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華麗な舞が観客を魅了した= 10 月 9 日、宮古島市マティダ市民劇場

華麗な舞、子供達の舞に大拍手 池間美代子琉舞研究所

第4回温習会 〜舞心を求めて〜

 玉城流敏風会・池間美代子 琉舞研究所主催の「第4回温

習会~舞心を求めて~」が

花」と雑踊り「貫花」の二つ

「祝賀之舞」 、 「上り口説」   に続いて、古典女踊り「本貫

り、大きな拍手を送った。

はうっとりするように見入

息もピタリに舞う様に観客ら

花、梅と採り物を取り出して

の二人が花かごから柳そして

われる「柳節」 。優 美 な 舞 姿

踊」 。祝 事 で カ リ ー 付 け に 歌

の舞で、古典女踊り「柳節之

幕開けは池間美代子師匠と   池間香苗さん親子による祝儀

れた。

構成で代表的な琉舞が演じら

雑踊りに見る舞心~」の2部

 舞台は第1部「~古典舞踊 へのいざない~」 、 第2部「~

り上がった。

笑いを誘い、大きな拍手で盛

元気よい演舞が観客の感動や

の洗練された舞や子供たちの

民劇場で行われた。伝統舞踊

月9日、宮古島市マティダ市

10


に玉城盛重が振り付けた雑踊

を比較する形で披露。明治期 にヒントを得て、昭和8年南

演舞となった。 「浜千鳥之踊」

貫花」に名称変えしたとのこ

元々あった古典の貫花は「本

と呼ばれて有名になったので

て踊り、 「 南 洋 浜 千 鳥 」は 二

千鳥」を数人が次々に登場し

鳥」だという。舞台では「浜

で 生 ま れ た の が「 南 洋 浜 千

り「貫花小」が後に「貫花」 洋群島ウチナー移民社会の中

と。 「 本 貫 花 」は 三 人 で 優 雅 麗に演じられた。

組の隊列が織り成すように華

軽快さと華やかさをもって踊

に踊られ、 「 貫 花 」は 大 勢 で られ、舞台を彩った。 3組で踊り、とんぼの羽のよ

「あけず羽の想い」  この後、 は自作の舞踊仕立てで、ペア

「高平良万歳」に続き、一   風変わった古典踊り「しょん

表現。 「 海 や か り ゆ し 」は 子

だうの節之踊」 が目を引いた。 うな布を織る機織女の心情を 二人の美しい娘と二人の醜い

な踊りに対して、仮面を付け

美しい娘たちの気取ったよう 呼んだ。

さな子供たちは観客の笑いを

に沸く様を陽気に踊った。小

娘が絡み合いながらの踊り。 供たちが大勢出演し、海の幸

た醜い娘たちは滑稽なしぐさ

サシバの舞うような華麗な集

 そしてフィナーレは「カン

  第 2 部 の 雑 踊 り は「 相 合 傘」 、子供たちによる「繁昌

団舞踊を演じて、大盛況のう

を交えて踊り、観客の笑いを

節」 、二人の男女の踊り「仲

ちに幕を閉じた。

誘った。

里節」と楽しさを加え、会場

(川満幸弘)         

ルー ~サシバ舞う~」で、 寒露のサシバの季節を捉え、

から拍手がわいた。 「 浜 千 鳥 之 踊 」と  続いて、 「南洋浜千鳥」を比較しての

柳節之踊 海やかりゆし


新しい歴史観

日本民族大移動

大宜見猛

た ま ぐ すく

住計画の最終局面を統括する大本営として、本土降臨の機の熟す

たいはく

る時を待つべく、本拠を沖縄本島南部の豊穣の地玉 城に置きま した(高天原) 。

ナ ハ

 他の一人は、古代中国の殷帝国の属国、周の国の皇太子太伯で す。詳しくは後にして、彼は故あって沖縄に来島し、殷の通貨宝 ナーファ

貝採集の基地宮古島で奴の国を立ち上げた後、 沖縄本島の那覇 (=

奴覇)に本拠を構えて、北部九州から南朝鮮まで視野に入れた王

国の建設を進めました。 この二組の豪族が沖縄を本拠に協働して、

ら、突如一転して躍動する弥生の世紀へと変わりました。

みられるからです。この後の経過を大きくとらえると、新しい歴

天皇家(高天原)と奴の国の関係は、姻戚同盟で非常に良く、   みつげつ なか 長く蜜月の仲が続いたとみられます。一方は原始共産的生活共同

いんせき

日本国創造の新しい歴史をつくっていったのです。

変革は二人の人物の登場で起きました。一人はアマミク(天御   子) 。彼は民族大移動のしんがりで南のスンダランドから来た縄

史の二大潮流が突如宮古で発生し、黒潮のように沖縄の海域を東

体であり、他方は貝交易の商取引で、有無相通じる仲であったと

文日本人・アマ族(天皇家)の若き首長です。天御子は沖縄を移

ーで滅ぼされた紀元前十世紀のころ、沖縄は縄文の牧歌的世界か

 今からおよそ三〇〇〇年前、約七〇〇年続いた古代中国初の大 いん しゅう 帝国殷(商) (前一七五一〜一〇二七)が、衛星国周のクーデタ

 その一 英雄登場

第四章  弥生の国の物語

沖縄から一望千里! この国の始まり

第7回


そうそう

ごうおん

西に分かれて、綜綜と流れて千年後、轟音を発して合流、一本の かしはら

大河となって北へ直進、やがて大和の橿原で止まる︱日本国誕生 の図が見えてきます。  さて、太伯のことですが、この人物については史料がほとんど ないため、伝説をもとにその姿を追うことにしましょう。その伝 説とは、 「周の文王の叔父の太伯が呉の国を建てたが、さらに海 を渡って日本人の先祖になった」という、中国の太古の昔から伝 わる、日中韓を舞台の千古の謎の物語です。  日本にも古くから神武天皇太伯説とか、天照大神太伯説という りんけ のがあって、徳川幕府の官学の本山であった林家の学者たち︱ はやしがほう

 ともあれ、くだんの伝説のヒーロー太伯のことを知るには、当 代の時代相を見ることからはじまります。

 そこで念のため殷帝国末期の周の世系を左に記します。 たいきょう

たいじん

      太姜 ぐちゅう (殷亡ぶ)           虞仲        ここうたんぽ 太公(古公亶父)    太伯       きれき           季歴  昌(文王)   武王           太任

(注)殷は武王のクーデターで前一〇二七年滅亡。太伯活

はやしらざん

林羅山や林鵞峯などもその考えであったといわれています。徳川

動の時期は前一一〇〇年ごろと見られる。太姜を二番目

殷人は、現代中国人の多数を占める漢族の一部と見られていま   まつえい すが、もともと北東アジアのツングース系の騎馬民族の末裔とい

い へ や

綱吉時代の国学者、藤井貞幹の神武天皇・伊平屋島(沖縄)生誕

の后とする見方もある。

ところがこの伝説を荒唐無稽として排撃したのが本居宣長であ   り、その流れに立った人々です。柳田説が無視また排除されたの

われています。殷は伝説上の国に過ぎなかったのが、二十世紀の

ていかん

説も、また柳田國男の海上の道説も通底しているとみてよいと思

も、考古証拠の問題以前に、当時思想統制に猛威を振るった宣長

はじめに、紀元前一三〇〇年前の遺跡、 「殷墟」が発見されては

います。

の流れの「皇国史観」と、そこから派生した一般のアジア人に対

じめて、その実在が確認されました。

 殷、周の王統は、ともに古代中国の伝説上の神秘の帝王、黄帝 の末裔といわれています。太伯は周王太公の長子で、血統的には

封建制度を発明したことで知られています。

いんきょ

する蔑視と差別のまんえんとで、国民の支持が得られなかったこ

べっし

とが大きかったのではないでしょうか。

 周は当初、殷の衛星国に過ぎなかったが、次第に力をつけて、 武王の代に宗主国の殷を亡ぼして後を継いだ国で、世界で始めて

「騎馬民族王朝」説など合  しかしこうした風潮は敗戦で一変、 理的な史観が生まれ、新しい思潮から柳田「海上の道」も次第に 見直されて、正しく評価されるようになって、自ら「太伯伝説」 の解明につながったと私はみています。

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宮古の風景

№ 19

毎年秋になると300羽程のシラサギの群れが見られる (10月9日撮影)

とっくり木綿の花

宮古の風景

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花びゅうウェーブ - 2016年10月号  

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