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武蔵野大学環境研究所紀要 第 2 号(2013)、pp. 77-93 The Bulletin of Musashino University, Institute of Environmental Sciences No. 2 (2013), pp. 77-93 ISSN 2186-6422

和歌浦「あしべ屋別荘」と夏目漱石 "Ashibe-ya Annex" at Wakaura and Natsume Soseki 西本直子 Naoko Nishimoto 西本真一 Shinichi Nishimoto

訂正: 図 1 のキャプションにおいて、「右頁の右下に」は「左頁の右下に」の誤りである。


1SSN 2 1 8 6 6 4 2 2

武蔵野大学環境研究所紀要 第 2 号 目次 企業における温室効果ガス削減費用の算出方法に関するアンケート調査 ・ 一 方井誠治・栗田郁真・堀

勝彦

1

重邦 ・ 斎藤瑞貴

17

着雪による受信障害の緩和対策を施した パラボラアンテナのライフサイクルインベントリ分析

・…-佐々木

武蔵野大学キャンパスおよび周辺地域における放射線量測定と除染の展望 ....・ H ・塩津豊志・田辺直行・ 三

輪あづみ

31

米国における海洋に関するパートナーシップのしくみと教育の取り組みについての研究 一制度的枠組みを中心とした考 察・ H ・....・ H ・..……...・ H ・-….....・ H ・-太田絵里

45

陸雄

5 7

6 9

和歌浦「あしべ屋別荘」と夏目激石……...・ H ・-…・……西本直子・西本真

77

-西本直子

95

環境学を専攻する学生を対象としたライフヒストリー研究 環境文化によって解釈された縁海と地中海周辺の地域風

旧西本組本社ビル

…… H ・ H ・..………...・ H ・-………・・……西

……… H ・ H ・...村松 …...・ H ・-…...・ H ・矢

武蔵野大学環境研究所

201 3


和歌浦「あしべ屋別荘」と夏目激石 “Ashibe-ya An n e x "at 羽Takaura andNatsumeS o s e k i

西本直子 *

NaokoNishimoto 西本真一*

S h i n i c h iNishimoto 要旨 夏目激石が和歌山での講演の折に宿泊を予定していたのが景勝地の和歌浦に立つ「あしべ屋別 荘」である 。 「あしべ屋」は江戸時代初期に建てられた由緒ある茶屋であったが、明治時代には

規模を拡大させて料理旅館を営み、本店の他に別館や別荘を構えた 。

しかし当時の写真や地図で

見られる「あしべ屋別荘」の場所については 一 致しない点があり、諸史料の整理を改めて試みた のが本稿である 。 その後、「あしべ屋別荘」は昭和期に地元で建設業を営む西本健次郎によって

購入 さ れた 。 明治時代後期に興隆をきわめた旅館本店はすでに失われて久しいが、和歌浦の内海 に浮かぶ小 島の妹背 山 には今で も 「あしべ屋別荘 」 が残っている 。 皇族や名士たちを迎え入れ、 最上客のための宿泊施設として重要な棟であったこの 「 別荘」は和歌浦の観光史を考える上でき わめて重要であ る 。 本格的な調査と保存修復が早急に望まれる点をあわせて述べる 。

一士一回 品別

和歌 山 市の西に広がる臨海部のうち、和歌 川 の河口を中心とした 一 帯は和歌浦と呼ばれ、往古

よ り景勝 地 として知られていた 。 時代を経ていくらか景観の変 化 が見られるものの、「万葉集」 において も 詠 ま れたその良好な眺望の面影はとどめられており、現在では国指定の名勝に指定さ

れ てい る 。 江戸時代の初代将軍徳川 家康の没後、その側室であった養珠院(お万の方)が和歌浦 に浮かぶ小 島の妹背山に家康の供養を願って多数の経石を奉納したことを契機とし、養珠院の子

である紀州 藩主徳川 頼宣に よ ってその後、妹背山には海禅院多宝塔や拝所の観海閣などが建立さ れた 。 ま た 、 頼宣は陸地と妹背 山 とを結ぶ石造の 三 断橋を架け渡した他、この橋の陸側のたもと

には「あしべ屋 J 1 と「朝日屋」の 2 軒を茶屋として並べて設けた 。 これらの江戸時代初期にお 1 諸史料では「阿し遍 " や j 、 「 芦遁屋 j 、 「 慶辺屋 」 、また 「 あしべや j など、さまざまに記されている 3 本 稿では引用文以外において 「 あしべ屋 」 という表記に統 一 する 。 なお明治 1 0年代とも思われる 「 あしべ 屋 j の古写真が新たに見つかった(毎日新聞和歌山版、 20 1 2年 7 月 1 9 日) 。

*環境学部非常勤講師

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NO. 2( 2 0 1 3)

武蔵野大 学 環境研究所紀要

ける造営に基づき、妹背山を巡る建築群の基本的な構成はほぼ決定されたとい っ てよい 。

明治時代になると、和歌浦は国内で有数の観光地としてさらなる画期を迎える 。

2 軒の茶屋の

うち「朝日屋 j は明治時代の中葉頃までに衰退したが、 「 あしべ屋 J は隣の「朝日屋」の地を取

り込んで旅館を大きく構え 2 、 皇 族や名士が宿泊する名高い施設として喧伝された 。 夏目激石が 和歌山市で講演をおこなうために 「 あしべ屋 」 を訪れようとしたのは、この旅館の最盛期に当 たっていたはずである 。

明治 44 (1 911) 年8 月の激石の日記3 には、 「 十四日(月)

快晴

九時五十 二 分の汽車で、和歌山に行く事にする 。 和歌山からすぐ電車で和歌の浦に着 。 あしべ やの別荘には菊池総長がゐるので、望海楼といふのにとまる 。 」

と記されており、この紀行の体験は後期 三 部作のひとつとして数えられる彼の長編小説「行人 J の文中に後日、活写された

しかし 「 あしべやの別荘(以下、「あしべ屋別荘 」 と記す) J というからには、「本館 J が他に 建っていたに違いない 。 この時に激石が泊まろうと当初予定していた 「 あしべ屋別荘 j とは、で は具体的に和歌浦のどこに位置していたのであろうか 。 どうして有名な旅館の 「 本館 j ではなく、 その「別荘 j に泊まろうとしたのであろうか 。 またその建物の様子は 一 体どのようなものであっ たのか 。 それらの問いを解き明かそうと試みたのが本稿である 。 和歌浦に関する明治・大正時代の史料は比較的豊富であると 言 って良いが、激石が 言 及した

「あしべ屋別荘」については詳細がほとんど不明である 。 「あしべ屋別荘 J に類する記述や地図、 あるいは写真が多く散見されるものの、相互に矛盾する点も時には認められるのであって、諸資 料の整理を試みた途中経過の報告をここではおこないたい 。 後述するように、明治時代から大正時代を生きた「あしべ屋」の主人である薮清 一 郎は小島の

妹背山の麓に立つ「あしべ屋別荘」に衆目を集めようと、明治時代の中期以降、盛んに活動した

2 土井 吉 十郎 「 明治新撰紀伊繁 目 誌」 大橋鎌之助発行(明治 26 [1893J 年)、 22 頁 。 そこでは和歌村の「旅 人宿 J として「 芦 遁屋薮 清 一 郎

米柴藤村佐次郎 」 の 2 軒が挙げられるのみである 。 和歌山市立博

物館編 「 写 真 にみるあのころの和歌山:和歌浦編(戦前 ) J 和歌山市 立 博物館(平成 23 [2011J 年)、

6

頁 、写 真 10解説を参照 。

3 夏目金之助 「 激石全集第 20巻:日記・断片、下 J 岩波 書 店(平成 8 [1996J 年)、 341 頁 。 菊池大麓は 当 時の京都帝国大学総長 。 この頃の和歌浦における旅館の宿泊代の違いは東京人事興信所 「旅館要録 J (明 治44 [1911] 年)に掲載された広告から 示唆され、 「 あしべや

十銭、 ー 固 / 米柴

宿料、 ー 固五十銭以上 / 望海楼

宿料八

宿料八十[銭 l 以上 J (42 頁) と 書 かれている 。 激石は煩わしさを避けるため、止むを

得ず格落ちの旅館であ っ た望海楼へと宿泊先を変更したと考えられる 。 望海楼はしかし、後にあしべ屋

を支店とする勢いを 呈 した 。 当 地の観光化におけるこの頃の変容を詳細に述べたものとして、神田孝治

「近代期における和歌山市の観光都市化の過程とその背景 J 、 f 第 9 回観光に関する 学術研究論文 : 観光振 興や観光交流に対する提 言 入選論文集 j 、財団法人ア ジ ア太平洋観光交流センター(平成 15 [2003J 年

度)、 1-14 頁;また島津俊之 「 経験とファンタ ジ ーのなかの和歌浦 : 田山花袋 『 月夜の和歌浦 j を読む j 、

空間・社会 ・ 地理思想第 14 号(平成 23 [2011J 年)、 41-67頁 を参照 。

4 前掲書 、 「 激石全集第 20巻 」 、 635 頁 。 また溝端佳買 IJ I 徽石が見た百年前の和歌山:写真 ・小説・日記・新 聞記事より 」 、和歌山県 立 文 書 館 『 和歌山県 立 文 書 館だより j 和歌山県 立 文 書 館、第 31 号(平成 23 [ 2 0 1 3 ] 年)、 2-7 頁 を参照 。

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和歌浦 「 あし べ屋別荘 」 と夏目激石( 西本・西本 )

形跡が知られる 。 だが 一 方で、「あしべ屋別荘 」 とかつて呼称されていた建物が妹背山という小 島 の外に存在していた印象を与える史料もうかがわれ、この点が混乱を招いてきた 。 本稿では、妹背山に現存する 「 あしべ屋別荘 J について最初に沿革を記した後、当該遺構を観 察 した所見を次に述べ、これが増改築を経た痕跡を有していることに触れる 。 続いて文献史料や

地図、当時撮影された写真を勘案した際にその姿がどのように解釈されるのか、総合的な考察を 加える 。

さらに史料探索の結果、激石が日記に残した「あしべ屋別荘 j は 3 つの場所にあったよ

うにうかがわれるが、その中では妹背山の麓に立つこの建物が最も可能性が高いことを述べ、結 論とする 。

2 、「あしベ屋別荘」の沿革 妹背山の北側の麓に、最初は海禅院と称する寺が建立されていた点は明らかである 。 遺構の形

姿とともにその建物名が明記されている史料としては「紀伊国名所図会」巻之 二 5 (文化 8

[ 1811J 年)、また「和歌浦之図 J

6

(天保 3 -10 [ 1832-39J 年)などを掲げるのが適当であろ

う 。 建築の名は記されていないものの、海禅院の当時の様子を良く伝える図としては彩色が施さ

れた 「 妹背山の図 J

7

(嘉永 4

[185 1]年以前)が注目され、そこでは屋根に植物が繁茂するほ

ど荒れ果てた小さな寺院の様子が観察される 。 この寺の創始は江 戸初期に遡るが、やがて養珠寺

の末寺となった 。 江戸幕府が崩壊して明治政府へと移行した明治維新の影響は当然、妹背山に立つ建築群の維持 管理にも及んだ 。 明治 4

(1 872) 年には 宝塔を囲む玉垣( 宝塔の境内)より外側の 「 島の周辺部

が徳川 家から和歌山藩庁(後の県庁)に引き渡されて J 8 おり、この経緯を示す文 書 の図中 9 にも 海禅院の寺名がうかがわれる 。 島の周辺部に該当する海禅院の跡地に旅館 「 あしべ屋 」 が代わっ

て新しく建てられたのはその後のことであろう 。 荒廃した寺院を改修して旅館に用いたとは思わ れない 。

明治時代中期の妹背山の「別荘 」 を伝える貴重な文献は 「 あしべ屋」から出された明治 26 (1 893) 年の 「紀伊和歌浦図 J (図 1 )であり、寄棟造の平屋建てが観察され、 「 芦辺や汐湯 」 と

書かれている(図 2 、

3) 10 。 海側(北側)に向かつて、窓が連続して設けられていたようにも

見え、また建物の西方に煙突らしきものがうかがわれるのも目を惹く 。 別の頁には大きな本店の 図も紹介され、当書が目指した「あしべ屋」 を広告する目的が果たされている 。

しかし同年刊行

の「明治新撰紀伊繁昌誌j には、 「 あしべ屋 」 と 「 米栄 J のわずか 2 軒しか和歌浦の宿泊所が挙

げられていないことも留意しなければならな p11 0 r あしべ屋」の広告を目的に出版された「紀

5

和歌山市 立 博物館編 「 和歌浦:その景とうつりかわり J 和歌山市 立 博物館(平成 17 [2005J 年)、 40 頁 、 図 25 (最上図) 。 また額田雅裕解説、芝田浩 子 彩色 「 和歌浦の風 景 :カラーでよむ 『 紀伊国名所図 会 JJ ニュース和歌山(平成 24 [20 12 J 年、 17 頁 、画:西村中和 「 妹背山多 宝 塔観海棲 三 断橋 芦 辺茶屋 J で は彩色された見やすい拡大図が掲載されている 。

6 前掲書「 和歌浦:その 景 とうつりかわり J 、 44 頁、 図 31 0 7 上掲書 、 46 頁 、図 37 。

8

藤本 清 二 郎 「 江 戸 ・明治前期、和歌の浦の社 会 史史料: 景 観保 全 ・水産業両立化への歩み 」 、紀州経済史 文化史研究所紀要第 10号(平成 2

[1990J 年 ) 、和歌山大 学 紀州経済史文化史研究所、 222 頁 。

9 上掲書 、 171 頁 。

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J\ 'Î:定 型 f A:'}J>;:!t立 (iW先!叶 kL '8i

N o . 2( 2 01 3)

a元孟M 図紀伊和歌浦図 」 中の 「 和歌浦全国 J 、右頁の右下に描かれた「別荘 j ( 和歌山県立図書館蔵 2 冊のうちの 1 冊、 311664825 :WA111147)

-さてたL〆

図 2

: I 紀伊和歌浦図 」

『唱に

拡大図

( 和歌山県立図書館蔵 )

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和歌浦 「 あし べ屋 別荘 」 と夏目激石(西本・西本 )

伊和歌浦図 J に、敵対する同業者であるはずの[米栄 J の図も描かれているのは興味深いが、

「 紀伊和歌浦図 」 が 「 あしべ屋 j の様相を過大に描く傾向は念頭に置かれるべきである 。 どのよ うな集客の方策を講じるべきか、さらなる模索がなされていた時代であったと考えられる 。

そうした中で明治 36 (1 903) 年、 皇 太子が和歌浦を訪れ、妹背山にも立ち寄った 。 「皇太子殿 下には和歌山に行啓あらせられ、妹背山下の別荘に駕を駐めさせられた、光栄限りなく、明光浦

はますます異彩を加へられた次第で、豚民の歓喜警ふるに物はない、そこで芦漣屋主人薮清 一 郎

老人は、畏き御蹟を紀念し奉るため、此の碑を建た J (1鶴駕飛降碑」の説明 1 2 ) 。 この碑(明治 38 [1905J 年に建立)は今でも妹背山の北に建っており、「あしべ屋別荘」の来歴を傍証する数 少ない史料のひとつとなっている 。

和歌浦地域の発展を願う「あしべ屋J 主人の薮清 一 郎の思 p は叶って、旅館の数は次第に増え、

明治時代末期の刊行物 「 紀伊名所案内 」 には和歌浦の旅館として 「 芦漫屋 、 望海楼、片男浪館、

米祭別荘、島田別荘」の 5 軒が掲げられている 13 。 和歌山県庁前から和歌浦までの聞に市街電車 が開通したのが明治42 (1 909) 年であり 14 、後には延長されて交通の利便性は飛躍的に高まった 。 「 紀伊名所案内 」 の中では妹背山の多宝塔の紹介の後で 「 ここにも芦遁屋の別荘もあり、球戯室

もある、鶴も飼って居る J 15 と述べられており、この時代の 「 あしべ屋別荘 J にビリヤード場が 付設されていた点が明らかである 。

大正 8

(1 919) 年の出版物には薮清 一 郎が 2 頁にわたる 「 あしべ屋 」 の広告を出して、 「 ���脊

山麓弊舘妹 脊別荘は幽遠閑雅にして畏くも明治 三 十六年十月九日

今上天皇陛下の御幸臨あらせ

られしを始め奉り各 皇 族宮殿下御成の光栄を措へるは皆 此別荘に御 座候 J 16 と記しており、他の 旅館とは異なる妹背山の 「 別荘 」 の由緒を強調している 。

1 0

塩崎毛兵衛 「 紀伊和歌浦図 j 塩崎毛兵衛(明治 26 [ 1893 ] 年 。 改訂版 :明 治 29 [1896] 年) 。 また宇田川 文海 「 南海鍛道旅客案内 j 下巻、南海鍛道(明治 32 [ 1899 ] 年 ) 、 85-86 頁 も見よ 。 前掲書「 和歌浦:そ

の景のうつりかわり J 、 51 頁(図)、また 89 頁(資料解説)も 参 照 。 「 紀伊和歌浦図 」 の末尾には 「 あしべ 屋」 の広告が付されており、 「 産辺屋別邸正潮湯 j と題された文面には 「 弊家別邸潮湯浴場ハ妹背山の西 南麓ニして遥に名草山紀 三 井寺の景を眺望し白から精気を快然たらしめ加て空気の清 口 (註:清か)な るハ固より 言 を待たず j と語 っ ている 。 ただし 「 別荘 」 の方角は妹背山の西南にはなく、北ないし北東

であり、まったくの逆としか思われない 。 その後、 「 浴室も亦 清 潔 」 であり、入浴によ っ てさまざまな効 験があることが具体的な多数の病名とともに述べられている 。 「 紀伊和歌浦図 」 は和歌山県 立 図 書 館に 2 冊、また国 立 国会図 書 館関西館に l 冊所蔵されているが、和歌山県立図 書 館蔵のものに見られる 「 和歌 浦全国 」 の 頁 に押された 「芦 辺海水場 」 の朱印は国会図 書 館関西館蔵のものには見られず、そこでは 「 海水浴場 」 とだけ 黒 色で刷られている 。 塩崎毛兵衛の名が記された奥付の 頁 の構成も異なり、厳 清 a 郎

が出版物で試みた多様な広告方法の解明が待たれる 。 なお県 立 図 書 館蔵のものには 「 明治廿九年四月十 四日更正御届 」 の奥 書 がある 。 療養を目的とした和歌浦における 当 H寺の海水浴場については高嶋雅明 「 和歌浦開発と和歌浦土地株式会社:若干の資料紹介と覚え 書」 、紀州経済史文化史研究所紀要第 10号 (平成 2

[1990] 年)、和歌山大 学紀州経済史文化史研究所、 26 頁 を 参 照 。

1 1 註 2 参照 。 1 2 大 川民純 ( 墨 城) r 紀伊名所案内 」 紀伊名所案内発行所(明治 42 [ 1909] 年)、 44 頁 。 この碑については 今井金陵 「 和歌浦名勝案内 」 新和歌山社(大正 11 [ 1922 ] 年 ) 、 19 頁 にも 言 及がある 。

1 3 上掲書、 「 紀伊名所案内 」 、 54 頁 。 1 4 和歌山市 立 博物館編 「 写真にみるあのころの和歌山:市街電 車編(戦前) J 和歌山市 立 博物館(平成 24 [20 12 ] 年)、

l 頁。

1 5 前掲書 、 「 紀伊名所案内 j 、 41-42 頁 。 16

賓口嫡 「 新和歌浦と和歌浦 」 枇榔助矧生 堂 (大正 8

[ 1919] 年 ) 、 24-25 頁 の聞の広告 。

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武蔵野大 学 環境研究所紀宮

No.2 ( 2013)

だが和歌浦の観光業は、全体として斜陽を迎えつつあった

大正 11 (1922) 年に宅太子(昭和

天皇)が訪 れたという妹背山の 「 あしべ屋別荘 J のビリヤード場は翌年の大正 12 (1 923 ) 年に人

子へ渡り、島外の近くに移築された 1 7 0 I あしべ尾 j は大正 14 (1 925) 年に廃業し、望海楼に買 収される 1 8 が、その望海楼もやがては姿を消す運命となる 昭和 16 (1941) 年、妹背山の 「 別荘 j は丙本健次郎によって買収されて、別荘として用いられ

た 1 9 。 その後、第 二 次世界大戦を終える頃には疎開先としてこの建物が選ばれ、西本家の住居と して使用された 。

囲内の平穏が取り戻されていくらか経た時期に、西本家は和歌浦の別地に住居を構えた 。 旧 「 あしべ屋別荘 」 は大本山活禅寺和歌山別院の大龍王山海龍寺に貸され、座禅道場としてしばら くの問、用いられた 。 今日、この建物がしばしば海龍寺あるいは活禅寺と誤って呼称されるのは

こうした事情によると思われる 。 近年、活禅寺との貸借関係は解消され、現在に至っている 20 では建物の現状はどのようなものであるのか、現在の所有者から許可を得て実見した結果を次 節において簡単に記したい 。

3 、「 あしベ屋別荘」 の現状 現状の諸図面を図 4

21

6~7 に示し、また 写真を図 5 a 、

に区分される 。 ここでは西から東に向かつて順次、(1)倉庫、

8 ~16 に掲げる 。 建物の全体は 4 つ (2) 玄関部、

(3) 座敷、

(4) 奥庵

敷と仮に呼ぶ 。 西側に位置する(1)倉庫は最も新しく付加された部分であり、本稿では詳細を示さない 。

玄関部から

(2)

(3) 座敷、また (4) 奥!宅敷と東へ進むに従って床高は徐々に上がり、それは外観の

屋根の高 さにもあらわれている(図 5 ) 。 破風を外観の正面の上に見せる

(2) 玄関部は西側の倉

庫ほど新しくはないものの、屋根は (3) 座敷の屋根下地の上を履って設けられていた 。 室内に おいても改変の痕跡が多く見られた 。

注目されるのは (3) 座敷であって、やはり大幅な改変が施されているが、ここには床の聞を 備えたふたつの問(図 9 )がかつて並んでいたことが現所有者からの聞き取りによって判明した 。 内法長押には釘隠し(図 10 、 11) が打たれており、これは (3) 座敷にしか見られない特徴であ る 。 またふたつの問を隔てる 4 本引の襖の引子には徳川家の葵紋(図 12 ) が うかがわれる 。

し異なった文械が施された別の引手(図 13)

しか

も用いられており、ともに転用が疑われる 。 当該建

1 7 中西重裕 「 わかやまワクワク探検隊:明治・大正・昭和たてもの物語 」 和歌山新報社(平成 14 [ 2 0 0 2 J 年)、 96 頁 。

1 8 前掲書、 「写真 にみるあのころの和歌山:和歌浦編(戦前 ) J 、 6 頁 。 1 9 三 井建設(妹)社史編纂雫 「 三 井建設社史 j 三 井建設(平成 5 [1993J 年)、 28 頁

現在の所有有である阿本

和子氏によれば、西本健次郎が南海電気鉄道で 「 あしべ屋 j の当 H与の主人と偶然乗り合わせ、買収を依 頼されたと伝えられている 。

2 0 丙本和子氏か らの聞き取りによる 。 大本山活禅寺 「 和歌山別院存亡の危機 j 活禅の友第 187 号(平成 23 [20 11 J 年 11 川 )、大本 山活禅寺 、 32-33 頁も参照

2 1 図 5 b に古 写真を示す 。 前掲書、 「 新和歌浦と和歌浦 」、 25 頁の前に指載されている写真は、この絵はが きに電信 H を消すなどの修正を施したものと見られる

建物れ端のビリヤード場が鮮明に確認される

武同博編 「 近畿名勝大観 J 有心館(明治 42 [ 1909 J 年)、 「 和歌の浦 」 の貞の写真も電要であり、 庵敷が増築される前の姿を伝えている の

(4 ) 奥

円〆臼

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あしべ !ii7}IJ;ii

と ~1 11 ;軟 イ i ( 州本・州本 )

あしベ屋妹背別荘

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図 4

妹背山の 「 あしベ屋別荘 」 、配置図

図 5a: 妹背山の「あしべ屋別荘」全景、 北より見る ( 2012 年、西本直子撮影 )

図 5b: 絵はがき

「和歌の浦あしベや妹背別荘」 ( 和歌山大学紀州経済史文化史 研究所蔵 、 26-584 、大正写真 工芸所製造 )

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No 2 ( 2 01 3)

武蔵野大学環境 研究所紀要

,

( 4) 奥座敷

(1)倉庫

川川川口

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図 6 : I あしベ屋別荘 」 、略平面図 ( 作図:西本直子 )

(3)

( 1)倉庫

座敷

111

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凡例

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図 7

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f ー-ー→一-ー 綿子ガラス戸引分 地フ 。一寸ー←ード~ 地袋フスマ噌号 l 途

: I あしベ屋別荘 」 、建具図 ( 作図:西本直子 )

-84-

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和 歌 irlî I あしべ屋 別荘 j と夏 日 i軟石( 西本・西本 )

図 8 :観海閣側より

図 10:

( 3 ) 奥座敷を見る

図 9:

( 2 ) 座敷の廊下

( 2) 座敷、東側

図 11 :釘隠し

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NO.2 ( 2013)

武蔵野大 学 環境研究所紀要

図 12 :葵絞の引手

図 14:

( 3 ) 奥座敷、西側

図 13 :別の引手

図 15:

図 16:

( 3 ) 奥座敷、東側

( 3 ) 奥座敷の西側廊下

QU

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利 l 歌浦 「 あしべ屋 別荘 」 と夏目 i救石(西本 ・ 西本)

物において 最 も時代が古い印象を与えるのがこの (3 ) 座敷で あり、 天 井の 一 部を外して覗いた

ところ、和小 屋 が組まれていることを確認した 。 墨書 もわずかながら残されているようである 。 (4) 奥座敷にも細部において多くの改変がなされている 。 当 初は 室 内全体が田の 字 に仕切ら れていたことが聞き取りにより判 っ ている 。 床の聞を備えた座敷(図 14 、 15 ) に前の聞を配置し たものをふたつ並べた形式であったと推定される 。 現存する襖にはやはり古い引手が用いられて

いるが、やはり再利用であろう 。 南側と東側、また西側 三 方の廊下のガラス 戸 内側に擬 宝珠付欄

干 が回されている点が興味深い(図 16) 。 縁 側でも 鉄の補強材が 利用されている 。 小 屋組では鉄 俸を併用したトラス組が観察された 。

(3) 座敷に

(4) 奥座敷が増築されたと思われる 。

4 、関連資料 和歌浦に激石が訪れた明治時代末期において、 「 あしべ 屋 別荘 」 と呼ばれたものは 3 つ知られ ているように思われる 。 その第 一 は 「 あしべ屋」 本店に隣接していた建物である 。 明治42 ( 1 9 0 9) 年の「紀伊名所案内」では「同じときにあった朝日屋と p ふ茶屋は芦溢別荘のあるところがそれ

である j と書かれており 22 、これを裏づける「あしべや北の別荘 j の古写真が残っている(図 17 、 年代不明 。 ただし製造は大正 写真工芸 所) 。 明治時代から大正時代にかけて和歌浦の風 景写真 が 慌影され、また旅館が絵はがきとしてそれらを販売することもおこなわれた 。 図 17 もそのうちの

一 枚と思われ、 当 の 「 あしべ屋 J から販 売 されていたようである 。 後方の小山が見え、建物の前 面には広い道が通 ってい る 。二 棟の建物のかたちと、 車の後方 に見られる人口の 唐 破風などから

判断するならば、 「 あしべ 屋 j の本店の北側に建てられた新棟であるとみなされる 。 妹背山上か ら撮影された 「 あしべ 屋」 の 全景写真( 図 18 ) の右 側に見られる建物と比べて見るならば明瞭で あろう 23

しかし同じ年に発行された 「紀伊和歌浦明細新地図 J

2 4

(図 19 ) を眺める時 、 絵はがきの「あ

しべや北の別荘 」 があるはずの場所は 「 阿し遍 。 や本店 」 に 含 まれており、他方で妹背山の北側

に「阿し遍やや別荘 J 、また内海を隔てた対岸にも同じく「阿し遍やや別荘 J と書かれているこ とに 気 づく 。 本店の隣のものを第 一 の 「 別荘 」 、妹背山に記入されたものを第 二 の 「 別荘 」 とす

るならば、対岸に描かれたものは第 三 の 「 別荘 j とみなされる 。 この第 三 の 「 別荘 」 に関して 写

真 を提示しつつ、藤本 清 二 郎が 「 観海閣の北からみた 芦 辺 屋 別荘 」 と記している 25 のは、 「 紀伊 和歌浦明細新地図 」 に示された 「 阿し遍 や や別荘」の記述を尊重したからに違いない 。 10年 後の

大正 8

( 1919 ) 年 、同地域の地図が旅行案内 「 新和歌浦と和歌浦 J 26 に掲載されている(図 20 ) 。

だが第 三 の 「別荘 J は描かれてはいない 。 手書きの跡もあからさまなこの旅行案内の地図に遺漏があったとも考えることができょう 。

かし第 三 の 「別荘 J については 「紀伊和歌浦明細新地図 J の他に記録がま っ たくないように思わ

2 2 前掲書 、 「紀伊名所案内」、 41 頁 。 2 3 漬口 嫡 「 新和歌浦と和歌浦 」 枇棚助嫡 生堂(大正

8

[ 1919 ] 年)、 24頁の次に掲載されている似た写真で

は建物の様 子 が 異 な っ ており、撮 影 された時代が違うことが知られる 。

2 4 岡田久楠 「 紀伊和歌浦明細新地図 j 岡田久楠 ( 明治 42 [ 1909] 年) 。 2 5 牒本清 二 郎編 「 和歌浦の風 景 : 古写真でみる 『 名勝 j の歴史 」 東方 出版 (平成 5 [ 199 3] 年)、 84-85 貞。

26 前掲書、 「 新和歌浦と和歌浦 J II 絵 。

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図 17 :絵はがき 「 あし べ や北の別荘 ( あし ベ や特撰 ) J ( 和歌山大学紀州経済史文化史研究所蔵 、 26-585 、大正写真工芸所製造 )

図 18 :絵はがき 「 和歌浦望海裡支店阿し遍

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や全景 J ( 溝端佳則氏個人蔵 )


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図 19: I 紀伊和歌浦明細地図 」、 部分拡大図 ( 和歌山市立博物館蔵 )

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図 20: I新和歌浦と和歌浦 j 、口絵地図 ( 国立国会図書館デジタル化資料より )

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武蔵 肝 大学環境 Mf究 所紀要

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れる点、 が 奇異 であり、存在していたとしても大きく広 告 されることはなく、また短期間のうちに

役割を終えた可能性が指摘される 。 現在の住所で 言 えば和歌浦東に位 置 していたこの第 三 の 「 別

花 」 は 「江戸 期の 湊 御殿の 一 部(松窓庵 ) J2 7 が移築されたものであり、近年、 養 翠園へとさ ら に移築された 。 果たして旅館として機能していた時代があ っ たのかどうか 、 今後 刊 行される報 告 書 によ っ て 詳細が語られることが期待される 。

i軟石 が 泊 まろうとした 「 別荘 J が、 「 あしべ 屋 本店 」 の隣に設けられた第 一 の 「 別荘 J であ っ

たのか 、 それとも第 二 の妹背山の 「 別荘 j であ っ たのかの判断はっきにくい 。 だが 「海蹄院跡ハ

今 ノ 芦 港 屋 別館ニ シ テ 屡皇 族ノ御泊所文ハ御休憩所トナレリ J 28 とい っ た紹介文で 看取されるよ うに、本 店 の隣の 「 別荘 J よりも妹背山の 「 別荘 j の方が知られていたのであり、和歌浦におい て 最 も品格を備えた 宿 として認識されていたことは疑いない 。 この点からは第 二 の 「 別荘 J の方

が、 j軟石 が宿泊を願 っ た旅館として 挙 げられるように思われる 。 妹背山の 「 別荘 j の 室 内から 直 接 、和歌浦の眺 望 を 楽 しむことはできなか っ た 。 それにも関わらず皇族や名士たちから大いに 注

目されていたとすれば、和 洋 混 交 の 三 階作りの 高楼からなる本店とは若干離れた、静話な小 島 に 件む 平屋 の宿の 雰 囲 気 がより好まれたのであろう 。

明治時代の末期にこの 「 別荘 」 がいかなる構成をと っ ていたかについては、関連 資 料の探 索 が 未 だ十 全 に 尽 くされておらず、明治 ・ 大正期に 属 する数枚の 写真 が 参 考 資 料として 挙 げられるの

み で ある 。 重 要な 点 は東端に 寄 棟造の建物が 立 つ 写真 が 残っ ており、そのさらに 東 側へ入母 屋 造 の 高 い 建物が新たに付加されたように 疑 われることであ っ て、図 2 1 あるいは図 22 ( 明治 40 [ 1 9 0 7 ]

図 21 :絵はがき 「和歌の浦妹脊公園 J ( 溝端佳則氏個人蔵 )

2 7 2 8

前掲 占、 「 ヰu 歌 浦 の 胤 民 . I 片写 真で、 みる 『 名 勝 j の歴 史 j 、 84 頁 川 n 松 村 「 紀州 大観 手11:歌 山手11 歌浦 町 l 紺| 案 内 L)(IJ 宵 井 平安~;~ ( 大正 12 [ 192 3] 年 ) 、

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図 22:

1 妹背山と観海閣 」 、部分

(1 写真にみるあのころの和歌山:和歌浦編 ( 戦前 ) J 、 6 ・ 7 頁 、 写真 11 。

明治 40 [ 190 7]年の消印付きの絵はがき、和歌山市立博物館蔵 )

図 23 :絵はがき 「 観海閣より阿し遍 。

や妹背別荘を望む J ( 溝端佳則氏個人蔵 )

91-

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武蔵野大 学 環境研究所紀要

N o . 2( 2 0 1 3)

年の消印が残る) 29 では寄棟造の建物がうかがわれる 一 方、図 23 30 に示す古 写真 では現状とほぼ 同じ入母屋造の姿(図 8 )が写されている 。 この順序は、妹背山に現存する建物の (3) 座敷に (4) 奥座敷が増築されたという予想、と 一 致する 。

明治 26 (1893) 年の 「紀伊和歌浦図 」 であらわされていた寄棟造の建物の改変された姿が図 21 、

22 の写真に写し出されていると推測され、これを証明するためのより詳しい建築調査が必要であ る 。 今回の調査で最も古いと思われた

(3) 座敷の屋根の形は隣の建物へ棟を延長するなど、後

に変えられたに違いない 。 当時、設けられていたと考えられる 「 汐湯 J と呼ばれる浴室の痕跡も 失われているようである 。 残念ながら、妹背山の 「 別荘 J は和歌山県近代和風建築総合調査報告

書 3 1 に取り上げられることがなか っ たが、こうした点についてさらに理解を深めるための調査研 究が望まれる 。

5 、結語 明治時代中期から大正時代にかけて 急 激な発展を遂げた和歌浦における観光の歴史を考える上

で見逃すことのできない最上の格式を備えた遺構のひとつが妹背山の 「 別荘 J であり、背 景 を考 慮するならば 3 つ挙げられるもののうち、 j軟石が宿泊を予定していたのは妹背山に 立 つ 「 別荘 J であ っ たとも推察される 。 大人数が泊ま っ た 三 階建ての本店やその脇の北の別館とは対照的に、 平 屋 の比較的小規模な建物で、静かな環境の中に 立 ち、 皇族や名士たちが愛した名旅館であ っ た 。 激石が泊まろうとした時期に 「 妹背山別荘 j 東端の大きな入母 屋 造の

(3) 奥座敷がすでに増築

されていたかなど、さらなる調査が望まれる 。 応急処置の修理を施した箇所が散見されるため、 現状を勘案するならば本格的な保存計画も講じる必要があると考えられる 。

謝辞

国立国会図 書 館、和歌山県立図 書 館、和歌山市 立 博物館、和歌山大学紀州経済史文 化 史研究所、 また和歌山県立文 書 館主任の溝端佳則氏から各図版の掲載許可をいただいたことに謝意を申し上 げたい 。 元和歌山市教育委員会教育長の大江嘉之氏、和歌山市教育委員会の額田雅裕氏、和歌山

市 立 博物館の太田宏 一 氏、和歌山激石の会の梶川 哲司氏、(財)和歌山県文 化 財センタ一事務局長 の渋谷高秀氏、同センタ一文 化 財建造物課の多井忠嗣氏からは数々の貴重な御教示と御配慮、 をい ただいた 。 心より感謝申し上げる 。

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2 9 前掲 書、 「 写真 にみるあのころの和歌山:和歌浦編 ( 戦前 ) J 、 6-7 頁

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武蔵野大学環境研究所紀要編集委員会 委員長矢内秋生 委員(五十音順)

伊村則子

宇賀神博

武蔵野大学環境研究所紀要

第2号

2013 年 3 月 1 日発行

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編集

武蔵野大学環境研究所紀要編集委員会

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THEB U L L E T I N OF MUSASHINOU N I V E R S I 1Y I n s t i t u t eo fE n v i r o n m e n t a lS c i e n c e s

No.2 CONTENTS Q u e s t i o n n a i r eS u r v e yf o rC a l c u l a t i n gMethodso fF i r m s 'G r e e n h o u s e G a sAbatementC o s t e i j i/KU悶TA, I k uma/HO悶, K a t s u h i k o .1氾\ATAI, S

1

L i f ec y c l ei n v e n t o r ya n a l y s i so fp a r a b o l i ca n t e n n a st a k i n gameasurea g a i n s tr e l i e fo f c c r e t i o n r a d i od i s t u r b a n c eresulting 仕om snowa h i g e k u n i/SAITOH , M i t u k i 1 7 .SASAKI , S Measuremento fR a d i a t i o nDoseonandaround 出e MusashinoU n i v e r s i t yCampuses , andS u g e s t i o nf o rt h e i rR e m e d i a t i o n o y o s h i/TANABE , Naoyuki/MIWA, Azumi 3 1 .SHIOZAWA, T R e s e a r c hont h eSystemo fP a r t n e r s h i pandOceanE d u c a t i o ni nt h eU n i t e dS t a t e s -An a l y s i sonP o l i c yFramework 一一...................一.................................. OTA, E r i 4 5 AnA t t e m p tS t u d yont h eL i f eH i s t o r i e so fS t u d e n t sM a j o r i n gE n v i r o n m e n t a lS t u d i e s

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I n s t i t u t eo fEnvironmentalSciences , MUSASHINOUNIVERSI 1Y

2013


"Ashibe-ya Annex" at Wakaura and Natsume Soseki