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第1課 黙示録の中心人物 イエス・キリストの黙示 「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起る べきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリ ストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。」 ―黙示録1:1 本書の冒頭においてこの偉大な我々と同じ情の人であり、最も 愛すべき性格を持った筆者ヨハネは、我々の手を取って栄光の君 イエス・キリストの御前に導いている。実に本書は終始一貫各時 代の預言的ドラマにおける中心人物として生き生きとした光景の うちに活動される本書の啓示者イエス・キリストを紹介している のである。 全世界のおいてこの偉大なるイエス・キリストほど広く知られ た者は古今を通じてまたとない。しかしその一面において彼を真 実に理解している者は極めてまれである。が、もし我々が細心の 注意をもって真面目に本書を研究するならば、その驚くべき人格 は漸次われわれに示されるであろう。そしてすでに我々が彼につ いて知る事実はいよいよ新たな光輝を放ち、いままで不鮮明また 曖昧だった多くの事がらはここに明瞭にされるであろう。我々が もし真摯な態度で彼を知ろうと望み、また罪を捨て、彼の僕とな る事を喜びとするならば、彼は天が下のおいては誰もよく満たす ことはない我々の心の空虚を満たし、多くの人々が求めても得る ことのできない完全な平和と喜びと平安とを与えてくださるので ある。 イエス・キリストという名には実に深淵な意味がある。人間の 名にも美しく意義のあるものはあるが、時としてその名の所有者 1


に相応しくない人がいるのを見る事がある。しかしその啓示者の 御名はその人格と働きとをいかんなく表示している。新約聖書に 記されているイエスというギリシャ語名は旧約聖書においてしば しばみられるヘブル語のヨシュアという名と同一の意義を持つも のである。すなわちそれは「神は我等の救いなり」あるいは「神 は救いなり」との意味である。実にイエスこそ全人類の要する救 い主に他ならないのである。なおまたキリストというギリシャ語 名はメシヤというヘブル語と同一意義で「油注がれたる者」とい う意味を持つ。すなわちそれは多数の預言者によって約束され、 各時代のイスラエル人が望みの中心としていた方である。その意 義は深淵かつ神聖であり、神に選ばれた「油注がれたる者」の助 けを要する我々には、特に密接な関係を示すのである。 昔のイスラエルの祭司や王達が神に選ばれた時、あたかも大祭 司であり王であられるキリストが神によって油注がれたように、 彼らも神に選ばれた事の象徴として油注がれたのであった。余計 な言葉を使うまでもなく、我々の救い主であられるイエス・キリ ストは彼にのみなし得る特殊の働き、すなわち救われるべき者を ことごとく救うために選ばれたのである。 「神はナザレのイエスに 聖霊と力とを注がれました」(使徒行伝10:38)。であるから 我々は全ての名に優って最も意義深いイエスの名について良く知 りぬいていることが必要である。なぜなら、 「この人による以外に 救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下 のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)と いう確かな約束が与えられているからである。ちなみに新約聖書 にイエスという名は1664回、キリストという名は553回用 いられている。

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聖書の中心はキリスト そもそも本書を題して「ヨハネ黙示録」と称するのは、その昔 このように命題した者の大きな過ちであったと言っても過言では ない。なぜならば、これは本書の冒頭に記すところの霊感によっ て与えられた「キリストの黙示」という題目に反するからである。 コンコルダンス・バージョンには「イエス・キリストの顔覆いを 取る」という題目が記してある。元来、黙示録とはギリシャ原語 ではApocalypses(アポカリプシス)といい「開示」もしくは「啓示」 の意味である。モーセは「隠れた事はわれわれの神、主に属する ものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの 子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるので ある」(申命記29:29)と言ったが、実にそのとおりで何人と いえども、本書を不可解な秘密の書であると言いえないはずであ る。実に本書は真摯な研究者にとっては、生命を付与するところ の真理を啓示するものである。 簡潔明瞭の論理をもってイエス・キリストの福音を宣伝した使 徒パウロは、その根本教理に関する知識の源泉はアポカリプシス にあるといっているが、実にそれは彼の大奉仕の原動力を成すも のであった。神は決して人類から豊かな恩恵を隠されない。彼は 自然を通し、あるいは摂理を通し、あるいはまた聖書を通して、 その御愛と御品性と失われた世界に関する奥義とを現し給うので ある。であるから敵である悪魔は神の御品性と御子イエス・キリ ストを隠し、またおぼろげにしようと努めるのである。実に罪は 人間と義の太陽との中間にかかる雲のようなものである。が、し かし感謝すべきことには、キリスト・イエスのうちにある明確な 黙示に対しては、悪魔といえども、信じる者の前に黒雲をかける ことは出来ないのである。すなわち「地のすべての果は、われわ 3


れの神の救を見る」 (イザヤ52:10)と述べられている通りで ある。神を敬う人であったシメオンは生誕後8日目のイエスを見て 「異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光」であると預言 したが、この「照らす」という語の語源はここにいうアポカリプ シスであり、 「現す」という意味である。これはイエスのなされた 大いなる奉仕、また下記の預言を成就したものである。 「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあな たの手をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、 もろもろの国びとの光として与え。」 (イザヤ42:6) (詩篇98: 2,3参照) 御子キリストは父なる神を現す神である。そしてその啓示は全 聖書にあり、へりくだる者に与えられているが、これによって従 来罪のために我々の霊の眼から隠された使命が明らかにされるの である。キリストによって完全に示された神を研究する時、我々 は彼が、光、生命、愛、義、智、力、および栄にておられ給うこ とを悟るに至るのである。 300万の黒人奴隷に自由を与えたかの有名な奴隷解放宣言 を一読するのなら、そこに起草者アブラハム・リンカーンの全人 格がありありと現れていることを認識できるが、それと同じに、 聖書もこれを精細に研究するならば、その全頁に天の啓示者であ られるイエス・キリストが永遠に生きておられる方として啓示さ れていることを知りえるのである。実にイエス・キリストは全聖 書の中心であり、真髄であり、門戸であり、鍵である。すなわち 旧約聖書のみによってでも救い主の全生涯を学ぶことができるよ うに、キリストがベツレヘムで生誕されたはるか以前において既 に来るべきメシヤは、イスラエルの詩となり預言となったばかり でなく、歴史の中心人物とさえなっていたのである。また四福音 書において我々はキリストの地上および天上の御生涯、愛に溢れ 4


た奉仕と犠牲の御生活、ならびに我々に永遠の命を継がせようと して仲保の御働きを窺(うかが)い知ることができるのである。 さらに使徒の書簡はそれに対する天からの啓示の注解書である。 そして黙示録は主として神の右に座し給うキリストの栄光と、地 上における神の教会歴史、ならびに新世界に建てられるべきキリ ストの永遠の王国およびそれ以前に起こる諸事件を取り扱ったも のである。 神秘の書か 本書の黙示は神がその御子に与えられたものである。であるか ら本書の真実の著者は神ご自身である。神は全ての黙示の本源で あり、キリストは神の代弁者すなわち言葉である。また彼は「神 の栄の輝きであり、神の本質の真の姿」であり、インマヌエル(神 われらと共にいます)と呼ばれている。イエスは御在世当時、弟 子トマスに「私を見た者は父を見たのである」と言われたが、こ のようにイエス・キリストの黙示とは、また父なる神の黙示でも ある。そして「キリストに与え、そして、キリストが、御使をつ かわして、…伝えられた」と述べられている。天の完全な組織に おいては、無数の天使は各々特殊の働きを与えられているが、被 造物中最高位に位する彼らは、 「救を受け継ぐべき人々に奉仕する ため、つかわされたもの」である。「キリストが、御使をつかわし て」とあるが、これは黙示を司る天使の事を言うのである。それ は肉体をもって見ることはできないが、ヨハネは異象の中に天使 を見ることを許されたのであった。(黙示録19章参照)さらに 我々はその天使の名を示されているが、その天使こそ、ダニエル、 バプテスマのヨハネの父ザカリヤ、その他の預言者等に神の特殊 の使命を伝えた使者ガブリエルであった。神の尊い黙示は、イエ 5


ス・キリスト、天使ガブリエルおよびキリストの僕ヨハネを通し て、救いの世継ぎとしての特権を与えられた全てのキリストの僕 に来たのである。神は救いの大計画を遂行するために、全ての聖 天使と地上において悔い改める人間を用いられるが、これを通し て全人類が罪と悲しみと死との全き跡を絶った新天地に凱歌を奏 する者の群に加わることを希望されるのである。 本章の黙示においてキリストは「すぐにも起こるべきこと」を 僕達に示されたが、これが黙示録の主眼である。実に神とキリス トのみ、未来のことを熟知しておられるのだが、これについて聖 書は次のように述べている。 「いにしえよりこのかたの事をおぼえ よ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神で ある、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告 げ、まだなされない事を昔から告げて言う、 『わたしの計りごとは 必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と」(イザヤ46: 9、10)。また米国前大統領ガーフィールド氏は「歴史は預言の 巻物を展開したものである。」と喝破されたが、実に我々の今研究 しようとする預言は過去現在未来の歴史を展開するところの巻物 であり、またいわゆる世の全ての神々また現代の無神論者に対す る神よりの挑戦状である。しかし懐疑論者は預言のこの挑戦に応 じ得ないであろう。(イザヤ41章21~23,48章3~6参照) 創世記に筆を起こした全聖書は黙示録において渾然融合し、美 しい結末をもって終わっている。言うまでもなく、黙示録はダニ エル書の姉妹編であり、共に預言の書であり黙示の書であるが、 黙示録において主イエス・キリストをその真髄として一層力強く 紹介している。言い換えるのなら、政治家ダニエルは四大帝国を 中心としての世界歴史を示されたが、使徒ヨハネは全歴史の中心 であるイエス・キリストに関係した歴史を示されたのである。そ してその範囲は各時代の諸事件を網羅し預言の終焉、神に対する 6


反逆の終焉および新天地の建設等の事を記録しているのである。 筆者ヨハネ 「ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、 自分が見たすべてのことをあかしした。」―黙示録1:2 ヨハネは幻の中に実に驚嘆すべきことを見、また聞いたことで あろう。彼は我々の為に神の御言とイエス・キリストの証および 示された全てのことを証しているのである。しかしこれはただ単 に御言を記述したことだけを言っているのではなく、彼の悔い改 め、清められた新しい生涯による証をも言うのである。すなわち かつては雷の子と呼ばれたヨハネが、イエス・キリストが神であ られることを証するに至ったのは、イエスの召しに応じて彼と密 接に関係を結んだためである。 (ヨハネによる福音書1:1~4参 考) ヨハネはヨハネによる福音書において「証」という言葉をたび たび用いているが、他の福音書においてはこの言葉はほとんど見 出せないのである。今や神の御性質は世の人々の論争の的となり、 敵なる悪魔によって激しく誹謗されているが、すべて神の子であ る者は、罪と死より救う神の大いなる恩恵と慈愛および大能につ いて証しなければならないのである。 (イザヤ43:12参照)こ れは我々の神聖な特権であり、また義務である。神の証人がます ます増えることを願うものである。

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祝福の約束 「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書 かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づい ているからである。」―黙示録1:3 本書の題目、著者、目的、およびそれを地上の神の僕等に伝え た使徒たちの事を記した後に、本書を読む者と聞いてその言葉を 守る者とに神の特別な祝福が約束されているが、祝福することは 神の御性質であって、聖書には神の愛に応じる者に多くの祝福が 約束されているのである。 「さいわいである」という言葉は詩篇の 中にしばしば用いられているが、神の愛を体験した者のみがこの 言葉の意義を完全に了解し得るのである。実にこの言葉は神の愛 のごとく無限のものである。これから我々は本書を研究する時、 七つの祝福すなわち忠実なクリスチャンになされた貴き約束の完 全な虹を見ようではないか。しかしこの約束を見ようとする者は 常に目を覚まし、聖い衣を着け、神の戒めを守り、この書に記さ れた教訓を守らなければならないのである。すなわちこの四つの 義務を怠らずに守る者に対して神の祝福は与えられるのである。 (黙示録1:3、14:13、16:15、19:9、20:6、22:7、15参照) ここに「守る者」という言葉が特に力説されているが、神の御 言を守る唯一の方法はそれを心の中に蓄えることである。すなわ ち「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心の うちにみ言葉をたくわえました」 (詩篇119:11)とある通りである。 またダビデはこのことについて「わが神よ、わたしはみこころを 行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあり ます」と歌っている。この祝福が約束されていることは黙示録が 理解し得る書であることの一つの証拠である。なぜならば、人は 理解できないものを守ることはできないからである。 8


「預言者は言う、『朗読する者はさいわいである。』読もうとし ない者もあるであろうが、そうした人々には祝福は与えられない。 『これを聞いて』預言のことは何一つ聞こうとしない人々もいる。 この人々も祝福を受けることができない。 『その中に書かれている ことを守る者たち。』黙示録に記されている警告や教えに注意しよ うとしない者が多い。このような人々は、約束された祝福を受け ることができない。預言の諸問題をあざ笑い、そこに厳粛に示さ れた象徴を潮笑する者、また、生活を改めて人の子の再臨の準備 をすることを拒む者は、みな祝福を受けることができない。この ような聖書の証言がある以上、黙示録は人間の理解を超えた神秘 なものであるなどと、どうして教えることができよう。それは啓 示された神秘であり、開かれた書である。」―各時代の大争闘18 章 「時が近づいているからである」とあるが、この時とはいつの 時をさすものであろうか?いうまでもなく、それは黙示録に示さ れた時、すなわち神の大いなる日を指していて、悪人は滅ぼされ、 義人は新天新地に移される時のことである。しかし黙示録が記さ れたのは紀元第1世紀の末であり、福音はすでに全地に普及して おり、また本書が指示しているキリスト教界における大背教はそ の胚胎時代であった。すなわち本書に記された預言が成就しつつ あったのであるから、時は近づいていたのである。そうならば大 ドラマの末に終息する厳粛な現時代において、黙示録の言に最大 の注意を払うことはいかに肝要なことであろう。 7つの代表的教会 「ヨハネからアジアにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、 やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊 9


から、また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の 諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あ なたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわた したちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、 御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と 権力とがあるように、アァメン。」―黙示録1:4~6 この書は小アジアのローマ領にある七つの教会に捧げられたも のである。これらの七つの教会の名は1章11節並びに第2、第3両 章に示されているが、そのうちエペソ、スミルナ、ヒラデルヒヤ 等の名は、読者の中にすでに耳にされた方もいるであろう。そも そも聖書においては7という数字は神聖な完全を表示する数字で あるが、この7つの教会はヨハネの時代より終末時代、すなわち 現代に至るまでのキリストの教会を象徴したものである。7つの教 会について小アジアに関する考古学の最大権威者ウイリアム・ラ ムゼー卿は次のように述べている。 「小アジアには7グループの教 会があったが、その各グループにはいずれも顕著にして代表的な 一つの教会があった。そしてこれらの7つの代表的な教会は各グ ループの教会を代表していた為に、各グループの教会は全キリス ト教会を代表するものであった。」実にこの小アジアの教会の名称 及び状態は、各時代にわたる全キリスト教会の状態を象徴したも のである。 各書簡における冒頭の辞 さてヨハネは7つの教会に書簡を送るに際して、先ず世間で言 い古された言葉を用いる代わりに救い主イエス・キリストを賛美 し、その恩恵を彼らの上に加わらんことを述べて挨拶の辞として 10


いる。神は常に我々に大きな恩恵を与えようとしておられるが、 実に罪深い我々が最も必要とするものは神の恩恵とそれより来る 平和である。戦雲みなぎるこの世界において、この約束はいかに 尊いものであろう。キリストを自分の救い主として信じて受け入 れる者のみが真の平和を獲得し得るのである。我々心に宿られる 神の力が我々を罪より清め、悪の力に打ち勝たせるのである。真 の意味において、キリストこそ我々の知恵、義、潔、贖、勝利ま た、神の平和となってくださるのである。キリストは我々全ての 者に対してこのようになる事を願っておられる。であるから、今 というこの時に信仰によってこの大真理を獲得しようではないか。 この祝福の源泉については次の様に言われている。第一、 「今い まし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、」と。「永遠にいま す神」全能のエホバよりも、さらに優って我々に恩恵と平和とを 豊かに世に与えてくださる者が他にあるだろうか。彼は「有って 有る者」である。フランス語訳聖書には、エホバの代わりに「永 遠の神」という文字が用いられているが、実に彼は不変の神であ られる。また彼は黙示と恩恵の神であり、その民と共に宿り、彼 らを導き、かつ救い、その礼拝を受けられる方である。すなわち 詩篇記者は次のように歌っているが、神を知り、これに仕える者 の幸福は無限である。 「山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界と を造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神 でいらせられる。」詩篇90:2 第2、 「七つの霊」とは聖霊を代表する。しかしその聖霊は神の 御座より直接神の最善の祝福をもたらす者である。第3、「イエ ス・キリスト」は忠実なる者、唯一の全き証人である。彼はご自 身の血をもってその証を固くし、望みない罪人に対して救いの道 を開いてくださったのである。 「この人による以外に救はない。わ たしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与 11


えられていないからである」 (使徒行伝4:12)。ちょうどキリス トが磔刑に処せられる前にピラトに向かって答えられた御言葉の 中にもこれと同意義の事が含まれている。 (ヨハネ18:37参照) 彼はまた「死人の中から最初に生れた者」であり、 「眠っている者 の初穂」(第一コリント15:20)である。さらにまた彼は「多 くの兄弟の中で長子」(ローマ8:25)と呼ばれている。しかし このように言うものの、彼は決して歴史上最初によみがえった者 ではない。彼の時代より1500年も以前にモーセは死よりよみ がえり、また後年預言者エリシャは神の代理者としてシュネム人 の子供をよみがえらせた。さらにキリストもラザロやある寡婦の 子供を死より生き返らせられた事などがある。しかしキリストの よみがえりこそはその卓絶たる点において最初のものであったの である。すなわち贖われて死から復活したすべての者はことごと く彼の犠牲と執り成しによるからである。彼は「地の王たちの中 最も高き者」であり、彼こそは君の君、王の王、主の主、この世 の至高者である。彼は全宇宙の御座に位する者の右に座し給いて (黙示録3:21参照)永遠の神に等しく、万国の民の上にその 統治権と支配権とを行使されるのである。摂理の下に罪は今もな おその害毒を流すことを許されているが、それは罪の恐るべき事 をよく知らせるためと、今一つは他の方法によって教訓を学ばな い人々を罪から離れさせる為である。しかしそれにもかかわらず キリストの統治権を無視するすべての者は永遠に万物を失うので ある。今や間もなくキリストは王の王、君の君として再臨されよ うとしている。ゆえにわれらは黙示録の教訓を体験し、特別の祝 福に浴するとともに、三位の神、父なる神、子なるキリスト、聖 霊―より恩恵と平和を豊かに受けようではないか。

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王にして祭司なるキリスト 4節および3節の上句に記された挨拶をした後、ヨハネは「我 らを愛し」給う救い主キリストを賛美している。読者よ、キリス トの愛の深さを考えてみよ。・・・キリストは愛する者のためだけ でなくその敵のために命を捨てられたのである。すなわち彼は 我々がなお罪人であった時、我々のために死なれたのである。こ こに「愛し」という言は原語においては現在時制を用いているが 彼は限りない愛をもって我々を愛し、また「われわれを罪より解 き放」ってくださった。罪は最も恐るべきくびきであって、その 虜となる者は、悪魔の罠の中にあって弱められ、束縛され、苦し められ、ついに永遠の滅亡に陥れられるのである。元来人は皆罪 を犯したものである。 (ローマ3:23参照)しかしこの中にも二 つの階級がある。すなわちその一つは罪から解放された人と、ま だ罪の中にある人とである。が、感謝すべき事には聖書に「こう いうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められるこ とがない」(ローマ8:1)とあるように、我々の救いの値はすで に払われたのであるから、我々が罪と死の絆より解き放たれる事 を望むのなら、ただイエス・キリストを信じさえすれば良いので ある。そうする時に我々はすでに神の御計画の中にあって王とな り祭司となるのであるが、これこそ人類に与えられる最高の名誉 である。神の聖徒は「王なる祭司」となり、また神の国の特別な 民となり、さらに自ら王となってキリストの位に座するに至るの である。 (黙示録3:21,7:15,20:6)我々がこの世におい てキリストの十字架を担う時に、彼は神の国において我々を王座 につけてくださるのである。しかしこの世界より救われる者は、 堕落しない他世界の聖徒たちの味わうことのできない密接な交わ りを神と結ぶ事を許され、そのうえ位に座する喜びに入ることが 13


できるのである。地上においては何らの地位財産を持っていなか った者でも、神の国に入る時にはこの最高の名誉と特訓に与るこ とができるのである。 読者諸君よ、恩恵時代の終わりを告げられる前に十字架の教え を信じてキリストの教えを受けようではないか。「さんび、栄光、 知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神に あるように」とのキリストの賛美に対して「アァメン。」との言葉 を信仰によって出し、ヨハネと共に主イエスの御名を賛美しよう ではないか。 彼は、雲に乗ってこられる 「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、 彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の 諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァ メン。」―黙示録1:7 「見よ、彼は、雲に乗ってこられる」と。これは黙示録の鍵で ある。この栄光ある事件はキリストの完全な生涯の七要素、つま り1.彼は神と等しい者であり、神の子としての神格を備えておら れる事。2.彼は肉体をとってこの世に降られたが決して罪を犯さ れなかった事。3.十字架に犠牲になられて死なれた事。4.続い て3日目に復活された事。5.しかし、昇天された事。6.天の聖所 において仲保の務めをなされている事。7.王の王、主の主として 再臨される事・・・等の諸要素を完結するのである。言うまでも なくこの彼の来臨は字義的なものであって、彼は諸々の御使いを 率いて来られるのである。(使徒行伝1:9~11、マタイ25: 31参照)それは決して霊的なものであったり、代理者を使った りするものではなく、また秘密裡の出来事ではない。それは確か 14


に有形的で万人の目撃し得る事件である。 (マタイ24:27参照) しかしその時、義人は「われわれの神」として彼を喜び迎えるが、 これに反して悪人にとってはこの日は「盗人がくるように」予期 しない時に突如として来、彼らに困惑と破滅とをもたらすのであ る。(テサロニケ第一5:2,3参照)地の諸族は泣き悲しむであ ろう。なぜならば、彼らの地につける望みは消滅し、しかものみ ならずキリストの御前に立つ準備も出来ていないからである。快 楽を追い求め、罪に耽溺する人々よ、ここに「すべての人の目、 ・・・ 彼を仰ぎ見るであろう。」と記されているように、我々はやがて雲 に乗って再臨なさるキリストを仰がなくてはならないのである。 はたして諸君は神に会う準備をされたであろうか。我々は今深く 自らを省みなければならない。そして今という今、イエスを仰ぎ 見て全身全霊を彼に捧げようではないか。 本節の「彼を刺し通した者」とは、この字の示すように、約2 000年前にイエス・キリストを十字架上に刺した者達のことを 指すのであって、ここには特にそれらの者たちが千々万々の御使 いたちを率いて再臨なさる主を見る人々の中にいる事が明記され ているのである。すなわちこれによってみれば、彼らは特別のよ みがえりによって復活させられる者たちであることは明らかであ る。(ダニエル書12:1,2、ゼカリヤ12:10参照)なおこ の復活の問題に関しては本章第20章において詳論するので本節 においてはこの程度にとどめておく事とする。 「全能」であられる神 「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主 なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである。』 ―黙示録1:8 15


ここに「アルパであり、オメガである」とあるが、このアルパ とはギリシャ語アルファベットの最初の文字、オメガとはその最 期の文字の事であり、神が全能の神であり、かつ彼を離れては全 宇宙も哀れにも空しいものであるとの大事実を示しているのであ る。この「全能」という言葉は黙示録の特殊な言葉の一つである が、これはキリストに対しても等しく用いる得るものである。す なわち彼はご自身と父なる神を世にあらわす為に、あたかも旧約 聖書出エジプト記第3章13,14節において、神が自らを指し て私は独立的存在であり永久不易の神であると宣言されておられ るように、彼もまたしばしば「有」との言葉を用いた。なおキリ ストは「朽ちることのないいのちの力によって」 (ヘブル7:16) 恵と栄光の王国の始めであり終わりであられるのである。 流刑者ヨハネ 「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐と にあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしと のゆえに、パトモスという島にいた。」―黙示録1:9 上記の聖句は黙示録の記述している場所並びにその当時の環境 を示している。本章の筆者ヨハネは我々の兄弟であり、我々と同 じ患難にあずかっている人であった。すなわちいつの時代であっ ても、イエス・キリストにあって神を畏れつつ世を渡ろうとする 者は、常に患難に遭遇しなければならないのである。かつてヨハ ネとその兄弟ヤコブはキリストが王位につかれた時には、その王 国において一人はキリストの右、一人はその左に座る事を許して 下さいと願った。しかし彼らの予期に反してキリストが王位に就 かれる時の戴冠式は十字架であった。であるからキリストの御足 の跡に従い、王国を継ぐ者になりたいと願う者は侮辱と苦難とを 16


常に経験しなければならないのであった。しかしヨハネもこうし た例にもれず、紀元94年頃ローマ皇帝ドミティアヌス帝による 大迫害の結果、エーゲ海にあるパトモス島という絶海の孤島に流 刑にされたのであった。この事実から推察すると、黙示録が与え られたのはおよそ紀元95,6年の頃と思われる。当時パトモス 島はローマ政府の流刑地であり、そこに罪人は監禁もしくは苦役 を強いられていたのであったが、この経験はヨハネにとって、よ り高い奉仕をするのに役立つものとなった。実に神の国へは単な る信仰上の告白や、いわゆる頭だけでの理解や、形式的奉仕や、 難行苦行によっては入ることができない。我々は「わたしたちが 神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」 (使徒 行伝14:22)のである。我々に与えられる多くの試練は、麦 とその外皮とを分ける脱穀機、あるいは油や葡萄酒を作るのに用 いる圧搾機のようなものであって、我々の心中より不純物を除き かつ品性を高潔にさせるものである。 「もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう」 (第二テ モテ2:12)。パウロは恵の支配する国を望んで進む者には、あ らゆる患難は忍耐を生ずるものであると言っている。(ローマ5: 3、8:23,25)そのようにヨハネはキリストを信じて聖な る愛に満たされていたので驚くべき忍耐の徳を養い、ついに各時 代の教会にキリストの特別な黙示を伝える為に選ばれたのであっ た。実に火のような試練は我々にとって幸福な経験となり、喜び と変わり、また神の栄となるものである。しかしヨハネがこの勝 利の生活を勝ち得た秘訣は、かつて彼が12使徒と共に居た時に、 特にキリストと親密な交わりを結び、また聖霊の指導に従った事 に起因するのである。我々も聖書を日毎の霊的な食物とし、熱心 に祈り、また主のために働くことによってキリストとの深い交わ りに入ることができるのである。 17


ヨハネがこのパトモスの孤島に流刑の身にされたのは「神の言 とイエスのあかしとのゆえに」であった。すなわち彼は神の言葉 を述べ、また主イエスを証しするためには大帝国の皇帝の面前に おいてもひるむことなく忠実にその務めを果たしたのであった。 実に迫害も死も神の道の火を消す事はできないだけでなく、かえ って「殉教者の血は教会の種」となるのである。ジョン・バイヤ ンはベットフォードの獄舎につながれていた時、かの驚くべき「天 路歴程」を書き残したではないか。地上のいかなる権力をもって しても、真理を圧迫することはできないのである。 ヨハネ主の日に幻を受ける 「ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わた しのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。 その声はこう言った、『あなたが見ていることを書きものにして、 それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラ デルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい。』」―黙示 録1:10,11 ここで言われている「主の日」とは神の制定された真の安息日 の意味である。我々はしばしば安息日はすでに変更されたという 主張を耳にするが、安息日の制定者であられる神も御子キリスト もそれを変更されたという事実はない。一週の第七日目すなわち 現在土曜日と称している日は昔も今も神の聖なる安息日として記 念されるべきである。神はこの日を「わが聖日」(イザヤ58:1 3)と宣言され、またキリストは自らを「安息日の主」(マタイ1 2:8)と唱えられておられる。なお神は「十戒」の中に「七日 目はあなたの神、主の安息である」(出20:10)と言われてい るのである。我々がいくら旧新約聖書を検討してみても、安息日 18


が変更されたという事実を裏書する記事を見つけることは出来な いのである。であるから我々はパリサイ人のパン種すなわち伝説 的教理を警戒しなくてはならない。安息日は創造と贖罪とを覚え る神聖な記念日である。であるからこの日にヨハネが黙示を受け た事は実に意義深いことと言うべきである。すなわちこの創造完 成の記念日は、幻の中にある預言者が罪の歴史と各時代にわたる 迫害と患難、神の栄ある再創造及び罪と死とが永遠に消滅する有 様を見る窓となったのであった。 言うまでもないことではあるが、この黙示録に示された事は人 間の頭脳から考え出された虚構の事ではない。その昔エホバがシ ナイ山においてモーセに律法を授けられた時、山上より大いなる ラッパの音が響き渡ったように、ヨハネはこの時、 「ラッパのよう な大きな声がするのを聞いた」のであった。この「ラッパのよう な大きな声」とは最高の権威を意味するものであるが、この声は すべて「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、 スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオ デキヤにある七つの教会に送りなさい」とヨハネに命じたのであ る。この七つの教会の関しては、2,3両章において詳述するの で本章においてはこれを省略するが、要約していえば、黙示録は 当時の教会にとって必要な訓戒を与えるために記されたものであ ると共に、また今日の神を恐れ、またキリストを信じて生命の冠 を受けようとする者に対してさらに必要な教訓を与えるものであ る。 七つの燭台と人の子のような者 「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとして ふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それら 19


の燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている 人の子のような者がいた。」―黙示録1:12,13 ヨハネには幻によってキリストが、燭台の間におられるのを見 たが、それはただ霊感による筆のみがよく記述し得る光景である。 ここの「七つの燭台」とは七つの教会を指すものである。 (20節 参照)しかし燭台それ自身ではなく、それに輝くところの燈火の 光、すなわち「世の光」なるキリストは、教会および神を恐れる 敬虔な信者によって世に照り渡るのである。また「金」は尊さと神 聖との象徴であるが、キリストはご自身の血によって贖われ、教 会をかくも尊んでくださったのである。 「キリストは金の燭台の間を歩いているように述べられている。 これはキリストと教会の関係を象徴したものである。キリストは 絶えずその民と交わっておられる。主は彼らの真の姿を知ってお られる。彼らの状態、敬虔さ、献身を見ておられる。主は天の聖 所の大祭司であり、仲保者であるが、地上にあるご自分の教会の 間を歩く方として表されている。 キリストはたゆまず目をさまし、絶えず気を配りながら、見張 り番の灯が暗くなったり消えたりしないように見守っておられる。 もし燭台が単に人間にゆだねられるなら、ゆらめく炎は衰えて消 えてしまうであろう。しかしキリストは主の家の真の見張りであ り、宮廷の真の番人である。キリストの絶えざる守りと恵みによ る支えは、いのちと光の源である。」―患難から栄光へ57章 人の子となり、人の性情と姿とを保ち、同時にまた天上の神格 を備えられた神の子キリストは、実に謙遜でおられた。 「キリストは、ご自分の生涯と死によって、罪のために生じた 破滅から回復するよりももっと大きなことをなしとげられた。神 と人とを永遠にひき離すことがサタンの目的であった。しかしキ リストのうちにあるときに、われわれは堕落しなかった場合より 20


ももっと密接に神につながるようになるのである。救い主は、わ れわれの性質をおとりになることによって、決してたちきれるこ とのないきずなでご自分を人類にむすびつけられた。永遠にわた って、キリストはわれわれとつながっておられる。 「神はそのひと り子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。」(ヨハネ 3:16)。われわれの罪を負い、われわれのいけにえとして死ぬ ために、神はみ子をお与えになっただけではない。神はみ子を堕 落した人類にお与えになったのである。神は不変の平和のはから いを保証するために、ご自分のひとり子を与えて人類家族の1人 とならせ、永遠に人間の性質をみ子のうちに保たせられた。 これこそ神がご自分のみことばを成就される保証である。 『ひと りのみどり子がわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれ われに与えられた。まつりごとはその肩にあり』(イザヤ9:6)。 神はみ子自身のうちに人間の性質をとり入れ、これを一番高い天 にまで持ちつづけさせられた。神とともに宇宙のみ座を占めてお られるのは『人の子』である。その名を『霊妙なる議士、大能の 神、とこしえの父、平和の君』ととなえられるのは『人の子』で ある(イザヤ9:6)。『有って有る者』は神と人類の間にあって、 両方に手を置いておられる仲保者である。 『聖にして、悪もけがれ もなく、罪人とは区別され』るお方は、われわれを『兄弟と呼ぶ ことを恥じ』たまわない(ヘブル7:26、22:11)。キリス トのうちに、天の家族と地の家族が1つに結ばれている。栄光を お受けになったキリストは、われわれの兄弟である。天は人間の うちに宿り、人間は限りない愛の神の胸にいだかれている。」―各 時代の希望1章 人の子が栄化された時、すべて彼に従う者のために彼のなされ たことを認知しえるためにご自身を我々に現されたのである。か つてヨハネは変貌の山において栄化されたキリストをみた。(マル 21


コ9:2,3参照) キリストの容貌1 第13節の下句にイエスは王および祭司のような権威ある衣を まとっておられる事が記述されている。聖書中キリストの容貌に おいて比較的詳しく記述した所はただこの一か所、すなわち本節 以降数節の記事のみであるといっても過言ではない。福音書記者 はキリストが肉体をとってこの地上にいらっしゃった当時の御容 姿について何ら言及していないし、またその肖像のようなものも 残していない。それというのも、後世それらのものが偶像崇拝の 道具に用いられることを防ぐためであったと推察されるのである。 ヨハネは3年半の間、 「きつねには穴があり、空の鳥には巣があ る。しかし、人の子にはまくらする所がない」と言われるほど貧 しかったキリストに従い、ついに彼が唾を吐かれ、いばらの冠を かぶされ、鞭うたれ、そしてカルバリーの十字架に釘づけられた のを目撃した。しかしヨハネは、その同じキリストが栄光に輝く 御姿で立たれるのを見たのである。 ユダヤの歴史家ジョゼファスも語っているように、ユダヤの祭 司長はその胸に衣を巻いていた。ここにキリストは天の聖所の祭 司長として現されているが、昔ユダヤにあった聖所はこの天の聖 所の型、あるいは影であった。 (ヘブル書8章参照)なお彼は我々 の仲保者であり、助け手であられる。 キリストの容貌2 「そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白で あり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて 22


光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようで あった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつ るぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。 すると、彼は右手をわたしの上において言った、 「恐れるな。わた しは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わた しは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者であ る。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。」黙示録1:14~18 美しい白髪は老齢を示すものではなく、真の純潔を表したもの である。炎のような目は罪を洞察看破し、これを除去する事を言 ったものである。(黙示録19:12、出エジプト記24:17、 エレミヤ17:10参照) 炉で精錬されて光り輝くしんちゅうの ようとは、患難の炉を通過してより大いなる力を現すに至った事 を伝えるものである。大水のとどろきのような声とは、調和、充 実、荘厳、権威等を表示したものである。これと同一の事実をダ ニエルは「群集の声」(ダニエル書10:6)との表現で述べ、エ ゼキエルは1章の24節で両者を併用している。また右の手は権威、 権力、巧妙を表示し、その携えている七つの星とは天使を象徴す るものである。さらに鋭いもろ刃のつるぎとは神の言のことであ る。(エペソ6:17、ヘブル4:12、黙示録19:15参照) またここに「顔は、強く照り輝く太陽のようであった。と記述 されているが、罪の覆いの取り去られないうちは「輝く日」の力 は知られないのである。しかし覆いを取り去られたキリストの御 顔の輝きは真昼の太陽のように栄光に輝くものであるから、ヨハ ネが死人のようにその足下に倒れたのも無理からぬ事である。が、 その時、生命と恩恵の源泉であるキリストはその御手を僕ヨハネ の上に置き、 「恐れるな」と言われ、彼に親切な慰めの御言を語ら れた。このように永遠に存在される生ける神であられる方は、は 23


なはだしく疲れて力を失い、ついに倒れた使徒に慰めと力と生命 を与えられたのであった。 なおこの時主は御言を続けられ、 「生きている者である」と言わ れた。読者諸君も熟知しておられるように、我々の主イエス・キ リストは、今を去る約2000年前にエルサレム郊外のゴルゴダ において十字架におかかりになったのであった。そして墓に葬ら れたが、ついに三日目によみがえり、やがて昇天されたのであっ た。永遠に生きられる神の御子が、何故このような死を遂げられ る必要があったのかという事は、深い神秘的事実であり、一見矛 盾するように思われるが、決してそのようなものではない。ここ には浅はかな人知をもっては到底想像できない神の御心が存在し ているのであるが、キリストの十字架上の死を要約していえば、 それは全人類を罪より贖うためのものであったのである。もし 我々がこの事実を信じ、彼に全的な信頼を捧げるならば、我々は 死ぬべき運命であるにもかかわらず、キリストが死と黄泉とを征 服して復活されたように、人類最大の敵である死に打ち勝つこと ができるのである。実にキリストの復活は、我々人類も死を征服 して永遠の限りない生命に入ることが出来ることの保証である。 彼はその神格と地位と体験とによって生死を定める最高決定者で あり、かつその手中に黄泉と死の鍵を握っておられるのである。 (ちなみにギリシャ語で黄泉とは墓の意味である) 。そして本章並 びに使徒行伝、使徒の書簡等はこの事実を裏書きするものに他な らない。 七つの星と七つの燭台 「そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとする ことを、書きとめなさい。あなたがわたしの右手に見た七つの星 24


と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの 星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。」 ―黙示録1:19,20 再びヨハネはその見た事を書き記すよう命じられた。黙示録は このようにして記されたものであって、その中には重大な真理と 救いの大計画とに関係した諸事件の発展の模様が描写されている のである。勿論その中のある者は過去の事実となったが、また将 来に関連したものもあるのである。キリストご自身が、ヨハネに 向かって七つの星と七つの金の燭台の示す奥義とを説明されてい る。忠実に聖書を究める者に対しては、聖霊はこれを助けて、聖 書の奥義はあたかも雨の後にこうこうと輝くように、非常に明ら かな開示となって彼らに示されるのである。 「七つの星」とは天使を意味したもの、すなわち教会の使徒で ある福音宣伝者をさしたものである。キリストはあたかも天空の 星を統制されるように福音宣伝者を直接指揮されるのである。こ の神聖な福音事業に、キリストが直接指導される福音宣伝者を持 つ教会の幸いはいかばかりであろう。またもし教会の信徒が燭台 の間を歩かれるキリストに忠実に仕え、また清い生涯を送るなら ば、その教会は光を与えられ、神よりの豊な支持と保護を受け得 るのである。全黙示録を通して神とその民の間の関係は密接であ り、離れないという大真理が強調されているが、実にキリストは ここに示されたように各時代における教会すなわち燭台の間を歩 まれるのである。 本書を正しく理解する者は幸福な新しい経験を味わうであろう。 このような人々は常に天の門を望み見て、心の清い者の受ける報 償を得るためには、より高い品性の涵養に務めなければならぬこ とを深く感じることであろう。 黙示録に示された真理を悟ろうとする為にへりくだってその知 25


恵を祈り求める全ての者に対して、神は豊かな祝福をくだされる のである。本書には不死と天国の事について強調されている。で あるから本書を研究する者は「この預言の言葉を朗読する者と、 これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たち」 (黙示録 1:3)に約束された天来の潤沢な祝福と、神の深い恩寵に浴する のである。

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黙示録預言研究第1課  

「黙示録の中心人物」