Kravata - japanski

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ダニエル・ナチノヴィッチ

ネクタイ クラヴァ ト 世界中のシャツに見られる装飾品

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この地球上では、一日に7億人の人々がネク タイを結ぶと言われています。朝、それもほと んどの場合が大急ぎで、鏡の前で、あるいは無 造作に小剣や大剣、世界でも場所によってはネ クタイの細い、又は太い“足”と呼ばれる部分 を首に巻きつけます。そして、技術や習慣が集 約してできた、あるいは自然に生まれた多くの 方法で結び目を作ります。1930年代ファッシ ョンを受け、そんな朝の“指遊び”によって、 セミウィンザーと呼ばれる結び方が生まれまし た。それは、ウィンザー公爵のエドワード8世 が打ち出した二重結びを簡略化したものです。 そのハーフ(セミ)ウィンザーとは、ネクタイ の結び目が少しぶら下がっているようである程 度カジュアルな雰囲気を与え、時には布地にコ ーヒーの滴が付いている、そんなシンプルな左 右非対称のプレーンノットの結び方、そしてよ り忍耐を必要とされる複雑な結び方の中間に当 たるものとされています。 このような霧の立ちこめた朝、携帯電話やE メールの山の傍で一時間もかけてネクタイを結 び、更に呑気でクールな表情をしている、洒落 者ブランメルの再来のようなしゃれ男はなんて いう幸せ者だ! ここで挙げているのは、最も一般的なレガッ

ジョージ・ブランメル(1778-1840)は、その時代 のロンドンファッションに大きな影響を与えた。

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タネクタイ、つまりリボンや蝶ネクタイなどと は異なり、結び目より下の“尻尾”部分がへそ まで、あるいはそれ以上長いものですが、ここ から、ネクタイの結び方、それぞれの正しい結 び方、あるいは形式、精神的、性愛的な特徴に ついての議論が始まるわけです。 ネクタイの歴史全体においては、挿し込ま れたナプキンさえもネクタイになりえたわけで すが、襟付きのシャツ、特に単色のベースのも のに、常にアクセントが欠けていたのは確かで す。それは他の世界においても見られること で、例としては動物の世界です。ただ、だから といって、イラストレーターの多くが描き加え る蝶ネクタイなくしてはペンギンに何か欠けて いる、というわけではないかと思いますが・・ ・。世界にその名を轟かすファッションデザイ ナーのイヴ・サン・ローランは、思慮に富んだ センスある服装の秘密というのは、ある一つの ぴったりなディテールにあると話しています。 一度に2つ、3つの知覚的刺激を受けると、理解

レガッタネクタイを身に着けている二人の漕ぎ手

(写真-1914年撮影)

できない騒音になってしまうのです。ネクタイ というのは、そういったディテールとして最も 適切な要素と言えるでしょう。 ネクタイと一口に言っても、注意せずにお皿 の中でナイフとフォークに絡まって、メニュー をコピーしたような状態のネクタイ、どこかの 大学のキャンパスで誰かが本を束ねるのに使わ れ、悲しい布地になっているネクタイ、ジャー ナリストのポケットでくしゃくしゃになってい る絹の布切れ、プレゼントのナイロン袋に包ま れたネクタイ、著名な組織においては、公務員 を縛り付けているようなネクタイなど・・・。 あるいは、バルザックの“あら皮”に出てくる 以下の動揺を感じてみるのもよいでしょう。 “作品が完成して回復途中にある、弱く惨め

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で青白く、やつれたアーティストのような状態に ある私が、髪がくるくるして外見も良く、生意気 な若者たちにどうやって対応できるというのだろ う・・・クロアチア全土を絶望させるようなネク タイを結び、裕福で、二輪車を有し、失礼なほど 立派な服装をしている若者たちと・・・” 興味がある人にとってはこのような色々な ネクタイが存在し、今日明日中に、パリのシャ ルベ、ミラノのグッチ、ケルンのアスコット、 バルセロナのカバレイラ、ニューヨークのクラ イン等、世界で最も有名なネクタイ製造店へ足 を向けることでしょう。しかし、我々はクロア チアの首都ザグレブにいます!この訪問には大 きな意味があります。というのも、クロアチア 人がネクタイの名付け親で、クロアチア人の永 遠のアイデンティティーを形成し、更にこの謎 の“物質”は現代クロアチアの最も興味惹かれ る点で、最も有名な服飾品の一つであるからで す。このザグレブの地には、ネクタイ製造で 有名な“ポトマック”社、そしてマルチメディ アを通して、人気の服飾品やネクタイの社会文 化を宣伝している非営利団体“アカデミア・ク ラヴァティカ”があります。ファッションショ ーから出版・専門調査まで行い、通り掛かりの 初心者から鑑識眼を持つ専門家までを対象とし た、ネクタイのあらゆるコミュニケーションプ ログラムを実行しています。 クロアチアのネクタイには、アイデンティテ ィーや国境のないコミュニケーションへの願い が表れています。 多くの場合はほっとしながら午後にネクタイ を外し、一日の全ての疲れをその罪なき装飾品 に託すというのは、服飾文化の歴史において常 に繰り返されてきたことです。その文化の中で ネクタイとは、ある種の世に受け入れられた規 ザグレブのオクトゴンにあるサロン“クロアタ”の外観

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西安市近くにある皇帝の墓地で発見された中国の軍人-紀 元前221年 着色されたテラコッタ、(一部)

律と解放感を併せたもので、夜になれば、日常 生活が育まれる他の場所でまた違った役割を果 たすことでしょう。 首に巻かれた装飾品、単色のものやカラフル なもの、絹やより一般的な素材のもの、のりを 効かせレースをあしらった襟やこぎれいな襟・ ・・これらは美術館・博物館や絵画ギャラリー などで見たことがある光景でしょう。多くの著 名な、それもほとんどが厳格な表情の女性や男 性がこちらを見ていますが、それらの肖像画コ レクションにて多様な織物の装飾品が首周りに 確認できます。バロックからルネッサンス、そ して中世の奥深くまで時間を辿ってみましょ う。しかし、ネクタイのようなものは、紀元前 221年にテラコッタで造られた、その多くの有 名な中国の軍人の首周りにも巻かれているので す!1970年代に行われた調査で7000体の粘土の

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軍人が発見されましたが、装飾というよりも軍 事的な必要性から“ネクタイ”、つまり巻かれ たスカーフが、厳しい軍隊の雰囲気の中装着さ れています。 それは、中国初代皇帝である始皇帝の時代の 中国の軍人です。専門家によれば、秦王朝の後 政権を握った漢王朝が、軍人がスカーフを巻く という習慣を廃止したと見ています。 しかし、ローマのトラヤヌスの記念柱に描か れている石の軍人は、東方、あるいは北東からや って来た人々と見られています。その描写は、紀 元前2世紀初頭のダキアにおける戦争についてで すが、戦闘服に身を包み、ローマ人ではないと見 られている軍人たちが、首周りにスカーフを巻い ているのです。そんなローマでも長いスカーフの ような“フォカレ”というものがありましたが、 スカーフで着飾るというのはそれほど広まってい る習慣ではありませんでした。 1380年頃にネクタイを記録したのは旅行家、 外交官であったエスタシュ・デシャンでした。“ 挿絵付きのネクタイ史”(SB Computer Leasing GesmbH、2000年、ウィーン)の中で、ブダの宮 廷におけるデシャンの滞在は、フランスとハンガ リー・クロアチアの関係性と関わりがあります。 これは昔から、つまり最も有名な服飾品として人 気を博す以前から、クロアチア人がネクタイ/ネ ッカチーフを身に着けていたという主張を支持す るものとなります。 その論文からの抜粋で、“しかし、 <cravat>という言葉の語源がクロアチアにある ことは間違いない。フランスではその時代、ドイ ツ語で<Krabaten>、あるいは<Krawadten> と 言 っ て い た よ う に 、 ク ロ ア チ ア 人 を < les cravats>と呼んでおり・・・”とあります。フ ランスの宮廷から送られた役人としてデシャンが ハンガリー(広義では、同君連合下にあるクロア チアも含まれる)を訪れ、ブダに滞在するのは容 易なことでした。というのも、1301年にクロアチ アの偉人たちが、フランス人のカーロイ・ロベル ト(王家アンジューの出身)を王として認め、実 際戴冠されていたからです。 ローマにあるトラヤヌスの記念柱のレリーフ(101-106)では、 首の周りにスカーフを巻いたローマ兵の姿が見られる。(一部)

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ファッションデザイナーの先駆者の一人で あるチェザレ・ヴェチェッリオも、1590年に ヴェネチアで“cravatta(ネクタイ)”につい て言及しています。装飾品として巻くスカーフ という現象は、適切な服装についての文書やフ ァションスケッチの中で失われてしまったよう です。というのも、その名称はヴェネチアの商 人の間で広まることはなく、聖マルコ聖堂の周 り、あるいはスキアヴォーニと呼ばれた多くの クロアチア人が足を踏み入れた海岸通りでも、 その名称を耳にすることはありませんでした。 クロアチア人は大変な思いをしながら、彫刻刀 やいずれ本となる覚書などをヴェネチア共和国 に運んできていました。 クロアチアのネクタイについての本当のお話 は、30年戦争の時代(1618-1648)、ハプスブ ルグの宮廷がその帝国に支配されていたクロア チアの軍人と共に戦場へ向かったときに始まり ます。ウィーンの軍事史博物館では、様々な研 究の結果として、それぞれの民族の軍服に身を 包んだ30年戦争の軍人の模型が見られます。ク ロアチアの軍人は黒いネクタイを巻き、結び目 からは布地の両端が垂れ下がっています。オラ ンダの巨匠ヤン・アセリンの絵ではリュッツェ ンの戦いが描かれており、国籍不明の軍人がネ クタイをしている姿が見られます。しかし、や はり30年戦争におけるフランスによって、1634 年のネルトリンゲンの戦い後、ネクタイに関す る歴史の枠組みが確固たるものとなっていきま す。特にスペインに宣戦布告をした後、フラン スは傭兵を必要とした為、フランス軍勢にクロ アチア人が入ってきます。16万人から成るフ ランスの歩兵隊と騎兵隊の中、その多くが傭兵 でした。そんな大きな数を占めるクロアチア人 のスカーフ、つまりネクタイは目に付きました が、それでも広い人気を博す様子はまだなく、 それほど話題に上ることもありませんでした。 それが実際に起こるのは長く続いた戦争の後、 いくつもの軍改革が行われたときのことでした。 ウィーンの“挿絵付きのネクタイ史”で は、1664年のフランス軍におけるクロアチア 人の騎兵部隊に触れながら、“再編されて高 30年戦争 1634年のネルトリンゲンの戦い

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1643年のロクロワの戦い(Biblioteque nationale de Paris)

い評価を得ている連隊の最高司令官は、王の 使者であるヴィヴォン公爵のルイ・ヴィクト ル・ドゥ・ロシュシュアール(1636-1688) で、1675年よりフランス軍元帥の栄典を授かっ ている”と述べています。更に、オリジナルの 連隊旗は太陽を浴びた少女の顔が描かれていた ということ、そして王家クロアチア連隊の軍旗 (49X49cm)は、フランス革命の混乱の最中 に無くなってしまったことが書かれています。 クロアチアのスカーフ、つまりネクタイを表 すフランス語の“cravate”という現象が、フラ ンス語の語彙として浸透していくのは、大きな 戦争の後の17世紀中頃、太陽王と呼ばれたルイ 14世の時代のことです。その時代において王と は、ある種の“arbiter elegantiarum”、つまり 宮廷におけるセンスの指導者であったのです。 大きなかつらや顎の下に、様々な“cravattes” を身に着けていました。王は水があまり好きで はなかったなどと意地悪に話す人たちもいます が、軟膏や匂いパウダーで艶を出しました。 朝、又は昼頃、ネクタイは“le cravattier( ル・クラヴァティエ)”と呼ばれる宮廷人によ って運ばれ、王は大きなトレイからネクタイを 選び、それをよく自分で結んでいました。“ク ラヴァティエ”という言葉は、現在でもネクタ イのデザイナーや製作者という意味合いで使わ れています。 クロアチアの火縄銃士

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30年戦争のクロアチア兵(1618-1648) ウィーン軍事史博物館

クロアチア編隊についての記録は、伝統 あるフランスの史科編纂の記録の中で眠って います。“フランス軍史(Histoire de Milice Française)”では連隊について論争されてい る章で、ロイヤル・カヴァリエ、ロイヤル・ ピエモント、ロイヤル・アレマンなどと一緒 に、“Royal-Cravattes(ロイヤル・クラヴァ ト)”にも触れています。作品を出版したの は、イエズス会のG.ダニエルです。そのよう な記録の歴史の中には、1874年にスザンとい う作者がパリで出版した“フランス騎兵隊史 (Histoire de la Cavalerie Française)”もあ り、1678年の連隊についても簡単に触れてい るので、そこでも“ロイヤル・クラヴァト” が、それも“風変わりな名称(avec son nom bizarre)”として登場します。ここでは、“ク ロアチア騎兵連隊、又はクラヴァト騎兵連隊” と書かれています。それは当時“クロアチア の”という言葉が“クロアト(croate)”では なく、“クラヴァト(cravate)”と言われてい たからです(un régiment de cavalerie croate, ou cravate comme on disait danse ce tempsla)。同歴史書では、1667年、1672年、1673 年、1674年に起きたドゥエーやマーストリヒ ト、スヌッフなどの戦いにおける、クロアチア 連隊“ロイヤル・クラヴァト”の割合にも触れ ています。

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レースのネクタイを身に着けているフランス王ルイ14世 (1638-1715)

首の周りに白いスカーフを巻いた司令官の肖像画 (ジャン・マルク・ナティエ作品)

リシュリュー枢機卿、17世紀初頭

アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ

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装飾のスカーフを巻いたクロア チア兵の昔の軍服(上、右)

それらを引用すれば、時代によって異なるク ロアト(croate)、又はクラヴァト(cravate) という名称が、19世紀の文学者の間でも広まっ ていたことが見て取れます。いずれにせよ、埃や 風、太陽を凌ぐのに適したこの一風変わった服飾 品は、王家の連隊であるクロアチアの騎兵隊に起 源があるということは知られていたわけです。た だ、彼らは30年戦争中もその後も、独特な方法で 結ぶ自分たちのそのスカーフが、これから何世紀 もの間、上品な服装に不可欠なディテールになる こととは夢にも思っていなかったことでしょう。 しかし、現代の“ネクタイ学”を困惑させる 興味深い問題があります。どのような結び方であ れ、ネクタイというのは、“王家のクロアチア 人”の30年戦争以前、クロアチア人の装いで見 られたものなのでしょうか?それともやはりその 後、例えば18世紀頃?軍事環境外でも見られるも のなのでしょうか? 現在その重要性からメディアの専門家は、印 象的なネクタイは、画面に映る人物が話す内容よ りも重要であることが多いと話しますが、そのフ ァッションディテールは、おそらく民族衣装から 取り入れられたものです。昔の記述を調べる必要 がありますが、例えば“ダルマチア巡り(Viaggio in Dalmazia, 1774)”というヴェネチア時代の有 名な旅行記では、大修道院長のアルベルト・フォ ルティスが、当時はまだ謎に包まれていたダルマ チアの内陸地について触れています。当時はヴェ ネチア支配下にあったその土地から、フランス編 隊の“ロイヤル・クラヴァト”に入った者はいた のでしょうか?民族衣装というのは根強い慣習で あり、それが変化するのは珍しいということを考 慮して、タイムマシーンを少し先へ進めてみまし ょう。アルベルト・フォルティスは18世紀後半に

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書かれたその旅行記の中で、男性と女性が履いて いた履物“オパンツィ”、編んだ靴下のような“ ナヴラカチェ”、そして男性の白いズボンで毛織 物の紐で縛るもの、シャツ、短いチョッキ“ヤチ ェルマ”、ケープの一種である外套や“ヤプンジ ャ”、緋色の帽子、筒状の“カルパック”などを 挙げています。 ネクタイやそれらしきものについては一言も なかったのでしょうか? しかし、アルベルト・フォルティスは、マカ ルスカ沿岸帯の後背地にあったココリッチの貴族 ペルヴァン家に滞在していました。もちろんカ メラがあったわけでもなく、当時の旅行記の著者 が皆そうしたように絵描きを同行させ、他の人た ちが興味津々に木や壁の穴から覗いている中、 絵描きは、ペルヴァン家の主人、その家族、婚姻 関係にある親戚などを描いていました。ペルヴ ァンはフォルティス大修道院長が描写したもの全 てを身に着けていましたが、彼の首には胸の半分 まで垂れ下がり、結び目で留められたスカーフ、 つまり素敵なネクタイが見られます!1974年、オ ットー・ザグナーによってミュンヘンで出版され た“ダルマチア巡り”では、フォルティスの絵描 きであったレオナルディスが残した素晴らしい スケッチが見られ、そこで目に付くのがなんとネ クタイ!“ロイヤル・クラヴァト”よりは新しく とも、民族衣装の一部としては非常に暗示的な意 味を持ちます。話はウィーンの軍事史博物館に戻 り、30年戦争で戦ったクロアチアの軍人の模型を 見てみると、軍人は折り目のあるブーツを履いて いますが、ペルヴァンは“オパンツィ”を履いて います。しかし、他の部分では服装に大きな類似 点が見られます。

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ここで興味深いのは、クロアチアにおいて装 飾品としてのネッカチーフのようなものは、貴 族や軍人だけでなく、一般市民も身に着けてい たということです。特に、ココリッチのペルヴ ァンのように地元一帯で名声を得ていた人たち です。 しかし、このネッカチーフはクロアチアの内 陸部からフランスまで辿り着いたという説がよ り有力であるとすれば、スラヴィッツァ・モス ラヴァッツのエッセイ“頭部等に着ける伝統的 な装飾品”(雑誌“カイ”第3号-2005年ザグ レブ)に気になる指摘が見られます。トゥロポ リェ、フルヴァツカ・ポサヴィナ、モスラヴィ ナに触れながら著者はこのように続けます。“ トゥロポリェの男性の正装は他の地域と違い、 <ポドグトゥニッツァ>といって市販のカラフ ルなリボンで作った2本、あるいは4本の羽から 成り、ビーズをあしらった装飾品が不可欠でし た。そして、それが現在のネクタイの先駆けと 見られています。後には、首の周りにカラフル な市販のリボンも巻いていました。” ココリッチの貴族ペルヴァン(ヴルゴラッツ)

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オランダの地図製作者シュパル・デ・ベンスドルフ の“Cravatten Statt”、1697年

クラヴァト/クロアト(cravate/croate)と いう二つの名称に関しては、ヨーロッパの30年 戦争よりもかなり前のある記録によって詳しく 解説されています。スラボニアのジョージ、又 はソルボンヌのジョージと呼ばれたスラボニア のユーライ(1355/60-1416)は、優秀なラテ ン語研究家、そしてグラゴル文字を使用した司 祭でした。昔のクロアチアの文字と文化である グラゴル文字を研究し、その発展を促進してき ました。ダルコ・ジュブリニッチは自身の本“ 識字者になること、自分自身になること”(聖 イエロニムのクロアチア文学協会、1994年) にて、“パリのソルボンヌ大学の教授だった 彼は、クロアチアの司教たちがラテン語とクロ アチア語に精通しており、両言語でミサを行っ ていることをフランスの同僚たちに話した”と 書いています。フランスの教授たちにこのクロ アチアの文字を紹介しようと、“alphabetum charwaticum”というクロアチアのアルファ ベットを作成し、それは現在フランスの町ト ゥールに保管されています。スラボニアのユ ーライは、自身の“純潔の城(Le chateau de Virginite)”という本によって、フランス、あ るいはヨーロッパ文学の殿堂入りを果たしまし た。イストラは彼の祖国クロアチアの一部と話 し(“Istria eadem patria Charwati”)、大変 誇りに思っていました。 1380年、あのデシャンがネクタイについて 触れているということを覚えていらっしゃる読 者の中には、ソルボンヌのどこかでスラボニア のユーライに出くわしているのではないか?と ひらめいた方もいることでしょう。もしかする と、ユーライはネクタイをしていたのかもしれ ません! ユーライが使った形容詞“charwaticum”や 民族の名称“Charwati”は、クロアチアの文学 や文化に見られる他の例と同様に、時代毎に異 なった名称の変化を表すものということは確か で、その古い名称の一つがネクタイ(現在のク ロアチア語でネクタイは“kravata”)という 服飾品を指すものとして残ったのです。

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“別れ”-ラドヴァン・ドマゴイ・デヴリッチ作品 絵本“クラヴァトの物語”(2001年)より

オランダの地図製作者シュパル・デ・ベンス ドルフは、1697年にスラヴォンスキ・ブロドと その郊外を絵のように美しく描写しましたが、 その地図に目を通せばネクタイの語源が“クロ アチア”にあることは明らかです。クロアチア 人が住むその要塞化された場所を、ベンスドル フは“Cravatten Statt”と呼んでおり、現在そ の町のセンターとなっている場所です。 クロアチアの城のお堀に架かる古い橋の上 で、あるいはケシの花で鮮やかに彩られた平原 の中にあるトゥロポリェの木造の家の前、騎兵 隊が集まる中でのことだったかもしれません。 ある女の子が、馬に乗る直前、これから英雄と なる若者に歩み寄りました・・・。遠くにいる 場合が多かった統治者に仕える為、煙、あるい は川を渡ってどこからか現れる使者の知らせを 受けて始まる戦いの前、馬は苛々して地面を前 脚でかいている間、若者は愛する少女を抱き寄 せるのでした。彼女は自分の首からスカーフを 外し、思い出と誓いの意味を込め、若者の首に 巻いてあげました。“さようなら”-又会う日 は訪れるのか否か、そんな思いで挨拶を交わす 間、知られざる境地へ向けて突進する中で飛び 散ってしまう涙が、一滴、また一滴とそのスカ ーフを伝うのでした・・・。 1949年の映画“アダム氏とマダム”からスペンサー・トレ イシーとキャサリン・ヘップバーン

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しかし、悲しいかな、そんなスカーフは映 画“アダム氏とマダム”にて、スペンサー・ト レイシーの首にぶら下がる長めのリボンと化し てしまいました。右手で主人公の下襟を掴んだ キャサリン・ヘップバーンは、あの有名なワン シーンでついてない彼のネクタイの長い部分を 引っ張り、脅かすような目つきでスペンサーを 睨み、きつい叱責を始めるのです・・・。致命 的結果が訪れてしまう前に、ここらへんでスポ ットライトを外すことにしましょう・・・。 これが、フラマリオン社出版の“ネクタイ の偉大な歴史”(1994年)の中で、“élement essentiel de l΄élégance masculin”とフランソ ワ・シャイルも話しているようなネクタイの姿 です。“男性の気品の基本的な要素で、最も魅 惑的な真珠である。”パリのヴァンドーム広場 に店を構える有名なファッションブランドで、 ネクタイの有名ブティックでもある“シャル ベ”の取締役ジャン・クロード・コルバンは、 その本の序文でそのように語っています。ネク タイに関するこの見事なモノグラフは、本のオ ープニング写真として、グランドホテル・サン モリッツで撮影され、雑誌“ライフ”(1932 年)に掲載されたアルフレッド・アイゼンスタ ットの暗示的な写真で始まります。そこでは、 ある男の子が(写真では見えませんが、おそら く父親の真似をして)大きな鏡の前でネクタイ を結んでいます。この暗示的な写真には、“き ちんと結ばれたネクタイは、大人の人生におい ての第一歩である”というオスカー・ワイルド の少々大げさな発言が加えられています。 しかし、無数の変化・進化を遂げてきたネク タイが最初の本格的な第一歩を歩み始めるのは 17世紀のことで、実用的、更には装飾的な役割 を担い、“cravate(クラヴァト)”が確かな名 称となったときのことです。

シャルル・ボードレール 撮影-ナダール、1865年

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オスカー・ワイルド 写真、1890年


しかし、著名な肖像画を展示しているギ ャラリーでは、絵画や版画作品を見ている と、首周りにあらゆる装飾品をあしらったも のの歴代カタログを目にし、ネクタイの実用 性、歴史や図像、生地、デザインなどにおけ るそれぞれの関係性が見て取れます。現在ネ クタイという名称が指すものは、“pars pro toto(全てを表す一部)”として、ラウラ・ ビアジョッティによれば男性シャツの“大 きなアクセント”であるレガッタネクタイ (règate)がまず挙げられますが、少女や女 性の服装にも有効活用されており、特に風変 わりなファッションや定型化したユニフォ ームなどにて見られます。日常生活の中で は“élégance masculin(男性の気品)”とし ての要素が強いですが、男性のみのものとい う表示はどこにもありません。“le papillon” 、又は“bowtie”と呼ばれる蝶ネクタイ(不 当にもジョン・T・モロイによれば、“蝶ネク タイを身につけている人が真剣に受け入れら れることはない・・・”)もネクタイとして 認知され、めったに見られないウェスタンの リボンタイやバンダナスカーフ、フーラード などの結ばれたものも同様です。しかし、そ のあらゆる形態のネクタイが、若者のパーテ ィーではハサミでその先を切られてしまった りするような、あるいは厳格な会場の門の前 で、式典の執事が不可欠な入場券やパスワー ドとして見ているような“クラシックなネク タイ”の起源を表すものです。 装飾品のスカーフや結び目の歴史を簡単に振り 返ってみると、最後までボタンを留めることもな く、首に何かしら装飾をあしらっていた人々は、人 間の頭などその中に消えてしまいそうな、白い色が 印象的でのりが効いた立襟やレースの襟を身に付け ていました。その後は、ラ・ヴァリエール公爵夫人 ジュロ・イエラチッチ・ブジンスキー(1805-1901)、 総督ヨシップ・イエラチッチの弟 油絵、ミカエル・シュトロイ作品

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チャーリー・チャップリン (1889-1977)

ロナルド・レーガン( 俳優、1981年から1989 年までアメリカ大統 領) ネイサン・ジュラン の映画“法と秩序” より、カウボーイス カーフを巻いた保安 官-1953年

風の垂れ下がったリボンで、蝶ネクタイが付いてい る場合とそうでない場合があるモスリンの“プチ・ アンクロワヤブル”、更にはフランス革命時代の大 きな“アンクロワヤブル”が続きます。歴史の中で も非常に見事なのがスタインケルク・スカーフで、 その先はジャケットのボタンの穴に通されます。中 でも“ジャンボ・アンクロワヤブル”は長いと5m もあり、首の周りに7回、8回・・・更には10回ほ ど巻きつけるものです。他にも、“病み上がり”の インファンガルド・スカーフ、幅が広く垂れ下が った“足”が見られる芸術的でアナーキーな大き い“papillon(蝶ネクタイ)”、ガリバルディやヴ ェルディスカーフ等、首や胸元を飾るその他多くの ものが存在します。それらは19世紀末のたんすに並 べてあった服飾品で、現在の賑やかなメガロポリス で急ぎ足の通行人、または連なる車のドライバーた ちが見につけているあの装飾品がより幅広く認識さ れてきた時代です。 しかし、蝶ネクタイから、二つの世界大戦の 間にフランスのリヴィエラ海岸やブリユニ群島で 見られた長いレガッタネクタイ、チェックのシャ ツの上に見に着けていたアンディー・ウォーホル のストライプネクタイ、1960年代中頃ビートルズ がしていたサイケ調のネクタイまで、そして皮製 のモッズネクタイ、新しいミレニアムの初頭に現 れたポストモダンの系統、豊富なデザインなどか ら成るスタイル的にはかなり統一されているコレ クションをまとめるには、20世紀前半で一度立ち 止まり、振り返る必要があります。 6つの手順から成るシンプルノットや9つの手 順から成るダブル・ウィンザーノット(注1) は、ウィンザー公爵(1894年-1972年)の人柄 やファッションに関係がありますが、1936年まで イギリス王エドワード8世であった彼は、その年 にウォリス・シンプソンとの愛の為に王座から退 きました。公爵の父親であるジョージ5世が、以 (注1)クロアチア語バージョンでは、“トミスラヴ王”(シンプ ル・ウィンザーノット)、“大きなトミスラヴ王”(ダブル・ウィ ンザーノット)と呼ばれています。

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ザ・ビートルズ

好んでネクタイをよく身に着 けていたポップアートの画家 アンディー・ウォーホル

前からこれら全ての結び方をしていたという形跡 がありますが、それによって世界中で広く使用さ れることとなったウィンザーノットの重要性が薄 れることはありません。それどころか1930年代に 波が来た後、一般的なネクタイに関しては、多く のハプニングがありつつも新しいことはほとんど 起こらなかったのです。ほぼはめられた型の中で 多様なデザイン・デコレーション要素を生み出す ぐらいでした。ともかく、現代の典型的なネクタ イというのは、最も有名なウィンザーノットの姿 で登場することがほとんどでした。単色、斜め綾 模様、抽象的、アンフォルメル、カシミア製でペ イズリー柄、つまり滴やナツメヤシの新芽の形の 柄もの、ドット柄、ポップな姿をあしらったもの 等、どんなネクタイでも最もよく結ばれる方法は ウィンザーノットだったのです。しかし、密かに 3部構成となっている(ネクタイは、絹などの生 地から3つに分けて製造されます)ネクタイの長 さや幅は個人の趣味で変わり、ネクタイの最も狭 い部分を彩るディンプルも同様です。 服飾品の歴史をまとめると、ネクタイはフラ ンスの地でクロアチアの伝統的なネッカチーフか ら誕生し、そこでイギリスの貢献もあり、更に発 展してきたのです。“ネクタイ”と呼ばれるシン プルなフォルムの中で、イタリアやアメリカのフ ァッションデザインがデザインや素材の点で大き な役割を果たし、世界中の要素によって多様なデ ィテールが加わってきたのです。

エドワード8世、ウィン ザー公爵

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ハーフウィンザーノッ ト、“トミスラヴ王”

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ウィンザーノット、“大き なトミスラヴ王”


ネクタイに関する多くの問題は未だ謎に 包まれていますが、クロアチアの首都ザグ レブに店を構えるネクタイ専門店“クロアタ (Croata)”のショーケースでは、絹に紡がれ たそのディテール、装飾、スケッチ、モアレ模 様が見られます。例えば、クロアチアの“クロ アタ”ネクタイの柄で不思議な飛行物体の細か い絵があり、その幻想世界が連続して描かれて います。空から降りてくるその飛行物体には、 足をばたつかせながらその飛行構造体に繋がっ ている17世紀のイカロスが見られ、彼の頭上 には飛行物体の屋根が付いています!ファウス ト・ヴランチッチ(1551?-1617)はシベニ ク出身の博識者で、生涯を外国で過ごし、ヴェ ネチアで亡くなっています。作家、発明家、そ して辞書編集者でもあった彼は、21世紀のデ ザイナーに、人類が空を飛ぶという渇望をネク タイの布地にて表現させたのです。クロアチア 人であるヴランチッチは、銅板にスケッチやプ ロジェクトを刻み込んだ“Machinae novae” (新しい機械)という作品をヴェネチアにて出 版しました。ヴランチッチの銅板から飛び出 た“Homo volans”(飛ぶ人間)が、勇敢なパ ラシューターとして、クロアチアの新しいネク タイという地面に降り立ったのです!

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既に第三千年紀を迎えた今、ネクタイの太古 の故郷では、見事な記号をあしらった絹の装飾 品があります。それは中世よりクロアチアで使 われている古い文字で、グラゴル文字と言いま す。クロアチア教会初期の特徴である造形美術 の要素としては、トロプレト(三連柄)やプレ テル(リボンが織り交ざったような柄)などの 模様がネクタイに見られます。他にも、クロア チアの町のモチーフやクロアチアの赤・白・青 の国旗が見られる紋章、ヴィシェスラヴの洗礼 台、ヨーロッパ最古の教会の一つであるスプリ ットの聖ドゥエ大聖堂などをあしらったものも あります。ヴチェドル鳩など、太古の歴史の断 片やシンボルも見られ、文明のあらゆる分野か らクロアチア固有のものを集めています。近隣 のお土産は、あらゆる珍しいものの調和を介し て、新しいものを生み出したがっている・・・ しかし、宇宙の大きくうねった地図世界におい て、“お土産”とは何を意味するのでしょうか? クロアチアにおけるネクタイは、昔の原型か ら続く思い出のスカーフであり、ヨーロッパ、 あるいは世界に認知される為の新しい道を進ん でいます。

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“ネクタイはクロアチアのもの”という主張 を断言する為の取り組みというのは、20世紀の クロアチア人の間で世界中にわたって行われて きました。それは、70年代、80年代、90年代、 クロアチア紛争時代、クロアチアの独立、そし て21世紀初頭を通じて、更に確実な見解となっ ていったのです。その初期の考えの一つとして は1971年のものがあり、クロアチア人の解放 運動で、結果的には強制鎮圧で幕を閉じた“ク ロアチアの春”に関係します。プロジェクト“ クラヴァタ・クロアタ”の提案者はマリヤン・ ブシッチ氏で、様々な障害がありながらもネク タイの起源がクロアチアであるということを証 明する為の当時の運動について、雑誌“ドム・ イ・スヴィエト(故郷と世界)”のインタビュ ーで振り返っています。 “それは、我々は誰でどこへ向かうのか・・ ・そういったことを深く掘り下げて考えていた 時代にもかかわらず、世界ともコミュニケーシ ョンを取ろうとしていました。つまり、<クラ ヴァタ・クロアタ>プロジェクトは国家的な意 味合いがありながら、他の民族との共同作業で もあったのです。しかし、その実現には約20年 も待ち続けました。” ルツィヤン・ブルムニャクによる記事“ネク タイが結ぶ”(Istarska Danica、1989年)で は、次のような記載が見られます。

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“ネクタイ産業が大きく発展し、現在ではシ リーズ製品として、絹、化学繊維、ウール、コ ットン、皮など、多様な素材で生産されていま す。ドイツではカーニバル期間中の<AltweiberFastnacht(灰の水曜日の前の木曜日)>の日 に、仮装した女性がハサミを持って武装し、 男性のネクタイを切るという古い習慣があり ます。ヴィースバーデンの著名な文献学協会 <Gesellschaft für deutsche Sprache>のインフ ォメーションによれば、既に1694年よりネクタイ という言葉(ドイツ語ではKrawatte)は、クロ アチア人、を表すフランス語の名称<Cravate> から<Cravattes>として登録されており、そ れは首の周りのスカーフ、つまり現在のネクタ イの原型を巻いていたクロアチアの騎兵隊に起 源があります。それは、シュルツの外来語辞書 <Fremdwörterbuch>(1巻、401fページ、1913 年)に記録されています。今までは、ナポレオン の軍隊がネクタイをしており、そこからフランス で<Cravattes>という現象が生まれたという考 えが圧倒的でしたが、ここからわかるようにその 名称はもっと古いもので、クロアチアの騎兵隊も 参戦した30年戦争の時代から存在します。” 2000年のこと、ウィーンの企業家でコレク ターのシュテファン・ベンチャク(ブルゲン ラントのクロアチア人でオーストリア国籍) は、“挿絵付きのネクタイとその原型の歴史” というモノグラフを出版しました。本の挿絵 は、ベンチャクが長年かけて慎重に収集したネ クタイがテーマのコレクション、それもほとん どが芸術作品ですが、その中から使われていま す。16世紀のものなど古い肖像画は、狭義での ネクタイの原型について、17世紀以降のものは より新しい形について物語っています。 コレクションの中でも特に興味深いのはウィ ンザー公爵のスーツで、25本のネクタイもあり ます。 チェロ奏者のユロ・トゥカルチッチ、文学者のA. ュ、ピアニストのイヴォ・トゥカルチッチ 写真-A.メルチェプ、1910年頃

G.

マトシ

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19世紀末の著名なクロア チア人

イヴァン・マジュラニッチ(1805-1888)、詩人、政治 家、

フラニョ・クレジュマ(1862-1881)、ヴァイオリニス ト、作曲家

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ヴィエコスラヴ・バブキッチ(1812-1875)、言語学者、 クロアチア国家回復運動家

アウグスト・シェノア(1838-1881)、文学者

アントゥン・ミハノヴィッチ(1796-1861)、文学者、ク ロアチア国家“私たちの美しい故国”の作詞者

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コロンブスの船、ニーニャ、ピンタ、サンタ・マリア

クロアチアのネクタイプロジェクトは大き なリスクを有しつつも、より発展してきたビジ ネス・社会文化の分野において、新しい活気を 見せています。1990年、ザグレブではマリヤ ン・ブシッチとズラトコ・ペナヴィッチによっ て有限会社ポトマックが設立されました。“ クロアチア-ネクタイの故郷”という概念を広 く伝え、上質で考え抜かれたデザインのネクタ イを製造し、その中でその有名な名称が定着し ているクロアチアのシンボルから新しいもの ザグレブのオクトゴンにあるサロン“クロアタ”の内観

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を生み出したいという目的です。それが国内外 の市場に出ることにより、“メイド・イン・ク ロアチア”製品として、そして市場では利益 が高い“ブランド”として価値の高いクロアチ アの文化遺産が紹介されるのです。“ポトマッ ク”という名称はアメリカ合衆国の有名な川か ら付けられましたが、その川はワシントンを通 り抜け、興味深い伝説へと導かれてゆきます・ ・・。それは1620年、アメリカ大陸にニュー イングランドを築いた創設者たちが出くわし た“Kroatan(クロアタン)”というインディ アンの民族で、クロアチアの漁師の末裔に関す る伝説です。アメリカの川をポトマック(ポト マッツとはクロアチア語で“末裔”の意味)と 名付けたその“クロアタン”族の末裔は、現在 バージニア州に住んでいます。17世紀、体が冷 えた新参者を暖めてやり、七面鳥を食べさせて あげたのは彼らの先祖です。その出来事を思い 出し、アメリカ人は今でもサンクスギヴィング デー(感謝祭)を祝います。コロンブスの船“ サンタ・マリア”にクロアチアの船乗りが6人 いたというぼんやりした指摘もあり、昔のクロ アチアとアメリカ、そしてカナダとの関係はま だ調査が必要な歴史です。しかし、ジャック・ カルティエとロベルヴァル卿の1543年の調査事 業に二人のクロアチア人が参加していたのは確 かで、セニのイヴァン・マログルディッチとド ブロブニクのマリン・マサラルダです。

スプリットのペリスティル広場にあるサロン“クロアタ”の内観

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“チューダーの地理、1485-1583”という作 品でのE.G.テイラーの記述によって裏付けされ た興味深い話で、イギリスの船で最も多かったの がドブロブニクの船乗りであったというものがあ ります。そのお話に花を添えるのはポトマックの 蛇行流で、想像の中でザグレブの街中を流れ、歴 史的なカプトル通りに進めば、そこにはメインの 製品がネクタイであるポトマック社の本社がある のです!ポトマック社は非営利団体の“アカデミ ア・クラヴァティカ”を発足し、その目的とはネ クタイの教育的、芸術的な普及、そして服飾品や アイデンティティーのシンボルとしてのネクタイ という概念を伝えることで、ネクタイが、本、 展示会、インスタレーション、音楽、映画などを 通して、様々な形で相互的なコミュニケーション を取れるメディアであるということも伝えていま す。ポトマックのトレードマーク“CROATA” は、最初のAが感嘆符のような形で、赤いネクタ イを表現しています。 織物のネクタイ、あるいはプリントで製造さ れたネクタイなどを所有している人たちの中に は、世界的著名人である政治家やアーティスト もおり、スペイン王のフアン・カルロス、天皇 陛下、女優のジェーン・フォンダや俳優のマイ ケル・ヨーク、デザイナーのピエール・カルディ ン、そしてローマ法王のヨハネ・パウロ2世には 小麦のモチーフをあしらったものが贈られていま す。ネクタイ以外にもポトマック製品は増えてお り、多様なスカーフ、ネッカチーフ、ベスト、シ ャツ、スーツ、アクセサリー、革製品などです。 店舗は国内外にある為、クロアチアの会社が世界 的製造会社の仲間入りを果たしたわけですが、や はり最も有名なのはネクタイの製造で、現代のブ ランドとして大きな評価を得ています。 ここでは、ムラデン・マリノヴィッチ率いる 優秀な“クロアタ”デザインスタジオのチーム がネクタイを手がけており、ミロスラヴ・シュテ イ、ボリス・リュビチッチ、ジェリコ・コヴァチ ッチなどのアーティストも貢献しています。 ボリス・リュビチッチ、クロアタのネクタイ“ダルメシア ン犬”、1996年

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“クロアタ”プロジェクトの発案者で“アカデ ミア・クラヴァティカ”の会長でもあるマリヤ ン・ブシッチ氏(1952年生まれ)は、ネクタ イを儀式的な要素であると見ています。彼 が始めてネクタイを結んだのは、ノヴァ・ グラディシュカの高校に通っていた2年 生ぐらいの時だったそうです・・・。 ブシッチ氏は、青春時代につい てこのように語っています。 若い頃は、ネクタイのクロア チアの起源、それも一見その 跡はヨーロッパ全史の片隅に しか残っていないような起 源に夢中になっていまし た。ファッションの理 論家たちは、装飾以外 の役割は特にない“不 必要なチャーミングポ イント”としてネクタイ を語っています。ある意 味それは事実かもしれま せん。しかし、我々を物語 っているのがネクタイでは ないかと考えたとき、話は 変わってきます。我々はネク タイを通してコミュニケーシ ョンを図ります。まさにそれが ネクタイの深遠な意味、そして 基本的な役割なのです。 ネクタイの“背筋”は、人間の 背筋、つまり尊厳、自信、お祝いや 喜びを体現しているのです。ネクタ イは、我々がコミュニケーションを 図る中で、自分の尊厳や他者の尊厳、 自由と責任、そして人間らしく紳士的 な振る舞いをより意識させる象徴的な 存在なのです。快活な雰囲気、そして結 び目があることにより、ネクタイは“抑 制された喜び”を指すものでもあります。 それは、人生において貴重な喜びも、守る ためには限度が必要とされるからです。 ブシッチはこう続けます。シンプルなフ ァッションにおいてもネクタイは興味深いの です。そういった中では、この世の襟やシャ ツからその姿が消えてしまったとしてもおか しくなかったのですから。しかし、ネクタイの 役割は常にその地位を守り、遥か昔、17世紀 の“cravattes”時代からファッションの 習慣がどんなに変わってもその存在が 確認され、特に20世紀においてそ の存在は、ほぼ標準的なもの となったのです。 全てが足早なこ の現代世界にお いて、ネク タイは 多

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様な外観を持ちながらも、絹の装飾品という姿 をいつでも留めてきました。そして、これから も祝い事等のシンボルで、コミュニケーション の印でありたいと願っています。最も美しいプ ーラの円形競技場に世界最大のネクタイを結ぶ ことによって、私はそのことを世界に伝えたか ったのです。私にとって重要なのはギネス世界 記録に載ることではなく、アートパフォーマン スそのものです。そのポストモダンのインスタ レーションでは、ネクタイの赤色が古代と現代 を象徴的に結んでいるのですが、我々は朝にネ クタイという暗示的な布を結んでいる間、その ようなことを考える時間が滅多にありません。 マリヤン・ブシッチはこのように締めくくり ました。 2003年10月、マリヤン・ブシッチのアート インスタレーション“アレーナ周りのネクタ イ”は、クロアチアのプーラにある円形競技場 で行われ、その正門や建物周りに多くの観衆や イベントの参加者が集まりました。プーラは、 アドリア海最大の半島であるイストラ半島の岬 に位置する町です。各テレビ局による放映によ り、10億人の人々がそのインスタレーションの 映像を小さなテレビ画面で目にしたのです。 プーラの円形競技場は世界で6番目に大き な石造りのもので、美しさにおいては最高峰 と評す執筆者も多くいます。その楕円形の建 物の中心軸は、長いほうが135.5m、短いほう で105.1mあります。海側で正門上に広がる壁 は、32.45mの高さを誇ります。ウェスパシアヌ スアレーナとしても知られるこの建物は1世紀 のこと、それ以前アウグストゥス帝時代に築か れた円形競技場の基盤に建設されたものです。 現在そのアレーナでは、映画祭他多くの文化・ アート行事が催されています。

アレーナ周りのネクタイ、2003年

アレーナの壁周りにネクタイを展示すると いうことはどの視点から見ても並外れたイベン トで、まずそのネクタイを縫い上げる等の準備 を経て2003年10月18日の土曜日のこと、アレ ーナに結び付けたのです。ボーラの強風が吹き 荒れる中、丸一日かけてブシッチのインスタレ

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グダンスクの市庁舎の塔に取り付けられたネクタイ、2006年

ーションである世界最大のネクタイを整えまし た。実際、土曜日の17時50分に完成するまで 3日間かけて布地を展示する作業は、それだけ で大きなイベントでした。マリヤン・ブシッチ のアイディアは石と布の独創的なランデヴーを 形成し、そこには新世紀における古代と現代の 融合も見られました。それは、勇気、知識、優 れた判断を必要とされる挑戦で、結び目と耐力 壁を手がけた設計者のブルーノ・チャリッチ、 技術的演出を手がけたムラデン・マリノヴィッ チ、円形競技場の壁周りにネクタイを結ぶ作業 を先導したダミル・チョルコ、そしてスプリッ トの登山協会“スピリット”などにとっては、 特に大きな挑戦でした。それら全てが、その芸 術的アイディアを目に見える形とし、図案を正 確な形で表現する為でした。

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布地が金属構造に巻かれ、高さが13mもあ る古代建造物の“首”に取り付けられた後、ネ クタイの下部分を整えたのは即興で集まった主 役たちで、プーラ市民が興奮しながら行ったの です。その“垂れ下がっている”部分がフラウ ィウス通りやニンフェイ(ニンファエウム)を 越え、海近くのカロリーナの平面に広がってい くことにより、アレーナの美しさと共に、見事 にまとめられたウィンザーノットの巨大ネクタ イが映し出されました。 あらゆる角度から見るプーラのネクタイ は、生涯忘れられない感銘を与えました。最も 強い印象はやはり空から見たもので、そこは撮 影隊のヘリコプターが飛び交う10月の空でし た。この超大作を見ていた群衆の中には、この 巨大化された日常生活の服飾品を目にし、好奇 心が働いたどこかの宇宙生命体もいたかもしれ ません! この長さ808m、幅8~25mのネクタイはポ リエステルでできており、部分的にはベデコヴ チナの働き者たちの手によって製造されまし た。1㎡当たり50グラムで、巨大な結び目を含 めると800キロもの重さでした。 小麦のネクタイ、ダヴォル、2007年

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服飾品であり、多様なコミュニケーションの シンボルでもあるネクタイは更に進化していき ます! “クロアチアを囲むネクタイ”というメガ インスタレーションは2006年に展示されまし た。クロアチアの全ての地方を赤い糸で結び、 クロアチアの多様性を一つのアイデンティティ ーにまとめようというアイディアに基づくもの です。約10人から成るこのインスタレーション 展示のスタッフは、赤い糸でクロアチアの結束 を記録し、近隣とのより良い関係を築きたいと いう願いを実現させながら、クロアチアの国境 線をおよそ4000km以上回りました。2006年7月 10日から9月8日までの間に、ほとんどのクロア チアの郡とザグレブ市が繋がれました。 赤い糸を結ぶ旅は、見事な建造物の美しさや 伝統文化で有名で、クロアチアの自由と自信の 象徴である町ドブロブニクから始まりました。 乗り物や船、あるいは馬に乗って海を行き大陸 を行き・・・愛の色は、遺産や現代、伝統や日 常の多様な特徴からなるパノラマを包み込みな がら、クロアチアの地方を巡っていったので す。最後はまたドブロブニクで、このユニーク なネクタイの小さな結び目を糸で作りました。 今までにないこの象徴的な旅行プランを練っ たのはマリヤン・ブシッチで、あるインタビュ ーでこのように語っています。 “クロアチアを囲むネクタイ”の閉会式

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我々が見たところ、クロアチアのあらゆる所 で“ネクタイ”を待ち望み、我々の土地の美し さを一緒に強調したかった約1万人の人々がこ のプロジェクトに参加しています。このプロジ ェクトは、メディアを通してクロアチアや近隣 諸国、そして世界中の1億人以上の人々とコミ ュニケーションを図ったと見られています。と 言いますのも、“クロアチアを囲むネクタイ” については、アメリカのヤフーや8つのアメリ カの国営テレビ局など、ヨーロッパや世界の大 手通信社全社が発信しているのです。

マリヤン・ブシッチとドブロブニク市長のドゥブラヴカ・ シュイッツァ

我々にとっても非常に嬉しいことでした。小 さな地域がこのプロジェクトを自分たちのものと して受け入れ、自身のアイデンティティーやその 価値を更に意識するようになりました。全体的に このプロジェクトは、自分たちの国を理解し、そ の豊かな文化と歴史遺産に関心を集めようとする 共通の試みとしてクロアチアでは受け入れられま した。同時に、近隣への開放性やそのコミュニケ ーションも強調してきました。 世界ネクタイデーをお祝いしましょう! その他にも、マリヤン・ブシッチ曰く、クロ アチアとヨーロッパの一般的に知られているシン ボルであるネクタイは、“快活な雰囲気、一方で は結び目という堅苦しい雰囲気の調和によって、 人類の自由と責任の調和を象徴している”と語り ます。 実は、“アカデミア・クラヴァティカ”がク ロアチアと世界の“ネクタイデー”を定める為の 構想に着手しており、2003年にプーラで取り付け られた壮大なインスタレーション“アレーナ周り のネクタイ”の記念として、毎年10月18日にお祝 いする計画です。 “クロアタ”ブランドを製造し ているポトマック社は、協力することを決めてい ます。彼らのカレンダーではその日付に、“会社 記念日”と書かれてあります。

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アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)、騎馬服の女

モディリアーニの“騎馬服の女”では黄色 いジャケットに身を包んだ女性が描かれていま すが、誇り高く憂鬱な目つきは、神秘的で高い 所からどことなく見ています。そこで、真っ直 ぐに立てた襟には控えめな黒いネクタイを着 けています。コメディアンのバスター・キート ンは、ネクタイをシャツの襟の穴に通してしま います!俳優のジェームズ・ディーンは、一見 穏やかなディテールである単色の細いネクタイ に、都会のノスタルジアと若者の反抗という感 情を添えました。フランクフルトの高層ビルに 向かうと、DG銀行の前では青銅のネクタイが そびえ立ち・・・。 群衆の中のディテールとしても博物館の展 示品としても、ネクタイはいつでも確かなもの です。しかし、明らかに役割がはっきりしてい るときでも、のびのびとした雰囲気を持ってい たいのです。少々大胆な行動に出てしまったと きは、モディリアーニの“騎馬服の女”の目つ きを放ち、いつでも冗談と厳しさのバランスを とろうとします。騎馬兵の首に見られた装飾品 はいつの時代も一定の義務として存在しました

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が、それぞれの時代の影にはネクタイの華々し い足跡が残っています。 もう長い間、解放的で快活、且つ儀式的な雰 囲気を持つこの服飾品は、過小評価してはいけ ない日常生活から抜け出した“宇宙の”お土産 となっています。 1924年に撮影された無声映画“スノッブ”(エヴェリン・ ホファー)で、ノーマ・シアラーはレガッタネクタイを身 に着けることで、力溢れ、意志の固い女性を演じきった。 彼女のパートナーは、バスター・キートンであった。

エリア・カザンの映画“エデンの東”のジェーム ム ズ・ディーン(1955年)

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ザグレブの名所に結ばれ たネクタイ オリジナルアイディア-マリヤン・ブシッチ

“総督のネクタイ” ザグレブのヨシップ・イエラチッチ総督の記念碑にて (彫刻家-アントゥン・ドメニク・フェルンコルン)

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“トミスラヴ王のネクタイ” ザグレブの中央駅にある同名の記念碑にて (彫刻家-ロベルト・フランゲシュ-ミハノヴィッチ)

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“ヴェチェスラヴ・ホリェヴァッツのネクタイ” クロアチアの政治家、作家、ザグレブ市長の同名の記念碑にて (彫刻家-マリヤ・ウイェヴィッチ・ガレトヴィッチ)

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“シェノアのネクタイ”は、クロアチアの文学者アウグスト・ シェノアの首に付けられました。ザグレブのスタラ・ヴラシュ カ通りの記念碑にて (彫刻家-マリヤ・ウイェヴィッチ・ガレトヴィッチ)

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柔らかいフォルムの力強 い波 美術的視点から見たネクタイという現象 ここまで興味をそそられる非常に特殊なネクタ イというものは、はっきりしない事も多い中で、 それら全ての要素から大きな挑戦の対象となって います。ただ、その挑戦は我々の目の前にある日 常生活で見かけるごく普通のもので、一見ありふ れた物質かと思いますが、やはり簡単には説明で きないものです。まさにそういった理由で、この ネクタイという現象には、民俗学、歴史、ファッ ション、社会学、人文学、精神学の観点からスポ ットライトを当てようとしています。つまり、い ろいろな背景から紐解いていこうという事です。 しかし、その挑戦は今述べた専門分野だけで は把握しきれず、ネクタイを芸術的観点から見つ めることが必要です。そんなことから、アカデミ ア・クラヴァティカは“ネクタイの挑戦-世界の 文化に貢献するクロアチアのネクタイ”というテ ーマの展示プロジェクトを考案しました。マリヤ ン・ブシッチの“アレーナ周りのネクタイ”イ ンスタレーションに始まり、そのプロジェクトは 長く続いており、活動拠点も広げ、あらゆる国の 作品が日に日に増えています。今のところこの展 示会は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタル やサラエボ、エジプトのカイロやアレクサンドリ ダヴォル・ラパイッチ:お誕生日おめでとう ホイルにインクジェットプリント、ガラス、金属彫 刻;43x82cm、2003年

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ヴァスコ・リポヴァッツ:銀婚式 レリーフ、着色された木材;74.5 x74.5cm、1994年

ア、南アフリカ共和国のプレトリアやヨハネスブ ルグ、ポーランドのクラコフやグダンスク、オー ストリアのウィーン、ブルガリアのソフィアやル セ、そしてドイツのベルリンで催されており、さ らに世界中の他の町への訪問も決まっています。 そのようにゲスト出演すると、招かれた国のアー ティストによる作品が毎回加えられ、この展示プ ロジェクトの作品も増えていきます。その内いく つかをご紹介します。 ニコラ・アルバネジェ

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リリャナ・ミハリェヴィッチ:アナグラム アクリル画;150x19.5cm、2004年

右: アレクサンドラ・ロタル:ネクタイが見られる肖像画 油絵;200x80cm、2001年

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ダニエル・ナチノヴィッチ

参考文献一覧 1. Alberto Fortis: “ダルマチア巡り”(Put po Dalmaciji)、»GP Delo, Ljubljana, 1984. 2. Oscar Lenius: «A well-dressed gentleman’s pocket guide», Prion Books Ltd, London, 2002. 3. Thomas Fink, Yong Mao: «The 85 ways to tie a tie», Fourth Estate, London, 2001. 4. Stefan Benczak: “挿絵付きのネクタイとそ の原型の歴史”(Ilustrirana povijest kravate i njezinih prethodnica)、SB Computer Leasing Ges.m.b., Wien, 2000. 5. Francois Chaille: «Le grande historie de la cravate», Flammarion, Paris, 1994. 6. «Il tessuto stampato per Cravatte», Gruppo Fabricanti Tessuti per Cravatte dell Associazione Serica Italiana – Como, Milano, 1996. 7. Avril Hart: «Ties», V&A Publications, London, 1998. 8. Slavica Moslavac:“頭部等に着ける伝統的な装 飾品”(Tradicijska oglavlja i nakit)、«Kaj», 第 3号、Zagreb, 2005. 9. Darko Žubrinić:“識字者になること、自分自身 になること”(Biti pismen, biti svoj), Hrvatsko književno društvo svetog Jeronima, Zagreb, 1994. 10. Faust Vrančić: «Machinae novae», Venezia, 1595. (再版 Novi Liber, Zagreb, 1993.) 11. Lucijan ぶ”(Kravata Pazin, 1989.

Brumnjak:“ネクタイが結 povezuje), Istarska danica,

12. Hans Schulz: «Deutsches Fremdwörterbuch», Karl J. Truebner, Strassburg, 1913.

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ネクタイの起源がク ロアチア人にあるこ とをご存知ですか?

www.croatia.hr

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若者と少女は、信頼の印として互いの首に スカーフを巻き付けました。愛情から自然に行 われたその行為が火事のように世界中に広が り、17世紀になるとそのスカーフはクロアチ ア兵の名称から“ネクタイ”と呼ばれるように なりました。世界中の現代的な結婚式では、ネ クタイ、蝶ネクタイ、プラストロン、式典用ネ クタイ等、それぞれ形は変わってきますが、や はりネクタイが回避できないファッションアイ テムとなっています。許婚や夫の首周りに、許 婚、又は妻が巻いてあげたスカーフは、永遠の 繋がりを表す印です。よって現在では、新郎・ 新婦の衣装が深い関係にあるのです。そのよ うにして使われてきたアイテムということで、 クロアタは結婚する方々の慈しみや美しさ、尊 厳を最もよく表現するものとして認知されてお り、彼らを待つ未来のシンボルでもあります。 いつでも自然であり個人的なもので、他に類を 見ないものである“クロアタ”ネクタイは、と びきりのシャツに結び、最高級の“クロアタ” スーツを着て完成です。

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ダニエル・ナチノヴィッチ:ネクタイ-世界中のシャツに見られる装飾品 表紙:ジュロ・イエラチッチ・ブジンスキー(1805-1901)、ヨシップ・イエラチ ッチの弟 油絵、ミカエル・シュトロイ作品 発行所:

Academia Cravatica

発行者:

Dino Bedrina

編集者:

Marijan Bušić (Petrov)

校正:

Tea Rihtar

グラフィック・デザイン:

Ana Zubić

和訳:

Kazuko Kono Hut

フォトグラファー:

Eduard Strenja, Cvitko Teskera, Ivo Pervan, Senad Zemunović

写真提供: 印刷:

クロアタデザインスタジオ所蔵 アカデミア・クラヴァティカ所蔵 Mirko Marković: Hrvatski gradovi na starim planovima i vedutama(古い地図や風景で見 るクロアチアの町々), AGM, Zagreb, 2001. クロアチア歴史博物館、ザグレブ Francois Chaille: Le grande historie de la cravate, Flammarion, Paris, 1994. Stefan Benczak: Ilustrirana povijest kravate i njezinih prethodnica (挿絵付きのネクタイ とその原型の歴史), SB Computer Leasing Ges.m.b., Wien, 2000. Thomas Fink, Yong Mao: The 85 ways to tie a tie, Fourth Estate, London, 2001. Tomislav Aralica: Hrvatski ratnici kroz stoljeća (クロアチアの戦士の歴史), Znanja, Zagreb, 2006. Denona, Zagreb

発行部数:

1000冊

2007年ザグレブにて印刷

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