絵 葛原進 平山公香
まえがき インターネットに田井地区ネットコミュニティ「@たいよう」を平成 21 年 3 月に立 ち上げ、このホームページを田井地区の皆さんに使っていただくため、同年 5 月からイ ンターネット入門講座に参加しました。 パソコンは現職の時は、多少使ったことがありましたが、インターネットを見たり、 ネットの投稿などは全く出来ませんでした。 しかし、この講座を何度も受講することで、何とか見ることができる様になりました。 田井子ども楽級が発表会した田井歴史研究会の内容を○○した事に端を発し、講座生の 有志の方と田井地区の歴史・文化を本格的に歩いて調べることになりました。 その矢先、タイミング良く玉野市の補助事業で費用が少しいただけることになり、今 回の『田井いま むかし』を発行することとなりました。 編集に当たり、@たいようの講座生の皆様や、田井市民センターの職員の皆様、そし て田井子ども楽級の皆様には大変ご協力を頂き、紙面をお借りいたしまして深く感謝申 し上げます。
田井歴史研究会 会長 宮田泰子
目 次
1. 梶原・尾坂地区……………………………………………………………………………… 梶原・尾坂地区………………………………………………………………………………2
2. 正之上から寺畔地区 正之上から寺畔地区……………………………… …………………………………………………………………………8 …………………………………………8
3. 先丁場から木之崎地区 先丁場から木之崎地区……………………………………………………………………14 ……………………………………………………………………14
4. 谷西から野々浜地区………………………………………………………………………18 ………………………………………………………………………18
5. 十禅寺から梶原地区………………………………………………………………………25 ………………………………………………………………………25
6. 田井の人物…………………………………………………………………………………30
7. あとがき……………………………………………………………………………………33
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1. 梶原・尾坂地区 ① 桜の木の側の六地蔵尊 初めに行ったところは、梶 原方面の東側入口にある六 地蔵尊です。すぐ横には屋 根つきの地蔵尊があります。
② 桜の木の側の地蔵尊 写真①-1
この地蔵尊の横には 樹齢 60 年の桜の木がありま す。
③ 定岡池の下にある六地蔵尊 ここには六つのお地蔵さまが祀(まつ)られています。これは六地蔵といっ て仏教の世界で6体の お地蔵さまがみんなの 苦しみを救ってくれる という教えから全国い ろいろなところでまつ られています。
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④ 地蔵尊 道標のあるところにまつら れていたお地蔵様です。土居 ノ内町内のお地蔵さまとし て地域の人たちが大切にお まつりしています。その横に、 道標があり、そこには、「こ こから東方面は小串・西大寺、 西方面は秀天・味野、北方面 は八浜・岡山、南方面は日比 港」としるされています。 【玉野市史】より 明治二十九年に建てられた梶原の道標は「南、日比 港北八浜、岡山道、東小串西大寺道西天味野道」と 記されており八浜港の役割を如実に物語っている。
⑤ 駿河池の東にある地蔵尊 駿河池(するがいけ)の東側にあるお地蔵さまです。お地蔵さまには赤い前 垂れがかけられています。これにはいろいろないわれがあるそうです。昔は は し か
みずぼうそう
子どもたちが、麻疹や水疱瘡な どで沢山なくなっていたそう です。「悪い病気をもってくる えき がみ
疫神は、赤い色が嫌いだったの で子どもの守り神であるお地 蔵さまに前だれをかけて子ど もたちに近づかないようにし た。」とか、逆に「疫神は赤色 が好きなのでお地蔵さまに赤 い前垂れをかけて、子どもたち に近づかないようにと身代わりになってもらった。」とも言われているそうで す。
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⑥ 駿河池の西側にある荒神社 駿河池の西側にある荒神社 梶原地区の人たちが、「安全で豊かな生 活が、おくれますように。」と願ってお まつりしていたそうです。 荒神社とは、かまどや牛馬の安全をつか さどる守護神です。
⑦ 駿河池の側にある金毘羅宮の
鳥居 金毘羅宮の建物は残っていませ んが、鳥居だけは残っています。 この横には三里十八丁といって 深山の池からここまで水を引い てきた水路があります。
⑧ 駿河山城跡
昔、梶原氏という豪族がここ にお城を構えていました。 現在は鳥居と祠(ほこら)が3 つ残っています。
⑨ 長宮大徳のお墓
駿河池の土手の下に民家が 1 軒 あります。その家の横を通って 裏手に回ると長宮大徳のお墓が あります。 長宮大徳という人は海運業で財 をなした人だそうです。
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⑩ 蓮華庵
児島霊場八十八ヶ所第十 四番札所です。ここには、 十一面観音様がまつられ ています。この観音様は この世で十種類のご利益 と次の世で四つの幸せを くださるといわれていま す。 1.人に愛されること 2.人にほめられること 3.人の役に立つこと 4.人にひつようとされること
⑪ 厨子型石塔
玉野市史に記載されている写真 です。尾坂トンネルの手前左側に、 多くの石塔や五輪塔があります。 今も塀の下の葦の中に厨子型石 塔が三塔あります。玉野市では珍 しく、重要な文化財です。 全高 157 センチ、屋根の幅 111 セ ンチ、扉一枚 70 センチ、横 38 セ ンチ、6 センチと 7 センチの厚さ の二段の台の上に乗っています。 右側の文字は「寛永十■丑歳」左 側に「三月■五日」と記されてい ます。正面に書かれた戒名は、右 側に「岳月妙慶逆修」左側に「心 覚常慶逆修」と記されています。 ■は、石碑が古くて文字が読み取れない。
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⑫ 地蔵尊
梶原・尾坂東地区にあるお地蔵さ まです。 これらも地元の人たちに大切にお まつりされています。
⑬ 尾坂西地区にある地蔵尊
現在は、このように家の塀の下 におまつりされています。ここ も六体地蔵です。 六地蔵とは、仏教の教えで六道 輪廻の思想(すべての生命体は 6種類の世界に生まれ変わり を繰り返す)に基づき、地獄道、 餓鬼像、畜生道、修羅道、人道、 天童の順に金剛願地蔵、金剛宝 地蔵、金剛悲地蔵、金剛憧地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵といいます。
⑭ 尾坂西地区の集会所 尾坂西地区の集会所にある不動尊 集会所にある不動尊
「お不動さん」と呼ば れ部落の人に親しま れ、地区の鎮守の神様 としてまつられてい ます。 地区の集会所の裏手 にあります。
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⑮ 尾坂金松地区 尾坂金松地区にある地蔵尊 地区にある地蔵尊 この辺りでは、小さな集落ご とにお地蔵さまをおまつり しています。
⑯ 梶原一族のお墓 ここには、源義経を追放し たといわれている梶原三郎 の後裔(こうえい)が眠って いるといわれています。梶 原家は、駿河山にあった駿 河山城の城主だったそうで す。このあたりには昔、源 太・源太坂の地名があり、 また、この五輪塔を地主さ まとしてまつっていること から、ここに梶原一族がまつられていると考えられるのです。
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【参考地図】
⑥ ⑤ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑭ ⑪ ⑬ ⑫ ⑯ ④ ⑮ ③
② ①
2. 正ノ上から寺畔地区 ① 正ノ上の六地蔵尊 由来不詳ですが、 正ノ上の人たち が大事におまつ りしています。
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② 正ノ上地区の天満宮 勧請年月日は不 詳。 正ノ上丸山(西佐 古田と薮根谷の 間で小高い峰)に まつってありま したが寛保3年 (1743)6月現 在の位置に移し、 勉学の神として まつっています。 祭神は菅原道真公で祭日は旧暦8月24日~25日です。
③ 天満宮の裏 天満宮の裏にある建石神社 にある建石神社 以前は別のとこ ろにありました が、現在は天満 宮の裏に鎮座し ています。毎年 田井八幡宮の宮 司によるおまつ りをしています。 天明 4 年 (1784)、 上道郡澤田立石
神社より勧請、安政 7 年(1860)に拝殿を建立していました。今でも大切に まつられています。
④ 建石神社の左上にある 建石神社の左上にある五角形の石碑 ある五角形の石碑 (詳細不明) 農業に関係深い5つの地神様が5角形 の面に記されてまつられています。
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⑤ 秋葉山大権現 幕末から明治にかけて、庄の上の部落では、なぜか火災が多く、 「田井の火事 というと庄の上だ。」と言われるほどでした。そこで、明治41年11月、部 落の代表として三宅定四郎、藤原万吉らが、はるばる遠江(おうみ)の国(静 岡県)まで出かけ、秋葉大権現を勧請(かんじょう=神仏の霊を分けてもら ってまつること) して部落にまつ りました。 不思議なことに それ以来、あれ ほど頻発してい た火事がぴたり と止まり、部落 の人々は安心す るとともに秋葉 様の霊験を信じ、尊崇しておまつりしています。この秋葉神社というのは静 岡県周智郡春野町にあり天竜川の東岸、秋葉山にある元の県社で、祭神はホ ノカ
ブツチノ神です。昔から火伏せの神として全国的な振興を集め、一般
には羽の生えた天狗の姿を秋葉大権現とよんで各地にまつられています。こ この秋葉様も権現系で鳥居はありますがそのおまつりには金剛寺の住職が奉 仕し、仏式による祭典が行われています。このことは神仏混淆の姿を残して いる珍しい例です。【玉野市史続編より】
⑥ 小池の地蔵尊
JR田井駅前にまつら れています。
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⑦ 小池の薬師堂 薬師如来(やくしにょらい)は、大乗仏 教 で は 病 気 平 癒 等 の 現 世利益に貢献のある仏様として信仰され ています。アジアの仏教圏の中でも特に 日本で広く信仰を集めている仏様です。
⑧ 孫座地区にある孫座古墳
玉野市田井孫座 の山頂にありま す。埋葬施設は 横穴式石室です。 形式:円墳
規模直径:17 m 幅:2.7m 高さ: 1.8m
築造:[中期以降] 鉄格子で古墳の 洞窟が獣から守られています。 石室の中の品々は、玉野市総合文化センターの資料室に展示されています。
⑨ 田井新左衛門の墓
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⑩ 福原地区の3つの石碑 左は、田井新左衛 門、中央は天照皇 大神、右は渡辺氏 先祖墓
⑪ 福原地区の六地蔵尊 ここの六地蔵尊 は少し古く、部落 の人々に大切に まつられていま す。
⑫ 福原地区の和霊神社 和霊様という神 様は、これをお まつりしていれ ば、船を難破か ら救う、あるい は、漁業や生産 を盛んにするも のとして信仰さ れています。特 に海上生活者の多い瀬戸内海沿岸地方では広くまつられている神様です。 市内でも各地にまつられていますが、田井の福原にある和霊神社は、小さい 12
ながらも社殿を構えて例祭(決まった日に行われる祭り)も行われていてこの 近郷では最も大きく有名な和霊様です。 明治35年、福原の藤原石太郎、石田米ニ郎などが伊予から勧請し、向山 に社殿を造営して以来、例祭には近郷近在の人たちが参詣するようになり、 沿道から社地まで露天商が並び、うちわ片手に浴衣がけという老若男女が山 の上まで続いていました。また、部落では家々に祭り提灯をつるして親戚知 人を招き、一夜を明かす習慣もありました。また日比村でも明治の中頃に宇 和島から和霊神社の分霊を勧請してまつっていましたが、この方は社殿もな く、小さな祠(ほこら)にまつり新地と云われる色街の中でお祭りが行われ ていました。港であり上り下りの船人も多い土地柄でもあって、旧暦6月2 こうとう
3日の夜、紅灯のなかで夜通し行われるこの祭は、面白い習慣となっていま したが、今はもうまったく行われていません。 やんべきんより
この和霊神社は、伊予の宇和島で山家公頼の徳を慕い、この人を神様とし てまつったものです。山家公頼は伊予宇和島藩の家老で、主君伊達家の安泰 と発展をはかるため、まず武備の充実をはかり、その反面、租税の軽減と民 力の休養をはかる方針を立て、そのためには積極的な藩財政の節約が必要で あるとして家臣の俸禄を減らしたのです。このため公頼を恨む藩士も多かっ しんこう
か
や
たのでしょう、元和6年(1620)6月23日の深更(深夜)、蚊帳の中で寝て いた公頼は突然刺客に襲われたのでした。武芸のたしなみも深い公頼ではあ りましたが、暗がりではあり、しかも公頼の腕前を知る刺客が、まず蚊帳の 吊り手を切り落として蚊帳をかぶせたので、蚊帳にからまれた公頼は刀を使 うこともできず、 「この蚊帳さえなければ」と、恨みをのんで非業の死をとげ たのです。 それから何年かたった後、宇和島藩の百姓町人たちの中から公頼の徳を慕 う声がおこり、その霊をまつって建立したのが和霊神社であり、その命日で ある6月23日の夜、宇和島では、一晩中蚊帳を吊らないでお祭りをしてい たのです。各地の和霊祭りもこれを伝承して、この晩、蚊帳を吊らないのが このお祭りの習俗となっています。
⑬ 寺畔の北向地蔵 寺畔の北向地蔵 区画整理で移 転して現在の 位置になりま した。 お地蔵様は菩 薩の一種です。
神様は南向き 13
に立てられています。拝む人は北向になります。本来お地蔵様はお釈 迦様の修行時代の姿をされています。如来様になっていない状態です。 北を向くということは民衆と同じで、民衆と一緒にいるのが、お地蔵 様です。したがってお地蔵様は本来北向きでなければなりませんが、 日本全国では約 400 体しかないようです。北向が珍しいということで、 大変ご利益があるとか。
⑭ 寺畔の荒神社 田井 3-15 あた りにあります。 寺畔(てらぐろ) 部落で大切に まつられてい ます。社の裏に 回ると巨大な 岩があり祠(ほ こら)がまつら れています。
⑮ 大山神社
国道30号線 を田井から槌 さい
ケ原へ越す賽 の峠、ちょうど バイパス入口 の三叉路、北側 の小高い山に ある小さな社 が大山神社で す。この神社は 農業の神様と して非常に古 くからこの付近の農民の信仰を集め、一般には牛をまつった神様だと言われ おおやまづみのみこと
ているが祭神は大山祇 命 です。 14
もともとこの辺りは、深山地区と同じような状態で、弥生時代の農耕民族が 住み、僅かな谷間の平坦な場所で稲を作り、採取と狩猟の生活をしていまし た。われわれの遠い遠い祖先が穴を掘って藁屋根を掛け、住み着いたところ ということができます。古墳時代になって農耕技術も進み人間も多くなるに したがって、稲づくりは谷あいの湿田からしだいに平地に広い面積の水田が 開墾されていきましたが、現在の梶原、庄の上という部落の発祥はこの辺り であると言われています。したがってこのお宮は、その古い集落のあとに建 てたものであるといわれ、田井地区では最も古い神社であり、庄の上部落が 現在もそのまつりを続けています。
【参考地図】
① ② ④ ③ ⑭ ⑤ ⑬ ⑥ ⑦
⑧ ⑨ ⑩⑪ 15
⑫
3. 先丁場から木之崎地区 ① 丁場の建部神社
② 建部神社境内にある稲荷宮
③ 建部神社の奥の院にある不動尊
建部神社の境内の裏手から山道を少し登ると小高 い狭いところに不動尊がまつられています。 ここから丁場が一望できる眺めのよいところです。
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④ 道一地蔵尊
昔、真珠を養殖してい た人が、台風でその いかだ
筏 を流され、責任を とってこの山の上で 自殺し、それをまつっ たのが始まりだそう です。
⑤ 六道稲荷と石塔 177 人
道一地蔵尊のすぐ 左に 177 人と記され ている石碑があり ます。台風の犠牲者 をまつったものの ようです。
さきちょうば
⑥ 先丁場の山の手にある稲荷宮本尊 ここの御本尊様は 厨子型です。 表の建物は災害時 の避難所にも使わ れるとか。 先丁場の皆さんで 17
おまつりしているそうです。
⑦ 先丁場にある稲荷
宮 ご 本尊は この建物 の 裏 側にま つられて い ます。
⑧ 先丁場の民家の敷地内にある地蔵尊
⑨ 木の崎にある金比羅 宮
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い とんどう
⑩ 玉井宮(井 玉井宮(井頓堂)
岡鼻部落の鎮守様で す。勸請年月は不明。 現在では、見上げると サニー団地です。岡山 県神社庁によると、 「本社は元児島郡小 串光明崎(今は米崎) に鎮座していたが、応 徳2年(1085)岡山市 東山に遷座して玉井 宮と称せられる。その 後、正保2年(1645) 藩主池田光政の命によりこの地に東照宮を勸請するにあたり玉井宮は下の広場に 遷座され国内別格5社の1社に列された。明治14年玉井宮と東照宮は合祀され 玉井宮東照宮として県社に列格した。安産の神様としても崇敬を集めてきた。」と 記されています。
⑪ 塩釜神社 西浜公園前に弁財天 と塩釜神社がありま す。 その敷地の南側に鳥 居があり「梶原」と記 されています。昔はこ のあたりは前潟塩田 でした。
天保 6 年(1835)に勧請されています。元の場所はもう少し東にあったそうです。
⑫ 弁才天 塩釜神社の横に鎮座して います。もともとは北側の 西浜公園にありました。そ の場所は、「弁天」と言わ 19
せんざ
れていましたが、都市計画により公園になったため、現在の位置に遷座しました
【参考地図】
⑩
⑫ ⑪ ⑨
① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧
4. 谷西から野々浜地区 谷西から野々浜地区
① 田井八幡宮参道にある常夜灯
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② 谷西部落にある金比羅宮 田井八幡宮の表参道 より少し左に入った ところに金比羅宮が まつられています。
③ 佐々木久信の墓 最後のページに田井の人物を詳しく掲載していま すが、田井八幡宮の棟札(むなふだ)に書かれてい る名前、佐々木久信のお墓です。
④ 谷西部落にある太子
堂
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⑤ 田井八幡宮 田井八幡宮は、玉野市田井尾上 十禅寺山南麓の内海を眼下に見 渡せる静寂な処に鎮座し田井・築 港地区一円を氏子としている。 元々、田井地区は早くから開け た土地で、古くから神社があった こ う ひ
と口碑されているが、創建年代は 不詳。 ご し ん とく
御神徳は「厄除け」とされてい た
い し ん さ
る。室町時代の豪族、田井 新左 え も ん のぶ たか
こうえい さ
さ
き ちくぜんのかみひさ のぶ
衛門信高(南北朝時代の人)の後裔佐々木筑前 守 久信が三度も夢で八幡様のお告 う
さ はちまんぐう
げを受け、この地に1宇佐八幡宮より勧請し神社を再建し、神像を作り奉納した。 ひのえいぬ
ご神体の胎内に
文正元年(1466 年)丙 戌11 月 15 日
さ
さ
き ちくぜんのかみ
願主:佐々木筑前 守
みなもとひさ のぶ
源 久信の墨署銘のある神像を安置し、一族の繁栄と地域の発展を祈願したと伝 えられる。 その後、棟札によると寛文元年(1661)に本殿が改築され、続いて 元禄12年(1699)幣殿、拝殿、釣殿が改築された。 ひ わ だ ぶ
本殿は万延元年(1860)に入母屋造り檜皮葺きに改築され、さらに昭和61年 (1986)銅版葺きに改築され、現在に至っている。 拝殿は明治32年(1899)に建立され、その後内部の補修が行われている。 随神門は明治18年(1885)の建立で、屋根瓦の補修が行われているものの、 当時のままの状態が保たれている。 本殿や幣殿、拝殿の廻りは大小様々な木々に囲まれ、荘厳な雰囲気が漂い、拝 殿東には根回り約6メートル、樹齢700年と推定される樟樹がそびえ立ち、御 神木とされ、天然記念物に価すると言われている。 平成13年7月現在、拝殿ななめ前に社務所を建築している。
正月・節分・
輪くぐり・大祭・七五三等の祭礼には参拝者も多く賑やかで、とりわけ子供たち が団体でお詣りする「節分祭・七五三」は、田井地区の風物詩にもなっている。
1
宇佐神宮は全国に 4 万社あまりある八幡様の総本宮です。八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后を
ご祭神にお祀りし、725 年に創建されました。皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟(そうびょう)として御 崇敬になり、一般の人々にも鎮守の神として古来より広く親しまれてきました。
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⑥ 道上にある地蔵尊 弘法大師をおまつりしています。
や
え がきじんじゃ
⑦ 八重垣神社
田井の三軒屋道上の山中にある 小さなお宮で、もともとこの社 は宮山東橋の山頂にあったが、 風害が激しいところから天保 7 年(1836)現在地に遷しておま つりしたものです。その時の棟 札によると、名主・宮田社兵衛、 5 人組頭・井上与四郎、判頭・宮 や え がきじんじゃ
田喜三郎の発願で祠官近藤豊前の名前があります。この八重 垣 神社 という名称が 何故付けられたのか明らかではないが、見能という部落の人たちによってまつら す さ の お の みこと
れており通称「ぎおんさま」と呼ばれる神様で、祭神はいうまでもなく素盞嗚 命 です。鳥居には文政 6 年(1823)4 月吉日とあり、美野尾若連中の寄進です。。 鳥居から急坂を2・3百メートル上り詰めたところに社殿があります。石段の上 り
か
の左右に高さ 2.7 メートル大きな灯籠2基が弘化2年(1845)李花吉日に美 野尾若連中によって奉納されています。若者の奉納によるものが多いのはなぜで しょうか。このような例は少ないのです。
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⑧ 三軒屋・岡鼻にある地蔵尊
⑨ 十禅寺自走車道入口にある地 蔵尊
⑩ 野々浜会館にある恵比寿宮
⑪ 延命なで地蔵尊 24
延命なで地蔵は、慈照院入口(田井 5-43)に鎮座しています。その横に十四番札所 とあるのは児島郡霊場八十八ヶ所のうちの第十四番札所のことで蓮華庵をさして います。山王とあるのは日吉神社のことです。慈照院は十三番霊場です。十二番 は後閑の清水庵です。
⑫ 慈照庵
⑬ 彌太之進社 滋照庵の境内のすぐ東にあります。 池畑の開拓者、鳥井彌太之進を祀る社です。田井村誌によると長谷井義三郎、幸蔵氏 の勧請したと記されています。 玉野市史によると、鳥井彌太之進は岡山藩士で、貞享元年(1684)2 月 24 日、田井村 に移り住んで、田井村の東端の海岸を埋め立てて山麓を開墾し農耕を楽しみました。 その後、元禄 2 年(1689)にその田畑を入札により、長谷井庄之助が落札し鳥井彌太 之進の霊を慈照院のそばにまつり、部落の地主神としました。 ⑭ 漁業組合横にある恵比寿宮
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⑮ 童崎にある塩釜神社 福祉センターから山田方面に通ず る道路の左側にあります。 もともと童崎にあったものを現在 の位置に遷座しています。 昔、このあたりは塩田でした。 神社と厨子型祠があります。
⑯ 道上にある地蔵尊
【 参 考 地 図】 ⑪ ⑩ ⑦ ⑨ ⑤ ⑥ ⑧ ④ ③
⑮ ①
②
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⑭
⑬
⑫
5. 十禅寺から梶原地区 ① 名称不明祠 名称不明祠
赤坂口から十禅寺に登る 2 合目の 道しるべのある道の左側にある不 明の祠を田井歴史ウォーキングの メンバーが登山中に発見しました。 田井村誌を調べましたが掲載され
ていませんでした。昔は牛の鼻く ぐりをお祭りしていた覚えがある という方がおられました。
② 民家
坂を下りると、ちょっ とした広場があります。 山中にこのような広場 は意外でした。この辺 りにはかつて何軒もの 集落があった跡があち こち残っています。
③ 民家の納屋
現在は誰も住んでいま せん。 家の礎石、ずり落ちた 大屋根、それらの周囲 には生い茂った竹やぶ ばかりがありました。 27
④ 竹林と道標
田井・十禅寺から日 吉神社への参道は、 うっそう
鬱蒼 とした竹林の中 を通らなければなり ません。 一人ではなかなか行 けそうにない道です。
⑤ 日吉神社 日吉神社について 【玉野市史続編・昭和 48 年発行】 田井十禅寺山の頂上を少し東に下った字深田 というところにあります。 も と も と 十 禅 寺は 比 叡 山 延 暦 寺 の 末寺 と し て 平 安 時 代 に山 が ら ん
上伽藍が建てられ、現 在 も 地 名 に あ ま たの 坊の名を残している。 そ の 寺 々 の 鎮 守 とし て 祀 ら れ た の が この 日吉神杜である。伝説 に よ る と 元 こ の 神杜 は現在地より北の大平山の山頂にあったが、この神杜の見える所を航海する船のす べてが神罰をうけて難船するので、海から見えない現在地に移転したといわれる。 十善寺山、大平山、大乗権現山と続く東児島連峯一帯に、平安時代の山上仏教が開 けたとすれば、大平山はその中間に当る、南北の海を見下す位置にあるから、此所 に社地があったことはうなずける。 しかし、日吉神社が航海に害を及ぼす神にな った理由はわからないが、由加大権現の鬼の面が常山の中腹である海岸では海が恐 28
ろしいから、山の上の海の見えぬ所へ移転したという伝説があるところを見ると、 いつの頃か、海上から見える神杜を恐しがる時代があったのではあるまいか。 そ れはともかく、日吉神杜は江戸時代から害虫除けの神として繁昌するようになった。 農民は田植が終ると一番に当杜に参詣し、虫封じのお札を受け、神杜境内の砂をい ただいて帰り、一枚一枚の田にそのお札を建て、その砂で田の虫を追いだしていた。 神杜は一段低い窪地にあるが、神杜の裏の高台に大きな灯籠を建て、この灯籠の明 りの見える範囲の農民はすべての人がこの神杜にお参りしたので、後閑、大藪から の参道、八浜方面からの参道、妹尾・早島・興除・灘崎・荘内方面から大崎を経て 池の内よりの参道、田井・宇野・玉野方面から梶原を通る参道等があり、今に道し るべも多く残っている。
幕末から明治・大正の末年までが一番盛んであったが、
次第にさびれて、今では往時の茶店・料理屋の敷地、廃屋を残すのみとなった。 氏 子は十禅寺・元川・池の内三部落数十戸にすぎなかったが、今に残る玉垣や灯籠の たたずまいに往時の面影を忍ぶことができる。 宝暦 10 年(1760 年)の神杜書上 帳によると、田井村の内十禅寺、一杜五尺四方瓦葺、祭例六月十四日、御正印二十 一座、御勧請年暦覚え申す者御座無く侯、御杜地一反、御林御座無く候、氏子三十 五軒、右山王神職近土佐介と相神助にて、先年より務来申候処小氏子にて御座侯故 近年一ケ年替り相務申侯、神子私妻相勤居申侯、氏子十禅寺・元川、池の内三ケ所、 田井村藤田掃部、神子同人妻篠女、大藪村名主多次郎、田井村五人組頭善左衛門と ある。田井村誌には祭神大山咋命、大己貴命、恩姫命、菊理姫命、鴨玉依姫、鴨玉 依彦神、別雷神、霊像七基何時代か一基不明とある。 ご神体は小さい金銅像であ り、その製作も古い、棟札には貞享四年(1687)のものと享保十九年(1734)のものが あり、貞享のものには備中成羽新町油屋藤利右衛門、池の内村重兵衛が願主で改築、 享保のものは葺替えであったらしい。 現在の本殿は文久三年(1863)のもの、幣殿、 ひわだぶき
拝殿は明治十二年の建築である。 現在の本殿は一間杜流造、桧皮葺である。杜裏 の大灯籠は火袋も大きく、早島方面よりもこの明りが見えたといわれており高さは 四メートル近く、最上段が瓢箪(ひょうたん)の組み合せになった珍らしいもので 明治七年の建設である。一の鳥居横の神木は樹令数百年の市内一の大杉であるが、 落雷のため傷んでいる。 お堂の中にはいまでも少し残っていますが 2 つの乳房をぬいぐるみ風に作って 奉納されているのを知っている方も大勢いるでしょう。これは子供たちを守ってく れる仏様としての信仰であり、それは「おかげで乳にも不自由はなくこの子は育ち ました、健やかな成長をお守り下さい」という意味であり、「次の子どもも元気で 生まれますように、そしてこの子供も元気で生まれますように、それまでお乳をお あずけします」というような意味のお祈りを込めて奉納したものである。
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⑥ 八浜側の日吉神社の大鳥居 十禅寺 9 合目からの参道に鳥居 があります。八浜地区の本川、田 井地区の駿河池、山田地区の大藪 に通ずる鳥居です。 鳥居の前の石柱には大藪村と記 されています。
⑦ 常夜灯
早島方面からもこの明かり が見えたといわれており高さ は五メートル近く、最上段が ひょうたん
瓢 箪 の組み合せになった珍し いもので明治七年の建設です。
金剛峰 十禅寺の山頂三角点 標高は 236.5 メートル。 丁度草を刈ったばかりの写真 ですが、普段は草がぼうぼうで なかなか登れないようです。 十禅寺山は国立公園に指定さ れ、大変風光明媚な場所でした が、保安林が生い茂り現在では 眺めはよくないようです。 十禅寺山の地名は、天台宗の守護神十禅師権現に由来するものと考えられていま す。平安時代には、ここ一帯の山上に寺院が開かれ、一時はその数が十坊あったと 伝えられています。 30
金剛峰、不老峰、西光峰、中将峰などの峰々の名は、これらの山上伽藍の呼び名に 由来しているそうです。
地蔵嵶にある六尺地蔵尊 す る が いけ
じぞうたわ
駿河 池 から日吉神社に登るところに地蔵嵶 があ ります。そこには、立派な御影石蔵像があります。 高さ六尺(1.818 メートル)巾一尺八寸(54.54 セ ンチメートル)、総高で一丈一尺二寸(3.39 メート ル)。 かんじょう
文化十一年(1814)七月に勸 請 (神仏の分霊を他 の場所に移しまつること)で世話人は宮田傅吉他十 名です。近くに祠と小さな地蔵尊があります。【田 井村誌により)
⑧ 駿河池東にある地蔵尊 駿河池東にある地蔵尊 梶原地区にある駿河 池のそばにあります。
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【参考地図】
6. 田井の人物(江戸時代以前) 【玉野史誌続編より抜粋】 【玉野史誌続編より抜粋】
た い し ん ざ え も ん のぶたか
【田井新左衛門 信 高 】
び ぜん さ
さ
き
いちぞく
う
た てんのう
だい
こうえい
びぜんのかみもちうじ
こ
備前佐々木の一族で、宇多天皇14代の後裔、備中守持 氏 の子であるといわれる。 たいへいき
けんむ
あく ら のぶたね など
とも
びっちゅうふくやまじょう
よ
ほそかわ
太平記によると、 建武2 年 11 月 26 日飽 浦 信 胤 2 等 と共 に、備 中 福 山 城 に拠り、細川
2飽浦信胤(あくらのぶたね、生没年不詳)は、南北朝時代の武将。本姓は佐々木で、佐々木信胤、佐々
木三郎左衛門、佐々木薩摩とも呼ばれる。
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じょうぜん
した
ぞ
く なんちょう
てきたい
こじま
ごうぞく こ じ ま たかのり
せ
め
定 禅 3の下 に属して 南 朝 に敵対 し、児島の豪族 児島 高徳 に攻められたこともある。 ご あしかがたかうじ
きゅうしゅう
とき
あく ら
まつだ
ないとうなどいちぞく
とも
みついしじょう
よ
後 足利 尊 氏 が 九 州 にのがれた時 は飽 浦、松田、内藤 等 一族 と共 に三石 城 に拠り、 かんぐん
さいか
ふせいだ
い ご
しょうそく
ふめい
たいそん
ごうぞく
官軍 の西下を防いだ。それ以後の 消 息 は不明であるが、田井村の豪族 であったことは じじつ
こうせい
たいそん
ひとびと
しんざえもん
な
ふつう
ひと
事実のようで、後世 までも田井村の人々 は新左衛門の名をはばかって、これを普通の人 なまえ
しゅうかん
の名前につけない 習 慣 になっている。 き
さき
さんちょう
とりで
もうけ
ほんじょう み の お さんげん や か み
げん
てんしゅ
ふきん
しろ
城の崎 の 山 頂 に 塁 を設け、 本 城 見尾 三軒 屋上の、現 に天守 といわれた付近に城 も
いちぞく
を持っていた一族 であろう。 こ じ ま み や け かんけい
ごうぞく
ふじと
かっせん
こじま
りょうゆう
さ さ き いちぞく
児島4屯倉 関係 の豪族 か、あるいは藤戸の合戦 によって児島を 領 有 した佐々木 一族 きげん
あきらか
ぶんせいねんかん た い はちまんぐう
し ん ぞ う
めい
がんしゅ さ
さ
き ちくぜんの
か、その起源は明らかではないが、文政 年間 田井 八幡宮 のご神像の銘「願主佐々木 筑 前 かみみなもとひさのぶ
さ
さ
き し
こ
守 源 久信」とあることからも佐々木氏が濃いいようである。
た い くろうど た い ふ )
【田井 蔵人 大輔】
たいむら
た い し ん ざ え も ん のぶ たか
あに
たいへいき
せつどし
にんずう
田井村のひとで田井新左衛門 信 高 の兄 である。太平記5 に節度使下向の人数 にて、 に っ た よしさだ
かんとう
で
ご
よしさだ
したが
れきせん
えちぜん
せんし
い
新田 義 貞 に従い関東 へ出る。その後も義 貞 に 従 い歴戦 したが越前 で戦死したと云わ れている。 きょうだい
あに
なんちょう
おとうと
ほくちょう
とうじ
はんえい
兄 弟 でありながら兄 は 南 朝 に、 弟 は 北 朝 についているのは当時を反映 してい そ の た
じせき
いっさいつた
ざんねん
た い し
みやけ し
しない
る。その他の事跡が一切 伝 わっていないのは残念 であるが、田井氏、三宅氏と市内に ち
ひと
おお
のこ
ちが
きょうど
わす
いじん
その血をひく人 が多 く残 っているに違 いあるまい。郷土 の忘 れられた偉人である。
かじわら さぶろう
【梶原三郎】
げんぺい せ い す い き
へいけ
ぐんぺい
ふね
の
せっつの くに
ふくはら
こきょう
おそ
く
よし
源平 盛衰記に「6 月 17 日平家の軍 平 など船 に乗り摂津国6 福 原 の故郷 に襲 い来る由 、 3細川定禅(ほそかわじょうぜん)は、鎌 倉 時代末期から 南 かまくら じ だ い
なんぼくちょう じ だ い
ほそかわよりさだ
北 朝 時代にかけての武将。細 川 頼 貞 の子で、
ほそかわあきうじ
細 川 顕 氏 の弟に当たる。 4屯倉(みやけ)とは、ヤマト政権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地
方行政組織の先駆けとも考えられる。 5『太平記』 (たいへいき)は日本の古典文学の一つである。
全 40 巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南 北朝分裂、観応の擾乱、2 代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318 年(文保 2 年) - 1368 年(貞治 6 年)頃までの約 50 年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。 「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されてい る。 6
摂津国(せっつのくに)は、かつて日本に設けられた地方行政区分の令制国の一つである。別称は摂州(せ
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び ぜ ん のくに
ひきゃく
もっ
もう
あ
みやこ
なな
うんぬん
備前 国 より飛脚 を以 て申 し上げたりければ 都 のざわめき斜 めならず云々 」とある。 とうじ こじま
なんちょうがた
こ じ ま たかのり
ちゅうしん
いちぞく
のぶ たか
た い
し
当時 児島 に お け る 南 朝 方 は児島 高徳 を 中 心 と し た 一族 で 、 信 高 や 田井 氏 は ほくちょうがた
で あ
ころ
りゆう
なんちょう
ふめい
北 朝 方 に出会ったが、いつの頃 、どういう理由で 南 朝 についたかは不明であるが、 たいへいき
ぶん
み
あ くらのぶたね
かじわらさぶろう
なんちょう
じじつ
てんこう
太平記の文 から見ると飽 浦 信 胤 、梶原 三郎 は、南 朝 に転向したことは事実であろう。 かじわら
しょう
た い
きょじゅう
み
す る が やまじょうしゅ
梶原 と 称 するからには、田井の梶原に 居 住 していたと見るべきで、駿河 山 城 主 で あったものであろう。 かじわら ぶ ら く
げん た
げん た ざ か
ちめい
ちかみ
ごりんとう
のこ
梶原 部落に源 太・源 太坂という地名があるし、地神さまのところに大きな五輪塔が残 かじわら ぶ ら く
ひと
かんが
かじわらさぶろう
じんぶつ
こうえい
り、梶原 部落の人 たちでまつっていたことを 考 えると、梶原 三郎 なる人物 の後裔 の はか
かじわらかげ とき
いちじびぜん
こと
たいへいき
かげ とき
しる
墓 であろうか。7 梶原景 時が一時備前にいた事 は太平記にも記されているが、景 時 が す る が のかみ
かんが
いちじ
ち
かげとき
しろ
す る が じょう
駿河 守 であったことなどから 考 えると、一時この地に景 時 もおり、城 を駿河 城 と しょう
こうえい
だいだい
ち
ごうぞく
のこ
お も わ れ る
称 したもので、その後裔 が代々 この地に、豪族 として残 ったものであろう思われる。
【佐々木久信】 々木久信】 た い はちまんぐう
しんたい
ぶんしょうがんねん
ひのえつちのえ
がんしゅ
さ さ き
田井 八幡宮 のご神体 に「文 正 元 年 (1466 年) 丙 戊 1 月 15 日、願主 、佐々木 ちくぜんのかみみなもとひさのぶ
ぼくしょめい
しる
筑 前 守 源 久 信 」という、墨 署 銘 が記 されている。 でんせつ
た い しんさえもん
こうえい
ゆめ
はちまんさま
まくらもと
た
うじがみさま
ひじょう
伝説 によると田井新左衛門の後裔 が、夢 に八幡 様 が 枕 元 に立たれ、 「氏神 様 が非常 あ
すみ
さいけん
つ
さっそくしゃでん
う
さいけん
に荒れている、速 やかに再建 するように」とのお告げを受けたので、早速 社殿 を再建し、 しんたい
ふ
あたら
ちょうこくし
いらい
しんれい
ご身体 も古くなっていたから、 新 しく彫刻師 に依頼し、ご神霊 を入れておまつりし ふたた
た い し
さか
たため、 再 び田井氏は栄 えたといわれている。 こ じ ま こじょうき
つねやまじょう み と
ず
ひがし い ち り
なか
たいそん さ さ き
はか
児島古城記、常 山 城 見取り図の中に「これより 東 一里、田井村佐々木の墓あり」 しる
と記 されている。 げんざい
た い みのおぶらく
たに
みやけひさお し
たくち
この古墓といわれるものらしいものが現在 、田井見尾部落の谷、三宅寿夫氏の宅地の いちぐう
むろまち じ だ い
ごりんとう
ざんけつ
つ
かず
か
さだ
一隅 にある。室町 時代の五輪塔の残 欠 が、積み重ねられており、その数 も定 かではな すうき
そうい
じだいてき
むろまち し ょ き
おも
ふく
いが数基のものであることに相違なく、時代的にも室町 初期と思 われるものが含 まれ ている。
っしゅう)。畿内の一国。『延喜式』での格は上国。 領域は、現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。摂津・河内・和泉の三国の国境は、現在の 堺市の方違神社(三国山・三国丘)にあったが、明治 4 年(1871 年)に和泉国との国境は堺大小路から大 和川に改められ、一部が和泉国に編入された。 7
梶原景時(かじわらかげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。
石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武 家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」 「鎌倉ノ本体ノ武士」と称 されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられてい る。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた
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でんしょう
もと
みちばた
こだか
おか
う
め い じ ねんかんげんざい
いてん
伝 承 によると元 は道端 の小高い丘 の上にあったが、明治 年間 現在 のところに移転 め い じ なかごろ
ごりん
むらびと
おそ
ひじょう
みち
したものだといわれ、明治 中頃 まではこの五輪は村人 に非常に恐 れられており、この道 しもこえ
かつい
とお
ようじん
すこ
しもごえ
はかいし
を下肥 を 担 いで通 るときなど用心 しないと、少 しでも下肥 が墓石 にかかれば、すぐ たいりょう
ふんにょう
み
はね
かえる
せいち
さま 大 量 の 糞 尿 がその身に跳 ね返るといわれたそうだし、子どもたちもこの聖地に はい
けいえん
ころう
ちか
はな
た い
ひと
はか
は入 らず、敬遠 して近づかなかったと古老は話していたが、田井の人 たちが、この墓 を そんけい
しの
どれほど尊敬 していたが忍 ばれる。
【あとがき】 あとがき】 みち
古くからまつられているお寺や神社、そしてお地蔵様など車が入れない細い道 を歩く ことにより、何か古き時代のものを新発見したような気がいたしております。 ながい間田井に住んでいますのに、このような所があるなんて知らなかったと参加した 人達は感動しきりでした。 シニアが集まり歴史ウォーキングというい同じ目的を持って、手探りで地域の皆様の ご協力により、冊子が作成できました。 至らないところが多々あると思います。 歴史ウォーキングや地図などをインターネットに掲載していますので、若い世代にネ ット上での変更も期待しています。 出版編集にご参加いただきました田井市民センターの職員の皆様、田井歴史研究会の 皆様や印刷に、ご協力いただいた NPO スマイルネット玉情協の皆様に感謝と敬意を表し ます。
ウォーキング地図は印刷して田井市民センターに保管しています。 どうぞご利用下さい。
最期にこの活動に携わり発起人でもある会長の宮田邦蔵さんが、平成 23 年 11 月 21 日ご病気のためお亡くなりになりました。ご本人はこの冊子の完成を何よりの楽しみに されていました。本当に残念でなりませんが故人の思いが地域の中での新たな絆となっ て、世紀を越えて語りつがれますことを願ってやみません。
合掌
参加協力者 (順不同) 中谷昭子・平山公香・宮田泰子(会長)・原美智子・橋本貴美子(会計)・村上元子・藤原 35
さとみ・宮崎興一(監査)・伊藤誠子(副会長)・岡部恵子・木村義浩・竹下幸男・竹下智 恵子・岩部真須美・谷井宏光・四宮美江・三宅みい子・白井福美・菊池正子・井上貞女・ 藤井初子・葛原進・荻野昭彦・吉井幸子・岡部成行(副会長)・故 宮田邦蔵(前会長) 三宅重孝 田井地区ネットコミュニティ「@たいよう 田井地区ネットコミュニティ「@たいよう」 http://taitaiyo.com 田井歴史研究会ブログ http://tairekisi.blogspot.com
岡
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編集発行:平成 24 年 3 月吉日 田井歴史研究会会長 宮田泰子 発行人 岡部成行