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沖縄戦捕虜の証言 うが

- 針穴から戦場を穿つ- 上巻 保坂廣志

紫峰出版


沖縄戦捕虜の証言 うが

-針穴から戦場を穿つ- 上巻 保坂廣志

紫峰出版


表紙写真 収容所に移動する前に海兵隊集積所(一時的収容所)に集められた日本軍 捕虜。認識票を身につけていないため、未だ基礎尋問は行われていない。 気色ばって見えるが、おそらく内心は捕虜後の米軍の処遇について考え あぐねているからだろう。6 月 20 日 沖縄県公文書館= OPA 98-13-3 裏表紙写真 米軍上陸日の沖縄の自然風景(読谷村一帯)1945 年 4 月 1 日 沖縄県公 文書館= OPA 80GK-5206


写真 1  南部沖縄の海岸部にて捕虜になった日本兵    集団で手をあげて投降した。本島南部 6 月末  OPA22-33

写真 2  瀬長島にて集団投降した日本軍            6 月 9 日  OPA22-07


写真 3  仲間が隠れる壕で投降を呼びかける日本兵    壕内から狙撃されることもあり、命がけの呼びかけであった。    月日不明  OPA22-80

写真 4  投降後、身体検査と所持品検査を受ける日本兵    手帳の間に家族の写真が挟み込まれているのが見える。      本島南部 6 月末  OPA22-33


写真 5  投降票(命を助けるビラ)を手にして米軍に投降する日本兵 挙動不審な態度を示せば撃たれるため、ビラを示しながら米兵の間 をゆっくり歩いている。本島南部 6 月末  OPA22-33

写真 6  尋問にこたえる日本兵 本島南部 6 月末  OPA22-33


写真 7  捕虜直後、尋問を受ける日本兵    左の兵士は尋問にじっと耳を傾けているようだ。         本島南部 6 月末  OPA22-81

写真 8  地図を示しながら日本軍情報を伝える日本兵          4 月 15 日  OPA110-04-2


写真 9  捕虜一時待機所(捕虜直後の日本兵) これから米軍尋問を受ける兵士の顔には不安な気持ちがあふれてい る。6 月 19 日  OPA22-03

写真 10  捕虜一時収容所 これから本格的な尋問が始まるところで、事前の指示を受けている ところ。 6 月 20 日  OPA22-18


写真 11  一時集積所内の日本軍捕虜  米軍尋問直前の緊張した時間である。 6 月 19 日   OPA22-03

写真 12  捕虜収容所で応急治療を受ける日本兵    重傷患者はこの後米軍野戦病院に転送されることなる。       本島南部 6 月末  OPA20-02


i

序文

米国立公文書館には、沖縄戦捕虜尋問調書 850 人分ほどが保存されて いる。戦争に関わる当時の国際法では、捕虜は保護されるべき対象であ り、氏名、階級、認識番号等最小限のことだけを述べればいいことになっ ていた。ところが沖縄戦捕虜の場合、軍歴は言うにおよばず、戦争全般に ついて多くを語っているのが特徴的である。 死から生へと帰還できた捕虜たちは、米軍尋問官に対して戦場下での 体験を肉声でもって述べている。捕虜たちは、それまで内に秘めていた じづら

感情を一挙に放出すかのように語り、調書に書かれた字面は戦場のうめ きや吐息のように見える。その時、誰も尋問調書が公開されるなど考え 及ばなかったであろう。ある沖縄県出身上等兵は、上官と撃ち合いとなり 部隊逃亡したと述べている。傷の痛みに耐えかね、沖縄人に強いられた 差別に怒りを顕わにし、彼は尋問官のいるところで男泣きしている。大 阪出身者からなるある部隊の生存者 7 人は、ひたすら生き残ることだけ を考え集団で最前線を逃げ回ったという。さらに沖縄出身のある兵卒は、 親の介護に腐心し徴兵を逃れてきたが、沖縄戦開始後ついに動員されて しまった。彼の尋問調書は、家族の安否にあふれている。戦争は自分に 関係ないことだと述べる傍ら、生き別れの妻子に自分は負傷してしまい 何もしてやれない悲しみを訴えている。万巻の書を紐解き戦争の何たる かを理解するより、わずか一枚程度の調書がいかに心打つか本捕虜の証 言は教えている。 さらに尋問調書には、 約 40 人分の朝鮮半島出身者の証言が残ってい る。戦場下で朝鮮人兵士や軍夫に強いた日本兵の偏見・差別は、彼らの へいどん

日本語の語りの中に怒りや悲しみとなり記述されている。他民族を併呑 し内鮮一体を標榜しても、実態は民族の怒りを買っていたのである。沖


ii

縄戦で生き残った彼らの何人かは、戦場を脱走し、米軍に投降している。 彼らの尋問調書を見ると、生き残った喜びと共に、将来の母国に希望を 抱いていることがわかる。生存の確かさは、個人の領域を越え大きな未 来へと繋がっていたのだろう。 それにしても九死に一生を得て、針穴のような戦場から這い出た生還 者たちは、何と奔放な語りをするのであろうか。それまでの軍紀や軍律 が嘘であるかのように、連綿と言葉が飛び出てきている。捕虜になった 理由は様々あるが、ひとたび生命の安全が確保され、食料、水、医療救 済がなされると捕虜は堰を切ったかの如く語り始める。日本兵は、彼が 知り得る情報を尋問官に見せつけることにより、軍隊内の序列の高さを 示そうともする。これは、米軍にとり格好の情報源であった。尋問官は、 米軍戦術や今後の戦略を頭に入れ、日本兵の誠実性と責任感に敬意を払 いつつ根こそぎ機密情報を引き出していく。その意味で、尋問調書は兵 士らの戦争観を表すとともに、戦場でしかかいま見ることの出来ない身 上書なのかも知れない。捕虜一人一人の訴えはわずかだが、それが層を なすことにより戦争の悲惨さと深刻さ、さらに事態の危機的状況も見え てくる。尋問調書は、第一次資料の中でも傑出した沖縄戦体験者の証言 なのは間違いないであろう。 ちなみに沖縄戦証言は、戦後 70 年間にわたる重厚な証言野を構築して きた。米軍の手になる映像や写真記録は別として、沖縄戦体験者が戦場か ら持ち出し得たものは証言と呼ばれる「語り」しかなかったわけである。 戦争証言採録に当たる者は、事前の歴史認識や了解事項に基づき戦争を 聞き出し、それを組立て、物語化していった。それに比して尋問調書は、 形式に基づく調書採録という形をとりつつも、内容は千差万別、千々に乱 れ、何があってもおかしくない世界が描かれている。また明らかに虚偽 内容も多く、辻褄が合わない証言が多いといった方が正鵠を得ていよう。 そこで私は、尋問調書の分析に際し証言領域の重なりに着目し、同種 の証言を幾重にも重ね焼きする方法を採用した。これは方法論に関わる 手法であるが、重ね焼き法を採用することにより、証言の意味内容と正 確性を形あるものにしょうと考えたからである。 さらに、従来の通史的な沖縄戦証言記録方法とは異なる分析枠を使用


iii

した。調書内容の濃淡にも関わるが、現代にも通じるテ−マを重点的に選 択することにしたのが特色であろう。例えば、沖縄人(ウチナ−ンチュ) の思考や行動様式を中心に据え、防衛隊員の逃亡や戦線離脱、対本土出 身兵士に対する反応、沖縄人の嘆き等を記述した。また一般兵士にあっ ては、捕虜観や米軍への協力、逃亡兵や遺棄された兵士の証言等につい て述べた。朝鮮半島出身者の証言は、章を立てほぼ全員の証言を採録し た。特に証言記録を中心に米軍資料を掘り起こし、朝鮮人の沖縄戦動員 概数を割り出したことは、今後の研究のはずみとなろう。さらに戦場で 引き起こされた出来事や事件についても言及した。それは戦闘神経症や 沖縄戦下の流言蜚語であり、日米双方の捕虜虐殺問題等である。これら 尋問調書から割り出せたテ−マをもとに、従来の重厚な証言記録と照合 し、より多角的で高度な証言分析が可能となるであろう。戦場からの生 還者の証言と重ね合わせ、さらに証言領域が深まることが一番望ましい ことである。 じょうし

最後に、本書は戦後 70 年の節目を期して上梓するものである。戦争は 過去のものとなったが、この間日本は過去と真摯に向き合い、国際平和を 希求する国であったのだろうか。いつの時代にも愛国者然とするものた ちが、戦前の日本(軍)はアジア諸国に対し良いことも行った等と言う 場合がある。しかしこの論議ほど、無理無体なものはない。そもそも論 議の出発において、徴発的で侮蔑的なのである。こちらがいくら平和を 唱えても、相手がそれを否定する場合、それは平和とはいえないだろう。 沖縄を巡る内外からの厳しい状況が今現在も続いている。しかし悲観ば かりは言っていられない。かつて沖縄に戦(いくさ)がやってきて、生存 自体が危殆に瀕した時代があった。多くの生命が潰えた沖縄だが、生者 はいつだって戦争の罪業を打ち続けてきた。今新たに戦場の針穴からの うが

証言に寄り添い、針穴を穿ち、生存者は何を訴えたかを知りたいもので ある。本書が、その一縷の希望になれば望外の喜びである。

2015 年 6 月 南僻庵にて

保坂廣志


v

注 記

人名表記の扱い 尋問調書中の人名はローマ字表記が原則であるが、語学兵に求められ 本人が漢字表記したものがある。本書では、姓については推測可能な場合 には漢字をあて、名はローマ字表記からカタカナで統一した。個人名の 表記が問題を引き起こす恐れのある場合はイニシャル表記とした。人名 は偽名を含むが、判明したものは本文中にその旨ことわりを入れた。沖 縄県出身者の人名漢字は、通常使用範囲内で表記した。

個人情報の扱いについて 戦争期の情報であっても、個人情報は秘匿することが望ましいことは 言うまでもない。しかし、本書では 3 百人以上に及ぶ捕虜尋問調書を採 用していることもあり、通常の個人秘匿扱い(例えば A さん、B 中尉、

C 夫さん等)では、書籍としての体裁を超えることになってしまう。そ こで、本書では個人情報に関わる基本的責任は筆者が負うこととし、そ の中で特段、個人情報の露出が関係者に迷惑を及ぼすと判断されるもの については個人名をイニシャル表記とすることにした。結果的に本書の 扱いは、個人情報の保護から離れてしまうが、戦争本来の責任は個人で はなく組織や国家が負うべきもので個人に収斂されるべきことではない と考え、基本情報に添い人名表記を行った。読者諸氏のご寛恕を得られ たらば幸いである。


vi

地名表記について 「平成の合併」により、沖縄県下市町村名は、大きく変化した。本書で は、戦時記録書ということもあり、戦前期の市町村名を表記した。また 個々の地名についても、極力戦時期の地名に照応させたが、戦前期の習 慣的使用や廃字等もあり完璧を期したとは言い難い。 戦前の行政区画は図 4(xii 頁)に、また現在の行政区画との対応は表

1(xiii 頁)に示した。主な地名については図 2 と 3(x,xi 頁)に示した。

英文資料の訳語、出典等の表記について 本書の原典は、ほぼ全てが米国立公文書館 (NARA) 保存の戦時記録か らなる。月日が連なる個人調書は、同一の資料群(箱番号と呼ぶ)に入っ ていることが多く、そのため出典・箱番号は同じでも引用者が異なること が多い。そのため、特別なことがない限り、英文出典はその都度表記し た。すなわち、一般の書籍では「同上」と記載すべきところを、その都度 フル表記したということである。なお、翻訳に際し英語からくる独自の 用語と共通語訳の場合があるが、基本的には共通語訳にあわせた。例え ば、民間人収容所は正しくは民間人保護施設であるが、通常表記に統一 して民間人収容所と表記した。また捕虜収容所と捕虜の集積所とは異な るもので、収容所とは基本的に金網で仕切られ、兵舎型の収容所のこと であり、集積所とは、収容所に移動する前の一時的収容所のことを差す。 さらに軍属、労働者、労務者、沖縄出身兵等、個人の属性に関わる表記 には一貫性がないと言える。すべて尋問調書記載の通り、表記した。

沖縄人の表記について 原文では OKINAWAN,OKINAWA 人と使用されるのが一般的で、本 土出身兵士と区別して使用されていると考えられる。また、民間人や沖 縄出身兵士、軍属も OKINAWAN と表現される場合が多い。そうすると 沖縄人とは、表記の上から本土出身兵士と区別する場合に使われ、特別 な意味を含む使用法とは考えにくい。ただし、戦前期の沖縄は、沖縄人と


vii

呼称することによりある種の区別化(差別を含む)をする言葉と使用さ れている場合も否定できない。本書では、沖縄が住民を巻き込む国内唯 一の戦場となったという地理的特性から出発し、そこに居住する者を第 一義的に沖縄出身者=沖縄人と名付けた。しかし、それもある種方便的 であり、沖縄出身兵士の調書にもあるように、多くの県民が「沖縄」人で あることにより偏見や差別を受けたことも多い。その意味で、沖縄(人) とは、社会的解釈を含む複合的意味をもつネ−ミングと考えていいだろ うし、その意味で使用を行った。

防衛隊について 大きくわけて防衛隊は、軍人と軍属とに分類できる。しかし地域が戦 場となった場合、平和時の分類は有効ではなく、各部隊が自由に沖縄人 を戦場動員するなど混乱が見られる。また動員された防衛隊員の中には、 戦時下の労働徴用からそのまま戦場動員される等、本人が果たして軍人 なのか徴用労働者なのか判定困難な場合も多い。そのため、本書では防 衛隊員の表記については尋問調書記載通りとすることにする。ちなみに 研究者によっては、防衛隊の身分について厳密に区分している場合があ るが、尋問調書を研究するものにとり、それら区分は建設的なものとは いえないだろう。

朝鮮出身者の表記について 朝鮮出身者が徴用、徴発、徴兵等により沖縄全域に動員され配属され た部隊は、優に 40 部隊以上に及んでいる。このうち現在把握できた朝 鮮出身者の尋問調書は、41 人分である。基本的に米軍では、尋問段階で は朝鮮出身者を Korea(Korean) と呼び、日本軍捕虜と同一に扱っている が、表現については多様に及んでいる。例えば朝鮮人軍属、朝鮮人人夫、 労務者等である。正確に言えば、徴用者、徴発者、徴兵者等は全て法的 に異なるものだが本書では、意味合いから適宜朝鮮出身者の呼称を変え た。なおその中で「朝鮮人」という呼称も出てくるが、それは朝鮮民族


viii

という意味であり、国家や国籍を表すものではない。その上でもなお、問 題がある表記、記述があればその責任は偏に筆者にあることをお断りす る所存である。その場合、他の扱いと同様に後日訂正や修正を行うこと を重ねて述べるものである。

犯罪調書の扱いについて 基本的に、事件を巡る個人名の扱いが問題となる。今回の「米軍によ る捕虜違法処刑事件」については、未だ軍事裁判への移送か決められた だけで結果を表したものではなく、他の尋問調書と同様に個人名記載は 可能だと判断した。ちなみに米本国での犯罪調書は、公開が禁じられて いるが裁判にいたる法的論議はその限りではない。むしろ、戦時下にお ける大量殺人と言われるアトロシティや残忍・残酷な事件についての規 制が大きいと言わざるをえない。本書の資料に際しても、公開が禁止さ れている記録類もアトロシティ関係がほとんどであった。 なお、証言掲載について削除希望がある場合、ご連絡いただければ対 応をとりたいと存じます。出版社あて手紙、 E メ−ル等でご連絡下さい。


ix 辺戸岬 4/13

西銘岳

I

伊江島

本部半島

城山

伊江島飛行場 4/16 77D

與奈國岳

乙羽岳

K

伊湯岳

4/19 八重岳

4/15 真部山 嘉津宇岳

多野岳 4/8 名護 4/7

名護岳

一岳

4/5 久志岳 4/4 北 飛 行 場

G

恩納岳

4/3

4/2

名嘉真岳

石川岳

読谷山

金武湾

海兵 6D

4/1

海兵 7D 7D

神山島 南 飛 行 場 5/3

3/31

中 飛 行 場

平安座島

96D

浜比嘉島

運玉森 4/8 62D 小 那覇 東飛行場 禄 雨乞森 首里 飛 5/31 行 場 24D 44MBs 八重瀬岳 知念半島 與座岳 6/20

慶良間諸島

中城湾

座間味島

4/3

3/26 阿嘉島 3/26 慶留間島

3/27

渡嘉敷島

77D

6/11 摩文仁

図 1  沖縄戦要図 影付き実線は米軍上陸前の日本軍の防御線。点線は遊撃隊の活動範 囲。日付のついた実線は米軍の進出線。 符号:D(師団) 、MBs(独立混成旅団)、 G(遊撃隊)、 K(国頭支隊)、 I(伊江島地区隊) 参考文献:防衛庁防衛研修所室『沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社 1968) 付図第三「第 32 軍沖縄本島配備要図」付図第四「沖縄地上作 戦経過概見図」付図第八「国頭方面部隊配備概要図」を元に作成。


x 辺戸岬 奥

西銘岳 宇良

伊江島 本部半島

城山

辺土名 古宇利島

今帰仁 伊江島飛行場 乙羽岳

喜如嘉

運天 屋我地島

玉城

与那覇岳 伊湯岳

八重岳

水納島

嵐山 真部山 嘉津宇岳 田井等

瀬底島

源河 仲尾次

有銘

多野岳

名護湾

名護

名嘉真 恩納岳

名護岳

一岳

大湿帯

久志岳

名嘉真岳

古知屋

石川岳

北飛行場

屋嘉 山田 楚辺

石川

金武湾

読谷山 喜名

宮城島

嘉手納

渡具知

中飛行場

喜舎場

胡屋

与那城

泡瀬

藪地島 大山 牧港

野嵩

伊計島

中城湾

勝連岬

平安座島 浜比嘉島 0

10km

与勝半島

図 2  主要地名 1(北部∼中部) 本書で取り扱う地点を地図に表示。丸印は代表点。 参考文献: 『沖縄方面陸軍作戦』付図第四「沖縄地上作戦経過概見 図」付図第七「昭和二十年四月七日、八日ころの第一線戦況図」、付 図第八「国頭方面部隊配備概要図」を元に作成。


xi

大謝名 港川 城間 屋富祖

南飛行場

牧港

真栄原

嘉数

伊祖 宮城 小湾

シュガーローフヒル

天久 銘苅

波之上 那覇 鏡水 住吉

牧志

小禄 飛行場

国場 安次嶺

宮城

中城湾 与那原

饒波川

雨乞森 古堅

長堂 宜寿次

瀬長島

4/8 米軍進出線 和宇慶

板良敷 馬天 屋比久

神里 高平 友寄 大城

翁長

知念半島

嶺井

国場川

津嘉山

豊見城

上原

翁長 東飛行場

識名 真玉橋

小禄

具志

伊集

弁ケ岳 運玉森

繁多川

垣花

棚原

幸地

大名 石嶺 首里

山川

真嘉比

安里

前田

経塚

沢岻

安謝

津覇

仲間

安波茶

手登根

久手堅

目取真 糸数

小城 前川

志多伯 東風平

座波

世名城

新城 富盛

兼城 照屋

糸満

国吉 真栄里

與座岳 八重瀬岳

湊川 具志頭

玻名城

新垣

仲座 前栄平

波平 喜屋武

米須 山城

糸州

大渡 摩文仁 0

5km

図 3  主要地名 2(南部) 本書で取り扱う地点を地図に表示。首里市、那覇市、糸満町に関し ては 5 万分の 1 の地図 (陸軍測地測量部 1923 年)による集落範囲。 その他の場所に関しては代表点。 参考文献:『沖縄方面陸軍作戦』付図第四「沖縄地上作戦経過概見 図」、付図第七「昭和二十年四月七日、八日ころの第一線戦況図」、 付図第十「第三十二軍南部陣地配備要図」を元に作成。


xii

国頭村 伊江村 大宜味村

今帰仁村

東村

本部町 羽地村 名 護 町

久志村

村 納 恩 金武村

読谷山村

北 谷 村

宜野湾村 真和志村 那覇市

美 越 里 来 村 村

具 志 川 村 与那城村

中 城 村

勝連村

浦添村

西原村 首里市 南 風 大 原 里 東村 村 佐敷村 豊見城村 知念村 風 玉城村 兼城村 平 糸満町 村 具 志 高嶺村 頭 真壁村 村 喜屋武村 摩文仁村 小禄村

図 4  戦前の沖縄県の行政区画 戦前(1945 年 1 月現在)の行政区画。1896 年時点の郡区割り図(宮 城栄昌、高宮広衛 編『沖縄歴史地図 歴史編』柏書房 1983 p.74)を元 に、その後の変遷を加味した。郡区の変遷についてはサイト「市町村 の変遷」http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/ sityoson.htm を参照した。


xiii

戦 前

現 在

国頭郡(くにがみぐん)

戦 前

現 在

島尻郡(しまじりぐん)

国頭村(くにがみそん)

国頭村

真和志村(まわしそん)

那覇市

大宜味村(おおぎみそん)

大宜味村

⼩禄村(おろくそん)

那覇市

東村(ひがしそん)

東村

豊⾒城村(とみぐすくそん)

豊⾒城市

羽地村(はねじそん)

名護市

兼城村(かねぐすくそん)

糸満市

今帰仁村(なきじんそん)

今帰仁村

糸満町(いとまんちょう)

糸満市

伊江村(いえそん)

伊江村

⾼嶺村(たかみねそん)

糸満市

本部町(もとぶちょう)

本部町

真壁村(まかべそん)

糸満市

名護町(なごちょう)

名護市

喜屋武村(きゃんそん)

糸満市

久志村(くしそん)

名護市

摩⽂仁村(まぶにそん)

糸満市

恩納村(おんなそん)

恩納村

南風原村(はえばるそん)

南風原町

⾦武村(きんそん)

⾦武町

東風平村(こちんだそん)

⼋重瀬町

宜野座(ぎのざ)村

具志頭村(ぐしちゃんそん)

⼋重瀬町

うるま市

大⾥村(おおざとそん)

南城市

佐敷村(さしきそん)

南城市

与那城村(よなぐすくそん)

うるま市

⽟城村(たまぐすくそん)

南城市

勝連村(かつれんそん)

うるま市

知念村(ちねんそん)

南城市

美⾥村(みさとそん)

沖縄市

渡嘉敷村(とかしきそん)

渡嘉敷村

越来村(ごえくそん)

沖縄市

座間味村(ざまみそん)

座間味村

読谷⼭村(ゆんたんざそん)

読谷(よみたん)村

伊平屋村(いへやそん)

伊平屋村

北谷村(ちゃたんそん)

北谷町

伊是名村(いぜなそん)

伊是名村

嘉⼿納町

仲間村(なかまそん)

久米島町

北中城村

具志川村(ぐしかわそん)

久米島町

中城村

粟国村(あぐにそん)

粟国村

宜野湾村(ぎのわんそん)

宜野湾市

渡名喜村(となきそん)

渡名喜村

浦添村(うらそえそん)

浦添市

大東島(村制なし)

⻄原村(にしはらそん)

⻄原町

具志川村(ぐしかわそん) 中頭郡(なかがみぐん)

中城村(なかぐすくそん)

⾸⾥市(しゅりし)

那覇市

那覇市(なはし)

那覇市

北大東村 南大東村

表 1  戦前と戦後の行政区画の対応 戦前 (1945/1) と現在 (2015/5) の郡区名。本島及び周辺離島(那覇 市、首里市、国頭郡、中頭郡、島尻郡)


xiv 第32軍 司令部、法務部 第24師団

第62師団

司令部、通信隊

司令部

歩兵第22連隊  第1大隊

第63旅団

歩兵第32連隊  第2大隊

司令部、通信隊

歩兵第89連隊

独⽴歩兵第11大隊

捜索第24連隊

独⽴歩兵第12大隊

野砲兵第42連隊

独⽴歩兵第13大隊

輜重兵第24連隊 第24師団区分

独⽴歩兵第14大隊 第64旅団 司令部、通信隊

 機関砲第104大隊

独⽴歩兵第15大隊 独⽴混成第44旅団

独⽴歩兵第21大隊

司令部

独⽴歩兵第22大隊

第2歩兵隊(国頭支隊)

独⽴歩兵第23大隊

独混第15連隊 第3大隊

第62師団区分

砲兵隊?

 独⽴機関銃第14大隊

病⾺廠?

 独⽴速射砲第22大隊  戦⾞第27連隊  野戦⾼射砲第81大隊

国頭支隊 第2歩兵隊  第1大隊

 特設警備第223中隊

       第2大隊

 独⽴歩兵第272大隊

第3遊撃隊 (第1護郷隊)

 独⽴歩兵第273大隊

第4遊撃隊  軍砲兵隊

軍船舶隊

第5砲兵隊 司令部

第11船舶団

重砲兵第7連隊

 船舶⼯兵第23連隊

野戦重砲兵第1連隊第2大隊

 船舶⼯兵第26連隊

独⽴重砲兵第100大隊

 海上挺進第1戦隊

独⽴⾅砲第1連隊

 海上挺進第27戦隊

迫撃第43大隊

第5海上挺進基地隊本部

独⽴⼯兵第66大隊

 海上挺進基地第1大隊  海上挺進基地第2大隊  海上挺進基地第3大隊

軍⾼射砲隊 第21野戦⾼射砲隊

 海上挺進基地第26大隊

野戦⾼射砲第80大隊

 海上挺進基地第27大隊

表 2  日本軍部隊一覧 (1)


xv

第32軍直轄部隊その他 第502特設警備⼯兵隊

陸上勤務第72中隊

第503特設警備⼯兵隊

陸上勤務第83中隊

第504特設警備⼯兵隊

特設⽔上勤務第101中隊

電信第36連隊 第6中隊

特設⽔上勤務第102中隊

  独⽴有線第106中隊

特設⽔上勤務第104中隊

  独⽴無線第115⼩隊

第2野戦築城隊

第44⾶⾏場大隊

要塞建築勤務第6中隊

第50⾶⾏場大隊

中央航空管路部沖縄航空

第56⾶⾏場大隊

管区(風部隊)

第49兵站地区隊本部

沖縄陸軍病院,⾼平野戦病院

 渡久地支部、嘉⼿納支部

第27野戦防疫給⽔部 

第7野戦船舶廠沖縄支廠

(藤井部隊)

第7船舶輸送司令部沖縄支部

第32野戦兵器廠

第32野戦貨物廠

第32野戦貨物廠

独⽴自動⾞第259中隊

第32軍防衛築城隊 第42野戦航空廠 ?

海軍 沖縄海軍根拠地隊  司令部  丸⼭部隊(海軍第1独⽴大隊)  礎部隊(⼭根部隊)、護部隊  巌部隊、勝⽥隊  第27魚雷艇隊(⽩⽯部隊)  第42震洋隊(井本隊)  第2蛟龍隊(鶴⽥隊) 海軍軍需部那覇支部

表 2  日本軍部隊一覧 (2) 本書で扱われる日本軍部隊を第 32 軍編成表に従って分類した。 ?を付したものは編成表に記載されていない部隊である。 参考文献: 『沖縄方面陸軍作戦』付表「沖縄作戦関係部隊一覧表」 なお、特設旅団関係は同書 p.176、国頭支隊関係は同書付図八「国頭 方面部隊配備要図」を参照した。


xvi ※ 1  米軍侵攻の直前 (1945/3/21)、航空、船舶、後方関係諸部隊 を地上戦闘用に再編成した。 特設第 1 連隊 特設第 1 旅団  特設第 2 連隊  特設第 3 連隊  特設第 4 連隊 特設第 2 旅団  特設第 5 連隊  特設第 6 連隊

航空関係 兵站関係 兵器廠関係 貨物廠関係 海上挺進戦隊出撃後の残留員 船舶関係

※ 2  沖縄本島中北部(国頭郡)の防衛は国頭支隊が担当した。支 隊本部と第 2 歩兵隊第 2 大隊他は八重岳周辺の守備、第 2 歩兵隊第 1 大隊他は伊江島地区隊となって伊江島を守備した。石川岳∼多野 岳の領域には第 3,4 遊撃隊を配備した。   ※ 3  独立歩兵第 272 大隊、273 大隊は、石垣島所在の独立混成第 45 旅団に配属予定の部隊であったが、第 9 師団の台湾転出のため沖 縄本島防衛に充当され、第 62 師団の配下となった。


xvii     第10軍 司令部 対敵情報隊(CIC)

第10軍直轄部隊

情報部 ⼼理作戦課  戦闘情報収集課(CICA)

第2海兵師団    第27師団 情報部

第24軍団

第165連隊

情報部 写真解析班

第106連隊  

第7師団

第77師団

情報部

第305連隊

第32連隊 第96師団 第314連隊 第381連隊 第383連隊 第3海兵軍団 第1海兵師団  情報部 第6海兵師団  情報部 第22連隊 第29連隊

表 3  米軍部隊一覧 本書で扱われる米軍部隊を編成別に整理した。参考文献: 『沖縄方面 陸軍作戦』付図第五にある米軍編成図。


xix

もくじ

序文

i

注記

v

第 1 章 沖縄戦捕虜の実態

1 1 1

1.1

1.2

捕虜とは何か . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

1.1.1

生身の沖縄戦捕虜 . . . . . . . . . . . . . . . . . .

1.1.2 1.1.3

沖縄戦捕虜と情報露出 . . . . . . . . . . . . . . .

沖縄戦と捕虜 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

1.2.1 1.2.2 1.3

捕虜と防衛隊問題 . . . . . . . . . . . . . . . . . . 米軍沖縄上陸前の捕虜の取り決め . . . . . . . . . 対敵情報隊分遣隊と捕虜の割出し . . . . . . . . .

沖縄戦捕虜尋問調書の所在 . . . . . . . . . . . . . . . . .

7 16 20 20 27

1.3.1

兵士の尋問 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

35 35

1.3.2 1.3.3

民間人尋問 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

37

捕虜尋問調書の特性 −年齢、階級、出身地別等統計 . . . . . . . . . .

43

1.4 まとめ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 脚注 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

51 57

第 2 章 沖縄人(ウチナーンチュ)の証言

2.1

はじめに . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

2.2 2.3 2.4

戦(いくさ)がやって来た . . . . . . . . . . . . . . . . . 防衛隊員の逃亡 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 民間人と日本兵との軋轢 . . . . . . . . . . . . . . . . . .

63 63 65 68 81


xx

2.5 2.6 2.7

防衛隊員に対する日本軍の扱い . . . . . . . . . . . . . .

2.8 2.9

戦場下の方言問題 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

投降後の防衛隊員の対米協力 . . . . . . . . . . . . . . . . 沖縄人(ウチナーンチュ)スパイ説 . . . . . . . . . . . . 沖縄人(ウチナーンチュ)の嘆き . . . . . . . . . . . . .

111 116

2.10 女性民間人・女性捕虜の証言 . . . . . . . . . . . . . . . . 2.11 民間人の証言 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2.12 公務員と沖縄戦 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

118 132 145

2.13 メディアと戦争 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2.14 まとめ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

155 164

脚注 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

167

第 3 章 沖縄戦の日本軍捕虜の証言

3.1 3.2

3.3 3.4 3.5

下巻

91 94 98

はじめに . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 捕虜は恥か否か . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

3.2.1

捕虜は恥である . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

3.2.2 3.2.3

捕虜は恥ではない . . . . . . . . . . . . . . . . . . 自決・自決命令・自決失敗 . . . . . . . . . . . . .

遺棄された兵士 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

175 175 176 176 196 202

まとめ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

214 233 248

脚注 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

250

戦争神経症

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

第 4 章 米軍に協力する兵士たち

4.1 4.2

米軍宣伝ビラ作成協力申し出 . . . . . . . . . . . . . . . .

4.3 4.4 4.5

日本軍掃討作戦に協力 . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

日本軍投降呼びかけに協力 . . . . . . . . . . . . . . . . . 対日心理戦への協力

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 軍事機密の暴露 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4.5.1 4.5.2

民間人の情報暴露 . . . . . . . . . . . . . . . . . .

257 258 274 278 284 290

日本軍兵士の情報暴露 . . . . . . . . . . . . . . .

292 296

脚注 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

306


xxi

第 5 章 生き延びる術

5.1 5.2

311 逃げる兵 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 311 兵士の偽装 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 330 5.2.1 5.2.2

5.3 5.4 5.5

民間人に偽装して投降 . . . . . . . . . . . . . . . 民間服に偽装して逃亡・投降

民間人に紛れて逃亡

. . . . . . . . . . .

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

330 333

負傷兵の投降 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

336 350 375

脚注 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

384

自主投降者の証言 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

第 6 章 日本軍・米軍による捕虜虐殺

389

6.1 6.2

日本軍による米軍捕虜の虐殺 . . . . . . . . . . . . . . . .

6.3 6.4 6.5

日本兵による米海兵隊員の虐殺 . . . . . . . . . . . . . .

奄美大島の米軍捕虜の処遇 . . . . . . . . . . . . . . . . . 米兵による日本兵虐殺 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 米軍による捕虜違法処刑事件 . . . . . . . . . . . . . . . .

6.5.1 6.5.2

処刑事件のあらまし . . . . . . . . . . . . . . . .

389 405 408 411 413

. . . . . . . . . . .

413 417

6.5.3 処刑実行者・命令者の証言 . . . . . . . . . . . . . 6.5.4 処刑事件の裁判移送判決 . . . . . . . . . . . . . . 脚注 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

422 425 429

憲兵隊員・兵士・通訳の証言

第 7 章 朝鮮人軍夫と沖縄戦

7.1

朝鮮出身者の尋問調書一覧 . . . . . . . . . . . . . . . . .

7.2 7.3

朝鮮出身者の沖縄への応徴=強制連行 . . . . . . . . . . .

7.4 7.5 7.6

朝鮮出身者の尋問調書 . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

慶良間諸島の朝鮮人軍属 . . . . . . . . . . . . . . . . . . 米海兵隊に捕虜となった朝鮮出身者 . . . . . . . . . . . . 朝鮮人配属部隊(沖縄本島及び周辺離島)及び動員数 . .

第 8 章 戦い敗れて

8.1

433 434 436 440 442 465 466

479 戦場のユリの花 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 480


xxii

8.2 8.3 8.4

対岸の戦争

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 撃たれ続ける捕虜 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 針穴を這い出る術 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

484 487 488

8.5 8.6

同床異夢 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

1945 年 8 月 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

488 492

脚注 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

494

あとがき

497

写真・図表の一覧

499

索引

504 事 項 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 504 人 名 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 510


1

第1章

1.1 1.1.1

沖縄戦捕虜の実態

捕虜とは何か 生身の沖縄戦捕虜

沖縄戦終盤の 45 年 6 月 22 日から同月 29 日の一週間、米第 10 軍情報 や

部心理作戦課は、屋嘉捕虜収容所に移送されたばかりの日本軍捕虜を無 作為に抽出し、自由記述式のアンケ−ト調査を実施した。同期間中、米 軍に捕われた日本兵は 2,754 人であるが、このうち 13%にあたる 358 人 が有効回答している。米軍では、かねてより戦場での日本兵の心理状態 の分析を行ってきたが、調査方法の問題もあり、必ずしもありのままの日 本兵の意識を捕えることは出来なかった。そこで心理作戦課は、捕虜直 後に収容所に移送されたばかりの「生身の捕虜」(fresh POWs)の意識 を立証するため、戦場から収容所のゲ−トをくぐり抜けたばかりの兵士 を対象に「日本兵の意識調査」を実施した。(1) 本調査は、沖縄戦末期の日本軍意識を代表するものだが、 「生身の捕虜」 調査は生死すら覚束ない状況下で実施されただけに、より一層兵士の心 中が理解されるものである。調査を受けた兵士らは、それが何の目的で 行われるのか全く知らなかったであろう。兵士らは戦場地から直ちに捕 虜収容所に移送され、戦塵を振り払う間もなく調査表を渡された。アン ケ−ト全問に答え、それを収容所立会の米軍将校に手渡し、いよいよ生 死を分かつ収容所に閉じこめられることになるのである。これを境に兵 士らは戦場地からの「生還」者となり、生存者になったわけである。意識 調査に答える捕虜の映像が米軍記録に残っているが、収容所到着間もな い騒然とした状況から一転し、調査空間は清純そのものである。戦場記 憶を放出するほんの一瞬、兵士たちは確かに自身の戦争を、戦場を素直


第 1 章 沖縄戦捕虜の実態

2

に語ったのである。

写真 1.1  屋嘉収容所内でアンケ−トに答える日本兵 6 月 26 日  OPA22-33

さて、意識調査では、設問 8 で捕虜になる前に米軍の扱いについてど う考えていたかを質している(表 1.1)。 回答者全体(358 人)では、 「良い」が 157 人 (44%)、 「悪い」が 183 人

(51%)、「無回答」が 18 人 (5%) であった。本質問を階級別に見ると、下 士官クラスだけが「良い」と回答した者が、26 人(52%)と「悪い」の 22 人 (44%) を凌いでいる。これに対し准士官クラスでは「悪い」と答え た者が、10 人中 7 人で、7 割の者が否定的に答えている。また将校クラ スでは、 「悪い」と答えた者が 23 人(56%)おり、階級が上がるほど「悪 い」という回答が多くなっている。士官・将校に所属するものたちは、戦 どうかつ

場において米軍に捕まれば虐待を受けると兵士らを恫喝していたものた ちであった。将校クラスの日本兵は、捕虜直後であるだけに日頃の言動を そのまま記述したものと考えられる。すなわち、選択肢の「悪い」と回答 した者たちは、捕虜になれば残酷な仕打ちや殺されるのではないかとい う「恐怖心」をもち、調査時点でもそう考えていたことを表している。


1.1. 捕虜とは何か

3

% 80 60 40 20 0 良い

悪い

無回答

 

下士卒

44 %

51 %

5%

 

下士官

52  

44  

4 

 

准士官

30  

70  

0 

 

将校

37  

56  

7 

 

全体

44  

51  

5 

表 1.1  米軍による日本兵の意識調査−捕虜の処遇に対する意見 サンプル数= 358 人、数字は割合 (%)(小数点以下四捨五入)。出典 NARA RG407 Entry110-25 to 110 JICPOA Psychological Warfare Prisoner of War Poll Box 3004

捕虜になった日本兵が抱く恐怖心は、日本兵自体が米軍の捕虜の処遇 を巡る実態を知らないことが原因にあったのであろう。その反対に、米 軍にとり日本兵も未知の存在であった。一糸乱れぬ集団行動をとるかと ぎょくさい が ぜん

思えば、狂信的な自殺行為を行い 玉 砕 瓦全交錯する不可解な集団であっ た。これを示すかの如く、沖縄戦末期、本島最南端に閉じこめられた日本 きょうあい

兵は、 狭 隘 な地下陣地にこもり、逃走や自死(自決)、投降等を図るな ど軍律なき集団と化したのである。そこは、生と死とが幾重にも交錯す


63

第2章

2.1

沖縄人(ウチナーンチュ)の証言

はじめに

現存する沖縄戦関係の捕虜尋問調書は、842 人であるが、その内 374 人

(44.6%) が沖縄出身者である。内訳は軍人・軍属を申告したものが、235 人、純粋に民間人を名乗った者が 54 人、残りのものは身分・所属等の不 明者である。 沖縄現地での男子徴集は、大きく 3 期にわたり実施されている。第 1 期は、1943(昭和 19)年 6 月に実施された召集である。この時召集され た者は、主として特設警備大隊と呼ばれる部隊に徴用され、軍用航空基 地の整備・警護に当たっている。第 2 期は、44 年 11 月から 12 月にかけ て実施された召集である。17 歳以上 45 歳までの男子が対象となり、県 下全域の飛行場建設に従事した。さらに第 3 期の召集は、沖縄戦直前の

45 年 2 月から 3 月にかけての根こそぎ動員であった。緊急時に動員され た男子は、ほとんど軍事訓練が行われず、軍装もないまま戦場動員され、 動員数は約 2 万 5 千人と言われている。 戦史研究家の林博史は、沖縄戦期間中、前線に動員された防衛隊員は 「ほとんどが当初より軍からはまったく期待されず、支援をうけることも なく、そして米軍の前に短期間で撃破され,ほとんど意味のない犠牲と なった。飛行場大隊や防衛召集者がほとんどの特設警備工兵隊などの非 戦闘部隊が、軍主力温存のための捨て石にされたのである」と記してい る。(1)  さらに林は、防衛隊員の意識と行動を分析して、以下のように 説明している。 「防衛隊員で生き残った人たちの証言記録を見て目をひくのは、いわ ゆる戦線離脱(軍からの脱走)がきわめて多く、また上官の命令の拒否や 本土出身の正規兵への反抗などもみられることである。また自らすすん


第2章

64

沖縄人(ウチナーンチュ)の証言

で米軍に投降することもあった」。(2)  防衛隊員の逃亡に関わる原因と して林は、本土出身兵士の沖縄県民への差別や横暴、さらに妻子への心 配等を挙げている。 林の指摘は、沖縄戦と防衛隊問題を考える上で重要な問題を示してい る。それは、歴史的に日本本土の偏見や差別にさらされた地域の人間が、 極限で示した差別者への反抗や生命への慈しみ、家族への思い等を想像 させるものである。 もっとも第 32 軍でも、沖縄防衛召集者に対しそれなりの配慮をしてい たことが判明する。第 62 師団長の藤岡武雄中将は、3 月 6 日、防衛召集 兵に対し、次の訓辞を行っている。

「訓示 防衛召集兵へ(Defense Muster Conscriptees) 敵反抗の着実な展開、敵機の本島への絶えざる偵察等に伴い、昨秋以 来厳しい状況が強まって来ている。そこで諸子は、独立歩兵隊員として防 衛召集されたものである。諸子は、郷土にあり、互いにあるいは全員が、 郷土の代表として軍務に精を出すべし。諸子は、陸軍直轄部隊として重 責任務を引き継ぎ、互いに協力すべし。而して、帝国日本に対する森厳 なる責務を果たすことになろう。 我々は、多くの諸子を迎え、軍を強固たるものとした。諸子は、該地 を身近に知っており、深く満足するものである。在郷軍人として諸子は、 森厳なる責務を体験し諸子の決断と企図とを再確認せねばならぬ。諸子 は、家や家族に連綿とせず、軍生活、とりわけ軍務に励まねばならぬ。諸 子は、進んで隊長命令を遵守し、職務を十全に遂行し、寸暇を惜しんで精 を出すべし。諸子は、軍人精神を肝に命じ、日頃より勝利を確固たるも のにせよ。(中略)諸子は、敵スパイに対し特段の防諜意識を持ち、不注 意な軍機漏洩を避けるべし。最後になるが、諸子は大いなる責務を持ち、 健康に留意し、天皇の御宸襟を安んじ賜わらんことを切に願う次第なり。

1945 年 3 月 6 日 師団長 藤岡武雄 (第 62 師団)」。(3)  


175

第3章

3.1 「1

沖縄戦の日本軍捕虜の証言

はじめに く に

勝って来るぞと勇ましく 誓って故郷を出たからは 手柄たてずに 死なれよか 進軍ラッパ聞く度に まぶたに浮かぶ旗の波

 3

弾丸もタンクも銃剣も しばし露営の草枕 夢に出てきた父上に にら

死んで還れと励まされ 覚めて睨むは敵の空」。(1) これは、15 年戦争(1931-45 年)の軍歌第 1 号と知られる「露営の歌」 の歌詞の一部である。本歌は、戦陣訓の「郷党・家門」に通底するもので がいせん

あり、徴兵された男子は、凱旋帰還か戦死してこそ誉れであったわけであ る。それがこともあろうに戦場で生き延びて、しかも捕虜という汚名をき たからには、帰国はおろか家にも戻れないとする考えが将兵にはあった。 米軍捕虜となった「恥」意識が、捕虜尋問調書にも連綿と記されてい る。多くの兵士は「日本には戻れない」「どこか人が知らない場所でひっ そりと暮らしたい」 「家族には知らせないでほしい」と哀願しているのが 判明する。これら「恥」意識は、ある者にとり「自決」を決断させ、「処 置」という名の「他殺」を強い、生き恥という汚名を着せたのである。 ところで、沖縄戦中盤までに捕まった捕虜の言い分では、 「眠っている ところを捕まった」「負傷してしまいやむなく投降した」「飲まず食わず で身動きがとれなかった」等々、捕虜となった自分を正当化する理由を挙 げるものが多い。ここには、 「生きて虜囚の辱しめを受けず」との精神を 叩き込まれた兵士が、敵手におちたのは不本意なことで、「仕方がなかっ た」から捕まったのだと「恥」意識を払拭する方便として使ったことが見 てとれる。しかし、沖縄戦が事実上終結し、大量投降した捕虜たちの言 い分は違っている。彼らは、 「日本の精神力だけでは、米軍の火力に対し


第 3 章 沖縄戦の日本軍捕虜の証言

176

て太刀打ちできない」 「このような圧倒的な火力の差がある戦いは、戦争 じゃない」 「新生日本の再建に際し、いつか日本に戻ることに恐れを抱い ていない」など、自発的投降の理由を述べ始めている。これら日本軍将 兵の投降に大きな影響を与えたのが米軍による心理作戦、とりわけ投降 勧告を促すリ−フレット、週間新聞、投降票、声の呼びかけ等であった。 特に沖縄戦終盤では、日本軍将校に向けた宣伝作戦が効を奏したともい われている。 「(将校に対する心理)作戦は、目立った効果を上げている。しばしば 将校たちは米軍ビラについて部下たちと議論し、部下に投降を勧める事 実があったからである。将校や下士官は、軍部指導者同様に兵士らにとっ もろ

ての精神的支えであるが、彼らは精神的に脆く、彼らの士気をそぐこと が部隊全体の戦闘精神を効果的に蝕むことが立証されている。だが彼ら に投降を呼びかけるのは、非常に難しい。それというのも彼らは、自ら の威厳を保つことをなかば本能的に身につけているからである。しかし ながら、彼らのような知性があり教育を受けた者が、日本復興に必要な こと、そのためにも彼らは無益な戦争に生命を投げ出すべきではないと 説得することができた」。(2)  米軍にとりもっとも投降呼びかけに応答 するのが困難だと思われた将校だが、沖縄戦終結時点(6 月 21 日)から

6 月末までに陸軍で 100 人、海兵隊で 51 人を捕虜にしていることからも それが肯ける。 そこで、ここでは日本軍将兵が捕虜直後に米軍尋問調書で何を述べた かを分類・整理・整序し、恥意識、自決に寄せる精神的葛藤、遺棄された 兵士の精神等について分析を加えるものである。

3.2 3.2.1

捕虜は恥か否か 捕虜は恥である

カワムラ イチロー曹長(27 歳、栃木県出身)は、1938(昭和 13)年 3 月、防衛召集を受け満州の警備隊に配属となり、その後現地にて第 24 師 団通信隊に配属された。44(昭和 19)年 8 月、同師団は沖縄に派遣され

うんたまむい

た。同曹長は、45 年 4 月 29 日、沖縄本島南部より首里防衛地区の運玉森


257

第4章

米軍に協力する兵士たち

沖縄戦下にあって、多くの日本兵、民間人は米軍に協力している。そ の代表が軍事機密の暴露であろう。米軍への協力は、これ以外にも宣伝 ビラ作成への協力、投降呼びかけ、日本軍掃討作戦に協力等、広範に及ぶ ものである。さらに空からの特攻攻撃に参加、機体が炎上・破壊し沖縄近 海で捕虜となった航空兵は、対日心理戦への協力を申し出ている。 ちなみに 45 年 3 月 19 日、硫黄島にて自主投降した情報部に所属する ある軍曹は、沖縄戦での日本兵の大量投降について現地硫黄島にて質問 を受け、尋問官に次のように述べている。 「日本兵は現実主義者である。敗北が明らかになったとき、彼らは冷静 になる。沖縄で 1 日に 1,700 人が捕虜になったと聞かされ、彼は、そのこ とが多くの日本人が現実主義者だということを証明すると述べた」。(1) 証言を行った軍曹は、類い希な記憶の持ち主で日本軍暗号について多 くのことを述べるとともに、日本軍の組織や人となりについて情報提供 している。戦中・戦後を通じ日本兵に通底する思想は、菊と刀に代表され る皇軍観と武士道とが知られているが、沖縄戦捕虜の意見や対応を見る と、どうもそれだけでは収まらないものを感じる。そこで「現実主義」と いう考えを導入すると、ある程度、沖縄に参戦した日本兵の思考様式が 鮮明になってくる。それは、主義主張には拘泥せず、現実的に危機対応す る態度がある種の日本兵に濃厚に感じられるからである。反面、民間人 の場合、多くは戦場地沖縄の現実に屈服したともいえるが、自主的に身 を処すことは投降後の自らの将来の姿を想像することにもつながってい る。これは、生命に対する人間としての基本を示したものかもしれない。 すなわち、何があってもまずは生き延びることを立証したものであろう。


第 4 章 米軍に協力する兵士たち

258

4.1

米軍宣伝ビラ作成協力申し出

タキハラ タダシ中尉(31 歳 出身地不明)は、第 62 師団第 63 旅団独 立歩兵第 11 大隊の情報将校であった。彼は、44 年 2 月、防衛召集を受 け、44 年 8 月 20 日、中国上海から沖縄に上陸している。同大隊は、主に 西原村、浦添村に配備され、45 年 4 月の米軍の沖縄上陸の時には、西原 村翁長に布陣していた。その後、浦添村経塚に移動し、同陣地の撤退に 伴い 4 月 28 日、部隊は浦添村前田後方陣地にさらに撤退した。部隊本部 は、同地に地下壕(棲息壕)および連絡通路を造成し、敵の進攻を防ごう とした。5 月 5 日、ついに本部陣地壕は米軍に包囲され、夜間をついで首 里に撤退することになった。しかし、150 人ほどいた兵士は、相次いで米 軍の砲弾に倒れ、陣地には負傷兵約 30 人が取り残されてしまった。5 月

12 日、米軍は同陣地に爆薬を投下し、陣地の壊滅を図った。この時、タ キハラ中尉は、壕を這い出し米軍に投降した。 タキハラ中尉は、投降した時のことを以下のように述べている。 「彼は、先月以来投降の機会をうかがっていた。 (前田後方)陣地に 30 人ほどの負傷兵とともに、遂に米軍に投降することに決めた。壕は、爆薬 で閉じられたが、彼は別な出口を探し投降した。(中略)捕虜は、サンフ ランシスコ発の日本語ラジオ放送を聞いており、これら外国放送に影響 を受けた。これら(ラジオ)放送と米軍宣伝ビラは、真実以外の何もの も含んでいないと信じている。彼が知る限り沖縄の日本軍は、ドイツが 降伏したことは知らされておらず、彼自身もこのニュースは通訳から初 めて聞いたと述べている。このニュースは、前線部隊の兵士に失望感を 与えると思われ、士気も低下するだろうと述べている。捕虜は、個々の 日本人は、戦争指導者達に憎しみを覚えるようになってきており、戦争 指導者を排除する機会を待ち望んでおり、そうなれば、降伏出来るかも 知れないと確信している。しかし、宣伝ビラには、彼ら(注 戦争指導者) について思いきった発言はしていない。捕虜は、進んで米軍宣伝ビラ作 成への協力を申し入れ、あるいは日本が降伏にいたる何か別な方法につ いて話をした」。(2) 同中尉によれば、部隊は 5 月 5 日から暫時首里に撤退を開始したが、首 里に向かう途中、米軍攻撃に遭い多くが負傷し彼自身も 9 日には、首里


311

第5章

生き延びる術

沖縄戦に生き長らえた人々は、 「艦砲ヌゥクェヌクサー」 (艦砲射撃の食 い残し)とか「針穴からの生還」等、それは奇跡か偶然の極みでもあるか おり

のように物語る。生は、沈殿する滓のように生存者に取りつき、記憶の 戦場へと人々を誘う。尋問調書を通して「生」を考察すると、生とは「逃 亡」や「自主投降」、「負傷投降」をはじめ、「民間人に偽装」や「民間服 着用」による非軍人化等、数多くの理由が存在する。ただし米軍にとり、 いかに生存したかについては大して問題ではなかった。尋問調書には確 かに「逃亡」とか「自主投降」とかという投降理由が記載されてはいる が、境界線は不明瞭である。ここでは、尋問調書でエスケープ(escape)、 フリ− (free) 等と記述のあるものは「逃亡」者として扱い、サレンダー (surrender)、デザ−ト (desert、desertion) 等とある場合は、 「(自主)投 降」者として分類した。全体から見ると、捕虜理由は「負傷」投降が圧倒 的に多いが、中には「生き延びる術」をわきまえ、「生きながらえる術」 を実践した者もいる。但し英文表記が「逃亡者」「(自主)投降者」と区 分されても、実際上そうであったかどうかは不明な場合も多い。それは、 尋問に際しての捕虜自身の態度の違いにもよるだろうし、米尋問官の受 け取り方や記述そのものに負うところも多い。肝心な点は、戦場地獄か ら生還したという事実である。

5.1

逃げる兵

沖縄戦の特色の一つに防衛隊員を始め、兵士らの逃亡が挙げられる。防 衛隊員の逃亡の場合、自宅や家族の避難先に戻る場合がほとんどだが、日 本兵の場合は上官への反発や、負け戦を受け止め、生き延びる手段とし


312

第 5 章 生き延びる術

て逃亡する場合が多かった。さらに民間人に紛れこみ、集団投降の仲間 入りした者も多かった。林博史によれば、 「沖縄戦の準備段階での一つの 特徴は、沖縄で現地召集された初年兵など兵士の逃亡が多いことである」 と指摘されている。(1) 捕虜尋問調書では、一般兵士の戦線逃亡も多く見られる。これからす ると、兵士の逃亡は沖縄戦以前から発生しており、戦時下でも引き続き それが発生したということかもしれない。戦前に第 32 軍法務部は、逃亡 兵をなくすため、部隊での精神教育や私的制裁の禁止措置等の対策を講 じてはいるものの、実効性を持たせることに難渋を極めていたことがわ かる。 彼我入り乱れての沖縄接近戦で、兵士の逃亡はかなり困難であるが、日 本軍は長期に及ぶ壕内生活を強いられており、あるいは夜間に戦闘地域 から離れることは容易であったかもしれない。また、日本軍の行くとこ ろ民間人がいるわけだが、上手く民間人になりおおせ、民間人収容所に 入ったものも多かった。言葉を換えれば、民間人を利用したということ であるが、生命を長らえるにはいかなる手段・方法があってもいいわけで あった。軍部は、民間人の生命を守れなかったが、民間人は兵士の存在 を受け入れ、彼らの生命を安全な場所に誘導したかもしれない。ただし、 兵士や民間人の区別なく、米軍に投降した後に待ち受ける事態に対し誰 も安心していたわけではなかった。それでも、戦争を続けるよりは停止 するほうが生命の安全は高いわけで、その選択が命長らえさせる方法の

1 つだったといえるだろう。 ***   宇田ヒサミツ一等兵(23 歳 鳥取県出身)は、第 62 師団第 63 旅団第

13 大隊に所属していたが、元々は旅団衣糧部の兵士だったという。彼は、 おおやま ぎ 45 年 4 月 5 日、部隊が布陣する大山を脱走し、約 1 月後の 5 月 6 日、宜 の わん か かず 野湾村嘉数にて米軍に投降した。宇田一等兵は、44 年 1 月、京都第 37 部 隊に召集され、機銃部隊の訓練を受けた。同年 7 月、部隊は満州へと派 遣予定であったが、急遽それを取りやめ、沖縄に派遣されることになっ た。同年 8 月、沖縄に到着し、同師団第 63 旅団第 13 大隊に配属になっ


389

第6章

日本軍・米軍による捕虜虐殺

沖縄作戦を通して米軍の行方不明者は、陸・海・海兵隊合わせて 239 人 にのぼっている。そのうち陸上戦闘部隊の第 24 軍団は 81 人、第 3 海兵 軍団は 119 人である。(1)  これ以外にも米海軍では、40 人余が行方不 明となっているが、海軍は基本的に沖縄地上戦に参戦していないことか ら沖縄地上戦の行方不明者は約 200 人と考えられる。戦闘中の行方不明 者に関わる米軍記録類がないため、その実態については想像の域を出な いが、多くの米兵が日本軍捕虜となって「処置」されたことは間違いな いだろう。おそらく沖縄の日本軍が、米兵の虐殺、処刑等について言及 しないのは、それ自体が通常の死を超えるものであり、それを暴露する ことは自身や身辺に煩が及ぶことを理解していたからだろう。捕虜虐待・ 虐殺は戦犯指定されるものであり、最悪の場合死刑を含む厳しい判決が 予想できたからであろう。

6.1

日本軍による米軍捕虜の虐殺

日本軍捕虜から得られた米捕虜情報は、空軍飛行士に関わるものがほ とんどであった。新城タロー(29 歳、沖縄県出身)は、民間飛行会社の 大日本航空に勤める職員で、職責上軍務が免除された民間人であった。彼 は、満州にて軍属として働いた経験を持ち、その時ロシア軍の捕虜とな り 2 年半捕らわれの身だったという。わずかであるが、ロシア語と中国語 ができた。日本に帰国後、ロシアの捕虜となったとして社会から排除さ れ、仕事が見つからなかったとも述べている。そのためもあってか彼は、 日本政府に対し悪感情を抱いていた。 大日本航空自体は、民間の航空会社であったが戦時下では飛行機その


第 6 章 日本軍・米軍による捕虜虐殺

390

ものも軍から便宜供与を受け、主に軍人輸送に当たり、その他各種軍需物 お ろく

資の空輸にも当たったという。沖縄戦以前、海軍小禄飛行場は、本土と台 湾、上海、シンガポール、広東等の植民地の中継基地となっており、軍事 上重要な航空基地にもなっていた。 き

米軍の沖縄本島上陸直前、新城は金武村に向かうも食料入手のため一 旦は那覇に戻り、45 年 3 月 28 日、再度金武に戻っている。その後彼は、 た い ら

民間人として田井等収容所に入るが、5 月 15 日、同民間人収容所にて米 軍情報部の査察を受けた。 その時米軍情報部は、今後の米軍作戦に必要な日本軍戦略情報や部隊配 置状況を得るため、新城に軍用地図を見せながら情報収集をおこなった。 彼が航空会社職員だったこともあり、小禄飛行場を中心に沖縄海軍根拠地 隊の位置、日本軍補給庫・弾薬庫壕の場所、津嘉山地区の配備状況を問い ただした。ところが思いもかけず新城は、米軍捕虜について話し出した。 「連合国捕虜 避難民(新城タロー)は、米軍捕虜のスタンレー中尉と 45 年 2 月半ば、 話をしたと述べている。彼はまた日本軍の衛生兵から、島尻郡(注 小禄 とみぐすく

半島の誤り)の豊見城で米軍飛行士が捕まったことを聞いた。米軍捕虜 たちは営倉に入れられ生きてはいないと信じられる。沖縄の日本軍戦況 が絶望的になった時、(注 米軍捕虜は)処刑されたと彼は確信している。 小禄飛行場にいた時、偶然に彼は、米軍捕虜が台湾から本土へと運ばれ ていくのを見たという。撃墜された全ての米軍飛行士の氏名が公表され ないならば、全員処刑されたと考えられる。仮に米軍捕虜の氏名が公表 されるならば、生命は無事なはずだと彼は考えている。これら全ての話 は、昨年末、福岡市で彼が勤める会社(注 大日本航空)の職員から聞い た話だと述べている」。(2) この時、尋問に当たったのは民間人収容所において情報収集を行う戦 闘情報収集課 (CICA) であった。ちなみに日本の終戦時、連合国捕虜は 北海道から九州一円に約 36,000 人、130 カ所に収容されていた。福岡捕 虜収容所は、1943 年 1 月に開設されており、沖縄を経由して捕虜を運ぶ とすれば、当然福岡に運ばれることが考えられる。そのため、新城が福 岡の同社職員から聞いた話は、事実であると考えられる。また連合国捕


433

第7章

朝鮮人軍夫と沖縄戦

沖縄戦に強制連行された朝鮮人軍夫をはじめ、日本国内で徴用・徴兵 された朝鮮半島出身者(注 以下朝鮮人と表記、なおこの場合の朝鮮人と は民族一般を表し、国名、国籍を表すものではない)の総数及び戦死者 は、戦後 70 年が経過しても依然として不明のままである。その大きな理 由は、戦時下にあって日本軍部をはじめ沖縄現地軍司令部は、ことさら朝 鮮人兵士、軍属等について何かを記録したわけではないからである。さ らに米軍側でも、とりたてて朝鮮人に焦点を合わせた調査や統計の類は 皆無であり、そのため本問題に関する実体解明は困難になってしまった。 その上、厚生省(当時)が、遺族援護法に関わる外国籍の戦争死没者 の追跡調査を実施せず、現在にいたっていることも大きな原因である。現 行法の適用によれば、確かに同法の適用範囲は国内軍人、軍属に制限さ れるものだが、強制的に徴兵・徴用した朝鮮人を援護法の対象から排除 することは、戦争動員の実態から判断しても問題が多いものである。 さて、現在の研究水準をもってしても沖縄戦当時、どれほどの朝鮮人が 動員されたか、多くは推量に頼らざるを得ないのが実情である。1990 年 ホンショウヒツ

代以後、沖縄県は、韓国人研究者の洪鍾イ必明知大学元教授に依頼し、韓 半島から沖縄に強制連行され沖縄にて戦死した朝鮮人軍人・軍属調査を 続けてきた。しかし 2000 年代に入ると、調査は中断の已む無きにいたっ た。その因って立つ理由は幾つもあるだろうが、要はこれ以上地方自治 体が、自発的意志により調査を継続する必要性を感じなくなったからで ある。国家が行わない調査活動を、地方自治体が行うにはそれ相当の覚 悟と決意が必要だったであろう。そもそも国家が強いた戦争行為は、第一 義的には国家が責任を負うのが道理である。確かに日本政府は、平和記 念館事業や戦争被害者救済措置等を実施しているが、それでも第二次世


第7章

434

朝鮮人軍夫と沖縄戦

界大戦の責任と程度とに鑑みるに諸外国と比して十分とはいえまい。そ の代表的な事例が、沖縄戦に動員された朝鮮人に対する援護問題なので ある。戦争関係者の沈黙や記録できる者がいない戦場現場は、等閑視さ れ闇に葬られてきたといっても過言ではない。そもそも彼らが、沖縄戦 に戦場動員されたこと自体が尋常ではありえず、その上さらに多くの者 が戦場で亡くなったことも民族にとり大きな痛手であっただろう。 以上を前提にした上で、敢えてここでは沖縄戦で生還を果たした 41 人 分の朝鮮出身者の捕虜尋問調書を中心に、彼らの戦争を物語り、動員数 を割り出し問題点を指摘するものである。

7.1

朝鮮出身者の尋問調書一覧

現在朝鮮出身者の尋問調書が確認されているのは、41 人分にしか過ぎ ない。尋問調書の形式そのものに問題があるが、他の日本軍兵士の調書 と比較すると、朝鮮出身者に対する報告書は粗雑の感が否めない。沖縄 戦に参加した米軍語学兵・通訳は、日本語を解したり母国語としたりす るなど日本語に長けた者が多かった。これに対し、朝鮮語を解する通訳 は配置されなかったことも大きな原因である。それでもごくわずかな朝 鮮出身者に対する尋問調書を通し、沖縄戦下の彼らの状況を垣間見るこ とは可能である。表 7.1 に掲げる者は、尋問調書から判明した朝鮮出身者 である。 朝鮮出身者尋問調書の一覧表から判明するのは、4 月の捕虜が 3 人、5 月が 1 人、6 月が 36 人と 6 月に捕虜となったものが圧倒的に多いことで ある。これは一般の日本兵と同じ傾向であるが、朝鮮出身者の場合、一 度にまとまって捕虜になっている場合が多いのも特徴的である。これは 沖縄戦期間中、築城隊・建設隊に配置された朝鮮出身者の場合、集団行動 をとらされたことを意味している。 ちなみに沖縄戦以前の在沖縄朝鮮出身者に関する人数は、ある程度ま で把握することができる。それは、1943(昭和 18)年 3 月、司法省が管 轄となり北は樺太から南は沖縄まで、全男子朝鮮人を対象とした地域別 徴兵適齢者調査を実施しているからである。同調査を管轄したのは司法


479

第8章

戦い敗れて

ま ぶ に

き ゃ ん

沖縄戦末期の 6 月 21 日、沖縄本島最南端の摩文仁から喜屋武半島一帯 いくさば

にかけ、それはそれは残酷・無慈悲な戦場を呈していた。同日夕方 6 時、 嘉手納の米第 10 軍司令部にて恒例の綜合参謀会議が開催された。各参謀 は、淡々と日本軍部隊の惨状を報告している。 「綜合参謀会議 第 27 師団参謀:北部の掃討戦で、民間人 2 万人を捕える。 情報部参謀: 間違いなく日本軍部隊多数が、島の南部に逃走している。 摩文仁南の断崖から、日本兵が飛び降り自殺をしている。あるものは海 にむかって歩き、溺れ、自決している。本日 5 時現在の捕虜 977 人、多 くは労務者部隊と思われる」。(1) 翌 6 月 22 日、米軍は正式に沖縄占領を宣言し、翌 23 日から 10 日間、 徹底した南部掃討作戦を展開した。作戦基本は、火炎放射器による焼殺 うめごろ

と大型爆雷による壕の封鎖とそれに続く埋殺しであった。日本兵は、自 裁を始めありとあらゆる死を展開したが、それは生きていてはならなかっ たからである。反対に米軍でも、敵は生かしておいてはならず、機能的に 大量の日本兵を殺す必要があったわけである。とくに日本軍最高司令官 が自決した 6 月 22 日から 27 日にかけての 5 日間は、日米両軍にとり最 高と最悪とが重なるものであった。最高とは、米軍が捕虜にした日本軍 将兵・軍属が 3,420 に上ったことであり、最悪とは、実査に基づく日本軍 戦死者が 4,350 人に上ったことである。(2)  この場合の日本軍死者は、 米軍がカウントできたものを表し、死者概数は 8,000 人に及んでいる。わ ずか数日間で、これ程の者を殺せるかといえば、可能だったわけである。 せんめつ

敵を殲滅するとは、こういう途方もない死者の出現を言うのであろう。


第 8 章 戦い敗れて

480

よ な ばる

さて、沖縄戦終了後米軍は、那覇から与那原にかけピケットライン(閉 塞陣地線とも呼ぶ)を設け、南部一帯をアイテムポケット(孤立した敵の 棲息地域)と化し、徹底した殲滅戦を展開した。8 月 15 日の日本の降伏 まで米軍は、連日わたり南部攻撃を繰り返し、戦死者が途絶えることは なかった。また、北部への脱出を計る日本兵にも目を配り、多くの日本兵 を本島中部の中城一帯で捕らえ、殺している。この地は、第二ピケット さつりく

ラインで、最も日本兵を補足し、殺戮しやすかったからである。

8.1

戦場のユリの花 くにがみ

米軍が沖縄本島の占領を宣言する 3 日前の 6 月 18 日、本島北部の国頭

おく

村奧にて一人の日本兵が日記を残して戦死した。この日、米第 27 師団第

106 連隊は、奧地区を急襲し日本兵を殺した。第 27 師団第 308 情報部分 遣隊では、早速日本兵が所持していた日記を翻訳し、関係機関に配布し ている。 「1945 年 6 月 7 日 部隊全員、秘密遊撃戦に動員されることになった。というのも、敵の 大規模攻勢が予想されるからだ。全員、秘密の場所につかねばならなく なった。そのため昨日は、敵の動きが見えずとも大規模攻勢を予定して 秘密場所の位置についた。今日現在、敵の攻撃の様子はないが、かすか へ

な敵機銃の音が辺土岬方向から聞こえてくる。あたかも敵は、付近の山 間部を偵察でもしているかのように思われる。われわれが斬り込み攻撃 を行って 2 日が経つが、敵は、奧地区にいるわれわれが斬り込み攻撃を 行ったことは知らないだろう。(中略) 我々は、一瞬たりとも奧において警備をおろそかにはできない。特に 我が部隊全員、警備を厳重にし敵来たらば撃退せねばならない。(中略) 夕食後、私は村を尋ね、我らの斬り込み攻撃について話し合った。花? ヤスコ、近くに住む娘だが彼女も一緒に会話に加わった。

1945 年 6 月 8 日 まるで敵攻撃を予想した軍事教練のようなものだった。2 人が警備につ き、残りは隠れ家の建設にあたった。渡辺准尉以下 2 人、荒木軍曹以下 2


497

あとがき

本書では、約 850 人中、約 300 人の生の捕虜の尋問調書を取り上げた。 捕虜の心中には、多種多様な訴えや感情があったことが理解された。沖縄 戦を指導した八原博通元大佐は、日本兵の戦闘心理を分析し、 「捕虜には なりたかない、勿論死にたくない。敵と戦うのが目的ではなく(外面を 美しく飾り立て)行為する」と記している。さらに沖縄戦の場合、「兵士 ひっそく

は洞窟内に逼塞し、他の一部は山地若しくは住民中に逃入した」と述べ ている。 (八原博通記載の復員局業務部提出書類『沖縄戦』 (仮称)、1950 年 6 月 27 日、NARA RG554 Entry 147 GHQ, FEC. Military History

Section ”Source File ”Box 61)。戦争の結果に対し、手厳しい批判が見 て取れる。沖縄戦の統率に関わる八原元大佐のうらみ、つらみ、憤り、悲 しみ等は、戦争に派生する人間感情の否定的側面を強調しているといえ るだろう。ただし同大佐の考え方をそのまま押し通したとすれば、沖縄 戦の人的損耗は限りなく 100 パーセントに近づいたであろう。いわゆる 戦争の逃げ場を全てふさぎ、交戦することだけを目的化せよと叫んでい るわけである。恐ろしい限りである。 沖縄戦を考える場合、針穴を脱出した将兵や民間人は、その戦争をど のように考え生活に帰還したかが問われなければならないだろう。戦争 の惨めさ、残酷さを知るものに戦争は二度とあってはならないが、反面、 人の心はそうたやすく変わるものなのか。 沖縄戦に生き抜いた兵士らは、米軍との戦争には敗北したが大東亜共栄 圏構想やアジアでの日本の侵略に対し必ずしも批判的な精神は抱いていな かったことが米軍調査から判明している。(NARA RG407 Entry 110-25

to 110 JICPOA Psychological Warfare Prisoner of War Poll Box 3004 参照) 質問では、 「戦争は聖戦か否か」について聞いているが、その答え


498

あとがき

は半々である。すなわち聖戦ともいえるし、そうとはいえないというこ とである。しかし、戦争の目的を尋ねると、6 割以上のものがアジア諸国 での戦争は、 「アジアのためだ」と答えている。太平洋戦争は、大東亜建 設に向けての戦争であると考えていたことが判明する。 問題なのは、こうした考えをもった旧軍兵士が戦後生活を開始するに あたり戦争体験と真摯に向き合うことが出来たか否かである。生きてな お死に追いかけられた旧軍兵士にとり、戦後の精神的・肉体的回復は尋常 ではなかったことは想像に難くない。彼らが上梓した沖縄戦体験記には、 つらい戦場が記され、亡き戦友に対する慈愛あふれる言葉が連なってい る。それが、戦争体験者が語り得るギリギリの叫びなのだろう。また自身 を戦争に駆り立てた、国や軍国主義への批判も静かではあるがきちっと 語られてもいる。 戦争の無知に一番傷ついたのは、戦争世代であるわけだが、戦争を教 えられ伝えられた次世代は、今度は戦争を語り次ぐ責任が出てこよう。終 わったはずの戦争だが、知ったからには何かを伝える責任が出てくるで あろう。 さて本書は、生身の人間の戦場の声を伝えようとした沖縄戦証言録で ある。戦場の針穴から抜け出たものが語った言葉は、言葉にはならず叫 びか沈黙であったかもしれない。それを米軍尋問官は、丁寧に言葉を選 び淡々と調書に記している。調書記載の内容が、戦後になって表に出て くるとは誰も想像しなかったであろう。沈黙や叫びを受け止め、それを 言語化した尋問調書には、嘘や偽りも含め目にはみえない戦争の惨禍が どっしりと刻まれているようだ。死者に連なる生存者の生の声に耳を傾 けたいと念じつつ、まとめたのが本書である。 最後になったが、本書が陽の目を見るのに多くの方々の励ましを頂い た。紫峰出版の伊藤秀美氏にはこの数年来変わらぬご厚情を頂いている。 今回も同出版社から本書を刊行できたことは、望外の喜びである。引き こもりがちな私を叱咤激励してくれ続ける友人や教え子たちにも感謝し ます。私の体の調子に対し妻の声かけがあり、ここまで走り続けることが 出来たと思う。身内のことでもあるが、有難いことである。多くの方々に あらためて感謝いたすところであります。

沖縄戦捕虜の証言 上下  

沖縄戦捕虜尋問調書850人分ほどが米国立公文書館に保管されている。これらは、死から生へと帰還した人達のリアルタイムの肉声であり、問われるままに感情を吐き出した戦場のうめき声である。  これまでの沖縄戦証言記録は、書き手が戦争体験者から話を聞き、物語としてまとめたものだ。証言に時差...

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