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中世ロシア文化史 F・デルカーチ [編集] 鳥飼 やよい

ロシア極東国立総合大学函館校 2010


2 Ф.Деркач. История культуры русского средневековья.

ББК 81.2 Р

Данное учебное пособие предназначено для японских студентов, изучающих русский язык. Учебник охватывает период истории русской культуры со второй половины X в. до начала XII столетия. Для лучшего понимания студентами духовной основы средневековой русской культуры в первой части учебника дан общий обзор христианского вероучения, разъясняются особенности христианского мировоззрения. Собственно русской культуре посвящены последующие главы. Порядок изложения материала в учебнике соответствует программе лекционного курса истории русской культуры для III-IV семестра. Автор выражает признательность г-же Я.Торикаи за помощь при корректировке японского текста.

Подготовлено Филиалом ДВГУ в г. Хакодатэ.

Составитель Ф.Б. Деркач

Печатается по решению учебно-методического совета ДВГУ.

©Издательство Дальневосточного университета, 2010 © Все права на изображения принадлежат различным авторам, любезно предоставившим их для данного пособия. © На изображения, взятые из сетевой энциклопедии Wikipedia.org, за исключением объявленных общественным достоянием, распространяется лицензия Creative Commons.


3

まえがき 中世は、紀元後4世紀から14世紀までの約1000年間の時代であると一般的に言わ れているが、それは「ヨーロッパの」中世のことである。しかし、発達した文明であれ ば、その歴史に必ず「中世」と呼ばれる時代があった。国によってその時期も長さも異 なるが、ヨーロッパにもロシアにも中東にも日本にも中世時代があった。その時代に起 きた出来事は、形が異なってもその本質は共通している。特に、一般の価値観、 イ デ オ ロ ギ ー

国家結成思想、権力者と教会の関係においてその共通点が顕著である。

中世とは何か。紛争と陰謀、策術と暗殺、異端尋問と十字軍、英雄とその戦功の伝説、 聖人の偉業、感動的な宗教美術、グレゴリオ聖歌と壮大な寺院。現代人の頭にある中世 のイメージは、高尚なロマンとぞっとする暗黒の混合物だ。

しかし、実際の中世とは何か。それはいつ、どうして訪れるのか。各地域の歴史と文 化における中世時代にはどんな共通点または相違点があるのか。

中世時代は古代の後に来て、政権階級の交代から始まる。古代社会の政権を握るエリ ートは神官であったが、それは古代エジプトでも日本でもスラブ諸族でも同じだった。 武士階級は神官との差を縮めようとしていた。武士は神官政権を支えていたが、一方、 強くて誇り高く大胆で責任感の強い武士たちは、なぜ自分たちが何百年もの間権力者の 陰にいなければならないのか不審に思っていたのだ。

武士階級が政権を手に入れた時点から中世時代がスタートする。軍事エリートは、権 力を握るために神官階級を倒し、宗教と思想の分野に手をつける。まず手始めに伝統信 仰を改革する拙务な試みが見られる。古い信仰は既に時代遅れなので淘汰されるが、た とえ新たな宗教が生まれても、武士階級は新しい神官との間に「教会は財産を保有し、 様々な優先権を持ち尊重もされるが、政治には口を出さず、求められない限り意見は口 にしない」という紳士協定を結ぶ。

神官は武士との競争に敗れた。しかし武士間の縄張り争いは止まらず、ここで戦国時 代が始まる。武士にとって秩序とは上下関係であるため、身分に基づいた従属のシステ ムが形成される。これに比べると、古代の階級社会ははるかに無定型で自由である。中 世の封建国家を支えるためには、はっきりとした国家結成の思想が必要であるが、その ために宗教は何よりも効果的だ。宗教と政治はお互いに必要不可欠な存在となり、教会


4 と政府は仲の良い夫婦のように同居し、たまに喧嘩をしたとしても、状況が変わること は数百年に渡ってない。農村はまるで眠っているかのように変わることなく固まってし まう。農民は宗教に従っても狂信者ではない。勤勉であっても活発ではない。農夫は村 を出ることはなく、教育も受けることはない。従って、聖書を勝手に解釈することもな い。農民文化は伝統に基づいた分かり易い世界であり、農夫が新しいものや思想を生み 出すことはない。民族に特有の衣装や食生活や便所の使い方といった、一般的に「民族 文化」と呼ばれる知識の総体は、農民の伝統と習慣の中から生まれ結晶したものである。

中世国家は閉鎖的な外交を行うため、外国の影響は有害と考える。従って、政府は人 間と書籍の動きをコントロールするために力を入れる。

さて、統一国家が安定し、やっと念願の平和が訪れたと思った頃、隣国も同様に統一 を遂げ強くなっていることに気づく。世界地図を見れば、もはやモザイクの一片のよう な非力な公国ではなく、競争力のある若き帝国が隣り合っている。 ある日、あらゆるものの規模が変わる。貿易も、外交も、戦争も、術策も。何もかも。 新たな貿易路に沿って都市が増え栄え、職人と商人が富む。彼らは徐々に教会と武士を 支える主なスポンサーとなる。人々の価値観も変化し、利口で発明力のある者が尊重さ れる。市民は宗教政策にも口を出し、崇拝の内容さえ勝手に変えようとし、公けに教会 を非難するようになる。都市社会には、新しい宗教運動と宗派が現れて、後にそれは プロテスタント

『 抵 抗 派 』と呼ばれるようになる。教会は影響力を失い始め、武士と貴族は貧しくな っていく。 芸術にも自由思想が芽生えて、文筆家と画家は教会の基準からはなれ、禁じられたテ ーマにも触れようとする。世間では忘れられたはずの古代文化への関心が高まり、古代 の美観が宗教美術に侵入し、古代のモチーフが文学の中にも蘇る。この時代は「復興」 つまり「ルネッサンス」と呼ばれる。イタリアではダヴィンチやミケランジェロやラフ ァエロなどが活躍し、日本では浮世絵が栄える。「行者」と「侍」の時代は徐々に去っ て行き、近代が攻めてくる。

ヨーロッパの中世は大体このように流れる。しかしその流れが異なる国、または中世 が全くなかった国もある。例えば、インドと中国では武士階級によって統一国家が作ら れたが、その巨大な人口は多民族で多信仰であり、そのため典型的な中世文化が生まれ なかったといえる。一方、日本の中世は外界から邪魔をされずほぼ理想的な環境の中で 進化し、比較的に穏やかにその結末を迎え、豊かな文化遺産を残しつつ、その遺産は今 も潜在的に生き続けている。ロシアは、中世が始まって間もなく、モンゴルの侵略によ


5 り250年もの間その支配を受けた。それによって貴重な時間を奪われたロシアは、近 代への転換の際、その時間差のせいで全てを性急に進めすぎてしまった。西欧の中世の 千年に比べると、ロシアの中世はわずか600年に過ぎなかったのだ。更にビザンツ帝 国は、ヨーロッパ諸国が中世に転換した頃に、まだ古代社会体制を保っていた。ところ が蓄積された東ローマの厖大な富は、逆に進歩の障害となった。また長く続いた平安は 武士階級を弱め、時代が代わると既に手遅れの状態だった。ビザンツは十字軍とトルコ の攻撃に抵抗できず崩壊した。 ロシアは、エジプトやローマのような古代文明の段階、つまり都市中心の統一国家が なかったため、歴史学では「古代ロシア」という用語は中世初期を指すことが多い。し かし厳密に言えば、「古代ロシア」とは、キリスト教伝来以前の東欧平原に住んでいた スラブ諸族であると考えた方が正確だ。


6 目次 第一章 キリスト教 旧約聖書

9 9

創世記

9

世界の創造

10

原罪と失楽園

10

大洪水前の時代

10

大洪水

10

出エジプト記

11

レビ記

13

民数記

14

申命記

14

新約聖書

16

イエスの生涯

16

黙示録

27

第一公会

29

『信条』

30

教会建築の起源と進化

31

礼拝の種類

35

機密と儀式

36

第二章 中世ルーシ文化の始まり ウラジーミル公による伝統信仰改革

38 38

改革の目的

39

六神崇拝

40

六神崇拝不人気の理由

44


7 キエフのキリスト教化

46

キリスト教はルーシに何をもたらしたのか

56

キリスト教と二重信仰

56

10〜11世紀キエフの文化

61

ルースカヤ・プラヴダ

62

文字

64

建築

67

イコン絵画

71

イコンの創造過程

72

イコンの種別

74

12~13世紀初期 ルーシ各地の文化

78

文学

78

建築と絵画

82

十字型キューポラ聖堂

82

「天空の都」

83

ウラジーミル・スーズダリ

86

ウラジーミル聖母のイコン

91

ユーリエフ・ポーリスキイの聖ゲオルグ大聖堂

92

代三章 公国から帝国へ 13世紀後半~15世記のロシア文化

96 96

文字文化

97

建築

102

イコン絵画

104

テオファネス

104

アンドレイ・ルブリョーフ

105

封建時代の教会危機 〜第三ローマと異端対策〜

109


8 ストリゴーリニキ派

109

ユダヤ主義派

110

ヨセフ派

111

無欲派

111

百章公会

113

絵画

114 ディオニシイ

国家統一時代のロシア文化

114

118

文字文化

119

建築

121

絵画

124

17世紀、中世の結末

125

文化発展

125

正教会の分離

126

芸術と産業

133

建築

134

文字文化

140

絵画

141

舞踊と芝居

144

後書

146

Список использованной литературы

147


9

第一章 キリスト教

Христианство

宗教が中心的な役割を果たしていることは、中世文化の主な特徴だ。土着信仰の 神官から政権を奪った武士階級は、国を統一させるために武力以外の手段を持た なかった。しかし、国家統一を保つには武力だけでは不十分で、支配された各地域 の人心を統一の下にまとめなければならない。そのためには国家結成の思想が必要 だ。そのためには民族と国家より「教え」と「道徳」を大事とする世界宗教(仏教、キリ スト教、イスラムなど)が実にその目的に合致しているのだ。現代文明の存在は大い に世界宗教によるものであり、世界地図には『十字架の圏』と『三日月の圏』と『蓮 華の圏』がはっきりと見える。 ヨーロッパ文明はキリスト教の子だ。ヨーロッパ諸国の様々な違いがあったとはいえ、世界観と価値観は 大体同じで、芸術に使われるシンボルとイメージも共通だ。人名にしても、ほとんどは聖書から来たもので、 スペインの「ホセ」、ポーランドの「ユゼフ」、イタリアの「ジュゼッペ」、イギリスの「ジョセフ」、ドイツの「ヨゼフ」やロ シアの「オシップ」などは、すべてヘブライ語の「ヨセフ」に遡る洗礼名だ。キリスト教の『世紀末論』は、多くの 本や映画のテーマとなっているし、キリスト教の年表は言うまでもない、世界中で利用されて宗教的な意 味をほぼ失っているくらいだ。 さて、キリスト教とは一体どのようなものか。 この章では聖書の内容とその普及の歴史を、ヨーロッパ文化において共通となったシンボルとイメージ に触れながら要約してみよう。

旧約聖書

Ветхий Завет

これは『アブラハム系の宗教』と呼ばれる三宗教(ユダヤ、キリス ト、イスラム)の共通の聖書だ。その名前はセム族の祖先アブラハム から来た。共通の聖書といっても、宗教によって解釈が異なっている。 ここでは、旧約の内容をできるだけ短く、主な場面と出来事に集中 して要約する。

創世記 Бытие 世界の創造 Сотворение мира 神は7日間で世界を創る。       

1日 明と闇、空と水に覆われた地 2日 硬い土と硬い天 3日 陸と海、農地と植物 4日 昼と夜、日と月、時間 5日 鳥と爬虫類 6日 獣と人間 7日 神はできたものを眺めて休む。だから 一週の7日目は休息のためにある。


10 原罪と失楽園 Грехопадение 神に創られた最初の人間、男性のアダムと女性の イブは善悪を知らず楽園(エデン)に住んでいる。 ところで、その『楽園』が天にあるとは旧約のどこ にも書かれていない。エデンに知恵の樹があるが、 その果実を食べることは神によって禁じられている。 しかし、イブの前に大蛇が現れて「神はお前らを騙 している」と言って、禁じられた果実を食べるよう に説得する。『禁じられた果実』は絵画で林檎とし て描かれることが多いが、聖書にそれは直接書かれていない。また、「大蛇」は「サタ ン」を連想させるが、それも定まっていない。イブは果実をアダムにも食べさせる。人 間が善悪の意味を知ったことを『原罪』とされてしまう。二人は楽園から追放され、そ れから自給自足で生活しなければならない。

大洪水前の時代 Допотопные времена アダムとイブの子孫が地上で数世代にわたって代わったが、人間は相変わらず罪を 犯している。カインは弟のアベルを殺し父親を騙す。神は豊かな商業の都市ソドムとゴ モラを、住民の罪のため天からの炎で滅ぼす。以降『ソドム』は「修羅場」の意味で共 通の表現となった。

大洪水 Всемирный потоп 人は道徳を完全に忘れたために、 神は人類を滅ぼすことにした。神は ノアという義人に、これから大洪水 があると知らせて、大きな方舟を造 ってそれに家族と地上にあるだけの 動物をオスとメス一匹ずつ載せるよ うに命じる。ノアは言われた通りに 船を完成し、その後大雤が40日間 続いて、大洪水は地上に残ったすべ ての生き物を滅ぼす。雤があがると、 ノアは陸を探すために鳩を放つ。間

©Andrew Behesnilian


11 もなく鳩は嘴にオリーブの枝をはさんで帰ってくる。やがて方舟はアララト 山(現在の東トルコ)の峰に着く。嘴に枝をはさんだ鳩は、20世紀になっ て世界平和のシンボルになった。ノアの三人息子(ハム、セムとヤフェト) から新しい人類が始まった。 後に、バベルの住民は神と背比べするために天空まで届く大塔を建てようとする。 神は人類の言葉を分けたために人々はお互いを理解できなくなり、塔の建設は失敗に終 わる。以降『バベル』は、多民族と異文化が混ざり相互理解が困難な場所を意味するよ うになる。 その後もヘブライ民族の歴史は続く。ヘブライ人は様々な困難を乗り越えて、やが てエジプトにたどり着く。

出エジプト記 Исход ヘブライ人のヨセフという男が兄弟に

ておらずヘブライに同情する。ある日、

裏切られ奴隷としてエジプトに売られた。 ヘブライ人の労働者を殴る監督者を見て、 しかし、その知恵によって輝かしい出世

そのエジプト人を殺してしまう。そして

をし、エジプトの大臣となる。ヨセフは、 死刑を逃れるために亡命する。モーゼは 自分の一家総勢67人をエジプトに招待

シナイ半島に逃げ、遊牧民の村に40年

し、ヘブライ族はエジプト社会の一部に

間住んで、結婚もして子供に恵まれる。

なる。しかし、ヨセフが亡くなった後、

モーゼは羊を放牧したある日、神エホ

ヘブライ人はすべて奴隷扱いを受けるよ

バ(ヘ:実在)の声を聞く。神はモーゼ

うになる。しかし、それでもヘブライ人

に「エジプトに帰ってヘブライ族を解放

の数は増えたため、ファラオはヘブライ

しろ」と命じる。そして神はモーゼの杖

人の家族に生まれる男の子を皆殺しにす

に精霊の力を吹き込む。

るよう命じる。 しかし、ヨカベダという女性は、息子

モーゼはエジプトのファラオの元へ行 き「我が民族を解放しなさい」と要求し、

のモーゼを籠に入れてナイル川に流した。 杖を用いて奇跡を起こした。しかし、フ その籠を、ファラオの娘バチヤが偶然に

ァラオが「はい」と言おうとする度に、

発見しモーゼを養子にする。モーゼは宮

神はわざと彼に「断る」と言わせる。そ

廷に育ち、立派な教育を受けて出世もす

して、神はエジプトに『十の天罰』を与

る。しかし、モーゼは自分の出自を忘れ

える。


12

『十の天罰』 

ナイル河の水が血に変わる

カエルの大群が襲う

蚊の大群が襲う

獣の大群が襲う

家畜が疫病に罹る

エジプト人が傷と膿腫に悩む

嵐と火の雨が降る

国全体を闇が覆う

イナゴの大群が襲う

エジプト中の新生児が死ぬ

「エジプトの新生児を殺す死の天使」 I・レーピン/ロシア、1863年

「モーゼの十戒」 ギュスターヴ・ドレ/フランス、19世紀

結局、ファラオはモーゼに頭を下げ、

岸辺に彼らを追い詰める。その時モーゼ

ヘブライ人を開放すると約束する。する

が海の方に手を上げると、海が二つに別

とモーゼはヘブライ人に「エジプト人か

れた。ヘブライ族は海底を歩いてシナイ

ら金銀の装飾品や衣類を借りなさい」と

半島に渡り、エジプト軍は彼らを追って

言う。ヘブライ人は言われた通りにして

海底に入ると、海はまた一つになったた

逃亡する。ファラオはそれを聞いて、軍

め軍隊は一人残らず海に溺れた。

を集めてヘブライ族を追跡して、紅海の

海を渡った後、モーゼはヘブライと遊 牧民をシナイ山のふもとに導き、そこで 待つように言って山に登る。とそこで炎

十戒

と煙に包まれた姿で神が現れてくる。モ ーゼはエホバから十戒の書かれた二枚の

(Ⅰ)

主が唯一の神であること

(Ⅱ)

偶像を作ってはならないこと

(Ⅲ)

神の名を徒らに取り上げてはならない

石板を受ける。

モーゼは宿営地に戻ると、皆は彼がも う戻ってこないかと思って、エジプトで

こと

盗まれた金銀から大牛の像を作って、そ

(Ⅳ)

息日を守ること

(Ⅴ)

父母を敬うこと

見る。モーゼは怒りのあまり、神からも

(Ⅵ)

殺人をしてはいけないこと

らった石板を崩して、皆に「おのおの、

(Ⅶ)

姦淫をしてはいけないこと

剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで

(Ⅷ)

盗んではいけないこと

巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人

(Ⅸ)

偽証をしてはいけないこと

(Ⅹ)

隣人の家をむさぼってはいけないこと * * *

れを奉って歌ったり踊ったりする光景を ロ シ ア 総 主 教 の 杖 / ロ シ ア 、 1 7 世 紀

モ ー ゼ の 牧 夫 杖 を 原 型 と す る


13 を殺せ」と命じた。聖書によるとその日に三千人が虐殺された。崩れた十戒の石板を箱 に入れて、後に神はモーゼに新しい石板を作るように命じた。また、モーゼは神から神 殿をどのように建てるか、石板のためにどんな箱を造るか、詳しい説明を受ける。神殿 は、中庭のある広いテントであり、それは有名なソロモン神殿の手本にもなった。 こうして、ヘブライ民族はエホバ神と『契約』を結び、それは「旧約」と呼ばれる もので、ユダヤ教の起源でもある。

「出エジプト記」から、ヨーロッパ文化に 沢山のシンボルとイメージが受け継がれた。 『金の大牛』は土着的な富の追及を意味し、 モーゼが持っていた牧夫の杖は主教の杖の原型 になり、戦いで失われた『契約の箱』もあらゆ る伝説と芸術作品のテーマとなった。ところで、 十戒の石板は一般的に頭部が丸い形に描かれる がそれは原型ではなく、イタリアのルネッサン ス美術の中から生まれた想像図にすぎない。 ▲ ウラジオストクのシナゴーグにある「十戒の石板」

レビ記 Левит 『レビ記』には、ユダヤ民族の日常生活の掟が書かれている。食生活の制限や、夫 婦関係の規則、土曜日の過ごし方や供物の仕方などがある。例えば、生贄を捧げる規則 が説明されている。ユダヤ人は二匹のヤギを神に捧げる習慣があり、一匹を殺して、も う一匹を生きたまま砂漠へ放す。そのヤ ギは人の罪の重荷と災いを持ち去ってい くと信じられていた。現代ロシア語では しょくざい

『 贖 罪 のヤギ~КОЗЁЛ ОТПУЩЕНИЯ』 という表現があり、それは「常に他人の 罪や責任をかぶせられる人」を意味する (英語で同じことは SCAPEGOAT とい う)。 「スケープゴート」⇒ ウィリアム・ホルマン・ハント/イギリス、1854年


14 民数記 Числа ユダヤ民族は40年間に渡って砂漠をさ迷い、イスラエルの領土を征服する。

申命記 Второзаконие この本は、モーゼがユダヤ民族に送ったお別れのメッセージだ。モーゼは神による 掟をまとめて説明して、ネヴォ山へ去って息を引き取る。 トーラー

以上が旧約聖書の主要部である『五書』 である。しかし、トーラーは旧約聖書の 5分の1に過ぎず、その他にイスラエル の長い歴史を語る本が数多くあり、イス ラエルの王族、特に賢明なダビデ王の生 涯や、ソロモン王とシバ女王の恋物語や、 ソロモン神殿の建設などの物語がある。 旧約聖書は、預言者が瞑想中に受けた黙

キエルは神の声を聞いて、神は彼を預言

示に溢れている。

者として任命した。

多くの預言者は、イスラエル族が犯し た罪のためソロモンの神殿が破壊される

そのビジョンは、捕囚からの帰還と神 殿復元の約束であると解釈された。

と言い続け、結局、586年にエルサレ

バビロン捕囚から戻ったユダヤ族は第

ムは実際にバビロニア軍に襲撃され、ユ

二の神殿を建設する。ユダヤ人にとって

ダヤ人の大部分は捕虜となってバビロニ

それは新しい希望の時期であり、預言者

アに連れて行かれた、その後70年間に

たちは、もうすぐダビデ王の子孫である

渡って『バビロン捕囚』の時代が続く。

救世主(メシア)が現れ、世界に平和と

バビロン捕囚の時、預言者エゼキエルは

神の掟を実現すると告げる。

瞑想中に不思議な光景を見た。

しかし、第二神殿の時代はイスラエル

天空に、煙と炎に囲まれた不思議な四

にとって暗黒時代となり、その結末は実

匹の動物が現れた。それぞれの動物は顔

に恐ろしいものだった。ローマ皇帝ティ

が四つ(人間・大牛・ライオン・鷲)で

トゥスはイスラエルを襲って、エルサレ

羽根も四枚あり、下半身には沢山の眼が

ム神殿を粉々に破壊した。ローマの支配

ついた車輪が回っていた。動物の頭の上

下で、イスラエル中に憎まれたヘロデは

に、ダイヤモンドのように輝くキューポ

大王になり、人気を得るためにエルサレ

ラがあり、その頂上には大きな宝座に座

ム神殿の再建に取りかかる。

る人間らしきものが見えた。そしてエゼ


15 国民が絶望に陥り、イスラエルがロー

対するイスラエルの優越性について布教

マに征服されても、ヘロデ王の宮廷では

している。旧約歴史が終わるのはこのよ

贅沢に耽る。ユダヤ教会の保守的な宗派

うな状況の中である。

(ファリサイとサドカイ)は、他民族に


16 新約聖書

Новый Завет

新約聖書も複数の本からなっており、イエス・キリストの生涯を物語る『福音』という四書から始まる。 福音書はマタイ、マルコ、ルカとヨハネというイエスの四使徒によって書かれたものだ。

イエスの生涯 Жизнь Иисуса イエスの誕生日は12月25日と一般 的に思われているが、常にそうだった わけではない。古代キリスト教徒は、 クリスマスを1月6日の『公現際』の 日に祝っていた。何故なら、イエスは 『第二のアダム』と呼ばれており、神 はアダムを6日に創ったからだ。43 1年、エフェソスで公会が行われ、ク リスマスは12月25日(冬至の日) に祝うと決定された。実際はイエスの 誕生日について、聖書では一言も触れ られていない。 さて、ベツレヘムという田舎町にマ リアという処女が住んでいた。彼女は 幼い頃から天使のビジョンを見ており、 12歳の時に死ぬまで処女を守ると誓 った。両親は修行のために彼女を神殿 に預けたが、イスラエルの法律で、成 年になれば神殿を出て嫁に行かなけれ ばならなかったので、彼女の処女の誓 いを尊重する夫として、年寄りの大工

12世紀のイコン「イエスの御生誕」 /現在、エジプトのシナイ山 にある聖カタリ ナ修道院で保管されている。

ヨセフが選ばれた。 ある日、マリアの前に大天使ガブリエルが現れて「お前は神の息子イエス・キリス トを産む」という「福音」を伝える。『キリスト』はギリシャ語で「選ばれし者、メシ ア」を意味する。 マリアの妊娠を知ったヨセフは、初め浮気を疑うが、彼にもガブリエルのビジョン が現れたので、ヨセフはマリアと新生児を守ると誓った。


17 隣国の星占い師と魔術師は、地上に神の子 が生まれる日を計算し、その子供を礼拝するた めにベツレヘムへと旅立つ。ベツレヘムの空に 新しい星が輝いて、彼らに道を教えていた。後 に『ベツレヘムの星』はクリスマスのシンボル となり、ツリーの上に飾られるようになった。 魔術師たちは、新生児に三種類の象徴的な ベツレヘムの生誕教会の祭壇にあるこの銀の星 はイエスの誕生した場所を指している。 ⇒

贈物を捧げた。

金。 王への贈物。イエスが王になる定めを意味する。 香。 神官への贈物。イエスが新大師と真の神官になる定めを意味する。 もつやく

没薬。 死者への贈物。没薬は遺体の防腐に利用されていたので、イエスが殺される定めを意味する。

ヘロデ王は宮廷の占い師から、いず れイスラエルの王になる子が生まれると 聞かされ、指定の日に生まれた全ての男 の子を殺すよう命じたために、全国で新 生児の虐殺が行われる。息子の命を救う ために、マリアは幼いイエスを連れてヨ セフと一緒にエジプトへ亡命するが、 ヘロデ王の死後、一家はイスラエルに戻 りナザレの町に暮らす。

「新生児の虐殺」 イタリア、13 世紀

その後30歳になるまでイエスが何 をしていたのか福音書には書かれていな

の超能力を生まれつき持っており、習う

い。そのため「イエスはインドで修行し

必要が無いと信じられている。当時のイ

て超能力者になった」等の諸説が生まれ

スラエルには、30歳前には弟子を持っ

たが、キリスト教会はこのような考えを

てはならないという法律があったために、

許していない。キリスト教徒にとってイ

イエスは自分の教えを布教できなかった

エスは神的存在の『神人』であるという

のだ、という簡卖な説明もある。

大事なドグマがある。神人ならば、全て


18 「大衆の前に現れるイエス」、A・イワノフ、 1857

イエスがちょうど30歳になった頃、

洗礼を受けなければならない」と答える

イスラエルにヨハネという布教者が現れ

と、イエスは水に入って頭を下げた。イ

た。彼は人々に「高慢を捨てて罪を反省

エスが洗礼を受けるとき、天空から彼に

し、間もなく来るメシアの公現を待つが

鳩(聖霊の表れ)が舞

良い」と教えていた。大勢の人はヨハネ

い降りて、皆に神の声

の教えを信じ、彼から水の洗礼を受けた。 が聞こえた「これは、 当然、ファリサイとサドカイはヨハネの 布教に不満を感じていた。

最愛の我が子だ」と。 洗礼の後、イエスは

ある日、ヨハネがヨルダン河の岸辺で

新しい教えの布教を始

人々に洗礼を与えている時に、イエスが

めた。それはキリスト

ヨルダン河

近づいて「我にも洗礼を受けさせてくれ」 教史において極めて大事な出来事であり、 と頼んだ。ヨハネは直ぐに自分の前に誰

その記念日が1月6日に祝う『公現祭』

がいるかわかって「私こそ、貴方様から

だ。


洗礼を受けたイエスは先ず砂漠に出 て、40日間食べることも飲むことも なく瞑想を続けた。最後にお腹が減っ たと感じたところに突然、目の前にサ タンが姿を現し、手を組むことを提案 する。しかしイエスは、富や権力や名 誉を約束されても全てを断り、誘惑に 負けることがなかったので、サタンは 消えた。その後、イエスは世間に戻り 布教を始めた。 「断食中のイエス」、I・クラムスコイ、1872

イエスは、懺悔と仁愛と永遠の命に ついての教えを説いた。その教えの主

眼点は、長い間人類に怒っていた神はついに人間を赦し、人類と「新約」を結ぶという ことにあった。もはや特別な『神の民族』ではなく、一人ひとりの人間が神への道を探 さなければならなかった。キリスト教の最も重要な思想は『山上の垂訓』(Наго́рная про́поведь)に語られる。 (マタイ 5:1~12)

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものだ。 悲しむ人は、幸いである、その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、その人は地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は幸いである、その人は満たされる。 憐れみの深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 義のために迫害される人々は、幸いである、その人たちは天の国はその人たちのものだ。 <・・・> あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 しかし、わたしはいっておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬をうつなら、左の頬をも向 けなさい。 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。


20 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのである。 天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 自分を愛してくれる者を愛したところで、あなたがどんな報いがあろうか。取税人でも、同じことをしているで はないか。 また、自分の兄弟にだけ挨拶をしたところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じこと をしているではないか。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者でありなさい。

12使徒 イエスには『使徒』と呼ばれる12人の教え子がいた。  ペトロ(Петр) 漁師  アンデレ(Андре́й) 漁師、ペトロの兄弟  ヨハネ(Иоа́нн Златоу́ст) 漁師  セベダイの子ヤコブ(Иа́ков Зеведе́ев) ヨハネの兄弟  フィリポ(Фили́пп) 学者  バルトロマイ(Варфоломе́й) 恐らく、フィリポの親友  マタイ(Матфе́й) 収税吏  トマス(Фома́) 漁師。伝説によると、トマスは自分の目で見 ない限りイエスの復活を信じなかった。ロシア語には「不信の トマス~ФОМА́ НЕВЕ́ РУЮЩИЙ」という表現があり、 「全てを疑う聞き手」を意味する。  アルファイの子ヤコブ(Иа́ков Алфе́ев) 収税吏

又、マリア・マグダレナとい

 タダイ(Фадде́й) 収税吏、恐らくヤコブの兄弟

う女性がいて、彼女は使徒

 熱心者のシモン(Симо́н Зило́ т) 恐らく旧抵抗運動のメ

の一人ではなかったが、常

ンバー  イスカリオテのユダ(Иу́да Искарио́т) 収税吏

にイエスに同行し、福音書 の最も重要な場面に必ず登 場する。


21 使徒に囲まれてイスラエル中を旅したイエスは、沢山の奇跡を起こして全国に名が 知れ渡る。

 祝宴に呼ばれ水を葡萄酒に変える。  カペルナウムで病人を癒す。  ペトロとアンデレに大漁をおくり、二人は使徒、つまり『人間をとる漁師』に なる。  悪魔にとりつかれた人を癒す。  嵐を静める。  町長ヤイロの死んだ娘を復活させる。  5個のパンと2尾の魚を分けて、5千人を満腹させる。  カナン(異民族)の女を癒す。キリスト教においてこの奇跡は特に有意義なも のとされている。最初にイエスは「我はイスラエルの迷子を助ける役目だ」と 答えたが、その女性の熱い願いを聞いて彼女を癒す。それを見たユダヤ人は怒 りを表すが、イエスは「この世にはギリシャ人もユダヤ人もない」と答え、そ れがキリスト教の世界性の証となる。  水の上を歩く。  三日前に死んだラザロという男を生き返らせる。

イエスと彼の教えの人気が高まったため、ユダヤの宗教生活を独占したはずのファ リサイとサドカイの権威はぐらついた。キリストは、「旧約を否定しない」とはっきり 言いながらも、全く新しい価値観を宣言する。彼は常に心から信仰と神と人間に対する 愛について語っていた。特に『信仰』は、ユダヤの形式的な『法』よりも大切なもので あるとして、全ての仕事が禁止された土曜日にも人を癒し、 説教を続け、自分から人の罪を許したりもした。 教会幹部は「危険な異端者」のイエスを殺さなければ ならないと決めたが、当時の法律ではローマ長官の認可が なければ死刑判決を下すことはできなかった。それで、教 会幹部はキリストをローマ人の手によって殺すことにした。 間もなくよいチャンスが訪れた。 イースター祭の日が近づいた頃、イエスは12使徒と 共にエルサレムに来た。門の前に集まった市民はヤシの枝 を持ってイエスをメシアとして迎え、自分の服を彼の前で


22 地面に敶いた者もいた。その場面からイエス生涯の最後の一週間『受難週』が始まる。 エルサレムに入ると、イエスは先ず神殿に向かった。神殿では、間もなく始まるイ ースターのために、生贄の動物(牛、羊、鳩など)を売る人や、両替人が大勢集まって 賑わっていた。 当時、イスラエルの通貨はローマ銀貨「ディナリウス」だったが、その銀貨に皇帝 像が刻まれてあったため、ユダヤの「偶像禁止法」によって神殿への持込みは出来なか った。しかし、信仰深いユダヤ人ならば必ず神殿にお金を寄付するという大事な決まり があったので、特別な「両替窓口」が設置され、神殿は寄付専用金貨「シェケル」を発 行していた。1シェケルの相場は20ディナリウスで、大人のユダヤ人が一度にする寄 付金は、一人当たり半シェケルと決まっていた。半シェケルを買うことは不可能だった ため、家族連れの者は問題なかったが、一人で来た者は倍の値段で買った金のシェケル を神殿に寄付しなければならなかった。それは一種の「無子税」にもなり、神殿も莫大 な儲けを得ていた。 聖地でのこうした商売の光景を見た 「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り

イエスは怒りを感じた。

買いしていた人々を追い出し始め、両替人の 台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返された。 又、境内を通って者を運ぶこともお許しに

その出来事は逮捕の公式の理由とさ れた。「メシアが来た」という噂を聞 いたローマ長官ピラトは、それは反乱

ならなかった。 そして、人々に教えて言われた。「こう書い

の挑発ではないかと疑い、とりあえず

てあるではないか。『我の家は、万国の人の祈

黙殺しようとしたが、ユダヤ教会はイ

りの家と呼ばれるべきだ。』ところが、貴方たち

エスを逮捕するように要求した。しか

はそれを強盗の巣にしてしまった。」

しイエスの顔を分かる者が尐なかった

「マルコ、⑪16~19」

ために、それから3日間もの間彼の居 場所は不明だった。しかし、ユダとい

う12使徒の一人がイエスを裏切って、彼の居場所を神殿の神官に教えた。 木曜日の夕方は、有名な「最後の晩餐」の夜である。イエスは、自分を待っている 惨い運命を先見して、弟子たちとお別れをする。自らの手で彼らの足を洗ってから食卓 につくと、イエスはパンを分けて「これは我が身なり」、葡萄酒を注いで「これは我が 血なり」と言い、それらを口にすれば永遠の絆が結ばれると告げた。この場面はキリス ト教礼拝の重要な部分「聖餐」の原点となった。最後の晩餐でイエスは、一人の弟子に 裏切られて惨い死を受け入れなければならないことを皆に知らせる。


23 「最後の晩餐」、レオナルド・ダ・ビンチ、1498

その後、イエスと12使徒はゲッセマ ネの園へ移動し、その途中でイエスはペト ロに「今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三 度も我のことを知らないと言うだろう」と 告げる。しかし、イエスは予め皆を許し、 決して怒りはしない。ゲッセマネ園に着く と、イエスは一人になって神に祈る。彼は

「ゲッセマネの園」、N・ゲー、19 世紀

死刑を恐れて、神に「この杯を我から過ぎ 去らせて下さい」と頼むが、最後に、どう しても死を逃れることが出来ないなら神の 意志に従うと言う。その場面は『杯祈願』 と呼ばれる。このことからキリスト教文化 で『杯』は「神による定め」つまり「どん なに辛くても受けなければならない運命」 を意味するようになった。 イエスが弟子のところに戻ると、皆は すでに眠っていた。その時、ユダは神殿警 備とローマ兵を連れてくる。ユダはイエス に接吺をするが、それは「この人を逮捕し なさい」という合図だった。そしてイエス が捕まって、ローマ兵に連れて行かれる。 回りの人々はペトロに「お前はあの人の弟

ゲッセマネの園 「ユダの接吻」、イタリア、13 世紀


24 子だ」と言うと、ペトロは恐怖の余り三度も「この人を知らない」と答えた。ユダは、 裏切りの賞金として30枚の銀貨を支払われ、その『30枚の銀貨』は世界共通の裏切 りの象徴になった。 ユダヤの最高裁判「サンヘドリン」はイエスに死刑判決を下す。それを聞いたユダ は後悔して、神官たちにお金を返して自殺する。伝説によると彼はハコヤナギの木で首 を吊って自殺したため、ハコヤナギは『ユダの樹』と呼ばれるようになり、ハコヤナギ の串は吸血鬼を殺せるという迷信も生まれた。実は、吸血鬼とハコヤナギの関係は小説 「ドラキュラ」を書いた19世紀の作家ブラム・ストーカーの創作だ。ブラム・ストー カーによると、ドラキュラはイエスを裏切ったために天国にも地獄にも行けなくなった ユダ本人に他ならないので、吸血鬼はハコヤナギ(ユダ 「心理とは?」、N・ゲー、1890

を殺した樹)と銀(30枚の銀貨)を恐れるのだ。 ユダの代わりに新しい使徒を選ぶために使徒達はクジ を引き、マティアという男に当たった。 サンヘドリン裁判は、死刑判決にローマ政権の認可が 必要だったので、イエスはローマ長官ポンテオ・ピラト の屋敶へ連れて行かれる。ピラトは、経験豊かな司令官 であり外交官なので、流血を避けて事件を揉み消すため できるだけの手をうった。彼は、サンヘドリン裁判員の 話を聞くと「この人は明らかに無罪だ」と答えたが、屋

敶の外に集まった市民は「彼を磔に」と叫ぶ。彼らを鎮めるために、ピラトは刑を体罰 に代えて、イエスに39回の鞭打ちの判決を下す。体罰を受けたイエスに、おどけた 『王の衣装』を着せ、頭にイバラの冠を被せて、手に大尺の代わりに木の枝を握らせる。 ローマ兵と周りの市民は彼を見て嘲笑した。 しかし、それでも神官に挑発される人々は納得せず、イエスに死刑判決を要求し続 ける。それでピラトはイエスの死刑判決を認可し、市民の目の前で手を洗う。それは、 殺人に関わりたくないことを示す伝統的な儀式だった。ヨーロッパ文化において、ピラ トは忠実な軍人と臆病な政治家を足したような矛盾のキャラクターとされている。後に ピラトはキリスト教徒になって出家したという伝説も残っており、エチオピア教会では 彼は聖人とみなされている。 ついに、運命的な金曜日の晩が来た。現在でもヨーロッパでは金曜日は不吉な日で ある。


25 死刑場までイエスは十字架を自 分で担がされた。歩く途中、彼が 重い十字架を支えきれず倒れたた め、ローマ兵は畑から帰りに通り

ラテン語で IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM

I .N.R.I .

ロシア語で И.Н.Ц.И ИИСУС НАЗАРЕЙ ЦАРЬ ИУДЕЕВ

かかった農夫シモンに担ぐように 命じた。行く先は、エルサレムの どくろ

城壁のすぐ側にあった髑髏 丘(ゴ ルゴタの丘)だった。伝説による と、その丘の中腹にアダムの墓が あり、『髑髏丘』という名付けは

天国への道

死刑を受けた人の骸骨を置く習慣 があったからだという。 十字架への磔は、ローマの伝統 的な死刑法だった。受刑者をT字

地獄への道

型の十字架に縄で縛りつけ、空腹 と乾きと暑さで死ぬまでそのままにするのが一般的であるが、イースターの前日で皆は 町に早く帰りたがった。また、祭りの日に十字架に磔り付けられた受刑者の姿を誰も見 たくなかったので、囚人らを十字架に磔付けた後、死を早めるためにその膝を叩き潰す ことにした。イエスは十字型の十字架に磔付けられ、頭上にはINRI(ラテン、 IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM=「ユダヤ王なるナザレのイエス」)と書か れた看板が取り付けられた。 十字架に釘が打たれる時にイエスは「主よ、どうかこの人々にお許しを。彼らは自 分で何をしているか分からないのだ」と何度も言った。

イエスの両側に二人の強盗犯が磔付けられた。その囚人の一人がイエスを罵って「お前はメシアでは ないか。自分自身と我らを救ってみろ」と言うと、もう一人は「お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けて いるのに。我々は自分の犯した罪の報いを受けているのだから、当然だ。しかしこの方は何も悪いことをして いない」そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 すると、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日我と一緒に楽園にいる」と答えた。 「ルカ 23/39~43」

イエスが「熱い」と言ったとき、ロー マ兵は酢に浸したスポンジを彼の口に押

し付けた。イエスの最後の言葉は「父よ、 我の霊を御手にゆだねます」だった。


26 ローマ兵はイエスの膝を叩き潰すため

聞いて、噂を防ぐために洞窟の入口を大

に来ると、彼は既に息を引き取っていた。 きな岩で閉じて神殿の警備をつけるよう そしてローマの隊長ロンギネスはヤリで イエスの胸を刺した。

に命じた。 イースター祭の日が過ぎて洞窟の前に

イエスが死んだ瞬間、地震が起こり空

人々が来ると、地震が始まって岩が転が

は真っ暗になった。後に、隊長ロンギネ

って入口が開いた。洞窟に入るとそこに

スはキリスト教の伝道者となって、苦悩

遺体はなく、遺体を包んでいた布だけが

を受けて死んだため聖人とみなされた。

きちんと畳んで置かれていた。間もなく、

ロンギネスのヤリは『運命の鑓』と呼ば

イエスはマグダレナの前に姿を現したが、

れ、『聖杯』(イエスの傷から血を集め

未だ触ってはいけないと言った。そして

た杯)と並んで幻の遺物として知られて

12使徒の前にも数回現れた。最初に使

いる。『運命の鑓』は戦いの勝利と権力

徒たちはそれはイエスの亡霊だと思った

を 与え るもの と信じ られ 、王 や独裁 者

が、彼は肉体を持っていると証明するた

(ヒトラーなど)はそのヤリ

めに魚と蜂蜜を食べた。

を手に入れようとした。

8日間が経ってはじめて、 イエスは「体に触れても良

イエスの遺体は十字架か

い」と言った。その後、彼

ら降ろされ、12使徒とマグ

は大衆の前に姿を現し、ペ

ダレナのマリアにお別れの時

トロを許して彼に教会創立

間が与えられた。その後、市

を委ねる。最後に、イエス

民から選ばれた証人と神官の

は皆の前で昇天する。10

目の前に、遺体が布に包まれ

日後に、使徒たちは神に約

て洞窟の中に置かれた。ヘロ

束された『聖霊才』、つま

デ王は、イエスが「三日目に

り超能力を贈られた。

復活する」と約束したことを

「精霊才」、エル・グレコ、16世紀

『聖霊才』とは

 予言の才

未来を予言できる

 言語の才

全ての言語を話せる

 破壊の才

ものや敵を滅ぼす

です。福音書はそこで終わる。


福音書の次に、使徒たちの生涯(使徒

いている。例えばペトロは、イエスが復

行伝)、キリスト教会の創立史や、世界

活する前の土曜日に地獄に降りて、旧約

諸族に送られた使徒の教書などが書かれ

時代の義人(アダム、イブ、モーゼなど)

ている。その中で使徒は、福音書に入ら

を連れ出したと書いている。

なかったイエスの生涯のエピソードも書

黙示録 ОТКРОВЕНИЕ 新約聖書の最後章は使徒ヨハネによる アポカリプシス

『 黙 示 録 』だ。黙示録の内容は寓話的 で神秘的なイメージに溢れているため、 現在でも本や映画などにそれをテーマに

まった過激な宗派や新興宗教なども多い。 実は、伝統的なキリスト教でも黙示録の 解釈は元々困難で、黙示録が聖書の一部 として認められたのも比較的に遅かった (4世紀初期)。一般人が黙示録を読む と、それは福音書の雰囲気とかなり違う ことに気づくだろう。

黙示録は人類の未来について語る。

先ず、ヨハネは目の前に天の国を見 る。宝座に座る神が見え、彼の前にまた 24の座が並び、それらに白い服を着て 頭に金の冠をかぶった24人の長老がつ いた。隣に、旧約預言者エゼキエルのビ ジョンに登場したワシ、ライオンと大牛 が現れる。神は手に七つの封印で封じら れた巻物を持って、「封印を破ってこの 本を開けるにふさわしい者がいるか」と 問いかける。そこで、七つの眼と七つの 角(神の七霊の象徴)を持つ子羊が出て くる。羊は生贄の動物であり、人類のた 「黙示録のイラスト」、フランス、15世紀

した空想や思弁などが多い。アポカリプ シスという言葉は「世紀末」の同意語に なってしまった。しかも、黙示録はノス トラダムスの予言と頻繁に間違われて、 誤解が後をたたない。黙示録の思想には

めに自分を犠牲にしたイエスを意味する。 子羊が封印を一つ一つ壊す度に、地上に 大災害が起きる。先ず、白馬、赤馬、黒 馬と青白い馬に乗った騎士が地上に送ら れる。四番目の騎士の名は『死』であり、 彼の後ろに地獄から出た霊の大軍が走っ


28 て、世界に死と破壊を撒き散らす。イス

表して地上の支配者になる。反キリスト

ラエルの12の氏(うじ)から14万4

は世界を厳しく統制し、皆に額か右手に

千人だけが選ばれて、額に神の印を貰い

「666」の印をつけることを義務付け

救われる。その次にラッパを手にした七

る。

天使が現れ出て、相次いでラッパを吹く

神は七天使を送り、その天使たちは怪

と、モーゼ時代のエジプトに起こったと

獣の支配下にいる人々に病と苦しみを与

同じような災害が地上に広がる。神は天

える。

使の大軍を送って、天使たちは人々を殺 し続けても、人は罪を反省しない。

その次に、ヨハネは地上文明の邪悪さ を象徴する『バビロニア娼婦』を見る。

神は、人間に「反省せよ」と呼びかけ

最後の戦が終わり、サタンであるドラ

る二人の預言者を送る。二人は、敵が現

ゴンと反キリストである怪獣は捕まって

れると口から炎を吐いてそれらを滅ぼす。 牢獄に入れられる。そして千年の間キリ 預言者の伝教が終わると、怪獣が来て二

スト王国が続く。

人を殺し、その死体は町の路上に置き去

千年が経つと、ドラゴンと怪獣は一時

りにされるが、三日後に二人は復活し、

的に牢獄から開放されて、また群を集め

町の一部が地震によって滅びる。その次

て神の城を襲うが、炎に焼かれる。

に、天空が開いて人々は天の神殿と『契 約の箱』を目にする。 それから最後の戦い(アルマゲドン) が始まる。 先ず、太陽の光に包まれて、星からで きた冠を被り月の上に立つ処女が現れる。

最後の審判が始まる。最後の千年間に 死んだ人々は復活して神の裁判を受ける。 神は人の悪業、悪意と悪言に対し天罰を 与える。サタン、反キリストと罪深い者 は永遠に『炎の海』に囚われる。 その後、天と地が生まれ変わって、地

処女は新生児を産むが、そこへ七つの首

上から海が消える。神の天城(天空のエ

を持つ巨大な赤いドラゴン(サタン)が

ルサレム)は地上に降り、それは正確な

飛んできて、新生児を食べようとする。

立方体の形をして、幅は144スタディ

しかし、神は女性に翼を与えて、彼女は

オン(約30km)で、4つの方面に1

ドラゴンから砂漠の向こうへ飛び去る。

2門があり、天使に守られている。それ

大天使ミカエルはドラゴンと戦って、天

は神の光に照らされる永遠の昼の黄金の

空から地上へ落とす。地上に落ちたドラ

城で、そこに神は実際に所在するので神

ゴンはキリストを信じる義人たちと戦う。 殿は無用で、そこには義人と聖者が永遠 海の中から七つの頭と七つの角をもっ

に住むようになる。町の中には命の川が

た怪獣が出てきて、ドラゴンと手を組ん

流れて、毎月新しい果実が実る奇跡の樹

で 義人 軍を破 る。そ して 二番 目 の怪 獣

があり、葉は万人の病を癒す力がある。

(反キリスト)が出現し、ドラゴンを代

又、その町にある子羊は、街に入場でき


29 る義人の名前が書かれた『命の本』を持

語一つでも加えた者、若しくは消した者

っ てい る(罪 深い人 は神 の国 に 立入 禁

は『命の本』から永遠に取り消されると

止)。最後にヨハネは、『黙示録』に卖

宣言する。

以上が聖書の主要な内容であるが、キ リスト教は聖書だけに限らない。 聖書はとても大きな本であるため、そ れを実際に持つ人は元々尐なかった(革

った。従って、キリスト教の内容をまと めて、全てのキリスト教徒に理解可能で、 また従わなければならない短い文(いわ ゆる『信条』)が必要だった。

紙で手書きされた本は極めて高価なもの

また、新約聖書には四つの福音書があ

だったから)。しかも、聖書にある寓話

るが、それ以外にも他の使徒が書いた福

やイメージなどは様々な解釈が可能なた

音書が存在する。しかし、それらは異端

め、異端の恐れも当然あった。例えば、

書として教会に拒否された。

公式のキリスト教会でも、イエスは神か 人間か、生まれ変わりが存在するかどう

更に、聖書の他にもいわゆる『聖伝』 が存在する。

か、などの疑問は永い間未解決のままだ

『聖伝』は下記のものを含める。

 七回の全地公会決定  地方公会(教会会議)決定  信経、教義議定(公会で制定されたニカイア=コンスタンティノポリス、ニカイア、カルケドンの三つ)  公祈祷や諸祈祷  聖歌やイコン、教会建築などの教会芸術  教会法

第一公会

Первый Вселенский Собор

4世紀、教会思想家の中で「イエスは人間か神か」という議論が広がる。教会の大 部分はイエスを父なる神と同一の神的存在と考えていたが、他の考え方もあった。特に、 イエスの神格を拒否した神学者アリウス司祭が有名だった。アリウスの教えによれば、 イエスは神ではなく、「神に創造された理想的な人間」だった。アリウスには支持者が 大勢いたが、アレクサンダー主教はアリウスを異端の罪で訴えた。


30 その理論によって教会が分離する危険があったので、コンスタンティーネス皇帝は 議論を解決するために公会を開催した。公会は325年にビザンツの町ニカイア(現在、 トルコのイズニク)で行われ、そこで318人の主教が集まり、有名な聖ニコラス(サ ンタさんのモデルになった人物)も参加した。議長はコンスタンティーネス皇帝自身だ った。公会の目的は、アリウス派の異端を証明し、三位一体の存在を証明して、イエス を神人として認めることにあった。しかし、集まった神学者はどうしてもアリウスの教 えを論破できず、聖ニコラスは怒りの余りにアリウスの顔を打った。 結局、スピリドン主教は次のような争う余地のない論拠を挙げた。彼は、陶器の欠 片を手にして、これは三位一体と同様であると言った。「欠片」は一つだが、その起源 は「火、土、水」という三つだ。その論拠に皆が納得した。 第一公会で認定されたキリスト教の『信条』は今でもほぼ変更されていない。しか し、時代の流れで、信条の数ヶ所が調整された。その調整をきっかけに、1054年に 正教とカトリック、17世紀にロシア教会は旧派と新派に分離した。以後、キリスト教 が世界中に広がったが、カトリックと正教の信条は別々に翻訳さるようになった。特に

信条 わたしは信じます。 唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。 わたしは信じます。 唯一の主イエス・キリスト(正教会:イイスス・ハリストス)を。 主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、 まことの神よりのまことの神、 造られることなく生まれ、父と一体。 すべては主によって造られました。 主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、 聖霊によって、処女マリア(正:マリヤ)よりからだを受け、人となられました。 ポンティオ・ピラト(正:ポンティイ・ピラト)のもとで、わたしたちのために十字架につけられ、 苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、 天に昇り、父の右の座に着いておられます。 主は、生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。 その国は終わることがありません。 わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。 聖霊は、父【と子】から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、 また預言者をとおして語られました。 わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。 罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、 死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。 アーメン(正:アミン)。


31 日本語の信条は、元々同一文書にもかかわらず、 翻訳は違う表現で書かれているため、人名などが 異なるので似ていない。二つの信条の違いを理解 するために、より簡卖な表現で書かれたカトリッ ク版をもとに合成翻訳を作って見よう。

【と子】は、ラテン語で FILIOQUE(フィリオ クェ)といい、4世紀の信条にローマカトリック 教会によって記入されたものだ。元々、アリウス 派と議論するために導入されたものだが、段々そ れは「唯一正しい」考え方とされるようになった。 しかし、東方正教会はそれに賛成できず、結局そ の『フィリオクェ問題』はローマカトリックと正 教会の分離のきっかけとなった。 現代のキリスト教は、あらゆる宗派と流派があ り、その違いは主に信条の理解と解釈、または 『聖伝』の考え方にある。

教会建築の起源と進化 キリスト教会は千年に渡って進化し、各国で時代によって独特に変形さ れていった。 弾圧を受けていた古代キリスト教徒は、礼拝のために人の家あるいは 「カタコンベ」と呼ばれる地下納骨所で集まっていた。信者が集まって いた長方形の食卓は後に殉教者の石棺に代わった。蝋燭を備えた石棺は 西方キリスト教の祭壇の原型だ。 キリスト教美術もカタコンベの中で生まれた。初期キリスト教は旧約 の伝統と強く結ばれ、ユダヤの集会場(シナゴーグ)を聖堂の手本にした。当時、ユダ ヤ教会と廟の壁には壁画とモザイクが施され、それに模様と聖像の他にユダヤ歴史の場 面も描かれていた。カタコンベの壁画には鳥、果実、花輪などが描かれ、初期壁画のイ メージは新約に挙げられるものを示す(良き牧師、葡萄、魚、子羊、船など)。 キリスト教以前の神殿は神の住処とされ、祈りと供物を置く場所は入口の前で、入 場は神官にしか許されず、旧約に描かれる有名なエルサレム神殿もそうであった(入口 の前に「線を踏み切った異国人は殺される」という看板もあった)。


32 しかし、キリスト教では聖堂の考え方が代わって、教会は「神の民」が集まる聖地 となった。それで、西洋語の「CHURCH」とロシア語の「ЦЕ́ РКОВЬ」の直訳は「神の 民」だ。 歴史的にキリスト教会は、祈りと説教の会場としてシナゴーグの後継ぎだった。 最初の教会構造は、「バジリカ」という古代ローマの公舎に遡る。それは長方形の 建物で、内部は柱の列によって幾つかの「ネーフ=NAVE」という通路に分かれていた。 「ネーフ」とは船を意味し、即ち教会は、歴史の流れを走る「神の船」と考えられてい た。バジリカの外壁は飾りが最低限にしかなかったが、内部は大理石とモザイクで装飾 されていた。キリスト教がローマの国教となった時代に、大勢の信者を入れるほど広い 建物は尐なく、元々公文書館や図書館などに使われていたバジリカはそれに最適だった ため、教会に引き継がれた。

素朴な外見に華やかな内部空間、そのスタイルはビザンツの建築にも伝わったが、 最初は信者の集会場に過ぎなかった教会は、旧約のエルサレム神殿と同じく宇宙を意味 するようになった。このように、ユダヤ文化では別々と考えられた「集会場」と「神の 家」は、ビザンツ聖堂で一体に結ばれた。聖堂は人が「集まる場所」でも「主の宇宙箱」 でもあり、聖霊の吹き込まれた宇宙の象徴となった。丸屋根は天空を意味し、壁と天井 にイエスの顔、天使と聖人の像、新約の場面などが描かれていた。


33 バチカンの聖ペトロ大寺院

コンスタンティノープルの聖ソフィア大聖堂

宇宙のテーマはユダヤから西欧建築に伝わって、ロマネスク様式とゴシック様式に 最大限に発揮された。ロマネスク様式の教会は洞窟を象徴した水平型の建物であり、飾 りは比較的尐ない。一方、ゴシック様式では人間と神霊、植物とドラゴン、欲望と道徳 の象徴などを描いた「石のレース」が神に創造された世界の華やかさ表し、ステンドグ ラスによって内部が虹色に照らされ、細長い窓と高くそびえ立つ塔は天空に飛び上がっ ているかのように見える。 近代の教会では、「宇宙」よりも「集会場」の古い考え方が再び注目される。ルネ ッサンスが生んだバロック様式によって、民間建築の豪華な飾りは教会にも取り入れら れた。19世紀後半、中世様式に戻る傾向が見られるが、その成功例は尐なく、イミテ ーションに見える教会が多い。同じ19世紀後期に、教会建築にモダンな様式が導入さ

ロシア様式聖堂の平面図 れ、現代西洋文化では、教会は第一に信者の集まる場所として考えられるようになった。

古代ロシアの教会は中心部に丸屋根があるので、その平面図を見ると、神聖な記号 と考えられる円形、長方形、十字架が見えてくる。 キエフの聖ソフィア大聖堂は主にビザンツ様式で設計された、12世紀以降のロシ ア教会には独特な形が現れる。12世紀から15世紀にかけてロシアで建てられた教会 は比較的小さく、一頭型でシンプルだが、その設計はとてもバランスが良く周囲の風景 と調和している。


34 聖堂の壁には万物の世界、宇宙や人間像、聖書の場面などが描かれ、中塔の丸い天 井から、無数の聖人と天使に囲まれたイエスが厳しい目で人間を見下ろしている。西側 の壁には『最後の審判』や地獄を描いたフレスコがある。それは全て、聖堂に入った信 者に教会との深い関わりを感じさせる。地獄を西側に描く習慣は、古代エジプトからき て、西の砂漠は悪霊の住処であるという迷信から始まったものである。 16世紀から17世紀に建てられた教会は大変華やかで、回廊と別館に囲まれてい る。その華麗な装飾は、西欧のゴシックと同じように神によって創られた世界の豊かさ を意味している。 18世紀、ロシア建築にバロックと新 古典主義(古代ギリシャとローマのモチ ーフ)が普及し、伝統的な教会建築は危 機の時代を迎える。19世紀の建築家は、 インスピレーションを探し求めて中世文 化に目を向け、ロシアにいわゆる「新ビ ザンツ様式」が流行る。(ところで、東 エルサレムの神殿(模型)

京にあるニコライ堂もその一例だ。)そ して、20世紀初期に伝統の美観と近代

的な建築技術を統合した「新ロシア様式」が生まれる。 朝日に顔を向けてお祈りをする土着信仰由来の習慣は、キリスト教にも伝わった。 正教会の祭壇の間(アプス)は伝統的に東に位置される。アプスはイエスの生まれた洞 窟を意味する半円のニッチだ。 © Jeremy Atherton, 2007

キリスト聖堂の原型である旧約聖書のエルサレム神 殿 は 、 至 聖 所 (Свята́я Святы́ х ) 、 礼 拝 所 (Святи́лище)と玄関部(Притво́р)という三つの部 分に分かれていた。キリストの教会にも、祭壇が置か れる半円型のアプス、信者が集まる本堂、そして新し い信者らが立っていた玄関がある。また、シナゴーグ と同じように説教台(Амво́н)がある。 祭壇は立方体型(バイブルでは「宇宙」を意味する) であり、その奥に七本のロウソク台がある。従来、聖 堂と祭壇の間は低い石柵で分けられていたが(現代の 西洋教会もそうだ)、4世紀から7世紀の間に、柵の

上に幕をかけるようになり、礼拝が終わったら幕を閉じていた。後に、イコン拒否運動 が終結された後、柱の間にイエスとマリアのイコンを掲げるようになり、イコンは段々


35 増えてきた。ロシアでは、イコンを二段の横列に並べ、14~15世紀には横列の数は 更に増えた。こうして、ほぼ天井まで届く高い壁「イコノスタシス」ができた。イコノ スタシスに並ぶ像の内容は、信者からは見えないアプスの壁画とほぼ同じだ。 イコノスタシスの真中にある「王門」は元々低い扉だったが、段々実際の「門」に 変形してきた。王門に新約聖書を書いた四使徒(ルカ、マルク、マタイ、ヨハネ)の像 があり、門は平日に通ってはならないので、その両側に「北戸」と「单戸」という隠し ドアが備えてある。 説教台はシナゴーグから来たもので、キリスト教会では真中に置かれていたが、後 にカトリック教会では祭壇の横に移って「講壇」と呼ばれる演説台に変わった。東方正 教会では、イコノスタシスに繋がる壇(高処、СОЛЕЯ́ )の中心部が説教壇にされた。 現在、昔の説教壇を思い出させるのは主教が儀式を行う時に中心に置かれる低い教壇だ けだ。 聖人を記念して教会を名づける習慣は、キリスト教徒が弾圧を受けた時代から始ま った。当時、祭壇の下に殉教者の墓があった。後に、聖人像や天使などだけでなく、宗 教史上の出来事(イエス誕生、復活など)を記念する教会も建てられるようになった。 本堂の、入口から見れば右側に置かれるイコンは、教会の「本尊」であるので、そ れを見れば教会の名称が分かる。 又、別の祭壇を持っている別棟は ПРИДЕ́ Л(付け宝座)と呼ばれる。東方正教会の 掟では、聖餐儀式は同じ祭壇に一日一度しか行えないので、数回行うために祭壇の数を 増やす必要がある。例えば、モスクワの赤の広場にある聖ワシリイ大聖堂には本堂と八 つの付け宝座があり、祭壇は九ヶ所に置かれている。

礼拝の種類 キリスト教の礼拝では最も重要なのは聖餐(ギ:エフハリスチア

訳:感謝式)で

あり、それはギリシャ正教で「聖体機密=ПРИЧА́ СТИЕ」とも呼ばれる。伝説によると、 イエスは最後の晩餐でパンと葡萄酒を使徒と分け合って「パンが我が身なり、葡萄酒が 我が血なり」と言い、ユダヤの伝統的な食卓に神秘的な意義を与えた。夜の食卓はキリ スト教徒にとって聖なるものとなって、イエスと約束を交わす意味をもつ。ユダヤの晩 餐儀式は、聖書中の場面の講読や聖歌を含めているもので、それはキリスト教の聖餐に も受け継がれた。 そうか

きとう

聖体礼儀の前に①Вечеря(晩課)②Утреня(早課)③Часы(祈祷)が行われる。 現在、一日の時間が深夜0時から始まることは、古代ユダヤに遡る習慣であり(牧夫の 一日は日没から始まっていた)キリスト教によって世界に広がった。聖書によると、神


36 へ捧げる誠実な祈りは、絶えることなく神を念ずることであり、祭壇に点灯された蝋燭 も「永遠の祈り」を意味し決して消えてはならない。信念深いユダヤ人は、朝・昼・晩 にお祈りを唱える習慣があり、1世紀頃にその習慣はキリスト教にも導入されて、3 時・6時・9時にお祈りをする。古代教会には夜間の祈りもあったが、現在ではイエス の誕生祭と復活祭のみに行なわれる。

機密と儀式 東方正教会では機密は普通の儀式と異なる。儀式は、神に信念を表す行動に過ぎず、 一方機密とは、神から聖霊の祝福が信者に下される特別な聖務執行だ。最初は13世紀 の西欧、そして東方正教会にも七つの主要な機密が選ばれた。

洗礼 (КРЕЩЕ́ НИЕ) キリスト教によると、洗礼は教会の一員になるこ

フレスコ「使徒の洗礼」

とだけでなく、神秘的にイエスの聖体を授けるものと 信じられている。伝統的に水(刷新と浄化のシンボル) を使うが、水がなければ雪、砂でも使えるという。洗 礼を施すのは司祭だけでなく、キリスト教徒であれば 誰でも行うことができる。洗礼の時に立会人になって、 新改宗者に精神的な援助を与える人は「代父」または 「代母」と呼ばれる。

せいさん

聖餐=聖体機密 (ЕВХАРИ́СТИЯ, ПРИЧА́СТИЕ) パン(イエスの聖体)を食べて、葡萄酒(イエス の血)を飲んで、イエスの最後の晩餐に参加すること を意味する機密。

塗油式 (МИРОПОМА́ЗАНИЕ) 教会の一員に聖霊が下りる機密。塗油式を受けた 人は世界にイエスの言葉を伝える役目を与えられる、 つまり一人前のクリスチャンと見なされる。そもそも

「ニコライ2世の塗油式」、V・セローフ、1896

「クリスチャン」というのは直訳すれば「油を塗られた者」のことだ。司祭は総主教に 祝福された聖油(МИРО́)を信者の頭に十字を描いて塗る。正教会の場合は、洗礼の直 後に塗油式が行われるが、西欧の教会の場合は信者が成人になってから行われる。ロシ


37 ア語では、「МЫ ОДНИ́М МИ́РОМ МА́ ЗАНЫ 」という表現があり、それは「我らは価 値観が同じだから、相互理解が出来るし、助け合っても当然だ」を意味し、宗教的な意 味をほぼ失っている。現代のロシアでは「МИРОМ」を「世界」と間違う人もいる。

あんしゅ

按手 (РУКОПОЛОЖЕ́ НИЕ) 教会は信者に機密と聖務を行う力を与え、聖務執行者と認める。任命者(最低でも 主教)が相手の頭に手を置いて行う聖務執行。従来、聖務執行者の位は主教、司祭、輔 祭という三つ。主教(ЕПИ́СКОП)は七つの機密、司祭(СВЯЩЕ́ ННИК)は按手を除 ほさい

く機密を行う権利を持ち、輔祭(ДЬЯ́ КОН)は機密執行を手伝うだけである。又、総主 教(ПАТРИА́РХ)、府主教(АРХИЕПИ́СКОП)と大主教は全て主教の位のこと。

ざ ん げ

懺悔(ПОКАЯ́ НИЕ, И́СПОВЕДЬ) 罪を犯した人の告白と赦免による神との仲直り。

結婚(БРАК) 新しく生まれる家族に祝福を与える機密。

せ い ふ

聖傅機密(СОБОРОВА́НИЕ、ЕЛЕОСВЯЩЕ́ НИЕ) 身体と心の回復を祈って、病人の身体に聖油を塗る儀式。


38 第二章 中世ルーシ文化の始まり НАЧАЛО СРЕДНЕВЕКОВОЙ РУССКОЙ КУЛЬТУРЫ ウラジーミル公による伝統信仰改革 ルーシにキリスト教を導入

ンツ皇帝の支配下になると、当然のよう

したキエフのウラジーミル

に思っていたからだ。

公は、年代記師や宗教思想

ウラジーミルの父親スビャトスラフ公

家に「亜使徒聖人」と呼ば

は、その危険性をよく知っていた。10

れるが、大衆の記憶に彼は

世紀半ばに洗礼を受けた彼の母親、オー

=Я́ СНО

リガ公妃に何と言われようと、スビャト

СО́ЛНЫШКО」として残った。この「太

スラフは絶対にキリスト教徒にならなか

陽」のイメージは土着信仰によるもので

った。

あり、古代スラブの太陽崇拝に遡る。ウ

しかし、原始的な土着信仰は部族性が

ラジーミルは伝統信仰で生きる最後の公

強過ぎて、統一国家を支える思想として

爵(王)であり、ロシアの支配者の中で

不適だったために、980年にキエフの

「太陽」に譬えられる者は彼しかいない。 王座を占めた若きウラジーミル公は、信 ウラジーミル公は、土着信仰のルーシ

仰改革を考えた。恐らく改革の発想は、

諸国を統一し、キエフ公爵家の権力を維

スラブの神話に詳しいウラジーミルの叔

持強化するために、宗教思想が必要だっ

父ドブルーニャ将軍からきた。

た。当時、ビザンツのキリスト教は60 0年以上の歴史を誇り、スラブ民族のブ

「キエフの支配者となったウラジーミル公は、宮殿庭

ルガリアでも、キリスト教を受けて既に

園前の丘の上にペルーンの木像を建て、その頭は銀で髭

100年も経っていた。キリスト教は、

は金だった。その他にホールス像、ダジュボーグ像、ストリ

もはや奴隷の夢ではなく、「奴隷は主に

ーボグ像、セマールグル像とモーコシ像。それらを『神』と

逆らうべからず」と宣言する階級社会の

名付け供物も捧げた。そこに人々は息子や娘を連れて

宗教に変身した。キエフの公爵家にとっ

悪霊を奉り、その供物で大地を汚した。」

てキリスト教の導入は望ましかったが、

年代記『過ぎし年月の物語』(別名:原初年代記)

一方それは危険でもあった。ビザンツは、 ギリシャ正教を受けた全ての民族はビザ

年代記に書かれたこの場面は、卖なる「神社修復作業」ではなかった。以前のキエ フは、国家的崇拝の対象が二つあり、一つは雷神ペルーンで、もう一つは豊富神ヴォー ロスだった。しかし、今度はペルーンが六神の最高神とみなされ、ヴォーロスは六神団


39 に入らない。しかも、以前のペルーン像は宮殿から離れた丘の上にあったが、六神像は 宮殿の前に置かれた。又、宮廷の中庭ではなく「前に」置かれたことは、できるだけ大 勢の市民を集めるためだった。 つまり、六神崇拝には公爵家と武士階級だけでなく、平民も参加していた。人々は 「息子や娘を連れて」 供物奉献式に参加した後、皆で酒を飲んで奉献した食べ物を食 べていた。これはウラジーミルによる「大衆迎合政策」の一部であり、このような宴会 の場面は伝説にも歌にも聞かれる。公爵とその部下にとって、宴会は政治や軍事などの 政策を会談する場でもあった。土着信仰から始まった宴会の伝統はキリスト教時代にな っても受け継がれた。

改革の目的 ウラジーミルはキエフ公になった直後に信仰改革を始めたという事情は、公爵家が それを重大視したことを示している。その改革の主要目的は次のように考えられる。

 キリスト教大国であるビザンツ帝国からの独立性を強化 ウラジーミルの祖母に当たるオーリガ公妃がコンスタンティノープルで洗礼を受け てから、ビザンツ皇帝はルーシを属国として見下していた。ルーシの独立性を強調する ために、ウラジーミルは外国由来のキリスト教ではなく、スラブの伝統信仰を国家イデ オロギーの土台とした。

 公爵家の権力を強化 キエフ軍団の最高司令官である公爵は国の第一人者でもあると国民に思わせるため に、武士の守護神のペルーン雷神を最高神とした。土着信仰の改革は「権力は神官から 武士へ移る」ことの証であり、ロシアの中世時代のスタート時点でもある。

 バイキング勢力への抵抗 ようへい

キエフ軍団の中にはバイキング傭兵 が多く、その一部はキリスト教徒だった。傭兵 に不信感をもったウラジーミルは、権力争いが終わった後、傭兵たちの市民に対する暴 力が始まったため、バイキングをルーシから追放した。ウラジーミルによる信仰改革は、 ギリシャ正教だけでなくバイキング信仰の影響に対する抵抗でもあった。

 国家統一の手段 ルーシの土着信仰は地域性が強く、各地に奉られる神々の数が多く、同じ神でも地 方によって名前は様々だった。ウラジーミルは、主要な機能を果たす神の数を六神まで


40 絞って、土着信仰に一定の構造を与えて、それを全ルーシ共通の信仰として導入しよう とした。

六神崇拝

キエフ公爵になったウラ ジーミルは信仰改革を宣 しせいじょ

言して、国家最大の至聖所 を公爵宮殿の前 に建てるように命じた。 1975年、キエフの歴史街で発掘が行 われ、旧公爵宮殿遺跡から約27㍍東に離 れた所に、変わった形状の掘穴が発見され た。その形状から6体の像の土台にほぼ間違いなかった。掘穴の深さは50~90㌢程 度で、その中に粘土で接着された石やレン ガや壁画の欠片などが多数詰め込まれてい た。北西の角には、直径約80センチの穴

ポドール

下町 ボ ー リ

があり、同じく欠片と粘土で埋められてい

チ ェ フ 坂

た。单西にも同じような穴があったが、そ

6~9世紀の 至聖所

代 の 古

12本の細い柱が刺さった跡が発見された。

土 塁

れは全体構造から2㍍ほど離れて、粘土に

デシャチンナヤ 教会の遺跡 公宮庭

出土された欠片の分析によって、これらは 全て10世紀のものと判定された。恐らく、 オーリガ公妃の命令で建てられて、971

ラ ウ

ミ ー ジ

    公 ル

年にスビャトスラフ公の命令で破壊された

町 の   980年の   至聖所

S

キリスト教会の跡だった。その他、東单に 直径3㍍のカップ型の穴があり、その中から焼かれた粘土、炭と家畜の骨が掘り出され た。又、10世紀のものと判明した斧も出土された。どう見ても、それは『過ぎし年月 の物語』に書かれた通りのウラジーミル公の至聖所としか見えなかった。

五つの丸い台には石が敶かれていて、石像を置くには最適だ。そして真中にある直 径180㌢の掘穴には、ペルーン神の大きな木造の足元が埋め込まれていたと思われる。 恐らく、奥の台には天神(父神ストリーボグと息子神ダジボーグ)の石像、表の台には 地の女神モーコシュと太陽神ホールスの像が置かれていたと思われる。又、左にある小 さい台は、モーコシの足元にあることから考えれば、犬神セマールグルにぴったりの場 所となる。


41 この至聖所を目の前にした古代キエフ人は、宇宙構造を想像したのだろう。左は天、 地と動植物の神、右は光と太陽の神、そして中心に金銀に輝く巨大な雷神の木像。木像 群の单側には供物を燃やす大きな窪みがあった。その隣に12本の柱に囲まれた直系約 80㌢の穴があるが、その役割は未だに不明だ。「12」だとすれば、12ヶ月を連想 できるので、それは占いや季節祭の日を計算する装置ではないかと考えられる。又、1 2柱は太陽神の像の近くにあることも、その説を間接的に裏付けている。

ペルーン ПЕРУ́ Н キエフ軍団の守護神で、元々雷と雤の神だ。6世紀バルカン半 島行軍時代に、武士・武器・勝利の神として奉られ、9~10世紀 キエフ国家創立の頃に最高神とされた。ルーシのキリスト教化後、 「火の馬車で空を走る」と言われる旧約聖書の預言者イリヤがペル ーンの代わりとなった。ペルーンは古代ギリシャ神話の雷神ゼウス に近い。ルーシの他にも、「ペルクーナス」の名前でバルトのラトビアとリトアニアに 奉られていた記録がある。

ストリーボグ СТРИ́БОГ ロッド=スビャトヴィットとスワローグという二神を一体化し た天王神。天と宇宙を創造した古(いにしえ)の『父なる神』で、 「ロッド」の名前でキリスト教の『天主』の同等のもの、「スワ ローグ」の名前で、明神ダジボーグの父親とされていた。ペルー ンが最高神になるまでは、ストリーボグは古代スラブの『万物の 神』だった。古代ギリシャ神話の天王神ウラノスに近い。「ストリーボグ」の語源は古 代インドの「PATERBHAGOS=父なる神」に遡ると思われる。

ダジボーグ ДА́ЖДЬБОГ スワローグの息子である明神。自然界・明光の古代神 であり、古代ギリシャのアポロに一致する恵みの神。スワ ローグとダジボーグは共に天の神だったが、古代人の世界 観による天空は一つではなかった。古代スラブ神話の天空 は、上の空(宇宙)、雤水が溜まっている中の空、地面と 太陽がある下の空に別けられていた。上の空はスワローグ (=ロッド・ストリーボグ)の世界、下の空はダジボーグ の世界だった。


42 名前の語源は、サンスクリット語の「DAGH=日」、ペルシア語の「DAGH=焼く、 照らす」、ゴート語の「DAGS=日」、ドイツ語の「TAG=日」、リトアニア語の 「DAGA=熱、豊作」と共通している。

モーコシュ МО́КОШЬ 『豊作の母、母なる大地』と呼ばれる畑と作物の女神。 土に雤を浴びせる「ヴィーラ」という二人の鳥女神に同行 ししゅう

される。そのイメージは民族衣装の刺繌にもよく見られる。 名前の語源は、ロシア語の「МО́КРЫЙ=濡れた、染め た」で、明らかに水と関連している。

セマールグル СЕМА́РГЛ 植物、特に穀物を守る犬神。古代イランの神話に遡る天王神 の使者。外見は翼を持つ犬もしくはグリュプスだった。植物の 神として大地の女神モーコシュに関連すると思われる。後にセ マールグルの名前はペレプルート「=恵ませる」に変わった。 名前の語源は、古代ペルシアの神 SENMURV から来たと思われる。

ホールス ХОРС 太陽神。ダジボーグは明神=光の神であるに対し、ホールス は二次的な存在で、恒星とされた陽の神と考えられた。ホール スの名前は「丸い」と直訳され、ロシア語の ХОРОШО「=良し」 や ХОРОВОД(輪舞)などの語源にもなっている。ダジボーグ とホールスの関係は、古代ギリシャ神話のアポロとヘリオスのそれに似ている。

以上、六神は三階級に分かれていることが分かる。 ① 国と公爵家を守るペルーン雷神 ② 天地の神=ストリーボグ天王神、大地の女神モーコシュ、ダジボーグ明光神 ③ 二次的な神=ダジボーグに関わるホールス、モーコシュに関わるセマールグル

***


43 10世紀半ば、955年から約5年間 に渡って権力を握ったキリスト教徒のオー リガ公妃によって、キリスト教はロシアに ようへい

根を下ろし、特にバイキングの傭兵 の中 で人気が高まっていた。そして、960年 頃に伝統信者だったスビャトスラフがキエ フの公爵になり、キリスト教の普及を防ぐ 政策を行った。その時、ルーシの神官階級 はキリスト教の思想に抵抗する方法を考え なければならなかった。当時、国際貿易が 広がり、多くのルーシ人はキリスト教国 (ビザンツ、ブルガリア、ギリシャ等)と イスラムの中東にも旅し、異文化に触れる 機会が増えていた。当時の思想世界は、広 がる世界宗教と無数の細かい宗派が競争す る現状だった。 ギリシャとブルガリアのキリスト教徒

B・リバコーフによる偶像配置の説

はルーシ各地に伝教活動を行っており、 黒海地域ではキリスト教は既に主要宗教だった。つまり、ルーシ伝統信仰にとってビザ ンツの正教は最も強力な競争相手だった。教会の取り壊しやキリスト教普及制限などの 他に、キリスト教に対抗できる思想も必要だった。ウラジーミル公による信仰改革の内 容を見れば、それは大いにキリスト教に関わることが解る。

六神は明らかにキリスト教の階層に対立している。当時、伝教者によるキリスト教 の説明は比較的に卖純だった。三位一体の意味を語るような複雑な神学が一切なく、一 般人にも分かる簡卖な世界構造、イエスの生涯などが説明されていた。

 世界の最高存在として万能の『父なる神』がいる  世界を救いにきた『息子なる神=イエス』がいる  神の息子を産んだ理想の女性、聖母マリアがいる  聖水は神のエネルギーを伝える  神の意思を人間に告げる天使たちがいる 980年の信仰改革による六神は、大いにその考え方に合わせて選集されたものだ。


44

キリスト教

六神崇拝

父なる神 万能の神、万物の創造者

ストリーボグ天王神 (=スワローグ、ロッド)

息子なる神 救世主=イエス「心理の太 陽、世の明光」とも呼ばれることがある

ダジボーグ明光神 スワローグの 息子、恵みを与える神

聖母マリア 救世主の母親 広い意味で慈悲に溢れる理想的な女性

女神モーコシュ 「母なる大地」、「運命の母親」とも 呼ばれる。

天使 神の使者 主に、翼のある人間として描かれるが、 動物や炎の翼に包まれた顔などの 姿もある。

天と地の仲介者である 翼の犬セマールグル。 ダジボーグの光を大地に送る 太陽神ホールス。

このような六神制度の導入によって、伝統信仰の神官はキリスト教の伝教者と議論 できる立場になった。ロッド神は数世紀に渡ってスラブの最高神だったが、その像は男 根形だったため、それはキリスト教徒の道徳観に反し「野蛮」に見られたため、ロッド はストリーボグの姿に隠された。同じ理由で、黒魔術やあらゆる迷信、乱痴気騒ぎの祭 りに関わっていたヴォーロスも六神に入らなかった。ロッドもヴォーロスもギリシャ正 教の雰囲気には強く反するものだったが、ルーシ人にとって極めて大事な存在だったた め、信仰改革とキリスト教化にも関わらず人気を失うことなく、後にも数百年に渡って その崇拝が潜在的に存在していた。

しかし、ペルーンはなぜ 最高神になったのか?

キエフ軍団は、ブルガルを鎮圧し、ハザル帝国を滅ぼし、 ビザンツ帝国に恐怖を吹き込み、無数の遊牧民と戦って

スラブ諸族を統一させた。このような武士たちが戦の神を最高神にするのは当然のこと だった。 恐らく六神制度は、若いウラジーミル公が自分で考え出したのではなく、神官との 会議によって生まれたものだ。

六神崇拝不人気の理由 改革された信仰の不人気を説明する教会派の作家は「人間の生贄が多かった」と主 張するが、それに考古学的な証拠がない(家畜の骨しか発見されていない)。唯一の記 録としては、キリスト教徒のバイキング人が「息子を生贄によこせ」と言われて断った ために、二人とも殺害された事件が『過ぎし年月の物語』に書かれている(しかし、そ


45 の原因は信仰ではなく卖なる復讐だったと考える学者もいる)。更に、六神崇拝はわず か8年間しか続かなかったので、「生贄が多かった」というのは考えにくい。 ウラジーミル公は、自分で始めた改革をなぜ取り止めることにしたのか?それには、 深い社会・歴史的な原因があるはずだ。 中世時代の到来の証は政権階級の交代にある。政権は神官階級から武士階級に移る。 中世の身分階級(士農工商)には、商工がいかに低い立場になっていても、果たしてい る役割は決して小さくない。市民の中で商人は最も金持ちの部分に当たり、国家政策に も影響を与える力を持っている。しかし、六神はどの階級に支持されたのか?

 武士階級 ⇒ ペルーン雷神  農民 ⇒ 地と豊作の女神モーコシュ、明光神ダジボーグ、太陽神ホールス  職人 ⇒ ストリーボグ(鍛冶屋の守護神スワローグ〒創造の神ロッド)  商人 ⇒ ???

商業と財産を守る神はいない。ルーシ各地の市場には、ヴォーロスの像があったが、 その神は六神に入らなかったので、商人が新しい崇拝を支持したとは考えがたい。更に、 ビザンツをはじめ黒海・地中海地域のキリスト教国は、ルーシの商人にとって魅力的な 市場だった。つまり、キリスト教になることは商人にとって大変有利なことだった(古 代ローマにも、キリスト教を最も受け入れた階級は商人だった)。これは第一の、社会 的な原因だ。 第二の、歴史的な原因は、土着信仰は改革されても公爵家にとって不便な存在だっ たことにある。大衆は伝統信仰に従う限り、神官階級が力を失わず、それは政権を独占 しようとした公爵家にとって大きな妨げだった。公爵家は、武士階級に絶対的な優先を 与える国家結成の思想が必要で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神にしなさい」と 宣言するキリスト教は最適の宗教だった。 ウラジーミル公による信仰改革は土着信仰の 断末魔だった。ウラジーミル公は、神官を建前で 支持しても信頼しなかったので、神官階級を丸ご と滅ぼすことにした。そのために、新しい宗教の 導入より良い方法はなかった。キエフのキリスト 教化後のルーシ各地に始まった神官と占い師 の虐殺は、その間接的な証拠だ。


キエフのキリスト教化 КРЕЩЕНИЕ КИЕВА

860

年代、キエフのバイキン

古代ローマの有名なコンスタンティー

グ系公爵兄弟アスコーリ

ネスも、ローマ軍の大部分がキリスト教

ドとディールは、部下と共に、コンスタ

徒であると分かってから、キリスト教を

ンティノープル総主教フォチウスに送ら

ローマ国教にした(しかし、自分で洗礼

れた二人の司祭キリルとメトーディウス

を受けたのは死を目の当たりにした時)。

から洗礼を受けた。その「フォチウス伝

ビザンツにとっては、資源豊かで広大

教」の記録からロシアキリスト教の歴史

なルーシを植民地にすれば大変有利だっ

が始まり、9世紀後期にルーシはギリシ

たが、征服するほどの軍事力がなかった

ャ正教管区のリストに最初は61番で記

ので、宗教に賭けた。しかしルーシは、

載される。ウラジーミル公の祖母オーリ

キリスト教国家になっても当然、植民化

ガ公妃もキリスト教徒であり、957 年頃

されるつもりではなかった。キエフ公爵

にコンスタンティノープルで洗礼を受け

家にとって、ギリシャ正教は政治道具に

たという。

過ぎず、キエフは独自の政策を行って、

『過ぎし年月の物語』に書かれたウラ

間もなくヨーロッパ最大の都市に発展し

ジーミル公による信仰選択の伝説は、中

た。ルーシは徐々にビザンツから離れて

世に流行っていたビザンツ本籍『哲学者

世界正教の拠点としてライバルになりつ

之 演説 』から 借りた スト ーリ ーであ る

つあった一方、ビザンツ帝国はあらゆる

(その年代記でもビザンツの使者が「哲

理由で段々と弱まっていた。

学者」と呼ばれる)。ルーシの隣国だっ

『過ぎし年月の物語』を読むとき、こ

たハザル帝国にも同様のストーリーがあ

れがキリスト教化の約120年後に僧侶

カガーン

によって書かれたものであることを忘れ

ったが、ハザルの 王 はユダヤ教を選ん だ。20世紀初期の教会史研究者は、キ リスト教化は988年にあったこと以外 に、『過ぎし年月の物語』の信仰選択の 部分は殆ど空想であるとした。 ロシアのキリスト教化において、ウラ ジーミル公による改革は決定的な転機と なった。ウラジーミルは公爵になった頃、 キエフ市民や公爵軍団にキリスト教徒は 既に大勢いたと思われる。

てはならない。中世時代の年代記作家は どの国でも権力者に厳しくコントロール され、王家や教会に不利なことを書かな いように命じられていた。そのため、多 くの年代記に歴史的な事実は暗号化され、 その解釈は困難だ。『過ぎし年月の物語』 の作者ネストル僧も、歴史的な事実を正 しく記録するよりもキリスト教を宣伝し ていた。彼は、キリスト教化は平和に行 われたと主張し、その考え方は未だにロ シア正教会の教義だ。しかし、僧侶であ


47 る作者でも、伝統信仰を捨てたくない人

やしてしまった。ルーシ各地に、神官の

も大勢いたことを認めざるを得なかった。 虐殺と伝統信者に対する弾圧があった。 公爵は、キエフ市民を脅迫して洗礼を受

しかし、『過ぎし年月の物語』の内容

けさせた。他の年代記録からも、キリス

は空想が多いにも関わらず、真実も多い。

ト教化は他の地方でも武力と流血によっ

また、この年代記は、ただ歴史を語るだ

て行われたことが分かる。例えば、98

けでなく、ロシア人の伝統的な歴史観を

0年にウラジーミルの叔父ドブリーニャ

現代人に紹介しており、文化的にも大変

将は、ノヴゴロドでペルーン神の崇拝を

興味深い情報源であることは間違いない。

強制的に導入し(その地では古来、大蛇

『過ぎし年月の物語』を読むには、何

神を奉っていた)、988年に同じドブ

点かを覚えておくと、その内容は解りや

リーニャはノヴゴロドにキリスト教を押

すくなる。

し付け大勢の市民を殺し、街の半分を燃 ① 「ギリシャ」や「ギリシャ人」というのは、ギリシャ本国ではなく、ビザンツ帝国 を意味する。古代ロシア語で「言語」と「民族」はどちらも「ЯЗЫК」と呼ばれて 同一概念だった。ギリシャ語を話していたビザンツを「ギリシャ」、西欧人を 「НЕМЕЦ」即ち〔唖民族〕と呼び、また土着信仰信者のことは「ЯЗЫ́ЧНИК」つ まり〔民族信仰〕と伝統的に呼ぶ。 ② 当時、ブルガリアが二つ存在した。両方は元々二つの枝に別れた同一民族だった。 その一つはボルガ河にありトルコ語グループのイスラム国家だった。現代、その場 所にタタールスタン共和国がある。もう一つの枝は、大昔にドナウ河に移住し、現 地のスラブ民族と混ざった。これは現代のブルガリア国家の始まりだった。下記の 翻訳には、便利のために(それぞれの自称に合わせて)ドナウの国を「ブルガリア」 と呼び、ボルガの国を「ブルガル」と呼ぶことにする。

『過ぎし年月の物語』によるキエフのキリスト教化を語る一章 元々、全てのスラブ族は一族だった。それは、

イル皇帝に使者を送り、使者は「我が地はキリス

ウゴル族支配下のドナウ河のスラブも、モラヴィア

ト教を受けたが、我らを教訓し聖書を説明する教

も、チェコも、ポーランドも、現在「ルーシ」と呼ばれる

師がいない。何しろ、我らはギリシャ語もラテン語も

ポリャーネ族も。「スラブ字」と名付けられた文字は、

知らないから、こう教える者もいれば、ああ教える者

最初にモラヴィアのために創られたもので、今となっ

もいて、我らは文字の意味さえ分からない。本の

てルーシもドナウ河のブルガリアもその文字を使う。

言葉とその意味を解釈できる教師を派遣下され」

スラブ族のロスチスラフ公、スビャトポルク公とコ

と言った。それを聞くと、ミハイル皇帝は学者たち

ツェル公はキリスト教徒になって、,ビザンツの-ミハ

を集めて、彼らにスラブ公爵の言葉を全て伝えた。


48 それに学者たちは「テッサロニキに住むレオンという

メトディウスによる教えを否定するべからず」と言っ

男は、スラブ語を話せる二人の息子がいて、二人

た。コンスタンチンが帰って、ブルガリアへ教えに行

とも優れた学者だ」と

古代スラブは文字をもっていなかったという意見が

き、メトーディウスはモラ

答えた。それを聞くと、

一般的だが、実は持っていたという証拠も存在して

ヴィアに残った。そしてコ

皇帝はテッサロニキのレ

いる。10世紀のブルガリア人僧侶ホラーブル

ツェル公は、メトーディウ

オンに使者を送り「今す

(ХРАБР)の記録によると、古代スラブは『線とか き傷』(おそらく、バイキングのルーン文字に似た

スをパンノニアの主教に

ぐに、息子のコンスタン

ような単純なアルファベット)、またギリシャ字と

任命した。それはかつて

チンとメトーディウスとこ

ローマ字を混ぜて使用していたという。しかし、本

七十門徒の一人、聖使

ちらへ送りたまえ」と命

格的な共通文字はキリスト教と共に来たと言ってほ

徒パウロの弟子だった聖

ぼ間違いないだろう。

じた。直ぐにレオンは息

アンドローニクの職だった。

子を送って、二人が来ると皇帝は「いいか、スラブ

メトーディウスは二人の司祭を速記に雇って、三

地の使者が来て、聖書を習いたいから、それを解

月から十月二十六日まで、六ヶ月間かけて必要

釈できる教師を送るように頼んでいる」と言った。

な本を全てギリシャ語からスラブ語に翻訳した。完

皇帝は二人を説得して、ロスチスラフ公、スビャトポ

成後、メトーディウスは聖アンドローニクの後継者

ルク公とコツェル公のスラブ地へ行かせた。二人

だからその仕事に神から力を与えられたと思い、

はスラブへ来て、スラブ字を創り、使徒行伝と福

神に賛辞を呈した。即ち聖アンドローニク使徒は

音書を翻訳した。神の偉大さについて母語で聞

スラブ諸族の大師だ。昔、聖使徒パウロもモラヴィ

し へ ん

いたスラブは喜んだ。その後、詩篇や合唱曲集な ども翻訳した。

アに教え、彼が教えた旧スラブ地方のイリュリアも そこにある。即ち、我々ルーシもスラブだから、パウ ロ使徒は、自分でもスラブ族に教えたし、主教とし

コンスタンチンは出家した後、キリルという僧名 を受け たので、スラ ブのアルファベ ットは現在 「キリル文字」と呼ばれる。

てアンドローニクも送ったので、我々ルーシにとって 彼は伝教大使になっている。スラブとルーシは同 一民族であり、元々スラブと呼ばれたが、「ルーシ」

しかし、「ヘブライ人とギリシャ人とラテン族以外 の民族は自分の文字を持ってはならない。ピラトは *その三カ国後で+イエスの十字架に書いたから だ」といって、スラブの本を非難する者もいた。それ を聞いたローマ法王は、スラブ聖書の反対者を非 難し「聖書の言葉『万国は神を称えるべき』、そし て『聖霊は言葉を与えたからこそ、万国は神の偉 大さを称えるべき』が実現されるように。スラブ文 字を非難する者は、即ち羊ではなく狼であり、それ は彼らの行いを見れば分かることだから、彼らを避 けるべし。我が教え子よ、神の教えを聞いて、教師

という名はバイキングから来た、ポリャーネ部族と 呼ばれても母語はスラブ語だった。ポリャーネとい う呼び方は、もともと平原(ПО́ЛЕ)に住んだから だ。 <…> キエフの支配者となったウラジーミル公は、宮 殿前の丘の上にペルーンの木像を建て、その頭は 銀で、髭は金だった。その他にホールス像、ダジュ ボーグ像、ストリーボグ像、セマールグル像とモー コシ像。それらを「神」と名付け、供物も捧げた。そ こに人々は息子と娘を連れて悪霊を奉り、その供


49 物で大地を汚した。しかし、善の神は罪深い人々

い息子がいて、その息子に悪魔の仕業でくじが

の死滅を望まなかったので、今その場所には聖ワ

当たってしまった。<…>そのバイキングの所に使

シリイ教会がある。さて、話を戻そう。

者が来て「お前の息子にくじが当たって神々は彼

ウラジーミルは、自分の叔父に当たるドブリー

を選んだから、神々に生贄を贈るのだ」と言った。

ニャをノヴゴロドの将軍にした。ドブリーニャは、ヴォ

それにバイキング男は「あれは神ではなく木の塊に

ールホフ河の岸辺に*ペルーンの+偶像を建てて、

過ぎない。今日は有っても、明日は腐って消える

ノヴゴロド市民はそれを神と思って供物を捧げた。

だろう。彼らは食べることも飲むこと出来ず、人間

いんよく

ウラジーミルは淫欲にはまり、数人の妻がいた。 プ

の手によって木から作られたものだ。けれども、神は 唯一であり、彼は陽も星も月も人間も創って、人

一 人 は、 今ПРЕДСЛАВИНО と いう 村 が ある

間に大地を下さった。お前らの神々はいったい何

ル ィ ー ベ チ

ЛЫБЕДЬ河の近辺に所在したログネーダ公妃

を創ったのか?彼らこそ作り物だ。悪魔に息子を

で、彼女からイジャスラーフ、ムスチスラフ、ヤロスラフ、

渡すものか」と答えた。使者は戻り、皆にその言葉

フセーヴォロドという四人息子と二人の娘が生ま

を伝えた。そして皆が武器を持ってあのバイキング

れた。また、ギリシャ人妻からスビャトポルク、チェコ

の所へ行って、中庭に突入した。バイキング男は

人妻からヴィシェスラフ、もう一人の妻からスビャト

息子と一緒に玄関にいた。皆が「神々に生贄を

スラフとムスチスラフ、ブルガリア人妻からボリスと

するから、息子をよこせ」と言った。それに彼が「あ

めかけ

グレブが生まれた。その他に 妾 は、ヴィシュゴロド で三百人、ベールゴロドで三百人、ベレストヴォで 二百人いた。つまり彼は大変な淫乱者で、人妻 にも処女にも手を出していた。まさしく、妻七百人 と妾三百人を持ったと言われるソロモン王と同じよ うに好色者だった。しかし、ソロモンは如何に賢者 でも最後に死滅した、ウラジーミルは無知だった

れは神々であれば、神一人でも送って息子を奪 わせて見るがよい。お前らはいったい何のために彼 らに供物を贈るのか」と答えると、集まった皆が家 をまるごと倒して、二人を生き埋めにした。なぜなら、 あの時代の人は無知で反キリストだったからだ。< …>こうして、あの二人は聖なる殉教者と義人と 共に天国に上昇した。 984年、ウラジーミルはラディーミチ族へ行軍

が最後に永遠の命を手に入れた。

した。『狼之尾』というあだ名をもった一人の将軍

<…> 983年、ウラジーミルはヨトヴィングへ行軍し、ヨ トヴィング族に勝ち、彼らの地を支配した。そして軍 団とキエフへ戻り、偶像に供物を捧げた。長老と 貴族は「青年と処女にくじを引かせて、当たった 者を神の生贄にせよ」と言った。その時、一人のバ ウスペンスカヤ

イキングの男がいて、その家は今の聖母御眠 教

がいて、ウラジーミルはその狼之尾将軍を前に送 って、彼はピッシャナ河の近辺でラディーミチと戦っ て、ラディーミチに勝った。それで今もルーシ人はラ ディーミチをからかう「ピッシャナ人は狼の尾から逃 げる」と。あのラディーミチ族は元々ポーランド系で あり、この地に来て住み着いて、今もルーシに税を 払い貢物を贈る。

会のところにあった。そのバイキング人はギリシャの

985年、ウラジーミルは叔父のドブルィーニャと

地から来た者でキリスト教徒だった。彼は、凛々し

一緒に船で*ボルガ河の+ブルガルを襲い、ブル


50 ガルに勝った。そこでドブルィーニャは「捕虜を見る

月、全ての生き物を創造した神に礼を尽くすが、

と、皆が長靴を履いているではないか。あんな者

お前らの神々は木の塊に過ぎないのだ」と告げた。

から貢物を貰えない。他に、草鞋を履くやつを探そ

それにウラジーミルは「お前らの掟はどんなものだ」

う」と言った。それで、ウラジーミルはブルガルと平

と尋ねると、彼らは「出来る程度で斎戒し、何を飲

和を結び、双方がお互いに誓って、ブルガルは言 った。「石が水に浮いて、ホップの実が水に沈んだ らこの平和が終わるだろう」。そしてウラジーミルはキ エフに戻った。

さいかい

んで食べても、全ては神に感謝すべきものだ」と言 った。ウラジーミルは異国人らに「我が先祖はそれ を受けなかったので、帰りたまえ」と答えた。 その話を聞いたハザルのユダヤ教徒が来て、

986年、ブルガルから回教徒が

「ブルガルの人もキリスト教徒もここ

来て、「公爵よ、お前は賢者である

ブルガルの遺跡

に来て自分の信仰を教えたと聞い

が、法を知らないので、我が法を受

た。キリスト教徒は我々によって十字

けてムハンマドに礼を尽くすのだ」と言

架にはり付けられた男を神とするが、

った。ウラジーミルは「お前らの信仰は

我々はアブラハムとイサクとヤコブの

どんなものだ」と尋ねると、彼らは「神

唯一なる神を信じる」と言った。ウラジ かつれい

を信じ、ムハンマドは我らにこう教える『割礼をし、豚

ーミルは「お前らの法はどんなものだ」と尋ねると、

肉を食べない、酒を飲まないこと』。そうすれば、死

彼らは「割礼をし、豚肉とウサギ肉を食べない、土

後に女と淫乱できるのだ。天国でムハンマドは貴

曜日を守る」と答えた。公爵は「お前らの国はどこ

方に七十人の美人を与えて、その中から一番美

だ」と聞くと、彼らは「エル

しい女を選び、残りの女の美を全て彼女に与える。

サレムだ」と答えた。「誠に

そしてその女は貴方の妻となる。今生でも、あらゆ

そこにあるのか」と聞くと、

る淫乱をするが良い。もし、この世で貧乏であれば、

彼らは「神は我が先祖が

あの世でも貧乏だ」と、他にも様々な嘘を言った

犯した罪に怒って、我らを

が、それをここに書くさえ実に恥ずかしい。ウラジー

世界中に分散し、我が国

ミルは好色で、彼らの行ったことを楽しんで聞いて

をキリスト教徒に与えた」と

いた。しかし彼は、割礼や豚肉の禁止などを嫌っ

答えた。ウラジーミルはそれ

た。更に、酒について彼は「ルーシの楽しみは酒だ。

にこう言った「神に見捨て

それはなければ生きていられない」と言った。

られて分散されているのに、

その後、ローマから異国人が来て「我々は法

ユダヤ教の「メノーラー」の 刻まれたハサル時代の墓碑

よくも他者に法を教えるも

王に送られた」と言い、ウラジーミルに「そちらの地

のだ。もしお前らも、お前らの法も神に愛されたなら

は我らの地と同じだが、信仰だけが異なる。何しろ、

ば、他国にさまようことは無いはずだ。我らにも同じ

我らの信仰は明光だから。我々は天と地、星と

運命をたどって欲しいのか?」


51 その時、ギリシャから哲学者が着てこう言った

行軍させ、ローマはユダヤの都市を破壊し、ユダ

「ブルガルの人が自分の信仰を教えにきたと聞

ヤを世界中に分散させて、今もその民族は世界

いたが、その信仰は天地を汚すばかりで、彼らは

各地で奴隷扱いされている」と答えた。ウラジーミ

天罰を受けたソドムとゴモラと同じように呪われたも

ルは「神はいったい何のために地上に降りて、そん

のだから、審判の日に神の裁きによって滅びるだろ

な苦悩を受けたのか?」と尋ねると、哲学者は「聞

う。何故ならば、彼らは同じ水で尻 も口も洗って、その水を髭にかけて ムハンマドを念ずるのだから。そこの 女たちも同じか、もっと汚い行為も する」と語った。ウラジーミルはそれ を聞いて、地面に唾を吐いて「誠 に汚い」と言った。「ローマの人も教 えに来たことを聞いた。彼らの信仰 は我らのとは少しだけ違う。彼らは 聖餐に『マッツァー』つまり無酵母 のケーキを使うが、イエスは「パンを

「宗教の選択」、I・エギンク、19世紀

使え」と教えた。彼はパンを手にし て使徒に「これは我が身なり」と言い、酒杯を手に して「これは我が血なり」と言ったのだ。しかし勤め が違うならば信仰も間違っている」と哲学者が述 べた。ウラジーミルは「ユダヤもここに来て、西欧人 とギリシャ人はユダヤに十字架に磔にされた男を 神とすると言った」というと、哲学者は「その通りだ。 ヘブライの預言者は、神が地上に生れて、十字 架に磔にされて埋葬されるが、三日目に復活して 天に上昇すると予言した。しかし、預言者の多くは ユダヤに殴られて、多くは拷問まで受けた。その予 言が叶った時、神はこの世に現れて、十字架に 磔にされて、復活して昇天した。それから神は四 十六年間もユダヤの反省を待っていたが、ユダ ヤが反省せず。それで神はイスラエルにローマを

きたいならば、神がなぜ地上に来たのか最初か ら全て説明して上げよう」と答えた。それにウラジー ミルは「喜んで聞かせて欲しい」と言った。 <〜ここで学者は侯爵に詳しく聖書の 内容を説明する〜> 話の終わりに哲学者はウラジーミルに神の審 判が描かれた掛物を見せた。その右に天国へ行 く義人、左に苦悩を受けに地獄へ行く罪深い人 の像があった。哲学者は「もし義人と共に右に並 べたいならば、洗礼を受けなさい」と進めた。その 言葉はウラジーミルの心の奥まで入ったが、彼は 他の信仰も知りたかったので「もう少し待とう」と言 って、哲学者に多くの贈物を贈呈して礼を尽くし、 祖国へ帰した。 <…>


52 687年、ウラジーミルは貴族と長老を集めて、

して、礼拝を褒めた。その後、二皇帝ワシリイとコン

彼らにこう言った「ブルガル人がきて『我らの法を

スタンティーネスに呼ばれて「お国へよき旅を」と言

ネ ー メ ツ

受けなさい』と言ったし、その後に西欧人がきて自 分の法を勧めた。その次にユダヤも来た。最後に ギリシャ人がきて、皆の法を非難して自分の法を 褒めた。世の始まりについても万物についても語っ た。その話は意味が深く、聞くと実に面白い。あの 世のことも話して、ギリシャ信仰を受けた者は死ね ば、また蘇って永遠に生きる、しかし他の法に従う

われて、様々な贈物を与えられてキエフへ帰った。 公爵は貴族と長老を集めて「使者が帰還したの で彼らの話を聞こう。使者共、皆の前で話せ」と 言った。そして使者は話した。 「ブルガルの寺院すなわちモスクでの礼拝を 見てきた。ブルガル人は帯を外して礼拝する、そし て床に座って怒った目であちこちを見ている。楽し

者はあの世に火で焼かれると言った。我はどうす ればいいのか、教えてくれ。」 それに対して貴族と長老は「自分のことなら誰 もかも非難するのではなく褒めるばかりだ。真実を 知りたいならば、それぞれの地に人を送って、誰が どのように神を奉るのか調べるがよい」と答えた。 公爵も民もその言葉に納得し、間もなく頭の良い 十人の男を選んで「先ず、ブルガルへ行ってその 信仰を調べよ」と命じた。十人はブルガルへ行っ て、彼らの汚らわしい行いとモスクの礼拝を見て、

いことは何もなく、悲しみと闇ばかりだ。彼らの法は

故郷に戻ってきた。そしてウラジーミルは「今度は

良くない。その後、西欧へ行って教会の勤めを見

西欧にいって全てを見て、そこからギリシャの地へ

たが、それは美しくなかった。そしてギリシャの地へ

行け」と命じた。十人は西欧に行って教会の礼拝

着くと、神の聖堂へ案内されて、あちらは地上か

を見た後、コンスタンティノープルへ行って皇帝の

天国か目を疑うほど、言葉に出来ないほど美しい

前に来た。皇帝は「なぜ来たのか」と尋ねると、十

眺めだった。あの国は、神と民が共にいて、礼拝

人は全てを話した。十人の話を聞いた皇帝は喜

は他の国より良いのは確かだ。人間は一度だけ

んで彼らに威厳を与えた????。その翌日、総主

甘いものを食べたら、苦いものを二度と口にしない

教に人を送って「ルーシ人が来て、我らの信仰に

と同じく、我らもあの美しさを忘れることが出来なく、

ついて知りたいと言うのだ。教会に司祭を集め、其

今ここでいることさえ苦い」と。それに貴族が「ギリ

方も全ての標章を身につけて、ルーシ人に我が神

シャの法は悪かったとすれば、其方の叔母オーリ

の偉大さを見せよう」と伝えた。総主教は司祭を

ガ公妃はそれを受けなかっただろう。しかし彼女は

集めて、祭日式の礼拝を行った。司祭たちは香を

万人中の賢者だった」と言うと、ウラジーミルは「皆

焚いて、聖歌を歌った。総主教はルーシ人を一番

どこで洗礼を受けるのか」と尋ねて、皆が「どこで

いい席に案内し、美しい教会も、聖歌も礼拝も見

も良い」と答えた。

せて、神のことも説明した。ルーシ人はそれに感動

<…>


53

988

年、ウラジーミルはギリシャの

爵に「洗礼を受けてから、妹を送る」と返事した。し

都市ヘルソネスへ行軍し、ヘ

かし、ウラジーミルは「皇女を連れてくる司祭は我

ルソネス市民は城壁内に閉じこもった。ウラジーミ ルの軍隊は城壁まで矢が飛べる距離にある港で 泊まったが、ヘルソネス人は勇敢に戦っていた。そ してウラジーミルの軍は都市を包囲攻撃した。疲 れ果てた市民に、ウラジーミルは「砦を開け渡さな いと、我は三年でもここを離れない」と言った。しか し、市民は敗北を認めず、ウラジーミルの軍は城 壁の外側に土を積み始めた。ところが、ヘルシネス 市民は城壁の内側から穴を開けて、その土を掘り 出して街の中心部に運んでそこで積んだ。しかし ルーシの戦士はもっともっと土を積んで、ウラジーミ ルは諦めなかった。それでヘルソネス市民の一人、 アナスタスという男は矢に「東側にある井戸から地 下水道で流れる水を止めろ」と書いて、その矢を 射た。ウラジーミルはその知らせを受けて「成功した ら、絶対に洗礼を受ける」と決めて、地下水道を 掘り出して水を止めるように命じた。市民は水不 足に耐えず、門を開けた。ウラジーミルは街に入っ て、二皇帝ワシリイとコンスタンティーネスへ使者を 送って「ヘルソネスを支配した。そなたは美人の妹 がいると聞いたが、彼女を我の嫁によこせ。さもな いと、そちらの都も包囲攻撃する」と。 二皇帝は悲しみ、彼に返事を送った「我々キ リスト教徒は女性を異教徒の嫁に出せない。もし、 其方が洗礼を受けたとすれば、嫁を貰えるし永遠 の命も手にするし、我々のキリスト教徒同士にもな れる。さもなければ、娘を嫁に出せない」それにウラ ジーミルはギリシャの使者に「二皇帝に伝えろ。我 は洗礼を受けることにした。ギリシャの法のことを既 に使者から聞いて、その信仰も礼拝も好ましい」と 答えた。二皇帝は喜び、妹にその話を伝えて、公

の洗礼を施す」と答えた。二皇帝は言われた通り にして、ウラジーミルに皇女と高官と司祭を送った。 皇女は「人質になるより死んだ方が良い」と言っ て、ルーシへ行くのを嫌がった。二皇帝は「貴方 が行けば、神はルーシを道徳の道へ向けて、我が 国は恐ろしい戦争から救われるだろう。しかし行か なければ、この都も危ない」と言って、やっと彼女を 説得した。そして皇女は泣きながら家族とお別れ をして、船に乗って海を渡った。ヘルソネスに着くと、 市民は迎えに来て、市内に案内し館に泊らせた。 その時、神意のためか、ウラジーミルは失明して、 眼が何も見えなくなり、彼はどうすれば良いか悩 んでいた。皇女は彼に「病から癒されたいならば、 早く洗礼を受けなさい。そうしなければ、絶対に治 らない」と伝えに人を送った。ウラジーミルはそれを 聞いて「それが叶えば、キリストの神は実に万能 だ」と言って、早くも洗礼を施すように命じた。ヘル ソネス主教と皇女の司祭と共に洗礼の儀式を行 った。主教はウラジーミルの頭に手を置くと、直ぐに 公爵に視力が戻った。奇跡の快復を実感したウ ラジーミルは「今こそ我は真実の神を知った」と言 って神に祈った。多くの武士もそれを見て洗礼を 受けた。公爵が洗礼を受けた聖ワシリイ教会は 今もヘルソネス市場の近くにある。その教会の横に ウラジーミルの館があり、祭壇部の後に皇女の館 がある。洗礼の後、皇女が来て婚礼が行われた。 真実を知らない者は、ウラジーミルが洗礼をキ エフで受けたと言う者もいれば、ワシーレフで受けた という者も、他の場所を挙げる者もいる。


54 ウラジーミル公は987年に洗礼を受けたという研究者もい る。ビザンツとアラビアの記録によると、987年にビザンツ の将軍ワールダ・フォーカが反乱を起こして、ビザンツ皇帝は キエフ公爵に軍事支援を依頼する。その代償として、ウラジー ミル公は二皇帝ワシリイとコンスタンティーネスの妹アンナ皇 女を嫁に求めた。二皇帝にとってその要求は屈辱だったが、ウ ラジーミルはヘルソネスに侵略してコンスタンティノープルを 襲うと脅迫した。ビザンツ帝国は紛争の真最中だったため、二 皇帝は賛成した。

<…> 婚礼式が終わった後、ウラジーミル は皇女とアナスタスを連れてキエフに向 かい、ヘルソネスの司祭たちも、聖クリメ ントとその弟子フィーブの聖骨、イコンと 教会用具を持って公爵について行った。 市民が戦のときに街の真中に積み集 めた土から大きな丘ができ、その丘の 「ウラジーミルの洗礼」、V・ワスネツォフ、1880~

上に教会が建てられて今でもそこにある。 ウラジーミルはヘルソネスから銅からでき ウスペンスカヤ

た二つの人像と四つの馬像を持ち帰って、その像は今でも聖母御眠教会の裏に飾ってあるが、無知の 人がそれらは大理石のものだと思い込んでいるようだ。ウラジーミルは結納金代わりにヘルソネスの街を二 皇帝に返した。 ウラジーミルはキエフに帰ると、直ぐに全ての偶像を倒し、 *石像を+崩し*木像を+燃やすように命じた。ペルーン像 は馬の尻尾に結ばれて、ボーリチェフ門から小川へ引っ 張られて、十二人の男が棒で叩いた。それは、木が痛 みを感じるからではなく、その中に入った悪魔を人が罰 したのだ。その時、キエフ市民はまだ聖なる洗礼を受け なかったから、小川でドネプロ河の方へ流されるペルー ンの偶像を見て泣いた。そして、ペルーンはドネプロ河に 流された。ウラジーミルは「偶像は岸に着いたら、また河 に流すのだ。滝を通ってからは放っておいてもかまわない」 と伝えるように人を送った。人は言われた通りにした。ペ ルーンが川に流されて大滝を通ると、風によって浅瀬に 流されて、その浅瀬は今も「ペルーン瀬=ПЕРУ́ НЬЯ О́ТМЕЛЬ」と呼ばれる。

「キエフの洗礼」、V・ワスネツォフ、1880~


55 ウラジーミルは市中に伝令を送り「明日、川岸に来ない者がいれ ば、例えそれは長者でも貧乏人でも物乞いでも奴隷であろうとも、その 者は我の敵となる」と伝えた。市民はそれを聞くと、喜びに溢れて「もし、 それは良い教えでなければ、公爵様も貴族もそれを受け入れないはず だ」と言った。翌日の朝、ウラジーミルは皇女の司祭とヘルソネスの司 祭を連れてドネプロ河の岸辺に来ると、既に無数の人が岸に集まって いた。人々は河に入り、首まで、胸まで、腰まで水に浸かった人がいて、 若者は岸の近くに胸まで入って、子供を抱いて入った人もいて、大人 は水の中でうろうろしていた。司祭は岸に立って祈りをした。天地は喜びの光に輝き、サタンは泣きながら言 った「ああ、悲しいこと!今度はこの地からも追い出されてしまった。ここは使徒の教えもなかったし、人は神を 知らなかったし、だからここを住処にしても良いと思って、余を奉る人を見て喜んでいたのに。今度は、使徒 と殉教者ではなく無知な男に負けて、この諸国を支配できなくなった」 洗礼を受けた市民が帰った。ウラジーミルは、自分も部下も神を知ったことを喜んで、天に目を向けて 言った「天地を創った神なるキリストよ。新入りの大衆を見たまえ。主よ、他のキリスト教国と同じように、真 実の神なる汝を知る力を我らに与えたまえ。大衆に強くて正しい信仰を与えたまえ。我にも悪魔に勝てる 力を与えたまえ。」そして、以前に偶像があった全ての場所に教会を建てるように命じた。以前にペルーン 偶像を奉った丘の上に聖ワシリイ教会を建てた。他の町や村にも教会が建てられ、民の洗礼を施すために 司祭が送られるようになった。また、多くの立派な家族の子供を修行のために召集し、その母親たちは未 だ誠の信仰がなく、子を失ったかのように泣いた。 <…>

989 年。 それからキリストの法で生きたウラジーミルは、聖母を奉る教会を建てるために、ギリシャの地から職人を 招くことにした。教会を建て始めて、そして完成して、それにイコンを飾って、ヘルソネスのアナスタスを住職に して、ヘルソネスの司祭たちをそこに勤めさせ、ヘルソネスから運んだイコンや壷や十字架などを全部その 教会に寄付した。 <…>

996 年 ウラジーミルは教会が完成されたことを見て「主よ。天から見て、汝に捧げたこの楽園に入りたまえ。真 理に心を向けた新入りの大衆に、誠の神なる汝を知る力を与えたまえ。汝のために我が造ったこの聖母 教会を見たまえ。この教会に祈る人がいれば、どうかその祈りを聞きたまえ」と神に祈った。祈りの後、公爵 は「この教会のために、我自身の財産と我が支配下の町の財産の十分の一を寄付する」そして「今後も、 その命令を中止した者がいれば、永遠に呪われる」と言って、財産の十分の一をアナスタス住職に渡した。 その日に公爵は都の貴族と長老のために盛大な祝いを行って、貧乏人にも沢山の寄付をした。


56 キリスト教はルーシに何をもたらしたのか。 Что принесло Христианство на Русь? キリスト教と二重信仰 ルーシのキリスト教化は

バッカス奉拝所があった場所に教会を建

表面的だったと言える。ロ

て、バッカス祭りの日に聖ゲオルグ祭を

ーマ帝国の奴隷と商人の信

行うようになった。また、山や川、泉と

仰としての社会闘争を背景

池、牛と羊、雷とあられ、春と秋、昼と

に生まれたキリスト教は、罪、

夜、勝利と成功などの天使、また各産業

世紀末、神の審判を中心に考え、東スラ

部門を守る天使や聖人もいた。病気と災

ブの生活にも人生観にも全く合わない教

いをもたらす悪魔を祓う呪文もあって、

えだった。ルーシ人の生活環境はビザン

それを使うには主教の認可が必要だった。

ツと大きく異なって、キリスト教の中核

「奇跡を起こす」と言われるイコンと聖

である「罪のつぐない」は大衆に理解で

遺 骨は 魔除け 代わり にな った 。また 、

きないものだった。「イエス

「不死の魂」と「復活」に

が救世主である」あるいは

ついて教えるギリシャ正教

「救世」の観念さえ、スラブ

の故人供養儀式は、原始信

人にとって不思議に思われて、

仰の祖先崇拝に遡る。

心の奥まで入らなかった。し

遅かれ早かれビザンツ伝

かし、ギリシャ正教は武士と

教者は、多神教のルーシ人

商人階級にとって有利だった。

はどうしても唯一の神を信

また、東方キリスト教は抽象

じがたいと分かって、スラ

的な神学に限らず、古代の土

ブが奉っていた無数の神々

着信仰から受け継いだ要素も尐なくなか

の存在を認めざるを得なかったが、それ

った。天使と悪魔、聖像と聖遺骨、機密

は良い神ではなく悪魔であるといって、

と儀式などは土着信仰に生まれたものだ。 その神社の代わりに同様の聖人を奉る教 二重信仰はロシア独特の伝統であると

会を建て、古い神々の祭りが行われた日

一般的に思われるが、ギリシャの農民は、 に聖人祭を設置した。それによって二重 4~5世紀にもバッカス神やパン神など

信仰はルーシの上流階級にも広がった。

を奉っていたので、ビザンツの正教会は

スラブ人の修道士と司祭は悪魔の存在を

産業守護神の代わりに、守護天使や聖人

信じたが、それはキリスト教によるサタ

を導入せざるを得なかった。例えば、バ

ンの概念と違った。スラブの悪魔は、信

ッカスの代わりに聖ゲオルグ(ギ:

者を失って供物を貰えなくなった古代神

GEORGOS=農夫)の崇拝を導入して、

と思われた。キリスト教化から150年


57 後、その考え方はキリスト教のサタン論 ルシファー

と混ざって更に変形し「主は 悪 魔 とその 部下の悪霊を天国から落とした時、水に 落ちた者は水霊に、森に落ちた者は森の 霊 にな った」 などと 言わ れた 。だか ら 「異教の国はサタンと悪霊に支配される」 が、キリスト教はそれらを追い払うと言

サキイを踊らせた。彼は意識を失うまで 踊り続けた。このように、古い信仰はキ リスト教に忍び込んだ。 一方、平民はサタンをあまり信じなか った。農民の土着信仰にあった無数の神 が消えることなく、その役割も変わらな かったが、供物を貰えなくなって人間の サタン

われた。その「悪魔信仰」は様々な年代

敵に回されてしまった。悪魔はその悪霊

記や伝説などに登場する。例えば、キエ

の一人になっただけで、民話に登場する

パテリコン

フ・ペチェル大修道院の『神父書』には、 悪魔のキャラクターを見ると、キリスト 教のサタンのような強力な地獄王はどこ 修道士イサキイの話がある。出家した旧 にもいない。悪魔は人間を騙したり苛め 商人のイサキイは、森の洞窟で一人で修 たりするが、元々マヌケで尐しも怖くな 行して、熊や鼠や蛇などに変身する悪魔 い。ずる賢い農夫に負けて人の世話をす にいつも邪魔されていた。ある日、二人 る悪魔についての民話が多くあり、その の悪魔は天使の姿で彼の前に現れて「も 民話に描かれる悪魔はコミカルな存在だ。 う直ぐイエス様がくる」と言った。イサ キリスト教による神、天国と地獄の思 キイは二人を信じてしまった。すると、 想はスラブ信仰の中で変身した。万能の 無数の悪魔がきて、その一人はイエスと 神も民話の中に人間化された。例えば、 名のって、残りの悪魔たちは魔法のドラ ウクライナにこの様な民話がある。 ムを叩いて、笛を吹いて、琴を奏でてイ

「お婆さんは道を歩いて、一粒の豆を拾った。家に帰って、それをお爺さんに渡した。お爺さんが豆を植 えると、豆は空まで伸びて、とても大きな実が成った。夜になると、お爺さんは豆を見張ったが、疲れて眠っ てしまった。すると神様が来て、全ての豆を採って帰った。お爺さんは豆の幹で天によじ登って、神に「ああ、 お前はよくもワシの豆を盗んだね!代金を払え」と叱ると、神様は「はいはい、分かったよ」と言って、お爺さん に金の靴を贈った」

この民話に登場する神は、ものを盗む

連れて、門の前に来たよ」と歌われてい

し、普通の農夫に怒られても納得するよ

る。極楽は天にあるが、そちらへ行くに

うな小さい存在だ。またイエスによる救

は、修行や偉業などが要らず、梯子を登

世は、平民の意識にただ生活の豊かさを

って、空に穴を開けるだけでいい。天国

贈ることだと思われた。ロシアの古いク

に入ると、そこで魔法の挽臼 があり、タ

リスマス・ソングに「イエス様は、パン と塩を持って、御馳走を持って、家畜を

ひきうす

ダでパンとピロシキを食べられる、それ


58 は「極楽」の意味だ。昔、故人の魂が昇

また、「神の祝福」という抽象的な概

天するように、棺の中に梯子の形に焼い

念も具体化し、農民は種まきの前に家の

たパンを入れていた。

中に皆で祈るとき、祈りから貰える祝福

更に、聖人の役割も変わった。聖母マ

が天に逃げないために、煙突や窓をしっ

リ ア は ロ シ ア 語 で 一 般 的 に

かり閉じる。これは20世紀になっても

「БОГОРОДИЦА=生神女」と呼ばれる。 見られたという。 すき

春がくると、犁 に乗って村に来るといわ れる神母は、民家に泊まって、その夜に 神を生む。春(12月25日ではなく) に生まれた新しい神は農民に良い収穫を 贈る。聖ゲオルグと聖ニコラスは農耕守 護神になる。聖ニコラスは「麦を生み、 種をまき、豆を植える畑の良き神」と呼 ばれ、その像は畑にも置かれて、5月9 日に「ニコライ祭」が行われていた。聖 ゲオルグは家畜と春の芽を守る神になり 「鍵で土の扉を開けて、露を出して、草 の芽を育てる」と言われた。聖イリヤは 二つに別れて、ペルーン雷神の代わりに なった一方、聖イリヤの日は収穫祭に当 たるため、伝統的な収穫女神ラーダの代 わりにも奉られた。他にある聖人と天使 は、様々な作業を守り、病気を癒すなど の役割を与えられた。

土着信仰の儀式も魔法も長く生きてい た。『過ぎし年月の物語』によると、当 時のルーシ人はキリスト教徒と呼ばれて も「邪教徒」のように生き、「悪魔の祭 り」に喜んで参加するが、教会に行く者 は尐ない。11世紀後期、キエフのイオ アン府主教は手紙の中に「悪魔や沼や井 戸を奉り、教会の聖餐に一度も行かない」 人が多いと訴え、教会で結婚するのは公 爵と貴族だけだが、平民は「楽器を鳴ら し て」 結婚す る者も 、二 人の 妻を持 つ 「恥知らず」な者もいると書いていた。 病人の治療も昔と変わりなく、神官や シャーマンが行っていた。13世紀から、 土着信仰の奉拝所と神官が段々消えて行 ったたが、それでも人は病気を直すため に伝統的な呪文を使い続けて、その呪文 にキリスト教のモチーフが混ざった。例 えば、家畜を災いから守る呪文がある。

«Го́споду Бо́гу помолю́ся, и Свято́й Де́ве, и свято́му Микола́ю, 主なる神に祈る、聖母にも、聖ニコラスにも、 и Свято́й Пречи́стой, Свято́му Вознесе́нию, Свято́й Покрове́ (!) и свято́му Юрью, 生神女〔聖母の別名〕にも、聖なる昇天にも、聖ポクロワ〔存在しない〕にも、聖 ゲオルグにも、 и тебе́ прошу́, кра́сное со́лнце, и тебе́ прошу́, я́сный ме́сяц, 美しきお日様よ、

明るいお月様よ、

и вас прошу́, зо́ри-зорени́цы, бо́жий помо́щницы, 神の助手なる天明様よ、


59 и тебе́ прошу́, га́лочко, и отверни́ злых соба́к от моего́ скота́, コクマルガラスちゃんよ、私の家畜を悪い犬から守りたまえ и тебе́ прошу́, царя Дави́да и кро́тости твое́й, стань ты мене́ в по́мощи» 優しきダビデ王様、どうか私にお助けを!

毒蛇に刺されると『マムシ女王』と聖 パンテレイモンに祈り、熱病の神をヘロ

その習慣はベラルーシの農村地帯に今で も生きていると言われる。

デ王(!)が棒で殴って追い払い、大天

二重信仰はロシアだけでなく、多くの

使ミカエルが剣で切ると信じられた。教

文化にあった。西欧の魔女狩り、バンパ

会の聖水と聖油は呪文と一緒に使われた。 イヤと狼男の伝説、魔除けと呪文などは 死者に関する伝統信仰の習慣は千年に

二重信仰の存在を明かす。東洋は、まる

渡って受け継がれてきた。ウラジーミル

で二重(三重、四重)信仰の世界である

公をはじめ、多くの公爵はキリスト教徒

と言える。例えば、仏教は元々、葬儀や

だったにも関わらず、死んだときは葬儀

故人供養に全く関係ない宗教だが、日本

が必ず伝統信仰に従って行われた。棺を

の神道から伝わった祖先崇拝と混ざって

外へ出すために壁に大きな穴を開けて、

現代の形になった。ロシアは、二重信仰

そり

遺体を墓地へ艝 に乗せて運んだ。供養の 儀式には、特に伝統信仰の要素が多く、 それは時代の流れにキリスト教と混ざっ て更に発展した。例えば、罪深い人は死 ぬと、魂が家から出られないので(ドア と窓に司祭が聖水をかけるので罪深い魂 がそこを通れない)天井から一枚の板を 外して穴を開ける。ベラルーシでは、故 人の棺にタバコとウォッカ一本を入れる 他、あの世で襲ってくる鬼たちを追い払 うために瓶に入った聖水も入れる。そし て、亡霊は墓から立ち上がらないように、 墓の各隅にシャベルで四つの十字架マー クを描き、それは墓を封印する最も大事 な段階とされている。又、地域によって、 供養の日に故人が墓から立ち上がって教 会に行くと信じられるので、故人が座っ て休めるように墓の側に木塊が置かれる。

によって異文化が隣り合う多民族国家に なった。例えば、シベリアに来たロシア 人は密林で狩猟して、先住民の神々に供 養することが多かった。公式宗教から見 れば、二重信仰は罪と無知の証であると 言われても、二重信仰によって人間は狂 信から救われるとも言える。 一方、正教会による様々な禁制はロシ ア文化に大きな害を与えたという意見も ある。例えば、カトリックの芸術では彫 刻が盛んであるが、正教会は、数百年に 渡って二次元の映像しか許されていなか った。それは技術、特に建築技術の発展 を強く妨害していた。更にロシア正教会 は、200年間近く「悪魔の器具」とし て楽器を禁止していた(16世紀、百章 公会)。西欧の楽器が発展し、高度な精 密機械に進化するに連れて西欧の機械学


60 も振興していた。また、ロシア正教会は、 国家のイデオロギーがなければ、現在ロ 土着信仰の儀式に広く利用されたビール

シアの領域に宗教の異なる数ヶ国ができ、

を「悪魔酒」と呼んで禁止したが、その

ヨーロッパの最大民族であるスラブの団

代わりにとある修道院に・・・ウォッカ

結は絶対に不可能だった。どうしてロシ

が生まれた。

アはギリシャ政教を選択したか上記に説

けれども、もしロシアに正教会がなか

明したが、何しろそれは唯一可能な選択

ったとすれば、国はどうなったのか。ロ

だったと言うべきだろう。ビザンツ帝国

シア国家さえ存在しなかったかも知れな

から伝わった独特の文字を基にルーシで

い。伝統信仰を統一国家結成の思想にす

独自の文化が育ち、後にロシアの文学、

ることはほぼ不可能だったが、ルーシの

音楽、美術と演劇は世界に輝いた。その

隣国は既に宗教を選択していた。東にイ

実績は大いに、自然を瞑想的に知覚して

スラムのブルガル国家、单西にギリシャ

調和を無意識に探し求める、人間の内心

政教のビザンツ帝国、西に神聖ローマ帝

世界に注目するギリシャ正教の世界観に

国があった。12世紀に、十字軍が活発

よるだろう。

化してルーシを襲うようになった。統一


61 10〜11世紀キエフの文化 КУЛЬТУРА КИЕВА X-XI ВВ.

リスト教によってルーシに伝わったものは文字だけではない。文字とともに、バイ ブルやキリスト教の典礼書、ヨハネやワシリイ大帝などの教会始祖の本、聖人伝

記などの書籍は数多くルーシに普及し、それらの本は主に古代ブルガリア語で書かれた ものだった。ルーシの遥か前にキリスト教を受けたブルガリアでは宗教儀式に必要な書 籍は全て翻訳されていた。正教会の儀式に使われる「教会スラブ語」は古代ブルガリア 語に近く、当時のロシア語と若干異なっていたのだが、理解は可能だった。正教会の公 式礼拝言語として当時のロシア文語にも大きな影響を与えた。 ギリシャ語文献の翻訳からロシア文学が始まった。古代ルーシ文学の最古作品とい われているのは『法と恩恵の言葉』だ。作者は、優秀な演説家、作家、教会活動家、政 治家として知られたキエフの府主教イラリオンだった。彼以前の府主教は皆、コンスタ ンティノープル総主教によって任命されるビザンツ人だったが、イラリオンは最初のル ーシ人府主教になった。彼がビザンツ伝統教育を生かして書いた『法と恩恵の言葉』は 思想的にも政治的にも極めて有意義で、宗教思想を結晶化した見事な作品だった。その 本には、宗教的な課題だけでなく、教会や政治に関 わる問題も分析され、聖書の隠喩的表現や歴史上の 事例などが多く挙げられることによって、読者に強 いインパクトを与える。『法と恩恵の言葉』の根本 思想は、古いビザンツ式のキリスト教より若いルー シ正教の方が優越であり、ルーシ国家を擁護するべ きということにある。イラリオン府主教はウラジー ミル公を『ルーシの洗礼者』と称え、有名なコンス タンティヌス大帝にも例える。 ウラジーミル公の孫に当たるヤロスラーフ賢公 の時代はキエフ文化の黄金時代と呼ばれている。 『賢公』という呼び名は、ヤロスラーフが導入した 『ルースカヤ・プラヴダ』というルーシで最初の国法を念じてつけられたものだ。イラ リオンがキエフの府主教に任命されたこともヤロスラーフ賢公の努力の結果だった。又、 ヤロスラーフ賢公の命令によって文献の翻訳・複写作業が活発に行われ、ロシア初の図 書館も誕生した。ヤロスラーフがまだ若かった1015年、彼の二人の兄弟ボリスとグ さんだつ

レブがキエフ王座を簒奪したスビャトポルク呪公に暗殺された。ボリスとグレブは正教 会の聖人とみなされ、その崇拝は全国に広がり、ルーシ国家統一の要因にもなった。そ の崇拝によって『罪もなく殺された聖公兄弟』の弟だったヤロスラーフも更なる人気を


62 得た。ヤロスラーフ賢公の命令と協力によって書かれた『聖公ボリスとグレブ物語』に は、兄弟の絆と愛は伝統道徳として語られる。

ルースカヤ・プラヴダ(短編) РУССКАЯ ПРАВДА (一) 男は男を殺せば、被害者の兄弟、息子、

(十一)

他者の馬に勝手に乗れば、罰金3銀

兄弟の息子または姉妹の息子が復讐する。誰も

塊。

復讐しなければ、殺害罰金40銀塊。

(十二) 他者の馬、武器または衣服が盗まれた

被害者はルーシ人、親衛隊員、商人、録事、裁

場合、被害者が自分の所有を見つければ、それ

判立会人、税落者、スロベニア人であれば、殺

を取り返し、被害罰金3銀塊もとる。

害罰金40銀塊。

(十三) もし他者に(自分のなくされた物)を発

(二) もし、誰かが殴られて傷かアザになれば、

見れば、それを取って「我の物だ」と言ってはならな

証人が要らない。傷もアザもなければ、証人を連

い。こう言うのだ「それを手に入れた場所に行け」。

れて来るが良い。証人もなければ事件もなし。被

もし、行かなければ5日間以内に保証人を送る

害者は復讐できなければ、加害者から侮辱罰

がよい。

金3銀塊と治療代を徴収するが良い。

(十四) お金を返せと要求されても、払わない人

(三) もし、人を棒で、竿で、手のひらで、杯で、角

は、12人の裁判員の前に来なければならない。も

で、斧の裏で殴れば、被害罰金12銀塊。被害

し、その者が人を騙してお金を返さないと判断され

者の復讐がなければ、払うだけでおしまいだ。

た場合、要求者は自分のお金を取り戻し、被害

(四)鞘に入ったままの剣、または柄で打てば、侮

罰金3銀塊もとるがよい。

辱罰金12銀塊。

(十五) 自分の奴隷を認知して取り戻したい場

(五) 打たれた手が外れた、または枯れた場合

合、所有者はその奴隷を売った第二者に連れて

は、罰金40銀塊。打たれた足はびっこになれば、

行く、その者も自分に奴隷を売った第三者に行く。

(被害者の)子供が復讐すればよい。

貴方は第三者に「奴隷を我によこせ」そして第二

(六) 指一本切り取られた場合、罰金3銀塊。

者に「証人等を呼んで、売人からお金を取り戻せ」

(七) 口髭が切られたら12銀塊、あご髭も12銀

と言うのだ。

塊。

(十六) 自由人を殴った奴隷は、主人の館に逃

(八) 剣を抜いても打たなければ、1銀塊。

げて主人から引き渡されない場合、奴隷を没収

(九) 男が男を突き倒して2人の証人がいれば、

し、その主人から12銀塊を取る。被害者は奴隷を

3銀塊。被害者がバイキングかコルビャク人であ

殴ると良い。

れば、宣誓するだけで良い。

(十七) 槍、盾または鎧を壊した者は、それを自

(十) 逃亡した奴隷がバイキングかコルビャク人

分の物にしたいと言ったら、その人からお金をとる

の家に隠れて、三日以内に返されない場合、主

が良い。しかし、壊した者が物を返すと言えば、彼

人は奴隷を奪い返して、侮辱罰金3銀塊とる。

に物の代金を払え。


63  下記は、イジャスラーフ公、フセーヴォ ロド公、スビャトスラフ公(ヤロスラフ賢 公の三息子)と彼らの部下コズニャーチ コ、フセーヴォロド、ペレネーグ、ニキー フォル、チュディン、ミクーラが集まって ル ー シ 国 の た め に 決 め た 法 (ПРА́ВДА ЯРОСЛА́ВИЧЕЙ)だ。 (十八) 武士を意図的に殺害した者は、罰金8 0銀塊。公爵の家来が殺されても80銀塊。 (十九) 武士が盗賊等に殺された場合、殺害 者を捜査しない。遺体が発見された集落が罰

(二十九) 馬か牛を盗んだ者、空き巣泥棒は 一人で犯罪を働いたならば、1銀塊30切銀を払 う。例え十人でもいれば、一人当たり3銀塊30切 銀を払う。 (三十) 公爵所有の蜜蜂巣箱を壊した、あるい は燃やした者は3銀塊。 (三十一) 公爵の命令もなく使用人を虐めた者 は、侮辱罰金3銀塊。 (三十二) 武士、宮官、裁判立会人を虐めた 者は12銀塊。

金を払う。 (二十) 武士が家の側で、馬の側で、羊の側で、 家畜群の側で殺された、または牛を盗む泥棒に 殺された場合、殺害者を無慈悲に殺すがよい。

(三十三)畑の境を耕した者、境標識を取り壊し た者は、罰金12銀塊。 (三十四) 船を盗んだ者は、所有者に30切銀 被害罰金と品代金として60切銀。

宮官が殺されても同じ法だ。 (二十一) 公爵の宮官が殺された場合は80 銀塊、主任馬丁は80銀塊。イジャスラーフ公は、 彼の馬丁が殺害された時にそう決めた。 (二十二) 集落長、村長が殺された場合は12 銀塊。公爵の契約使用人は5銀塊。 (二十三) 使用人または奴隷が殺された場合

(三十五) 人の鳩か鶏を盗んだ者は銀貨9枚。 (三十六)鴨、アヒル、鶴、白鳥と盗んだ者は30 切銀罰金と60切銀代金を払う。 (三十七)他者の犬、大鷹、鷹を盗んだ者は、被 害罰金3銀塊。 (三十八) 自分の家、中庭、家畜小屋に入った 泥棒をその場で殺したならば、それで良い。泥棒

は5銀塊。 (二十四) 奴隷一家の柱が殺された場合12銀

を捕まえて朝まで拘束した場合、公爵の裁判に かけるが良い。捕まえて縛られた泥棒を殺したとい

塊。 (二十五) 公爵の馬(印のある馬)が殺されたら

(三十九) 干し草を盗んだ者は銀貨9枚、薪を

3銀塊、使用人の馬は2銀塊。 レ ザ ナ

(二十六) メス馬を殺されたら60切銀、牛は4 ク

う目撃者がいれば、殺した者は罰金を払う。

盗めば9枚。 (四十) 羊、ヤギ、豚を盗んだ場合、または10人

0切銀、三歳牛は15銀貨 、一歳牛は半銀塊、

の泥棒が1匹のヤギを盗んだ場合、一人当たり6

子牛は5切銀、子羊は1ノガタ(約・半銀貨)、羊

0切銀の代金を払う。

も1ノガタ。

(四十一) 泥棒を捕まえたものは10切銀を貰う。

(二十七)他者の奴隷を連れて行ったならば、被

(盗まれた金額は)3銀塊であれば裁判立会人

害罰金12銀塊。

に銀貨15枚、教会に銀貨15枚、また公爵に3銀

(二十八) 男は、傷とアザがあれば、証人が無

塊。12銀塊以上ならば、捕まえた者に銀貨70

用。

枚、教会に2銀塊、公爵に10銀塊。


64 ヴ

(四十二) これは殺人罰金法。ヴィーラ回収に 行く者は一週間当たり麦芽7バケツ分、羊一匹 または牛半分、あるいは2ノガタ、水曜日に1切銀 と3個のチーズ、金曜日も同じ、パンとキビは食べ られるだけ、鶏は1日2羽を与えなければならない。 馬を4頭提供し、餌もたっぷり与えるのだ。ヴィーラ 回収者は先に1銀塊、後は60銀塊、10切銀と

回収者に魚を与えるか、7切銀を与える。合わせ て食料代は一週間当たり銀貨15枚、小麦粉は、 ヴィーラを集めるまで食べられるだけ与える。これは ヤロスラーフ法だ。 (四十三) これは橋職人の法だ。工事単位は 端の一径間当たり1ノガタとする。古くて崩れそうな 橋を直す工事も同じだ。

小銭12枚を貰う。斎戒の時期であれば、ヴィーラ

ルーシの通貨は毛皮から生まれた。その基準は最も貴重な毛皮はテン(クナ)だった。一枚の銀貨は一枚の毛皮に一致して、

それからいわゆる「クナ通貨制度」が生まれた。

一銀塊

ГРИВНА(約140~160㌘)=25クナ

一銀貨

КУНА (約2㌘)=2切銀(РЕЗАНА)=4~6小銭(ВЕВЕРИЦА)

ロシア語の「お金」は ДЕНЬГИ だが、それは13世紀からモンゴル支配からきた。それ以前の共通語は КУНА だった。

ヤロスラーフ賢公時代に創立されて千年に渡って全ルーシの宗教と文化の中心だっ たキエフ・ペチェル大修道院の最初の修道院長の一人、フェオドシウスは作家としても つつし

さいかい

いや

活躍し『 慎 み物語』、『愛と斎戒の物語』、『心の癒し』などの本を書いた。

ルーシ社会には歴史への関心が高く、当時の文学 作品は様々な歴史的な場面を挙げている。ビザン ツのゲオルギウス・アルマトラやイオアン・マラ ラなどの歴史家による編年史は露訳され、ルーシに大 人気になった。それらの編年史に基づいて『クロノグラフ』と呼 ばれた世界史集大成が作成され、同様のルーシ編年史も作成され た。ロシア初の年代記(いわゆる『古代集大成』)は、10世紀 終期~11世紀前期に書かれたと思われている。その後、107 3年に『ニコン集大成』、1095年に『最初集大成』が相次いで作成される。『最初 集大成』は、1113年に書かれた有名な年代記『過ぎし年月の物語』の基にもなった。 口伝によって存続した様々な歴史情報は、これではじめて本とされた。又、口伝の 一部を基に英雄伝説(БЫЛИНА)も創作された。ヤロスラーフ賢公は上流階級だけで


65 なく一般人にも教育を受けさせた為、文学が盛んになった。ルーシをキリスト教国家に したウラジーミル公は上流階級に教育を強制的に受けさせたが、ヤロスラーフ賢公は1 037年に、一般人に文字の読み書きを教えるために自分の資産から教会に一定の金額 を投資した。白樺の革に書かれた手紙や生活メモがノヴゴロドで大量に発掘されたこと は当時の教育の極めて高い普及率を示している。 1056年にノヴゴロドの大貴族オストロミールの注文でキエフに作られた一冊の 新約聖書は現在まで残った最古のロシア正本だ。1073年の『スヴャトスラフ金言集』 (ИЗБОРНИК)は本の傑作と言われている。大きな革紙に書かれ、華やかな模様が施 されたこの正本は、ギリシャ語から翻訳された宗教道徳についての発言を含めている。 当時の本は全て手書きで、製作は極めて難しく、一冊でも豪華な財産とされていた。

1073年の『スヴャトスラフ金言集』から 「人間の本質について」 人間については、死ねる者でもなく死なざる者でもなく、その二元の間にある、と知られている。不完全な肉 体に従えば肉体の誘惑にやられる、心を優先に考えれば不死に恵まれる。神は、最初から人間を死ねる者 として創造したならば、罪を犯した人間に死の呪いを与えなかっただろう。死ねる者に死を与えて無意味では ないか。又、人間が元々不死身であれば、神はあんなに早く後悔して死なざる者を死ねる者に変えなかっ ただろう。例えば、罪を犯した天使を見ても、彼らは元々の不死身のままに残って、死ではなく違う天罰を待っ ている。従って、人間は最初に創造された時に死ねる者だったが、段々上達して不死身になる潜在的な能 力を持っていた、と考えれば良い訳だ。しかし、自力で上達する前に自分の本質を知っても良くなかったか ら、「知識の樹」の果実を食べることは禁じられた。今も果実には大きな力があるが、当時の実の効果は最 大だった。しかも、自分の本質の知識を与えるあの果実は確かに美味しかったのだ。人間は完璧になるまで に自分の本質を知れば、物の不足を感じて肉体のことばかり思うので、それを望まなかった神は「知識の果 実」を食べてはならないと言った。禁止を破って、人間は自己認識し、完全から外された。肉体を考え始め て、直ぐに衣服を欲しがった。聖書には「裸だと気づいた」と書いてある。以前に???、神に創造されたまま、 意気込みの????状態だったが自分を知らなかった。完全から外されて、創造者の慈悲によって貰える不 死身も貰えなくなった。 原罪の後、人間に肉食が許された。以前、神は人間に地の産む果実だけ使うように言った。果実は楽園 にもあったから。完全から外された時に肉食が許された。人間は食べ物も飲み物も必要だが、それらはいず れ消耗するものだ。生物は、目に見える穴と見えない穴を通じて物質を失っていくから、同じ分を補充する必 要がある。そうしなければ、物質の不足で生物は破滅されるからだ。固体物質と液体物質と呼吸は消耗す るので、生命に固体食も液体食も呼吸も必要だ。我々の飲食は、我々を構成する同じ物質から出来てい るのだ。生物は自分同様の物を食べて、自分にない物質を薬に使う。


66 12世紀初期、ノヴゴロド Грамота отъ Жизномира къ Микоуле. Коупил еси робоу Плъскове. А ныне мя въ томъ яла княгыни. А ныне ся дроужина по мя пороучила. А ныне ка посъли к томоу моужеви грамотоу ели оу него роба. А сети хочоу коне коупивъ и къняжъ моужъ въсадив та на съводы. А ты атче еси не възалъ коунъ техъ а не емли ничътоже оу него. ジズノミルからミクーラへの手紙。 (お前は)プスコフで女奴隷を買ったが、今は公妃がそのことをばらした。今は軍団の皆は俺のことを保 証してくれた。今すぐでもあの男へ手紙を送れ、女奴隷が彼の所に居るならば。俺は馬を買うつもりだ。 その馬に公爵の男も乗せて、対審に行きたい。もし、お前があのお金を貰っていなけらば、奴から何も受 け取るな。

1050~75年、ノヴゴロド От Рожнета къ Къснятиноу. Вьзялъ еси оу отрока моего Кыеве гривноу серебра. Присъли коуны. Оже ли не присъшеши то ти в полы. ロジネートからコズニャーチンへ。お前は私の若い部下から一銀塊を借りた。お金を送れ。送 らなければ、またその半分の利子がかかる。

ダニール君にオンフィーム からよろしく。

オンフィーム

僕は獣! 多数の白樺書の中でも人気者であ る「オンフィーム」という名の尐 年が書いた習字と落書き。

木製バケツの底


67

建築 Архитектура 10~11世紀に建築は最も盛んな分野であり、その 発展を刺激したのはキリスト教だった。古来、ル ーシの建物は殆ど木造であったが、キリス ト教普及に伴い石造建築技術がビザンツ から伝わってきた。文字を知っていて も高価な本を買えない平民に新しい教 えを宣伝するために、印象的な聖堂 を建てて人の注目を引くことは一種の プロパガンダ手段だった。 最初の煉瓦造教会は、989年にウラジーミル公の命令で建設されたウスペンスカ ヤ教会だった。その建設のためにウラジーミル公は市民から集めた税金の十分の一 (ДЕСЯТИ́НА)を投資したのでキエフ人に『デシャチンナヤ教会』と呼ばれるように なった。ビザンツから伝わった教会様式は、交 差形天井の上に十字架の飾った円屋根(キュー ポラ)があり、4本の柱が屋根を支える。それ は『十字型キューポラ聖堂』呼ばれる。 ルーシはキリスト教を受けたばかりだが、既 にビザンツのライバル国家になることを目指し、 建築を武器にした。キエフの建築物はコンスタ ンティノープルの有名建築物を手本にして建て られていた。ヤロスラーフ賢公によっ て、キエフを始めルーシの各地に教会 や公舎の建設が盛んに行われた。

キエフのソフィア大聖堂 952年、オーリガ公妃の命令でキ エフに大きな木造聖堂が建設された。 当時のルーシ人はキリスト教の理解が 薄く、大聖堂は具体的な聖人ではなく


68 ソフィア

『神の知恵』を称えて『聖ソフィア大聖堂』と名付けられた。木造のソフィアは67年 間キエフ城壁外の平地にあり、1017年にポーランド軍がキエフを襲って、大聖堂を 全焼させた。 伝説によれば、その屋根に70の十字架(「峰」とも呼ばれる)があり、「70」 は「七十門徒」、つまり12使徒と彼らの弟子を意味する。十字架を頂く「峰」は寺院 の「宝座」を象徴する。例えば、ウラジーミル聖公の命令で建設されたデシャチンンア ヤ教会は25の峰があり、それは最後の審判の時に宝座に座る25人の裁判官を意味し たという(黙示録、4-4)。 木造のソフィア大聖堂は多塔型で三重のピ ラミッド構造を持ち、それは11世紀に新し く建てられた石造のソフィアにも伝わった。 11世紀の大聖堂はヤロスラーフ賢公によっ て建設されたが、その予備作業(設計、煉瓦 生産など)はすでにウラ ジーミル聖公の時に始ま っていたという記録もあ る。1018年、焼かれ た木造ソフィア大聖堂の 所に大きな十字架が立て られ、それはキエフと全 ルーシの精神的な中心と なった。1037年、そ の十字架を中心に「ヤロ スラーフの都」が置かれ、その四方面に門が あり、十字架と門の間はそれぞれ555.3 ㍍(古代ギリシャの卖位 οργυια で300オール ギア)であった。しかし、紛争によってヤロス ラーフの都と聖ソフィア大聖堂の建設は三段 階に分かれてしまった。 同じ1037年に壮大な石造ソフィアが完 成された。その特徴は『多頭型』(ロシアで教会のキューポラは『頭』と呼ばれる)だ った。キエフのソフィア大聖堂は13頭型で、中心にある最大キューポラはイエス、そ れを囲む12塔は使徒を意味する。ソフィア大聖堂は、ビザンツとルーシの職人によっ て「ギリシャ様式」に建てられたが、ビザンツ本国にはキエフ・ソフィアのような多頭


69 型教会があまり見られない。伝統的なビザンツ聖堂は、「ネーフ」という三本の通路に 別れて、一頭型だ。しかし、ルーシの護国聖堂として建てられたキエフのソフィアは、 更にネーフが増築され、それらを照らすためにキューポラも増やす必要があった。又、 聖堂全体はピラミッド型の構造をもって、それは土着信仰から伝わった伝統的なルーシ 建築の要素だと思われる。 祭壇の真(アプス)と天井はビザンツの伝統に従って素晴らしいモザイクに装飾さ パントクラトル

れ、中心のキューポラに『救世主全支配者』の像がある。『全支配者』という像は、イ エスを神人として描いたもので、イエスが左 手に聖書を持ち、右手は祝福を与えるジェス チャーである。 ドラム窓の間に12使徒の像がある。 最も有名なモザイクは、祭壇のアプスにあ オランス

る高さ4.5㍍の『祈願 聖母』の像だ。ロシ ア正教にオランスという聖像は「人に慈悲を 与えよ」と神に祈るマリアを意味する。 モザイクは大聖堂の中心部にあり、壁とウ ィングに壁画(フレスコ)が描かれた。西壁 にヤロスラーフ賢公と公妃、单壁に娘たち、 北壁に息子たちの像が並んでいる。 階段塔内の壁画は12世紀に描かれたが、 そこでは宗教画ではなく狩や競馬の場面が描 かれている。 990年、ウラジーミル聖公の希望でノヴゴロド主教ヨアキムは「柏の聖ソフィア 教会を建て、それは13の峰をもち、1049年3月に火災まで60年間ヴォールホフ 河の岸辺にあった」という。1045年、キエフからヤロスラーフ賢公に派遣されたビ ザンツの職人によって石造の聖ソフィア大聖堂が建設される。それは現存する6塔の大 聖堂であり、6塔の意味は未だに解釈されていないが、その非対称性はノヴゴロド建築 の特徴だ。


70 古代ノヴゴロドの風景

ポーロツクにも同様のソフィア大 聖堂が建てられる。それらの大聖堂 に多くの共通点が見られるため、恐 らく同じ職人組合に造られたのでは ないかと考えられている。三つとも ソフィア(神の知恵)を奉るという ことも偶然ではない。ビザンツ帝国 の首都コンスタンティノープルの主

ノヴゴロドの聖ソフィア大聖堂

要大聖堂はソフィア大聖堂(現在の モスク「ハギヤ・ソフィア」)だ。 又、キエフで新しく建てられた城壁 の最大門はコンスタンティノープル と同様に『金門』と名付けられた。 教会は鮮やかなモザイクやフレス コ画に輝いている。ビザンツのコム ニン王朝時代に生まれた聖像画は、 様々な決まりと特殊な技が多く、聖 像に魂が宿っているように見える。 ビザンツの美術様式は中世の宗教的 な世界観を最もよく表現していると 言われる。例えば、イコン(聖像画) はダイナミズムと立体感を犠牲にし ても、表情が極めて豊かで、「肉体 より精神は大事だ」という理想を表 現している。キエフのソフィア大聖 堂の壁に素晴らしいモザイクが当時 のままで残っている。ノヴゴロドの ソフィア大聖堂の内壁もフレスコに 覆われ、その壁画の作成にはビザン ツとルーシの職人が携わった。


71 ビザンツの強い影響にも関わらず、ルーシ文化は最初から特異性を持っていた。そ れはギリシャ正教とスラブ土着信仰の不思議な混交、多頭型聖堂の数々、そしてフォー クロアや前キリスト時代から変わらなかった生活風習などがルーシ文化の独特な顔を作 り上げていたからだ。スラブの太古伝統の遺産を受け継いだルーシ人はビザンツ遺産を 創造的に考え直し、以降の文化発展の土台をそこにおいた。

イコン絵画 ИКОНОПИСЬ ビザンツ建築と宗教文献と共に イ コ ン

聖像画 も伝わってきた。イコンとは

金色 神の存在、夜の無い「神の国」、感動。

紫紅色 皇帝・王の色、「天の女王」と呼ばれる声 望マリアの衣服に利用される色

絵画の一種ではあるが、一般的に「美 術」と呼ばれるものとは違う。イコン は「描かれた祈り」と呼ばれ、その呼び方はイコン の本質に近いと言える。広い意味で聖像画はキリス ト教だけでなく、チベット、中国、日本などの仏教 文化にも存在し、高度に発達している。宗教と文化 が違っても、聖像画の画法と考え方を見れば、共通 点は驚くほど多いことに気づく。

聖像画は、どの文化でも必ず固い規則と基準に基 づいている。画家は仏陀やキリストの像を自分なり

赤色 イコンで最も目立つ色。熱、愛、命を意味 するので、復活のシンボルである。一方、 血と苦悩、イエスの犠牲を意味し、殉教者 の服も赤色で描かれる。神の宝座を支える 熾天使(セラフィム)の翼も赤い。

白色 神の明光。誠、神聖さ、純粋さを意味し、 義人や聖人、天使などの服は白い。

青色 無限な天空、永遠の世界。聖母マリアを象 徴する色で、マリアのイコンやフレスコで よく使われる。

に描いてもよいが、その像は必ずしもイコンになる とは限らない。神や聖人の描き方は、宗教教義に基

緑色

づいて、そもそも聖像画の役割はその教義を像とし

自然、命、誕生。イエスの御生誕の場面で よく使われる。

て人に正しく伝えることにある。 イコンにある全ての像、色彩と描き方さえが具体

茶色

的な意味を持ち、イコンを正しく知覚するにはその

土、塵、無常の世界。

意味を理解しなければならない。だから、イコンは

黒色

見るのではなく「読む」べきと言った方がいいだろ う。例えば、仏画の場合、一定の色が具体的な神仏 を象徴し、心の状態などを表現する。キリスト教の イコンでは、白は「純粋」と「潔白」、金色は「神 の存在」、「殉教」と「宗教的な感動」、黒は「地

死、地獄、墓。一方、無限でミステリーに 満ちている大宇宙も意味している。

灰色 善(白)と悪(黒)を混ぜたもので、理想 的なイコンの世界に応じない色。だから、 殆ど使われなお。


72 獄」または「無限の宇宙」を意味する。 聖像画は、煩悩を静めるためにあるから、神仏や聖人は顔が優しく穏やかな姿で描 かれる。たまに、イエスと使徒の苦しみを写実的に描いた絵画を見ることもあるが、そ れは比較的に遅い時代に描かれた西欧絵画で、イコンとは呼び難い。聖像画は写実的で はなく象徴的な画像だ。伝統的なイコンは、逆遠近感という特徴もあり、描かれた物は 「裏返し」になっているように見えて、山の峰は人物の上に引っ掛かる。それは、画家 が下手だからではなく、イコンに描かれるのは普通の世界ではなく、神による理想的な 世界で、その世界に一般常識と物理学の法則が働かないからである。同じ理由で、イコ ンに描かれた人物は純粋な光でできているから影を落とさない。 イコンはその役割で二種類に分けられ、それは祈り(瞑想)に使うイコンと聖教を 説明するイコンだ。 中心に神仏かキリスト教聖人が描かれて、回りにその生涯の場面が小さく描かれる イコンが多い。「時間」という要素は、イコンでは二次的なものとされ、一つの場面を 描いても、左右にその始まりと終わり、中心にクライマックスの瞬間が描かれることも ある。 何れの文化にも聖像画は奇跡を起こす聖物と考えられているため、大事に保管され て、金や宝石で装飾される。又、原則として、壊れやすく長持ちしない素材の上にイコ ンを描いてはならない。一方、芸術品としてのイコンの物理的な価値はゼロとされ、聖 像そのものが価値を持っていると信じられるので、一般人にとって教会におけるイコン に扱い方は不思議に見える。例えば、教会はイコンを美術品ではなく礼拝用具として考 えるので、それを元の状態で保たなかった。イコンの修復は、主に傷めた所か、イコン を丸ごと上書きすることだった。古いイコンには、絵具が5~8層まであるので、その 修復作業は極めて困難で、先ずX線で一番貴重な映像を見分けてから、塗料を一層ずつ 洗い落とさなければならない。 又、貴重なのは作品ではなく聖像そのものだから、イコンの複写にも同じ神霊が宿 ると信じられる。更に、イコンを描いた画家はそれに自分の名前を付けてはならないた め、現在に知られている昔のイコン画家はわずか数人だ。

イコンの創造過程 先ず、しっかり乾いた木板が用意される。その材料は、 西ロシアでは菩提樹、シベリアでは松が一般的だ。大きなイ コンを造る場合、数枚の板を結合しなければならない。その ために板の裏に溝を彫って、「シュポンカ=ШПО́НКА」と


73 呼ばれる棒を挿し込むのがいい方法だ が、釘でつけるシュポンカもある。板 の表側に5~15㌢の余白を残して コフチェーグ

『聖物箱 』と呼ばれる約5ミリの凹 みを彫る。そして板に布を糊で貼り付 けてから下塗りする。下塗りは「レフ シュポ ンカ

カス=ЛЕВКА́ С」と呼ばれて、その材 料はニカワと粉チョークだ。レフカス が乾くと、その表面を磨いて、墨で像 の輪郭を描く。その次に後光などに金

箔を貼って、ついに絵具を手にする。 イコンの伝統的な塗料はテンペラと呼ばれ、その顔料はミネラルや植物系で、接着 剤に卵の黄身を使う。 最初は、寒色に始めてブルーから段々グリーンに、そして暖色に移って背景を描く。 その次に樹、建物、衣服などを描いてから、人物の肌、そして顔の部分に移る。最後に ハイライトを加えて色のバランスを調整し、最終段階は金液で模様をつける。 描かれた像は元々神聖なものだから、イコンを神聖にする特別な儀式は無用だが、 描かれた聖人の名前を書けば完成。教会の考え方によると、画家は「絵を描く」と言う よりも、最初から存在する聖像を「開く」と言われる。 イコンを創造する全ての段階には意味がある。画家は、この世を創った神と同じよ うに、天と地、植物と動物、様々な物体、そして最後に人間を創造する。イコン画の素 材も自然元素を意味する。木板は植物、ミネラル色素は地、卵の黄身とニカワは動物で、 火・水と風も創造過程の中で利用される。イコンを完成した後、その表面に乾性油(漆) をぬり、それは聖油を塗る洗礼儀式に例える。乾性油によってイコンは温かみのある美 しい金色に変わる。 しかし、乾性油はイコンの敵でもある。乾いても完全に固まることなく、教会内の 蝋燭とお香から流れる煙が常にイコンの表面に染み込むし、乾性油自体も自然的に段々 暗くなっていく。100年の間にほぼ真っ黒になるイコンもあるので、修復するつもり で上書きされるわけだ。 イコンに描かれる人物像や風景はわざとデフォルメされるが、いつもそうだった訳 ではない。ギリシャの古代イコンは蜜蝋塗料で描かれ(エンカウスティーク技法)、写 実的な画像だった。しかし、イコン画家はキリスト教の思想を表すのに最もふさわしい スタイルを探し求めて、人体学の知識と立体感より表現力に注目したエジプトとパレス チナ美術の画法を借りた。


74 730年、ビザンツでは聖像崇拝禁止法が導入され、それから100年間も全ての 像は「偶像」とみなされて、イコンの作成はなく、古くて貴重なイコンと壁画の多くは 破壊された。843年に聖像禁止は異端と認められて、イコン美術はビザンツに蘇って、 新しいキリスト教国家にも伝わって各国で独特な絵画様式が生まれた。ロシア正教会で は、イコンの役割が大事なので、ロシアの聖堂に飾るイコンの数はビザンツより遥かに 多かった。ビザンツにも祭壇の前に大きなイコンが並ぶ教会はあったが、ロシアの聖堂 ではイコンが重ねて列に並んで高い壁をつくる。その壁は「聖章=イコノスタシス」と 呼ばれる。特に木造の教会では壁画は余りなかったので、イコノスタシスは大切な部分 だった。最も貴重なイコンのために金属製飾衣が作られて、それは主に画像の輪郭に一 致するが、元の画像を隠して人物の顔と手足だけ開けるものだった。

イコンの種別 聖書の登場人物が描かれたイコンは形が決まって、種別されている。イコンは肖像 画ではないので、描かれた人物を見分けるために、それぞれのポーズ、衣服、背景や手 に持っている物などが決まっている。 イエス・キリストのイコン ИИСУС ХРИСТОС 『聖顔』Спас Нерукотворный(=手でかかれざる主) 最も古いイコンのタイプと思われる。伝説によると、ある日イエ スは顔を洗ってタオルを顔に当てた。すると、鏡のようにタオル に彼の顔が映って、そのタオルは全てのイコンの原点となった。 そのタオルは長い間コンスタンティノープルに保管されたが、 1204 年に十字軍に奪われて行方不明になったと言われる。『聖

顔』のイコンは、タオル若しくは一枚の瓦を背景にイエスの顔の 部分だけが描かれる。

左側は、仁愛 に溢れた救世 主の顔。

ロシア最古の『聖顔』イコン(12世紀、 ノヴゴロド。現在、トレチャコフ美術館) イエスの顔は「神人の本質」 を現すためにわざと非対称的 に描かれている。 右側は「厳しい裁判官」であ る神的存在。

パントクラトル

『救世主全支配者 』 Спас Вседержитель (Пантократор) 父なる神と同立である全支配者イエス が、ビザンツ皇帝と同じく青いマントを着 た姿で描かれる。そのタイプのイコンは全 身像、半身像と胸像がある。左手に聖書を

2

握って右手は祝福のジェスチャーをする。 「全支配者」という名はイエスの二元的な 本質(神人)も意味する。ロシアでは 『Спас в Силах』と呼ばれる同類像があ り、それは天使と名誉の光に囲まれて王座 イスラエル、シナイ山の修道 院にある世界最古のイエス 像、4世紀(蜜蝋塗料)。

コンスタンティノープルの聖ソフ ィア大聖堂にあるパントクラトル のモザイク、5世紀。

に座るイエスの聖像画で、イコノスタシス の真中に位置される。


75 磔刑像 Распятие 伝統的なキリスト教の全ての流派にある聖像画。

救世主エマヌイル Спас Эммануил エマヌイルはヘブライ語で「神が我らといる」 という意味で、尐年イエスの像であり、イエス は尐年時代でも神的存在だったことを象徴す る。古代キリスト教では、イエスが洗礼を受け てから神人になったという宗派(ネストリウス 派)があった。それに対し、キリストは生まれ つき神人だったと教える正教会は尐年イエスの イコンを導入したという説がある。

シモン・ウシャコーフ作『救世主 エマヌ イル』 (1697 年 、モス ク ワ。現在、トレチャコフ美術館)

3 優しき牧師 Пастырь добрый

古代ローマの隠れキリスタンの地下教会「カタコンベ」に残っ

5

た象徴的な像だ。イエスは子羊を肩に乗せて運ぶ若い牧夫として描 かれている。キリスト教が解放された時代にもその像が残って、イ エスは普通の姿になったが、同じく子羊を肩に乗せている。

この形の背光は「父なる神」の象徴で あるが、ここでイエスも神と一心同体 であることを現す。

『至善沈黙』

『老日』

十字架マークのついた背光 でイエス像だと分かる。

『無眠眼』

他にも、比較的に珍しい像タイプがある。例えば『至善沈黙』と呼ばれる像は、イ エスは翼を持った天子の姿で登場し、それは地上に生まれる前のイエスを描いたイコン だ。又、白髪の老親として描かれたイエスのイコンは『老日』と呼ばれて、イエスは旧 約の時代にも存在し、父なる神と一心同体であることを伝える。


76 聖母のイコン Богоматерь, Богородица 聖母マリア像はキリスト教世界に極めて人気が高く、イエスのイコンよりも多いの ではないかと思われる。マリア像の種類も様々で、ここで最もよく見られる4つを挙げ よう。

オランス

1

Ора́нта

ラテン語でオランスは「祈る」を意味する。聖母マリアが人類に慈悲を 送るように神に祈る姿で描かれるオランス像は人を守護すると信じられ、 一般的に祭壇間の天井に描かれる。 パナギヤ

聖母『大守護者』(ヤロスラーブリ、1218 年)無名作者は恐らく、 キエフでソフィア大聖堂のモザイクを見たと思われる。

エレウサ Еле́уса、Умиле́ние じれん

ギリシャ語でエレウサは『慈憐 』を意味する。マリアは

幼いイエスを抱いて二人は頬を接触する、無限の愛を象 徴するイコンだ。ここで大事な特徴はイエスの身体プロ ポーションが大人と同じだということ。神の息子である イエスは、生まれた時すでに大人で、人類のために自分 を犠牲にする心を持っているからだ。

ホディグイトリア Одиги́трия

3

ギリシャ語で「道を教える者」。エレウサに似ているが、 ここで信者に眼を向けたイエスが主人公になり、マリアは彼 の方に手をさして「この人に従いなさい」と教えている。


77

4 パラクレシス Параклесис

オランスとほぼ同様のイコンだが、ここでマリアは横 を向いている。ギリシャ語で「パラクレシス」は「依頼者」 で、マリアは人間と神の仲介者として描かれるイコンで、 イコノスタシスではパントクラトル像の左側に位置する。 又、手に依頼書の巻を持った姿でも描かれることがある。

上記のイコンの他にも多種の聖人像が存在し、特に現 代のサンタクロースのモデルになった聖ニコラスのイコン が人気で、その役割で言えば日本のお地蔵さんに近い。又、 イコノスタシスには、マリアに良い知らせを持ってきた大 ハルメゲドン

天使ガブリエルと、最後の戦にサタンと 戦う大天使ミカエルの像が必ず飾られる。 イコノスタシスの中心にある『王門』に は四人福音師(ルカ・マルコ・マタイ・ ヨハネ)の像がある。 ロシアでは、イコンは数百年に渡って美術作品としての評価を受 けていなかった。ピョートル大帝時代に、ロシアは様々な部門でヨー ロッパの例に従ったため、絵画に油絵が導入されて、イコンも写実的 なスタイルで描かれるようになり、伝統的なイコン画は徐々に退化し てきた。19世紀後半になって初めて、ロシア社会で祖国の歴史と文 化に対する関心が高まり、伝統芸術の本格的な研究が始まったことに よってイコン画が再発見され、教会画家も本来の描き方に戻った。

17 世紀、シモン・ウシャコーフ作

「大主教なるイエス」


78 12~13世紀初期 ルーシ各地の文化 КУЛЬТУРА РУССКИХ ЗЕМЕЛЬ

文学

12

世紀、地方都市の活性化によ

キリスト教のモチーフがあまり感じられ

って地方文化も活発になり、

ないという点が特に興味深い。『イーゴ

多くの地はキエフからの独立を求めた。

リ軍記』は、1185年にノヴゴロド・

キリスト教文化の影響は首都(キエフ)

セヴェルスク地のイーゴリ公は遊牧民の

から地方へ広がって、その影響は特に歴

地 へ行 軍して 敗戦し たと いう 実話だ 。

史収録の分野で強かった。1113年頃、 『イーゴリ軍記』はスラブの土着信仰の キエフ・ペチェル大修道院の僧侶ネスト

シンボルやイメージに溢れ、修道院で書

ルは「古代ロシア生活百科事典」と呼ば

かれた年代記と違って『イーゴリ軍記』

れる『過ぎし年月の物語』を完成する。

に描かれるルーシは「キリスト正教の砦」

年毎に書かれたその年代記は小説のよう

ではなく、「ダジボーグ子孫の力」と呼

に読みやすく、歴史的な出来事だけでな

ばれる。ストリーボグ等、あらゆる古代

く、ルーシの宗教的な世界観、国家イデ

神々の名は挙げられるが、イエスやマリ

オロギー、道徳、生活風習などがよく映

ア、聖人のことが一度も書かれていない。

っている。『過ぎし年月の物語』に聖書

一方、『イーゴリ軍記』の著者は年代記

の内容も要約され、ロシア民族もイスラ

作家と同様に、他の公たちの支持を得ず、

エル12族の一つから生まれたと書かれ

貢物と名誉だけを目指して勝手に戦争へ

ている。つまり、ロシア歴史はバイブル

行ったイーゴリ公を非難し、ルーシの統

の聖歴史の一部として挙げられる。

一を願っている。『イーゴリ軍記』はロ

当時は既に年代記の伝統を持ったキエ

シア文芸の始まりとも呼ばれている。

フとノヴゴロドに続いて、12世紀にウ ラジーミル・スーズダリ公国やガーリッ チ公国にも年代記が始まる。地方の年代 記作者はルーシ歴史を全体的に観て、各 地の愛国心を持ちながらもルーシの統一 への願いが強かった。 「大戦闘の後」、V・ワスネツォフ、1880

12~13世紀に数多くの文学作品が 作成され、そのジャンルとテーマは更に

ウラジーミル・モノマーク大公による

多 様化 した。 その時 代に 書か れた名 作

『教訓=ПОУЧЕ́ НИЕ』(1125年)も

『イーゴリ軍記』はモンゴル襲来以前の

大変興味深い古文だ。年を老いた大公は、

ロシア文芸の最古作品であり、その中に


79 息子たちに「権力者である」という重い

れる理想的な公だ。祖国ルーシに対して

責任について語っている。自分の経験を

配慮を示すことは誠実な公にとって第一

思い出しながら「誠の大公とはいかなる

の条件とされている。ルーシ国家を統一

者か」と分かりやすく説明している。良

させるために公たちは恨みを忘れ流血の

い教育を受け、勇気をもって、活動的で

争いを捨てるべき、とモノマークが書い

心情深い指導者―それは『教訓』に描か

ている。

「ウラジーミル・モノマークの教訓」から 様は貴方達の心に安らぎを授けたときは、犯し 神

なく守るのだ。

た罪を思い出して「娼婦にも、強盗にも、収税

破ったら、自分

吏にも慈悲を下さったように、罪深い我にもどうか

の魂を滅ぼす

お慈悲を」と言いながら涙を流しなさい。教会に

事になるのだ

行くときにも、寝る前にもそうするが良い。一夜も

から。主教、典

休まず、元気であれば土に伏せて礼拝し、不具

院、司祭を尊

合のときに三回の礼をするだけで良い。それを忘

敬し、決して避

れないこと、なぜなら夜の礼拝と祈りで人は悪魔を

けることなくい

祓い、一日に犯した罪を滅ぼすからだ。馬に乗っ

つも祝福を受け、できる程度で彼らを愛し面倒を

たときも、他にすることがなければ、他の祈りも覚え

見て、彼らの祈りによって貴方達は神に恵まれるだ

ていないならただ「主よ、お慈悲を」と絶えず心の

ろう。

中に唱え続けるのだ。なぜなら、この祈りは最も良

そして何よりも大事なのは、頭にも心にも高慢を

いのだから、少なくとも*馬に+乗ってデタラメを唱え

持たないことだ。こう言いなさい「今日、我らは生き

るよりふさわしいのだ。

ても、明日はもう棺の中だ。汝から貰った物は全

そして何よりも、弱者のことを忘れず、できる程度で

て、我らの物ではなく、神から数日に借りただけ

良いから、孤児に食べ物とお金を与え、未亡人を

だ」。又、地下に何も隠さないでくれ、それは大な

支え、強者に人を虐めさせないでおくれ。義人にし

る罪だから。老人を父のように、若者を兄弟のよう

ろ、罪人にしろ、殺してはならない、例えそれは殺人

に尊敬するのだ。家の中に怠けず、何でも自分で

者であろうとも、キリストに捧げた魂を滅ぼしてはな

営み、宮官にも部下にも委ねてはならない。そうす

らない。話すときは、良い事でも悪い事でも言えば、

れば貴方達の家も、食卓も他者に笑われる事は

神の名を挙げて誓ったり十字を描いたりしてはなら

なかろう。戦に行っても怠けず、部下の司令官に

ない、なぜならそれは全く無用だから。もし、誰かの

頼らず、飲食にも睡眠にも嵌るな。警備を自分で

前に十字架に接吻して宣誓せざるを得ないとす

確認し、真夜にも四方面に警備隊をおいて、武

れば、自分の心を確かめて、守れるだけの事を心

士達の近くに寝なさい。朝早く起きて、見回りもせ

に決めなさい。その思いで接吻し、決して破ること

ず慌てて武器を外してはならない、人間はいきなり


80 死ぬものだから。嘘に用心し、酒にも淫乱にも、そ

自分にできる良い事を忘れず、自分に出来な

のせいで肉体も魂も滅びるのだから。自分の領地

いものを習うが良い。例えば我が父上は家に留

のどこへ向かっても、人様に呪われたくないなら部

まっても、五ヶ国語を知った、だから異国にも尊重

下にこう命令しなさい「仲間にもよそ者にも、村に

された。不精は全ての*不道徳の+母親だから、

も畑にも被害を与えるな」と。どこへ行っても、どこ

人はできる事を忘れ、できない事を習わない。善に

で留まっても貧乏人に飲食を与え、そして賓客を

怠けてはならない、特に教会には。陽が出る前に

誰よりも尊敬しなさい。どこの人も、平民でも貴族

起きなさい。故人の我が父上も、他の立派な男

でも、使者にでも、上げる贈物がなければご馳走

もこうしていた。朝の勤行に行けば、登る陽を観な

でも与えなさい。人は各地を旅し、貴方は良き者

がら神を誉めて、こう言いなさい「我にこの奇跡の

か、悪者か皆に伝える。病人にお見舞いを、故人

明光を下さった神なるキリストよ。どうか我の目を

を見送りしなさい、誰でも死す者だから。人に会え

照らしたまえ」と。又、「主よ、どうか我に永い生きを

ば挨拶を忘れず、優しい言葉を言いなさい。妻を

おくれ。我は、以前に犯した罪を反省し生き方を

愛しろ、けれども彼女に支配されるな。そして全て

正せる様に」と我はいつも言うのだ。軍団と会議す

の基は、神への恐れだ。

るときにも、人の裁判を行なうときにも、狩に行くと

それを忘れそうになれば、再び読んでくれ。それ

きにも、貢取りに行くときにも。昼寝は神様に決め

で我も恥じる事ないだろうし、貴方達も安らぎがあ

られた掟だから、獣も鳥も人間もその掟に従うの

るだろう。

ではないか。

又、ダニール・ザトーチニクによる『念願= Моле́ние』は他の本と大きく異なる作品だ。その ジャンルの定義さえ難しい。それは公爵宛の採用 願書の形で書かれているが、一方、長者の権勢と 教会の破廉恥、女性の不道徳と貴族の横暴などを 風刺する。ザトーチニクは、様々な才能を持って も世間に評価されることなく貧しい生活を送って いるので、公爵に庇護を求めて勤めに自分の最善 を尽くすと書いている。 12世紀に、『巡礼』と呼ばれるロシア初の 旅行記も書かれた。それはチェルニゴフ市のダニール修道院長によるエルサレム巡礼の 記録だ。キリスト教の聖地へ旅したダニールは、エルサレム近郊やパレスチナの各地を 巡った。様々な名所や町並みを見て、旅にあった全てのことを慎重に記録した。 当時、文学の大部分は神学文献だった。特に、トゥーロフ市のキリル主教は神学者 として有名だった。キリル主教は『盲人とびっこの物語』と『司祭と修道士の物語』で、


81 精神と肉体、天国と現世、修道士の奉仕などの意味を寓意的に説明している。又、11 47~1155年のキエフ府主教クリメント・スモリャチチは12世紀に最も尊重され た神学者だった。年代記にクリメント府主教は『全ルーシに二人いない学者と賢者』と 呼ばれている。『フォマー神父への親書』に、彼は教育の重要さや聖書の哲学的な理解 について書いている。クリメント府主教は他にも本を書いたという記録はあるが、残念 ながら『フォマー神父への親書』しか現存してい ない。 13世紀の伝記ジャンルの名作として『キエ ペチェル

フ・洞窟大修道院伝記集』が挙げられる。その伝 記集は、キエフ・ペチェル大修道院の創立、最初 修道士の活動について物語っている。 中世の自然学は神学の一部門と考えられていて、 特にギリシャ語から翻訳された『六日書= ШЕСТОДНЕВ』と『自然書=ФИЗИОЛОГ』は人 気だった。『六日書』の名称は、天地が神によって六日間で創造されたことを意味し、 その写本には宇宙や大気現象、様々な動物などが神学的な観点から説明されている。同 様に『自然書』は獣、鳥、石、木などを寓意的に説明する。 『自然書』獅子の章

ФИЗИОЛОГ О ЛЬВЕ. Три свойства имеет лев. Когда львица родит, то

「獅子は三つの特性を持っている。メスは子を産むと、眼の見

приносит мертвого и слепого детеныша, сидит она и

えない死んだ子が生まれる。メスは三日間も子の側に留まり

сторожит его до трех дней. Через три же дня

見守っている。三日目にオスの獅子が来て、子の鼻に命を吹

приходит лев, дунет ему в ноздри, и детеныш оживет. То же и с верными народами. До крещения они мертвы, а после крещения очищаются святым духом.

き込む。忠実の民族も同じだ。洗礼を受ける前に皆死んでい て、洗礼を受ければ聖霊が吹き込まれる。

Второе свойство льва. Когда спит, то глаза его

獅子の第二の特徴。獅子が眠る時、眼だけが眠らない。我

бодрствуют. Так и господь наш говорит иудеям: «Я

が主もユダヤにこう言っている「我眠っても、神なる我の眼と心

сплю,

а

глаза

мои

божественные

и

сердце

бодрствуют». А третье свойство льва,— когда львица бежит, то следы свои заметает своим хвостом, и охотник не может отыскать ее следов. Так и ты, человек. Когда творишь милостыню, то пусть левая рука не знает, что делает твоя правая. Да не помешает дьявол делам помысла твоего.

は眠らない」。 獅子の第三の特徴は、メスが走るとき尾で足跡を掃くので、 狩人は彼女の足跡を見つけない。 あなたがた人間も同じだ。施しをするときに、右手は何をする か、左手は知らないように。あなたの心の行いは悪魔に邪魔さ れないように。


82 建築と絵画 ロシアの思想家、文学家や芸術家など「聖のルーシ=Свята́я Русь」と いう伝統用語を良く使っている。それは決して一種の「神の国発言」では なく、具体的な意味を持つ教会由来の表現だ。 11~12世紀、ヨーロッパの十字軍はトルコからエルサレムの地を解 放するために何度も中東へ行軍した。その結果、パレスチナは一時的にイ スラム教徒からカトリック教会の支配下に移った。西欧のキリスト教徒巡 礼者はエルサレムを自由に訪れることが出来るようになり、パレスチナは 「聖地」と呼ばれた。おそらく、そのためにヨーロッパには「聖なるフランス」、「聖 なる英国」や「聖なるスペイン」という呼び方がなかった。 しかし、東欧には「聖なるルーシ」が生まれた。その呼び名はなぜあるのか、そし てどこから来たのか? ロシアは従来、ビザンツ帝国やパレスチナから黒海周辺 の遊牧民によって隔離されていた。そのため、巡礼は極め て困難であり、ルーシ人にとって地上のエルサレムより、 イエスが留まる「天空の新エルサレム」は理想に思われた。 独特のキリスト教文化を有する祖国は「聖のルーシ」と呼 ばれるようになった。実際にそれは地理的な「ロシア」に 限らず、ビザンツ帝国が崩壊された15世紀以降、エルサ レムやギリシャなどの聖地を含む東方正教の神秘的な空間 を意味するようになった。現代、右翼などに悪用されるこ ともあるが、一般的な意味で「聖のルーシ」は宗教的な理 想でしか存在しない「幻の国」だと言ってもいいだろう。 988年のキリスト教化からモンゴル襲来までの200 年間、ルーシ各地に石造教会は200以上、木造教会は無 数に建てられた。その教会の多くは、黙示録に描かれた天 空エルサレムの姿を暗号化している。 キリスト教思想家は古代より、「聖堂の形は天空エルサ

( 建 築 家 G ・ モ ケ エ フ に よ る 復 元 図 )

教 会 の 構 造 に 象 徴 さ れ る 「 天 空 の 都 」

レムと同様同一である」と述べてきた。10世紀頃、ギリ シャ正教では天空の都を象徴する聖堂の構造が結晶された。 それはいわゆる「十字型キューポラ聖堂」だった。 十字型キューポラ聖堂がビザンツに出来たばかりの10 世紀、キリスト教はルーシに伝道された。ビザンツの建築

楽園


83 家によるキエフやノフゴロドで造られた初期の石造聖堂はルーシの教会建築の原点にな ったが、それは間もなくロシア化されて独特な建築様式に変身した。 天空エルサレムは聖ヨハネの「黙示録」に描かれている。12門のある正方形城壁 で、各方面に3つの門が面している。「城壁が高い」と書いてあるので、外から正確な キューブに見えるだろう。上から神の「誉の光」に照らされているという。又、誉の光 の包まれた神の宝座は旧約のエザキエル書にも登場する。 ギリシャ正教の十字型キューポラ聖堂は12のアーチ型ザコマラがあり、それは天 空の都の12門を象徴し、高いドラムと十字架を頂いた丸屋根は「ゴルゴタ」と「イエ スの宝座」を意味する。ザコマラの浮彫に楽園の動植物が見える聖堂もあった(例えば、 ウラジーミルの教会群)が、当時の教会は外壁の飾りが多くなかった。そのシンプルな 形こそ調和を生み出していた。 ドラム、丸屋根とザコマラを備えた聖堂は天空の都のシンボルで、礼拝や聖行列に参 加した信者はそれをよく理解していた。行列は教会を出ることは「アダムとイブの失楽 園」を意味し、行列の進行は新約教会への変容を示し、教会への再入場は天空の都への 到着と新世界の入手を象徴した。聖行列は、教会を巡るだけでなく、城壁の外へ出て街 を巡ることで街全体を神に捧げていた。 又、聖堂は聖書で「キリストの御体」とも呼ばれるので、大衆はそれを人間の体と 同様に考えていた。聖堂の部分はそれぞれ「額、頭、首、胴体、帯、足元」と呼ばれて いる。十字型キューポラ聖堂の構造は対称的で、どの方面から見てもほぼ同じ姿で、青 空を背景に低い木造の街の上に美しくそびえていた。 キューポラ ドーム型の丸屋根。 一般的に「天空」を象徴する。

十字型 真上から見ると、中央ネーフが交 差して十字架の形になっている。その十字架 の中心にドラムがある。

ドラム 丸屋根を支えるシリンダ ー型塔。複数の窓から光が流れて いて、内部の空間を照らす。

ザコマラ ネーフの丸い天井と繋 がった外壁のアーチ型セグメント

アプス 祭壇の間。本堂の 東側にある丸い増築部分。

ネーフ 天井を支える柱の間にある 廊下。その天井がアーチ型である。


84

ノヴゴロド

12世紀から、建築にも多くの変化が見られる。各地方に建て られた教会の様式はキエフと異なり、現地の建築派が生まれた。

根本様式は「十字型キューポラ様式」だったが、そのバリエーションは多様化した。ノヴ ゴロドの建築は、設計がシンプルで飾りは殆ど使われない「厳しい様式」が特徴だった。 建設材に使われた地元の石灰岩が硬く加工し難いもので、ノヴゴロドの教会には浮き彫 りがなく、壁の表面はざらざらだが、立体感と独自の魅力を持っている。ノヴゴロド建 築の最も有名な作品は聖ゲオルグ大聖堂だ(Гео́ргиевский собо́р)。 聖ゲオルグ大聖堂はノヴゴロドの公爵フセヴォロド・ムスチスラビッチの命令で1 119年に建設され、中世ノヴゴロドの最大の建築物になっている。12~13世紀に、 聖ゲオルグ大聖堂

ユーリエフ修道院は北ロシアの大きな政治拠点だった。その 修道士達は年代記を書き、聖ゲオルグ大聖堂は公爵の霊廟に もなった。ノヴゴロドのソフィア大聖堂と同様に、ゲオルグ 大聖堂は壮大な建築物で、川沿いに聳えている。その設計は まさにノヴゴロドらしく卖純だが、特別な構造によって人に 与えるインパクトが強い。一般的な十字型キューポラ聖堂と 違って三つのドラムがあり、三つとも大きさが異なって位置 も非対称的だ。聖堂の胴体を北側から見れば普通の箱型だが、 单から見ると形が変わって、3番目のドラムは増築部分の上 にあるように見えてくる。その設計によって聖堂全体が動い ているかのように見える。建築素材は石と煉瓦で、屋根に鉛 板が使われていた。模様や飾りが殆どないが、デザインはとても簡潔である。 中世ロシア建築家の名前は殆ど知られていないが、年代記にゲオルグ大聖堂の作者 は「職人ピョートル」だったと書かれている。 聖ゲオルグ大聖堂はノヴゴロド大型建築の最後の作品となった。


85 その他、1198年にネレディツァ河の岸辺に建てられたスパス教会(Спас на Нере́дице)があり、その中にルーシ職人による素晴らしいフレスコがあったが、それ は第二次世界大戦にドイツ軍に滅ぼされ、写真だけは残っていた。しかし、2003年

ネレディツァ河のスパス教会

にスパス教会の大修復作業が始まり、内壁のニッチの 中に三つの大きなカゴに積んだフレスコの欠片が発見 された。

ノヴゴロドの画家たちはビザンツ絵画伝統を大胆 に考え直し、13世紀に独特のノヴゴロド聖像画スタ イルが生まれた。キエフの「京派」より素朴とはいえ、 その鮮やかな色とコントラストを見れば、それは北ロ シアの民芸による影響だと分かる。さわやかなブルー、 白、黄色で描かれた聖人の衣装と顔を強調する赤い背 景と真っ白なハイライト。ノヴゴロド派の代表作とし て13世紀半ばに描かれた『聖イオアン、聖グリゴリ ウスと聖ヴラシウス』のイコンが挙げられる。


ウラジーミル・スーズダリ公国の

ンドレイ・ボゴリュブスキイ公の時代 に建設作業が活発に行われた。ウラジ ーミルの街に大きなウスペンスキイ大 聖堂(1160年)が建設され、その 壮大な姿は全ルーシ諸国に対しウラジ ーミル公国の優越性を表していた。 「ウスペンスキイ」という名付けは偶 然ではなかった。キエフのことを思い 出してみよう。ウラジーミル聖公によ

アンドレイ・ボゴリュブスキイ公(1111~1174) モ ン ゴ ロ イ ド の 顔

ア ン ド レ イ ・ ボ ゴ リ ュ 。 ブ ス キ イ の 顔 。 明 ら か に 見 え る

・・・

ウ ラ ジ ー ミ ル ・ス ー ズ ダ リ

建築にも独特な進行方針があった。ア

人 類 学 者 M ・ ゲ ラ シ モ フ に よ っ て 頭 蓋 骨 か ら 復 元 さ れ た

って建てられたあの「デシャチンナヤ教会」の実名 は「聖母御眠教会=ウスペンスカヤ」だった。つま

ユーリイ・ドルゴルキー大公とアジア系遊牧民女性の

り、同名の大聖堂を建てることによって、アンドレ

息子だったアンドレイ・ボゴリュブスキイはルーシ公爵の中

イ・ボゴリュブスキイ公は全ルーシに「ウラジーミ

で最も謎の多い人物だ。年代記には、アンドレイ・ボゴリュ ブスキイの最初の記録は1149年(ルーツクの戦い)に当

ルは新しい首都だぞ」と宣言した。

たり、その時に彼は既に38歳だった。当時の平均寿命で

ウスペンスキイ大聖堂の建設には、ゲルマン皇

言えば、それは晩年に近い年齢だった。つまり、アンドレイ

帝フリドリッヒ1世に派遣された職人も参加し、壁

公は歴史の舞台にいきなり現れて、それまでにどこにいて

の飾りにロマンス様式の要素が見られる。ウラジー

何をしたのか全く不明だ。 ある『聖公行伝』の本に、アンドレイ公は「長年、エル

ミル建築様式の典型的な要素は「帯」と呼ばれ、そ

サレムの街に〔イエスの〕聖なる棺の前に祈りと斎戒で過

れは4~5㍍の高さに並ぶ半柱だ。又、多くの教会

ごした」と書かれていて、ロシアの情報源はそれしかない。

の屋根を飾る十字架の

恐らく、ボゴリュブスキイは第二回十字軍(1147~114 8)に参加して、1149年頃にロシアに帰還したと考えても 良いだろう。彼は聖ローマ帝国(ゲルマニア)の皇帝フリー ドリヒ1世との親しい友好関係を持っていたのはその証拠 だ。 ボゴリュブスキイ公はルーシに聖母崇拝を導入し、 ポ ク ロ ー フ

『聖母庇護祭』も設置した。又、ウラジーミルで独立の府主 教を任命するようにビザンツ総主教と交渉した。 彼がウラジーミル地の公爵になると、活発な石造建築 が始まった。当時のルーシ経済では一年に一軒の教会を 建てても限界だったが、アンドレイ・ボゴリュブスキイは一 年に20軒を建てていた。その経費と労働力はいったいど こからきたか、全く不明だ。しかも、その教会は全て、遠く から運ばれた高価な石灰岩から建てられて、全て聖母マ リアを奉るものだった。 又、1174年にアンドレイ・ボゴリュブスキイは暗殺され て、犯人が捕まったが、その暗殺を仕向けた張本人は未 だに不明だ。


87 形は独特であり、その台は上向きの三日月の 形をし、「キリスト教のルーシはイスラム教徒 の遊牧民」と誤解されることが多い(ウラジー ミル公国はイスラムのボルガ・ブルガリア国と 隣地していた)。実際は、それは月ではなく 「ツァータ」と呼ばれる公爵の首飾りだ。当時、 公爵の表象は、頭に王冠ではなく縁にクロテン の毛皮をつけた帹子(ША́ПКА)と、首に付ける グ リ ヴ ナ

金の輪 だったが、ツァータは更に飾りを付けた グリヴナのことだ。十字架の下にツァータを付 けることで、公爵家は教会を支えているとい うメッセージが伝わる。 この世

月と十字架の幹に12人の使徒を意味する

天 コスモス

12羽の鳥の像があり、トップには聖霊を象

地獄

徴する鳩の像がある。十字架のプロポーショ

三位一体

ンは独特で特別な意味を持つと思われている。 十字架の台はもともとカップ形であり、「林 檎」と呼ばれる球体が後につけられたことを 考慮に入れると、その意味を解釈できる。横

新エルサレム 林檎

棒と縦棒の長さ、鳩像のついた十字架の大きさに合わせて三つの丸を描くと、それはキ リスト教の宇宙を構成する次元を表す(天、コスモス、地獄)。又、十字架の頂点から 横棒の両端を通じて正方三角形を描くことができる。キリスト教で三角は三位一体(つ まり神の正体)を意味し、面の丸まった三角形はこの世に現れる神の意志を表す。そし て、横棒の両端に合わせて描いた正方形は黙示録の「新エルサレム」を意味する。 当時のウラジーミルは豪華さでキエフと並ぶ都市だった。キエフと同じく、12 世紀 のウラジーミルにもコンスタンティノープルにちなんで『金門』が建てられた。ウラジ ーミルのアンドレイ公はボゴリューボヴォという郊外宮殿を建て、その宮殿から現在ま で残ったのは小さな階段塔とネールリ河の岸辺にあるポクローフ教会(1165年)だ。 ポクローフ教会は、設計が軽やかで、神秘的な魅力を持つ傑作として世界遺産に認定さ れ『ロシア建築の白鳥』とも呼ばれている。教会自体は大きくないが、壁は内側に軽く 傾いているため実際より高く見える。ポクローフ教会の敶地は埋立てのもので、当時は 石灰岩で覆われていた。


88 ボゴリューボヴォ城から 唯一残された階段塔。 皮肉にも、それは アンドレイ・ボゴリュブスキイが 殺された場所だ。

ウラジーミル市、金門

ウスペンスキー大聖堂

ポクローフ教会

聖母庇護祭

東方正教会の最も有意義な記念 日の一つだ。910年にイスラム教徒の軍はビザ ンツ帝国に侵入し、コンスタンティノープルを攻 めてきた。伝説によると、10月14日にコンス タンティノープルの教会に入った信者は空中に浮 おおい

かぶ聖母マリアを見た。マリアは手に 布 を持っ て、それを信者の上に広げた。それは市民に祝福 の証と思われ、ビザンツ人に希望を与えた。間も なく、敵軍が逃げた。その出来事を記念して10 月14日は、異教徒の敵から守ってくれる聖母マ リアを奉る日となった。


89 ポクローフ教会の浮彫りは、ハープを弾いて聖歌を歌うダビデ王の像を中心に獅子、 鳥とグリュプスの象が刻まれている。スラブの伝統に、鳥は人間の魂を意味し、獅子は イエスを象徴した。中世ヨーロッパでは、ライオンの子供は生まれた時にまだ死んでい て、後で父親が命を吹き込むと迷信され、それはイエスの復活を連想させた。又、ライ オンは眠る時に目を閉じないと信じられ、神も眠ることなく人類を見守ると思われてい た。更に、ライオンは動物の王者で、イエスは人類の王者と思われ、それは公爵の権力 を支えるイデオロギーに利用された(地上の支配者は神の選ばれし者として描かれた)。 教会の内部には、キューポラを支える柱の頭部にも獅子像があり、キューポラは天空を 意味する。つまり、天空が獅子に支えられると同じように、この世の秩序は権力者に守 られていると解釈できる。壁には女性の顔が刻まれて、その意味は未だ解らないのだが、 三つの説がある。

二重信仰によって重なり合った地の女神モーコシュと聖母マリアのイメージ

頭にショールを被っていない若きマリア象

ダビデ王の聖歌を聴く天使

アンドレイ・ボゴリュブスキイの後継者フセーヴォロド大 巣公(Все́волод Большо́е Гнездо́ )の時代にも教会建設は 活発に行われていた。1197年に建てられたに聖デミトリ イ大聖堂はウラジーミル様式の代表作だ。ノヴゴロドと同じ く、ウラジーミルに石灰岩が建設材に使われたが、ウラジー ミル地方の石は柔らかく加工しやすい。外壁には、植物模様 や空想上の動物や聖書の登場人物などの細かい浮彫が施され ている。石彫りの伝統が最も発揮されたのはユーリエフ・ポ ーリスキイ市に建てられた聖ゲオルグ大聖堂だ。1234年 に建設された聖ゲオルグ大聖堂の外壁は土台からキューポラ まで浮彫に覆われている。 デミトリイ大聖堂の浮彫は聖書のイラストになっ ている。外壁レリーフは、様々なテーマとモチーフ があり、特に 初期キリ スト教に広く 普及して いた鳥の像が 多い。楽 園の生物とし て、あら ゆる場面に登場する。

ディミトリイ大聖堂


90 聖堂自体は聖書に書かれた「天空のエルサレム」を象徴し、そこで鳥のイメージは極 めて有意義だ。古代信仰では鳥が「魂」と「天界」を意味していたが、キリスト教はそ のイメージを借りて新しい意味を吹き込んだ。それは聖体、復活、変容、聖霊だった。

鳳凰

インド由来の鳳凰はビザンツにキリスト教化され て、ルーシにも伝わって来た。灰から蘇る鳳凰は キリスト教徒にとって復活を象徴しイエスのスト ーリーと連想していた。 鳳凰は陽の鳥で、イエスは心理の太陽。外壁に刻 まれた鳳凰は頭を上げて翼を広げて喜びを表す。 樹の枝に囲まれているか、鳥の尾は樹の枝になっ ている。木も意味を持っている。

キリスト教の寺院は「聖霊の家」とも呼ばれ、聖 霊を表すイメージとして鳩の像が使われた。絵に もレリーフにも、上の部分に必ず翼を広げた飛び 降りる鳩が登場する。王座に座るダビデ王やフセ ーヴォロド大巣公やグリップスに乗って昇天する アレクサンダー大王の側に必ず鳩が現れる。

孔雀 初期キリスト教に孔雀は不死を象徴した。二羽の 孔雀像が多く、その間に聖杯、十字架、太陽、樹 やキリストのモノグラムなどがある。 デミトリイ大聖堂の浮彫に、尾が絡み合って樹に 変容する二羽孔雀像が多い。その樹は永遠の命を 意味し、孔雀は嘴を樹につけて聖体を受ける。樹 が十字架の形を作る像もある。

植物 椰子の木は「復活」と「勝利」 葡萄は「聖体」 広葉樹は「楽園」。 多くの植物はキリル字の「Ж」の形をし、それは 「ЖИЗНЬ=命」の頭文字と思われている。

獅子 王のマーク。又、眠っているライオンの像もよく あり「体が眠っても、心が眠らない」という神の 力を象徴する。

ウラジーミル・スーズダリ教会の形とその意味 鳩=精霊 十字架=イエス

キューポラのタイル=無数の天使 輪と三角形=天力の位

ツァータ=主、最高神 キューポラ(額)=ゴルゴタ

窓 ①イエスから流れる祝福の光 ②12使徒から流れる教えの明光

塔の部分=神の宝座

アーチ型ザコマラ=天空の都の 12 門 ケルビム

ドラム台=宝座の台=神の宝座を支える四智天使 (エゼキエルの予言から) 壁の上部=天空 動植物=楽園にすむ奇跡の生物 壁の表面=楽園の風景 ダビデ王 ソロモン王 アレクサンダー大王 ヘラクレスの像

=天空の都に住む義人 並ぶ聖人たち(帯) 天国の入口で待っている 地上天使たち

入口=イエスの道 壁の中・下部 地上世界 壁の下部 四方面から辿り着いてきて教会を結成するキリスト教民族

聖 堂 の 壁 イ エ ス の 御 体


91 ウラジーミル聖母のイコン このイコンは恐らく12世紀ビ ザンツのものだが、伝説によると使 徒ルカは、イエスの実家で使われた 食卓の板を切り出して、その上にこ の聖像を描いたという。即ち、それ はロシア正教会に最も尊重される奇 跡のイコンになっている。このイコ ンは5世紀にエルサレムからコンス タンティノープルに運ばれたと言わ れている。そして1131年頃に、 ビザンツ総主教からキエフ大公ユー リイ・ドルゴルキーに贈られた。1 155年に、ユーリイ・ドルゴルキ ー大公の息子アンドレイ・ボゴリュ ブスキイは聖母像をキエフからウラ ジーミルへ持って逃げた。聖母像は ウラジーミルのウスペンスキイ大聖 堂に置かれて、それ以降『ウラジー ミル聖母』と呼ばれるようになっ た。 ハーン

テ ィ ム ー ル ( Timūr/Taymūr, 1336~1405 年)は、中央ア ジアのモンゴル=テュルク系軍事 指導者で、ティムール朝の建設者 (在位 1370~ 1405 年)。 (Wikipedia)

1395年、ティムール可汗の 大軍はモスクワに近づいて、イェレ ツの街を襲った。モスクワ大公ワシ リイ1世は絶対に返すという条件で ウラジーミルからこの聖母イコンを 借りて、モスクワ全市民がその聖像 の前に集まって、モスクワを敵から 救出してくれるように聖母マリアに 祈った。

突然、ティムール軍はイェレツを後にして、そのままルーシから去った。それは、 聖母マリアによる奇跡に間違いないとルーシ中に思われた。実のところ、ティムールは 「祖国で反乱が始まった」という知らせを受けて帰らざるを得なかったが、そのタイミ ングは奇跡的だったとしか考えられない。 しかしここで大問題が起きた。ワシリイ1世は「イコンをウ ラジーミルに返さない」と言った。当然、ウラジーミル市民は 怒ったが、ワシリイ1世は「良い複写を送るから、それで良い でしょう?」というと、不思議なことにウラジーミル側が納得 した。有名なイコン画家アンドレイ・ルブリョーフが複写を描 ウスペンスキー

いて、そのイコンは今でもウラジーミルの聖母御眠大聖堂の本 尊として奉られている。しかも、ルブリョーフによる複写は原


92 図とそっくりではない。けれども、イコンは原図より内容が大事なものとされるから、 形の違いは問題にならなかった。 ウスペンスキー

聖母イコンの原図は数百年に渡ってモスクワの聖母御眠大聖堂の本尊として、純金 の飾に保管されていた。現在、国立トレチャコフ美術館の中庭にある聖ニコラス教会に 展示されている。

ユーリエフ・ポーリスキイの聖ゲオルグ大聖堂 聖ゲオルグ キリスト教世界だけでなくイスラムでも奉られる聖人だ。特に、スラブ農民 の中で聖母マリアの次に尊重される者と知られている(ギリシャ語で「ゲオ ルゴス」は農夫を意味する)。聖ゲオルグの伝説によると、ある都市は大蛇 に襲われ、市民は自分の子供たちを生贄にしていた。キリスト教徒のゲオル グは大蛇を殺し、都市を救ったので市民は皆キリスト教徒になったという。 聖ゲオルグが大蛇と戦う武士の姿で描かれるイコンが多く、ヨーロッパ各地 の公爵や王はその像を自分の家紋に入れていた。例えば、聖ゲオルグの像は モスクワの紋章にあり、ロシア国章にも入っている。ゲオルグの名前は、発 ゲオルグ

ホ ル ヘ

音がそれぞれだがヨーロッパ各地で使われる(独・Georg 、ス・Jorge 、 ジ ョ ー ジ

ユーリイ

英・Georgeなど)。ロシア的な発音はЮрий (例えばユーリイ・ガガーリ イェゴール

ン)又はЕ г о р だ。

ユーリエフ・ポーリスキイ市を11 52年に創始したユーリイ・ドルゴル キー公はその町に自分の名前をつけた。 例えば、キエフは「キイ Кий の町」を 意味すると同様に「ユーリエフ」は 「ユーリイの町」を意味し、「ポーリ スキイ」は町の周りに広がる森のない ポ ー レ

平原(ПОЛЕ)を意味する。ウラジーミ ルやスーズダリ等に比べて、ユーリエ フ・ポーリスキイは小さい町だが、そ こにある聖ゲオルグ大聖堂は大事な文 化遺産として全国に知られている。 1152年にユーリイ公は小さな白 石の教会を建設するように命じ、自分 の守り聖人だったゲオルグに捧げた。


93 1230年に、ユーリイの孫に当たるスビャトスラフ公は古い教会を取り壊し、代わり に聖ゲオルグ大聖堂を建設させた。1230~40年代に建てられた聖ゲオルグ大聖堂 はウラジーミル・スーズダリ建築において最後の大作になった(1240年はモンゴル 襲来)。 聖ゲオルグ大聖堂に並ぶ作品を造る試みが後にもあった。例えば、1326年にモ スクワで建てられたウスペンスキイ大聖堂は明らかにその複製だった。しかし、形の似 たような聖堂を建てても、地面から屋根まで広がる不思議な浮彫を施す匠がいなかった。 聖ゲオルグ大聖堂の浮彫は、現在の芸術家と芸術研究者にも感動を与える。その浮 彫は壁の平面だけでなく小柱、玄関、帯などを覆っている。その中に現れる無数の人物、 動物と空想怪獣は植物模様で結ばれ、まるでレースのように見える。 残念ながら、1460年代に聖ゲオルグ大聖堂の上部が崩れて、单の壁はほぼ完全 に崩壊され、北の壁だけ崩壊を逃れた。その原因は、恐らく技術の未発達よりも、権力 者の高慢だった。ユーリイ・ドルゴルキーの時代には、石灰岩教会が造られていたが、 あまり大きなものはなかった。石職人は、石灰岩の弱点をよく理解していたからだ。石 灰岩は重くて軟らかい石なので、大きな壁はその重さだけで崩れる恐れがある。しかし 公爵はどうしても、公爵家の教会に白石が一番ふさわしいと思い、できるだけ大きな教 会を造れと要求した。それが原因で、聖ゲオルグ大聖堂も崩れ、ウラジーミルのウスペ ンスキイ大聖堂も傾いて、14世紀に建てられたモスクワの白石城壁は100年も持た なかった。

1471年、大聖堂を修復するためにモスクワからV・イェルモーリンという建築 家が派遣された。彼は以前、ウラジーミルの教会群を修復する経験もあったが、ゲオル グ大聖堂の設計図が既に失われていたため、壁の模様をパズルのように欠片から元通り の姿に組み合わせることはほぼ不可能だった。イェルモーリンは最善を尽くして、北の 門を始め建物の幾分を修復に成功しても、完全な姿に復元することは出来なかった。そ の結果、場所によって壁模様の順番が守られず、一部の浮彫石はただの建設材に使われ てしまった。 イェルモーリンは聖堂に新しい天井を造ったために建物の姿が大きく変わった。新 しく造られた太いドラムと大きな丸屋根は聖堂を押さえつけるように見え、全体の形は


94 元の軽やかさを失っている。聖堂自体は大きくないが、天井を支え る柱は中心から壁の方に離れているので内部空間は実際より広く見 える。ロシアの教会として珍しいことだが、中にイコノスタシスは

なく、本堂と祭壇の間を分ける低い塀に華やかな浮彫模様が施され ている。 外壁にある浮彫の意味は過去数十年の研究によってほぼ解明され ている。それは主に聖書の場面で、西側に「御変容」と「三位一 はりつけ

体」、北側に「 磔 」、「地獄」と「預言者ダニール」、そして 「イエスの昇天」、「聖母オランス」と「アレクサンダー大王の昇 天」などがある。帯の小柱の間に、西欧ゴシック聖堂にも見られるような聖人の像が並 んでいる。又、北壁にはユーリイ公の守り聖人である聖ゲオルグの像があり、その鎧は ロシアのもので、盾にウラジーミル公家紋の「ヒョウ」が刻まれている。 聖ゲオルグ聖堂の浮彫の中に、戦士と女性、獅子とケンタウルス、グリュプスやサ イレン像の他に、聖堂を建てなおしたスビャトスラフ公の像もあり、又一つの石に「バ クン」という名が刻まれ、それは恐らく浮彫職人の親方の名前だと思われている。浮彫 職人の組合が二つあって、その一つは12人で人物と動物像を彫り、もう一つは約18 ~20人で植物模様を施した。

聖ゲオルグ大聖堂は宗教的というよりむしろ政治的なシンボルだったかも知れない。 戦士の像はスビャトスラフ公の軍団を意味し、不思議な動物像は土着信仰の強い一般ル ーシ人の世界観を、植物模様はウラジーミル地の豊かさを象徴すると思ってもいいのだ ろう。中世ルーシの年代記では既に「ゲオルグ聖堂の設計者は一体誰だったのか」とい う問題が挙げられ、それはスビャトスラフ公自身だったという年代記もある。

ポーロツク、スモレンスク、チェルニゴフの建築様式も興味深いものだ。ポーロツ クに続いて、スモレンスクとチェルニゴフにも独特な教会設計が生まれた。特別な支持 用アーチ、ザコマラとココシュニックという独特な装飾の利用によって、一般的な十字 型キューポラ様式の教会は空に向かって飛び出すかのように見える。このような教会は


95 「柱型教会」と呼ばれている。ポーロツクのエフロシニア修道院のスパソ・プレオブラ ジェンスキイ大聖堂(1159年、職人:イオアン)、スモレンスクの大天使ミカエル 大聖堂(12世紀末)とチェルニゴフの聖パラスケワ教会(12世紀末、職人:ピョー トル・ミロネグ)は柱型教会の代表例だ。

11~13世紀のルーシには、精神的文化も物質的文化(技術など)も発達してい た。後期中世のロシア文化には「精神は肉体より大事」という極端な宗教的な価値観が 広がり、技術的な分野にはある程度の遅れが見られるが、キエフ時代にはその不均衡が なかった。ルーシの工芸製品は遠い外国でも貴重品とされていた。特に、冶金分野は古 く(氏族社会時代)から発達してきた。スラブの中で鍛冶屋は特別な社会階級とされ、 魔法に関わる神秘的な分野の職人と思われていた。金属で作られるあらゆる道具(鋤、 やじり

鎌、ナイフ類、のこぎり、鍵)と武器(剣、サーベル、 鏃 、鎖帷子、兜)は様々だっ た。また、金銀細工の技法は驚くほど多かった。 ( 貴 例えば、オリジナル製品のために使用された技 法(鍛造、スカーニ、ゼールニ、エナメル)の 他に、型打ち、鋳込み、金鍍金などの大量生産 技術も広く使用されていた。陶器生産は冶金に やや遅れていた。12世紀から足で動かすロク

リ ャ ザ ー ニ 市 、 一 二 世 紀 )

族 の 首 飾 り バ ー ル マ 」

ロが導入される。食器の他にプリンフ(平らな 煉瓦)を作っていた。ガラス製品は主にアクセ サリーで、窓ガラスやガラス製食器は殆どなか った。木材加工は古くからロシア人の得意分野 で、木は皿とサジから教会と城壁まで造れる正 に万能の素材だった。 スカーニ=線条法

普段着用の布(麻布、ラシャ等) の様な日常生 活用品は当時、主に自家製だった。 ゼールニ=種金法 エナメル


96 代3章 公国から帝国へ

ОТ КНЯЖЕСТВА К ИМПЕРИИ

13 世紀後半~15 世記のロシア文化 Культура Руси 13-15 вв. СЛОВО О ПОГИБЕЛИ РУСКЫЯ ЗЕМЛИ.

ルーシ地の破滅物語

О смерти великого князя Ярослава.

明光に満ちて華麗なるルーシの地よ。多くの美

О светло светлая и украсно украшена земля

景で知られるこの国は、湖も、川も聖泉も、山も、嶮し

Руськая! И многыми красотами удивлена еси: озеры

い丘も、高い柏森も、広大な平原も、不思議な獣

многыми

кладязьми

も、多様な鳥も、無数の大都会も、名声ある町も、

месточестьными, горами крутыми, холми высокыми,

修道院の庭園も、神の聖堂も強き公爵も、名誉の

дубравоми

удивлена чистыми,

еси,

реками

польми

и

дивными,

зверьми

разлычными, птицами бещислеными, городы великыми, селы

дивными,

винограды

обителными,

домы

церковьными, и князьми грозными, бояры честными,

豪族も、多くの高官も有名なり。豊富に溢れるロシア の地よ、正しきキリストの正教よ。 此処からウゴル族とポーランド族まで、チェコまで、 ネ メ ツ

вельможами многами. Всего еси испольнена земля

チェコからヨトヴィング族まで、ヨトヴィングから西欧ま

Руская, о прававерьная вера християньская!

で、ネメツからカレリア族まで、カレリアから邪教のトイマ

Отселе до угор и до ляхов, до чахов, от чахов до

族がすむウスチュグの地まで、息をする海(北極海)

ятвязи, и от ятвязи до литвы, до немець, от немець

の向こうにも、海からブルガルまで、ブルガルからチェ

до корелы, от корелы до Устьюга, где тамо бяху тоимици погании и за дышючим морем, от моря до болгар, от болгарь до буртас, от буртас до чермис, от чермис до моръдви, то все покорено было богом крестияньскому языку поганьскыя страны великому князю Всеволоду, отцю его Юрью, князю кыевьскому,

レミ族スまで、チェレミスからモルドヴィン族まで、全て キリスト教族に支配され、それらの邪教州はフセーヴ ォロド大公に、彼の父親なるキエフ公のユーリイに、遊 牧民に恐怖を覚えさせた祖父ウラジーミル・モノマー クにも服従した。リトアニア族もその沼地から顔を出

деду его Володимеру Манамаху, которым то половоци

せず、ハンガリー族も偉大なウラジーミルが入れぬ様

дети своя ношаху в колыбели, а литва из болота на

に砦に鉄の門を備え、ネメツ族も遥か青い海の向こ

свет не выникываху, а угры твердяху каменыи городы

うに住んで喜んでいた。ブルタス族もヴャーダ族もモ

железными вороты, абы на них великый Володимер

ルドヴィン族も、偉大なウラジーミル公の為に蜂蜜を

тамо не вьсехал. А немци радовахуся, далече будуче за

作った。帝京(コンスタンティノープル)の皇帝マヌイル

синим морем; буртаси, черемиси, вяда и моръдва

も彼を恐れて、豊かな贈物を贈呈した、ウラジーミル

бортьничаху на князя великого Володимера, и жюр Мануил цесарегородскый опас имея, поне и великыя дары посылаша к нему, абы под ним великый князь Володимер Цесаря города не взял. А в ты дни болезнь крестияном, от великаго Ярослава и до Володимера, и до ныняшняго Ярослава, и до брата его Юрья, князя Володимерьскаго.

大公が皇帝の都を奪われぬ様に。 此の日、偉大なヤロスラーフ賢公から、ウラジーミ ルと今のヤロスラーフまで、彼の兄弟なるウラジーミル 地の公ユーリイまでも、キリスト教の民を災いが襲っ た…。 13世紀無名作家、モンゴル襲来について


97 1237 年にルーシを襲ったモンゴルの支配はロシア文化振興の大きな妨げとなって、歴 くびき

史学に「タタールの 軛 」と呼ばれる。都市は崩壊され、民は大きな税金を賦課され、 多くの職人は捕虜になった。しかし、民の伝統が生きていた。遊牧民のモンゴルは農耕 のスラブと共通点が尐なく、大きな影響を与えることができなかった。しかしモンゴル 帝国に使われていた駅伝制度はロシアにも伝わり、後に広大な領土を開拓するために役 立った。 モンゴル襲来は大悲劇として当時ロシア文学に描かれた。例えば『バトゥーによる リャザーニ荒廃物語』などが挙げられる。その『物語』はリャザーニ市と公爵氏族の絶 滅を語る。当時の人々にとって、モンゴル襲来は『万人万物の滅び』に見えたので、祖 国のため戦死する英雄は主なテーマになる。『バトゥーによるリャザーニ荒廃物語』に よると、リャザーニが敗北したのは、人が降伏したからではなく、皆戦死したからだ。 そして、バトゥーに貢物を届けたフョードル公は「お前の妻もよこせ」と言われると 「我々に勝って妻を手に入れてみろ」と答えたので殺された。公爵が死んだ知らせを受 けると、妻のエフプラクシアは幼い息子と一緒に教会の屋根から飛び下りて自殺した。 リャザーニ大公ゲオルギーは兄弟と共に戦死する。そして、決戦の時にその場にいた隊 長エフパチイ・コロヴラートは、勝ち目がないと分かっていても、負けたら生きていら れないと言って、1700人の親兵と一緒にモンゴル軍を攻撃する。勇敢な隊長エフパ ハーン

チイは決闘で 汗 の親戚ホストウルールを破った。モンゴルは彼に近づくことができず 投石器で殺したと言う。

『バトゥーによるリャザーニ荒廃物語』から 「…タタールはやっと、負傷で弱まった五人の戦士を捕まえて、バトゥー王の前に連れてくると、バトゥー王は彼 らに尋ねた「お前らは、どこの地、どの聖教の者か、なぜ我に沢山の害を与えるのか」。それに五人は「聖教はクリ スチャンだ、リャザーニ大公ユーリイ・イングワロビッチの使用人で、エフパチイ・コロヴラート連隊の者だ。強き王よ、 貴方を歓迎して、そして見送って、貴方に敬意をはらう為に公爵に送られたのだ。だから、我々は貴方のタタール 大軍のために乾杯します。どうか驚かないでくれ」と答えた。王はその賢明な答えに驚いて、自分の甥ホストヴル ールに強いタタール大軍を与え、エフパチイ・コロヴラート達との戦いに送り出した。そのホストヴルールは、エフパチ イを生け捕ると威張っていた。強いタタール大軍はエフパチイを生け捕りにしようと、彼を囲んだ。そしてエフパチイは くら

ホストヴルールと戦った。エフパチイは大変な力持ちで、ホストヴルールを頭から鞍まで半分に切った。そして彼は タタール軍を切り、バトゥーの有名な戦士を無数に殺し、二つに切ったり、鞍まで切ったりした。力持ち巨人のエフパ チイを見たタタール達は恐れた。彼に投石器を向けて、無数の石を投げてやっと殺せたのだ。彼の遺体をバトゥー 王の前に持ってきた。バトゥー王は自分の貴族、騎士と司令官を集めて、皆がリャザーニ軍の勇気と強さと逞し さを驚いていた。そして部下は王に言った「我らは多くの王と、多くの地で、多くの戦で戦ってきたが、このような勇 者と力持ちを見たことが無いし、親から聞いたことも無い。これらは翼のある人だ、死を侮って馬に乗って戦っている のだ、一人は千人と、二人は万人と。戦場から一人も生きて帰らない」。それにバトゥーは、エフパチイの遺体を見 て「コロヴラートのエフパチイよ。我の軍に立派なご馳走をくれたじゃないか。沢山の勇者を殺し、沢山の連隊を滅 ぼした。お前の様な部下がいれば、彼を決して自分から離さないだろう」と言って、エフパチイの遺体を戦場で捕ま った生き残ったルーシ戦士に渡した。そして彼らに害を与えず解放した。」


98 誇りを捨てて、敗北を認めるより戦死を選ぶ武士のテーマは『チェルニゴフのミハ イル大公のオルダ殺人物語』と『メルクリイ・スモレンスキイ物語』の要点となった。 ウラジーミル公国の主教セラピオンはモンゴル襲来を宗教 哲学の角度から見て、その悲劇から何を学べるのか考えて いる。伝統的な視角を持った宗教作家として、彼は襲来を 神からの処罰と考え、それを『汝の怒り』と呼んでいる。

モンゴルだけでなく、カトリックの西欧世界との対立も 深刻だった。当時のルーシで「ネメツ」と呼ばれた全てのゲ ルマン系民族(スウェーデン、ノルウェイ、デンマークな ど)との戦いは、13世紀終期に書かれた『アレクサンド ル・ネフスキイ伝記』のメインテーマの一つだ。又、その 前書としてよく利用された『ルーシの地絶滅物語』は短い のだが、実は前書ではなく別の作品だ。 それから100年以上経って、連敗の後に初めて勝利が訪れた。1380 年のクリコヴ ザ

ォの戦いを描いた作品は、リャザーニの貴族人ソフォニイによる詩文『ЗАДОНЩИНА =ドン河行軍』だ。作家は有名な『イーゴリ軍記』を手本に利用したのか、文体はとて も似ている。しかし、要点は全く違うのだ。『イーゴリ軍記』の不明作家はイーゴリ公 を批判したが、ソフォニイはデミトリイ大公をその従弟のウラジーミル公、そして「強 きモスクワの都」を絶賛する。『ザドンシナ』は、争いを捨てて敵に勝ったルーシへの 喜びに溢れている。同じテーマで書かれた『ママイ大会戦物語』はクリコヴォの戦いを 尐し違う風に描いている。恐らく出来事からしばらく時 間が経ってから作成されたのだろう(作者は不明)。 マ

ポ ボ イ ッ シ ェ

『МАМАЕВО ПОБОИЩЕ =ママイ大会戦物語』に詩文 ではないが、言語の表情は豊かで(特に戦闘の場面)、 全ての事実は詳しく慎重に描かれているが、空想上の出 来事や意図的な歪曲も見られる。例えば『ママイ大会戦 物語』によると、戦いの前にデミトリイ大公を祝福する 総主教キプリアンは、実際には大公との関係が悪く、当 時モスクワにもいなかった。けれども、若干事実と違っ ていても、それは構想を実現するためだった。『ママイ 大会戦物語』には、「タタールの軛」から国を解放する

『ママイ大会戦物語』の複写(17 世紀)

という愛国的な発想はあるが、開放運動の中心はモスクワであり、モスクワ大公に国を 救う責任がおかれるという政治的な理念もある。


99 モスクワの年代記は比較的に早く全国

修道院の新しい形態として「寮型修道院」

年代記とされることになる。14世紀終

が設置されるようになった。その僧侶達

期に『大ルーシ年代記』、そして140

は、もはや自分の財産を持たず、皆で働

8年に最初のモスクワ史記録『トロイツ

いて、修道院から与えられるものを平等

カヤ年代記』がキプリアン総主教の命令

に使って、セルギイは絶大な権威を持っ

で作成される。モスクワ年代記は初めか

ていた。1380年、ママイ汗と戦いに

らモスクワを中心にルーシ統一に深く関

行くモスクワ大公デミトリイはセルギイ

わって、その運動のイデオロギーにもな

修道院長の支持を願って来院した。そし

った。年代記作家はモスクワを全ルーシ

て、当時の総主教キプリアンではなく、

の中心として描こうとしていた。15世

セルギイ修道院長は大公を祝福して勝利

紀に書かれた『ウラジーミル国公爵家物

を告げた。

語』も同じアイデアを伝えている。『ウ

セルギイの伝記を書いたのは、三位一

ラジーミル国公爵家物語』はモスクワ大

体修道院の僧侶エピファニウス賢人(?

公をビザンツ皇帝とキエフ大公の正当な

~1420年)だ。主に聖人伝記を書い

後継者として描き、国王の権標(王冠、

たエピファニウスは中世ロシアの優れた

王笏、金球、肩衣)はビザンツのコンス

作家であり、15世紀文学に人気だった

タンティヌス皇帝からキエフのウラジー

『編み言葉=ПЛЕТЕ́ НИЕ СЛОВЕ́ С』と

ミル・モノマーク大公に受け継がれたと

いう技法を見事に使用している。例えば、

語っている。又、モスクワ公爵家の空想

エピファニウスによる『ステファン・ペ

上の家系が書かれ、それによるとモスク

ルムスキイ伝記』に「ステファン主教は

ワ公爵家は古代ローマのオクタヴィアヌ

我らの教義者、教理者、洗礼者、伝道者、

ス皇帝の子孫だ。

預言者、説教者、祝福者、大使…等等」

中世ルーシ社会には、教会の役割は極

と書かれているのは、「編み言葉」の代

めて大きかった。特に、苦行者と教会改

表例だ。15世紀は伝記ジャンルの盛ん

革者として有名な聖セルギイ( 1314

な時代だった。エピファニウスの他に当

~1392年)による活動はロシアの文

時、セルビア出身のパホミイ・ロゴフェ

化的・社会的発展にとって大変有意義だ

ット(『総主教アレクセイ伝記』、『ワ

っ た。 彼に創 立され た三 位一 体修道 院

ルラアム伝記』)が活躍していた。15

(後、トロイツェ・セルギエフ大修道院) 世紀終期から16世紀初期頃に、有名な は修道院生活の新しい考え方を実現した。 『ムロムのピョートルとフェヴロニア伝 以前の僧坊修道院では僧侶達は独立した

説』は伝記として再編集された(再編集

生活を送って財産も持っていた。しかし、 者はモスクワの司祭と作家エルモライ・ そのような生活は僧侶らしくなかった為、 エラズムだと考えられる)。その伝説は


100 ピョートル公と養蜂者の娘フェヴロニア

の合併を公式的に認定したフェラーリ・

の愛情物語であり、ある程度西欧の『ト

フィレンツェ公会へのロシア代表団につ

リスタンとイゾルデ』に似ている。その

いて語る『フィレンツェ旅行記集』がよ

本は多くの伝記と違って『編み言葉』な

く知られている。又、ビザンツ人旅行者

どを一切使わず、一般的な言語で書かれ

コスマ・インディコプロによる『キリス

て、フォークロア的な特徴が多く、神学

トの地誌』が広く普及した。そして、最

書籍より民話に似ている。

も興味深く、最も独特の旅行記はトヴェ

15世紀のルーシは、宗教的な議論が

ーリ市の商人アファナシイ・ニキーチン

激化し、民衆に様々な『分派運動』(ユ

による『三海旅行記=Хоже́ние за три

ダヤ邪教、ストリゴル運動など)が広く

мо́ря』だ。船で商品を運んだニキーチン

普及していたが、それは一方、キリスト

は盗賊に全てを奪われて、帰れば商売で

教の思想が深くルーシ社会に入ったこと

きなくなる危険に直面する。商売を続け

を示す。キリスト教はルーシ社会に深く

る為に、ニキーチンは東洋の品物を探し

根ざしたからこそ、大衆によって変化を

に行かざるを得なかった。ニキーチンが

受けた。特に、『ヨセフ派』と『無欲派』 やむをえなく旅した「三海」はカスピ海、 という二つの分派運動の対立は深刻だっ

黒海とインド洋だ。1468年から14

た(次章参照)。

75年にかけて彼はカフカス地域、ペル

15世紀には、ルーシ人の文化的・歴

シア、インド、ミャンマー、トルコ、ク

史的・政治的な視野は更に広くなった。

リミア半島を訪れる。一般語で書かれた

外国について物語る様々な「旅行記」に

『三海旅行記』では、15世紀ロシア人

対して国民の関心が再び高まる。例えば、 の目で見た東洋諸国が登場する。 ローマカトリック教会とギリシャ正教会

『三海旅行記』から。 К бутхану же съезжается вся страна Индийская на чюдо бутово. Да у бутхана бреются старые и молодые, жонки и девочки. А бреют на себе все волосы, - и бороды, и головы, и хвосты. Да пойдут к бутхану. Да со всякие головы емлют по две шешькени пошлины на бута, а с коней по четыре футы. А съезжается к бутхану всех людей бысты

азаръ лекъ вах башет сат азаре лек. В бутхане же бут вырезан ис камени ис чернаго, велми великъ, да хвестъ у него через него, да руку правую поднялъ высоко да простеръ ее, аки Устенеянъ царь Цареградскый, а в левой руце у него копие. А на нем нет ничего, а гузно у него обязано ширинкою, а видение обезьянино. А иные буты наги, нет ничего, кот ачюкъ, а жонки бутовы нагы вырезаны и с соромом, и з детми. А перед бутом же стоит волъ велми велик, а вырезан ис камени ис чернаго, а весь позолочен. А целуют его в копыто, а сыплют на него цветы. И на бута сыплют цветы. Индеяне же не едят никоторого же мяса, ни яловичины, ни боранины, ни курятины, ни рыбы, ни свинины, а свиней же у них велми много. Ядят же в день двожды, а ночи не ядят, а вина не пиют, ни сыты. А з бесермены ни пиютъ, ни


101 ядят. А ества же ихъ плоха. А один с одным ни пьет, ни есть, ни з женою. А едят брынец, да кичири с маслом, да травы розные ядят, а варят с маслом да с молоком, а едят все рукою правою, а левою не приимется ни за что. А ножа не дрьжат, а лжицы не знают. А на дорозе кто же варит себе кашу, а у всякого по горньцу. А от бесермен крыются, чтоб не посмотрил ни в горнець, ни въ еству. А толко посмотрит, ино тое ествы не едят. А едят, покрываются платомъ, чтобы никто не виделъ его. А намаз же их на восток, по-русьскыи. Обе руки подымают высоко, да кладут на темя, да ложатся ниць на земле, да весь ся истягнет по земли, то их поклоны. А ести же садятся, и оны омывают руки да ноги, да и рот пополаскивают. А бутханы же их без дверей, а ставлены на восток, а буты стоят на восток. А кто у них умрет, ини тех жгут да и попел сыплют на воду. А у жены дитя ся родит, ино бабит муж, а имя сыну дает отець, а мати дочери. А добровта у них нет, а сорома не знают. Пошел или пришелъ, ини ся кланяют по чернеческыи, обе руки до земли дотычют, а не говорит ничего.

「…偶像の祭りのとき、あの寺院にインド各地から人が集まる。寺院の前に 老人も若者も、女も少女も髪をそる。髪を全部そる、頭も髭も。そして寺院 に向かう。神のために、一人は銀貨六枚を払い、馬に金貨四枚の税がか かる。寺院に来る人は合わせて20ラーカ人、時には100ラーカ人(ヒンドゥー 語、ラーカ=10万)も集まる。寺院の黒石の偶像は巨大で、尻尾が頭上に かかって、帝京の王ユスティニアネス像のように右手を高く上げて伸ばした、 左手に槍を握る。衣服はないが、腰に布が巻いただけ、顔は猿だ。他の 偶像は全く裸で、陰部も開けてある、偶像の妻たちも裸で、子供を連れて

ヒンドゥ教の猿神ハヌマン。現代の像だ が、500 年前にイワン・ニキーチンが書 いたものに驚くほど似ている。

いる。偶像の前に、黒石から刻まれて丸ごと金メッキされた巨大な雄牛が ある。人をその蹄に接吻し、花を投げる。偶像にも花を投げる。

ヒンドゥ人は肉を一切食べず、牛肉も、

羊肉も、鶏肉も、魚も、豚肉も、豚が多いのに。一日二食で、夜に食べないし酒も飲まない。回教族と一 緒に食べない、飲まない。食べ物は悪い。一緒に食べない、妻とでも。食べるのは米とバター入りのキチャリ、 草も色々食べる、それをバターと牛乳で煮るのだ。全て右手で食べる、左手で何も取らない。さじとナイフ を知らない。旅にでると皆、お粥を煮る為に鎌を持って行く。回教族に顔を向けない。食べ物も回教徒に 見られたら、その食べ物を口にしない。だから、上に布をかけて食べる、誰にも見られぬように。祈るときは、ロ シア人と同じく東へ向く。両手を高く上げて、頭の上に置いて、そして地面に伏せて体を伸ばす、それは彼 らの礼拝だ。食べる前に、手も足も洗って、口も洗うのだ。寺院は、ドアがないし、東向きだ、偶像の顔も東 へ向かっている。誰か死ぬと、その遺体を燃やして灰を川に流す。子供が生まれるとき、夫が助産し、息 子に父が名を付けて、娘に母が。道徳がなく、恥も知らない。柔和でなく、恥もしらない。人は来たり出か けたりするとき、お辞儀するのは僧侶のように、両手を土に付けて、常に無口で。」


102

14

世紀半ばにルーシ建築に復興が見られる。モンゴル軍が来なかったノヴゴロ ドでは、他のルーシ地方より早く建設が再開された。ノヴゴロドの建築家に

よって、ビザンツの定型と大きく違う教会建築様式が生まれた。聖フョードル教会 (Це́рковь Фѐдора Стратила́ та на Ручью́ )とイリイン通り救世主教会(Це́рковь Спа́са на Ильине́ у́лице)は、卖純な設計と飾りが特徴で、その時代の最も代表的な建 築物だ。 モスクワ最初の大型建築物はイワン・カリター大公の時代に建設され る。大貴族と商人団体の注文で教会を建てていたノヴゴロドとプスコフ と違って、モスクワの建築は最初から国家事業になっていた。特に、ク レムリン内の建設や装飾はモスクワ大公達の最重要事だった。1367 年、ドミトリイ・ドンスコイ大公によって、古くなった木造クレムリン の代わりに白石城壁が建設される。現在(赤レンガ)のクレムリンは主 にイワン3世の時代に完成されたものだ。当時、特別に招待されたイタ リア人建築家が新しい教会、宮殿、城壁を設計した。1479年、イタリア人のアリス トテレス・フィオラワンティー(Аристо́тель Фиорава́ нти)によって5頭型のウスペ ンスキイ大聖堂が完成される。その大聖 堂は、大公の命令に従って、ウラジーミ ルのウスペンスキイ大聖堂を手本に建て られた。それは、首都がウラジーミルか らモスクワへ移ることを意味した。15 08年、イタリア人建築家アレヴィズ・ ノヴィイ(Алеви́з Но́ вый)によって建 てられた大天使大聖堂(Арха́нгельский собо́р)にはロシア教会様式とイタリア

ウスペンスキイ大聖堂


103 の「パラッツォ様式」が見られる。プスコフから 招待された建築家組合は、クレムリン内に大公家 (後、王朝)の礼拝所になった聖告聖堂 (Благове́щенский собо́ р)を建設した。そして、 イワン大帝鐘楼(1508年、ボン・フリャジン) が『モスクワの頂点』となった。又、イタリア人 のマルコ・フリャジンとペトロ・アントニオ・ソ ラリの設計と指導によって1491年に大公宮殿 が建てられ、その一つ「グラノヴィタヤ宮殿= Гранови́тая Пала́та 」 が 現 存 し て い る 。 同 人 は 1495 年にクレムリンの新しい城壁を建てた。

大天使大聖堂

全体として普通のロシア様式にみえるが、よく見るとザ コマーラの上に貝殻の模様、帯の変わりにヨーロッパ式のコ ーニスがある。又、壁の飾りはコリント様式の柱が使われて いる。それらは、イタリア・ルネサンス様式でもよく見られ る要素だ。 大天使大聖堂は代々王朝の墓場として使われてきた。リ ューリク王朝の王や公爵は皆ここで眠っている。

1474 年、モスクワで 3 年間かかって建設さ れたばかりのウスペンスキイ大聖堂は崩壊し た。崩れた聖堂を観察したプスコフの職人は 「シックイは接着力がなく、石が固もない」と 言って再建設を断った。イワン 3 世は、イタリ アへ外交官セミョン・トルブージンを送って、 建築家を招待するように命じた。トルブージン はローマで当時 60 歳のフィオラワンティーに 遇って、1475 年に契約を結んだ。 フィオラワンティーは新しい聖堂の天井や ドラム等を重い石灰岩ではなく、軽い煉瓦で造 らせた。当時のロシアでは煉瓦製造はまだなか ったので、フィオラワンティーは煉瓦工場も設 計した。一見みれば、大聖堂の外見は他のロシ ア様式教会と変わらないが、イタリア・ルネサ ンス建築の要素もあります。 ① 全体の構造は幾何学的に正しく計算さ れている(全てのザコマーラは同じ幅で、ドラ ムもお互いに近く位置して一体に見える)。 ② 目に見えない工夫(壁内の締め金具や 補助アーチなど)によって、屋根とドラムを支 える柱を普通より細くして内部空間に統一感と 軽やかさを与えた。 ウスペンスキイ大聖堂はロシア正教会の主 要寺院として使われ、皇帝の即位式はここで 代々行なわれてきた。そのために、首都は後に サンクト・ペテルブルグに移動された後も、皇 帝たちはモスクワへ長い旅をしていた。

左(上下) 大天使大聖堂の壁の装飾 右上

グラノヴィタヤ宮殿の表玄関から見える聖告聖堂

右下「グラノヴィタヤ」とは「カット石」のことで、正面の壁はカット石に装飾されているから名前は「グラノヴィタヤ宮殿」となっている。


104 イコン絵画

ИКОНОПИСЬ

13~16世紀は、絵画の最盛期だった。特に、当時のイコン画の栄えは、テオファネス(グレク)、アンドレ イ・ルブリョーフとディオニシイという有名な三巨匠によるものだ。

テオファネス

(Феофа́н Грек 、1340~

1410年)はビザンツ出身で、ル ーシに来た時、既に熟練した画家だ った。1370年にテオファネスは ノヴゴロドにたどり着いて、137 プレオブラジェニエ

8年にイリイン通り救世主御変容教 会のフレスコを描く。そのキューポラにある パントクラトル

『万能救世主』の像は特に有名だ。他の壁画は、 旧約聖書の祖先、預言者イリヤと洗礼者ヨハネ、 聖餐とイエス誕生の場面、三位一体、聖母マリア などの像がある。 テオファネスはノヴゴロドのイコン流派に大き な影響を与え、それはノヴゴロドにある多くのフ レスコやイコンに見られる。テオファネスの作風 は極めて個性的で、他の画家と見分けやすく、表 情の豊さと気質は観客に強いインパクトを与える。 彼のフレスコは、ほぼモノクロームで、詳細が尐 ないため、東洋の墨絵にも似ている(フレスコは 漆喰が乾いていない間に描かなければならないし、 直すことが不可能なので、墨絵の技法に近い)。 テオファネスの壁画 に描かれた預言者と 聖人のしかめた顔や、 真っ白なハイライト などが印象的で、観 客 に 圧 迫 感 を 与 え る。 テオファネスが生 まれ育った当時のビ


105 ザンツ帝国は晩年を迎えていた(間もなく、1453年に崩壊)。段々安定を失ってい く祖国を見たビザンツ人の中で「世紀末」や「神の怒り」などの思想が普及し、教会に も反省と無欲の説教が広がっていた。そのような「晩年時代」の不安がテオファネスの 壁画にも感じられる。 しかし、同じテオファネスが描いたイコン画は、神の存在を悟った喜びに輝いてい る。鮮やかな色、細かく描かれた人物と風景を見ると、作者は「陰鬱な」フレスコを描 いたあのテオファネスとは信じられない位だ。

アンドレイ・ルブリョーフ

(Андрей Рублѐв1350?~ 1428年)は偉大な僧侶画家

で、モスクワのアンドロニコフ修道院で出家した。アンドレ イ・ルブリョーフに関する最初の記録は1405年のもので、 彼はテオファネスと一緒にモスクワ・クレムリンの聖告大聖堂 のフレスコとイコンを描いたというのだ。又、ズヴェニゴロド市のある教会のイコノス タシスにあったと考えられる3点のイコン(イエス、大天使ミカエル、使徒パウロ)は 間違いなくアンドレイ・ルブリョーフの作品だ。1408年、アンドレイ・ルブリョー フはダニール・チョルニイと共にウラジーミルのウスペンスキイ大聖堂に新しいフレス コとイコンを描く。壁画の一部と数枚のイコンが現存している。1420年に描かれた トローイツァ

『三位一体』のイコンは、非常に詩的で意義深い聖像画で、アンドレイ・ルブリョーフ の最も有名な作品だ。

「 聖 パ ウ ロ 」 。

「 大 天 使 ガ ブ リ エ ル 」 、 「 パ ン ト ク ラ ト ル 」 、

ル ブ リ ョ ー フ の イ コ ン ( 左 か ら 右 へ )

ズ ヴ ェ ニ ゴ ロ ド 市 で 発 見 さ れ た ア ン ド レ イ ・


106 アンドレイ・ルブリョーフによる 『至聖三位一体』 のイコン Святая Троица キリスト教では神は一つであると同時に三元の本質を持っていると信じられている。 その三元は、 父なる神

世界の創造者、言葉や映像に表現できない絶対的存在。イコンで は白髪の長老の姿で描かれることもある。

息子なる神

地上で生まれたイエス・キリスト

聖霊なる神

宇宙に留まる神の無限の力。イコンなどでは地上に向かって飛ぶ 鳩の姿で描かれる。

神の三位一体を絵にするのは 画家にとって極めて難しい課題だ った。そのためにビザンツ絵画で は、旧約聖書の『創世記』に書か れた『アブラハムのもてなし』と いう場面が利用されていた。イス ラエル民族の祖先アブラハムは森 で三人の旅人に会って、家に案内 し牛を殺し、ご馳走をだした。そ して三人は天使の姿に変身して、 アブラハムに「間もなくそなたに 息子が生まれる」そして「そなた から強くて偉大な民が始まる」と 予言した。 キリスト教ではその三天使は 「三位一体」のシンボルとして考えられるようになった。左の天使は「父なる神」、中 心のものは「息子なる神」と右側の天使は「聖霊なる神」と解釈される。 アンドレイ・ルブリョーフが書いたイコンは三位一体の本質を最もよくあらわす作 品として評価される。ルブリョーフの前にも同様のイコンが存在したが、それらは旧約 聖書の場面をイラストしたようなもので、牛を殺す場面、様々なご馳走や、ときにアブ ラハムの妻サーラなどが描かれていた。しかし、ルブリョーフはわざと余計な詳細を描 かずに、卓上に一つの杯しかなく、天使たちは無言で座っているだけだ。 三天使のフィギュアは、円の中にきれいに描き込まれて、見事にバランスがとれて いるため、観る人の視線は止まることなくイコン内の空間を丸ごと把握できる。透明感 のある鮮やかな空色、エメラルドグリーン、茜色のバランスも見事だ。


107 「杯」は図像の中心点で、絵の構造を見れば杯は 実は三つ存在することに気づく。一つは机の上にあ り、もう一つは天使の足と机のラインに見え、そし て三番目は天使の足元から肩までの輪郭に見えてく る。杯の意味を理解するには、新約聖書の『杯祈願』 の場面を思い出すといい。杯の中に牛の首が入って、 それは生贄、つまり人類のために犠牲になったイエ スを意味し、更によく観れば、牛の頭に人間(イエ ス)の顔が見える。父なる神は杯から手を引いて、 それをイエスに勧めている。そしてイエスは頭を下 運命

げてその杯を受ける。 背景には家、樹と山が見えて、それも特別な意味があり三位一体について語る。

父なる神の上に描かれた家 イエスの上に描かれた柏の樹 聖霊の上に描かれた山

宇宙の創造者(建設者)である神の意志を表す。 命の樹である同時にイエスの(木造)十字架を意味する。 聖霊を心に授けられた人間の精神的な上昇を意味する。

東方キリスト教の行者と僧侶にとって、実際 に三位一体の存在を目撃することは修行の最大 目的で、その可能性は宇宙全体に留まる神のエ ネルギーを心に受け入れることにあると信じら れていた。その考え方は「イシハズム」という 哲学の基礎になった。

イシハズム Исихазм ギリシャ語から『静黙』と訳される東方正教会に代々伝 わる特殊で神秘的な瞑想法だ。その主要点はいわゆる「内 心の祈り」によって一般常識で知覚できない神の光を実際 に見ることにある。そのために僧侶は頭の中に何かの短い 祈り、例えば『イエス祈願』(主なるイエス・キリスト、 我にどうか御慈悲を!)などを絶えることなく繰り返して、 全ての思いを神に捧げて生活をするという、東洋の瞑想法


108 に近い修行法だ。1351年にイシハズムは正教会の公式教典の一つとみなされて、1 4~16世紀のルーシにあった宗教文化の繁栄にもイシハズムの影響が見られた。アン ドレイ・ルブリョーフもイシハズム修行を進めて、その経験をイコンによって表現して いた。 アンドレイ・ルブリョーフによる『聖なる三位一体』の聖像画は、ロシア美術の最 大の国宝だと言っても、決して過言ではない。現在、モスクワのトレチャコフ国立美術 館に展示されている。


109

封建時代の教会危機

Кризис феодальной церкви.

〜 第三ローマと異端対策 «Третий Рим» и борьба с еретиками 〜

15

世紀後半、ルーシの経済に活気が見られた。農産品市場が年々広がり、都会 化が進み、農村地帯にもお金に基づいた物流制度が導入される。自給自足に

よる古来の経済体系は終わりに近づく。 封 建 の 公 国 も 元 の 力 を 失 い は じ め て 、 1 6 世 紀 に モ ス ク ワ 大 公 国 (Вели́кое Кня́жество Моско́вское , Моско́вия)が結成される。モスクワの国家は、地方公爵の 「暴力団」ではなく、地方の地主とモスクワの大手商業者に支えられた。

教会は、自分の組織もイデオロギーも、国家との関係も見直さなければならなかっ た。独立性の強い各地方の主教管区(Епа́рхии)はモスクワの教会政権にその座を譲る。 15世紀後半から16世紀終期にかけて、教会のあり方をめぐる討論が絶えることがな かった。都市商人と職人の中であらゆる新宗派が生まれて、教会は「異端者」と戦う方 法を探していた。宗派は主に地方に普及し、その思想は様々だったが、中央教会政権に 対する不満は共通だった。新宗派による異端思想はプロテスタント運動の始まりだった が、本格的なプロテスタント運動はロシアに生まれなかった。

ストリゴーリニキ派 Стриго́льники ら しゃ

名前は「羅紗職人」を意味し、その創始 者の一人、カルプという男は羅紗を作って いたからだ。その運動は商人と職人の都市 プスコフに生まれた。プスコフは政治的に 独立都市だったが、その教会管区はノヴゴ ロド大主教管区の部下にあり、ノヴゴロド 大主教による税金負担は大変重かった。プ スコフ管区は独立することは不可能だった プスコフのクレムリン

ため、税金を払っていたプスコフ市民は、 教会の司祭を解任し、その代わりに市民の

中から新しい司祭を選ぶようにした。宗教教育を受けてもいない一般人が教会の勤めを 行い説教もして、礼拝と宗教思想の内容を卖純化していた。特に、故人供養の儀式と祈 りを拒否したことはストリゴーリニキ派の大きな特徴だった。当然、正教会は彼らを 「異端者」とみなした。


110 ユダヤ主義派 Жидо́вствующие ユダヤ主義派は、15世紀、ノヴゴロ ドの神学者の中で生まれた異端運動だ。

を預言者とみなし て、修道院の存在

当時のノヴゴロドは、モスクワからの

を無意味とした。

独立を目指し、モスクワ大公のイワン3

しかし、ユダヤ派

世(大帝)はノヴゴロドへの行軍を図っ

はキリスト教の教

ていた。ノヴゴロド大主教は「モスクワ

えと価値観を拒否

は悪魔王国であり、ノヴゴロドがそれに

していなかった。

敗れたら世界も滅びる」と宣言した。し

イワン3世に

かも、当時の正教会は、年代をイエスの

よる行軍でノヴゴ

誕生からではなく、世界創造から数えて、 ロドが敗れた後、

ノヴゴロド・ソフィア大聖 堂の十字架を飾る鳩。ノヴ ゴロドの言い伝えは「ソフ ィアの鳩は落ちたら、ノヴ ゴロドが終わる」と言われ ていた。

世紀末は世界創造後7000年目にある

ユダヤ派の教えはモスクワにも流行り、

と予言していた。それは1492年、つ

大勢の大貴族も入信して、その中でイワ

まり15世紀終期に当たっていた。しか

ン3世の息子の嫁エレーナ公妃もいた。

し、好奇心の強い若い聖職者は、それは

正教会にとって、ユダヤ異端の最も危険

真実かどうか知りたくて、詳しく調査を

な点は、ユダヤ派が教会領地の没収を要

行うことにした。古代キリスト教の本や、 求したことにあった。更に、ユダヤ派は 神学と哲学の書籍など、更にユダヤ聖書

自分の手先、ゾシーマ主教(Зоси́ма)を

とカバラ書まで調べて、ユダヤ聖書によ

モスクワ府主教の座につけた。正教会に

ると1492年は世界創造後6250年

とってその状況は極めて危険だった。

に当たることが分かった。従って、世紀

1490年、エレーナ公妃の夫イオア

末がじき来るというノヴゴロド教会は嘘

ン大公が死亡し、その息子のドミトリイ

をついていたことになる。それがユダヤ

は大貴族党の推薦によって皇太子とみな

主義派の始まりとなった。モスクワ教会

された。また、1492年にノヴゴロド

は、ノヴゴロドの大主教の評判を下げる

教会が予言していた世紀末が勿論来なか

ために、ユダヤ主義思想を支持した。し

ったので、ユダヤ派の評判が更に高まっ

かも、ユダヤ派の司祭はモスクワに招待

た。ゾシーマ府主教はそれを利用し、あ

されて、教会に勤めていた。ユダヤ派は、 と1000年分のカレンダーを出版した。 次第に旧約聖書にはまるようになり、三

そのカレンダーによる千年時代は「第三

位一体を拒否して「神は唯一」だと主張

ローマ時代」から始まり、「第三のロー

し、また「神は人間の体に入れない」と

マ」とはモスクワで、その大公イワン3

いって、「イエスが父なる神と同じ存在

世は「新コンスタンティヌス皇」と呼ば

ド グマ

だ」という教会教義を拒否した。イエス

れた。


ヨセフ派 Иосифля́не 異端に抵抗する最大の勢力は、ヨセフ・ヴォーロツキイ (Ио́сиф Во́ лоцкий)にリードされた正教僧党「ヨセフ派」 だった。ヨセフ派は、教会を政治機関として強化し、学校 や図書館、出版所や病院など全ての文化と福祉の施設を教 会に集中することを要求した。そのために、教会は自分の 領地と農奴が必要で、国民の税金で支えられるべきだと主 張していた。ヨセフ派は、僧侶生活は「寮式」でなければ ならない、つまり修道院は大きな企業のようなもので、各 僧侶は宗教的な修行をするだけでなく、修道院において何か経済的な役割を果たさなけ ればならないとしていた。 その他、ヨセフ・ヴォーロツキイは「府主教の権威は国王より高い」と強く主張し ていたために、モスクワ大貴族と長い間にわたって妥協できなかった。しかし、様々な 術策をめぐらして彼はついに宮廷での自分の権威を強化し、ゾシーマ府主教を解任させ て自分の仲間のシモンを代わりに立てた。異端者に対してヨセフ派は「火あぶりと絞首 刑」を求めていた。1497年に闘争のピークが訪れた。ヨセフ派はどうしてもモスク ワ大公の支持がなければ、成功できないと良く解っていた。結局1499年に、異端者 を支持した大貴族党は大公の引き立てを失い、彼らのリーダーだったリャポロフスキイ が死刑となり、残りの者は強制出家させられて遠く離れた地方修道院に送られた。

無欲派

Нестяжа́тели

しかし、戦いはこれで終わらなかった。 Со́рский)という男だった。彼は尐年時 ボルガ河地域の修道院に送られた異端者

代をモスクワで過ごして、本の複写を生

はそこでも支持者を見つけることができ

業としていた。出家した

た。「ボルガ行者」と呼ばれたその地域

後、厳しい規律で有名な

の修道士は「無欲」を宣伝し、教会は領

キリル・ベロゼルスキイ

地を所有してはならないと言っていた。

修道院に行った。しかし、

ボルガ行者は「無欲派」という独特な

それは寮式修道院で大手

修行流の僧侶だった。無欲派は、他の修

企業のようなものだった

道士と同様に魂の救いを探し求めていた

ため、ニルにとって「欲

が、その方法は異なっていた。無欲派の

望」に感染しているよう

創 始 者 は ニ ル ・ ソ ル ス キ イ (Нил

に見えた。ニルはそこを


112 後にして、ギリシャのアトス山の修道院

修行法は、広く普及せず、ニルが亡くな

に行って、その修行法を学んだ。アトス

った時、その修行場には12人の修道士

山からルーシに帰った後、ニルはソラ川

しかいなかった。けれども、ニルとその

の 周辺 に修行 場を つ くっ た( それで ニ

弟子は大衆に深く尊敬されていた。教会

ル・ソルスキイと呼ばれる)。その周り

領地をめぐる討論が広がったため、「教

に支持者が集まり、数ヶ所に新しい修行

会は領地が無用」といったニル・ソルス

場も出来た。

キイは、モスクワに招待されて、大公と

ニル・ソルスキイの教えは決して新し

共に教会領地国有派を代表することにな

いものではなく、東洋苦行に基づいてい

り、政治的な争いに巻き込まれた。ヨセ

た。その出発点は「世界が悪に支配され

フ派は慌てて、その手先だったシモン府

ている」という思想だった。「浮世は苦

主教が教会領地国有派に対し、教会領地

しみの源なり、それを愛せば悪の苦しみ

制度を裏付ける聖書や教会史による事例

を味わう」とニル・ソルスキイは教えた。 を上げたが、説得力はなかった。更に、 従って浮世の常識に従う僧侶は「偽僧侶」 異端の疑いで強制出家させられたワシリ であり、その生き方も「邪悪」だと言わ

イ・パトリケエフ公爵は、ワッシアンの

れた。財産を集めても魂を救えないし、

法名で3つの書籍を出版し、その中にヨ

特に修行僧にとって財産は「毒」だった。 セフを「無法大師」や「反キリスト」と 魂を救われたい修行僧は、自給自足で暮

呼び、教会領地制度を厳しく非難した。

らし、人から寄付を受けても良いが、財

ワッシアン僧が島流しされたにもかかわ

産を持ってはならない。世を離れた場所

らず、その作品はモスクワ宮廷にも大評

で静かな生活を送り、自力で聖書を学ぶ。 判だった。 各修道士は自分のに合う修行法を見つけ

ヨセフ派は、宗教思想と道徳では無欲

て、今生で神の存在を実感することがで

派に勝てないことが明らかだったので、

きると言ったニル・ソルスキイは、弟子

モスクワ大公に譲歩せざるを得ないこと

に規則ではなくアドバイスを与えていた。 を悟った。そのために、ヨセフ・ヴォー 世離れや、苦行や祈りなどは修行の目的

ロツキイはモスクワ大公を教会と国家を

ではなく、煩悩を消去する方法だ。煩悩

支配する「教国王」と認めた。それによ

さえ乗り越えれば、人間は実際に神に近

り念願の妥協が達成され、モスクワ大公

づいて、修行そのものが無用になる。そ

はヨセフ派を公式に支持した。

れはニル・ソルスキイによる「正教式ヨ

1503年、異端対策公会が行われ、

ーガ」で、古代キリスト教の時代に広く

異端運動のリーダーは火あぶり刑の判決

普及していた教会制度だった。

を下された。ついでに、ヨセフ・ヴォー

しかし、大国結成時代のルーシでは、 ニル・ソルスキイが考えていた個人向き

ロツキイはライバルだった無欲派を政治 の舞台から追い出した。


113 教会と国家は合意に達し、教会の礼拝

ワン4世(雷帝)は、府主教マカリイと

法も組織も統一された。モスクワ府主教

手を組んで1547年と1549年に公

管区にとっては、地方の聖人や聖像の崇

会を行い、約30地方の聖人をモスクワ

拝は極めて不利だった。そのために、モ

聖人として認めた。それは前例のない国

スクワ大公国にある公国が加わると、そ

家教会同盟になり、モスクワ教会はビザ

の有名教会の本尊は大公の命令でモスク

ンツ教会の正当な後継者であることを宣

ワに運ばれ、ウスペンスキイ大聖堂のイ

言した。やがて、1589年にコンスタ

コノスタシスに置かれると決められた。

ンティノープル総主教はモスクワに来て、

先ず、ウラジーミルから有名な「ウラジ

モスクワ府主教を公式に「総主教=

ーミル聖母」と「聖ドミトリイ」のイコ

Патриа́рх」として認める。

ン、そしてプスコフとスモレンスクの聖

こうして、モスクワ総主教管区は、ギ

母像がモスクワに運ばれた。当時、イコ

リシャ正教会から独立し、礼拝法も聖人

ンがモスクワに運ばれるとその力もモス

もギリシャと異なり、「百章公会」によ

クワに移ると信じられていた。こうやっ

って独特の教義さえ持つ全ルーシ正教会

て、ウスペンスキイ大聖堂は北東ルーシ

となった。大公に支えられた正教会は、

の総本山になった。

平民にとっては道徳と心の安らぎを与え

しかし、イコンの他にも地方聖人崇拝

る師というよりも、常に税金を求めて大

が存在していた。大公にとっては、その

勢の農奴を持つ支配者に変わった。その

崇拝を禁止することが困難で、それらを

点において正教会はカトリック教会とあ

モスクワの聖人として認定する方が望ま

まり違ってはいない。そのため、大貴族

しい道だった。しかし、それは公爵の権

党 の思 想家、 特に 聖 マク シム ・グレ ク

限以上のことで、教会の認可が必要だっ

(Макси́м Грек )は教会を厳しく非難し

た。モスクワ大公国を主に統一させたイ

ていた。

Стогла́вый собо́р

「百章公会」

1551年1月から2月にイワン雷帝と大貴族会の会員の参加で行われた正教会の公会。名前はその決議書 である『百章=Стогла́в』から付けられた。百章公会は、教会による異端対策を強化する目的で開催され た。その議題には「教会領地国有化」と「聖職者の一般裁判官轄化」の案もあったが、それは多数派に拒否 され、教会領地は絶対不可侵、聖職者は教会裁判管轄下にあることが宣言された。また、イコン絵画や文献 複写などは正教会管理下にあると決定された。

『百章』の表紙

Быша сии вопроси и ответы мнози о различных церковных чинех, в царствующем граде Москве в царских полатах, от благоверного и боговенчаннаго царя и государя и великого князя Ивана Васильевича всеа Русии самодержца к отцу его Макарию митрополиту всеа Русии… 此の問いと答えは多く、あらゆる教会の位について、帝京モスクワの王宮にて、聖徳 なる神選なる支配者、全ルシヤ君主イワン・ヴァシリエヴィッチ大公より、全ルシヤ府 主教に…。


114

絵画 ディオニシイ

(Диони́сий1440~1503年)は、 「ルブリョーフ派」を引き継いだモス

クワの画家で、存命中に『誰よりも有名な巨匠』と呼ばれる ようになった。 ディオニシイが活躍した時代、モスクワと地方で異端論争 が続き、正教会ではヨセフ派が強化していた。世界正教にも 大きな変化が訪れた。ビザンツ帝国は完全に力を失って、そ の教会もローマ法王の超越を認めてカトリック 教会組織の一部になった。間もなく、トルコ軍 が侵略してビザンツ帝国はこの世から姿を消す。 それにロシアの世論は「ビザンツが誠実なキリ スト教を裏切ったので天罰された」と反応し、

ロシアは神によって世界キリスト教の最後の砦と選ばれてモ スクワが「第三のローマである」という確信が広がる。更に、 1480年にモスクワ国家は完全に『タタールのくびき』か ら解放され、全ロシアに前例のない愛国心の上昇が見られる。 ディオニシイは時代の雰囲気を表した『モスクワの詩人』だ った。 15世紀頃、僧侶の縄張りだったイコン絵画は一般に広がり始めて、僧侶ではない 職業的画家が増えてきた。ディオニシイもこのようなプロの一人で、ルブリョーフ絵画 の明るさと軽やかさと受け継いで、それに陽気でと荘重な雰囲気を吹き込んだ。恐らく、 ディオニシイはロシア絵画において初めて自分の作品を調印して自画像を描いた画家だ (フェラポントフ修道院のフレスコで)。つまり、彼の絵画には新時代(ロシアなりの ルネッサンス)の風が感じられる。又、俗人だったディオニシイが、異端者と友情関係 を持ちながらもプロとして教会に高く評価され、皇帝の注文で国家シンボルだったクレ ムリン内の大聖堂のために多数のイコンを描いたということは、その時代にして彼はか なりのセレブだったことも示している。 ディオニシイの創作活動は、大きく三時代に分かれ、それぞれの時代は数点の代表 作がある。 初期時代の代表作は、1462~72年の間に描いたと思われる『ピョートル府主 教』と『アレクセイ府主教』の生涯イコンだ。ピョートルは府主教の所在地をキエフか

デ ィ オ ニ シ イ に よ る フ ェ ラ ポ ン ト フ 修 道 院 の 壁 画


115 らモスクワへ移したもので、(1339年に)聖人とみなされて既に100年も経って いた。それでディオニシイの主要課題は、1448年に聖人として認定されたアレクセ イ府主教がピョートルに負けない位の偉大な人物だとイコンで表すことにあった。その ために彼は、余白に書いた生涯場面の中でアレクセイ府主教が起こしたと言われる奇跡 の場面に集中する。又、両方のイコンは同じ大きさで同じ色彩で描かれている。その2 点の作品は比較的に若い時期に描かれたものだが、既にディオニシイの個人差が見える。 人物のフィギュアが細長く、顔の輪郭が小さくて繊細で、色合は鮮やかだがあまりコン トラストがないので、描かれた聖人は光に包まれて霊的存在に見える。

ピョートル府主教

アレクセイ府主教

Митрополит Петр

Митрополит Алексей

中期時代は1480年代に当たり、その時にディ オニシイは王家の招待でクレムリンの聖母御眠大聖 堂のイコノスタシスを製作する。残念ながら、その 時代に描かれた作品の大部分は火災により失われた。 当時の作品として最も有名なのは聖母のイコン ホディグイトリア

『道案内者 』だ。王家には大事な遺物として保有さ れていたギリシャのホディグイトリア像は火災で損 傷を受けたが、その板の上にディオニシイは新しい 像を描いた。このような重要な注文が若手画家のデ ィオニシイに頼まれたということは、彼が既に有名 な画家だったことを示している。


116 15世紀、国家宗教における聖母の役割が変わった。以前、慈愛のシンボルだった マリアは『世界女王』そしてモスクワ国家と王家の守護者と考えられるようになった。 エレウサ

以前の画家は愛情に溢れる『慈憐 』の

『汝に万物が喜ぶ』

像を描くことが多かったが、今度は王の イメージにふさわしいホディグイトリア の方が人気になり、大勢の聖者に囲まれ て王座に座って頭に王冠を戴くマリアの イコンとフレスコが増えてきた。ディオ ニシイ作のホディグイトリア像はその考 え方に通じたものだ。 マリアの顔は冷静で、彼女は幼いイ エスではなく観客の頭の上方に目を向け ているように見える。イエスを抱くので はなく、彼の方に手を指し示しているだ けで、子供を支える左手は母親の優しい 手というよりも王座のように見える。子 供のイエスは見る人ではなくマリアの方 に目を向けている。これによって見る人 とイエスの間に一定の距離が置かれ、 「仲介者」のマリアがいなければイエス に人間の祈りが届かないとディオニシイは語っている。同時代にディオニシイは聖母マ リアを奉る『汝に万物が喜ぶ』というイコンと『黙示録』に取り組み始め、80点以上 のイコンを描いたと思われる。 終期時代は16世紀始まりに当たり、ディオニシイはロシア北部のベロエ・オーゼ ロ(白湖)地方にあるフェラポントフ修道院で働いている。首都圏から離れた北の地で 彼は官僚制限に妨害されず、自分の考え通りの絵を描ける環境を得た。当時のディオニ シイは既に高齢者で、息子たちと一緒に働いて、天井まで登ることができなかったので、 天井とキューポラのフレスコは息子の手によるものと思われる。ディオニシイは、死が 近いと感じたためなのか、できるだけ早くフレスコを完成するために急いでいたので、 フレスコの一部は未完成で残された。 フェラポントフ修道院の壁画には、ディオニシイの独特なスタイルが最大限に発揮 され、薄い空色と金色の滑らかな色合いは彼の得意な画法だった。教会堂の内部空間は 喜びに満ちて、見る人に心の安らぎを与える。教会の入口の上にディオニシイは「イコ


117 ン職人ディオニシイが息子と共に施した」と署名し、内壁画の中に自分の家族全員の像 を描いた。1503年以降、ディオニシイの名前は年代記から消える。 ディオニシイによる芸術遺産は世界にも認められ、フェラポントフ修道院はユネス コ世界遺産と認定されて、2000年は『世界ディオニシイ・イヤー』と宣言された。 14~15世紀ロシア画家の高度な画法、仁愛的な内容から、当時のロシアが西欧 の初期ルネサンスに似たような時代を迎えたと言える。

15世紀終期、モスクワ公国(Моско́ вия)の名前は「ルシヤ=РУ́ СИЯ」に代わり (現代英語の Russia はそこからきた)、モスクワ大公のイワン3世は「全ルシヤ皇」 という称号を得て、命令などの公文に「余は、天賦全ルシヤ皇、ウラジーミル、モスク ワ、ノフゴロド、プスコフ、トヴェーリ、ウゴル、ヴャートカ、ペールミ、ブルガル、 等等の支配者」と名乗るようになった。 15~16世紀の間に、ギリシャ語の Ρωσία からきた「ロシア=РОССИ́Я」という 国名が利用されるようになった。そして、ロシア本土は「大ロシア=Великоро́ссия」、 現在のウクライナは「小ロシア=Малоро́ссия」、現在ベラルーシ(旧リトアニア大公 国)は「白ロシア=Белоро́ссия」と呼ばれるようになった。


118 国家統一時代のロシア文化 Культура единой Руси

15

世紀終期、モスクワを中心に

「モスクワは第三のローマなり」と初め

ロシア諸公国は統一された。

て宣伝した。15世紀ロシア思想家達は

しかし、モスクワ大公の支配下に入った

「帝京モスクワは以前の世界首都の正当

広大な領土では地方貴族の独立心が強く、 な後継者である」と主張し、フィロフェ 中央政権を強めることは大きな課題とな

イ僧はその思想を受け継いだ。彼はモス

った。

クワをローマとコンスタンティノープル

元々小さい地方公国に過ぎなかったモ

(第二のローマ)の代わりに来たキリス

スクワがロシア各地を統一し、ロシアの

ト正教の『最後の砦』と呼び、「第四の

社会構成、政治と文化に大きな変化をも

ローマは現れない」と主張している。つ

たらした。急速に変わる生活状況を国民

まり、ロシアはヨーロッパ各王国に対し

に理解させるのに、新しい発想が必要で、 独立だけでなく、世界大国の地位を持つ 16世紀はその新発想を生んだ時代とな

という。大国主義はモスクワ政権の根本

った。当時のロシア哲学では、政治や思

思想となり、1547 年にイワン4世(雷帝)

想、宗教などは同じ分野のものと考えら

が始めて「皇帝」を意味する「ツァーリ」

れていた。1520~30 年、プスコフ近郊の

(caesar の略)の称号を受けて、更にル

エレアザロフ修道院の僧侶フィロフェイ

ーシの強い姿勢を誇示した。

は『星占師を訴える書簡』という本で、

CAESAR

⇒ ЦЕЗАРЬ ⇒

҃ ⇒ ЦАРЬ ЦРЬ

イワン雷帝は、1564 年にリトアニアへ亡命したアンドレイ・クルブ スキイ公と文通して、ルーシの政治体制と発展方針について討論した。 イワン雷帝の専制と無意味な暴政を批判するクルブスキイは、支配者 が貴族の権利を認め、教会と国民会議と同意を持って行動するような 国家を造ろうと要求する。特に「国家の強き者達」つまり世襲貴族の 権利を守るように呼びかけている。クルブスキイの意見では、世襲貴族こそロシアの力 そのもので、彼らの努力によって地方の「誇り高き王国」と都市が征服される。一方、 イワン雷帝はその「強き者達とは誰か知らない」と答え、国家は神の慈悲と皇帝の意思 に支えられると主張している。イワン雷帝は皇帝の権力を無限にするといい、「奴隷に 慈悲を与えるのも、裁くのも、余が決める」という独裁的な考え方を持つ。 リトアニア大公国に住んだロシア系貴族の一人、有名な作家イワン・ペレスヴェト フは国家体制について軍事階級の考え方を説明した。1540~50 年代に、彼は数冊の本


119 を書いて、皇帝に嘘の世辞ばかりを言って国家勤務を軽蔑する「怠けモノの長者達」大 貴族を鋭く批判している。イワン・ペレスヴェトフは自分の思想を寓話的に述べた。例 えば、『ムハンマド・サルタン物語』で「教養ある賢者」に指導される「トルコ」とい う理想的な国が描かれている。賢いムハンマド王は嘘つきの高官たちを厳しく裁き、賄 賂を受ける裁判官の皮を剥いで、剥製を作って裁判所に展示すればいいという。ペレス ヴェトフは「国には畏れがなければ、誠もない。畏れのない国は轡のない馬と同じだ」 といい、強い皇帝政策を支持する。しかし、イワン雷帝と違って、権力者には軍事階級 の支持が必要であるという。武士の福祉を守れるのは皇帝しかない、命をかけて皇帝を 守れるのは武士しかないという。一方、ツァーリは武士の意見に耳を傾け、彼らの努力 に報いる必要がある。 16世紀に、教会内の議論は特に激しくなる。15世紀に始まった 「無欲派」と「イオセフ派」の摩擦は深刻化し、より多くの人々を巻 き込むことになった。教会の欲心と傲慢を批判したニル・ソルスキイ の考え方を公家出身のワッシアン・パトリケエフ僧侶が受け継いだ。 又、古ロシア思想発展に、聖マクシム・グレク(本名:ミカエル・ト リヴォリス、1470~1556 年)が大きな影響を与えた。彼は、ギリシャ 系貴族出身で素晴らしい教育を与えられ、長い間北イタリアに住んでいた。ルネサンス の活動家と会って、サボナローラの説教を夢中で聞いて、カトリックのドミニコ宗のサ ン・マルコ修道院に出家した。サン・マルコからギリシャにあるアトス山の修道院に移 って、ギリシャ正教会の僧侶となり、マクシムという僧侶名を受けた。1518 年にマク シムは、ワシリイ3世の招待を受けてロシア行く。ロシアで活躍した多くのギリシャ出 身者(例えば、イコン画家テオファネス)と同じように、「グレク」と呼ばれ、それは 名字代わりになった。チュードフ修道院に行ったマクシム・グレクの僧坊はある種の 「文学会」もしくは「哲学会」の場になった。マクシム・グレクの遺産は大変大きく、 翻訳、神学や哲学論文などがある。彼の努力によって、ロシアに哲学と歴史学、辞書編 集法に関する知識が広がった。特に聖詩編解説辞典が有名で、その151の詩にマクシ ム・グレクは古代キリスト教の有名思想家による解説を加えた。 マクシム・グレクは人間の精神的成長の問題を考え、社会や政治の様々な問題につ いて書いていた。無欲派の伝統を続けた聖マクシム・グレクは権力者を強く批判してい た。1548 年、即位したばかりのイワン雷帝に彼は「正徳王への教書」という手紙を送 って、自分の心を支配しない皇帝は大衆を支配する資格がないと書いている。外交官の フョードル・カールポフ(?〜1548)はマクシム・グレクの弟子で、ヨーロッパへ旅 し、数ヶ国語を学び、古代ギリシャとローマの文化に憧れていた。マクシム・グレクや


120 ダニール総主教へ送った手紙に、カールポフはロシア社会体制を批判し、ロシア国家に 必要なものは「誠」即ち「法制と正義」だと主張する。 16世紀半ば、マカリイ総主教の指導によって 「大月読書=Месяцесло́в」という宗教文献大集 が作成された。それは、聖人の生涯と教え、教会 法、物語や伝説などを数多く集めた本だった。月 読書というものは、本でもありカレンダーでもあ り、各章を読む月日が決まっているものだ。その 「大月読書」はロシア文学完全集として作成され、 12ヶ月に合わせて12冊の本があり、各冊は 1200〜2000 頁だった。その中には、総 数 2000 件以上のロシアと外国の文学作品がある。 年代記作成も盛んに行われていた。16世紀のニコン年代記は特に大きな収録で、 ルーシ各地の年代記、物語と伝説を含めている。更に、ニコン年代記を基に作成された 10冊の「彩色収録書=Лицево́й свод 」はロシア史と世界史をまとめたもので、手描 きによる豪華イラストの数だけでも16000点だ。

1 6世 紀後 期〜 17 世紀 初期 に、 世界 史新 全集 「ロ シア 時代 記録 書=Ру́сский Хроно́граф」が作成される。 また、年代記の他にも、歴史ジャンルの本が登場する。特に「世代書=Степенная книга」が有名で、その収録法は一般の年代記と異なって年毎ではなく、リューリク王 朝の十七世代に別れて、ウラジーミル公からイワン雷帝までの歴史を物語っている。 「世代書」にも見られる歴史人物生涯への関心は16世紀ロ シア文学の特徴だ。また、1564〜66 年に書かれた、イワン雷帝 によるカザン・ハン国の征服を物語る「カザン物語=Каза́нская исто́рия」も興味深い歴史情報源だ。 16世紀半ば、一般読者のためにイワン雷帝の友人シルベス トル神父は「家政書=Домостро́й」を書いた。「ドモストロー イ」は、夫婦関係、子育、家計と日常生活から皇帝に対する一般 「ドモストローイ」の表紙 16世紀後半

人の義務まで、幅広い分野を把握し、ロシア人のメンタリティー に莫大な影響を与えた。 1553 年、モスクワにロシア初の印

刷所が出来た。その印刷物には、出版社名も、発行年月日も、 場所も書かれていなかったので、「無名印刷所」という名前 で歴史に残った。正確な印刷年月日の付いたロシア初の印刷 「使徒行伝」の表紙、1564年


121 物 は 、 モ ス ク ワ の 印 刷 者 イ ワ ン ・ フ ョ ー ド ロ フ に よ る 1564 年 の 「 使 徒 行 伝 = «Апо́стол»」だった。イワン・フョードロフの印刷所で発行された出版物は高品質で人 気を集めていたが、教会の過激派は彼を「異端」の疑いで追放したので、フョードロフ はモスクワからリトアニア大公国へ亡命した。リヴォーフ市にフョードロフは、ロシア 初の国語教科書を出版した。印刷技術は徐々にロシアに広がるようになったが、それで も手書き書籍の割合は大きく、聖書や宗教関連文献は印刷されたが、年代記や物語と伝 説は相変わらず手書きで複写されていた。

16

世紀に建築は盛んになり、モ

Коло́менском) だ。 当

スクワで石と煉瓦が広く利用

時の評価によると、昇

され、活発に建設作業が進む。特に、ク

天教会は「大工技で」

レムリン内の教会と寺院は当時の建築美

建てられて、キリスト

観 に影 響を与 えた。 例え ば、 トロイ ツ

教以前の土着信仰の神

ェ・セルギエフ大修道院のウスペンスキ

社にも似ている。新た

イ大聖堂やヴォーログダ市のソフィア大

な設計によって、教会

聖堂には、15世紀後期にA・フィオラ

の構造は軽やかで、天

ヴァンティーによって建てられたクレム

に舞い上がるかのよう

リンのウスペンスキイ大聖堂との共通点

に見え、イエスの昇天

が多く見られる。

を神秘的に表している。

当時の建築における最も興味深い現象 は、ビザンツ由来の伝統的な十字型キュ

天幕型聖堂の内部空間が狭く、信者は外 の回廊に集まって祈る。

ーポラ様式が放棄され、従来ロシア木造

天幕型教会の構想を更に発揮したもの

建築で広く利用されてきた天幕型の構造

は、カザン・可汗国への勝利を記念に1

が石造建築に導入されたことだ。新しく 建てられる教会は、もはや柱に支えられ る丸屋根も箱型の本堂もなく、高くそび える八角形のピラミッドに変わった。そ の時代の代表作は、1532年コロメン スコエ村にある皇帝別荘で建てられた昇 天 教 会 (Це́рковь Вознесе́ния в

ハーン

560年にイワン雷帝の命令で建てられ た大寺院だ。そのキューポラの形状も、 兜型から「けしの実」の形に変わり、そ れは炎を意味すると言われている。寺院 は内部空間よりも、外壁が華やかに装飾 され、赤煉瓦と白石の浮彫、細密な手描 きの模様が印象的だ。


この寺院はまさにロシア教会 建築の頂点となった。実は、これ は一つではなく九つの教会だった (各塔は個別の祭壇があり、名前 も別々だ)。 トロイツキー

その寺院は当初『三位一体 寺 院』 と呼ばれて、その建設に連 れてモスクワに新約聖書の黙示録 による『天空エルサレム』のイメ ージを実現するための建設作業が 始まる。『新エルサレム』を地上 に復元する発想は以前、キエフに もウラジーミルにもプスコフにも あったが、モスクワにそれは見事 に実現されたと言える。 トロイツキー寺院の形は街に

似ていて、中心の大塔は24の小塔に囲まれて、それ は黙示録に書かれたイエスと24人の長老を意味した。 トロイツカヤ

寺院前の広場(現在の赤の広場)は『三位一体広場』 と呼ばれるようになった。寺院自体は内部空間が狭く 大勢の信者が入れないので、寺院と広場は一緒に一つ の「野外聖堂」となり、寺院前にある『額の場= Ло́бное ме́сто 』(=ゴルゴタ)は読経台に使われ、ミ サのときにそこにイコンが出されて、寺院そのものは 祭壇代わりになっていた。以降、寺院に『エルサレム 寺院』という名称が付けられた。『猫柳の日= Ве́рбное Воскресе́нье 』(イエスの入エルサレム記念 日)にロシア総主教はイエスと同じようにロバに乗っ てウスペンスキイ大聖堂から寺院に移動した。


123 又、1586~92年、モスクワの近辺に「スコロドム=Скородо́м」という新しい 城壁が建設され、その四方面に12の大門があり、それも「黙示録」による神の街を思 わせる。スコロドムの設計士はできるだけその形を正方形に近づけたが、その角だけを 丸めた。 トロイツキー寺院は、時代の流れに形を変えて、大東の24小塔もなくなり、元々 金メッキされたキューポラも鮮やかな色彩に変わり、壁の装飾模様が卖純化した。名称 トロイツキー

も代わり、最初は「三位一体」、そして「堀のポクローフ」、「カザンスキイ」とも呼 ばれたが、モスクワ市民の中では『聖ワシリイ大寺院』という名前で親しまれていた。 その聖ワシリイとは誰だったのか? ここで、ロシア宗教文化にある ようきょうしゃ

「佯 狂 者 」という現象に触れなければ ならない。それはロシア語で ユ ロ デ ィ ヴ ィ イ

「 ЮРОДИВЫЙ 」 と 呼 ば れ 、 直 訳 は 「狂気」だが、宗教的な意味でそれは 決して「愚かさ」を意味しなかった。 佯狂者は、自分の高慢を抑えるために わざと常識を捨てる苦行者だった。日 本にも、鉄の下駄を履いて重い鉄の杖 を手にして旅する僧侶や行者がいた。 ロシアの佯狂者も似たような修行をし たのだ。彼らは路肩に暮らして、ヴェリーギと呼ばれる苦行具(鎖や鉄帹子、重い鉄十 字架など)を身に着けていた。一般常識を捨てて一生を通して心を鍛えていた佯狂者は 人間の心理をよく知り、一般人を襲う恐怖感とコンプレックスを誰よりもよく理解して いた。だから、国民の中で佯狂者は深く尊敬されて、多くの人は彼らに祝福と心の安ら ぎを願っていた。聖ワシリイもこのような佯狂者の一人だった。『裸のワシリイ』と呼 ばれた彼は一年中衣服を身につけることなく、ヴェリーギだけを身に着けていた。ワシ リイはいつも人の嘘と偽善を立証し、ロシアの支配者イワン雷帝さえ彼の鋭い眼を恐れ ていた。聖ワシリイは1552年に亡くなり、その葬式にイワン雷帝は彼の棺を担いで、 マカリイ府主教は供養の儀式を挙げた。 聖ワシリイの墓は今でもトロイツキー寺院にある。


124

10 世紀

12世紀

16世紀

ロシア建築様式の進化 絵画 16世紀の絵画には、2つの傾向が見られる。1551年に行われた正教会の「百 章公会」は、イコン作成のために硬い基準を確定した。アンドレイ・ルブリョーフとデ ィオニシイのイコンが手本とされて、画家の自由創作に狭い枞が付けられたので、美術 の発展は低下し、絵画は国家政策の一部となる。しかし、その代わりにテーマの選択肢 が広がった。特にフレスコ画は、聖像画の他に歴史場面や肖像画などが見られるように なる。


125

第4章 17 世紀、中世の結末 СЕМНАДЦАТЫЙ ВЕК – КОНЕЦ СРЕДНЕВЕКОВЬЯ

17

世紀はロシアにとっても正教会

ニクや天幕型の屋根や赤と白の色彩が広

にとっても転換期となった。ロ

く利用される。イコン画にも、いわゆる

シア社会には宗教への関心が段々低下す

「ストローガノフ派」が流行り、そのイ

る。その間接的な原因の一つは、16世

コンは小型で、像が細かく描かれ金メッ

紀に広がった異端対策だったが、実際の

キに輝き、宗教用具というよりもむしろ

原因は更に深刻で、キリスト教そのもの

贈答用小物だった。ロシア人が皆、自分

にあった。

のことを「キリスト教徒」と考えたこと キリスト教は老化

は間違いないが、キリスト教とは何かに

してきた。教会は、

ついての理解はとても浅かった。しかも

王朝と貴族の野心と

実のところ、当時のモスクワ教会では法

和解し、ロシア伝統

話伝統が殆ど忘れられて、それさえもな

社会の風土に順応せ

いのならば信者を失っても不思議ではな

ざるを得ず、追放さ

い。それらの社会現象は新時代の風であ

れた土着信仰の代わ

り、伝統的な宗教国家ルーシは晩年を迎

りに農民の生活に溶

える証だった。

け込んで「土着化」

当時の社会の変化は、正教会にとって

することも必然だっ

深刻な問題となった。500年も正教会

た。更に、ヨセフ派

は国家政権の一部で、ロシア文化の原動

は無欲派と異端者を

力でもあったが、ロシア社会に段々影響

論破出来なかったため、公式教会は最も

を与えることができなくなってきた。更

卖純で下手な方法を選び、それは陰謀と

に、従来ビザンツの影響が強かったウク

ベルセネフカ川岸にある 聖ニコライ教会 (モスクワ、1657 年)

行政組織の増大だった。

ライナ地域と、西欧の影響

一般人にとって宗教はま

が強かったベラルーシ(旧

すます形式化し、祈るため

リトアニア大公国)は、1

ではなく社交するために教

7世紀にモスクワ国家の一

会へ行く人が増えていた。

部になり、教会の経典と礼

信者の集まりを保つために、

拝の合一が大きな課題とな

各地にバースデーケーキの

った。それが成功すれば、

様な聖堂が建設される。教

モスクワ国家を広げて全て

会建築には民族的なモチー フが導入され、ココーシュ

のスラブ地を統一する可能 P・チーリン作「洗礼者ヨハネ」 (モスクワ、ストロガノフ派)

性も夢ではなかった。


126 1740年代には、良い教

主教を迎えた。総主教即位の時、

育を受けた大貴族と聖職者はモ

ニコンは皇帝から教会内の業務

スクワで『道徳擁護会』と後に

に介入しない約束を引き出し、

呼ばれた非公式的な集団を結成

皇帝と国民は総主教に従うこと

した。『道徳擁護会』は、一般

を誓った。

人と聖職者のモラル成長や、教

ニコンは数年に渡ってビザ

会に法話の伝統を復興すること

ンツとギリシャの本を集め続け

などを目指していた。経典と礼

て、ロシア法とギリシャ法を合

拝の統合も課題とされていたが、

一する夢を見てきた。総主教に

その問題に対して意見が多過ぎ

なった翌年、彼は各地方の府主

て同意は困難だった。間もなく

教に「三本指による十字の描き

ロシア社会を襲う大惨事の中で

方」の命令を送る。ロシア人 長司祭アバクーム

強敵として対立した二人の先導

は伝統的に二本指で十字を描

者も、『道徳擁護会』の出身者だった。

いて、それは『神人』というイエスの二

それは、新救世主修道院長のニコン僧と

元性を表すジェスチャーだった。ニコン

ユリエベツ市の長司祭アバクームである。 が導入した「三本指の十字」が『三位一 論点は、経典を古代ルーシの本を基に合

体』を意味したが、その意味が問題にな

一するか、ギリシャの本に基づいて合一

った訳ではない。1551年の『百章公

するか、ということにあった。アバクー

会』は「モスクワは第三のローマである、

ムは、ロシア伝統派で、ルーシの経典の

即ちロシア法はギリシャ法より上にある」

方が正教にふさわしいと主張していた。

と宣言した。従って、再びギリシャ法を

以前、彼はユリエバツ市民に厳しい宗教

導入するニコン総主教は『百章公会』の

規律を無理に押し付けたため、市民に追

決定に根本的に反した。貴族と聖職者の

い出されてモスクワに来た。一方、ギリ シャ法が一番正しいと主張したニコンは、 出世の早いエネルギッシュな政治家で、 皇帝アレクセイ・ミハイロヴィッチにも 信頼されていた。 1652年、ヨセフ総主教が亡くなり、 『道徳擁護会』から聖告大聖堂の長司祭 ステファンが立候補するが、皇帝がニコ ンを総主教に望んでいると知ったステフ ァンは候補から降りた。そして1652 年6月25日に、モスクワはニコン新総

ニコンを総主教


127 エリートでは「ギリシャ愛好家」が多か

ィノープルで公会が集まり、ニコンの改

ったが、地方の人口は農民が圧倒的に多

革に満場一致で賛成した。特に、コンス

く、ロシア化された正教が流行っていた。 タンティノープル正教会はトルコ支配か ニコンの改革に対する国民の不満が嵐の

ら解放されるのを期待して、パイシウス

ように湧き上がり、抵抗運動のリーダー

総主教はロシア皇帝アレクセイ・ミハイ

に保守派の長司祭アバクームがなる。

ロヴィッチに「我が国を解放し、ビザン

改革を実現するには、ニコンはロシア

ツの皇帝になれ」と書いた。

国民ではなく、ギリシャをはじめ東方正

ニコン改革によって教会経典は次のよう

教諸国の総主教達の支持に頼るしかなか

に変更された。

った。同じ1654年に、コンスタンテ

 大幅な「書籍調整」が行われた。聖書と礼拝関連文書の多くは再編集され、 「 信 条 」 の 一 部 ま で 変 更 さ れ た 。 「 Сына Божия, ... рождѐнного, а не сотворѐнного...」の部分から接続詞〈а〉が消されて「創造されたのではなく誕 生した」は「創造されず誕生した」に変わった。信条にあった聖霊定義から 「ИСТИННОГО=誠の…」の部分が消された。又、イエスの名前は元々「I СУС =略 I С」と書かれたが「I I СУС=略 I I С」に変わった。

 「二本指の十字」は「三本指の十字」に変わった。 らいはい

又、教会では土下座の礼拝が禁止された。1653 年、ニコンはモスクワ中の教会に「ひざまずいて礼 拝するべからず、立って礼拝し三本指で十字を切る が良い」という命令を送った。

 聖行列は、向かって左から右へ教会を回る習慣であったが、ニコンは「右から 左へ回れ」と命じた。

 祈るとき、「АЛЛИЛУЙЯ=ハレルヤ、神を褒めたまえよ」を以前に2回唱える 習慣だったが、今度は3回に規定された。

 聖職に使うパンの個数とそのパンに付けるマークの形が変わった。 他にも細かい変更と調整があったが、その多くは正当ではなかった。改革の目的は、 経典と礼拝法を古代のギリシャ法に一致させることにあったが、実際の手本に使われた


128 のは古代のギリシャ書籍ではなく、同時代の本だった。しかし、ギリシャの本も数百年 の間に何度も調整されて、古代法と既に異なっていた。その原因で、改革の目的と要旨 は一般人だけでなく、多くの聖職者にも誤解された。ニコンの死後、変更された要素の 一部(イエスの名前の書き方など)が基に戻された。 ニコン総主教による大幅な改革は、正教会信者に「教会は悪魔に支配されて、最後 の戦が近い」と思われても不思議ではなかった。大勢の人は革新された教会を離れて、 教会は「旧派」と「新派」に分離してしまった。旧派をリードした長司祭アバクームは 正教会幹部を非難しニコン総主教を解任するように皇帝を説得しようとした。ロシア社 会の大部分はアバクームを支持した。皇帝と教会エリートはアバクームに妥協を提案す るが、彼は屈しなかった。結局、アバクームは刑務所に入れられた後、シベリアに流刑、 その仲間は舌を切られる。シベリアの牢獄に14年間懲役されても諦めなかったアバク ームは仲間と一緒に火あぶりの刑を受ける。 旧派に対する弾圧は益々残酷になる、一方、彼らの抵抗も強化していく。多くの人 は民家に閉じこもって焼身自殺をする事件が増え、大勢の農民は村を捨ててシベリアと 北方地域へ逃げる。 シベリアのバイカル湖の周辺にある旧派聖堂

段々と旧派は自然的に二つの枝、「司祭派= Попо́вство」と「無司祭派=Беспопо́вство」に 分かれる。その枝の特徴は名称から解る。人に 司祭の資格を与えるには、主教以上の聖職者の 認可が必要だが、旧派には主教がいなかった。 そのため、「司祭派」は最初に逃亡した司祭を 呼び集めたが、後に新教会の学校の卒業者を雇

うことにした。「無司祭派」も、逃亡司祭が最初にいたが、彼らは段々死んで行って新 しい司祭が来なかったので聖職者制度そのものを放棄した。「無司祭派」の人は世間を 離れて、できるだけ遠くて無人の地方で村を作って、シベリア各地に沢山の旧派農村が 出来た。その村の人は今でも外界との接触を最低限にしているという。 1654~67年、ポーランドとの戦争が相次いで起こる。皇帝アレクセイ・ミハ イロヴィッチは長い間モスクワを離れて、ニコン総主教は事実上ロシア国家の第一人者 になる。ニコンは極めて功名心で怒りっぽい人だったため、大貴族と教会エリートの中 に敵が多かった。 ニコンは、皇帝が留守だったことから正教会と自分自身のために多くの利益と優先 を得た。それが原因で、皇帝が戦争から帰還すると、二人の関係は悪くなる。その結果、 ニコンは自分の決定でモスクワを後にして新エルサレム修道院に行く。


129 新エルサレム修道院 Ново-Иерусалимский монастырь ニコン総主教はその修道院 を 1656 年に総主教所在地とし て創立した。将来にそれは世 界正教の総本山になると考え ていた。そのために、周辺に ある全ての地名、修道院の敶 地にある建物の形状と名称な どはイスラエルに譬えた。例 えば、近くに流れるイストラ 河は「ヨルダン=Иорда́н」(イエスが洗礼を受けた場所)、近くにある三つの丘は 「シオン=Сио́н」(エルサレムの位置する山)、「タボル=Фа́вор」(イエス変容の 山)そして「オリーブ山=Ма́сличная гора́ 」(イエスが逮捕されたゲッセマネの園) と呼ばれるようになった。 1649年に、ニコンはコンスタンテ せいふんぼ

ゴルゴタ

ィノープル総主教からエルサレム聖墳墓

丘 最初の聖堂が建設された 4 世紀に掘崩された。

教会(別名・ゴルゴタ教会)のイトスギ 製模型を贈られて、それを手本にして修

紀元後 1 世紀のゴルゴタはエルサレム付近にあ る小さな丘に過ぎなかった。

洞窟 神の御棺

ゴルゴタ丘

道 院 の 本 堂 『 復 活 大 聖 堂 = Воскресе́нский собо́р 』を建設させた。 復活大聖堂には、ゴルゴタにあると同様 の祭壇も、イエスが復活したと言われる 洞 窟 と 墓 碑を イ メ ージす る 小 さ な御 堂 (クブークリア)もある。復活大聖堂は エルサレムにある教会の外見をありのま ま写したものではないが、それはイコン と同じく、大きさと内容さえ同じならば、 本物扱いできるとされるからだ。 ロシアにある修道院は一般的に正教会 の所有物だったが、新エルサレム修道院 だけはニコン総主教の個人所有だった。 豊かな新エルサレム修道院は、広大な 農地と農奴を所有し、図書室には古代ギリシャと古代キリスト教の貴重な書籍(ニコン


130 の寄付)が沢山あった。修道士は

クブークリア

ロシア各地の出身者で他民族だっ たと言われる。修道院の建築も独 特で、本堂の上に鮮やかな色のカ イスラエル

ロシア

ラータイルで装飾された巨大な煉 瓦造の天幕型ドームが聳えていた。 実のところ、ニコン総主教は自分 の命令で全ロシアに天幕型教会建 設を禁止したにもかかわらず、こ こだけを例外にした。 ニコン総主教の時代を通して 天幕型教会は主に、正教会による 取締りの弱い地方、特にシベリア で建設されていた。しかし、天幕 型教会は一般人に大人気だったの で、建築家はニコンの禁止の網をくぐる方法を考え出した。彼らは教会の本堂ではなく、 別館になっている鐘楼を天幕型にした。後に本堂と鐘楼を廊下で結ぶようになった。例 えば、击館にある「ハリストス教会」もこの様式の教会だ(正式名は、復活教会)。観 光ガイドが、それは「ビザンツ様式」だと説明するようだが、実際にそれは17世紀モ スクワ様式の代表的な教会堂なのだ。 さて、復活大聖堂に戻ろう。残念ながら、強大なドームが重過ぎて1723年に崩 れてしまった。幸いに、その時に人々は「オリーブ山」の礼拝堂にいて犠牲者がでなか った。その後、1726年に、復活大聖堂に火災が起きて建物の大部分が焼かれた。1 730~31年、女帝エカテリーナ2世の命令によって、有名な建築家の指導で大修復 作業が始まった。ドームを支えた円形大広間の壁に元の煉瓦が再利用され、カラータイ ルは新しく作られた。1759年に、新しい木造のドームが完成されて、それに60の 窓が作られ内壁に聖書の場面を語る壁画が施された。 しかし、修道院を襲う困難はこれで終わ らなかった。新エルサレムの歴史は、繁栄 よりも崩壊が多かったと言っても良いだろ う。ある意味でそれは総主教ニコンの運命 にも似ている。皇帝と教会幹部と完全に仲 を断ったニコンが裁判にかけられて、新エ


131 ルサレムの建設は主要被告となり(他の正教会総主教にとって『第二のエルサレム』を 創る発想は異端にしか見えなかった)、ニコンが総主教から解任された。 ソ連時代に、新エルサレム修道院は博物館になった。1941年に修道院はナチス ドイツ軍にとられ、復活大聖堂が兵器庫にされた。その展示品の一部はドイツに運ばれ て、一部はその場で壊された。撤退するときにドイツ軍は大聖堂を爆破し、それでドー ムが全焼し巨大な七重鐘楼が崩れた。 1995年に新エルサレム修道院は教会に返還されて、現在は外壁の修復がほぼ完 成された段階だ。

1660 年にモスクワで開催された公 会は、ニコンを総主教から解任し司祭

ニコン総主教の解任裁判 S・ミロラードビッチ作、1885

失格にすることを決定したが、それは 裁判まで行かず、他の正教国の総主教 を招待して決定を願うことにされた。 しかし、招待された総主教共はモスク ワに着くまで数年がかかった。166 6年10月、アレクサンドリア総主教 パイシウスとアンタキア総主教マカリウスがモスクワに到着し

ニコンの墓

て「大公会」が開催された(皇帝も招待されたが来なかった)。 大公会はニコンの改革を違法と宣言し、1666年12月12 日にニコンが総主教から公式的に解任され、ロシア北部にある フェラポントフ修道院に流刑された。皇帝アレクセイ・ミハイ ロヴィッチの死後、ニコンは更に取締りの厳しいキリル修道院に移動された。 1681年に、皇帝フョードル・アレクセエヴィッチはニコンに「免罪」を下し、 新エルサレムに戻ることを許可した。年老いて体の不自由なニコンは戻る途中で亡くな り、新エルサレム修道院に入棺された。皇帝の願いで、ニコンは総主教として埋葬され た。 1666~67年に行われた大公会はニコン総主教の改革を違法と認めたが、ロシ アに念願の平和をもたらさなかった。公式教会に帰らない旧派信者を破門して、教会の 分離を法的に固定した。旧派に対する残酷な弾圧はそれから50年も続き、特にソフィ ア皇女(ピョートル大帝の姉)の時代は流血まで起こった。ソフィア皇女は、旧派信者 が新教会に帰って懺悔しても「情け無用で死刑にする」ことを命じて、当時の総主教イ


132 オアキムは各地方に「旧派信者が現れたら追放する、そして彼らの家を荒らす」という 命令を送った。 ピョートル1世は皇帝になってから、全ロシアに『信仰寛容』を約束したが、それ でも旧派信者は二倍の税金がかかり、旧派の男性は『あごひげ税』も払わなければなら なかった。

旧派信者の仲では、真実のキリスト教徒が幸せに暮らせる幻の『白水国= Белово́дье』、つまり「キリスト教の浄土」についての伝説が普及した。伝説によると、 ベロヴォーヂエはどこか東の方にあるので、ロシア極東地域や満州、アラスカなどに旧 派の集落ができ、日本の击館にさえ旧派の数家族が住んでいたと言われる。 19世紀に旧派に対する弾圧が終わり、 多くの信者は都会に帰ったが、相変わら ず世間を離れた生活を送っているものも あった。旧派は「世界が悪魔に支配され ている」と思って「最後の審判」を待っ て「審判の日」まで真実のキリスト教を 守りたかったので、自分の集団を経済的 に支えるために最善を尽くしていた。そ のために多くの旧派信者は商売を始め、

現在の旧派正教会のリーダーであるコルニーリイ府主教

実はその中から多くの億万長者が出た。 ロシアにおいて旧派は、ヨーロッパのプロテスタントと同じような存在となった。公式 ロシア正教会が旧派を正当な教会として最終的に認めたのは、1971年(!)だった。 公けに認められて圧迫がなくなっても、旧派教会は今でも新派教会を認めることな く、旧派こそ唯一の正しい正教会だと信じている。

文化発展

けれども、17世紀がロシアにもたらしたのは大変動だけだ と言えば間違いになる。何があっても、人々は畑を耕し、子供を

育て、旅をし、芸術品を作成し、本を書き続ける。 17世紀のロシアは尐しずつ外界に開かれ、西欧文化が国内に流れ始める。ヨーロ ッパ人もロシアに住むようになったが、数百年にわたって鎖国に住んできたロシア人は それでも「外人」に対して不信感を持っていた。大陸大国のロシアでは、長崎の出島の ようなものは作れなかったが、政府は外国人のために良い生活環境を作って、同時に外 国の影響を最低限にする方法を探していた。ここで、古くから町外れに住んだ商工人の 「自由街=Слобода́」のモデルが役立った。


133 17世紀のモスクワには、ロシア人の他に、リト アニア人、ポーランド人、タタール人、アルメニア 人、ドイツ人などが住んでいた。その中にもロシア の役人として輝かしいキャリアを成した人もいた。 16世紀にモスクワでリトアニア街ができ、17世 紀半ばは既に7つの異人街が存在した。イワン雷帝 17世紀、モスクワにあったネメツ街の図

ドイツ

の 時 代 、 モ ス ク ワ の 近 辺 に 「 独逸 街 =Неме́цкая

слобода́」が出来た。現代ロシア語で「ネメツ」はドイツ人を意味するが、当時は「ロ シア語を分からない人」を意味したので、独逸街にはドイツ人の他にもスウェーデン人、 フランス人、オランダ人やスペイン人などが住んでいた。

芸術と産業 当時のロシア美術には、装飾的で土着的な傾向が見られる。芸術は神聖なものから 職業になって宗教世界から離れ始めた。以前、宗教は全ての部門に入り込んでいたが、 芸術が独立したことによって宗教も民の生活から離れるようになった。これでロシアは 江戸日本と同様に、ルネッサンスが近づいてきた。 当時、農業は主要な経済部門で、農作道具は古来の もの(多種の鎌、まぐわ、犂など)だった。しかし、 手工業では大きな変化が起きた。布、縄、ラシャ、靴 と衣服、タールなどの生産物を作った農村の手工業に 余り変化はなかったが、都会では手工業が大量生産に 変わり始めて、最初の工場が現れることによって物質 文化も豊かになる。 つがい

金属加工も普及し、鍛冶屋は斧、精密な蝶番、サー

「斧型蝶番」

ベル、ナイフなどを大量に生産し、特に複雑なからく り錠前が有名で、銃砲類なども普及していた。161

5年にロシア初の施錠大砲が造られた。金銀細工の技術は高いレベルに達し、特にモス クワ・クレムリンの武器庫にあった工房が有名だった。その工房には、王朝のために 様々な食器やアクセサリーなどが作られていた。 北方地方の造船職人は、北極圏でも航海できる『ロディア』という丈夫で軽い船を 造っていた。ウール加工も発展し、特にウーグリッチ市に生産されたフェルト・ブーツ


134 (ВА́ЛЕНКИ)が人気になった。1630年代にロシア初のガラス工場が創立 され、1655年にモスクワ近郊で製紙工場が出来た。1638年、外交官ス ハ ーン

タルコフはモンゴルの可汗から64㌔の紅茶を贈られて、それを皇帝ミハイ ル・フョードロヴィッチ(最初のロマノフ)に贈呈した。それ以降、紅茶はロ シア食文化にとってなくてはならない物になり、現在の世論調査でも紅茶はロ シアの最も人気ある飲み物だ。17世紀に始まったシベリアの開拓は、中国と の貿易路『ティー・ロード』があったからこそ成功したとも言える。

建築 Архитектура 石造の教会、宮殿と要塞について話し て、どうやらロシアは木造王国だったこ とを忘れたようだ。豊かな森林はロシア の富でも弱点でもあった。ロシア人は本 来、建設材の不足を知ることなかったが、 広大な森は運送の妨げになり、夏でも冬 でも河川が道路代わりに利用されていた。 都市建設に必要な木材も大量に河に流されて運ばれていた。 ロシア人は木造の民家の中に生まれて、生きて、死んで、木造の荷 そり

車と橇 に乗って、広い川を木造船で渡り、木板の上にイコンを描いて、 じ ん ぴ

足に靭皮の靴を履いて、樹皮製の箱やカゴに物を保管して、白樺の皮 グースリ

の上に手紙を書いて、木製の笛と 琴 を楽しんで、木の板に覆われた歩 道を歩いて、木の棺に入ってあの世へ旅立って、人がこの世にいた証 拠は唯一、墓にある木造の十字架だった。 ロシアの木造建築は千年の経験による伝統的な原理に基づいている。 職人は古くから、木の伐採と乾燥の方法、保管法、丸太の加工法や組み方などを知り、 夏に暑く冬に寒くならない家を造れた。現代のヨーロッパで、生きた木造建築文化を持 っている国はロシアの他にフィンランドしかないだろう。 木造建築の原理そのものは比較的に卖純だが、それは気温と湿度の変化が激しいロ シアの厳しい気候のため、守られるべきだ。ロシアの気候では木製品がよく変形したり、 ひびが入ったり、腐ったりする(日本からロシアに持ってきた木製の食器などは早く悪 くなると言う日本人もいる)。それで、木造建築には幾つかの簡卖なルールがある。


135 材料 壁を建てるために松やカラマツの25~40㌢の丸太、垂木(母屋組)のために軽 いモミの木が利用された。单部ロシアでは柏の木も使われた。丸屋根とケシ型屋根を覆 うウロコのためにヤマナラシが使われた。ヤマナラシは、雤と雪に当たって銀色に変色 する。 建設に釘などの金属部品を使わない(例外は蝶番、 錠前と窓格子だけ)。

道具 木造建築の主要道具は大工斧で、ノコギリは細かい 部分にしか使わない。ノコギリは木の組織を破壊するが、 鋭い大工斧は打つごとに丸太の動脈を塞ぐので、丸太は腐らないで長持ちする。

構造 北半球なので、窓の位置は東⇒单⇒西の3方面にすると部屋にずっと日が入り、カ ビがなく木も腐らない。 保温のために丸太の隙間には干したコケまたは麻屑を詰め込む。 ヴ ラ ー プ

ヴ オブロー

丸太の組み方は主に「В ЛАПУ=ほぞ穴組み」と「В ОБЛО=先出し組み」と呼ばれ る二法がある。

ヴ ラ ー プ

ヴ オブロー

В ЛАПУの組み方

В ОБЛОの組み方

16~17世紀に天幕型教会が現れると、木造建築は更に発展し、とても高くて壮 大な教会堂を建てるようになった。天幕型の教会は元々大工伝統から生まれたもので、 石造も木造も本来ビザンツの「十字型キューポラ様式」ではなく、独特な構造と要素を 持っていた。


136 構造要素 『樽型屋根=БО́ЧКА』

断 面 に 「 玉 ね ぎ 」 の 輪 郭 を 持 っ た 屋 根 。 十字型に建てた4本のボーチカもある。

『ケシ型塔=МА́КОВКА』

兜型屋根の代わりにきた「玉ねぎ型」のキューポラ

『四稜堂=ЧЕТВЕРИ́К』

箱型の堂、地のシンボル

『八稜堂=ВОСЬМЕРИ́К』

八角の堂。八角星と同じく聖母の象徴、または、 『黙示録』に書かれた「八千年目の時代」つまり 「神の国」のシンボル。


137 『外回廊=ГУ́ ЛЬБИЩЕ』

『木瓦=ЛЕ́ МЕХ』

内部空間が狭いため、その回廊に信者が集まる。

複雑な形をした丸屋根を覆うウロコ(瓦)。

教会堂の種別 『民家型』 Кле́тский храм 一般の民家(Клеть)と同じく二斜面の屋根の上 にマーコフカ塔がついて、玄関、本堂と祭壇間という 三つの四稜堂からなっている最古型の教会。現在まで 残った民家型教会はほんのわずかである。その一つは オネガ湖にある有名なキージ島博物館に展示されてい る16世紀の聖ラザロ教会である。教会そのものは大きくない(全長9㍍、幅4㍍、高 さ5,5㍍)が、全体のプロポーションが良く、ロシア木造建築の傑作とされている。

『段状教会』 Я́ русный храм この形は、四稜堂と八稜堂を重ね合わせ たピラミッドで、日本の五重塔に似たよう な教会。その代表例は、トルジョーク市に ある1717年の昇天教会(Вознесе́нская) と、コストロマー州ホールム村の神誕生教 会(Богоро́дицкая)だ。神誕生教会の下部 は広い八稜堂で、その回りにまた外回廊が


138 増築されて、その上にもう一つの小さい四稜堂があり、その上にまた5本のマーコフカ が飾ってある。広い下部と軽やかな頭部のコントラストは印象的だ。

『天幕型教会』 Шатро́вый храм タワー型の教会で、平面図は八角形。又、下は正方 形で上は八角形の構造もある。その教会の原型は砦の櫓 だと言われるが、土着信仰の古代神社の説もある。 現存する木造の天幕型教会は多くない。その中で最 古に当たるのはアルハンゲルスク州リャーヴリャ村にあ る1587年の教会だ。 17世紀終期から、新タイプの天幕型教会が現れる。 四稜堂を中心に4本のボーチカが十字をつくり、その上 に八稜堂と天幕が建てられる。コーラ半島のワルズガ村にある1674年の教会はその タイプに当たる。増築された外回廊はらせん形で、見る人の視線はその土台から頂点の 十字架まで自然と流れ移る。

『多塔方教会』 Многогла́вый храм 天幕と段状を合わせたその教会は、17~18世紀 に普及しロシア木造建築の最も高度な建物である。例 えば、キージ島博物館にあるポクローフ教会は、四稜 堂の上に八稜堂が建てられ、その上にまた9本の小型 八角塔があり、それぞれにマーコフカが飾ってある。 キ ー ジ 島 の 救 世 主 御 変 容 教 会 (Преображе́нская це́рковь)はロシア木造教会の中で最も「着飾った」高 度な教会だ。アンドレイ・ルブリョーフの『三位一体 像』と並ぶロシア最大の国宝だとも言える。 実は、この教会は元々二つだった。先に建てられた のはヴォーログダ州アンヒーモボ村のポクローフ教会(1708年築、1963年の火 災に全焼)だった。その教会を建てたのは、親方ネヴゾーロフとブニャークの大工屋組 合で、その76人の中に12人の女性(!)もいた。6年後、1714年に同じ組合は キージ島で救世主御変容教会を建て、ヴォーログダ州の教会に見られた欠点を見事に直 した。


139 ロシアの過酷な気候のため、16世紀以 前に建設された木造建築物は現存していない。 実際、最も有名な建物は18世紀に建てられ たシベリアと北ロシアの教会だが、その原型 は17世紀の文化に生まれた。18世紀のロ シアは、既にヨーロッパ流の近代化が進み、 首都圏は西欧様式の石造建築が圧倒的に多か ったが、シベリアには未だ伝統的な文化が生 きていた。18世紀はロシアに全く新しい雰 囲気を吹き込んだが、18世紀の木造教会は 近代ロシアに響いた古代の山彦だと言ってもよいだろう。

石造建築は、以前のものを遥かに上回るレベルに達成した。17世紀ロシアでは、 高質の煉瓦が生産され、石灰の漆喰もとても頑丈で、大型の建築物が大量に建設される。 最大の非宗教的な建築物は、モスクワ・クレムリンの敶地に皇帝の子供のために建 てられたテレムノイ宮殿だった(1636年、建築家

バジェーン・オグルツォーフと

トレフィール・シャルーチン)。「テレム=Те́рем」というのは、4斜面の屋根がある 伝統的な宮殿を意味する。ロシア民芸のモチーフで造られたテレムノイ宮殿は、金メッ キ、カラータイルと華麗な石浮彫に装飾され、 まるで玩具に見える。三階建ての本館の上に 回廊に囲まれたテレム閣がある。回廊には、 望遠鏡を備えた展望台まであった。 クレムリン自体も大幅に建て直される。 1624~25年に、イギリス建築家C・ガ ロウェイとバジェーン・オグルツォーフはク レムリンの主塔である救世主塔(Спа́сская ба́шня)を再設計し、現代の外見に変えた。 現在、スパッスカヤ塔の高さは約62㍍で、 その数は偶然ではない。62㍍をサジェーニ というロシア伝統卖位(約244cm)に割ると、6200cm÷244cm=25.4 で、25は黙示録による「神の数」だ。クレムリンの諸塔は天幕型の瓦屋根が増築され て、クレムリンは砦から宮殿に変身した。


140 文字文化 ПИСЬМЕННАЯ КУЛЬТУРА 17世紀に、フォークロアの記録が始まって、それは当時の民話や民 謡の貴重な情報源となった。祖国の歴史をテーマにした唄が流行り、古 くから伝わった様々な伝説詩(Были́на)や民話や唄などが人気で、諺の 集成も出版される。 農奴制のロシアでは、農民の大部分は依然として無教育だったが、都会では教育が 非常に普及した。都会化と国家統制制度の発展によって、教育を受けた人材への需要が 高まってきた。 17世紀ロシアの教育普及率は下記の通りだった。 地主

65%

商人

96%

職人

40%

農民

15%

兵隊

1%

又、教育を受けると人は農奴から解放されて国の役人になるチャンスもあった。1 7世紀終期、モスクワ各役場の主幹レベルの職員人数は178人、書記は1450人 (17世紀モスクワの人口は20~30万人)がいた。その他にも、非常職員として 「広場雇い=Площадной подьячий」という早書と書記が雇用されていた。地方にも 教育を受けた聖職者と役人の数は段々増加していた。 印刷技術も既にあったにもかかわらず、手書の本は依然として圧倒的に多く、小売 のために本が大量に作られたが、個人注文で作られる本も多かった。本の消費者も増え てきて、貴族だけでなく一般人も本を買うようになった。宗教法話や、年代記の摘録や 伝説要約を含めた雑誌も人気だった。修道院は大きな図書室を持ち、一部の本は修道士 が所有して個室で保管していた。国家や県の役場における書類作成も増えた。 ク ラ ン ト

1871年から皇帝のために外国ニュースを載せた「外報摘要=Кура́нты」という 手書き新聞も発行される。 当時の本は、木板のカバーに革やベルベットなどが張られ、金銀や宝石で装飾され、 本の作成芸術は17世紀に大変高いレベルに達成した。


141 17世紀後半、イラストのスタイルが変わり始めて、植物模様と幾何模様が増えた。 印刷物も普及し、モスクワの『印刷庭=Печа́тный двор』では165人が勤めていた。 17世紀前半に約200名の本が出版され、本の普及率は以前より上昇した。外国諸本 からの翻訳も大量に出版される。一般の人は本のコレクションを誇るようになり、ニコ ン総主教の他にもモスクワ貴族の多くは、ロシア語、ポーランド語、ラテン語とギリシ ャ語の本を集めていて、皇帝の宮殿にも大きな図書室があった。 1687年に、幾つかの私立学校が合併して、ギリシャ人兄弟学者イオアニウスと ソ フ ロ ニ ウ ス の 指 導 に よ っ て 『 ス 希 羅 ア カ デ ミ ー 』 (Славя́но-гре́ко-лати́нская Акаде́мия)が創立された。アカデミーは「各身分、各歳、各位」の人が入学でき(農 奴だけは禁止された)、将来の聖職者と国家公務員が育成さ れていて、ロシア社会の啓蒙に大きな役割を果たした。 また、音節数に基づいた作詩法が普及し、当時の文学で それは新しい現象であった(口頭フォークロアでは昔から存 在したが)。特に、王家の子供たちの家庭教師としてベラル ー シ か ら 招 待 さ れ た シ メ オ ン ・ ポ ー ロ ツ キ イ ( Симеон Полоцкий)は新作詩法を普及するために尽力し、1680 年に聖書の『詩篇』にリズムを与えて編集した。その編集は 長い間、作詩法の教科書としてロシア中で利用されていた。 シメオン・ポーロツキイ筆の 『フィギュア詩』

絵画 Живопись 絵画では、イコンの他に「パルスーナ= Парсу́на」という新タイプの絵が登場する。 「パルスーナ」は訛ったラテン語のPERS ONAのことで、その形状と画法はイコンと変 わらないが、描かれたのは誰も見たことない昔 の聖者などではなく、実存した歴史人物だ。特に有名なパル スーナは、大貴族のミハイル=スコピン・シュイスキイ公爵 の埋葬用肖像画だ。

大貴族のM=スコピン・シュイス キイ像(入棺用のパルスーナ)。 17世紀、作者不明

17世紀の壁画は新しい時代を迎えた。当時のフレスコは、内容がダイナミックで 一般人の活動が描かれたため、国民に「ШУ́ МНЫЕ ФРЕ́ СКИ=騒がしい壁画」と呼ばれ た。特に有名な壁画作者は、「古代ルーシ最後の画家」とも呼ばれるコストロマー出身


142

のグリイ・ニキーチン(Гу́рий Ники́тин )だった。貧乏な職人の家に生まれた彼はイコ ンの売店を経営し、地元の教会のためにイコンを描いていた。1652年、ニキーチン Крестовоздвиженский

はイコン組合に入り、トゥタエフ市の十字架挙栄祭聖堂の入口のフレスコを描いて、後 に組合の親方になって同じ聖堂の天井の壁画も描く。グリイ・ニキーチンは活発に働い て、イコンや壁画、本のイラストなどを作成していた。鮮やかな色彩と明るい絵画によ って彼は早く人気者になった。ニキーチンの組合はモスクワ、ヤロスラーブリ、ロスト ーフ、コストロマーやスーズダリなどで壁画を描く。ニキーチンは多くのフレスコのた めに、当時のロシアに流行っていたオランダ出版の『ピスカトール聖書』からの版画を 手本にして、それをロシアの聖像画法に従って壁に描いていた。特に有名なフレスコは、 ヤロスラーブリの聖イリヤ教会にある『預言者エリシャはシュネム夫人の息子を生き返 らせる』という壁画だ。そのフレスコは『収穫』とも呼ばれている。なぜなら、その中 心に麦を刈る人々が描かれて、宗教的な場面は縁に小さく描かれたからだ。このような 物の見方も明らかに近代の現れ だ。 17世紀ロシア絵画における 最大の画家はシモン・ウシャコ ーフ(Си́мон Ушако́в、1626 ~1686年)だった。写実的 に 描 か れ た 『 聖 顔 =Спас Нерукотво́рный』 や 『 ロ シ ア 国


143 家世代樹=Древо Госуда́рства Росси́йского 』などのイコンは有名で、『ロシア国家世 代樹』の真中にロシアの守護者とされる『ウラジーミル聖母』の複写があるので、その イコンは『ウラジーミル聖母への賛辞』とも呼ばれ、聖母像の回りにある樹の枝にモス クワ大公と皇帝の肖像画が並び、ロシア絵画においてそれは実際の歴史人物が描かれた 最古の絵だと思われる。1671年にウシャコーフは三位一体像を描いて、それをアン ドレイ・ルブリョーフのイコンに比べると、画家の世界観がどれだけ変わったか解る。 ウシャコーフのイコンはもっとリアルに描かれて、遠近感と立体感もあるが、ルブリョ ーフのイコンに見えるような光と霊感がない。シモン・ウシャコーフは人間の顔を描く のが得意だったが、人間のフィギュアは苦手なところで、マネキンのように見える。そ れでも、ウシャコーフは偉大な巨匠だったといえる。彼は転換期に住み、当時の画家に 出来ることには限界があった。古いと新しい世界の架け橋になるというやりがいの無い 仕事をしなければならなかった。イコンと一般絵画は、違うジャンルというよりも全く 異なる原理に基づいた別世界だ。恐らく、ウシャコーフ自身もそれを良く理解していた。 生きたイコンの時代は去って、自由芸術の時代はまだ来なかった。美術史においてシモ ン・ウシャコーフは画家ではなく、革新者と美術評論家としてその名を残した。

アンドレイ・ルブリョーフの 『三位一体』

⇒⇒ シモン・ウシャコーフ作 『聖なる三位一体』と 『聖母エレウサ』


144 舞踊と芝居 古来、ロシアにはいわゆる「民衆劇団」が流行り、特に「ペトルー シカ=Петру́шка」(ピョートルの愛称)というキャラクターが登場 する人形劇が人気だった。陽気なペトルーシカはイタズラとジョーク で観客を笑わせたり、ときによって皮肉で権力者や教会を笑いものに したりした。 皇帝アレクセイ・ミハイロヴィッチの宮廷でも、当時の文化人であった大貴族のア ルタモン・マトベエフ(Артамо́н Матве́ев )によって劇団が設置された。そのきっか けはピョートル王子の誕生祝いで、劇団の参加者は独逸街出身の60人のアマチュア俳 優だった。 その他にも、全ロシアには数百年に渡って「スコモロヒ」という旅芸人の芝居が愛 されていた。

スコモロヒ СКОМО́РОХИ 中世ロシアの旅芸人。そのレパートリーには、歌 と舞踊、動物調教、風刺漫才(ГЛУМ)や演劇などが あった。 スコモロヒ伝統の始まりは遅くても11世紀で (キエフのソフィア大聖堂(1037年)の壁画に はスコモロヒを描いた場面がある)、最も栄えた時 期は15~17世紀に当たる。 当時のロシアの地方において、主なニュース源は 布令役と噂だったが、ロシア各地に旅したスコモロ ヒは様々な出来事を目撃していたので大事なメディ アの役割を果たしていた。そのため、権力者にとっ スコモロヒの仮面

(13世紀、革)

てスコモロヒは危ない存在となった。更に、スコモ ロヒの芸には土着信仰の要素が多く、二重信仰の農村地帯では彼らがいなければ農耕祭 が考えられなかっただろう。農民が古代の祭りを行っていたため土着信仰は国民の生活 に深く浸透していた。正教会は、笑いと楽しみは祈りの邪魔だとして、スコモロヒは正 教に絶対不適だと主張していた。「百章公会」はスコモロヒ芸を非難したが、公式の禁 止までは行かなかった。ロシア社会では、キリスト教の時代にでも、身分が低いにも拘 らずスコモロヒは尊重されていた。しかし、フィラレート・ロマノフ総主教(1554


145 ~1663年)の時代に、スコモロヒに対して本格的な圧迫政策が始まった。楽器職人 が流刑され、スコモロヒは刑務所に入れられた。 16~17世紀に、圧迫 に抵抗するためにスコモロヒ は「ワタガ=Вата́га」という、 70~100人の集団をつく

皆、酒を飲んで 楽しもうじゃないか!

るようになった。スコモロヒ のワタガは、芸だけでなく、

神様、鬼たち が来たぞ!

強盗も働いていたと言われる。 1648~1657年に、ニ コン総主教は皇帝に「スコモ ロヒ禁止令」を出すように説 得した。 18世紀にスコモロヒは徐々に消え去ったが、その伝統は「民衆劇団」に変形した。 近代、19世紀から旅芸人としてヨーロッパ各地に有名だったジプシー舞踊団がロシア にも流行った。ジプシー舞踊はロシア人に愛されて、ジプシーはロシア語で歌うように なり、一方19世紀に生まれた市民の歌「ロマンス=Рома́нс」は大いにジプシーのメ ロディー感に影響された。ところで、ヨーロッパと違ってロシアにはジプシーが追放さ れることなく住民権を持っていた。しかし、それは全て「後の話」だ。ここで、「近代」 について話し始めたと言うことは、つまり、中世はその終わりに近づいた…。


146

オストローグ

シベリア、イリムスキイ 洋 裁 の門塔

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世紀はロシア中世の終期となった。ロシアは、いつの間にか新しい発展方針 に移る。西欧だけでなく中国やモンゴルとの交流が深まり、「ティー・ロー

ド」という貿易路も出来た。隊商を安全に宿泊させるために、シベリアで砦の町「オス トローグ=Остро́г」が相次いで建設される(後にそれらの町を通じてシベリア鉄道が 敶かれる)。しかし、それは200年後のことだ。17世紀にその変化の前提条件が作 られただけのことだ。若き皇帝フョードル3世は既に社会と軍事の改革を始めて、軍人 と国家役人の任命に一家の前歴を踏まえることを禁止する(つまり、世襲貴族以外の人 も出世できるようになった)。後数十年でロシアは変身する。後にピョートル大帝とし て世界に知られるピョートル王子が既に生まれた。ロシアは隣国のことを未だ深くは知 らないが、その隣国はどれだけ強いか既に実感している。間もなくロシアは、どうすれ ばいいか、祖先の伝統を守って鎖国政策を続けるか、外界からあらゆる知識を集めてか ら大砲を鳴らして自分の存在を世界にアピールするか、という選択をしなければならな くなる。恐らく、当時のロシアと幕末日本を比較すれば、形式的にいくら異なっていて も、共通点も数多く見えてくるだろう。


147 Список использованной литературы Печатные издания 1. Белкин А.А. Русские скоморохи. / Москва: «Наука», 1975. 2. Бусева-Давыдова И.Л. Т.А.Рутман. Церковь Ильи-пророка в Ярославле. / Москва: «Северный паломник», 2002, 104 с. 3. Власова Т.Б. Архангельский собор. Научно-популярное издание./ Москва: ИПЦ «Художник и книга». 2000, 49 с. 4. Гуляницкий Н.Ф. (общ. ред.). Древнерусское градостроительство X-XV веков. /Москва: «Стройиздат», 1993, 392 с. 5. Долгов В.В. Краткий очерк истории русской культуры с древнейших времен до наших дней. / Ижевск: Издательский дом "Удмуртский университет", 2001. 196 с. 6. Зотов А.И. Русское искусство с древних времен до начала ХХ века. / Москва: «Искусство», 1979, 416 с. 7. Лившиц. Л.И. История русского искусства. / Москва: «Белый город», 2007, 344 с. 8. Морозова Н.Д. (общ. ред.) Патриарх Никон. (Каталог выставки «Патриарх Никон и его время»). Научно-издательский отдел ГИМ., Москва: «АльфаДизайн», 2002, 152 с. 9. Никольский Н.М. История русской церкви. — 3-е изд. — / Москва: Политиздат, 1985. — 448 с. 10. Рапопорт П.А. Зодчество Древней Руси. / Ленинград: «Наука», 1986, 160 с. 11. Рыбаков Б.А. Язычество древних славян. / Москва: «Русское слово», 1997, 810 с. 12. Рыбаков Б.А. Язычество Древней Руси. /Москва: «Наука», 1988, 784 с. 13. Рыбаков Б.А. (общ.ред.). Археология СССР. Древняя Русь: город, замок, село. / Москва: «Наука», 1985, 426 с. 14. Сарабьянов В.Д. Спасо-Преображенский собор Мирожского монастыря./ Москва: «Северный паломник», 2002, 80с. Сетевые ресурсы 15. Материалы сетевой энциклопедии Wikipedia (http://ru.wikipedia.org/) 16. Материалы сайта «Бурса» (http://www.bursa.is.com.ua) 17. Материалы сайта «Древнерусские берестяные грамоты» (http://gramoty.ru/). 18. Материалы сайта «Хронос» (http://www.hrono.ru/) 19. Материалы сайта «Энциклопедия древнерусской жизни» (http://www.booksite.ru/enciklopedia/) 20. Мокеев Г.Я. Cимволы Рая на Русском Севере. В журн.: Митр Божий, № 1, 1997 (на сайте РусАрх: http://www.rusarch.ru/mokeev4.htm) 21. Мокеев Г.Я. Якоже Горний Иерусалим. (на сайте «Русское Воскресение»: http://www.voskres.ru/architecture/ierusalim_printed.htm) 22. Новаковская-Бухман С.М. Царь Давид в рельефах Дмитриевского собора во Владимире. В кн.: Древнерусское искусство: Византия, Русь, Западная Европа: искусство и культура. СПб, 2002. С. 172-186. (на сайте РусАрх: http://www.rusarch.ru/novakovskaya1.htm) На английском и японском языках 23. Ваэй Тайсё Сэйсё. Japanese-Inglish Bible. The New Interconfessional Translation / Tokyo, Japan Bible Society, 2001


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Учебное пособие Деркач Федор Борисович ИСТОРИЯ КУЛЬТУРЫ РУССКОГО СРЕДНЕВЕКОВЬЯ 中世ロシア文化史 Редактор Техн. редактор Корректор Я. Торикаи

Подписано в печать Формат A4 21×29

Усл. печ. л. 6,5 , Уч. изд. л. 4,6 Тираж 50 экз.

Бесплатно Издательство Дальневосточного университета. 6900950, Октябрьская, 27. Отпечатано в учебно-полиграфическом комплексе Филиала ДВГУ в Хакодатэ, Япония, Хоккайдо, 040-0054, Мотомати 14-1

History of Medieval Russian Culture  

History of Medieval Russian Culture (in Japanese)

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