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第 11 講 科学を知覚する: フランク・オッペンハイマーのエクスプロラトリアム 第 1 部 第 3 章 第 11 講 3-11(IC12+13) 2010 年 08 月現在未完

■ポスト・コロニアリズムと博物館の新しい役割  科学技術の公衆教育はいかにして国家の政策課題となりうるか。このテーマが明確なかたちで姿を現わすのは、各国の政府が直轄の 組織として科学アカデミーを擁するようになった 19 世紀前半、とりわけフランスやイギリスの科学技術政策においてである。同時に この時代は、むろん現代における大学の大衆化とは⽐べようもないが、中産階級の市⺠が⾼等教育を享受する機会が増大し、大学の社 会的な自律軸の移動に伴う知識階層の構造的な変化がおきた。こうした教育制度の変化を背景にして自然科学や産業技術の知識が大衆 社会へ普及する過程で、ミュージアムの果たす機能がこの 100 年あまりのあいだに急激に変化したことは見逃せない。  現在世界の各国に見るような、大きく造形美術と自然科学に専門分化したミュージアムの⼆分法は、自然科学⾰命と植⺠地主義の安 定期を迎える 17 世紀後半のヨーロッパに登場したが、この時期、自然史博物館や産業博物館の祖型と目される公共施設が姿を現わし、 それらは各国の支配する広大な植⺠地から採取された“珍奇なるもの[ルビ:キュリオジテ]”の数々を博物学的に体系化する一方、ヨー ロッパ中心主義=普遍主義の啓蒙過程を補強するある種の教育装置として機能しはじめた。例えば、やや時代が下るが、1837 年の万 国博覧会を機に建造されたパリのパレ・ドゥ・ラ・デクヴェルトは、大学や産業界の協力を得て、今日いうところのワークショップに 相当する各種の教育普及プログラムをすでに実施していた。近代のヨーロッパ社会における産業⾰命の成功の原因を考えるとき、そう したサイエンス=インダストリアル・ミュージアムが、中産階級社会の意識に働きかけた教育学的レトリックの効果を無視することは できない。この傾向は 20 世紀に入るといっそう顕著になり、一例をあげるなら、1870 年に開館したロンドン科学博物館は、ヨー ロッパでも⽐較的古い科学博物館のひとつに属するが、1930 年代にはそれまでのスタティックな展示に加えて、児童を対象とした体 験型の科学ラボラトリー(チルドレンズ・ギャラリー)を新たに設置している。[★1]特定の個人や職業集団の内部で経験的に継承さ れる中世のアルチザン的な職能知ではなく、近代科学技術の客観的で普遍的な知識こそが産業振興を促し個々の生活世界の改造に結び つくとする、いわば“表象としての科学”または“科学を理解することの意味”、それは現代の最新の科学博物館さえもが、展示の技巧や 教育普及活動の理念において相変わらず受け継ぐモダン・ミュージオロジーの基本的な語法なのである。  しかしながら、今日、根元的ミュージアムの一方のタームである美術館は人々から多様な期待を寄せられ、社会資産としての機能や 性格を、ある種の商業主義の支援を背景にしながら徐々に変貌させつつあるが、自然史博物館や科学館、産業博物館の地位は、科学 ジャーナリズムやマスメディアの広範で即時的な報道活動・情報機構に完全に取って代わられてしまった感がある。⾼度に発達した流 通機構や商業主義、さらにはそれらに支えられた大衆文化という怪物の出現を横目で睨みながら、20 世紀のアートが自身の定義をど のように書き換えようと、制度としての美術館が収集し展示し価値付けるのは、おおむね“作品”という名の帰一性によって保障された 特別な事物である。マルセル・デュシャンの便器やマン・レイのアイロンが 20 世紀美術にとってユニークであるのは、“同じものがい

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くつも存在する”という工業製品の複数性によって帰一性[ルビ:アウラ]の放追を宣言したからというより、“偏在性(どこにでも存在 しうること)を内包した臨場性(いまここにしか存在しないという確信)”という階悌⽭盾そのもの̶‒それは資本主義がとりわけ貨幣 の論理において内蔵する⽭盾でもあるのだが̶‒を、美術という制度の語法として新たに登記したからに他ならない。その意味で美術 館とは、外部から何かを集めてくるのではなく、それ自体が集めるべきもの(少なくとも、収集のコード)を産み出す閉じたシステム なのだ。  一方、原則的に博物館にとってユニークなものとは、生活世界からたやすくすくい上げることのできない存在であること、換言すれ ばコロニアリズム的な意味での周縁世界の希少性である。がしかし、20 世紀は 2 つの大戦によって世界の地勢と風土を知りつくし、 マスメディアによるイメージの交通と規格化された工業製品の交易によって、“互いに想像しあえる現代の日常”を地球上に隈無く散布 した。博物館は、もやは現実の生活世界と隔絶した近代史のノスタルジックな遺物にすぎなくなってしまったのか。それがどれほど深 刻な問題であるかは、オーディオ=ビジュアルな展示技術の粉飾によっていかに取り繕ったところで、理科教育の補遺を務めること以 上の何事をも成し得ない日本の大半の科学博物館の現状をみればただちに理解できるし、それにもまして、ヨーロッパの近現代社会に とっては、ポスト・コロニアリズムの時代における自身の肖像をどのような構図のうちに描き直すかという、20 世紀の最後の課題を 象徴してもいる。

■核研究時代のオッペンハイマー兄弟  フランク・オッペンハイマーの名はしかし、社会事業家としてのそれよりも、兄の ロバート・オッペンハイマーとともに、アメリカの最初の原爆開発者たちに連ねられ るのが現代史の常道となっている。第⼆次世界大戦の早期終結を名目に産み落とされ た人類の最終兵器と、子どもたちの驚喜する声が響き渡るチルドレンズ・サイエン ス・ミュージアム……イメージとしてなかなかオーヴァーラップしにくい組み合わせ ではある。アメリカでも 1954 年ころから反核運動の兆しが見えはじめていたが、 1985 年に他界するまで原爆開発に関与したという経歴については、フランク・オッペ ンハイマー自身から倫理的な述懐が公表されたことはどうやらないようである。けれ どもオッペンハイマーとエクスプロラトリアムの関係は、アルベルト・アインシュタ インの修正見解に代表されるような、科学者のモラルを巡っての通俗的な転向ドラマ よりもさらに奥深い問題をはらんでいるのだ。  エクスプロラトリアムの展示物の特徴に関しては、同館が発行するいくつかの出版 物があり、オッペンハイマーについても多くのインタビューや評伝が存在する。 [★2]ここでは、それらのうちでも最もまとまった研究・解説書として定評のある、 ホリー・クロス大学(マサチューセッツ州)のヒルデ・ハインが 10 年に及ぶ調査研究 をまとめた『エクスプロラトリアム――実験室としてのミュージアム』(1990 年) [★3]にそって、オッペンハイマーの経歴とエクスプロラトリアム開館までの過程を

フランク・オッペンハイマー

紹介してみよう。  1912 年、ニューヨークのドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれたフランク・オッペンハ

イマーは、8 歳年上の兄ロバートとともに教養のあるエリート・ビジネスマンの⽗と⼥流画家の⺟親から良質な家庭教育を受けた。フ ランクの回想によれば、まだ 10 代半ばのころ、⽗親は息子たちをニュー・メキシコ州の荒野ペコス・ヴァレーへキャンプに連れてい き、2 人きりで数日間のサヴァイヴァル生活を過ごさせるという、いかにもアメリカの上流家庭らしいプラグマティックなやり方で リーガル・マナーのしつけを行なった。その若い日の経験は、自然観察の実践的な方法論を兄弟に自覚させ、フランクにとっては自発 的な体験と観察を展示装置の基本的なコンセプトとするエクスプロラトリアムの原光景ともなった。しかしまた、それから約 15 年後、 兄弟はキャンプ地からほど近いロスアラモスの砂漠に戻ってくることになる。よく知られるように、世界初の核実験場としてこの地を 選び政府当局に推したのは兄のロバートであった。  最初ハーバード大学で化学を学んだロバートは、1925 年に卒業した後、当時⾼校生のフランクを伴ってヨーロッパを調査旅行した。 この旅によってロバートは、核物理学では当時のアメリカを凌駕していたヨーロッパ各地の情勢を知って物理学へ自身の進路を転じる と同時に、イギリスとドイツにおける理論物理学の動向をアメリカにレポートした最初の科学者となる。一時期、兄は弟に生物学を修 めるようアドヴァイスしたが、弟は躊躇なく兄の選んだ道を追った。理論物理学でジョーンズ・ホプキンズ大学を 1933 年に卒業後、 イギリスに渡ってケンブリッジ大学とラザフォード卿やキュリー夫人の業績で有名なキャベンディッシュ研究所に籍を置いたのである [★4]。約 2 年間に渡る留学の成果を抱えて、カリフォルニア大学バークレー校とパサデナのカリフォルニア工科大学に教職を得た フランクは、放射線活動の人工的誘導に関する学位研究によって、世界の核物理学界の頂点部分を構成する少数の選良集団の中に、有 力な若手研究者として迎え入れられた。この集団は、数年後にはそのままアメリカの戦略核兵器開発の端緒となる知的環境を構成する

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が、戦後、学界のみならず政治や経済の世界にも強い影響力を持つことになる多くの科学者との出会いは、さらに 20 年後、彼がエク スプロラトリアムの創設と運営にまつわるさまざまな政治的・経済的困難を乗り越えねばならなくなったとき、強力な支援を準備する 結果になったのだった。  この時期にオッペンハイマーは、バークレー校経済学部の卒業生であったジャックネット・クゥアンと結婚する。そして夫妻は、後 に思いもよらない厄介を被るひとつの経歴を自ら作ってしまった。周知の通り、世界恐慌を契機に 1930 年代の中頃は経済的にも政治 的にも世界中が混乱した時代で、アメリカでもとりわけ地方都市の労働者の生活の困窮ぶりには目を覆うものがあったといわれる。 ヨーロッパではファシズムが台頭しはじめていた。夫人の出身がフレンチ=カナディアン系の労働者階層であったせいもあるのだろう、 また当時の知識人の多くに共通して見られる良識の発露として、2 人は 1937 年アメリカ共産党に入党し、1940 年に離党するまでの あいだカリフォルニア州教員組合の仕事と反フランコ政権の運動を行なったのである。  カリフォルニア工科大学で学位を取得しパロアルトに移ろうとした頃、1938 年 11 月にオットー・ハーンを初めとするドイツの化 学者たちが、中性子の衝突によってウラニウムの原子核を分裂させることができると発表し、1939 年の初めにはそのニュースがアメ リカの物理学者のあいだを駆け巡った。この情報は、オッペンハイマー兄弟を含めそれまで軍事研究には荷担しないという信念を譲ら なかった科学者たちにも大きな動揺を与え、政府からの原爆開発要請に対して選択の余地を彼らから奪った。パワー・バランスのはじ まりである。マンハッタン計画において、ロバートは 1942 年の秋からロスアラモスで原爆の組立てプロジェクトを統括し、フランク はバークレーの放射線研究所とウエスティングハウス社で兄たちの組み立てる容器の中身、つまりウラニウム同位元素の分離・精製工 程の仕事をした。そして、1945 年 7 月 16 日、兄と弟は 15 年前のキャンプの夜と同じようにロスアラモスの砂漠に身を横たえ、今度 は砂漠の小さな生き物の声や星の瞬きではなく、世界初のプルトニウム爆弾の強烈な音響と閃光を観測することになる。  終戦後、フランクは粒子加速器の開発のために大学に戻った。その間には、航空機動力としての核エネルギー利用の可能性など、商 業目的の研究依頼がいくつかあったがすべて断り、宇宙線の起源や性質を調べるといったような、政治や商業主義の関与が少ないと思 われる未開の分野の研究と、自然科学への教育学的なアプローチにしだいに関心を移していった。有事における科学者の兵器開発への 荷担とか勝者の戦争責任という問題は、時代や国家体制を越えてこれまで繰り返し同義上の問題として議論されてきたが、オッペンハ イマー兄弟にとっても複雑な自己立脚の動揺は少なからずあったことであろう。

■東⻄冷戦の構造と科学者の新しい役割  やがて時代は東⻄冷戦の構造を産み出し、周知のようにアメリカでは共産主義者とその同調者を公職から追放するいわゆるレッド・ パージがはじまる。1949 年、フランク・オッペンハイマー一家はミネアポリスに暮らしていたが、FBI の監視が昼夜続いたり地元紙 が夫妻の共産党員時代の経歴をスキャンダラスに暴きたてたりしたため、ついに 1951 年には非アメリカ的活動調査委員会に糾弾され ることとなった。自身が党員であったことは事実として認めたものの、他の党員の過去の活動内容について報告せよという委員会の要 求は断固として拒んだ結果、オッペンハイマーはミネアポリス大学の職を奪われただけでなく、国中のいかなる教職・研究職のポスト にも就けない立場に追い込まれてしまった。  しかたなく夫妻は 2 人の子どもをともなって、夏の休暇を過ごすために購入したばかりだったコロラド州南部の農場に引き籠もり、 以降 10 年のあいだこの地で暮らすことになる。彼らのライフスタイルは、自然のただなかで畜⽜のやり方を地元の農⺠から学ぶとい う、それまでの都会的でアカデミックな雰囲気とは正反対の方向に転じた。だが、この歳月は精気のない隠遁者の生活として無益に費 やされはしなかった。それどころか農場での生活は、夫妻の後半生と彼らの子どもたち、とりわけ息子のマイケル[★5]の人生を決 定づける、内省と新たな目標策定のための充実した時間を提供することになる。やがてオッペンハイマーは地域社会から信望を得て、 牧畜業組合の要職に推された。さらに、自分の子どもが通う地元の 1 クラスだけの小さな学校で、初歩的な電気学をパートタイムで教 えたのについで、専任の⾼校教師として生物学と化学、そして科学全般の授業を受け持つことになる。それは実質的な公職復帰を意味 したが、オッペンハイマーにとって意義があったのは、当時の初等科学の一般的なカリキュラムや教授法と⽐べるときわめて異端で あった自分の授業方針が、科学教育の新しいメソッドとして徐々に教育学関係の専門家からも認められ始めたことである。  自然や農場に生徒たちと出かけ、実際の生物や自然現象を注意深く観察する姿勢の重要さを説く。あるいはまた、不要になった生活 用品やジャンクの機械を地域の住⺠からもらい受け、生徒とともに分解・再構築して学習に必要な教材・教具をみずからの手で作りあ げる。オッペンハイマーのクラスは、生徒が治療のために連れてきた各種の傷ついた生き物で溢れかえることさえあった。知識や発見 へのこうした体験的なアプローチを賞揚する姿勢は、後になってエクスプロラトリアムの展示物のありかたや教育普及活動に方法論的 な理念として発現することになる。  現在では、体験型・発見型の授業形態やオリジナルの教材開発を重要視する授業運営の方法は、当然ながら各国の理科教育の現場で も多様なかたちで実践されており、ナショナル・カリキュラム(指導要綱)の中でオーソライズし明文化している国も多いが、1950 年代末のコロラドの片田舎に暮らす一⾼校教師の試みは、その前歴が放つ威光を割り引いてもなお、多くの科学教育関係者の目には確 かに画期をなすものとして映った。1959 年、コロラド州ボールダーで開かれた⾼校の科学教員向けのサマー・セミナーに招待された のを皮切りに、オッペンハイマーは科学教育における新メソッドの唱導者として再出発する。

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時代もまたそれを要請していた。ソヴィエトのスプートニク衛星打ち上げの成功をきっかけに、1950 年代の中頃からほとんど突然 といってよいくらい、全米で科学教育熱が⾼まったのである。米ソのスペース・コンペティションの開始である。オッペンハイマーら の参画した初期の核兵器開発は、国家プロジェクトとはいえ、少数の科学者と軍事技術者のあいだで極秘裏に進められた文字どおりの イニシエーションであった。けれども、その秘儀が戦後に向けて押し開いた戦略核の時代の国家保障は、広域配備された無数の核兵器 の管理技術や、宇宙の回廊を通じて別の大陸へ核弾頭を正確に送り込む弾道ミサイルの技術など、様々な分野の科学技術をいかに統合 的に管理できるかにかかっている。そして、これらの巨費を投じるビッグ・サイエンス=ビッグ・アーミーの確立と維持は、もはや一 時代の選ばれた天才科学者や軍事官僚の手によって遂げられるものではなく、世代を継いで⻑期的に市⺠社会と納税者から得なければ ならない、いわば科学技術崇拝に依存するのだ。したがってそれは、大衆に対する基礎的な科学知識の啓蒙によって維持されると考え られた。むろんこのプロットは、核軍備の後陣のあり方のひとつを言い表わしたものにすぎず、産軍共同体のようなあからさまな例を 持ち出すまでもなく、同様の技術知のピラミッドは、戦後の産業社会の興隆に⽋くことのできない幻想として市⺠の中に広く定着して きた。平たくいえば、明日のサイエンスは子どもの玩具から出発するという国家=企業体の発想である。ハインがアイゼンハワー時代 のアインシュタインを暗示していうように[★6]、科学者はもやはスペシャリストではなく大衆のヒーローなのだ。  本題に戻るが、戦後のアメリカで最初に実地検証され最も影響力のあった科学教育プログラムは、オッペンハイマーの友人であった マサチューセッツ工科大学のジェラルド・ザッカリアスが計画した PSSC( Physical Science Study Curriculum)である。ザッカリア スのプロジェクトの主席共同研究員となったオッペンハイマーは、数年間 PSSC とその小学校向けの下位プログラムである ESS(Elementary Science Study)にもとづく様々なカリキュラムの研究に没頭し、その過程においていくつかの教材を実際に制作し た。それらの一部は、後年エクスプロラトリアムの展示品にも加えられた。こうした科学教育の方法論に関わる地道で実践的な研究調 査を行ううちに、1959 年、コロラド大学の物理学部に迎えられたオッペンハイマーが気づいたのは、物理学のみならず自然科学全般 に対する公衆の期待が、わずか 10 年のあいだに様相をすっかり変えてしまったことだった。科学はもはやフロンティアが解き開く謎 や未知の世界ではない。公衆が望み、利用し、日常生活や職業にスキルとして応用するものとなり、そのために人々が科学者に望むの は科学の知識ではなく、まさしくアインシュタイン的な寓意、つまり「科学とは何かという観念そのものを変⾰すること」[★7]に 他ならなかった。じつのところ自然科学の最先端は、かつての理論物理学から分子生物学や神経生理学、さらには遺伝子研究のような 生命活動をめぐるまったく新しい研究領域に移行し、なおかつそれらの進路がたがいに交差しながら複雑な展開を見せはじめていたの である。また、情報科学とコンピュータ工学の急速な発達が、それらの新興科学の実証面と応用分野の拡大を支えた。

■エクスプロラトリウムの建設  コロラド大学時代のオッペンハイマーの研究室はある校舎の屋根裏部屋にあったが、そこでは自身の研究に使う実験用の泡箱[★8] などに加えて、多くの物理学のモデル教材が学生たちの協力を得て作られた。様々な実験装置にところ狭ましと占拠されたコロラド大 学名物の屋根裏の光景が未来に照準していたもの、それが何であるかについてはいうまでもないだろう。そしてついにオッペンハイ マーのヴィジョンのうちに、科学博物館というかたちでの具体的な施設空間の建造計画が浮かび上がってくる。1965 年、オッペンハ イマーはグッゲンハイム財団から奨学金を得て、夫人とともにふたたびヨーロッパへ旅した。主な滞在先はロンドン大学であったが、 2 人はヨーロッパのいくつかの主要な科学博物館や産業博物館̶‒例えば先に挙げたロンドンの科学博物館やパリのグラン・パレにあ るパレ・ドゥ・ラ・デクヴェルト、ドイツではミュンヘンのドイツ博物館など̶‒を見てまわり、それぞれの博物館が伝統的に継承す る教育普及プログラムや参加・体験型の展示技法に深い共感を覚えた。  帰国後すぐにオッペンハイマーは、スミソニアン研究所が博物館と科学教育との関係をテーマとして開いた全米会議(1966 年夏、 ヴァーモント州のバーリントンで開催)に出席し、また「科学博物館の役割」[★9]と題する論文を提出する。この文章は、いわば エクスプロラトリアムの初期構想を開陳するものであり、後に詳述する「科学博物館の理論的根拠」[★10]とともにオッペンハイ マーのマニフェストともとれる重要な論文である。会議からほどなくして、その組織者であったスミソニアン研究所のチャールズ・ブ リッツアーは、アーカンソー州のホット・スプリングズに建設を予定していた、スミソニアンの新しい施設の展示計画を手伝うよう オッペンハイマーに依頼した。この仕事を契機に、オッペンハイマーは自前の科学博物館を建設する決心を固める。当初彼自身は候補 地として東部のどこか、できればニューヨークを考えていたが、夫人が⻄海岸地域を、とくにサンフランシスコを強く勧め、最終的に この都市がターゲットとして絞り込まれた。サンフランシスコは、古くから様々な人種に固有の文化を吸収して交配する能力があり、 外的なものに対して寛容で多文化的な色彩の濃い都市であったこと、とりわけ 1960 年代後半からは、ヒッピーやドロップ・アウツと 呼ばれた若者たちも含め、既成観念や権威に馴染まずそれらから抜け出ようとする、ある意味では柔軟な感性と価値観を持った才能が、 芸術、社会科学、自然科学などの分野のみならず政治や経済の領域からも流入しつつあったこと、要するに都市それ自体が巨大な文化 改⾰の実験に参加しているという空気に何よりオッペンハイマー夫妻は惹きつけられたのである。  とはいうものの、彼らの構想を実現させるまでには乗り越えるべきいくつもの困難が待ちかまえていた。とにもかくにもオッペンハ イマーの考える科学博物館の先例となるような施設は、当時のアメリカにはどこにも存在しなかったのであって、予備調査のために オッペンハイマーが最初に訪問した旧友の新聞コラムニストは、ひとしきりプランの説明を聞いたあと、ただ一言「で、それはいった

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い何なんだ?」と尋ね返したという[★11]。さらにオッペンハイマーは、もうひとつの現実的な反問にも答えねばならなかった。 「サンフランシスコは新しい博物館を本当に必要とするのか?」。事実、1960 年代半ばのサンフランシスコは、すでにいくつもの美 術館と⽔族館、プラネタリウム、海洋博物館、⺠族・自然博物館などを擁していたのだ。あまつさえ、テクノロジーとカリフォルニア の生態系を扱うオークランド博物館がオープン間際のところまできていたし、この都市には大学や研究所に付属する博物館も多数存在 する。  しかしオッペンハイマーは関連する諸施設の状況を調査する過程で、それらのスタッフと交流をはかり、彼の政治経歴を口実とする 若干の抵抗には遭ったものの、しだいにコミュニティの内部へ入り込み理解を得ていった。博物館関係者や地元の科学者だけでなく、 開館後のエクスプロラトリアムの運営に⽋くことのできない⾼校生や大学生のヴォランティア組織、出資の期待できる中小企業の経営 者、展示物の芸術的な側面を支えてくれるアーティスト、財団、マスメディア……考えうる限りの個人や組織と関係を結び、人的ネッ トワークはかなり早い時期からその姿を明確にしつつあった。最大の課題は博物館の場所と建造資金の確保である。オッペンハイマー は計画書といくつかの展示物の模型を携え、東海岸の財団を含む各地の有力者にプロポーズを行なって廻った。この活動を最も力強く 支援してくれたのが、かつての核研究時代の同僚たちである。そこにはノーベル賞受賞者のルイス・アルヴァレスや加速器研究の第一 人者であるスタンフォード大学のヴォルフガング・パノフスキーが含まれる。彼らはともにエクスプロラトリアムの最初の管財評議委 員となった。  エクスプロラトリアムは、パナマ=パシフィック万国博覧会 [★12]の跡地にあるが、建物は博覧会のパヴィリオンのひとつで あったパレス・オヴ・ファイン・アーツを改装して再利用したも のである。その名称から受ける優雅な印象とは裏腹に、どこか航 空機の格納庫をイメージさせるこの風変わりな歴史的建造物が、 オッペンハイマーらのプロジェクトに提供される直接のきっかけ を作ったのは、サンフランシスコ・クロニクル紙の主席編集者の 妻で、ライターとして同地の上流社会に強いコネクションを持っ ていたルース・ニューホールである。彼⼥は、パレス・オヴ・ ファイン・アーツのパヴィリオンに関する 1 冊の本[★13]を書 いているが、以前からこの建物を含む一帯の博覧会跡地の保存と 有効利用を説き、そのための運動を開始していた。人の手の入ら

パナマ=パシフィック万国博覧会

ぬままに荒れ放題の状況だったパレスは、すでに 1957 年には歴 史記念史跡としての認定を受け、オッペンハイマー夫妻がサンフ

ランシスコにやってきた年には外装の補修工事が完了したばかりであった。ニューホールは、オッペンハイマーをパレスの管理組織の 有力メンバーや市議会議員、サンフランシスコ市⻑などに引き合わせ、エクスプロラトリアムの構想とパレスの内部改装とを結びつけ る計画をプレゼンテーションさせた。このように周到かつ徹底したネゴシエーションの結果、エクスプロラトリアム設立の最終的な ゴーサインが行政当局から下されたのである。   「1969 年 8 月 20 日、ファンファーレの類は何もないまま に、パレス・オヴ・ファイン・アーツの大きな扉が開かれた。 入っていってもよいのだろうかといぶかしがる人々。客が次々と 訪れる。公園で遊んでいてたまたま博物館を見つけた旅行者や物 見⾼い人たちが、何だろうと確かめにやってきたのだ。だがその 内部には展示物らしきものはほとんどなかった。何人かが工場で 働くような感じで作業しているだけだ。彼らの傍らには次のよう な貼り紙があった。<発見のためのコミュニティ・ミュージアム、 エクスプロラトリアムはいまここで作られつつあります>」 [★14]。

■「科学博物館の理論的根拠」

開設準備前のパレス・オヴ・ファイン・アーツ  開館には一応こぎつけたものの、最初の 1 年間、オッペンハイ マー夫妻をはじめとするスタッフは、展示物の種類を拡大することと広報活動に大半の時間を割かざるをえなかった。またフランクは、 施設整備に必要な資金の獲得のため東奔⻄⾛の日々を送ることになる。開館を前後する数年間は、博物館の歴史の中でも希有な普及思 想と運営方針を持つエクスプロラトリアムにとって、その理念を未来に向けて貫き得るかどうかのまさしく正念場であった。このとき、

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オッペンハイマーの熱意にもまして、エクスプロラトリアムの構想を端的に表現した彼の一編の論文が、資金提供者や行政当局に対す る説得を手助けするとともに、世界にエクスプロラトリアムの存在を知らしめることになる。それが「科学博物館の理論的根拠」であ る。実はこの小論は、1967 年に書かれた行政向けのプロポーザルを下敷きにしているのだが、当時ニューヨークのアメリカ自然史博 物館のディレクターであったアルバート・パールがこの起案書に目をつけ、同館の発行する専門雑誌『キュレイター』に一部分を掲載 するようオッペンハイマーに申し入れたのだった。1968 年の 11 月号に先の表題で公開された論文は、アメリカの科学博物館や教育 学の関係者から⾼い評価を受け、エクスプロラトリアムの開館直後には、雑誌の掲載号を手にして見学に訪れる博物館学芸員もいたと いう。  「科学博物館の理論的根拠」は、その出所からして学術論文というよりむしろエクスプロラトリアム構想の概念的な見取り図であり、 2000 語足らずの簡潔な文章によって、来たるべき科学博物館の基本姿勢と展示物の特徴、そしてそれらが産業の各分野とどのような 関連性を有するかが明確に述べられている。オッペンハイマーはまず、基礎的な科学技術に関する公衆教育の重要性を説く。つまり、 食物や医療、衣服や娯楽といった日常生活のさまざまな局面を支える産業技術についての知識が科学者や技術者などごく一部の専門家 に独占され、いわばブラック・ボックス化している現状を批判したうえで、一般の生活者がこれらの科学知識にアプローチする方法は 特殊な環境や手段によるのではなく、自然界で美しい動植物に接するときと同様の感動を喚起するものでなくてはならないと訴える。 先に紹介したオッペンハイマー自身の生い立ちや経歴、時代の変化についての洞察などがそこに反映していることは明らかだろう。  こうした専門家と非専門家とのギャップを埋める方法としては、言うまでもなく当時も無数の啓蒙的な出版物や雑誌記事、テレビ番 組、各種の教育機関での一般教育カリキュラムがあった。しかしオッペンハイマーは手厳しく指摘する。既存のメディアや学校教育の やり方には、その受け手を理解に導くための支援方法が⽋如していると。彼のいう“支援”とは、「見て触ることができ、意の赴くまま にスイッチを入れたり切ったり、あるいは自在に変化させることのできるさまざまな現象を提示する装置」[★15]である。人々は、 実験室としてのミュージアムが備える各種の実験器具や設備を自身の手で“制御”し、ついでそこに生起する現象の顛末を“観察”する。 指向性の異なる 2 つの体験の重ね合わせは、彼らの好奇心をくすぐり、部分的・末梢的なレヴェルであっても彼らの疑問に対して何ら かの回答を提供することができる。  加えてオッペンハイマーは、好奇心や驚きを誘うことの意味、要するにある種のエンターテインメント性をそれらの装置に求めるな らば、装置自体のデザインが備えるべき芸術性も重視しなくてはならないとする。とかく学校教育における工学教育や自然科学教育が、 記号や言語の抽象性を前提として知識の体系的な全体性・整合性を構築するために⻑大な時間を費やす̶‒ましてや教具・教材の美学 的側面などまったく眼中にない̶‒のに⽐べ、オッペンハイマーの発想はむしろ、具体的な実験装置の操作を通して、自身の支配下に ある具体的な自然現象に潜む因果関係を、個々の観察者が感覚的・瞬発的・直感的に理解するプロセスを重視する。そして、装置の体 験から得られた断片的な知識が、彼らの生の営みのただなかで再び参照されることもまた大切な事後過程なのである。言語記号的な抽 象性よりは事物や現象がもたらす世界の顕在性・経験の具体性を、体系的な分析結果よりは瞬間的な直感把握を……。こうした捉えよ うによっては反アカデミズムともみなせるオッペンハイマーの姿勢が、多くの科学者やどちらかと言えば保守的な傾向を持つ財団関係 者に受け入れられたという事実の背後には、俗にいわれるアメリカ文化のピューリタン的な精神風土よりも、やはり 1960 年代末のア メリカの対抗文化が持つ改⾰意識の良質な部分が少なからず作用したのではあるまいか。  ともあれ、以上のような理念の開陳だけでは人とそして金は動かない。オッペンハイマーはこう説明をつないでいる。「博物館とは 展示物のたんなるごった煮ではないのであって、柔軟なフレームワークを用意できるいくつかの基本的な理論的根拠を示す必要があ る」[★16]。ここでのフレームワークとは、実際には展示カテゴリーのことである。論文の組織形態の項でオッペンハイマーは、展 示物の主題を 5 つの知覚領域に振り分けるという方式を提案する。と同時に、各カテゴリーがどのような産業分野の成果を反映させう るかについても予想している[★17]。 1. 聴くこと  オッペンハイマーによれば次のような展示が期待される。「まず、楽器のコレクションが紹介されるだろう。それぞれの楽器の音色 を聴かせたり再現したりすることができる。さまざまな音階のセクションについで日常生活の中の音響とノイズについてのセクション がある。そこで人々は音声の認識と記憶をめぐる諸問題に気づかされるはずである。音声知覚の詳細については、周波数と音量反応の レンジ、そして音響の方向性の判定などに関する実験へと展開する。つまり 2 つの方向性があるということだ。ひとつは音響の物理学、 すなわち振動、周期運動、反響、干渉、反射の研究に向かう部分、もうひとつは聴覚器官と中枢神経系に関わる心理学、組織学の領野 である。そして最後のセクションでは音の再生装置に含まれるテクノロジーや生産テクニックが示される」[★18]。  オッペンハイマーが筆頭にあげているからというわけではないが、実のところ、初期に作られた展示品のうちでも、振動や反響と いったヴァリエーションを含めて音響に関係する装置は種類も多く、エクスプロラトリアムの代表的な展示物群としてしばしばアメリ カ国外にも紹介されてきた。多くの博物館では、構造図などの展示解説はもちろん、展示手段としても視覚情報に⽐較的大きなウェイ トが置かれている。平たくいえば、博物館はまさしく美術館がそうであるように、静粛を維持した視覚による黙考の場であることが常 にどこかで求められているのである。これに対して、現在でもエクスプロラトリアムは、やはり光学や画像に関わる装置への配慮があ るために、館内に入った一瞬は全体に薄暗い印象を受けるのだが、それとは対照的に、来館者自身の声や彼らが展示装置を叩いたり

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擦ったりする種々雑多な音響で、巨大な空間はうなりを上げているかのようである。 2. 視ること  「視覚の感覚については、絵画から始めることになろう。つまり、透視図法の考え方やオップ・アートとかモアレ・パターンに含ま れるいろいろな効果について紹介する。それから視覚心理学の実験があり、ここで一方は光の物理学へ、もう一方は眼の生理学に進路 が分かれる」[★]。最後に 2 つの流れは、絵の具や各種の光学機器、眼鏡の製造、写真機器、そして赤外・紫外光装置やレーザー光 装置など、関連の産業技術の紹介につながっていく。 3. 味わうこと・匂うこと  「料理や香⽔からはじまって味覚と香りに共通する慣習に進むことができるだろう。さらにいくつかの化学的性質に展開し、食品産 業と化粧品産業の広範かつミステリアスな技術に行き当たる」[★]。 4. 触ること  来館者は次のような経路を経ることになる。衣服や住宅のセクションに始まり、熱さと冷たさ、そして摩擦感の知覚のセクション、 発熱の物理、最後に繊維と住宅建材の技術に導かれる。オッペンハイマーは、この感覚領野については⽐較的短い文章で終わらせてお り、論文の段階では展示プランにも各要素間の整合性がまだ見出せていないように思われる。たしかに触覚の生理と心理・認識の分野 は学術的にも未開の領域が多く、また主観的な要素が入り込みやすいという点で、効果的な実験装置や説得力のある展示装置を作るこ とも難しい。しかしながら、例えばロサンゼルスのダウンタウンに位置するチルドレンズ・ミュージアムや、もっと新しいところでは 1992 年に開館したサンノゼのチルドレンズ・ディスカヴァリー・ミュージアムなど、エクスプロラトリアムを範として後年に出現す る類似の児童博物館では、肌の直接的な接触や素材の質感の変化を意識した展示物が数多く開発されている。後発といえども、この点 ではエクスプロラトリアムが取りこぼした感のある領野をうまくリカヴァーしているといえるだろう。現在では世界各地の児童博物館 定番の体験型展示となった“フェイス・ペインティング”[★]も、これら後進のミュージアムの努力によって普及した手法である。 もっとも、エクスプロラトリアムのようにあくまで自然科学教育を基盤とする場合と、人種問題や都市貧困層家庭の子弟の補完的な情 緒教育といった、複雑な社会心理学的テーマを背負い込まざるをえない都市型のチルドレンズ・ミュージアムとでは、目的の位相がも ともと違うのであるから単純な⽐較はできないかもしれない。  けれども、先の味覚や嗅覚そして触覚といった感覚は、人間の感覚の中でも何らかの記述を前提とした抽象化や言語的な形式化がし づらいがゆえに、逆に環境に対する意識の変容のあり方をダイレクトに反映させることが可能であり、ひいては包括的な人間理解の新 しい手がかりになる可能性を潜ませている。今後の科学博物館にとっても、展示技法の要素としてだけではなく展示テーマとしてもさ らに⾼度な探求が望まれる分野ではある。 5. 平衡感覚のコントロール  「ダンス、体操、そしてやじろべえのバランスを取るとか自転車に乗るといった多くの能力がこのセクションに含まれる。身体の平 衡感覚のメカニズムが示されるだろうし、さらにそれは、フィードバック機構の数学、筋肉と神経の生理学、そして三半規管等の問題 に分岐し、産業技術に見られる制御機構の洗練されたテクノロジーにつながっていく」[★]。

■対話的展示の可能性と社会的資産の再活用  オッペンハイマーの展示構想は基本的に、驚きや発見を促すための効果的な現象の体験に始まり、その科学的な意味づけ、そしてそ れらの技術的根拠に基づく実際の工業製品の紹介へと観客を自然に導く、ある意味では演繹的な話法によっている。そしてまた、直感、 理論、応用といった論法の流れはときに分岐と合流を繰り返し、あたかもひとつの解に至るリニアな観客動線があらかじめ敷設してあ るかのような印象を受ける。だが、ほとんどパーティションらしきものを持たない現実のエクスプロラトリアムの空間が証明するよう に、館の全体にはいくつかの大きなテーマ・ゾーンが設定されているだけで、観客たちは展示物のあいだを勝手気ままにうろつき、そ の一つひとつの内容をつまみ食いしている。けれども展示物のほとんど総てがいわば対話型の装置としてあり、装置に付されたインス トラクション・パネルやボランティアの指導員の指示に従って“操作”と“観察”を繰り返すうちに、近傍の展示品どうしの関連が観察結 果=情報の類似・類縁性の中に見えてくる。いわば知覚体験のマップができあがるのである。このマップは、必ずしも特定の現象系や 理科教育的な意味での科目範囲を厳密にトレースするものではない。オッペンハイマーのいう“探索の場 exploration center”とは、ま さしくそうした刹那的な一つひとつの知覚情報の統合環境そのもの、あるいは個々の観客の記憶にしか残らない仮想のミュージアムで あるともいえるのではないか。  再度ここで注意したいのは、それぞれの展示物は、科学者たちが本義の実験室で触れているのと同じ意味での実験器具であるという ことだ。言い換えれば、“対話的 interactive”であるということは、他の多くの科学博物館に見られるような、実験=展示装置の始動と 停止が決定できるだけであったり限定的なパラメータの変更が許されるだけの、いわば官僚的な機械論的可能性をさすのではなく、装 置の使用によって“自身の仮説や推論を行為として表現できる”ということに他ならない。極論すれば、これらの装置は“展示物 exhibit”

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ですらないのである。むろんこのような開放的な機械装置のあり方は、実際の運用の場面では観客の思いもよらない用法を招き、絶え 間ない故障の原因にもなるのだが[★21]、エクスプロラトリアムでは設計の段階から周到な技術的配慮をすると同時に、現在では同 館の全フロア面積の 1 割近くをマシン・ショップと呼ばれるメンテナンスと制作のための工房に充てている。さまざまな工具や工作機 械が居並ぶ工房とそれらを使いこなすエンジニアやアーティストたちの姿は、サービス・ヤードの⿊子のそれではなく、まさしく活き た展示となっている。

マシンショップ  数百の展示物が所狭しと置かれた現在のエクスプロラトリアムの姿は、むろん初期から同じようにあったのではない。オッペンハイ マーは「科学博物館の理論的根拠」の最後を、immediate programs すなわち既存の社会的資産の応用と再活用という手段によって展 示物の種目を増やし、さらには科学博物館の公的な位置づけを明確にするための 4 種類の方法論で結んでいる[★22]。 1.学校での理科教育に使用する実験装置や器具をミュージアムに持ち込む。つまり、通常は授業内容の進行に従って次々と交替し、 わずか 2、3 日しか生徒の眼に触れない学校の教具・教材を、必要のないときにミュージアムで展示すれば、⻑期間にわたって学生だ けでなく一般の人々の教育にも無駄なく使えるということだ。 2.テレビの科学番組のために制作された実験や解説の装置を、放送終了後にミュージアムで展示する。加えて、テレビ局とミュージ アムの共同制作によって科学番組をプロデュースする。 3.学校や大学での専門教育用にメーカーが開発した実験装置を、教員などが試すための試用センターをミュージアム内に置く。メー カーやそれらの開発支援を行なった科学財団からの支援を期待できる。 4.大学や研究所で不要になった実験装置を譲り受け、ミュージアム内部や公園のモニュメントとして再利用する。それらの機械装置 の機能や有用性についての教育学的な配慮がなくとも、彫刻的な造形美を楽しみ利用することができる。

 総てを借用品で間に合わせるという、考えようによっては狡猾なアイディアの数々であるが、そのいくつかは実際に今でも外部の教 育機関との協調的な関係において、各種の普及プログラムとして具体化し実行されている。とにかく自前の資金と労力に頼るだけでは、 展示品の増加に限界があらかじめ見えていた開館当時のエクスプロラトリアムとオッペンハイマーにとってみれば、あらゆる手段を 使って外部からの支援を得なければならなかったことだけはまちがいない。また、オッペンハイマーが四半世紀以上も昔に提案した、 科学博物館と初等教育機関や産業界との共同責任を前提とするダイナミックな相補関係を確立するための努力は、例えば、むしろ大学 との権威主義的で因習的な結びつきの方が強い日本の博物館の現状を振り返ってみると、必ずしも積極的に履行された形跡がないので はないだろうか。

■知覚のミュージアムと〈サイバネティック・セレンディピティ〉  さまざまな試行錯誤の後に、エクスプロラトリアムの進路を決定する大きな展覧会が開館後まもなく開かれた。今日のエクスプロラ トリアムの独自性は、“知覚のミュージアム”と“アーティスティックな雰囲気”という 2 つの要素によって決定づけられると思われるが、 実は、この後者の方向にエクスプロラトリアムを向かわせたのは、ヤシャ・ライハートらのキュレーションで 1968 年にロンドンの ICA で開催された〈サイバネティック・セレンディピティ〉展[→第 1 講]なのである。美術展覧会とも産業展示会とも区別のつかな いこのユニークなイヴェントは、実はロンドンだけでなくその後アメリカの各地を巡回したのだった。ワシントンでの展示を見てその 内容がエクスプロラトリアムのコンセプトに相応しいと判断したスミソニアン研究所の職員が、すぐさまその旨をオッペンハイマーに 連絡し、彼もまた自分の目で展覧会を確かめたうえで、アメリカ国内のツアーにエクスプロラトリアムを入れるための交渉に入った。 ワシントンでの総ての展示品がサンフランシスコに輸送され、1969 年 10 月 2 日、エクスプロラトリアムは〈サイバネティック・セ

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レンディピティ〉を同館の正式の開館記念展覧会として迎え入れたのである。  それは国際展覧会という意味ではまさしく 1915 年の〈パナマ=パシフィック万国博覧会〉の再来であり、サンフランシスコの市当 局者やパレス・オブ・ファイン・アーツの管理委員会にとっては、オッペンハイマーに手を貸した彼らの面目を保つ好機となったこと だろうし、また、オッペンハイマー自身の目には、IBM 社などの協力を得てコンピュータやロボットをはじめとする各種の情報工学関 連の工業製品が展示され、種々の対話的機能が観客の前に披露され、そしてそれらの装置を用いたアーティストたちの芸術作品が共存 するこの展覧会は、彼の考えていたエクスプロラトリアムの理念をほぼ完璧に具現化したものとして映ったはずである。  先に〈サイバネティック・セレンディピティ〉のアメリカ巡回と書いたが、本当はワシントンのギャラリーとエクスプロラトリアム の 2 カ所でしかこの展覧会は開かれていない。スミソニアン研究所にしてみればもっと多くの都市で開催したかったのだが、そもそも 膨大な量の精密電子機器を陸路で⻑距離運搬すること自体に不安があり、それにもまして、コンピュータ工学やソフトウェア技術の⾼ 度な知識が主催者に要求されるこの展覧会は、どんな博物館や美術館でも容易に受け容れられるような代物ではなかったのである。ス ミソニアンの職員がエクスプロラトリアムを推したのも、展示物の設置と会期中の管理に耐える十分な技術力を、周辺のボランティア を含めた同館のスタッフが備えていると察したからに他ならない。ちなみに、現在でもエクスプロラトリアムのマシン・ショップには、 電子工学や機械工学の学位を持つ研究所クラスのエンジニアが何人も働いており、館内の展示物の制作やメンテナンスに従事するだけ でなく、サンフランシスコ周辺のメディア・アーティストたちの作品制作にも手を貸している。  当初の計画では〈サイバネティック・セレンディピティ〉は 6 週間の会期を予定されていたが、あまりに⾼い評判を得、その熱が いっこうに冷えないために会期延⻑を繰り返し、最後の展示品がイギリスに帰っていったのは 1971 年の 10 月であった。そればかり か、いくつかの展示品はエクスプロラトリアムのパーマネント・コレクションとして同館に購入または寄贈され、それらのあるものは 今も観客展示に供されている。また、あるものは将来の展示物設計のための参考としても使われた。例えば、もともと《ペンジュラ ム・ハーモノグラフ》と題する作品(イワン・モスコノヴィッチの制作による)[→第 1 講]は《ドローイング・ボード》と改名のう え規模を縮小して再現され、現在もエクスプロラトリアムの代表的な展示物として活躍している。このようなコンテクスト変形によっ て、〈サイバネティック・セレンディピティ〉の展示物の多くがエクスプロラトリアムを経由し、世界各地のミュージアムの展示、あ るいはそこでのワークショップ活動に伝播していった[★23]。  ハインは、〈サイバネティック・セレンディピティ〉に出品された“作品”の多くは、それらを産み出した「機械というものに対する 姿勢が、芸術よりは伝統的な科学の観点に近く、機械装置をたんなる道具として捉えたり脅迫的な敵対者と見なすのではなく、むしろ 協調的な共作者として扱っている」[★24]と言っている。第 3 講でも指摘したことだが、このような見解は、当時のアート&テクノ ロジーという思潮をめぐる好意的な姿勢を代表するものでもあった。オッペンハイマーの論文にもあるように、エクスプロラトリアム にとってのアートとは、初期の段階では展示品の美的な側面を補う手段にすぎなかったが、〈サイバネティック・セレンディピティ〉 の成功以来、いくつもの展示品がアーティストの主導的な役割によって制作されたり̶‒正確には 1974 年から滞在芸術家制度[ルビ: アーティス・イン・レジデンス]を設けている̶‒、アート&テクノロジーのシーンからの作品がそのまま展示品として公開されるケー スさえ現われるようになった。例えば、《エイリアン・ヴォイス》をはじめとして、音楽の発生の原点を垣間見させる数々のインタラ クティヴ・サウンド・インスタレーションで有名なポール・デマリニス、ビデオカメラが捉えた観客のイメージを、デジタル・コン ピュータの画像処理で虹色のシルエット像に変換してスクリーンに投影する《レインボー・エコー》の作者エド・タネンバウム、とも にエクスプロラトリアムの客員芸術家の経歴を持つサンフランシスコ在住のアーティストであり、両作品は現在も常設展示されている。  オッペンハイマー自身もまた、ワシントンで〈サイバネティック・セレンディピティ〉の誘致をすすめる活動と並行して、展覧会に 加えるべき作品を地元のアーティストに求めようとしていた。この要請に応じたのが、ビリー・クリューヴァーとロバート・ラウシェ ンバーグによって組織された EAT である。[→第 8 講]EAT は本拠をニューヨークに置いていたが、⻄海岸のブランチが 1969 年にでき たばかりだった。その責任者であったジョン・アーモンド(電気システムのエンジニア、音楽家)とマーリン・ストーン(作家、彫刻 家)は、以前からエクスプロラトリアムをアーティストやエンジニアのためのオルタナティヴ・スペースとして認め、オッペンハイ マーとも交流を深めていた。ストーンは全米の EAT のメンバーから多くの作品をとりまとめ、〈サイバネティック・セレンディピ ティ〉の会場に同時にそれらを展示した。これらのうちの何点かもまた後に買い取られ、コレクションに加えられている。

■エクスプロラトリアム以降  〈サイバネティック・セレンディピティ〉大成功の功もあって、最初の年だけでエクスプロラトリアムは 15 万人の観客を動員し、 200 以上の学校からの校外学習グループを受け入れた。1970 年 6 月、市当局はパレスの建物を含む周辺の補修と建物の貸与の継続を 決定した。しかしながら、エクスプロラトリアムの運営は、創設期においてヒューレット・パッカード社の社⻑、ウィリアム・ヒュー レットの個人的な支援を得たり、いくつかの財団からの援助を受けているとはいえ、経済的にはほとんど独立独歩といってよい状態を 現在に至るまで続けている。ミュージアム・ショップの経営や、科学実験のアイディア・ソースとして有名な『クック・ブック』 [★25]をはじめとする各種の出版物の刊行など、経費確保にいくばくかの貢献をするであろう若干の経営プロジェクトはあるものの、

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それらの収益でエクスプロラトリアムの総てが賄えるほど同館の物理的な規模と活動範囲はスリムではない。アート&テクノロジーの 拠点とはいっても、おおむね展示物の技術レヴェルは、当代の最先端企業から見た場合にはロー・テクそのものであるから、ほとんど 支援の相手とされないし、投資の性急な見返りを期待するヴェンチャー・キャピタルなどは、その視野にも入ってこないだろう。エク スプロラトリアムは基本的にはさまざまなかたちでのボランタリーやドネーションによって支えられており、その事実こそが、展示や イヴェントの企画内容においても、そしてエクスプロラトリアム関わるアーティストやエンジニアの発想にもまったき自由を確保して くれているのである。  先にも 2、3 の例をあげたように、エクスプロラトリアムの、そしてロバート・オッペンハイマーのアイディアは、世界各国に存在 するあまたの科学博物館に受け継がれている[★26]。だが、真に継承し醸成すべきは、はたして対話型の展示技法やアート的なもの の導入とそれらの商業的な翻案であったのだろうか。“探求空間”とでも訳すべき活気に満ちたこの類い希なミュージアムの本質は、そ の奥深い人的環境を産み育てたサンフランシスコという都市の文化的気質と、そして何よりオッペンハイマー以下数百数千の、有名、 無名のスタッフの努力にあるといってよい。がしかし、傍観者としての慎みをあえて犯したうえで言うならば、ひとりの、あるいは一 時代の強烈な個性によって産み落とされ育て上げられた組織や理念といったものの多くがときとして迎えるように、エクスプロラトリ ウム、というよりエクスプロラトリウム的な博物館思想もまた、その独創を新たな時代に継ぐための努力を怠るならば、やがては形骸 化への道を自ら歩みはじめるだろう。  “touch and do”を旨とする展示技法というのは、当然ではあるが何もオッペンハイマーの専売特許であったのではない。エクスプロ ラトリウム正式開館と同じ年にカナダのトロントにできたオンタリオ・サイエンス・センターは、行政(州政府)レヴェルでそうした 新しいタイプの科学教育のあり方が計画的に探求された例のひとつである。オンタリオ州建設 100 周年を記念し、2300 万ドルの巨費 を投じて作られたこの博物館の創設には、天才科学者もテクノロジー・アーティストも関わってはいない。ロンドン科学博物館から移 籍し同センターのジェネラル・ディレクターとなったウィリアム・オーディア、丘陵の立地と自然環境を生かしたユニークな建築計画 を提供した日系人建築家のレイモンド森山、詳細な展示計画を作成し準備期間を含めて 10 年のあいだ同センターに勤務した三明大蔵、 こうしたいくつもの立場の知見が相互に影響しあう中から周到に練り上げられた複雑な展示管理・運営機構こそが、実はその後の北米 大陸の科学館ブームに火をつけたのだった。[★27]ここにはエクスプロラトリウムと同じように、各種の対話型・参加型の展示装置が 居並んでいるが、それらの目的は、「なんらかのシステマティックな方法によって物理現象を探求することではない。むしろ、来館者 が幅広いやりかたで展示物に働きかけられるようにするために、新しい解釈手段を伝えたり発見するといった伝統的な展示テーマを取 り入れている」。[★28]このミュージアムは、科学技術が日常生活の内部に無数の応用の分岐をしながら浸透していゆく過程を遡り、 あるいは手繰り寄せ、科学的知識に至りつく解釈の多様性をこそ来館者に提供しようとしているのである。

オンタリオ・サイエンス・センター、2006 年  人間が感覚の各チャネルを通じて自然界と接することの意味、あるいは、人間自身もまた自然のシステムに組み込まれた存在である ことを理解するための倫理と英知、それらを知覚のミュージアムというレンズで拡大して見せ、驚きに満ちた体験によって学ばせる、 そうした独自の科学観ないしは科学の新しい使命のもとに、エクスプロラトリウムはたしかに時代を画し、斬新な展示手法は喝采を浴 びた。しかしながらこの時代、アポロ計画に象徴されるような国家の管理する科学技術が公衆の憧憬を誘うことに成功したのは、これ まで幾度となくいわれてきたように、まさしくその科学技術の頂点から産み落とされた核の恐怖に対する負のリビドーが、他方におい て完璧なカウンター・バランスを維持したからにほかならない。まして 1970 年代の初頭には、すでに環境や情報という、模擬的にで はあっても“物理現象”として実験してみせたり操作してみせたりすることの不可能な新しい世界モデルが、全地球的なコモンセンスと して受けとめられだしていた。今、エクスプロラトリアムは、どのようにしてこれら非現象の自然界を描写し再計画し人々に提示して いるのだろうか。それは、いかに東⻄両陣営の冷戦構造が雲散霧散したとはいえ、人類が最初の人工的な原子核崩壊を論理世界の抽象 からこの現象世界の事実として誘い出してしまった半世紀前の、あの一瞬において抱え込んだ永遠の想像力の課題でもある。 2010 年 8 月現在 この項未完

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■引用文献・註 ★1――Butler, Stella. Science and Technology Museums, Leicester Univ. Press, Leicester, London and New York, 1992, p.77. ★2――例えばオッペンハイマーへのインタービューでは、Dackman, Linda. “On the Designing of a Science Museum and a Particle Accelerator Laboratory: Interviews with Frank Oppenheimer and Robert Wilson”, in Leonardo, Vol.17, No.2, 1984, pp.75-80. がある。 ★3――Hein, Hilde. The Exploratorium: The Museum as Laboratory, Smithsonian Institution Press, 1990. ★4――キャベンディッシュ研究所での 1 年半のオッペンハイマーの研究内容は、自然放射線のスペクトルと強度を計測するための技 術である。その後、イタリアのフローレンス大学の招待を受けて粒子の計数装置の研究を行なった。核兵器開発に直接関係する研究で はないが、2 年間の研究旅行を終え 1935 年に帰国した時点で、オッペンハイマーはヨーロッパの最先端核技術に精通する重要人物の ひとりとなっていた。 ★5――Michael Oppenheimer。1969 年のエクスプロラトリアムの開館時、同館の最初の学芸員となった。 ★6――Hein, H., op. cit., p.12. ★7――ibid., p.14. ★8――太陽から降り注ぐ宇宙線など、放射線の軌跡を肉眼で観測するための装置。類似の実験器具に“霧箱”がある。 ★9――Oppenheimer, Frank. “The Role of Science Museums”, in Conference Report, Smithsonian Institution Press, 1968. ★10――Oppenheimer, Frank. “A Rationale for a Science Museum”, in Curator, American Museum of National History, Nov.1968. 同 論文は Hein の前掲書にも再録されている(pp. 217−221)。以下の引用はすべて同著から。なお、のちにエクスプロラトリアムのオ ブザーヴァーとして同館と緊密な協力関係を持つことになるジャーナリストの坂根厳夫は、最初にオッペンハイマーの思想に触れ感銘 を受けた論文であったと述懐している(坂根厳夫「エクスプロラトリアム考̶フランク・オッペンハイマーの残した精神の遺産とその 影響」、『科学の遊び:エクスプロラトリアム展』カタログ、朝日新聞社、1989 年、p.100。) ★11――Hein, H., op.cit., p.15. ★12――パナマ運河の開通を記念して 1915 年に開催された国際博覧会。サンフランシスコ大火復興 10 年の記念でもあった。会期は この時代の万国博覧会としては異例ともいえる⻑さの 288 日間。日本も金閣寺を模したパビリオンを建造し参加している。 ★13――Newhall, Ruth. San Franciscoʼs Enchanted Palace, Howell North Books, 1967. ★14――Hein, H., op. cit., p.21. ★15――ibid., p. 217. ★16――ibid., p. 218. ★17――学術雑誌に掲載された文章の中にこのような産業界への配慮が見え隠れするという点については、いささか無頓着な印象を受 けるかもしれないが、もともとこの論文は、カリフォルニア州の財界・官界に向けた設立趣意書をベースとしている。 ★18――Hein, H., op. cit., pp. 218−219. ★19――ibid., p. 219. ★20――複数の子どもたちが、数色の絵の具を使い自分や相手の顔にカラーのメイクアップをして楽しむという単純な遊び。鏡付きの ペイント・キットを商品化したものも売られている。オリジナルのアイディアがどこの誰によるものかは定かでないが、1980 年代中 頃、アメリカ⻄海岸一帯のミュージアムや小学校の教室から流行したらしい。誰もがカラードになってしまえば差別は意味を持たない という発想。人種問題に対する教育界からのひとつの実践的な回答である。 ★21――1992 年から 93 年にかけて約 6 カ月、エクスプロラトリアムに客員芸術家として招聘された岩井俊雄は、滞在中 2 つの作品 を再制作し同館の永久展示品として公開することを許されたが、例えば作品のひとつ《Music Insects》の再制作に際して岩井は、美術 館等での展覧会における観客用のインターフェイスとしてそれまで使っていた通常のマウスを、より堅牢な大型のトラック・ボールに 換えている。 ★22――Hein, H., op. cit., p. 220. ★23――日本でも、⽯⿊敦彦の主宰する〈来たるべき芸術のためのワークショップ〉が、⻑年にわたりエクスプロラトリアムの展示や 思想に範を得た様々な自然現象の実験を再現・改良し、持続的な啓蒙・普及活動を行なっている。 ★24――Hein, H., op. cit., p. 35. ★25――現在までに次の 3 冊がそれぞれ版を重ねて出版されている。各展示物のコンセプトや制作方法を詳細な図面入りで紹介して る。Raymond, Bruman and the Exploratorium staff, Exploratorium Cookbook I: A Construction Manual for Exploratorium Exhibits, The Exploratorium, San Francisco, 1984, 4th revised edition in 1991. Hipschman, Ron, Exploratorium Cookbook II: A Construction Manual for Exploratorium Exhibits, The Exploratorium, San Francisco,

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4th revised edition in 1990. Hipschman, Ron, Exploratorium Cookbook III: A Construction Manual for Exploratorium Exhibits, The Exploratorium, San Francisco, 1987. ★26――例えば、1989 年の福岡市における博覧会〈よかトピア̶アジア太平洋博覧会〉を機に建造された⻄部ガス・ミュージアムは、 エクスプロラトリアムの代表的な展示物を常設する日本国内唯一のミュージアムである。 ★27――Moriyama. R., Gretton, R., Omand, D., Miake, T. and Yolles, M., “The Centennial Center of Science and Technology”, in Canadian Architect, 1969, pp.39-52. ★28――Butler, op.cit., p.85. ̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶ 写真 11-1――フランク・オッペンハイマー 11-2――コロラド州パゴサ・スプリングズの農場で生活するオッペンハイマー一家 11-3――パナマ = パシフィック博覧会の跡地 11-4――開館前のエクスプロラトリアム、1969 年 11-5――1980 年代末頃のエクスプロラトリアム 11-6――展示品《Bells》。金属板を弓で擦って振動させると、板上に蒔いた砂粒が規則的なパターンを描く 11-7――展示品《Tornado》。積乱雲と地上からの上昇気流の関係をシミュレートし、ミニ⻯巻を発生させる 11-8――展示品《Convection Currents》。液体中の熱対流の様子をシュリーレン効果を使って視覚化する 11-9――展示品《Professor Pulfrichʼs Universe》。片目サングラスを使い、脳に届く両眼からの視覚情報の到達時間に僅かな差をつけ ると、回転物体の平面的な影からも奥行き知覚を得ることができる 11-10――エクスプロラトリアムの外観(入り口付近) 11-11――展示品《ソープ・フィルム・ペインティング》。⽯鹸⽔の皮膜の表面にカラフルな墨流し様の光学現象が発生する 11-12――展示品 《サン・ペインティング》。太陽光線を建物内部に導き、複数の鏡に反射させて光のゆらぎをスクリーンに投じる 11-13――展示品 《サイドバンド》。サイバネティック・セレンディピティ展の名残りのひとつ。ブラウン管にリサージュ波形を描か せる

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