に見回ることができるので、いろいろと利
点が多かったのです。自分の畑の先に先祖の墓を作りサンダムで囲
むという行為は、自分の未来のための行為だったともいえます。本 土の墓は封墳中心ですが、済州の墓は境界を示すサンダムと渾然一 体となっています」
名も無き石工たちの息吹が感じられる童子石
彼が出会った名も無き数多くの石工たち、その一人一人が彼の師
匠だ。彼らが石から生み出した丸い顔、丸い目、ぶどうような瞳の
天真爛漫な表情。木の葉のような大きな手で体を抱きしめた姿。塩
気をたっぷり含んだ顔、今にも動き出しそうな躍動的な顔、陽刻さ れた大きな鼻、笑う唇、小さすぎる掌、お下げ髪、はげ頭… この
さまざまな姿をした天真爛漫な男女の童子たちも今やだんだんと姿
を消しつつある。彼には数百年の歳月、玄武岩に息を吹き込んでき た名も無き石工たちの苦悩と汗が感じられ、済州の山すそがまだこ のような石仏を抱いているのは祝福だと思っている。
「童子石の美しさはしっかりした生動の美、素朴の美、風土自然
の美、諧謔談笑の美、破格奔放の美に要約できます。果敢にデフォ
ルメされた描写からは現代的な造形美が、その材料の済州玄武岩か
らは抽象美の無限の可能性が感じられます。火山の島、済州の風土 から誕生した童子石は素材が形式を決定した石像です」
しかし童子石は古くから盗掘者により破損され、密かに島外に持
ち出されてきた。残念な現実だ。彼は実際に偶然、ある展示空間で
見慣れた童子石を見つけ、通報して墓の主に返したこともある。普 段、童子石を実測し、写真に残しておいたおかげで真実を明らかに することができたのだ。 サンダムの保存
彼はドンコミオルムのある墓を済州サンダム美学の最高峰だとい
う。しかし絶景の位置にあったそのサンダムは牛や馬によって毀損
されてしまい、消滅した。セメントと混合の改良サンダムが登場し、 平葬や納骨堂への安置のような新しい墓文化に移動している世の中
だ。今や、タブー視されていたサンダムの石仏は壊されて金持ちの 庭園の造形物となっている。
「サンダムは済州の固有性を備えた土俗的な原風景の一部です。こ
れ以上消えて無くなる前に造成の時期別の標本だけでも文化財に指 定して保存するべきです。今後10年もすぎればすべて消えてしまう かもしれません」
済州サンダムには一人、一人、玄武岩を背負って運んだ人々の汗
と涙が見える。麦を一マスもらって石を積み上げた名も無き石工の
手垢が感じられる。済州のサンダムには千個、万個の別れの情念が こもっている。この世とあの世の間はあまりにも近いのだ。 ©徐在哲
韓国の文化と芸術 51
オン・ザ・ロード
民統線 (民間人統制区域)の鉄柵を展示空間に した坡州臨津江・DMZエコミュージアム通り。 ここに設置された作品 『飛ぶ平和のゴムシン』は、 北朝鮮の地に足を踏み入れたいと願う人々の心 を、北に向けて掛けた数百足のゴムシンに込め て表現した。2010年大学生公募展の優秀作。 ソン・ヨングィ/ヤン・シフンの共同作品
52 KOREANA 秋号 2016
詩を頑張って書いてください 統一の日まで クァク・ジェグ 郭在九、詩人 安洪范 写真
長さ244kmの臨津江 (イムジンガン) は、朝鮮半島の中東部の山間に発源し、河口で南北を貫いて流れ、漢江 (ハンガン) で合
流して西海に流れ込む。京畿道坡州市汶山邑に位置した臨津ナル (渡し場) は、朝鮮半島の分断前には内陸水路交通の要だった が、朝鮮戦争後は軍部隊鉄柵巡察路が通り、漁業の許可を受けた船舶に限って出入りできる物寂しい風景に変わった。
韓国の文化と芸術 53
川
に沿って歩く。
際に口癖のように言う言葉があった。 「これは詩ではない!」
我々は、二人の友人とともに川辺を歩いている。我々
の言葉を口にしたのだ。
濃い草花の香りがそよ風にのって漂っている。今
は1970年代初め、同じ高校に通っていた。3人は物事を見る目
いくら美しくて神秘な詩を書いてきても、友人らは決まってそ ある日、友人の一人が詩を発表していた。いつにも増して心
が似通っていた。詩を書くということ。17、18歳のときにどう
血を注いだ詩だった。私は彼に言った。
えても不思議でしょうがない。
プンするだけだ。なぜこれが詩なのか言ってみろ」
して詩を書くことを一生の仕事とすることに決めたのか、今考
「これは詩ではない!」
高校時代、我々は毎週2回ずつ顔を合わせて詩について語り
合った。1回目は、既成詩人が最近発表した詩を読み、2回目 は我々が書いた詩を読んで討論した。そのころ、我々は妙な経
験をした。既成詩人が文芸誌に発表した詩より友人らが書いた
詩の方がはるかに美しく思えた。討論も友人の詩について議論 するときの方がはるかに白熱していた。お互いの詩を分析する
1
54 KOREANA 秋号 2016
「これは詩ではないんだ。つまんない。既成詩人の匂いがプン 彼が傍らに置いてあるカバンの中を探った。カバンの中から
彼が取り出したのは軍用大剣だった。渾身の力を注いで詩を書 いた彼は、討論の前夜、光州(クァンジュ)のある市場でそれを
購入して、彼なりに万全の準備をしたつもりだった。もしこの
詩について詩ではないと言うやつがいたら、もう自分の友人じ ゃないと、思ったのだ。
我々は、みな講義室の外に飛び出した。大剣を持った彼が
我々のあとを追った。刀を手に取って追ったり追われたりの姿
を見た人々が通報し、我々は出動した警察に捕まった。 「なぜ大剣を持って友人のあとを追ったのか」 警察が問いただした。
「私の詩が詩ではないと言われたからです」
警察は友人の言葉がまったく理解できないらしかった。警察
が再度訊き返した。
「なぜ大剣を持って追ったのか」
「私の詩を詩ではなくゴミだと言われたからです」
警察が首をかしげた時、学校のカウンセリングの先生がが入
ってきた。警察が作成したばかりの調書を先生に見せた。
「自分の詩を詩ではないと言われたからといって大剣を持って
追いかけるなんて、まったくとんでもない話ですね」 2
1 1971年以降、民間人の出入りが禁 止されていた軍巡察路が、5年ぶり に坡州臨津江の生態探訪路という名 で開放された。誰でも事前に申し込 めば、決まった時間にガイド付きで、 軍事用鉄柵の向こうの隠された絶景 を観想しながら歩くことができるよ うになった。 2 朝鮮時代の漢陽 (ハンヤン) で鴨綠江 ・宜州に向かう交通の要地だった臨 津ナルは、今では民統線内に居住 する住民たちの漁船がたまに出入り する物寂しい渡し場に変わってしま った。 3 軍事境界線から南へ約7km離れた 地点に建てられた坡州臨津閣の3階 の展望台に上ると、イムジン川を横 切って 南北をつなぐ自由の橋、そし て北側の山が一望できる。臨津閣か らソウルまでは53km、開城 (ケソン) までは22kmである。
警察官に見せてもらった調書をじっくり読んだ先生が短く言
葉を反した。
「十分に成り立つ話です」
我々は先生が身元保証人になってくれたおかげで解放され、
卒業まで詩も書き続けた。 悲しく切ない河辺の道
その友人らと一緒に川に沿って歩いている。もう40年以上の
歳月が過ぎた。友人の一人は医者になり、もう一人の友人と私
は大学で詩を教える先生になった。詩人の品格からすると医者
になった友人が一番だろう。2年前に韓国の海で悲劇があった。 旅客船の「セウォル号」 が沈没し、304人が犠牲になった。そのう ち250人が修学旅行中の高校生だった。彼は毎夜一人の魂のため に一篇ずつ、合わせて304篇の詩を書いた。彼は日中は診療をし
ていて、その傍ら夜は絶対的な悲しみと戦いながら書いた詩を まとめて、この秋一冊の詩集を出す。もう一人の友人は、1986
年に『臨津江』という長編叙事詩集を出した。キム・ナクチュンと
いう20代の青年が1955年6月、臨津江を渡って北朝鮮に入り、
3
韓国の文化と芸術 55
白いゴムシン (ゴム靴) が鉄柵の上に掛かっている。何百足なのかわからない。ゴムシンごとに若草 の小さな花が一輪ずつさしてある。行きたくても行けない北朝鮮の地に足を踏み入れたい願望が込 められている。臨津江に沿って歩く人たちの心はみんな同じである。悲しくてやりきれない思い。 翌年の6月韓国に戻ってきた事件を取り扱っている。
朝鮮戦争が終わった直後である1954年、この青年は「統一独立青年共同体樹立案」という統一案
をまとめた。 「20歳未満の青年を南側と北側の国籍から除外し、これを一つの共同体に作り、彼ら
が自治運営できるように南北の両体制が共同で支えよう」 。非現実的でロマン的なこの統一案を見 た南側の李承晩(イ・スンマン)政権は、彼を精神病者扱いをした。彼は死を覚悟して雨が降る臨津
江を渡り、北側にもこの統一案を提出する。北の反応もほぼ同じだった。北朝鮮は彼を工作員と決 め付けて、結局韓国に送り返した。韓国で彼は5度の死刑判決を言い渡され、18年間受刑生活を送 った。
ある青年の人生を貫いた歴史の悲劇を抱えて川の水は静かに流れる。我々が歩くこの道は、今
年3月坡州(パジュ)臨津河辺生態探訪路と名づけられて民間に開放された。臨津閣から栗谷(ユル ゴク)湿地公園をつなぐ9.1km区間である。道端に見知らぬ花が咲いている。 『臨津江』を書いた友 人は、私の知る限り植物の名前を一番よく知っている。この道を歩くのに最高の道連れというわけ だ。我々は鉄柵網の南側に沿って歩く。風はやわらかく、川面は空の色を映して碧くて青い。
2kmほど歩いたとき、鉄柵網の上に設置されているいくつかの美術作品を見かけた。ある作品
が目に止まった。白いゴムシン(ゴム靴)が鉄柵の上に掛かっている。何百足なのかわからない。ゴ ムシンごとに若草の小さな花が一輪ずつさしてある。行きたくても行けない北朝鮮の地に足を踏み 入れたい願望が込められている。臨津江に沿って歩く人たちの心はみんな同じである。悲しくてや るせない思いだ。
「生きているとこんな、幸せな日もくるんだよね」
1999年4月、我々3人は一緒に北朝鮮の地を踏んだ。1998年11月、北朝鮮金剛山 (クムガンサン)
観光の道が開かれたのだ。目の前の北朝鮮の地は、灰色一色だった。山も船も建物も同じ色だった。
非武装地帯
臨津江
70km
漣川郡 ソウル
漣川郡
台風展望台
平和湿地園 グンザ山 臨津江船着場
臨津閣自由の橋 坡州市
56 KOREANA 秋号 2016
坡州市及び漣川郡の観光サイト
坡州臨津江のDMZエコミュ ージアム通りに掛かっている ハン・ソンピル作 『Faction』 は、 後に手を組んだ北朝鮮の将 校に韓国の兵士が手を差し出 し、北の板門 (パンムン)閣扁 額を統一閣に掛け変えるとい う想像の中の場面を盛り込ん でいる。
通関手続きをするため税関の建物に入る際、これから会う北朝鮮同胞にどのような挨拶をしたらよ いのかを考えるだけで胸がいっぱいになった。いくつか言葉かけを工夫したが、ぴったりな言葉が
見つからなかった。入国書類を受け取る人に、私は「生きていると、こんな幸せな日もくるんだよ ね」 と声をかけた。彼が無愛想に頷いた。
金剛山クジョン峰に登る際の女性案内係の肌の色が美しかった。ピンクの口紅を塗ったような感
じだった。私は彼女に声をかけたいと思った。声をかけてはならないという注意事項を私はちゃん と記憶していた。
「ツツジの色が口紅を塗ったように綺麗ですね」
案内係の後ろで独り言のように呟いたが、反応がきた。
「本当に綺麗ですよね」
その言葉を皮切りに彼女との会話が始まった。問答が続いた。
「あなたは何をなさっている方ですか」 「詩を書きます」
今までの人生の中でもっともドキドキしながら私の仕事を口にした瞬間だった。
「良い詩を書いてください」
彼女が言った。別れの挨拶としてこれよりいい言葉は私の記憶にはない。
韓国の文化と芸術 57
探訪路に沿って7kmくらい歩くと、臨津ナル(渡し場)に至る。このナルは、朝鮮時代の首都、
漢陽 (ハンヤン) から宜州 (ウィジュ) に行く交通の要衝だった。三国時代、高句麗、百済 、新羅と国
境を接し、重要な戦闘が繰り広げられたところである。朝鮮戦争中には、南と北の軍人たちが前進 と後退を繰り返し、何度も交互に占領し合った戦略的な要衝地でもある。
ナルには、小さい木造船が10隻あまりとまっている。地元住民たちが使う漁船である。鉄柵網
に囲まれたナルには、軍部隊の硝所があり、住民以外の外部の人の出入りは禁じられている。宜州 に行く旧国道1号線の要衝地なので大きなナルであろうと思ったが、バレーボールコートサイズの
砂浜が広がっているだけだ。船の往来が途切れたナルは、もはやナルではない。栗谷湿地公園で生 態探訪路は終わる。
最前線の展望台と平和湿地公園
翌日、我々は漣川郡(ヨンチョングン)の台風展望台に足を運んだ。高さ264mの展望台は、ソ
ウルから65km、平壌(ピョンヤン)からは140km離れた臨津江の河辺に立っている。身元確認の
手続きを経なければ展望台に入れない。営内にキリスト教会と聖堂、法堂が位置している。朝鮮戦 争の少年戦車兵記念碑が目を引く。ある少年たちは、我々が当時、詩を討論していた年齢に戦車を 走らせて敵陣に向かって飛び込んだ。 「われわれは鋼鉄のように一つになって/前進する57中隊少
58 KOREANA 秋号 2016
1 畿道・漣川郡(キョンギド・ヨ ンチョングン)の臨津江平 和湿地公園に野花が咲き 乱れている。湿地公園の 向かいに見えるヨンガンギ ャラリーは、漣 川郡が安 保展示館をリフォームして、 今年5月にオープンした民 統線内最初の芸術空間で ある。建物の外壁にハン・ ソンピル、チョ・サンギ両 作家の合作 『平和の門』が 掛かっている。 2 和解ムードの中、1998年 に 金 剛 山 へ の 航 路 が、 2003年には陸路が開かれ、 韓国人が一時観光バスで 東海岸の道路に沿って金 剛山を旅行する感激を味 わった。この南北協力事 業は2008年7月打ち切ら れ、未だ再開されていない。
年戦車隊」 。記念碑に刻まれた少年戦車隊軍歌の一部。名前も兵士認識番号も残さずに命を落とし
た彼らのため、しばらく黙祷を捧げる。国連の米軍戦死36940柱の忠魂碑の前で足を止める。この 世を美しくて情熱的に生きたいと夢見ていて、その夢が叶えられずに朝鮮半島の山裾に埋められた 36940名の魂。彼らの子孫として私たちは、どのような生き方をしたらいいのだろうか。
展望台の建物の中に入る。ここでは北朝鮮軍の硝所が肉眼で見える。軍事境界線まで800m、一
番近い北朝鮮軍の硝所まで1,600mしか離れていないため、DMZ内でも最前線といえる。南北を貫 いて流れる臨津江の両側は、対照的な景観を呈している。北朝鮮の山野は赤一色。森も木も見当た らない。荒れ果てた空き地が北朝鮮のトウモロコシ農場だということが哨兵の説明を聞いて初めて わかった。心が痛い。最前線の国境地域にトウモロコシを植える人たちの心境はどのようなものだ
ろうか。晴れ間のときはこの農場で働く北朝鮮の住民たちを肉眼で見ることができるという。私た
ちが訪ねた日は、北朝鮮の住民たちの姿はなかった。望遠鏡で伍章洞(オジャンドン)という北朝鮮 の町がぼやけて見える。目の前の露里(ノリ)高地の頂上は、戦争当時1平方メートル当たり4500発 の銃弾が浴びせられ、山の高さが5mくらい低くなったとされる。 「詩を頑張って書いてください、統一の日まで」
台風展望台から下りてすぐ、傍の臨津江の河辺に位置している平和湿地公園に出向いた。人工
造成された同湿地公園は、渡り鳥のタンチョウ数百羽が冬を越す。韓国人にとっては鶴という名で 1
馴染んでいるこの鳥は、白い胴体に赤く盛り上がった頭部が特徴。全長140cm、翼の長さ240cm、 体重10kgのこの鳥は、韓国では吉鳥とされ、タンチョウがやって来ると良いことが起きると信じ られているのだ。韓国人にとって一番の願い事は統一である。戦争の傷跡が深く残っている臨津江
の河辺にタンチョウが生息できる空間を作り、毎年タンチョウが飛来することを願う気持ちは、韓
国人にとって一種のトーテミズムのようなものである。漣川郡 (ヨンチョングン) 庁では、ここに 「タ ンチョウのろのろ郵便局」を作った。今手紙を書けば、1年後に送ってもらえるという。1年後に飛
来するタンチョウを待ち受ける気持ちを間接的に表現したものである。もしかすると1年内に突然 平和がやってくることを待ちわびる気持ちを表していることなのかもしれない。私も一枚のハガキ を買った。なんと書けばいいんだろう。金剛山での最後の挨拶が思い出された。 「詩を頑張って書いてください、統一の日まで」
©南東煥
2
韓国の文化と芸術 59
日常茶飯事
私の名前は
「高3オンマ」 大韓民国の高校3年生の子供をもつ母親たち、 「高3オンマ」は子供に 君の人生は君の もの”とは言えない。親も一年間よそ見をせずに、2人3脚で子供の人生に参加しなく
てはならないからだ。しかしその競技を苦悩なしに明快に終えることのできるオンマも 滅多にいないだろう。 カン・シンジェ 姜信哉、フリーライター 安洪范 写真
午
前7時が近づくと、高3の娘の登校準備を見守るソン・エランさんの心は落ち着か
なくなる。5分後に出発するシャトルバスに乗り遅れそうな気がするのだ。口に
は出さず心の中でイライラしていたソンさんが夫に自家用車のキーを渡す直前、
娘が部屋から飛び出してきて矢のように玄関を飛び出して行った。
「遅刻したら大変です。生活記録簿に記録が残りますからね。1年に3回までは大丈夫と
はいうものの、親の立場としては生活記録簿に汚点が残らないことを願いますから。子供の 生活記録簿が完璧なものになるように、してあげなくては」 子供と共に高3になる
娘を送り出してようやくソンさんは夫と共に出勤のために家をでる。そして娘の学習塾
の時間を夫と確認しあう。今日はソンさんが午後8時に学校から塾まで送り、夫が午後10 時に塾に迎えに行き帰宅することにした。それでも平日は楽なほうだ。
「土曜日には午前10時から塾の授業があるんです。車に乗せて連れて行き、終わるまでの
2時間待っています。終わったらお昼を近くの食堂で食べさせて午後1時の授業に間に合う ように送り届けます。3時間後に迎えに行き家に連れて帰り、今度は午後7時の授業に合わ
せて1時間近くかかる江南の塾までまた送り届けます。夜10時に終わるので、また迎えに 行きます。パパたちも時間があるときには助けてくれますが、ほとんど一日中母親が運転手 です。日曜日も同じようなものです」
学習塾が立ち並ぶ通り沿いに自家用車の行列ができるのにはそれなりの理由がある。自
ら進んで子供たちの足となったオンマは子どもと一体となって動く。勉強は子供の役割だ が、塾から塾への移動担当、母親同士の集まりで聞いてきた情報から適当な学習塾を選択す るのもオンマの役割となる。時には遅くまで勉強する子供と一緒に徹夜してその苦痛を分担 することもいとわない。こんな生活は子供が幼い頃から続き、だんだんとオンマの生活と子 60 KOREANA 秋号 2016
供の生活が密着していき、子供が高3になる1年間はその密着の度合いが頂点に達する。
ソン・エランさんはその1年間をどんな風に暮らしているのだろう。数え19歳の子供の手
足となって共に歩む道はどんな道なのだろう。彼女は毎年60万受験生のオンマたちが辿っ てきたその道を比較的淡々とした気持ちで歩いているようだった。しかし考えてみると、時
ソン・エランさんが高3 の娘と一緒に予備校で 新学期の講座案内を見 ている。
には子供の将来のために自分の価値観の一つをしばし棚上げすることもある「自分の人生の
例外的な期間」を生きていると言える。高校教師として、高3オンマとして生きているソン さんにこの難解な時期についてたずねた。高3オンマの日常を越え、今日の教育現場をする どく見つめる彼女の話には時代の焦げた匂いがした。 私教育の狂風の中を進む歩み
「モク洞地区の大部分の子供たちは塾に通うのを当たり前のことと考えています。小学
生が午後10時まで塾の授業を受けても、眠くて目をこすりこすりしていることはあっても、 なぜ塾に通うのかと反抗する子はいません。周りのほぼすべての子供たちが通っているので 自分だけ大変だとは思わないのです」
ソンさんが暮らすソウルの西北部、中産層のアパートが密集しているモク洞は、江南の
テチ洞と共に「大韓民国の私教育1番地」と言われ、教育熱心で塾の数も多い地域だ。児童・ 生徒たちは放課後に自然と塾に集まる。塾は単純に勉強を委託する場を越え、時間を委託す る場となった。子供たちは己の時間を、塾の学習デザイン通りに、何も言わずに従う。時間
の主体性もなければ、持とうともしない。親たちはそんな現実に疑問を抱きはするものの、 よほどの信念や根性がないかぎり、子供たちに他の選択をさせる勇気は出ない。その受動的 な学習の時間を逸脱せずに耐えれば,目標の学業が達成されると期待するからだ。
ソンさんは塾というキーワードでモク洞と仁川の二つの地域を比べてみた。仁川は彼女
の勤務地であり、全国の模擬試験で平均成績が最下位圏に属する地域の中の一つだ。
韓国の文化と芸術 61
「子供たちは思春期という激動の時期を過ごしています。心理的に迷ったり悩んだりしな
がら解決できずにそれが頂点に達したとき、モク洞のオンマたちはだいたい子供たちを注意 深く見守りながら対策を見つけようとします。実際には塾がそんなふうに迷ったり、反抗し たりする時間を与えてくれません。私教育が勉強も担当しますが、子供たちの迷ったり、悩 んだりする時間も奪っているのです。しかし仁川、特に工場の多い私の勤務する学校の近く の地域は違います。学校が終わると塾に行かない子供たちは時間を持て余しています。その 時間に一人で勉強する習慣ができている子供たちは少なく、親もそれを指導してあげる時間 的な余裕も相対的にありません。ですからどうして良いか悩みを抱え、友人と群れを作って 歩き回り、友人関係に縛られたりします。互いに良い影響を与えたり、与えられたりする友 人がそんなに多くないというのも問題です」
思春期の感情と行動まで支配する塾の絶対的な威力。それを知る母親たちは私教育の前
に限りなく揺れ動き、萎縮する。 「オンマたちは常に不安なんです。自分の子供の成績を他 の子供と絶え間なく比較して不安になり、一人で勉強すると言えば置いてきぼりになるよう で不安になります。その不安感につけ込み、煽るのが学習塾です」
それで母親たちはより良い塾、良い家庭教師を求めてさ迷う。最上位グループの少数に
だけ流されるという塾の高級情報に接近するために人間関係に気を使い、ごく一部ではある ものの1回数百万ウォンを上回るような専門家庭教師にまで目を向ける。その加熱した状況
の中で量産されるのは奇形に近い先行学習、つまり予習、それも来学期、来年分の予習学習 という教育課程だ。一例として私教育の過熱地域では小学生が高校の数学の課程を事前に勉 強するほどだ。異常が標準となってしまった時代、標準以外のところに暮らす少数派は徹底 して阻害される。
ソンさんはこのような狂風の中を歩いている自分自身について語る。 「私教育を煽る情報
の中で中心を維持するというのが一番重要です。欲を出し始めたらきりがありません。しか し自分の子供に一学年程度、先の勉強をさせる先行学習をさせないわけにはいきませんでし た」
大切にしなければならない子供たちの自負心
私教育の熱気を冷ますような政策的な秘策はないのだろうか。
「娘は理科系です。理科系には成績の良い子供たちが集まるので、内申点は非常に熾烈な
競争になるほかありません。数学の試験でうっかりして問題1つを誤れば、成績がトップク
ラスの1等級から3等級に下がってしまうこともあります。勉強が、まるで薄氷の上をそー っと歩いていくようなものです」
こんな事情なので大学入試で就学能力(センター )試験の成績よりも内申点の比重を高め
ると言っても、大学入試の方向を学業成績以外の「多様な活動とその成就」を奨励する方向
に旋回すると言っても、たいした効果をもたらさない。父母と受験生と私教育市場は新しい 制度を掌握する「活動スペック収集」に限りなく集中するだけだ。そのため子供たちが学ぶ 過程の楽しさに気付くことは決してない。心はそれだけ貧困になっていく。
その正反対の側に立つ子供たちにも悩みは尽きない。 「最近、数放者(数学放棄者)がたく
さんいます。小学校、中学校の時代に培った基礎がないので授業についていけない子供たち です。彼らには数学の授業時間はまったく無意味な時間なんです。彼らが本当に興味を持ち
勉強は子供の本分であるとはいえ、学習塾間の移動、母親同士の集まりで 聞いてきた情報から適当な塾を選択するのもオンマの役割となる。 時には遅くまで勉強する子供と一緒に徹夜してその苦痛を分担することもいとわない。
62 KOREANA 秋号 2016
同時に良い点数まで得ることのできるものがあります。オンラインゲームです。当然、嵌ま るほかありません。夜通しゲームをして何とか起きだして登校してくる生徒をよく見かけま す」
勉強で競争優位を取ることができない子供たちにも欲望はあり、守りたいプライドもあ
る。しかし社会はそんな孤独な心模様を読み取り、抱いてやるほどには、その懐は大きくな い。それで結局すべてがオンマのところに戻ってくる。
「私は子供が自負心を持てるようにいつも見守り、気を配っています。謙遜しながらも自
らにプライドを持つことが出来るようにと、いつも話しています。そんな気持ちがあればど んなに大変な状況に陥っても再び立ち上がることができると思います。自分自身を信じてい るからです」
そうやって母と子が交わす対話のおかげか。ソンさんの娘さんは苦しい高3のトンネル
を大きな問題もなく通過中だという。 「心に問題を抱えてもそれを表に出さない娘なので、 その気持ちを汲み取り先に手を差し伸べたい」と語るソンさんの目に深く大きな世界が通り
過ぎる。時代が与えた過酷で、不当なお荷物を「オンマが与えられる愛情」に転換させて得 た平安さだと言おうか。
ソン・エランさんは 苦しい大学受験入 試期間中にも娘が 自負心を持てるよ うに細やかな気配 りをしながら、娘 と二人三脚で高3 というトンネルを通 過中だ。
韓国の文化と芸術 63
エンターテインメント
金光石
彼が蘇った舞台 モダンフォークシンガーの金光石 (キム・グァンソク) に対する大衆の熱い想いと関心は、 彼がこの世を去ってから20年が経った今でも深まる一方である。
今年は彼の生涯を振り返ってみる展示やホログラムコンサートが目白押しだ。 キム・ゴグムピョン 金古今平、マネートゥデイ文化部次長
6
月13日、ソウル中区乙支路(チュ
た。民衆歌謡を通じて社会意識を学び、
コンサートKliveでは、 「金光石ホ
音楽性を築き上げた彼は、同時代が求め
ポップ・ミュージックを通じて洗練された
ング・ウルチロ)にあるホログラム
る歌を歌いながらも、自分の哲学は手放
ログラムコンサート」と制作発表会が開か
さない明敏な活動で大衆に愛されてきた。
れた。科学技術に支えられ、3次元映像
以後、ソロ歌手として独立し、<金光石
で舞台に復活した金光石がハーモニカと
第一集>(1989)から<金光石の歌い直し
ギターを演奏しながら、未だに大勢のフ
Ⅱ>(1995)まで、自らを“歌謡界の労働
ァンたちから愛されている「二等兵の手
者”と呼んでいた彼は、誰よりも精力的に
紙」 「三十歳の頃に」 などを歌った。
舞台を通じて大衆と会い、一生懸命生き
同ホログラムコンサートの制作のた
た。1985年8月11日ソウル東崇洞(トン
め、オーディションを通じて故人と顔や
スンドン)のハクチョン小劇場で1000回
体型、立ち振る舞いが最も似ている現役
目のコンサートを開いた際に、彼は以下
の舞台俳優を選び、2ヶ月以上にわたる 猛特訓の末、故人のしぐさと表情をその
ままそっくり身につけさせた。その後、 生前に故人が実際のコンサートでまとっ
1
ていた衣装を着た代役が、口パクで歌う
短く強烈な生涯
の筋肉の微妙な動きまでをも再現した。
が、今はうらやましい歌手だと思います。
たちが作成した金光石特有の68種類の表
るでしょうか。彼は自分の人生をそっく
演技をクロマキースタジオで撮影し、顔 さらに不足な点は、プロのアニメーター
情をかぶせて補った。9 ヶ月間の作業に およそ5億5000万ウォンの費用が投じら
れたこのホログラムコンサートは、未来 創造科学部の“デジタルヘリテージ” 事業 の一環として推進されたもので、“3D - FACTORY”が制作を取り仕切った。 64 KOREANA 秋号 2016
「最初は、気の毒な歌手だと思いました
このように長い間愛され続ける歌手がい りそのまま投影した本当の物語を聞き手 の胸の奥に響かせて去ったんです」 。故人 の親友である歌手パク・ハッキの言葉。
金光石は、1980年代民衆歌謡(韓国の
労働運動音楽ジャンル)グループ「歌を探 す人々」とフォーク・バンド「動物園」を通 じて世間に広く名が知られるようになっ
のような感想を述べた。
「中学時代読んだ囲碁本で趙治勲(チョ
・チフン、韓国人のプロ棋士)さんがこの
ような話をしました。 『囲碁を勝つために 打つわけではありません。ただ真心を込
めて碁石一つひとつ打っていたら棋聖に
もなるし、名人にもなりました』 。私も
1000回のコンサートが目標ではありませ んでした。ただ毎回一曲一曲丹念にギタ ーを弾いただけです。そうしていたらこ
こまできたんです。これはすべて皆さん のおかげです。公演が終わってからの計
画ですか。別にありません。ただ生きて いくだけです」
しかし、その翌年の1996年1月6日、
2
彼は32歳の若さで自ら命を絶って世を去
った。彼の自殺の理由は、未だ不明のま まである。
韓国フォークのけん引役
1 人でアコーステックギターとハーモニカ伴奏で歌い、 若者たちの心を癒してくれた歌手・金光石は、1996 年32歳の若さで自ら命を絶って世を去ったが、20 年が経った今日も依然として大衆の支持を得ている。 2 2009年に造成された大邱 (テグ)の金光石通りは、 年間80万人あまりが訪れる名所になった。
場「テアトルBundo」では、冒頭で触れた 金光石ホログラムコンサートが毎週木曜
から日曜までの4日間開かれ、20分間の 無料コンサートの常設公演として定着し ている。インターネット予約制の70席規
金光石の音楽はユニークである。ちょ
模の小劇場は、空席がめずらしいほど観
っと聴くとフォークの典型のような曲が、
客で埋まっている。
深く掘り下げるとさまざまなジャンルが
溶け込んでいることがわかる。歌詞をは
名所となった。この通りに位置した小劇
今年4月1日から6月26日までソウル
っきりと発音し、しっかりと拍子を取る
れている。20年前風のように去った若き
の弘益(ホンイク)大学校の大学路アート
クの情緒に合致するが、メロディーの構
て、今日の大衆文化を支えている。
見る」展示会は、故人の自筆の楽譜、日記
彼の真面目な歌い方は民衆歌謡やフォー 成にはポップとジャズの感じもにじみ出
歌手・金光石の陰影が確かな土台となっ
ている。彼が歌を歌う際に、私たちが感
金光石の蘇えり
喜と優愁、友情と愛など、人生のプロセ
サートは、大衆が金光石の歌に新たに出
のため、古臭い歌い方に映りがちな彼の
アーティストたちが故人の音楽を振り返
想するのは歌ではなく絵である。彼は歓 スを絵を描くように歌に盛り込んだ。そ 歌には深い響きがある。
小柄でごつい顔。彼はスターの条件と
はかけ離れた外見の持ち主だったが、胸
に響く声一つで聞き手の感性に触れた。 どのアーティストも発揮できなかった、
2008年始まった 「金光石の蘇えり」 コン
会うという起爆剤となった。彼を称える って再解釈するこの追悼と献上の舞台は
9回も続いており、 「金光石の蘇えり」は 大衆文化の一つのモチーフとして位置づ けられるようになった。
2009年彼の故郷、大邱(テグ)には“ 金
彼の卓越した魅力で聴く者の魂を慰め、
光石通り”が造成された。金光石の幼い時
いや、それより“All About Feeling” の代
が、幅3m、長さ300m余りの小路の壁
癒した。よって韓国フォークのけん引役、 名詞として大衆から惜しみない支持を得
ており、これまでにも新しく解釈し直さ
代から歌手としての最盛期までの全生涯
画とオブジェに集約され展示されている。 この通りは、年間80万人あまりが訪れる
センターギャラリーで開かれた「金光石を
とメモ、アコースティックギターなどの 遺品を公開し、故人の音楽世界が彼を偲 ぶアーティストたちの献上作品と調和を なしている。同展示会は、8つの空間に
展示された大規模なものだった。7月16
日からは東大門デザインプラザ (DDP) で、
もう一つの追悼展示会が開かれている。 展示会のタイトルは、 「私の中の金光石、
wkf tkfwl? 」 。ユニークなサブタイトルは、 彼が死ぬ前にファンカフェ“丸い歌” の掲
示板に載せた最後のメッセジーである。 ハングルに変換すれば「上手くやっている か」 。金光石追悼事業会の金敏基 (キム・ミ
ンギ)代表は、 「今回のDDP展示は、 『私 の金光石』 を 『私たちの金光石』 に拡張する ことにその意味がある」 と語った。
韓国の文化と芸術 65
料理物語
米の
多様な変身 9月は新米が出回り始める月で、
1年中で最もご飯の美味しい季節だ。
良質な米を使った、炊き上がりの一膳は、 まさに韓食の食卓の主人公だ。
66 KOREANA 秋号 2016
キム・ジニョン 金臻榮、トラベラーズ・キッチン代表 安洪范 写真
長
期の海外旅行中には誰もが食べなれた家の味が恋しくなる。そんな時に私が思
い出すのは非常に単純素朴なメニューだ。よく熟した白菜キムチ、味噌チゲ、 そしてふっくら炊き上がり、米の一粒一粒が立っているご飯一膳。旅先でも米
料理を食べることはある。しかしそれは見慣れない米との一味違う出会いに過ぎない。 ジャポニカ種とインディカ種
米の種類は大きく分けてジャポニカ種( japonica rice)とインディカ種(indica rice)に
分けられる。韓国、日本、中国の一部ではジャポニカ種を、残りの地域ではほとんどイ ンディカ種が食べられている。その差は米の澱粉構成にある。米の澱粉には アミロー
ス(amylose)とアミロペクチン(amylopectin)があるが、アミロペクチンの含有量が多
いほど粘り気がでる。アミロースの含有量の多いインディカ品種は稲の背が高く、米粒
は細長く割れやすく、米を炊いた時には粘り気が少ない。アミロペクチンの含有量が多 いジャポニカ品種は稲の背が低く、米粒は丸くて厚く固く、米を炊いたときには粘り気 が強い。世界化した米料理で言えば、イタリアのリゾット、中東のピラフ、東南アジア
のチャーハンなどに使われるのがインディカ種で、韓国のピビンパブや日本の寿司など に使われるのがジャポニカ種だ。
韓国人がいつから米を主食としてきたのか、正確なところは分からない。ただいく
つかの出土遺跡から見つかった野生の稲種からみて1万5千年前の旧石器時代から稲を 採集して米を食べてきたと推測される。 米が主人公の韓食の食卓
韓国人の食卓では米飯が主人公、おかずは助演だといっても言いすぎではない。米
飯を美味しく食べるための工夫としてコチュジャン(唐辛子味噌) 、テンジャン(味噌) 、 カンジャン (醤油) などの調味料と、キムチ、ジャンアチ (醤油漬け) のような発酵食品が
発展してきたのではないかと、思わせるほどだ。主人公と助演の調和が成し遂げられた とき、最高の食卓が生まれる。炊き立ての米飯に魚や肉の料理が一品、そして汁物やチ
ゲ、これに冷蔵庫に保管しておいたキムチや塩辛など、幾品かの常備お惣菜、そして焼 き海苔さえあれば豊かな食卓が完成する。韓食のメニューによく登場する「ペクパン(定 食) 」 というメニューはこんな構成を意味している。
韓食堂で何を注文すれば良いか分からない外国人のために、この機会に一つ助言を
するとすれば、 「ペクパン(定食)」をお試しあれだ。もちろんプルコギ(焼肉)やキムチチ ゲのような、すでに食べようと思っていた一品料理があるなら、それを注文すればよい が。ペクパンの場合、付いてくる大部分の基本的なお惣菜はすべて無料で提供されるだ ろう。
粒が丸く炊いたときには粘り気が強いジャポニカ品種の稲を植えて出来た米が韓国人の主食だ。
韓国の文化と芸術 67
街角やあるいはホテルの近くのコンビニでも簡単に、それもなか
なか美味しい韓国の米飯を味わってみることができる。レトルトご
飯だ。米を炊いて滅菌包装したもので、コンビニの電子レンジで3
分ほど過熱すれば、炊き立てのような美味しそうな匂いがする。最 近では各種ソース付きの丼ぶり商品もいろいろと出ており、ご飯に
かけて食べれば簡単に一食を解決できる。調理のできるゲストハウ スでは、こんなレトルトご飯は旅行者になかなか便利な存在として
重宝されており、家庭でも忙しいときなどに利用され人気が高い。 海外輸出量も日に日に増えている。 米で作るおやつ
昔、母親たちは家族の中の誰かが感冒にかかったり具合が悪く食
欲がなくなると、急いで米1カップを水に浸けた。ご飯やおかずを 消化することができない病人のためにお粥を炊いたものだ。海産物
や肉、野菜をみじん切りにして、水に浸しておいた米と一緒に鍋に
入れ、ごま油で炒める。米粒にごま油がよくしみこみ他の材料とよ
く合わさるまで、ガス台の前に立ちづめで水を少しずつ加えながら、
ゆっくりと火を通してお粥を完成させた。典型的なスローフードだ。 消化機能が落ちている病人には他の材料はまったく使わず、米だけ で炊いた粥を食べさせた。これを韓国語では 「白粥」 という。
具合の悪いときに食べていたお粥が今では現代人の便利な健康食
であり、おやつとして人気を得ている。一食に摂取するカロリーは
低くても満腹感があり、いろいろな食材を一度に摂取できるからだ。 米は松の実の粥、アワビ粥、キムチ粥、ナツメ粥、シーチキン粥な
ど、入れる食材によって栄養食に、おやつにと無限に変身する。粥 専門の食堂とインスタント粥のメーカーは今日も新たな粥のメニュ ーを開発中だ。
1
68 KOREANA 秋号 2016
1 最近は白米より紅い小豆を混ぜて炊いた赤飯や、完全に脱穀した白米に外皮だけ脱穀 した褐色の玄米を混ぜて炊いた玄米ご飯などが健康食として注目を浴びている。 2 米を発酵させて作った韓国の伝統菓子、韓菓子の一つであるカンジョンは、昔は祝い事 や祭祀用の食べ物だったが、最近ではフィンガーフードとして段々と人気を集めている。 3 韓国人は昔からの風習に従い、最近でも赤ん坊が生まれ百日になれば、健やかな成長 と長寿を願ってペクソルギ(米粉を蒸して作る白い蒸餅)をつくりご近所に配る。
2
米の種類は大きくジャポニカ種とインディカ種に分かれる。イタリアのリゾット、 中東のピラフ、東南アジアのチャーハンなどに使われるのがインディカ種で、 韓国のピビンパブや日本の寿司に使われるのがジャポニカ種だ。
米で作る伝統茶菓子「韓菓」も以前には祝い事や祭祀の食べ物だったが、現代になり
コーヒーやお茶と合わせていただく、フィンガーフードとして脚光を浴びている。カン
ジョンがその代表的な例だ。かりっとした歯ざわりのカンジョンは作る過程がなかなか 複雑だ。発酵させたもち米を叩いて粉にしてから水を加えてよく捏ねて、中指ほどの長
さと幅に薄く延ばしてから、乾かす。乾かしたものを油で揚げると薄かった生地が大き く膨れる。洋菓子に例えるならペストリーのような形になるのだ。ここに米粒を発酵さ
せて作った人工蜜の水あめをつけて、穀物を油で揚げたテウィパブをまぶせば見た目も 美味しそうで食べやすいカンジョンが出来上がる。米が菓子になるまでに少なくとも2
週間はかかる。最近では韓菓の発酵技術に洋菓子の技術を応用し、外は甘くてふわふわ なのに、中味はサクサクとした個性的なフュージョン菓子も開発されている。
餅も米で作る大事な伝統韓食で、その種類や模様は非常に多種多様だ。餅は祝福、
祈願の意味をこめた特別な儀礼用料理として、誕生日や婚礼のような吉事、そして葬 儀や祭祀のような儀式にも欠かせない。最近では赤ちゃんの百日祝いに、 健やかな成長を願ってペクソルギ(米粉を蒸して作る白い蒸餅)を つくり、親しい人やご近所に配る。また、会社や店を開業 するときには商売繁盛を祈願し、赤い小豆で作ったパッ コムル(つぶし餡)をのせたシルトック(蒸餅)を作って 配る。毎年秋夕になると採れたての新米のもち米で ソ ンピョン(松の葉と一緒に蒸した餅)を作 ってご先祖様の墓を訪れ祭礼を行 う風習も、米を主食としてきた 韓国人の長年の伝統であり、風 習だ。
3
韓国の文化と芸術 69
遠くの目
韓国の夏 チメクを味わい 考えたこと 太陽がまぶしい季節になると、韓国のあちこちの路地で、ビールとチキンを楽しむ人々を見つける ことができる。かたや、韓国でも最近は美味しいビールが増えた。こなた、韓国ほど、色々なチキ ンの味を楽しめる国もない。日常のささやかな娯楽を楽しみながら、ちょっぴり考えてみた。 牧野愛博 まきの よしひろ、朝日新聞ソウル支局長
最
近、釜山に住む友人から「大邱のチメク祭りに行ってきた」という連絡をもらった。普段、仕
事に追われて韓国の文化に触れる機会が少ない私でも、チメクの意味ぐらいは知っている。チ キンとメッチュ (麦酒=ビール) は素晴らしい相性だ。
ちょうど1年前、3年8カ月ぶりに韓国勤務になった。変化の激しい韓国のなかで、個人的に嬉しか
ったのが、美味しいビールが増えたことだった。韓国のビールは従来、酒税法の関係で麦芽の量が少な
くても許されるせいか、いわゆる日本で言う「第3のビール」 「発泡酒」もビールと呼んでいたようで、非
常に薄味だった。さらに、大規模な工場と人員を備えないとビールを造れないという規制まで加わって、 クラフトビールも皆無だった。
個人的には、経済で圧倒する韓国だが、ビールだけは北朝鮮製品に負けている、と思っていたものだ。 それが、法改正などもあり、とても美味しいビールが増えた。これも、朴槿恵政権が標榜する「経済
民主化」 政策の恩恵なのだろうか。
一方、韓国のチキンについても思うことはたくさんある。
最近、ソウル郊外の京畿道楊平郡にある、高級バッグで有名なブランドに似た名前をつけたチキン喫
茶が訴えられた。
訴えられた店の名前は、モエヘネシー・ルイヴィトン(LVMH)と「トンタク(鶏の丸焼き) 」をもじっ
た 「ルイヴィトン鶏」 。ソウル中央地裁の和解勧告で一部名前を変えたが、通らず、1450万㌆ (約136万円) を支払うことになった。
ソウルからお店に伺い、経営者のご夫婦に話を伺った。1年間かけてチキンの調理方法やインテリア
などを研究した後、昨年7月にお店をオープンさせた。お店は20人ぐらいが座れば一杯になるこぢん まりしたつくり。昼間はアルバイトがいるが、夕方から深夜零時まではご夫婦とお子さん2人で助け合 いながら働く。近所の人がよく利用するという。
お客さんにたくさん来てもらうためにコーヒーの値段は一杯わずか1千ウォン。試しに買って食べて
70 KOREANA 秋号 2016
みたチキンは香ばしくてとても美味しかった。 「どうしてこんな店名にしたのですか」と聞
くと、息子さんが 「高級感のある名前にしたら、 お客さんが覚えてくれるんじゃないか」と言っ て提案したという。
LVMH社の抗議について、ご夫婦は「カバ
ンを売っているわけではないし、抗議を受け
て、なるべくルイヴィトンとは違うデザインも
取り入れたんです。少しでも長く営業したい」 と話した。
調べてみたら、有名ブランドの名前をもじ
ったチキン専門店は他にもあった。ソウルを
中心にフランチャイズ店を展開する「プラダッ ク」 。イタリアの高級ブランド「プラダ」とダッ クを引っかけた名前だ。
同社の代表にお話を伺ったところ、商標違
反などに問われないよう入念に準備したとい
ルイヴィトン鶏の店
う。代表は「プラの意味はスペイン語でピュア。純粋なチキンを提供するという意図を込めた」と話して
くれた。会社のロゴもプラダに似ていると思ったが、代表は「業界の宝石のような存在になるため、ダイ ヤモンドの背景を使った。ロゴの書体も違う」 と話してくれた。
他にも一時、独スポーツ用品メーカー「アディダス」とダックを引っかけた「アディダック」というチキ
ン店もあったようだ。
思えば、チキンを巡る日本と韓国の文化はかなり違う。
日本では米大手フランチャイズチェーンの 「ケンタッキー・フライド・チキン (KFC) 」 が大きなシェア
を誇る。毎年のクリスマスイブになると、全国津々浦々で、KFCの前に長い行列ができる。韓国でそ んな風景を見たことは、確かにこれまでなかった。
韓国のKB金融持ち株経営研究所の資料を調べてみたら、2013年時点で韓国のチキン専門店数は約
3万6千にものぼるとあった。
チキン専門店に関する著書がある社会学者の方にお話を伺ったら、かつて「IMF(国際通貨基金)シ
ョック」と呼ばれた1997年の金融危機当時、脱サラしてチキン専門店を開くケースが相次いだのだとい う。 「難しい調理技術も多額の資金も必要ない。一番手軽に始められる自営業だった」という。パロディ
ー事件は、チキン店同士の過当競争が招いた悲劇だったわけだ。チキン専門店の平均営業年数は2.7年に 過ぎない。
朴槿恵大統領は4月、非公開の財政戦略会議で「我が国はチキン共和国ではない。引退後、自らがよ
く知った分野に再就職できるよう助ける派遣業法が必要だ」 と語ったそうだ。
チキン専門店を営む人たちが、チキンが大好きでお店を開いたというわけでもないだろう。朴大統領
が言うことも一理があるが、法律をつくったから、みんなが得意な事業を興すことができるようになる ほど、簡単な問題でもないだろう。
ビールは多様化が始まり、これから競争が激しくなるだろう。お陰でみんなは、美味しいビールを楽
しむことができる。私も、韓国生活の楽しみが一つ増えた。
でも、それが激しくなればなるほど、今度はチキン業界が抱えている過当競争の問題が起きるかもし
れない。資本主義は社会を活性化するけれども、常に勝者と敗者も生む。そんなことを考えながら、チ メクを楽しんでいたら、いつもより早く酔いが回った。
韓国の文化と芸術 71
韓国文学の旅
作家評
私が あの時の僕だと いうことを 証明できるか
「ソウルの町を歩くのが好きなんです。 鐘路から東大門まで、永登浦から弘大 まで。そして市庁から光化門まで。こ れまでずいぶん歩き回りました。その 間に私の中に一つ一つ、積もっていっ
た話の中の一つが 『プラザホテル』 です」
(作家・金美月の言葉) チェ・ジェボン 崔在鳳、ハンキョレ新聞記者 李俊昊 写真
72 KOREANA 秋号 2016
キ
ム・ミウォル(金美月)の短編『プ
遺族と市民たちだ。途中から大雨になり
説の最後に 「 十数年の歳月が流れた今、こ
ルのあちこちを背景にして書い
璧な湿度、完璧な清潔状態、完璧なサー
の時のことを覚えているだろうか。私が
ラザホテル』は、女性作家がソウ
たテーマ小説集『ソウル、夜の散歩者た ち』(2011)に初めて発表された。ソウル
の中心街、市庁の真向かいに立つホテル
が小説の舞台だ。国内や海外のリゾート 地ではなく、都心のど真ん中のホテルで
休暇を過ごす30代半ばの夫婦の物語だ。 こんなふうに休暇を過ごすのが数年前か らこの夫婦の定例行事のようになってお
り、今回二人が選んだのがプラザホテル だ。そしてこのホテルは主人公にとって 特別な意味合いがあった。
小説は主人公の大学時代のラブストー
リーとそれから十数年が過ぎた現在の話
が何度も交差しながら進んでいく。小説
風も激しく吹き荒れる。 「完璧な温度、完 ビス、完璧な待遇を受けているという気 分」 。高額な金を払って宿泊した夫婦に提
供される快適なホテルのサービスと、雨 合羽も傘も無しに暴雨の中でデモを続け
る遺族と市民の状況は、資本と民主主義、
受けていた途中に自殺という方法でその
生涯を閉じた元大統領の突然の死に、彼 を支持していた市民たちが自発的に焼香
所を設け、主人公の妻も5時間もの長い 間、列に並んで弔問をしたという。
そうかと思えば、主人公はライターと
コーヒーを買いにホテルの外に出かけ、 そこで市場前広場で三歩歩いて一度大地
に跪いて祈り、三歩一拝を続けて抗議を している人々と出会う。ソウル龍山の再 開発に反対して撤去予定の建物の屋上に 立て篭もっていた住民5人が警察の強制
鎮圧の過程で命を落とした「龍山惨事」の
文章に一種の反転が隠されている。
主人公の自問は一次的には青春時代の
釈を可能にしている。 「あの時の僕たち」
婦のホテルでの休暇を2009年現在の大韓
民国の政治的・社会的な状況という脈絡の 中で描き、さらにそこに1980年の光州民
主化闘争という現代史の悲劇をも含めて いる。
夫婦が宿泊したホテルが主人公の大学
る。 「一言で言って白雪姫のようだった」
り、親族の汚職疑惑により検察の調査を
ろうか」という主人公の自問に続く最後の
徴的に示している。このように作家は夫
漢門を見下ろし、数ヶ月前にそこにあっ 話をしている。現職から退いて1年あま
時の僕たちだったことを、証明できるだ
破られたクリスマスの約束に対する言及
つかり合う大韓民国の現実を圧縮し、象
時代のデモの現場から近かったという事
たノ・ムヒョン元大統領の焼香所に関する
あの時の僕だということ、私たちがあの
そして所謂「保守」と「進歩」がたびたびぶ
の中の状況描写からみて2009年の夏の現
時点で夫婦はホテルの窓から徳寿宮の大
の話をしたら彼女は信じるだろうか。あ
実はこの小説のもう一つの主題とつなが という主人公の大学時代の同期であり恋
人のユンソは大学時代、デモの現場でデ モをのんびりと見物している中年男性の 言葉を小耳に挟む。 「若い学生に何が分か るかって、どっちにしろ卒業し、社会に
出ればみんな忘れてしまうのになぜ、何
だが、それにとどまらず二重、三重の解
という一節を初々しいデートをしていた
青春真っ盛りの若者ではなく---いや、そ れに加えて―-デモ隊に混じってスクラム を組んだり逃げ回ったりしながら既存世 代の冷笑的な反応に接していた若者たち
と理解するなら、ここで主人公が「証明」 の可能性を口にするのは不器用だったが ゆえにより美しかった過去の恋愛の純情
だけではなく、民主主義を願う政治的な 情熱に対してでもあると理解することも できるだろう。
2004年に文壇にデビューした金美月
は2000年代の同世代の作家たちと同じよ
うに若者世代の欠乏と苦闘を主に扱って
きた。最初の小説集『ソウル洞窟ガイド』
かと言えばデモなのかと。そんなことし
(2007)に彼女はコシウォン(考試院) 、コ
わらない」と。そして主人公も大学を卒業
などに閉じこもっている引篭り型の若者
たって車が渋滞するだけで、世の中は変 して社会の一員に組み込まれ、今ではあ る程度生活も安定し都心のホテルで休暇
を過ごせるようになっている。中年男の 言葉どおりに大学時代の純粋な情熱を忘 れてしまったのだろうか。
作家はこの質問にストレートに答える
代わりに若干の回り道をする。そして小
ルバン( 小部屋 ) 、半地下のワンルーム たちを登場させた。主人公の夫婦と同じ 三十代の半ばに発表した小説、 『プラザホ
テル』は金美月がある程度年をとり、自
分の経てきた青春時代を振り返ると共に、 現在の自分を青春という鏡に映してみた 作品だと言える。
韓国の文化と芸術 73
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読者ご意見 84 KOREANA 秋号 2016
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koreana@kf.or.kr 85 韓国の文化と芸術
秋号 2016
非武装地帯
ISSN 1225-4592
vol. 23 no. 3
Sinan’s Natural Riches and Beauty: A Legacy for the Future; Intrigue of the ‘Black Mountain’; Salt Fields Preserve the Time-honored Values of Island Culture
koreana@kf.or.kr vol. 30 no. 2
ISSN 1016-0744
DMZ DMZ、統一への夢が育つ場所 DMZ の森の道で満喫する「心の平和」 保存と破壊、静けさに隠された DMZ の生態系
Islands of sInan summer 2016 vol. 30 no. 2
specIal feature
Dialogue with Pristine Nature
特集 秋号 2016
summer 2016
Islands of Sinan
鉄条鋼を通して 見つめた禁断の地 Korean culture & arts
韓国の文化と芸術