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田井のいまむかし いまむかしし

絵 葛原進 平山公香


まえがき インターネットに田井地区ネットコミュニティ「@たいよう」を平成 21 年 3 月に立ち上

げ、このホームページを田井地区の皆さんに使っていただくため、同年 5 月からインター ネット入門講座に参加しました。 パソコンの事は現職の時は、多少使ったことがありましたが、インターネットを見たり、 ネットの投稿などは全出来なかった。 しかし、この講座を何度も受講することで、何とか見ることができる様になりました。田 井子ども楽級が発表会した田井歴史研究会の内容を指導した事に端を発し講座生の有志の 方と田井地区の歴史・文化を本格的に歩いて、調べることになりました。 ところが、丁度玉野市の補助事業で費用が少しいただけることがわかり今回の「田井の今 昔」を発行することになりました。 @たいようの講座生の皆様や、田井市民センターの職員の皆様、そして田井子ども楽級の 皆様には大変ご協力を頂き、紙面をお借りして深く感謝申し上げます。

田井歴史研究会 会長 宮田泰子 目

1. まえがきと目次………………………………………………………………………………1 2. 梶原・尾坂地区………………………………………………………………………………2 3. 正之上から寺畔地区…………………………………………………………………………8 4. 先丁場から木之崎地区……………………………………………………………………14 5. 谷西から野々浜地区………………………………………………………………………18 6. 十禅寺から梶原地区………………………………………………………………………25 7. 田井の人物…………………………………………………………………………………30 8. あとがき……………………………………………………………………………………33

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1. 梶原・尾坂地区 ① 桜の木の側の六地蔵尊 まず、始めに行ったところは 梶原方面の東側入口にある六 地蔵尊。すぐ横には地蔵尊が あります。

② 桜の木の側の地蔵尊

樹齢 60 年の桜の木があ

写真①-1

りまする。

③ 定岡池の下にある六地蔵尊 ここは六つのお地蔵さまが祀られていす。これは六地蔵といって仏教の世界で6 体のお地蔵さまがみんなの苦 しみを救ってくれるという教 えから全国いろんなところに おまつりされています。

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④ 地蔵尊・道標 道標のあるところに祀られて いたお地蔵様です。土居ノ内町 内のお地蔵さまとして地域の 人たちが大切におまつりして います。その横に、道標があり、 ここにはここから東方面は小 串・西大寺、西方面秀天・味野 北方面は八浜・岡山、南方面は 日比港としるされています。

⑤ 駿河池の東にある地蔵尊 す る が いけ

駿河池 の東側にあるお地蔵さ まです。よくお地蔵さまには 赤い前垂れがしてありますが、 これはいろいろないわれがあ るそうですが、昔は子どもた は しか

みずぼうそう

ちが、麻疹や水疱瘡などで沢 山なくなっていたそうですが えき がみ

悪い病気をもってくる疫神は 赤い色が嫌いだったので子供 の守り神であるお地蔵さまにつけて子どもたちに近づかないようにされたとか、 逆に疫神は赤色が好きなのでお地蔵さまに赤い前垂れをして子供たちには近づ かないようにと身代わりになってもらったとも言われているそうです。

⑥ 駿河池の西側にある 駿河池の西側にある荒神社 こうじんじゃ

荒神社は、瀬戸内地方にたくさんある神社 です。この地区)の人たちが安全で豊か(な 生活をおくれますようにと願っておまつ りしていたそうです。

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⑦ 駿河池の側にある金毘羅宮の鳥居 昔は、金毘羅宮の建物(残って いませんが、鳥居だけ残ってい ます。この横には三里)十八丁 といって深山の池からここま で水をひいてきた川)があった そうです。

⑧ 駿河山城跡 昔梶原氏という豪族がここに お城を構えていました。 現在は祠が3つ残っています。

⑨ 長宮大徳のお墓

駿河池の土手の下に民家が 1 軒あります。その家の横を通って裏手に回ると長宮

大徳さんのお墓があり ます。 長宮大徳という人は海 運業で財をなした人だ そうです。

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⑩ 蓮華庵 児島霊場八十八ヶ所第十四番 札所です。ここには、十一面 観音様がまつられています。 この観音様はこの世で十種類 のご利益と次の世で四つの幸 せをくださるといわれている そうです。

⑪ 厨子型石塔 玉野市史に記載されている写 真です。風景を見比べて下さ い。まったく異なります。こ こには多くの石塔、五輪があ ったところです。今では石垣 の下の葦のなかに三塔あるだ

けです。高さは 150 センチを

越えています。多分いまでは 玉野市には珍しいものです。 重要な文化財と思う。

全高 150 センチ、屋根の幅 111 センチ、扉一枚 70 センチ横 38 センチ、6 から 7 センチの厚さの二段の台の上に乗っている。右側の文字は「寛永十■丑歳」左に 「三月■五」と記されている。正面に書かれた戒名は「岳月妙慶逆修」左に「心 覚常慶逆修」と記されている。

⑫ 地蔵尊 梶原・尾坂東地区にあるお地蔵さ ま。 ここも地元の人達に大切におま つりされています。

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⑬ 尾坂・西地区にある地蔵尊 現在はこのように家の塀の下 にお祀りされています。ここ も六体地蔵です。

⑭ 尾坂・西地区の公民館浦にある不動尊 お不動さんと呼ばれ部落の人 に親しまれ、地区の鎮守の神 様として祀られています。 地区の公民館の裏手にあるの でわかりにくいです。

⑮ 尾坂・金松チウにある地蔵尊 このあたりは小さい集落ごとにお 地蔵さまをお祀りされています

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⑯ 梶原一族のお墓 ここには源義経を追放したと いわれている梶原三郎の末裔 が眠って)いるそうです。梶原 家は駿河池の山に駿河城かあ りそこの城主だったそうです。 このあたりは昔

源太・源太

坂の地名がありこの五輪塔を 地主さまとして祀っていたと ころからここに梶原一族も祀 られています。 【参考地図】

⑥ ⑤ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑭ ⑪ ⑬ ⑫ ⑯ ④ ⑮ ③

② ①

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2. 正之上から寺畔地区 ① 正之上の六地蔵尊 歴史不詳ですが、正 之上の人達が大事 にお祭りしていま す。

② 正之上地区の天満宮

③ 天満宮の浦にある建石神社 以前は別のところに

ありまし t が現在は 天満宮の裏に鎮座し ています。

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④ 建石神社の左上 に五角形の石碑 (詳細不詳)

⑤ 秋葉山大権現 幕末から明治に かけて、どうした わけか庄の上の 部落では特に火 災が多く、田井の 火事、というと庄 の上だと云われ るほどに多発し ていた。そこで明 治41年11月、部落の人達を代表して三宅定四郎、藤原万吉などがわざわざ遠 江の国(静岡県)まで出かけ、秋葉大権現を勧請して部落に祀ったのである。 不思議な事にそれ以来、あれほど頻発していた火事がぴたりと止まり、部落の 人々は安心するとともに秋葉様の霊験を信じ、尊崇してお祭りしているお宮であ る。この秋葉神社というのは静岡県周智郡春野町にあり天竜川の東岸、秋葉山に ある元の県社で、祭神はホノカ ブツチノ神である。昔から火伏せの神として全 国的な振興を集め、一般では羽の生えた天狗の姿を秋葉大権現とよんで各地に祀 られている。ここの秋葉様も権現系で鳥居はあるがそのお祀りには金剛寺の住職 が奉仕し、仏式による祭典が行われていることは神仏混淆の姿を残している珍し い例である。【玉野市史続編より】 ⑥ 小池の地蔵尊 JR田井駅前に祀られています。

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⑦ 小池の薬師堂 薬師如来は大乗仏 教に お い て病 気平 癒等の現世利益に 効験のある仏として 信仰されており、ア ジアの仏教圏の中 でも特に日本で広く 信仰を集めている 仏である。

⑧ 孫座地区にある孫座古墳 玉野市田井孫座の 山頂にあります。 埋葬施設は横穴式 石室 形式:円墳

規模直径:17 m 幅:2.7m 高さ: 1.8m

築造:[中期以降] 鉄格子で古墳の洞 窟が獣から守られている

⑨ 田井新左衛門の墓

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⑩ 福原地区の3つの石碑 左は、田井新左衛 門、中央は天照皇 大神、右は渡辺氏 先祖墓

⑪ 福原地区の六地蔵尊 福原地区の六地 ここの六地蔵損は 少し古く、部落の 人々で大切に祀ら れています。

⑫ 福原地区の和霊神社 和霊神社という神様は、これをお祀りしておれば船が難破から救われ、あるいは 漁業や生産を盛ん にする神様として 進行され、特に海 上生活者の多い瀬 戸内海沿岸地方で は広く祀られてい る神様である。 市内でも各地に祀 られているが、田 井の福原にある和 霊神社は小さいながらも社殿を構えて例祭も行われていてこの近郷では最も大 きく有名な和霊様である。 11


明治35年、福原の藤原石太郎、石田米ニ郎などが伊予から勧請し、向山に社 殿を造営して以来例祭には近郷近在の人達が参詣するようになり、沿道から社地 まで露天商が並び、うちわ片手に浴衣がけという老若男女が山の上まで続いてい たし、部落では家々に祭り提灯をつるして親戚知人を招き、一夜を明かす習慣も あったのである。また日比村でも明治の中頃に宇和島から和霊神社の分霊を勧請 して祀っていたが、この方は社殿もなく、小さな祠に祀り新地と云われる色街の 中でお祭りが行われていた。 港であり上り下りの船人も多い土地柄でもあって、旧暦6月23日の夜、紅灯 のなかで夜通し行われるこの祭は、面白い習慣となっていたが、今はもうまった く行われていない。 この和霊神社は、伊予の宇和島で山家公頼という人の徳をしたい、この人を神 様として祀ったものである。この人は伊予宇和島藩の家老で、主君伊達家の安泰 と発展をはかるため、まず武器の充実をはかり、その反面では租税の軽減と民力 の休養をはかる方針を立て、このためには積極的な藩財政の節約が必要であると して家臣の俸禄を減じたのである。このため公頼を恨む藩士も多かったのであろ う、元和6年(1620)6月23日の深更、蚊帳の中で寝ていた公頼は突然刺客に 襲われたのである。武芸のたしなみも深い公頼ではあったが、暗がりではあり、 しかも公頼の腕前を知る刺客は、まず茅の吊り手を切り落として蚊帳をかぶせた。 蚊帳にからまれた公頼は刀を使うこと出来ず、 「この蚊帳さえなければ」、と恨み みを飲んで非業の死をとげたのであった。 それから何年かたった後、宇和島藩の百姓町人たちの中から公頼の徳を慕う声 がおこり、その例を祀って建立したのが和霊神社であり、その命日である6月2 8日の夜、宇和島では、一晩中蚊帳を吊らないでお祭りをしていたのである。各 地の和霊祭りもこれを伝承して、この版は蚊帳を吊らないのがこのお祭りの習俗 となっている。 、

⑬ 寺畔の北向地蔵 寺畔の北向地蔵

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⑭ 寺畔の荒神社

⑮ 大山神社 国道3オ号線を田井から槌ケ原へ超す塞の峠、ちょうどバイパス入口の三叉路、 北側の小高い山にある小さな社がこれである。この神社は農業の神様として非常 に古くからこの付近の農民の進行を集め、一般には牛を祀った神様だと云われて いるが大山祀命である。 もともとこの辺りは、宮町kと同じような状態で、弥生時代の農耕民族が住み、 僅かな谷間の平坦な場所で稲を作り、採取と狩猟の生活をしていたところで、わ れわれの遠い祖先が穴を掘って藁屋根を掛け、住み着いたということが出来る。 古墳時代になって農耕技術も進み人間も多くなるに従って、稲づくりは谷あいの 湿田からしだいに平地に広い水田が開梱されいくのであるが、現在の梶原、庄の 上部落の発祥はこの辺りであるとも云われている。したがってこのお宮は、その 古い集落のあとに建てたものであるともいわれ、田井地区では最も古い神社であ り、庄の上部落が現在もその祭りを続けている。

【参考地図】

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3. 先丁場から木之崎地区 ① 丁場の建部神社

② 建部神社境内にある稲荷宮

③ 建部神社の奥の院にある不動尊 立て美神社の境内の裏手から山道を少し登ると小 高い狭いところに不動尊が祀られています。 ここから丁場が一望できる眺めの良いところです。

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④ 道一地蔵尊 昔、真珠の養殖してい いかだ

た人が台風でその 筏 が流され、責任をとっ てこの山の上で自殺し たそうです。それを祭 ったのが始まりだそう です。

⑤ 六道稲荷と石塔 177 人 道一地蔵尊のすぐ左に

177 人と記されている 石碑があります。台風 の犠牲者をを祭ったも ののようです。

さきちょうば

⑥ 先丁場の山の手にある稲荷宮本尊 ここの御本尊様は厨子 型です。 表の建物は災害時の避 難所にも使われるとか。 先丁場の皆さんでお祀 りしているそうです

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⑦ 先丁場にある稲荷宮 ご本尊はこの建物の裏 側に祀られています。

⑧ 先丁場の民家の敷地内にある地蔵尊

⑨ 木の崎にある金比羅宮

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⑩ 玉井宮(井頓堂) 岡山市の東山にも玉井 宮があるそうです。

⑪ 塩釜神社

⑫ 弁才天

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【参考地図】

4. 谷西から野々浜地区

① 田井八幡宮参道にある常夜灯

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② 谷西部落にある金比羅宮 田 井八 幡具 の表 サン ド よ り少 し左 に入 った と こ ろに 金比 羅宮 が祀 ら れています。

③ 佐々木久信の墓 最期のページに田井の人物の記事に詳しく掲載して いますが、田井八幡宮の棟札に書かれたお名前が佐々 木久信氏でその方のお墓です。

④ 谷西部落にある太子堂

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⑤ 田井八幡宮 由緒表示看板

田井八幡宮は、玉

野市田井尾上十禅寺山南麓の内海 を眼下に見渡せる静寂な処に鎮座 田井・築港地区一円を氏子として いる。 元々、田井地区は早くから開け た土地で、古くから神社があった こ うひ

口碑されているが、創建年代は不 詳。 御神徳は「厄除け」とされてい た

い し ん さ え も ん のぶ たか

こうえい さ

き ちくぜんのかみひさ のぶ

る。室町時代の豪族、田井新左衛門信高(南北朝時代の人)の後裔佐々木筑前 守 久信 が三度も夢で八幡様のお告げを受け、この地に1宇佐八幡宮より勧請し神社を再建し、 う

さ はちまんぐう

神像を作り奉納した。 胎内に 文正元年(1466 年)丙 戌11 月 15 日 ひのえいぬ

き ちくぜんのかみみなもとひさ のぶ

願主:佐々木筑前 守 源 久信の

墨署銘のある神像を安置し一族の繁栄と地域の発展を祈願したと伝えられる。 その 後、棟札によると寛文元年(1661)に本殿が改築され、続いて元禄12年(1699) 幣殿、拝殿、釣殿が改築された。 ひ わだ ぶ

本殿は万延元年(1860)に入母屋造り檜皮葺きに改築、昭和61年(1986)銅版 葺きに改築され、現在に至っている。 拝殿は明治32年(1899)に建立され、その後内部の補修が行なわれている。 随 神門は明治18年(1885)の建立で、屋根瓦の補修が行われているものの、当時のま まの状態が保たれている。 本殿や幣殿、拝殿の廻りは大小様々な木々に囲まれ、荘厳な雰囲気が漂い、拝殿東 には根回り約6メートル、樹齢700年と推定される樟樹がそびえ立ち、御神木とさ れ、天然記念物に価すると言われている。 平成13年7月現在、拝殿斜ななめ前に社務所を建築している。 正月・節分・輪・ 大祭・七五三等の祭礼には参拝者も多く賑やかで、とりわけ、子供達が団体でお詣り する「節分祭・七五三」は、田井地区の風物詩にもなっている。

1宇佐神宮は全国に

4 万社あまりある八幡様の総本宮です。八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后を

ご祭神にお祀りし、725 年に創建されました。皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟(そうびょう)として御崇 敬になり、一般の人々にも鎮守の神として古来より広く親しまれてきました。

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⑥ 道上にある地蔵尊 弘法大師をお祭りしています・

⑦ 十禅寺 2 合目にある不明祠

⑧ 八重垣神社 田井の三軒屋道上の山中にある小 さなお宮で、もともとこの社は宮 山東橋の山頂にあったが、風害が

激しいところから天保 7 年(1836) 現在地に遷してお祭りしたもので ある。その時の棟札によると、名 主・宮田社兵衛、5 人組頭・井上 与四郎、判頭・宮田喜三郎の発願 で祠官近藤豊前の名前が見える。 や

え がき じんじゃ

この八重垣神社という名称が何故付けられたのか明らかではないが、見能という部落 の人たちによって祭られており通称「ぎおんさま」と呼ばれる神様で、祭神はいうま 21


でもなく素盞嗚 命 である。鳥居は文政 6 年(1823)4 月吉日とあり、美野尾若連 す さ の お の みこと

中の寄進である。鳥居から急坂を2・3百メートル上り詰めたところに社殿があるが 石段の上の左右に高さ 2.7 メートル大きな灯籠2基が弘化2年(1845)李花吉日 り

に美野尾若連中によって奉納されている。若者の奉納によるものの多いのは何故だろ うか、例の少ないことである。

⑨ 三軒屋・岡鼻にある地蔵尊

⑩ 十禅寺自走車道入口にある地蔵尊

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⑪ 野々浜会館にある恵比寿宮

⑫ 延命なで地蔵尊 慈照庵自動車道入口に祀られて います。

⑬ 慈照庵

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⑭ 業業組合横にある恵比寿宮

⑮ 和郎崎にある塩釜神社

⑯ 道上にある地蔵尊

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【参考地図】

5. 十禅寺から梶原地区 ① 民家

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② 民家の納屋 現在は誰も住んでいません。

③ 竹林と道標 田井・十禅寺から日吉神 うっそう

社への参道は、鬱蒼とし た竹林の中を通らなけ ればなりません。 一人ではなかなか行け そうにない道です。

④ 日吉神社 日吉神社について

【玉野市史続編・昭和 48 年

発行】

田井十禅寺山の頂

上を少し東に下った字深田 というところにある。 もともと十禅寺は比叡山 延暦寺の末寺として平安時 が らん

代に山上伽藍 が建てられ、 現在も地名にあまたの坊の 名を残している。その寺々 の鎮守として祀られたのがこの日吉神杜である。伝説によると元この神杜は現在地よ り北の大平山の山頂にあったが、この神杜の見える所を航海する船のすべてが神罰を 26


うけて難船するので、海から見えない現在地に移転したといわれる。お寺山、大平山、 大乗権現山と続く東児島連峯一帯に、平安時代の山上仏教が開けたとすれば、大平山 はその中間に当る、南北の海を見下す位置にあるから、此所に社地があったことはう なずける。

しかし、日吉神社が航海に害を及ぼす神になった理由はわからないが、

由加大権現の鬼の面が常山の中腹である海岸では海が恐ろしいから、山の上の海の見 えぬ所へ移転したという伝説があるところを見ると、いつの頃か、海上から見える神 杜を恐しがる時代があったのではあるまいか。

それはともかく、日吉神杜は江戸時

代から害虫除けの神として繁昌するようになった。農民は田植が終ると一番に当杜に 参詣し、虫封じのお札を受け、神杜境内の砂をいただいて帰り、一枚一枚の田にその お札を建て、その砂で田の虫を追いだしていた。

神杜は一段低い窪地にあるが、神

杜の裏の高台に大きな灯籠を建て、この灯籠の明りの見える範囲の農民はすべての人 がこの神杜にお参りしたので、後閑、大藪からの参道、八浜方面からの参道、妹尾・ 早島・興除・灘崎・荘内方面から大崎を経て池の内よりの参道、田井・宇野・玉野方 面から梶原を通る参道等があり、今に道しるべも多く残っている。

幕末から明治・

大正の末年までが一番盛んであったが、次第にさびれて、今では往時の茶店・料理屋 の敷地、廃屋を残すのみとなった。

氏子は十禅寺・元川・池の内三部落数十戸にす

ぎなかったが、今に残る玉垣や灯籠のたたずまいに往時の面影を忍ぶことができる。

宝暦 10 年(1760 年)の神杜書上帳によると、田井村の内十禅寺、一杜五尺四方瓦葺、 祭例六月十四日、御正印二十一座、御勧請年暦覚え申す老御座無く侯、御杜地一反、 御林御座無く候、氏子三十五軒、右山王神職近土佐介と相神助にて、先年より務来申 候処小氏子にて御座侯故近年一ケ年替り相務申侯、神子私妻相勤居申侯、氏子十禅寺・ 元川、池の内三ケ所、田井村藤田掃部、神子同人妻篠女、大藪村名主多次郎、田井村 五人組頭善左衛門」とある。田井村誌には祭神大山咋命、大己貴命、恩姫命、菊理姫 命、鴨玉依姫、鴨玉依彦神、別雷神、霊像七基何時代か一基不明とある。

ご神体は

小さい金銅像であり、その製作も古い、棟札には貞享四年(1687 年)のものと享保十九 年(1734 年)のものがあり、貞享のものには備中成羽新町油屋藤利右衛門、池の内村重 兵衛が願主で改築、享保のものは葺替えであったらしい。

現在の本殿は文久三年

(1863 年)のもの、幣殿、拝殿は明治十二年の建築である。 現在の本殿は一間杜流造、 桧皮葺である。杜裏の大灯籠は火袋も大きく、早島方面よりもこの明りが見えたとい われており高さは五メートル近く、最上段が瓢箪(ひょうたん)の組み合せになった 珍らしいもので明治七年の建設である。一の鳥居横の神木は樹令数百年の市内一の大 杉であるが、落雷のため傷んでいる。

お堂の中にはいまでも少し残っていますが 2 つの乳房をぬいぐるみ風に作って奉納

されているのを知っている大勢いるでしょう。これは子供たちを守ってくれる仏様と しての信仰であり、それは「おかげで乳にも不自由はなくこの子は育ちました、健や かな整腸をお守り下さい」という意味であり、 「次の子どもも元気で生まれますように、 27


そしてこの子供も元気で生まれますように、それまでお乳をおあずけします」という よう意味のお祈りを込めて奉納したものである。

⑤ 八浜側の日吉神社の大鳥居

⑥ 常夜灯 早島方面よりもこの明りが見 えたといわれており高さは五メ ひょうたん

ートル近く、最上段が瓢 箪 の組 み合せになった珍らしいもので 明治七年の建設です。

⑦ 金剛峰 十禅寺の山頂三角点

標高は 236.5 メートル。

丁度草を買ったばかりの写真ですが、普段は草ぼうぼうでなかなか登れないようです。 十禅寺山は国立公園に指定され、大変風光明媚な場所でしたが、保安林が生い茂り現 在では眺めは良くないようです。 十禅寺山の地名は、天台宗の守 護神十禅師権現に由来するもの と考えられています。。平安時代 には、ここ一帯の山上に寺院が開 かれ、一時はその数が十坊あった と伝えられています。 金剛峰、不老峰、西光峰、中将峰 などの峰々の名は、これらの山上 伽藍の呼び名に由来しているそ うです。 28


⑧ 地蔵嵶にある六尺地蔵尊 す る が いけ

じぞうたわ

駿河池から日吉神社に登るところに地蔵嵶がありま す。そこには、立派な御影石蔵像があります。 高さ六尺(1.818 メートル)巾一尺八寸(54.54 セン チメートル)、総高で一丈一尺二寸(3.39 メートル)。 かんじょう

文化十一年(1814)七月に勸 請 (神仏の分霊を他の 場所に移しまつること)で世話人は宮田傅吉他十名で す。近くに祠と小さな地蔵尊があります。 【田井村誌に より)

⑨ 駿河池東にある地蔵尊

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【参考地図】

6. 田井の人物(江戸時代以前) 【玉野史誌続編より抜粋

【田井新左衛門信高】 備前佐々木の一族で、宇多天皇 14 代の後裔、備中守持氏の子であるといわれる。

太平記によると、建武 2 年 11 月 26 日飽浦信胤2等と共に、備中福山城に拠り、細川 定 禅 あく ら のぶ たね

ほそかわじょうぜん

3の下に属して南朝に敵対し、児島の豪族児島高徳に攻められたこともある。

後足利尊氏が九州にのがれた時は飽浦、松田、内藤等一族と共に三石城に拠り、官軍の 西下を防いだ。それ以後の消息は不明であるが、田井村の豪族であったことは事実のよう 2飽浦信胤(あくらのぶたね、生没年不詳)は、南北朝時代の武将。本姓は佐々木で、佐々木信胤、佐々

木三郎左衛門、佐々木薩摩とも呼ばれる。 3細川定禅(ほそかわじょうぜん)は、鎌 倉 時代末期から 南 かまくら じ だ い

なんぼくちょう じ だ い

ほそかわあきうじ

細 川 顕 氏 の弟に当たる。

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ほそかわよりさだ

北 朝 時代にかけての武将。細 川 頼 貞 の子で、


で、後世までも田井村の人々は新左衛門の名をはばかって、これを普通の人の名前につけ ない習慣になっている。 き

とりで

み の お さんげん や か み

城の崎の山頂に 塁 を設け、本城見尾三軒屋上の、現に天守といわれた付近に城を持って いた一族であろう。 児島4屯倉関係の豪族か、あるいは藤戸の合戦によって児島を領有した佐々木一族か、そ み やけ

の起源は明らかではないが、文政年間田井八幡宮のご神像の銘「願主佐々木筑前守源久信」 とあることからも佐々木源氏が濃いいようである。

い くろうど た い ふ

【田井蔵人大輔】 田井村のひとで田井新左衛門信高の兄である。太平記5に節度使下向の人数にて、新田義 た

い し ん ざ え も ん のぶ たか

たいへいき

貞に従い関東へ出る。その後も義貞に従い歴戦したが越前で戦死したと云われている。 兄弟でありながら兄は南朝に、弟は北朝についているのは当時の反映している。その他 の事跡が一切伝わっていないのは残念であるが、田井氏、三宅氏と市内にその血をひく人 が多く残っているに違いあるまい。郷土の忘れられた偉人である。

かじわら さぶろう

梶原三郎 源平盛衰記に「6 月 17 日平家の軍平など船に乗り摂津国6福原の故郷に襲い来る由、備前 せっつのくに

国より飛脚を以て申し上げたりければ都のざわめき斜めならず云々」とある。 当時児島における南朝方は児島高徳を中心とした一族で、信高や田井氏は北朝方出会っ たが、いつの頃、どういう理由で南朝についたかは不明であるが、太平記の文から見ると 飽浦信胤、梶原三郎は、南朝に転向したことは事実であろう。 梶原と称するからには、田井の梶原に居住していたと見るべきで、駿河山城主であった 4屯倉(みやけ)とは、ヤマト政権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地

方行政組織の先駆けとも考えられる。 5『太平記』 (たいへいき)は日本の古典文学の一つである。

全 40 巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南

北朝分裂、観応の擾乱、2 代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318 年(文保 2 年) - 1368

年(貞治 6 年)頃までの約 50 年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。 「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されてい る。 6摂津国(せっつのくに)は、かつて日本に設けられた地方行政区分の令制国の一つである。別称は摂州(せ

っしゅう)。畿内の一国。『延喜式』での格は上国。 領域は、現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。摂津・河内・和泉の三国の国境は、現在の

堺市の方違神社(三国山・三国丘)にあったが、明治 4 年(1871 年)に和泉国との国境は堺大小路から大 和川に改められ、一部が和泉国に編入された。

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ものであろう。 梶原部落に源太・源太坂という地名があるし、地神さまのところに大きな五輪塔が残り、 梶原部落の人たちでまつっていたことを考えると、梶原三郎なる人物の後裔の墓であろう か。7梶原景時が一時備前にいた事は太平記にも記されているが、景時が駿河守であったこ かじわらかげ とき

となどから考えると、一時この地に景時もおり、城を駿河城と称したもので、その後裔が 代々この地に、豪族として残ったものであろう思われる。

佐々木久信 田井八幡宮のご神体に「文正元年(1466 年)丙 戊 1 月 15 日、願主、佐々木 筑 前 守 源 ひのえつちのえ

ひさ のぶ

き ちくぜんのかみみなもと

ぼく しょ めい

久信」という、墨署銘が記されている。 伝説によると田井新左衛門の後裔が、夢に八幡様が枕元に立たれ、「氏神様が非常に荒れ ている、速やかに再建するように」とのお告げを受けたので、早速社殿を再建し、ご身体 も古くなっていたから、新しく彫刻師に依頼し、ご神霊を入れてお祭りしたため、再び田 井氏は栄えたと云われている。 児島古城記、常山城見取り図の中に「これより東一里、田井村佐々木の墓あり」と記さ れている。 この古墓と言われるものらしいものが現在、田井見尾部落の谷、三宅寿夫氏の宅地の一 隅にある。室町時代の五輪塔の残欠が、積み重ねられており、その数も定かではないが数 基のものであることに相違なく、時代的にも室町初期と思われるものが含まれている。 伝承によると元は道端の小高い丘の上にあったが、明治年間現在のところに移転したも しもこえ

のだといわれ、明治中頃まではこの五輪は村人に非常に恐れられており、この道を下肥を 担いで通るときなど用心しないと、少しでも下肥が墓石にかかれば、すぐさま大量の糞尿 がその身に跳ね返るといわれたそうだし、子どもたちもこの聖地には入らず、敬遠して近 づかなかったと古老は話していたが、田井の人たちが、この墓をどれほど尊敬していたが 忍ばれる。

7梶原景時(かじわらかげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。

石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武 家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」 「鎌倉ノ本体ノ武士」と称 されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられてい る。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた

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【あとがき】 あとがき】 何せにわか世帯で大人数。原稿もバラバラでまとまりがなくお粗末な作品となりました。

しかしシニアが約 20 名も集まり同じ目的を持って、やり遂げたことは素晴らしい。 この冊子が、末代に伝わっていくのかと思うと感激でいっぱいです。 田井歴史研究会の皆様に感謝申し上げます。

なお、インターネットにも電子ブックとして投稿しています。またウォーキング地図も印 刷して市民センターに保管しています。どうぞご利用下さい。 最期にこの活動に携わていた発起人で会長の宮田邦蔵さんが、平成 23 年 11 月 21 日ご病気 のため逝去。ご本人はこの冊子が完成するのが何よりの楽しみでした。

参加者 (順不同) 中谷昭子平山公香宮田泰子原美智子橋本貴美子会計)村上元子藤原さとみ宮崎興一(監査) 伊藤誠子(副会長)岡部恵子木村義浩竹下幸男

竹下智恵子岩部真須美谷井宏光四宮美江

三宅みい子白井福美菊池正子井上貞女藤井初子荻野昭彦吉井幸子岡部成行(副会長)宮田 邦蔵(会長)

田井地区ネットコミュニティ「@たいよ」 http://taitaiyo.com 田井歴史研究会ブログ http://tairekisi.blogspot.com

編集発行:平成 24 年 3 月吉日 田井歴史研究会会長 宮田泰子 発行人 岡部成行

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tai histry  

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