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戦国哀歌 川中島の戦い

甲越信戦録  付 武田勝頼自刃 ︵理慶尼真跡︶

現代語訳・解説付

岡澤由往 訳


遠光 加賀美二郎。信州に住す。

       秋山・小笠原・南部・伴野・阿部・高畠・増田・中川・上野・津毛・一宮・山中の祖。    忠頼 一条二郎甘利・東条・上条の祖。    兼信 板垣二郎    信光 石沢五郎、右大将家より甲州石水の庄を賜る。法名光蓮    信政 武田小太郎伊豆守、弓矢の達人でその名が高い。    信時 武田伊豆守、治部少輔。    時綱 武田伊豆守、弾正少輔。    貞時 武田弥五郎。麻績・吉田・小松・岩崎の祖。    信宗 武田伊豆守。安芸の国守護、直なる人なるにより、賢人と称す。

   信武 武田甲斐守、兵庫頭。九州の探題、後に号八幡寺。延文三 (一三五八)年出家す。    信成 刑部太輔、号雪窓院。    信春 武田陸奥守、大膳大夫。    信光 武田安芸守。号長松寺。応永二十四年 (一四一七)三月六日卒す。

   信繁 武田刑部太輔。至徳二 (一三八五)年十一月二十四日卒す。号成就院。

   信守 武田大膳太夫。永正二 (一五〇五)年九月十一日五十九歳にて卒す。号永昌寺。    信綱 武田刑部。永正四 (一五〇七)年二月十四日卒す。号長興院。    信虎 武田左京太夫。天正二 (一五七四)年八十二歳にて卒す。

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国を奪い、地を掠め取ろうとする欲より争うことである。これは、信玄公より秀吉公の戦い何れもこれに

あたる。悪を積むとは、主人を害し、親・兄・伯父を殺して、その地を奪うをいう。内乱とは、一門縁者

の合戦である。これは新田義貞と足利尊氏などの争いである。飢えに因るとは、凶年打ち続き、五穀飢饉 によって、国守の無慈悲を恨み、民が一揆徒党を企てることである。

 この度の川中島合戦は、名を争うところにある。天文十六 (一五四七)年よりはじまり、永禄七年 (一五六四) に和睦となった。その間十八年間戦がおこなわれた。時に百六代後奈良院の御代である。天文のころより、

天正の初めまで武威を海内に振るい、誉を高天にあげた武田家の系図をしめすと、  人皇五十六代清和天皇六代之王孫鎮守府将軍伊予守源頼義三男    義光 幼名新羅三郎  従五位下刑部大輔、江州大沢に住す。        大治二 (一一二七)年七月二十日、七十三歳にて死去。

   義業 従五位下判官左衛門尉。佐竹・山本・錦織・柏木・平賀・大内の祖。

   義清 武田冠者刑部三郎、久安二年 (一一四六)七月二十三日、七十歳で逝去。    清光 逸見冠者、永治元 (一一四一)年六月十九日卒す。    師光 方原二郎参河国を領す。    光長 逸見冠者上総助。

   信義 武田太郎。頼朝公の時一大名、当時の知行割にして五十万石にあたる。        駿河国を賜る。文治二年 (一一八六)三月九日五十九歳にて卒す。

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てんきゆう

おんべがわ

ている。その書は虚説だけで信ずるに足りない。例えば、 この書の中に「御幣川の 河中で、 謙信が飛びかかっ

  て、武田典厩信繁 を切り割ぐる」という。この剣を越後で典厩別と名づけている。これこそ偽りの証拠で

ある。御幣川という大河は、 川中島の何方にあろうか。御幣川というのは、 所の地名である。川東に六川 (上

高井郡小布施町六川)という所があるが、川六筋流れている所でもない。たんなる地名にすぎない。これだけ

でも、 『川中島五戦記』の虚説ということが理解できよう。

    二 武田家由緒のこと

 孔子がいうことには、

「疏食を飯い、水を飲み、肱を曲げてこれを枕とする。楽しみ、また、 この中にある。不義にして富み、 かつ、   貴いことは、我においては浮ぶ雲のようなものだ」 かす

もつぱ

と、昔はこのように互いに不義を戒め、人の道を守ったのに、後世の兵乱に至っては、親を討ち、兄を害し、

伯父を殺し、国を奪い、地を掠め取ることを専らとして、大欲不道のみである。七書 (中国の七部の兵書。孫

子 呉 のなかで呉子がいうことは、「凡そ兵乱の起こるところは五つ ・子 司 ・ 馬法 尉 ・ 繚子 三 ・略 六 ・韜 季 ・ 衛公問対の総称)

ある。一に名を争う。二に利を争う。三に悪を積む。四に内乱。五に飢えに因る」とある。名を争うとは、

互いに国守、将軍になろうと両方尊卑の名を争うことである。源平の戦いなどこれである。利を争うとは、

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まれ

ません。そのために謙信の賢さを知る人は希です。拙僧若かかったとき、川中島の儀は承って、勧善懲悪

の教えともなろうかと一つの書にいたして置きましたが、ただ今上杉家より差し上げられた趣旨と相違ご ざいません」

と申し上げた。将軍家御悦喜限りなく、ただ今までのお疑いも晴れて、この書を実録とご自筆にてお文庫 に納められた。

子、母は会津の住、芦名陸奥守盛高の娘である。永正七  この南光坊僧正は、足利十一代将軍義澄公のこ末 うきよ おくりな

(一五一〇)年の出生。翌年八月十四日義澄公が薨去につき、母とともに奥州会津に下り、母方の氏、平氏と

称した。寛永十九 (一六四二)年十月二日、百三十四歳で遷化。謚は慈眼大師。東叡山寛永寺の開基である。

 拙書の『甲越信戦録』は、上杉家の『甲越信戦録』を柱とし、世間で広く読まれている左記の本などを 参考にして書き上げたものである。

  武田三代記・信玄全書・甲陽軍鑑・甲州軍誌・武田評記・越国志・北越軍記・本朝三国志・北国大平記・   七国志・陰徳大平記・本朝武将伝  右の十二通は版木本として出版され、人びとに広く読まれている。

  川中島評判記三巻・諸家見聞記二十巻・武将感状録十五巻・村越翁夜話十巻・佐久間草庵記二十巻・   信武戦誌三十巻

 右の写本は世に希である。 合わせて十八書と、伝承をもとに執筆し、 『甲越信戦録』と題した八巻の書である。

 世間に『五戦記』と号し、五巻にした書がある。この書は上杉伝記でもない。また武田の書にも相違し

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と申し上げた。これを家光公は、ご不満に思いになられ、戦国を代表する名将同士が直戦したことゆえ、

上杉家に川中島合戦の実録を提出するよう申しつけた。そこで、上杉家は細記を改め清書して、 『甲越信

戦録』 五巻として、 家光公に差し上げた。家光公はご覧になられ、 ご満足なされた。この書は、『武田三代記』「甲

陽軍鑑』 『信玄全集』の記述とずいぶん異なっていた。そこでまた、大久保彦左衛門を召され、これをお見 せになられた。彦左衛門は、

「この儀は、先だってお抱えになった旧武田の家臣らにお見せされたら、虚実が分かるでしょう」   と申し上げた。そこで旗本に抱えた米倉主計・横田備中・曲渕庄左衛門・初鹿野伝左衛門・跡部左京・甲 斐庄主水・小幡又十郎・室賀兵庫などを召され、見せたところ、

つまび  

「この書は皆偽りで、実録ではございません」   と申し上げた。家光公は非常に困惑され、再度彦左衛門を召され、しかじかと申されたときに、彦左衛門が、

「漢書に対読の者は迷い、傍らより見る者は、これを審らかにする。これをもって天下大小の政事偏見の   ご政道では、必ず一方に誤りがあるものです。よくよく賢慮されるがよろしいかと存じます」

と申し上げている折、 南光坊僧正が御前に参られた。南光坊も長寿で眉毛は真っ白で、 八の字に垂れさがり、

腰は弓のように曲がっている。御殿の中でも杖は許されている。家光公と彦左衛門との川中島合戦のご詮

議を立ち聞きしておられた。上杉より差し上げた『甲越信戦録』をつくづくご覧になられて、

「川中島の戦いは、武田衆の申し上げるところははなはだ事実と違っています。これまで甲州の書いたも   のをみますに、高坂弾正・小幡勘兵衛など信玄の悪事を包み、武田の非分を覆い隠すことのみで、文を飾り、

虚談多すぎます。長尾謙信は、廉直の人で、少しでも事実と違う記述を嫌い、自分のことは書き残してい

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一 発 端

「十八公の栄は霜後に一千年の色は雪中に深い」とは、もっともなことである。(十八公の文字を合成すると松  

の異体字 枩 「 に 」 なる。十八公は徳川松平十八家を暗示。松の美しい緑は、長い年月霜雪に耐え抜いたことによりつくられる。そ

れと同じく、徳川家の繁栄は、強国に囲まれながらも、耐え忍び関ヶ原の戦い、大坂の陣に勝利し、天下を統一して、徳川幕府を 開いて繁栄していることの比喩的表現) 。

 徳川家康公は、天文十一 (一五四二)年十二月二十六日のお誕生である。御幼稚より学問、馬術、武芸に 励まれた。出陣されること四十六度、慶元両度の合戦 (慶長十九年の大坂冬の陣 元 ・ 和元年の同夏の陣のこと)にご いしずえ

勝利になられた。翌年の元和二 (一六一六)年四月十七日、七十五歳で逝去された。そして、徳川家の御代 長久の礎と家康公を日光東照宮に祭祀申し上げた。

 二代将軍秀忠公、三代将軍家光公は、御記録・御日記をご覧になられて、諸国の戦いはこと細かに記載 されているが、川中島合戦の記載のないのを不審に思われてお尋ねになられた。このとき、長寿の大久保 彦左衛門が、御前に伺候して、

「御日記は、神君ご出陣された合戦をのみを記載したもので、信州川中島合戦は、武田、長尾の戦いで、   ご当家に関係ないゆえ、記録・日記には記載しなかったこと」

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甲越信戦録巻之一 目 次

  一 発 端     二 武田家由緒のこと     三 山本勘助由緒のこと     四 山本勘助諸国修行のこと  

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甲越信戦録巻之一

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四 妻女山十頭来ること      五 丹波島引き口のこと 

247

    六 謙信引き取りのこと      八 川中島の戦終わる 

    七 直江、甘粕引き取りのこと 

242 241 238

250 248

武田勝頼自刃・武田家滅亡(理慶尼真跡)

……………………………… …

253

    九 村上義清殿のこと 

  付

理慶尼真跡解説  

− 12 −

    

    一 理慶尼 

    理慶尼真跡  

255

254

    二 武田勝頼自刃・武田家滅亡あらすじ 

254

258


甲越信戦録巻之六

…… ………………………………………………………………………………

    一 四度目上野原対陣のこと 

    二 謙信公上洛のこと      三 和睦内談のこと      四 和睦破れること 

    五 山本帯刀徳川家に仕えること 

…… ………………………………………………………………………………

    六 割ヵ嶽城攻め並びに謙信出馬のこと         一 海津評定のこと 

− 11 −

  甲越信戦録巻之七

    二 甲州方勢揃いのこと 

    三 信玄海津引き取りのこと      四 謙信軍配のこと 

    五 川中島の戦い始まること 

    六 典厩並びに両角討死のこと      七 山本勘助入道討死のこと    

…… ………………………………………………………………………………

    一 武田義信・山形昌景働きのこと 

  甲越信戦録巻之八

    二 小笠原若狭守死を遁れること      三 信玄・謙信直戦のこと 

229 231

163

191

183

165 207 214 222

216

197 234

227

181

171

174 173

193 210


三 宇佐美駿河守定行由緒      四 村上義清越後へ来ること      五 軍評定のこと      六 海野平対陣のこと      七 原美濃守由緒 

    八 越後方引き取りのこと 

103

  

…… ………………………………………………………………………………

    一 雨の宮合戦のこと 

− 10 −

  甲越信戦録巻之四

    二 小幡家由緒のこと      三 海津城築城のこと 

…… ………………………………………………………………………………

125

    一 原の町合戦、附り、保科・綿内・真田働きのこと 

  甲越信戦録巻之五

    二 謙信御難のこと 

    三 小島弥太郎のこと 

    四 三度目合戦のこと      五 夜合戦のこと    

137

  

    五 原の町合戦のこと 

    四 義清出馬三士成敗のこと 

122 114 105

130 156 149

135

83 84 100

90

88 97 140 160


目  次    はじめに   

    一 発 端 

     甲越信戦録巻之一

… …………………………………………………………………………………

    二 武田家由緒のこと 

    三 山本勘助由緒のこと 

    一 晴信公は曽我五郎再来のこと      二 長尾家のこと並びに系図 

−9−

13

37

    四 山本勘助諸国修行のこと    

…… ………………………………………………………………………………

    一 山本勘助甲州に来たること 

  甲越信戦録巻之二

    二 村上義清由緒並びに家系 

    三 板垣駿河守信方死をはべること 

  

    六 義清内室貞節のこと 

    五 葛尾落城・義清落足のこと 

    四 額岩寺駿河守光氏讒言にあうこと 

50 73

…… ………………………………………………………………………………

51

39 46

15

  甲越信戦録巻之三

68

61 77

71

29

18 24

5


『甲越信戦録』に内蔵されている著者の心根は、川中島の戦いの賛歌ではない。両雄や山本勘助など陣没  

した将兵たちへの、里人たちの哀歌である。したがって、現代語訳の拙書に、あえて「戦国哀歌 川中島 の戦い」の副題をつけた次第である。NHKの日曜大河ドラマ「風林火山」が、平成十九年に放映される。

画面を流れる映像の裏にある平和の尊さと、戦争の空しさ、人を思う心の大切さを現代の世相と重ね合わ

せて、ぜひ感じ取っていただければと願い、稚拙な現代語訳文を綴った次第である。

 また、原作者の意図を尊重し、意訳をせずにできるだけ原文そのものを現代語に訳し、原作にある引用 文章、故事成語などについては出典を明示し、人物については解説を註またはカッコで括り、読者の便宜

をはかった。さらに挿絵は『絵本甲越軍記』(文化八年〜文政十年発行・青木十郎氏蔵)掲載の挿絵の一部を使用 した。

(平成十八年八月吉日記)  

 なお、拙著『激闘! 川中島合戦をたどる─ 古戦場に刻された戦いの光と陰』(『古戦場ひとり旅─信玄軍配団扇の跡』 改訂版)を併読されることを請い願う次第である。

 

−8−


著者の執筆動機は、文化期の古戦場ブームが刺激になったと思うが、同時に戦乱に巻き込まれて犠牲に なった多くの里人たち、多くの兵士たちへの鎮魂の想いと、その家族らの悲哀が、美化された戦国両雄の 一騎討ちに埋没することに危惧の念を抱かせたのであろう。

 また、冒頭に徳川宗家、徳川松平家の繁栄や、徳川家康が東照宮に祭祀されたのは、家康の仁徳である と述べている。六巻の巻末には、武田信玄公武威に勝れていたが、仁の心 (思いやりの心)がなかったゆえに、

勝頼の代に武田家は滅亡してしまったと述べている。一方、上杉謙信は武威は劣っていたが、仁の心が厚

かったゆえ、今も繁栄していると述べ、人は人を思いやる仁の心が大切であると強調している。

 また、永禄元 (一五五八)年和談交渉のため、千曲川を挟んで武田信玄と上杉謙信が出陣した。その時、 川中島の里人はもちろん、両軍の将兵たちも戦争のない、平和な世を迎えることを悦びあった。しかし、

和談交渉は決裂した。両軍の将兵は、肩を落としてそれぞれ帰国した。和睦の式典を見ようと千曲川端に

群集した川中島の里人たちは、また合戦が始まれば、他国に逃げるか、山林に隠れるかと嘆き悲しみながら、 しょんぼりして帰っていったと綴っている (『巻六』和談破る之事) 。

 永禄七 (一五六四)年、将軍足利義輝の斡旋で和睦が成立した。信玄は和睦をためらった。この時、一門 並びに家老たちは、 「これまで川中島の両虎の戦い互角で候。士卒の疲労言語に絶し、その上、討死莫大で、

人民の嘆き苦しみ計り難く候」と諫め、和睦が成立し、十二年に及ぶ川中島の戦いが終末したところで、 『甲

越信戦録』は終わっている。この一門や家老たちの信玄を説得した言葉そのものが、この本の筆者の心情

そのものを吐露しているといえよう。こうした心情が、平和を願う川中島の一人に筆を執らせたのではな かろうか。

−7−


戦記 』 ・ 『絵本甲越軍記』などが版木本として刷られ、脚光を浴びた。明治になっても、これらの書物は、 原文や口語訳本として書店をかざった。

『甲越信戦録』は、ブームの波に取り残され、地方の愛好者の間に、写本から写本へと伝えられ  しかし、 ていたに過ぎなかった。しかしながら、永禄四 (一五六一)年九月十日の八幡原の激戦で、戦国を代表する武

田信玄と上杉謙信が一騎討ちをしたという銅像の構図、山本勘助討死の地・墓所や両角豊後守の墓所をは

じめとして、古戦場史跡の多くは『甲越信戦録』に依拠している。なぜであろうか……。

『甲越信戦録』の著者は不詳である。記述の内容からみて、川中島地方の地誌に詳しく、その上、わが国   の古典、漢籍の四書五経・史書、仏典に精通していた知識人と推測される。川中島地方でも、千曲川沿い おんべがわ

てんきゆう

の地域は殊に詳しく、太古川中島は海であった証に、長野市篠ノ井石川にある「舟繋ぎ石」を上げている。

  また、 『川中島五戦記』で「御幣川の 河中で、謙信が飛びかかって、武田典厩信繁 を切り割ぐる」部分につ

いては、 「御幣川という大河はない、ただ所の名である」と記して批判している。このように川中島の地名 み

もとどりやま

には、その所に住んでいる人しか知らない場所まで記している。しかし、一歩犀川を渡った長野市北部につ

いては、三登 山  (標高九二三メートル)と髻山 (標高七四四・五メートル)を同一視している。

『甲越信戦録』は、 この書の冒頭にあるように、 当時流布していた上杉の甲越信戦録(『川中島五戦記』)を柱に、   『甲陽軍鑑』 ・ 『武田三代記』 ・ 『北越誌』 ・ 『北越軍記』や、川中島の村人の伝承を基に著した軍記物語である。

著者が『川中島五戦記』を柱に記述したことによって、 上杉謙信に片寄ることは仕方がない。永禄四(一五六一)

年の八幡原の激戦については、前半の部分は上杉方の、後半の部分は武田方の立場の書籍などを参考にし て書いている。

−6−


はじめに  ︱ この本を書いたわけ ︱ 

    

「十八公の栄は霜後に一千年の色は雪中に深し」ではじまる川中島の合戦を記した『甲越信戦録』は、江   戸後期、文化七 (一八一〇)年以降に、川中島地方の者によって書かれた著者不明の書である。史書ではない。

『平家物語』や『太平記』と同じ戦記物語である。また、江戸時代以降、川中島の戦いについて広く読まれ

てきた武田方の立場で記した『甲陽軍鑑』や、 上杉方の立場で記した『川中島五戦記』(『川中島五ヶ度合戦次第』)

も史実性は薄いといわれる。この両書より『甲越信戦録』の史料的価値はいちだんと希薄である。

 一例をあげると、村上義清が武田軍に敗れ、越後の上杉景虎を頼って逃れたのは天文二十二 (一五五三)年 八月である。これについて、史料的信憑性が高い、 『妙法寺記』に、

「此年 (天文二十二年)信州村上殿八月塩田ノ要害ヲ引ノケ、行方不知ニ御ナリ候」   とある。 『甲陽軍鑑』も『川中島五戦記』もこの立場をとっている。これに対し、 『甲越信戦録』では、天

文十六 (一五四七)年八月、武田軍に上田原の戦いで敗れた村上義清は、越後の上杉景虎を頼って春日山へ と逃れたと記している。

 このように史実と異なる記述や、土くさい川中島の名もない者が綴ったゆえか、世の中から置き去りに なってしまったのであろう。江戸時代にも川中島合戦ブームがおこり、その都度『甲陽軍鑑』 ・ 『川中島五

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戦国哀歌 甲越信戦録 現代語訳  

川中島合戦の全貌を知る幻の古書! 川中島合戦の戦記物として有名な『甲陽軍鑑』をしのぐ名著。全巻を記述時の雰囲気を残した現代語訳に編集。詳細な合戦の全貌と、武将たちそれぞれの人生が克明に紹介される。<ダイジェスト版>

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