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30 2016年12月 特集

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ニュース解説

特別寄稿

トランプ当選後のアメリカ

──アメリカの何かが死んだ日

<著者プロフィル> 渡邊裕子 わたなべ ゆうこ ユーラシア・グループ、日本顧客担当部門ディレクター。2006年にハーバー ド大学ケネディ・スクール大学院修士課程を修了後、ユーラシア・グループ (Web: www.eurasiagroup.net)に入社。ユーラシア・グループは、1998 年に国際政治学者のイアン・ブレマーが28歳で設立した地政学的リスク分 析を専門とするコンサルティング会社で、この分野のさきがけとして知られ る。政治的変動がビジネス環境に与える影響について分析し、顧客に対し アドバイスやコンサルティングを行う。同社は、米国及び欧州の200社を超 える顧客に加え、日本の大手企業顧客およそ50社を抱える。経済界のみな らず、政界、官界のリーダーたちにもアドバイスを行っている。

  選 挙 の翌 朝、シーンとした地下鉄 の車 両の中で泣いている若い女性がいた。隣 に腰掛けた男性(知り合いではない)は、 彼 女に、何の前 置きもなく、 「D o n’t b e scared. He can’t do anything」と声をか けた。この週末、ユニオン・スクエアの青空 市場でも、お客である白人男性と売り子の ヒスパニック系女性の間で全く同じやりと りを目にした。  ニューヨークの我々は、 「バブル」の中 にいるのかもしれないが、それでも、何の 説明もせずとも、今自分と同じように感じ ている人たちが周りにいっぱいいる、と感 じられるのは少しだけ慰められることだ。 これがもしオハイオやミシガンやテキサス などにいたら、そうはいかない。周囲の過 半数がトランプを支持したのだから、精神 的にはるかにしんどいだろう。  この、朝起きる気もなくなるような、胃 がムカムカするような気持ち悪さ、裏切ら れ、傷つけられたという敗北感、世界が一 夜にして自分が今まで知っていたのとは違 う世界になってしまったようなシュールな 気分(「不思議の国のアリス」のような)、 これから何が起こるか考えると恐怖でぞっ とする気持ち、世界が確実にしかも劇的に 悪い方向に向かっているという手応えは、 以前にもどこかで 経 験したものだな、デ ジャブのようだな、あれはいつだったっけ ……と考えていたら、2001年9月11日のテ ロだと気づいた。あの時感じたのと同じ気 分を、今、毎日感じている。  ある意味、今回のことは、 (まっとうな民 主主義の手続きを経ているとはいえ)一種 のテロのようなものだったかもしれない。 前回のテロとの最大の違いは、今回は、外 部の敵ではなく内部からの攻撃であったこ と、アメリカ人が自らアメリカという国、そ してそれが体 現する理念に仕掛けた前代 未聞の破壊行為であったということだ。そ の分、いっそう救われない気持ちになる。  医師である私の友人は、 「誰かが 死ん だような気分」と言っていた。確かに選挙

翌日の私のオフィスは、1日中お葬式のよ うだった。ケネディ大統領やキング牧師や ジョン・レノンが殺されたとき、多くの人は こんな気分だったのではないか。実際、11 月9日を境にアメリカを象徴する何かが死 んだのだ。  普通、ジムやヨガの先生というのは、政治 的なことを生徒に向かって語らない。きっと ジムやヨガ・スタジオから、 「政治や宗教に ついては、自分の意見をクラスで述べない ように」と指導されているのだろう。でも、 今週は、行ったクラスの全てで、全ての先生 が、 「トランプ」という言葉こそ口にしなかっ たが、明らかにこの選挙を受けて感じてい る思いをおおっぴらに口にしていた。   ジム のス パ ル タ なクラスの 先 生 は 、 「There is a lot to do. We have to be stronger. I need you.」と怒鳴っていた。そ れは要するに「これから我々は戦わなくて はいけないのだから」という意味だ。彼女 は、どちらに転ぶか読めない激戦州の1つ、 ノースカロライナ出身なので、選挙の夜、開 票前にクラスに行ったときにも、 「私はとて もナーバスだ」と漏らしていた。彼女の恐 れていた通り、ノースカロライナはトランプ が取った。ヨガの先生たちは、異口同音に、 「恐れや不安の気持ちに負けそうになると きこそ、自分の内面に立ち返り、平常心、集 中力をとりもどすようにしないといけない」 「外のノイズを断切って、深く呼吸し、ピー スを見つけることが大切です」「普段以上 にお互いに親切にしなさい。自分自身にも 優しくしなさい」と言った。これもまた、言う までもなく選挙の話をしている。

「アメリカ人たちは今回の選挙で、自分 たちの国と政府を取り戻した」のか?  選挙翌日、トランプ支持者である顧客か ら我々に送られてきた痛烈な批判のコメン トに、 「君たちはリベラル偏向すぎる。トラ ンプ当選は絶対にないと言い切っていた 君たちには肝心なことが分かってない。オ

バマの8年間の弱腰な外交政策、左寄りの 社会政策に比べたら、今後の4年間はアメ リカのビジネスにとって良くなるに決まって いる。アメリカ人たちは今回の選挙で、自 分たちの国と政府を取り戻したのだ」 と いう見解があった。  そのトーンの強さに驚いたが、いい勉強 になったし、今さら驚いている我々がボケて いるのかもしれない。この人物は、日本の 某大手銀行のニューヨーク支店に勤める男 性で、職業から察するに、恐らく立派に大 学を出た、決して貧しくないアメリカ人だ。 「アメリカ人たちは今回の選挙で、自分た ちの国と政府を取り戻したのだ」のあたり は、まさにEU離脱支持者と同じ発想だ。 我々はこういう人びとの不満を軽く見てい たのだなとつくづく感じている。トランプ を支持しているのは郊外や田舎に住む白人 で、高卒以下のいわゆる貧困層~中間労働 者層だけかと思っていたが、それは大きな 間違いできちんと教育を受けて職業も収 入もある(むしろ富裕層とも言える)都会の 白人男性にも、こういう考え方(「アメリカ を再び強くしよう!」「米国第一主義」)の 人たちが実はかなりの率でいたのだ。   表 立ってはトランプを支 持するとは明 言せず(そう、馬鹿にされるから)、よって 世論調査には反映されることがないわけ で、今回の選挙予測が軒並みはずれること になった1つの理由はここにある。こういう 「隠れトランプ支持者」たちが今回、選挙 ブースで1人きりになった時に、誰にも言わ ずその不満をぶつけたのだ。  中には、自分の妻子にも自分がトランプ を支持していることを打ち明けていないと いう男性たちもいる(「そんなこと言った ら、妻に離 婚される」と言って)し、父 親 が「自分はトランプに入れるつもりだ」と 言うのを聞いて、選挙当日まで涙で抗議・ 懇 願したという同性愛者の友 達もいる。 BREXITの時も、投票日間際に、残留派の 議員が殺されたことから、表だって残留を 支持しにくい雰囲気になったが、今回の米

国でも似たようなことが起きたということ だろう。この構造、ふたを開けたらBREXIT とまるっきり同じであった。  彼らは、そもそも自分たちと相容れない 価値観を持つ黒人、しかもアイビー・リー グ卒の洗練されたエリートであるオバマが 大統領になったことも気に入らなければ、 彼の打ち出してきた健康保険などの社会 政策、ドット・フランク法をはじめとする金 融 業 界への 規制、イランとの 合 意をはじ めとする平和主義的な外交政策にも辟易 しており、 「ヒラリーになったらまたこの延 長だ。それよりは『ビジネスマン』で、マッ チョな世界 観を持 つトランプのほうが良 い」と言ってトランプを支持したのだろう。  加えて、ヒラリーが女性であることも気 に食わず、クリントン夫妻に対する不信感 もあり。こういう血の気の多い白人男性た ちが田舎だけではなく都市部にも相当な 割合でいたのだ、ということは、ニューヨー クに住む私のような人間にとっても少なか らずショックなことだった。

パクス・アメリカーナの終焉  それにしても、トランプを支持した人び とは、彼のような排他的で偏見にみちた世 界観をもつ、自分が攻撃されると誰彼構わ ず罵詈雑言を投げつけるような人間を大 統領に選ぶことによって、国際社会におけ るアメリカという国のブランドや、他国から の尊敬、アメリカがその存在をもって体現 してきた理念といったいわゆる「ソフト・パ ワー」がどれだけ深く傷つくか、ということ は考えないのだろうか。  そして、トランプの、人間同士の憎悪や 嫉妬や恐怖心をてこにしたキャンペーンの せいで、人種差別やマイノリティーに対す る虐め、一定の宗教への偏見、女性蔑視と いった、 「本来ならアメリカの社会では口に してはいけなかったこと」が、 「言ってもOK なこと」になってしまい、それが「本音で正 直に語ること」と混同されるようになってし

NichigoPress (NAT) Nov.2016  

Japanese newspaper in Australia since 1977

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