Page 1

沖 縄 戦 と 海のモルフェー

保坂廣志 紫峰出版


表紙写真 沖縄県平和祈念公園内の平和の広場に設けられた「平和の火」 この記念碑は、海に面した沖縄県平和祈念資料館、平和の礎(いしじ)と一体化 し四囲へと連なる「結(ゆい)の海」をかたどる。 著者撮影

裏表紙写真 沖縄県南部摩文仁海岸 海岸一帯は、沖縄戦終焉の地として知られ、どこまでも青海原が続いている。 著者撮影


写真 1  米軍が中国にて撒布した宣伝ビラ 日本の生命線の船舶が撃沈され、国民は飢えにさらされ、海中の魚 だけが異様に巨大化している。OPA JM-118


写真 2  沖縄近海で日本軍による特攻の犠牲になった兵士ら 1945 年 5 月 11 日、「菊水 6 号作戦」で特攻機が空母バンカーヒル に突入し、600 人以上の死傷者をだした。写真は甲板上に並べられ た遺体。 米海軍兵士は、事前に水葬式埋葬委託承諾書にサインして おり、死者を送る儀式の後海中に水葬される。 1945 年 5 月 11 日  OPA 111–09–4

写真 3  負傷者を運ぶ病院船バウンティフル 特攻機攻撃による負傷者は翌日に病院船バウンティフルに移され、治 療のためグアムに転送された。1945 年 5 月 12 日 OPA 108–01–2


ひびき

写真 4  南洋群島引揚者を沖縄に移送する復員船「 響 」 全景 (上) と船室 (下)   1946 年夏 「響」は、1933 年に駆逐艦として竣工、主として南方作戦に従事。 3 度の損傷を受けるも終戦まで生き残った。その強運ぶりから「不 死鳥」とも呼ばれた。終戦後は復員船としてサイパン、テニアン島 等から民間人を運んだ。戦時下の民間人疎開や退去も、ほぼ同じ光 景であった。 『沖縄県史資料編 15』 (上)沖縄県文化振興会、2002 年、528–528 頁


写真 5  石垣島から台湾に疎開者を運んだ第 1、第 5 千早丸 尖閣列島近海で米軍機の攻撃を受け第 1 千早丸が火災を受けるも持 ち直し、第 5 千早丸が沈没した。米作戦報告書によれば、パイロッ トは船もろとも乗船者を仕留めたという。 1945 年 7 月 3 日 OPA 参考資料 第 18 戒爆撃艦隊 戒飛行報告書


写真 6  南洋群島沖縄県人戦没者並開拓殉難者慰霊碑 戦前、旧南洋群島には約 6 万人の沖縄系移民者が住んでいた。今次世 界大戦で、県系約 1 万 3 千人が犠牲となった。1963 年、県内外の生存 帰還者により慰霊碑が那覇市に建立された。http://challenged-o. org/okij/ken/miru/ireito/se/se12.html

写真 7  小桜の塔(那覇市若狭) 1954 年に建立され、1959 年に那覇市若狭町に移転した沖縄戦没学童 を悼む慰霊碑。新装なった塔は、デザイン化されたものへと変わっ ている。所在地が、 海も辺に接していることもあり (疎開) 船首 が右へと描かれている。


写真 8  海鳴りの像(宮良瑛子氏作) 1987 年、戦時遭難船舶遺族会の手により那覇市旭が丘公園内に建立 された。どっしとした骨太の母親が、がっしと子を抱いている。ド イツの女性美術家ケ−テ・コルビッツの代表作に「死んだわが子を 抱く母」があるが、それにも比し海鳴りの像には、まじろぎもせず しっかと生命をあやす母親が感じられる。


写真 9  ピエ−ル・ゲラン「モルフェウスとイリス」(1811 年) モルフェウスに目覚めを呼びかける虹の使者イリスと愛の女神キュ− ピット。両手をかざすモルフェウスの先に、夢と死をこえた生への 誘(いざな)いが感じられる。https://ja.wikipedia.org/wiki/ %E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%82%A6%E3%82%B9

写真 10  対馬丸乗船者をイメ−ジした垂れ幕 (対馬丸記念館) 図は那覇市若狭小学校児童が描いた絵を切り張りし、壁紙に貼り付 けたもの。乗船者 1,661 人のそれぞれに喜怒哀楽が描かれ、曼陀羅 のように満天に輝いている。


i

序文 戦後生まれの私は、軍歌は歌わない。ただ、冬仕立ての谷村新司の 「群 青 (ぐんじょう)」歌だけは、口笛に出てくる。この歌は、戦争で死にゆ く者、残された者の悲哀を歌ったもので、文語調の歌詞が心をとらえる のかもしれない。

1995 年冬、大学専門科目の集中講義のため、東京時代の恩師を沖縄に 招いた。講義が終了したある日、行きつけの小さなスナックに恩師を誘っ た。そのとき恩師は声量豊かにこの「群青 (ぐんじょう)」を歌ってくれ た。恩師は、職業軍人を志し仙台陸軍幼年学校に入学するも、志し半ばで 終戦になった。多くの著書や業績を残した恩師だが、戦争を語ることは一 切なかった。2000 年 3 月、恩師が大学退職の折り「古稀に歌う」と題す る音楽 CD を出した。教え子たちからのプレゼントだが、一般 CD と異 なるのは自身が歌っていることである。10 曲の挿入歌の最後に、 「群青」 が収まっている。これについて恩師は、益のない戦いに若い命を散らし た兵士への鎮魂歌として歌っていると述べている。戦争は、海群青(うみ ぐんじょう) 、空群星(そらむりぶし)となり体内深く潜んでいるようだ。 恩師が歌っていらい群青は、私の口笛歌のなかでもっとも大切なもの だ。軍歌だといわれればそれまでだが、歌詞を眺めれば雪降る海がまざ まざとよみがえる。戦時下の海軍を歌ったとされる「群青」の最後のフ レ−ズは、死者をこう悼む。 空を染めて行く この雪が静かに 海に積もりて 波を凍らせる 空を染めて行く この雪が静かに 海を眠らせ あなたを眠らせる 時間の経過の中で、海に沈んだものは冬の眠りにつくという。それで いいのだろう。ただし、沖縄周辺域の海の戦場に倒れた人々は、ただ眠


ii

るわけにはいかないだろう。戦時下の沖縄近海は、米潜水艦攻撃により、 定期船、徴用船、疎開船等多数が海没した魔の海域であった。遭難船舶に ついて日本軍は、厳格な箝口令を敷き、誰も遭難船や人の死について語ら なかった。その上さらに海の戦争は、生存者の少なさや証言自体の困難 さもあり未だ深い海の闇に閉じこめられたままである。那覇市にある対 馬丸記念館には、読谷村古堅(ふるげん)小学校児童の詩が刻んである。 今 海の底に眠るきみたち 夢見た雪は 雪は、今も内地にふりつもる 今 海の底に眠るきみたち 父さんの声 母さんの声は 聞こえているか 今次世界大戦下、海で犠牲となった人々を海上慰霊すると、あたかも死 者はそこで眠っているかのように遺族は呼びかける。追悼の言葉は、死 者を眠りから呼び戻し、ともに還らんことを呼びかける。そこから海の 戦没者は、陸地のそれと比べると死と生との境界が限りなく不透明なも のともなっている。手術のとき、人はベットに乗せられ、麻酔を打たれ、 しばし眠りにつく。覚醒しているはずだが意識は飛んでおり、時間だけ が過ぎていく。それは生きているのか、眠っているのか。この状態が、本 書の題名に選んだモルフェ−である。戦時遭難船舶犠牲者の死の意味を 振り返り、死者と呼ばれるものたちの眠りの姿を喩えようとした言葉で ある。さらにまたモルフェ−には、物の形や姿をさす意味もあるといわ れる。(注) 私は、海の犠牲者に生存者の思いを連ね、それでもなおその場で「眠る な」と祈らざるをえない。例え「群青」の最後のフレ−ズが海で眠れで あっても、古堅小児童が言うように気持ちは覚醒にあるのは間違いない だろう。本書を通してもう一つの沖縄戦の実相、海の戦争がいかに残酷 きわまりないものであったかを理解していただきたい。 (注)中村雄二郎『かたちのオデッセイ−エイドス・モルフェ・リズム』 、 岩波書店、1991 年を参考にした。


iii

もくじ

序文

i

第 1 章 戦時下の沖縄定期航路遭難船舶に関わる実相

1 1

1.1

はじめに . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

1.2

第二次大戦下沖縄航路をめぐる諸問題 . . . . . . . . . . .

1.3 1.4

1.2.1

沖縄 – 本土間の定期航路の実態 . . . . . . . . . .

1.2.2 1.2.3 1.2.4

船舶運営会の発足 . . . . . . . . . . . . . . . . . . 船客の戦時輸送調整 . . . . . . . . . . . . . . . . 戦時下沖縄航路の実績 . . . . . . . . . . . . . . .

沖縄定期航路遭難の実相 . . . . . . . . . . . . . . . . . .

2 2 4 7 12

まとめ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

13 57

脚注 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

59

第 2 章 戦時遭難船舶と米潜水艦攻撃

2.1 2.2

2.3

はじめに . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 米国の対日国防戦略と実施過程 . . . . . . . . . . . . . .

2.2.1

オレンジ計画 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

2.2.2 2.2.3

米国の対日潜水艦作戦 . . . . . . . . . . . . . . . 暗号解読 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

沖縄県民に関わる戦時遭難船舶の実相 . . . . . . . . . . .

61 61 62 62 68 84 89 90 92

2.3.1 2.3.2

ニューギニア沿岸 . . . . . . . . . . . . . . . . . .

2.3.3 2.3.4

小笠原諸島付近 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 南西諸島近海 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

111 115

2.3.5

ミンダナオ島周辺海域 . . . . . . . . . . . . . . .

142

南洋群島 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .


iv

まとめ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

148

脚注 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

151

2.4

あとがき

157

付録 遭難船舶一覧表

159

主要参考文献

161

索引

166


1

第1章

戦時下の沖縄定期航路遭難船舶 に関わる実相

1.1

はじめに

本章は、第二次世界大戦下の沖縄県民に関わる戦時遭難船舶のうち、沖 縄定期航路遭難について論述するものである。 本県は、古来より「海邦養秀」の精神を掲げ、海路を以て広く諸国・地 域と交流・共存をはかってきた。県民にとって海は、生活・文化・交流等 の「海之道」であるとともに、厳しい自然環境の中で時としてそれは、外 部との交易・交流を遮絶させる防壁ともなった。それだけに海は、県民に とり特別な感慨をもって受け入れられてきたといえる。 今次世界大戦下でも、沖縄近海領域は、県民の生活物資をはじめ、兵 員・兵器・戦時物資の輸送、海外植民地・占領地への中継路等、平時よ り一層盛況を呈した。ただし、戦時にあっての沖縄近海は、平時の海道 とはおよそ様相を異にしており、日米開戦から 3 カ月余にして両国の熾 烈な海上戦が繰り広げられることになり、戦時下の魔の海域、海の戦場 であった。事実、沖縄定期航路の嘉義丸が米潜水艦攻撃により沈没 (1943 年 5 月 26 日) する以前に、同海域では既に 12 隻の輸送・貨物船が沈没し ており、民・官・軍人多数がここで海没している。 ところで、海上での撃沈、漂流、死亡という一連の海上惨状を見るにつ け、戦時遭難船舶死は、沖縄地上戦の死と比べても残酷なものであった。 ある意味で、それは残虐の限りを極めた死であったともいえる。死没者 を看取るものとて誰もなく、しかも遭難後は国家総動員法の下、軍事機密 かんこうれい

の保持のため徹底的な箝口令が敷かれ、生存者は悲嘆に暮れつつひたす ら口を閉ざし、深く内向せざるを得なかった。多くの証言・記録類が公刊


第 1 章 戦時下の沖縄定期航路遭難船舶に関わる実相

2

されている沖縄戦の中にあって、沖縄戦に至る戦時海没死は今も等閑に 付されているのが現実である。 そこで本論では、今次世界大戦下での沖縄定期航路遭難に関わる実相 の解明を計るべく、現在入手可能な関係資料・関係者証言でもってその考 察を行なおうとするものである。

1.2 1.2.1

第二次大戦下沖縄航路をめぐる諸問題 沖縄 – 本土間の定期航路の実態

本県において沖縄–本土間の航路が開設されたのは藩政時代にさかのぼ る。日本政府は、琉球藩に「大有丸」(5∼600 トン) を下付し、那覇–大 阪間に就航させた。その後、1879(明治 12) 年の琉球処分に伴い、大有丸 は沖縄県に引き継がれ、三菱会社が業務を委託した。さらに、大有丸は

1882(明治 15) 年、民間会社に移譲され、先島航路に用船されている。その 後、沖縄航路には、鹿児島県に本社をもつ沖縄親睦会 (鹿児島汽船の前身) と、国内に定期航路多数を開設している大手の大阪商船が参入し、さらに 旧王家の尚家が、海運会社 (広運社) を創業するなどしたため 3 社競業時 代を向かえた。 遠洋航路に実績をもつ大阪商船は、1885(明治 18) 年 9 月、国内では最 長の大阪沖縄定期航路を開設し、1916(大正 5) 年 3 月には地元資本の沖縄 広運を買収し、ここに沖縄定期航路は、大阪商船、鹿児島商船 (鹿児島汽 船の後身)2 社のみとなった。次いで、1925(大正 14) 年 10 月、大阪商船は 日東汽船 (鹿児島商船の後身) と航路協定を締結し、同汽船所有の 2 隻の 船腹を大阪商船が用船として借用し、沖縄航路の独占を成し遂げた。大 阪商船は、大阪沖縄線以外にも、横浜基隆線 (那覇経由)、沖縄経由大阪基 隆線、大島各島線の 4 航路を持っていたが、1916 年 4 月には鹿児島–那覇 線を新たに開設し、5 線の定期航路をもつに至った。(1)  その後、大阪 沖縄線は、経営及び乗客輸送の安定を図る目的から、1924(大正 13) 年に は大型船による定期運航 (甲方式) と、本土各地を経由する延航方式 (乙 方式) に改組されるに至ったが、1941(昭和 16) 年 6 月、定期船が軍事用


1.2. 第二次大戦下沖縄航路をめぐる諸問題

3

に徴用されたり、他に配船されたりしたため用船維持が困難となり、つ いに休航となってしまった。 一方、逓信省命令による大阪那覇線は、1926(大正 15) 年 4 月、定期航 路として運用が開始され、毎月 5 航海 (名瀬に寄港) し、用船として台北 丸、大球丸の 2 隻が割り当てられた。1928(昭和 3) 年 6 月には、台南丸、 台中丸が大阪那覇線に配船され、1937(昭和 12) 年 1 月には新たに波上丸、 同 3 月には浮島丸の新造船も就航をみた。ところが日中戦争の拡大に伴 い、37 年 8 月、最新鋭の波上丸は陸軍が徴用するところとなり、さらに浮 島丸も 1941(昭和 16) 年 9 月、軍が使用することになり、同航路より撤退 した。新造船 2 隻の代船として新たに配船されたのが、開城丸、湖南丸、 湖北丸、嘉義丸であった。これら 4 隻の船舶は、船齢がかなり高く、戦時 体制のもと船舶需要が

迫しているため、かろうじて解体が免れたとい

う代船であった。後述するように、これら商船も、1942(昭和 17) 年 5 月 には、船舶運営会に移管され完全な国家管理に移行することになる。 一方、鹿児島那覇線は、1916(大正 5) 年 4 月、逓信省命令航路として発 足し、1932(昭和 7) 年以降は首里丸、開城丸の 2 隻で月 9 回の定期航海 をおこなった (いずれも大阪商船が運営)。同航路は、日中戦争の開始以 後、沖縄から九州への就職・出稼者が急増し、これに対応するため大阪 商船では 1940 年 8 月からさらに琉球丸、厦門丸を就航させ、これにより 同航路は 4 隻を数えるに至った。しかし、1942 年 5 月、本航路も船舶運 営会に移管され、(2) ここに沖縄定期航路は事実上消滅してしまった。ち なみに、1938(昭和 13) 年 12 月末現在の沖縄 – 本土間の定期航路は表 1.1 のようになっている。 表 1.1 からも判断できるように、本土 – 沖縄間の定期航路はかなりな 繁忙をきわめ (那覇 – 基隆間も含む)、常時 8 隻の定期船がほぼ連日のよ うに、那覇港に往来していたのがわかる。ここから、県民生活にとり海と は、政治・経済・社会・文化・教育等全般にわたる一大水脈であることが 理解される。 ちなみに大阪商船は、1885(明治 18) 年 9 月、大阪沖縄線の航路開設とと もに那覇市で営業を開始し、1910(明治 43) 年 4 月には同市に在勤員を派 遣、さらに 1912(大正元) 年 8 月には那覇市西新町に支店を設置する等事


1.3. 沖縄定期航路遭難の実相

15

相次いで徴用し、軍需用に使用したため、結果的に老齢船が漸次定期航 路に配船されたともいえる。以下、遭難船舶発生順に考察を行なうこと にする。なお、事故報告書は全て防衛庁防衛研究所蔵の『遭難船舶事故海 難報告書』による。

(1) 嘉義丸 (1943 年 5 月 26 日沈没) 嘉義丸は、1907(明治 40) 年 9 月 20 日、大阪商船貨客船として川崎造 船所で製造された。総トン数は 2,343 トン、速力は航海時 10.4 ノットで あった。同船は、政府による造船奨励法による造船であり、大阪大連間 の定期貨客船として就航を見た。1923(大正 12) 年 4 月、同船は大阪青島 線に就航したが、1937(昭和 12) 年 7 月、日中戦争の発生に伴い、それま で大阪那覇線用として運航していた波上丸 (1937=昭和 12 年就航、4,731 トン、高速ディーゼル貨客船) が、陸軍徴用船として使用されるに伴い、 同船は波上丸の代船として大阪那覇線に配船された。 さらに 1942 年 5 月、船舶運営会の発足にともない、大阪商船所属の嘉 義丸は、国家使用船となり船舶運営会の指定のもと同海域に C 型船舶と して航海を行なった。嘉義丸は、1943 年 5 月に米潜水艦ソーリーの魚雷 攻撃により沈没したが、遭難当時の船齢は 36.4 年でかなりの老朽船の部 類にはいる。 以下、嘉義丸事故報告書を中心に考察を加える。なお、沈没位置につ いては、日米の記録に差があるが、ここでは日本側の事故報告書に記載さ れた位置を示すことにした。

事故原因

米潜水艦ソーリーによる魚雷攻撃

航行区間

神戸–鹿児島–那覇

発生年月日 位置

1943 年 5 月 26 日 北緯 28 度 45 分

航行区分

船団 6 隻

護衛

有り (船名記載なし–護衛艇)

東経 129 度 45 分


第 1 章 戦時下の沖縄定期航路遭難船舶に関わる実相

16

本船命令

運営会使用船

積荷

記載なし

嘉義丸事故報告書

1.

総トン数及機関

2,344 トン

2. 3. 4.

事故の種別及程度

敵火のため沈没

航行区間

鹿児島–名瀬

発生年月日

昭和 18 年 5 月 26 日

5.

位置

東経 129 度 39 分 北緯 28 度 45 分

6. 7. 8.

航行区分 (船団又は単独)

船団

護衛の有無

当時の本船任務又は命令 (積荷トン数・輸送員数) 陸軍使用船 海軍使用船 運営会使用船

運営会

其他

9. 10. 11.

搭載人馬物件損害の有無

戦死 29 名 戦病死 1 名

本報告書届出先

神戸海務局大阪支局

事故の顛末

別紙の通り

別紙 上記船団計画にて昭和 18 年 5 月 25 日 8 時 30 分鹿児島を発 しゅうう

し名瀬に向う。当時天候陰曇にして時々驟雨南西の至微風な り。同日 11 時 20 分山川沖にて第 2 航行隊形となし。


61

第2章

2.1

戦時遭難船舶と米潜水艦攻撃

はじめに

本章の目的は、米軍とりわけ米潜水艦の全般的な作戦行動を通して、今 次世界大戦下に発生した沖縄県民に関わる遭難船舶、いわゆる「戦時遭 難船舶」問題を検証することにある。

1994 年 9 月現在、沖縄県生活福祉部援護課が掌握している戦時遭難船 舶数 (沖縄関係分) は 26 隻であるが、この内米国資料が入手できている のは 14 隻分であり、その他は米機による空爆攻撃や米潜水艦の 戒日誌

(Report of War Patrol) の不備等のため未入手となっている。このため、 本稿での米潜水艦攻撃に関わる分析・検討は 14 隻に限るものとする。 ところで、今次世界大戦下での米潜水艦作戦については、未だ不明な点 が多い。その理由の一つは、潜水艦作戦自体が非常に孤独であり、作戦そ のものについては絶対口外せず、機密が守られていたからである。(1) 他方、米国の太平洋地域に於ける潜水艦作戦は、ハワイに本部を置く太 平洋艦隊潜水艦司令部 (The Commander Submarine Force, Pacific Fleet) の指揮を仰いでいたが、その作戦・攻撃命令の多くは日本側が発信した電 信と、暗号解読 (マジック=Magic) とが密接に連携していた。この暗号解 読、いわゆる「諜報」に関する機密解除の遅滞とその研究が遅れているこ とに起因するものと思われる。(2) そこで本稿では、米国の対沖縄攻略作戦に関わる歴史を俯瞰しつつ、今 次世界大戦下での米国の対日潜水艦作戦、さらに暗号–諜報等を考察する。 また、沖縄県民に関わる戦時遭難船舶の実態を、米潜水艦の航海日誌や 日本側関係資料をもとに解明するものである。


第 2 章 戦時遭難船舶と米潜水艦攻撃

62

2.2 2.2.1

米国の対日国防戦略と実施過程 オレンジ計画

いわゆるオレンジ (ORANGE) とは、米国の仮想敵国日本の識別コード を意味し、オレンジ・プラン (ORANGE PLAN) とは、第一次世界大戦 後の米太平洋戦略一般をさす言葉である。

1891(明治 24) 年から 1906(同 39) 年にかけ、数千人の日本人移民が米 国カリフォルニア州に渡ったが、人種差別意識の強い白人の一部は、 「日 本人移民者は不道徳、不節制、喧嘩好きで、はした金でも働く輩」(3) と ば

り ざんぼう

罵詈讒謗、地元新聞社も日本人排斥運動に率先して協力した。この運動 にさらに火を注いだのが、1906 年 4 月、サンフランシスコ州を襲った大 地震である。地震とそれに伴い発生した火災の混乱をつき、一部の白人 人種差別主義者は、東洋人が経営する商店を集撃し略奪をはたらき、さ らに残忍なリンチを行なった。一方、カリフォルニア州議会は、同年日 本人の財産所有権を制限し、日本人学童を分離する法案を通過させるな ど、偏狭・固陋な排斥運動を行なった。同法案は、米国政府の圧力により 廃案となったが、根強い人種差別主義者と日本人移民者との衝突に危惧 を抱いた米国政府は、日本政府と協定を結び、日本人移民数を制限する ことで運動の鎮静化を計った。 さて、米国陸海軍では、日本人移民排斥運動の高まりと軌を一にして、 日本の第一次世界大戦後の領土拡大と、ロシアの衰退 (日露戦争の結果、 ロシアの極東地域からの撤退) 等を考慮に入れて、最初の対日戦争計画 (オ レンジ・プラン) の作成に着手した。オレンジ・プランは、地政学、戦略 構想、動員、補給、太平洋諸方面での作戦等を勘案し総合的見地から策定 されたが、1924 年、次官レベルでの陸海軍統合会議で正式な計画として 採用された。これに先立つ 1914 年、大統領の諮問機関である海軍総会議

(通称は総会議と呼称され、海軍将校スタッフによって編成) は、地勢学 的・地理的位置や、本国からの支援距離等を勘案し、図 2.1 のような作戦 計画を立案した。


マニラ

グアム

決定的な 海戦の場所

琉球 攻 侵 の 案 軍 議 米 会 総 年 14 19

?

最終的 封鎖線

サモア

ミッドウェー

キスカ

マグダリーナ湾

米軍の動員

サンフランシスコ

4年

900

1914 年以前

19 1

海里

マゼラン海峡経由

第1段階における日本軍の進路 第 1 段階で日本軍が取り得る進路 第 2 段階における米軍の進路 第 3 段階における米軍の進路 第 3 段階で米軍の取り得る進路 侵攻地点

?

0

?

1907-1914 年 における オレンジ・プランの概略

エドワード・ミラー(沢⽥博訳 ) 『オレンジ計画』 p.39 より作成

オアフ

?

図 2.1  オレンジ・プラン (1907 〜 1914 年計画)

2.2. 米国の対日国防戦略と実施過程

63


2.3. 沖縄県民に関わる戦時遭難船舶の実相

2.3

89

沖縄県民に関わる戦時遭難船舶の実相

沖縄県調査によると、沖縄県民に関わる戦時遭難船舶は 26 隻に上って いる。このうち、米潜水艦攻撃により沈没が確認されている船舶は 12 隻 であるが、英文関係資料は 12 隻分入手できている。その他 14 隻は空爆、 海難等による沈没であるが、1 隻を除いて、現在のところ英文記録は見つ かっていない。ここでは、入手できている米潜水艦作戦の

戒日誌を参

考に、これら戦時遭難船舶の分析・考察にあたるものとする。なお、英文 資料は、1991 年 8 月、宮城悦二郎琉球大学教授を団長に、米国において 戦争マラリアを調査したさいに収集したものであり、その後沖縄県に納 められ、翻訳を行なったものである。 現在判明している米潜水艦作戦にともなう戦時遭難船舶名と沈没海域 は、表 2.8 のとおりである。ここでは、米側資料 (War Patrol Diary) の みを使用し、逐一分析を行なうことにする。なお亜米利加丸、千代丸の沈 没位置は硫黄島から小笠原付近であるが、これは南洋群島から移民引き 揚げ船を追尾した攻撃結果であることに鑑み「南洋群島」に加えた。 沈没海域 船名 ニューギニア沿 岸(マリアナ諸 波上丸 島) 南洋群島

近江丸

沈没年月日

攻撃潜水艦

1942.10. 7

スカルピン

1942.12.27

トライトン

亜米利加丸 1944. 3. 6

沈没位置 3°51'S 151°21'E 6°23'N 161°17'E

美山丸

1944. 5.14

ジョクジャ丸

1944. 5.15

ノーチラス ボーフィン・ アスプロ アスプロ

21°50'N 143.54°E

小笠原諸島付近

千代丸 白山丸

1944. 6. 2 1944. 6. 4

シャーク フライヤー

20°53'N 140°17'E 22°55'N 136°44'E

南西諸島近海

嘉義丸

1943. 5.26

ソーリー

28°45'E 129°37'E

湖南丸

1943.12.21

グレイバック

30°24'N 128°53'E

台中丸

1944. 4.12

ハリバット

28.07°N 129.01°E

宮古丸

1944. 8. 5

バーベル

27°36'N 128°54'E

対馬丸

1944. 8.22

ボーフィン

29°32'N 129°31'E

9°0'N 133°34'E 10°10'N 131°43'E

表 2.8  米潜水艦攻撃に伴う戦時遭難船舶 沈没位置は米軍記録 War Patrol Diary による


第 2 章 戦時遭難船舶と米潜水艦攻撃

90

2.3.1

ニューギニア沿岸

(1) 波上丸の戦時遭難状況について  攻撃潜水艦スカルピン (U.S.S. SCULPIN SS-191) スカルビン (L. H. チャペル艦長) は、1942 年 9 月 1 日から同年 10 月

20 日までニューアイルランド島を中心に第 5 次 戒活動をおこなった。 同島には、日本軍の南方中枢基地であるラバウルがあり、そこはまた南方 資源地帯の占領拠点としてもあった。42 年 5 月 4 日から 5 日にかけ、珊 瑚海海戦が行なわれたが、同海域は、日米双方にとって彼我をかけた激戦 区域であった。ここで勢いを得た米軍は、同年 8 月 7 日、ソロモン諸島 のガダルカナル島に上陸、以後同島では約半年にわたり日米双方の熾烈 な攻防戦が戦われた。こうした陸上戦闘の海上支援–攻撃作戦として、ス カルピンは周辺海域の 戒活動をおこなったわけである。スカルピンが、 波上丸を発見したのは 42 年 10 月 7 日の午前 11 時 45 分であった。 スカルピンの

戒日誌によれば、波上丸は軍用人員輸送兼貨物船 (約

6,000) トン) として認識され、攻撃時には本船が船団最後尾にいたため、 背後から攻撃したという。ちなみに船団の中の駆逐艦高浪は護衛にまわ り、輸送船加茂丸が波上丸の僚船として行動をともにしていた。同日の午 後 1 時 20 分、スカルピンは、艦首の発射管から魚雷 4 発を発射、その内

3 発が命中した。命中から 2 分後、潜望鏡で観測すると、波上丸はひどく 損傷していた。ソナー監視では、スクリュー音もとだえ、ものが破れるよ うな音が聞こえたという。攻撃後、駆逐艦がスカルピンの制圧に取りか かったため深く潜航し、そのため、沈没状況は確認できなかったという。 特筆すべき事項としては、10 月 10 日の日誌の中で、 「南緯 3 度 33 分、 東経 149 度 47 分、ここから第 42 機動部隊指揮官が 100731(暗号無電のこ と) で示したように南緯 3 度 33 分、東経 149 度 55 分の同時間帯に船団 が通過するのが目視できるはずである。しかしながら船の影も形もなく、 先ほどから調査中の煙があたりに発散しているだけである。つまり私の 針路の概算は誤りであったということである。 」と書いていることである。 米国は、1942 年 6 月のミッドウェー海戦で日本海軍の暗号をほぼ完全に 解読しており、スカルピンは、この日機動部隊指揮官の命令によって日本 船団と遭遇できる地点まで移動したということを意味している。ただし、


Battle in Okinawa and Marine Morpheus  
Read more
Read more
Similar to
Popular now
Just for you