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日 本 美 術 随 想

銅造半肉象 21×13cm

モノの心・形 の心

銅造半肉象

体 部 を 三 分 の 二 を 残 し て 切 断 し、 半 肉 に 鋳 造

す る。 細 部 は 手 慣 れ た 鏨 の 仕 上 げ。 両 牙 と 尻 尾

先 を欠失 し、全体に軽度の火傷をみるほかは健

全。 前 後 の 二 脚 で 自 立 す る。 当 然 な が ら 不 安 定

で 用途問題に課題を残す。現在のところ目的不

明というのが思案の果ての現状である。

大 き く 見 開 い た 両 眼 は 気 力 に 充 ち る が、 痩 せ

て背骨が視認されるほか、垂れる頸の皮膚や大

きく 刻まれた皺も老いの姿につながって、若象

の気配はない。老いた哲学者のような象と言っ ては言葉が過ぎようか。

恣意的な造形を感じさせるのは二本を呈す牙

と、 蓮 葉 の 葉 脈 の よ う に 工 作 さ れ た 耳 で あ る。

象と言えば即座に普賢菩薩の白象を連想する   が、 造 形 的 に み て 象 座 は 考 え ら れ な い。 そ れ で

も神性 を予断させるのは、潜在のなすところだ

けで はないようだ。本来の使われようを意識し

た 撮 影を試み、賢兄からの正解到着を待つこと にする。

︵主筆・森川潤一︶

3

オークションハウス古裂會提供 (69回・11月開催出品)


きん から まつ

紫錦唐松の置生け 花材⋮⋮紫錦唐松・しだ 花器⋮⋮能野 ︵種子島︶花生 ︵高さ二〇・二㎝ 、幅一三・二㎝ ︶

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京都 ・ 妙 心 寺 大 心 院 / 町 家

[表紙] ほお

朴の木真の立華 花材⋮⋮朴 の 木・ 龍 胆・ す す き・ な な か ま ど・ 萩・ 檜 扇・ 節 黒 仙翁・檜・松・若松・秋唐松

そえ

花器⋮⋮銅造薄端遊環月形耳付立華瓶 ︵高さ三一㎝ 、巾三一・六㎝ ︶

すぐ しん

葉 の 色 付 き は じ め た 朴 の 木 を 直 真 に 立 て、 副 の す す き、 どうづくり

いろどり

[裏表紙] がん ぴ

ひよどりじょう ご

雁緋と 鵯 上 戸の釣花

花材⋮⋮雁緋・鵯上戸・桔梗・秋唐松

花器⋮⋮大西閑斎 信楽釣花入 ︵高さ一六㎝ 、幅二〇㎝ 、奥行一三㎝ ︶

信楽焼の舟形花入に、白い小さな花をつけた鵯上戸をな

びかせて入れ、その足元を留めるように朱色の花をつけた雁

まえおき

請と前置のななかまど、正真の龍胆、銅作の檜扇、色のあ

莟、小花をつけた秋唐松をさりげなく入れて作品に奥行きや

緋を挿し加えた釣花。長短二種の花材の後方には桔梗の葉や

うけ

んだ花材を適材適所に取り合わせ、夏から秋へ移りゆく風

しらいの節黒仙翁等々、花葉の形も大きさも彩も変化に富

もっぱら

の一つ。中国原産の園芸植物で、中国語名は﹁剪夏羅﹂であ

雁緋は室町時代から﹁ 専 祝儀に可用物﹂とされていた花材

深みをもたせている。

る。鵯上戸は秋に赤い液果をつける蔓性の野草であるが、作

朴 の 木 は 落 葉 高 木 で、 葉 が 枝 先 に 輪 生 状 に つ く の が 特

情をかもしだした一瓶である。 徴。枝をよく張り、高さ二五メートルに達する大木にもな

者は庭に植え、好んで花材として用いている。また、花入は

三重箱に保管されている品で、内箱側面に﹁大西閑斎作﹂と

るが、作品に用いたような若木は、直立した梢の先に葉を 作 品 は 若 木 の 樹 形 を 生 か し、 直 真 の 立 華 に 拵 え た も の。

ひろげ、付き枝がまばらに出るのみの単純な樹形である。

一七一七︶は大和小泉藩主片桐石州の家臣で、石州から茶の湯

朱書してある貼紙がある。大西閑斎︵正保二・一六四五∼享保二・ なぐさ

但し、若松の直真の立華などと違い、雑木とされる朴の木 つね

め、おもて向きの席の花は、何かと定めが多く、禁忌も多

た。また器自体も釣船という。花形は、船の連想から鎖で

あ り、﹁ 釣 船 ﹂、 ﹁釣船の花﹂ 、﹁ 船 の 花 ﹂ な ど と 呼 ば れ て き

舟形の釣花入を用いるいけばなはすでに室町時代から

を学んだ人。後に大坂へ移住し、石州流大西派を開いた。

の直真の立華は祝いの席に飾ることは禁じられており、普 段の日に飾る﹁常の花﹂や自分自身のために飾る﹁慰めの

いが、常の花や慰めの花、楽しみの花では、名詮の悪い草

に見立てた花材を船の外へ垂れ下がらせて形づ くることが

区切られた窓内に、帆に見立てた花材を用いたり、櫓や櫂

花﹂や﹁楽しみの花﹂として扱われる。祝儀、不祝儀も含

木や名もない花も使用でき、除真の場合は花形の自由度も

各時代に共通する船の花の特徴であるが、室町時代のみは

多く、出船や入船などと名づけて花形を違えた。これらは

へいぜい

大きいという利点がある。 ちなみに、古い花書の一つ﹃仙伝抄﹄には﹁平生はたつ

ひるかぎ

釣船を床の間に飾る場合は、落掛の内側にある折釘に吊す

おとしかけ

数少なく、簡素な花形が主流である。

どりの花を盛り込んだ花形絵が伝えられている。後代は花

るがごとし﹂などという花伝と共に、器いっぱいに色とり

﹁舟などに物をつみたる躰﹂や﹁舟にたから ︵宝︶をつみた

と い へ ど も、 し う げ ん ︵ 祝 言 ︶に い む も の の 事 ﹂ と し て、 し おん

紫苑、猿取茨、苺、芭蕉、桔梗、女郎花、萩など、三十九 な お、﹃ 立 花 秘 伝 抄 ﹄ で は、 同 じ 直 真 で も 若 松 真 な ど 格

種もの花材があげられている。 調の高いものを真の真の立華、笠松真を真の行の立華、 ﹁心 梅、 海 棠、 梅 も ど き、 水 木、 檜、 鶏 頭 な ど の 直 な る を 用 ﹂

︵花 ・岩井 陽子︶ ︵文 ・山根  緑︶

か、床の天井の蛭鉤に吊るす。

の真の草の立華に相当する。

︵ 写真・西村 浩一︶

いるものを真の草の立華と区分している。作品はこのうち

華瓶・釣花入 オークションハウス古裂會提供 ︵ 回・ 月開催出品︶ 11

花生 オークションハウス古裂會提供 ︵ 回・ 月開催出品︶

二〇一二年七月一七日

花座敷・花舞台 撮影日

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2


いただけるでしょう﹂

魅力と見所

という下りがあるが、まさにそのとおりである。

いい茶 の条件

かみさん相手に茶盌談義をするのも楽しいものである。

古くから、造り手七分に使い手三分という言葉がある。造り手が七分まで造りあげた

ものを使い手が手塩に掛けて完成させるということだが、これはすべてのことに共通する。

もちろん素材がよくなければ駄目だ。いくら使い込んでも変化しないものや、使い込む

造り手にとって、 ﹁この茶盌、使い込めば、良くなるだろうな﹂という言葉は、最高の

ことによって汚れていく茶盌がある。したがってそれを見極める眼が要求される。

ここで少し断っておくが、私は茶盌を芸術品や美術品などといったたいそうなもの

どの様に可愛がられてきたかがわかる。

褒め言葉である。逆に、使い込まれてきた古い茶盌は、それを見ただけで、どんな人に

道具としての茶盌の条件に次いで、美しい茶盌の条件を述べる。

でなく、しいていえば工芸品だと思っている。もちろん民芸品だなどとは思っていない。

次に盌形と釉調だろう。盌形は、井戸ならこう、呉器ならこうといった風に茶盌によって

それなりに熟達したもので盌形に良くあっているものがよい。

てらったものや、陶技の稚拙なものは論外だ。仁清風のものや乾山風のものは、絵付が

なのが品である。全体がよくまとまっていて違和感のない品の良いものが良い。奇を

さて茶盌の見所だが、まず最初に問題になるのが、その茶盌のもつ雰囲気だろう。大切

ただ同じ工芸品のなかでも、茶盌ほど人の心を震わせるものはない。ある時は慰め、ある 時は癒し、ある時は落ち着かせ奮い立たせてくれる。茶盌は人の心を養ってくれる。それ ならどうして、と思われるだろう。 絵画や彫刻は誰が見てもそれなりにわかる。茶盌はそうはいかない。四十年前、十雨に

少しはわかるようになったが、茶盌はそれほどまでに見るものの力を要求する。相当な

茶盌を見せられた時は、私はまるでわからなかった。近頃、八十才近くになってようやく

手の技量がどの程度かということがわかるといわれるが、

それぞれ伝わってきた形がある。それにそれぞれに約束ごとがある。よく高台を見れば造り

最近、ある人に、ならどうすれば良いのか、と聞かれ

だとか、呉器なら撥高台といった風にそれぞれ決まりがある。

そんな大事な見所の高台一つにしても、井戸なら竹節高台

審美眼がなければわからないということである。

を買って、毎日それで茶を点てて喫むことだ、と答えた

て、私は、今あなたが自由に使える金の倍の金額の茶盌

釉調も同様である。どんな土とどんな土を交ぜ合わせて、

それがどこまで踏襲されているかということも見所だろう。

その茶盌が色々なことを教えてくれる。自分の茶盌以外

どんな釉薬を掛けて、どれ位の温度でどれ位の時間を掛け

ことがある。マイ茶盌を持てということだ。そうすれば

の茶盌を見たとき、無意識の内に自分の茶盌が物指となっ

るが、これらは少しのことで大きく変化する。

て焼くかということは、茶盌によっておおよそ決まってい

登窯か穴窯か電気窯かガス窯かによって、同じ土や釉薬

て、やれ大きいな、軽いな、派手だな、といったことに

物指は精度が良いほどいいに決まっている。マイ茶盌は

でも違ってくる。そこで見所となるのが釉調、すなわち

土によっておこる石はぜ、ロクロの挽きようによって

無理をして良いものを持つに限る。さすればそれ以下の

おこる石筋や土べ筋や細筋、口切れをつづくろったべべら、

陶肌と土味である。

ところで、私は茶盌の最大の魅力は、使い込むことに

ものはすべてわかるはずだ。

よって大きく変化することだと思っている。気に入った

釉薬のかけようによっておこるかけはずしや釉流れや梅華

︵工芸評論家・青山清︶

窯変なども見逃せないみどころである。︵つづく︶

である。また、窯の焚きようによっておこる灰被や火色、

皮、それに釉薬をかけた時の手跡も見逃せない景色の一つ

いくつかの茶盌を手許に置いて、昨日はあれで喫んだ が、今日はこれでといった具合に、毎日、茶を楽しんで い る う ち に、 ふ と 茶 盌 が し っ と り と 落 ち 着 い た 色 に 変わっていたり、手に良く馴染んでいることに気がついた時

はうれしいものだ。あれやこれやと茶盌を取り出して、

5

はじまって、茶盌の良し悪しまでわかるようになる。

十雨作 釘彫茶盌


●連載

高麗茶 の名手

森田統・十雨の茶 ︵ ︶

七の茶映りだが、これこそ千差万別である。しっとりと落ちついた、やや色の濃い陶肌

の湯のために生み出された黒楽、赤楽がやはり最も良い。次が高麗ものだが、柿の蔕が格別

のものが茶の緑とよく合うようだ。薄い色の茶盌だと茶が揺れるたびに周囲が汚れる。茶

に良い。

八の熱伝導だが、これは誰しもが経験していることで、熱いものを入れると熱くて持て

ないものがある。備前の陶芸家に、登窯を築いたときにその初窯で焼いたという緋襷の茶盌

高台まで熱くなって持てない。白湯や味噌汁などを入れようものなら触ることもできない

を中風のマジナイだということで貰って飯茶盌に使っているが、炊きたての飯をいれると

点て良い茶 の条件 茶盌は茶を喫む道具である。美術的な価値を云々する前に、まず、道具としての条件が

備前焼や丹波焼などは、高温で何日も焼くから堅く焼締っていて熱が伝わりやすい。磁器

ほどである。

点て良い茶盌の条件を項目にして記すと、一に見た目、二に重さ、三に大きさ、四に手

も同じだ。それにくらべて萩や美濃などのものは、やや低い温度でじっくり焼くからやわ

もらったことがあるが、火を入れるとすぐ割れた。同じ頃に楽焼で作ってもらった土風炉

である。むかしそんなこととは知らず備前焼や丹波焼の焼締めで編笠風の瓶掛を造って

らかく焼けて熱が伝わりにくい。高麗茶盌も同様だ。とりわけ熱伝導が低いのが、楽茶盌

見た目に清潔感が無ければならない。形や色彩、模様などが不快なものだったり、いくら

はいまだに健在である。ゆきひらや土鍋が楽でできていることからしてもうなずける。

ちなみに楽茶盌に熱湯を入れても高台まで熱くなって手に持てないということはない。

九の茶の流れだが、茶を喫もうとして茶盌を傾けて口元に持っていった時、茶が逆三角形

に流れてくるかどうかだ。茶盌の口造りがやや抱え込んでいたり、口が端反りの茶盌だった

りすると、口元で広がって茶をこぼすことになる。これは、何人かで喫み回す濃茶では とくに重要である。

最後の十の口縁の感触だが、これは説明を要しないだろう。茶を喫む時、自然と茶盌の

口縁が唇に触れる。その時の感触が悪いようでは、もうそれは茶盌とはいい難い。

茶盌の条件を十項目にわたって説明したが、これらの条件を完璧とはいえないまでも、

この原稿を書いていて、ふと気になって客用に手許に置いている十雨の茶盌を取り出して

大方満たしている茶盌がある。茶盌造りの名人といわれた森田統・十雨の茶盌である。

六に茶点ちだが、これこそ最も肝心なことである。茶は点てようによって随分味が変わ

持ちのものが二〇〇グラム、男使いの大振りの伊羅保が三〇〇グラムだった。二五〇グラム

その重さを計って見た。十盌あったがその内の八盌が二五〇グラムで、黄伊羅保の女性

﹁お茶をいただける茶盌をと 一生懸命に造られた 茶盌の数々は、さぞ 皆様に楽しんで

言葉が載っているが、その一節に

昭和五六年に大阪大丸で開かれた十雨の個展の図録の巻頭に、表千家家元而妙斎宗匠の

られないほどの正確さである。これには改めて驚いた。

だった八盌はいずれも二五〇グラムにプラスマイナス五グラムというものだった。信じ

ね﹂といったところ、 ﹁私はお茶���いかにおいしくいただくかを教えているんですよ﹂と

にならず綺麗に泡立っておいしく点つ。

が滑るのも良くない。見込みは茶筅とほぼ同じカーブで立ち上がっているのが、茶がママコ

立ち上がっていたり、茶筅が痛むほど茶盌の肌が粗かったり、逆につるつるし過ぎて茶筅

見込みがやたら広かったり狭かったり、筒茶盌によくあるような底が平らで腰が真っ直ぐ

いわれた。 ﹁ただし、お茶や腕がいくら良くても、茶盌が良くなくては﹂ともいわれた。

る。あるお茶の師匠の家で出された茶があまりおいしかったので、思わず﹁おいしいです

に水を捨てる時、何回も振らなければ水が切れないようでは困る。

五に、口縁が抱え込んでいたりして水切りの悪いのも駄目だ。茶筅とうしを終えて建水

指がかかりにくいのも良くない。

高台の中に指を入れなければ持てないようでは駄目だ。それに高台が低過ぎたり、丸くて

をかけ中指と薬指を高台の向う側にかけて持てる大きさが良い。大き過ぎて指が届かず

三と四だが、まず大きさは手止まりのよい大きさ、具体的にはお点前のとき、口縁に親指

たり二〇〇グラムを割ったのでは、重かったり軽かったりして扱いにくい。

感じられるものがよい。具体的には二五〇グラム前後が良いようだ。三〇〇グラムを越し

二に、大事なのが重さである。重さは実際よりは見た目にやや重く、手に取ってやや軽く

古いものだからといっても、薄汚く黴臭いものはもちろん駄目だ。

それを一から説明すると、まず一に、茶盌は道具であると同時に食器である。したがって

感触、といったところだろう。

止まり、五に水切り、六に茶点ち、七に茶映り、八に熱伝導、九に茶の流れ、十に口縁の

のことだ。これらのことは、実際に茶を点ててみると良くわかる。

整っているかどうかが肝心である。道具であるかぎり、決まりごとや条件があるのは当然

2

4


図3:ポール・セザンヌ 《プロヴァンスの風景》1895-1900年 図5:ポール・セザンヌ《曲り道》1904年頃

できる。そしてセザンヌは、そうした影絵的な

外の﹁外光視覚﹂における対象の色面化と推定

ヌは、 ﹁外光視覚﹂を絵画上で追求する過程で、

﹁鉄道乗車視覚﹂による車窓風景の点描化と酷

例えば、 ︽オーヴェール・シュル・ロワーズ

﹁鉄道乗車視覚﹂をも想起した可能性がある。

似している問題である。そうであれば、セザン

リズムにおける﹁肉付﹂ ︵固有色の明暗による

﹁色面﹂の平面性を、従来のルネサンス的リア

立体感表現︶の立体性とは﹁正反対﹂と把握し

︵図 ︶ 近郊の小さな家並︾︵一八七三 │七四年︶

色面に、 ﹁外光視覚﹂のみならず﹁鉄道乗車視

等は、その水平方向に素早い筆致で反復される

、 確かに、セザンヌが屋外写生の際に︵図 ︶

ていると判定できる。

そうした色面モザイクから画面を構成していた

︶等で確認できる。

︶ 、 ︽曲り道︾

︶等では、さらにその彩色密度を

ここで興味深いことは、こうした絵画上に表 象された﹁外光視覚﹂による対象の色面化が、

︶ Ibid., pp. 122-123. 邦訳、同前、八〇頁。 ︶ Ibid., p. 165. 邦訳、同前、一二二頁。

︶ Ibid., p. 152. 邦訳、同前、一一二頁。

二五九頁。

池 上 忠 治 訳、 美 術 公 論 社、 一 九 八 二 年、

ザ ン ヌ の 手 紙 ﹄ ジ ョ ン・ リ ウ ォ ル ド 編、

︵註 ︶ Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris, 1937; nouvelle édition révisée et 邦訳﹃セ augmentée, Paris, 1978, p. 324.

︵註 ︵註 ︵註

﹃感覚の実現﹄

 ポール・セザンヌの﹁感覚の実現﹂のより詳細 な 読 解 に つ い て は、 次 の 拙 稿 を 参 照。 秋 丸 知 貴 ﹁ポール・セザンヌの絵画理論

の科学会、二〇一一年、一五七 │一七一頁。

﹂と讃美して と美しいモティーフだろう︵註 ︶

汽車から眺めたサント・ヴィクトワール山を﹁何

のエミール・ゾラ宛書簡で、セザンヌが疾走する

定されて良い。そして、一八七八年四月一四日付

セザンヌの﹁感覚﹂は、多様な内容を含むと想

覚﹂の反映も推定できる。

︵図 ︶や、 クトワール山︾︵一九〇二 │〇六年︶

ことは、水彩の︽ローヴから見たサント・ヴィ

︵図

︽プロヴァンスの風景︾︵一八九五 │一九〇〇年︶

そして、セザンヌはこの彩色手法に基づき、

︵図 ル 山 ︾︵ 一 九 〇 四 │〇 六 年 ︶

︶ 、 ︽ローヴの庭︾︵一九〇六

4

︶ Kokoro_no_mirai_5_02_02.pdf

近代技術によ

セ ン タ ー、 二 〇 一 〇 年、 一 四 │一 五 頁。︵ http:// kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/pdf/vol5/

ろ の 未 来 ﹄ 第 五 号、 京 都 大 学 こ こ ろ の 未 来 研 究

おける心性の変容の図像解釈学的研究﹂ ﹃ここ

次 の 拙 稿 を 参 照。 秋 丸 知 貴﹁ 近 代 技 術 的 環 境 に

である。同研究プロジェクトの概要については、

の変容の図像解釈学的研究﹂の研究成果の一部

究 プ ロ ジ ェ ク ト﹁ 近 代 技 術 的 環 境 に お け る 心 性

年度京都大学こころの未来研究センター連携研

  ま た、 本 連 載 記 事 は、 筆 者 が 連 携 研 究 員 と し て 研 究 代 表 を 務 め た、 二 〇 一 〇 年 度 ∼ 二 〇 一 一

る視覚の変容﹄の要約である。

﹃ポール・セザンヌと蒸気鉄道

  本 連 載 記 事 は、 二 〇 一 一 年 度 に 京 都 造 形 芸 術 大学大学院に受理された筆者の博士学位論文

︵美術史家・秋丸知貴︶

も否定することができないだろう。︵つづく︶

き﹁感覚﹂に含まれている可能性は、決して誰に

た﹁鉄道乗車視覚﹂がセザンヌの﹁実現﹂すべ

いる以上、意識的にしろ無意識的にしろ、そうし

4

2

油彩の︽ローヴから見たサント・ヴィクトワー

年頃 ︶ ︵図

︵一九〇四年頃︶ ︵図

5

高めていったのだと理解できる。

6

を中心に﹂ ﹃形の科学会誌﹄第二六巻第二号、形

7

7 1

3 1

4 3 2

図6:ポール・セザンヌ《ローヴの庭》1906年頃

・ヴィクトワール山》1904-06年 図4:ポール・セザンヌ《ローヴから見たサント 図7:ポール・セザンヌ 《オーヴェール・シュル・ ロワーズ近郊の小さな家並》 1873-74年


●連載

─ セザンヌと蒸気鉄道︵

美術への新視点

明している。

生における﹁外光視覚﹂について次のように説

光景を描写する時、背景と人物の対照は驚

︶制作 れた絵画は全て、屋外で︵ en plein air されたものに決して匹敵できない。屋外の

ところで君、屋内で、アトリエで制作さ

それでは、セザンヌの絵画理論として有名な

。 くべきもので、風景は壮麗だ︵註 ︶

﹁外光視覚﹂について次のように解説している。

ミーユ・ピサロ宛書簡でも、屋外写生における

最後に、お前に言っておくが、私は画家

赤 色 や、 茶 色 や、 紫 色 に よ る シ ル エ ッ ト

は、事物が白色や黒色だけでなく、青色や、

ここは、太陽がとても強烈なので、私に と し て 自 然 を 前 に す る と よ り 明 晰 に な る。

。 肉付の正反対であるように思えます︵註 ︶

しかし、私の作品では、自分の感覚の実現︵ la

。 さも持つことができない︵註 ︶

を生き生きとさせるあの色彩の壮麗な豊富

する強烈さに到達することができず、自然

︶は、常に非常に réalisation de mes sensations 骨が折れるのだ。私は、自分の感覚に展開

︵ silhouette ︶となって浮き出るように思えま す。私の間違いかもしれませんが、これは

について次のように証言している。

まず、セザンヌは一九〇六年九月八日付の息

また、セザンヌは一八七六年七月二日付のカ

2

子宛書簡で、絵画制作における﹁感覚の実現﹂

ら考察したい。

容と一体どのような関係があるのだろうか?  今回は、外光視覚と鉄道乗車視覚という観点か

﹁感覚の実現﹂は、その蒸気鉄道による視覚の変

確認した。

道乗車視覚が反映している可能性が高いことを

一八三九∼一九〇六年︶の造形表現に Cézanne: は、一九世紀後半当時の最先端の視覚である鉄

前四回で、私達は、ポール セ ・ ザンヌ ︵ Paul

5

さらに、その﹁面﹂は、それぞれ﹁白色﹂や﹁黒

つまり、セザンヌ自身の﹁感覚﹂は、まず屋

面﹂として享受されていることが分かる。

等の﹁生き生き﹂とした﹁壮麗で豊富﹂な﹁色

烈さ﹂を持って﹁展開﹂し、 ﹁色彩の壮麗な豊

月一九日頃のエミール・ゾラ宛書簡で、屋外写

これに関連して、セザンヌは一八六六年一〇

ることが分かる。

色﹂だけでなく、 ﹁青色﹂ ﹁赤色﹂ ﹁茶色﹂ ﹁紫色﹂

て浮き出るように感受していることが分かる。

の強さから﹁面﹂︵シルエット=輪郭図形︶とし

﹁太陽﹂に照らし出された事物を、その反射光

これらのことから、セザンヌは、 ﹁強烈﹂な

3 富さ﹂で﹁自然を生き生きとさせる﹂ものであ

このことから、セザンヌの﹁感覚﹂は、 ﹁強

1

図1:筆者撮影 図2・図3の現場写真 2006年8月26日 図2:ポール・セザンヌ 《ローヴから見たサント ・ヴィクトワール山》1902-06年

6


New Viewpoint on Art

Cézanne and Steam Railway (5) In the last four chapters, we discerned the possibility that Paul Cézanne (1839–1906), in his painted representations, was influenced by the transformed vision induced by passing sceneries seen from a moving train, which is the new vision in the second half of the nineteenth century. How, then, is Cézanne’s “realization of sensations,” one of his famous painting theories, related to the transformation of visual perception induced by the steam railway? Let’s analyze this problem from the viewpoint of the vision under sunlight and the vision from a moving train. First, in his letter dated September 8, 1906, Cézanne wrote to his son about his“realization of sensations”in his paintings as follows: Finally I must tell you that as a painter I am becoming more clear-sighted before nature, but that with me the realization of my sensations is always painful. I cannot attain the intensity that is unfolded before my senses. I have not the magnificent richness of colouring that animates nature. (1) This indicates that Cézanne’s sensations are intense, develop, and activate nature by the magnificent richness of coloring. Similarly, in his letter dated October 19, 1866, Cézanne told Emile Zola about his sensation under sunlight in his outdoor paintings as follows: But you know all pictures painted inside, in the studio, will never be as good as those done outside. When out-of-door scenes are represented, the contrasts between the figures and the ground is astounding and the landscape is magnificent. (2) In addition, in his letter dated July 2, 1876, Cézanne described to Camille Pissarro his sensation under sunlight in his outdoor paintings as follows: The sun here is so tremendous that it seems to me as if the objects were silhouetted not only in black and white, but in blue, red, brown, and violet. I may be mistaken, but this seems to me to be the opposite of modelling. (3)

Fig. 1 A photograph of the scene in Fig. 1 and Fig. 2, taken by the author on August 26, 2006.

9

Fig. 2 Paul Cézanne, The Mont Sainte-Victoire Seen from Les Lauves, 1902-06

Fig. 4 Paul Cézanne, The Mont Sainte-Victoire Seen from Les Lauves, 1904-06


From this, we can understand that Cézanne perceived an object that was irradiated by intense sunlight as a“plan”(silhouette; outline figure), which stood out due to the intensity of the catoptric light. Moreover, we can judge that Cézanne perceived the plans as colored, shining plans by the magnificent richness of coloring, such as blue, red, brown, and purple as well as white and black. In other words, one of Cézanne’s sensations is the colored flattening of an object induced by viewing it in sunlight. In this case, we can interpret that Cézanne felt that the shadow-like flatness of each color plan is in complete contrast to the solidness by“modelling” (the expression of solidity through a continuous shift in local color) in Renaissance realism. We can surely ascertain that in his outdoor paintings (Fig. 1), Cézanne started from such a color plan mosaic to create the picture, especially in watercolor paintings such as The Mont Sainte-Victoire Seen from Les Lauves (1902-06) (Fig. 2) and Landscape in Provence (1895-1900) (Fig. 3). Further, we can understand that Cézanne used this painting technique to enrich color on the surface, especially in oil paintings such as The Mont Sainte-Victoire Seen from Les Lauves (1904-06) (Fig. 4), Turning Road (c. 1904) (Fig. 5), and The Garden at Les Lauves (c. 1906) (Fig. 6). Interestingly, this colored flattening of an object induced by viewing it in sunlight, which was reflected in his paintings, resembled the spotting of the object induced by viewing it from a moving train. Thus, we can suppose that Cézanne recollected his vision from a moving train through the pursuit of vision under sunlight in his paintings. For example, about Small Houses at Auvers-sur-Oise (1873-74) (Fig. 7) we can assume to the color plans repeated quickly and horizontally the reflection of the vision from a moving train as well as the vision under sunlight. We should consider that Cézanne’s sensations were characterized by various aspects. Moreover, Cézanne actually praised the Mont Sainte-Victoire as seen from a moving train in his letter dated April 14, 1878, in which he says,“what a beautiful motif.”(4) Therefore, the possibility that Cézanne’s realization of sensations included the transformation of visual perception induced by the steam railway is undeniable. (AKIMARU Tomoki / Art Historian)

Fig. 3 Paul Cézanne, Landscape in Provence, 1895-1900

Fig. 5 Paul Cézanne, Turning Road, c. 1904

Fig. 6 Paul Cézanne, The Garden at Les Lauves, c. 1906

(1) Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris, 1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris, 1978, p. 324. (English translated by Marguerite Kay, New York, 1941; new edition revised and enlarged, New York, 1976; New York, 1995, p. 327.) (2) Ibid., Paris, 1978, pp. 122-123. (English edition, New York, 1995, pp. 112-113.) (3) Ibid., Paris, 1978, p. 152. (English edition, New York, 1995, p. 146.) (4) Ibid., Paris, 1978, p. 165. (English edition, New York, 1995, p. 159.)

Fig. 7 Paul Cézanne, Small Houses at Auvers-sur-Oise, 1873-74

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世界が恋した日本のデザイン展

られた江戸時代中期から明治時代前半にか け て、 極 め て 精 緻 で 意 趣 に 富 む 連 続 模 様 を 数多く生み出していた。 明 治 時 代 後 半 以 後、 こ の 型 紙 が 染 物 業 者 の廃業の際等に海外に大量流出する。当時、 欧米では工業化による大量生産が進む一方 で、 製 品 に は ��� 悪 な デ ザ イ ン が 増 え て い た。 そ こ で、 芸 術 性 が 高 く 機 械 的 反 復 に も 適 し た 日 本 の 型 紙 の 意 匠 図 案 が 注 目 さ れ、 ア ー ツ・ ア ン ド・ ク ラ フ ツ、 ア ー ル・ ヌ ー ヴ ォ ー、 ユ ー ゲ ン ト シ ュ テ ィ ー ル を 始 め と するデザイン改良運動の触媒となり、本来 の 染 色 の 用 途 を 超 え て、 平 面 デ ザ イ ン は 勿 論、 立 体 デ ザ イ ン を も 含 め た 多 様 な 分 野 に 影響を及ぼしていくことになる。 例 え ば、 そ う し た 日 本 の 型 紙 の 影 響 は、 英 米 圏 で は ウ ィ リ ア ム・ モ リ ス の 壁 紙 や テ キ ス タ イ ル に、 チ ャ ー ル ズ・ レ ニ ー・ マッキントッシュの家具に、ルイス・コン フ ォ ー ト・ テ ィ フ ァ ニ ー の ガ ラ ス 工 芸 に、 仏 語 圏 で は ア ル フ ォ ン ス・ ミ ュ シ ャ の ポ ス タ ー に、 ル ネ・ ラ リ ッ ク や エ ミ ー ル・ ガ レ の ガ ラ ス 工 芸 に、 独 語 圏 で は コ ロ マ ン ・ モ ー ザ ー や ヨ ー ゼ フ・ ホ フ マ ン や ア ン リ・ ヴ ァ ン ・ デ・ ヴ ェ ル デ の テ キ ス タ イ ル 等 に 観 取 で き る。 現 代 で は、 英 国 の ブ リ ン ト ン ズ社がカーペットに適用する等再び流行の 兆しも見せている。 こうしたジャポニスムにおける日本の型 紙 の 受 容 は、 本 来 の 使 用 用 途 や 作 者 の 固 有 名とは直接関係しない純粋に視覚造形上の 影響であったと言える。しかし、逆にその こ と は、 日 本 人 一 般 が 持 つ 繊 細 な 芸 術 的 感 性や高度な職人的技術が世界的に普遍性を 持つことを例証するものと言えよう。日本 文化の潜在力に気付かせてくれる格好の展 覧会である。

三菱一号館美術館  二〇一二年四月六日∼五月二七日 京都国立近代美術館  二〇一二年七月七日∼八月一九日 三重県立美術館  二〇一二年八月二八日∼一〇月一四日

近代にうまれた線の探求者展

吉川霊華

│ │

線の美を追い求め、筆を﹁使えた﹂最後 の 世 代 の 最 高 峰 の 画 家 と 謳 わ れ る、 ﹁吉川 霊華 近代にうまれた線の探求者﹂展が、 東京国立近代美術館で開催された。回顧展 としては、一九八三年のサントリー美術館 以来実に約三〇年ぶりである。 内 容 は、 畢 生 の 代 表 作︽ 離 騒 ︾ を 始 め、 初公開作品を多数含む約一〇〇点。スケッ チ 帳 三 八 冊、 模 写、 草 稿、 資 料、 印 章 等 も 展示され、実見できる機会の少なさから幻 とさえ呼ばれる霊華芸術の全体像を捉える 上で非常に貴重で有益な機会であった。 霊 華 作 品 の 魅 力 は、 そ の 要 所 に 配 さ れ る 清華な淡彩は勿論、何よりもまずその大和 絵や東洋美術に深く学んだ古典的な線描美 にある。特に、同様に古典志向で線を大切 にする同時代の少数派の画家達と比べて も、精緻で流麗な運筆自体が霊妙な音楽的 詩情を豊かに生み出す点を大きな特徴とし ている。また、日本や中国の故事伝説を踏 まえた伝統的画題や、晩年の画と詩文が同 質 に 一 体 化 す る 画 風、 格 調 高 い 軸 装 等 も、 高雅な気品を醸し出している。 た だ し、 霊 華 の 場 合、 そ う し た 古 典 研 究 は、 単 な る 懐 古 趣 味に 留 ま ら ず、 古 典 美術 を生み出した原初の心境自体を自らの創作

に昇華させることで、独特の真実味溢れる 清冽で典雅な絵画世界を創出することに成 功している。 ﹁正しき伝統の理想は復古であ ると同時に未来である﹂という霊華の言葉 も、その意味でこそ解されるべきであろう。 吉 川 霊 華 ︵ き っ か わ れ い か ︶は、 明 治 八 ︵一八七五︶年に旧幕臣の儒学者の息子とし て東京湯島で生まれる。初め浮世絵や狩野 派 を 学 び、 明 治 二 八 ︵ 一 八 九 五 ︶年 頃 に 有 職故実家の松原佐久に師事し、松原の影響 で幕末の復古大和絵派の冷泉為恭に私淑す る。さらに、平安・鎌倉期の古絵巻等を模 写し、大和絵の豊かな筆線表現を研究する。 明 治 四 四 ︵ 一 九 一 一 ︶年 の 初 出 品 以 後 は、 文展への出品を止め、孤高に研鑽を積む。大 正五 ︵一九一六︶年に、結城素明、平福百穂、 鏑木清方、松岡映丘と金鈴社を結成し、日本 や 中 国 の 古 典 美 術 の 研 究 に 邁 進 す る。 大 正 一一︵一九二二︶年には帝展の審査員に任命さ れるが、帝展への出品は大正一五 ︵一九二六︶ 年の︽離騒︾ただ一度だけであった。 申し分ない経歴にもかかわらず、霊華が長 らく忘れられた存在となったのは、元々寡作 である上に、官展への出品が極めて少なく、 その作品の殆どが霊華芸術を支援した個人の 所蔵品であることが大きい。しかし、それ以 上に重要なことは、霊華が当時の画壇の主流 から距離を置き、終生独自の画道を追求した ために美術史的評価が遅れた問題である。 当時の画壇の主流は西洋的近代化であ り、日本画でも、視覚的造形性のみに純化 し、展覧会用に大型化し、印象派的に色彩 を重視する傾向が強かった。これに対し霊 華は、そうした西洋志向を声高に否定する の で は な く、 東 洋 的 古 典 画 題、 書 画 一 致、 床間用掛軸、線描という失われゆく伝統の 美しさを、静かに自ら身をもって実践して 見せたのである。 そうした骨太で筋の通った画家も正しく 再評価できることこそが、本当の意味で文 化の厚みなのではないだろうか? 東京国立近代美術館

 二〇一二年六月一二日∼七月二九日

戌亥蔵ウェブサイト http://inuigura.web.fc2.com/

Exhibition Review

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一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて欧 米で流行したジャポニスムに、絵画について は、日本の北斎や広重等の天才的な個人画家 による浮世絵が大きな影響を与えたことはよ く知られている。しかし従来、工芸について は、その様態の多様さのために影響の全貌の 調査が遅れていた。特に、工芸の中でも、無 名の職人集団の手による消耗品である﹁型紙 ︵かたがみ︶ ﹂の影響は、これまでほとんど光 が当てられてこなかった。 このジャポニスムのもう一つの知られざ る 火 付 役 で あ る﹁ 型 紙 ﹂ に、 国 内 で 初 め て 着 目 し、 国 内 外 の 約 七 〇 か 所 か ら 約 四 〇 〇 点 を 集 め た﹁KATAGAMI Style 世 界 が 恋 し た 日 本 の デ ザ イ ン ﹂ 展 が、 東京、京都、三重を巡回中である。 内 容 は、 第 一 章 で 日 本 に お け る 型 紙 の 歴 史 や 実 例 を 示 し、 第 二 章 か ら 第 四 章 で 英 米 仏 独 な ど 欧 米 各 国 の 受 容 の 展 開 を 辿 り、 第 五章で現代への反映を紹介 している。展示 で は、 日 本 の 型 紙 と そ の 影 響 を 受 け た 欧 米 の 作 品 を 並 置 す る 等、 デ ザ イ ン の 類 似 性 を 理解しやすい工夫がなされていた。 本 展 で 扱 わ れ る 型 紙 は、 鎌 倉 時 代 頃 か ら 一千年近い伝統を持つ日本古来の染色技法 で あ る、﹁ 型 紙 染 ﹂ に 用 い る 紙 製 の 型 を 指 す。 こ の 型 紙 は、 柿 渋 で 貼 り 重 ね て 厚 く し た和紙に細かい模様を切り透かしたもの で、 型 紙 染 が 庶 民 男 女 の 服 飾 に 盛 ん に 用 い

展覧会評 ◉

吉川霊華《離騒》双幅 (右)大正15 (1926) 年

K A T A G A M I S t y el


時評 ◉ Review on current events の特徴を示している。これに対し、国内で ローマンガラスと特定される重層ガラス玉 が確認されたのは今回が初めてである。

こ の﹁ 環 境 負 荷 の 低 減 と 芸 術 性 の 両 立 ﹂

に高く評価されている。

の成功を受けて、二〇一二年五月二四日に、

二 〇 一 〇 年 六 月 か ら、 株 式 会 社 東 芝 と

照明の一部も同社製のLED 照明に置き換

ジェクトの第二弾として、同美術館の館内

さ ら に 東 芝 は ル ー ヴ ル 美 術 館 と、 同 プ ロ ルーヴル美術館はパートナーシップ契約を

ルーヴル美術館と 東芝製LED 照明

た と し て も、 そ れ が す ぐ に 日 本 と ロ ー マ 帝

帝政ローマの重層ガラス玉、 京都の古墳で国内初発見 国が直接交易していたことを意味する訳で

勿 論、 ロ ー マ ン ガ ラ ス が 日 本 に 届 い て い 二〇一二年六月二一日に奈良文化財研究 し

えることで基本合意したと発表した。

ザ ︾ 専 用 の 展 示 照 明 や、 ジ ャ ッ ク = ル イ・

レ オ ナ ル ド・ ダ・ ヴ ィ ン チ 作︽ モ ナ・ リ

締結して、同美術館の照明改修プロジェク 環 境 負 荷 の 高 い キ セ ノ ン ラ ン プ 等 を、 環 境

トに取り組んでいる。その内容は、既存の

な珍宝として日本にもたらされたと考える

負荷の低いLED 照明に置き換えることで

所 と 長 岡 京 市 埋 蔵 文 化 財 セ ン タ ー は、 京 都 陸 の 様 々 な 国 々 を 媒 介 に し て、 極 め て 貴 重

は な い。 お そ ら く、 中 国 等 の ユ ー ラ シ ア 大

べ き で あ ろ う。 し か し、 ロ ー マ 帝 国 は 季 節 ある。

こ れ に よ り、 二 〇 一 三 年 五 月 末 ま で に、

墳で発見された国内最古級の重層ガラス玉

府長岡京市にある五世紀中頃の宇津久志古 が、 ロ ー マ ン ガ ラ ス で あ る 可 能 性 が 極 め て 風 を 利 用 し て イ ン ド と も 交 易 し て お り、 今

示 唆 す る。 そ の 意 味 で、 例 え ば 聖 徳 太 子 が

と は、 思 想 は よ り 容 易 に 渡 来 で き た こ と を

に、環境や人体に有害な鉛や水銀も使用し

撃に強く、高寿命で保守費用も安い。さら

真空やフィラメントを必要としないので衝

照 明 に 対 し、 電 力 の 消 費 が 少 な い。 ま た、

光効率が高く、白熱灯や蛍光灯等の従来の

︶の略で、これを利用した照 Emitting Diode 明は、供給電力の多くを発光に使うため発

﹁ ナ ポ レ オ ン・ ホ ー ル ﹂ も、 東 芝 製LED

館の顔とも言えるメインエントランスの

年前半には、全ての来場者を迎える同美術

修されることになった。さらに、二〇一四

間﹂の天井照明が、東芝製LED 照明に改

ド ラ ク ロ ワ 作︽ 民 衆 を 率 い る 自 由 の 女 神 ︾

ジ ョ ゼ フ ィ ー ヌ の 載 冠 ︾ や、 ユ ジ ェ ー ヌ・

ダヴィッド作︽皇帝ナポレオン一世と皇后

高いと発表した。  ロ ー マ ン ガ ラ ス は、 一 般 に 帝 政 開 始 か ら 回 の 重 層 ガ ラ ス 玉 は、 陸 の シ ル ク ロ ー ド で

と は、 発 光 ダ イ オ ー ド ︵ Light

東西分裂までの紀元前一世紀から四世紀に

京都周辺にまで及んでいたことを具体的に 厩 戸 で 出 生 し た と い う 伝 承 が、 イ エ ス が 厩

財 の 材 質 分 析 で 広 く 利 用 さ れ る 蛍 光X 線 分

重 層 ガ ラ ス 玉 は、 二 〇 一 二 年 一 一 月 に 同 セ

ノが歴史のロマンを物語る好例である。同

いずれにしても、今回の調査成果は、モ

年一二月に、ピラミッド、ピラミディオン、

LED 照明が適用された。まず、二〇一一

ルーヴル美術館の外観照明に東芝製の

同 プ ロ ジ ェ ク ト の 第 一 弾 と し て、 ま ず

野ではないかと期待される。

からの日本が特に世界文化に貢献できる分

した美的感受性と技術的創造性こそ、これ

るいニュースである。こうした繊細で卓越

日本製の明かりが照らすことは文字通り明

少 な く と も、 品 物 が 渡 来 で き た と い う こ

析 に よ る 非 破 壊 調 査 を 行 っ た と こ ろ、 技 法

パビリオン・コルベールに同社製のLED

の影響がほぼ同時代に古墳時代中期中頃の

と 組 成 の 両 面 で ロ ー マ ン ガラ ス を 示 す 特 徴

ン ターの企画展で展示予定である。

照明が設置され、二〇一二年五月一二日に

ま ず、 技 法 上 は、 ロ ー マ 帝 国 領 内 で よ く 使 わ れ て い た、 ガ ラ ス 層 の 間 に 金 箔 等 を 挟

この改修では、建築の美観に厳しい基準

は、ナポレオン広場全体の改修が完了した。

建物と調和するデザインがフランス関係者

度を実現したことに加え、照明器具自体の

おり、最新技術により適切な光の量と色温

れるという。また、その美的効果も優れて

来比で消費電力が七三パーセントも節約さ

専用のLED 照明三五〇台を用いると、従

同社とルーヴル美術館が協力して開発した

の環境的・経済的効果は高く、今回新たに

とが特に注目される。東芝製のLED 照明

て採用したLED 照明が日本製であったこ

を持つルーヴル美術館が、建物外観に初め

み込んで装飾効果を高める﹁重層ガラス玉﹂ 組成上は、溶剤にナトロン︵蒸発塩︶を用い、 酸 化 ア ル ミ ニ ウ ム、 酸 化 マ グ ネ シ ウ ム、 酸 化 カ リ ウ ム の 含 有 量 が 少 な く、 ア ン チ モ ン が 検 出 さ れ る 等、 ロ ー マ ン ガ ラ ス 特 有 の 成 分を示す分析結果が出た。 重 層 ガ ラ ス 玉 自 体 は、 日 本 で は 五 世 紀 中 頃以後の八〇以上の遺跡で二〇〇点ほど出 土 し て い る。 し か し そ の 内、 化 学 分 析 の 結 果が公表されているのは六世紀中頃以降の 五 遺 跡 一 〇 点 ほ ど で、 い ず れ も サ サ ン 朝 ペ ル シ ア か 南・ 東 南 ア ジ ア で 作 ら れ た ガ ラ ス

東芝製LED照明に照らされるルーヴル美術館 (写真提供・株式会社東芝)

が 明らかになった。

人 類 の 貴 重 な 芸 術 的 財 産 で あ る 名 画 群 を、

このように、 ︽モナ・リザ︾を初めとする

照明に改修される予定である。

等の大型作品が多数展示されている﹁赤の

示す点で非常に興味深い。 戸で誕生したという伝説の影響を受けてい

ない。そして、低発熱で紫外線や赤外線を

はなく海のシルクロード経由で渡って来た

一 九 八 八 年 に、 一 辺 七 メ ー ト ル の 方 墳 で

ほとんど発しないので、芸術品や文化財の

か け て、 ロ ー マ 帝 国 領 内 で 製 造 さ れ た ガ ラ

あ る 宇 津 久 志 一 号 墳 か ら 副 葬 品 と し て、 最

た と し て も 特 に 不 思 議 で は な い。 そ う で あ

保護に向いているという特徴がある。

可能性もある。

大 で 直 径 五 ミ リ、 長 さ 五 ミ リ 以 上、 中 心 に

に古代から始まっていたとさえ言えよう。

れば、日本のグローバルな文化交流は、既

ス 製 品 を 指 す。 今 回 の 発 表 は、 ロ ー マ 帝 国

見 つ か る。 こ れ ら に 対 し、 同 研 究 所 が 文 化

一・五 ミ リ の 孔 を 持 つ 重 層 ガ ラ ス 玉 が 三 点

L E D

という高度な技法が用いられていた。また、 宇津久志1号墳から出土した重層ガラス玉 (左) 側面(右) 上面 (写真提供・奈良文化財研究所)

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藤井雅一(黄稚)《牡丹画額》 紙本

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水墨 2006年 75×45cm


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美 人 画  

再 見

岸田劉生 ︵明治二十四・一八九一∼昭和四・一九二九︶は、大正・昭和初期の洋画家・日本画家。 初め、劉生は洋画家として黒田清輝に外光派を学ぶ。後、雑誌﹃白樺﹄を通じて印象派・後印象 派に心酔し、ゴッホ 風 の 反 写 実 的 な 画 風 に 転 向 す る 。 やがて、劉生は武者小路実篤ら白樺派との交友により、内心の自然な要求を重視するようになる。 次第に、劉生はレオナルド等の写実的なルネサンス絵画に開眼し、反写実的な西洋近代美術を崇拝 する画壇からは時代錯誤と蔑まれる細密描写を孤高に敢行する。さらに、初期肉筆浮世絵や北宋画 等の東洋美術に傾倒し、日本画も多数描いた。満州旅行の帰途、山口県で客死。享年三十八歳。

大正10 (1921)年

岸田劉生《麗子十六歳之像》

昭和4 (1929)年

二〇一一年。

﹃生誕一二〇周年記念 岸田     劉生展﹄図録、大阪市立美術館、

画集﹄岩波書店、一九八四年。

国立近代美術館監修﹃岸田劉生

梅原龍三郎・谷川徹三・脇村   義太郎・土方定一責任編集/東京

参考

して活躍している。

︵一九三三︶年の二〇歳の時には女優と

ち な み に、 岸 田 麗 子 は、 昭 和 八

絵を意識して描かれている。

る︽ 麗 子 十 六 歳 之 像 ︾ は 浮 世 絵 の 大 首

以上描いており、その最後の一枚であ

劉 生 は、 愛 娘 麗 子 を 誕 生 以 来 二 〇 点

となった作品である。

うど写実回帰から東洋回帰への転換点

に影響を受けて制作したとされ、ちょ

︾は、劉生がレオナルドの︽モナ・リザ︾ 重要文化財指定で切手にもなった︽麗子微笑︵青果持テル︶

岸田劉生《麗子微笑(青果持テル)》

編集後記

︵編集部一同︶

一日ごとに秋の訪れを感じる季節になりまし た。 ﹃日本美術新聞﹄の第五号をお送り致します。 昨今、 ﹁国際化﹂や﹁国際人﹂という言葉をよ く耳にします。 本来、 ﹁諸国間の交際﹂を意味する﹁国際﹂と い う 語 は、 ま ず 個 々 の﹁ 国 ﹂ が 確 立 し て い る こ と を 前 提 と し て い ま す。 そ の 意 味 で、 真 の﹁ 国 際 化 ﹂ や﹁ 国 際 人 ﹂ に は、 他 国 の 文 化 に 詳 し く な る こ と は も ち ろ ん、 自 国 の 文 化 を 大 切 に す る ことも含まれるのでしょう。 古 来、 日 本 は 当 時 の 先 進 国 で あ る 中 国 や 西 洋 か ら 進 ん だ 文 化 を 受 容 し て き ま し た。 し か し、 内 に 芯 が 通 っ て い た か ら こ そ、 外 か ら 受 け 入 れ た も の を 取 捨 選 択 し、 本 当 に 自 ら の も の と す る ことができたように思います。 グ ロ ー バ ル 化 の 急 激 に 進 む 今 日 ほ ど、 日 本 文 化を大切にすることが改めて求められている時 代は他にないのかもしれません。

︵M︶

モノには不思議な魅力があります。そのモノを 作った人の想いはもちろん、そのモノを手にした 人々の想いが込められています。また、そのモノ が時間の経過の中で受けてきた物質的変化や、そ のモノがその時々に生み出してきた歴史的由来が 備わっています。時には、モノの語る悠久の歴史 に耳を傾けてみたいと思います。

︵A︶

日本美術新聞社の公式ウェブサイトを立ち上 げ ま し た。 バ ッ ク ナ ン バ ー を 無 料 で 閲 覧 し て 頂 く こ と が で き ま す。 ま た、 年 間 定 期 購 読 も 承 っ て お り ま す。 編 集 部 一 同、 皆 様 の ご 訪 問 を 心 よ り お 待 ち 申 し 上 げ て お り ま す。︵ http://www. ︶ n-artjournal.com/


一九九三 ︵平成五︶年

一九九二 ︵平成四︶年

一九八八 ︵昭和六三︶年

一九八五 ︵昭和六〇︶年

一九八四 ︵昭和五九︶年

一九六四 ︵昭和三九︶年

藤井伸恵と結婚

京都市立芸術大学大学院美術研究科に研究留学

来日

世界青年ファッションショー ︵スイス︶入選により研修招待

北京服装学院講師・同学院校章デザイン採用

蘇州大学美術学院卒業

江蘇省啓東市出生

藤井雅一︵ふじい まさかず︶ /黄稚︵ホワン・ツィー︶ 略歴  

一九九四 ︵平成六︶年

一休寺︽虎︾︵衝立︶作画

日中・墨人交流展﹂︵京都市美術館︶出展

京都で和装・洋装の意匠図案作画に従事

一九九五 ︵平成七︶年

高台寺円徳院︽蓮独鯉︾︵襖絵︶作画

二〇〇七 ︵平成一九︶年 ﹁墨の力 二〇一〇 ︵平成二二︶年

二〇〇八 ︵平成二〇︶年

二〇一二 ︵平成二四︶年 ﹃藤井雅一・黄稚/画集 龍虎﹄︵日本美術新聞社︶近日刊行予定  

水墨 2006年 93×49cm

藤井雅一(黄稚)《牡丹画賛額》 紙本

元興寺住職 辻村泰善賛

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NIHON ART JOURNAL September/October, 2012