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集団と遺伝子: 東欧系ユダヤ人の教訓 スティーヴン・ピンカー

Steven Pinker, “Groups and Genes - The lessons of the Ashkenazim”, The New Republic (June 26, 2006)

くの祖父母は東ヨーロッパからの移民で,モントリオール郊外に小さなネクタイ 工場をもっていた.ある週末,彼らのところに訪れていたとき,祖父を工場のフ ロアでみかけた.裁断ばさみを使って,大きさのまちまちな生地の山からいろん

な型を切り出しているところだった.何をしているのか祖父が教えてくれた.ネクタイを 切り取った後に残った端切れをうまく切って見えないところで縫い合わせてやるんだ,そ したら一枚の生地あたり 2,3 本のネクタイが余計に作れる.でも,どうして従業員にまか せずに自分でやってるの?ぼくが訊くと,祖父は肩をすくめながら額をぴしゃりとやって こう言った, 「ゴイシェ・コップさ」──これは謙遜のことばで,文字どおりには「異教徒 の頭」という意味だ. 彼はすっかり本気だったわけじゃないけど,ぜんぜん本気じゃなかったわけでもない. ユダヤ人は長いことじぶんの知性と知性への評判に対して両義的な態度をとってきた.ユ ダヤ人には,知力が報いられる職種で優位に立っていることに民族的な誇りがある.「あな たのユダヤ系語彙に加えるべき新語」という冗談メールにはこんなのが入っている.



jewbiliation: お気に入りの有名人がユダヤ人だと知るときの優越感1



meinstein: じぶんの息子,天才2

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jubilation(「歓喜」)とかけている

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多くのユダヤ人は,ユダヤ的知性を生み出したのはあるとてもヘンテコな性淘汰だとい う俗説に賛成している:シュテトル〔東欧系ユダヤ人の小村〕では何世代にもわたってタルム ード学院でいちばん利発な男の子がいちばんの金持ちの娘を嫁にもらっていて,だからタ ルムードの法解釈論争の遺伝子──そんなものがあるとしてだけど──を好んで残してい たという説だ. でも,誇りにはいつも恐れがつきまとった.世間がユダヤ人の成功を知ると,いろんな 組織の「ユダヤ支配」という認識を後押ししてしまうのではないか,という恐れだ.また, ユダヤ人を生物学的な観点で特徴づけるのは「ユダヤ人種」に関するナチのニセ科学みた いなニオイがする.このあいだ,ユタ大学の科学者のチームが「アシュケナージ〔東欧系ユ ダヤ人〕の知能の自然史」という論文を出してこの地雷原に踏み込んで行った.この論文は

一年前に『ジャーナル・オブ・バイオロジカルサイエンス』誌でオンライン公開されたも ので,ほどなく『ニューヨーク・タイムズ,『エコノミスト』,それに『ニューヨーク・マ ガジン』で公表された. ユタ大の研究者グレゴリー・コクラン,ジェイソン・ハーディ,ヘンリー・ハーペンデ ィング(以下 CH&H)は,東欧系ユダヤ人には知能の面で遺伝的優位があり,この優位は 彼らがおよそ西暦紀元 800 年から 1600 年にかけて北ヨーロッパにいたころにブローカー業 (金貸し,販売,不動産経営)での成功による自然選択から生じたのだと述べた.単一形質

の急激な選択はしばしば有害な副産物をともなう. この進化の歴史も,テイ=サックス病3 や x ゴーシェ病4 など,東欧系ユダヤ人のあいだに蔓延した病気を後世にのこした. CH&H の研究はすぐさま厳しい非難と陰気な陶酔の対象になった.この研究は 2 つの問 題を提起している.この大胆な仮説の根拠はどれくらい正しいのか? そして,この仮説に 政治的・道徳的な含意がもしあるとしたら,それはどんなものか? アシュケナージの平均的知能のあらわれは,その原因より立証しやすい.ユダヤ人は知 力の尺度でめだって抜きん出ている.アメリカの人口の 3%を超えることがけしてないのに, ユダヤ人は,全米科学メダル受賞者の 37%,アメリカ人のノーベル文学賞受賞者の 25%, アメリカ人のノーベル科学・経済学賞受賞者の 40%などなどを占めている.世界に目を転 じると,チェスの世界チャンピオンの 54%が 1 人または 2 人のユダヤ人の親をもっている. これは,ユダヤ人が "マインシュタイン" だらけの民族だということだろうか?そうじゃ ない.ユダヤ人の平均 IQ は 108 から 115 と測定されている.これは,期待値を標準偏差の 1.5 倍上回っている.統計学者が昔から知っているように,2 つの分布を比べて期待値にほ テ ー ル

どほどのちがいがあるということは尻尾の方には大きなちがいがあることになる.いちば ん単純な場合だと,おなじサイズの 2 つのグループがいるとして,グループ A の平均 IQ が

マイン(独「私の」)+アインシュタイン テイ=サックス病:家族性黒内障性白痴:主に幼児,児童,特に東ヨーロッパの小児に起こる家族性疾患. 網膜上に赤色斑点が生じ,漸次視力を失い,麻痺を起こす遺伝性の病気. 4 ゴーシェ病:遺伝性の脂肪代謝障害. 2 3

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グループ B のそれを 15 ポイント(ある標準偏差で)上回っている場合,IQ115 以上の人々 をみると 3 対 1 の比率で A が B を上回り,IQ160 以上の人々をみると 42 対 1 の比率で A が B を上回っている.もしグループ A がグループ B の何分の一かのサイズだったとしても, 最高得点をもつ人たちの相当部分を A が占めることになるだろう. CH&H の理論は 7 つの仮説に分解できる.一つ目は,そもそもアシュケナージの知能が 優れているのは遺伝的だということ.多くの知識人はこの可能性を考慮もせずに頭から追 い払ってしまう.スティーブン・ジェイ・グールドが『人間の測りまちがい』5 で一般的知 能なんて存在せずその遺伝の証拠はないと言っているのに説得されているんだ.けれど, 10 年前に,アメリカ心理学会は,イデオロギー的・人種的に多様な学者の委員会にその証 拠の再調査を依頼している.その報告によると,IQ テストは個人の安定した特性を測定し ている.一般的知能は実体のある現象を反映する(つまり,知性のいろんな側面の計測は互 いに相関する).それは,将来の様々な望ましい結果を予測する.それはグループ内の個人

間でかなり遺伝されうる.これは,グループ間のいろんな違いもまた遺伝的だということ を含意しない.というのも,ひとつのグループが富や差別,社会的・文化的資本などで全 面的にちがったことを経験するかもしれないからだ. アシュケナージが〔知能で〕優れている原因を明白に検証するには,アシュケナージの親 をもつ子どもとユダヤ以外の親をもつ子どもそれぞれの成人時の IQ を計測したり,その逆 をやってみるのがいちばんいい.けれど,そんな研究はない.そこで CH&H は状況証拠を  使っている.アシュケナージの優位は,何十年にもわたって,いくつもの国,いろんな水 準の豊かさでみられる.そして,IQ の研究により,これほどの規模で優位を生み出すこと ができる環境要因がわかっている. よくわかっていない環境要因によって優位が生じたという可能性はそれでも残っている. 環境仮説は知識人の間でフリーパスでまかり通る傾向にあるけれど,これもちゃんと吟味 されないといけない.家族は〔子どもの〕知性に持続的な影響をもたらさないという豊富な 証拠に照らしてみると,ユダヤ人の母親が賢い子どもを育てているという可能性は,あり そうにない.IQ に関していっしょに育てられたきょうだいは,生後別々に分けられたきょ うだいと同じく相関を示さない.ある文化の中で任意の家庭に育つことは,知能に持続的 な影響を残さないようだ. でも,親は環境のひとつの側面でしかない.もちろん文化的な環境の方が大事だ.でも, ユダヤ文化が物理学や哲学やチェスでの成功を促進するということを当然視するわけには いかない. Stanley Schachter は自伝でこう書いている 《私は,父親の希望に反してイェールに行った.彼は高等教育についてあまり関心がなく,ぼく にはミッドウェストの 1 年制の洗濯学校(冗談じゃない)に通ったあと家の仕事に加わるよう望

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Stephen Jay Gould, Mismeasure of Man. 訳書:『人間の測りまちがい』(河出文庫,上下巻,2008 年).

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んでいた.私は,知的好奇心に駆り立てられたユダヤ移民の仕事なるものがどんなものな のかわかったためしがない.そんなことは私の家にはあてはまらなかったし,あてはまるよう な家庭はほんのわずかなのを知っている.[…]私にしてみると,ユダヤ人の勉強好きという のは神話であって,学校に行くぐらいしかとりえがなくて残りの人生は学校時代について小 説を書くようなごく少数のラビの息子が演じているように思われた.》 ここで「願望が馬なら乗り手は物乞い」という諺を思い出してみてもいい.ただの期待 からは優れた精神は生まれるはずがない.だから,東欧系ユダヤ人の優れた知能の環境に よる説明は,たしかに排除はできないけれど,証明されてもいないわけだ. 二つ目の仮説は,集団として形成される過程の大半で東欧系ユダヤ人はお互いどうしで 結婚する傾向があったというものだ.これは必然的だ.というのも,隣人から新しい遺伝 子が絶え間なく流入していると自然選択の効果が薄められて人口の遺伝子構成を変えられ ないからだ. CH&H は,異民族間の結婚・改宗・征服を避けるユダヤの伝統を引証している.歴史の 記録から異民族間結婚はたしかに稀だったことが立証されているし,遺伝的な証拠からは 一世代あたり隣人の遺伝子が約 0.5 から 1 パーセント混合していたとわかっていることに CH&H は言及している.何世紀にもわたればこれだけで東欧系ユダヤ人は遺伝子がヨーロ ッパの隣人たちと同じようになることに注意しよう. 「ユダヤ人種」という観念はたしかに  ナンセンスなんだ.でも,2 つの人口は同一なわけじゃあない:交配による遺伝子の重複 は 3 分の 1 から 2 分の 1 にわたり,どの遺伝子に注目するかで変化する. 3 つ目の仮説は,隣人たちが農民・職人・兵士をやることが多かったころにアシュケナー ジの仕事は商業・経営・金融に集中していた,というものだ.ユダヤ人は偶然にこうした 職業で有利なスタートをきることができた.彼らのリードをもたらしたのは,おそらく, 宗教的に義務づけられた識字・遠くはなれた共同体のあいだで互いのネットワークをつく る能力・キリスト教文明とイスラーム文明のあいだの仲立ちの役割だろう.中世,ユダヤ 人たちはギルドから排除されていたし,土地所有はできなかったし,キリスト教の高利貸 し禁止でニッチがうまれていたから,ブローカー業になだれ込むことになった.中世をと おしてユダヤ人の大半はブローカーでその多くは金貸しだったと歴史学者たちが引証して いることを CH&H は言及している. 4 つ目の仮説は,アシュケナージの伝統的な職業では知能が高いほど経済的成功がもたら されたというものだ.CH&H は,あらゆる職業で IQ から収入と職業的成功が予測され, また,金融・経営で必要とされる最低限の IQ は農業・工芸・軍事のそれよりも高いという 現代のデータを引いている.おそらく,薄利や金利を計算したり信用できるかどうか査定 したり趨勢を予測したりといった,ブローカー業のニッチに求められる認知能力として, 数量的思考・言語技能・問題解決・社会的知性はとても貴重なんだろう.こういう技能は 現代のブローカー・マイノリティのあいだで育てられているらしいと文化歴史学者たちは

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指摘している. 5 つ目の仮説は,アシュケナージがブローカー業をしていた時代には,豊かな人たちほど 多くの子どもを生き残らせていた,というものだ.今日,富をもつほど子どもの数は少な い傾向にあるけれど,この(産業革命とともにはじまった)人口推移以前には豊かになると よりよい栄養とより健康的な環境がもたらされたため,成人まで生き残る子どもが増えた. CH&H は,とりわけアシュケナージについて歴史学者たちがこの点を述べているのを引用 している. 第 6 の仮説は,アシュケナージによくみられる疾患をもたらした進化論的な変化の機構 は遺伝子浮動ではなく自然淘汰である,というものだ.どんな有限の集団でも,たんなる 偶然からある遺伝子が絶滅して別の遺伝子がそのあとを占めることがある.たまたま稲妻 にうたれて赤毛の人以外みんな死んでしまった島を想像してみよう.すると,赤毛である ことには有利な点が何もないのに,その島の子孫は赤毛人種になるだろう.この例からわ かるように,遺伝子浮動は小集団でもっとも強力になる.小数の先駆者集団によってはじ まり同系交配した共同体や,集団の規模にボトルネックが生じた後に小数の幸運な生存者 の遺伝子のコピーを増やしつつ同系交配した共同体では,遺伝子浮動の影響が残ることが ある. 大半の医療遺伝学者は,アシュケナージの遺伝病は遺伝子浮動のせいだとみている.こ れに対し CH&H は,遺伝子浮動は有利・中立・不利を選ばす全ての遺伝子にひとしく影響  するという論理にもとづいて,2 本立ての論拠で反論している.ボトルネックは異型性 (heterozygosity)

を減らす傾向がある.異型性とは,ある個体の父親と母親とは異なる遺伝子

をもっている状態のことだ.なぜそんな傾向がでてくるかというと,もし過去のある時点 でごく少数の祖先しかいなかったとしたら,その子孫にはさらに少ない遺伝子の変種が残 されることになって,あるカップルに子どもができたときに同じ遺伝子のコピーが出会う 確立が高まるからだ.CH&H は,他の小集団と違ってアシュケナージの異型性の度合いは もっと人数の多いヨーロッパの隣人たちに並ぶほどだという証拠を引いている.さらに, アシュケナージの中立的遺伝子の分布はヨーロッパ人一般のそれと同様だとも述べている. この仮説を評価する際に問題となるのは,遺伝子のボトルネックに対する支持・反対の議 論はそのモデルに組みこまれた想定に左右されることがよくあるという点だ.ぼくらとし ては,いつか CH&H が批判者たちと議論するのを期待しておこう. おそらく,CH&H が述べる生物学的事実のなかでいちばん興味をひくのは,アシュケナ ージの遺伝病は少数の代謝経路に集中する傾向があるというものだ.あるひとつの生化学 的生産工程のいろんな段階に関わっている遺伝子たちは,しばしば,ゲノムに分散して存 在している.こういう遺伝子たちの集合に変異があらわれるのは自然選択が起きていると いうしるしだ.というのは,その唯一の共通点は〔変異がもたらす〕有機体への影響で,しか もその影響は自然選択だけに「みえる」ものだからだ.あちこちに分散しつつもたまたま 同じ生化学的プロセスに関与している遺伝子たちをランダムな浮動が集めるだなんて,あ

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りそうにない. アシュケナージの病気が共通の代謝経路にまとまってあらわれることは,長らく前から 知られている.そうした病気には,テイ=サックス病やゴーシェ病のようなスフィンゴリピ ド(脂質の一種で「スフィンクスみたいな脂肪」という意味)貯蔵の異常や,BRCA1 を含む DNA 修復の異常──これは乳癌の危険性を高める──も含まれる.機能ゲノムデータベー スを使って CH&H は病気が偶然に集中する事前確率を算出し,限りなく小さいとして除 外している. 7 つ目の,そして要ともいうべき仮説は,アシュケナージによく見られる病気は知能を高 めるがゆえに選別された遺伝子の副作用である,というものだ.これに対抗する仮説とし て,遺伝子が選別されたのは,伝染病への抵抗というような,何か他の理由のためだとい うものがある.CH&H は,当該の遺伝子の大半に関してこの「伝染病への抵抗」説をしり ぞけている.というのも,他のヨーロッパ人も同じ病原菌に襲われたはずなのに問題の遺 伝子は共有されていないからだ. 有害な遺伝的副作用は,主に 2 とおりのあらわれ方をする.異型接合体の利点として, 遺伝子 1 つのコピー(異型接合体またはキャリア)の保有者には利益をもたらし,この利益 は 2 つのコピー(同型接合体)の保有者にもたらされる不利益を上回る.いちばん有名なの は鎌状赤血球遺伝子で,アフリカのマラリアに苦しんでいる地域にひろくみられる.この 遺伝子は,同型接合体の場合にはマラリアへの抵抗力をもたらす一方,異型接合体の場合  には貧血症をもたらす.CH&H は,同様のトレードオフがアシュケナージの病気でも生じ ているんだと提案しているけれど,根拠はとぼしい.スフィンゴリピドが増加するほど, 発達中の齧歯類の脳内で神経の発達が促進されること,そして,BRCA1 遺伝子の標準的な ヴァージョンは神経の発達を抑制することを CH&H は指摘しているけれど,そこから人 間の知能までの道のりは遠い. これと別種の副作用は,相反的な多面発現から生じる:ある遺伝子のひとつのコピーに 複数の効果があって,平均的にはよい効果が悪い効果を上回る.ここでの根拠は〔他のより も〕ちょっとよくなっている.捻転ジストニア,非古典型先天性副腎過形成,そしてゴーシ

ェ病に関わる遺伝子をもつ人たちは,平均 IQ が高い傾向があったり物理学や工学といった 職業に集中する傾向がある.でも,人数そのものは少ない. このとおり,アシュケナージ特有の病気の遺伝子が知能を高めたという証拠はきわめて あやふやだ.とはいえ,この仮説は検証可能だ:一方が病気の遺伝子を保有していて他方 が保有していないきょうだいのペアの大規模な標本で IQ を比較してみるんだ.もし保有者 たちの方が賢くなかったら,仮説はまちがいだ.この研究はイスラエルでかんたんにやれ る.集積された医療・教育・兵役の記録があるからね. となると,CH&H は彼らの理論をつくっている仮説ひとつひとつに一応の証拠を出して いるわけだ.でも,仮説がすべて真じゃないと理論全体は真にならない──それに,証拠 のおおくは状況証拠だし,中軸の仮説がいちばん根拠が薄い.それでも,その仮説がいち

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ばん容易に反証可能だ.その〔反証可能性の〕判断規準でいくと,CH&H の筋書きはちゃん とした科学理論として基準を満たしている.ただ,理論は暫定的でマチガイだったといつ か判明することがあるかもしれないわけだけれど. でも,ユダヤ人にとって,これっていいことなんだろうか? もっと核心を言ってしまえ ば,寛容と人種間の友好という理想にとっていいことなんだろうか?ひとつの解釈だと, たぶんこれはいいことだ.ユダヤ人の成功は明白だけれど,それにつけられる説明は不明 瞭だ.たしかに, 〔成功は〕生得的なユダヤ人の知能のおかげと考える方が,世界規模のユダ ヤの陰謀なんていう悪名高い一般化なんかよりも,マシにはちがいない.それに,中間業 者ニッチに必要とされる才能(生物学的であれ文化的であれ)に注目がいけば,アルメニア 人やレバノン人やイボ族や在外中国人・インド人といった他の中間業者マイノリティーた ちにとっても有益になるだろう.彼らもまた,経済的成功ゆえの悪しき迫害の標的にされ てきた集団だ. ただ,危険にも現実味がある.知能と同じく人格の特徴もまた計測可能で,集団内部で 遺伝されうるし,平均的に集団どうしですこし異なる.誰かがいつの日か,金貸し業と商 業での成功につながりやすい人格形質への淘汰があるかどうかを検証できるかもしれない ──どんな形質なのかは読者のみなさんの想像にゆだねるけれど.また,そういう種類の 発見が,そうだな,カイロやテヘランやクアラルンプールあたりでどんなふうに解釈され るか,想像してみてもいい.それに,CH&H の研究によって,たとえば歴史的に IQ テス トの点数が低い集団どうしの比較のような,もっと憎悪をよびそうな比較に対して,人々 はいまより抵抗を感じなくなるかもしれない. なにができるだろう?この数十年,遺伝的なちがいの主張に対して出された反応は,た いてい,知能の存在を否認するとか,人種その他の遺伝集団の存在を否認するとか,場合 によってはそう主張した人間を中傷・検閲・身体的脅迫にさらす,といったものだった. 自由な言論への影響をわきにおくとしても,こういう反応には問題がある.信じないと言 い張ったところで現実は消え去ってくれやしないし,神経科学とゲノム研究が進展した今 となってはその手の政治的に心地いい標語(知能なんて存在しないとか,人種なんて存在しな いとか)は維持できなくなっている.

事実を取り締まるかわりに,不可知論政策をとって「近寄るべからず」を勧めることは できないだろうか?科学者たちは,人間の被験者を害したり危険な微生物を流出するなど の有害な結果を招きかねない研究を避けている.この線で考えた場合に問題なのは,物理 的に行われることではなく知的な内容にもとづいて研究が制限されてしまうことだ.考え は別の考えと結びついているものだ.しかもその結びつきはしばしば予測がつかない.内 容に制限をかけると,研究活動が不自由になって,知的状況をゆがめてしまうかもしれな い. それに,集団の遺伝を研究する積極的な理由もある.誰もが自分のゲノムを収録した CD を与えられる日が来るまでは,ぼくらは集団の相違に関する統計的なデータを集積し,い

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ちばん助けを得る人を検査と治療の対象者にする必要がある.CH&H の研究はもともと遺 伝病から生じる苦しみを減らすことを目指す研究から始まっていたのを思い出そう.多く 〔の遺伝病〕は神経・内分泌システムに影響を及ぼし, 〔それが〕疾患者・保有者の心理的形質

にまで及ぶのはたぶん避けられない.それに,もちろん,検査によって集団の〔遺伝的な〕 相違が反駁される可能性だって,確証のそれに劣らない. 集団の遺伝学は,歴史研究の心躍る最前線でもある.現代の祭司(祭司は,アーロンの 子孫である古代ユダヤの僧侶カーストの子孫だと信じられている)の多くに共通の Y クロ モソームがあること,アシュケナージとセファルディム〔スペイン・ポルトガル系のユダヤ人〕 には中東の共通の先祖にさかのぼる遺伝的共通点があること,そして,ユダヤの儀式の一 部を残しているアフリカ・アジアの孤立した共同体にそれらの遺伝子がみられること,こ れらの発見に多くのユダヤ人はぞっとした.アフリカ・アメリカ・オーストラリアの居住 者たちの遺伝子を研究すれば,惜しくもぼくらの種の歴史から失われているページが埋ま って,彼らの前史がいくらか解明されるかもしれないし,彼らの系譜に関心を持っている 人たちの役にも立つだろう. 理論上は,さっきのいろんな危険を防ぐ知的・道徳的な道具立てはある.「である」から 「べき」は出てこないんだ.集団の相違があるとして,それは平均に当てはまるのであっ て,個々の男女に当てはまるわけじゃあない.世の中のどんな人種・民族・性別にも,天 才とうすらばか,聖人と罪人がいる.政治的な平等は,普遍的な人権へのコミットメント  であり,人々を集団の代表ではなく個人として待遇することへのコミットメントだ.これ は,人々には何の違いもないという経験的な〔「である」の〕主張ではないんだ.多くの評論 家たちは,ここのところを理解する気がないらしい. ヒトゲノム研究の革命に対しては,クローニングや人間の遺伝子操作の脅威について無 数のコメントが出された.でも,こうした恐怖はお門違いかもしれない.クローニングは〔普 通の妊娠・出産される子供のように〕独自の遺伝子をもつ子供ではなくて両親の一方と同じ遺伝

子をもつ子供をつくるだけのことで,別に臓器工場を建てたり魂をよみがえらせるわけじ ゃあない.このことを理解していれば,やりたがる人なんていないんじゃないかとぼくは 思う.それに,たいていの遺伝子には便益だけでなくコストもある(ある遺伝子は子供の IQ を高めるかもしれないけれど遺伝病にかかりやすくもするかもしれない).このことを理 解していれば,「デザイナーズ・ベイビー」の魅力はなんであれ失われるだろう.これと対 照的に,心理的な形質の集団間の相違が遺伝・進化に根ざしていることを解明する力の方 が,もっと実現の可能性があるし,その帰結は騒動の火種になりそうだ.そして,そうい う前途に対しては,ぼくらは知的にも感情的にも立ち向かう準備をあまりととのえてはい ないんだ.┯

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翻訳:スティーブン・ピンカー「集団と遺伝子」  

A Japanese translation of Steven Pinker's "Groups and Genes."