Page 1

The Beatitude


SABBATH SCHOOL LESSONS for the First 2012 The Beatitudes

Issued by General Conference International Missionary Society Seventh-day Adventist Church Reform Movement 625 West Avenue Cedartown, GA 30125 USA Telephone (+1) 770-748-0077 / Fax (+1) 770-748-0095 Email imssdarmgc@yahoo.com www.ims1914.org


祝福

目次 まえがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4 1 課 1/07 心の貧しい人たちは、さいわいである・・・・・・・・・・7 2 課 1/14 悲しんでいる人たちは、さいわいである・・・・・・・・13 3 課 1/21 柔和な人たちは、さいわいである・・・・・・・・・・・20 4 課 1/28 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである・・・・25 5 課 2/04 あわれみ深い人たちは、さいわいである・・・・・・・・30 6 課 2/11 心の清い人たちは、さいわいである ・・・・・・・・・35 7 課 2/18 平和をつくり出す人たちは、さいわいである・・・・・・40 8 課 2/25 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである・・44 9 課 3/03 人々があなたがたをののしる時には、さいわいである・・49 10 課 3/10 つまずかない者は、さいわいである・・・・・・・・・・55 11 課 3/17 あなたがたの目は見ているから、さいわいである・・・・61 12 課 3/24 シモン、あなたはさいわいである・・・・・・・・・・・66 13 課 3/31 忠実な思慮深い僕は、さいわいである・・・・・・・・・71 ノルウェーからの伝道報告・・・・・・・・・・・・・・・・・77

3


まえがき もしあなたが誰かに幸福を祈る気持ちを示したいと思うなら、あなた はその人に何と言うでしょうか。おそらく、 「あけましておめでとうござ います!」 「早く良くなってください!」もしくは「良い日を!」と言う かもしれません。しかし本当にこれが、友人や親せきに対するわたした ちの最大の願いなのでしょうか。主はそれよりもっと大きなものを、一 日や一年といったある一定の期間だけではなく、人間の全存在のために 与えようとされます。 この「祝福」は、人類へのこのお方の手紙以上のものです。それはこ の地上において、また将来における人生、また永遠の命のあらゆる祝福 と幸福の基礎を含んでいます。この短い言葉の中にはすべてを完全に変 えてしまう神聖な思いがあります。この祝福を心にとどめるすべての人 はさいわいです! 「愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たち を選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者と されたではないか」(ヤコブ 2:5) 。 愛する兄弟姉妹方、わたしたちが神の子であるのは、このお方がわた したちを選ばれたからです。このお方はわたしたちに、最大の遺産を与 えられました。わたしたちにとって、主人であり愛する救い主であるこ のお方に従う以上の喜びはないのです。このお方がこの地上に来られ、 山上で素晴らしい垂訓を与えられた時、このお方はガリラヤの丘に集ま った人たちに対してだけではなく、各時代において、霊的な岩であるイ エス・キリストに来るすべての人たちに対して与えられたのです。マタ イ 5、6 章には祝福された生涯を生きたいと望むすべての人に対する最上 の指示が含まれています。この真理を自分の考えと生活に取り入れるす べての人は、大きな変化を経験するでしょう。 4


今期の安息日学校教課を学ぶに当たって、わたしたちはイエスを眺め、 このお方の愛と犠牲を瞑想しましょう。それは大いなる祝福と素晴らし い経験をもたらします。霊感を受けた多くのメッセージは、わたしたち がこの経験を得るようにと招いています。 「信仰の導き手であり、またそ の完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の 前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神 の御座の右に座するに至ったのである」 (ヘブル 12:2) 。 「 『わたしたちの国籍は天にある。そこから、救い主、主イエス・キリ ストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる』と使徒は言った。 他の人々が知性を縮め、心を頑なにし、この世に仕えるために自分たち を捧げることによって主から盗んでいる一方で、真のクリスチャンの魂 は神に許しと平和と義、また栄光と不死と永遠の命を求め、この世の愚 かさやむなしさを超越するのである。そして彼の求めは無駄にならない。 彼は父とみ子なるイエス・キリストと交わる。この神との密接な交わりを 通して、魂は変化させられる。わたしたちは眺めることによって神のみ 形に変えられるのである。 」-サインズ・オブ・ザ・タイムズ 1887 年 3 月 31 日 「わたしたちはキリストの栄光を瞑想するだけでなく、主がいかにす ぐれているおかたであるかを語るべきである。イザヤはキリストの栄光 を見たばかりでなく、キリストについて語った。ダビデは瞑想している うちに心が燃え、その舌をもって語った。彼が神のおどろくべき愛を瞑 想した時、自分が見たり感じたりしたことを話さないでいることはでき なかった。信仰をもって、贖(しょく)罪のすばらしい計画や、神のひと り子の栄光を見ながら、それを語らない者 があるだろうか。わたしたち が滅びないで、永遠の命を得るように、キリストがカルバリーの十字架 上に死んであらわされた測りしれない愛を瞑想し、凝視しながら、救い 主の栄光を賛美することばを持っていないという者があるだろうか。」― 祝福の山 p.53,54 主が、学ぶ者のすべての心に触れられ、日毎にこの経験を与えてくだ 5


さいますように。その時、わたしたちはこの祝福をこの一期だけではな く、それを大切にし、適用することによって、永遠に、素晴らしい経験 とするようになるのです。 ―著者と世界総会の兄弟姉妹より

6


※特別安息日学校献金はハイチのために捧げられます。 あなたの献金を愛と感謝の表現として捧げることを覚えて下さい。

1課

安息日 2012 年 01 月 07 日

「心の貧しい人たちは、 さいわいである」 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものであ る。 」マタイ 5:3

序文 「山の上で、キリストが民に語られた最初のことばは祝福のことばで あった。自分の霊的な貧しさをみとめて、あがないの必要を感ずる者は さいわいであるとイエスは言われた。福音は、貧しい人たちにのべつた えられるのである。福音は、霊的に高慢な人たち、すなわち自分は富ん でいる、何も必要なものはないと主張する人たちに示されないで、へり くだり、くだけた心を持っている人たちに示される。罪を洗いきよめる 泉はただ一つしかない。それは心の貧しい者のために開かれている泉で ある。 」―各時代の希望中巻 p.3,4

自分の霊的貧しさを認識する 1. イエスの時代の宗教指導者の考えと行動を何が特徴づけていま したか。そのような精神は、今日も存在しますか(ルカ 18:11; イザヤ 65:5 上句) 。

7


「キリストの時代に、民の宗教指導者たちは霊的宝に富んでいると自 認していた。 『神よ、わたしはほかの人たちのよう・・・・でないことを感 謝します』というパリサイ人の祈りは、その階級の気持ち、またさらに 国全体の気持ちを非常によく表現していた(ルカ 18:11)。―祝福の山 p.8 2. ペテロと他の弟子たちはどのようにして、自分たちの罪深さと霊 的貧しさを認識するようになりましたか(ルカ 5:8) 。

「…イエスをとりまく群衆の中には、自分の霊的な貧しさを認めた 人々も何人かあった。魚が奇跡的にとれて、キリストの神聖な力があら われた時、ペテロは救い主の足下にひれ伏し、『主よ、わたしから離れ てください。わたしは罪深い者です』と叫んだ(ルカ 5:8)。そのように山 上に集まった群衆の中にもキリストの純潔を目の前にして自分が、『み じめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者』であ ることを感じた魂があった(黙示録 3:17)。そして彼らは『すべての人を 救う神の恵み』を切望したのである(テトス 2:11)。これらの魂の中に、 キリストのあいさつの言葉は希望をよびおこした。彼らは自分たちの生 涯が神の祝福を受けていることを知った。 」―祝福の山 p.8

自己の義は謙遜ではない 3. 聖書は自分の本当の霊的状態を認めることを拒む者たちの状態を どのように示していますか。彼らのイエスとの関係はどのようなもので すか(黙示録 3:17) 。

「自分は完全であり、かなり善良であると考え、自分の状態に満足し ている者は、キリストのめぐみと義にあずかることを求めない。誇りは 必要を感じない。だから、キリストとキリストがおいでくださって与え ようとしておられる無限の祝福とに対して心を閉ざしてしまうのであ る。そのような人の心にはイエスがはいられる余地はない。自分自身も 富んでおり尊敬すべき者と考えている者は、信仰をもって求めようとし ないし、神の祝福を受けないのである。彼らは自分が十分だと感じてい 8


るから、からのままで去るのである。 」―祝福の山 p.8,9 4. 主から完全な許しと祝福を得るためには、何が先立ちますか(ル カ 18:13,14; イザヤ 57:15) 。

「自分を救うことはできない、また自分では正しい行ないはできない と知っている者は、キリストがお与えになる助けを感謝する者たちであ る。彼らは心の貧しい者であり、主は彼らを幸福であると言明されたの である。…彼らは、今までしてきたことはすべて、自我と罪がまざって いることを知る。かれらはあわれな取税人のように遠くはなれて立ち、 目を天にむけようともしないで、『神様、罪人のわたしをおゆるしくだ さい』と叫ぶ(ルカ 18:13)。その時彼らは祝福されるのである。悔い改 める者にはゆるしがある。キリストは「世の罪を取り除く神の小羊」 (ヨ ハネ 1:29)であるからである。 」―祝福の山 p.9 「神に受け入れられる第一の条件は必要感をもつこと、つまり、自分 の欠乏と罪とを自覚することである。『こころの貧しい人たちは、さい わいである、天国は彼らのものである』(マタイ 5:3)。」―キリストの実 物教訓 p.132

再生と栄光 5. もしわたしたちの願いが本物なら、再生を得るためにどのような 手段を取りますか。人間の努力はこれを達成するためにどのような役割 がありますか(エゼキエル 36:26, 27; エレミヤ 24:7; ヨハネ 16:8) 。

「しかし、わたしたちが罪をゆるされ、平和を与えられるためには自 分を知らなければならない。つまり、わたしたちを悔い改めに至らせる 知識がなければならない。パリサイ人には、罪の自覚がなかった。聖霊 は、彼を動かすことができなかった。…わたしたちは、自分たちの真の 状態を知らなければならない。そうでなければ、キリストの助けが必要 9


なことを感じないことであろう。わたしたちは、自分たちの危険につい て知らなければならない。そうでなければ、避難所にのがれることもな いことであろう。わたしたちは自分たちの傷の痛みを感じなければなら ない。そうでないと、いやしを求めないことであろう」―キリストの実 物教訓 p.137,138 「キリストは、お許しになるに先だって、その人をまず悔い改めさせ られる。そして罪を認めさせるのは聖霊の働きである。罪を認めさせる 神の霊によって心を打たれた者たちは自分の中に何もよいものがない ことを悟る。…『わたしは新しい心をあなたがたに与え・・・・わが霊をあ なたがたのうちに置」 くのである(イザヤ書 1:18;エゼキエル 36:26, 27)。 」 ―祝福の山 p.9 6. 罪人はどこに汚れと罪の破壊からの清めを見出し、このお方の義 の清い衣を受けますか(イザヤ 1:18; 45:24)。

「人はわたしについて言う、『正義と力とは主にのみある』と。人々 は主にきたり、主にむかって怒る者は皆恥を受ける。」(イザヤ 45:24) 「神の内には満ち満ちた恵みがあり、わたしたちはこのお方のみ霊と 力を豊かに受けることができる。自己の義というもみ殻を糧にするので はなく、主のもとに行きなさい。このお方はあなたに最上の衣を着せら れ、このお方のみ腕はあなたを迎えようと開かれている。『彼の汚れた 衣を脱がせ、祭服を着せなさい 』とキリストは言われる。」―セレクテッド・ メッセージ 1 巻 p.328 「あなたの過去の経験がどうあろうと、また、現在の状況はどんなに 落胆させるものであっても、弱く、力なく、気落ちしたままでイエスに 来るならば、わたしたちのあわれみ深い救い主は、遠くからあなたを迎 え、その愛のみ腕をあなたにのばし、その義の衣をあなたに着せられる。 イエスはご自身の品性の白い衣をわたしたちに着せて、父なる神に紹介 される。イエスは父のみまえでわたしたちのために嘆願される。そして わたしはすでに罪人の代わりになりました、このわがままな子をごらん にならないで、わたしを見てくださいといわれる。…キリストの血はよ り大きな力をもって嘆願するのである。 『人はわたしについて言う、 「正 義と力とは主にのみある」と。・・・・イスラエルの子孫は皆主によって勝 ち誇ることができる』(イザヤ書 45:24, 25)。 」―祝福の山 p.10,11 10


貧しさを豊かさと交換する 7. 心の貧しい者に、どのような輝かしい約束が与えられていますか (マタイ 5:3) 。

「心の貧しい者についてイエスは、『天国は彼らのものである』と言 われる。この王国は、キリストの聴衆が望んだような一時的な、地上の 統治ではない。キリストは人々にご自身の愛とめぐみと義の霊的王国を 開いておられた。メシヤの統治の旗じるしは、人の子のかたちであるか ら、はっきり目立っている。主の国民は心が貧しく、柔和で、義のため に責められる者である。天国は彼らのものである。まだ十分に成就して はいないけれども、 『光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る 者とならせて下さる』お働きは彼らのうちにはじまっているのである(コ ロサイ 1:12)。 心の貧しさを深く感じ、自分のうちに何もよいものがないと感じるす べての者は、イエスを見上げることによって義と力を見出すことができ る。イエスは『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに きなさい』といわれる(マタイ 11:28)。イエスはあなたの貧しさを主の めぐみの富と交換するように仰せになる。わたしたちは神の愛を受ける にふさわしくない。しかしわたしたちの保証人であるキリストはそれに ふさわしく、また彼に来るすべての者を豊かに救うことがおできになる のである」―祝福の山 p.10 「彼のみが人の心のうちに罪を憎む心を植えつけることができるの であります。真理や純潔をしたい、自分の罪深さを認めることなどはみ な、キリストの霊が私どもの心に働いている証拠であります。」―キリ ストへの道 p.28

結論 「私どもが過去の罪のゆるしを味わっていない、ただ一つの理由は、 心を卑しくして真理のみ言葉の条件に従っていないからで、この点につ いて次のようにはっきりと教えられています。罪の告白は、それが公の ものであっても、個人的のものであっても、真心からのものであって、 十分に言い表わされなければなりません。罪人に無理にしいて言わせる ものではありません。また、告白は軽率に不注意になされてはなりませ ん。ほんとうに、罪がどんなにいまわしいものであるかを認めていない 11


人にしいるものでもありません。心の奥底からわき出てきた告白は、限 りないあわれみを持ちたもう神へ通じます。詩人ダビデは、『主は心の 砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる』(詩篇 34:18) と言っています」―キリストへの道 p.44,45 「キリストの教会は、弱く欠点があるように見えるかもしれないが、 それは地上において主が最も高い関心を向けられる唯一の的である。… 主は選ばれた民、すなわちご自分の教会を持っておられる。このお方は この教会をご自分のものとされ、反逆し罪に打ちひしがれた世における 砦とされる。 」―天国で p.284 「教会は神が反逆した世に持っておられる神のとりでであり、神のの がれの町である。教会への裏切り行為は、ひとり子の血によって人類を あがなってくださった神に対する反逆である。世のはじめから忠実な 人々がこの地上に教会を構成してきた。 」―患難から栄光へ上巻 p.3

12


2課

安息日 2012 年 01 月 04 日

「悲しんでいる人たちは、 さいわいである」 「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」 マタイ 5:4

序文 「ここにみられる悲しみとは罪のための真心からの悲しみである。イエ スは『わたしが、この地から上げられる時には、すべての人をわたしのと ころに引きよせる』と言われた(ヨハネ 12:32)。人が十字架にあげられたイ エスを見るように引きよせられる時、彼は人類の罪深さをはっきり知る。 彼は栄光の主を嘲笑し、十字架につけたのは罪であることを悟る。彼は今 まで言い」表わせないほどのやさしさをもって愛されてきたのに、自分の 生涯は忘恩と反逆の場面の連続であったことを知る。彼は最良の友なるお かたを捨て、天のもっとも尊い賜物を乱用した。彼は神のみ子を自分で再 びくぎづけたのである。そしてその傷つき痛められた心をもう一度さし貫 いたのである。彼は広く、暗く、深い罪の淵によって、神からへだてられ た。彼は絶望感にうちひしがれて悲しむのである。 このような悲しみは『慰められるであろう。 』神はわたしたちがキリスト のうちに逃げこむために、彼によって罪の束縛から解放し、神の子らの自 由を喜ぶために、わたしたちの罪をあらわしてくださる。真の悔いをいだ いて、わたしたちは十字架のもとに来ることができる。そしてそこにわた したちの重荷をおけばよいのである。 」―祝福の山 p.11,12

悲しみと清め 1. クリスチャンは何を悲しむべきですか(エゼキエル 18:20; 申命記 13


24:16 下句;

使徒行伝 3:19; ヤコブ 4:8-10) 。

「 『悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう』 (マタイ 5:4)。このことばによって、キリストは、悲しむこと自体に罪の不 義を取りのぞく力があると教えておられるのではない。主は、見せかけや わざとらしい謙遜を承認されない。イエスが言われた悲しむということば は、ふさぎこんだり、悲嘆にくれたりすることではない。われわれは罪の ために悲しむが、一方では神の子であるというとうとい特権を喜ぶのであ る。 われわれは、自分の悪い行為によって面白くない結果が自分自身にふり かかるために悲しむことがよくある。しかしこれは悔い改めではない。罪 についてほんとうに悲しむことは、聖霊の働きの結果である。みたまは、 救い主を軽んじ悲しませた心の忘恩を示し、われわれをくだけた心をもっ て十字架のもとに行かせる。われわれが罪を犯すたびに、イエスは新たな 傷を受けられる。自分が刺したイエスを仰ぎ見るとき、われわれは、イエ スに苦悩を与えた罪について悲しむ。このように悲しむことによって、わ れわれは、罪を放棄するようになるのである。 」―各時代の希望中巻 p.4,5 2. 自己中心の人は誰の奴隷ですか。この奴隷の主人は何をあきらめよう としませんか(ヨハネ 8:34; ローマ 6:16) 。

「悔い改めとは罪を悲しむことと罪を離れることを含みます。人は罪の 恐ろしさを知るまでは罪を捨てるものではありません。心の中で全く罪か ら離れなければ、生活にほんとうの変化は起らないのであります」―キリ ストへの道 p.22 「世俗の人々は、この悲しみを一つの弱さと公言するかもしれない。し かしこれこそ、悔い改めた者をたちきることのできないきずなで限りない おかたに結びつける力である。それはかたくなな心と罪とがのために失わ れた恩恵を、神の天使たちが魂にとり戻してくれていることを示す。悔い 14


改めた者の涙は、聖潔という日光に先立つ雨のしずくにすぎない。この悲 しみは、魂の中の生きた泉となるよろこびの先ぶれである。 『わたしの声に 聞き従わなかったことを言いあらわせと、主は言われる。』『わたしは怒り の顔をあなたがたに向けない、わたしはいつくしみ深い者である』 (エレミ ヤ 3:13, 12) 。 」―各時代の希望中巻 p.5

罰と祝福 3. 神は預言者イザヤを通して、どのようなメッセージを送られましたか。 神の忠実な僕によって、どのような働きが実行されるのですか(イザヤ 57:15; 66:2) 。

「試練と不幸の中にあって悲しむ人々のためにもまた慰めがある。悲嘆 と屈辱のつらさは、罪にふけるよりもましである。神の恵みによって、わ れわれが自分の欠点にうち勝つことができるように、神は苦しみを通して われわれの品性のけがれた点を示される。われわれ自身に関する未知の章 が目の前に開かれ、神の譴責と勧告とを受け入れるかどうかがテストされ る。試練に会ったとき、いらだったり、不平をいったりすべきでない。反 抗したり心配したりして、キリストのみ手から離れてはならない。われわ れは、神の前に魂をへりくだらせるのである。ものごとを自分の気に入る ような光の中に見たがる者には、主の道はぼんやりとしか見えない。それ はわれわれ人間の性質にとっては、暗く、よろこびがないように見える。 しかし神の道はあわれみの道であり、その終りは救いである。エリヤが荒 野でもう人生はたくさんだと言って、死にたいと祈ったとき、彼は自分の していることがわからなかった。あわれみ深い主は、エリヤをそのことば 通りには受けとられなかった。エリヤにはまだしなければならない大きな 仕事があった。そして彼の仕事が終ったとき、彼は荒野で落胆と孤独のう ちに死ぬのではなかった。彼は死の塵の中へくだるのではなく、天の戦車 に守られて栄光のうちに天のみ座のもとへのぼるのであった。」―各時代の 希望中巻 p.5,6 4. 神はだれでも許されますか(イザヤ 49:14-16; マタイ 7:9-11) 。

15


「救い主の言葉はまた苦悩や失望に苦しむ者に慰めのことばとなる。わ たしたちの悲しみは地からわきでるのではない。神は『心から人の子を苦 しめ悩ますことをされない』のである(哀歌 3:33)。神が試練と苦悩とをゆ るされる時は、『わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるため』 である(ヘブル 12:10)。耐えがたく思われる試練も、信仰をもって受けるな らば、祝福であることがわかる。この世の喜びを砕く残酷な一撃も、わた したちの目を天に向ける手段となる。悲しみが彼らを主にある慰めに導か なかったならば、イエスを知らないでしまう人がどんなに多いことであろ う。 」―祝福の山 p.12 「この試みの時に、主はご自分の民をお忘れになるだろうか。主は、洪 水前の世界に刑罰がくだった時、忠実なノアをお忘れになっただろうか。 平地の町を焼き尽くすために火が天からくだった時、ロトをお忘れになっ ただろうか。エジプトで偶像礼拝者たちに囲まれていたヨセフをお忘れに なっただろうか。イゼベルがエリヤをバアルの預言者と同じ運命にすると 誓って彼を脅かした時、主はエリヤをお忘れになっただろうか。牢獄の暗 く陰うつな穴にあったエレミヤをお忘れになっただろうか。火の炉の中の 三人の人物を、あるいはライオンの穴の中のダニエルを、お忘れになった だろうか。 「シオンは言った、『主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた』と。 『女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことが あろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなた を忘れることはない。見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻ん だ。・・・・』 」(イザヤ書 49:14-16)。万軍の主は言われた、「あなたがたにさ わる者は、彼の目の玉にさわるのである」(ゼカリヤ書 2:8)。 」―各時代の 大争闘下巻 p.401 5. 神は、誰を懲らしめられますか。いつもわたしたちはどうするべきで すか(黙示録 3:19; ヘブル 12:5-11; ヨブ 5:17; 箴言 3:11,12) 。

「キリストは、悔いた心をひき上げ、悲しむ魂を洗練してそれをご自分の 住居としてくださるのである。 しかし悩みが来る時、ヤコブのようになる人が何と多いことであろう。 16


わたしたちはそれを敵の手と思うのである。そして暗やみの中で力が尽き るまで盲滅法に戦うのである。そして慰めも救いも見いだせない。夜明け にヤコブに触れた神のみ手は、彼が格闘していたのは契約の天使であるこ とを明らかにした。泣きながら力尽きたヤコブは、彼の魂が慕い求めてい た祝福を受けるために、無限の愛のふところに倒れ伏した。わたしたちは また試練は益をもたらすことを学び、主のこらしめを軽んじることなく、 主に責められる時、気落ちしないように学ぶ必要がある。 『見よ、神に戒められる人はさいわいだ。・・・・彼は傷つけ、また包み、 撃ち、またその手をもっていやされる。彼はあなたを六つの悩みから救い、 七つのうちでも、災はあなたに触れることがない』(ヨブ記 5:17-19)。イエ スはすべての打たれた者に、いやしのわざをもって来られる。失望、苦痛、 苦難の生涯は、主の臨在の尊い啓示によって明るくされるのである。」―祝 福の山 p.11,12

キリストの支配のもとで 6. 神から生まれた者の状態はどのようなものですか(ヨハネ第一 3:8,9; 5:18) 。

「純粋な信仰は愛によって服従し、また服従によって愛する。改心した 人の力と情欲はすべてキリストの支配下に置かれる。このお方のみ霊が再 生させる力であり、それを受けるすべての者を神のみ姿に変えるのである。 …… 「『すべて神から生れた者は、罪を犯さない。』彼は自分がキリストの血 で買い取られた者であると感じ、最も厳粛な誓いによって、神のものであ る自分の体と精神を用いて、神に栄光を帰すことが義務づけられていると 感じる。罪と自己を愛する気持は心の内で抑えられる。彼は日毎に、 『わた しに賜ったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができよう か。』『主よ、あなたはわたしが何をするよう望んでおられるのですか』と 問う。真のクリスチャンはキリストのくびきが苦しいとつぶやくことは決 してしない。彼はキリストの奉仕を本当の自由とみなす。神の律法が彼の 喜びである。自分の欠陥に合わせるために神の戒めを下げようとする代わ りに、彼は常にその完全な標準まで上ろうと努力するのである。」―教会へ の証 5 巻 p.219,220 17


7. 主イエスは、わたしたちのために何を苦しまれましたか(イザヤ 63:9 上句; 53:3-7) 。

「イエスと共にこの世の悲しみに同情し、その罪のために悲しんで泣く 者もまた、さいわいである。そのような悲しみには、自我の思いがまじっ ていないのである。イエスは悲しみの人であり、どんなことばも言い表わ せないような心の苦悩にお耐えになった。イエスの心は、人の罪によって 裂かれ、傷つけられた。イエスは人類の欠乏とわざわいをとり除くために、 必死の熱心さで労苦された。群衆が、命を得るために主のもとにこようと しないのを見て、主の心は悲しみに打ちひしがれた。キリストに従うすべ ての者は、この体験を共に持つのである。彼らが主の愛にあずかる時、失 われた者の救いのための主の苦しみに入るのである。彼らは、キリストの 苦難にあずかると同時に、やがてあらわれる栄光にもあずかるのである。 主と共に悲しみの杯を飲み、主のみわざにおいて一つになる彼らは、主の 喜びにも共にあずかるのである。 イエスが慰めの力を経験されたのは、悲しみを通してであった。彼は、 人類のすべての苦難をお受けになった。 『主ご自身、試練を受けて苦しまれ たからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである』(ヘブ ル 2:18,イザヤ書 63:9)。主の苦しみを共に味わった者は、この働きにあず かる特権をもつ。 『キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、 わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれている』(コ リント第二 1:5)。―祝福の山 p.15,16

真の慰め 8. 救い主が悲しんでいる者を慰めることを、何が可能にしますか(マタ イ 5:4) 。

「聖なる救い主は、涙で目がくもって、主を見分けられない多くの者の そばに立たれる。主はわたしたちの手をにぎり、単純な信仰をもって主を 見るようにと、また、わたしたちが主に導いていただきたいと願うように 18


なることを望んでおられる。主のみ心はわたしたちの苦しみ、悲しみ、試 練にむかって開かれている。主は永遠の愛をもってわたしたちを愛し、わ たしたちを慈愛をもって囲まれる。わたしたちは主のことを心に思いつづ け、一日じゅう、その慈愛をめい想することができる。主は魂を日ごとの 悲しみと困惑の上に引きあげ、平和の国に入れられるのである。苦しみ悲 しむ子らよ、このことを思い、望んで喜びなさい。 『わたしたちの信仰こそ、 世に勝たしめた勝利の力である』(ヨハネ第一 5:4)。…… 主は悲しむ者に特別なめぐみをもっておられる。その力は心を溶かし、 魂を捕えるのである。主の愛は、痛み傷ついた魂に通路を開き、悲しむ者 をいやす香油となる。 『あわれみ深き父、慰めに満ちたる神…はいかなる患 難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、 神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰 めることができるようにして下さるのである』(コリント第二 1:3, 4)。 」― 祝福の山 p.14-16 結論 「まじめな悔い改めと改革が伴わない告白は、神に受け入れられること はできません。はっきりとした変化が生活にあらわれ、神のきらいたもう すべてのものを捨てねばなりません」―キリストへの道 p.46

19


3課

安息日 2012 年 01 月 21 日

「柔和な人たちは、さいわいである」 「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。 」マ タイ 5:5

序文 「 『主は高くいらせられるが低い者をかえりみられる』(詩篇 138:6)。キ リストのへりくだった柔和な精神をあらわす者たちは、神からやさしく見 守られている。彼らは、世の人々からさげすみの目をもって見られるかも 知れないが、神の御目には非常にとうといのである。賢明な人、偉大な人、 慈善に富んだ人たちだけが、天の宮への旅券を獲得するのではない。それ はまた、熱心で、休まず活動している忙しい働き人だけでもない。そうだ、 心の貧しい者―キリストの内住を熱望し、謙遜な心をもち、神のみこころ を行うことを最高の望みとしている人こそ、十分に天国にはいるのである。 彼らは、衣を洗い、小羊の血によって衣を白くした人たちの仲間にはいる のである。 『それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で 神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って 共に住まわれるであろう』(黙示録 7:15)―各時代の希望中巻 p.7

イエスの王国への第一の資格 1. イエスは柔和の意味について何を実証され説明されましたか(マタイ 11:29) 。

「キリストの必要を感じ、罪のために悲しみ、苦難の学校でキリストと ともにすわった者は、天よりの教師から柔和を学ぶであろう。 不正な取り扱いを受けながらも、忍耐し、柔和であることは、異教徒や 20


ユダヤ人が賞賛する特性ではなかった。霊感のもとにモーセが、彼は地上 におけるもっとも柔和な人であると書いたことばは、当時の人々に賞賛と は受けとられなかった。むしろそれはあわれに思われたり、侮られるよう なものであった。しかしイエスは、その王国の主要な資格の一つとして柔 和をおかれるのである。主ご自身の生涯と品性に、このとうとい徳性の神 聖な美が現われているのである。 父の栄光の輝きであられるイエスは、 『神と等しくあることを固守すべき 事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをと』られた(ピ リピ 2:6,7)。そのつつましい生活のすべての経験を通して、イエスは、王 者として尊敬を求めることなく、他の人に仕えることを自分の仕事とする 者のように人々の中で生活することに同意された。彼の態度には、少しの 偏狭さも、冷酷な厳格さもなかった。世の救い主は、天使の性質よりもも っと偉大な性質をもっておられたけれども、そのこうごうしい威厳は、す べての人の心をひきつける柔和と謙そんに結びつけられていた。 」―祝福の 山 p.16,17 2. 自己中心はなぜそれほど破壊的なのですか。キリストの僕になるすべ ての者は、何を経験しますか(ピリピ 2:3,4; ルカ 14:11) 。

「わたしたちが誇る自立と自己至上主義は、サタンの配下であるしるし として、その真の邪悪さが示される。人間の本性は、たえず自己を表現し ようと戦い、競争している。しかしキリストに学ぶ者は、自己、誇り、至 上権を愛する心がなくなり、心の中はおだやかになる。自我は聖霊の指導 に服従する。その時わたしたちは最高の地位を得たいと望まなくなる。わ たしたちは他人をおしのけて自分に注目をひくことを望まない。わたした ちの最高の地位は、救い主の足下にあると思うのである。わたしたちは導 きのみ手を待ち望み、み声を聞こうとしてイエスを仰ぎ見るのである。… … 『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て』なさい(マタ イ 16:24)。自我をひきおろそう、もはや魂の至上権を自我に持たせないよ うにしよう。 わたしたちの平和を破壊するのは自己愛である。自己が生きている間は、 屈辱や侮辱から自己を守ろうといつも見張っていなければならない。しか し自己に死に、わたしたちの命がキリストとともに神の中にかくれるなら ば、無視されても、軽べつされても、少しも心にとめなくなる。わたした 21


ちは、人の非難に対して聞こえない者となり、嘲笑、侮辱に対しては見え ない者となるのである。 」―祝福の山 p.18,19

キリストを魂に受け入れる 3. 神は何を求められますか(ミカ 6:8) 。

「魂に記され、献身した聖なる生涯の内に示された神の御言と律法は、 世に罪を自覚させる力強い影響力を持っている。偶像礼拝であるむさぼり、 妬み、世への愛は、キリストに服従する者たちの心から根こそぎにされる。 公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだって神と共に歩むことが彼 らの喜びとなる。へりくだって神と共に歩むこと、この言葉に尽きる。神 の律法が心に記されるならば、それは思いと意志をキリストに従わせるの である。 」―教会への証 3 巻 p.201 「キリストを心の中に宿られる客として受ける時、すべての思いに過ぎ る神の平安が、キリスト・イエスによってわたしたちの心と思いをささえ る。地上における救い主の生涯は、戦いのさ中にあったが平和な生涯であ った。怒った敵がいつもイエスをねらっていたが、彼は『わたしをつかわ されたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころ にかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはな い』と言われた(ヨハネ 8:29)。人間やサタンの怒りのどんな嵐も、神との 完全な交わりの平静さを乱すことはできなかった。またイエスは『わたし は平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える』 と言われる(ヨハネ 14:27)。 『わたしは柔和で心のへりくだった者であるか ら、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた がたの魂に休みが与えられるであろう』(マタイ 11:29)。わたしとともに神 の栄光と、人類の向上のために奉仕のくびきを負いなさい。そのくびきは 負いやすく、その荷が軽いことがわかるであろうと、主は言われる。 」―祝 福の山 p.18,19 4. イエスはご自分の生涯を通じてどのような実例を与えられましたか。 このお方に従うすべての者は何を経験しますか(ヨハネ 13:4,5,14,15; ピ リピ 2:8,9) 。

22


「イエスは自己をむなしくされた。彼がなされたすべての事に自己は現 われなかった。イエスは父のみ心にすべてを従わせられた。地上の働きが 終わるころ『わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし 遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました』と仰せになることがおで きになった(ヨハネ 17:4)。また主は『わたしは柔和で心のへりくだった者 であるから、・・・・わたしに学びなさい』と命じられる(マタイ 11:29)。…… 家庭の中にキリストの柔和があらわされると、家族は幸福になる。それ は争いをひきおこさせず、怒った返答をさせない。いらだった感情を柔か くし、やさしさがしみわたって、そのたのしい囲いの中にいるすべての者 にそれが感じられる。柔和のあるところはどこでも、地上の家族を天の一 大家族の一部とするのである。 」―祝福の山 p.17,20 5. 復讐について神の命令は何ですか。神の子らは自分たちの敵をどのよ うに扱いますか(ローマ 12:19-21; 箴言 25:21,22) 。

「不当な非難をうけて苦しむことは、敵に復讐して良心の責めを感じる よりはるかによいことである。憎悪と復讐の精神はサタンから出たもので ある。そしてそれをもつ者には悪い結果をもたらすだけである。キリスト のうちに住む結果生じる謙そんな心と柔和は、祝福の真の秘訣である。 『主 は・・・・へりくだる者を勝利をもって飾られる』(詩篇 149:4)。」―祝福の山 p.20

正義の場 6. 柔和な者は何を受け継ぎますか(マタイ 5:5;詩篇 37:9,11) 。

「柔和な者に約束された地は、死の陰とのろいで暗くなったこの地上の ようなところではない。 『わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新し い天と新しい地とを待ち望んでいる』(ペテロ第二 3:13)。 『のろわるべきも のは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕た ちは彼を礼拝』する(黙示録 22:3)。 23


そこには失望も、悲しみも、罪も、わたしは病気だと言う者もない。ま た葬式の行列も、嘆きも、死も、別離も、悲嘆もない。そこにはイエスが おられ、平和がある。そこで『彼らは飢えることがなく、かわくこともな い。また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。彼らをあわれむ者が彼 らを導き、泉のほとりに彼らを導かれる』のである(イザヤ書 49:10)。 」― 祝福の山 p.21 7. この地上の状態と天の故郷を比べなさい(イザヤ 49:10) 。 「天のふんいきの中では、苦痛は存在することができない。もはや涙は なく、葬式の行列も喪章もない。『もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、 痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』(黙示録 21:4) 。 『そこに住む者のうちには、 「わたしは病気だ」と言う者はなく、そこに住 む民はその罪がゆるされる』(イザヤ書 33:24)。…… 神の都には『夜は、もはやない。 』休みの必要な者や、休みをほしいと思 う者はだれもいない。神のみこころを行ない、そのみ名を賛美するのに、 疲れることがない。いつも朝のすがすがしさを感じ、それは決して尽きる ことがない。…… 『わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神 と小羊とが、その聖所なのである』(黙示録 21:22)。神の民は天父とみ子と に自由に交わる特権がある」―各時代の大争闘 p.464,465

結論 「地上にみなもとを持っている幸福は、境遇の変化と同じように変わり やすいものである。しかしキリストの平和は変わらない永続的な平和であ る。それは人生のどんな境遇にも、この世の財産の額や友人の数によるの でもない。キリストが生きた水の泉であり、彼から得た幸福は決してうせ 去ることはないのである。 」―祝福の山 p.20

24


4課

安息日 2012 年 01 月 28 日

「義に飢えかわいている人たちは、 さいわいである」

「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りる ようになるであろう。 」マタイ 5:6

序文 「義は聖であり、神に似ることである。そして『神は愛である』(ヨハネ 第一 4:16)。義は神の律法にしたがうことである。なぜなら『あなたのすべ ての戒めは正し』く(詩篇 119:172)、 『愛は律法を完成するものである』から である(ローマ 13:10)。義は愛であり、そして愛は神の光であり、命である。 神の義はキリストの中に具体化した。わたしたちはキリストを愛すること によって義を受けるのである。 」―祝福の山 p.22 1. 人が義を受ける過程はどのようなものですか(マタイ 5:6; ゼパニア 2:3 上句) 。

「義が得られるのは、苦しい戦いやつらい労苦によってではなく、ささ げものや犠牲によってでもない。それはそれを受けたいと飢えかわくすべ てのものに無償で与えられるのである。 『さあ、かわいている者は、みな水 にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来 て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ』(イザヤ書 55:1)。 『彼らの義はわたしのものであると主はいわれる』(イザヤ書 54:17 英語欽 定訳)。『その名は、「主はわれわれの正義」ととなえられる』(エレミヤ書 23:6)。 」―祝福の山 p.22 25


命のパン 2. 何が霊的命を保ちますか(ヨハネ 6:35, 53-56) 。

「どんな人間の力も魂の飢えとかわきを満たすものを供給することはで きない。しかしイエスは『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。 だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって 彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう』(黙示録 3:20)、 「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、 わたしを信じる者は決してかわくことがない」と言われる(ヨハネ 6:35)。 肉体の力をささえるために食物が必要であるように、霊の命をささえ、神 のわざをなす力を受けるために、わたしたちは天からのパンであるキリス トが必要である。身体が命と活力をささえる栄養をたえず受けているよう に、魂もキリストとたえず交わり、キリストにゆだね、全くたよらねばな らない。 疲れた旅人が砂漠で泉をさがし求め、ついに発見して、焼けるようなか わきをいやすように、クリスチャンはキリストの泉から、命の清水を求め て飲むのである。 」―祝福の山 p.22,23 全能の神に導かれる 3. 義に飢え渇く真の信者は、どこに導かれますか(イザヤ 55:2; 詩篇 22:26) 。

「もしあなたが自分の魂の必要を感じるなら、もしあなたが義に飢えか わいているなら、それこそキリストがずっとあなたの心に働いておられる 証拠である。それは主が聖霊の賜物を通して、あなたが自分ではすること ができないことをあなたのためにしてくださるよう、あなたが主を求める ようになるためである。わたしたちは浅い流れでかわきをいやそうと求め る必要はない。もしわたしたちが信仰の道をわずかでも高くのぼるならば、 26


わたしたちのすぐ上に大きな泉があるから、その豊かな水をわたしたちは 自由に飲むことができるのである。 神のことばは命の泉である。あなたが生きた泉をさがし求める時、聖霊 によって、キリストとの交わりに入れられる。聞きなれた真理が新しい装 いをもってあなたの心に現われ、聖書の聖句は閃光のように新しい意味を あらわすであろう。あなたは贖いのみわざと他の真理の関係を悟り、キリ ストがあなたを導いておられること、神聖な教師があなたのそばにおられ ることを知るであろう。 」―祝福の山 p.23,24

神のみ姿に変えられる 4. 誰に聖霊が豊かに与えられますか。聖霊はどのような奇跡的な変化を もたらしますか(エペソ 1:13; 4:30) 。

「失われた人類の救いのためにご自身をむなしくされたイエスには、聖 霊が限りなく与えられた。同じように、主が内にお住まいになれるように 全心をささげる時、キリストに従うすべての者に聖霊が与えられるのであ る。わたしたちの主ご自身が、 『御霊に満たされ』なさいと命令されたが(エ ペソ 5:18)、この命令は成就する約束でもある。キリストの中に『すべての 満ちみちた徳を宿らせ』(コロサイ 1:19)、 『そしてあなたがたは、キリスト にあって、それに満たされ』ることは父なる神の喜ばれるところであった(コ ロサイ 2:10)。 」―祝福の山 p.25 「みたまは、へりくだった心で神に仕え、そのみちびきと恵みを待ち望 む者にだけ与えられる。神の力は彼らが求め、受けるのを待っている。こ の約束された祝福を信仰によって求めるときに、ほかのすべての祝福は 次々と与えられる。それはキリストの恵みの富にしたがって与えられるの であって、主はどの魂にもその受け入れる能力にしたがっていつでも与え てくださる。…… 神のみたまが心を占領されるとき、それは生活を生れ変らせる。罪の思 いはしりぞけられ、悪い行為は放棄され、愛と謙遜と平安が怒りとねたみ と争いに入れ代る。よろこびが悲しみに入れ代り、顔には天の光が反映す る。だれも重荷を持ちあげる手を見たり、天の宮からくだる光を目に見た りする者はない。祝福は、信仰によって魂が神に屈服するときに与えられ る。その時、人間の目で見ることのできない力が、神のかたちにかたどっ て新しい人間を創造する。 」―各時代の希望下巻 p.158,上巻 p.203 27


5. どのようにすることによってのみ伝道活動―証人となること―は成功 しますか(サムエル記上 10:6; 使徒行伝 1:8; ヘブル 2:4; ヤコブ 2:26) 。

「福音の事業を力のないものにしているのは、この聖霊の欠乏である。 学識、才能、弁舌など、先天的、後天的のいっさいの資質が備わっていて も、神の霊の臨在がないならば、人の心に触れることも、罪人をキリスト に導くこともできない。その反面、どんなに貧弱で無知な弟子であっても、 キリストと結合し、聖霊のたまものを所有しているならば、必ず人びとの 心に触れる能力をもつことができる。神は彼らを用いて、宇宙間の最高の 感化を及ぼす器となさるのである。…… 神とそのみわざに対する熱意が弟子たちを動かし、偉大な力を発揮して 福音をあかしさせた。われわれも同じ情熱を心に燃やし、あがないの愛の 物語を、キリスト、しかも十字架につけられたキリストの物語を語る決意 をすべきではないだろうか。今日、熱心で絶えざる祈りの答えとして神の み霊が下り、奉仕のための力で人を満たすべきではないだろうか。それな らなぜ、教会はそれほど弱く気力がないのだろうか。」―教会への証 8 巻 p.21,22 「神のみ霊のための道が開かれれば、祝福が来る。サタンは、天の窓を 閉じて雨が地上に降るのを妨げることはできない。それと同じく、神の民 に下る祝福の雨を妨げることもできないのである。神の民が服従し、悔い 改めた心で罪を告白し、それを取り除き、信仰をもって神の御約束を求め るならば、悪人も悪霊も、神のみ業を妨げることはできず、神の民の集ま りから神の臨在を取り去ることもできないのである。」―セレクテッド・メッセージ 1 巻 p.124

永遠の喜び 6. ダビデ王と預言者イザヤは、自分たちをどのように見なしていました か。わたしたち各自についても何が真実ですか(詩篇 143:2; イザヤ 64:6; ローマ 3:10) 。

28


7. 何が神の人に喜びを与えましたか(詩篇 51:7,10; イザヤ 1:18) 。

「 『神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正し い霊を与えてください』というダビデの祈りが、すべての魂の祈りでなけ ればならない(詩篇 51:10)。天の賜物を受けてはじめて、われわれは『信仰 により神の御力に守られ』ながら完全に向かって進むことができる(ペテロ 第一 1:5)。 」―人類のあけぼの下巻 p.74 「人々は自分の行いや自分の義、または自分自身に決して信頼すること なく、世の罪を取り除く神の小羊に信頼しなければならない。この小羊の 内に御父に執り成しをされるお方が表されていた。このお方を通して『さ あ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであって も、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになる のだ』という招きがなされた。この招きは今日のわたしたちにまで響いて いる。 」―クリスチャン教育の基礎 p.239 「 ……天使の大群が、都から、輝く冠を持って来るのを見た。それは聖 徒たちのひとりびとりに与えられる冠で、各人の名前が書きこまれていた。 イエスが冠を求められると、天使たちはそれをイエスのみ前にささげた。 イエスは冠を右手で受けとられると、それを聖徒の頭にやさしく置かれた。 同じように、天使たちが立琴を持ってきた。イエスはそれもまた聖徒たち にお与えになった。 」―初代文集 p.264

結論 「 『義に飢えかわいている人たちは、さいわいである』(マタイ 5:6)。自分 がどんなに無価値な者であるかを意識するとき、心は義に飢えかわくよう になるが、この思いは失望させられることがない。心にイエスを入れる余 地をつくる者は、イエスの愛をみとめる。神のご品性のみかたちをそなえ たいとあこがれる者はみな満足させられる。聖霊は、イエスを見ている魂 を助けのないままにしておかれない。聖霊はキリストの事がらをとりあげ て、それを魂に示される。もし目をキリストにそそいでいるなら、みたま の働きは、その魂が神のみかたちに一致するまでやまない。純粋な愛の要 素が魂を拡大し、もっと高い教養と天の事物についてのもっと多くの知識 を受けいれる余地を与えるので、その魂は、完全に達するまでは満足しな い。 『義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りる ようになるであろう』(マタイ 5:6)。 」―各時代の希望中巻 p.7,8 29


5課

安息日 2012 年 02 月 04 日

「あわれみ深い人たちは、 さいわいである」

「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるで あろう。 」マタイ 5:7

序文 「人間の心は本来冷たく、暗く、愛なきものである。あわれみとゆるし の心があらわされる時はいつでも、それは人間から出たのでなく、その心 に働く神の霊の感化によるのである。 『わたしたちが愛し合うのは、神がま ずわたしたちを愛して下さったからである』(ヨハネ第一 4:19)。 」―祝福の 山 p.26

神はあわれみ深い 1. キリストが宿られている人には何が存在しますか(ヨハネ第一 4:16) 。

「あわれみある者は『神の性質にあずかる者』である。彼らのうちに神 の慈悲深い愛があらわれている。心が無限の愛のみ心に一致するすべての 者は、罪を責めるのでなく救おうと求める。心の中に住まれるキリストは かわくことのない泉である。主が宿られるところには、いつも恩寵(おんち ょう)があふれでるのである。 あやまちを犯し、誘惑に負け、欠乏と罪のうちにあるみじめな犠牲者の 訴えに対して、クリスチャンは『彼らは価値があるだろうか』とは問わな 30


い。かえって、 『どうしたらわたしは彼らを助けることができるか』と尋ね る。どんなにみじめで、また、どんなに堕落した者の中にも、クリスチャ ンは、キリストが救おうとして死なれた魂を見、そのような魂のために、 神は和解のつとめをその子らにお与えになったことを知るのである。 」―祝 福の山 p.27,28 2. なぜ神はそれほどわたしたちの事を気にかけられるのですか(出エジ プト記 34:6,7) 。

「神ご自身がすべてのあわれみの源である。神のみ名は『あわれみあり、 恵みあり』である(出エジプト記 34:6)。神はわたしたちの功績にしたがっ てわたしたちを取り扱われるのではない。神はわたしたちが神の愛を受け る価値があるかどうかは尋ねられない。かえって神はわたしたちを価値あ る者とするために、その豊かな愛をそそがれるのである。神は懲罰的では ない。神は罰することを求めず、かえって救うことを願われる。摂理によ って示されるきびしい処置でも、さ迷う者の救いのために示されるのであ る。主は人の苦痛を和らげ、その傷に主の香油をぬろうと熱望しておられ る。神が『罰すべき者をば決してゆるさ』れないことは本当である(出エジ プト記 34:7)。しかし神は罪を取り去ろうと願っておられるのである。」― 祝福の山 p.27

実際的なあわれみ 3. 聖書はあわれみの行為について何と定義し描写していますか(ヨブ 29:12-16; 箴言 19:17) 。

「あわれみあるものとは、貧しい者、苦しむ者、しいたげられている者 に同情をあらわす者である。 」―祝福の山 p.28 「今日はかつてなかったほどあわれみを働かせる必要がある。わたした ちの周囲には貧しい者、苦しんでいる者、悩んでいる者、悲しんでいる者、 31


滅びつつある者がいる。 」―福祉の奉仕 p.15 「キリストに従う者であると公言しているなんと多くの者がさばきの座 に上り、罪の宣告をし、有限な者にすぎない存在が、欠点を拡大して神に 対しての罪であるかのように思わせていことであろうか!しかし、魂の敵 にとって非常に好ましいこの働きは、もしキリストの精神が心に宿ってい ればすべて止むのである。あわれみは不義を喜ばない。」―サインズ・オブ・ザ・タ イムズ 1895 年 9 月 19 日 4. 神は失われた罪人にご自分の愛とあわれみをどのように示されます か(ヨハネ 3:16; ローマ 5:5) 。

「多くの人にとって人生は苦しい戦いである。彼らは自分の無力を感じ、 みじめで不信仰である。彼らは自分が感謝するほどのものは何も持ってい ないと考えている。これらの苦闘し、よるべのない多くの者にとって、親 切な言葉や、同情のまなざし、感謝の表現はかわきにあえぐ魂への一杯の 冷たい水のようになる。一つの同情の言葉、一つの親切な行為は疲れた肩 に重くのしかかっている重荷を持ち上げる。無我の親切から出るすべての 言葉や行ないは、失われた人類に対するキリストの愛の表現である。」―祝 福の山 p.28

種まきと収穫 5. 良かれ悪しかれ、わたしたちはまいたものを刈り取ります。この法則 を示している、実際の生活における経験を述べなさい(詩篇 41:1-3) 。

「あわれみ深い者は『あわれみを受けるであろう。』『物惜しみしない者 は富み、人を潤す者は自分も潤される』(箴言 11:25)。慈悲深い心にはすば らしい平和があり、自分を忘れて他の人の益のために働く生涯には、祝福 された満足がある。心に住み、生活に現われる聖霊は、かたくなな心を和 らげ、同情とやさしさをよび起こす。あなたは自分がまいたものを刈り取 32


るのである。」―祝福の山 p.28,29 「イエスはご自分の弟子たちに、ご自分のみ霊にあずかり、このお方の あわれみ深い品性に同化することによってのみ、霊的識別力と神秘的力を 受けることができるということを示された。彼らの力と知恵はすべてこの お方からこなければならない。頑なに背く教会員を扱うにあたって、教会 の聖徒たちはキリストが定められた指示に従うべきである。これは教会に とって唯一の安全な方針であり、霊感を受けた筆によって使徒が段階ごと に記したのである。 」―預言の霊 3 巻 p.246 6. 使徒パウロはあわれみ深く寛大な者について、何と言っていますか。 彼らの必要はどのように満たされていますか (ピリピ 4:19; 詩篇 112:4-6) 。

「神の子らに仕えることで神に自分の命をささげた者は、宇宙のすべて の資源を支配されるおかたと連なるのである。彼の命は変わることのない 約束の黄金の鎖によって、神の命と結ばれる。苦難と窮乏の時に主は彼を 見捨てられない。 『わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがた のいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう』 (ピリピ 4:19)。さらに最終の窮乏の時、あわれみ深い者は情け深い救い主 のあわれみの中に避難所を見いだす。そして永遠の住居に受け入れられる のである。 」―祝福の山 p.29 7. この法則はわたしたちの思いにさえどのように適応されますか。罪深 い思いの影響はどのようなものですか(箴言 23:7) 。

「あわれみのある人はあわれみをみいだし、心の清い者は神を見る。す べての不純な思いは魂をけがし、道徳観念をそこない、聖霊の印象をかき 消してしまう。それは霊的な眼をくもらせるので、人々は神を見ることが できない。主は、悔い改める罪人をおゆるしになるだろうし、また実際お ゆるしになるが、しかしゆるされても、その魂はそこなわれている。霊的 な真理をはっきりみわけたいと思う者は、ことばや思いにおける不純さを 33


避けねばならない。 」―各時代の希望中巻 p.8

イエスだけが救うことができる 8. 罪を覆おうとする結果は何ですか。しかし、それを告白し捨てる結果 は何ですか(箴言 28:13) 。

「神のあわれみをうける条件は簡単で、しかも正しく合理的であります。 神は、私どもの罪がゆるされるには、なにか面倒なことをしなければなら ないとは要求なさいません。長途の巡礼の旅に上ったり、痛々しい苦行を したりして、天の神に自分がよく思われようと思ったり、罪の償いをしよ うとしなくてもよいのであります。ただ罪を言い表わして、これを離れる 者はあわれみをうけるのであります。 使徒ヤコブは、 『互いに罪を告白し合い、また、いやされるようにお互の ために祈りなさい』(ヤコブ 5:16) と言っています。神のほか罪をゆるすこ とはできませんから、罪は神に告白しなければなりません。そして、あや まちは互いに言い表わすのであります。もし友人や隣人をつまずかせたな らば、自分は悪かったとこれを認めてあやまるのであります。そして、こ れをこころよくゆるすのはその人の義務であります。そうしたあとで神の ゆるしを求めなさい。 」―キリストへの道 p.43,44

結論 「私どもは神のあわれみを無視してもいいでしょうか。神は一体これ以 上なにをなさることがあるでしょうか。驚くばかりの愛をもって私どもを 愛したもうた神との正しい関係に立ち帰りましょう。そして与えられた方 法を最もよく用いて神のみかたちに変えられ、もう一度天使と交わること を得て、父なる神とみ子とに一致し、その交わりにはいることができるよ うにしたいものであります。 」―キリストへの道 p.21

34


第6課

安息日 2012 年 02 月 11 日

「心の清い人たちは、さいわいである 」

「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 」マタ イ 5:8

序文 「『 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正 しい霊を与えてください 』 (詩篇 51:10) 。今も永遠にわたっても、この心 の清さと精神の麗しさは金よりも尊い。 」―チャイルド・ガイダンス p.418

心は偽るもの 1. 聖書には、人の心の生まれつきの状態はどのように描写されています か(エレミヤ 17:9; 創世記 6:5; 箴言 6:14) 。

「『主の名を呼ぶものは、すべて不義から離れよ』。なぜこんなに弱いの だろうか。それは肉欲がそれを働かすことによって強められ、ついにもっ と崇高な力より優勢になってしまったからである。男も女も原則に欠けて いる。彼らは霊的に死にかけている。なぜなら彼らは生まれながらの欲望 をあまりにも長い間甘やかしてきたので、自制力をなくしてしまったよう に見えるからである。彼らの生来の低い感情が支配権をにぎってしまった ので、支配するべきはずのものが腐敗した感情のしもべとなってしまった のである。魂は最も低い奴隷の身となってしまっている。肉欲にふけるこ とが聖への願望に水をかけ、霊的繁栄を衰えさせてしまったのである。」― 教会への証 2 巻 p.348 35


2. したがって、人間の心にとって何が自然ですか(マタイ 15:19; マル コ 7:21-23) 。

「人は、罪を犯す前には『知恵と知識との宝が、いっさい隠されている』 (コロサイ 2:3)キリストとの交わりを楽しむことができました。けれども罪 を犯して後は、もはやきよいことを 楽しめなくなり、神のみ前から隠れよ うとしました。今日でも、新生を経験しない人の状態はその通りで、神と 一致していないため神と交わることを喜ばないのであります。罪人は神の み前では楽しむことはできません。 」―キリストへの道 p.13,15 「真のクリスチャンの生活は善をなすための力である。しかし反対に疑 惑的な道徳心をもち、まちがった原則を奉じ、あやまった習慣を身につけ た男女と交際する人々は、間もなくそれらの人と同じ道をあゆむようにな る。生まれつきのままの心をもった性癖は常に下を向いている。懐疑論者 と交際する人は間もなく懐疑的となる。下劣な人との交友を選ぶ人は、ま ちがいなく下劣な人間となる。 」―アドベンチスト・ホーム p.523 3. パウロは、わたしたちが何を身につけ、何を脱ぐようにと言っていま すか(コロサイ 3:5,12-14; ヘブル 11:5) 。

「…エノクの心は永遠の宝に注がれていた。彼は天の都をみつめていた。 彼は、シオンのなかで栄光に輝く王を見たのであった。彼の周囲の罪悪が 大きければ大きいほど、神の家を慕う気持ちは熱烈であった。彼は地上に おりながら、信仰によって、すでに光の王国に住んでいた。 『心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう』(マタ イ 5:8)。エノクは、三百年の間、天と調和するために心が清くなることを 求めていた。彼は三世紀の間神と歩いた。彼は、日々密接な結合を熱望し た。交わりはいよいよ深まっていき、ついに神は、彼をみもとにお受けに なった。彼は、永遠の世界の門口に立っていた。彼と祝福にみちた国との 距離はわずか一歩であった。そして、門はあけられ、地上で長く続いた彼 の神との歩みは続けられた。彼は、聖都の門を通っていった。彼は、人間 36


のなかから、そこにはいる最初の人となった。…… このような交わりを持つようにと、神は私たちに呼びかけておられる。」 ―教会への証 8 巻 p.330,331

清い心 4. わたしたちは何が人間の心の中にあるかを知ることができますか。ダ ビデ王は何を認めましたか(エレミヤ 17:10; 詩篇 139:1-4; ローマ 8:27; 黙示録 2:23 中句)

「 『人は外の顔かたちを見、主は心を見る』(サムエル記上 16:7)。人の心 には、喜びと悲しみがあるかと思えば、横道にそれようとするわがままな 心があって、さまざまの不純と虚偽が宿っています。神は、その動機、意 図、また目的そのものをごらんになるのであります。汚れたそのままの心 で神のみもとに行きましょう。詩人がうたったように、すべてを見たもう 神にすっかり心を開け放して『神よ、どうか、わたしを探って、わが心を 知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに 悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください』 (詩篇 139:23,24)と呼ばわりましょう。 世には宗教を頭だけで受け入れ、敬けんの形だけを受け入れて、心のき よめられていない人が多くあります。私どもは『神よ、わたしのために清 い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください』(詩篇 51:10)と祈りましょう。自分の魂の状態を吟味し、身に危険が迫っている と思って、たゆまず、また熱心でなければなりません。これは神とあなた の魂との間で解決されるべき問題、永遠に決定すべき問題であります。た だ、そうあればよいと望んでいるだけで、それ以上なにもしないならば滅 びるよりほかはありません。 」―キリストへの道 p.39,40 5. 清い心を受け入れる人に、何が起こりますか(箴言 22:11) 。

「しかし、聖霊の内住によってきよめられてきた心にとっては、すべ 37


てが変わってくる。これらの人々は神を知ることができる。モーセは主の 栄光が現わされた時、岩の裂け目にかくれた。わたしたちが神の愛を見る のは、キリストの中にかくれる時である。 『心の潔白を愛する者、その言葉の上品な者は、王がその友となる』(箴 言 22:11)。信仰によって今ここでわたしたちは神を見る。日々その経験の 中に、神の摂理の現われの中に、わたしたちは主のいつくしみとあわれみ をはっきり知る。わたしたちはみ子の品性の中に神を認めるのである。聖 霊は神と、神がつかわされたおかたに関する真理を人間が理解し、心に受 け入れられるようにされるのである。心の清い者は、自分たちの贖い主と して新しい関係をもって神を見る。彼らは主の品性の純潔と美しさを見る と同時に、主のみかたちを反映することを切望する。彼らは悔い改めたむ すこを抱きかかえようとひたすら待っている父として神を見る。そして彼 らの心は言いあらわせない喜びと輝く栄光に満たされるのである」―祝福 の山 p.26

神を見るために必要とされるもの 6. 神の子はどのような心の変化を受けますか(歴代史上 28:9; サムエル 記上 2:30 下句) 。

「罪で魂を汚すよりは、むしろ貧乏でも、非難でも、友人の離反でも、 どんな苦難でも受けることを選びなさい。不名誉なことをしたり神の律法 を犯したりするよりは、むしろ死んだ方がよいというのがすべてのクリス チャンのモットーでなければならない。神の最も厳粛で清める真理の御言 葉を保管する改革者と公言する民として、わたしたちは今以上に標準を高 めなければならない。教会の中にある罪と罪人は、他の人々が汚されるこ とがないように、適切に対処されなければならない。真理と純潔は、わた したちがアカンから陣営を清めるためにもっと徹底的な働きを要求してい る。責任のある地位にいる者たちは、兄弟の中にある罪をそのままにする べきではない。彼に罪を捨て去るか教会から離れるかのどちらかをしなけ ればならないことを示しなさい。 」―教会への証 5 巻 p.147

38


7. イエスは誰のことを特別に気にかけられますか(ルカ 4:18; 詩篇 34:18; イザヤ 57:15) 。

「イエスはこの地上でのご自分のみわざについて次のように説明なさい ました。すなわち『主のみたまがわたしに宿っている。貧しい人々に福音 を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主は わたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知 らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ』(ルカ 4:18)たもうと。これ がイエスの使命でありました。かれはあまねくめぐりて良きことをなし、 悪魔に苦しめられている者をおいやしになりました。……キリストはすべ ての正しい動機の根源であって、彼のみが人の心のうちに罪を憎む心を植 えつけることができるのであります。真理や純潔をしたい、自分の罪深さ を認めることなどはみな、キリストの霊が私どもの心に働いている証拠で あります。 」―キリストへの道 p.4,6,28

39


7課

安息日 2012 年 02 月 18 日

「平和をつくり出す人たちは、 さいわいである」

「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれ るであろう。 」マタイ 5:9

序文 「人間は平和を製造することができない。個人や社会をきよめ、向上さ せる人間の計画は、人の心をとらえないので、平和を生み出さない。真の 平和をつくり出したり、永続させたりできる唯一の力は、キリストの恵み である。これが心にうえつけられるときに、それは争いや不和をひき起す 悪い欲望を追い出す。 」―各時代の希望中巻 p.8,9

平和の君 1. 平和をつくり出す人になるとは、どのような意味ですか(イザヤ 52:7) 。

「キリストに従う者たちは平和の使信をもって世につかわされている。 きよい生活の静かな無意識の感化によってキリストの愛をあらわし、こと ばと行為によって、他の人に罪をすてさせ、心を神にささげるように導く 者は、平和をつくり出す人である。 」―祝福の山 p.34 2. 平和をつくり出す人は、なぜ神の子と呼ばれるのですか(マタイ 5:9; ルカ 6:35) 。 40


「 『平和をつくり出す人たちはさいわいである。彼らは神の子と呼ばれる であろう』 。平和の精神は彼らが天と結びついている証拠である。キリスト の芳しいかおりが彼らをとりまいている。その生活のかおり、その品性の 美しさは、彼らが神の子らである事実を世に示している。人々は彼らがイ エスと共にいたことを知るのである。 」―祝福の山 p.34,35 3. 誰から平和が来ますか。それはただですか。それとも買わなければな りませんか(エペソ 2:14; ローマ 5:1; イザヤ 53:5) 。

「キリストは『平和の君』である(イザヤ書 9:6)。キリストのみわざは、 罪が破壊した平和を天と地に回復することである。 『このように、わたした ちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリス トにより、神に対して平和を得ている』(ローマ 5:1)。だれでも罪と絶縁す ることに同意し、キリストの愛に心を開く者は、この天の平和を持つ者と なる。 」―祝福の山 p.33,34 4. 平和の君という名は、どのような意味が含まれていますか(イザヤ 9:6) 。

「種の中の胚種(はいしゅ)は、神が種の中に植えつけられた生命の原則 によって生長するのである。種の発育は、全く人間の力によるものではな い。キリストの王国でもそれと同様である。それは、新創造である。その 発達の原則は、世界の諸国を支配している原則とは正反対のものである。 地上の政府は、武力によって目的を達し、戦争によって領土を保持する。 しかし、新しい国の建設者は、平和の君である。聖霊は、おそろしい猛獣 によって地上の王国を象徴したが、キリストは『世の罪を取り除く神の小 羊』である(ヨハネ 1:29)。暴力をつかって良心をしいることは、小羊の政 策ではない。ユダヤ人は、この世の王国の建設と同じ方法で、神の国が建 てられることを期待し、正義をおし進めるためには、外的手段に訴えて、 いろいろの策を講じたのである。しかし、キリストは、人の心に原則をお 植えになるのである。真理と義とを植えることによって、誤りと罪に対抗 なさるのである。 」―キリストの実物教訓 p.54 41


5. 神の律法を愛する者は何を受けますか(詩篇 119:165; 箴言 3:2; ヨ ハネ 14:27; ピリピ 4:7) 。

「 『平和をつくり出す人たちは、さいわいである』(マタイ 5:9)。キリス トの平和は、真理から生れる。それは神との調和である。世は神の律法に 敵意をいだき、罪人たちは創造主に敵意をいだき、その結果、彼らは互に 敵意をいだいている。だが詩篇記者は、 『あなたのおきてを愛する者には大 いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません』と断言 している(詩篇 119:165)。人間は平和を製造することができない。」―各時 代の希望中巻 p.8

すべての人は無我の心を必要としている 6. 人が神を見ることを何が可能にしますか (ヘブル 12:14; マタイ 5:9) 。

「わたしたちの平和を破壊するのは自己愛である。自己が生きている間 は、屈辱や侮辱から自己を守ろうといつも見張っていなければならない。 しかし自己に死に、わたしたちの命がキリストとともに神の中にかくれる ならば、無視されても、軽べつされても、少しも心にとめなくなる。 」―祝 福の山 p.19 「利己的な精神は、神もまたまったく利己的なおかたとして判断する。 この利己的な精神を放棄しない限り、われわれは愛であられる神を理解す ることができない。無我の心、へりくだって信頼する心だけが、神を「あ われみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊か なる神」として見ることができるのである(出エジプト 34:6)。」―各時代の 希望中巻 p.8 7. わたしたちは誰と平和でいたいと望みますか(ヨブ 22:21; ローマ 12:18; ヘブル 12:14) 。 42


「だれでも罪と絶縁することに同意し、キリストの愛に心を開く者は、 この天の平和を持つ者となる。 これ以外に平和の基はない。心に受け入れられたキリストのめぐみは、 敵意をしずめる。それは争いをしずめ、魂に愛を満たす。神との平和また 隣人との平和を保っている者は、決して不幸になることはない。彼の心に は嫉妬(しっと)はない。そこには悪意のはいる余地がない。憎悪も存在し えない。神と調和している心は、天の平和の共有者である。そして周囲の すべての者に、その祝福された感化を及ぼすのである。平和の精神は、世 の争いに疲れ、悩む人々の心に、露のようにとどまる。 」―祝福の山 p.34

結論 「罪を自覚した者は、次にしなければならないことがあります。彼は悔 い改めて、真の信仰を示さなければなりません。 イエスが、新しい心についてお語りになるとき、精神と生活すなわち全 体のことを言っておられるのです。心を入れかえることは、世俗に向けら れていた愛情をひっこめて、これをキリストに結びつけることです。新し い心を持つことは、新しい精神、新しい目的、新しい動機を持つことです。 では、新しい心のしるしはなんでしょうか。それは生れかわった生活です。 そこには、日々に、時時刻々に、利己心と高慢に対する死がなければなり ません。 」―青年への使命 p.62 「聖霊を信じ、喜ぶことには平安がある。信じることは平安をもたらし、 神に信頼することは喜びをもたらす。信じなさい、信じなさい。わたしの 魂は言う、信じなさい。神に安んじなさい。このお方はあなたがゆだねた ものを、守って下さる。 このおかたは、わたしたちを愛して下さったかた によって、勝ち得て余りあるようにして下さる。」―信仰によって私は生き る p.121

43


8課

安息日 2012 年 02 月 25 日

「義のために迫害されてきた人たちは、 さいわいである」 「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らの ものである。 」マタイ 5:10

序文 「世は罪を愛し、義を憎む。これがイエスに対する世の敵意の原因であ った。イエスの限りない愛をこばむ者はみなキリスト教を一つの邪魔な要 素と考える。キリストの光が、彼らの罪をおおっている暗黒をはらいのけ、 改革の必要が明らかにされる。聖霊の感化に服する人は、自己との戦いを 始めるが、罪に執着する人は、真理とその代表者たちに向かって戦いをい どむ。 」―各時代の希望中巻 p.10

キリストを反映する 1. イエスによると、誰に命と天のみ国が約束されていますか(マタイ 5:10; マルコ 10:29,30; テモテ第二 2:10-12) 。

「イエスは彼に従う者たちに、地上の栄誉や富を得たり、または、試練 のない人生を送れるような希望をお持たせにならない。かえって主は彼ら に自己犠牲と屈辱の道を主とともに歩む特権を提供される。というのは世 が彼らを知らないからである。 」―祝福の山 p.35 「イエスは、あなたが直面する試練や困難を驚くままに放っておかれな い。このお方はあなたにそれについてすべて告げられ、また試練が来ると 44


きに落胆し抑圧されることがないようにと告げられた。あなたの贖い主で あるイエスを眺め、快活で喜んでいなさい。最も耐えがたい試練はわたし たちの兄弟や身近な友人からやってくる試練である。しかし、これらの試 練さえも辛抱強く耐えることができる。イエスはヨセフの新しい墓に横た わっておられない。このお方はよみがえって天に昇られ、そこでわたした ちのために仲保されている。わたしたちには、わたしたちがこのお方を通 して希望と力と勇気を得、このお方の御座に座ることができるようにわた したちのために死んで下さるほどわたしたちを愛してくださった救い主が いる。このお方は、あなたがこのお方を呼び求める時にはいつでも助ける 準備ができているのである。 」―教会への証 8 巻 p.128

2. 神の子は何を苦しむかもしれませんか。しかし、悪人は彼らに何 をすることができませんか(マタイ 10:28; ルカ 12:4) 。

「すべての時代にわたって、サタンは神の民を迫害してきた。サタンは 彼らを拷問(ごうもん)にかけ、死に至らせた。しかし彼らは死ぬことによ って勝利者となった。彼らは、その不屈の信仰によって、サタンよりも強 いおかたをあらわした。サタンは彼らを責め、肉体を殺すことはできた。 しかしキリストとともに神のうちにかくれている命に触れることはできな かった。サタンは牢獄の中に幽閉することはできたが、その魂をしばるこ とはできなかった。 彼らは『わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現 されようとする栄光に比べると、言うに足りない』(ローマ 8:18)…と叫び ながら、暗黒のかなたに栄光を見ることができた。 」―祝福の山 p.37

キリスト我らの義 3. 世は、イエス・キリストをどのように扱いましたか。今日、このお方 に従う者たちはそれと異なった扱いを受けるでしょうか(ペテロ第一 3:14; 4:13,14; ヨハネ 15:20; ルカ 23:31) 。

45


「失われた世界を救うためにこられたおかたは、神と人類との敵の連合 勢力の反対に出会われた。悪人と悪天使たちは無情な同盟をもって平和の 君に向かって陣をしいた。救い主のことばと行ないのひとつひとつは神の あわれみの現われであったのだが、彼が世と似ていないことが、痛烈な敵 意をかき立てた。生来の悪い欲望をほしいままにするのをイエスが許され なかったので、もっとも激しい反対と敵意をひき起こすことになった。そ のように、キリスト・イエスにあって敬虔(けいけん)に一生を送ろうとす る者はすべて、同じ敵意と反対を受けるのである。義と罪、愛と憎悪、真 理と誤謬(ごびゅう)の間には、押えがたい闘争がある。人がキリストの愛 と聖潔の美しさを示すならば、彼はサタンの王国の臣下を引き離している のである。だから悪の君はそれに抵抗して立ち上がる。キリストのみたま に満たされているすべての者には迫害と非難が待ちうけている。 」―祝福の 山 p.36 4. 神の戒めに従う者たちに、世は何をしますか(マタイ 21:33-36) 。

「迫害の性質は時代によって変わるが、その本質―その根底を流れる精 神― は、アベルの時以来、主の選民を殺してきたのと同じ精神である。 人々が神と調和することを求める時、十字架のつまずきが今なお終わっ ていないことに気づくであろう。もろもろの支配と、権威と、天上にいる 悪の霊は、天の律法に服従するすべての者に対抗して陣をしくのである。 こうして迫害は、キリストの弟子にとっては、悲しみをひきおこすどころ か、かえって喜びとなるはずである。なぜならそれは、彼らが主の足跡に 従っている証拠だからである。 」―祝福の山 p.36

キリストのために苦しむ特権 5. 義のために苦しむすべての者に、どのような約束が与えられています か(マタイ 28:20 下句)どなたが、燃える炉の中の三人の義なる者と共に いましたか(ダニエル 3:17,18,25) 。

46


「もしあなたが主のために火の燃える炉を通るように召されるならば、 イエスはバビロンの忠実な三人の青年たちと共におられたように、あなた のかたわらにおられる。贖い主を愛する者は、主とともに屈辱とそしりに 会う機会があるたびに喜ぶ。彼らは、主を愛しているので、主のための苦 しみを少しもいとわないのである。 」―祝福の山 p.37 6. わ た し た ち は 忠実 な父 祖 た ち か ら 何を 学 ぶべ き で す か ( ヘブ ル 11:25,26,13-16) 。

義人は栄化される 7. 義のために苦しむ者を、どのような報いが待っていますか(黙示録 7:13-17; ヨハネ 16:33; ペテロ第一 1:5) 。

「生きている義人たちは、 『またたく間に、一瞬にして』変えられる。彼 らは、神のみ声によって栄化された。今や彼らは不死の者とされて、よみ がえった聖徒たちとともに、空中において主に会うために引き上げられる。 天使たちは、 『天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集め る。』小さい子供たちは、天使たちに抱かれてきて、母親の腕に返される。 長く死に別れていた友人たちは再会して、もう永久に別れることなく、喜 びの歌をうたいながら、ともに神の都へと上っていく。」―各時代の大争闘 下巻 p.424,425

結論 「自分の無価値なことを悟れば悟るほど、救い主の限りない純潔とうる 47


わしさとがわかってきます。自分の罪深いことを知ってゆるしを与えたも う救い主のもとに走りより、魂の力なさを悟ってキリストに手をのべます、 すると、キリストはあらわれ力をそえたもうのであります。必要に迫られ、 キリストと神のみ言葉に近づけば近づくほど、私どもはキリストの品性を もっとよく知るようになり、そのみかたちをもっと十分に反映するように なります。…… キリストはすべての正しい動機の根源であって、彼のみが人の心のうち に罪を憎む心を植えつけることができるのであります。真理や純潔をした い、自分の罪深さを認めることなどはみな、キリストの霊が私どもの心に 働いている証拠であります。 」―キリストへの道 p.81,28

48


9課

安息日 2012 年 03 月 03 日

「人々があなたがたをののしる時には、 さいわいである」 「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたが たに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 」 マタイ 5:11

序文 「… しかし彼らに世の敵意が向けられるのは、彼らが神とまじわってい るからである。彼らはキリストヘの非難を負っているのである。彼らは聖 徒たちが通った道を歩いているのである。彼らは悲しみをもってではなく、 よろこびをもって、迫害に応ずべきである。激しい試練の一つ一つは、彼 らを洗練するための神の手段である。その一つ一つは、彼らを神の共労者 として彼らの働きにふさわしい者とする。一つ一つの戦いは、義のための 大きな戦いの中にそれぞれの立場を占めていて、それは、彼らの最後の勝 利によろこびをまし加える。 」―各時代の希望中巻 p.10,11

攻撃に直面する 1. 主との交わりを保つことをしない者たちを、何が特徴づけていますか (ペテロ第二 2:10,11; テモテ第二 3:3 中句; ユダ 8) 。

「人のことを悪く言ったり、他の人の動機や行為をさばくことは、小さ いことであると思ってはならない。 『兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を さばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあ 49


なたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのであ る』(ヤコブ 4:11)。審判者は、ただひとりだけである。 『主は暗い中に隠れ ていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにさ れるであろう』(コリント第一 4:5)。そして、だれでも同胞をさばいて罪に 定める者は、創造者の権威を侵害しているのである。」―人類のあけぼの上 巻 p.462 2. 信仰によって生きる者たちは、何を予期することができますか(マタ イ 10:22; ペテロ第一 2:12; 3:16) 。

「神の警告の言葉が良心に訴えられると、サタンは、人々に自分は正し いのだと思わせ、彼らの罪の行為に他人の共鳴を求めさせる。彼らは自分 の誤りを直さないで、かえって譴責者が問題の唯一の原因でもあるかのよ うに、その譴責者に対して憤慨する。これが義人アベルの時代から今日に 至るまで、罪をあえて責める者に対して示されてきた精神である。」―各時 代の大争闘下巻 p.237,238 「サタンがヨシュアとその民を責めたように、彼は各時代において、神 のあわれみと恵みを求める人々を責めるのである。彼は『われらの兄弟ら を訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者』であると宣言さ れている。悪の勢力から救い出され、その名が小羊の命の書に記録される すべての魂のために、大争闘がくり返される。敵の徹底的抵抗を引き起こ すことなしに、神の家族に加わる者はひとりとしていない。」―教会への証 5 巻 p.470

清めの試練 3. 不正に訴えられ、神のみ働きのため、また神ご自身のために苦しむ者 たちに、どのような祝福が約束されていますか(マタイ 5:11; ルカ 6:22; ペテロ第一 4:14) 。

50


「中傷は人の評判を悪くすることはできるが、品性に汚点をつけること はできない。それは神の守りのうちにあるのである。わたしたちが罪に同 意しない限り、人間でもサタンでも魂に汚点をつける力はない。神に信頼 している人は、どんな苦しい試練、どんな絶望的な状況にあっても、以前 自分が繁栄していて、神の光とめぐみに浴していると思えた時と全く変わ らないのである。彼の言葉も、動機も、行動も、誤解され曲解される。し かし彼はもっと重大な事がらに関心をもつのでそれを気にしない。モーセ と同じく、彼は『見えないかたを見ているようにして』(ヘブル 11:27)『見 えるものにではなく、見えないものに目を注』いで忍ぶのである(コリント 第二 4:18)」―祝福の山 p.40,41 4. 神の御心を行うために苦しんだ者について、どのような実例が挙げら れていますか(ヤコブ 5:10; ヘブル 11:35-38)。

「キリストは人に誤解され、悪い評判を立てられているすべての者を知 っておられる。神の子らはどんなにそしられ、軽蔑(けいべつ)されても、 冷静な忍耐と信頼をもって待つことができる。なぜなら秘密にされている もので、明るみに出ないものはなく、神をあがめる者は人と天使たちの前 で神から光栄を与えられるからである。 」―祝福の山 p.40,41 「イエスは『人々があなたがたをののしり、また迫害する時は』『喜び、 よろこべ』と言われた。そして主は聴衆に『苦しみを耐え忍ぶ・・・・模範』 として(ヤコブ 5:10)、主のみ名によって語った預言者たちを示しておられ る。アダムの子らのうち、一番はじめのクリスチャンであったアベルは殉 教の死を遂げた。エノクは神とともに歩んだが、世は彼を知らなかった。 ノアは狂信者、世をさわがせる者と嘲笑された。 『なおほかの者たちは、あ ざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。』 『ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに 甘んじ、放免されることを願わなかった』(ヘブル 11:36,35)。 」―祝福の山 p.41

51


クリスチャンの特別な品性 5. 主のために働いている時、もしわたしたちが迫害に直面するなら、わ たしたちはどなたに目を向けるべきですか (ヘブル 12:2,3;1; ペテロ 2:21; ピリピ 2:8,9) 。

「サタンは堕落して以来、欺瞞によって働いてきた。彼は神を偽り伝え たように、その部下によって神の子らを誤表するのである。救い主は、 『あ なたをそしる者のそしりがわたしに及んだ』と仰せになる(詩篇 69:9)。同 じようにして主の弟子たちの上にそしりが及ぶのである。 この世に生をうけた者のなかで、人の子ほど残酷な中傷を受けた者はな かった。イエスは、神の聖なる律法の原則に確固として従われたので、愚 弄(ぐろう)され嘲笑を受けられた。人々は理由なしに主を憎んだ。しかし 主は敵の前に冷静に立ち、非難はクリスチャンの遺産の一部であると言明 しておられる。また弟子たちに、いかにして悪意の矢をふせぐべきかを教 え、迫害に会っても気落ちしないようにと命じておられる。」―祝福の山 p.40 6. なぜ神は、ステパノに石を投げて殺すのに参加したサウロを、異邦人 のための使徒として選ばれたのですか(使徒行伝 8:1 上句; 9:15,16;7:58; 22:20; ローマ 1:1)。

「このような結果は、神の使者たちの生涯の中に何度もみられた。かの 高貴で雄弁なステパノがサンヒドリン議会の扇動によって石で打ち殺され た時、福音事業は何らの損失もこうむらなかった。ステパノの顔に輝いた 天の光と彼の臨終の時の祈りに聞かれた神のようなあわれみなどは、そこ に立っていた頑迷な一議員の罪を指摘する鋭い矢のようなものであった。 52


こうして迫害者のパリサイ人サウロは、異邦人や、王たちやイスラエルの 子らにキリストの名をもたらす選びの器となったのである。」―祝福の山 p.42 「救い主がステパノを用いてサウロに語っておられた。ステパノのはっ きりした論証は反駁の余地のないものであった。このユダヤ人の学者は、 キリストの栄光の光を反映している殉教者の顔を見た。それはちょうど『天 使の顔のように』見えたのである(使徒行伝 6:15) 。彼は敵に対するステパ ノの忍耐強さとゆるしを目撃した。サウロはまた、自分が責め苦しめた多 くのものが示した不屈の精神と、よろこんで耐え忍ぶ姿を見た。彼はある ものたちが信仰のために、いのちさえよろこんで捨てるのを見たのである。 これらすべてのことが声を大にしてサウロの心を動かし、時には、イエ スこそ約束のメシヤだという抗しがたい確信が彼の心を突き通した。その ようなとき彼は幾夜もこの確信に抵抗してもがき、いつでも、イエスはメ シヤではなく、彼の信者たちも惑わされた狂信者だという自己の信念を公 言す ることに よって内心の 葛藤をし ずめていた 。」―患 難から栄光 へ p.121,122

逆境と命の冠 7. イエスはご自分に対する偽りの非難に、どのように応じられましたか。 このお方のために苦しむ者たちに、このお方はどのような確証を与えられ ますか(マタイ 26:62,63; 黙示録 2:10) 。

「キリストのみたまに満たされた人は、キリストのうちに宿っている。 彼をねらう打撃は、ご臨在をもって囲んでいてくださるキリストに当たる。 彼に起こることはみなキリストを経てくるものである。キリストが彼の守 り手であるから、彼は自分で悪に手向かう必要がない。主のゆるしがなけ れば、何物も彼に触れることはできない。そして許されることはみな、相 共に働いて彼を愛する者たちの益となるのである。 」―祝福の山 p.88

結論 「神からのみ言葉は、 『前進せよ、各自の義務を果たせ。そして、結果は 53


神に任せよ』である。イエスの導きに従って前進すれば、神の勝利を見る ことができ、神の喜びにあずかるのである。勝利の冠を得るためには、戦 いにもあずからなければならない。イエスのように、わたしたちも苦しみ を通して完全にされるのである。キリストのご生涯が安易なものであった なら、わたしたちも怠惰に安んじていられるかもしれない。しかし、イエ スのご生涯の特徴は、絶えざる克己、苦しみ、自己犠牲であったから、わ たしたちも、イエスにあずかる者ならば、苦しみにあっても何の不平もな いのである。わたしたちを導く世の光であるキリストを持っているなら、 最も暗い道でも安全に歩くことができるのである。 」―教会への証 5 巻 p.71

54


10 課

安息日 2012 年 03 月 10 日

つまずかない者は、さいわいである 「わたしにつまずかない者は、さいわいである。」マタイ 11:6

序文 「神の民が神に忠誠を保っている限り、彼らがイエスに対する生きた信 仰ですがりついている限り、彼らは天のみ使いたちの保護のもとにいるの で、サタンは彼らを滅ぼすために悪魔的な手段を用いることを許されない。 しかし罪によって、自分自身をキリストから引き離す者は大きな危険にさ らされている。 」―マラナタ p.95

荒野から牢獄へ 1. メシヤの先駆者についてどのような預言が与えられていましたか。彼 はそのときが来たとき、どのように明白に救い主を紹介しましたか(イザ ヤ 40:3-5; マタイ 3:11; ヨハネ 1:29,36) 。

「主は バプテスマのヨハネを主の道を備えるための使命者として立て られた。彼は、罪を譴責し非難するひるむことのない証を負わなければな らないのであった。ルカは、彼の使命と働きを述べている。 『彼はエリヤの 霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆ら う者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう』 (ル カ 1:17)。 」―セレクテッド・メッセージ 2 巻 p.147,148 55


2. この神の忠実な僕は、その働きの頂点に達したときどうなりましたか (マルコ 6:17,18) 。

「バプテスマのヨハネは、キリストの王国について一番先に告げ知らせ たが、彼はまた苦難を受けることにおいても最初であった。荒野の自由な 空気と、彼のことばを熱心にきいた大群衆から離れて、彼はいま獄舎の壁 の中にとじこめられていた。彼はヘロデ・アンテパスの城の中に囚人とな っていた。ヨハネの伝道の大部分は、アンテパスの支配下にあったヨルダ ンの東の領地でなされてきた。ヘロデ自身ヨハネの説教をきいていた。放 蕩な王は悔い改めを促す叫びにふるえあがった。 『それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼 を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお 喜んで聞いていたからである』(マルコ 6:20)。ヨハネはヘロデに対して誠 実にふるまい、彼が兄弟の妻ヘロデヤと不義の結婚をしたことを公然と非 難した。一時ヘロデは自分の身をしばりつけている情欲の鎖をたち切ろう とかすかな努力をした。しかしヘロデヤは彼を自分の網にますます強くと らえ、ヨハネを投獄するようにそそのかすことによってヨハネに報復した。 」 ―各時代の希望上巻 p.265

疑い、疑問、応答 3. イエスの働きが進展している一方で、バプテスマのヨハネが牢獄に入 れられていたとき、どのような疑問が彼の思いに浮かびましたか。彼はど のようにして答えを得ようとしましたか(ルカ 7:19,20; マタイ 11:2,3)。

「バプテスマのヨハネは、その使命において、高いところでも低いとこ ろでも、恐れるところなく不義を責める者であった。彼はあえてヘロデ王 に対面して率直に罪を責めた。彼は自分が任命された働きをなしとげるた めには、生命を惜しまなかった。そしていま彼は、ユダ族の獅子(しし)が 圧制者の誇りを打ち倒し、貧しい者と泣き悲しむ者とを救われるのを獄屋 の中から期待した。だがイエスは、まわりに弟子たちを集めることと、人々 をいやしたり人々に教えたりすることに満足しておられるようにみえた。 56


ローマのくびきが毎日イスラエルの上にますます重くのしかかり、またヘ ロデ王とその邪悪な情婦は好き勝手にふるまい、貧しい者たちと苦しむ者 たちとの叫びが天にのぼっているのに、イエスは取税人たちの食卓で食べ ておられるのだった。 荒野の預言者にとって、こうしたことがみなはかり知ることのできない なぞにみえた。悪魔のささやきが彼の心を苦しめ、非常な不安の影が彼に しのびよる時があった。長い間待ち望んでいた救い主がまだ現われておら れないということがあり得るだろうか。すると自分がこれまで叫ばされた メッセージはどういうことなのだろうか。 」―各時代の希望上巻 p.267 4. イエスはヨハネの質問に対して、どのような励ましと慰めの答えを与 えましたか。預言の霊はその困難な経験についてどのような証を与えてい ますか(ルカ 7:21-23) 。

「救い主は、弟子たちの質問にすぐにはお答えにならなかった。…イエ スは、人々の病気をなおす一方では、彼らにお教えになった。ラビたちか ら不潔なものとして避けられていた貧しい百姓や労働者たちが、イエスの そばに集まり、イエスは、彼らに永遠のいのちのことばを語られた。 こうしてヨハネの弟子たちが、すべてのことを見たり聞いたりしている うちに、一日が過ぎて行った。最後にイエスは、彼らをみもとに呼んで、 あなたがたが見たままのことを、行ってヨハネに告げなさいと命じ、 「わた しにつまずかない者は、さいわいである」とつけ加えられた(ルカ 7:23)。 イエスの神性の証拠は、悩んでいる人間の必要にそれが適用されることに 見られた。イエスの栄光は、彼がわれわれのいやしい身分にまで身をひく くされたことに示された。…… しかしバプテスマのヨハネは、キリストヘの信仰を捨てなかった。天か ら声がきこえ、はとがくだった思い出、イエスのけがれのない純潔さ、救 い主の前に出たときヨハネにのぞんだ聖霊の力、聖書の預言のことばのあ かし、―すべては、ナザレのイエスが約束のおかたであることをあかしし ていた。 」―各時代の希望上巻 p.269,270,268

生まれつきの傾向 5. なぜ多くの神の民は多くの光を受けたのにもかかわらず、このお方に 57


背きましたか。人が疑いと不信を信じるとき、どうなりますか(イザヤ 8:14,15; ローマ 9:32-33) 。

「キリストがこの世においでになったときは、人間性がまさにそのどん 底に達しようとする一歩手前であった。社会の基礎は侵されていた。生活 は虚偽と虚飾に満ちていた。ユダヤ人は神のみ言葉の力を失い、世人に心 をまひさせ魂を死なせる伝説と空論をあたえていた。…… 人々が神を認めなくなったときに、彼らは人類への関心も失った。真実、 名誉、誠実、信頼、同情心はこの世から影を潜めつつあった。飽くことを 知らない貪欲心と残酷な野心は、世界中に不信を生じさせた。…富と権力、 安逸と放縦が、最高の幸福として求められた。体力の低下、知能のまひ、 霊性の死が、時代の特徴であった。 」―教育 p.74 6. 何だけが、個人的考えと偏見が自分たちと他の人々のつまづきになら ないようにすることができますか(コリント第一 1:22-24) 。

「ユダヤ国民は、限りない愛の神の訴えをあざける各時代の人々を象徴 していた。キリストがエルサレムについて泣かれた時の涙は、すべての時 代の罪のためであった。神の聖霊の譴責と警告をこばむ者は、イスラエル に宣告された刑罰のうちに、自分自身の罪の宣告を読むことができる。 いまの世代に、不信のユダヤ人と同じ道を歩んでいる者が多い。彼らは 神の力のあらわれを目に見た。聖霊は彼らの心に語った。しかし彼らは不 信と抵抗をあくまでもやめない。神は彼らに警告と譴責を送られるが、彼 らは自分の誤りを告白したがらないで、神の使命と使者をこばむ。彼らの 回復のために神が用いられる方法までが、彼らにとってはつまずきの石と なる。…… キリストは人々の期待を実現されなかった。主の生活は彼らの罪にとっ 58


て一つの譴責であったので、彼らは主をこばんだ。そのようにいまも、神 のみことばの真理は人々の習慣や生来の傾向と調和しないので、幾千の 人々がその光をこばむ。サタンにそそのかされる人々は神のみことばに疑 いを投げかけ、独自の判断を働かせることをえらぶ。彼らは光よりも暗黒 をえらぶが、彼らは自分の魂の危険をかけてそうするのである。キリスト のみことばのあらさがしをした者たちは、あらさがしのもとをますます多 く発見し、ついには真理でありいのちであるおかたから離れて行った。今 日も同様である。 」―各時代の希望下巻 p.25,26

信じるものはさいわいである 7. 弟子トマスは主の復活について、どのような疑いを示しましたか。イ エスはその疑いにどのように対処されましたか(ヨハネ 20:25-29) 。

「その時には、トマスはそこにいなかった。彼は弟子たちの報告を謙虚 な心で信じようとせず、自分の指をイエスの手の釘あとに、自分の手を残 酷な槍につきさされたイエスのわき腹にさしこんでみるまでは信じないと、 自信に満ちてきっぱりと断言した。このことによって、彼は兄弟たちに対 する信頼に欠けていることを示した。もしみんなが同じように証拠をもと めたら、いまイエスを受け入れ、イエスのよみがえりを信じる者はひとり もいないだろう。しかしよみがえられた救い主を自分で見たり聞いたりす ることができなかった者は、弟子たちの報告を信ずるようにというのが、 神のみこころだった。神はトマスの不信をおよろこびにならなかった。イ エスがふたたび弟子たちとお会いになったとき、トマスもそこにいた。彼 はイエスを見て信じた。しかし彼はただ見るだけでなく、さわってみなく ては満足できないとかねて宣言していたので、イエスは彼の希望通りの証 拠をお与えになった。トマスは『わが主よ、わが神よ』と叫んだ。しかし イエスは『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、 さいわいである』とおっしゃって、トマスの不信をお責めになった。 」―初 代文集 p.318,319

59


結論 「わたしたちは心の戸をイエスに開けているだろうか。そしてサタンヘ の入口になるあらゆる通路を閉じているだろうか。わたしたちはキリスト の義のうちに立つことができるように、日毎によりはっきりとした光を受 けて、もつと大きな力を得ているだろうか。わたしたちは利己心をすべて 心から取り除き、清めて、天から後の雨を受けるための準備をしているだ ろうか。 」―マラナタ p.95

60


11 課

安息日 2012 年 03 月 17 日

あなたがたの目は見ているから、 さいわいである

「しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわい である。 」マタイ 13:16

序文 「あなたは、キリストに従う者になりたいと願いながら、どのようにし て始めたらよいかわからずにいるであろうか。あなたは暗い中で、光を見 いだす方法を知らないでいるだろうか。今、持っている光に従うことであ る。あなたの知っている神のみことばに従う決心をしなさい。神の力、神 のいのちそのものがみことばのうちに宿っている。あなたがみことばを信 仰をもって受け入れる時、それはあなたに服従する力を与える。あなたの 持っている光に従えば、もっと大きな光が来る。あなたは神のみことばの 上に築いているのであって、あなたの品性は、キリストの品性に型どって 形造られる。 」―祝福の山 p.187

見ることの価値 1. 神聖な事柄の価値を見極めるためには、普通の見聞きする能力は十分 ですか(伝道の書 11:7; マタイ 6:22) 。

「一つの目的に徹し、まったく神に献身することが救い主のことばによ って指摘された条件である。真理を識別し、どんな犠牲を払ってもそれに 従おうという、いちずでゆるがない心を持つなら、あなたは神の光を受け 61


る。ほんとうの敬虔さは、罪との妥協をすべて捨てる時にはじまる。 その 時、使徒パウロの言ったことばがあなたのことばとなるのである。 『ただこ の一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってか らだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に 召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。』『わたしは・・・・わ たしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいの ものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、 それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリスト を得るためであ』る(ピリピ 3:13,14,8)。 」―祝福の山 p.112,113 2. 身体的視力は、非常に尊い賜物です。二人の目の見えない人は、イエ スに目を見えるようにしてほしいとどれほどしきりに嘆願しましたか(マ タイ 20:29-31) 。

「キリストの福音は、初めから終わりまで救いの恵みの福音である。そ れは独特ですべてを支配する考えである。それは必要としている者への助 け、真理に盲目になっている目に対する光、真の基礎を探し求めている魂 に対する導きである。十分で永遠の救いはすべての魂の手の届くところに ある。キリストは許し、提供された恵みを惜しみなく与えるために待たれ 切望されている。このお方は見守り待っておられる。エリコの門にいた盲 人に言われたように、 『わたしに何をしてほしいのか』と言われる。わたし はあなたの罪を取り除こう。わたしはあなたをわたしの血で洗おう。」―伝 道 p.552, 553

視力と聴力の障害物 3. イエスは、霊的に目が見えず、耳が聞こえないことの大きな危険を強 調されましたか(マタイ 13:14,15) 。

「近いうちに、誰がへりくだって神と共に歩み、このお方の命令に従っ てきたかが分かるであろう。自分自身が燃やすたいまつの中で歩んできた 者は、悲しみの内に身を伏すであろう。彼らは自分たちがとんでもない間 62


違いをしてしまったこが分かる。起きようではないか!今光が輝いている。 思いと心の扉を開いて天来の光線を入れようではないか。真理に従ってい ると公言しているが、真理の光の中で歩むことを怠った者たちについて、 イエスはこう言われる。 『こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就 したのである。 「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには 見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、 その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、 悔い改めていやされることがないためである」 』 (マタイ 13:14,15)。 」―ク リスチャン教育 p.141 4. 罪に屈する者に、どのような霊的盲目が襲う可能性がありますか。従 って、イエスはなんと警告されましたか(マタイ 6:23; 5:29; 13:9,43) 。

「救われる望みが少しでもある限り、いかなる魂も最後的に神に捨てら れて、なすがままに放棄されることはない。 『人が神から離れるのであって、 神が人から離れるのではない』 。天の父は、訴えと警告とあわれみの保証を 与えて、わたしたちがこれ以上、どんな機会や特権にも答えなくなるまで、 わたしたちのあとを追われるのである。責任は罪びとの側にある。きょう 神の聖霊にさからうならば、この次にさらに強い力で光が来ても再びその 光にさからうようになる。こうして反抗から反抗へと進み、ついに光は感 銘を与えることができなくなり、罪びとは神の聖霊にまったく応じなくな る。そのときは、 『あなたの内なる光』までが暗闇となる(マタイ 6:23)。す でに知っている真理でさえ曲げられてしまって、そのためにかえって魂の 盲目が増すばかりである。 」―祝福の山 p.114,115

見聞きすることを望むものはさいわいである 5. ある者たちが救い主のメッセージを聞くことを快く思わなかった一 方で、他の者たちはどのような真剣な願いを表明しましたか(ルカ 19:2-4; ヨハネ 12:21) 。

63


「ギリシャ人たちの心からの願いと信頼は、試練と悲しみの中にあった 主にとってなんと喜ばしいことだっただろうか。ギリシャ人たちは、この お方の力強い働きと知恵と真理について聞いて、このお方に会うことを望 んだ。彼らはこのお方を信じた。それは彼らが預言を調べ、このお方が自 分たちの心の願いだったということを確信したからである。」―バイブル・エコ ー・アンド・サインズ・オブ・ザ・タイムズ 1892 年 5 月 15 日 「自分の罪深さを悟らない人の心には、イエスに対する深い愛もやどり ません。キリストの恵みによって造りかえられた魂は、キリストのきよい 品性をほめたたえます。しかし、もし私どもが自分の道徳的欠陥を知らな いとすれば、それは、キリストの美しくすぐれた品性をまだ見たことがな いという明らかな証拠であります。 」―キリストへの道 p.81 6. 光を見て、真心から天来の光を受け入れた者たちについてなんと書か れていますか。信仰によってはるか先のメシヤの働きを見て受け入れた者 についてどのような実例が挙げられていますか(マタイ 13:16; ヨハネ 8:56-58) 。

「ここで、キリストの生ける代理人、すなわち主の恵みふかきことを味 わい知った者は、言葉と行動によって、また快活さ、忍耐、寛容、望み、 喜びによってこのお方を表すべきである。 『あなたがたの目は』神の驚くべ き愛を『見ているから、さいわいである』。『耳は』道であり真理であり命 であるお方の尊いみ言葉を『聞いているから、さいわいである』 。そしてわ たしたちは、喜びの知らせを提示し、それが良き知らせであるということ を示さなければならない。重苦しい精神を捨て去りなさい。イエスのあわ れみと善意と愛について語りなさい。なぜなら『わたしたちとしては、自 分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない』からである。あ なたの顔を天に向けていなさい。天の魅力を眺めよう。そうすればあなた は真に『暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、 あなたがたが語り伝える 』ことができるのである。イエスの口からわたし たちに与えられたすべての尊い約束をもって、わたしたちの感謝を行動に 移そう。神の戒めの光の内に、わたしたちの義務について熟考しよう。 」― サインズ・オブ・ザ・タイムズ 1891 年 12 月 7 日

64


7. どなただけが、罪と偏見によって長い間閉ざされてきた目と耳を開く ことができますか。熱心なシメオンは非常に年老いていましたが、神の救 いについて彼は何を見、 正しく理解しましたか (箴言 20:12; 列王記下 6:17; ルカ 2:26,30-32) 。

「シメオンが宮にはいってくると、彼はそこに長子を祭司の前にさし出 している家族を見る。彼らの身なりは貧しさを物語っている。だがシメオ ンは聖霊のお告げがわかる。彼は神にささげられている幼子が、イスラエ ルの 慰め主、長い間待ちこがれていたおかたであるとの印象を強く受ける。 驚いた祭司の目には、シメオンが狂喜した人間のように見える。子供はマ リヤの手にかえされていたが、彼はそれを自分の腕に受けとって神にささ げる。すると彼の心にかつて経験したことのない歓喜がわき起る。彼は幼 子の救い主を天の方へ高く持ちあげて、 『主よ、いまこそ、あなたはみ言葉 のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あな たの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになった もので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります』と言 う(ルカ 2:29-32)。預言の霊がこの神のしもべの上にくだった。 」―各時代 の希望上巻 p.42,43

結論 「大きな光と祝福、多くの機会と特権を持っているが、それらを用いな いことは恐ろしいことである。自分たちの機会を用いない者は、神が彼ら に与えられた特権によって非難される。しかし光の中を歩む者は、さらな る光を得る。真理の光を持っていたが、光の中を歩むことを怠った者は、 コラジンやベッサイダと同じ罪の宣告の下にいるのである。これらの警告 は注意されないのだろうか。これらの訓戒はわたしたちにとって重要では ないだろうか。 」―クリスチャン教育の基礎 p.259

65


12 課

安息日 2012 年 03 月 24 日

シモン、あなたはさいわいである

「 『シモン・ペテロが答えて言った、 「あなたこそ、生ける神の子キリス トです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、 あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではな く、天にいますわたしの父である。 」 』 」マタイ 16:16,17

序文 「正しいことから一歩でも離れることの危険について、―それは過失を 犯す本人自身にも、その影響を受けるすべての人にも危険であるというこ とについて、聖書の中にこれほどはっきりした光を与えられている真理は ない。手本というものはふしぎな力をもっていて、これがわれわれの性格 の悪い面に影響を及ぼすとき、それはほとんど抵抗し難いものとなる。」― 教育 p.168

生ける神の子 1. ある日、イエスはどのような質問を弟子たちにされましたか(マタイ 16:13,14) 。 「残念ながら弟子たちは、イスラエルがメシヤを認めなかったことを承 認しないわけにいかなかった。もっともある人々は、イエスの奇跡を見て、 イエスはダビデの子であると断言した。ベッサイダで食べさせてもらった 群衆は、イエスをイスラエルの王として宣言しようと望んだ。多くの者は、 イエスを預言者として受け入れようとした。だが彼らは、イエスをメシヤ として信じなかった。 」―各時代の希望中巻 p.177 66


2. さらに明白にイエスはなんと尋ねられましたか。ペテロはなんと答え ましたか(マタイ 16:15,16) 。

「ペテロは、はじめからイエスをメシヤと信じていた。バプテスマのヨ ハネの説教を聞いて罪をさとった他の多くの者たちは、ヨハネが投獄され て死刑に処せられると、ヨハネの使命について疑いをいだきはじめた。彼 らはこんどは、イエスが長い間待ち望んでいたメシヤであるかどうかを疑 った。イエスがダビデの位につかれることを熱烈に期待していた弟子たち の多くも、イエスにその気持がないことをみとめると、イエスから離れた。 だがペテロとその仲間たちは忠誠を変えなかった。」―各時代の希望中巻 p.177

大きな祝福 3. ペテロの告白に対するイエスの応答は、キリストの神性を理解するの には限られているということを示しましたか(マタイ 16:17) 。

「ペテロが告白した真理は、信者の信仰の土台である。これこそキリス トご自身が永遠のいのちであると宣言されたものである。だがこの知識を 持っていることは、自己称賛の理由にはならなかった。それがペテロに示 されたのは、彼に知恵や徳があったからではなかった。人間はひとりで神 についての知識に到達することはできない。 『それは天よりも高い、あなた は何をなしうるか。それは陰府(よみ)よりも深い、あなたは何を知りうる か』(ヨブ記 11:8)。 『子たる身分を授ける霊』のみが、神について『目がま だ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかった』深い事がらを われわれに示すことができるのである (ローマ 8:15、コリント第一 9:9)。 『そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったので ある。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからで ある』(コリント第一 2:10)。 『主の奥義は主をおそれる者のためにあり』(詩 篇 25:14 英語訳)。ペテロがキリストの栄光をみとめたことは、彼が『神に 教えられ』た証拠である(ヨハネ 6:45)。 」―各時代の希望中巻 p.178,180 67


4.どのような堅い土台に、イエスはご自分の教会を建てられましたか。そ れ以上の土台を見つけることができるでしょうか(マタイ 16:18; エペソ 2:20; コリント第一 3:11) 。

「救い主来臨の何世紀も前に、モーセは、イスラエルの救いの岩であら れるキリストをさし示した。詩篇記者は『わが力の岩』について歌った。 イザヤはこう書いている、『主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシ オンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い 隅の石である」 』(申命記 32:4、詩篇 62:7、イザヤ 28:16)。ペテロ自身、霊 感を受けて書いたとき、この預言をイエスにあてはめて、こう言っている。 『あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったは ずである。主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける 石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石とな って、霊の家に築き上げられ・・・・・・なさい』(ペテロ第一 2:3-5)。 『すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもでき ない。そして、この土台はイエス・キリストである』(コリント第一 3:11)。 『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう』とイエスは言われた(マ タイ 16:18)。神と全天使たちの前で、また目に見えないよみの軍勢の前で、 キリストは生ける岩の上にご自分の教会を建てられた。その岩はキリスト ご自身―われわれのために裂かれ傷つけられたキリストご自身のからだで あった。この土台の上に建てられた教会に、よみの門は打ち勝つことがで きない。 」―各時代の希望中巻 p.180,181

祝福、試練、改心 5. イエスを裏切った後、ペテロはこのお方の試練の間、このお方を神の 子と告白しましたか。このお方のみ事業を試練の下に置くような状況が来 ることを考えるとき、今どのような教訓を学ぶことがわたしたちにとって 重要ですか(マタイ 26:69-75) 。

68


「ペテロは、イエスが売り渡されてからも、その後について行った。彼 は、人々がイエスをどうしようとするのか見たかった。しかしペテロは、 イエスの弟子のひとりであることをとがめられると、身の安全を計るため に、自分はその男を知らないと断言した。イエスの弟子たちは、純潔なこ とばを使うので有名だったので、ペテロは、自分をとがめた者に、自分が キリストの弟子のひとりではないことを納得させるために、三度目にはの ろいと誓いのことばを吐いてその攻撃を否定した。ペテロから少し離れた ところにおられたイエスはふりかえって、悲しみに満ちた、たしなめるよ うなまなざしで、ペテロをじっとごらんになった。そのときペテロは、あ の二階座敷で語られたイエスのみことばと、 『たとい、みんなの者があなた につまずいても、わたしは決してつまずきません』と熱心にかたく言い張 った自分のことばを思い出した。ペテロは、のろい、誓ってまで主をこば んだのであった。 」―初代文集 p.290 6. ペテロの試みの前に、イエスはご自分の弟子たちになんと告げられま したか。この経験はどのようにして彼に改心をもたらしましたか(ルカ 22:32) 。

「ペテロは、のろい、誓ってまで主をこばんだのであった。しかしイエ スのそのまなざしは、ペテロの心を溶かし、彼を救った。彼は、激しく泣 いて、自分の大きな罪を悔い、改心した。そしてその時彼は、兄弟たちを 励ます準備ができたのであった。」―初代文集 p.290,291 「キリストは、ペテロを苦悶に会わせないようにはできなかったが、し かし、ペテロをひとり苦しみの中に捨てては置かれなかった。キリストの 愛は、人を失望させることも見捨てることもない愛である。 人は自ら罪の身であるにもかかわらず、他人の試練や過失に対しては、 不親切な態度をとりがちである。われわれは、人の心を読むことも、他人 の心の戦いや苦しみを知ることもできない。愛のけん責、傷つけてもいや す打撃、希望を語る警告というものを、われわれは学ばなければならない。 」 ―教育 p.93

69


7. イエスは復活の後、どのようにご自分の弟子たちを励まされましたか。 これは今日の神の民のためにどのような尊い教訓を含んでいますか(ヨハ ネ 21:15-17) 。

「主イエスはペテロに言われた。 『あなたが立ち直ったときには、兄弟た ちを力づけてやりなさい』 。そして復活後、昇天前に、ご自分の弟子に言わ れた。 『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたし を愛するか』。ペテロは言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛す ることは、あなたがご存じです』 。イエスは彼に『わたしの小羊を養いなさ い』と言われた。 これはペテロにとってほとんど経験のない働きだった。しかし、彼は小 羊、すなわち信仰の若い人たちを養うことを学ばない限り、クリスチャン 生涯を完成させることができなかった。無知な人たちに適切な教えをし、 彼らの前に聖書を開き、彼らを義務の働きに役立つように教育するには非 常な注意、非常な忍耐と辛抱が必要だった。これが今日教会でなされなけ ればならない働きである。さもなければ真理の擁護者の経験は発達不全と なり、誘惑と欺瞞にさらされるのである。ペテロに与えられた責任は、ほ とんどすべての牧師に強い感銘を与えるべきである。幾度もキリストがご 自分の牧者にご命令を繰り返される声が聞こえる、 『わたしの小羊を養いな さい』 『わたしの羊を養いなさい』 。 」―伝道 p.345,346

結論 「わたしたちはキリストの栄光を瞑想するだけでなく、主がいかにすぐ れているおかたであるかを語るべきである。イザヤはキリストの栄光を見 たばかりでなく、キリストについて語った。ダビデは瞑想しているうちに 心が燃え、その舌をもって語った。彼が神のおどろくべき愛を瞑想した時、 自分が見たり感じたりしたことを話さないでいることはできなかった。信 仰をもって、贖罪のすばらしい計画や、神のひとり子の栄光を見ながら、 それを語らない者があるだろうか。わたしたちが滅びないで、永遠の命を 得るように、キリストがカルバリーの十字架上に死んであらわされた測り しれない愛を瞑想し、凝視しながら、救い主の栄光を賛美することばを持 っていないという者があるだろうか。」―祝福の山 p.53,54

※ 73 ページにあるノルウェーからの伝道報告をお読みください。 70


13 課

安息日 2012 年 03 月 31 日

忠実な思慮深い僕は、さいわいである 「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる 忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、 そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。 」マタイ 24:45, 46

序文 「神はこの世でご自分の民を試される。…この、現世では、この終りの 時代に、人はどんな力が自分の心に影響を与え、自分の行動を支配してい るかを示す。もしもその力が神の真理の力であるなら、よい働きへと導く。 その力は受ける者を高め、神々しい主のように、気高い心の、寛大な者に する。…… 若い方々、また年配の方々よ、神は今あなたを試しておられる。あなた は自分の永遠の運命を今決めようとしているのである。 」―マラナタ p.43

良き忠実な僕 1. 良き忠実な僕は何をしますか(マタイ 25:20-23) 。

「主の来臨を待ち望んでいる者たちは、何もしないでただ期待して待っ ているのではない。キリストの来臨を期待することによって、人々は主を 恐れ、不義に対する主のさばきを恐れるのである。彼らは主がさし出され たあわれみをこばむ大きな罪を自覚するのである。主を待ち望んでいる者 たちは真理に従うことによって自らの魂をきよめる。彼らは油断のない警 戒に熱心な働きを結合する。彼らは、主が戸口におられることを知ってい 71


るので、魂の救いのために天使たちと協力して働くように熱意をよび起こ される。こういう人たちが主の家族に、 『時に応じて定めの食事をそなえさ せる忠実な思慮深い』しもべたちである(ルカ 12:42)。彼らはいま特にあて はまる真理を宣べ伝えている。エノク、ノア、アブラハム、モーセがそれ ぞれの時代のために真理を宣べ伝えたように、キリストのしもべたちはい まこの世代に対する特別の警告を与えるのである。」―各時代の希望下巻 p.102,103 2. 不注意な者には何が起こりますか。不信仰で悪い僕は他の人々にどの ような影響を及ぼしますか(マタイ 25:28,30) 。

「この悪いしもべは、 『主人の帰りがおそい』と心の中で思っている。彼 は、キリストがおいでにならないとは言わない。彼は主の再臨という考え を嘲笑しない。しかし心の中で、またその行為とことばによって、主の来 臨が遅いと宣言する。彼は、ほかの人たちの心から、主はすみやかにこら れるという確信を追い出す。彼の影響で、人々の間に独断的で不注意な遅 れが生じる。人々の世俗心とまひ状態がますますひどくなる。世俗的な欲 望、堕落した思いが心を占領する。悪いしもべは、酔っぱらいといっしょ に飲み食いし、世の人々といっしょになって快楽を求める。彼は仲間のし もべたちを打ちたたいて、主人に忠実な者たちを責め、非難する。彼は世 俗の人たちにまじる。彼は世俗の人々と同じように罪を犯す。それは恐る べき同化作用である。世俗の人たちといっしょに彼はわなに捕えられる。 『その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳 罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう』(マタイ 24:50,51)。 」 ―各時代の希望下巻 p.103,104

神の教会の働き 3. 主はご自分の教会に神聖などのような使命を委ねられましたか。この お方に従う者たちが働かなければならない畑はどれほど広いですか(マル コ 16:15; マタイ 13:38; ルカ 19:13) 。

72


「キリストの教会は、人類の救いのために神がお定めになった機関であ って、世界に福音を伝えることがその使命であります。そして、その義務 は、クリスチャンひとりびとりの肩に負わせられていて、だれでもその力、 機会に応じて、救い主のご命令を全うしなければなりません。私どもには キリストの愛があらわされたのでありますから、キリストを知らないすべ ての人々にそれを知らせる義務があります。神は、私どものためばかりで なく、他の人をも照すため光を与えたもうたのであります。 もし、キリストに従う者がみな、自分の義務にめざめるならば、今日た だ一人いるところに数千の者がいて、異邦の地に福音を宣べ伝えているこ とでしょう。また、直接、個人的にみわざに従事できない人は、資金によ ってまたは同情や祈りによって、それをささえることができます。キリス ト教国にあっても、もっと熱心な努力があってよいはずであります。」―キ リストへの道 p.102,103 4. 主のぶどう畑での働き人の必要はどれほど大きいでしょうか。助け手 を求める呼びかけは何時まで続きますか(マタイ 20:1,2,6) 。

「主イエスは働きをそれがなされた精神によって評価される。このお方 は、遅い時間になっても、このお方のもとにへりくだった信仰を持って来、 このお方の戒めに従順な悔い改めた罪人をお受け入れになる。」―セレクテッド・ メッセージ 2 巻 p.182 「真の繁栄は、さらに多くの賃金を絶えず切望し、神が彼に与えられた 働きから自らを遠くにそらす誘惑に屈する魂には決して来ない。神の知恵 が統轄しない限り、どのような人も、どのような家族も、どのような商業 も施設も 決して繁栄することはない。 」― (手紙 2,1898 年;トラクト「わ たしたちの教会の指導者へ」p4)―セレクテッド・メッセージ 2 巻 p.183

神と歩む 5. イスラエルの民に対するエリヤの質問と彼らの応答は―彼らにとっ ても今日のわたしたちにとっても―どれほど意義深いですか(列王記 18 上:21) 。

73


「力の人エリヤは、巨大な悪を倒すために、神から用いられた器であっ た。アハブや異教徒イゼベルの支持によって国民を悪の道に誘っていた偶 像礼拝は打倒され、バアルの預言者たちは殺された。イスラエルの全国民 は深く感動させられ、多くの者が神の礼拝にかえりつつあった。…… これはすべての人が学ばなくてはならない教訓である。神が人を訓練な さる目的がどこにあるかはだれにもわからない。しかし、小さなことに忠 実であることは、より大きな責任をになうのにふさわしい証拠であるとい うことはだれにもわかる。人生の行為の一つ一つは、品性の現われである。 小さな事がらに、 『恥じるところのない錬達した働き人』(テモテ第二 2:15) であることを自ら示す者だけが、神よりいっそう大きな信任を受ける栄誉 が与えられるのである。…… 正しいことから一歩でも離れることの危険について、―それは過失を犯 す本人自身にも、その影響を受けるすべての人にも危険であるということ について、聖書の中にこれほどはっきりした光を与えられている真理はな い。手本というものはふしぎな力をもっていて、これがわれわれの性格の 悪い面に影響を及ぼすとき、それはほとんど抵抗し難いものとなる。」―教 育 p.58,168 6. ヨシュアと彼の家族はどなたに仕えることを選びましたか(ヨシュア 24:14,15) 。

個人的な質問:あなたはどの働きのために心から奉仕を捧げますか。

「神はわたしたちに選択権をお与えになった。わたしたちのしなければ ならないのは、これを働かせることである。人間は自分の心を変え、自分 の思想、衝動、愛情を支配することはできない。自分を純潔にし、神のみ 業に適するものとすることもできない。しかし、わたしたちは神に仕える ことを選び、自分の意志を神にささげることはできる。そのとき、神はわ たしたちの中に働き、神がお喜びになるようにしたいという志を立てさせ これを行わせられる。こうしてわたしたちの性質が、いっさいキリストの 74


支配下におかれるようになる。 意志を正しく働かすことにより人生を一変することができる。自己の意 志をキリストに任せることによって、自らを神の力に結合させ、堅く立つ ために天より力を受ける。弱く動揺しやすい人間の意志を神の全能の力、 不動の意志と結合させる者は、すべて純潔で高尚な生活、すなわち、食欲、 情欲に勝利する生活を送ることができる。 」―ミニストリー・オブ・ヒーリング p.151 7. エノク―アダムから七代目―の働きから、どのような教訓を得ること ができますか。わたしたちの一日は、他の人々にどのように同じような経 験を与えますか(ユダ 14,15; ヘブル 11:5,6) 。

「300年間エノクは心の純潔を求め続けていたので、天国と調和する ようになった。300年間彼は神と共に歩んだ。日毎に、彼はより密接な 結びつきを切望した。神が彼をご自身のものとされるまで、この交わりは ますます親しくなっていった。彼は永遠の世界の門口に立っており、彼と 祝福された地との間は、一歩しか空いていなかった。そして今や門は開か れた。彼は長い間地上で神と共に歩んできたが、そのまま聖なる都の門を 通って行った。そして彼は生きたままそこに入った最初の人となった。 ・・・ このような交わりを持つようにと、神は私たちに呼びかけておられる。 エノクのように、主の御再臨の時に、生きて贖われる人々はその品性が聖 潔でなければならない。 」―マラナタ p.65 「わたしたちは悪の時代に生きている。終わりの時代の危難がわたした ちの周りで増えている。なぜなら不法が満ちており、多くの人々の愛が冷 えてきているからである。エノクは神と共に300年間歩んだ。今は義を 求める動機として、時の短かいことが力説されているように思える。わた したちに正しい行動を強いるために、神の日に対する恐怖をわたしたちの 前に置く必要があろうか。エノクの実例がわたしたちの前にある。何百年 間も彼は神と共に歩んだ。彼は堕落した時代に生きていた。道徳上の汚染 が彼の周囲を取り巻いていた。けれども彼は自分の心を献げ、純潔を愛す るように訓練した。彼の会話は天のことがらについてであった。」―教会へ の証 2 巻 p.121,122 75


結論 「誠実な心からなされる奉仕には、大きな報いがある。 『隠れた事を見て おられるあなたの父は、報いてくださるであろう』 (マタイ 6:4)。キリスト の恵みによって生きる生活を通して、品性が形成される。魂には本来の美 しさが回復しはじめる。キリストの品性の特質がわけ与えられ、神のみか たちが光を放ち始める。神と共に歩み、働く男女の顔には、天の平安があ らわれる。彼らは天のふんいきでかこまれる。このような魂には、神のみ 国がはじまったのである。彼らには、キリストの喜び、すなわち人類の祝 福となっているという喜びがある。彼らには、主のご用に受け入れられる という光栄がある。彼らは、主のみ名によって、主の働きをするように信 任されている。 」―アドベンチスト・ホーム p.617,618

76


ノルウェーからの伝道報告 2012 年 3 月 31 日にお読みください。 特別安息日学校献金は 2012 年 4 月 7 日に集められます。

「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全 世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」 (マ タイ 24:14) ノルウェーの地形は、山脈およびむき出しの高原(den Fjells)に特徴づ けられています。26 の山脈は高さ 2,300mに達します。国の大陸において 最も高い山(Galdhøpiggen)は、2,469m です。それはヨーツンヘイム山脈 に属します。大西洋岸はほぼ 25,000km(80,000km の島の海岸も含まれる) で、海の水を内陸に運ぶ無数の狭く深い湾によって形成されています。こ れらの峡湾および湾なしでは、太平洋湾はたったの 2,650km です。ノルウ ェーの境界は長さ 1,619km で、そのうちの 727km はフィンランドと、196km はロシアから隔てられています。この国は約 150,000 の島を所有していま す。最もよく知られている群島はロフォーテンとベステローデン諸島です。 国の内部には、豊富な魚がいる滝および川があります。365km²の表面積を 持ったミョーサ湖は内陸で最大の湖です。国で最長の川は、601km のグロ ンマです。フレドリクスターの都市では、それはオルソフィヨルドに流れ 込みます。統計によると、最も密度の高い島は、ノルウェーの北に位置す るヒン島(2204km²) です。 77


住民の 75%は大きな都市に住んでおり、25%が農村地域に住んでいます。 人口密度は、比較的人口密度の高い南部、西部海岸と北の間の著しい差を 示しています。北と南の間の差に加えて、人口密度の高い海岸水域と無人 の山地の内部と人口密度の高い谷の間にはより明白な差があります。オス ロ都市(550,000 人の住民)以外に、ノルウェーには 100,000 人を超える他 の 3 つの都市があります。それらはベルゲン、トロンヘイムおよびスタヴ ァンガーです。ノルウェーで 5 番目の大都市は 72,000 人の住民のいるフレ ドリクスターです。20 世紀の始めから、 国の人口は 2 倍になりました (1900 年は 2.21 億、2009 年には 4.83 億) 。現在では、住民の数は、1 年(2009 年に)当たり 62,000 人の割合で増加しています。この増加は、国がヨーロ ッパで出生率が最も高い国の一つであるという事実だけでなく、外国人労 働者とそれらの家族の移住、およびそこに住むために来る多くの裕福な外 国の引退した人々にもあります。人口の 89.4%は、ノルウェー人(少なくて も片方の親はノルウェーで生まれた)です。そのほかに、少数民族がありま す:約 40,000 人のサーメン人および 10,000 人のフィンランド人(Kvenen)。 2009 年 1 月 1 日には、ノルウェーには 508,199 人の移民がいました。移 住者の出身地は以下です:ポーランド(44,482 人)(総人口の 0 および 9%); パキスタン(30,161 人)(0.6%);スウェーデン(28,730 人)(0.6%);イラク (24,505 人 ) (0.5%); ソ マ リ ア (23,633 人 )(0.5%); ド イ ツ (20,916 人)(0.4%);ベトナム(19,726 人)(0.4%);デンマーク(19,284 人)(0.4%);ボ スニアおよびヘルツェゴビナ(15,683 人)、0.3%;イラン(15,666 人)(0.3%); トルコ(15,436)(0.3%); 国教は福音ルター派です。国教会の最高権威は王です。1851 年以来、ノ ルウェーの住民にはみな、宗教の自由があります。約 10%は、規則的に礼 拝および他の活動に参加しています。それぞれの宗教による区分:ルター派 の国教の教会員 82.0%、3.7%は他のプロテスタント、1.6%はイスラム教徒、 1.1%のカトリック教徒、11 月 2008 年の記録によると 0.2%の仏教徒。2007 年には約 2000 人のユダヤ人がノルウェーで暮らしていました。ノルウェー 78


社会で普及している言語は次のとおりです:ブークモール語、ニーノシュク 語、中立の言語があります。 ノルウェー語は北ドイツ語によってある程度影響を受けた、北ゲルマン 言語です。北のすべてにノルウェー語に加えて、全国の少数派の言語、サ ミーチ語とフィンランド語が話されています。サミスト人の人口が優位を 占めている地域では、彼らの言語は 1992 年以来学校で必修となっています。 ノルウェー人学校でドイツ語またはフランス語を選択できますが、英語は 必修です。 すべての国には真理を求めている魂がいます。わたしたちの使命は、こ の国でもメッセージを伝えることです。イエスは「世の終りまで」ご自分 の僕と共におられると約束されました(マタイ 28:20) 。数年前、わたした ちはオスロで講演会を持ちました。第一歩を踏み出した今、わたしたちは 信仰によって主に信頼してこの働きを続けるべきです。現在わたしたちは 2 人の教会員と数人の求道者がいますが、さらに徹底的な宣教の働きする ためには、わたしたちは集会所を借りる必要があります。出版物を準備し て印刷しなければなりません。まず初めに、わたしたちはバイブルワーカ ーを雇うための資金を必要としています。 愛する兄弟姉妹方、真理にある友人方、ノルウェーでの生活水準はかな り高く、働きを発達させるために、わたしたちは十分な金銭的支援を必要 としています。わたしたちの救い主は言われました、「むしろ自分のため、 虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともな い天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからで ある」 (マタイ 6: 20,21) 。 わたしたちの献金と祈りによって、神の働きを支持しましょう。そうす ることによって、わたしたちは天に朽ちることのない宝を持つのです。主 がわたしたちを助け、ノルウェーで新しい尊い魂を祝福してくださいます ように。皆さんの献金が永遠の命への多くの実をもたらすということを忘 れないでください。 79


「間もない救い主の来臨のメッセージは、世界の全地域に与えられなけ ればならず、あらゆる部門において厳粛な威厳がそれを特徴づけるべきで ある。大きなぶどう畑で働きがなされなければならず、賢い農夫はすべて の部分が実を結ぶように働くのである。もし医事伝道の働きにおいて、真 理の生ける原則がその輝きを曇らすものによって汚されることなく清く保 たれるなら、主はその働きを統轄されるであろう。もし重い重荷を負う者 が真理の原則に真実で堅固に立つなら、主は彼らを支え守られる。」―教会 への証 6 巻,p.289 私達の救い主が全世界にいる、真理にある兄弟と友人を祝福してくださ いますように。 ―バルディミール・マリノブ 世界総会地域代表

80


全国各地の日没表 札

名 古 屋

鹿 児 島

1/7

16:15

16:31

16:43

16:55

17:02

17:15

17:25

17:29

17:53

14

16:23

16:38

16:49

17:02

17:09

17:21

17:31

17:35

17:58

21

16:31

16:46

16:56

17:09

17:15

17:28

17:38

17:42

18:03

28

16:40

16:54

17:03

17:16

17:22

17:35

17:45

17:48

18:09

2/4

16:50

17:01

17:11

17:23

17:29

17:42

17:52

17:54

18:14

11

16:59

17:09

17:18

17:30

17:36

17:49

17:58

18:00

18:19

18

17:08

17:17

17:25

17:37

17:43

17:56

18:05

18:06

18:24

25

17:17

17:25

17:32

17:43

17:50

18:02

18:11

18:12

18:28

3/3

17:26

17:32

17:38

17:50

17:56

18:08

18:17

18:17

18:32

10

17:35

17:39

17:44

17:56

18:02

18:14

18:22

18:22

18:36

17

17:43

17:46

17:50

18:02

18:07

18:20

18:28

18:27

18:39

24

17:52

17:52

17:56

18:07

18:13

18:25

18:33

18:32

18:43

31

18:00

17:59

18:02

18:13

18:18

18:30

18:38

18:37

18:46

月/日

IMS・セブンスデー・アドベンチスト教会改革運動 〒905-0005 沖縄県名護市為又 773-1 プロフィット為又 607 Tel: 0980-43-0616 携帯: 080-3906-2369 E mail : sda1888@live.jp ゆうちょ銀行:記号 10310.番号 37040581.

81


82

2012年第1期教課  
2012年第1期教課  

2012年第1期教課:「祝福」

Advertisement