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戦おうとしなかった将軍

遠くに立ち上る煙を見て、悪夢はまだ終わっていなかったのだと 悟った。ベンハミンはその前日、機嫌よく目覚めた。市場の日で、 村は普段よりも彩りに溢れていた。正午近くに公園の方に出かけた。 彼のゴム長靴は濡れた土の道路にめり込み、頭上の帽子は額に小さ な穴が開いていた。途中で姉の家に立ち寄った。外では 4 人の甥っ 子らがニワトリを追いかけて走り回り、痩せこけた犬が大きく体を 揺さぶっていた。やがて近所の人が「軍隊が来るぞ」と興奮した様 子でやって来た。ベンハミンは他の村で軍人らがやったことを聞い ていたので怖くなった。「ちょっと見てくる」と姉に言って出かけ ようとした時、11 歳の甥っ子が彼の腕を引っ張って「僕も一緒に 行っていい?」と尋ねた。ベンハミンは姉に目で尋ねた。「いいわ よ」。彼女は知らなかったが、この決断が長男の命を救うことにな ったのである。

ベンハミンは下の道に降り、武装した大勢の兵士が村人の家に出 入りして誰かを探しているのが見えるところまで行った。その付近 を通る者は誰彼なく捕らえられていた。甥は彼の手をぎゅっと握り しめた。まるでこれから起こる出来事を隠すかのように濃い霧が太 陽を覆い始めた。ベンハミンは怖くなって、甥とともに繁みの中に 潜り込んだ。何も考えないように努めながらじっとしていた。何か を考えると、それが音を立てて隠れていることがばれてしまうよう な気がしたからだ。身動ぎ一つしないまま、兵士らが村中の女性を 姉の家に押し込んでいくのを見た。背中の赤ん坊を取り上げて空き 地に放り投げるのを見た。レイプされる女性らの叫び声を聞いた。 沈黙の中で、藁屋根の家に手榴弾が投げ込まれるのを見た。火がつ

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いた。ベンハミンは泥の中に投げ込まれた子供たちのことを思い、 涙に濡れた目を開いた。その時兵士が彼を見つけ、まるでいなくな ったウサギを見つけでもしたかのように、連れて行ってもいいかと 中尉に尋ねた。しかし中尉は「このくそったれ共は我々の背嚢に小 便をひっかけるからダメだ。そこら辺の家の中に放り込んでおけ」 と命令した。兵士は直ちにその命令に従った。

プラン・デ・サンチェスの女性は、その日、全員死んだ。男性は 別の家の中で焼き殺され、生きのびた者は暗闇に包まれた山に逃げ ようとした。ベンハミンは甥の手を引いた。肉のやける匂いが鼻を つんざき、目はすでに涙に溢れていた。

最寄りの町であるラビナルでは、黒い頭髪と白髪混じりの口ひげ をたくわえた人物の映像がテレビに映しだされていた。「たとえば ですよ、今ちょうどこの時に、5000 人の兵士が国民の皆さんの平 和のために働いていることを知っていますか?」彼は視聴者に尋ね ていた。「そう尋ねたのは、いろんな人からこう聞かれるからです。 『グアテマラはゲリラと闘っているのですか?』と。私はちょっと 考えてからこう返答しました。グアテマラが闘っているのではなく、 闘っているのは兵士です。皆さん、ゲリラは軍隊だけの問題ではあ りません。そうではなく、グアテマラの社会問題なのです。そう、 つまりあなた自身の問題なのです」と映像は締めくくった。ベンハ ミンはそれを聞いていることができなかった。隠れたまま、一人で どうしたら良いのだろう、甥はどうなるのだろうと考えようとして いた。ベンハミンはテレビに出ていた男のことを知らなかった。そ れどころか、28 年後に 2 人の人生が情け容赦なく交差するように なるとは想像だにしなかった。

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少年時代

男の子が中庭の土の上で兵隊ごっこをしていた。兄弟たちを整列 させると行進するよう命じた。この 1 ダースばかりの子供達は優し い父と厳しい母に育てられていた。ホセ・エフラインは兄弟の 3 番 目で、ウエウエテナンゴの生まれ育った村で兵士の一隊が行進して いくのを見てから、兵隊ごっこをして遊ぶようになった。彼はその 時既に、将来は将軍になるのだとわかっていた。

父親のアントニオ・エルモヘネスはラ・コモディダーという商店 の店主であった。その店は安いという評判であったが、それは父親 がツケで買う人を断れなかったからであった。ツケを踏み倒す人が あまりにも多かったため経営が成り立たず、この店を売却せざるを 得なくなった。新しい店主はアントニオを店員として雇った。こう してリオス・モント一家の運命は店主から店員の一家へと、大きく 変化したのであった。

30 年代初め、ホセ・エフラインは祖母が「主は深い谷間から私 を救い、悪から解放した」と歌うのを好んで聞いた。祖母は熱心な キリスト教徒で、孫たちが教会に親しむようにと心を砕いた。エフ ラインには聖書を読めば 0.5 センターボ、教会のミサに一緒に行け ば 1 センターボを与えていたが、実際のところ、お金は必要ではな かった。彼は教会に行くのが好きだった。子供達の 1 人、マリオが 神父になりたいと言ったので、エフラインの両親は教会で結婚しな ければならなかった。当時は両親が結婚していなければ、神父にな れなかったからである。こうして一家はよりカトリックに親しむよ うになった。

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エフラインは生真面目で厳しい母親と優しく甘い父親という正反 対の両親に育てられた。母は子供達に罰を、父は彼らに飴を与えた。 祖母は奉仕について、母はミサについて話した。

思春期となり、軍隊に入りたいという夢が実現する時が来た。し かし、彼は乱視であったので、そのままでは士官学校への入学が認 められたなかった。賢い少年であったエフラインは、視力検査表の 文字をすべて記憶して検査に臨んだ。士官学校の仲間らは、エフラ インのことを従順で環境に適応することのできる生徒であったと評 している。ある時催された士官候補生のダンスパーティーで、人生 の伴侶かつ 3 人の子供の母親となるテレサと知り合った。

士官学校を卒業した後は、同校の教官として勤務した。そして数 年後には士官学校の校長になった。

校長時代

ルイス・アウグスト・トゥルシオス・リマ(訳注:士官学校出身の 軍人、後ゲリラに身を転じ FAR の司令官として活躍。1941-1966) はセサル・モンテス(訳注:トゥルシオス・リマの死後 FAR の司 令官となり、後に URNG の司令官の 1 人となる。1942- )のとこ ろにやって来ると、用件を切り出した。「クレイジー・リオス・モ ントのことを調べてくれ。あいつには気をつけないといけない」。 「クレイジー・リオス・モント?」とモンテスは尋ねた。トゥルシ オス・リマは将軍が校長だった頃に学校で起こったエピソードを語

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った。「あいつは他人を困らせるのが好きなんだ。我々が整列しよ うとしている時に『気をつけ!』と叫び、その後誰も聞き取れない ような低い声で命令を出す。で、誰も何もしないもんだから、罰と してカンカン照りの中を背嚢と銃をしょって何時間も走らせるんだ。 それを見て笑っているんだぜ。誰かがひどい目にあっているのを見 るのが好きなんだな」。その時セサル・モンテスは頭で理解したが、 後にはそれを身をもって確認することとなった。将軍はサディスト で人間らしい感情に欠けた人物なのである。

一方、ロドルフォ・ムニョス・ピローニャ大尉(訳注:リオス・ モントが大統領となった時のクーデターの首謀者)は、校長につい て全く別の印象を持っている。リオス・モントは士官候補生たちの 健康をとても心配しており、ちゃんとした料理が出されているかど うかを確認するために厨房にやって来たりした。「校長というのは 大抵校長室にいて、出入りする時にだけ見かけることができるもの だと思っていました。でもリオス・モントはスープの中にすら現れ ました。集会で彼が話すとモチベーションが高まると、皆感心して いました」。

毎週木曜日に行われる集会での士官候補生への講話はいつもほぼ 同じだった。彼は「右側のポケットには b1-100 を、左側には新約 聖書を」入れておくようにと勧めていた。b1-100 というのは士官 候補生の規則を記した冊子であり、聖書は当時熱心なカトリックで あったためであろう。

1972 年、リオス・モントは将校に昇級、その後参謀本部長とな り権力に触れるようになった。本部長となって数ヵ月後にワシント

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ンへ教員として送られ 90 日間を国外で過ごしたが、以前ちらりと 目にしただけであった権力に魅了されていた。

裏切られた大統領

政党は党員を国内各地に派遣していた。投票用テーブルの近くに は情報をチェックしてくれる係の人間も配置できた。データがわか ると急いで「集計センター」という名前の、実際には開票結果をま とめるためにキリスト教民主党幹部らが集まっただけの家に連絡が 取られた。夜の 10 時には皆勝利を確信していた。リオス・モント は自宅で家族と共にテレビを見ていた。もうすぐ大統領官邸に引越 しとなるのが確実な情勢であった。

リオス・モントが選挙に出るというアイディアは、1973 年終わ り頃からあった。権力を厚く守り固めている国軍に亀裂を入れ、独 裁政治に終わりを告げるのが目的であった。それをできるのはリオ ス・モントだというのが衆目の一致するところであった。「階級が 高く、社会に対する考えを有している人物、特に軍の幹部とあまり 係わりのない人物を探していた」とアルフォンソ・カブレラは話し ている。数日間考えた後、カブレラはワシントンへ代理人を送り、 将軍に候補になるよう説得した。8 月末、リオス・モントは辞任し、 再び権力を手中にしようと動き始めた。

1973 年 9 月 11 日、チリではサルバドール・アジェンデ政権が 倒され、グアテマラでは将軍が大統領候補としての最初の記者会見 に臨んでいた。変化について話し、貧困対策を行うことを約束した。 キリスト教民主党(DC)と革命統一戦線(FUR)からなる全国野党戦線

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の連立で、アルベルト・フエンテス・モールが副大統領候補であっ た。

困難かつ資金不足な選挙活動であった。支持者がそれぞれ自分の 車や時間を提供しなければならなかった。音響担当であったカブレ ラは、自分のバスを若者用に提供した。ウエウエテナンゴでリオ ス・モントは自分もその車に乗せて欲しいとカブレラに頼んだ。 「若い人たちと一緒に行く方が楽しそうじゃないか」。長い道中を 若者たちと過ごし、国の問題、深い谷間に落ちていくこの国をどう 変えていけば良いのかということを話し合った。候補者は、若者た ちの意見に常に賛成というわけではなかったが、少しばかり討論を した後はいつも自分の意見を変えた。「敬礼、直れ、ご意見通りに (Saludo uno, saludo dos y lo que ustedes digan)」。このフ レーズは選挙活動の間に有名になっていった。柔軟で、自分に欠け ている部分については自ら折れて出るのであった。

3 月 3 日、国内全域で停電があった。リオス・モントと家族は暗 闇の中で結果を待った。夜 11 時には政党の集計センターでは既に 祝杯が上げられ、誰もが勝利を確信していた。しかし電気が復旧し、 テレビがついた時に映ったのはその逆の結果であった。リオス・モ ントは敗北した。次から次へと「インチキだ」という声が沸き起こ った。

党の幹部らは戦うよう頼んだ。しかしリオス・モントはそれを拒 んだ。将軍は戦おうとしなかった。アルフォンソが再度戦ってほし いと迫った。

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「将軍、我々は勝ったんじゃないか、勝利を守らないでどうする んだ」と彼は言った。リオス・モントは視線を落として自分は何も しないと決意したと答えた。「勝ったと主張したら家族を殺すと脅 されたんだ。流血沙汰はゴメンだ」。しかし仲間達はそれで納得し たわけではなかった。「将軍は戦わないということで、相手側に暴 力を止めろというメッセージを送ったつもりだったのでしょうが、 向こうはこっちが弱気になったと思い込んでしまった。お陰で更な る追い討ちをかけられたのです」とカブレラは続ける。「そうして キリスト教民主党のリーダーが 500 人以上殺されました」。

ケル・ラウヘルド将軍が大統領に就任すると、リオス・モントは 駐在武官としてマドリッドに送られた。体のいい厄介払いである (訳注:マドリッド勤務は 1974~77 年)。

仕えるために仕える

1981 年 3 月のある暑い日の午後、ジム・デゴヤン牧師は説教台 で汗をかいていた。教会は満員で、暑さはますます耐え切れなくな ってきた。牧師は「エフライン、窓を開けてもらえないか」と頼ん だ。群衆の中から豊かな口ひげを蓄えた人物が立ち上がった。牧師 は急いで付け加えた。「まだご存知ない方のためにお知らせすると、 エフラインはこの教会の保守を受け持っています。何かあれば彼に 伝えてください」。エフラインの妻は赤くなったが、本人は牧師の 「皆に仕えるために」という提案に満足していた。その数日後、彼 が教会の廊下を箒で掃いているのを、子供たちの 1 人が目撃した。 他にも将軍が屈んで床を掃除しているのを見てびっくりした人たち もいた。「仕えるのに使えない者は使えない」と彼は言っていた。

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選挙に敗北した後、彼は失意の内にスペインに向かった。大使館 でのポストは新政権からの残念賞に過ぎず、マドリッドではあと少 しで権力に届くところだったのにという失意に身を震わせる日々を 過ごした。真っ暗な谷間に落ち込んだような気がし、そこで「暗い 谷間の中から主は私を救った」と歌う祖母の声を思い出したのかも しれない。そして教会の中で、祖母の隣で感じたと同じ安らぎと温 もりを思い出したのであろう。

いつまでも島流しの身に我慢しきれず、1977 年に帰国を決意し た。「この次にグアテマラを去ることがあるとしたら、死ぬ時だ」 と彼は周囲に漏らしていた。その頃、アルフレッド・カルシュミッ ト、アルバロ・コントレラス、フランシスコ・ビアンチといった福 音派の信者が、毎週末集まって聖書について話し合っていた。ある 時、元大統領候補のエフライン・リオス・モントが特別ゲストとし て招かれた。それ以降、ベルボ教会で活動するようになり、宗教に ますます興味を示すようになっていった(訳注:ベルボ教会は 1976 年のグアテマラ地震で復旧活動に参加したアメリカの教会グ ループが起こしたもの)。後にベルボ校の校長に任命されたが、最 初の頃はあまりにも大きな声で話すために生徒が怖がるので、声を 落として話してくれと言われたという。「ずっと軍の隊長をしてた ものですから、そう簡単には変えられないこともありました」。教 会活動には熱心に参加し、当時を知る人によれば教会への献身度は 完璧なものであったという。信仰に身を捧げるために生きていたの である。

当時のエフラインを知る人によれば、彼は常に幅広く忠言に耳を 傾けるタイプであり、大抵の場合、教会の長老に相談せずには何事

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も決められなかったという。1981 年 10 月、彼のもとに数人の政 治家がやって来てプロジェクトを持ちかけた。政党を作って連立し、 大統領候補にならないかというのだ。リオス・モントはその場で返 答せず、数日考えさせて欲しいと言った。教会の仲間とともに断食 と黙想をすれば正しい答えにたどり着けるだろうと考えたのだ。祈 りの中でビアンチに「主はお前に別の扉を開かれるであろう」とい う啓示が示された。「これはお前のためのものではない」と。他の 仲間達もこれに同意であり、この時点では政治活動に戻るのは価値 のないことだと思われた。しかしながらリオス・モントは疑問を抱 いた。その日の午後、彼はバレーボールをしに出かけたが、ジャン プをした時に踵を挫いてしまった。ギプスをはめて戻ってくると 「主は政治家の道には進むなと仰っているようだ」と教会の仲間に 冗談口をきいた。ビアンチは正しかった。ちょうどその時別の扉が 開かれようとしていた。選挙運動も投票すらも必要のない扉が。

選ばれし者

まさか自分の思考が一瞬の内に突き抜けて別の場所を彷徨うこと になろうとは、エフライン・リオス・モントには予想もできなかっ たに違いない。その日は午後に父母会が予定されており、彼は以前 から心の中で準備を行なっていた。しかしその日、彼の頭の中はも っと重要なことで一杯になった。政府の先頭に立つこと。学校の指 導者から国の指導者になることへ。

エフライン・リオス・モントは学校の執務室にいた。父母会の準 備をしていた時、秘書が慌てた様子でやって来た。クーデターが起 こったので子供を迎えに来るという電話があったというのだ。将軍

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は驚いた。しかし数分後に秘書が戻って来た時にはもっと驚くこと があった。「ラジオではあなたに大統領になって欲しいと言ってい ますよ。中央公園に来て欲しいと」。それを聞いた時に電話が鳴っ た。その日、3 月 23 日は彼の人生を大きく変えたのである。

その頃、ポルタル・デル・コメルシオ(訳注:中央公園を挟んで 大統領官邸に対峙している場所)ではフェルナンド・ロメオ・ルカ ス・ガルシアから権力を奪い取ったばかりの青年将校らが集まって バリケードを築いていた。グループのリーダーであったロドルフ ォ・ムニョス・ピローニャもその中にいた。どうしてこんなに時間 がかかるのかとそわそわしながら指を鳴らしていた。グループの 1 人が入ってきた時、新大統領がやって来たとロドルフォは興奮した が、彼がもたらしたのは悪いニュースだった。「大尉、リオス・モ ント将軍は来られないそうです」。ロドルフォは椅子に崩れ落ちる と大きなため息をついて言った。「なんてこった。何と厄介なこと になってしまったんだ」。一番大変な部分はもう終わった、そう思 っていたのだ。ルカスには勝利した。しかし実際には、問題は始ま ったばかりであった。青年将校グループは疑問を抱くことなくリオ ス・モントを選んだのであった。何と言っても選挙に一度勝ったの であるし、既に政権構想や協力者もいるはずであった。加えて士官 学校の校長であったこともあり、学校の中では既に指導者であると 考えられていた。しかも外部である国民からも指導者として尊敬を 得ていた。しかし、リオス・モントはやって来なかった。

学校には混乱した電話がかかってきていた。リオス・モントは教 員としての生活に慣れていたところで、用意もできていないまま学 校の指導者から国の指導者になる生活に飛び込むなどというのは予 定にはなかった。将校には 10 分待ってくれ、こちらから電話をか

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けるからと伝え、その間に忠告を求めた。学校では誰もが全知の神 に祈り、助けを求めた。最終的に将軍は決意した。「恐れも感じる が、同時に心の平和も感じる」。そして赤いフォルクスワーゲンの バンを発車させると指令本部を目指した。指令本部では、これから どうなるのか、誰にもわかっていなかった。ムニョス・ピローニャ は希望を失い、将校らを集めて言った。「おい、リオス将軍はやっ て来ないようだ。どうしたらいいだろう」。

その場で名前の上がった人物については、皆がそれに賛成という わけではなかった。別の人物については、信用がならないと指摘す る大尉がいた。こうして候補者の名前は次々に消されていった。終 いには将校の 1 人がムニョスを見て進言した。 「大尉、今指揮を取っているのは誰なのですか」。 「私だ」とムニョスは答えた。 「それならばごちゃごちゃ言わずに、あなたが指揮を取られるべき です。あなたが大統領になるのです」。 「私は既に身の丈に不相応な仕事をやっている。これよりも大きな 仕事は私には無理だ。軍事行動を率いることと国を率いることは別 物だよ」。

それから間もなく、遂にリオス・モント将軍がやって来た。リオ ス・モントが入って来るのを見たムニョス・ピローニャは、全身の 力が抜けていくのを感じた。興奮のあまりに抱きつきたいほどであ った。将軍はしっかりとした足取りで彼のところにやって来た。ロ ドルフォは起立し、踵を打ち合わせて敬礼した。「将軍、クーデタ ーがあったことを報告致します。次のグアテマラ大統領は閣下で す」。

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「誰が指揮を取るのだ」と将軍は尋ねた。 「閣下、あなたです」とムニョスが答えた。 「誰が指揮を取るのだ」、将軍は再び、声を荒げて尋ねた。 「あなたです、閣下!」ムニョスが応じた。 「誰が指揮を取るのだ」、将軍は三度尋ねた。 「閣下、あなたに指揮を取って頂きたいと思ったのでなければ、お 呼びすることはなかったでしょう。指揮を取るのはあなたです、保 証いたします」。

リオス・モントは声を和らげた。ムニョス・ピローニャはグアテ マラに新大統領が誕生したことを理解した。

指揮を取る者

1982 年 3 月 23 日午後 9 時 30 分、ほとんどのグアテマラ人が テレビに注目していた。画面では軍服を身につけ、迫力のある声を した人物が、これから変化が起きるのだと保証していた。

「主であり王である神が、私を導いてくれるだろうと信頼してい ます。権力を与え、奪うことができるのは神のみです」。「将校や 国民、特に今まで尊重されていなかった人々や、裏切られ続けてき た人々を失望させることのないよう、神が助けてくれると信頼して います」。その声はインスピレーションに溢れており、国民を安心

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させるのに十分だった。リオス・モントは熱狂的に迎えられた。グ アテマラ人がもう忘れていた希望という一筋の光とともに。

次の数日間、海外のマスコミは新政権の誕生を歓迎する記事を載 せた。ウォール・ストリート・ジャーナルは 4 月 14 日付で「死者 の数は急激に減少した。武器取締キャンペーンの結果、何人もの警 官がクビになった」と書いた。

「暴力には理解、非暴力、愛情をもって戦います。社会に不平等 があることは、誰もが知っているわけですから」とリオス・モント は大統領としての最初の頃の演説でそう言った。「今の内に、もう あなた方を愛していると宣言しておきます。ゲリラ行為があること で新たに理解できることもあるからです」。

リオス・モントはゲリラ行為を終結させるために新たなアイディ アを持っていた。「魚を干上がらせる」というのがそれである。毛 沢東は、魚にとっての水というのはゲリラに食料を与えたり支援を する共同体のことだと言った。誰もゲリラを手助けしなくなれば、 魚は泳げなくなる。魚を干上がらせるために立てられたのが「銃と 豆(Fusiles y Frijoles)」作戦である。住民にとって必要なものを提 供し、軍隊を住民の敵から友人に変化させようという、兵士らのメ ンタリティーを 180 度転換させるものであった。そのために 14 の 規則を作ったが、村からは釘 1 本でも奪うな、礼儀正しく行動しろ、 子供や老人には「特別な敬意や愛情」を示せなどと書かれていた。 住民のために真の警備員の役割を果たすことが求められたのである。

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将軍は内戦のために村の家を捨てて山中に逃れざるを得なかった 多くのグアテマラ人のことを心配しているようであった。当時、避 難民を支援する NGO で活動していたアルフレッド・カルシュミッ トによれば、大統領に就任して間もない頃、リオス・モントが紛争 地域で活動してた NGO の代表と軍事基地の司令官全員を集めたこ とがあったという。「彼は私の政権下では残虐行為はなくなる、嫌 がらせを排除すると言っていました」。それから司令官には兵士ら が嫌がらせや暴力行為を働くことのないよう監視するよう警告し、 NGO の代表には何か問題があれば報告するようにと頼んだ。

就任後最初の演説で話した「ゲリラへの愛情」の一環として、5 月には恩赦を発表した。ゲリラであっても武器を捨てれば無罪放免 すると言ったのだ。ゲリラ活動を支持していた何百人もがこの恩赦 を受け入れ、ゲリラは弱体化した。「恩赦によって、ゲリラを支え ていた住民たちは驚くような勢いで離れていきました」とカルシュ ミットは話す。「ゲリラはベトナムと同様、一般市民を利用し、巻 き込んでいたからです。抵抗する住民が戦闘要員となり、内戦の間、 多くの非戦闘員が死にました。そういう人たちが恩赦の噂を耳にし た時、これが『支援』であって『殺戮ではない』ということに何の 疑問も抱かなかったのです。これがゲリラの敗北の始まりでした」。 カルシュミットは難民キャンプへ助けを求めてやって来た先住民を 何人も世話した。彼らは重度の栄養失調に陥っており、NGO では まず健康回復に努め、その後水や最低限のインフラが整っており、 生活を続けていける村に彼らを住まわせた。将軍はカルシュミット の仕事に大きな興味を抱いていると言っていた。

ハリス・ウィトベクはチマルテナンゴで危険にさらされている住 民のために働いていたが、将軍は彼の仕事にも興味を示した。将軍

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は、紛争地域へ支援物質を送る計画の名誉コーディネーターになっ てほしいと彼に頼んだ。「将軍とは 1 年 1 ヶ月と 1 日仕事をしま したが、いつも支援してもらいました」とウィトベクは語る。

最初の数ヶ月間の空気は異なっていた。いたるところに希望が漂 っていた。しかし、実際に行われていたことは小さな希望を食い尽 くす巨大な怪物であった。大統領に就任してわずか 1 ヶ月後、リオ ス・モントは憲法を停止し、国会を解散させた。6 月には非常事態 宣言を出し、人権が保証されなくなった。そして特別法廷が設置さ れた。

更に軍事評議会を支えていた 2 人更迭した。普段通りの朝のこと であった。フランシスコ・ルイス・ゴルディーヨ・マルティネス大 佐は大統領官邸へワーキング・ブレックファストに出向いた。到着 したところで、その日は自分の人生を変えることになると気づいた。 廊下にはオラシオ・マルドナド・シャアド将軍が紙を握り締めたま ま、くしゃくしゃな顔をして立っていた。「見てみろ、辞任しろと 言うんだ」。その紙を見た瞬間、彼にとっても全てが終わったのだ と察した。廊下の突き当たりにはリオス・モントがいた。彼は躊躇 う様子も見せずに「将校らが要求しているんだ」と謝った。しばら く後、武装した男らが最後の合図をした。二人は政府から直ちに立 ち去らなければならなかった。

次の日曜日、リオス・モントはこの決定について簡単にテレビで 触れた。「司令官らの会合で、一人に統一する方が良いということ になったのです。三頭政治ではなく、一人にすべきだと」。それが 全てであった。

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全員に武器を

権力を握った日、将軍はテレビで叫んだ。「武器は兵士のみ、兵 士のみが武器を持つのです。武器を持っている人は、それを捨てて 下さい。屋根の機関銃は引き渡して下さい。腰のピストルを捨てて、 働くためにマチェテをつけなさい」。しかしこの方針は長続きしな かった。10 ヶ月も経たない内に、市民に武器を捨てろという代わ りに自らそれを手渡すようになった。更にはアメリカに不要な武器 をくれと頼むようにまでなった。12 月 5 日の日曜日の演説では、 レーガン大統領と会見し、不要な小銃を譲ってほしいと依頼したこ とを得意気に披露した。「市民警護団をつくるために不要な銃があ ったら、とお願いしました。最先端の武器ではなく、アメリカにと ってはもう不要の武器があったら、と」。

マーク・ドロウインの研究によれば、市民警護団には約 80 万人 が参加したが、その大半は先住民であった。CEH は山中に逃げ込 んだ多くの農民の証言を集めたが、彼らはもう武器を持っていなか ったので逃げたのだと言っている。残った住民は強制的に武器を握 らされた。武器が歴史に誕生した瞬間から、発砲は避けることので きないものだとチェーホフは言った。グアテマラの歴史でもそれは 発砲された。しかも何度も。

一方、ゲリラ側にも将軍の新しい政策のニュースが届いた。セサ ル・モンテスは大統領官邸に送り込んだスパイからこういう話を聞 いた。

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側近の一人が「将軍、あなたが武器を与えているのは先住民です。 ゲリラもまた先住民です。問題になるとは思われないのですか?」 と尋ねた。

大統領はこう答えた。「好都合だ、奴らの間で殺しあえば良い」。

スパイはこの会話は事実だとモンテスに保証したが、もちろんそ れを証明することは不可能である。なんといってもテレビカメラの 前では、将軍はマヤ系先住民への尊敬と愛情以外に何もコメントし ていないからである。「グアテマラ化」について話し、国民には自 分の出自を誇りに持つようと言った。「誇りを持ちなさい。国を愛 しなさい。グアテマラ人でありなさい。キチェー系マヤ人だという ことに満足しなさい。それともロシア人だった方が良かったとでも いうのですか? (・・・) グアテマラの住民の 65%以上は今まで無視 され続けて来た先住民ですが、私達は 490 年もの間、社会のこう いう現実から目を背けていました」。

将軍がその演説をしていたちょうどその頃、何十人もの先住民の 農民が軍の手を逃れて山に逃げ込もうとしていた。軍隊がネバフの ペシュラー村にやって来て近所の住民を虐殺した時、マリア・テラ ーサ・セディーヨの赤ん坊はわずかに 2 ヶ月であった。母親は自分 と娘の命を救うために逃げようとしたが、生き延びられなかった。 空腹と寒さで亡くなったのである。この 2 人は CEH の報告書にあ る長いリストの中の、わずか2つの名前に過ぎない。将軍はテレビ で語った。「フランス人やイギリス人、ドイツ人ではなく、特にイ シル、キチェー、マムの皆さんを招待しています」。社会学者のデ

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ーヴィッド・ストールによれば、イシルの住民 15%近くが、この ゲリラ対策キャンペーンにより亡くなったという。CEH によれば、 キチェー県のイシル族のコミュニティーの内、70~90%が完全破 壊、あるいは一部破壊されたという。イシル語で話す人々が何人も 殺されている状況下で、イシル語を話し続けるのは容易なことでは なかった。

ソフィア 82 作戦とビクトリア作戦が作成されたのはこの頃であ る。ゲリラにとって、これは大きな脅威であった。カルシュミット は次のように説明する。「政府の政策は、上からは一般市民への恩 赦、サービスの提供と保護でした。ソフィア 82 作戦の中にそう書 かれていますし、戦闘地域で民間人を捕らえた司令官らが残した多 くのメッセージを解読した結果からも明らかです。一般市民は別の 居住地へ移され、そこで面倒を見てもらっていました」。そのメッ セージの 1 つ、ネバフで書かれたものには「ゲリラ勢力に協力して いた 39 家族の男性 31 人、女性 30 人、子供 81 人、合計 142 人」 を保護したとある。司令官は、81 人の子供たちは「自らの意志で」 ゲリラに協力していたと思ったようである。ソフィア 82 では「女 性と子供の命は可能な限り尊重すること」とされている。カルシュ ミットはこれに付け加えて言う。「ゲリラは正規軍ではないのです。 男、女、子供達からなる家族全員が戦闘員だったりしました。この 文脈において、死者を出さないようにするのは無理があります。戦 闘は残虐で、暴力的なものです。ゲリラ側の司令官、国軍将校のい ずれの立場にあっても、残虐行為を行なってしまうのは完璧にあり 得ることです。しかしそれは戦術下、戦闘という状況の中で、その 場の感情や仕返しを動機としたもので、政府の政策ではありません でした」。ウィトベクの意見も同様である。「戦争だったのですか ら、死者がいなかったとは言いません。しかし、将軍の側にいた私

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が見た限りでは、人を殺せというのは彼の政策ではありませんでし た」。

実際のところ、殺人は彼の政策ではなかったのであろう。しかし 彼の指揮下で多くの人が命を落としたのもまた事実である。マー ク・ドロウィンはビクトリア 82 作戦について次のように書いてい る。「西部高地、北部低地での兵力増強を予定したもので、30 の 歩兵中隊 5310 人が既存の兵士の応援のために再配置されることに なっていた。この中で更に特殊部隊 3 隊も展開することになってい た。ロバート・カーマックはキチェー県には 15,000~20,000 人 の兵士がいたと見積もっている。CEH が軍によるものと記録した 626 件の虐殺事件の過半数がこの県で起こっているのは興味深い事 実である。ジェニファー・シーマーの推測が正しければ、犠牲者の 数は大きく跳ね上がることになる。ルカス・ガルシア政権末期には 毎月 800 人の死者が発生していたが、リオス・モント政権下では これが月 6,000 人以上になったというのである」。

4 月 30 日の演説で、将軍は「組合は大いに尊重する」と言った。 10 月 16 日、ケツァルテナンゴのエル・アト農場とラス・アニマ ス農場の労働者によって結成された組織の指導者を兵士らが探して いた。最初に見つかったのは組合長のエミリオ・レオン・ゴメスで、 彼の遺体には 30 発以上の弾丸が残されていた。次に副組合長の家 に行ったが、当人は不在で妻と 2 歳の娘がいた。兵士らは娘の頭部 に発砲し、小さな体は母親の腕の中に崩れ落ちた。母親もその後殺 された。将軍の言葉と実際の出来事の間には大きな相違があること が明らかとなっていった。リオス・モントが血なまぐさい人物であ ったのか、無能であったのか、あるいは最悪の犯罪行為を命じる力 があったのか、それを阻止するだけの力がなかったのか、その辺り は定かではない。

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テレビでは、将軍はいささか曖昧な形ではあったが、それ以上の ことはできなかったと認めたことがあった。1983 年 4 月 10 日の ことである。「私には起こっているすべてのこと、それが起こるよ うにしてしまったということについては責任があり、その点では謝 罪します。しかし、聞いて下さい。私に何ができると言うのでしょ う。例えば、税関の職員が私の言うことを理解できるようにできな かったとしたら?その人物は私の命令に従わず、嘘をつき続け、盗 みや横暴を働くかもしれません。軍曹が殺すなという私の命令を理 解できなかったとしたら、私に何ができるでしょう?理解してもら うために私が取るべき法的手段は存在しているのでしょうか」。

「誰が指揮を取るのか」。権力を握る前、彼は 3 度尋ねた。そし て 3 度とも、答えは彼であった。

ムニョス・ピローニャの答えは明確である。「命令したのは常に 彼でした。もちろん私たちが圧力をかけたというのは事実ですが、 ささやかなものです。私は大尉でしたが、将軍に対して何を言うこ とができるというのでしょう」。

「もし私が国軍をコントロールできないなら、私は一体ここで何 をしているというんですか?」。1982 年 6 月、新聞記者のパメ ラ・ヤデスに将軍はそう言った。実際に誰が命令していたのかは、 今のところ正解のない問いである。

神は与え、神は奪う

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市内の電話回線はすべて不通となった。1983 年 8 月 8 日、グア テマラでは連絡を取ることが困難になっていた。オスカル・ウンベ ルト・メヒーア・ビクトレスが軍の司令官を全員招集したというニ ュースがあったため、大統領官邸では誰もが落ち着かなかった。 「将軍、彼らは名誉警護隊本部にいます。取り囲んで逮捕すべきで す」、側近が進言した。「将軍、これはクーデターになります」、 別の側近も付け加えた。しかし将軍は戦おうとしなかった。

この日はプエルト・ケツァルに停泊しているアメリカの空母を 10 時に訪問する予定となっていた。ヘリコプターで現地入りする ためには 9 時半には空港に到着している必要があった。9 時になる とクーデターの噂はますます高まり、将軍は何とかしなければなら ないと考えた。そこで運転手に、空港に行く前に名誉警護隊本部に 寄るようにと言った。30 分程でクーデターを押さえ、時間通りに その後のスケジュールをこなすつもりでいたのだ。しかしそれは叶 わなかった。集まっていた将校らが辞任してほしいと要請する手間 すら必要としなかった。将軍はこの時もまた戦わなかった。

国際的な評判は既に落ちていた。海外の報道は、将軍を告発する 論調ばかりであった。7 月、ワシントン・ポストは「リオス・モン トは権力をずっと手中にするつもりだ。 (・・・) キチェーやウエウエ テナンゴでインタビューした住民らは、国軍の兵士らが村を襲い、 女、子供、武装していない男らを、ゲリラに協力していると言って 殺した、と証言した」と書いた。10 月にはニュー・ヨーク・タイ ムズが「グアテマラでもっとも危険な反逆勢力は軍の制服を着用し ている」と書いている。村には豆よりも銃の方が多くもたらされた のである。

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リオス・モントは、戦うべきだという声に耳を傾けることなく、 平和の内に権力を去った。ムニョス・ピローニャは、クーデターの 当日、カバンを抱えた大尉が将軍に近づいていったのを見た。「将 軍、私達は皆爆死します、でも閣下は権力を手放してはいけません。 ここを出て下さい、我々は皆閣下のために死にます」。将軍は彼を 宥めた。「もし私がここにいることを彼らが望まないなら、私は出 て行く」。そう言い残すと立ち去って行った。

彼は以前にも自分の傷を癒したことのある場所、教会に戻った。 牧師は彼を英雄のように迎えた。「英雄は勲章で飾られているもの ですよ」、とリオス・モントは言った。「私はただキリストの血に まみれたいだけです」。

共和戦線のリーダーとして

2度権力に手を触れた。その内1度は 504 日間も我が物とした。 しかしリオス・モントのような人物にとっては、それはわずかに過 ぎない。大統領の座を追われて 5 年後の 1990 年、彼は再び挑戦し た(訳注:計算が合わないものの原文通り)。5 つの小さな政党か らなるプラットフォーム 90 という連立が彼を擁立した。副大統領 候補はハリス・ウィトベクであったが、この時は憲法裁判所がクー デターに加担した者は大統領候補になれないという 1986 年に制定 された憲法の規定を理由にこれを阻止したため、何もできなかった。 グアテマラ共和戦線(FRG)の創立者の 1 人であるフアン・カジェー ハスは「もし立候補できていたら最初の投票で勝っていただろう。 それについては疑いの余地がない」と考えた。

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次の選挙では別の戦術をとった。国会議員として立候補し、身内 の人物を大統領候補するというものだ。「彼はいかなる方法でも構 わないから権力を取ろうとした。自分が立候補できないのなら、コ ントロールできる人間を代わりにしようとしたわけです」とカジェ ーハス。党内では将軍の参謀であったフランシスコ・ビアンチに信 望があったが、将軍は別の計画を練っていた。若手の国会議員でカ リスマのあるアルフォンソ・ポルティーヨである。しかしポルティ ーヨを取り立てたことで党の創立者の間には不満が広がった。「権 力への野心のために自分の理想や周囲の人間を裏切ったのです」と カジェーハス。「多分、彼はビアンチをコントロールすることは不 可能だとわかっていたのでしょう。でもポルティーヨなら大丈夫だ と」。

1999 年、彼はその目標を達成した。ポルティーヨが選挙に勝ち、 彼は国会議長となった(訳注:在任期間は 2000~2004 年)。初 めて合法的に勝ち取った職である。しかしそれだけでは満足しなか った。その次の選挙では大統領候補として立候補することが認めら れ、選挙を争ったのである。結果は 3 位で大統領には届かなかった。 しかし、奇妙なことに内戦が最も激しかった地域で票を得た。ネバ フでは将軍が 6600 票を獲得したのに対し、URNG はわずかに 800 票であった。ベンハミンが住んでいたラビナルでは 2704 票で トップであり、URNG は 314 票であった。これが最後の公的生活 となった(訳注:この部分は事実誤認。2003 年の選挙では大統領 として落選したものの、2007 年総選挙では国会議員として当選、 2012 年 1 月まで議員であった)。そしてまた再び、彼の意志とは 関わりのないところで注目が集まっているのである。

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被告席の老人

1982 年 7 月 19 日の早朝、ベンハミンは震えながら山を降りて きた。彼の後には甥が続いた。鳥肌が止まらず、母親と兄弟らの叫 び声は耳に残ったままだった。まだ煙の立ち上る家にたどり着いた。 生き延びた人たちが少しずつ戻って来た。村人のほとんどが殺され たので、何が起こったのか誰にも理解できなかった。女性は 1 人と して生き残らなかった。ベンハミンは母や妻、姉妹、姪たちを探し た。しかし見つかったのは拷問された痕の残る遺体だけであった。 ほどなく軍務委員がやって来て、ただちに遺体を埋めて後は口を閉 じていろと軍が命令している、「言うとおりにしなかったら、戻っ てきて今度は残った者も殺されるだろう」と言った。ベンハミンと 甥は沈黙と恐怖の内に、���急ぎで家族全員を埋めた。11 歳の子供 には、どうして二度と彼の母親が眠る前に額を撫でてくれないのか、 どうして二度と兄弟たちと遊ぶことができないのか、どうして二度 とおばあちゃんから話を聞かせてもらえないのかを理解することは できなかった。

ベンハミンと甥は近くの村に引っ越し、時間の経過とともに立ち 直っていった。ベンハミンは再婚し、3 人の子供をもうけた。子供 の 1 人は町で民間の警備会社に勤めている。恐怖や苦しみを忘れよ うとしたが、できなかった。現在、ベンハミンはプラン・デ・サン チェスと他の 11 の村で起こった虐殺事件の 1000 人以上の虐殺に ついて、エフライン・リオス・モントを告発する正義と和解の協会 の会長である。裁判は既に始まっており、リオス・モントは自宅拘 禁となった。弁護士らがこの決定を覆そうと準備をしているところ である。

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将軍が権力にあった 504 日の後、多くのことが変わった。税金 について言えば付加価値税が導入され、経済は大きく成長した。内 戦もまた変化した。ゲリラ勢力は弱体化した。グアテマラ人のメン タリティーも変化した。盗みをしない、嘘をつかない、横暴を働か ないというのがスタンダードになった。しかし恐らくもっとも変化 したのはペテンの小さな土地であろう。子供らが走り回り、女達が トルティーヤを作り、男達が働いていた、トウモロコシ畑のあるそ の土地。ドス・エレスと呼ばれたその村は、リオス・モントが権力 を引き渡した時にはもう誰一人残っていなかった。住民全員が亡く なったのである。もしその村が消滅してしまったことが、軍の指揮 官として彼がいたことと関係があるのであれば、裁判所がこれを判 断し、その決定がこの物語の終末に書き込まれなければならないで あろう。

原文: “El General que no quiso pelear” by Marta Sandoval and Mirja Valdés (El Periódico, March 18, 2012) – 2012 年 3 月 18 日エル・ペリオディコ紙、マルタ・ サンドバル及びミルハ・バルデスによる http://www.elperiodico.com.gt/es/20120318/domingo/209614/ 邦訳: xiroro

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戦おうとしなかった将軍