NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

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日 本 美 術 随 想

銅造獅子水滴 10×4×7.5cm

モノの心・形 の心

銅造獅子水滴

日本人は、百獣の王と讃えられる獅子 ︵ライオ

ン︶を実見することなく、仏教伝来と同時に、聖

獣・瑞獣・霊獣として獅子を受容した。

実 際 の 獅 子 に 日 本 人 が 出 逢 う の は、 慶 応 二 年

︵一八六六︶を待たねばならない。

神 仏 を 守 護 す る 狛 犬 と の 僻 邪 一 対。 牡 丹 に 遊

ぶ 獅 子。 招 福 を 約 束 す る 獅 子 舞 な ど、 受 容 後 の

活躍を例示するのに事欠くことはない。

と も あ れ、 獅 子 奮 迅 の 働 き を な し、 心 中 の み

ならず獅子の身中に虫をも養った。

さて、掲出だが、これまでの伝統的な獅子とは

様子が違う。少なくとも威風堂々になく、人なつ

こい飼い犬の風情をみせている。首に蓄えた鬣も

穏やかならば、強調された尻尾も腰下に下げてお

り、表情にも媚びが色濃い。そして、投げる視線

は中空というか、上方に向けられている。

何かを訴えているかのような瞳の先に、ふと、

文 殊 菩 薩 を 感 じ た。 獅 子 の 仕 草 が 背 に 載 っ て

欲しいと文殊に訴えているようにも見えなくな

い。文殊菩薩は獅子を台座にして知恵を駆使し て衆生を救済する。

不思議な姿の銅造獅子の水滴から、文殊の知

恵を獲得すべく水滴に変身したのではないかと

独り合点することになった。

獅子の口先から吐き出される水は、文殊菩薩

か ら 授 か る 知 恵 の 水 な の だ。 獅 子 水 滴 で な く、

知恵の水滴と呼んでみようか。作期には室町を

想定しているが、確証はない。

︵主筆・森川潤一︶

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オークションハウス古裂會提供 (68回・9月開催出品)


むくげ

木槿の一輪生け

[表紙]

[裏表紙]

八月の花 茶碗蓮の置生け

七月の花 すすき真に百合請の立華

い ぐさ

花材……茶碗蓮・縞ふとい・藺草

とても小さな茶碗蓮を一花一葉に用い、縞ふといと藺草を

花器……李朝白磁丸壺 (高さ一七㎝ 、巾一九㎝ )

花材……矢 筈 す す き・ 桔 梗・ 笹 百 合・ 鳴 子 百 合・ 薊・ 夏 は ぜ・ しゃが・杉

取り合わせた置生け。それぞれの花材は壺の底に仕込んであ

花器……銅造広口中蕪立華瓶 (高さ二一㎝ 、巾三一・四㎝ )

す す き 数 本 を 真 と し て 用 い、 正 真 に 桔 梗、 請 に 笹 百 合、 くさもの

控に鳴子百合を取り合わせて、全体を草物がちに調えた立

る剣山に挿し留めてすっきりした立ち姿に仕上げてある。

茶 碗 蓮 は 小 形 の 園 芸 品 種 で ふ つ う は 花 の 直 径 が 一 二㎝

華。広口の器に水をなみなみと張って梅雨の終りごろの季

前後、草丈は五〇㎝ 前後、長い葉柄の頂につく葉は二〇∼

くさいっ

草物を真に用いる場合、草物のみを取り合わせる﹁草一

節感をかもしている。

二五㎝ になる。作品に使用したのは早咲きさせたものでふ

しき

つうサイズの半分にも満たないが、一花一葉が壺の中から

き もの

え合わせて、力強さの出せる木物の夏はぜを中段や下段に

色﹂の立華にもできるが、存在感のある花器との調和を考

姿になっている。更に水物のふといや藺草を添えることで

立ち伸びているかのように扱うことで気品のある蓮らしい

とはいけばな花材を分類する用語の一つで、蓮や河骨、葦、

水辺の風情までも思い起こさせる作品である。なお、水物

みず もの

花伝書には﹁夏山の草葉のたけぞしられけり。去年みし小

用いている。草の真に木を取り合わせる心得として、古い

す す き の 真 は、﹁ 葉 付 き 面 白 き を 見 立 て、 も し は た ら き

松ひとしなければ﹂の歌が引用されている。

しかも気品の高い花形に仕上げるいけばなは、古くから茶

作品のように、数少ない花材を規矩に縛られることなく、

おかもの

ふといなど沼や池に生育するものの総称。これに対し、陸 しん

なき時は、二本合わせて一本に見ゆるように細工して挿す

上に生育するものを陸物という。

すすき

べ し﹂と か﹁ 薄、穂に出るときは 一本にても心にすべき﹂

人 に 好 ま れ、 江 戸 時 代 の 初 期 に は、 ﹁抛 入花﹂と呼ばれて

などとされる花材で、穂のない夏のすすきは葉のなびきを 効果的に働かせて扱うと見映えがする。真のほか、副や請

もろこし

いた。文字通り、器に花材を投げ入れるのが本来なのだが、

なげ いれ はな

やあしらいにも葉のなびきを生かして用いられる。 きび

の器に水を張り、蓮や河骨を一花一葉から数葉、茎が水中

おぎ

から伸び出るように留めて入れると、水際が引き立ち、印

あし

夏は立華にふさわしい草物が多数あり、花をつける花材

をゆるやかに留めることもある。たとえば、深鉢形の広口

器の縁にもたせかけたくないときは花留めによって枝や茎

子 百 合、 笹 百 合、 透 か し 百 合、 姫 百 合、 鳴 子 百 合、 杜 若、

象深い一瓶になる。ところで抛入花には茶人好みのものの

ひおうぎ

も多様多彩である。たとえば、葦、荻、黍、唐黍、すすき、

花菖蒲、蓮、立葵、薊、桔梗、撫子、しゃがの葉、紫菀の

ほか、親しみやすい一輪挿しのようなものや、立華の役枝

がま

ふとい、蒲、鶏頭、射干、萱草、山百合、鉄砲百合、鹿の

葉、擬宝珠の葉等々。これらを適材適所に取り合わせ、草

を意識してつくられたものもあり、さまざまな人によって

ぎ ぼう し

いだ風情や華やいだ趣が出しやすく、木物主体の立華とは

伝えられ、変化もしていった。

︵ 写真・西村 浩一︶

︵花 ・岩井 陽子︶ ︵文 ・山根  緑︶

一色や木物もまじえた草物がちの立華に拵えると、やわら 一味違う立華になる。 華瓶・丸壺 オークションハウス古裂會提供( 回・ 月開催出品) 9

花材……木槿

京都・町家

平成二十四 ︵二〇一二︶年五月二〇日

花座敷 撮影日

68

花器……銅造遊環耳付花入

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花入 オークションハウス古裂會提供 ( 回・ 月開催出品) 68

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釉肌、それにやはり伊羅保特有のべべらや石はぜだろう。

﹁ 侘 び 物 三 盌 ﹂ の 中 で も も っ と も 侘 び た も の で、 名 は 全 体 が 柿 の 蔕 を 伏 せ た 形 や、

侘びの筆頭、柿の蔕

﹁釘彫﹂伊羅保 ︵椀形︶があり、ほかに﹁苔清水﹂ 、 ﹁橘﹂ 、 ﹁両彦﹂ 、 ﹁伊羅保﹂︵釘彫椀形︶と、

高台の作りが柿の蔕に似ているからとか、胎土が赤味を帯びた黒褐色で、柿の色に似て

伝来する名品で大正名器鑑に所載されているものに、名物の﹁秋の山﹂ 、馬越家伝来の

、 ﹁常盤﹂ 、 ﹁地蔵院﹂がある。 ﹁布引﹂ 、 ﹁釘彫﹂︵藤田美術館蔵︶

いるところからともいわれる。全体にごく薄い水釉がかかり、切立ちはゆるく腰で段を

土が使われ、釉が薄いため、肌は黒褐色や枯れ葉色など変化に富み、釉をかけ残した

柿の蔕の見所は、枯淡な大寂びの趣きであろう。ねっとりした鉄分の多い砂交じりの

付け、口は開きかげんで見込が広い。

伊羅保片身替は、伊羅保釉と井戸風の釉の掛け分けで、見込の井戸風の釉側に白く

③伊羅保片身替

一刷毛あり、古伊羅保の作風を基調とするものが多く見受けられる。伊羅保片身替の見所

火間が景をなしている。

高台脇の縮緬皺が美しい斗々屋

文化財の﹁毘沙門堂﹂ 、 ﹁早川﹂ 、 ﹁白雨﹂がある。

﹁背尾﹂、 ﹁大津﹂、堀田家伝来の﹁柿の蔕﹂、 ﹁龍川﹂、 ﹁京極﹂があり、このほかに、重要

伝来する名品で、大正名器鑑に所載されているものに、 ﹁龍田﹂ 、細川家伝来の﹁柿の蔕﹂ 、

は、盌形と、掛け分けられた釉の釉調、伊羅保釉と井戸風の釉の重なった部分の釉調の 変化、見込の一刷毛、口縁の切回し、大き目の竹節高台、それにやはり砂交じりの粗土 から生じるべべらや石はぜだろう。 伝来する名品で大正名器鑑に所載されているものに、 中興名物で平瀬家伝来の﹁千種﹂伊羅保、名物で松平家

﹁侘び物三盌﹂の一つで魚屋とも書く。堺の魚商の

とと や

元締であった納屋衆ゆかりのもので、利休に伝わって

伝 来 の﹁ 千 種 ﹂ 伊 羅 保、﹁ 池 水 ﹂、﹁ 夏 山 ﹂、﹁ 若 草 ﹂、 山 川 家 伝 来 の ﹁ 片 身 替 ﹂、﹁ 薬 替 ﹂ が あ り 、 ほ か に

この名が付いた。普通、朝顔形に口の広がった平茶盌形

青 鼠 色 や 紫 が か っ た 赤 色 に 変 化 す る 火 色 で あ ろ う。

斗 々 屋 の 見 所 は、 ね っ と り し た 土 で 焼 か れ た 肌 が

が出ている。

高台は竹節高台で内は兜巾、高台脇と高台内に縮緬皺

と きん

し た 土 が 用 い ら れ、 ろ く ろ 目 が い く 筋 も 際 立 っ て、

が多く、窯火によって色調が美しく変化するねっとり

﹁虹﹂がある。 ④黄伊羅保

黄伊羅保は、全体に黄色く焼けているからこの名が

少し端反り、古伊羅保や釘彫伊羅保と比べて繊細で、

ある。盌形は、口が大きく開いた感じで、口縁が樋口で

やや小振りで女性的である。

、中興名物で に大名物の﹁利休とヽや﹂︵藤田美術館蔵︶

伝来する名品で、大正名器鑑に所載されているもの

高台内の兜巾や縮緬皺も魅力である。

黄味、竹節高台とその周辺の釉の焦げ、口縁の樋口と

江戸高麗や江戸斗々屋とも呼ばれる﹁東高麗﹂ 、中 興

黄伊羅保の見所は、繊細でやや女性的な造形と肌の

どべ筋、それにやはりべべらと石はぜだろう。指あとも

がある。︵つづく︶

︵工芸評論家・青山清︶

、 ﹁隼﹂ 、 ﹁奈良﹂ 、 ﹁霞﹂ ﹁葉鶏頭﹂があり、ほかに﹁綵雲﹂

さいうん

﹁春霞﹂ 、 ﹁峰雪﹂ 、 ﹁唐織﹂ 、 ﹁蛍﹂ 、名物﹁龍田﹂ 、 ﹁小鷹﹂ 、

名物﹁江戸魚屋﹂ 、秋草とも呼ばれる﹁市原﹂ 、 ﹁広島﹂ 、

景色の一つとして見逃せない。 伝来する名品で、大正名器鑑に所載されているものに ははそ

﹁黄伊羅保﹂︵静嘉堂文庫美術館蔵︶ 、松岡家伝来 ﹁柞﹂、 の﹁ 黄 伊 羅 保 ﹂、戸 田 家 伝 来 の﹁ 黄 伊 羅 保 ﹂、坂 上 家 伝来の﹁黄伊羅保﹂があり、ほかに﹁岩波﹂、 ﹁立鶴﹂、 おみなえし

、 ﹁秋の野﹂ 、 ﹁小男鹿﹂ 、 ﹁橘﹂ 、 ﹁とこは﹂がある。 ﹁女郎花﹂

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、 ﹁初雁﹂ 、 ﹁山の井﹂ 、 ﹁両国﹂ 、 ﹁片身替﹂︵藤田美術館蔵︶

図版:十雨 柿の蔕


●連載

高麗茶 の名手

森田統・十雨の茶 ︵ ︶

こもがい

高麗茶盌の代表的なものには、大井戸、青井戸、小井戸、小貫入、井戸脇、熊川、三島、

彫三島、刷毛目、粉引、堅手、雨漏、玉子手、斗々屋、柿の蔕、伊羅保、呉器、割高台、 狂言袴、金海、御所丸、御本などがある。

これらの中で高麗茶盌の粋とされてきたのが伊羅保、柿の蔕、斗々屋の﹁侘び物三盌﹂

である。十雨が生涯をかけて追い求め作り続けてきたのが、この﹁侘び物三盌﹂である。

私が十雨先生の顕彰事業を手掛けていることを知ってのことだろう。図にのるわけでも

茶盌の名手として知られた森田統・十雨先生の人と茶盌について書けとすすめられた。

これは書き手にとってまことにうれしいことである。それにこれらの人の何人かから高麗

胴に挽き目のどべ筋が見られ、口は大きく開いた感じで、口縁の切れたのを土で補って

ところから、その名がついたもので、全体に特有の伊羅保釉が高台までかかる土見ずで、

伊羅保は、いずれも素地に褐色で砂まじりの粗土を使うため、肌がいらいらと荒い

伊羅保には、①古伊羅保、②釘彫伊羅保、③伊羅保片身替、④黄伊羅保がある。

﹁侘び物三 ﹂ の雄、伊羅保

ないが、ついうれしくなって書くことにした。十雨先生のことなら、書きたいことや

の釘彫、裾から高台脇の大胆な二段あるいは三段の切り回し、全体に釉がうすくかかった

釘彫伊羅保の見所は、造形の力強さである。大胆に削りだされた撥高台と高台内の渦状

もの、ねっとりした土で茶褐色のもの、暗くやや青味を帯びたものと変化がある。

全体に力強く、伊羅保きっての風格があり、釉肌は、黄味がかった伊羅保釉のかせた

ところから、この名がある。

釘彫伊羅保は、高台が撥形になっていて高台の中を釘様のもので渦状に削っている

②釘彫伊羅保

古伊羅保とする説もあり、片身替を古伊羅保に入れる分類説もある。

また、平瀬家伝来の片身替の﹁千種﹂と、松平家伝来の片身替の﹁千種﹂伊羅保を、

﹁對馬﹂ 、 ﹁沖﹂ともに伊羅保の変物と分類している。

名物の﹁沖伊羅保﹂があり、ほかに﹁嵯峨﹂と﹁巴﹂がある。ただし大正名器鑑では

伝来する名品で大正名器鑑に所載されているものに、名物の﹁對馬伊羅保﹂と、同じく

口縁の切回し、大き目の竹節高台、砂交じりの粗土から生じるべべらや石はぜだろう。

古 伊 羅 保 の 見 所 は、高 台 脇 か ら 腰 に か け て や や 丸 く 広 が っ た ど っ し り し た 盌 形 と、

いい、内に一刷毛あるものもある。

古伊羅保は、本手伊羅保ともいわれ、全体に力強くどっしりとして見所あるものを

①古伊羅保

他の高台は、やや大き目の竹節高台である。

直したべべらや、胴の石はぜ、口縁の切回しなどの見どころがあり、釘彫伊羅保を除く

変化のある高麗茶盌の方が、草庵の侘び茶には、よりふさわしかったのであろう。

中国の規格的な天目や青瓷の茶盌よりも、自由闊達にのびのびと作られた個性的で

に渡来したものもあるが、ほとんどは李朝時代にもたらされたものである。

朝鮮が李朝時代に入っても高麗と呼び続けていたからである。勿論、高麗時代にわが国

朝鮮のものが高麗茶盌と呼ばれたのは、高麗時代のものだからではない。わが国では

の中でも高麗茶盌と呼ばれた朝鮮のものが主流をなすようになった。

唐様の茶から侘び茶へ、書院から草庵の茶へと、茶の湯が推移するにつれて、同じ唐物

からよう

階 級 に 広 ま っ た 当 初 は、唐 物 の 中 で も 中 国 よ り 渡 来 し た も の が 主 流 を な し て い た が、

唐物がもっとも重く用いられてきたが、茶がわが国にもたらされ、喫茶の風習が上流

のものを和物、東南アジアのものを島物、欧州のものを紅毛と、四つに分類してきた。

オランダ

わが国では古くから茶の湯に用いる茶盌を大別して、中国、朝鮮のものを唐物、わが国

高麗茶 の粋 ﹁侘び物三 ﹂

の粋とされる﹁侘び物三盌﹂について述べることにしよう。

人と茶盌について書くまえに、まずはじめに、高麗茶盌のあらまし、とりわけ高麗茶盌

そんなことは、ともかくとして、ここは一番、正気にもどって、順序よく、十雨先生の

の話となれば気持が騒ぐ。

ではわかってもらえないだろうと思うと、まことに残念である。とにかく十雨先生の茶盌

を変えた茶盌である。凄い茶盌である。この茶盌の写真をのせさせてもらったが、写真

ここに一盌の茶盌がある。十雨先生の柿の蔕である。この茶盌は、私の晩年の生き様

聞いて欲しい話は山ほどある。茶盌のこととなればそれこそ書き切れないほどだ。

た だ ろ う と 思 っ て い た。と こ ろ が 意 外 に も 何 人 か の 人 か ら 電 話 や 手 紙 を も ら っ た。

らった。はじめは読者の層が掴めなくて随分うろうろした。だからあまり面白くもなかっ

本誌の創刊号から三号までの三回にわたって﹁美術業界の行方﹂について書かせても

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藤井雅一(黄稚) 《蓮》 紙本 水墨 2006年 95×65cm

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藤井雅一 (黄稚) 天に加護された美の創造

中 国 の 重 厚 で 濃 密 な 美 と、 日 本 の 軽 妙 で 洒 脱 な 美 中国と日本の 二つの母国を持つ画家・藤井雅一 ︵黄稚︶は、この本来は正反対な二つ の美意識を昇華させようと試みる。 し か し、 そ れ は 決 し て 口 で 言 う ほ ど 簡 単 な こ と で は な い 。 既 に 確 立 さ れ た 成 功 例 が あ り、 そ こ を 目 指 し さ え す れ ば い つ か は 必 ず 到 着 が 約 束されている安易な道程ではないのだ。 誰 も 助 け て は く れ な い。 全 て が 手 探 り の 未 知 の 世 界。 一 人 孤 独 に、 まだ誰も足を踏み入れたことのない新たな地平に立ち、藤井の絵筆は、 時に彷徨い、呻吟する。 ﹁ そ れ で も、 真 面 目 に 努 力 し て い れ ば、 ま た 天 が 助 け て く れ る 気 が す る。 自 分 の 意 図 を 超 え て、 墨 が 独 り で に 形 を 成 し て い く よ う に 思 え る 瞬間があるんだ﹂と、藤井は語る。 こ れ は、 芸 術 だ け の 話 だ ろ う か?  Heaven helps those who help

︵天は自ら助くる者を助く。︶確かに、時に人生には、誰にも themselves. 甘 え ず 最 善 の 努 力 を 尽 く し た 時 に だ け、 人 智 を 超 え た 眩 し い 光 が 差 し 込む瞬間がある。私達は、それを奇跡と呼ぶ。

藤井雅一︵ふじい まさかず︶ /黄稚︵ホワン・ツィー︶ 略歴

一九六四 ︵昭和三九︶年 江蘇省啓東市出生 一九八四 ︵昭和五九︶年 蘇州大学美術学院卒業 一九八五 ︵昭和六〇︶年 北京服装学院講師・同学院校章デザイン採用 一九八八 ︵昭和六三︶年 世界青年ファッションショー ︵スイス︶入選により研修招待 来日 一九九二 ︵平成四︶年 京都市立芸術大学大学院美術研究科に研究留学 一九九三 ︵平成五︶年 藤井伸恵と結婚 一九九四 ︵平成六︶年 京都で和装・洋装の意匠図案作画に従事 一九九五 ︵平成七︶年 日中・墨人交流展﹂︵京都市美術館︶出展 二〇〇七 ︵平成一九︶年 ﹁墨の力 二〇〇八 ︵平成二〇︶年 一休寺︽虎︾︵衝立︶作画 二〇一〇 ︵平成二二︶年 高台寺円徳院︽蓮独鯉︾︵襖絵︶作画 二〇一二 ︵平成二四︶年 ﹃藤井雅一・黄稚/画集 龍虎﹄︵日本美術新聞社︶近日刊行予定

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︶ Gyorgy Kepes, Language of Vision, Chicago, 1944; New York, 1995, p. 171. ギオルギー・ケ

ポ ー ル・ セ ザ ン ヌ の 中 心 点 に つ い て は、 次 の 拙 稿 を 参 照。 秋 丸 知 貴﹁ ポ ー ル・ セ ザ ン ヌ の中心点 自筆書簡と実作品を手掛りに﹂ ﹃形の科学会誌﹄第二六巻第一号、形の科学会、 二〇一一年、一一 二 │ 二頁。

本連載記事は、二〇一一年度に京都造形芸術大学大学院に受理された筆者の博士学位論文 ﹃ポール・セザンヌと蒸気鉄道 近代技術による視覚の変容﹄の要約である。

また、本連載記事は、筆者が連携研究員として研究代表を務めた、二〇一〇年度∼二〇一一 年度京都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト﹁近代技術的環境における心性

次の拙稿を参照。秋丸知貴﹁近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究﹂ ﹃ここ

の変容の図像解釈学的研究﹂の研究成果の一部である。同研究プロジェクトの概要については、

ジョン・リウォルド編、池上忠治訳、美術公論社、一九八二年、一二二 │ 一二三頁。

ろの未来﹄第五号、京都大学こころの未来研究センター、二〇一〇年、一四 │一五頁。︵ http://

図6:筆者撮影 図1の現場写真 2006年8月24日

︶実際のアルク渓谷の鉄道橋通過時の車窓風景については、二〇〇六年八月二六日に筆

図4:ポール・セザンヌ 《ヴァルクロ街道から見たサント ・ヴィクトワール山》1878-79年

図5:ポール・セザンヌ 《ローヴから見たサント ・ヴィクトワール山》1904-06年

︶ kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/pdf/vol5/Kokoro_no_mirai_5_02_02.pdf

図3:ポール・セザンヌ《サント ・ヴィクトワール山》1902-06年

︵註

一九世紀における空間と時間の工業

ペッシュ﹃視覚言語﹄グラフィック社編集部訳、グラフィック社、一九七三年、一五一頁。

︵註 ︶ Wolfgang Schivelbusch, Geschichte der Eisenbahnreise: Zur Industrialisierung von Raum ヴォル und Zeit im 19. Jahrhundert, München, 1977; Frankfurt am Main, 2004, p. 61. フ ガ ン グ ・ シ ヴ ェ ル ブ シ ュ﹃ 鉄 道 旅 行 の 歴 史

化﹄加藤二郎訳、法政大学出版局、一九八二年、八〇頁。 ︵註 ︶ Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris, ﹃セザンヌの手紙﹄ 1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris, 1978, p. 165. ︵註

図1:ポール・セザンヌ《サント ・ヴィクトワール山と大松》1887年頃

図2:図1の拡大部分

者が撮影した次の動画を参照。︵ http://www.youtube.com/watch?v=BAAAuOoEKPI ︶

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●連載

─ ︶

一平面上に存在していないことは確かである。そのため、鑑賞者は、まるで空中に浮かん

握を困難にしている。少なくとも、遠景の山から中景の平原に広がる地平と、この松が同

また、近景左の松の幹は異様に細いまま画面下に消えているので、画面から下の空間把

乗車視覚を想起するための手掛かりとして用いた可能性を指摘できる。

セザンヌと蒸気鉄道︵

美術への新視点

前三回で、私達は、ポール セ 一八三九∼一九〇六︶が、印象派の ・ ザンヌ ︵ Paul Cézanne: 画家の中で最も早く鉄道機構の外観を画題化し、最も早く列車内から眺めた鉄道乗車視覚

今回は、より具体的に、蒸気鉄道による視覚の変容がセザンヌの造形表現にどのように

を造形化していることを確認した。

この問題について、ギオルギー・ケペッシュは﹃視覚言語﹄︵一九四四年︶で次のように

を落としているように見え、さらに近景左の枝葉も画面に平行しているように見えるの

いる。また、近景右の三本の枝葉同士と山の稜線も重ならず、特に一番下の枝葉は山に影

な白い筆触が描き入れられている。そのため、山と枝葉の前後関係は非常に曖昧になって

これに関連して、サント・ヴィクトワール山とその上に懸かる松の枝葉の間には、小さ

でこの風景を眺めているように見える。

﹂ 。 遠く離れた物はゆっくり動き、極めて遠く離れた物は静止して見える︵註 ︶

性﹂ではなく﹁

化﹂とする

従来は自分もその一部であった空間から分離する。乗客が空間から抜け出すにつれて、そ

︹⋮︺蒸気鉄道の速力は、乗客を、 を構成していた空間領域である、前景の終焉を意味する。

、 ︽ローヴから見たサント・ヴィ │ 九年︶ ︵図 ︶ 見たサント・ヴィクトワール山︾︵一八七八 七

、 ︽ヴァルクロ街道から │ 六年︶ ︵図 ︶ 例えば、 ︽サント・ヴィクトワール山︾︵一九〇二 〇

﹂ 。 続場面︶になる ︵註 ︶

タブロー

│ 六年︶ ︵図 ︶等を対照すれば、遠景から近景に近付くにつれ クトワール山︾︵一九〇四 〇

他の複数作品と比較分析した場合にさらに明瞭になる。

。そして、これらの諸特徴は、 ことには重要な含意があるが、紙数の都合上ここでは省略する︶

平化﹂ ﹁前景の消失化﹂ ﹁画像の平面化﹂と定義できる︵﹁

こうした鉄道乗車視覚と対応するセザンヌの造形的特徴は、 ﹁筆致の近粗化﹂ ﹁運筆の水

で、遠近感の曖昧化は一層強化されている。

説明している。 ﹁走っている列車から見れば、物は近くにあるほど速く動くように見える。

まず、疾走する汽車の車窓から眺めた風景の特徴を考察しておこう。

反映しているかを見ていこう。

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の空間は乗客には、絵画 ︵または、速力が視点を絶えず変化させるので、連続画像あるいは連

ることで、蒸気鉄道では全く文字通り失われる。これは、工業化以前の旅行の本質的経験

に解説している。 ﹁工業化以前の知覚における奥行は、速力により近くにある物が飛び去

また、ヴォルフガング・シヴェルブシュは﹃鉄道旅行の歴史﹄︵一九七七年︶で次のよう

向に過ぎ去って見える。

つまり、車窓風景では、物は遠景にあるほど動きが遅く、近景にあるほど高速で水平方

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すなわち、車窓風景では、最も近くにある物は高速度のために消えてしまい、前景全体

積み上げられているので、画面全体は平板化して見える。

が消失しているように見える。そのため、鑑賞者と風景の連続的一体性が弱まり、やはり

、 既に第一章で述べた通り、図 の画面右中央に描き込まれた陸橋は鉄道橋であり︵図 ︶

鑑賞者は空中から風景を眺めているように感じられ、さらに地面の稜線が層を成して高く

こうした車窓風景の視覚的特徴と特に呼応するセザンヌ絵画の一つが、 ︽サント・ヴィ ︵図 ︶である。 クトワール山と大松︾︵一八八七年頃︶

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﹂と賛美している 一八七八年四月一四日付書簡で﹁何と美しいモティーフだろう︵註 ︶

セザンヌがこの鉄道橋通過時に疾走する汽車から眺めたサント・ヴィクトワール山を、

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鉄道による視覚の変容がセザンヌの造形表現に反映している可能性は、決して誰にも否定

︵美術史家・秋丸知貴︶

ことは歴史的事実である。そうである以上、意識的にしろ無意識的にしろ、そうした蒸気

心点を、遠景から近景に近付くにつれて次第に物が高速で水平方向に飛び去っていく鉄道

に筆触が横方向に反復し、粗くなる傾向を示している。このことから、セザンヌはこの中

。︵つづく︶ することができないだろう︵註 ︶

興味深いことに、この作品には、最遠景のサント・ヴィクトワール山の中央に中心点が

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。そして、この中心点から近景の松の枝葉に近付くにつれて、徐々 描かれている︵図 ︶

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画面を気楽な気晴らしとして鑑賞することになる。

把握していた旅行者は、風景から疎外されると共に、奥行が減退しスペクタクルと化した

て漸次筆触が横方向に反復されて粗くなり、最近景ではほとんど横長の色帯と化し、前景

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が失われるように感じられる。その結果、従来身体の連続的延長として風景との距離感を

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Cézanne and Steam Railway (4) In the last three chapters, we saw that Paul Cézanne (1839–1906) was the first Impressionist painter to topicalize the appearance of the railway system and represent the visual transformation influenced by the perception of the moving scenery induced by a moving train. We will now discuss more concretely the influence of the transformed visual perception induced by the passing sceneries seen from a moving train on Cézanne’s painted representations. First, let’s review the features of scenery when viewed from a moving train. Gyorgy Kepes writes about this in his Language of Vision (1944) that, “From a moving train, the closer the object the faster it seems to move. A faraway object moves slowly and one very remote appears to be stationary.” (1) Thus, from a train window, objects at a distance appear to move slowly while those that are near appear to move quickly and horizontally. Moreover, Wolfgang Schivelbusch explains in his Railway Journey (1977) that “there the depth perception of pre-industrial consciousness was, literally, lost: velocity blurs all foreground objects, which means that there no longer is a foreground—exactly the range in which most of the experience of preindustrial travel was located...[T]he train’s speed separated the traveler from the space that he had previously been a part of. As the traveler stepped out of that space, it became a stage setting, or a series of such pictures or scenes created by the continuously changing perspective.” (2) In short, from a train window, the nearest elements of the scenery pass at such high speeds that they seem to disappear, which is experienced as a loss of the whole foreground. Thus, any traveler who has grasped a sense of distance with scenery as a continuous extension of his body will be alienated from the landscape and will appreciate a screen that has turned this loss of depth into a spectacle as a comfortable form of leisure. One of Cézanne’s works that duplicate the visual features of train window scenery in a particularly striking manner is The Mont Sainte-Victoire and Big Pine, (c. 1887) (Fig. 1). Interestingly, in this painting, a central point is drawn on the center of the Mont Sainte-Victoire (Fig. 2). From this central point to the nearby pine branches, the brush strokes tend to be repeated in the transverse direction and gradually become coarse. We may therefore suppose that Cézanne used this central point to depict the manner in which nearby objects fly away quickly in the horizontal direction when perceived from a moving train. Moreover, since the trunk of the nearby pine on the left disappears under the canvas while it remains strangely thin, it is difficult to perceive the lower space under the screen. We certainly cannot assume that this pine exists on the same ground level that spreads from the mountain to the plain. The observer thus seems to be looking at this landscape from above. In relation to this, the small white brushstroke drawn between the Mont Sainte-Victoire and the branch of pine on it renders the spatial relationship between the mountain and the branch very ambiguous. Moreover, the ambiguity of the depth perception is intensified by the fact that the branches on the near right and ridgeline of the mountain do not overlap (even the bottom branch seems to cast a shadow over the mountain) and the branches on the near left seem to be parallel to the screen. These expressions replicating the view from a moving train can be defined as a “nearer-roughening of touch,” “side-repeating of stroke,” “disappearing of foreground,” and “flattening of picture” (although using the progressive form has important connotations, it is omitted here because of space limitations). These characteristics become even clearer through comparison with Cézanne’s other works. For example, comparing The Mont Sainte-Victoire (1902–06) (Fig. 3), The Mont Sainte-Victoire Seen from the Chemin de Valcros (1878–79) (Fig. 4), and The Mont Sainte-Victoire Seen from Les Lauves (1904–06) (Fig. 5), we notice that the brushstrokes are gradually repeated in the transverse direction and the images of the closer objects appear rougher. In the nearest view, they turn into an almost oblong color belt, and the whole foreground seems lost. Thus, the continuity between the observer and the scenery weakens, and the observer seems to look at these landscapes while hovering in the air. Furthermore, because the ridgelines of the ground form high layers, the whole screen appears to lose depth. We saw in chapter 1 that the bridge drawn in the center right of Fig. 1 is a railway bridge (Fig. 6) and that Cézanne praised the Mont Sainte-Victoire while viewing it from a train passing over this bridge, saying in a letter dated April 14, 1878, “What a beautiful motif.” (3) Therefore, the possibility that the transformation of visual perception induced by the steam railway is reflected in Cézanne’s painted representations is undeniable. (4) (AKIMARU Tomoki / Art Historian) (1) Gyorgy Kepes, Language of Vision, Chicago, 1944; New York, 1995, p. 171. (2) Wolfgang Schivelbusch, The Railway Journey: The Industrialization of Time and Space in the 19th Century, Berkeley and Los Angeles: The University of California Press, 1986, pp. 63-64. (3) Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris, 1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris, 1978, p. 165. (English edition, New York, 1995, pp. 158-159.) (4) See the Mont Sainte-Victoire, which can be seen from the train when it runs through the railway bridge at the Arc valley, filmed by the author on August 26, 2006. (http:// www.youtube.com/watch?v=BAAAuOoEKPI)

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Fig. 3 Paul Cézanne, The Mont Sainte-Victoire, 1902–06

Fig. 4 Paul Cézanne, The Mont Sainte-Victoire Seen from the Chemin de Valcros, 1878-79

Fig. 5 Paul Cézanne, The Mont Sainte-Victoire Seen from Les Lauves, 1904-06

Fig. 2 The expansion part of Fig. 1

Fig. 1 Paul Cézanne, The Mont Sainte-Victoire and Big Pine, c. 1887

Fig. 6 A photograph of the scene in Fig. 1, taken by the author on August 24, 2006

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日本美術の至宝展

ボストン美術館

Exhibition Review

的に広く紹介したいと考えていた。 明治二十三 ︵一八九〇︶年に、フェノロサ とビゲローが収集した大量の日本美術がボ ストン美術館に寄託される。これを受けて、 同 館 に 日 本 美 術 部 が 成 立 し、 フ ェ ノ ロ サ が 初 代 部 長 に 任 命 さ れ、 翌 年 に は ビ ゲ ロ ー が 理 事 に 加 わ る。 明 治 二 十 九︵ 一 八 九 六 ︶ 年 の フ ェ ノ ロ サ の 辞 任 後、 明 治 三 十 七 ︵一九〇四︶年からは天心が作品整理に携わ り、天心は明治四十三 ︵一九一〇︶年からは 中 国・ 日 本 美 術 部 長 と し て 収 蔵 品 の 拡 充 に 努めた。こうしてボストン美術館には、 ﹁西 洋人の理解のために日本美術の歴史を示 す﹂︵天心︶ことを目的とする、体系的で網 羅的な一大日本美術コレクションが形成さ れたのである。 本展の見所は、国宝級の仏画や、長谷川 等 伯、 尾 形 光 琳 の 屏 風、 伊 藤 若 冲 の 掛 軸 な ど 数 多 い が、 特 に 在 外 二 大 絵 巻 と し て 知 ら れ る︽ 吉 備 大 臣 入 唐 絵 巻 ︾ と︽ 平 治 物 語 絵 巻 ︾ は、 そ の 購 入 が 契 機 と な っ て 古 美 術 品 等 の 海 外 流 出 を 防 止 す る﹁ 重 要 美 術 品 等 ノ 保存ニ関スル法律﹂が制定された点で興味 深い。また、修復後世界初公開の︽雲龍図︾ を 始 め、 近 年 再 評 価 の 進 む 曽 我 蕭 白 の 逸 品 群は先見の明を示して圧巻である。 本展で誰もが考えさせられるのは、美術 品 の 散 逸 防止 が 海 外 流 出 を 生 ん だ と い う 逆 説である。もちろん、当時は美術品の海外 輸 出 は 外 貨 獲 得 の た め に 奨 励 さ れ て お り、 それらは海外で保存されなければ国内では 消失していた可能性が高いことは十分に考 東京国立博物館 二〇一二年三月二〇日~六月一〇日 名古屋ボストン美術館 (前期)二〇一二年六月二三日~九月一七日 (後期)二〇一二年九月二九日~一二月九日 九州国立博物館 二〇一三年一月一日~三月一七日 大阪市立美術館 二〇一三年四月二日~六月一六日

慮されねばならない。また、日本美術を実 物で紹介する国際的な文化交流の拠点が海 外にあることも非常に望ましいことであ る。しかし、それでもなお、本来は当初か ら日本の伝統美術は日本人自身こそが手厚 く保護すべきだったのではないかという問 題は常に再考されても良いだろう。

組み合わせの美 展

日本 絵 画

│ │

二〇一二年四月一四日から六月三日にか け て、 滋 賀 県 立 近 代 美 術 館 で﹁ 日 本 絵 画 組み合わせの美﹂展が開催された。所 蔵品だけで構成された、展示約二五点の小 規模展であったが、出品作は優品や佳作が 多く、ユニークな展覧会だったのでぜひ紹 介したい。 古来、日本絵画は、掛軸・絵巻物・屏風・ 襖絵・衝立など多種多様な形式を持ってい る。その上で、それらは﹁一双﹂ ﹁一対﹂ ﹁揃 い﹂等、複数の点数の組み合わせとして鑑 賞されることが多い。本展は、こうした組 み合わせには、一つの画面で完結する作品 とは異なる創意工夫があるとし、その観点 から三部構成で日本絵画の魅力に迫ろうと するものであった。 第一部﹁連続する画面 パノラマの美﹂ では、六曲一双という屏風の形式を生かし、 横長の大画面に迫力ある眺望を描いた作品 が紹介されていた。例えば、塩川文麟︽近 江八景図︾ 、庄田鶴友︽耶馬渓の朝︾ 、山元 春挙︽雪松図︾ 、池田遥邨︽湖畔残春︾ 、岸 竹堂︽保津峡図︾は、鑑賞者を取り囲むこ とで眼前に迫るような臨場感を醸し出して いた。また、幸野楳嶺︽群魚図︾や大林千 萬樹の︽街道︾は、屏風の屈曲が角度によっ て見え方を変化させることで不思議な奥行 感を演出していた。 第二部﹁競い合う構図と色 対比の美﹂ では、一双の屏風や双幅の掛軸等で、左右 の画面が対比的に描かれた作品が陳列され

て い た。 例 え ば、 北 野 恒 富︽ 暖 か ︾ ︽鏡の 前︾ 、下村観山︽鵜鴎図︾ 、山元春挙︽富士 二題︾ 、冨田溪仙︽風神雷神︾ 、岸連山︽龍 虎図︾ 、 岸 竹 堂︽ 鉄 拐 蝦 蟇 仙 人 図 ︾ は、 左 右で形態や色彩を対比させ、絵画ならでは の 独 特 な 造 形 的 リ ズ ム を 生 み 出 し て い た。 また、中島来章︽武稜桃源図︾は、桃源郷 に迷い込んだ漁師とその船を別画面に描く ことで物語の進行を暗示していた。 第三部﹁ 〝 揃 い 〟 の愉 悦 セットの美﹂ では、二点以上の複数作品が一揃いで一作 品である連作等が展示されていた。例えば、 野 村 文 挙︽ 近 江 八 景 図 ︾ 、 伊 東 深 水︽ 近 江 八景︾の名所絵や、小茂田青樹︽四季草花 図︾の四季絵、中島来章︽十二ヶ月図︾の 月次絵は、空間の変化や時間の推移を複数 の画面で繊細かつ大胆に表現していた。 もちろん、こうした複数作品による組み 合わせの美は、日本美術だけに限られるも のではない。しかし、一般に西洋美術は主 客を分離させ、一枚の絵画を閉じられた一 つの世界として完結させる傾向がある。こ れに対し、自然と人間を分け隔てずに連続 的に捉える日本的感受性は、こうした複数 作品を組み合わせる美意識と非常に相性の 良いものであることは確かである。そのこ とは、画法や形式面で西洋化が進む近代日 本画においてもなお明瞭に感じられること を示したところに、本展のもう一つの魅力 があったと言えるだろう。 滋賀県立近代美術館

二〇一二年四月一四日~六月三日

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米ボストン美術館は、﹁東洋美術の殿堂﹂ と 称 さ れ、 中 で も 一 〇 万 点 を 超 え る 日 本 美 術の収蔵品は海外随一の質と量を誇ってい る。 そ の 内、 国 宝・ 重 要 文 化 財 級 の 厳 選 さ れ た 約 九 〇 点 の 名 品 に よ る﹁ ボ ス ト ン 美 術 館 日 本 美 術 の 至 宝 ﹂ 展 が、 東 京、 名 古 屋、福岡、大阪を里帰り巡回中である。 よ く 知 ら れ て い る よ う に、 明 治 維 新 後 の 日 本 で は、 西 洋 的 近 代 化 を 急 ぐ あ ま り に 伝 統 的 な 古 美 術 品 は 非 常 に 軽 視 さ れ て い た。 特 に 明 治 政 府 に よ る 廃 仏 毀 釈 令 に よ り、 仏 画 や 仏 像 は 多 数 破 壊 さ れ、 窮 乏 す る 寺 院 は 貴 重 な 寺 宝 を 手 放 さ ね ば な ら な か っ た。 実 際 に、 現 在 は 国 宝 で あ る 奈 良・ 興 福 寺 の 五 重 塔 で さ え、 売 り に 出 さ れ 薪 に さ れ そ う に なったほどである。 こ う し た 混 乱 の 中 で、 明 治 十 一 ︵一八七八︶年に東京大学で政治学・哲学を 教 え る た め に 来 日 し た ア ー ネ ス ト・ フ ェ ノ ロ サ は、 日 本 美 術 の 魅 力 に 開 眼 し、 調 査 研 究を進めると共に一〇〇〇点以上を収集し た。 ま た、 明 治 十 五 ︵ 一 八 八 二 ︶年 に 来 日 し た ウ ィ リ ア ム・ ビ ゲ ロ ー も、 資 産 家 と し てフェノロサと協力して約四万一〇〇〇点 を 収 集 し た。 こ の 二 人 を 助 け た の が、 フ ェ ノロサに東大で薫陶を受けた若き文部省官 僚、 岡 倉 天 心 で あ る。 彼 等 は 急 速 に 失 わ れ つ つ あ る 日 本 の 伝 統 美 術 を 再 評 価 し、 国 際

展覧会評 ◉

戌亥蔵ウェブサイト http://inuigura.web.fc2.com/


時評 ◉ Review on current events

グーグル ・アートプロジェクトに

日本初参加

ルーヴル美術館と ニンテンドー 二 〇 一 二 年 四 月 一 一 日 に、 仏 パ リ の ル ー

﹂ は、 任 天 堂 が ﹂は

︵二つの画面︶ ﹂ の 略 で、 本 体 Dual Screen

示され、自分で自由にルートを設定できる

等の代表作品を巡るツアーも用意されてい

他、 ︽モナ・リザ︾や︽ミロのヴィーナス︾

同ガイドは現在、日本語を含む七ヶ国語

る。

に対応し、近日中にフランス語手話にも対

応予定。一般料金は五ユーロ︵約五三〇円︶

重たい音声ガイド機を首からぶら下げて

で、誰でも利用することができる。

歩く代わりに、手軽に持ち運べる小型の視

聴覚ガイド機が登場したことをまず喜びた

落としたりせずに廻覧できることも、特に

い。また、広大な館内を迷ったり作品を見

液晶ディスプレイ︵約

専用メガネを掛けなくても裸眼で立体映像

り覗き込むようなことがあれば本末転倒であ

しているのに、小さなディスプレイ画面ばか

であれ、もしせっかく現場で実物を目の前に

た だ し、 た と え ど れ ほ ど 優 れ た ガ イ ド 機

益であろう。

高齢者・身障者や海外旅行者にとっては有

は 縦 七・四㎝ 、 横 一 三・四㎝ 、 厚 さ 二・一㎝

リア方式ワイド

量。 開 い た 上 画 面 が、 三・五 三 型 の 視 差 バ

の 折 畳 み 式 で あ り、 重 さ は 二 三 五g と 軽

て い る 最 新 の 携 帯 型 ゲ ー ム 機。 ﹁

二〇一一年二月二六日から世界中で販売し

﹁ニンテンドー

﹂を使った新しい館内案内を開始した。

二 〇 一 一 年 二 月 二 日 に、 イ ン タ ー ネ ッ ト

す る 無 料 サ ー ビ ス﹁ グ ー グ ル・ ア ー ト プ ロ ジェクト﹂を始動した。 こ れ は、 既 に グ ー グ ル・ マ ッ プ で 用 い ら れている現場パノラマ写真によるストリー ト ヴ ュ ー 機 能 を 屋 内 に も 適 用 し、 館 内 を 画 面 上 で 移 動 し つ つ、 気 に 入 っ た 作 品 を 解 説 付きの高解像度写真で鑑賞できるようにす る も の で あ っ た。 第 一 弾 と し て、 米 メ ト ロ

を楽しめることを大きな特徴としている。

一 六 七 七 万 色 を 表 示 可 能 ︶ に な っ て お り、

これまでも国内では、日本美術の画像アー

二〇一二年四月四日には、第二弾として、

術鑑賞における実体験の重要性こそを浮かび

トプロジェクトに関してと同様に、むしろ芸

る。デジタル技術の進歩は、グーグル・アー

今回導入された﹁オーディオガイド・ルー ﹂ は、 同 館 と 任

カイヴ事業として、 ﹁文化遺産オンライン﹂や

を用いるもので、本来はゲー

ヴ ル・ ニ ン テ ン ド ー

内蔵した

天堂が共同で開発した専用ガイドソフトを

国宝﹂等の取組みがあった。しかし、国内

アジア、オセアニア、中東、南米等にも対象

フォームで公開されるのは、今回のグーグル・

そ う し た 中 で、 日 本 の デ ジ タ ル 技 術 が、

上がらせるものではないだろうか?

美術館の所蔵作品が世界共通規格のプラット

されて別の用途で活用される点が興味深い。

ム用に開発された機体がその高性能を評価

晴 ら し い こ と で あ る。 ま た、 日 本 の 文 化 や

中の美術作品を鑑賞できることは、まず素

イド機からの切替えである点が注目される。

な案内を実現し、従来の単一機能型の音声ガ

みならず、立体映像や動画表示による多角的

受 性 と 鑑 賞 者 へ の 細 や か な 心 配 り こ そ は、

技術力はもちろん、芸術作品への繊細な感

こ の よ う に、 自 宅 に 居 な が ら に し て 世 界

アートプロジェクトが初めてである。

る国宝一六点・重要文化財五一点を含む、美

美 術 作 品 が、 広 く 世 界 中 の 人 々 に 情 報 発 信

て お り、 ズ ー ム 機 能 に よ り 肉 眼 で は 不 可 能

作︽ 紅 葉 ︾︵一九三一年︶が そ の 対 象 と な っ

∼安土桃山時代︶と、足立美術館の横山大観

立博物館の狩野秀頼筆︽観楓図屏風︾︵室町

度 写 真 も 公 開 し て い る。 国 内 で は、 東 京 国

よ っ て は 一 点 ず つ、 七 〇 億 画 素 の 超 高 解 像

されないことは、誰もが一般に経験する事実

レイ上では表面の微細なマティエールは再現

り、どれほど高解像度であっても、ディスプ

も、サイズが異なれば作品全体の印象が異な

ろう。例えば、どれほど精巧な画像であって

助に過ぎないこともはっきりと認識すべきだ

でも実物鑑賞とは異質な別物であり、その補

しかし、こうしたデジタル技術は、あくま

と で あ る。 ま た、 地 図 で は

を館内地図で確認できるこ

能により、利用者の現在位置

で見ることもできる。

をディスプレイ上で回り込ん

は見られない立体作品の背面

た、建物の構造により現実に

能で細部まで拡大が可能。ま

主要作品が目立つように表

ように思われるからである。

日本人が最も得意とする分野の一つである

受け入れられたことは示唆に富む。高度な

術作品五六七点がネット上で閲覧可能になっ

さ れ る こ と も 望 ま し い。 デ ジ タ ル 化 は 時 代

世界で最も来館者数の多い美術館の一つに

た。 ま た、 東 京 国 立 博 物 館 と 足 立 美 術 館 は

の作品や展示室が解説される。画像は高解

の 特 性 を 生 か し て、 音 声 の

ストリート ︵ミュージアム︶ヴュー機能にも

の趨勢 であり、文化財や美術作品が人類全

像度写真を多用し、ズーム機

ま た、

対応し、館内 ︵足立美術館は庭園も︶のヴァー

体の共有財産として未来の世代に継承され

な 細 部 ま で 確 認 で き る。 そ し て、 同 プ ロ

である。やはり、芸術作品の鑑賞は、実物に

同ガイドでは、画像や音声で七〇〇以上

チャル廻覧も可能である。

ジ ェ ク ト で は、 気 に 入 っ た 作 品 を 個 人 的 に

触れることこそを第一としたい。

特筆すべきは、位置検索機

画 家・ 年 代・ 種 類 の 作 品 を 検 索 す る 機 能 の

編 集 す る﹁ マ イ ギ ャ ラ リ ー﹂ 機 能 や、 同 じ

(c) 2012 musee du Louvre - Olivier Ouadah

オーディオガイド・ルーヴル・ニンテンドー3DS (写真提供・任天堂)

さ ら に、 同 プ ロ ジ ェ ク ト で は、 参 加 館 に

ることは高く評価すべきである。

六館が参加した。これにより、各館が所蔵す

3 D S

3 D S

館、東京国立博物館、ブリヂストン美術館の

が公開された。日本からは、足立美術館、大

3 D S

欧米の一七館・約一〇〇〇点が公開された。

D S

館が拡大され、一五一館・三〇〇〇〇点以上

ポ リ タ ン 美 術 館 や 伊 ウ フ ィ ツ ィ 美 術 館 等、

3 D

ジアム及びその所蔵品をオンラインで公開

ヴ ル 美 術 館 は、 任 天 堂 の﹁ ニ ン テ ン ド ー

3 D S

3 D S

3 D S

検 索 大 手 の グ ー グ ル 社 は、 世 界 中 の ミ ュ ー

充実も図られている。

グーグル・アートプロジェクト (写真提供・Google)

原美術館、国立西洋美術館、サントリー美術

e

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美 人 画

再 見

高橋由一︵文政十一・一八二八∼明治二十七・一八九四︶は、幕末・明治期の洋画家。

編集後記

一日ごとに夏の訪れを感じる季節になりまし

た。 ﹃日本美術新聞﹄の第四号をお送り致します。

本 号 の 時 評 は、 ど ち ら も デ ジ タ ル 技 術 と 芸 術

幕末に西洋製石版画で見た西洋画法の写実性に衝撃を受け、油彩画や美術制度を日本に移植しよ

プ レ イ 上 に 映 し 出 さ れ る 超 高 解 像 度 写 真 に は、

鑑 賞 の 問 題 を 扱 う こ と に な り ま し た。 デ ィ ス

明治5(1872) 年

目左近小稲。一般にはまだ珍し かった油彩画のモデルを由一が 探した時、引き受けたのは小稲 だけであった。 と こ ろ が、 そ の 小 稲 で さ え、 浮世絵のように類型化された美 人画を期待していたため、完成 した本作を見て、あまりの生々 しさに﹁私はこんな顔じゃあり ません﹂と泣いて怒ったという。 現在の目から見ればきちんと美 人に描かれているので、由一の 写実的な美意識がいかに時代を 先取りしていたかを示すエピ ソードであろう。 ちなみに、その四年前に、同 じ小稲を描いた歌川国貞︵二代︶ の浮世絵が左の作品である。

ています。

︶ 。 おります。︵ http://www.n-artjournal.com/

︵M︶

︵A︶

部一同、皆様のご訪問を心よりお待ち申し上げて

術新聞社の公式ページを公開しております。編集

とができます。また、フェイスブックでも日本美

ました。バックナンバーを無料で閲覧して頂くこ

日本美術新聞社の公式ウェブサイトを立ち上げ

て編集作業に取り組んでいます。

が っ て い ま す。 い つ も、 そ の よ う な こ と を 考 え

け 継 が れ て い き ま す。 ま た、 美 は 永 遠 へ と つ な

め て 驚 き ま す。 し か し、 モ ノ は 時 間 を 超 え て 受

う 半 年 が 過 ぎ ま し た。 月 日 の 流 れ の 早 さ に、 改

光 陰 矢 の 如 し。 早 い も の で、 二 〇 一 二 年 も も

︵編集部一同︶

基本こそが常に一番大切なのではないかと考え

つ つ、 そ れ で も や は り 実 体 験 と い う 芸 術 鑑 賞 の

小 紙 は、 そ う し た 技 術 の 発 達 は 十 分 に 評 価 し

あるのかもしれません。

の鑑賞に何か新しいスタイルが付け加わりつつ

イ ル が 付 け 加 わ り ま し た が、 こ こ で も ま た 芸 術

ビ 放 送 が 登 場 し て、 野 球 の 観 戦 に は 新 し い ス タ

る の で は な い か と い う 感 慨 も 生 ま れ ま す。 テ レ

を 見 て い る と、 こ れ は 何 か 異 質 な 別 物 を 見 て い

し か し、 も は や 肉 眼 以 上 に 鮮 明 で 便 利 な 画 面

ハッと息を呑むばかりです。

うと生涯尽力した。日本近代洋画の父と呼ばれ、他の代表作に、切手にもなった重要文化財指定の ︽鮭︾︵一八七七年︶等がある。 明治五︵一八七二︶年四月二八日付の﹃東京日日新聞﹄によると、由一は兵庫下髪の娼妓の油彩 画を描いており、これが重要文化財指定の︽花魁︾︵一八七二年︶と推定されている。

明治元(1868)年

描かれているのは、新吉原・稲本楼の﹁呼び出し﹂︵最高級の花魁︶で、当時二十七歳頃の四代

高橋由一《花魁》

二代国貞《生写美人鏡新吉原 角町稲本楼 小稲》


書評 ◉ Book Review

原 作 /早 川 光 漫 画 /連 打一人 監 修・協 力 /木 村  宗慎

﹃へうげもの﹄がマンガだから許される

の織部主導の美濃窯に﹁志野茶碗﹂の試作

すでに社会現象的な成功をおさめている。

頭の一人であった利休に長次郎の手にな

を 登 場 さ せ、 つ い で 場 面 を 遅 ら せ て 三 茶

長次郎の﹁黒茶碗﹂の出現は、天正十四年

る﹁黒茶碗﹂を創らせた。利休が主導した

る再生というきわめてマンガ的な手法を 採用しながら、これによって非現実な部分

︵一五八六︶の﹁宗易形の茶ワン﹂ ︵松屋会記︶

﹁虚﹂を重視し、 ﹃私は利休﹄が遺伝子によ

を合理させ、言葉を尽くして、茶道の本質

き、二匹目の泥鰌をねらった安易な企画だ ろうと思った。しかし、予見は見事にはず

=事実の敷衍を試みている様子が明らか

﹃私は利休﹄の単行本の発売を耳にしたと

れた。二冊は立ち位置を異にしていた。 ﹃私

と は 言 え、﹃ へ う げ も の ﹄ が、 古 田 織 部

ら覚える。

を採用した出版社の希有な目線に感動す

は、茶の神髄が散りばめられている。これ

﹃私は 利休﹄ の一カット、一 つ の台 詞 に

らせている。このあたりに、 ﹁能書き﹂︵背

書きがうるさい﹂と織部の口上を信長に遮

﹃へうげもの﹄は、巻頭 ︵八頁目︶で﹁能

版社の慧眼に感動すら覚える。

とは尋常ではない。彼をチームに加えた出

とみている。木村の豊富な知識と高い見識

鋭的な部分は、木村宗慎の助言ではないか

さ も マン ガ 的 で は な い。 ﹃私は利休﹄の先

るのである。よりへうげた織部茶碗に至っ

主導により﹁へうげ茶碗﹂︵志野︶は出現す

隔て、秀吉の死を惜しむかのように、織部

以降、すなわち利休が自刃してのち七年を

問題に結論を下した。慶長三年 ︵一五九八︶

にわたる懸案であった﹁志野茶碗﹂の創始

については、最も新しい茶碗史が、二十年

い重要なポイントだろう。さらに志野茶碗

碗 史 に と っ て、 微 妙 な が ら、 看 過 で き な

は十年弱ながら時間を遡らせてしまう。茶

﹃ 私は利 休 ﹄ は利休﹄は、出発に際し、たっぷりと時間

及 び﹁ ク ロ ヤ キ 茶 碗 ﹂︵ 天 正 十 六・一 五 八 八 ︶

を現代に蘇生させた功績は甚だ大である。

景︶を軽視する、否、軽視したい山田がい

集英社 二〇一二年∼   になった。

史実の検証が危ういのとは別にだ。著者の

るようだ。

あたりに比定するのが自然で、信長時代で

をかけて内容を吟味していた。それはマン

山田芳裕とは一面識もないが、モノがスキ

木 村 宗 慎 ︵ 監 修・ 協 力 ︶の コ ラ ム の 執 拗

な 御仁であろうことは、﹁私 が 今 欲し い の

ガ化のためではなく、真剣に正面から茶道

茶道マンガの世界に司馬遼太郎的なマ

に取り組んだ時間の永さと言ってよい。

ンガ﹃私は利休﹄があらわれた。的と言う

られている。考古学の成果をふまえた刺激

的 な 判 断 だ っ た。 キ ャ ッ チ コ ピ ー 的 に は

て は、 慶 長 十 二 年 ︵ 一 六 〇 七 ︶以 後 と 考 え

は織部黒という鯨のような茶碗です﹂の独

グ リ ー ン & パ ー シ モ ン、 織 田 信 長 レ ッ ド

﹃ へ う げ も の ﹄ で 山 田 は、 主 た る 登 場 人

の は、 歴 史 小 説 の 体 裁 を と り な が ら、 史 白で充分に知れる。

﹁利休は志野茶碗をみていない﹂ 。︵﹃茶碗

物 を 色 分 け し て み せ た。 古 田 左 介 ︵ 織 部 ︶

実を掘りさげて新鮮で刺激的な歴史学を

& ブラック、千宗易 ︵利休︶ブラック、羽

へ 「うげもの 」は、慶長四年

︵一五九九︶に織部が茶会で用いた茶碗の記

柴 秀 吉 ゴ ー ル ド、 明 智 光 秀 パ ー プ ル。 そ

古田織部の

うことだが、 ﹃私は利休﹄を読了したとき、

録、﹁ セ ト 茶 碗  ヒ ツ ミ 候 也  ヘ ウ ケ モ ノ 也﹂︵宗湛日記︶を初見とする。山田は、史

展開した司馬遼太郎に似ていないかとい この一冊が茶道のみならず歴史マンガを

を司る色だ ︵中略︶何ゆえ今焼をわざわざ

吉 に﹁ 黒 と い う 色 は 喪 に 服 す 色 だ ⋮⋮ 死

そのまま史実や事実としてとらえることは

は秀吉、織部は家康。政道と茶道が一つで

させられたという共通の分母がある。利休

利休と織部には、政治的な権力者に自刃

ら、 黒 は も っ と も 大 切、 す な わ ち 正 式 な

色文化のなかで黒色を冷静に検証するな

が 頭 の な か で 肥 大 す る。 日 本 の 伝 統 的 な

は完璧に復権した。織部自刃を山田が終章

上が正儀に着用する束帯の上衣は黒袍で

わ け で、 よ り 具 体 的 に は、 堂 上 の 四 位 以

⋮⋮ 果 た し て そ う だ ろ う か と い う 疑 問

で ど の よ う に 扱 う か、 個 人 的 に 興 味 が あ

繰 り 返 す が 山 田 は、 ﹁ 黒 茶 碗 ﹂ も﹁ 志 野 茶碗﹂も信長時代に併存させてしまった。 ﹃へうげもの﹄が犯した時代考証のズレは 小さくない。いわば決定的な釦の掛け違い を指摘しなければならないだろう。 他 方、 ﹃ 私 は 利 休 ﹄ は、 主 役 の 一 人 で あ る雪吹なつめに、楽了入の黒茶碗を過失で 割らせてしまうが、 ﹁筒井筒﹂の故事を引き 合いに、茶の湯ならではの知恵で解決した。 繰 り 返 し に な る が、 ﹃へうげもの﹄の成 功がなければ﹃私は利休﹄に陽が当たるこ とはなかった。しかし腰をすえてながめな ﹃へうげ おすと、 ﹃私は利休﹄の出現こそ、 もの﹄の旧マンガ的に対する、別視点から の揺り戻しのように思われてならない。遠 か ら ず、 茶 道 の 現 場 か ら 見 え て く る 利 休 が、その姿を新マンガ的にあらわすことに なるのだろう。鶴首して待ちたい。

今を生きる﹄中日新聞社・二〇一一年︶

本質から問い直す契機になるかもしれな

実を些末化して﹁へうげもの﹂を流行語に

し て 利 休 の ブ ラ ッ ク ︵ 黒 茶 碗 ︶に 対 し、 秀

いと感じたのである。

できない。しかし、これまでのマンガへの

あった証でもある。結果は、利休の死のみ

黒 く 作 る の だ、 こ ん な も の は ゲ セ ン な 者

視点がぐらついた。もしも、 ﹃私は利休﹄が

が 謎として 耳目をあつめ、織部 の そ れ は、

者に対して生ける者が礼を尽くしている

色 だ と 理 解 さ れ る。 喪 服 が 黒 な の も、 死

を謳いあげた。

し、織部の個性を際立て、個性的な美意識

言うまでもなく﹃私は利休﹄はマンガ本

史実や事実を精密に検証して、それらをマ

豊臣方への内通だと簡単に処理されてき

である。従って、ここに表現されたことを

ンガに託していたとしたら、立ち読みでな

た。ともあれ﹃へうげもの﹄によって織部

から高貴な者まで誰も欲しがらぬ﹂。

司馬遼太郎が小説の限界を超えて人々

く身構えて読まなければならないだろう。

ガの負の部分や限界をさわやかに、やすや

扱いに転じたい。山田は、信長の在世時代

目 を 二 冊 の 第 一 巻 が み せ る﹁ 茶 碗 ﹂ の

田の目線こそ黒ずんではいないか。

山 田 の 言 う 不 吉 な 色 で は 決 し て な い。 山

あ る。 黒 は 利 休 の 専 売 で な く、 ま し て や

の支持を 得たように、﹃私は 利休﹄がマン

る。が、ここでは深追いしない。

のありようが、より鮮明になった。

この結果、 ﹃私は利休﹄に仮託された﹁真﹂

の第一巻 を俎上 に、細部の確認 を急ご う。

こ れ ら と は 別 に、 立 ち 位 置 の 違 う 両 者

すと超えそうに思われるのである。 ﹁所詮、 マンガ本なのでしょう﹂という内なる批判 が何度も浮かんだが、消え去った。 茶道マンガでいえば、﹃へうげもの﹄︵山 田芳裕著・講談社・二〇〇五年∼︶が先行し、

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