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三天使の使命を 経験せよ

第 2 編 第3章 律法を守れる所へ 行きなさい


第3章 律法を守れる所へ行きなさい 「すると、前に天から聞えてきた声が、またわたしに語って言 った、『さあ行って、海と地との上に立っている御使の手に開か れている巻物を、受け取りなさい。」そこで、わたしはその御使 のもとに行って『その小さな巻物を下さい』と言った。すると、 彼は言った、『取って、それを食べてしまいなさい。あなたの腹 には苦いが、口には蜜のように甘い。』 わたしは御使の手からそ の小さな巻物を受け取って食べてしまった。すると、わたしの口 には蜜のように甘かったが、それを食べたら、腹が苦くなった。」 ―黙示録10:8-10 この章では再び第二天使の使命における個人的な信仰経験につ いて教訓を学んでいきたいと思う。上記黙示録10章のみ言葉は 第一天使の『永遠の福音』によって二度に渡る激しい失望を再臨 信徒たちが受けることを預言している。 哀れみ深い神はなぜ御自分の愛する民に二度も激しい失望をす るようにされたのであろうか、これは限りある人間の能力では理 解し難いことである。 しかし神は哀れみ深い方であり、価値のない金属を燃える炉の 中には入れられないということを我々は知っている。 1844年当時の再臨信徒の先駆者たちの失望がどのようなも のであったかということを知ることはわたしたちの特権であり、 今日生きている再臨信徒の助けとなる。 大いなる失望の教訓 1844年当時の再臨信徒の先駆者たちの経験はどのようなも

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のであったのだろう?ウィリアム・ミラーをはじめとした先駆者 たちはすでに平凡な市民ではなく信望と尊敬を受ける宗教指導 者としての立場にあった。しかし彼らが伝えたキリストの再臨が 指定された日に起きないのなら、それに伴う非難と嘲りを受けな ければならないということは簡単なことではなかった。しかし当 時の彼らにはそのような敵の嘲りや非難を恐れる気持ちはなか った。なぜならキリストが明らかにその日に来られるからであっ た。彼らの信仰と確信は絶対的であった。 ついに1844年10月22日を迎えた。その日ニューイング ランドとニューヨーク州一帯では雲ひとつない明るい朝であっ た。愛する主にお会いするには最高の天気であった。彼らはしば らくしたら栄光のうちに来られる主を迎えることを考えつつ、祈 りと讃美をもって望みの朝を迎えた。彼らはキリストの来られる 時間は知らなかったので、緊張は次第に高まっていった。 胸が高鳴り続ける中、正午を過ぎ、そして夕闇が大地に広がっ ていった時、ある人々の心にも暗闇の影が広がり始めた。 しかし主の再臨に対する彼らの確信には変わりなかった。昼の 時間とは違って夜の時間は緊張の中に過ぎ去り、ついに夜中の十 二時を知らせる鐘が鳴った。ああ!彼らの失望をどのように表現 することができるだろうか?全くの絶望であった。これほどの落 胆がどこにあるのだろうか? すでに深い闇夜の中、東の空には星だけがまたたき、 「主ご自身 が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、 天から下ってこられる」 (テサロニケ第一4:16)と言われたキリ ストの姿どころか何の前兆も見ることができなかった。 彼らは翌朝の昇ってくる太陽を見るのを恐れた。 「地が分かれて 自分を飲み込んでくれればよいのにと思った」というジョセフ・ ベイツの証のように、彼らは顔をあげて世の人に会う勇気もなか

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った。しかしこのような想いはジョセフ・ベイツ兄弟一人だけで あったのだろうか?否、真にキリストの再臨を待っていた再臨信 徒は皆同じ心であった。 ある人々は夜中になってもイエスが来られなかったので泣き出 し、翌朝まで泣き続けた。このように彼らの失望は非常に大きな ものであった。これが1844年当時第二天使の使命を伝えてい た者たちの失望の経験であった。 失望の経験は神のご計画であった 「わたしは、期待していた時に主にお目にかからなかった、信 仰のあつい人々の失望を見た。将来を見せず隠しておいて、神の 民を決断の地点に導くことは、神の計画であった。キリストの再 臨の明確な時を宣べ伝えずに、神が計画された働きを成し遂げる ことはできなかった。サタンは、審判と恩恵期間の終わりに関す る大事件を、はるか遠い将来のことのように多くの人々に考えさ せていた。人々に、今準備をすることを熱心に求めさせることが 必要であった。」―初代文集p.403 第二天使の使命を拒否した教会は再臨信仰を伝えた使命者たち を嘲りながら、「その日、その時は、だれも知らない」と主張し た。教会の主張は正しかった。誰もイエスの再臨の日時を知るこ とはできないのであった。しかしこれらの教会が再臨使命を伝え る使命者たちに反論することができなかったのは、2300の夕 と朝の預言の計算方法である。その根拠は確かであり、再臨信仰 の使命者たちと同様、教会もその過ちを見つけることができなか ったのである。 これは神のご計画であった。キリストの再臨の定められた時期 が伝えられなければ神のご計画が実現されなかったのであった。

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天の聖所の清めと準備 第一天使と第二天使の使命によって神の民がこれほどの激し い失望と試練を経験しなければならなかったのは、天の聖所を清 めるために必要とされた準備だからであった。第一天使が伝える 審判の時間は再臨ではなく天の聖所の清めのために神の民の行 為を調査し、最終的な救いの資格を審査する調査審判を示してい た。 イエスは復活し昇天なさった後、約1810年間天の聖所の最 初の部屋で奉仕された。しかし1844年10月22日、最初の 部屋の奉仕が終了し、実際的な大贖罪の日となって天の聖所の二 番目の部屋である至聖所に入られたのであった。イエスは御自分 の愛される民の救いが最終的に決定される厳粛な調査審判が行 われる大贖罪の日に至聖所に入られた。いまや御自分の民の救い のために最後の奉仕を行われるためにご自分の血をもって入ら れたのであった。 調査審判が開かれる天の法廷で、実に厳粛な中、記録の書が開 かれ、生命の書に記録された信徒の名が呼ばれ、最終的な救いの 資格が決定される信徒たちの運命がかかった審判が始まろうと していた。ダニエルは天の法廷の厳粛さをこのように描写した。 「わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老 いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は 混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であ り、その車輪は燃える火であった。彼の前から、ひと筋の火の流 れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、 審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。」 ダニエル7:9-10 天の至聖所の法廷で行われる大贖罪の日の審判は古代イスラエ

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ルの民が守った大贖罪の日の実体である。古代イスラエルの歴史 を見ると一年毎の大贖罪の日に全ての民は審判を受けなければ ならなかった。これは調査審判の象徴でありこの日に清められな い者はその民のうちから断たれた。 であるからユダヤ人たちはこの大贖罪の日を運命が決定される 厳粛な日として守ってきた。彼らは罪を犯すたびに羊を連れて聖 所に行き、羊の頭に手を置いて罪を告白し、羊は罪人に代わって 血を流したのであった。しかし彼らは再び罪が完全に消し去られ る資格があるかを調査されねばならなかった。 「これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、 七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の 仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうち に宿っている寄留者も、そうしなければならない。」―レビ記16: 29 「象徴的儀式においては、告白と悔い改めによって神の前に出 て、その罪が罪祭の血によって聖所に移された者だけが、贖罪の 日の儀式にあずかることができた。そのように、最終的な贖罪と 調査審判の大いなる日に、審査されるのは、神の民と称する人々 だけである。」―各時代の大争闘下巻p.211 「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたした ちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く 末は、どんなであろうか。」―ペテロ第一4:17 多くのプロテスタント教会は調査審判と言う言葉が聖書のどこ に書かれているかと言うが彼らは聖書に表されている確かな真 理を悟っていないのでそのように語るのである。聖書は明らかに 調査審判について語っている。マタイ22章を見ると、王が催し た婚宴の席に招待された人たちが礼服をつけているのか王が調 査する場面が書いてある。これは調査審判を預言したたとえであ

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る。王が催した婚宴の席に参加する人々はキリストを受け入れた 者すなわち信者たちのことを表しているのである。 「王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけ ていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあな たは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、 彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者 の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだ り、歯がみをしたりするであろう。』招かれる者は多いが、選ば れる者は少ない。」」―マタイ22:11-14 調査審判の真理は信じるだけで永遠の救いを得るという主張に 対して反論している。聖書ではキリストを受け入れたとしても、 もう一度救いを受ける資格があるかを調査され、調査審判で永遠 の命にふさわしいと判断されたものだけが最終的な救いに参加 するようになるということを明らかにしているのである。 何を調査されるのか? 「王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけ ていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあな たは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、 彼は黙っていた。」―マタイ22:11-12 礼服を着たのかそうでないのかが調査されるであろう。すなわ ち天で生きるのにふさわしい品性を所有したのかどうかを全て のクリスチャンたちは調査され。その後に最終的な救いにあずか るのである。 愛する信徒たちよ、私たちはどのような品性を所有しなければ ならないだろうか?調査審判においてどのような事が調査され るかを知ることはとても重要なことである。調査審判はあなたの

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望む永遠の命と非常に深い関係を持っているということを悟ら なければならない。 今日再臨信徒たちが調査審判についての明確な理解を持ってい ないようである。これは実に恐ろしくまた驚くべきことである。 今日のほとんどのプロテスタント教会がただ信じれば永遠の命 を得ると主張するがそれは聖所真理である調査審判について悟 っていないからである。そして悲しむべきことは、アドベンチス ト教会の中で乱れ飛んでいる様々な信仰による義に対する使命 の中には、調査審判の真理がほとんど無視されて教えられ、しか もそれらが第三天使の使命(信仰による義)であるかのように公 然と伝えられていると言う事実である。 「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至 らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとお りである」 (ローマ1:17)というみ言葉が誤解されている。これ は調査審判に対する理解が暗くなることによって作られるサタ ンの欺瞞である。真の信仰が何であるかは調査審判の真理を理解 する時にだけ可能なことなのである。 私たちに救いをもたらす福音はどのようなものであるのかとい うことは、調査審判を知ることによって明確にすることができる。 「すべての人の行為は、神の前で調査され、忠実であったか不 忠実であったかが記録されている。天の書物の中の各自の名の向 かい側には、恐るべき正確さで、すべての悪い言葉、利己的な行 為、義務の怠慢、隠れた罪、巧妙な偽善行為などが記入されてい る。天からの警告や譴責をなおざりにしたこと、時間を浪費し、 機会を活用しなかったこと、善きにつけ悪しきにつけ、及ぼした 感化とその広範囲にわたる結果などがみな、記録天使によって記 録されている。」―各時代の大争闘下巻p.213 「『神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪とも

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にさばかれるからである』(伝道の書 12:14)。救い主は次のよ うに言われた。「審判の日には、人はその語る無益な言葉に対し て、言い開きをしなければならないであろう。あなたは、自分の 言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとさ れるからである」(マタイ 12:36,37)。隠れた目的や動機もま ちがいなく記録される。 」―各時代の大争闘下巻p.213 「審判において、記録の書が開かれる時に、イエスを信じたす べての人の生涯が神の前で調べられる。われわれの助け主であら れるイエスは、この地上に最初に生存した人々から始めて、各時 代の人々のためにとりなし、現在生きている人々で終わられる。 すべての名があげられ、すべての人の事情が詳しく調査される。 受け入れられる名もあれば、拒まれる名もある。もしだれかが、 罪を悔い改めず、許されないまま、記録の書に残しておくならば、 彼らの名は、いのちの書から消されて、彼らの善行の記録も神の 覚えの書から消される。」―各時代の大争闘下巻p.215 このように調査審判の真理は聖書が教えてくれる真理である。 「しかし義人がもしその義を離れて悪を行い���悪人のなすもろ もろの憎むべき事を行うならば、生きるであろうか。彼が行った もろもろの正しい事は覚えられない。彼はその犯したとがと、そ の犯した罪とのために死ぬ。」―エゼキエル18:24 「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開 くであろう。」―ヨハネ16:8 聖霊は今日の私たちにも調査審判について教えてくださってい るのである。 ある名は受け入れられ、ある名は拒否される 主の名を信じる人々がみな救いを得るのではなく、調査審判の

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結果によって救いが確定されるという事実を記憶しよう。調査審 判によってわたしたちの言葉と考え、行動、動機と目的、善悪の 間に及ぼした感化などの表れた罪はもちろん隠れた動機までも が審判されるようになる。神の律法は調査審判の基準となるので ある。 「神の律法が、審判の時に人々の品性と生活を吟味する基準で ある。」―各時代の大争闘下巻p.214 「律法は彼の思想と動機と目的を探る。人目に触れずにひそん でいる嫉妬しっと、憎しみ、情欲、野心などの隠れた邪念、また、 魂の奥深くで思いめぐらされたが、機会がなかったために実行さ れなかった邪悪な行為など、これらすべてを、神の律法は有罪と 宣告するのである。」―患難から栄光へ下巻p.111 愛する再臨信徒たちよ!私たちはどのように調査審判を通過す ることができるだろうか? 明らかなことはキリストが心に宿られていない者たちは調査審 判を通過できず、その名が命の書から消されるということである。 わたしたちの心にキリストがおられることを自覚できなのなら ば私たちは捨てられるであろう。 「自分の心にキリストがおられるかどうかをどのように知るこ とができるのであろうかと話すことがある。あなたが非難をされ、 なにかを矯正されることがあるとする。そしてあなたの考え通り にならないこともある。そのような時、柔和、親切、忍耐をもっ て矯正を受け入れず、怒りに身を任せるのなら、あなたの心のう ちにキリストはおられないのである。」―レビュー・アンド・ヘ ラルド1887年7月12日 だれでもキリストの霊をもたない者はその名が命の書から消さ れるであろう。 「キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストの

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ものではない。」 (ローマ8:9) 「あなたはこのような恵みを所有することのできないような位 置にいるのであろうか?だれかがあなたの気分を害した時、また はあなたの心に痛みを与えた時、あなたの心の中で恨みや反逆の 精神が生まれるのなら、そしてもしこれがあなたの精神であるな らばあなたにはキリストの霊がないということを知りなさい。そ れはほかの霊である。」―レビュー・アンド・ヘラルド1886年12 月21日。 サタンの性質を捨てずに持っている者はその名が命の書から消 されるであろう。 「私たちは苛立った言葉を語ったり、当然受けるべきもてなし を受けていないなどと考えたりしてはならない。私たちがせっか ちな性格を許すようになると神の霊をわたしたちの心から追い 出し、サタンの性質がその場を占めるようになる。私たちが利己 心、悪い考えや悪い言葉のための言い訳を考える時、私たちは魂 を悪に教育しているのである。」―セレクテッド・メッセージ2 巻p.236 クリスチャンは自分の家庭において勝利できないなら、戒めを 犯すものと判断され、その名は生命の書から消されるのである。 「『私は戒めを守っている』とあなたは言うかも知らない。本当 にそうであろうか?あなたは家庭で神の戒めと原則を行ってい るだろうか?あなたは家族に対して冷たい性質や不親切、または 柔和でないことをあなたの家族に表していないであろうか?あ なたがあなたの家庭で不親切さを表すなら、あなたの働きがどん なに素晴らしくても、あなたは神の戒めを犯しているのである。 他人に律法の説教をいくら話したとしても、キリストの愛があな たの家庭に表されることで失敗するならばあなたは律法を犯し た者である。」―レビュー・アンド・ヘラルド1892年3月29日

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心を神に完全に屈服させていない者たちは、その名が生命の書 から消されるのである。 「神は分裂した心には住まわれない。分裂した座の上には座ら れないのである」―彼を知るためにp.63 「ただ部分的にだけ真理を受け入れた心は、サタンが働く機会 を与える。その魂の宮は神に完全に屈伏する時までは、敵の強固 な城なのである。」―レビュー・アンド・ヘラルド1899年12月28 日。 キリストを拒む者の名は生命の書から消えるであろう。 「しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわ たしの父の前で拒むであろう。 」―マタイ10:33 「私たちは言葉を通して真理をぼやかし、真理と反対のことを 言うことによってキリストを拒むことがある。他人をそしり、愚 かな冗談やふざけた事を言うこと、また無益で不親切な言葉を語 ることがある。このように人は言葉によって自分の中にキリスト が臨在されていないことを表すことがある。人間は品性を通して 神を拒否する。それは自分を愛すること、人生の重荷や義務から 逃げ、歓楽を愛することによって、また、衣服に対する誇りや世 と一致すること、礼儀から逸れた行動によってである。また人は 自分の意見を尊重すること、また自我を維持させ正当化させよう と努力することによってキリストを拒むこともある。また自分の 心を恋愛病的な感傷主義に傾かせたり、試練と悩みを予想して苦 しんだりすることによってキリストを拒むこともある。」―1T T,p.339 いくら信仰を主張しても、信仰による義の外衣で罪を隠そうと する者は生命の書からその名が消されるであろう。 「キリストの義は、告白されてもいなければ捨てられてもいな い罪をおおう外衣ではない。それは品性を一変し、行為を規制す

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る生活原則である。聖潔とは神のために完全になることである。 それは内住する天の原則に対して心と生活をまったく屈服させ ることである。」―各時代の希望中巻p.377 標準を低くするものたちは生命の書からその名が消されるであ ろう。 「キリストを信じると告白することは、主のために働く者とし て、最善を尽くして、向上することを誓約することである。そし て、わたしたちの力の限り最大の善をするために、すべての能力 を、最高の完全状態に発達させなければならない。… 神は、高い目標を目指すことを決心した者だけを、お受けいれ になる。神は、すべての人間が、最善を尽くすように義務づけら れた。道徳的完全が、すべての者に要求されている。悪を行う傾 向に対しては、先天的であろうが、後天的のものであろうが、そ のような傾向と妥協するために、義の標準を下げてはならないの である。品性が不完全であることは、罪であることを知らなけれ ばならない。 」―キリストの実物教訓p.304 このように完全な新生と生涯の変化を与えない福音と信仰は天 の調査審判において拒否されるという事実を再臨信徒たちは悟 らなければならない。 罪の許しと除去 「審判において、記録の書が開かれる時に、イエスを信じたす べての人の生涯が神の前で調べられる。われわれの助け主であら れるイエスは、この地上に最初に生存した人々から始めて、各時 代の人々のためにとりなし、現在生きている人々で終わられる。 すべての名があげられ、すべての人の事情が詳しく調査される。」 ―各時代の大争闘下巻p.215

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「真に罪を悔い改め、キリストの血が自分たちの贖いの犠牲で あることを信じたものは、みな、天の書物の彼らの名のところに、 罪の許しが書き込まれる。彼らは、キリストの義にあずかる者と なり、彼らの品性は、神の律法にかなったものとなったので、彼 らの罪は、ぬぐい去られ、彼ら自身は、永遠の生命にあずかるに ふさわしいものとされるのである。」―各時代の大争闘下巻 p.215,216 罪の許しに対する真の概念が理解されなければならない。アダ ム以後、生命の書に記録された全ての人々が罪を悔い改め、信仰 によってキリストの血を贖罪の捧げ物として捧げたとしても、そ の罪の記録は記録の書に残っている。ただ彼らの名の下に「許さ れた」と記録されているのである。これは象徴的犠牲制度におい て罪人が小羊を殺した時に羊の血が大祭司によって聖所の幕に かけられたことを示している。罪人の罪が除去されたのでなくそ の罪は幕に移されたのである。そしてその罪は聖所が清められる 大贖罪の日まで幕に残っているのである。これが罪の許しにたい する聖書的な正確な概念である。 それでは罪の除去はいつから始まり、どのような人々に罪が消 し去られるのかを知らなければならない。象徴的聖所の制度で知 ることができるように大贖罪の日(調査審判)にイスラエルの民 は聖所の清めと共に彼ら自身を悩ませつつ自らを清めなければ ならなかった。このように民が清められる時、大祭司は聖所の清 め、すなわち罪の記録(幕)を取り除いて(除去)聖所を清める ことができたのである。しかしその日、自らを苦しめ清くならな かった者はイスラエルの民のうちから断たれた。このような象徴 的大贖罪の日の実体が1844年から始まったのである。 「審判が指定されていた時、すなわち、2300日の終わる1 844年に、調査と罪の除去の働きが始まった。これまでにキリ

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ストの名をとなえたことのある者はすべて、この厳密な審査を受 けなければならない。生きている者も死んだ者もともに『そのし わざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって』裁かれ る。」―各時代の大争闘下巻p.219 罪の除去はどのような人になされるのか? 「真に罪を悔い改め、キリストの血が自分たちの贖いの犠牲で あることを信じたものは、みな、天の書物の彼らの名のところに、 罪の許しが書き込まれる。彼らは、キリストの義にあずかる者と なり、彼らの品性は、神の律法にかなったものとなったので、彼 らの罪は、ぬぐい去られ、彼ら自身は、永遠の生命にあずかるに ふさわしいものとされるのである。」―各時代の大争闘下巻 p.215,216 心からの罪に対する告白と悔い改めがなされた後、 「キリストの 義にあずかる者となり、彼らの品性は神の律法にかなったものと な」るのである。その時罪は消し去られるのである。 再臨信徒たちよ!私たちはキリストの義にあずかる者となった であろうか?私たちの精神と生涯は愛の律法と調和しているで あろうか?もしそうでないならばわたしたちの罪は消し去られ ないまま残っており、生命の書からわたしたちの名が消される危 険にさらされるのである。 第一天使の使命によって真の悔い改めが経験されねばならず、 第二天使の経験を通して罪と罪人から分離しないならば、私たち は調査審判を無事通過することができないということを忘れな いようにしよう。 神は2300の夕と朝が終わる1844年まで、天の聖所の清 めのためにこの地にあるご自分の民が二度にわたって厳しい失

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望と試練を受けることを許されたのである。 「将来を見せず隠しておいて、神の民を決断の地点に導くこと は、神の計画であった。キリストの再臨の明確な時を宣べ伝えず に、神が計画された働きを成し遂げることはできなかった。」― 初代文集p.403 「神は、これらのメッセージによって、神の大いなる力を彼ら のために働かせることができるところへと彼らを導き、神のすべ ての戒めを彼らに守らせようとされたのである。」初代文集 p.408,409 1844年当時の再臨信徒たちは二回の失望を通して調査審判 を通るのにふさわしい民となり、神の全ての律法を守ることので きる位置にのぼることができた。 21世紀に生きている今日の再臨教会はどうであるろうか?調 査審判を通過するのにふさわしい民となっているであろうか? 神の全ての戒めを守る民であると言うことができるであろう か? 「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国には いるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、 はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主 よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありま せんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名 によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うで あろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あ なたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」 マタイ7:21-23 第一天使と第二天使の経験がないならば神の戒めを守ることの できる位置に上ったとはいえない。 第一天使と第二天使の経験のない安息日順守は決して永遠の安

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息を得る事ができないであろう。 このような経験がないならば生きている者たちの調査審判の順 番になった時、彼らは「わたしは彼らにはっきり、こう言おう、 『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしま え。』」と言う宣告を受けてしまうであろう。 第二天使は今も中空を飛んでいる。再臨信徒たちよ、第二天使 の使命を経験しようではないか?「見よ、今は恵みの時、見よ、 今は救の日である。」

第三編へ続く。

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三天使の使命を経験せよ2編3章