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ねずみ

おんべがわ   からねこ

集まった。 『鼠宿』というのは、ここから名づけられたらしい。

をたてた所を『御幣川』 、 唐猫明神を祭った所を『唐猫』という。また布施を集めた村々  御幣 ふ   せ あい を『布施 』 、会合した所を『会村』という。

いなり

やま

 その後、郡中にいなごがたくさん発生し農民が困ったので、いろいろ書物を調べたところ、 いなごは狐が好んで食うと書いてあったので、稲荷明神を祭るのがよかろうと南西の方に社   を建てた。そこを『稲荷山 』といった」 。

 このように千曲川沿岸地方の村々の地名起源伝説は、千曲川や、農作物を荒らすねずみや いなごなど災害に対する村人の生活を骨子として組み立てられており、犀川の影響を受けた 地方の地名伝説とは本質的に違うことを知ることができよう。

現存する地籍図の地名からもまた地名伝説からも川中島合戦が行われた「川  以上のように、 中島」地方は、今日の地形的景観とは非常に違っていたことを思い浮かべて川中島古戦場を

探訪してみると、川中島合戦について新たな発見もできるのではないだろうか。

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きねぶち

を起こして、川岸を荒く掘り削ってしまう。そこで  千曲川は名高い大河で、時々大洪じ水 やかご 人々が大勢集まって、土石を運び、蛇籠を伏せ、また杵を持って川岸を打ち固めた。その結 かごむら

果、千曲川の急流は渕となった。そのあたりを『荒堀』 『杵渕』といい、蛇籠を作った所を 『籠村』という。

 村人の努力によって、千曲川のほとりには小さな森もでき、川の横にも田が作られた。こ こを『小森』 『横田』と呼んだ。

 千曲の流れも定まったが、不思議なことが起こった。それは、千曲川を渡って、ねずみが たくさんこれらの村里へ押し寄せてきたのだ。 田畑も、 家の区別なく、 手当たり次第荒らし回っ

た。そこで村人は川辺に寺を建て、昼夜をいとわず、ねずみ退散の読経を懸命に行った。そ

のおかげで、東の方はねずみの害がなくなって村人は裕福になった。そこで東福の文字をもっ

て、この寺を『東福寺』といったが、その後、寺は朽ち果ててしまい、村の名だけが残った。

々では、まだねずみの被害が続いた。そこで、村々より布施を集め、寺を頼み、  西北の村 おんべ あるいは御幣を立てて一生懸命祈ったが、 すこしも効き目がなかった。そこで村人は会合して、

ねずみを退治するには猫に越したことはないと、唐猫を祀る小社を建てた。今までわがもの

顔にあばれ回っていたねずみも猫を恐れて、千曲川を渡って逃げ去り、はるか南の方の宿に

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このよ う に 犀 川に関 係 する地 名 伝 説 からは、 犀川のもたらした沃野を開発した人間の歴史が

感じとれる。これに対し、千曲川に関係する地

きんぽうさん

名伝説には、災害との戦いの暮らしがあった。

「はるか南のほう、南佐久郡金峰山の北より流   れでる川は、始めは杯を洗うほどの流れである

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が、流れ流れていく う ちに、いくつもの川が流

れこんで、 幾曲がりとなく流れゆくので『千曲川』

た、ここを『石川』という。

の勢いであったが、今は水が絶えて、人家となっ

の方から荒川が流れ出して、大石をころがす水

 昔川中島は、海続きで汐くみをしたのであろ うか、 『塩崎』という所もある。その塩崎より北

越後の国からは『信濃川』と呼ぶ。

という。犀川と一筋になって越後の国に入るので

現在の千曲川(岩野橋より下流を望む)


がの

  たように美しく見えるので、そのあたりを『氷鉋 』と名づけた。その後、池の水がなくなっ

  て野となったので『野池』といい、池として残った所を『池』といって、 『頤気 』と書いた。

ひろだ

野池の南に大きな沼があった。人々は、東の窪地へ溝を掘って水を流した跡が広い田となっ

たところから『広田』と名づけた。その水が流れていったあたりを『水沢』といい、その沢

が南へ長く流れて長沢というべきところをなまって『中沢』と名づけた。

み   まきがはら

 川中島がまだ湖であったころ、中央の小高い所を、天女が舞い降りて遊んだ所だといって、 おとめ と   め と   べ 『乙女』といったらしいが、後にはただ『斗女 』と略してしまった。今は、 『戸部 』と書き改 めている。

しまだ

ま め じ ま

御牧ケ原(東御市) に似かよっていたので、 南北に 『原』 という名もついた。そのほか、  西の方は、 たんば   じま ところどころ小島が多く、 人々も住みつくようになり村もできた。東方の『丹波島 』 『青木島』

    『真島』 『小島 田』 『 綱島』 『牧島』 『牛島』 『福島』 『大島』 『大豆島』などは川の中の小島にで

きた村々だ。

 犀川の水を上、中、下、小山の四堰に掘り割って、灌漑用水や飲料水として使った。堰の 深いことは谷のようだったところから、 犀川の水の取り入れ口あたりを『四ツ谷』といったが、 後に『四ツ屋』と改めた」

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犀川の影響を受けた地名 千曲川の影響を受けた地名

川中島平の地名

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こおり

 次に掲げた地図からは、同じ川中島地方でも、犀川、その支流によって形成された区域と、 千曲川沿いの地域との地名起源伝説の違いを読みとることができる。

「信濃国更級の郡川中島は、その昔は、水をたくさんたたえた湖であった。ところが北西   の山間より、犀という獣が出てきて、北東の隅の岩を突き破ってしまった。このため、今ま

で満々とたたえられていた水が、一度に越後の海へ流れていってしまった。水の流れていった

跡が一本の川となった。犀が通った跡にできた川なので、この川を『犀川』と名づけた。

いまさと

こ   まつばら

  湖の水はなくなったが、あたりはまだ一面の泥土だった。早く乾いた小高い場所にだん だんと人々が移り住み、田畑を開き、家も建った。この村を新しく今できた村というので 『今里』と呼んだ。  

はらだ

ほうだ

そこを『小松原』と名づけた。小松原  また西の山のふもと近くに小松が生え始めたのでお、 かだ の南の方に丘があり、田も作られた。この村が『岡田』である。岡田村に続いて、南の方へ

  南の方へと田が拓かれていき、 『背原 田』(瀬原田) 『保田』(方田)の村々ができた。

かんな

、南の方にところどころ井戸を掘り、水を落として、湿  今里は、まだ湿気が多かったので いまい 気を除いた場所がある。そこを『今井』という。

 また、東の方には、大きな池が残っており、冬の初めころから氷が一面に張り、鉋で削っ

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れていた江戸 初期ころまでは犀川の水 難を

避けながら、営々と大地を耕し集 落を作っ

てきたことを知ることができる。そして、苦

労して切り開いた耕地も、村 も、犀川の氾

濫によって一瞬のうちに奪い去られることも

しばしばあった。そして、また災 害の跡に

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耕地を開くという営みが繰り返し行われて きたのである。

 つまり、川中 島 合戦の行われたこの地方 の人々の暮らしは、犀川との闘いの生活史で

あったということができよう。民 間に伝 え

るのとは全く趣を異にする。

川沿岸の地名伝説が災害との闘いに起因す

を受けた地域の地名は開発史であり、千曲

残っている地名 起源 伝 説でも、犀川の影 響

中氷鉋・下氷鉋地名図


四〇年後のことである。

 したがって、武田、上杉がこの川中島で戦ったころは、承徳二年の大洪水の爪あとがまだ いたる所に残っており、豊かな耕地が見渡す限り続くという魅力ある穀倉地帯にはほど遠い

景観であっただろう。 しかし、 大将が大軍を采配して、 兵馬を駆けさせる適度な広さの地であっ たのである。

 前述のごとく川中島の合戦当時、大洪水の爪あとが残っていたことは、今日もこの地に残 る地籍名からも考えられる。

左記の地図は、長野市稲里町中氷鉋・下氷鉋の地名を記したものである。稲里町は犀川に   も千曲川にも接しない、ほぼ両川から一〜二キロメートルほど離れた所に位置し、両河川の

洪水の影響を全く感じさせない。しかし三一地名のうち、直接的、間接的に水に関係する地 ど

名は全体の八四パーセントに当たる二六地名である。すなわち両川から全く離れているこの

    地に残る、川の地形そのものを表わす「川原」 「沢」 「街渠 」 「島」 「堀」などの地名や、間接

的に河川を表わす、 水辺に生える「蒲」 「葦」 、 水鳥や水虫の「鴨」 「鳰」 「蛭」 、 地形の「窪」 「久 保」などの地名は何を意味しているものであろうか。

 これらの地名から推して、人々は犀川の運んだ土砂の堆積面に移り住み、治水の技術の遅

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の山ろく沿いに蛇行して流れており、犀川本流、支流が千曲川に合流するあたりが扇端部に

当たっていた。現長野市犀口付近を頂点とする半径約八キロメートルぐらいの扇形の中央部

あたりを中心として、永禄四年九月十日の血みどろの死闘が、早暁から昼ころまで半日行わ れたのである。

 犀川や千曲川の恩恵は、また人々にとって時には非常な災害をもたらす元凶でもあった。 すなわち、承徳二 (一〇九八)年八月の犀川の大洪水は、一瞬のうちに川中島地方を荒れ地と

化してしまったのである。この洪水は、この地方に犀川本流にも匹敵する中瀬を生じ、途中

から分流した四瀬川は遠く東南に流れて千曲川に注ぎ、そのために斗女、氷鉋、池の三郷は、

島状に残され、肥沃な耕地は川原や池と化したという。それは足利末期ころまで続き、その ため「川中島」の呼び名がついたと記録にもある。

 犀川の流路がほぼ現在のように定まり、川中島地方を流れていた犀川の大小の支流が今日 のような灌漑用水路の形に整備されるようになるには、慶長八 (一六〇三)年、松平忠輝が川

中島地方を領有し、海津城代として花井吉成が入府するまで待たなければならなかった。

 犀川・裾花川をはじめ川中島地方の灌漑用水路の改修は、海津城代としてこの地にやって 来た松平忠輝の家臣、花井吉成・吉雄父子の手によってなされたという。川中島合戦より約

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ひ   がの

、氷鉋 (長野市 小島田町を中心とした千曲川沿岸地帯)

、布施 (長 稲里町・川中島町等の氷鉋を中心とした地域)

野市篠ノ井布施高田・布施五明を中心とした地域)の四

郷がみられる。

 この川中島地方は、川中島乱流絵図にみられ るように、犀川本流やいくつかの支流の氾濫に

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よって堆 積された肥沃の地であり、本流、支流

沿いの洪水の恐れがない自然堤防上に斗女・氷

鉋・池・布施の集落が作られ、水害の危険は残っ

てはいたが、水利の便のよい後背湿地に水田を

開き、水と闘いながらも耕地を切り拓いていっ た。

戦当時の千曲川は今日の流路よりはるかに南東

 永禄四年の川中島の大激戦の舞台は、犀川の 作った扇状地の扇央部を中心に展開された。合

川中島平乱流絵図面


おおと

  年新守護小笠原長秀と大文字一揆党 (北信濃武士連合)が戦った大塔の 合戦がある。

 このように川中島地方がしばしば合戦の場となったのは、川中島地方が横田・雨宮の千曲 川の渡しを経て、善光寺から越後に行く交通の要衝に当たっていたことと、大軍を動かすに 都合のよい適度な平地が広がっていたことが原因ともなった。

「川中島の豊かな穀倉欲しさに、しばしば合戦が起きた」とも  この地の争奪については、 いわれるが、果たしてそうであっただろうか。川中島の大激戦は、武田方の動員兵力は約

二万、うち戦死者は四千六百余名、負傷者一万三千余名。これに対して上杉方の動員兵力、

一万三千うち戦死者は三千四百名、負傷者六千名、両軍合わせて総動員兵力の二五パーセン トが戦死し、五八パーセントが負傷したといわれている。

 これだけたくさんの犠牲を払ってまでも手を出したくなるほど、大合戦当時の川中島地方 が、一面豊かな実りをもたらす穀倉地帯であったのだろうか。部分的にはそういう所もあっ

たとは思われるが、歴史・地理的にみればむしろ逆であったと思われる。

いけ

 犀曲両川にはさまれたこの地方は、犀川、千曲川の運んだ肥沃な土壌と、犀川の自然流水 を利用して水田が開け、往古の信濃の国としては人口の密集した地域であった。十世紀以前

    にすでに更級郡九郷中、この川中島には斗女 (長野市川中島町戸部を中心とした地域) 、池 (長野市

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︱ 穀倉地帯にはほど遠く川原が散在 ︱

   一章 川中島古戦場の歴史・地理と伝説         

さらしな

こうほく

、旧更級郡の北東部、現長野市更北区  永禄四 (一五六一)年の川中島の激戦地となった所しは ののいあい

さいなみ

はにしな

さい

(青木島町・稲里町・小島田町・真島町) 、川中島町区、篠ノ井会・横田・東福寺・西寺尾の区域に ちくま

当たる面積約五〇平方キロメートルの区域である。犀川の右岸、南部に位置するところから、 みのち

千曲川の左岸まで含めて、 「犀南」といわれている。

 川中島四郡という場合は、高井・水内・更級・埴科の四郡を指すが、ごく普通に「川中島」 と使われる時は、犀川が千曲川に合流するまでの、両河川にはさまれた「犀南」地区をいう。 川中島の大激戦は、この地域全域にわたって展開された。

 この川中島地方で戦争が行われたのは、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島合戦ばかりで はない。歴史に残る有名な戦いとしては、養和元 (一一八一)年六月十三日、木曽義仲が平家

方の将、 城資職を迎え撃って大勝した横田河原(長野市篠ノ井横田付近)の戦い、 応永七(一四〇〇)

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激闘!川中島合戦をたどる  

武田信玄vs上杉謙信の激戦の地となった八幡原古戦場を中心に墓石や山城など、北信地域に残る合戦の跡をたどりながら、戦いの陰に泣いた里人の心、また武将たちの生きざまが今日の私たちに訴えかけるものとは何かを考える。 <ダイジェスト版>

激闘!川中島合戦をたどる  

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