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沖縄戦の集合的記憶 - 戦争日記と霊界口伝 -

保坂廣志 紫峰出版


表紙写真 ラインハ−ト・T・コワリス元陸軍中尉(Lieutenant Reinhart T. Kowallis) 撮影の「戦闘後の沖縄住民 1945 年」

裏表紙写真 ラインハ−ト・T・コワリス元陸軍中尉(Lieutenant Reinhart T. Kowallis) 撮影の「砲撃を避け洞窟に避難していた母と二人の子供」1945 年 6 月 写真提供は子息の Bart J. Kowallis 博士による。 (筆者より感謝をこめて)  Thanks to Image courtesy of Dr. Bart J. Kowallis


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序文

はしはし

沖縄に住んでいると、会話の端端に「あの沖縄戦ではね」と形容される 戦争談義が聞かれる。沖縄戦から 70 年以上が経過してもなお人びとは、 過去の戦争に寄り添い、現在へとつながる重い記憶をたどっている。戦 争とそれに続く米軍支配、そして 1972 年の日本復帰と過重な歴史が陸続 し、記憶の内や外に滞留し覆い被さっているみたいだ。 そもそも、話の節々に戦争をかぶせるぐらい悲しいことはない。戦争 トラウマが沈潜しているかのように、言葉の先に戦争がうずくまってい る。戦争の心の傷については、長年にわたり研究を続けて来た。しかし、 これもある時点を境に胸中の論議が途絶えてしまった。それは、トラウ マ罹患者の心の中を伺えば伺うほど、戦争トラウマの着地点をどこに置 いたらよいのか窮したからだ。トラウマの元凶を発見しても、そこは辺 り一面目を覆うトラウマの世界である。沼沢に入り込み、出口が見つか らずもがき続けているのが実のところの私である。 そんな折りの戦後 70 年の節目の時、米軍ヒストリアン(戦記作家)で、 米第 10 軍参謀部付き情報将校であったスチ−ブンス少佐とバ−ンズ曹長 が残した「Okinawa Diary(沖縄戦日記)」に出会った。私文書として綴 られた戦場日記には、米最高司令部内の沖縄戦のやり取りや機密事項が

200 頁以上にも亘って記録されている。また、戦場をさまよう民間人多数 にも触れるなど、傑出した日記である。ところが、沖縄戦終了が宣告さ れた翌日の 1945 年 6 月 21 日、スチ−ブンス少佐は、 「もう(戦争を)十 分見た。もう沢山だ」と記し、日記は中止になってしまう。 戦後バ−ンズ曹長は、夢で戦争を再現し日々苦しんだと元妻は NHK の テレビ・インタビュ−で答えている。一方、スチ−ブンス少佐は、沖縄戦 終了後本国に帰還し、米軍青史としてつとに知られる『日米最後の戦闘:


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沖縄戦』の実質的責任者となり大著を刊行した。しかしその後、二度と 沖縄戦に触れることはなかった。2 人の沖縄戦は、銃取る兵士同様に、苦 しくもつらいものだったのだろう。およそ戦争の語りは、死者の来歴につ ながることであり、語らぬことが唯一の自己保身だったのかも知れない。 こころざ

社会学を 志 す私の沖縄戦研究は、ある意味で方法論も含め軌道修正 が必要な時期に差しかかっていた。そのさ中、ドイツ占領下のフランスで ゲシュタポに捕らえられ、ドイツ国内のホロコ−スト(終末)収容所に移 送され、そこで病死したフランスの社会学者モ−リス・アルブヴァックス が残した『集合的記憶』に接した。彼の説で特異なことは、自分が経験し ないことでも過去を共有できるという『集合的記憶』論にある。仮に学説 が正しいとするならば、従来懸念されてきた戦争記憶−「戦争体験者が いなくなれば誰もわからなくなる」、「経験した人でないと戦争はわから ない」等の重い生還者(サバイバ−)課題も再検討してよいことになる。 アルブヴァックスの論理的仮説を援用し、改めて沖縄戦を考察すると、 今まで過去の検証だけとしてあった多くの事柄が新たな意味をもって浮 かび上がってきた。その代表が、戦争体験に寄せる関係者の心情であり、 県内各地に祀られた戦争記念塔碑に関わる記憶である。ある証言や慰霊 碑は、戦争を讃え、ある証言や慰霊碑は、言葉少なくそこに佇んでいる。 過去への追想が、今のわれわれに「集合的記憶」として重くのしかかって くる。 そして、戦場日記・手紙へとたどり着いた。従来研究者にとり、戦争日 記や手紙は歴史の空白を埋めることはあっても、それが戦争記録の首座 に収ることはほとんどなかった。しかし、集合的記憶という観点からこ れらを眺めると、多くの記録がむき出しのまま戦場に遺棄されているこ とがわかる。戦時下のエピソ−ド記憶がいたるところに塗り込められて いる日記や手紙だが、個人の手になる記録の故か誰も評価を下さず、た だただ貴重な記録として扱われているだけだ。 しかし、時間や地域、書き手は異なるが、戦場地もふくめ日記作者(記 しゅったい

録者)は、戦争に思いを致し、そこでの人間模様や 出 来を紙の記憶に書 き留めたことは間違いない。時間が経過してもなお、日記や手紙は空間 的な枠の中でしっかりと人びとの目を捉えて離さない。戦争期の日記や


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手紙は、戦場に寄せる書き手の主体を表し、自分がどこにいるのかその まな ざ

関係性を能弁に語るものでもある。戦争のその一点を捉え、眼差すこと により、戦時下の日記や手紙は、集合的記憶をまざまざと蘇えさせるも のとなる。 れいかい く でん

さらに、本書には戦禍がもたらす「霊界口伝」を含めた。戦後、多くの 者が家族の戦死日や死没地を求め、ユタと呼ばれる沖縄土俗のシャ−マ ンを訪ねた。ユタは、死者を自身の肉体に憑依させ、死者自身の言葉で死 に場所や死出の状況を語るが、その手法は多種多様である。そして決まっ て最後には、死者の口添えを借用し宣託を下すといわれる。これがユタ のハンジ(判示)と言われ、荘厳な死者儀礼のクライマックスである。 土俗と伝統に培われた沖縄シャ−マニズムの戦争談義は、想像以上に 奥深いものがある。なによりも生存者は、ユタの判示を手がかりに戦場 参加者を行方不明者ではなく特定の「死者」として迎え入れるからであ る。ユタ判示を受け入れる家族、もしくは生存者がそう判断した場合、戦 死者の言葉は事実として魂入れされ、霊前の「集合的記憶」として降り 注ぐものである。ユタを媒介とする死者の言葉が果たして記憶たりえる か否かは、その他の死者儀礼や顕彰をいかに考えるかと通底するものが あろう。祈りの先に死者を想像した時、すべからく人はシャ−マンたり得 るだろう。 さらに私は、敢えて挑戦的(試論的)に沖縄でユ−リと呼ばれる戦争幽 霊談も本分析の中に加えることとした。これは、ある種戦場から戦後へ とつながるオ−ラル・コミュニケ−ションの継承とも見なされるべきもの く でん

である。口伝であるがゆえに、科学的とか社会科学的という範疇には入 らないものである。ただし、ユ−リの伝承談は、生存者が死者に語りか け、慰霊を行うさいの文化的水脈と相通じる場合があるのは興味あるこ とである。この世から死者に語りかければ、正なる評価を与えられるが、 死者が生者に語りかければ文化的に非成立という考えは、やや傲慢かも しれない。ユ−リ談も、突き詰めれば生存者の語りの一部を形成するも ので、伝説が浮遊する怪談、空想談、都市伝説とは異なるものであろう。 戦争にまつろう幽霊談義は、社会的紐帯を表すもので、戦没したユ−リ は、社会的生命を宿したユ−リなのである。そこで私は、「集合的記憶」


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の視点から敢えて沖縄戦に関わるユ−リを取り扱うことにした。 後は、過去を見据え、忘れられた日記や個人が秘匿する手紙、ユタ判 すく

示、ユ−リ談等を拾い集め、そこから集合的記憶をいかに掬い上げるか が課題となろう。こうした問題意識から生まれたのが、本書である。沖 縄戦の中に日記や手紙、霊界口伝を採用する大胆な試みは未だ確立され ていない分野であるが、私個人としては戦場のスクロ−ルよろしくこれ らを書き込む事を決めた。この場合の戦場のスクロ−ルとは、戦場が天 へん げ

界・地べた・海域、上下左右に変化して、渦巻く様を表現するもので、一 つに収まらない記憶のたぐいを表すぐらいの意味である。改めて戦争当 時の日記や手紙、各種の霊界論議を手に取り、集合的記憶論をもとに戦 場の「焼き直し」を計ろうとしたものが本書である。 さて、現今の社会情勢から、近々日本に危機が迫っているとか「わじ わじー(イライラ)する」などという言葉が聞かれる。しかし、過去す ら上手く共有化できないことには次代への危機意識の分有は困難であろ う。まだまだ、過去や歴史現場から立ち去ることは出来ないわけで、日々 記憶と向き合い「集合的記憶」を組み立てる必要があろう。集合記憶は偏 し

に個人に寄り添うものであり、誰はばかることなく私の記憶を共有の財 産として分有したいものである。

2017 年 8 月 南僻庵にて

保坂廣志


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注 記

• 文献・資料の引用について 旧漢字、旧仮名つかいの文献・資料を引用する場合、表記は現代の 字体に改めた。また、適宜句読点を補い、送り仮名、句点、濁点を ふった。カタカナ文は、平仮名に改めたが、引用文が旧仮名つかい の場合、可能な限り現代仮名つかいとした。略字体については、文 意にそって 現代表記に最も近い表現とした。明らかな誤字・脱字 等は、修正した。文字判断が困難な場合は、□で示した。洋数字、 和数字の混じり文は、表記の統一から算用数字に統一した。原表記 が元号のものは、適宜西暦に換算しなおし、西暦を使用した。必要 な場合、西暦・元号を併用した。地名表記について 地名は、戦時 中の地名に統一したが、必要な場合は現在の地名を併記した。 ろ かく

• 鹵獲の使用について 文中で捕獲という言葉を使用する際、正しくは鹵獲である。鹵獲と は、戦時において敵から兵器や物資、所持品等を奪うことである。 沖縄戦の渦中、米軍は戦死した日本兵の死体を捜索し、多くの遺留 品を奪っている。戦場掃討ともいうが、重要物鹵獲が主なる作戦で あった。

• 個人情報の扱いについて 個人情報の扱いについては、本来個人情報は秘匿することが望まし いが、本書記載の個人に関わる日記、手紙類等は、本来われわれが 共有すべき社会的遺産、もしくは社会的財産という観点からあえて 実名表記とした。ただし、個人名表記がプライバシ−を著しく侵害 したり、個人や関係者に影響を与えたりする恐れのある場合、イニ


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シャアル表記とした。なお、それでも個人情報について問題がある とするならば、偏に筆者に責任がある。関係者及び読者のご寛恕を 請うものである。

• 不適切な表現について 日記の中には、不適切な表現(表現上、歴史的表現上の差別用語、 罵詈雑言の類)が見られるものがあるが、記録性に鑑み注を付して そのまま記載した。また韓半島、朝鮮半島出身者は、戦争期の表現 から朝鮮半島出身者(軍属)に統一した。重ねてご寛恕を請うもの である。

• カタカナ人名表記について カタカナ人名表記に際し、本書で多数引用される Maurice Halbwachs の人名カタカナ表記は、仏語の日本語転記よりモーリス・アルブヴァッ クスに統一する。なお、本書表記がこれと異なる場合、原典者表記 をそのまま引用した。

• 人名の敬称の扱いについて 人名表記については、故人・生存者の別なく敬称を略させていただ いた。記しておわび申し上げる。

• 日記と日誌の区別について 一般的に日記とは、日々の出来事を記録したものであり、公開性は ない。これに対し本書で扱う日誌は、軍隊固有の日記を指し、これ には検閲があり、記録性から公開があり得るものを意味している。 英語では diary(日記) と Journal(日誌)とに別れ、diary は個人に 関わるものを指すが、Journal は、周期性、記録性、公開制の高い ものを指し、大きくは商業的な組織や記録を表すものである。ここ から厳密には、軍組織内に発生する日記は全て「日誌」に入るが、 臨機応変に適宜「日記」と「日誌」を使い分け、民間人については 全て「日記」と表記した。あるいは、日記作者が、 「日誌」と銘打っ た場合には、そのまま「日誌」という表現を使用した。


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もくじ

序文

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注記

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第I部

沖縄戦と集合的記憶

第 1 章 沖縄戦の集合的記憶の構成

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第 2 節 目的 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

3 3 5

第 3 節 構成 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

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第1節 問題の設定

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

第 2 章 モーリス・アルブヴァックスと「集合的記憶」 第1節 記憶の集積–個人的記憶から集合的記憶へ . . . . . . . 第 2 節 「記憶の共有化」の獲得 . . . . . . . . . . . . . . . . 第 3 節 記憶の共有 –「時間」枠と「空間」枠 . . . . . . . . .

9 9 15

第 5 節 記憶の焼き直しと再記憶化 . . . . . . . . . . . . . . .

17 20 21

まとめ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

25

第 4 節 戦争の記憶 – 集合的記憶の表象 . . . . . . . . . . . .

第 3 章 戦時下日記の意味と特色 はじめに . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 1 節 日記とは何か . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 2 節 兵士の日記行為 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

27 27 28

第 3 節 兵士と日誌の携帯 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

31 42

第 4 節 米軍情報部と日本兵日誌 . . . . . . . . . . . . . . . .

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第 4 章 沖縄戦と日記 はじめに . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 1 節 日本軍関係日誌 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 2 節 米軍関係日記 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 3 節 民間人(沖縄本島)日記 . . . . . . . . . . . . . . . . 第 4 節 民間人(沖縄離島)日記 . . . . . . . . . . . . . . . . 第 5 節 女性と疎開日記 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 6 節 海外県人関係日記 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

47 47 48 84 121 142 150 156

第 5 章 沖縄戦と手紙

161 はじめに . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 161 第 1 節 米軍関係者の手紙 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 2 節 戦時下の郵便検閲制度 . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 3 節 日本軍兵士の手紙 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 4 節 民間人の手紙 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

165 189 193 203

第 6 章 沖縄捕虜新聞、文芸誌

207 第 1 節 戦時下の新聞と文芸 . . . . . . . . . . . . . . . . . . 207 第 2 節 沖縄捕虜新聞――『沖縄新聞』 . . . . . . . . . . . . 218 第 3 節 沖縄戦捕虜と文芸誌

. . . . . . . . . . . . . . . . . . まとめ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

第 II 部

沖縄シャーマンと霊界口伝

第 1 章 沖縄シャーマンと戦死者の判示 はじめに . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 1 節 超自然的存在としての沖縄シャーマン . . . . . . . . . 第 2 節 ユタの弾圧とその復活 . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 3 節 シャーマンの社会的存在意義 . . . . . . . . . . . . . .

233 240

243 245 245 246 248 251

第 4 節 ユタと戦死者の語り

. . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 5 節 憑依霊 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

256 262

まとめ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

268


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第 2 章 沖縄の戦争ユーリ

273 はじめに . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 273 第 1 節 兵士のユーリ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 274 第 2 節 男子学徒・女学生のユーリ . . . . . . . . . . . . . . . 第 3 節 民間人ユーリ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

277 278

まとめ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

278

あとがき

283

脚 注

291

付表 沖縄戦関連日記・日誌

323

参考文献

337

索引 事項. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

347 347

人名. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

351


 


第I部

沖縄戦と集合的記憶


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第 1 章 沖縄戦の集合的記憶の構成

第 1 節 問題の設定 沖縄戦下、国内外の個人や軍人が書き残した戦争関連日記が、約 80 人 分残っている。その幾つかは、沖縄県下の各市町村が刊行した「戦時記 録」の個人資料として紹介されたり、単行本(商業本)として公開された りしている。さらにまた、沖縄が主戦場となる以前に沖縄駐屯の日本兵 から他府県の家族に投函された手紙(封書)やハガキ類もかなりの数が 残っている。住民では、日本占領下のインドネシア・ジャワ島や移民地南 米ウルグアイから戦場地沖縄の家族の身を案じて記した日記も公開され ている。県民では、戦場動員された夫や父親、残された家族の安否を気遣 う本土疎開した妻や子らの日記もある。さらに文字通り戦場地沖縄にあっ て、日々の戦況や家族の安否、食料確保に揺れる様を書き続けた貴重な戦 場日記もある。他方、阿鼻叫喚の沖縄戦の中で生命を落とした日本兵の 日記も 11 件ほど残っている。これら日記は、死の瞬間まで兵士が身につ けていたものである。米軍情報部は、日本兵の死体を物色し、そこから めぼしいものを取り出したが、その中に日記が含まれていたものだ。日 記は米軍語学兵の手を通して英語に翻訳され、米国立公文書館 (NARA) に保管されていたものである。外国人では、米軍高官が記した日記が圧 倒的に多く、英国や朝鮮半島出身者の手になる日記も残っている。 ところで、米第 10 軍情報部所属のヒストリアン(戦史任務要員)で あったジョン・スチーブンス少佐(MAJ. John Stevens 1907–不明)、及び ジェームス・M.バーンズ曹長 (M/SGT. James M. Burns 1918–2014) が著した「沖縄戦軍事機密日記」が米公文書館に私文書扱いで保管され ている。二人が残した日記は、基本的に関係者の口述を日記風に記録に おさめたものである。ただしその内容は、精密でしかも人間味あふれる


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第 1 章 沖縄戦の集合的記憶の構成

沖縄戦日記となっている。 スチーブンス少佐は、元々が軍事ヒストリアン、いわゆる戦史–歴史記 録者であり、米第 10 軍が創設された 1944 年 3 月、特に選ばれて従軍し ている。一方、バーンズ曹長は、1939 年に大学を卒業し、その後米下院 議員の下でインターンシップを経験した後、民間人から選ばれて同じく ヒストリアンとして米第 10 軍に配属されている。二人が残した「沖縄戦 軍事機密日記」は、記録の採取方法はもちろんのこと、歴史的叙述の仕 方、資料の扱い方からその裏付けに至るまで最善の手法が採られている。 本日記を基本に、さらに米第 10 軍傘下の各軍団、師団、連隊等のヒスト リアンが記述した膨大な記録をハワイに持ち帰り、該地で「米第 10 軍沖 縄作戦」の下書きが完成している。その後さらに青史刊行事業は、米本 国のワシントン D.C に持ち越され、二重三重のチェックがかけられ、最

写真 1-1  日本軍が撤退した後の戦場を視察するジョン・スチーブンス 少佐(右)とラッセル・グゲラー大尉 (師団付きヒストリアン) 出典:NARA RG 338 Reports After Action in the Ryukyu Campaign Box 31


第 2 節 目的

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終的に第二次世界大戦下米国初の陸軍青史『沖縄:最後の戦闘』(OKI-

NAWA: THE LAST BATTLE)が上梓されている。二人の日記には、戦 場での沖縄住民の有り様について多くの紙面をさき言及している。米軍 青史には、住民の動向についての記述はほとんど見られないが、それで も二人のヒストリアンは確かに住民について記述していたわけである。 そこで、改めて戦争当時の多くの日記を探し出し、一体全体そこには 何が書かれ、何が書かれなかったのかを検証することにした。そうする ことにより、より多角的な戦争記録が生まれてくるだろう。そのためにも 日記分析に際しては、特に「集合的記憶」の観点から総合的・多角的に沖 縄戦を眺望し、沖縄戦を掘り起こしたいと考える。

第 2 節 目的 戦争日記・手紙という個人に関わる記録を通して、沖縄戦の「集合的記 憶」を明らかにしたい。特に分析に際しては、それら日記が書かれた社 会的背景や時代、戦争状況について言及するとともに、書き手の意志や 感情に立ち入って考察したいと考えている。さらにまた、日記に何が書 かれているのかはもちろんのこと、戦争の書かれ方、誰に向けた日記な のか等、日記に見られる個々の記憶や状況についても明らかにしたい。 ちなみに社会学者の山守伸也によれば、日記には自己を可視化できる機 能が備わり、自己形成や社会的記録行為の意味が込められているという。 さらに、「『自己』だけでなく、『関係』および『社会』の可視化装置とし ても、日記をとらえることができるのではないか」と述べている。(1) ここから日記は、単なる個人の文化に帰属する媒体(メディア)として ではなく、広く社会が眺望できる媒体として見なすことができる。ただ し、本書で扱う日記は、戦争期間中の紙媒体に絞られることもあり、日記 分析枠組みは、個人・ (社会)関係・社会という社会的連環を念頭に置き 考察するものである。その上で、戦時期の個人の手になる日記群は、社 会的記憶や集団的記憶を鋭く内包したものだということを証明したい。 さらに、戦争分析の啓発的意味を込め霊界口伝として見なされる沖縄 シャーマンの戦死者の口伝、ユーリ(幽霊)と呼称される戦時にまつろ


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第 2 章 モーリス・アルブヴァックスと     「集合的記憶」

第1節 記憶の集積–個人的記憶から集合的記憶へ フランスの著名な社会学者モーリス・アルブヴァックス(Maurice Halb-

wachs 1877 年 3 月–1945 年 3 月 16 日)は、1944 年 7 月、ドイツ占領下のフ ランス第二の都市リヨンにてドイツ秘密国家警察(ゲシュタポ:Gestapo) に捕まった。対独パルチザンとしてゲリラ活動に参加していた彼の次男ピ エールが、ナチに逮捕されてしまった。それを聞きつけたアルブヴァック スは、息子が逮捕された翌日、一人リヨンのゲシュタポ本部を訪ね、卑劣 な暴力に抗議するとともに公正な裁きを求めた。しかし彼は、その場で直 ちに逮捕されてしまった。翌 8 月、彼はドイツ国内ワイマール近郊に設置 されたブーヘンヴァルト強制収容所(Buchenwald Concentration Camp) に強制移送された。1945 年 4 月、ドイツ国内に進攻した米軍は、同収容 所を解放するもアルブヴァックスはそれより少し前の 3 月 16 日、同収容 所にて病死している。(1)  アルブヴァックスの死因は赤痢と言われてい る。赤痢は、下痢や発熱、血便、腹痛を主症状とする感染症である。

1986 年度にノーベル平和賞を受賞したエリ・ヴィーゼル(Elie Wiesel 1928–2016 ) も、アルブヴァックスと同時期、ブーヘンヴァルト強制収容 所に収容されていた。45 年 1 月 28 日、それまで収容所で共に生きながら えた父親が、赤痢のため亡くなっている。ユダヤ系ポーランド人の父子 は、1944 年春、ポーランド南部に位置するアウシュビッツに強制収容さ れていた。翌 45 年 1 月、厳冬の中、アウシュビッツ強制収容所から無蓋 の家畜用貨車に詰め込まれ、ドイツ国内のブーヘンヴァルト強制収容所 に移送された。それまで行動をともにした父親は、同収容所で赤痢に罹


第 2 章 モーリス・アルブヴァックスと「集合的記憶」

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患し、高熱のため指定トイレにも行けず、うめき苦しんだという。15 歳 だったヴィーゼルは、その時の様子をこう述べている。 父が水を飲んではならないのを、私は知っていた。しかし、父があ まり長いあいだ嘆願するので、私は負けてしまった。水が父にとって 最悪の毒なのだが、いまとなっては父のためになにかをしてあげる ことができよう(か)。水を飲もうと飲むまいと、どっちみち、まも なくおしまいなのだ・ ・ ・。(2) その後一週間ほど父親は水だけで長らえ、1 月 29 日、ヴィーゼルが目 を覚ますと父が伏せていた捕囚者ブロック用ベッドには別な病人が横た わっていたという。無理に無理を重ね、命長らえようやく新たな強制収容 所に落ち着いたが、父が伏しているはずの捕囚者ベッドには、他の患者 捕囚者がいただけである。最期の瞬間、親の死に目に会えなかったと悔 いている。 アルブヴァックスの場合、フランス占領下のドイツ秘密国家警察に逮捕 され、ドイツ国内の強制収容所に移送されたが、その間生存出来たのは わずか半年強のことだ。70 歳を前にした、いわゆる高齢の政治犯が強制 収容所にて生きながらえることは不可能だっただろう。 ちなみに 1937 年 7 月、ブーヘンヴァルト強制収容所が開設されてから

1945 年 4 月、米軍が同収容所を解放するまで 23 万人以上の政治犯、ユ ダヤ人、ロシア人等が捕囚者として送られ、そのうち 5 万 5 千人以上の ものがここで死亡したと言われている。同年 4 月 11 日、米軍が収容所に 入り、捕囚者 2 万 1 千人が解放されたが、残念ながらモーリス・アルブ ヴァックスの姿はなかった。エリ・ヴィーゼルとモーリス・アルブヴァッ クスが収容所内で出会うことは仮定上あり得るが、言語や捕囚者用住居 スペースの違い、それに何よりも収容人員の多さのため不可能だっただ ろう。さらに、収容所内で 苦悩する者、病む者、死につつある者、死者 – これらすべては数週 の収容所生活の後には当り前の眺めになってしまってもはや人の心 を動かすことができなくなるのである と精神科医のヴィクトール・E・フランクル は述べている。(3)


第1節 記憶の集積ー個人的記憶から集合的記憶へ

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すなわち、戦時下ドイツが管理した強制収容所内での生命的弱者に対す る人間として憐憫、同情等は意味をなさず、 「死につつある者」ですら「当 たり前の眺め」、すなわち日常の光景に変わるということである。ヴィー ゼルが語る父親の残酷・無慈悲な最期も、子息を別にして、その他の収容 者には通り一遍の過ぎ去る光景の一つだったのかもしれない。事実、彼 が確認していた父親の生存は、一夜にして別人の寝床に変わっていたの である。これに対してアルブヴァックス場合、スペイン出身の政治犯ホル ヘ・センプルン (1923–2011 年) がブーヘンヴァルト強制収容所の廃兵収 容所と呼ばれる第 56 号棟にての彼の死を書いている。センプルンは、ス ペインマドリードに生まれ、1937 年、スペイン内戦を逃れフランスに家 族亡命し、対ドイツレジスタンス運動に参加、1943 年、ゲシュタポに囚 われ、同年から約 2 年間、ブーヘンヴァルト強制収容所に拘禁された。同 収容所には、アルブヴァックスをはじめ、外国人や政治犯が多く収容され ていた。同収容所では、日曜日の午後、点呼の終了後、各棟にいる文学 や哲学仲間たちと、自由に会話することが許されていた。センプルンは、 哲学の師と 仰ぐアルブヴァックスを第 56 号棟に訪ねている。ただしアル ブヴァックスは、赤痢のため肉体は日に日に衰えて、ついに亡くなる最期 の日曜日が来た。 ぼくはアルブヴァックスの手を取ったが、彼は目をあける力がなかっ た。ただ彼の指で返事、かすかに握り返してくるのを感じただけだ。 ほとんど感じ取れないメッセージ。モーリス・アルブヴァックス教授 は 人間としての抵抗力の限界に達していた。彼はその実体がゆっく りとなり、彼を臭気のなかに運び去った赤痢の末期段階にあった。  少したって、ただ彼が友の声の音を聞こえるようにと、ぼくが口 から出まかせに話していると、彼は突然目をあけた。汚辱にまみれ た苦悶、退廃した肉体への恥がそこに読み取れた。しかしまた、尊 厳の炎、敗北しても揺るぎなき人間性の炎。死が近いのを認め、ど う対処すべきかを悟り、それを吟味し、その危険と賭されたものを 対峙させて自由に、つまり威厳をもって測る眼差しの不死の光。(4) ホルヘ・センプルンの言葉は、アルブヴァックスの死について述べたも のであるが、それを彼は「死の友愛」とよんでいる。もだしがたい運命


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第 3 章 戦時下日記の意味と特色

はじめに 戦時に書かれた日記は、個人の手になる記録であるが、ある特異な時 け う

代を写し取った稀有な歴史的遺物でもある。日記は、公的記録とは正反対 に私的領域に属するものだが、同時代に生きた人々の思考や感性を写生 したもので、公的記録以上に「集合的記憶」を獲得しやすいものである。 すなわち、戦時下の個人的経験や記憶を記した日記は、鋭く「われわれ 意識」を含む集合的な意識や感覚を伝えるもので、戦時記憶を雄弁に語 るものなのである。 さらにまた戦時下の日記は、同時代の社会的枠組=類似的接近を可能 にさせる証言を含んでいる。例えわれわれが、戦争を経験せずとも過去の 再構成=類比を通して、過去の集合的記憶に接近することは可能である。 これは、社会的記憶を代表するものであり、当該社会の雄弁な記憶の集 積でもある。厳しい戦時下、日記の作者たちは、生きている確かな証を紙 に書きつけ、おのが生命の存在を確認したであろう。人々が、熱心に他人 の戦時日記を読みふけるのは、そこにつらく厳しい時代を生きた者の心 を見るからである。これら日記は、生き物でもあるかのように人の心に 食い入り、新たな物語が誕生もしてこよう。ある意味で戦時下の日記は、 生きたという証言であり遺書とは限りなく遠いものであろう。仮にそれ ろ かく

が戦場の死体から鹵獲されたものであっても、日記作者は夢自分の死を 予想していなかったに違いない。日記とは、生の証でもあったのである。 ここでは戦時下の日記を紐解き、戦場に伝わる生の息吹や戦場を眼差 まなこ

す 眼 について考えて見たい。


第 3 章 戦時下日記の意味と特色

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第 1 節 日記とは何か 基本的に日記とは、出来事を通日的に各種メディアに記入する社会的 行為の一つである。本来は、パーソナル・メディアにしかすぎない日記 が、昨今はブロブ(ウェブログ Weblog)と称される双方向メディアの中 で、公開性や広域性など、新たな展開がはかられている。こうしたソー シャル・メディア(twitter、Facebook、mixi)の中のブログ機能に着目 し、日記メディアの社会的機能を明らかにしょうとした研究者に山守伸 也がいる。彼は、日記とは何かについて以下のように記している。 日記はそれが書かれた時代の社会状況を知る手段として、有益な資 料となる。同じ時代の多数の日記を収集し、並べ読みすることで、そ の時代の人々の生活のありようや秘められた思いが、ときにありあ りと読み取ることができる。公開を前提とせず私的に書かれた日記 には、公的な出版物や歴史書等には記されない素朴な日常が描かれ ているからである。日記は言わば、社会的世界の一部を切り取った ものであり、日記の集積は『社会』(の一部)を描き出したものとし て捉えることができるわけである。(1) すなわち日記は、過去や社会関係性を可視化させる働きを持ち、当該 社会の個々人の生きた履歴、煩悶、嘆き、うめき等を刻んだある種のビッ グデーターといってよいだろう。 次に、日記を書く行為とは何かが問われるだろう。評論家の紀田順一 郎は、書く行為を動機から意味づけて以下のように述べている。 人が日記をつける動機、それは風景が変わる予感をいだいたときに ほかならない。戦争の日記は私たちに鋭い輪郭をもって、それを教 えてくれる。(2) さらに紀田は、以下のようにも述べている。 人が日記をつけるようになるについては、必ず動機というものがあ る。 ・ ・ ・それを一口にいえば、自らの人生に何らかの展開があると予 想される場合である。(3) 紀田によれば、記録が残る多くの日記代表作は、戦中に書かれた戦争


第 1 節 日記とは何か

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日記だという。その理由は、戦争そのものが、自己の風景を一変させる最 大ものだと言うことである。反面、戦争の終結も「超自然の導きとも思 える見事なフィナーレ」(4) であり、その目撃が新たに風景の一変をもた らすものかもしれないとも述べている。 ピョンヤン

作家の五木寛之は、12 歳のとき、朝鮮半島の 平 壌 にて終戦を迎えた。 私が生まれてはじめて日記らしいものをつけたのは、一九四五年(昭 和 20)の八月十五日の夜のことだったと思う。敗戦の当日だったか ら、よくおぼえているのだ。 ・ ・ ・その時なぜ日記などをつけようとい う気になったのかは、いまだに疑問である。なんとなくこれから周 囲に変った事がおこるんじゃないか、という予感のようなものがあっ たのだろうか。(5) 五木が述べる、 「なんとなくこれから周囲に変った事がおこるんじゃな いか」という予感は、紀田が言う「風景が変わる予感」に照応する言葉だ ろう。戦争終結に対する風景の変化予感に対して、植民地朝鮮にて 12 歳 を迎えた熱き軍国少年は、確かに変化の意味合いを紙に記していたわけ である。さらに五木は、日記を書く姿勢について、こうも述べている。 (日記において)人は無意識に書きたくないことは書かず、語りたく ないことは語らない存在なのである。(6) 日記には、読まれたらどうするかという警戒心がつきまとい、そのた め意図的な虚文もあるが、基本的なことは内面の暴露をどうするかであ ろう。これについて、近代日本の日記帳を研究する田中祐介は、日記を 「日々の出来事を記録する媒体であるとともに、時には自己の煩悶や理想 を吐露する秘密の場」でもあると記している。(7) 日記を書く行為において、あるものは事実を秘匿しようと図り、ある ものはそこを秘密の置き場所にしようとする。個人の営みにおいて日記 行為は、想像を超える高次な精神世界の営みなのかもしれない。 なお、社会学者の森岡清美は、研究資料として社会学上個人的記録を利 用する際、当該記録の作成動機が重要だと述べている。その上で森岡は、 米社会心理学者の G・オルポートの説を援用し、記録動機として 13 項目 を上げている。その中で、 「自己弁護」「整頓要求」「緊張の緩和」等が、


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第 4 章 沖縄戦と日記

はじめに 沖縄戦と日記とは、戦場地、居住地を異にする個々人が、主として沖 縄戦を中心に戦争行為を記述したもの、あるいは個人、家族、関係者等 を眼差し、その思いを綴った記録のことをいう。特に日記そのものは、個 人の記憶に依拠するエクリチュール(書く行為、筆記の意)であり、ナラ ティブ(物語記憶)であるが、そこに時代や戦争を加味すると、鋭く社会 的記憶のイコン(象徴)に様変わりする。 恐怖の次代、国民は敵への憎悪を一心不乱に唱え、形ある武器を手に して、公道で気合いを放った。熱にうなされたわけでなく、誰しもが「撃 ちてし止まん」を標榜し、敵の死に狂喜した。征服と憎悪の時代、沖縄を 巡る日記や手紙類は、時代や人を突き通す社会的遺産の痕跡であり、社 会意識を如実に示すものである。 ろ かく

ちなみに沖縄戦の一次的記録として米軍が沖縄戦の最中に鹵獲した膨大 な部隊陣中日誌、戦闘詳報、司令部命令・会報等が残っている。(1) これ らは総称して「第 32 軍関係軍事史料」と呼ばれるが、これ以外にも(陸 海軍)電報、機密戦争日誌等も数多く残っている。(2) 沖縄戦にのみ特化して戦場に遺棄された日本軍記録を見ると、膨大な 量の記録が残されていたことがわかる。その最大の理由は、戦闘行為が 終了すると米軍は大々的な戦場掃討作戦(Clean up operation)を展開し たからに外ならない。この時米軍が収集した多くの記録は、戦後日本に 返還され、沖縄でも閲覧が可能である。これ以外にも、米第 10 軍が記録 した膨大な英文記録が、2017 年 3 月から沖縄でも公開されるようになっ た。(3) それら記録類の中には、戦場地沖縄で米軍が独自に入手し、翻訳を行っ


第 4 章 沖縄戦と日記

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た多数の記録も含まれている。特に本書との関わりで言えば、日本兵が 所持していた日誌の所在がある。本章では日本軍史・資料は割愛し個人 に関わる日誌を紹介することにする。

第 1 節 日本軍関係日誌 第 1 項 日本軍将兵日誌

個 ⼈ ⽇ 記

所属

階級

年齢

主な戦場地

⽇記期間

陸軍

⼀等兵

23

沖縄本島

45.3 - 45.9

陸軍

中尉

24

沖縄本島

44.7 - 46.4

陸軍

大尉

34

陸軍

⼀等兵

30

⼋重⼭諸島(⻄ 表島、⽯垣島) ⽯垣島

陸軍

中佐

34

台湾、沖縄本島 44.12 - 45.8.20

陸軍

(兵⼠)

25

沖縄本島南部

45.3 - 45.9

陸軍

軍曹

26

宮古島

45.7 - 45.7

備考

41.10 - 45.12 44.6 - 46.1

⼀部絵⽇記あり

表 4-1  日本軍将兵関係日誌

日本兵に関わる沖縄戦日誌には、個人に関わる日誌(diary)、陣中日 誌(journal)、米軍が日本兵の死体から鹵獲した日誌、特攻隊関係日誌等 がある。さらに朝鮮半島から強制徴用された朝鮮人軍夫(戦時下の呼称) の沖縄戦日誌も残っている。その中で軍人個人に関わる主だった日誌に、 以下のものがある。

鉄田義司大尉日記 沖縄県下の八重山諸島で米軍との交戦を記録したものに、鉄田義司大 尉の戦争日誌がある。鉄田義司(1911–1987)は、太平洋戦が勃発する直 前の 1941(昭和 16)年 10 月、臨時招集により野砲兵第 4 連隊に応召さ ふなうき

れ、八重山群島西表島の船浮要塞重砲兵連隊に派遣された。同要塞基地


第 1 節 日本軍関係日誌

49 なかぐすく

は、天然の良港を抱く陸上基地で、沖縄本島中部地区に敷設された 中 城 要塞(1941 年 7 月)と同じく軍事的要塞であり、 「要塞の任務は、東南ア ジアなどからエネルギー資源の石油等を運ぶ艦船の待避・停泊などを守 備することにあった」と言われている。(4)

1944 年 9 月、戦況悪化に伴い船浮要塞は、石垣島に移設し陣地も移動 した。沖縄戦において米軍の石垣島上陸はなかったが、英国太平洋艦隊 による爆撃が行われ、米艦載機による恒常的な空爆も行われた。その間 しょうけつ

八重山諸島内では、食糧難、マラリア 猖 獗 等により、民間人や兵士多数 が倒れている。1945 年 8 月、日本敗戦に伴い部隊は武器弾薬を破壊し、 復員まで自給自足に励んだ。同 45 年 12 月、大尉に昇任した鉄田義司は、 石垣島から直接大阪港に帰還している。1941 年 10 月、自宅のある和歌山 県を出て、4 年 2 か月ぶりの故郷であったという。 ちなみに鉄田日記は、本人の本土帰還前に人の手を経て自宅宛に届け られたもので、ほぼ完全な形で保存されている。戦後 40 年が経過したあ る時、沖縄県内で戦争研究する地元教師の目にとまり、40 年間眠ってい た日誌が県内に運ばれ戦時記録として竹富町からほぼ完全な形で公刊さ れている。日記は、太平洋戦争が勃発する前の 1941 年 10 月から戦後石 垣町から復員するまでの丸 4 年間の記録が収められている。一つの地域 から太平洋戦争のほぼ総てを見てきた希有な記録であろう。 本日記は、記録の発見から公刊まで 8 年間の歳月を要したというが、ほ ぼ完全な形で公開され、資料的価値も高いものである。鉄田大尉日記に は、1942 年 12 月、 「探照灯」 (サーチライト)教育のため山口県下関に派 遣されたおり、その合間をぬって妻と再会したと記してある。この時、妻 のあやは、自宅和歌山県から夫の主張先の下関に駆けつけ、10 日間ほど 同行している。同年 12 月中旬、夫は沖縄へ船便で戻ることになり、その 時の別れをこう述べている。

(1942 年)12 月 20 日 (船は、12 月 19 日、鹿児島出航予定であったが、今日に延期となっ た)朝早くから妻は街を歩き廻って煙草を探し求めてくれた。今日 こそ本当のさらばの日となった。レコードを買ったり、映画館へ入り 時間を費やしていた。今日の船は開城丸という初めて見る船で、暫


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第 5 章 沖縄戦と手紙

はじめに 沖縄戦下で戦場に残された手紙(葉書、封書、軍事郵便等)は、兵士 の死体や遺棄された記録類から見つかっている。それら記録類の一部は、 関係者の著書や各種資料館にて紹介されている。 おそらく沖縄戦以前には、沖縄に駐屯した将兵から郷里や関係者宛に 多数の手紙が投函されただろう。しかし、公開やその存在が明らかにさ れているのは、ほんのごく一部である。特に本人が沖縄で戦死した場合、 それが公開されることは困難だ。仮に手紙が戦後も保管されていたとし ても、本人や直近の手紙の受取人(妻や縁者)が亡くなった際、処分され ることが多かっただろう。これは通常の事であり、特段、戦争の手紙だか らといって保存・保管されるべきものではないだろう。すなわち、手紙は 故人の痕跡を残すものであり、本人が死去した際には早晩処分されるべ きものである。 一方、イギリスにて戦地からの手紙を公刊したジャーナリストのタマ シン・D・ルイス(Tamasin D.Lewis)はこう述べている。 (テレビ番組制作のため戦時下で送られた)手紙の背景やその性格、 日々の生活、さらに希望や恐れ等を組み立てるため、 (英戦争博物館 で兵士達の家族に送った)最後の手紙を読み続けた。しかしそのう ちに、 (博物館が)収集した全ての手紙記録を読み込まねばならない と考えるようになった。私が驚いた事は、手紙の質と日々の生活を繋 ぐかのように、手紙のやり取りが非常に詳細に行き渡っていたこと である。それは、毎晩愛する人が帰宅した後に話をするかのように、 その間隙を埋めるようなものだった。(1)


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第 5 章 沖縄戦と手紙

写真 5-1  戦場の塹壕内で家族からの手紙を読む英国兵士像 英戦争博物館にて筆者撮影

ルイスは、英国独立テレビジョンの特別番組「家への最後の手紙 Last

Letters Home」の編集スタッフの一員として、主に英戦争博物館(The Imperial War Museum)で記録類の収集を行っていた。手紙類を読み込 むにつれて、ある感慨にとらわれたという。それは、戦場地にあっても兵 士らは、日常の一部でもあるかのように手紙で家族に話しかけるという ことであった。この兵士の語りを著書にして、いかに戦時下の人々が会 話を行ったかを理解してもらうのが出発だったという。彼女は、手紙を紹 介するに際し、次のような分類をおこなっている。

1. 両親と子供たちへ  2. 兄弟と姉妹宛へ  3. 最後の手紙(日記を含 む)  4. さよならも言わないで  5. 別離と帰還  6. ヨーロッパの勝利。 分類 3 は、手紙を送信した兵士が死亡したことを表し、それを「最後の 手紙」と呼んだわけである。また分類 4 は、行方不明扱いとなった兵士 から関係者に宛てた手紙が、本人不明のまま届いたことを意味する。彼 女が描いたのは、手紙を通じて兵士や家族等は、生きる希望や正義感、愛 や勇気、そして孤独感を相互に交換し合ったということだ。手紙は、戦 時下の生活全般を見渡す掛けがえのない遺産だということでもある。


はじめに

163

これに対し、日本側では、島利栄子が主催する「女性の日記から学ぶ 会」が戦時下の日記や手紙を広く集めていることが知られている。島は、 同会が監修した『手紙が語る戦争』の中で、次のように述べている。 書簡(手紙や葉書の総称)ならではの魅了は何でしょう。それは人の 心に訴える力が非常に強い点です。戦地から来る書簡は子供や、妻 や、老いた父母の身を案ずるものが多いわけです。優しさと、思いや り、感謝の言葉が毎回綴られています。(中略)特に死ぬことを前提 にしての書簡は、もう二度と書けないかもしれない思いがあったか らこそ、家族を思う気持ちがまっすぐに表されていて感動を禁じえ ません。人は死と背中合わせのとき、あんなに素直でまっすぐにな れるのでしょうか。書簡を受け取った方も一生の宝になるわけです。

(2) タマシン・D・ルイスの問題設定の建て方と島利栄子 のそれとはかな りの異同があるようだ。島の考え方は、手紙は出す方ももらう方も「優 しさと、思いやり、感謝」があるということだろう。しかし、戦時下の手 紙を考えると、やはり戦争がそうであるように、人間の喜怒哀楽や悲し み、悲嘆、嘆き、悲しみも見失ってはならないだろう。おそらく戦時中の 手紙とは、 「非日常的な」という形容語句を付加して読まねばならないだ ろう。死を前提に手紙を書くならば、それは遺書である。生還を期して 手紙を書くわけで、手紙が届くことは生の証であったわけである。また、 書簡は、時代が向かい合った錯覚や間違いを示すものでもある。家族に 宛てたものは、「優しさと、思いやり、感謝の言葉」に埋め尽くされてい るという考えは、ある面では正しいだろう。反面、戦争状況は不安と緊張 の連続のただ中で兵士は生を繋いでいるわけである。通常以上に死が身 近にあり、それは敵味方を問わないものである。 米国のアンドリュ・キャロル(Andrew Carroll)は、その著『戦争の手 紙』(War letters)の中で、兵士が手紙を書いたり読んだりする訳を第 三者の言葉を借りて、こう紹介する。 兵士の手紙とは、心を落ち着かせる手段として心待ちしているもの で、緊張状態を緩和させる手段としてもある。彼は、何か突発的な


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第 6 章 沖縄捕虜新聞、文芸誌

分類

発刊地

発⾏⼈

新聞

屋嘉捕虜収容所 (沖縄)

松宮克也

和歌集

捕虜収容所 (沖縄)

朝倉嗣郎他

構成

発刊期間

⼿書き・6段組 46.5.4 - 46.10.18(第25号) ⼿書き、ガリ 版、50部印刷

46.8(全1冊)

表 6-1  捕虜新聞、文芸誌

第 1 節 戦時下の新聞と文芸 負けた戦争に、映像は無いと言われる。沖縄戦にて写真(映像)とし て残されたのは、特攻機制空直掩と呼ばれる同伴機が撮影した沖縄本島 上空写真と義烈空挺隊の特攻作戦だけだと言われている。義烈空挺隊の 写真は、出陣風景だけで、その後に記録されたのは米側が撮った突入作 戦に失敗した輸送機と兵士の死体だけである。 反面、日本側は、士気高揚や軍人教養の一つとして多くの和歌(短歌)、 俳句を残している。この場合、一般詩は、和歌に収斂され、形として残さ も

れたものはわずかしか見あたらない。これら日本文化に特有な「文字文 化」を戦争から見る場合、通常は日本兵あるいは旧日本兵の精神的支柱 のより所を分析する材料、手段として見なされがちだ。そこで私は、こ れら「文字文化」を元に、沖縄戦は如何なる感性的な映像記録に残され たかを検討したいと考えている。


第 6 章 沖縄捕虜新聞、文芸誌

208

太田博中尉の沖縄詩作 沖縄戦当時、地元沖縄には唯一の県域紙『沖縄新報』があった。同紙 は、1940(昭和 15)年 12 月、政府の一県一紙の指導の下、県内の主要 三紙が新聞統合し創刊されたものである。最大時には、社員 150 人、発 行部数 1 万 1 千部を擁し、比較的安定した経営を行っていた。ところが、

1944 年 10 月 10 日、突如沖縄を襲った米機動艦隊の艦載機攻撃により、 県都那覇市は灰燼に帰し、新聞社も社屋、設備等を失い、一時的に新聞の 機能を停止してしまった。その後新聞社は、那覇市郊外に仮小屋を建て、 へいはん

30 人程に激減した社員が平版印刷機で新聞を再刊した。 『沖縄新報』は、沖縄地上戦に入る前の 45 年 3 月初旬、首里城地下に 設けられた第 32 軍壕近くに移動し、ここに新聞史上初の壕内新聞が発刊 されるに及んだ。沖縄戦直前までの主な情報源は、第 32 軍司令部、沖縄 県庁、同盟通信社配給の無線ニュースであり、二面は戦時に関わる取材情 報や戦記ものが中心で、文字通り「陣中新聞」であり、戦意高揚のための 「紙の爆弾」であった。(1) 沖縄戦がまぢかに迫った 1945 年 1 月 18 日、『沖縄新報』の「陣中記」 に太田博中尉が、「川柳」を発表している。

45 年 1 月 3 日 今年の初空襲 太田博少尉    空襲は、礼砲式と 兵笑い    撃ち初め 兵服着て 笑顔見せ    蠅叩く心算で砲は空睨み 続く同年 1 月 25 日、太田は、新聞に詩を発表している。 詩 (無題)     太田博少尉 さんさん

   南方の灼熱燦々 人か汗か ばんじゃく

   今ぞ 磐 石 と 聞(こ)ゆ    珊瑚礁 億年を経て 牢固たる第三紀層を成す    わが戦友 鮮血もて太平洋を充たし    神州護持の 尊き時を支う あがな

   血もて  贖 える『時』を頼みて 承けざるべからず、 れつじつ

   烈日中天より 仮借なく炎の剣を 投ずるとも、


第 1 節 戦時下の新聞と文芸

209

きんじょうとうち

   誓って金城湯池の城塞を建設せん くわ

   人と十字鍬と     二にして一なり 一にして二ならず こ

   凝ってこの堅き巌を砕かんとす どんちょう

   銀箔の 緞 帳  一分また一寸    今の汗の一滴は、対戦時の血の一滴に 値いす えん し

   振るわんかな滅敵の圓匙∗ じゅうじぐわ

   振わんかな殉忠の十字鍬†    よしや獣魔の如く妖獣襲い来るとも つい

   我に 墜の布陣あらば 恐れに足らず この川柳と戦争詩を書いたのは、太田博陸軍少尉(1921–1945 24 歳) である。太田少尉は、東京で出生し、福島県郡山市に転出、旧制郡山商 業を卒業している。郡山商業銀行 (現東邦銀行) に勤務する傍ら詩作に励 み、谷玲乃介の筆名で西条八十の詩誌に作品を投稿している。1944(昭 和 19)年 8 月、高射砲第 116 連隊から沖縄に転出し、千葉県で編成され た野戦高射砲第 79 大隊第 2 中隊指揮小隊長に任命されている。同指揮小 隊長は、火砲の観測班、通信班、監視班を掌握した。45 年 4 月、沖縄戦 に参加、同年 6 月 20 日(頃)、糸満市伊原で戦死している。 太田博は、若くして詩才を発揮、雑誌等に寄稿し、作品の多くが入選 している。沖縄に到着後も詩作を続け、県内唯一の新聞に作品を投稿し ている。その一つが、「(無題)」と命名された戦場詩である。 詩作について考えると、「仮借なく炎の剣」とは、米軍の攻撃を指し、 つい

「よしや獣魔の如く妖獣襲い来るとも 我に 墜の布陣あらば 恐れに足 らず」とは、激越な対米戦闘観である。敵は、獣魔であり妖獣でもあり、 この上ない破壊者である。 「墜の布陣」とは、おそらく高射砲隊の攻撃位 置や姿勢を言うのかもしれない。これらは、死を愛するネクロ・フィリア (necrophilia)であり、激越な戦闘指示である。天性豊かな詩人が吐く滅 敵観だが、果たして県紙の読者を叱咤激励したであろうか。むしろやが て来る敵の姿におびえさせ、震撼させたのではないだろうか。豊かな筆 ∗ シャベルのこと † つるはしのこと


第 II 部

沖縄シャーマンと霊界口伝


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  せ

第 1 章 沖縄シャーマンと戦死者の判示

はじめに 戦争に関わる集合的記憶を社会学がかざす場合、最初に浮かぶのは参 戦者の戦場死である。しかし戦死者は何も語らず、ただ一言「戦死」で片 づけられる。それにしては、各種の慰霊祭や祈念式典において生者は必 要以上に「死者」に語りかけているようだ。ここに生者と死者の擬似的 共生関係、いわゆる「社会的相互関係」が生まれてこよう。ある意味で 戦死者とは、集合的記憶を顕在化させる社会分析枠組=「物質的な基礎」 をなす介添者の役割を果たしているとも言えよう。 社会学者の粟津賢太は、社会的分析を介在させる者として、エージェン シーを登場させる。 「ここでいうエージェンシーとは、ある特定の記憶の 場を目指したさまざまな社会的相互作用を行う主体である。それは儀礼 を執行する主体であり参加者であり、言説を産出する主体でもある」と 述べている。(1) 通常われわれは、戦争顕彰行為の主体(エージェンシー)に実行為者 として直近の関係者を立てるが、実はそれ以外にも目には見えない関係 「者」を介在させがちだ。例えば、戦死者儀礼の行事において死者を呼び 出し、その場を取り仕切ることだ。さらにまた、生者が霊能者(エージェ ンシー)に依頼し、死者のナラティブを借用した瞬間、死者は霊界口伝す るのである。そのことは、死者の媒介者として沖縄シャーマンが、死者 の口伝を伝えたとき、新たな「集合的記憶」が生まれる素地ができるこ とになる。ここに、戦争と沖縄の重要な存在理由がある。戦死者が何も 語らない現実にあって、社会文化的な機能としての沖縄シャーマンの霊 界口伝は、戦死者の語りを告げる有効な判断材料ともなろう。沖縄シャー


第 1 章 沖縄シャーマンと戦死者の判示

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マンを介在し発せられた戦死者のナラティブは、集合的記憶の源泉のた だ中に真正面から据えてもよさそうだ。

第 1 節 超自然的存在としての沖縄シャーマン 沖縄シャーマンとは、沖縄県で言うユタ、もしくは物知り、カミンチュー のことをいう。1969 年、在野の民俗学研究者の谷川健一(1921-2013)は、 沖縄の民間伝承聞き書き旅行を通じて一人のユタと知り合った。彼女は、

16 歳から透視能力が生まれ、近辺の難事を予見したという。10 代で結婚、 一児をもうけるが、20 歳の頃、白髪、白装束の老人が枕元に立つ夢を見 る。この老人は、人助けをする仕事、すなわちユタになることを望んだ が、彼女はそれを拒否したという。彼女は、自力で豆腐店、養豚業、冷菓 業、揚げ物屋を営むも悉く失敗してしまう。彼女が 39 歳の時、家族に死 者が続いた。 ある夜、枕元に白髪の老人が現れ、彼女の生活をなじったという。「そ の翌日から、彼女は皿一杯の塩と水以外は食べることができなくなった。 一日中、寝ているのか起きているのかも分からなくなった」。(2) そうこうして 3 月 3 日の節句が過ぎたある夜、麦穂と稲穂に関わる神 からの質問がなされ、両者とも半々ずつ欲しいと彼女は枕元の神に答え たところ、その答えは神の意志に適い、 「神の橋渡し」が行われたという。 これ以来、彼女はユタとしての仕事につき、谷川と出会ったわけである。 ユタについて谷川は、こう述べている。 神に追われて、逃げおおせることができなくなったときに、神に自 分の魂をゆずり渡す。これが南島で神の道に入った女の原則的で典 型的な姿である。彼女らに共通しているのは、自ら求めて神の道に 入ったのではなく、むしろ自分の意志に反して、神の命ずる道に進ま ざるを得なくなったということである。(3) 以上は、「サーダカウマリ(霊力を備えた生まれの者)」と称される者 ふぎょう

が、「カミダーリィ(神がかり)」し、巫業へのイニシエーションを経て ユタへと到着する様を述べたものである。女性が、ユタへ上り詰めて行


第 1 節 超自然的存在としての沖縄シャーマン

247

く過程で何度か、「カミダーリィ」するが、これは一種の統合失調症状で あり、精神科医療の接点ともなると言われている。(4)

き とう

精神医学ではこれら「カミダーリィ」は、心因反応、感応精神病、祈祷 性精神病、老人性精神病、非定型精神病、精神分裂病と個別分類分けさ れるが、現在は、精神統合失調症と呼ばれ、精神医学的治療の対象とな り得るものである。しかし、 「彼女達のカミダーリーィは、沖縄の民間信 仰、いわば沖縄の社会現象と、個々の生活歴とが絡み合って起きて来た ものであり、我々はそれ等を深く理解しなければならない」と精神科医の 高石利博は述べている。(5) さて、 「カミダーリィ」する者が、ある種の精神遍歴を通じイニシエー ションを行っていくが、これには「シラシ」といわれる非日常的な体験、 ふびょう

いわゆる「巫病」の発生がある。これは一種の変性意識状態であるが、そ こには文化と医学、伝統と科学とのせめぎ合いがでてくる。精神医学的 には、本症状は脅迫観念、不安神経症に由来する巫病であるといわれる が、「カミダーリィ」を受け入れた場合、病悩はたちまち解消するとも言 われている。 一方、カミダーリィ症候群ともおぼしき症状は、心的不満(チムダー む げんよう

リィ)といわれ、重圧(圧迫)感、夢幻様体験、独語・失笑・独唱・踊り・ 徘徊等の精神的不安定を愁訴とし、人と神との入れ替わり、神降臨等、霊 的世界の降下が見られる。さらに身体的不調には、頭痛、動悸、食欲不 しんせん

振、痩身、皮膚疾患、振戦(=身体の揺れ)等も見られる。(6) 精神医学とユタと呼ばれる者の「カミダーリィ」との違いは、これら 精神的症状がいわゆる憑依体験があり、神からの「シラシ」があるかどう かである。この場合、神からの「シラシ」とは、神が取り付き、神が乗り かかることであり、脱魂現象とは異なるものである。(7) ここで重要なことは、 「カミダーリィ」した者に神が取り憑き、たたる ということである。「たたる神」は、ユタに取り付き、時として誘導し、 聖界が汚されるのを拒絶することである。おそらく、ユタのハンジに際 してクライエントが最も怖れるのは、 「祖先が祟る」ということではない だろうか。「カミダーリィ」して、神との交信能力を獲得したユタは、今 度は亡き人に変わり、神が命じる祈りの成就をクライアントに求めるの


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第 2 章 沖縄の戦争ユーリ

はじめに 集合的記憶から沖縄戦を題材とするユーリ(幽霊)話をする場合、幾つ かの前提を理解していただきたい。第一に、 「ユーリ」というものが直接 存在するものなのかどうかの論議はここでは問わないことにする。第二 は、誰が語ったかという話者の特定だが、これも当事者であろうが第三 者のまた聞きであろうが、問わないことにする。それは、真実性を意味 するオーセンティシティー(authenticity)にも関わることだが、いわゆ る「亡霊譚」とか「幽体話」は話者のこと以上に、それを聞いた者の判断 が大きいからである。これについて村山絵美は、「経験した主体」と「想 起する主体」という言葉で説明している。この場合、 「経験した主体」と は、語りの主体を表し、「想起する主体」とは、聴き取りする側をさすも のだ。両者に共通するのは、「死者の思い」であり、相互にコミュニケー ションが共振し、ある特定のイメージを抱くことである。 「やっぱりねー」 とか「そうだよねー」という言葉の先に存在する戦争の亡霊譚は、する どく集合的で社会的記憶を含蓄するものである。(1) ただし私は、方法論的視座において、先のユタと戦争談義同様に、ユー リの発話者とユーリの間で、何が語られたのかについて検証したいと考 える。いわゆる、「ユーリ」達の言葉である。戦争にまつわる幽霊は、社 会的生命を宿したユーレであり、彼もしくは彼女たちの霊界からの言葉 も、きっと意味あるものだと信じるものである。


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第 2 章 沖縄の戦争ユーリ

第 1 節 兵士のユーリ 1  沖縄本島南部 いた ら しき

「私の古里は与那原町板良敷(現南城市)である。小学校の頃(1950 年代)、板良敷の山手の方で、夜になると『突撃!突撃!』という日本兵 の絶叫が続いたりしたという噂があった。通常の死とは違った死を体験 した者の魂が、いろんな形で出現している」。(2)

2  沖縄離島(座間味島)

「この島はね、戦争のときいっぱい人が死んで、兵隊も死んだし、島の 人もいっぱい自決したから、死んだ人の声が聞こえてくるんですよ。阿 佐という部落からこっちへ来る人が、途中のにほん町というところで夜 にね、 『とつげきーい』という声を聞いたって。 『歩調とれえー』って声聞 いた人もいるって」。(3)

3  沖縄離島(座間味島)

「ハルオさんて人がいて、友達と阿佐へ帰る途中、ひとりが煙草吸っ てたら、うしろから手ーんでね、見える人なの。それで手が見えたんだっ て。『死んだ人が煙草ほしいって言ってるよ。煙草に火をつけて投げてや れ』って言うんだって。またすこしいくと、手が出る。煙草くれって手を 出しよる。この土地は戦争で沢山死によっているから、死んだ人が煙草 ほしがっているんだって。 ・ ・ ・人間は死んだらおしまいじゃなくて、霊は 生きとるんです」。(4)

4  沖縄県

「一昨年(1982 年)、東宝創立五十周年記念映画に『ひめゆりの塔』と いうのがありました。沖縄のひめゆり部隊の玉砕を描いた作品です。こ のロケ中、出演した女優さんのひとりが寝ようとすると、兵隊の幽霊が


第 1 節 兵士のユーリ

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ぼうっと足下に立ち、哀願するように『女学生さん、お願いです。食べ物 をください・ ・ ・』。この女優さんは体も冷たくなり、動くに動けず、それ からどうやって時間が経過したかわからないが、気がついたら朝だった そうです」。(5)

5  沖縄県読谷村喜納

「比謝川の上流、イジュンジャーという軍事基地があるあたりは、とっ てもきれいな水が出るので、私たちは子供の頃よく洗濯に行ったりした。 そこには骸骨や軍靴や水筒とかがころがっていた。水を求めて大勢の兵 隊たちがそこにいって、川の中も川べりも血だらけで朱に染まっていた らしい。戦争が終り、土地の人々は周囲には薪もたくさんあるし、水もき れいなので、こわごわそこに行っていた。ある日、大勢連らなって薪取り に行った。すると一番最後の人の後を引っ張る人がいる。『あいっ』と思 い、気のせいかとも思ったが後を見ると兵隊さんが立っている。 『私はね、北海道の者だけど、自分は帰りたいけど自分では行けない から、この住所に送り返して頂戴』と言う。だけど住所は見えない。名札 かなんかを使ったんでしょうが見えない。その人はもうガタガタ震えて 家に帰り高熱を出してしまった。家人は『どうしたどうした』と布団を かぶせて心配した。 『実は兵隊さんが……。したが私は届けることも出来ないから返事も しないで帰って来たよ』とその人は言う。で家人は、ナタとか鎌とかいろ んなものを枕元に置いて看病したという」。(6)

6  沖縄県糸満市

「それは記録的な台風が襲って来た夏の日のことだった。(中略)一家 が眠っていると、室内に何か邪悪な雰囲気が漂い始めた。 ・ ・ ・その時のこ と。だれかが大声で怒鳴る声が聞こえて来た。だが何を言っているのか までは聞こえない。 ・ ・ ・と、ふいに男性のはっきりした声が聞こえてきた。  『・ ・ ・水をください』哀願するような、か細いがはっきりした声がそう


(著者紹介)    保 坂 廣 志(ほさか ひろし)          

1949 年 北海道生まれ 1974 年 東洋大学社会学部応用社会学科卒業 1976 年 東洋大学大学院社会学修士課程修了 琉球大学法文学部講師、助教授、教授を歴任 現在、沖縄戦関係を中心とした翻訳業に従事

   著書 戦争動員とジャ−ナリズム(1991、ひるぎ社)       争点・沖縄戦の記憶(2002、社会評論社、共著)       日本軍の暗号作戦 (2012、紫峰出版)       陸軍 暗号教範 (2013、紫峰出版、共編)       新教程 日本陸軍暗号(2013 年、紫峰出版、共訳)       沖縄戦下の日米インテリジェンス(2013 年、紫峰出版)       沖縄戦のトラウマ(2014 年、紫峰出版)       沖縄戦捕虜の証言(2015 年、紫峰出版)       沖縄戦と海のモルフェー(2016 年、紫峰出版)       沖縄戦将兵のこころ(2016 年、紫峰出版)

 沖縄戦の集合的記憶

2017 年 10 月 1 日第 1 版発行

  戦争日記と霊界口伝

著者 保坂廣志 定価  2,800 円+消費税

         H. Hosaka             2017

©

発行所 紫峰出版 ( しほうしゅっぱん) 〒 300-3253   茨城県つくば市大曽根 2743-3   電話 029-864-3493   メール info@shiho-shuppan.com    http://www.shiho-shuppan.com

ISBN 978-4-907625-38-2   


沖縄戦の集合的記憶  

誰も戦争を知らない時代が到来する。フランスの社会学者アルブヴァックスは、自分が経験しなくとも『集合的記憶』で過去を知ることが出来るという。時間が経過してもなお、戦争日記や手紙は人びとの目を捉えて離さない。沖縄土俗のシャ-マンは、死者を自身の肉体に憑依させ、死者の言葉で戦争を語る。...

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